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あまぎ、 かく語りき
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himono-amagi · 7 years ago
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矢野顕子と母とわたし① さとがえるコンサート2018
「ごはんができたよってかあさんの叫ぶこえ」
ずっとずっと昔から、私のそばで寄り添ってくれたメロディーが、歌詞が、目の前で響く。まるで女神さまなんじゃないかってくらいの笑みを浮かべて、ピアノの前で歌い音と戯れるのは矢野顕子、そうアッコちゃんだった。
2018月12月9日、NHKホールで開催された矢野顕子「さとがえるコンサート」へ行ったのだった。誘ってくれたのは母。フ���ン歴40年にしてやっと最近ファンクラブに加入した母から、11月のとある日に意気揚々と連絡がきたのだった。
「あのね、アッコちゃんのライブがあってね、一緒に行かない?」
そりゃあ行くさ、と二つ返事の私に、母は「意外! 嬉しい」とのこと。「だってあんた、そんなにアッコちゃん聞いてるの?」
いやいやいや、幼少期の育成環境の影響を舐めちゃあならんぜ。ランドセルに“背負われている”ような低学年から、「ただいま!」と帰宅すれば、家の中で流れているのはアッコちゃん。
その頃は『あんたがたどこさ』などの民謡をカバーした『長月 神無月』のアルバムがヘビロテされていたはず。『いろはにこんぺいとう』も大好きだったし、一人暮らしを始めたばかりの頃は、忌野清志郎とデュエットした『ひとつだけ』を聴いてひとりポロポロ泣いたりした。自然とそばにあった音楽たちは、意外と娘の人生に影響している。
……と、説明するのも面倒だったので、「まあぼちぼち聴いてるよう」とぬるま湯のような温い返事だけ返した。
正直「いや、どんなもんなんじゃろ」と思いながら、寒さ吹きすさぶ原宿駅からNHKホールに向かって歩いていた。
だって聞いていた曲は結構古い初期の音楽ばかり。最近の曲はてんで知らないし、そもそも母とコンサートへ行くというのもなんだかこそばゆい。
私事だが、物書きとして独立して1年が過ぎた。独立したては「食っていけるか」の強迫観念に駆られて、睡眠も不十分のまま必要な休息も取らず仕事を詰め、友人関係はおろか、家族でさえも疎遠になってしまった。
かといって、ひとりで冬の長く冷たい夜に耐えられるほどメンタルは強くないことも知っている。突然知人の家に泣いて転がり込んだり、夜中に放浪することもあった。
そんな姿を両親には絶対見せられないことだけはわかっていた。だからこそ自然と連絡は途絶え、「大丈夫?」「元気?」のLINEに時折「元気だよ〜」と返し、小さな嘘
重ねた罪悪感で、携帯を布団に投げた。
やっと最近だ。実家に時々顔を出せるようになった。ある程度貯���も貯まり、仕事のルーティーンも読め、毎日3食食べ、花に水をやり、夜眠るようになった。
自分の思う“あるべき姿”に近づけた気がして、生活が静かに凪いでいる。不必要な心配はかけないで済むという安堵感もあり、今回母からの誘いに応じたということを、ここで初めて言語化する。
開演時間を少々過ぎてから、「さとがえるコンサート」ははじまった。
ふわふわのピンクのドレスに身を包んだアッコちゃんは、まさにあの“アッコちゃん”。ニコニコ満面の笑みが本当に可愛らしく、同時に力強い。なんだか神々しかったし、これだけで救われた気がした。2曲目には個人的に大好きな『自転車でおいで』が流れ、自身の幼少期の記憶がどんどん鮮明化していった。
よく泣く子供だった。私はほんとうによく泣く子供だった。毎日一度は必ず涙を流してしまうイベントが発生した。例えば、クラスメイトにからかわれたり(今考えれば”からかう“という次元にも至らぬほどの些細なこと)、男の子に間違われたり、犬に吠えられたり、好きだった花が枯れてしまったり、友達の飼ってたペットが死んでしまったり。むしろ涙を流してしまう事象を見つけるアンテナが冴えていた、と言った方が適切かもしれない。
悲しい種を心に携えた私は、重いランドセルを背負いどうにか自宅の扉の前まで涙を堪える。母は在宅でとある資格勉強に明け暮れていたため、大抵家にいた。チャイムを鳴らすと「はいはーい」という母の声がする。その瞬間からもう、涙が溢れてしょうもないのだ。
扉が開く。エプロンの母がいる。どんよりとした畝雲の下、木枯らし吹きすさぶ外と比べて、ガスストーブの効いた家はとろけるほど暖かい。家の中ではちいさくピアノの音がなっている。メロディを奏でているのは、大抵、アッコちゃんだった。
さとがえるコンサートは、山下達郎『paper doll』のカバーで、前半を終えた。後半は奥田民生をはじめとするゲストとの共演がメインだった。新旧さまざまな曲が目の前で層をなして広がり、わたしは「すごい」や「きれい」の感情を忘れ、ただ目の前に現れたリズムに身を委ねていた。
公演も終盤を迎え、アッコちゃんはステージの上からとびきりニコッとしてとある曲名を告げた。それが「ごはんができたよ」だった。
これは私が一人暮らしを始めた頃から聴くのを封印していた曲だ。
1番で歌われるのは、まさに幼少期の自分。学校から無邪気に���ってきて、泣いたり笑ったり、怒ったり元気に飛び跳ねる子供と母さん、父さんの姿が描かれる。
楽しかったよ 今日も
うれしかったんだ 今日も
ちょっぴり泣いたけど
こんなに元気さ
しかし2番はそこから十数年後の子供の姿。かつての子供はすっかり大人になり、独り立ちをした。きっと色んな波に揉まれ、今日も誰もいない自室に帰ってきたんだろう、なんて思う。
淋しかったんだ 今日も
悲しかったのさ 今日も
ちょっぴり笑ったけど
それがなんになるのさ
ただただ、自分だった。そういえば最近だってそうだったかもしれない。みんなでお酒をのんで、たくさんたくさん笑った気がするけれど、最終電車で一人車窓を眺めていたら「結局、なんだったんだ」って思う。生きていきやすい技術や処世術、心と体を別々に動かせるようになった。けれどね、それがなんになるのさ、って。
布団に入った瞬間に、目の前にありありと浮かぶ脱力感と虚無感。昔はそれを「家族がいる」という安堵感で包むことができたけれど、もうそんな甘えを自分自身が許せない。
つらいことばかりあるなら
帰って帰っておいで
泣きたいことばかりあるなら
帰って帰っておいで
最後の歌詞。これはきっと、さらに数十年後、母になった子供が、自身の子に向かって歌っているのだろう。だからきっと、これは母が私に思っていることなのだ。けれど母も若い頃は「帰れない」時代を生きたから、「帰っておいで」なんて言えっこない。言っても帰ってこないことはよくわかっているし。だから歌うのだ。
気づけば両の掌で顔を覆っていた。自身の虚勢が見破られた気がして、悔しかったし恥ずかしかったけれど、やっぱり「帰っておいで」って言ってくれる母やアッコちゃんには敵わない。鼻水も涙もボロボロだけど、いいやどうせ、コンサートなんて誰も客の顔なんて見ないでしょう?
コンサートが終わり外へ出た。より冷たい夜に向かって、風が吹きすさぶようだった。私と母は、「あーあ、泣いた泣いた」なんていいながら、イルミネーションに輝く渋谷区を歩く。お腹すいたねえ、何か温かいもの食べたいね、なんて話す。
「あ、『ラーメン食べたい』じゃない?」
今年で矢野顕子ちゃんは40周年を迎えた。母も気づけば歳をとっていた。私も大人になっていた。けれど、この時代に、同じような悲しさと寂しさと喜びを携えて、生きていられるだけで、なんだかそれだけで十分、生きていける気がした。
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himono-amagi · 7 years ago
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【神田カレーグランプリ2】1000番のヤスリで磨かれた系インドカレー「スパイスキッチン3」
神保町随一のカレー激戦区だと勝手に読んでいる地区、それが「明大前横の坂エリア」である。
我らがエチオピア(筆者は熱狂的なエチオピア信者)をはじめ、チキンカレーにポークカレー、スープカレーにカロリー系カレー……つまりカレーの名店街なのだ。
そんななか、唯一のインド料理屋が「スパイスキッチン3」である。
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一言で言えば、とにかく無難・安牌インドカレーだ。
味や店内の雰囲気はもちろん、ちょいとアヤシゲなインド系のお兄さんが、目力効かせながらナンをパンパンしていることもない(私はその光景が大好物なのだが)
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とにかくインドカレー慣れしていない人を連れてくるにはぴったりなのである。
ということで、今日はサグマトンカレー(単品)をオーダーする。普通だと辛さもマイルドなので、今回は大辛に。
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ちなみにセットであれば���ン食べ放題なので安心されたし。
うむうむ、マイルドだ。魔改造とまでは言わないが、食べやすさを感じる。
インドカレーを40番くらいのヤスリから磨きはじめて、1000番まで仕上げたような味わいだ。
ワイルドさを望むカレーファンには物足りないかもしれないが、ニュートラルとしての「日本で食べるインドカレー」の役割は果たしている。
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というわけで今日は金曜日。街行く人々は陽気な千鳥足だ。
みんなみんなおつかれさま!
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himono-amagi · 7 years ago
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【神田カレーグランプリ1】大鶏(オードリー)神田駿河台店でスタートダッシュを決めた件
——とうとう今年もこの祭りがやってきた。
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これぞ泣く子も黙る「カレー沼の書」
そう、神田カレーグランプリである!!!
カレー激戦区の神田・神保町・御茶ノ水界隈を中心に、各店舗のプライドとカレーファンの財布が火を噴く「神田カレーグランプリ」は、11月上旬の本祭に向けて、8月下旬から始まるイベントだ。
お店や近隣施設、駅に設置される冊子を片手にるんるん「カレーさんを巡ると楽しいぞ☆」というノリのアレである。
なーんてな!るんるんしてる場合じゃないんだ、こっちは欲してるんだスパイスをよォ!!!
さーーあ、今年も火を吹いていこうぜ!!!味覚も財布もな!!!!
というわけでやってきました。1店舗目は安定の「スープカレー屋 鴻(オオドリー)神田駿河台店」で、キメていこうじゃないか。
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��前がっつり神田カレグラに参画した2016年で、スープカレーの醍醐味に引きずり込んでくれた良きお店だ。以来ちょくちょく通っている。
JR御茶ノ水駅から徒歩5分ほど、明大前の坂を下ると右手に見えてくる。
木製の大正ロマンちっくな看板が目印だ。
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メニューはもちろんスープカレーオンリー。さあここからが初見殺しタイムである。
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見よ、メニューはひとつのはずなのに奥深く広がる世界を!
まず選ぶべきはお出汁の色、赤と黒つまり、鶏出汁とこってり豚出汁のどちらかだ。大抵私は赤で。あっさりしていて辛味が際立ってうまい。
お次に具を決める。私はほぼ野菜にしている。なぜなら揚げナスが激うま教に入信しているから。
辛さは1で普通の中辛くらい。私はいつも3だ。辛いもん食べないと目が覚めない。
17時以降であればライスかパンで選べるのも嬉しい。ちなみにライスはおかわり自由なので、たくさん食べる勢は米一択でしょうなあ。
というわけで運ばれてきた特製「赤野菜カレー辛さ3 with パン」
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「いやあここだけの話、今晩も原稿がやばくてですねえ、やばい時こそ辛いもんっすよ……」
スープカレーを啜る!
パンを浸す!
クタクタにする!
食す!
たのしい!(ダブルピース)
……という愉快な時間過ごしたのだが、個人的に神田駿河台店の内観はかなり好きだったりする。テーブル席、カウンター席はもちろん、ロフト的な席もおしゃれでよい。
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とかく2018年カレーシーズン、よいスタートを切れたとニコニコしつつ帰路に着くのであった。
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himono-amagi · 7 years ago
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さくらももこが死んでしまった今宵はさすがに眠れない
明日の取材は朝早い。それなのに彼女は死んでしまった。
たいのおかしら・さるのこしかけ・もものかんづめ。
今の私を築き上げた人に、私は自然と会いたいと願っていた。実際に会って、「あたしゃそれでも頑張っているよう」とヘラヘラ笑うような対談をしたかった。だからこの世界に希望を感じたし、活字の中に色彩を、表現に美しさと世知辛さを感じていた。
さくらももこは、本日死んでしまった。
活字を愛おしむ次元ではなく、本腰を据えて見つめ始めた。私は書くことで自分の人生を保障し始めた。それ以外は全て投げ捨ててしまうつもりだ。
それほどこの世界にのめりこめたのも、彼女の表現のお陰だ。
辛辣な言葉の数々はきっと真似をできない。彼女の紡ぐ言葉は決して美しくない。それでも同時代を生きている安心感があった。
例えば、彼女のエッセイ集や絵本、漫画な��技術的には一流と言えずとも、完全に心を動かされたのはいつの日だったろう。そのころから私は日本語で心の機微やどうしようもない日常を残すことが大好きになっていた。
形を残すからこそ、彼女は確かに存在した。それであるならば、今この私はどこに存在するのか。さくらももこにこれだけ救われ、生かされ、のらりくらりやっている私の存在は、自身で表現せねばなり得ぬ存在ではなかろうか。
などと思う。けれどそれも形骸化している。
なぜなら口は生者にしかない。これだけさくらももこを愛し、心を揺れ動かされたという事実も、私が表現しなければないも同然なのだ。
ひたすら焦燥感が胸を覆い尽くす。私はなぜ今、日本語を書いているのか。
それなのにも、まあ、かなしくてかなしくて、何も書けない。
それは今を表現するためだろう。
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himono-amagi · 7 years ago
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平成最後に沖縄は。翁長知事の訃報と戦後3世という時代
私は沖縄を語れない。
形式上の美しさや哀しさは言葉にできる。けれど自身の眼で捉えてきた矛盾が多すぎて、まだ言語化することができない。
真っ青な空に、冗談のように美しい海。琉球石灰岩でできた石垣は通気孔が多い構造から、台風のような荒天時でも程よく風を通し崩壊しないという。強烈な太陽光に負けんと咲くハイビスカス(アカバナー)の前で、自撮り棒を用いて記念撮影する観光客はなんとも幸せそうな表情をしている。
そんなとき「私もこの島に血縁などなければ、『好き』だと自信を持って言えたのだろうな」と歯がゆく思う。
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石垣島・川平湾。近年では東アジアの観光客で埋め尽くされている(筆者撮影)
観光大国として、今やアジア圏を中心に観光立国となった琉球としての姿。
門中制度を巡って蠢く血縁関係や民俗的要素。
“良い意味で”若者間での興味関心が薄くなったと言われる基地問題。
誰もが優しくておおらかな人柄など嘘だ。短気もいれば、ケチもいる。
今や長寿大国でもなんでもない。
私は少なくとも祖父母を「おじい」や「おばあ」などと呼んではいない。
正しい方言を話せる人口は少ない。それは祖父母の世代で課された「方言札」制度に起因するそうだ。
でも確かに先祖は大切にするし、必ず仏壇はいつでも綺麗にする。帰省したらウートゥトゥ(お線香をあげて手を合わせること)も欠かさない。
遠い街で、ふとした瞬間に過ぎる小さな島のこと。ここでは「沖縄論」は一種のタブー的認識が浸透しており、なかなか口にすることはできない。
私もそうだ。
絶対に、安易に、自身のルーツについて語りたくない。
けれどいずれ語らねばならないことも、わかっている。
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那覇市・栄町の一角。21時頃から開店する飲み屋が軒を連ねる。ねっとりと絡みつく湿度と東南アジアを彷彿させる匂いで充満する(筆者撮影)
昨日、沖縄県知事である翁長知事の訃報に、少なくとも私はひどく動揺した。
今年度の慰霊の日に鋭い眼光を首相に飛ばしていた姿が記憶に鮮明なことだろう。
少なくとも私の親族や沖縄で関係のある人間は、誰もが彼の死を悼み、これからの不透明な情勢を憂いている。
私もそうだ。
彼なき今、真っ当に中央に意見できる人間がいるのだろうか。
それでも一番不快なのは、ある特定の思想を持ったメディアが、彼の死を“調理”することだ。それは悲劇的に、あるいはとても簡略的に、ひたりと忍び寄る影のように思想が見え隠れする。事実として横たわるのは「死」という現実だけ。それを美談化し、軍事曲のように士気を高めるものではないし、安全な場所に身を隠し知ろうともせず無機質に嘲笑するものでもない。
平成が終わろうとしている。
ひめゆり学徒隊として生きながらえた私の祖母も、今年90歳を迎えた。また一つ時代が終わり、築かれていくのだろう。私は遠い街から、ぎゅっと胸に手をあて灰色の空に祈りを捧げる。
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himono-amagi · 7 years ago
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慶良間諸島は今なお胸に
色彩の所有権は、やはり自然にあると思う。
そんなことを考えさせられる島々が、那覇の泊港からフェリーで1時間ほどの場所にある。
慶良間諸島の中にある座間味島について、先月、日本離島センターの季刊「しま」にて書かせていただく機会があった。
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http://www.nijinet.or.jp/publishing/shima/tabid/67/Default.aspx
「なんて果てしない、どうしようもない場所へ連れられてきたのだろう…」
と動揺した。こどもでしたもの。
那覇の泊港を離れ、白波とともに群青の海を進むフェリー。次第に小さくなる本島、波とともに跳ねるトビウオ。
見たことのない世界に、震えを隠せなかった。どきどきしすぎて、少しだけ怖かった。そんな島での夜のことだった。
「星が! 綺麗だよ!!」
馬鹿言え、と思った。渋々手を引かれるまま、外へ踏み出した。その瞬間、ぬるっと闇が全身を絡みついてきた。
そう、私はこの日初めて本当の闇と星空���知ったのであった。
最初は何も訳がわからなかった。そこにありえない数の星が散らばっているのだ。そして手をつないでいる母親の顔さえ見ることができないほど、濃密な闇であたりが充満しているのだ。怖いというよりも柔らかかった。そしてやさしい闇だと、感じた。
星空は不思議なもので、想像を絶するほど遠いのにすぐそこにあるように感じる。何億光年、光と時間が絡みついていることさえ理解できなかった当時の私は、すぐそこにあるのではないかと錯覚していたほどだ。
あの時はあんぐり口を開けることしかできなかった。
私の短い人生において、失われてしまった記憶はごまんとある。それでも、あの日の星空を忘れることはできない。
時は経ち、いつしか私は貧乏学生をやりながら自転車で旅に出るようになった。結局ひとり旅に落ち着いてしまった。だから一人で夜を越えることも日常へと化した。それでも親類と息を飲んだ夜空の日を忘れることはない。それは確かに慶良間諸島だった。
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himono-amagi · 7 years ago
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「何をしたっていうんだ!」ギックリ族は虚空に叫ぶ①
ヤツは帰ってきた。確かに私は足を洗ったはずだ。しかし族は見逃してくれなかった。彼はひたりとこの時を待っていた。舌なめずりをして、腰に銃口を突きつける。
「この時を待ってたぜ……」
ネットリとした声色で耳元で囁くヤツの名前を、私は12年前から知っている。
——ギックリ腰だ。
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さて、2年ぶりにギックリ腰���再発させてしまった。ほぼ寝たきり状態は人生において4回目。ここまでくると慣れたものだ。
目覚ましは腰の痛み。そこから一通り寝返りをうち、今回のウィークポイントを探す。ゆっくりと体を動かして、可動範囲を確認しつつ、この一週間の仕事スケジュールを思い出す。
痛みレベルと納期や取材日程を鑑みて、連絡すべき担当編集さんをリストアップし、ゆっくりと起き上がる。ため息。
這いつくばりながら、あくまでも安静に平常心を装ってパソコンの元まで辿り着けば、詫びメール製造マンへ化する。普段のスーパータイピングスキルが一番光り輝いていると感じ、虚無感に駆られる。
というわけで、残念ながら敗北だ。完敗、これはギックリだ。
ギックリとは残酷な病気だ。私は自身の発症するギックリ腰を一種のデッドラインとして捉えている。
知っていた、大抵無理を通したのちに一気に押し寄せる病なのだ。よく過労で倒れる、発熱する等を耳にするがギックリ腰もその症状と並行して数えられると思う。
ギックリ腰の辛いポイントは、突発的物理的要因が発症起因と捉えられがちな点、加えて患者自身の意識がはっきりしている点だろう。
前者に関しては、ギックリ経験者の母数が多いため、世の中も割と易しいと思う。腰に爆弾を抱える者同士、相互扶助の精神を持って他者を労っていこうな。
後者については、自意識の問題だ。気持ちは元気なのかである、人は真面目だからそこで諦められない自信と戦ってしまうのだ。現に今朝だって、詫びメールおよび連絡中もその後も、ずっと罪悪感に苛まれていた。今だってそうだ。
でも痛みだけは、絶対だった。
攻めるべきは今現在の己ではない、オーバースケジュールを組んでしまった1ヶ月前の己だ。
というわけでロキソニンを服用し、最低限の仕事を進め、ジムノペディを延々と流しながら毛布に包まって寝るのだ。
こうして2年ぶりに4回目のギックリ闘病初日を迎えた。
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himono-amagi · 7 years ago
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【吐瀉物とわたし④】水無月、パンの耳と長い廊下—前編—
私はよく吐く子どもだった。
愚痴を吐く、という意味ではなく、物理的によく吐瀉をしてしまう子どもだった。
風邪を引いても腹を下すのではなく、大抵吐く。しかも私の家庭は「食べれば治る」方針だったから、無理矢理食物を腹に詰め込んでは、体が拒否反応を起こして戻してしまっていた。
「今だけ視界がなくなればいいのに」と思うほどの絶望感で、便器を抱えていることが多かった。
私はとても素直だった。真面目な子どもだった。今考えれば阿呆だったと思う。
「完食が正義」という家庭の方針や教育機関の方針から外れた子どもにならないように、私はよく咀嚼もせず食べた。だからこそ気分が悪くなって、体調不良でもないのにトイレに駆け込んでいた。
よく理解はできないけれど、とにかく「良い」とされている子になりたかったのだ。一度よい子だと褒められると、後に引けなくなる。よい子の看板を外された瞬間に、ただの呼吸するガラクタになってしまったかのような感覚だったのだ。
だから私は常に吐瀉の恐怖を抱えて、幼少期を過ごしていた。
そんな人格は、やはり吐瀉によって粉々に打ち砕かれたお話である。
小学5年生の6月だった。クラスメイトの着る服から発せられる生乾きの匂いが教室に充満するような、自身の机と椅子、お道具箱が湿度でじっとりとしているような、まさにこんな季節だった。
素直で活発で積極的な私は、少し壊れかけていた。
理由は学級の担任教師にあった。今考えれば私から語る言葉がどれだけ信ぴょう性の高いものかは判断できない。言葉で語られる事象に客観的な真実はないと考えているからだ。けれどこれは確かに当時の自分にとっての真実だった。
偏った教師だった。いわゆる「好きな子」「嫌いな子」で生徒を2分割して、学級運営を行う教師だったのだ。
「好きな子」に含まれるのは、教育熱心な親御さんの影響で塾などへ通っている優等生、頭のいい子、物静かな子。「嫌いな子」に含まれるのは、非論理的な行動を起こす男子、その他理解できない行動を起こす生徒。私は完全に後者に含まれていた。
決して頭の良い子どもではなかった。飲み込みも遅かった。ただ粘り強いだけだった。そして真面目だった。走ることが好きなのに、勝負事が嫌いで、読書と絵を描くのが大好きだった。だからこそ休み時間は一人で校庭を走り回るか、教室で読書をするか、自由帳に漫画を描いていた。
「運動が好きな子は勝負が好きである」
「読書が好きな子は勉強ができるはずだ」
なんて担任教師(50代女性)の中にはそれなりの方程式があったのだろうし、それに当てはまる=いい子/当てはまらない=悪い子として態度を著しく変えていたと思う。
彼女に私は理解されなかったようだった。
教室は残酷な箱だと思う。何か不祥事を起こしたら、全員の前で見せしめのように立たされ小一時間は説教され続ける。ある日小さな事件が起きた。上級生が育てていたプランターがひっくり返される事件が発生したというのだ。朝のHRで両頬に携えた贅肉を激しく揺らせて、担任教師は吐き捨てるように言った。そして数名のクラスメイトの名前を呼んだ。「今呼んだ生徒は起立しろ」というのである。
なぜか私も含まれていた。
理解ができなかった。私はその時間帯、昨日はまったく他のことを行っていたはずだったのだ。それなのに濡れ衣を着せられかかっている。しかも立たされた生徒達はいわゆる「嫌いな子」とカテゴライズされている生徒で構成されていた。でも彼ら彼女らは、そんな悪意に満ちたことを行う生徒ではないことも私は知っていた。その瞬間に悟ったのだ。
——この教師は、勝手に生徒をカテゴライズして理想論を語っている、と。
ショックだった。賢くはないけれど、悪い子にはなりたくなかった。嫌われたくもなかった。怒られることは絶対したくなかったし、こうして公開処刑の説教をされることは小学校生活の終わりだと思っていたからだ。
私はその教師から嫌われている、と確実に理解した。別に好かれたいわけでもなかったが、あそこまでの悪意(というより安易な人格判断?)をされることは、人生においてはじめてだったのだ。
結局その事件は、えん罪という形で幕を下ろした。しかし、その後も同じような事象が起こり、差別という考え方が鋭利なかたちで私の小学校生活を追い詰めていった。
小学5年生の6月の記憶が虫食いのようにぽっかりと穴を開けているのも、そのせいなのだ。
そのころからだろうか。食事がうまくできなくなっていた。
ものを飲み下す方法を忘れてしまったのだ。
あれだけおいしかった母の料理の味がわからなくなってしまった。
「食べられない」と告げると、母はすごく悲しそうな顔をする。私は母が毎日身を粉にして料理をしてくれていることを知っていたから、それを食べきれない自分を責めた。母の愛を承知していたからこそ、どんどん味がわからなくなっていった。
給食も同じだ。基本的に食事は好きな行為だった。しかし「嫌われてる」と悟った日から、うまく食べられなくなってしまった。
教師は非常に古い考え方の人間だったから「よく食べる子はいい子」理論を展開していた。
私はやっぱりいい子になりたかった。だから、よく食べられるようになって名誉挽回したかったのである。
しかし食べたいと思えば思うほど、体が食物を拒否した。
あれはどんよりとした雨の日だった。事は起こった。なぜかこの記憶だけははっきりと鮮明に、まるで昨日のように覚えている。
冷え切った厚切りトーストに甘いイチゴジャム、ぬるいホワイトシチューがその日の献立だった。
向かいに座る生徒がぴちゃぴちゃと音を出しながらシチューを啜っていた。
当時、ほぼ食物を腹には入れられないまま登校していたから、常にふらふらとしていたのである。
教室の匂い、湿度、クラスメイトの話し声、堅い��ポンジのようなパンに私は打ちのめされていた。
今考えれば非常に阿呆らしいが、給食を完食せねば休み時間もなく5時間目も迎えられない(教室の隅で食い続けろ)という、法治国家あるまじきルールを課せらる学級へとなってしまっていた。しかしもう、諸々限界だった。
私は食べきれぬパンの耳を持って、教師の机へ向かった。
「すみません、今日、私、たべきれません」
すごく怖かった。とにかく怖くてしょうがなかった。ごはんも食べられない、物覚えも良くない。ただ絵が好きで本が好きなだけのガラクタなんだということを、自身で証明してしまったからだ。
「はい? 食べられないってどういうことですか?」
忘れない。
その日、よく肥えた彼女が着ていたピンクベージュ色のジャケットがぱつぱつだったことも、彼女の付ける腕時計にのった贅肉も、数ヶ月前に染めたであろう色の落ちかかった白髪染めも。
数秒の沈黙の後、私は爆弾のスイッチを押した。
堅いパンを口に放り込んだ。
知っていた。それを飲めば、私は数秒後吐いてしまうことも。逃れようのない不快感と胃からの逆流を感じて、私は弾かれたように教室を飛び出した。廊下を全力で走りトイレへ向かったが、間に合わなかった。
私は廊下で倒れ込むようにして嘔吐したのだ。
これが限界だと知った。そこから私は、今まで通り学校へ行けなくなったのだ。
皆勤賞を目指していた、他人に自分自身の価値を委ねる「いい子」が死んだ瞬間だった。
つづく
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himono-amagi · 7 years ago
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文章は魔法ではない
「死にたいという呪文を唱えて生きているんです」
彼はそう、終電間際の総武線で呟いた。
人との出会いというものは、自分ではどうしようもなくて、かといって出会いを積極的に求める社交性など身につけていないから、ただ受け身で淡々と日々をこなしている。唯一私ができることとすれば、同じような雰囲気を醸し出す人間を、いち早く察知すること。だから彼とも出会えたのかもしれない。
「僕は道化もできるんです」
この春卒業を迎え、社会に飛び出す彼は言った。「クソみたいにつまらないことでも、どうにか適合するふりをすることができる。それも自分なのです」と。しかしながら日々、吐き気に苛まれることも多々あるという。ある階級の人々をひどく恨んでいるともいう、それでも何もできない自分に対しての憎悪もあるという。そんな中で表現がしたい、と呟いたのが印象的だった。
へべれけな人間しか存在しない、深夜の下り列車。その中で我々だけが、表現という生死の淵に立たされているような気がした。揺れる車内は、だれもまともではなかった。
私の手元には現在書きかけの小説がある。既に6万字を越えており、おそらく10万字前後になるのではないかと思う。私にとって、今抱えている表現は、それ以外の何ものでもない。
ひどく暖めていた。暖めすぎたかもしれない。だからこそ、そろそろこの作品の弔いを行いたいのだ。
私にとって「書く」という行為が最上位の表現なのだとすると、きっと信仰であり同時に呪いなのだと思っている。この身が抱えるには大きすぎる自身の命のあまりを、全て注いでいる。ゆく宛のないやるせない愛情や執着、人間らしい感情をすべてぶつけているはずなのだ。
「それでも、文章は魔法じゃない」
切実に思った。言葉も芸術も音楽も、まったくもって魔法ではない。
宙ぶらりんだった私の気持ちを受け止めてくれる、唯一の受容体なのだとしたら。ひとつの作品を作り上げていく時間だけが赦させていると感じる一時なのだとしたら。
それはただの火傷跡のような信仰なのだ。
「もし書き終わったら、君に読んでほしいです」と伝えた。この子ならば、どうにか精神を保って生きている、そんなゆらめいている彼ならば、私の醜い様もやさしく撫でてくれる、そんな気がしたのだ。
彼のために、彼らのために、私は今日も書く。
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himono-amagi · 7 years ago
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今日も、消費が私を殺さんとす
ただいま、全ての私物が、死んじまえと言わんばかりに我が精神を殺しにかかってきている。
引っ越しとは、とても絶望的な作業である。
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今までの生活で気付きやしなかった日常のほつれをありありと目の前に示す。自分という生命体が抱えきれぬブツが押し寄せる。直面した瞬間に、怯んでしまうのだ。
購入するにも移動させるにも、廃棄するにも金が動く。マイナス方向に。
楽しく金を使いたかったのに、なぜこんなに悲しみを抱えて、睡眠と思考力と人間性を失いかけてまで稼いだ金を浪費しているのか。
一時期流行った断捨離は、何かしらの差し金かもしれないぞ、とモノの処分を行いながらハタと思った。
断捨離とは面白いもので、自傷行為と似ている。私も爪の噛み癖が20年以上治らず苦労していたのだが、その構造と似ていると感じたのだ。
最初に訪れる苦痛と不快を乗り越えた先にあるのは、ラリったような愉快な心持ち。痛みが快楽に変わるとき、思考はひたりと立ち止まる。
大切だった荷物が、色褪せたガラクタに見えたとき、なんて底の浅い生活だろうと辟易した。同時にそう感じてしまう自身の薄情さに、ぶつけようもない悲しみも抱いた。
なぜ今日は雨なのか。こんなにも寒いのか。
涙が溢れそうになるのを堪えて、馴染みのある街と知らない街を大荷物とともに往復する。
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himono-amagi · 7 years ago
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おしごとさんぽ〜浅草編〜
ある取材があり、浅草へ向かった。
例のごとく今日も観光客でごった返しているこの街は、あまり得意ではないが、それでもせんべろ街があるから素敵だ。
取材を終えて外に出ると、新しい季節が両手を広げて出迎えてくれるような、青空だった。
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仕事を切りの良いところまで片付けて、神谷バーに洒落込もうかと考えたが、本日休業とのこと。泣く泣く断念し、裏路地をゆるりと散策することにした。
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*肝臓が嘆いている。かなしい。
そんなわけでのらりくらりやってきたのが、Wi-Fiと電源があると噂のカフェ。
フェブラリーカフェ
スイーツ���検家でもカフェイン中毒でもないのだが、今日は世の中の娯楽を摂取したかった。というわけで、いただいたフレンチトーストがこれだ。
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実はフレンチトースト、子どものころからよく作って食べていたのだ。しかしながら、フレンチトーストというものはいじらしい料理だ。
私はデロデロのやつが好きなので、前日から浸けておきたいと思いつつ、結局面倒で当日に浸けパッと焼いてしまう。だから結果的には普通のお味にしかならんのだ。
一方フェブラリーカフェはというと、大天才なのであった。
まずナイフを立てると「サクッ」という。なんだ、フレンチトーストの分際でサクッとは、調子に乗るなよ……と思いつつ口に運ぶと、次は「とろっ」と言いなすった。
なんてこったい。ちなみに異様に美味い。甘さも控えめだ。
こればかりは写真に収めなければならぬな、と一眼レフを取り出したのであった。
罪滅ぼしに2駅ほど歩き、帰路につくのであった。
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himono-amagi · 7 years ago
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濡れた身体とバスタオル
バスタオルを使うことがなくなって数年経つ。しかしバスタオルはどこまでも官能的だと思ってやまない。
ビショビショに濡れた身体を拭くのに、手ぬぐいや、その程度の小さなタオルで充分だ。丹念に拭き取り、何度かタオルを絞ればいいのである。
と、学生時代、ともにキャンプをしていた先輩が教えてくれた。
以来私は、自宅でもバスタオルを使っていない。
時々実家に帰ると、ふかふかのバスタオルと対面する。一糸纏わぬ濡れた身体に、ふにゃりと柔らかなモノが絡みつくのだ。
なんてえっちで贅沢な瞬間なのだろうと、震えが止まらなかった。
バスタオルは手間がかかる。例えば大判のため、洗濯物でもかさばる。ふかふか厚手のものを半乾きにしてしまうと、すぐに生臭くなる。えっちなバスタオルを保つには、それだけの労力を要すのだ。
ああ、全裸でぬくいバスタオルと戯れたい、なぞ思いながら今夜もパリパリの手ぬぐいで身体をなぞるのだ。
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himono-amagi · 7 years ago
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春の月夜、線路でワルツを
春の夜だ。昨晩は朧月が出ていた。
今晩は外を見ていないから、知らない。
つい先日、大切な人との離別があった。
絡みついてしまった毛糸玉を、最後まで二人で丁寧に解いていくような、そんな優しいお別れだった。
何かと最近涙が出てくる。
新居の裏には線路が延びており、時折踏切の音と電車の通過する音が聞こえる。
そんな線路沿いを終電後の深夜、ひとりで散歩していると、呼吸のできる宇宙に投げ出されてしまったような気分になる。
職も家族も、私に絡まるものは何もないのだ。
淡々とひとりで人生を続けている。つまらない身体を可愛がり、どうにかやり続けている。
躁鬱状態のようだ。
月が明るい夜は、自身の影が線路に伸びる。そんな時くるりとターンすれば、とても愉しいのに、無性に悲しくなってしまうのだ。
春の月夜は、軽やかでありながら、深く苦々しい。
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himono-amagi · 7 years ago
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東風は今日も語りき
庭の百日紅の花は薄桃色だが、本土では感じられない程強い太陽光線を受け、しっかりとした存在感を放っていた。車から降りると、纏わり付くような湿度を含んだ空気がひたりと包み込んだ。ひび割れた古いコンクリート作りの塀、歪んだ電柱、猫の尿のにおい。ハイコントラストな青空と雲。決して美しいものではないかもしれない。
けれど、私はどうしても安堵してしまう。錆びた門を開けると、きぃと金属が摺れる音がする。扉を開けて大声でいう。誰が言おうが何としようが、相も変わらずここに家が、居場所が鎮座している。
「ただいま!」
こうして私は今年も、この夏も帰ってきたのだった。 
きっと淋しいんじゃないかと思う。 死ぬ事は怖い以上に、淋しくてたまらないのではないか、と。最近そう思うようになってしまった。私はどうしても本土に戻るひとりの飛行機が苦手だ。ずっと一人暮らしをしていたら、淋しいという感覚は簡単に麻痺させてしまえるけれど、それは、一時的なものなのじゃないかと思う。
ここには親戚がいる。家族がいる。いつも家族のみんなで食卓を囲み、家事を分担し、会話が多すぎて成り立たず、いざこざが幾つも重なり合って。煩わしいものであるに違いない。けれど、ここから自分がひとり、ふと居なくなってしまう。そう考えると一瞬だけ息が詰まりそうになってしまう、この感覚は何なのだろう。
「死」なんて絶対的なものではあるけれど、それでもそれにまつわる価値観は普遍ではない。戦場では生は喜んで投げ出すものであったし、死は名誉なことであった。ところかわって現在ではその真逆。生は迷うこともなく肯定され、死は厭われるものである。教育機関でも、メディアでも、そのハリボテばかりだ。何を持って彼らは自信を持って肯定しているのだろう。私にはそれが、すぐにはがれる金メッキのように思えて仕方ない。
例えば祖母や祖父が語る生と死はまごう事もない真実だ。彼らは生と死についてとやかく結論を付けることは言わない。それが不可能であることを、歩んできた人生で知ったのだろう。
「生きるしかなかった。ただ、ひたすら生きていた。」
彼らが語る言葉。それは人間が本来持ちうる生存本能を顕著に現した言葉だ。
そう、生こそが素晴らしいものではない。本来生と死は切り離せないものなのだ。その全てを包み込んだ上で、どのように「在る」か。「ひたすら生きるか」。一度息を抜いて空を見て、美味しい飲み物を飲んで。そこからまた思考をゆっくりと巡らせるのも良いかもしれない。
 死は忌むものではない。そこに在るだけだ。  それでもやはり死に包まれた瞬間のことを考えるだけで、胃をぐっと掴まれた気分になってしまう。「生きろ」と埋め込まれてしまった生き物だから、頭では分かっていても死は怖い。
 祖父母の家の一階、陽の射さない北向きの部屋は祖母の部屋だ。そこは死のにおいがしてしまう。そういうように考えてはならないのだろうけれど、どうしても寄り添う死の感覚を否めない。暗い部屋。昔の写真。棚に飾ってある数多ものこけしや人形。そんな部屋でひとり眠りに就く祖母。そして耳の遠い祖母は、こんな暗い部屋の中で居間の話し声も聴けずに、昔の記憶を巡っているのだろうか。
もしかすると、死とはそれより優しいものなのかもしれない、と思う。きっと大きな海に帰るように、暖かく包み込んでくれるものなのだろう。だからこそ、音もない暗い部屋の中、昔のことで堂々巡りをしている、この時間こそが本来の死より、我々の創造した死に近いのかもしれない。
 祖母はなんであんなに優しいのだろう。優しすぎ、傷つく彼女を見る私は辛いし、皆も辛い。あの部屋にいる祖母はどんな心地で時間を過ごしているのか。想像するだけで涙が溢れる。きっと死ぬ事は彼女にとって、とても淋しいことなんじゃないだろうか。ずっと人に囲まれて過ごした彼女だからこそ、突然誰も居なくなってしまう、そんな事態が淋しくて仕方ないのだと思う。
 それはそうだ。現にその感覚は本土へひとり戻る飛行機の中の心境と似ているかもしれない。会話だって宙に投げれば、誰かが拾ってくれていた。それさえ、ひとりじゃ言葉は誰に拾われることもなく地に落ちる。
 失うことが一番恐ろしくて避け続けても、いつのまにか得てしまっている。それが生きる道。喪失の恐怖からは逃れられない、そんな呪縛。沢山のしがらみの中で生きて、それをどうやって肯定できるというのだ。生きることが善だって悪だって、それは生きながら判断することではない。二つを抱きしめ共に生きていく事、生を全うする事。それが尊いのだと、信じてやまない。
  別れは苦手だ。もう会えないかもしれないのだから。もう彼女が思い出の中のひとになってしまう、そんな可能性は少なからずある。声も笑顔も温かさももう何もかも感じられなくなってしまうかもしれない。けれどもそれをも乗り越えて、行かなければならないのだ。
 ぎゅっと抱きしめた祖母のからだは柔らかくて温かくて、絶対何があっても忘れない。 有限じゃないのだ。何事も。いつかこの居場所も変わってしまうし、私を見守ってくれる人々はどんどん遠くへ行ってしまう。感覚も記憶も、時間が連れ去ってしまうし、いつかは私だってなくなってしまう。 その中で何を感じて、与えてくれたものに感謝して如何に与えていくべきか。 私は考えて、生きていく。そしていつかは祖父母のように、あの百日紅の花のように、優しく凛と、在ることができたらと、願ってやまない。
平成27年8月23日 那覇空港発羽田空港行 機内にて
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himono-amagi · 7 years ago
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『変身』を再読したという彼のはなし
‪編集部にインターンに来ている大学4年(卒業を控えている)某文学部の子から聞かれた。‬
「商業的に書かれている一方で、小説も書かれてるじゃないですか。そこの分別って、自身の中でつけられてますか?」
「そうするしかなかったし、意外とできるものよ」私は答えた。
‪年も明け、なんとなく学生時代の欠片のように書き散らかした小説の類をまとめ直したばかりだった。その時自身の紡いでいた文章が、いかに鋭利な刃物のようだったかを目の当たりにした。そんな話をした。物書き、絵描き、音楽家、などという表現者一同。‬
「これは呪いだと思うの」なんて。
‪ちょうど学生くんは正月にカフカの『変身』を改めて読み直したそうだ。私は変身の終わり方が非常にすき、などと伝えた。‬
「感覚的な快感と思考の快感は別物なんです」
彼はそんな素敵な切り出し方で話し出す。
「例えばゲームは感覚的に快感でしかないから、どんどん摂取したくなるんです。でも時々、意識的に苦いものをインプットしなきゃ、思考を転がす快感はできないと思うんです。だから僕はカフカを読みました。」
タイミングってば、本当に粋なことをする。私が自らの駄文を評価後回しで綴り続け悶絶していたある日に、こんな言葉と巡り合わせてくれるんだもの。
卒論を提出し終えた彼は、最終発表を控えるのみだ。春は近い。
私は今年も書き続ける。
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himono-amagi · 8 years ago
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もう笑顔で「ようこそジャパリパークへ」を聴ける日は来ないのか
周知の通り、けものフレンズ第2期制作におけるたつき監督降板事件について、先程進捗があった。
現在私は〆切の迫った原稿を執筆していた途中だが、正直それどころではなくなった。原稿は寝なければどうにかなる。しかし当問題を今熟考しないというのはなかろう、そんな衝動に任せて今キーボードを叩いている。
今から書き出すのは、一般的に現在「カムバックたつき、KADOKAWAぶっ潰す界隈」も敵に回してしまう論考かもしれない、ということを前置きとして綴らせてほしい。
さてまず今回の騒動だが、事の発端は9月25日20時過ぎの、たつき監督のtwitterアカウントでの発言が原因であった。
突然ですが、けものフレンズのアニメから外れる事になりました。ざっくりカドカワさん方面よりのお達しみたいです。すみません、僕もとても残念です
— たつき/irodori (@irodori7)
2017年9月25日
仕事から一旦帰宅し、また仕事に向かう予定であった道中の私は、暗い住宅街で嘘のような文字列に、ぴしゃんと立ちすくんだのは言うまでもなかろう。無論、TLも同様のフォロワーで一時騒然となっていた。
私も反射的に呟いてしまう。
たつき監督の一件、これは完全に「たつき監督を返してよぉっ…!!」だし、とっとと皆で野生解放して、群としての強さを発揮するしかない。
— おゝしろ (@moshiroa1)
2017年9月25日
震える手で一旦出てきた言葉を綴り、急いで帰宅。一度思考を止めて仕事道具をかき集め、また仕事場に向かった。
一旦時間を置くと、感情の波が収まり少しずつ事の輪郭が見えてきた気がした。そしてあることに、ぴっと引っかかる自身にも気付いてしまったのだった。
”けものはいても、のけものはいない”
これは当アニメでのメインテーマとなっている言葉であり、上半期にどれだけの人命を救ったものであろうかというほど絶大なものであった。
そんな「けものフレンズ」特有の”優しい世界”が、昨晩に至ってはそのままクルリと手のひらを返し、勧善懲悪の文言がTLに並んでいたのである。
要は、監督を守るフレンズ(ファン)と監督降ろしを強行するKADOKAWA(セルリアン)である。
私も最初に思わず、けもフレ言語を使用し、そんな呟きをしてしまった。
そう、自分の意志とは別のところ、ごく自然に上記のような構図がありありと浮かび、気付けば投稿していたのであった。
そこで私はゾッとした。
何者かの目に見えない手に操られて言葉を紡いでいたのではないか、この言葉は私が書いたもので、このTLは本当にフォロワーさんが作り出したものなのであろうか?
答えは是でもあり、否でもある。
時間は1日経過する。
26日から27日に日付を跨いだ頃だった。けもフレ公式から続報が発表された。迫りくる仕事のデッドラインに震えていながらも、正直それどころではない。今はけもフレだ。
「けものフレンズ」の映像化プロジェクトに関するご報告を『けものフレンズプロジェクト公式サイト』NEWSページに掲載致しました。https://t.co/kflyM24ABJ#けものフレンズ
— けものフレンズ@公式アカウント (@kemo_anime)
2017年9月26日
公式からなされた発表は「たつき監督が制作から離れた経緯と制作体制の現状」といったものであった。
公式サイトが落ちていたので、善良なフォロワーさんが撮ってくださったスクショでの閲覧だった。
そこで思考がすべて繋がった気がしたのだった。昨晩感じた違和感も、なにもかも、すべて。
まず昨晩のたつき監督のツイートで気になったのは、「カドカワさん方面からの~」と「残念です。」というこの2つの言葉。
前者の「カドカワさん」だが、ここで固有名詞を出すことに私は違和感を感じた。あえてここで会社名を出す必要があるか、といえば否である。そこを明らかにする点に何かしら彼の意志を感じた。
そこに続く「残念です。」という言葉。
多くのツイートでも目にしたが、「たつき監督が『新体制にバトンタッチしますが、どうぞこれからもよろしくね!』って言っていればこんなことにならなかったはずな��に、『残念です』だもんな…。」というものがすべてだと思う。
この2点の言葉から、「KADOKAWAはたつき監督に何かしらのマイナスの影響を与えて、たつき監督の意志をないがしろにする決断を下したのだな」という印象が導かれる。
さらにたつき監督は、アニメ人気と並行して驚異的なキャラ立ちをした人気を誇っていた。(だからこそ今回の騒動が勃発したわけだが)
昨晩のたつき監督の発言で、完全にフレンズが発狂、KADOKAWA叩きの構図が爆誕したというわけだ。
しかし本日の発表を改めて読み直し、我々が直感的に読み取った構図ではなく、いかにビジネス的な破綻だったか、ということが散見される。
つまるところ、製作会社と大本のKADOKAWA間の二次流用に関する情報��有問題が一番の原因だったということだ。コンテンツで金を回すことをメイン事業としたKADOKAWAにとっては、人気にあやかって彼を特別扱いにするわけにはいかない。
その一方でこの時代のコンテンツのあり方を体現したたつき監督の斬新な発信方法を、いち企業としてどう扱っていくか。
結果として、たつき降ろしという残念な結果に繋がってしまったのであろう。
一方たつき監督は、怒っているわけである。おそらく彼もフレンズなのだ。完全にこっち側の人間で、だからこそファンが喜ぶ細かい配慮や粋な演出ができたのであろう。要はファン目線で行ってきた彼の方法を、コンテンツで飯を食っている会社にぶっ潰されたのだ。
だからこそ「カドカワさん」という固有名詞をある意味オトナゲなくツイートにぶち込み、「残念です」と我々フレンズの心をざわつかせる締め方をしたのである。
あのツイートが発されてからの、フレンズたちの発狂・典型文抗議ツイートの爆発といった一種の社会的現象を、たつき監督はすべて見越して、”ツイートする”という核スイッチを押したのである。
つまるところ、私が昨晩感じた”誰かに操られている感覚”は、たつき監督によるものだったのだ。
だからこうすべき、ああすべき、とここで議論するわけにもいかない。
おそらく今までフレンズとして仲良く「すっごーい」と唱えてきた大きいフレンズたちは、それぞれの方法で野性解放をするのではなかろうか。
私は何をすればいいのか、どうすればいいのかわからない。
けれどもう「ようこそジャパリパークへ」を聞きながら、朗らかな気分で空を見ることができない、
そんな事実を直視できないのである。
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himono-amagi · 8 years ago
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【2016春の18きっぷ つくば〜大分】①つくば〜三島
わたくしのライフワーク、旅。
手記はガリガリ残していたが、公にしたことはなかった。
しかし、今日の私は、猛烈に旅に出たい衝動に駆られている。そしてそうは問屋(現実)が卸さないのもまた事実。
なぜなら現在の生活は、ゆるゆる18きっぷで旅をできるような余裕のあるものではなく、”明日何食っていきていこう”状態であり、ガタンゴトン列車に揺られている場合でないのだ。
しかし! 私は! 猛烈に旅をしたい!! コノヤローッ(←何かへの咆哮)
この欲求を抑えるために、私は懐古の扉をこじ開け写真データをほじくり返す作業を始めたのであった。
これは2016年3月12日から始まった旅の1日目の記録である。
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全行程はつくば〜大分。約1週間ほどの旅であったか。
唐突だが今日から、私の衝動が落ち着くまで集中連載を行うとする。
1日目 つくば〜三島
正午ごろ出発。前日のアルコールが少し残っており、がんがんとする頭を抱えて荷造り。
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つくばから北千住までつくばエクスプレス。そこから18きっぷを駆使し、東京駅から東海道本線、まずは熱海まで。
居眠りをしつつも、新品の時刻表をパラパラとめくる。後ろに過ぎ去っていく街並みが心地よかった。さらば日常、私は微睡んだ旅に出るぞ、グミを噛みながら車窓を眺める。
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16時半、熱海着。
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熱海駅前温泉なる、年季の入った温泉へ。陽も傾き冷えてきた。そんな身体に染み入るお湯はなんとも最高の面持ちである。気づけば気持ちよさに唸り声を上げているわたくし。地元のおばあちゃんは一人だけ居た。
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17時半。風呂から出て、熱海で夕食を摂取する。商店街を抜け、フラフラとしていたところ台湾料理屋を発見したために突入。砂肝のつまみ、台湾ラーメン、台湾風麻婆豆腐を食べる。台湾ラーメンが絶品だった。たまらん。誰かつくばで店をやってくり。 
そのまま三島へ。
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グリーンホテル三島という、天下の怪しさグリーンホテル系列へ。汚くはない。古かった。そしてなにより部屋が狭い! とりわけ風呂場が天下一品の狭さ。それでもクタッとした体には十分の設備で、すぐに眠気が襲ってきた。
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