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d-memorandum · 7 years ago
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「グリッチをグリッ<ジ>と言いま<つ>がえること。」──(積極的に)誤読され、拡散する<概念>としてのグリッチ[Glitch]── No.1
「グリッチ」という言葉、概念がカバーする範囲の広がりについて思うことのメモランダムである。このメモランダムは短い内容を、数回に分けてシリーズ化したいと思っている(願望であるためシリーズに本当になるだけの思索が展開できるかはまだ分からないが……)。
様々な事例の考察と検証、議論によってグリッチの概念を言語化したテクストとしてHugh S. ManonとDaniel Temkinによる 「Notes on Glitch」 (2011)[1] が存在する。56のセンテンスで構成されたこの文章は、「グリッチ・アート」についてはもちろんのこと、グリッチという現象が持つ特質、人々に与える心象などが描き出されたテクストだ。
(作家/プログラマーであるucnvがこのテクストの日本語訳出 [2]を公開している。)
この「Notes on Glitch」の内容に触発されながら、今回は「グリッチをグリッ<ジ>と言いま<つ>がえること。」と題してメモランダムを展開する。
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もはや見慣れた光景として、私は必要にかられない限りは訂正しなくなってしまったが、日本語話者は往々にしてグリッチをグリッ<ジ>として言い間違え、記述する。その理由は憶測ではいくつか考えられるが、確証を持ったものが自分の中ではない。例えば、ノイズと同列に扱われることが多いために、グリッチノイズではなくグリッ<ジ>ノイズのように、ノイズの濁音に引っ張られた説。あるいは、音楽ジャンルにおいて、グリッチ・ミュージックの語感よりもグリッ<ジ>・ミュージックの方が内容に合っている(曲中に突如入る<ジッ>という音を想像して欲しい)など。ここでもノイズミュージックとの関連があるだろう。ノイズに引っ張られてのグリッ<ジ>。しかし、自分がこれまでに1度もグリッ<ジ>という発音や表記をしたことがないので憶測するだけで実感が持てない。(これは単に筆者の世代がズレているために体感できなかっただけの事だが、音楽におけるOvalの登場、2000年代にMille Plateauxからグリッチミュージックのコンピレーションシリーズ『Clicks & Cuts』のリリースがあった当時、現場ではどうだったのだろうか。やはり<チ>と<ジ>が混ざっていたのかが気になっている)。
グリッチがなぜグリッ<ジ>ではないかは、英語のスペルを見れば明白だ。
glitch {ɡlɪtʃ}
そう、最後は<ch>で終わる単語であり濁点が入り込む隙はない。であるはずなのにこれほどまでに日本でグリッ<ジ>と表記されるのは一体何故なのか……(思いつきだが、早口言葉にされたならば確実に噛みそうな単語ではある。グリッチと10回連続で言えるだろうか?途中でグリッ<ジ>になったりしないだろうか?私はどちらかというとグリッ<ジ>の方が言い易かった)。
英語圏においても ──自分が文献資料を探したりする上で検索する範囲でのことだが── スペルミスが多く見られる。glitchをgltichとしてしまうのだ。この二つを見て、直ぐに違いが分かるだろうか。私もこの打ち間違いをよくしてしまう。(グリッチ・アートに関わる事象においてはハッキングにも近いラディカルな思想(だと思われる姿勢)によってわざとスペルミスしている場合も見られる。[3] glitchという単語がグリッチをしている……)
──
ここで試しに、Twitterの検索窓に「グリッチ」と「グリッジ」の両方をそれぞれ入れて比較してみよう。そこに表示されるのは、主にオンラインゲームにおける改造を伴う不正行為(いわゆる「チート」行為と呼ばれるもの)を、発見し、その様子をスクリーンキャプチャした動画や画像である。大概、そのtweetをした者は怒りを持っており、「グリッチ野��!」なんていう罵倒さえ確認できた。銃火器で武装し、無人島でお互いの命を取り合うバトル・ロワイアルゲームにおいて、不死身であったり、異様��足が早かったりするプレイヤーがいれば、その不公平な行いに怒りを覚えることも自然なことであろう。ゲーム(特にオンラインゲーム)の世界において、グリッチ(グリッジ)はチートとほぼ同義に用いられている。あるいは、バグとも同義で捉えられていることもある。改造などの行為なしに、人型のプレイヤーの手足が突然伸び縮みしたり、建物の壁を突き抜けてしまったり。そのようなバグを発見した者が、それをグリッチと呼称して報告するスクリーンキャプチャも多く見られた。さらにここに「MOD」[4]の概念も入り込むことになると、より一層用語の使用される範囲の複雑さは増してくる。さて、これら用語が何故オンラインゲームにおいて混同され使われているのかは非常に興味深い内容であるが、このメモランダムでは一旦ここでおく。
この簡単な比較調査で明らかになるのは、「グリッチ」でも「グリッジ」でも検索の結果はほぼ同じになることだ。次に正式なスペルの"glitch"で検索すると上述の結果に加えて音楽ジャンルとしてのGlitch Hopがヒットするようになる。この"glitch"での検索では日本語圏(主にGlitch Hopに関して)と英語園の両方のtweetがヒットする。最後に、スペルミスした"gltich"で検索してみよう。当然ながら英語園のtweetになるが、内容は変わらずこれまで現れてきた内容の意味でgltichは用いられていた。
──
グリッチという単語が ──偶然だとはしても── 日本語、英語ともに言い間違いやスペルミスが起こってしまうこと。間違った状態においても意味が通じてしまう、機能してしまうことが、機能不全(エラー)に陥ることなく、壊れた不適切なデータにおいても機能をし続けるグリッチの性質を表しているようである。強弁に過ぎるかもしれないが、言語における現象としてのグリッチが「グリッチ」という単語において生じているのではないだろうか。
2019.02.19.
──
[1] Manon, Hugh S., and Daniel Temkin. "Notes on glitch." world picture 6 (2011): 118.
http://www.worldpicturejournal.com/WP_6/Manon.html
[2] ucnv / notes-on-glitch.md
「グリッチに関するノート」
https://gist.github.com/ucnv/35d8ff75ef46e1a16f11
[3]例えば、Iman Moradiの論文「Glitch Aesthetics」の表紙には大きく"GTLCH AESTHETICS"と書かれている。あるいは、"GLI.TC/H" は2010・2011・2012とシカゴで開催された国際的なグリッチに関するイベント及びコミュニティの名前である。
http://gli.tc/h/ (色の明滅に注意)
[4]MODは改造をしたプログラムデータであり、それを用いてオリジナルキャラクター等をゲーム内で使用することができる。チートのような不正行為を意味する訳ではなく、プログラムそのものを指す。チートに使われるMODもあれば、単にアバターの見た目が変わるだけのMODもある。
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d-memorandum · 7 years ago
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映像作品 《Layering 2012-2017》 についてのメモランダム
このメモランダムは、〈 登壇者: 石谷 治寛、三輪健仁、赤羽 享 / モデレーター: 伊村 靖子 「再演、再制作、再展示」 松井 茂編 『情報科学芸術大学院大学紀要』 第9巻、2017年、p.44〜49 〉における議論に触発されたものである。ここでの議論の中では、それぞれが行っている研究の実践(特に赤羽の《ArtDKT Viewer》と《時空間3Dスキャニングシステム》の実践)に関して、「記録」「記述」そして「記憶」という言葉のどれを用いて呼称するべきか。つまり、それぞれの言葉にどのようなニュアンスを研究者(制作者)が込めて用いているのかが焦点となった。議論では、「記録」でも「記述」でもなくそれらは「表現」なのではないかという疑問が呈される。あるいは、「記述」もしくは「記録」と呼ばれるものを「表現」と完全に切り離すことは不可能なのではないか──(ある)記述だと思われていたものは(実は)表現であり、(ある)表現は単なる記述でしかなかった、ということさえあり得るであろう──この議論は時間内に結することなく終わったが、このシンポジウムが行われた 「岐阜おおがきビエンナーレ2017 新しい時代 メディア・アート研究事始め」 全体に通底する1つの命題として後日の他のシンポジウムにも影響していったのではないだろうか。
紀要を読みつつ、「記述」「記録」「記憶」「表現」という言葉から自作品 《Layering 2012-2017》 のことを想起せざるを得なかった。この作品は5年分の作品と自分のTwitterログ、tumblrによって刻まれたタイムスタンプの堆積によって構成されている。以下、情報科学芸術大学院大学紀要から着想を得て記述したテキストを掲載する。
──
「(再構成された)記録と記憶から立ち上がる存在の輪郭」
Tumblr media
《Layering 2012-2017》(2017)
つい先ほど読んだIAMAS紀要のことを考えてみる。「記述」「記録」「記憶」「表現」── そこで浮かぶのは自作品《Layering 2012-2017》のことである。この作品は、当時2017年1月までの自分の作品の総決算である。ここまでに(最後は提出前夜の作品も含まれていたと思われる)制作された5年間分の作品(作品はこれら二つのtumblrブログに日々アップロードされているものである。astigmatism(2012-2015) 、_2(2015 -))を再構成し、Twitterと連携したtumblrのタイムスタンプを軸としたテキストを並置した3画面横一列構成の映像作品である。初出では55インチディスプレイに4K解像度で出力し、真っ暗にした撮影スタジオで半ば上映のように展示した。約30分で私の5年間が回る── その中心には4Kにリサイズされた静止画(あるいはGIFアニメーション)作品、そして右画面には制作日に作品のサムネイルを当てはめて作られた「カレンダー」、左画面には自分の5年間の「Twitterログ」という「記録」である。カレンダーのひと月に合わせて画面は30秒で切り替わる。ひと月30秒、約30分で5年間はあっという間に過ぎる。
この作品の制作では記録を再構成することが主となっている。Twitterのログは断片的であり���がらも生々しい「記憶」を想起させ、カレンダーは几帳面に毎日作品を制作し完成させていた頃の自分や、何があったのかひと月に2つしか作品を作っていない月があったりする。そして、2015年の8月には真っ白なカレンダーと真っ暗な作品画面と何も映らないTwitterログ画面が表示される。何かがあった── たったこれだけのことが作者の存在(不在)と不穏な事の起こりを如実に浮き上がらせる。
Twitterのログ画面は、全く意味を成していない画面のようにも見える。それはtumblrと同期されていたために残されたタイムスタンプ(投稿と同時にTwitterにもtweetされる)を軸に、作者がその前後のtweetを恣意的に、あるいは無意識にクロールしている様子だ。そこには作品に関連するtweetは何もないし、場合によっては友達とのくだらないリプライの応酬まで画面に映る。tweetの内容は何一つ中央画面の作品を説明しない。しかし、Twitterのアカウントとtumblrのアカウントを同期させていたこと、それが故に作品とtweetを関連付けをすることができたこと。そして、それが作者の私としてはごく自然な感覚として行っていたことにここでは着目したい。これはあるトークイベントで作品を前にして指摘されたことだが、ポストインターネット時代における意識として現れた表現ではないかとその人は言う。ここには作者のメディア意識の強い現れが感じられる。そういった意味でこの作品には魅力がある、とまで言ってくれた。
この 〈ポストインターネット》 における意識は私にとっては少なくとも5年前は無意識だった(5年前の自分は単語さえ知らなかっただろう)。しかし、その無意識から5年分のログをこうして残せたことは幸運なことだったのかもしれない。あるいは、同じように意識せずとも様々な情報が様々なSNS等で繋がり合い、堆積している状況はもはやありふれてマジョリティーなのであろうか(そうだからこそポストインターネットの言説が成立しているとも考えられる)。
この作品の制作には想像以上の時間と労力がかかった。それはいつもの作品を仕上げる作業とは全く異なる物だった。いくらログが残っている、データがあるとしたって、それをサルベージし、構成し直すことは骨の折れることであった。何度も何度も、5年間分の自分のtweetを見ることは苦痛だった── しかし、その作業をやり遂げたことによって、この作品は「記録」が「表現」となり、そしてその「表現」が「(再構成された)記録」ともなったのではないだろうか。
最後に、ポストインターネット、つまりインターネット環境をほぼ全ての人が持っていることが自明となったいまのことで考えたいことがある。例えば、毎日、Twitterで欠かさずtweetをしていた人が突然呟かなくなったり、アカウントを消したりすると多かれ少なかれその人のことを心配してしまう。意味深な言葉が残っていれば、命の危険にさらされているのではと勘ぐってもしまう。(この作品で2015年8月に画面が消えるのは、病気の悪化によって何もできなくなったからであり、まさに生命はともかく〈最悪〉な状況だった)ポストインターネットにおいて、インターネットがインフラとして意識されないものだとすれば、インフラの利用ができなくなること、インフラが存続できなくなることは利用者の存在の危機と直結する。この作品 《Layering 2012-2017》 はその後も展示の機会が何度かあり、自分でも何度も繰り返し見ている。これが5年間の自分の記録と考えると、確かにここに自分は存在すると思える。もっといえば、〈ここにしか〉自分の存在がないのではないかとさえ錯覚することがある。もっともっと、色々なことがあったはずなのに、2012年から2017年の5年のことは、いつの間にかこの作品、この再構成された記録を中心に記憶されているのだ。
(2018.12.31 初稿、2019.02.13 改訂)
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d-memorandum · 7 years ago
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「IAMAS: Triptyque 01『グリッチ』を鑑賞する」についてのメモランダム
現在、IAMAS図書館では作家UCNVによる個展が開催中である。
Volatile ucnv個展
ucnv/ solo exhibition “Volatile”
https://www.iamas.ac.jp/activity/ucnv-volatile/
ucnv氏は2011年に東京藝術大学で開講されたグリッチワークショップの講師であり、私は受講生としてその場にいた。何の偶然か昨年の6月から8月末まで、私もグリッチをテーマとした展示をIAMAS図書館で行っていた。そのことについて、配布していたステイトメントや、トークイベントでは抜け落ちていた部分を補填するテキストをノートから掘り起こし、まとめておきたいと思う。
まず、元となる展覧会情報を改めて見返してみる。
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IAMAS: Triptyque 01「グリッチ」を鑑賞する:原田和馬“Glitch” Works by KAZUMA HARADA
本学のメディア表現学研究プロジェクトにおいて6月4日より、図書館にて映像展示を行います。この展示は「IAMAS: Triptyque」と題し、図書館に設置された3台のディスプレイを共通のメディアとして、映像の可能性を自由に実験するためのシリーズです。
第1回目となる今回は、「「グリッチ」を鑑賞する」をテーマに、原田和馬の《click/ glitch》(2018年)を展示します。7月18日には、関連イベントとして同会場で作家と伊村靖子講師とのトークも開催します。
作品について
グリッチ [glitch] は、バグやノイズ、あるいは「エラー」とも人々から認識され呼称される概念であり、現象である。しかし、エラーと決定的に異なる点は、デジタルデータが何らかの理由によって破損した状態で再生される状態が続くことである。例えば、動画再生ソフトウェアが予期せぬ終了をすることはエラーであるが、映像が乱れ続けようとも再生が続く状態はグリッチであると区別される。
《click/ glitch》では、意図的に破損させた動画ファイルをクリックという行為のみで操作し、「グリッチ」を顕にしようとしている。動画再生ソフトウェアにおけるシークバーや逆再生 / 早送りボタンといったインターフェースをクリックし続ける行為によって、本来の映像には存在していなかった像がそこには現れる。3つのディスプレイで提示される作品はそれぞれ「クリック」という行為に対するアプローチが異なっている。マウスを用いた人力によるクリック操作。プログラムによって完全に制御されたクリック操作。そして、人力とプログラム制御が同時に行われる操作。
本展示は「グリッチ」を主題とする作品における個別の表象、共通する行為についての関係 / 無関係性を鑑賞する試みである。
(文:原田和馬)
https://www.iamas.ac.jp/activity/iamas-triptyque-01/
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Tumblr media
https://www.instagram.com/p/BlNQjMLB9S8/?utm_source=ig_share_sheet&igshid=rthcu1iaqy2q
縦長のディスプレイが書棚の奥に設置されており、そこに作品は展示された。縦長のディスプレイは計3つある。
上述のステイトメントで、最後まで加えようか悩んでいた部分がある。それは音楽との関係性である。(以下赤字は後からのハイライト)(イタリック体は引用及び当時のメモ。一部、当時のメモからの改変あり)
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音楽ジャンルでのクリックはグリッチと並列して語られ、ジャンル分けされる。それはごくごく短い、連続を中断する音という共通点がそこにあるからだろう。
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このセンテンスで念頭にあるのはCDの盤面にマーカーを塗り、わざと音飛びをさせてスキップノイズを生み出したOvalことマーカス・ポップである。グリッチ・ミュージックの登場と隆盛に関して、2000年前後の議論は書籍「ポスト・テクノ(ロジー)ミュージック―拡散する「音楽」、解体する「人間」」(2001、久保田 晃弘、椹木 野依、佐々木 敦 他)に詳しい。マーカス・ポップの寄稿も存在する。この書籍の中では何度かグリッチという概念について語られるが、それはあくまでも音楽の側からの捉え方であり、ノイズミュージックや、単なるエラーとも混じり合ったものであることは興味深い。
ステイトメントに入れなかったのは、あくまでも今回の展示作品ではビジュア��のグリッチ作品であることを強調しようとしたためである。
次に、展示を前にした作品についてのメモランダムを見てみることにする。
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図書館展示についてのメモランダム 20180525
・ここで示されるのはグリッチという現象に対する作者(人間)の応答である。
・ここで提示される作品の軸となっているのは、グリッチという現象に対する操作可能性である。あるいはその現象を取り扱う難しさ、操作”不"可能性である。フレームという単位に分節された映像に対して文字通り手を突っ込む行為における、快楽とままならさ。
・グリッチ、特にここでは動画圧縮におけるフレーム補間に着目したデータモッシュよばれる手法に着目する。つまり、「データモッシュ」という名称が定着するほどにはフレームを操作することによって動画をグリッチさせる行為は手垢のついたものである。
・ここで提示される3つの作品はそれぞれ、「実行」「定着」「メタ」「録画」という側面から現象としてのグリッチに向き合う。
・「実行」はフレーム操作が行われ、フレーム補間が本来意図したようには機能しなくなった動画ファイルに対して、でたらめな再生操作を繰り返すプログラムが実行されている。例えば、あるフレームを何百回と繰り返したり、再生ヘッドがランダムに移動したりすることがそこでは行われている。参照すべきフレームを失ったこの動画は、さらに再生ヘッドの位置を揺さぶられることによってその都度参照する画像内容が異なるものとなる。この作品に始まりも終わりもない。そして到達点もない。ただ、ことあるごとにおいてデジタル的な表象が画面全体を覆いつくし、元の動画が何だったのかを分からなくする。
・「定着」はフレーム操作を行った動画を、「安全なもの」として再度動画ファイルに書き出したものである。「壊れた」(グリッチされた)動画ファイルは不安定であり、再生中にソフトウェアがダウンすることがままある。そもそも、多くの動画再生プレイヤーでは壊れたこれらのファイルを読み込むことすらかなわない。しかし、この動画を再度エンコーダーによって書き出すことによって、その動画はグリッチの表象を持ちながらも「安全に」再生できる普通の動画となる。これによって、作品は常に安定して再生される強度を持つとともに、「実行」で行っているような操作を受け付けなくなる。
・「メタ」ではmpeg4圧縮におけるフレーム間補間、動き補償といった技術要素を考えた上で、データモッシュした際に起こることを予想し、それに抗うような映像を元として制作する。
・「録画(記録)」ではフレーム操作をプログラムによってではなく、作者自身がマウスによってシークバーを操作をした結果を録画したものである。そこでは、変化する画面の様子に影響を受けながら、次に行う動作(フレームを飛ばす、ずらす、クリックをする/しない、同じ場所をクリックし続ける)を決定していく。そこにはフレーム操作によって予測される現れの部分と、操作者が思いもつかない画面の現れが存在する。一つの動画に対して、調子をみるかのようにクリックを繰り返していく行為は、石の水切りであったり、陶芸であったりといった※、トライアンドエラーによってしか結果を見ることのできない追求とも似ている
・「グリッチを鑑賞する」というタイトルを見て※※、この展示は作品を鑑賞するというよりも、そこで起こる現象とそれに対する作者の応答を鑑賞することであるのではないかと改めて感じた。
※この表現は2017年にコ本やで行われたトークイベント「シカクカイ」(gnck、ucnv、永田康祐、原田和馬)の中でのucnvの発言だったと思われる。
※※展示タイトルはキュレーションをしていた伊村靖子氏からの提案であり、私はグリッチという単語にカギ括弧を付けることで同意した。
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展示された作品は3種類あり、それぞれが別の性質を持っていたが、そこに共通するのは物理的な「クリック」という行為であった。最もかけ離れた行為としても、Maxプログラムによってクリックそのものを自動化することだけであり、グリッチという現象を引き起こすための操作は愚直にクリックのみなのである。これは、自分自身が高度なプログラムによってグリッチを引き起こすことの出来ない敗北宣言と言えなくもない。しかし、それ以上にこのクリックによって引き起こされる現象の面白さに自分は陶酔さえしていたのではないか。最も「グリッチ」を鑑賞し、そこに新鮮な驚きを覚えていたのは作者自身であったかもしれない。
その後、行われたトークイベントの反省で、どうしてもグリッチ全体の話になってしまい、それぞれの作品についての話が出来ていなかったのではということが指摘された。それを受けてそれぞれの作品のディスクリプションを試みた物が以下である。①〜③は入口から順番にナンバリングした作品のことであるが、いま写真が手元になく示せないのは容赦願いたい。
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作品ディスクリプション 2018.09.14
本作はmpeg4ファイル(フレームの抜けた)の挙動に対する、映像作家(人間)の応答を記録しようとした試みである。そして、記録の試みであると同時に、記録という手段でなければ消え落ちてしまう「グリッチの現れ」を鑑賞する試みである。これは本作と③の作品に共通する主題であり、③も録画された(スクリーンキャプチャされた)動画ファイルがほぼ無編集(前後トリミングを除く、カット割りは行っていない)で再生されている仕組みだ。対して②は実際にその場でプログラムが駆動、実行されており、素材となっているmpeg4ファイルは同一で入れ替わることはない(ジェネラティブではない)が、フレームをランダムに、かつ、高速で繰り返しリピートすることによって、そこにあらわれる像はきわめて生成的であり、かつ現実的に再現することが不可能な(理論的には有限でありつつも、無限に近い膨大な組み合わせの)様相を示す。
対して①③の作品はループを繰り返し決まった結果(録画)が再生される。それは行為の記録であることを強調する。①はあからさまにもシークバーが表示された状態であり(シークバーも含めて、わざと録画されている)、ここでのシークバーの動き、挙動こそが「グリッチ」という現象に立ち会った作家の応答の痕跡である。応答の痕跡をシークバーで示す(クリックという行為の強調)ために、グリッチされている動画は抽象的なグラデーションのかかった色面が緩慢に変化していくものとなっている。このような具体的な像が写り込んでいない映像から、グリッチ=データモッシュの構造を読み取ることは難しい。シーンの切り替えやカメラワークの変化があれば、抜けているフレーム存在を想像することは容易だ。あえてこの作品でそのような抽象平面を用いているのは、行為の強調を目指しているからだ。
また、もう一つの目的として、差分フレームが繰り返されることによる油画(絵の具)のようなテクスチャに対して、カラーフィールド・ペインティングのような抽象画を連想させる部分があったからである。この現象が、デジタルメディアにおける画材のような役割を果たすこと、それがグリッチという現象が持ちうる可能性なのではないか、という挑戦である。
それはデジタルネスの表象、中でもローファイなビデオノイズや、エラーの象徴としてのグリッチ表現とは異なる意味を見出そうとここではした。
②では、①のようなマウスクリックでの動作がすべてプログラムによって制御されている。どうしても、ブレ、ゆらぎの生じる(あるいは作家が意図的に行った)手入力に対して、プログラムは正確に何千回とクリックを重ねる。そのことから、自然と現れる像は結晶化されたような、固定化されたものとして現れる。それがランダムなタイミング、フレームをズラされる時、ぐにゃりとそのフレームのピクセル情報へと向かった画面全体がうごめく。静止状態とうごめきが、ランダムに、ゆっくりとやってくるのが②の特徴だ。本作はこの展示の基となった作品であり、2017年12月から2018年1月にかけてプロトタイプが作成された。2018年1月にはこの作品のシステムを用いた、リアルタイムでのグリッチ表現を用いてのVJも行っている。また、55インチディスプレイを用いた単体での習作も2度展示している。
・ループがないこと
・常に生成されつづけること
・絵画、スタティックに置かれること
への想定を持って制作されている。
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上記文章はかなり言いたいことが散乱している。結局自分自身の核がどことなるのだろうか。あるいはそれと作品性には何も繋がりはないのではないだろうか、という疑問さえ生まれてくる。上述の文章にラインを引いていくこと赤字でハイライトすることにより、その要点をあぶり出したい。
本作はmpeg4ファイル(フレームの抜けた)の挙動に対する、:映像作家(人間)の応答を記録しようとした試み:である。そして、記録の試みであると同時に、:記録という手段でなければ消え落ちてしまう「グリッチの現れ」を鑑賞する試み:である。これは本作と③の作品に共通する主題であり、③も録画された(スクリーンキャプチャされた)動画ファイルがほぼ無編集(前後トリミングを除く、カット割りは行っていない)で再生されている仕組みだ。対して②は実際にその場でプログラムが駆動、実行されており、素材となっているmpeg4ファイルは同一で入れ替わることはない(ジェネラティブではない)が、フレームをランダムに、かつ、高速で繰り返しリピートすることによって、そこにあらわれる像はきわめて生成的であり、かつ現実的に(理論的には有限の、しかし膨大すぎる組み合わせ)再現することが不可能な様相を示す。
 対して①③の作品はループを繰り返し決まった結果(録画)が再生される。それは行為の記録であることを強調する。①はあからさまにもシークバーが表示された状態であり(シークバーも含めて、わざと録画されている)、:ここでのシークバーの動き、挙動こそが「グリッチ」という現象に立ち会った作家の応答の痕跡である。応答の痕跡:をシークバーで示す(クリックという行為の強調)ために、グリッチされている動画は抽象的なグラデーションのかかった色面が緩慢に変化していくものとなっている。このような具体的な像が写り込んでいない映像から、グリッチ=データモッシュの構造を読み取ることは憤っしい。シーンの切り替えやカメラワークの変化があれば、抜けているフレーム存在を想像することは容易だ。あえてこの作品でそのような抽象平面を用いているのは、行為の強調を目指しているからだ。
 また、もう一つの目的として、差分フレームが繰り返されることによる油画(絵の具)のようなテクスチャに対して、カラーフィールド・ペインティングのような抽象画を連想させる部分があったからである。この現象が、デジタルメディアにおける:画材:のような役割を果たすこと、それがグリッチという現象が持ちうる可能性なのではないか、という挑戦である。
 それはデジタルネスの表象、中でもローファイなビデオノイズや、:エラーの象徴としてのグリッチ表現とは異なる意味:を見出そうとここではした。
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まず、何度も繰り返されるのは「応答」という単語である。ここでは限定的に、壊れたmpeg4ファイル(avi)をQuickTime Player7で再生したときの挙動を捉えようとしていることを前提とする。ファイルを再生すれば、抜けているiフレームによって差分フレームが残り続け、本来そこには存在しなかった表象が生まれるだろう。現象としてのグリッチがそこでは観測される。それに対しての作家の応答というのは、いささかに直接的であり、かつ強引である。シークバーをクリックすることによって、現象を自ら起こそうとするのだ。シークバーをクリックし、再生時間をジャンプさせることによって、ただリニアに流されていた場合とは異なるグリッチの現れがそこには生じる。つまり、クリックすればするほど、新しい現象を作家は生み出すことができる。それは果たして「応答」とよべるのだろうか。それは恣意的なグリッチの創出なのではないか。しかし、ここでクリックからうまれるグリッチは通常再生装置を操作していてもこうはならない独特のものである。その挙動はまるで絵の具のようでもあるような、離散的ではない連続的な性質を持ったものである。そこでは映像のリニア性が破棄され、シークバーの各地点をいったりきたりするノンリニアな手付きが生まれる。それはそこに現れる像への応答だと呼べるのではないか。そして、ただクリックするのではなく、連続してクリックすることによって重なってのびていくピクセルの動きは、他の再生装置の挙動では見られないものだ。このような表象を映像制作ソフトによって模倣することはたやすいだろう。しかし、このような再生装置をプレイすることによって生まれる映像の「質感」、その操作性といったものまでは再現ができるだろうか。そのことに対して可能性を感じたからこそ、自分はそこでの行為をスクリーンキャプチャし、作品とすることによってこの現象を鑑賞することを目論みた。
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ucnvの以下に引用したステイトメントにおいて、デジタルデータの条理をあばく、という言い回しがある。
記録デバイスの処理によって一旦離散化した情報は、コンピュータの中で、デジタルデータの条理によって現実とはまた別の連続性を強制されている。たとえば、「このピクセル情報とこのピクセル情報は同値であるので、2個のものをひとつとしてより少ない情報量として保存する」というように。このとき、コンピュータの中には、現実世界のリニアさとは全く別のリニアさが発生していると言いうる。フレームは前後のフレームを参照したその差分のみを保存し、ピクセルは他のピクセルたちと結合状態となる。これが圧縮である。下部のモニタが溶け出しているのはそのためであり、グリッチとはそのように、離散の向こうで行われたデジタルデータの条理を暴き出すのである。
「二個の者が same space ヲ occupy スル」をめぐって|ucnv|note
https://note.mu/ucnv/n/n58420fc45ee3
グリッチを扱った作品においてはデジタルデータの構造を顕にする、という意味のフレーズがたびたび扱われる。それは、普段我々が意識することのないjpegといったファイルフォーマットの構造(条理)を、グリッチさせることによって特徴的に生じさせる。png、jpeg、tiff、それぞれの圧縮アルゴリズムはその表面的な部分においては殆ど特徴を見つけられることができない。グリッチさせる=破損させること、あるいは低解像度にすることによってそのアルゴリズムは露となる。それはアーティファクトとも呼ばれる画像の特徴的なノイズによって表現されることもある。また、写真表現の分野からはトーマス・ルフがインターネット上にあふれる印象的な画像(911テロの様子など)をピクセルの矩形が滑らかに見えるまでに巨大に引き伸ばし印刷することによって、それがまさしく「jpeg」であることを示した「jpeg」シリーズがある。本来、jpegはjpegであり、pngはpngである。それらはその特徴を常に表しているはずであるがその差異はわれわれ人間には微小で判別ができない。(であるからこそ圧縮技術は成立する)。
そのような、隠された(あるいは気づくことのない)デジタルのアルゴリズム(条理)を暴くことがグリッチに課せられた命題の一つであるといえるだろう。一瞬の傷のようなその現象は、人々に大きな驚きを与えるとともに、それがデジタルであることを強く意識させる。その情動とも呼べる心の動きに焦点をあて、さらにその現象に対しての応答に関して記録したものが今回の作品である。
グリッチがグリッチであること示すためには、グリッチではない状態を人々が認識している必要がある。壊れた状態であると認識するためには、壊れていない正常な状態も認識していなければばらない。その道理でいけばグリッチ作品は正常な状態からグリッチ状態への遷移を示すもの、あるいは壊れた状態と正常な状態が同時に存在する状態を示していることが必要である。腐った状態と、生の状態。あるいは腐りかけの状態。しかし、作品《click/glitch》においてはそのどこを切り取っても「正常な状態」をみることができない。ここで示されるのはグリッチという現象によって生成(この言葉でいいのかは留保が残る)された色面である。つまりグリッチをアルゴリズムを暴くための試薬として用いるのではなく、グリッチを「素材」あるいは「ツール」として用いている。それは、アルゴリズムが持つ構造をついた、映像フレームの(本来は想定されていない)操作によるものである。それは、:一人の作家がグリッチという現象とアルゴリズムの暴露に影響を受けた、その衝撃への応答である。:
(単純に言えば、デジタルデータのアルゴリズムを暴こうとするのではなく、「グリッチ」を鑑賞する」行為をしようとしていた。それは、新しい現象に対する新鮮な反応として。もはや(作家個人は)親しみを覚えるほどに触れたmpeg4のデータモッシュという現象にたいして、愚直なアプローチを試みたのだ。つまり、アルゴリズムを単純化して理解し(iフレームとpフレームについての関係性は理解ができる)、それに対してプログラミングの一つも用いず、クリックするのみという操作によって画面を作り出す。つまり、画面を作り出すことがここでは重視されているのであり、すでに暴かれているアルゴリズムに関しては作家はもう無関心なのである。そうではなく、動画データの圧縮アルゴリズムの「穴」を用いて、画面を作り出すことが目的となっている。アルゴリズムのことを忘れているのではない、そうではなく、アルゴリズムで想定されていない挙動を用いることで現れる表象に惹かれているのだ。それは、新しい動画編集・作成のやり方とも言えるかもしれない。もしくは、リニアな動画ファイルの線形を崩す、ノンリニアで終わりのない構造を新たに作り出すこともここでは重要となる。(特に②の作品には終わりはこないし、他の録画作品に関しても終わりはこないため強制的に終了させている。)
2018.09.14
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作品ディスクリプション 続き 2018.10.09
グリッチがデジタルデータのアルゴリズムを暴くものだとして、そこに暴かれたデジタルの特徴的表象をさらに煮詰めることは可能だろうか?制作当時にここまでのはっきりとした考えがあったかは定かではないが、これまで習作を通して思考されてきたことの結論としては以上のような疑問に突き当たるのではないだろうか。つまり、アルゴリズム(条理)を暴くことそのものが目的なのではなく、暴かれた先の、まだ見ぬ表象への追求を私はグリッチを通して追い求めているのではないか。アルゴリズムの存在を顕にすることそれ自体が美意識であるとするグリッチアートがあるとすれば、そのアルゴリズムに存在する特徴的表象(もしかするとそれは圧縮における「アーティファクト」と呼ばれるものかもしれない)に美意識を求める。それは圧縮の美学かもしれない。jpegにかかるノイズそのものの美しさへの追求。示すべき像が隠れ、アーティファクトのみが表出した画面。そのような状態を求めることが作品制作における自身のスタンスではないだろうか。
しかし、この美意識を追い求めていくと、そこにあるアーティファクトが実際にアルゴリズムによるものである必要、必然性はなくなる。つまり、jpegのノイズを模した表象や、データモッシュで起こる現れを忠実にPhotoshopで再現した表象であっても見た目は変わらなくなる。これこそがグリッチを用いたアートが内包するジレンマであると考えられる。美を追求すればするほど、そこにグリッチの必然性がなくなる可能性がある。しかし、立ち返って、アーティファクトが発見されたことによって人間の美意識がアップデートされていると考えることはできないだろうか。あるいは、グリッチという現象に人間がさらされることが、新たな美の発見につながっているとも考えられないだろうか。jpegの矩形やデータモッシュの連続性、多くのグリッチに見られるフラグメンテーションとストライプは我々の美意識に影響を与えてはいないだろうか。
2018.10.09
(補足: ここで使われる単語「アーティファクト」とは画像圧縮の分野における圧縮アーティファクトのことであり、一般的意味での人工物を意味しない。
参考: 圧縮アーティファクト -Wikipedia )
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最後は自身の展示から離れてしまったが、ビジュアルのグリッチが人の美意識に働きかけをしているのではないか、ということに関しては引き続き考えていきたいテーマである。グリッチ的表現は巷に溢れているが、その中でも新たなファイルフォーマットを想起させるような新鮮さを持った物が存在し、そしてこれからも生まれていくのではないかと感じる。例えば、映像表現におけるブラウン管ベースのノイズ表現は、デジタル放送における矩形ベースのグリッチ表現へと移行していっているであろう。その次を見ることができたら-- と思わずにはいられない。
自身の展示のメモをまとめているつもりが、話があらぬ方向に飛んでいってしまった。「原田、グリッチやめるってよ」なんて言われながらも、まだまだ興味はあるようだ。
最後に、制作と思索に大きく影響を受けた文献と作品を紹介して終わりにしようと思う。
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○井藤雄一(2014), 情報メディアの利用によるアート表現―メディアの変則的利用がもたらす可能性―
https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=9&item_no=1&page_id=13&block_id=21
○ucnv 「Turpentine」 (2012)
https://ucnv.org/turpentine/
○ucnv「プリミティブ表象をめぐって」(2018)
https://note.mu/ucnv/n/ndc5370ad2d8d
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2019.02.11
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d-memorandum · 7 years ago
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入院している、
2018年の12月26日から入院している。
おおきなおおきな、県で一番規模の大きい精神病院の病棟の四人部屋の隅でiPhoneからこれを打っている(下書きはもちろん紙で存在するのだが)。入院の理由とか、病院の中の様々なことなどはとりあえず置く。何故ならばこのtumblrブログはそもそも、自分の美術作家としてのステイトメントや、Twitterとかでは書くのに難しい論や思い付きのメモや告知のために昨年から暖めていたものであるからだ。現在、自分は病院の中で文章を書くことを日課にしていて、それを少しずつ外に出していきたいと思った。しかし、まあ入院しているいまの状況を最低限書き留めておくことも必要かと思い、この記事を書いている。
端的にいまの自分の状態を書こう
健康的生活(6時起床、10時消灯)
優秀な主治医、ケースワーカー、看護師の皆さんのサポート
1日、1〜2時間は申請すると院内散歩できる。(売店に行ったり、公園みたいなゾーンに行ったり、高台の散歩コースから猫ヶ洞池を眺めたりする)。
1日、1時間は申請すると院外に出られる。(つい最近認められた)
iPhoneとwifiルーターが使える。
週2で作業療法として羊毛フェルト手芸をやっている。(🐏フェルトはこの入院生活のなかで最も心が躍り、落ち着く瞬間なのであるがいかんせんカメラが使えないためにその成果を記録していけないのがもどかしい。)
電話は自由にできる。
そんな中で自分は
外出時に写真を撮って、戻ってきてデジタル現像している(プライバシーシールが貼られてしまった不自由なカメラとしてのiPhoneで)
本を読んでいる。文学と詩、芸術学や美学が主で、同人誌(批評・漫画)も揃ってきた。(本に関してはそこまで自由に買ったり出来る状況じゃなかった時期もあり、家から持ってきた物や面会で貰った物などが自然に集まってきて本棚が構築されている)。
電子書籍をiPhoneで読んでいる。青空文庫とKindle。
読んだ本のことについて書いている。
自分の作品のことを思い出して、文章を書いている。家から持ってきてた大学院紀要に刺激されているのは否めない。
日記も書く。書いておくと診察の時に役立ちもする。
以上のようなことをしながら日々を過ごしている。ひとつ不思議なことに、あれだけ見ていたYouTube(主にVtuber)やPrime Videoを見る時間は減った。前は平均で1日8時間以上見ていたと思うが、いまは見ても2時間である。
プライバシーシールを貼ったままでの写真については基本的にInstagramにアップしていて、同時にFlickrでもまとめている最中である。
https://www.instagram.com/p/BtkgHDnjsox/?utm_source=ig_share_sheet&igshid=1l1ri4j24mwqz
(iPhoneだけだとなんともそういった整理に時間がかかってしまい心が折れそうになる。)
ノートに書き連ねている文章がたまってきたので、推敲しつつこれからこのブログを動かしていこう、というのが再度にはなるが本意であり、入院の話はその枕として書いた。入院から約一ヶ月かかってやっと院外外出ができた、というのがブログ動かしていこうかなという気になった大きな要因でもあるので、無関係ではない。
もし、これ以降更新がなくなったら、病状が悪化したか、こんなことをする暇も無く社会復帰のための何か訓練が始まったとか、そういうことだと思ってほしい。冗談ではなく、状況(病状)によってはiPhoneが使えなくなったりすることもありうるので。
2019.02.10
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d-memorandum · 7 years ago
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memorandum
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