Text
2025年を迎え心新たに一月から
新しいサイトでブログを再開したいと願っていましたが、
残念ながら望み通りにはならず、
いまだにパソコンその他の新兵器とも言える
家電類の前で狼狽している状態。
特に、パソコンは次々に異変を起こし、
狂っているのはパソコンか私自身かと訊きたいぐらい。
転居後まもない時々の心境が
鮮明に記憶されているうちにと思い、
苛立つ心を鎮めるためにもと願いながら、
昨秋からぽつりぽつりと書き留めた原稿が
何回分か出来上がっているのですが・・・
もうしばらくの辛抱を、と自らに言いきかせているところです。
「歩くことに自信があるなら行ってごらんなさい。
あそこに行けばすべて揃いますよ」と勧められ
電車を四駅乗って行った、
幕張新都心と銘打つほど多くの商店が並ぶ
巨大モールでは、驚きの連続だった。
細長いモール空間に東南アジアの繁華街を思い起こさす、
ぎっしりと詰め込まれたかのように連なる
小さな店と多様な人々の波。
外国人のなんと多いことか!
モール三階の一番奥にある大きな店に直行し
必要な生活雑貨を探し出すのに手間取り、
階下のスーパーマーケットでも必要な食品を求めてウロウロしたが、
他の店には一切寄らずに駅に戻った。
そのモールの往復だけで一万歩を超えたのだ。
画像はモールの中でかなりのスペースを占め、
特に目立つていたペットショップで撮影。
0 notes
Text
頌春
2025
ブログの新サイト開設が諸般の事情により
かなり手間どっていますがいずれ必ず再開いたしますので、
是非またお付きあい頂きたくお願い申し上げます。
新しい年が皆様にはお健やかな住い年となりますように
* * *
2025年1年月1日 16時29時分撮影
1 note
·
View note
Text
銀粉をすきまなく撒き散らされ、
磨き込まれたみなも(水面)は、
焼き尽くされ皺々になったその肌の痛みに、
身悶えし悲鳴をあげる。
必死に押し返そうとする熱射の、
その圧力に私は思わず後退りし、
瞳を閉じたままシャッターをおした。
盛夏。午後二時七分の光に地球は哭いた。
* * *
ブログの引っ越しを無事終えるまであと一ヶ月はかかりそう
なので、とりあえず、残暑御見舞いに代えて・・お元気で・・
1 note
·
View note
Text
心身の限界と闘ったような引越し騒動も
収束の兆しが見えはじめた
とはいえ、新生活のスタートというには程遠い状態。
その顛末はいずれ新しいブログに書くとして、
長期にわたる沈黙に耐えきれず、
ひとまず、ベランダから見下ろした梅雨の晴れ間の、
休日の一コマとともに
私も‘生きていますよ!’の一言を届けます。
(尚、ブログの引っ越しが遅れているのは
一月に買い替えたワードの操作が依然としてうまくいかないため)。
1 note
·
View note
Text
お家騒動いまだ決着せず、ご老体に鞭打ち只今ひたすら奮戦中。
ブログのお引越しはまだまだ先になりそうな・・・・
* * *
画像: 以前見つけた、緑ヶ丘のエスニックレストラン
0 notes
Text
木瓜から始まり、満天星・連翹・山吹・さつき・
クリスマスローズ・カルミア・梔子・夏椿(娑羅双樹)・
金木犀・椿・さざんか・・・庭をめぐる花たちの、
時を巡る競演をもう最後まで見届けることは出来ない。
雨のくる前に引っ越したいと、
今や部屋は孤軍奮闘の混沌に埋没し、
待った無しの戦場のごときありさま。
ブログのテキストを書く余裕も無くなった。
思えば、二〇〇八年六月二三日に始まったTumblr 「みないで」 も
七十歳の誕生日に始めるつもりが、
一年一ヶ月遅れたのだった。
今年一月にパソコンを買い替えてからトラブル続きで
まだ十分に使いこなせないため、
それらの問題を乗り越え、
引っ越し後すぐにブログの再出発に
辿り着けるか否か心許ないけれど、
私自身が直接アップできるようなサイトに引越し、
六月末に新鮮な空気と共に心新たに再開できるよう願っている。
長いことご覧いただき、真にありがとうございました。
そして、何よりも、
ここ三ヶ月ほどアップが遅延しがちだったとはいえ、
Tumblrでフォーマットを作り、
原稿データのアップを十六年間続けてくださった
デザイナー・渡邉允規氏にこの場を借りて深い感謝を捧げたい。
開始時二十代だった若者が今や不惑の年に達し、
第一線に立っていらっしゃることに感慨ひとしおです。
いろいろ大変お世話になりました。
ありがとうございました。
余白たっぷりの、すっきりとした画面が好きでした。
このブログ上で六月末頃には
新しいサイトのURLをお知らせできれば、と考えておりますが・・・
次の ‘みないで・その二’ もぜひお付きあい頂きたいと願っています。
1 note
·
View note
Text
朝刊を取りに玄関のドアを開けた途端、
視界を覆う赫き。
1.5メーターほど離れた白壁からの反射光が
花々を一層躍動させる。
まだ目覚めきらない神経に一撃を与えられて、
私の一日が始まる。
五月晴れの日々の常だった。
‘引越しするなら早くしたほうがいいよ。
歳取ってからの引越しは辛いぞ’。
引越しを終えたばかりの、
同年の友人に忠告されてから
十年ほど経つのだろうか?
ぐずぐずと身辺整理をしている間に、
加速度を増す時間と反比例し、
身心の動きは鈍化しつづけ、
呆けたアタマは何度も同じことを繰りかえさせた。
ペットボトルの栓を開けるのに悪戦苦闘するほどの、
絶望的とも言いたい状態にもかかわらず、
まだ一万歩余りをゆうに歩き、
食品・雑貨など六、七キロを
リュクで運搬できるためか、
困ったことに、精神は一向に老境を迎えない。
依然として、無意識裡にひらめきを追い続けているのだ。
常に挑戦相手を求めているらしく、
終の住処を探して、またも無謀な決定をしてしまった。
おそらく、三つ子の魂の仕業だろう。
1 note
·
View note
Text
「お勤め先は?・・・ご家族は?・・・
株式・債権は?・・・」
「ありません・・・何もありません。
あるのはこの土地だけです。
・・・ナイナイ尽くしの今だからこそ、
どうしても、建てたいのです」
・・・「よくおやりになりますなあ・・・」、
銀行員の絞り出したような言い方には
複雑な陰影が漂っていた。
忘れもしない、融資をお願いしに行った
銀行でのやりとりだった。
時に、四十歳。不退転の決意をするに相応しい時だった。
何故そこまで無謀な決意をしたのか、
いずれ改めて長い物語で答えるだろうが、
建築家の友人と共々必死に図面を描きづづけて建てた家は、
私の作品群の中の最高傑作と自負する、
愛してやまない作品だった。
が、その家とも遂に別れる時がきた。
四六年の命。言うまでもなく、
私自身と家と競いあった老朽化に耐えられなくなり、
世話の手の回らなくなった植木たちの
憔悴ぶりも見るに忍びなくなった。
猛暑をしのぐ星月下の水撒きが誘い出す
涼風の心地よさも、今や愛しい思い出となった。
* * *
画像:裏庭の塀沿いで華やぐ小さな春。
赤い葉は表の階段横に戦前から生き続ける楓の孫たち。
小さな芽を移植したら、
いつしか裏庭が楓林になってしまった。
1 note
·
View note
Text
焼け野原は二、三百坪ぐらいの広さで
仕切られていた、と記憶しているが、
そこを埋めた家々は田園調布などとは異なり、
特別な高級感を誇る気配はなく、
庶民的ながら落ち着いた佇まいの
生活空間を生み出していた。
その穏やかな一画で最初の世代交代が起きたのは、
実は、我が家だった。
母の一周忌法事を済ませて間もなく、
元気だった父が突然逝ってしまった。
天井の電気もテレビもついたままの父の部屋。
ベッドに横たわった姿のまま、
呼吸をしていなかった。
一九七六年の秋だった。
‘嫁にいく気がないなら、用意した結婚資金で
アトリエを建ててやるから出て行け’
と命じた父のおかげで、
母屋の裏側で待望の一人暮らしを始めたのは
私が三十歳になった時だった。
密かに目指していた「三十にして立つ」が
意外な形で実現したのだった。
そのあと夫婦二人きりの老後を楽しむべく
父が家を建て直してからわずか七年。
家は解体され、土地は子供達に分割された。
* * *
画像:昔の家と最近の大型クレーン
1 note
·
View note
Text

大岡山の尾根ともいえる比較的平坦な住宅地に、
幼い子供づれの家族が未来を背負って次々に収まってから、
どのくらいの時が経ったのだろう。
洗足池公園に向かう下り斜面にたつ家々の世代交代は
六、七年前から始まった。
画像は池に通じる平坦な道から
標高五二メートル余りと言われている
大岡山方向に向いて昨年春に写したものだが、
この奥がさらに多少上りになっていて、
確か故正宗白鳥氏のお宅もその辺りにあったと記憶している。
さらに(画面から)左へ進むと交差する道一本を挟み、
ワンブロック���ぎたところで
池の端に建つ八幡神社の森に突きあたる。
そのブロックの東南の角に建つ家を
父が購入したのは1956年だった。
引越してきた時には家の背後の西と北側
(つまり上掲画像の方向)はほとんど焼け野原で、
我が家になった昭和初期の洋風建築だけが
美しい庭とともに、何故か、ポツンと残っていたのだ。
その焼け跡はまたたくまに消え、
七十年代中頃には、新規加入者が一向に増えないと
銀行員を嘆かせるほど、
流動性に乏しい落ち着いた住宅地になっていた。
1 note
·
View note
Text
それにしても、世の中は
なんとモノトーンになったことだろう。
電車内はスモーキーホワイトから黒まで、
色彩とは言いがたい、薄汚れたような
暗い色の服とスマホを見つめる必死の顔で埋まっている。
街を歩いても、その雰囲気は変わらず、
量的に威圧感すら覚える外国人旅行者たちの
立ち居ふるまいにも華やぎはなく、
美しさとはほど遠い。
またも昔の話で恐縮だが、
街に出れば、服装や身ごなしの美しさに
刺激され活気づけられる出会いが
一度か二度ぐらいはあったのに・・・
街なかの人々からあまり視覚的刺激をうけなくなったのは、
やはり私自身の感性劣化によるのだろうか?。
数日前の暗く寒い日、外国人旅行者が濃密な渋谷で
とりそこねた昼食をとるべく、
近くのデパート八階の食事処へ行った。
すみっこの一画にある、さほど有名とも思えない、
回転寿司屋に長い行列ができていた。
すべて外国人旅行者。
銀座ではルイヴィトンやシャネルの店頭にならぶ
入店待ちの人々はいまや、すでに日常的光景になったが、
平日の午後四時近く、
この奥まった狭い場所での行列にはさすがに驚いた。
やはりSNSの威力か?
* * *
画像: 渋谷のスクランブル交差点を渡って
すぐに振り向いて撮ったもの。
私の背があと10センチ高ければ
もう少し群衆の顔を取り込めただろうに・・・
いずれにせよ、美しくない光景の情けない記録。
1 note
·
View note
Text
電車を降り疲れた足を労りながら中原街道をよぎると、
真っ黒い水面に赤と白の細くまっすぐな光が、
交互に平行線をなしてさんざめいていた。
ようやく訪れた花見の季節。
遠く、対岸を縁取る丸い赤と
白の明かりは夜店の灯。
なんとも可愛らしく、人恋しさをつのらせる。
が、賑わいの音は伝わってはこない。
むしろ、巷の騒音から隔絶した
桃源郷を視る想いに近い。
高度成長の波に乗り大賑わいをみせていた
桜山花見の情景が偲ばれるが、
「公園使用は二二時まで」の規制を受け
花見の輝きは衰退し桜木も歳をとり、
朝の五時近くまで ‘同期の桜’ に
陶酔していた人たちはもはやいない。
ヘボな結果を覚悟の上で撮りだした
スマホ写真は全滅。
黒っぽい画面に滲んだ赤と白の斑点が並ぶだけで、
珍しくメランコリックになっていた
私の気分は一蹴された。
が、何故か無視できない感じの画像が一枚。
ヘボカメラに私自身の失敗が加わったもの。
このような線や微かに ‘在る’ らしいと感じさせる
杭を覆う空気を手描きで表すのはむずかしいのでは、
と奇妙な弁解をつけたのだが、いかがだろう?。
1 note
·
View note
Text
煙草屋、米屋、小間物屋、布団屋、駄菓子屋・・・
次々に消えた。
いずれも老夫婦が細々と営んできた店だが、
遂に力尽きた。
個人商店では太刀打ちできず
跡を継ぐ子供もいなくなったのだろう。
商店通りから温もりが消えた一方で、
生活苦と闘う庶民の血税で養われている筈の、
永田町あたりにたむろする
悪徳商法に長けた腹黒い古物商たちは、
家督相続人にも恵まれますます繁盛しているらしい。
TV画面には見覚えのある先代店主に
瓜二つの顔が続々登場し、あいも変わらず
‘知らぬ、存ぜぬ’ の無知を誇っている。
翻れば、そのような人々を選んだ
われわれ有権者の鈍感な ‘ことなかれ’ 精神が
変化を好まない風土を作り上げているのだろうが・・・。
過去との訣別に必死の私には母が残した
大きな三段重ねの針箱はさながら小間物屋のミニアチュア。
家族のために一日中惜しみなく働き続けた母の姿が蘇る。
廃棄する前にそのごく一部を記録に残した。
左上の白金カイロなど実際に使ったことのある方は
どれほどいらっしゃるのだろう?
携帯消毒器には、戦後すぐの遠足にお弁当の前に
必ず手を拭きなさいと持たされた記憶がある。
くげ針一包み=十円はいつごろのことだろう?。
2 notes
·
View notes
Text

ようやく訪れた春光の中にもう一軒、
置き忘れられたかのような家がある。
店を閉めた時期も商いの中身も
一向に思い出せないほど昔から、
この姿は風景の一部として焼き付いてしまっている。
隣のやはりシャッターが降りたままになっていた
大きな店構えの金物屋が近年ついに更地になったこと��、
取り残された寂しさが一層深まる。
背後の大きな建物は国立東京工業大学のキャンパス内だ。
キャンパスに入れば常にどこかで建設工事が進行中で、
その昔さまざまな植木が魅力的だったキャンパスが
無機質な建物の群れにとって代わられた。
味気ない建物だけが増えつづけるさまは、
老舗が消えていく街の裏返しのようにさえ見えてしまう。
駅から北へのびる商店通りは外国人が増えたこと以外、
学生街と呼ぶほどの若々しい雰囲気とはほど遠く、
新鮮な時代の息吹は感じられない。
まともな本屋もケーキ屋も消え、
ラーメン屋と処方箋薬局ばかりが目立つ。
が、七十年余り前からずっと繁盛している店もある。
店内に客が三人も入れば
肩が触れあうぐらいの小さな肉屋さんだ。
その家族的雰囲気は今も昔もほとんど変わっていない。
1 note
·
View note
Text

十年余り前に自家用車と
郵便受け+表札塔とが狭い道を囲んだのは、
大岡山の尾根にあたる平地の一画、
主として住宅地だった。
今も変化は続いているが、
最近は建築基準法が緩和されたのか、
小さい戸建てに分割されずに
三階建てぐらいのこぢんまりとした
集合住宅が並び始めた。
その一画と駅を繋ぐわずかな隙間の
路地沿いに並ぶ商店は、
多少の交代もあったが全体的な
雰囲気はほとんど変わっていない。
その一つ、現在も営業中の古めかしいトンカツ屋の隣に
奇妙に目を引くファッサード(建築物の正面デザイン)が
昔のままじっと立っている。
おそらく酒処だったろうが、
私が通る時間帯にはいつも人影がなかった。
当然、デザインなど意識せず
たまたまそうなってしまったらしい、
決して美しいとは言えないその佇いに、
私は何故か惹かれている。
時間を閉じ込め醗酵させている
昭和の忘形見とも言える抽象画のようで、
その背後に蠢く人たちの物語まで夢想したりして・・・
いや、もっとはっきり言えば、
私自身の化身を目にするような
親近感を持ってしまうのだ。
元気に生きている ‘昭和の遺物’ は、
近年、周辺から浮き上がって見えているらしいから・・・
(相変わらず、歪んだ写真でごめんなさい)。
1 note
·
View note
Text

時の移りゆきを感じさせる
郵便受け+住所表示塔に久しぶりに出会った。
(上掲のヘボ写真では直線が全て
規則性もなく勝手な方向に歪んでいるので
現場で感じた洗練さは伝わらないが)。
ブログを書き始めてからしばらく後の頃だったが、
大岡山駅近辺の街の佇まいが大きく変わった。
当時ブログでも取り上げたことだが、
生垣などに囲まれた一戸建ての土地が
二、三軒に分割され、
そこに隙間なく家が建ちはじめた。
門も塀も取り払われ、代わりに、
その玄関先にはきれいに磨かれた車が
社会的ステータスを示すかの如く鎮座し、
キャッチコピーのような表札・住居表示塔が
そばにスックと佇った。
車が、昭和の伝統とも言える
庶民的家屋の風情を消しさったのだ。
狭い土地の有効利用として
絞り出されたであろう苦肉の策に感心したものの、
その姿形は美しさとはほど遠く、
手紙など書かなくなった時代の、
まさに滅びゆくもののアイロニーに見えた。
その後十年余り、ようやく生活を楽しむ
余裕を感じさせる、美しい空間の主役となれた。
1 note
·
View note
Text

桜花を誘う柔らかい風に誘われ
幼児たちが駆け回る緩い斜面。
早春の広々とした大学キャンパスで
年ごとに繰りかえされる微笑ましい光景に、
いつもながら、ふと足を止める。
思わず頬ずりしたくなるような
子供たちの無垢の笑顔に、
傷つき怯え慄く戦場の子供達の姿が重なる。
たまたま、‘そこに’ 生まれてしまった悲惨。
あまりにも哀しい・・・
戦禍の痛ましさに比べれば取るに足らないが、
ここ数週間パソコンを巡り、
老人はサッサと消えろと言われているような
屈辱的無力感に苛まれた。
つまり、無償で設定し直しの確約を得るまで、
全て機械化された社会についていくことの困難さを悟った。
(まだ補聴器は必要無しと専門医が言う程度の)
難聴気味の耳は一度しか言わない
完全自動化の応答を聞き取れない。
たとえ聞き取れたとしても、
理解し記憶するまでには至らない。
一日中受話器を耳に押し付けながら
‘会話’ が成立しない、人間不在の不気味さ・・・
それにしても、不具合の理由を尋ねる質問に応える
専門家たちの説明も一様ではない。
不揃いの人間たちが露わにする真逆の煩雑さ・・・
時代を体感する興味深い体験ではあったけれど・・・
1 note
·
View note