#いまマルクスが面白い-現代を読み解く事典
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anamon-book · 7 months ago
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いまマルクスが面白い-現代を読み解く事典 いいだもも・伊藤誠・平田清明=編 有斐閣新書 有斐閣 カバーイラスト=与儀勝美
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medickalmalpractice · 2 years ago
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■ 「越境する文化」 とは何か 02 「越境する文化 (transculturalité)」 という現象についてお話ししたいと思います。 異なる文化間にはさまざまなコミュニケーションがあるものですが、 それは 「文化」 対 「文化」の影響関係にとどまるものではありません。 文化は交流、 合体、影響を繰り返し、 新しいものを創出したり、 すでにある文化をより豊かにしてきました。 たとえば、 「絹の道」 を介した東アジアとヨーロッパとの文化的交流は、ギリシャ風の仏教芸術というギリシャ美術とも伝統的な仏教美術とも異なるまったく新しい文化を生み出したのでした。
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ヨーロッパの文明や文化において、 「越境する文化」 という現象は新しいもの ではありません。 18世紀のパリに生まれた啓蒙思想や19世紀のイエナに誕生したロマン主義はヨーロッパ全域に広まりました。 シュールレアリスムはヨーロッパの枠を超えて世界に広まっていきました。 今日、「越境する文化」 という現象は「地球の文化」というものを生み出そうともしています。
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西洋の帝国主義を批判的に分析したカール・マルクスは、��学について 「国や 04地方に属する固有な文学がやがて普遍的な世界文学を生み出す」と予見しました。普遍性のある文学とはどういうことでしょうか。 世界中の人々が同じ文学を読むということではありません。 それは、西洋人が日本や中国の小説、アフリカや中南米の小説を読み、 中南米の人々も自分の属する地域以外の文学を読む、このような相互の交流によって、 ある 「地方」 に生まれた文学が 「普遍性のある世界の 文学」となっていくということを意味します。
05 音楽においてもグローバル化の現象は存在しています。 まず、西洋音楽が世界 に広まりました。 日本人の指揮者やニューカレドニア出身の歌手が活躍するように、西洋音楽は世界中で演奏されています。 一方、最近の傾向として、ヨーロッパは、アラブ、インド、 日本、 中南米、アフリカなど、世界中の音楽に門戸を開き、受け入れるようになってきました。
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映画について、アメリカ映画が世界の映画市場を支配していることを指摘するだけでは充分とは言えません。 たとえば、フランスをはじめとしてヨーロッパでは、インドや日本、中国などの映画が配給されるようになってきています。 こうした 「トランスカルチュラル」な市場の成立は、それぞれの国や地域から生まれた固有の文化として映画を守るだけでなく、あらたな映画製作の可能性を広げることにも貢献しています。 黒澤明の映画はフランスや他の西欧諸国の映画文化に受け入れられ、新しい市場を見出したことにより、黒澤はさらに映画を撮り続けることができたわけです。 また、アンダルシア地方の固有な文化であるフラメンコをはじめとして、世界に無数に存在する地方に根付いた芸術表現や芸術様式の多くが、そのオリジナルのスタイルは遠く離れた異国のアマチュア愛好家によって守られているという現象もあります。
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思想や学問、文明などの動きはきわめてゆっくりしたものです。 ヨーロッパで『易経』や『バガヴァッド・ギーター』 (インドの古典『マハーバーラタ』の一章) などアジアの古典文献が翻訳され、非西洋地域の文明についての研究が始まったのは19世紀になってからのことです。 20世紀に入ると文明史の研究が進み文学作品も紹介されるようになり、20世紀末には東洋の思想や宗教のいくつかの要素が欧米に入り込んで影響を与えるようにもなってきました。 たとえば、 仏教は���メリカやヨーロッパにも信者を得て、 その思想がよりよく理解されるようになりました。 東洋医学も認知され、 鍼治療はヨーロッパの大学の医学部や病院に導入されています。 西洋哲学は非西洋の哲学よりもすぐれており、支配的な立場にあって当然である、 というような考えはたしかにまだ残っています。 しかしながら、「越境する文化」の時代をむかえ、ヨーロッパは世界の中心ではなく、理性や真理を独占的に所有しているわけでもないことが理解されてきています。 要するに、ヨーロッパもこの地球上の一つの地方にすぎないと認識するようになってきたわけで、これは重大な転換と言わなければなりません。
8 産業化される文化— 「生産」 と 「創造」 の葛藤
09 今度は「越境する文化」という現象について、 メディア文化や大衆文化の視点から考えてみたいと思います。 この分野でも普遍化への大きな流れが認められますが、それは標準化、あるいは画一化、単純化が勝利したことを意味するのでしょうか。たしかにそういう面はありますが、それだけではありません。映画を例に説明しましょう。実に多くの要素で構成される映画は、俳優、音楽家、装飾家、衣装係など、さまざまなアーティストが参加する共同作業で作品ができあがるもので、芸術製作の方法という点で大きな革命を引き起こしました。 一方、ハリウッドでは、最大利益の追求という論理のうえに映画産業なるものが発展しましたが、その過程で作品を画一的にそして凡庸なものにしてしまうことも少なくありません。そして、ここにもパラドクスが生じています。つまり、文化産業というものは独創性や個性、あるいは才能と呼ばれるものを排除することはできない、むしろ必要としているということです。映画を作ることと自動車や洗濯機を作るこは同じではありません。 何らかの標準的な製作方法によって構想された映画であっても、やはり個性、独創性、独自性というものがあるはずです。 文化産業に属するものはすべて映画がその典型例と言えますがその中核部分に絶えざる対立があり、しかもそ���対立は相互補完的でもあります。 すなわち、 「創造(création)」 という個別的で芸術的なものと、 「生産 (production)」という産業的で商業的なものが対立すると同時に互いに補い合う関係にあるのです。 この対立は時として 「生産」 が 「創造」 を抑圧したり、押しつぶしたりする事態を招き、その結果、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムやオーソン・ウェルズのようにハリウッドから立ち去ることを余儀なくされた映画人もいます。 しかしながら、一方では芸術的創造性ゆたかな作品が絶えることなく作られてきました。 もちろん、 ステレオタイプで画一的な作品も存在しますが、 それでもステレオタイプをほとんど神話のようなアーキタイプ (原型となる作品) に変えてしまうような力のある作品があることもやはり事実です。 たとえば、ジョン・フォードによる西部劇の名作はそのような神話性をもったアーキタイプと考えられると思います。
10 文化産業は、 創造性や芸術の可能性を破壊すると同時に呼びさますという矛盾 を抱え、しかもこの内なる矛盾によって活力を与えられています。 この矛盾は一方で集中型で官僚的、 資本主義的な組織体制で文化を 「生産」 し、 また一方で 「生産」される作品には独創性や創造性が要求されるという対立に進展します。 この意味において、 「生産」 は 「創造」を必要としているわけです。 同じような対立は文化を受容し、 消費する一般の人々にも見出すことができます。 標準化された作品に満足する人々が多いことは事実ですが、 文化を受容する方法や形態の個別化も進んでいます。これはメディア文化に顕著である「トランスカルチュラル」な現象と考えてよいでしょう。 このようにグローバル化や普遍化のプロセスは画一化や均質化だけでなく、創造性や多様性や個別化をともなうものです。 そして、この対立と葛藤がある限り、文化的な活力は保たれるのだと思います。
●地球のフォークロア
12 文化が普遍化していく過程で地球規模のフォークロアが成立します。 地球の フォークロアというのはアメリカ映画の神話性のある作品だけではなく、フランスで言えば 『三銃士』 のような冒険活劇小説、ローマ帝国の伝説や神話、あるいはその他の地域の冒険譚などを土台に、つまりある地域の文化を基盤に作品や文化の無数の出会いによって形成されていくものです。世界各地に広まった地球のフォークロアの例として、ニューオリンズを基点としながら、さまざまなスタイルに枝分かれしたジャズがまず挙げられます。 他にも、ブエノスアイレスの港湾地区で生まれたタンゴ、キューバ発祥のマンボ、ウィーンのワルツ、アメリカ生まれのロックなども地球のフォークロアと言えるでしょう。 とくにロックは、インドのラヴィシャンカールのシタール、ウム・カルスームのアラブ歌謡、アンデス地方のワイノなどを取り込み、地球のフォークロアとして一層豊かなものになりました。
13 このフォークロアのより深いところで何が起こっているかというと、それは文化の「混淆・異種交配 (métissage) 」 と 「共生 (symbiose) 」 です。 たとえば、 ジャズはアフリカ系アメリカ人のハイブリッドな音楽としてニューオリンズに誕生しました。 その後、 さまざまに変容を繰り返しながらアメリカ全土に広まりますが、新しいスタイルのジャズがそれ以前のスタイルを消去してしまうことはありませんでした。 やがて、 黒人だけでなく白人もジャズに耳を傾け、踊り、そして演奏するようになり、 黒人と白人とが共有する音楽となったのです。 こうして次々と新しいスタイルのジャズが世界中に広まり、 演奏される一方で、 発祥の地で忘れられていたニューオリンズの古いスタイルが外国から里帰りをするということもありました。 ジャズにみられるような現象は数多く、 世界中に広まっているロックはまさに 「越境する文化」 を実現してきたと言えます。 一例を挙げれば、 ロックと北アフリカの音楽とが出会い、両者の混淆を経てライという新しいジャンルが生まれました。 さらに、 ワールドミュージックと呼ばれるジャンルになると、単に複数の音が混ざり合うだけでなく、世界各地のリズム、 主題、 音楽性が出会い、予期せぬ結びつきから新しい芸術が生まれます。 こうした結びつきは好ましくない結果を生じることもありますが、多くは素晴らしい結果を生み出して、世界の音楽文化は地球時代の申し子であることには気が付かぬままに互いに豊かになっていくのです。
●文化の独自性を守りながら、 雑種性・混淆を促すこと
15 これまで述べてきたグローバル化のさまざまな現象が進行すると同時に、自らの根源、ルーツに回帰しようという動きも生じています。 その現象は音楽の分野でとりわけ顕著に認められるものです。 フラメンコについてお話ししましょう私はジャズだけではなく、フラメンコの大ファンでもあるので個人的な思い入れがたいへん強いのです。一時期フラメンコはその発祥の地であるアンダルシア地方で消滅しかけていましたが、自分たちのアイデンティティを守ろうとする若い世代によって復活することになりました。 さらに、CDや公演の国際マーケットがこの「復活」を後押しして、世界中でフラメンコ愛好家が倍増しました。 パリには倉庫を改造したフラメンコ・クラブがあり、スペインからフラメンコ舞踊団がやって来て上演しますが、その後彼らはヨーロッパ各地を巡業して回ります。こうした経験がフラメンコ自体にあらたな活力を与え、フラメンコは本来の芸術として活性化され、 復活する一方で、 異なる音楽形式とも結びつき、 源泉への 「回帰」と「混淆」という対立しているかにみえるけれども、 実は相互補完的なプロセスを体現しています。 ヨーロッパではバスクやケルトなど、そしてアフリカやアジアにおいても、 若い世代が伝統的な音楽を、 楽器を、 歌を守ろうと必死になっています。 ここでも 「トランスカルチュラル」な市場はそれぞれの音楽の伝統を守る運動を支えながらも、 同時に音楽的な多様性を育んでいるのです。
16 固有の文化を守らなくてはならないが、同時に文化は世界に向かって開かれな ければならないこのように、 私たちが直面する文化の問題はきわめて複雑なものです。 この問題を考えるにあたって、いかなる文化もその起源においては純粋なものではないということをまず理解しなくてはなりません。 いかなる文化も、その起源においては接触や結合や融合や混淆があり、純粋なものではありません。また文化というものは異質な要素を自らのうちに取り込み、同化させることができますが、これは充分な活力を持った文化であればの話です。 活力が充分でない文化は、より強い文化に同化し、支配され、 そして自らは解体してしまうこともあるでしょう。 文化というものはすべからく豊かなものですが、 不完全なものでもあります。 ちょうど人間と同じで、よいところもあれば欠点も欠陥もあり、常に突然の死を迎えるかもしれない危険とともに生きているのです。
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私たちには二つの相矛盾する複雑な至上命令が下されています。 その矛盾を解消することはできませんが、この矛盾こそが諸文化の生命には必要だとも思います。 その二重の命令にしたがって、 私たちは諸文化の独自性を守ると同時に混淆や雑種性を促していかなくてはなりません。 文化的アイデンティティを守ること、雑種的でコスモポリタンな普遍性を押し進めること雑種性が個々の文化のアイデンティティを破壊する可能性があったとしても、この二つを結びつけなくてはならないのです。
18 どうすれば、 「解体」することなく 「統合」 することが可能なのでしょうか。この問題はアマゾン・インディアンやイヌイットのような少数民族にとっては深刻な問題を投げかけています。 というのは、彼らにとって 「統合」 はポジティブなものではなく、むしろ文化あるいは社会そのものの解体を意味することにもなるからです。 技術や医学など、 現代文明から有益なものを取り入れてもらうことは望ましいと思いますが、同時に彼らが代々伝えてきた民間療法、シャマニズム、狩猟の技術、 自然についての知恵などを守っていけるように支援しなくてはなりません。 伝統と近代、 文化と文化の架け橋が必要になるわけですが、人種的混血だけではなく、むしろ文化的に混血の人々がその架け橋の役割を果たすことができるではないかと私は考えています。
19 今日の文化のグローバル化の進展はメディアネットワークや再生技術 (DVDやCD)の世界的普及と分かちがたい関係にあり、インターネットとマルチメディアがすでに述べたような多様性や、競合 対立するプロセスすべてを加速し、 増幅させていくことは間違いありません。 しかしながら、 私は書物が消滅してしまうとは思いませんし、映画がテレビに圧倒されて消滅するとも思っていません。書物は思索と孤独と再読の友として、映画は映画館の暗がりのなかで共感をもたらすものとして、つまりは文化として生き残り、それぞれへの回帰現象すら起こるように思います。
20 画一化や利益追求のプロセスは急激に進展していますが、にもかかわらず多様化のプロセスと個人化・個別化への要求によって逆向きの運動も起こっています。
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cookingarden · 5 years ago
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デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』
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「クソ面白くもない仕事」の告白事例で埋め尽くされた本書は、読むものをブルシット・ジョブの疑似体験へと誘う。おまけに攻略対象は、小さ��のフォントで構成された426ページ、648グラムという結構な大著だ。デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』は、読むのに覚悟を必要とするたぐいの本である。
しかし、本書を読み終えるころには、グレーバーが投げかけるクソ面白くもない話の深刻さと、それに立ち向かう彼の粘り強い思索にどっぷりと浸かることになる。本書には、現代社会が抱える仕事の欺瞞、不毛な労働、ケアリングの不当な扱いの実態と問題の告発、その解決に立ち向かう反逆者グレーバーの奮闘ぶりが溢れている。
著者のデヴィッド・グレーバーは、「ウォール街を占拠せよ」運動を主導し、"We are the 99%”のスローガンを作ったことで知られる。この『ブルシット・ジョブ』は、文化人類学の精神に立ち現代の経済と労働の問題に切り込んだ、過激で情熱的そして人間味のある一冊である。
CONTENTS
「クソ面白くもない仕事」の蔓延と欺瞞的な実態
なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?
世界的パンデミックで露呈した身近なブルシット・ジョブ
足を引っ張る道徳的羨望
あらっぽいマルクス主義のススメ
生活を労働から切り離すためのベーシック・インカム
避けるべきだが避けられない本書の要約
「クソ面白くもない仕事」の蔓延と欺瞞的な実態
この本にはにはさまざまなタイプのブルシット・ジョブが登場する。それは著者の分類に従えば、取り巻き型、脅し屋型、尻拭い型、書類穴埋め型といったものだ。グレーバーはこれらの「クソ面白くもない」仕事は、金融、教育、コンサルタントなどの業界を中心に、とりわけ、わけのわからない横文字の職業に蔓延しているという。
本書に登場するブルシット・ジョブはあまりにも多様で何を例示するか悩ましいが、ひとつだけ取り上げるとすれば、経営管理型の大学などはその最たるものだろう。例えば、1985年から2005年の20年間で、アメリカの大学における管理業務サービスの供給量は大幅に増えている。驚くのはその内訳である。同期間に増加した学生数の伸びは56%だったのにたいし、職員数は240%に増えたとある。(p.214)本書の文脈に従えば、この20年間で大学の職員は大量のブルシット・ジョブ労働者を抱え込んだ可能性がある。
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しかし、本書が指摘するのはブルシット・ジョブの増殖ぶりだけではない。その「クソ面白くない」仕事に、高額の給与が支払われている実態も描かれている。典型的な事例は次のようなものだ。
大手デザイン会社の「インターフェイス・アドミニストレーター」だったエリックは、仕事のあまりの無意味さに抗議するため、遅刻、早退、ランチでの飲酒、デスクで小説を読む、勤務中の三時間を散歩に充てるといった反乱行動に出た。しかし、会社の反応は彼の期待を裏切るものだった。エリックは次のように告白している。
辞めようとしたところ、上司が2600ポンドまで給料を上げようと提案したので、しぶしぶ受け入れました。あの人たちがわたしを必要としていたのは、まさに、あの人たちが実行していほしくないことを実行する力量が、私になかったからで、あの人たちはわたしを繋ぎ止めようとして、すすんで金を払おうとしたのです。(p.104)
エリックの仕事ぶりはひどかったが、上司にとって不都合な仕事をする人物でなかった。彼らにとって、部下の一人がサボろうが酒を飲もうが関係ない。エリックはプログラミングや何かの開発といったことはできなかったが、Eメールのリストから上司が必要とする相手のアドレスを検索して示すことはできた。上司はそれだけの仕事に、2600ポンド(約36万円)の給料が支払われてもよしとしたわけである。エリックが反乱を起こそうとした気持ちはよく分かる。
この事例のようにグレーバーは、ブルシット・ジョブは公共部門に限らず民間部門にもはびこっているという。そうであれば、公共部門よりも民間部門の方がスリムで効率化されているという一般の認識には、かなりの思い込みが含まることになる。
例えば、本書に掲載されている「企業労働の実態報告」からの抜粋によれば、アメリカの事務員が本来の業務に注いでいる時間は、2015年から2016年の1年間で、46%から39%に低下しという。本来の業務を圧迫しているのは、無駄な���議、管理業務、Eメールなどの増加によるものだ。(p.46)
社会的な貢献と報酬の不可解な関係は、医療従事者の間にも広がっている。ハンス・ロスリングがいうように、この200年間で人類は大幅に寿命を伸ばし経済的にも豊かになった。その伸びは寿命で4倍、収入で70倍にもおよぶ。このうち健康は医療の進歩によってもたらされたと、多くの人が信じている。
しかしグレーバーは、寿命が伸びた最大の理由は医療そのものよりも、衛生学や栄養学、そして公衆衛生が改善されたことに起因している、というよくある指摘を引き合いに、次のように述べている。
病院では(きわめて給与の低い)看護師や清掃員こそが、(きわめて高額の給与を受け取っている)医者たちよりも、じっさいには健康状態の改善によりおおきな貢献をなしていると言えるかも知れない。(p.277)
この年収格差がどの程度のものかといえば、2017年の米労働省労働統計局の職業別雇用・推定賃金に関するデータによれば、トップ10の9位までを医者が占めておりその平均額は約2500万円である一方、本書に示されている英国の病院の清掃員の年収は180万円でしかない。(p.276)国が異なり厳密な比較とは言えないが、両者のあいだには14倍もの開きがある。程度の差はあれ、こうした格差は多くの国でも共通の傾向だろう。
もしグレーバーが指摘するように、健康状態の改善に実質的に寄与しているのが医療現場で働く看護師や清掃員であるなら、この格差はあまりにも大きいように思える。医者が行う専門的な治療行為の貢献はあるにせよ、健康改善への貢献はどこまで評価されているのだろうか。
こうした事態についてグレーバーは、「こうした傾向が続けば、10年と待たず、アメリカのオフィスワーカーのなかで実質のある仕事を行う者は存在しなくなるだろう」と述べ、労働時間の50%以上がブルシットな仕事に費やされていることに警告を発している。これはブルシット・ジョブが経済や経営の無駄を招くという理由からだけではない。ここには、世界に何の影響も及ぼさないと自分自身が考えている労働者と彼らが過ごす時間、つまり人間的な無力感と空虚な世界が社会に蔓延することへのグレーバーの強い危機感がある。
なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?
それでは、「クソ面白くもない仕事」はなぜこうも増え続けているのだろうか。グレーバーによれば、ブルシット・ジョブは社会を占める物質生産の割合が減り、金融や情報などの抽象物を操作する仕事が増える過程で増えてきたが、そこには政治的な思惑が関係しているという。
ブルシット・ジョブが政治的な力から生まれるとする説明にグレーバーが繰り返し引き合いに出すのが、オバマ大統領の医療保険制度改革に関する発言である。当時オバマ大統領は、民意であった公的保険ではなく、民間企業の手を借りた健康保険制度を選んだ。その理由はつぎのようなものだったという。
単一支払者制度のよる医療制度を支持するひとはみな「それによって保険やペーパーワークの非効率が改善されるのだ」といいます。でもここでいう「非効率」とは、ブルークロス・ブルーシールドやカイザー(いずれも保険会社)などで職に就いている100万、200万、300万人のことなのです。この人達をどうするんですか? この人達はどこで働けばいいのですか?」(p.210)
単一支払者制度とは、ヘルスケア原資を単一の公的機関によって負担する仕組みで、いわゆる公的保険制度にあたる。つまり上の発言をしたオバマ大統領は、公的保険であれば300万人の仕事がなくても保険制度が成り立つと認め、しかもそれによってペーパーワークなどの非効率な仕事、つまりブルシット・ジョブがなくせると知りながら、政治的な思惑によって公的保険制度は望ましくないと判断したことになる。
オバマ大統領がこのように述べた背景には、「この人達をどうするんですか?」の発言に示されている通り、完全雇用の含意にもとづく300万人の雇用があったと思われる。それが文字通りの「完全」ではないせよ、雇用の確保は国民との間に交わされたひとつの合意事項ではなかっただろうか。
グレーバーはこうした政治的判断は民間企業にも当てはまるという。生産性の向上に見合った設備投資や給料に回す以上の利益が上がるようになると、忠実なる協力者に報奨を与えることで不満分子を買収したり、経営的なヒエラルキーの維持や再生産に回すためのお金や仕事が生まれるようになる。こうした経営的な思惑は、まさに政界のそれと同じだというわけだ。
この一連の話のなかで、政治の世界の完全雇用にあたる民間企業の含意が何かといえば、それは技術の発展への信頼ではないだろうか。産業革命からはじまった機械化は生産の効率向上をもたらし、その利益を物質的な再分配を超えて抽象的な領域へ注ぎ込ませる力となった。この新領域が生まれたのは経営者の意志というより、技術発展の自動作用だっただろう。そうであれば、民間企業にとって技術の発展は、経営を支える前提としての含意だったことになる。経営の前提に技術の発展があればこそ、事業家は経営的な思惑を資金の運用や人材に向けることができたと考えられる。
新たな領域にお金が回るようになった当初、企業家の思惑が社会に与える影響力は限られていた。しかし、1900���代の終りにコンピュータが普及すると、もともと記号であるお金と記号を操作する機械のコンピュータが相乗効果を発揮しはじめ、金融業や情報産業などの新しい業界と新市場が生まれた。その成長は著しく、結果的に利益の抽象的な再分配は産業全体におよぶようになった。この機械的な効率性の向上をベースとした、非物質的な抽象価値のハンドリングこそが「クソ面白くもない仕事」の温床と考えられる。前掲のエリックは、まさにこうした業界で上司に依頼されたEメールの検索だけで一日を過ごし、2600ポンドの収入を得ることになった。そのエリックが「クソ面白くもない」日常に反抗を試みたのは上述の通りだ。
そうだとすれば完全雇用と技術の発展は、ブルシット・ジョブの両輪を担ってきたことになる。もし、どちらかの合意が欠けていれば、「クソ面白くもない仕事」がいまほど増え続けることはなかっただろう。しかしその一方で、効率がわるく失業者も多い事態を意に介さない社会が、失業者を救済する手段を持たなかったら、もっと悲惨なことになっていたことは明らかだ。そしていずれの混乱も因果関係からいえば、技術の発展が政治的な思惑の生みの親だった。
このことは未来の労働について深刻な問題を提起する。ブルシット・ジョブを生み出す本質が技術による効率向上であるなら、純粋機械生産が予想される未来は、いま以上に「クソ面白くもない仕事」が蔓延する社会になりかねないからである。
世界的パンデミックで露呈した身近なブルシット・ジョブ
本書にはエリックに似た境遇にある人々の告発が次から次へと登場する。それらは、ブルシット・ジョブを対岸の火事のように見ている多くの読者には、あまり現実味のない記述かもしれない。しかし、後半に差し掛かり、なぜ無意味な雇用が停止できないのかとグレーバーが問うあたりから、話はにわかに現実味をおびてくる。なぜなら、コロナウィルスの流行で、世界のいたるところで起きている通常業務の停止が、自分の置かれた状況に似ていることに気づくようになるからだ。
会社に行かなくなれば、デリケートな人間関係や、無駄を前提に成り立っていた仕事はやりにくくなる。存在自体に気を配ることが評価される取り巻き型の仕事、システム化の遅れが仕事の源泉だった書類穴埋めの仕事などは真っ先に機能しなくなる。
わたしたちはいま、まさにその只中にいる。事実、コロナ禍で国単位のロックダウンが敷かれたり、ホームステイやホームワークが強要されたことで、「クソ面白くない」仕事の多くが機能不全に陥った。いまわたしたちは、これまでやむを得ず受け入れていたブルシット・ジョブにどれだけの価値があるか、その真贋が強制的に問われる壮大な社会実験に投げ込まれている。強制的とは、コロナウィルスがもたらしたロックダウンや行動自粛といった、人間の自由を規制するフィルターが、人びとの自由な意志を超えて作用している状態を指す。
そして社会のいたるところで、既存のブルシット・ジョブの多くが現役を退き、反対に新手の不毛な仕事が生まれたり顕在化するようになった。書類に赤い印を押すハンコや、デジタル化から取り残された紙の書類が自分を縛り付けてきたことが、日本のあちこちで問題として浮かび上がりはじめたのだ。ウィルス感染を恐れながら職場まで移動し、紙の書類に捺印するだけの仕事は、仕事を任された者にとって「クソ面白くない」ばかりか、コロナ感染の危険を伴う。その仕事ははたして、内容や危険に見合ったものなのだろうか? この問いが現実の問題となったのは、コロナ禍によるフィルターが機能しているからだ。
その一方でフィルターは、一部のシット・ジョブが実はエッセンシャル・ワークであったことを明らかにした。混乱に陥ってはじめて、社会を根本で支える医療従事者、介護福祉士、スーパーの店員、清掃作業者、宅配��転手、さらには教師や消防士や料理人など、現場で働く人々の仕事の重要性が再認識されるようになった。
しかし、彼らの仕事の中身と待遇は多くの場合エリックとはまるで正反対のものだ。社会を動かすのに不可欠な仕事への見返りは、その貴重さと激務にとうてい見合うものではない。反対に、ロビイスト、ヘッジファンド・マネージャー、コンサルタント、弁護士といったエッセンシャル・ワーカーの対岸にいる人々の多くは、コロナ禍によるフィルターの存在を気に留めることが少ない。なぜなら、出社を制限されたからといって、彼らの仕事の負担が増えたり給料の支払いが滞ることはほとんどないからだ。
こうした事態は2020年のいま、コロナウィルスの流行により世界中で起きている現実だが、グレーバーはいまから7年前、2013年の小論のなかでこの事態を描写している。そのとき彼は、「特定の職種の人びとが消え去ってしまったらどうなるか」という「思考実験」を提起したという。その内容は次のようなものだ。
もしある朝起きて看護師やゴミ収集に従事している人びと、整備工、さらにはバスの運転手やスーパーの店員や消防士、ショートオーダー・シェフたちが異次元に連れ去られてしまったとすれば、その結果はやはり壊滅的なはずだ。小学校の先生たちが消え去れば、学校に通う子どもたちのほとんどが一日や二日は大喜びするだろうが、その長期的な影響は甚大だろう。(p.273)
実験の結果をグレーバーはどのように想像しただろうか。要約すれば、「仕事の社会的価値とその対価として支払われる金額は倒錯した関係にあることが明らかになる」というものだ。そしてグレーバーはこの予想される事態を「ひそかにだが、ケアリング階級の反乱、と呼ぶようになった」と書いている。ひそかにと言うのは、反乱が自分にとってもケアにかかわる人びとにとっても、内心に留まっているという意味だろう。
しかし、現実は予想外の展開になった。グレーバーが思考実験を行った7年後、コロナ禍のフィルターがケアリング階級の内心を飛び越えて強制的に反乱を引き起こしたのである。政府は生活者や小規模事業者に莫大な補償をしなくてはならなくなった。よもやグレーバーは、彼が提起した「思考実験」が、その後のパンデミックによって世界中で強制執行されようとは思いもしなかっただろう。そして彼の予測した「倒錯した関係」が現実のものとして露呈したのである。
足を引っ張る道徳的羨望
しかし、世界的なパンデミックが終わればこの事態はもとに戻り、再び「クソ面白くもない仕事」が再開し「倒錯した関係」が再現されるのだろうか。もちろん、それでいいわけがないというのが、本書の基本的なスタンスだ。それではこの問題の出口は、いったいどこにあるというのだろう? グレーバーは「この状況に対してなにをなしうるのか?」と題した最終章で、道徳的羨望、上出来のロボット、ベーシック・インカムの三つの話題を取り上げている。
道徳的羨望とは、自分もそうでありたい美徳が相手によって高度に示されたとき、自分の内部で起こる妬みの感情を指す。多くの場合その妬みには羨望や反感をともなう。グレーバーがこの感情を取り上げるのは、道徳的羨望は労働を取り巻く政治に微妙な影響をおよぼすと考えているからだ。(p.321)
例えば、貧困者にたいする怒りは、働いていない人にも働いている人にも向けれるという。なぜなら、前者は怠惰だから後者はブルシット・ジョブではないから、というそれぞれの理由で怒りに変わるからである。これでは、「クソ面白くもない仕事」をしながら生活に困らない給料を得る人びとと、労働に見合わない条件のもとで現場で奮闘するエッセンシャル・ワーカーとが、共通の政治的な解決策について共闘するのは難しい。
仮にベーシック・インカムが実施され、給与水準の低いエッセンシャル・ワーカーの所得が引き上げられる提案が出されたとする。それによって現場で働く人びとの給与水準が、ブルシット・ジョブを過ごす人びとのそれに近づけば彼らのなかに、現場の連中は十分な働きがいを得ているくせにという理由で、自分たちよりも総合的に生活が上がることへの妬みが生まれる。
このような道徳的羨望が人びとの心に潜在する限り、その政策課題が多くの人びとから支持を得ることはできないだろう。これは、ベーシック・インカムで労働意欲が低下するとされることへの反証に比べ、科学的な取り扱いが難しい点で解決がやっかいだ。この点についてグレーバーはこれといった解決策を示していない。
あらっぽいマルクス主義のススメ
次の話題に移ろう。上出来のロボットがブルシット・ジョブの解放に役立つかという点はどうだろうか。これについてグレーバーは、いささか皮肉に満ちた言い回しでノーを突きつけている。彼が引き合いに出す未来のロボットは、SF作家スタニスワフ・レムにその発想源を求めたものだ。グレーバーは、いっさいの管理も指示もなしに作動するロボット「ニューマシン」が活躍するある星の出来事として、およそ次のような逸話を記している。
ニューマシンの配備が進むことで、働き口を失った労働者はバタバタとハエのように死んでいった。あるとき異星人が訪れ、ニューマシンの恩恵がみなで受けられるように、工場を社会の共有財産にすれば済むはずだと提案した。しかしその星の国民は、「我が星の最高法は貴族が自分の財産を享楽したがっている限り、何人もそれを取り上げることはできないことを受け入れている、バカなことをいわないでほしい」と懇願した。こうして、消費者としての労働者は追いはらわることになった。(pp.334-336の要旨)
この逸話についてグレーバーは、「苦役を排除するというような見通しが、あってはならない問題とみなされるという事実以上に、その経済システムが不合理であることを示すしるし(サイン)は想像がむずかしい」と述べている。(p.336)わかりにくい言い回しだが、これは、純粋機械生産のような不幸な未来を考えるのはどうかしているという以前に、そうした未来の経済システムがとうてい成立しない証拠をあらかじめ見つけることはむずかしい、ということだろう。彼は「いくぶんかのあらっぽいマルクス主義こそ、ときにわたしたちには必要なのである」とも書いている。グレーバーは、そもそも人間が労働しないことを良しとすること自体がおかしい、といいたいのだ。
そ���はたんなる願望だろう、労働が苦役になることも多い、そんな声が聞こえてきそうな気がする。そうでなければ、なぜ人類は産業革命から200年以上ものあいだ、機械を発明し省力化に努めてきたのわからなくなる。
しかし、人類が洞窟に壁画を描いたり、道具を生み出してきたのは、耐えられないほどの不便を解消するためだけではなかった。洞窟の先人からこのかた、人びとはその行為自体に生きる価値を見出してきたはずだ。そうでなければ壁画が人を魅了したり、バイオリンやMacintoshのような美しい道具は生まれなかった。このことは、現代の画家、陶工、料理人はもちろん、子どもの世話をする母親や育児スタッフもおなじだ。
これらの労働に共通していえることは、直接的な労働には何かしらの価値や喜びがあるということだ。これがグレーバーのいう「あらっぽいマルクス主義」の意味ではないだろうか。
それではもうひとつの、未来のロボットは人類全体の共有財産になるはずだという異星人の提案はどうだろうか。これについてグレーバーは、不可能ではないかも知れないが、深刻な自己矛盾を抱え込むことになるだろうという。その根本的な考え方は、「自動化は特定の作業をより効率的にするが、同時に別の作業の効率を下げる」というものだ。(p.337)その理由としてグレーバーは、エッセンシャル・ワーカーの仕事の本質をなすケアリングの価値は、超大な量の人間的労働によらない限りデータ化してコンピュータに取り込むことができないからだという。
おそらくこれには、汎用人工知能の研究者あたりから多くの反論がありそうだ。よく言われるようにコンピュータは単純作業の自動化からはじまり、次第にできることの範囲や能力を広げてきた。例えば、マックス・テグマークは『LIFE 3.0』のなかでハンス・モラヴェックが描いた「人間の能力のランドスケープ」を引き合いに次のように述べている。
その重大な海面レベルに相当するのが、機械がAIを設計できるようになるレベルである。この転換点に達するまでは、海面上昇は人間が機械を改良することによって起こるが、転換点以降は、機械が機械を改良することによって促され、人間が進めていたときよりもはるかに速く進んですべての陸地があっという間���浸水する可能性がある。(Kindleの位置No.1000-1003)
実際のところつい数年前には、人工知能を鍛えるには大量のデータを人間がコンピュータに与える必要があると考えられていた。しかしいまでは、例えば画像認識の分野のように、人工知能が自らデータを生成するデータ拡張(Data Augmentation)といった手法のおかげで手作業は格段に少なくなっている。グレーバーがいうデータ化のための人間的労働がいつまでも人間固有の能力を必要とするとは限らない。
生活を労働から切り離すためのベーシック・インカム
しかし、これまで見てきたように、グレーバーは労働の正の側面に期待を寄せている。むしろ、多少シンドくても充実感をともなう労働、すなわちケアリングのような仕事に「あらっぽいマルクス主義」の価値を認めることが必要だという。「クソ面白くもない仕事」は、クソ面白くないから苦役なのだ。そうなると問題は、いかに人びとをブルシット・ジョブから解放し、ケアリング労働の価値自体は残しながら、労働と対価の倒錯した関係を修復できるかに集約されることになる。
その点でグレーバーは、ブルシット・ジョブから逃れるための政策としてベーシック・インカムが有効なことを認めている。このベーシック・インカムは、今回のコロナ禍で一人あたり10万円の特別給付を受けた日本人にとって、馴染みのある方法だ。一回限りであるうえに非課税である点など、本来のベーシック・インカムとは異なるところもあるが、生活の困窮の解消に向けた施策が広く経験できた意義は大きい。これもまたコロナ禍のフィルターによる強制力がもたらしたものだ。
しかしグレーバーは、本書の内容や彼の考えが政策と受け止められることには抵抗があるという。彼が本書を執筆したのは政策を示すことではなく、あくまで「問題--ほとんどの人びとがその存在に気づきさえもしなかった--についての本なのだ」と述べている。彼がこのことを強調するのは、政策課題は人びとの目に止まりやすく、すぐにそれが有効かどうかに心を奪われ、考えに至った事情を見えにくくするからだという。そもそも政策という考えがうさんくさいとも述べている。
政策を明示することにこれほどの抵抗を示しながらも、しかしグレーバーは、ベーシック・インカムはブルシット・ジョブの削減に効果があるひとつの解決策だという。その最大の理由は、ベーシック・インカムによって生活から「クソ面白くもない」仕事を切り離すことができるからだ。このときしばしば指摘されるのが、無条件にお金を分配すれば、好きなことにうつつを抜かしたり労働意欲を失う人たちが増えるという問題だ。これに対してグレーバーは次のように書いている。
洞窟探検をおこなおうが、マヤ族の象形文字を翻訳しようが、高齢セックスの世界記録を打ち立てようとしようが、なんの問題もない。好きなことをやればよいのだ! 結局、何をやることになるにしても、履歴書作成セミナーに遅刻した失業者に罰則を科したり、ホームレスが三種類のIDをもっているかどうかをチェックするよりも、みんな、ほぼ確実に幸福になるはずだ。そしてかれらの幸福は周囲にも跳ね返ってくるであろう。(p.359)
こうしたことのすべては、あきらかにつぎのような想定にもとづいている。すなわち、人間は強制がなくとも労働をおこなうであろう、ないし、少なくとも他者にとって有用ないし、便益をもたらすと感じていることをおこなうであろう、と。(p.360)
グレーバーがどれほど性善説に立っているかは明らかだろう。しかし当然ながら、彼はすべて無条件に自由にすればうまくいくと言っているわけではない。あまりにも多くのブルシット・ジョブを余儀なくされている人びとがいる、つまり自分の仕事をバカバカしいと感じている人びとがいてその仕事に給料が支払われる一方で、社会を成り立たせる上で不可欠なエッセンシャル・ワーカーには満足な給料が支払われない、この倒錯した状況にいる大多数の人びとを自由にし、人間信頼のもとで救済する必要がある、というのがグレーバーの主張なのである。
避けるべきだが避けられない本書の要約
『ブルシット・ジョブ』は論点を要約するのをためらう本だ。ブツブツとひとりで呟くような文章が延々とつづくからではない。本書の節のタイトルがいつも「終結部���人間の創造性に対するブルシット・ジョブの影響と、無意味な仕事に対して創造的または政治的に自分を主張しよとする試みがなぜ精神的な戦争の一形態と考えられるかについて」といった調子だからというわけでもない。これらの文体や表現の特徴は、グレーバーが思考を煮詰めていく過程を追体験するうえで、むしろ、読む者にともに考えることを誘う効果もある。そうではなく、グレーバーはどうやら、わかりやすさの弊害に敏感なのだろう。まとめることを拒否しているように思えるのだ。
こうした事情を考えると、この本の要約は避けるべきなのだろう。しかし、それはわたしにとって、グレーバーの気分に引きずられ過ぎだとも思う。やはり、自分のためにこそ、この貴重な読書体験で得たことを記録するのが凡人の努めであるはずだ。
わたしが本書から得た著者の考えはこうだ--グレーバーは、ニューマシンのような発達したロボットが、「ブルシット・ジョブ」の解消に役立つとは考えていない。ロボットは苦役としての労働の代替には役立つが、そもそも人間の労働の喜びや働く価値を代替すると期待するべきものでもない。それよりも労働に含まれる価値を認め、「クソ面白くもない仕事」から人びとを解放する必要がある。そして解放された人びととともに幸福を分かつには、社会制度としてのベーシック・インカムが有効である。--これが彼の考え方の骨子だと思う。
こうして、実際に要約を書いてみて気づくことがある。確かにグレーバーが危惧する政策に言及することの危うさがわかるような気がするのだ。要約することでどこか納得した気持ちになった途端に、彼が『ブルシット・ジョブ』のおそらく95%を要して訴えてきた「クソ面白くもない仕事」の複雑でクソバカらしい現実がどこかへ消えてしまうように思えてくる。いったいわたしたちは、すでに受け入れて半ば習慣化している問題について、自分自身の手でそれを克服することができなくなっているのだろうか。そうではないと信じたい。グレーバーは本書の最後をつぎの言葉で締めくくっている。
本書の主要な論点は、具体的な政策提言をおこなうことにはない。本当に自由な社会とは実際にどのようなものなのかの思考や議論に、手をつけはじめることにある。(p.364)
わたしたちも彼に習って、本当に自由な社会とは何かを考えることだけは諦めないようにする必要がある。わたしもその一人でありたいと、この本と格闘しながらその思いを強めた。
更新歴 2020.8.22 初回投稿 2020.8.23 「なぜブルシット・ジョブが増殖しているのか?」の項目を追記
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tkatsumi06j · 6 years ago
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2019-04-15
奇怪なこと
奇怪なことが私の身辺に起こったので、ご報告します。
大変に長くなりますが、事の次第で仕方が無い。
お読み頂ければ大変に幸せです。
話しは2014年に遡ります。
その年の4月末に発売された「ビッグコミック スピリッツ」誌の第22・23合併号に「美味しんぼ 福島の真実編」第22話が掲載されると、突然、新聞、テレビ、週刊誌、インターネットで私に対する非難が巻き起こり、しかも、国会議員、大臣、最後には総理大臣まで乗り出してきました。
安倍晋三首相が「美味しんぼ」を風評被害を巻き起こすと非難するのがテレビで流されました。
その回の「美味しんぼ」で、主人公の山岡が福島の取材から帰ってきた直��に食事中に鼻血を出す場面が描かれています。
この、鼻血がいけないと言うのです。
これでは、福島は放射線量が高くて危険なところであるように思われる。
それは、福島に対する風評被害を生み出す、のだそうです。 「風評」とは「デマ」「うわさ」のことです。
しかし、この鼻血が出た問題は根拠のないことではありません。
私自身が、福島の取材から帰って来た次の日の夕食時に突然たらたらと鼻血が出始めたのです。
私はそれ以前に鼻血を出したことは中学生の時に友人たちとふざけていて、自分で自分の膝に鼻をぶつけたときに一回あるだけでした。
それが、食事中に何もしないのにいきなりだらだらと出始めたので、驚き慌てました。
慌てて、近くのソファに横になりましたが、鼻血は頭を高く上げていないといけないそうで、横になるのは間違いなんですね。
さらに、その頃から、非常な疲労感を覚えるようになりました。
最初は取材旅行が重なったからその疲労なんだろうと思っていましたが、日を重ねてもその疲労感は消えないどころか、ますますひどくなります。
誰かが、私の背骨を摑んで地面に引きずり込もうとしているような感じです。
鼻血は一回だけでなく、翌日また出ました。
私は自分の体験をそのまま「美味しんぼ」に書いたのです。
誰に聞いた物でもなく、噂を書いた物でもありません。
実際に私が経験したことを書いたのです。
私は取材の最後に、2013年4月に、埼玉県に避難していた福島第一原発事故の際の双葉町の町長井戸川克隆さんを訪ねました。
たまたまその際に、偶然、岐阜環境医学研究所の所長の松井英介先生が同席されていました。
松井先生が、「福島に取材に何度か行かれたそうですが、体調に変わりはありませんか」と私に尋ねられます。
で、私が「理由が分からないのに突然鼻血が出まして」といったら、松井先生は「やはり」と仰言います。
同時に、福島取材で色々と力を貸して下さった、斎藤博之さんが、驚いて、「えっ!雁屋さんもなの!僕もそうなんだよ。あれ以来何度か出るようになった。病院に行っても理由が分からないと言うんだ」
すると、取材にずっと同行してくれていた安井敏雄カメラマンが、「僕もそうなんですよ」と言います。
なんと、福島取材に行った我々取材班4人の中の3人が鼻血を出していたんです。
ついでに私が耐え難い疲労感について言うと、斎藤博之さんも、安井敏雄さんも「ああ、私もそうですよ」「いや、ひどく疲れてたまらないんです」といいます。
驚いたことに、それを聞いて井戸川前町長が、「私も鼻血が出ます。今度の町長選の立候補を取りやめたのは、疲労感が耐え難いまでになったからです」と仰言るではありませんか。
さらに、「私が知るだけでも同じ症状の人が大勢いますよ。ただ、言わないだけです」と仰言る。
すると松井英介先生が、「大坂で放射能に汚染されたがれきの焼却処理が行われた際、大阪の市民団体がインターネットで体調変化を訴える声を募ったところ、声を寄せた946人中、842人が、鼻血、目、喉や皮膚など空気に触れる部分の症状を訴えている」と仰言った。
放射線だけの影響とは断定できないと松井先生は仰言ったが、それは大変なことではないでしょうか。
松井先生��説明では、
「鼻の粘膜や、毛細血管細胞の70〜80パーセントは水で出来ている。水の分子H2Oは放射能で切断されて水酸基(-OH)のような、毒性の強いラジカルと呼ばれるものになる。しかも、ラジカル同士がくっつくとH2O2(過酸化水素)になる。過酸化水素はオキシフルとして消毒薬に用いられるくらい毒性が強い。放射能は直接粘膜や毛細血管の細胞・DNAを傷つけるが、同時に水の分子が切断されて細胞の中に出来るラジカルによる作用が大きい」
ということです。
福島で人びとが受けている放射能被害は、福島第一原発から放出された放射性微粒子によるものです。
放射性微粒子は呼吸によって肺から血管に入り体中に回ります。食べ物や水と一緒に取り込まれ、消化器から血管内にはいり込み、やはり体内に回ります。
そのようにして体内に入った放射性微粒子は何処かの臓器に付着すると、その臓器の付着した部分に害を与える。
微粒子一個はマイクロの単位で極めて小さいけれど、付着した臓器の微粒子の周辺の細胞は破壊される。しかも、その微粒子の数が極めて多い。結果的に臓器の被害は大きくなる。
空間線量が1ミリ・シーベルトとすると、その空間に浮遊している微粒子の数はそれこそ無数。
一呼吸だけで何千・何万の放射性微粒子が体内に入る。
一個当たりの微粒子の害は小さくても、それが、何千・何万となると鼻血を出させたり、疲労感を感じさせる原因を作るのでしょう。
(斎藤博之さんは、私達の福島取材の前に、取材に適した場所を選ぶために何度も福島に通い、結果として私達の数倍被爆したことになります。
その後、斎藤さんの体調は回復せず、歯茎からも血が出るようになり、2017年に脳梗塞で亡くなりました。死因が放射能によるものかどうかは明かではありませんが、私が「鉄の胃袋魔神」とあだ名をつけたほど、活発で食欲旺盛だった斎藤さんが、福島の取材を終えた後、鼻血、激しい疲労感、歯茎からの出血などで、衰弱したことは確かです。東北地方の民俗学的知識の豊富なことと言ったら歩く民俗学事典のような人で、おまけにマルクスの資本論は端から端まで頭の中に入っているという凄さでした。例えば、私が、マルクスが、ルイ15世の愛妾・マダム・ポンパドールの「我が亡き後に洪水は来たれ」という言葉を引用したのは何処だっけ、と尋ねたら、ちょっと待ってねと言って、3,4分後に、あれは第1部『資本の生産過程』第3篇『絶対的剰余価値の生産』第8章『労働日』に書かれているよ、と返事がありました。感性豊かで、明敏な頭脳。本当に惜しい人を亡くしました。私にとって真の友人であり、同志でした。斎藤さん本当に有り難うございました。ご冥���をお祈りします。
斎藤博之さんについてはこのブログにも書きました。
http://kariyatetsu.com/blog/1902.php
ご一読下されば幸せです。)
以上に述べたように、私が鼻血を出したことは、また私以外の多くの人間が福島第一原発の事故以後福島で鼻血を出していること、疲労感に苦しんでいることは、事実私が体験したことなのです。
風評でもデモまでもない。
私は、嘘を自分の作品に書くような破廉恥な人間ではありません。
私は自分の書くものは全て第三者にも検証可能な事実しか書きません。
自分で調査した資料は保存してあります。
であるのに、安倍晋三首相を始め、テレビ、雑誌、インターネットでは私の言うことを風評だと決めつけ、私を風評被害を福島に与えると言って非難します。
実に理不尽極まりないことで、私の心は煮えくりかえりました。
ところが、「スピリッツ」誌の編集部は私よりもっと大変な目に遭っていました。
担当の編集者から「朝から抗議の電話が鳴り止まずに、編集部全体が困っています」と聞かされたときには私は驚きました。
読者には私の連絡先が分からないから、安倍晋三首相の言葉を真に受けた人たちが、「スピリッツ」誌に文句を言うために電話をかけてくるのだろうと思いました。
そこで、私は、このブログに「私に文句のある人は、私のこのページ宛てに書いて貰いたい。編集部に電話をかけると、編集部が迷惑するから」と書きました。
それで編集部に対する電話攻撃が収まったから思ったらその逆でした。
「雁屋哲は自分のホームページにこんなことを書いているが、そんな奴の漫画を掲載している『スピリッツ』が悪い」と前より一層激しく電話がかかってくるようになったというのです。おかしなことに、私のこのページには一件も文句の書き込みはありません。
安倍晋三首相の言葉に躍らされて私を風評被害引き起こす悪者扱いするような人たちは、ただ騒ぎたいだけで私に直接文句を言ってくる根性も勇気も無い人たちなのだと私は思いました。しかし、そんな単純なことではないことが後になって分かりました。
鼻血問題が掲載されたのは福島編の第22話です。それから第24話まで2話残っていました。電話をかけ来た人たちは自分たちの抗議に「スピリッツ」誌は恐れをなして、次週から「美味しんぼ」の掲載をやめるだろうと思ったのでしょう。
しかし、第22話が掲載された段階で、花咲アキラさんは第24話まで完成させていました。
「スピリッツ」誌編集部も馬鹿げた脅迫電話に怯むような根性なしではありません。当然、第23話、第24話と最後まで掲載しました。
それで、電話をかけてきた人たちは更にいきり立ったようです。
第23話が掲載された直ぐ後、編集長が善後策を検討するためにシドニーまで来てくれました。
その時編集長から詳しく聞いた話は私の想像を絶するものでした。
編集部には電話が20回線引いてあります。
その20回線の電話に朝10時の業務開始時間から夜7時、時には10時近くまで電話が鳴り止まないというのです。
それもいきなり怒鳴る、喚く。電話を受けた編集者が返事をすると、その返事が気にいらないと喚く。返事をしな��と、なぜ返事をしないと怒鳴る。それが、1時間にわたって続くのです。
編集部員は相手をそれ以上刺激しないように応対するので、神経がくたくたになってしまいます。
編集部員はその度に応対しなければならないし、電話回線は塞がれてしまい、作家との打ち合わせなども通常の時間に出来ない。
そういうことが、毎晩続く。
編集部員は疲れ切ってしまって、このままでは編集作業が出来ないから「スピリッツ」誌を休刊しなければならないかも知れないところまで、追い詰められていると言います。
これには私は驚きました。
こんなすさまじい話は聞いたことがない。
私はこの電話攻撃は大変に不自然だと思います。
私が最初に考えたような単純な問題では無い。
電話をかけてくるのは最初に私が考えたような普通の市民ではない。特殊な人たちだと私には分かりました。
普通の抗議電話とは違います。明らかに、「スピリッツ」誌の編集を妨害して、小学館を傷つけ、「鼻血問題」について謝罪させようという意図を持ったものだと思います。
私個人に対してではなく、小学館を標的にした行為です。
小学館に謝罪をさせた方が社会的に効果が大きいからです。
これは、そのような意図を持った指導者が脅迫のプロたちに命じてさせたことだと思います。
編集部員に対する脅迫の仕方が、あまりに手慣れている。普通の人間には出来ないことです。
世の中には、様々な企業に難癖をつけるのを職業にしている人間がいます。
企業を脅して、嫌がらせを続けて、企業にことを収めるために何らかの金品などを差し出させるのが目的です。
その連中は、プロのクレーマーと呼ばれています。
私は編集長に、そんなことをして来る人間はプロの集団だから相手にしなければ良いと言いましたが、編集長によれば出版社は読者と称して電話をかけてきた相手には丁寧に応対しなければならないのだそうです。
しかも、卑怯なことに私がこのブログに��か書くたびにそれについての文句の電話が殺到するというのです。
実に卑劣な連中です。
私は編集部に迷惑をかけたくないので、しばらくは自分のブログの書き込みをやめました。
小学館は私を守り、「美味しんぼ」福島編も最終回まで、きちんと掲載を続けました。
あの卑劣な集団は目的を達することが出来なかったわけです。
そして話しは2019年に飛びます。
当時の編集長からメールが来ました。
以下に、氏の承諾を得て、そのメールを書き写します。
少し愉快なことがございましたので
ご報告させていただこうとメールをさせていただきました。 昨年の12月に中国と日本の出版ビジネスを手がけている会社から
日中のデジタル・ゲーム関係のフォーラムに
出席しませんかと声をかけられました。
主催は中国の大きなエンタテインメント会社で、
今をときめく成長企業でして
そちらの社内見学もできるということなので
喜んで出席させていただきますとお返事いたしました。
ところがです。フォーラムの主催は中国の会社なのですが
日中のフォーラムということで、北京の日本大使館と
JETRO��日本貿易振興機構)が共催に入っておりまして
仲介をしてくれた会社から「大使館からNGが出ました」という
連絡がありました。
最初「?? 中国大使館からNG?」かと思ったのですが
もちろん日本側からでした。
おそらく僕の名前をネットで検索したところ、
『美味しんぼ』関係でいろいろ出てきたので
経産省か大使館の人がそんなヤツは呼ぶな、
となったのだと思います。僕も大物になったものです(笑)。
僕ではなく他に小学館の人で出席できる人はいませんか?
というので、さすがに日もないのでお断りいたしまして
「誰がいかなる理由で僕はダメと判断したのか」を教えてほしいと
お伝えしたところ、今にいたるまでなんの回答もありません。
お役所のビジネスマナーは楽でいいな~と思いました。
このような影響力のある作品に関わることができて
大変光栄だなと、この年末年始しみじみ考えておりました。
本当にありがとうございます。
さて、この後、この話を私のブログに書いて良いだろうかと、氏に問い合わせたところ次のようなメールを頂きました。
この国は、いったいいつから
こんなつまらないことになってしまったのだろうと
憤慨しております。「忖度」なんて、本当に卑屈な
根性が言わしめる言葉だと思います。
「小学館でほかにいい人いませんか?」というのも
失礼な話です(笑)。
あまりにマナーを欠いた話なので、「経緯を教えてほしい」と要望して
その返事を武士の情けと申しますか、少し気長に待ってあげようかと
しているところです。
いよいよ、これは本当に無視するつもりだなと思ったら、
僕も「ちょっと聞いてくださいよ~」とあたりに触れて回ろうかと
思っていますので、ぜひブログにお書きいただければと存じます。
権力のありようについて、『男組』で雁屋さんが示されていた
社会や、登場人物たちのありようを今一度、みなで振り返る必要がありますね!
さて、この元編集長の味わったと同じようなことを私が味わいました。
それを以下に記します。
それは、今年(2019年)の3月半ば過ぎのことです。
あるテレビ局のディレクター氏からメールが入りました。
「そのディレクターの関わっている番組である食べ物を取り扱うことになったが、その食べ物は、かつて、「美味しんぼ」で取り上げられたことがある。
そこで、番組の中で、「美味しんぼ」のその場面を取り上げたい。
それについては小学館から承諾を得た。
そこで、原作者の私にも承諾を得て、その上、その食べ物を取り上げた「美味しんぼ」のその回について、また、その食べ物について私の話を聞きたいので電話をかけたい、」
と言う内容でした。
その番組の内容からして断る理由は私には全くありません。
私は、承諾して、シドニーの自宅の電話番号も相手に知らせました。
それが週半ばのことでした。
ところが、その次の週の初めに、そのディレクター氏から、
「実はあの後、上司からの進言で方針が番組の内容がガラっと変わってしまい、『美味しんぼ』のカットを使用するという演出自体がなくなってしまいました」
一体これはどう受取れば良いのでしょう。
安倍晋三首相が私のことを「風評被害を流す人間」と非難するのがテレビで流れて以来、私はなんだかおかしな感じを懐くようになったのです。
おかしな感じというのは、テレビ、雑誌、などのジャーナリズム関係の人が、妙に私に対して白々しい態度を取ることが気になり始めたのです。
私は2015年に「美味しんぼ『鼻血問題』に答える」という本を出版しました。
これは、私の鼻血問題について「風評被害」だと非難した人びとに対する反論の本です。
その本を、今話に出ているテレビ局とは別のテレビ局が取り上げて私に話を聞きたいと言ってきました。
私は自分の本を多くの人に知ってもらう機会になるだろうと考え、番組に出演しました。
私はあるジャーナリストと対談をする形になりました。
そのジャーナリストは三十代か四十代前半という若い人で、売れっ子であるらしく、書くものを最近週刊誌のコラムで読むことがあります。
そのジャーナリストは、私との対談をするのに開口一番「僕は雁屋さんに反対です」と言いました。
私は、会うやいなやそんなことを言われて驚き、気をそがれました。
何も話をしないうちに、対話の最初にいきなり「雁屋さんには反対で」とは何のことでしょう。
私は私の何に対して反対なのですか、と聞こうと思ったのですが、そのジャーナリストは私に聞く暇を与えず、どんどん話を進めて行きます。
私の何かの意見に反対なのではなく、私という人間の存在に反対だというのでしょう。
その口調もなんだか、事件の被疑者を詰問するような調子で、私は大変に居心地の悪い思いをしました。
いきなり冒頭で、「雁屋さんに反対です」と言ってしまっては、それからのそのジャーナリストは私に反対する立場から私に何か訊くという形になるので、全体の流れは当然私の意見をきちんと伝えることからはほど遠いものになりました。
番組を見ている人たちは、私が懸命に何か弁解しているように思ったことでしょう。
それは一つの例で、その後も何度か頼まれて幾つかの集まりに出席したのですが、そこに集まった人たちの態度が何かおかしい。
私から、一歩引いて接する。よそよそしい。
以前は「美味しんぼ」の原作者と言うことで、非常に好意的に親しく私の話を聞きたいと言う態度を取る人が圧倒的に多数でした。しかし、今は、私を見る目つきが違う。関わり合いになるまいとするように、用心深く私から引く。
私の話しも、話半分程度に聞いている、という感じがするのです。
これは決して、私のひがみ根性のせいではありません。
以前と比べれば、自分がそれまでとは違った受取られ方をしていることは、どんな人間でも皮膚感覚みたいなもので感じ取ることが出来ます。
こんなことがあったので、「美味しんぼ」を番組内で使いたいとテレビ局のディレクター氏が言ってきたときに、私は「大丈夫なのかな」と思ったのです。 それが、「上司からの進言で番組の内容がガラッと変わってしまい」ということになったので、私は「スピリッツ」元編集長の受けた仕打ちや、鼻血問題以来私自身が受けている厭な感じの延長で、この件も受取りかけています。
どうして上司は番組をガラッと変えるような進言をしたのか。
私はそんなことでなければ良いがと思いますが、心の隅に、その上司は安倍晋三首相に「風評被害を流す人間」と名指しで非難された私と関わり合いになることは避けたい、と考えたのではないか、と言う思いが浮かんでくるのです。
こんなことを言うのは、私の一方的な思いこみだと、言われるかも知れません。
しかし、最近こんなことが続いているので、どうしてもそういう考えが浮かんでくるのです。
私がブログにこんな内容のことを書く、と「スピリッツ」の元編集長にメールを送ったところ、元編集長からこんな返事が来ました。
そのディレクター氏が仰有っているように
「同じような演出を考えるディレクター」がいて
次の企画はちゃんと通ることを願ってやみません!
私もそう願っています。
このテレビ局の話は別にして、私の鼻血問題を通じて言えることは、この国では真実を語ってはいけないと言うことです。
反対に、安倍晋三首相とその取り巻きたちはどんな嘘を言っても誰もとがめません。
安倍晋三首相は2013年9月7日にIOC総会で、オリンピックを東京に招致するための演説を行いましたが、福島第一原発について、
「福島の放射能は、福島第原発からの放射能に汚染された水は福島第一原発の港湾から0.3キロ平方メートル以内に完全にブロックした」
「福島の現状は完全にコントロールされている」
「福島第一原発はこれまでに東京にダメージを与えていないし、これからも与えない」
と言いました。
私は、2013年10月3日付けのこのブログに、「Open letter to the IOC」と言う記事を書き、それが、全部嘘であることを指摘しました。
http://kariyatetsu.com/blog/1611.php
外国人にも読んでもらえるように英文で書いてあります。
私の書く英文だから、極めて平易です。ご一読下さい。
そんな嘘を言った人間が、私が実際に体験した鼻血を風評だというのですから呆れるばかりです。
また、その嘘を見逃すこの日本の社会にも呆れるばかりです。
一つの国が滅びるときには必ずおなじことが起こります。
支配階級の腐敗と傲慢。
政治道徳の退廃。
社会全体の無気力。
社会全体の支配階級の不正をただす勇気の喪失。
同時に、不正と知りながら支配階級に対する社会全体の隷従、媚び、へつらい。
経済の破綻による社会全体の自信喪失。
これは、今の日本にぴったりと当てはまります。
私は社会は良い方向に進んでいくものだと思っていました。
まさか、日本と言う国が駄目になっていくのを自分の目で見ることになるとは思いませんでした。
一番悲しいのは、腐敗した支配者を糾弾することはせず、逆に支配者にとっては不都合な真実を語る人間を、つまはじきする日本の社会の姿です。
雁屋 哲
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インターネットからの脱出
2018/4/25発行 ZINE"霊界通信 2018 S/S Issue"収録 by gandi
Escape from the Internet
ぼくが初めてインターネットに触れたのは15年ほど前のことだ。ちょうど21世紀になりたてくらいの頃だろうか。当時出来たての情報カリキュラムの授業での出来事だ。少し起動に時間のかかる箱型の機械のスイッチを入れると、テレビ型のモニターの向こう側から世界中のあらゆる情報が飛び込んでくる。その斬新さに、ぼくは舌を巻いた。しかもその情報がすべて��々しい。なにかがテレビとは明らかに違う。 ぼくはテレビが嫌いな子供だった。今でこそ落ち着いてきたものだが、当時のテレビの演出はとにかく過剰で、ギラギラした悪趣味なセットの前で空疎な会話をする芸能人たちの姿にはとにかくウンザリするばかりだった。人の車を壁にぶつけて壊して喜ぶようなノリにも全くついていけなかったし、ディレクターの指示で拉致同然に、突然半年間も海外を旅させるような嗜好にも「こんなことが許されるのか」と子供ながらに怒りを覚えた(たとえそれが口裏合わせ済みのことだったとしてもだ)。そしてそれらの行動に何一つ意味はない。彼らの行動原理は「ノリ」だけで、洞察に基づいたものがない。徹底的に空疎なのだ。 空疎なテレビの世界の中でも、群を抜いて空疎だったのはひな壇の芸人たちだった。彼らは空疎さという一点において洗練されつくしていた。「なんでやねん」と投げられる言葉に、タイミングよく再生される乾いた観客の笑い声。「なんでやねん」。彼らが本当にそう思っているのか、かなり疑わしかった。「なんでだよ?」でもその「なぜ」を正面切って考えようとする人間は、そこには一人もいないように見えた。 (※もっとも、その空疎さこそなんでも重苦しく考えたがる彼らの前の世代への意図的反抗なのだと分かったのは、ずっと後になってからの話だ) しかしインターネットは違った。誰もが手作りの簡素なホームページを作り、それぞれが勝手なことを論じていた。そこには「なんでやねん」というツッコミを入れる人間はいない。それゆえ誇大妄想としか思えないことを100ページ以上に渡って、延々と書き連ねているような人も少なくなかった。誇大妄想。 テレビだったら芸人の「なんでやねん!」の一言でかき消されたに違いない。しかし人の誇大妄想の中には、社会を抜本的に変革してしまうような考えがしばしば含まれている。たとえば革命家。革命家は周囲の冷笑を意に介さず、空気も読まずに延々と妄想を深め続ける。すると次第に感化される賛同者が出てくる。保守派からすれば狂人に思えない賛同者たちが。 息苦しい日々の中で、ぼくはインターネットに光を見出した。 ぼくはテレビと同じくらい学校の雰囲気というものが嫌いだったが、それは教室がテレビの相似形のように見えたからだ。 端っこの席で、目立たないが誰も思いつかないようなことを考えているヤツの考えは、いつだって声がデカくてノリがすべての野球部の声にかき消される。その身も蓋もない事実に、ぼくはホトホトウンザリしていた。この構造はずっと変わらないに違いない。きっと大学でもそう。社会に出てもそう。死ぬまでそう。いつか全部叩き壊す。そうでなければ刺し違える。そんな風に自分に何度も言い聞かせなければ、グレてしまっていただろう一少年に��インターネットはこっそりナイフを渡してくれたのだ。ぼくは友人たちへ 「テレビよりインターネットの方が全然面白いぞ」と触れ回った。友人たちは興奮するぼくの話を、肯定するでも否定するでもなく聴いてくれた。インターネットが面白いということは少しずつ広まり始めていた。 率直に言って、ぼくはインターネットの「世界中の情報がリアルタイムで入ってくる」という側面は、そこまで重要ではないのではないかと思う。それは既存のメディアでも出来ていたことなのだ。インターネットの本当にクリティカルな点は「人間の生々しい声が、誰にも検閲されないまま聞ける/言える」という点にある。それも平等にだ。どんなに虐げられていた者にも、数千円のスマートフォンさえあれば平等にその機会はやってくる。
誰がジャンクな記事を量産しているのか
だから生々しい声が聞こえなくなったら、そこでぼくのインターネットへの関心は尽きる。聞いたこともないような考えや、社会によって巧妙に隠された呼び声を聞くために、ぼくらは本を読みネットを見る。決して誰かが仕込んだ一般論を聞くためじゃない。ぼくは「失敗しない生き方をするための十の方法」なんて記事を見かけるたびにいつもウンザリしているが、こういう記事は一体誰が書いているのだろう?全く失敗しなかった人だろうか。それとも派手に失敗した人だろうか。 あまりに不思議に思って周囲にこぼしていたら、知人の大学生が書いていた。同級生やサークルの仲間も結構な割合でやっているという。 バイト感覚で家計の足しにしているのだそうだ。 1文字0.1円。2000文字程度の記事を10個仕上げて2000円貰うんです、と彼は言う。プロのライターが最低1文字3円からということを踏まえると信じられない値崩れだ(もっとも最近はプロの現場でも1文字1円というケースが珍しくなくなったが)。 そんな金額ならスーパーでレジ打ちした方がずっと効率がいいように思えるのだが、仲間内のパーティに出席できたり、就活のときネットメディアに関わっていたことが有利に働いたりと、色々とメリットはあるらしい。「ちょっとした承認欲求や仲間内で意識の高さを演出するために、」 場合によっては損得度外視で引き受けることもあるという。 しっかり見ていれば分かることだが、中には高校生が書いているケースもある。記事の最後に「この記事を書いた人」というツイッターリンクが付いていて、そこに行くと高校生だということが分かる。 なるほどこれらの記事は(誰もがうすうす気づいてはいるだろうが)プロではなく文章の素人がタダ同然で書いているものなのだ。インターネットの記事が人に見てもらえるようにするには、内容よりもグーグルのロボットから高い評価を受けるためだけにとにかくコストを抑え、量産することが大事だ。そして言うまでもないことだが1文字0.1円では、一つ一つの記事に真剣に向き合う時間はない。 必然的にすでにインターネットに載っている文章をコピー��ペーストし、適当にリライトするという作業になる。もちろん直接取材や、図書館に行って原典を確認するなんてことはあり得ない(つまり、何かのきっかけで一度間違った情報がインターネットに掲載されると、永遠に誤情報がコピーされ続けるということになる)。著者は自分の考えを述べようにも、記事が問題としている内容に、真剣に向き合って考えているヒマはない。そもそも書かせている側が、著者に対して端から何も期待していないのだ。 こうした記事が、毎日数千、数万とインターネット上にアップされている。多くの場合は記事と見せかけた広告で、そうでなければ広告収入のために書かれたテキストだ。記事の書き方はこう。「ランキング形式のまとめ記事にしてください。まず1位と2位に、定番のA社とB社のアイスクリームを挙げます。そして3位くらいにクライアントさんのこの新作アイスクリームをランクインさせてください。1位だと広告だって思われてしまうので、3位くらいがよいでしょう。4位以降は適当でいいです」。もちろん、ぼくは必ずしも広告が悪いと言っているわけではない。問題は企業が、あたかも主流的意見であるかのような記事もどきを、ジャンクのように量産することにある。 ぼくらは日々これらの量産されたジャンク記事に囲まれて生活している。好もうと好まざろうと、スマートフォンにニュースアプリやツイッターをインストールしている限り、絶対に目にすることになる。グーグルで何かを検索しても、個人のサイトやブログにたどり着くケースは今や稀だ。インターネットの笑ってしまうような(しかしひょっとすると社会を揺るがすかもしれない)誇大妄想は、十年の月日をかけて、当たり障りのない一般論を装った、どこかの企業広告へとすり替えられたのだ。 こうしたゴミのような広告の山から逃れたい人はひょっとするとインスタグラムのような、社会性とあまり関係のないメディアだけを見るようになるのかもしれない。インスタグラムはアカウントのジャンク化を恐れて、拡散機能をあえて弱めにするなどの対策をしているようだ。だが言ってしまえば、それは騒がしい広告記事から耳を塞いだだけのことで、決して生々しい声を取り戻したというわけではない。 そしてこうしたジャンクな記事は、恐らくあと五年もしないうちに人工知能が書くことになるだろう。人工知能なら、もっとうまくやるに違いない。ビッグデータから得た集合的無意識──当たり障りのない一般論や、何かのきっかけでセレブが発言した、流行の考え方──を、それらしい言葉でまとめて無限に生産するのだ。しかしそれは、あの、テレビや雑誌といった旧メディアが作っていた空疎な時間と、一体何が違うというのか。
メリークリスマス!と言えないアメリカ
ジャンクな記事が生まれる要因は他にもある。世界的なポリティカル・コレクトネスの流行だ。ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)とは「 政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のこと(Wikipedia)」とある。 ポリティカル・コレクトネスの観点からすると、たとえば「看護婦」という言い回しは男性がその職業につけないイメージを与える可能性があるので間違っており、男女ともにイメージすることができる「看護士」と言い換えるべきということになる。同様に「保母」は「保育士」とすべきだし、「肌色」は人種的配慮に欠けるので「ペールオレンジ」に言い換えるべきとするのがポリティカル・コレクトネスの考え方だ。 この考え方は確かにある程度まで間違っていないように思えるのだが、少し考えると行き過ぎは文化を破壊しかねないということが安易に想像つく。例えば「メリークリスマス」という言葉は、宗教的配慮に欠けるという観点からすでにアメリカでは 「ハッピーホリデイズ」と言い換えられている。 クリスマス飾りににキリスト像やマリア像などを持ち込むのもご法度だ。十字架なんて問題外。宗教色を一切葬り去らねば、イスラム教徒や仏教徒に失礼じゃないか、というわけだ。そのうちクリスマスに赤色を使うのもNGになるかもしれない。赤はキリストの血を表すからだ。 しかしそのようなものを果たしてぼくらはクリスマスと言えるのだろうか。これは「政治的な正しさ」を盾にした、キリスト教文化への破壊行為ではないのだろうか。なぜポリティカル・コレクトネスの人たちはこんなに偏屈な考え方をするのだろう?これではまるでポリティカル・コレクトネス原理主義だ。ポリティカル・コレクトネス教以外のあらゆる宗教は絶対に認めないという原理主義的一神教だ。 たとえあなたが仏教徒だっとしても、笑顔で「メリークリスマス!」と言えばよいではないか。実際日本人はずっとそうだったのだ。キリスト教の人たちが宗教的に大事にしている行事ならば、わざわざそれに目くじらを立てることはない。むしろ「楽しそうだからぼくらも参加させてほしいのだが、仏教徒なんだけど構わないかね?」と言うのが本当の寛容ではないだろうか。それとも一神教徒の人たちには、そういう考え方は難しいのだろうか。 しかしポリティカル・コレクトネスの人々はそうは考えない。頑固に公の場でメリークリスマス!ということを許さない。「そんなに偏狭な態度をとっていれば、かえって息苦しい社会になってしまわないだろうか」「むしろ反動が起こって事態はよっぽど悪くならないだろうか」などと考えていたら、案の定バックラッシュがやってきた。2016年のアメリカ大統領選の時にドナルド・トランプ現大統領が「自分が大統領になったら再びメリークリスマスと言えるようにする」と公約したのだ。大統領選の結果はご覧の通りだ。トランプ大統領は、メリークリスマス!すら堂々と言えなくなってしまった息苦しい社会に不満を持つ人たちの支持を得て当選したのだ。 言うまでもなく、本来あらゆる文化的伝統行事は民族性や宗教性と密接に関わりあっているのであって、そこから宗教色を徹底して排除しようとすれば、ただの無味乾燥で無秩序な騒ぎになってしまう。宗教や民族にまつわる文化的行事が、現代的価値観からすれば理不尽としか言いようのないものを含んでいるのは当然のことだ。伝統行事は、むしろ常にその時代の価値観と全面的には折り合わなかったからこそ、時代が変わったからといって廃止されることはなく、時代を超えてずっと尊敬され続けてきたのだ。それを現代人の価値観にそぐわないからと言って安易に排除をしようとするのは、今の時代の価値観が未来永劫続くと考える現代人の傲慢であり、次の世代への想像力の欠如ではないだろうか。 日本よりはるかに多民族・多文化社会であるアメリカでポリティカル・コレクトネスの考え方が発展したということはある程度理解できなくもない。あまりに価値観が多様過ぎて、「寛容」や「思いやり」でカバーできる範囲をとっくに超えているのだ。ある人々にとって帽子を被ることが礼装であり、またある人々にとって帽子を脱ぐことが礼装である社会では、ポリティカル・コレクトネスがなければ一方的に少数派が追いやられるばかりなのかもしれない。だが、日本は全く状況が違う。常に周囲と価値観を合わせたがり、少数派になることを恐れがちな日本人は、アメリカとは性格が逆で、少数派が自ら少数派であることを捨て、自発的に多数派になりたがる傾向がある。そのような価値観だから世界的にも類をみない寡民族・寡文化社会になってしまったのだ。 有り体に言えば、我々の社会は空気を読むことが大好きだということだ。互いに周囲の顔色を見回して、自分が人とズレてはいないか、誰かが変わった考え方をしていないか、絶えず監視し続ける。今のインターネットは、テレビのような旧メディアと変わらない。これはもはや「ムラ」社会だ。特異な考え方は、誇大妄想が広がる前に「ツッコミ」をして「修正」する。これをポリティカル・コレクトネスの考え方が加勢する。今時の言葉で言えば「炎上」というのかもしれない。そして最後には「まとめ」として「総括」されるのだ(なるほど「総括」とはどこかで聞いたような言葉だ!)。 「炎上」は一見、正しい意見が間違った意見を修正する、社会の自己浄化作用のように見えなくもない。しかしその一方で、特異な発想の芽を潰していると言える。この調子だとそのうちわざと「ボケ」る者が出てきて、毎度お約束のように「炎上」させるようになるかもしれない。人と違うことが怖い私たちは、そうやって永遠に続く終わりのない日常に「お祭り」というリズムを作るのだ。やがて「ボケ」と「ツッコミ」は、「なんでやねん!」(=なぜなのか)という言葉本来の意味を失い、次第に儀礼化していくことだろう。その裏で、本当に特異な考えをする人の声はどんどん見えなくなっていく。社会は変化することなく終わらない日常となり、まるであのバラエティ番組のように、空虚な戯れが延々と続いていくのだ。
本物の共産主義社会が到来する
更に悪いことに、こうしたインターネットの記事たちは各ユーザーに合わせ最適化され、そのユーザーが関心を持っていそうなことばかりをサジェストするように出来ている。例えばあなたがあるニュースアプリでLGBTについての記事を読んだとしよう。そのアプリは次からLGBTについての話題で一杯になるのだ。するとあなたは思う。「今、社会はLGBTに相当な関心を持っているに違いない」。こうしてそれぞれが勝手に「北朝鮮問題が」「仮想通貨が」「アイドルが」「ネコ画像が」社会的関心事の中心であると考え始めるのだ。自分でフォローする人を選べるSNSはもっとひどい。「反安倍政権の世論が盛り上がっている」ように見える人と「安倍政権の高支持率が続いている」ように見える人のタイムラインは永遠に交わることがない。一体なんでこんなことが起こるのだろう。 本来、インターネットというプラットフォームは、「インターネットエクスプローラー」という名前が示す通り、欲しい情報を自分から「探検」することによって手に得るというツールだった。インターネット全体の記事が少ないときは、確かにそれで機能していた。欲しい情報に達するためには色んなページを回らなければならなかったし、必ずしも耳に聞こえのよくない情報も触れなければならなかったからだ。まさにそれは山あり谷ありの探検のようだった。今はどうだろう?ネットには異常な量の記事が溢れかえっている。ぼくらはそれを、到底すべて読み切ることはできない。こんな状況では、誰も冒険などしたがらないだろう。探さなくても、自分にとって気持ちのいい(都合のいい)当たり障りのない情報にすぐ触れることが出来るのだから。 こうした理由から、インターネットの記事が爆発的に増加することに反比例して、ぼくらが新しい世界に触れる体力は日に日に減っていっているように思われる。誰も好き好んで不都合な意見を聞きに行ったりはしない。大量の記事が出回ってあれもこれも読まなければならない中で、誰かの言葉と真剣に向き合う時間も多くはないだろう。ぼくらは気付かぬうちに少しずつ心の体力を奪われているのであって、自分を肯定してくれる安全・安心な言葉だけを聞き続けるようになっている。 そしてそんな世界すらももうすぐ終わる。もうすぐ人工知能がぼくらを真綿にくるんで、いびつな現実を視界から追いやってくれるに違いないからだ。近い将来、ぼくらは全く違う価値観の人と話して不愉快になることも、ほとんどなくなるだろう。アルゴリズムが話の合わなそうなフォロワーを、初めからミュートしておいてくれるからだ。イラストや音楽の才能のなさに思い悩むこともない。内輪のコミュニティの住人、いわゆる「界隈」と呼ばれる人々が、あなたを先生、先生とどこまでもチヤホヤしてくれるからだ(もっともそのアカウントの「中の人」が本物の人間であるという保証はどこにもないのだが)。当然恋人ができないと思い悩む必要もない。本物の人間よりずっと美しいホログラムと恋愛をするのは、今や普通のことだからだ。しかもその恋人は、あなたの過去の発言をデータベース化しているから、絶対にあなたの嫌がることを言わず、あなたが喜ぶことしかしないのだ。 さらに言おう。恐らく近い将来、人間は一切の仕事もする必要がなくなる。人工知能が自己発展する農場や工場を作り、自動運転カーで勝手に出荷してくれるからだ(驚くべきことに、アメリカのGM社はすでにこのシステムを運用し始めているという)。レジも無人だからバイトもいらない。経営も人工知能がビッグデータに基づいてやるのが一番効率的だ。 機械に職を奪われ、失業率は上がるのに生産力も上がり続けるから、先進諸国はベーシックインカム導入を余儀なくされるだろう。なんのことはない、共産主義社会の到来だ。それも前世紀の不完全な共産主義ではなく、マルクスが予見した本物の共産主義だ。ほとんどのことを機械に任せ、人はクリエイティブな仕事、もとい「趣味」しかしなくなるのだ。そのクリエイティブな「趣味」だって、本当に行われるのかどうか随分怪しいように思える。全てが満たされた世界で、クリエイションをしようと思う人間なんて本当にいるのだろうか。 まるで夢物語だが、そういう世界は必ず来る。それも数十年以内に。その世界では人間にどこまでも優しくて都合の良いコンピューターという名の天使が、寿命が来るまでぼくらを甘やかし続けるのだ──まるで真綿で首を絞めるように。そんな世界では、特異な意見も、ラディカルな発想も必要ない。誰一人不満がないので、そもそも社会が変革する必要がない。 怒りも悲しみもなく、誰一人傷つかない世界。そこで天使のような、あるいは幽霊のようなホログラムが、残り少なくなった人間たちに奉仕している。人間は恋愛対象に何かと面倒な同じ人間よりも人工知能を選ぶようになり、人口もどんどん減ってゆくだろう。
"BLACK IS BEAUTIFUL."
建築家であるぼくの父はもう80を超えているのだが、生まれつきの難聴で、ぼくが幼いころから話がなかなか通じなかった。どのくらい聞こえないかというと、ちょうど携帯電話の着信音が聞こえない、というくらいだ。大きな声で向き合って話すと半分くらい伝わる。ハッキリ言うと、身体障害者だ。 しかし父は一度も自分を障害者だと認めなかった。確実に貰えるはずの障害手帳も障害年金も、絶対に受け取らなかった。破産して、収入がゼロになり、家族の食い扶持を繋げなくなった時でさえだ。「なに、誰だってハンディキャップの一つや二つあるんだ、それをいちいち騒ぎ立てるなんてみっともないことだ」それが父の口癖だった。そして父は自分を「ツンボ」であると自称していた。「ツンボ」は差別用語だからやめなさい、といくら母が言っても「ツンボがツンボで何が悪い!」と絶対に聞かないのだ。 父の発言は無茶苦茶だ。第一、本当に障碍で苦しんでいる人に対するシンパシーがない。それに「ツンボ」なんて言ったら、ポリティカル・コレクトネスの人々からは避難轟々だろう。 だが、一方で父は障碍者に対して全く差別的ではなかった。車椅子で困っている人がいれば助けたし、その一方で車椅子でも態度が悪ければその場で怒鳴り合いの大喧嘩していた。外国人に対してもそうだ。父には中国人の友達がたくさんいた。酒が入れば毎回、歴史問題の議論で怒鳴り合いになるくせに、ずっと仲良しだった。二、三か月すると、何事もなかったかのようにまた飲んでいるのだ(そうしてまた喧嘩になるのだが)。 父は女性に対しての考え方も、世代から考えれば相当リベラルだった。あれだけ父権的なくせに、結婚当初、父が食べるまで食事に手をつけようとしなかった母に対して「そんな下らないこと今すぐやめろ」と叱りつけたのだという。家族の風呂に入る順番についてもそうだ。ぼくが生まれてからはいつも父と母は喧嘩ばかりしていたが、よく考えれば父と母はずっと対等だった。父はいつ���って対等な喧嘩相手が欲しかったのかもしれない。 当時はわからなかったが、父が「ツンボ」を自称していた理由が、今ならなんとなく分かるような気がする。父はきっと「ツンボ」を忌避するのではなく、自分が「ツンボ」を格好いいものにしてやる、と考えたのではないだろうか。 この考え方はマルコムXの言う「 Black is beautiful. 」に似ている。かの有名なアメリカ黒人公民権運動の活動家だ。マルコムは、黒人は白人と平等、とは言わなかった。そうではなくて「"黒"こそ美しい」と言ったのだ。 話によると、幼いころは「ツンボ」のことで相当ひどくイジメられたらしい。しかし父は社会に同情を買うような態度を取りたいとは思わなかった。思うに父は「ツンボ」である自分が圧倒的に凄い建築を作ることによって「ひょっとしてツンボだったからこそ、この人はすごい建築家になれたのではないか?」と、人に思わせるような、価値観の転倒を引き起こそうと企んだのではないだろうか。 ポリティカル・コレクトネスの人たちにとっては「ツンボ」は永遠に良くないものであって、忌避されることはあっても、凄いものとして日の目をみることは未来永劫ない。果たしてそれで問題は本当に解決したと言えるのだろうか。「ツンボ」な自分を「ツンボ」と断言する父のやり方は、テレビではもちろん流せないし、インターネットだったら炎上間違いなしだ。けれどもぼくは、ハッキリ言ってテレビよりも、今のインターネットよりも、父のやり方は圧倒的に「クールなやり方だ」と感じてしまう。
インターネットからの脱出
しかしこのような「クールなやり方」は決してインターネットでは出来ないだろう。 ぼくらは薄々気づき始めているが、インターネットにはそのシステム自体に欠陥がある。リンクシステムが、情報のシェアを容易にしすぎたため、一人ひとりが考えることを放棄し始めたのだ。このような社会では父やマルコムXのような革命家気質の強力な個人はお呼びではない。むしろ自分では考えず、薄い情報をまき散らし続けるような人間(インフルエンサー)が影響力を持つ。集団主義の時代だ。多数派はポリティカル・コレクトネス一神教を盾に、他のあらゆるマイノリティが、自分の力で立ち上がろうとする膝を折ろうとする。「『黒は美しい』なんて言わなくていいの、黒も白もなく、みんな平等なの」と。それは「ブラックの血が流れていることに誇りを持つな」と言っているに等しいということに、彼らは気づかない。その考えは、ぼくには、すべての人間を根無し草にしようとしているようにすら思える。そうしてこのように作られた一見当たり障りのない「正論」が、「拡散」機能によって無限に増殖してゆくのだ。 抵抗する方法がある。全てのリンクを一度切ってしまえばいい。インターネットには「罪」もあるが、それ以上の「功」がある。インターネットは個人の発信したいという欲望を爆発させ、流通経路を用意し、個人が本をつくるハードルを劇的に下げた。だったらもう一度紙の本にすればいい。紙の本にはRTもシェアもない。ただ、一対一の読者と書き手がいるだけだ。書き手は読者に差し迫って��る。逃げ場はどこにもない。RTして他人に共感を求めることはできない。目の前の相手と一対一で対峙するしかない。もしも読んでいて、本当に思うところがあるならば、自分で、自分なりのやり方で発信するしかない。やり方は文章でも動画でも音楽でもなんでもいい、ただ自分だけの力で、やり遂げるしかない。 ぼくはアナタと一対一で話したいのだ。隣の誰かに「ねーどう思う?」なんて聞いてほしくない。ぼくは今、他ならぬアナタと話しているのだ。(了)
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srkanagawa · 2 years ago
Text
●私が人生で最初に出逢った思想っぽいものといえば、ひらたく言ってマルクス主義だと思うが、原典を読んだわけではなく、まず山崎謙の『弁証法の論理 変革の武器としての理論』(三一新書・1975年)を偶然読み、それを足がかりにして花田清輝の『アヴァンギャルド芸術』(筑摩叢書・原著1954年。岡本太郎の解説「清輝と私」を収める)を読んだ。これがすべての出発点だ。後者は前者のまさに応用編である。少なくとも前者を既に読んでいたからこそ、演繹、帰納、分析、綜合という後者の最重要のキーワードをスルーすることなく引っ掛けることができた。山崎謙も花田清輝も100%の純然たるマルクス主義者であり、生涯をかけて革命を説いた。ただ巧みなレトリックで何を言っているのかわからない花田に較べて山崎ははるかに直接的だった。私が山崎謙を読んだのは1992年で、既にソ連は崩壊していたが、国会図書館で図書カードに住所と名前と山崎謙という著者名を書いて本を閲覧しただけで家の近くにいかつい顔のエージェントがうろうろするような時代だった。しかしさすがに2022年の今は憚るには及ぶまい。この名前は後世に残すことが必要である。
●マルクス主義とフロイディズムと構造主義が三つの「大きな物語」であり、足場としてはこれだけ押さえておけばいい。この上に自分の知的関心に従って情報収集し、家なり建物なりを建てていけばいい。フロイトに関しては岸田秀や菊地成孔など、「はじめにEXCÈSがあった」ことを明快な日本語で説く著者はいくらでもいるだろう。あとは上野千鶴子の『構造主義の冒険』(1985年)、浅田彰の『構造と力』(1983年)、『逃走論』(1984年)から今村仁司との対談を一読しておけばいい。
●この文章は嫉妬をテーマに書き始めた。そして2022年現在のブックガイドでもある。私のキャパシティでは大した読書はできない。外国語も不自由だ。にもかかわらず、今までの人生を振り返って、知的な嫉妬をした記憶が殆ど全然ない。その理由は私の個人的な資質に還元できるようなものではなく、運の良さに求められる。私は人生の早い時期に偶然とんでもない著者に出逢ってしまった。それはブレない思想だった。以後そのときどきの流行の波はあったが、ほぼ心を動かされず、最初に得たものの上に自分なりの付加を積み重ねていった。
●最後に知的な嫉妬らし��ものをしたのは年齢20代の半ば頃だったと思う。天に二物を与えられた才人、容姿も頭も抜群にいいとか、すごくいい曲を作るミュージシャンでありながら片手間にサラッと書いたようなエッセイがメチャクチャ面白いとか、そういう人たちに対して心穏やかならぬものを覚えた。30代になるとそういうことも完全になくなった。20代半ばから30代にかけて、何が変わったせいでこういうことが起こったのか、自分では全くわからないが、やはり社会人経験が深まるにつれて過剰な自意識が破壊され、外界の諸法則に従わなければ物事を成すことができないと了解したせいなのかもしれない。
●現代社会は三人のユダヤ人の影響から逃れられないと言われる。曰くマルクス、フロイト、と来て、あと一人で大喜利が始まるのが常だ。ウディ・アレン、デリダ、ヴィトゲンシュタイン、カフカ、アル・クーパー、カルバン・クライン、ポール・オースター、ジークフリート・クラカウアー、チャップリン、スピルバーグ ……(一般的にはアインシュタイン。でもこの文章の文脈だとレヴィ=ストロースもそうなのか?!)
2022年08月08日
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dengenmushi · 5 years ago
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「歴史の終わり」や近年の著書「IDENTITY」で有名なフランシスフクヤマのインタビュー記事。彼の趣味である日曜大工と絡ませ、台頭する「民主主義の退行」に対する彼の思いが記される。「歴史の終わり」後のフクヤマの問題意識を理解し、「アイデンティティ」「チューモス」といった哲学的・心理学的な概念を多用する最新著作へ繋げる橋渡しとして面白く読める良質の記事だ。
気になる語彙・ノート
- credenza:サイドテーブル
- pride of place:重要な位置、注目を集める位置
- bijou:小さいが綺麗な
- perturb:心配させる、そわそわさせる
- blight:台無しにする汚点・障害、気持ちをくじくもの
- bulky:大きな
- Monterey Cypress:モントレーサイプレス   - 西洋ヒノキの一種でカリフォルニア原産   - 防風林で使われた   - 原生のものは希少
- Seussian:絵本作家スースの作風を思わせる、スースの作品に出てくる
- fissure:割れ目、ひび、隙間
- mortise:ほぞ   - 記事中のbutterfly mortiseは蝶千切りのこと
- exhaustion:使い切ること、枯渇
- viable:実行可能な、現実的な
- inexorably:容赦仮借なく、とどまることなく
- pristine:原状の、新品同様の、傷一つないきれいな
- undermine:(価値・機能などを)損なう、換骨堕胎する
- postulation:仮定、仮説、主張、公理
- jingoistic:対外強硬的な、盲目的・好戦的愛国主義の
- masquerade:ふりをする、見せかける、(なんらかの)面をかぶる、仮想する   - マスカレード=仮面舞踏会でご存じの単語
- resurgent:復活、再起、再興
- size up:点検する、評価する、つぶさに見る
- benign:良性の、優しい、穏やかな
- scowl:眉間にしわを寄せること、しかめっ面、眉をひそめること
- carpentry:大工仕事、木工
- exquisiteness:繊細優美なこと、雅やかなこと
- deafening:(何も聞こえなくなるほどの)大音量の、圧倒的な、他に気づかなくさせる
- clutter:雑多にする、雑多なものを散らかす、雑多なものをつめこむ
- plane:かんな、特に西洋かんな   - 記事中のjointer plane=ジョインタープレーンはかんなの一種
- catch the bug:夢中になる、熱中する
- lumber:材木、木材
- Pembroke table:ペンブロークスタイルの机   - オーバル状で、典型にはleaf-drop=端っこが折り畳み式の机
- caked:粉にまみれて固まった、粉に埋もれた
- atop:on top ofに同じ
- spindle:スピンドル、細長い棒状のもの、特にそのような家具の脚
- clamping:挟み込む、挟んで固定する
- vice:万力   - ほかにも、副・代理、不道徳な行為などを意味する
- curlicue:(カリグラフィーなどの)飾り模様・細工
- grain:石目や木目など自然の模様、転じて生来の気質、学問・政治派閥の本来の発想や方向性   - ほかにも、穀物一般をさす
- dissent:異議、反対
- disillusionment:失望
- thatched:藁ぶきの、藁でできた
- mooring:停泊所、係留場、格納庫
- Hepplewhite:ヘップルホワイト式の   - 18世紀の家具デザイナーで、日本では椅子が有名
- federal:Federalist eraの   - アメリカの年代区分で、創成期である1800年前後の思想・文化潮流を指す
- pull:誘惑、衝動、誘い
- addendum:補遺、追補、アペンディクス
- gelded:去勢された、生気を失った、牙を抜かれた   - 動詞としては、castrate=去勢するを意味するが、形容詞としてはgeldedが比喩的に使われやすいか
- clamour:(群衆などが)やかましく騒ぎ立てる、要求をまくしたてて騒ぐ
- hole up:隠遁する、隠居する、逃げ隠れる
- tinker:治して回る、治す
- bliss:よろこび   - in blissの形でよく使われる
- irk:苛立つ
- despise:蔑む、軽蔑する、嫌悪感を抱く
- megalothymia:メガロスーミア   - 自身がほかの何より優れていなければ気が済まない人
- coinage:発明   - one’s coinageの形で   - ほかにも通貨量総体=流動性を指したりする
- speed bump:スピードバンプ、減速帯
- incessant:とどまることのない、終わらぬ、飽くなき
- harangue:熱弁、退屈な長話   - 特に非難調で、内容がしょうもないもの   - harangueと言いたくなった人からすれば、もはや聞く価値もなく、眠気か苛立ちに帰着するもの   - 上司や校長先生の無駄に長くて訓戒的なスピーチがこれ
- groan:うめく、うめき声をあげる
- chisel:工具ののみ   - 漢字で「鑿」らしい。誰が書くんやこんな複雑な文字。。。
感想・考察
フランシスフクヤマ。学生時代に国際政治を学んだ身としては懐かしい人物だ。
自由民主主義(およびその当然の帰結としての資本主義)をイデオロギーの到達点として奉じる彼は、冷戦終結・ソビエト崩壊をもってイデオロギーとしての共産主義の敗北と捉える。その上で、マルクス主義がイデオロギー間の闘争という意味で用いた「歴史」という術語を使って、 (他に有力かつ現実的なイデオロギーがない以上) これを「歴史の終焉」と説くのだ。
確かに冷戦の終結後、自由民主主義の形態をとる・目指す国の数は爆発的に増えた。しかし現在、アメリカ・欧州など先進国の傾向や中国の台頭など、自由民主主義とは異なる潮流が世界中を席巻している。そしてThe 1843 magazineの記者がフクヤマに事態をどう見るか問いかける、というのが内容だ。
フクヤマはこの事態を、新たな有力・現実的なイデオロギーの登場とは考えていないという。つまり、最上のイデオロギーを巡る旅の終着点を見定めるという意味での「歴史」はやはり終焉している。自由民主主義は変わらず人類が目指すべき社会形態であり、ただ我々はその途上を逆行しだしたのだという。
その前提に立ち、彼の学問的興味は次の二つに移っている。「なぜどのようにして『自由民主主義の退行』が生じるのか」、「逆行した社会・国家や道半ばの社会・国家に、どのようにして自由民主主義への移行を完遂させるのか」である。
このことを、フクヤマの趣味である木工家具・細工を例にとり、記者が面白くまとめている。フクヤマは木工を学ぶのに「This Old House」というテレビシリーズを熱心に見ているが、イライラする点があるという。それは、番組内では失敗をしないし、ゆえに挽回の方法を紹介してくれないことだ。何事も完璧に上手くいくことはないのだから、どのように失敗に対処する���も技術の重要な一部分のはずだというのだ。
彼の最新の著作「IDENTITY」は、こうした問題意識に立ち、少々哲学的な思索を展開している。そこでの中心概念はソクラテスの言う「チューモス」である。平たく言えば「承認欲求」だろうか。BLMやLGBTQなど一連のポリティカルコレクトネス運動や宗教原理主義の台頭、あるいは先進各国での排他主義の復活なども、こうした概念枠組みで説明できるとしている。
「IDENTITY」では、詳細な議論・検証が薄いし、「ではどうすべきか」という処方箋もまだまだ曖昧だ。しかし、postulationとしての主張や概念枠組みとしては、少なくとも私にはかなり魅力的に映った。「歴史の終わり」並みのインパクトがあると思う。今後の検証や詳細な処方箋に向けた議論が待たれる。
訳注が多少うるさいが邦訳も出ているので、ぜひ手に取って読んでみてほしい。
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scrap2017-blog · 8 years ago
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知恵袋より『陰謀論って結局キリスト教への勧誘っぽいですね』
ネット検索して見つけた秀逸な質問板の回答。
内容的に削除される恐れもあるから覚え書きとしてここに保存しておく。 こういうことをすると、このブログごと削除されるかもしれないが。
(ユダヤの悪口を撒き散らすブログ・動画は全く削除されず増えていくいっぽうなのに、反論する記事は強制削除されていく。いったいどこが、「世界はフ〇ー〇〇ソンに支配されている」のだ? この現実を見れば明らかに逆だろう。分かりやすい)
見つけた質問。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11179106486
shitumonbako99さん 2017/9/622:21:17
陰謀論って結局キリスト教への勧誘っぽいですね。
あのキリスト教原理主義者たちは韓国系ですか? アメリカ系ですか?
mokaespressocoffeeさん 2017/9/714:10:45
キリスト教の勧誘もあるしオイルマネーもらって陰謀本書いてる学者もいるでしょう。 戦前日本はヒトラーがドイツの行為を正当化するために流したユダヤ陰謀論を一緒になって宣伝してた。ロシア正教の神父が書き、ヒトラーが愛読して全世界に反ユダヤ宣伝した「シオン賢者の議定書」 樋口 季一陸軍中将と並んでユダヤ難民を2万人援けた安江 仙弘大佐は一方でユダヤの敵でもある。 1918年シベリア出兵した時、シベリアで白軍の将校と接して悪名高い『シオン賢者の議定書』を渡され日本語に翻訳してる。 シオン賢者の議定書のお蔭で日本でもユダヤ陰謀論が大流行した。
その後安江はユダヤ研究を命じられ、パレスチナ、エジプト、欧州を視察してユダヤ研究するうちに反ユダヤ本によるユダヤ人理解の誤りを悟った。パレスチナを見てから思想に変化を生じ、『世界革命之裏面』の如き書物はもう古くてだめだと悟った。元々愛国心の強かった安江は、亡国のユダヤ流民の惨状に同情し、急速に親ユダヤ的傾向が強まる。 ハルビンで安江は、在満ユダヤ人の保護に尽力し、また回教徒や白系ロシア人にも助力した。1945年8月23日、大連でソ連軍に逮捕され、ハバロフスク収容所で死去。 戦後、樋口季一郎とともに、イスラエルの「ゴールデン・ブック」に名前が刻印された。
日本のカルト集団も無内容さを隠すためオウムと同じでヒトラーと同じこと言って盛り上がってます。
ベ平連の小田実は連合赤軍事件以来赤軍派の支持者がいなくなった。 大衆の支持を得られなくなったのでパレスチナ闘争と組んで大衆の支持を得られるよう路線を切り替えた。 だから1972年5月30日岡本公三、奥平剛士・安田安之らがテルアビブ空港乱射事件を実行し26人殺害した。イスラムと組んでユダヤ、イスラエルを倒す方針。
テルアビブ空港銃乱射事件でただ一人生き残った岡本公三はエルサレムで裁判にかけられた時 「僕たち3人は死んでオリオン座に輝く三ツ星アルニラム、アルニタクミンタカになろうね。と誓い合いました。」とぬけぬけ語ったので聴いてたユダヤ人たちは「この青年たちは知識は与えられたんだけど知恵は与えられなかったな。」と呆れた。 文芸春秋の月刊誌マルコポーロ1995年2月号に「アウシュビッツにガス室は存在せずそれゆえガス室で殺されたユダヤ人はゼロである」と書いたのは西岡昌紀という日本の神経内科医です。こういう本の宣伝を大新聞がやってた。日本のマスコミはこの記事に抗議しなかった。
ユダヤ叩きは日本の国策でアラブの産油国の言いなりになってイスラエルの悪口ユダヤの悪口書きまくってるんでしょう。
アラブの産油国に媚びてイスラエルに売る車はスバルだけだった。日本からイスラエル直行便がなかった。 書店には反ユダヤ本が山積みされこれでもかこれでもかというくらいユダヤの悪口書いてた。反ユダヤ本は売れるからです。
ネットでイスラム批判しようものなら即削除され一方ユダヤの悪口ならどんどん書いてちょうだいとばかりに悪口ばっかりだった。 私は京都のジュンク堂に行くたびに宇野正美のエノク「読んでください」といって手渡された。
あれだけの迫害に耐えて生き抜いたユダヤ人を偽ユダヤだといい。ユダヤのユの字も知らない日本人を真のユダヤ人だという。ホロコーストで死んでいったユダヤ人が可哀そうだ。 ↓シオン賢者の議定書
キリスト教の勧誘もあるしオイルマネーもらって陰謀本書いてる学者もいるでしょう。...</blockquote>
こちらの方の知識も凄いね。勉強しなければ……。
oshirisutanukiさん 2017/9/701:06:07
キリスト教が陰謀論とどのような関係かはわかりませんが、 キリスト教が最悪で愚劣な宗教なのは同意します。
キリスト教原理主義者がユダヤ人を殺すために主張して<ユダヤ人撲滅はキリスト教がローマの国教となった直後からキリスト教会よって主張されてきました。
4世紀以降キリスト教会は神殺しの民としてユダヤ人の迫害を繰り返してきました。 キリスト教がローマの国教となるとユダヤ教会には「セクタ・ネファリア」(邪悪な宗派)という刻印が押されました。
キリスト教会の主張に従ってビザンチン帝国は次々と反ユダヤ法を制定したのです。 ユダヤ人嫌悪はキリストを十字架にかけた人々の子孫を世に残すことは神意に反するとして正当化されたのです。
千九十六年十字軍はイスラム教に対する敵意だけでなく、最初から「キリストの殺害者ユダヤ人に対する「復讐」を誓っていたのです。 ルーアンでユダヤ人を襲撃した十字軍は次々とユダヤ人コミニィティーを襲い、虐殺と略奪を重ね、生き残ったユダヤ人に改宗を強要しました。数万人の規模で殺戮されたようです。
宗教改革で有名なマルティンルターもユダヤ人を撲滅せよと主張していました。
ルターのユダヤ人、撲滅論文「ユダヤ人と彼らの嘘」
1、 シナゴーグやイェシーバーを、跡形残らず徹底的に焼き払うべし 2、更にユダヤ人の所有する家をも打ち壊し、所有者を田舎に住まわせるべし 3、宗教書を取り上げるべし 4、ラビの伝道を禁じ、従わないようであれば処刑すべし 5、ユダヤ人を撲滅するための方途を穏便に実行すべし 6、高利貸しを禁じ、金銀を悉く没収し、保管すべし 7、ユダヤ人を農奴として働かせるべし 第二次世界大戦以降、学問の分野で支配的となった見解[4]は、本論文が宗教改革からホロコーストまでの数世紀において、ユダヤ人に対するドイツ人の態度に少なからぬ影響を与えた、というものであった。
また、ナチスのホロコーストでも、ユダヤ人がナチスに虐殺されました。それに手を貸したのはドイツのキリスト教会です。そして、欧米のキリスト教会はその 事実に沈黙したのです。また、このナチスによるホロコーストは、16世紀の宗教改革者マルティン・ルターの書いた反ユダヤ的文献の影響を受けています。
ヒトラーがユダヤ人を迫害したのはキリスト教徒たる民衆の支持を得るためでしょう。
ナチスに積極的に協力したのが、ルター派教会です。
ラッセル アインシュタイン宣言など平和運動で有名なバートランドラッセルも「キリスト教は並みの理解力と、他者に対する情愛をもつ人々を、残酷なサディストに変えてしまう」 指摘きしています。
バートランド・ラッセルはいう。」 バートランド・ラッセルの著書『宗教は必要か(Why I am not a christian)
宗教は人間が持つべき『道徳』に対して害悪を及ぼした。それはキリスト教徒たち--おそらくは人並みの理解力と、他者に対する情愛をもつ人々を、残酷なサディストに変えてしまうことである。
ラッセルの考えによると、中世以降、現代においても人々の生活の規範として残っているキリスト教とは、教会や信者自身が主張するような社会的、思想的、道 徳的な役割も果たすものではなく、むしろ「恐怖」と「無知」によって人間を縛り付け、多くの人々の運命を残酷な方向へと向かわせたものであり、社会と人間 の発展にとって害悪でしかないものであるという。
中世から近代までのヨーロッパは、別名「暗黒時代」と呼ばれるほどの暗く陰惨な時代であった。この時代キリスト教徒たちは、神の名の下に「魔女裁判」を行い、「異端狩り」を行い、また異教徒との戦争に明け暮た。新大陸においては植民国であるスペインなどのキリスト教国による、先住民族に対しての、およそ同じ人間に対して行われたとは信じられないような残虐な仕打ちあり、アメリカの西部開拓時代においては「良いインディアンは死んだインディアンだけである」というような理屈が平然とまかり通った。これらのことは元をただせば、キリスト教における「地獄」の思想と深い関わりがあるのではないだろうか。 ・
ニーチェ:「神は死んだ」イエスの福音はパウロに虚言によって汚染された悪しき憎悪の禍音となったのだ。 「原罪論・贖罪論・復活論・永遠の命」という虚言によって、イエスの思想とは正反対のものになったのだ。
マルクス:「宗教は抑圧された生き物のため息であり、心なき世界の心であり、また、それが魂なき状態の心情であると等しく、…つまり、それは民衆の阿片である」
>ヒトラーがユダヤ人を迫害したのはキリスト教徒たる民衆の支持を得るためでしょう。 >ナチスに積極的に協力したのが、ルター派教会です。
うん、そもそもヒトラーはキリスト教徒だからね。 いかにも古典的な、正当なキリスト教徒らしい行為をしただけのつもりだろう。 それなのに彼の行為が世界中から非難を浴びると、教会は急に「あいつはうちの信者じゃない、異端の悪魔だ」などと言い出す。話を捏造する。 汚い人々だ。
>宗教は人間が持つべき『道徳』に対して害悪を及ぼした。それはキリスト教徒たち--おそらくは人並みの理解力と、他者に対する情愛をもつ人々を、残酷なサディストに変えてしまうことである。
完全同意。 マルクスの発言は、「新たな麻薬を発明したお前が言うか」と思うが……。
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weeklyliberty-blog · 8 years ago
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文化的マルクス主義は撞着語法である
Gary North, “Cultural Marxism Is an Oxymoron,” July 01, 2014, Gary North’s Specific Answers, https://www.garynorth.com/public/12623.cfm
 一匹の妖怪がアメリカ保守主義を徘徊している。文化的マルクス主義という妖怪が。
妖怪(Specter)[1]
一。可視的無体精神、特に恐ろしい性質のもの。幽霊、幻影、亡霊。(1. a visible incorporeal spirit, especially one of a terrifying nature; ghost; phantom; apparition.)
二。恐怖や心配の対象や源泉。―病気や飢饉の妖怪。(2. some object or source of terror or dread: the specter of disease or famine.)
告白、浸透と分離
一つの筋書きから始めよう。プロテスタント宗派内の理論家集団が教えを説き始める。いわく、キリスト教は真理である。二つの教理を除いて。その一つ目は、イエスはとにかく神聖ではなかった。二つ目は、聖書は文字通りの真理ではない、と。〔彼らはキリスト教からこれら二つの教理を除く。〕さて、これらの人々の正説について、君は何と言う?
西洋は一八〇〇年代早期に国家資金ドイツ諸大学でこれらの議論を耳にし始めたが、このキリスト教と聖書の解釈の基本的アプローチは十七世紀中葉にイギリスで始まった。チュー・サークル(Tew Circle)でだ。これは一般的には学会で認識されていないが、歴史的にはこれが事実だった。その歴史的背景は三十年前にH・G・レーヴェントローH. G. Reventlowの『聖書の権威』The Authority of the Bible[2]という題の本で包括的な形で提出された。この本とその著者は事実上学者には知られていないが、この本は見事な専門書である。
この考え方は一八七五年頃のアメリカ・プロテスタント学会界隈でもっと広く受け入れられ始めた。とても速く広がった。それは神学的モダニズムとして知られ始め、一九三〇年までにはメイソン=ディクス線以北の最本流のアメリカ・プロテスタント教会で受け入れられていた。その主な例外はミズーリ教会会議ルター派であり、そこで戦いが続いた。
非本流教会のメンバーであった人々はこの考え方を反キリスト教とみなした。反対派の最も有名な宣言はJ・グレサム・メイチェンJ. Gresham Machenの本、『キリスト教と自由主義』Christianity and Liberalism(1923)であった。彼は正しかった。
非本流教会は成長し始めた。非本流宗派の成長は一九二五年以降に遅くなった。それらはジョン・D・ロックフェラー二世が死んだ年、一九六〇年頃、縮み始めた。我々がシェンケルの本『金持ちと王国』The Rich Man and the Kingdom(1996)を読むとおり、ロックフェラーは一九二〇年以降、他の誰より神学的モダニズムに融資していた。この縮小過程は続いている。
似たような浸透/分離過程が、マルクス主義内部で発生した。
文化的マルクス主義
一九六〇年ソビエト社会共和連邦のマルクス主義者が文化的マルクス主義として知られる運動をどう見ていたかは、聖書信仰キリスト教徒が神学的モダニズムを疑っていたのと同じ程度の懐疑をもってのことであった。言い換えれば、彼らはそれがちょっとでもマルクス主義であることを否定したのである。
お前が特定のイデオロギーの根本教理を放棄してなおそのイデオロギーの名を持ち続けようとするとき、そのイデオロギーの信奉者の一群がいるからには、お前は本来のイデオロギーの擁護者から侵略者として見なされるだろう。
文化的マルクス主義とはマルクス主義にとって、モダニズムがキリスト教にとってそうであるところのものである。文化的マルクス主義をマルクス主義と見なす者はみなマルクス主義を理解していなかったのだ。けれども、保守界隈ではそれが有り触れている。それは概念的な間違いであるから戦略的な間違いである。
正統派マルクス社会主義の胸と心、魂はこうだ。経済的決定論の概念である。マルクスの論ずらく、生産様式の不可避的変形ゆえ社会主義が歴史的に不可避である。彼いわく、生産手段が社会の下部構造であり文化一般は上部構造である。彼いわく、人々は特定の生産様式への関与ゆえに社会の法律と倫理、政治の特定見解をもつ。一八五〇年代の優勢な生産様式は資本主義であった。マルクスはこの生産様式を命名した。本来のマルクス主義が文化的に死んでなお、その名前が張り付いている。
まさしくこれが純粋に経済的/物質主義的であったからこそ、マルクスはこの立場で支持を得た。それは理念が社会変形の根本であるという理念に基づいた歴史的説明の痕跡をすべて切り捨てた。マルクスは、階級闘争の決戦場は生産様式であり、理念の場ではないと信じた。彼は理念を生産様式の二次的副産物とみた。彼の見解はこうだ。理念は有意な帰結をもたぬ。この理念をマルクス主義から取り除いてみよ、それはもはやマルクス主義ではない。
こういうわけで、わたしとしては保守主義分析家が文化的マルクス主義の理念を容認するのが驚きなのである。彼らはこの理念を支持する挿話のためにフランクフルト学派の著作物に取り掛かる。鋭利な分析家はアントニオ・グラムシの一九三〇年代の獄中著作物に遡る。彼は公式に共産党員だった。彼はイタリア人だった。彼は一九〇〇年代をソビエト連合で過ごしレーニン主義伝統は間違っていると信じた。西洋はまさにキリスト教であったからこそ共産主義の肥沃な土壌であることを証明しなかった。彼は西洋の主たる献身としてのキリスト教が敗れるまでそこにプロレタリア革命なしと明瞭に認識した。歴史は確かに彼を裏書きした。革命は起きなかった。
グラムシの論じ、フランクフルト学派が彼に倣わくは、マルクス主義者にとって西洋を変形する道は文化革命を経てのことであった。文化的相対主義の理念である。その議論は正しかった。しかしその議論はマルクス主義ではなかった。その議論はヘーゲル主義であった。それはマルクス主義をひっくり返した、ちょうどマルクスがヘーゲルをひっくり返したが如し。マルクス主義の最初期の理念はヘーゲル主義の精神的側面の拒絶に基づいていた。それは資本主義文化分析の核心に生産様式を置いた。
わたしは一九六八年ほどの前にマルクス主義の本を書いたが、そのとき対抗文化は急成長していた。わたしは『マルクスの革命宗教』Marx's Religion of Revolutionと題した。一九八八年��をダウンロードここ[3]でできる。マルクス主義が革命の宗教であり、古代ギリシアのクロニア祭りに遡るという見解は、わたしとしては一九六八年において明らかであった。マルクス主義は経済含む社会に限定された分析ではなかった。わたしは文化的マルクス主義に時間を費やさなかった。文化的マルクス主義者に時間を費やすことでマルクス主義の宗教的側面を示すのはもっと簡単であっただろう。彼らはこれらの文化的論点が西洋文化の宗教に関わること、それがキリスト教の副産物であることを明瞭に見ていた、しかしこれはわたしの本の目的を破っていただろう。わたしは本来のマルクス主義が宗教であったと示したのである。文化的マルクス主義にせがみたてたら読者を戸惑わせていただろう。文化的マルクス主義者はもっと手軽な標的であっただろうが、彼らを論じることはわたしの本の議論を弱めていただろう。
文化的マルクス主義者はマルクス主義陣営を分断した。彼らの文化攻撃は戦術的であるとプレゼンされてきたかもしれないが、それは戦術以上であった。それは戦略だった。それは本来のマルクス主義の放棄に基づく戦略だったのである。わたしはこれを記録文書批判『アジェンダ―誤解を招く、あるべからざる根本主義ビデオ』Agenda: //www.garynorth.com/public/10256.cfm[4]での議論として用いた。
我々はこのマルクス主義分裂を或る家族の観点で議論することができる。一九四〇年代と五〇年代のアメリカ合衆国で最も著名なスターリン主義の知的擁護者はハーバート・アプティカーHerbert Apthekerであった。彼の娘ベティーナは自由言論運動の指導者の一人であり、それはバークリーのカリフォルニア大学で一九六四年秋に始まった。彼女はスターリン主義の父よりはるかに有名になった。そのキャンパス・イベントは学生反乱と対抗文化運動を打ち出した。しかし「対抗文化」という用語それ自体がそれは決してマルクス主義ではなかったことを示唆している。それは優勢文化を投げ打つ試みであったが、マルクスはそのような概念に時間を無駄遣いしなかっただろう。マルクスはヘーゲル主義者ではなかった。マルクス主義者だった。
彼女と彼女の父は一九六八年に分裂した。ソビエト社会共和連邦がチェコスロバキアを侵略したとき、彼女はこれに反対した。彼女の父が主要人物だった合衆国の主流派共産党はソ社連を後押しした。
後年、彼女は父が自分を三歳から十三歳までの間性的に虐待したと記した。彼女の父は、彼の世界観の奥底では、彼自身のグラムシ主義アジェンダで身を処していた。彼は彼自身の家の西洋文化を攻撃していた。しかしそれは彼の正統派マルクス主義には及ばなかった。それは彼の娘のそれに及んだのである。
ベティーナ・アプティカーは今ではカリフォルニア大学に雇われており、文化研究を、フェミニズムを教えている。彼女がバークリーでマリオ・サヴィオとともに始めた運動は一九七〇年代早期に死に絶えた。彼女は今なお資本主義の批評家であるが、彼女の批判はマール・マルクスの著作物には基づいていない。どちらも対抗文化ではなかった。
対抗文化
一言で言おう。マルクスは間違っていた。グラムシが正しかった。しかしマルクス主義は対抗文化の主な大義ではなかった。対抗文化は文化に基づいていた。一八八〇年代中葉に始まり一九〇〇年頃にピークを迎えた理論的モダニズムと進歩主義運動の同盟は狂騒の二十年代の神学的土台であった。それから大恐慌が来た。それから第二次世界大戦が来た。一九一八年以後、男の子たちがあそこから帰ってきたとき、彼らはもはや正統派キリスト教のような何かに献身してはいなかった。彼らの子の男の子たちが第二次世界大戦から帰ってきたとき、第一次世界大戦後に始まった文化的腐食はほとんど完成していた。これはマルクス主義とは何の関わりもない。マルクス主義は生産様式の変化に基づく文化的変化の擁護に献身した。しかし一九四五年には、第二次大戦時に生じた現代的管理の台頭を除けば、生産様式の根本的変化はなかった。それは資本主義を強固にしたが、資本主義を弱めはしなかった。
問題はこうだ。保守主義者は文化的マルクス主義者の主張をまじめに取りすぎているが、彼らは実際にはマルクス主義者ではなかったのだ。彼らは基本的には進歩主義者と社会主義者であった。彼らは一八五〇年のマルクスの標的であっただろう。彼は生涯のほぼすべてをこの種の人々を攻撃することに費やしていたし、アダム・スミスや古典派経済学者を攻撃することにはちっとも時間を費やさなかった。彼は一八七〇年代早期に出現した新古典派経済学者とオーストリア学派経済学者に対して一言も答えなかった。マルクスはこれらの人々に応答するだけの時間をたっぷりともっていたが、決して答えなかった。彼はその人生のほぼすべてを、今文化的マスク���主義者と呼ばれているような人々を攻撃することに費やした。彼は彼らを社会主義陣営の敵を見なしていた。彼が彼らを攻撃したのは、彼らがその資本主義攻撃を彼の科学的社会主義の用語に依拠しなかったからであり、科学的社会主義は生産様式の概念に基づいていた。
グラムシは一九二〇年代において、自分はソビエト連合に留まっていたらソビエト強制収容所に行き着くだろうと明瞭に理解していた。彼は処刑すらされていたかもしれない。彼はスターリンがおそらく彼を殺していただろうと気づいていた。なので彼はイタリアに帰った。それでイタリアの強制収容所に行き着くだろうと全面的に知っていながらであり、行き着いたのだった。ファシストは読ませてくれた。書かせてくれた。そうすることで、彼らはマルクス主義的共産主義を掘り崩した。
フランクフルト学派の歴史的影響を辿るのは難しい。ちっぽけなセクトから文化一般への運動することは複雑な因果関係の研究を要する。文化的相対主義への基本的運動は一八八〇年代後半に始まっていたし、その兆候は神学的モダニズムと進歩主義運動であった。フロイト主義心理学は一九二五年までにはその一部となった。フロイトが相対主義の正当化であって、フランクフルト学派は後から来た。神学的モダニズムはフランクフルト学派以前にそれ以上の転向者を獲得していた。
ケネディー暗殺の直後に始まった対抗文化はフランクフルト学派の産物であるよりはるかにローリング・ストーンズのものであった。一九六〇年代中葉のセックス・ドラッグ・ロックンロールは一九五〇年代後半のセックス・ビール・ロックンロールに取って代わった。それは強力な発酵だった。対抗文化をフランクフルト学派に遡及するな。それがもっと良く遡るのは第一次世界大戦であり、これが西洋の諸制度を根こそぎにした。一九一八年以降モデルTの後部座席に乗って進んでいったのはフランクフルト学派の著作物以上に対抗文化に関わっていた。
結論
マルクスがこう論じたであろう。アメリカ文化を作り直したのは、他の何よりモデルTに代表される生産様式であった、と。わたしの議論はこうである。一八七五年に始まるメイソン=ディクソン線以北プロテスタント神学校の一握りの者たちとともに進んでいったものが、モデルTやフランクフルト学派よりも対抗文化に関わっていた。これは文化の論点をそれが属するところに、つまり神学に帰す。こういうわけでわたしはこの議論を神学から始めた。人々が地獄の教理を信じることは、彼らが生産様式とプロレタリア革命の関係を信じることよりも、彼らの行動に深く関わっている。
西洋は決してプロレタリア革命に近づかなかった。左翼は近づいていたと信じたかった。彼らは「フランクリン・ルーズベルトが資本主義をそれ自体から救った」と論じたかった。これはジョン・メイナード・ケインズが資本主義をそれ自体から救ったと言うののもう一つの言い方である。どちらの議論も間違っている。ルーズベルトとケインズは一度しか会わなかった。ルーズベルトはケインズを経済学者ではなく数学者であると評価した。これは正しかった。ケインズは経済学ではなく数学で学位を取った。ルーズベルトは我々がケインジアニズム1933-36と呼ぶものの源泉であって、それはケインズではなく、彼の一九三六年に出版された『一般理論』ではなかった。しかし学者は学会の議論が世界を形作ると信じたがる。彼らは作らない。彼らは一般公衆の思考と実践にすでに根付き始めていたものに順応するのである。
人々は「汝盗むなかれ」が「汝盗むなかれ、多数派の票による場合を除き」を意味すると決定したとき、ケインジアン世界観が生まれた。この世界観が今優勢である。マルクス主義は死んでいる。ゆえに文化的マルクス主義も死んでいる。
我々はこの戦いに勝つために、「汝盗むなかれ」の意味するところは汝盗むなかれ、多数派の票あれどなかれど、と説得しなければならない。
これは生産様式とは何の関わりもない。
[1] http://dictionary.reference.com/browse/specter
[2] http://www.amazon.com/Authority-Bible-Rise-Modern-World/dp/0800602889
[3] http://bit.ly/gnmror
[4] https://www.garynorth.com/public/10256.cfm
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carpaccione · 6 years ago
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普遍性の終わり:Boris Groys
この記事は、2016年のボリス・グロイスのロシア語インタビュー「Generality End」の翻訳である。この記事をクリップしたのは、恐らく、ゲンロン等でロシア宇宙主義を紹介している上田洋子のツイートを見たからだろう。ロシア語をGoogle翻訳で英訳したものを、さらにみらい翻訳で和訳している。そのため、文章自体の正確性や、パラグラフの結びつきなどが、どこかでずれているかもしれないので注意。また、インタビュアーのBCが誰なのかよく分からないが、もしかすると「Bring the Noise」などで対談したクレア・ビショップかもしれないので、ここに注記しておく。
普遍性の終わり:Boris Groys、孤独と芸術への省察の必要性について語る 「フラストレーションの点からの分析-唯一の正しいアプローチ。」
Boris Groys-アート理論家でニューヨーク大学教授。1981年まで東ベルリンで生まれ、ソビエト連邦に住んだ後、ドイツに移住した。彼は現在ニューヨークに住んでいる。Boris Groys Klyushnikova氏は、美術史家とのインタビューの中で、現代のインターネットと社会の分断化を分析している。
BC:ソビエト時代には独自の画像システムとそのスローガンがありましたが、ソ連崩壊後、現代芸術家が作品を作るために使う言語はなくなりました。ロシアは想像を絶するまでになり、90年の政治的修辞学でさえも、有名なエリツィン氏「明白に」と「理解する」の反対意見だけで構成された。今、あるイデオロギー的な言葉が再び現れているようだ。これはロシアの現代美術にどのような影響を与えますか?
BG:言うのは難しいですね。外側から見ると、ロシアは代表できないと思います。しかし、フランス、米国、中国の違いは何だろうか。今はどこにも一つの民族的なスタイルはありません。ロシアに代表される当時のソ連型が幻想であったと考えること。冷戦時代の国際的な共産主義と資本主義の対立だった。ロシアとソ連の芸術は、世界的なイデオロギー闘争と結びついていたため、全体的な状況は興味深かった。もうありません。ロシアは何でもできるが、既存のシステムと他国のシステムとの間に対立はない。完全な分裂があり、世界的な理念的闘争がある。結局のところ、イギリス人でもペルー人でもロシア人でも、芸術家は一人一人、自分をさらけ出しているだけです。政治的・文化的なアイデンティティを破壊する新自由主義と個人主義の時代に生きている。これは、すべての人と競争する時代であり、芸術家、作家、そして公共空間で自分自身をどのように表現しているかという観点から見る時です。彼はまったくの当り前だ。
BC:紀元前19世紀に作られたロシアのアイデンティティに内在する非線形性は面白いですね。私たちは想像上の西洋の概念を持っていますが、それは私たちを完全に理解することができません。それはまたロシアが苦しんでいる国だという固定観念を想起させた-私はそれについて議論したい。今日、私たちは株式パヴレンスキーを見て、本当にそのような自己消滅を見ます。これについてどう思いますか。
BG:まず興味深いのはロシア文化が失われたロシアの行動主義の時代に戻ったことです。西洋での60年と70年のパフォーマンスのトップに戻ると、それは完全にマゾヒスティック(Chris Burden、Abramovic、Urayは以前)で、これはとても興味深い動きです。しかし、もちろん、他の中間状態の復活なので、パヴレンスキーの仕事は実に見事だ(壮観な)。一般的にこのような芸術は今日まで続いている。刑務所の頭の中でミミズを食べるかのように場面を演じた学生がいた。しかし、この文脈で、私は他人の前での屈辱についてではなく、自滅について言いたい。ニーチェを思い出してほしい。ある人が社会に攻撃性を示す機会を奪われると、その人は自分自身に対して、自分の体に対して彼女を引き寄せた。例えば、十字架にはりつけにされた有名な人々から、私たちはこれを知っています。
BC:最近、「心の奥(Deep inside)」をテーマにしたYouth Biennaleを開催しましたが、この展覧会では自己陶酔的な行為やオブジェがいかに多いかに感銘を受けました。1年前にはモスクワ・ビエンナーレを通過しました。芸術家は集団的な慣習に戻ろうとしている一方で、虚無主義の中でますます閉鎖的になっている。
BG:賛成です。しかし、芸術を通じて共同体を作ろうとする試みは、共産主義を失った高齢者の特徴であるノスタルジックな経験である。若い世代は、誰も聞きたがらず、誰も誰も見たがらず、誰もが何かを言いたがっている文化の中で育って以来、何も失っていない。このニヒリズムはよくわかりません。今日、誰もが、ある意味で、自己の文化を示す何かを望んでいます。同時に、われわれの読者はGoogle、追跡システム、セキュリティサービスだけだ。特別に支払う人や、勤務中に支払う人がいることです。それ以外は興味がない。現代の芸術家たちは、自分たちが自分たちの観客であることに慣れており、芸術の過程は次第に精神劇の内省になりつつある。
BC:アート理論の枠組みに世代間のギャップの問題という一般論があると思いますか?先輩方と話をしていると、1989年以降に生まれた人と、ソ連とソ連の経験を知った人とでは、何か違いがあることに気がつきます。あなたは、私の意見では、非常に正確に、ある意味で、ノスタルジックな芸術における実践の共犯性は、現代生活にない共犯性に取って代わると言います。しかし、このような経験をしたことのない人がいると、この問題はさらに複雑になる。なぜなら、彼らは捕まらないことに対してノスタルジックであることがわかってしまうからである。
BG:どの世代にも視覚的、技術的な専門知識があり、作品の制作や鑑賞の経験があります。ある意味これはロシアの問題だと思います。欧米では事情が異なり、若い世代ほどインターネットの影響を強く受けている。ちなみに、日付を見れば偶然の一致が見られるでしょう。現代のインターネットは冷戦が終わった直後に生まれました。インターネットの基本原理は、公共空間の細分化だと思います。今われわれは、19世紀から20世紀にかけて形成された公共空間の崩壊の結果を目の当たりにしている。現在のインターネットは、18世紀の交友関係のように、Facebookの友人とのコミュニケーションである。しかし全く異なるソーシャルネットワークにアクセスすることができますそして医療分野の広がりを見ることができます武器の違法な販売やテロのプロパガンダのサイトポルノサイト資源過激な政治団体などです。そして、そこで彼らの問題を議論している人々は、私たちとは違います。私にはインターネットコミュニティがないように見える。インターネットは、コミュニティの終わりです。
BC:インターネットは芸術をどのように変えたのか?この状況で芸術家とキュレーターは何をすべきか?インターネットの登場は、画家が初めて写真に出会った時代の変化を思い出させる。
BG:アーティス��にとって技術競争に加わるのは危険です。私の教え子の多くは、アートシステムから離れて、バイラルビデオのようなことをしたいと思っています。問題は、彼らが勝つことのできない強力なメカニズムの伝播と競争することである。そして、ここ数年で最も人気のあったバイラルビデオのリストを見ると、まずこの猫と犬を使ったビデオが目に入る。二番目は強盗か交通事故です。車に乗り込むか、犬か猫に変身しなければならない。そうでなければ、ネットワークでそのような人気を獲得するにはどうすればよいかは明らかです。パブリックスペースの細分化でアートシステムが閉鎖されているのは良いことだと思います。これは、大きな舞台には出られない自由で興味深い発言の機会を作り出す。あなたは、-妨害を言います。今では、政治家は皆、反対意見を述べています。将軍は誰かがいなければ何も言えないので、それが好きではありません。問題は、小さなグループでも抗議を引き起こさなかったことを言うことです。人々は自己防衛的な目的を持っていて、何も言わずに、誰の気分を害さないために、自分たちの発言が最も無意味だと言いたいのです。これはある意味、猫と犬です。でも、意味のあることを言いたいのであれば、流通エリアを絞る必要があります。
BC:とても妥当な点です。あなたは、あなたが訪れなければならないと感じる15のイベントを、あなたの都市で毎日、ソーシャルネットワークを主催することができます。でも、どこかに行って、家にいた方がいいと考えないといけません。経験の生産性を刺激しても実際には起こりません。どうやってシステムの境界線上で作業するか、あるいはそれを避けるか?
BG:インターネットは中心がないので不可能です。彼は神のような存在であり、古典的な定義によれば、中世、その中心は利用できず、どこにでも境界がある。私たちは文化的で情報的ではないそのようなシステムに住んでいる。なぜなら、文化-教育と訓練のシステム、情報交換は似たような入れ替わりだからである。文化的慣行が誤って情報交換にあるという新自由主義的な考え。実際、私たちの文化的技能は譲渡不可能で、流通させることができない。家に座って、どこかに行く人がいるという情報を得ます。情報が入っているので、余計にやりたくないですね。もう十分です。彼らは彼に説明できない光景を見せたと言う。いや、そうではない、この説明はそれ自体で徹底的に。インターネットを開く前。これはカバーできません。ただし、ブラウザウィンドウを閉じることはできます。
BC:分かりました。しかし、現代のインターネット空間の文化が何らかの指針を提供しているのではないだろうか?以前、この小説に登場する美術史は旧石器時代から彼の全盛期の偶像まで展開されている。そして今度は、検索「ルネッサンス美術」へと駆り立てられ、どのようなオブジェクトのセットでも検索します。画像の山の中で迷子にならないようにするにはどうしたらいいでしょうか?
BG:ガイドラインは存在しないと思います。私たちは革命的な時代に生きているからだ。私たちの現実は本質的に断片的なもので切れ目の上に構築されていて継続するものではありません。あなたは、「繁栄」スタイルの概念を含む、芸術史の kvazibiologicheskuyu のモデルを思い出しました。同じ頃マックス・ノルダウは効果の退廃として芸術について書いた。これらの議論はすべて、芸術家が感じ、見たことをするときの芸術活動の表現モデルに基づいている。例えばフランツ・マルクが馬を青で描いているとしたらそれは彼が退化しているからです。実際、彼は他のみんなが見ているように馬を同じように見ている。この問題を解決するには、青でペイントするという方法があります。ほらね。もし私が馬を青で描くとしたら、私はあなたたち全員に反対で、あなたたちは何もしたくないと言います。たとえあなたと共通点があっても、私はそれを拒否します。これは抗議の戦術であり、革命の戦略である。非常に近代的な草食動物。それは公共計画に残酷だが、文化的には草食だ。そして、一方は他方と一致しません。ある深いレベルでは、人々の文化的な位置づけと現実との間にミスマッチがある。彼らはお互いを憎みながらも、常に肯定的で、楽観的で、親切で、コミュニケーションを取りたいと思っているようです。私にはもっと現実主義が現代文化を傷つけないように見える。
BC:私もそう思います。例えば、モスクワのアクショニスト90は、直接的なジェスチャーのように攻撃的であり、曖昧さを愛することで概念主義者に反対している。これはおそらく世代間のギャップだろう。そして、私と私の仲間たちは、順番に、私たちは「植物学」です。私たちは本を持っていて、世界との関係を感じなかった。でも、いつも何かを言おうとしていて、それが無駄だということに気づきます。これが芸術の問題だとどう思いますか?
BG:私にとって典型的な「オタク」はニーチェです。彼はほとんどいつも家に座って痛かったが、それにもかかわらず荒々しく話した。ActionismやDiscursiveのようにリジッドボディレベルにすることはできません。さて、ホイスマンスを思い出してください。彼の小説「提出(Submission)」Houellebecqでは、文芸評論家で学者のホイスマンスが主人公です。これらの退廃的で初期の前衛はすべて行動者ではなかったが彼らの発言の急進主義を妨げなかった。そして今、人々はとても社交的になっているように思えます。インターネットのおかげで、絶え間ないコミュニケーションの幻想が生まれ、世界に対する憎悪を弱体化させるのです。なぜ私がニーチェの話をたくさんするの?なぜなら、孤独感は本当に過激な孤独感であり、全体に訴えかける能力と欲望を生み出すからです。これは19世紀後半から20世紀��頭に前衛的なもの全体が成長したことに由来する。自分には全世界があるというこの感覚から、それを認めるか否かは別として。しかし今では、これが全体に浸食されている。人々は自分が世界の一部でしかないと思っていて、全体について話すのではなく、自分自身について話すのです。私の生徒たちは「あなたのことを話したほうがいい。」と言います。それはどういう意味ですか。彼らが実際に何か隠されたアイデンティティの中で生きているのだが、それを認識せず、恥じているのだ。
BC:重要な点を指摘されましたね。今日、メンタルヘルスに対する大きな要望があります。誰もが自分の感情的な経験に対処する簡単な方法と手段を求めています。なぜこのようなことが起きているのでしょうか?
BG:それは明らかです。これは新自由主義と人間の孤立の純粋な効果である。それは19世紀後半のことで、自由主義の最初の爆発もまた、自由市場、モノと人の自由な移動だった。ちなみに有名人やテロもいました。構造は今日のものと同じです。そしてほとんどの人が精神分析をしていました。個人が圧力をかけ始めたとき、彼は基本的に2つのことしかできない:圧力に抵抗するか、または圧力を中和するため、そしてほとんどの場合、薬物療法を行う。私の生徒たちは皆、私にとっては若い世代の一例ですが、心理学者や精神分析家に行くのをやめました。精神分析は絶滅し薬理学だけが残った。これは一つの方法であり、もう一つの方法である。ニーチェはこの状態を楽しみ、研究し始める。消音しないで、素材にしてください。個人的に見えてもこのようなことをすると突然共感を覚えるかもしれません。内部病変および永続的な不満の分析-現在のピクトグラムまたはテクストグラム。たとえば、スカンジナビアの作家の原因を知ることはできない。彼の最後の記事の中で私は、現代のリアリズムは19世紀のリアリズムと同じようなものであり、それは人間の精神への圧力を固定する客観的な現実であるという考えを展開した。
BC:私はこの意味で、文学の時代の経済不況、特に「クラッシュ」を再発見しました。
BC:経済不況ですね。また、とても重要です。幼い頃、私は再読しない小説を読んだが、誰が私を揺さぶったのか。すべてが主人公の感情が死んだという事実に基づいているこの「心理教育」フローベール。この小説は彼の現実主義に私を驚かせたが、それは現実に対する個々の反応の描写として理解できる。マルクスはこの文学が大好きで、私はバルザックとフローベールが大好きでした。彼は資本主義の精神性が運命の感覚と結びついているとよく言われている。それは十九世紀のことであり、60年代と70年代のいくつかの文献でも、「ニューヨークのプロジェクト革命」ロブ=グリエのように、人間と世界との関係が不可避であるという感覚が述べられている。この感覚はさらに大きな力で戻ってきています。ファタムには道徳がないので興味深い。この場合の刑罰は犯罪がないときに行われる。今、私たちは再び外部の超道徳的なプロセスに直面しており、それらが攻撃されている間ずっと。私は唯一可能な反応-私たちが芸術的な創造について話すなら、反省-だと思う。政治的、何かを明確にして、しかし社会主義の復活について話すには、私には早すぎるように思えます。人は個人主義に熱を入れすぎている。誰もが彼をスタートアップだと思っているが、それは彼が彼らの創意工夫によって驚くべき力を発揮できるからだ。誰もが自分に創造力があると思っていますが、すぐにそれは終わります。
BC:似たようなことが起こりました。私には、芸術批評のこれまでの伝統の代表者たちは、何らかの立場、政治的枠組みであったように思われる。そして、私は悲しむことしかできません。
BG:ある意味では賛成です。しかし、例えばマルクスは彼らの手紙の中で、彼が社会主義的なアジェンダで文学の神経を逆なでしていることについて書いている。さらにバルザックを愛読していた。バルザックは誰もが平等に嫌い、誰も好まなかった。バルザックには幻想がなかったからである。lamentirovatだけではなく、記述し分析すること、そしてもちろん絶望的な立場から分析することが残されている。これが唯一正しい接近法であり、今もそうだ。
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damdam-f · 6 years ago
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入門家族社会学 覚書
家族社会学 永田夏来・松木洋人編 2017 新泉社 執筆 松木洋人 永田夏来 野田潤 斉藤暁子 吉田崇 藤間公太 保田時夫 阪井裕一郎 田中慶子 斉藤直子 三部倫子 戸江哲理 本多真隆
日本社会の家族変動 「日本企業は、基幹労働力として採用したものに対して職務内容、勤務地、労働時間という三つの面での無限定性を要求する」 この章における「ケア労働」は家事育児全般を指す模様 主な文献:落合恵美子「近代世界の転換と家族変動の論理」 筒井淳也「仕事と家族 日本はなぜ働きづらく生みにくいのか」 大沢真理監訳「平等と効率の福祉革命」 井上真珠「ライフコースとジェンダーで読む家族」
恋愛と結婚 共同主義的結婚・家族主義的結婚・個人主義的結婚の3つの類型 ナショナリズム構築としての伝統化 結婚意思の統計→人口問題研究所 出生動向調査 上昇婚における上昇とはなにか?第一次産業よりもサラリーマンのほうが階層が高いと見なされる風潮→多くの研究は同類婚が多いという結果 婚活スティグマの付与 ロマンティックラブ複合体という信念(嫌な複合体) 主な文献:岩澤美帆「職縁結婚の盛衰からみる良縁追求の隘路」 加藤彰彦「未婚化を推し進めてきた二つの力」 柴田悠「子育て支援が日本を救う」 村上あかね「若者の交際と結婚活動の実態」 盛山和夫「日本の階層システム4ジェンダー・市場・家族
家族の近代化と子育て変容 子育ての多様性、貰い子/里子/仮親 成員の再生産と生活保障についての自助原則 成員同士の愛情や情緒的繋がりが社会規範として重視される子供中心主義→子育てコストの増大 明治期の育児日記の記載者がほぼ父親というのはおもしろい 育児書の通時的分析→80年代に変化 アンデルセンの福祉レジームについて読むこと 少子化対策の主なターゲットであり性別役割型分業夫婦への支援不足 ウルリッヒベック「家族の個人化」→家族主義の終焉を意味していると考えられていたが落合/チャンらの議論から欧米社会とは違う可能性 「個人主義なき個人化」チャン 主な文献;落合ら「公共圏と親密圏」再読 広田照幸「日本人のしつけ��衰退したか」 本田由紀「家庭教育の隘路」
家族と介護 近年になるにつれ子の配偶者による介護は減りつつある(国民生活基礎調査) 女性が介護する側になった場合は介護したいが、介護される側になった場合家族に迷惑をかけたくない場合が多い 介護の「再家族化」 家族介護者の権利がいち早く着目され法的に認められたのはイギリス家族介護者法 EUにおける家族介護者支援の団体 EuroCarers 日本→日本ケアラー連盟によるケアラー支援推進法 主な文献:藤崎宏子「訪問介護の利用抑制にみる介護の再家族化」 大和礼子「生涯ケアラーの誕生」
社会階層と家族 子供の6人に1人が貧困、1人親世帯の貧困率は54.6%「平成25年国民生活基礎調査」 OECD(経済協力開発機構)の平均を上回り母子家庭の貧困率は最低 貧困率は過去20年間上昇し続けている 「社会階層」とは 概念の母体となるもの→マルクスの階級論「社会階級」→生産手段の所有/非所有によって新本科と労働者を区分する ウェーバーは生産手段に限定せず社会的資源の保有を多元的にとらえ獲得機会すなわち生活機会に差がある状況を階級と捉えている 職業に基づく階層分類→日本標準職業分類やSSM総合職業8分類、橋本健二による階級概念による計量分析、EGP階級分析など→質的カテゴリー 量的カテゴリー→社会経済的地位スコアや職業威信スコアなど 伝統的な階層概念では十分に捉えることのできない問題→①無職②非正規雇用(アンダークラス) 「社会移動」という観点 親と子の職業(階層)比較→世代間比較 個人のキャリアにおける比較→世代内比較 社会移動の大きさは流動的/開放的の目安、社会の不平等構造の持続性を考える上での重要な情報となる 「結果の不平等」と「機会の不平等」→不平等をすべて解消すべきという結論にならないことに注意(完全なる平等主義はやる気をそぐため結果として経済活動の停滞をまねく)→行き過ぎた不平等は是正し社会の活力を生む程度の不平等は必要であると資本主義社会は考える 結果の不平等が機会の不平等に転化する(子供の貧困だけとは限らない) 「階層調査」国勢調査、就業構造基本調査、労働力調査、社会階層と社会移動全国調査(SSM調査) 不平等の測定調査→機会:移動表・クロス表 結果:ジニ係数 相対的貧困(等価可処分所得の50%以下が貧困)、等価とは世帯員数の違いを考慮したもの(世帯員数の平方で割ったもの) 日本では教育費や高等教育費に対する公的な支出が小さいことが知られており進学率が上昇したのは家計の無理が指摘されている 主な文献:白波瀬佐和子「生き方の不平等」 トロウ、マーチン「高学歴釈迦の大学」 余田翔平「子供期の家族構造と教育達成格差」 山田昌弘「少子化社会の日本」
離婚、再婚と子育て 近年の離婚の特徴→離婚が結婚初期に限られない、相対的に立場の弱い妻からの離婚申し立て増加、子供のいる夫妻の離婚が七割近く、親権者が妻が八割(単独親権は日本の特徴)、核家族が多いため離婚後一人親家庭が誕生する 自由意思による協議離婚の問題点→十分な取り決めがなされない 再婚の特徴→男性の方がしやすい、四年以内が六割、年齢が低いほど再婚しやすいが40代で再上昇、子供がいると再婚しにくい、高学歴者ほど再婚しやすい、男性は再婚しなくなった 離死別者の非再婚化→高い学歴を達成できなかった男性に広がっている(不安定雇用の増加) 再婚による心理状態の性差 ひとり親家庭の「私的扶養と公的扶養のはざま」に取り残される問題、家庭経営面の困難 ひとり親世帯の教育達成との関連は経済的要因以外の媒介要因を解明する必要性がある(余田) ステップファミリーの家族運営とストレス→別居親との関係が宙ぶらりんになりやすいなど→創造性の必要性、規範にとらわれない関係 家族の絆を強めたいのであれば我々は家族に課せられた責任を大家族化する必要がある(Esping- Andersen2008) 主な文献:神原文子2010「子連れシングル」 永井暁子2010「未婚社会における再婚の増加の意味」 余田翔平2014「再婚から見るライフコースの変容」 稲葉昭英2003「結婚と再婚とメンタルヘルス」
成人した子供と親との関係 自律性を求める制度に人々の規範意識が追いついていないのか、自律の意識はあるがその実現を妨げる現実的障害があるか? 平均寿命の延びにともなって中期親子関係の期間は長期化している 誰もが同じように抱える問題が存在しないことが中期親子の本質的で申告な問題性を示す パラサイトシングル論(山田昌弘)の意味 社会不安の誤解の多い責任転嫁 世帯内単身者に関する実態調査→世帯年収が低いなどシングル論とは異なる点が多かった 自分の子供と同居している高齢者世帯→2015年には64%未婚子との同居 1970年の時点では17% 国民生活基礎調査 世代間連帯理論という枠組みと世代間アンビバレンス理論 中期親子の関係への性差のある捉え方、多様な関係性 主な文献:山田昌弘「パラサイトシングルの時代」 宮本みち子 岩上真珠 山田昌弘「未婚化社会の親子関係」
多様化するパートナーシップと共同生活 欧米社会における家族をめぐる大きな変化は同棲カップルの増加 アヴァンギャルド現象→同棲から結婚モデルの標準化→結婚の代替としての同棲(スウェーデンのサムボ法1988とフランスPACS1999) リスク解消戦略としての同棲(ゲルンスハイム) 流動的な社会で結婚のような固定的な関係に参入することの忌避 日本や韓国では同棲率は低い、日本における内縁と同棲の違い 足入れ婚と妾の多さなどの内縁がイエ制度批判の観点から忌避されるようになった→1980年代に従来とは異なる個人が主体的に選択する実践としての事実婚 主な文献:熊谷晋一郎「解説:共依存概念がケアを斬る」 阪井裕一郎「事実婚と民主主義」 上野千鶴子「家族を容れるハコ、家族を超えるハコ」
家族とお金と愛情 正当な同居が結婚している=家族であるという認識 ケア労働の金銭換算 内閣府経済社会総合研究所2013→時給が女性の方が低くなる 男女間におけるケア労働は愛情と結びつき無償労働という自覚になりやすい? 親子間におけるケア労働は法的に定められているが親からの一方的な不均衡さが見られる 現代日本において家族というライフスタイルが合理的 主な文献:藤崎宏子「親と子」 春日井典子「ライフコースと親子関係」 西村純子「子育てと仕事の社会学」
結婚差別問題と家族 結婚において親の影響があったかどうかの分析(2016筒井) 家族主義的な政策、脱家族主義が家族形成を促す可能性 主な文献:筒井淳也「結婚と家族のこれから」 米村千代「家を読む」 阿久澤麻里子「法期限後の部落問題に対する市民意識」
セクシャルマイノリティの子育て 性別違和のない人→シスジェンダー 社会的なスティグマとどうつきあうか? 結婚を詮索から逃れるために選ぶ
子育て広場におけるやりとりとつながり こどもや子育ての責任は母親にある→母子関係パースペクティブ 懐かしの母原病(私の社会学への興味はここから) 子育て支援としての子育て広場事業 主な文献:井上清美「現代日本の母親規範と自己アイデンティティ」 串田秀也編「エスノメソドロジーを学ぶ人のために」 落合恵美子「家族の社会的ネットワークと人口学世代」 大日向雅美「子育て支援が親をダメにするなんて言わせない」 筒井淳也「親密性の社会学」 山根真理「育児不安と家族の危機」
ポスト工業化社会への移行から考える家族と政治 ウルリッヒベック 従来の政治概念が工業化社会に形成された議会政治における「支配、権力および利権の擁護と正当化」と関連して用いられてきたことに対して「生活関係の形成と変化」に力点をおいて議論を展開している(本多真隆) 製造業を中心とした工業社会→男性労働者の雇用と賃金が比較的に安定→性役割分業の浸透農業や自営業保護政策→家業継承型の家族生活も豊かに 第一波フェミニズム→女性参政権獲得運動 第二波→地位平等後の性別役割分業をはじめとする社会的経済的に従属する社会への疑問 制度変革を求めるだけでは無く意識変革を目指す小グループの動きが盛ん 人々が社会活動や職業活動を行いながら家族生活を維持できるような労働環境・育児環境・介護環境の形成を主張することによって。多様な家族観をもつ人々が多様な家族のあり方を実現できるよう、社会を変えることを主張していた(江原由美子) 専業主婦が必ずしも政治や社会参加と無縁では無かった 70ー80年代の生協活動や住民活動では主婦の役割が大きかった ポスト工業化社会の家族は安定性を欠くのはなぜか ポスト工業化社会とは一般的には第二次産業の衰退、第三次産業の比重が高まった状態 雇用の二極化と格差の増大→雇用の不安定化は男性の稼ぎ手モデルが成立しづらくなる、サービス業の比重が高まるため女性が労働市場に参画しやすくなる→夫婦の利害衝突の発生 信頼を新たなに作っていく→性別だけで判断する、あるいは相手の決定に全てを委ねるのではなく、自ら働きかけながら関係性を作っていくことが重要→「能動的信頼」アンソニーギデンズ→政治的解決のために「私たち」を作ることが解決の一歩 「女性革命」への対応→子供や高齢者への福祉を発展させ女性の就労と男女平等の達成を公的責任で支援する(エスピンアンデルセン) 国家による制度の設計だけでなく地域社会や市民社会との連携 主な文献:林昌弘訳「迷走する資本主義」 松田茂樹「少子化論」 仁兵典宏「生活保障」 筒井淳也「仕事と家族」 大和礼子 田間泰子「問いからはじめる家族社会学」
現代社会を分析する豊富な文献と導かれる考察、そこからのポスト工業化社会への提言が本書の肝(わかりやすい) ネット言説などの伝統論でしばしば隠される過去から続く家族のあり方が様々な観点から展開されており体感では理解しづらい部分の補佐をしてくれると思うのでここから主な文献に当たる予定 購入してもよかったかも
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kuroda-kanbee · 8 years ago
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数年分のコピペ005
3月 12, 2016 つい最近まで日本人の多くが、日本が植民地時代に悪いことをしたので韓国人が怒り続けるのも無理はないと思っていた。 左派メディアもこの基本線で報道をしていた。どうも違うようだ、とようやく気づき始めたのが今である。 韓国の反日は、日本が何をしようがしまいが激化していく。 領土問題では奪われた方が騒ぐのが普通だが、奪った方が大騒ぎしている。 李明博前大統領は「聖地」に降り立ち、日本を侮辱する大見得(おおみえ)を切った。 いくら謝罪しても無駄なことは、朴槿恵大統領が「被害者と加害者の関係は千年変わらない」 と宣言し明らかになった。 盗んだ仏像の返還拒否、条約破りの高裁判決、慰安婦像設置など米国での反日活動、 靖国神社に対する狼藉(ろうぜき)と放火未遂、「原爆は神の罰」の新聞報道、朴氏の米国反日行脚、 東京五輪開催決定間際の汚染水問題に伴う日本水産物禁輸処置と、挙げればきりがない。 全国民が集団催眠にかかったように反日にいそしむ姿は異常を超えて戯画的ですらある。 では問題の核心はどこにあるのか。日本の贖罪(しょくざい)や償いとは一切関係ない。 それはひとえに韓国が独立戦争で勝ち取った国でないという韓国人自らの「脛(すね)の大傷」にある。 米軍進駐により棚ぼた式に独立を得た韓国には、そもそも国家の正当性というものがないのである。 その正当性をひねり出し、脛の傷に絆創膏(ばんそうこう)を貼る必要があった。 韓国の歴史認識という「正しさ」の捏造(ねつぞう)である。韓国のいわゆる民族主義観は次の4点から成る。 (1)高度な文明国だった朝鮮が野蛮人とみなされていた日本人に侵略され侮辱された (2)朝鮮統治における「改善」は、朝鮮人を効率的に搾取し支配し同化するため日本が朝鮮近代化を必要としたにすぎない (3)統治時代、朝鮮人民による解放闘争が継続的に行われた (4)日本人が朝鮮人に対する非人道的方策を推し進め一方的かつ高圧的に臨んだため、抵抗運動は活発化し同化政策は失敗した-である。 今日では、韓国の経済史学者、修正主義史観の米学者、日本の地道な少数の学者たちの努力によって、 韓国の民族主義史観は韓国以外の地ではすでに崩れている。 まず李氏朝鮮に高度な文明などなかった。李朝五百年は中国から学んだ朱子学の儒礼の実践、消化に費やされ、 経世済民を思わぬ李朝政権により朝鮮は貧窮に閉ざされていた。日韓の保護条約は高宗王が大臣5人に丸投げして生まれた。 「そちたち良きにはからえ」と王が言った史料が3カ所から出ている。 よって不法ではない。不法なら時の列強がそれを盾にたちまち襲いかかったことだろう。 収奪史観は日本のマルクス主義者たちが教えた方法である。が、貧窮の朝鮮には収奪するものがそもそもなかった。 インカ帝国のように金でも採れれば収奪しようもあったろうが、何もなかったので他の植民地支配のように過酷にはなり得なかった。 労働を知らない彼らにその価値や意義から教えなければならなかったことが日本による「改善」其(そ)の一であった。 別に私は韓国が憎くて書いているのではない。このままでは日本の植民地統治が世界一残酷だったと教えられ、 テロリストや爆弾魔を解放運動の雄だと刷り込まれた韓国の若者が、 海を渡り過激な行動に走る危険性があると指摘せざるを得ないから書くのである。 植民地統治は一応の成功を収めた。巨額の投資が行われ、朝鮮は年々経済成長し、近代教育は一般化し、 1945年以降の教育制度の前提を成した。コメを収奪する必要もさらさらなかった。年々豊かにとれるコメは、 民法で保証された農民の土地で収穫され、経済原理により日本に輸出された。
軍が直接、暴力的に農村から女性を連行した事実を裏づける公文書は発見されていない。 都市では戦後の企業を立ち上げる有能な経営者が総督府や銀行と協力し、民族資本家として育っていった。 だが、これらが実証されたからといって韓国の民族主義史観が放棄される兆しは残念ながらない。 それを認めれば、国家の正当性が崩れてしまうからである。したがって韓国人の考えは変わらない。 それどころか、目や耳をふさぐ集団催眠状態が続いて、日本人が怒っていることにも気づくまい。 ��えて、韓国人は日本は地震・津波・原発事故でもう落ち目だと信じ、代わりに中国が助けてくれると思い込んでいる。 戦後約70年間、38度線で韓国が島化し、中国に直接国境で触れることがなかった幸いに思い至らないからだ。 解決策はもはやない。植民地統治が合法的に自然に始まり、独立戦争のないまま米軍の進駐で自然に終わったという、 朝鮮近代化の真実を韓国人が認めることはあり得ないだろう。近代国家が国家理性に傷を持つとは、 かくも大きな結果をもたらすのである。一国の指導者が国内に行けない所があるという、 わが国の靖国神社問題も国家理性の傷であり、韓国をもって他山の石となすべきだろう。(ふるた ひろし) http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20131108/frn1311081131000-n3.htm 【正論】筑波大教授・古田博司「韓国が反日に勤しむのは『棚ぼた独立』で国家成立に正当性ないせい、謝罪も説明も無駄」 (via darylfranz) (元記事: hizayamasan (peckoriから))
3月 10, 2016 意外と知られていないが韓国は日本以上にクジラを食べている国だ。 今も韓国には鯨料理店が多く軒を連ねている。
御存知の通り調査捕鯨には頭数に限界がある。だが、偶然網にかかったり、 座礁した鯨は採っても良いことになっている。 そして不思議な事に韓国で座礁したと称される鯨は他の国の何十倍何百倍もの 不自然な数に及んでいる。
このように偶然()捕まる鯨を日本人以上に大量に食べている韓国だが、 捕鯨協会においては韓国人は日本の捕鯨を批判し、糾弾しているのである。 日本憎しの思惑だけで日本を攻撃し、日本以上に鯨を捕獲している とんでもない腐れ外道が韓国なのである。 シーシェパード 「韓国船を攻撃する」 (via mcsgsym) (元記事: mysmn (umomofarmから))
3月 10, 2016 前回は日本の製造業はアジア各国に多くの工場を建てて、現地での雇用を 大量に生みアジア諸国のGDPを大きくし、高い経済成長を支えていると 書きました。 中国経済に入る前に、もう少し日本の製造業について書いてみます。 日本の製造業はなにもアジアだけに工場を建てただけでなく実は欧米にも 多くの工場を建ててその国の経済発展に貢献しています。 たとえばアメリカに進出した日本の企業の数は、07年で2037社(JETRO の資料)、実際は3000社を超えるといわれています。なぜなら現地で アメリカ企業を買い取ってアメリカ企業になってしまった企業 はJETROの資料には上がってきません。 建設機械のコマツなどは海外で仕事をするとき、現地の会社を買って現地の 会社になります。そのほうが、法人税が安くすむからです。 パナソニックもソニーも売り上げの多くは海外に進出した会社の売り上げ です。日本の税金は高すぎます。アメリカだと30%台で治まります。 日本の高い法人税がアメリカやアジアなどへ積極的に進出する動機に なっています。 グローバル化した日本の製造業は欧州にも数多くの企業が進出しました。 欧州の正確なデーターを持っていませんが、英国投資セミナーの資料が 手元にあります。それを見ていますと、すべての大手電気・OA機器、 自動車メーカーが英国に進出しています。 欧州の中で進出が一番少ないと思っていた英国に285社も日本から進出 しています。資料を見ていますと大手企業以外にも中堅、中小企業の 名前も載っています。 たとえば清国産業、押野電気、丸澤機工、オハラ、弘電社、タムラ化研、 エンプラス、など様々の業種の中小企業が進出しています。なぜ中小企業 まで英国に進出するのかよく分かりません。推測ですが良質な労働者や 英語でのコミュニケーションができるのが理由かも知れません。
無駄なデーターを並べましたが私が言いたいことは、日本の製造業は アジアはもちろんのこと欧米各国にも続々と工場を進出させて、現地での 雇用を大量に生んで失業を減らし、各国の輸出量やGDPの増加 に大きく貢献しています。 つまり日本の製造業は、世界の経済を支える重要な役目を果たしていると いうことを知ってほしいのです。アメリカに進出した日本企業は、雇用の 10%を支え、輸出の11%を占めています。 アメリカからもっとも多く自動車を輸出した企業はGMではありません。 ホンダやトヨタなのです。また欧州の全輸出の11%は欧州に進出した 日本企業です。 しかし残念ながら、アメリカの政治家もエコノミストも日本の製造業の 実力を把握していません。日本の政治家も無知で 先入観でものを言う 日本の評論家の悲観論を信じています。 アメリカや欧州、アジアの政治家たちは「わが国の経済と雇用を支えてくれ てありがとう」という感謝状をもって日本に来なければいけません。 このようなことを書くと日本から製造業は海外に出て行って空洞化がおこり 日本が衰退すると心配する人がいますが、まったく心配いりません。 85年以降日本の輸出は家電や自動車といった耐久消費財は急激に減り 変わりに部品や材料といった資本財が非常な勢いで伸びてきています。 世界の資本財の80%は日本製だといわれています。日本の優秀な資本財が 止まれば世界中の工場が止まってしまいます。日本の技術をパクッて 世界に飛躍した韓国メーカーも日本の資本財を購入しなければ、工場が 動きません。結果韓国の対日貿易赤字は250億ドルの巨額に達しています。 円高になれば無知な政治家や評論家は輸出企業大打撃であると悲観論の コメントを発しますが、ほとんど関係がありません。優秀な資本財は 日本からしか買えないからです。日本の貿易黒字は07年まで毎年10兆円 もあります。 「幻の中国経済」を書くつもりがどんどんアサッテにそれてしまいましたが、 まず日本の実力を知ってもらわないと中国のGDPに追い越されて嫉妬して いるように思われても癪だからです。 中国も日本の真の実力を知りません。だから4日付の中国の環境日報で 「2010年に中国に追い抜かれる日本に焦り」との記事を一面トップで 掲載するのは構わないのですが、勝手に推測で「日本に焦り」と書いたり、 わざわざ専門家のコメントで「中国のGDP規模が、10年で日本を追い越す ことに日本の民衆はどよめいた」など書かせて、いまや中国は得意満面に なっています。 日本人は焦ったり、どよめいたり、などまったくしていません。 日本のエコノミストたちから発信される「日本ダメ論」を信じて中国人は 優越感にしたり、欧米各国は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は 夢まぼろしだったと哀れみの眼でみています。 しかしちょっと待ってください、データーを見れば、世界経済を支えて いるのは間違いなく日本です。最先端といわれる分野に関しては、日本は 常に世界のトップを走っています。日本はまだこれからますます伸びていく 国だということがはっきりわかります。 日本がダメに見えるのはきちんとしたデーターを見ずに、イメージと雰囲気 だけで論じる怪しげな評論家のせいです。ただ心配なのは国内しか見ていない バカな民主党政権がまだ4年も続くということに、一抹の不安を感じます。 中国の作られたバブルが崩壊し経済が破綻しても世界はそれほど困りません、 安価な労働力を提供してくれる代わりの国はいくらでもあります。 しかし日本が崩壊すれば、世界の工場が止まり、失業者があふれます、世界 が不幸になります。日本の代わりをしてくれる国はありません。 日本の製造業は一人勝ちといった状態なのです。 私のブログに訪問してくださったお若い方たち、日本の未来に悲観する 必要はまったくありません。21世紀は間違いなく日本の時代です。 日本経済の実力:中韓を知りすぎた男 (via petapeta) (via quote-over100notes-jp) (via masoso)
3月 10, 2016 スコットランドから来ている20代の若者が「選挙の公約に掲げられていた事に反対して国会を取り巻くデモしても遅いよね。その前に投票率低過ぎ」とか「保育園入れなかったら国会デモって何故?東京都の人なら都庁でデモなんじゃないの?」と質問されるのだけれど。その通りなので、本当にとしか。 網野幸子さんはTwitterを使っています (via windsock)
3月 10, 2016 心理学の教授の「ツイッター等で彼氏自慢をしない女性ほど長続きし、結婚に早くたどり着いてますね。ノロケツイートする人なんて彼氏が好きなのではなく、彼氏がいるステータス自慢、一途な私可愛いアピールしたい内心が出てきちゃっているだけなんですよ」という言葉で、うるさかった教室が沈黙した。 かずくん【公式】さんはTwitterを使っています (via acricket86)
3月 11, 2016 気が合う人、こんにちは そうじゃない人、さようなら 人生は気が合う人と出会うための旅でもある。そして気が合う人はそう多くない。 多くないからいいんですよ。友達がたくさんいるという人と、私は付き合いたくない。 ちょっとでいいんです。 気が合う人は、こんにちは。 幸せになっちゃ、おしまい(平 安寿子) (via natsumix723) (via marekoromo)
3月 12, 2016 震災後の韓国まとめ
・震災直後に日韓スワップを頼んできた ・セブンイレブン募金でダントツビリの募金額だった ・震災翌日の韓国メディアは 「日本沈没」 と見出しをつけていた ・日本の競合会社が地震で崩れた今こそ千載一遇のチャンス!と報道 ・韓国ネットユーザーが 「日韓戦同点ゴールより嬉しい」 「久々に暖かい話だ」 などと反応する ・韓国はこれで津波特需になると韓国メディアが報道 ・アメリカブランドが製作した日本海Tシャツに抗議活動をして販売を中止させた ・犬二匹(一匹逃亡)と5人だけ派遣してきた ・韓国国内での募金を70%を竹島保護事業に、10%を慰安婦団体に寄付した ・被災した在日韓国人優先で募金を使った ・集めた寄付金を奨学金に使った ・10年以上凍結されていた竹島のヘリポート改修工事に着手 ・韓国国会議員、北方領土に到着 ・韓国機A380が竹島上空をデモ飛行 ・国際地図大会会場に前例のない広報ブースを準備して東海併記運動を実施 ・震災の津波生中継を 「感動的な光景を目にすることができた!」 と実況していた ・日本沈没論などと言い出して喜んでいた ・震災の混乱に乗じて密航しようとして11人が捕まった ・震災義援金を盗んだとして韓国籍の林成富が逮捕された ・青森県の被災地で窃盗をしていて韓国人が逮捕された ・K-POP総出演の復興支援ライブの入場料が寄付目的だったはずなのに寄付されていなかった ・韓国人の76.5%が 「日本でまた地震が起きても、もう助けない」 と答えた ・AFCのサッカーの試合において、「震災お祝いします」 の垂幕を使っていた 【追悼式欠席】 韓国 「国民こぞって募金活動までし、あれだけ支援した韓国の欠席、本来なら変だと思うはずだ。日本はなぜ確認しない」 (via 46187) (nandemo812から)
3月 9, 2016 他人に攻撃的になってるのは、お金、睡眠、栄養、肯定感、どれかが欠けてる可能性高いからチェックした方がいいし、攻撃されてる方も相手か自分のどちらかが悪いと思わずに距離をとった方が、精神衛生にいい オジョンボンXさんはTwitterを使っています (via quotation22) (yukdから)
3月 9, 2016 今日、近所の公園で超かわいいシベリアンハスキーが散歩されてたから飼い主さんに触らせてもらって犬の名前を聞いたら「シベ超です」と言われた。私が「まさか…あの?」と聞いたら飼い主の女性は「あ、知ってます?…お父さんがシベリア超特急好きで勝手につけちゃって…」と頬を赤らめていた。良い。 Twitter / sakurajimanini (via tkr)
3月 9, 2016 仕事のできない者が駄目な人間というわけではない。間違った場所に置かれているだけである。 ドラッカー名著集13 マネジメント[上] / P F ドラッカー (via ebook-q) (nanahanから)
3月 10, 2016 議論するとき目の前にいる人間は敵ではなくて、共通の問題を解決する仲間だってことは忘れるなよ! 先輩の言葉 (via sokai)
3月 10, 2016 正義を主張していたアメリカ軍の知られざる実態(リンドバーグ日記からの抜粋) *各地の太平洋戦線で日本人捕虜の数が欧州戦線に比し異常に少ないのは( 捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、米兵が捕虜を取りたがらないから。( 手を上げて投降してきても皆殺しにするから。 *あるところでは2000人ほど捕虜にしたが本部に引きたてられたのはたった100か200だった。( 残りのの連中にはちょっとした出来事があった。それを知った戦友は投降したがらないだろう。 *捕虜を取らないことを自慢する部隊がいる。 *捕虜を飛行機で運ぶ途中機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告。 ( ある日本軍の野戦病院をある部隊が通過したら生存者は一人もいなかった。 *2年以上実戦に参加した経験がない兵が帰国前にせめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、 ( 偵察任務に誘われたが撃つべき日本兵を見つけられず捕虜一人だけ得た。 ( 捕虜は殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で軍曹がナイフで首を切り裂く手本を示した。 *爆弾で出来た穴の中に皆四肢バラバラの状態の日本兵の死体を投げ込みその後で ( トラック1台分の残飯や廃物を投げ込む。 *捕虜にしたがらない理由は殺す楽しみもさる事ながらお土産を取る目的。 ( 金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰りそれでペン・ホルダーとかペーパーナイフを造る、 ( 耳や鼻を切り取り面白半分に見せびらかすか乾燥させて持ちかえる、( 中には頭蓋骨まで持ちかえる者もいる。 *リンドバーグはドイツ降伏後ナチスによる集団虐殺現場を見学した時の日記で( 「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ。 ( 爆撃後の穴に日本兵の遺体が腐りかけ、その上から残飯が投げ捨てられ、( 待機室やテントにまだ生新しい日本兵の頭蓋骨が 飾り付けられているのを見たときだ。 ( ドイツはユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、( 日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのだ」と。 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1356056769/ (via shinjihi) (twinz1999から)
3月 10, 2016 何で、日本で最も多くの人が(無意識レベルででも)信仰しているものを「神道」と呼ぶか知ってる? それは「神道」が宗教ではないから。 宗教として人の都合で固められた教えは、やがては時代にそぐわなくなり、いつか維持できなくなる。そうして形骸化した神(=教え)は求心力を失って“死ぬ”しかない。 その現象を神の死と、キリスト教の人々は捉えたんだと思う。 神道が宗教でないなら、何なのか? 読んで字の通り「道」なんだよ。 言うなれば華道や書道、剣道や柔道や、武士道なんかと同じ。 どの道にも、究める先には必ず美が在り神が宿る。 「教え」じゃないんだ。人から教えられて得られるものなんて、極々最初のほんの僅か。その先は自らが悟り、さらなる先を求め、より高みを目指し研鑽するしかない。終わりも涯てもなく、ずっと続く道。 だから神道には、宗教には必須であるはずの教典がない。 作法は教えられても、その精神は各々が掴み取るものだから。 同じ様に禁忌もない。何をやっても構わない。 ただ、ほとんどの「道」で、ある程度修めた人がおのずから悟るように“やってもいいけど、やらないほうが好ましいこと”ってのはあるけど。 日本人の胸に目に見えぬ神様を畏れ敬う心がある限り、道は続いて行くんだろう。“神の死ぬ日”は訪れないだろうね。 「ど」の字:神が死んだ時期。ニートな2ちゃんねらー日記 (via sqiz) (rd-neohalから)
3月 5, 2016 日本のメディアはどこもかしこも 「AIIBに参加しないとは何事だ!バスに乗り遅れるな!!」 「アベノミクスは失敗!儲かるのは大企業だけで庶民には関係ない!!」 なんて一斉横並びで政権批判キャンペーンやってるから、「あ、政府がやってる事はきっと正しいんだな」と判断されるわけですよ。 Twitter / murachan2671 (via 46187) (quote-over100notes-jpから)
3月 5, 2016 自分で自分に命令する。だから、人間は「自由」なのです。したいことをする、これは自由ではありません。欲望や感情などに支配されています。それでは、動物とおなじです。したいことをがまんして、しなくてはならないことができる、これが人間の「自由」なのです。(カント) balance-meter:
3月 5, 2016 わたしが筋骨隆々として竹を割ったような性格の男が好きっていうのは結局「肉体は成熟していて精神は無垢」というのを求めている点で男の人が「ロリ巨乳がいい」って言ってるのと変わらないよと分析されてぐうの音も出なかった kimijima kumiさんはTwitterを使っています (via windsock)
無垢マッチョはロリ巨乳だった……?
(via tamejirou)
3月 5, 2016 台湾には中華愛国同心会と言う悪名高い中華ナショナリズムのゴロツキ集団が存在する。反台湾、反日本を叫ぶ在台中国人のグループで、メンバーの平均年齢は相当高いが、ヤクザまがいで暴力的だ。 最近は東日本大震災直後、台北で在台チベット人が日本の犠牲者の法要を行ったとき、街宣車で乗り込んで妨害するなどしている。 チベット人の活動に対する妨害はいつものことだが、事が日本に関わるだけ、いつになく狂奔したようだ。 私も昨年目撃したことがある。薄汚れた感じの老人メンバーが薄汚れた街宣車に乗り、中国人観光団が大勢訪れる観光スポットに乗り込んで、「我々は中国統一を主張する」と叫び、観光客から拍手を受けていた。 さてそのグループは現在、沸騰する尖閣諸島問題に反日活動のチャンスを見出し、台北日本人学校に向けて騒音をまき散らしているそうだ。 実に卑劣極まりない話であるが、そうした非道行為に義憤に駆られたのが、市内在住の蔡櫂励氏と言う男性だ。 自身は「台湾政府は尖閣諸島海域で石油が発見されたのち、初めて主権を主張し始めた」とは全く考えていないと語る蔡氏。しかしその一方で「中国は台日関係を破壊するため、わざと尖閣諸島問題を紛糾させている。台湾の親支那団体が尖閣諸島に対して騒ぎを起こしていることを申し訳なく思う」と話している。 そして「話すのも恥ずかしいが、台湾社会はまったくこれら支那人(※在台中国人集団)の悪辣な行為のことを知らない。日本人学校はきっと日台の親善に配慮し、忍耐しているのに違いない」との考えで、台湾最大手紙の自由時報に投稿することを決めたそうだ。 投稿後、担当者から「それは事実か」と確認を受けたと言う。やはりメディアですら、これほどの状況を知らないでいたのだ。 「誰が台湾から出て行くべきか」と題するその寄稿は、七月二十三日に掲載された。 その日本語訳は以下の如し。 ―――先ごろ台湾「保釣団体」が海巡署の護衛下で釣魚台海域に入り五星紅旗を広げて主権を示したことに続き、この二週間は中華愛国同心会や保釣団体が、次々と台北日本人学校へ頻繁に赴き、街宣車や拡声器で、「日本人は台湾から出て行け」「釣魚台は中国のものだ」と叫んでいる。 ―――日本人学校はまだ夏休みに入っておらず、台湾で働く親と共に異郷で暮らす子供たちは、毎日これら政治団体の妨害脅威にさらされている。 ―――台湾の法令は病院や学校は厳格な騒音規制区域と指定しており、警察はこうした騒音行為を取り締まらなければならないことは言うまでもないが、何よりも問題は、これら保釣団体が、政治とは全く無関係の日本の子供たちを標的にしていることだ! ―――これら中学生以下の子供たちは、たんに父母に伴って台湾へ来ているだけなのに、政治的憎悪との恐怖の中で暮らすことになっているのである。 ―――二〇〇八年の釣魚台衝突事件の時も、それから数日後には台中の日本人の小学生が公園で暴力攻撃を受け、何人かの小二の生徒と親が怪我をしている。この事件もまた日本人の父兄らに恐怖を与えた。 ―――台湾政府は一貫して釣魚台は宜蘭県頭城鎮の管轄だとの立場だ。そのため釣魚台主権争議は台湾宜蘭県と日本の沖縄県との間の問題とするべきである。ところが一部の親中団体は五星紅旗を掲げた。釣魚台も頭城鎮も宜蘭県も、そして台湾も中華人民共和国のものだと言うのだろうか。 ―――きっと誰も知らないと思うが、台北日本人学校は正式な行事、式典を行う時、日本の国旗掲揚、国歌斉唱に先立ち、まずは中華民国の国歌を歌い、中華民国の国旗を掲揚しているのだ。 ―――それに比べて親中の保釣団体は、心に五星紅旗があるだけで、中華民国の旗すら持ちたがらない。 ―――日本人学校で日本の子供たちに「台湾から出て行け」と叫ぶ保釣団体に聞きたい。「台湾から出て行くべきは、心には五星紅旗のみの偽保釣、真売国の叛徒たちではないのか」と。 私は日本人の一人として、蔡氏の勇気ある告発に心から感謝したい。また、敬意を表したい。 そしてこのような台湾の人々となら、中国人の宣伝に惑わされることなく、冷静に尖閣問題を語り合えるのではないかと思っている。 追記:蔡氏の文章は、すでにネットでも話題��なるなど、台湾人の関心を惹いているようだ。馬英九政権の善処を望みたい。 威嚇される台北日本人学校の生徒たちー尖閣問題で「在台中国人」集団に/勇気ある台湾人の告発で判明:  2012/07/24/Tue (via nandato) (quote-over100notes-jpから)
3月 5, 2016 国内のテロリストもどうにかしろよ9 :名無しさん@1周年:2015/09/29(火) 19:06:07.59 ID:AGtthcrZ0.net >>2 そいつらに「資金」を渡してるのがパチンコ系、中華系、在日系なんだよw アメリカでの活動を制御するために山口組朝鮮系の クレジットカードや銀行口座が次々に凍結されたの。結果、アメリカでの反日活動、ロビー活動が減ったんだぞ。ちなみに「吉本興業」はアメリカでは犯罪組織の一員扱い。傘下団体として認定されてる。だから資金難に陥って資本金下げたの。24 :名無しさん@1周年:2015/09/29(火) 19:18:31.86 ID:AGtthcrZ0.net 日本は電通とか朝日新聞が未だにのさばってて。在日朝鮮人や中華系が資金提供して反日活動してる。吉本興業なんざフジテレビ、ソフトバンクと一緒に映像制作の下請け会社持ってて。マスコミを牛耳ろうとしてきただろ。その吉本興業が「ヤクザの傘下組織」としてアメリカでは指定受けてる。この時点で。「アメリカの指定を受けてる犯罪者組織の下部組織」 である吉本興業も。資金的な制限を受けるの。指定を外すためにはアンダーグラウンドな活動とかヤクザ組織との決別、健全化を図るしかない。日本の政治家なら電通とか大手芸能プロダクション、テレビ局に強気に出れないが、アメリカからの指示や外圧がある。国連の指定ってのは建前でアメリカやイギリスが中心。それを察知した日本共産党や社民党、民主党が必死で反対してきて。 自民党が民主党の暴力行為に対して変に大人しかったのは「こっちが本命」だったから。民主、共産、社民が相乗りして「一つの党に」って言い出したのは 今後の資金難が予想されるからさw ダミー会社経由で献金受けたり窓口作るのも大変になるので「反日グループでまとまりましょう」 ってことになってる。31 :名無しさん@1周年:2015/09/29(火) 19:31:17.52 ID:WfrqCIKU0.net >>9 吉本興業がアメリカにたくさんの現金を残してるってこと? 日本の資金が凍結されて、資金難に陥ったの?69 :名無しさん@1周年:2015/09/29(火) 23:01:59.42 ID:zdWDzTsA0.net >>1 これで、志位るずとかしばき隊とかの活動がピタッと止まったり あるいは発狂したようになる等の変化が出てくれば それはこの法案の影響があったと見ていいわけだw71 :名無しさん@1周年:2015/09/29(火) 23:22:49.78 ID:8PoCw1tC0.net 教えるなよな~ 俺も書き込みガマンしてたのに 施行されてから、ぷぎゃ~の予定だったのにさ74 :名無しさん@1周年:2015/09/30(水) 03:22:17.74 ID:gBvXs8pbO.net 反日勢力を金融面から殲滅だ! 時期的にどうかな、ハードランディングになりそうだなw 株安も手元に現金を置いておきたい奴らが「売り」に走ったからかもね 【速報】在日テロリスト、あと4日で死亡確定!!! テロ資金凍結法が【 10月5日 】から施行クル━━━━━(°∀°)━━━━━!!! - 中国・韓国・在日崩壊ニュース (via nobw2001) (yasaiitameから)
3月 5, 2016 娘はカトリック教会に併設された幼稚園に通っているのだけど、現在インフルエンザが席巻しており 「マリア(組)とイエス(組)がやられた」「いよいよミカエルもやばい」という会話が繰り広げられ、終末っぽさが半端ない。 カトリックの幼稚園でインフルエンザが流行するとこうなる!
。゚(゚^∀^゚)゚。ギャーハッハッハッハッハッハハッハッハッハッハッハ !! なんか、神々の戦い感がすごいな。
(via mayoshima)
(genngakkiから)
3月 6, 2016 浄土真宗系のできかたって、いかにも日本的だと思うんだよなー。 仏教開祖のお釈迦様が、 当時の日本の思想的エリートが導き出した この結論を見たらモニタに茶を噴くのは間違いないと思う。w 比叡山で修行した法然。→浄土宗 「ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人的謙遜) 働いてる一般人なんかもっと無理。 今の仏教は金と暇のある金持ちにしか役立つ可能性がない。 でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたら、 おまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。 これはそこに張るしかないっしょ。はらたいらさんどころじゃないよ。 『あみださまに、全部』 さあ何度でもいいつづけよう」 親鸞→浄土真宗 「法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき) 心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。 だから俺なんか結婚だってしちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ」 おまけ 一遍→時宗 「おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。つまり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人的暴走) だから感謝の踊りを踊ろうぜ、let’s dance!」 誠天調書: 2chにある無駄な知識を集めるスレ86 (via gkojax) (via hirai) (via msnr) (via aurorae) (via gkojay)
3月 6, 2016 テレビ局はいつも都合悪くなると言論の自由を守れと「騒ぐ」が、電波止められてもインターネットで配信する、殺されても絶対に屈しない、言論の自由のために自ら体を張ると宣言を何故しないのか。とどのつまり特権的立場を守りたいだけなんでしょ? 眉毛さんはTwitterを使っています (via toronei)
3月 6, 2016 プロの作家ともなれば、技巧によって「凄味」を出したりもする。理解不能な人物を登場させたり、舞台設定をあやふやにしたり、ここから先はわからないのだということを強調したり、つまりはその作品世界の底の知れなさを読者に感じさせる。出典:http://amzn.to/1MuTPPp ストーリーの書き方さんはTwitterを使っています (via hutaba)
3月 6, 2016 なにかを選ぶとき 何かを決めるとき、無難かどうかで決めるクセがあると無難な人生になります。どちらが楽しいかで選ぶと 楽しい人生になります。どちらが成長するか、で選ぶと 成長していきます。(心屋仁之助) balance-meter:
3月 6, 2016 注意喚起 プリウスやアクアが事故を起こしている場合は、車に近寄らず119番通報を行いましょう。プリウスやアクアには高圧電流が流れており、レスキュー隊もシステム停止までは手を出せません。消防もこのマニュアルを使用します。 pic.twitter.com/63DmUaGiTp ナナマズん 3e&iQOS 0simJC2さんはTwitterを使っています (via kikuzu) (mc2-eから)
3月 1, 2016 2006年 シャープ(液晶) ソニー(家電)で合併交渉中 ソニー「よう」 シャープ「誰だお前」 ソニー「なんだと」 交渉決裂。ソニーはサムスンと合弁。
2009年 ソニー「サムスンだけじゃ液晶足りねえよ」 シャープ「金出せばうちが足りない分を作ってやるよ」 ソニー「じゃあ部分提携な」 提携スタート ソニー「納入まだかよ期限過ぎてるぞ」 シャープ「うっせーなアクオス作ってんだよ」 ソニー「くそったれ」 サムスン「おら液晶パネルだ期限通り作ってやったぞ」 ソニー「おお偉いなサムスン、もうお前の所で全部頼むわ」 ソニー、シャープから離れる。
シャープ「アクオス売れなくなったぞどうしよう堺工場」 東芝「うちに作ってくれよ」 シャープ「よっしゃ」 東芝「納入まだかよ期限過ぎてるぞ」 シャープ「うっせーなアクオス作ってんだよ」 東芝「うちが先だろ」 シャープ「エコポイント需要がすげえんだって今」 東芝「だからこっちも急いでんだよ」 シャープ「ばーか」 東芝「しね!」 東芝、シャープから離れる
2011年 産業革新機構「ディスプレイで会社作りたいんだけど」 東芝、日立、ソニー「じゃあ10%ずつ金出すね」 パナ「金は出せないけど工場ならあげる」 東日ソパ「三菱電機はよろしくやってるからいいや、シャープ?あそこ生意気だし知らねーよ」 シャープ「た・す・け・て・・・・ホンハイに乗っ取られる・・・・」 東日ソパ「儲からねえもん、もう本気でやってられん、頑張れシャープw」
2014年 シャープ「アクオス売れなくなったぞどうしよう堺工場、助けて」 ホンハイ「しゃーない助けてやるわ」 シャープ「よっしゃ!速攻第三者増資するわ」 シャープ「そういえば伝えてない債務があったわ、契約1週間前ですまんw」 ホンハイ「しねよ。話は無しな。」
2016年 シャープ「もう限界なんだ、嘘偽りはありません、助けて」 ホンハイ「・・・わかったわ、過去のこと水に流す」 シャープ「(3500億円の偶発債務あるけど、契約前日に書類ぶっこんどけばいいかw)」 ホンハイ「さて、いよいよ契約・・・なんじゃこりゃ!ゲキ怒!救済は延期だ延期!」 シャープと鴻海、交渉延長 財務情報を精査、異例の展開 延長期間は1~2週間とみられる|保守速報 (via man-nona)
3月 1, 2016 図書館の分類って、1哲学がおこり宗教が生まれ、2歴史、地理、そして3法律や社会の仕組みが出来、4自然や5技術を知り、6様々な産業がおこり、7芸術や余暇が生まれ、8言語、9最後に架空の物語が生まれる、っていう風に0~9類まで並んでいて、最初それを教わった時はちょっと感動した。 Twitter / yoko0614 (via netinago99)
3月 2, 2016 ■南京虐殺に言及していない蒋介石、毛沢東、国連決議■  面白いのは、南京事件の翌年、中華民国総統・蒋介石が発表した 声明の中の「日本人の残虐行為」という一章だ。ここで特筆されて いるのは、広東での空襲で何千人もの市民が殺されたという事件で ある。もし、当時の首都南京で数万人を超す大虐殺があったなら、 それに言及しないはずはない。  さらに傑作なのは、毛沢東が事件翌年に行った「持久戦につい て」という講演である。ここで毛沢東は、南京の日本軍は支那兵を 殲滅しなかったため、後に反撃の機会を与えたのは、戦略上のまず さであったと指摘している。  国際連盟の諮問委員会は、南京陥落の半年後に、支那代表の声明 に基づき、「日本軍の侵攻によって脅かされている支那の独立と領 土保全」に奮闘する支那に対して同情の意を表する、という決議を 行った。ここにも、南京虐殺はまったく触れられていない。 【歴史】「南京事件」世界に広めた豪人記者、国民党宣伝機関で活動 台北の史料で判明[4/16] : まとめ安倍速報 (via 774rider)
3月 3, 2016 「メールでアメリカ人に問い合わせをしているが返信がこない」、というのは外資系企業に勤めていればよくある話。その内容が難しければ難しい程、返信率は悪くなる。もちろん、日本人でもレスの遅い人、しない人はいるが、度合いの問題。アメリカ人の場合はかなり気合をいれて、しつこくプッシュしないと返事がもらえないことが多い。 一番良いのは電話をすることで、電話をしてみると「おぉ、あの件ね、見た見た」みたいな感じで話が進むことが多い。メールで聞いていることを一々電話しないといけないのはかったるいし、時差や言語の問題があって容易ではないし、そもそも「お前、見てるんなら返信くれよ」という思いもある。
でも、そういうことで頭を痛めている人は、理解しておいたほうが良い彼らのメンタリティがある。それは「何度もプッシュされないということはきっと大事なことではないんだ」という考え方だ。メールを出して返信がしばらくこないものが、プッシュなしで返ってくることは殆どない。そういう場合は「返信しなくても何も言われないということは、解決したか、大して重要なことではないんだ」と彼らはまず考える。また、アメリカ人は自分が問い合わせていることについては、必ず席に立ち寄ったり、電話で念押しをする。そういう直接的な督促に日々触れている彼らは、日本から送られてきた、オリエンタリズムがほのかに漂う英語でかかれた、少し理解の難しいメールは、どうしても放っておきがちになる。 また「何度もプッシュ」というのも大事な要素で、相手に遠慮して一度のプッシュで「答えてくれない、、、」と諦めてはいけない。時差の関係で電話が難しい場合は、毎日「親切に督促してあげる」ことが大事だ。メールへのレスが遅い人でも4日連続プッシュして返信がなかったということはまずない。お困りの皆さん、しつこくいきましょう。 メールに返信をしないアメリカ人のメンタリティ - ktdiskのブログ (via atasinti) (layer13から)
3月 4, 2016 安倍にも負けず 右翼(ウヨ)にも負けず 捏造にも自作自演にも恥じぬ 丈夫な面の皮を持ち 謝罪はなく 決して検証せず いつもお前が言うなと言われている 一日に社説2つと 素粒子と天声人語を書き あらゆることを感情の赴くままに 焚き付け 煽り 叩き そして火病る 特アのための工作機関 日本の左傾化を任務として 東にエビちゃん風のOLあれば、行って若者の右傾化が心配だと嘆き 西に男系を主張するヒゲの殿下あれば、行って黙れと命じ 南に美しい珊瑚あれば、傷つけK・Yって誰だと騒ぎ立て 北にミサイル発射する将軍様あれば、一発だけなら誤射かもしれないと言う 身内の不祥事には目をつぶり チベット問題は見て見ぬふり みんなにバイコクドーと呼ばれ 信用されず 購読もされず そういうサヨに 私はなりたい         ∧_∧       ( @∀@)/ ̄/ ̄/       ( 二二二つ / と)       |    /  /  /        |      ̄| ̄ ̄ 42 :水先案名無い人:2007/03/21(水) 20:15:49 ID:FxhopBxM0 ≫41 いや、もうなってるから。 http://ex20.2ch.net/test/read.cgi/gline/1174059887/41-43
3月 4, 2016 日本がある国の島を武力で侵略して仏像盗んで元首を侮辱してその国に数十万人も不法入国してその国でその国民と同じ権利を主張してその国が女性たちを強制連行をしたと捏造してその国からの借金をして返済せずその国で歌手や俳優をゴリ押ししたら、どう思われるかわからないのだろうか? #韓流 https://mobile.twitter.com/shinjihi/status/590541139901607936 (via shinjihi)
3月 4, 2016 倉山:イギリスに関しては、第二次大戦が終了するまでの歴史を知ることが、とても重要だからです。例えば、日本が行った大東亜戦争は、“大日本帝国と大英帝国が刺し違えた戦い”だったことを知らない人が大勢いる。戦場となったアジアの国々を見れば、インドネシアとフィリピンこそオランダとアメリカの植民地ですが、マレーシア、ブルネイ、シンガポール、ビルマ、インドはすべてイギリスの植民地。つまり、本質はあくまで『英国&(彼らから利益を得ていた)華僑』VS『日本&(白人に支配されていた)被植民地アジア人』の戦いでした。しかも終盤まで日本側の全戦全勝だったわけです。 ――何となく「アメリカと戦って負けた」というイメージが強いです。 倉山:アメリカが介入してきたことのほうが、むしろ謎なんですよ。日本に戦争を仕掛けたところでアメリカの国益につながりませんし、中国問題でルーズベルトが日本を非難する以外は、とくに日本との対立関係もなかったわけですから。とにかく、大英帝国は大日本帝国と戦ったことによって、戦勝国と言いつつ、ブリテン島以外をすべて失う結果となりました。要するに戦後、大日本帝国が日本になってしまったように、大英帝国もただの英国になってしまったわけです。 倉山満「大東亜戦争は大日本帝国と大英帝国が刺し違えた戦いである」 | 日刊SPA! (via gkojax)
24: ダブルニードロップ(東京都)@\(^o^)/ 2016/03/01(火) 17:56:59.78 ID:zdbaxrsy0.net 日本人にとっての神道はOSなんだよ 仏教とかキリスト教とかその他の宗教はOS上で動くアプリ
2月 27, 2016 真っ当な日本人は「政権交代」という言葉に二度と騙されないようにしなければ。あの民主党政権下の暗黒時代は二度とご免だ。 【民主・維新合流】両代表共同記者会見詳報 岡田氏「野合で何が悪い」 #民主と維新は捏造新党 #捏造新党 #新党捏造 #山本太郎といみんの生活が第一の仲間たち #民主党の新しい党名を考える http://www.sankei.com/politics/news/160226/plt1602260040-n1.html
2月 29, 2016 ちなみに我らが日本 1991年の在日中国人人口 17万人 2009年の在日中国人人口 68万人 欧米諸国に負けず劣らず侵食されていることがわかるね ちなみにこれのソースは国勢調査 国勢調査は自己申告なので、外国人は正確に回答していないという調査結果もある なので、実際の在日外国人数は国勢調査より圧倒的に多いそうだ さてどうする? ゆめみがちサロン : 欧米諸国の末路 - ライブドアブログ (via wawawa8888) (dotnukeから)
入管24応援者 色々入管(一部公安も)通報対象団体を見てきましたが、その中でも一番ショックだったのが小さい頃よく見ていた絵本や児童文学の作者が軒並み反日的な活動を行っていた事です。 (ショックと言うのは個人的な心情での意味と、日本の子供たちに与える影響力の大きさ2つの意味があります) その一例が「子どもの本・九条の会」-絵本や児童文学作家がメンバーの九条の会支部です。 http://love.ap.teacup.com/kodomono/ >「子どもの本・九条の会」代表団 >小宮山量平  太田大八  神沢利子  松谷みよ子  松居直  古田足日 >鳥越信  猪熊葉子  小澤俊夫  広瀬恒子  田畑精一  丘修三 「いないいないばあ」「モモちゃん」シリーズ作者の故・松谷みよ子氏や「おしいれのぼうけん」作者の故・古田足日氏が代表メンバーにあります。  同団体が主催した『戦争なんか大きらい!-絵描きたちのメッセージ展-』ロゴには 寺村輝夫氏・作の「ぼくは王さま」シリーズのイラストがあります(ちなみに同会のゾウのロゴも寺村氏のイラスト) http://love.ap.teacup.com/kodomono/img/1445904606.jpg 上記イベント案内にある作家の一覧を挙げます http://love.ap.teacup.com/kodomono/html/o1.pdf -出品作家リスト- 相野谷由起、荒木慎司、あんびるやすこ、飯野和好、市居みか、伊藤秀男、いとうひろし いわむらかずお、うさ、おおくぼヒロアキ、尾崎曜子、おぼまこと、織茂恭子  かこさとし、かさいまり、かわかみ味智子、菊池日出夫、北見葉胡、きむらゆういち 河野あさ子、小泉るみ子、ささめやゆき、佐竹美保、篠崎三朗、篠原良隆、真珠まりこ 杉浦範茂、スギヤマカナヨ、せなけいこ、田島征三、田島征彦、田畑精一、たるいしまこ どいかや、中川純子、中沢正人、長野ヒデ子、中村景児、夏目尚吾、西村繁男 はせがわかこ、長谷川知子、はせがわゆうじ、長谷川義史、浜田桂子、原ゆたか はらだゆうこ、平田景、ひろかわさえこ、ふくだいわお、藤田ひおこ、藤本四郎 ふりやかよこ、南塚直子、宮西達也、宮本えつよし、村上康成、安和子、やべみつのり 山田花菜、山本祐司、ゆーちみえこ、和歌山静子  (50、音順・敬称略)  また、会員の浜田桂子氏(「日・中・韓平和絵本 へいわってどんなこと?」作者)は、 会報18号P4で昨年7月の国会前デモに参加した体験談を書いています。
today こんにちは カタログハウスは、元々は社民党、中核派に近いです。 官報で追跡可能です。 カタログハウスと創業者斎藤駿を追いますと、 官報 平成13年9月14日 http://www.soumu.go.jp/main_content/000047173.pdf 2ページ目 社会民主党  カタログハウス 1500万円 3ページ目 社会民主党  斎藤駿 1000万円 以下同様にカタログハウス、斎藤駿が献金 Google 画像検索で カタログハウス や 通販生活で検索すると、通販生活の誌面や掲載された人物がわかります。出てくる人は左翼界隈の方々ばかり。近年、反原発で参議院選挙で山本太郎を中核派が支援したことで、未来の党や生活の党につながっていったのでしょう。
「共謀罪の新設に反対する市民団体共同声明」  【呼びかけ団体】 ・子どもと教科書全国ネット21 ・「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク ・反差別国際運動日本委員会 ・反住基ネット連絡会 ・ピースサイクル全国ネットワーク ・平和を実現するキリスト者ネット ・許すな!憲法改悪:市民連絡会 【賛同団体】 ・ピースボート ・在日韓国民主統一連合 ・民族差別を考える会むくげ ・憲法9条?世界へ未来へ連絡会 ・無防備地域宣言をめざす大阪市民の会 ・アンポをつぶせ!ちょうちんデモの会 ・「日の丸君が代」強制反対の意思表示の会 ・反天皇制運動連絡会 ・神奈川アジア平和連合ジャパン ・教育基本法「改正」反対市民連絡会 ・グリーンピースジャパン ・在日難民との共生ネットワーク ・改憲とあらゆる戦争法に反対する市民ネットワーク21 ・破防法の廃止を求める連絡会 ・教育基本法の改悪をとめよう!岐阜連絡会グループ ・日本キリスト教団 ・東京都学校事務職員労働組合 ・土井たか子を支える会 ・日韓民衆連帯全国ネットワーク ・日本カトリック正義と平和協議会 ・日本キリスト教会横浜長老教会靖国問題委員会 ・多文化共生サークルsmile ・平和をつくり出す宗教者ネット ・杉並の教育を考えるみんなの会 ・週刊金曜日を応援する会 ・厚木基地を考える会 Posted by m at 2016年02月24日 13:31
2月 27, 2016 「よく勘違いされているのですが、戦前の帝国憲法下の天皇ができるのは《警告権、激励権、被諮問権》だけ。つまり言論の自由があるだけで、統治権は行使してはいけません。しかし、政府が存在しないような緊急事態が起これば、統治権を発動するのです。政府機能が麻痺するような緊急事態にだけ登場し、そして元に戻っていく。それを期待されている存在が帝国憲法の天皇です。百年に一度でもあってはならないような危機に備える、その究極の安全保障機関とも言うべき存在が、天皇なのです」  そんな未曾有の状況、緊急事態が、ちょうど80年前の2月26日に起こったのだ。 「この無政府状態の緊急事態に、昭和天皇は統治権を発動し、この日からわずか4日でこの事態を収拾し、元の天皇に戻っているのです。このときの昭和天皇の決��を『ご聖断』といって、まさしく日本を亡国から救った英雄の所作だと言っていいでしょう」 今日、2月26日にあった「二・二六事件」と日本を救った英雄 (週刊SPA!) -
2月 27, 2016 「原因がある」ことと「責任がある」ことは別に考えた方がいい。 例えば、いじめが発生する原因はいじめられる側も含めて多数ある。しかし原因の全てが責任を問われるわけではない。ほとんどのケースで、責任はいじめる側にのみある。 ultraviolet on Twitter (via igi)
2月 27, 2016 もし君が敵からいやな目に遭わされて、鬱になったり落ちこんだりするのなら、それを見た敵は、「わーい、ざまーみろ」と笑って喜ぶだろう。 ゆえに「真の損得」を知る人は、どんないやな目に遭わされようとも、嘆かず平常心を保つ。前と変わらず穏やかなままの、君の優しい表情を見た敵は「ちぇっ、がっかりだ」と落胆する。 皮肉なことに、敵を悩ませるための最高の「イヤガラセ」は君が怒らず朗らかにしている、たったそれだけのこと。 超訳ブッダの言葉 / 小池龍之介 (via ebook-q)
2月 25, 2016 反オスプレイチラシに「日本全土で訓練、岩国基地59,839回0伊江島飛行場6,770回0」合計80,467回の訓練を行ってきたと書いてある。道行く人が「そんなに訓練して事故も無いなら安全じゃねぇか」と呟く。サヨク涙目。 pic.twitter.com/6yDShMwQ7f Twitter / seirouhakou: 反オスプレイチラシに「日本全土で訓練、岩国基地
2月 25, 2016 「人生経験を積むと共感できる歌が少なくなる」そうです。 これは「経験が歌詞を超えてくる」ということのようです。 「しくじり先生」大事MANブラザーズバンドのボーカルのクズっぷりが面白すぎると話題に|ニュース&エンタメ情報『Yomerumo』 (via ingurimonguri) (misteraorから)
2月 25, 2016 天皇というものには、「世界で最高峰の権威」があり、「最古にして最後の皇帝」で、「独裁者防止機能」や「権力のバックアップ機能」があり、「軍事力としての抑止力」がある。個人個人においても、外交能力や人格も良好。 で、どれだけこの皇室や宮内庁に税金を使っているかというと、年間、国民一人当たり「200円」月々なら17円弱。安いか高いかと見るかは個人の主観だけども、決して金では買えないもので、しかも世界に誇れるものだということは覚えておいて欲しいですな。っつーか、教科書で教えろ。 日本人が知らない天皇の価値と役割 (via ken1ymd) (via dannnao) (via gkojax-
2月 24, 2016 二十世紀の後半から現在まで、我が国は西の隣国である朝鮮(北朝鮮と韓国)と中共(中華人民共和国)に文字通り朝から晩まで誹謗中傷され続けた。 二十世紀に、日本帝国主義、日本軍国主義は、悪いことをして自分たちを苦しめた、日本は加害者で自分たちは被害者だという宣伝である。 特に彼らは、アメリカの世論を反日に動かそうと執拗で愚劣な工作を続けている。 アメリカにいるチャイナとチャイナ系アメリカ人は、日本軍の残虐性を訴えた「レイプ・オブ・ナンキン」という偽書をアメリカ国内に頒布し、また映画も作り、中共の意向通りにアメリカの議会筋に献金しロビー活動を展開してアメリカ議会に「反日決議」を出させようと工作を続けている。 アメリカにいるコリアは、ロサンジェルスの街角に「竹島は韓国の領土」という看板を設置し、全米各地に朝鮮人従軍慰安婦が日本軍の性の奴隷にされたという虚偽のプレートを設置し始め民族の恥を晒している。 そして、これら、中共と朝鮮に共通なことは、「ウソをつかなければ生きていけない」ということである。「ウソをつくことが悪いこと」だと思っていないということである。 中共は尖閣諸島は中共固有の領土だと真顔で言い張る。韓国は竹島は韓国固有の領土だと真顔で言い張る。韓国に至っては、日本が黙っているのをいいことに、対馬まで韓国のものと言い始める。 中共も朝鮮韓国も、言っていることは凡て大嘘ではないか。まるでウソつき大陸とウソつき半島である。即ち、日本とは「文明」が違う。 「たちあがれ日本」の中山恭子さんが言っていた。 世界には、子供たちに、「ウソをついてはいけない」と教える民族と、「だまされてはいけない」と教える民族がある。 日本は「ウソをついてはいけない」と教える民族である。中共と朝鮮は「だまされてはいけない」と教える民族である。 なぜ、「いけない」のか。日本では、ウソをつくことが悪いからで、中共・朝鮮では、だまされることが悪いからである。 つまり、日本と彼らとは正反対なのだ。彼らは、ウソをつくことを悪いとは思っていない。だまされたほうが悪いと思っている。 以���、テレビに出演したとき、日本に留学してそのまま日本に居座り、中国に進出する日本企業のコンサルタント業をして大儲けいしている(つまり、日本の中小企業経営者をだまして大儲けしている)中国人が、私の追及に対して「中国人にだまされる日本人が悪いんだ」と言った。語るに落ちたのだ。 このように、チャイナとコリアは、人にウソをつく、人をだますことを悪いこととしない文明圏にある。つまり、ウソつきのプロである。従って、これらの国において政府の名において対外発信をするものは、ウソつきのプロ中のプロだ。中国外務省の男女の報道官の顔を見られよ。 このようなチャイナとコリアのウソつき、人をだますプロが、朝から晩まで、日本は悪い国だ、悪い国だと、アメリカやヨーロッパやアジアで言いふらし、世界における日本の評価にダメージを与え続けているのである。 それに加えて、日本は高齢化社会に突入し、経済的停滞が長引き、第二の経済大国から転落している。   そこで、本論に入る。しかれども、なぜ、日本の通貨である円は高いままなのか。この問いに対するアメリカの学者(ステルツァー博士)の答えを、ジャーナリストの日高義樹氏が次のように伝えている。 「日本の社会は安定しているし、日本人は信用に値する人々だ。日本の金融機関にお金を預けておけば安心だ。騙されることがない。どこかの国のように政府が闇で操作して預金を奪ってしまうこともない。だから世界の人々は日本の国債を買う。その結果、円が高くなる」 要するに、世界における日本の価値は、「信用」なのだとアメリカの学者が言っている。つまり、日本が、「ウソをついてはいけない」という文明を自信を持って貫く限り、この日本の価値は衰えることはない。 近い将来、世界は、チャイナ企業とコレア企業の常習的粉飾決算に驚くであろう。彼らの文明では、帳簿に真実を書くことはありえないからだ。 日高氏は、アメリカの高名な学者の答えを紹介したが、私は、昨年の東日本被災地において救援活動を展開したアメリカ海軍救援物資輸送ヘリの女性機長の話したことを次に紹介する。 「ある学校の屋上にSOSの文字を発見した。そしておそるおそるヘリを屋上に着陸させた。何故なら、アメリカを含む世界の諸国では、救援物資を運ぶヘリに被災者が群がって収拾がつかなくなるからだ。 しかし着陸してみると、年配の男性が一人静かにヘリに近づいてきて、被災者数百人がいるという。救援物資を渡すというと、みな静かに列を作ってバケツリレーをして受け取った。 他の国にある物資の奪い合いなど全くなかった。そして、もうここまででよいという。まだあるといって渡そうとすると、男性がきっぱりと断って、他の場所にいる被災者に渡してくれといって、どうしても受け取らなかった。 さらにけが人を運ぶというと、足を骨折した老人が一人いるので彼を運んでくれといった。そして、老人が申し訳なさそうに乗せられた。 この日本人の優秀さと精神性の高さは、アメリカ軍の公式記録に載せられる。」 我々は、昨年の東日本の被災地の同胞に感謝しなけらばならない。彼らは苦難の中において、文明を失わず、「日本人は如何なる民族なのか」を世界に発信してくれたからである。 そして、わが文明に誇りと自信を持って、いよいよこれから、ウソをつくことを悪いこととは思わない文明に、正々堂々と反転攻勢をかけねばならない。 そのために、まず、国内の異文明人、つまり、チャイナとコリアと同じマインドを持って、国民をだますことを悪いことだと思っていない政党と政治家を撲滅しよう。 日本の価値は「信用」である  西村眞悟 | 杜父魚文庫ブログ: 2012.09.06 Thursday (via nandato)
2月 24, 2016 民主党【増税しません】→法案通しました。 民主党【消えた年金問題を追及】→民主党支持母体の労組がサボったのが原因 民主党【特別会計の無駄遣いを追及】→民主党支持母体の(略) 民主党【高速道路無料化します】→しませんでした。 民主党【ガソリン税を無くします】→無くせませんでした。 民主党【埋蔵金が80兆円はある!】→ありませんでした。 民主党【民主党への政権交代が景気対策。株価三倍!】→株価下落、デフレ継続 民主党【日銀総裁人事にことごとく反対】→白川総裁でデフレ継続。 民主党【原発依存度50%でCO2を削減】→使用期限が2011年2月に来ていた福島第一原発の使用延長の海江田経済産業大臣が許可。無策で、原発事故を拡大。法律で決められたSPEEDi情報の公開せず、間違った方向に避難民を誘導し、被曝拡大。 民主党【秘書の責任は政治家本人の責任!秘書が逮捕なら議員辞職する!】→小沢一郎、秘書が逮捕されるも議員辞職せず。 民主党【政治献金は一円単位でクリーンであるべき。松岡を自殺まで追い込む】→鳩山由紀夫は故人から献金、母親から多額違法献金、脱税。その後、納税するも時効分は返納も寄付もせず。前原誠司、野田、菅直人は韓国人から違法献金受けて、訴追されず。蓮舫なども事務所経費で違法も辞任せず。 民主党【普天間、最低でも県外。腹案がある。トラストミー!】→それまで13年かけて辺野古に地元、米国も合意していたのに、地元、米国に期待と不信感だけ植え付け、何も進展なし。 民主党【尖閣漁船問題】→那覇検察責任を押し付け、船長を釈放。ビデオ公開され、海保職員を事情聴取し辞任に追い込む。 民主党【円高歓迎発言の藤井など】→日本経済が疲弊、倒産増加、失業増加、株価下落、新卒就職率下落。 民主党【マニフェストに無い事はやりません!】外国人参政権、人権侵害法案、などマニフェストに無い事は迅速な検討。金賢姫を都内ヘリコプター遊覧後、別荘で接待。 民主党【麻生は漢字が読めない!】→菅直人は国会演説で【国会】にフリガナの原稿を週刊誌にスッパ抜かれる。 その他、 鳩山由紀夫は「日本列島は日本人だけのものではない」と発言、 韓国に5兆円通貨スワップ、竹島に李明博の上陸を許す、何だか韓国が無くした本の写本を返してあげる、 中井が議員会館に女連れ込み鍵渡す、 国家公安委員会の情報漏れる、 口蹄疫は無策で牛さんなど大量に殺処分、 農水省でも情報漏れ、 ロシア大統領の北方領土上陸を許す、 復興予算の執行が兆円単位で実行できない、 太陽光発電に42円という法外に高い値段で買取りを約束、 秋篠宮に「座れ」と中井が暴言、 天皇陛下の臨席で仙谷が居眠り、小沢一郎は中共に600人を連れて朝貢外交し「自分は人民解放軍の野戦司令官」と発言、 小沢一郎は天皇陛下に周近平とのルール違反の面会をゴリ押し、 小沢一郎は四億円の資金について再三再四も説明を変え起訴される、 仙谷は「文化大革命が始まる。」「自衛隊は暴力装置」と発言、 菅直人はベントを遅らせ疑惑で報告書に被害拡大の一因と明記される、 輿石東は「教育に政治的中立は無い」と発言、 きりないなぁ。誰か足してください(笑) @shinjihi (via shinjihi) (keitzkensingtonから)
2月 24, 2016  民主党政権は過去3年間、日本を混乱と停滞に追い込んできたが、自民党から民主党への政権交代を実現したのも、一部のマスコミだということを小説の形で暴露したのが『真冬の向日葵』である。  これを読みながら当時を思い起こすと、今更ながら、あれが偏向報道だったのか、と気がつく部分が多々ある。その一部を紹介しよう。  なお、小説の形なので、登場人物は本名に近い偽名に変えてあるが、本稿もそれに従う。
■2.「安城もしくは岡崎だったからいいけど」  政権交代前に最後の自民党政権を担った朝生一郎は、自民党総裁選挙の段階から、バッシングを受けていた。  平成20(2008)年9月14日、リーマン・ショックの前日、朝生は名古屋で選挙演説を行い、その前月末に岡崎市を襲った豪雨災害に触れた。 __________  公共工事を皆、悪の事のように言うけれども、このあいだ、愛知県はどうでした?  岡崎で降った雨、1時間に140ミリだよ、140ミリ。・・・それでこれが、安城もしくは岡崎だったからいいけど、名古屋で同じことが起きたら、この辺全部洪水だよ。  これが今、起きている。新しい気候現象に対応して、我々は、しかるべきものをやらなければ。  公共工事は何も田舎だけじゃない。都会でも新しい時代に合わせて、そういう投資を、きちんとした社会資本整備をやらなければいかんのじゃないんですか。[2,p137]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  この発言のうち、「安城もしくは岡崎だったからいいけど」の部分のみがクローズアップされ、失言としてマスコミから猛烈に批判された。  発言全体の文脈を辿れば「豪雨が安城もしくは岡崎だったから、この辺は大丈夫だったけど」という意味だと分かるが、この部分だけを切り取って報道することで、さも「安城や岡崎なら洪水になってもいいけど」と言ったように、世間には伝えられたのである。「失言」を意図的に作り出す偏向報道である。  住民の安全を守るためにも公共工事が必要だという、朝生の本質的な問題提起はまったく無視された。この問題は、後に民主党の「コンクリートから人へ」というスローガンでさらに隠蔽されていく。地震や津波、洪水から「人を護るためのコンクリート」があることは完全に無視されてしまった。
■3.朝生を敵視した理由  朝生が一部のマスコミから敵視されていたのは、おそらく安倍内閣時代に外相として「自由と繁栄の弧」というビジョンを掲げたことが、主な原因だろう。  このビジョンは、日本から台湾、東南アジア、インド、中近東、そして欧州と、ユーラシア大陸の沿岸を囲む弧の形で、「自由と民主主義、市場経済と法の支配、人権の尊重」を旨とする国々が連帯していこうという、壮大かつ明確なビジョンであった。このビジョンは、米国はもとより、欧州各国からも熱烈な支持を寄せられた。[a]  この「自由と繁栄の弧」こそは、戦後初めて、日本が国際社会に向けて発信したビジョンであったろう。  しかし、この明確なビジョンは、敵をも明確にする。「自由と繁栄の弧」に包囲されるのは中国である。左翼的な心情から中国に親近感を持つ多くのジャーナリストが、朝生を「敵」と見なしたであろう。  また祖父・吉田茂から「日本はとてつもない国なのだ」と聞かされて育った朝生は、戦後の教育やジャーナリズムを支配した自虐史観からの脱却を目指していた。朝生が首相として存分に活躍すれば、戦後レジームにおける自分たちの既得権益が失われると危惧したジャーナリストも多かったであろう。
■4.「総理! 解散総選挙はいつですか!?」  9月22日の総裁選挙に勝って、朝生内閣が発足すると、野党とマスコミは揃って「選挙管理内閣」と呼び、マスコミは「総理! 解散総選挙はいつですか!?」という質問を繰り返した。  首相官邸で新聞記者たちに囲まれて、質問に答える「ぶら下がり会見」を内閣発足後の1ヶ月の間に28回受けたが、そのうち17回、「解散総選挙はいつか」という質問を受けたのである。  このように、相手に悪しきイメージをもたらすレッテルを貼り、それを繰り返すプロパガンダ手法を「ネーム・コーリング」と言う。  朝生も、当初は早期解散を念頭に置いていたが、リーマン・ショックで経済が大混乱に陥った時期に政治的空白を作る解散総選挙など出来る筈もなかった。  朝生政権は10月には第一次補正予算を成立させた。主に雇用対策や中小企業の資金繰り対策に重点が置かれた。銀行が貸し渋りや貸し剥がしの傾向を見せ始めており、中小企業が資金繰りで倒産し、雇用が失われる事態は何としても避ける必要があった。  さらに民主党による参院での審議拒否に悩まされながらも、翌年初には第2次補正予算を成立させた。今回は定額給付金、高速道路料金の大幅引き下げなど、国民の消費拡大に重点が置かれた。
■5.政策論議を無視したネガティブ・キャンペーン  必死に日本経済を護ろうとする朝生政権の努力を無視して、マスコミは個人攻撃を続けた。  その一つが「漢字の読み間違え」だった。朝生が演説の中で、「未曾有」を「みぞゆう」、「踏襲」を「ふしゅう」と読み間違えたことを受け、マスコミは「朝生は漢字も読めないバカだ」と大キャンペーンを張った。  尻馬に乗った民主党副代表が、国会の場で首相に漢字テストを行うという前代未聞の愚行まで行った。政策論議を行うべき国会を、ネガティブ・キャンペーンの場にしてしまったのである。  また朝生がホテルのバーで酒を飲んでいる事を取り上げ、「朝生は資産家だから、庶民の気持ちが分からない」などと批判した。これも政策とはまったく関係のない個人攻撃である。  マスコミは些細なことで朝生を貶(おとし)め、「総理を批判する『国民の声』が聞こえないんですか!」と叫び続けた。ほとほと呆れた朝生は、ある会見の場で、「それは『国民の声』ではなく、『あんたの声』だろうが」と返答して、記者たちの神経を逆なでした。朝生とマスコミの関係は、ひたすら悪化する一方だった。
■6.財務相の「酩酊会見」  朝生内閣は第一次、第二次に加え、第三次の補正予算に取り組んだ。第三次は次なる景気対策として「公共事業拡大」が中心となると予想されていた。  そこに、もう一つ���敵が現れた。今まで公共事業総額を抑え込んできた財務官僚にとって、朝生政権の政策は許容限度を超えていたのである。  特に朝生首相に見込まれて財務相を務めていた中井昭二は、経済・財政に関する造詣も深く、財務官僚が操りやすい大臣ではなかった。中井財務相は、財務官僚にとって、「排除の対象」と見なされるようになった。  2009(平成21)年2月、ローマで開かれたG7にて、中井財務相は、IMF(国際通貨基金)を通じて、金融危機に陥った加盟国への資金提供などのために、日本が最大1000億ドル(約9兆円)を貸し付ける提案を行った。  加盟国による資金提供としては過去最大で、IMFのスタースカーン専務理事は「人類の歴史上、最大の貢献である」と言って、謝意を示した。  大役を終えた中井財務相は、随行した財務官僚やジャーナリストから祝杯を上げようと誘われた。義理堅い中井はそれを受け入れたが、後で記者会見を控えているために、さすがに酒をセーブせざるをえなかった。  しかし、2杯目のワインを飲んだところで、なぜか気分が悪くなった。酒の強い中井がこれだけの量で酔うことは考えられない。  記者会見では、中井はさらに体調が悪化しているように見受けられたが、左右に座る財務官僚は、記者会見をそのまま強行させた。記者会見は大臣が体調不良でキャンセルしても問題になるようなものではなかったのだが。  中井は傍目にはほとんど泥酔者のように見えた。日本のテレビは「酩酊会見」のシーンを執拗に繰り返し、野党やマスコミは一斉に大臣辞任を要求した。それと同時にスタースカーン専務理事が「人類の歴史上、最大の貢献である」と絶賛した事実も、伏せられてしまった。  不思議なことに、随行した財務官僚も、ジャーナリストも、国内での大騒ぎを一切、中井に伝えなかった。中井がそれを知ったのは、成田について妻に電話した時だった。もはや、中井には辞任以外の道はなかった。
■7.「政権交代選挙」  朝生内閣は4月10日に15兆4千億円の財政支出を中心とする第三次補正予算を成立させた。その中には、学校や病院の大規模な耐震化工事も含まれていた。  しかし、マスコミはそういう内容についてはまともに報道せず、わずか117億円の「国立メディア芸術総合センター」のみをクローズアップして、「国営のマンガ喫茶」などと批判した。  朝生内閣の奮闘ぶりは国民に伝えられず、マスコミの意図的なネガティブ・キャンペーンで、支持率は下がり続けた。  7月21日、朝生は衆議院解散を宣言した。マスコミは「政権交代選挙」と繰り返した。一般国民の間では「政権交代」さえ実現すれば、すべてが良くなるというような根拠のない期待が広まっていった。  その「政権交代」の担い手となる民主党の鳩山代表は、外国人地方参政権に関連し、「日本列島は、日本人だけのものじゃないんですから」と語った異様な国家観の持ち主だったが、それが新聞やテレビで取り上げられることはなかった。  民主党のビジョンも「子ども手当」「高速道路無料化」「農家個別所得補償」などのバラマキ政策ばかりで、財源については明確な根拠は示されていなかった。  選挙期間中の朝生総理と鳩山代表による党首討論を、自民党はノーカットで放送するよう各局に求めた。テレビが都合のいいように映像を切り貼りする偏向的な報道の防ごうとしたのである。  しかし、各局はノーカット放映を拒否した。これによって、自民党は国民の前で、民主党政策の欺瞞を暴露する機会を失ったのである。
■8.「裁かれるべきは」  こうして平成21(2009)年8月30日、マスコミの思惑通り、歴史的な「政権交代」が実現し、民主党が政権を握った。その異様な国家観と、財源の裏付けもないバラマキ政策は、日本と国民を3年間、苦しめ続けている。  期待を裏切られたと多くの国民は思っているだろう。しかし、その期待は、そもそもマスコミの作った幻影だった。小説『真冬の向日葵』の主人公である新米記者の雪乃は、こう語っている。 __________  わたしはこれまで、マスコミによる歪んだ報道や、国民に対する刷り込み、根拠のないバッシング、高慢なレッテル貼りに怒りを持ってきた。しかし今、気付いた。・・・裁かれなければならないのは、その情報を受け取る"人"なのだ。  人。マスコミやネットなどの媒体から情報に疑問を持たず、情報の真偽を確認もせず、与えられた情報によって判断をくだす、人。彼らは無責任だ。自分の頭で考えないということは、明白な罪。罪を自覚すべきは、裁かれるべきは、わたしたち人間だったのだ。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  報道が人間の仕業である以上、何らかの意図をもって、情報の受け手を左右しようとする輩は、いつの時代になっても存在するであろう。民主主義国家に必要なのは、そういう偏向報道に操られない国民なのだ。 No.770 メディアが仕組んだ政権交代 国際派日本人養成講座/ウェブリブログ (via chikuri) (chikuriから)
2月 23, 2016 「国語は正しい解答をするのではなく、正解に指定された解答をすると点になる科目なんだ。キミは優れているから、本質が見えすぎてしまうだろうが、出題者のレベルを考えて解答しないと点にならんのだ」 あさぎりるん●2016さんはTwitterを使っています (via c610) (dreaminggilrから)
2月 19, 2016 「申し訳ございません」と「とんでもございません」はいずれも間違いである。正しくは「申し訳ないことでございます」「とんでもないことでございます」。(略)これがすんなりと出てくる人は、敬語を知っている人から見て、よほど敬語に精通していると思われるに違いない。  『日本の礼儀作法~宮家のおしえ~』     (via mmgen)
2月 19, 2016 2000年、シドニーオリンピックの開会式でアボリジニの男女が会場いっぱいになって踊っていた。 「いまでは過去の暗い歴史は清算されて白人もアボリジニも仲良くやっていますよ」というパフォーマンスらしいが、踊っていたのは実はアボリジニではなくて体を黒く塗った白人で、本物のアボリジニは会場の外で「私たちを滅ぼさないで」と坐り込みの抗議をしていた。 それを知らずか朝日新聞は「民族融和、和解の証し」と称賛していた。 あまり笑えない冗談だ。 ところで、日本はオーストラリアと戦火を交えたことがあった。 第二次世界大戦のときだ。 日本は無視していたのに勝手にオーストラリアが宣戦布告してきたかたちになる。 この時も彼等の人種差別意識が剥き出しになった。 捕虜にされた日本軍兵士は射殺されたり、輸送の途中に輸送機から突き落とされたりと、アボリジニと同じように殺された。 なのに、いまでもオーストラリアは日本人は残虐だったと戦勝記念日には反日パレードが行われている。 そのオーストラリアが、いまは捕鯨問題で日本を叩くことに喜びを見出している。 今日も「緊急!世界サミット"たけしJAPAN “2009日本を考えるTV」という番組でオーストラリア人が捕鯨をやめろと日本人を非難していた。 自分たちは今ではカンガルーを殺しまくっているのによく言う。 その中で、あるオーストラリア人が「人間に近い鯨を調査と称して殺す日本人を私たちも調査目的に二三人殺してもいいですか?」というようなシーンがあった。 さすが、アボリジニを虐殺しまくっていた子孫のセリフといったところか。 そういえば、毎日新聞の英語版サイトで日本人を貶める記事を書いていたライアン・コネルもオーストラリア人だった。 その記事の中に「日本人がエクアドルで子供狩りをしている」というものがある。 人を狩るなんて、それは貴方たちの事だろう。 ついでにいえば、皇室を貶める『プリンセス・マサコ』を書いたのもオーストラリア人だ。 日本人はオーストラリアというとコアラやカンガルー、オージービーフ、エアーズロック、グレートバリアリーフ・・・と好印象を持っているが、オーストラリア観を改めるときかもしれない。 虐殺者としてのオーストラリア人 - あび卯月☆ぶろぐ (via shirakawa-jukucho) (rurinacciから)
2月 20, 2016 しょっぱなから失敗した人の成功者たち
1. ヘンリー・フォード … 自動車王 ヘンリー・フォードは、フォード・モーター・カンパニーを設立するまえに、7回も失敗し、5回失業した。「三度目の正直」という言葉を突破し、まわりの人から見たら「よくがんばる、かわいそうな人」みたいな感じだったかもしれません…。
2. ウォルト・ディズニー … ディズニーランド、ディズニーアニメの創造者 「お前はイマジネーションがない。アイデアもダメだ。」と新聞社をクビになる(ウォルト・ディズニーはイマジネーションとアイデアの男じゃないのか!?)。自分の信じている才能をケチョンケチョンにいわたら、ドーンとショックをうけてあきらめてしまうことだろう。
3. 盛田昭夫 … ソニー創業者 後の「ソニー」となる「東京通信工業」を井深大と設立。はじめて手がけた製品は、ナント炊飯器。これがビックリするほど売れなかったという。もし起業して、一発目の商品が思いっきりスベったら、あなたはどうしますか!?
. カーネル・サンダース … ケンタッキーおじさん レストランにフライドチキンのレシピを売り込んだが、109回も「そんなもんいらん!」と断られた。普通の人ならノイローゼになってしまいそう。
. アインシュタイン … 天才物理学者 5歳までほとんどしゃべらなかった。学校の先生からは精神障害があると思われていた。父親が事業に失敗した。大学受験に失敗した。苦労続きの人生だ。
. ベーブ・ルース … ホームラン王 ホームラン王であると同時に、三振王でもある。
. J.K.ローリング … 「ハリー・ポッター」作者 離婚と生活苦で、うつ病になり自殺も考える。貧しいシングルマザーとして生活保護を受けながら執筆をつづけ、書き上げた「ハリー・ポッター」が大ブレイク。「歴史上最も多くの報酬を得た作家」となる。
8. ソクラテス … 哲学者 アイデアが先を行きすぎて「不道徳で、人を腐敗させる人」とみなされ、ナント死刑を宣告されてしまう。
9. ゴッホ … 画家 生きているうちに売れた絵は、たったの1枚だけだった…。それでも画家をつづけた。 (死後に「ひまわり」が58億円で落札)
10. エジソン … 発明王 学校の先生から「バカすぎて、何も学べない子」と言われる。はじめてやった仕事は、クビになり、その次にやった仕事も立て続けにクビ。電球を発明したときに、1000回失敗したのは、有名な話である。
11. マイケル・ジョーダン … バスケットボール選手 伝説のバスケットボール・プレーヤーは、高校のときは「補欠」だった。
12. スティーブン・スピルバーグ … 映画監督 映画学科が充実している南カリフォルニア大学の入学を希望するが、入学を3回も断られる。普通の人なら「やばい、もうプロになれない…」とヘコむことだろう。
13. スティーブン・キング … 作家(「ショーシャンクの空に」など原作者) 貧しい生活のなかで作家になることを夢見て小説を書くも、30もの出版社にバッサバッサとボツにされ、ついに原稿をゴミ箱に捨ててしまう。奥さんがゴミ箱から、その原稿をひろいあげ、励まし励まし、書き上げた作品が大ヒット・映画化。
「Fail early, Fail often, Fail better」 早くたくさん上手に、失敗せよ。  この見出しの言葉は、ビジネススクールでの起業家育成の授業や、ソフトウェアのプログラミングの分野で、よく紹介される言葉です。  失敗というものは、誰のどのチャレンジにも内包されているものなので、それを「素早くたくさん(Fail early, Fail often)」外に出していくのが「成功の秘訣」ということです。そうしてできれば、試作や検証で「上手に失敗(fail better)」するのがマル。  私たちは、幼稚園のときから減点法で生きているので  「間違えました」  「失敗しました」  といおうとすると恥の感情がわいてくる。なかなか口に出して言うことができません。  まずは、この二つのセリフを平常心をもって誰にでも言えるようになって、少しずつ「Fail early, Fail often, Fail better」の哲学を取り入れていくことで、人生はもっとうまくいくようになるのかもしれません。  失敗しても、暗い顔をしてたらアカン。  ケンタッキーおじさんも、ディズニーも、エジソンも、マイケル・ジョーダンも失敗していた。じっくり休んだら、また元気だしてファイトです。 earth in us. - 失敗してもヘコまなくなれる「13人の偉人の手痛い失敗まとめ」 (via takumi000)
2月 20, 2016 高校の同期に教えて貰った→ 「知的であるかどうかは、五つの態度でわかる。 世の中を見渡すと、あらゆる属性、例えば学歴、職業、資格、言動、経済的状況などが「知的であるかどうか」のモノサシとして使われており、根拠があるものないもの含め、混沌としている。 だが、私がこの先生からお聞きした話はそういった話とは少し異なる。 彼は「人間の属性と、知的であるかどうかの関係はよくわかりませんが、少なくとも私が判断をするときは、五つの態度を見ています」 という。 エピソードを交え、様々な話をしていいただいたのだが、その5つをまとめると、次のようなものになった。 一つ目は、異なる意見に対する態度 知的な人は異なる意見を尊重するが、そうでない人は異なる意見を「自分への攻撃」とみなす 二つ目は、自分の知らないことに対する態度 知的な人は、わからないことがあることを喜び、怖れない。また、それについて学ぼうする。そうでない人はわからないことがあることを恥だと思う。その結果、それを隠し学ばない 三つ目は、人に物を教えるときの態度 知的な人は、教えるためには自分に「教える力」がなくてはいけない、と思っている。そうでない人は、教えるためには相手に「理解する力」がなくてはいけない、と思っている 四つ目は、知識に関する態度 知的な人は、損得抜きに知識を尊重する。そうでない人は、「何のために知識を得るのか」がはっきりしなければ知識を得ようとしない上、役に立たない知識を蔑視する 五つ目は、人を批判するときの態度 知的な人は、「相手の持っている知恵を高めるための批判」をする。そうでない人は、「相手の持っている知恵を貶めるための批判」をする。 知的である、というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、自分自身の弱さとどれだけ向き合えるか、という話であり、大変な忍耐と冷静さを必要とするものなのだ、と思う。」 http://blog.tinect.jp/?p=16095 (via takigawa)
2月 22, 2016 寿司職人を単なる技術者だとしか見ないからこういうことを言う。 生活習慣から職人気質、全てを身体にしみこませることが弟子入りの目的だ。 それによって衛生管理、品質管理などをクセになるまで叩きこむ。 潔癖症に見えるほどの清潔さを保ち続ける職人気質はネットでは身につかない。 厚切りジェイソン 「寿司職人の徒弟制度は必要ない」 : 2chコピペ保存道場 (via deepspeed) (hiroakisから)
2月 14, 2016 今後マスコミは▼ 報道機関は「三権を監視する使命がある」などという、 傲慢な言葉を、間違っても口にしてはなりません。 とりわけ、護憲勢力の代表のように振舞うマスコミは「報道の自由が伝家の宝刀となっていて」これを振りかざすことで、 誰にも文句を言わせない状況を作り出しています・・・しかし、日本国憲法には、 どこにも報道の自由について「これを保障する!という文言は見当たりません」 マスコミには立法、行政、司法の「三権を監視する使命がある」という報道機関の言動を、よく耳にします。 報道機関(マスコミ)は、第四権力と僭称していますが▼ 三権を監視する使命」とは? いつ? どこで? 誰から?(どこから?・・・中国? 韓国? 北朝鮮?)付与されたのでしょうか? 報道の自由は何に由来するのか? 赤峰 和彦(あかみね かずひこ)2016年 2月14日 (via awarenessxx)
2月 14, 2016 「戦争放棄」は1928年の不戦条約で決まった。起草者のブリアンはノーベル平和賞を受賞している。日本人の無知を世界にさらすのはやめてほしい。|ノーベル平和賞に憲法9条を推薦 実行委、3年連続で:朝日新聞デジタル http://ow.ly/XVpV0 池田信夫さんはTwitterを使っています (via windsock)
2月 14, 2016 昔高校の地学専攻の先生に「幸せって何ですかね」って聞いたときに「明日が楽しみなことじゃない?」って答えてもらったのを覚えてる。素敵な先生だった。
2月 14, 2016 私はうつ病になって、多くの誤解をしていたことを知りました。まず、うつ病は「心の病」ではなく、「脳の病気」だということです。この視点に立つと「気の持ちよう」とか、「心の弱い人がなる」などといった偏見が間違いであることがわかると思います。 仕事休んでうつ地獄に行ってきた / 丸岡いずみ (via ebook-q) (cashitsukiから)
2月 15, 2016 シールズとかいう団体が台頭したせいで、「日本の若者は政治に無関心」から「日本の若者は政治に無知」にすっかりクラスチェンジしてしまったな… Twitter / NobNOVA (via netinago99) (netinago99から)
2月 15, 2016 阿久悠の言葉に、こういうのがある。読中、何度もリフレインしていた。   夢は砕けて夢と知り   愛は破れて愛と知り   時は流れて時と知り   友は別れて友と知り  だが、遅すぎた。何も始まっていなかった人生であることを、人生の最後になって知るということは、なんと残酷なことか。これが、自分の人生でなくてよかった。確かに日々は短調な積み重なりにすぎず、むなしく時が流れてゆくのみ。  期待と、言いしれぬ不安と、焦燥の中で宙吊りになった苦しみから解き放たれるような“なにか”を待つのが日常である限り、いつまで経っても、“人生”は始まらない。日々の積分が人生であることに気づかない人が多すぎる(もちろん、わたしも含めてね)。時とは、命を分割したものなのだ。 40超えたら突き刺さる『タタール人の砂漠』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる (via drhaniwa)
2月 11, 2016 バイト先でミスをしちゃって落ち込んでいる時、元JRの車掌をやっていた親戚のおじさんが 『俺なんて、昔付き合ってた彼女が騎乗位しようとして俺の上に乗ったとき反射的に「ご乗車ありがとうございます」と言ってしまったことあるんだぜ?』 と励ましてくれてせいで飲んでいたコーラ盛大に吹いた Twitter / tapdw_27 (via kuzira8)
2月 11, 2016 「高度成長期の日本の状況 ・ハワイが一生に一度いけるかどうかの夢の国 ・パイナップルの缶詰がぜいたく品 ・うなぎ、マグロ、牛肉は庶民の口にはめったに入らない。 ・お菓子といえば、焼き米、かきもち ・川は公害で真緑色、海は赤潮で赤色。背骨がグネグネの魚が取れる ・発がん物質DDTを頭からぶっかけ。今は使えない危険な農薬も使いまくり ・公害病が各地で大発生、交通戦争、受験戦争 ・バリアフリーなんかなく、障害者になったら一生病院か蔵の中 ・中共の気違いがぼかすか原爆��空間実験をしていたから雨に濡れると頭が禿ると親に叱られた ・人さらいが横行してたから5時過ぎまで外で遊んでると「サーカスに売られてしまうから」という理由で親に殴られた ・どぶ川はメッキ工場の青酸廃液できれいなエメラルド色がデフォ ・ソーセージ工場からは肉の生残滓がものすごい蒸気とともに排出されて即腐敗 ・とにかく街中工場排煙とドブ泥、腐敗臭が満ちていた ・クラスに2-3人は小児喘息をかかえた同級生がいた ・ジュースの素はなぜか陽の光に当てると色が消えた ・粉末ジュースは甘くて苦かった ・電車に乗ると超汗臭いオヤジが必ずひとりは乗ってた ・はしけから通っている水上生活者の同級生がいた ・上野不忍池の畔にはぼったくり屋台のおでん屋がいた ・大人もヤクザが怖くて馴染の店以外は夜飲みに行けなかった ・川崎球場はガラスでできた1合瓶が後ろから飛んできて普通のサラリーマンが殺し合いのけんかをしていた ・おとなは戦争で人を殺した経験があるやつがうようよいたからけんかはいつも殺し合いのようだった ・集団予防接種の針は使い回し 信奉やら懐古してる奴はアホ 」 http://2chcopipe.com/archives/51979670.html (via shinjihi)
2月 11, 2016 息子へ おまえにこの手紙を書いたのには3つの理由がある。 1. 人生は幸福も災難も無常だ。いつ死ぬかは分からないので早めに言っておきたい。 2. 私はおまえの父だ。私が言わなければ、誰も言ってくれない。 3. この手紙は私の悲惨な失敗体験から得たものばかりで、おまえの人生に役立つだろう。 今後の人生において、以下のことをよく覚えてほしい。 (1)おまえを悪く扱う人のことを気にしない。私とお前の母親を除けば、誰もおまえによくしてあげる義務はない。だからおまえによくしてくれる人を必ず大切にし、その人への恩を忘れてはならない。 (2)世の中には、居なければ困る人は存在しない。所有しなければ困る物は存在しない。お前が愛しているすべてを失っても人生は何とかなるものだ。 (3)命は短い。今日も浪費しているこの命は、明日にはもう消えるかもしれない。命を大切にしたいのであれば、命を楽しむ時間を増やすとよい。長生きよりも早く楽しむことが大切だ。 (4)愛情は一種の感覚に過ぎない。時間や心境と共に変化する。最愛の人がおまえから離れた場合、慌てずに時間を待つがいい。時間がおまえの心を洗い清め、おまえの苦痛を和らげてくれる。恋に憧れ過ぎないこと。失恋を悲しみ過ぎないこと。 (5)確かに多くの成功者はあまり勉強していない。しかし、これは勉強しなくても成功できることを意味しない。勉強で獲得した知識はおまえの武器だ。人はゼロから富を築くことができるが、何の武器も持たないと無理だ。これを絶対覚えておくのだ。 (6)私の老後はおまえに頼るつもりはない。おまえの老後は私に頼れる訳がない。おまえが成人して独立した時点では、私の責任は終わった。今後、バスに乗るのかベンツに乗るのか、春雨スープを飲むのかフカヒレスープを飲むのかそれは、全部おまえ自身の責任だ。 (7)おまえは自分に信用を守ることを要求できるが、同じことを他人に要求できない。おまえは人に優しくすることができるが、同様なことを人に期待してはいけない。おまえが他人を扱うように、他人がおまえを扱うとは限らない。これを理解できないと人生は苦痛が溜まるばかりだ。 (8)私は26年間、宝くじを買ってきたが、未だに三等賞にも当たっていない。リッチになりたいならば努力して仕事せよということだ。この世にはただのランチなどない。 (9)おまえと私は一回限りのご縁だ。お互いの縁がいつまで続くかは分からないが、共に過ごす時間を大切にしよう。お互い愛があろうがなかろうが、来世にもう出逢うことはない。 「息子への家書」紹介 | gentak.info (via 719043) (元記事: drhaniwa (maniacsarchiveから))
2月 11, 2016 だから、Aという道を行きたければ、Bという道は諦めるしかない。最終的に目的に到達することと、何かを諦めることはトレードオフなのだ。何一つ諦めないということは立ち止まっていることに等しい。 諦める力~勝てないのは努力が足りないからじゃない / 為末 大 (via ebook-q) (mishimatchから)
2月 11, 2016 血液っていうすげー生き物の根幹になるものの中心が鉄とか銅で出来てるってみんなスルーしてるけどかなりSF的な事実だと思うんだ。 鉄は恒星内部でしか生成されないので、現在地球にある鉄は、かつて死んだ太陽の残滓。 我々は皆星を継ぐ者でもある。 (via datteowww)
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thetaizuru · 8 years ago
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ジョージ・オーウェルの『1984年』を2010年に再訪 Richard Mynick 2010年6月12日 大衆的語彙の中に初めて登場して以来、“オーウェル的”という言葉は、典型的な“全体主義国家”の姿を呼び起こす。秘密警察だらけの一党独裁、自国民をスパイし、異議を唱える連中を弾圧し、恣意的逮捕や、囚人の拷問を行い、永久戦争を遂行し、ご��合主義のために歴史を書き換え、自国の労働人口を貧困化させ、ダブルシンク(二重思考、つまり“二つの相反する信念を、同時に心の中に保持し、両方の信念を受け入れる力と、定義される思考体系)に根ざす政治論議。 多くのアメリカ人は、この“オセアニア”描写が、20世紀中期の最も影響力がある不滅の英語小説の一冊、ジョージ・オーウェルが書いた『1984年』にある未来の暗黒郷であることは容易にわかるだろう。 多数のアメリカ人が、この描写が自らの社会そのものにもあてはまると思うかどうかは、また別の話だ。しかし2000年の大統領選挙の不正以来、出来事 9/11攻撃、架空の“WMD”(大量破壊兵器)に基づくイラク侵略、拷問スキャンダルや、2008年の金融危機等が起きた時期として、この事は益々多くのアメリカ人が理解しつつあるものと思える。 『1984年』は冷戦の緊張が高まる最中、1949年6月に刊行された。大半の西欧の読者にとって、当時の反共というプリズムを通して、本書はたやすく理解ができた。 小説の警察国家は、スターリンのソビエト社会主義共和国連邦と、疑うべくもないほど類似している。スターリン主義に激しい敵意を持っていた、自ら認める民主社会主義者、オーウェルが書いたものゆえ、それも驚くべきことではない。しかし、オーウェルはスターリン主義と社会主義を一緒くたにするには、余りに明敏で(例えば、“私の最新の小説 [‘1984年’]は社会主義に対する攻撃を意図したものではなく…共産主義やファシズムにおいて既に一部実現されている…逸脱を表現するものです...。”と書いている[1])、冷戦時代に彼の小説を読んだ人々は、得てしてこの違いを理解しなかった。彼の注意書き(“英語国民が、他のどの国民より、生まれつき優れているわけではなく、そして全体主義が…どこにおいても勝利しうる”ことを強調するために、本書の舞台がイギリスに置かれた…)はほとんど見過ごされ、世上、小説のゾッとする予言(“もしも将来の姿を見たければ、永遠に人間の顔を踏みつけるブーツを想像すればよい”)は、主に西欧風資本主義“デモクラシー”の敵と見なされている政治制度の特性だとされている。(2) しかし『1984年』は、決して西欧を裏書きするものではない。国営マインド・コントロールを論理的極限まで利用して、自分たちの権益のために、支配し、権力を維持する、責任を負うことの無いエリート層を仮定しているのにすぎない。経済組織という名目的構造にはこだわらずに、国民を搾取的支配に強制的に服従させる上で、運営上、一体何が関与しているのかを、本書は検証しているのだ。いささか違う言い方をすれば、この小説は、支配的官僚制度なり、金融資本なりのいずれから発生するものであれ、責任を負うことのない国家権力一般についての、心理-社会的機構を検討しているのだ。小説は、極めて不平等な社会において、社会的安定性を維持するための、抑圧と国民意識の支配という、ある種の組み合わせによってのみ実現可能となる、基本的な問題を探っている。 粗野な専制政治は主として弾圧を用いる。洗練された専制政治は、意識を支配する、より巧妙な手段を見いだすのだ。逆に意識は、社会における言語の公的な使用方法と深くからんでいる。オセアニアもアメリカも、国民の意識を巧妙に形成する国家なのだ。それこそが、なぜ二つの社会が、益々核となる特徴を共有しており、既に言語、意識、順応や、権力との間のつながりに対する鋭い洞察を認められている『1984年』が、冷戦当時より、2010年、一層読者にあてはまるのは確実だという理由だ。 1984年のオセアニアにおけるマインド・コントロール オーウェルの架空のオセアニアでは、心理社会的な機構は、大まかに言ってこんな風に機能している。全ての権力は党に掌握されている。永久戦争は国家政策の原動力だ。マスコミは、国家プロパガンダの単なる道具に過ぎない。国民は、思考警察が実施する絶えざる監視と、思考の幅を狭め(言語そのものが、異端思想を形成するのに必要な構成概念に欠けている為)思考犯罪(異端の思想)を原理的に不可能にするのが狙いである新言語、ニュースピーク(新語法)の発展のおかげで牽制されている。 囚人の公開処刑や二分間憎悪等の国家が提供する儀式は、残虐な国粋主義や好戦的愛国主義への熱中を生み出す為のものだ。国民の85パーセントを占める“プロール”は、彼等が政治意識を発達させるのを防ぐために(主として、スポーツ、犯罪、宝くじや、セックスに注力した映画という)頭を麻痺させるようなマスコミの気晴らしで一杯にされてしまっている。プロールは“今ある姿とは違う世界がありうるはずだということを理解する想像力を持てない”ままにされている。 一方で、党員達国民の2パーセント以下である党中枢“インナー・パーティー”と、より権限の少ない党外郭“アウター・パーティー”のいずれも)は、思想犯罪を行うことを避けるために、ダブルシンク(二重思考)の技術を習得しなければならない。党員は“外国の敵や、自国内の裏切り者に対する憎悪、勝利に対する歓喜、党の権力と叡知を前にした自己卑下といった具合に、常に熱狂して暮らすことを期待されている”自分の思考を自主規制するのが下手で、正統思想に対する潜在的脅威となりかねないような人々は、国民の中から体系的に間引かれてしまう。反抗分子は、人間性を破壊するよう科学的に設計されたやり方によって拷問されるのだ。 2010年のアメリカ合州国で、それがいかに機能しているか 上記特徴の全ては、2010年のアメリカ社会に、すぐそれとわかる形で存在している。あるものは本格的な形で。またあるものは、より原初的な形で(また現在も進化中だ) 。今日の類似しているものの多くを網羅的に列記すれば、丸ごと一冊の本ができてしまうだろう。そうした本には、オセアニアの皮肉に名付けられた“平和省”アメリカ“国防省”よりも、オーウェル風婉曲表現はないという些細な事実の一致までも含まれるだろう。 そうした本は、より重要な類似、つまり“異端の思想”を発展させるのに必要な概念や物の見方(つまり既成政治経済制度に対する合理的な批判)を体系的に国民から奪い取るために、アメリカのマスコミ等が、一種のニュースピーク(新語法)として機能している、様々なやり方を載せることになるだろう。その本には、本質的に世界金融危機の負担は、この危機の犠牲者によって支払われるべきであり、危機の犯人達は損失に対し免責されるべきだという、ウオール街救済措置の根本にある論理も載るだろう。しかもこの政策は、彼等が“民主的に選び出した”政府によって犠牲者に押しつけるべきなのだ(つまり、ほとんど全国民に) ということも。(マルクス: “抑圧されている人々は、数年に一度、彼等を抑圧している階級の、どの代理が自分たちの代表となり、自分たちを抑圧するかを選ぶことが許されている。”) 以下は、オーウェルの洞察が未来の空想と見なされて以来、数十年のうちに、そして西欧の限定された資本主義“民主主義”の姿がオセアニア風専制政治に対する防波堤と見なされて以来、一体我々はどこまで来てしまったのかを示してくれる、いくつかの類似点の概要だ。 労働者階級が、ファシスト・ドイツやイタリアの場合のように、歴史的敗北を被ったか、あるいはソ連のように、反革命的な官僚制度によって、権力を奪われてしまった状態を、オーウェルが想定していたことは留意しておく必要がある。現代アメリカにおいて、物事に対する公式見解は、その多くは混乱した異議だとは言え、益々異議を唱えられ、認められにくくなりつつある。確かに、アメリカ支配者の、権威主義的な狙いと、野望に関する限り、オーウェルの概念を書き換える必要は皆無だ。 永久戦争: オセアニア同様、今日のアメリカ合州国は、永久戦争状態にある。この状態は、いずれの社会においても“正常”として受け入れられている。元アメリカ副大統領のチェイニーは、2001年にアメリカの対テロ戦争は“決して終わらないかも知れない。少なくとも、我々が生きている間には”と述べた。この発言は、大企業政党のいずれからも、商業マスコミからも、激しい抗議を引きだすことはなかった。今日に到るまで、この発言は問題にされないままになっている。チェイニーがこの主張をして以来、四度の国政選挙のいずれにおいても、永久戦争という問題はあえて言及する程(まして討論する程)重要だとは見なされなかったのだ。 社会の階級構造を維持するための戦争: (歴史上のトロツキーをほぼなぞった)“ゴールドスタイン”という人物に語らせながら、オーウェルはこう書いている。“戦争とは、各国の支配者集団が、自国民に対してしかけるものであり、戦争の目的は領土を征服したり、守ったりすることではなく、社会構造をそっくりそのまま保つことにある。”オーウェルは更に続ける。“しかし、物理的な意味では、戦争は、その大半が高度に訓練された専門家であり、ほんの少数の人々しか必要とせず、比較的少ない死傷者しかもたらさない.... また同時に、戦時下にある、したがって危険な状態にあるという意識によって、少数の特権階級に、あらゆる権力を引き渡すことが、生きるためには、自然で不可避な条件に思えてしまうのだ。” こうした見解は、それぞれ、アメリカの“対テロ戦争”に実にぴったりあてはまる。いわゆる“特殊部隊”や“プレデター無人飛行機”の使用。そして執拗なテロ脅威恐怖の利用と悪魔化キャンペーン。アメリカの戦争は、実際には領土獲得、つまり、石油が豊富な、あるいは、パイプライン経路、および/あるいは軍事基地として戦略的価値がある地域の支配を狙ったものである点を除いては、一単語たりとも変える必要がない。この例外は、“戦争の目的は[少なくとも一部は]社会構造を保全することにある”そして“支配者集団同士により、それぞれの主題をめがけて、戦争は遂行される。”という、オーウェルの主張を決して無効にするものではない。 一党国家: オセアニア同様、アメリカは事実上、一党国家だ。二つの巨大企業政党が、偽って二つの“対抗している”党であるかのごとき振りをしているのだ。実際には、両党は、実際は一つの党の軟派・硬派二派閥に過ぎない。金融支配層が経済的に重要なあらゆる物事と、資源開発を、しっかり支配している。アメリカ版の一党国家は、表面上、明らかにそうでないもののように見えてしまうがゆえに、実際オセアニア版よりも一層危険な程、オーウェル風だ。オセアニアは、民主主義のふりをしようと気を使わないだけ、少なくとも十分に“正直”だ。 アメリカ人は、共和党と民主党との間の、限られた、ほとんど言葉のあやの違いでしかない違いを“民主主義”である“証拠”だと思い込むよう飼い馴らされている。物事の進展は、この理論の嘆かわしい欠陥を、容赦なく暴露してはいるのだが、長年にわたりこの理論が広く受け入れられてきたことが(アメリカ帝国主義の残留強度やAFL-CIOや様々な“左翼”勢力が演じる役割も考慮すれば)、大衆の意識を支配し、形作る、公式政治文化の威力を実証している。(マルクス:“支配階級の考え方がいつの時代も支配的な考え方である。”) 国家プロパガンダの手段としてのマスコミ: オセアニアと同様に、今日のアメリカのマスコミは、本質的に国家プロパガンダの道具だ。過去十年間の主要な出来事に関するニュース報道をざっと見てみるだけで、この評価は十分に実証されようし、過ぎ行く日々が、こうした行動の無数の例を提供してくれる。オセアニアのテレスクリーンは、“マラバル戦線の英雄”が勝ち取った栄光の勝利の報道を交えながら、銑鉄生産とチョコレート配給の増加を絶え間なく、しつこく売り込み続ける。これとアメリカのニュース番組内容との間には(おそらくは、その無理強いの陽気さが、オセアニアの殺風景で好戦的な“ニュース放送”から聞こえてくるものより陽気な調子をもたらすのに貢献している広告がある、という点を除いて)本質的な差異はほとんどない。2009年、アメリカのマスコミは、イランにおける不正選挙とされるものに対し、どれもよく似た“激怒”を表明した。選挙不正という主張を支持する本格的証拠は何も提示されなかった。こうしたマスコミのどれ一つとして、露骨に不正だった2000年の米大統領選挙には触れもしなかった(まして激怒などするわけもない)。(実際マスコミは、暴力なしに権力が移行したという理由から、2000年選挙の結果を、“制度が機能した”証拠だとして異口同音に称賛した。言い換えれば、エリート階級は、国民の抵抗を受けることなく、不正選挙をすることができたのだ。) 監視:小説の2ページで『思考警察』というものが紹介される。“『思考警察』が、どれだけ頻繁に、あるいはどのようなシステムで、どの個人の回線に接続しているかは当て推量するしかない。全員を常時監視できるということさえあり得る。”2004年頃から、こうした監視機能が国家安全保障局のような機関によってアメリカ内に導入され、アメリカ国民の私的通信の膨大な盗聴が行われてきた。この問題は、2004年以来、三回の国政選挙のいずれにおいても触れられることはなく、ニューヨーク・タイムズ(ブッシュ政権の要求に応じて)は2004年の選挙前、NSA盗聴計画に関する記事を意図的に没にしていた。(一年以上後、これを主題にしたタイムズ紙記者ジェームズ・ライゼンによる本の刊行直前、新聞は最終的に“報道した”。彼の記事を同紙は差し止めていた。)(訳注:ジェームズ・ライゼンの本というのは邦題『戦争大統領』のことだろう。) エリートが主導する、大衆の政治意識の文化的骨抜き: 国民の政治意識を骨抜きするのに、大衆文化を道具としし利用するというオーウェルの洞察は、アメリカの支配エリートの尽力によって実現している。オーウェルは、宝くじや、“スポーツ、犯罪と、星占い、扇情的な5セントの中編小説…セックスまみれの映画…(そして)最低品質のポルノ以外はほとんど何も載っていないくだらない新聞”等、頭を麻痺させるような、主要な娯楽の数々をあげている。有名人のゴシップや、株式市場についての雑談といった重要なカテゴリーを見過ごしてはいたものの、原理的に彼は的を射ている。著名人の話を載せた雑誌を読み、娯楽TV番組を見るだけの国民は、自分たちの劣化しゆく生活水準の原因となる社会勢力を理解する用意などまったく出来ておらず、したがって自らの防衛もしがたかろう。 指導者のカルト: 小説は殺風景な“未来”、1984年4月のロンドンが舞台だ。オーウェルの主人公ウインストン・スミスは、“勝利(ビクトリー)マンション”という名の、茹でたキャベツの匂いがする崩壊途中のアパートに住んでいる。アパートの踊り場に目立つように掲示されているのは“太い黒い口髭を生やした、いかつい45歳位のハンサムな男の大きな顔”を描いた巨大カラー・ポスターだ。2010年に、ゾッとするような荒廃したロンドン至る所にあるビッグ・ブラザーのポスターという文章を読みながら、人は今日の斜陽化しつつあるアメリカ都市の至る所にある“バラク・オバマの希望”ポスターを必ず思い出さずにはいられまい。 ビッグ・ブラザーは、“党が、自らを世界に対して表現するのに選んだ姿だ。彼の機能は、組織よりも個人に対して、より自然に感じやすい、愛、恐怖、崇敬、感情などの焦点として役立つことにある”として描かれている。この文章は、2008年、ウオール街の候補者であるオバマを、アメリカ有権者に売り込むにあたって使われたPR戦略の本質を捕らえている。実際、オバマ選挙キャンペーン全体が、愛と希望のような感情は、何よりもその権益を彼が代表している銀行等の組織に対するより、“個人に対してこそ一層身近に感じることができる”という発想を生かすよう仕組まれていた。 “現在を支配する者は、過去を支配する….”: ウインストンは真理省で働いており、その業務は“毎日、過去を改ざんすること…[この仕事]は、政権の安定に、抑圧作業として必要だ。”オセアニア真理省の諸機能は、アルカイダやタリバンのような集団のことを、24時間態勢で悪魔化しながら、こうした集団のいずれもが、ここ数十年間、CIAによる何百万ドルもの資金援助によって育て上げられてきたことを入念に“忘れ去る”アメリカの大手マスコミによって実施されてきた。そうした不都合な真実は、もはや国家政策と調和しないので、定期的にメモリー・ホール(訳注:『1984年』中で、この名で呼ばれる穴の中に、過去の正しい記録は廃棄される)へと投げ捨てられる。従って、現在という文脈で“正しく”なるよう、事実は改ざんされる必要があるのだ。(2002年“WMD”(大量破壊兵器)と、計画中のイラク侵略に関して、イギリスMI6のトップが、ブッシュに分かりやすいようこう説明した。“諜報情報と事実は政策を巡って、調整されています”)。ちょうど、オセアニアが、ある日はイーストアジアと同盟を組み、翌日にはイーストアジアと戦争状態となるように、アメリカは、ある時期に、サダム・フセインやイスラム教原理主義と戦争状態となるが、レーガン時代には、積極的にこの両者を支援していたのだ。(レーガンは、アフガニスタンのムジャヒディーンを“自由の戦士”、“道徳的に、アメリカ建国の始祖に相当する人々”と呼んでいた。) 国家の敵を悪魔化するための公式行事:“二分間憎悪”は本質的に、サダム・フセイン、ハマース、アフマディネジャド、カストロや、ウゴ・チャベスといった公式の敵の名前が出るたび毎に、アメリカのテレビで起きていることだ。これは、フオックス・ニューズやウオール・ストリート・ジャーナルの論説ページの様にあからさまに右翼のマスコミで、最も露骨な形で起きるが、“リベラル”だと言われているマスコミでも、同様に存在しており、あからさまさこそ控えめにはなるものの、視点は本質的に全く同じだ。フセインの絞首刑は、アメリカのマスコミによって、オセアニアの公開絞首刑と同様、息もつかないほどの、あえぐような流血への渇望で迎えられた。“昨日、囚人たちが絞首刑にされるのを見にいったかい?”省の食堂で昼食をとるため座っていたウインストンは、同僚サイムにそう質問される。2006年12月にフセインが処刑された時、これと同じ光景が、アメリカ中で、確実に存在していたのだ。 娯楽としての敵”民間人“への爆撃: ウインストンは、7ページで、映画を見にでかけ、戦争のニュース映画を見る。オセアニアの攻撃型ヘリコプターによって無力な民間人が粉々にされる映像を、観客は“大いに喜んだ”と彼は日記に書いている。広範なアメリカのTV番組、映画、ビデオ・ゲームは、全く同じ基本的本能を、育て、奨励しようという企みだ。 相手側の主張によって、自らを覆い隠してしまう政治文化:“ゴールドスタイン”はこう述べている。“党は、社会主義運動が本来立脚している、あらゆる原理を否定し、非難する。しかも…社会主義の名において[そうしているのだ]。”これは、1949年における、スターリン主義に対する、実にもっともなオーウェルの評価だ。この文章は現代の類似物を示唆している。“アメリカ政府は、民主主義の実質的核心を、弱体化させるか、骨抜きにしている。民主主義の名において、そうしているのだ。” 警察による国民の威嚇:オセアニアで最も恐ろしく、物理的に堂々とした政府省庁である愛情省は、“伸縮式警棒を持って、黒い制服を着たゴリラのような顔つきの守衛”が警備している。こうした守衛に、現実に対応するものが、アメリカの政党大会やWTO会議の外に出現し、防弾チョッキをまとい、威嚇し、小突き回し、非武装の抗議デモ参加者を警棒で殴ったりさえしている。マスコミは、イランのアフマディネジャド反対デモや、ベネズエラのチャベス反対デモを、“合法的反対者”のお手本として満足げに引用しながら、自国の抗議デモ参加者は決まって“チンピラ”や“アナーキスト”と表現する。(“オーウェル的”という点で言えば、最近アメリカの政党大会で反対デモをしようとした反戦抗議デモ参加者は、蛇腹式鉄条網を張り巡らせた、会議場から離れた、マスコミの目に入らない、塀で包囲された仕切りの中に押し込められた。こうした仕切りは、何の皮肉の意図もなしに、“自由発言ゾーン”と呼ばれていた。) 国家政策としての、悪行と非人間化:小説は、拷問の描写という点で、ゾッとするほど想像力豊かだ。ある時点で、尋問者のオブライエンは、ウインストンに彼の抵抗が、どれほど無益で哀れなものかを示すべく、ウインストンの虫歯の一本を素手で抜き取る。そして、有名なクライマックスの101号室での拷問場面が続く。ネズミ・カゴのマスクが、ウインストンの顔にはめられる。現代の読者なら、最近のアメリカ拷問メモで暴露された“昆虫”版を即座に連想するだろう。そこでは、無力で怯えた囚人が入れられている閉ざされた箱の中に、“刺す虫”が放たれた。しかしこれでさえ、強姦、性的な辱めや、イスラム教徒の囚人の頭に、経血にまみれた女性のパンティーをかぶせるといったような、宗教的信念に対する意図的な侮辱を含む、アメリカの拷問手法の全貌を示すには十分でない。腐敗と拷問に関する限り、“オーウェル的”という形容詞でさえも、アメリカ軍-諜報機関の巧妙さを十分公平に評価してはいない。 階級意識と社会的不平等 オーウェルの本はアメリカで熱狂的に受け入れられた。刊行から二週間後、タイム誌はこの本を、彼の“最高の小説作品”と呼んだが、この本は、主として(『動物農場』と共に)“共産主義”に対する攻撃だと解釈していた(3) ところがオーウェルは、(先に触れた通り)、二冊の本を西欧デモクラシーのすう勢に対する警告として考えてもいたのだ。本がアメリカで温かく受け入れられたのは、本書が、社会における原動力の、明晰かつ、説得力のある、階級的視点に基づく分析であることからすれば、いささか逆説的である。この視点は、許容可能なアメリカ思想から、階級意識が体系的に抹殺される過程にあった時期、1949年に浮上しつつあった政治的規範に逆らっていた。この小説の明白な“反共主義”が、階級意識に対する反発から、この小説を保護してくれた可能性は高い。階級意識は、1949年のアメリカ合州国では確かに思考犯罪であり、今日も犯罪のままだ。 ウインストンは、“プロール(労働者階級)”に対しては、断固として同情的で、期待を持った態度をとっている。少なくとも四度、彼はプロールは将来の唯一の希望だと語っている。彼等を以下のような言葉で表現している。“もしも希望があるとすれば、それはプロールにあるに違いない。オセアニア国民の85パーセントに、無視された群れなす大衆の中にのみ党を破壊する勢力が生まれる可能性があるからだ。”ウインストンは信じていた。“プロールが、何らかの方法で自分たちの力を自覚するようになりさえすれば…立ち上がって、体からハエを振り払う馬のように身をふるわさえすればよい。もしも彼等がその気になりさえすれば、明日朝にも、党を粉砕することができる。”オセアニアの支配層は、党員の対人的連帯感を粉砕するのには成功したが、一方“プロールは人間として残っている。彼等はその点、無感覚になってはいないのだ。”彼等には“党が共有できず、抹殺することもできなかった生命力がある…将来はプロールにある。” ウインストンは考える。“平等があれば、健全さはありうる”。これは急激に拡大する社会的不平等で特徴付けられるアメリカに、目ざましいほど当てはまる点だ。社会的序列と富の分配との関係は、こうした表現の中で限定されている。“富の全面的増加は、…階級社会を破壊しかねない。…‘富’が…平等に配分されながらも、‘権力’は少数の特権階層の手中に残る社会を想像することは、疑うべくもなく可能だ。だが実際には、そのような社会が長期間安定して存続することはできない。もしも余暇と安全を全員が等しく享受すれば、通常貧困によって麻痺状態におかれている大部分の人々は、読み書きができるようになり、自分で考え始めるようになるだろう。そして、一度そうなってしまえば、彼等は…特権階級の少数派などに何の機能も無いことを悟り、…廃止してしまうだろう。”極めて不平等な社会における支配者の視点からすれば、これは実に危険な破壊的思想だ。 こうした考え方は真に急進的な考え方だ。スペインで、POUMとともに反ファシズムのために戦う志願兵となった作家の考えとしては驚くべきことではない。特に労働者階級を唯一本当に革命的な社会勢力として特定していることは、マルクスとエンゲルスの考え方をそのまま思いおこさせる。自覚し、蜂起し、“体からハエを振り払う馬のように”党を粉砕するプロールにまつわる一節は、労働者階級が、自らを階級として自覚することによって、自らの利益という自立した意識で、思いついた要求をはっきり主張することから生じる、下からの大衆蜂起という発想を写実的に描き出している。 国民を“ダブルシンク(二重思考)”するよう訓練する ウインストンは考える。“党の世界観の押しつけは、それを理解することができない人々に対して、最も成功している。人々は…一体何が起きているのかわかるほど、社会の出来事に対し、十分な関心を持っていない。どれほど現実をないがしろにしても、人々に、受け入れさせることができる。”そして、やや後にこう書いている。“最も地位の低い党員でさえ有能で勤勉で、狭い範囲内で知的であることが期待されるが、また同時に物事を信じ易く、無知な狂信者でなければならず、恐怖と憎悪、追従と勝利の興奮が支配的な感情でなければならない。言い換えれば、人は戦争状態にふさわしい精神構造を持っていることが好ましいのだ。”現代アメリカの公式政治文化が推奨している態度に関して、これより正確な記述を見いだすのは困難だろう。 ダブルシンク(二重思考)の完全な定義は、“矛盾する二つの信念を、自分の心の中で、同時に保持し、双方を受け入れる能力だ。… 心からそうと信じながら、意図的に嘘をつくこと、不都合となってしまったあらゆる真実を忘れさること、更に、再びそれが必要となれば、必要な間だけ忘却の彼方から呼び戻せること、客観的事実の存在を否定する事、それでいながら自分の否定した事実を考慮に入れる事、こうした全てが、絶対に必要なのだ。ダブルシンク(二重思考)という言葉を使用するためですら、ダブルシンク(二重思考)を実行することが必要だ。この言葉を使うことによって、人は自分が現実を改ざんしていることを認めるのだから。ダブルシンク(二重思考)の新たな行為によって、人はこの知識を抹消する。という具合で無限に続き、嘘は常に真実の一歩先を行く。” この一節は、2000年大統領選挙で、最高裁がジョージ・W・ブッシュを大統領に任命して以来、アメリカ政治における象徴的な出来事に関する公式説明の特性を明らかにしてくれる。事実上、あの時以降の全ての重要な出来事は、ダブルシンク(二重思考)を前提として大衆に提示されている。 例えば、イラク侵略から数カ月して、アメリカのマスコミは、結局WMDなど存在していなかったことを認めるよう余儀なくされた。しかしこの事実は、あたかも意味も影響も無いかのごとく提示された。マスコミ説明は、単なる“諜報情報の欠陥”だと気楽に片づけている。一方では過ちを認めているのだから(ニュルンベルク軍事法廷で定義されたような)巨大戦争犯罪に対して、そのような言葉を適用するのはダブルシンク(二重思考)だ。しかし過ちを認めるやいなや、新たな二行を追加している。諜報の過ちは極めて軽微だった。そしてアメリカ諜報機関の几帳面さだけが問題だった(“嘘は常に真実の一歩先を行く”)。 WMD(大量破壊兵器)が存在しないことを認めながら、戦争の一般的特質を擁護する(アメリカ当局者とマスコミの広報担当者たちの仕事だ)というのはダブルシンク(二重思考)のもう一つの例だ。戦争をしかけた建前がいつわりである場合、戦争の正当化はまずできない。人は、両方の信念を、各々を巧みに操作することによってのみ、同時に維持することができる。瞬間的に一方を忘却の彼方に追いやり、もう一方について論じることで。 小説中に、尋問者オブライエンが、四本の指を立て、ウインストンには、5本に見えるよう要求する有名な場面がある。この要求は、2009年5月21日の国立公文書館で行った演説の中で示された、拷問に対するオバマの論理的姿勢と変わらない。法支配の闘士を気取り、アメリカ憲法の羊皮紙原本の横に立ち、オバマは拷問は誤っていると宣言した。我々はアメリカ憲法の価値観を支持しなければならない。“我々は拷問はしていない”と語り、拷問を命じたアメリカの当局者は、それを理由に告訴されることはなく、アメリカの拷問を記録している写真は、公開を差し控えると付け加えた。同じ演説の中で、彼は更に“特例拘置引き渡し”を擁護し、無期限の“予防的拘留”という中世的政策さえ提案した。 “戦争は平和だ” 2009年12月10日にノーベル平和賞を受賞したオバマは、WSWSが痛烈に批評し、適切にも、何事も超えることができないオーウェル的光景だと述べた出来事において、この調子で続けた。現在二つの侵略戦争のさなかにある(そのうち一つについては、彼自身が大幅にエスカレートした)史上最もグロテスクに膨れ上がった軍事機構の全軍最高司令官が、主要な外交官が、イランを“せん滅”すると威嚇した政権の首長が、世界でも傑出した調停者として栄誉を受けたのだ。ガンジーやマーチン・ルーサー・キング Jr.の“信条と人生”に対する、できる限りおざなりの承諾として感想を述べ���ことから始めたオバマは、次の一節で旋回し、彼自身の外交政策が、彼等の哲学によって特徴づけられるであろうという、いかなる幻想も打ち砕いた。(“わが国を保護し、防衛すると誓った国家の長として、私は彼等の手本のみによって導かれるというわけには行かない。”) そして、アメリカ大統領は、国家的暴力の明白な擁護(もちろん、アメリカ合州国によって率いられる限りだが)へとまっしぐらに突入する。彼はさながら歌うように語る。“バルカン半島諸国においてそうであったように、武力は人道的な理由で正当化することが可能だと私は信じている” (つまり「戦争は平和である」)。世界中の意見と国連安全保障理事会に逆らって、イラクを侵略した国家の大統領が、彼の国も、ほかのどの国も“もし我々自身は守ることを拒否しても、他の連中には、交通規則を守るよう主張できる”と主張したのだ。サウジアラビア、エジプトやパキスタン政府と親密な盟友である国家の大統領が“我々と最も親しい友人は、その国民の権利を保護する政府だ”と主張したのだ。軍隊とCIAが、第二次世界大戦以来、多数の民主的政権を打倒し、そうした政権を残酷な独裁制に置き換えてきた国家の大統領が“アメリカは決して民主主義に対する戦争をおこなったことはない”と主張したのだ。 驚くほど聖人ぶって彼は語る。“あるべき世界へ向かおうではないか。我々皆の魂の中で、いまだわき上がる天与のひらめき。…今日どこかで、今この場で、この世界で、相手のほうがより多く武器を持っていることが分かっていても、兵士は、平和維持のため、その場に止まっている。今日も、この世界のどこかで、若い抗議デモ参加者は、自国政府の残虐さを予期しながらや、行進を続ける勇気を抱いている。今日もどこかで、大変な貧困に直面する母親が、残酷な世界にも、その子が夢を実現する場所はあるだろうと信じて、自分の子供を教えるために時間を割き、子供を学校にやるために、手持ちの僅かな貨幣をかき集めている。” こうした類の詭弁が、2008年大統領選挙キャンペーン中、アメリカのマスコミによって“雄弁”と見なされたことは、“嘘をもっともらしくし、殺人を尊敬すべきことのようにすべく、単なる風に、しっかりした固さという見掛けをあたえるべく、政治言語は作り上げられている”というオーウェルの洞察を想起させる。(4) オバマの“平和維持”兵士というのは、恐らく、おなじみの略奪的目的で、ある国を占領しているアメリカ(あるいは同盟諸国の) 兵士のことだ。“若い抗議デモ参加者”というのは、当然ワシントンによって公式な敵として見なされているイランやベネズエラ等の政府に抗議する連中だ。 オバマが非難する“政府の残虐行為”というのは、疑うべくもなく、アメリカ軍や傭兵部隊によって直接に、あるいはアメリカが支援する傀儡政権や他の代理人によって、民間人に対して実行されている暴力や拷問のことを言ってはいない。“大変な貧困に直面する母親”というのは抽象的で理論的な母親であり、海外生産のためにひき起こされた失業や、ウオール街が引き起こした金融危機のような具体的な条件によって、あるいは、そうした危機の結果、社会福祉が骨抜きされて、つまり既存支配勢力全員の支持を得て、企業国家アメリカによって、アメリカの労働者層に押しつけられる条件によって今の貧困がもたらされている“ここで今暮らしている”本物の母親ではない。 “欺瞞に満ちた時代においては…” “ゴールドスタイン”が説明するとおり、“(新語法で言う)クライムストップ(犯罪中止)とは、…あらゆる危険な思想を抱きそうな瞬間に、その一歩手前で踏みとどまる能力だ。それは、類推ができない能力、論理的な誤りに気づかない能力、最も簡単な主張でも、万一イングソック [“イギリス社会主義”オセアニアの全体主義的政権の公式イデオロギー]にとって有害であれば誤解してしまう能力、そして、異端的な方向へ導きかねない一連の思考に退屈したり、それに嫌悪感を抱いたりする能力も含む。クライムストップ(犯罪中止)とは、要するに、自己防衛的愚鈍のことだ。” “イングソック”を“公式なアメリカ政策”に置き換えれば、この文章は、アメリカ・マスコミが、日々の問題を“論じる”ふりをしているプロセスにぴったりあてはまる。例えば、“武力侵略”は、アメリカや同盟諸国が侵略者でない限り、アメリカ・マスコミのひんしゅくを買う。アメリカが武力侵略する場合、その行為は、安定化、平和維持、あるいは解放にすらなる。アメリカ軍の侵略は“侵略”であるという類推が理解できなくなるような能力を人は身につけなけねばならないのだ。アメリカがあるクーデターを支持しない限りは、当然クーデターも同様にひんしゅくを買う。アメリカが支持している場合、それは(“カラー”革命等々の)デモクラシー運動となる。同様に、拷問は、強化尋問テクニックとなり、アメリカの政策なり、要員によってひき起こされた場合、民間人の死亡は、遺憾ではあるが、不可避な巻き添え被害となる。罪のない“婉曲語法”どころではなく、こうした言葉の歪曲は、アメリカ政治文化における主流思考体系の本質的特徴を明らかにしている。 愛情省で“再教育”されながら、ウインストンは“自らクライムストップ(犯罪中止)の学習を始めた。彼は自らに命題を課した。‘党が地球は平らだと言う’、‘党が氷は水よりも重いという’それと矛盾するような主張は無視するよう、あるいは理解できなくなるように自分自身を訓練したのだ。それは容易なことではかった。… それには…一種のたゆまざる頭の体操、ある瞬間に、論理を最も巧みに使ったかと思うと、次の瞬間には、最も明白な論理的誤りにも気づかない、という能力が必要なのだ。” 就任直前にテレビ放送されたインタビューでオバマが語った論理を解釈するには同様な“頭の体操”が必要だ。“拷問や令状無しの盗聴を含むブッシュ政権の最大の犯罪を、独立に調査するための”特別検察官を任命するのかどうか質問されて、ハーバードで教育を受けた元憲法学教授は答えた。“我々は過去を振り返るのではなく、将来に目を向ける必要があると信じている”。これは、どんな事にたいしても、どんな人物をも、告訴することを除外するという原則だ(しかしこれも、アメリカという国家、あるいは国家がその権益を代表している寡頭金融支配層によって犯された犯罪に対してのみ行使されるのに違いない)。 小説の始めに、ウインストンは破壊的行動に取りかかる。個人的な日記を書き始めるのだ。彼は切ない気持ちでこう記す。“未来へ、あるいは過去へ、思想が自由な時代に向けて。”オーウェルは“欺瞞に満ちた時代において、真実を語ることは革命的行為である。”という表現をした功績を讃えられている。アメリカの政治支配層によるニュースピークに攻撃されている私たちは、明らかに欺瞞に満ちた時代に生きている。我々は全員がウインストン・スミスであり、思想が自由な時代への道を照らすために、真実を語る革命的行為を目指すべきなのだ。 注: (1) ジョージ・オーウェル著作集第4巻(“In Front of Your Nose”)、1945年-1950年 546ページ第158項 フランシス・A・ヘンソンへの手紙(抜粋)(ペンギン)(ジョージ・オーウェル著作集第4巻、邦訳は平凡社、ただし絶版。) (2) オーウェルの政治的軌跡の分析については、ビッキー・ショート、 および、フレッド・マゼリス、を参照のこと。(いずれも英語) (3) タイム誌、1949年6月20日、で読める (4) エッセイ“政治と英語”(英語原文は、例えば: http://www.george-orwell.org/Politics_and_the_English_Language/0.html)邦訳は、小野寺健訳『オーウェル評論集』岩波文庫中の『政治と英語』、あるいは、川端康雄編『 水晶の精神-オーウェル評論集2 』、平凡社ライブラリーの『 政治と英語 』(工藤昭雄訳) 記事原文のurl:www.wsws.org/articles/2010/jun2010/1984-j12.shtml ----------
ジョージ・オーウェルの『1984年』を2010年に再訪: マスコミに載らない海外記事
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japanatwesleyan · 8 years ago
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しんごの巻:今学期の授業紹介その2
その1はこちら
やらなければいけないことはたくさんあるのだが、コーヒーを飲みすぎて文章を書くのも文章を読むのもできない状態になってしまったので、少し授業紹介のアップデートでもしようと思う。(カフェイン取ると頭変になりませんか)
①ウィトゲンシュタインのセミナー
結局現在6週目にして『論理哲学論考』は半分くらいしか読み進められていない。毎回『論考』を少しと、その部分に関する論文などを読んでいるのだが、理解できる場合とそうでない場合の差が激しい。理解できるときは、「なんでそんな当たり前なことを事細かに話さないといけないんだ」と思ってしまうし、理解できない場合には、いくら読み込んだところで授業に出るまでは、到底何の話をしているかわからない。そういった部分に出くわすたびに『論考』序文を思い出す。どうやらこの手の話は、一度自分で考えて納得がいっていないと、本を読んでも理解できないものらしい。引用すると、
"Dieses Buch wird vielleicht nur der verstehen, der die Gedanken, die darin ausgedrückt sind – oder doch ähnliche Gedanken – schon selbst einmal gedacht hat. – Es ist also kein Lehrbuch. – Sein Zweck wäre erreicht, wenn es Einem, der es mit Verständnis liest Vergnügen bereitete."
(この本は、ここに記されている考え——あるいは似た考え——をすでに自分自身で持ったことがある人にしか理解されないかもしれない。ゆえにこれは教科書ではない。これを読み、理解した人が快楽を得られたならば、この本の目的は達成されたと言えよう。)
実際、論理の端っこまで来ているのだからしょうがない。「閉じた系」である論理は、僕の中ではドームのようなイメージである。論理をもってしてはこのドームの外は見えない。壁まで歩いて行って、どんどんと叩くのが精一杯だ。「論理の外」というものが存在こと以外には、理解できるものはない。だから、論理を知らない人に論理を解説することも無理なのである。一般的には「解説」は論理的だからだ。論理が閉じていることがわからない場合は、「あいだ」という言葉を「あいだ」という言葉を使わずして説明してみてほしい。似たような難しさがあるはずだ。言語を捨てて「何となく」「雰囲気」で説明せざるをえない。あるいは諦めて「わかるでしょ」と高圧的にでることもあるかもわからない。そういった態度は実によくない。解説できなくても説明は試みなければならない。
この授業のテーマは論理と非論理の境界である。ここを論理的に考えたり論理的に説明するのは非常に骨が折れる。もちろん、授業での発言もかなり難しい。質問をしようにもワードチョイスに時間がかかる。特に「Argument」「Meaning」「Object」「Concept」などが使えなくなってしまったことがきつい。さらには英語訳だけでは不十分だということが途中から明らかになってきたため、特定のドイツ語も授業で使われ始めた。特にSachlage/Sachverhalt/Tatsache(いずれも大まかに言えば「事実」くらいの意味)とSinn/Bedeutung(いずれも大まかに言えば「意味」といった意味)の2組は非常に大事な上に代用が効かないので常に登場する。これ以外にもどの論文も新定義と新語を投げつけてくるのでほんとうに厄介である。やめてほしい。
②カント以後の西洋哲学
ようやくヘーゲルを終えることができた。とても嬉しい。正直にいってたぶん全体の半分も授業で扱わなかっただろうが『精神現象学』は文章としてきついものがあった。言っていることの難しさよりも文章の追いにくさに苦しめられた感がある。人によって違うのだろうが、前後に読んだカントやマルクスに比べて圧倒的にわかりにくいという印象を得た。終われて良かった。
それに対してニーチェは最高だ。僕を知っている人ならわかると思うが、彼の、人を小馬鹿にした鼻につく態度や、目的決めて生きるやつも目的なしに生きるやつもダメだみたいな姿勢もとても僕好みである。
現在テイクホームの試験(要するに試験問題を持ち帰って解く。通信教育のテスト方式というか。)の真っ只中。やばい。この授業の感想を書いている暇があったらテストを解いた方がいいくらいにはやばい。
(YusakuさんとKotaroの議論をみながらヘーゲルの言っていたことを思い出していた。)
③美徳倫理
今週の月曜日で、ようやく古典を読み終わることとなった。最初に読んだ『二コマコス倫理学』は前に何度か読んだことがあるので、大まかなことを言えば、特に新しいことを得たというような気はしない。ただ、本の余白に残されていたかつての自分のメモをみて、ああ自分の読書能力も向上しているのだなあ、と感じた。かつてのコメントがあまりパッとしないところを見ると、一周目のときはあまり理解できていなかったらしい。それがゆえにだろうか、こんな話をしていたっけか、と思うような議論も展開されている。特にφρόνησις(phronesis/practical wisdom、フロネシス/実践的な知)が、人間の他の知的機能とどう異なっているかに関する議論など、ほとんど覚えていなかった。よって「一度読んだだけでは読んだ気にはなってはいけないなあ」という至極ありふれた感想を得た。
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(アリストテレス。顔が圧倒的に美化されていると思う。いや、わかんないけど。)
次に読んだ『論語』は正直ほとんど内容は知っていたが、真面目に読んだことがなかったので指定された部分(全体の8割ほど)を読んでみた。しかし、英語訳は恐ろしくわかりにくかったので、まずは白文あるいは書き下し文を読み、わからなかった場合に英語訳に頼るということにした。これが意外と功を奏した。漢文の知識が錆びついていた状態でも、やはり原語で読む方がわかりやすい。
原文を読む際に参考にしたウェブサイトの中でも「黙斎を語る」(http://mokusai-web.com/)と「中國哲學書電子化計劃」(http://ctext.org/zh)は特別使い勝手がよかった。前者は集注となっているが、基本的に注は無視して読み、原文がわかりにくかったときに参考とした。後者は現代中国語訳、たまに英語訳が掲載されている。こちらは、底本の画像がすぐ見られたり、翻訳がオンオフできたりと、とにかく多機能で使いやすかった。特に、プロの翻訳(のうち版権が切れたもの)が使われているのは素晴らしい。哲学書にとって、アマチュア訳を超える害悪はない。
『論語』の次に扱った『孟子』もおおよそ同じようなプロセスで読んだ。こちらは発見が多く、楽しく読み進められた。五十歩百歩など誰でも漢文の教科書でみたことのあるエピソードが並ぶが、実はエピソードの前後の方が大事なことを言っている。せっかくならそちらを国語の授業で扱えばいいのに、と思ってしまうが、現実的ではないのだろう。直接的に人生に役立つ教えもおおく、特に「無恒産而有恒心者、惟士為能。若民則無恒産、因無恒心。」 (梁惠王章句上七より)などは心に留めておこうと思った。ざっくり言えば、生活が不安定でも心の安定を図れるのはごく一部の人間で、一般人など生活がちゃんとしていないと心がグラグラしてしまっていけない、ということだ。本当にそうだと思う。
今後はこれらの3人をベースに、現在の美徳倫理を見ていく。一つ個人的に興味があるのは、美徳を持たざる人とどう関われ���よいのか、である。教育という大きなレベルではなくて、日々の生活の中で、明らかに間違った考えを持っている人とどう関わればいいのか。徳をもって人を諌めるにはどうしたらいいのか。うざくない程度に正義感を持つにはどうしたらいいのか。これらの質問を鍵とすることで、卒論とつながりのある学びが得られるのではないかと期待している。
④フェミニスト哲学と道徳理論
タイトルに「哲学」とついているが、どちらかというと授業のほとんどは社会学とか人類学の理論系に分類されるような文章を読んでいる。おそらくそれが一要因になっていると思うのだが、どうもこの授業では発言するのが難しい。長々と前置きばかり話してしまって、どんな質問をしようとしていたか忘れてしまう。というか、「見逃されていそうな事実」を場に投げ入れることに集中するあまり、議論の流れを見失いがちである。自分の経験をシェアしよう、と言われ続けることの弊害なのだろうか。
また、議論全体も2種類の危険性を常にはらんでいる。前者は「自分の傷ついた話」のトークショーとでも言えるものだ。ただの不幸自慢に陥らないようにと皆気をつけているが、テキストと自分の経験の親和性を大事にする方針だったり、そもそものトピックの性質だったりが原因で、常にこの危険がある。これと同時に現れるのが「弱いもの探し」ゲームである。つまりは「まだ議論ではでてないけどこういう人もこの世にはいて、この人たちについても考えなければいけないよね」という指摘である。指摘自体はいいのだが、ともすれば代理の不幸自慢かと思われるような見苦しいマウンティングが始まる可能性を秘めている。この2つの落とし穴に気をつけながら議論が進む様子には言いようのない不安感がつきまとう。
しかしながら、やはり一人称の物語が面と向かって聞けるというのはとてもよい。それぞれのトピックに非常に人間味が出てくる。対照的に、生徒の中に該当するマイノリティがいない場合はどこかがらんとした議論になる。例えば、先日のイスラム教徒の回には少しリアリティが欠けていた。その上、僕個人について言えば、アメリカで育ったイスラム教徒は数人しか知らない。特に2001年以降、アメリカや西欧に住むイスラム教徒はかなり特異な苦しさを経験しているはずだが、それをリーディングや自分たちの想像力だけで補うのは難しい。所得階級や教育格差の問題になるとさらにハードルは高くなる。
リーディングは、めちゃくちゃ面白いときと、全然興味がないときがある。この何回かは特に面白くない感じなので少し落ち込んでいるが、今日読んだものはなかなか声の強い文章だった。日本のおじさん、特に大企業の管理職の人たちはこういう声を聞くことができないのかもしれないとふと思ったりすることがある(酷い偏見だ)。一文くらい引用しておこう。
"[T]he workplace, among other social institutions, is a place where women have learned to accept male violation of [their] psychic and physical boundaries as the price of survival." (642. Adrienne Rich. Compulsory Heterosexuality and Lesbian Existence in _Signs, Vol. 5, No. 4, Women: Sex and Sexuality. (Summer, 1980) _Stable URL: http://links.jstor.org/sici?sici=0097-9740%28198022%295%3A4%3C631%3ACHALE%3E2.0.CO%3B2-2)
(他の社会機構と同様、職場というのは、男性による心理的・身体的な境界の侵害を、自らの存在の代償として女性が容認するようになった場所なのである。)
あるいは同じものを読んでも、真逆の意味で取ってしまうだろうか。
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weeklyliberty-blog · 8 years ago
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ミーゼス、ネオリベラルに反対する
Idem, “What’s the Difference Between Libearlism and ‘Neoliberalism’?”, idem, 10/21/2016, [https://mises.org/blog/whats-difference-between-liberalism-and-neoliberalism]
ジョージ・モンビオットは、行き渡った「新自由主義」の邪悪に関するエッセー[1]で、フィリップ・ミロウスキーの本『光より熱い―社会物理学としての経済学、自然の経済学としての物理学』More Heat than Light: Economics as Social Physics, Physics as Nature’s Economics[2]と似たように混乱していることを示した。
フィリップ・バグスがミロウスキーの本に関する長いレビュー[3]〔後の章「なぜミロウスキーはネオ自由主義とオーストリア学派のことを間違えているのか」を見よ〕で述べるには、ミロウスキーはいみじくも、シカゴ学派含む新古典派経済学の多くの側面に批判的である。しかし、ミロウスキーは経済思想学派についてもっと大なる理解を示さなければならないときに、困った立場に陥っている。ミロウスキーは怠惰のせいにせよ無知のせいにせよ、シカゴ学派とオーストリア学派を識別することができず、違いの例を一つも挙げない。そのうえバグスが述べるとおり、シカゴ学派とオーストリア学派の違いは、自生的秩序、企業家精神、政府計画化、「効率性」、景気循環、その他多くの問題において重大である。これらの違いは好ましい政策と世界観一般の観点でかなり巨大な不同意を生み出しているのである。
ミロウスキーを読んでもモンビオットを読んでも、このことは分からないだろう。彼らはただ、エドゥアルド・ベルンシュタイン式以外の民主社会主義をすべて「ネオ自由主義」(=「新自由主義」=「ネオリベラリズム」)と分類するにすぎない。[4]
このことは、モンビオットがルートヴィヒ・フォン・ミーゼスとミルトン・フリードマンを多かれ少なかれイデオロギー的に識別不可能であるかのように話すとき即座に明らかになる。また、モンビオットはミーゼスがモンペルラン協会の創設者の一人であると指摘しながらこの協会の話を始めることで、モンペルラン協会が本質的にミーゼス派であると仄めかしてもいる。
モンペルラン協会の派閥
もちろん現実の世界では、ミーゼスはレッセフェール自由主義者(すなわち、ミーゼス)とルートヴィヒ・エアハルトらネオ自由主義者の間の重大なイデオロギッシュな相違のせいですぐにモンペルラン協会に不安を感じ始めた。ヨーク・ギド・フルスマンはエッセー『ネオ自由主義者に反対する』で次のとおり書き留める。
このように異なる志向性をもった集団がモンペルラン協会内部に共存していたことは会員にはよく知られていた。 これはまた新参者にとっても分かりきっていた。好例はルクセンブルクでの経営学と経済学の若い教授たるジャン=ピエール・アミリユであり、ミーゼスが文通で知り合った人物である。アミリユはその頃に古典的自由主義の文献を発見し、これを貪り読んでフランス語とドイツ語に翻訳していた。ミーゼスは彼をモンペルラン協会一九五三年ゼーリスベルク会合に招待した。アミリユは協会がイデオロギーの志向と言語の違いに沿って「異なる集団および氏族」に分裂していることにすぐに気づいた。彼自身はミーゼスとハズリット、モーリー、ファーティグ、ミラーのアメリカ人集団に親近感を抱いた。彼は、彼がミーゼスに招待されたことを知らない他の参加者からがときに「古い保守主義者」と称した「旧守派」(ミーゼスとハイエクら)に関し、彼らから疑念を聞かされていた。ルクセンブルクから来たこの若い教授は、この旧守派には属さない多様な会員の干渉主義計画のことを熱心に書き留めて論ったのだった。ジョン・ヴァン・シックルは高額相続者への課税を提案し、ヴィルヘルム・レプケは家の持ち主への助成金を好み、オットー・ファイトは企業家が重税で仕事を思いとどまることはないだろうと論じた。[5]
モンビオットはこのすべてを無視するし、――フルスマンによれば、ミーゼスが「一生涯かけて戦っていた相手である社会主義者より到底マシな人々ではなかった」とみなした――第三の道干渉主義者とレッセフェール・リバタリアンをちっとも区別しない。
モンビオットのようなジャーナリストには、これらの相違はもしかしたらパーソナリティーの衝突とみなされるのかもしれないが、経済学を実際に教育された人はみな、中央銀行を支持する人々と、中央銀行に反対する人々をたった一つの範疇に分類することが馬鹿馬鹿しいことを知っている。
ネオ自由主義者と実際の自由主義者の間の最も明白で主要な断層線の一つはおのずと、中央銀行に関する見解の不一致にある。これらの相違はまた景気循環と独占についてのかなり巨大な不一致の原因にもなっている。
モンビオットはこの上なく幸せそうにも、このすべてを知らないようだ。モンビオットはエッセーで(いみじくも)、ネオ自由主義が二〇〇八年金融メルトダウンの重大な役を担ったことを書き留めるが、それからルートヴィヒ・フォン・ミーゼスにネオ自由主義者のレッテルを張り、ミーゼスと彼の知的後継者がネオ自由主義の景気循環と景気後退、そのような危機での中央銀行の役割に関する見解に対して全面的に反対していたことを知らないと合図している。モンビオットは、たとえばネオ自由主義者がミーゼスとオーストリア学徒の大恐慌の原因の見解を拒絶したことさえ知らないのか? 大恐慌をどう見るかには現在の経済危機をどう見るかに甚大な含意があるから、取るに足らないパーソナリティーの不同意があったわけではないのである。
これらの見落としは、(ミーゼスとは反対の)エアハルトからフリードマンまでのネオ自由主義者が非常に膨大な量の市場干渉を是認するという事実にもかかわらず、モンビオットにとってネオ自由主義が「自由市場資本主義」の符丁にすぎないのはなぜかを説明するのに役立つ。
けれども、モンビオットが言っていることを聞くと、ミーゼスの見解がいまや勝利を得たて、どこの政権も干渉主義を控え、税率を下げ、自由市場急進派が世間一般で優勢になったかのように思うだろう。モンビオットは労働党と民主党が「かつて左翼の一部」だったのに今では右翼、自由市場、レッセフェールの熱狂者に吸収されてしまったと主張する。
おそらくモンビオットは、政府ヘルスケアと政府年金、あらゆる水準での広範な事業規制のような、かつて「左翼」とみなされたものが今では単なる主流派であり、もはや左翼ユートピアンたちの遥けき夢ではないことに端的に気づいていないのだろう。
あるいはおそらく、現実ではアメリカ合衆国が大規模福祉国家を有し[6]、三つ以外のすべての国以上に政府ヘルスケア貨幣を支出している[7]ときに、モンビオットはアメリカ合衆国をある種の社会ダーウィニズム、自由市場、フリー・フォー・オールとでも想像しているのだろう。
モンビオットのノスタルジックな悲観主義
モンビオットは想像上の筋金入りレッセフェール非干渉主義の勝利が原因で起こった社会悪をリストにする。
〔ネオ自由主義は〕異常な種類の危機で主役を演じた。二〇〇七~〇八年の金融メルトダウン[8]、パナマ文書[9]が垣間見せた富と権力のオフショア化、公共の健康と教育の緩やかな崩壊、再発した児童貧困、孤独の蔓延[10]、エコシステムの崩壊、ドナルド・トランプ[11]の台頭。しかし我々はこれらの危機があたかも別々に生じたかのように反応しており、どうやら、これらすべてを触媒し、悪化させた、同一の首尾一貫した哲学、その名前のある――あるいは、あった――哲学に、気づいていないようだ。名前もなく行使できる権力で、これ以上大きなものはあるだろうか?
どうやら税率が低すぎると批判していると思しき「孤独の蔓延」を除けば、モンビオットは児童貧困の「再発」や「エコシステムの崩壊」などリスト上の他の社会悪のリンクやドキュメントを提出しない。児童貧困は正確にはいつとの比較において再発したんだ? 十九世紀との比較か? これは笑える断言だ、貧困は想像上では自由市場派が世界中に死のブレーキを確立したはずの五十年前より、今のラテンアメリカでの方が厳しいとでも言っているかのようではないか。エコシステムは近頃の数十年でネオリベが勝利したから崩壊したと? 明らかに、モンビオットはカヤホガ川が五十年前にどうだったか気づいていない。[12]
実は、私はモンビオットのエッセーを読みながら、どこかで同じようなものに出くわしたような思いをしていた。そして気づいたのだが、モンビオットは教皇フランシスコと同じ世界観とイデオロギーの持ち主だったのだ。フランシスコの見解は容赦なく悲観的であり、[13]いつでもどこでも何もかもが悪くなっているという理念に捧げられている。どうやらモンビオットもまた世界経済が主として本質的に無規制な市場に牛耳られているというフランシスコの支持不可能な見解を分かち合っているようだ。私がフランシスコの二〇一五年の見解について記したとおり、
フランシスコによると、世界は我々のまわりでもうほとんど崩れ落ちている。貧者はますます貧しくなっている、と彼は主張する。貧富の不平等〔格差〕はかつてより酷くなっている、と彼は言う。汚染はかつてなく我々を病気にかからせている、と彼は仄めかす。そして人間の生命を維持するための基本的な要件が、かつてなく利用できなくなっている、と。これらの主張は或る目的に仕えている。産業化〔工業化〕と市場経済(近代的現象)がこれらの社会悪と環境悪の原因である、と例証する目的に。フランシスコは、彼が「大盛りの汚物の山」と言うところの世界の図を描く際、彼の断言が事実に関して端的に間違っていると示せる豊かな経験的与件を無視している。[14]
ネオ自由主義の下では、自由市場は部分的勝利を収める
マルクス主義者とは違って、レッセフェール自由主義者は、自分たちのイデオロギーは部分的にしか適用されなかったらむしろ物事をもっと悪くしてしまう、とは言わない。たとえばマルクス主義が適用されるとき、生活水準の低下が普通に観察される。これは――大量飢餓を避けるために――速やかに引き返してソビエト経済内部に幾らかの市場活動を許す新経済政策〔ネップ〕を実行したレーニンの下で生じた。マルクス主義純粋主義者にとって、「純粋」マルクス経済の失敗はマルクス主義が十分には適用されなかったという事実が非難されなければならない。すなわち、ちょっとでも古いブルジョワ社会が残されていたら、マルクス主義が機能しないのである。ただ全体純粋マルクス主義だけが実際に人民の暮らしをよくさせられる。
レッセフェール自由主義者は決してこれを主張しなかった。なぜならば、他が等しくば、もっと自由な市場への部分的な運動が生活水準を向上させたと示すことは、できるからである。これは毛沢東後の中国と、ソビエト連合後の東ヨーロッパでも確かに事実だった。どちらも程度の差はあれ政府干渉主義と政府後援独占に支配されているように、どちらでも自由主義は「完全に」は適用されなかった。チリとベネズエラの比較において、これがラテンアメリカで機能していることが分かるかもしれない。どれほど想像力を働かせようと、チリもベネズエラも「自由市場」体制ではない。しかしながら、二国間の相対的な経済的自由の違いは重大である。
ネオ自由主義の多くの罪
中央銀行、大企業救済措置、規制国家に対するネオ自由主義の支持は、実際に有害であり、かなりの貧困のもとになっている。これらネオ自由主義政策は通常の納税者の犠牲において政治的に贔屓された会社と産業に報酬を与えながら景気循環を引き起こしている。
だが、モンビオットのような評論家はこれを逆に見る。ネオ自由主義の問題はネオリベ運動が中央銀行とご贔屓の商業銀行を支持することではないらしい。この世界のモンビオットたちにとって、問題は、人が企業家的で、革新的であり、自由を行使するために、政府に保証される経済的な自由が多すぎることなのである。
あいにく、ネオ自由主義は第三の道イデオロギーであり、政府干渉と制限レッセフェールの混合である。健全な経済理論に基づかない人にとっては、ネオ自由主義が実際に多くの分野で影響力を振るっていることは分かるだろうが、そこから、彼の既存のバイアスを支持することなるようなどんな結論を引き出すのも楽勝である。
言い換えれば、同一領域での貧困の存在とネオ自由主義の存在の間に相関関係を見出したければ、それは難しいことではない。同じように、ネオ自由主義の存在と生活水準の上昇の間の相関関係も、見出したければ見出すことができるだろう。
問題は、この相関関係が因果関係を示さないことであり、因果関係を発見する唯一の方法は、眼目の経済原理を研究しに戻ることである。
もちろん、モンビオットはそうしない。彼はネオ自由主義の台頭が多くの社会悪を創造したという興味深い歴史的社会学的理論を――どんな経済的議論もなく――構成した。もしも我々がモンビオットの分析に依存するならば、ネオ自由主義のどの面が申し立て上の問題を引き起こしたのかはまったくの当てずっぽうになる。
[1] George Monbiot, Neoliberalism – the ideology at the root of all our problems, The Guardian, [https://www.theguardian.com/books/2016/apr/15/neoliberalism-ideology-problem-george-monbiot]
[2] Philip Mirowski, More Heat than Light: Economics as Social Physics, Physics as Nature’s Economics, (Cambridge University Press; Reprint edition, November 29, 1991)
[3] https://mises.org/library/why-austrians-are-not-neoliberals
[4] Ryan McMaken, Bernie Sanders Is Right: The US Is Already a Socialist Country, Mises Wire, 12/04/2015 [https://mises.org/blog/bernie-sanders-right-us-already-socialist-country]
[5] https://mises.org/library/against-neoliberals
[6] Ryan McMaken, “’Social Expenditures’ In the US Are Higher Than All Other OECD Countries, Except France,” Mises Institute, 10/30/2015, [https://mises.org/blog/social-expenditures-us-are-higher-all-other-oecd-countries-except-france]
[7] Ryan McMaken, “Bernie Sanders Says We Should be Spending Less on Health Care”, Mises Institute, 01/22/2016, [https://mises.org/blog/bernie-sanders-says-we-should-be-spending-less-health-care]
[8] http://www.theguardian.com/business/financial-crisis
[9] http://www.theguardian.com/news/series/panama-papers
[10] George Monbiot, “The Age of Loneliness Is Killing Us,” The Guardian, [http://www.theguardian.com/commentisfree/2014/oct/14/age-of-loneliness-killing-us]
[11] http://www.theguardian.com/us-news/donaldtrump
[12] “Cuyahoga River Fire,” Ohio History Center, [http://www.ohiohistorycentral.org/w/Cuyahoga_River_Fire?rec=1642]
[13] Ryan McMaken, “Pope Francis’s Relentless Pessimism Fuels His Faith in Politics,” Mises Institute, 06/19/2015, [https://mises.org/library/pope-francis%E2%80%99s-relentless-pessimism-fuels-his-faith-politics]
[14] https://mises.org/library/pope-francis%E2%80%99s-relentless-pessimism-fuels-his-faith-politics
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