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転々と点々と

多分僕は、女の子に振られた人数と、転職の数ではほとんどの人に負けることがないと思う。
って、どちらも負けていた方が人生としては勝ちなのだが、そんなしょーもないことくらいしか人に勝れるものがないというのも、なんというか情けないが、残念ながら僕という人間が非常に残念な出来なのだから、いくら取り繕ったとしても仕方がない。
職種はデザイン関係やその周辺が多かった。名古屋のデザインの専門学校で工業デザインを勉強していたけれど、就職活動をろくにしていなかったせいもあって、友達の親戚が経営している食品機械の製造工場に拾ってもらってから、数えるのも面倒くらいくらいに転職したけど、その中で雑誌編集やらWeb制作やらパッケージのデザインやらDTPやらの仕事を7つほどした。現在は工場でヒイヒイ言いながら汗水垂らして口を糊している身なので腕前はお察しなのだが、大したモチベーションも根性もないにも関わらず、よくもまあ15年以上もしがみついたもんだと思う。そして、こんないい加減な奴を雇ってくれたのを、今更だけど感謝している。
僕がそれだけ転職をしてしまうのは性分みたいなもので、一箇所には留まれないうえに限界を感じたり飽きたりすると逃げ出したくなってしまうわけで、もうそうなったらどれだけ周りの人に迷惑をかけようが逐電を決め込むようになってしまい、いくつかの職場はいわゆる「バックレ」という最低の方法を取ってしまったが、中には凄まじいブラック企業もあったので、時には有効な手段なのだと身をもって知ることもできたわけだ。
転職のたびに履歴書を書くことになるわけだけど、だんだん最初の方の勤務先の順番や期間が怪しくなってきて、「えーっとここは何年いたんだっけか?」と、悩んでしまうことも珍しくないし、そしてそれにプラスして直近の職場のことも書かなければならないので、履歴書を書くのも一苦労。
で、かなり前にMacで履歴書と職務経歴書を作ることにしたわけだ。これならデータとして以前作成したものが残っているわけだから、それを編集するだけだからそうした負担も軽減されるだろうと、雑な頭で考えて、それっぽいフォーマットをこさえて、ガチャガチャと情報を入力して、レタッチした自分の写真なんかも張り込んで、面接前にコンビニでカラー出力してそのまま面接に行けるようなレベルのPDFを作ったんだよね。
これで転職活動捗るなー、なんて思っていたのだけれど、そこからさらに転職したら就職した会社の名前を書ききれなくなってしまったのね。しょうがないからその部分だけ、フォントのサイズを下げたり微妙に長体にしたりしてなんとか強引に内容を押し込むわけだけど、その後も転職回数は順調に増えて、その度にレイアウトの微調整をしなければならず、何気に手間が増えてしまうという予期せぬ事態に陥っている……。
あと、先日やらかしてしまったことだが、職歴などは間違いなく修正したのに年齢を変更するのをすっかり忘れてしまい、そのまま面接に臨んでしまった結果、配属先の上司に「年齢、サバ読んだの?」と言われてしまった。結局その職場で今は働いているので大したことはなかったわけだし、そんな意図は全くないのだが、 変な誤解を生みかねないので次は気をつけたいと思ったり。
えっ、次もあるの?
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かねがねかねがねぇ

いやね、本当にないのよ。お金……。
物心ついた頃から「金ないなぁ」な日常だった気がするんだよね。
まあ、子供の頃は必要充分なお金はあったのかも知れないが、それでも世の中を見渡すと「ウチは貧乏なんだろうな」と勘づいてしまうことも多々あった。
どでかい公団住宅で育った僕は、着ているものは全て兄のお下がりだったし、自転車なんかも中古の何年前に製造されたかすらも想像がつかないくらい古い自転車に乗っていたし、勉強机は2段ベットを分解した木材を材料に、親父が日曜大工で作ってくれたものだった。
当時は周りには似たような経済状況の家族も多く、冬でも青っ鼻を垂らしながら半ズボンで駆けずり回っていた連中ばかりだったから、一般的にみて貧乏でも、そこまで不自由もしなかったし気まずくもなかったんだけど、時々ブルジョアな家族の子供と友達になると「ウチってどうして貧乏なの?」と悩むことも当然あったわけよ。
そのことでふと思い出すのが、ガンプラ大好きなH君のことだ。 彼は毎月何個もガンプラを買い、中には僕らがお年玉をかき集めて手に入れるような(まあ僕はゲーセンで散財してしまうから買えないわけだが)高価なものまであったし、また当然のようにしっかりと塗装して継ぎ目をパテ埋めしてヤスリで慣らし、様々な改造を施してクオリティの高い完成品に作り上げていった。
たしか彼は銀行員の父親の転勤とともに関東の方から転校してきて、当時の尾西市と一宮市との境界近くに庭付きバルコニー付きの一戸建てに住んでいて、ほぼ毎週のように遊びに行くと専業主婦の母親がジュースとお茶菓子をササっと出してくれたりして、しかも出来のいいガンプラの完成したやつがあるわけだから、何時間いても飽きなかったし、図々しいかもしれないがとても居心地の良い場所だった。
しかし、その一方で「こいつは多分、済世界が違うってやつだな」と子供ながらに気がつくわけで、小学校を卒業したあと、彼がどのような進路を辿ったかが全く記憶にない。 恐らくは、私立のいいところの中学校にでも通ったのだろうと思う。 おそらくは「ふさわしい世界」の「ふさわしい友達」とともに「ふさわしい生き方」を辿っていることなのだろう。
そういえば、以前に書いた話の彼も、僕とは生きる世界の違う人間になるはずなのに、何故か田舎の中学校で一緒に時を過ごせたのも興味深い。 彼の家もまたブルジョアな雰囲気があり、いつ行っても家の方がお茶菓子を出してくれるし彼の齢で所有しているのは珍しいマイコン(当時パソコンはマイコンと呼ばれることが多かった)が部屋にあり、小学校時代は某教師に「あんなもんは人間の住むところではなくてうさぎ小屋だ」と罵られた公団住宅に住んでいて、自分の部屋などなかった僕からすれば「金持ちの家はすげえなぁ」なんて思わされてしまったりするわけだ。 そうやって常に金銭的に貧しいことを意識していて、にも関わらず小遣いはその日のうちに散財して「宵越しの銭は持たない」的な間違った江戸っ子気質を持って育った僕だから、金を持っていた時期というのは本当に限られていて、この年齢になっても大した貯蓄などあるはずもなく、あるのは返せるかどうかもよくわからないまま増えていく借金ばかりだったりする。
宝くじでも当たれば返せるのかもしれないが、それもまた儚い夢だもんなぁ……。
あーあ、どこかの雑木林に数億円の入っている冷蔵庫とか落ちていませんかねぇ?
もしくは、助けたら見返りに数億円くらい気前よくくれそうなお金持ちの行き倒れとか、都合よく目の前に現れないかなぁ……。
毎日、そんなことを考えながら生きてます。
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デザインとはなんぞや

僕は高校を卒業したあとに工業デザイナーへの道を志し、名古屋の栄にある、とある専門学校で2年ほど勉強をした。
その学校ではレイモンド・ローウィの「口紅から機関車まで(彼の著書)」への言及から始まるような座学もなんかもあり、その中で「デザインとはなんぞや?」ってな話も当然あった。
学校では「デザインを日本語にすると『意匠」とな��、つまり意味のある匠の技がもたらすものである」みたいな話を刷り込まれるわけだが、学生時代はそんなもんなんだなーってくらいの気持ちで心の中に留めていたんだよね。
ただ、世の中をぐるりと見渡してみて、意味のあるものばかりかと観察してみるとそうでもないことが結構あって、その中の意味をなんとかして汲み取ろうすると、頭を抱えるようになる。
例えば……、これは工業デザインとは違う話ではあるけど、ポップ体というフォントがありますけど、なぜかこの書体を官公庁や企業で事務員が間に合わせで作った書類などだと本文に使っていることがたまにあるのね。
元々ポップ体のポップとは、店先のPOPのことで、スーパーの商品に添えて品物の名前や価格などを効果的に知らせるための、一目で目立つように考えられた書体なわけで、お役所の堅苦しめの内容に相応しいかというと、そんなはずは全くない、およそ真逆な意味合いの書体なんだよね。
あんなものを小難しい内容に合わせて使われたら、パッと見ゴチャゴチャして読みにくくて、内容が頭に入りにくいから、普通に游ゴシックあたりで本文をレイアウトしてくだされば充分なんだけど、知識がない人がオリジナリティを出そうとして、頑張った結果、生まれてくるデザインにはポップ体の本文が生まれてしまうことになる。
つまり、そこに意味などないんだよね。
素人のやることだから、それはデザインとは違うのかも知れないが、今は一億総クリエイター時代とも呼ばれるほど、デザインなどを学んだことのない人でも、デザインをする機会が増えており、制作されたらそれはプロだとか素人だとか関係なく、同じラインで評価されてしまう。
受け手も「そういうものなのだろう」と勝手に解釈てしまう結果、クレームを受けることなく本文がポップ体のチラシが様々なところで見かけられるようになる。
作った彼らは意気揚々と「自分でもチラシのデザインくらいできるっ!(ドヤァ」なんて言ったり思ったりするだろうが、彼らにとってはデザインとは「自分で作ること」以上の意味は持ち合わせていないし、多くの人にとって、デザインとは作ること以上の意味は持っていないのだろうと、思わされずにはいられない。
つまり、デザインを仕事にする人と、それを消費している人たちの間では、とても大きな、グランドキャニオンにも似た溝があり、そこに正当な評価を求めようとすると、仕事としてデザインをしている人は疲弊してしまうのだろうなと、個人的には思ったりするわけだ。
なので、「意味のある匠の技」なんてわかりにくい定義よりも、僕はこうデザインを定義したいと思う。
「デザインとは『それらしく装うこと』だ」と。
それらしく装うことは、その成果物の使われる環境や文脈をある程度考えていかないと難しく、それは単に「作ること」以上に様々な労力を必要とするわけで、前述したチラシなら、その内容全体を把握して、内容を吟味してから制作しなければならないことだろう。
そのためには、作る前に他の誰かが作ったものも見て考えて、「その成果物らしさとはなんだろう?」と考える必要も出てくるかは、依頼をもらってから即制作とは行かなくなる。
手を動かす前に、考えるフェイズが必須となってくるだろう。だから僕は、「デザインとは『装うこと』だと思うわけだ。
だから、これからデザインをして行く人や、デザインをせざるを得ない状況にある人は、是非それらしさを装って欲しい。
思いつきでテキパキと作業するよりも、「誰がみてもそれっぽいものを作ろう!」とノリノリで装うことを追求して欲しい。
その装う努力は、品質を向上させて、成果物の効果を底上げするだろうが、何より作っている方は楽しくなるだろう。
なぜなら、装うことで単なる作業は、創作活動に変わって行くはずだからだ。
皆さんも是非、作業ではなく作る喜びを体感できるようになって欲しいと思う。
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見えざるものの気配

高校時代、部活で時々山に登ってた。
山岳部という、活動内容が正直よくわからない部に所属してた僕は、普段はリュックにおもりを入れてランニングしたりして体力作りをし、年に4〜5回ほどの合宿では実際に山に登ったりキャンプ場にテントを張って自然の中で一夜を過ごしたりと、他の同世代の連中があまりしないであろう経験を多感な頃にすることができた。
多感な、と書いたのは、その時期だからこそ体験した奇妙な出来事があって、社会人になってから腐れ縁の友人たちに誘われて山登りをした時には同じことは体験しなかったからだ。
ただ、この話は同じ頃に共に山に登った面々には話していないことなので、同じ経験を彼らがしたかどうかは定かではない。
彼らもしたかもしれないし、していないかもしれない。
そして、僕もまたその体験が事実だったのか、それとも単に溢れる妄想力が作り出した幻的な何かだったのか、今となってはわからない。
ただ、その時の体験した恐怖は、今でも思い出すことはできる。
その話を、少し書こうと思う。
それは、僕が山岳部に入って、最初の合宿でのことだ。
当時の僕の登山の経験はほぼ無くて、父親に気まぐれに山登りに連れて行かれたことが数度あり、その際にスポーツ用品店のようなところで買ったであろう安物の登山靴が自宅にあった程度の経験しがなくて、自分のペースやら地図読みの知識とか、そういった基本的なものを持っておらず、「それでも山には登ったことが何度かあるのだから、一応経験者だし、周りとは差がついているだろうな」なんて完全なる勘違いをしていた。
それが勘違いだということは、部活で山に登る回数が増えれば増えるほど身をもって知ることになり、そして高校3年間がすぎるとデザイン学校の連中と馬鹿なことをするのに夢中で、山への興味もなくなってしまった。
その程度の気持ちでしかなかったということになるわけだ。
で、土曜の午後に部活の面々が集合して、10人用サイズの重たいテントの入ったリュックを担いで、最寄りの駅から電車をいくつか乗り継いで三重県某所のキャンプ場まで移動したんだが、自分の経験ではもっとも長時間の電車移動になり、キャンプ場についた頃にはそれほど日も長くない春の土曜も終わりが近づき、あたりも薄暗くなってくる頃合いだった。
完全に日が暮れる前にテントを張り、夕食の支度をする必要があったため、人気のほぼないキャンプ場に付いた部活の面々は、与えられた仕事を黙々とこなしていき、特に僕ら新入生は疲労と緊張がピークになりつつあったのか夕食すらも黙々と食べるような按配で、この先やっていけるのかという若干の不安をみんなが感じていただろうと、当時の僕は思っていた。
黙々と口に詰め込むような食事が終わり、しばし雑談をした後で就寝す頃合いになった。
買ったばかりのロールマットを広げてその上に買ったばかりの寝袋を広げて、その中に潜り込んで目をつぶるが、環境の急激な変化と緊張感からか、全く眠れるはずがない。
少し離れた場所を緩やかに流れる小川の音や、木を揺らす風の音や揺らされて擦れ合う木々の葉の音が、眠れない僕の耳の奥にとめどなく流れ込んでくる。
今でこそ、神経も図太くなって、少々の雑音で起こされることはないどころか、YouTubeのゆっくり解説動画を聞きながら眠れるようになってしまったが、当時はちょっとした雑音で目が覚めてしまうような神経の細さであったために、その日はほぼ眠れずに朝を迎える「事になってしまった。
そんな中で、せせらぐ小川の音や、擦れ合う木の葉の音の隙間に、なにか別の音を見つけてしまった。
それは唸り声にも似て、そして何かの呪文のような声にも聞こえた。
自然の音や環境音でもなく、そして人の声でもない、何か別の存在の放つ音が聞こえてくるのだ。
そして、その音とも声ともつかない何かが、僕らが知らない人ならざる別の何かがそこに存在するように思えてきて、それまで経験したことのない恐怖のような感覚が僕を朝まで取り巻いたわけだ。
眠れないがゆえに、何度も何度も時計を確認し、起床時間が近づいてきた頃に、恐る恐る寝袋を脱いでテントを抜け出した僕は、薄く霧がかかっている人気のないキャンプ場で、ゆらゆらと揺れ動く何らかの影を一瞬だけ見た気がしたのだが、次の瞬間には朝日が差して薄い霧ごと揺らぐ影もかき消えてしまった。
今にして思えば、その人ならざるものは、僕の恐怖心が紡ぎ出した幻なのかもしれないが、まだ多くの事柄が未知が既知に変わっていない多感な時期だったからこそ、こうした存在の気配を感じられたのかもしれない。
個人的には、そうした見えざるものの存在について真剣に向き合うことがオカルト的な考え方なのかなと思っているのですが、最近は無駄に軽く消費されがちになっているように思えて残念だなと。
あれま、愚痴っぽくなってしまったorz
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最近の僕_20230715

いやぁ、暑い日が続きますねえ。
まだ夏本番まで猶予がほんの少しあるとしても、本当に暑くて木が変になりそうな日中を、空調がほぼ皆無で涼の文字もはほぼ無縁の工場仕事を日々続けておりますが、そんな中でなんとか体を冷やす方法にたどり着くことができました。
それは、いわゆる「空調服」というヤツで、安物のカッパのような記事の上着の腰の辺りについている二つのファンを通じて外気を服の内側に取り入れることで、体から出た汗を乾かして気化熱を利用して体温を下げる的な、夏場の外仕事や現場仕事向けに開発された(と、僕は勝手に認識してる)ものですな。
以前から(まだ愛知にいた2019年頃にも、工事現場で来てる人はいた)し、それまでの職場でもちらほら外部の作業者が着ていて「アレって涼しいんかね?」と半信半疑ではあったんですが、転職して新しい職場に来て2ヶ月ほど経ち、夏服一着だけでは耐えられずに「夏服がわりに」と言い訳してAmazonで安い空調服を調達したわけですよ。
購入したのはコレ。
[KLIFE] 空調作業服 ファン付き... https://www.amazon.jp/dp/B0C1NV32W5?ref=ppx_pop_mob_ap_share
服自体は正直チープですが、値段がフェアで6,000円くらいになっていたのでお試し感覚で購入しましたが、それにしてはなかなか良好な使用感でしたね。
最初、服にファンを取り付けるのに手間取って、しかもファンの締め付けがゆるいとすぐに外れてしまうのが面倒だなと感じていましたけど、それに慣れれば鼻歌混じりでファンの取り付けができるようになります。
バッテリーはやや大型で、服の中には入れられますが嵩張るのがネック。
でも、バッテリーとファンをケーブルで繋いでケーブルの付いているスイッチを押すと、腰のあたりが明確にひんやりしてきます。
外気が暑くても、気化熱を利用する性質上、ちゃんと冷えてくれるのはありがたいです。
ただ、これは僕のやらかしですが、何も下調べをせずに普段のサイズで注文してしまったので、空気の取り入れが少なく涼感も充分に得られないタイミング(主にその時の姿勢の問題で)があり、時々背筋をピンとさせると、背中を涼しさが駆け抜けていく感覚がやってきます。
そんな感じで、この格安の空調服でかろうじて暑さを凌げていますが、残念なのはバッテリーが大きさの割に容量が少なめなこと。
最弱でなんとか残業時間まで持たせることはできますが、使用時間が延びればファンが止まってしまうわけで、なんか暑いなぁと思ってファンを触っていると残念なことに店じまいされている有様で……。
でも、まあ、お試しで買った格安の品としては、かなりありがたい出来でした。
今年はこれで乗り切って、来店はもっといいヤツを買いたいものですな。
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彼の気持ちはわからなかったけど
※画像と内容には全く関係がないです。ええ。 できることなら、もっと寄り添ってあげたかった。
しかし、それができなかったのは彼と僕との嗜好の違いであり、どこまでいってもそれは埋められないものだった。
だからそれは、僕にはどうにもできないし、彼にももうにもできなかった。
そんな彼はもういない。
21世紀を迎える前に、ここではないどこかへ旅立ってしまったわけだ。
彼のような聡明で優しい人間が、なぜそのような選択をしたのか、僕のような凡人にな想像もつかないけれど、もし彼がその選択をせずに今もまだ暮らしていたら、その当時よりは暮らしやすくはなっていたと思う。
まあ、残念な話なわけだ……。
彼との出会いは、今から40年近く前の話だ。
僕と彼は中学一年で同じクラスになった。
小学校が違ったせいで、人見知りの強かった当時の僕はあまりクラスメイトに話が出来なかったわけだが、いつのまにか彼とは仲良くなっていた。
多分、パソコンに関する話がきっかけなんだと思うんだけど、いつのまにか休み時間には僕と彼と数名が集まって、ゲームセンターのゲームやパソコンのゲームの話を飽きもせずにし続けていたような気がする。
僕が住んでいたところは毛織物で有名な地域で、彼の家は裕福な機屋(「はたや」と読む。織物を織る仕事)さんでした。
公団住宅住まいの僕とは違って上品でゆとりのある暮らしをしていて、彼の自室が広いことと、彼のお母さんがとても美味しいおやつを出してくれこともあって、僕らはよく彼の家に遊びにいった。
彼は他の連中と違って、賢く理性的で、とても優しい性格で、時々妙なところで意固地で、よくわからないきっかけから口論にもなったけど、それでもそんなにわだかまりを持つこともなく、次の日には再び馬鹿話をしていたような気がする。
あと、妙なボディータッチが多くて、やんわりとサワサワ触れてくる感じがとても奇妙であったが、強引にガシガシと体を掴んで乱暴にゆすったり、頭をパシパシ叩き合うような乱暴な連中ばかりだったから、その触り方も彼の持つ育ちの良さなんだろうなと、当時の僕は思っていたわけだ。
中学の3年間、大した勉強などしなくても学校群に普通に入れてしまうくらいに賢い彼と、馬鹿ゆえに勉強などすることなく遊び呆けていた僕とは、なぜか仲が良かった。
クラスがお互いに違ったとしても、お互いにクラスを行き来したり、休日には遊びに行ったりしていた。
お互いのクラスでできた友達も含めて、みんなでゲーセン行ったり、自作のゲーム(テーブルトークもどき。アドベンチャーゲームを模した感じ)で遊んだりと、生活レベルも頭の出来も全く違う僕と彼は何故か本当によく遊んだ。
そんな時間が、これからも続くと、その時の僕は能天気に思っていた。
ところが、中学を卒業して彼と会う機会がなくなると、僕は目の前のことだけに夢中になってしまい、薄情な話だけど彼のことをすっかり忘れてしまう。
というか、彼のような僕とは全く違う人間が今までよくしてくれたことは、恐らく彼の気まぐれによるものなのだと勝手に納得してしまい、「まあ似たもの同士仲良くしていけばいいよね」てなことを思いながら、高校でできた友人たちや、中学の頃の同じくらいの頭の出来の友人たちと、仲良く賑やかに過ごしていた。
そんなある日、再び彼に出会ってしまった。
それは、僕の交通事故がきっかけだった。
遅刻ギリギリでの通学の際に、自動車とぶつかり、僕は数メートルほど宙を舞い、自転車は再起不能になり、相手の自動車はフロントあたりがベッコリと凹んだ程度に大きな事故で、大きな怪我こそなかったものの、僕は暫くの間病院に通うことになったんだ。
その日も学校から帰って病院に通院して、そろそろ帰るかという頃合いに、不意に名前を呼ばれ肩を叩かれた。
振り向くと、僕と同じ年頃の、僕より背の高い男子がそこに立っていた。
彼だった。
彼も部活で痛めた手首の治療に来ていて、僕らは久しぶりの再会を喜び、その日はかなり長い間馬鹿話をしてた。
学校群のような賢い奴らしか通えないところに進学したにも関わらず、彼は相変わらずゲームが好きで、ゲームの話をしていたら、僕らが最後に会った時から2年ほどの時間が経っていたはずなのに、それを感じさせないというか、2年も会っていなかったのが勘違いにしか思えないくらい楽しく話をしていた。
あまりに馬鹿話が長くなり、そろそろお互いに帰りの時間を意識し始めた頃、不意に彼は、これまで抱えていた大きな想いを僕に漏らしてしまった。
「中学の頃さ、お前のことが好きだったんだ。 でもさ、お前はあいつのことが好きだったのわかってたからさ、 俺には隣��笑っていることしか出来なかった」
……その後のことは、正直よくおぼえていない。
翌日にはその話を忘れてしまい、成人式の後に彼に再会したときも思い出すことはなかったのだけど、このことを思い出したのは、更に7年ほどの時が経ち、僕の部屋に一通の手紙が届いた時だった。
それは中学時代の同級生からの手紙で、どうやら彼が亡くなったという知らせで、詳しいことは書かれておらず事情も全く分からなかった。
もう一昔近く前の話だから、どうにもならないことだけれど、一度は線香のひとつでもあげさせていただかないとと思い、当時住んでいた川崎のアパートから地元に変えることにした。
中学時代の記憶を頼りに彼の家を訪ね、お仏壇に線香をあげさせて頂いたときに、親御さんに大まかな事情を伺うことが出来たのだけれど、それはかなり衝撃的で、同時に悲劇的でもあった。
どうやら彼は、当時勤務していた職場で縊死していたそうで、その直前に「どうして俺だけこんなに苦しまなければならないのだろうか?」と周囲に漏らしていたとのことだった……。
その時、僕にはその時の、あの会話が鮮明に思い出されたのだ。
彼が亡くなって、かなりの時間が経ってしまった。
僕はもう気味の悪いくらい冴えない中年で、かろうじて結婚はしているけれど実績も資産も何もなくて、消化試合の日々を過ごしているけれど、もしあの日の会話について、もっと真剣に向き合うことが出きていたなら、どんな今を迎えることが出来ていたのだろうか。
そんな無意味な想像をしてしまうことが増えてきた。
別に結婚生活に不満があるわけではないけれど、あの夏の木漏れ日のような僕の中では綺麗な時期の、友情でもあり憧れでもあり、いろんな感情のるつぼのような僕と、そんな僕にいつも優しく笑いかけてくれた彼のことを思い出すと、
「もっとなんとかならなかったのか」
と思わずにいられない今の自分がここにいるのだ。
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「どこかに絶対、言い出しっぺがいる!」
※今回の話は写真とは全く関係ない話ですが、フレーバーとして写真載せときます(笠間稲荷神社で撮影)。
「口裂け女」の噂話が世間を騒がせていた頃から少し後の話ですが、僕の地元の小学校の界隈に、ある噂話がありました。
夕暮れ時、辺りが暗くなって、そろそろ街灯が灯り始めるころ、バス通りの野府川にかかる橋の所に中年の背の高い男性が立っていて、通りがかる子供達を突然殴りつけるそうで、子供達が殴られる寸前に男性の顔を見ると、男性の目に黒目がなく、白目ばかりの目で子供達を睨みつけるんだそうです。
この手の話題には目撃者は基本的に存在せず、「友達の友達から聞いた」的な話がベースになっており、話し手の都合で様々なバリアントが生まれるパターンがほとんどなのですが、この「白目」の話題にはバリアントがあまり存在せず、場所も必ず特定の場所で、時間帯もほぼ同じ、そして何より目撃者(被害者ではなく)がいたというのが、とても奇妙で奇怪な噂でした。
土曜の午後、出来の悪い生徒ばかりが居残りさせられていた時にその話題が出てしまい、百字帳を「永」の字で埋める作業に飽き飽きしていた彼らは提出する課題をそっちのけでその噂話を語ることに暑くなってしまい、様子を見にきた先生に怒鳴られたりしながら、なんとか課題をやり遂げて帰宅しようとした時に……。
「『白目』探しに行こっけー」
と、彼らの1人が言い出して、子供たちは噂の現場に足を踏み入れることになったわけだ。
夜の帳が下りはじめ、バス通りの人通りも車の通りも少なくなってきた頃、彼らは駄菓子屋で買い込んだ「ベビースターラーメン」もしくは「どんどん焼」なんかをぼりぼりとさせながら、野府川にかかる橋の見えるバス停のベンチに腰掛けて、「白目」の出現を心待ちにしていたわけですが、「白目」はいつになっても現れず、とうとう夕暮れどころか完全に夜になってしまった。
当時小学校低学年で、秋の終わりの夕暮れ時に外をブラブラしていたら、自分たちの両親も心配しているかもしれない。
「白目」のことを諦めて帰るべきかを議論し始めた彼らに、その時、予想外の出来事が起きた。
「くぉらー!!子供がこんな時間まで何やっとる!とっとと帰って飯食って寝ろ!」
橋の方に立っていた人影が、こちらに怒鳴りながら走ってきた。
手をブンッと振り上げて、大股でドタドタといった感じで迫ってくる。
彼らは「ひょっとして『白目』がきたよかな!?」と驚いて逃げようとしていたが、あまりに急な出来事でパニックに陥ってしまった。
アワアワとしている彼らに向かって、人影はどんどん近づいてくる。
そして人影の姿がよく見えるようになって、彼らは気がついた。
人影は確かに男性だが、彼らが想像していた姿よりもナーフがかかったように貧弱で、背もそれほど高くなく、どちらかというと中年というよりジジイであった。
なんだ、聞いた話より怖くないやと思った瞬間、噂の一部が現実になってしまった。
「こんな時間までブラブラしとらんで、さっさと帰れっ!!」
と、叫びながら彼らの一人ひとりに拳骨を見舞うジジイ、それが「白目」の噂の真実だったらしい。
なぜ「白目」に見えたのか?
どうやらそれは、ジジイが目医者にでもかかっていたのか、白い眼帯を片方にしていたために、それが白目に見えたのかもしれない……。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」なんて言いますが、事実とは想像よりもしょーもないものだということは、往々にしてあるのでしょう。
まさか、あんなジジイにビクビクしていたなんて……、と、恥ずかしくなった彼らは、その後は「白目」の話に加わることなく、別のことに興味を持ち始めたのでした。
「一体、誰が『白目』の話をし始めたのか?」
その話をいろんなクラスに聞きに回った彼らですが、どこで聞いても「友達がその友達から聞いた」的な話以上の情報はなく、いつのまにか「白目」の話もどうでもよくなり……。
それから数十年経った今頃になって、ふとそんなことを思い出したわけですよ。
そして「一体、誰が言い出しっぺなんだろうか?」って考え始めたりしてしまうわけです。
「言い出しっぺのヤツ、きっと騙される馬鹿を嗤ってるんだろうなぁ」
腹がたたないでもないが、そんな噂話に引っ掛かった、当時の彼らの方もよろしくなかったのだろう。
「♪噂を信じちゃいけないよ」って歌ってる人もいたのにね。
なんで信じちゃったんだろう?
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「似合ってない」と言われようが、好きなんだから仕方がない。
小さな車が大好きだ。
可愛らしい車が大好きだ。
僕のようなオッサンでも、コンパクトにまとまってキュートで自由な車が大好きなのだ。
「似合ってない」とか「それは娘っ子の乗るもんだ」とか、聞いてもいないのに余計なことを言ってくる同世代もしくはその一回り上くらいのオッサンどもが何を言おうが関係ない。
好きなものは仕方がない。
プロダクトデザイナーを志していた頃、確か35万円くらいの日産サニーのハッチバックを父親に買ってもらったのが、僕の最初のマイカーだった。

※画像はWikipediaよりお借りしました。
確かコレだった気がするんですが、このサイズの手頃さやシートを倒すことで荷物の積載量が増やせる使い勝手の良さが気に入って、2年ほど生活の足にしていました。
その後手に入れたのが、ユーノスロードスターの初代です。
※画像はWikipediaよりお借りしました。
写真はVスペシャルですが、それより廉価のスペシャルパッケージというやつで、「一応ベースグレードより装備は充実してますよ(エアコン・パワステ・パワーウインドウ装備)」というグレードに3年間乗ってた。
付き合ってた女の娘に振られ、デートする相手もいないから、当時読んでたTipoって雑誌に影響されて英国製の旧車が欲しくなったんだけど、現実を鑑みてこの車で手を打つことに。
そしたら、異次元の体験というか、これまでに経験したことのない「オープンエアの心地よさ」を知ってしまい「オープンカー以外には乗るまい」などと真剣に誓ってしまった。
荷物がたいして乗らないことや、二人乗りだということは大した問題じゃなくて、それより大切なものがあるのを教えてくれたのがユーノスロードスターでしたね。

※こちらの画像はメーカーサイトからお借りしました。
その後に出会ったのがホンダのビート。
この頃は川崎に住んでいて、某運送会社で夜勤の仕事をしていて、仕事明けにバーミヤンで餃子とビールでお疲れ様をやるくらいしか楽しみがなかったんですが、ビートを手に入れてからは生活が一変しましたね。
この車はロードスターよりも物が乗らないし車内も狭いし、ロードスターよりもパワーはありませんでしたが、乗っててとても楽しい車でした。
川崎から地元まで帰った時はとてもしんどかったけど、ただの帰省が冒険になるような、そんな体験でしたね。
それから20年近くの時間が経ち、その間に結婚していくつか職も変わって、自宅から電車を数本乗り継いで通うような場所で仕事をするようになってから、久しぶりに運転したのが初代のラパンでした。

値段も安かったのですが、ほぼ一目惚れで手に入れた一台でした。
燃費もたいしてよくなかったし、馬力もたいしてありませんでしたが、この車で本当にいろんなところに行きました。
現在の住所に越してきた時、夜中に高速を走ってガス欠になりかけたり、職場から帰る際に前輪がもげてドナドナされていったことも今となってはいい思い出です。
で、現在の愛車が3代目のラパンです。
現在購入して2年と4ヶ月ほどですが、走行距離がそろそろ6万キロが見えてきました。
過走行気味ですが、今のところ快調に走っています。
この車は初代のラパンよりもパワーが不足していますが、CVTのおかげで燃費も良く、とても楽に運転ができる上に愛嬌もあって過不足なく程よい使い勝手が気に入っています。
……と、数少ない僕の自動車遍歴ですが、ご覧の通り排気量1.6リットル未満��車しか所有しておらず、大排気量の自動車のことなんて正直わかりません。
けどね、いくつか言えることはあるんです。
それはね、「小ささや軽さは後では買えない魅力なのだ」ということです。
大きな車は金を払えば手に入りますし、乗りたきゃ借りることもできますが、小さくなればなるほど車は買うのも借りるのも難しくなります。
軽自動車も旧規格の排気量550ccの車両はなかなか見かけませんし借りるのも難しいでしょう。
そして「余計な物がない方が楽しい」ってことです。
乗り心地が良すぎると、ハンドルを握っているのか握らされているのかわからなくなりますし、快適に走ることはできるでしょうが走ることで得られる経験や感情は乏しい気がします。
乗り心地は悪いし、しんどいし苦しいし、寿命も多分短いでしょう(車のエンジンの寿命は排気量と比例する部分がありますからね)から、好き好んで乗りたいと思う人も少ないかもしれません。
でも、僕は、そんな小さな車が大好きです。
そして、そんな小さな車にこれからも乗っていきたいと思っています。
いつか、ラパンで日本一周したいです!
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子供の頃から麺が好き
小さい頃から冷麦をズルズルと啜るのが異常に好きだった。
家族でどこかに出掛けて、出先で外食してる時にね、二つ上の兄がお子様ランチを注文してたのに僕は冷麦を頼んでたし、両親が仕事から帰ってくる前に腹が減ると、お中元か何かで自宅にあった冷麦を勝手に茹でて食ってたりしてたんだよね。
ダンボール箱にたっぷりと入っていた乾麺を、いつのまにか僕一人で全部食べてしまった時は、母親にこっ酷く怒られたっけなぁ……。
成人しても麺類への、特に冷たくてつけ汁につけて食べるタイプの麺への執着は変わらず、ある時友人と遊びに行く約束をしていて、その前に腹ごしらえをしようと蕎麦を茹でていたら食べ過ぎてしまい動けなくなって友人と遊ぶ予定をキャンセルしたり、別の時には冷麦を食べ始めたら止まらなくなってしまって食べ過ぎてしまい、結局トイレで吐いてしまったこともあった(情けない話だけどね)。
この「麺を食べ過ぎてしまう」という呪いは蕎麦や冷麦に限らず、よせばいいのにつけ麺の大盛りを頼んでしまい食後に後悔したり、ビュッフェスタイルのランチの中にパスタ的なのを見つけると満腹でも一旦食べてしまうんだ。
ビュッフェの麺類って、基本パサついていたり伸びてたりして旨くはないんだけど、それでもズルズル啜ってしまう。
某ファミリーレストランの民度低めのモーニングビュッフェでも、ガッカリするのがわかっていても、大してうまくもない焼きそばを啜ってしまう。
恐らく僕は、啜るという行為がとても好きなんだろうなぁ。
一人暮らしをしている時は、毎食麺だったことが結構あった。
最初の数ヶ月は本当に金がなくて、袋のインスタントラーメンだけを食べて生活してた時期があって、流石にラーメン飽きたなーって思ってた時に母親からきしめんが送られてきて、滅茶滅茶嬉しかったって話を当時の知人に話しても、全く理解してもらえなかった。
「結局麺類じゃないですか……」って呆れられて、別の生き物を見るような目で見られてたなぁ……。
そんな僕だから、外食の候補を選ぶ時、最初に浮かぶのが麺類で、ご飯ものやファストフードを食べたいと思うことが本当に少ない。
都内で学生してたり仕事をしてた時も、昼飯は富士そばが圧倒的に多かった気がするし、地元に逃げ帰ったあとも立ち食い蕎麦やスガキヤみたいなラーメン屋で食事してる時が本当に多かったし、コンビニに買い出しに行くと、カップ麺かパスタや蕎麦やうどんなんかの麺類を買ってしまうことが多いんだ。
結婚してからも、週に5食程度はインスタントの麺類を食ってしまう。
奥様が「夕飯どうする?」って訊いてきた時に「今日はカップ麺にするから」と嬉々として答えてしまうし、普通に夕食を作ってもらっても、寝る前に腹が減って麺を茹でてしまうあたり、やはりこれは呪いなのだろう。
僕が選ぶとそんな感じだから、奥様と出掛ける時は、出来る限り奥様に決めてもらうことにしてる。
写真は昨年知った和食レストラン「とんでん」の60分そば食べ放題(6月〜8月の第1・3土曜に開催)で蕎麦充を満喫してた時の様子ですが、今年も行きたいと思うんだよね。
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「居場所を見つけたい」って思った。
最近、よく「町中華」なんて言葉を耳にするんだけど、よくよく考えてみると変な言葉だよねぇ。
おそらくは「餃子の王将」や、今回の写真で載せている「日高屋」みたいな中華料理店の大手チェーンとは違った、その街にしかない個人の中華料理店という意味合いなんだろうけど、中華に限らず個人のお店ってその街にしかないもの(多店舗経営を始めたら、もう個人のものってイメージじゃなくなる気がするんだよね)だろうし、暖簾分けなんかでお店が増えた場合も、別の個人に経営者が移るのかなって考えると、やっぱり飲食店の大半はその街にしかない個人のお店だろうなって。
でもそれは過去の見方でしかなくて、よくよく周りを見渡すと、個人のお店よりもチェーン店の方が客の入りがいいような気がしないでもない。
まあ、理由は安定したクオリティの食事を安心の価格で食べることができるからだろうし、個人のお店は常連の客なんかがいて、その空気に慣れるまでは居心地が悪く感じてしまうからなのかもしれないね。
昔はそういうことは気にし��かってし、逆に「一体何を食わせてくれるのだろうか?」ってワクワク感があったんだけど、歳を食うにつれて、そうしたワクワク感を面倒臭く感じるようになってしまった……。
ところが、最近はその面倒臭いはずのワクワクをまた感じたいなって思うようになってきた。
きっかけは、YouTubeのとあるチャンネルで観た、福島県のドライブインの光景で、その空気感や料理がとても僕の空腹感と心に刺さるものだったからなんだよね。
youtube
その動画を観て、自分が何かあるたびに通えるような「居場所」のようなお店がある生活って、それがない生活よりも豊かなんじゃないかなって思ったんだ。
その街のその場所にしかない、空気感や温気、人の醸す雰囲気や音、そして味わい。
店に入って「いつもの」って言えることは、実はとても価値があって、安心して箸をつけることができる料理がもたらす心地よい油断こそが、ギスギスした暮らしの中にみずみずしさをもたらすのかもしれない。
でもって、店主に「おまかせで」と注文できる信頼こそが、今となってはとても貴重なのかもしれないし、そうした場所が心のどこかにある人に、今更ながら憧れてしまっている僕が今ここにいるわけだ。
そんなことを考えているうちに、僕はある中華料理のお店を思い出した。
栄5丁目に多分今もあるだろう「ノアール」というお店で、僕らが専門学校生だった頃は毎日のように通って、昼飯時にはランチを、夕飯時には財布の中身と相談した結果のメニューを掻き込んでた。
若干懐が暖かい時は、カウンターで青島麦酒を飲みながらおまかせでつまみを作ってもらったりして、友人たちとどうしようもないくらい馬鹿馬鹿しいことを延々と話してた。
学生の頃は毎日、社会人になってから多分月一くらいの間隔で、恐らく4年くらいはその店に足を運び、いわゆる常連チックな客になっていたわけだ。
その店から足が遠のいたのは、僕が仕事が嫌になって地元を逃げ出し(一応「夢を追いかけて」みたいな話になっているが、今となっては「逃げ」だったのかなと)て恵比寿のゲームの専門学校に通い始めたからで、そこから数年ほど「ノアール」のことを忘れていた。
僕は環境が変わると過去のことを置き去りにしてしまう性分で、それもあっていろんなものを過去に忘れてきているわけだけれど、当時の友人たちや、彼らと共に入り浸った場所も、同じように置いてきてしまった。
関東での生活にケチがつき(周りには「夢破れて」なんて格好のいいことを言っているが、本当は単に生活が破綻しただけだ)地元に逃げ帰ってから、ふと思い出して一度だけ「ノアール」に行ったことがあって、マスターの作ってくれた「ちゃぷすい」は相変わらず美味かったけど、残念ながら僕が居座ってた頃の雰囲気は無くなってしまい、それからは足を運べなくなってしまった。
もし仮に、次にそんなお店に出会えるとしたら、今度はちゃんと居座って、自分が死ぬ間際まで常連ヅラしてやりたいと思う。
大した注文をしないのに、長々と居座って、店の隅っこでiPhoneをポチポチしたり文庫本読んだりして、店主から「お前ええ加減に帰れよ!嫁さんとけんかでもしたんか!?」などと言われて帰宅を急かされたりしたい。
そんな居場所がどうしようもなく欲しいと今になって思う。
かつて僕自身が持っていた「居場所」をもう一度見つけたい。
毎回注文する、あの味と温気と匂いを、生活に取り戻したい。
そんなお店を、もし見つけることができるとしたら、それはチェーン店の中華料理店ではなくて、本当にその街にしかないようなお店がいいなぁ……。
🔳追記
今回話題にした「ノアール」については、こちらをご覧くださいませ。
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ノスタルジーをもとめて彷徨う
初めて車を手に入れた時はね、ハンドルを握ることの楽しみを知ったってのもあったんだけど、車というものがね、自分の知見を拡張してくれるものなんじゃないかなって思ってたんだ。
見たことのないものを見に行くことができる、そんな道具なんだって思ってた。
だから、何かを探し求めて、あてもなくブラブラとすることもあったし、何かのきっかけで知った興味深いものをワクワクしながら見に行くこともあったなぁ。
歳食った今も、基本的には同じなのかもしれないけど、その傾向が未知を求めることから追憶や郷愁という既知のものを求めている気がしてるんだ。
具体的に言えば、かつて数多くあった「オートレストラン」的な施設によくあった麺類やホットサンドやハンバーガーの自販機の、あのチープな味を今の僕は求めている。
あの自販機との初遭遇は、おそらく45年以上前の小学校低学年の頃だったと想う。
アレルギー性の鼻炎を患っていた僕は、毎日のように耳鼻咽喉科へ通わされていたわけだけど、その病院の近くにエンゼルという名のゲームセンター的な店があったんだ。
当時はインベーダーゲームが登場してから間もない頃で、あまりビデオゲーム数は多くなくて、食事をとったりするテーブルが半分、ビデオゲームが半分くらいで店舗の中が占められていて、奥の壁には様々な自販機があって、時々それを購入して食べている大人の様子を見ながら「どんな味がするんだろうか?」と、興味津々だったなぁ。
で、そこから10年ちょっと経って、大学受験が近づいてきた高校3年の頃になって、その自販機たちの一つと思わぬ再会をすることになるんだ。
それは千種にある河合塾の美術研究所に通っていた頃に、本館の地下にあったハンバーガーの自販機だった。
あの、ヒーターが壊れているのかわからないけれど、外箱が熱々、中のハンバーガーの表面がシナシナ、ハンバーガーの中央がまだひんやりしてるという独特な温度で味わいはチープ、数少ないメリットは値段といつでも買える(食堂の入り口にあったので食堂が閉まっていても購入できた)��とくらいだったけど、なぜか僕はこれが大好きで、そのハンバーガーを頬張りながら悪友たちと駄弁ってのをよく覚えてる。
それからまた数年が経ち、美大に落ちてデザイン系の専門学校に潜り込んだ僕は怠惰に学生時代を過ごした結果、デザインなんて全く縁のない町工場に勤めることになって、当時付き合ってた娘とも喧嘩ばかりしてたわけだけれど、その娘を実家に送って行き、国道19号を名古屋方面に向かって車を走らせて帰る頃に、自宅の近くまできて空腹を満たすために必ず立ち寄ってたオートレストランにラーメンの自販機があって、「なんであんなこと言ってしまったんだろうか」と愚痴愚痴考えながら、その自販機のラーメンの麺をズルズル啜っていたんだよなぁ。
と、この手の自販機の思い出を語りだすとキリがない。
20代半ばで一旦ハンドルを握らなくなり、そこから20年以上ハンドルを握っていなかった時期が続いていたから、再びハンドルを握るようになって驚いたんだ。
オートレストラン、ほとんど見当たらないなぁ……、て。
尾張地方だけかと思ったけど、北関東に越してきても、ほとんど見かけることがなくて流石にもうないのかな、なんて思ってたんだけど、ふと気になって探してみたら、まだいくつか残っているみたいで、その中の一つにお邪魔してきたんだけど、店主の体調不良のせいでそれらの自販機が全て売り切れ……。
仕方ないので、そこにあったワニワニパニックに悔しさと憤りを叩きつけてきたんだけど、流石にかつてのスコアは出なかった……、残念。
そんなわけで、気が向いたらそんな話を書くと思うので、期待しないで待っててね。
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ドライブが好きだ。
数年前に通勤用に軽自動車を購入して以来、休日になるとふらりと何処かに行きたくなるわけですよ。
それまでは駅前に住んでいたことを理由に「別に車を持ってなくても生きていける」と強がって生活をしており、普段の食料品の買い物もママチャリの前後にカゴをつけて、それだけでは飽き足らずトートバッグをハンドルにまで掛けて、必死こいて移動していて、「苦しきは旅路」ならぬ「苦しきは買い出し」な生活でした。
元々夫婦してインドア派の出不精なこともあって、週末は買い物以外はきっちり引きこもって生きていましたから、何処かに遊びに行くこともほぼほぼ無く、出かける時は月に一度あるかないかの頻度で公共交通機関もしくは徒歩で行ける場所に限られてましたが、通勤の都合で安い中古の軽自動車が我が家に来たのをきっかけに、外へ行く機会が増えてきました。
最初は買い出しの荷物が重かったので、「なら自動車で行けばいいや」とスーパーまで行った際に、帰り際にふと「ついでに別のスーパーへ」と足を伸ばした暗いから始まって、「ちょっと暇だから別の街へ」「天気がいいからドライブに」と、手段が目的になってきた。
本来それは無駄なことだけど、それがまた面白い。
そしてその暇つぶし的なドライブが、やがて本気出してきて、当時住んでいた愛知の西の端っこから和歌山の端っこまで行ったり、千葉の端っこまで行ったり、しまいには青森の端っこまでドライブしたことにつながったりするわけで、そして、いつか日本一周したいと想いを馳せるまでに至るわけで……。
日本一周まで行くと、完全にただの夢でしかないのだろうけど、それでもいつかは行ってみたいと強く願うわけだ。
まあ無理だろうけど、それでも想うのは自由だから、行ける機会と資金があったら、そんな旅に是非出かけたいと、どこに立ち寄るかのリストを今日もセコセコとメモる日々を過ごしている。
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AI絵師は描き手と言えるのか?
【あくまで個人の意見やで】
そんな議論が様々なところで繰り広げられていますけど、アレって描き手だと言い張ってる人も、実際には絵自体を描いてはいないよねってわかってて、なおも強弁してるんじゃないかなと、個人的には思ってるわけです。
なんでかって言うとね、まず仮にAIが出力しているものを作品だとして、それを出力しているのはAIであってAI絵師ではないよねと。
AI絵師は、AIに対して適切な指示を与えているディレクター的な存在ではあるだろうけど、それを「ワシが描いた(ドヤァ)」ってするのは世間的なものの見方からすれば違うよねって話になると思うのよ。
この議論の絡みで「デジタル絵師はずるい」的な話も出てくるのですが、それとこれとはまた違う話で、そういう意見を持ち出すのはある種の詭弁じゃないのかなと。
実際、デジタル絵師は絵師の画力やテクニックで絵を描いているわけで、デジタルかアナログかの違いでしかないけど、AI絵師は画力を用いて絵を出力してはいなくて、彼らは適切な指示をAIに出している訳だから少なくともデジタル絵師と比較するのも違う話だろうなーって。
個人的にはAI絵師って言葉も「なんか違うよねー」って思ってる。何か違う名称が生まれると、このモンニョリとした梅雨時の空的な気持ちも無くなるかなーって……。
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なんかね、ダラダラと考えていることがいくつもいくつもあって、だけど、考えとしては全くまとまってないし、それを実行に移すとなると、何をどうしてどうやればいいのやらと、頭を抱えてしまうわけだけれど、それでも内なる自分が頭のリソースをある程度持っていって勝手に考えさせられてしまう事柄に、この壊れかけた五十路のおっさんは、常に振り回されてしまうわけですよ。
とりあえず、ただ考えているだけでは忘却の彼方に葬り去られてしまい、結局何を考えていたのだろうかと、無駄に思い想いを巡らせてしまい、貴重な時間の浪費につながってしまう(これまで散々浪費しておいて何を今更な話ではあるのだけれど)から、とりあえずどこかに手軽にメモっておこうと思った次第。
奇しくも、自分が要らぬ歳を重ねてまた一歩五十路の歩みを進めてしまった翌々日あたりなので、一種の決意表明みたいになってしまうが、まあそういうタイミングだったのだから仕方がない。
とりあえず、アレだ。
ここにはiPhoneから心の垢というか毒というか、無駄に巡らせた想いのネタを垂れ流す場所だということにしてておこう。
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