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“同じ内容を無限に繰り返す 僕がTumblrを好きなのはダッシュボードをひたすら見ていれば自分の発言なんかは全くしなくていいところだ。ひたすら流れてくる画像や文章を見続けて、ときどき気に入ったものがあれば脊髄反射的にリブログやライクをつけるだけでいい。そこに言葉は要らない。「おはようございます」も「昨日はお世話になりました」も「いつもブログ読んでます」も言う必要がない。Twitterでよくあるような、自慢話も自虐ネタも論争も炎上も下心も恫喝も御機嫌伺いもそこにはない。動物的にただひたすら自分の気に入ったコンテンツを鑑賞し続けるだけでいいのだ。 また、Tumblrではリブログが繰り返されることによって同じコンテンツが何回も流れてくるというのも良いところだ。一度見た画像や文章でも、数ヶ月ぶりに見かけるとまた新鮮だったりするし、良いものは何回見ても良い。「気に入ったコンテンツはダッシュボードに流れてくるたびに何回でもリブログする」という人もよくいる。 一回読んだことのあるマンガを何回も読み返したことのある人は多いと思う。同じコンテンツでも時間が経てばまた飽きずに楽しめる。また、ウェブのような情報の流れの速い場所では、一年も経てば結構ユーザーが入れ替わっていたりして、昔に一度流行ったコンテンツでもまた新しいものとして面白がられたりする。そんなことを考えると、新しいコンテンツを生み出さなくても同じものを数年置きに回しているだけでも結構みんな楽しんでくれるんじゃないかという気もする。Twitterの「お気に入り」もリツイートも、Facebookの「いいね!」も、一つのコンテンツには一回しかできないけれど、Tumblrのリブログは同じコンテンツに対して何回でもできるのが良い。一つのコンテンツがインターネット空間をぐるぐると循環し続けるような、そうした繰り返しが可能になっているところにTumblrの可能性を感じるのだ。人間は年を取ると忘れっぽくなるものだし、「忘れたころにもう一回同じものを見る」というのを何年置きかに繰り返してそれで満足できれば、なんかエコなんじゃないかと思うし。”
— 心が疲れたときのためのTumblr (via syoichi)
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ここ数年の私は大きな社会を離れて小さな島に移り住み、私の働きやすいルールをせっせとこしらえている。たとえば、こんな感じだ。
・数値的な目標達成よりも、「良好な精神状態」を一番大切にすること。
・規模の拡大よりも、価値の向上に重きを置くこと。
・世の中の出来事すべてをキャッチアップするのではなく、自分の感性に従うこと。
……こうしたマイナールールに則って働いた結果、圧倒的に自由な時間が増えた。自由な時間が増えると、心に余裕ができてくる。心に余裕ができると、それだけ良い文章が書けるようになる。結果、忙殺されていた頃と比べると、眠る時間は倍ほどになった。 既存の競争社会では劣等生だった私が、マイナールールの上であれば、それなりに上手くやれている。 ・・・ ミニマリストとして働くということ。それは別に、寝ていてもお金が稼げますとか、何も持たずに働こうとか、そういう類の話ではない。自分の身体で実現可能、持続可能な仕事の在り方を、いろんな無駄を削ぎ落としながら突き詰めていこう、という提案だ。
『ここじゃない世界に行きたかった』塩谷舞
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自分が不正を受けることによってこうむる悪(害)のほうが、人に不正を加えることによって得る善(利)よりも大きい。 ・・・つまり〈正義〉とは、不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪のこととの、中間的な妥協なのである。
『国家』プラトン
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“何かにお金を費やすと、満足感が持続することはほとんどありません。新しいものはやがて古くなり、数年後にはゴミ箱に捨てられてしまいます。 2013 年に買ったあの服を覚えていますか?おそらくそうではありません。しかし、経験にお金を使うのは違います。それは私たちが死ぬまで持ち続けること��できる思い出を作ります。”
— あなたをより幸せにする科学に裏付けられた毎日の習慣 |スリニバス・ラオ著 |ミッション.org |中くらい
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結論に達するまで、真実や偽りに関する証拠をゆっくり集めていくのではない。正反対だ。私たちはまず信じることから始める。説明がつかなくなるほど疑いや不安が高まるとやっと、私たちは信じることをやめる。
『トーキング・トゥ・ストレンジャーズ~「よく知らない人」について私たちが知っておくべきこと~』M・グラッドウェル
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驚くべきことに、この「休養の願望」という性質は、生物学上は人類の原始的な祖先ともいえる「酵母」のときから、進化的に保存されているのです。そうです。お酒を造ってくれるあの酵母です。酵母も疲れると休むのです。・・・「過労で自殺する人は、死ぬくらいならなぜ仕事を辞めないのか?」といった問題に対する答えも見つかってきました。・・・ タンパク質の合成を止めることが、どうしてストレスに対応することになるのでしょうか? これは、次のように解釈されます。 ストレスがかかった状態で無理にタンパク質をつくっても、正しいタンパク質がつくれず、変なタンパク質をつくって細胞が死んでしまったり、がんになったりします。
『疲労とはなにかすべてはウイルスが知っていた』近藤一博
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“しつこいねずみ講の勧誘にあった時、こっちがYES/NOのどちらで答えても向こうの手中に引き込まれて長引きがちだったので、「あなたの声が嫌い」「話し方が嫌い」「生理的に無理」と延々と個人攻撃して、相手の心をへし折って難を逃れたというラフプレイ”
— Twitter / sarami_77 (via tkr)
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コミュニケーションとマニピュレーションの区別を意識するとき、ひとつ言えることがあります。それは、マニピュレーションに関してはコミュニケーションとは別の仕方で責任を問う必要があるのではないか、ということです。
コミュニケーションにおいては約束事が形成されます。それゆえ、その約束事に対応した責任をコミュニケーションの参加者は負うことになります。話し手がその約束事に反したならば、「嘘つき」と非難されることもあります。コミュニケーションにおいてはこのように、「コミュニケートした以上はコミュニケートしていないことにはできない」という、いわば言説的な責任とでも言うべきものが生じます。
ですが本章で見たようなマニピュレーションについてこうした言説的な次元で責任を取ることを求めたとしても、それがそもそもコミュニケーションのレベルでの現象でない以上、話し手は容易にその責任を回避できてしまいます。少なくとも当人はそのように考えて動くでしょう。「あなたが気にしすぎなんじゃない?」などと言って。・・・そうしたすり替えの挙句に、「不快な思いをしたひとがいたなら申し訳なく思います」程度の謝罪で片づけられることも多いですよね。
『会話を哲学する~コミュニケーションとマニピュレーション~』 三木那由他
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理解するとは、言葉の意味がわかるとか、数式の示している内容が把握できるということだけではない。理解の「クオリア」は、人生のさまざまな局面で、いわば「腑に落ちる」という身体性を伴って、生きることの実感を支えてくれる。 実際、私たちは何かを「理解」しているかどうかということを、自分が感じるクオリアで区別できるように思う。すなわち、私たちの脳の中で、ある事項がすっきりと整理されて収まっている時、私たちはそれを「理解」していると感じる。一方、問題の一部分しか見えていなかったり、ひっかかりがあると、それを「理解」しているとは感じない。・・・ このような視点からは、「理解」は意識の本質である「メタ認知」の極致だということができる。すなわち、私たちは思考や推論におけるさまざまな情報処理を全体として見渡し、それらがある「質」によって「収まった」と感じる時に、「理解」できたというクオリアを持つのである。・・・改まって解析して、ようやく言葉の意味がわかるのではない。そのようなプロセスを、私たちは「理解」とは呼ばない。
『クオリアと人工意識』茂木健一郎
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同様に、意識は複雑な神経ネットワークの発火によって生み出される、一種の心的汚染物質だ。意識は何もしない。ただそこにあるだけであるというのだ。もしこれが正しければ、何億年にもわたって無数の生き物が経験してきた苦痛や快楽は、ただの心的汚染物質にすぎないことになる。これはたとえ正しくないとしても、たしかに一考に値する。だが、二〇一六年の時点で現代科学が提供できる意識の仮説のうち、これが最高のものであるとは、なんと驚くべきことだろう。 私たち人間は、本質的にはラットや犬、イルカ、チンパンジーとそれほど違わない。彼らと同じで、私たちも魂を持たない。私たちと同じで、彼らも意識を持っているし、感覚と情動の複雑な世界も持っている。
『ホモ・デウステクノロジーとサピエンスの未来』
ユヴァル・ノア・ハラリ
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男女間にも同様のことが言えます。実は、決めごとの多い夫婦ほど離婚しやすい傾向にあるのだそうです。それは、夫婦、家族というオキシトシンの分泌量が多くなりやすい環境である上に、二人で決めた「こうあるべき」からひとたび相手が逸脱すると、そうした相手を許してはならないという利他的懲罰の感情から逃れられなくなるからでしょう。
もちろんこれは個々人の判断の領域ですから、他人がいちいち口を出すことではありません。しかし、結婚する前にお互いにいろいろ条件を出し合って契約を交わすことが一般的になってきている状況は、もしかしたら離婚しやすい素地を調えているのかもしれない、という推論も成立してしまいます。
『シャーデンフロイデ他人を引きずり下ろす快感』
中野信子
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