Don't wanna be here? Send us removal request.
Text

マサイは
”自分の満たされる度合いを知っている”
エコビレッジを作っている村に毎日遊びに来る12歳のマサイ女子《ネマ》。
彼女はマサイ女子なりにおしゃれをする。
ある時、俺が日本から持って行った油性ペンで、嬉しそうに顔に落書きをしていた。
よく見たら、茶色いアイラインと赤い口紅を塗ったように油性マジックで染めていた。
女子は世界中どこでも、自分を美しく見せる努力をするのが楽しいみたいだ。
いつも木の実をくれたり葉っぱで包帯を作ってくれているお礼に、なぜかあきちゃんが日本から持ってきたペディキュアっていう爪に貼るキラキラしたシールをあげた。
100円ショップで買った、一枚にちっちゃくてキラキラしてるシールが36枚くらいついてるやつだ。
それをこうやって爪に貼るんだよって身振りで教えると、ネマはこれがいいって気に入ったシールを指差した。
それを剥がして渡したら、人差し指の爪に貼って嬉しそうに微笑んだ。
あまりにも嬉しそうだったから、全部あげるよって渡した。
そしたら、
「いらない、これが一番いい」って断ってきた。
「遠慮しないでいいから全部あげるよ」
と渡しても、
「いらない」
と受け取らない。
そういえば、マサイの子ども達が遊びにきた時に、水をあげると、コップに半分くらい飲んだらコップを返してくる。
「全部飲んでいいよ」
って俺が言っても、
「いらない」
という。
マサイ族はいつも地面に溜まった泥水を飲んでいる。
せっかくここに透明で綺麗な水が飲めるチャンスなんだから、いっぱい飲めばいいのに。
と俺は思った。
でも45日間一緒に過ごしていたら、その気持ちがわかってきた。
そして、人生で大切なことをマサイの子どもたちから学んだ。
マサイは
”自分の満たされる度合いを知っている”
日本人は
”あればあるほどたくさん手に入れる”
マサイは、いつも必要な分を必要なだけ手に入れる。
それで人生が満たされている。
生まれてから死ぬまで満たされている。
日本人は、いくら手に入れても、持ちきれなくなっても、貯蓄という手段で、欲望をキリなく満たそうとする。
生まれてから死ぬまで満たされない。
俺はネマが毎日嬉しそうに鼻歌を歌って、その日にやりたいことをやっているのを見てるのが好きだ。
毎日が最高の一日。
日本から見たら、
タンザニアの砂地は暑くて水道も電気もない不便で過酷な場所だ。
でもそんな場所に住んでいるマサイ族は、とても幸せな人生を送っている。
マサイの家族はみんな
毎日が最高の一日。
※ちなみに、ネマはスワ���リ語。俺は日本語で会話をする。ちゃんと通じる。なぜならば、マサイは牛とも山羊とも話せる。人間なんて簡単だ。言葉なんていらない。
5 notes
·
View notes
Text
フグ毒による昏睡状態を楽しむイルカの光景が撮影される

「イルカたちは非常に優しくかつ繊細にフグに噛みつき、その毒による効果を得ていた。」 動物学者でありこのドキュメンタリー番組のプロデューサーであるRob Pilleyは、その撮影された映像について語る。 「彼らは一匹のフグを殺さないよう慎重にかつ意図的に噛みつき、それを20~30分の間数匹のイルカで交互に渡しながら遊んでいるようにみえた。」 勿論、イルカであってもフグの毒を過剰に摂取してしまえば死んでしまう。しかし、微量を摂取することで毒による麻酔などの症状を楽しんでいるようだ。 フグ毒を摂取したイルカは次々と水面付近を力なく泳ぐといった昏睡状態に陥っている光景も観測された。

1K notes
·
View notes
Text
虚子編『新歳時記』を読む
花鳥誌2017年12月号より転載

俳句結社「街」主宰
今井 聖
さらに読む
2 notes
·
View notes
Text
酩酊を楽しむことは美しい
フグ毒による昏睡状態を楽しむイルカの光景が撮影される

「イルカたちは非常に優しくかつ繊細にフグに噛みつき、その毒による効果を得ていた。」 動物学者でありこのドキュメンタリー番組のプロデューサーであるRob Pilleyは、その撮影された映像について語る。 「彼らは一匹のフグを殺さないよう慎重にかつ意図的に噛みつき、それを20~30分の間数匹のイルカで交互に渡しながら遊んでいるようにみえた。」 勿論、イルカであってもフグの毒を過剰に摂取してしまえば死んでしまう。しかし、微量を摂取することで毒による麻酔などの症状を楽しんでいるようだ。 フグ毒を摂取したイルカは次々と水面付近を力なく泳ぐといった昏睡状態に陥っている光景も観測された。

1K notes
·
View notes
Text
!
043『らくガキ』/ 鋤田正義/デヴィッド・ボウイ・Ziggy Stardust
冨士夫は、部屋の中にいるとき、 たいていギターを抱えている。 それも、ずっとだ。 いつでも弾けるような姿勢ができている。 テレビを見ているときも、 窓向こうの空を眺めているときも、 誰かが遊びにきたりしても、 その姿勢は変わらない。 もし、そのまま飲み会になり 宴会にでもなろうものなら、 それこそ嬉しそうに弾き語りを始めるのだ。
それは、ビートルズだったり、 ストーンズだったり、 古いブルーズだったりするのだけれど、 結局は自分の歌を演りだすことが多い。 それも愉しそうに歌う。 誰に聴かせるでもなく延々と続く宴は、 まるで、冨士夫自身のためにあるかのようだった。
エミリと『らくガキ』のエピソードを 思い出そうとしたとき、 そんな冨士夫が思い浮かんだ。
何をするでもなく延々とギターをつま弾く冨士夫。 曲を作っているのかいないのか、 いつものようにギターを抱えている。 気がつくと、そこにカズが加わったりする。 そして、うっかりしてると、 相手は青ちゃんに変わったりしているのだ。
今となっては、そんな風にしか 思い出すことのできないシーン。 それが『らくガキ』に つながってたりするのかも知れない。
1989年当時、 初台の北口の商店街に冨士夫の家はあった。 1階は肉屋で、 その横の階段を上がった4階に住んでいた。 商店街に面した窓を開けると、 正面の屋根づたいの向こう側に、 『TEARDROPS』の事務所が見える。 下を見ると商店街。 その商店街を右にずっと目線を動かしていくと、 山手通りの手前に白いマンションが見える。 そこがカズの住まいだ。 青ちゃんの家はその裏側にある。
「窓から外を眺めてたらさぁ、 佐瀬が歩いて来るんだ」 と、エミリが言う。
書き忘れていたが、佐瀬の住まいは カズや青ちゃんとは対局にあった。 つまり、商店街を左に数百メートル行ったあたり。 ゆえに、何かと冨士夫の家の前を通ることが多い。
「“おっ、佐瀬がコロッケを買ってるぞ!” って、冨士夫が言うんだよね。 どれどれって見下ろしたら、 佐瀬がコロッケを買って 山手通りに向かって歩いている。 “カズん家に行くんじゃねぇか”なんて言ってたら、 やっぱりカズのマンションに入ってった。 “コロッケを土産に仲がいいな” なんて冨士夫も言ってたんだけどさぁ、 しばらくして佐瀬が泣きながら カズのマンションから出てきたんだ。 驚いた冨士夫は、たまらず階段を駆け下りてさ、 子供みたいに泣いてる佐瀬のところに行ったのよ。 “どうした、佐瀬!”ってね。 そしたらさ、佐瀬はわんわん泣きながら、 “カズが、お前のドラムじゃ弾けねぇって!” そう言ったって、冨士夫に訴えるワケ。 “ぬぁんだと!” それを聞いた冨士夫は腕まくりしてさ、 生意気なカズを懲らしめに行くんだけどね、 結局は仲直り。 カズはしょっちゅう、 そんなふうに佐瀬をからかっては ウップン晴らしをするんだよ。 だから、佐瀬もお返しにカズをぶん殴るでしょ。 口じゃ勝てないからね。 まぁ、どっちもどっちかな」 なんて、エミリも遠くを見て笑っていた。
そう、そんな感じなのだ。 そんな日常の中で曲ができていった気がする。
1989年1月5日に『らくガキ』のレコーディングは、 EMIの第3スタジオで始まった。 途中、テラスタジオに移ったが、 18日には総ての音入れが終了。 5日間のトラックダウンの後に23日には完パケしている。 実に19日間の早ワザである。 レコード会社のバジェット、日程、要望、 総てに従ったカタチの結果だった。
コチラにもレコーディングを延ばせない事情があった。 関西ツアーと、それに伴った準備があったのだ。
2月1日 名古屋/ハートランドLIVE 2日 大阪/プロモーション・各誌インタビュー 3日 神戸/チキンジョージLIVE 4日 東京/プロモーション・インタビュー(冨士夫のみ) 5日 大阪/��ーボンハウスLIVE と、スケジュールをこなした後、 大阪から新幹線で帰京した6日の夜8時に、 そのまま『らくガキ』のジャッケット撮影の ためにスタジオ入りした。
コチラから指名した写真家の 鋤田正義さんのスケジュールが、 そこしか空いてなかったのだ。
鋤田さんといえば、世界的な写真家。 マーク・ボランや デヴィッド・ボウイ を 被写体とした作品は、誰もが知るところだ。
冨士夫は村八分のときに 一度、彼の被写体になっている。 そのときの縁を持ち出し、 この時のオファーにいたったってわけだ。 (だれが言い出しっぺかは憶えていない)
鋤田さんは、その知名度に似合わず、 ぜんぜん気さくで自然体な人。 『らくガキ』というタイトルを意識した コンセプトで問題なく撮影は終了した。
ただ、残念だったのは、 コチラのコンディションがあまり良くなかったこと。 カズと佐瀬は例のごとく喧嘩をした直後だった。 その『ガキ』のような繰り返しに、 冨士夫と青ちゃんが呆れ返っている。 冨士夫もハードな毎日に疲れきっていた。 そんな、すったもんだのあげくの、 怪しい雲行きのままのぞんだ撮影だったのだ。
さて、話をさらなる過去に遡ろうと想う。 そこから、振り返ること16年前、 1973年の初めに、冨士夫は鋤田さんと初めて会った。 鋤田さんが『村八分』を撮りに京都まで来たのである。 『ニューミュージックマガジン』の仕事だった。 そこにはエキゾチックな妖気をまとった 若き日の『冨士夫』が写っている。 実際にエミリは、そのときの話を冨士夫から聞いていた。 冨士夫は、その時、京都太秦映画関係者の 美粧であるコーチャンという人に メイキャップをしてもらったらしい。 コーチャンは少し年上だが冨士夫の友達だったという。 冨士夫が聞いていたハナシでは、 『村八分』の取材・インタビューということだったが、 フタを開けたら冨士夫の単独取材。 「なんで、俺だけなんだよぅ」 って、凄く嫌だったそうだ。
そのときの写真が、 眉毛を剃って白塗りにメーキャップした あの有名な写真だ。 髪の一部もメッシュにしている冨士夫の姿は、 当時、高校生で、特別に『村八分』を 意識していなかった僕にとっても、 随分と印象深く記憶に残っている。
“ あのころ、村八分の取り巻きに 一人の英国女性がいて、 その彼女が本国に帰って『デヴィッド・ボウイ』の ヘアー・メイクになった。 それで『Ziggy Stardust』のイメージが生まれた ”
なんて、噂話を随分と前に聞いたことがあった。 僕なんか、すぐに信じちゃうほうである。 「それじゃあ、冨士夫のメイクをボウイは真似たのかい?」 ってんで、冨士夫に確かめて��る。
しかし、当の本人は 「その話はもういいよ、俺は知らねぇし、関係ない」 って、冷たい。 ほんとうに、そのことには 興味がないみたいだった。
鋤田さんについての、 その頃のインタビューなり文章をみても、 冨士夫と デヴィッド・ボーイを つなげるような一文もない。
ただ、偶然にも同じ時期に、 同じ写真家が関わった東西のアーティストが、 たまたま同じヘアー・メイクをした。
ということなのだろう…………か!?
ボウイは、『Ziggy Stardust』を制作するにあたって、 日本の歌舞伎といった大衆芸能も参考にしているという。 しかも、『Ziggy Stardust』期の ボウイのスタイリストは日本女性である。 山本寛斎のスタイリストとしてロンドンに渡った彼女は、 1972年にボウイのスタイリストになったという記述が、 鋤田さんの一文にあった。
京都の伝統を重んじる美粧を施し、 自分だけフィーチャーされる撮影に、 いやいやながらもファインダーに収まった冨士夫。 それでも、化粧は当時の村八分のトレードマーク。 「バンドのパブリシティになるんだったら」 という思いで割り切っていた。
誰がどうした、という話ではなく、 なにがどうつながっているのか、 という話でもないのかも知れない。
だけど、つくづくと面白いと想うのだ。 デヴィッド・ボウイの存在や人生は、 冨士夫のそれとは比べようもないほどに 華やかな世界に散っているけれど、 グラム・ロックの創世記に、 よく似た化粧のアーティストが 世界の西の端と東の端に存在していた。
それを、ファインダー越しに 一人の写真家が押さえている。
京都の四条河原町の交差点あたりで、 あるいは、ロンドンのカムデンタウンにある フリーマーケットの賑わいの中で、 あのとき、二人がバッタリと出会ってたら、 どうっだたのだろうか?
想像の中の人生は果てしない。 そして、むかし話はつきることなく続いていく。
その中にほんとうのことがあるのだと思う。
少なくとも【よもヤバ話】の中では……。
(1989年〜1973年)
PS. 先日、Goodlovinの古岩井くんと呑んだら、 「鋤田さんと会ったことありますよ」と、言う。 それも、『ニューミュージックマガジン』 のために撮影した写真の使用許可をとるために。
なに!? 今回の題材にピンポイントではないか。 「早く言ってよ〜」と言ったら、 「何ども言いましたけど」 と、生意気なことを言う。 まぁ、それはいい、それでどうしたって?
『村八分BOX』用に写真の使用許可を とりたくて鋤田さんに会ったということだった。 鋤田さんは快く承諾してくれ、 「コレを冨士夫ちゃんに」 と、その時の紙焼きを新たに焼いてくれ 土産に持たせてくれたらしい。
「冨士夫ちゃんは撮影を嫌がって、 カメラを向けると顔を伏せたりして なかなか撮��せてくれなかったんだ」 と、鋤田さんが懐かしげに言う。 当時、村八分が演奏をしていた 『ガロ』にまで行って撮ったんだと、 その時のエピソードに 目がゆるんでいたらしい。
その撮影は1972年の暮れだったのか? 1973年の初めだったのか? 『ニューミュージックマガジン』の 1973年2月号に掲載されたのだから、 時期的にはそんなところだろう。
撮影の後に鋤田さんはロンドンに飛んだという。 その時、デヴィッド・ボウイに 仕事の作品写真ファイルを見せたのだ。
「この写真に写っているのは?」
数ある写真をめくったなかで、 ボウイが手を止めたのは冨士夫のショットだったとか。
鋤田さんは、日本のアーティストだと 簡単な説明をして、その場はそのまま流れたらしい。
「そういえば……!」
思い出したように鋤田さんは、 その後の言葉をつないだ、という。
「ボウイにそのあと会ったとき、 一度だけ、あのときの冨士夫ちゃんと 同じメイクをしていたことがある」……と、
さりげなく言っていたのだとか。
な〜んて言葉を吐くと、 こ生意気な古岩井くんは、 得意げに生ビールを呑みほした。
それを聞いた僕も、 酩酊しながらハイボールをおかわりする。 もう、頭の中はぐらんぐらんだった。
このまま星くず(Stardust)になっちまっても かまわないほどに、夢見心地だったのだ。
39 notes
·
View notes
Text
043『らくガキ』/ 鋤田正義/デヴィッド・ボウイ・Ziggy Stardust
冨士夫は、部屋の中にいるとき、 たいていギターを抱えている。 それも、ずっとだ。 いつでも弾けるような姿勢ができている。 テレビを見ているときも、 窓向こうの空を眺めているときも、 誰かが遊びにきたりしても、 その姿勢は変わらない。 もし、そのまま飲み会になり 宴会にでもなろうものなら、 それこそ嬉しそうに弾き語りを始めるのだ。
それは、ビートルズだったり、 ストーンズだったり、 古いブルーズだったりするのだけれど、 結局は自分の歌を演りだすことが多い。 それも愉しそうに歌う。 誰に聴かせるでもなく延々と続く宴は、 まるで、冨士夫自身のためにあるかのようだった。
エミリと『らくガキ』のエピソードを 思い出そうとしたとき、 そんな冨士夫が思い浮かんだ。
何をするでもなく延々とギターをつま弾く冨士夫。 曲を作っているのかいないのか、 いつものようにギターを抱えている。 気がつくと、そこにカズが加わったりする。 そして、うっかりしてると、 相手は青ちゃんに変わったりしているのだ。
今となっては、そんな風にしか 思い出すことのできないシーン。 それが『らくガキ』に つながってたりするのかも知れない。
1989年当時、 初台の北口の商店街に冨士夫の家はあった。 1階は肉屋で、 その横の階段を上がった4階に住んでいた。 商店街に面した窓を開けると、 正面の屋根づたいの向こう側に、 『TEARDROPS』の事務所が見える。 下を見ると商店街。 その商店街を右にずっと目線を動かしていくと、 山手通りの手前に白いマンションが見える。 そこがカズの住まいだ。 青ちゃんの家はその裏側にある。
「窓から外を眺めてたらさぁ、 佐瀬が歩いて来るんだ」 と、エミリが言う。
書き忘れていたが、佐瀬の住まいは カズや青ちゃんとは対局にあった。 つまり、商店街を左に数百メートル行ったあたり。 ゆえに、何かと冨士夫の家の前を通ることが多い。
「“おっ、佐瀬がコロッケを買ってるぞ!” って、冨士夫が言うんだよね。 どれどれって見下ろしたら、 佐瀬がコロッケを買って 山手通りに向かって歩いている。 “カズん家に行くんじゃねぇか”なんて言ってたら、 やっぱりカズのマンションに入ってった。 “コロッケを土産に仲がいいな” なんて冨士夫も言ってたんだけどさぁ、 しばらくして佐瀬が泣きながら カズのマンションから出てきたんだ。 驚いた冨士夫は、たまらず階段を駆け下りてさ、 子供みたいに泣いてる佐瀬のところに行ったのよ。 “どうした、佐瀬!”ってね。 そしたらさ、佐瀬はわんわん泣きながら、 “カズが、お前のドラムじゃ弾けねぇって!” そう言ったって、冨士夫に訴えるワケ。 “ぬぁんだと!” それを聞いた冨士夫は腕まくりしてさ、 生意気なカズを懲らしめに行くんだけどね、 結局は仲直り。 カズはしょっちゅう、 そんなふうに佐瀬をからかっては ウップン晴らしをするんだよ。 だから、佐瀬もお返しにカズをぶん殴るでしょ。 口じゃ勝てないからね。 まぁ、どっちもどっちかな」 なんて、エミリも遠くを見て笑っていた。
そう、そんな感じなのだ。 そんな日常の中で曲ができていった気がする。
1989年1月5日に『らくガキ』のレコーディングは、 EMIの第3スタジオで始まった。 途中、テラスタジオに移ったが、 18日には総ての音入れが終了。 5日間のトラックダウンの後に23日には完パケしている。 実に19日間の早ワザである。 レコード会社のバジェット、日程、要望、 総てに従ったカタチの結果だった。
コチラにもレコーディングを延ばせない事情があった。 関西ツアーと、それに伴った準備があったのだ。
2月1日 名古屋/ハートランドLIVE 2日 大阪/プロモーション・各誌インタビュー 3日 神戸/チキンジョージLIVE 4日 東京/プロモーション・インタビュー(冨士夫のみ) 5日 大阪/バーボンハウスLIVE と、スケジュールをこなした後、 大阪から新幹線で帰京した6日の夜8時に、 そのまま『らくガキ』のジャッケット撮影の ためにスタジオ入りした。
コチラから指名した写真家の 鋤田正義さんのスケジュールが、 そこしか空いてなかったのだ。
鋤田さんといえば、世界的な写真家。 マーク・ボランや デヴィッド・ボウイ を 被写体とした作品は、誰もが知るところだ。
冨士夫は村八分のときに 一度、彼の被写体になっている。 そのときの縁を持ち出し、 この時のオファーにいたったってわけだ。 (だれが言い出しっぺかは憶えていない)
鋤田さんは、その知名度に似合わず、 ぜんぜん気さくで自然体な人。 『らくガキ』というタイトルを意識した コンセプトで問題なく撮影は終了した。
ただ、残念だったのは、 コチラのコンディションがあまり良くなかったこと。 カズと佐瀬は例のごとく喧嘩をした直後だった。 その『ガキ』のような繰り返しに、 冨士夫と青ちゃんが呆れ返っている。 冨士夫もハード���毎日に疲れきっていた。 そんな、すったもんだのあげくの、 怪しい雲行きのままのぞんだ撮影だったのだ。
さて、話をさらなる過去に遡ろうと想う。 そこから、振り返ること16年前、 1973年の初めに、冨士夫は鋤田さんと初めて会った。 鋤田さんが『村八分』を撮りに京都まで来たのである。 『ニューミュージックマガジン』の仕事だった。 そこにはエキゾチックな妖気をまとった 若き日の『冨士夫』が写っている。 実際にエミリは、そのときの話を冨士夫から聞いていた。 冨士夫は、その時、京都太秦映画関係者の 美粧であるコーチャンという人に メイキャップをしてもらったらしい。 コーチャンは少し年上だが冨士夫の友達だったという。 冨士夫が聞いていたハナシでは、 『村八分』の取材・インタビューということだったが、 フタを開けたら冨士夫の単独取材。 「なんで、俺だけなんだよぅ」 って、凄く嫌だったそうだ。
そのときの写真が、 眉毛を剃って白塗りにメーキャップした あの有名な写真だ。 髪の一部もメッシュにしている冨士夫の姿は、 当時、高校生で、特別に『村八分』を 意識していなかった僕にとっても、 随分と印象深く記憶に残っている。
“ あのころ、村八分の取り巻きに 一人の英国女性がいて、 その彼女が本国に帰って『デヴィッド・ボウイ』の ヘアー・メイクになった。 それで『Ziggy Stardust』のイメージが生まれた ”
なんて、噂話を随分と前に聞いたことがあった。 僕なんか、すぐに信じちゃうほうである。 「それじゃあ、冨士夫のメイクをボウイは真似たのかい?」 ってんで、冨士夫に確かめてみる。
しかし、当の本人は 「その話はもういいよ、俺は知らねぇし、関係ない」 って、冷たい。 ほんとうに、そのことには 興味がないみたいだった。
鋤田さんについての、 その頃のインタビューなり文章をみても、 冨士夫と デヴィッド・ボーイを つなげるような一文もない。
ただ、偶然にも同じ時期に、 同じ写真家が関わった東西のアーティストが、 たまたま同じヘアー・メイクをした。
ということなのだろう…………か!?
ボウイは、『Ziggy Stardust』を制作するにあたって、 日本の歌舞伎といった大衆芸能も参考にしているという。 しかも、『Ziggy Stardust』期の ボウイのスタイリストは日本女性である。 山本寛斎のスタイリストとしてロンドンに渡った彼女は、 1972年にボウイのスタイリストになったという記述が、 鋤田さんの一文にあった。
京都の伝統を重んじる美粧を施し、 自分だけフィーチャーされる撮影に、 いやいやながらもファインダーに収まった冨士夫。 それでも、化粧は当時の村八分のトレードマーク。 「バンドのパブリシティになるんだったら」 という思いで割り切っていた。
誰がどうした、という話ではなく、 なにがどうつながっているのか、 という話でもないのかも知れない。
だけど、つくづくと面白いと想うのだ。 デヴィッド・ボウイの存在や人生は、 冨士夫のそれとは比べようもないほどに 華やかな世界に散っているけれど、 グラム・ロックの創世記に、 よく似た化粧のアーティストが 世界の西の端と東の端に存在していた。
それを、ファインダー越しに 一人の写真家が押さえている。
京都の四条河原町の交差点あたりで、 あるいは、ロンドンのカムデンタウンにある フリーマーケットの賑わいの中で、 あのとき、二人がバッタリと出会ってたら、 どうっだたのだろうか?
想像の中の人生は果てしない。 そして、むかし話はつきることなく続いていく。
その中にほんとうのことがあるのだと思う。
少なくとも【よもヤバ話】の中では……。
(1989年〜1973年)
PS. 先日、Goodlovinの古岩井くんと呑んだら、 「鋤田さんと会ったことありますよ」と、言う。 それも、『ニューミュージックマガジン』 のために撮影した写真の使用許可をとるために。
なに!? 今回の題材にピンポイントではないか。 「早く言ってよ〜」と言ったら、 「何ども言いましたけど」 と、生意気なことを言う。 まぁ、それはいい、それでどうしたって?
『村八分BOX』用に写真の使用許可を とりたくて鋤田さんに会ったということだった。 鋤田さんは快く承諾してくれ、 「コレを冨士夫ちゃんに」 と、その時の紙焼きを新たに焼いてくれ 土産に持たせてくれたらしい。
「冨士夫ちゃんは撮影を嫌がって、 カメラを向けると顔を伏せたりして なかなか撮らせてくれなかったんだ」 と、鋤田さんが懐かしげに言う。 当時、村八分が演奏をしていた 『ガロ』にまで行って撮ったんだと、 その時のエピソードに 目がゆるんでいたらしい。
その撮影は1972年の暮れだったのか? 1973年の初めだったのか? 『ニューミュージックマガジン』の 1973年2月号に掲載されたのだから、 時期的にはそんなところだろう。
撮影の後に鋤田さんはロンドンに飛んだという。 その時、デヴィッド・ボウイに 仕事の作品写真ファイルを見せたのだ。
「この写真に写っているのは?」
数ある写真をめくったなかで、 ボウイが手を止めたのは冨士夫のショットだったとか。
鋤田さんは、日本のアーティストだと 簡単な説明をして、その場はそのまま流れたらしい。
「そういえば……!」
思い出したように鋤田さんは、 その後の言葉をつないだ、という。
「ボウイにそのあと会ったとき、 一度だけ、あのときの冨士夫ちゃんと 同じメイクをしていたことがある」……と、
さりげなく言っていたのだとか。
な〜んて言葉を吐くと、 こ生意気な古岩井くんは、 得意げに生ビールを呑みほした。
それを聞いた僕も、 酩酊しながらハイボールをおかわりする。 もう、頭の中はぐらんぐらんだった。
このまま星くず(Stardust)になっちまっても かまわないほどに、夢見心地だったのだ。
39 notes
·
View notes
Text
043『らくガキ』/ 鋤田正義/デヴィッド・ボウイ・Ziggy Stardust
冨士夫は、部屋の中にいるとき、 たいていギターを抱えている。 それも、ずっとだ。 いつでも弾けるような姿勢ができている。 テレビを見ているときも、 窓向こうの空を眺めているときも、 誰かが遊びにきたりしても、 その姿勢は変わらない。 もし、そのまま飲み会になり 宴会にでもなろうものなら、 それこそ嬉しそうに弾き語りを始めるのだ。
それは、ビートルズだったり、 ストーンズだったり、 古いブルーズだったりするのだけれど、 結局は自分の歌を演りだすことが多い。 それも愉しそうに歌う。 誰に聴かせるでもなく延々と続く宴は、 まるで、冨士夫自身のためにあるかのようだった。
エミリと『らくガキ』のエピソードを 思い出そうとしたとき、 そんな冨士夫が思い浮かんだ。
何をするでもなく延々とギターをつま弾く冨士夫。 曲を作っているのかいないのか、 いつものようにギターを抱えている。 気がつくと、そこにカズが加わったりする。 そして、うっかりしてると、 相手は青ちゃんに変わったりしているのだ。
今となっては、そんな風にしか 思い出すことのできないシーン。 それが『らくガキ』に つながってたりするのかも知れない。
1989年当時、 初台の北口の商店街に冨士夫の家はあった。 1階は肉屋で、 その横の階段を上がった4階に住んでいた。 商店街に面した窓を開けると、 正面の屋根づたいの向こう側に、 『TEARDROPS』の事務所が見える。 下を見ると商店街。 その商店街を右にずっと目線を動かしていくと、 山手通りの手前に白いマンションが見える。 そこがカズの住まいだ。 青ちゃんの家はその裏側にある。
「窓から外を眺めてたらさぁ、 佐瀬が歩いて来るんだ」 と、エミリが言う。
書き忘れていたが、佐瀬の住まいは カズや青ちゃんとは対局にあった。 つまり、商店街を左に数百メートル行ったあたり。 ゆえに、何かと冨士夫の家の前を通ることが多い。
「“おっ、佐瀬がコロッケを買ってるぞ!” って、冨士夫が言うんだよね。 どれどれって見下ろしたら、 佐瀬がコロッケを買って 山手通りに向かって歩いている。 “カズん家に行くんじゃねぇか”なんて言ってたら、 やっぱりカズのマンションに入ってった。 “コロッケを土産に仲がいいな” なんて冨士夫も言ってたんだけどさぁ、 しばらくして佐瀬が泣きながら カズのマンションから出てきたんだ。 驚いた冨士夫は、たまらず階段を駆け下りてさ、 子供みたいに泣いてる佐瀬のところに行ったのよ。 “どうした、佐瀬!”ってね。 そしたらさ、佐瀬はわんわん泣きながら、 “カズが、お前のドラムじゃ弾けねぇって!” そう言ったって、冨士夫に訴えるワケ。 “ぬぁんだと!” それを聞いた冨士夫は腕まくりしてさ、 生意気なカズを懲らしめに行くんだけどね、 結局は仲直り。 カズはしょっちゅう、 そんなふうに佐瀬をからかっては ウップン晴らしをするんだよ。 だから、佐瀬もお返しにカズをぶん殴るでしょ。 口じゃ勝てないからね。 まぁ、どっちもどっちかな」 なんて、エミリも遠くを見て笑っていた。
そう、そんな感じなのだ。 そんな日常の中で曲ができていった気がする。
1989年1月5日に『らくガキ』のレコーディングは、 EMIの第3スタジオで始まった。 途中、テラスタジオに移ったが、 18日には総ての音入れが終了。 5日間のトラックダウンの後に23日には完パケしている。 実に19日間の早ワザである。 レコード会社のバジェット、日程、要望、 総てに従ったカタチの結果だった。
コチラにもレコーディングを延ばせない事情があった。 関西ツアーと、それに伴った準備があったのだ。
2月1日 名古屋/ハートランドLIVE 2日 大阪/プロモーション・各誌インタビュー 3日 神戸/チキンジョージLIVE 4日 東京/プロモーション・インタビュー(冨士夫のみ) 5日 大阪/バーボンハウスLIVE と、スケジュールをこなした後、 大阪から新幹線で帰京した6日の夜8時に、 そのまま『らくガキ』のジャッケット撮影の ためにスタジオ入りした。
コチラから指名した写真家の 鋤田正義さんのスケジュールが、 そこしか空いてなかったのだ。
鋤田さんといえば、世界的な写真家。 マーク・ボランや デヴィッド・ボウイ を 被写体とした作品は、誰もが知るところだ。
冨士夫は村八分のときに 一度、彼の被写体になっている。 そのときの縁を持ち出し、 この時のオファーにいたったってわけだ。 (だれが言い出しっぺかは憶えていない)
鋤田さんは、その知名度に似合わず、 ぜんぜん気さくで自然体な人。 『らくガキ』というタイトルを意識した コンセプトで問題なく撮影は終了した。
ただ、残念だったのは、 コチラのコンディションがあまり良くなかったこと。 カズと佐瀬は例のごとく喧嘩をした直後だった。 その『ガキ』のような繰り返しに、 冨士夫と青ちゃんが呆れ返っている。 冨士夫もハードな毎日に疲れきっていた。 そんな、すったもんだのあげくの、 怪しい雲行きのままのぞんだ撮影だったのだ。
さて、話をさらなる過去に遡ろうと想う。 そこから、振り返ること16年前、 1973年の初めに、冨士夫は鋤田さんと初めて会った。 鋤田さんが『村八分』を撮りに京都まで来たのである。 『ニューミュージックマガジン』の仕事だった。 そこにはエキゾチックな妖気をまとった 若き日の『冨士夫』が写っている。 実際にエミリは、そのときの話を冨士夫から聞いていた。 冨士夫は、その時、京都太秦映画関係者の 美粧であるコーチャンという人に メイキャップをしてもらったらしい。 コーチャンは少し年上だが冨士夫の友達だったという。 冨士夫が聞いていたハナシでは、 『村八分』の取材・インタビューということだったが、 フタを開けたら冨士夫の単独取材。 「なんで、俺だけなんだよぅ」 って、凄く嫌だったそうだ。
そのときの写真が、 眉毛を剃って白塗りにメーキャップした あの有名な写真だ。 髪の一部もメッシュにしている冨士夫の姿は、 当時、高校生で、特別に『村八分』を 意識していなかった僕にとっても、 随分と印象深く記憶に残っている。
“ あのころ、村八分の取り巻きに 一人の英国女性がいて、 その彼女が本国に帰って『デヴィッド・ボウイ』の ヘアー・メイクになった。 それで『Ziggy Stardust』のイメージが生まれた ”
なんて、噂話を随分と前に聞いたことがあった。 僕なんか、すぐに信じちゃうほうである。 「それじゃあ、冨士夫のメイクをボウイは真似たのかい?」 ってんで、冨士夫に確かめてみる。
しかし、当の本人は 「その話はもういいよ、俺は知らねぇし、関係ない」 って、冷たい。 ほんとうに、そのことには 興味がないみたいだった。
鋤田さんについての、 その頃のインタビューなり文章をみても、 冨士夫と デヴィッド・ボーイを つなげるような一文もない。
ただ、偶然にも同じ時期に、 同じ写真家が関わった東西のアーティストが、 たまたま同じヘアー・メイクをした。
ということなのだろう…………か!?
ボウイは、『Ziggy Stardust』を制作するにあたって、 日本の歌舞伎といった大衆芸能も参考にしているという。 しかも、『Ziggy Stardust』期の ボウイのスタイリストは日本女性である。 山本寛斎のスタイリストとしてロンドンに渡った彼女は、 1972年にボウイのスタイリストになったという記述が、 鋤田さんの一文にあった。
京都の伝統を重んじる美粧を施し、 自分だけフィーチャーされる撮影に、 いやいやながらもファインダーに収まった冨士夫。 それでも、化粧は当時の村八分のトレードマーク。 「バンドのパブリシティになるんだったら」 という思いで割り切っていた。
誰がどうした、という話ではなく、 なにがどうつながっているのか、 という話でもないのかも知れない。
だけど、つくづくと面白いと想うのだ。 デヴィッド・ボウイの存在や人生は、 冨士夫のそれとは比べようもないほどに 華やかな世界に散っているけれど、 グラム・ロックの創世記に、 よく似た化粧のアーティストが 世界の西の端と東の端に存在していた。
それを、ファインダー越しに 一人の写真家が押さえている。
京都の四条河原町の交差点あたりで、 あるいは、ロンドンのカムデンタウンにある フリーマーケットの賑わいの中で、 あのとき、二人がバッタリと出会ってたら、 どうっだたのだろうか?
想像の中の人生は果てしない。 そして、むかし話はつきることなく続いていく。
その中にほんとうのことがあるのだと思う。
少なくとも【よもヤバ話】の中では……。
(1989年〜1973年)
PS. 先日、Goodlovinの古岩井くんと呑んだら、 「鋤田さんと会ったことありますよ」と、言う。 それも、『ニューミュージックマガジン』 のために撮影した写真の使用許可をとるために。
なに!? 今回の題材にピンポイントではないか。 「早く言ってよ〜」と言ったら、 「何ども言いましたけど」 と、生意気なことを言う。 まぁ、それはいい、それでどうしたって?
『村八分BOX』用に写真の使用許可を とりたくて鋤田さんに会ったということだった。 鋤田さんは快く承諾してくれ、 「コレを冨士夫ちゃんに」 と、その時の紙焼きを新たに焼いてくれ 土産に持たせてくれたらしい。
「冨士夫ちゃんは撮影を嫌がって、 カメラを向けると顔を伏せたりして なかなか撮らせてくれなかったんだ」 と、鋤田さんが懐かしげに言う。 当時、村八分が演奏をしていた 『ガロ』にまで行って撮ったんだと、 その時のエピソードに 目がゆるんでいたらしい。
その撮影は1972年の暮れだったのか? 1973年の初めだったのか? 『ニューミュージックマガジン』の 1973年2月号に掲載されたのだから、 時期的にはそんなところだろう。
撮影の後に鋤田さんはロンドンに飛んだという。 その時、デヴィッド・ボウイに 仕事の作品写真ファイルを見せたのだ。
「この写真に写っているのは?」
数ある写真をめくったなかで、 ボウイが手を止めたのは冨士夫のショットだったとか。
鋤田さんは、日本のアーティストだと 簡単な説明をして、その場はそのまま流れたらしい。
「そういえば……!」
思い出したように鋤田さんは、 その後の言葉をつないだ、という。
「ボウイにそのあと会ったとき、 一度だけ、あのときの冨士夫ちゃんと 同じメイクをしていたことがある」……と、
さりげなく言っていたのだとか。
な〜んて言葉を吐くと、 こ生意気な古岩井くんは、 得意げに生ビールを呑みほした。
それを聞いた僕も、 酩酊しながらハイボールをおかわりする。 もう、頭の中はぐらんぐらんだった。
このまま星くず(Stardust)になっちまっても かまわないほどに、夢見心地だったのだ。
39 notes
·
View notes
Link
Robert Johnsonの凄さはギターテクニック以上にその歌詞の凄さだと思う。 https://youtu.be/YYsnRc09csQ
0 notes
Video
instagram
犬式に踊る自由やいぬふぐり 〈びびけ〉 #俳句 #jhaiku #犬式 #脱原発 #三宅洋平
0 notes