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水の底から私を引き上げて
こんな意識がずっとあった。
『私はどこ���で生まれ変わらないといけない』
今のままではいけない。
このままでいいはずがない。
どこかで私は変化を手にしなくてはならない―そんな曖昧で輪郭のない欲求。どこかとは何処だろうか。いつのことだろうか。私のもとへやって来るものなのか、それとも私からそこへと向かうのか。
わからないまま、わかろうともしないまま。
弱く価値のない自分の殻を脱ぎ捨て、もっと素晴らしい自分を想像しながら今日も眠りにつく。次に目を開けたとき、まるで違う自分へと羽化することを願って。
そんな希望のような自死。
でも翌朝になってもそこにいるのは紛れもない私。
朝日に苛まれない日はなかった。
だから私は決意した。
私の半身から自立することを。
私の人生の半分を占めるものから離れてしまえば、 きっと生まれ変わる他ない。
そうすることが一番良いのだ。
私にとっても、私の半身にとっても。
だけど。
今日も誰も来ない塔の中で二人きり。
じっとりとした感触。
手に汗をかいていたのはいつからだろう。
今日ここの扉に手をかけた瞬間だろうか。
いつものように向かい合わせで座った瞬間だろうか。
それとも、あの日の決断からずっとかもしれない。
「ヒカリ」
声をかけ、勉強していた彼女の手を奪う。
その手の中から零れ落ちていったもの。塗装が剥げ、白色が見え隠れした紺のシャーペンがノートの上を転がるのを見て、浮かされた熱が少しだけ冷めていった。
中学一年生の誕生日に私があげたもの。今でも使っているのかという呆れと、そんなことを覚えている自分に嫌気が差す。
ヒカリが私を見る。
どうしたのと、声は出さず私の瞳を覗いてくる。
昔からの癖。
困ったことがあると何も言わずに私を見つめる。
魚みたい。
顔がとかではなくて。
呼吸をしていないんじゃないかと思うくらい喋らない。
昔はそれが心地良かった。
言葉を使わなくていいことに安心した。
言葉を用いなくても通じ合えることが嬉しかった。
傷つかないで済むから。
でも今はただ息苦しい。
そこはまるで水の底のよう。
息が詰まって、なにかにつかまりたくなる。
「……少しだけ、手握っていてもいい?」
幼い頃から胸に巣食う重いかたまり。
それが彼女の手に触れるとさらさらと少し軽くなる。
……ああ、私は弱い。
昔と寸分変わらぬ弱さでここにいる。
そして目の前の彼女もまた、昔と変わらず決してノーとは言わない。
2
◆
人混みのない都心の駅を歩きたい。
広い横断歩道を一人で渡りたい。
車のない高速道路を一人で散歩したい。
真夏の学校のプールを一人で泳ぎたい。
これは仮に私が将来とてつもない金持ちになり、広い家を持ったり、ヒカリ駅を建てたり、ヒカリ専用の高速道路を作ったり、自宅に広いプールを設置したとしても得られるものではない。
見慣れた風景の中に私しかいないこと。
私という存在が埋もれないこと。
その快感に酔いしれたいのだ。
冷たい石の床が夏の陽射しで沸騰した身体によく効く。
まだ時間があるからと寝ころんで何分経つだろう。既に遅れてしまっている可能性は高い。でも少し遅れるぶんにはいい。そこまできっちりした約束ではないから。
それよりもこの場を見られる方が問題だ。
スイはこういったことを嫌うから。
『汚いよ』
無数の生徒の上履きで踏みつぶされた廊下で寝ころぶなんて行為は。
でも今は夏休み。生徒はほとんどいない。
清掃業者が定期的に入っているのだからスイの想像よりは綺麗だろう。たぶん、私の想像よりは汚いだろうけれど。
爽快だった。
こういう時に使う言葉だったっけとも思うけれど直感的に浮かんだ言葉はこれで。なにかを達成するでもなく、何もないことで爽快になるとは。
本当になにもない。
誰もいない。
床に耳を当てると建物の鼓動が聞こえる。
本当は私の心臓の反響だとしても。
音が床に沈んでいく。
広い廊下で寝ても文句を言う人間がいない。
一度は想像したことがある非日常の憧憬。
人の溢れる商店街、交差点、駅、電車、学校から自分以外の人が消えること。
あまりにクリアな自己完結した世界。
誰に左右されるでもなく、始まりも終わりも私が決めていい。
音を作り出すのは私で、それを消すのも私だけ。
静かで、本当に静かで。
―物静かだね
私は口で呼吸をしない。
私は特別に言葉を持たない。
うまく表現ができないから。
それに喋らないことが息苦しくない。
三人で集まって、私以外の二人が楽しく喋っているのを見ているだけで十分楽しい。
他人が嫌いなんじゃない。
むしろ好き。
だから誰かに誘われれば賑やかな場所にも行く。
だけど喋らないから「つまんない子」だって最後にはグループから外されてしまう。
悲しいとは思わない。
ほんとうにね。
そういうものだし、群れに馴染めなくて一人になるのは自然の摂理のようで納得感がある。
やっぱりそうだよねで大体済んできた。
でも悲しくないのは、唯一の例外を知っていたからかもしれない。
小さい頃はずっと不思議だった。なんで他の子とはうまくいかないんだろうって。反対に、
『なんでスイちゃんとは仲良くできてるんだろう』
……ああ、そうだったね。
スイのところへ行かなくてはいけないんだった。
立ち上がるも足元がフラついた。立ちくらみだ。
身体を冷やし過ぎたか、急に立ち上がったせいか、どちらでもいいけど視界に白い靄がかか��―小さな手がこちらに伸びてくる幻想を見た。
幼い誰かの手。小さい頃はその手に引かれ、助けられてきた。
昨日のことを思い出して、手のひらを見つめる。
『……少しだけ、手握っていてもいい?』
そこはいつも通りの自分の手があった。
痕なんて付いていないのに。
しんとしたスイの指の感触が骨の芯まで残っている。
◆
ヒカリという名前はどうなのだろう。
漢字にすると『え、そこ?』みたいな当て字だし、その意味するところもマイペースでぼんやりした私からはかけ離れている。
対照的にスイという名前があまりに似合ってしまっている子もいる。
夏でも陽に焼けず、白い腕から覗く薄青い静脈はぞくりとさせるくらい綺麗に透き通っている。
抑えたような低い声は耳に馴染む。容姿だって綺麗で温度が低い。少し近づき難いほどに。
三階の化学準備室の扉を開けると、おおよそ涼しいとは言い切れず、しかし無いよりはマシといった程度の風が流れ込んでくる。
スイが先に着いているようだ。もっとも私がスイより先に着いていた試しはない。
時間に律儀。
準備だって万端で。
化学室の黄ばんだ長机にチェック柄のテーブルクロスがかけられ、その上にはノートに参考書、筆記用具と小さい花柄のポットが置かれている。ポットの中身はいつもの、スイが持参したアールグレイだろう。
準備室という粗雑な場所のはずがスイの趣味と美意識により随分と優雅だ。
ここまで快適な空間にしてくれたのであれば、もう少し空調を効かせてくれてもいいのだけど。
かつては二十八度。スイがいない間に温度を下げるという無言の抗議を何度か繰り返した結果、今は二十七度に落ち着いている。
スイの言い分は。
『だって冷えるじゃない』
嫌いな食べ物はアイス。
徹底ぶりは昔から変わってない。
本当に小さい頃から。同じ日に同じ病院で生まれたらしい。母親同士が入院中に仲良くなり、家も近かったから退院後も家族ぐるみで親しくなった。
しっかり者のスイにいつも世話を焼かれてきた。
私は昔からずっとマイペースで大きな決断など一度もしたことがない。いつだって、ぼんやりと気ままだ。
「おはよう、ヒカリ」
準備室の入り口でボーっと立っている私にスイが声をかけてくる。
うんと頷く。
既に席についているスイに倣って私も席につくと鞄から勉強道具を取り出す。外は良い天気で、室内にいる私たちをさんさんとした太陽が嘲笑うようだ。
机を挟んで向き合うものの私たちの空間に言葉はない。
ノートの上を走るペンの音だけが響く。
かりかりと。
さらさらと。
それもフル回転させた脳の前では無に等しい。
それよりも時折、意識を乱すのは視界に入ってくる彼女の姿。
いつだって氷のように憂鬱そうで。
それなのに触れてしまえば簡単に砕けてしまいそうな線の細さ。
ペンを弄ぶ細長く白い指先の温度を私は知っている。
八月の夏休み。
プールにも旅行にも花火大会にも目もくれず、学校へと通う。
登校の義務はもちろんない。
にも関わらず電車を乗り継ぎ、ローカル線の駅を降り、バスで畑をいくつか通り過ぎたところにある学校にまで来ている。
普通であればそれなりの理由を必要とする。
『夏休みは学校で受験勉強をするわ』
それだけ。
スイのその一言だけで夏休みも毎日登校している。
朝早くに起きて炎天下を歩いていく。
進学校の中でも特に部活に力を入れていない高校だ。定期を更新してまで学校に来ているのは私たちくらいだろう。
スイの家も遠くない。ただ勉強をするのであれば互いの家に行く方が効率は良い。
それでも。
そういう非効率な選択肢を私たちは選んだ。
二人の方が集中できるとか、勉強が捗るとか、お互いに見張り合ってサボらなくなるとか、そういう理由付けは一切なかった。
ただ選んだんだ。
他に生徒はいない。
周囲も山と畑ばかりで音はない。
音を作り出すのは私とスイだけ。
水のように澄んでいる、私とスイの世界。
延々と時間が消費され、時間が積もり重なっていく。
幼い頃からのスイとの時間は途方もなく、当たり前になっている。これ以上の積み重ねがなにを生むのかは私にもわからない。
だけど。
帰りのバスを待っていると心地の良い感触につい目を向けてしまう。
スイが私の右手を握っていた。
日が暮れても夕陽が私たちを熱くし、それだけに右手の冷たい肌触りが目立って仕方なく、彼女が昔から今の今まで確かに隣にいることを実感する。
音なんかなくても。
声なんかなくても。
呼吸なんかなくても。
言葉なんかなくても。
私はここにいる。
3
◆
朝日が昇る頃。
またダメでしたと呟いた。
朝八時を迎える前。
足元が幽霊のようにおぼつかない。
自分がどこに立っているのかわからなくなる。
不安と迷いから生まれる私の揺らぎ。
それは価値観や思考の揺らぎに等しく、個人の存在が不安定なことに等しい。
だから階段を登っている瞬間だけは足取りが確かで私という存在がどこにも埋もれない。
三本の円形の塔があった。
それが三角形の点となり建ち並ぶ姿は三年間通い続けても慣れはしなかった。
白色の石造りの塔。
煩わしい装飾がない私たちの高校。
まわりが畑と山だらけなので非常に浮いている。どこかファンタジーで学び舎としての趣味が良いとは言えず、石造りの床もデザインだけ見れば素敵でも冬には馬鹿らしいほどに冷え込むから好きになれない。
唯一好きになれたのは螺旋階段。全ての塔は中央が吹き抜けで巨大な螺旋状の階段になっている。
一階から五階の特殊教室に向かう際は生徒たちも不満をこぼす。景色が変わらず、延々と登っているような錯覚に陥るからだ。
でもそれは余計な情報が少ないということで考え事にはうってつけ。
見上げれば透き通る青空が私を見ている。高さというのは平面に比べて一歩一歩の実感が大きいもの。
だから一段登るごとに私の中の揺らぎが薄れていく。
この螺旋階段が空まで続いていればどんなに良かっただろうか―そんな永遠を願うほどに。
朝八時ちょうど。
三階の化学準備室に到着すると荷物を置き、窓を開けて掃除に取りかかる。
最初こそ埃と雑然さしかなかったこの場所も不要な段ボールの処分や備品の整理をして随分とマシになった。
夏休み半ばにしてほぼ理想形となった。
それも夏休みが終わってしまえば水泡となる。この準備室の使用だって許可もなにもあったものではない。
登校にしたってそうだ。義務がないということは 「やる必要がない」ことで余計なことになる。
良いか悪いかで言うと灰色。
私物のお茶まで持ち込んで、勝手に火器も使用して、灰色どころか黒と言っても差し支えない。
そんなリスクと期限のある空間でも私は理想を求めた。
昔からの癖。
私の理想の場所を作り上げる。
凝り性だとかそういう可愛いものではない。
私の思い描く理想を作り上げられる実行力は、しかし私の思い描く理想が他人の理想ではないという点で明確な悪癖となる。
それでも私は我を通してきた。
そうやって理想を作り続けてきた。
昔から、ずっと。
朝十時前。
一向に現れないヒカリを探しに行ったわけではないけれど、気晴らしに螺旋階段を登っていたら落し物を発見した。
五階まで上がった時だった。
廊下で倒れる人の姿があったので近づいてみるとヒカリが仰向けで目を閉じていた。
屈みこんでヒカリを観察する。
外傷なし。
衣服の乱れなし。
呼吸よし。
結果、事件性なし。
『ヒカリちゃん、なにしてるの?』
駐車場のアスファルトの上。
���い頃、少し目を離したらヒカリが地面に横になっていることが何度かあった。
私の問いに答えることはなく、ヒカリは注意されても止めなかった。ただ、こちらを見て微笑むだけで。
その時に見せる笑みはいつも可愛かった。
五階でやっていた理由はなんだろう。
今日はたまたま五階だったのか、あるいは私に見つからないためか。
馬鹿ね。好きにすればいいのに。
―そうさせているのは誰?
久しぶりに、戯れたくなった。
乱れた前髪に触れると懐かしい匂いがした。
温かくて甘い、ソープの香り。
触発され、頬に指が触れる。
一本から二本へと触れる指が増える。
添える手はやがて片手から両手へ。
長いまつ毛を見つめる。五秒、十秒と時を止めて、深呼吸をすると額に口づけをした。柔らかい肌の感触が唇をビリビリと伝わり、身体と脳が震える。
今この一時だけは全てを忘れられる。
それでもヒカリは起きない。
いつからここにいるのだろう。
私は時間に対して余裕を持つ。
ヒカリは余裕を持って時間を使う。
とてもヒカリらしい。
私はいち早く準備室に行ってしまうから。
少しでも多くの時間を理想の場所でヒカリと一緒に過ごしたいから。
そんな気持ちに応えないヒカリのマイペースさに沈んだりはしない。
……わかっている。
ヒカリにはヒカリの時間がもっと必要なことを。
それでも側にいたくて。
意味のない問いかけだと知りながら。
「……ヒカリ、いいよね?」
貴女は決してノーとは言わない。
寝ていても、覚めていても。
今も、昔も、これからも。
ヒカリの隣に寝そべった。
逆さまの視界。
重力が反転し、私とヒカリが天井を歩くところを想像する。二人して地上を目指して螺旋階段を登っていくところを。
なかなかに愉快な光景で、想像していくうちに意識は遠い彼方へと運ばれていった。
それは床の冷たさと相まって水面に浮かぶようで。
夢に落ちる間際、溺れてしまわぬよう私はその手をつかんだ。
◆
夢を見た。
急に世界の重力が反転して私とスイは逆さまになる。二人で天井に座りこんで窓の外を見ると空へと吸い込まれていく無数の人の姿を見る。それは残酷なようで、でも流星のような瞬きで美しかった。
それから二人で螺旋階段を登る。しかし地上に出るも逆さまなので家に帰るのが困難だった。
私は家に帰りたかった。それは怖いからとか、家が心配だからとかではなく、見たいテレビがあっ���のだ。夢だし、まぁそんなものだと思う。
やがてスイが言う。
「この塔で暮らしましょう」
いつもの化学準備室も逆さまで中はぐちゃぐちゃで、それもすぐにスイが綺麗にしてくれる。気がつけば景色だけ逆さまにいつもの机が、筆記用具と参考書が、スイが淹れてくれた紅茶が。
「時間はいくらでもあるし勉強しましょう」
なんだか悪くないなと思った。
本当にここで暮らしていくことも。
スイと一緒にいることは。
夢のようで―しかし本当に夢で。
目を開けると橙の光が眩しかった。
時刻は体感、十六時くらいだろう。
まだ夢の中だとも思った。
隣でスイが寝ていたから。
でも夢ではなかった。
確かに繋がれた手の感触は現実のものだった。
それがまた夢のようでもあった。
身体を起こして、廊下で寝てしまったことも思い出す。ただその時はスイがいなかったはずだ。今日はまだ会話もしていない。つまりスイがこの状況にしたわけで―
ぼりぼりと、わざとらしく頭をかく。
あたりを見回す、誰も来ないのを知っているのに。
……さて、どうしよう。
めずらしく私に主導権がある。
普段、主導権を握っているスイが寝ているのだから当然なのだけど、それだけスイが無防備になることがない証拠でもある。
本当に無防備。
つい寝顔を覗き込んでしまう。
スイ、起きて。
そう声が出かかったけれど―人差し指の第二関節でスイの頬に触れる。
目にクマできてるね。
意識して見ないから気づかなかったよ。
スイと一緒に居るのが当たり前で。
こんな間近で顔見ることもないからさ。
顔も青白いし、手も冷たいよ。
息してる?
スイ、疲れてる?
最近のスイ、少し変だよね。
よく手繋いできたりさ。
小さい頃みたいで嬉しくなるけど、不安にもなる。
こんな廊下で寝っころがるのもそう。
前なら……ううん。
小さい頃からずっと、こんなことしなかったよ。
スイはいつだって凛々しくて、綺麗で、私とは正反対。
…………ええと。
お腹すかない?
私はすいちゃったよ。
お昼食べてないからね。
起きて欲しいけど、このまま寝てても欲しい。
うん、寝てて欲しい。
ゆっくり、そのままで。
……なんか、ずっと一緒にいるね。
でも、ずっと一緒にいるからこそ。
気づかないこともあるんだね。
スイは昔のままじゃない。
私は昔のままの気しかしないよ。
だから。
……だからなのかな。
スイはさ―
それらを何一つ、声に乗せて言葉にはしなかった。
急に自分がとてつもなく酷い奴のように感じた。
こんなにも言葉を抱えておきながら口にしない、相手に伝えようともしない。
実際、私は「つまんない子」とかそういうレベルではなく、普通に酷い奴なんだろう。
対話を致命的に放棄し、決定権は相手に委ねる。
だから、スイにも言われたんじゃないか。
小さい頃からスイのお世話になって十六年が経つ。
並みの恋人どころか夫婦よりもずっと付き合いが長い。
ずっと親にも言われてきた。
『スイちゃんに頼ってばかりで、将来どうするの?』
小さい頃はそれにいつも同じ返答をしたものだけど。
もう長くは一緒にいられない。
私は大きな決断など一度もしたことがない。
……全てスイに決めてもらっていたから。
遊びに行く場所、趣味に、高校の進路。
そして大学も。
夏の始めにスイに言われたこと。
『大学は別々のところに行こう』
それに対して私は、声を出して「うん、わかった」と頷くだけだった。
……でも。
だけどね。
4
◆
『ヒカリのこと、よろしく頼むわね』
みんなが褒めてくれる。
ヒカリの面倒を見るだけで「頼りになる」「しっかりしている」と褒めたたえた。それを見てお母さんが誇らしげに笑みをこぼしたのを覚えている。
ヒカリのことだって好きだった。
ちょっとボンヤリしてて手はかかる。
それでも私の後ろを健気について来る姿は愛おしく―ある日、気づいてしまった。
私の意見を聞くこと。
私と対立する人が現れたら私に付くこと。
いつだって貴女は私の言いなりだった。
彼女の性格や本質なんて二の次で私がヒカリを好きな理由は私に従順なところだった。
小さい頃から面倒を見るという名目で彼女をコントロールしてきたことに自覚がないとは言えない。
私の承認欲求のために、理想のために、ずっと騙されていること。
そして貴女がいないともうダメになってしまう自分を見つけてしまったこと。
私は一人で生きていくのが不安だ。
私を必要としてくれる人がヒカリ以外にいるのか。
いつまでも必要として欲しい。
でも、それではいけない。いいわけがない。
だから。
この一ヵ月は、なんのための一ヵ月だったのだろう。
夏休みも残り一週間を切った。
相変わらずの受験勉強の日々の中でも変化があった。
ヒカリの視線を感じることが増えた。
気のせいではない頻度で目が合う。
どうしたのと聞いても、ううんなんでもと言うように首を振るだけ。
朝も九時前にヒカリがここに着くようになった。
朝の支度まで一緒に手伝ってくれる。
ヒカリが掃除をし、その間に私がお茶の準備をする。
嬉しかった。
幸せだった。
二人で過ごす最後の夏だから。
高校卒業を期に離れ離れになる。
私は遠い大学へ、一人暮らしを決めていた。
……ヒカリ。
人生の半分を占めていると言っても過言ではない私の愛おしい半身。
貴女の人生をことごとく私に合わせてもらってきた。
遊びに行く場所、趣味に、高校の進路だって。
貴女に決断させないでここまで来てしまった。
それももう終わり。
離れ離れになるのは寂しい。
でも、これは必要なことだから。
「スイちゃん」
久しぶりに聞いた声。
ヒカリの甘くか細い声が耳を触る。
愛らしくて、他の子には聞かせたくなかった。
夕陽を背に帰りのバスを待っているとヒカリが私の手を握っていた。恥ずかしそうに、不安そうに、私を見る姿に予感が走る。私の手にも力が入って。
そしてヒカリが言う。
「やっぱりスイちゃんと同じ大学に、行きたいな」
ずっと冷えていた胸の中が熱くなる。
それはずっと求めていた言葉だった。
私だって本当は離れ離れになる決断なんてしたくない。
ヒカリのことが好きだから、ずっと一緒にいたいと 思っている。
だからヒカリさえ心の底から望んでくれればよかった。
あの決断できないヒカリが、ここ一番の決断で私の側にいることを選ぶというのは。
この夏の集大成に相応しく、感動的で。
―吐き気がするほどに私の思い通りだった。
こんな意識がずっとあった。
『私はどこかで生まれ変わらないといけない』
今のままではいけない。
このままでいいはずがない。
どこかで私は変化を手にしなくてはならない―そんな曖昧で輪郭のない欲求。どこかとは何処だろうか。いつのことだろうか。私のもとへやって来るものなのか、それとも私からそこへと向かうのか。
わからないまま、わかろうともしないまま。
……ついにここまで来てしまった。
期待していなかったと、予感していなかったとは言わせない。
離れ離れになることを告げながらも、邪魔の入らない場所で夏休み毎日一緒に会うようにし、手を繋いで私の存在を否応なしに意識させる。
そうやって情を植え付けて、私から離れがたくする。
離れたくないと私からは言わず、ヒカリに言わせる。
そうすることでヒカリはより私へ傾倒する。
私はヒカリと一緒に居ることを正当化できる。
『ヒカリが望むのだから仕方ない』
これをコントロールしていないと誰に言えるのか。
卑劣で、あまりに弱い。
私はこんなことを望んでいなかったと思う心と裏腹に、『本当に起こってしまった』と恐怖した。
これが私の本当は望んでいた光景。
都合の良い、理想の光景。
それを証明する一ヵ月だった。
5
◆
大した問題ではないのだ。
人ひとりが心の中で抱えたものなんて。
エアコンの二十八度とか二十七度とかって意味あったんだなって。無いよりマシなんてものじゃない、失ってから気づく涼しさ。真夏の室内のこもった空気がこんなにも最悪だったとは。
うだるような暑さに萎える前に窓を開けて換気をし、準備室の掃除もほどほどに、我慢していた空調に手を伸ばす。遠慮なく二十五度に。
涼しくなるまでは休憩だ。
ギィと椅子を引いて座る。
天井を見ると蛍光灯がぱちぱちと点滅していた。
こういうのも取り替えていたんだろうか。取り替えていたんだろう、スイなら。
雑然とした化学準備室。
テーブルクロスがかけられた机はなくて、紅茶の香りもなくて、なにより彼女の姿がない。
全てが嘘だったように。
なにもない。
静かで、本当に静かで。
本当に寂しい場所だった。
それでも私はここにいた。
別段、思い出らしい思い出もない。
スイと過ごしたという場所でしかない。
ただ宿題が終わっていなかっただけ。
もう夏休み最終日だというのに。
文章を書くだけなんだし、数日どころか数時間もあれば終わるだろうと思っていたそれは、いざ手をつけると想像以上に手強い代物だった。
自分の気持ちを正確に文にする。
頭の中にあるうちはあんなにも明白な形をしているのに現実に落とし込むと途端にズレが生じ、稚拙さが浮き彫りになる。
それに嫌気が差してなにもしない時間も多くあった。
もう紙ヒコーキにして窓から飛ばしてしまおうかと思ったのも一度ではない。
苦しくて、楽しくなくて、しんどくて、自分が嫌に なって、それでも書く理由は―それでもなお、私にしかない伝えたいこと���あるから。
……散々時間をかけた挙句、これかという気持ちはある。それでもこれが最善だと思うから、あとは自分を信じるだけ。
終わった。
これで本当に終わり。
本当はもっと早く終わらせるはずだったけど、今と なってはどうでもいい。
同時に夏の終わりだった。
休みが明け、明日からは他の生徒もやって来ると思えば寂しくもなってくる。
やれるだけのことはやろうと最後に廊下に寝っころがってみると相変わらず冷えた石の床は心地よく、両腕を広げて力を抜けば水面に浮かぶようだ。
でもかつてほどの爽快さはなかった。
見慣れた風景の中に私しかいないこと。
私という存在が埋もれないこと。
ただ、それだけ。
それもそうだ。誰かが見つけてくれる可能性がないそれは虚しいものでしかない。本当の孤独だ。
だから幼い頃はどこだって良かった。
どんな場所でも、どんな時間でも、貴女は。
『ヒカリちゃん、汚いよ、そんなところで』
……私はそれが嬉しかったんだ。
そうやって私を見つけてくれて、手を差し伸べてくれる。私がどうしても起きない時は額に口づけをして優しく微笑んでくれる。
それだけで私は幸せだった。寂しくなくて、嬉しくて、他の子とうまく混ざり合えなくても平気だった。
ほんとうに。
ほんとうにね。
貴女さえ、居てくれれば私はそれで―
◆
帰り道。
スイの家のポストに手紙を入れた。
やってやった。
6
◆
ヒカリのことがどうしても嫌な時期がなかったわけではない。そんな時は他の子と遊ぶこともあった。
それでもヒカリが校門で私を待っている姿を見ると。
『ごめん、先約があるから』
ヒカリは私を見つけると子犬のように小さく駆け寄ってくる。
高校生にもなって校門で待つなんてやめてよ。
そう思わないでもない。
足の遅いヒカリ。
走って置いていったらどうなるんだろう。
その場で立ち尽くすのか、必死で追いかけるのか。
……でも私はそれを言いもしないし、やりもしない。
きっと結果が見えてしまうから。
内心では鬱陶しいと思いながらも本当に校門で待つことをやめたら、走って追いかけてくれなかったところを想像するだけで怖い。
見たいけど見たくないもの。
知りたいけど知りたくないもの。
ヒカリはどこまで本気だろうって。
どこまで私に付いてきてくれるのだろうって。
どれほど私のことが好きなんだろうって。
貴女の本気を試してきた。
『大学は別々のところに行こう』
うんと頷かれたとき。
私は安堵しただろうか、それとも傷ついただろうか。
『やっぱりスイちゃんと同じ大学に、行きたいな』
そう言われたとき。
私は安堵しただろうか、それとも傷ついただろうか。
―その答えは全てヒカリの手紙に書いてあった。
正直、手紙を発見したときは嬉しさよりも恐ろしさが勝っていた。
ヒカリは何を書いたのだろう。
罵倒の言葉だろうか。
決別の言葉だろうか。
蔑みの言葉だろうか。
おそるおそる開いた先に書いてあったものは。
たったの一言だった。
『私に本気になってください』
明日、ヒカリに言う言葉が決まった。
7
◆
溜まった水が溢れ出る。
それぞれが思い思いの場所へと流れていく。
水かさは減っていき、私が最後の一人になった。
水の底が渇いた大地へと変わり、私自身の姿が世界から浮彫りなる。
……ちっぽけだ、広い世界から見た私なんて。
だからこそ私は私のままでいいんだと思う。
校門で人を待つ気分はこういうものなのか。手持ちぶさたで、かといって携帯を弄ったり、本を読んでいたりするのも「なんでわざわざそんなところで?」と自分で思ってしまう。
人目が気になるのでヒカリはよくやっていたなと思う。
いつも通る場所なのに放課後の校門からぞろぞろと溢れ出て行く生徒の姿は新鮮で、学校が一つの閉鎖空間だということを改めて認識する。
ヒカリは職員室にいるらしい。
進路のことで先生に相談だとか。
夏休みが明けての進路変更。
先生からすれば怪訝なことだろう。
でもヒカリは気にしない。本気だからそんな小さいことには気にならないのだろう。
私の言うことを聞くとか、聞かないとか。
人をコントロールするだの、しないだの。
そういう小さい話には。
「ヒカリ」
つい見逃すところだった。校門を通り過ぎようとしたヒカリが私の声に気づいて戻ってくる。
いつものぼんやりとした態度にも見える。
全てを悟った超然とした姿にも見える。
そういう子だった、昔から。
言いたいことは私からも一言だけ。
私としてはさらりと告げたつもりだったけど。
「……この先もずっと私の側にいて」
ヒカリはふっと笑って言った。
「年貢の納め時だね」
「……生意気いうな」
そうして彼女の背中をはたくと笑い声が漏れた。
いっぱい話したいことがある。
他愛のない話から大事な話まで。
ヒカリの名前が好きなこと。
貴女に合っていること。
そのことを今日は話そう。
◆
全ての人が幸せになる解答は難しい。
表を選べば裏を選べなくなるように、誰かが幸せになれば誰かが不幸になる。そういったシステムの上に成り立っている。
そうした時に譲り合うのか、我を通すのか。
私は『気にしない』でいいんじゃないかと思う。
どちらを選ぶにせよ、本気で選んだ以上は人の気持ちを介入させないでいい。本気が揺らいでしまうから。
私は十六年前から本気だった。
だから貴女が離れて欲しいと思えば離れるし、離れて欲しくないのを感じ取れば私は貴女から離れない。
それでも時折、振り回されるのは感じる。
だからこそ私がスイちゃんに望むことは一つ。
結局はスイちゃんと同じ大学を目指してよくなったし、こうして仲直りもできた。
でも一番大事なのは、あの一言。
『……この先もずっと私の側にいて』
恥ずかしいからスイちゃんに完全な確認を取ったわけではないけれど、たぶん、いいんだよね。
……責任を、取ってくれるってことで。
私の人生とスイちゃんの人生が今後も交わっていく。
私が一番欲しかったもの。
幼い頃、そして昨日もお母さんに聞かれたこと。
『スイちゃんに頼ってばかりで、将来どうするの?』
私はいつものようにこう答えた。
『そしたらスイちゃんと結婚する』
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