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ed. to the neverworld
金属を水が叩く音に混じり、時折犬の吼え声が聞こえる。あいまいだった意識がはっきりしてくるにつれて、その声は「早く起きて」とでも言うようにすぐ近くからひっきりなしに聞こえてきていることに気づく。
「……マックス?」
機械の少年がゆっくりと意識を覚醒させると、そこは小雨が降る小さな路地だった。左右には四角く高い建物が、暗い灰色の壁を濡らしながらそびえ立っている。今は夜なのか、路地の壁には等間隔に明かりが灯っており、真っ平らにならされた石床を照らしていた。 足元からふたたび吼え声が聞こえ視線を落とすと、一匹のビーグル犬が少年を見上げていた。
「マックス……」
名を呼び毛並みを撫でてやると、表情は変えずにしっぽを左右に振っている。その様子を見て、この犬が喜んでいることを少年は知る。しばしそうしていると、路地に灯��明かりのうちの一つ、そのすぐ横にあった扉が開いた。
「ルドくん?」
扉から出てきたのは、よれて機械油が染み込んだ白衣を着た壮年の男性だった。声に反応しその男性と目が合うと、彼はとても嬉しそうに顔をほころばせ、「所長ー!帰ってきましたよー!」と部屋の中へと叫んだ。 その様子を見て、少年――ルドはゆっくりとここが何処なのかを思い出す。あの扉、あの明かり、白衣を着た研究所の人たち。そう、僕は故郷へと帰って来たのだ。
「おかえり、ルド」
いくつもの本棚が並ぶ書斎の一室で、ルドは一人の老人と机を挟んで向かい合っていた。車椅子に座り丸眼鏡をかけた彼は、皺だらけの顔にさらに皺を刻みながらルドに微笑みかける。
「ずいぶんと無茶をしたようだな。君の姿を見てフェリシアやハインツが顔を真っ青にして悲鳴を上げてたじゃないか。それに、まあ、随分とずぶぬれで。旅先で海水浴でもしてきたのかい?」
肩を揺らして笑う老人に、ルドは先程のできごとを思い出し笑い返した。 全身ずぶぬれで傷だらけ、おまけに右腕を失っていたルドの姿を見て、研究員の何人かは文字通り悲鳴を上げた。彼らはルドをあっちこっち引きずり回しながら、痛くはないか、動作に問題はないかとルドを質問攻めにしながら彼の体を見ていたが、その様を見かねた現所長――目の前に座る老人が「ルドもひとまずは動作に問題はないようだし、彼も今日は疲れているんじゃないのか」と、彼らからルドを救出したのだった。
「それで一年かけての旅はどうだった? 君の言っていた『希望』は探してこれたかい?」 「うん。ちゃんと見つけたよ。大切なもの。旅先でマックスにも会えたんだ」
一年前、ルドは自分の希望を探す旅に出た。研究所の人たちは最初、一人で行くというルドを心配し反対したが、所長の説得により最終的には皆に見送られながら、ルドは初めて世界へ旅立った。長い道を歩き、船に揺られて海を越え、そして――。 そして、島に。彼が母から聞いた島にたどり着き、いろんな人に会ったのだ。そう、それは覚えている。そこでルドはたくさんのことを知った。様々な想い、願い。そして希望。だからこそ、ルドはそこで自分の希望を見つけることが出来た。自分の時をふたたび進めることが出来た。そこで彼らに出会わなければ、ルドは今こうして世界にふたたび立つことはできなかった。 でも、なぜだろうか。そこで出会った人々、景色を思い出そうとすると、夢から覚めた後、夢の出来事を思い出せなくなっていくように、細部が思い出せない。確かに、大切な人達に出会ったはずなのに。ずっと、その人と一緒にいたはずなのに。どんな顔だった? どんな声だった? どんな話をした? その人の、彼の、名前は……?
「ルド」
自分の名を呼ぶ声にはっと意識を向ける。なぜか、一瞬だけその声が違う誰かの声に聞こえた気がした。
「ルド、大丈夫か? ぼくも旅先の話を聞きたいけど、それよりもまずは休んだほうがいい。さっきからぼーっとしてるじゃないか」 「……そうかな? うん、そうかもしれない」
そうだ。今は疲れているだけかもしれない。きっと休めば思い出せる。しかし、ルドは心のどこかで、もう本当のことはどこか遠くへ行ってしまったのだと感じていた。
「しかし、ルド。右腕と胸はダメだよ。右腕と胸はさ。うーん、でも教えていなかったぼくが悪いのか。それに、どうせまた君は他の世界が見たいって、旅に出る気だろ? 」
白髪の頭を撫でながら、難しい顔で老人が言う。それに対し「何で僕がまた旅に出たいと思ってるって、わかったの?」と聞くと、「小さいころから一緒にいる君の考えそうなことくらいわかるさ」とおどけた様子で彼は答えた。
「怪我をして心配かけたのは、ごめんなさい。でも、胸は分かるけど、右腕はどうしてダメなの? 」
自分がヒトに近い形をしているということから、ヒトであれば心臓がある胸部の破損に問題があることはルドにもわかる。だが、自分の右腕がないことがなぜダメなのか、ルドには分からない。 老人はある一つの本棚に車椅子を進めると、その上のほうを指さし、図面の束をルドに取ってもらった。それらを机の上に広げる。そこに描かれていたのは、ルド自身の姿だった。
「君がこれを見るのは初めてかな。同じようなものは作業場所で見たことがあるだろう? 君がどういうふうに出来ているか描かれている設計書、その原本だ。作業場所にあるのはこの写しだね」
それらの設計書は、あるものは真新しく、あるものは紙の端がすりきれていた。
「君は、叔母さん――いや、君にはお母さんと言ったほうがいいか。彼女が一代で造ったわけじゃないんだ。ずっと、何年も何百年もかけて何人もの人が設計図を書き足していき、そしてようやく今の君が出来た。そしてこれが、一番最初の設計書だ」
老人が紙束の山の中から、一枚の設計書を探し出す。それは黄ばんで端はボロボロになり、文字もところどころ読めないほど掠れている。そのとても古い、古い設計書に描かれていたのは、今はもう無いルドの右腕だった。
「これが一番最初の設計書だ。これをもとにして、君の他の部位はできている。全体像でも、心臓部でも、頭部でもない。君のすべてはここから始まったんだ」
図面の細部までびっしりと記載がされている。使われている金属の種類、配線のつなぎ方、動力の伝え方、稼働方法。他の設計書よりも事細かく文字が書き連ねられている。
「これを書いたのは、ぼくや君のお母さんのご先祖様だと伝わっている。ずっとずっと、何世代も前のね。この設計書に書かれている内容は、当時では考えられないほどに高度な内容なんだ。その人はこの街の基礎を創った人だって言われてる。伝聞だから本当かどうかはわからないけどね。でもこの設計書だけで、ご先祖様がどれだけ優れた技術者だったのかは分かる。けれど、これだけの設計書を実現するには、あまりにも高度すぎて、当時の技術では設計書に書かれているものを造ることは不可能だったんだ」
そうして、彼の家系はずっと何世代にもわたって設計を書き、時に改良し、新しい技術を生み出し、そうしてパーツを造り、ずっとずっと、何百年もかけてルドを描き、造り続けてきた。ルドという一人のヒトを生み出すために。はるか昔の、彼を思い描いた一人の人の願いを叶えるために。
「なぜ右腕から始まったのか。なぜ、これほどの設計をしながら、それに必要な技術は創られなかったのか。所員の中には、『これはゼロからできた設計書ではなく、もとから存在していた右腕を解析したものじゃないか』って言ってる人もいるけど、今のぼく達に伝わっているのはこの設計書だけだし、少なくとも君のお母さんの祖父が所長だったころから君の体のベースはもう完成していたって話だから、真実はご先祖様しかわからない」
丁寧に一つ一つ記載されている設計書は、執念を感じられるほどに細かく書かれていた。もし、この設計書を書いた人が右腕を解析して書いたのであれば、とても丁寧に大切に右腕を観察したのだろう。 もはや掠れたその文字を、ルドは左手の指先でなぞる。ひとつひとつ、丁寧に。初めて見る、ルドが会ったことがない、ルドがこの世界に生まれる形を創ってくれた人の軌跡。初めて見るはずなのに、なぜか、その文字がとても懐かしく感じる。
「そして、これが次に古い設計書だ。さっきの右腕を設計した人と同じ人が書いたものだ。君の心臓部について書かれている。これだ。これが君の核を成しているものだ。形はちょっと掠れてるから分かりにくいな。……そうだね、応急措置をしてくれたフェリシアには悪いけど、もう見れる機会はそうそうないだろうし」
そう言うと老人は一つの小さな鏡をルドに手渡し、割れて剥き出しだった胸部を覆っていた仮止めしている装甲を、ゆっくりとはずした。
「ここには、永久にエネルギーを発することができる、とても小さな結晶が入っていて、それが君を動かしている。そしてこの心臓もね」
そこには、とても古い懐中時計が大切にぴったりと、ルドの胸の奥に仕舞われていた。美しい細工が施された蓋の装飾の向こうで、秒針を規則正しく動かしながら、ルドの鼓動を刻み続けている。ルドの記憶の奥で、何かが揺れ動き囁きかけてくる。初めて見るはずの時計。 でも僕は、知っている。何度も見ている。すぐ近くでこの時計を。
「ここの右端をごらん。……わかるかな? もうほとんど消えかかってて読めないけど、この設計書を書いた人の名前がここに書いてある」
老人が指さした先には、控えめに小さな文字で名前が刻まれてい���。彼の言う通り、その名は滲み、かすんでもう読むことが出来ない。だが、ルドはその字を食い入るように見つめ、何度も指先でその文字をたどった���何度も、何度も。繰り返し、繰り返し。 ルドの指先が震えた。何度もなぞる。そこに書かれた名前を。もう読むことはできない、その名前を。ゆっくりと確かめるように。 僕は知っている。そうだ、僕はこの人を知っている。名前も顔も、思い出すことはできない。それでも、ルドはこの名前がとても大切なものであることを知っている。 僕の心が覚えている。 大切な約束をしてくれた、大切な誰かを。
「とても長い時間がかかってしまった。でも、どれだけの時間がかかっても、君を完成させたかったんだよ。今でもよく覚えている。ぼくはとても小さかったけれど、君が初めて動いた日、君が生まれた日のことを。その時に僕の父も、叔母も、みんなどれだけ君の誕生を喜んでいたのかを」
丸眼鏡の奥の碧眼をルドに向け、優しく微笑みながら老人は言う。
「ぼく達は、ずっと君のことを待っていたんだ」
何年も、何百年もかかってしまった。それでも諦めなかった。彼のことを。ルドという夢を。彼らはずっと、希望を諦めなかった。 ルドは深く、深く息をつく。もう顔も声も、名前も覚えていない。それでもこれだけは覚えている。彼が自分と約束してくれたことだけは、確かに覚えている。
「……ありがとう。僕を創ってくれて。こんなに長い間ずっと待っててくれて。僕、少し休んだらやっぱり行くよ。君の言ったとおり、僕はもっと他の世界を見たいから」
彼は守ってくれた。長い時をかけてまで、ルドとの約束を果たしてくれたのだ。ルドの喉の奥がかすれ、胸が締め付けられる。僕と一緒に希望を探してくれた誰か。僕に希望のありかを示してくれた誰か。あなたは、僕と交わした約束を守ってくれた。果たすことが出来るかもわからない不確かな約束を、ずっとずっと、あなたは果たすためにここまで来てくれたのだ。 だからこそ、新たな希望を探しに行きたい。まだ見ぬ世界を自分の足で歩きたい。そうして、ルドは辿りつかなければならない場所がある。
「約束は守ってもらえたよ。だから今度は僕が、希望のありかを示しに行くんだ」
ルドは、胸の奥に託された彼の思いに、自分にしか聞こえない声で誓いを立てる。 窓の向こう、雨が上がり夜が明けた空から、ルドと彼のフェレスを優しく朝日が照らしていた。
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ed. from the everworld
バルナバーシュは夢を見ていた。かれは夜の海のせせらぐ柔らかな砂浜にうつぶせており、身を起こすと、あたりを見わたし、ここがたしかに故国ゲルダット――その十の都市のひとつ、拝火の街ジルヴァの西に続く、〈竜域の海〉に臨む〈月と海の浜〉であることが、妙にさえざえとした頭ですばやく把握できた。
身に着けている衣服は、寄せ手の隠密として囚われていたジルヴァの大聖堂から逃げのびてきた時のままで、厚手のくたびれた濡羽色の外套のほかは、皮製の防具を最低限に取り合わせた軽装のみだった。かれは大聖堂の地下で、ジルヴァの現在の監督者であるカレルから手酷い拷問を受けていたが、セニサの手引きのおかげで脱走できたのだった。そして無力と絶望のなか、ほうほうのていでこの海岸までたどりついた。かつて愛しあったセニサと逍遥し、口づけを交わしたこの場所に。
(あれから、私は……)
無意識に内隠しへのばされた手が懐中時計をつかみ、取りだして、細やかな意匠のほどこされた金の上蓋を開いた。特殊な動力源が発する永久的なエネルギーを得ながら、針は白磁色の文字盤のなかで規則正しく時を刻んでいる。時計は何も語らない――そのことに得体の知れない喪失感が身裡を這いあがり、バルナバーシュは立ちくらみのような激しい眩暈に襲われた。この時計に、大切ななにかがあったはずだ。思い出そうとしても頭のなかに深い霧がかかり、身もだえしかできない己れがひどくやるせない。
離れたところに、肩掛けの荷が砂にまみれて転がっているのが見えた。手がかりをもとめて開くと、魔術の助けとなる秘薬やわずかな食糧が散乱するなかで、まったく覚えのない、未知の材質からなる金属塊が異様な存在感を放っていた。
手に取ると、それは機械仕掛けで動く右腕のようで、強い力によって――おそらく斧のような武器で斬り飛ばしたあとが断面にみてとれた。バルナバーシュは知らず息をのみ、あえぎつつ額をおさえた。頭蓋の最奥がどくどくと痛み、これは絶対に手放してはならないのだと甲高く警鐘を発している。由来など分からなかったが、霊次元に通ずる魔術師であるかれは、この感覚の訴えをひとまず信じることにした。荷を背負い、砂をはらって立ち上がると、切り立った崖の上に暗鬱とそびえるジルヴァの中心街を見あげた。街中から上がる無数の火の手が大聖堂の尖塔の数々を燃え立たせるように照らし、戦さがすでに佳境にあるのを伝えている。バルナバーシュは戦慄した。
「セニサ……!」
ジルヴァの本丸であるはずの大聖堂をさして、砂に足をとられつつもバルナバーシュは駆けだした。すでに崩れかけ、あまたの窓から火を噴く街路につづく西門からは入らず、自分が来た道――セニサの案内でそこから逃がされた、大聖堂の内部につながる隠し通路へと引きかえす。
通路は大聖堂の真下――ジルヴァの街のはるか崖下にあり、海に流れ出ている数ある水路のひとつだった。バルナバーシュは躊躇なく暗く湿ってよどむ水路を突きすすみ、横道に入って腐食しかけた扉を蹴りやぶり、崖の内部に掘られた石造りの長い螺旋階段をとばしとばし駆けのぼった。不思議と疲労はつのらず、胸にある懐中時計が一秒を刻むごとに活力を与えてくれるような潜在力のみなぎりを覚え、勢いはむしろいや増すかにも感じられた。
最後の段を踏みこえ、石壁に似せた重い扉を押し開くと、大聖堂のいまは使われていない、木箱やがらくたの積み置かれた暗い小部屋のひとつに出た。セニサに地下牢から導かれ、そして別れた場所だった。逃走のとき、振りむいて最後に見たセニサは、彼女の行動を不審に感じたカレルの配下に見とがめられ、いずこかへ連れていかれるところだった。自分が逃げおおせたことはすんでのところで知られていないはずだが、彼女が心を読む魔術を会得したカレルの尋問を受ければ終わりだ。今度こそ、裏切り者としての末路――ひと思いには殺されず、いまわしい禁術の数々によって生きながら魂の業苦を受け、永遠に死によって解き放たれることのない悲運がセニサにもたらされてしまう。急がねばならない。
バルナバーシュは耳をすまして部屋の外をうかがった。くぐもってはいるが、廊下からは無数の戛然たる剣戟や、入りみだれる突喊と悲鳴、調度品が燃え落ち、破壊される音、壁が崩れる轟音が混沌と聞こえてくる。大聖堂は攻め入られており、なにを相手に戦っているのかはすぐに分かった。〈オールドクロウ〉の家門の軍勢だ。バルナバーシュ家は〈オールドクロウ〉の遠い傍系であり、代々が住む屋敷も、かれらの管轄である橋梁の街、ウィルミギリアにある。屋敷とそこに住む二人の使用人の安全を保障されるかわりに、おそらくは最後の当主となるセインオラン=エルザ・バルナバーシュは、命を受けてジルヴァの街に隠密として潜入していた。その任はまっとうできなかったが、〈オールドクロウ〉は長い歴史において何事にも中立をつらぬきつつも、唯一、時の浅からぬ同盟と不即不離の友誼が息づいていた拝火の街ジルヴァがカレルの支配によって穢れ、暗黒に落とされたことを知ると、義を果たすためついに出兵を決めたのだった。
バルナバーシュは、〈オールドクロウ〉の優勢を確信して廊下に飛び出したが、目の前で繰り広げられているのは酸鼻をきわめた地獄の有りさまだった。廊下���中庭では、多足の巨大な鰐や、複数のあぎとが張りつく不定形の黒い生物、無数の顔と槍をかいこむ腕がたえず浮かびあがる赤黒い肉塊などのおぞましい魔物の群れがひしめいて、〈オールドクロウ〉の戦士や魔術師らともみ合いになり、頭から次々と喰らってはかみ砕き、肉や骨がつぶされる聞くに堪えない音と理性あるものたちの断末魔を響かせていた。禁術を用いて召喚されたに違いないが、この大群のためにどれだけの生贄の血肉と魂、そして理解を絶する儀式が必要とされたのかは想像すらもしたくなかった。また、その多くが静寂を愛するジルヴァの罪なき住民たちであろうことも。
「バルナバーシュ!」
声がしたほうを振りむくと、〈オールドクロウ〉の家門の次男である豊かな黒髭をたくわえた男――名をハヴェルという――が、甲冑を鳴らしながら駆け寄ってくるところだった。直接、バルナバーシュに諜報を下知したのもこの者である。かれは優れた魔法剣士であり、右手には金の魔法的装飾が美々しいルーンソードが握られていたが、薄青く光る刃や刻まれたルーンにはいましも浴びた熱い鮮血がしたたっていた。
「おぬしが捕らえられたと聞いて、もう死んでいるものと思っていたぞ。我らはカレルの配下や、その後ろ盾である〈不言の騎士〉の増援と戦っていたのだが、きゃつら突然、苦しみだしたかと思えば、体がふくれ、あのような魔物に成り下がってしまったわ。いまさらだが世も末よ……我々は禁術などに手は出さんが、ゆえに成すすべも残されていないだろう。国は終わりだ」 「かもしれんな。魔術に善悪などなく――暴走するヒトの心こそが悪となり怪物となって、かような禁術をも生んでしまう。だが国が終わろうとも、私たちはまだ生きている。そして、あなたがた〈オールドクロウ〉は最後の砦なんだ。いまこそ、かつてゲルダットを興した十賢者のなかでも最高とうたわれた智者の血を継ぐ者たちとして、生きようとする人々の灯火となってくれ。頼む」 「忘れられては困るが、バルナバーシュ家もその血の継承者だ。どれほど遠かろうともな。して、おぬしはどうする。我らは撤退しつつあるが、ここで戦うのか?」 「やらねばならないことがある。セニサがまだ生きている」
そのとき、言葉を交わすふたりに一体の鰐の魔物が、のたうち、床に折り重なった死体を踏み荒らしながら突進してきた。二人は左右にさけてやり過ごし、バルナバーシュは腰に差した剣を抜き放つと、足をとめた鰐の背へ、尾からとぶように駆けあがって太い首根に刃を突き込んだ。自分が持ちえないはずの高い判断力や身体能力とともに、バルナバーシュはそこではじめて、手に持つ武器がただのありふれた剣ではなく、魔銀から鍛えられた業物であるのを知り、銀の薄刃は大気を鋭く切り裂けるほどに軽く、切っ先は鰐の異次元の物質からなるいびつな鱗を乳酪かなにかのようにたやすく貫いた。血管のように精密に、かつ生物的に張りめぐらした魔術回路によって、���力を通わせつつ驚くほど自分の手に馴染むものだったが、これをいつ手に入れたのかが思い出せず、混乱したわずかな隙にバルナバーシュは暴れる鰐の背から振りおとされてしまった。うめきつつハヴェルに助け起こされ、ルーンソードを構えた彼に脇へと押しやられた。
「さっさと行け。そしてセニサ殿を助けてこい」
バルナバーシュは指揮官たるハヴェルにその場を任せると、ヒトと魔物が殺戮に熱狂する阿鼻叫喚の渦中を駆け、死体と血だまりの海を泳ぎ抜けるようにして石の回廊を突き進んだ。中庭から望む空では赤く脈打ちながら膨張した月が、うごめく紅炎を幾筋も発しながら天頂にとどまり、いまこの地が現世と異界をつなぐ巨大な門と化している証左をまざまざとあらわしている。バルナバーシュは大聖堂内部の道すじを正確に把握していた。若かりしころに魔術と学問の研鑽に励み、学友のセニサと青春を謳歌した愛すべき地ゆえに。大聖堂は本堂である大伽藍の周辺をさまざまな施設が囲い、入り組んでおり、有事には砦としても機能する。バルナバーシュは本堂をさして向かっていた。
やがて地獄を抜け、ヒトも魔物の姿もなくなって、聞こえるのは自分の息づかいだけとなりつつあった。本堂へ続く廊下はしんと静かで奇妙に気配もなかったが、その理由を考えているひまなどなく、ひたすら走り、ついに百フィートを超える高さの天井をもつ大伽藍にたどりついた。翼廊には建国の祖である十賢者を描いたステンドグラスがそびえ、背後には巨大な薔薇窓が輝いていたが、赤い月の投げかける光がすべてを血のごとき真紅に染めあげていた。連なる長椅子の濃い影のなかからいくつもの闇がわきあがり、人の形をなして這い出ると身をひきつらせながらバルナバーシュに殺到したが、かれは果敢に銀剣を鞘走らせ、敵の喉元を突き、首を宙にとばし、また振るわれた闇色の刃をはっしと受け止めつつ防御を切りくずしてその囲いを破っていった。
「セニサ!」
最奥に設えた石造りの祭壇には、求めていた女性が灰色の長衣を着せられた姿でぐったりと横たえられ、その前にはカレルが――顔の右半分を残して肉体のほとんどが溶け崩れ、ふくれあがり、繊維のように無数の触手や肉の細いすじがねじれながら波打つ異形となりはてた男が立っていた。かれはバルナバーシュの姿をみとめたが、かまわずに、くぐもった笑いをもらしながらセニサを取りこもうと腕だったもの――青と緑の宝石におおわれた触手の一本をのばしてゆく。カレルは理性をとどめながらも肉体そのものが異次元の一部と同化し、門の役目となって、彼女を混沌のただなかへと連れ去ろうとしているのだ。バルナバーシュは絶叫しながら、銀剣とともに大伽藍の祭壇へ駆けていく。近づくにつれ、カレルは肉体のあらゆる節々と裂け目から、この世のものではない光炎を噴き出し、みだりがましくも激しい様々な色相をまたたかせ、ゆがみ、ひしめき、抑制のきかぬ痴れきった力の波動を放ってバルナバーシュを押しかえそうとした。黄緑の熔岩があふれて泡だち、強烈に移りゆく奔流のなかで怪鳥めいた哄笑をあげ、己れを神だと驕った者の末路を見せつけながらも、カレルはいまもって禁術を自在にあやつり、セニサを、そしてジルヴァの街をも呑みこむべく異界の領域を拡げる古代の呪文を低くつぶやきはじめた――カレル、そして禁術に手を染めたものらが永遠と信じたかたち、完全だと思い描いた世界を手に入れるために。
バルナバーシュが永続的に放たれる波動に銀剣の切っ先を差しむけると、霊圧を切り裂くことができたが、それでも前進は困難なものだった。だが、セニサに魔手が巻きつき、門となったカレルのなかへ引き込まれつつあるのを目にしたとき、胸元から青白い光が差し、突如として白熱した! すさまじい力が流れ込んできて、横溢するバルナバーシュの肉体と精神は耐えきれず咆哮し、まばゆい魔力の青い光を剣から放ちながら床を蹴った。一足飛びに祭壇に躍りかかり、艶美な石に守られた触手を目にもとまらぬ剣速で断ち、宙高くへ斬り飛ばした。そして驚愕するカレルの、心臓と思しき肉塊のひだのなかへ銀剣を突き入れる。そのまま両手で柄を握りこみ、触手や肉のすじを引き裂きながら斬り上げてカレルの頭部を中心から両断した。カレルは自らの重みに潰れるようにして崩れ落ちたが、いまだ繋がったままの異次元のロジックに生かされているのか、身の毛もよだつ異形の悲鳴をあげながらのたうっていた。バルナバーシュはその姿に同情こそすれ、悪心や嫌悪を覚えることはなかった。
「すまない、カレル……」
まだ目を閉じて眠るセニサに息があり、異常がないのを確かめると、バルナバーシュは彼女を抱きあげて急ぎ大伽藍を脱した。もはや制御のきかなくなったカレルの肉体からは、異次元の際限なきゆがみ――現次元には抑えきれぬ未知のロジック――があふれ続けており、その先触れにさらされたあらゆる物体は変質し、カレルと同じようにねじれてのたうち、でたらめに様々な生命が生まれ、数分ともたず息絶えて腐り、甘い熱を発するおびただしい死骸の海をなしていった。そうしてゆがめられたジルヴァの大聖堂が、灯台たる尖塔が、灰色の静寂の街と、そのかけがえのない歴史のシンボル――目に見えぬ象徴的な存在――が、儚いまぼろしだったかのように崩壊していく。跡形もなく。ふたたび隠し通路を抜けて、〈月と海の浜〉まで避難したバルナバーシュは、セニサを砂浜に横たえながら、火勢の増したジルヴァの街が巨大な葬送のなかで燃えて灰に帰していくのを茫然と眺めていた。愛おしく、懐かしきものへの憧憬のように。
ゲルダットという国は遠からず終わりを告げるだろう。十の都市のうち、八つはいまだ禁術に酔いしれ、一つはいま眼前で灰となり、残された一つだけが小さな光の欠片――希望の寄る辺だった。〈オールドクロウ〉の家門が治める、ゲルダット最西端の都市、ウィルミギリアなる土地だ。西方の多民族国家、ハンターレクとの交易が盛んで外交政治に長けた都市だが、このままゲルダットが異界の力にあふれた魔境と化せば、ハンターレクへと吸収されていくのかもしれない。それでも、ウィルミギリアには様々な可能性が残されている。バルナバーシュ家の屋敷も無事に守られていることだろう。
馬も船もない。街道は野盗が目を光らせているので危険だ。セニサを背負ってウィルミギリアへ向かうためにも、いまは休まねばならなかった。あるいは目覚めるまで待つのがいいのだろうが、あの葬送の光景を彼女が見てしまったら、という不安がバルナバーシュの心中でまさっており、可能なかぎりジルヴァからは離れておきたかった。ジルヴァの街を治めつづけた家門〈灰の乙女〉の直系たるセニサもまた、街へとってかえし、ともに灰になろうとするのではないかと、その彼女を果たして私に止められるのだろうかと、バルナバーシュはひとり苦悶しつづけた。あらゆる秘密と呪いが海底に眠るとうたわれる〈月と海の浜〉の、寄せては返す波の音楽的な音を聴きながら。異界とのつながりが断たれた月は、もとの真珠のごときゆたかな色あわいを取りもどし、ひとつの終わりと始まりの解放を穏やかに静観していた。
白地のカーテンが初夏のそよ風に揺れ、なにものかの訪れと錯覚した意識が机でまどろんでいた頭をもたげさせたが、目を巡らせた狭い書斎には自分以外の者はだれもいなかった。心地のよい昼下がりだった。絨毯のない板張りの床も、乳白色のやわらかな左官壁も、また棚や調度品も簡素な一室だったが、父の代から長年仕えてくれた使用人が亡くなるとともに離れたウィルミギリアの屋敷よりも風通しはよい。あのあらまほしき思い出の残る家から去るのは心を焦がすばかりだった。だが、もうひとりの――みずからとさして歳の変わらぬ女性使用人がいとまを得ると、そこにささやかに住まい、いまは屋敷とともに思い出を守ってくれている。それは彼女自身の願いや意思だったが、やるべきことを終えたあかつきには、家族を連れていつでも帰ってきてよいのだとも言ってくれた。
扉がほとほとと叩かれ、ひとりの女性が部屋をおとずれた。長い銀灰の髪を編んで束ね、薄手の白いチュニックと藍色のスカートを爽やかにまとったセニサだった。あの美しかった灰色の長衣の姿は、ジルヴァの街が失われた日から一度も目にしていない。思い出してしまうのだろうかと思うと心苦しかった。
セニサは薬草茶の器を載せた盆を机におくと、そこに広げられている図面をしばらく一心に見つめていた。
「これが、あなたの描く未来なのね」
私の肩に手を置きながら、ものやわらかに彼女は言った。うなずき、私はそばにあった機工の残骸――あの日、荷物に入っていた見知らぬ機械仕掛けの腕――を手に取り、ためつすがめつ眺めてみる。そして窓の外へ目をやった。あれから十年の歳月が流れた……。ゲルダットという国は消え、その大地もまた各都市とつながった異次元からあふれだした力によって変容し、人跡は失われ、岩の多い野ばかりが広がるだけの辺境と変わり果ててしまった。太古の火山がふたたび目覚め、火を噴き上げ、おびただしく氾濫する熔岩によって大陸そのものを作り変えられたかのようだった。三千年以上も昔、神の怒りに触れて滅びた北方大陸より生き残りを率い、新天地を求めて〈竜域の海〉を越えてきた十賢者がここに叡智の小国を興したのだが、それ以前の支配者のない自然に立ち返ったのだ。東西それぞれの隣国であるハンターレクとミラの主導者たちは、ゲルダットが滅びたのちも魔術によって呪われた地として近づこうとはしなかった。しかし恐れ知らずの有志たちは、新たな土地、新たな富というまだ見ぬ夢をたずさえて、開拓に乗りだしはじめている。私たち二人もそのさなかにあった。
私とセニサは、開拓者の村で読み書きや様々な知識を伝える教師として、また有事の相談役として働いている。このまっさらな天地に流れてきた開拓民の多くは、ハンターレクやミラで貧困に苦しみ、またある者は迫害を受けて暮らし、教養を持つことの許されなかった境遇にあった。知識の伝授は、ここから長い時をかけて発展し、かれらとその未来を守る鎧ともなるだろう。
私はその暮らしのかたわら、開墾や土木を助ける機械仕掛けの自動人形の研究をしている。魔術で生み出せる自立式の泥人形、ゴーレムでもこなせるはずだが、いまは魔術に頼らずともすむ道も探さねばならないと考えるようになった。
(悪を滅ぼすのではない。悪を善に変える――それが過去をすら償い、みずからの手で運命を編みだす技となるのだろう)
私には、無知――怒りと恐れによって多くの書を焼きはらった悪がある。カレルを殺さざるをえなかった悪も。このゼロからの出発は、長い道のりとなるだろう。
開拓者たちが作物の世話を終え、切り株に腰かけて談笑している屋外へと放った目を、手に持った機械仕掛けの腕にもどす。腕は人体を模して精密かつ柔軟に作られ、もし本体に繋がっていたなら完璧とも言えるはたらきで動いていたのであろう。どこか遠い国から流れ着いたのだろうか――しかし漠然とだが、この腕は手放してはならないものだと、いまでも感じている。守護、約束、呼びかけ、絆、思い出、夢……あの〈月と海の浜〉の水底から唯一、引き揚げられた甘くも苦い秘密、あるいは呪いの側面を持った愛。人知の及ばぬ遠いかなたの不可避のロジックによって私に結びつけられ、次元さえ越えてきたのかもしれなかった。
「セイン。これはあなたの懐中時計なの?」
セニサが図面をさして尋ねてきた。自動人形の核となるエネルギー源として、懐中時計とその動力の結晶体が役立ちそうだった。だがそれ以上に、この時計をこの子に、私の夢にこそ託したいと考えていた。そう伝えると、セニサはうなずきで同意を表した。
「それでも、私は託すだけだ。何を選ぶのかは、この子に任せたい。世界を作り出すのは、その時代を生きる者たちなのだから」
青く晴れ渡った天空を見上げ、思いを馳せた。過去、現在、未来の連なり――そしてあるひとつの象徴へと。はるかなる彼方にそびえる大樹の豊かな枝葉のさざめきが、空を往く風によぎっていった。
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104 Far away
荒れ狂う波が幾度も飛沫を上げ、冒険者たちの乗る船に襲いかかる。彼らの乗る船は嵐の真っただ中にあり、どこを見渡しても他の船はおろか、陸地さえ見えない。
「ほら、右からでかいのが来るだろっ! もう少し速く進めないのかよ、おっさん!」 「やれるだけのことはしている!」
吹きすさぶ風と波の音に負けじと叫ぶナナヤの声に、バルナバーシュが同じく叫びながらナナヤの指示に合わせて舵を操り、答える。皆、船べりや帆柱に捕まり、声を張らなければ相手の声が聞こえない。それほどの嵐の中、木の葉のようにくるくると回りながらも、的確なナナヤの指示もあり木製の小舟は未だ転覆せず嵐の中を突き進もうとしていた。幾度も頭から波しぶきをかぶり、目を開け続けることさえ難しい。それでもナナヤは前を見据え、己が進むべき道を見定めようとしていた。 寄り添うアセナを抱きしめ、海水で痛む目をこれでもかと見開く。真っ暗な空と海の向こうにあるものを見逃すまいとナナヤは神経を研ぎ澄ませた。一時でも、気を緩めるわけにはいかない。ここで沈むわけにはいかないのだ。あたしには、託されたものがある。ハインに繋いでもらったとても大切なものがある。あたしはもう、自分の願いを諦めない。
「ぜったいに、あたしは進むんだ」
無意識に、懐にしまった彼からの贈り物を握りしめた。
「しかし、この嵐の中ではそう長くは持たないぞ」
ナナヤの隣で、同じく波間の向こうを険しい表情で見つめていたフェリクスがそう叫ぶ。
「でも、あたしたちは……ッ!」 「行かねばなるまい。そうだろう?」
否定的なフェリクスの言葉に牙を剥き吼えようとしたナナヤに、不敵な笑みを浮かべながらフェリクスが答えた。その顔にフンと鼻を一つ鳴らし���ナナヤは再び前を見る。
「イススィールの崩壊の影響だろう。この海そのものも不安定だ。波の動きも普通ではない。私が後方の動きを見よう。皆、重心をなるべく低くしろ! ルド、貴公が我々の中で一番重い。なるべく船の中央にいてくれ」
うなずき答えたルドを確認すると、フェリクスは船の後方をみやる。その先にはもう、あのイススィールの面影はどこにもない。イブの亡がらを抱いた島は遥か彼方に去ってしまった。思わず奥歯を噛みしめる。残された彼女のデータを使い、ふたたび彼女を造ることはできるだろう。だがそれはもう、共にイススィールを旅した彼女ではない。それは新たな意志を持った別の誰かだ。しかし、それでも私は彼女を造らねばならない。ふたたびお前に会いに行くと誓ったのだから。
「バルナバーシュ殿、まだ舵はきくか?」 「どうだろうな。かろうじて動かせているといったところだ」
幾度も波に持っていかれそうになる舵を必死に操る。いつ操舵不能になってもおかしくない状況だ。襲いかかる荒波以外にも、波間から時おり噴出する硫黄のようなガスを避けなければならない。これまで幾度も無謀と思えることはしてきたが、今回はもう駄目かもしれないと、バルナバーシュの頭をよぎる。ずっと変わらない景色。どこまでも続く暗雲。進めば進むほど、様相は悪くなるばかりのように思えた。
「バルナバーシュさん」
かけられた声に視線を向けると、ルドと目が合った。まだ絶望に染まっていないその視線に、バルナバーシュはうなずきを返す。前に立ちはだかるのは進退きわまる状況である。だが、ここで諦め、背を向けてしまえばそれで終わりだ。ルドとの新たな約束も、ずっと背を向け続けていた故国での運命と、セニサへの想いも。私はもう、背を向けることはできない。バルナバーシュは、かじかんで感覚がおぼつかない手にそれでも力を入れ、舵を握りしめた。
「マックス、しっかり僕の側を離れないで。大丈夫だから」
抱え込むようにして抱きしめたマックスを見つめ、ルドは呟いた。その言葉はマックスではなく自分自身へと向けられたのかもしれなかった。大きく揺れる小舟の上で大切な人達に囲まれながら、ルドは目の前に広がる景色を見つめていた。先が見えず、終わりが存在するのかも疑わしくなるような嵐。先が見えない中、気を張り続けるというのは至難の業だ。 ルドは、この景色を前にもどこかで見たことがあるような気がした。いや、景色ではなく先が見えない、終わりが見えないという不安、恐怖、絶望を。ルドが時を止めたあの日、世界はずっと灰色で、光はなくルドにとって何もない世界だった。果てしなく続く絶望と虚無、悲しみ。全てが終わってしまったと思っていた。でも、そうではなかった。そうではないことをルドは知った。ふたたびルドが歩き出せたのは、大切な母に教えてもらった言葉、そして新たに出会えた彼らのおかげだ。世界は灰色ではなかった。ルドが歩き出せば、希望を自分の手で掴み取ろうとすれば、絶望も悲しみも大切なものに変えることが出来る。 だから、僕はまだ歩き続けたい。まだ果たしていない約束のために。まだ見ぬ新たな希望を探しに行くために。
「バルナバーシュ殿!」「おっさん!」
悲鳴に近い二つの声が上がった。彼らの視線の先、右舷側から、巨大な波がこちらに向かってくるのが見える。「舵がきかない!」 バルナバーシュがうめいた。
「どうなってんだよ、これ! こんな波、でたらめだ!!」
苛立つナナヤの顔から、みるみる血の気が失せていく。急にいくつも渦巻くような複雑な波が小舟を取りまき、バルナバーシュの握っていた舵が暴れ出す。急いでルドが身を乗り出し、バルナバーシュとともに舵を強く握る。彼らのこれまでの努力をあざ笑うかのように、波はいや増して荒く複雑な動きになり、海蛇の群れさながらに矮小な小舟を絡めとってゆく。雷鳴がとどろき、流れて通り過ぎてゆく雲の向こうには、ただただ暗闇しかない。海から噴き出すガスが、海水をごぼごぼと煮えたつ湯のように泡だたせる。
「皆、船に掴まれ!」
フェリクスが叫ぶとほぼ同時に、小舟を巨大な波が襲った。上から押しつぶし、流し去ろうとする強い力。とっさに残った片腕でマックスを抱きしめてしまったルドを、バルナバーシュが支えようと手を伸ばす。だが、その手はすぐ隣にいるはずのルドを捉えることはなかった。確かにこの手につかんだはずなのに。
容赦のない流れは、小舟を無残に砕き、その上に乗っていた小さな彼らを暗い海へと突き落とした。波が、音も景色も全て奪い去ってゆく。彼の元へ、バルナバーシュのところへ行かなければと、ルドは必死にもがく。だが、何もかもがルドの意思に反して遠ざかっていった。海面の光は遥か彼方。まるで水面に映る景色のように光が揺らぎ、水の感触がなくなる。 ルドはこの感覚を知っていた。あの街で、湖で、沙漠で。時空も次元も全てが遠ざかってゆくあの感覚。でも、それはどんな場所だった? 思い出せない。記憶の中の景色が揺らぎ、溶けてゆく。見てきた景色、出会った人の名前、顔。心の中で何度も彼の名を呼ぶ。ともに旅をした彼の名を。それさえも、徐々に揺らぎ始めている。
――でも、僕は忘れるわけにはいかない。
もう、あの場所をはっきりと思い出すことが出来ない。覚えているのは、空と風の匂い。そこは大切なものがたくさんあったのだと、大切な想いがあるのだという記憶の欠片のみ。
――あの場所で出会った彼のことを。彼との約束を。
もう、彼の顔も思い出せない。確かにあの場所で出会ったはずなのに。大切なものを一緒に探しに行った人に、出会ったはずなのに。名前も揺らぎ、消えてゆく。 しかし、それでも。
――それでも、僕は忘れない。僕の心は忘れない。あなたのことを。あなたとの約束を!
薄れゆく意識の中、強く、ただただ強く、少年は自分の心にその想いを刻み付けた。
荒れ狂う波にもまれ、もはや自分たちが乗っていた船がどうなったのかもわからない。その中で、バルナバーシュの目は、下へ下へと落ちてゆく彼の相棒、ルドの姿を追い続けていた。すでに届かない距離にあると分かっていながらも、手を伸ばし続ける。遠ざかる景色と感覚とともに、小さくなってゆく彼の姿。彼を船の上で掴めなかったとき、バルナバーシュは心の奥でとうに気づいていた。こうして、手を伸ばしても彼に自分の手が決して届くことはもうないのだと。それでも、バルナバーシュは彼に手を伸ばし続けることを諦められなかった。希望を最後まであきらめないことを教えてくれた、彼だからこそ。 指先をのばし、何度も、何度も、彼の名を呼ぶ。にじむ景色と、薄れゆく己の意識。そして、徐々に彼の姿さえも記憶の中でおぼろげになってゆく。
――私は忘れない。
追い続けるものが遠ざかってゆくにつれ、その名前さえも、徐々に思い出せなくなってきていることに恐怖する。
――それでも、私は忘れない。君のことを。君との約束を果たすために!
その時、もう遥か彼方、姿形もおぼろげで見えないはずの彼の胸元がはっきりとバルナバーシュの目に飛び込んできた。傷を負っていた彼の胸部装甲。それがゆっくりと外れ落ちる。これまで幾度か、彼の胸の奥で光を放っていた物。その姿があらわとなる。 バルナバーシュの碧眼が驚愕で見開かれた。
――君がなぜ、それを……!
ひときわ強く輝いた彼の心臓の姿が、バルナバーシュが意識を手放す前に見た最後の光景だった。
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103 Promise
空は青く澄み渡り、アストラは静かで穏やかだった。絹のように地に薄く張った水面はまぎれもなく天を映しながら、その鏡面にはさらにひとりの、現実にはすでに存在しない人影が、大いなる戦いを終えたフェレスの主らを見守りつつたたずんでいた。ストラーラだった。淡い青みがかった銀髪と左右の均整のとれた美しい姿を持ち、だが今ならば、その身裡にはまったくの未知の力、無秩序の根源である混沌の資質を宿している者なのだとバルナバーシュには分かった。虚無と対をなして七つの資質を少しずつ持ち、そのカオスの不合理をはたらかせて変則と放縦のパターンを織りあげながらも、我々とともにロジックを生みだし、同じ結果にも到達しうる者……。予知を拒み、冷笑的でたわやすく心を開くことのないあやうい背理のなかで、彼女はなにを願い、なぜ円環の終わりに抗いながらフェレスのかけらに力と希望を与えようとしたのか。
バルナバーシュは、おそらく彼女のようなものの力こそが虚無と同様に、私たちヒトにとって最大の宿敵となり、またなくてはならぬ存在にもなるのだろうと漠然と感じとった。
ディオレが混沌の少女の幻影に歩み寄って、数歩離れたところにひざまずき、唇にあてた指を口づけを介した儀式のように水面に触れさせる。すると規則的な波紋が音もなく広がって、うっすらと輝き、水面に映っていたストラーラは反転しながら彼らのいる次元へ実体をともなって顕現した。その場にいる全ての者の視線が向けられたが、彼女は意に介さず、人も無げに口を開いた。
「……私はあなたたちの誰よりも、世界は夜に満ち、いつかはかならず終わるものと思っていた。私はひどく退嬰的な世界に生まれた、血も薄い不具の子だった。まるで滅びゆく時代を模した申し子のように。ゆるやかな絶望が落とす影を感じながら、ただひとりであることや、自然の営みだけに心を安らかにして、ヒトの可能性というものは露ほども信じていなかったし、願いや欲望などは冷笑すべきものだった。ときに不全のからだに苦しみ、ときに御しがたい衝動に振りまわ��れながら、それでも自分がなぜ世界に生きようとするのかさえ判然とはしない……。そんな私のもとにも、フェレスが目覚め、けれど自分の願いなどなにも分からなかった。〈可能性〉ではなく、〈運命〉のまにまにただ任せてイススィールへと来た。何よりフェレスの力が、私の短かった命を永らえさせてくれたから」
思いに沈んだ目で、長い溜息のように少女は淡々と、己れの来歴を語った。憂鬱に満ち、病的な気風のただようこの振る舞いが、心を取りもどした本来の彼女のありようなのだろうか。差し出した両手のなかがにわかに青白い光であふれると、小さなゼンマイ式のオルゴールがそこに現れる。ストラーラのフェレス――可愛らしい草花の彫りが入った木箱からは、悪夢めいて迷えるものがなしい歌が奏でられ、同じ旋律が切れ目なく続くさまは、彼女にとっての永遠を象徴しているようでもあった。
「私はあるひとりの魔族の男と、島の波止場で出会い、なかば連れられるようにしてリギノの神殿を訪ね、そうして七つのパワースポットをも巡っていった。あなたたちのように、さまざまな人々、さまざまな思い、さまざまな記憶に触れて、一歩一歩、少しずつ、世界の中心へと進みながら……。どうしてかは分からないけど、そんな旅や冒険は楽しかったし、景色は美しく、パートナーは得がたい友だちで、こんな私に命をかけて良くしてくれて、私もやがて、彼を守るためなら危険を冒してもよい思いを強めていった。彼は私と違って楽観的だったけれど、魔族らしく混沌的なところは似ていて、お互いがお互い以外の者には飽いていたから、長く続いたのかもしれない。そしてミュウにもグッドマンにも味方せず、まるで親に楯つく子供みたいに、無邪気に私たちははざまの道を進んでいった。………」
どこか悔いるように、ストラーラはかたく目を閉じる。
「あんなことになるなんて思わなかったの。人間になったアンドロイド、ユキルタスの導きでアストラで戦ったはてに、ミュウとグッドマンはさしちがえ、クレスオールは無念のなかで消滅し、要石であるユテァリーテは砕かれた。ユキルタスは物語は終わると言っていたけれど……それでもヒトに希望がある限り、いつか新しいイススィールは生まれるはずだった。そう、イススィールとエターナルデザイアーの伝説は多くの次元と結びつきながら、女神の意思さえも超越した永遠の円環〝だった〟から。でも私たちは、より大きな、もっとも上位にある絶対的な運命をその時に感じたわ……。『もう二度と、伝説はよみがえらない』のだと。島を形成するイメージはただ薄れて消えるのではなく、みずから燃えあがり、過去から未来へ、時そのものがはてるまで……すべての次元、あらゆる世界と存在のなかへ駆け抜けるようにして、全てが灰と化していった。喪さえ拒む仮借なき滅びによって、この神秘の島を知るわずかな人々に、鮮烈な記憶の痕を、秘密として残しながら。本当の、本当の終わりだったの。火をまえにして、私は――ひどく悲しかった。流したことのない涙さえ流した。でも、何も言えなかった……あまりに突然のことで、信じられなかったから。自分のその嘆きの正体は、今でも分からない。世界はいつか終わるのだと、あんなにも強く思っていたのに……。パートナーも、私とまったく同じ気持ちだった。そして私と彼は、イススィールでの思い出をレリックとしてフェレスに刻みながら、燃えさかる世界のなかであることを願い、また約束を誓った」
バルナバーシュのとなりで、かすかにディオレが息を呑む気配があった。幸星の民を束ねるこの戦士すらも知りえぬ事実が言い連ねられているのだろうか。
「もう一度だけ、かりそめでもかまわない……私のフェレスを要石にしてイススィールのイメージをつなぎとめて、この地を残し、エターナルデザイアーをまだ必要とする者たちを受け入れつづけること。それが、この島で生まれてはじめて生きる希望を抱いた、私の願いだった」 「私たち幸星の民の父祖が約束したというのは、ストラーラ、あなたとだという。パートナーとする魔族の男が、私たちの父祖なのか」 「そうよ、ディオレ。彼はもともと、黒魔次元からのはぐれ者で、次元から次元を海のように間切ってわたる旅人でもあった。名はエイデオン。いつか心を失うはずの私――偽りながらも、繰り返されるストーリーや志半ばで果てたフェレスのかけらを受け入れつづける私に、終わりをもたらす約束を交わした。そうして永い時が流れ、彼と私の物語も忘れられて、あなたたちのなかで掟に変わって残るだけになったけれど」 「父祖はあらゆる次元で落伍者や居場所のないものたちを集めながら、最後にオルトフの次元を見いだし、そこを彼らのためのささやかな住処と定めた。そしてフェレスを持つものが人々のなかから現れはじめると、彼らを鍛え、オルトフの次元からデスァ闇沙漠へつながる隧道を開き、あの場所のイメージをとらえながら進む案内人になることを掟にしたという。だが、父祖も長寿だったが定命の者であり……最期に自身の古い約束を、後世の者たちの手で果たしてほしいと言い残して現世を去っていった。約束ははざまの道の先にあるのだと」
ディオレが継いだその話に、ストラーラはいくらか満足したらしい顔をみせ、「昔話はもうおしまい」と首を小さく振る。
「それにしても彼、私と冒険した思い出や、約束にこめた想いなんかは、きっと誰にも話さなかったのね。おかげでディオレや後世の人達は、私をただの倒すべき敵かなにかのように思っていたようだけれど」
ディオレは言葉を詰まらせたが、ストラーラはそこではじめて、ヒトとしての笑みを浮かべ、すこし嬉しそうに含み笑いをもらした。そうして視線を、今度はルドへ、さらにバルナバーシュとフェリクスにも向ける。その瞳はいま、あらゆる人々の面影が去り、本来の赤みがかった黒玉の色に艶めいていた。
「最後のパワースポットを開放するわ。私のフェレスの力を、あなたたちに託します」
ストラーラがオルゴールをかざすと、その場に青白い光の泉水が生じ、イススィールの最後の力が滔々とあふれだして輝いた。オルゴールは見る間に朽ち、木箱がほろほろと崩れると、中にあったシリンダーは茶色く錆びてしまっていた。
「きみのフェレスが……!」
ルドは嘆いたが、ストラーラはそれに首を振った。
「私にはもう必要のないものよ。目的はすべて果たされたから。かつて、ユキルタスのフェレス――かなめのビスも同じようになったけれど、そのわけがやっと分かった気がする。彼もきっと、かなめからの決別を最後には望んでいたのかもしれない」
パワースポットの前に、ルド、バルナバーシュ、ディオレ、フェリクスが集い、目と目をかわしあったが、たがいに何も言わなかった。彼らの後ろでは、獣人の娘ナナヤと猟犬のマックスが固唾を呑んで背を見つめている。
ルド以外の者がフェレスをかざすと、光は柱のように広がって立ちのぼり、彼らの意識と五感を包みこみながら新たな力を伝えてきた。それはいにしえより脈々たる、〈運命〉を帯びながら世界の定常を守ってきた数多くの英雄たりし者の極めた力と生涯の技、そして記憶――決戦の地アストラに到達しうる戦士だけに継承を許された、偉大なる頂きの光だった。そして四人もまた、継承を経てその伝説にいつか連なっていくのだろう。光の向こうに、かつてまことのイススィールで神秘の旅を経験した冒険者の何千という影が往還している。ある者は夢の化身を晴らし、ある者は魔王の破壊を乗り越え、ある者は女神の支配を砕いた……。鋭く冴えたリズムが鳴りわたり、続いてもうひとつ、またひとつと加わってゆき、イススィールの天と地に複雑で精妙なこだまを響かせた。意志に鍛えられた心身と霊的に研ぎ澄まされたセンス、内外を問わぬあらゆる攻撃をはねかえし、世界を切り分ける言説といかなる脅威にもひるまず目的を完遂しうるモラルの集中、そして調和への約束の歌が過去から未来へ、無限のかなたへと広がっていく。冒険者たち、いにしえの英雄たちの影をも越えて、世界の中心に立つある一人の、甲冑を鎧った者が力強いまなざしを四人に送っていた。その鎧はサークによく似ていたが――空櫃ではない。
「リギナロ!」
ルドが何かをさとって、その名を呼ばわった。リギナロは神殿で決意を示された時と変わらぬ気高さで、ヒトの心の深奥より、この世のすべての冒険者たちを祝福しているように思えた……。光が薄れていく。宇宙と個人がひとつとしてたがいを映し、ふくみあう深遠より浮かび上がり、秘密の回廊を抜け、四人の意識は現次元へ、アストラの地へと戻ってきた。
彼らの帰還を見届けて、ストラーラはもろく微笑んだ。
「約束を果たしてくれてありがとう……そして、さようなら。開眼人、極致にいたり、真理を悟ったひとたち。あなたたちが世界に流れる一筋の希望となることを祈っているわ」
ストラーラが大気に溶け入るように消えると、途端に天はふるえ、大地は荒ぶる巨人の肉体のごとく震撼した。要石の少女がつなぎとめていたイメージが崩れ去り、偽りのイススィールもまた消え行こうとしているのだ。不穏な喧騒に揺らぐ世界で、太陽は脈打ちながら色あせ、空は混沌と暗く濁り、地平は赤と黒の狂おしくうずまく煙と化して、大波をなし��がらこちらに押しよせてくるかに思える。一行は地響きにひざをついておののいたが、恐怖を踏みしめどうにか立ち上がった。
「偽りの所産ゆえか、伝説に聞くよりも崩壊の速度が早い。ありあわせのイメージで持ちこたえているだけの脆さだったか……みなで旅の終わりを讃えあう時間も与えてはくれないようだ」
焦った様子のディオレが、目配りしながらみなに脱出をうながす。悲鳴と破壊がふりそそごうとするなか、バルナバーシュははっと思い出して、急いではいたが用心深い足取りで、咆哮する地平に向けてその場から駆け去った。ルドが追おうとしたが、魔術師は目的のものを見つけると立ち止まり、掴みあげる。それはフェリクスとの戦いで斬り飛ばされた、ルドの機械の右腕だった。
「バルナバーシュさん、それは……」
戻ってきたバルナバーシュの持つ己れの腕に、ルドは不安げな声をもらした。
「約束する。この島を出たら、私がかならず君の腕を治してみせる。たとえ長い時がかかったとしても――」
バルナバーシュは使命感から言い切ったが、それはかつてリギノの神殿で交わした「ルドに希望のありかを示す」という約束と同じく、ひどく不確かな未来で、なんの保証も持てぬ思いでもあった。ただ何も考えず、自分自身のするべきことへの直感を、もう知っているものとして今は信じるしかなかった。実現への困難を表したけわしい表情がバルナバーシュをかすめすぎたのをルドは見たが、何も言わなかった。
「フェリクス! あなたも私と一緒にくるんだ」
ディオレの警告が聞こえ、ルドたちもフェリクスのほうを見た。古代人は、いまはもう鉄塊に過ぎぬイブの亡がらに膝をつき、安息の膜のかかった瞳で彼女を見つめながらその場を離れようとしない。その背は頑なであり、見かねて腕を無理やりつかんで立たせようとしたディオレの手は乱暴に、にべもなく振り払われた。バルナバーシュとルドもまた、生存を望んで説得を試みたが、ときに彼の身勝手なまでの意志の強さは二人も知るところであり、そのほとんどが聞き流されているようだった。
「フェリクス。イブはお前がここで終わるのを望むはずがない。お前にはまだ島の外でなすべきことがあるんじゃないのか」 「バルナバーシュ殿、頼むから放っておいてくれないか。私は貴殿らとは逆しまに、これですべてを失ったのだ。夢も現実も、過去も未来も、生きる希望さえも……。鉱山でともに過ごしたあの日、イブは私のすべてだと語ったろう。それは今も変わらぬ。一心同体の者として私がこの時に願うのは、彼女と同じ墓の穴へ葬られることだ」
埃に汚れた眼鏡の奥からバルナバーシュに向けられたルベライトの瞳は、光を失ってはいない。絶望も自棄もなく、心の底から強く望んでいるのだと、宿敵だった相手に打ち明けていた。もはや打つ手なしと嘆息するルドたちのもとに、ひとり近づく者があった。赤毛と尾と肩を剣幕とともにすさまじく怒らせ、憤懣やるかたなく目を吊り上げたナナヤが、ずかずかと、消滅に瀕した大地を大股で横切り――とめだてさせる隙もなくフェリクスの胸倉をつかむや、精魂を握りしめた拳で思いっきりその頬に一発食らわした。唖然とするルドたちの前でフェリクスは口を切って突っ伏し、眼鏡は数歩離れたところに吹っ飛んで片側のレンズに罅が入った。
「この頓馬が、いい加減に目を覚ましやがれ。この機械はあんたの命を守って死んで、そしてあんたはこの機械を愛していたんだろう。だったら、生きるんだよ。それがあんたにふりかかっちまった、どうしようもない運命なんだ――どうしてそれが分からない?」 「ぐうっ……この小娘……ッ」
最後になって運命と戦うのではなく尾を巻いて逃げだそうとした己れの図星をこうもはっきりと指され、怒りをあらわに食いしばった歯の間からフェリクスは罵倒を押し出そうとしたが、荒い呼気とうなりにしかならず、結局なにも言えずによろよろと眼鏡を拾ってかけなおし、ふたたびイブの前にひざまずいた。彼女の頬に手をやり、側頭部から親指ほどの銀色のチップを抜き、それから銀空剣に突き通された胸の中へ、心臓を掴みとらん勢いで腕をねじ込んだ。絡みつく電線や器官から引きちぎるようにして拳大の青い正八面体のコア――永久にエネルギーを生みだすという遺失文明の結晶を取り出すと、チップとともにベルトに下げた鞄に仕舞いこむ。フェリクスと機械種族のルドだけが、そのチップが、イブのこれまでの経験や記憶を、稼働する頭脳とは別にバックアップとして写しておく記録媒体であるのを知っていた。ルドは、自分が銀空剣で致命傷を与えたあとの記憶――〈イムド・エガト〉で戦うフェリクスを地上から見届け、彼の言葉によってイブの願いが叶った瞬間のこと――は、破損し、完全にはその中に残されていないかもしれないと考えた。
「ふたたびお前に会いにいく。かならず」
フェリクスはイブの亡がらにそう言い残し、立ち上がった。ディオレの先導のもと、ルド、バルナバーシュ、ナナヤ、フェリクス、猟犬のマックスは、次元の瓦礫と無をたたえた黒い穴ばかりの――それさえも塵に帰して消えていこうとするアストラの地を急ぎ駆け去っていく。一度だけ振りかえったフェリクスの視線の先では、イブの機体はまだ眠れるように捨ておかれていたが、それも巨大な結晶となって降りそそぐ空の破片の向こうに埋もれ、見えなくなった。
アストラから幅広い階段を下りていくうちに、あたりは発光する色のない濃霧につつまれ、肌や喉に刺すようにまつわり、彼らの向かうべき方角や意志力をも狂わせようとした。たがいの顔を探すのもままならぬなか、「立ち止まれ」とディオレが言い、続くものらはぞっとしながらも従った。霧にまったく覆われた世界では、空を渡る火も大気も、地を流れる水も土も、形をうしない、すべての元素が曖昧になってひとつに溶け合っていくようで、それに巻き込まれかねない危機感、そして異様な悪寒が身裡に走るのを一行は感じていた。ディオレは幻妖として霊的に発達した感覚をめぐらしたが、尋常ならぬ霧はあらゆる観測をしりぞけて、イススィールとこの地にまだ残る者たちを〝どこにも実在せぬもの〟として呑みこみつつあった。このままでは肉体と精神は切れ切れの紐のようにほどかれて分解し、宇宙に遍満するエネルギーのなかに取り込まれて、諸共に自我も跡形もなくなるだろう。いずれ死の果てにそうなるのだとしても、今ここで己れを手放すわけにはいかない。
「ディオレ、進むべき場所のイメージをとらえられないか」
バルナバーシュがディオレの肩と思われるところをつかんで言った。蒼惶と声を張ったが、霧の絶縁力にはばまれて、ディオレにはほとんどささやくようにしか届かなかった。
「やってみてはいる。だがこの霧はあまりに強力だ」
そのとき、近くからナナヤの短い悲鳴――はっきりと聞こえる――があがり、青白い光があたりに差して、見れば彼女の手にはハインから贈られた〈沙漠の星〉が握りこめられているのが分かった。ただただ驚く彼女のまえで、宝石はやわらかな光を輝かせながら球状に、周囲の濃霧を晴らし、またひとすじの細い光線が、ある方向を真っ直ぐにさしながらのびていく。霧のなかに溶け入っていた足元はいつのまにか階段ではなく、新緑色の草地からなる野原に変わっていた。
「その石が足場のイメージをとらえているのか」
精巧な羅針盤の針のようにぴたりと途切れぬ光の先をみとめながら、フェリクスが言った。彼らは思いを同じくしながら、光のさすほうへ進んでいった。ルドとバルナバーシュは、暖かな草土の感触を踏みしめ、灌木の梢が風でこすれあう音を聞き、獣のにおいがかすかに混じる大気をかぎながら、ハインが多く時を過ごしたであろうエイミリーフ広原を思い起こし、またナナヤの持つ〈沙漠の星〉が、新たに生まれし希望――フェレスとしての産声を上げたのかもしれないと考えた。
(お願いだ、ハイン。あたしたちを導いて)
ナナヤがそう祈った直後、光のさきから獣の吠え声がした。
「アセナ?」
聞き覚えのある鳴き声にナナヤが呼びかけると、思ったとおり、応えるように白い雌狼が霧のなかから現れ出た。家族のしるしにマックスと顔を近づけあい、その後を追って、大柄な人物も飛び出てくる。正体にディオレが驚きで声を上げた。
「ああ、グレイスカル!」 「ディオレか!」
節々を覆う灰色の鱗と側頭部からねじ曲がる二本の角、二メートル近い体格を持つ竜族の男だった。瞳は白目の少ない血紅色で、まさに竜のごとく筋骨隆々とし、見るからに屈強な戦士であったが、まとう装甲は血と土埃に汚れ、外套は焦げ落ち、武器であるナックルは籠手ともどもぼこぼこにへこんでしまっている。むき出しになった頬や黒髪の頭部、鱗がはがれた隙間からは流血のあとが見てとれた。ディオレは彼の腕をひしとつかみ、引き寄せて抱きしめ、幸星の民だけにしか分からぬあらんかぎりの言葉で喜びをあらわした。察するに、はざまの道を進んでいた時には彼に会えなかったようだ。
「エソルテル砦を守る騎士――クァダスたちにやられそうになったところを、間一髪、アセナが助けてくれたんだ。ハインが仕向けてくれたに違いないが、して、あいつはどこに?」
グレイスカルは同行者だったナナヤをみとめ、顔ぶれのなかにハイン���探したが、彼の顛末を伝えると快活な面立ちははや深い悲しみに沈んだ。誇り高い友を襲った死への罵倒、そして生前の彼をほめそやす呟きがこぼれる。
「あのような好漢が先に逝ってしまったのはまこと残念でならん。そして我らの友、イラーシャも。だがこの周囲の有りさま、ついに偽りのイススィールに終わりをもたらしたのだな。俺は砦で負った怪我がひどく、階段を登るのはあきらめていた。ディオレ、それにフェレスの戦士たちよ……よくぞ果たしてくれた。死んでいった者たちの無念も、お前たちの戦いで弔われたならばそれに如くはない……」
グレイスカルとアセナを連れて、彼らはさらに道なき道を進んでいった。〈沙漠の星〉はあらゆる辺境でヒトを導く不動の星であり、現次元と星幽が交錯するただなかにある冒険者たちのため、行くべき道を絶え間なく照らしつづけている。いまこの時の、唯一の希望と変わって。やがて重々しいとどろきが遠くから聞こえ、より耳を澄ますと、それは大海にどよもす海鳴りだと分かった。一行は島の涯、神秘の冒険のはじまりの場所だった海岸に近づきつつあるようだった。
靴底が細かな砂を踏むと、そこで〈沙漠の星〉の光は役目を終えて消えていった。霧は完全に晴れ、砂浜に立つ一行の前には、暗く怒号して荒れる海が果てしなく広がっており、暗灰色の重く垂れこめる雲から打ちつけるのはささやかな糠雨だったが、騒擾としてやみがたい大波と風の群れがこれから臨む航海を厳しいものにするだろう。
「蟷螂の斧だな」
バルナバーシュが浜辺に残されていた一艘の頑丈そうな木製の小舟を見つけると、うねりやまぬ海を横目に船底や櫂をあらため、まだ使えそうなことを確かめた。これに乗るのは四人が限度といったところか。
「諸君、我らはここで別れとしよう」
灰色の竜族、グレイスカルが高らかに告げ、ディオレも肩を並べると感慨深く仲間の顔を見渡した。「君たちはどうするんだ」バルナバーシュが幸星の民らを案じて問い、ディオレがそれに答えた。
「私たちはもどって闇沙漠のイメージを探し、そこからオルトフの次元へ帰ろう。大丈夫だ、あとは自分たちのフェレスが道を拓いてくれる。闇沙漠でも伝えたが、君たちをなかばだますような結果となってしまったこと、まことにすまなく思っている……だが君たちが辿り、乗り越えてきた冒険――思索、探求、そして神秘の数々――は、偽りとはならない。決して。なぜならイススィールは、つねにあらゆる時代、あらゆる人々の心のなかに存在しつづけ、世界が滅びに迷えるとき、天末にあらわれ、はるかなる果てへといたる門を開くのだから。その永遠の営みのなかで、私たちは君たちとの冒険譚とともに、後世に役目を継いでいくとしよう。いつかまた、終わらせるものが必要とされる時のために」 「君たちは何ものなんだ。オルトフ、あの地は現次元ではあるまい」 「時空の流れつく浜、魂の森、あるいは闇沙漠に集う夢のひとつ――そこに住まう者たちとでも言っておこうか。では、さらば! 縁があれば別の次元で会おう」
幻妖と竜族のふたりの戦士は、故郷をさして早足に駆け去っていった。その背を見届け、彼らが砂浜に繁る森のなかへ消えると、ルド、バルナバーシュ、フェリクス、ナナヤの四人は協力して小舟を波打ち際まで運び、そのあとを猟犬のマックスと白狼のアセナが忠実な足取りで付き従った。嵐の海は調和の象徴たる海流が正体を失ってないまざり、遠洋では硫黄めいた未知のガスが蒸気のようにあちこちで噴き出して、寄る辺となる次元や生命のしるしさえも見いだせぬ。いくつもの黒い波の壁がうめきつつ落ちてはまたそそりたち、水飛沫を散らして強く吹きつける潮風にルド以外の目や肌はひりついて痛んだ。水はわずかにねばっこく、塩ではない、いまわしいものの枯れた死骸を思わせるような、悪心をもよおすにおいがした。ルドは身をふるわせ、ナナヤの顔には恐怖が張りついている。
「この海を渡りきれるだろうか」
バルナバーシュがおぼつかなげに海をみやった。フェリクスだけが頓着せず、つねよりも鹿爪らしい面差しで出帆への備えを進めており、バルナバーシュもその片言のほかは何も言わなかった。この砂浜も近く虚無のなかへ消滅し、それまでにイススィール周辺の乱れた自然律や概念の撹拌された海が都合よく鎮まってくれるとは到底思えなかったからだ。小舟を波間に浮かべると、四人は悲壮感をもって乗り込み、二匹の獣もまた船べりを踊りこえて飛び乗った。
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102 Memory
心地よい微睡の中、ルドとバルナバーシュは誰かの気配を察して目をあける。 そこは、温かく柔らかな光に包まれた場所だった。神々の世界へと通じる門は、もはやどこにあったのかさえ分からない。だが、夢と現実の境にいるような感覚が、まだここは現ではないと告げている。 気配がしたほうへと目を向けると、そこには淡い光を纏った一人の女性がおり、優しくルドに微笑みかけていた。肩で綺麗に切りそろえられた銀灰の髪と、強い意志の光を宿した碧眼が印象的である。イススィールでは、出会ったことが無い女性だった。この女性は、バルナバーシュの過去の記憶にはない。だが、ルドには思い当たる記憶があった。そう、一つだけ。強く、ルドの記憶に焼き付き、これからもきっと消えて無くなることはないだろうという記憶。ルドは、その記憶の名を呼ぶ。
「……お母さん……」 「お母さん? ルド、君を作ったという……?」
ルドが発した声は、か細く震えるようだった。嬉しいはずなのに、それは幻なのではないのかと怯えるような、喜びと戸惑いと、怯えが混ざったような声。 もう二度と会えないのだとわかってはいても、心の中にずっと在り続けていた面影を、無意識のうちにずっと探し求めていた。その青空のような優しい瞳の色も、陽の光のように柔らかな髪もよく覚えている。その顔も、声も、優しさも、全部、全部覚えている。もう一度、今度ははっきりと、少し泣きそうな声で、再び彼女を呼ぶ。
「お母さん……っ!」
ルドの声に女性は柔らかく微笑む。明るい日差しのように。
「ルド、よく、ここまでがんばったね」
ルドのよく知る声で、女性は、母は答えた。もう二度と会えないと思っていた。彼女が死んで、ルドの時が止まったあの日から。思わずルドは駆けだそうと足を踏み出す。だが、ルドは一歩踏み出したところでとどまった。手がとどく距離にいるのに。もう一度、触れたいと、抱きしめたいと思っているのに。
「お母さんは、もう、遠くにいるんだよね」
ルドの言葉に、「ええ」と、どこか寂しそうに母は答えた。そう、本来であれば彼女と生きているルドが再び会うことなど無いのだ。それはこの、幻のような場所だからこそできた、一瞬だけの奇跡。彼女とルド達のいる場所は、とうの昔に分かたれてしまっていた。 ルドの母は、ルドの隣に立つバルナバーシュと目が合い、一瞬だけはっと目を見張った。その様子に口を開こうとしたバルナバーシュに、彼女は静かに首を振って制する。その問いには答えられないと、応えてはいけないのだと彼女は言っている。時間と次元を超越したこの場所でできることは限られている。
「お母さん、僕、探しに来たんだ。ここまで。あの家を出て。お母さんが教えてくれた『僕の希望』をずっと探して」
母に伝えたいことはたくさんあった。それはもう、数えきれないほど。たくさん。たくさん。
「お母さんが死んだとき、すごくすごく悲しかった。僕はずっと、それは、僕が『希望』をもっていないからなんだと思ってた。だから僕は、こんなに悲しいんだろうって」
たくさんの伝えたいことの中で、どうしてもこれだけは、必ず母に伝えなくてはならない。このわずかな涙のような、一瞬の奇跡の中で。
「でも、そうじゃなかった。僕はこのイススィールに来て、色んな人に出会った。いろんな想いを知った。いろんな生き方を知った。だから、僕は気付けたんだ」
ルドがようやく見つけることができたものを。それを最初に教えてくれた彼女に、ルドは伝えなければならない。
「……僕の希望は、ずっと『お母さん』だったんだ」
だから悲しかった。だからルドは時を止めてしまった。ルドは、ルドであり続けることをやめてしまった。何年も何年も。そのことに気付くまで、再び生きるまで、こんなに遠回りをしてしまった。
「すごく、すごく時間はかかったけど、でも、僕はもう大丈夫だよ。だってたくさんの希望を知ったから。たくさんの希望を見つけたから」
このイススィールに来て、ルドはたくさんの人に会い、たくさんの希望と出会った。だからこそ、気づくことができた。その人達が気付かせてくれた。
「だから、僕はもう、僕を失わない。僕は僕であることができる。だから、僕は――」
ルドの言葉に、とても嬉しそうな顔で、一筋の涙を頬に伝わせながら母は笑った。
「ええ。大丈夫よ、ルド。あなたなら進めるわ」
ルドの行く先を祝福するように。 揺らいでいた意識が、徐々にはっきりしてくる。まるで夢から覚めようとしている時のように。それと同時に、母の顔が徐々に朧げになってゆく。 まだ行かないで、と手を伸ばしたい自分がいた。だが、それ以上に、帰らなければならない場所がある。まだ、この場所に来ることは出来ない。 全てが遠ざかっていこうとしている。母へ向けて、最後にルドは名を呼び叫んだ。
「僕、必ずここに辿り着くから。どんなに時間がかかっても、どんなに遠くても絶対に辿り着いてみせるからっ!」
待ってて、とは言わなかった。それでも、最後に、もうはっきりと顔も見えないはずの母が、笑っているのが見えた気がした。
頬を舐められる感触と、自分の名を呼ぶ声で目をあける。すると、そこには自分とバルナバーシュを心配そうにのぞき込むディオレ、そして、ナナヤとマックスがいた。
「ナナヤ……? どうしてここにいるの?」 「バカヤロウッ!そんな間抜けな声で。お前らはずっと地���に倒れたまま動かないし、こっちは心配したんだぞッ!」
寝起きのぬけたようなルドの声に、思わずナナヤが怒鳴った。目じりには、たまった涙の雫が見える。ナナヤが言うには、彼女が目覚め、二人がいないことに気付くと、マックスがこの場所まで連れてきてくれたらしい。マックスがルドに誇らしげに胸を張り一声咆えた。ルドは、ナナヤとマックスに「心配かけてごめんなさい」と謝ると同時に、「ありがとう」と言葉を落とす。 ルドが目覚めると同時に、近くにいたバルナバーシュも起き上がり、こちらと目を合わせた。ルドはバルナバーシュも無事でいたことにほっと息をつくとともに、一緒に居たはずのフェリクスの姿を探す。
「ディオレさん、フェリクスさんは……」 「心配するな。彼もじきに目を覚ます」
ディオレの指し示した先、ルド達のすぐ近くで、フェリクスもルド達と同じように横たわっていた。フェリクスに近づき、彼の名を呼ぶと、ゆっくりと彼の目が見開かれる。
「フェリクス、大丈夫か」 「ああ、なんとかな」
バルナバーシュの問いに、眉をしかめ、頭を振りながら答える。起き上がったフェリクスに、ルドは手にしていた一つのフェレスを手渡した。
「これ、ありがとうございました。でも、僕からではなく、フェリクスさんから渡してください。そのほうがきっと、イブさんのためだから」
輝く、カゲロウを閉じ込めた琥珀。フェリクスから託された、イブのフェレスだった。弱々しいものではあるが、まだそれは輝きを失ってはいない。 その失われてはいない輝きを見て、フェリクスは急いで辺りを見渡した。彼の相棒が横たわる姿を見つけると、転ぶようにして彼女の元へと急ぐ。
「イブ……」
フェリクスが彼女の元へ辿りつく頃には、もう、彼女は虫の息だった。
「……ああ、フェリクス……よかった」
安堵するようなその声に、フェリクスは顔を歪め首を振る。今、その言葉は自分に向けられるべきではない。
「お前のほうが重傷だろう。まずは自分の心配をしろ。余計な口はきかなくていい」 「ははは。たしかに。……今の私は、刀も握れないからな。だが、私にも心配する権利はあるだろう……?」
相変わらずなフェリクスの物言いに、イブが笑う。だが、その声はどこか苦しそうだった。 一目で、彼女の命が長くないであろうということは、誰にでも明白であった。 床に広がる青い彼女の血の海に、フェリクスは座りこむ。ヒトに近付けるために創られたはずの彼女は、フェリクスの夢をかなえるために、彼女を生かしたいという夢のために、逆にヒトから遠い存在へと変化していった。より強い存在になるために。はじめは赤かったはずの、しかし今ではヒトとは程遠い色の血の海に浸りながら、それでもフェリクスは、どうにかして彼女を助けられるのではないかと考える。それがたとえ、彼女をさらにヒトから遠ざけるのだとしても。 ふと、フェリクスが手にしていた己のフェレスを見つけ、弱々しくイブが手を差し出した。それに気付いたフェリクスは両手で包みこむようにして、イブの手に琥珀を握らせる。
「フェリクス、ずっと、ここで見ていたよ」
離れようとしたフェリクスの手を、イブがもう一方の手で追いすがるように上から包み込んだ。
「……ずっと、ここから見ていた。……フェリクスは、後悔してるのかい?」
その言葉に、フェリクスの喉の奥がひゅっと音を立てる。ストラーラと戦うバルナバーシュ達を見ているだけだったフェリクスの背中を押したのはイブだった。何のためにここまで来たのかと。ここで戦わなければ、後悔するんじゃないのかと。フェリクスがイブのそばを離れるのを躊躇っていることが、彼女には分かったのだろう。 だが、イブが思う以上にフェリクスには迷いがあったのだ。イブを心配して、というのもある。だがそれ以上に、フェリクスはイブのそばを離れるということに迷いを持っていた。恐怖を感じていた。 フェリクスには、イブがなぜ自分とここまで来てくれたのか、はっきりとした理由が分かっていない。彼女がこうして死の淵に瀕している今でさえも。 言葉に詰まっているフェリクスに、イブは咳込みながらも、しっかりと届くように自分の気持ちを告げる。
「私は……後悔してないよ」
その言葉に、フェリクスの心の奥が血の気が引くように凍りつく。その言葉は、レオ鉱山でも、イブからフェリクスへと向けられた言葉だった。己の腕を失ってでも、フェリクスを守ったことを後悔していないと、彼女は言った。今、死の淵に瀕していてもなお、彼女は同じ言葉をフェリクスに向けてくる。
「……この体になったことも。……こうして、ここにいることも……」
言葉の間にひゅうひゅうと不自然な音が挟まった。呼吸器官がもう、上手く作動していないのかもしれない。それでも、イブは言葉を紡ぎ続けることを止めようとはしない。
「……後悔していない。フェリクス、あんたをずっと……守りたかったから」 「なぜ、そんな……私のために。お前は���自由で、あるはずなのに」
再び、イブがフェリクスに伝えるその言葉。それでも、フェリクスにはその真意が分からない。自分がイブの創造者だからか。やはり、イブも他の意志を持たない機械と同じように、自分を作ったヒトを守ろうとするのだろうか。ならば、私はイブを自由に出来なかったのではないか。 だが、イブの理由はそんなことではなかった。
「……自由な私は、あんたのそばに居ることを、願ったから……」
ゆっくりと、琥珀の、彼女の命の輝きが弱まっていく。上に乗せられた彼女の手が滑り落ちそうになったのを、今度はフェリクスの手が受け止める。 そんなことは考えなかった。まさか、そんなこと。自由であるがゆえに、自分とともに行くことを選ぶなどと。混乱、そして恐怖――ありとあらゆる感情が渦を巻き、イブの手を受け止めたフェリクスの手が震える。
「気をしっかり持て。まだ助かる」 「……それは無理だよ、フェリクス。……わかってる……だろう?」
フェリクスにもそんなことは十分わかっていた。それでも、その言葉のほかは口に出来なかった。琥珀は徐々にその色を失い、小さな亀裂が入っていく。「ありがとう」と、空気に溶けそうな声でイブが囁いた。 フェリクスの心が激しく揺さぶられる。待ってくれ。まだ、行かないでくれ。お願いだから、まだ!
「待て、イブ。私には、まだお前が必要なんだッ!!」
強く、強くその手を握りしめ、フェリクスはあらんかぎりの声で叫んだ。 イブが、その声に囁く。それはどこか、迷える巡礼者が救いを得たような声で。
「ああ、そうか……。私はずっと……その言葉が……」
硝子が砕けるような音を立てて、イブのフェレスが、小さな幾つもの欠片となり手のひらの間からこぼれ落ちた。最後の願い、命の輝きをその身に宿しながら。
「何度でも言うだろう……私には、お前が必要だったんだ。イブ」
もう、握り返されることのない彼女の手を握りしめ、フェリクスは、彼女の最後の言葉に静かに答えた。
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101 ImdEgat
ストラーラとディオレの対立に緘黙をつらぬいていたバルナバーシュは、心奥においてそのすべてが気に食わないでいた……。決戦の地へいたる苦楽の旅路の裏で、いくばくかでもあの少女と、少女の魂に巣食うありとある人々の無念が糸を引いていたこと。そして、ディオレ――いや、幸星の民が、自分たちとフェリクスらによる侵されたくはない戦いを、ある意味では目的完遂のために利用していたこと……。ルドとともに果たしてきた何もかもが、まるで瑞穂を刈るように、神々の遊戯の収穫としてみるみる奪われていくようだった。いましも展開された道理と正義は、理性が制する頭では分かっている。だが、やるせない心はやがて静かな怒りに変わって沸きたち、銀剣は瞋恚をうつして深い闇色に沈みながら、その刀身に複雑な層をなす魔術回路を青く脈動させた。彼はいま、わずかにうつむきながらも、ぎりと歯噛みし、フェリクスと同じ苛烈な視線をこの状況に向けていた。復讐、もだしがたい復讐心――元来、あまりに自責的であったがゆえに、ナナヤに裏切られても、また故国で無二の友、ウィローを殺され、乱世に翻弄され、愛する女性が絶望におちいってさえも、ついぞ興されはしなかった激情――そしてイクトルフの門で戦ったハインの言葉が、耳もとで囁くかによみがえる。「運命に刃向かうなら、その糸を繰る奴を倒すしかない」と。
幸星の民の約束について、ディオレがいま語っただけではない、さらなる秘匿がまだあるように思えた。だが問いただすいとまはない。破れた空のかなた、完全真空の冷たく暗い世界から流れ込む虚無の力は、さきほどの黄金と赤黒い大気のうねり――夢の化身と魔王が溶岩のごとく相争う、混沌とした力とは対極をなすかに見える。あの引き裂かれた空は、超常の扉〈イムド・エガト〉だという。イススィールのことばで、中間の門……つまりあれは天空と地上の境界、神々とヒトをつなぐ関門なのだ。夢の化身も、魔王も、そしてこの虚無も、はるかなる果てより来たりし意思に違いない。そしていま、分かるのはただひとつ、最後に望まれた闘争とは、超常の意思と我々の可能性をかけた大いなる戦いだということだ。
三人のフェレスの戦士は、それぞれの自我を武器に込めて、中天に浮いて立つストラーラと対峙する。神々しい後光のなかで少女の姿は肥大とともに変容し、綺羅をまとう正気を奪うほどに美しい乙女となり、乳酪色の両翼が生え、いっさいの面影をうしなった巨大な神像――女神の似姿へと進展を遂げた。大いなるものの霊気をほとばしらせながら、右手には神罰をくだす白き剣を、左手には永遠をことほぐ均衡の天秤をかかげ、神にまつろわぬ者らを絶対の帰順に縛するべくひらめかす。イムド・エガトより虚無はさらに広がりつづけ、アストラの天地もまた漆黒の深宇宙と同一化し、ストラーラが取り込みつづけたフェレスの欠片たちが神像の胸元より爆ぜて解き放たれると、那由多の星々となって散り飛び、彼らの頭上と足下に夢幻的な銀河を生み出した。
「バルナバーシュさん、これは……!」 「このビジョンはまぼろしではない。だが臆するな、ルド! 私たちに真の宿命があるとすれば、夢と現実の織りなす強大な混沌の波、さらには宇宙に根ざすこの無辺の虚無にも打ち勝ち――運命と可能性を、今を生きるヒトの手に取りもどすことだ。私たちは天上にまつろう奴隷ではない。虜囚でもない……たとえヒトもまた、虚無より生まれ、混沌の一部として生き、みずからもやがて虚無となって還る存在なのだとしても。夢を支えたミューヴィ・エレクトラ、魔王の使徒グッドマン・レイ、そして女神ユテァリーテ……彼らの伝説は、私たち自身でもあった。そしてストラーラもまた――彼女はいま、ヒトの心を切り捨てている。ゆえに、戦うんだ。私たちこそが彼女から失われた心の化身となって。ともにはるかなる果てへ至るために!」
フェリクスとの決闘で多くを知り抜いたバルナバーシュは思う。もしあの時、フェリクスではなく自分が敗北していたなら、己れの無念に飽和したフェレスは咆哮し、アストラをあの赤黒い空ではなく夢に酔う黄金の色彩で満たして、欲望が爛熟して混じりあった極光が滅びをもたらしていたのだろうと。ルドに命を守られていなければ、心を喪失していたのは自分であったかもしれない。
胸元に熱い昂ぶりを感じて、フェレス――懐中時計を取り出すと、青白い光に激しく脈打っており、何かに導かれるままにバルナバーシュはそれを虚無の宇宙へとかかげた。ディオレもまた、光を放つ世界樹のメダルを突き出し、二すじの光線がフェレスの銀河へ飛翔して隕石のごとくぶつかった。天上のフェレスもまた、ひとりひとりの燃ゆる心であり、星々は七つのパワースポットを巡る彼らの思い出を受けて奮い立つと、永遠無限の光を降りそそぐ流星群と変えて地上へと返した。すべての過去から未来へと連なる尋常ではない力が、バルナバーシュとディオレに――さらにはルドの胸奥にも送り込まれ、イススィールの力に躍動する!
ディオレが七色の石から鏃を研いだかがやく矢をつがえ、虚構の偶像を狙い定めて言った。
「かれらは世界に生まれつくのではない。世界を作り出さねばならないのだ。地上に新たな歴史がはじまるとき、アストラにいたるすべての戦いは序曲としてみな忘れさられるだろう……かつて閉じられて灰と帰した、まことのイススィールのように。しかしかならず、あとに続いてゆくものがある。その希望を守ってみせる――それが私の願いだ!」
矢を放つよりまえに、神像が揺らぐ天秤を持ち上げ、新たなるダーマを告げる荘厳な鐘の音を星々に轟かせた。西へ大きく傾いた天秤より、神の法を犯す者たちへの昏き怒りが邪悪な影の大群をなし、重くせりあがる津波のごとく三人へ押し寄せてくる。ディオレはこの時を待って、限界まで引き絞った弓弦を解き放った。瞬間、すさまじい光を放ちながら矢は飛び、群れの中心に呑み込まれるや、ありとあらゆるまばゆい色を放って影たちを一人残らず消し飛ばした。
だがその衝撃に風が猛り、突如として降りそそいだ雨が咽ぶ。とどめがたい情を映した闇沙漠のそれとは異質の、凶々しくもうつろに暴る豪雨にうたれるなか、見る間に暗雲が宇宙に立ちこめ、フェレスの星々を隠して、足元には荒廃した大地が、遠空には苦悶にのたうつ巨獣となって荒れ狂う紫黒色の嵐が広がった。だがルドは負けじと濡れる顔を上げ、神像の閑かな異相を見据えてさけぶ。
「僕は、ストラーラ、君が願った永遠とそれを願ったわけを、なかったことになんかしたくない……でも、そのためにこそ今は戦わなきゃいけない。思い出してほしいんだ。ずっと拾い集めてきたたくさんのフェレスの欠片に、いつか埋もれて、縛られて、忘れかけてしまった君自身の心、そして終わりの解放を。希望を示すという君がこれまでしてきた救いを、今度は僕たちが君に与えてみせる!」
神の像の右腕がもたげられる。ひとふりのとほうもない、白い炎をまとったネメシスの剣が雲と何万もの次元を切り裂き、力を吸い取りながら打ち下ろされ、生命が死に絶えていく音とともに三人へ刃が落ちかかってくる。その所業への悲憤にかられたルドが、残された左腕に銀空剣を握りしめ、走りつつ、銀のかけらをふりこぼしながら、果敢にも打ち返すべくその刀身を振るった。少年の絶叫とともに割れた胸甲から青白い光が放たれる! 神とヒト――差は歴然と思われたルドの一撃は、限界を超えたポテンシャルをありたけのせて何十倍とある質量の女神の剣を大きく撥ねとばし、さらには宇宙から奪われたエネルギーの多くを刃を通じて取りもどして、銀空剣をふりまわすと、神に切り裂かれて凍てついた次元のあるべきところへまき散らしながら返すことができた。多元世界のよみがえる気配に、銀空剣に宿る精霊と魂たちが歓喜の楽音をひびかせる。
切り裂かれた雲より脈打つ光が神像を照らしながら、その背後で今もってふくれあがる暗雲が、内部より雷電に明滅し、幾千の稲光を奔らせた。女神の号令で無数の次元から呼び集められた雷精ユンデルスのしもべらが、神の意思の伝い手となって遥か上空を駆けめぐっているのだ。そのすべてが女神の頭上で縒りあわさり、一本の長大な雷槍へと変じるのが見え、バルナバーシュは危惧を押し殺しながら銀剣アルドゥールの切っ先を差し上げる。心を内に向け、奥深くに眠る闇――みずからの来歴を越えてヒトの血に連綿と継がれゆく暗部と淀みに、己れの個性をも沈めてひとつと交わりあった。そして喉もとに得体の知れぬ虫のさざめきがこみあげ、かたちをなし、古くいまわしい呪文となってつぶやかれたとき、銀剣から黒い霧が不定形の生物のように身を広げて噴出し、巨大な魔法の楯となってはだかった。だが���多勢からなる稲妻をひとりでは防ぎきれぬとかれは悟った――黄金に爆ぜる槍が飛来する!
「おぉッ……!」
剛槍が眼前に迫ったその時、決死にうなる男の声がした。バルナバーシュではない――見澄ますと、長斧から紫電をほとばしらせながら槍をふせぐフェリクスの姿があった。ルベライトの三つ目を見開き、歯を食いしばり、旅路で幾度となく振るわれた雷の技で黒い霧の楯とともに雷槍の勢いを殺し、ついにこれを槍先からまっぷたつに断ち切った。フェリクスもまた、フェレスから強大な力を受けて駆けつけ、神にあらがう気概に溢れているようだった。
「フェリクス!」 「貴殿は力量をわきまえろ。何度も言わせるな! ……このふざけた偶像こそが我々の運命をいたぶる元凶だというなら、引導を渡さねばならんな。それも、ヒトの手によってだ。だからいまは力を貸してやる。ともに闘おう」 「ついそこで愛した女の前でめそめそと泣いていた男がなにを偉そうに。だが、いいだろう。破壊者たるを目指した者の因子もまた、私たちの世には必要だ」
二人の魔術師は双肩となり、ふたたび女神の頭上に集った雷精たちの剛槍を見やった。槍は一本ではなく八本が並び――ひとしなみにそそいで四人を塵に変えるかに思われた。二人はルドとディオレを守るように立ちはだかり、フェリクスがやにわに振り向いて何かを差し出した。
「ルド、これを君の胸の中へ入れろ!――私たちの力になることが彼女の最後の願いだ」
それはカゲロウを閉じこめた琥珀――イブのフェレスだった。ルドは剣を地に置いて受け取ると、刹那の迷いのあと、意を決して割れた胸甲の奥に押し込んだ。自らの心臓部近くに触れると、鼓動の高まりとともに全身に熱が走り、血たる燃料が沸騰するかのようだった。その時、八条の貫く稲妻が彼らに襲いかかる!
バルナバーシュとフェリクスは、ともに青い魔術回路を波打たせながら銀剣と魔斧をかかげ、持てるすべての魔力を賭して半球状の堅牢な障壁を生みだした。雷槍の八本のうち半数が半透明の青白い切子面の壁に激突し、凄烈な威力と圧倒をもってひびいらせるなか、二人の魔術師は身を焦がし、激痛に顔を歪め、体の節々から血を流しながらも、強靭な意志でもって触媒を突き出しつつ立ち尽くした。稲妻はがむしゃらに地を揺るがし、うねりあがってくつがえる岩々のあいだを浄化の炎が焼き払う。黒煙のなかで、障壁は持ちこたえていた。だが神像から発せられる絶対の波動が、彼らの身魂を刻一刻とむしばみ、魔術師たちはいよいよ瀕死にまで追い詰められつつあった。あえぎながら、バルナバーシュが肩越しに振りかえる。
「ルド、君がやるんだ。君が私たち――ハイン、フェリクス、ナナヤ、ディオレ、イブ、この私――そしてストラーラの願いをも叶えるはずだ。行け! 私たちを超えて……!」
この言葉にルドは戸惑った。七人の願い――その来歴と重み、かけがえのない思い出の全容――が心にのしかかり、左手に握りこんだ銀空剣は目覚めながら静かにうなりをあげる。だがルドは、ついに道を決してうなずき、そのかたわらでディオレが片膝をついて手を組み合わせると、澄みわたる湖水のような声音で祈りの句を織りはじめた。
「闇沙漠に眠れる死者たちを常しえに慰めつづける、天使のはらから、聖なるアクレッツたちよ……今こそ彼らを光へ導く弔いのとき。いざ集え、かの者の背に。飛ぶ鳥の翼となりて運命の使者たらしめたまえ!」
ディオレの世界樹のメダルがひときわ大きくかがやき、白い光の粒子が放たれる。その力はディオレが葬送者たらんと思いを馳せる、闇沙漠に散らばる砂のなみだを源にし、ルドの背に送られると、生物とも機械ともつかぬ――また双方の交わりとも見える未知の銀翼をなした。つかのまの飛行能力、はるかなる果てに属する奇跡だったが、宿命を果たすためにはわずかなれど充分な可能性だった。胸奥にともにあるイブのフェレスが赤熱し、ルドはとぶように地を蹴った。魔術師たちの障壁を踊りこえ、神罰に燃えさかる宇宙を翔け、隻腕に持つ銀空剣クァルルスを、神像の胸へと差し向ける――暴風をまとう刀身がたけび、雷鳴と嵐は晴れ、雲間から目もくらむ薄明の光芒が差し入った。まばゆく照りかえす切っ先が、女神の心臓へ突き入れられる!
(そして、天は許す。神々のうつせみたるあなたたちの戦い、そして愛を)
ルドの眼前で、神像が微笑んだように見えた。だが、それもまぼろしにすぎなかったかもしれない――無音、そして震撼、爆発的膨張が、神像を中心にかれらとイススィール、さらにイススィールをとりまく多元宇宙を跡形もなく吹き飛ばし、遠大な虚無の光のなかへつつみこんだ。ありとある肉体と精神、存在と時空のことごとくは意味や価値をもたない粒子の群れと散り、運命の糸がとぎれた一瞬のでたらめな宇宙の全方位へと飛翔していった。ときにぶつかり、ときに打ち消し合い、またあたらしい惑星を生みながら……それは完全なる死、真実の死、業と宿命のまっとうの果てにひとつのしるべ無き不死にピリオドを打ち、そのくびきの夜が終わる悲しみと、夜明けへのわずかばかりの希望……名もなき力の奔流がめぐり、行き来し、たがいを引き寄せて、偶然たる必然のパワーバランスがしたたかな草木のようにからみあいながらひとりでに成長していく。
諸世界のるつぼのなかで、かすかなルーツが導きのように呼びかけていた。世紀の網を、全存在が泳ぎ抜けていく。突き刺す吹雪が痛みをもたらし、やがて夜とも朝ともつかぬ始原の海に万有が流れつくと、海はあろうとする者たちの鳴動に暗く荒れ、マナの幹と枝葉がまたたく間に生い繁って、海淵に深く根を張り、天空を樹冠で覆いながら、果てしない一本の木を生み出していった。それはあらゆる事象の象徴、超越をもたらすもの、秘め隠されながら、多元宇宙を支える完璧な超自然の御柱だった。海は宇宙のはじまりから涯へと永遠に回帰していた。つねに時空のどこかにこだまをかえし、希望の歌を響かせる約束の場所として。しかし、この新たな宇宙はいまもって灰のなかにあった……鮮烈な終焉の痕に残された、虚無の灰の沈黙のなかに。
ルド、バルナバーシュ、ディオレ、フェリクスの四人の魂もまた、再誕の海を索然とたゆとい、新たな自己存在が、新たなロジックのなかで組成されていくのを感じながら、思いとはなにか、信念とは、感情とはなにかをみずからに問うた。それらはヒトがいだくに値するのか。なにもかも無価値であり、我々はいまこのときも、神々や、さらにその上方にある絶対的な存在のあやつり人形にすぎず、この努力もむなしく、永遠に運命は、ヒトが手にすることのかなわないものではないのか。この戦いは、ヒトの歴史は、世界は……あらゆる闘争は、均衡の天秤の意思のもとで永劫に繰り返されるのではないか。この旅路の先になにかがあると信じて進むことに、いったいなんの意味があるのだろう。いや、意味などないのだ。継承という名を冠する、呪われし道には。
だが、それでも、とバルナバーシュが思ったとき、自身がふいに実体をもって波の打ち寄せる岸辺に立ち、灰色の虚無の世界のむこうに、三つの仄白い人影がおぼろに浮かんでいるのに気付いた。ひとりは神秘的な女性、ひとりは甲冑姿の屈強な戦士の男性、もうひとりは機械とおぼしき未来的な鎧に身をつつむ男性に見える。自分のとなりにはルドが立っていて、彼もまた懊悩と期待がないまざる複雑なまなざしをもって影に見入っているようだった。
女性が進み出ると、影は――ロマルフ城で邂逅した、ミューヴィ・エレクトラの姿をとる。だがストラーラの生みだした過去の幻影とも思われない、確かな実像を持っており、希望を担うかすかな旭光を放ち、彼女は語りかけてきた。
「私たちはもうガイドしない。絶望の時代は終わるでしょう。再び世界が闇に迷うとき、あなた達のフェレスが、新しい『エターナルデザイアー』として人々の希望となるでしょう」
屈強な戦士が続いて歩み出る。廟塔のビジョンで出会ったレイ一族の末裔――グッドマンだった。豪放に笑い、覇気を張らせてにっと歯を見せる。破壊をあらわす赤黒いオーラは、いっぽうでヒトの血そのものでもあり、いまは親しみと郷愁を二人に想起させるものだった。
「夢は誰かにかなえてもらうモンじゃあねぇ。目の前の一つ一つの障害を乗り越えてそこに達することが、そいつにとって本当に目的を果たしたことになるンだ。挫折したってかまわねぇ。目指した過程は残って、未来へ踏み出す糧になっていくだろう。ンで近づいていくンだよ。そいつが本当に求めるモンにな」
そして最後に、未来的な鎧の男があらわとなる。機械人らしき頬当てに隠されながら、左眼に細長い傷が縦に走り、骨ばっていかつい人間の顔をもつ見知らぬ男だった。不動の星の光を胸元に灯し、佇立して威風堂々と男は声を発した。
「お前たちはわずかなれど『はるかなる果て』を見た。神の次元、奇跡ともいえる力を。それは抗いうる、達しえぬものではない……奇跡のパワー、それはあらゆる想像を実現する。想像できることに実現できぬモノなどないのだ」
そうして三人の姿と輪郭は、より遠い次元へ立ち去っていくように全ての色がゆったりと溶け合うなかへ消えていき、代わるように今度は、白き剣を佩いた一人の青年が現れた。魔法使いの旅装に身を包んで悠然とある姿は、イススィールの冒険のすえにエターナルデザイアーを見いだした伝説の人物――先駆者たるクレスオール、その人だった。
「私は、ヒトをこの次元に導くことが、最たる幸福だと信じていた。だがここはあまりにも完全で、ゆらぎない。他人の都合でつれてこられるような場所ではないんだ……ヒトはこれからも争うだろう。新しいものを生み出していくだろう。ヒトはまだ至らないが、しかしいつか"気付く"。それは犠牲かもしれない。栄光かもしれない。かけがえのない過程の果てに、『はるかなる果て』はある。君たちの戦いは伝説となり、後世に語り継がれていくだろう。それはヒトに勇気や希望を与え、彼らを高め導いていく。私たちは待っているよ。人々が"気付き"、『はるかなる果て』にたどりつく日を」
彼のかたわらには光輪をいただく女性がついていた。女性は誰も知らない者――しかし誰もが知る原始的な故郷を匂わせており、隠秘的で、ユテァリーテにもどこか似ていたが……この者は天上の神のひとりではなく、太古より我々にもたらされてそなわる感覚と記憶そのものであり、ヒトの心のより深部にあの大樹さながらに根ざして、遍在する時空をかえがたい絆の架け橋につなぎ、世界を統べているイマージュの化身なのかもしれない。バルナバーシュはそう幽かながらに思った。論理や人知の枠組みをはるかに凌駕した次元への憧憬、あるいは茫洋として、とりとめのない信仰のように。このような理解しがたい想像自体が、みずからのどこから来たのかさえも、なにひとつ確かではなかった。彼女は微笑んで、若い芽吹きを思わせる唇が、「私もまた、あなたたちを待っている」とだけ言葉をかたどった。そうして消えていく。世界をへめぐり、そのディテールと思い出を目の奥に秘めながら生きた、魔法使いクレスオールとともに。
「君たちが胸に抱き、旅の支えとなった偉大な夢は、イススィールを去る時に叶えられるだろう。フェレスに誓って約束する――」
灰だけがただよう虚無の世界にとてつもない重力がはたらいた。勇気、栄光、正義、希望、聡明、博愛、犠牲――そして混沌の芽ばえが星辰を結んで太古のエネルギーを分かち、虹色に波打つ大気を生んで、宇宙の無辺へと広がっていく。時空を駆ける波を追うように、七と一からなるあらゆる色彩はよみがえり、記憶は覚まされ、ながれこむ膨大な知識と五感によって存在の証が打ち立てられた地上が、まだ終わる時ではないのだと、ルドたちをとらえ、すさまじい勢いで引き寄せていく。急激に遠ざかるイムド・エガトに、ルドとバルナバーシュはあらん限りに手を伸ばすも、扉は小さくなり、見る間に閉じられていく――。同時に二人の意識もまた、次元を大きく越境する力とそこに感じとった無窮の安堵に満たされて、眠るように薄く遠のいていった。
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100 Strala
「���ゃんと来てくれたのね」
姿と表情は幼いというのに、その声は年齢も���性別も、誰なのかすらもわからない。その声は見た目通りの幼い少女の声でもあり、年老いた老人のようでもあり、これまで出会った誰かの声のようでもある。
「クヴァリック……? それともハインさんのお爺さん?」
ルドは、その声に戸惑った。その中に確かにクヴァリックの声を聴き、またハインの祖父の声も聴いた。 ルドの疑問に、ディオレが答える。
「彼女は、いや、彼女たちはこの地で希望を求めた者たちであり、そしてこのイススィールの形を繋ぎとめている。彼女がこの偽りのイススィールを創った」 「それはいったい……」 「どういうことか、それを貴方たちはもう知っているはずよ」
ルドの言葉に、今度はディオレではなく少女が答えた。まるで小さな子どもに諭すように、優しく微笑みながら。
「このイススィールはミュウとレイ一族が宿命を果たすために旅した地ではない。彼らの物語はすでに終わってしまった。でも、それじゃあ希望を探し続ける人々はどうしたらいいの? 貴方たちのように、エターナルデザイアーをよすがとする者はまだ大勢いる。目指す夢であれ、破壊すべき古い柱であれ、その想いは世界にあまねくありつづけている」
少女の瞳の色がめまぐるしく変わる。かつてこの地を歩んだすべての人々の瞳の色に。
「だから私は、消えゆくイススィールのイメージを繋ぎとめることを望んだ。エターナルデザイアーを求める人のために。エターナルデザイアーをかつて求めた人のために」
優しく全てを包み込むように少女は言う。
「私たちが誰かなんてもはや些細なこと。大事なのは、こうしてイススィールの物語がここに在るということだけ」
この場所はかつてのイススィールではない。フェリクスが言ったように過去の名残りでしかない。だが、それでも確かにこの地は希望を探し求めるイススィールの似姿であった。ルドはこの地に至るまでに過去の物語、そして今まさに紡がれてゆく物語を見てきた。エターナルデザイアーを巡る多くの人々の想いがこの地にはある。その物語を終わらせないために、少女はこの地のイメージを繋ぎとめているのだと言った。 だが、ルドには分からないことがあった。さきほど、フェリクスが魔王を呼ぼうとした時に聞こえたのは彼女の声だろう。彼女が言っていた「これでまた、イススィールは繋ぎとめられる」とは、どういう意味なのだろうか。あのままルド達が魔王を倒してしまったら、エターナルデザイアーは完成するのではないのだろうか。そうであれば、フェレスは二度と誕生せず、フェレスを手にエターナルデザイアーを求める者もいなくなってしまう。ストラーラの願う、イススィールの物語は続くことなく終わりを迎えてしまうのだ。 ルドは、その疑問にある一つの結論を導き出す。だが、それはあってはならないことだ。そんなことはないと、そんなことはありえないと思いながらも、エターナルデザイアーを求める旅が永遠に続くためには、それ以外の答えが思い当たらない。 震えるルドの声が、ストラーラに向けられる。
「君はイススィールの物語を閉じないこと、イメージを繋ぎとめることを望んだ。でも、それはエターナルデザイアーが完成したら終わってしまう」 「いいえ、イススィールの物語は終わらない。たとえ貴方たちが魔王グノ・レイを倒しても、エターナルデザイアーはヒトの手には渡らず、不完全なまま深い封印に眠り、次の物語がやってくるのを待ち続ける。あるいはエターナルデザイアーを破壊したとしても、ふたたび新たな欠片を散らしてひとときの眠りにつくだけにすぎず、ヒトに夢があるかぎり、いつかかならず神器として目覚める時がくる。そうして、この地を創った女神はエターナルデザイアーの完成さえ阻み、永遠の物語を整えた。その障害となる自身の心も切り捨てて。貴方たちが沙漠で出会った彼女が、その切り捨てられた心よ」 「そんな!じゃあ、なんのためにこの地へ彼らは来たのッ!みんな希望を求めて来たのに!!」
思わずルドが珍しく声を荒げた。聞きたくなかった。そんな答えではないと信じたかった。だが、わずかなルドの願いは容赦なく否定されてしまった。永遠に、エターナルデザイアーは完成することはないのだと、目の前の少女は言った。では、エターナルデザイアーのためにこの地へ来た人々のしたことはなんだったのか。永遠に叶う事のない願いを探していたというのだろうか。皆、自分の命を懸けて、自分の全てを懸けてこの地へ来たというのに。残されたルドの左手が音を立てて握りしめられる。
「ルド、嘆くことは無いわ」
微笑みをその顔にたたえながらストラーラは語った。その表情はアストラの入り口であるイクトルフの門で出会った女神の表情とどこか似ていた。
「確かに女神はエターナルデザイアーの完成を阻み続けた。でもそれは、希望の欠片であるフェレスが新たに生まれ続けるということ。かつてミュウとともにこの地へ来た冒険者たちは、呼び出された魔王を倒し破滅を乗り越えることで、後世に語り継がれる伝説となった。かつてレイとともにこの地へ来た冒険者たちは、進化を否定する夢の化身を倒すことで、未来を切り開く導きとなった。エターナルデザイアーが完成しなくとも希望は生まれ続ける。ヒトは希望がなければ生きてはいけない。そうでしょう、ルド」
心の奥を覗き込んでくるようなストラーラの瞳に、思わずルドが後退った。確かに、ヒトは希望を胸に生きていく。ルドにそのことを教えてくれた母の顔がルドの脳裏を過ぎった。ここでストラーラを倒すということは、彼女が繋ぎとめている希望を消すという事だ。だが、それでもルドはまだひざを折ることはできない。ここで彼女の言葉を認め、屈することなど出来ない。 彼女の瞳に吸い込まれそうな感覚に、ルドがよろめく。だが、その背を力強く支える手があった。振り返ると、ディオレの凛として輝く星々の光を宿した金色の瞳がルドを見ていた。ディオレはうなずくと、真っ直ぐに前を見据え、ルドに、この地に立つ全てのフェレスの主たちに、そして目の前の少女に言葉を紡ぐ。
「だが、それはエターナルデザイアーの円環に囚われたまま生まれては消えていくだけの世界だ。真実の死を知らぬまま永遠に回帰し続ける世界。悲しみを必要としない世界。だからこそ、私たちは待っていた。フェレスを持つ君たち冒険者を。イススィールに根ざす呪縛より決別し、この宿命を終わらせるという古の約束を果たすために、我々、幸星の民は待ち続けていた。エターナルデザイアーに夢を託す者と、破壊する者、二つの力が拮抗した時にはざまの道は開かれる。 今、君たちに問う。この回帰を越えて新たな希望を求めるか、それとも彼女のように偽りであろうとイススィールを繋ぎとめ続けるか!」
ディオレの言葉に、ストラーラは遠い過去を見るように微笑み、片手を天高く掲げた。
「エターナルデザイアーに関わる律は乱れ、イススィールを形成してきたイメージが崩れ始めている。それでも、このイススィールを否定するというのなら、はざまの道を来た者たちの末路をイムド・エガトに問いましょう。終わらせるものたちへの咎めを、『はるかなる果て』よ!」
ストラーラが掲げた手の先で、灰色の空に亀裂が走り引き裂ける。その破れた空の向こうは陽も陰もない、虚無に包まれていた。空の彼方の虚無から流れ込む力が、ストラーラを満たしてゆく。
「ルド、来るぞ!」
ルドが、バルナバーシュが、ディオレがそれぞれ己の武器を手に構える。 神々しい光に包まれたストラーラは、ゆっくりと掲げた手を下ろし、絶対の波動を冒険者たちへと向けた。
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99 Fate
天と水鏡の地に広がる払暁の光はまばゆく、決闘がもたらす世界の夢の趨勢を投影して、フェリクスの背後、西の地平へと夜と星影を押しやろうとしていた。左腕に血を流しながらも、バルナバーシュは水をあけた戦況にも油断なく剣尖を突き入れたが、古代人の魔掠力の斧がやにわに紫の妖光を発するなり、紫電を所嫌わず放ってバルナバーシュを弾き返し、あとずさらせた。らくだ色の髪が乱れてフェリクスの顔に垂れおち、ルベライトの瞳は眼鏡に映る金色の旭光に隠されていたが、額の三つ目――彼の精神と感情がもっとも表されるもの――だけは、爆ぜる火のごとく明らかにされていた。深い怒りと憎しみが、眼前の許しがたい存在をその視線にとらえている。
「くっ、ははは……レイ一族よ、御身らがいかにして破壊者であったか、その一端、ようやく心得た……」
彼は自嘲を滲ませ、涙していたが、真の怒りに駆り立てられた顔を上げると、いきどおろしい叫びとともにバルナバーシュへ打ちかかった。バルナバーシュは魔力に通ずる銀剣で刃を交えたが、古代人の激しい憎悪と交感した長斧は雷鳴に叫喚し、稲妻によってバルナバーシュを大きく後方へ吹っ飛ばした。
「我が血と、種の忘らるる栄光に流れる封印の記憶が、イブ――今こそお前の犠牲に応えるぞ!」
しぶきをあげて水鏡に転がり、跳ね起きたバルナバーシュにふたたびフェリクスの魔斧が打ち下ろされる。幅広の刃には毛細血管さながらに刻まれた青い魔術回路がはちきれんばかりに躍動し、バルナバーシュはこれを間一髪に避け���しか出来ず、魔斧は地を粉砕し、水をすさまじい蒸気の渦と変えた。見ればフェリクスの肌や手にも青い光を放つ血のくだが浮き上がり、晦渋かつ深遠な霊的パターンを描いて無尽蔵の太古のエネルギーを彼にもたらしている。遠い昔に想像を絶する大文明を築き上げた古代人の血に連なる、真の力の覚醒だった――銀剣と戛然たる攻防を引きも切らず繰り広げながら、輝炎となって燃える額の目が、その瞳にバルナバーシュを映し、激情に焼き焦がし続けている。
「知らざる弱さを突かれ、不覚をとったことは認めよう……だが今ここで愛によって敗れるというなら、それすらも私は断ち切ってみせるぞ、バルナバーシュ!」 「私もお前もヒトだ、フェリクス。魔王グノ・レイ――破滅の化身などになれるはずがない!」 「だが、貴殿らを勝たせるわけにはいかない。現実から目を背け、理想の名のもとに変化を拒み続けた世界に、必ずやイブの命を……ひいてはこれより生まれくる可能性の種子、新たな時代、進化の幕開けの一切を認めさせてやる。目指す意志の欠けた夢の支配から脱し、誰もが古き時代にささぐ贄になることのない、真の未来を繰るものとして――全ての意志に報い、エターナルデザイアーの見せる紛いの光に晦ませはしない!」
もはや助からぬ深手を負ったイブへの未練と哀惜を超えて、いまフェリクスを突き動かすのは、世界の怒り――もはや彼個人だけにとどま���ぬ、乗り越えんとする全ての意志あるものたちの現実を尊ぶ、始原の怒りだった。死力を目覚めさせた古代人の猛攻をバルナバーシュはひたすらにかわし続けていたが、フェリクスの断然たる魂から飛び火して闘争心が胸奥に盛るのを感じたとき、勇を鼓して魔斧の一撃をがっきと、的確な角度から受け止めた。押しつぶされぬよう力をあるべき流れへ逸らし、たがいの刃を絡めあわせながら、バルナバーシュは碧眼をけわしく光らせ、不足なく宿敵を睨み返した。
「私も想いは同じだ。この地まで私を繋いでくれた、クヴァリック、ハイン、そして多くの砕けたフェレス達――理想を求めながら、道半ばで破れ、後世に託していった全ての夢に報いたい。だが、私は彼らが信じたエターナルデザイアー……それを破滅より守り通し、復活によって実現してみせる。英雄たちの偉大なるドラマと伝説が紡ぎだす永遠を知るものとして、果たせなかった彼らの夢をも叶え、絶望の闇からはるかなる果てへと導いてみせる!」
二人の魔術師は間合いを取ると、水上を駆けながら、炎の球を放ち、氷床の奔らせ、巨大な岩の槍を起こし、風のやいばをけしかけ、フェリクスはさらに紫電の矢を次々に放ち、バルナバーシュは黒い濃霧を盾に呼び寄せてこれを呑みこみ、相殺した。魔術回路を通じて体の一部となった生ける武器に持てる魔力を惜しまず流しこみ、いまや精神と感応だけで彼らは超自然の諸力を借り、絶対的な統御をもって自在に行使していた。バルナバーシュの持つ銀剣アルドゥールは、他でもないフェリクスの手より生まれた業物だったが、忠実なしもべとなって主を偽りなく助け、求めと与えられる代償に応えて最大限にその能力を引き出した。フェリクスの渾身に振るわれる最強の魔斧とかちあい、大気が爆ぜ、ひとつの星を砕くような音をたてて抗おうとする。
これまで培ったフェレスの加護を発揮し、常態を超えて戦い続ける彼らは、自身の願い――かたやセニサを守り、かたやイブを守るという自我――をひととき封じつつあり、かつてミュウとレイが幾千の夜を越えて続けてきた宿縁を背負い、伝説にうたわれる決闘の再演に身を投じていった。双方ともに夢の力を信じ、また意志の力を信じて、終わらせる闇と諦めさせる光にあらがい、世界に生き、生かしている全ての存在に報いようとしている。目指す地平を同じくしながら、平穏に手を取り合うことはできないのか……否、戦わねばならない。勝たねばならない。不完全に生まれたヒトの子はあらゆる闘争を宿命づけられ、そのみなぎりがぶつかりあう果てにこそ、陽にあふれ、夜の守られた完全な次元が待っているのだと、彼らは高ぶる本能のなかで知悉に至ったのだ。
ゆえに、彼らの信念は何よりも、その奥底においてたがいを必要としていた。相手を下して証明するためではない。たがいの宿命をも闘争によって担い、いつか完全飽和の極致、はるかなる果てへとたどり着き、新たな時代の夜明けをともにもたらす最上の予感に心をふるわせ、彼らは半ば浄化的な喜びのなかで激しく切り結んでいた。
たがいのフェレスが胸元ですさまじい光を放ち、二人のあやつる元素が衝突する頭上で、にわかに空は暗み、暁も夜もなく頂点から超常的な亀裂を走らせた。いまわしい臭気の風がつのり、バルナバーシュは異変に焦りを感じながらも、眼前の剣戟から気を逸らすわけにはいかなかった。だが、生ぬるい糠雨が降りそそいで、不気味に濁る水がねっとりと額から流れ落ちて口に入るや、舌に鈍い痛みをもたらし、ただならぬものと悟ったときにはいよいよ無視もできなくなった。
「フェリクス、様子がおかしいぞ! なにか、良くないことが起ころうとしている――次元の障壁にゆがみが生じているのか」 「放っておけ! この戦いに決着をつけるのが先だ」
だが、引き裂けた空からは異様な大気が、とろけた黄金と乾いた赤黒い色に混じり合いながら熔岩流のごとく重たく流れ込み、世にも恐ろしいうなりをあげて天上を覆い尽くそうとしていた。時おり泡立ち、悪夢にもだえる生き物のようにうごめいている。吐き出される息吹は異次元よりすさぶ風となり、負の気を撒き散らしながら全てを灰と化すかに思え、倒れたイブのそばで二人の戦いをただ見ているしか出来なかったルドは見上げて、どうにか自制心を保ちながらも恐怖に体を張り詰めさせていた。それでも魔術師たちは髪をふり乱して狂おしく戦い続けたが、バルナバーシュはとうとう自然律をねじりきって迫る混沌に恐れをなし、魔斧を大きく弾き返すと逃げるように間遠な距離をとって剣を下ろした。
だが、愛する者を喪いつつあるフェリクスの怒りがおさまるはずもなく、覚醒した魔力と稲妻の力を爆発させて水を蹴り、驚異的な勢いでバルナバーシュへと一足飛びに迫った。イブの攻撃に継ぐべく、彼女の刀が切り裂いた黒革の胴着――バルナバーシュの胸元へ、強烈な横薙ぎが繰り出される。フェリクスを助ける無敵の力を前に、一度下ろした剣を構えるのでは間に合わない。銀剣はたやすく砕かれ、魔掠石の刃が深く胴体を抉りとって過ぎていくだろう――だがその死によって、イブの犠牲をあがなえるのであれば……。
その悲嘆の思いとは裏腹に、アルドゥールを握る右腕はわずかな希望にも食い下がり、剣を持ち上げて魔斧を防ごうと試みた。ルドの時ならぬわめき声が、あらゆる音と気配をつらぬいて聞こえた気がしたが、次の瞬間、耳を聾さんばかりの破砕音が彼らのあいだに打ち響いた。それはフェリクスの稲妻ではなく、銀剣が折られるのでもなく、さらになにか屈強な金属のかたまりが叩き割られた直撃を伝えるものだった。来るべき決着はおとずれなかった。
二人の魔術師たちに挟まれ、耐え抜くようにしてルドが立っている。見れば、バルナバーシュをかばって振りかざした機械の右腕の肘から先が失われ、古血の色をした燃料を噴き出しながら、腕はなおも宙へと突き出されていた。バルナバーシュを死に至らしめるはずの一撃を受けた腕は、空高く斬り飛ばされ、回転し、はるか遠くに落ちると無残に地を跳ねて転がっていった。
「ルド!」
みずからにとりついていた亡霊から醒めるように我に返ったバルナバーシュは、ぐらりとかしいだルドの背を、剣を打ち捨てつつささえ、胸に抱きとめるや辛苦に顔を歪ませた。フェリクスは斧を引きとどめながら、にわかに冷や水をかけられたかのような顔をして、やはり戦意の潮が音もなく引いていくのをただ茫然と感じていた。ルドが割って入ったせいではない。今しも断ち切った腕に、かつて廟塔で同じく、腕を犠牲にしてフェリクスを守ったイブの影を見てしまったのだった。
「ごめんなさい、邪魔をしてしまって。でも、これが僕の願いだったから」
「いいんだ」とバルナバーシュが首を振る。天上の裂け目がいまだに轟々と、不吉な色彩のるつぼをたたえる下で、フェリクスは何も言わず彼らに背を向け、倒れたイブに静かに歩み寄った。彼女はまだわずかに息があり、ルドの銀空剣は心臓部――永久にエネルギーを生み出せる、拳ほどの青く光る正八面体の結晶――を逸れていたようだが、つらぬかれた胸部からは血液の代わりとなる大量の青い燃料や、機体の維持に重要な器官の一部があふれだしており、まもなく生命活動の機能を停止させるのだろう。
フェリクスの故郷では、七百年以上も前のこと、機械種族は心の概念を持ち、設計者を親として、ヒトとしての人権も認められていた栄華の時代があり、その中からフェレスを持つものさえも多く現れたのだという。その最初のひとりである機械人――その者は〈人形〉と呼ばれていた――の数々の英雄譚が、伝承やおとぎ話の絵本になって後世に残り、幼少のフェリクスの憧れの対象ともなった。やがて新人類たる機械と古い種族らがたがいを憎しみ、恐れあって地をあまねく破壊するほどの大戦が起きたが、〈人形〉は和解を信じて戦った末にこれを終わらせると、復興に力を尽くし、のちに機械人の多くを連れて地上からはるか遠い場所へと去っていった。銀色の船に乗って、空の暗い高みへと……ヒトはそこではじめて、絆が失われたことを知り、悲しみにくれて心ある機械を生み出す技術のすべてを贖罪として葬った。
だが、フェリクスはその歴史を疑い続けた。彼らは去ったのではない……我々がいつか辿りつき、ふたたび手を取り合う未来を待っているのだと。ふところから己れのフェレス――ブリキの〈人形〉のおもちゃを取りだす。イブを生み出すきっかけとなった存在だが、これが今は、なぜかあの機械の少年と重なって見え、彼は一度、肩越しにバルナバーシュらへと振り向いた。
設計者が生み出した機械に対して、たとえ無限の学習機能や自由意志を持たせられたとしても、心の概念がどこからきて、なにをありかにするのかは誰にも、作られた機械自身にすら分からないものだった。だからイブが生命を停止したのち、たとえこの無疵のコアを用いてまったく同じ機体を作ったところで、心だけはおそらく取り戻せないだろう。彼女のこれまでの体験や記憶をデータとして移植できたとしても、それは思い出にはなりえない……イブは本当の意味で死に、消えてゆこうとしている。
フェリクスに気付いたイブが、力無く右腕を彼に差し伸べ、応えるようにフェリクスはせいてそばにひざまずいた。弱々しくふるえる手には何かが握られており、それはイブのフェレス――彼女の誕生した日にフェリクスが贈った、カゲロウを閉じ込めた琥珀の果実だった。彼女の消易し命の影を落として青白く明滅する光が、手甲で覆われた指のあいだから差しており、何かを本能的に察したフェリクスは、自身のフェレスとともに彼女の手を取り、たがいの手と光を深く絡め合わせた。
ないあわさった光は突如として、咆哮をあげて闇色に染まり、数条の黒檀の光が天にのぼり引き裂かれた空にぶつかった。亀裂の向こうで混沌とうねっていた黄金の色彩はみるまに追放され、拮抗しあっていた赤黒い大気が一気に裂け目よりあふれると、天上を地平線にいたるまで惨烈な血色の嵐で覆い尽くしてしまい、薄く水を張った地上もざわめきつつ、邪悪な空を映して血の海を広げていった。イススィールの空はさらに引き裂けて、異空から尋常ではない力を従えながら、実体をもたぬ破滅の化身――魔王グノ・レイの残酷な意思そのものが地上に流れ込もうとしていた。
「やめろ、フェリクスッ! こいつはヒトの身をはるかに超えた所業だ。これ以上続けたら、お前の命も……!」
強大な憎悪の念に禍々しく、すべてを破壊しつくさんとする凄絶なプレッシャーに気を失いかけながらも、バルナバーシュが銀剣を取って止めに入ろうとしたが、不可視の障壁に体ごとはじかれてその場に倒されてしまう。後を追ってきたルドに片手で支えられながら、怒りがもたらす滅びと絶望をただ見ているしかできなかった。エターナルデザイアーを手にしたクレスオールと人々にかつてふるわれた、神々が捨てた身躯なき破壊の心に世界そのものがおののき、恐慌した大地は揺れ、乱れる空にひらめく稲妻の軍勢に加わるかのように、火口さながらに開いたいくつもの地割れからオレンジ色の炎の柱が噴き上がる。風は獰猛な群れをなしてかけめぐり、礫が舞い、竜巻がしぶきをあげて忘れられた神話の詩を歌っていた。あらゆる鳴動が現次元の限界を凌ぎつつあり、ヒトの子――ルドとバルナバーシュのたった二人――に、この行方を決することはもはや不可能と思われた……。
魔王に魂を喰らわれていくフェリクスの顔は生気を失って白み、額のルベライトの目は泣きはらした子供のそれのようにかすれて、バルナバーシュ達の呼び声も遠く耳に届かなかった。だが、絶命を前にしたとき、鼓膜を突き抜けて頭蓋内にささやく声があった。
(そして、あなたとイブは最期に願うでしょう。その機械の骸に破壊の意思を取り込み、魔王の肉体を具現させ――ルドたちの剣によって倒されるのだと。これでまた、イススィールは繋ぎとめられる……)
水晶のように冷たくとおる少女の声だった。聞き覚えがないはずなのに、この者を旅のはじまりからずっと知っているような気がして、フェリクスの目は混迷でわずかに揺れうごいた。読み手のごとく唱えられた言葉はバルナバーシュらにも聞こえていたらしく、地獄の様相に震撼する辺りへ目を放ったが、姿はおろか気配さえもつかめない。だが、バルナバーシュはある種の予感に胸がひきつるのを感じて、思い当たる少女の名を、心をさいなむものがなしい呪文のように口にのぼせようとした。しかし、息をのんで引き結ばれた唇がとめだてする。そのとき忽然と、北のかたより、水を蹴って速やかに迫ってくる人影が視界に飛び込んできたのだ。
その者は最初、赤黒い水面にしか映っていなかったが、近づくにつれて実体化すると、浅黒く輝く肌の中性的な顔立ちに、白い数珠を編み込んだ長い褐色の髪を流し、藍のビロードの衣と無駄のない武装で身を包んだ闇沙漠の戦士……ディオレの姿をかたちどった! ディオレが革帯に嵌めたフェレス、世界樹のメダルもまた、青白い光を力強く放って、望まざる運命に向かう世界に不退転の覚悟をもって抗おうとしている。
「気を強く持て、フェレスの戦士たちよ。戦いはまだ決していない……! そして、偽れる者よ――終わらせるものの星の光が、おまえを暴き、悲しき回帰を破る力となるだろう。無垢な樹の矢を受けるがいい!」
破滅を駆け抜けながらディオレは弓に七色のすさまじい光を放つ矢をつがえ、確固不動に立ち止まるや、虚空に向かって音高く射放った。矢は緑青色に燃える彗星となって尾を引き、命を無に帰す風を裂きながら天を衝いて、赤黒い空に複雑な罅をかなたにまで走らせた。人間業を凌駕する威力に打たれ、ガラスが一斉にくだけるような悲鳴のなか、がらがらと音をたてて空のすべてが割れ落ちていく――異空の亀裂は依然として残されたままだったが、すべて夢まぼろしだったかのように魔王の威風も破壊の衝動も消え失せ、雲も光もない、ただ乾いた風のすさぶ灰色のむなしい空へと変わっていった。千万もの天球の破片は、地に降りそそぐまえに光の粒子と化して風にさらわれた。
フェリクスとイブの魂をもって魔王を呼ばわらんとした二人のフェレスの光もなりをひそめ、彼らの生命もすでのことで喰らわれなかったが、フェリクスはついに失意から肩を落とし、目元を手で覆って静かに涙を流していた。やはり彼は、かつて魔王を呼び寄せて死んでいったグッドマン・レイには及ばず、履行を鈍らせたるヒトとしての心を断つこともかなわなかったのだ。ディオレの目覚めるような流星の一撃を受け、かように脆く崩れてしまうほどには。
打ちひしがれる男の向こうに、この決戦の地の行く末を見守りながら隠されていた姿がたたずんでいた。真珠母色にうつろう銀髪に、白絹の衣をなびかせる、白銀のように美しく輝かしい少女――ストラーラが、やわらかく微笑しながら、この場に居合わせた者たちに愛を……彼らとは異なる真実からなる愛情を傾けたまなざしを送っていた。
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98 Duel
頂上を覆う淡い輝きは、段を上るにつれて明るさを増していく。一歩一歩進むごとにその輝きはルドとバルナバーシュを包み込み、全ての輪郭があいまいになってゆく。ルドとバルナバーシュが、決戦の地へと続く最後の一段にそれぞれ足をかけると、目も眩むような光に辺りは包まれていった。
ルドとバルナバーシュが目を開くと、そこには果てしなくどこまでも続く空が広がっていた。空を遮るものは何もなく、床に薄く膜を張った水が鏡のように空を映し出している。不思議なことに空には、これから一日の始まりを告げる旭光に包まれた青空と、これから一日の終わりを告げる星影の映ろう夜空が同時に存在していた。 二つの空が交わる場所の真下、この場所のほぼ中央には、折れた剣を握り締め朽ちた真っ白の躯が横たわっていた。その顔は既に風にさらわれ跡形もなく、どんな人物だったのか伺い知ることはできない。その体は今も、端から崩れ落ち消えていこうとしていた。 ルドがその躯に近づき、手を伸ばす。
「それはただの名残り。イススィールの儚い夢の欠片だ」
突如としてかかった声に驚き顔を向けると、さっきまでは確かに誰もいなかった場所に、夜空を背景にしてフェリクスが佇んでいた。彼の傍らにはイブもともにいる。
「どうやら、私は賭けに勝ったようだな」
口の端を上げ、満足げにフェリクスが言葉を続ける。二人の姿を見て、ルドは安心したように息をついた。
「フェリクスさんもイブさんも無事だったんですね」 「君たちのほうが先にここに来たのか?」
バルナバーシュの問いに、イブがルド達を真っ直ぐ見つめ返しながら答える。
「さあ、どうだろう。ここは時間が意味を持っていないようだから。私たちがこの場所に来たのはつい先程だ。人の気配がして振り返ったら君たちがいた。ここはもう、これまでほどはっきりとした場所ではないらしい」
思い返せば、異なる時間と時空が繋がるような体験はこれまで幾度もあった。ロマルフ城でイブやフェリクスと再会した時。闇沙漠で本来はとうに先に進んでいるはずのハインに遭遇した時。
「はっきりとした場所じゃないって、どういう意味ですか。それに夢の欠片って……。ここはアストラなんですよね?」 「そうだ。ここは本来ならば決戦の地アストラとして、ミューヴィとレイ一族がエターナルデザイアーを廻り、戦いを繰り広げる場所だった。発端である、そこの欠片を始まりとしてな」
フェリクスは、ルドが触れようとした躯を一瞥しながら答える。その様子に納得したようにバルナバーシュがつぶやいた。
「では、やはりこの躯はクレスオールなのか」
顔は分からなくとも、その躯は闇沙漠のパワースポットで垣間見た荒野に横たわる青年の姿と、ひどく酷似していた。ここが、エターナルデザイアーを廻る旅の終わりであるアストラであるなら、エターナルデザイアーとともにあった青年の亡骸がここにあることは何ら不思議ではないことのように思えた。
「だが、見た通りその躯はすでに消えかかっている。さらに、この地にエターナルデザイアーを廻る争いの渦中にいたミューヴィも、レイ一族もその姿はもうない。今までの道中で生きている彼らに一度でも会ったか? フェレスの名残りである亡霊と同様の存在ではなかったか?」 「どういうことですか、フェリクスさん」 「バルナバーシュ殿なら私の言う意味は分かるはずだ」
ルドがバルナバーシュを見ると、彼は眉間に深く皺を刻みながら呻くように口を開く。
「ルド。階段を上る前に話したことだ」 「『ここはもう、かつてのイススィールではないのかもしれない』という話ですか」 「そうだ」 「じゃあ、フェリクスさんは、この場所が偽物だと思うんですか」 「いいや。この地は本物だ」
ルドの問いに淀みなく、はっきりとフェリクスは言った。
「かつてのイススィールの欠片。夢の残骸だがな」 「夢の残骸……?」 「我々はこうしてイススィールの地に立っている。だが、我々の知るイススィールと異なるのは貴殿らも分かっているだろう。まるで過去の欠片を寄せ集めたようではないか。闇沙漠を経て、私は確信した。ここはかつてのイススィールではなく、エターナルデザイアーという夢の欠片でできた場所であるということを」
厳かに、強い確信をもってフェリクスは語る。
「そう、ここは古い、古い夢の欠片だ。だが、夢であってもこうして我々はこの地に立っている。まるで本物の地のように存在している。それだけの強い力があるのだ。それは、夢であろうと、エターナルデザイアーは失われていないということだ」
そう言い終えると、フェリクスはその手に得物とする斧を構える。イブもフェリクスに合わせ抜刀の構えを取った。
「フェリクスさん、どうしても戦わなければいけませんか」 「ルド、ロマルフ城で私が言ったことは覚えているか?」 「はい。フェリクスさんは僕に、僕の往くべき道だけを思えと言ってくれました。でも僕は、分かり合いたい。あなたが言うようにとても難しいことだというのも知っています」 「それでもか」 「それでもです」
イブの刀が鯉口を切る音がわずかに鳴る。 フェリクスへのルドの答えに対し、思わず身震いしそうなほどの鋭い殺気がイブからルド達へと向けられた。もうそこに、かつてルドの頭を撫でてくれた優しさは見えない。
「ルド、本気で私達と向き合うというのならば、その剣を取れ。私達にも、譲れないものがある。ルド、君がそうして信念を貫きたいと思うように。例え君たちを手にかけることになろうとも」
低くイブが告げた宣告にフェリクスが続ける。
「進歩の前には一度古いものを壊さなければならない。古い夢はもう終わるべきだ!」
フェリクスの言葉を皮切りに、四人はそれぞれの武器を手にして床を蹴った。イブは機械の少年へ、フェリクスは濡羽色の魔術師へと向かう。それぞれの刃がいくつもの火花を散らした。
イブの剣は、その華奢な見た目とは裏腹に、一撃一撃が重く、ルドが少しでも気を抜くと腕を切り取られそうだ。軌跡を残しながら、床を蹴り上下左右様々な角度からイブが続けざまに切り込んでくる。
「私の思いは生半可な気持ちでは破れない。情けなどかけるような相手に私を斬らせはしない!」
床の水が、イブを中心にしてまるで球を描くように跳ね上げられていく。スピードではかなわないルドは、ただひたすらにイブの攻撃を剣を盾にして凌ぐしかなかった。だが、ルドもやられてばかりではなかった。
「やっ!」
イブの攻撃に出来たわずかな隙をルドは見逃さなかった。連撃から連撃へとの繋ぎの間に生じるわずかな空白をつき、ルドは躊躇うこと無く手にした銀灰の大剣を大きく踏み込んで突き出す。大きく間合いに踏み込んできたルドに、イブは咄嗟に距離をとることでその攻撃を逃れた。
「僕だって、生半可な気持ちでここまで来たわけじゃありません。ここに来るまでに親しかった人と剣を交えることもありました。その時僕は迷ってしまった。でも、僕はその人に託されたんです。だから僕はもう、迷っちゃいけない。今度はちゃんと向き合わなければと思ったから」
門でのハインとの戦いで、ルドは躊躇ってしまった。だが、あの時ルドは戦うべきだったのだ。ハインを殺すためではなく、ハインと向き合うために。階段で自分を助けてくれたハインの姿を見た時に、ルドはそう直感した。 ルドの言葉に、低くイブが笑う。
「そうだ、ルド。でなければ、『私の意味』がない」 「……イブさんも、エターナルデザイアーを破壊したいのですか」
ルドは戦う前から抱いていた疑問の言葉を投げかけた。ルドには、イブがエターナルデザイアーを破壊せねばならないと思う理由がわからなかったのだ。イブは、マフェリアリのようにエターナルデザイアーを憎むようなそぶりもない。これまでのイブの口ぶりから、エターナルデザイアーを破壊せねばなるまいと思うほどの気持ちが見えなかった。そして同時にルドは思う。ルドだからこそ思う。もし理由があるのだとすれば、それはきっと――。
「ルド、君は分かってるはずだ。私がどうして君の前に立ちはだかっているのかを」
口調は穏やかだが、その内に苛烈さを押しとどめているような声でイブが答える。
「私はエターナルデザイアーを特別破壊したいわけではない。だがっ!」
一足飛びに距離を詰め、イブが斬りかかる。
「私は、私自身の意思でここに立っている。私はもう同じ過ちを繰り返すわけにはいかない」
イブは、あのロマルフ城で見た光景が脳裏に焼き付いてずっと離れなかった。フェリクスの体が壊れたおもちゃのように壁に叩き付けられ崩れ落ちる様。自分の心臓が鷲掴みにされ急速に冷えていくあの感覚。フェリクスを守るために側にいたというのに。そのために、私は生きているのに。
「私はただ彼のためにあると決めたのだからッ!!!」
もう二度とあの光景はつくらない。もう二度とあの思いはしない。そのために、私は強くあらねばならない。 ルドと鍔迫り合いながら叫んだ彼女の声は、苛立ちと焦燥の色を帯び悲鳴を上げているようだった。
イブとルドが打ち合う中、バルナバーシュとフェリクスもまた、お互いに刃を交えながら問答を行っていた。
「バルナバーシュ殿。やはり貴殿はまだ、エターナルデザイアーを信じ続けているのか」 「ああ、そうだ。だから私はこうしてここにいる。私はルドと共に、希望のありかを探し示すと誓った。親愛なる者を救うため、そしてルドのために」 「貴殿は、己の願いよりも他者を重んじるのだな。まるで理想を追い求めているようだ」
紫電をまとわせたフェリクスの斧が空気を切り裂き、バルナバーシュの銀剣がいくつもの火炎球を降らせ、火花を散らせながら互いの刃を切り結ぶ。
「貴殿もここに至る道を見てきたはずだ。エターナルデザイアーという儚い夢、理想の為にどれほどの屍が積み上げられてきたのかを。ヒトの力を必要とせず、ロジックをも超越する力でかなえられる願いというのは、果たして幸福といえるのか? 全てのヒトを幸福にするという志、理想は確かに尊いものだろう。だが、そのためにどれだけの血を流し、可能性を切り捨ててきたというのだ。全ての願いをかなえるという力は、ヒトの持つ可能性を追い求めようとする意志を挫くのだ。理想だけでヒトは生きてゆくことはできぬというのに!」
ひときわ強い紫電の光が辺りを包み込む。紫電を打ち込まれた床が抉れ、水が蒸発する。直撃はまぬがれたものの、バルナバーシュの衣服から焦げた臭いが立ち、細かい焼け跡が身体の至る所で燻った。 それでも、バルナバーシュは、唱え続けていた魔法を途切れさせることなく紡ぎあげた。空の光を照りかえしていた銀剣が墨を流し込んだように揺らめきながら真っ黒に染まる。禍々しい靄の尾を引きながら、その剣でフェリクスへと斬りかかった。とっさにフェリクスが斧でそれを防ぐ。
「ならば、フェリクス。なぜ君は引き返さなかった。そこまで見ていながら、なぜここまで来た。君の求める力は他にもあるだろう」 「私の過去の話は一度しただろう。そして私の求めているものが何なのかも」
フェリクスの斧を握る手に力が入る。
「なぜ、彼女は破棄されなければならない? 過去の罪と彼女自身は別のものだというのに。知識も技術も、それ自体に罪があるわけがない。全ては、過去に掲げた理想の為の人身御供だ」
徐々に、その声が大きくなる。心の奥の嘆きが熱を持って形を帯びてゆく。
「だからこそ、だからこそだ!夢や理想は必要以上に大きなものほど現実の邪魔をする。それすらも乗り越える意志が我々には必要なのだ。私は、私の夢の為に、私の力で、意思で、彼女を守らなければならない。そのために、私は何があろうとこの道を行くと決めてここまで来たのだっ!!」
かつて種を滅ぼした大罪を二度と犯すまいとした、古の知識への封印。きっとはじめは必要な事であり、未来への希望の種だったのだろう。だがそれはいつしか我々を縛る鎖となり、変化を許さぬ淀みをもたらし、新しい未来を排除する毒となった。毒となり果てた夢や理想は壊さねばならない。 鍔ぜり合っていた斧に紫電をまとわせ、解き放つ。後方に転がるようにして、バルナバーシュが弾け飛んでいった。そこへフェリクスが斧を振りかざして斬りかかり、 咄嗟に受け身を取ったバルナバーシュがすぐさま刃を打ち合わせる。
「先程の話、ひとつ正させてもらおう。私は愛する者を救いたいと言ったが、それは私のためだ。大切なものを何度も失うことに耐えられるほど私は強くないのでね。だからこれは私のエゴであり、私のための願いだ。フェリクス、君と同じように」 「何の話だ。ここにきて揺さぶりをかけるなど、貴殿らしくもないだろうッ」
バルナバーシュの追及に、口の端を歪めながらフェリクスが答え、剣を受け流す。だが、次の一言で、その動きに迷いが生じた。
「フェリクス、イブはもう君にとって、夢だけの存在ではないだろう」
夢だけでの存在ではない? フェリクスは一瞬、バルナバーシュの言葉の意味が分からなかった。イブは自分の理想の体現であり、己の全てだった。彼女が望むのであれば、自分が殺されても構わないと願える夢の具現。だが、いつからだろうか。彼女の言動がわからなくなったのは。彼女の自由意志を尊重すると決めたのは自分自身なのに。何より、フェリクスは『イブが失われる』ということが恐ろしかった。それは彼女が自分の夢であり理想であるから。そう、フェリクスは信じていた。そのはずだった。
イブとルドの戦いには決着が訪れようとしていた。経験を積み、互角に戦っているようには見えても、徐々にルドの体には傷が増え、疲労が積み重なっていく。一方イブは未だにその機動力を遜色なく発揮し、鋭い斬撃を次々と叩き込んでいた。 もう自分に残された体力が少ない事を悟ったルドは、渾身の力で大剣を振りかぶる。だがすでにその動きを見切っていたイブが屈んでその切っ先を躱すと、大剣ゆえにできたその隙をつき、同じく渾身の力で最後の一撃を加えようとした。 その時、イブの視界の端でバルナバーシュと戦うフェリクスの姿が一瞬だけ映った。先ほどまで互角に渡り合っていたはずのフェリクスが、突然一瞬だけ動きを止めたのだ。そして、その隙をバルナバーシュが見逃すはずが無かった。その手に持つ銀剣アルドゥールが深淵に染まり闇が膨張する。その切っ先がフェリクスの胸元を貫くまでに、イブが駆けてゆくのでは到底間に合わない。 ルドへと向けられていたイブの刀はそのまま勢いを載せて矢のようにバルナバーシュへと放たれた。刀が風を切る音で反射的にバルナバーシュは体を逸らしたものの、イブの刀はバルナバーシュの左腕と胴着を切り裂いた。だが、同時にそれはルドへの大きな隙となる。 ヒュッと、イブの喉で空気が音を立てた。彼女の心臓には深々と、銀空剣クァルルスが突き刺さっている。彼女の視界が揺れ、回転するように旭光と夜空が映し出される。胸から剣を生やしたまま数歩後退ると、そのままイブは音を立てて仰向けに倒れた。 彼女が最も愛する者が、自分の名を叫ぶ声を聞きながら。
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97 ABaoAQu
獣人の少女が、機械の少年を身を呈してかばったその時だった。幼竜の吐き出した火炎は彼らを灰に変えず、突如、旋風にとらわれて天へと昇り、おびただしい火の粉と散っていくのを二人は目にした。バルナバーシュもまた、眼前の出来事に前後不覚の意識を振りはらい、その正体をはったと睨みすえる――信じがたいことに、ルドから手離された銀空剣クァルルスがひとりでに宙に浮き、泰然たる立ち振る舞いのごとくゆっくりと回転しているのだ。さきの旋風も銀空剣が巻き起こし、銀灰の大剣は回転をやめてぴたりと定まると、切っ先で竜の額めがけ、流星さながらに飛来していった。未熟ゆえに浮き足立った幼竜の眉間へ、刀身の中ほどまで突き刺さると、竜は悲鳴とともに艶めく玉虫色に鱗を逆立たせ、剣から放たれる衝撃波がその幾枚かを剥ぎ飛ばした。絶命した竜は倒伏し、抜かれた銀空剣がまばゆい青白い光を発して、その柄を握っていた者の姿が月影にあらわとなる。
「ハイン……!」
いちはやくナナヤが叫んだ。青白い光のなかで肩越しに振りむいた男は、イクトルフの門に駆り立てられた悲しき死者ではなく、かつてありしフェレスの戦士、外はねの銀髪に、楽園のコーラルブルーの瞳と荒れ野の陽に焼けた目鼻立ちを持つ、快活と気概にあふれた青年の様相だった。彼は何も答えず、口の端に笑みを浮かべると、ふたたび銀空剣を両手にかかげ、音もなく背後に忍び寄った黒い霧状の魔物へと突き下ろす。ハインの背を斬りつけんとのびあがった漆黒の刃ごと、大剣は叩き割り、霧を両断し、勢いのまま足元の階段に弾かれて硬い音に打ち響いた。とどめとばかりに斬り上げると、光かがやく刀身から風が爆ぜ、霧を散り散りに消し飛ばしてしまった。ルド達は驚きのあまり身をこわばらせ、その偉丈夫の背を見ているしか出来なかったが、ハインの体から光が失せつつあるのに気付いたバルナバーシュが仲間に向かって声を上げる。
「ルド、銀空剣を受け取るんだ。彼の限界が近い!」
ルドは遊色に輝く階段を駆けおり、ハインの持つ銀空剣の、青い布の巻かれた柄に手を伸ばす――指をからめると同時、ハインは光の粒子と変わり、夜の遠空へ舞い上がっていった。バルナバーシュも痛む体をどうにか奮い立たせながら、ハインの幻影が、あの神秘の少女――ストラーラの力によってつかのまよみがえったフェレスの名残りであるのを知る。クヴァリックやハイン��祖父がかつて我々を助けた、潰えがたい遺志の発露のように。
「四人ならやれる。ハインさん、僕らに力を貸してください」
ルドの両手におさまった銀空剣は真に目覚め、天空の力に咆哮した。刀身に暴風をまとわせ、うなりをあげながら、ルドは大剣を振りかざしてフェイスゴーレムへと突進する。おぞましき創造物、容貌魁偉たる不気味な赤黒い頭部は、チューブを脈打たせながらこの世ならざるいまわしい呪詛をとなえはじめ、奇怪な波動に空間は痙攣し、ひずみが障壁となって立ちはだかろうとしていた。さらに濃緑と黒がまじりあってねばつく毒性の液体が、ゴーレムの首元から広がり、接近するルドを呑み込もうと擬足を伸ばす。
「させるか!」
バルナバーシュが銀剣アルドゥールを振るって火炎球を放ち、炎の舌が毒沼を舐め上げると、幾重にも連なる金切声があがった。液体は混沌たる異次元の生命体だった――無力化した毒をとびこえ、ルドは重く渦巻くひずみに銀空剣を突き立てる。刀身に、さらには全身にまとわりついて締めつける障壁に、ルドは苦悶し、身をよじりつつ、あらゆるものに祈り、機械の体を力づくで押し進めようとした。ルドの割れた胸甲の奥から青白い光が差し、刀身が照りかえして力を解き放つ。鍔から爆ぜるすさまじい衝撃波がひずみを粉砕し、ルドはゴーレムの右目に銀空剣を突き入れた。剣を引き戻すと、大量の古血を噴き出しながらゴーレムは絶叫し、まろび、大岩のごとく階段を転がり落ちていった。
「終わったのか……?」 「いや、まだだよ」
慎重に辺りを見回すバルナバーシュに、ナナヤが断言する。自らを階段より突き落とした敵は、竜でもゴーレムでも、また黒い霧でもなかった。焦りつつ、彼女はその者が身をひそめる場所を探った。むかつくような臭気があたりに漂いはじめる。
「ナナヤ、君の影だ――君の影のなかにあいつがいる!」
ゴーレムの返り血を浴びてあえぎつつ、ルドが階下から二人に呼ばわった。ナナヤは月光から生まれた自らの影へ目を落とし、度を失ってあとずさった。だが影を切り離せるはずもなく、踵にぴったりと張りついて白い階段に伸びている――拭い去れない罪の意識のように。
「絶対に振り返るな、ナナヤ」
怯えきったナナヤの両肩を、そばにいたバルナバーシュが血相を変えてつかみ、強く言い聞かせた。そして階段をひたすら登るようにと背を叩き、ルドとマックスも彼らに追いつくと、ナナヤの背を守るべくしんがりに控えた。
それから数時間のあいだ、彼らは大階段を登り続け、また道の途中、焦燥から必要最低限の休みさえも拒むナナヤをどうにか押し鎮めるのにルドとバルナバーシュは苦心した。夜は朝あけを迎えつつあり、紫色の空高い幽暗の向こうには階段の終わりが見えはじめていた。さきに続くのは巨大な塔の屋上のようにも見え、乳白と黄金の淡い光に包まれ、虹色の靄めいた暈がかかっている――この世に天国が存在するなら、最もふさわしき示現の予感を向かい来る者たちに伝えていた。だが、その聖域の光に照らされて落ちる、彼らの影に付き従う気配は段を越えるごとに濃くなるばかりで、とうとうナナヤは歩みを緩め、立ち止まってしまった。バルナバーシュもまた、みずからの影に同じものが潜むのを知り、恐怖に青ざめた顔を隠しきれなかったが、絶対に踵を返してはならないことだけは肝に銘じていた。そうしてナナヤを無理にでも連れて行こうと彼女の細腕をつかんだが、手痛く振り払われてしまう。
「あたしは、これ以上はいけない……あの場所はまぶしすぎるよ」
頂きの後光に苦痛に覚え、ナナヤは顔を覆ってしまう。あれは地上の穢れをさいなむ涅槃の光だった――ルドだけが、二人が今しも感じている患苦に鈍かったが、心にうっすらと靄のかかる感覚は確かにしていた。その時、胸の悪くなる臭気が急に湧き立つや、彼らの肉体は名状しがたい変調をきたしはじめた。
「ナナヤ、足が……!」
見れば、ナナヤの膝下までが灰色に染まり、石となって硬化している――その横ではバルナバーシュが突然、激しく咳込んで膝をつき、口元に当てた手のひらに吐き出された血を呆然と見つめていた。二人はついに、階段の魔物――ハインをアビスへ追いやった者の正体を悟り、だがゆえに冷静を保つことは困難だった。相手は自分自身に宿る影そのもの――過去の罪、穢れ、心の闇であり、それが涅槃の光に当てられて魂の破綻を生み、様々な病と呪いをその身に引き起こすのだ。バルナバーシュは未知の菌に侵されて手や顔に黒い斑点が広がり、ナナヤは半泣きになりながら、徐々に石像と化す体から逃れようと身をよじったが、返されるのは鋭い神経の痛みだけだった。
バルナバーシュは刻々と蝕まれる肉体に朦朧としながら、藁にもすがる思いで自らの色濃くなった影に手を伸ばす。すると驚くべきことに、手は階段をすり抜けて、まるで影のなかへと吸い込まれていくようだった。
「ナナヤ、それにルド――そのまま自分の影へ倒れろ。影に入り込むんだ!」 「はあ?! 一体、何言ってるんだよ! 前から思ってたけど、あんた頭がおかしいんじゃないのか!」
ナナヤが錯乱気味に言い、バルナバーシュもまた泡を食っているのは明白だった。死の危機は目前に迫っていた。
「魔術に生きれば時には狂気をも友とする。死にたくなければさっさと言うとおりにしろ!」
とりのぼせた血気のままバルナバーシュが言い放ち、ナナヤは自棄に任せて影に倒れ、ルドもまた自分の影へと身をおどらせた。最後にバルナバーシュが入り込むと、次元を越境する重力にひかれるまま落ち、ロジックの変化により変調も失せ、三人はひとすじの光も差さぬ深淵の闇の世界に降り立っていた。
ここが魔物の手の内と認めたバルナバーシュが銀剣アルドゥールを抜き放ち、ルドとナナヤもならってそれぞれ武器をとったが、闇を掻き分けて彼らの前に現れたのはハインだった。一行が剣を下ろすと、ハインは腕を広げ、口を開いた。
「俺こそがお前たちの影――そして最後の罪悪。さあ、殺すがいいさ」 「あんたはハインじゃない。軽々しくあいつを騙って惑わすな!」
ナナヤの顔はさっと憎悪と変わり、赤毛を逆立て、獣人の牙を激憤に剥いた。ハインを装う魔物は、その言葉を認めるように微笑んでうなずくと、輪郭がねじれ、のたうち、銀糸でかがった灰青色の長衣に銀灰の長髪を流した、はっとするほど美しい女に変貌する。それはバルナバーシュと心の奥底で愛し合ったがゆえに、ともに故国の悲運に巻き込まれた女性の姿だった。
「あるいは私でも良いのかもしれない。そうでしょう、セイン……」
バルナバーシュはこの耐えがたい責め苦に顔を歪ませたが、頑として答えは返さなかった。ルドだけが、魔物の見せる幻影から縁遠くあったが、何が起こっているのかは理解が及んだ。一歩進み出て、銀空剣を両手に構える。
「二人を苦しめるのなら僕が許さない」 「ルド、あなただけは、涅槃を阻むほどの罪を持たない……まるで永遠の赤子のよう。あなたは始めから完成された存在。ゆえにア・バオ・ア・クゥーも���りつけなかった。二人を置いて、おいきなさい。あなたには決戦の地へゆく資格がある」 「違う。二人にも階段を登りきる資格がある。そしてそれは、ハインさんや……セニサさんを二人から断ち切ることじゃない! これは罠なんだ。ハインさんが最後に負けたのは、きっとあなたにだまされて、自分の影を切り離そうとしたから――」
あるいは、ハインは自らの影をこの大剣でつらぬき――そして自滅した。最期に彼が目にしたのは、影とともにつらぬかれた自身の肉体だったに違いない……。ルドはその天性の素質で敵の瞞着を看破すると、毅然とナナヤに振り向いた。
「君にもう罪はない――いや、罪がやっと君のもの、君の許し……君の力になった。ナナヤはさっき、命をかけて僕をかばってくれた! あの時、君の願いが本物になったから、ハインさんも助けにきてくれたんだ。今のナナヤはそれを信じるだけでいい。どうか勇気を出して。一緒に階段を登るんだ!」 「黙れ、罪なきものよ!!」
魔物はセニサから姿を変え、醜く、尾羽打ち枯らした巨大な黒獣と化すと、鉤爪を振りあげてルドの喉笛へと飛びかかった。気を逸らしていたルドは後れを取ってしまう――だが、それまで稲妻に打たれたかのように立ちつくしていたナナヤが、彼の危険にとっさに地を蹴り、鞘走る勢いのまま獣の前足を斬りつけ、その思わぬ反撃に魔物はよだれを散らしながらうなって飛びすさった。ナナヤは獣人たる肢体、躍動的な身のこなしで間髪入れず敵の胴体に飛び蹴りを見舞い、短剣を牙のごとく頬骨に突き刺し、一度離れるとルドを背にして立ちはだかった。
「罪、罪、罪……って、いい加減くだくだしいんだよ、ゴミ野郎が……もううんざりだ! ああ、でも、こいつの言葉はあたし自身でもあるんだっけな……はは、とんだ皮肉だね。なら、力づくでもあたしのものにしてやる。消したりも、切り離したりもしない。墓の底まで付き合ってやるさ」
魔物はふたたび変貌し、妖狐にも似た桃色の産毛におおわれた美しい獣の姿をとると、全身からあの階段の頂きと同じ涅槃の光を放ち、三人を病める苦しみで押し包もうとした。だが、その光を切り抜けたバルナバーシュが銀剣を魔物の首元に立て、ありたけの力で柄をひねり、横に引いて切り裂いた。魔物は赤い口と虹色の牙を剥いて咆えたけ、バルナバーシュにつかみかかった。くいこむ爪に血が流れるのを感じてうめきながらも、彼はもう一度、敵の首筋めがけて剣を振るった。
「バルナバーシュさん!」
光にひるんだルドが、遅れて加勢に入り、銀空剣を敵の脇腹に突き入れて膂力によって縫いとめる。魔物は低くうめいたが、おそるべき生命力で立ち通し、バルナバーシュを地面に叩きつけ、爪はがっきと食いついたまま彼を締めあげようとした。バルナバーシュもまた、負けじと押し返そうとするが、息苦しさから力が抜けていく――遠のく五感に、ナナヤが果敢に叫ぶ声がした。それは聞くものに刻みつけ、次元の壁を破らんとする反攻に猛り、絶対の勝利を誓う裂帛の気合いに溢れていた。
「ハイン、あんたの勇気があたしの正義を救った。それを今、見せてやる!」
魔物の眼前に飛びかかったナナヤの二振りの短剣が、鋭く交差する。魔物の額を十字にえぐり、赤黒い飛沫を散らせながら、その傷へもう一度、今度は柄に達するまで二刀を深く突き入れた。魔物は金切声をあげ、バルナバーシュを放して大きく仰け反ったが、ナナヤは額に食いついたまま短剣をさらにねじりこんで傷を押し広げた。噴き出す返り血はどす黒く、それは階段に積み重ねられた怨嗟と呪い、救われぬ悔恨の淀みでもあり、獣人の少女は全身に浴び、揺らめく赤毛の尾までも黒くしながら、屈せず、己れの正義、そして己れの悪をも受け入れようとした。何が正しくて、何が悪いのか――真実は常に相対、ゆえに、自身の正しいと思うことを為すために、彼女は今、影とともに完全にならなければならなかった。
ルドの振るう銀空剣もまたナナヤの意志に呼応したのか、闇を裂いて輝き、甲高い叫びをあげて主を導いた。ルドは踏み込み、斬り上げの重い一撃を魔物の鳩尾に叩き込み、その傷へ続けざまに突き刺した刀身で腹を大きく切り裂いた。はらわたのかわりに死者たちの嘆きがあふれたが、銀空剣よりもれ出る不思議な楽音と波動がやわらかに包み、彼らの暗い情念が安らかにおさまっていくのを、ルドは剣を通じて渾然一体に感じとった。
みずからを形成するものの大半を吐き出した魔物は力を失い、萎れた花のように、優美な獣から骨と皮に痩せ細った人間の影に変わり果てていたが、なおも命をつないで、よろよろと歩み、両手を伸ばして目の前に立つナナヤの首をつかもうとした。その姿は徐々に、ナナヤを模して獣人の少女に移り変わる――ナナヤは短剣を収めると、息をひそめながらも受け入れ、おずおずと魔物を抱きしめた。影は液体となってくずれ、彼女の足元に大きな水溜まりを産み落とした。ルドとバルナバーシュもその中へ踏み入ると、彼らの視界は途端に閉ざされ、天地が急転し、光の洪水と一瞬の無重力がすべてを支配した。ひとときの悪夢は終わりを告げ、現次元へと魂が引きあげられていく……。
階段に倒れて眠っていたバルナバーシュが目を開けて体を起こすと、辺りはすでに身を切るような朝の暁光に明るく、天空より吹き下ろす風に身震いが走った。やや下の段では、ルドがナナヤを抱き起こし、猟犬のマックスとともに心配そうに覗き込んでいる。
「目を覚まさないんです」
心��げなルドのかたわらでバルナバーシュも少女の様態を診ると、確かに眠りは深いようだが、呼吸は落ち着いており、寝顔も穏やかだった。胸元におかれた右手はなにかを固く握りしめており、それはひび割れた木彫りのトーテム像――ハインの砕けたフェレスの欠片だった。これまでもいくたりかのフェレスの欠片が、残された願いと力を帯びて自分たちの窮地を助けてきたことを思い、バルナバーシュは瞑目し、こよなき感謝と満腔の敬意を祈りとして、亡き友、ハインへと深く捧げた。せめてこの戦いが、かつて彼に救われた命、そして託された願いへの報いとなるのを望みながら。
二人はナナヤが覚醒するまで待つ心づもりであったが、突然、マックスが二人に向かって、まるでナナヤから追い立てるかのように強く吠えだした。由無くルドがなだめてもやまず、少し離れるとマックスは少女のそばでじっと、伏せの姿勢をとるものの、近づくとふたたび吠え、うなりさえあげるのだった。バルナバーシュはルドと顔を見合わせる。
「行け、ということだろうか」 「たぶん、そうだと思います。でも、マックスだけで大丈夫でしょうか」
バルナバーシュは考えを巡らし、そしてうなずいた。
「この階段ではもう、私たちやナナヤはいかなる影も落とさず、すべての脅威は去ったはずだ。もし彼女が目を覚ましたときは、マックスが連れてきてくれる。それにこの先に待つ決闘に、彼女は立ち入ることはできない……それは君も知るところだろう」 「………」
ルドはうつむいて窮していたが、拳を握りしめると顔を上げた。
「行きましょう、バルナバーシュさん。きっとあの二人が待っています」
いまだ眠るナナヤに毛布を巻きつけて壁際にもたせてやると、二人は彼女にしばしの別れを告げ、目の前にした決戦の地をさして残る階段を登りはじめた。近づくごとに、バルナバーシュは己れのフェレス――懐中時計の秒針が、高鳴る胸とともに脈打つのを感じていた。旅の終着は、フェレスが待ちわびた故郷への帰還でもあるのだ。そして彼には何より、フェリクス達と対峙してでも守らねばならぬ願いがある。ルドに希望のありかを示し、荒れ果てた故国の終焉より、愛する者、セニサを救い出すこと――神明に誓って、一歩も引くつもりはない。アルドゥールのありかを確かめるように柄を握りしめ、碧眼は悲壮をたたえて頂きを見据えていた。
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96 Shadow
ルド達は、ハインが選んだ左の階段を身を寄せ合いながら慎重に登っていた。階段は月明かりに照らされ白く輝き、幅は大通りほどの広さがある。よほど端に近寄らなければ落ちるということはないだろうが、彼らはそれでも安全を期して壁沿いに階段を上り続けていた。 冷たい風が肌に刺さる。途中で休憩を挟みながらではあるが、かなりの段数を上っている。既に階段の外に広がっている景色は星々が瞬く暗い夜空のみだ。だが、一向に頂上が見えてくる気配は無かった。
「僕達、今どの辺りまで上ってきたんだろう」 「それなりの高さを上ってきたことは確かだろう。月の位置がかなり高くなっている」
彼らは上に続く果てしない階段を時折見上げながら、これまで数回同じ会話を繰り返していた。だが、ルド達の誰一人として、下を見下ろしどれほど上ってきたかを確かめようとする者はいなかった。壁のない側の階段の端に近づくことが危険であることも理由ではあるが、何よりも彼らが皆、この階段を上るためには決して振り返ってはいけない気がしていたからだ。ともに行くマックスも、そんな彼らの気配を察してか、振り返ろうとすることはなかった。
「たくさんの人が来たんですね」
と、ふとルドがつぶやくように言った。その言葉に、苦々しくナナヤの表情が歪む。 この階段がアストラで敗れた者の数だけ増えるのであれば、いったいどれほどの者がこの地に挑み、死んでいったのだろうか。この階段そのものが、希望を求める者の数であり希望を掴めなかった者の数なのだ。まるで、この階段を上ることが、墓標をめぐ��巡礼のようである。ここを上ることで、死んでいった彼らの希望と無念を、一つずつ確かめていく作業をしているのではないかと、ルドは己の影が落ちる足元の階段を見下ろしながら思った。 その時、自分の元へと伸びる、先を進むバルナバーシュの影が一瞬揺らいだように見えた。目を凝らすと、影の色がさらに濃く深い色を帯びているように見える。
「ルド」
同時に、一番後ろを行くナナヤから声がかかった。その声は何かに気づき怯えているようにも聞こえる。
「ナナヤ?どうしたの?」 「誰かいる」
答えたのはバルナバーシュだった。同意するようにナナヤが言葉を続ける。
「後ろにいるんだ。あたしの後ろに誰かがいる」 「でも、僕達が上ってくるときは誰もいなかったよ。……グレイスカルさんが言っていた魔物?」 「わからない。だが、今すぐ襲い掛かってくる気配も無い。とにかく登ろう」
基本的に慎重に行動するバルナバーシュにしては珍しく、やや焦りの色をにじませている。ルドには二人が言う気配はまだ分からないが、二人がその気配に強い危機感を抱いていることはわかった。ルドが足元のマックスに声をかけると、彼らはそれまでよりも急ぎ足で階段を上っていった。 休むことなく、しばらくそのまま階段を上るも、やはり頂上はまだ見えない。やがて息が上がり始める頃、ナナヤの足が止まった。
「ナナヤ、大丈夫?」 「いる」 「……ナナヤ?」 「違うって、似てるだけだって思った。でも、そうじゃなかった。だって、さっきから声だって……」 「ナナヤ、何が聞こえるの?」 「おまえには聞こえないのかよっ!!あたしには聞こえるっ。こんなにハッキリと!」
徐々に声を荒げ、最後には叫ぶようにナナヤの声が響いた。その声を聞き、ルドとバルナバーシュが振り返る。「ナナヤ、落ち着いて」と言いながらルドがナナヤの両肩に手を置き、必死に落ち着かせようとする。 すると、ナナヤの背後、彼らが上ってきた階段の向こうから、空間から滲み出るようにして複数の影が姿を現した。一つは夜空と同じ色の鱗を持つドラゴン。一つは複数の赤黒い鉄板とチューブのようなもので形作られ、人間の頭部の皮を剥いだような巨大な首だけのゴーレム。最後に、形を変え続ける真っ黒な霧状の生物。
「こいつらが例の魔物か」 「ナナヤ、武器を構えて!」
急ぎ武器を構えた三人に向けて、間髪入れずドラゴンの尾が襲い掛かった。大きさはロマルフ城で出会ったワイバーンよりもやや大きい。その大きさを考えれば、おそらくはまだ成竜ではないのだろう。だが、振るわれた棘を持つ尾は階段の床をガリガリと勢いよく削り、そのスピードもパワーも非常に脅威であることは明白だ。 わずかに出来た攻撃が当たらない場所をそれぞれが見つけとっさに飛びのく。ルドがドラゴンへ、バルナバーシュが黒い霧へ、ナナヤがゴーレムへとそれぞれの得物を握りしめ反撃に出た。
「くそっ!」
ゴーレムの硬い装甲にはじかれ、ナナヤの短剣がわずかに欠ける。脆そうに見えても、かなりの硬度を持つ金属で出来ているようであった。ナナヤの攻撃を受け、ギョロギョロとせわしなく辺りを見ていたゴーレムの両目がナナヤをとらえる。苛立ちを隠そうともせず、ナナヤはゴーレムを睨み返した。
「あたしは、もうこれ以上失いたくない」
歯を食いしばりながらつぶやいたナナヤの言葉に、答える言葉があった。
――じゃあ、どうして私を置いて行ったの
その声にナナヤの目が見開かれる。
――どうして俺を助けてくれなかったんだ
ナナヤの武器を握る手が震える。ずっと、ナナヤの後ろから感じていた気配。それは、ナナヤの知っている足音に変わり、そして、ナナヤの知っている声になる。
――なあ、ナナヤ。今さら自分のしたことが赦されると思っているのか
すぐ耳元で、そう、ナナヤが愛した者達の声が囁いた。それは、妹であり、そしてハインの声。 これで自分の罪が消えるなどとは思っていない。自分の過去は消えない。自分の後悔は消えない。自分が赦されるだなんて思っていない。
――そう、赦されない。おまえの罪も、後悔も。
この階段を上る間、ナナヤは考えていた。考えずにはいられなかった。ハインはどんな気持ちでここを上ったのだろうかと。彼は死の間際に何を思ったのだろうかと。……ナナヤは、彼をなぜ行かせてしまったのだろうかと。 そんな時に聞こえてきたのだ。気配が、足音が。そんなわけはないと分かってはいても、ナナヤは思ってしまった。もしかしたら、彼が、いるのではないかと。気のせいだと振り払っても、それはずっと、ずっとナナヤの後をついてきた。ナナヤのすぐ後ろに離れずについてくる。あたしの罪、あたしの後悔の形がずっと、ずっと。
「ナナヤッ!」
ルドの声に気づいた時には、ナナヤの体は宙を舞い、階段の外へとその身を躍らせていた。ゴーレムからの攻撃でとばされたわけではない。ナナヤには、自分が何から身を守れなかったのか分からなかった。 星空が視界いっぱいに広がりながら回転する。体が階段より下に落ちていく寸前に何者かに手を掴まれ、ナナヤの体の落下は止まった。
「ナナヤ。もう片方の手も、のばして!僕を掴んで!」
見上げると、ルドが片手でナナヤの片手を捕まえていた。 ルドは、ナナヤが体を飛ばされる直前の光景を、視界の端でとらえていた。 ゴーレムと対峙するナナヤの足元の影が、どす黒く、それこそ光こそ通さないような真っ暗な色に染まり、その暗闇はおぼろげな人の形をとると、ナナヤを階段の外へ信じられないような勢いで突き飛ばしたのだ。 ルドの声に応え、ナナヤがもう片方の手もルドへと伸ばす。階段に突き刺した大剣を支えにしながらナナヤを引き上げようとする。 だが、後ろでバルナバーシュの叫び声が聞こえると同時に衝撃が走り、ルドの手が大剣から離れる。ナナヤを離すことはなかったが、見ると、バルナバーシュがドラゴンの攻撃を避けきれなかったのか壁の側でぐったりと横たわっていた。
「バルナバーシュさん!」
視線をずらすと、今度は獲物をルド達へと定めたドラゴンが、息を大きく吸い込もうとしているところだった。おそらくその口から、ルド達へと火炎を吐きだそうとしているのだろう。早くナナヤを引き上げようとするが、それよりも火炎が吐きだされるのが先だろうということは、目に見えて分かっていた。 マックスがルド達を守ろうと、ドラゴンに威嚇するように吼え続けている。そうだ。ここで諦めるわけにはいかない。絶対に、諦められない。ルドはナナヤを引き上げる上に力をこめる。あと少し、もう少しで。
「ルド、ふせろ!」
ナナヤを引き上げると同時に、彼女が急いでルドを守るように覆いかぶさる。 ドラゴンの口から灼熱がほとばしった。
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95 Nana
ルドが廃后ミフレッセを倒すと、従えていた道化たちもまた衣服だけを残して無と消え、派手な色彩の布が血だまりのかわりにむなしく床を飾った。道化と渡りあったバルナバーシュとナナヤは顎をくだる汗をぬぐい、みながしばらく無言に支配されていたが、駆けこんでくるマックスの明るい吠え声でようやく詰めた息を吐き出すことができた。だが、憂慮からバルナバーシュは眉をひそめる。
「そういえば、アセナはどうした? この砦についた時から姿が見えないが」 「分からない。急に道を外れて岩山を登っていって、そのうち戻ってくるかと思ったんだけど。心配だ……」
ナナヤはあの白い狼を、ハインの忘れ形見に感じているようだった。
砦の広間と回廊には、甲冑や赤いマントを鎧ったまま息絶えた数えきれない騎士たちが、壁や武器に身をもたせて不動とともに座していた。装備は永い時のなかで汚れを被っていたが、ふいの明かりを受けてきらめく兜は今なお誇り高い。砦で決戦の地を守りながら、決闘者たちの帰趨を見定める者たちだったのだろうか――三人と一匹は、彼らを慎重に横切りながら進んだ。今にも起きあがり道を阻むのではないかと思われたが、不注意にもバルナバーシュが騎士のひとりに足をひっかけてしまい、床に蹴倒すと、耳障りな音をたてて甲冑はばらばらに崩れ、中からは大量の灰と骨片が散乱するのだった。
「ここなら火を焚ける」
先行するナナヤが調度品もない殺風景な広間を見つけると、そこで一行は野営を決めた。糧食はどうにか足りているが、明日には狩りをせねばならないだろう。この険しい土地では、獣を探すことすら困難だとしても。白狼のアセナは、家族同然に世話を焼くナナヤに少しでも食事を分け与えるために別れたのかもしれなかったが、真意は定かではない。
不寝番を交代で務めながら、かがり火をひとり見つめるバルナバーシュは、ミフレッセのこと、そして決戦の地であいまみえるであろうフェリクス達のことを考えた。
「進歩の前には一度、古いものを壊さねばならない、か……」
あぐらをかく膝に横たえた銀剣アルドゥールの、手入れの行き届いた刀身に、陰鬱にくもる己れの顔が映りこむ。フェリクスらも廃后と同じ願いのもと、エターナルデザイアーの破壊に臨むはずだ。そして彼らは、過去からの亡霊ではない。現実を生きる者たちであり、我々と同等か、それ以上の願いと全身全霊をもって挑んでくるのだ。その覚悟を腹に決めながら、アラミティク廟塔でともにした冒険、レオ鉱山で語り合った夜が、今では遠い日になりつつあることに、バルナバーシュはなすすべのない寂寞の念を感じていた……。
翌朝、一行がエソルテル砦を抜けると、辺りは開けて苔むした丘々が続き、さらに越えた先の広大でなだらかなくぼ地には、新緑の爽やかな高原が茂っていた。洞窟の天井のように上方を覆う薄黄色の厚い雲から、その高原だけに自然光がさしつらぬいてそそぎ、目にすることもない色とりどりの野花が煌々たる恩寵のもと咲き乱れている。ヤナギランのあわいに野うさぎの影が走り、朝霧の露にしめり、���密な雨と草と土の香りに満ちる大気に、旅路に煤けきったみなの心身は洗われるようだった。
彼らは地勢を知るナナヤの案内のもと、そこで少なくない時間を狩りや採取に費やし、透きとおる池を水場に休息をとった。リスが下生えを軽やかに踏む足音、白い鳥の群れが陽の輝きをよぎり、虫がゆるやかに舞い、狐が連れ合いを呼ぶ嬉しげな鳴き声が聞こえる。かつて讃えられ、文明によってヒトより忘れ去られた天然の美と憩い――複雑な天候と地形の成せる園か、それとも神秘がはたらいているのか……バルナバーシュは闇沙漠でかいま見た、昔日に魔法使いクレスオールが魔王にあらがった戦いにより荒れ果てたアストラの地のビジョンを思い起こし、そうして夜が近づくにつれ、確かにこの高原が神々の座に近い、ただならぬ土地であることを悟った。陽が落ちてもここは完全な闇とはならず、地上が不思議な淡い光を発して、草花や冒険者たちを優しげに照らしているのだ。光は白いが、時おり結晶に通したかのように七色に分かれて彼らの装備に散らされる。ハインと一度来たというナナヤもまた、現象に驚いているようだった。
「前はこんなことは起きなかった。どうしてだろう」 「砦のこともそうだが、ハインと私たちでは、どうやら歩んできた道が違うらしいな。とすれば、夜になにかが起きるのかもしれない」 「そういえば、階段が見あたらない。あの崖伝いに延びているはずなんだけど」
ナナヤの指さした高原の果てに、黒大理石の巨塔と見まごう堂々たる絶壁が、穏やかにそよぐ草原に突き立ってそびえている。峨々として圧倒し、頂上は暗い夜の雲に隠されてヒトの目に触れることを排していた。息を呑むほどに途方もなく、バルナバーシュには自然物ではなく、はるかいにしえに栄えた神代の遺構のようにさえ思えた。フェレスの導きなくして拓かれず、また七つのパワースポットで己れの力と願いを示し、イススィール――現次元の大いなる加護を得られぬ限り、決してヒトが挑んではならぬ道なのだと。
「まさか、あれを登っていくの?」
ルドが驚嘆した言下に、絶壁の怒れる影に無数のプリズム光がひらめいて、三人は全身をあふれんばかりのゆたかな色彩にひたし、目は不毛な美しさによって長く眩惑させられた。各々がかざした腕をのけると、絶壁の右手と左手に二つの大階段が現れていた。真珠母色にうつろう半透明の材質で造られ、壁に沿い、傾斜もゆるやかにうねりのぼっていくもので、その果てはやはり雲のなかへ隠れていた。その夢見る光彩に惹かれながらも、みな一様に待ち受けるものを予期して胸騒ぎを覚え、地を踏みしめながら階段へと向かっていった。
バルナバーシュはかたわらのルドに、気にかかることを打ち明けた。
「イススィール綺譚には、この高原も、絶壁も――そもそも階段は本来、砦から延びていたらしい――書かれていなかった。薄々感づいてはいたが、ここはもう、かつてのイススィールではないのかもしれない」 「でもバルナバーシュさんはたしかに、フェレスに導かれてここまで来たんですよね」 「ああ、そうだ」
きびしい顔でバルナバーシュは言った。ルドが彼の腕をつかむ。
「なら、偽物であるはずがありません。パワースポットの力だって本物だった。だからきっと……きっと大丈夫です。信じましょう」
二人はいま、揺らぎや迷いをひどく恐れていた。浮き足立ち、後ろを振りかえるのを、あの階段は決して許さないのだろう。今もこれまでも、苦難を極めるのは明確な敵ではなく、己れ自身との戦いに違いなかった。
左の階段のそばにはひっそりと、墓としめす立て石があり、その下に眠る者が誰かを悟った二人は胸のつぶれる思いにさいなまれた。マックスの尾は力なく垂れ、ナナヤがひざまずいて唇の内でなにごとかを呟いたが、聞き取られないまま地にこぼれていく。
「まえに闇沙漠で、グレイスカルが言ってた。この階段はアストラで敗れた者の数だけ段が増える、呪われた道なんだ……死者たちの怨嗟で支えられている……踏み外せばまっさかさまに、アビスの底まで落ちて囚われる。そして二度と帰り立てなくなるんだ。ハインもここで死んだ……傷だらけで、全身の骨が折れていて、痛みと、恐怖にゆがんだ顔で……」
息を詰まらせて語りながら、立ち上がり、ナナヤはルドの肩につかみかかった。
「頼む、左の階段には行かないでくれ。あたしはもう、恩人の、ああもむごたらしい死にざまは見たくないんだ」 「ナナヤ……」 「ルド、あんたはあたしが憎いんだろ。許せないんだろ。あたしは、あんたを傷つけたいがために、あんたの大事なひとを刺し殺そうとした卑怯者だ。その罪をまだつぐなってない。ここであんたたちが死んだら、止められなかったら、あたしはまた……」
立ち尽くす機械の少年にもたれるように、ナナヤは膝をつき、そのまま泣き崩れた。
「もう、一人になりたくない。なりたくないよ……」
ルドはひざまずくと、弱々しく震えるナナヤの両肩を支え、涙に濡れた顔を上げさせた。かたわらではバルナバーシュもまた、片膝をつき、彼らを静かに見守っている。
「それなら、一緒に階段を上ろう。そして僕たちの背中を守って」 「でも、あたしはフェレスを持っていない」 「僕も持ってない。でも願いはある。誰にも負けるつもりのない願いが――湖で君にああも阻まれたって、僕たちは生きて、ついにここまで来れた。僕は確かに、君がバルナバーシュさんを殺そうとしたことを、どうしたって許せない……でも、それは僕と君の問題だ。君が何からも許されない存在だなんて思ってない。そんな世界は、悲しすぎるから。だから、僕たちは行かなくちゃならない。希望を見つけたいんだ……それはハインさんもきっと、同じだった……」
少女のすすり泣く声だけがしばらく、彼らのあいだを流れた。バルナバーシュが重い口を開く。
「左と右ではどう違うのか、君は知っているのか」 「……グレイスカルから聞いた話だと、左には恐ろしい魔物がいるらしいんだ。だから、勇気を試す階段なんだと言ってた。ハインは自分が臆病だと思っていたから、それで挑んだのかもしれない」 「なら、あえて左を選ぶ必要はないわけか」
バルナバーシュは、腹を固める思いから長い溜息を吐き出した。
「だが、イクトルフの門で私たちはハインに、彼の勝利を託され、それをしかと引き受けている。彼の捨てきれぬ来歴と願いが、この階段の――怨嗟の礎にもなっているなら、仇を取らねばなるまい」 「こ、この馬鹿野郎……! 頑固、クソオヤジ!!」 「馬鹿でなければフェレスの主はつとまらん。それだけ罵倒できる気力があれば、階段までついてこれるな? さあ、立て。左に行くぞ」
出帆とばかりに二人ははかばかしく立ち上がり、ルドがナナヤに手を貸して彼女も引き上げた。真珠母色の神秘の力を発する階段は、どちらも夜の闇へとはるかに続いているかに見える。ナナヤはまなじりを決し、ハインの辿った軌跡を見据えていた。
「今なら、ハインがミュウじゃなくてグッドマンの導きを選んだのが分かるよ。なにがあいつを変えたのかは知らない。ひょっとしたら、あたしと会ったことが原因なのかもしれない……でも、あいつは正体の分からない奇跡よりも、ヒトが乗り越えていく意志ってやつを、最後は信じようとしていた。そして、エターナルデザイアーのために――こんないまいましい階段のひとつになるために、あいつは死ぬ必要なんてなかったんだ。それがあたしの願い……だから、ルド、バルナバーシュ、あんたたちがエターナルデザイアーの復活を望むなら、やっぱり最後までは一緒にはいけない。もしあたしにもフェレスがあったなら、粉みじんに破壊してやりたかったよ。でも今はただ、守りたいんだ。二人が階段を踏み外さないように。二人があたしやハインの希望も見つけようとするのを、あたしの手で守ってみせる」
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94 Mpresse
「追ってきてるか」 「いや。あいつら、砦の外からは一歩も入ってきてない」
ルド達が駆けこんだ砦の中は、外と比べ物音一つせず、静寂に満ちていた。薄暗く、冷たい空気が満ち、明かり一つない砦は夜の闇の中に溶け込もうとしている。生命の息づかいも感じられず、人々の記憶からとうの昔に忘れ去られた遺物のように見えた。武器を構えながら三人と一匹はゆっくりと砦の奥へと歩みを進めた。
「どうした、ルド」
バルナバーシュがルドにふと声をかけた。ルドに特に変わった様子は見られなかったが、彼がどこか落ち着きがないことは、ここまでともに旅をしてきたバルナバーシュにはわかった。
「シャンテレンのことか」
ルドは少し考えるようなそぶりを見せた後、わずかに頷いた。
「僕、見たことがあるんです。この砦を」 「なに?」 「見たんです。エリグヒドの、ハキュスの次元で」
そう、この砦はルドがハキュスの次元でシャンテレンの手により垣間見たものだった。ルド達とシャンテレンが敵同士として会う可能性の景色。その中にあった古びた砦の姿を、ルドは今でも覚えていた。
「ナナヤとハインが見たのは、僕がハキュスの次元でシャンテレンさんを通じてみた景色と同じものだったんじゃないかと思います」
兄であるイグテルフとエリグヒドの人々に向けていた優しい彼女の眼差し。彼女が帰りたかったあの歓喜に満ちた街。シャンテレンがあのハキュスの次元で言っていた言葉の意味を、ルドはようやくここに来て理解することが出来た。あれは、ここで彼女が果てる間際に見たつかの間の夢だったのだろうか。彼女は、彼女が愛した人々のためにこの砦に残ったのだろうか。
「誰だッ!」
一番前を行くナナヤが鋭い声を上げた。ナナヤのその声にハッとルドは我に返る。隣を歩いていたバルナバーシュ、そしてマックスも警戒の色を濃くし、前方を睨みつけた。 暗がりから高い靴音を響かせながら、一人の人間のシルエットが浮かび上がる。
《すべからく、進歩の前には一度古いものを壊さねばならぬ。じゃがヒトは古きものに安心し、その破壊を拒むものよ。誰かが為さねばならぬ。レイがその業を背負ってくれるのじゃ》
諭すように言葉を紡ぐ、低く静かで、だが実によく通るその声の主は、砦に差し込む月明かりの下にその姿を現した。黒と見まがうほどの深い青のドレスに身を包み、スラリとした長身のその女性は、腰に一振りの数々の美しい宝玉があしらわれた細身の剣を佩いていた。鋭く切れ長な力強いその瞳には見つめるだけでひれ伏してしまいそうになる威厳の光が宿っている。
「おまえは何者だ」
バルナバーシュの声には答えず、彼女は忌むべきものを見るような眼でルド達を見返す。ルド達は、その瞳が意味するところをよく知っていた。その瞳の色は、かつてロマルフ城で自分たちに向けられたものと同じ色を帯びている。
《ああ、マフェリアリ。御身が背負った悪をわらわも背負おう。アケロンの岸で待ちやれ。このミフレッセ、死して永らえた命を今こそ果たそうぞ!》
ミフレッセと名乗った彼女は、躊躇いなく佩いた剣を一息に引き抜いた。
「よけろ!」
ミフレッセが剣を引き抜くと同時に、彼女の背後から三人の道化師がルド達に跳びかかった。 それぞれの立っていた場所に道化師たちの握る刃が踊る。ナナヤの声が無ければ、その不意打ちを避けきれなかっただろう。
「こいつがあの道化を操ってた主だな」
銀剣を引き抜き魔法を唱えながらバルナバーシュが距離を取る。
「私とナナヤで道化の相手をする。ルドは彼女を!」
バルナバーシュの声に頷き返しながら、道化たちの向こうにいるミフレッセの元へ一目散にルドは駆けた。
「あんたの相手はこっちだ!」
駆けるルドを阻もうとする道化に、ナナヤが跳びかかる。道化の動きは外にいた者たちと同様に複雑怪奇であったが、ナナヤは難なくその動きについていった。
「あたしが二人分相手してやろうか?」 「その気遣いは無用だ」
ナナヤほど素早く動けないバルナバーシュを、からかうように笑うナナヤの軽口に、魔法をのせた剣で援護しながらバルナバーシュが答える。
「あたしは、まだ終われないんだ。託してくれた、あいつのためにも」
手にした刃を強く握りしめながら、ナナヤは強く、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
道化たちの囲みを抜け、ルドは大剣を大きく振りかぶり、ミフレッセへとその刃を振るった。細身の体と剣であるにもかかわらず、ミフレッセは難なくルドの攻撃を受け流した。 優雅に踊るように纏うドレスを広げながら、ミフレッセが手にした剣を振るうと、剣を中心に風が巻き起こり、鋭い刃となってルドに襲い掛かった。
「っ!」
咄嗟に片手を前にだし、その風から顔を覆い隠す。硬い装甲に覆われているルドの体に、いくつもの傷が走った。彼女の魔法に怯んだルドに、容赦なくミフレッセが風を纏った剣で追撃をかける。ミフレッセの剣をルドが防ぎ、お互いに剣を鍔迫り合いう。 鍔迫り合いながら、ミフレッセはルドを射抜くように睨みつけはっきりとルドに宣言する。
《夫マフェリアリにかけて、ここは通さぬぞ!》
暴風を巻き起こしながらルドを薙ぎ払い、距離を取ると再び体勢を立て直す。零れ落ちる月明かりの光の下で、苛烈なまでの意志の強さをその瞳に湛えながら、ミフレッセはルドと向き合っていた。 ルドは、彼女の瞳にマフェリアリとは違うものを感じていた。彼女の瞳が見ているのはエターナルデザイアーではない。彼女が見ているのは、彼女が生前ともにあり、愛した者の姿。彼女の瞳は、愛する者のためを願っていたシャンテレンと似た光を宿していた。マフェリアリの信念に共感したからこそ、愛する者の見た希望だからこそ、彼女はエターナルデザイアーを求める者の前に立ちはだかる。愛する者が信念を貫くために、死してなお、彼女はそこに在ることを選んだのだ。 マフェリアリの側で彼を見守り共にあり続けることを選んだミフレッセの強さは、それほどまでに強く、美しかった。その強さを宿す彼女の姿は、それだけで立ちはだかるものを畏怖させる力を持っている。
「それでも」
それでも、ルドは大剣を再び掲げる。 その姿、その思いに似た感情をルドも知っていた。大切な人のために、その身をもって守りたいという強い願い。ルドも、バルナバーシュの希望のためにと、この地までやってきたのだ。バルナバーシュと共にあった時間はマフェリアリとミフレッセほど長くはないのかもしれない。だが、それでも、ルドにとってこれまで出会ってきた人々はかけがえのない大切な人であり、ルドが守ると願うものなのだ。
「僕は、あなたをこえて行かなければならないんだ!」
再び、ミフレッセが刃となった嵐を巻き起こす。だが、ルドは己の体が傷付くことも構わずに嵐の中へと飛び込んだ。ルドの装甲にいくつもの傷が走る。出来た傷口の間から、彼の赤黒い血がほとばしった。嵐を抜けた先で待ち構えていたミフレッセが剣を振り上げる。互いがすれ違う形でそれぞれの剣を振り切った。 しばしの静寂ののち、カラン、と乾いた音をたてて剣が零れ落ちる。
《マフェリアリ……許してたもれ……》
振り返ったルドの視線の先で、ミフレッセは囁くような言葉を残し、光となりながら崩れ落ち消えて行った。 最後の光の一粒まで、ルドは視線を離さず彼女の最後を見守り続けていた。
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93 Gravity
二人はふたたび抜け殻になりかけたナナヤを連れ、無垢な光に満たされた墓地を抜けて、草もまばらな岩と砂利の道を黙々と登りはじめた。ハインの最初のパートナーであり、長く連れ添った白狼のアセナは主を失ったいまも気丈夫にふるまい、任務を寡黙に遂行する護衛者のようにナナヤの横にぴったりとついて進んでいる。ナナヤとアセナは、ここ数日は地衣類や雨水の溜まりだけで露命をつないでいたが、バルナバーシュ達が持ち込んだ闇沙漠の飴玉を与えられて心身のいくらかは回復したようだった。
雲が頭上に近く、風の吹きあれる空を走り、バルナバーシュは次第に空気が薄まっていくのを感じていた。大きな岩の陰と一本のひねこびた枯れ木のあいだに先駆者が建てたらしい古い差しかけ小屋を見つけると、体を慣らすために一夜の滞在を決め、枯れ枝や燃えさしの薪、弊履のようにすり切れた手持ちの布類でどうにか火を起こすこともできた。機械の少年はそぞろに膝をかかえてマックスと身を寄せ合い、獣人の少女とアセナは離れた場所に座って、分けられたわずかな糧食を口にしていたが、群青色に凍える薄暮に星がまたたきはじめたころ、彼女らは思いがけず小屋を出て姿を消してしまった。慌てて追いかけようとしたルドをバルナバーシュは呼びとめて制し、少しの時間を置いてから、代わりに様子を見にいくべくランタンを手に立ち上がった。今は何があろうと、彼女は決して自死だけはしない確信はあった。
果たして、ナナヤとアセナは少し道を下りた先の、岩がたがいに重なりあって出来たごく小さな洞の口にいた。バルナバーシュは毛布を手にやってきたが、アセナの白い毛皮に寄り添って抱きしめるほうが暖かく、また安心するらしく、獣人の少女は首を小さく振って施しを辞退した。
「聞きたいことがあってきた」
さあらぬ顔で横に腰を下ろすバルナバーシュに少女は答えず、また追い払いもしなかった。それが心配をひた隠すのに用意された言葉だと少女は察していたようだが、バルナバーシュには直截に質さねばならないことがあった。
「ハインのほかに、幸星の民のグレイスカルも一緒だったろう。彼はどうした?」 「グレイスカル……あの竜族の人だけ、はざまの道に行って、別れてからのことは分からない」 「そうか。なら、彼に何かあればディオレが見つけてくれるだろう……」
イラーシャを喪ったディオレにはもう一人の友、グレイスカルが残されていた。その生死に関わらず足取りを追わねばならないと思っていたが、それは自分たちの役割ではないようだった。
それからたがいに端緒もなく、気のない素振りで星降る夜を眺めていると、ナナヤが腰に下げた皮袋からゆるゆると、淡い赤鉄色に白い斑点の散る岩のかたまりを取り出して静かに舐めはじめた。岩は自然界に彫琢されて無骨の美をあらわし、ランタンの火を透かして桃色の幻想的な光に仄めいている。故郷で鉱物について学んだ経験のあるバルナバーシュには、一目でそれが岩塩だと分かった。
「それはアストラで見つけたのか」 「違う。ハインからもらったんだ」 「ハインから?」
なかば上の空の、夢見心地にぼんやりとした顔をしてナナヤは受け答えた。誰に聞かせるつもりもなく、縷々と語りはじめる。
「……うん。闇沙漠で、砂のなみだをみんなで探しにいって……その時、ハインだけはぐれたんだけど、あいつはひとりでイープゥを倒して、これを手に入れて戻ってきた。必死に、バルナバーシュに助けられたって言ってた……そうしたら嵐がひどくなってきて……それでもハインの話を信じて、みんなであんたを助けに行こうとした。でも嵐が突然、嘘みたいにやんだと思ったら、あの領域にはもう何もなくなっていて、イープゥの死体も、精霊たちも、あんたの姿も見つからなかった。おまけに、手に入れたのは宝石じゃなくてただの岩の塩。おかげで、この数日は飢え死にはしなかったけどね……とにかくあたしは、ハインが妖精に悪さされて夢でも見たんじゃないかと思った」 「いや、夢ではない。私とハインはあの場所で再会した」 「うそだ。だって、じゃあ、どういうことなんだよ……あんたが同じあの沙漠にいたなら、もっと早くアストラに着いたはずだよ。あたしたちが宝石を探しにいったのは、二十日以上も前なんだぞ。それで十日前に���ハインが死んで……あたしはそれから、この山でアセナとずっと過ごしてた……」
バルナバーシュはぞっと、血が音を立ててくだり、身体が凍りつくのを感じていた。バルナバーシュが闇沙漠でハインと会ったのは、今この時から数えて十日前のことだった。だが、ナナヤにとっては彼が死んだ日だった……。
「イススィールは、その者次第で時空の尺度が多様に変化するという。それか、私たちの考えも及ばぬ、なにか超常の力――あるいは強い重力らしきものが働いて引き合わせたのかもしれない」 「重力?」 「物質同士を結び合わせる未知の力――もしくは幻影だ。重力は目に見えないから。私の国では、幽霊は重力によって生まれるという話がある。幽霊が見える、いわば第六感とは、重力への感覚なのだとも。そしてハインが死んだときも、彼の強い念が、残響と化してなにか大きな力を生んだ……他者の運命さえも変えてしまいかねない、なにか……」 「だから、一体なんの話をしてるんだよ!……あたしにも分かるように言ってくれよ」
ハインの面影に追いすがるように少女は魔術師に迫り、そして力無く肩を落としてしまった。その時、はたと、バルナバーシュは少女の手にする砂のなみだ――岩塩が目に入り、頭蓋の奥でばらばらだった全ての欠片が集い、ひとつの完成された絵を描き出したのを電光のごとく直感した。
「ナナヤ、こいつを割ってもいいか」
バルナバーシュは岩塩を言下につかみとると、まじろがずに睨み、いっぽうナナヤは耳を疑ってただ唖然とするしかなかった。
「それはあたしがハインからもらったものだ。駄目に決まってるだろ!」 「頼む、私を信じてくれ。おまえがハインを愛しているなら」
完全に不意を打った言葉に、ナナヤは絶句して彫刻のように硬直し、白狼のアセナは神妙なまなざしで彼女を見上げていた。そのさまをひとまずの了承と取ったバルナバーシュは、ベルトのポーチから小さな金槌を手にし、ためつ眇めつしながら慎重に、岩塩へと打ち下ろした。八度目かで、一本のひびが狙いどおりに縦に走る。両手で繊細に包みこみ、ふたつに割った。中からなにかが落ちて地面を転がっていき、ランタンの火影にあらわになる。
それは完ぺきな真円をかたち取る、珍らかな宝石だった。灰色がかった淡い金色に、鮮明な緑と濃青、わずかに点綴する朱色が、深くけぶるような模様のなかでぶつかりあうことなくたがいが溶けあい、稠密し、また不動の星のごとき目覚ましい反射光を放って、その全てが一体に、永劫の調和の似姿をけざやかに象っていた。闇沙漠に無限遠に堆積する死と悲しみ、不可能の最奥でたまさか産み出されるまばゆいエネルギーの集中に満ち、天上の銀河の光、無数の世界と無数の次元、それさえも抜け出た人知を超えた領域へ――そのはじまりと最果てへと鳴りわたる希望の歌を放射している。明かりを透かしてきらめく影のなかには千もの異なる面を持ち、そのひとつひとつが、人々から忘れられた思い出と願い――あらゆるロジックを超越し、不条理な傷と裂け目を癒すあらん限りの生命力――に躍動して、待ち望まれたこの瞬間に惜しみなく解き放っていた。永遠に尽きることのない力……完全なる勝利、世界との約束、そして美しい楽音による、無償の贈り物だった……。
バルナバーシュはこの宝石の名を知っていた。唇からもつれるようにこぼれ出る。〈沙漠の星〉と。
ナナヤは凝然と、膝立ちのまま震えていた。〈沙漠の星〉に釘付けられた金の瞳は、みずからを滅ぼすものへの憎悪と凄絶な恐怖によって愕然と見開かれ、頬をくだり落ちた涙が、冷えきった地面に絶え間なく染みていく。運命を変えてしまうほどの力――あまりにも破壊的な光、津波のごとくうねり、ほとばしる波動の光が、絶望の底でうめき、苦しみ、いのちを踏みにじられ続けた少女の心をついに粉々に打ち砕いて、完全に殺してしまった……。
バルナバーシュが宝石を手に取り、差し出してきたことに、ナナヤは小さく裏返った悲鳴を発して身をすくめたが、たがいがしばらく黙っていると、観念したように肩を激しく震わせてしゃくりあげた。
〈沙漠の星〉を受け取りながら、ナナヤは自分の身の上は誰にも、ハインにさえ明かしていないことを思い出していた。妹とともに両親に捨てられたのち、路地裏に孤児院にと流され、泥沼のように出口のない貧困にあえぎながら、目の悪い妹を養うためにうしろ暗い罪を重ねた数えきれない不名誉について、彼女は軽侮も同情もされたくはなかった。
(お姉ちゃんは優しいから……) (違う、あたしは、優しくなんてないよ)
寝台に横たわる妹と、思い出の中に捨ててきた少女――幼かった自分自身が瞼の裏に立ちあらわれて、微笑み、そして消えていく。
ハインが優しくしてくれた理由……彼はバルナバーシュを裏切ったこと以外の、ナナヤの過去と罪、悲運を知る由さえなかった。ただ知っていたのは、彼女が心を閉ざしていたこと。そしてハインは彼女になにかを残そうとし、彼女の全てをなにがあろうと許していた。それだけだった……。
「宝石を売れば、その財産で君はきっと自由になれる。ハインが望んだことだ」 「いやだ。これは売らない」
乱暴に目元をこすりながらきっぱりと言い切ったナナヤに、バルナバーシュは驚いたが、すぐさま彼女に理解を示した。
「私も、彼に感謝している。私が出来なかったことを、ハインは果たしてくれた」 「なんのことだよ」 「私はフェクトナ湖で、ナナヤ、空っぽになった君を置き去りにして逃げ出した。背を刺されたという大きな恐怖が、私の中の怖れも憐れみもいっさい消し去り、君に手を差し伸べることを不可能にしてしまった。そしてハインは、砂のなみだを手にし、心配するな、自分が全てを解決すると言った……彼は君だけでなく、私の罪をも許してくれていたんだ」 「でも、あんたもさ……きっとハインを許したんだろ、オストル沼沢で。なにを言ったかは知らないけど、思えばあんたの話をしたときのハインは、どことなくそんな感じだったよ。そうして今があるなら、あんたはハインの恩人で、あたしの恩人でもあるんだろうね。悔しいけど」
ナナヤは、ハインから階段を上るまえに託されたものの中に、それまで島で戦利品を売るなどして稼いだ財産があることを語った。もし自分が戻らなければ、アセナの面倒を頼むかわりに、それを持って島を出ろと言い残して。故郷に戻って妹の目を治し、新たな場所でやり直すにも充分な額だった。中でも〈沙漠の星〉は最大の宝だったが、これだけは手放すまいとするナナヤの心は固かった。
「湖であんたを刺して、悪かった……」 「忘れはすまい。それもまた、フェレスに刻まれるべきものだから」 「分かってる。今なら、フェレスがどんな代物かってことも」
ナナヤはふところからひび割れた木彫りのトーテム像――ハインのフェレスのなきがらを両手に取り、じっと見入って、ふたたび涙があふれてくるのを止められなかった。傍らのアセナは大人びた背を伸ばし、彼女の頬を慈しんで舐め、毛皮の温もりを添えながら、やがて夜が白むのをただ静かに待ち続けた。
爬虫類めいてねじくれた枯れ木がしがみつく、急峻な岩々の山道を、一行はさらに登っていった。目線に白い雲海が広がり、眼下には黒い灰の海のような山脈の稜線が時おりあらわれ、うつろう幻のようにまた雲のなかへ消えていく。大気は高みに近づくにつれ清く澄み渡ってゆき、地の穢れを持つ者の侵犯を険しく拒もうとした。
蒼天の光はやがて、夜闇に飲み込まれつつあり、幅広の道を探りつつ岩棚の群れを越え、ひとつの断崖を迂回した先に、突然、並みならぬ城砦が出現した。おびただしい石が積まれて築かれた屈強な城壁や古い様式のアーチ、気品ある塔、丸屋根の鐘楼、頂きにグリフォンが精緻に彫られた見事な吊り上げ式の門に、途方もない世紀を生きた竜が化石として盤踞したかのような石像の群れ――それらが流れ去る雲に浄化されながら、太古のジグラートのごとくヒトの子の前にそびえ、見下ろしていた。しかし文明の手から離れて久しいのか、柵は崩れかけて不確かであり、城壁にかけられ、朽ちて破れた旗や赤いタペストリーがむなしく揺れている。生命の気配は感じられず――あるいは息を潜めているのか――冷たく乾いた風が谷と回廊を吹き抜ける音だけが際立つのみだった。
バルナバーシュの目には、一瞬、城砦の輪郭線が曖昧にぶれ、ひずみを被っているかのように見えた。すぐに元のかたちに定まったが、別のいくつかの次元にまたがって存在する事象に近く思え、ただひとり身を慄然とさせる。
「ここで安全な部屋を見つけて、夜を明かしませんか?」 「いや、駄目だ」
疲労の色が濃い一同���案じてルドが提案したが、ナナヤがさえぎった。
「敵がいる。あたしとハインも襲われた……倒したけど、誰かが来るたびに何度も戦いを繰り返している気がするんだ。変なことを言ってるかもしれないけど」 「それって、どんな相手だったの?」 「三体の魔道機と、魔法使いの女だった。シャンテレンと名乗ってやがった」
ルドは息を呑み、バルナバーシュも聞き捨てならず振り向いた。その時、砦へ導く石段の柱群の陰で、うごめく背の低い人影があり、ナナヤが二人へ武器を抜くよう喚起する。それまで静かだった辺りの物陰に、汚泥のごとくよどんだ無数の気配が生起し、穏やかではない徴候に彼らはたちどころに囲まれてしまった。薄闇のなか、三人は背を預けあった。嘲りわらう声の群れが奇怪な羽音のごとくさざめいて、悪意もあらわに圧してくる。
「違う。あたしが戦ったのはこいつらじゃない!」 「未知の敵か!」
バルナバーシュが正体をつかむ間もなく、一体が四つん這いに飛び出て、恐るべき速度で迫ってきた。銀のまだらがちらつく緋色の衣に、毒々しい色彩にただれたジェスターハット、耳まで口の裂けた細長い仮面の道化――そいつが跳びあがり、いびつに曲がったナイフで首をかっさばこうとバルナバーシュに襲いかかったが、銀空剣のうなる声とともにルドの平打ちが鳩尾を叩きつけ、道化はくの字に吹っ飛ばされて石段を転げ落ちていく。息つく間もなく、道化は次々に姿を現し、痩せ細ったもの、醜悪に太ったもの、面が泣くもの、笑うもの、衣が緑のもの、青のもの、棘の鞭をもつもの、儀仗をもつもの、背筋のたったもの、獣じみ、人の形態さえ疑わしいもの――そのいずれもが、理解を絶する拷問で客人を甘くもてなすべく、包囲をじりじりとせばめてくる。
あからさまに、道化の群れが薄くなっている突破口があった。砦の内部へ続く道――あえて罠だと分からせ、挑発しているのだ。ナナヤが聞こえよがしに舌打ちする。
「誰がかかるかよ、けったくその悪い!」 「だが、ここは開けすぎている。進む他に手段はないようだ」
ナナヤは両手に短剣を構え、同時に飛びかかってきた二体へ、速度と勘を身の守りに斬りつけて追い払いつつ、バルナバーシュの案にはうなずきを返した。ルドの銀空剣は天空の力をいまだ眠らせていたが、伝説の中で鍛え上げられた銀灰の刀身はその威容だけで畏怖をまとい、なぎ払うごとに道化どもをばたばたと倒していく。けばけばしい衣装の下に血肉を通わせぬ敵は、潰えるとともに裾や袖から得体の知れない黒虫と鼠の群れになって散っていったが、それが岩陰に逃げ隠れるや、ふたたび新手を形成して無限によみがえってくるのだった。このおぞましい傀儡を操る者――おそらくは本物の道化らが、砦の内部に待ち構えているはずだ。
「僕が道を開きます。急ぎましょう!」
ルドが率先して砦へ続く石段へ踏み込み、傀儡の道化にひとりまたひとりと太刀を浴びせ、柱や岩壁に叩きつけ、またはるか崖下へと振り落としながら突き進んでいく。魔術師と獣人の少女、そして猟犬のマックスがあとに続いた。たちまちに暮れゆく夜の暗がりのなか、傀儡たちは主の思惑に乗り、果敢に挑むべく砦の門をくぐった冒険者らを深追いせず、奇天烈な仮面をひきつった笑いにがたがたと震わせて騒ぎ立て続けていた。
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92 Cemetery
続く砂利道を進み、光の中へ足を踏み入れると、その先には、それまでとは異なった景色が広がっていた。
「……」
緩やかな上り坂を描く砂利道は変わらなかったが、砂利道の左右に、文字と思われるものが刻まれた石、木、金属板等々が見渡す限りいくつも立っていた。それらは坂を上るごとに、徐々に数を増していく。よく見ると、刻まれている文字はルドやバルナバーシュが知っているようなものから、幾何学模様のようで判読できないもの、何かしらの絵のようなものまで、様々だった。ある一つの字を見て、バルナバーシュは「はるか昔の古代文字だ」と、目を丸くしていた。
「……バルナバーシュさん、これは……」 「ここは、フェレスとの戦いに敗れたレイの一族の墓らしい。エターナルデザイアーを破壊するため、ミュウと戦い続け敗れた者たちのものだ。これはミュウが彼らを弔うためにつくったものだと言われている」
増えゆく墓碑に囲まれながら坂を上りきると、左右で墓碑と道を隔てていた岩々はなくなり、道中とは比べ物にならないほどの数の墓碑が立ち並ぶ広場に出た。見渡す限り続くそれらの墓碑の数は、数え切れない。ここに眠る者達がどのようにしてここに眠ることになったのか、物言わぬ墓から知ることはできない。だが、エターナルデザイアーを巡り、多くの血が流されたのだろうと言うことは、伺い知ることが出来た。そしてまた、ミュウも、希望を守るために、いくつもの犠牲を積み上げてきたのだということも。 その光景に、バルナバーシュとルドが圧倒されていると、ふいにマックスが一目散に、立ち並ぶ墓碑の向こうへと駆けだした。
「マックス?!」
驚き、名を呼ぶバルナバーシュに、ルドが「行きましょう」と、声をかける。
「マックスの行く先に、彼女がいます」 「ナナヤか?ルド、分かるのか?」 「そんな気がするんです。あの先に、ナナヤとアセナがいる」
かすかに熱を感じる背負った大剣を一瞥し、ルドが答えた。実際に大剣が熱を帯びているわけではない。だが、何か暖かなものをルドは大剣から感じていた。それはハインの思いの残滓なのか、ルドがそうあってほしいという願いから生じた幻なのかは分からない。それでもルドは、この先にナナヤがいるのだと、どこか確信めいたものを感じていた。 はたして、マックスの行く先には一人と一匹の影があった。 一本だけ生えている木の下で、少女と一匹の狼、ナナヤとアセナは寄り添うようにして、座り込んでいた。
「ナナヤ」
ルドの口から、乾いて冷えたような声が零れ落ちた。ナナヤは大切そうに、その手に一つの木彫りの小さなトーテム像を抱え込んでいた。ルドは、それが誰のものであるか、一目でわかった。 心の芯から凍えるような寒気に襲われ、ルドだけが思わず足を止める。ハインが最後に残した言葉と、灰燼となって風にさらわれていった彼の欠片を思い出した。 直接、ルド達がハインを殺したわけではないことは頭の中では分かっている。ルド達と戦う前にハインは既に死んでいたのであろうことも。ハインから託された約束のためにもと歩みを先へと進めたのに、いざ、彼女たちの姿を目にすると、だが、それでも何か方法があったのではないかと心のどこかで思ってしまう。あまりにも、失われてしまったものは大きすぎた。 まず真っ先に彼女達に駆け寄ったのは、マックスだった。見ると、彼女らは衰弱してはいるようだが命に別状はないようで、マックスがナナヤの頬を舐めると、目を閉じていた彼女はうっすらと目を開けた。彼女が開いた眼にうつったのは、彼女自身を数歩離れたところから立ちすくんだまま見つめるルドの姿だった。
「ナナヤ、大丈夫か」
近くから声をかけられ、そこで初めてルド以外にバルナバーシュ、そしてマックスもいることをナナヤは知る。
「大丈夫に見えるのかよ、おっさん」 「命に別状はないようだな。安心した」
バルナバーシュの手を押しのけながら受け答える言葉遣いは相変わらず乱暴であったが、彼女の動作、雰囲気からは以前のように攻撃的で、全てを拒むようなものは感じられなかった。
「何があった。それにこのトーテムは……」 「ハインの、フェレスだったもの、だよ。お前らなら知ってるだろ、あのお人好しのこと。あれからあたしはハインに会って、それで、あいつに連れられるままこんなところまで来ちまった。 でも、あたしはこれ以上先には行けない。行けなかったんだ。あたしは、あいつと違ってフェレスなんて持ってないから」
これから先は俺だけで行く、と彼は言った。これから先へはフェレスを持つ者しか行けないのだと。ハインは、最後の決戦の地へと続く階段の前で、別れ際に、ナナヤ達に待っていてくれと、言った。そうして彼はフェレス以外のすべてをナナヤに渡し、一人っきりで先に行ってしまった。 ナナヤは湖でただ一人空っぽで、残されていた。腕を斬られたからではない。ナナヤをそれまで支えていた何かは、欠け落てしまった。それが何だったのかナナヤには分からない。 虚ろな器だけのナナヤを見つけたハインは、なぜか「俺と一緒にこい」とエターナルデザイアーを求める旅へと誘った。全てが空っぽなナナヤは誘われるままに彼についていった。 普段のナナヤであれば、見ず知らずの者相手に、無防備なままついて行くことなど到底考えられなかった。だが、ナナヤにとっては全てのことがもはやどうでもよく、それは自分の運命に対してもそうであった。 道中、彼はナナヤにとても優しかった。それは、幸せを知っている者ならば、普通のことかもしれない。だが、自分を真っ直ぐ見てくれたハインは、ナナヤにとって、とても優しかった。なぜ、自分に共に行くことを提案したのかと、何度も聞き、彼の優しさを何度も疑った。だが、彼からは決まって「放っておけなかった」とただそれだけの答えが返ってくるだけだった。彼からルドとバルナバーシュの話が出た時には、彼らに対して行った自分の行動を告白もした。それでも、ハインはナナヤを軽蔑することもせず、ただナナヤの話を聞くだけで、彼の優しさはずっと変わらなかった。優しすぎるほどに。彼女が遠い昔に置いてきたものを、願ってしまいそうになるほどに、彼はただひたすらに、ナナヤに優しかった。 最後に見た彼は、とても傷だらけで、冷たかった。ナナヤは、決戦の地へ続く階段の下で、冷たくなったハインの姿を見下ろした。何度もナナヤが生きてきた中で見た、生きていた者の残骸。ハインの目が再び目を開き、ナナヤを見ることも、ナナヤの名を呼ぶこともない。ナナヤに優しくしてくれた理由をナナヤが聞くことも、永遠に出来なくなった。
「それで、あたしはあいつをすぐ近くに埋めて、アセナと一緒にここまで戻って来たんだ。あたしはその先へいけないから」
手にしたひび割れたトーテムを握りしめ、ナナヤは言った。なぜか、どうしてもこれは一緒に埋めることはできなかった。
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91 Hein
ハインが地を蹴るのを皮切りに、二頭のサーベルタイガーもまた、門の挑戦者らへ咆哮して飛びかかり、その名を冠する巨大な剣歯をかざしてバルナバーシュとディオレの剣にそれぞれ噛み合ったが、受け手の二人は隆々の肢体から繰り出される膂力と痺れにこらえきれず、これをどうにか受け流すしかなかった。あまりの反動から柄を握る手の節々に滲んだ血が、脅威を警告する。大自然の淘汰にただ己れの生存をかけ、一撃のもと獲物の動脈に突き立てるのみに発達させた牙は獣性に猛り、また古代の狩猟者の矜持に気高く、ハインが獣使いとして最後に従えたのならばこれ以上に卓抜した道連れは無かっただろう。かつてオストル沼沢で語られた話、荒れ野の蛮族として仁義なき戦いとともに生き抜いた彼の原始性を、バルナバーシュはこの剣歯虎の現し身によみがえるのを見た。いにしえの獣らはいまや、ハイン自身でもあるのだ――アストラに到達しうる最高のテイマーが、その勇猛な魂を通わせ、無念の死の果てに融合をも経た運命共同体として。
ハインは銀灰の大剣でひとときの弟子であった機械の少年と仮借なき剣戟を交え、雄叫びが地獄の炎のように大気を焦がし、死んだ魚の肉の色に泡立つ口腔からほとばしってやまなかった。対するルドは防戦を強いられながら、いくどもハインの名を――広原で動物のことばを教授してくれた彼の面影を――呼び続ける。戦いへの拒否のために攻勢に出られないでいるのは明らかだった。
「僕はいやだ。こんな形であなたと戦いたくはない!」 「門は勝利者にしか開かれない! 運命に刃向かうなら、その糸を繰る奴を倒すしかない――だが、俺には果たせなかった。救えると思っていた……罪悪に濡れたおぞましい手であっても……思いあがっていたんだ……君は、ここで――俺のような敗者のために――背き、屈するのか? ならば逃げ帰るか、俺とともに死ね! 弱者にこの地は踏ませない」
もはや自身では魂の平安を手に出来ない、憐れな者の怒りと嘆きだった。戦いがもたらす無我に己れを明け渡し、かつて憎んだ自身の怯懦の影をルドの中に見ながらも、ハインは恐るべき正確さで大剣を突き入れ、ルドは剣を上げてこれを防ごうとした。だが刃の激突とともに異様な衝撃波に吹き飛ばされて、ルドは転倒してしまう。ハインの曇りなき銀灰の大剣から発せられる超常の力だった。剣に身をもたせて立ち上がるルドを、ハインは追撃することなく黙って待ち構えていた。
「なんのためにここまで来たのか、思い出せ、ルド」 「あなたを殺すためじゃない」 「俺はすでに死者だ。踏み越えていく屍なんだよ。君は勝つために来たんだ」 「いやだ……!」 「そうか。なら、分からせてやるよ!」
ハインの振りあげた銀灰の大剣に青灰色の渦まくものが走り、患禍にうなりながらルドの頭上に落ちかかる――それでもルドは守りに徹しようと剣をかかげたとき、この悲劇に闖入するものがあった。バルナバーシュの腕がはねあがって、〈まことの銀〉より出ずるアルドゥールがその薄刃にもかかわらず銀灰の大剣に抗し、エネルギーを相殺しながら弾き返したのだ。
「彼は私がやる。ルド、君はあの獣を――いま、ディオレがどうにか二匹を相手にしている。加勢にいってくれ」
戸惑うルドに魔術師はしずかに言い、舌打ちするハインに決然と振りむいた。
「気に食わないか、ハイン。それか私では相手にならないとでも?」 「ここまで来て、まだ甘やかすのかよ。門の先でルドを失うことになるぞ」 「杞憂だ。ルドはかならず君の死を乗り越えていく。それに、私はただ、見ていられなかっただけだ……運命のいまわしい手先が、君らの友誼を汚さんとする不正を!」
ルドが剣歯虎との死闘にあえぐディオレのもとへ急ぐのを肩越しに認めると、バルナバーシュはアルドゥールを差し向け、銀灰の大剣へと攻めかかった。ハインは高笑いを放ち、濁りきった目をむいた。彼は大剣の切っ先を地に滑らせながら脇を狙って斬り上げ、バルナバーシュは横にさけたが、刀身に繰り出されたエネルギーの塊が胴着へ食い入って肉体に浅からぬ挫傷を与えた。肺の空気が全て吐き出され、バルナバーシュは耐えがたい痛みのなかで、その大剣が峻厳な山の頂きで天の支配者らに働きかけ、倫理を越えた儀式によって生み出された、嵐まつろうものであることを悟った。
「これが君の戦い方なのか、ハイン」 「頼む、俺を救ってくれ、バルナバーシュさんよ」
振るい、打ち交わされる剣の鮮烈な火花のあわいに、ハインは涙を流して懇願し、いっぽう戦いに歓喜して笑う口の端には、唾液が泡の粒をなして張りついていた。だが、亡者として錯乱しているのではなかった。かつて彼は、生粋の戦闘民族として生まれ、その身に沸騰する血が闘争を愛し、荒々しい破壊のさなかにもっとも輝ける者たちのひとりだった。その在りし日の姿であり、戦いの恐ろしい快楽に憧れ、求め、浴し、そして嫌悪すらも覚え――彼はついに弱さ、優しさを捨てきれなかったのだ。夜の浜にさざめいて打ち寄せる呵責と苦悩が、いつか彼に希望の光を見いださせ、イススィールの伝説へと導いた。はるかなる果てに至るとき、絶え間ない葛藤と和解し、救われるのだと信じて。ハインが秘め隠し続けた、己れの真実だった。その一切がいま、彼らの前に開かれている。
バルナバーシュは全神経の集中でもって嵐の大剣を避け続けながら、触媒のアルドゥールにイメージと、その代償となる魔力を送り込む――地獄次元のこの世ならざる炎、ねじれ、逆巻き、暴る獣神のグロテスクな形態を象る火の群れが、天空の力に匹敵すべく抜き身の中に立ち現れ、刃は溶鉱炉の爛然たる色彩を放って赤熱に揺らめいた。ハインはいや増す狂熱にあってなお、制御を失っておらず、胸部を狙い定めて突きかかってきた。バルナバーシュは外套を斬らせながら間一髪のところで避け、炎の刃を突き上げた。炎は大剣がまとう暴風と絡み合い、爆ぜ、広がり、獲物を体内で絞め殺すようにたちまちに呑み込んでいく。土気色の肌を焼かれてハインがうめき、飛びすさったのを、バルナバーシュは執拗に追いかけた。
「決着をつけよう、ハイン」
冷徹に迫り来るバルナバーシュと突き出された剣に、ハインは初めて恐怖の面差しに凍りつき――そして安らかに微笑んだ。あの豊かな緑の広原で、動物と語らい、バルナバーシュとルドを歓迎した日のように。焔に脈打つアルドゥールはハインの胸を刺しつらぬいて、穢れも清きも焼き焦がし、死肉の燃える臭気とともに引き戻された。血の代わりに、枯れた薔薇の花弁のような赤黒い剥片がわずかに散る。バルナバーシュが背後へ目をやると、残る一頭となった剣歯虎が、ルドとディオレ、それぞれに腹と首へ剣を突き立てられ、喉奥より低い唸り声をとどろかせて伏していくところだった。ディオレの体のあちこちには、鋭い鉤爪に裂かれた傷や血が生々しく目立っていた。
仰向き、四肢を投げ出して倒れたハインの光失われたコーラルブルーの瞳が、アストラのゆっくりとうつろう灰色の空を呆然と見つめている。その視界に、フェレスの主らと、ルドの言いつけをよく守って隠れていたマックスが現れた。彼らはハインを囲んでひざまずき、覗き込む目はいずれも悲しみをたたえていた。
「久しいな、マックス……」
胸元に取りついた猟犬の子の額を、野性的に節くれだった手が感慨深くなでつけた。ハインのもとから巣立った子犬は、彼が思うよりはるかにたくましく成長していたようだった。
「俺は偽りなく全力で戦った。女神はあんたたちを認め、門は開かれるだろう」 「もう、どうにもならないのか」
バルナバーシュが押し殺しながら問うと、ハインは鼻から息をもらして笑い、誰とも目を合わせずふたたび空を見上げた。
「礼を言うよ。そして、すまない。俺はこんな卑怯なやりかたで、あんたたちに自分が果たせなかったものを託してしまった。なあ、ひとつ頼まれてくれないか……」 「言って、ハインさん」
彼の手を固く握りしめながら、ルドがうながす。
「門の先に、あの子たちがいる。アセナと、ナナヤ……まだ、生きている……どうか、死なせないでやってくれ」
一行が答える前に、ハインの肉体は灰燼となって風にさらわれていった。彼方の空を映して地に突き立つ、銀灰の大剣だけを残して。ディオレは幸星の民に伝わる祈りの句を紡ぎ、弱々しく鳴くマックスを、ルドはただ抱きしめるしかなかった。
バルナバーシュは立ち上がると、銀灰の大剣を抜き、まだ風と天空の力が失われていないことを確かめた。今は静かに眠り、硬質の光を放つ刀身を両手に横たえて、打ちひしがれるルドの前にひざまずく。
「これは君が使いなさい。君の果たすべき宿命の守り手になるだろう」
意識せずに示されたその言葉に、バルナバーシュ自身が小さな驚きを覚え、あたかも見えぬ何者かが己れの口を借りて発したかのようにさえ思えた。大剣は父が子に言い聞かせるような儀礼的なしぐさで差し出され、ルドは動揺したが、それも須臾のことだった。これまで背負っていた大剣を古き戦士たちに捧げる墓標として大地に突きおろすと、いささかのためらいもなくルドは銀灰の大剣を受けつぎ、つかのま、刀身に映る空の向こうにおのが未来を見た気がした。青い布の巻かれた柄はかねてより知るもののごとく馴染み、霊妙な重みが、鋼を通じて彼の内なる可能性を気付かせる。このさき遭遇するものに対し、無類の自信をもたらしてくれるはずのものだ。
「それは、銀空剣クァルルスか」
ディオレが剣の名と伝承に気づき、口にのぼせる。
「クァルルスは、眠れる戦士たち――この門の先に広がっているであろう墓地――の守護者が持つと言われる剣。おそらくその刃は、ハインだけではない、この地で散っ��あまたのドラマを記憶しながら振るわれてきたものだ。ゆえに、そのすべてに終止符を打つ力をも秘めているはず……」
三人が黒々とそびえる岩壁の、重く閉ざされた丈高い門の前に立つと、加護に満ちた女神の声が降りてきた。
《古き戦士たちは自身の夢をあなた達に託しました。今この門を開き、決戦の地への道を示しましょう。ここから先、志を違えた者同士は共に往くことはできません……お行きなさい。その先にあなたがたのための結末が用意されているでしょう》
轟然と、しかし厳かに門は開かれ、その向こうは三つの分かれ道となっていた。道は花崗岩や黒曜石の岩々で自然に仕切られながら、透明な水晶やさまざまな半貴石、きらめく火打ち石の混じる砂利が敷かれ、行く先は緩やかな上り勾配が続き、ひとつは暖かな黄金の光に、ひとつはあらゆるものを包容する闇に、ひとつは行く末のさだかならぬ灰色の霧に、頑なに隔てられるように隠されていた。いずれかへ踏み出せばもう変えられないのだと、一行は本能的に直感した。
「私ははざまの道を行く」
ディオレが断言し、先んじて灰色の道へと進み出た。
「案内できるのはここまでだ。もし今でもエターナルデザイアーを求めているなら、光の道を――あるいはフェリクス達のように破壊を望むなら、闇��道を辿るといい。君たちもまた、みずからの願いに従うべきだ」 「ディオレさんの選んだその道は?」
意思を崩さない様子のディオレに、おずおずとルドが尋ねる。
「ありえざる道だ」
それだけ言い、別れの言葉もかけずにディオレは足を速めながら道を登りはじめ、その背は謎めいた灰色の霧のなかへとはや失せてしまった。突然の静寂が二人と一匹に残され、バルナバーシュはベドウィンの戦士の考えについてしばし思いを巡らせた。
「どうやら今生の別れではないようだ」 「また会えるのでしょうか?」
突き放され、また一人で行かせてしまうことにルドはまだ不安気だったが、バルナバーシュの結論に希望を見いだしたようだった。
「たがいが生きてさえすればな。私たちもしかるべき選択をしよう」
バルナバーシュには、己れの望みに従うなら光の道を進むほかはなかった。だが、ハインの遺言――門の先に残してきたという、ナナヤと白き雌狼のアセナの安否が大きな気がかりだった。果たして自らの選ぶ道の先にいるのか、捜し出すには一体どうすればよいのかが見当もつかない……そうして浮かべた難しい面差しに気づいたのか、ルドがバルナバーシュの腕を優しくつかんで語りかけてきた。
「バルナバーシュさん、大丈夫です。僕たちは光の道へ進みましょう」 「しかし……」 「銀空剣の持つ力が、きっと導きます。あるいは、ナナヤたちを呼び寄せてくれるかも。剣がハインさんの遺した意思を、覚えていてくれてるなら……。ナナヤはフェレスを持っていません。だからこの先で道に――ひょっとしたら自分が居るべき次元にさえ――迷っていると思うんです。この剣が灯台になってくれるはずです。僕が、バルナバーシュさんのフェレスの光を頼りに進んできたみたいに」
それから、ルドは不思議そうに首をかしげた。意表をつかれたようにバルナバーシュが目を開いて、機械の少年を見ていたからだ。だがすぐに、何を今さら驚くことがあろうかとバルナバーシュはかぶりを振り、微笑を返した。
「ルド、ありがとう。決心がついたよ」 「僕はいま、正しい判断が出来ているのでしょうか……」 「目の前の出来ることを信じ、使命をまっとうしよう。災いに屈することなく。それで全てが決まる。いつだって私たち次第なんだ……だから、大丈夫だ。君と私、二人でならきっとやれる」
追随するように足元でマックスが勇ましく吠え、二人と一匹は砂利を踏みしだき、決戦の地へ続く山道を登りはじめた。
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90 Gate
永遠に続くかと思われた灰色の空と、砂の海の果て。雲の切れ間から差し込む光が、天使の梯子となり降り注ぐ先に、巨大な山脈が横たわっていた。闇沙漠最後の砂丘の上から望んだ先には、東の果てから西の果てまで山々が絶え間なく続き、それらは天高く雲の上まで伸びている。もし、今が夜であったなら、巨大な闇がそこに口を広げているように感じただろう。
「あそこにアストラがあるんですか?」 「いや、正確には違う。あそこにあるのは『門』だ。アストラへ至るための門、イクトルフの門があの山の麓にある」 「そして、その先にアストラへと至る道がある、ということか」
そびえる山々を見ながら言うルドにディオレが答えると、バルナバーシュも同じく山々を見ながら言葉を続けた。イススィールという島へ降り立ち、希望を求めて、とうとう、その果てまで来たのだと実感する。だが同時に、目の前の全てを遮るかのような山々は、最後の道の険しさを物語っていた。
三人と一匹が山の麓に着く頃、辺りは砂の海から、剥き出しの岩とそれにしがみつくように僅かな草花が生えている景色へと変わっていた。砂地よりも動きやすいからだろうか、我先にとマックスが駆けてゆく。
「マックス、気を付けて」
出会った頃よりも幾分か逞しくなったマックスは、己の主人に元気よく一声吼え答えた。 マックスの掛けてゆく先には、山の麓、剥き出しの岩壁がそそり立っていた。ほぼ直角に近いその壁は、とても登れそうには見えない。左右に続く岩肌も同じように登れるような場所は見当たらなかった。
「門ってどこにあるんでしょう。これじゃ、山を登れそうにないし……」
途方に暮れた声を出すルドの横で、じっと岩壁を見つめていたバルナバーシュが何かに気づく。
「……違う、ルド。これが門だ」
バルナバーシュが指さす先は、岩壁があるだけのように見えた。だが、バルナバーシュに促され、よく見てみると、岩壁にはいくつもの溝が彫られている。否、溝ではなく、それは岩壁に埋め込まれるように作られた巨大な門の縁であった。見上げるほどの巨大な岩の門は、山への入口を固く閉ざしていた。
「マックス?」
先を歩いていたマックスが立ち止まり、何かに警戒するように姿勢を低くしている。 マックスが見ている巨大な門の入口、ルド達の位置からはまだ少し先にあるその場所には、天から真っ直ぐに一筋の光が差し込んでいた。
「あそこに何かあるの?」
唸るマックスを宥めながら、ルドも、隣に立つバルナバーシュとディオレもその場所を見る。
「誰かがいる」
ディオレが光の輪の中に人影を見つけると、彼らは急いで門の下まで向かった。ルドとバルナバーシュにもはっきりとその姿を見て取れる場所まで来ると、三人は歩みを止める。 天から降り注ぐ光を受け、その人物が纏う絹のような衣が光り輝き、風にはためく布の端からいくつもの光が零れ落ちるようだった。
「あなたは……」
門を見つめていた彼女は、ルドの声に、ゆっくりと振り返った。
《わたくしは沙漠に心を捨てたユテァリーテ。イススィールの行く末を見守る存在です》
デスァ闇沙漠で会った彼女と、瓜二つの姿で女神は微笑んだ。だが、ルドはふと女神の笑顔が、闇沙漠で出会った女神の片割れである彼女とはどこか違うような気がした。
《旅人たちよ……つらく苦しい旅路だったでしょう。望まぬ戦いを強いられたこともあったでしょう。あなた達は諦めず生き抜き、この地に辿りつきました。 されどなお、わたくしは尋ねます。あなた達がアストラで戦う決闘者として然るか否か、かつて希望に導かれこの島を訪れ、しかし果たせずに死んでいった古きフェレスの主たちに》
女神が一歩横に退き門へ向けて手を差し伸べると、ゆっくりと白い影が浮かび上がった。各々がそれぞれの得物を手に身構えると、その影はゆっくりと人の形をとっていく。そして、その姿はルドとバルナバーシュがよく知っている人物の姿となった。
「……なぜ……」 「ああ、やっぱりあんた達ならここまで来れると思っていたよ」
着ている衣服もところどころ擦り切れ、そこから覗く肌の色は驚くほど青白かった。だが、その声は紛れもなく二人の知っている人物の声である。 ルドの足元にいるマックスも、戸惑いの目をルドへと向けた。
「ちゃんと、その子を大切にしてくれているんだな。君達ならきっといいパートナーになれると思っていたよ、ルド」
大切な教え子の様子を見守るように、もしくはよき兄のように、優しく、彼は、――ハインはルドに声をかけた。その声、その物腰はハインそのものであるというのに、今の彼の眼は虚ろに濁り、かつての輝きはもうそこには見られなかった。
「どういうことですか、ハインさん」
ルドの言葉には答えずに、ハインは片手を軽く上げる。すると、まるで初めからそこに居たかのように、ハインの隣に二匹のサーベルタイガーが姿を現した。 女神の告げた言葉が、ルドの中で反芻される。まるで洞窟の中で木霊する言葉のように。彼女の言葉が真実なのであれば、今、目の前に立つハインは――
「……ハイン……君は、行けなかったのか」
ゆっくりと確認するようにバルナバーシュがハインに問うた。ハインはその問いに肩を軽くすくめて、音もなく武器を構える。
「……そうか」
それだけで、答えは十分だった。いや、今の彼の姿はもはや十分にその答えを物語っていた。その目も、肌の色も、到底生きている人のものではない。 ハインに合わせ、バルナバーシュ、そしてディオレも武器を構える。だが、その中でただ一人、ルドだけが武器を下におろしたままだった。
「どうした、ルド。この先に行くんだろう」 「でも、ハインさんと戦うなんて。それ以外の方法は、何かないんですか」 「『戦うなんて』……?相変わらず優しいな、ルドは。だが、この先に進むなら、自分の道を進むなら俺を倒すしかないな」 「そんな……っ!」
戸惑うルドの前に、バルナバーシュとディオレが割って入る。だが、それよりもハインが駆けるほうが速かった。
「そちらからこないなら、行くぞ!」
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