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Gibson lespaul Jr. 1987
I bought it in '88 . Since then it has been together ! I love it. Really!
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3月11日発売のオムニバスアルバムでUNDER THE CONTROLってBANDでギター弾きました~ 売上はSTUによる東日本大震災の瓦礫撤去作業に使われます。時間は経ちましたが終わっていないので活動は続けます。もういいよと現地で言われるまで。 CD販売店 雑誌宣伝 協力店を探しています!
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059『クロコダイル』/(タンブラーから)おさらば
今からちょうど8年前の 2008年11月8日。 クロコダイルで冨士夫のライヴを行った。
今だからこそ、そっと打ち明けるが、 このライヴの2日前に冨士夫は倒れ、 深夜の病院で集中治療を受けていた。
点滴を受ける冨士夫の姿を眺めながら、 宿直の医者に持病の説明をして、 ほとんど入院を覚悟した。
ただ、もうライヴの直前だったので、 公演のキャンセル告知は当日でも 同じだろうと判断したのである。
その病院内の景色は、 今も脳裏に焼き付いている。 医者にも随分と厳しいことを 言われたような気がするが、 ずっとぎりぎりの状況が続いていたので、 多少麻痺していたかも知れない。
その頃、倒れるまでの 冨士夫の体調は比較的良好だった。 夏から森の中で生活していたこともあって、 ストレスも少なく、温泉につかり、 焚き火をして過ごす毎日だったからだ。
・・・・本ブログは、引越しました。 続きは、
http://www.niconico-guitars.com/html/blog/2016/10/30/059%e3%80%8e%e3%82%af%e3%83%ad%e3%82%b3%e3%83%80%e3%82%a4%e3%83%ab%e3%80%8f%ef%bc%8f%ef%bc%88%e3%82%bf%e3%83%b3%e3%83%96%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%8b%e3%82%89%ef%bc%89%e3%81%8a%e3%81%95%e3%82%89/
で、お楽しみ下さい。
ご報告/ 「山口冨士夫 と よもヤバ話」 http://toshiakikasuya.tumblr.com/ は、タンブラーから 『Nico-Nico Guitars BLOG』 http://www.niconico-guitars.com/html/blog/ に、引っ越しました。
今回は引っ越しの最中なのですが、 次回からは新居にて、 たたずんでいるつもりです。
何の事はない、 「コッチに来れば」 と言う知人の家に上がり込むところ。
さて、御馳走でもしてくれるのでしょうか? 楽しみでしかたありません。
このワクワク感を、 これからも皆さんと共有していければ、と思います。
まずは、ごあいさつと、お知らせまで。 これからもよろしくお願いいたします。
粕谷利昭 と、(冨士夫)
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058『村八分対談【後編】/恒田義見・上原"ユカリ"裕』/草臥れて
そのむかし、冨士夫から こんな手紙をもらったことがある。
『ダイナマイツ以前は、 (ルーズながらも)オレは静かで、無口で、 別にとりたてて 毒にも薬にもならない人間だったけど、 それはそれで、 すごくきれいに生きていたんだと思う。 (誰にでも“ あの頃(エデンの園) ” っていうのがあるようにね…) …………………… それが、村八分になって 初めて自分が育った土地を離れたんだ。 旅をし、精神的にもトリップをして、 要するに知恵の実である “ りんご ”を食べたってわけです。』
そう綴られた冨士夫の文章には、 すこしずつ浅い夢から醒めていくような、 うつろな自己分析が書かれていた。
いきなりのカウンターカルチャーの中に身を置き、 まるで実験のように“ りんご(禁断の果実) ”を食べ、 自分ではない自分を発見した人たち。
その、めくるめく時代の流れの中に 村八分が身を置くことは、 ある意味必然だったとユカリさんは言��ている。
「ちょうどウッドストックがあったしね。 アメリカのヒッピーたちが どっとニッポンにやって来た。 それがまた、東洋思想だったりするもんだから、 京都に集まっちゃったりしてね、 京都は大変なことになっちゃった」
「そう、とにかくアメリカの カウンター・カルチャーだよね。 ヒッピー文化もひっくるめて ドッヒャーって来たんだ。 それで、みんなが浮かれてたんだよね」
と、恒田さんも続ける。
そのカルチャーの渦の中で、 村八分が変貌していくのだ。 チャー坊の影響力が強くなり、 その独特な世界観で周りを巻き込んでいく。
「冨士夫ちゃんだって ��初はあんな感じじゃなかった。 それが、いきなり化粧とかしだして チャー坊の世界に入っていったんだ」
そう言うユカリさんの話を じぃっと聞いていた恒田さんは、 ボソッと、乾いたように言った。
「僕はそれを知らないんだよ」
恒田さんがいたのは、 いうなれば山口冨士夫バンドだ。 チャー坊の存在が強くなってきているのは 感じてはいたが、 影響力とかいう前の段階だったのだ。
「もうちょっと、村八分っていう バンドのイメージに 入り込めば良かったんだけどね」
恒田さんがほんの少し悔やむと、
「いや、僕はもう、ちょっと、入り込み過ぎて(笑)。 とにかく凄いバンドでしたね。 そう言うしかないくらい凄かった(笑)」
とユカリさんが、 その言葉を救うように続ける。
最も驚いたのは、楽器ができないのに、 バンドをやろうとするところ。 生ギターをポロロンとやっていた青ちゃんに、 いきなりベースを持たせた。 ポジションもわからずにウロウロしていると、 冨士夫がコマメに補っているのだ。
「そうそう。だからチューニングも わかってなかったみたい。 テツ(浅田哲)もそうだよね、 ギターが弾けなかった。 だから冨士夫ちゃんがいつも 横にいて教えていたんだ」
「最後にはさ、チャー坊が “お前、ピアノやんないか?”って言ってきたの。 エッ? ピアノ? それじゃ、ドラムはいったい誰がやるんだろう? なんて思ったよね。 そこら辺が全然わかんなかった(笑)」
ユカリさんがそう言って笑った。
この時点で冨士夫はダイナマイツのときと 同じ立ちポジションに立っている。 音楽がとにかく好きなのだ。 だから音楽づけになって、 それをメンバーに伝授する。 ダイナマイツの時も、 全員のパートを耳で確認して それぞれに伝えたりしていた。 その経験があるから 楽器のできない素人でも ステージに上げる自信があったのだろう。 練習さえすればミュージシャンになれる。 冨士夫自身が数年前までそうだったように。 ただ、こうして冨士夫が音楽に没頭するぶん、 バンドのイメージはチャー坊に委ねられた。
「あっ、思い出した。 もうひとつ聞きたかったこと。 チャー坊はさ、京都の人間にこだわってたよね。」
恒田さんが気を取り直したようにユカリさんを見た。
「メンバーですか? ああ、そうなのかな。 京都弁で歌ってましたしね」
「俺にはそう見えたの。 京都の人間だけで バンド作りたかったんじゃないかって」
「ああ、そうかも知れないですね。 でも、京都の人って、だいたいが 東京の人が好きなんですけどね。 京都も都(みやこ)意識ってのがありますから、 東京を意識するのかも知れないですね」
後に、青ちゃんが京都を去ると、 村八分のメンバーは、冨士夫を抜かすと 全員が京都人になった。
先に京都を去った恒田さんが 近田さんとハルヲフォンをやっているころ、 演奏をしていた銀座のハコに、 冨士夫がひょっこりと現れたという。
「ちょっとギター弾かしてくれ」って。 「あれ?冨士夫ちゃん、京都はどうしたの?」 って聞いたら、 「チャー坊が京都にこだわり過ぎでさぁ、 やってられねぇんだよ」って。 「村八分もやめちまったよ」 そう言いながら、 なんだかんだ話しまくって、 最後はメシ喰って帰っていったのだとか。
「冨士夫はピュアだからね、 村八分で変わっちゃった冨士夫を見ると 信じられない気持ちになる」
そう恒田さんが嘆き混じりに言うと、
「そう、気持ちが純粋だからね」
と、ユカリさん。
「ウブな人」
「だから、逆に染まりやすいっていうか、 そういう人ですよね」
冨士夫にしても自分の中で、 いろんな葛藤があったんだと思う。 とつなげながら、 ユカリさんは、思いついたように言った。
「だけど、冨士夫ちゃんは思い込みが いっぱいありますからね。 僕なんか、村八分のころ、 彼女の家に母親と一緒に 住んでいたことになってる(笑)。 住んでねぇよ!ってね(笑)」
「それなら、まだいいよ。 俺なんか思いっきりチャー坊に殴られて、 ぶっ飛んで、どっか行っちゃった くらいのこと書かれてるんだもん。 ビックリしちゃったよ」
「もう、ぜんぜん、なにがなんだか。 冨士夫ちゃんの思い込みで書いているから」
「それ含めて冨士夫なんだよね」
「そうそう、ジョーさん(ジョー山中)のことを、 “ あいつはパーマかけてるから ”なんて言っちゃって(笑)」
(一同爆笑)
「音楽だけじゃなく、 面白い話をするためにも 努力してるんだね、冨士夫は」
「話にひねりが入って、 山盛りになるってところが凄いんです(笑)」
(再び、一同大爆笑)
「ところで、僕らのころは、 村八分がアムステルダムで レコーディングするんだって、 でっかい話があったんだけど、 あれはどうなった?」
改めて恒田さんが聞いた。
「それは知らないなぁ」 と、ユカリさんは呟きながら、
「でも、エレックに全員で乗り込んだんです。 全員で行くっていうのが凄いよね。 表参道のケヤキっていう喫茶店だったんだけど、 そこでエレックの偉い人を待ってるわけ。 社長なのか何なのか僕は知らないんだけど、 その偉い人が現れると、 いきなりチャー坊が“ 何百万出してくれ ” って話をするわけなんです」
「いきなりかい!? 当時だからな。 何百万っていってもケタが違うよな。 で? どうだったの?」
「結局、ダメだったんですけどね(笑) いつも、いきなりなんですよ、チャー坊は。 その時も、いきなり「行くぞ」って、 全員で行くんだけど、 僕なんかはいつも訳がわかんないんだよね」
「チャー坊しだいなんだね」
「そうなんです。 毎日、だらだらしているんだけど、 いきなり、朝起こされて、 「今日、大阪行くから」とか言われて、 「スタジオ借りるから」 とか言われて録ったのが、あの『草臥れて』。 あれは、青ちゃんの友達がスタジオを持ってて、 急に使えることになったんだろうけど。 何しろ朝起きて、いきなりの出来事が多過ぎる(笑)」
バンドはチャー坊が仕切っていた。 ユカリさんは 「僕たちは、どうやって喰ってたんだろう?」 って不思議がっていたが、 その裏ではチャー坊がリアルな思いをしていたのだ。 ステファニー(チャー坊の奥さん)の稼いだお金が バンドの生活費になっていたのである。
チャー坊の影響力が強くなり、 その世界に周りが引っ張られていくのが解る。 テンガローハットを冠って カントリーだった、よっチャン(加藤義明)が、 緑のズボンを履いてベースを弾いている姿を見て、 ユカリさんは本当に驚いたのだとか。 温和だったテッちゃんでさえ、 村八分風なコワモテに変貌していったのだ。
チャー坊は、とにかく行き当たりバッタリに 喧嘩をふっかけて歩いたという。 バンドの仲間にはしなかったが、 出会ったミュージシャン、関係者、 そして客までもが、その相手になった。
「俺は、一度だけユカリさんが演ってる 村八分のステージを見たことがあるんだ」
そう恒田さんが言った。
それは、´71年の野音に出た 村八分のステージのことである。
「3曲で止めちゃったやつですね(笑)」 とユカリさんが答える。
「(大笑)ああ、そうそう。 まさか、まだ“ ヤってんのか(禁断の実を) ”って、 近田と一緒に笑って帰った覚えがある」
そう言う恒田さんが、
「でもさ、あのときの村八分が最高だったのかもな」
と、言葉を重ねた。
それは、まさに時代とのタイミング。 これが村八分なんだっていっても いいほどのステージだったという。 チャー坊は弾けてるし、冨士夫のギターも良かった。 何しろ、出て来るところからしてオーラがあったのだとか。
「メンバー全員、白装束でね」と、ユカリさん。
「そう、実に印象的だったよ、 3曲っていうのは何なんだけどさ(笑)」
「3曲しかもたなかったんです。 気合いも、“ 何もかも ”入ってたから(笑)」
…………………………………………
さて、ここで冒頭の冨士夫の手紙を 振り返ってみようと思う。 知恵の実である“ りんご ”の一節には、 こんな続き話が綴られている。
『(りんごを食した結果) 知ったのが、他人と自分とのギャップであり、 自分と自分の心の間のギャップであり、 日常とステージとのギャップでもあったわけ。 (これは半ば意図していたけど…) そこからが、全ての始まりで、 ドラッグ、暴力、セックス、女、ロックンロールと、 お決まりの混乱の渦に巻かれて行ったんだ。 そして、率先してタブーを犯し、 まるで一枚いちまい剥ぐように 世の中に対しての挑戦もした。 そりゃあ、本当にいろいろとやっ��んだ。 だけど、人の能力の違いや、 運命とも思える違いを見るにつけ、 世の中を“ よじれるもの ”として 見るようにもなっていったのです。 自らを村八分と息巻いて、 コクトーの小説『恐るべき子供たち』同様に メディアで取り上げられ、 どんどんとドロドロとした深刻な毎日で、 それでいて能天気な生き方をしているうちに、 度々、自分を省みることはあっても、 勇気や判断力や決断力に欠けていて、 そうするうちに、自分の本心と それら全ての状況とのギャップが 最も埋めがたいものになっていったんだ。
だから、ハッキリいって、 狂気の世界に住んでいたも同然なのですが、 恥をかくことや、面子を失うことや、 とにかく、カッコワルいことは立場上 どうしてもできなかったわけで、 自分の中でも葛藤していたわけなんだ。 それこそ、大格闘の毎日を送って、 すったもんだ、エイコラと、 そりゃあ凄かったんだよ。』 当時、“ 禁断の果実と村八分 ”に関して、 冨士夫はそう手紙で説明してくれた。
…………………………………………
恒田さんには、 フレンドリーな冨士夫と出発した 村八分への憶いがあり、 ユカリさんには、 チャー坊が魔法を仕掛けていく、 村八分の事実がある。
アメリカでほんまもんのヒッピーや カルチャーの匂いを身にまとって、 みんなの前で踊って見せたのがチャー坊なら、 ダイナマイツの頃からの豊かな音楽性で、 素人をいきなりステージに上げるごとく、 パンクしたのが冨士夫だった。
確かに、人の能力の違いや、 運命には様々な違いをがある。 だけど、それは、たまたま、である。 全てはたまたまの繰り返しなのだ。
「ほんと、人との出会いって面白いよね。 僕らみたいにね、50年近く経って 初めて話す出会いもある」
そう恒田さんが言うと、
「そうですね、いろんなところで会ってたのに、 一言も話したことがなかったですからね」
と、ユカリさんが応え、 何かを思い出したように続けた。
「そういえば、村八分のドラマーって、 変わるときは次のドラマーに会ってるんです。 実は、僕もカントに会ってる。 気がついたら、カントがドラムに座ってて、 赤い唇して眉毛がないカント(笑)。 何故かそれを今、思い出しました……」
(2016/10/06 都立大学前)
PS/ いよいよ10日後に差し迫った【よもヤバNight Party】。 もうすぐ11月なんて信じられないですね。 ハロウィンも終わって、ポッと空いた休日を、 是非とも【よもヤバトーク&LIVE】でお楽しみ下さい。
【よもヤバNight Party】 11月3日( 木/文化の日 )原宿/クロコダイル ※よもヤバトークShow/村八分トーク【出演;恒田義見 & 加藤義明】 ■LIVE/●THE BEGGARS & 恒田義見 & 加藤義明(ex村八分 ) ●The Ding A Lings ●VESSE 18;00/OPEN 19;00/START Charge;3,000/3,500 前売り予約/[email protected] まで 連絡先・お名前を明記のうえメール下さい。 予約をうけたまわります。
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057『村八分対談【前編】/恒田義見・上原"ユカリ"裕』/どうしようかな/渡辺大知(黒猫チェルシー)、峯田和伸(銀杏BOYZ)、岸田繁(くるり)の3人が歌う映画「色即ぜねれいしょん」の主題歌。
【前号までのあらすじ】 村八分のお話をお聞きするため、 初代のドラマーであった恒田さんにお会いした。 恒田さんは「一生に一度だけだぞ」と前置きをされ、 約二時間半もの間に、 イッキに46年前の憶いを吐き出され、 …その別れ際、お話の余韻も残る空気の中で、 逆に、恒田さんからの申し出を承った。 「ユカリさんとお話がしたい」と、言うのだ。 これは、思いがけず、ナイスである。 ちなみに、説明する必要もないとは思うが念のため、 ユカリさんとは、“ 上原ユカリ裕 ” 村八分の���代目ドラマーの方である。 「がってん承知の助でぃ」 江戸弁好きの冨士夫であれば、 こう言ってご要望をお受けするところだろうが、 僕はいたって普通にお受けした。 そうなると、恒田さん、 「一生に二度目になるけど、よろしいでしょうか?」 なんて、余計なことも言わない…。
そんなワケで今回のよもヤバ話。 恒田さんのリクエストを受けて、 ユカリさんのご登場とあいなる。 場面は都立大学駅前の喫茶店。 46年振りに再会したお二人の 感激のシーンから始めようと思ふ。
…………………………………………
「久し振りです。46年振りだね(大笑いの二人)」
いま、まさに恒田さんとユカリさんが 両手で握手をしている。 ユカリさんはスタジオのリハ帰り、 恒田さんは太鼓の舞台を 翌々日に控えての状況だ。
「いやぁ、それにしても キチンと話をするのは初めてだね」 と、恒田さんが口火を切る。
瞬間、時は1971年にフィードバックした。 二人は何度も同じ場に居たはずなのに、 まったく会話をしたことがなかったのだ。 場面は、恒田さんが寝起きしていたフリーゲート。 まだ高校生だったユカリさんもそこにたむろっていた。
そして、チャー坊の何とも言えない、 人を射抜くような表情が それらのシーンにオーバーラップする。
「次のドラマーは決まってるんや」
情のかけらも無い仕草でさらっと言ってのけた。 言われた恒田さんは 当然のごとくザワめいただろう。 ワケの解らない想いで冨士夫に向き直るが、 冨士夫も格別に自分を援護してはくれなかった。
そんな、謎の残る割り切れない想いがあった。 だからというわけではないが、 当然のごとく恒田さんは、 その想いを永い間 パンドラの箱に仕舞い込んだのだ。 村八分というバンドと共に。
「だけどさ、ひとつだけ心残りがあってね、 ユカリさんと話してみたかったんだ」 と、恒田さんがユカリさんに問いかける。
「何を話したかったかというとさ、 僕のあとのシーンはどうだったのか? それが気になるんだよね。」
恒田さんは自分の後釜に入った ユカリさんの想いを確かめたかったのだ。
すると、ユカリさんは違った切り口から かつてのシーンを話し始めた。
「その頃の恒田さんを憶えてます。 キャッツアイで一緒になっているんですよ。 僕はチャー坊に連れられてそこに行ったんです」
ユカリさんにとっての村八分は その辺から始まるらしい。 もともと、高校時代にいつも行っていた 喫茶店の常連客の中にチャー坊がいた。 チャー坊はその店の奥にあるビリヤード台で、 エイトボールの賭けをやり、 ときたま日銭を得ていたのだ。
そのチャー坊に、ある日、
「冨士夫ちゃんと一緒にバンドやるけど、 どうする? やらへんか?」
と口説かれる。 そのころ、ユカリさんはすでに ゴーゴーホールでハコに入っていた。 そこにチャー坊がスカウトに来たのだった。
「“エッ!”って(笑)、あの山口冨士夫? 野音で観た『山口冨士夫グループ』の 幻想がよみがえってきて、 “ 冨士夫ちゃんとできるんだったら、やるわ ”って(笑)」
そんなことがあっての キャッツアイでのシーンだったのだ。 ユカリさんにとってはスカウトされての バンドの下見というわけだ。
だから、恒田さんとユカリさんは 確かにそこで交差している。 だけど、その時はまだ 恒田さんはユカリさんを意識してはいない。
「そうか、じゃあ、その時にはもう、 そんな感じだったんだね。 でも、その後、ユカリさんも 村八分を1年で辞めちゃったでしょ。 何で1年で辞めちゃったのか 知りたかったんだよね。」 恒田さんが再び聞いた。
「辞めたっていうか、活動ができなくなったんです。 冨士夫ちゃんがね、アレで(笑)」 そう軽く言って、ユカリさんは両手首をクロスした。
その仕草に妙なリアリティがほとばしる。
「あっ、そうか。じゃあ、何かいろいろなことが あってということじゃなくて…それで活動休止に…?」 と、恒田さん。
「そう、そこで突然の強制終了です」 ユカリさんがまた軽く笑った。
「まぁ、いろいろなこともあったんですけどね(笑)」 そう言いながらも、 冨士夫に魅かれたいきさつを話し始めた。
「僕が村八分をやっていたのは、 18歳になる三ヵ月前までの1年間です。 だから16から17ですね。 そういえば、村八分になる前の山口冨士夫グループの ドラムは恒田さんですよね?」
「うん、そう。」と恒田さん。
「そうか、やっぱり。 野音で見てほんとうにぶっ飛んだんですよ」 と、ユカリさんは話を続けた。
1970年当時、ユカリさんは16歳。 東京に出て行くのが楽しくて仕方がない。 お金もないのでヒッチハイクで新宿まで行き、 友達の家に泊まっていた。 当然、野音も塀を乗り越えて入る。 (当時はそれができたのだ) そこで目にしたのが山口冨士夫グループだったのだ。
「野音の山口冨士夫グループにはぶっ飛んだ。 ほんとうに凄かった。 それが冨士夫ちゃんを好きになった一番の理由なんです。 あのときのメンバーは誰ですか?」
と、聞かれて恒田さんが苦笑いを浮かべた…。
「冨士夫と俺と、染谷くんと青ちゃん…。 ……え〜と、……ごめん、あの頃は、 俺もちょっと普通の状態じゃなかったから、 よく憶えてないんだ(笑)」
「あはは(笑)、それはみなさん、 そうだと思います(笑)」
「だから、ごめん、全然憶えてない…。 だけど、野音で2回か3回やったかな?」
「僕も村八分で1回出てるんですよ、野音に。 でも、聞かないでください。 僕もまったく普通の状態じゃなかったから(大笑)」
……しばらく二人の大笑 いが続く……
「ところで、村八分のときの営業はどこでやってたの?」 と気を取り直して恒田さんが聞いた。
「何もやってませんでした。 毎日まいにち、うだうだして、 ディスコを借りては練習しての繰り返し。 だから、僕にとっては、 仕事っていう意識は全くなかったんです」
ユカリさんの実家は京都市内なのだが、 バンドに入ってからは、 チャー坊の家で暮らしていたのだとか。 冨士夫とチャー坊とステファニーと チャー坊お母さんとユカリさんの5人暮らし。 2階がユカリさんの寝床だったという。
「朝起きると、 冨士夫ちゃんのギターの音がしている。 冨士夫ちゃんが一番早起きだったから。 起き抜けに階段を下りる時は、 もう、それが聴こえるんですよね。 それも、延々と同じフレーズばかり、 ず〜っと弾いている…。」
「それはファンの皆様が喜ぶエピソードだ」 と、恒田さん。 「でもさ、それじゃまるで喰えないじゃない」 と、続ける。
「どうやって食べてたんですかね?」 と、ユカリさんも宙を見る。
「じゃあ、あれかい? 俺が辞めた後の1年間に何があったのか 聞きたいと思っていたんだけど、 たいしたことなかったんだね」
「いやぁ、もう、たいしたことありますよ。 ありすぎて何をしゃっべたらいいのか…(笑)」
「あり過ぎるとたいしたことなくなるんだよ、 だいたいが(笑)」
「毎日がもう、旅みたいなもんですから」
「(笑)それは、よくわかるよ」
「特に誰も仕事してなかったですからね」
「そう、人間を試されるんだよね(笑)」
そう言って、二人はまた大笑いをした。 どうやら、同じ空気感があるようだ。
若いころの時間の流れはあまりにも速い。 何もしていないようで、 実際は実にいろいろと動いているものだ。
「あっ、東京に一度出て来たな、 代々木八幡に部屋を借りて…」 ユカリさんが何かを思い出したようだ。
あまりにも何にも始まらないから、 一度、東京に行こうってことになったのだ。 誰がどうやってその部屋を借りたのかも、 何もかもわからないユカリさんがいる。
「ここで今日から暮らすよ」 ってチャー坊が宣言して、 「おう!」ってな感じなんだとか。
でも、一日何をするでもない。 それが一ヵ月くらい続くのだ。 結局、憶えているのは、やかんとお茶。 最後にやかんにお茶を入れて、 そのお茶をみんなで呑んで、
「さっ、帰ろっか!」って(笑)。
それを聞いた恒田さんが、 溜息まじりに喜んだ。 「いやぁ、いいなぁ。のびのびとしてるよね」
そう言われたユカリさんは、 「まったく、そんなんじゃないですけどね。 禅問答みたいなもんで。 “ 何もないね、どうする? ”“ どうしようか? ” “ 帰ろうか? ”“ 帰ろう ”みたいなもんですよ(笑)」 そう言って軽く笑った。
「村八分ってユカリさんにとってはどうだった?」 いきなり恒田さんが直球を投げた。
ユカリさんは、少し溜めて、 そしてゆっくりと答えた。
「ロック魂っていうか、そういうのはもらいましたね。 辞めてからも周りから、 “ すげぇ、村八分にいたんだ ”って、 よく言われたんですけど、 でも、自分の中では完全に村八分は切り捨ててました」
「そうか、俺には俺の村八分があるし、ってね。 でも、それは世間が望む村八分とは限らないし…」 そう、恒田さんが言うと、
「でも、世間は望むんですよね」 そう言って笑うユカリさん。
そして、笑顔の後で真顔になると、
「村八分の半分は音楽ですけど、 残りの半分は生き様ですから」
そう言って、結論づけた。
その“生き様”って、いったい何なのだろう? 深くえぐるように、次号へ続くのである。
(2016年10月6日/都立大学前)
【上原"ユカリ"裕】/16歳の頃、伊藤銀次と知り合い、1970年夏に“グラス・ブレイン”を結成。1971年には“村八分”、1972年には“ごまのはえ”に参加し、そのまま“ココナツ・バンク”のメンバーとなる。解散後の1975年にはシュガー・ベイブのアルバム『SONGS』のレコーディングに参加する一方、ハイ・ファイ・セットのバック・バンドに加入。同年3月にはシュガー・ベイブのメンバーになり、以後1976年4月の解散まで活動。解散後は大瀧詠一主宰のナイアガラ・レーベルのセッションや、りりィのバック・バンド“バイバイ・セッション・バンド”、伊藤のアルバム『DEADLY DRIVE』など、レコーディングでも活動。その後、1981年から1984年まで沢田研二のバック・バンド“EXOTICS”に加入。1986年10月、TBSテレビで放送された伊藤出演のスタジオ・ライヴ番組収録をもって一時ドラマーを引退する。1996年に復帰、大滝のシングル「幸せな結末」のレコーディングや、忌野清志郎のバンド“ラフィータフィー”のメンバーとしての活動のほか、瀬川洋&トラベリン・オーシャン・ブルーバーズでドラムを叩く。2002年には伊藤とココナツ・バンクを再始動させた。愛称の“ユカリ”というミドル・ネームは、明治「マーブルチョコレート」のCMに出演していた上原ゆかりに因んで付けられたもの。
【よもヤバNight Party】 11月3日( 文化の日 )原宿/クロコダイル ※よもヤバトークShow/村八分トーク【出演;恒田義見 & 加藤義明】 ■LIVE/●THE BEGGARS & 恒田義見 & 加藤義明(ex村八分 ) ●The Ding A Lings ●VESSE 18;00/OPEN 19;00/START Charge;3,000/3,500 前売り予約/[email protected] まで 連絡先・お名前を明記のうえメール下さい。 予約をうけたまわります。
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” BLANKS ” play at Red Shoes aoyama-tokyo. 2016/09/23.
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俺達は、....ドラマー達は元気にしているよ
鼓曲萬来CYBER 神楽 2016 Yoshimi Tsuneda
2016-10-07 | INFO・REPORT2016
http://blog.goo.ne.jp/cohan2005/e/ef08ce5ec53a914420987fc7110de8a7
恒田義見さんのブログより
亡くなった山口富士夫の長年マネージャーをしていた方から
村八分の初期の話を聞きたいという事で
高円寺の喫茶店でインタビューを受けた
当然、僕が富士夫やチャー坊、青木君と演奏したのは約1年半
それも46年も前の話….それでもよかったら、という注文もつけた
何故なら、巷での村八分や富士夫、チャー坊の認識と
僕が知っている彼等とはもしかして大きな隔たり��あるかも知れないと思ったからで
村八分後のティアドロップス、或いは先日封切られた映画での富士夫のイメージとは
必ずしも一致してはいなかったし、その後の事は富士夫の周りの方の方が
私などよりもより詳しい筈であるから、富士夫やチャー坊そして青木君、哲がいない今
僕が村八分を語る等は…という思いもあったのだ。
で、一通り村八分にいた時の話が終わった後
心にずっと引っ掛かっていた事をその方に���ねてみたのだ
それはどういう事かというと
それは46年前、僕が村八分を辞める正にその時に一度だけ顔を会わせた
一人の少年、当時僕が19、そして彼は17だったろうか
つまり僕の後に村八分のドラマーとなる上原ユカリと一度話をしてみたいという事…..
そいつはなんというか…..
信じられない話だが僕等は一度も話を交わした事がなかったのだ
それも46年もの間….
そして僕が辞めた後、ユカリも1年程で村八分を去った
従って、村八分の1stアルバムは我々二人がいた村八分ではない
勿論その後、彼はシュガーベイブや
沢田研二のエキゾチックスで演奏していたのは知っていたし
僕は僕でハルヲフォンで演奏していたので
どこかであの時代、すれ違っていたのかもしれないけれど
お互いにお互いをどう思っていたのかを知りたい気持ちもあったのだ
一つの事が終わって次に進もうとする時
やはり自分の心に区切りを付けなくてはとても新しい事には踏み込めない
その当時の自分は無理やり一段落付けたつもりではあったが
そうは言い聞かせていても、彼に対してミュージシャンとしてのライヴァル心も引きずったし
村八分にいたというそのキャリアは何事にも代え難いものも沢山貰ったけれど
その後に活動する自分にとって
決してプラスに作用する部分だけではなかったというのが本音でもある
彼は彼でどうそこを過ごして来たのかも直接聞いてみたいという気もあったのだ
で、数日後、上原ユカリはその場所に現れた
「お久しぶりです」…彼はそう言って手を伸ばして来て
俺達は握手して抱き合った
日に焼けた顔や眼鏡を掛けたその容貌は
あの時の色白で長い髪の大きな目をした17歳の彼ではなかったけれど
しかし不思議にも、村八分に対してどうだったかとか、どうして辞めたのかとか
もう、……そういう事ではなく……
確かに一瞬にして46年はスッと心の中で消化したような気持ちになったのだ
「野音で富士夫達と演奏した時やキャッツアイでも恒田さんの演奏を見ましたよ
勿論ハルヲフォンも」…彼はそう言ってくれた
僕も野音でユカリが演奏した時の村八分を見た話や
富士夫、チャー坊、青木君と過ごした日常のなにげない話も
フリーゲートやそこにいた人々の話だったり
自分の今やっている和太鼓の話、彼が歌を唄い作品がリリースされる話
瀬川さんとやっているバンドの話、
亡くなったダイナマイツの大木君や
石丸忍や東京へのヒッチハイクの状況
湘南に住んでサーフィンに凝ってる事
当時の日本のRockシーン、触れ合った色々なバンドやミュージシャンの話etc,etc
そしてなによりも、心に引っ掛かっていた事も
ゆかりは満面の笑みでこう言った
「色々あったけど、僕も恒田さんも村八分にいた事は事実ですからね」……..
そうだよね、色々な事があって、色々な処を通って
それでもう充分だった…….。
勿論彼の目から見た景色ではあろうけれど
それはあたかも自分の目で見た景色のようでもあったし
46年は今のこの一時、アッという間に時間は過ぎていったのだ
別れ際に連絡先を確認して
「これからですよね」…と
そうだよね、俺達はまだ現役なんだよね
本当にこれからなんだと思う
17歳と19歳だったんだ、初めて顔を会わせた時は。
この機会を与えてくれたマネージャーのKさん
リハ後に疲れているにもかかわらず足を運んでくれたユカリ、どうもありがとう
そして富士夫やチャー坊、青木君、
今度、僕の知っている村八分の話をしてくるよ…….。
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056 番外編『村八分/前夜・後編/恒田義見』/ What a Shame : The Rolling Stones
1970年7月26日、富士急ハイランドで 『ロック・イン・ハイランド』が行われた。 日本初の野外キャンプ・イン・ライヴだったのだが、 観客よりもマスコミやカメラマンのほうが 多かったと伝えられている。
『ちょうど「裸のラリーズ」が出て来て 「ギミー・シェルター」を演奏し始めた時、 案の定カメラマンの人だかりができてしまった。 よせばいいのにその中の一人が カメラを持ってステージに上がっていき 写真を撮り始めた。 その時である、ステージの隅で踊りを踊っていた 不思議な奴がそのカメラマンに向かって 激しいケリを入れた。 それに合わすように曲はブレイクして、 「ミッドナイト・ランブラー」のブレイクに変わり、 カメラマンは鼻血を出しながら ステージの上から転げ落ちていった。 その事を遠巻きに見ていた僕は スゴイ奴が現れたと思い、 走ってステージの真ん前まで行き、 その男を見つめた。』
1973年「ヤング・ギター」9月号に掲載された 藤枝静樹氏の一文である。
その不思議な奴とはチャー坊のこと。
『夏だというのに穴の開いたロング・ブーツを履き、 八百屋の前掛けをつけて 胸まで伸ばした長髪を揺らしながら踊っており、 かなり異様に見えた。』
という。 …それって、確かに不思議で異様だ。
恒田さんも、その時のことは とても印象深く憶えているらしい…。
「それが随分とセンセーショナルに マスコミに取り上げられて、 京都に危険なバンドがいるって 全国に知れ渡ったんだけど、 そのすぐ後なんだ、 チャー坊がいなくなるのは。 だから、逆にミステリアスな捉え方を 世間がしたんだと思う」
そう、富士急ハイランドの直後に チャー坊は山に芝刈りに行って、 白黒模様の熊たちに襲われたのだ。 可哀相に、それから何ヵ月も 拉致監禁されることとなる。
チャー坊ヌキの冨士夫(Vo,Gu)、染谷くん(Gu)、 青ちゃん(Ba)、 恒田さん(Vo,Dr)、 のメンバーでのバンド営業活動が始まる。
見渡せば、何のことはない、 全員が東京人だった。 吉祥寺の幻想で演ったり、 京都のキャッツ・アイで演ったりしながら、 不思議で異様なチャー坊が 無事に解放されるのを待っていたのだ。
しかし、その間が恒田さんにとっては 冨士夫と音を出せた 貴重な時間だったのかも知れない。
ストーンズ、ブラインド・フェイス、 ボブ・ディラン、マウンテン…。
「恒田はディランを歌ってたよ」 と、冨士夫は後に語っている。
何ヵ月かして、「シャバはいいでぇ」 なんて言いながら、チャー坊が帰って来る。
「そのときに初めてチャー坊の歌を まともに聴いたんだ」
そう言って恒田さんは肩をすぼめた。
「チャー坊は、ハーモニカを吹きながらね、 『What a Shame』っていう ストーンズのナンバーを演ったんだ。 そのときに初めてチャー坊の歌声を 確認したってわけ」
チャー坊が歌い出すと同時に、 村八分の影が見えてくる。
恒田さんによれば、 バンドをマネージメントするようになった 木村さんが「村八分で行くで」って、 言い始めたときから 村八分という名を意識したことになっている。 それは、京都に行って、 1年くらい経ってからということなのだ。
チャー坊が詩を書き始めて、 バンドの芯がしだいに 冨士夫からチャー坊に移っていく。 冨士夫もそれを望んでいて、 チャー坊のオリジナルに 曲をつけていくのだ。
「最初の詩のタイトルを憶えてるんだ。 『誰が神を見たというのか』ってやつでね、 このタイトルは忘れられないなぁ…。 村八分にそんな歌はありませんか? “ これからは、この歌でいくんや ”って、 チャー坊は随分と張り切ってたから」
「それにつけても チャー坊は実にチャーミングだった」
と恒田さんは言い換えた。
チャー坊には、品格が備わっているのだという。 それって、何なのだろう? グルって呼ぶのは宗教っぽくて違ってくる。 儀式的な体験とか、カリスマ性だとか、 もっと人間的に深い感情、深い部分、 うまく言えないけど、 あっち側に行く独特なセンスもある。 一緒に居ると、ホッとできる人間でもあったのだ。
それは、東京人には備わっていない感覚。 当時の京都独特のものだったのかも知れない。
特にフリーゲートは コミューンみたいなもので、 そこにに居れば、 誰かが必要��物を持って来てくれる。 仲間たちが食べ物を運んで来てくれたり、 面白い情報も入ってくる。 だから、暗黙の了解でお互いをシェアできる そんな環境が出来上がっていたのだ。 当時の京都には、外国からのヒッピーや 知識人もたくさん居着いていた。 “喰えない者��喰っていける者とシェアしていく” それは、人間としての 当たり前の考え方だったのかも知れない。
「そこに、言葉にはできない リアリティがありましたね」
恒田さんは、そう言葉を加えた。
その反面、チャー坊や冨士夫は とてもピュアだった。 お酒は一滴も呑めない。 女の子と話もできない。 とくに冨士夫なんかは、 女の子に話しかけられると、 みるみる顔が赤くなっていく。 そのあげくに、
「お前な、ファンの女の子に手出したら承知しなぇぞ」 って、凄むんだとか。
“その冨士夫なら、知ってるよ” ここは、知人、友達、みんながうなずくところだ。
「冨士夫とチャー坊には、 物事の本質を見ろよ って良く言われた。 言われたというより、 叩き込まれたと言ったほうが いいのかも知れない」
それは、あのころの京都の独特の感性。 海外から来たヒッピーや知識人が伝えた、 様々なカルチャー・シーンや、 生きるための考え方などだ。
「だから、見た目だけで判断するなってことだよね。 そこにある本質は何なのか、 見極めるまで納得するなってことなんだ」
音楽の本質だって同じこと。 構造にまどわされるな、 音の本質を見極めろって 冨士夫が教えてくれて、 その後の音楽をやっていくうえで、 すごい指針になったのだという。
そうやって極めていったら、 今やっている和太鼓につながって いったのかも知れない。
そう言って、恒田さんは一息ついた。
…………………………………………
そう、恒田さんはいま、 和太鼓を中心に活動している。 この夏もニューヨーク公演をやってきた。 和太鼓の師匠なのだ。 世界各国に弟子がいて、 その人たちに教えているのだとか。 ライヴは年に1〜2回、 文化庁の後援による海外公演が多い。
「ライヴの時は70年代から一緒にやってきた ロックな仲間ともやるんだけどね」
ちなみに、そのロックな仲間には、 西野恵をはじめとして、 もと四人囃子から岡井大二、坂下秀実。 BOφWYにいた高橋まこと。 もと、ジューシィ・フルーツのイリア。 CM音楽の制作やプロデュースを 数多く手掛ける、 長沢ヒロたちが含まれている。
…………………………………………
最後に、村八分を辞めた理由について聞いてみた。
「理由? そうだな……、 辞めざるをえなかった っていうのが本音ですね。 僕には見えなかったんでしょうね、 村八分の良さが…。」
ほんとうは、格別に辞めようとは 思っていなかったようだ。 ただ、チャー坊の持つビジョンが 恒田さんと違ってきていた。 恒田さんはもっと現実的だったのだ。
それと、チャー坊自身が とても京都にこだわっていて、 京都の人間でバンドを創りたがっていた。 そこに、ユカリさん (上原ユカリ/村八分二代目Dr)も現れてくる。
「若かったから、 いろんな想いが錯綜しました。 ユカリさんが良いドラマーだって いうのも聞いていたし、 僕自身、村八分に対するこだわりが、 そんなに深いわけではなかった。 それと、ホームシック。 東京の連中が懐かしくなっちゃってね」
そう言って、苦笑いする恒田さんなのだが、 今でも、思い出す度に幾つもの本音に 気づかされるのだという。
そこには、落ち込んだ自分もいる。 “あぁ、もう俺は駄目かなぁ…”なんて。
でも、そうこうしてるうちに、 仲間たちが寄って来て、 セッションによる応急手当をしてくれた。
その中に近田春夫さんもいた。 近田さんは限りなくブラックに近いジョークで、 「ローリング・ストーンズみたいなバンドがやりたいんだ」 って言ってきた。
「そんな気ぜんぜんないくせに、 よく言うよって感じで、 最初はそのニュアンスにはのらなかったの。 だってそうでしょ。 チャー坊と冨士夫と一緒にやったあとに、 ローリング・ストーンズはないでしょ、って(笑) ………………。 でも、そんなことを言う近田が面白そうだった。 その誘いにのることにしたんだ」
ハルヲフォンの誕生である。
大ブーイング覚悟で言うなら、 という前おき付きで、 チャー坊も冨士夫も近田さんも、 光るオーラは同じものを持っていたという。 センスとかは別のお話として……。 片方は客の方を向いて、 片方はまったく向かなかったというだけで、 音楽に対する取組はどちらも真剣だった。 その両方を見られて良かったなと思っている、…と。
「冨士夫やチャー坊を思い出すとね、 どうしようもなくだらしない時もあったりして、 仕事に対する姿勢も違うけれど、 そんなことじゃない人間の品性があるんだ。 例えば、何かを求めたときに、 極限までいかなきゃわからない品性。 僕はとてもじゃないけど そんなところには行けなかった(笑)。 だけどね、冨士夫のギターだけは残っている。 一緒にやった経験だけは本物だったから。 ……………… それと、もうひとつ。 ずっと、知りたかったことがあるんです」
そう言って恒田さんは、またひと呼吸おいた。
「僕のあとに村八分に入ったユカリさんは どうだったのか? 一度、話をしてみたいと思うんだ」
そう言って、コチラを直視するので、
「ユカリさんと話したことは?」
と、聞いてみた。
「ないですね、まだ高校生だったのかな? 彼はとても若かった。 フリーゲートで見かけた記憶しかない……」
…………………………………………
そこまでで、 この日の恒田さんとは別れたのだが、 家に帰り、ユカリさんを知っている 知人にお願いしてみた。
村八分の最初のドラマー・恒田さんと 話をしてもらえるように、 ユカリさんに頼んでもらえませんか?……って。
……で、結果は良好。
10月6日、その夜に二人は会うことになった。 46年の時間をさかのぼって……、 驚いたことに、初めてのよもヤバ話をする。
……それは、時空を越えた村八分への旅……。
それでは、そのときにまた、 果てしない よもヤバ話の続きでも……。
つづく
(2016/09/21 高円寺)
PS.
【よもヤバNight Party】 11月3日( 文化の日 )原宿/クロコダイル ※よもヤバトークShow/村八分トーク【出演;恒田義見 & 加藤義明】 ■LIVE/●THE BEGGARS & 恒田義見 & 加藤義明(ex村八分 ) ●The Ding A Lings ●VESSE 18;00/OPEN 19;00/START Charge;3,000/3,500 前売り予約/[email protected] まで 連絡先・お名前を明記のうえメール下さい。 予約をうけたまわります。
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055 番外編『村八分ー前夜/前編/恒田義見』いきなりサンシャイン / チバユウスケ × 内藤幸也 × TOKIE × 茂木欣一
970年、ザ・ダイナマイツが解散して、 冨士夫が自由に飛び回っているとき。 『村八分』の本を読み返すと、 毎日の登場人物が忙し過ぎて、 何がどうなってんのか、目が回る。
その中で、チャー坊が登場してくるシーンあたりから、 セッションばかりやっていた冨士夫の中に、 バンドを作りたいという想いが ムクムクと起き上がってくるようだ。
それは、チャー坊をヴォーカルとしたバンド。 つまり、村八分である。 しかし、この時のチャー坊は踊ってはいるが、歌っていない。 歌えるようになるまでには、まだもう少し時間がかかるのだ。
それでも、京都を根城に冨士夫はバンドを作ろうとする。 その青写真に写るメンバーは、東京人。 その東京人が京都人と入れ替わっていくにつれて、 村八分はその姿をカタチにしていく。
古い青写真の最初のほうを見てみよう。 立川直樹さんの紹介で、 高校を出たばかりの少年が冨士夫に託されている。
恒田義見(つねだ よしみ)さん、 当時、立教高校から日大芸術学部に入ったばかりの19歳。 冨士夫の記憶では、アメリカ帰りになっているが、 どうやら新宿、六本木あたりをウロウロしていたらしい…。
しかし、彼が青写真の 最初のドラマーになったのは確かである。 バンドの骨格や基礎を築くシーンだったが、 生身の想いが垣間見えて興味深い。
『村八分』は、これまで 冨士夫からの情報がほとんどだった。 しかし、当然として、10人居れば、 10話の村八分/よもヤバ話が存在しているはずだ。
これは、聞いておかなくっちゃ、と思った。 11月3日のクロコダイルで、 よっちゃん(加藤義明)と対談してもらうのだが、 ここは、ひとつ、その前哨戦ということで、 恒田義見さんのよもヤバ話を、 前編/後編でお届けしようと思う。
…………………………………………………
日が暮れた高円寺で待ち合わせた。 駅前ロータリーを見下ろすことのできる2階の店。 時間ぴったりに恒田さんが歩いて来るのが見える。 コチラに気づいて軽く会釈をする。 恒田さんは、ゆったりとした感じの人。 とても話しやすい空気感を持っている人だ。
当時の話をするというのは、 本人にとっても、 46年前へタイムスリップしなければならない。
その想いを1970年に合わせて、 ゆっくりと、……時空を越える話が始まった。
「高校の門のところで幸宏(高橋幸宏) が待ってるんだよ。 彼が同じ高校の下級生だったからね。 “恒田さん、ジャズ喫茶に行こうよ、 今日はダイナマイツなんだ”って」
恒田さんは高校生のころから 普通にバンドをやる環境にあったらしい。 同じ学校の1級下が高橋幸宏さんで、 少し上になるが、 細野晴臣さんともつながっている。
「とにかく幸宏は冨士夫のギターが好きだったんだ。 その凄さをどのくらい僕に語っていたことか…。」
ダイナマイツは多いときで、 週に2回くらいは観に行っていたと言う。 池袋のドラム、新宿のラ・セーヌ、アシベ…。 学ランのまま、ジャズ喫茶でたむろする 二人の高校生が想い浮かぶ。
そんな風だったから、 恒田さんは高校生のころから そうとうに生意気だったらしいのだ。 自身もグループサウンズを中心とする ミュージシャン連中との付き合いがあった。
そんな関係のなかで、 立川直樹(プロデューサー/ディレクター)さんに、 「冨士夫がドラマーを探してるから」 と、六本木のアマンドに呼び出されるのだ。
「よれよれのアーミー服に 紫のジーンズをはいて、 335を抱えている山口冨士夫が、 アマンドの2階に現れたんだ」
と、脳裏に焼き付く冨士夫との ファースト・コンタクトを 恒田さんは語っている。
「おれ、冨士夫。 京都でバンドをやろうと思ってるんだ。 ヴォーカルはチャー坊って奴。 ギターは俺の他にもう一人いる。 ベースはあてがあるんだが、 ドラムがいねぇんだ、探してるんだよ」
と、冨士夫は言ったという。
さて、そう言われて、 「じゃあ、俺がやってやるよ」 と二つ返事で言えるはずもない。 相手は少し前まで週2で 夢中になっていた、あの冨士夫なのだ。
だから、気のきいた言葉が出てこなかった。
「自分も、将来的には音楽を仕事にしたいとは、 思ってはいるんですが…」
なんて、わけのわかんない まどろっこしいことを言っていたら、
「じゃ、音出しに行こうぜ!」
って、あっという間に 新宿のサンダーバードに 連れて行かれた。
成り行きで、その日に出演していたバンドとの セッションになった。 冨士夫が強引に恒田さんをドラムに座らす。 と、同時に、いきなり 『モナ』のイントロが始まった。
本物のプロと演るのは初めてというより、 冨士夫と演っていること自体が信じがたい。 冨士夫がセッションで巧みに音を回す。 それこそ見失っちゃいけないから必死だった。 倒れてもいいから演りきろうなんて想いで、 10分なのか15分なのか、 あるいはもっと長かったのかも知れない演奏が、 ようやくエンディングを迎えたとき、 ほっとしている恒田さんのところに、 冨士夫が笑顔を見せながら ゆっくりと近づいて来て言った。
「もう1曲いいかい?」って…。
そのセッションが終わって、 放心したように空(カラ)になっているところに、 「決めた!」って言いながら 冨士夫が近づいて来た。
「お前さぁ、京都来いよ」って。
京都に着いたら此処に電話しろって、 1枚の紙切れを渡されたのだ。
「思い返せばあのときが、 我が人生最初の分岐点だね。 初めて本気で悩んだんだ。 この状況で京都に行くってことは、 ドロップアウトを意味してたからさ。 覚悟が必要だったんだよ。」
だけど、2週間後には、 京都行きの夜行に乗っていた。 (当時は、まだ夜行なんだな…) 冨士夫との関わりを チャンスだと思うことにしたのだ。
渡された電話番号は フリーゲートという事務所。 というより、コミューンと呼んだほうが 合っているのかも知れない。 絨毯が敷いてあって、 ステレオと机とベッドがあり、 そして誰でも寝泊まりできるように 幾つもの寝具が置いてある、スペース。
「いま、冨士夫たちが来るでぇ」
フリーゲートの住人・ 加藤さんが言ったかと思うと、 ドアがバーン!っと開いて、 チャー坊、冨士夫、青ちゃんの順に入って来た。
「おぉっ!」っという感じ!
背筋に何かが走ったように体勢を起こすと どうしようもなく彼らを凝視した。
チャー坊の髪が尻の下まである。 そんなことにまずは驚いたんだ、という。 冨士夫はなごやかだったけれど、 青ちゃんは知らん振り。 そっぽを向いてるのが印象に残った。
恒田さんがドギマギしていたのを察した チャー坊が「ほなら、行こーか」とか言い出して、 みんなしてオモテに飛び出した。
これから、四条河原町にある『バチバチ』 というディスコで音を出すのだ。
「ストーンズ・ナンバーを 数曲演ったんだと思うけど、 明確には覚えてないんだ。 僕は歌えたので、 冨士夫のヴォーカルとハモった。 当然、リード・ヴォーカルをとった曲もあるよ。 そのときのチャー坊はまだ歌えてなかった。 演奏に合わせて踊ってばかり。 青ちゃんのベースもほとんど聴こえてこないんだ。 調子に乗った僕は、 ほんとうに空気が読めない 生意気なガキになっちゃってね。 チャー坊や冨士夫たちに、 軽口を叩いたこともある。」
そう言って恒田さんは、 “ ほんとうにどうしようもない ” というように苦笑いをした。
「ほんとうに生意気だった……」
そう言って、46年前のシーンに暫く沈み込む…。
「そんなガキをさ、 バンドに誘って京都まで呼んじゃったんだ。 冨士夫ちゃんも随分と我慢しただろうし、 むやみに怒れないジレンマが あったのかも知れないな。」
…………………………………………………
冨士夫の『村八分』という自伝本によれば、 このときから1週間の『バチバチ』セッションに入る。 7月に行われる『富士急ハイランド』 のイベントに出演するためだ。
1970年の初夏、 村八分という名のバンドはまだない。 『富士急ハイランド』には、 裸のラリーズで出演するのだ。
恒田さんは、このまま京都で1年半 (東京にも帰ったりもするのだが) 過ごすことになる。 それは、村八分前夜の儀式のようなもの。 発見と、とまどいが交錯する めったにない時間の流れだ。
さて、その話は次回【後半】に持ち越すこととして、 ここでは最後に、冨士夫にまつわる、 とっておきの恒田エピソードで 締めくくることにしよう。
…………………………………………………
結局、僕はフリーゲートに居ついた。 だけど、金もなかったし、 いつも腹が減ってたんだ。
だから、よく冨士夫に愚痴ったよ。 冨士夫が俺を京都に誘ったんだからさ(笑)。
「腹減ったよ、冨士夫ちゃん」
そうしたら冨士夫が、
「それじゃ、恒田、美味いカツ丼喰わせてやるよ」 って、また偉そうに言うんだ。
「お金ないじゃん」 って言うと、
「いいから!」 とか言いながら連れ出されるわけ。
二人して食堂の前まで行くと、 「ここのカツ丼がとびっきり美味いんだ」 って、冨士夫が言う。
そのまま入るのかと思ったら、
「あっ、いけね、おれ、用事を思い出したわ」
とか言って、500円をくれてね、 「これで先に喰ってろ、後で行くから」 って戻って行っちゃった。
……そこのカツ丼はほんとうに美味かった。
でも、食べながらだんだんと気づくわけです。 用事なんかあるはずないよなってね。
…フリーゲートに戻ると、 何事もなかったようにギターを弾いてる冨士夫がいる。
「冨士夫ちゃん、なんだよ、戻って来なかったじゃん、 でも、あそこのカツ丼、ほんまに美味かったわ」
って、言うと、 そこで初めて、冨士夫はコッチを向いて笑うんだ。
わかっているのに「ありがとう」も言えない自分と、 普通に奢ってくれりゃいいのに、 妙に気を使って切ない冨士夫がいる。
いま、憶うと、そんなささいな一コマが突き刺さる。 もしかすると、僕らの関係は ずっとそんなだったのかも知れないな…って。
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054『サウサリートの最後の朝』/アイムソウリイ
『雲ひとつない青空に、ぽっかりうかんだ白い雲』
という詩(?)を小学生の時に書いて、 先生に笑われたことがある。 それも教室のみんなの前でだ。
でも、それは決して嫌な記憶ではない。 先生も微笑ましく笑っているのだ。 教室のみんなも楽しんでいる風だった。
……と、思うのだが、 ほんとうはどうだったのだろう?
その時の想いや、記憶する風景なんて 一人よがりでいい加減なものだ。 気分によって自分史に都合よく綴られていく。
だから、ときには、 思ってもみなかったことを言われることもある。
「トシは、あのときオレを置いて行っちまったんだ!」
恨みがましくそう言い、 肴をつまんでいた箸を置いたのはカズだ。 僕は、カズをサウサリートのホテルにポツンと置いたまま、 さっさとチェックアウトして去って行ったのだと言う。
まさか、イヌやネコじゃあるまいし……。
「本当かよ!? 全く記憶にございませんけど……」
カズの前にある刺身に箸を延ばしながら、 この死角からいきなり打ってきた フックパンチをかわそうと思った。
「何言ってんだよ、起きたら誰も居なかったんだぜ!」
カズはやけに真剣だ。 生ビールのピッチも進む。
さて、それじゃあ、思い出してみよう。 時は1990年の2月3日。 僕たちはサンフランシスコ発マイアミ行きの国内線 UA-828に乗り込��なければならない。 しかも、午前8;55発だから、 早朝にホテルをチェックアウトしているはずである。 一緒だったのは冨士夫とエミリ。 その横で久保田麻琴さんとサンディーが微笑む図が浮かぶ。 そう、ジャマイカ行きのグループなのである。
「朝早かったからなぁ…ポールとかは? カズを起こさなかった?」
ポールというのはコーディネイターである。 日系なのだが、調子の良い皮肉屋タイプ。 清志郎とはすこぶる仲が良いらしかった。 まぁ、東芝EMI御用達といったところか。
「知らねぇよ、とにかく起きたら ホテルにはオレ一人しかいなかったんだって!」
おや?!って、思ってる間に、 カズはプンプン怒り始めた。
「おねぇさん、おかわり!」
忙しく行き来する、 前髪をそろえた可愛い店員さんに、 空になったジョッキを差し出して見せている。
それにつけても、 後から注文したホッケをつまみながら “やっぱ、千葉の魚は旨いな”と思った。
「青ちゃんや佐瀬は? 一緒にチェックアウトしなかったの?」
「知らねぇよ、だって起きたら一人だったんだもん」
なんて、言ってもさぁ、ちょっと待ってくれ。 25年も前のサウサリートの朝の話をされて、 いったい、どうしたらいいんだろう? このとき、やっとそんな想いが芽生えてきた。
……が、それにしても気になるではないか。 あまりにも不条理な話である。 3週間も見知らぬ土地で切磋琢磨したあげく、 ひとり、置いていかれるベースマン……。
いや、そんなことがあってはならないのだ。 きっと、これは何かの間違いである。 もう一度最初から検証しようではないか。
「すいません! チューハイ、 ウーロン割りでお願いします!」
前髪をそろえた可愛い定員さんが、 コチラに来るのを見計らっておかわりをした。
真剣に話をしてみたら、段々とわかってきた。 あのとき、カズだけ別行動だったのだ。 彼だけサンフランシスコからハワイに飛んだのだ。 ジャマイカ行きグループと、 日本への帰国グループとは別に 中嶋カズは単身ハワイに飛んだのでした。
「起きたら、もう昼ちかくてさぁ、焦っちゃったよ」
なんて、まだ言っているのだが、 コチラは午前8;55のフライトだから、 きっと、7時にはチェックアウトしてしているのだろう。 日本への帰国の便も朝だったような気がする。
だったら自己責任じゃねぇのか? カズだけ午後のフライトだったんだろう? なんて、思いがムクムクと起きてきた時、
「ハワイへのチケットも自分で買ったんだぜ!」
っと、新たなるパンチをカズはくり出してきた。 それは、パシッ!っと、油断している頬をかすった。 危ない、危ない、まだこんな力が残っていたのか。
酔ったときのカズは侮れない。 しつこく相手のミスをえぐってくる。
「日本までのチケットをチェンジしてなかったの?」
全く記憶にございませんが聞いてみた。
「ぜ〜んぶ、じぶんでやったんだよねぇ〜」
半開きの目で恨みがましく、そう言われた日にゃー、 まぁ、いい、もう降参なのだった。
「ごめんごめん、悪かったねぇ〜、知らなかったよ」
前髪をそろえた可愛い店員さんを目で追い、 奥の席の向こうに向かってオーダーした。
「生とウーロンハイ、両方おねがい!」
もう、すでに目がすわっているカズが、 ファイティングポーズで呑んでいる。 とりあえずクリンチで逃れることにしよう。 これ以上あおるとゴングも聞こえなくなりそうだ。
「だけどさぁ、カズ、ワルいけど、 もう少し早く言ってくれるかなぁ…、 25年振りに言われてもねぇ…。」
…………………………………………
この日は久し振りにカズと呑んだ。 千葉の船橋にまで出向いたのである。
中嶋カズはTEARDROPSの中でも 唯一こちらで頑張っているDROPだ。 奴までアッチに行かれちまうと、 本当に名前の通りのバンドになっちまう。 それなりにみんな、気にしているのだ。
この日は、とりとめもない話から、 ´90年のサンフランシスコのシーンになった。 ベーシック・レコーディングが終了して、 ジャマイカでのダビングに移る、そんなとき。
カズが目覚めたら、独りぼっちだったという。
最近になって、エミリも言っていた。
「カズの追いてかれた話でしょ、コッチにも言ってたわよ」
そうだったっけ? 憶えてないよねぇ。 勘違いじゃないの? 知らないよなぁ。 今言われてもねぇ。
エミリとは、ざっくりとそんな会話になった。
だけど、カズの記憶の中には よっぽど根付いているのだろう。 酒に酔うとまるで昨日のように蘇る風景。 サウサリートの最後の朝。
「中嶋さん、その節は申し訳ありませんでした…」
しこたま呑んで、へべれっけになって、 ぺこりとあやまった。
前髪をそろえたカワイ子ちゃんを探して、 「おかんじょ〜」をお願いする。
店を後にして、オモテに出てみたら、 何だかぜんぜん見知らぬ風景があった。
〜ここは、どこだ? あぁ、ちばか。 とぉ〜いな〜
そう思ったら、とんでもなく かったるくなった。
前を歩くカズの背中に呼びかけた。
「かえれねぇや、……カズんち、とめてくれよ……」
カズは、ゆっくり振り返ると、 少し傾いたような笑顔を向けて言った。
「いいけど、トシ、オレ、起こさねぇよ」…って。
(1990年〜2015年)
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053『天国にいちばん近い場所』/ いいユメ見てね
去年の今頃だっただろうか、 所沢にあるライヴハウスに 大久保初夏ちゃんを観に行って来た。 ベガーズのケンちゃんが、何を思ったか 「バンドのPVを作りたい」 と言いだしたため、 オッサンバンド映像の華になってもらうために 初夏ちゃんのステージを訪ねたのだった。
この日の初夏ちゃんは、 相変わらずにブルージーで可愛くて、 エキサイティングで、 無条件に良かったのだけれど、 帰り際にちょっとしたサプライズが付いてきた。
ケンちゃんと一緒に店を出て、 少し歩き始めたところで 「カスヤさんじゃありませんか?」 と、後ろから呼び止められたのだ。 振り向くと見知らぬオッサンが 小走りに追いかけてくる。
“ むむっ!こんなオッサン知らなねぇぞ ! ? ”
っと、一瞬たじろいでいると、
「TEARDROPSのシスコの録音のときにご一緒した…」
というところまで聞いて、 自分の脳の中で、 このオッサンの顔が30年近く若返っていく。
ああっ!あのときのコーディネイターをやってくれた人だ。 いや、通訳だったかな? まてよ、どっちもだったかな? なんて、混乱は脳の中で続いていたが、 確かに知っている人なのだ。
とたんに、そのときの情景に想いがワープした。 それは、なんとも奇妙な場所だった。 サウサリートの海岸に、家と呼べばいいのか、 船と呼べばいいのか、 奇抜な水上のハウスが 何百軒と海に浮かんでるシーンだ。
「ここには芸術家たちが住んでいるんです」
と、そのとき説明してくれた人、 その人だったのである。 彼は北村さんといった。 当時はサンフランシスコでの 僕らをサポートしてくれていた人である。
ここで、当時のシーンを振り返って、 『よもヤバ話』の本編に戻ってみようと思う。 時は1990年の2月のはじめ…。 場面は26年前のサウサリートにある狭い水路に移る。
僕らは、先ほど説明した 奇抜な水上ハウスの一画に居た。 この日はレコーディングを離れ、 ジャケットやら宣伝の材料になる画像を 押さえておく撮影の日だったからだ。
撮影を依頼したカメラマンの名前はヘンリー。 ブロンドの長髪をセンターから分けた ハワイ出身のアメリカ人だ。 何やら名のある仕事経歴の持ち主だった気もするが、 経歴というものにあまり興味がないので覚えていない。 ただ、温かくて、よく笑う良い人だった。
この水上ハウスを撮影場所に選んだのもヘンリーだ。 きっと、この辺りの芸術家の仲間なんだろうと思う。
僕らが招待された水上ハウスには、 真ん中の部屋に大きくてアンティックなベッドが ドカンっと置かれていた。
「これはヘンリー・ミラーが使っていた本物のベッドです」 と、カメラマンのヘンリーが部屋の説明する。 わざわざ買い取って持ってきたということだった。
「ヘンリー? あんたがここで寝てんのかい?」 と、すかさずからかう青ちゃん。
「違います。ヘンリー・ミラー、アメリカ人の小説家です。 知りませんか?有名ですよ」 と、 ヘンリーが赤い顔をしてムキになるもんだから、 可笑しくなって、メンバー全員が笑い出した。
「疲れたワ、ベッド借りるよ」 と冨士夫が言い出し、真ん中の奥に寝そべった。 その横に青ちゃんが「いいねぇ」とか言いながら横になり、 佐瀬とカズもそれに続いた。 4人が乗っても大丈夫なほどに大きなベッドなのだ。 さすがは5回もの結婚を勲章に、 女性遍歴の派手だった ヘンリー・ミラーだ。 ベッドの造りも頑丈なんだな、 なんてあらぬことを想っ��いると、 いつのまにかギターを抱えた冨士夫が 寝そべりながら歌いはじめた。
♪たいしたことないさ、くよくよすんなよ♪
『いいユメ見てね』である。 ゆったりとした空気がヘンリー・ミラーのベッドから、 サウサリートの水辺へと流れていく。 さっきまでからかわれてムキになっていたヘンリーは、 気がつくと一心にシャッターを押しまくっていた。
ところで、オーティス・レディングが このボートハウスのどれかで『ドック・オブ・ザ・ベイ』 を書いたのは1967年。 モンタレー・ポップ・フェスティバルに 出演した後だといわれている。 そんなことを想いながらハウスのデッキに出ると、 ボートハウスの連なる水辺の風景が、 オーティス・レディングの歌と重なってくる…。
さて、ひとしきり水上ハウスの空気を撮った僕らは、 次にタマルパイス山に移動することにした。 タマルパイス山というのは、 101ハイウェイの左手にある。 1960年代には、ジャニ ス・ジョプリンや グレートフル・デッドらに混じって、 たくさんのアウトドア志向の ヒッピーたちが住んでいたという聖地なのだ。
ヘンリーの車に付いて行く僕らは、 今でも独自の生活習慣を守り通しているという セコイアの森のヒッピー村を眺めながら、 山頂の風景を目指した。
山を抜けるその風景はとても壮大で美しかった。 草原には小動物が生息し、 生まれて初めて野生のスカンクが 駈けているのを見た。 こんなときにいちばん喜ぶのは佐瀬である。 子供のようにはしゃいでいたのを思い出す。
撮影場所としてヘンリーが選んだところは、 小さな花が咲き誇り、緑豊かな草原だった。 この周辺は『天国にいちばん近い場所』として、 その美しさを地元で讃えられているが、 なるほどと思える風景なのだ。 ただ、すこぶる寒い。 吹きっさらしの海風が身体の芯を打つ。
草原の垣根や、山頂の道路での撮影を最後に お開きにすることにした。 それ以上頑張ると、身体が冷え切ってしまいそうだ。
「もう、限界だ、これで終わりにしようぜ」
って、やけになって、おしくらまんじゅうのように 4人が道を歩いてくるショットが ジャケット・ショットになった。
そのときの4人の気が、いちばん合っていたからである。
帰りの車は夕焼けの中を走った。 リヤ・ウィンドウから真っ赤な空が追いかけてくる。
「みんな、見てみな、スゲーぜ!」
冨士夫が言った。
「ほんとだ、スゲー」
他の3人が、何のボキャブラリーも持ち合わせずに言葉をコピーする。
僕も同様だった。それしか必要もないほどに絶景だったのだ。
『天国にいちばん近い場所』…… そこでの夕焼けは今でも脳裏に貼り付いている。
…………………………………………
さて、 話を最初に戻そうと思う。
所沢のライヴハウスを出たところで 僕を呼び止めてくれたオッサン。 (オッサン、オッサンいって失礼しました) 北村さんは、ホイホイレコードという 日本初のライブ「お持ち帰り(=録音即売)」 専門レーベルをやっているということだった。
みんな、頑張ってるんだなぁ〜 なんて、月並みだが、本心から想う。
こうして書いていると、30年なんて、 サウサリートからシスコを眺めるような風景なのだが、 その間には途方もない想いが流れているに違いない。
そんなとき、僕は想うのだ。 やっぱり、調子良く、 良い事だけを考えて生きていこうと。
そう、ほくそ笑んだら、 ボートハウスで聴いた『いいユメ見てね』が、 遥か遠くで鳴っているような気がした ……のである。
(1990年2月〜2015年)
※大久保初夏オフィシャルブログ ameblo.jp/shoka-okubo/
PS/ さて、山口冨士夫『So What! こぼれ話』 おかげさまで、通販限定販売/完売しました。 ありがとうございました。 たくさんの方に感謝申し上げます。
また、11月3日( 文化の日 )原宿/クロコダイルの 内容が決まりました。
今回は【よもヤバNight Party】トークShow と称しまして、 村八分の最初のドラマー/ 恒田義見 さんと、 村八分の最後のベース/ 加藤義明 さんに 冨士夫とは全く違う角度からの村八分をお聞きします。
また、LIVE Stageは、 ●THE BEGGARS & 恒田義見 & 加藤義明(ex村八分 ) ●The Ding A Lings ●VESSE という構成で考えています。
18;00/OPEN 19;00/START Charge;3,000/3,500 前売り予約/[email protected] まで 連絡先・お名前を明記のうえメール下さい。 予約をうけたまわります。 ※【ご来場の方に『よもヤバBOOK第2弾』先行特典あり?】 かも知れません。
随時、お知らせさせていただきます。 よろしくお願いします。
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052番外編2 『夏の終わり』/真夏の夜の動物園
8月も終わりに近づくと、 少しばかり日暮れが早まって、 夜7時まで明るかった高揚感が 少しずつ影を落としていく。
その長くなった影を目で追って行くと その先に冨士夫が立っていた。 「何やってんだよ、トシ、早く来いよ」 ……いつだって文句ばかりだ。 まぁ、そのわりには笑顔なのだが……。
鎌倉の海に行ってたころは家族だった。 エミリと一緒に居着いてしまい、 ひと夏、ウチの家族として遊んでいたのだ。 僕は会社に行っていたから、 土日になると冨士夫の案内で海の家に行く。 ビニールコップに入ったビールと イカリングを奢ってもらったけれど、 だけど、そんなことより、 僕より由比ケ浜に詳しくなった冨士夫が、 ほんとうは、少しばかり悔しかった。
高円寺に移ると『抱瓶/ダチビン』によく行ったっけ。 冨士夫はやたらと大勢で呑みに行こうとする。 そこら辺にいる知り合いをみんな連れて行ってしまうんだ。 そりゃあ、わいわいと大騒ぎで、 他の客が遠巻きにコチラを観察しているのがわかる。 だけど、コッチは別のことを考えてるんだ。 これじゃ、まるで真夏の夜の動物園だって。 それにつけても、ズズっと見渡して思った。 「こいつら、絶対、金持ってねぇぞ…」ってね。 案の定、勘定が足らなくなり、払うはめになる。 20人ぶんもの飲み代は持ち合わせていなかった。 免許証と名刺を店にあずけて歩いて帰った記憶がある。 息絶える蝉がぶつかってくる夜中に、 早稲田通りを朝焼けのなか、千鳥足だった。
この間、チコヒゲを呼び出して、 とある居酒屋で呑んでたら、 プライベート・カセットを作った夏の話になった。 ヒゲもどうやら、あの夏は懐かしいらしい。 冷房もない倉庫のようなスタジオで 冨士夫のアナログな毎日を録っていた。 コウ(フールズ)も毎日来るんだけど、 いつも階段に腰掛けて楽しそうに聴いているだけ。 一度もスタジオの中に入って来なかった。 誰もが誰かを気にしてる。 そんな、可笑しな夏だったような気がする。
そう言えば、 冨士夫はウチの子たちとも、よく遊んでくれた。 夏祭りの余興で、 長女が街の神社の“のど自慢大会”に出たときなんかは、 エミリと二人して、のどかに眺めてくれていた。 そのときの映像がある。 ドラえもんの歌に合わせて、 娘の名を呼ぶ冨士夫の姿だ。 ほっとする瞬間って、ほんの一瞬なんだな。 そんな気分にさせる夏祭りだったような気がする。
誰かが、人生は一瞬々の積み重ねだ なんて言ってたけれど、 そう、確かに一瞬にして場面が変わることがあるんだ。 そんなことは、若い頃は考えもしなかった。 家族や仕事や金を、 遊びや現実逃避とのシーソーに乗せて 絶えず揺らせていたけれど、 それはとめどもなく続いていく作業で、 懲りもしない自分と懲りた自分が 交互に現れる現実だった。
それが、一瞬にして変わっていく。 頭の中には、あのときと同じ蝉の声がするのに、 森の中に出かけることもできなくなる。
冨士夫はギターも弾けなくなった。 身体がいうことをきかなくなったのだ。 もし、人生がひとつの舞台であったなら、 ここで、ガラッと場面が切り替わるシーンだったのかも知れない。 一度、舞台の照明が落とされて、 次に照明に照らされた時には、 舞台の場面は変わっているのだ。
しかし、意外なことに、 そのときのその場面は緑の中だった。 小さな川のほとりに蛍が飛び交い、 魚がはね、鳥がさえずっちゃったりしているのだ。
ちょうど8年前の夏、 北京オリンピックの開会式を見た次の日あたりに、 当時、冨士夫とエミリが暮らしていた 秋川の森の中に行った。 クロコダイルの西さんの紹介で 森の中の山荘で養生させてもらっていたのだ。
「どうだぃ?オリンピックの開会式は」
テレビも何もない自然の中で養生する冨士夫が、 さして興味もないくせに聞いてくる。
「人間が宙に浮いて、壁を走って聖火をつけたんだよ」
興奮気味に僕がそう言うと、
「うそつけぇっ!」 って、大笑いになった。
ほんとうはワイヤーで吊られて、 宙を走るように聖火をつけに行く演出なのだが、 もう僕の説明を聞く気もない二人が、
「ほんとうにトシは嘘つきだな!」
って笑っている。 だから、もう、いいや、って思った。 愉し��れば、何でもいいのだ。 嘘でも本当でも、夏は愉しくなきゃ、つまらないのだから。
まだまだ、暑い日が続くね。 なんて会話がそこかしこで流れる夏の終わり。 まだまだ、語り尽くせない夏物語があるような気がする。 それは、誰でも同じだろう。 夏の終わりは、なんだかいつも切ないものだ。
少しだけ日が短くなり、 長くなってきた影を連れて公園まで行く。 冷えたハイボールでも買って、 夕暮れ時のベンチに腰掛けた。 ひとくち呑んで見上げると、 降るようなヒグラシの鳴き声が耳を塞ぐ。
とたんに、どうしようもなく冨士夫を思い出した。
「馬鹿だな、トシ、オレで稼げないなんて」
最後の夏が始まるころ、冨士夫はそう言った。 電話だったけれど、それでも、 久し振りの会話だったような気がする……。
夏休みを惜しむ子供たちが、 不思議そうな顔を向けて行き過ぎる。 8月の最後の日曜に、 幾つもの家族連れが家路に向かっていた。 その中で、何本目かの栓を開けた。
「なんか、酔っぱらっちまったなぁ……」 そう思ったら、思いがけずに泣けてきた。
(過去のいろんな夏〜この夏)
PS. 残暑お見舞い申し上げます。 上記にも書いたように、 当時、クロコダイルの西さんや、 オーナーであったガンさんの奥さんには、 秋川のほうにあった山荘を提供していただき、 ほんとうにお世話になったのです。 そのお礼も込めて、2008年の11月8日に クロコダイルでライヴをさせていただき、 その映像も残させてもらいました。
さて、あれから8年経ちました。 冨士夫が逝って3年経ちましたが、 来る11月3日の文化の日に、 あの時と同じようにクロコダイルで ライヴを行おうと思います。 内容は順次お知らせしていこうと思っていますが、 冨士夫の誕生日に来れなかった人も 来ていただいた人も、 愉しく過ごせる夕べにしたいと思っている次第です。 楽しみにしていて下さい。
それと、そうそう、 【山口冨士夫『So What! こぼれ話』】 をたくさんの方に読んでいただき、ありがとうございます。 あれは、舞台が変わる前の冨士夫が語った最後の言霊です。 そう想って読んで頂けたら幸いなのです。 11月3日クロコダイルのイベントにも 面白くつなげていけたらと模索中であります。
台風が来て、蝉が騒ぎ立て、 夜になると虫の鳴き声も聴こえだす季節。 行く夏と共に、逝った人たちが偲ばれます。
そんな想いを肴に、 やっぱり、もう少し呑もうかな、なんちゃって。
もうすぐ、秋の夜長が始まるのですから……。
【山口冨士夫『So What! こぼれ話』】Goodlovin PRODUCTION http://goodlovin.net/items/579a1bd7a458c08210004086 より、発売中……です。
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051/番外編 『 SO WHAT /こぼれ話』ジョニー・サンダース/忌野清志郎/他、様々な関係者の方々、ありがとうございました。無事に冨士夫の誕生パーティは終了いたしました。
『仕事帰りのOLが疲れた身体をもてあましながら マンションに入って行く。 そして、鍵を開け、部屋に入り、灯りをつけるんだ。 すると、このままでいいのか? という、あらゆる衝動が沸き起こってくる、 ナンてのは、どう?』
そう言いながら冨士夫は、 冷や酒の入ったガラスコップをクィッ!と空けた。 この頃のの冨士夫は物語を創るのが好きだった。 そこから曲作りのためのシーンを描いていたのだ。
「それ、聴いてみたいな」 …そう言うと、
冨士夫はコチラに向き直り、にたりと笑う。 そして、よろっと立ち上がると 少し先にあるカセットのスイッチを押した。
すると、いきなり歪んだギターの爆音がそこから飛び出した。 ハードギターの鳴りがリフレインする。 それは、ギター1本の音だけなのに、 まるで分厚い固まりのように耳をつんざくのだ。
♪ 死んでくれーっ!♪
その固まりの間をぬうように冨士夫が叫ぶ。
♪たのむから♪ ♪死んでくれーっ!♪
歌詞はそれだけだ。 へばりつくようなハードギターが 果てしなく続いていく。
「コレもいいね!」 思わずコチラもでかい声になる。
「だろっ!?」 そう言われて、 冨士夫もまんざらでもなさそうだ。 おでこをかきながら、得意げにまた笑っている。
…………………………………………
熱海の海岸に向かう真鶴道路。 その海岸線に沿った大きなカーブに 真っ白なリゾートマンションが建っている。 2007年の早春、 知り合いの好意で冨士夫はその一室を借りていた。
部屋に入ってみると楽器とともに、 あらゆるメモ用紙が散乱している。 冨士夫は、ここで歌を書いているのだ。 長〜い間、出し惜しみをしている 念願の新曲をまとめようと勇んでいるのだった。
とくに約束事があるわけではなかったが、 この時点で1992年の『ATMOSPHERE』以来、 15年ものあいだ新録を出していない。 いい加減、出さなきゃイケナイのである。
それと同時進行で1990年に宝島( JICC出版 )から出した 『SO WHAT』の新装改訂版を、 17年振りに再発売しようと目論んでいた。 15年振りのアルバムのパブリシティ代わりに、 17年振りの『SO WHAT』がこの世に流れれば、 すっかり真面目になって平和に暮らしている 冨士夫シンパのマイノリティたちが、 うっかりと、また、巷に現れるような気がしたのだ。
それならと、曲作りと平行して、 新たなる『語り下ろし』の作業も始めた。
「で? 何を話せばいいんだい?」
ギターを置いて、ハイライトに煙りながら 冨士夫が聞いてきた。
「TEARDROPSの後期から始めたいんだ」 そう言いながら、ヴォイスレコーダーをONにする。
『SO WHAT』では、 TEARDROPSの途中までで 途切れてしまっているので、 その後の時間をつなげたかったのである。
すると、本当に偶然だったのだが、 なんとなくついていたテレビから 鈴木ヒロミツ氏(モップス)の訃報が流れた。 冨士夫にとってはGS時代の先輩である。 同じ事務所だったときに ファンの女の子絡みで何度も利用された話は、 今では、冨士夫がする面白話の定番でもある。
「ヒロミツ……死んじまったか……」
別段、驚くでもなくたんたんとしていたが、 たぶん、心の中は随分とざわめいていたのだろう。 ここからの冨士夫の話は、 ずっとダイナマイツ時代の風景になった。 そして、それらの話はさらに子供の頃へと 逆流していったのである。
このときの冨士夫の口数はあまり多くなく、 内容もアチコチに飛んでしまう感じだった。 このままでは、とうてい思惑通りにいきそうにない。 そう思い、TEARDROPSの後期から つなげるというプランは断念することにした。 その代わり、バラバラではあるが、 本音で話しているシーンを拾いあげ、 カテゴリーごとに終章でまとめることとしたのである。
まる3日間、冨士夫の声を拾った。 それは、冨士夫が音を出す合間に。 道路の向かい側にある鰻屋のテーブルで。 まだ、肌寒い海風が舞うベランダで。 気晴らしにドライヴする真鶴道路で。 冨士夫の意に添っての言葉録りだった。
そして、曲作りも語りもひと区切りおくことにして、 4日目の朝に熱海の海岸を散歩したのだ。
「これが、貫一お宮か」 なんてことを言いながら、 ベタな像の横から 砂浜へ下りる階段に座ったのを憶えている。
季節は早春ではあったが、 風が吹くとまだまだ芯に響く肌寒さがあった。
「オレはさ、ぎりぎりのところでやりたいんだ。 例えば、カッコイイとぶち壊しの狭間とかだね」
そう言って冨士夫は海のほうに目をやった。 朝もやの中で、海と空の境目があいまいに映っている。
「だってさ、期待通りのことをそのままやったって、 何にも面白くもねぇだろ? ぎりぎりのところでしか味わえない究極のやつさ。 それがオレがいま想っている音楽かな?!」
そう言って、冨士夫は目をつぶった。 僕はそのまま黙って海岸を見ていた。 だんだんと暖かくなり、 人が浜辺に出て来るのがわかる。 犬を連れて散歩してる人。 日常の中を行き交う老人たち。 子供たちの笑い声で 今日が土曜だということに気がついた。
「今日って、土曜なんだね」
そう言って冨士夫を見ると、 目をつぶったままの冨士夫は そのまま眠っちまったようだ。 無理もない、3日間ほとんど寝ないで 音楽と戯れていたのだから……。
貫一お宮の像の下で、 石のように眠っている冨士夫がいる。
季節はもうすぐ春……、 なんだか楽しい事ばかりが 想い浮かんでくる陽気に、 僕も思わず目を閉じた……。
(2007年/3月)
PS/ 結局、このときの曲作りはいっこうに進まなかった。 おまけに『SO WHAT』も、 以前のままの内容で出版したいと言いだす始末。 徒労に終わるとはこ〜ゆ〜ことなのか……と、 随分と放心したものだが、 そのうちに冨士夫が体調を崩し、 それどころではなくなってしまったのだった。
さて、そのときの『語り下ろし』を、 『SO WHATこぼれ話』と称して簡単な本にしました。 上記のように、 本来は『SO WHAT』の終章にしようと 思ってまとめたものです。 そのとき、冨士夫が思い浮かべた 言葉を起こしただけのランダムな内容ですが、 それだけに、本編にはない 本音の固まりが含まれていると思っています。
2007年の早春の冨士夫。 新しいアルバム作りを想い描き、 これからのビジョンに試行錯誤しているとき。 そこでの『語り下ろし』なのです。
Goodlovin PRODUCTION http://goodlovin.net/items/579a1bd7a458c08210004086 より、緊急【限定】発売!……です。
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050 『サウサリート/遥かなるMixin Love・2』風にとけて
サンフランシスコから ゴールデンゲートブリッジを渡った 対岸にサウサリートはある。 昔はただの漁村だったらしいが、 近年では芸術家が多く集まる海辺のリゾートだ。
海岸近くから緑が茂る斜面になっており、 夕暮れどきになると、 そこに点在する住宅から灯りがこぼれ出し、 それが幻影的な景色を映し出していた。
そんな空気感を体感しながら 空港に迎えに来たポールの車で プラントスタジオに行き着いた。 しかし、「やっぱり」と言うのもオカしな話だが、 バンドのメンバーの姿はどこにもなかった。
相変わらず神は降りて来てはいないらしい……。
ミキシング・ルームに入ると ゆったりと作業をしている麻琴さん(久保田麻琴)と ジンさん(寺田ジン)が笑顔で迎えてくれた。
「それでも2曲もできてるよ」 と、皮肉めいた口調で麻琴さんが言う。 「ほんとに?! 良かった、どんな感じですか?」 一曲も収録できていないと聞いていたので、 ついつい、嬉しい声を出してしまったのだ。
「『グッ、モーニン』と『いきなりサンシャイン』」
“エッ!? それって……”
「そう、何もしないんじゃスタジオ代がもったいないからね、 その2曲を録って調子をみたんだ」と、言う。
つまり、この時点でも カタチになる新曲の収録はゼロだったわけだ。 アルバム『Mixin´ Love』をご存知の方は、 これで新曲でもないこの2曲が アルバムに収められている理由が理解できただろう。 そんなよもヤバ話があったのである。
早速その2曲にサックスを入れるチカシ。 そのチカシをスタジオに残して、 僕は冨士夫のところに行くことにした。 ローディのオオジが運転するクルマで、 少し離れたコンドミニアムに向かう。
「冨士夫の宿は近いのかぃ?」
軽やかに左ハンドルを握るオオジに聞いてみた。 基本的には、全員の宿泊先はホテルだったが、 冨士夫ひとりだけはコンドミニアムにしていた。 理由は持病の膵炎にある。 デリケートな腹具合を考慮して エミリが自炊をして、 健康管理に努めていたのである。
「すぐそこです」
オオジは決して、無駄な修飾語を用いない。 それは、シスコに来ても変わりなかった。
プラントスタジオのあるサウサリートという地域は、 植物の生態系が日本によく似ている。 だから、なんだか妙に落ち着いたりする。 乱暴にいえば山中湖にでもいる感覚だ。 これでアヒルちゃんボートでもあれば、 間違いなく山中湖畔だろう。
そんなことを考えていたら、 間もなく緑の中に入り、冨士夫の根城へと着いた。 クルマを降り、個建てのコンドミニアムに向かう。 玄関を入るとギターの音色と共に 冨士夫の声が聞こえてきた。
「世界はいったい何処に行ってしまうのであろぅ〜?」
何だかイイ調子だ。 こーゆーときのアーティストは 絶好調か、お話にならないかのどちらかである。 気をつけろよ、ベイビー、そんな気分なのだ。 リビングに入ると、間接照明の薄明かりの中で 冨士夫とカズが向かい合ってギターを弾いていた。
……そこに、静かに割って入った。
「ワっ! トシ〜、久し振り!」 と、少し驚いたように言うカズと、 「オッ!? ついに来ましたな」 っと、意味深げに人を斜め見する冨士夫。
「スタジオには寄ってきたの?」 とにこやかに聞くカズと、 「奴ら、何か言ってたか?」 と、いぶかしげに人の顔色をうかがう冨士夫がいる。
「別に、とりあえず挨拶をしてきただけだよ」 と答えると、
「嘘つけぇ〜!? 曲ができてねぇからって、 怒ってただろーが?!奴ら」
日照りが長く続き、 すっかり、へそが曲がっている冨士夫は、 もはや完全に疑り深いはぐれ者だ。 焦っているのである。 焦れば焦るほどハイになっていく、 ミュージシャン独特の病にかかっていた。
それでも、必死に曲を作っているのだ。 邪魔をしてはいけない。 八つ当たりをされる前に、 早々に立ち去ることにした。
そして、再びギターをかき鳴らす冨士夫たちを後に、 残りのモンスターたちを探すことにしたのだ。
とは言うものの、 あてもなく探して事故に遭うのもなんなので、 取り敢えずスタジオに戻ってみた。
すると、いたのである。 スタジオの中でもTVのある休憩スペースに、 ヒゲをはやしたデカいモンスターが。 点数はあまり高くないのだが、 格闘技好きなので闘いにはめっぽう強い。 こちらに目をくれると、 あえてゲットするまでもなく、 嬉々としてソファから跳んで来た。
「トシ! いつ来たんだ?! ダーティ・ハリーやりに行こうぜ!」 と、意味不明の言葉を浴びせる ビッグ・ビート・モンスター。
以前にも書いたが、 佐瀬は大のアクション好きである。 クイント・イーストウッドとは 似ても似つかぬ容姿をして、 どの面さげてダーティ・ハリーと 同じ事をしたいと言うのだろうか?
松田優作の遺作になった 映画『ブラック・レイン』なんかは、 8回も映画館に観に行っていた。 それでいて、毎回感想を言ってくる。 格闘シーンがどうだったとか、 言いながらいつまでも興奮しているのだ。 それが、8回目くらいになると、 さすがに、マイケル・ダグラスのうどんのすすリ方が 気になってくるらしい。 人間、マニアックになると違う方向に行くこともある。
「佐瀬、そのくらいにしておけ!」
そのときは、あきれ半分に怒った冨士夫が 9回目の『ブラック・レイン』鑑賞を止めていた。
結局は、このヒゲ・モンスターには、 『ダーティ・ハリー5』での、 ランバートストリートでのカー・アクションを 再現させられた挙げ句に、 中華料理まで奢らされたのだった。
さて、残るモンスターは、 ミュージシャンをナリワイとしているくせに、 めったにギターにも触れないという特殊なタイプ。 時間さえあれば寝ていたいというモンスターだ。
もちろんスタジオに居るはずがない。 ホテルにチェックインしたついでに 青ちゃんのルームナンバーを聞き出し、 部屋に電話してみたのだ。
「おぅ、誰だよ? あっ、トシか。どうした?」
って、そりゃないだろう!? 一瞬、初台にいるのかという錯覚に襲われる。
シスコに来ても、青ちゃんはやっぱり青ちゃんだ。 何の気負いもなく、のんびりとやっていた。 日本食が恋しくなると、 冨士夫のコンドミニアムに出ばってみそ汁を所望する。 もちろん、作るのはエミリ。 江戸っ子はシスコに来ても気風が良いのだ。
「てやんでぇ! あわてるヤローは もらいが少ねぇって言ってるぜ!」
まぁ、青ちゃん独自の気風ではあるのだが……。
さて、翌日から2月3日までの、 凝縮した1週間が始まる。 ここで、殆どのベーシックを録らなければならない。 この後のジャマイカでのシーンは、 ジャマイカのミュージシャンたちのダビングと 冨士夫の歌入れにあてられていたからだった。
冨士夫にとっても、 こんなにプレッシャーのかかる日々は 初めてのことだっただろう。 詞を作り、曲を作り、バンドをまとめ、 パブリシティまでこなし、 他のグループのゲストとしての演奏もする。
そして、たったいま、自身初の海外で それら総てを背負ってレコーディングをしているのだ。
どうやら、曲は天から降り注いでくれそうにもないが、 大変な想いをした分だけ内には何かが育ちつつあった。
「オレたちはみんな、おんなじ船に乗ってるんだ!」
そんなフレーズを普通に言える輩は、 僕の知る限り冨士夫しかいない。
ゴールデンゲート海峡で漂っていたTEARDROPS号は、 マストをあげて風を扇いだ。 シスコでの残り1週間をカタチにするために、 船長である冨士夫が、 オモカジをいっぱいに切ったのだ。
「まったく、ジャンキーになる暇もありゃしねぇ!」
見渡す限りの海に向かって、 遥かなる想いが風にとけていく……。
(1990年1月〜2月)
PS/ 猛暑の日々がやってきました。ホントに暑い。 でも、「暑い、アッツ〜イ」と、あと2回過ごしますと、 すんごくあっつ〜い夜がやってきます。 そう、8月10日は冨士夫のあっつ〜い誕生日。 どなた様も、この日ばかりは日頃のうさを晴らすも良し、 浮き世の義理なんか捨てちまうのも良し、 良いも悪いもひとまとめにくくっちまって、 久々に出くわす仲間と共に 前後不覚に楽しんじゃってくださいませ。
【山口冨士夫Birthday Party】2016/8/10〜12 原宿/Galaxy(ギャラクシィ)03−6127−2099 http://www.thegalaxy.jp/
※詳しくはフライヤーを参照してください。
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