#エレミヤ
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素敵な
Diaryをいただきました🎁
and 素敵グッズをいただきました🐈🥚
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ステキすぎて使えない📘🥹
でも使わないともっともったいないので
心を👹にして?綴っています📝🌠
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なぜか誕生日プレゼントをもらったような気持ちになりました😶🎁
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わたしはあなたがたのために立てている
計画をよく知っているからだ。
--主���御告げ--
それはわざわいではなくて、
平安を与える計画であり、あなたがたに
将来と希望を与えるためのものだ。
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エレミヤ書 29章11節
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December 17,2024
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主に向かって歌い、主を賛美しなさい。
エレミヤ20・10-13 主に向かって歌い、主を賛美せよ。 エレミヤの預言 20・10わたしには聞こえています多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。 11しかし主は、恐るべき勇士としてわたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき勝つことを得ず、成功することなく甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのないとこしえの恥辱である。12万軍の主よ正義をもって人のはらわたと心を究め見抜かれる方よ。わたしに見させてくださいあなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。 13主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。 答唱詩編 詩編18・…
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主に向かって歌い、主を賛美しなさい。
エレミヤ20・10-13
主に向かって歌い、主を賛美せよ。
エレミヤの預言
20・10わたしには聞こえています 多くの人の非難が。 「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。 「共に彼を弾劾しよう」と。 わたしの味方だった者も皆 わたしがつまずくのを待ち構えている。 「彼は惑わされて 我々は勝つことができる。 彼に復讐してやろう」と。
11しかし主は、恐るべき勇士として わたしと共にいます。 それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき 勝つことを得ず、成功することなく甚だしく辱めを受ける。 それは忘れられることのないとこしえの恥辱である。 12万軍の主よ 正義をもって人のはらわたと心を究め見抜かれる方よ。 わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。 わたしの訴えをあなたに打ち明け お任せします。
13主に向かって歌い、主を賛美せよ。 主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。
答唱詩編
詩編18・3、33+37
神はわたしを救われる。そのいつくしみをたたえよう。
詩編18
18・3神はわたしのとりで、わたしの岩、 わたしの救い、身を避ける岩、 私の神、わたしのたて、 わたしのやぐら、救いの力。
33神はわたしに力を与え、 わたしの道を正しくされる。 37あなたはわたしの歩く道を広くされ、 わたしの歩みはゆるがない。
福音朗読
ヨハネ10・31-42
主よ、あなたのことばは霊であり、いのちです。あなたは永遠の命のことばをもっておられる。
ヨハネによる福音
そのとき、10・31ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。32すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」33ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているから��。」34そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。35神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。36それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。37もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。38しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」39そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
40イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。41多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」42そこでは、多くの人がイエスを信じた。
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“‘Blessed is the man who trusts in the LORD, whose trust IS the LORD.’”
Jeremiah 17:7
「主に信頼する人は幸いであり、その信頼は主である。」エレミヤ書 17:7
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異言で祈る
だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。(Iコリ14:13、共)
そういうわけで、異言で語る人は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。(同上、改)
異言について議論するにあたっては「今日の教会において異言は可能か・あるいは必要か」といった議論が先立つと思うが、ここではそこは深く立ち入らない。基本的な姿勢は「今日の教会においても、もし預言が必要ならば、異言もまた必要だろう」ということだ。そして、箴29:18によって、今日の教会においても預言は必要だとぼくは思う。だから、異言も必要だし、必要である限りは可能でもあるはずだ。
大事なことは、異言は解き明かされる限りにおいて、預言とほぼ同じものだということ、逆にまったく(文字通り「まったく」)解き明かされない異言は「何の役にも立たない」(cf.Iコリ14:6)ということである。だから、異言について語るべきことは「それはどのように解き明かされるのか」ということである。
そこで、ここではぼく自身の体験に沿って、異言とはどういうものかを例示するとともに、それを「解き明かす」とは具体的にどういうことかを説明してみる。異言の意義を力説した文章はたまに見かけないこともないが、それをどう解き明かすかにまで踏み込んだ文章を、少なくともぼくは読んだことがない。
*
さて、異言とはどういうものか。使2:4によると異言は「ほかの国の言葉」であると書いてある。つまり「すでに存在する、逐語的に訳すことのできる、分節言語」だと理解できる。
だが、ぼく自身の異言、ぼく自身の実際に知っているほかの兄姉の異言、そして書籍であかしされている異言は、どれもこの条件にあてはまらない。マーリン・キャロザース『獄中からの讃美』の言葉を借りれば、「何の意味も持たない」「奇妙な」「それを声に出して言ってみるとすれば、馬鹿になったように感じる」ものである。
このことが異言に関する議論をややこしくしているが(こういう異言は「聖書的ではない」のではないかという指摘)、ここでは「現実の異言がそういうものなのだからそれでよしとする」ことにする。かんじんなことはただ一点、「それはまことの神の御声として解き明かすことができるか」である。
ここからは異言とその解き明かしの諸相についてぼく自身の体験を語ってみたいと思うが、ぼく自身はテーマの異なる9つの異言を使い分ける習慣がある。具体的には次の9つである。
悪霊を追い出す祈り 1
悪霊を追い出す祈り 2
悔い改めの祈り
完成(感謝)の祈り
女性・子供あるいは勉学のための祈り
男性あるいは職業のための祈り
遷移(変化)のための祈り
ロシアのための祈り
ロシアの教会のための祈り
異言は、少なくともぼくの場合、旧約聖書に「預言する状態」(サム上10:10)と書かれているような一種の忘我状態・トランス状態で発せられるわけではない。異言はそれがはじめて与えられる時も日々の祈りの中で導かれる時も「神にゆだねて」祈る中で自然と口から出てくるものである。この「神にゆだねて」祈るということは、慣れない人には分かりにくいかもしれないが、「神にゆだねて」という以上に言葉で説明するのは難しい。
ぼくの場合異言がはじめて与えられる時は、聖書で言うとホレブでエリヤが「静かにささやく声」(王上19:12)を聞いたように、それほど明確でないものが静かに心の中に浮かぶだけである。それでぼくは、それを一度紙に書き取る。いったん書き取ったものを「これでよろしいですか」と確かめながら暗唱する。以後ぼくが「異言」として使うのはこの暗唱したものであり、「異言」という言葉を知らない人からすれば「呪文」と呼ぶのが適当に聞こえるだろう。
ぼくは、自分以外に数種類の異言を使い分ける兄姉に会ったことがない。異言を語るほとんどの兄姉が音節としてもごく単純な言葉をただ繰り返すだけである。そういう方はたぶん自分の口に慣れた異言を発声するだけで、ぼくのようにいったん紙に書き取ってそれを暗唱するといったことはされないのだろう。
ぼくの場合、書き取ってみることで「与えられた異言が複数種類ある」ことが分かったから、「これらはそれぞれどういう祈りですか」と神に尋ねることができた。そうして与えられた意味が、上にリストアップしたものである。特定の異言が特定のテーマと関係している、と理解できたことは、ぼくにとって異言の解き明かしを容易にした。というか、「この異言のテーマは悔い改めです」と示されること自体が一種の解き明かしである。
*
さて、異言の解き明かしはひとことで言えば「意訳」である。発声された音声を分節言語として逐語訳するのではなく、その時神が伝えようとしておられることを、異言自体の音声とはまったく関係なく、自分たちがふだん使っている言葉にするのである。だから、少なくともぼくの場合、同じ「悔い改めの異言」であっても解き明か��れる内容はその度ごとに違う。異言を一種類しか語られない方なら、ひとつの同じ異言がある時は悪霊追い出し、ある時は悔い改め、ある時は感謝ある時はとりなしなど、さまざまな内容に解き明かされることになるのだろう。
異言の解き明かしは最終的には聖句に行き着くのが望ましい。大まかな意味が解き明かされてきたら、その意味をズバリ言い当てた聖句を探す。聖霊による異言であれば、最終的にはその意味にぴったりあてはまる聖句に行き着けるはずである。具体的な状況に即した解き明かしにとどまる場合もあるが、認識が深まるにつれて聖句が見えてくると思うので、表面的な解き明かしにとどまることなく、より深い解き明かしを願いながら異言で祈り続けるのが望ましい。
万が一聖句に反する解き明かしに行き着くなら、それは異なる霊を受けてしまったことになるが、教会で洗礼や堅信の際きちんと手を置いてもらって受けた霊であれば、そういう状況に陥ることはないはずだ。「わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。」(ハガ2:5)解き明かしが未熟であることを「異なる霊が働いている」と誤解してうろたえるべ���ではない。確信を持って、聖句に向かって解き明かしを試みていくべきだろう。当然、聖書を学ぶ必要がある。
だが、解き明かしは「つねに・すぐに」可能とは限らない。「神にゆだねて」異言を発する時、それが悔い改めの祈りだとして、誰の何の罪をどう悔い改めるのか、即座に分かる時もあれば、まったく見当がつかない時もある。
実はこの「自分ではまったく見当がつかないことのために祈る」ことに、異言で祈る意義がある。もしぼくたちが自分で自覚しているテーマについてしか祈れないとしたら、ぼくたちは自分では自覚していない「悔い改めなさい」という神のみこころに従う機会をいつまでも持てない。だが神がぼくたちを異言で祈らせて下さる時、それを「これは悔い改めの祈りなのだ」と解き明かせるなら、ぼくたちは「自分ではまったく見当がつかないが、とにかく悔い改めることを神は求めておられるのだ」ということだけでも自覚することができる。一方で、自分の異言をまったく(文字通り「まったく」)解き明かさなければ、いくら異言で祈っても「神はいま私に何を祈らせようとしておられるのか」自覚することはできない。「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう」(Iコリ14:15)とパウロが書いているのはこういうことである。
異言で祈りながらそれを解き明かそうと努める時、信仰の認識が深まる。これは、解き明かしが進む時だけでなく、さっぱり解き明かせない場合もそうである。異言を一種類しか使えない人がその異言について何の解き明かしも受けられないとしたら、それは少し苦しい道のりになるだろう。それでも、神がその人をずっと異言で祈らせて下さるのであれば、そこには神がそう促される相応の理由があるはずである。「それは何なのか」、何日も何週間も何ヶ月も何年も思いめぐらすことには意味がある。
異言の祈りは祈りと黙想の中間的存在である。口で祈りながら、心ではそれを解き明かそうと思いをめぐらす。解き明かしが完全になされれば、それを告白することで自由祈祷になる。解き明かしがまったくなされなければ、祈りが途切れたところからは完全な黙想になる。
異言の解き明かしが「つねに・すぐに」なされるわけではないのは、預言が祈り始めてすぐに与えられるものではないのと同じである。「十日たって、主の言葉がエレミヤに臨んだ。」(エレ42:7)そうすると、何らかの解き明かしがなされるまでは異言で祈り続けることに意味がある。「自分ではまったく見当がつかないけれど、とにかく神は私に祈ることを求めておられるのだ」と知ってみこころに従うことに意味がある。解き明かしはその先にある。
解き明かしは、ある程度以上進まない場合もある。ぼくの場合、異言による「ロシアのための祈り」「ロシアの教会のための祈り」は、ぼくが自由祈祷として捧げている「ロシアのための祈り」以上に具体的に解き明かされることはない。なぜなら、ぼくは自分が祈っているロシアの民衆と指導者のいま現在の状況についてほぼ何も知らないからである。祈りはぼくの願いを押しつけることではなく神の御心を知ってそれにアーメンと答えることだが(だから祈りもまた最終的には聖句の告白に行き着く)、ロシアの現状を知らないぼくはいま神がロシアで何をしようとしておられるのかを具体的に告白する手がかりがない。
それでも、神はぼくがロシアのために祈る、神がロシアのために持たれ実現されようとしているご計画にぼくがアーメンと応じる、ことを求められる。そうするとぼくは、自分が自由祈祷として告白している「ロシアのための祈り」(「彼らが語っておられるあなたを拒むことがありませんように」、cf.ヘブ12:25)以上のことは、異言でしか祈れない。ここで自分が知りもしないロシアのことについて「解き明かし」を試み預言者を気取ることは神のご計画にとって何の役にも立たない。もちろんこれを機会にロシア・ウォッチャーになることに意味がなくはないが、信仰においてはただ異言で祈り続けることで足りるとぼくは思う。
*
まとめると、異言による祈りは
「誰のために、何を、どのように」祈っているか、解き明かしたいと願い続けるべきである。
解き明かしは最終的には聖句に行き着くはずである。
解き明かしが思ったように与えられない場合、与えられるまで異言で祈り続けるべきである。
解き明かしがある程度以上に与えられない場合、解き明かしを事実上断念したところから、割り切って異言で祈り続けるべきである。
異言の意義は「私の祈りの範囲を『私に知識と自覚がある範囲』に限らない」ことにある。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。」(ヤコ1:5)という勧めにアーメンと答える兄姉、あるいは「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください。」(詩19:13)という告白にアーメンと答える兄姉にとって、「異言で祈ること」「それを解き明かすこと」は信仰の知識を増し自覚を深める具体的な道筋だとぼくは思う。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ロマ8:26)この恵みにあずかるには必ずしも異言を解き明かす必要はない、とおっしゃる方もおられるのだろうけれど、それはパウロが異言について述べている勧めには沿わないと、ぼくは思う。
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エレミヤ書(しょ) 31:2-3
昔わたしが、エジプトから逃げて来た イスラエル人を、荒野であわれみ、 休息を与えた時のように、 彼らをいたわり、愛を注ぐ。 それは、かつてイスラエルにこう言ったからだ。 わたしの民よ。 わたしは永遠の愛をもっておまえを愛してきた。 あわれみの綱でおまえを引き寄せてきた。
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『アス』予告編90秒
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アマプラにて視聴。見たいものリストに入れておきながらなかなか手を出さなくて今回やっと観ることにした。ドッペルゲンガーなのかと思いながら見ているとしっかり刺せば血が出るし殴れば死ぬのでゴースト物ではない。黒人女性が凛々しく戦う姿はウォーキング・デッドのミショーンを思い出す。結末は何とも悲しい感じで、なるほど他の人達に比べたらあの黒人一家に対する憎悪は並々ならぬものて簡単に一撃で殺したくないよな、て言うのも少し分かる。少しちぐはぐに感じたのは西洋人の文化であるクラシックバレエを踊る様子だが、深く書くと多分いけない気がするのでここまで。
エレミヤ書11章11節とはなんぞやとググってみるとジョーカーでも関連あるとの説もあり、まあエンタメは色々つめこみたがる節がありますよね。
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恵み深い主によって
あなたがたは 恵みと信仰によって救われたのです。 あなたがたの力ではなく、 神の賜物です。エフェソ書2:8 (6/30の週の聖句)
恵み深い主に感謝せよ、 慈しみはとこしえに。詩106:1
何を話すにせよ、行うにせよ、 すべてを主イエスの名によって行い、 イエスによって、 父である神に感謝しなさい。
コロサイ書3:17
エレミヤ書20:7~11 出エジプト記19:16~25(通読箇所) 〔ローズンゲン『日々の聖句』7/1(金)〕
―――― α&ω ――――
私たちが、イエスによって、 天の神,【主】、 「わたしはある(I am)という者」 (出エジプト記3:14)と名乗られる方の 救いにあずかったのは、 私たち自身の努力や成果によるのではなく、 天の神、【主】の側からの恵みによってであり、 その約束のことばに信頼して、 それを受け取ったからだと、パウロは言うのですね。
それで、詩篇の作者は歌います。 「恵み深い主に感謝せよ、 その慈しみはとこしえに」と。
私の側の何にもよらず、 ただ、この方の側の恵みと慈しみが この人間の歴史の中で実行に移され、 【御子なる神】が、 人間イエスとして人間の歴史の中に来られ、 【父である神】の御思いに従って、 私たち、すべての人間の身代わりとなって 十字架刑での処刑を受けてくださいました。
それによって【父である神】は、 私たちが「神のひとりのようになり、 善悪を知る者」になって(創世記3:22)、 「われわれのかたちとして、 われわれに似姿に」(創世記1:26)との、 ご自身の創造の目的から 「的外れ」になってしまっている 私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を、 死刑が終わっている者、死んだものと してくださっているのだそうです。
そして、十字架刑で処刑されたイエスは死んで 岩に掘った墓に納められましたが、 三日目、日曜日の早朝、 死人の中から新しい霊のからだに復活し、 40日にわたって何度も弟子たちに現れ、 神の国のことを語り、 ご自分が確かに生きていることを 弟子たちに見せたのち、オリーブ山で、 弟子たちが見守る中、上げられ、 天の、【父である神】の右の座に復帰されました。 【父である神】は、約束しておられたとおりに このイエスを通してもう一人の方、 【聖である霊】と呼ばれる方を 私たちにお遣わしくださり、 この方によって私たちの心にご自身の御思いを置き、 書き記してくださいます。 それで、私たちのうちに 【父である神】の御思いがあるようになり、 私たちは、 〔生まれた時からの私〕という霊から 出てくる思いは、 死んだ者から出てきた思いであるとして、 これをイエスの御前に投げ捨てながら、 この、 【聖である霊】と呼ばれる方によって心に来た 【父である神】の御思いを私の思いとして 行動していく者にしていただけるのですね。
それで私たちは、パウロがここで言っているように、 「何を話すにせよ、何を行うにせよ、 すべてをイエスの名によって (イエスがしていることとして、 イエスの代理人として)行い、 父である神に感謝するように」なるのですね。
神が思われるとおりにしていくとき、 なんでもうまくいくということではなく、 神から遣わされてエルサレムの人々に 神のことばを伝えた預言者エレミヤのような 扱いを受けることもあるのですね。
エルサレムの人たちは、 バビロンの大軍に包囲されてもなお、 「ここは主の宮だから 異邦人のバビロン軍が攻め入って来ることはない と信じて抵抗を続けていました。
しかし、神は、エレミヤに、 このことはエルサレムの人たちが、 自分の気に入った異邦の神々を拝み、 天の神、【主】に従わないから 起こっていることだから、 バビロン軍に投降して命を得るようにと伝えるように 命じられたのですね。
それを伝えた結果、エレミヤはみんなから憎まれ、 捕らえられ、殺されそうになりました。
それでエレミヤは言います。
「主よ。あなたは私をだまして、 あなたのなさるとおりにさせられました。 あなたは力をもって、私を思いのままにされました。 そこで、私は一日中、人々にあざけられました。 私は語り、叫ぶごとに、 『暴虐だ。滅亡だ』と言わなければなりません。 主のことばをこう語れば、人々はあざけります。 そこで、私は、��もう主のことばを語るまい。 主の預言者としてふるまうまい』と決意しますが、 主のことばが私の心の中で燃えさかる火のようで、 私は黙っていることができません。 私は多くの人のささやく声を聞きます。 『周りの人々が恐れる奴がいる。あいつを訴える。』 私の友だちも皆、私が倒れるのを待っています。 「おそらく彼はだまされるだろう。 その時は、仕返しをしてやろう。」 しかし、主は私と一緒にいて、 力強い勇士のようです。 ですから、迫害者たちは躓(つまず)いて、 私に勝つことができません。 彼らは失敗し、大いに恥をかき、 その恥は、いつまでも忘れられません」、と。 (エレミヤ20:7~11尾山令仁現代訳)
出エジプト記の記事は続きます。 三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、 角笛が非常に高く鳴り響いたので、 宿営の中の民はみな震え上がった。 モーセは、神に会わせようと、 民を宿営から連れ出した。 彼らは山のふもとに立った。 シナイ山は全山が煙っていた。 【主】が火の中にあって、 山の上に下りて来られたからである。 煙は、かまどの煙のように立ち上り、 山全体が激しく震えた。
角笛の音がいよいよ高くなる中、 モーセは語り、神は声を出して彼にこたえられた。 【主】はシナイ山の頂に下りて来られた。 【主】がモーセを山の頂に呼ばれたので、 モーセは登って行った。 【主】はモーセに言われた。 「下って行って、民に警告せよ。 彼らが見ようとして【主】の方に押し破って来て、 多くの者が滅びることのないように。 【主】に近づく祭司たちも 自分自身を聖別しなければならない。 【主】が彼らに怒りを発することがないように。」
モーセは【主】に言った。 「民はシナイ山に登ることができません。 あなたご自身が私たちに警告して、 『山の周りに境を設け、それを聖なるものとせよ』 と言われたからです。
【主】はモーセに言われた。 「下りて行け。 そして、あなた自身はアロンと一緒に登れ。 しかし、祭司たちと民は、 【主】のところに登ろうとして 押し破ってはならない。 主が彼らに怒りを発することがないように。」 そこでモーセは民のところに下りて行き、 彼らに告げた。(出エジプト記19:16~25)
私たちも、イエスがそうであったように、 また、エレミヤやこのモーセのように、 神である【主】が話そうと思われることを話し、 しようと思われることをしていく者に していただけるのですのですね。 【聖である霊】と呼ばれる方によって。
今日も。
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今の時代に頼れるもの
皆さんは行ったことがない場所に行こうと思ったらどうしますか?
自分の感覚を頼りに進むでしょうか。
では心の声はいつでも正しいと思いますか?
知っていそうな人に付いていくでしょうか。 経験や知恵は確かに参考になりますし、 同じ基準で行動するなら受け入れてもらえます。
でも周りの人の意見はいつでも正しいのでしょうか?
エレミヤ 10:23 「人は自分の道(生き方)を定めることができません。 自分で自分の歩みを導くことができないのです」。
伝道の書 8:9 「これまでずっと,人は人を支配し, 人に害を及ぼして(人の損失となって)きた」。
地図に頼るならどうでしょうか。 人生にも、地図のような実績のある役立つ指針があればよいと思いませんか?
世界は目まぐるしく変化しています。 変わらない確実なものって何だろう? どうしたら正しい選択ができるだろう?と思うかもしれません。
詩編 111:8 新世界訳聖書 (スタディー版) 「神の命令は全て信頼でき, 常に確実な(十分な根拠がある)もの。 今もこれからもずっと。 真実さと正しさに基づいている」。
聖書のアドバイスはいつでも頼りになると どうして言えるのでしょうか。
「ものみの塔」2024 No.1 何が正しい? 今の時代に頼れるもの をご覧ください。
https://www.jw.org/finder?wtlocale=J&issue=2024-07&pub=wp24&srcid=share
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信じて甲斐のある事実を信じよう!
日々、僕たちはたくさんの"事実"を眼前にしながら生きています。
今日の天気、家族や職場の人間関係、株価の推移、身体の調子、メンタルの上昇と下降などなど、いろんな"事実"と向き合いながら生きていかざるを得ません。
大雑把に言えば、自分の外で起こる事柄(個々の出来事や誰かの態度)と自分の中で起こる事柄(感情や感覚)に左右されながら好不調の波に揺られて生きる存在です。
それぞれ事実ではあるけれど、僕たちが本当に信じてOKといえる"事実"はどこにあるでしょう?
「すべてのことは物憂く、人は語ることさえできない。目は見て満足することがなく、耳も聞いて満ち足りることがない。 昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。 『これを見よ。これは新しい』と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。 前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。」(旧約聖書・伝道者の書1��8-11節)
要するに、世の中で起きることは全部、移り変わり、過ぎ去り、物憂いもので、あてにはならないということを聖書は言い当てています。
「空の空。伝道者(ソロモン王)は言う。空の空。すべては空。」(同2節)と虚しさが強調されます。
続くパートでもあらゆる事象は空しく潰える、とソロモンは具体例を挙げながら語ります。
そして、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(同12章13節)と結ばれています。
僕たちが納得してもしなくても、聖書の結論は、次の3点です。
①すでに啓示されていることがすべて
②恐れるべき神がいる
③命令を通し、秩序を与える神がいる
言葉を換えると、聖書を通して語られている神の言葉とその中身という“事実”を優先することで、有意義な人生を送ることができるというメッセージです。
なので、「信じて甲斐のある事実」としての聖書を信じることに意味があります。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(旧約聖書・イザヤ書43章4節)
「主は遠くから私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。』」(旧約聖書・エレミヤ書31章3節)
「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。」(新約聖書・ローマ書8章32-33節)
自分の外で起こる事柄(個々の出来事や誰かの態度)よりも、自分の中で起こる事柄(感情や感覚)よりも、神の言葉である聖書を信じることに甲斐がある――。
僕たちの拠って立つところです。
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10月31日、宗教改革記念日!
そして、11月1日の西坂です。
アーモンド日記と言うのは、西坂公園奥にあるアーモンドの木を見て名づけました!
旧約聖書エレミヤ書1章にもアーモンドの木が出てくるのです。
預言者エレミヤが、神さまから、
「あなたは何を見ているのか?」と問われて、「アーモンドの枝を見ています」と答えました。
すると、神さまは、
「よく見たものだ。
わたしのことばを✨実現しようと、わたしは見張っているからだ。」と言われました。
と、言うところ…
『長崎の小さな教会から、リバイバルが起こる』
40年前に語られた、このことば、神さまのことばが✨実現するのを、神さまご自身が見張っていて下さる!
それで、この日記の題名を『アーモンド日記」と名付けて、
これから始まる、いや、すでに始まってるリバイバルの記録を少しでも書き留めて行きたいと思います!😊🙌
この日、
夫と3男と3人で西坂に来て過ごし、
帰りに買い物へ。
そこで、携帯を無くしてることに気づいて、あわててとりに戻りました!
道中、「感謝します!感謝します!この事が必ず益となりますように‼️」と、祈りながら、賛美の歌を歌いながら行きました。
すると、西坂、1人の男性の方が、「いま、警察に届けようか迷ってる所だった…」と、キープしていて下さってたのです😭😭😭
そして、なんと、その直後に、
自治会長さんとも出会い、来年の日本26聖人殉教記念聖会のご挨拶も出来ました!
神さま、感謝します‼️

最近は、物忘れ?がちょくちょくある私たち夫婦ですが、😅
それも、益として、守って下さいました!

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わたしはあなたがたのために立てている
計画をよく知っているからだ。
--主の御告げ--
それはわざわいではなくて、
平安を与える計画であり、あなたがたに
将来と希望を与えるためのものだ。
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エレミヤ書 29章11節
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June 4,2024
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主が知らせてくださったのでわたしは知った。
エレミヤ11・18-20 主が知らせてくださったのでわたしは知った。 エレミヤの預言 11・18主が知らせてくださったのでわたしは知った。彼らが何をしているのか見せてくださった。19わたしは、飼いならされた小羊が屠り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して悪だくみをしていた。「木をその実の盛りに滅ぼし生ける者の地から絶とう。彼の名が再び口にされることはない。」20万軍の主よ人のはらわたと心を究め正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてくださいあなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明けお任せします。 答唱詩編 詩編56・2+3、4+10 わたしは神により頼み、そのみことばをたたえよう。 詩編56 56・2神よ、あわれみを注いでください。わたしは昼も夜もしいたげられ、3はむかう者がいつもわたしに襲いかかり、逆らう者はあとをたたない。 …
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主が知らせてくださったのでわたしは知った。
エレミヤ11・18-20
主が知らせてくださったのでわたしは知った。
エレミヤの預言
11・18主が知らせてくださったので わたしは知った。 彼らが何をしているのか見せてくださった。 19わたしは、飼いならされた小羊が 屠り場に引かれて行くように、何も知らなかった。 彼らはわたしに対して悪だくみをしていた。 「木をその実の盛りに滅ぼし 生ける者の地から絶とう。 彼の名が再び口にされることはない。」 20万軍の主よ 人のはらわたと心を究め 正義をもって裁かれる主よ。 わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。 わたしは訴えをあなたに打ち明け お任せします。
答唱詩編
詩編56・2+3、4+10
わたしは神により頼み、そのみことばをたたえよう。
詩編56
56・2神よ、あわれみを注いでください。 わたしは昼も夜もしいたげられ、 3はむかう者がいつもわたしに襲いかかり、 逆らう者はあとをたたない。
4恐れにとらえられるとき、 わたしはあなたにより頼む。 10わたしはあなたに助けを求め、 神がともにおられることを知るようになる。
福音朗読
ヨハネ7・40-53
よい心で神のことばを保ち、忍耐を持って実を結ぶ人は幸い。
ヨハネによる福音
そのとき、イエスの7・40言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、41「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。42メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」43こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。44その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。
45さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。46下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。47すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。48議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。49だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」50彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。51「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」52彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」
53人々はおのおの家へ帰って行った。
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長野市「中華菜竹房エレミヤ」すてきなプレゼント 場所 長野県長野市大字小柴見441-3 電話 026-228-4493 ※2日前までに予約が必要 ジャンル 中華料理 バリアフリー △ 入口に段差あり 駐車場 あり 少ないのでなるべく乗り合いで 友人がプレゼントをしてくれるという。それも自らが製作された作品をである。それはそれは、とても嬉しい。まして素敵なマダムからとあらば天にも昇る心地である。そのままポロリといただくのは野暮の骨頂、せっかくなので昼食にお誘いした。 「中国菜竹房 エレミヤ」 小柴見という地域はさして広くもないのだが、山麓の際にあるために、地形が複雑で面白い。ひょいと道を曲がると、いきなり山中に入り込んでしまってひどく驚いてしまうこともある。 こちらも山中の入口といった場所にあり、門から店入口までかなりな高低差がある。とはいえ、上がってしまえば緑の中の明るい店舗、そして美味い料理が待っているからまったく苦にならない。 こちらは完全予約制ではあるが、注文はお邪魔した場で選択出来る。注文は6に分かれており最高クラス「龍」4070円はとても充実しているが、大喰らいの私ですら持て余すのだから、一般の方は注意が必要だ。 「桃」2750円 今回はもっともシンプルなコースとしたが、それでもスープ、前菜、サラダ、メイン、麺類、デザートと6点もの料理で構成されるメニューだから凄まじい。 「ジャガイモの冷製スープ」 いわゆるビシソワーズだが、あちら式のジャガイモど真ん中のお腹にたまる!といった風ではなくコース前のさっぱり楚々とした感じ。濃厚とあっさりが同居した見事な一品。 「前菜」 エレミヤ名物、9品で構成された前菜だ。基本日替わりでこの日は ・ズッキーニの生姜炒め ・空芯菜とイカのナンプラーソース ・丸ナスとミョウガ、豚肉のポン酢炒め ・ゴーヤチャンプルー ・にんじん��味噌きんぴら ・干し貝柱とタケノコの煮物 ・インゲンの山椒風味 ・キャベツの塩味 ・豆もやしのナムル 小皿に少しずつしかないが、どれもこれも手の込んだ贅沢な膳だ。ナス好きとしては丸ナスを推すべきかもしれないが、ここはゴーヤチャンプルーの魅力に負けてしまった。おーい!白飯ください!という衝動にかられてならない。 「サラダ」 カラフルさ加減といい、野菜の種類といい、ボリュームといい凄まじいばかりだ。千切りキャベツ、紫キャベツ、コリンキー、プチトマト、にんじん、切り干し大根。生のままであったりマリネされていたりととてつもなく手が込んでいる。酸味の強いドレッシングと大量のゴマのコンビネーションが見事。 「メイン① 蟹卵ご飯」 メイン①は6種からの選択となる。 ・黒酢豚(白飯付) ・エビチリ(白飯付) ・角煮ご飯 ・角煮炒飯 ・蟹卵ご飯 ・エビチリ炒飯 今回は蟹卵ご飯。いわゆる天津飯という事となるのだろうが、そこはエレミヤのすること。簡単シンプルなだけではあり得ない。素揚げされた赤黄のパプリカ、サツマイモ、ズッキーニ、カボチャ、シメジに彩られた蟹入りの玉子焼きはとてつもなくふわふわ。強い酸味のあんが素晴らしい。蟹の爪のチョキがまた可愛らしい。 コースのラストを飾るのは麺類。これは以下の8種からの選択だ。 ・担々麺 ・酸辣湯麺 ・醤油ラーメン ・ワンタンメン(醤油) ・ひき肉ラーメン(塩) ・お魚ワンタンメン(塩) ・青菜麺(塩) ここに小(1/3玉)、中(1/2玉)、大(1玉)という種類がある。 様々な試行錯誤と優柔不断、そして逡巡の果てに決定したのが 「メイン② 青菜麺」 透明あっさり塩味スープに細麺、その上に幾種類もの青菜。水菜、小松菜、モロヘイヤなどがどっさり積載されている。いわゆる締めラーメンではあるが、最後にしゃきしゃき、ジャキジャキ、ぱりぱり、さくさく、とろとろといった食感を楽しみ、名残惜しさを得るためのメニューなのかもしれない。 「デザート」 そしてラストの甘いもの、杏仁豆腐と白玉。前者の赤紫色のブルーベリーソースが美しく、双方の微妙に違う酸味が折り重なり、一層の美味、美しさを増すかのようだ。ほんのり温かい白玉はまたほんのりと温かい。控えめな甘さの粒あんとのコンビネーションは単に食べてしまうのではなく、いつまでも抱きしめていたいような感覚に誘われる。 いただいた作品は戦国時代中期の大武将 武田信玄を描いた力作だ。三船敏郎を思わせる風貌、真紅に彩られた色彩の英雄は躍���感にあふれ、本当にそこにいるかのようなリアリティがある。ここまで描ききるのにどれほどの時間と体力、いやそれ以上にどれほどの胆力を使われたであろうか。一本の線、深く塗り込まれた色彩は、真面目で精緻で、よほど肝の太い方でないと表現出来ないと思う。香織さん、本当にありがとうございました。家宝とさせていただきます。 #長野 #長野市ランチ #エレミヤ #中華料理 #丼 #天津飯 #ビシソワーズ #前菜 #サラダ #ラーメン #青菜 #デザート #スイーツ #杏仁豆腐 (中華菜竹房エレミヤ) https://www.instagram.com/p/CEKaSROAOgj/?igshid=z9th2yj45fet
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