Tumgik
#ネットで流行ったネットミーム集
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20220925
雑記(星占い的思考、夢、リミナル的な)
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貝の火
加齢による体質の変化か春の花粉症が軽くなったと喜んでいたら秋も花粉症になって年に二回鼻垂れ期がくる。アレルギーの薬はよく効くのだが1日半くらい眠気がすごくて寝ても寝ても寝足りない。
石井ゆかりの新刊のエッセイ集『星占い的思考』を購入。
N先生にこの人の星占いを教えてもらったが、自分の人生のバイオリズム的なものや、これからこうなって行くんだろうなというぼんやりとした見通しと妙な符合点を見せるために非常に気になっている。この符合を占星術家は因果関係ではなく「照応(correspondence)と受け取る」と書かれていた。
私小説のような書き出しや古今東西の書物からの引用など占いの本というより文学的な雰囲気に満ちていて読み応えがある。
最近見る夢がなんだか変だ。
オープンワールドゲームのような視点だったり空間を感じる。
今までは夢の光景は二次的なものでそこで起こる内面のインスピレーションの感覚に意識的だった気がする。眼鏡を外して世界を眺めてぼんやり何かを感じている感覚。
それが最近の夢は光や構造や細部を感じる。
山の舗装された坂道を下っていると道の脇の側溝で見知らぬ女性が裸で頭を坂の下に向けて寝そべり、傍に置いたiphoneで誰かと通話しながら泣いている。その女性の体の下の真新しいグレーチングの青い金属光沢や体についた格子状の赤い圧着痕のディティールみたいなもの。
夢の中で「これは夢だ」とまでは思わないのだが、一度行った場所が気になりもう一度戻って確認しようという決断をする感覚があって、もう少しで明晰夢を見るんじゃないかという感じがする。
ネットミーム的ないわゆるリミナルスペースの動画を見たこと、それについて考えたこと。あるいはアレルギー薬の作用ということもあるのだろうか。なんか変なもの食べたっけ?とも思うが特にそういうこともない。
そういやチベットの坊さんは夢の中で目覚めるらしい。
まあでも最近は現実の方が夢みたいだ。
たまに「夢」という漢字が異様に気持ち悪く迫ってくる時がある。目みたいにも見えるし虫っぽさもある。多分に呪的な象形。
リミナル
「リミナル」というキーワードが気になって調べていたら、自分が20歳ぐらいの頃によく見た中野正貴の『TOKYO NOBODY』という人が誰も写っていない東京の風景写真や、ホンマタカシや佐内正史のサバービア的な風景写真を思い出す。
いくつかの写真集を買おうと思ったらホンマタカシの『Suburbia』という絶版の写真集に至っては5万ぐらいする。
「リミナル、あるいはリミナル・スペース」とはここ数年ネットで流行している概念だという。簡単に言えば駅の構内の誰もいない無機質な場所、廃墟とかそういうものにある種の不安やまた逆に魅力を感じるというもの。
厳密な定義はいまいちわからないが境界に対する人間の根源的な感覚なのではないかと思う。その骨格にその都度時代の流行によって肉付けされて名付け直されている現象という印象。
古くは常世だの浄土だの異界との境界をいい、それが19世紀末から20世紀半ばのヨーロッパではベックリンの「死の島」という絵画のイメージだったり、90年代以降はインターネット、攻殻機動隊、映画のマトリックス以降仮想現実の現代版・胡蝶の夢のイメージ、サバービア(郊外)の風景などそこからはマイナーチェンジを繰り返している感じなのではないか。(おそらく昨今のゲームとかの仮想空間における現実認識が影響しているんだろうけどあたくしスーファミで止まっているのでわかんないや。)
『ドラえもん のび太の鉄人兵団』でドラえもんの道具のお座敷釣り堀に逆世界入りこみオイルを垂らして作った、ボルヘスみたいな人が誰もいない左右の反転した鏡面世界が登場するが昔からそういうものに反応してきた気がする。エヴァの第3新東京市もインセプションも全てに通底しているもの。
自分の現実把握の曖昧さや知覚の浮遊感みたいなものをずっと不思議に思ってきたが、リミナルというキーワードによって自分を知るヒントを一つもらった感じがする。
(文中敬称略)
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yamamemaya · 5 years
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どうしてタルパと出会うのか
邂逅型などの「出会う存在」が現れやすいことについて、いろいろ考えたもの。タルパをネットミームとして再考している内容も含まれています。
タルパには大きく分けてふたつの種類があります。創造型とそれ以外です。それ以外の存在といえば、邂逅型や生誕型、最近のものでは発生型など、さまざまなタイプが報告されており今でも新しいカテゴリがあちこちで提案されています。創造型以外のなかで一番多いのは、やはり邂逅型になるのでしょう。 これらは発生の仕方によって分類されています。創造型は名前の通り「自分の手でつくった」存在ですが、それ以外には「出会う」という要素が含まれてきます。自分で設定をつくって動かすのでなく、向こうからやってきて名乗るような感じですね。
さて、そのような創造型”ではない”存在について個人的に思っていたことがひとつあります。それは「邂逅型などの出会う存在ってどんどん増えがちじゃね?」というもの。
タルパをつくりはじめたという初心者の人を何人か見ていたのですが、知らぬ間にタルパがもうひとり増えていることがあった。しかも、それは新しく創造したものでなく「出会ったものを受け入れた」ということらしい。このようなパターンを幾度となく目にしていたので、もしかしたら創造型持ちは邂逅型などに出会いやすいのではないか?と考えたのだ。 さらに、出会う存在を一度受け入れたあとに、数ヶ月というスパンでそのような存在がじわじわと増えて続けている人もちらほらいる。自分のところも昔はそうだった。途中からタルパとして受け入れるのでなく、ダイブ界住民として仲間にしていたが。
実際はどんな感じなのだろうか。そう思ってTwitter上で簡易的なアンケートを行った。タルパの世帯調査である。
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こんな感じになった。計132票。ご協力ありがとうございました。
もちろん、Twitterの簡易アンケートなので正確さはない。創造型オンリーや出会う存在オンリーのアンケートも最初のものにぶら下げただけなので、最初のアンケートよりかは認知されていない可能性がある。それに、ここではタルパについてしか訊いていないので、先述のような「現実で出会った存在をダイブ界住民にした」パターンまでカバーしきれなかった。 それでも、出会う存在を受け入れている世帯が多いこと、創造型と出会う存在の両方をもっている世帯で出会う存在のほうが多いパターンが3割ほど見受けられることもわかった。ついでに、ひとりだけでなく複数タルパをもっている人が圧倒的に多いことも明らかになったのだと思う。
出会う存在がぽんぽん増えがちなのかどうかは断言できないものの、多くの人の元に邂逅型などの出会う存在が現れているようだ。それはなぜだろうか? ひとつは脳内現象派としての意見、もうひとつはタルパをネットミームという視点から考えた意見になっている。
脳内現象派として考えたものから見ていこう。 心理学的な視点をもっているのもあって、タルパとIFは似た現象なのだと思っている。あくまでも似ているというだけであって、まったく同じ現象だとは思っていないが。それについてはネットミームとしてのトピックでもう一度触れます。 そんななかで、現在IFとして研究されているものの大半は「出会う」タイプについてのものとなる。(もちろん、知らず知らずのうちにつくっていたパターンもあるだろうが、それについてはあまり分析されていないのが現状である。)タルパに似ているIFがこんな感じなのだから、作ろうともしていない存在にばったりと出くわしたっておかしくないのでは?という考えに至った。もちろん、邂逅型という区分を知らなかったとしてもだ。
もうひとつ、タルパをネットミームとして考えたものについて見てみよう。 タルパは、チベット密教である「トゥルパ」が雑誌の記事や掲示板で伝えられていくうちに変容していったネット文化である。ゆえに、トゥルパと同一のものだとは思っていない。 研究者などの外部から観測するような人々でなく、掲示板などのタルパコミュニティに属する内部の人間によって定義されているのが現状である。そのため、メンバーの報告や議論によって新しい概念が次々に生み出されている。やわらかい粘土をこねるかのように、絶えず姿を変えているのだ。
そのようなタルパ文化には興味深い現象がある。それは「新しい概念が広く共有され多くの人に認識されると、その性質がタルパに現れたりその性質を持った存在の報告が相次ぐ」というものだ。 これは「暴走」や「エネルギー切れ」、そして「邂逅型」などが当てはまる。報告された現象に名付けがされて広まると、いろんな人の元で同じ現象が起きてさらに報告が増えていく。タルパは保持者の持つ情報を元に生み出されると考えているのもあって、タルパは保持者の目にしたミームを取り込んでしまいやすい性質があるのかもしれないと思っている。または、人間には目にした情報を知らず知らずのうちに内在化してしまう性質があるのかもしれない。遺伝子の乗り物としての人間というわけである。
さらにいえば、波紋のようにどんどん広がり増加することに成功した現象は、普遍的に起こりえるタルパの現象として採択されて、wikiなどの公共の場所で共有される。その情報を見た人がその現象をまた内在化する。そして、その現象が自分のところで起きたら発信して共有する。そのようなループを繰り返していくうちに文化のひとつとして確実に根付いていくのだ。まさにミームである。
もちろん、過去から現在まで続いているものを体現する言葉を見つけたのでそれにカテゴライズするという動きもあるのだと思う。だが、そうでなく「ただちにその概念に影響された」と思ってしまうほどに報告数が急激に増えたという事実も同時にそこにあるのだった。
ちなみに、タルパにネットミーム的な側面があると考えているのもあり、IFとは似ているけれども異なる存在なのではないかと考えています。収斂進化のように祖先は異なるけれど形が結果的に似たものになったかのような。サカナとサメ、カモとカモノハシのような関係です。
さて、長々と書いてしまいましたが要は「ミームに影響されて邂逅型などの存在と出会うことが増えた」という考えかたもあるというわけです。 そして上記のふたつの考えに共通して「その出会った存在に命を見出さなければタルパとして成立しない」という次の壁があります。出会っただけじゃタルパにはならないので。 ただの一過性の空想か、命のある存在だと認識するかの分かれ目として、創造型やIFなどの「見えないけどそこにいる存在」がいる・いたかどうかがあるのかなと思います。いなかったとしても、そのような考えかたができるかどうかという話に変わるだけである。
ヤマメマヤの考える邂逅型の発生メカニズムにこんなものがあります。
邂逅型タルパとはなんなのか。自分が作ったわけでないのならどこからやってきたのか?難しい話だけれども、自分はやはりダイブについて話したように白昼夢のようなものなのだと思っている。 無意識的で無自覚的に作り上げられたもの。考えが降ってくるとかひらめきとかっていうけれど、それのキャラクター版のようなイメージ。自分から出てきたとは思えない突発的なものなんじゃないかと。
タルパとかイマジナリーフレンドとかと接している人たちなら、それに命を見出したら生き物として人間として話を聞くだろうから、その態度などを通じて人格が形成されるのではないか。タルパーとかIF保持者でなくても、空想に命を見いだせる能力のある人だってそうだ。自分の妄想と断ずることなく耳を貸すからこそ、どんどんしゃべりだしてその場で人格構築がなされる。超短期間で作られた創造型のようなものではないかと考えた。 そしてその一連の流れを経て、受け入れるかその場で別れるか選択をするわけで。ここで受け入れればタルパやIFとして存在することになるし、別れるのなら一過性の想像という形で終わることになる。
ここに自分の考えるすべてが集約されています。これは、生誕型や発生型などの「出会う存在」すべてに当てはまると考えている。 創造型やIFなどの経験を通じて、命ある存在として認めやすい素地ができているからこそ邂逅型などが様々なところで発生しているのかなと思っていた。
ところで、邂逅型は「無から霊体を創造する」わけではないからタルパじゃない、という考えかたをしている人が他方でいるようです。もちろん人それぞれだし、その人の考えを否定するつもりはない。 ただ、自分はタルパをトゥルパと区別している上で、ネットミームとして考えているのもあり、邂逅型は立派なタルパの一形態だと思っています。邂逅型という概念を取り入れた時点でたしかにトゥルパからは離れてしまいましたが、その流れもひっくるめて「ネットミーム」であると考えているので。
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