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2024後記
2025年になってようやう2024年を終わらせる。tumblrに書くのももうお仕舞にしよう。
・アーティゾンの空間と作品は面白かった。作品をどういう空間で見るのか。ホワイトキューブから離れて、空間そのものを作り、その中で作品を見る。夏の直島でも思ったけれどロケーションによってかなり作品の見方や感じ方が変わる。
・メゾンエルメスの内藤礼生まれておいで生きておいでをメゾンエルメスというブランドの抱えるギャラリー内でやる。ここも平日なのに人が多い。内藤礼の作品を見るには騒がしすぎると思う。概念も。
・伊藤ゲン展は、SNSでみるものと生で見るものとかなり印象が違う。生の方が圧倒的に生々しいというか(あたりまえである)書いているものが身近なものであるということを差し引いても、絵の具の乗り方が生活感をより彷彿とさせるというか。美味しそうなケーキも描いていると食欲を吸い取られているのか、食べたい気持ちがなくなるそう。描かれるためだけに買われて捨てられる食べ物をもったいないと思う気持ちと、半永遠に姿をとどめられてしまったのだなぁという気持ちと。
・田中一村展、都美術館はオタクのぬい文化を取り入れようとしていて面白かったが、ちょっと曲解ぎみじゃないか?というのは置いておいて、圧巻だった。時間が解けていくが体力も削られていく。奄美大島は遠いので、都内でこれほどまでに集めてもらえたことに本当に感謝。
・松濤美術館の空の発見展、日本画には西洋のあれそれが入るまで描かれる空そらがない。空くうならある。
・Cool氏Solo exhibition 犬のかたち様々。ジョジョ立ちのような人物立体(作家本人も自覚アリ)
・写美アレック・ソス部屋についての部屋、数年前の葉山がかなりロケーション含めて最高だったので、ハイライトだけでものたりない。テーマも面白いかと言われると、葉山を見た後だと、別に…葉山で見たいように見てしまったし。でも最近の作品が見られたのは良かった。今後すべてを葉山の展覧会と比べてしまうだろう。
・オペラシティ松谷武判展、ボンドと黒。ボンド作品は卵のような生の予感と、それが弾けた瞬間のグロテスクさを思わせる。黒は時間も空間も全てを埋めていく。
・SOMPO美術館カナレットとヴェネツィアの輝き展、カナレットの絵画は近づいてみるとより輝きを増す。ヴェネツィアの光。絵のための虚構込み。でも後半のウォルター・シッカートのヴェネツィアの絵画で、この暗さが落ち着くんだよなと思った。光は好きだけれど、眩しい。
・森美術館ルイーズ・ブルジョワ展ルイーズのキンとした声質がどこかビョークに似ていると思った。作品がかなり理性的というか、この人はものすごく思考の言語化が上手くて(というかそういうことを している)それが作品を見たときにストンと落ちてくるので、意味が分からないグロテスクさがないのが清々しいというか。内容としては過去の自分の心のケア的な要素が大きいので、別に清々しいものではないのだけれど。
・東京ステーションギャラリーテレンス・コンラン展はやっぱりコンランショップが当たり前になってしまうと、当時のセンセーショナルさ目新しさなどを失ってしまい、当たり前の光景だと感じてしまうので現代人にとって感動はしにくい。当時を振り返って、すごかったんだね、というにもまだ感慨がいまいちわかない。あと、彼について語る人の映像が多いとちょっと疲れる。
・科学博物館鳥展、キウイの卵って大きいんだ!シマエナガって思ったより小さいんだ!など鳥のことを何も知らないゆえに純粋に面白かった。
・三菱一号館美術館ロートレックとソフィ・カルの「不在」正直ロートレックは取ってつけたような不在すぎる気もする。もっと面白い見せ方があったのではないか、と。作品が分散しすぎな気もするね。ソフィ・カルは文句なしでよかったので、ソフィ・カル単体でやってほしかった。品川の原美術館で見たときが忘れられない。ソフィ・カルやっていまいちにする方が逆にすごいので、どんな展示でも嬉しいが、でもあれ混雑したら翻訳書いてある紙が少なくて、意味わかる人少なくない?と余計なことを思った。ソフィ・カルがいいから内容は満足だけど、キュレーションとしてはいまいちじゃない?
・松濤美術館須田悦弘展、美大時の初期の作品もあり、ここから今に至るというのを感じられた。これを木からひとつひとつ掘り出しているのか~さりげないところに作品が置いてあって、館とわりとあっていてよかった。夏のベネッセにもあったが、あまりにもさりげなさ過ぎて、やはり気付く人が少なそう。知っていないと見つけられなそうだが、ここはちゃんとマップがあるので安心。
・印刷博物館の書籍用紙の世界、色々な紙がある(阿保みたいな感想)
・庭園美術館そこに光が降りてくる青木野枝/三嶋りつ恵、これほどまでに館と一体になった展示があっただろうかと感動した。久しぶりに庭園美術館の展示内容がよかったと感じた。ここ最近は庭園美術館は建物系の展示ばかりで正直惹かれないというか予算ないのかな?と思っていた。ガラスを扱う人は、ある程度ガラスを柔らかな素材だと認識している節があるなと思った。年始ごろ?に見た山野アンダーソン陽子さんは確か液体だと言っていた。鉄も円形にくりぬかれ、光を通すと明るい印象になるんだね。どちらも火が大事。
・文化学園服飾博物館あつまれ!動物の模様その国その文化によって描かれる動物は勿論違う。服装を通してさまざまな文化を覗いている。中国語って面白いね。発音が同じだから縁起物になるという。
・府中市美術館小西真奈Wherever初期の作品の緻密に描かれたものから感じられる不穏さよりも、近年の作品の線や色の伸びやかさ(ここにいくまでにきちんと描いてきたという下積みはもちろん感じる)が好ましいと思う。
感情は生モノなので、振り返っても忘れている。何もかもを忘れていく。
ヨン・フォッセ『朝と夕』、文フリで手に入れた本たち、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』、塚本邦雄『連弾』、北山あさひ『ヒューマン・ライツ』、スティーブン・キング『書くことについて』、サマンタ・シュウェブリン『救出の距離』、ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』、牛隆佑『鳥の跡、洞の音』、アグラヤ・ヴェテラニー『その子どもはなぜ、おかゆのなかで煮えているのか』、梅崎春生『怠惰の美学』、ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』
π、狭霧の国、ローラ殺人事件、ベネチアの亡霊、書かれた顔、グリン・ナイト、戦艦ポチョムキン、リバー流れないでよ、ローマブルガリホテルメイキング皇帝の至宝、ベイビーわるきゅーれ、パルプ・フィクション
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202408大塚国際美術館と直島
ずっと行きたいと思い続けていた大塚国際美術館と直島に行った。特に直島は、ひとり旅だと結構お金もかかるし、か��いってアート系に興味ない人と行く場所でもなく、、、しかし今年は友達が一緒に旅をしてくれたので、念願が叶いました。ありがとう。豊島美術館の時間が取れなかったので、ここはいつかリベンジしたいです。
大塚国際美術館、あまりにも広大。1日いても足りないくらいだった。ルーヴルやナショナルギャラリー、コートルードには過去行っているので、本物を見ているものも一部ある。日本の美術館の企画展で、貴婦人と一角獣なども見たし。全て陶器に絵付けし、サイズも原画に忠実で、圧巻。もちろん、それまで見たオリジナルと比べると魅力は劣るものの、ここはそういう目的の場所ではない。本物を見に、バチカンに、ギリシャに、イタリアに、フランスに、あらゆる国に全て回れるか?あちこちにあるゴッホのひまわりを同じ場所に集めて見比べられるか?あらゆる受胎告知を一気見できるか?修復前と修復後のレオナルドの最後の晩餐を向かい合わせで鑑賞することができるか?壺絵を平面にして見ることができるか?古代から近現代まで、一気に駆け抜けることができるか?可能性の実験、追及がここでできる。記録として残しておける。ここで気になったものがあれば、本物を見に行けばいい。きっかけになる。まずはここにきてみればいい。すごいところだった。細部を近くでじっと見ることも、通常なら難しいし。観察のしがいがある。ただやはり、システィーナ礼拝堂など、宗教的なものはそこに信仰があるからこその厚みがあるので、素晴らしくはあるものの、信仰抜きの展示は虚しいなとは感じたし、スペインでゲルニカを見た時の本物のエネルギーの圧と比べると、ややあっさりしすぎな感じもあったり、しかしこれはわたしの感情であり、いかに感情でものを見ているかという表出でもあるなとも思う。




直島、晴れた夏の青、海と空、ロケーションの贅沢。初めて、安藤忠雄の建築に感動した。こういうのだけ作っていればいいのに!(暴論)地中美術館のモネの展示もモネで初めて感動した。靴を脱いで、大きな白い部屋に入る。地下なのに柔らかい自然の光だけで目の前に大きな睡蓮の絵がある。(部屋自体には計5点)こんなに美しい睡蓮に出会ったことがない。時間と光の移り変わりの睡蓮を、時間と光の移り変わりのために見るための部屋。正直、そこまでモネが好きなわけではないので、パリに行った時も他との兼ね合いでオランジュリー美術館をスキップしてしまったのだけど、今になって後悔している。ウォルター・デ・マリアのタイム/タイムレス/ノー・タイム、ここの美術館で1番好き。圧倒される。神殿のような静かな空気を壊しては行けないようで、ここだけ時が止まっているみたい。階段を登ると音が響く。時が移れば光の加減が変わって、また違う表情を見せるのだろう。だから時間の概念がないわけではないし、時は止まってはいないのだけど、この空間から外だけの時間であり、ここは時間がなくて、それを永遠というのかもしれない。永遠は長いのではなくて、ある種の無である状態かもしれない。ウォルターは確か作品についてはあまり言及しない人だった気がする。美術館ではない屋外の展示は写真が撮れる。直島の景色を花崗岩の球体に移して、石は何を我々に見せているのだろう。(見えて/見えず 知って/知れず)


タレルの光の展示は好きだし、直島のオープンスカイは直島の空の良さがあるけど、他2人に比べるとここのロケーションを活かせるかといえば、まぁまぁになってしまうのが少し残念。
李禹煥の本領は美術館ではない。国立新美術館の展示に行ったけれど、もの派の本領は美術館では語れない気がした。いや李禹煥「美術館」なんですが、スケールが違う。作品を語らせるためにある場所なのがすごかった。


全て上げているとキリがない。ベネッセのミュージアムは夜中まで。ブルースナウマン100生きて死ねを暗い中で静かに鑑賞している。深夜映画を観ているみたい。〇〇(行動や感情)AND DIE,LIVEのワードのネオンがひとつずつ不規則に光り、最後は全て光る。暴力的で乱暴な気もするし、ワードの組み合わせがめちゃくちゃで元気が出る気もするし、全てがネオンで品はあまりなくて、死も生も、期待もないし失望するほどでもなく、そういうものかなという気もする。






ヴァレーギャラリー、草間彌生のナルシスの庭、自分の写り込みはどうでもよくなって、どうしても球の集合体が卵に見えて、再生をイメージする。でもそこに映るのが自分なら、自分の再生産なのかも、アタシ、再生産(いや舞台少女じゃないですけど、まぁシェイクスピアも、この世は舞台、人はみな役者と言っているし)





杉本博司も何年か前の美術館展で杉本博司展示があって行ったわけですが、妙な陳腐さがあったのですが、これも時間というものを詰め込んではいけないのだと思った次第。昼の時の回廊、夜の時の回廊、時間とは本来、贅沢でゆとりのあるものだと身に沁みた。




直島でずっとお金と芸術についてぼんやり考えていた。結局、こういうものを楽しむには金と時間が必要だ。感動と共に、金と時間がすべてなのでは?という虚しさが脳裏にはずっとあった。何もかも素晴らしい。けれど、所詮は持てるものの楽しみでしかないものなのでは。




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2024半記
月記が数か月ごとになり、ついには半記
たぶん一番向いているのはtwitter。手軽にパッとその時のことを記せるから。これがほぼ日記みたいなもので、だから10年以上も続けられている。
まとめて何かを書くと忘れてしまうし、ものぐさだから、本当に溜まれば溜まるほど億劫になってしまう。忘れっぽくもあるから、見たもの読んだものもどんどん忘れて、終いには空っぽになるかもね。
2024半分までの本:世界屠畜紀行、初夏ものがたり、走馬灯のセトリは考えておいて、ミステリー食事学、月面文字翻刻一例、とうに夜半をすぎて、死なれちゃったあとで、なぜ働いていると本が読めなくなるのか、地下室の手記、カラマーゾフの兄弟、十角館の殺人、すべてがFになる、孤島パズル、月光ゲーム、妻のオンパレード、犬だけの世界、想像のレッスン、ガラス山野アンダーソン陽子、フード理論とステレオタイプ、あとはだめだ、思い出せない…良かったのは、積読のカラマーゾフを読み切れたこと。神学の話は難しいけれど、ものすごく面白かったし、有名なミステリーも読めたし、(でも綾辻行人はもういいかなになった)アクロイド殺しを再読したのも今年か?去年のも混ざってるかも
2024半分までの映画:トーベ、素晴らしき、きのこの世界、パーム・スプリングス、ミーガン、不思議惑星キン・ザ・ザ、サタンタンゴ、もっと遠くへ行こう、クー!キン・ザ・ザ、シェラ・デ・コブレの幽霊、ヴァチカンのエクソシスト、アステロイド・シティ、十二人の怒れる男、暗殺の森、鬼太郎誕生、エクソシスト♰シャーク、エルミタージュ幻想、岸辺露伴ルーヴルへ行く、サファリ、ノベンバー、林檎とポラロイド、ディナーラッシュ、ヒア、ゴースト・トロピック、ZOO,英国式庭園殺人事件…思ったより今年はちゃんと映画も見ているかもしれない。映画館へ行くことは少ないけれど、自分比の話。やはりサタンタンゴ、サタンタンゴを見た後の世界と鐘の音はなんとも言えない体験だったこの収穫は大きかったかもしれない
2024半分までの展覧会ギャラリー:いのちをうつす、ゴッホと静物画、魔除け、倉俣史朗のデザイン、ガラスの器と静物画 山野アンダーソン陽子と18人の画家、白井美穂 森の空き地、フランク・ロイド・ライト、マティス、記憶 リメンブランス、シュルレアリスムと日本、印象派モネからアメリカへ、北欧の神秘、ブランクーシ、石田淳一小川真輝在るということ、それぞれの視点、安井仲治、ヴィクトリア朝のドレス(触れた!)、ホー・ツーニェン エージェントのA、翻訳できないわたしの言葉、大吉原展、大哺乳類展3、ジョルジュ・デ・キリコ、私が死ななければならないのなら、あなたは必ず生きなくてはならない、アンゼルム・キーファー、TORIO パリ・東京・大阪モダンアートコレクション、内藤コレクション写本、内藤礼 生まれておいで生きておいで、菅野まり子、稲葉友宏
マティスは去年と続いて、切り絵はよかったけど、去年に続いて2年連続でやるほどでもなかったなと見てから思う。まとめてくれたらよかったのに~。ゴッホや印象派は展覧会を遣り過ぎていて、正直つまらないこともあるんだけど、切り口によっては面白いと思うことができるので要はキュレーション問題なんだなと思った。特にゴッホはよかった。大吉原、集めたものは良かったが、途中法被着たりグッズにしたり、エクスキューズがあればいいってもんじゃない。TORIOはテーマとしては取っ散らかっていて、個々の作品を愉しむのに途中からシフトチェンジ。ジョルジュ・デ・キリコは今年楽しみにしていたけど、展示自体は普通、普通、わりと普通。稲葉友宏、一度作品を見てみたいと思って見られたのはよかったけど、それまで気にしていなかったタイトルが目に入った途端、タイトルがダサくて、ウーーーーーーーーーーーーン。作品の果てしない余白に対して、ものすごく陳腐なタイトルだなと思った(シンプルな悪口)。振り返ると、上半期ベストみたいなのないかも。ブランクーシは良かったし、北欧の神秘もよかったけど、まとめ方が綺麗だったのと、あまりこれまで知ることのないものだったのが大きい気がする。ホーもよかったけど、美術館で長い映像作品ってすごく疲れる。山野アンダーソン陽子の展示は、コンセプトが抜群に面白いから、それは良くなるはずだよね、という。
美術館や博物館に行くことは好きだが、暇つぶしにうってつけだからな気がする。映画は上映時間に間に合うように行動しなくてはいけないので、自由がきかない。美術館や博物館は、広く取られている時間内で好きな時に行って好きなペースで見ればいい。学びを得ているかといえば微妙だ。ただ見ているとその他身近な煩わしいことから一旦逃避できるのがいいと思う。不真面目だし、こういうことを言う人を一定数の関係者や真面目な人は嫌がるだろうけれど、でもまぁそこそこ展覧会行ってお金落としてる方じゃない?ちゃんとお行儀良く見てはいるしとも思う。その場で得たこともすぐ忘れてしまう適当すぎさはあるけれど。
つらつら書いたけど、これ以上に読んでみている人っていっぱいいるわけだから、全然少ない方で、鼻で笑われてしまうかもしれない。どうなんだろう?でも数ではないし(忘れているのだから中身がという話もできなくない?)
ただ、今年は大きな何かがあるわけれはないのに、なんと前厄、恥しかない一生、年齢的なホルモンバランスの変化か去年と調子が全然違ってあまり良くないので、この身体に慣れるまで、生き延びることだけを考えた方がいいのだろう。
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202309-12
すべてが一瞬で終わっていくと振り返って見れば思う。繁忙期にはイベントに出るものではない。家庭という責任からは逃れているけれど、仕事の責任は年齢なりに出てくるので、器用さがあればよかったけれど、わたしは凡人なので、バランスを取らないとどちらも保てない。趣味に全力で生きることも才能のひとつだね。
前回見た映画で『アフター・サン』を言い忘れた。美しくて切ない映画だった。説明はされないから、描かれていないことは想像するしかないけれど、確実に子どもから大人になるにあたって、自分の無邪気さが人を傷つけ、愛していたのに愛ではどうにもならないことがあった、何が自分にできたかという苦しみがあったに違いないと思うのだけど、もう戻れない過去の風景は涙が出るほど美しくて。娘の気持ち、あとは年齢的には父のどうしようもない気持ちも何となくわかって、思い返してもだばだばと誇張なしに涙が出てきてしまう。こんな父でもなく、娘でもない自分が実情のだが。
映画もほとんど見れていないけれど、やっとスクリーンで『欲望の翼』を見ることができた。相変わらず、人が人を思っても結ばれるわけではなく、タイミングがかみ合わなくてすれ違って、思うことを諦めたり諦めなかったり、どう生きていくかはその人次第で、温かくもなく、冷たくもなく、ただ湿度だけがそこにあって風が抜けていくみたいな映画。好きだな~と噛み締めながらぼんやり見ていた。
高橋亜弓さんの個展、男性でも女性でもない狭間でもなく、もともとそういうものではない個体が漂う空間はいつも静かで、ひとを排しているわけではなく、ぬるま湯の中に浮かんでいるような心地よさがある。
わたしは湿度が高いところがかなり苦手なので永住はできないけれど、旅行で行ったベトナムも、熱帯植物園の植物たちも、大きくて鮮やかであまりにも普段の自分の生きている地域と異なる気候・風土で面白い。大地によってこうも違った生きものが存在している、
永遠の都ローマ展、わたしは彫刻を見るのが好きだが、牝狼の口の中が本当に犬っぽい。犬の生臭い息が聞こえてきそうなくらい。要所要所がとても本物のように作られていて、技術力の高さに驚く。目玉のヴィーナスは後姿、臀部から膝うら脹脛にかけて艶があって美しい。
イヴ・サン・ローラン展、今年のディオール展に比べると展示の仕方が落ち着いていると感じるが、ブランドメゾンの個性の違いといえばそうかもしれない。
コスチュームジュエリーをまとめてみると、やはりこれもブランドメゾンごとの個性があって面白い。ディオールは優美で可愛いし、スキャパレッリのやつはどこかおどけていて可愛いし、アメリカに行くとヨーロッパほどの伝統や固定概念がないから、素材も自由だ。
インド細密画展、今まで見てきた西洋とも日本とも違う独特な文脈があって、小さな絵の中にみちみちに物語が詰まっているのが面白かった。それでいて独自の文化様式の中に他の影響も入っている。
こへきてやむに止まれぬサンサシオン、最初に平衡感覚を失ったすこし気分が悪いまま何かを見ている感覚が面白かった。椅子に座って休憩しながら、それまでの自分の感覚とずれた感覚で見てきたものを見て、感覚の違いを発見する。
庭園美術館には企画展でも庭園を見に行くくらいの感じでないと、がっかりするなというのを再認識した。
大巻伸績真空のゆらぎ展、SNS映えしそうではあるが、この場に来て、スマホではなく展示物に向き合った時にしか得られない空気があった。風もあった。
キュビスム展はボリュームも満点で、教科書のようだった(悪い意味ではない)キュビスムを捉える、理解がしやすくてとても満足した。
原美術館ぶりのリー・キット展も行ったし、ヴェルサイユ宮殿のモノクロームの写真も見た。
全然本を読んでいない。山尾悠子『仮面物語』川野芽生『奇病庭園』
舞台も後半は全然だった。コロナで寝込んだ時に見た『骨と十字架』が信仰と特大な感情のはなしで興奮したし、『わが星』の台詞量とシンプルながらぐるぐる自分物たちが周りを周ったり世界というより宇宙?演技の中で規模が伸縮しながら進んでいくすごい劇だった。映像ではなくて、やはり劇場で見たいな。
一年が、終わっていくね。わたしという人間は、去年も今年もそれまでもこれからもずーっと連続したまま、来年にいく。
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202306-08
またしても間が空いてしまうが、今年は趣味にあんまり頑張らないと決めたのでゆるくいきたい。去年がエンジン掛け過ぎたのかも自分比だけど……いつだって誰かよりもスローペースで得るものがそんなにない気がして焦っている。歳若いひとの方が明らかに自分よりも優れていて、今まで一体何をしていたのだろうという気になるし、同年代と比べると社会的な責任が少なくて能天気に生きてしまっている負い目があるのをいかに誤魔化しながら日常を過ごすか。
ヘザウィック・スタジオ展ほとんどの展示にコンセプト解説があって分かりやすかった。模型を見るのは楽しい。エアロ(車)やスパン(椅子)は飽きがなくて楽しくて素敵だ。建築物についてはそこの地に根差したものであるので、模型だけでなく動画で雰囲気を味わいを少しでも得られたのはよかった。建築物って「場」に根差したものだしね。21_21のザ・オリジナル展知っているデザインのオリジナルの設計の強さ、強いからこそのオリジナルのものたちがいっぱいで改めてデザインとは何かを考えさせられた。でも途中関係者なのか首からカード下げたおじさん複数人展示見るのに話し込んでて邪魔だったから関係者は常に会場内でどう立ち回るべきか考えた方がいい。
SOMPOのブルターニュの光と風展。国立西洋美術館のブルターニュと確か機関被ってて、だから両方行ったんだけど、個人的にはこちらの方がコンパクトでよりまとまっていて見ていて分かりやすかった。テーマが違うといわれたらそうなのだけど、広げ過ぎて印象が薄くなるよりは地味でもかちっとまとまっていた方が満足感がある。
ガウディ展、一度サグラダファミリアに行ったことがあったので、思い出しながら見ていた。スケッチがめちゃくちゃ上手い。スケッチがすごく細かい。建築のひとのスケッチって緻密なスケッチの印象があって、その印象をはるかに上回る緻密さと観察力のすごさ、あと3次元に起こすにあたっての実験とかのみどころがたくさんあった。自然と幾何学、スペインの歴史、色々な意味で目がいいひとだったんだなと思った。
6月は刀ミュを観劇した。立川ステージガーデンでマチソワはもう2度とできない……見え方よりもお尻がたいへんだった。
本は確か恩田陸の『歩道橋シネマ』理瀬シリーズを久しぶりに読んでも10代~20代前半ほどの萌えというか楽しみはなくなってしまったことを実感した。あの頃すごく好きだった。読むタイミングってあるよなを感じる好きだった作家。別に今も作品は好きだけど、あの頃ほどの熱はない。恩田作品の短編っていつも評価に困る。短編というよりも断片みたい。
7月はめちゃくちゃ詰め込んで「蔡國強展」「大森暁生展」「野又穣展」「古代メキシコ展」「テート美術館光展」「植物と歩く展」ダントツ良かったのは「野又穣展」で、みたことないのになんとなくノスタルジックな風景と建物。静謐で吸い込まれていくみたい。わたしはこんな建物の中で殺されて死にたいなと思う。寂しくはない。空気はカラッとしていて、ここでなら、いいな、と思う。「蔡國強展」はスピリチュアルとサイエンスの融合具合が中国ルーツらしいと思うと同時に、ブランドメゾンが手掛ける展覧会のホワイトキューブの使い方に新鮮な感じがした。大森暁生の彫刻は動物が好きなので見ていると楽しいが、個人的には「魂」というにはちょっと大げさな気がしなくもない。好みと題材の問題かな~。古代メキシコ展は全く馴染みない文化が単純に新鮮だった。気候風土に根差した動植物をかたどった彫刻は見ていると楽しいし、信仰する神様の違いも、信仰による生贄の文化も現代人の価値観からは遠いところにある。その違いを知ることができるのが楽しい。テートのモダンアート系は完全に映えるなと思ってしまった。光をどう捉えてきたかという話。ブレイクが見れて嬉しかった。あらゆる光、光とは何か、信仰や窓から零れる自然からさらに進んで科学的知見を得てからぐっと光の表現幅が広がって、結局光とは何になるんだろう。植物と歩くは地味だけど牧野博士の観察から始まって、静物としての花や草、イメージとしての広がりと、草の生命力、木の芽吹きとかいろんな連想によって連なる展示が面白かった。
7月って何読んだっけ?たぶんカレン・ラッセル『オレンジ色の世界』わたしが20代半ばくらいだったらもっと刺さってたかも。レモン畑の吸血鬼が面白かったからこっちも手を出してみたけど、題材は面白いけど文章がいまいち合わないのかも。思えば、ルーシー寮だったか、立ち読みの段階でこれはそこまで合わないなと思っていて、実はラッセルそこまで好きじゃないのかも。映画は「ロバと女王」ロバの皮被っててもカトリーヌドヌーブは美しいだとツッコむのは野暮だなと思いながら映画装飾が美しくて見ていた。妖精いる世界なのにヘリコプターあるんだ!今の時勢ではこういうお伽噺は作れないだろうな、と思いつつ結構このお姫様もしたたかにちゃんと行動しているんだよね、出来る範囲で。
8月は生命力意地のため外出セーブしていた。デイヴィッド・ホックニー展を楽しみにしていた。今なおipadで描き続ける力の強さを感じる。生命力の強さというか、貪欲な精神力。スペインのイメージ展も版画中心なので色味としてはかなり地味だけれど、イメージは実像ではなく、同じく欧州と括られながら異国からの異国に対するロマン抱かれる虚像を見られていたとしても、そのイメージを利用しながら時代を進む逞しさもあってよかった。
夜の動物園に念願かなって行けたのが嬉しい。夜なので活発な動物たちがいるかといえば、きっとみんな暑さでバテてた。わかるよ、人間もだ。蝙���は普通に飛んでいた。外ではなくて屋内展示に入れられている様子も普段は外だから新鮮だったし、何よりも街灯が少なくて真っ暗な動物園の雰囲気が一番面白かった。ひとりじゃないから怖くなかったけど、この中にひとりでいたら相当怖い闇だろうな。
平井呈一『真夜中の檻』死んだ人間の本しか読まない友人から譲られた。死んだ人間の本を読む友人はデカダンスというかエロティシズムというか艶のある話が好きなので、なるほどね、と思いながら読んでいた。エッセイの歯切れの良さがいい。
君たちはどう生きるかを見たのは7月だったか8月だったか?かつて見たジブリが全て詰まっていて、かつてジブリを楽しんできたわたしは充分に楽しんだと思う。
そういえばこの3か月で英国ロイヤルバ���エも見た。下半期も何か観劇したいな。
(ちょっぴり9月)ここではないどこかへずっと行きたくて、今年は海外はベトナム(ハノイ)に旅行に行った。理由というほどのものはなく、単に行ったことのない国に行きたかった。ガイドつきのオプショナルツアーをちょこちょこ申し込んでいて、ガイドさんがベトナム文化の話をしてくれた。ベトナム戦争とか占領の歴史って一体我々日本人はどんな顔をして聞くのが正解だったのだろうかと今でも考えている。交通ルール無視のバイクの群れや街路のガジュマル、路上でプラスチックの椅子に座ってお茶やご飯をのんびり食べている人々。。。
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202303-05
仕事のストレスはどちらかというと年齢的ポジション的悩みにシフトしつつあったりミスしたりいろいろあるよねという日々
インターメディアテクの極楽鳥展。剥製というメディアが実は結構好きだし、宝石も見るの好き。標本が語る天国(人間のエゴ)と地獄(鳥たちにとっての不幸)/ポーラミュージアムアネックス展2023自立と統合。印象がライトすぎて今何か言うには薄れてしまったそういうこともある/ヴォルフガング・ティルマンスの写真めーちゃくちゃよかった。額に入れられていない剥き出しで展示されている写真もいい。どちらかというと静物の方が好きかもしれない。絵画的なものから現代で生きている人間に切迫する近しさ/ルーヴル美術館展愛がテーマなので面白かった。○○美術館展て中身とっちらかってていまいちだなと思うことが多いけど、テーマが絞られているので楽しく見られた。個人的に作品数が3桁は疲れるので、2桁でじっくり見られる方が嬉しいし。宗教がテーマだろうと何だろうと兎にも角にも人間の「性」(描いているのは神話とカだけど)って感じで主題ではなく書いている側の意識が面白いなという/マベル・ポブレット展カリブの海はわたしの知らない海だけど、生と死が循環する明るく青い海は美しくて切なくてすべてを飲み込んだ/レアード・ハント『インディアナ・インディアナ』最初はあまりなにも掴めないまま読み進めて、最後の最後の余韻がことさら寂しくなった。
本と絵画の800年吉野石膏所蔵の貴重書と絵画コレクション、前半の零葉貴重書の装飾や彩色に興奮した。地味だけど貴重なものが見られて満足度が高い/お寺で写経をした4月春の花が咲いていて庭も美しく、雨が降る前に鳥も囀っており案外自然は無ではないのだと気を取られつつ色即是空……わたしが春の海に行くと大抵曇っていて波が荒い/憧憬の地ブルターニュ展、ゴーギャンらへんはいいと思ったけど、そこまでう~んと思ったのは部屋の使い方と章立てがいまいちしっくりこなかったからかも(6月8日の今日に損保の方のブルターニュの展示にいったけれど、こっちのほうがよりコンパクトでしっかり見られたのでこっちの方が面白いなと思ったし、もっと近いタイミングで見た方がよかったな)/エドワード・ゴーリーを巡る旅、暗さとしてはこのくらいが自分のテンションと合っているのだけど、絵本を読むのは大人になってからだから子どものときに読んでいたらどうなっていたのだろう。線がめちゃくちゃ細かい。ずっと見れいられる/昭和記念公園に行ってネモフィラとかチューリップとか菜の花とか、たまにはこういう散歩をしないといけない気がする/The 1975 Liveずっと耳に残っている/庭園美術館の館の公開に行ったのは何年ぶりだろう。ウィンターガーデンが何年振りかで公開、その学生の頃だったけど、ここで一番好きな場所だなと思っていて、再び見られてよかったチェックの床が好きなんだよな/その後シラサギやカワセミを見たり散歩もした。散歩って楽しい/内田百閒随筆集『シュークリーム』随筆でこうなら生み出される作品がああなのは納得(何も言えてないのと同じ)
今井俊介スカートと風景「今風」だなと思いながら、それでもパキっと明るい色の線は音楽的なリズムというよりはふいにそよぐスカートみたいに思えてきて、自分の画風を確立して描いているだけあるんだなと思った本人がそういっているのでバイアスかもだけど(何目線)/西島雄志瑞祥時の連なり展、動線を巻いた小さなパーツを繋ぎ合わせて、八咫烏、龍と鳳凰、狼が作成されていて、神への祈りって気が遠くなるような作業のことなんだなと思った。龍と鳳凰を見た瞬間に、すごいって呆気にとられた/久しぶりの刀ミュ観劇。役者さんの演技で涙が出るって実は初めてかもしれないと冷静になって考えた。配信では見ていないけど、肌で感じるエネルギーで涙が出てきたように思う/マティス展は今年楽しみにしていた展覧会の一つ。彫刻も来ていて、絵画との関連性を示されているので解像度が上がる。デッサンもたくさん見られて嬉しかった/アリ・スミス『5月』短編は自由だというように、発想も内容もめちゃくちゃで面白い。
そういえば映画に全然触れられていない。映画刀剣乱舞は何かが惜しいなと思った。
自分の中で美術館に行くのは習慣になりつつあるのでハードルが低くて、疲れていると文字が読めなくて、映画に行くのが一番ハードルが高い。その時間に合わせて行動し、スケジュール調整をしなくてはいけないのと、自分のペースが映画にはないので、ある程度自分の感情に対して覚悟してから行かないといけないからだと思う。もっとフットワークを軽くしたいとずっと言い続けている。
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202302
爪を塗りながら振り返り。
Dior展、気合の入った会場の作りが楽しかった。様々なチーフデザイナーの個性が一気につかめつつ、やはりクリスチャンデザインが一番可愛いのだなあと思う。デザインが良ければ単純に型紙起こしただけのような簡素なものでさえときめくのだと思う。鏡の床から見える、たっぷり贅沢なフリルのパニエも幾重にも重なる花びらと重ね合わされていて、素敵だったな。「夢の」と付けられていた通りの空間だった。実際、会期はじめは全身Diorで固めるひとが多くいたけど、どちらかと言えばシャネルを身につけているひとの方が多い印象で、シャネルの方が年齢が高くても若くても、ファッションもカジュアルでもちょっと気取っていても合わせやすくて似合う。ディオールは、見ていてとても可愛いのだけど、やはりある程度年齢が高くなるとどうしても取り入れづらいし、合わせるにしてもディオール系統の路線でいかないと浮いてしまうし、年齢が高くなってもディオールみたいな方はもうかなりハッキリと自分の路線がディオールであることを体現している様子。だからどうこうというわけではないけれど、デザイナー二人のコンセプトがこうも消費のされ方に如実に反映されるのは面白いなと思う。(諸事情により展覧会に行ってきた人と遭遇する率が高い)職場の一回り年上の女性曰く、アクセサリー同じ値段を出すなら、よほどDiorが好きでない限りは、ちゃんとアクセサリーブランドを選ばないと、Diorはジュエリーブランドじゃないからアクセサリー(石とか金とか)の価値が全然違ってくるよ!とのことでした。この方とは、シャネルのブーツがめちゃくちゃ可愛いことで盛り上がった。シャネルはブーツが可愛いんだよ……(持ってないけど)ルブタンへの憧れはないけど、シャネルは飾りにしてもいいから欲しいな~とは思う。浪費への意欲。
合田佐和子展、時代的な画家だなという印象。昭和の時代に女の独り身で芸術家として生きていくためには、容姿だったり少女的イノセントでエキセントリックな感性みたいなものを殊更強調して進んでいく必要性みたいなものもあったのではないかな、と思う前半だけで食傷気味。貧しくて買える絵の具に限られていたという絵画制作初期からエジプト移住を期にどんどん明るくなっていく画面、精神疾患を経て、、、強烈な個性は、時代が産んで育てた感が強いような。もちろん生きている時代が作品に反映されないことの方が少ないのではないかと思うけれど。次女の合田ノブヨも同じく芸術方面に進んだコラージュ作家。こういう生き方をする親の子どもというのは、さぞ大変だっただろうな、と思った。
エゴン・シーレ展、どちらかというと、シーレを中心に見たぜセッション展だった。しかもわたしの知らないシーレだった。えっ、妹との近親相姦は!?(父にめっちゃ怒られたよね?)とか恋人とすっぱり別れたように描いているけど、結婚するけど関係持ちたいって話持ちかけた話とか、娼婦とはもっとぐっちゃぐっちゃしてなかったっけ?とか、妻の姉(義姉)と関係してたとか、そういうもっと乱れたところとかが省かれていて、とても夭折の天才画家として綺麗なシーレをお出しされて、えっこんなの知らんと終始ぽかんとしながら見ていた。風景やデッサンが上手なことは充分わかった。が、この絵を写真に納めたいかと言えば普通に嫌だ……あまりにも呆然とした勢いで友達に行ってきて頼むとお願いしてしまった。行ってくれてありがとう。オスカー・ココシュカの絵を見て、あ、そうそう、わたしが知っているのはこういう!こういう絵!ってロリコン趣味の絵で安心してしまう初めての体験だった。全体的に厨二感漂っていて、今この歳だと痛々しくもある。28歳スペイン風邪で夭折するまで、突っ走っているんだからある意味すごいよね。
今月は映画を見た。セッション、ちゃんと見たのは初めて。部活動を真剣に行った過去もなく、トラウマを刺激されるものはないので、ふぅん、と思いながら。主人公ももともと結構嫌な感じの性格な子だった。指導者のフレッチャーと被害-加害の関係はそうなのだけど、恐らく主人公、フレッチャーとの「嫌さ」加減が結構近しいものがあって、フレッチャーの目に留まったのではと思った。ジャズバーで偶然会うシーン、ラ・ラ・ランドを思い出して、そういえな同じ監督だったな、と思った。最後シーンは、冷静に考えてリハはないのか!?と驚いていたが、化け物がようやく化けて熱くなったのは良かった。(良かった…のか?) ナイト・オン・ザ・プラネット、オムニバス映画って気軽に見られていいな。私が好きなのは、ロスとパリの話。強い女が出てくる話が好きなので。あと、ローマの人を食ったようなタクシードライバーの陽気で猥雑なジョークとその後の混乱ぶりが笑える。
なんと、2月は劇も見ている!文豪とアルケミストの第6弾目。劇3の続きをお出しされると思わなかったし、プロレタリアや無頼派が来て、敵対するものが「そう」でないわけもなく、劇3と同じく、現代で行う2.5次元の劇としては、かなり真剣なものがあったな、と思うと同時に、その名前こそ出さなかったけど、キャラがヒロポンを何度か呷るシーンを行うっていうのに笑ってしまった。いいんだ、それ。でも時代が時代だし、オダサクはそういう、そういう、、、笑。最後の晩餐シーン、ちゃんと誰をどこに座らせるか考えられていて、オタクの知識試されるなと思いながらユダの位置にいる男を確認していました。ちょっとしたミステリ要素あり、舞台ならではの演出、舞台セット、配信よりも生々しく楽しい体験だった。
スタニスワフ・レム『ソラリス』、タルコフスキーの映画が見たいのに配信がどこにもない。愛の話というには、主人公の心理学者が最初から結構つっかかるところがあり、スナウトだけが癒し……人間でないものとのコミュニケーションの困難、我々は我々の傲慢でものを見て、人間ではない理性と接触する。ブッツァーティ『タタール人の砂漠』夢を見て今だろうか、今ではないだろうかという淡い期待を捨てるタイミングを逃し続けたままだらだらと希望を引き延ばした結果、希望を得ることなく人生を浪費したことを知る。もう少し歳を取っていたら染み過ぎて辛かったかもしれない。ガルシア=マルケス中短篇傑作選、降り注ぐ大地への明るい光の中で惨めが際立つ。泥棒の話、コミカルも笑えず、、、どこかで救いがないかと思って読み進めてそんなに都合のいいことはなかったので、呆然とした。老人ホームで死ぬほどモテたいと水上バス浅草行きの副読本なるものを読む。老モテの人、フィリピンの女の乳首のひとだとこれでつながった。読みたいものがなく、水上バス読んでいるし、何となく手に取った。お互いがお互いの歌集を読んで思ったことを綴っている。感想?歌集って短編集と同じく、たぶん玉石詰め合わせというか、この中でどれか一つでも好きな歌があったらいいのではないか、全体の傾向として肌に合う合わないはありつつも、との思いを強くした。老モテのひとは、老モテ自体は気になっていたけれど、わたしの好き嫌いに照らし合わせて歌集を買うほどではないなという結論に至れたのはよかった。でも新しい短歌の「社会でのごめんなさいの九割は当人以外に原因がある」は笑った良かったそう思う。
何かを摂取する元気は出てきた。あとは何かを書く気力を取り戻したい。あっという間に月日は過ぎていっちゃう。
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202301
マメクロゴウチの服を買った。高かった。2割引き。去年の11月12月に続いて、色々仕事のストレスが溜まっているのだと思うけど、高校時代から続く友人が似合う似合うと褒めてくれたし実際可愛いし、わたしが生きていくために必要な出費だと思えば…
特に深いことは言えない忘備録的なもの
諏訪敦眼窩裏の火事展、諏訪敦のイメージが写実的な女性だけだったので、作品にあたるプロセスとかスタンスまで見ることができて、イメージが一新された気がする。この時代に写実とは何か、目に見えるということは何か。
庭園美術館の交歓するモダン機能と装飾のポリフォニー、建物と展示内容とがマッチしていて、この美術館ならではの感じがよかった。モダンの横軸での展開模様、見ているだけよりも図録を読んだ方がいい展覧会だった。どれでもそうだけど、知識がなくてもそこでの学びは楽しいし、知識があるとより解像度が高くなって面白くなるのを再確認した。
毒展。ひとりよりも誰かと行った方が楽しい。科博の特別展はひとりより誰かときゃっきゃっしてみると学校での学びを少し思い出すな、と思った。わたしは学校の授業が嫌いではなかった。
去年末から刀剣乱舞ミュージカルを見ていて、真剣乱舞祭や江水散花雪と江おんすていじを見た。刀ミュくんの「祭」とは彼岸と此岸の間で行われ、あちらでもこちらでもなくあちらでもこちらでもあるという繋ぎ目で、間のものが好きなので興奮した。江水は舞台なのに映画のような、劇画のような一瞬を切り出したようなシーンが印象的だった。江おん、悪とは何か誰から見た悪なのか悪は本当に悪なのか、理想論でもぬるい話でも解決もしていないけれど、今精いっぱいの優しさがあってほっとした。
舞台のロミオとジュリエットに誘って頂いた。休憩時間中に教えてもらって、時代が今と昔が混じる架空都市だと知ったのだけど、ロミオに肝心の手紙が渡らないシーン、電話があるなら電話したらよかったと言われたことが本当にそうすぎて気になって仕方がなかった。もう少し辻褄というか、今と昔がどのくらい混じってできることできないことがなんなのか世界観がはっきり分かるほうがツッコミがなくてよかったな、と思った。ロミジュリの舞台を見るのは初めてではないのだけど、自分が歳を取って、ロレンス神父の言葉がまるきりシェイクスピアの痛い体験談のようにも聞こえ、若い時とまるきり違った見方になったことが分かって面白かった。学生時代に先生からこれは悲劇ではないというのを聞かされて分かっていたつもりだったけど、それが実感を持つのはだいぶ大人になってから……あと、シェイクスピアは下ネタ満載なので、普通に娯楽の少なかった時代、どっかんどっかん笑いが起こったのだろうなと思うけど、こうも現代になってしまうと笑いが起きることもなく……テキストを読むのと違う味わいがあるけど、笑いは……起きない……ラブシーンの白い布の間でダンスをする男女の演出を初めて見たのでこれは新鮮だった。その前に両家の登場人物が舞台上を交差するのはサスペンス劇場の演出みたいだった。
映画は今月も見れず…舞台と映画は全く別物だけど、まあどちらか見れたらいいでしょうということに。
本は内田百閒集『サラサーテの盤』それまでの現実世界にぬるっと不可思議が入り込んでいる。まったく真面目に描いているのがおかしいし、そのうちおかしいのは自分なのかと疑いはじめる。文章には「色」というほどのものはないのに、表題作から鈴木清順が野生的で危ない色気の俳優をあてて、どこか退廃的でエロティックなツィゴイネルワイゼンを撮ったのもすごい。坂口安吾『不良少年とキリスト』スリの話で昨今の強盗の話を思い出した。織田作之助太宰評を読んで文豪とアルケミストの劇がとても楽しみ。
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202212
年内に書いておくべきだったと言われたそうかもしれないけれど、そんな固さでやっていたら1年も続かなかったと思うわけです。1年続きました。これからはどうかな?2023年どう過ごしたいか、わたしの場合本当にやりたいことをあんまり公言してしまうと出来なくなってしまうので、とりあえずはゆるく日常を続けていきたい。クォーターライフクライシスは続いている。打破はできないかもしれないので、だましだまし生きていくしかない。生きているってとても面倒。
相変わらず披露していてあんまり活字が読めなくて、短歌なら読めた。山田航『寂しさでしか殺せない最強のう���ぎ』これは自分にはピンとこない短歌が多くて、いまいちだった。短歌そのものが、という話ではなくて、たぶんわたしには合わないという意味で。現代短歌について勉強不足もいいところだけど、あ、いいなという肌感覚がわりと大事な気がする。上手下手というのは、勉強すれば分かるのかもしれないけれど、ドのつく素人的には、感性の親和性の高い方が、ぐっと引き込まれて物語が膨らむ予感、想像がしやすくて、いいなと思うのだと思う。
映画も見ていないけれど、バレエは見た。クリスマスを仕事で忙殺されてしまい、世間のムードが嫌になってしまう自分が嫌になったので、クリスマスらしくて素敵なことをしようと思ったので、くるみ割り人形を見に行った。最初は残り座席がD席しかなかったのだけれど、直前にS席を見つけたので、ラッキーだった。物語が頭に入っているので、物語を一生懸命に追う必要がなくて、ただ踊り、衣装、舞台装飾を楽しむ。素人でも、プリンシパル2人の踊りが別格でお上手なのが分かって、すごかった。クララと金平糖の精の方、しなやかで可憐な動きできゅんとしたし、くるみ割り人形の男性も、踊りの量が半端なくあるのに、とてもスマートでかっこよかった。舞台に出てくるときの、パタパタパタという軽い足音が結構好き。前に一度だけ生で見たフィギュアスケートも、リンクの中央に行くために、スースーって滑る氷の音が好きだと思ったのを思い出した。雪の精の踊りや花のワルツ、コール・ド・バレエっていうの?雪の精の踊りが怖いくらいシンクロしているのも、花のワルツのオレンジの花びらみたいな衣装がひらひらしているのも素敵だったし、満足。行ってよかった。
マリー・クワント展、若くてもミニ丈をあまり履かないタイプだったのだけど、やっぱりミニって可愛いなと思う展覧会。シャネルもそうだけど、時代を破る、自分のために服をデザインするって最高にブチ上がるなと思う。瀬戸優の連鎖をテーマにした個展は、言わずもがな好きですね。本物みたいだけど、本物そっくりなわけではない。手の感覚が残っているようなテラコッタの、中身が空洞な彫刻たちをじっとぼーっと見ていた。萩原朔太郎展、世田文は久しぶり。朔太郎の深堀というよりは、現代の我々が朔太郎からどういう影響を受けたか、というか朔太郎をもとにした我々の感性みたいなものが半分くらいだった気がする。民博から引っ張ってきた松濤美術館のビーズ展は全く専門外なので、新鮮だった。今度大阪に行ったら行きたい民博。人間の歯のアクセサリーっておしゃれというか呪いというか見せしめ?みたな気持ちになるけれど、どうなんだろうな。国地域によってやはり何の素材を使うのか当たり前にまったく違っていて面白い。
久しく触れていなかった(2.5というか、劇を見るのってわたしが慣れていないせいか、他の何よりもエネルギーを使うので)刀ミュも2本見て年末を過ごしたし、本も映画もインプットが足りないけれど、それでも忙しい中でできる限りのインプットはできたんじゃないかなと思うことにする。そういう月。
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202211
仕事原稿仕事ストレス原稿の日々
11月は仕事のストレス過多によるゆるく生きていた。たぶん12月もそう。11月の月記を書かぬまま12月が5日も過ぎていた。
映画は1本も見れないまま…本だって1冊川上弘美『 ぼくの死体をよろしくたのむ 』川上弘美の短編。なんとなくゆるい生活の中にいてどこか変だなとぼんやり思う頃には終わっている。すごくいいかというと個人的にはときどきいい。微妙な温度感。
ヴァロットン展、三菱一号館美術館で何年か前(何年前だろ)の油彩もじっとりしていていいなと思ったのだけど、版画の方がずっといい。熱がなくてシニカルで、でもコミカルで俗っぽくて。ヴァロットンを見る時、変温動物みたいな温度の印象を受ける。温度の印象って謎だね。
神坂雪佳展、疲れているときは胃もたれしない作品に限る。油彩はちょっと疲れる。宗達や光悦から始まって光琳抱一基一らときて雪佳なので、だいぶ分かりやすかった。数か月前に見た津田青楓と比べると学びところが違うので、より洒脱に感じた。
おいしいボタニカル展、これも息抜きで見るのにちょうどいい。食べものは実際に食べても美味しいけど(それ単体で美味しくないのももちろんある)、頭の中で味なり調理方なり想像しても美味しいものは美味しいし、美味しくなくても頭の中なら大丈夫、楽しい。胃袋と違って際限なくいける気がする。
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202210
誕生月ですやったね!昔は誕生日だし何かいいことあったらいいなの精神で過ごしていたけれど、ここ数年幸せは歩いてこないを体感したので、積極的に自分からいいこと楽しいことを求めていくべきだと思いました。温泉に行ったり、植物園でバドミントン(10年以上ぶり!)をしたり、友達と美味しいもの食べたり。

本も映画も摂取する気になれなくて、たぶん9月にエンジン掛け過ぎたのかな、と。Bunkamuraのナディッフで買った伊豫田晃一『マルジナリア』いいとか悪いとかは置いておいて、こういう美しくシュールで少しグロテスクにも映るようなものが割と好き。
庭園美術館の旅と想像展は、今年の間違いなくワースト1。酷いものだった。現代作家ってキュレーションや文脈によって生かされる作品が多い中、全ての作品が良さを失っていた。というか殺されていた。せっかく面白そうなタイトルを付けたのに。新館展示のみ写真展示OKだったのは、まあ正解だろうな、と思う。単なる写真映えで終わってしまうもの。朝香宮の海外周遊と現代作家の文脈の繋ぎもなく、どちらかに振れていたら、もっとまとまりがあったと思う。お金なかったのかな。カッサンドルのポスターしかいいところがない。ちゃんと調べたら3部構成って書いてあったけど、タイトルを広げすぎ。香水塔の前の絵葉書ならべてあるの、ダサすぎ…旅にまつわる選書も謎…カッサンドルのポスターを表紙に使った深夜特急以外、もっといい本があったよね?
オペラシティの川内倫子の写真展、内装に力を入れていた感じ。オペラシティは時々こういうことする。今回は動線的にはまあ…(いやそうか…?)狭いのに下手にこだわろうとすると動線が壊滅的になるというか…人少ないときに行かないと…作品そのものよりもこういう展示風景がアートに組み込まれてしまうのは現代的だなと思いながらも写真撮っているから載せられている自覚はある。写真自体はよかった。自分の内側に籠っていくような写真が好きなので。ところで、写真展にいいカメラを首から下げて写真撮っている人の意図はなんなんだろう。

東博の国宝展、お祭りみたいな気分で行った。見たことあるものないもの、友達と行くといろんな視点があって、一人では味わえない楽しさがある。あと、ここで万が一発狂して作品を襲ったらどうなるのだろう、みたいなスリルも味わえる。別に他の展覧会で国宝でないから、とか価値があるないとかで壊していいものなんてないけど、所詮わたしもレッテル的なもの、名前、バリューから逃れられないってこと。グッズは、なんかもう晴れてたら外にテント張ってそこで販売したらダメか?
写真美術館の野口里佳展、本人の作品よりも父のアルバムの方がぐっとくる。可もなく不可もなく、特に何も言うことのない展覧会だった。日本の新進作家展の方では、写真NGの岩井優の展示が一番エッジが効いていて面白かった。福島関連の作品の中で、正直一番いいと思った。汚染、洗浄、写真。その他の人たち、特に多和田有希は、やっていることは面白いけど、現代社会において「映え」の消費で終わってしまいそうで。それも含めてなのかな?見るは触れる、タイトルの手触りについてはそこまで…澤田華と多和田有希くらい?永田康祐はまた別ジャンルって感じがする。
2年ぶりくらいに植物園に行けたのもよかったな。特に植物には詳しくならないけど(学ぶ意欲の問題)、呼吸がしやすい。

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202209
夏休み、海と川と、インプットインプットインプット
アレック・ソスを見に行くために葉山に行きたいのに、金沢文庫から永遠に出られないかと思った。ループ&ループで横須賀に2度行きかけ、葉山行に乗れた時はほっとしましたね。台風の影響か海の波は高くて、ざわざわしていた。そんな場所の近くで、1時間ほどのブロークン・マニュアルの撮影を追ったドキュメンタリー 『Somewhere to Disappear』を見てから、ゆっくり静かに鑑賞した。ブロークン・マニュアルはいわゆる世捨て人を追って撮影したシリーズで、ここには男の人の、寂しさが煮詰まっていた。女性だったらそもそも危なくて撮れないシリーズだろうなと思ったり。作品が男性的女性的なんて言い方はナンセンスだけれど、どうしても身の危険という意味で女性の方が制約を受けることはあるのだろうと思うと、ブロークンマニュアルに関しては、男のひとだから撮れたものだろうなと感じて、ちょっとずるいなと思った。葉山の空間にあわせて展示されているので、どれもその場所に嵌まっていて静かに佇んでいてよかった。人ひと人。多弁にして寡黙な内省的な写真だった。その気持ちのままひとりで海を散歩していたからか、急に波にさらわれたりして帰ってこれなくなったらどうしようという気持ちになった。センチメンタルプチジャーニー。

科博のWho are We、亡骸のガワだけ繋ぎ合わされてそこにあること、魂の抜けた死骸だらけの空間にいた。人間という生き物を含め、知らないことの方が多い。剥製を通して、我々が各々どう生きているということを見る。知る。面白い。それぞれの生きざま、最適化、地球上に存在しているということ。

芸大美術館の日本美術をひも解く展覧会の藤原行成の書とか伝公任の書もあって、見たことない(忘れているだけかも)ものもいっぱいあったので楽しかった。若冲の動植綵絵も10点並んでいると見ごたえあるし(10点ということにやぱり意味がというか、展示する意味があるような気がする)、個人的にはその向かいに円山派を置いていたのもよかった。あまりにもミーハーなことはもう隠しようがない。
ボストン美術館展も最初は行くつもりはなかったけど、折角だから行くかなの軽い気持ちだった。結局金の力ってやっぱり偉大なんだよね。大事だよ。聞いていますか、えらいひとたち。吉備大臣入唐絵巻はコミカルで普通に面白かったです。
フィン・ユールとデンマークの椅子はちゃんと座れるコーナーがあったのが良かった。ただデザインと実物を見るだけでは座り心地もデザイン設計も、想像はできるけど、実際とは違うかもしれないし、と思いながら座って、このカーブが確かにフィットして、という体感を持っていいデザインだなと思えたり、身長153-4センチの小柄な女性では抜け出せなくなる深さのある椅子に、椅子の良さというのは本当にごく個人的な話だなとなった。お尻はひとりの人間に対してひとつしかないけれど、様々な椅子がある。(そういう展示ではない)一般人だから、気後れしない豪奢すぎずある程度オシャレ感があるのがいいよね。
李禹煥展、みんな音声ガイドを聞いていたが、わたしは音声ガイドと自分の干渉スピードが全く合わないので基本的には聞かない。こだわりがあるという話ではなくて、逆に鑑賞の妨げになってしまうので…時々、展示にあわせて選んだ音楽があるとか、そういう方面でのことで借りることはあるけれど。何かあるなら紙にしてほしい。好きな時に読む。鑑賞ガイドはよかったね。物質は物質でしかないけれど、素材そのものを素材そのものとして組み合わせていくと発生する意味を拾う作業をしていく展覧会。先月オペラシティでも1点絵画を見ていた。この辺は筆の流れ、絵の具の置き方、リズムを楽しむものかなと思って眺めている。
アンヌ・デュ・ヴァンディエール展、シャネルの手仕事に携わる人々の手の写真。マニキュアが綺麗に施された指、マニキュアの禿げた指、皺だらけの手、あらゆる職人の手すべてに仕事人のプライドが詰まっていて美しかったフェチには嬉しい。

装いの力、異性装の日本史展。衣装という記号でどう性を越境するか、なぜ異性の格好をするかそれをどう描くかをみせられて、わたしたちがどう性を消費しているかを剥き出しにする展覧会だなと思った。からの、各々のセクシャリティの話、抑圧と解放…解放…
イッタラ展、器はそれ自体だけでなく使用されてこそだなとは思うのだけど、それはそれとして、ガラスというのは水っぽくて涼やかで並んでいると美しい。落ちる影まで。炎によって形を変えられて作られるのにね。映像がいっぱいだった。ケチを付けるなら、妙なヒーリングっぽい音楽を会場内で流すな。合っていなくて気が散る。これまで見てきたものもあって、そこまで目新しくはないけれど、イッタラだけを並べられると、自分の好みが把握しやすくていい。タピオ・ヴィルカラとティモ・サルパネヴァがいいし、お家に馴染む系ではなくて、オブジェみたいなものの方が好き。あとミナペルホネンのやつは何度見てもださい。どうして?

9月は文豪とアルケミストの劇1~5まで見た。1はメタメタしい発言��舞台ならではって感じで面白かった。とても自由度が高い。あと若手俳優、無理に歌わないのでお芝居だけ集中していればいいのもいい。(全員上手いならともかく、ストレートプレイで歌わせる必要ない)3を見たときはかなり上に牙を向く内容で驚いた。キャラクターに思い入れがないので、結末について辛いと思うことはなくて、骨があってすごいなと。美しさでいえば、4。作家の感情、同人女にも刺さる。痛い。文豪でもないのに。
にっかり青江の単騎。舞台は配信じゃなくて生で見てこその空気感と息遣い。始まって早々に泣いてしまった。ひとりでいるのに過去の舞台とひとたちが浮かんでくる。舞台の始まりと終わりで声の強さが違うことに画面越しでは気が付かなかった。忘れていただけかもしれない。でも印象に残り続けるのは画面越しではないんだな。映画のようにそういうものとして作られているものではないから…。
映画はペンギンハイウェイ、小説も読んだしなと思って見てみた。セクシーではない気だるげでちょっと舌足らずで一定のトーンで喋る蒼井優の声、なかなかはまっていた。お家に帰りましょうって青空にペンギンが浮かぶシーンでマグリットのゴルコンダ(おじさんが何人も空に浮遊/落下する絵)が浮かんだ。小説読んだ時も思ったけれど、かつて子どもだったひとの感傷を持って面白い作品になるんだろうなと思った。(子どもが見たらどう思うんだろう、楽しい面白いとは思うんだけど、ずいぶん遠いところまで来てしまったから)
劇場版レヴュースタァライト、やばやばのやば。TVとロンド・ロンド・ロンドを経て。大場ななさんで狂うわ。ループするなんて思わなかった。急になんか違うステージに連れていかれてしまった。なにこれ。キリンは我々なんだな。スタァを消費する。輝きが見たい。最高の輝きが。分かります。少女たちが大人になっていく。少女を自らの手で殺して、血まみれになって、スタァとして蘇る。次の駅へ。
イタル・カルヴィーノ『見えない都市』先月読んだ本的にこれも読まなくちゃ、と空想の世界を闊歩。ウィリアム・ホープ・ホジスン『夜の声』表題の作が一番面白い。生き残った人々による海の恐怖の記録という物語。果てしなく海を眺めていると、海からやってくるものが見えてくるんだろうね。寺山修司『月蝕書簡』玉石混合感あるけど、寺山修司自体にそこまでの詳しさがないので、なんとも言えない。オルハン・パムク『黒い本』この何年か後にわたしの名は赤なんだと思った文章校正。トルコの街を彷徨って、あなたがわたしに、わたしがあなたになる。米澤穂信『満願』小説がうまい。短編もうまいのか。読後感まで計算されて放り出される。ブローディガン『西瓜糖の日々』これは詩。
Twitterにぽつぽつ感想なり何なりを言っていたので、改めて書くほどのことではないような気がしてしまった。
海にも川にも行って、葡萄をたくさん食べて、旅行らしい旅行をして、でもまだここではないどこかに行きたい。
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202208
人と遊んだり、ひとり遊びをぽつ、ぽつ、としたりのんびりしたり、イベントに出たり…
ライアン・ガンダー展は何気なしに見ている世界について、ジョーク的な発想であらゆる面を矯めつ眇めつしてみようみたいな、面白いけれどふと真顔になるような展示で面白かった。毎回思うのだけど、長い映像はyoutubeとかで期間限定でいいから会場内ではなく配信してほしいよ。

不思議の国のアリス展、思ったより前半は真面目で、ドジソン周辺の写真やら同時代の「遊び」についてや同時代における影響を受けたもの(個人的にはやっぱりロセッティ家について言及されているのが嬉しかった)や、同時代の需要についても触れられているのが楽しかったし、後半に連れてやっぱりエンタメ要素が強くなる(アリスの普及がどうなっていくのかというものではあるけれど)ので、同行者がいてよかったな、と思う。

ジャン・プルーヴェ展を見て、こういうスタイリッシュプレハブ、機能的で美しさを備えていてすごいと思いつつ、耐震性というものについて考えてしまうわたしは日本人だな、となる。あらゆる椅子には座って見たい。が、たぶんすぐにお尻が痛くなってしまうし、日本人の体形向きじゃないなぁ、と思う。誰にとって、どんな人にとって快適か、すべてにとっての最適はないものの、それはそれとして素敵なものは素敵。

映画はボイリング・ポイント。ワンカット映画の臨場感と内容のハラハラ感がマッチしていて、色々殴ってくる。イギリスのとある高級レストランのシーンを映しているのだけど、最終的には今日も一日なんとかなりました、となる期待を容赦なく砕いてくるので、見終わったあと呆然としてしまった。わたしは、自分のミスではひとが死なないタイプの仕事をしていることにほっとしてしまう。90分程度の中に、家庭崩壊の男、自分の働きぶりと賃金の釣り合わなさ、部署同士の対立、ひとつの伝達ミス、ひとつのうっかりが連続した不幸を生んでいく、そもそも労働環境がもっと良かったら、起きてしまった事象に対し、あらゆるたらればを思わざるを得ない。そして、黒人差別、ゲイへのセクハラ、移住者(早口過ぎて喋っている意味が取れなかったり、妊婦なのにひとりで皿洗いしている女性は、もっと移民というべき存在なのか階級というか人種的な差なのか低賃金で働かざるを得ないのだろうな)とか、ドラッグアル中、SNSインフルエンサーの暴力的な優位性、アレルギーへの扱いなど、何もかもを詰め込んで、これはハッピーもなにもない単なる日常に過ぎないことをまざまざと見せつけてくる。仕事人にとっては、わりと具合が悪くなりそうな話だった。後味はよく分からない。
三浦しをん『天国旅行』何篇かは何らかのオマージュなんだろうな、という既視感がある。森の奥は恐らく映画スイス・アーミーマンだろうし、遺言の話の人称のあいまいさは、すでにアリ・スミスが行っている。君は夜で心中にこだわるのは、何かきっとやっぱり似たようなものを読んだことあるような気がするし。とはいえ割合重たい話題も 三浦しをんらしくさらっと描いているので 読みやすい。北山あさひ『崖にて』ものすごくリアルだった。 現代に生きている 等身大の女がいる歌集だったので、ちょっとひりひりした。心が。美しくもあり、美しくなく醜い心もあるけれど、それはとてもよく分かる、美しいだけでは生きていけないよね。 ギョルゲ・ササルマン 『方形の円』これは面白かった。短い文章の中にあらんかぎりの空想都市が詰まっていて、生まれては崩壊していく。わたしたちは、それらを眺めている。カズオイシグロ『わたしを離さないで』映画を見ていたので、内容を知っていたのだけれど、それよりもずっとしっとり淡々としていて、一層救いがなくて、救いがないからこそ、どこにも行けないキャシーの心が、彼女のもとから去っていったものたちの心が、痛々しくて、美しいんだろうなと思ったけれど、これを美しいと思う心がとてもグロテスクなものであるという自覚はある。7月から読んでいた中原中也詩集も読み終わった。声に出して読むと詩のリズムが分かりやすいのではないかと思ったけれど、あまりにも個性的な、その、ゆあーん ゆよーんとか…どう…でもこれをリズムなく読めと言うのも難しい。真剣に考えることと、思考を放棄すること、音を感じること、詩ごとに何に寄っているのかちょっとずつ違う気がした。なんてね。
8月のおわり、夏が死んでいくにおいがする。子どもの頃はそんなに思わなかったのに、おとなになってから夏はやたらと水辺に行きたくなる。ひょっとして子どもの頃のノスタルジー(ありもしないし、あったかもしれない)を再現したいのかもしれない。水族館に行ったから、1/3くらいは水辺欲が満たされ…?たか?水族館て、生き物の展示だから、思うほど水槽は綺麗じゃないよね、普通に生きてれば生き物は排泄するし、食べかすだって、あかだって、となるのに、どうして水族館には幻想的なイメージがあるのだろうな、水の中で生きてみたいという願いを疑似的に叶えてくれるからだろうか?大水槽の前が一番楽しい。あと、やっぱり魚を見たら寿司が食べたい。わたしは、ヒエラルキーの上に立つ人間だから。
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202207
原稿をしていると本が読めない、本を読んでいると原稿が進まない。
ガブリエル・シャネル展、シャネルのデザインは今見ても全然古くないどころかとっても可愛い。黒だけでなく真っ赤なコートも、ピンクも、甘すぎなくて可愛い。服飾について何にも知見がないので、ただただうっとりしてきました。たまにはいいよね。ルートヴィヒ美術館展の市民からの寄贈を中心に形成されるコレクションの豊かさに圧倒される。市民が作っていくって羨ましいな。ドイツのコレクションで、ロシアアヴァンギャルドとか、アメリカンポップアートとか、ピカソも見られる。100点を超す作品は見ごたえがあって、見終わった後、さすがに疲れた。松濤の津田青楓の展覧会は、前に練馬でも津田青楓見たなと思って特に何も期待とかはしていなかったのだけれど、津田青楓と図案と、時代と、という「図案と、時代と、」の部分が多くて楽しかった。全然違う切り口だった。秋にパナソニックで神坂雪佳展というのがあるらしいというのは、ここに行くより前に知っていて、見ていたら神坂雪佳も展示されていて、わたしはこの辺りにもまったく疎いので、 当時人気の神坂雪佳を見て津田がこれなら自分にも描けると言ったそんな繋がり、行って良かった、知らなかったら損をしていたと思った。わたしは基本的に知識不足なので…キース・ヴァンドンゲン、 日本の美術館においては44年ぶりの開催らしいけれど、なんとなく44年前の日本のひとたち好きそうだなという偏見。女性の描き方も嫌いじゃないけど、風景もいいなぁと思った。2回目のリヒター、絶対に手放さないと思うけど、ビルケナウがオークションに出たらいくらで落札されるんだろうという会話をした。値段が付けられない、か…。 ベルリンの壁が崩壊された年に極東の島国で産まれたわたしが、真にビルケナウを理解することはできない気がする。周辺に触れることはできるけれど。カラーチャート、鏡があるからそこに映ってさらにバリエーションが増えるので楽しい。
本は三冊しか読めなかった。原稿をしていたため…。チャールズ・フォスター『動物になって生きてみた』とかいう体験記。発想の面白さに惹かれたけれど、初手、ミミズの食レポでさすがに引いた。頭がいいひとはぶっ飛んでいてクレイジーだ。ひたすらクレイジーな、しかし真面目で真摯な体験記だった。ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』つまらなかった。面白いところが一つもなかった。動物農場の方がはるかに面白い。最初にあとがきから読んだのがいけなかった。あとがき読むより先に本編の方がいいことは、あとがきの最後ではなくて最初に書いてほしかった。別に現実世界を批判する内容がダメなのではなく、普通に読み物としてつまら…な…須賀敦子『霧のむこうに住みたい』この人のエッセイは初。といいつつ翻訳を、昔読んだかな?ほとんど記憶がない。(読んだものを片っ端から忘れていくため)大らかだけどたくましく冷静なひとだなという印象。
映画は『アメリカン・ユートピア』音楽に身を任せたい。舞台にはほとんどセットもなく、衣装もグレー。人間を見るのが一番面白い。未来は音楽によって明るくなるような錯覚をする。引き込まれて心地よく酔わせてくれる。ヤン・シュヴァンクマイエル『ファウスト』最初ー最後の回収で膝を打つ。ファウスト博士は去年読んでいたので、それなりに付いて行けたと思う。生々しい肉体の描写がなく、無機質な人形ばかりなのに、こんなにもグロテスクで生々しく気持ち悪いことあるか!?と思いながら見た。
マシュマロで以前詩は読むかと聞かれたので、お風呂で中原中也を朗読している。新潮文庫のやつ。基本的に自分の本はお風呂で読むことが多い。新潮文庫、すぐ水でふやってなるね。
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202206
6月は自分比でたくさん友達と会った。こんなに遊ぶのはとてもとても久しぶりで、楽しかった。
今月行ったのは竹橋のリヒター展、何も考えずに入館料を払うタイミングで2千円超えてて驚いた。ここ数年、何年か前よりも2-300円くらい特別展が高くなったなと思っていて、2千円を超えてきたか…と。正直なところはやっぱりちょっときつい。これまでもエンタメ度の高いアトラクション的展覧会はそのくらいしたけれど、あちこち行くとすると、ちょっとカフェに行く頻度落そうかな、とか他で節約しなくちゃ、となった。 勿論リヒター展は満足したけれど、そういう問題じゃないんだよな。それはさておき、リヒター自ら展示構成に指示を細かく出したという話で、面白い。特にビルケナウの向かいにビルケナウ(実物大写真)を配置し、奥にグレイの鏡を配置、その向こうにアウシュビッツの写真を展示し、グレイの鏡にビルケナウも ビルケナウ(実物大写真)もアウシュビッツの写真も全部映る。 リヒターはグレイの色彩を“なんの感情も、連想も生み出さない” “「無」を明示するに最適な” 色と表現していて、その中にビルケナウその他まとめて映す意味は何だろう、何を我々に与えたいのか、と思うと拍手したくなってしまった。このビルケナウについて、twitterをエゴサしたところ、ここで映え的な自撮りをするなという強めな意見を見かけたのだけど、ドイツにいて今も生きているリヒター自身が、ホロコーストを近年若者が一部とはいえどういう捉え方を始めたか、真剣になる人々ばかりではないこと、SNS社会など理解していないはずもないと思うので、意図的だと思うし、好きなようにしたらいいのにと思ったりした。歴史を馬鹿にしているわけではない。リヒターのエッジのきいた皮肉みたいなものだと思っている。中期の作品は少なめなのかな。でもビルケナウ見るだけでも充分満足というか。あと、普通に絵がうまくてびっくりする。絵がうまいという阿保みたいな感想しかでなくなる。でも別にすごくリヒターが好きなわけでもなく、表面的なところしかなぞっていないので、もう少しなにか勉強した方がいいなとも感じた。常設にもリヒターあるのに、そっちにはみんな行かなくて、勿体ないのでぜひ常設にも足を運んでほしい。写真はオーケーなんだけど、例えばフォトペインティングをスマホで撮ろうとして、フォトペインティングの良さが全く撮れない。ペインティングがフォトに見えるし、どうにか頑張ってみるのも、本物がそこにあるのに写真に躍起になるのも勿体ないし、馬鹿らしい。写真ももっとちゃんとしたカメラで撮ったら違うかもしれないけれど、写真を撮るために本物を見ているわけではない。きちんとした写真はライティングなりなんなり整えて撮ることができるプロに任せた方がいい。そう思って適当に撮るため、いつも私の写真は微妙なものになる。写真を撮らない方が、記憶に残ることもある。しかしSNSに載せたい承認欲求というか、そういうこともあったりなかったり、未だに自分の中で模索している。これはわたしの場合であり、鑑賞の仕方などはそれぞれ個別にあると思っている。

国立西洋美術館の自然と人のダイアローグ。こっちにもリヒターがいる。今年はリヒターがいっぱい。ポーラでもモネーリヒターやっているしね。でもこれ西洋美術館とポーラが同じ時期に開催しなければ、互いに貸し借りができてもっと面白い展示ができたのではないのだろうかと完全なる部外者は勝手な意見を言ってしまう。ルーアン大聖堂、ポーラも持っているし、睡蓮も…クールベの《波》を2作品出しているんだし、時間の移ろいの話とかするなら、あった方が…面白かったんじゃ…印象派作品と他の作品を比較するような配置、ゾン美でもあって、最近の印象派はそういう使われ方というか研究のされ方をされるのかな?どうなんだろう。サンプルが少ない。個人的な趣味としては、ドイツロマン主義が好き。物語が好きだから…物語じゃなくても好きなものはたくさん��るけど…オチが睡蓮だったのは、まぁ予想してしかるべきだったと思うのだけど、すっぽ抜けてたので、最終展示室入って、あっなるほどね~~~ハイハイよく考えればそうよね、そうなるよねとなって急にガクッとなってしまった。ところで、これ展示位置少し高めじゃなかっただろうか?わたしは身長153-4センチくらいで、途中から首が痛くなった。低めだから、見上げることは多いけれど、普段はそこまで首が痛いと感じることはないので、今回すごく気になった。

写真美術館は岩合光昭のパンタナール、アヴァンギャルド勃興、メメント・モリを梯子。パンタナール湿地の色鮮やかなこと、鳥の美しい自然の発色、カピバラの結構鋭い目つき、ジャガーの可愛いところ、かっこいいところ、 パラグアイカイマンの生と死、視界が染まるほどの蝶の大群が舞い、アナコンダが横断するという文章、完全にわたしの中では現実ではなく小説。世界にはこんな現実があるんだというのを知ることは楽しい。アヴァンギャルド勃興はさらっと流し見をした(正直すべての作品と向き合うことは気力的な意味でとても難しい、集中力も切れる)のだけど、写真に関して無知なので、こんな作品が二本にもあるんだと新たなものを知る機会があってよかったな、という感じ。全然知らなかったので、東京でなくて関西からなんだ、とそこからか~という、日本のシュールレアリスム、瀧口修造の印象が強くて…メメント・モリはとても文学的な内容だった。ハンス・ホルバイン(子)の木版、西洋美術館の展示よりも低くて近い位置で見れる?のかな。よく見えるな、と思った。章解説の字が小さくてみちっとしているので、余計文学的な印象を受ける。写真を通して死ぬことと生きることを問う、前向きに生きることを想起させるという試みなので、人ごとに生死の考え方が違うので刺さる部分が全く違うんじゃないかな~と思う。アメリカの表面的な明るさとそこに潜む狂気のような孤独とユーモアという一文がストンと腑に落ちたというか、確かにそういうところある気がする!と自分が言語化できていなかったものを言語にしてもらえるとグッと解像度が上がる。どの写真がよかった、というよりも通して何かを考えさせる。
六本木へ、米田知子の残響展へ。この方も品川の原美術館で知った方なのに、品川の原美術館は閉館してしまった寂しさがまだ残る。いつも静かな写真なのだけど、その裏には戦争とか紛争とか様々な歴史が詰まっていて、物悲しい気持ちになるけれど、それでもそこは依然として「ある」。愚かさと無情とそれでも存在する土地への希望も見いだせて、わたしはとても好き。

今月も映画は一本、犬王のみ。ストーリー構成にアッと言わされ(最初のあそこが最後こうなるのか!という)フェスに参加しているような楽しさと、後世に語り継がれなかったものの無音の舞の雄弁さに打たれて、劇場で見てよかった~と思うなどした。
本は團伊玖磨『舌の上の散歩道』食エッセイが好きなので…(前も言った気がする)たくさん食べられるひとは羨ましい。食べるという実践経験には及ばないと言われたところで、多くを食べられない人間からしたら、脳から食べる快楽を疑似的に摂取してるんだから、いいのよ、放っておいて、という感じ。それはそれでやばい人みたいだけど、たぶん私が食エッセイを読むのはそういうこと…。開高健『魚の水はおいしい食と酒エッセイ傑作選』脳から食べる快楽を得るのにも、文章の相性があって、開高健は個人的に快を得るのが難しかった。オジサン構文の出どころってこういうところかな、と。時代的な部分もあると思うのだけど、今の時代に何でもないオジサンがやってしまうと痛々しいだけで、絶妙なバランスの上で成り立っているなと感じた。何で買ったのかというと、河出のキャンペーンに載せられたから…サラ・ピンスカー『いずれすべては海の中に』特に好きなのは、「イッカク」B級映画を見ているような気持ちになる。印象の話だけど、歌って聞かせるような短編小説(著者ミュージシャンでもある)山尾悠子『歪み真珠』最初に読んでおくべき山尾作品だったなと思う。いつでも適当に作家を読んでしまう。でもその素地があるから歪み真珠が入ってきやすかったというか。美しさとグロテスクと秩序の崩壊の危うさに魅入られる。森博嗣『まどろみ消去』初の森博嗣。いつもいっぱいあって何読んでいいか分からなくて手が出なかった。さらさらと読めてしまう。どこかでこういうものを読んだ気がするけれど、たぶん最初は森博嗣だったんじゃないかと思う。読書家ではないので、浅い…。でも職業的に小説を書いているというのは理解できた気がする。何もかもが整然としている。
絵画でも写真でも本でもなんでも、死を摂取し、何なら自然の動物たちが自然のサイクルの中で死んでいく姿を見ては、余すことのない循環に思いを馳せて感嘆の溜息を吐いているというのに、実家の犬の死が目前に迫って、寂しくて悲しくて泣いている。わたしはとても勝手でずるくて、最悪な思考だと思う。目の前の事には折り合いが付かない。犬が死んでしまう。
6月30日追記:恵比寿のLIBRAIRIE6で有持有百「リゾームスケッチ:雲と 繇條 」ようじょう、 繇條とは草木が生い茂るという意味。牧野富太郎の書斎から。シュルレアリスムの手法のひとつであり、本来なら複数人で行うはずの優美な死骸をひとりで行うため、シュールでありながらどこか一貫性がある美しい植物のなにか。タイトルは、エストニア語を混ぜた造語らしい。ギャラリーを地中、地上の植物、空(雲)に見立てた展示になっていた。もともとアニメーションの人らしく、優美な死骸をどう行っていたのか分かるアニメーションも見ていて楽しかった。
6月28日に14歳7か月で犬が死んだ。今年の3月くらいに肝臓に腫瘍が見つかって、難しい位置にあるというので、一旦手術は様子見していたのだけれど、5月に急に肥大化して悪化して、結局そのまま逝ってしまった。寂しがりやだったので、もし入院させていたら発狂してしまったかもしれない。ひととご飯が大好きな犬だったので、最後もこれまでもずっと家で面倒見ていたのはよかったのかもしれない。
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202205
観劇予定が吹き飛んでしょんぼりしていたところに、仕事で大きめのミスを2回ほどやらかし(2回目のはたぶんお客さん側の方が…とは思うし、他の人もそう言ってくれたけど、言った言わないになると弱い立場…)くさくさしていたところ、誘ってもらって薔薇を見に行ったり、お肉を食べた���して救ってもらった5月は美しい季節。旧古河庭園に実は初めて行きました。雨が降った後の緑のにおいが濃いのはいい。薔薇の香りも良いし水も滴る肉厚な薔薇の花びらは宝石でも載せてんのかいってくらい美しい(美しさをぶち壊す語彙)、お茶室で抹茶と茶菓子の菓子には薄荷が使われていて甘さと爽やかさが絶妙で好きな味だった。お肉はメンタルに効く。
篠田桃紅展、墨を使った作品は湿度の多い日に見ると、乾いているはずなのにどこか筆のしっとりとっぷりした感じが蘇ってくるようでいいなと思う。桃紅という名前が美しくて好き。書については全然詳しくない。素人もいいところなんだけど、まぁだいたいのものを気持ちがいいなとか雰囲気で見ているのでいつもと変わらない。
ジャム・セッション石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策。長い!展覧会名が長い!お前はブリジストン美術館!というのは全然時代について行けてないひとみたいだから、そろそろやめた方がいい。でもなんでアーティゾン美術館…前はブリ美って言ってたけど、いまはゾン美なんだって。実はゾン美になってから始めて行ったので、ずいぶんと綺麗なラグジュアリーな空間になってちょっと落ち着かなかった。エレベーターとかに係の人がいると、いつもいや自分でやるから…の気持ちになるので一生庶民…エレベーターで上に上がる展示室の美術館、親切設計で係の人がいるのは分かっているんだけど。展覧会の内容、 鈴木理策×ジャコメッティのが一番面白かった。写真は 柴田敏雄のエモーショナルの排除、ごくシンプルに見えてダイナミックなものが普段見ている写真とは違って新鮮だけど、絵画における抽象画といわれると、何となくわかるようなそうでもないような。その後の Transformation 越境から生まれるアートはふ~んで終わってしまった。正直なところ、ルノワールがそんなに好きではない。幸村精市が好きだったから、好きになりたかった。昔はそう思わなかったけど、年を取るにつれて、腐っていく肉の塊だという表現について納得せざるを得ない気になってくる。常設にザオ・ウーキーの青い絵画があってほっとした。あれを見ていると、じわっと溶けていくみたいで心地よい。でもソファは前のほうが特別感があってよかった気がする。記憶のかなた。
スコットランド国立美術館美の巨匠たち、言い過ぎでは?と思った。確かに ラファエロ、エル・グレコ、ルーベンス、ベラスケス、レンブラント、ヴァトー、ブーシェ、コロー、スーラ、ルノワール(HPからコピペ)あったけど。ベラスケスは確かに良かったし、レンブラントもまぁまぁだけど、巨匠の中に ヴァトー、ブーシェ、コロー、スーラ、ルノワールは入るのか?ラスキンの聖母とか、あと個人的にはヴァザーリの習作が見れて嬉しい。普通に上手だな~と思う。イングランドとスコットランドの画家だけだと弱いんだろうな、とは思うんだけども。でもそっちメインでまとめた方が面白かったよ、きっと。章立ても…
ボテロ展、思ったより楽しかったな。丸くて太った造形にしか興味がないのは、潔くてさっぱりしていい。静物画は特にそう。
泉屋博古館の光陰礼賛もいい。わたしはキャプションに女流画家と書かれるのが嫌なのですが、女性画家と書いてくれてよかった。記憶違いだったら恥。よく言われるのは、男性画家とは言わないのにというのはそうなんだけど、ここになるといろいろ面倒なので、割愛。昔の金持ちはセンスがいい。斎藤豊作は印象派、点描というワードがあったのだけど、画面の印象はナビ派っぽくて面白かった。
イケムラレイコ展は何年か前に行ったのがいつだったか調べてみたら2019年で記憶では3年も前ではなかったのに。そうか3年も…3年しか…?絵画よりもアルカイックな顔の半透明なガラスがライトに照らされてぼんやりそこにあるのが綺麗でよかった。人がいない方がしんとしていて、作品をぼんやり見ることができる。撫でてみたいな、冷たいのかな、凹凸はどんなだろうと想像しながら見てみると、そのまま引き込まれていくような、そうでもないような。「限りなく透明な」。そのまま パウロ・モンテイロ展「場所のない色」に入って、それまでの暗い中の光から一変して、明るい中の色に途方に暮れてしまった。ブラジルの現代アーティストらしい。よく見ると可愛いなって思えてきて、面白かった。




今月の映画は刀剣乱舞の花丸だけ。正直なところ、さほど期待はしていなかったから、逆に面白いと思った。一部の刀の描かれ方について、もともと花丸って不平等に描き方が特化している刀と���うでない刀がいるので、あらゆる派生の中で一番我々の描く同人誌っぽいので、ハイハイと流してしまう。推しさえよければいいのか(花丸の中で推しというか旦那である大般若長光の描かれ方はパーフェクトだった)と言われた黙るしかないけれど、このコンテンツにいちいち何かを言っていたらキリがないので、2.5にしろ何にしろ、もう好きな時に好きなように摂取します。
読んだ本『犬の心臓・運命の卵』高校の教科書に載っていたら、女子たちがドクター・ボルメンタール×フィリップ・フィリーパヴィチで盛り上がっただろうなという最低な感想。犬は悪くない、いつだって人間が悪いよ。運命の卵、ちょっと笑った。ルシア・ベルリンの新しい作品集『すべての月、すべての年』の表題の作品が一番好き。海の中で海の生きものみたいに回転しながらまぐあう男女と離れた瞬間にタコ墨みたいに漂う白い精子、馬鹿みたいに美しいのに馬鹿みたいにシモの話で、でも健全なふうに書かれるし、ラストはそんな情緒から落とすみたいな別に落としてはいなくて、予想の範囲内なんだけど、それまでの寄り添いから付き離れるので、さらっと終わるので、情感に余韻がないのがまた乾いていて最高。京極夏彦『書楼弔堂』は最後の章タイトル未完がほんとうにずるい、こういう終わり方をする、これはずるいとなる…出来事なんてたいしてなくて、ただキャラが本屋で話をするだけでこんなに面白いのはさすがだなぁと思う。北村紗衣『批評の教室』を読んで特に批評がしたいわけではないけど、何となく確認したほうがいいような気がして。関係ないし、特に調べようと思ったこともないからぼんやり、クリストファーノーランの作品て見てて息苦しいなと思っていたのだけど、やっぱりそういう特徴があることが分かって、すっきりした。いつかテネットも見ようと思う。
追記:何か忘れていると思って、読んだ本にアンナ・カヴァンの『鷲の巣』があったのを思い出した。得意の不安と不条理の話。語り手である「わたし」の精神状態が最初から最悪の状態なので、「わたし」に共感できるものも何もなく、ただ嫌な男であって、圧倒的自然への畏怖以外に共感できることはなく、ただひたすら不条理への不安を共に肌で感じ、また読者は「わたし」の気持ちや他者への態度に対して不快な気持ちになり、ずっと快楽とは程遠い読書になる。カタルシスもなく、不条理は不条理として淡々と処理させる。でも結末を見届けなくてはいけない気持ちになって、ページを繰っていく。
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202204
先月読んだ本の中に千早茜『わるい食べもの』と堀江敏幸『オールドレンズの神のもとで』を入れ忘れていた。食べ物エッセイは好きなのだけれど、美味しく食べるだけでなく、給食の嫌な体験とかに懐かしさを感じたり、暴食の話だったり面白かった。食べることに対してトラウマが少しだけあって、時と場合によって外食が苦痛になることのある人間でそんなに食べられるタイプではないのだけど、食べる人を見るのは好きだと思う。堀江敏幸はこれまでエッセイを読んできて、小説は初めて?短編集は玉石混合なことも多いし、ふ~んという感じ。やっぱりこの人はエッセイの方が読んでいて面白いのかも。
宝石店、宝飾品にはさほど興味はなかったけれど、どういった石でどうできて、そこからどう加工されてジュエリーになるかと順を追ってみたらそれなりにいい気付きがあってよかった。誕生石なんて面白くないつまらないと思っていたけれど、同じ名前の石でもいろいろなカラーバリエーションがあったりして自然の力って不思議だな(小物感)とワクワクして見直したけれど、ジュエリーになると途端に「無難」で詰まらなくなる、さっきまでのバリエーションはどこへ行ってしまったの…でもお金をかければ、そうダイヤモンドちりばめて、エメラルドやらなにやら、権力者の宝飾品となれば創意工夫のすごいこと。鉱物としての宝石を好きなひとと、ジュエリーとしての石が好きなひとの溝もそういうワクワク感の違いだったりするんだろうな。
シダネルとマルタン展。いつかにシダネルを埼玉に見に行ったと記憶しているのを辿ったら、10年近く前で驚いた。そんなに経っていたのか。その時見た静謐なお庭と食卓の絵画が好きだなと思ったけれど、やっぱりどの絵画も静かで穏やかで見ていて心地よいものだなと。マルタンの象徴主義的な絵画はあまり好みではない。印象派的描き方の象徴主義が好みではないんだと思う。象徴主義はクノップフとかそちらの、もっとウェットで背筋がぞっとする方がいい。明るすぎるんだと思った。あと、比べるとマルタンの方が筆致が荒い感じなのかな。
西洋美術館がリニューアルしたので、久しぶりに常設展へ。西洋美術史を網羅する安定のラインナップがまたお手頃なお値段で見られる喜びをかみしめた。
ギャラリーは高橋亜弓さんの個展。男でも女でもない、男でも女でもある、人であり人ではない。両方であり両方でない何か。そういったものに惹かれてしまう。何度か個展を開かれていて、そのたびに行きたいと思っていたのだけれど、スケジュールが合わず、初めて行った。いつかギャラリーで作品を買うことが夢だったのだけれど、叶いました。貝殻の眠りという粘土像。美しい顔。顔と貝殻だけ。静謐で、時の流れが止まっていて、吸い込まれそうで、うっとり眺めている。
今月映画はひとつだけ。『鑑定士と顔のない依頼人』邦題もっと何かあったろうと思わないこともない。依頼人、顔がないわけではない。ずっとバルテュスの絵画を見ているみたいに気持ち悪い。バルテュスの絵、生理的な気持ち悪さを引き起こしませんかそうですか(個人の感想です)。あらゆるものに配慮して、ヒロインは20代後半の年齢設定だったと思うのだけど、精神年齢もっと低かったと思うし、これはまぁ…そういう…汚した足を舐めるシーン、そこから見える…ずっと覗き見をしている構図なのもぞわぞわする要因。この作品の美術さんは大変だったろうなと思う。最初からずっと無駄のない計算されつくされた画面、物語構成の緻密さには溜息。それでラストで放り出されるから、どういう感情になっていいかも分からなくなって、評価しがたい。
本は『王とサーカス』『掃除婦のための手引き書』『星の時』『鳥と雲と薬草袋/風と双眼鏡、膝掛け毛布』思ったより読んでないな。王とサーカスは引き続き米澤穂信。犯人とか動機とかは早々に読めたけど、子どもの純度の高い悲しみと憎しみが痛々しくて真摯な物語だなと思った。ルシア・ベルリンSNSで評価高いのは知っていたけれど、そういうのは往々にして実際は大げさだったりしてとか思っていたけれど、そんなことはなかったので驚いた。どのお話も、どういう生き方をしたらこんな文章が書けるんだろうという驚きと心地よさ。 「ため息も、心臓の鼓動も、陣痛も、オーガズムも、隣り合わせた時計の振り子がじきに同調するように、同じ長さに収斂する。」をずっとずーーーっと噛み締めている。星の時、救いようのない女を物語ることによって救わなくても悲惨だと思わせない。可哀そうな女の人生を語る男によって物語となるカタルシスの作品だった。梨木香歩のエッセイは、物語を読む気になれなくてでも何か読みたときに当たりはずれもそこまでないので何となく手に取ってしまいがち。でもときどきこの人と少し感性が合わなくて、ちょっとちぐはぐになる。でもまあ読むことは読む。これはエッセイとも違って、土地の名前にまつわるエトセトラ。そんな土地があるんだなぁと旅に出たくなるようなならないような。
今月はワクチン3回目の接種の副作用を引きずって休日、人とご飯に行く機会を少しだけ増やし、前半はとても楽しかった気がする。後半は悲しいかな、行くはずだった舞台が飛んで悲しい気持ちとお仕事の心労、そんな月だった。
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