fami007
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最近は主に劇場にいます 観劇後はネタバレ気味な感想をつぶやきます 好き♥→Brian Joubert/中川晃教/山本耕史/坂元健児/Mozart/Mozart L'Opéra Rock/Amadeus/SF/(●―●)https://twitter.com/fami_007
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fami007 · 7 years ago
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フェイスの最後に流れる曲のBWV1056について調べた
はじめに【ネタバレを含みます】
バッハの曲にはあまり詳しくなかったけれど、開演直前に流れるゴールドベルク変奏曲BWV988は好きで印象的な音楽の使い方だと思って心にひっかかっていた。(そのことは9/23-24の感想メモでも書いた)
最初の曲と最後の曲については本編見てい��間はバッハっぽい何かの楽曲だな…詳しくないしわからん…と思っていたが、DVDを入手して楽曲が特定できたので、せっかくだから調べてみようと思った。なお余談だが最初の曲はヴィオラ・ダ・ガンバとハープシコードのためのソナタト短調BWV1029の二楽章。(https://youtu.be/ZrVTQMmhBnQ?t=432)
調べていくと思ったより深い意味のある選曲ではないかと思えてきたのでまとめてみた。
バッハの曲について
こちらの「バッハ事典」を使って調べてみた(http://amzn.asia/jg9WIvF)
最後に流れる曲はチェンバロ協奏曲第五番ニ短調BWV1056の二楽章。(https://youtu.be/crOhiup3kFg) この曲は現在では失われているオーボエ協奏曲を原曲とし、編曲したものらしい。
同じ失われたオーボエ協奏曲を原曲とする作品に、カンタータ「わが片足すでに墓穴に入りぬ」BWV156がある。同じ曲を原曲とした兄弟みたいなものだろうか。
「わが片足すでに墓穴に入りぬ」の歌詞がこちら(http://bachsmusik.starfree.jp/bwv156.htm) 歌詞としては「臨終の不安のさなかにおける霊的救いへの信頼を説く」ものであり、フェイス全体の「病」というテーマや、死が目前に迫りつつある一樹の不安や信頼と不思議にオーバーラップする。「病におとろえ弱りゆくもさだめなりせば」「みたまとみ言葉われをまもり 身とたまよわるとき 主こそはわが慰めなれ」の歌詞の切実さが痛い
さらに、カンタータというジャンルはもともと牧師の説法の後に演奏され、教会にいる人達の信仰心を高めるものであったという。その目的のためにカンタータの歌詞は聖書の一説に題材を元ネタとして扱っている。この曲の場合はマタイの福音書8,1-13(信仰あるものに起こるイエスの奇跡)(http://bible.salterrae.net/sinkaiyaku/html/Matt.html)らい病を病んだ人と心を重ねて癒やしの力を発揮するイエスと、言葉のみで百人隊長の従僕を癒やすイエスのエピソードのくだり。
聖書について
聖書を読んだが意味がよくわからなかったので、習い事の関係で知り合いの牧師さんにちょっと話を聞いてみた。(お忙しいところ
ありがたい)以下→
「ツァラアトとはらい病のことであり、当時はこのらい病にかかることそのものが神に見捨てられた罪だった。病気になったら「私は罪人だ」と言いながら通りを歩いて回らないといけないほどの。らい病は穢れであり神からも見捨てられた病だった」
「当時のイスラエルはローマ帝国の支配下に置かれていた。ユダヤ人から見ると百人隊長は外国人だ。(ジーザス・クライスト・スーパースターで言うとピラトはローマの人、カヤパやキリストはイスラエルの人ですね)だからとても偉い百人隊長がわざわざイエスみたいな被支配者のところに頭下げに来た、というのはすごいことだ。だから聖書の中にも百人隊長みたいな信仰の人はいない、という言葉が出て来る」
最後に、言葉のみで百人隊長のしもべを癒やす、ってどういうことか? と聞いたらこれはマタイの福音書だけどヨハネの福音書の最初を見てみるといいよ、と教えてもらった。ヨハネの福音書がこちら(http://bible.salterrae.net/sinkaiyaku/html/John.html)
引用:「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。 …この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」言葉はキリストであり、キリストは光であり、闇は光に打ち勝たなかった、という一節。
なんだか「先生があの時かけてくれたあの言葉が生きていくすべてでした」や「先生がいなければ僕の人生は果てのない暗闇のままでした」とよく似ている感じがある……。フェイスはfaithでもあり、一樹くんの信仰の話でもあり、一樹くん自身の救世主であった小和田先生を救い出すために自らがかつて自分を救ってくれた先生と同じように、先生にとっての救世主になろうとする側面もよりはっきりと見えてくるような気がする。
最後に
楽曲の歌詞から掘り下げてみたは良いものの、「バッハのアリオーソ」として有名な曲でもあり、関連曲の歌詞はどこまで考慮されているかについてはわからない。パンフレットにも何も書いていないしただの私の過ぎた深読みかもしれないところもある。
しかしバッハといえばやはり教会音楽な印象もあるので、聖書との関連を調べておくのはまったくの的外れでもないのではとも思う。
最終的にはラストの曲は作品全体を貫くテーマでもある「病」と「癒やし」と関連する楽曲だということがわかり、また再見する時により楽しく見れそう。
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fami007 · 8 years ago
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【ネタバレ注意】フェイス 9/29メモ
フェイス@浅草九劇の感想のメモです。本編の内容のネタバレがあるのでご注意願います
一樹の死の知らせに固く目をつむってしばらく痛みをこらえるように黙っている先生。やっと絞り出すように言った「どうして……?」の声��涙で掠れている。警察から知らされる一樹の死因は、どうして動けたのかが不思議なほどに進行していた末期がんの症状。電話を切って椅子に倒れ込むように座る先生。頬を伝う涙。机の向かい側に座る姿に心の痛みが少し和らいだように呼びかける先生。膝を抱えて座り、約束の言葉を口にする一樹。「君と俺とは魂の片割れだ。だから俺はどんなことがあっても君を守る」そして約束を守るように、苦しみの渦中にいる先生を視線で包み込むようにゆっくりと首を傾げる…… フェイス千秋楽公演、見た後椅子から立てなくなった。こんなことは久しぶり。感情の揺れが繊細かつ大きな振れ幅もあってその波に70分すっかりさらわれていた感じ。そして土日の23ー24に見た3回とラストの印象が少し違っていた。土日に見た回はただただ一樹の願いが全うされた充足感と幸せでいっぱいだったのに、楽はその幸福感と充足感に加えて先生の感じる半身をもがれるような辛さや痛み、喪失感も合わさって、幸せなのにとてもしんどい気分になった。先生にとっても一樹は確かに「魂の片割れ」で、「特別」で、「大切な人」で、そんな存在の命が失われた取り返しのつかない喪失感が本当に痛かった。 「愛」ってなんだろうとつい考える。谷川俊太郎の書いた詩によると「生きていてほしいと願うこと」なのだが、一樹の愛にも先生に生きて幸せになってほしい、その未来に自分がいなくなろうが構わない、というなりふり構わない祈りを感じる。 一樹くんの愛の正体はなんだろう。患者が治療者に抱く転移?同性愛的傾向?代理父?プラトニックな友情?崇拝の感情?たぶんそれらすべてなのだろう。レイカは「一樹にとっては小和田っちが全部」だと言う。全部だったから、先生が結婚した時に祝福したい思いとショックを受ける思いが衝突して別人格たちが現れてきたんだと思う。 いずれにせよ、愛は貰った分しか返せない。とすれば一樹は先生にたくさんの愛をもらって生き延びたんだと思う。かつて先生は一樹を救った。理由のない虐待が支配する世界から、理由なんてなくても存在を許される世界へと世界の意味を塗り替えた。「君を守る」の約束で、一樹の世界の意味を塗り替えた。懸命な治療と医療者として危ういほどの思い入れ、その態度が無意識に醸し出す無防備さや傷つきやすさまでも全部使って。人格を統合するためにほかの人格が行ったことを一つ一つ教えることまでしたし、教えたことの中にはムツオの行った残虐な殺人行為も含まれていたに違いない。それでも先生は闇の中に一樹と一緒に深く深く潜っていって、なんとか無事に地上の明るい世界の中に連れ出してきた。これは先生なりの愛情表現でもある。一樹の中にかつての自分を見ていて、一樹を救うことは同時に自分を救うことでもあったけれど。 最後には、先生は一樹の中に自分自身を見ていたことがわかる。だから特別で、医者としての分を踏み越えてもなんとしても救いたかったのだと。一度闇に落ちたものでも闇の中から這い上がることはできる、救い出すことはできると証明しないといけなかったから。 一樹にとっても、愛とはやはり「世界を生み出すこと」と「ひたすら寄り添って深く一緒に潜っていくこと」なんじゃないだろうか。先生にもらったのはそういう愛だったから。最後は先生に、闇の中に隠れなくてもいいんだ、あなたも守られていていいんだ、と先生を闇から救い出して光に溢れる世界を最後に与える。かつての先生と同じ行為をし、愛する人と同一化して去っていく。それでも、与える方も受け取る方も満身創痍になる生半可じゃない愛だと思う。一樹はもう「息しなくていい」から、先生の心の闇の中へどこまでも深く潜って手を差し伸べられる存在になれた。そう考えるとやはりとても切ないけれど幸福感も確かにある。
半年前から一樹の別人格がまた出てきた話、先生の結婚がきっかけとはいいつつ病気とも関係あるのではと思う。「動けたことが不思議なくらいの」痛みは別人格が引き受けてくれていたのではと。個人的にはムツオが痛みも引き受けていたように思える。先生の腱を切って床下に押し込めたくなるくらいに、ムツオは一樹の痛さや苦しさをよくわかっているように思える。一樹はまだ死ねない、って思ったから、別人格が再び出てきたのでは。患者が苦しいときは医者も苦しいという先生の言葉を思い出して、自分が今苦しいなら先生も苦しいのでは、と祈るような思いで先生の言葉にすがってたのかもしれない。それでも最後は一樹は誰の人格でもなく一樹として手紙を書き、警察に行って、病気の痛みも先生の闇も全部引き受けて死ぬことを選んだんだと思う。そして自分の選択には後悔なんてしなかったんだと思う。
先生の別人格について。別人格は名を名乗らない。おそらく名乗る名前がないのだろう。一樹の別人格とは違い、先生の別人格はは攻撃的だけれども何か存在が希薄で脆弱に思える。ママー!の叫び声は本当に当時の記憶が蘇ったのではと思うし、逆に言うと子どもの時点での記憶しか持ってないくらいに長い間ずっと眠ってた人格なのではと思う。それこそ井戸の底の暗がりのような先生の心の闇の中でずっと。一樹の別人格はみんな一樹の欲望を叶えたり虐待者を排除したりと一樹を生かすために動いているように思えるが、先生の別人格はそうではなく破壊的で、先生が自分の周囲に作ってきた世界を全部壊して自分も死んでしまいたい、というような自殺願望も感じる。メガネを外して放り投げるのは視界が見えなかろうが関係ない、というような世界の関わりを拒否したい感じなのかも。
最後の方の一樹とタクミの関係について。先生の別人格に「このまま見過ごせばwin-winの関係だろ?」と持ちかけられてもタクミ自身はそこに強く反対の声を上げない所におやっと思った。その後タクミが一度引っ込んで一樹が出てきて「だめだ……だめだ……」と言い、強く拒否する。一樹が拒絶したのちにタクミが先生の別人格に戦いをしかける流れ。タクミはあくまで分析的な人格で善悪の判断は主人格である一樹の判断を尊重して任せたのかもとも思った。そして一樹は別人格が出ていると別人格の記憶がないはずなのにタクミが対応した内容を知っている。これはタクミも一樹を守るための人格なので、一樹を守るためには、タクミは自分が出てきている時の状況を一樹に知らせるべきだと判断したのだろうか。その時一樹とタクミの分節はすでに曖昧になり、本当に人格が統合されたのかもしれない。
先生はラスト後、きっと本当には一樹が本当の犯人だとは思ってないのではないか。一樹は最後の手紙の文面からして自分が犯人だと本気で信じさせようとしているわけではないし。でも、ただひたすら光に目を向けさせようとしているようには思える。タクミが「そこにいるあなた、出てきてください!」って叫んだのが眠りに落ちる前の最後の記憶だろうか。目が覚めてみて誰もいないけれど、自分の中にあった邪悪な闇から守られた感覚は確かにあるんだろう。「君を守る」のセリフや「なんとかなるからな…大丈夫だからな…」のセリフが両方とも先生の口から聞けないのは、あの場では先生はすでに守る立場ではなく守られる立場だからかもしれない。語られない事実と、手紙で語られる思い。 楽日は一樹が最初に眺めていた手紙の中身が見える回だったが、あの手紙はなんと白紙だった……。なんとなく最初に読んでた手紙は最後の手紙と同じなのだろうかと思ってはいた。ゴールドベルク変奏曲がテーマだから、きっと始まった所に戻ってくる構成だろうと。どうして最初一樹は白紙を見ていたんだろうか。末期がんでもうすぐ死ぬことはわかっていて、先生に何かを自分の生きた証として書きたかったけど、一人でひっそりと抱いていた想いはどうしても書けなかったのかもしれない。でも最後は書くことができた。たぶん先生も一樹自身と同じ苦しさや弱さや闇を抱えていることを知ることができて、「安心」したんじゃないだろうか。自分と同じ闇を抱えていた先生も自分を救ってくれた、だから自分も先生を救うことができる、意味のない病で無為に死ぬだけの存在ではないと。相手を救うことが自分を救うことにもつながる、もう一度繰り返された救済の話。
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fami007 · 8 years ago
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【ネタバレ注意】フェイス 9/23-24メモ
フェイス@浅草九劇の感想のメモです。本編の内容のネタバレがあるのでご注意願います
100席ほどの劇場、四角の四辺に数列の客席。狭い舞台の真ん中には木製の机が1つと椅子が2脚。流れているのはバロック音楽。バッハの「主よ人の望みの喜びよ」やヘンデルの「サラバンド」など。
開演直前になると、バッハの「ゴールドベルク変奏曲」のアリアが流れる。グレン・グールドの1955年盤だろうか?(この演奏 youtu.be/pWzs7rEuS_4 )なおゴールドベルク変奏曲は最初のアリアで主題が提示されて、30の変奏を経たあとに変化をつけながら最後また変奏なしのアリアに戻って円環のように終わっていく。この円環構造はフェイス本編とそっくりに思うので、ゴールドベルク変奏曲をここで流すのにはこれから始まる物語の展開と帰結がなんとなくわかった気さえした…。劇中最初のBGMと最後のBGMも同じ曲だったかもしれない。
ゴールドベルク変奏曲が予感させた通りに綺麗に円環が閉じて終わ��円環構造だった。一樹はきっと、「君を守る」の声を聞いて、初めて「息をした」のではないかと。一樹は自分の人生が始まった場所に紆余曲折を経て最後に帰っていく。私としてはあの話がハッピーエンドに思える。来た場所を知り、帰って行く所もちゃんと自分で選んだ馴染みの場所。末期がんで命の終わりが迫る中で一樹は何を考えただろうか。友達も家族もおらず、日中は一人きりでシーツを眺めて、慕っていた先生は誰かのものになってしまって、必死に助けてくれた先生の治療の努力も無駄だったように統合されたはずの他の人格が頭の中で騒ぎ始めて…という状況では人生の意味を考えたかもしれない。自分の人生の意味とは、命の価値とは。そんな状況で9年ぶりに現れたのは、一樹に助けを求めているにもかかわらず、一樹にとっては雲散霧消して闇に吸い込まれるだけになりそうだった自分の人生に意味を与える「救世主」に見えたかもしれない。英語の「Calling」(呼ぶこと)は天に呼ばれること「天命」と訳すのを思い出す。「先生の役に立てなかったら死んでも後悔する」「死ん���も許さないからな!」のセリフの重さを二回目で噛みしめる。一樹の最後、子どもみたいに屈託なく膝を抱えた笑顔は、自分の信仰に近い愛を完遂した嬉しさと誇りを感じて本当に幸せそうだった。約束をされた側なのに、いつしか自分が約束をした側になっていたのは、約束をされた瞬間から先生の中に一樹自身と同じ可哀想な子どもがいることを無意識に感じ取ったのかもしれない。
翻ってラストの小和田先生。最初は一樹に置いて行かれたのかと思ったし、自分が妻を助けるために一樹を呼んでしまったから、一樹の人生の意味を十字架として背負っていかないといけないのかなと思っていた。一樹はあの選択をすることで、先生にとって数多くいる患者から本当にたった一人の忘れられない人になったわけだし。しかし二回目見たら、「率直な愛を受け取ることに恐れのある」先生が、一樹の全力の「率直な愛」を恐れる間もなく受け取らされたし、もう受け入れる覚悟を決めるしかないな、と思った。先生が一樹を治療して治療が終わった後も「特別な人」だと思っているのは一樹の中にかつての自分自身を見ていたからだと思う。そして一樹の最後の選択によってかつての自分の献身は報われたし、自分と同じ境遇だった一樹も率直な愛を与えることができたんだから、きっと先生自身も闇から抜けだしていつか率直な愛を受け取って与えることができると信じられたのではないか。与える愛と受け取る愛の円環構造とどこまでも続く無限の反響の構造に、舞台は狭いのにとても広々とした感覚を覚える。
「欲望という名の電車」も読み返した。ブランチは無力な被害者でスタンリーは粗暴な加害者、という一樹とムツオおよび小和田先生と名前のない別人格の対比の他、スタンリーはある意味探偵としてブランチの隠した謎を暴き本当の姿を見極める役割もあると思った。そう考えるとブランチとスタンリーの関係は、治療を受けていた時代の一樹と先生、劇中の時点での先生とタクミ、という謎を隠す人と謎を解く人の関係にも思われる。そしてポーランドからの移民のスタンリーはこれからの新しいアメリカの象徴で未来と生に属しており、南部の没落貴族のブランチは過去と死から逃げられない。一樹がスタンリーの側に感情移入して読めたのは過去と死からの回復の兆しだったかもしれない。
以下伏線?と思った所とか考察とか。基本的にこの話、二人が鏡の構造になっているので「相手に言っていることは同時に自分にも言っている」と考えられる箇所が多い。
「あまり寝てない?」「ここ何日かは……」「慢性的に寝てない感じ」の辺りは、先生は奥さんの誘拐事件であまり寝られていない自覚にとどまっているけれど、慢性的に寝てない、のセリフからは先生の別の人格が現れて夜に歩きまわっていることが暗示されてる気がする。
先生が一樹に顔色悪い?と指摘する所。部屋の中にいればなまっちろくもなるよ!とごまかしているけれど末期がんで容体が思わしくないことのほのめかしかなぁ。先生の別人格に「スカスカの体だなぁ…」と言われているところも体調の暗示か。
「患者と医者はどこかで繋がってて患者が苦しい時は医者も苦しいし患者が嬉しい時は医者も嬉しい」の先生のセリフ、正直危うさを感じた。誰にでも言ってたら医師としてはすぐ精神的に過大な影響受けちゃってメンタルやられるのではと思う。きっと一樹にしか言ってなかったのでは。それでは何故、君が苦しい時は俺も苦しいし…と言えなかったのか。一般名詞を使わないと自分も一樹と同じだって悟られちゃうかもしれないって思ったのかも。でも結局一樹は君を守る約束をされた時に無意識に「俺もこの人を助けないといけないんだな」と感づいてしまっているんだね。しかしあの殺し文句と言ってもいい、「君を守る」のセリフはレイカと一樹の声でしか聞けず、なぜ先生自身の肉声で聞けないのか、という所が気になっていたが、先生はその約束は一樹の治療を終わらせることですでに果たしているからだろうか。
「あなたは地下の窓のない診察室を嫌った」というタクミのセリフで、先生の幼少期のトラウマに起因する閉所恐怖症が暗示される。
ムツオが先生を殺そうとする方法が「手足の腱を切って喉を切って床下に埋めて小さな覗き穴だけあけてやる」というものだけれども、これは最後のほうにタクミが先生の別人格に、お前は自分がされたことを報復として被害者に行うというようなことを言っていたこととパラレルに思える。先生の別人格が先生自身にされたことを奥さんにしようとしていたように、ムツオは一樹が先生にされたことを先生にやってやろうとしていたのでは。一樹は自分が手も足も動かせなくて、息もできなくて、世界と隔離されたところから小さな覗き穴だけで助けを求めることもできずに先生をただ見つめ続けるだけだ、と思っていたんだな…。そんな状態だったら先生が自分から一樹自身の部屋に来てくれるのはまさに助けに来てくれた!って思うかもしれない。そして喉を切られて息ができないのは、レイカが言っていた「初めて息したんだよね」のセリフも思い出す。(このセリフとてもよいしレイカちゃんは一樹くんが言えないことを全部言葉にしていってくれる良い子)先生に会って初めて息をしたのに、今は喉が切られて息ができない状態…。
先生の別人格が「一度闇に落ちた人間は一生這い上がれない」と言っているがこれは自分にも言っているし相手の一樹にも言っているとても恐ろしい呪いの言葉…。一樹としてはこの言葉は全力で否定する必要があるよね、先生の努力と献身と守られた約束を無にしてはいけないから…。
最後、タクミと一樹のヒエラルキーも変化しているように思える。一樹はタクミが見て聞いたことは知らないはずだったのに、最後のほうはタクミが出てきている時に起こったことを一樹も知っているから。例えば先生の別人格と対峙していたのはタクミなのに、途中で一樹が出てきて「先生の奥さんは殺させない…!」と言っているように思える。タクミが一樹にも外の様子が見えるように精神構造を設定したとか?タクミならできそうだし、先生の別人格もきっちり催眠で封じ込めてそう。
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fami007 · 8 years ago
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「また、桜の国で」感想 ネタバレ注意
最近の日本スゴイブームにケッッッと思ってたけども、アナーキーに冷笑的になるだけではなく対抗としてどういう態度でいればいいかのカウンター的ふるまいのアドバイスをもらったようでとても心強い。 「うちの国にはこれがあるから○○人でよかった」でなくて桜の国では「自分にはあの人のためにこの事がしてあげられる、○○人でよかった」ってみんなそんな感じで行動しているように思える。桜の国の登場人物のみんなは国籍を何かの役に立つ「実利がある、実用的なもの」ととらえてること、そして「誰かの役に立つ」ものととらえてること。後者の捉え方をする時は誰かのために自分が動く時。前者のように自己完結して自分だけが気持ちよくなってるのとは違う。 最後の慎からは天命に呼ばれ、地面にしっかりと足をつけて立つ力強い幸福感も感じた。現実の自分の生き死にには関係なく、友達の中で自分が生き残るだろうという確信を持って、自分の人生の意味を理解する美しさ。追い詰められた状況で自分の振舞い方を考えないといけない時に、「夜と霧」や「ルシファー・エフェクト」と並んで思い出すかもしれない。
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fami007 · 8 years ago
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パレード5/28, 6/3-4感想メモ
全体
傾斜舞台の後ろにそびえる大木、照明で影絵のように映しだされる木と人物、開始直後に上から落ちてきてそのまま舞台上にあり、時にはおがくずにも落ち葉にもじゅうたんにも芝生にも見える大量の五色の紙吹雪、舞台の���がよく見える傾斜舞台と民衆の熱狂を表すような回る盆。
衣装も素敵。レオの質素な黒い服、ルシールの細かいレースの白い服、外でアクティブに動けそうな灰色の服、そして最後の黒い喪服。アトランタの民衆の品のある白い服。ストローハット、日傘、ドレス、ジャケット。メアリーの運命のパンジー色のドレス。南部の老兵の勲章付きの古い軍服っぽい外套。クレイグのくたびれた灰色のスーツ。コンリーの人を馬鹿にしたようなピンクの帽子と薄汚れた徒刑服。ワトソンやドーシーの仕立てのよいスーツ。一世一代の舞台に着ていくスレイトン婦人のコート。
ドーシーは真犯人が誰か感づいてたのかそれとも知らなかったのか?黒んぼ一人吊るしたくらいじゃ…ってセリフもあるから感づいてみすみす見逃していたのかも。司法が役割かなぐり捨てて職務放棄と越権行為…
ドーシー検事もスターンズ警部もアトランタの中が落ち着いてて平和であればいい、早く騒ぎを終わらせたいと思っているかも。彼らの中では普遍の正義=自分らの街の平和という近視眼 最下層にいる黒人のアンジェラやライリーでさえも北部のやつが首突っ込んでくるのはうざいって思ってるくらいのアトランタの人達の閉鎖的な感じ 
そういえば白い民衆たちの中に黒人はいない。人口比に忠実にするとなるといてしかるべきなのに。実はあの集団はとてもいびつで閉鎖的なんだな。でも嫌いになれないジョージアの皆さん…ふるさとの赤い丘の楽曲が美しすぎるのもあって共感が振り切れないうちにいつのまにか自分自身の姿もそこに見ているから嫌いになれないの
兵士の想い人のライラはどうなったんだろう…好きな子と死に別れるフランキーと中の人が同じなことや、冒頭の「さらばライラ」と一番最後の「さよならレオ」は同じフレーズであることから考えて現世では結ばれずに終わったんだろうなとも思う。死んだのか、それとも北部に去ったのか…。そして歌のフレーズと歌詞、「さらばライラ」と「さよならレオ」の他に「自由な南部を」と「あなたはもう自由」も相似形な所がとても悲しい…南部の人とレオ達が単純な加害者対被害者の関係じゃない気がしてくるゆえん 何故同じ言葉を使っているのに敵対してしまうのかと思ってとても切ないしやるせない
傷ついた南部の人達は自分達と自分達のコミュニティを守るために誰かのせいにして自分の責任ぶん投げて終わらせがちだったけど、自分の責任と尊厳において嘘を拒否したレオや事件を終わらせないために自らジョージアに留まるルシールは悲しい南部から一歩先に歩み出たんだよな。成熟の方向へは一歩ずつ進むしかないしやがてジョージアの人達も後に続いて一歩ずつ前に進んで行くんだろうと思うと少し希望が持てるかも。結婚指輪を届けてくれた彼(メアリーのいとこかも?)や70年経って真実を告白したロニー、おばあちゃんの友達の話を書いた脚本家さん…一足飛びに進むのは難しいから一歩ずつ歩みを進めないと行けないんだなと思う
南部の人達、自分らのコミュニティの一員を殺したり差別したり排除したりする必要がなくなるように幸せになってほしい…がわりと最後の印象に近い 楽曲と見た目の美しいイメージからして、南部の人々も醜くておぞましいものとは描かれてない気がする 誰かを嫌悪し排除したくなることこそパレードで悪として描かれてることだから南部の人を嫌いになれない印象で間違ってはいない気もする。
なんかこの写真見返してたらジョージアの人達の白い服にふと非現実感を覚える…老兵の夢見た理想なのか亡霊なのか美化された過去なのかとにかくそんな感じ https://t.co/x9Wottp4db
パレード、感情に走ると悪い奴に煽られて間違える かと言って理性で判断したつもりでも見たいものしか見ないからしまいには陰謀論持ち出してきて間違う どうすれば…と思うとスレイトン知事のように自分で調べて自分で判断し信頼できるパートナーの助けを借りると正しい道を選べる可能性が高いというメッセージは受け取ったかも
一幕で追悼記念日おめでとう!の直前でぱっとセピアになるあの照明の色合いが好き。二人それぞれにとっての平和な日常の最後の瞬間の二度と取り返しのつかない感じが…その後、一番最後でおめでとうって言われてレオがふにゃんとした笑顔浮かべるのほんとつらい
一幕
マシュガナ!ってヘブライ語言ってなんで外国語で喋るの!?ってルシールに怒られてだって僕はユダヤ人だから…って言うレオ、最後の祈りの言葉はヘブライ語なんだよね 僕は最後まで僕である、例え自分の属性が自分自身にどれほどの害をなそうとも自分は自分であるっていう厳かな宣言
そうそう、何を待ってるの?で、日本語の歌詞忘れちゃったんだけどルシールが今の生活こんなに良いのに…って言ってる所で豪華なコートと合わせて「陶器が2セット」って言ってるんよね…(日本語だと高価な食器、って言ってた)そんなただのモノだった陶器が最後のピクニックのシーンで二人の絆を表す結婚記念の食器として登場する所がとてもよい
メアリーの葬儀の曲、賛美歌なのにベースが半音ずれててひたすら不穏。フランキーの悲しみが攻撃性に転換するドラマチックさがすごい。あとメアリーのお母さんの曲も悲嘆が攻撃性に変わって終わるの…悲しみは無害な感情じゃないんだなって思って怖いな
メアリーのお葬式のシーンで皆さんを観察。自分も悲しみながらも、お母さんをそっとしっかり支えるおじいちゃんのたたずまいが哀しくも素敵。三人娘のうち、一人怒ってるみたいにお花をお棺に叩きつけるように置くエッシー(彼女は裁判のシーンでもずっと怒ってる)理不尽さに怒ってるみたい
角度的にドーシーがニュート・リーを落とそうとしてる時のアイヴィ刑事の顔がよく見えたので観察していた。アイヴィ刑事はドーシーがニュートに対して自白の方向に誘導しようとしているのを、怯えているニュートを見て「いやこいつは絶対犯人じゃないのに何を…?」みたいな顔してて、ここからすでに上の意向には疑問を抱いてたんだなと思った。とても戸惑いの表情を浮かべていたな…
ルシール、あなたは彼を知らないの歌のあと泣きそうになりながら歩いていくけどレオの前に出ると気丈に笑顔作るんだよね…でも言われることはお金の話だけなんだよね すいかのピクルスもデビルドエッグも記者ですら褒めてくれたのに…何か言ってほしかったよね
支払いを気にするレオのシーンで、日本の冤罪事件の足利事件で犯人に仕立て上げられた菅谷さんも刑務所の中から家族に二千円の税金の支払いを頼むエピソードを思い出し、偶然の一致なのかはわからないけど戦慄した
一幕裁判のシーン
アトランタの皆さん、いちいち反応が素直だなって思いながら見ていた。そして皆様バラバラの動作をしているようでも一体感があり一人一人が生きている感じで素晴らしい。卑劣なエピソードには怒り怯え帽子を叩きつけ、メアリーのドレスを直視できずに涙し、もう見ていたくないと首を振ってメアリーの母と一緒に神に祈り、コンリー経由の暴言に対しては立ち上がって激昂し…でも、素直で善良なことが必ずしも悪を止められる訳じゃなくてむしろ加担することもあるんだなぁと
コンリーが出てきた時はみんな「あ?なんであんな黒人出してくるんだよひっこめよ」みたいに帽子で追っ払おうとしてたね。回が進むたびにコンリーへの拒否反応と侮蔑が大きくなっていった。ワトソンも黒人に対しても差別主義者らしく追っ払おうとしてたね そんな人らも煽って巻き込むコンリー、実は怖いくらい弁舌の才能ある…そしてレオの歌の時はみなさん微動だにしないんだよねあれだけ素直な感情見せてたのが全く動かされないの 怖い
コンリー、証言の最初の方でドーシー検事と顔見合わせて頷きあってるね…でドーシー検事もそれでいい話せって感じで頷いてるし、「パレードの日?」って証言開始する所で検事が「さあやったれ!」って感じで右手スッて上げるのほんと…共謀…そしてコンリーが「黒人の若い男性が来てたことも…」って言って女性が悲鳴上げるけどあれ「男性」と同じくらい「黒人」もアトランタの人にとってはショッキングなんだよねきっと 人種隔離政策で白人と黒人結婚できなかったはずだし 
彼の言ったことのナンバーでコンリーがレオの発言嘘つくけど、実はあの発言ここを我が家とどうして呼べる?の歌でレオが言ってたこととそっくりなんだよね…自分は北部にルーツがあって、妻のことも南部の人のことも少し見くびってて…ってエッセンスは同じ 
偽証のシーン、証言者はお互いにお互いがドーシーに指図されてること知らない可能性もあるのかなとか思った 例えばフランキーはドーシーに指図されたけどコンリーや三人娘が偽証してることは知らないみたいな 自分は少し話盛ったけどあり得ることじゃんか!みたいな ワトソンも偽証だと知らないかも
マリエッタから20マイル、で話を真面目に聞かずに帽子で仰いでる紳士が二人 でも一人はパパが死んでメアリーは移り住んだの所で仰ぐのやめるし、もう一人はその20マイルが命取りだったで仰ぐのをやめる 彼らにも貧困で働きに出さざるを得ない娘がいたり、棄農して移住した過去がたぶんある。だから自分達の身に迫ったこととして痛いほど実感があるんだな。
小野田フランキーの起伏の激しさがすごい。悲しんだり、レオに殴りかかりそうに怒ったり、殺しそうな目で睨んだり。ドレスの所だっけ、頭ガッて抱えちゃうのは…しかしフランキー、最初は映画にメアリー誘ったかと思えばアイオラにも声かけてみたり、メアリーが最初から唯一無二の人ってわけではなかった。メアリーのためと言いながらアトランタに歪んだ形で自分自身の承認を得始めて、自分でもメアリーが唯一無二の人だと思い込むしかなかったのでは。偽証することでドーシーにはほめられアトランタにはメアリーの騎士!と褒め称えられるし。彼は最後まで、自分のやってる行動がメアリーのためだと思いこんでやってるけども、死者は語らんし指示もしないのに、自分の欲望を死者の名を借りて果たすのはとても危ういと思ってしまう こんな形で大人の社会に居場所を作ってしまったフランキーの将来はとても心配…
ドーシー検事は初日の方は嘘で塗り固めた有罪だって自覚があった感じだったけど昨日は何か違ったな…あいつが犯人なのは自明なのに証拠がないのが悪い、それなら自分達南部人が事実を少し改変したところで何が悪い?みたいな もはや付け加えるべきことはありません!も涙も本気なんだと 。古い意味のほうの「確信犯」かなドーシー検事…自分でもレオが犯人だと信じ込んでる。ニュート・リーを詰めてた時はそこまで信じこんでる感じじゃなかったのに、だからこっちもドーシー検事のエモーショナルな最終弁論で泣いてしまう。知事に言われて状況証拠を作り上げて、もう後には引けないから信じ込むしかない…ローン判事やワトソンに色々言われて今後の自分の栄光を思い浮かべるとさらに後には引けない。ミイラとりがミイラになっている感じ 。そして無罪を主張するレオやルシールを何の感慨もなくただ見てることがあってそれも怖い…自分の勝ち取った裁判の結果ひっくり返されるんじゃ?とか心配するでも憎々しげにしてるでもなく、レオに嘘をついていると言われてもただ物を見るみたいにぶしつけに見てるの… 
ドーシー検事の最終弁論の後ろでみんなが歌うのがふるさとの赤い丘でしかも歌詞が北部をやっつける「奴らの嘘に神の報いを」のパートなんだよな
二幕
二幕冒頭の黒人二人の歌はとても興味深くて、黒人が吊るされても気に留めやしないよね、って歌いながら北部から来る奴ら何やってんの、みたいな感じで、黒人を差別する彼らにとってひどい社会なのにあくまで彼らの帰属意識は南部にあって北部と対立するねじれ感が興味深い 
この歌で途中二人がフォスターの草競馬を歌うのはなんでだろ?しかも少しバカにしたような歌い方なの��何故?と思ってたんだけど、この曲って白人が顔を黒く塗って黒人のふりして演じるミンストレル・ショーの楽曲だったらしいからこれ関係か?所詮北部のやつらは偽物しか見えてないんじゃないのか?みたいな感じか。しかしこの曲を歌ってる「黒人役」も他の黒人役も同じように顔を黒く塗ってるBlack Face状態だというちょっと皮肉な二重構造…そしてそれを隠す訳でもなく、コンリーなんか囚人服の胸のところ開いてて顔しか塗ってないのがまるわかり。これだけ堂々とされるとなんかやっぱり意図がありそう。ノートルダムの鐘の最後で登場人物が続々と醜いメイクをして行く時のような意図。
そう!更衣室でレオがモンターグさんは君たちに無駄話をさせるために〜とか言うじゃん?このモンターグさんが脚本家のウーリーさんのご親戚なんだって… 
徒刑服でつるはし作業してる時も人を馬鹿にしたようなピンクの帽子被っていつも人を食ったように笑ってるコンリー、ブルースのもう外はどしゃぶりだ♪の歌詞の所で吠えたのちに荒い息ついてる所で笑顔消えるんよね…コンリー笑ってるとは言っても、実は楽しいから笑ってるなんてことはぜんぜんないんだなと思う…いっとき稲妻が光り太陽が燃えてもすぐにどしゃぶりの雨が降りしきる世界に住んでいる感じ 他人を陥れるのが快感とかじゃなくて慢性的に退屈してるんだよ…事件起こしても偽証で大騒ぎ巻き起こしてもその直後にもう飽きてるんだよきっと…偽証の直後からもう雨が土砂降りなんだよ…だからコンリーはコンリーなりにどす黒い空虚の中にそれと知らずに哀しみを抱えているのかもしれない。飲んだくれで友達いなくて、名字が本当にコンリーなのかも実はわからなくて、この事件の後強盗未遂で胸を撃たれたけど死なずに生き延びて、でも最後はいつどこでどんなふうに死んだのか誰も知らない…闇から生まれて闇に消えるまでの間満たされることもなくせめて退屈だけは紛らわそうとするけれどもすぐ渇く。コンリーのブルースの圧倒的なハイトーンとてもよい。
そういえばブルース終わっていったん引っ込んだ囚人軍団、農民になって洪水の歌でも出てくるからあそこ早替え大変だろうな…黒人の化粧、顔面だけで耳と首塗ってないのは落とすのが大変だからなのかな… そういえば袖からじゃなくて舞台の向こう側から坂道みたいに登ってきて姿表すのって囚人軍団だけだった気が…真の悪登場だから特別なのかな… 
そうだシンディクレイグ、洪水の歌のところで(旗降ってる二人を除けば)熱狂する民衆に驚いて戸惑って一人だけ回り続ける盆から降りるの上手いな…と思った 最後のルシールも一人盆に乗って回らないんだよね
しかし禅さんドーシー初日のころはレオを有罪に追い込めてや、やったぁ…って感じあったのにそうじゃなくなってて私は正義を達成できて誇りに思う!!ってすっかり自分でレオの有罪信じ込んでて、そして最後では一応昔はファーストネームで呼び合ってたらしい知事を裏切るし人間やめて外道に邁進してる。禅さんドーシーがだんだんなけなしの良心も殺して人間の皮をかぶった外道になって行くところたいへん震え上がったし面白かったです。
拉致と縛り首の所の音楽がメランコリックで何か語りかけるようでとても美しい。ためらい慄くようなピアノの音と淡々としたドラムの音の対比 そして背景も影絵のようで、人間以外のすべてが美しすぎて怖いくらい。人間達はてんでバラバラに誰かのためと言いわけしつつ結局みんな自分のためにやっててエゴむき出しにしてる一方で、舞台上の絵と音楽はとても美しく、不思議に現実と虚構の間にいる気分になる。あのシーンは幻想的な感じも相まってなんだか現実には届かないはずの死者の声がここまで届いている、という不思議な感覚に襲われた
老兵はジョージア州の法の下の正当性を主張するけど正当性ないしなんなら自分がまだ南部の兵士として南北戦争終えられてないんだろうし、フランキーはメアリーのためじゃなくて自分のやってることの責任取らないで自分の殺しの責任すら放棄しているし、刑事は捜査の正当性に突っ込みを入れられたくなくて揉み消したくてあそこにいるんだろうか そんな人々のエゴ
昨日やっと気づいたけどレオが移送された新しい刑務所って農場に併設で昼は農場仕事させられてるからレオは日に焼けてるんですね。だからアイヴィ刑事も「あの農場に連れ帰ってやるよ!いいところなんだろ!?」って言うんだよね
楽日の拉致と首吊りのシーンではレオの「わかりました…言いましょう」の前にたっぷりの間があったな 死への恐怖と自分の尊厳の間で嘘をつくかどうか戦って結論を出した感じだった。sh'maの所のレオの表情、全く人生諦めきれてなくて未練も悔しさもたっぷりなのがほんとつらい…それでも、やっと掴んだ自分の人生は絶対他人に奪わせたくない、と最後の瞬間まで戦っている感じ。
“サイコパス (文春新書)“(中野信子 著)
パンフレットに書いてある坂元さんのインタビューに書いてあるのが明らかにサイコパス的傾向のことだったのでこの本(https://t.co/GFzVd4TZjA )読んでみたら面白かった。ジム・コンリーのキャラクター性が把握できた感じ。
ありえないようなウソをつき、常人には考えられない不正を働いても、平然としている。ウソが完全に暴かれ、衆目に晒されても、全く恥じるそぶりさえ見せず、堂々としている。
「サイコパスは他人のもろさを見抜き、人を操る能力に長けています」「一般人がサイコパスの目から感情や考えを読み取ろうとしてもうまくいかない、という実験結果も」「一般人とは異なる言葉づかいをすることに注目していました。文の構造、語彙の選び方、しゃべる速度、リズムが違う…」
・外見や語りが過剰に魅力的で、ナルシスティックである。
・恐怖や不安、緊張を感じにくく、大舞台でも堂々として見える。
・多くの人が倫理的な理由でためらいを感じたり危険に思ってやらなかったりすることも平然と行うため、挑戦的で勇気があるように見える
全部わりとコンリーにあてはまる特徴…語りが過剰に魅力的でドーシーやワトソンすら巻き込まれていくのが「彼の言ったこと」のナンバーだし一般人とリズムも音域も明らかに違う異常性すら表現してるのがブルースの楽曲だし!
『サイコパスは「周囲の人間が自分に敵意を持っている」と認識しており、だからこそ彼らも敵意を持って対抗している、というわけです。この世が悪意に満ちた世界に見えているのだとすれば、サイコパスはなかなかに哀しい存在であるとも言えます。』ともあって、悪意の満ちた世界なんて焼け野原にしてやったってまったくなんとも思わない、むしろせいせいする、みたいに思っていたのでは…
「しかし、彼らには周囲の人間が敵に見えており、それゆえ今ある世界を壊さずにはいられない。自分が破壊した結果を前にしても、とくに何とも思わない。あらゆる対象への愛情や愛着が欠如しているから、仕事に対する責任感が芽生えることもない」
パレード新盤CDのインタビューDVD
パレード新盤のCDについてたDVDのインタビューを見たぞ〜字幕がついてないから半分くらいしかわからないけど
脚本家のウーリーさん、自分は南部人でありユダヤ人で、心に抱いた故郷が暴力的に反ユダヤ主義的であることに葛藤を抱いていたし、だからこそバランスの取れた説明を試みたいと。加害者と被害者どちらの要素も持っており、その要素に自覚的だったからこそパレードがああいう造りになったことに納得。ルシールの最後のセリフを思い出す…
作曲家さんは大事なのは舞台上にいる人が本物の人間であること、と言っていたり あとスティーブ・ライヒとかのミニマルミュージックの影響受けてて、容赦ない時計の針みたいな感じを出したかった、とも言ってる。(ワトソンの正義の鉄槌や洪水の歌なんかはとてもミニマルっぽいと思った!)
イギリスのプロダクションの人は、南北戦争はイギリスにはあまり縁がないから「南部の性質」って何なのか詳しく考えたと
判事の新曲の「The Glory」は、古い版ではローン判事、レオへの有罪判決は間違っているという曲歌うけど判事はそんなに感情的にレオと近いわけでもないからその曲はやめて、ドーシー検事を生かすためにいっしょに釣りをする新曲にした、らしい
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fami007 · 8 years ago
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パレード5/21-22感想メモ
予習
まず南北戦争のことを知らないとと思って子供向けのリンカーンの伝記と戦争指揮官リンカーン(http://amzn.asia/ckAaTXi)という本を読んだ 南北戦争の犠牲者数は飛び抜けていてベトナム戦争5.8万人、WW2で40万人の所南北戦争は犠牲者数62万人だそうだ…しかも南北戦争の時はWW2の人口の四分の一であり、したがって南北戦争の時はアメリカの人口の五人に一人が死んだという泥沼のむごさ…民間人も巻き込まれたという 
The old red hills of homeで年老いた傷痍軍人が南部がまだ自由だったころ…って歌ってる所で南北戦争の時にジョージア州は焦土作戦を展開され焼け野原に、その後南部諸州は州権を奪われ北部から派遣されてきたトップのもとで汚職がはびこりと思うと泣けてくる
アメリカのユダヤ人迫害史(http://amzn.asia/cOBZKIk)という本も読んだ。レオ・フランク事件の背景や推移が簡潔にわかりやすく書いてある。
The Leo Frank Case Research Library(https://www.leofrank.org/)事件に関する膨大な資料。当時の実際の新聞記事や関係者の写真なども。自分hとりあえずジム・コンリーの生い立ちや偽証の内容を読んだ(https://www.leofrank.org/dramatis-personae/jim-conley-august-4-5-6/) いつ生まれたのかわからないけどいつ死んだのかも正確な記録がなく、本当の名前ももしかするとコナリーとかコノリーかもしれないらしい…/
一幕
新幹線乗りながら白黒版のパレードCD聞いてるんだけどドーシーとコンリーの最初のシーン、脱獄犯だねぇ〜どうしようかね〜って言ってる所、力関係が日本版と全然違うね!CDのだとコンリー<<<ドーシーで、コンリーはドーシーに暗に徒刑場に逆戻りさせてやるぞって脅されて屈した感あるけど、日本版はコンリー何の権力も無いのにドーシーと対等に押し合ってるよね…偽証に協力するのも権力に怯えたからじゃなくて徒刑場に逆戻りするのが面倒だから協力してやるみたいなふてぶてしさ 白人と黒人の社会的立場の差を歯牙にもかけない所やっぱ一般の社会規範とは別の枠組みで生きてるサイコパス 
ふと思ってたけど、ワトソンはメアリーのこと天使だって言うし、ドーシーは低賃金で労働させられてた悲劇の子って言うけど、メアリー自身は男の子と楽しそうに話したり映画楽しみにしてたり同僚と恋バナに興じたり彼女は彼女なりに人生楽しんでたんだよね…それを悪いおじさん達が自分達の都合の良い姿に歪めてさ…ひどい話だよね 悪いおじさん達もメアリーをもう一回殺してることになるのでは…
コンリー、飲んだくれで友達もいなくて前科があって黒人、って普通の状況じゃ誰も信用しないと思うけど、裁判に至るまでの記事や工員の女の子の話、お母さんの話と来てドーシー検事の仕掛けた罠がコンリーの扇動によってきっちり作動した感じ。偽証の歌の後半の南部の人達を馬鹿にするような言い方の所、普段からコンリー自身も馬鹿にしてるからあんな言い方できたんだろうな 舌出して裁判の成り行きなんて見もせずにさっさと去っていくの…自分が捕まらなければレオがどうなろうが南部の人達が何しようが興味ないのかも。
コンリーの偽証の「100ドルもらった!」「100ドルも!?」の所でアトランタの皆さん一気に攻撃性が起動した感じがあった…あそこにいる皆さんはきっとメアリーと同じように農場を捨てて街で働く貧しい人達だし、だからお金の話でいきなり目の色変わったんだろうな。金の話から北部の優越性を喧伝されての劣等感、被害感情、自分の感情を守るために跳ね上がる攻撃性、と観察しながらも、コンリーの歌聞いてると自分もアトランタの皆さんと同じように傷つけられた気分になってかっとなる気分わかるからコンリーの弁舌やばかったわ…あと被害感情というのは人を攻撃的にするっていうのを目の当たりにする…
今までいろんな演目で泣きそうになったことはあるけど、禅さんのドーシー検事の偽証と野心と差別感情でできたあんないい加減な土台の上に築いた演説にあんなに心が動かされるとは思わなかった…真実がどうでも感動はするんだな、って思い知った 感動するから善だったり正しいわけじゃない…
南北戦争のことを予習しといてよかったのは、思い上がった北部の金満野郎というコンリーの偽証や、メアリーが工場の労働に明け暮れて死んだという内容のドーシーの感情的な演説がどうしてあんなに「効く」のかとか、最後のシーンに南北戦争で脚を失った老兵がいる意味がなんとなくわかること。ジョージアの皆さんの被害感情に、ワトソンが正義の鉄槌という武器を与えてメアリーのママか共感を深めてコンリーがもう一撃新しい傷をつけて最後にドーシーがまとめあげて一方向にもってったみたいな感じ 被害感情をもって自分の正当性を信じる時に人間は一番攻撃的になる…
有罪決まった時、レオは泣きそうになってるけど禅さんのドーシー検事もちょっとぼんやりして現実感がなくて、ああ勝てたのか…みたいな表情してるのが印象に残ったな…そりゃ嘘を嘘で塗り固めた状況証拠しかなかったしこれを失敗すると自分の首飛んだかもしれないしほっとするよね…
シンディさんのジャーナリストが判決降った直後にインタビューしに行ってるのも現実にありそうで怖いしニーロさんのワトソンがたぶん緻密な計算の元に民衆を煽っていってるのも怖いし あと陪審員そこにいたのか!ってなった 最後のケークウォークの狂騒が怖すぎた
二幕
前編に渡って怖い…心の底のドロドロを引っ掻き回されるようで自分だったらどうするだろう?ってつねに当事者意識スイッチオンで見ないといけない でも演出はノーストレス、美術もとても美しいし音楽も素晴らしい。パレード見てると「怖い」けど、「怖い」の一語にまとめるのはちょっと雑で、詳しく開くと「リアリティをもって迫ってくるので自分とは関係ない他人事だと言い聞かせながら身をよじって耳塞いで全力で逃げ出したい」となる
パンフの後ろに書いてある「This is not over yet」はまだ終わりじゃない、って曲名だけではなくて、事件はまだ終わったわけじゃない、今でもこかで同じことが起こってる、って意味だったり、今ならまだ起こってる事を止められるかもしれない諦めるな、って意味も含んでるのかな
しかしCDではわからなかったセリフのみの部分、特にラストの誘拐のところ、誘拐した人らが一枚岩じゃないってのが心底震え上がった 首に縄をかける警察本部長は真犯人の黒人と同じ人がやってるし、足を失った元南軍兵士は黒人の警備員と同じ人って所に人員配置に意味深さを感じてすごい。今日気づいたのは徒刑場でコンリーを抑えてる看守が真犯人を八つ裂きにしてやりたいと願うフランキーの中の人の小野田くんだったので、「小野田くん犯人はそいつだ!」と念じていた
パレードのレオの最後のシーン、辛いけどレオは負けなかったし自分で納得して選んだという所に少しだけ救われる思いがするしああいう終わり方だから落ち込み過ぎないんだと思うな そして夜と霧を思い出した 夜と霧はレオの事件からたった三十年後の話。そして夜と霧の精神の自由の章を見返してる「人は…すべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由な奪えない」「苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死���ことも生きることの一部なのだろう」
結婚指輪は、レオが最後まで誰にも奪わせなかった自分の尊厳なのかも 袋叩きにされながらも最後の尊厳を守り通す自由は行使したんだと考えると…ピクニックのシーンで夫婦の愛を見出し経験した苦しみにも意味があると思えて、その苦しみを否定するのは愛も尊厳も否定することになると思ったのかな…
Sh'ma Israel...はヘブライ語でユダヤの聖典のトーラーの言葉だけども、最後あの場の誰にもわからない言葉を唱えて行ってしまったのが何とも言えずつらい。でもそう思いつつ、レオは一幕からずっと変わらず自分の心に背かないで、人には理解してもらえない言葉を唱え続けてきただけだろうという気もする
最後のふるさとの赤い丘で、ルシールが左に歩いていって、盆がルシールに背を向ける方向に回って、で最後のスポットライト、演出のキレと表象されるものの暗さと音ハメの小気味良さが合わさって印象的で凄く良かった
「ふるさとの赤い丘」は曲がとても良い上にオケさんも歌唱も素晴らしく音楽の力で揺さぶられるし聞いてるだけで泣けてくる名曲だけど、陶酔していていいのか?という気分になるし、こんなに美しい曲を心に持ってる人達でもあんな酷い事をする…何故…とも思う。誰の心の中にもある美しいふるさとの赤い丘を尊重しないといけないんだな、最初のレオみたいに「南部のあんな奴ら野蛮人だ〜!」とか思ってると本当に相手は自分が思ってた通りに振る舞い始めるんだな、とか、でも心の中にある赤い丘は気をつけないと簡単に悪い奴らにいいように利用される…とも思う。感動や陶酔に浸ることになんか精神的ブロックかかる…浸れば自分もレオを追い詰めた加害者と同じになるかもしれない
各人物
パレード、コンリーの空虚なサイコパスっぷりが心底肝が冷えた やばいよあいつの心の中黒人差別されてきたことの鬱屈とか深い理由何にもなさそうだよただ自分がやってて気持ちいいから偽証したり人殺したりするんだよサイコパス怖いよ でもめっちゃ高音出しながら去ってったのはすごいな。と思った。
そしてコンリーの2曲はどっちもたいへん素晴らしくそれぞれに出色の出来だけど、1曲目のひときわくっきり聞こえる滑舌はコンリー扇動する才能の発露って感じするし2曲目のブルースの超絶ハイトーンはやっぱサイコパスならではの異常性を表してる気もして歌がキャラの素性を表してるのを身を持って感じた。ブルース「土砂降りの中で」の超絶ハイトーンすごい…CD聞いてた時はいい曲だとしか思ってなかったけど、劇中で歌われると他の人達にはあんな超絶高音域で歌ってる歌ないからひたすら異形で普通じゃない感じ受けた 歌の中で暗に平然と自白してて結局誰も自分を有罪になんかできないだろ?的なふてぶてしい自信も感じた。
予習の時にブルースは黒人労働者の過酷な日々から生まれた歌であるとか書いてあったので二幕のブルースも今までの境遇に対して宿怨がこもっているのかなと予想していたら、そんなことはなくただどす黒い異常なサイコパスだった…CD聞いてた時は素敵な曲だと思っていたが怖くて戦慄する歌という印象になった…
ドーシー検事1998年版から歌が増えてて嬉しかったな…でもあの人も自分の出世とか進退とか自分のことしか考えてないな。禅坂インタビューでドーシー検事とコンリーが一蓮托生で闇落ちみたいなこと書いてあったけどわりと最初から二人とも闇属性だよね…でドーシーは濃いグレーくらいだったのがワトソンやコンリーやクレイグの煽った民衆の作り出した闇の中にますます深く染まっていく感じ 野心が強くて良心出る幕はない。コンリーは最初から真っ黒で闇の中にいる ただし闇の中でも夜目が効く普通じゃないやつの感じ。さかけんコンリー、そんな闇から生���れて闇に返って行く感説得力ある…
さかけんさんの二役目のスターンズ刑事もほんっとかっこよくて…レオが子供が工場で殺されるなんて!って口走ったら「この子は工場で殺されたんですか?」ってすごい冷静な逆質問するんだけどその口調怖すぎてぞわっとするんよね レオの弁明にも微動だにせずに疑いながら立ってるのもかっこいいんです…最後のシーンに彼がいるのは、警察の操作が甘かったことを早期に隠蔽したいためかなとも思った
ワトソンの曲の、正義の鉄槌誰が下す♪の歌の伴奏の無調でミニマルっぽいところがなんか気に入ってる。でもこの曲といい洪水の歌といいワトソンの曲は無調ぽかったり変拍子だったり不協和音だったりするのでコンリーとは別の方向にワトソンもまた普通とは違ったヤバイ奴なんだなって思うね
あとオカケンさんのスレイトン知事、意外に最初のほう小物感あったけど彼も成長を遂げていてスレイトン夫婦のやりとりもとても良かった。命に関わる大事な決断の時にあんな平穏なそよ風みたいに軽やかにユーモアをもってお話できるところ、愛してるとか信じてるとかいちいち言わなくても深い愛情と信頼を感じるし、逆にあそこに至るまでに二人でたくさん話し合ったんだろうなってのも察する
あともちろんパレードはレオとルシールの夫婦の一直線に走る運命の物語だけど小野田君を中心にして考えて純粋な少年がいかに最後の行為で手を汚すまでになるのか、そしてそれは最初に出てきた北部を憎む兵士の姿と重なるよね、と見ていくと面白い 友人への悲嘆の情が物凄い強い攻撃性に転化するとか、彼の攻撃性がどういうふうに発現するかを見ていくと興味深い
堀内さん凄い…可憐で可愛いのに二幕は花が自分の力で蕾から咲くように力強さもあった。そして強いのにあまりうるさいと感じないのが不思議
そういえばレオがここを故郷とどうして呼べる♪の歌の時、みんなは白い服なのにユダヤ人っぽい黒い帽子と黒いスーツで、ラストのはルシールと服の色の対比が同じだな。ルシールは自分はジョージアの女だと言ったけど、もはや故郷と呼べるのか…でももはや故郷と呼べない土地でも、ルシールはラストシーン終わってからまた新たな戦いを戦うことになるんだろうな…ノックアウトされずに異分子としてその場に立ち続けていることが戦い、立ち続けている限り負けない、みたいな 自分がいる限り、レオの存在彼の無実を否定し去ってしまうことは誰にもできない、やはり彼女にとってはラストシーンのあともまだ終わってないんだと思う
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fami007 · 8 years ago
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フランケンシュタイン1/21-22メモ②
1/21マチネかきかず回(ビクター/ジャック:柿澤勇人 アンリ/怪物:小西遼生)
かき博士は新世界の神だった。とてもお芝居が細かくて充足感がある あと君の夢の中でで処刑台に向かう時アンリがあまり泣いてない気がする。カリスマのために死ぬのは嬉しいのかも…かき博士の「変えてみたいんだ世界を」の言い方がカリスマティックで魅力的。それなのに君の夢の中でで子供みたいに呆然としてるし崩れ落ちる…首がほしいの?って聞かれた時にたっぷりの間で「…………そんなわけ……ないだろ……」って言って(この人首がほしいと考えてしまったんだな…救えないな…と思った
そういえば酒場で酔っ払ったときかきビクターは泣き上戸であきビクターはいきなり眠くなっちゃう子なのねと思いました いきなり泣いて絡みだしてオケピにリバースしそうになってアイムソーリー…っていうかきビクター可愛かった
かずきアンリは葬儀屋事件でルンゲに博士を連れて逃げろって言う時に美しく笑ってる…つらい
かきジャックR18…悪趣味とサディズムと露悪の殿堂…見てて気分悪くなるぐらい露悪的だけどそこがよい かきジャックはSだけどあきジャックはMだな…
かきかず回は何かハッピーエンドに思えたよ!かき博士は最後に怪物に名前呼びかけられて生命創造は成功していたことを知るんだもん…そのあと博士がアンリの名前呼ぶのはアンリ…実験は成功したんだよ…起きろよ一緒に新世界を見よう…って思えた 
かきかずカーテンコールでは怪物さんがコートバッサーとやって博士にコートぶつけてて博士も負けずにコートバッサーとやって怪物にぶつけて×2だったりかずきくんがうっそりと博士に妙に距離近づいて立ってみたり何かささやいたりしてましたね
かっきーあっきーの違い
・「そんなわけないだろ…」って言う前にたっぷりの間がある あっきーさんはその考え一瞬かすめるけどすぐ振り払う言い方だけどかっきーさんは結構その考えを反芻したかも
・アンリが蘇った所かき博士は生命創造成功した!新しい神の俺と新しい人間の君で新世界作ろう!って感じでカッカッカッカッ…て悪人のようないかれた笑い方をしていた
・酒場のシーンでかずきアンリのパリピみがすごかった あっきーさん相手だと保護者になってしまうからかあんなにはっちゃけてない気がした
・かっきーさんは「祖国に栄光を」を完全に馬鹿にした鼻持ちならない態度で言ってる あっきーさんはビシィって軍人らしく言ってる
・かき博士は変えてみたいんだ世界を!に自分の力��よって変わった世界をありありと見てる気がする あっきーさんは何か後ろ向きな謎の個人的事情が滲んでいる
かき博士がお姉さんを抱きしめようとして空振りするのも泣けるあき博士の「行かないで姉さん」の少年でしかない叫びにも泣ける
1/21ソワレあきこに回(ビクター/ジャック:中川晃教 アンリ/怪物:小西遼生)
アンリが好きすぎるので眠くなってすっ倒れる時にアンリの胸の中まっしぐらに倒れるあきビクター可愛いです
かっきーさんが親友さんの首に頬を寄せていたのであっきーさんも速やかにやってくださいと書いたら首を胸にぎゅっとしてくれてうれしい 先週はなかった ほんでアンリが蘇ってほぼ泣きながら喜んで慈愛のこもった声で語りかけてる博士…せっかくアンリが蘇ってまた会えたと思ったのに自分の手で同じ顔の怪物を再度殺さないといけないつらさと悲しさが滲んでいる
今日はあっきーかっきーとも最後怪物さんの向ける銃口に(トゥイのように)額自らごっつんこして両腕広げて笑いながら銃弾を待っていたな…額の奥には脳味噌があって、そうだお前は俺の脳髄から生まれ出たんだ、お前が生まれた場所を貫いて殺すといい、的な感じか
こにたんが子供に話しかける所の「自分の友達の話」ってのは、博士の周りの人達みんな殺害して博士も本当に一人になったから、それじゃあきっと博士は自分と同じような存在なんだ…と思ったのかも 怪物さん、博士が好むと好まざるとに関わらず自分と博士はもはや世界に二つきりの存在なんだって静かに思えたのかも
今日のあきこにはハッピーエンドに見えた…ラストのあっきーさんすごい表情が一瞬一瞬変わっていったししその一つ一つの表情がまたすごい。実はずっと怪物さんにはアンリではなく怪物さんの自我があると思うのでそれを認めてほしいと思っていたけども明らかにアンリとは別の存在のこにたん怪物がハッピーエンドだったのでとてもうれしい
こにたん怪物はあのとても冷ややかで瞋恚って言いたいくらい怒ってて博士が泣きながらアンリ…って読んでも全く動かない。でも博士は怪物さんと友達になったんだよきっと…ちょっと通常の友情とは違う血まみれのきずなだけど 博士も怪物になった しかし博士の最後目を見開いて天を睨む表情がとても強かった 博士の中では全く何にも負けていなかった 死すべき定めを悟ってなどおらず最後の名乗りのように天に向って吼えながら生き抜く気が満々だった。地獄に落ちる〜の歌あたりで笑ったところらへんから博士は自分も怪物だと認めた気がする…
原作小説では怪物さんが自分に同じ怪物の伴侶を作ってほしいって言うけど怪物さんは自分で博士を友達に作り上げてしまった、とか 博士は最後孤独な怪物として自分を扱うことを受け入れたように見えたな だからハッピーエンド 
1/22マチネあきかず回(ビクター/ジャック:中川晃教 アンリ/怪物:加藤和樹)
「君の夢の中で」のかずきくんの笑顔が凶悪なほどに美しくパワーアップしており…いっそ優しい狂気を感じるほどに美しく…そして笑顔が美しくなった分だけ博士がいなくなった瞬間に気持ちが決壊した泣き顔も美しい その美しさには狂気すら感じ素晴らしい。かずきアンリは葬儀屋殺しの罪をかぶるシーンですでに笑顔を見せており、狂信者が殉教した感がある 最後に現れた新たな怪物のような存在に自分の心臓を捧げた感がある もはや彼を地上の力で止めることはできない彼の心臓はこの世ならぬ存在に自らの意思で捧げられたので
かずきアンリの抱き寄せ方熱い…握手するかのように腕を差し出す→博士が差し出された手を握る→強引に引っ張って抱き寄せる→頭もぎゅっとする→自分の心臓を叩く→博士も自分の心臓を叩く→アンリが自分の手を博士の手の上から博士の心臓の上に重ねる
あき博士は二幕に怪物さんが現れたとき泣き笑いでめっちゃ嬉しそうに「アンリ…」って呼ぶんだよな…執事さん殺しの恩讐を越えて友達が戻ってきてくれたのがきっと嬉しかったのだ…でもはねつけられて怒られた子供みたいな顔するの…
かずき怪物はビクターに会うといつもすごく笑ってるんだよね…でも残忍で殺しが楽しいような印象は受けない きっと「創造主を自分と同じものに自分の手で作り上げてしまおう」という一点の目的を見つけてそれに対してこのうえなくまっすぐに生きていくのが楽しいんだ…生きる目的のある人生を生きる楽しみなのかな…
記憶が混濁してるんだけどお姉さんが死んだとこだっけ泣き笑いで「殺せ…」ってすがりつくの…?あき博士三回くらい怪物さんのコートにすがりついては振り払われを繰り返していた…(そして最後も怪物さんのコートにすがりついて銃口を額に向けさせてた)
そして二回目くらいに殺せ…って言う時に優しい声で歌うし怪物さんの両頬を優しく包み込もうとしているし怪物さんは博士の首締めかけるけど結局振り払っていた 何かここには色気感じたよね…でその後もっかいコートにすがりつく
衝撃のラストについて。今日のあきかずフランケンがヤバかったのはこういう要素があったから哀しいけどある意味ハッピーエンドとかじゃなくて、突き抜けすぎててまじハッピーエンドなところ…ほんにやばかった…言葉もない…
しかしやばすぎてさすがに韓国の原作でもこんなんになるとは想定してなかったのではと思う 許容範囲広い脚本のおかげであの光景が見れたのは本当にありがたい。でもすごく異端的な気はするけども。韓国版だけ考えても原作小説からの系譜を考えても。そして7〜8割方かずきくんのせい?おかげ?でああなったと思ったよ イメージとしてはチアリーディングの技で飛ばすやつみたいな…かずきくんが両手組んで下で構えてた所に助走で弾みつけたあっきーさんがかずきくんの手を踏み台にしてジャンプしつつかずきくんが空の彼方に放り投げたみたいな…かずきくんのせいであっきーさんが神になってしまった…
たぶん約十年前にもSHIROHで同じような爆発が起こっていたのだな…こんどは場所が人のいない北極で良かったな…また3万人死んでた所だったぞ…
互い違いに額合わせて友達の名前呼びながら泣いてたと思ったら笑顔で目を閉じる怪物さんの頭を抱いて怪物さんの放り出された手に自分の手を叩きつけるように握って、煌々と輝く眼差しの笑顔で呪いをかけろと謡い天を睨んで吠えるように名乗っていたあの生物は一体なんなのだ…凄すぎた バリバリバリバリってオーラ出てた あの場にガラス窓があったら割れてた
最後何か生まれていた…北極を地の底として怪物さんの魂を喰らった、あき博士の顔をした最強の怪物が誕生した…孤独でもないし迷うことももはやない…
アンリが好きだった強い意志の力だけでできたようなものだった アンリ的にも命をかけるほど眩しくて好きだったものが妖しく光り輝く光景を見れてハッピーエンド…怪物さん的にも自分の創った怪物はこのうえなく強い怪物だったのでもう孤独じゃないハッピーエンド…
そして最後のあき博士が変成した怪物は怪物さんの創ったもの…とても美しく強い創作物 アンリから怪物にメタモルフォーゼさせられた怪物さんの復讐は博士を何か別の存在にメタモルフォーゼさせて終わったのだ 
あの最後、あきビクターが変幻して誕生した存在と似たものって何かと考えているとすべての因果を束ねて概念になったまどマギのまどかちゃんとか、滅びる地球と旧人類を背にそれを造った存在も置き去りにして宇宙へ飛ぶクラークの幼年期の終わりの新人類とか、自分と同じ人造人間を生きながらえさせるために烏に変異して自分は荒れ果てた地上に残る神林の膚の下の人造人間とか、パートナーの死と友人のロボットの死を乗り越えて人類を護る第0原則生み出すRダニールとか 例えがSFばかりになるのは通常の人間世界の理では計れない存在だと思ったからです
共通点としては、
・もはや悲劇が悲劇ではない
・すべての悲劇はその存在を生み出すために意味も価値もあったと思える
現れたものは人間ではない
・それが現れたために新世界も現れる
これって聖書の話かもな…すべての人工的な生命のための新約聖書の話 あき博士の顔をしたあの存在は怪物さんの神なのかも。怪物さんは創造主を殺して自分の神を創ったのだきっと…ただすべての人工生命のための神とはいえ…あの時点ではそんな存在は怪物さんしかいないので、怪物さんは世界で自分だけを救ってくれる神様を創ったんだ…博士もそれに応えてくれたんだよねお前の生も死も苦しみも何一つ無駄ではなく最後に整然と意味を通して全てを救ってやった
とは言え「変えてみたいんだ世界を」と言っていた博士は自分があんなふうに変わってしまうことは想定してなかったと思うけど 親友さんと怪物さんがあきビクターを変えてしまったんだな根本的に違う存在に 自分は変わらず新世界の創造主になりたかった博士が違う存在に変えられて最後に新世界の神になったっていうのは狭い人間の価値観からするともう人間ではなくなって悲劇かもしれないが、そんな狭い価値観にとらわれることはもはや何の意味もないのだ すでにあの最後の存在は人間の価値観なんてどうでもいい。人間のための神ではない、強く美しい異形のまつろわぬ神なので。
多分今後のあの世界では人工的な生命たちはみな原初の記憶として博士と怪物の話を知ってる 孤独と自分の存在への疑念に打ちひしがれる時もすべての人工生命の守り神が見守っててくれるそんな世界になってるだろうと思えるくらい、とにかく凄かった
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fami007 · 8 years ago
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フランケンシュタイン1/21-22メモ①
全体
脚本的��は間隙も多くて、演者と見た人の想像に任される部分がかなりある。そのためちょっとした違いが積み重なって全体のストーリーまでも変わるような印象を受けるため、キャスト違いや日替わりで大きく変化するのが一瞬も一回も見逃せない気分になり、つまり沼
ただ一つの未来の「謎を暴き死さえ征服する」は孤独な少年の物語の「あの子母の死を認めてない」とよく似ていてなんかこう…口でいくら言っても要するに孤独な少年なのだと突きつけられるようで…つらいね http://pic.twitter.com/F2Ycy4273J
しかしみんなよってたかって博士が大人になる道を先回りでふさいでる感もある。お姉さんは博士に自分の過去は自分で語らせるべきだったかもしれないし、アンリは葬儀屋殺しの罪を認めて一緒に生きて償って行こうよって言うべきだったかも。対話は癒やしなのにビクターは誰にも胸のうちを語ったことなさそうだし、誰もビクターと話しあおうとしなかったのかも。そしてアンリがお姉さんから博士の過去の話を聞いた後にするべきことは酒場で踊ることじゃないだろ…話し合えよ…でも葬儀屋事件が起こらなかったらあのあとしばらくして話し合えたかもな……
北極への道が善意と献身と無償の愛で舗装されている感 そもそも無償の愛は無償ではないのかも 今回は博士が現実と格闘して大人になっていく機会と力を奪っているのかも…自分が変わらなくてもみんなが守ってくれる…むしろ変わらないでくれという暗黙のメッセージを送っている…怪物によって障壁が取り除かれてやっと博士はリアルな世界と対峙するのか…?世界から自分を隔てる優しい障壁に囲まれた少年はもともとの怪物じみたところをより伸長させていったのかもしれない
日誌を読む怪物さんは自分はこの日誌に出てくるアンリという男の首から作られたらしいがなぜアンリと自分とでこんな違いがあるのか同じ顔同じ声なのになんで博士に一方は愛されて一方は憎まれないといけないのか?とか理不尽にも思ったかな…というかこのアンリという男も自分を生み出した創造主の片棒担いでるんだな…ますます許せない…とか思ってるかも でもそうは言ってもどこから湧き出してくるのかわからない親愛の情とかに身を委ねるのは心地よい…とか思ってるかも。
怪物さんがカトリーヌちゃん助けたり闘技場で相手殺さなかったりするのは「あのかたちのいきものをころしてたべるとおれをつくったひとにおこられる…おこられてくびがくるしい…」とか思ってたのかな…
なんで怪物さん闘技場にずっといたのかね…探し回らなくてもご飯くれるからかな…戦ってさえいれば飢え死にする心配ないからかな
ビクターはいちおう北極でも結婚指輪はしてるんだな〜と思った。
韓国版の北極への道はプロジェクションマッピングでオーロラが広がり星がきらめき約束の地のようだった 日本版の北極は暗い夜空に細い三日月だけの大地の果ての寂しいグラウンド・ゼロだった
サンテグジュペリの人間の大地という本を読んでいて、友達(なお名前はアンリ)がアンデス山脈に非行機で不時着して奇跡的に助けられるんだけどその時の要望野描写がなかなか凄いのね 日焼けして縮んであちこち凍傷だらけで。博士も北極に辿り着くまでにはコートがボロボロになるだけではなく肉体的にもボロボロになっていたろうな 怪物さんはそんなボロボロで自分と同じように醜くなった博士を見て愛おしいと思ったかな…自分はもう孤独じゃないと思ったかな…
各キャラ考察
かきビクターは天才肌の子供 あの日母の死に向かい合い克服できていれば生命創造などという所業に手を染めずに済んだかも (あの日デスノートを拾わなければ立派な警察官僚になっていたかもしれないあの人…)母の死に対処できないまま孤独な子供の上にその存在をかばうように傲慢で鼻持ちならない青年の存在が積み上げられ複雑怪奇な機構になっていく もはや自分の本心がどこにあるのか自分自身で���その複雑さの中を手探りしないとわからないのかも。君の夢の中ででは傲慢な青年の外装が吹き飛ばされてもろい少年の体が顕わになる感じ 親友の首が欲しいと思ってしまったから自分と親友を救うために生命創造はどうしても成功しなければならなかった 実験成功したと思った時に、母が死んだ時から自分を抑圧していた力が取り払われてたがが外れた感。怪物は人間とは不倶戴天の敵、例え友達の顔をしていても 友達の顔をしているがゆえに失敗を思い知らされて憎たらしさが募るかも 最後は怪物を追い詰めるために北極へ 怪物をやっつけないと自分自身を否定することになるから。
あきビクターは小さい頃からちょっと怪物じみたところがあって周囲の過保護により小さな子供のまま純粋培養され友達もおらず、アンリは初めてできた友達で距離感がおかしい(研究所で「私の大切なパートナーです」って人に紹介するところの距離無感) 友達にもう一度会いたい一心で、たまたま科学者だったから友達を生き返らせる方法を知っていて望みをかけた感じ。実験が成功して嬉しいのは友達にまた会えたから。三年後に怪物が会いに来た時には怪物への憎悪を超えて友達にもう一度会えた嬉しさがある。最後北極へはアンリに会いに行ったのか、それとももはや自分と同じようなただ一人の存在であり同胞である怪物さんに会いに行ったのか、それとも友達と怪物の「二人」に会いたかったのか。あき博士のほうが怪物との親和性が高い感じ
かずき怪物は生まれた直後から赤ん坊で、カトリーヌのことはママだと思ってる お水貰う所もありがと〜!って感じでにぱにぱしてる(余談だが(*>ヮ<)←こんな顔になってる)どう生きるのか?の所で感情がほとばしり怪物の感情とアンリの感情の間で揺れ動いている
こに怪物は生を得た後に顔の表情が歪んでいてあそこは「醜い」怪物だと思った カトリーヌをくすぐり返したり抱きかかえたり、お水を差し入れてもらったときに崇拝するような動作をしたりしてカトリーヌに恋をしていると感じる 子供とお話するシーンでも怪物はどう生きるのか?の所で微動だにしない
読んだ本
原作小説「フランケンシュタイン」気になる所抜粋
“批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)"(廣野由美子 著)http://a.co/aVUJpy9 面白かった〜美味しく頂いた。以下は興味深かった所の抜粋
ミルトンの失楽園が引用されていて…ああなるほどって…ルシファー的な何か… http://pic.twitter.com/BbW9f6yTbJ
「とてつもなく恐ろしい運命がぼくに降りかかっているのです。だからその運命が終わるまでは生きなければならない」
博士の冷たさに博士は怪物さんの友達になってやれよ感がすごい
「悪魔よ、馬鹿にするな! 再び復讐を誓う。悪魔よ、おまえを苦しめて殺してやる」すっかり怪物と同じようなものになる博士…「おまえの苦しみがおれの永遠の憎しみを満足させてくれることになろう」なんだかちょっとうれしそうにも聞こえる怪物さん…
博士の遺骸を観て悲嘆の叫び声上げる怪物さん…「ああ、フランケンシュタインよ、慈悲と献身に溢れた男よ! 今おまえに許しを請うて何になるというのだ?」悲しいヽ(;▽;)ノ
怪物さんが博士の亡骸を見て「こいつもおれの犠牲者なのだ!」って言うのが悲しい…舞台上だと博士がいろんなもの犠牲にして最後に怪物さん屠って終わったら感もあるけどね…
原作と全然違うと思ってたけど意外と原作で出てきたエピソードも換骨奪胎して使っていた
・インゴルシュタット大学が出てくる(ミュージカルではアンリが主席で卒業した大学だがビクターも通っていたのかも?)
・博士の友達のヘンリー(アンリ)がいる
・幼馴染と結婚
・博士の母親は死ぬ
・怪物が子供を殺す(韓国版限定)
・怪物に身内が殺されてその罪の濡れ衣を身内がかぶる
・怪物が他人との交流を望むも拒絶される
・怪物が建物に火をつける
・怪物がコートのポケットに入ってた実験日誌を読む
・怪物が妻を殺す
・博士がひたすら怪物を追っかける
・北極が最終目的地
「『フランケンシュタイン』の物語が、これほどまでに長持ちしてきたのはなぜだろうか。それは、「人間の企てが人間の手に負えなくなって、造った側にふりかかってくるという話」は、いつまでたっても私たちにとって怖い話だから」
「ペンを持って書きたいという女の欲求不満と羨望を、子供を産みたいという男の破滅的な子宮願望に置き換えた物語なのだという見方もある」
「フランケンシュタインと怪物の運命が次第に絡まり合い互いに同一化してゆくことから、いわゆる「分身」(Doppelgänger)の主題が浮かび上がってくる」
「『フランケンシュタイン』における代表的なイメジャリーのひとつは、「月」である。…月は母性の象徴でもあるため、この作品では、フランケンシュタインの造行為や、彼と怪物との親子関係を象徴しているとも言えるだろう…このように月は、フランケンシュタインと怪物の対面の場面に、繰り返し現われる。それは、彼らが恐怖や激情に駆られる場面でもある。その意味で、月は狂気を象徴しているとも言えるだろう」北極に細い月があるのは原作オマージュなのか?
「ヴィクターが学んだインゴルシュタットは、もともとフランス革命の起因になったとも言われる場所です。革命分子による秘密結社が結成され、実はこの結社がフランス革命を扇動し、それに続く暴虐を引き起こしたという説があります」
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fami007 · 8 years ago
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フランケンシュタイン1/14-15感想メモ
韓国版と違ってた所
葬儀屋撲殺のくだり動機が違ってた気がすると思って韓国版のあらすじ載せていただいているブログ拝見したら葬儀屋が法外な値段ふっかけてきたことにキレたらしかった…ビクターに多少多少共感できるように寄せてきてるのかとも思った
あっきーさんが生首持って歌うというサロメみたいなことやらなかった…サロメ超期待してたのに残念だった…
ビクターが怪物を探させたのは怪物に着せたコートのポケットに入れたままだった実験日誌を取り戻すためだったらしいかその理由は削除
韓国版では怪物に日誌投げ返された時に笑いながらすがりついて受け取ってたけどそんなことはなかった
怪物が子供を殺さない所 怪物さんは見ず知らずの子供のことなんてどうでもいいほど人間に絶望してるのかも。
最後怪物さんから銃渡された博士なかなか撃たない(撃てない)挙句に襲われそうだと思ってなんだか反射的に撃ってるところの日本版のもだもだ感は結構好き 思い切れない博士はずっと少年のままでどこにもいけない。
怪物さんが最後「友よ……」って言わなかった(※これはもともとなくアドリブだったらしい)
解釈
あっきービクターは最初怪物抱えて出てくるときの息遣いから必死さと切実さがあふれててセリフもまだ喋ってないのにすごい…声の魔術師…と思った
疑問の一つの親友さんはなぜ博士がそんなに好きなのかって所はまぁあんなに可愛かったら仕方ないな。ってので氷解した…私ちょろい…
リトルビクターの歌うフレーズは調性だけ変えて偉大なる〜の中でも歌われていることに気づいた ビクターは今でも孤独な少年なんだ… http://pic.twitter.com/TgCse0eUEm
怪物さんのお歌の、誰かに抱きしめられた夢その人は笑ってた夢の続きに生きたい(うろ覚え)が切ない。しかし博士は怪物がお前の大事なものを奪ってやるって言った時にそんなことせずに自分を殺せよ…!って自分の願望ばかり怪物さんに言う。怪物さんの夢や話は聞いてやらない。
最後北極に現れたビクターのコートが怪物さんとおそろいのようにボロボロなのは怪物さんの目論見通りに博士も怪物と同じく孤独な存在になってしまったというメタファーで博士が怪物さんの手を握るのはお前の孤独も絶望もよくわかった、っていうしるしなのかと思った
選択肢の話
フランケンシュタインってシン・ゴジラとかマッドマックスとかの登場人物みんながフルポテンシャルでbestな選択をし続ける話とは対局でみんながworseな選択してると思うだよね でもその選択はやむない所もあって。あの時この選択をした、だけじゃなくてもともとの状況のせいでこれ以上良い解を出す能力は備えてない、みたいなどうしようもなく運命的な感じもある。決してそれは愚鈍な選択じゃなくてもうあの時この選択したからこれより良い選択はできない、となって、そのいまひとつな選択が積み重なって奈落へストーンとまっしぐらのデフレスパイ��ル
パパンが博士を母親の死の床に近づけさせてやって母の死を受け入れさせてやることができればそもそも研究始めなかったのでは…?→かわいい一人息子をペストでみすみす死なせることが医者の父にできるか無理じゃね
アンリは罪被って死ぬことないじゃん!?→でも他に取りうる方法ないよ…
執事さんは怪物さんに手を出さず博士に任せるべきだったのでは?→博士自身が執事さんの庇護の対象な孤独な少年から抜け出てないから執事さんに博士をほおっておくという選択などできない無理
博士は怪物さんをすぐ殺そうとするなよ!→でも執事さんやられたら無理やろ…
カトリーヌちゃんが怪物さんの味方になってあげたら怪物さんも幸せになれたかもよ!?→あんな仕打ち受けたら無理やろ… 等々
でも戦場で死体集めて失敗作は廃棄してた博士が今更むごさにキレるか?と思いつつ、でもむごさにキレる坊っちゃんだから執事さんやられた時に鎖で締める以外の選択肢が掻き消えたのかもしれず。博士が怪物さんを殺そうとしない選択肢が取れてたなら悲劇は起きなかったのではと考えるけど執事さんがやられてしまったら無理って感じだし、そもそも執事さんは親代わりの所もあって執事さんが殺された時に自分が怪物さんの親になるという選択が博士にできたかというと無理という他はない。一幕のエレンのセリフに「あの子は母親の死を認めてない!」ってのがあって、そもそも自分の親の死を認められてないんだから。
共犯者達の話
アンリは怪物を創りだしたことに対しては博士と共犯者だと思う。だってアンリは博士を別の道へ導くこともできたのでは。でも結果としては博士に、罪を認めさせて一緒に償おうというのでもなく、君は夢をあきらめて絶望する必要なんてないからそのまま進み続けろっていうメッセージを送り、子供のままでいいんだと言ってしまったわけで 結果的に親友さんは祝福と同時に強い呪縛もかけてしまったのでは?
アンリは酒場のシーンで僕にも親がないって言ってたけどなんだかそれが共依存的な感じにも思える…。君の夢の中で生きたいというメッセージは…君は僕を生かすためにずっと夢の中で生きていてほしいというメッセージであり、夢から目覚めて現実の何処かになんて行かないでくれという束縛のメッセージでもある。
博士があんな博士であるのはある意味周囲の人々の責任ってのもちょっとあって、力不足だった代償を払わされたのかも…?お姉さんも執事さんもジュリアも母親の死を認めてない博士を変えられなかった…アンリも含めて誰も博士と何かを話し合うなんてことしなかったんじゃないか…みんなよってたかって博士が大人になる道を先回りでふさいでる感もあるよ…お姉さんは博士に自分の過去は自分で語らせるべきだったかもよ癒やしの道につながったかもよ アンリは葬儀屋殺しの罪を認めて一緒に生きて償って行こうよって言うべきだったかも。
あっきーさんとリトルジュリアの最後のシーン、あっきーさんがいとけなくもvulnerableな少年にしか見えなくて泣けたけど、何かに挫折して諦めてまた別の道別の方法で先に進めるようになるのが大人だとしたら博士は失敗はしてもまだ挫折してなくてその意味で子供のままなのかもしれない
1/14マチネあきこに回(ビクター/ジャック:中川晃教 アンリ/怪物:小西遼生)
あっきーさんのマントバッサーめちゃめちゃかっこよかった
あっきーさんの偉大なる〜の最後の高音5度上のラ♭シ♭ドレ♭ミ♭とミ♭の音まで上がってた
こにたん怪物はアンリではなかった…アンリはもうとっくにビクターを置いて去ってしまっていたというのをまざまざと見せつけられるようなラストだった…神の報いの残酷さよ でもそのこにたんの冷たさがたまらない。あっきービクターがあふれる愛とパッションと光を振りまく一方こにたん怪物はひたすら冷えてシニカルでビクターの先の先を行くぐらい老成してて怒っていた。後半は怪物さんビクターを受け止める気が全くなくまさに復讐だった 韓国で観たのとは全然違ったペアだった
1/15マチネあきかず回(ビクター/ジャック:中川晃教 アンリ/怪物:加藤和樹)
生命に関する異議をぶつけ合う歌のあとでかずきくんあっきーさんに両手握手していてそのあとあっきーさんかずきくんのほっぺたぺちぺちしていたし酒場ではあっきーさんかずきくんに近づきすぎてかずきくん「近い近い」って言っててかわいかった
今日は遠慮なくオペグラ使って見てるけどかずきくんアンリは博士に泣いちゃだめだって言うけど博士が去ったら泣き笑いで死にゆくのああっヽ(;▽;)ノってなった…自分の人生にやっと愛着を覚えたのに失うのが哀しいみたいな…
死にゆくかずきくん最初は晴れ晴れした笑顔だったのに自分でも泣けてくるのが止められないみたいな…自分の人生を愛していたことにふと気づいて命が惜しくてたまらないような決壊…
こにたん怪物とはもう話し合えないので感じがしたがかずきくん怪物とは話し合えそうだった。あきかず回はお互いになぜ思いがすれ違うのか…?と思った
かずきくんの笑顔が切なくてこにたんよりもエモーショナルな怪物さんに思えた。でも決して優しくはない。
あっきーさんが怪物に銃口向けられて泣きそうな笑顔で両腕広げて打てよ!って格好してた…すてきだった
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fami007 · 8 years ago
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「偉大なる生命創造の歴史が始まる」耳コピ
・勢い余って新潟からチケットもないのに駆け付けないように耳コピとコード記載をやっていました
・間違いはたくさんあるかも
・特に4分の3拍子の所は8分の6拍子かもしれません
・意外にコード進行は単純かも…?
・転調3回、拍子変更も何回もあって大変そう…
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1枚目
・イントロで2回転調がある(嬰ハ短調→ニ短調→ヘ短調)
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2枚目
・「俺はフランケンシュタイン」の所は、それまでの4分の4拍子から8分の6拍子に変わっているけれど8分音符の速さは変わっていないと思われる(8分の6拍子は8分音符3つを一拍と捉えるので速度が変わったように思える)大事な名前の名乗りの所だけ拍子変えるアイディア面白いと思いました。
・「殺人戦争テロ…」のあたりは人間の声で歌うの大変そう…譜面が黒い
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3枚目
・最後でまた転調!(ヘ短調→変イ短調)変イ短調は♭多すぎ
・転調のために直前をA♭にしてスムーズにしている
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fami007 · 10 years ago
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I'm satisfied with my care.も良い
ベイマックスってハグするとき、前半は目つぶらなかったのに後半は目つぶるようになるよね http://youtu.be/5F68hc2Fk4M これってヒロくんがハグすると目つぶるのを真似してるように思える 動作の真似はほかにも空飛んだ後こいのぼりの上でヒロくんが足ぶらぶらさせてるのをベイマックスがじって見てたかと思うと自分も足ぶらぶらさせ始めた所とか印象的 実は、共感を示すやり方として相手の動作、話すスピード、話した言葉を真似ましょう、人間は自分と似た人に行為的になるのだから、ってものの本にはよく書いてあるのだよね だからベイマックスはたぶん共感を示すために動作の真似をやってると思うんだよね でも「共感を示していると相手に思わせる」というケアプログラムの一環としてやっているのであってロボットのベイマックス自身の心がほんとうに共感しているというわけではないのかも、という少し虚ろな人工知能感も残しているのが良い(ヒロくんももう少し大人になると果たしてこのロボットには心があるのかそれとも心があるように見せるようふるまっているだけなのか悩むお年頃になるであろう) しかしそんな自分の心らしきものすらも人のケアのために捧げてしまうけなげな人工知能には最後の「I am satisfied with my care.」がとても幸せに響く 吹き替えの「大丈夫だよ」のがいい気がしたけどやっぱりこっちもよい 何故ならベイマックスの存在の全肯定だから ミニボットが足に当たって最初に起動した時からずっと稼働し続けてたベイマックスだけれども、これって起動した時から最後のシーンまで一連のケアプログラムだったってことだよね 吹き替え版こ「大丈夫だよ」はヒロくんが振り切って大人になるみたいなヒロくん力点のセリフだけれども(こっちも切なくてとてもよいけれども)I am satisfied with my care.のほうはベイマックスのやってくれた一連のケアプログラムーただ抱きしめて甘やかすことだけじゃなく、ヒロくんに付き合ってとことん行動することーはほんとうに満足なケアだったよ、きみが存在してくれてほんとうによかった、というベイマックスにとっては存在意義を与えてくれる言葉だったと思う こんな言葉を聞けた人工物は本当にしあわせだと思うな… お兄さんのヒロくんに対する愛情と気遣いから生まれたベイマックスは、別れの時に最高に幸せな言葉をもらったと思うんだよね しかもベイマックス自身が与えたケアのおかげで復活できてまだまだ色とりどりの時間を継続して過ごせるんだからほんとうにベイマックスは幸せなロボットだし、そんな幸せなロボットだから何回も見たくなるのですね
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fami007 · 10 years ago
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ベイマックスのグータッチについての話 翻訳
※重要なシーンのネタバレあり
※誤訳等あると思いますがすみません
原文:Best of 2014: An oral history of Baymax’s ‘Big Hero 6′ fist bump | EW.com
http://insidemovies.ew.com/2014/12/10/baymax-fist-bump-oral-history/
「Big hero 6」の最良のパート―可愛らしいロボットのベイマックスが友達のヒロとげんこつを打ち合わせる時に立てる、拳が弾ける時のひどく奇妙な音―これは観客にとっての楽しいサプライズであるし、とても場面にふさわしく感じる。実際に映画を作った人々もこのシーンについて同じように感じているのだ。共同脚本のロバート・ベアードは、ベイマックスが拳を解く時の「バララララララ」という声を聞いた時についてこう言う。「こういうふうに感じたのを覚えています。『すごくおかしい、奇妙だ。こんなものを映画には入れられない』」と。
ロバート・ベアード(共同脚本):この映画のヒロとタダシは素晴らしい関係性を築いていて、私達は常にこの関係を本物らしく感じさせる方法を探していました。(ディズニー・アニメーションのチーフクリエイティブオフィサーの)ジョン・ラセターには五人の子供がいますが、彼がこう言いました。「兄弟というのは身体的なもので、彼らはお互いに押し合いへし合いするし、ひっぱたいたりげんこつを突き合わせたりしながらたくさんのことを言い合うんだ」と。そして私達はもちろんこう思いました。ヒロとタダシが何かを成し遂げた時にはそういう動作をさせようと。私達のストーリーアーティストのマーク・スミスとジョン・リパが出て行って帰ってきて「こういうふうにするのがいいと思う」と言いました。
マーク・スミス、ストーリーリード:握手のようなものがいいのではないかというアイディアが出されました。ジョンと私は傍観者のようなものとして座っていました。私達二人ともに同じ年頃の子供がいます。ジョンに、私の子供がしていた握手のうちの一つを見せたと思います。ターキーと呼ばれていたものと、スネイルというものです。ジョンはもっと複雑なものを知っていました。 ジョン・リパ、ストーリーリード:ミーティングの本題から離れて、マークに私の知っているものを教えました。ヒロとタダシはどういうふうにするだろうかと考えました。 スミス:結局、拳を打ち合わせて爆発するような動作が含まれるものを映画に取り入れました。私達は検討し、ストーリー主任のポール・ブリッグスが私達を撮影しました。 リパ:私達はとても後悔しています。「この動画が何にもならなければいいのに」と思ったことを覚えていますね。 ベアード:彼らはこの作りこまれたグータッチを考えだしました。ヒロとタダシの素晴らしい関係を表す方法として。ストーリーが進みヒロがタダシを失い、ベイマックスが本当に、ある意味ヒロの代理兄となります。私達は言いました。この素晴らしいグータッチを取り入れよう―ヒロはベイマックスにグータッチのやり方を教えなければならない、と。 脚本のパートナーであるダン・ガーソンと私はこの辺りのページを書き、「ヒロはグータッチをベイマックスに教えて、拳が爆発する音を立てるようにしよう」と言いました。そして私達は「ベイマックスも同じように拳が音を立てるけれど、何かロボットらしい感じにしよう」と書きました。素晴らしいスコット・アドサイットにブースに入ってもらい、このシーンを録音しました。グータッチの音の所になった時、爆発する音からデジタルなロボットの音までスコットは本当にたくさんの色々な音を聞かせてくれました。奇妙な「バララララ」の音をやってくれた時に、ブースにいた皆が笑って、私は「これは使わないだろう。変てこすぎる」と思ったのを覚えています。 ティム・メルテンス、エディター:ロブとそのパートナーのダンが台本を提供し、それをストーリーアーティストに渡し、シーンの幾つかについてストーリーボードを一緒に作成します。それが私に編集資料として回ってきます。資料を手に入れたらシーンの切り貼りをして、フィードバックを得るために監督や脚本家などのために演じます。これは変化を与えるプロセスであり、違うことを常に試し続けるということでもあります。実際に試してみるまでどういうふうに着地するかはわかりません。あの彼らの「バララララララ」を。 何度かテイクを重ねてこの音に行き当たり、私はかなり笑ってしまいました。ロボットが人間の特徴を学ぶのを見るのは―この音でも、もしくはヒロとタダシがやっていたような「プシュー」というような音でも―素晴らしいシーンになるだろうと思いました。私はこれを試してみました。編集でやってみた所、みんなが大笑いしました。 ベアード:ティムは90分の映画になるようにシーンを編集しますが、ストーリーボードだけなので、私達は自分の中で演じます。みんなが映画を見ていて、ベイマックスがこの音を立てて―映画館の全員がただ爆笑します。 メルテンス:そこから始まったのです。映画全体を通じてこの音、「バラララララ」という音がうまくはまる所を探しました。適切な場所を選ぶことができたと思います。 ベアード:信じられないほど素敵です。ベイマックスがその音を立てるたびに皆がすごく笑いますから。 スミス:何度も何度も何度も何度も私達は動画を見ました。いつ見ても笑えるシーンの一つでした。10回見た人でもまだ笑えます。 ベアード:毎回同じ録音を使っています。ベイマックスはロボットですから、同じフレーズを繰り返すだろうと。 メルテンス:「こんにちは、私はベイマックス。あなたの健康を守ります」と言う時も、毎回同じ声を使っています。 リパ:この音がお決まりの冗談のように聞こえるように、他の部分にもこの音を加えました。そして最後に、この音を聞くと痛切さを覚えるようになります。 ベアード:最後の場面、ヒロがベイマックスを失い、研究室にはベイマックスの拳だけが残されます。これは絶好の機会だと思いました。ベイマックス���拳とグータッチをする時に、コメディが痛切な感動に変わります。ヒロがベイマックスの立てる音を真似し、観客は笑いから突然―そう、悲しくも幸せな瞬間です。とても美しい場面です。 リパ:試写を経てジョン・ラセターと話し合いました。その試写ではヒロは最後にグータッチをしていませんでした。「ヒロはベイマックスのバララララをやるべきだ」と私は言いました。ジョン・ラセターも「私もそれがいいと思う!」という感じだったのを覚えています。彼も全く同じことを書き留めていたのです。 スミス:グータッチは数あるアイディアの中の一つです。例えば、ヒロはスクーターの後ろに乗って自分とタダシが映っているのを見ますが、これは映画の後のほうでヒロとベイマックスが飛んでいる時に大きなビルの鏡に姿が写っているのを見るシーンと共鳴しています。またもう一つ、最初のほうでヒロがまた別のボットファイトに行こうとした時にタダシがヒロのフードを掴みます。後のシーンで、ヒロがマイクロボットを追いかけていて海に落ちそうになりますが、ベイマックスがまたヒロのフードを掴みます。とても似ている動作ですが、意図的に入れました。 リパ:ベイマックスがヒロの代理兄になっていくような感覚を見ている人が得られるように、こういったちょっとした瞬間を積み重ねるようにしました。 メルテンス:公開されてから映画館に行って見るのが楽しかったです。観客がこの音を期待しているように思えましたから。観客がバララララの音を待っているのを感じました。もっと聞かせてあげたいくらいでした。 ベアード:息子のリトルリーグの試合に行った時、私は他の子供達を見ていました。彼らは素晴らしいプレーをした時にお互い走り寄って行って、グータッチをした後バララララと言っていました。ほとんど泣きそうになりましたね。
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fami007 · 10 years ago
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ドン・ホールとクリス・ウィリアムズがベイマックス「タダシはここにいます」のシーンを語る 翻訳
原文:
Immersed in Movies: Don Hall and Chris Williams Talk ‘Tadashi is Here’ from ‘Big Hero 6’ http://blogs.indiewire.com/animationscoop/immersed-in-movies-don-hall-and-chris-williams-talk-tadashi-is-here-from-big-hero-6-20141229
※重要なシーンのネタバレあり
※誤訳等あると思いますがすみません
監督のドン・ホールとクリス・ウィリアムズが、この重要な―ここ数年のディズニーで最高の―「タダシはここにいます」のシーンについて初めて語る。亡くなった兄がベイマックスを完成させようと奮闘する様子を記録したビデオをヒロが発見する。ベイマックスを人を癒やす存在にしたいと考えていたタダシの理想と反し、殺人者に再プログラムしようとしていたヒロの間違った試みに対してのターニングポイントとなるシーンだ。
Bill Desowitz(BD): このとても重要なシーンを分析しましょう。 Don Hall(DH):この特別なシーンを選んでくれてうれしいです。なぜならこのシーンは私のキャリア全体においても最も誇らしく思うシーンの一つだからです。このシーンでは生の感情が強く表れているし、その感情にはかなりの真実味があります。素晴らしいシーンになるとわかっていましたが、これを適切なものにするために私達は何度もやり直しました。実は最初、このシーンはヒロとキャスおばさんにより焦点をあてていたのです。二人が寄り添うカタルシス的な瞬間であり美しいシーンでしたが、それ以降の映画の内容とは全く何の関係もなかったのです。この映画の核になる部分からも孤立してしまっていました。この映画はヒロ、タダシ、ベイマックスが三位一体となっています。だから私たちは最初に考えたシーンを破棄して、再度作りなおさねばなりませんでした。 Chris Williams(CW):でも、この位置には感情的にカタルシスを感じるシーンがどうしても必要だと感じていました。 DH:ストーリー構成を考えると、ここは映画の中でも暗くなるシーンです。正直言って、我々はヒロを極めて暗い場所に連れてきてしまいました。ヒロは、彼の兄の死を招いた人物は兄の指導教官であると理解します。それだけでなく、犯人は全く何の後悔もしていないのです。だからヒロは復讐をしようとします。そこから始まったシーンは、ある種のカタルシスへと導かれます。ベイマックスに関して言えば、彼がこのシーンを駆動していく存在です。彼はヒロに質問をします。私達は調査を行ったのです。児童心理士と、彼女の同僚のとりわけ若者の喪失について対応しているソーシャルワーカーの協力を得ました。彼らは言い続けました。彼らのすることは、質問をすることだと。患者が自分自身のことを理解するまで質問をし続けるのだと。そのような人々と対話をしたから私達はこのシーンを思いついたのだと思います。なぜなら、ベイマックスが基本的に行っているのはこういうことです。「キャラハン教授を殺すことがあなたを助けることになるのですか? あなたを癒やすことになるのですか?」と彼は尋ねています。とても的を射た、ヒロにとっては居心地の悪い質問です。けれどベイマックスはその感情の膜や怒りを剥ぎ取り、その下に潜む問題へと近づこうとします。 BD:そしてヒロは「わからない」といいます。 DH:私達にとっては、この映画のテーマは喪失と、亡くなった人々は本当には何処へも行かないということへの気づきにあります。死者は後に残された人々を通じ、生前の行動を通じ、心や記憶の中に生きています。そしてベイマックスはその感情的な真実を探り当てようとします。そしてこのシーンのパワーの一部は、映画のごく最初の方でベイマックスが初めて「タダシはここにいます」と言おうとしたという仕掛けから来ています。ベイマックスがビデオを流そうとした時にヒロがそれを遮ったため話はそのまま進んでいきます。観客は何か解明されていないものがあると認識します。そしていよいよそのシーンがやってきた時に、無意識にこの流れは避けられなかったと感じるので、強く印象に残るのです。 BD:他に言えることとしては、このシーンはタダシの別の顔を見せてくれます。ベイマックスを完成させるための彼のフラストレーションがわかります。 DH:タダシの試行錯誤についてわかりますね。究極的には、私達が見せたかったのは誰にも見られるなんて思ってもいなかったプライベートな瞬間です。見ていたのはベイマックスただ一人です。このシーンもドラマチックな緊張のいくばくかを壊すためのほんの少しのユーモアを加える機会となったから私は気に入っています。そして、タダシが色々なへまをしているからよりこのシーンがエモーショナルなものとなりました。ヒロはそれを見ることとなり、彼の顔には小さな笑みが浮かびます。 BD:タダシがとても人間らしく見えます。観客は、自制の効いている姿しか見ていないですから。 DH:そうです。私達もその場にいたということです。このビデオのストーリーはこの映画のメイキングですから。試行錯誤につぐ試行錯誤、頭をぶつけて、疲れ切り、疲れ切り、疲れ切って。私達は諦めようとはしませんでした。タダシも諦めようとはしていません。ベイマックスは人々を癒やすように運命づけられているのです。 BD:怒りを超えた共感の勝利ですね。 DH:ストーリーの見地から言えば、このシーンの強さというのは私達の主人公が反転することから来るのです。彼はタダシのロボットを殺人マシーンに変えようとしますが、最後にはそれがどれだけタダシの意志と記憶を冒涜するものなのかを悟ります。そして彼は違うことを考え出します。こういうことが良いシーンを生み出すのに役立ちます。しかし観客にはほろ苦い瞬間となります。私達はみな親しい人々を亡くし、その人と一瞬だけでももう一度過ごしたいと願うものです。記録映像ではありますが、タダシはその時ヒロが聞く必要があったことを言っています。兄と触れ合っている感覚があります。 CW:ある意味、このシーンの表現はほとんど強すぎたとも言えるでしょう。ヒロが成長する余地を何も残していなかったのですから。何回か上映をしてみて、私達はヒロを早く動かしてしまったと思いました。完全に癒やされてしまったから、別離の感じがないのです。私達のプロセスはとても素晴らしくて、うまくいくかどうかを徹底的に試すことができました。何故さよならが共鳴しないのだろう? 何故ポータルの中でベイマックスがヒロにさよならを言った時、もっとエモーショナルなものになるべきなのにそうならないのだろう? 一緒に考えた結果、私達はタダシのビデオでヒロを動かしてしまっているからだとわかりました。かなりあとでわかったのですが。 DH: 映画の最後は、ヒロが故人は生き続けることができるという考えを受容し、タダシの善良さを自分に引き受けていこうとするシーンです。 CW:ビデオのシーンでヒロが自分は兄のようではないと言った時、ヒロには成長の余地が与えられました。実に、このシーンと同じくらい重要な瞬間は、ゴーゴーが入ってきてヒロを抱き締め、少しだけ彼を救うシーンです。ヒロの行いがほんの少し許されるからです。なぜならとても厳しい人間であるゴーゴーが全く怒っていないのですから。登場人物達はヒロに共感しています。ヒロがどういう状態にあるかわかっているからです。 BD:アニメーターの、演技のプロセスというのはどういうものですか? DH:ええ、アニメーター達はそのシーンに深く入り込みます。そう言わざるを得ないです。アニメーター達はネイサン・エンゲルハートをヒロのアニメーションのスーパーバイザーとして選び出しました。彼は周囲のショットに加えて、横顔のクローズアップを描きました。 CW:ヒロが「タダシはもういない」と言い切るシーンですね。 DH:「兄さんはもういない!」のシーンは私が今までに見た中でも最も繊細なアニメーションの一つです。ネイサンはこのシーンをやってみている自分の動画を撮影しました。私達は今ネイサンがやったことと一対一で向き合っています。彼はここで何が起こっているかを本当によく把握しています。 CW:そう、ネイサンが動画を見せた時―彼は本当にそれが重要な瞬間だとわかっていたのですが―彼は泣いていて、感情を呑み込もうとしていて、明らかに彼自身の人生の中にある何かに手を伸ばしていました。そこまで深く掘り下げていて素晴らしいと思いました。 DH:だからこの瞬間へ向けての準備が、ベイマックスの質問と合わせてとても重要なのです。このシーンの始まりでは、ベイマックスはヒロの感情の爆発に対して沈黙して見守っています。その後彼は質問を始め、それにより私達は感情の爆発に巧妙に勢いをつけることができました。胸の上で弾むヒロの拳です。このシーンのストーリーボードを作成したマーク・スミスにも大きな功績があります。マークのストーリーボードを見るとわかりますが、ほぼ一対一の構図です。 CW:いったんベイマックスが動画を見せ始めたら、私達はヒロの一連のクローズアップを見ることになります。アニメーター達は正しく描写ができているかとても気をつけねばなりませんでした。何故ならここはヒロに本当の変革が起きるシーンだからです。ショックとビデオへの驚きから始まり、兄にもう一度会うことができた悲しくも幸せな喜びと柔らかな微笑みの後、自分の行いに対して後悔し、自責の念を覚えます。クローズアップにはとても多くの感情が現れています。このビルのアニメーターにとって、このシーンが果たしている役割の証です。 DH:このようなシーンを描くにあたっては本当に詳細にまで踏み込まないといけないし、全ての決定を正しい決定にしたいと思うものです。ある時点ではベイマックスとヒロの広い横顔のツーショットの所でタダシがビデオを消していたのです。しかしジョン・ラセターがこのシーンをヒロとベイマックス二人のシーンにしたかったので、彼はビデオを消すシーンはその前に持ってくるように頼んだのです。私達は変更しました。こういう点で必死に考えるし、全てはタイミングに関することなのです。 BD:このシーンはドラマチックな宝石であり、それがたまたまアニメーションになったようです。実写のシーンと同じように容易に語ることができます。 DH:私はそれをとても誇りに思っているのです。皆は「Big Hero 6」というタイトルを見てどういう映画であるかがなんとなくわかるかもしれませんが、こんなにエモーショナルな力と繊細さのあるシーンがあるなんて想像もしないでしょう。だから、私達は特別このシーンを誇らしく思います。
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fami007 · 10 years ago
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ベイマックスの事後的ケアと予防的行動について考えてみた。
ベイマックスには「すでにしたケガを治療する」対症的な行動と「ケガしないように守る」予防的な行動とが最初からプログラムされているけれどメインなのはやっぱり治療するほうなのかと思える 予防するほうがメインの設計なら先回りして障害排除できるようにもっと機敏な動きできるように作ると思うんだよね そして予防するほうがメインになってなんでもケガする前に行動を阻もうとするのはケア対象者の自立を阻む恐れが多分にあるから、予防のほうはクリティカルなシチュエーションだけにとどめて対症的な措置がメインになってるのかもしれない 例えば包丁を持つのも砂利道を歩くのもケガする恐れあるし、かといって料理や歩行をケガする恐れがあるからといって全部やってあげちゃうとウォーリーのディストピアが待ってるよね しかし私が不思議なのは頭にプラモがいっぱい落っこちて来てる時にはそのまま何もせず見てて、建物から落ちそうになる時には予防的手だてを講じるその行動の判断基準なんだけどどうやって判断してるのだ?もし将来お酒飲んだら?タバコ吸い始めたら?コーヒー飲んだらカフェインは体に良くないから止める?失恋してやけ食いとかは?止めるか止めないかの一つの指針は神経伝達物質を測って気分が晴れてるかどうかで判断するんだろうけれども気分が晴れればなんでもやっていいって野放図に許容してるわけじゃないもんねベイマックスは…… やっぱりこれもお兄さんのプログラミングの精緻さが成せる技かそうなのかなんでもお兄さんがすごいという結論に持っていき気味だけど「弟くんにとってここまでは別に助けなくてもOK、この線を超えたら止める」みたいに弾力的な判断ができるように組んであるなんてすごい もし今後ベイマックスを大量生産するとしたらこの対症的ケアと予防的行動の調整がすごく大変なんじゃないかと思うよね 今はお兄さんの形見のロボットだからベイマックスの姿も行動も受け入れてるけど、もし一般家庭が一家に一台家電的に置くとしたら、やっぱり人情としてしなくていいケガはしないように守ってほしいと思うと思うんだよね…そして家族ごとに「ここまではOK」ってのが違うだろうからすごく調整大変そう そしてクレイ社あたりが予防的措置をメインにして小型化して耐久性アップしてついでに家事なんかもやってくれる家電的なロボット開発してヒットしそう そしてそれはベイマックスの設計思想とは真逆なのだ やはり本来の敵はクレイさんだったのだ ベイマックスがみんなの役に立つためには、「機動性も低くていつでも役立つというわけではないロボットをパートナーとしてみんながロボットと一緒に成長していきたいと思う社会になるか」というなかなか歯ごたえのある問題にも取り組まないといけなさそうだ 普及するかな…ほんとうに大変そうではあるけれどお兄さんの意思継がないとだからきっと新しいビジョンの提示も含めてがんばるんだろうな
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fami007 · 11 years ago
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Mozart L'Opéra Rock Le Concert@10/4ジュネーブ&10/10トゥールーズ
10/4のジュネーブ公演と10/10のトゥールーズ公演に行って来ました。はるばる行ってよかった!
まずはセトリ。二公演とも一緒でした。
一部 1.Ave Verum Corpus KV618 2.Penser L'Impossible 3.Le Trublion 4.Ah! Vous Dirais-Je Maman 5.Bim Bam Boum 6.Six Pieds Sous Terre 7.J'Accuse Mon Père 8.Les Solos Sous Les Draps 9.Tatoue-Moi 10.Quand Le Rideau Tombe 11.Dors Mon Ange 12.Je Dors Sur Les Roses
二部 1.(モーツァルトの交響曲?の何か DMajor) 2.Place Je Passe 3.Si Je Défaille 4.Le Carnivore 5.Le Bien Qui Fait Mal 6.Bonheur De Malheur(女性三人ver) 7.L'Assasymphonie 8.Je Danse Avec Les Dieux(モーツァルトとアロイジアデュエットver) 9.Victime De Ma Victoire 10.Lacrimosa from Requiem KV626 11.Vivre À En Crever 12.C'est Bientôt La Fin 13.L'Assasymphonie(reprise) 14.Tatoue-Moi(reprise)
ジュネーブのアリーナもトゥールーズの会場も、たまアリのような大きさの、劇場というよりホール。2000人くらいは入りそうだったかな。観客の年齢層は本当に老若男女、子供から老夫婦まで全ての年齢層の方がいらっしゃいました。初老の女性がモーツァルトのピアコン21番2楽章が流れていっしょに口ずさんだりとかしてました。そして日本と違って飲食禁止どころか飲み物は特製タンブラーつきで売ってくれてスナックが無料で配られました。会場は二つとも段差があってとても見やすかったです。音響も最���はちょっと心配になったものの後半はよくなってました。
この公演、ただのコンサートというよりはなんだかフランスっぽい総合スペクタクルって感じでした。バンドも照明も映像も衣装も皆素敵。いいほうのフランスクオリティ。目で見ても楽しいスペクタクルでした! オケの方も18世紀の衣装をまとっていました。キエフのオケの方です。いい音出してました。そしてフロックコートを着たエレキギターやベース弾きさん等ロック系の音の担当者さん達も数人。ギターもギュンギュン言ってましたがドラムの音が腹に響く感じは、アレンジも相まってとてもエキサイティングでした。そして照明はまず数がかなりありました。30基以上はありそうでした。照明効果は豪華で繊細さもあり、客席に向いたりキャストにスポット当てたりとまるで網の目のようでぐるぐる動きまくりとても美しかったで��。映像は背景の曲に合わせて、Bim Bam Boumの時は歯車が出てきてカチカチと回ったりしていました。うるさすぎずつまらなすぎずセンスある感じでよかったです。衣装は、特に女性の衣装は一部はクラシック、二部はモダンな感じに衣装替えしててとても可愛かったです。女性陣は髪型も可愛くセットしてました。男性も、ミケさんの背中に羽根の生えた軍服風ジャケットにフロさんの黒一色のシックな感じとスタイリッシュかっこよかったです。
そしてもちろんキャストの方の歌も素晴らしかったのです!CDで聞くよりなんというか、みなさん声量があって声の圧力に押される感じがしました。特に女性陣は三人とも可愛らしい声なのに悪い意味での細さ弱さがまったくなくて、聞いてて声が迫ってくる感じですごい歌唱力感じました。コンスタンツェ役のディアンさんの声は初めて聞いたんですがかわいかったし、ナンネル役のマエヴァさんは優しくてふわっとしてたし、アロイジアのメリッサさんは本当にお声かわいいのに姿はすらっと背が高くてかっこいいしで目の保養でした。三人で歌うBonheur De Malheurは圧巻でしたね~。かわいいのに勢いあってかっこいい。エレキギターもガンガンなってて素晴らしいアレンジでした。 パパン役のソラルさんの声量に一番びっくりしました…。ホール中に響き渡るハスキーで渋いお声。響き渡るというか轟き渡ると言ったほうがふさわしいくらいかも。J'accuse mon pereのサビ前の音が上に上がる所とか本当に声で空気がビリビリ震える感じ。ロックでかっこ良すぎました。 ミケランジェロさん。トゥールーズの方が声がよく出ていた感じがあって二回目見に行ってよかったです。CDで聞くと細くて繊細なお声に思えるけどやっぱり生で聞くと繊細さとニュアンスだけじゃなくてすごい力強さや決然とした感じもあって、難しそうな高音の音程もぴったりはまっててすごくよく響いていました。Je dors sur les roseは本当にあの高音どうやって出してるのかと…。あとは未発表曲のLe Carnivoreに何かぐっと来ましたね…。ちょっと切ない曲調で歌い上げてる所とか、オケの所まで駆け上がっていって両手広げて音と一体になっている所とか、とてもモーツァルトらしくカリズマティックでした。というか動きが特徴的で見てて飽きませんでしたw突然ガッと動く感じがフリーダムなモーツァルトっぽいなぁと。歌う前にマイクを両手でもてあそんでみたり、突然バタリと倒れたり、観客席に向かって姿勢を低くして直接歌いかけるようにしたり。かっこいいですね…。 フロランさんはパフォーマンスで言ったら一番でしたね!一部はまったく出てこなくて二部からの登場なんですね。日本人からするともったいない…とか思っちゃうんですけど、満を持しての二部での登場はすごい盛り上がりでした。一番盛り上がってたかも。Le bien qui fait malの、悲しみのアリアが終わって前奏始まった瞬間にキャー!!という歓声。L'Assasymphonieも前奏から歓声。振りかざされるスマホやタブレットが二階席からだとよく見えました。というかL'Assasymphonieがさらにロックでドラムドスドスなアレンジになっていてとてもとてもかっこよかったです。CDかDVD出してほしいです。あと、Victime de ma victoireは1階席の左側から登場していました。トゥールーズでは何がしかトークしたり(内容全く聞き取れずすみません)マリー…なんとか?というような郷土の曲か何か?を歌っていて、その曲の時には観客席がプチ一斉合唱状態でした。そして激しいハイタッチ!舞台の上で端から端までハイタッチは当たり前で、1階席の円周をぐるーっと周りながらハイタッチして歌う有り様。すごい盛り上がってました。私の大好きなVivre a en Creverもドラム多めのロックで少し軽快めのアレンジになっていて、ミケさんフロさんの声の協力と競い合いを見れて本当によかったなぁと思いました。これが見たかったんです…;;みたいな。ジュネーブでは、on se reverraの一回目を二人で歌って、二回目を観客席に二人で歌いかけるという憎い演出。そして一番最後の高音はふたりとも解放されたように自由にどこまでも音上げてってほわーってなりました。最後は二人で階段からジャンプしてオケの後奏終止。みたいな。 フィナーレではC'est bientot la finを歌い、その後「さあみんなで(tout le monde)!」と煽られながらL'AssasymphonieとTatoue-moiをみんなで合唱し、会場中でポーズを決めつつキャストの自撮りに映り、盛り上がりまくって終わりました。コンサートというよりライブの後のような爽快感でした。
私事ですけれど、MORとのお付き合いはジュベールさんとほぼ同じ4年になるんですよね。ジュベールさんのプロでこのミュージカルがあることを知ったので。全ての記事を徹底的に読むってのじゃなかったけれど、ショーがクローズしたりロシアでコンサートやってるのを羨ましげに見てたり、日本になかなか来ない…今年も来ない…ってのを繰り返していたら日本版にはまって中国杯と同じくらいの金額をつぎ込んだとか色々ありまして、今回そのいろいろあった大本のオリジナルキャストを見れたってのは本当にこの4年のいろいろが昇華された感があります。 んで、スケートのようにミケフロにプレゼント作って、会場のスタッフに渡してきてしまいました…wちゃんと手元にわたっているといいなぁ!皆さん素晴らしい歌手なので日本にもぜひ来てほしいです!
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fami007 · 11 years ago
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John Owen-Jonesコンサート@ジュネーブ10/5
たまたまジュネーブに遊びに来ていた軽薄な日本人が見に行って…なにか…すいませんでした…。
でもジョンさん素晴らしかったよ!アルバム買っちゃった!
ジュネーブ在住のふぉろわさんに誘われて行って参りました。オペラ座の25周年コンサートを品川の映画館で見たくらいであまりジョンさんのこと詳しく知らなかったんですが、前説は面白いし演技込みの歌は素晴らしいしでとても楽しかったです♪
寒い雨の中辿り着いたのはジュネーブから各駅電車で十分のヴェルソワというところ。いちおう劇場とは銘打ってあるけれども何か住宅地の真ん中、公民館の一角のようなとても小さい箱。85席くらい…。どこにあるのかわからなくて迷いまくりで案内板も出てなくてやっとたどり着きました。箱が小さすぎてファンクラブのイベントかと思うくらい…劇場からもらった演目表を見てもかなりJOJ氏が世界的スターすぎて浮いてました。いったいなぜここで…というかもっと大きい劇場にいらしていただいてよいのでは…という疑問が消えません。 外のフランス語空間と違って会場内は英国英語の飛び交う英語空間でした。ステージを90度座席が囲む感じ。ほんとうに小さい劇場でマイクいらないんじゃないかというくらい…こんな親密な演奏空間に私のようなものがいてよいのかとそわそわしてしまいました。でも地元の方も大勢きていたようす。 歌は圧巻。優しくて包み込むような歌声がふわっと会場に広がってとても幸せな空間でした。私そんなにブロードウェイ・ウェストエンド系詳しくないんですけどそんな私でもわかるようなセレクション。曲順はセカンドアルバムに準じる感じ。ミスサイゴンもあった。Music of the nightやTill I hear you singもよかった。けれど、そもそもまったく知らない曲でも歌詞を「演じ」ながら歌ってくれるので、歌ってる姿を見てるのも楽しかったです。知らない曲を聞いてる時の、歌はうまいけどよう知らん曲やし…って手持ち無沙汰になるあの感じがなくて、ピアノ一本の伴奏なのにそれを忘れるくらい豊かな内容で周りに風景のディテールが見えました。すごい演技力!一人ブロードウェイ!ミュージカルの曲をコンサートで歌う、って、役を離れて本人として歌うというアプロ���チの他に一人で歌の現場を現前させちゃう、っていうやり方もあるんだなーでもすごい演技力と歌唱力が必要だな…なかなか誰にでもはできないな…と思いました。息子に語りかける歌「New Words」の時は目線を下にやったり交互に空の星を見上げたり、手を息子の頭や肩があるあたりに添えながら歌っていて、横に小さな息子が本当に見える気がしました。あとCivil Warの死にゆく兵士が父親に伝えてほしい…って歌う「Tell My Father」は最後のthen say goodbye.のところですっと表情消えて行ってなんかその透明感に、あー死んでしまって意識が暗闇に呑み込まれたんかな…と思って切ない気分になった。Empty chairs at empty tablesの時には破壊されたカフェと学生の亡霊が横に見えてとてもやるせないマリウスだったし、Bring him homeはバリケードの夜空と神に祈るバルジャンが見えましたね!Bring him homeはほんと…これバルジャンが人から半分神になる歌だと勝手に思ってるんですけど、とても清らかで美しくてなんだかありがたい気分になりました。あとChessスキー的にはやっぱり一部の最後にAnthem聞けてうれしかった。そしてジョンさんの「Chessって知ってる?」って問いかけに会場の三分の二くらいがYeah!って答えてたのがびっくりだった!(日本じゃこうはいかぬと思い…)ジョンさん、コルム・ウィルキンソンのコンサートで最初にAnthem聞いて、曲名わからなかったけれど気になったんだー、みたいなことを言っていた。最初に、「最後の音上げる?どうする?みんながやめろって言ったらやめるよ」と聞いていたw(ジョンさんのAnthemは通常音がDのところAと五度高いんですね)そしてmy land's only borders lie around...といいところまで歌ったところで中断して観客席に向かって両手を広げて問いかけるポーズで、観客はみんなコロシアムの観客のように指を上に上げるジェスチャーしてて、ジョンさんもための後my heart!の所を音上に上げて歌ってくれました。うっとりきいてたのに雰囲気wと思ったけど面白かったので問題なしです。
歌もよかったけれど、前説が大変おじょうずでした!とても面白かったです。親密な雰囲気が醸しだされてました。というか前説は歌に並ぶ双璧のメインコンテンツでしたね。いかにも英国っぽいユーモアというか、毒のある感じなんだけどまたそれが面白かった。特に二部、私の疲労のためか聞き取れないところが多かったけれど、覚えている範囲でメモってきた。(聞き取り間違ってる可能性もあり、すいません)
・(みんなが笑ってるのに向かって)これそんなに面白く無い話なのにね? ・(近日にIl Divoがコンサートするのをさして)彼ら(Il Divo)はラブリーボーイズだけどひどいね。(そしてその後も何度も何度もIl Divoをネタにdisる) ・私はラッセル・クロウに似てるだろ?(似てるように見えてきた) ・(New Wordsの前)私は子供を持つには若すぎるけど、実は子供がいるんだ。 ・(ラブネバについて)ミュージカル好き?→会場yesと答え���→ラブネバ見たことある?→反応薄い→「だからクローズになったんだ!」 ・これからメタリカ歌うよ。 ・(Anthemについて)コルムが音を上に上げるのはどうかと思ったよ ・Les Misの映画見に行ったけどスクリーンよりも天井を見てた ・ヒュー・ジャックマンはウルヴァリンだしラッセル・クロウはスーパーマンだしアン・ハサウェイはキャットウーマンだ… ・オスカー逃したのはまあ、ヒュー・ジャックマンだから。
今後は疲れたら癒し系英国紳士のジョンさんの歌声に癒やされたいです。とても貴重な体験でした。聞けてよかったです。
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fami007 · 11 years ago
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Kings on Ice@ブカレスト10/7
私がたまたまヨーロッパに遊びにいく時に突然じゅべーるさんがお仕事ねじこんできたから行かないわけにはいかなかったYO…
ジュネーブ→ルーマニアのブカレスト空港までは飛行機で2時間。Taromというルーマニアの航空会社を利用。飲み物のおかわりもくれてサービスはよかった。空港からホテルはタクシー利用。というか治安が怖すぎたので一歩も観光で外出てません…でもタクシーの車窓から見た限りでは豪勢に大きな建物がたくさんあってすごく興味深かった。 そして夜20時から開演。ホテル→会場もタクシー利用。というかルーマニアのタクシーは、空港や会場に専用のタクシー呼ぶ端末とかあって便利なんだけど8leiぐらいの料金に対して10lei出すとお釣りくれないんだ。こっちも少額なのでチップ込みでもういいやってなっちゃうんだけど。 会場は「Sala Polivalenta」という、代々木体育館の二階部分がないみたいな普通の体育館。というかザンボが手動でびっくりした。おっちゃんがでかい雑巾みたいなの引きずって製氷してました。 みんなのスケジュールが詰まってたからかはわからないけど、Art on Ice的な作り込んだヨーロッパのショーを見た!って感じではなかったかな。でもマートンのかっこいい曲に合わせた群舞とかあったし、エアリアルやアクロバットもあったので普通に楽しかった。そしてリンクが近い!選手出入口も近い!なのでショーが始まる前に階段を降りて来て女の子に捕まってサインせがまれるステフ(全身がしなやかな感じでとてもすてき)や、出入り口付近で開演前に15分くらいリラックスしてニコニコしながら話し込むジュベールさんガン見<◎><◎> 何か足のストレッチしていましたけどやっぱり太ももの筋肉すばらしいです。そしてiphone6かとおぼしきでかい携帯を両手でいじっていたり、電話両手持ちしていたりぽわっとしててかわいかった。 プロはロードオブザダンスとI've got feeling。しっとりプロがみれればよかったなーと思ったけど、ロードオブザダンスのケルトっぽい横移動のガシガシステップを間近で見られたのはよかったかな。あとやっぱりスターオーラっていうか存在感はすごかった。I've got~のほうはちょっとノーコメント。もっと内向的プロでいいのよって思っちゃうけどショーで滑るのは数年って言ってたこともあるから悩ましいね…あと群舞は安定のズレ、間違え、振り付け飛ばし、一人だけ前に飛び出ちゃうなどいろいろきゅーとでした。ちょっとテンポの早い所もあったからワンテンポじゃすまない遅れでしたね!隣のトマシュか、二つ隣のステフ見ながら合わせてた。 プルさんよかった!ハードスケジュールにもかかわらずステップキレキレだし生き生きしてたし、マートンとのコラボ初めて見たけどなんだかお互いに引きたてあってる感じがしてとてもよかった。ベスプルはエキシバージョンの編曲だったけど曲変わるたびにヒューヒュー言われてた気がする。 ステフ見たの久しぶりだったけどやっぱりアーティスティックでよいわぁとしみじみ 誰も寝てはならぬはみんな使ってる曲だけど細かい振りや表情がまた趣あっていいなぁと思った。 トマシュのアフロ金パンツはとても賑やかに盛り上がっていて楽しかったー!脇にプルさんが出てきていてなんかニコニコしながらピョンピョン楽しそうにしててどっちを見ればよいのかわからなかったw エアリアルの方がいたんだけどお一人でやっていてまた違った感じで美しくて面白かった。フラフープみたいな輪で宙づりになるのとか!ふらんすの方なのね そしてフランスのアクロバット男子ペアがけっこう楽しかったのよ!技術的にはまだまだこれからな感じはしたけど、女子のあこがれのいけめん男子ペアでしたよ〜これからもっとかっこよくなるポテンシャルありありですてきでしたよ!二人で白黒の服着て対のかけあいしてたのはなんか2Cellosみたいでかっこよかったよ!そして2プロめの脱ぎプロのほうはアフロトマシュも廊下を走って来るわ観客席をかなり上までフリーダムに駆け上がっていくわいっしょに脱ぐわで会場がたいへんに盛り上がっていました!でも彼らには脱ぎプロもいいけれどシャープでクールな男子アイドルグループ的プロ路線をぜひ磨いていただきたいです。 ヴァネモルのモルガンのほうはいつのまにあんなにかっこよくなりましたかね…なんかキラキラオーラをまとってきましたねかっこいいです。 今回フランスの選手が多かったのでプチフランスオンアイスでしたね♪んでフィナーレでジュベールさんが雑談する相手にも困らなかったという。アクロバットの子やモルガンともちゃもちゃと話してたかな~なんかニコニコしてました!ステフともちょっとなんか話してました。
ヨーロッパ冒険の一環として行くブカレストKOI楽しかったです!
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