#上田
Explore tagged Tumblr posts
chibiutsubo · 8 months ago
Text
Tumblr media
#おでかけ #美ヶ原高原 #美ヶ原牧場
帰り道は全く同じ道を戻ったので、また牛たちとご対面。せっせと草を食んでいます。
Tumblr media Tumblr media
呑気にぶらぶら歩いていると、不意にどこかから雷鳴が……。え、こんなところで雷に出くわしたら、完全に人間が避雷針じゃん……?何とかひどくならないうちに山本小屋の辺りまででも戻らなければ!と顔色を変えて小走りになったのですが、道の駅の駐車場に着くまで何とか雨には降られずに済みました。良かった。
しかし本当に焦って帰ったので、これ以降写真は一枚もありません。飛ぶように牛伏山を登って下ったんですが、土壇場の体力すごい。戻ってきてから歩数計を見てみたところ、大体15キロくらい歩いていました。年内最高値ぐらいを叩き出しています。すごい。
Tumblr media
そういえば、道の駅の売店に戻った時にポテチの袋がこんなことになっていました。美ヶ原高原のこの道の駅は日本一標高の高い道の駅だそうな。知識としてこうなることは知っていても、実際に目で見るとSUGEEEE……となりますね。
9 notes · View notes
mvrider5 · 3 months ago
Text
春の上田城
桜の名所として有名な真田氏ゆかりの上田城。東虎口と櫓郡を彩る満開の桜
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
ずっと見ていられる満開の桜
Tumblr media
キリがないので門をくぐる😅東櫓門と南櫓
Tumblr media
北櫓
Tumblr media
特別公開中の櫓に入城。先ずは南櫓
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
櫓から上田市内を臨む。下部の桜は散り始め
Tumblr media
東虎口櫓門と南櫓の間にある石落とし
Tumblr media Tumblr media
東虎口櫓門
Tumblr media Tumblr media
櫓から先ほどの満開の桜を見下ろす🌸
Tumblr media Tumblr media
東虎口櫓門と北櫓の間
Tumblr media
北櫓から城内の景色
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
本丸西虎口の西櫓
Tumblr media Tumblr media
西櫓から二の丸堀の桜を眺める
Tumblr media
内堀と隅櫓跡をぐるっと一周。桜が美しい😍
Tumblr media Tumblr media
本丸土塁の隅落とし
Tumblr media
収まりきれなかった続きは以下から
4 notes · View notes
child-development-supporters · 10 months ago
Text
新着情報
習い事に「ハウオリ音楽教室」様を追加しました。
0 notes
tinylovesblog · 3 months ago
Text
上田操 / Misao Ueda
Tumblr media
1K notes · View notes
yuka-p · 2 years ago
Text
Tumblr media
■真田幸村
 幸村公は昌幸公の次男で、永禄10年(1567年)生まれ。永禄13年(元亀元年・1570年)説もあります。  母は昌幸公の正室・寒松院山之手(山手)殿。兄の信之(信幸)公よりも1歳または4歳下になります。通称は源次郎または源二郎。  本来の名前は『信繁』であり、『幸村』という名を実際に名乗っていたかどうかは不明ですが、真田まつりでは一般的な『幸村』として登場するので、『幸村』で通します。  来年の大河ドラマ『真田丸』では『信繁』を使用するのではないかと言われています。そうしたら、真田まつりでも『信繁』表記になるのかな?
 幸村公は、おそらく甲斐国甲府生まれ。その頃の昌幸公は、武田信玄公の母方の親戚である武藤家に養子入りし、武藤喜兵衛と名乗っていました。  武田家滅亡直前に、甲斐(山梨県)から山之手殿や信之公とともに逃れてくるエピソードがありますので、少年時代までは主に甲府住まいだったと思われます。  武田家滅亡後数年間は、上野(群馬県)や信濃(長野県)で暮らしていたようですが、天正13年(1585年)の第一次上田合戦(神川合戦)の直前には、越後の上杉家への人質として海津城(長野市)や春日山城(新潟県上越市)へ赴き、その後は豊臣秀吉公のもとに出仕(人質)しています。  秀吉公が亡くなった後には上田に戻ったようですが、幸村公が上田で暮らすことができたのは、ほんの数年間。でも、『上田』といえば『真田幸村』となってしまうのは、やはり人気と知名度でしょうか。
 上記のように人質生活が長かったため、幸村公には実戦経験があまりありません。  近年は、第一次上田合戦の時に幸村公は上杉家から一時的に上田城へ帰されて徳川軍と戦ったという説を推す研究家も増えてきたように思いますが、一般的にはやはり海津城か春日山城にいて出陣しなかったという説の方が妥当ではないかと言われています。  幸村公の初陣は、通説では天正18年(1590年)小田原北条氏征伐に関連した松井田城攻めあたりではないかと推測されています。この時、幸村公は数え24歳。当時の武家の男子は、15歳前後で初陣していたようですので、随分と遅い初陣でした。  でも、兄の信之公は十代の頃から小規模ではありますが戦場に立っていたので、記録には残っていませんが1歳下ならば幸村公も一緒に出陣していた可能性も考えられますね。  文禄・慶長の役(朝鮮出兵・1592年~1598年)では、真田家は肥前名護屋までは行っているものの、半島へは渡海していませんので、戦場に立つことはありませんでした。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに連動した第二次上田合戦では西軍(石田方)として東軍(徳川方)に勝利したものの、関ヶ原で西軍が敗れたために紀伊(和歌山県)高野山へ配流となり、その後麓の九度山に移りました。(このあたりのことは、昌幸公のところで説明します。)
 九度山での暮らしの中で昌幸公を喪い、気力も萎えていたと思われる幸村公でしたが、慶長19年(1614年)に徳川家康公が大坂城の豊臣秀頼公を攻めることになり、豊臣家から幸村公のもとに入城を要請する使者が送られてきました。  幸村公はその招きに応じ九度山を脱出、大坂に入城して活躍したことは、これを読んで下さっている方ならばご存知でしょう。  大坂冬の陣では真田丸に拠って多くの敵を討ち取った幸村公でしたが、和睦により大坂城の堀は全て埋められて真田丸も破壊されてしまいました。
 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣でも幸村公は敵からも称賛され��戦いぶりを見せました。  運命の5月7日、幸村公は敵の大将・家康公の首のみを狙い、家康公本陣を脅かすほどの猛攻でしたが、本懐を遂げることは出来ず、安居神社のあたりで疲れきった身体を休ませているところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾久作に討ち取られたと伝わっています。  幸村公の享年は49。戦上手で知られた真田家に生まれながら活躍の場を与えられず、34歳から48歳の壮年を九度山の配所で虚しく過ごしていた幸村公にとっては、武士として逝けたことは幸せだったのではないでしょうか。
1 note · View note
hakuaryouga · 4 months ago
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
仮面ライダービルド (2017) Episode 37 Subtitles by Over-Time
424 notes · View notes
godbizet · 7 months ago
Text
Tumblr media
706 notes · View notes
lowermedium · 6 months ago
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
469 notes · View notes
abcbabcba · 1 year ago
Text
Tumblr media
1K notes · View notes
chibiutsubo · 9 months ago
Text
Tumblr media Tumblr media
#おでかけ #美ヶ原高原 #美ヶ原牧場
しかし山の上とは思えないほどに広々としています。牧場を突っ切る道だけでも結構距離があるんですが、全く起伏はないので体力はほとんど使わずに歩くことができます。
Tumblr media
霧がまた出てきました。幻想的というのか、ちょっと怖さもあるような……。これ、進むと何か出てくるやつじゃない?
Tumblr media
遠くの電波塔もこんな感じです。絶対これ物語やゲームだと強いやつが出てくるやつじゃん。
Tumblr media
来た道を振り返る。もう牛の姿も美しの塔も見えなくなっています。起伏はないけれど、結構な距離を歩いてきたような。
ちなみにこの辺り、ちょうど市町村の境になっているようで、スタート地点の高原美術館のある辺りから牛伏山辺りは上田市、美しの塔や塩クレ場辺りは長和町、そして今歩いている辺りは再度上田市、目的地である王ヶ頭や王ヶ鼻は松本市になっているようです。
私は自分の旅の備忘録として市町村名と日付でタグ付けして整理しているのですが、今回は市町村で見ていくと飛び飛びの記録になってしまいそうです。
10 notes · View notes
n-an-ash · 2 months ago
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
260 notes · View notes
tinylovesblog · 3 months ago
Text
上田操 / Misao Ueda
Tumblr media
307 notes · View notes
yuka-p · 2 years ago
Text
Tumblr media
■真田信之
 伊豆守信之公は、永禄9年(1566年)に昌幸公の長男として生まれました。母は寒松院山之手殿。姉・村松殿に続く、昌幸公の第二子です。通称は源三郎。  弟の幸村公が源次郎(源二郎とも)だったことから、実際には幸村公の方が先に出生したけれど、母の身分が低かったために、信之公を長男、幸村公を次男としたという説があります。  この説がいつから言われるようになったのかは不明ですが、通称は生まれた時に付けられるわけではなく、出生順に付けられるわけでもありません。現に、三男の昌幸公は源五郎であり、弟の信尹公は源次郎と名乗っていますし、仇討ちで有名な曽我兄弟も兄が十郎で弟が五郎でした。  個人的には、この兄弟逆転説は、名前は生まれた順番で付けるものだと思っている現代の人間の考えではないか思っています。
 信之公というと、沼田城主・上田城主・松代城主などを歴任し93歳と長寿だったためか、大坂の陣では病気療養中で出陣しなかったためか、武将というよりも政治家のイメージがあります。  信之公は若年の頃から戦場に出ていたようで、上野の山城での戦いで敵を撃退したり、第一次上田合戦では別働隊を率いて戦功を上げています。
 関ヶ原の戦いの時には、昌幸公・幸村公と袂を分かつ形となってしまいましたが、憎みあって別れたのではないことは、戦後の父弟の助命嘆願に奔走したことや九度山の配所との手紙のやり取りなどから窺えます。しかし、名前は父に通じる『幸』の字を憚り、『信幸』を『信之』に変えました。
 慶長16年(1611年)に昌幸公が亡くなると、徳川幕府の重鎮・本多正信に昌幸公の葬儀を執り行いたいと相談しましたが、公儀に憚りある人物なのでしない方が良いのではないかと言われたと伝わっています。信之公の無念が伝わってくるようですね。
 昌幸公の配流後は上田を領有した信之公ですが、上田城は破却されたため、主に沼田に居住したようです。  大坂の夏の陣の翌年、沼田を長男の信吉公に継がせて上田領の統治に専念したものの6年後の元和8年(1622年)には松代(当時は松城)に移封となりました。  両親はすでに亡く、弟も妻も亡くした信之公が、今度は故郷である小県まで取り上げられる・・・どんなに辛かったことでしょう。
 信之公は松代で30年以上の間藩主の座にあり、次男の信政公に家督を譲り隠居したのは死の前年、92歳の時でした。しかし、翌年2月に信政公が死去、相続をめぐり松代と沼田が争い、お家騒動寸前の状態になりましたが、信之公はなんとかこれを収め、その2ヵ月後の万治元年(1658年)10月17日に亡くなりました。享年は93。若い頃から病気がちであったと思われる信之公ですが、当時としては驚くべき長寿でした。  信之公のことを思うと、単純に長生き=幸せと思えないんですよね。真田氏の中では、一番気苦労が多い人生だったと思います。
0 notes
gragravia · 2 months ago
Text
Tumblr media
上田操
163 notes · View notes
besyojo · 1 year ago
Text
Tumblr media
これめっちゃ可愛い。
1K notes · View notes
sug-bug · 6 months ago
Photo
Tumblr media
https://x.com/shupure/status/1869598719974547718
池田瑛紗 井上和
364 notes · View notes