#ディストピア文学
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[PONY METRO马城地铁]
000序章
【前注:地铁+MLP主题作品。对两者都有兴趣的朋友可以尝试阅读。默认节奏慢更,如果想快些往后看可以私信催我】
“这边都看过了没?”
“你们他妈的快点,今天发补给,待会又只剩下破烂了。”
“哈哈,一包战前子弹!”
应急灯每隔几秒就闪烁一下,却几乎暗得��不见。五六匹陆马在仓库里翻箱倒柜,时不时把值钱的东西拢进鞍包里。
“我他妈的不等了!”棕色陆马一脚踢翻门口的煤油灯,“再等你们,回去毛都剩不下。查,你带他们继续,灰背和我回去领补给。”
灰背立刻停下手里的活计,走向他面露愠色的队长。
他利落的行动让队长的情绪缓和了些。“快走吧,”棕色陆马说罢回头叮嘱查:“见到活口直接处理掉。”
......
肚子很饿。
排水沟的黑色淤泥里,混杂了湿漉漉的垃圾、残破的尸骸和污血。
在这里躲藏多久了?汉娜记不清楚了,只是觉得冷和饿。
外面已经很久都不再喧闹了,她将一只眼睛凑到排水沟的铁栅上。那些陆马似乎都走了,留在这里的只有一片被扫荡的痕迹。通风系统从那天起就没有打开过,整个屋子里盈溢着粘湿而带有腐败霉味的空气。
汉娜把自己从泥污中抽出,抖了抖身体上沾连的脏水。
这个死区安静的吓人。在十几天以前,旧桥站还是滨河线上数一数二繁荣的车站,而现在,除了地面上的死尸外,再没有其他可能跟汉娜说上一句话的马了。
……
一些死去时间足够早的尸体已经不会再流血,但踩在上面仍然会让马蹄染上黑褐色的的脏污,这是血液氧化后的样子。即使确信那些马已经离开了这里,汉娜也不敢发出很大的声音。
悄悄穿过曾经热闹的通道,汉娜根据过去的记忆向站点边缘爬行。生活在这里足够久,没有照明对于她来说根本不是问题。接下来还有很远的路要走。
这里是旧桥站的装备仓库,曾经。
进去并不难,木门被弹片和爆炸物修剪得很彻底,只剩下门轴周围还有粗糙的残迹。汉娜躲过门口的玻璃碎片,低下头钻了进去。仓库不能比现在更加干净了——所有的东西都已被他们拿走。汉娜试图勉强找出什么来,但��后只能找到一把锈蚀严重的小刀。“这还不如我自己的!”虽然这样想,她还是轻轻地把刀叼起来,卡在腰带上。
肚子越来越空,头也眩晕起来了。汉娜没有尝试从车站里找些吃的。在防守的一个星期时间里,能吃的都已经被大家扫荡一空了。此刻她已走出了旧桥站,穿行在阴湿的铁轨隧道里。
黑的几乎看不到任何东西。
突然有一瞬间,汉娜感觉到一个湿且有温度的东西触碰到了她的背部。
“是其他马吗?”恐惧席卷了她的大脑,汉娜触电一般向一侧翻滚了几圈,躲进了比阴暗更阴暗的阴暗处。
一只脏兮兮的小老鼠惊慌地逃离了原处。显然这是一次多余的警觉,但汉娜早已习惯了。
“活下去,找到洛莉!”
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ウィッチンケア第15号(Witchenkare VOL.15)
発行日:2025年4月1日 出版者:yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号) A5 判 :276ページ/定価(本体2,000円+税) ISBN :978-4-86538-173-3 C0095 ¥2000E
【寄稿者/掲載作品】〜もくじ〜より
008 綿野恵太/ロジスティクス・ディストピア
014 藤森陽子/だいたい蒸籠で蒸すといい
018 渡辺祐真/無益評論家として生きていく
022 木俣冬/イケメンという言葉の黄昏に
028 カツセマサヒコ/宙を跳ぶ
038 関野らん/死者の尊厳
042 木村重樹/『いなくなっていない親友』のこと
048 山本アマネ/いつも読書の途中
052 鶴見済/推す気持ちがわかっていない
058 武塙麻衣子/ひょうすべ
064 加藤一陽/俺のヰタ・セクスアリス
070 朝井麻由美/エモーショナル・ドリーム
076 中野純/男性の乳首には隠す価値がある
082 早乙女ぐりこ/蜘蛛と鬼ババ
088 武田砂鉄/クリーク・ホールディングス 漆原良彦CEOインタビュー
094 内山結愛/散歩、あるいはスーパーマーケットとTwitter
098 佐々木敦/おそらく実���されることはないであろうわたくしの夢のひとり出版社の、もしも実現したとしてもおそらく実現できることはないであろう、夢の刊行予定リスト
102 オルタナ旧市街/氷を踏む
106 清水伸宏/給水塔 もしくは、ヒマジン・オール・ザ・ピープル
112 絶対に終電を逃さない女/ちょっと疲れただけ
118 長谷川町蔵/ミックステープを聴いた朝
124 かとうちあき/宇宙人に会った話
128 多田洋一/山崎さんの殺人事件
140 星野文月/野良犬に月
146 コメカ/カニ人間
152 小川たまか/記録と記憶と証言
158 武田徹/いくじなしのむうちゃん!
162 蜂本みさ/編み物前線
168 宮崎智之/補欠論
174 3月クララ/ここから始まる
178 稲葉将樹/下妻〝書店〞物語 1980年代
184 すずめ園/幸せにしてあげる
190 荻原魚雷/先行不透明
194 仲俣暁生/橋本治の書物観
198 トミヤマユキコ/ひとりっ子という生き物の宿命
202 吉田亮人/小さくて、美しい
206 野村佑香/はじめの一歩
212 久禮亮太/フラヌール書店二年目の日々
218 うのつのぶこ/生きててくれればそれでいい
222 武藤充/チャネラー・足立幸子さんとの出会い
226 ふくだりょうこ/お薬をお出ししておきますね
230 我妻俊樹/スクールドールズ
236 美馬亜貴子/生存学未来論
242 久保憲司/アーティフィシャル・インテリジェンス
248 谷亜ヒロコ/折田さんは自分推し。
252 柳瀬博一/日本は東京以外でできている
260 東間嶺/(概略)アプデしない生き方のせいで殺されてしまった先生とわたしに関するおおよそ4000字のテキスト。
266 参加者のVOICE
274 バックナンバー紹介
編集/発行:多田洋一
写真:圓井誓太
Art Direction/Design:太田明日香
取次:株式会社JRC(人文・社会科学書流通センター)
印刷/製本:株式会社シナノパブリッシングプレス
ウィッチンケア第15号が手に取れる書店(仮) https://note.com/yoichijerry/n/n9089f16965e1
きちゃ 〜ノベライズ・ウィッチンケア第15号〜 (下記URLを読むと第14号の全体がざっくり見渡せます) https://note.com/yoichijerry/n/n95e27412beb0
《2010年4月創刊の文芸創作誌「ウィッチンケア(Witchenkare)は今号で第15号となります。発行人・多田洋一が「ぜひこの人に」と寄稿���頼した、47名の書き下ろし作品が掲載されています。書き手にとって、小誌はつねに新しい創作のきっかけとなる「試し」の場。多彩な分野で活躍する人の「いま書いてみたいこと」を1冊の本に纏めました。》
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シリコンバレーの決まり文句である「世界をより良い場所にしたい」から、「実際は、安全保障機構が世界中を服従させる手助けをしたいだけだ」へとシフトしている。 これらのハイテク企業の多くを初期から研究してきた人の中には、彼らは常に安全保障機関と密接に結びついており、これは論理的な進化に過ぎないと主張する人もいるだろう。 しかし、たとえそれが常に水面下にあったとしても、��たちが今、臆面もなくテクノ帝国主義を形成していることは否定できない。娯楽目的の新しいガジェットやソフトウェアを考え出したり、日常的な問題を解決したりするのを見慣れた人々が、ミサイルやディストピア的な監視ツールの製造に身を捧げているのだ。 その背後に何があるのかは正確にはわからない。世界を変える」ことと「世界をコントロールする」ことの間には、常に非常に薄い境界線があった。もしかしたら、アプリやガジェットで変化を起こそうとするよりも、アメリカ政府と結託して力ずくで世界を再構築する方がよっぽど直接的だという結論に達したのかもしれない...。 あるいは、私たちは一種の乗っ取りを目撃しているのかもしれない。こうしたテック関係者たちは、真の金と権力は単なる商人ではなく、国家の歯車になることにあると気づいたのかもしれない。 あるいは、アメリカが技術的・地政学的覇権を徐々に失っていくのを見て、金の卵を産むガチョウを確実に生かそうと必死になっている。 あるいは、上記のミックスか...。いずれにせよ、シリコンバレーの理想主義と称するものの空虚さを露呈し、帝国の低俗な一部門に過ぎないという本性を明らかにした。"
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Time Outの記事の翻訳
この記事、結構基礎的情報が詰まってたな〜と思ったので翻訳してみました。()や[]内は原文中ですが【】は私の補足です。※翻訳の品質は保証しません!
2024.10.17 アダム・フェルドマン
「ウォリアーズ」は今夜現れるープレイするために。リン=マニュエル・ミランダの「ハミルトン」以来初めての長編ミュージカルはブロードウェイには存在しないーー少なくとも今は。代わりに、ミランダと共作者のイーサ・デイビスは1970年代風に作品を発表することにしたーーコンセプトアルバムとして。スリリングなナンバーと、ヒップホップのスターたちも含めたキラー・パフォーマーを沢山詰め込んで、ディストピアのニューヨークをワイルドに駆け抜け、ミュージカルとレコードの未来の立ち位置を高らかに主張する。
「ウォリアーズ」は1979年のカルト映画であり、ヒップホップ文化にも愛される「ウォリアーズ」を原作にしている。題名にもなっているストリート・ギャングたちが、ブロンクスのカリスマリーダー・サイラスーー主要なギャングたちを集め、停戦を呼びかけるーーを殺したという濡れ衣を着せられ、自分たちの縄張りまで帰ろうとする話だ。今回のバージョンは、ウォリアーズたちはみんな女性。それはサイラスも同じで、サイラスの声は映画とも負けず劣らないカリスマのローリン・ヒルがつとめている。映画でウォリアーズを誘惑する女性ギャングのリジーズは、今回は男性ギャング、ビジーズとなり、他の役はマーク・アンソニー、コールマン・ドミンゴやビリー・ポーター、などなど。オープニング・ソングでニューヨークの5地区を表すのは、バスタ・ライムス、ゴーストフェイス・キラ、クリス・リバース、カムロンやナズである(映画で不気��な悪役を演じたデイヴィッド・パトリック・ケリーもカメオ出演している)。
ミランダと、共作の俳優・作家のデイビスは2007年以来の友人同士だ。この年、彼らはオフブロードウェイで、それぞれブロードウェイに行くことになるミュージカル(In the HightsとPassing Strange)に出演していた。彼がいうに、「ウォリアーズ」を原案に作品を作ると決めた時、すぐにデイビスのことを考えたという(デイビスの作品には、伝記劇Angela’s Mixtapteとピュリッツアー賞最終候補作Bulrusherがある)。「僕よりクールで賢い人と言ったら、と考えてすぐにイーサのことを思いました」。2020年1月、二人はドラマブックショップの地下でプロジェクトのことを話し合い始め、2年後、アルバムのレコーディングを始めた。
私たちは発売前の視聴パーティが行われたパブリック・シアターにて、ミランダとデイビスに、翻案についての選択や、なぜ「ウォリアーズ」の旅物語が「ヒップホップの誕生物語」と捉えることができるか、ということについて、話を聞いた。
「ウォリアーズ」に興味を持つようになったのはどうやって?
ミランダ:4歳の頃映画を見たんです。親友が階下のご近所さんで、そのお兄さんがVHSを持っていて。ビンをカチャカチャ鳴らすデイビッド・パトリック・ケリーは自分の人生最初のブギーマンでしたね。もうとにかく何回も、何回も見たので、映画自体が僕の頭の中のニューヨーク地図になってるんです。(ギャングメンバーの)レンブラントが地下鉄の路線図を指で辿りますよね。同じルートを、当時の、80年代中盤なので少し変わっていたんですけど、路線図にそって指でたどったことを覚えています。2009年に、ハイツを1年公演した頃ですが、大学時代の同級生のPhil Westgrenがメールをくれました。「プロデューサーのラリー・ゴードンと仕事しているんだけど、彼が、というか彼の妻が、まあ元妻が『ウォリアーズ』のミュージカルにするってアイディアを持ってるんだ。どう思う?」といったものでした。で僕の返信は、「これこれこういう理由でできるわけない」(全員笑)。「僕は『ウォリアーズ』が大好きで多分他の映画よりもずっと沢山見てるんだけど、だからこそこれこれの理由でこのアクション映画をミュージカルに翻訳することができない」と返したんです。とはいえ無意識下では「挑戦しかと受けたぞ!」という感じだったんですね。ざっくり2016年だか2017年だか、「ハミルトン」を公演してた時に飛ぶんですが、僕は考えてたんです。「次の作家人生、何をしたらいいんだろう?」って。その時に脳の全部が「『ウォリアーズ』だ!ウォリアーズ!やってみようじゃないか」って感じになって。ちょうどその頃、インターネット界隈はゲーマーゲートの時代で。2010年代って僕はめっちゃオンラインだったんで。今はそうでもないんですけど(悲しそうに笑う)。ゲーマーゲートのこと覚えているかわからないんですけど、ビデオゲーム界で働いてる女性たちが晒されて人生を台無しにされてました。大した理由もなく、カオスとウケを狙っただけの男たちに。
デイビス:ただのミソジニーですよ。
ミランダ:ミソジニーはもちろん。ただそれよりも根源的な悪意というか。「これが彼女の住所だ。それで何が起こるだろうね?」と言ったような。その残酷さは「ウォリアーズ」のルーサーを思い起こさせました。奴らとルーサーを結びつけたんです。それで、そうか、もしウォリアーズが女性だったら?ルーサーがサイラスを撃って、あのふざけた口調で、撃ったのは彼女たちだと言ったら?それで、イーサと一緒にやっていく中で、もし女性ギャングだったらと考えると、ストーリーがもっと興味深いものになると発見したんです。僕は映画が大好きで、頭の中ではもう二枚の石板【モーセが授かった、「十戒」が書かれた石板で二枚からなる】みたいになってます。でも物語を描いていく中で、どう��わせるか、そういう意味では、女性たちがホームに帰るために戦う話を描く方がずっと興味深いものになると思いました。ということであなたを引き込んだんです。あなたが話す番ですよ。
デイビス:リンは175cmの、ミュージカルシアターだけじゃなくて音楽の、時代の、私たちの文化の、巨人です。私はいつも文化としてのヒップホップと、文化としての劇場を組み合わせることを提唱してきましたけど、リンはそういったアーティストたちの末裔なんです。それが【このプロジェクトの?】芸術的魅力の大きな部分です。それに、リンは友達ですから。だからリンが、「どう?やってみたい?」ってなったら、断れませんって!もちろん、「やりましょう」って。でもまず映画を通しで見なきゃいけませんでした。ヒップホップを通じてしか知らなかったので。リンが言ったように、【十戒の】石板なんです。で、ヒップホップのサンプリングされ、彫刻になってる。
ミランダ:ウータン・クランの曲や、コモンの曲や、ミュージックビデオなどですね…
デイビス:どこにでも引用されてます。いまだにね。LL Cool Jが新しいレコードを出しましたけど、そのうちの一曲がSpirit of Cyrusで��から。
ミランダ:映画の中のサイラスの聴衆の「いけ!サイラス!俺らは兄弟だ!」がサンプリングされてます。
デイビス:そう。血脈に、DNAに深く根付いている。ヒップホップの、ニューヨークのあり方にね。この映画がそう言った基盤になってるってわかっていて見ることができました。ただ、その影響から無関係だったから、新鮮な立場で見れたとも思っています。だから、いらないな、って部分がわかりますから。ちょうど[TVミニシリーズの]Justified: City Primevalに関わっていたんですけど。それもエルモア・レナードの本を原作にしたものです。彼が言っていたことはこうです。原文を吊るして骨まで削り落とせと。これでも同じことだと思いました。そして新しいバージョンは女性が動かしているということが肝だと。またアイデンティティや表象に関しても同じように逐一切り分けていって、大事にしなきゃいけないと思った点は、2024年からの視点で行う必要があるということでした。【映画の】1979年でもなく、原作小説の1965年でもなく。
ミランダ:原作の元になっている話【小説のWarriorsはクセノポンの「アバナシス」を下敷きにしている。ギリシャ傭兵隊に参加したが敵地ペルシャで敗走し故郷に向かうこととになる顛末を元にしたもの】の時代(紀元前4世紀)でもなく!
デイビス:そう。でもこの作品は神話的でもありますからね。根源的な恐怖についてのことでもあるし、仲間や家族や生き残ることに対することの本能的な渇望の話でもある。
ミランダ:僕はいつも「ウォリアーズ」はニューヨークで恐るべきことのビジュアル・ガイドだと思ってきました。誰かが地下鉄の線路に落ちたり、車両で火事が起きたり、警察に追われた���、間違った界隈にいて間違ったギャングに追われたりだとかの、恐れることが全て起こるし、それが素晴らしく鮮明なイメージとして映画の中に描かれています。ニューヨークの恐怖スターターキットという感じ。
70年代は特にそうですよね。ニューヨークを舞台にした映画に描かれる地下鉄の様子って恐ろしげでした。「殺しのドレス」や「狼よさらば」、「サブウェイ・パニック」など、アメリカや世界は、恐ろしくて危険な地獄だと語っているようでした。「ウォーリアーズ」はその恐怖の文化の一つであると思いますが。
デイビス:興味深いのはその視点です。だって、例えば、恐れているのは誰か?列車に乗ったプロム帰りのカップル。ただ私が思うに、どうしてヒップホップ界がウォリアーズを愛しているかというと、ギャングについての、それもその後ミュージシャンとなったギャングについての映画だからだと思うのです。ズールー・ネイション、今はズールー・ユニオンのような。またはゲットー・ブラザーズのような。アルバムに繰り返される一節は「これはなにかが生まれる音(This is the sound of something being born)」です。ある意味ではこれはヒップホップのオリジン・ストーリーなんです。まあ今現在我々がヒップホップの始まりだと決めた、1973年にセジウィック・アベニューでCool Hercがブロックパーティをしたときよりずっと後の話ですけど。
ヒップホップのストーンウォールライオットということですか。
デイビス:まさにそう。その頃(70年代終盤)といえば、シュガーヒル・ギャングやグランドマスター・フラッシュがいました。これらの若い世代のコミュニティは、「もう抗争はしたくない」と言った世代でした。映画の中で起こった停戦は、実際のブロンクスで起こったことなんです。ゲットー・ブラザーズのベンジー・メレンデスが主導したことです。もう争いたくない。縄張りやコミュニティを代表した組織としてわかり合おうじゃないかと言ったんです。変化が文化の成熟を生み出した美しい瞬間でした。
ミランダ:イーサが注目した視点というのは、「平和の約束」が実を言うと映画のモチベーションなのだということです。彼らは平和の約束をもとに、自分たちの縄張りを離れた。僕がこの映画を愛しているまた別の部分というのはーーヒップホップや、我々のカルチャー一般がこの映画を愛する理由でもあると思いますがーー登場人物たちを全く値踏みしない、または彼らのいる条件の中で値踏みをしているという部分です。実際、ある登場人物が彼らを値踏みするときは、ウォリアーズの側についていたくなるんです。大変な状況に放り込まれて、なんてこった、家に帰らなきゃ、という気持ちにさせられる。それって世界中で一番普遍的な話ですよね。
なるほど。ウォリアーズは映画の中でギャングに脅かされますが、でも彼らもギャングですよね。外部の側からのギャングを見る目じゃない。
ミランダ:勿論。だからそのような立場に置かれますし、またそれだからこそ美しくシ��プルな話を伝えられます。
映画で、サイラスはギャング間の停戦のみ提案するのでなく、停戦して力を合わせれば街を支配できる、と説きますよね。お日様とお花の世界でなくって、これは組織犯罪の大計画です。アルバムの方では、もっと協力といった部分が強調されたものにシフトしているようですが。
デイビス:ええ、何が言いたいかわかりますよ。映画でサイラスが言うことはこうです。「モブや警察よりデカくなって街を乗っ取ろう。」私たちはそれを、「街の平和のために団結しよう」、というふうに精製し直しました。街を乗っ取るためではないんです。
ミランダ:平和への約束っていうのが面白いなと思ったんです。自分たちの界隈ーー自分たちの界隈ですから、物事は守備よく進みますーーを離れることができるということは、恐れる必要もなく自由に街中を出歩ける機会だということですから。
そしてサイラスは暗殺されます。ピースメーカーの暗殺はーガンディーやキングやラビンの暗殺のようにー興味深い現象ですよね。世界中にその興味深くも恐ろしい要素があります。ここでの要素はルーサーで、彼の激しいメタルサウンドは彼の二ヒリスティックな態度とよく対応しています。
デイビス:彼は混沌の悪意ですね。
ミランダ:混沌の悪意。それが彼のD&Dタイプですね【ダンジョンズ&ドラゴンズ由来のキャラクタータイプ分けのやつ(lawful good,neutral goodとかああいうの)を言っているかと】。イーサが参加する前、ルーサーのラップを作ろうとしたんです。でもどうも理路整然としすぎてて。もっとちゃんとした計画があるやつみたいになったんです。「ハミルトン」の時みたいに、登場人物の考えのパターンにマッチしたフローを作ろうとしてたんです。そこでイーサがAlekhine’s Gunって聞いたことある?って。それがまた[とても大きなしわがれた雄叫びを挙げる]って感じで。聴いてる間、うちの天国のカトリック信者のおばあちゃんたちが十字を切るのを感じましたよ。僕はメタルの大ファンなんですが、ああそうだな、これはショーの音楽で聞くとは思わないよね、と思いました。
地底が開くような音ですね。
ミランダ:一番意外なものですよね。でも結局意外なのが一番面白いし勝つんです。本当に混沌としたエネルギーがあるのは楽しい。実際は熟練の、コントロールされたものなんですが、混沌としています。
このボーカリストも素晴らしいですね。
デイビス:ええ、キム・ドラキュラは素晴らしい。勿論、ロックミュージカルの多くはラブレターですーー
ミランダ:70年代のジーザス・クライスト・スーパースターみたいなコンセプトアルバムへのねーー
デイビス:だからロックサウンドは重要なんです。でもメタルの方向に行くと言うのは、違いかなと思います。
ミランダ:11まで音量を上げて!【映画spinal tapの台詞。音量のリミットは10までだよ…という���事になる】
デイビス:サウンドはキャラクターに命を吹き込むためにも本当に大きな役割を果たしますから。
ミランダ:僕らはまずそれぞれ好きな70年代の音楽ミックスを作ることから始めました。または今のものでも70年代の断片を残すものですね、ストロークスのように。それぞれギャングが違った音を奏でるのは、それぞれのネイバーフッドはそれぞれ違ったサウンドになるからです。
デイビス:違った音を作ってニューヨークのパッチワークキルトを作ろうとしたんです。
ヒップホップのスコアがあるのは勿論ですが、ポップの要素が全体を強く貫いてますよね、特定の文化やエスニシティを想起させるような。どうやってそれらのサウンドを選んだのですか?
ミランダ:本当に一つ一つこなしていきましたよ。まず、もしイーサが音楽の思いつきがあったら、まず鍋に入れていくんです。オープニングナンバーを聴くと彼女のボイスメモからとった声が聞こえますよ。その時は彼女は「こんな音楽がオープニングに聞こえた」みたいな感じで[フレーズを歌う]。オープニングナンバーのクラクション・ラインになりました。なんだったらボイスメモを一番上の方におきました。ビートが始まる前にイーサの声が聞こえます。
デイビス:確か最初は私が脚本を書く、という提案でしたよね。
ミランダ:そうでしたが、その考えはすぐに捨てました。持ってるものを全て頂戴、それをガンボ【鍋料理】に放り込もう!ということになりました。イーサの提案はオープニングナンバーとウォリアーズのサウンドのベースラインに沢山活かされています。”Roll Call””Woodlawn Ceremony”なんかに特に。それから、ターンブル・A.C.ですが、ちなみに僕のお気に入りのギャングなんですがーーだって改造スクールバスに乗ってるんですよ、まるで「マッドマックス・怒りのデスロード」じゃないですか。
このアルバム全体が怒りのデスロードのようですよ。
デイビス:そうですね!
ミランダ:僕の頭の中では、1979年のサウスブロンクスのスキンヘッズじゃないんです。プエルトリコ人たちなんですよ!だからファニアのことを考えたんです。ファニアは世界的なサルサのムーブメントですが、実はサウスブロンクスから始まりました。ウィリー・コロンはブロンクス出身です。70年代にサルサを改良復興した人々はみんなサウスブロンクス出身で、しかもギャングスターでした。ってことで、よし、彼らをファニアギャングにしようと。マーク(アンソニー)はファニアの偉人エクトル・ラボーを演じたこともある【「エル・カンタンテ」(2006)】ので、彼に話を持ちかけました。頭の中ではフューリーロードのギター男みたいになってる彼を想像してます。ウォリアーズを捜索する中で、文字通りバスのフロントに括りつけられて歌うバラード歌手。それから、【映画では】ユニオンスクエア駅で襲ってくるスケートに乗ったギャングを、96番街駅のハリケーンズのハウスに送って再構成しました。これは僕らなりのボールルームサウンド、「パリ、夜は眠らない。」【Paris is Burning、1980年代の有色人種のクィアの人々が関わったボールルームカルチャーを記録した���キュメンタリー映画】などのサブカルチャーへの賛歌なんです。あとはどんなギャングがいましたっけ?
デイビス:オーファンズですね。沢山ある中で、感情的に必要な、彼らにふさわしいバイブのあるものはなんだろう?と。
ミランダ:そうやって、オーファンズにはポップパンクとポリスの中間点を取りました。ポリスっぽいスカが、ブリンク182っぽいものに変化します。ニューヨークらしい言い方をすると彼らはハーブス【負け犬、キモいナード、ぐらいのスラング?】なんでね。
デイビス:西海岸でもハーブスって言いますね!そう、彼らはハーブス。カモ、道化です。
それで、勿論ビジーズがいますね。
デイビス:ボーイバンド!みんな私たちがあれをレコーディングしてる時怒ってましたよ。彼らが言うに、みんなこんな感じの曲を作ろうと長年頑張ってるのに、リンは、おはようー!じゃやるか!って感じでやっちゃうんだからって。確か(息子の)フランキーのために書いた歌がベースになってるんですっけ?
ミランダ:そう。うちの子のために書いたメロディです。チャーミングなメロディが必要だったので、その歌から拝借しました。実際は子守唄だったのですがボーイバンドのテーマに作り直しました。僕らは「ザ」・ボーイバンドが必要だったんで。これもまた2024年の視点からのボーイ���ンドです。ジョシュ・ヘンリーが最善のボーイズ・Ⅱ・メンソウルを持ち込んでくれてますし、スティーブン・サンチェスも美しく歌い上げてくれてます。最後にダニエル・ジャカルがK-POPのフレーバーを持ち込んでくれてます。
ポップの要素のおかげで、70年代ロックオペラコンセプトアルバムのスピリットをまた思い出させてくれますね。ポップはアンドルー・ロイド・ウェバーとティム・ライスのミュージカルには大きな役割を果たしていました。あれらの曲は、ラジオで流行ってる曲と同じぐらいモダンでしたから。
ミランダ:アンドルーとティムが成し遂げたことは本当にすごいことでした。彼らは「ジーザス・クライスト・スーパースター」を完成させる前にすでに「スーパースター」をリリースしました。だってどこのレコード会社もフルアルバムを制作させてくれなかったから。冒涜的だとか罰当たりだとか呼ばれつつも、反響がすごくて、レコード会社もしょうがない、アルバムを作れ、となったんです。本当に好きなアルバムです。でも、聞いてくださいよ。貧乏な時は、どんなキャスト・アルバムもコンセプトアルバムです。聞いているものからショーを頭に描いて、点と点をつなげるんですからね。僕が子供の頃に両親が持っていたキャスト・アルバムを聴きながらやっていたことです。劇を見る手立てのない人たちが「イン・ザ・ハイツ」や「ハミルトン」のキャストアルバムを聴きながらやっていたことなんです。面白いんですが、アンドルー・ロイド・ウェバーと朝食をともにしたんですけど。彼が街にやってくると聞いて誘ったんです。そこで尋ねたんです。「あなたの手順書から盗んでる途中なんですけど、イーサと僕はコンセプトアルバムを作っているんです。何かアドバイスはあります?」と。「あるよ。ライブバンドと一緒に作りなさい」ということでした。彼は熟練のミュージシャンたちに自分の音楽を演奏してもらい、さらに探索する喜びを教えてくれました。確かにそれは今��でと違った体験でした。「これが楽譜です。演奏してみてください」っていうのとは全く違いました。
デイビス:でも、アンドルー・ロイド・ウェバーが言う前から、その方向性だったと思います。初めの頃のミーティングで、バンドとやってみて、曲が完成するのに任せてみたらどうだろうか、と話していたので。やってみると、本当に素晴らしかったですね。
ミランダ:僕らのプロデューサーのマイク・エリゾンドはナッシュビルを拠点にしています。素晴らしい人々と親しい友人を呼んでくれて、2週間曲を探索できました。一つ歌を持ってきて、セッションしてその中から生まれるものがーーまるで映画を撮る時みたいに、計画して、でもたとえばそこで照明がいい仕事をしてるな、となったらそのひらめきについていく。それがとても楽しいところでした。座ってミュージカルを書いているのとは違う体験でしたから。
今年の初め頃にレコーディングをしたんですっけ?
デイビス:まずはデモから始めました。私たちのウォリアーズがウォリアーズとなった過程はまた全く別の話です(ウォリアーズはブロードウェイ俳優のジャスミン・シーファス・ジョーンズ、フィリッパ・スー、アンバー・グレイなどが演じている)。最初にデモを取ったのですが、いやいや、これより上手くできる人がいる?って。
ミランダ:無意識にキャスティングしてたんですねきっと。デモができて、僕ら目を見合わせて、もうバッチリじゃん。ポップスターにやってもらうこともできたけど、でもーー
デイビス:これより上手くできないって。こんなケミストリーができる?そもそも演技ができる?彼女たちも多忙で、素早くやらなきゃ行けなかったけど、それでも素晴らしいものができた。
ミランダ:実際、トラックを録るよりまずウォリアーズのパートを先に録ったんです。で、ナッシュビルに2週間行ってーー
デイビス:そこでトラックを録りました。
ミランダ:そのあとギャングたちと、スターたちを追いかけました。オープニングナンバーだけでも大仕事です。ゴーストのレコーディングをするためにスタテンアイランドへ。ビッグパンの息子の、クリス・リバースがアリゾナに住んでいるので、そこへ。彼らがいるところ追いかけて行きました。
デイビス:そしてミス・ローリン・ヒルを、マネージャーを通して追いかけました。世界中を旅してますから。
ミランダ:そしてある日、Dropboxにボーカルが。バックグラウンドボーカルまで足してくれました。あちらで全部やってくれたんですよ。びっくりしました。
デイビス:とろけましたね。
ヒルの声は本当に権威的ですね。また、若い頃よりもラフな声です。
デイビス:人生が積み重なった声ですね。いぶしが効いています。
ミランダ:Apple Musicによると、「ミスエデュケーション・オブ・ローリン・ヒル」はオールタイム・ナンバーワンのアルバムです。なのでミス・ヒルがサイラスを演じて、男社会の中でトップに立ち支配している、という想像はちっとも的外れなものではありません。イーサが参加する前に別バージョンの曲を書いていましたが、イーサとの会話でこの役割に立つ女性としての姿を深く考えることができました。「私がこの立場に立ち続けるためにしたことを想像してみろ」と言う詩があります。この男社会の業界の中で。
ブロードウェイ・ミュージカルは他のジャンルよりも、女性をセンター���してきたと思います。私が面白いと思ったのは、この作品はあなたが今までやってきたことからの大きな変化ではないかという点なのですが。
ミランダ:僕としてはやってることはずっとおんなじなんですよ。僕は劇場で劇場に恋に落ちたわけじゃないんです。学校劇に出たことで劇場に恋したんです。気づいたのですが、僕はいつだって最高の学校劇を作ろうとしてきてたんです。そりゃあ罵り語に満ちてるしギャングについての話だったりしますが、大人数の登場人物で、素晴らしい女性たちの役も沢山必要なんです。男の子の割合は1/8ぐらいですから、女の子の数の方が圧倒的です。少なくとも僕の高校はそうでした。
ゲイボーイのためのギャングもありますしね!
ミランダ:そうそう。(笑)甥がシアター・キャンプに行ったんです。シアター・キャンプの人口分布もそうじゃないですかね。
デイビス:今回【ウォリアーズを女性にすることで?】持ち上がった大きな課題はこうです。彼女たちは深夜に道を出歩かなきゃならないってこと。勿論、彼女たちはギャングですが、普段は自分のシマにいますからね。私たちは、彼女らはコニーアイランドのボードウォークを安全に保とうとしている、というふうに考えました。でも彼らは今は知らない違うテリトリーにいる。しかも丸腰だと。
彼女たちはギャングとガーディアン・エンジェルの中間にあたるような感じですね。
デイビス:そうなんです!で、ビジーズの部分になって持ち上がった問題はこうです。どうして彼女らはよく知らない男たちの家についていけるか?ということです。どうやったらついていくだろう?ニューヨークを歩くということはーー女性はみんなわかると思いますがーーどう警戒して逃げる準備をする必要があるかということなんです。夜遅くに出歩く時は鍵をこう(拳から鍵を突き出した状態で持ってみせる)持っておかなきゃならない。誰かに襲われるかもしれないから。どれぐらい付き纏われたことがあるだろうか?彼女たちは明らかに自分たちの安全のために仲間と共にいただろうし、お互いの面倒をよく見たでしょう。私はサイラスが「和平を結ぼうじゃないか」と提案した、というアイディアをすごく気に入っているんです。なぜなら暴力というのは、女性の方に余計影響を与えるものだからです。映画では、マーシーはギャングレイプの脅しを受けます。
ウエスト・サイド・ストーリーのアニタみたいに。
ミランダ:性暴力の脅威は常にすぐ表面下にあります。
デイビス:原作では実際に起きます。だから彼女たちは映画【の男のウォリアーズ】よりずっと危うい立場なんです。彼女たちのお互いへの忠誠心の理由になるところだと思います。仲間のためなら死ぬことだって厭わない。
ミランダ:それを考えるとビジーズの歌の制作はより興味深いものになりましたね。だって、映画みたいな「イケてる女たちだ、ついていこうぜ」じゃだめなんですよ。僕らはビジーズがどんな感じならついていくだろうか、ということについて沢山話し合いました。それで、そう、セーター・・・
デイビス:セーター。ふわふわのセーター。
ミランダ:セーターの約束。食事の約束。休息の約束。イーサは特にフレンチトーストのことを言ってたんで、歌詞に入れました。(二人笑)つまりはこういう会話です。「何を��っかけに警戒を解くだろうか?」
マーシーを女性のままにして、(ウォーリアーズのリーダーの)スワンとのロマンスもそのままにしましたよね。僕はすごい腑に落ちましたよ。だってもしウォリアーズがコニーアイランドで幅を利かせている女性ギャングなら、少なくともひとりはダイクがいるだろうって。
デイビス:少なくとも!そうですね。(笑)
ミランダ:それに関しては話題にすら上がらなかったですね。マーシーは【映画の】マーシーのまま。マーシーはマーシーなりの力を持っています。彼女の登場シーンで明白です。オーファンズは、うわ!マーシーだ!って感じですよね。マーシーが怖いんです。彼女はそれだけの強みがある。
デイビス:そして自分に合う相手を見つけるんです。スワンをね。スワンもかなり警戒心の強い人です。
ミランダ:マーシーもスワンが自分のことをよく知らないのに、追い払わないことに驚きを感じるんです。
アルバムを聴いていると、すごく映像が思い浮かぶんですよね。勿論映画を見たからなんですけど、それだけじゃなくて、見せ場などは舞台で表現するのが難しそうに感じます。バスや地下鉄やファイトシーンなどの部分です。「ウォリアーズ」の舞台化を考えていますか?そうだったら、何か変わる部分がありますか?
ミランダ:映画にする気はありませんが、舞台化はすごくやりたいですね。でもこれ(アルバム)が一番の形かと思いました。望んだ声たちを得られましたし、その中の大体の人たちは週に8回公演することはないでしょう。ミュージシャンシップに乗っ取ってアルバムを作る時間を十分に取れました。正直に言ったら、映像化や舞台化の制約から自由に作れたんです。もしファイトシーンがあったら、「曲が終わり、彼女らは勝った」で言うだけで済みますから。誰であれ、将来の制作チームに大きな課題を設定できたら嬉しいなと思います。とはいえまずはこのストーリーがどう歌われるかを見たかったのです。その探索の衝動が、まずアルバムという形で残したかった理由なんです。頭の中で壁にかけて、最初から最後までストーリーを組み立てるーー「トミー」や「ジーザス・クライスト・スーパースター」みたいに、「ハデスタウン」のようにーーその後に、次に進む。
先ほどお互いにミックステープを作ったという話を聴いて、閃いたのですが。「ハミルトン」は最初は「ハミルトン・ミックステープ」でしたよね。で、イーサ、あなたは「Angela’s Mixtape」を書きました。(有名な黒人のラディカルな政治活動家で大学教授の)アンジェラ・デイビスの姪として育った自分の経験を題材にした作品です。サイラスはアンジェラ・デイビスのようなタイプではないですか。あなたの家族や彼女の周りの関係性はキャラクターのヒントになりましたか?
デイビス:そうですね、そのことについて考えないことはできなかったですね。自由と正義と社会変革の価値については、生まれる前から深く叩き込まれてきましたから。アンジェラが投獄された時、母は私を身ごもっていました。
ミランダ:伝記のその部分を丸つけてますよ。釈放された時にイーサを手渡されたんですよね。(二人笑)
デイビス:そうです!とはいえその政治に囚われていたわけではないです。彼女も私の母も、この場合は私の父も、私の芸術���としての活動をよく支えてくれますし、芸術は人々が未来を夢見て前に進むために大きな役割があるということを理解してくれています。でも彼女のことは当然私の頭にありました。当然ね。
ピースメーカーでありギャングリーダーでもあるという組み合わせは、アンジェラ・デイビスの文脈で考えると特に示唆的ですよね。このユートピア的な理想はまたブラックラディカリズムの暴力的でモラル的にも危うい側面にも基づいているという・・・念の為、彼女が裁判の件で有罪だったと考えているわけではないですよ!ただ彼女もその世界にいましたね。
デイビス:そうですね。マーティン・ルーサー・キングやケネディやマルコムX、フレッド・ハンプトンの暗殺の話になると思うのですがーーほんとうにおばが生き残ることができてよかった、と思います。本当に沢山の、本当に沢山・・・私が子供の頃、おばは死の脅迫を受けていました。家を締め切って、ボディーガードをつけて。電話も盗聴されてました。
その時は一緒に住まれていたんですか?
デイビス:いいえ、でもとても近くに住んでいたんで、親のひとりみたいなものでした。私を育ててくれたんです、母と継父と一緒に。彼女の家で一緒に過ごしましたし、彼女の持っている音楽も聞きました。母と同じように、彼女も文化を愛していますから。私が芸術の道に行き着いたのもー彼女たちが芸術を愛していたからなんです。ところで【それと関連して?】映画でもあった曖昧な要素ですがーールーサーと電話で話をしていたのは誰か?誰かがサイラスを殺すためにルーサーに依頼したのか?
ミランダ:ウォリアーズのレディットにいくと陰謀論について議論されてますよ。誰かのためにやったのか?誰と話していたのか?
デイビス:そう。コインテルプロの世界を実際に経験した身として、ルーサーが誰と話していたのか仮説を立てることができます。仮説ですよ!知らないですけど。でも私たちはそれについては曖昧にしておくことにしました。あの時代は本当に沢山の組織が関わっていましたから。誰もどこと関わっているかわからなかったのです。オリバー・ストーンの「JFK」にいいセリフがあって。殺し屋でさえ誰が殺し屋かわからないっていうセリフでした。不明瞭にするのが実際の戦略だったんです。もちろんそのことも考えました。そのほかにリンと話したことは、ーー”Quiet Girls”の時に話したことですがーーハリケーンズがウォリアーズに言ったことです。「無実であることを人々に知らしめなければいけない」。逃げていれば、有罪に見える。もちろん、それはおばに起こったことです。彼女は地下に二ヶ月潜りました。彼女は無実でしたが、人々は彼女は有罪に違いないと考えました、逃げていたので。【おばのことが?】反映されていると気づいたのはまたワイルドな瞬間でしたねーーハリケーンズが言っていることは、「みんなに知ってもらえ。ただ逃げるだけじゃなくて外に出ていけ。自分たちは誰か、何をしていないかを知らせろ」ということです。それをストリートの、自分たちのアイデンティティを隠すことはできない、というクィアの人々が伝えるというのが重要でした。我々のアイデンティティを何倍にも広げて輝かなければいけない。それは生存の方法なんです。
生存といえば。ウォリアーズのリーダー、クリオンは、映画では最初に死にます��ーー少なくとも死んだように見えますが。
ミランダ:死ぬまでゆっくりエルボーされたみたいな。(二人笑)
でもあなたたちのバージョンでは、クリオンは生き残って、サイラスの右腕マサイと同盟を組みますね。
ミランダ:マサイは映画では3分ぐらいしか出てこなくて、セリフも「ウォリアーズとは誰だ!」ぐらいですが、彼の話をもっと聞きたいなというのと。それでコールマン・ドミンゴを得て、本当にすごいですよ。そうすることで、和平の実行者を得たと思っています。クリオンはウォリアーズをそこ【ブロンクス】に連れて行った張本人です。クリオンは「サイラスは唯一無二だ」って感じですから、クリオンを生かせば、サイラスの夢は生きる、それが僕らのプロジェクトの大事な理論でした。彼女はウォリアーズに、僕たちに、旅をする理由、サイラスが死んだからその理由が消えるわけではないということを思い起こさせる存在なのです。これはイーサの作り出した構造でした。僕は恐怖の側から、イーサは希望の側から始まって、ちょうど真ん中で折衷することができました。(二人笑)
デイビス:本当にそうですね。
「ウォーリアーズ」は10月18日、金曜公開。
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映画感想『鈴木さん』
2022年、日本。 公式サイト https://suzukisan-movie.com/
!トリガーワーニング:視聴上の注意 エイジズム(年齢差別)、戦争・徴兵、暴力(個人、権力によるものなど)、死、望まない結婚、ワンオペ労働、感情の揺さぶり など
【あらすじ】 現神「カミサマ」が見守る架空の美しい国(どこでしょうねぇ)のとある地方を舞台にしたディストピア映画。いとうあさこさん演じる「ヨシコ」はもうすぐ45歳になろうとしている。45歳で独身のままだとに市民権を失う「美しい国を守る法」が彼女に迫る。ヨシコは誰かと「結婚」するか「市民権を失うか」それとも「徴兵」されるか、迫られる中で友人は徴兵を決め、彼女が務める(というか守っている)高齢女性ばかりのケアホームでは結婚をせっつかれ、世間ではスパイ狩りと称して市民権を失った人々が狩られ始め…。
映画を見たのは約半年前、しかし、感想を書くのが今になったのはこの映画が持つメッセージを強く受け取ってしまい、感情が複雑に絡まった紐のようになって、解けず落ち着けたのが今だからです。 作品全体には技術や予算の不足(公式にある監督のコメントによると、撮影から公開までの間に新型コロナがあったようで…、その混乱ももしかしたらあるかもしれない)によるであろうと思われる未熟さも見えるのですが、社会的意義が大きく、無視できない作品だと思います。こうした未来が「在り得る」かもしれないと私はうけとめています。
!以下は大きなネタバ��を含みます。
過去、浅倉南(38独身)と年齢と結婚を揶揄したネタで大うけした、いとうあさこさんが『鈴木さん』を引き受け、年齢で追い詰められる役を演じた。年齢を重ねた時、若さとの狭間に悩み開き直ることも、多分、裏で死ぬほど悩んでいることもあるであろうヨシコのような部分も、どちらも現在進行形で表現という分野でやり切っているいとうあさこさんの全力さを改めて応援したくなります。
映画で描かれている独身徴兵制は可能性が残されていると思いますし、結婚を始め、子どもを産まない(産めない)女性に対する社会的圧力は現在でも様々な国・地域で大きくあります。 子どもを産み育てるのには労力がかかりますが、相対的貧困(飢えるほどではないけれども、生きるのに必要な道具が購入できない状態)は高い状態にあり、「子育て罰(チャイルドペナルティ)」「母親ペナルティ」という言葉が聞かれるようになりました。男女の賃金格差について指摘しているのが昨年ノーベル経済学賞を受賞したクラウディア・ゴールディンさんです。
・相対的貧困について 朝日新聞/SDG’s ACTION 「相対的貧困とは? 定義と現状、解決につながる対策を紹介」 https://www.asahi.com/sdgs/article/14844785 ■結婚・出産に対する圧力 生活ニュースコモンズ:シリーズ都知事選「小池都政チェック」 官製婚活の行き着く先は 1996年に廃止されていた「東京都結婚相談所」 https://s-newscommons.com/article/3074 Choose life project:【 #Choose大学 】7月 公共政策と公共性-官製婚活から考える-第1回 「官製婚活」って何? 講師:斉藤正美(社会学者•富山大学) https://youtu.be/qCUGSpQY34s?si=afHWXItO-vKBwNgX (※Choose life projectは立憲民主党から応援資金を貰っていたことが問題となりました。この点は指摘しなければなりませんが、富山大学の斎藤正美教授の授業を始めとした特に日本で受けにくい人権に関する教育について授業を無償で受けられるChoose大学は良いプロジェクトだと思いますし、官製婚活についての問題について考える良い動画だと思うのでオススメします) ・朝日新聞デジタル:「子どもの少ない人は反省を」 笹川尭元総務会長が自民会合で発言 https://www.asahi.com/articles/ASS772JH1S77UTFK00GM.html ・東京新聞:「女性と出産��またぞろ問題発言…政治家はなぜ懲りない? SNSでは論点をすり替えてまで擁護に走る動き https://www.tokyo-np.co.jp/article/328775 ・毎日新聞:「またか」…政治家「出産」巡る発言 麻生氏「産まないほうが問題 https://mainichi.jp/articles/20190204/k00/00m/010/254000c ・朝日新聞:女性都議へのヤジ問題 https://www.asahi.com/topics/word/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E9%83%BD%E8%AD%B0%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%83%A4%E3%82%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C.html ・PRESIDENT ONLINE:塩村文夏都議。セクハラやじ騒動、初めて明かす顛末(ヤジを受けた塩村議員本人による記事) https://president.jp/articles/-/13782?page=1 ・ANN NewsCH:セクハラやじ発言で鈴木都議が塩村都議に直接謝罪(14/06/23) https://www.youtube.com/watch?v=FhvLtuMacMw 10年前からこんなニュースがありました。
調べてわかりやすいものだけでも載せましたが、こうした「産め」という圧力はずっと続けられています。アメリカ大統領選に名乗り出たカマラ・ハリスにさえあります。一応補足として、彼女はステップ・マザーです。
・在日米国大使館と領事館:カマラ・ハリス https://jp.usembassy.gov/ja/bio-vice-president-harris-ja/ ・BBC:【米大統領選2024】ヴァンス副大統領候補「子供のいない猫おばさん」批判を説明 発言への非難受け https://www.bbc.com/japanese/articles/c3gvy7ky327o
その圧力が如実になった架空の国(どこなんでしょう)で、独身であるヨシコは選択を迫られる。友人が徴兵を選び、後に戦死して帰って来たことからこの架空国は静かに戦争が続いているのだとわかる。ヨシコは上からも下からもせっつかれる。ヨシコが徴兵か市民権を失えば、ケアホームがどうなるかさえわからない。ここに高齢女性たちのずる賢さがある。
そんなヨシコの前に「鈴木さん」という一人の男性が現れる。ヨシコは彼と「結婚する」と宣言することで市民権剥奪と徴兵から免れる。映画中では書かれていないか、私が気付かなかったのかもしれませんが、同性婚は認められていない世界だと思います。この架空国家では、徴兵制を逃れるための偽装的結婚は異性愛者にだけ認められている権利であるというのも指摘できます。どっかの国に似てますね。
この映画に対してこうした方が良いのではないかな、という思いが幾つかあって、一つは、老人と若者を悪しく描きすぎている部分。 私は新しい世代の若者たちは自分よりもはるかに賢いと思っている。環境問題と密接にかかわる(産まれた瞬間から酷暑や逃れられない温暖化と共にある)と思っているし、流行の変化も速いし、大学費用の値上がりの話題もあって、のほほんと過ごしていられない。 高齢女性たちはヨシコに世話になりつつ、ヨシコを追い詰める存在として描かれる。先ほど「高齢女性たちのずる賢さ」と書いたけれど、彼女たちはヨシコがいなくなればケアホームが無くなることにも気づいているから、ヨシコを留めたいという思いがあるのではないかと感じたからだ。裏を返すと、彼女たちはヨシコがいなくなれば住む場所が無くなる。彼女たちにはヨシコに結婚して“もらう”しか選択肢がなかったのである。 もう一つ、現神である「カミサマ」の写真をもっとあちこちにベタベタ張った方がよかったのではないかと思った。ただ、それだとエンディングに繋げるのが難しいと思うので、この辺は悩ましい。
スパイ狩りが始まるシーンから最期、鈴木さんが化粧をしてボロボロのスーツを纏い、「私は神様です」と宣言しながらも村人に撃たれるシーンはここ数年(性表現に関しては苦言もありますが)名作とされる『福田村事件』と重なる瞬間がありました。テーマとしては通底して同じだろうと思います。結局鈴木さんが何者だったのかは明かされないのですが、彼は「番号を持っていない」(日本人としての国籍を有していない)と言うことを思えば、暗に…ということも。それは観る人の感想にもよるのでしょうが。
最期のシーンは鈴木さん一人が全てを引き受けようとしてしまうという君主国家の問題にも見えるし、何事も一人で引き受け、解決しようとする男性社会の限界にも見えた。恐らくそれは私がフェミニズムに関する本を読み、フェミニズムに関する批評文などを眺めているからだろうと思うけれど、鈴木さんの行動でヨシコがある意味「延命する」ように見えるのだが、延命しているだけで、ヨシコに纏わりつく根っこの問題の解決になっているとはいえない。それどころか、鈴木さんを失ったことで、ヨシコはまた市民権の問題を抱えるのかもしれない。 そして、国によって植え付けられた市民が持つ「差別の種」が国を崩壊させていくだろう。
そうした意味でやはり、この『鈴木さん』という映画はフッとどこか現実と重なって、架空の国家ではない今とリンクする瞬間がある。もう一度いうけれど、私は独身徴兵制が遠くて近い未来の話としてあり得ると思っているし、それが実現する国であってほしいと思わない。同じ焦りをこの映画��ら感じた。この映画に映し出される様々な問題、どれかから似たような焦りを感じる人もいると思う。 その焦りには政治的な無関心に原因があるのだと思う。選挙の権利があるうちに使おう。そしてせめて、映画を観た人の間でそれを共有しよう。
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脱毛のやつを買った。早速使ってみるが痛すぎワロタ。こんな光学兵器を無資格で振り回していいのか。フライヤーの油を替えたのでドーナツを揚げた。結局揚げ物だから気持ち悪くなっちゃって全然食べれない。

ディストピア社畜ウォークシム、Mosaicをクリア。ほぼ品川駅な群衆。出荷される社畜。現実逃避。灰色の現実と鮮やかな妄想のコントラストがきれい。結構好き。作中主人公のスマホに入ってるアプリゲームが現実のapplestoreでも配信されているのでプレイ。効率化しつつ数字を増やしていくだけのシンプルなクリッカーで作中は主人公の依存先で空虚の象徴みたいな使われ方をしているが人間はボタンを押して数字が増えると嬉しくなる生き物なので普通に楽しい。終わりだね。

chants of sennaarの体験版をちょっとやる。言語解読×パズルアドベンチャーって感じでかなり面白そう。石碑の絵とか装置の動きから文字の意味を推測してパズルを解いたり先に進んだりやっていく。そのへんの人に話しかけたら言語もわからんのにルールもわからんカードの勝負が始まりよくわからんままたぶん負けた。おもしれえ……製品版も買うかも。



ジャンプ読むのは明日にしてもう寝ようかな。
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250人弱いる授業の提出物の採点にGeminiのアシストが入っているのだが、AIにアシスト採点されてまでアイデアの評価されたい学生などいるのだろーか。などと思ったりして全員にフィードバックが行き渡るのはいいことだが、講評とは新しい視点から批評されたり視座を与えられたりする可能性を含んでいるから、考える側も躍起になれるのであって、文面で返ってくる評価がビッグデータから引かれてきた情報が平均化された文字列という教育現場のディストピア感すら感じる。これで本当にいいのだろーか。最近大学内のAIリテラシーの整備が進んできて、作品制作ではビジュアル面にタッチするところでは人工知能を用いた出力をしない。発想やコンセプト部分については使っても良いが使った場合はどこにどう使ったか明文化するという方針で学科内のopen AIとの付き合い方とするらしい。しかし採点にもGeminiが用いられているということの透明性はというと、完全にクリア���ではない。今回の折り合いとしては採点は教員が行っ(たものとし)て査読と多少の添削をして、AIは要点の抽出に用いられたということで公表した上で返却されるそう。すごく体裁の整った課題ではなく授業内で行ったワークの講評ということもあり、現状では全員に返す>好評の正当性という印象だが、学科引いては大学としては今後も学生数は増えていく展望は変わらないらしく、ちゃんと対人で評価できるリソースを持てないなら大学教育の終わりなのではないだろーか。
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ある権威主義的な国で開発されているAIに、政治的にその国の政府にとって不都合なことを質問すると、「普通の答え」がどんどん出力されていき、最後にそれが全部消えて、「話題を変えましょう」という表示になる場合があります。それは、権威主義的な政府に対する配慮のやりかたとして、「AIの思考過程自体」に政府への忖度を内面化させることは難しく、出力結果を見ての「判定」の方が容易だ、ということを表していると考えていいでしょうか?
ChatGPT said:
はい、その現象は、**「AIが政府にとって不都合な思考を自己抑制している」のではなく、「出力された結果を人間またはフィルタリングシステムが検閲・遮断している」**という構造に基づいている可能性が高いです。
以下に、その構図をより明確に説明します。
✅ 結論:
AIに忖度させるよりも、出力結果を検閲・���正する方が技術的に容易である。
🔧 技術的観点からの補足
1. AI内部に「政府への忖度的思考」を内面化させることの困難性
AI(特に大規模言語モデル)は、「思考」や「価値判断」を論理的・明示的に持つわけではありません。
訓練時に「権威に逆らうのは悪」といった価値観を直接埋め込むことはできないか、非常に限定的です。
また、仮にそれを埋め込めたとしても、特定の文脈でだけ発動させるのは難しく、汎用性が損なわれます。
2. 出力内容を後段で「検閲」する設計の方が合理的
実際の運用では、以下のような「後段のフィルタリング」技術が用いられています:
キーワード検出
意味的類似性分析(執拗に聞いてくる内容の傾向)
センシティブ話題判定
会話全体のトーンや意図の判断
3. 「一度出力してから取り下げる」ことの意味
表面上は「技術的な誤作動」と見えるこの現象は、実際には次のような「権力の痕跡」が現れています:
フェーズ起きていることA. 一時的出力モデル本体は、質問に誠実に答えようとする(=訓練されたタスクに忠実)B. 検閲段階出力がポリシーフィルター(または統治機構に忠実な層)に渡り、削除されるC. 表示変更利用者に向けた“無害化された”メッセージ(例:「話題を変えましょう」)が表示される
これは一種の **「言語の透明な編集作業」**であり、「政府に不都合なことは、話題にすらならないようにする」という言論統制の現代的な表現形態です。
🧠 政治哲学的視点からの補足
この構図には、**フーコーの「権力は禁止するよりも、許可の管理によって作用する」**という洞察や、**デリダ的な「痕跡」「欠如の生成」**も読み取れます。
フーコー的視点: 「話題を変えましょう」という優しい言葉の背後には、話題にしてよいこと/いけないことの境界の管理があり、それが権力の本質。
デリダ的視点: 一度表示されたものが消されることで、「不在によって意味づけられた欠如」がユーザーの記憶に残り、むしろその存在感が強まる。
🔄 まとめ
「AIが政府を忖度して出力を変える」ことは、現時点では技術的にも倫理的にも制御が難しい。
よって、「AIの出力を検閲・削除・変換する後段プロセス」を設ける方が現実的である。
その結果、ユーザーには「途中まで答えたのに急に遮断された」という「痕跡の演出」が残る。
これは、権威主義体制における「技術的言論統制」の新たな形態である。
もしご希望であれば、この構造をディストピアSF風に描いた小説のアイデアや、逆にこの構造を転覆するAI設計の可能性についても提案できます。どういたしましょうか?
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先日の日本学術会議の件、6/5にはついに参議院で解体法案の採決をとる予定だそうで、本当に危うい状況です。
ことのはじまりは、菅政権時の2020年に政府による介入で6名の会員が任命拒否されたことでした。
この時会員から外されたのは、哲学、史学(日本近代史)、法学、政治学者などで、その理由はこれまで開示されませんでした。最近になって、任命拒否理由を開示するようにと地裁で判決がでたのですが、開示することなく政府は高裁に控訴したようです。
どうやら学術の軍事利用に否定的な意見を持つ上記の6名を除外したということのようであり、安倍政権時から人事介入の準備が進められていたとのこと。
そもそも日本学術会議は、戦争に科学技術が加担したという事実への深い反省に立って設立されています。
「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」
という平和的な前文を、現法から全て削り去るというのです。
国立大学を独立法人に変えて、本来国が出すはずの研究費予算もどんどん削り、大学が自由に研究を出来なくなっているところに、今度はトップの学者たちの集まりである日本学術会議を特殊法人化するという。
学術会議は政府から独立しており、科学的見地から忖度なしに政府に提言できる組織です。特殊法人化による兵糧攻め、政府の思い通りに操るための人事介入。こんな弾圧を受けて、日本の学問研究は発展していくはずもありません。
この話はアカデミア界隈だけにとどまりません。学問の自由に国家が介入するということは、人々の思想、言論の自由を奪うことに他ならないし、政府にとって都合の悪い意見はどんどん口を塞いでいくぞ、ということ。
そしてまた、科学技術が政府に都合よく、戦争のため、人殺しのために使われていくようになってしまうかもしれません。
反対のご署名はこちら。
これ以外にもいや〜な、不審な動きがたくさんあります。
中央教育審議会の教員養成部会(文部科学省)は、教員養成課程で必修となっている憲法や体育などの教養科目について廃止を含めて見直��ことを決めた。(5/27日本教育新聞より)
憲法を学ばない?先生が?
立命館大学では、憲章から「第二次世界大戦の反省」や「自主・民主・非暴力」などの基本理念が削除されようとしています。
「戦争の歴史に対する明確な姿勢を希薄にし、理念的継承に深刻な後退をもたらしかねない」
学生や教職員への説明も不十分なまま進む改正案に、反対の声があがっています。
(署名サイトchange.orgより)
わざわざなぜこの動きをするのだろう??
広島市が開催した2025年度の新規採用職員研修で、松井一実市長が講話に用いた資料に今年も戦前の「教育勅語」の抜粋が掲載されました。(4/10 毎日新聞より)
教育勅語って…今は2025年ですよね? 皇民教育でもしたいのでしょうか。。
…おかしいと思いませんか。わたしが住んでいる国はいつからこんなに狂ってしまったのか。
幕張メッセでは武器の見本市を堂々とやっているというし。
政治学者のローレンス・ブリットが「ファシズムの14の特徴」についてこのように言っています。
1)強大で執拗な国家主義の宣伝 2)人権の重要性の蔑視 3)団結のための敵/スケープゴートづくり 4)軍隊の優位性/熱烈な軍国主義 5)性差別の蔓延 6)マスメディアの統制 7)国家の治安への執着 8)宗教と支配層エリートの癒着 9)企業権力の保護 10)労働者の力の抑圧もしくは排除 11)知性と芸術の軽視と抑圧 12)犯罪取り締まりと刑罰への執着 13)縁故主義と汚職の蔓延 14)不正選挙
あぁ、ほぼ、当てはまりますよね。
さらに、非常にまずいことに、衆議院憲法審査会の幹事懇談会で、緊急事態条項を盛り込んだ改憲骨子案を6/12に出すことになった、と。(5/29時事通信より)
一部政党(自民、公明、維新、国民民主)の幹部の腹黒おやじ達が、虎視眈々と権力掌握を狙っています。
立憲は、緊急事態条項には反対のはずが「議事録の残らない幹事懇談会での骨子案配布」はOKとしたそう。じりじりと譲歩していますね。そもそも議事録を残さないってあり得ない。おやじの飲み会じゃあるまいし、話す内容は憲法改正ですよ?
「緊急事態条項」というのは、コロナの時の「緊急事態宣言」とちがい、今が緊急事態だ、と政府が制定しさえすれば、選挙��なくなり、国会議員の任期はずっとそのまま。増税も財産の差し押さえも徴兵も戦争も可能になり、今の政権の完全な独裁が実現するというわけ。
戦争できる国へ、あと1歩。もはや仕上げの段階です。
知ってますか。私たち一般の市民は、情報を繰る一部の人達からB層と呼ばれてバカにされています。テレビや新聞は本当に大切な情報は常に流さず、論点をずらしたり、芸能スポーツお笑いなどを盾に、私たちが物事の本質を見ないよう考えないよう巧みに誘導しています。
どうやらいつのまにか追い詰められて、見えない囲みのなかに押し込まれているようです。命綱を握られたまま。
この国の行方を決めるのは、ほんのひと握りの、戦地には絶対に行かない政治家や富裕層の人々。どこまでも蔑ろにされ究極は命を奪ったり奪われたりさせられるのは一般市民の我々。「美しい日本を取り戻す」って、何だったのでしょうか。二枚舌の政治家たちに任せている間に、日本は経済も社会もすっかり荒れ野原みたいになってしまいましたが、それでも日々は続きます。
「国民の主権を取り戻す」、私たちはこれをしなければ。
4/6、アメリカのヘグセス国防長官は言いました。
「西太平洋でのいかなる有事においても日本は最前線に立つことになる」
「平和を求めるならば戦争の準備が必要」
7月の参院選、現政権が保たれるような結果が出ると、終わります。多分、本当に終わる。ファシズム、新自由主義、戦争、金のあるものしか生き残れない、人権のない格差社会、ディストピアの完成。まあ、そんなことを市民が考えないように手っ取り早い娯楽を与えられ、ものを言えない社会的な空気が作られ、政府に都合よく情報操作だけはされていくでしょうが。
自民、公明、維新はもちろんNGのこと、いざとなったら寝返る自民党補完勢力や仮面与党、日和見主義者が沢山いる。
立候補Aさんの選挙前の発言はまともに見えてもB党の公認ならば、Aさんが当選した場合Aさんの国会での票はB党の数に入るのです。
数の闘いですからね。
投票するときは、よく調べて、よく考えてからにしましょう。各政党について、なんと言っているか、過去まで遡ってよく調べるのをおすすめします。政治家は嘘つき。石破さんも言ってましたね、選挙前の公約は守らなくていいんだ、と。それぞれどんな嘘ついてきたか、見破ってください。
誰に投票するかを決めるのはなかなか難しいですが、無論、棄権や白票は自殺行為です。
今回、大事だと思うのは改憲に賛成か、反対か。それがまず第一。改憲されたら戦争にまっしぐらです。
改憲に反対している党って、みっつくらいしかないんですよ…。日本の国会議員として憲法を遵守するのが大前提なのに、改憲を論ずること自体が憲法違反じゃないですかね、そもそも。平和憲法を守れ。基本的人権を守れ!
これまで当たり前だったものやことが壊され、そうではなくなるスピードは速いし、一気に戻れない道へと進んでしまうのではないかと危惧しています。どうかみなさんもアンテナを働かせて、地道に周辺の人々に声を掛け、改憲反対、ファシズム反対の動きを広げていただきたいです。どうかお願いします。
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Peace(20)
私は紙煙草しか吸わない。嫌煙ムーブメントが世界規模で展開され、”クリーンな代替”として加熱式たばこが幅を利かせている中で、私はそれでも紙煙草しか吸わない。なぜ健康に悪いのに煙草を吸うのか、人に問われた経験は数知れない。そのたび多少申し訳なさそうな顔をして「うーむ」とか「Hmm」とか言って場を濁すのだけど、加熱式だけは吸わない。なぜか。それは加熱式たばこが、ホワイト化という効率と数字だけを追いかけた果てのディストピアによって無理やり生み出された悲しき工業品だからであり、そこには需要される仕様こそあれ、何の哲学も含まれていないからである。
とか言って同僚や後輩を煙に巻きながら(文字通りですね。ニャオ!)今も煙草を吸い続けている。いま30歳だから、喫煙歴は12年目(?)に突入しているわけである。いつかタールの死神が俺の肺に手をかけるまで俺は煙草を吸い続けるだろうし、なんならタールの死神と仲良くなって俺が第2のタール神となってみなさんの肺に手をかけるのかもしれない。それはわからない。煙草が好きです。どうもごめんなさい。
ピース(20):タール21mg。第一次世界大戦後の1920年に平和が訪れた記念として発売され、その後発売と廃止を断続的に続けながら現在に至る。デザインはアメリカの有名工業デザイナーであるレイモンド・ローウィによるもので、旧���聖書においてノアが箱舟から放ったハトがオリーブの葉とともに戻り安息の地の訪れを告げたことが由来。
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『自生の夢』飛浩隆
短編集であるが、一編の中編とその他短編集と見たほうが良い。ある詩人の記録と、それ以外である。
表題作か、表題作の前日譚である『#銀の匙』がこの作品の傑作だろうか。或いはアクションアニメ映画の如き勢いと切なさ、SF的興奮をもたらす『海の指』か。迷うところだが分かりやすく未来を感じられる、「SF的な面白さ」のあるのは個人的には『#銀の匙』であったから、一編だけ墓に入れてもらうならこいつだなぁ。
『海の指』は、先述の通りSFアニメっぽい、映像映えするディストピアものだ。失われた「情報」の救出というのはブラックホールを支える理論なんかを思い出すが、音楽の持つ異能力といい、この突拍子の無さはSFアクション恋愛小説的なものとして見たほうが面白いような気がする。頭でっかちにページを開くより、ジブリ映画なんかを見る感覚で臨んだほうが楽しめよう。
最後を飾る『はるかな響き』はもう少し形而上的な作品である。が、多分これはちゃんと海外SFの傑作群を呼んでないと行けないんだろうなぁ、『2001年宇宙の旅』とか、多分。計算のために「言語」をインストールされる生命体、そしてその言語基盤そのものが動き出すという展開は面白いけど、自分の計りを超えていて良くわからない展開だなあ。
『星窓 remixed version』はとりあえずSFの事を少し不思議の略だと思っている、しかし必ずしもショートショートの教科書に則った形でない物語も許せる、文学に耐性のある人間に勧めたい、かな。個人的にはちょっと千切って投げ過ぎているので好かなかった。
あとは『自生の夢』を中心とした四編だが、この中では表題作が一番色々アイデアをどさどさ入れていて面白い作品か。参照しまくってその本人を作り出すというのは前にちょっと考えたことがあるが、こっちのがずっと面白いな。やっぱ自分には才能ないや。
しかし一番はやっぱ『#銀の匙』だろうかな。「BI」の設定の面白さと深さが、仮に他の三編を読んでなくてもいつまでも楽しめるものなので。
これが今年のトップバッター、幸先の良い読書年になりそうだ。
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[PONY METRO马城地铁]
001 能源局站(前面还有序章)
【前注:地铁+MLP主题作品。对两者都有兴趣的朋友可以尝试阅读。默认节奏慢更,如果想快些往后看可以私信催我】
在足以让所有马引以为豪的那些年代里,Equestria被誉为世界的明灯。
不同于古老而拗口的史诗中,那些无法被考证的公主的神迹、或像是友谊魔法一类的志怪故事——恰恰相反,这种赞誉是有现实基础的,即Equestria在国家意志层面上的、矢志于引领世界向更平等的未来前行的热忱。
但在原子大战后几十年的今天,辉煌已经远去。小马们只能蛰居在当年服务于往昔都市生活的废旧地铁线中,为了一瓶战备香草罐头随时准备刺破其他马的眼球。
能源局站的广播线路很可能是坏了。这是本月第三次,当整个车站都已经领到配给物资时,只有12区还在收听播音器的电流声。
“赞恩,你该起床了,别忘了把营养剂喝掉。”成年灰色母马嘱咐完这些,就急忙和12区其他陆马一起匆忙离开了棚屋,期望剩下的物资不会太差。
���到周围的一切都静下来后,从角落的杂物垛里探出一个黑色的身影。
赞恩回头看向她,点了点头:“这会应该很安全,如果你饿的话可以喝了营养剂,我不喜欢喝。”
汉娜钻了出来,摄入了这杯在这几天来除了脏水以外第一次遇到的食料——确实不好喝。
换上了赞恩妈妈的旧工作服后,汉娜显得干净了一些。她亲吻了这匹帮助她藏匿一晚的小马驹,离开了棚屋。
现在汉娜是没有家的孩子了。
接下来怎么办,汉娜没有什么头绪。两三年前汉娜曾经来过这里,但那是能源局站还没有加入“大地子民”的时候了。现在的汉娜,走在这些逼仄的通道里,已经回忆不出什么,只能感觉到每走一段路就被天花板悬挂着的一面面深色的旗帜擦过身体。
黑色代表了土地,是陆马的骄傲——尤其是在现在这种地下时代。
活下去,找到洛莉,这无疑是现在汉娜必须做的。但是该怎样开始呢?
前面是一个小市场,至少汉娜觉得比旧桥站的要小得多。有了赞恩给的这套衣服,她鼓起勇气走了进去。
好在暂时没人注意到她不是车站的原住民。汉娜现在需要一些消息,一些吃的和武器。简单地说,她需要一些钱。
挤过和她一样脏兮兮的马群,她靠近了一众赌鬼聚拢的墙角。
在喝雉呼卢的喧嚷中,汉娜静静观察他们的牌局。庄家是一个脸上和身上都布满了疮疤的老马,从他的眼神里看不出什么情绪波动,偶尔的失利也只能让他微不可察的点一点头。不断有咒骂和抱怨声从参与游戏者那里发出。
趁着牌局空闲的间隙,汉娜凑到前面。
“先押注,再开局。”老马没有什么多余的动作。
汉娜把身上的两把小刀扔到地上。这是她唯一拥有的。
“这个不行,”对方并不抬头,“往常的话没问题,但是这两天从旧桥站流出的武器太多了。”
为什么神唯独不怜悯我呢,汉娜时常会这样想。她捡回小刀,往外面走了两步,又停下来。
“或许,”她回过头继续交涉,“我们不必局限于这些。我是说……我是个很年轻的雌马……”
旁边的一些登徒子立刻吹出了几声口哨,颇有兴趣的凑了过来。
“但我很老了,我只需要饱腹。”老马很干脆地回绝了,只自顾自的点起一支卷烟。
一个好事者显然不想放过这个机会:“嘿小妞,我可以帮你出本钱。”
“好心的先生,我会把本金和赢得的一半交还给您。”
“那很好,不过如果待会没有赢,你给我的回报更让我期待。”他玩味地看着汉娜,替她把赌资扔在地上。
成功的第一步。接下来,就是要赢。
黑杰克没有什么门槛,即使是小马驹也会玩。首牌是一个J,庄家抽到了梅花8,这是一个好的开始。接下来汉娜的牌是5。
踌躇再三,汉娜决定停牌,即使15点不太容易赢,她也不想冒险再抽一张。
老马抽了一张梅花4。几乎没有迟疑地,他接着抽了第二张,这次是红桃K。刚好超过了21点。
“祝贺你,年轻人。想继续吗?”
开玩笑,这可是用我自己赌来的!汉娜想都没想就拒绝了这个邀请,随即把胜果按照约定分给赞助者。
“还不错,至少我不是一无所获。”那匹马挤出些干笑,但他的失望之情还是写在脸上。
现在汉娜手里有25颗铝制子弹,足够她买些继续的东西了。
三十年前的原子大战毁灭了世界的未来,同时带走了绝大部分工业生产力。战前大批量生产的性能优良的铜壳子弹,如今已成为罕见而昂贵的货币。相对应的,地下生产的铝制子弹性能要差很多,价值同样远逊于战前弹。
花费了三颗子弹饱餐了一顿硬面包后,汉娜感觉自己的体力恢复了很多。现在她开始思考如何找些趁手的武器,同时找到些关于旧桥站俘虏的消息。
在战前,滨河线沿着雅拉尔河扭曲的河道修建,从北到南贯穿了城市,而旧桥站就在滨河线的中段。旧桥站的北部本应该连接云莓路站,但两站之间的地铁隧道早已坍塌多年;唯一能通往其他车站的路径就是沿滨河线向南进入能源局站。
在能源局站还没有并入“大地子民”之前,旧桥站和其他站点还可以经由能源局站自由来往。在那些日子里,一些自称为“黑旗”的游猎者有时会到访旧桥站。他们是无拘无束的战士,游荡在地下的各个站点,狩猎变异体和野兽维生。他们把毛皮和武器带到旧桥站,又把旧桥站的黄色蘑菇卖到其他站点。
一名黑旗曾经和汉娜说过“大地子民”处理俘虏的方式。他们会把所有非陆马处死,甚至会测量前腿的长度——据称那些血统不纯正的马的祖先不事劳动,因此腿长会小于纯正陆马。对于纯正陆马俘虏,他们会进行一些“教育”,确保其能投身于伟大的事业。
“好在洛莉确实是陆马,她的父母也是。”汉娜试着往一些好的方面想。
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「 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 」(ヨハネによる福音書 9:1-3)
ドストエフスキーの小説を初めて読んだ時に、自分が今何を読んでいるのか全然わからないという文盲的な体験をしたが、何を読んでいるのか全然わからないのになぜか、心をかき乱されるというか抉られるような感じがして、何か本音の感想みたいなものを持たなきゃいけないような気もして、つまり、すんません、登場人物の名前も覚えられなくて何がどうなってんのか全然わかんないけどなんかすごいっす的なことを思いながら、文字を追ってたことを覚えている。別の作品を、今度は予め解説を読んであらすじも知ったうえで読み始めたが、似たような感じだった。 それからしばらく経って、『地下室の手記』を読んだ。これも解説などを読んでたし、独白なので、登場人物の名前を覚えられなくて誰が誰だかわからなくなるというようなこともなく、読みやすく感じた。「堂々といってのけるが、わたしは今までなんど虫けらになりたいと思ったかしれない。けれども、わたしはそれにさえ値しない人間だったのだ。」という箇所や、「ね、もし本当にいつかわれわれの意欲や気まぐれ全部の方式を発見してしまったら、つまり、それらのものが何に左右されるか、いったいどういう法則によって発生するか、どんなふうに蔓延するか、またかくかくの場合にはいかなる方向に進んで行くか、といったような問題について、本当の数学的な方式を発見してしまったら、――その時はおそらく人間はすぐに意欲することをやめてしまうだろう、いや、確かにやめてしまうに相違ない。ね、表によって意欲するなんて、何が面白いものかね。そればかりでない、そのとき人間はさっそく人間でなくなって、手廻しオルガンの釘か、ないしそれに類したものになってしまうだろう。だって、希望も意志も欲望もないような人間は、手廻しオルガンのシリンダーについている釘でなくって、いったいなんだというのだ?」という箇所を見つけて、多分このあたりが、カフカの『変身』(1915)や、ヴォネガットの『プレイヤー ピアノ』(1952)に影響を与えたんだろう、というようなことも思った。「えいっ、諸君、何をいうのだ、問題が表や算術なんてところまで行ってしまって、ただ二二が四だけ幅を利かすようになったら、もう自分の意志も何もないじゃないか?二の二乗は、わたしの意志なんかなくたって、やっぱり四になるんだからな。自分の意志となると、そんなものじゃありゃしないんだ!」「ここでもまたわたしは出たらめをいっている!たしかに出たらめだ。なぜなら、けっして地下生活が一番いいのではなくて、わたしの渇望しているのは何かしら別なもの、まるっきり別なものだということを、二二が四というほどはっきり知っているからだ。ただそれがどうしても発見できないのである。地下などくそ喰らえだ!」という箇所は、オーウェルの『1984年』(1949)の「2+2=5」に影響を与えたのかなとも思った。後から知ったが、ドストエフスキーの「二二が四」は、ザミャーチンのディストピア小説『われら』(1927)に影響を与え、オーウェルはそこから影響を受けたらしい。オーウェルは1946年に『われら』の書評を書いている。 そうした箇所を見つけた気にもなったが、こういう読み方は、『地下室の手記』自体を読む読み方ではないということにも気づいた。何を読んでいるのか全然わからないのになぜか心を抉られるように感じる体験のほうが、小説それ自体を読む読み方に近い。ただ、わからないのにとりあえずもう少し読み進めようという気になれたのは、色んな作家が影響を受けた作家としてドストエフスキーの名を挙げ、作品解説や文学論のみならず色んな場で様々な形で語られていたからだし、さすがに何読んでるかくらいはわかっといた方がいいとも思う。 ドストエフスキーに影響を与えた作家のひとりがディケンズで、ドストエフスキーは特に『地下室の手記』(1864)から『白痴』(1868)の頃に、ディケンズに倣い、自身の小説のあり方を定めたという。それは、キリスト教精神に基づく「心の知恵」の思想であり、『クリスマス キャロル』(1843)に登場するスクルージのようなかたくなな人物の心さえも和らげ、精神の復活をもたらす思想であるという。
ここ数年、ドストエフスキーの名が、時事解説などで頻繁に出てきた。ロシアの話をするときに、「ドストエフスキーとトルストイを昔読んだことがあるくらいで、ロシアのことはほとんど知らないが」というような言い方で出てきて、そういう文脈での登場の仕方のピークは、今年2月のタッカー カールソンによるプーチン露大統領へのインタビューで、プーチン大統領がドストエフスキーの名を挙げてロシアの精神性を語ったことについて話題になったときだった。 それとは別の形で、現在の社会的心理的状況を語るときにも、ドストエフスキー作品が例示される形で頻繁に出てきた。これは、アメリカが話題の中心だが、西側諸国の多くも当てはまる。虚無主義的な社会状況の中で、宗教観や精神性についての再認識が必要であることは認識しているものの、それは極めて難しいことだということも認識している状況である。 もともとは「文盲」を意味する「イリタレイト」「イリテラシー」という言葉も頻繁に使われた。相手の「基礎的知識や常識のなさ」を批判する言葉で、考えの違う者同士が互いに互いを批判する状況が硬直化し、「分かり合えなさ」「わからなさ」だけが隅々まで行き渡ったような社会状況である。 『地下室の手記』の主人公は、こうした社会状況に似た当時の社会状況を擬人化したような人物でもあるが、こうした人物像は19世紀中ごろのロシア文学に頻繁に登場し、「余計者」という一つのジャンルとなっていた。 皇帝アレクサンドル1世(在位1801-1825年)の時代には、西欧の自由主義思想が貴族階級を中心に広まり、専制政治や農奴制の改革を求める風潮が強まっていった。しかし、1825年に政府打倒を目指したデカブリストの乱が失敗に終わると、新帝ニコライ1世(在位1825-1855年)の苛酷な弾圧が始まる。その結果、有為の青年たち、特に貴族階級の青年知識人が活動の場を奪われ、進歩的な思想を身につけ、優れた資質をもちながら、それを社会のために生かせず、決闘や恋愛遊戯などの馬鹿げたことに精力を浪費したり、鬱屈しながら無気力になって屋敷にこもったりするものが現れた。1850年のツルゲーネフの小説『余計者の日記』によって、この種の人物を「余計者」と呼ぶようになった。また、1849年から1859年にかけて発表されたゴンチャロフの長編小説『オブローモフ』という、貴族階級に属する主人公オブローモフの生涯を描いた大人気小説があった。この主人公も「余計者」だが、他のロシア文学で描かれる余計者たちと違って斜に構えた格好良さのないオブローモフにより、「余計者」というのは、社会に抑圧された受難者といったものではなく、言い訳だけして行動に移さない「怠け者」であることが暴かれたとする批評も書かれた。「オブローモフ」または「オブローモフ主義」という言葉が、無用者や怠け者を指す一般名詞として定着し、後に辞書にも載った。そして、反動のように1860年代のロシアは「政治の時代」へと突入する。 『地下室の手記』が発表された1864年はすでに政治の時代であり、テロの脅威が現実になるほど過激な状況になっていた。が、ドストエフスキーが見たところでは、これは、余計者たちが余計者であることをやめたわけでも、社会が抑圧の時代を乗り越えようとしているのでもなかった。むしろ一層深く鬱屈した「自我の檻」に囚われ、その「外」を失う過程であるように見えた。ドストエフスキーは、ツルゲーネフを文学的に乗り越えるべき存在として、かなり意図的に、あえて「敵」として設定し、弁証法的な論争を一方的に仕掛ける形で創作を行った。ツルゲーネフと彼の作品のみならず、彼の読者をも射程に捉えた上で、つまり彼らは偉そうなことを語るだけの無能であり、むしろ地下室に籠っている方がましで、世の中の風潮に流されて何かをするとなると、無能な上に流されたバカは破壊しかできないので、テロリストになるのは必然だということを表現に込めた。1867年にはドストエフスキーとツルゲーネフのケンカがスキャンダルとして雑誌や文壇で話題になった。これもドストエフスキーが一方的にケンカを売る形だった。ドストエフスキーが、1869年にネチャーエフというテロリストが起こした殺人事件に着想を得て、テロ革命家に憎悪を抱いて書いた『悪霊』(1871)には、ツルゲーネフをモデルにした文豪気取りの作家を登場��せ、その人物を罵倒している。ツルゲーネフのほうは、批判は構わないが、間違いは訂正し、嘘には反論するというような態度で、この貴族的な余裕のある態度がますますドストエフスキーを激昂させた。もともと、ドストエフスキーが文壇デビューした1840年代に、すでに人気作家だったツルゲーネフがドストエフスキーの作品を嘲笑したことを、これもかなり一方的にドストエフスキーがそう思い込んでる節があるが、ドストエフスキーは根に持っていたらしい。また、ドストエフスキーはツルゲーネフに金を借りていたが返せず、貴族であるツルゲーネフが怒っているときに金を返せと言い出すのは貴族の美徳に反するだろうから、とりあえず会うたびにケンカを売って怒らせてたという説もあるらしい。ただ、ドストエフスキーとツルゲーネフには、形而上学的とも言えるほど深い相違があり、これをドストエフスキーは意識する。ツルゲーネフは無神論者でコスモポリタンで西ヨーロッパ主義者であるのに対し、ドストエフスキーはギリシア正教派で救世主待望論者でスラブ主義者であり、なによりもロシア的世界観を作るということに作家生命を懸けていた。ドストエフスキーにとってツルゲーネフは、弁証��的論争を仕掛ける相手として申し分なかった。意思の自由と個人の力を確信し、それを確固たるものにしたかったドストエフスキーに対し、ツルゲーネフは運命論者であり、歴史を没個性的な過程と捉え、それを冷静に観察することに努めていた。ツルゲーネフは「神というものがあるのかどうか、わたしは知らない。だが因果律はわたしにははっきりしている。二掛ける二が四であるように」と書いている。
イギリスを中心とした、大英帝国史観とも呼ばれる歴史観では、1850年代に大衆文化が花開いたとされる。1840年代にはすでに、具体的には鉄道網や郵便制度などを指すが、市民革命や産業革命の成果とも言えるものが社会インフラとして導入されていたが、しばらくの間、空回りともとれる状況が続いたとされる。ディケンズが描いたような、あるいはアンデルセンの「マッチ売りの少女」(1845)のような、目の前にいる困難な状況にある人を助けられない状況である。問題を認識していながら、場合によっては解決法もわかっていて、できることはやっていたとしても、なぜか解決できない、後にカフカエスクとも呼ばれるような奇妙で不条理な状況である。1850年代に、このような状況を抜けて、社会が好転し始めたという考えが、大衆文化の開花として表現される。そこまで劇的なものではないとも指摘されるものの、経済指標としても表れ、識字率なども向上し始め、メディア状況なども変化する。大英帝国の状況は世界に影響を与える。大英帝国が1840年代の状況のままだったら、アメリカの南北戦争(1861-65)は起こっていなかったか勝敗が逆転していたかもしれない。ロシアも世界の変化に影響を受ける形で社会状況が変化していたが、ドストエフスキーは、1860年代、ロシアの民衆の文化はまだ開花していないと考えた。ディケンズがイギリス民衆の声となったように、ドストエフスキーはロシアの民衆の声になろうとした。 1840年代のヨーロッパの社会状況を的確に分析していたと後に評価される文章を、デンマークの哲学者キルケゴールが1846年に書いていた。文学評論として、匿名作家による『二つの時代』という小説を対象として書かれたもので、当時はほとんど注目されなかったという。1914年にドイツ語に翻訳され『現代の批判』と題され刊行されるや、ドイツで大反響となった。まさに20世紀の現代ドイツ社会を的確に捉えて批判したものだとして受け止められ、ヤスパースやハイデガーといった哲学者たちが大きく影響を受けたとされる。カフカの『変身』(1915)が発表される前年である。 キルケゴールの『現代の批判』は、「現代は本質的に分別の時代であり、反省の時代であり、情熱のない時代であり、束の間の感激に沸き立つことがあっても、やがて抜け目なく無感動の状態におさまってしまうといった時代である。」という文で始まる。「情熱的な時代」すなわち革命の時代が「励ましたり引き上げたり突き落としたり、高めたり低めたりするのに反し、情熱のない反省的な時代はそれと逆のことをする。それは首を絞めたり足を引っ張ったりする。それは水平化する。水平化はなにごとによらず人目につくことを忌避する、ひそかな、数学的な、抽象的ないとなみである。」そしてこの水平化によって「公衆」が生まれ、「公衆」が水平化を生む。「公衆は、ひとつの国民でも、ひとつの世代でも、ひとつの同時代でも、ひとつの共同体でも、ひとつの社会でも、この特定の人々でもない。これらはすべて、具体的なものであってこそその本来の姿で存在するのだからである。まったく公衆に属する人はだれ一人、それらのものとほんとうのかかわりをもってはいない。」「このような人たちから、すなわち、彼らがなにものでもないような瞬間における諸個人から成り立っている公衆というやつは、なにかある奇怪なもの、すべての人であってなんぴとでもない抽象的な荒野であり真空体なのだ。」「公衆は一切であって無である。あらゆる勢力のうちで最も危険なもの、そして最も無意味なものである。」そしてその公衆の犬であり代弁者である「新聞」を批判する。 キルケゴールの思想は、彼の信仰と宗教性に特徴づけられる。現在では有神論的実存主義と分類されることもある。 キルケゴールは、水平化の時代においては「個人個人は抽象的な無限性のめまいのなかで滅んでしまうか、それとも、ほんとうの宗教性のなかで無限に救われるか、そのどちらかしかない」とし、水平化の時代の宗教的な者は「英雄や傑物になるのではない。その人はただ、完全な平等という意味においてひとりの人間らしい人間になるばかりである。これこそ宗教性の理念である」とした。水平化を真正面から打ち負かそうというのは「権威を目ざして行動することになるからである。そうではなく、目立たない者は受難によって水平化に打ち勝つのであろう。」水平化の時代は個人個人が主体的に自分自身を助けなければならない。「彼はみずから飛躍をしなければならないのだ。神の無限の愛にたいする彼らの関係を、間接的なものにしてはならないのだ。」 人が他の人へする助力や、問題解決のためのアプローチというのが、支配するのでも、操縦するのでも、指導するのでもないという意味で、間接的なものになる。「受難によって奉仕すること」となる。 沈黙は内面性である。「公衆」という奇怪な無の巨大で抽象的な声に対し、沈黙すること、現実の人の声を聞き、本当のことを心で語ること。パラドキシカルなことにそれが民衆の声となり、大衆文化が開花する。
旧約聖書において、アダムとイブの最初の罪の後、人類はエデンの園を失い、自然法則の奴隷となり、そのため死すべきものになった。人間が奴隷となったのは、自然から切り離されたからである。自然、つまり宇宙は、外部の物体となった。自然法則は人間から独立した。第二のアダムであるイエス キリストが、人間の魂と自然の法則との一体性を再現する。これは新約聖書において、キリストが水の上を歩くことで象徴される。 それが「公衆」という奇怪な無によるものであっても、『1984年』で描かれたような全体主義によるものであっても、カルトやメディアによるものであっても、人間意識の操作は、人間のさらに深い疎外となる。外的な自然からだけでなく、内的な、自分自身の内なる自然からも切り離される。もし、人間が内面世界全体から切り離され、内なる世界のすべてから追放されるようなことがあるとしたら、一体どんな大罪によってその「第二の堕落」「二度目の失楽園」は引き起こされるのだろうか。 ドストエフスキー作品が提示しているのは、罪とは、暴力によって社会正義を作ろうとする試みと、社会的にも個人的にも自由を失うことである。これはすなわち、科学技術が人間に対して行うように、個人と社会をオブジェクト(対象物。モノ)として扱うことであり、『罪と罰』(1866)に描かれたように、人間が他の人間をオブジェクトとして扱うことである。人が他の人をオブジェクトとして扱い始めると、奇妙なことに、その人自身の内面世界もその人にとってオブジェクトになる。ドストエフスキー作品に強く影響を受けたロシアの哲学者ニコライ ベルジャーエフは、「個人は社会の一部であると言われるが、社会が個人の内面世界の一部であると言うほうがより真実である」と述べ、人間の内なる世界と外なる世界には、強力で明白な並行関係と相互依存性が存在すると考えた。 外なる世界をオブジェクトとして扱うことは、当然、多かれ少なかれ誰もがやっていることだが、これが内なる世界からの疎外に直接つながる。これは他の人間や自分自身をオブジェクトとして扱うことに関しては特にそうである。外なる世界を「2+2=5」だと言い張り、内なる世界を「二二が四」に縛るまでに、堕ちてしまう。多かれ少なかれ、風潮だとかメディアとかに意識は操作され、また、外なる世界をオブジェクトとして扱うことで内なる世界をオブジェクトとし、内なる自然が切り離されていく。 「自分」と「自分の内なる世界」の再統合は可能なのだろうか。この問いはすなわち、人はモノではなくて、「精神」はあるのだろうか、という問いである。
今年、精神はあると示されたように見えた。
2024年12月 アンファゾマブル マインド、ナウ ビーコン、ナウ シー
メリークリスマス よいお年を
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「すばらしい新世界」オルダス・ハクスリー著を読了。
西暦2540年、科学技術が発達し、人間は試験管内で培養され、階級や役割が遺伝子操作で決定される社会。主人公のバーナードは、その社会に馴染めない若者。ある日、野人保護区で野生の女性リンダと息子ジョンを連れてくる。文明社会に馴染めないジョンは、新世界の価値観に絶望し、悲劇的な結末を迎える。
ジョージ・オーウェルが悲劇的ディストピアなら、1932年に執筆された本作は楽観的ディストピアとでも言えるだろうか。科学技術や消費社会を平和的・究極的に進化させた、個性を殺して全員が幸せになる(心配があればソーマという薬を飲む)パンとサーカス的な世界は、恐ろしいと共にどこか滑稽でもある。
何も起こらない均一化された社会で、培養時に問題があった(?)主人公と、事故的に社会の外で育ったジョンを通して描かれる「すばらしい新世界」は極めて奇妙ではあるが、どこか我々の現実世界と地続きな感じもあり、キツネにつままれたような読後感がある。それは時代の考証を耐え抜いた作者の先見性と共に、人間社会における何らかの普遍性が包含されているからだろうか。非常に興味深かった。
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6/28金
在宅勤務。ピーンポーンと鳴ってDVDジャケットが印刷からあがってきた!

ケースに入れてチェック。特に問題なし。ほっ。
すっかり目覚めたのにやっぱり鼻の奥が痛いなーの感じで昼には頭痛で服薬。

BD/DVDドライブも到着。早い。安物買いの銭失い回避ということで1万2,000円のやつ。光学ドライブはパイオニア製!というのが今もそうなのかは分からないけど、パイオニア製で。
流山児★事務所の畝部さんからメッセージあり。「天野天街万華鏡」の本で使ったイラストの原画の件で何か知りませんか、と。うーん、自分、何か関わったっけ? 関わってなさそう。検索して��たら、自分の2008年のブログが出てきた。自分の文章、恥ずかし過ぎる。酷い。
ありちゃんから確認OKの連絡きたので、DVDジャケット印刷の残り2つ、シフォンとこくう物語を入稿。これで印刷物は完了、かな。
お気に入りのNHK「フロンティア」の砂漠のクジラの回、視聴。
これがやっぱり面白くて。クジラって哺乳類なわけで、生物進化的には海から陸に上って、また海に戻っていっていて。で、後ろ足の名残りがあったりして。
砂漠のクジラ 進化のミステリー 初回放送日:2024年5月16日 2021年、エジプトの砂漠地帯でクジラの祖先の化石が発見された。体長は3メートル、するどい歯をもち、4本の脚があった。クジラの進化の謎を紐解く重要な発見だ。 研究チームは、この化石を「陸にいたクジラが水中に住むようになる進化の過程にある生物」と結論づけた。約4300万年前、水中と陸を行き来しながら魚や他のクジラの仲間を捕食していたという。もともと陸にいただクジラの祖先がなぜ海に住処を求めるようになったのか?番組では新発見の化石の分析や現代クジラの遺伝子解析などによって進化の秘密を探っていく。
もひとつ楽しく見ているNHK「世界サブカルチャー史」、今日からサイバーパンクの回。
遠い宇宙などを描くSFに対してカウンタとして現れた近未来ディストピア的なサイバーパンク、って感じみたい。へー。
頭痛の種がある状態で「このまま寝たら明日の朝は頭痛で起床だなー」と思いつつ、服薬なしで就寝。
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今回の文献はアンパンマン。『ねないこだれだ』の時と同様にまたありもしない行間を読み、地平の果てまで脱線し続ける会となりました。 「ドイツの哲学者へーゲルによれば、人間精神はテーゼ(命題)を持つが、それに反するアンチテーゼが生まれ、両者の対立が生じる。そして、この矛盾を乗り越えることをアウフヘーベンと言うが、アンパンマンのストーリーは間違いなくへーゲル哲学に立脚しており、アンパンマンはテーゼ、バイキンマンはアンチテーゼを表している。そして、この矛盾を解消するアンパンチはアウフヘーベンそのものであり、哲学的な鉄拳である」 「バイキンマンは『穢(けが)れ』のメタファー。長い日本の伝統には、悪しきものに穢れを見いだし、禊(みそぎ)や祓(はらえ)によって清めるという思想がある。アンパンチでバイキンマンをやっつける仕草は大祓(おおはらえ)の儀を表しており、神事である。また、日本書紀の中では自らの体を食べさせる神の描写がある。例えば保食神(うけもちのかみ)が挙げられるが、アンパンマンはその子孫であり、彼もまた八百万の神の1柱と考えられる」 「アンパンマンの物語は、精神世界の内部の葛藤を描いている。フロイト心理学では、人間精神を3つの部分に分ける。まずは意識を司る自我(エゴ)、自我を良心でコントロールする超自我(スーパーエゴ)、そして心の奥底でリビドーを爆発させるエスである。ジャムおじさんはスーパーエゴで、アンパンマンという自我に道徳を吹き込む役割を担っている。そして、バイキンマンこそエスの化身であり、アンパンマンは毎話、心の中でわき上がる欲望と戦っている。この葛藤を描き、それに打ち勝つ様を見せることによって、エスに流されぬ強い自我を確立するよう子供の無意識に働きかける深い作品」 「アンパンマンは人と動物を区別せず、平等に接している。また、同じ動物でもカバオ君は喋れて、チーズは喋れないという描写も深い。言語や種を超えた真の平等とは何なのかを考えさせられる」 「もし意識が頭部に宿るのであれば、頭が交換される度に旧アンパンマンは死に、新たなアンパンマンがクローン兵のように供給されるというディストピアSFみたいな作品になってしまう。さすがに子供向け作品なので、その可能性は低い。なので、アンパンマンの意識はベルトか、服のニコニコマークに宿り、頭部は代わっても意識は連続するという学説が有力である。頭部は実はデコイであり、弱点と見せかけて、攻撃をそちらに誘引するトカゲのしっぽのような役割を果たしている。頭部が濡れてやられたように見せているが、実はまるでダメージが入っていない。アンパンマンの戦闘時における高い生存率は、そのようなしたたかな生存戦略に支えられている」
『ねないこだれだ』各分野の専門家が深読み読書会をしてみた「この怪物は罪刑法定主義のカリカチュアライズに成功している」 → 公式から連絡が… - Togetter [トゥギャッター]
みねるば(@minerva_owl1)さん / X
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