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世人の���デア
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nameless-1room-blog · 7 years ago
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空谷の跫音
 ――自分のしている事が、自分の目的(エンド)になっていないほど苦しい事はない。  ――目的でなくっても、方便(ミインズ)になれば好いじゃないか。                                ――夏目漱石            机に向かってから数時間、何も手つかずのまま四杯目の珈琲を飲み干した。空は屋根の上でタイプライターを間断なく打ち鳴らし、〝感動作〟を執筆中のようだ。書き損じの原稿を丸めて屑籠へ放り、私は気晴らしに窓の近くへ寄って外の様子を窺った。  灰だみた雲は夜空の神話を覆い隠し、普段眺めているのどかな森の風景は重く濡れている。空が執筆を止める気配は依然としてなさそうだ。  窓を開けると、降りしきる音はよりいっそう鮮明になる。弾けた線香花火のような雨粒が顔にぱちぱちと当たる。ひゅうと遅れて冷気が私の頬を撫ぜ、そのまま部屋の中へと滑り込んでいった。ぶるりと身体が大きく震えたので、冷え込む前に窓を閉めようと手をかけた。その時だ��た。この暗く重たい風景画の中で、ひとらしきものを視界に捉えたのは。    *   「助かりました」  くべた暖炉の前で、そのうら若い男は恭しく頭を下げ、か細い声で呟いた。マグを持つ手が未だ危なっかしく震えており、唇の血色は灰がかるほどに悪い。よほど長い時間この森を彷徨っていたであろうことは明らかだった。ずぶ濡れになったジャケットを黒革のトランクケースにかけて暖炉の前に置き、自重で微かに揺れるロッキングチェアに身を預けて彼はじっと火に当たっている。ぽたぽたと水滴を零す黒髪は、ひたりと頬や額に垂れ落ち張り付いている。歳のころは恐らく三十に満たないほどだろうか? 彼が健康的な血色と目の輝きをしていたのなら、もっと若く見積もることもできただろう。しかし雨に打たれ体力と体温をすっかり奪われた彼の膚(はだえ)はいやに白く、また目際には黒く薄い隈が張っており、その生きた心地のしない風貌こそが、彼の年齢予想を引き上げたらしめる理由だった。青年は身に着けているそのどれもが彩度の無い色合いであった上に、髪の毛や肢体もそうだった。喋る隙に覗く舌の色が私と同じでなかったら、窓から見かけた印象そのままに、写真か映画から抜け出た人物か、或いは死人か何かが彷徨っているのかと面喰っていたままだっただろう。なに、驚くことはない。相手がただのひとであれば、私にでも介抱はできるだろう。これまでだって、そうしてきたのだから。 「いや、無事で何よりだ。しかし、今夜森を抜けるのはあんまりにも無茶だ。少しの間だけでも休まっていきなさい、せめて夜が明けるまでは」  煙草に火を点け、肺を煙で満たす。くゆらせた煙の向こうにいる彼はこちらを向き、うっすらと微笑みを浮かべる。弓なりに細めた灰色の瞳は、私からすぐに手元のマグへと落とされた。こうしてみると年相応に、いやそれより幼くすら見える彼の人懐っこいその微笑みは、俗世から隔離された場所でひとり過ごすうら寂しい私を絆すのに充分なものだった。 「お気遣い、痛み入ります。ひとりでお住まいなのですか」 「ああ、そうだとも――いや、正確には管理を任されている間の話だがね」  屋主が旅行へ出ている間、屋敷と庭園の手入れをする。代わりに、郊外でのんびり過ごす口実を手に入れる。こうした土地ではよくある話で、運よくその条件にありつけたから束の間のスローライフを満喫しているところさ。……私の補足を、青年は暖炉の火にあたりながら静かに耳を傾けている。薪の燃える音。ロッキングチェアの微かに揺れ軋む音。そして外で打ち鳴らされる〝タイプライター〟。私の声以外で響くものは、それだけだった。 「作家の方、でしょうか」  青年の突拍子もない問いに、私は瞼を二三度強く瞬かせた。彼の視線の先には、私の机が。そして、その上には原稿用紙が幾枚か無造作に放り出されたままになっていた。 「いや、ただの趣味人程度のものだよ。何せ周りが自然しかないし、電話で話すような親しい友がいるわけでもないからね。来客の無い時はああやって暇を潰している」  誰に見せるでもないただの手慰み。人と交えて流れることのない生活の中の拠り所。あれこれ説明をする私の話を、青年は見たいですとか読ませてほしいといった催促は無しに、ただそうなんですねと肯いた。 「それで気は紛れますか」 「紛れるが、散りだってする」  今日みたような日は特に、と五杯目の珈琲を飲みながら答えた。青年を招き入れる前の自分を振り返る。座っている間じゅう、一文字分もインキを押し出せなかったことを思い出し、口に含んだ珈琲が先刻よりも苦味を増したように感じた。胡麻塩じみた私の眉はいつの間にかきゅっと寄っていたらしい。二対の双眸が交わった時に、ドーナツみたような彼の灰色の瞳がはっと見開き、すぐに伏せられた。恐らく、転がり込んだ自分のせいで中断されたものだと感じてしまったのだろうか。気まずそうに肩を窄める彼に、私はできるだけ穏やかに聞こえる調子で声をかけた。 「きみのせいじゃない。掲げた題材が悪かったんだ」  今は見えない夜闇を思わせるブリュー・ブラック。それをたらふく呑んだ万年筆を原稿用紙の上から退かし、乱雑に散らばった紙を纏めて机の引出しに仕舞う。相棒を追い遣られた万年筆は、溶かした夜闇を覆う樹脂軸(レジン)のボディをごろりと半回転させ、不貞腐れたように動かなくなった。    *    青年が濡れそぼる羽目になったのは、森を彷徨い始めて暫く後になってからのことらしい。陽が沈む前に抜けるつもりでいたところ、途中で方位磁石と地図を落としてしまったという。星読みの心得はあるそうだが、こうも雨催(もよ)いの空ではそれを頼る術もない。かくして彼は絶望的な状況の中、たまたま窓際に寄った私の視界に入る運びと相成った、というわけだ。(なんともアイロニカルな邂逅である。私の執筆が捗っていたなら、彼はそのまま――いや、この先を考えるのは止しておこう)  隣町へ移動するためにこの森を抜けるつもりで迷う旅人は少なくない。都度、私は家主の意向に沿い、彼らを招いてもてなした。尤も、招く理由はそれだけではなく、私自身のためでもあったに相違ない。  無数の銀の糸が降り注ぐより前から、私は机に向かっていた。もとより手慰みに筆を執ることは度々あったのだが、この郊外に越してきてからはそれに充てる時間がうんと増えた。豊かな自然に囲まれるこの土地で、森に入って茸や山菜を穫り、庭の菜園を育みながら、ときどき訪れた旅人を招いてもてなす。彼らの旅の話を肴にし、それを文字におこし、時折ひとりで読み返しては、自分の識らぬ世界に浸り、またそこへと帰ってゆく人びとを想起する。そんな時間をこの静謐な生活の中(うち)のささやかな楽しみにしていた。とても人に見せられるような纏まった文章ではないが、綴った文字だけ多くの人生を追体験できる。私はそのいくつもの人生をなぞらえる瞬間こそに慰みを見出していたのだ。  家主の留守は想定していたよりも長く、私がこの屋敷を預かり受けて早二年程になる。そのあいだにずいぶんと色んな人物を招き、彼らの話に耳を傾けてきたものだ。身分違いゆえの愛の逃避行。未だ顔を見ぬ実母を探す男の苦労と波乱の日々。至高のモティーフを求め方々を巡る無名画家の旅路。長いようで短くもあるその二年という歳月の中で、物語は多岐にわたって綴られた。書物に成ることすら叶わぬ原稿に丁寧に写された旅人たちの在り方に触れるたび、褪せることのない彼らの生き様がそこで煌めいているのを感じていた―― 「書けない理由がおありのようですね」  紳士然とした静穏で柔らかな声。続いてことり、と陶器が木製の家具に置かれる音。そのふたつが耳朶(じだ)を打ち、はっと我に返る。 「題材とは、なんだったのでしょう」 「自叙伝だよ。自分の半生を綴ろうと思っていたんだ」  半生、と青年は復唱した。趣味人が何を大層な――と思われているかという予想に反して、彼は目元を細めて薄く破顔すらして見せた。 「いい試みではありませんか。あなたみたような御方なら、厚い軌跡となりましょうに」  かつての瑞々しさを疾うに失い、目じりに豊齢の証が深く刻まれ出た貌(かんばせ)。青年の双眸は、その証をひとつひとつ数えている。彼の言葉には、(恐らく彼よりも)多くの星霜を踏み越えてきた私に対しての���意が包含されていたようにとれた。暖炉にくべた薪は、身を寄せ合って焔々と燃え盛っている。タイプライターはまだ止まない。壁にかけた時計の秒針は、その調和に加わることなく盤上を滑り、数字を渡り歩いている。このわずかな沈黙の間にすら、私の自叙伝の頁は確かに厚みを増していく。〝中身など、何もないまま〟に。 「そりゃあ、私は恐らくきみの倍は生きているだろう。だが、〝生きただけ〟だ。ドラマティックな過去など持っていない。それに気付かされてしまっただけのことさ」  他者の生を追体験している裡、己の生を振り返ろうと夢を見た。だが、それは私に空虚で残酷な現実と叩きつけることとなってしまった。この五十余年の歳月の中で、私に〝語り継がれるべき物語〟や〝記録すべき偉業〟など見当たらなかったのだ。それを自覚した時、私の身体はかっと熱くなったと思えば、急激に冷めていった。無論、空虚に天井を眺めるだけの日々を送っていたとは言わない。この生活は望んで得たものだったし、机に向かって趣味に耽るだけの十分な余暇もある。だがしかし、私には彼らのような人生は送れなかった。朝はロベッツをたんまり乗せたトーストにマッシュルームのスープ、それと一杯の珈琲を胃に流し込む。昼から夕暮れまでは仕事に明け暮れ、夜の僅か���時間は机に向かい、誰に見せるでもない閑文字を連ねる。その繰り返しを打破すべく知人の縁故(つて)を辿って今に至ったものの、昼から夕暮れまでのルーティンが森での木材調達と家庭菜園の手入れに成り変わっただけだった。そんな瑣事が嵩を増すだけで、なんになろう? 私に訪れる束の間の非日常といえば、旅人たちの話に耳を傾けているとき、畢竟ずるに、〝そこに自分がいないとき〟に他ならなかった。滑らかに躍り出てきたブリュー・ブラックが、己のことになるとぴたりと軸の中で停滞する様は、空虚と焦燥を私に植え付けた。それでもまだ、何かあるはずだ、あるはずだと未練がましく机に齧りついて離れられずに摩耗する日々を送っていた。―― 「人生は、序破急が成り立つ筋ばかりではありませんよ」  ロッキングチェアが大きく軋む音。それと静かな声色に再び引き戻され、自然と伏し目がちになっていた視軸を上げた。ぱたり、ぱたりと室内履きの音を立てながら、空のマグを持つ青年が近づいてくる。 「二杯目を所望かね」 「いえ、片付ける場所を伺うつもりだったのですが……そうですね、お言葉に甘えてもう一杯いただけますか」 「構わんよ、丁度私も喉が渇いてきたから、珈琲を淹れ直すついでだ」  彼からマグを受け取り、キッチンに向かう。 受け渡しの際に軽く触れた指先からは、もう出会った当初の冷たさは感じ��かった。しかしその指先は変わらず、その薄皮一枚の下で血が通っているのかと疑(うたぐ)るほどに白い。褪せることのない、といえば、彼の血色は雨に打たれて損なったものなんかでは全然なくって、元より〝その色そのもの〟なのだということをこのとき漸(ようや)く悟った。    *    ケトルを火にかけ、その間に珈琲豆を挽く。一杯、二杯。紙袋の内側でスプーンからざらざらと逃げる音は、どことなしに外で降りしきる雨音を思わせた。うっかり話を遮ってしまったことを後悔した。屹度(きっと)、彼なりの私見を示してくれるつもりだったろうに。天の執筆速度は尚落ちない。灰色に覆われた夜はまだ明けない。……。  ミルのハンドル越しに伝わる、珈琲豆の擦り潰れる感触を手のひらに受けながら、私は彼の言葉を反芻していた。人生は序破急ばかりが成り立つ筋ではない――全体、どういう意味なのか知らん? 胸裏に孕む茫漠然とした縋るような感情が、期待か、はたまた不安からくるものなのかは、私にはわからなかった。 「砂糖はいるかね」 「いえ、このままで結構です」  有難う、と青年は淹れたての珈琲を受け取る。彼はロッキングチェア��で戻らずに、私が靠(もた)れている書き物机の近くにやってきた。ぐい、と一度眠気醒ましのそれを呷り、喉を鳴らし、マグの縁から薄い唇を離し、ほう、とひと息ついてから口を開いた。 「寄り道に次ぐ寄り道で、本筋にたどり着かない本だって、世間には在ります」 「面白いのかい」 「読む人次第でしょうね」 「それはどんな話だって同じじゃあないか」 「ええ、そうでしょう。ただこの話に於いては、無秩序で、まるで自由な書き口です。それが延々九冊にも及んで、結局――完(お)わらないのです」  死を悼むための黒塗りの頁が用意されていたり、はたまた読者に想像を委ねる白紙の頁があったり。紙面を挟んで、読者への語りかけだってします、畢竟ずるに、何でもありとでも言いましょうか――と青年が語る書物の内容の荒唐無稽さに、却って関心をくすぐられたものだった。 「おや、随分な切り口で攻めるじゃないか。それは少し興味がある」  私のその返事を聞き、そうでしょう、と彼は薄い破顔を見せた。 「屹度(きっと)、そんなものでいいのです。人の在り方も」  ず、と珈琲を啜る音が、暖炉が眠り落ちたあとの閑寂な室内で小さく響いた。 そんなものでいい。それは、瑣末な記憶ばかり堆積してきた私の〝残すべきものが無い〟というささやかな、それでいて腹の奥底にこびりついていた苦悩に対する彼なりのアンサーに他ならなかった。 「きみは、その小説を読んだのかね」  私の問いに、青年は錘(おもり)を乗せた天秤のように頭を傾ける。彼の内側へとくるくる波打つ黒髪が、それに合わせてゆ���りと揺れた。天井辺りに遣られていた灰色の視軸はふいに戻され、私の視線と交わった。 「読んだといえば読みましたし、読んでないといえば読んでいません」  所謂読み止しです、と彼は言い継いだ。 「きみはさっき、それが面白いかは読みびと次第だといったね」 「ええ」 「なら、きみにとってその話は――〝面白い〟のかい」  この問いは、青年は口を開かなかった。しかしその薄い微笑みを湛えた穏やかな沈黙にこそ、識らず知らずの裡(うち)に私が希求して止まなかった回答が包含されていると感ぜられた。    *    夜は疾うに明けていた。我々が微睡(まどろ)みに落ちている隙に天は執筆を止め、代わりに窓枠という額縁の向こう側に描かれた重く薄暗い森林を、パステルカラーの蒼とみずみずしい新緑の色で塗りかえる画家に成り変わっていた。扉を開け、何度も見た美しい風景画の中へと青年と共に出てゆく。ひんやりとした空気は変わらず私の頬を撫ぜていったが、仄かな温かみを帯びた朝陽がそれをすかさず中和する。ほう、と歯間から漏れた白い吐息は、みずからも朝を彩るためにその景色へと溶けていった。 「お世話になりました」  すっかり乾いたジャケットを羽織り、方位磁石と地図を私から受け取る。古びた黒革のトランクケースを片手に、青年は昨晩暖炉の前で見せたように恭しく頭を下げる。澄み渡った空と高い陽のもとであれば、この森を抜けるのは容易である。 「そういえば、きみ自身の話を聞きそびれたな」 「聞いているのが好きな性分ですから、お構いなく」 「次に会った時にでも、何か土産話を――ああ、いや、その頃には私がこの家に居ないだろうなあ」  青年は、ほの暗い微笑を浮かべて見せる。元よりこの屋敷は仮住まいで、家主が旅先から戻ればそこでこの生活も終いだ。そうなれば、もしも彼が再びこの地を訪れようとも、私とまた会話を交わすことは叶わない。今思えば彼の物言わぬその破顔には、此度(こたび)が永劫の別れだという一種の〝悟り〟を含蓄していたようにもとれた。連絡先でも交換をしておけば、せめて手紙のひとつでも――やはり無粋だろうか? ぐるぐると別れに対するうら寂しさを払拭できる言葉や繋がりの切欠を探していたのだが、その考えはやはり纏まらずに霧散してしまった。 「じゃあ、息災で。私ももう一度自分と向き合ってみることとしよう。きみがこれから先も、きみ自身の人生を歩むように」  ハットを頭に乗せた彼は私の方に向き直る。 一秒ごとに輝きを増す太陽は、景色ごと彼を背から照らしてゆき、彼の表情をすっかり隠してしまっている。色鮮やかな景色の中で、黒白(あいろ)に纏まった彼だけが全く不釣り合いで、また同時に、この別れの場に何よりも似つかわしかった。実のところ、彼はこの別れの際(きわ)にもう少し言葉を零していたのだが、それはあまりにも小さな私語(ささ)やきで、私の耳に入ってきたのは後に続く一言のみだった。 「それでは、左様なら」  彩度の無い背は、やがて新緑のパノラマにすっかり呑み込まれてしまった。彼を見送って暫くはその場で立ち尽くし、ただ茫然と小鳥の囀(さえず)りを聞いていた。昇る太陽が木の陰を掠めるたび、その間をぬって冷たい風が吹きつけるものだから、哀愁に浸るのもそこそこに屋敷の中へと戻ることにした。 書き物机の椅子を引き、自分のマグを手に取って座る。半分ほど残った珈琲はすっかり冷えきっていたが、その冷たさが喉を下って胃に落ちるまでが却って心地よかった。引き出しを開け、昨夜仕舞った原稿用紙を取り出して机に広げ、昨夜のことを思い返す。  問題。解決に至る過程。そして収束。それらがなくたって、書かれてさえしまえば〝在る〟。否、もっと言うなら書かれずとも――仮令(たとい)そこに輝かしい成功譚や、手に汗握る波乱に満ちた展開がなかろうと、踏み越えた星霜の数だけ生きた事実は残るもの。そして、そこに於ける主人公(プロタゴニスト)は己以外に存在し得ないのだ。わたしはひとつの妙案に思い至った。もしもこのささやかな自叙伝を書ききったなら、書物にしてみようか。もしかしたら、もしかしたら。そうして遺してさえいれば、いつか彼らの行く先の何処かで、私という〝証〟が彼らの目に留まる日が来るのではないだろうか? 無論、先ほど別れたばかりの彼の目にだって――なに、物足りなければこれから〝見せ場〟を足せばいい。人生は、まだ折り返したばかりなのだから。  今日ぐらい、日々のルーティンをずらしたっていいだろう。私は万年筆を手に取り、昨夜見ることが能わなかったブリュー・ブラックをゆっくりと滑らせ始めた。    *   「私ももう一度自分と向き合ってみることとしよう。きみがこれから先も、きみ自身の人生を歩むように」  恩人の放った離別の言葉は、青年の双眸にわずかな憂いを宿した。幸いにも、背にした太陽が青年に味方し、その憂いの表情が恩人に伝わることはなかった。彼はその言葉を反芻するように逡巡したのち、聞かせる気のないほどに眇眇(びょうびょう)たる声量でひとりごちる。 「――そんなものがあれば、疾くに歩み終えていたでしょうね」  それを捉えきれぬ眼前の恩人は、朗らかに、そして少しの名残惜しさをその皺の刻まれた貌(かんばせ)に滲ませ、出立の時を見守っている。青年は、今度ははっきりと聞こえるように訣別の言葉を継いだ。 「それでは、左様なら」  青年は踵を返し、世話になった恩人と屋敷をあとにする。心なしか、迷い込んだ時よりも彼の足取りは重かった。泥濘(ぬかる)んだ道を踏み締め、足を取られながらも青年は先を急ぐ。その靴の底には、何百の、何千の、何億という人びとの跫音(きょうおん)を帯びていた。
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