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経済学 金融論
柴田徳太郎編著『世界経済危機とその後の世界』日本経済評論社、2016 ゼミでやったとても難しい本です。金融用語辞典を駆使して、頑張りました。関連してないわけではないけれど、自分の研究テーマとはちょっと違うし、自分1人ではきっとやらなかった類のもの。でもとてもためになったと思います。 書名の通り、2008年に起きた世界金融危機とその対応、そして今どうなっているかということが書いてあります。 まず、サブプライムローンをはじめとする、住宅金融の拡大について。70年代の不況から金融緩和、規制緩和、そして金融の技術的発展があった。債権を担保にしてやりとりしていくと債権と債務の相手を一緒にすることができて、バランスシートを相殺できる。でもそのやりとりの途中で、信用、満期、流動性が違う金融商品を取引していくことになって金融不安定になっていった過程。また、住宅価格が下がりだしたことでその伏在化していた債務の顕在化や、信用補完の必要性から危機につながっていったというのが第1章の内容。 2と3章では企業の内部の話。前者は主に株式会社がいかにして高株価経営をより強く求められるようになったか。後者はアクティブ運用をするファンドマネージャーが影響力を拡大していった過程について。 次章ではドイツの銀行業界のおはなし。ドイツは危機からの立ち直りが早く、現在も欧州で一人勝ちしているように見えるが、ここの著者はそこに問題点を見出している。ざっくりというと、ドイツ銀行はドイツ国民に全く信用されておらず、国民の貯蓄は実物投資に向けられていて、資産バブルが起きている。 個人的にドイツはルールにうるさいイメージがあったのだけれど、銀行内部の現状部分を読むとクソみたいな経営だなって。 危機後にはアメリカでFed viewによる不況対策、つまり金融緩和が割と長く行われており、(最近バランスシートの縮小が報じられていた。)BIS viewの理論的に、バブルが崩壊していないセクター、特に新興国で不安定性が増しているんじゃないかという現状分析で終わった。 私にはこれからどうなるか判断できません。(完)
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心理学
中谷内一也『信頼学の教室』講談社現代新書、2015 私はホモ・エコノミクスというモデルを批判する立場にいるので、人々がどう非合理的になり得るのか、つまり行動経済学みたいな部分を考えるために、また、資本の価値増殖を目的としている企業が用いる、信頼を得るための倫理という���段について考えるために、心理学をちょっとかじってみようということで手に取った本。 あたりまえなんだけど改めて考えるとおーってなったことは、文明は信頼の産物であるということ。信頼しきっていないと分業なんか生じ得なかった。イギリスなんかでちょっと流行っているらしい田園回帰、自給自足っぽく戻ろうとするムーヴは、精神的豊かさの追求に加えて、現代社会への信頼の問題もあるのかもしれないと思った。 それでも裏切られることはなかった訳ではなく、しかも裏切られたときの痛みが大きかったため、信頼しているときのプラスの感情より、裏切られたときのマイナスな感情の方が強いらしい。なるほど。裏切りを防止するためにつくられたのが監視と制裁システム。 信頼には価値の共有、能力、動機づけ(公正さなど)が関わっているが、どの要素が信頼に1番強く相関づけられるかについては場合によって違うらしい。能力についての相関が全てじゃないので、正しい情報を与えていればそれが全て信頼に直結する訳ではない。(例えばいくら製品の情報に関する透明性を高めたとしても、それが信頼に強く結びつくかどうかはわからない。つまり製品が選ばれるために信頼を得ることが必要だとすれば、ブランディングをしたりして価値とか動機を消費者に伝えなくてはいけない。) 最後に、信頼の崩壊がどう波及するかについて、危機に対するリスク管理者への震災前後の信頼の変化を例に述べられていた。震災後に信頼が低下した部分はもちろんあったけれど、震災に直接関係がなかったところは、影響がない、または信頼が向上した。これは危機への不安についても同様で、人間の頭の限界を見ている気持ちになった。笑 このことから私はやはり規制というのは必要だと思った。例えそれが記号に成り下がってしまっても、倫理では包括しきれない不合理があって、それをカバーする規制が必要。 ダイアログになっていて、とてもわかりやすかった。ですます調に慣れていないのでちょっと読みにくさもあったけれど。
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社会学
古市憲寿『国家がよみがえるとき 持たざる国であるフィン��ンドが何度も再生できた理由』マガジンハウス、2015 図書館のフィンランド展示にあった古市さんが取りまとめた論文集。読みやすかった。 フィンランドの国風、教育、若者、起業ブームの4つの章に11本の短い論文が載ってる。フィンランドの今はいくつもの困難を乗り越え、変化していくことでできたものであるということを全体として論じている。 最初の2つのトピックについてはよく知っている通り。森と湖の国フィンランドということと、ソ連崩壊ですごく大変だったこと。また、高水準と評価される教育も、平均点が高いだけであり、運営にも問題が残っていること。 フィンランドの若者については少しショッキングなお話もあった。落ちこぼれという意味でのアウトサイダーがいること、女子が男子より頭が良くて左派が多いことは知っていた。それに加えて、フィンランド人は友達が少なくて病みやすい、いじめが多く、14-16歳では10人に1人がうつ病という事実、、、 起業ブームについてはノキアのレイオフから始まったんだと思ってたんだけど、それより前からスタートアップを政府が支援してたんだとか。日本と同じく横並びを良しとする文化があったけれど、起業家を白い目で見ることはメディアや政府のおかげで少なくなっているみたい。工学教育に強い国なのでうまくいくことも多いでしょう。 でも一方で、創造性、イノベーションへの信仰は、フィンランドのアイデンティティや、国民国家の存在を脅かすだろうとしている論者もいる。 締めはフィンランドは完璧な国じゃないけれど、今までみたいに柔軟に問題解決をしていく姿勢はこれからも続くでしょう、日本も見習うべきとのこと。わいも同感である。
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経済
暴走する資本主義 ロバート・ライシュ 東洋経済新聞社 2008, 原著は2007
アメリカの話だけど日本にも通じることが多いと思った。
いわゆる超資本主義は、技術発展によって起こったものだと著者は主張する。技術発展によってら消費者と投資家はより多くの選択肢を得るようになったのだ。それに加えて、規制緩和とグローバル化がますます企業間の競争を激しいものにした。
著者は我々の中に二面性があると述べている。消費者や投資家としての私たちと市民としての私たち。超資本主義ではこの二つの価値観のバランスが前者が大きいものへと変わっており、民主主義は危機に瀕することになった。
その後、民主主義を取り戻すための手段に行われたこととして、大企業によるCSRが挙げられる。しかし、このCSRは、消費者や投資家の利益に反する、つまりコストが大きくかかるものであれば、消費者や投資家は離れていってしまう。エシカル消費や社会的責任投資なんてものは微々たるものである。これに関しては数字で証明されている。
それに加えて、CSRによって、力強いイメージを市民に伝えてしまうと、民主主義的な規制の必要性を見えにくくしてしまう危険性もあるという。筆者はこのことから、あべこべになった資本主義と民主主義を分けて考えること、企業が社会的になる必要をなくすことが民主主義を守る方法であると主張する。
企業は誰のものかということに一定の答えを著してはいないが、結局は消費者や投資家のものにしてしまう競争の現状を読み取ることができた。
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教養
文系のための理数センス養成講座 竹内薫 新潮新書(2017)
まず理系と文系の違いについて。一般に理系は抽象や論理、文系は具体や情緒についての学問であるとされるけれど文系にも抽象が存在するよね。
一方で欧米では区分が存在しない。もともと科学は哲学の一分野だったので。日本はヨーロッパ発の近代科学を完成形で輸入したのでこの分類が顕著になっており、明治政府はお金のかかる理系とかからない文系に政策的に区分したらしい。
そしてその後科学的思考のコアである論理性について論理演算を用いての説明、クーンのパラダイムシフト、ブレイクスルーの考え方を使いながら科学の進歩が一定の速さで起こっていないことについて書かれていた。
文系人間にとってだけでなく、科学の細分化が進むにつれて、それはブラックボックス化している。例えば家にある家電だってどういうシステムで動いているかわからないだろって。少なくても私はわからんな。
人工知能もその仲間としてあげられる。データを与えて結果が出たとしてもそのプロセス的なところは分かり得ないらしい。そう考えると今期履修するオペレーションズリサーチのようなプロセスも重視するっぽい数理モデルもまだ捨てられるものじゃないのかなって思ってみたりした。
SFで流行っててちょっと怖そうって思うけど、人工知能は科学で未解決である宇宙、生命、意識の起源のうち意識に該当する、欲望を持ち得ないものであるから、判断権を与えないで、うまく付き合えば大丈夫という楽観視する科学者が多い。
そして最後に、近年の科学について、ビッグサイ���ンス化している話。 もちろん費用対効果は経済的に問題になる。例えば地震計みたいな資金を無駄にした研究もあるけれどファラデーの電磁気学はすごい稼いでる。でもファラデーも実はなにに使えるようになるか研究段階ではよくわからなかったらしい。だから国が、投資しなきゃいけないんだな、、、
おわり
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経営
IoT時代のロジスティクス戦略 著:秋葉淳一、渡辺重光 幻冬社、2016年
まとめると、 •ロジスティクスは経営戦略だから大事にすべき •ロジスティクスは事業の全体を見ることが必要 •物流は消費者ニーズのために大切なもので、安易に削る判断をすべきではない •IoTを含むIT化を進めるべき って感じです。あまり大したこと書いてなかったけど最後に書かれていた最新技術すげーって思った。それと同時にこえー、このまま進めて大��夫かって思った。
多様化する消費者のニーズに究極に答える必要がある。そのために"「ほしいと思ったもの」を「ほしいと思った時」に「自分のほしい場所」"で手に入れるための技術、IoTを紹介している。
私は違うけれど市場主義の立場からみるとこれはそうなんだなって感じ。書いてる人も企業の社長と会長なのでそうなるのかも。
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経営倫理
『ハイエク主義の「企業の社会的責任」論』 楠 茂樹 2010年 勁草書房
とても読みにくかった。注釈が多すぎたので無視した。笑 でも読み直す価値はあるかもしれない。
まずCSRとは?から始まる。定義が曖昧なので。フリードマンは法令やルールへ対応することとしていて、この論文の結論としてはハイエクも同じだという。
その過程としてまず、企業はこれこれの仕組みになっていて、ステークホルダーはそれぞれいるんだけど誰のものでもないということ、そしてもちろんハイエクの考えかたについて書かれている。
ハイエクは「開かれた社会」と「閉じた社会」があると論じ、前者では自制的秩序、カタラクシーが生じると説いた。 その中では利他主義は存在せず、利己主義と、利己主義の手段としての利他主義にみえる行動がある。自制的秩序を壊さないためにもこれが有効である。
全体主義を批判するハイエクは、企業の目的を強制するべきではないと考えており、公益を得ることができるようなマクロルールを作ることが社会にとって大切なこととしている。
著者は、現代の労働者が、閉じた社会の部族倫理も、開かれた社会の市場倫理も学んでおらず、さらにグローバルなマクロルールとなり得るものが少ないことに対して問題意識を持っており、秩序のために社会を開くスピードを調節するべきだと説いている。
ここ数年の世界情勢を表していてすごいなって感じ。終わり。
〈メモニキ〉 ロバート ライシュ 『超資本主義』消費者と投資家の圧力 イスラエル カーズナー 『競争と起業家精神』 デヴィッド ヴォーゲル →公益が私益になり得ないことを論証 トリプルボトムライン 公益資本主義
ハイエクは会社組織が無限に拡大していくことの危険に気づく(「個人主義と経済秩序』) しかしグローバル資本主義、障壁のない自由市場における企業組織の存在にそれ以上の警戒心を示さず →グローバルなアナーキーの元では?
現代型企業 トップマネジメントがめまぐるしく移り変わり、組織の持続可能性が失われかけ、組織を構成する人々が報酬に直接反映する短期的利益の獲得を目指し、組織への長期的コミットメントが欠如 →ミッチェル、なぜ企業不祥事は起こるのか 市場の道徳(マクロルール)を学習する機会の欠如 →金融手法とブーム化した企業結合が原因 彼らにとっては目に見える法令、判例のみが行動指針となる
ハイエク『大多数の人々が組織に雇用され、市場の道徳を学習する機会をほとんど持たなくなる時、受け継がれてきた本能に対応するより人間味のある個人的な道徳への直感的な渇望は、開かれた社会をいまにも破壊そうに見える』
渇望も失うというのはハイエクの想定超え
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社会学
『図説 食人全書 普及版』マルタン・モネスティエ著、2015年、原書房
図書館に展示してあって、こわいもの見たさで借りてきた。
人間は儀式のため、食料とするため、復讐や愛の形として、治療のため、そして狂気による食人を繰り返してきたという話。全然知らない世界でした。
近年行われている臓器移植などは経口摂取ではないけれど、人の体を取り入れるという点で近いものがある。なるほど。
この人の最終的な結論は産業的な食人がこれからの食糧難を救う、ということ。ここで大切なのは嫌悪回避のために産業にまるっと取り込んじゃうこと。農業生産性の向上だけでその人口を賄うのは不可能なので。これもなるほど。資本主義をやめないのであればね。
部分でいうとおしりと目、またアジア人、女の方が脂が乗っていて美味しいらしい。でも証言者の味覚も違うので一概には言えないんだって。
413ページ、全て読んで食人に対する抵抗感というかおぞましさが少し薄れてしまった。笑
でも限界状態で止むを得ず人を食べてしまったストーリーなんかはこわかったし、起こってほしくないと思った。戦争を知らない私たちが知っている社会ってのはある程度の安定の上に成り立っていて、そこには理性が働いているので(不完全だとしても)。
食人にショックは受けたけれど、それより、生き残るために理性がなくなってしまう方がこわいと感じた。そうなる前に人を食べよう。そのための食人であれば賛成かな。食ベものはライフワイヤとしてとても重要だと再確認した一冊でした。
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社会学
『グローバリゼーション 人間への影響』ジグムント・バウマン著、2010年(オリジナルは1998年)、法政大学出版局
文体が頭に入りにくくてなんか適当によんでしまった。
ポストモダニストということで、構成主義と対立するのかなと思って読んだのだが、ところどころで構成主義と共通するようなところが見られた。なぜなら彼はポストモダニストというよりはポストモダン時代のことについて論じているだけだからかな。そもそも、構成なしで何かを論じるのは不可能か。自分の認識の甘さもあるのだ���うけど。
内容はグローバル化の中で可動性を持つ者はその移動のスピードを上げて行くのに対して、それを持たない者はローカルに縛り付けられていくというもの。前者は一般的にエリートであり、社会の方向性を決める力を持っている。その中で、後者にあたる国家は権力を失い、前者である超国家的な存在、例えばMNCによる経済活動の歯止めにならないようなことしかできなくなっている。国家の弱体化には、多様化が一つ一つの権力の規模を小さくしていることも関係している。
国家のグローバル化を遮らない権力行使の一つの例として警察の仕事が挙げられていた。国家がその犯罪の対象とするのは、ローカルに生きる者のうちで何かを奪った者であり、例えばある小国の全ての国民から豊かさを奪うようなグローバルに生きる者の活動に対する取り締まりはなされない。
このような二極化の原因となっているのはその新しい階層の間でのコミュニケーションの不足であると論じている。そしてそれは手段の進歩によるものである。
《メモニキ》
社会的柔軟性は忘却と安価なコミュニケーションの依存。
サイバー空間では時間的、空間的な距離の概念がなくなっており、距離によって分かたれる地域の意味がなくなった。→でもぼくは距離はまだ問題だと思うし、地域の大切さは感じる。
メディアの世界は一見シノプティコンだが、パノプティコンのような、グローバルエリートのみが発信するような状況は変わっていない。→今は違うかもね。
多国籍企業の活動において、資本の所在地がないことから、グローバルな秩序の構築に圧力をかけることになる。
労働市場の柔軟性を求める投資家の要望に応えると、労働供給側がつらくなる。
111ページ “私たちの社会は消費社会である。…ポストモダンの段階において、近代社会は大量の工業労働者や徴兵による軍隊をほとんど必要としない。その代わりに、構成員には彼らの能力において消費者として従事してもらうことが必要である。今日の社会における構成員に貸す規範は、消費者の役割を果たす能力と威力である。” →感覚的に的確に社会を捉えている部分であると思ったが根拠づけがイマイチな気がする。もっとわかりやすく書いてほしいね。笑 掘り下げたみがある。
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