#エスノセントリズム
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美点が裏目に出る、ということの一つとして、「なつかしい風景」「風情」「伝統」「〇〇らしい文化」などが、心のうるおいや安らぎや励ましをもたらしてくれる反面、旧来の抑圧的な構造との結びつきによって、トラウマを強化したり再生産したりする場合があります。そのような具体例を、簡潔に、できるだけたくさん教えてください。
ChatGPT said:
とても本質的な問いです。以下に、「美点(懐かしさ・伝統・文化的美徳)が、同時に抑圧・トラウマの温床ともなりうる」具体例を、日本・世界の事例から、簡潔に多数挙げます。
■ 日本における具体例
田舎の風景・家父長制 → 美:「のどか」「人情味」「助け合い」 → 裏:長男重視、嫁の抑圧、性役割の固定、同調圧力
伝統的な家屋・古民家 → 美:趣、自然との調和、和の空間 → 裏:嫁いだ女性が台所に閉じ込められる、寒���・不便な生活、相続トラブル
年功序列の安心感 → 美:安定、尊敬、育成文化 → 裏:能力無視、若者軽視、ハラスメントの温床
「礼儀正しさ」や「けじめ」文化 → 美:秩序、品位、落ち着き → 裏:過度な上下関係、萎縮、精神的抑圧
部活動の「青春」文化 → 美:一体感、努力、情熱 → 裏:暴力、理不尽な上下関係、精神的支配、自由の欠如
「郷土愛」や「地元の絆」 → 美:連帯感、祭り、帰属意識 → 裏:よそ者排除、監視社会、閉鎖性
「日本人らしさ」や「和の精神」 → 美:調和、控えめ、思いやり → 裏:同調圧力、自分を殺す文化、「出る杭」バッシング
母性愛・母親像の理想化 → 美:無償の愛、献身、優しさ → 裏:母への過剰な負担、母性神話、女性の自己犠牲強制
卒業式・制服・校歌などの学校文化 → 美:思い出、儀式、美しさ → 裏:自由の抑圧、強制、個性の抹殺
■ 世界的・他文化の事例
伝統衣装や民族舞踊 → 美:文化遺産、誇り、アイデンティティ → 裏:女性の服装強制、異文化排除、ジェンダー固定
家族第一・親孝行文化(アジア圏) → 美:家族愛、尊敬 → 裏:結婚の自由の制限、親による支配、個人の抑圧
英国の「階級の誇り」や「気品」文化 → 美:伝統、優雅、文化的深み → 裏:階級差別、下層階級の固定、排他性
アメリカの「自由」や「開拓者精神」 → 美:挑戦、希望、個人主義 → 裏:貧困層への自己責任論、格差の放置、社会的分断
「男らしさ」や「父権」文化 → 美:強さ、守る力、リーダーシップ → 裏:感情表現の抑圧、DV、女性蔑視
宗教的伝統(例:ミサ、祈り、巡礼) → 美:神聖、共同体、精神的支え → 裏:宗教的強制、排他的言説、セクシャルマイノリティへの抑圧
■ 両義的に働く表現・比喩(抽象的まとめ)
「美しき檻」
「甘い毒」
「郷愁という名の足枷」
「癒しと支配の二重構造」
「懐かしさに潜む地雷」
「伝統という名の無意識の暴力��
こうした事例は、「文化」と「構造の再生産」が分かちがたく結びついていることを示しており、感傷や美しさに酔いながらも、そこに潜む暴力性に気づく感性が、現代において重要になっています。
関心ある具体的テーマ(たとえば「母性」や「郷土」など)について深掘りしましょうか?
4o
You said:
美点が裏目に出る、ということの一つとして、「なつかしい風景」「風情」「伝統」「〇〇らしい文化」などが、心のうるおいや安らぎや励ましをもたらしてくれる反面、異なる生い立ちや文化的背景を持つ人間を排除することを正当化したりする場合があります。そのような具体例を、簡潔に、できるだけたくさん教えてください。
ChatGPT said:
非常に本質的な観点です。「懐かしさ」「伝統」「らしさ」が安らぎを与える一方で、それを「正しさ」と誤認することで、異質な存在が排除される事例は多くあります。以下に、簡潔に具体例を多数挙げます。
■ 日本における具体例
「日本人らしさ」 → 礼儀・空気を読む・控えめ: → 異文化的表現(率直さ・主張・身体表現)への嫌悪や「空気読めない」と排除
「昔ながらの田舎の良さ」 → 連帯感・助け合い: → 外国人や移住者、シングルマザーなどを「よそ者」として監視・排除
「美しい日本語」 → 丁寧・情緒・間の文化: → 方言話者、外国人話者への差別、「正しい日本語」至上主義
「おばあちゃんの知恵」や家庭の味 → 素朴・健康志向・自然: → 異なる食文化(イスラム・ベジタリアンなど)への無理解や軽視
伝統的な祭り・年中行事(例:正月、盆踊り、地域の神事) → 共同体意識・継承: → 宗教的理由や思想的立場で参加しない人への疎外・同調圧力
「昔はよかった」「古き良き日本」 → 素朴・慎ましさ・義理人情: → フェミニズム・LGBTQ・反権威など現代的価値観への敵視
「制服」や「清潔な身なり」 → きちんとして見える: → 自由な服装、髪型、文化的表現(ドレッド、ヒジャブなど)への制限や排除
■ 世界的・他文化の事例
アメリカの「家族的価値観」 → 核家族・結婚・男女役割: → LGBTQや非婚者、シングル家庭への排除的視線
ヨーロッパの「街の景観」や「歴史的街並み」 → 美観・観光資源: → 移民居住者の文化的違いや店舗形態を「景観を壊す」として締め出す動き
インドの「伝統的な儀礼」や「衣装」 → 美・アイデンティティ: → カーストに基づく服装制限、ジェンダーの自由の否定
中国の「家族を大切に」文化 → 敬老・孝行: → 個人の自由、子の独立、異性愛以外のあり方を「不孝」と断じる
イスラム社会の「伝統的役割分担」 → 神聖・秩序���安定: → 女性の職業・服装・行動の自由を制限
「フランス的な共和国の価値(ライシテ=世俗主義)」 → 宗教と国家の分離: → 公立学校でのヒジャブ着用禁止 → イスラム系住民の排除感
■ 抽象化された言い換え(文化的排除のパターン)
「懐かしさの名を借りた同調圧力」
「伝統が排除の免罪符に」
「郷愁が異質なものへの免疫を弱める」
「文化を守るという名の選別装置」
「『本来の姿』という幻想が作る内と外」
これらは、懐かしさや伝統が「人間関係の潤滑油」であると同時に、「他者を排除する装置」にもなりうるという二重性を示しています。 特定のテーマ(たとえば「制服」や「家族観」)について深掘りしたい場合は、さらに具体例を掘り下げられます。興味はありますか?
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おフランスがそう来るなら、日本はパリ五輪ボイコットで構わない
アタマがいいクジラちゃんを殺す日本人なんて南氷洋で命の危険があろうが、傷つけられようが、構いやしない!!!っておフランスの大統領自身が露骨なレイシズムを押し出して疑問も感じない
欧米人の意識高い環境保護の本性がここにある 結局、欧米と違う文化は一切認めないエスノセントリズムと言って間違いない 文化や環境保護を隠れ蓑にした人種差別 現在大手を振って人種差別できる娯楽はこの辺しかないから、そりゃ、懸命になるわな、欧米人
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20200614
水鏡あなたは遠い四季となり死ぬというより生ききるでしょう
/小川優「モノローグ/エスノセントリズム」 『阪大短歌』7号、2019.01.20
すい‐きょう〔‐キヤウ〕【水鏡】 の解説 1 水面に物の形が映ること。みずかがみ。
2 水がありのままに物の姿を映すように、物事をよく観察してその真情を見抜き、人の模範となること。また、その人。
(goo辞書 より)
「水鏡」というものの提示→なんかその占いっぽい響き・字面から、そこに映った自分が「あなたは」以降のセリフを言っている、ような読みが導かれる。ので、ここではそのように読む。
「遠い四季」ってなんだろう。「四季」って なれる ものじゃない。占いの構文、になんかありそうな「あなたは○○となるでしょう」の○○に入れて、一番遠ーいもののひとつかもしれない。物体であれば、どんなに人間の形から外れていても、まあ、それになるイメージはできる。しかし、「四季」とくるとイメージがまったく浮かばない。し、それになると言われてもどうしようもない感じがある。たとえば「犯罪者になる」と言われたなら、そうならないようにこれからの行動に気を付けることができる。「四季」は、ならないほうがいいのかどうか、さえもわからないからどうしようもない。
その困惑を引いたまま語られる「死ぬというより生ききるでしょう」は、読者にカタルシスをもたらす。わかる。言っている意味がわかるし、なんか、良いことを言ってくれてるっぽい。「死ぬ」こと自体からは逃れられなくて、でも、こう言い換えることで、これくらいにうれしい響きのそれにできる、ことを教えてもらえる。 言葉が、こう動いて、こうなって、こう、うれしくなる。その体験として鮮やかな、この一首を読んだという事実がある。その事実をもたらしてくれたのは、あたりまえだけど、この一首だ。なんというか、ありがとう、と言いたくなる。
一個目に言われていることの意味のよくわからなさが、効果として、最後の、でもなんかポジティブな向きに行ってるっぽいよね、な言葉の動きの印象深さを強化しているように思う。言葉の動きそれ自体、に感動できて、それがたまらなくうれしい歌だった。
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ウクライナは西欧にとってのチベットや新疆ウイグルみたいなものなのに、なんで彼らは平気なんだろうな。
ヨーロッパという語に地理的区分だけではなく、ロマン主義的でエスノセントリズム的なポルノを被せるのなら、西ウクライナはヨーロッパかもしれないけど、東はどうなんだ?
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0114 わしはおゾゾを否定できるのか問題
あけましておめでとうございます。
年始の話題として身のまわりで流行ってたのはZOZO TOWNの前澤社長による「お年玉企画」 ツイッター上で「このツイートに反応してくれた人から抽選で100人に100万円あーげる!」という発言をし、これがバチクソバズって、んでもって、この「金持ちの道楽」に違和感を覚える人たちによる批判も殺到し、まだその火は消えていない。 批判の文言はいろいろあるのだけど、そのなかに「金持ちに気に入られた奴隷だけ境遇が改善される。→奴隷は金持ちに気に入られようと躍起になる。:それって旧世界だしモロ地獄~~」みたいなの(クッソうろ覚え)があった。
ぼくはそもそも、この「お年玉企画」は気持ちのいいものじゃないと感じています。大金は欲しいなあ、とも思いますけど。
その上で聞いてほしいのですが、この話題がさかんにやりとりされているのに触れて、ふと、「金持ちに気に入られた奴隷だけ境遇が改善される。奴隷は金持ちに気に入られようと躍起になる。」って構図、美術にもいえるんじゃないのか、とも思ってしまいました。もちろん作家たちの多くは、金持ちに気に入られたい、パトロンが欲しい、と、そう具体的に願っているわけじゃないだろうし、地域アート的なハナから明らかにそういう方向じゃないものがあるのもわかる。
だが、作家としてやってく=資本主義社会のなかで営まれる人生のなかで長いことつくりつづけていく、っていうのは、「誰にでも機会が平等にある」式の生き方ではないんじゃないか。「選ばれた人」を目指すっていう側面があるんじゃないか。
なんていうか、前澤社長がぼくの作品を買いたいといって100万円持ってきたときに��ッパリ断れる男気が自分にない気がする。だから私は「お年玉企画」を批判できる分際じゃない。 真っ向から批判できる清廉な人たちと違い、僕のなかには基準値以上の貧しさが潜んでいる。
と、いうことを思いついてしまっていたなかで、森美術館で開催中「カタストロフと美術のちから」展にいってきました。
これは「人間が困難や危機的状況に直面したタイミングでのゲージュツ」っちゅう観点で現代アートを並べているっていう展示だった。
お察しの通り、「金持ちに気に入られるため」的スタンスでは全然ない「ちから」もある、ということが視野にはいった、みたいな話でもある。 でもあるが、もち���ん、そんなこともないんだよね。 制作、発表ができるってのはそりゃマネタイズに裏打ちされており、や、金の話って別に汚い話じゃないけど、でもとかく市場参加者が富裕層ばかりのアート界隈には、 「大仰な大文字ばかりをコンセプトやステートメントに掲げといて、そんなん偽善じゃないですか! グローバルだなんだのいって、いわばいろんなエスノセントリズムが並んでるだけじゃないですか!」って批判が常に有効なはず。 ヒト・シュタイエルが、銃弾に撃たれた友人の死を主題にして制作を進めていったところ、その銃弾を作った企業と自分の制作資金を提供してくれてる企業がおなじって事実に辿り着いてしまった、みたいな話もあることですし。
あ、あ、話を戻すと、展示全体の印象はなんともいえないけど、おもしろい作品たくさんみれてよかった。だから行ってよかった。
一点一点だと「阪神淡路大震災の記録」みたいな見方に縛られすぎちゃいそうな作品も、たくさん並ぶことでその個別性が薄れ、だからこその角度が浮かび上がっていたと思います。(それ自体がいいことかどうかは置いておいて。) ひらたくなりすぎているのかもしれないが、「人間が困難や危機的状況に直面したタイミングでのゲージュツ」っていうピントのあわせかたでの読解は、意外としてこなかった気がするし。
それにまた、「肉体的にも心理的にも超ヘヴィなときに、どうしてか手が動いて、なにかつくってしまうこと」についても考えが飛んでいった。 話が戻ってまいりました。制作活動のモチベートの話です。
とはいえこれは論文ではないから結論を目指しておらず、そのようなだらしのない作文である印象を与えるために「おゾゾ」とか「バチクソバズって」とかのフザケワードをいれているわけです。そういうところも貧しい。真向から批判されないために先にこっちからガードを下げ、自嘲に逃げ込む。共感と憐憫を狙いにいく。「説得力」は論理の話ではなくて、感情操作の話であり、いやしいor犯罪自慢なエッセイ漫画がバッシングされないのは攻撃した側が今度逆に「わかってねえな」になってしまう語り口を巧妙に選択しているからだ。閑話休題、
すでに少し触れた、地域活性型なものや、参加型の作品も展示されていました。僕は自分のものの見方を反省する。「職業としての作家」と「人がなにかをつくること(≒なにかをつくるような人がいること)」は切り離して考えた方が賢そうだぞ、と当たり前のことに行きついたのです。
で、その上でみなおすと、芸術家、つまり単に「なにかをつくる」人じゃなく、「職業として」制作してる人って、権力に愛されることで生じてきたわけだよなー、とこう思ったわけです。 美術・芸術は教会のなかにあった。ところが神は死に、美術・芸術は教会から離れていった。(もしくは、美術・芸術だけを残し、社会から教会が消えていったのかもしれない。)
で、ですね、カタストロフと美術のちから展には、造形的な魅力でも思想的な刺激でもなく、ただただその場に居合わせ、壮大な事件に思いを巡らすことを強いる展示物もあったわけです。 必ず厳粛な気持ちで、そこに身体的に参加し、なんなら黙祷してもらって構いませんよ、式の。(トゲのある言い方だな…) それって聖堂じゃない? 美術がそこから抜け出したはずの教会を、こんどは美術が「外堀を埋める」みたいな感じ、ホログラムチックに建立してきている、のではないか。
(それでいったらダイレクトに、教会の建築を主題にした展示物もありましたねそういや…)
ところがコトはわたしのだらだらした思いつきには従ってくれない。 いくら深刻な作品がならぼうと、いくら展示企画者がガチであろうと、森美術館の来館者には、ただ寒くなくオシャレで高尚なデートスポットとして写真を撮りにきてる人が少なくない。 美術館デートしてる人や、写真撮りまくってる人に対し、ふだんは別段おもうところはない(というか気分的にはおもしろがってる)のだけれど、さすがに本展ではきちんと目にとまりました。 これも別に悪い意味ではない。展示テーマとの対照が鮮やかすぎて、むしろこのことをちゃんと考えれたらおもしろそうだぞ、と注目せざるを得なかったのです。 先の話につなげていえば、べつに信者でも何でもないけど、観光スポットとして教会に足を踏みいれる、みたいなこととも相似形です。
とはいえ「観光sight-seeing」は光を観にいくことですから、とにかくいわば、圧倒されに行ってるわけです。見物人というのは。 いまの時代だと、それは公的な、あるいはエスノセントリックな「光」ではなく、ある意味では分断され、またある意味では豊富になったばらばらの「光」なわけです。 観光客個人、あるいは帰属先の価値観に基づくそれぞれの「光」をみにいってる。
「光を観にいく」というフレーズはいつも僕に、マーク・ロスコを思い起こさせます。彼の描く「クリアーライト(これは精神世界用語)」は崇高ですから。 ところで前澤社長はロスコ持ってるんですよね。いいなあ。くれないかなあ。でも家にあっても飾れないから家ももらわないとなあ。 この記事のURL呟いたらどうにかならないかな。 なんねえか。
貧乏だった少年時代の矢沢永吉が金持ちの息子にケーキを投げつけられ、悔しがりながらも、しかしウマイウマイと食った話(「how to BIG 成り上がり」より)。このボンボンのガキ、むかつきますよね。この引用わかりやすくないですか??
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欧米人って、大前提が人間は自然より上位にあるってことだから 根本的に日本人とは考え方が違う
で、有色人種の異文化は、人間ではなく自然の部類に入ってる
奴らは上位にある自分達の気に入るものだけを残そうという、自然な行為をしているだけ でも、それだと自分たちがでっち上げた人権思想からは極悪の人種差別そのものだから、「文化がー」とか「知性がー」とか後付けして誤魔化してるだけ そもそも有色人種の異文化なんか知りもしないので、自分たちの都合のいいように「非人間的」なものにして糾弾するだけ
中国人や朝鮮人の反日と同じで、根っこがエスノセントリズムだから、解決なんか無理 最大安全距離をとるだけ
で、知能で区別する欧米人は、勝手に知能が低いとみなす有色人種に対する差別を正当化できる 欧米でリベラル界隈が庶民の支持をうける右派の政党を毛嫌いするのも「知能」が低い層への嫌悪感だ
“根底にあるのはクジラやタコを食べるのは気持ち悪い、不快だっていう歴史や文化的土壌からくる感情の問題だと思う。知性云々は後でとってつけた理由付けに過ぎない。合理的理由がないからこそ解決が難しい”
— [B! 動物] “知能が高い”から「タコ」を保護するのは差別的か? 欧米で進む「動物福祉」の背景にある思想 | 弁護士JPニュース
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以下引用 ****************************************************************************** しかしこの種の発言はコンテクストとタイミングによってニュアンスが変わる。あとで述べるが本稿で筆者が強調したいもう一つの点だ。それこそメッセージ伝達という文化外交の核心だからだ。 国際スポーツ・文化イベントはもはや「たかがスポーツ」ではないし、単なる「娯楽のひとつ」として軽く扱える時代ではなくなっている。スポーツ行事と文化行事を同列に議論してよいかという疑問をもつ向きもあるかもしれないが、ここでは人々に感動やメッセージを与える国際的交流活動という意味でいずれも文化外交の一部と考えたい。 今や往時の勢いはなく、経済力や科学技術力の比較優位が容易に維持できなくなったグローバリゼーションの時代の日本の外交を支えていくには、世界を視野に入れた国際見識を持ち、それをしっかりとメッセージとして伝えていくことが不可欠だと日ごろから筆者は思っている。 つまり様々な媒体を通して相手方の一般国民に働きかける「パブリック・ディプロマシー」だ。詳しく定義する紙幅の余裕はないが、筆者は政府の政策をダイレクトに伝える政策広報活動と区別する意味から、それを広い意味での「文化外交」と呼んでいる。 奇しくもコロナ禍の中の五輪開催という試練はその試金石となった。その意味では国内事情や利得をめぐる議論が大半を占めるのは残念だ。その背景には正しい意味での文化外交についての認識がないことがある。 (中略) 筆者は広報文化外交の成功には、「メッセージの概念化」、「文脈化(ストーリー化)」、「継続性」、そして「ネットワーク」が不可欠と考えている。 五輪の場合には世界の平和と繁栄という「概念(理想)」は明らかだから、コロナ禍の状況でそれを世界に日本のメッセージとしてどのように伝えるのか。その問いが弱かったのだと思っている。それはより普遍的な立ち位置からの発言であることが望ましい。 そして発信にはタイミングやその背景と結果に対する一連のストーリー(文脈)がとても重要だ。これはわが国の外交ではあまり意識されてこなかったことだ。世界の平和を祈念し、それを文化・スポーツで実現する日本という国のメッセージを送る絶好の機会が五輪だ。 5~6年ほど前にベルリンにあるドイツ文化外交研究所で研究部長と議論したときに、「コンテクスト」について話題が及んだ。かれはそれを文化外交の「枠組み」として定式化していると指摘した。表現は違っても発想の普遍性を確認して議論が盛り上がったことがあるが、こうした議論の場は日本ではまだ少ない。 そうした立場から見ると、現在までの政府の対応は、せっかく世界が注目しているというのに、むざむざと日本外交の発信のチャンスを逃そうとしているようにわたしには見えて仕方がない。 世界は今日本に注目している。何とか世界に日本からのメッセージを送ることはできないのか。本当にこの国には発信する気概も中身も失われているのであろうか。 それがなかなか政治家や大メディアを含む「日本のリーダーたち」には響かないのである。 それは日本の社会システムとその基層にある精神構造を反映している。本稿の趣旨ではないが、最後に一言付け加えたい。 実は議論の出発点が庶民と「日本のリーダー」とでは異なる。「リーダー」たちにとって五輪実施は大原則なのだから、ということから議論が始まる。「お上」が決めた大原則を変更することは場合によっては甚大な責任問題につながる。 「何のために」という世界に向けた基本的な問いかけが希薄なままの議論だから、話がその方向に展開し始めると、開催の是非論は状況判断とその技術的な数字をめぐる議論に埋没していく。ともかく開催には全力で努めた。しかし結論がどちらになろうが、事実追認が可能となる無難な環境づくりが優先される。実直な努力の姿勢は評価されようが、日本の意思の発信は後回しだ。 筆者流の言い方をすると、「なる外交」であって、「する外交」にはなっていないからだ。 そして今の段階で主体性を示せるとしたら、「延期」か「中止」しかない。 こうした論法では、大義に照らした主体的な判断をするという発想は後ろに引っ込んでしまう。五輪の実現そのものが自己目的化してしまう。それは無難な対応の積み重ねを是とする硬直化した日本の「エリート」体質に今やなっている。 「安心できる環境の中、みんなで楽しくやろうよ」――これはいたって素朴な庶民感覚である。それはそのまま世界に通じるメッセージだ。 なぜその一言が世界に対して言えないのだろうか。日本の顔は世界が注目する中で今回もまた不鮮明だ。 ****************************************************************************** 引用ここまで 今や新型コロナウイルス感染症の影響で、五輪は開催すべきか延期すべきかはたまた中止すべきか、百家争鳴である。国内世論的には過半数が開催に反対(=延期または中止)であるにも関わらず、予防接種が終わっていないにも関わらず、多数の感染症の専門家グループが警鐘を鳴らしているにも関わらず、政府を含めた組織委員会は開催に向けて突き進んでいる(しかも観客を入れる予定で)。 こうした中で、議論は感染拡大への���惧と経済への影響に収束している。 さすがに海外からの観客は受け入れないことになったが、国内の観客を入れるということは人の移動が増えるということであり、感染拡大は避けられない。無観客としても選手団は海外から入ってきており、その中に検査にて陽性となった選手もいる。これから選手団が続々入国してくるわけで、つまり無症候キャリアも増えることになる。さらに、問題は選手だけではない。世界中から報道機関も同時に入ってくる。海外から変異株が持ち込まれれば、国内で蔓延する可能性が高い。彼らが帰国して、帰国先で感染が拡大すれば、日本の責任も問われる。中止・延期を主張する人々の論拠はそこである。 一方、中止による経済への悪影響を訴えて中止に反対(=予定通り開催を支持)する集団もある。ただでさえ経済にダメージを受けているところに、五輪の経済効果が失われれば経済損失が膨らむという理屈である。しかし五輪の経済効果は事前のインフラ投資が大半であり、開催しなかったとしても需要創出は既に行われてしまった。さらに海外からの観光客を受け入れることなく、国内の観光客も移動が制限されるとなれば、中止や延期による損失は、観光関連業界に絞られるだろう。そこは政府が支援すべきところである。 また、五輪に特別の経済効果があるわけではないということは経済学者が既に指摘している。そもそも日本が五輪の開催地として選ばれなかった場合、資金は他の投資に回るだけであり、五輪であろうとなかろうとケインズ的な需要創出の能力には差がない。これは既に五輪で多額のインフラ投資をしてしまった以上、言っても詮無いことではあるのだが、他の分野で投資をしていれば別の領域で需要を創出し、インフラ整備もできたはずなのだ。たとえば今回の五輪では震災からの復興を掲げていたはずだが、それなら東京五輪ではなく、東北に投資を行うべきだっただろう。あるいは今不足している半導体に投資するという選択肢もあったはずだ(今更感はあるが)。そこに五輪でなければならない理由はない。 東北に投資するのでもなく、半導体に投資するのでもなく、わざわざ東京五輪を選んだのであれば、五輪でなければならない価値を示すべきである。 ここで紹介した渡邊啓貴氏の記事では、もっと根源的に、五輪の果たす役割について掘り下げている。渡邊氏によればそれは文化外交である。 文化外交というとかなり曖昧な、あるいは「フワッとした」表現なのだが、実際の外交に及ぼす影響は、外交官が行う交渉としての外交に勝るとも劣らないほどに大きい。渡邊が紹介する国際交流基金はその一つだが、もっとわかりやすい例で言えば、日本のアニメやマンガやゲームが外国で流行することで、外国における日本のイメージが改善するという利益をもたらしている。最近ではアニメで日本語を学んだという外国人も増えたし、それで日本に移住してくる外国人もいる。もっと具体的な例を示せば、たとえば���国や韓国と日本の間には深刻な外交上の対立があるが、日本のサブカルチャーは中韓でも受け入れられている。また中国の歴史の一部である三国志は日本で何度もアニメ化、ゲーム化、マンガ化されているし、K-Popは日本でも流行している。こうした現象が、国家間の緊張を緩和する上で大きく役立っていることは間違いない。その視点で見れば、五輪のようなスポーツ大会も文化外交の一つと言ってよい。 しかし難しいのは、五輪はただ開催すればよいというものではない、ということだ。的確なコンセプトに則っていれば外交上の利益になるが、方針を間違えれば、かえって外交上の不利益となる可能性もある。 1964年の東京オリンピックは、戦後日本が平和国家として生まれ変わり、戦争のダメージから復活し、国際社会に復帰したことをアピールするという、まさに外交的な目的があった。一方で1936年のベルリンオリンピックは、アーリア民族の優秀さを宣伝するというヒトラー、ナチスの方針が強く出ていた(一方で大会を成功させるためにユダヤ人差別政策を抑制せざるを得なかったという点は興味深い)。また1940年に開催される予定だった「幻の東京オリンピック」が返上された結果、代替大会として開催された1940年東亜競技大会は、当時の日本の拡張政策を正当化しようとする意図が明らかであった。五輪は開催都市が主体ということになっているが、実態は今も昔も国家プロジェクトであり、国家としては国威発揚に利用する好機である。しかしそれも一歩間違えれば危うい国粋主義や自民族中心主義(エスノセントリズム)に発展するものであるということは注意されるべきである。 これは民族主義や国家主義に限ったことではない。よく言われるように1984年ロサンゼルス以降の五輪は商業主義に陥り、莫大な予算を消費するイベントに変貌した。最近の大会で言えば、リオやアテネの会場跡地が荒廃しているなど、莫大な金をかけたわりに再利用に失敗しているケースが少なくない。 一方で、2012年ロンドンでは東部の再開発がコンセプトとして掲げられていた。競技場の観客席の多くを仮設とし、のちに改修工事で縮小して維持費を節約する、また地元のスポーツクラブに売れるものは売ってしまう、仮設の席をネットで販売する、選手村を低所得者層向けの住宅として販売し病院まで作ってコミュニティまで構築する、ボランティアのデータベースを貧困対策や再就職支援に利用など、再利用が徹底している。「投資から最大限のリターンを得る」という視点はさすが資本主義の本家本元であるが、それだけではない。単に投資やコスト回収だけでなく、都市開発や貧困対策などといった、経済学的に測定できない価値を生み出し���いるところが恐ろしい。商業主義だけで終わっていないあたり、さすがケインズを生み出した国である。 これから開催予定の2021年東京大会は、大会後の新国立競技場の用途が乏しいということが話題となっている。予算も膨らみ続け、コンパクト五輪というコンセプトはただのハリボテであることが明らかになってしまった。せめて商業的に回収できるならばまだ救いがあるが、むしろリターンはほとんど見込めず、レガシーの再利用もままならず、「ただ金を使うだけ」「維持費を垂れ流すだけ」になりそうで、そこには何のコンセプトもない。ケインズが批判した「穴を掘って埋めるだけ」になりそうである。 そこで���めて五輪のコンセプトを考えてみれば、そういえば五輪は「平和の祭典」であった。そこには文化外交という視点が必要であり、五輪を開催することで他国民に何かを発信しなければならないのである。 「復興五輪」が「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」に変化したことに関してはご都合主義も甚だしいと考えるが、仮に新型コロナウイルスに打ち勝ったことを他国民に発信すると言うならば、その前に人類規模の流行を終息させなければならないはずだ。「人類が」と言う以上は、当然ながら日本だけ終息していても意味がない。現実には日本国内でも終息は程遠い状況である。まだ勝ってもいないのに勝った勝ったと言っても、それが世界の人々に響くことはないだろう。実際に「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」は、2022年北京(冬季)になるか、流行の状況によっては2024年パリになる可能性だってある。少なくとも2021東京では無理である。この状況下で「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」と言っているのは、批判を受けるだけでなく恥を晒すことになる。それならば渡邊氏の言うように、延期か中止したほうが、文化外交上のマイナスを減らすことができるはずだ。
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Hinge presents an anthology of love stories almost never told. Read more on https://no-ordinary-love.co
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開放感とか幸福感の先までの 果てしない何かを見通してからのものはないの?いや、ある から
セカンドネイティヴという言葉も作ったっけ
スサノオのことをハッとひらめいて、やっぱり対立を防ぐための中空の神、いたじゃん!とやっと捕まえた。スサノオと一緒に追放された中にいた無意識がいたじゃん、と、やっとイメージが繋がれた。 エスノセントリズム的植民化と違うわけでしょ仮説���のだから。日本の場合の収奪は「なきものにされた」事なかれに処理されたそれだとふと思った。の直後いま、調べてたら、原罪という言葉でなく原悲という言葉もあった、そしてなるほどの原恩。ホッとするように腑に落ちて、力が抜ける複合的に見てやっと浮かび上がるものと思っていいものなのかな。 これもまじで 日本の昔話の時に「それそれ!」となった感じのごとく探し当てられ合う思いになる。(見田さんと河合さん)https://www.nakajimajun.com/blog/2018/3/11/-
吉本氏が提示した古事記の読み方と、幻想を取り巻く非合理をひとつの手立てとするならばその理解もできる。発見すると焦るけど、でもやっぱり奪われないし分け合えるしきっと平気だ。そしてマルクス-エンゲルス的な唯物論が、その共感性でもいいし根付いて 幻想含む媒体や交換の価値を純粋化したとしたら、人は視界でしか見る考えることが今ここでは出来ないまま続くのに、「みなもと」から離れた無意識を他者や自己との反発の完全な材料と思い込めてしまう、と。個人主義的な対立もまた、そんな捉え方で思ってみてもいいのかもしれない。日本でも同様だけど、交換が代替していくもののあいだだけを見てしまわれると、だけでは個人幻想こそ暴走するのかな。(私もこれから改めてだけど、ヘーゲルの人倫が使われる土壌があっていいなら。)ガブさんが行動経済学もナシですみたいな事書いていて「なんと」と思ったけど、やっとなんとなく分かれる。消費者行動だけではということだよね。買い物にふと疲れて(いつもだけど)思えたんだ。 改めて繋がり方の本質が見ようや思想で違うから、故郷と土地のカルティックなものも共同体として意味を分別してから見るしかなさそうだし。マスの幻想と行動経済学的誘導に習えばどこまでもいい、わけじゃないほうから考えてみてもいいはずなのに。あとは処理すれば解決と思うものも混同しやすいもんな。資本主義ってずっとテーマになると思ってきたけど、切り離せるわけはないけど幻想の話を耳にしたり吉本氏が独自で語り上げて空気が入ったり、コロナ禍でのたかが表面を見ていたら、何かきっともっと深く剥がさないと、と思うしかなかった。自分の閉じ方も周囲も含めて。自分の無意識を見るのは底がないから-ゆえに暴かれようが平気だから。どっちでもいい どのようでもいい。自分の都合や自己を見ていたら、悲しみしか残らない謎をずっと見るしかなかったら、やっと様相に帰ってこられたが、これはきっと、もうちょっと深い部分で掴んでい��境界なのかもしれない。形式や様式、目標や夢でもいいあと画家が描くビジョンもぶつかった。そうやって影とともになんとなく怖い、めちゃくちゃ欲しい何かや何が欲しけりゃいいのか分からない 理解できない何かと溺れていく時、言い聞かせてがんばった言葉たちも、思いの形も。(自分の残酷さを一層知る、無意識の外の世界では冷静になれないのにな。高温のまま焼けている感じなのか?) 葬られて無意識ごとあるはずなのに意識に嫌われて、自我にいちゃだめとなる葛藤と気持ち悪さ、その領域を亡者にしたらだめ。嫌すぎ。救え。人間なのだから、ゾンビにならないでよ。私は境界という心の物語の真実が得たくてその思いで描いたはず。言葉はいつでも繋ぎ止めたいだけで、ほんと まだまだだよ。そしてスサノオごと見たような普遍的無意識-共同の幻想の中(もっと対幻想の中でも)あるはずの領域は、≒弁証法の全体化で逆に排他や抑圧とされた、西洋的自然、。ほぼ同義に思えたんだ。ここが繋がれば多分深呼吸だ。借り物のままあーだこーだするのが怖かったんだ。ガブさん流の自然の人間化というワードも野生の思考とやはり趣旨は同じと見たく、もっと簡素にいうと無意識を救っていけなのかも、救いきれなくても裁かれないからさとも聞こえる。けど日本でも見方受け入れ方の余地からあるとして、そこからがひたすらにムムム(悲しみという表裏の、何度見てもここに来る)。「思考も感覚だと、温度だと思いたいと願ってまで怖いのは、イメージでしかないのになぜ?」「すべてがなんてことないわけがないのに自然のせいにされるものはなぜ?」と立ち止まりたくて思っていた。 なぜ追いかける?なぜ手遅れを意識する?なぜ、果てしないものを見出したいホリックになってまで、果てのあるものをイメージする?などと。ただの反動のほうかもとは思うけど、心算が、はかなさに取り憑かれたくはない。脳内麻薬を許そうとおそるおそる言ったけど、でも発見や開放というイメージも方便だとしてももう悲しくない,気分というか。 「自分のこね回しで考えられる部分」はひとしきりくたびれて、ダムとかに溜まったのではないか?と思って寝よう。落ちてきた要素だけが転がると、自分で考えらえないからそしたら意識ごと引きこもられて当たり前だもの。こうして出来ないこと忘れられて生きれるもの。 これを繰り返していくならそれで納得できるでしょう心の一部発の安心で、きっと。葛藤は具体すぎていちいち遠いんだけど。心身や世界の中心などなく、面とその表出なのだから、もうやっぱりね、自分がポンコツでも、叶えたいものはクリア���ゃないし、ひとりごとだし。嬉々として 謝りたくて敵わない。結ばないと離れないから。またねって言えないから。
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#TVOD Essay20 Eclecticな日本と旅行が趣味になった私 / panparth

去年の初夏は、レンタカーを借りて天草��島をドライブしていた。なにかBGMも必要だと思い、とりあえずハードオフで買ったZEEBRA『THE RHYME ANIMAL』を再生しつつ、妻が運転するので僕は助手席ではしゃいでいるのみ。隠れキリシタンたちの歴史に興味があったので、いくつか建っている教会を巡ってみた。なかでも「崎津天主堂」が立つ集落と港に心を奪われてしまった。天草の漁港は、入り組んだ羊角湾のなかにあるので、波が一切立たない。ボンヤリと海を眺めているが、とにかく暑く、風も吹かない。およそ騒音というものがない。
1934年に再建されたという、ゴシック様式の教会に入ると、畳が敷かれていて、そのうえにパイプ椅子が並んでいる。これが和洋折衷ということかと、僕はクリスチャンではないのだけどしばらく感じ入った。外に出てブラブラしていると、カフェのようなものがあるのだが営業しているのかよく分からないので、そこにいたサーファー風の男に尋ねると、これから始めようと思ってて、まだ準備中なんですよ。とのんびりした調子で返答された。とにかく喉が乾いているので、そこを去り、休憩所というか、小さな商店でコーヒーを出していたので、アイスコーヒーをガブガブ飲んだ。
「イスタンブルでテロがあったって」
と妻が言うので、流れているテレビに目をやる。少なくとも16世紀には、長崎や平戸からそのあたりまでのネットワークが存在してたんだよなとか、まあ細かく考えると大航海時代以降のヨーロッパの航路とヴェネツィア/イスタンブルの地中海航路はまた別かーとか、天草にもグーテンベルク印刷機があったんだよなあとか、思いをめぐらせた。直線的な暑さにやられながら。

九州にいると、この日本という空間は東アジアーー沖縄や台湾、朝鮮半島や中国、さらには東南アジアまでつながっているということが、肌感覚で分かる気がしてくる。柳田国男『海上の道』を引かずとも、鹿児島あたりまで行くと椰子の木がポコポコと生えている(天草にもたくさんあった)ので、十分に実感できる。それは、風景自体に他の国が折衷されているように見ることができる。これが日本、といったときに桜とか、日本家屋とかしかイメージできないというのは、ずいぶんと日本のイメージを狭めていることにほかならない。
しかしみんな競って狭めようとしてるのかな、とも考える。それは最近読んだ記事ーーゼロ年代半ばの2ちゃんねらーみたいな書き手による台湾インディとK-POPに関するレビューで、残念ながら再確認できた。とはいえ、氏を一方的に責め立てても仕方がない。東アジアに対してエスノセントリズム的なまなざしを持つようになってしまったのは、近代以降の歴史によるものだ。言い換えるならば、「日本が自発的に」そう見るようになってしまったというわけだ。一方でグローバルなサブカルチャーは、そんなまなざしなど関係ないところで動いている、というのは、88risingのアジア・ツアーから日本が外れている、という哀しい話題でも確認できる事実(いま調べ直したら、ソウルも中止になってしまったのか…)。
近代以前を生きた人々の貪欲さに裏打ちされたモノやヒトのネットワークみたいに、いま各国のインディ・ポップやラップ・ミュージックがあり、日本を含む東アジアでも、表現のレベルでせめぎ合いがどんどん起きたらよい、と考えるのは、大雑把で楽観的に過ぎるだろうか? でも、そうであってほしいと思う。ーーと、こんなに世界について偉そうに書いているのだが、じつは今年、韓国に行ったのが初の海外旅行なのでした。来年1月にもまた行くし、ほかにもいろいろ行きたいな。齢33にして、「好きなこと」のなかに旅行が追加されたのであった。
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「あんた」には実は大して意味はなかったのさ
#目の前#近く#手近#たまたま#いいじゃん#契約#就職#結婚#駄目?#ダメ?#食事#栄養#おいしい#それでいい#OK#肯定#容認#承認#すべて#そんなもん#エスノセントリズム#人間#民族#祖国#母国語#アヒルが初めて見た保護者についていく#恋#恋愛#愛
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男系相続は少なくとも1700年継続されている皇室の根本 これは日本の国家の根本である
カトリックの司祭に女性がなれないことには全く触れずに執拗に皇室のことに言及する国連のこの集りは以前から反日レイシスト活動家の巣窟になっていて、平気で日本に対する侮辱と内政干渉を繰り返す 欧米人の度し難い傲慢 エスノセントリズムがよくわかる委員会だ
そして、欧米人がもとから持つ日本や東洋人に対する偏見に火をつけて煽っているのが、日本のサヨクリベラルと中韓の反日活動家 こいつら自らがレイシストであり、文化の多様性を認めないエスノセントリズムの輩だ
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Hinge presents an anthology of love stories almost never told. Read more on https://no-ordinary-love.co
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社会学ノート
ノート 文明化 :予測困難な中世の生活は、気まぐれで感情的な振る舞いに満ちていた。これに対し、暴力・租税の独占に基づく近代的国家の形成や市場経済の発達、上流社会での差異化の競争によって、感情や振る舞いの自己規制を強いる社会的なルールが広がっていく。人間の行動様式や感情の構造に見られるこの意図せざる長期的な変化を、文明化という。
・権力による暴力独占と文明化(N.エリアス) より安定した暴力独占をもつ社会、さし当りそれは領主ないし王の、かなり大きな宮廷に現れるが、このような社会では人びとの不快感と羞恥心を感じる範囲がひろがり、皆がより文明化された態度をとるようになる。
「文明化の仮定とは、人間の感情や行動の自己規制がますます強化・細分化されてゆく」過程のことであり、それは「社会が国家という解体に組織され、広い地域にわたって物理的暴力が独占化・集権化される」ことによって起こるのである。
・文化地帯(W.F.オグバーン) 近代文化の諸部分は同一の割合で変化しているのではなくて、ある部分は他の部分よりもはるかに急速に変化する。文化の一部分にまず変化がおこり、それに従属して文化の他の部分にも変化が生じる場合、従属部分の変化はしばしば遅延する。
物質文化(工業技術など)→非物質文化へ(制度、観念、慣習的なもの、イデオロギー)
近代化 :産業化や技術革新などの原因により、社会は「前近代」的状態から「近代」的状態へと変化する。この移行のプロセスにあって、合理的精神が支配したり、民主的な政治体制が出来上がったりなど、経済以外に文化や政治などの領域でも変化が生じ、多くの社会が似た特徴を示すようになる。
資本主義と世界システム 世界システム視角の基本的な特徴は、①資本主義を国民経済を基礎単位としたものとする視点を批判し、それを部分での経済活動の特性からではなく、世界経済の総体の構造特性からとらえる点、②世界を中核、半周辺、周辺の三層構造ととらえたうえで、この不均等発展を経済領域のみならず社会・政治の領域も含めて統合的に分析する点、③時間的な周期的変動とそれを通じての全体的な再編成のメカニズムに注目する点の3点に集約できる。そして、これらを貫くメタ理論的な水準には、市場における均衡ではなく、市場の不均衡と不可逆的な累積的構造生成のメカニズムを強調する基礎視点があり、この発想を彼は「史的システムとしての資本主義」という概念に集約させた。 + ブローデルをはじめとする社会史のアナール学派から引き継いだ人口・物価の歴史統計的視点を駆使して、ヨーロッパ世界経済が13世紀以降に経験した拡張収縮の周期的パターンを分析し、それがどのようにシステムの再編成に影響したかを論じた。
アナール学派:現代フランス歴史学の一潮流。研究��象を長期持続や日常性などの歴史の深層にすえた点、および問いの水準で「現在と過去との対話」を重視する点において、社会科学の領域のも大きなインパクトを与えている。
従属理論:第三世界の低開発は、先進国による支配の結果であり、前者の発展のためには後者への従属を断ち切らねばならないと主張するラディカルな経済社会理論。
社会史:社会史とは、複数の社会集団・社会階級とそれらの相互関係の歴史である。従来、社会史という用語はつぎの3つの意味に使われてきた。①下層階級の生活と運動を扱う歴史②風俗・慣行・日常生活など人間行動の社会的側面を扱う歴史③社会構造よりも経済構造の変動に重点を置きつつ、経済から社会を説明していく歴史。
エスニシティとナショナリズム&想像の共同体と伝統の創造 ゲルナーによるナショナリズムの定義 :ナショナリズムとは政治的単位と文化的単位の境界線が一致しなければならないと主張する政治的原理である。 →産業社会と分業体制、中央集権国家、文化的標準化といった近代的条件がネーションの形成を推進し、ナショナリズムが国境内の産業社会に新たな秩序を与えた。 アンダーソンによる定義 :ネーションを「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体」と定義し、①想像されたもの(=たとえ小さなネーションでも、そこに属する人々は大勢の自分の同胞に会うわけでもなく、また彼のことについて聞いたり、知ったりすることもないが、心の中に「共同の聖餐のイメージ」をもっている)②限られたものとして想像される(=どれほど多くの人々を擁するネーションでも、そこには国境があり、その先には他の国民が存在している)③主権的なものとして想像される(=主権国家としての自由や権利が保障されており、成員がこれを統治している)④一つの共同体として想像される(そこに不平等や搾取が存在しても、成員同士が「常に水平的な深い同志愛」を思い描いている)という特徴を持っている。
ホブズボウムの創られた伝統論 ;彼によれば、「伝統」には、「実際に創りだされて、構築され、形式的に制度化されたもの」と「容易に辿ることはできないが、数年間など日付を特定できるほど短期間に生まれ、急速に確立されたもの」の2つがあり、「創りだされた」伝統は、「歴史的な過去との連続性がおおかた架空のもの」となると指摘。
エスニシティ:エスニック集団への帰属状態、ないしはエスニックな自己意識。エスニック集団は、客観的には言語、宗教、歴史的集合体験等の文化的指標による集団的境界をもち、主観的には集団メンバーの所属意識により定義される。
エスノセントリズム;自らの人種ないし民族を美化してこれを至上のものとする反面、他人種、他民族を偏見・差別の対象とする思想や生活態度をいう。
啓蒙の弁証法 :『啓蒙��弁証法』の主題は、人間の優れた能力とされてきた理性の中には暴力の契機が含まれており、文明が巻き起こす野蛮状態をそうした暴力性の歴史的帰結と見ることにある。まず理性には、自然的世界がもっている本来の豊かな質的多様性を抽象化してとらえ、一面的な操作と支配の対象にする傾向がある。また理性は、人間の自己保存のための道具と化して、内的な自然(感情や欲望)、外的な自然環境、社会的世界を暴力的に支配する。アドルノとホルクハイマーは、こうした理性の暴力性や道具と化した理性の歴史を「啓蒙と神話の絡まり合い」として描いた。
・抑圧と文化の理論(S・フロイト) 人間は自己自身を抑圧する動物である。自らを抑圧することにより一方で文化を創出するが、また他方で自ら創出した文化により抑圧される。
・ルサンチマンと道徳(ニーチェ) キリスト教道徳の起源は、抑圧された弱者の抱くルサンチマン(怨恨)にある。弱者は、その無力さのゆえに、自分たちのルサンチマンを報復行動に移すことができないので、ただ「想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつける」。換言すれば、「恐るべき整合性をもって貴族的価値方程式に対する逆倒を敢行し、最も深刻な憎悪(無力の憎悪)の歯ぎりしをしながら、この逆倒を固持した」弱者たちによってキリスト教道徳は形成された。この意味で、それは「道徳上の奴隷一揆」の所産にほかならない。
cf)社会学は、私たちの「日常政界の意識からしばしば隠されている意味のレベル」をさぐり、「社会の公式的な解釈のなかに与えられている現実」とは違ったレヴェルの現実を探求する。したがって、社会学的意識のなかには、現実を暴露し、お上品な体裁を否定し、すべてを相対化していくというモチーフが内在している。
合理化のパラドクス 『プロテスタンティズムと資本主義の精神』 :カルヴァン系宗派の信者は、自らが救済されるに違いないという確証を強く求めるようになった結果、浪費衝動・怠惰心を抑制し、神の栄光に不断に奉仕し続けることによって、自分は救われる人間だと思おうとした。このような意図せざる結果によって、禁欲的に職業に励む信者が生みだされ、富や消費への誘惑を断ち、余剰を投資するという資本主義的な動機づけが強化されていく。 合理化の逆説的帰結 ①「合理化に伴う非合理化の先鋭化」 ②「合理化の衝突」 ③「合理化に伴う意図せざる社会淘汰」
世俗化 ウェーバー:近代化とは、人々が伝統的な慣習や自らの感情ではなく、目的合理的に思考、行動するようになるという意味での合理化(「脱呪術化)である。さらに、近代化は、政治や経済などの自律的な価値原理をもつ世俗的領域を分化させるプロセスでもあった。その結果、伝統的な宗教は、新たに生まれた近代社会の多元的価値の競合に敗れて衰退していくものと捉えた。 デュルケム:宗教を「聖なるものに関する象徴と儀礼の体系」と定義し、その存在や働きが完全に損なわれることはないとしつつ、共同体の道徳として社会統合に資することを宗教本来の機能とし、近代化に伴い高度な社会分化が進行するなかで、宗教はこの機能を十分に果たせなくなると考える。
・「神の道具」と教養人(M.ウェーバー) ピューリタニズム(あるいは禁欲的プロテスタンティズム一般)は「神の道具」として仕事に励む人間を生み、儒教は自己完成をめざし教養をつむことに努める人間を生んだ。
官僚制と近代組織 ウェーバーの官僚制論 :官僚制は、合法的な支配の純粋型。 特徴①権限の原則(活動の規定・権力の規定・計画的な任命)②一元的で明確な上下関係③文書による職務遂行ならびに公私の分離④専門化した活動⑤職務への専念⑥一般的な規則の基づく職務遂行 →官僚制原理は、正確性や恒常性や信頼性に優れ、計算可能性に富んでいるおり、それは普遍的な適用が可能なもんであり、ウェーバーにおいては形式的にもっとも合理的な支配のありようだった。 →それ以降の研究による官僚制のまとめ ①専門性(諸活動がはっきりと区切られていること)②集権制(指揮命令系統がしっかりしていること)③公式性(それらが文書によって明確に規定されているこおt)
支配と権力 支配の3類型(ウェーバー) ⑴合法的支配:合理的に制定された規則には従うべきであり、しかもその規則に定められた限界(権限)の範囲では支配者の命令に服従すべきであるという信仰。 ⑵伝統的支配:古くからある秩序は侵してはならないという伝統的な規範への信仰に基づく。伝統的な規範は曖昧であり、合法的支配での明確に制定された規則と違い、権限は不明確である。それゆえ伝統的支配では、支配者に対する恣意的な命令を下す余地がある。しかし恣意も、実際には伝統的な規範によって制約されており、無制限というわけではない。 ⑶カリスマ的支配:支配者が特異な(非日常的な)能力を有しているとの信仰に基づく。
基礎集団と機能集団、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト 基礎集団:地縁や血縁などに基づいて自然に成立しているように感得される集団 機能集団:特定の目標の達成のために人為的に創られた集団 ゲマインシャフト:家族、村落、近隣、仲間など、本質意志に基づいた実在的で有機的な生命体で、根本的なところで結合している。 ゲゼルシャフト:企業、大都市、国家など、選択意志に基づいた観念的で機械的な構成体で、結合を見せたとしても結局は分離している。
生活世界の植民地化 :生活世界の植民地化とは、私たちの日々の生活が営まれている世界が行政や経済の肥大化によって内側から浸食され掘り崩される事態をさす。植民地化の結果、意味喪失をはじめとする病理現象が生じる。
生活世界:知識のストックであり状況を解釈し意味づけることを可能にする文化、社会的集団への帰属を規制する社会、自己同一性の基礎である人格の三要素によって成り立っており、言語を基盤にしたコミュニケーションによる秩序形成がなされている。 ※生活世界の植民地化は、このような生活世界のなかに行政や経済の肥大化によって貨幣と権力が侵入する事態をさす。
シュッツによる日常生活世界の定義 :日常生活世界とはまず<私>が<私>の身体によって繋留されている世界である。<私>が日常生活世界で経験する現実は、<私>の身体が位置する<いま>と<ここ>をそれぞれ時間・空間の原点として、過去—未来、上—下、前—後、左—右、遠—近に従って組織されている。日常生活世界は理論的関心の対象ではなく、実践的関心の対象であり、<私>は日常生活世界において常識的知識を用いて対象に働きかけ、実践的な目的を追求する。また日常生活世界は他者とともに生きられている間主観的な世界である。<私>はもっとも身近な対面状況に直接的に経験できる<あなた>を見いだす。しかし、<あなた>以外にも、<私>は同時代をともに生きる他者たち、すでに亡くなっている過去の他者たち、これから生まれてくる未来の他者たちについても多くのことを知っており、この知識を介してこれらの他者たちを間接的に経験している。
ハビトゥスと文化的再生産 ハビトゥス:人々は社会生活の中でさまざまな経験を積み重ねる。これら過去の社会的諸経験は、反復を通じて身体へと刻み込まれ、人々の性向を形作る。このように過去の諸経験を通じて身体化された社会的性向は、いったん獲得されれば、今度はある種の図式となって、あらゆる文脈で、必ずしも自覚を伴わずとも、一定の傾向性や規則性を備えた知覚・思考・評価・感覚・行為を生み出すように人々を駆動していくことになる。ブルデューは、こうした実践を生成する、持続的で移調可能な性向システムを、ハビトゥスと呼ぶ。 + ハビトゥスは、人々が組み込まれる社会階級的な位置との関係において規定づけられる。
文化資本:個人または集団がそれぞれの社会的活動の場において有する文化的有利さの可能性の大小をさす。家族その他の社会的環境のもとで伝達される文化的財・知識・言語能力、その他諸々のハビトゥス等によって構成される。この文化資本は、文化的再生産のメカニズムを説明するうえで必要な概念として設定された。
階級・階層と社会移動 階級:階級というのは、近代社会の産業経済の仕組みに人々がどのように位置づけられているかということに重きを置いた見方である。そのため階級は職業的地位と切り離し難句関連する。これを社会学の言葉として理論化したのは、マルクスとウェーバーである。マルクスは生産手段の所有/非所有という観点をとりわけ重視し、産業社会のシステムに資本家階級と労働者階級の対立構図を見だした。これに対してウェーバーは、実体として存在している地位集団について、財の所有、技能の有無、ライフチャンスなどの多様な観点から説明した。 階層:階層の方は、明瞭な境界のない地位の連続体、あるいはいくつかの地位や属性が重なり合って成立している複合的な不平等の在り方を指す。社会的出自、学歴、職業的地位、財や経済力などのような社会的地位の関連構造を総体としてさすには、「階層」が用いられる。
・文化としての性差(M・ミード) ジェンダー :生物学的・解剖学的な男女の違いを意味する「性」に対して、社会的文化的に形成される男らしさ、女らしさを表す概念。ジェンダー概念を重視することによって、政治・経済・教育・文化・家族など、社会生活のあらゆる領域で女性が男性とは異なる位置を占め、異なる役割を与えられていることの意味が問われるようになった。
家族 :夫婦関係を基礎にして、そこから親子関係や兄弟姉妹の関係を派生させるかたちで成立してくる親族関係者の小集団。しかも感情融合を結合の紐帯にしていること、ならびに成員の生活保障と福祉の追求を第一義の目標としていることにその基本的特徴がある。それだけでなく、家族は人間社会の基本的単位であり、また人間形成、したがって社会化の基礎的条件を提供する最も重要な社会集団である。
近代家族とジェンダー アリエス以降登場した「新しい家族史」は、近代家族の概念そのものを脱構築するものだった。その一人であるショーターは、家族に対する人々の感情の変化(「感情革命」)こそが近代家族を誕生させたと述べる。ショーターによると家族にまつわる感情の変化は、①男女関係②母子関係③家族と周囲の共同体との間の境界線、の3つの分野にわたり起きたという。すなわち①男女が結婚相手を選ぶ際に、愛情(ロマンティック・ラブ)が重視され、結婚後もそれが夫婦を結びつける絆となる、②母親にとって子どもがもっとも重要なものとなり、母性愛が子どもの幸福に何よりも必要だと思われるようになる、③家族と社会の間に境界が引かれる一方で、家族を結びつける絆がより強調され、プライバシーが誕生する、といった感情革命が資本主義の進展とともにわき起こり、近代核家族が誕生したのだとショーターは指摘する。
落合+西川の近代家族論 ①家内領域と公共領域の分離②家族成員相互の強い情緒関係③子ども中心主義④男は公共領域、女は家内領域という性別分業⑤家族の集団性の強化⑥社交の衰退⑦非親族の排除⑧核家族⑨この家族を統括するのは夫である⑩この家族は近代国家の基本単位をなす ※西川がつけ加えたのは⑨と⑩
家父長制 :性と世代に基づいて、権力が不平等に、そして役割が固定的に配分されるような規範と関係の総体
個人化 :近代化の高度化段階を特徴づける概念で、その内容は近代化初期段階で形成された企業・近代家族といった集団が人々を包摂する力を弱め、堅固なものから流動的なものへと変化していく過程のことを指す。これによって企業共同体や近代家族がうさん霧消してしまうわけではなく、結果として人間関係の流動化の度合いが高まるなかで、個々人が文字通り「個人」として、生活やキャリア、そして自らのアイデンティティを形作っていることを余儀なくされる。こうした個人化は、一方では社会変動や社会状況の変化によって構造的に生みだされてくる問題が、それを構造的に解決することが困難であるがゆえに、個人の自己決定に委ねられ、自己責任の名のもとにおいてそれを個人の問題に転化する社会状況の現出という文脈のなかで生まれたものでもある。
感情労働 :職務上で要請される労働場面において適切とされる感情を保持したり維持したりすることで対価を得ているさまを指す。また、その中で人は自己感情からの疎外を経験しているとする。 ・抽象的公民の誕生(K.マルクス) (近代資本主義社会にあっては)現実の人間は利己的な個人の姿においてはじめて認められ、真の人間は、抽象的な公民の姿においてはじめて認められる
疎外 :人間の社会的活動による産物、例えば頭の活動の産物である観念や、手の活動の産物である生産物が、それ自身の生命を与えられ、独自の力をもつかのように見え、それを作り出した人間に対して、逆に彼��支配する疎遠な力として現れるようになることをいう。
アノミー :適切な規制を欠いている状態。 :社会的規範の動揺・弛緩・崩壊などによって生じる欲求や行為の無規制状態。 →アノミー的自殺(デュルケム):どれほど努力を続けたとしても、抱く欲望がさらに膨れ上がってしまい、現状に決して満足できず、苦しい努力の報われない自らの人生を苦痛にしか考えられなくなり起こる自殺。
逸脱行動とアノミー(マートン) :制度的規範が揺らぎ、目標を効率的に達成するためならば、社会的に許容されていない手段にでも訴える状況。 ラベリングと逸脱(H.S.ベッカーほか) 1. 人が逸脱者というラベルを貼られるのは、逸脱行為のゆえにというより、社会的マジョリティによって定められた同調・逸脱に関するルールが恣意的に適応されたためである。したがってこのラベルは、とりわけ社会的弱者に対して適応されやすい。 2. 人は、他者によって逸脱者というレッテルを貼られ、他者から逸脱者として処遇されることによって、逸脱的アイデンティティと逸脱的生活スタイルを形成する。
ラベリング :統制活動は、3つの位相において逸脱現象の生成に寄与する。第1に、特定の行為類型を逸脱と定義する位相において。第2に、その定義を具体的な行為者に適用する位相にいて。第3に、被適用者が否定的な自己形成を進める位相において。いずれの位相においても、生成の行方を左右するのは統御側と逸脱側の相互作用である。
社会統合と自殺 デュルケム『自殺論』 社会統合:個人が社会に結びつく様式をさす。個人と個人、あるいは個人と社会集団との結びつき。 自己本位的自殺:社会集団の統合度が弱いときに生じる自殺。「常軌を逸した個人化」によって生じる。 集団本位的自殺:社会統合が高いケースにおいて、社会集団との結びつきが強いために、個人の生命が集団の利益や規範よりも軽視され、また個人が集団のなかに埋没することによって生じる。 アノミー的自殺:社会的規範がアノミー状態に陥り、人々の欲望が際限なく広がり、欲求不満状態に陥るため起こる自殺。 宿命的自殺:社会規制が強い場合に起き、社会が人々の欲望や行動を過度に規制することによって起きる。
アイデンティティ :エリクソンの中心概念の一つで、客観的には人格の統合性と一貫性を示す概念。主観的には自分がほかならぬ自分であるという確信ないし感覚をいうが、それは同時に自分の不変性と連続性を周囲の他者も認めているという確信・感覚に裏づけられている。
自我の社会性(G・H・ミード) 自我の社会性とは、人間の自我が他者との関連において形成され、展開されることである。自我は真空の中で生まれるわけではなく、孤立した形で存在するのでもない。自我は常に他者とのかかわりあいにおいてその姿を現す。 ミード:「役割取得」(role taking) →人間は他者の役割期待との関連において自らの自我を形作る。「一般化された他者」 社会化 :人が社会の中でルールや価値を学び、そのことで他者と相互に役割行為を遂行できるようになるプロセスのこと。 第一次社会化は、家族や学校のなかで親や友だちと遊びやゲームなどを通してルールや価値を内面化していく過程として現れる。 第二次社会化は、社会集団のなかで他者と交代可能な「匿名的」な役割を果たしていくなかで、ルールを内面化していく過程である。
準拠集団と予期社会化 準拠集団:人が自分自身を関連づけることによって、自分の態度や判断の形成と変容に影響を受ける集団。一般的には、家族・友人集団などの身近な所属集団からなることが多い。しかし、人が現在所属していない集団、つまり過去に所属した集団、あるいは将来所属したいと思っている集団、つまり非所属集団もまた準拠集団となりうる。
予期社会化:現在自分が所属していない集団を準拠集団とし、そのうえでその準拠集団のルールや価値を学び取るプロセスを指す。
自己 :自分自身との関係である。 →自己の自己たる固有性がそれ自身に言及し、また働きかけることができるという点。自己は他者との関係として成り立つが、他なるものとの関係において成り立つ対象は自己に限られるわけではなく、関係的に成り立つあらゆる対象の中で自己だけが固有にもつ形式、それが自己自身への関係。
『日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界』 p.45-6 傍注より アンソニー・ギデンズは「諸個人がみずからの行為に関する情報を、その行為の根拠について検討・評価し直すための材料として活用すること」を「再帰性」と呼び、これの諸個人への浸透を近代社会の特徴とする。 たとえば、「再帰性」が浸透するにつれて、各地の伝統は「これまで伝承されてきたから」という理由だけではその継承が是認されなくなり、ある伝統が尊重される場合でも「なぜその伝統を守るのか」とその根拠がつねに問題視されるようになる。 「みずからの行為に関する情報を、その行為の根拠を検証し直す材料にすること」。 それがループ化すると、「自分はこれでいいんだろうか」という循環的な問い詰めが強迫化し、収拾がつかなくなる。 「自分の状態についての問題意識��高まれば高まるほど、勉強して病理に詳しくなればなるほど状態が悪くなってゆく。 フロイトのモデルの逆」(斎藤環、「ICCシンポ」)。 既存のひきこもり支援は、「オタクになれ」という斎藤環氏まで含めて、再帰性を減衰・忘却させる方向を目指している。 たとえば自転車に乗るときには、操作方法を意識してしまってはうまく運転できない。 自転車に乗るというのは、あれほど細い車輪でバランスを取り、よく考えるとものすごく高度なことをしているのだが、それは「意識しないから」できている。できない人は、操作方法をいちいち意識するので、かえってできなくなる。――同じ事情が、社会生活や人間関係にも言える。
自我 :行動や意識の主体とされ、他とは区別された自己のパーソナリティの中核をなすもので、社会的行動の理解における重要な準拠枠とされる。
・自己呈示のドラマツルギー(E.ゴフマン) 社会的状況のもとでの行為は演技の要素を含む。行為者は同時に演技者(パフォーマー)であり、観客(オーディエンス)を意識した「印象の演出者」である。
共同主観性(間主観性) :他人は自分と同じような意識を持ち、自分と同じように世界を見ていると思い、その仮定の上に立って思考し行為している世界体系。
再帰的近代化 近代化は伝統社会から単純な近代へ、そして単純な近代から再帰的な近代へという2段階で展開してきた。再帰的近代の段階では、社会活動全般が、それに関して新たに得られた情報や知識によって絶えず検討・改善され、その結果として当の営みがそれ自体、大きな変貌を遂げることになる。
理性それ自体を合理化する再帰的な力が見境もなく働くと、因習・習俗・教理といったものだけでなく科学的な知識さえもが特権的な立場を失い、あらゆるものが疑義や吟味や修正の対象となってくる。こうして前近代にも近代初期にも健在であった基礎づけ志向は極端に衰微し、また歴史の進歩イメージも大きく揺らぐことになった。だが、この新たな時代の位相を脱近代と呼ぶことにギデンズは強く反対する。近代とはまったく異質な時代が立ち現れたというわけではなく、むしろ近代的な合理化の作用が再帰的に徹底するような時代になったという点に着目したギデンズは、これを専らハイ・モダニティという言葉で表現している。
消費社会:ボードリヤールによれば、現代高度産業社会は、生産よりも消費、モノの機能性よりもコード化された差異が優位となっている「消費社会」である。消費は、消費者個人の自律的で自発的な享受というモノの「効用」のレベルから、差異化されたモノ=記号のシステムへの個々の消費行動の強制的な組み込みという「意味作用」のレベルへと転位している。
近代社会と大衆社会 近代社会:近代社会とは、政治的世界における市民革命、経済の領域における産業革命によって誕生した資本主義・民主主義によって支えられる社会であり、貴族階級に代わって台頭した新興市民階級が歴史の表舞台に立った時代であった。その意味で、近代社会はしばしば「近代市民社会」と称される。一般的に「市民社会」は、その理想形において教養と財産を有する「自由」な個人とそうした個人の間の「平等」な連隊によって形成された社会とされている。
大衆社会:20世紀に入り、科学技術の発展によって、大量生産・大量消費のシステムが実現するが、こうしたシステムを維持するため、大量の労働者階級に加え、新中間層―事務・管理業務を担うホワイト・カラー―と呼ばれる新しい社会層が登場したのである。また、社会全体の生産力を向上させ、それらを効率的に管理するために障害となる中間諸集団が排除され、その結果、一方では所属集団を失い、原子化した個人が社会に溢れ、他方ではそうした彼ら/彼女らを画一的で巨大な官僚制的組織が吸収していった。さらに、コミュニケーション技術の高度な発展により、新聞・雑誌、そして映画・ラジオなどのマス・コミュニケーションが発達したが、その負の側面としてメディアを通して大衆の社会心理を操作する大衆操作や大衆支配の可能性が高まった。こうした過程を経て、19世紀まで社会をリードした能動的で自立した「市民」は姿を消し、画一的・没個性的な労働者と新中間層からなる「大衆」の時代が到来した。
エポケー:フッサールが主題化している、現象学的・反省的態度が成立するための方法概念であり、自然的態度に特徴的な外的世界の存在に対する素朴な信念を括弧に入れ、したがってまた、外的世界の存在を前提にしているすべての学の妥当をも「遮断」すること。
機能主義 :実体概念を排斥し、要素間の相互作用の見地から対象を機能的に把握する立場に立ち、その結果、あらゆる現象を動的に、つまり絶えざる生成・消滅の過程として理解することを強調する。19世紀末に台頭した科学方法論。
構造主義:一般に構造を要素と要素間の関係からなる全体として捉え、事象をその構造の要素間の関係や変換の結果として見る方法的な視点をいう。 →「構造」とは、あるひとまとまりの現象の中で変わりにくく、比較的安定的な関係性のパターンを意味し、「機能」とはある事象がそれを含む全体に対して果たす有益な作用のことをいう。
機能=構造主義 :社会を実体的な統一体というよりは、多様に分化した構造(=制度)として関係論的に捉える見方のことで、文化規範や地位・役割体系といった観点から制度を把握するとともに、社会システムの存立を規定する機能要件の定式化やその体系的把握を推し進めた。
ポスト構造主義 :1960年代末にフランスで現われた思想運動。「主体」の脱中心化、関係の論理、啓蒙的・進歩史観批判、「記号」・「差異」の戦略的使用など構造主義の諸要素を含む。しかし、構造主義がレヴィストロースのように静態的・閉鎖的システムとしての「構造」を措定し、科学の方法たろうとするのに対し、ポスト構造主義はデリダのように構造の生成・連動・流動を強調し、世界や現象を「差異の戯れ」にまで解体しようとして形而上学批判の方向をとる。
ポストモダニズム :近代の後にくる発想法を総称する言葉で、効率性と合理性を追求する機能主義(モダニズム)思想に対する批判を表明し、遊び、象徴的表現、自由発想などを取り入れる運動を指す。
公共性と市民社会 公共性:経済システムの「貨幣」や国家の「権力」というメディアによるのではなく、言語メディアを用いた主体同士コミュニケーションによって形成される圏域としての「生活世界」を土台としつつ、そこでの自由で平等なコミュニケーションが生む「合意」によって構成される領域。
リスク社会 :産業社会が出現する頃より、新たな危険との向き合いが一般的なものになっていく。そこでは、医学の進歩が乳児死亡率を飛躍的に減少させたように、科学技術の発展は数多くの危険を排除していった。危険はもはや個人を超越した統制不可能な事柄ではなく、人間の力によって克服可能なもの、すなわち「リスク」として人々に認識されるようになったのである。 逆説的なことに、このような近代特有のリスクに対する向き合い方が変化するきっかけは、産業社会の「失敗」ではなく、その「成功」であった。科学技術の発展は、補償不能・限定不能・知覚不能といった新たな特徴をもつリスクを次々に生み出していった。そうしたリスクは、かつてのように社会の外側にあって統制可能で克服可能なものではなく、社会の内側から社会の変化を駆動し始めたのである。 + 福祉国家の成立、教育の普及、ジェンダー革命、雇用システムの変化などに伴って、個人化が進行していく、そこでは、人々はさまざまなリスクと、そこから生じる不安や不確実性を、集団ではなく個人で処理・克服しなければならない。
格差社会 :社会成員が、特定の基準から見て隔絶された階層に分断された社会。特に、所得・資産面での富裕層と貧困層の両極化と、世代を超えた階層の固定化が進んだ社会。日本の場合、戦後の階級社会から、中間層を軸にした階層社会へ進み、雇用の不安定化などが原因となって現状では流動化した格差社会になっている。
人的資本 :当該社会の人口の規模と健康状態、特にその教育・技術水準及び肉体的・精神的能力などがその内容を指す。人は、知識や技能などの自らの人的資本形成に投資し、生産性を高めることで、より大きな便益を得ることができる。すなわちここで重要なのは、人間を投資対象として認識すること、また人的資本蓄積によって将来リターンが得られることへの期待である。
・多集団の交錯と個性の発達(ジンメル) 新たに集団に所属することは、個性にとってはそれだけ広い活動領域が与えられることになり、これを積み重ねていけば、必然的に個性はより高度に発達する結果となる。
社会分化:一方で集団の規模が拡大していくとともに、他方で集団の内部で個人間の差異が高まり個性が発達していくという二重の過程である。 →集団の規模が大きくなるにつれて、集団内部での生存競争が激しくなり、各メンバーがその競争において優位に立とうとするがゆえにメンバーの間に差異が生まれ、メンバーが個性的になっていく。その反面、メンバーが個性的になると同時に反比例して集団は個性を失��ていく。 「分化と個体化とは隣人との紐帯をふるめるが、そのかわりにより多くの人びととの新しいそれを紡ぐ」(ジンメル) 社会分化は、一方で個人がさまざまな可能性を発展させ人格を完成させるための条件を作り出すにもかかわらず、他方では個人を特定の機能の担い手に押し込め人格の完成を阻害している。
機能分化社会 ① 個人が階層などの社会の特定の一部分に埋め込まれるということがない。 ② 様々な機能が独自の論理に基づいて展開し、機能分化が貫徹すると、統治者/被統治者、生産者/消費者、教師/生徒といった役割が相互に独立となり、特定の階層がこれらの役割の一方を束ねるということはもはやなくなる。 ③ 特定の階層やそこで繰り広げられる相互作用が社会全体を代表しているとみなすことは不適切となり、集合的単数名詞としての抽象的な社会の概念が形成・受容されるようになる。
顕在機能と潜在機能 制度が社会の存立に果たす客観的機能と、制度を実践する行為者の主観的意図は必ずしも一致しない。制度がどういった機能をもつかは、それをどういった視点でとらえるかによって、多様かつ可変的である。顕在機能とは当事者の視点から定義される機能であるのに対し、潜在機能とは、当事者の意図とは無関係に、観察者によって発見される機能である。
・動機の語彙(C.W.ミルズ) 動機は、ある行為の「原動力」となる内的状態というよりは、人びとが自己および他者の行為を解釈し説明するために用いる「類型的な語彙」である。
社会学者や心理学者たちは、それぞれの専門知識や語彙を動員してさまざまな行為に対してしかるべき動機を「付与」する。
・相関主義(K.マンハイム) ▶︎人間の意識の真理性に対する懐疑の念は、敵対者に対する不信と疑念としてまず成立し た ▶︎部分的イデオロギー :敵対者は事実を正しく認識しようという気はなく、その理念や考えにしたがって、多かれ少なかれ故意に、事実を覆い隠そうとしている。 =相手の特定の理念を利害・関心から暴こうとする場合に成立 ▶︎全体的イデオロギー :敵対者の世界観全体がその個人的真理からのみならず、その背後の集団・社会状況に関係づけられて暴露される。 ⇒相関主義 :特定の歴史的時点に立った特定の集団に所属していくことによってのみ接近しうる真理があり、このような特定の立場に立つことによってのみ到達しうる部分的真理を、全体的観点から相関させる作業が進展していけば、無限に全面的な真理にたどり着けるとする立場。 ※イデオロギー:人間、自然、社会についての一貫性をと論理性をもった表象と主張の体系であり、それによって諸個人の生活に根底的な意味が与えられ(価値体系)、自己と環境世界および両者の関連についての合理的認識をもたらし(分析体系)、自己の願望と確信とによって潜在的エネルギーを意志的に活性化する(信念体系)とともに、具体的なイッシューについての日常的な意見の体系(政治的プログライム)を提起する。
・多元的現実の構成(A.シュルツ、P.L.バーガー) われわれが<現実>とよんでいるものは、実体的実在でも、先験的な所与でもない。それは多元的な領域からなる意味の秩序として主観的に構成されたものにすぎない。にもかかわらず、<現実>が客観的な拘束力をもつのは、それが主体に構造的に<内在化>されるからである。そして、そのような<現実>構築のプロセスは、本質的に社会的相互作用の場と切り離すことができない。
・認知的不協和の理論(L.フェスティンガー) 不協和を増大させる傾向のある新しい情報に、強制的にかあるいは偶然にさらされると、強制的にかあるいは偶然にさらされると、その人は不協和の増大を避けようとして、しばしば新しい情報を誤解または誤認することになるであろう。
・預言の自己成就(R.K.マートン) ある状況が起こりそうだと考えて、人びとが行動すると、そう思わなければ起こらなかったはずの状況が、実際に実現してしまう。 「危惧の念を実在に転化する預言の自己成就は、慎重な制度的規制が欠如した場合にのみ作用するものである」 ・欲望の模倣とモデル=ライバル論(R.ジラール) 欲望は、他者の(モデル)の欲望を模倣することによって発生する。それゆえ、欲望主体はモデルと同一物を欲望することになるから、欲望を貫徹しようとすれば、モデルは主体の欲望を妨げる障害(ライバル)に変わる。このような他者をモデル=ライバルという。
・志向のくいちがいと羞恥(M.シューラー) 羞恥の発生パターン ⑴自分は個別者として与えられているにもかかわらず、他者がそれを普遍化しようとする場合 ex)自分が相手にとって恋人らしく振る舞おうとするときに、相手は自分との関係を単なる恋愛の1ケースとしてしかみなしていないような場合 ⑵自分は普遍者として与えられているにもかかわらず、他者がそれを個別化しようとする場合 ex)患者である自分を、恋人の医者が診察しようとする
・道徳意識の発達―義務と善(J.ピアジェ) 一方的尊敬によって特徴づけられる上下的な社会関係からは義務と他律の道徳が、相互的尊敬によって特徴づけられる平等的な社会関係からは善と自律の道徳が生まれる。子どもの道徳的発達、すなわち義務と他律の道徳から善と自律の道徳への進化は、かれらが仲間との平等的な関係を経験することを通して生じる。
・結合定量の法則(高田保馬) 個人の結合の傾向には定量がある。それゆえ一方の人びとと強く結合すれば、他方の人びととの結合は弱くなる。同様に全体社会にも結合の傾向の定量がある。それゆえ一つの部分社会の結合強度が増大すると、他の部分社会のそれは減少する。 EX)恋愛に熱中する人は親不孝となり友人から離れる、社交的で多くの友人を持つ者は、真の知己を持ち得ない。
裏命題:一つの結合が刺激となって、他の結合が活性化または強化される。 →国家は家族の拡大図というメタファー=家族への忠誠が国家の忠誠を意味する。 But,矛盾の存在:ex)親孝行すべきなので、軍隊にはいくべきではない。
・外集団への敵対と内集団への親和(G.ジンメル) 外部社会や集団と対立関係にある集団では、成員相互の連帯感が強まり、結合的な相互作用が促進され、集団としての凝集性が高くなりやすい。その点で、対立・抗争は社会化の一形式でありうる。
さまざまな形をとった対立が一つの統一体のなかで、あたかもタテ糸にたいするヨコ糸のように、結合的な相互作用で互いに織りなされることによって、むしろ積極的に―結合に活気を与えたり、新しい結合の契機を導いたり、結合をさらに促したりというふうに―作用していると見ているのである。
・インフォーマル組織の発見(G.E.メイヨー) フォーマルな集団のなかに自然発生的に形成されたインフォーマルな組織が、フォーマルな組織の生産性を左右する。
インフォーマルグループはより具体的には、「ある特定の働き方を通じて得られた個人関係のネットワーク」であり、「組織の経済的目標に対して多くの点で反対するような、メンバーが共通してもっている一連の習慣や信念」でもある。しかし、またあるときには、「個人の希望を叶えると同時にマネジメントの目標に対して好意的に働くもの」であった。つまりそれは職業集団が実際に形成されたのち、そこでの関係を通じて事後的に発生するものであり、その意味では事前に計画や予測することのできない関係から構成されている。
・準拠集団と相対的不満(R.K.マートン) 人は自らの行動や態度を決定するさいに、その指針となる係留点を必要とする。この係留点が、とりわけ評価の基準点となる場合、人はその基準点として採用する個人や集団と自己とを比較することによって、満足を覚えたり、不満を抱いたりする。 ・多集団の交錯と個性の発達(ジンメル) 人格とは、文化の諸要素を個別的な様式で結合させたものである。それらの要素は集団に所属することによって個人へ伝えられる。したがって、個人が所属する集団の数が増やせば、それだけ、人格はより個性を発達させることになる。
・裹頭制の鉄則(R.ミヘルス) 大規模の組織においてその存続の必要上始動的地位の分化が生じ、この地位が固定化されるが、このことがさらに指導を支配へ転化させる。このようにして、あらゆる組織は必然的に裹頭制へ向かう。
・部分の機能的自律性とシステム内緊張(A.W.グールドナー) グールドナーは、社会システム内の相互依存はヴァリエーションをもつという見方に立ち、<諸部分の相互依存度が低いということは、その部分が自らの存続上の欲求を充足するにあたって、他の諸部分に依存する度合いが低いということを意味する>と見て、「各部分は機能的自律性(functional autonomy)をもつものである」という見方を導入した。
・互酬の不均衡と権力の発生(P.M.ブラウ) ある社会関係の一つの側面における互酬の成立は、他の側面における互酬の破綻を伴う。社会的交換の過程には、互酬上のバランスをめざすストレインとインバランスをめざすストレインの二つがせめぎ合っており、この二つのストレインが一つの社会関係の表裏に同時にあらわれるからである。権力はこのインバランスから派生する。
・世界の複雑性と自己準拠システム(N.ルーマン) この世界には実現される体験や行為よりもはるかに多くの体験や行為の可能性が常に存在しており(世界の複雑性)、われわれが生きてゆくためにはこの無数の可能性のなかから限られたものを選択せざるを得ない(複雑性の縮減)。この「複雑性の縮減」という機能を担うのが「意味」であり、この「意味」を構成する主体が「システム」である。
世界の複雑性とは、われわれに選択を迫る体験や行為の可能性が無数に存在することをいう。 「世界の複雑性の縮減」とは、体験や行為の無数の可能性を秩序化し、意思決定によって一定のものを選ぶと同時に、他のものを排除する、という行為によってである。 意味は一定の前提や戦略に基づく選択遂行をつうじて、数ある体験や行為の可能性のなかから限られたものを選び出し、他のものは否定することによって複雑性を縮減する。
・犯罪の潜在的機能(E.デュルケム) 犯罪は、その被害者はもちろん、当の犯罪者も意図せず、あるいは認知すらしていないような、何らかの有用な結果を社会全体に対してもたらす。
・閉じた社会と開いた社会(H.ベルクソン) 閉じた社会とは、その成員が外部に対してみずから防衛しながら、責務の圧力によって相互に結ばれている社会であり、蟻塚を思わせるような生命進化の一到達点である。これに対して開いた社会とは、原理上全人類を包容する社会であり、生命の根源から愛の力を汲み出す少数の選ばれた魂によって渇望され、彼らの招きによって成員がみずからを変質させてゆく。
・集合行動の理論(N.J.スメルサー) ストレイン(社会的な矛盾や緊張状態)に直面した人びとは、それを軽減・緩和する何らかの方法についての「一般化された信念」にもとづいて、社会秩序を再構成するために集合行動をおこす。
自己呈示 :他者と愛呈する対面的な状況のなかにおいて、コミュニケーションをとろうという意志に関わりなく、すでにそこにいるだけで自分に関する情報を伝えている。このことを自己呈示という。
社会理論:「人間の行為や社会とはそもそもこうなっている」という説明をめざした理論体系のこと。 「構造の二重性」 エイジェンシー:行為者個人あるいは行為のこと。エイジェンシーには「媒介」「代理」といった意味合いがあり、人びとの行為がエイジェンシーとして働くのは、それが構造を媒介して社会システムを再生産するから。規則=構造が維持されるのは、行為の意図せざる結果にすぎない。このように、構造はエイジェンシーの条件となり、またその結果でもある。それが構造の二重性である。
・聖―俗―遊(R.カイヨワ) 聖なるものは俗なるものの違背と侵犯であり、同時に<戦慄すべきもの>でも<魅了するもの>でもある。聖なるものから緊張と恐怖をとり去り、興奮と解放をもたらす自由な活動が遊びであり、聖と同様に俗と対立する。
・贈与論(M.モース) 贈与は、外見上、自発的、一方的、断片的な現象であるけれども、根底においては、拘束的、互酬的システム的な実在である。つまり、贈与は「物」の提供というよりも、むしろ「シンボル」の交換である。
・女性の交換と近親婚の禁止(C.レヴィストロース) 近親婚の禁止は(インセクト・タブー)は、母、姉妹、あるいは娘を娶ることを禁止する規則であるよりはむしろ、母、姉妹あるいは娘を他人に与えることを強いる規則である。すなわちそれは、女性を与え、また受け取る集団相互の互酬的交換体系を始動させる規則なのである。
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高学歴者が低学歴のものを劣ったものだと思う現象について。 僕は高卒で勉強しなか...
高学歴者が低学歴のものを劣ったものだと思う現象について。 僕は高卒で勉強しなか…
{$inline_image}高学歴者が低学歴のものを劣ったものだと思う現象について。 僕は高卒で勉強しなかった。そもそも興味が無かった。 そのことを、大学生の人に言うと、「いいわけするな」と言われた。 いいわけのつもりは無い。本当に興味が無かった。 最近、エスノセントリズム(自民族中心主義)という言葉を知った。 自分の民族の優越性を主張して他文化を劣等視する傾向。(広辞苑より引用) という意味らしい。 高学歴者の「いいわけするな」は、学歴が高くなり、学歴の高いものの世界が優れていて、そうでないものは劣っているという認識からでている言葉に思える。誰もが、高学歴にならないと、自分の様にならないと、と思いこんでいるのでなければその発言は出てこない。 これってエスノセントリズムみたいなものじゃないですか…
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立命館の件は,研究者側のエスノセントリズムに加えて,社会調査とかフィールドワークとか,まったく勉強も理解もしていなかったひとが,不用意に生データを後悔に必要不可欠な加工もせずに公開してしまったことが問題なのであって,著作権でいきり立っているのは筋が悪い。
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@mknhrk: 道徳の授業で一番やるべきなん、エスノセントリズムの醜悪さと危険性なんじゃねえのか。つかなんで倫理じゃなくて道徳なんだろうな。あれ。 from http://twitter.com/mknhrk
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Hinge presents an anthology of love stories almost never told. Read more on https://no-ordinary-love.co
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意外に、天下を取ったAIがマッカーサーみたいに改革してくれる可能性
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