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yuuseasidesunset ¡ 10 months ago
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映画ラストマイル感想
ラストマイルを観たので他の人の感想を見る前に&薄れないうちに感想と印象を書いておきます、ネタバレしかないです
最後のテロップのこの物語はフィクションですっていう決まり文句の後に、心が辛くなったら相談をって一文が付け加えてあってそれが心に残るのと、そんな状況にある人がたくさんいるのは何故かという大きな枠組の問題を真っ向からやった映画だった。
人気のあるドラマ二つを大々的に宣伝でも使ってたくさんの人が興味を持って観に行けるような仕掛けにして、実際観に行ったら(それこそ桃太郎だと思って開けたら金太郎が出てきたみたいに)amazon的巨大ビジネスモデルとそれが象徴する資本主義、消費と利益のためなら立場の弱い者に皺寄せがいくことを厭わない世界、心が壊れていくことを見えにくい必要悪とした仕組みを真っ向から批判した映画だった。これを大勢に届く大規模な映画という形でやったのはすごいと思うし、脚本家やディレクターとその作品にすでに人気があるこのタイミングでしかできなかったことをやったんだなと思った。
扱いたいテーマ(搾取、資本主義の歪み、心の疲弊とか)とそれに関するメッセージを伝えるために感情とか感動を手段として使っていてそれが上手くいっていると思う。涙を誘うことそのものを目的としていなくて、感情移入のために登場人物の背景を明かすこともあまりなく、誰も中心の語り手にはしないで誰もが少し遠くて観ている側からすると誰のことも信用できないままで物語が進む。
そういう決して単純ではない作りな上で、メインの登場人物ではないけどメインの筋である3つの話(配送業者の親子、山﨑努、シングルマザーとその娘たち)が同時進行していてそれが混乱せずに一つの映画にまとまっているのが上手い。
わたしはアンナチュラルのミコトがすごく好きなんだけど、犯人に対するそんな根性ならないほうがいいっていう台詞がこのキャラクターの軸なのと同時に、映画そのもののメッセージだなとも思った。そんな根性を育てさせるような社会全体への批判と、その中で押しつぶされたり蔑ろにされたりする一人一人に対してまだここにいてよって言うことの二つを一つの映画の中で両立させている。
前者は大きな枠組みへの批判だ。誰もが乗っている(社会をコントロールしていて自分の特権を保とうとする少数の人��ち、この映画でいえば出てもこないアメリカ本社の社長とかによって、私たちが乗せられていると同時に、消費活動や(非)政治的態度や価値観の再生産によって保つことに全員が加担している)レールがベルトコンベアに象徴されている。過去の山﨑努の飛び降りでも止まらなかったものが映画の現在軸のストライキによって止まり、配送者親子の父が言うように焼け石に水ではあるけれど無視はされない形でまた動き出す。
後者の、既に何らかの形で"間に合わなかった"一人一人の話はアンナチュラルで描かれたことの延長で、主題歌の歌詞やテロップでの心理カウンセリングへの言及に繋がる。この二種類のメッセージがどちらもあることがこの映画の意味と力を大きくしていると思う。
Amazonでの労働の過酷さや歪みやスローガンの空虚さ、貧困とそういう労働の関係については前に少し読んだ本で印象に残ったのがあったのでこれは本当に現実の話だなと思うとともにいろんなフィクションを読んだり観たりすることと知識と理解は全部繋がっているって実感があった。(本はHeike GießlerのSaisonarbeit , 英語タイトル Seasonal Associate)
思ってもみなかった方向から心を動かされた映画だった。資本主義社会への批判というテレビではスポンサーにも視聴者にも敬遠されそうなものをはっきりやっていて、そういう映画として観るべき作品だけど、間口が広いからこそ届いてほしい相手に届くものになっているんじゃないだろうか。今の日本で日本を舞台に日本語で大規模な映画としてこれが作られたことの意味は大きい。映画館で2時間座って観ることに意味があるというか、映画だからこれができたんだとも思う。あとはミコトと桔梗さんをまた見られただけでも嬉しかった。
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yuuseasidesunset ¡ 11 months ago
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ダンジョン飯の好きなところ、わーってなったところまとめとファンアートについてとか色々。ワールドガイドとラクガキ本含めてネタバレがある
生きるとか食べるとか死ぬとかってどういうことかとか、希望を失った後にどうやって生きていくかとかのシビアで重い話をしているのと、それと笑いのセンスとのバランスが取れているのがすごい。キャラクターへの共感や思い入れとはまた違うような、群像劇の物語を前に進めることで表現しているのが上手いし、その上でキャラクターが魅力的(どっちも上手い)のが衝撃的
動きが面白くて好きなのはイヅツミとミスルンとカブルーで、絵でアクションを描いててあんなにすごいのすごいと思う。
好きなキャラクターたち
(もれなく見た目も好き。絵が上手すぎて本当にすごい)
ミスルン:無表情で突拍子もないことをするキャラクターは面白い。あとそういう人が普段見せない表情をする瞬間っていいから8巻後半以降ずっとカブルーとのやりとりが面白すぎる
オッタ:ワールドガイドの漫画のとこみてbutch lesbianってわかってラクガキ本の現代私服のとこで解像度高…と思ってさらに好きになった
チル:若く見られて困るとかシビアな立場でうまく仕事やっていくための戦略とかの感じが奥行きがある。あと通訳やってるのいいしちゃんと言葉にして文句も伝えるところ(マルシル、ライオス、センシ、イヅツミそれぞれに苦言を呈してる描写が全部ある。最初は嫌味言ってても最終的には言葉にしてしっかり伝えてる)
カブルー:アニメで最初出てきたときは胡散臭いキャラクターだなと思ったしライオスとの対比が上手いなと思ったくらいだったけど漫画で続き読んで味が増した。隊長に多分一番真っ直ぐコミュニケーションしてる人。普段他人に笑顔を振り撒いてるけどそういう上手いやり方をしてもこの人には意味ないってわかってからの無表情<-->ミスルンが笑顔・怒った顔・涙を全部見せてるのは作品中でカブルーの前だけっていうのの対比がいい。誰彼構わず個人的な話をする必要はないですって言えるのすごい(ラクガキ本より)
マルシルとファリン:観る前から主に非日本語圏のshipperのファンアートをめちゃくちゃ見かけたしそれも納得
この作品、誰かに元気でいてほしいとか、美味しいものを食べてほしいとか、誰かと一緒に食事がしたいとか、そういう感情について考えさせられる。やっぱりそれって愛じゃないですか?
広義の愛が好きなのでこのキャラクター間のこの行動は愛だなって思うことはあるし好きな組み合わせもあるんだけど、見かけるファンアートとか二次創作は恋愛に帰着しているものがやっぱり多い。それはまあわかるし見るものは見るし好きなのもあるし見たくときは見なければいいんだけど、恋愛性愛に限定して収束しないものは社会の中と同じようにファンアートの文脈でも少数派なのかとか思うとやっぱりちょっと寂しい。どっちにしろこういうことはぐるぐる考え続けているのでこうやって文章にすることは助けにはなるかもしれない。なんで特定のキャラクターとその関係性が好きなのか考えるのはやめられないしすごい作品に出会ったときに何かの形で外に出したくなるのもしょうがない。でも考察と分析が好きなのと創作ができるかとかしたいかどうかは違うので、読みたいなら自分で書けばっていうのとも違うし原作の話がしたいだけなんだけどなって思うこともある。感想を纏める語彙とかが足りなくて悔しいけどどうしても言葉にしたいくらいハマっているので残しておく。
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yuuseasidesunset ¡ 11 months ago
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雑記 2.8.2024
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人がたくさん命を落とすようなことがいつも世界では起こ��ていて、それは今までわたしが見てこなかっただけで、でも今は特に直視しなければならない理由が今まで以上にあって、そんな中で情報の濁流になっている場所にいるのは今の自分にとって思考を止めるものだと感じる。ガザのことも日本で起こっている災害のこともトランス差別も(本来はトピックとしてこうやって羅列するべきではないし他にもとても書ききれないものについても全部)、情報を入れて行動を起こすことは止めたくない。でも自分自身の思考、特にクィアであることとそれに関連したフィクションへの感想について言葉にすることも大事なプロセスだから、別の場所でゆっくり長い形で書いた方がいいと思い始めたのでとりあえずここに書いてみようと思う。日本語で普段長い文章を全く書かないのとオフラインの(特にクィアの)友だちに日本語話者がほぼいないのでここに書くことは整理する手段になる気がする。
色々あって今は自分のことはクィア、詳しく言うならデミロマ/クワロマで多分デミセク/クワセクだと思っている。変化することはあるし別に明言する必要もないけど、言葉を見つけて使えることは救いになるとも知っているし、十代の時にそうできたら楽だっただろうなとも思うので使ってみている。
People are and have always been losing their lives because of injustices in the world, it's just that I have been too naive to face and understand them. But especially now, there are more reasons I have to face them and do whatever I can. I feel like being perpetually online (mainly twitter for me) is stopping me from thinking clearly because of the overwhelming amount of other people's thoughts. I won't stop seeking info on Gaza, natural disasters etc and the rise of transphobia in Japan and so on (all of which shouldn't be simply reduced to "topics") and doing whatever I can. At the same time, it's important that I put into words my gay thoughts and what I want to scream on the internet about pieces of media I consume. So I'll try doing that here in a more slow way. (It's a mix of eng/jpn + I translate them as practice)
After lots of meandering thoughts, I call myself queer, specifically demi/quoiromantic & demi/quoisexual. I know what I call myself doesn't have to matter or be permanent, but I also know that it's healing and relieving to be able to name and describe myself, so I'm using those labels for now. Also I would love to give these words to explore to my younger, teenage self, so I'm going to use them now, too.
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クィア文学・レズビアン文学を読むことと恋愛小説のファンではないことについて
いくつかwlw(sapphic)文学を話題にしてるYouTubeビデオを見ていて、いわゆる恋愛小説に限らずおすすめを紹介しているやつを見つけた。
I've watched some youtube videos recommending wlw / sapphic literature. One of them I enjoyed was this one which doesn't limit itself to romance novels:
youtube
The mention of Mrs Dalloway and Nightwood is what got me actually listening tbh. I've read several lesbian romance novels so far but none of them got me as much as literary fiction with sapphic characters did, like Mrs Dalloway or Girl, Woman, Other. What I enjoy reading the most right now is well-written books with sapphic women as protagonists or main characters that talk about interesting themes and have good plots or introspection. Some books I like that this criterion applies to are:
Lighthousekeeping / Jeanette Winterson
Mrs Dalloway / Virginia Woolf
Girl, Woman, Other / Bernardine Evaristo
The Affair of the Mysterious Letter / Alexis Hall (it's a fun-to-read fantasy detective novel, homage to Sherlock Holmes)
The more I think about this topic, the more I figure out that I don't really like the romance genre, and it doesn't necessarily change when it's a wlw romance. It's a combination of personal taste and me being too demi/quoiromantic and ace-spec to care about a book whose main plot is "just romance". Of course i know romance can and does encompass a multitude of feelings and character interactions, but it has to be done well to be interesting imo. For me to keep reading a romance novel, my standards of humour and the quality of writing are somewhat higher than in other genres of books. (The romcom novels that I've loved the most is Boyfriend Material and Husband Material by Alexis Hall but that's more than 50% because of the humour. Humour is another topic that I talk about below with regard to Dunmeshi. The sense of humour is so much more complex and diverse than I had thought)
But anyway, I'm happy I encountered an east-asian lesbian book youtuber who seems to read across genres. I've been feeling stuck with what books to read for fun next but now I will check out what they recommend in this video.
ダロウェイ夫人とNightwoodに言及してるのを聞いておっこれはと思ってちゃんと最後まで見た。レズビアン恋愛ものはいくつか読んだけど、女性を好きになる女性が主人公や主要登場人物として出てきて、恋愛ものの括りではない、文章と筋が良くてテーマが面白い文学作品の方がずっと楽しめるということが多い。それは例えば、
灯台守の話 / ジャネット・ウィンターソン
ダロウェイ夫人 / ヴァージニア・ウルフ
少女、女、他 / バーナディン・エヴァリスト
The Affair of the Mysterious Letter / アレクシス・ホール (ファンタジー探偵もの、ホームズオマージュ)
こういう好みについて考えれば考えるほどわたしが単に恋愛小説が好きじゃなくてそれは女女の話でもそんなに変わらないだけな気がしてきた。個人的な好みとデミロマクワロマすぎ、ace-specすぎて恋愛中心すぎる小説は読む気にならないっていうのの両方が原因だと思う。恋愛ものっていっても色々あるのは知っているけどそれが中心の場合わたしは文章の質とかユーモアのセンスに求めるものが他のジャンルの本より高くなる(恋愛ものでこれまでで一番面白かったのはBoyfriend Materialシリーズだけどあれはユーモアのセンスが良かった。ダンジョン飯読んでても思ったけどユーモアってわたしが思ってたより人によって違うし重要)。
でもとにかくこのビデオで東アジア系のレズビアン読書youtuberを発見したので嬉しい。次に読む本で迷っていたのでここで紹介されているのの中から選んで読もうかと思っている。
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この夏読めて良かった作品について
違国日記(最終巻までのネタバレあります)
初めて読んだときは���識が向いていなかったけれど、今の自分として読み返すと槙生と笠町の関係がすごく好きだ。恋愛として好きじゃないことと大切な相手であることは両立するし、互いに向ける矢印の種類が違っても互いの人生に居続けることはできる。恋愛的な惹かれと性的な惹かれとそのどちらでもない相手を大切に想う気持ちは必ずしもセットではなく、しかも単純に切り分けられるとも限らないし、いろんな組み合わせで存在することができる。そういうことがこの作品には言葉と筋書きと絵を全て使って描かれている。このことに気づいてから1巻から読み返すと、槙生と笠町の過去の話は恋愛的なものをこうと決めつける価値観から生まれたすれ違いの話だったと初めてわかった。一度目に読んだときはわたしにそれを理解する土壌がなかった。読み返すと自分の変化にも目がいくのが面白いなと思う。
最終巻で特に好きなのは衛星の話、笠町の「でもまず愛するということ自体が恐怖に打ち克つ行為だろ たぶん」、あと最後のほうの、朝に「それでは言葉が足りない」って言う槙生。
ダンジョン飯
散々twitterで喚いているけど相互さんたちの感想とか見ててアニメをなんとなく見始めたら面白くて2周して、帰国してから漫画を読んだ。これ自体はハイキューにハマったのと同じ流れで、基本的にハマるものは少ないけど一度そうなったら深く長くハマることが多いのでしばらくこの状態でしょう。
ものすごく面白くて言いたいことが多すぎてまとまらないけどまずは物語の構成力とキャラクターがすごい。漫画という媒体が他(文学や映画など)と比べて特に面白いと思うところは、絵で描くから基本キャラクター全てを外から見る群像劇で、でも書き言葉で心の中も描いたり描かなかったりできるから、どのくらい各登場人物についての情報を読者に与えるかについて作者が持っている自由度がすごく高いところだ。この漫画は特にこの作者の権限がうまく使われている。世界と人物全てについて作り込んだ上で作者がキャラクターとの距離を保って必要なところだけ描写する、ある意味冷静で冷酷な作りの物語だと思う。
この作品は食とコミュニケーションを徹底的に中心に据えていて、やりたいことに筋が通っていてすごい。意思疎通の齟齬とか人と人が出会うことで何が起きるかとか多様な人々が一つの空間にいることで起きる問題とか弱い立場の人の生存戦略とか、現実にあることをどうやったらこんな匙加減でフィクションに落とし込めるんだろうと不思議になるくらいうまく描いていて、その上単純に物語として面白い。基本的には古典的な「行って帰ってくる」物語だし、始まりから結末までの流れが綺麗なのもすごい。
絵とキャラクターが魅力的で、全ての面ですごいなと思う。コマ割りと絵でのスピード感の作り方とか、絵でのアクションの表現とか。
キャラクターについて考え抜かれててすごいし本編の外で明かされてる話も読んでて楽しい。動きが格好いいキャラクターが好きなのでイヅツミとミスルンが好きです。ワールドガイドとラクガキ本の内容も含んだ感想言いたくなったからそれは別で書こうかな。
あとはユーモアのセンスがめちゃくちゃ好み。なんというか動物のお医者さん好きな人は好きだと思う。
ハイキューと違国日記と並んでこれも分析したのを書き留めてたらそのうち論文みたいな長さになりそう…
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文字をなんでも延々読んでしまうのとやっぱり最近twitterはよい場所とは言えないものになってしまったのでどうにか付き合い方を考えたいと思っている。あとは自分の文章英->日訳すの練習でもめんどくさかったからもう諦めて書いたままでポストするようにしようかな…漫画の感想のとこに英語もつけて揃えようかと思ったけど力尽きた。
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yuuseasidesunset ¡ 2 years ago
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日記/雑記
短歌に折句というものがあることを最近知った。折句はすごい。
折句を読むときの思考の仕方は、ある思い出のことを考えていてそこから繋がっていろいろな方向に思考が一気に広がっていく感じに似ている気がする。記憶って折りたたまれているんだろうか。
いい機会だから折句を知るきっかけになった何首か(山中千瀬さん作)とそこから思ったことを書いておこうと思う。
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はばたけるんでしょう君が請うのなら嘘の魔法も君のものだよ
(「はんこうき」)
置いてきた思いも問いも幻影なんておもわんよ 帰れないだけ
(「おおげんか」)
羽搏くってどういうことだろう。しょっちゅう超長距離の引越しをしているのだけど、飛行機での移動は特に体だけが運ばれて頭は半分しかついてきていないような、気持ちは置いてきたような気分になる。飛行機で移動するのは足で歩くことに比べたら嘘の魔法だろうか。たぶん人間というか生物が自然にやるような速度での移動ではない。だからかは知らないけど、体は地球の半分をたった1日で移動できても心が追いつくまでには時間がかかる気がする。まだ昨日までいた場所にいる気がして目の前の景色が変に見える。そうやって自分の一部が追いかけてくるのを待っていると、自分の反抗期の頃のこととか、年下の思春期の人が身長ばかり伸びていくことに自分で苛ついているところを見ていたときの感じとかを思い出す。
あなたがそうやってえいっと勢いをつけて一人で移動してしまえるのは帰る場所があるからだよ、と言われたことがある。そうかもしれない。帰って行ける場所があることは幸運で幸福なことだ。家と呼べる場所が増えるたびに嬉しいとも思う。でも、帰るという動詞はすでに私にとっては複数の場所に対して使うものになっている。それと同時に、人はどこへ行っても根本的に一人だなと移動のたびに実感する。いつも移動しているということは、一つの場所に留まることで発生する問いとかそういうことから逃げているということかもしれなくて、でも別に置いてきたからといって捨ててきたわけではなく、後で戻ってきて考えるとか、持っていった先で考えることもあるのだ。
実際に置いてきてしまった、と思うのは地理的なものよりも過去のことだ。あのときもっと怒ればよかったとか話せばよかったとかそういう類の後悔よりも、例えば同じ教室に毎日いたということはもう過ぎたことで二度と同じように同じ空間に存在することはないんだなと思う。今ならもっと話せるかもしれないと思うような元クラスメートもいて、実際に会って話すと同級生としてのときよりも色々な話ができたというようなことは最近にもあったけれど、それはあのとき話していたらどうだっただろうという問いに答えを与えることにはならない。それでもやり直したいと思うことはないしそのとき自分が思っていたことがなかったことにはならない。ただ、戻れないんだなと思うことは歳を重ねるごとに増えている。
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ちょっとだけ困らせていい? 恋愛はいらないけれど隣にいたい
(「チョコレート」)
地図を捨てた夜の続きがこれだから生き延びてただ友だちでいて
(「チョコレート」)
大好きな友人のことを考える。一緒に過ごす時間が私にとっては本当に楽しくて大切なもので、彼女にとってもそうであればいいなと思う。
友人関係は恋愛関係とは社会的に意味が違うことになっているらしく、なんとなくぼんやりと友人と一生楽しいことして生活したいなと思っている私のような人は社会の"その他"に当てはまるらしい。これも歳を重ねるごとに実感する機会が増えたことの一つだ。
そのへんの定義をはっきりさせて規範に当てはまる形にしないと得られない権利があって掛けられる圧力があることに異議を唱えるような本とか人とか映画とかが最近特に増えていて前よりも可視化されているのは嬉しいことだ。わからなさも理不尽さも存在し続けるけど何かは変えられるかもしれないし、私と友人の関係も変わっていくかもしれないけど私たちが一緒に料理したり互いの引っ越しを手伝ったり馬鹿みたいな映画を観て爆笑したりしたのはなかったことにはならないし、たぶんこれまで1番の王道の描き方みたいにされてきた、時間が経って結婚に重要度で負けて自然消滅する友情みたいなのばかりではなく、私たちはどんな友人でいるのか自分で選ぶことができるのだ。最近はそう思うようにしている。
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短歌は全て山中千瀬さん作です。下のnoteから引用しました。
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yuuseasidesunset ¡ 3 years ago
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and this kind of thinking can also be incredibly helpful when you're questioning your romantic and sexual orientation
reminder that if you’re questioning your gender, “what do I want?” and “what will make me happy?” tend to be much more useful questions than “what am I, really?”
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yuuseasidesunset ¡ 3 years ago
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何がどうなるかわからないしと思って移動先としてここを作ったけど、文字と情報の波にも疲れていたところだったからtwitterから少し離れるきっかけになってよかったのかもしれない。ツイートするかわりに少しずつ下書きにためてゆっくり書こうと思っている。
気軽に脊髄反射みたいな感じでつぶやかなくなると特に人間関係とかセクシャリティに関することを書きにくいなあと思ったんだけど、とにかく細切れにでもアウトプットしたいって思う時期とそうじゃない時期がたぶんあって、今はちょっと落ち着いてるんだと思うのでそれもちょうどいいのかも…でもこれは刺さりすぎてやばいって作品があったりするとそれはまあ叫びたくなるしお構いなくここでも叫ぶと思うけどね。
人間関係は、最近急速に仲良くなってる女ともだちがいて自分の感情ってよくわからないなあと思っている。今までは男女の組み合わせしか恋愛はありえないってことになっている環境の中、もしくは相手が異性愛者ってわかってる状況で女友達のことがものすごく好きになって、そこに友情関係じゃない名前をつける必要性も感じずにただ一緒に楽しくいて、後から思ってあれは恋愛感情か?ってぼんやり思うけどまあもう確かめようもないし確かめる必要もないし、って感じだったんだけど、女性とも恋愛する相手と仲良くなっていってるときに自分の感情に名前をつけなきゃいけないのか?とか、"ずっと一緒にいる親友"としていたいだけなんだけどもし交際とかそういうのがその理由になれるんだったらそれも自分の中の可能性としては嫌ではないな…とか。相手と具体的にどうなりたいかっていうよりは自分の中にどういう感情がありえるのか、みたいな。
異性愛者ではない・allosexual alloromanticではないなって思い始めてから何年経っても謎は減らないし疑問の種類が変わってくだけだなって思う。もっといろんな人間関係の形を小さい頃からいろんなところで見られていたら感情にラベルをつけることとかに悩まずに何がしたいか、何を感じているかそのものを純粋に見つめられたのかもしれない。だからほんとうにいろんな表象が増えてほしいし増やしていきたいなって日々思う。
いきなり氷点下になってびびっていたけどやっぱり雪景色はきれいだなあと思う。日照時間が短くて気が沈むのも確かだし北国の人が家具とかコーヒーとかを大切にするのは家の中��過ごすしかない時間が長いからなんだなって毎年実感する。今日は久々に太陽が見られるかもしれないので楽しみにしている。
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yuuseasidesunset ¡ 3 years ago
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it IS a phase, mom
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yuuseasidesunset ¡ 3 years ago
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as an ace person, I still feel wobbly in how I understand my romantic orientation, always going back and forth between aro and demiromantic. but now I feel like it's fine to have something about my feelings and orientation that is inexplicable even to myself.
in the past few weeks I've gotten more interested in relationships and dating, but it would look like giving a name and a different kind of status to a friendship that is already pretty strong (but maybe it's the seasonal depression kicking in because I felt like this exactly around this time last year...)
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画像説明
ツイートのスクリーンショット。「めちゃくちゃ仲良くなった友達ととりあえずこの関係に名前をつけてみたいねって約束をするっていう意味での交際に興味があって、いますごくそれをやってみたい時期なんだけど、ほんとにそれがしたいのか季節的な寂しさなのか親友に彼氏ができたからか同居人たちが留守だからかは謎です」と「やっぱりaroとデミロマを行き来してる でもはっきりわかんないものがあるとか自分のことで自分に対しても説明できないことがあってもいいって思ったほうがいいかもしれないって思い始めた」
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yuuseasidesunset ¡ 3 years ago
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an aspec goes to a bookshop 
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I recently had my first encounter with an aroace Sci-Fi in Japanese and just had to write about it.
I enter a bookshop and feel like crying. I don’t know which book to pick up and I end up spending more time walking around than reading. This has been typical of me in a bookshop over the past few years, since I started to identify as aspec. 
Growing up, I’ve always been a bookworm. As soon as I learned to read, I started devouring all the books I could get my hands on. Recently I found a reading diary we were made to keep in primary school, and the small notebook contained the titles of many more books than I had remembered. Fantasy had already become my favourite genre. I probably read so many books during that time that I didn’t remember what happened in each story. 
Looking back, I can’t pinpoint when that started to change. As I got older my reading skills developed and I came to digest each story more slowly and carefully so I could enjoy the reading experience. That explains why I became so bad at deciding what to read; when you want to take time for it, you would want to choose what you enjoy reading. 
But that wasn’t the only reason, though I couldn’t figure it out at first, and maybe it already started in the fifth or sixth grade. As I grew older, the books recommended for my age group started to contain elements of romance, a certain kind of interaction between a girl and a boy (it was always a girl and a boy - which I didn’t care that much at that time because being anything other than straight simply wasn’t given as an option anyway). I still enjoyed the books and got excited about all the adventures and characters and emotions and all that was there, and I read the romance plots just as any other kind of b-plots. But then, romance and sex became more and more dominant with time, both in books I read and in conversations I had with my friends. I started to feel as if I were much younger than them, too “innocent” and childish for those topics. It might also have had something to do with the fact that Asians are often perceived as younger than their age in Western/European contexts, which was often the case where I spent the latter half of my teenage years, but that definitely wasn’t the only reason. When I came across the terms asexual and aromantic, things started to make so much sense. 
But as it might be the case for many, figuring out at least part of my sexuality wasn't necessarily the most difficult part, unlike many of the YA books I had previously read about queer experiences. Just as much as I was relieved to have a way to describe myself and to find others whose experiences and feelings I share, I also came to notice small and big things built upon the premise of heteronormativity and amatonormativity, and how other people seem to smoothly navigate through them, and be hurt by those little things like advertisements on the metro and anecdotes in daily conversations. It might sound like an exaggeration, but it did feel that way. Little things like that often build up. 
For me, one of the ways in which the impact manifested was that I started to sometimes feel like crying in bookshops and libraries, my favourite places of all. I felt like I was out of place in those storyworlds. I became scared of picking them up. 
I don’t mean to say that all (hetero) alloromantic allosexual people enjoy all the books in the world. But there are simply more options to choose from to relate to in any genre. Of course, there are a vast number of stories and books and every person can like or dislike them, relate to or not relate to them; it’s not unique to queer, aspec, or aroace people. But objectively speaking, there are many more books built upon the premise that romantic and sexual relationships and interactions are an essential and natural part of anyone’s course of life. At least the stories I’ve encountered have been that way, especially those supposedly for “grown-ups” that I found in bookshops in Japan. And when the sheer existence of that premise in a book felt like rejection and exclusion, just the idea that none of the books in the bookshelves went directly against or weren't based on that premise made me want to cry. I started to avoid stopping by the fiction shelves. And that’s been the default for the past few years since the very striking discovery that not everyone feels the way I do and that I was rather the odd one out that the descriptor aroace can be applied to. I got used to feeling as if there were no books for me to read without feeling like an imposter, or read always only as audience and never a participant.
So, reading The Nowhere Garden for the Innocent (無垢なる花たちのためのユートピア) just blew my mind. As a collection of SF short stories by an openly aroace author, it was what I had always wanted without realising. Science fiction and more broadly speculative fiction reimagines the world and enables the understanding of the world and people in ways otherwise impossible, which is one of the reasons I love the genre. But (though the number of books I’ve read so far isn’t large) it was the first work of speculative fiction that spoke to my experience and feelings specifically related to my aroace-ness in a way this book did. 
The book contains six short stories, all science/speculative fiction. The rule-bending nature of speculative fiction enables us to imagine what ifs, but it also makes visible the author’s assumptions about the limitation to those imaginations, what they regard as essential or minimum for the story to be real in their worlds. Of course, books written by alloromantic and allosexual authors also often explore possibilities of relationships and sexualities, I know that. But it just feels different when it reflects the aroace experience. I didn’t know how liberating it feels to read stories where I’m not told I’m in the wrong for the lack of certain experiences or feelings, implicitly or explicitly. 
I hadn’t understood the true importance of representation in media, especially that of aro people, until I read Loveless by Alice Oseman (whose protagonist is aroace) and watched Little Women (2019) (whose protagonist Joe who I interpreted as an aro icon, largely thanks to Sounds Fake But Okay podcast. My fave pod btw). Recently, I have also been rediscovering the power of fanfiction. And now, I have an even deeper understanding of what it means to have a piece of work in your favourite genre that you can see yourself in, and whose author clearly states their wish to create works in which they battle against amatonormativity, and in a language you grew up reading books in, which for me is Japanese. I’m now more jealous than before of the majority of the people who I suppose have plenty of books they can relate to in this particular sense (which is a fresh surprise to me every single day, what do you mean sexual attraction and games of romance are real and not fake?) (I am joking, respectfully). 
I don’t want to spoil the book so won’t write too much about it here, but what I found to be one of the undercurrents in the book is the power of writing itself. It’s about how much writing stories and letters and diaries and memoirs and names might mean to somebody who might be looking for something or somebody. And, reading the book, I realised a special impact that fiction has on me. Works of fiction enable a kind of empathy different from the kind that nonfiction offers, like interviews, scientific books or even tweets, though they have also helped me. Fictional stories enable the reader to immerse themselves entirely in the world and identify with the characters. That is how I feel reading fiction, especially speculative fiction. And when identities often invisible are represented there, it can act like a special kind of affirmation that yes, a person can feel like that, and yes, it is a way to exist in the world and to interact with other people. 
So I’m glad this book exists, and that I had the chance to encounter and read it. Stories save people. I hope people keep believing in the power of writing and storytelling, because now that I know books like this one can and do exist, I don’t feel as much like crying in a bookshop.
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無垢なる花たちのためのユートピア (The Nowhere Garden for the Innocent), Megumi Kawano - in Japanese 
Loveless, Alice Oseman
SFBO Little Women episode 
(This post was originally posted on my previous account @seasidesunset on 09/08/2022)
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yuuseasidesunset ¡ 3 years ago
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an aspec goes to the bookshop / 本屋に行くと泣きたくなる
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本屋に入ると泣きたくなる。どの本を手に取ればいいかわからなくて、読むよりも歩き回るのに時間を費やすことになる。自分がaspecかもしれないと自覚してその言葉を使い始めてから、こんなことが何度もあった。
小さい頃から本の虫だった。字が読めるようになってすぐに、読めるものならなんでも読むようになった。最近段ボール箱から小学校で必須だったらしい読書記録ノートが出てきたが、全く覚えていない本のタイトルが大量に書いてあったので、読んでは忘れるのをすごいスピードで繰り返していたんだと思う。ファンタジー文学やSFが好きになったのもこの頃だった。
思い返してみてもそんな手当たり次第になんでも読むような読み方がいつ変わって、読む本を選ぶのが苦手になったのかはわからない。成長してゆっくり内容を消化しながら読めるようになり、読書体験そのものがちょっと楽しめるようになったのだとは思うし、時間をかけるようになって選び方も慎重になったのだとは思う。
でもその頃はわからなかったけれどそれだけが理由だったわけではないと今は思っている。たぶん小学校高学年くらいから、年齢的に推奨される本や周りで流行っている本に恋愛の要素が登場するようになった。女の子と男の子が出てきて特定のやりとりが展開される(もちろんいつも女の子と男の子一人ずつのペアだったけれどあまり気にしていなかった、ヘテロ以外の選択肢はそもそも存在していなかったので)。あらゆる冒険や登場人物やその感情の全部が面白かったし、恋愛は物語のただの一要素として読んでいたので読書の楽しさにはあまり関係がなかった。でも大きくなるにつれてロマンスとセックスとその周辺の話題がどんどん物語でも会話でも大部分を占めるようになり、わたしは自分が周りより幼くて話題についていくには未成熟すぎるように感じるようになった。アジア人が欧米/ヨーロッパ人より幼く見られるというのは十代後半の大半を過ごした場所ではよくあることだったのでその影響もあるかもしれないけれど、それだけではなかった。そのうちアセクシュアルとアロマンティックという言葉に出会って、これでいろいろなことに説明がついたと思った。
でも、YA小説で読んだようなクィアの若者の話と違って、自分のセクシュアリティが少なくとも部分的にわかり始めればそれで物語は終わりといういうわけにはいかなかった。自分について説明する言葉を見つけて共感できる相手を探す方法ができたことにはほっとしたけれど、そのぶん目にするいろいろなことが異性愛規範と恋愛至上主義に基づいているということに気づくようにもなった。ほかの人たちはみんなその中を流れるようにすいすいと進んでいるように見えた。地下鉄の広告や日常会話の小さな一言に傷つくことが多くなった。こう書くと大袈裟かもしれないが、そのときは少なくとも確かにそうだった。小さいことも重なると大きくなってきて普段の生活の中で突然襲ってくることがある。
わたしの場合はそれが本屋や図書館に行くとたまに泣きたくなるようになるという形で現れた。大好きな場所のはずなのに自分が一つ一つの物語の中では場違いな気がして本を手に取るのが怖くなった。
(ヘテロで)アロマンティックでもアセクシュアルでもない人がみんな世界中のどの本も楽しめるはずだなんて思っているわけではない。でもどのジャンルにも単純に選択肢が多いのは確かだと思う。好きな本嫌いな本、共感できる本できない本があるのはクィア、aroスペクトラムやaceスペクトラム上の人、aroaceの人に限ったことではもちろんないけれど、恋愛・性愛関係を持つことや求めることは当たり前で自然な人生の一部だという考えを前提にして書かれた本の方が明らかにずっと多い。少なくともわたしが出会ってきた本は程度の違いはあれどどの言語でもそうで、日本の本屋で見る「大人」を対象としたような本は特にそうだった。そして、どう感じるかは自分の中でも揺れるけれど、その前提そのものが拒絶と排除みたいに感じられる時期には特に、この場所にはその前提を壊そうとする本やそれを前提にはしないと言ってくれる本はないのだと考えるだけで泣きたくなった。本屋に行っても考えないようにしたり小説の棚を避けたりするようになった。みんなが自分と同じ感覚というわけではなくむしろaroaceという説明のつく自分の方が少数派らしいという衝撃を受けた時から少しずつ、わかるふりをして誰かを騙すようにしてしか、もしくは傍観者としてしか読めない本ばかりだと思うことに慣れてきた。
だから『無垢なる花たちのためのユートピア』を読んで衝撃を受けた。 SF短編集で、aroaceを公言している作者の作品で、こんな作品が読めたらという自分でも気づいていなかった願望が叶ったようだと思った。SF、そして広義のspeculative ficitonは世界を想像し直して世界や人間に対する新しい理解の仕方を提示してくれるのが魅力だと思うから好きだ。でも、わたしが読んできた本の数が少ないのもあるけれど、このジャンルでもaroaceとしての感覚にまっすぐ語りかけてくるような作品はこの本が初めてだった。
この本はSF/speculative fictionの短編六つでできている。SFはもしこうだったら、という想像をすることでもともと常識とされているものを崩して行くジャンルだけれど、だからこそ書き手が何を現実内での想像力の限界としているのかも浮き彫りにする。もちろんalloromanticでallosexualの作家による、恋愛関係やセクシュアリティの社会規範の外の可能性を探るような作品もたくさんある。それは頭ではわかっていても、aroaceとしての経験が反映された作品を読めるのは新しくて別の体験だった。わたしになにかが欠けている、というメッセージをあからさまにも暗黙の了解としても感じないまま読めることがこんなに開放的に感じることだとは知らなかった。
わたしがクィア表象がどれだけ重要かということ、そして特にaroの人々の表象がもっと増えるべきだと気づいたのは、主人公がaroaceのYA小説、Alice OsemanのLovelessを読んでから、そして映画の若草物語(2019)を見てジョーをaromanticのアイコンだと思ってからだ(ちなみにこのジョーのクィアリーディングはSounds Fake But Okayというずっと聴いているポッドキャストで熱く語っているのを聞いてそう思った)。最近では二次創作の力も感じることが多くある。そしてこの本を読んで、自分の好きなジャンルで、恋愛至上主義に対抗することを明言している作者が書いていて、自分が読んで育ってきた本たちと同じ言語(わたしにとっては日本語)で書いてあって、自分みたいな体験や感情をその中に見出せる作品に出会うことの意味がさらに深くわかったように思う。セクシュアリティをポイントとして本を読むときにこんな体験ができる作品がこの世に溢れている人が前よりさらに羨ましい(所謂(男女の)ラブロマンスって共感して読む人がいるものなのかずっと疑問に思っているけど、これを考え始めるのはわたしにとってふりだしに戻るみたいなことかもしれない)。
ネタバレしすぎたくないので本の内容についてはあまり言及しないけれど、この本の根底にあることの一つは「書く」ことそのものには力があるということだと思う。物語や手紙や日記や回顧録や名前を刻むことが、何かを探している誰かにとって意味を持つかもしれないということが、わたしの特に好きな短編たちの根底にはある。それに加えて、読んでいて思ったのは、ノンフィクションの、たとえばインタビューやリサーチをまとめた本、誰かのツイートにだってわたしは助けられてきたけれど、フィクションにはなにかまた別の特別な力があるということだ。没入することができて、ただの観客ではないなにかとして物語の中にいられる、そんな体験はフィクション、特にファンタジーやSFを読んでいるときに多い気がする。そしてそんな物語の中に、自分の、普段は見えない、いないものとされている体験や感覚が描かれているのを読むことは、そう感じてもいい、そういうふうに存在してもいいのだと感じられる理由になり得るのだと思う。
だからわたしはこの本が存在していて、この本に出会うことができたことが嬉しい。こんな本に出会うことができたのだから、これから本屋に行っても前ほど泣きたくなりはしないかもしれないと思う。物語は本当に人を救う。書くことの力を信じる人がこれからもたくさんいてくれることを願っている。
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無垢なる花たちのためのユートピア, 川野芽生 
Loveless, Alice Oseman
SFBO Little Women episode
AVEN (英語リソース)
アセクシュアル、アロマンティックについて(日本語)
(このポストは前アカウント@seasidesunset に2022/08/09に投稿したものです)
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yuuseasidesunset ¡ 3 years ago
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クィア/マイノリティの安心できる場所としてSNSがあるのは本当に確かだと思うし、自分が救われてきたこともわかってるし今も助けになっているつながりがたくさんあるので、それを細々とでも維持できたらなと思っている 
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