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なんて美しい詩なんだろう。。。
Do not stand at my grave and weep I am not there, I do not sleep I am in a thousand winds that blow I am the softly falling snow I am the gentle showers of rain I am the fields of ripening grain
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2024/4/13
今日は夫が面会に来てくれて色々と話したのだけど、途中から頭の中でとりとめのない考え事が始まってしまった。(夫には申し訳なかった)
自分の今後に対して漠然とした不安があって、それは金銭的なことかとずっと思っていたのだけど、どうやら本質はそうじゃないみたい。もっと深いところ、私は何を為すべき存在なのか、何のために生きるのかというところなのかもしれないと、今日思い至った。こんなのすぐに答えが出るわけなくて、そりゃ頭も重ーくなるわけで。今、『信長のシェフ』を読んでるから尚更そう思うのかも知れない。戦国時代の大武将たちは大義を心に刻んでいる。
シンプルに、ただただ心の赴くままに考えれば、わたしはただ大切な人たちと楽しんでいたいだけ。楽しいことをしていたい。わたしにとっての楽しいことは身体を動かすことが多い。料理、トレッキング、登山、読書…。
「人生を存分に愉しむ」が大義でもいいのかもしれない。でも、どこかで自分自身が楽しむことのその先に、何か未来のためになるような大義を見出したいような気もする。もちろん何が未来のためになるかなんていうのは結果論にしか過ぎなくて、ただの押し付けにはなりたくないのだけど…。
その大義は自然環境や生態系を未来に繋げることにあるのかと思っていたけれど、ここ1年でもう少し人間に近い部分にあるのではないかと思うようになった。
やってみたいことは色々とある。
自分のセーターを編んでみる
サワードウを育ててパンを焼いてみる
器を作ってみる
家族用のおやつを作る(これはすぐできる)
農業・ガーデニングをやってみる
フラダンスを習ってみる
茶道を習ってみる
生花をする(これもすぐできる)
やってみたいことをとにかくやってみれば何か見えてくるのだろうか。とにかく考えてても何も始まらないことだけは確かなので、やってみよう。退院したら色々やってみよう。
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2024/01/01
年が明けた。年が明ける実感なんて、ほぼ毎年あまり無いのだけど、今年は特に不思議な感じがする。こんなことするの人間だけだよなって思うと可笑しくなるけれど、同時にそこから生まれる浄化されていく空気のようなものは嫌いじゃない。
昨日、大晦日の晩、初めて本気で自分の死について考えた。「いつかは死ぬからな」というのは前々から思っていたし、友人の死に向き合って、本当に人は死ぬんだなということも実感していたけど、自分自身の死をここまで真剣に考えたのは初めてだった。自分で考えようと思って考え始めたわけではなく、病院のベッドに横になったら、自分の死のイメージが急に頭の中に浮かんできた。
夫と娘、両親や妹を遺していくことがとてもとても悲しくて、涙が溢れてきたけれど、しばらくすると、このイメージはわたしを悲しい気持ちや恐怖に落としめるためじゃなくて、「あなたもいつかは必ず死ぬ、だから今を大切に生きなさい」という当たり前のことなのだけど、この真理に触れさせるためなんだなと気づいて、そうしたらすごく心が解放されて、穏やかな気持ちで眠りについた。
「明日、わたしは死ぬ」なんてほとんどの人は思っていない。それは幸せなこと。ガザやウクライナをはじめ、戦地で明日を迎えなければならない人々のどれだけが、こんな思いを抱きながら眠りにつくのだろう。でも、私たちは自分がいつ死ぬのかなんて分からない。急性期の病気であっという間に亡くなる人もいれば、長期の病でじわじわと弱っていく人、不慮の事故に巻き込まれる人、どんな最期を迎えるのかなんて分からないし、選べない。
でも、その寿命が尽きるまで、どう生きるかは選ぶことができる。たとえ身体が動かなくなっても志だけは自分で守ることができる。
なんかベタでクサイ台詞みたいになったけど、本当にそうなんだと思う。死の淵に立って人生観が変わるとはよく言うけれど、わたしの場合は人生観が変わったのかどうかは、まだよく分からない。ただ、お互いにいつかは死んでしまう身近な大切な人たちを、心から大切にしたいと改めて思った。そして人生100年時代と言われているけれど、100年なんてあっという間に終わる。人の命は、わたしたちの想像以上に短くて脆い。
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2023/12/28
胸の奥がきゅっと締め付けられるような、鼻の奥がつーんとするような、少し頭痛がするような、なんとも心許無い気持ちになる時がある。
今回の約1ヶ月の入院期間中も何度かそんな気持ちに見舞われている。多分、身体が元気になってきたから、頭で色々と考える余裕が出て来ているんだと思う。この冬の短い陽射しもそうさせるのかも知れない。
要するに、今の自分を悲観してしまう。病気にならなければ、今頃沖縄で子育てしながら新しいことにチャレンジしていたかもしれない姿。家族と一緒に過ごせない時間。夫にかかっているだろう負担。そして悲観してもしかたないことだと分かっているから、そうやって考えてしまう自分が嫌になる。
文章を書きたいと思った。自分の気持ちを、どうやって整理したらいいのか、今はまだ分からないこの気持ちを吐き出す場所が欲しい。吐き出せる場所が、方法があることがありがたいと思った。
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2023/12/18
今日、とてもポジティブな気持ちになった。この気持ちを、感情を、忘れないようにとどめておきたい。
とある人のInstagramを見たのがきっかけだったのだけど。その人は、コロナ禍の2020-21年にかけて、バナナキャロットケーキを販売してその売り上げをフードバンクやこども食堂に寄付する活動を行っていた個人の方なのだけど、久しぶりにアカウントを見たら、わたしも買ったことがあるココナッツヨーグルトの会社を立ち上げていた。
ヨーグルトのアカウントに書いてある創業のきっかけとかは至ってシンプルで、自分が海外で食べて美味しい&身体の調子がいいと感じたココナッツヨーグルトを、自分だけじゃなくて多くの人の届けたいというところから始まる。はじめは輸入販売したいと思ったけれど、乳酸��を使っていたりすることから輸入のハードルが高くて、であれば自分で作ろうと半年間の試作を経て立ち上げたと。
彼とは全く面識がないけれど、出発点がシンプルで、とっても愛があると感じた。そしてすばらしい行動力。
わたしも人の役に立ちたい、そのために何かをしたいという気持ちが心の中で大きくなっていくのを感じた。誰かのためだったら頑張れる。それが身近な人であればあるほどそうなのだけど、そういう時は短期間でもぐっと踏ん張れるんだけど、そうでないもう少し広い範囲の誰かに対しても、わたしにも何かできるかもしれないと、根拠はないけれど思うことができた。
何ができるのか、どうやっていくのか、難しく考えずにまずはアイデアを見える形におこしてみよう。こういう人と出会えるのはSNSの素晴らしいところ。
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2023/12/17
「ちーちゃんはおしゃれ、やめたんだよね?」
夫の好きな、わたしの妹からわたしに向けられた台詞だ。
なんでこの言葉に行き着いたのかはうろ覚えなのだけど、わたしが最近着る服が分からないみたいな小さな悩みを口にしたら、妹から発せられた言葉だったように思う。
この言葉自体は数年前に言われたものだけど、確かにここ最近もわたしのクローゼットの中は基本的に黒、グレー、紺、白ばかり積み重なっている。あと、「動きやすいように」とか考えていたら形もシンプルな、アウトドアチックなものばかりになっていた。
さて、わたしはおしゃれをやめたのだろうか?
いや、おしゃれをやめたつもりはない。でも、一方で学生や出版社でアシスタントとして働いていたころのような、洋服に対する熱意みたいなものは確かに失われている。あの頃は、洋服は自分にとって戦闘服みたいだった。武装するみたいな感覚。Aちゃんから教えてもらったヴィンテージショップで、店主の方と音楽とか哲学とか色々なことについてあーだこーだ語らいながら選んでもらった唯一無二の洋服たちを着ると、なんだか無敵な気分になれた。
今のわたしにとってのおしゃれとは何だろう。今は、武装というより馴染むものを身につけていたい。ちょっとクタッとしていて、なんだか親近感が湧くような。話しかける人が緊張しないような。でもわたしの人となりを表してくれるようなものがいい。そしてたまーに、しっかり戦闘力の高そうなおしゃれもしたい。
ただ、���ういう服に出会うのは非常にムツカシイ。すごくお世話になってるけどユニクロとかみたいな大量生産だとなんか違う気がする。でもだからといって良いヴィンテージものはなかなか手を出すのが億劫になる値段でもある。
ヴィンテージものである必要はないのだけど、だったら自分でヴィンテージものに育てられるくらい、長く着れるものがいいのよね。そこまで質が良くて、これは長く着れる!と太鼓判を押して大金を叩くにはまだまだ勇気と経験が足りていない。
自分で自分のお洋服を作れる人ってすごいなあ。昔の人のエッセイとかを読んでいると、ごくごく当たり前のようにお母さんは洋服を作ってくれたりしていて、尊敬する。「無いときこそクリエイティブになる」というのは本当だと思う。
わたしのおしゃれへの道はまだまだ続くのである、、。(辿り着く日は来るのか?)
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2023/12/16
あっという間に12月も折り返し。と書いて消した。こんなことが書きたいわけじゃないのだ。わたしが元気だろうと無かろうと、12月は折り返すし、大きな流れの中で人は大いに救われるけれど、今わたしが書きたいのはそんな大きな話ではないのだ。
ジュンパ・ラヒリの『その名にちなんで』を読んだ。『停電の夜に』で完全に彼女のファンになったわたしだが、ファンになったと言いつつ、その後彼女の作品を手にする機会がなかなか無かった。次の入院に備えて何か小説でも買っておこうとAmazonを物色していた時に見つけた。タイトルに惹かれてすぐにポチッとしていた。
さて、やはり彼女の文章は圧巻だと思った。ニューヨークもインドも行ったことは無いし、インド系の友人もほぼいないけれど、ゴーゴリを取り囲む家族や彼女、そして彼の日々の様子が鮮やかに脳裏に描かれた。「〇〇のような」という比喩は少ないのだけれど、細かな描写が本当に美しい。まるでその現場に一緒にいたかのような錯覚すら覚えるほど、端的な言葉で見事に表現されている。
『停電の夜に』の内容は詳しくは忘れてしまったのだけど、どの短編もそこまで明るい話ではなかった記憶がある。といってもものすごく悲惨でバッドエンドというわけでもないのだが。幸せの中に寂しさがあって、でもそんな日常が淡々と続く。誰もが決断をする時があって、それは決して幸せな決断ばかりでは無いけれど、自分で、自分たちで決めて次に進んでいくことに意味があると思わせてくれる。
今回の『その名にちなんで』も同じ印象を受けた。アメリカという個人の自由を最も尊重される国で、幼少期から嫌いだった自分の名前を変えることを選んだインド系アメリカ人2世の青年ゴーゴリ。20代でインドからアメリカへ渡ってきた両親と彼らが懐古し、大切にし続けるインドへの想い、そしてインドそのものに対して距離を感じながら、アメリカ人としての人生を歩んでいく。特に恋愛を通じて、彼の心惹かれる自由な生き様と、それに基づく彼の選択が描かれる。一方で、歳を重ねて、出会いや別れを繰り返す中で、彼の中にもこれまでなかなか理解できなかった両親の心境というものが沁みてくるようになる。
この、2つの国の狭間で、両親ほど直接的に狭間にいるわけではなく、むしろ自分としては一方に寄っていると思っている場合でも、揺れ動く心があり、揺れ動きながら選択を繰り返していく主人公に、境遇は全く違えど、なぜだか深い親しみを覚える。国に挟まれているわけでなくとも、揺れ動く心は万人に共通するものなのだろう。この本の中で、揺れ動くことは決して悪いことではなく、その中で選択と決断を積み重ねることが人生なのだろうと、そういうことを肯定されている気持ちになる。大袈裟な言葉や行為を伴うわけではないが、でも逆にだからこそ、肯定されている気持ちが大きくなる。
わたしたちが受け入れられ、認められたと感じる瞬間は、日常の中に、本当に些細なことの中に潜んでいる。それは認める側も多分に意識しているものではないだろうし、その瞬間に気づく類のものというよりは、結果として振り返ったときに、ああそういうことだったのかと思うようなものなのだ。
とても素敵な1冊だった。
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2023/12/14
昨日から2回目の地固め療法が始まった。約4週間の治療を入院しながら受ける。今年はクリスマスも年末年始も病院だ。
今は朝の7時15分なのだけど、4人部屋の同室の3名は朝が早いのか6時台から動き始める。と言ってもうち2名は今日手術と退院をされる方なのでそんなものか。
わたしはと言えば、同じく6時台に一度起き上がってうがいや検温、体重測定など朝一の作業は一通りこなすが、今はまたベッドで横になっている。
入院してからまだ3日しか経っていないけど、なんだかずっと眠い。夜は眠さと怠さもあって、夕飯後そのまま20時くらいには寝てしまう。薬の影響もあるんだろうか。ただ、体調だけじゃなくて、なんだか気分も上がらない。やる気が起きないし、先のこと(明るいこと)を考えることができない。なんか停滞、滞留している感じ。淀みの中にいる。頭にずっと靄がかかっていて、思考がクリアにならない。
夫に「リハビリもできるんだったら週5日にしてもらえば?」と言われたけれど、さすがに5日は半分冗談だろうけど、「いや、そんなに頑張れない」と心が先に折れそうになる。
そんな中でも、一体これは何なのだろうと冷静に考えようとする自分がいる。こんな状態の自分を受け入れる一方で、抜け出したいという思いもあるのだ。寝るのは一向に構わないのだけど、思考にずっと靄がかかっているのはあまり気持ちいいものではない。
単純に疲れているだけの可能性もあるけれど、少しでも紐解けそうになったら、またここに書き残しておきたいと思う。
今日も多分よく眠る1日になるだろう。
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2023/07/18
文章を書き残したい気持ちと、一方でなんだか書き始めるのが億劫な気持ちが合わさって、結局ここ3週間ほど書きたいような気もするけど書く気が起きない日が続いた。
さて、ここ半年くらいゆるくコーチングを受けている。会社の先輩で副業としてコーチングを勉強・実践している方がおり、その方のコーチングを数ヶ月に1回というスパンで受けている。
前回のセッションで「将来なっていたい姿・イメージを言葉にしてみる」というのがあって、「とりあえず子どもが産まれてからの1年は家族で豊かな自然のそばでのんびり過ごす」というやりたい事はあったものの、頭の中に浮かんできたイメージをもう少し言語化してみた。
「2-3歳くらいの子ども。その子と一緒に夫と3人で森の中や海辺を歩いている。子どもの足取りに合わせてゆっくり歩く。途中で気になるものを見つけると、その子は立ち止まってしゃがみ込み、じぃっと見入ったりしている。それを私たちも一緒に観察してみる。世界の広さに改めて気づく。時間に追われることなく、この今という瞬間に目の前にあるものに集中している。」
そうか、自分は“今”に集中したいのだなと気づいた。自分も集中したいし、子どもにも集中できる環境を作りたい。あっという間に大きくなって、小学生にでもなれば、先のことを嫌でも考えて行動できるようになる。だから、せめてそれまでの間は興味関心の赴くままに世界と向き合う時間を作ってあげたいなと。そしてそんな時間を私自身も渇望している。
しいたけ占いで、今年下半期の水瓶座は新しい世界へ飛び込むシーズンに入ると言われた。2つの軸で新しい世界を用意してトライしてみると、どちらかが上手くいかなくても諦めにくくなるから良いとも。
育児自体も新しい世界なのだけど、それ以外だと「食」と「環境保全」に関わってみたい。自分には何ができるのだろう。まだ手探りの状態だけど、探してみようと思う。まだ見ぬ沖縄の地で。
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2023/06/24
私の嫌いなこと
自分がやりたくないこと、きらいなことはなんかセンサーでもあるのかと思うほどよく分かる。
ただ、それを意識したり口にすることはあまり良くないことなんじゃないかと無意識のうちに思っていた。「NOというなら真っ当な理由がなきゃ」と思っている節がある。
でも、今日ふと思ったのだけど、この「これはなんかいやだ」の感覚をもっと大切にしてあげたいなと。
Kさんと夫と先週ごはんを食べた時の、会社とか組織はまた別だけど、個人の人生においては強烈な「Will(なりたい姿)」を置いて逆算したのを進んでいく方法だけじゃなく、「Compass」を自分の中に持ち、現在地を知ることで大まかな正しい方角へ進んでいく方法もあるよね(あえて目指す最終地点を定めない)という話となんだか繋がった。
強いWillがあって、そこにたどり着くための道を切り拓いていける人は素晴らしいし(私の身近には1人だけいる)、それはそれで良いと思う。ただ、私をはじめ、多くの人はそんな強烈なWillをそもそも持てていないんじゃないかなと。
そんな時、自分がいやなことをきちんと分かっていることは、自身のコンパスを作るための大事な要素になると思う。「進むべき道はこっちではないな」と分かるか分からないかは大きい。
自分が嫌いなことをちゃんと言葉にしてみようと思った。
・他人からの承認欲しさに自分の大切なものを広告的に消費してしまうこと
・ブランドものだからというだけで、ブランドに踊らされること
・大切な人だけでなく、関わる人に親切にできないこと(一期一会を忘れること)
・色々なものを失いました、でもプライドはあります、みたいなバリキャリになること
・尊敬できない人やもの、サービスのために働く(自分の時間を使う)こと
・自分を自分で認めたいがために、他人や別の考えを下げること
・自然から遠く離れてしまうこと
・素直な気持ちでいられないこと
まだまだ続く…
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2023/04/04
モンテッソーリ教育の話
この前、会社のチームビルディングの一環で、久しぶりに自己紹介をする機会があった。
それでこれまた久しぶりに自分自身のことを幼少期から振り返ってみていたのだけど、ちょっとした気づきがあったのでここに記録したいと思う。
わたしはカトリック系のモンテッソーリ幼稚園に3歳から5歳まで通っていた。小学生から中学生の記憶はすっぽり抜け落ちているのに、この幼稚園での体験は所々だけど鮮明に映像として記憶に残っている。それほどわたしにとっては充実して刺激に満ち溢れた日々だったのだと思う。
そんな幼稚園生活の中で、その当時は全く意識していなかったし、今回改めて記憶を振り返る中で気づいたことがある。
幼稚園はモンテッソーリ教育でかつカトリックということもあって、インクルーシブ教育を掲げていた。インクルーシブ教育とは、誰もを受け入れるということ。身体に障害があったり、いわゆる発達障害の子どもたちも、特別クラスなどではなくて、縦割り30人のクラスにそれぞれ当たり前にいた。
子どもながらに「〇〇ちゃんはどん臭いからなぁ。リレーの時に笑ってこっち見てないで前見て走ってほしいなぁ」とか「(年長と年少が一対一でペアになるバディ制度で)バディの〇〇君はちょっと乱暴だし、暇さえあればすぐ教室を抜け出しちゃうし、面倒だなぁ」とか思っていた。でも、思ってもそれが日常だから慣れる。運動会では、ニコニコこっちを見ながらゆっくり走る〇〇ちゃんに、他の子たちと「前見てー!がんばれー!」と大声を張り上げて応援したし、脱走常習犯のバディの年少さんのことはクラスでも足の速かったわたしとモモちゃんがバディになって、連携プレーで教室に連れ戻す日々をなんだかんだ楽しんでいた。
先生にも恵まれたんだなと今になってよく分かる。そもそもモンテッソーリ教育だから、みんなで同じことを何かすると言う機会が少なくて、それぞれがやりたいことを黙々と行なっているという日常だったけれど、それでも誰かと比較して落ち込んだり、バカにしたりした記憶がほぼゼロに等しいのは、先生たちの見えない努力の賜物だったに違いない。
そんなわけで、わたしの根っこには「人と比べない」ということと「みんな違って当たり前」、そして「誰もがそれぞれ成長している」という感覚が深く張り巡らされていることに改めて気づいた。
夫にそんな話をしたら、「それはそうだと思う。そういう価値観をちーちゃんからは感じるし、それがとても素敵でいいなと思ってるところのひとつ」と言ってもらえて、わたしにとってもとても大切な価値観をこうして認めてくれる人がそばに居てくれることはなんて素敵なんだろうと思った。
卑下でもなんでもなく、本当にわたしは大した取り柄があるわけでもないけれど、この価値観を持って世界と向かい合う限り、そこには無限の可能性がわたし自身を含めてみんなに広がっていて、なんて生きていることは楽しいのだろうと心の底から感じられる。そう思うだけでまたグッとおなかの底に心地よい力が沸いてくる気がした。
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2022/12/21
気分の浮き沈みが若干ある。今日は夕方までは集中してやる気がみなぎっていたけれど、夕飯が何を食べたいのか若干迷子になり、ビビン麺とキムチチゲを作って食べたけど、若干コレジャナイ感があった。食べたいものを作って食べるって難しいときがあるな〜。
そのあとはなんだか全然やる気が起きなくて、久しぶりにFacebookを開いてしまったら永遠と続く動物レスキュー動画を永遠に見続けるという非生産的な時間を過ごしてしまった。まあたまにはこういう日があってもいいのか。明日はちゃんとしよう、って思えるもんな。
そしてやっぱりドーナツ(イーストでふっくらしたやつ)が無性に食べたくなる。明日はお昼休みに商店街に買いに行っちゃおうかな。グルテンフリーでもイーストドーナツは作れるみたいだからいつか作ってみたい、と心のどこかに刻んでみる。
毎日を穏やかに過ごすよう心がけよう。深呼吸。そして瞑想。
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2022/12/20
今日は、あと数ヶ月後とかに振り返るとスペシャルな日になるのかもしれない。
今月末で会社を去る同僚の送別会に参加した。聞けば、来年からハワイ島のコミュニティカレッジでハワイの文化人類学を学ぶとのこと。なんかいいなあ、素敵だなあ。
帰り道、やっぱりフラダンスを習ってみたいなと思った。あと、超客観的に、人生って思い通りならないもんだなあ!と心の底から感じた。わたしの人生なんて思った通りに進んだ試しなんてほとんど無くて、でもそうじゃなかった方の道で偶然が重なってなんだかんだ繋がっていたりする。
この前のキャリアカウンセリングの一コマで、わたしは凪の水面のように穏やかに静かにたゆたっていながら、どこかで社会の役に立つために行動を起こしたいのだということに気づいた。
でも、この行動を起こすところに、無意識の「XXXXねばいけない」が案外くっついていて、変に時間に追われたり、逆に行動できなくなっている気がした。
穏やかな日々を過ごしながら、何か社会に還元できる方法をわたしのペースで見つけていきたい。
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2022/05/12
YoutubeでKodi LeeのAGTでのパフォーマンスを見た。彼は生まれつき盲目で自閉症の歌手なのだけど、ピアノを弾きながら歌う時、彼の世界は無限になる。
Kodiの歌う姿には、人の生きる意味が全て詰まっていると思った。それは生きる歓びであり、永遠で、自由で、彼だけの世界が鮮やかに輝いていた。命を謳歌することと、見た目や話し方がどうだとか、何だったら目が見えるとかどうとか、ああ、本当に関係無いのだなと。分かっているつもりのことがもう一度深く心に刻み込まれた。
心の底から「ああ愉しい!」と思える瞬間はいつだろう。今、大人になって忙しい日々の中でそんなこと感じていないという人は、子どもの頃に何に時間を忘れて夢中になっていただろうか。
そんなことが一つでもあればそれだけで生きる意味は十二分な気がする。例えそれが人をエンターテインするようなものでなくても、側からみればささやかなことに過ぎなくても、私たち自身の心の声が歓声を上げていればそれでいいのだ。
心の声に耳を傾けてあげよう。自分を大切にするとはそういうことだとわたしは思う。
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2022/02/15
ここ2-3週間、SNS、特にInstagramと距離を置いてみているのだけど、すこぶる調子が良い。
まず、そもそも時間が生まれた。1日1時間くらいフィードを見ていた時間が浮くのだから大きい。そのかわりに吉本ばななさんのnoteを読んだり、新聞を読んだり。頭に入ってくる情報の種類が、超客観視できるものが多くなったことも大きいのかしら。
そして一昨日久しぶりにInstagramを開いて気づいたこと。自分の中のあまり好きでない自分が出てくることに気づいた。例えば、山に登ったり海でのアクティビティがアクセサリーの一部として、特に知っている人たちによって消費されていることへの嫌悪感が自分の中で湧いてくるのを感じた。多分これらが自分にとって必要不可欠なもので、大切に大切にしているからこそなんだと思うけれど、モヤっとした黒い気持ちが自分の中に生まれるのに気づいた。でも、側から見ればわたしもそんな一人なのかも知れない。誰かの中にモヤモヤを生んでしまっているかもしれない。
海外にいる親友たちの近況とか、飼い犬の様子が母親の投稿で見れるのはやっぱり嬉しい。でも、だからといってそういった人たちだけにフォロー/フォロワーを限定しようとも思えないから、またしばらく離れてみようと思う。大切な人たちには自分から連絡をとってみればいいのだ。主体性を持って自らの行動を選んでみるということ。
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2022/02/05
死ぬ時に後悔する5つのことについて、その本を読んだわけではないのだけど見出しを見て、彼と色々ディスカッションして、Voicyでいつも聞いてるバイリンガルラジオの人がトピックに挙げていたのを聞いて、また自分なりに考えてみた。
5つのうち、特に自分にリンクしそうだなと思ったのが、「他人の望む生き方ではなく、自分のやりたいことをやればよかった」「仕事ばかりしなければよかった」のふたつ。
特にひとつ目はなんか身に染みて大切だなと思った。別に今までの生き方も今の生き方も嫌いではないし、人が望むからとやってきたわけではないけど、やっぱり事あるごとに周り(特に家族)がどう思うかを無意識に考えている自分がいる。それはやらなくていい、と言い切るわけではないけれど、自分の人生に最終的な責任を持てるのはやっぱり自分だけで、だから家族とか周りがどう思うかの前に、自分はどうしたいか? にきちんと耳を傾けてあげることが重要だなと。
そして自分が本当はどうしたいかって意外と自分でも気づいてなかったりする。これが世間的にはいいと思われているから…家族が喜ぶから…がいつのまにか自分のやりたいことにすり替わって、自分でも気づかずにそれが自分がやりたいことなんだと思い込んでたりするからやっかい。だから、自分と向き合ってみると、今まで思っていたことと全然違うことが心の奥からポッと出てきたりして戸惑ったり、苦しくなったりするんだと思う。でも、それこそが自分を生きるということなんだよね、きっと。坂口恭平さんが「人は自分が何を楽しいと思うか、やりたいと思うか、それにだけしっかり向き合ってればいい」みたいなことを言っていたけれど、本当にその通りだなぁ。それがウニヒピリに耳を傾けるということなんだろうな。
なんか色々繋がって型は見えてきた。あとはわたしも自分にきちんと向き合おう。
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2022/01/30
よしもとばななさんのNoteを読みながらふんふんと頷くことの一つに、お店(特に飲食店)の店員さんのあり方がある。
ただ美味しいものを食べたくて入っただけのお店なのに、まるでわたしに何かの恨みでもあるかのような、嫌な気持ちを通り越えて哀しい気持ちになる対応をする人が増えた気がするということ。
自分の働いているお店や料理への愛情やプライドがないだけでない、そこで働いている自分の時間(1日の1/4は働いているのでは?)を有意義にしたいという生への悦びすら感じない感じ。
どうしてしまったのだろうね。
で、結局よく観察していると店員さんだけじゃなかったりする。お客さんも挨拶されてもしない、マスクをしてるからかもだけど笑顔が浮かばない人が多い。感情というものがどこか行ってしまったのかとちょっと心配になるくらい。
たくさん話したり、聞かれたりしたいわけでは全然ないけれど、「こんにちは」「ありがとう」「ごちそうさま」「おいしかったです」ただただこういった少しの会話と心からの笑顔があるだけでいいんだけどなぁ。
小1時間時間を潰さないといけなくてスタバに久しぶりに来た。お客さんは相変わらず反応のない人形みたいな人もいるのだけど、店員さんたちの対応はとても気持ちよい。海外のスタバでは別にこういうのは感じないから、日本のスタバは本当にすごいのだと思う。わたしも学生のころ1年半くらいバイトをしていたことがあるけれど、みんなスタバへの愛着とプライドを持っていた。宗教っぽい、って言われるのも分かるけど、でもせっかく働くんだったら、そういう気持ちで働けるのってとても素敵なことだと思う。居心地の良さって簡単なことのようだけどとっても難しいのだなあと改めて思った。店員さんの対応だけとっても、ウェルカム感とそっとしておいてくれる感の絶妙なバランスなのだ。
でもコロナ禍で気づいたけど、そもそも家の居心地がいいと、別に外にそれを求めなくても良くなるのだなと。家を居心地よくするための道具や知恵もなんか流行ってる気がする。ただ、「サードプレイス」と呼ばれる空間を多くの人はいまだに求めているのだろう。なにを人は居心地がよいと感じるのか。どこにそれを求めるのか。コロナ以降で空間と人のあり方がどう変わっていくのかはちょっと興味深い。
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