#伏見散策
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カッパカントリーと大倉記念館
前記事の続きです。京都の伏見桃山エリアには、昔から有名な酒蔵があり、お酒にちなんだ施設があります。
中でも人気なのが、黄桜のカッパカントリーと月桂冠の大倉記念館です。
まずは、カッパカントリーから。

日本の昭和時代を知ってる人なら「黄桜=カッパ」と、すんなり結びつくはず。

酒造メーカーの黄桜は、1955年(昭和30年)に広報用キャラクターとして、「カッパ」を起用。
テレビCM開始が、2年後の1957年(昭和32年)だそうです。
私は昭和51年生まれ。
子供の頃に、黄桜のCMにカッパが出ていた事はなんとなく覚えてます。
カッパカントリーは、黄桜直営のレストラン。
結構大きいです。

黄桜のお酒や麦酒、それにあう和食、おつまみなどを堪能できます。

メニューも貼ってありました♪

隣に、麦酒工房があり、麦酒の方が推しのようです。
出来立ての地ビールが飲めるそうです🍺

そういえば、数ヶ月前にコンビニかどこかで、黄桜のビールを見つけて飲みましたね。
私の中では、黄桜と言う��、日本酒のイメージが強いのでビールがあるのが意外でしたが、そうでもないのですね。
向かい側には、黄桜の歴史がわかる記念館もありました。

そして、月桂冠の大倉記念館。
月桂冠をはじめ、京都伏見のお酒造りの歴史や技がわかる博物館です。
黄桜のカッパカントリーのような飲食エリアはありませんが、お酒の味見ができるところはあるようです☺️
ここは、結構人が出入りしていて、写真があまり撮れませんでしたが
また、中に入って見学した時に写真撮ります。

近くには、月桂冠の本社?もありました。

ちなみに、月桂冠のお酒ランキングでは「月」と「山田錦」が上位でした。
飲んだことはないけど、どこのお店にもたいていは置いてあるので見たことはあります。

こういう眺め、いいですね。
ノスタルジックというか、なんというか。
日本のノスタルジックですね、きっと。
ところで前回の記事では
京都駅からこの辺りに向かう場合
京阪本線が行きやすいと言いましたが
伏見稲荷を経由しないのであれば
京都駅から近鉄線に乗って桃山御陵前駅で降りると
この辺にすぐアクセス��きます。
京阪本線の伏見桃山駅と近鉄線の桃山御陵前駅はとっても近いです。
バスで移動も良いのかもしれませんが
京都は地下鉄が少ないので、電車で移動しにくいところはバスで移動する人が多いです。
なので、バスは結構混んでいると思います。
曜日にもよりますが。
電車で移動の方が無難だと思います。
後はタクシーですね。
タクシーも増えたような気がします。
四条方面に行くと、最近そう感じますね。
細い高倉通りを何台ものタクシーが通り過ぎていました。
烏丸駅近くの錦あたりから、高倉通に入ってくる歩行者が多いのもあって、運転が大変そうでしたね。
あのエリアはどこの通りも、あんな感じでしょうね。。。
お疲れ様です。
#お酒#ノスタルジック#懐かしい#和食#景色#風景#日本語のブログ#日本人#日本酒#japanese sake#japan photos#japanese#月桂冠#黄桜#カッパ#散策#京都#伏見桃山#伏見#kyoto#kyoto japan#酒蔵#麦酒#ビール#beer#博物館#伏見桃山城#桃山御陵
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)2月5日(月曜日)
通巻第8118号
孫子を読まずして政治を語る勿れ。派閥解体、政治資金浄化????
吉田松陰の代表作は、じつは孫子の研究書(『孫子評註』)だった
*************************
自民党の派閥解消を聞いて、日本の政治家は政治の本質を理解していないことに唖然となった。派閥はまつりごとのダイナミズムを形成する。パワーの源泉である。それを自ら解体するのだから、政治は星雲状態となる。となると欣喜雀躍するのは中国である。国内政治にあっては、その「代理人」たちである。
孫子が言っているではないか。「謀を伐ち、交を伐つ」(=敵の戦略を見抜き、敵戦力を内訌させ、可能なら敵の一部を取り込め、それが戦争の上策である)。そうすれば、闘わずして勝てる、と。
高杉晋作も久坂玄瑞も、松下村塾で吉田松陰の孫子の講議を受けた。松陰亡き後の門下生だった乃木希典は、師の残した『孫子評註』の私家版を自費出版し、脚注もつけて明治天皇に内奏したほど、心酔していた。世にいう松陰の代表作はその辞世とともに有名な『講孟余話』と『留魂録』だが、現代人はすっぽりと『孫子評註』を忘れた。これは江戸時代の孫子研究の集大成である(『吉田松陰全集』第五巻に収録)。
松陰は山鹿素行を師と仰ぐ兵法家から出発している。毛利長州藩の軍事顧問だったのである。
もとより江戸の学問は官学が朱子学とは言え、新井白石も山鹿素行も荻生徂徠も山崎闇斎も、幕末の佐久間象山も西郷隆盛も孫子は読んだ。しかし江戸時代の二百数十年、太平の眠りにあったため、武士には、読んでもその合理的で非情な戦法に馴染めなかった。
その謀(はかりごと)優先という戦闘方式は、日本人の美意識とあまりに乖離が大きく、多くの日本人は楠正成の忠誠、赤穂浪士らの忠義に感動しても、孫子を座右の書とはしなかった。
明治以後、西洋の学問として地政学が日本に這入り込み、クラウゼウィッツは森鴎外が翻訳した。戦後をふくめてマキャベリ、マハンが愛読され、しかし誤読された。吉田松陰の兵法書はいつしか古書店からも消えた。
しかし戦前の指導者にとっては必読文献だった。
吉田松陰が基本テキストとしたのは魏の曹操が編纂した『魏武註孫子』で、考証学の大家といわれた清の孫星衍編集の平津館叢書版を用いた。そのうえで兵学の師、山鹿素行の『孫子諺義』を参考にしている。
もともと孫子は木簡、竹簡に書かれて、原文は散逸し、多くの逸文があるが、魏の曹操がまとめたものが現代までテキストとなってきた。
▼孫子だって倫理を説いているのだが。。。
孫子はモラルを軽視、無視した謀略の指南書かと言えば、そうではない。『天』と『道』を説き、『地』『将』『法』を説く。
孫子には道徳倫理と権謀術策との絶妙な力学関係で成り立っているのである。
戦争にあたり天候、とくに陰陽、寒暖差、時期が重要とするのが『天』である。『地』は遠交近攻の基本、地形の剣呑、道は平坦か崖道か、広いか狭いかという地理的条件の考察である。戦場の選択、相手の軍事拠点の位置、その地勢的な特徴などである。
『将』はいうまでもなく将軍の器��、資質、素養、リーダーシップである。『法』とは軍の編成と将官の職能、そして管理、管轄、運営のノウハウである。『道』はモラル、倫理のことだが、孫子は具体的に「道」を論じなかった。
日本の兵学者は、この「道」に重点を置いた。このポイントが孫子と日本の兵学書との顕著な相違点である。
「兵は詭道なり」と孫子は書いた。
従来の通説は卑怯でも構わないから奇襲、欺し、脅し、攪乱、陽動作戦などで敵を欺き、欺して闘う(不正な)行為だと強調されてきた。ところが、江戸の知性と言われた荻生徂徠は「敵の理解を超える奇抜さ、法則には則らない千変万化の戦い方だ」と解釈した。
吉田松陰は正しき道にこだわり、倫理を重んじたために最終的には武士として正しい遣り方をなすべきとしてはいるが、それでいて「敵に勝って強を増す」とうい孫子の遣り方を兵法の奥義と評価しているのである。
つまり「兵隊の食糧、敵の兵器を奪い、そのうえで敵戦力の兵士を用いれば敵の総合力を減殺させるばかりか、疲弊させ、味方は強さを増せる」。ゆえに最高の戦闘方法だとし、これなら持久戦にも耐えうる、とした。
江戸幕府を倒した戊辰戦争では、まさにそういう展開だった。
「孫子曰く。凡そ兵を用いるの法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うすると上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ」
つまり謀を以て敵を破るのが上策、軍自作戦での価値は中策、直接の軍事戦闘は下策だと言っている。
▼台湾統一を上策、中策、下策のシミュレーションで考えてみる
孫子の末裔たちの国を支配する中国共産党の台湾統一戦略を、上策、中策、下策で推測してみよう。
上策とは武力行使をしないで、台湾を降伏させることであり、なにしろTSMCをそのまま飲みこむのだと豪語しているのだから、威圧、心理的圧力を用いる。
議会は親中派の国民党が多数派となって議長は統一論を説く韓国瑜となった。
宣伝と情報戦で、その手段がSNSに溢れるフェイク情報、また台湾のメディアを駆使した情報操作である。この作戦で台湾には中国共産党の代理人がごろごろ、中国の情報工作員が掃いて捨てるほどうようよしている。軍の中にも中国のスパイが這入り込んで機密を北京へ流している。
軍事占領されるくらいなら降伏しようという政治家はいないが、話し合いによる「平和統一���がよいとする意見が台湾の世論で目立つ。危険な兆候だろう。平和的統一の次に何が起きたか? 南モンゴル、ウイグル、チベットの悲劇をみよ。
中策は武力的威嚇から局地的な武力行使である。
台湾政治を揺さぶり、気がつけば統一派が多いという状態を固定化し、軍を進めても抵抗が少���く、意外と容易に台湾をのみ込める作戦で、その示威行動が台湾海峡への軍艦覇権や海上封鎖の演習、領空の偵察活動などで台湾人の心理を麻痺させること。また台湾産農作物を輸入禁止したりする経済戦争も手段として駆使している。すでに金門では廈門と橋をかけるプロジェクトが本格化して居る。
下策が実際の戦争であり、この場合、アメリカのハイテク武器供与が拡大するるだろうし、国際世論は中国批判。つまりロシアの孤立化のような状況となり、また台湾軍は練度が高く、一方で人民解放軍は士気が低いから、中国は苦戦し、長期戦となる。
中国へのサプライチェーンは、台湾も同様だが、寸断され、また兵站が脆弱であり、じつは長期戦となると、中国軍に勝ち目はない。だからこそ習近平は強がりばかりを放言し、実際には何もしない。軍に進撃を命じたら、司令官が「クーデターのチャンス」とばかり牙をむくかも知れないという不安がある。
下策であること、多大な犠牲を懼れずに戦争に打って出ると孫子を学んだはずの指導者が決断するだろうか?
▼孫子がもっとも重要視したのはスパイの活用だった
『孫子』は以下に陣形、地勢、用兵、戦闘方法などをこまかく述べ、最終章が「用間(スパイ編)」である。敵を知らず己を知らざれば百戦すべて危うし」と孫子は言った。スパイには五種あるとして孫子は言う。
『故に間を用うるに五有り。因間有り。内間有り。反間有り。死間有り。生間有り。五間倶に起こりて、其の道を知ること莫し、是を神紀と謂う。人君の宝なり』
「因間」は敵の民間人を使う。「内間」は敵の官吏。「反間」は二重スパイ。「死間」は本物に見せかけた偽情報で敵を欺し、そのためには死をいとわない「生間」は敵地に潜伏し、その国民になりすまし「草」となって大事な情報をもたらす。
いまの日本の政財官界に中国のスパイがうようよ居る。直截に中国礼賛する手合いは減ったが、間接的に中国の利益に繋がる言動を展開する財界人、言論人、とくに大手メディアの『中国代理人』は逐一、名前をあ���る必要もないだろう。
アメリカは孔子学院を閉鎖し『千人計画』に拘わってきたアメリカ人と中国の工作員を割り出した。さらに技術を盗む産業スパイの取り締まりを強化した。スパイ防止法がない「普通の国」でもない日本には何も為す術がない。
(十年前の拙著『悪の孫子学』<ビジネス社>です ↓)
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読んだ本の余韻をそのままに小旅行の記録を残す
三重県の丸善でその本を見つけた時、私はこれを確実にこの年末に読もうと決心したのだった。
私の年末は読書の為にある。
正確に言うなら読書の為にもある。他の目当ても沢山ある。例えば、友達に会うこと。例えば、街を歩いて故郷の空気を胸いっぱいに吸い込むこと。
さて、この年末とは即ち令和6年、西暦2024年12月29日日曜日から31日火曜日までの3日間のことだ。
そしてその本とは古川日出夫「京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る」だ。
だから私はこれを携えて西へ帰った。
即ち名古屋から京都へと。
私の実家は京都ではないし、一度も住んではいないが、仮住まいもなかったのだが、「帰った」と言ってはばからない程には故郷のように愛している街である。
私は道中、読んだ。
しかし京都では読んだか。題に謳われし京都に着いて以降は読んだのか。読まなかった。
その代わりに京都を歩いた。
これには書かれていない京都を。即ち洛外を。
洛外のどこであるか。それは京都市伏見区だ。伏見区の稲荷大社だ。
一人でか。否、もう一人いた。大学時代の友人がいて、だから二人だった。
私たちが約束したのは令和6年、西暦2024年12月29日だった。
日曜日と言い添えるべきか。いや、もう書かずとも構わない。
バカンスに曜日は意識されない。
我々はわざと隣の駅で待ち合わせて、二人とも遅刻していて、しかしお互い気にしないで、挨拶を交わして、それから歩いて。
すぐに稲荷大社へ向かう訳ではない。
隣の駅で待ち合わせたのは訳があり、見たいものがあったからだ。
目的の一番目を達する為、京阪電車の龍谷大前深草駅を降り西へ向かう。
そこは普通の文教都市の住宅地である。しかしそこは京都の住宅地だ。並みの街とは、風格が違う。
実はそこにはカタカナ地名がある。漢字を受け入れる前の、日本の、この国の、古い古い記��が残されている。
それを見る。標識に、看板に、自治会掲示板に。
まず、駅を降りるとそこはススハキ町である。
それからまっすぐ西へ歩き龍谷大学深草キャンパスと京都府警察学校との間を抜けていくとヲカヤ町。
誤字ではない。
地名であるにも関わらずーーー現今の国語体系ではまずありえないことにーーー「を wo」の字を冠する町がある。
それを確認して嬉しくなった所で大学の学舎群に沿ってぐるりと回って戻って来ればケナサ町に至る。
固まって所在する三つの旧い町を見、満足して私達は北進する。
するとすぐ、国際観光都市京都の、Kyotoの、面目躍如であった。
当然日本人もいて、地元の人々や九州人や関東の人がいて国の言葉が飛び交う。しかし同等かそれ以上かと思われる程に肌や、眼や、言葉の違う人がいる。コーカソイドがいて、モンゴロイドがいる。
私たちは本命の目的地に着く。
巨大な二本の鳥居の下を通り、歩く。
山を、神域たる山を登っていく。
千本を優に超えていると思われるほどの夥しい朱の鳥居が続く。
くぐる。
歩いて。
登って下って。
鳥居に挟まれた道は狭い。
狭い参道を歩いて、登って下って、鳥居をくぐり続ける。
参道で産道を連想する。
しかしこの場所で生まれるーーー生まれ直す人の数が、多い。
だから、混んでいる。
稲荷神社の狐は多産の象徴だから正しい状況とすら言えるかも知れない。
自撮りする旅人を抜かし、恋人を「映えスポット」で撮影するこれも旅人をそっと待ってから進み、家族写真を手伝おうか迷って、足を止めるが友人は行ってしまうので追う。
二人は黙って歩いていたのではない。しかし会話を続けるには狭くて、混んでいた。
だから途切れ途切れに言葉を交わした。
私たちは久方の再開をおざなりに寿ぎ、散策を開始し、以降休まず歩き続けているのだった。
体がほぐれ、心拍が上がる。
狭い参道で人を避ける為に縦一列になりまた戻りを繰り返した。並んでいても遠ざかったり肩が触れ合いそうな距離を歩いたりした。
状況に応じて左右を入れ替わったりしている内に奥社奉拝所に出た。
それぞれに願を掛け、おもかる石に挑戦した。
また、歩く。
四辻まで辿り着く頃にはすっかり日が傾いていた。
森は緑から黒に移ろい、濃さを増していた。
稲荷山参道の四辻は開けていた。視界が。街に向けて。西を向いて。
国立天文台の発表によると、令和6年、2024年12月2��日の京都市における日の入り時刻は16時53分だ。
だからこの思い出はその時刻の頃だった、と後からでも断じることができる。
しかしその日の私はそこで時計を検めなかった。
スマホのカメラを夕焼けに向けながら、しかし画面の隅の時刻は確かめなかった。
バカンスに曜日は必要なく、もう時刻すらも煩わしくなっていた。
ここで明かしておくと、私は稲荷山を登るのは初めての事ではない。
なので四辻が眺望という観点ではゴールであることを知っていた。
なので念の為に尋ねた。友に。まだ、進むのかと。
進む、と友。
応、と私。
四辻の先、山頂へ向かうルートはすぐに角度を増した。我々は試されていた。
我々の腿が、ふくらはぎが、踵が、心臓が。
三の峰、二の峰、最後の一の峰に着く頃には、混雑ではなく疲れから口数が減っていた。
しかし引き返すという手はなかった。
かわりに足を出して歩み続けるのだった。
裏稲荷、という言葉は存在しないが、四辻で右を選び、一の峰、すなわち山頂からそのままぐるりとまた四辻へ戻る道は正に裏、といった風情だった。
日は暮れていた。下り道が続いた。お喋りは減り続けて今や殆ど止んでいた。
電灯がかろうじて鳥居の内側を照らしてるだけで、外側はもう全くの暗がりだった。
自分たち以外の観光客も殆ど見なかった。
四辻でまた観光客を認め、進んで三ツ辻へ再び差し掛かって、先に来た方角へは戻らず、北向きのルートへ入った。
登りと同じだけ人がいるのが道理だと思うが、目の届く範囲が無人であることが多くなる。
二人きりになることが増えた。
闇に包まれているが自分達の道筋だけは明るい。
不安定な傾斜の中で、お喋りの途切れた時、不意にこれまでに感じたことのない種類の親密さを傍らの友に覚えた。
音のない森の中で、それがいつかも分からず、方角をも知らなかった。
上と下、前と後ろ、内と外の別だけがかろうじて残っていた。
幽玄で原始的な感覚の中で傍らの人の存在は強烈だった。確固としていた。
肩が触れた。
そっと手を取りたくなってーーー迷って止した。
今日は本当に楽しかった、私は言った。
そやね、またね、友が言い、分かれた。
互いに交わり合うことのない観光客同士で混雑する、JR稲荷駅と京阪電車伏見稲荷駅の中間地点で、私たちは一人ずつに戻った。
高揚は続いていた。
私は実家へ帰る道すがらまた本を読み、実家で読み、名古屋で帰る道中でまた読んだ。
僅か三日の経過がめぐるましかった。
日常があり、今やそれは休んでおり、非日常なひと時があり、そこで新たな感覚を得、虚構の世界��入り、また出ていこうとしていた。
京都には私の過去が、今が、そして虚構すらもが重なっていた。
境目はあやふやだった。
混ざりつつあった。
帰名の道中、梅田スカイビルを見た。
JR西日本の新快速に乗り、僅か十五分揺られるだけで乗り換えの京都駅に着いた。
乗り換えの合間に京都駅舎を内から外から眺め、観察し、原広司の世界を楽しんだ。
作中、古川が住んでいたという原広司事務所策の借家を思った。
私はこの本のカバー裏に京都駅来訪記念スタンプを押すことにした。
改札の近くまで行くと、南西アジア系の浅黒い肌をした観光客がはしゃぎながら先にスタンプを操作していた。
すぐに私の番になった。
この思い付きはーーー迷わなかった。
ハンドルを下げ、抑える。
手を上げてみると案外インクが薄く、期待外れだったが、これで全てが繋がったと思った。
内と外も。リアルとフィクションも。過去と今も。
ここを地獄の、とは言わないでおく。
ここは国際観光都市Kyoto。
愛する街を離れながら、私は次の本を開いた。

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パワハラとおねだりを繰り返し、全く反省の色を見せず、 『道義的責任が何かわからない』とまで言い放つ、知事として適性を欠いた斎藤元彦知事は、 全会一致で県議会から不信任決議を受けた。 今回の兵庫県知事選挙は、早い話が知事をクビになった斎藤氏の代わりの知事を選ぶ選挙な訳だが、 あろうことか斎藤氏はこれに立候補し、再選を目指すという。 そして、今回、斎藤陣営(正確に言えば斎藤に味方した立花孝志氏)が 「斎藤氏を告発した文書を作成し、後に自殺した元県民局長が〇〇していた」ことを暴露し、 (自分は個人のプライバシーをあげつらうのが目的ではないので、伏字にする。 これ見てて知らない人がいたら適当にググってくれればいい) さらには 「改革に反発した県職員が斎藤を引きずり降ろそうと画策し、これにマスコミが加担した。 県職員・県会議員・マスコミは全員既得権益側のグルであり、 斎藤元彦は既得権益に��メられた被害者であり正義の味方」 こんなような論を展開している。 これについて自分の考えを述べる。 私は一兵庫県民であり、民間企業で働くサラリーマンです。 (なので公務員でも既得権益でもないよ) 概要 自殺した元県民局長が〇〇していようがいまいが、斎藤氏がパワハラとおねだりを繰り返し、 知事として適性を全く欠いていることに何ら変わりはない ネットの書き込みでは、 「今まで斎藤はとんでもなく悪い奴だと思っていたが、真実に目覚めて180度見方が変わった。 彼こそが知事にふさわしく、正義の味方だ」 という風潮が生まれているが、落ち着いて考えてみると、どう考えてもおかしい。 「自殺した元県民局長が〇〇していたかどうか」 と「斎藤元彦が知事として相応しいか」は全く関係がない。 彼はあくまできっかけとして外部に斎藤氏の告発文書を作って配布しただけであり、 彼が聖人君子でなくてもプライベートで〇〇してようが何ら関係がないのである。 彼の作った告発文書はあくまできっかけであり、その後の調査や百条委員会で 斎藤氏の知事として不適切な言動は明らかにされており、それは告発者の人格や自殺の動機とは関係がない。 自民から共産まで幅広く100人近くいる県会議員全員が彼を知事として不適格と判断している。 それは今まで明らかになった公知の事実からくるものであり、 直接関係ない暴露一つでオセロで黒を全部白にするように全ての事実がひっくり変えるわけがない。 以下、想定問答 斎藤氏がパワハラをしていたというのは職員とマスコミがグルになって作り上げた捏造 斎藤氏が車両通行禁止の区間を20m歩かされたことで職員を怒鳴り散らした(本人曰く「強く注意した」) ことは本人も認めており、捏造ではない。 職員に対して気に入らないことがあると机を叩いたり物を投げたりすることも本人が認めている。 パワハラした録音がないので、パワハラは無かった そもそも、事実関係として、20m歩かされたことで「強く注意」したり、ことあるごとに物を投げたりしたことは 本人も認めており、事実関係に争いはないので、録音は必要ない。 録音が必要なのは、言った言わないの話になった時だけでしょ。 せいぜい争点となるのは、 「20m歩かされたりエレベータが閉まったりしたことで職員を注意するのは職務上適切な注意と言えるか」 くらい。 おねだりは職員の捏造 「手土産として用意されたカニを随行職員が断ったにもかかわらず、 他の職員の分も含めて持ち帰った」ことは知事本人も認めており、捏造ではない。 また、おねだりについては、ワインをおねだりする録音は存在する。 彼が職位を利用して県内の様々な箇所に利益供与を要求したことはもはや疑う余地はない。 斎藤知事を辞めさせると県立大学無償化が無くなる。それでもいいのか。 いいですよ? 自分の子供が兵庫県立大学に通う可能性はない。 勉強を頑張った神戸大学生は学費を払い、兵庫県立大学は学費を払わないというのはおかしい。 「全体の学生の中で、わずか2パーセントしか恩恵を受けられず、不公平。やるべきではなかった」 https://news.yahoo.co.jp/articles/f9cb8d7292a140952e2041491cbc10a5fb95ed7e との神戸市長の意見に完全に同意する。 斎藤知事を辞めさせると1000億円の新庁舎が建設される。それでもいいのか。 いいですよ? そもそも、「職員の4割をリモートワークさせて必要になる庁舎を小さくして財政削減」 という斎藤案が民間で働いている自分には理解しがたい。 少なくとも自分の会社では、リモートワークしている人も職場に自分の机は存在している。 役所にも「自分の机にしまってある自分の書類」があることは想像に難くなく、 「業務が非効率化するのでやめてほしい」との職員の声の方が自分には共感ができる。 4割リモートワークさせようが、職員全員分の机は必要であり、そのための経費は必要な経費だと思う。 そのために1000憶円が適性価格なのかは自分は詳しくないので知らないが、 斎藤案をこのまま進めるべきでないのは自分でも十分理解できる。 対抗馬の稲村和美は左翼 12年尼崎で市長をソツなく勤め上げたのだから、心配ないんじゃないですかね。 隣で見ていた西宮市長も太鼓判を押しているので、市長として優秀だったんだと思う。 https://toshiro.jp/2024/10/31/4498/ 身近で見ていた県会議員全員から不適格とみなされた斎藤知事とは大違い。 似たような話として民主党出身で千葉市長→千葉県知事の熊谷氏も名市長として名高いし。 というか、左翼が政権とって問題になるのって、 ・議会との協調が出来ず、業務が停滞する(田中康夫)とか ・職員のコミュニケーションができず、現場が疲弊する(長妻昭)とか、 そういう弊害が起きた時で、むしろ斎藤氏がもし再選されたときの方がそういう懸念が大きいのでは。 稲村和美は外国人参政権を推進 何を根拠に言っているのか知らないけど(興味もない) 市長を12年やってやらなかったことを知事4年でするとも思えないし、 今度は自民党がバックについているので、自民党が本気で嫌がることはしないんじゃないですかね。 斎藤氏も立花氏も最初の告発文書は公益通報ではなく、ただの怪文書だと言っている 刑事裁判で被告人の言うことが全て100%認められるのなら刑事事件で有罪は存在しない。 多くの弁護士が最初の告発文書も公益通報として認められると指摘しているので、 最低でも慎重に対処すべき案件であった。 また、百条委員会で告発文書に真実があったことは明らかになっている。 本当にただの怪文書なら誰も本気にしないのだから犯人探しなどせずに しかるべき機関に任せればそれでよかったはず。 自殺した元県民局長は〇〇していた。だから自殺の���因は斎藤氏が原因ではない。 だから斎藤氏は悪くない。 もし〇〇していたことが本当でも、「死をもって抗議する」を普通に解釈するのなら、 「斎藤側が元県民局長を調べ上げるときにパソコンを押収し、そこで 元県民局長のプライベートを知り、『斎藤側に不利な証言をするのなら秘密を暴露する』等脅されたので そういうことになった」 ということであるはず。 ・副次的に知ったプライベートなことを目的外に使うのは完全な守秘義務違反である。 また、斎藤側の対応が不適切であったこと、そのために死者が出たことに何ら変わりはない。 百条委員長の奥谷議員は元県民局長の〇〇を知っていて隠していた 奥谷議員がある程度の事情を知っていて隠していた(知らないと嘘をついた) 可能性はそこそこあると思うが、それは普通に考えれば 「斎藤知事の資質を問うのに直接関係の無い個人のプライバシーが世に出るのを抑えたかった」 からでしょ。 「議員とマスコミ全員がグルになって斎藤に有利な情報を隠していた」 なんてのはただの妄想。 以下、自分の話 実体験としての斎藤知事 県民ではあるが、兵庫県は広く、知事は遠い存在だった。 少なくても自分は(極悪人ということになっている)井戸県政に何の不満もなかった。 告発文書が出る前、自分が斎藤知事を意識したのは、プレミアム付きデジタル商品券「はばタンPay」 のポスターに斎藤知事の顔写真が掲載されていたときだった。 その時の感想として、 「なんでこんなところに知事の写真があるんだ。この知事は自分大好き人間だな」 というものだった。 他にも、街や公共機関に以前あったはばたん(兵庫県のゆるキャラ)のイラストが軒並み 斎藤知事の顔写真に変更されており、 自分の肌感覚として、斎藤知事のことを 「権力をかさに県の業務で自分の顔写真を宣伝する自分大好き人間」 いう感覚を持っていた。 なので、一連のパワハラ(職員が自分を最恵待遇しないと職員に怒る) が報道されたときは、自分の肌感覚と一致していたので、全く違和感が無かった。 「県民のためという信念を持ち、既得権益にまみれた職員と戦う権力基盤が無い県知事」 は自分と直接関係ない県の業務に自分の顔写真は掲載させない。 「県民のためという信念を持ち、既得権益にまみれた職員と戦う権力基盤が無い県知事」 は20m歩かされたからと「職員を強く注意」しない。 これが一連の陰謀論を自分が信じられない大きな理由だと思う。 以上の意見に文句がある陰謀論を信じた方は反論ください。 それ以外の人でも、この文章兵庫県民に見せて感想をもらってくれるとうれしいです。
2024年の兵庫県知事選挙について
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たまごやき
大好きなあなたのことを考えながら、卵焼きを焼いている。
そんな詩めいた言葉を口に含みながら、よく溶いた卵をフライパンへ注いだら、弱火に熱した鉄のうえで薄い黄色がふくふく泡立った。洋食屋のシェフだった祖父直伝の卵焼きのレシピの内容は、たまごと醤油と砂糖、あと塩だけ。あせったらすぐ焦げてしまうので、深呼吸しながら巻いてゆく。出来上がった卵焼きの完成度で自分の気分が分かるのはまた別の話。
そうやって、わたしは今、もうこの世にいない大好きなあなたのことを考えながら、卵焼きを焼いている。
だって、卵焼きを焼くと、あなたの耳のうしろへ鼻を寄せたときと同じ匂いがするから。
あなたはわたしのお誕生日の次の日におうちへ来てくれた。茶色くて、骨が太くて、レッドアンドホワイト、オス、と札がついていた。お店で抱っこしたときはあんなに大人しかったのに、うちにくると暴れん坊になった。ラッキーって名前をつけようとし��ら、父親が「こいつはそんな感じじゃない」と言って、すぐに〈チャチャ〉という名前になった。本当に声が大きかったよね。すっごいうるさかったよ。横に住んでるビーグルの男の子と、窓越しによく会話してたよね。散歩がすっごく好きだったよね。行けない日は網戸越しに外を見てたよね。バイクもトラックも本気で追いかけたよね。獣医さんの処方した薬は嫌いだったよね。そうそう、話は戻るけど、あなたをお会計(ペットショップ)してるとき、この子は心臓が弱いから生きられても12年ですって言われたんだよ。わたしは10歳だったから、説明を受ける両親の後ろで指を折って22歳まで数えてみたな。実感湧かなかったな。小さくてかわいいリボンを首につけて、ケーキを持ち帰るときとそっくりの段ボールに入って、空気穴から鼻を出してるあなたを見ながら、約12年のカウントダウンが始まりました。懐かしいね。
大好きだよって何度抱きしめただろうね。
私が悲しかった夜。外の空気を吸いたくて、でも門限が厳しかったからひとりでは出られなくて、「散歩連れて行ってくる」って口実で抱っこしたら、眠そうだったのに一緒に歩いてくれたよね。絶対前を歩いてくれたよね。でもそれはただ、自動販売機のひかりに吸い寄せられていたからだって知ってるよ。歩くたびに背中の毛が羽根みたいにふわふわゆれて、あれ、今思えば癖っ毛だったのかな。いろんなところでいたずらしてたし、オムライスのたまごをつまみ食いしたこともあったよね。勝手にテーブルに登ってティッシュを散らかしてたよね。私がリコーダーの練習をしてたら、エーデルワイスに合わせて遠吠えし出したのにはびっくりしたな。あれ今ネットに流せば話題になるんじゃないかな。いろんな携帯を経由してるからもう画質がびがびだけどね。
梨が好きだったよね。おじいちゃんの焼いたパンが好きだったよね。大きい毛布が好きだったよね。こたつも好きだったよね。ひとりっ子でわがまま放題だったあなたに、弟ができたのはその頃でしたね。黒いチワワのちくわ。妹命名です。手の先だけが茶色くて、ちくわをはめているみたいだったかららしいよ。最初は喧嘩してたけど、ちくわがあまりにもどこ吹く風だから、あなたは早々に諦めていましたね。いいコンビだったよ。お留守番も悲しくなくなったよね。いきなり部屋の電気をつけたら、ふたりでまぶし、って顔してたよね。血は繋がってないのに面白いくらい似てたよ。そしてそのまた次の年、コーギーのまめが来て。まめとは……相性あまり良くなかったよね。おんなじ毛の色してるくせにね。たまに、未知の生命体と交信するみたいに見つめ合ってたね。かわいかったよ。なんだかんだ一緒に寝たりしてたよね。リビングに毛玉がみっつ落ちてる光景、好きだったな。
あだ名たぶん10個くらいあるよ。思い出せないけど。チャチャはチャっくんになって、テレビでもののけ姫が流れた次の日、ヤックルにちなんで、チャックルになったよね。どうせなんて呼んでも振り向くんでしょあなたはね。
変なところ鋭かったよね。動物的勘っていうやつなのかな。
家出しようとしたら、静かに目で行くなって言ってくれたよね。
部活の大会で負けて、頭に顔を押しつけて泣いて、あたまびっしょびしょにしちゃってごめんね。
受験勉強で夜更かししてじゅうぶんに寝かせてあげられなくてごめんね。
うるさいって言ってごめんね。でもそれはほんとにうるさかったからこれでおあいこです。
私が大学生になって、あなたの心臓がいよいよ悪くなって。大好きなおじいちゃんの食パンに包まれた薬を飲んでたよね。たまにぺって吐き出して怒られてたよね。たまに発作を起こしてたよね。つらかったよね。何もできなくてごめんね。
夜寝る前に、こっそりあなたの頭に鼻を寄せて、おやすみ、大好きだよ、って言うようになったのはその頃です。そして、卵焼きの匂いがすると知ったのもそれがきっかけです。ごめんね。でもね、朝起きて、あなたが死んでいたら後悔すると思って。自分勝手でごめんね。嫌だったよね。いや生きてるわ、って思ってたよねきっと。でもさ、そんなことでわたしのこと嫌いになったりしないよね。警戒心の強いあなたがわたしのお腹でぐーすか寝るくらいだもん。家族だもんね。
わたしがあなたを最後に見たのは、冷蔵庫の前に伏せをしている姿でした。いつも通りでした。この夜が山場だって両親から言われて、覚悟はしてたの。でもどこかで、大丈夫だろうって思ってたのも本当だよ。だってあなた信じられないくらい骨が太いんだもん。叩いたら太鼓みたいな音するんだもん。チワワのくせに8kgもあったんだもん。あっ、体重測るのはわたしの役目だったよね。わたしがあなたを抱いて体重計に乗って、表示された数字から48を引いたら、あなたの命の重さが分かりました。……そんな重くなかったって? ちゃんと重かったよ。そしてね、すっごいあったかかったよ。
朝。ベッドで寝ていたら、父親が入ってきて。目が覚めたのが先か、父が口を開いたのが先か覚えていないけど、そこで全部を悟りました。父親がわたしに声をかけるときは、決まって大事な話があるときだから。
チャっくんが死んだわ。
一言一句たがわず覚えています。
ベッドから出て、階段を降りて、リビングの柵を跨いで。この柵はね、あなたが脱走するから苦肉の策で設置したやつね。それを跨いで。
頭の横に母、足元に父、おなかのよこに妹。そして心臓の前にわたし。ちくわとまめはどこにいたかな。ごめん二人とも、その瞬間だけは見えてなかったかも。許してね。
死んでたね。
涙が出なくて。だって悲しくなくて。強がりとか薄情じゃなくて、分かってたから。半分だけあなたが死ぬって分かってたから。そっか、死んじゃったかって、あなたの目の前にいるくせにそんなことを思ったわたしのこと怒ってる? ……怒ってなさそうだね。この世の終わりのように泣く母に相槌を打って。初めて見る父親の泣き顔にびっくりして。妹は泣いてなかったったかな。
あまりにも悲しくなくて、普通にお化粧をして、遊ぶ約束をしていた友だちとそのまま遊びに行って、パスタを割り勘して、電車に乗って帰って、恋人に迎えにきてもらって。こうやって文字にしてみたらすごく最低なやつだね。実際そうだよ。母親は不満そうでした。その反応が普通だよ。
だって、悲しくなかったの。当たり前だったから。あなたが生きていようが死んでいようが、わたしがあなたを好きなことに変わりはないし、今まで生きてきた時間は消えないし、思い出もなくならないから。そしてね、あなたが死んでからいまこの瞬間まで、あなたが死んだことを悲しんで涙を流したことはありません。懐かしくて泣いたことはあるけどね。
それは、あなたがぜんぶを連れ去ってしまったからです。
ビルでも建てられそうな隆々とした骨の中で、弱かった心臓を守っていたあなたは、いつだって気丈で跳ねっ返りが強くて。わたしが煌々と電気をつけて勉強するから寝不足だっただろうに、ごはんももりもり食べて。発作のときもどこか豪快で、心配になるような弱りかたはしなくて。ああ思い出した、肉球を怪我してるのに海に入って、血が出てるのに何にも言わなかったよね。気づかなくてごめんね。染みたよね。そんなふうにあなたはずっとまっすぐで。散歩のときはリードを引っ張って。あげく、もうすぐ死にます、なんて診断されて帰ってきて。
好きだったよ。
大好きだったよ。
いや、大好きだよ、今も。
火葬場に行くあなたを、最後にちくわと触りました。まめは連れて行かないでって吠えていました。うまくできた話だよね。泣かせるね。
遺骨になったあなたは、わたしが部活のカメラで撮ったぶさいくな写真を遺影に採用されて、いつもお仏壇はものでいっぱいです。最初はみんなさめざめとお菓子を備えてたけど、今では半分投げやりです。チャっくんにあげとくか〜って軽い感じです。
たまに夢で会いますね。
最初は良かったんだけど、いつしか、夢の中でさえ、なんであなたが生きてるんだろうって思うようになりました。たぶん、わたしにとって、あなたがこの世にいないことが普通になったから。
わたしは、あなたがいないことを悲観的に捉えたことはありません。会いたいなとは思うけど、悲しんで泣いたりはしません。たぶん、これからも。
一月生まれなのに桜が似合うあなたに。
みんなに撫でられすぎてあたまだけ癖っ毛が落ち着いていたあなたに。
悪知恵ばっかり働くあなたに。
ちょっとしゃくれてるあなたに。
しっぽが長いあなたに。
お風呂が大好きなあなたに。
10歳で亡くなったあなたに。
わたしの誕生日プレゼントとしておうちに来てくれたあなたと、その運命に。
耳の後ろが卵焼きなあなたに。
会いたいなと思いながら、さっき、卵焼きをお弁当に入れました。
気が向いたら会いに来てね。今日でもいいよ。そろそろのぼせそうだからお風呂あがるね。明日もお仕事だから早く寝るね。
おやすみ、大好きだよ!
……あれ、なん��伏線回収みたいになった? 職業病かな。うふふ。そうだといいな。
でも本当におやすみ。大好きだよ。
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大学のクラスメイトと3人で帰ってる時に、先輩にコムドット好きそうって言われて本当に傷ついた話をしたら、1人は最悪だね〜という反応だったのですが!!!!もう1人にもう嫌悪とか拾って傷つきに行ったり人を冷やかしたりするの俺にはできなくなったわ〜と言われました!!!!!!
はぁああ〜💢ですまじで!!!!!!!
これを言われてすかさず、だから山とか川とかの自然風景写真撮れるんだねー私には一生コンクリしか撮れないわーと言いましたムカついたので
これ言ってきた人(以下嫌悪マン)はいつも透明感を大切にして自然を撮って、人の作品にも積極的に意見しててその辺は良いと思うけど、人の作品に対して、嫌悪マンの言い方をすれば、嫌悪を拾ってくるので!!なんなんですか??💢となりました
嫌悪マンは毎日supremeやらstussyやらを着てウルフで髭生やしてるのに、なんでそんな女子大生みたいな格好なのに写真学科なの?と聞かれたこともあります!!ヘラヘラして消去法だと答えました!!!!私は総合型選抜という1番すごい入試方式で2番目に合格してるので嫌悪マンよりずっと上です!!!!消去法に負けてるぞ!!!!!!
スッキリしました
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
嫌いなものと言えば…↓これはtumblerを始める前にインスタ���サブ垢に殴り書きしたやつなのですが、書いてるうちにどんどんイライラ(太鼓みたい!)してきて入力の手が止まりませんでした!!全部に理由を書いていこうと思います!一旦一覧です!激長の予感…!!!
嫌いなもの→恋とか愛とかがなんだと言うツイートばかりしてるのに何人も元カレ元カノがいる奴、デブなのに足開いて電車で座る奴(男女問わず)、デブなのに電車で端の席座る奴(男女問わず)、思いっきり待機禁止と書いてあるところで電車待ちする奴ら(老若男女)、並んでる間に十分準備できるのに会計や受付時に慌てる奴、コムドット好きそうって言ってくる奴、人気すぎて定番化したものをダサいと言うエセファッションマニア、TikTokのコメント欄、ネトフリやアマプラの勝手にOP・EDをスキップする機能、当たり屋、ピアスがゴールドシルバーバラバラな奴、ファンでもない有名人が亡くなった時にSNSで追悼する奴、犬系彼女、自称画伯、本名ベースの男みたいなあだ名でTwitterやってる女、ガルちゃんで例え話する奴、バズってるツイートの引リツで「これ嘘松ってわかっててみんな笑ってるん?」��て書く奴、散歩、中肉中背のスキニーパンツ、ギャルが着るくすみカラー、理事長とアメフト問題をいまだにネタにする日大生、男尊女卑、ミスiDだけは自分の個性をわかってくれてると信じてる少し前のJロックしか効かない Twitter大好き女、小さい頃の写真をアイコンにして自分のコンプレックスをユーザーネームにしてる女、性犯罪者、感情の起伏を利用するだけでストーリーに面白みがないホラーや感動モノ、躁のときのあれだった笑、髪が長めでおとなしい男の人の髪をすぐ結びたがる女、男趣味が好きな女に対して無知呼ばわりしてくる男(カメラ時計車バイクスニーカー)、女が少しでも意見するとヒステリックと言ってくる男、整形否定派、ナンパやキャッチに返事する女、興味のない男に無視やブロックせずわざわざ返言する女
ー嫌いな理由ー
恋とか愛とかがなんだと言うツイートばかりしてるのに何人も元カレ元カノがいる奴
下手な奴が語るな黙ってろ
デブなのに足開いて電車で座る奴(男女問わず)
足開くだけでも最悪なのに太ってたら迷惑の域を越える
デブなのに電車で端の席座る奴(男女問わず)
端の席は痩せてて姿勢が良くないとその座席全体に影響を及ぼすため
思いっきり待機禁止と書いてあるところで電車待ちする奴ら(老若男女)
普通に日本人字読まなすぎじゃないですか??レジとか整列とか出入り口とか、字読めなくてもわかるように目印や絵までついててできな��なら全員今の仕事クビで
並んでる間に十分準備できるのに会計や受付時に慌てる奴
普通に意味がわからない私ADHDだけど(全世界初公開、治療中)これなったことない 医者には衝動性がなく人目を気にしすぎるから出ない症状があると言われたのでその一部なのかも
コムドット好きそうって言ってくる奴
今日の話題のきっかけになったやつです そもそも、賛否分かれるものを好きそうと言ってくる神経がわからない 悪口なのだとしたらキモすぎる
人気すぎて定番化したものをダサいと言うエセファッションマニア
お前らが今キテる、アツいと言っているものもいつかオーソドックスになるし、ダサいと一蹴してるものも昔はおしゃれでしたよ
TikTokのコメント欄
例え話や漫才、映画や再現VTRの切り抜きを本当のことだと信じて批判するガキ、老害見てらんねーよ コメントを開かないモード作ってくれー
ネトフリやアマプラの勝手にOP・EDをスキップする機能
見るんだわ 次回予告もエンドロールも前回のあらすじも
当たり屋
犯罪者 早く取り締まれクソ国が
ピアスがゴールドシルバーバラバラな奴
なぜ????靴が左右で違うのと同じだと思う
ファンでもない有名人が亡くなった時にSNSで追悼する奴
これでミュートした友達たくさんいる 他人がSNS、ましてやストーリーに投稿したところで何にもらならない 心の中でやってくれ
犬系彼女
てかののち��その彼氏 普通に顔が見てらんないしカップルでSNSをやることから理解ができない その中でも犬系は別格 ブロックしてもミュートしても転載が回ってきてこちらの身を守れない
自称画伯
何も面白くない
本名ベースの男みたいなあだ名でTwitterやってる女
これでロクな女見たことない 〇〇のすけ、〇〇太郎など 女に全振りしてないことをアピールするのが名前という一番女らしい行為
ガルちゃんで例え話する奴
いらない 主の質問疑問テーマに対する意見や共感しか求めてない ここは掲示板であって会話する場所ではない
バズってるツイートの引リツで「これ嘘松ってわかっててみんな笑ってるん?」って書く奴
なぜ?????????
散歩
歩くのが苦手、景色を楽しめない、無音が嫌いで音楽を聴くと動いてしまうため変な目で見られる、買い食いをしてしまう、そもそも目的のない行為は苦手
中肉中背のスキニーパンツ
脂肪がない人が着る前提で作られていますので
ギャルが着るくすみカラー
汚い
理事長とアメフト問題をいまだにネタにする日大生
2年生?の時のグループディスカッションでこの話をされて今まででトップレベルの怒りが込み上げて、その後口を開くことはなかった ちなみに今もたくさんいる この前クラスメイトがプレゼンのスライドに日大理事たちのコラ画像を使っていて教室から走り去りたくてしょうがなかった
男尊女卑
フェミニストなので 九州出身の女の子が無意識に家事をしていたり男をがばったりしているのを見て、一番の被害はこういうところにあると気づいて衝撃だった
ミスiDだけは自分の個性をわかってくれてると信じてる少し前のJロックしか効かない Twitter大好き女
明確にモデルがいますが ミスiDは個性も見てくれるだけであって基本はミスコンなのを忘れないでください それ以外はパタエモです
小さい頃の写真をアイコンにして自分のコンプレックスをユーザーネームにしてる女
これでロクな女みたことない だいたい遊んでるか、それを真似したいちっさい女 こういう奴はまず汚い声で笑って、その後悪気もなくヘラヘラしながら目を見て人に悪口を言う コムドットが好き
性犯罪者
男が想像する以上にいる 私も数えきれないほど痴漢やストーカーにあっていて、小さい頃は誘拐されかけたり路上で写真を撮られたりした 一番衝撃的だったのは自慰をした汚いオヤジに電車内で追いかけられてかけられそうになったこと
感情の起伏を利用するだけでストーリーに面白みがないホラーや感動モノ
最近まであまり映画を観てなかったのはこれ 明確にこの作品で映画から遠ざかったとかはないけど、嫌なものに当たりたくないから安全策で映画を観てなかった 最近観るチャレンジしてるのでおすすめあったら教えてくださいホラーとSF以外でお願いします
躁のときのあれだった笑
絶対躁鬱じゃないやつがSNSで言う
髪が長めでおとなしい男の人の髪をすぐ結びたがる女
言語化できないキモさで溢れています 自分に反抗しない人が好きだと言う点、自分ができて相手ができないことを強制的にやろうとする点、それが髪を結ぶとかいう女ならだいたいができることだと言う点、相手が男��という点 あと普通にそれを受け入れるキモい男 など
男趣味が好きな女に対して無知呼ばわりしてくる男(カメラ時計車バイクスニーカー)
実際、写真を撮るし時計の展示会に行ったりするのでよく遭遇する カメラ屋に行くとだいたいナメられるし、何もわからない前提で話してくるし、ただの客にお嬢ちゃんこんなの使えるの?と絡まれたこともある この前新宿で夜景撮影してたら、自称写真家にずっとロバートキャパの話をされて、無視してたのに15分くらい話し続けてて本当に恐怖を感じた 写真は上手く撮れた
女が少しでも意見するとヒステリックと言ってくる男
これずっと思ってます物心ついた頃には思ってましたほんとに ジャンダーに関する本をたまに読むのですが、脳の性差は世の中のイメージとはかなり異なることが最近の研究でわかってきてるそうですねー小さい頃に遊ぶもので変わってきたりもするらしい 人間って面白いねー
整形否定派
何がダメなのかわからない こんなこと言ったら私が不利になるだけだけど、整形がダメなら筋トレも勉強もダメだろ
ナンパやキャッチに返事する女
無視一択 下に続く
興味のない男に無視やブロックせずわざわざ返言する女
無視一択 上のやつもそうなんだけどさ、何にでもかまってあげちゃうの本当に良くないと思う ナンパとかキャッチは人と思わなくていいけど、好意を持たれたり都合よく遊ばれてたりするなら無視しかないでしょ 時間の無駄
大暴れ
クリスマスイブにこんなことしてすみません私は6年間毎朝礼拝をしたキリスト教中高出身だと言うのに
昨日ももクロのライブ行けて楽しかったーー!
今日はM-1だし明日は松枝とクリスマスパーティーするよー!みんなも来る???ピザとかケーキとかあるよん
では良いクリスマスをーーー!!!!!
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クィアたちのZINE交換【後編】

前回の記事に書いたが、ZINE交換会で、私は7冊のZINEをいただいた。 今回の後編では、それぞれを読んだ感想をまとめてみる。
※作者がセクシュアリティをどの程度オープンにしているか分からないため、ZINEの作者名は伏せています。 ※オンラインで公開・販売されているものについては、末尾にリンクを貼っています。
-----------------------------------------
■「ノンバイナリーがわからない」というテーマ詩またはエッセイ シンプルな紙面から、生きてい��だけで「男/女」と申告させる社会への失望が伝わってくる。これまで深く知る機会のなかった生きづらさに気付かされる。 「お兄さん」「お姉さん」という呼びかけも、時として相手のメンタルを削ることを学んだ。会話の端々で、知らず知らずのうちに相手を「男/女」のカテゴリーに当てはめていたかもしれない……と怖くなる。
「男/女」のあわいにいる人と同じ社会に生きているのだと、もっと意識して生活しなければと思う。 そして、無意味な性別の振り分けをなくす方向に社会を変えることも必要だ。当事者を死に追いやるレベルの苛烈なトランスヘイトが実際に起きている今、一層強く感じる。 シスジェンダーの自分には、まだまだ見えていないことがあると気付かせてもらえた一冊。
■YOGA HAMSTER STAMP ヨガのポーズを、素朴なハムスターのイラストと共に解説するZINE。 モフモフしたハムスターが、1ページごとに「チャイルドポーズ」「猫のポーズ」などを決めている。手足が短いなりに頑張っていて可愛い。
様々な研究で、クィアが精神を病む率は、そうでない人よりも高いことが分かっている。 体をほぐし、リラックスする時間を意識的に取ることも、クィアとして豊かに生きる上では大事だなと認識した。いや……いっそハムスター飼う?
■LIFE LIFE LIFE vol.3 そうだ、京都行こう 写真が趣味の6人(Gender Identityは男性寄りと思われる)が、京都で撮った作品をまとめたZINE。 作品と共に、撮影エピソードも載っている。歴史ある町並みや自然の佇まい、旅の興奮が伝わってくる。
ZINE作りに参加した6人のうち、3人は一緒に撮影旅行をしたそう。 1人では挑戦しづらい着付け体験に連れ立って行き、着物姿で街を散策しながらお互いを撮り合う。スーパーで食材を買い、airbnbの宿で一緒に料理をする。朝は古い喫茶店でモーニングを楽しみ、香り高いコーヒーを優雅に味わう。 エッセイパートで若者たちの予測不能な旅の面白さを追体験しながら、友達が家庭を持ってしまった今はこんな旅行もしづらくなった……と少し切なさもよぎる。
なお、この3人のうちの1人が、旅先で気分が落ち込んでしまったときに2人がそっとしておいてくれて嬉しかったと書いており、印象に残った。 自分が相手より優位に立っていることをアピールしたり、キャバクラなどの空間で女性にケアしてもらいながら親睦を深めたりする「ホモソーシャル」なノリではなく、お互いに褒め合ったりケアし合ったりする友情の育み方が、読んでいて気持ちよかった。 作者のクィアネスについては特に触れられていなかったが、シスへテロ男性らしさを要求されないコミュニティが、作者の精神を支えているのかもしれない。
■Q&Q スモールトークが苦手なわたしのための質問カンペZINE A6版の手に収まるサイズ感と、ポップなイラスト、ドミノピザの箱のような色使いが可愛い。 イベントで初対面の人と実のある対話ができるようにという心遣いから、各ページに「今日はどうしてこちらへ?」「今の社会に足りないものはなんだと思いますか?」などの質問が並び、読者(ユーザー?)はページを指差したりめくったりして会話を進めるという仕組み。便利!
趣味や好きなカルチャーに関する比較的軽い質問もあれば、「どんなジェンダーの相手とでも、友情は成り立つと思いますか?」「自分の力で社会は変えられると思いますか?これまでに何か変えられた経験はありますか?」など、ぱっと答えられないような深い質問もある。
後ろの方には、作者が推している海外ドラマや本などの紹介も付いていて、世界が広がる。 最近はセクシュアリティの問題を扱った作品の数が増えて嬉しい反面、作り手側に深い理解や考察のない作品は観ても傷つくだけなのでうかつに手を出せないという現実もある。 セクシュアリティについて日々真剣に考えている人から、口コミで良作を教えてもらえるのは有難い。
読んだのがイベントから帰った後だったので、作者の方と会場でこれを使って喋れたら更によかったかも。次回に期待。
★おまけ★ 「どんなジェンダーの相手とでも友情は成り立つか」について: 友達になれないと感じるジェンダーの人は思い浮かばないが、テレビに出ているゲイやトランスジェンダー(ドラァグクイーン)に時折見受けられる「自由=性的に奔放」という考え方は苦手だなと思う。 タレントの恋愛相談に「積極的にどんどん行っちゃいなさいよ!そうやって経験を積んで人は大人になるんだから~」と答えるオネエ言葉の人たちは、恋愛やセックスをしない自由という発想がなさそうなので、友達になれる気がしない。知り合い止まりにしたい。 でも、あの人たちも、テレビが作り上げたステレオタイプを演じさせられているのかもしれない……どうなんだろう。 ドラァグクイーンでも文化人寄りのヴィヴィアン佐藤さんあたりは、恋愛相談に対してもっと深みのある言葉を返すのではないかと思う。
■アセクシュアルである私がどのようにしてサトシに救われ、今回の件でどのようなことを考えたか 2022年の冬、25年もの期間にわたって放送されてきたアニメ版ポケットモンスター(以下「アニポケ」)の主人公が、次のシーズンからサトシではなくなることが発表された。 このニュー��は、アニポケのオタクであり、アセクシュアルでアロマンティック傾向のある作者にとって、人生を揺るがす出来事だった。
作者は、小学校時代から自身のセクシュアリティを自覚し、友人の恋バナについてゆけず疎外感を味わってきたという。 恋愛に無頓着でありつつポケモンバトルに魂を燃やし、そのまっすぐな生き方で人々に愛されるサトシの姿は、作者にとって救いだった。 脚本を書いた人は意図していなかったかもしれないが、テレビの前でアニポケを観ていた一人の小学生は、恋愛がなくても充実した人生を送ることができるというメッセージを受け取ったのだ。
主人公の少年が戦いを通じて成長するストーリーの少年向けアニメでは、多くの場合、サイドストーリーとして恋愛が描かれる。 「るろうに剣心」「NARUTO」「鬼滅の刃」など、主人公と女性キャラクターのカップルをぱっと思い浮かべられる作品は多い。 これらの恋愛は基本的に異性愛であり、同性カップルは登場しない。ほとんどの少年向けアニメの世界観は、シスへテロ恋愛規範に基づいていると言えるだろう。 こういった状況にあって、物語に恋愛を持ち込まないアニポケは、作者にとって抵抗なく楽しめる希有な作品だった。 サトシに好意を持つ女性キャラクターが登場しても、サトシにはぴんと来ず、「そんなことよりバトルしようぜ!」という態度を取る。そして、周囲はそんなサトシを責めたり馬鹿にしたりせず、「まあサトシだからね」と受け入れる。 こういった物語に触れることで、恋愛感情の湧かない作者は、自分自身も肯定されたと感じていた。
しかし、サトシが主人公のアニポケは、もう制作されない。作者の心の支えが、一つ失われてしまうのだ。
そして作者が危惧しているのは、「NARUTO」→「BORUTO」のような続編への移行だ。 「NARUTO」の続編である「BORUTO」は、「NARUTO」の主人公うずまきナルトとヒナタの息子が主人公。 この展開によって、主人公が異性と結婚して家庭を持つ=ハッピーエンド、という原作者と制作者の世界観が鮮明になった。 もし、同じように次期アニポケの主人公がサトシの子供になってしまったら――それはつまり、制作者の中に、「バトルに熱中していた少年も、大きくなれば異性を好きになって恋愛→結婚・セックスするのが当たり前」という考え方があることを意味する。 これまでアロマンティックやアセクシュアルを肯定する存在だったサトシが、シスへテロ恋愛の模範として再定義されてしまうことを想像し、作者は何度も泣いたという。 やり場のない不安を整理すべく、このZINEが作られた。
このZINEが突きつけてくるのは、恋愛や性愛のない人生を肯定してくれる物語の少なさだ。 純文学などの中には探せばあると思うが(谷崎潤一郎「細雪」とか)、沢山の人が楽しむアニメや漫画などのポップカルチャーの中に、主人公が恋愛なしで満たされている作品を見つけるのは難しい。 2022年、主人公がアロマンティック・アセクシュアルのドラマ「恋せぬふたり」がNHKで放送され、話題を呼んだ。 このような、恋愛に縛られない幸せの形を提示できる物語が、もっと作られてほしい。 そして、私も何か書けるかな……。
https://note.com/ichijosayaka_59/n/n93046e8a589f
■2306 最悪のプライド月間を、なんとかやり過ごすZINE 1968年にアメリカで起こったクィアによる反差別運動(通称「ストーンウォールの蜂起」「ストーンウォール事件」)にちなみ、6月は「プライド月間」とされている。 今年の6月も、世界各地でセクシュアルマイノリティへの理解を深めるキャンペーンやイベントが行われた。 日本でもこうした取り組みは盛り上がりを見せたが、一方でLGBT理解増進法案が保守勢力によって骨抜きにされるなど、国や社会によるクィアへの抑圧が鮮明になるような出来事もあり、国内のクィアにとっては希望を感じづらい1ヶ月となってしまった。
このZINEには、ゲイであり鬱療養中の作者がこの6月をどう過ごし、何を考えたかが記録されている。文章の合間にゆるい漫画や犬の写真が配置されているので、深刻な内容があってもそこまで肩肘張らずに読めて有難い。
鬱によって思い通りに動かない身体。過去に受けた性被害のトラウマ。 反差別というメッセージが限りなく薄められたLGBT理解増進法案や、SNSでのトランスバッシング。 彼氏が両親の留守中に犬の世話をするため実家に帰ることになり、こっそり同行させてもらうという楽しいイベント。 彼氏が両親にカミングアウトしていないため、表向きは友人を装わなければならない現実。 彼氏と犬のユズちゃんと共に過ごした穏やかな時間。 無職である後ろめたさ。梅雨時の湿気。 その時々の作者の感情が、グラデーションになって迫ってくる。
二人と一匹の間に流れる温かい空気を感じながら、二人が堂々と一緒に暮らせないことを悔しく思う。 また、病気などの理由で一日八時間労働が難しい人が社会から零れ落ちてゆくような現状も、もっと改善できないものかと感じた。 (「Marriage for All」に署名し、選挙の時も人権意識のありそうな人に投票するようにはしているが、まだ足りないんだろうな……。) 一応、作者が欲しいものリストを公開した時に、応援を込めて1品ポチッとした。まだ足りないだろうけど。
※「はじめに」のみ公開 https://nigenige2020108.hatenadiary.jp/entry/2023/06/30/090000
■恋愛も結婚もセックスもしたくない人がいるんです アロマンティック・アセクシュアルである作者が、自身のこれまでの人生と現状、将来のビジョンをエッセイ漫画にしたZINE。
作者は30代で、性自認は女性。アロマンティック・アセクシュアルでありつつ、BLが好きで百合も読む「腐女子」。 自分が恋愛や性愛の当事者になりたくはないが、フィクションの恋愛や性愛は読者として楽しめる、ということになる。
恋愛を経ての結婚をする気はないが、何かあったときに助け合える人がいてほしい気持ちもあり、いわゆる「友情結婚」にも興味がある。 助け合うことと恋愛・血縁が分かちがたく結びついている現代社会では、恋愛感情や性欲がなかったり少なかったりすると孤立しがちだな……と改めて認識する。 「恋愛経験がない/少ない=人間的に未熟」というバイアスに苦しめられるくだりは、共感しかなかった。
平日は金融機関で働き、週末にオタ活を楽しむ作者の人生は、ちゃんと充実している。 変わるべきは、「人生には恋愛と性愛があるべき」という価値観を振りかざし、無駄なコンプレックスを味わわせる世間の側だろう。 恋愛・性愛のない豊かな人生はあり得るという希望を見せてくれる、爽やかな読後感のZINEだった。
※8/11時点でこのZINEは完売、続編は購入可能 https://hinotoya-akari.booth.pm/
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こうして感想を並べてみると、作者7人のセクシュアリティと抱えている事情が千差万別であることに、改めて驚く。 本やウェブで「LGBTQ+とは?」みたいな解説を読んだだけでは絶対に見えてこない現実と実感が、それぞれのZINEから生々しく伝わってくる。
社会がカテゴライズした性別や恋愛・性愛規範に自分を無理矢理当てはめて解釈しようとすると、どこかで無理が生じる。 クィアはそうでない人より無理をしなければならないが、自分がクィアだと明確に認識していない人も、実は無理をしていることがあるのではないかと思う。 (「性自認が男なのにメイクしたいと思うのは変かな?」「恋人との時間より友達との時間が楽しいと思う私は間違ってるのかな?」といったように。)
既存の枠組みに囚われずに自分のセクシュアリティを語ることは、社会や権力の都合によって奪われた自分の一部を取り戻し、自分の生を自分に合う形にカスタマイズする第一歩なのかもしれない。
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蟻后死亡會怎樣?
在台灣的某個夏日午後,一位熱愛自然的學生在公園裡觀察到一群忙碌的螞蟻。他們在陽光下穿梭,似乎有著無窮的活力。然而,當他注意到蟻后靜靜地躺在巢穴中,心中不禁產生疑問:蟻后死亡會怎樣? 蟻后是整個蟻群的核心,負責繁殖與維持社會結構。當蟻后死亡時,蟻群的命運將面臨巨大的挑戰。失去蟻后的指引,工蟻將陷入混亂,無法有效地組織工作,甚至可能導致整個巢穴的崩潰。這不僅影響了蟻群的生存,也讓我們反思在社會中,每一個角色的重要性。 蟻后的死亡提醒我們,無論是自然界還是人類社會,領導者的角色都是不可或缺的。透過這個故事,我們應該更加珍惜身邊的每一位夥伴,因為每一個人都在為整體的運作貢獻著力量。 文章目錄 蟻后殞命,蟻巢崩解的警訊:深入解析台灣常見蟻種的應對機制 蟻后不在,危機四伏:台灣居家環境中蟻害擴散的潛在風險與防治策略 常見問答 重點精華 蟻后殞命,蟻巢崩解的警訊:深入解析台灣常見蟻種的應對機制 身…
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2025/6/4 9:00:08現在のニュース
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京都の伏見は酒蔵の町
京都の伏見といえば、伏見稲荷大社が有名ですね。
その一方で、酒蔵の町としてもよく知られていたりします。

月桂冠に黄桜に、松本酒造に。有名な酒造メーカーが並んでいます。

↓のページが見やすいです。
去年の秋くらいに仕事で近くに行ったので、少しぶらぶらしてきました。
これは松本酒造。


桃の滴が有名なのですかね。

川沿いにあって、春になると菜の花も咲くようで、絵になる景色が見られるかもしれません。
大正時代からある酒造で、正面の佇まいからも歴史が感じられます。
見学もできるようですね。


ここから少し離れたところに、月桂冠大倉記念館やキザクラカッパカントリーなどもあります。

そのあたりも行ってきたので、次の記事でも写真を載せていきますね。
ここのブログは、1記事につき10枚までしか写真がアップできないので、記事をわけなければいけません。
さて、酒蔵の町・京都伏見は、日本三大酒どころの一つだそうです。
あと二つは、兵庫県の灘、広島県の西条です。
京都の観光地というと、やはり祇園・四条・清水エリアが人気ですが
京都伏見のこの辺りも、もっと観光客が増えてくるのでは?と、勝手に見込んでいます。
最近は、インバウンド観光客向けなのか、日本酒の飲み比べができるお店やお酒の美術館もできているほどですから。
京都四条の錦市場にも、日本酒の飲み比べができるお店があります。人気ですよ。
錦屋台村が人気ですね。
京都伏見の酒蔵の町には、あの寺田屋や十石舟、伏見桃山城もありますし、
もう少し人が入ってきてもいいのになぁと思いながら、散策しておりました。

春になったら人が増えるのかもしれませんね。
桜が咲く頃の十石舟の風景写真は、Instagramでもよく見かけます。
最近はInstagramでの宣伝効果もすごいみたいで
そこまで有名でなかったはずの長岡京市の光明寺や
同じ伏見区の城南宮などがおしゃれになって参拝者も増えたので驚いています。
城南宮は、昔から知ってたりしますが、
今までと違う参拝者が増えたように感じられますね。
Instagramの影響ですね、きっと。
インスタ映えを意識した写真をよく見かけます。
そう���う演出もされているようです。
伏見稲荷は、外国人の参拝者ばかりです。⛩️のキーホルダーもよく売れてますし、狐の小物もあったような気がします。
あと、狐のお面があったような。
伏見稲荷の狐さんもPUMAのロゴみたいでかっこいいです!

で、伏見稲荷から酒蔵の町の伏見桃山あたりまでは、歩いて行ける距離ではありません。
電車で14分位ですね。歩くと結構遠いです。
行きたい場所によっては、伏見桃山駅よりも中書島駅のほうがいいかもしれませんね。
1つ隣の駅になりますので、もう少し時間がかかります。
京阪本線で移動するのがスムーズではないかと。
ただし問題があって、京阪本線は京都駅からは乗れないので
観光される方は、京都駅から地下鉄東西線で四条駅に出て
人気観光エリアの祇園・四条・清水あたりを観光されてから
徒歩圏内にある京阪本線の祇園四条駅か、三条駅から
伏見稲荷、伏見桃山駅方面へ向かわれると良いのかも。
途中、東福寺もあります。
もう少し便利な移動手段があれば、伏見桃山あたりももっと賑やかになるのかもなぁとか思ったりして。
思ってたよりもちょっと静かなんですよね。
素敵な街だからもったいないなぁ。
秋ぐらいに行ったからだろうか。
もう少し賑やかになってほしいですね。
長々とすいません。色々気になったので調べました。
ですから、こういうのも
前記事で書いたように
Googleのマイマップに
まとめたいわけなのです👓
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臨終(念佛)方訣https://blog.udn.com/6ccc7d15/182505235
臨終「方訣」與「行法」(象山慶25.5.13)
從印度傳譯的《佛說無常經》有「臨終方訣附」,先描述娑婆凡夫的習性,總是貪求五欲而多造惡,不行善,臨終種種苦來逼,此時無力(善業)自救,後悔莫及。自業自受(勝因生善道 惡業墮泥犁),家親眷屬自顧不暇,也不能互相替代。
常求諸欲境 不行於善事 云何保形命 不見死來侵?
命根氣欲盡 肢節悉分離 眾苦與死俱;此時徒歎恨 兩目俱飜上 死刀隨業下 意想並慞惶 無能相救濟 長喘連胸急 噎氣喉中乾 死生催伺命
親屬徒相守 諸識皆昏昧 行入險城中 親知咸棄捨 任彼繩牽去 將至琰魔王 隨業而受報 勝因生善道 惡業墮泥犁 明眼無過慧 黑闇不過癡 病不越怨家 大怖無過死 有生皆必死 造罪苦切身 ……譬如路傍樹 暫息非久停 車馬及妻兒 不久皆如是 譬如羣宿鳥 夜聚旦隨飛 死去別親知 乖離亦如是
若生前有此預知與勝解,就該趁早為個人的生死大事做準備;一切辦法中,「唯有佛菩提,是真歸仗處」,因此:
當勤策三業 恒修於福慧 眷屬皆捨去 財貨任他將 但持自善根 險道充粮食
真能這麼做,應行(修)即行、應捨(斷)則捨,個人的命終後世或可改善、離苦得樂。若有同理心,或菩薩性,則行己有餘,可推己及人,隨緣如法的給他人臨終的協助:
若見有人將欲命終,身心苦痛。應起慈心,拔濟饒益:
1.教使香湯,澡浴清淨,著新淨衣,安詳而坐,正念思惟。
2.若病之人自無力者,餘人扶坐。又不能坐,但令病者右脅著地,合掌至心,面向西方。當病者前,取一淨處,唯用牛糞,香泥塗地,隨心大小。方角為壇,以花布地,燒眾名香,四角燃燈。於其壇內懸一彩像,令彼病人,心心相續,觀其相好,了了分明,使發菩提心。
3.復為廣說,三界難居,三途苦難,非所生處,唯佛菩提,是真歸處。以歸依故,必生十方諸佛剎土,與菩薩居,受微妙樂。
4.問病者言:「汝今樂生何佛土也?」病者答言:「我意樂生某佛世界。」時說法人,當隨病者心之所欲,而為宣說佛土因緣、十六觀等,猶如西方無量壽國,一一具說,令病者心,樂生佛土。
5.為說法已,復教諦觀,隨何方國,佛身相好。
6.觀相好已,復教請佛及諸菩薩,而作是言:「稽首如來、應、正等覺,並諸菩薩摩訶薩,願哀愍我,拔濟饒益。我今奉請,為滅眾罪;復將弟子,隨佛菩薩,生佛國土。」第二第三亦如是說。既教請已,復令病人稱彼佛名,十念成就。與受三歸,廣大懺悔。懺悔畢已,復為病人受菩薩戒。若病人困不能言者,餘人代受,及懺悔等。除不至心,然亦罪滅,得菩薩戒。
7.既受戒已,扶彼病人,北首而臥,面向西方,開目閉目,諦想於佛三十二相、八十隨形好,乃至十方諸佛,亦復如是。
8.又為其說四諦因果、十二因緣無明老死、苦空等觀。
9.若臨命終,看病餘人,但為稱佛,聲聲莫絕。然稱佛名,隨病者心,稱其名號,勿稱餘佛,恐病者心而生疑惑。然彼病人,命漸欲終,即見化佛及菩薩眾,持妙香花,來迎行者。行者見時,便生歡喜,身不苦痛,心不散亂,正見心生,如入禪定,尋即命終,必不退墮地獄、傍生、餓鬼之苦。乘前教法,猶如壯士屈伸臂頃,即生佛前。
10.若在家鄔波索迦、鄔波斯迦等,若命終後,當取亡者新好衣服,及以隨身受用之物,可分三分,為其亡者,將施佛陀、達磨、僧伽。由斯亡者,業障轉盡,獲勝功德,福利之益。
11.若送亡人,至其殯所,可安下風,置令側臥,右脅著地,面向日光。於其上風,當敷高坐,種種莊嚴。請一芻[1]能讀經者,升於法座,為其亡者,讀《無常經》。孝子止哀,勿復啼哭,及以餘人,皆悉至心,為彼亡者,燒香散花,供養高座、微妙經典及散芻,然後安坐,合掌恭敬,一心聽經。芻徐徐應為遍讀,若聞經者,各各自觀己身無常,不久磨滅,念離世間,入三摩地。
12.讀此經已,復更散花燒香供養。
13.又請芻隨誦何咒,咒無蟲水,滿三七遍,灑亡者上。復更咒淨黃土,滿三七遍,散亡者身。
14.然後隨意,或安堵波中,或以火焚,或尸陀林乃至土下。
文中重點列舉了幾個方法:正念思惟、面向西方、觀佛(像)相好、發菩提心、皈依三寶、勸生淨土、懺悔受戒、聽經聞咒、觀身無常、廣作布施……;火化之後,骨灰安放塔內,或撒林中,或埋地下。如是行法,有極大而全的利益,如消滅 (業報……) 諸障,獲大(斷惑,神通)功德,得入「初地」而自在的遊歷十方,「供養諸佛,聽受正法」,修集各種福慧而證菩提(上求),度眾生(下化),終至成佛。
以此功德因緣力故,令彼亡人,百千萬億俱胝那庾多劫,十惡、四重、五無間業、謗大乘經,一切業報等障,一時消滅。於諸佛前,獲大功德,起智斷惑,得六神通及三明智,進入初地。遊歷十方,供養諸佛,聽受正法,漸漸修集無邊福慧,畢當證得無上菩提,轉正法-輪,度無央眾,趣大圓寂,成最正覺。
以上所說內容,極其詳備,後世多有採用及增減[2]。
據說, 佛陀傳授《無常經》以教導弟子及時人,若遇臨終,應放下此身,精進修行,勿執世俗的邪見或喪儀。佛陀涅槃之後,弟子們側重於《無常經》的諷誦,遂成了儀式化。二世紀,馬鳴將葬儀作調整,改由寺僧每日「讚歎三尊」→「諷誦本經」→「迴向發願」的「三啟」制,由小乘入大乘。自初期佛教到七世紀,古印度佛教徒一千多年是以《無常經》為送葬的諷誦。唐武后大足元年, 義淨在洛陽大福先寺譯出《無常經》,不久即傳入日、韓,隨後並有注疏,為東亞佛教的一部送葬經典;與南傳《相應部.蘊品》中的《無常經》、《苦經》、《無我經》,《雜阿含1240經》、《別譯雜阿含67經》雷同,宣說「老、病、死」之無常與不可免。逐漸與中國傳統的「厚葬」結合,喪禮轉為「經懺」,漸失本貌。後人在經末加入「臨終方訣」,雖詳載了喪禮之過程,教老病之人澡浴清淨、向西念佛、諦觀佛相、受菩薩戒、懺悔滅罪,及往生之後,請比丘誦讀《無常經》、燒香散花、隨誦咒語……等,此多是後人摘錄經文或加入大乘葬法而成,與佛陀初衷不相同[3]。此經中,佛說:
老、病、死,於諸世間,實不可愛、實不光澤、實不可念、實不稱意。
須知,三界幻化,娑婆火宅,無一處真實、安穩,而個人業報各自承受,無可替代者。曇鸞師《往生論註》:
三界是虛假相、污染相、顛倒相、破壞相、輪轉相、無窮相。……此三界,蓋是生死凡夫流轉之闇宅。雖復苦樂小殊,修短暫異,統而觀之,莫非有漏,倚伏相乘,循環無際,雜生觸受,四倒長拘,且因且果,虛偽相襲。
三界是凡夫流轉償業的處所,其性質是虛假(偽).汙染.顛倒.破壞.輪(流)轉.無窮(際).黑暗.有漏.無常.危脆.生滅.……;眾生活在其中,���「煩惱」障眼,長劫不得(智慧)光明,故稱為(無明)暗宅,「長寢大夢,莫知稀出」,「如魚遊網,將是長流,脫入暫出,又復遭網」,難以自覺此「五濁」之無量濁、「堪忍」之不可忍。若分別說,六道的苦樂,差距不大;一期壽命的長短,也只是暫時;總體是有漏穢土,煩惱苦迫而無可樂者,如<三寶歌>:「人天長夜 宇宙黮闇 誰啟以光明? 三界火宅 眾苦煎迫 誰濟以安寧?」映現了眾生之環境(器界/依報)與生活(根身/正報) 的現實,是受苦、夭折,可厭捨、應出離的[4]。
義淨大師記載了印度的葬儀:
苾芻(比丘)亡者,觀知決死,當日舁向燒處,尋即以火焚之。當燒之時,親友咸萃,在一邊坐……令一能者,誦《無常經》,半紙、一紙,勿令疲久。然後各念無常,還歸住處。
說此經為佛弟子葬��的儀軌之一,但誡其過程勿太冗長。《根本說一切有部毘奈耶》,迦留陀夷遭謀害而捨報,佛陀以神通得知,帶領大批弟子進舍衞城,做最後的佛事,波斯匿王及勝鬘夫舉行喪儀,亦依佛指示而誦《無常經》。
民初弘一大師〈序〉言:「經譯於唐,其時流傳未廣,誦者蓋罕。宋元以來,始無道及之者。」並稱此經有七利:
1.讀誦此經,讓人痛念無常,精進向道:2.經文簡短而義豐,便於持誦;3,佛陀開緣,唱誦此經,可見其殊勝;4.佛世親制此經,用於葬儀,加上《寄歸傳》、《毘奈耶》的記載,及文末《臨終方訣》,儀程、內容皆完備;5.佛陀指示為建築而斬草伐木,可誦此經及說十善道,請依草附木的神祇施此草木,遷至別處;6.文末《臨終方訣》內容切要,能了知苦、空、無常、無我,更堅定信願,往生極樂;7.末法之際,去聖時遙,若能每天諷誦此經,就如回到祇園,親睹佛塔,及佛世的遺俗。
「恒用戒香塗瑩體,常持定服以資身,菩提妙華遍莊嚴,隨所住處常安樂。」經中最後以戒定慧的修持,超越老病死苦,及悲戚傷感,在無常中,開展無限的希望。可以說,此經對生者的修行及亡者的往生,皆有實質大利,可為當代及未來制定「生/死的終極關懷」之參考。
在淨土門, 自念 (平生業成)及助念 (臨終決定),皆以「南無阿彌陀佛」六字名號,而乘佛本願力,往生安樂國。這是中國本土的特色。
《華嚴經》:「見有臨終勸念佛,又示尊像令瞻敬。」
《觀無量壽經》:「如此愚人,臨命終時,遇善知識,為說妙法,教令念佛。」
善導師《觀念法門》臨終行法:
又行者等,若病不病,欲命終時,一依上念佛三昧法。正當身心,迴面向西,心亦專注,觀想阿彌陀佛;心口相應,聲聲莫絕;決定作往生想,華臺聖眾來迎接想。
病人若見前境,即向看病人說,既聞說已,即依說錄記。
又病人若不能語者,看病人必須數數問病人「見何境界」?若說罪相,旁人即為念佛,助同懺悔,必令罪滅。若得罪滅,華臺聖眾,應念現前,准前《鈔記》[5]。
又,行者等,眷屬六親,若來看病,勿令有食酒、肉、五辛人;若有,必不得向病人邊,即失正念,鬼神交亂,病人狂死,墮三惡道。願行者等,好自謹慎,奉持佛教,同作見佛因緣。
此文提及:西向而住、觀想佛像、口稱佛名、作往生想、說罪懺悔,……。對於臨終病人,主要為他「念佛」;若見「罪相」,可助同「懺悔」,兩事兼行,必令滅罪而迎接往生[6]。並誡令探病者不得食「酒、肉、五辛」,以免影響病人「失念狂死,墮三惡道」。
又,《臨終正念訣》[7]:
知歸子致問於淨業和尚曰:世之大者,莫越生死,一息不來,便屬後世,一念若錯,即墮輪迴,小子累蒙開誨念佛往生之法,其理雖明,亦恐1.病來死至之時,心識散亂,2.猶慮家人,惑動正念,忘失淨因;伏望重示歸逕之方,俾脫沉淪之苦?
師曰:奇哉!斯問之要,凡人臨命終時,欲得往生淨土者,須先準備,不得怕死貪生,常自思念:我現在之身,多有眾苦,不淨惡業,種種交纏,若得捨此穢身,即得往生淨土,受無量快樂,見佛聞法,離苦解脫,即是稱意事,如脫臭弊之衣,得著珍御之服,放下身心,莫生貪着,纔有病患,莫論輕重,便念無常,一心待死,須囑家人、看病人、往來揖問人,凡來我前,但為我念佛,不得說眼前雜閑之事,家緣長短之事。
又不須軟語安慰,咒願安樂之詞,此是皆虛華不實,殃反之語;及至病重,命將不可之時,家人親屬,不得來前垂淚哭泣,發嗟嘆懊惱之聲,惑亂心神,失其正念,但教記取阿彌陀佛,一時高聲,為我念佛,守令氣絕,待氣盡了,方可哀哭。更或請明解淨土之人,頻來策勵,其理最佳,若如此者,千萬往生,必無疑慮也。此是端的急要之旨,當信而行。
問:求醫服藥,應不用耶?答:此但論用心矣!其藥醫療,不妨自求,然藥唯能醫病,豈能醫命耶?命若盡,藥豈奈何?
問:神祇求禱,禍福如何?答:人命長短,生下已定,何假鬼神延之耶?世人迷惑,反更求邪,殺害眾生,祭祀神鬼,但增罪業,倍結寃讎,反損壽矣!大命若盡,小鬼奈何,空自慞惶,必無所濟,切宜謹之,當以此文,帖安堂前喫食之處,及來往要路之間,令時時見之,常記於心,免見臨危忘失。
問:平生不曾念佛者,還用得否?答:此法,僧人俗人等,不念佛人,用之皆得往生,決定無疑矣!余多見世人,於平常時,念佛禮拜,皆發願往生,及到病患臨終但怕死,都不見言此事,直待形銷氣絕,識投冥界,方始念佛鳴鐘,譬如賊去關門,濟何事耶?而況死門事大,須自著便宜,一念蹉跎,歷劫受苦,喚誰人相代,思之思之,當自思量之。
〈臨終正念訣〉以問答體,解說臨終的注意事項。此文是否是善導之作,仍有疑問,宋初在淨土教徒中流布、出版,日本良忠也大量引用。在民間的普及程度,超過天臺宗的淨土著作。
化名知歸子提了兩個問題:病來死至之時, 1.本人的「心識」散亂,2.或因家人惑動「正念」而忘失「淨因」。
這的確是一般念佛人所掛慮或遭遇的困境,淨業師的回答,凡人臨終欲生淨土者:
1.個人須先有心理準備(或平時模擬),不得「怕死貪生」,可以這麼想:我身,多苦不淨,若得捨此往生,即可受無量樂,見佛聞法,離苦解脫,如脫舊衣,換新服,很值得,該慶幸。以此思維而放下身心莫貪着;纔有病患,便念無常,一心待死。
2.須先吩咐家人及來探病者,只可為我念佛,不說一切世俗之「雜閑長短」事。
3.也不必以人情的「溫軟」或「咒願」之吉祥話來應酬、安慰,那是虛華無效的[8]。
4.病重臨危之時,親友不得在面前哭泣嗟惱,以至讓病人惑亂心神,而失正念,只能一起高聲念佛,直到氣絕;或請通曉淨土教理的人,持續地為病人開示、勉勵,堅定其厭穢欣淨,捨此生彼的決心。[9]
若能如上四點安排,則雖千萬病人,必得往生極樂而無遺漏。最後又強調這是「急要之旨,當信而行」,為什麼?因為,有些人平常勤於念佛、禮拜,也都發願往生,似乎有「平生業成」的決心,但到了「患病臨終」卻又貪生怕死,忘了初衷;直待壽終去世,家人才為他念佛、鳴鐘,這可能來不及了。因此,生死事大,自己要先做預備,免得臨終手忙腳亂,枉死墮落。以至於一念之差,再去經歷無窮的輪迴,這就後悔莫及了,「當自思量之」。《往生禮讚》日沒無常偈:
說此偈已,更當心口發願:願弟子等,臨命終時:心不顛倒,心不錯亂,心不失念,身心無諸苦痛,身心快樂,如入禪定;聖眾現前,乘佛本願,上品往生阿彌陀佛國。���彼國已,得六神通,入十方界,救攝苦眾生。
有人問:《阿彌陀經》云「是人終時,心不顛倒,即得往生。」《稱讚淨土佛攝受經》亦云「慈悲加佑,令心不亂。既捨命已,即得往生。」法然上人《逆修說法》云[10]:
行者命欲終時,疾苦逼身,必起「境界、自體、當生」三種愛心。爾時,阿彌陀如來放大光明,現行者前;行者既見未曾有事,專心歸敬,更無他念。又,佛之慈悲加祐行者,由之,妄念忽止,正念安靜。……「非臨終正念故,有來迎;由來迎故,臨終正念」也。凡平生之時已成往生行業之人,臨終必得聖眾來迎;已得來迎之時,即由佛力住正念也。
既如此,為何要另外「心口發願」上述的內容 ? 日.良忠《往生禮讚.纂釋》略以五義[11]作答 : 1.凡夫「言行不稱,信力輕微」,念佛不相續,而造惡不間斷,若不預祈彼之正念,唯恐命終之際,重者(惡業)先牽而下惡道。 2.臨終一念,升沉之本,念善生天,念惡墮苦,只在剎那,乃一期(分段)生死之大要。 3.人命將竭,過現所積之惡業,顯現而責報,由之驚恐。 4.天魔惡鬼,競來撓亂,破壞人之善根。 5.死苦逼迫,刀風皆動,百苦湊身。這五種惡障(隨重、隨習、隨憶念),易令臨終者失正念,故於生前先祈此願,所謂平日做下急時用(未雨綢繆),若人至誠發願而起仰賴心,佛必護念之。
其意不離乎法然之「今時行者,多不辨其旨,於尋常行,懶惰不營,至臨終時,俄祈正念,是僻見也。行者能得此旨,於尋常行業,不起怯弱心。」「不可先有懷疑臨終之心,唯應更至心於日常之念佛。」
唐.懷感《釋淨土群疑論》云,有十種人臨終不得念佛:
1.善友未必相遇,故無勸念之理。2.業苦纏身,不遑念佛。3.或偏風失語,不能稱佛。 4.狂亂失心,注想難成。5.或遭水火,不暇至誠。6.遭遇豺狼,無復善友。7.臨終惡友,壞彼信心。8.飽食過度,昏迷致死。9.軍陣鬪戰,奄忽而亡。10.忽墜高巖,傷壞性命。
元.天如維則《淨土或問》引此十事應答:
或問一生造惡,臨終念佛,帶業往生,又無退轉,然則我且做世事,待臨終 念佛,可乎?
答曰:苦哉苦哉。賺自己,又賺天下僧俗男女,皆此言也。
逆惡凡夫,臨終念佛,是夙有善根,故遇善知識而得念佛。此等僥倖,萬中無一。《群疑論》云,……此皆尋常聞見,不論僧俗,人皆有之,宿業所招,現業所感,忽爾現前,不容迴避。忽然遭著一種,便做手腳不得了也。知識活佛,救不得了也。便隨業向三途八難中受苦,到那時要聞佛名,不聞了也。
直饒無此惡緣,好病而死,未免風刀解體,四大分離,如生龜脫筒,痛苦逼迫,怕怖慞惶,念佛不得了也。
更饒無病而死,世緣未了,世念未休,貪生怖死,擾亂胸懷。又兼家私未明,後事未辦,妻啼子哭,百種憂煎,念佛不得了也。
更饒未死以前,只些少病痛在身,未免忍疼忍苦,叫喚呻吟,問藥求醫,祈禱懺悔,雜念紛飛,念佛不得了也。
更饒未病以前,只是年紀老大,衰相現前,困頓龍鍾,愁歎憂惱,向箇衰老身上,左安右排,念佛不得了也。
更饒未老以前,正是少壯,稍或狂心未歇,俗務相關,東攀西緣,胡思亂想,業識茫茫,念佛不得了也。
更饒清閒自在,有志修行,稍于世相照不破,放不下,把不定,坐不斷,些子境界現前,一箇主人翁隨他顛倒,念佛不得了也。
你看老病之時,少壯清閒之日,稍有一事掛心,早是念佛不得,況臨終時哉,更道且做世事,你真癡人,說癡話,敢保你錯用心了也。
列舉了六種「念佛不得」的狀況,提醒大眾,平時要「至信心,預自克念(佛),積習成性,善根堅固」[12],臨終自然「隨習」不亂,又得佛菩薩來迎,順利往生。
因此,為防萬一, 平素宜多念佛,習慣成自然[13]。從早上起床至夜晚就寢,在一切場景、境遇中,相續持名,隨時有彌陀光明之加被,不只宿業輕受,乃至消滅;若臨命終,或如慈云懺主<淨土文>[14]所云:
自知時至;身無病苦、心不貪戀、意不顛倒,如入禪定。佛及聖眾, 手執金臺,來迎接我;於一念頃,生極樂國。花開見佛,即聞佛乘,頓開佛慧;廣度眾生,滿菩提願!
[1] 芻、苾芻(bhikṣu) ,出家受具足戒者的通稱,又譯「比丘」。
[2] 此經文之現代語譯,請參閱【《佛說無常經·臨終方訣》要略】
[3] 白金銑:《佛說無常經》的傳譯與喪葬禮儀。又,釋演化<佛陀親制 葬儀諷誦《無常經》>,據云:印順法師生前曾囑咐其捨報後,四眾弟子讀誦《佛說無常經》,欲令弟子體悟世間無常之義。誦詠《無常經》是佛世時,佛陀指示於佛弟子葬亡時的儀程之一,在葬儀中誦念此經源遠流長。
[4] 象山慶<捨三界,歸淨土-1>、<歸去來.讚的深意>
[5] 《四分律行事鈔資持記》,《行事鈔記》,南山鈔記--南山三大部《四分律行事鈔資持記》簡稱《鈔記》
[6] 象山慶<念念稱名常懺悔>
[7] 〈臨終正念訣〉版本:1.《臨終往生正念文》,載於《龍舒淨土文》附錄二。 2.《臨終正念往生文》,載於《念佛鏡》後。3.《臨終正念訣》,載於《樂邦文類》卷四。
此文是以問答體的形式撰述的,對於知歸子提出的臨終時的注意事項的問題,淨業和尚一一做了解答。以淨業和尚當作是善導大師。此文從宋代初期開始便在淨土教徒中廣為流布,終至出版。宗曉在《樂邦文類》記載的內容依據的大概就是這一版本。此文是否是善導之作,另當別論,總之,宋代以後,作為善導之作,廣為流傳,成為版本,而盛行流布於後世,在日本,良忠也大量引用過此書。由此看來,作為善導的〈臨終正念訣〉,其思想在宋代以後乃至日本都廣為流行。……置身於天臺學徒雲集的淨土教中,且享有僅次於天臺的盛譽,並得到眾多學者的引用,就足以證明善導大師教化影響之深,同時,在民間信仰方面,正如他的《臨終正念訣》那樣,其普及程度甚至超過天臺,何況他還被尊為彌陀之化身,觀音勢至之再來。若再把已廣泛普及的《十疑論》作為繼承道綽、善導思想的著作來看的話,就可以知道善導在思想上給予巨大的影響。本淳法師<善導大師臨終正念文(上)>,賴鵬舉<佛法對臨終正念的定義及其運作>,湛然<臨終正念>, 張武毅2008《佛教臨終助念變遷初探》,釋慧開《佛教臨終與往生助念之理論建構芻議》,
[8] 參閱 象山慶< 打噴嚏-吉祥話 >
[9] 許煌汶<以「六何法」略說淨土宗的臨終助念>,印光大師<臨終三大要>:1.開導安慰,令生正信; 2.換班念佛,以助淨念;3.切戒動哭,以防誤事。
[10] 又,《覆秀實書》:真有願生之志,不疑彌陀本願而念佛者,臨終無顛倒之事也;其故者,佛之來迎,正為臨終正念故也。不知此理之人,皆以為臨終正念念佛時,佛即來迎;此既不信佛願,亦不知經文也。……臨終念佛往生之人,乃是日常既無往生之願,亦不念佛之造罪惡人,臨終始遇善知識之勸導,念佛而往生……。本來念佛之人,不別作臨終之準備;應思佛之來迎一定故,臨終正念亦是一定也。
前引《無常經+臨終方決》亦云:然彼病人,命漸欲終,即見化佛及菩薩眾,持妙香花,來迎行者。行者見時,便生歡喜,身不苦痛,心不散亂,正見心生,如入禪定,尋即命終,必不退墮地獄、傍生、餓鬼之苦。
[11] 參閱 象山慶<平日發願,臨終如意>https://blog.udn.com/6ccc7d15/182206008
《萬善同歸集》卷二:如或言行不稱,信力輕微,無念念相續之心,有數數間斷之意,恃此懈怠,臨終望生,但為業障所牽,恐難值其善友,風火逼迫,正念不成ˊ。
[12] 釋曇鸞<略論安樂淨土義>:凡夫心猶野馬,識劇猿猴,馳聘六塵,不暫停息。宜至信心,預自克念,使積習成性,善根堅固也。如佛告頻婆娑羅王,人積善行,死無惡念,如樹西傾,倒必隨西。若使刀風一至,百苦湊身,若前習不在懷,念何可辨。又宜同志五三,共結言要,垂命終時,迭相開曉,為稱阿彌陀佛名號,願生安樂,聲聲相次,使成十念也。譬如蠟印印泥,印壞文成,此命斷時,即是生安樂時,一入正定聚,更何所憂也。 象山慶<瓜熟蒂落 印壞文成--生死學>
[13] 《生命的終極關懷》, 釋明空【自利利他的往生助念】
[14] 象山慶<慈雲懺主淨土文.今詮>
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儒將的典型人物
H:「儒將指既有膽量又有謀略,文才與武功同時具備的儒家大將,常用來比喻文才和武功都很出眾的儒門將帥。 如:20馮奉世、21祭遵、22賈復、23曹操、24魯肅、7周瑜、9杜預、11李靖、13岳飛、14袁崇煥、15曾國藩、12左宗棠、3吳起、19辛棄疾等。」另有「1先軫、2孫武、5陳湯、25虞允文、26王陽明、17文天祥、18諸葛亮、10謝混、4田穣苴、6鄧禹、16孫臏、8陸遜」供參考。20250501W4
網路字典:
儒將
兼具讀書人才識與風度的將領。宋.蘇轍〈次韻王君北都偶成〉詩三首之一:「千夫奉儒將,百獸伏麒麟。」
次韻王君北都偶成三首
作者:蘇轍 北宋本作品收錄於《欒城集/03》
姊妹計劃: 數據項
河轉金堤近,天高魏闕新。
千夫奉儒將,百獸伏麒麟。
校獵沙場莫,談兵玉帳春。
關南知不遠,誰試問蕃鄰。
天寶亂已定,河壖兵更多。
故城埋白骨,遺俗喜長戈。
臥獸常思肉,奔鯨不受羅。
縱橫竟安在,唯見塚嵯峨。
禁籞封金殿,清河貫石門。
時平餘古木,兵散有空屯。
形勝山圍闊,蕃宣海內尊。
川原不論頃,雲夢可勝吞。
釋 義
以讀書人的才識風度擔任將領之職的人。 例他雖不能彎弓弄劍,但是既有學識又擅長兵法,是個名副其實的儒將。
指有學識、風度儒雅的將帥。文采武功都很出色的將領。出自唐.薛能 《清河泛舟》詩:“儒將不須誇 郄縠 ,未聞詩句解風流。”
清河泛舟
朝代:唐代
作者:薛能
都人層立似山丘,坐嘯將軍擁棹遊。繞郭煙波浮泗水,
一船絲竹載涼州。城中睹望皆丹雘,旗裏驚飛盡白鷗。
儒將不須誇郄縠,未聞詩句解風流。
中國古代十大儒家將為:先軫、孫武、陳湯、周瑜、杜預、李靖、岳飛、虞允文、王陽明。
十大之列的儒將:除出身文人、風度儒雅這兩條基本條件外,還須胸有韜略(最好有軍事理論著作傳世)��有文墨(棋琴書畫詩詞歌賦俱通)戰績卓著。
一、先軫
先軫(?—前627),晉國大夫。春秋晉中軍主帥,標準讀書人出身,據說好學不倦,熟讀《詩經》。
先軫(?—前627年),因采邑在原邑(今河南濟源),又稱原軫,春秋時期晉國大夫。在驪姬之亂時,先軫同重耳逃走,在外流亡十九年。先軫是中國歷史上第一位同時擁有元帥頭銜和元帥戰績的軍事統帥。他為人公忠耿正,因為曾與晉襄公起衝突,但並未受到襄公懲罰而感到愧疚,故意在無防具狀態衝入敵陣而死。
二、孫武
孫武(前545-前470)字長卿,春秋時期的著名軍事家、政治家,兵書《孫子兵法》的作者,後人尊稱為孫子、兵聖,山東、蘇州等地尚有祀奉孫武的廟宇兵聖廟。
孫武(前545年—前470年或前496年)媯姓,孫氏,名武,字長卿,春秋時期齊國人,陳胡公的直系後代,著名軍事家、政治家,兵家代表人物。兵書《孫子兵法》的作者,後人尊稱為孫子、兵聖、東方兵聖,山東、蘇州等地尚有祀奉孫武的廟宇兵聖廟。其族人為樂安孫氏始祖,次子孫明為富春孫氏始祖。
三、吳起
吳起(前440-前381),中國戰國初期軍事家、政治家、改革家,兵家代表人物。衛國左氏人。吳起歷侍魯、魏、楚三國,通曉兵家、法家、儒家三家思想,在內政、軍事上都有極高的成就。
吳起(前440年—前381年),中國春秋末期戰國初期軍事家、政治家、改革家,兵家代表人物。衞國左氏(今山東省定陶縣,一說山東省曹縣東北)人。
吳起歷侍魯、魏、楚三國,通曉兵家、法家、儒家三家思想,在內政、軍事上都有極高的成就。
吳起著有《吳子兵法》一書,由於他在軍事理論上的貢獻,後人將孫武、吳起並稱為「孫吳」。唐肅宗時將吳起等歷史上十位武功卓著的名將供奉於武成王廟內,被稱為武廟十哲。宋徽宗時追尊吳起為廣宗伯,位列宋武廟七十二將之一。司馬遷著《史記》時,將孫武和吳起合立於《孫子吳起列傳》。現代學者馬非百著《秦集史》時,將李悝和吳起合立於列傳中。
四、田穣苴
司馬穣苴,生卒年不詳,春秋末期齊國人。原來姓田,名穣苴,曾領兵戰勝晉、燕,被齊景公封為掌管軍事的大司馬,後人尊稱為司馬穣苴。是我國早期的著名軍事家、軍事理論家。
司馬穰苴(?—?),媯姓,田氏,名穰苴,春秋時代後期齊國的將軍、大夫、軍事家、軍事理論家,田完的後裔。田穰苴活躍於前6世紀末至前5世紀初,輔佐齊景公,因官拜大司馬,因此又被稱為司馬穰苴。
五、陳湯
陳湯,字子公。生卒不詳,西漢山陽瑕丘(今山東省兗州市東北)人,爵關內侯。《漢書》里稱其“少好學,善文”,僅在給漢帝奏章里的一句“明犯強漢者,雖遠必誅”之名言,已足顯其腹中文墨水平。
陳湯(?—前6年),字子公,西漢山陽郡瑕丘縣(今山東省兗州區東北)人,陳湯學識淵博,早年因家貧而向人乞討。漢元帝時期,陳湯受薦舉擔任郎官,數次向朝廷請求出使外國,建昭三年,他與甘延壽共同出使西域,兩人矯詔發兵誅滅郅支單于,返國後陳湯因功受封關內侯,食邑三百戶,獲賜黃金一百斤,擢升射聲校尉。陳湯逝世幾年後,於安漢公王莽當權期間獲追封為破胡侯,諡號「壯」。
六、鄧禹
鄧禹(2-58),字仲華。中國東漢初年軍事人物,南陽新野人。他協助漢光武帝建立東漢,既定河北,復平關中,是“雲台二十八將”之首。鄧禹十三歲就能背誦「詩經」。
鄧禹(2年—58年),字仲華,南陽新野人。東漢初年軍事、政治人物。他最早以帝王功業勉勵漢光武帝,向光武帝進言「延攬英雄,務悅民心,立高祖之業,救萬民之命」,被認為有定策之功,光武帝恃之為蕭何。鄧禹參與了東漢統一戰爭,「既定河北,復平關中」,又推舉了吳漢、賈復、寇恂等人,為漢光武帝平定天下立下汗馬功勞,是「雲台二十八將」之首。天下平定後,他與賈復兩人率先配合劉秀「偃干戈,修文德」的政策,一同削減軍隊,推行儒學,為在「退功臣而進文吏」的局面下仍然能夠參與討論國家大事的三位列侯之一。
七、周瑜
周瑜(175-210),字公瑾,人稱“周郎”,廬江舒縣(今安徽省舒城縣)人,東漢末年三國時代著名的孫吳勢力重要的統帥,也是傑出優秀的軍事家、戰術家、戰略家、政治家。
周瑜(175年—210年),字公瑾,人稱「周郎」,東漢廬江郡舒縣(今安徽省舒城縣)人,東漢末年孫吳陣營首要的統帥,同時還是傑出優秀的軍事家、戰術家、戰略家、政治家、音樂家。周瑜為人相貌俊美、天資聰穎、胸襟寬闊、精熟音律,酒過三巡仍能聽出宴席間的音誤,故而傳言「曲有誤,周郎顧」。並深得主上孫策、孫權禮遇器重、提拔重用。
八、陸遜
陸遜(183-245),本名陸議,字伯言,吳郡吳縣(今江蘇省蘇州市)人,是三國時代吳國著名的軍事家、政治家,負責統領吳國軍事和政治多年,並同時掌管民事,輔佐太子等。
陸遜(183年—245年3月19日),本名陸議,字伯言,吳郡吳縣(今江蘇省蘇州市)人,是三國時代吳國著名的軍事家、政治家,負責統領吳國軍事和政治多年,並同時掌管民事,輔佐太子等。歷任吳國大都督、上大將軍、丞相。63歲去世,孫休時追諡昭侯。
九、杜預
杜預(222-285),字元凱,京兆郡杜陵縣(今陝西省西安市)人,曹魏末與西晉前期政治家、軍事家、學者。以破竹之勢一舉殲滅東吳,幫助西晉完成統一的工作。杜預博學多才,自稱“左傳廦”,著有《春秋經傳集解》,《春秋盟會圖》、《春秋長曆》、《女記贊》等。史稱杜預“身不跨馬,射不穿札”,顯然學者出身的杜預不擅長於武功。
杜預(222年—285年),字元凱,京兆郡杜陵縣(今陝西省西安市)人,曹魏末與西晉前期高級官員、軍事家、經學家。出於京兆杜氏,西漢御史大夫杜延年十一世孫,亦是襄陽杜氏先祖。
十、謝混
謝混(4世紀?-412),字叔源,小字益壽。陳郡陽夏(今河南太康)人,謝琰幼子,謝安之孫。東晉官員、文學家。謝混在朝廷歷任中書令、中領軍及尚書左僕射領選等職。
謝混年輕時就有美譽,長於寫文章,能詩,在中國文學史上佔有一席之地。
謝混(4世紀?—412年),字叔源,小字益壽。陳郡陽夏(今河南太康)人,謝琰幼子,謝安之孫。東晉官員、文學家。在晉官至尚書僕射,但因依附劉毅而被劉裕誅殺。
十一、李靖:
唐初開國名將,正統文人出身,有軍事理論著作《李衛公問對》傳世。
李靖(571年—649年7月2日),字藥師,雍州三原縣(今陝西省咸陽市三原縣東北)人,祖籍隴西郡狄道縣(今甘肅省定西市臨洮縣),出自隴西李氏定著四房之一的丹楊房,隋末唐初名將,是唐朝文武兼備的軍事家。後封衛國公,世稱李衛公,凌煙閣二十四功臣之一。他的舅舅韓擒虎是隋滅南陳的名將,對這個外甥最為賞識。
十二、左宗棠
晚清中興名臣,舉人出身,自比“今亮”,鎮壓太平軍戰功顯赫。
左宗棠(1812年11月10日—1885年9月5日),字季高,號湘上農人,署名今亮[註 1],諡文襄,湖南湘陰人,晚清重臣、著名湘軍將領、政治家、文學家、軍事家、外交家、實業家、改革家、詩人。一生親歷了討伐太平天國、洋務運動、陝甘回變、新疆之役等重要中國歷史事件。然在中法戰爭馬尾海戰後,以欽差大臣之名重整湘軍督辦福建、臺灣海疆防務期間,壯志未酬病逝於福州,享壽73歲。
十三、岳飛:
南宋名將,著名的民族英雄。
岳飛(1103年3月24日—1142年1月27日),字鵬舉,宋朝相州湯陰(今河南省安陽市湯陰縣)人。南宋抗金名將及民族英雄[3][4] ,官至少保、樞密副使,受封武昌郡開國公。遭大臣秦檜等人誣陷而被宋高宗賜死。多年後,宋孝宗為其平反,追諡武穆。後被南宋其他皇帝追贈太師。 後世多稱呼其為岳武穆、武穆王、岳忠武王。
十四、袁崇煥:
明著名將領,進士出身,金庸先生曾專門撰文推崇袁督師為中國一代儒將之冠。
袁崇煥(1584年6月6日—1630年9月22日),字元素,號自如(一說字自如),籍廣西梧州府藤縣,廣東東莞縣(今屬廣東省東莞市)水南村(臨近東江)人,據考為疍家人,明朝末年政治人物,萬曆四十七年(1619年)中進士,累官兵部尚書兼薊遼督師,守衛山海關及遼東,構築「關寧錦防線」,多次和後金部隊交戰,曾指揮寧遠之戰、寧錦之戰。14年後,明亡於李自成;同年吳三桂引清兵入關。清乾隆年間,清政府為袁崇煥平反,但史學界對其際遇仍有爭議。北京市東城區龍潭公園有袁督師廟與紀念館。
十五、曾國藩:
晚清中興名臣,進士出身,知名理學家,能詩善文。
曾國藩(1811年11月26日—1872年3月12日),原名子城,字伯涵,號滌生,湖南湘鄉人。生於清朝長沙府白楊坪(現屬湖南省婁底市雙峰縣荷葉鎮天子坪),譜名傳豫,宗聖曾子七十世孫(系出曾氏南宗)[2],晚清時期的重臣、名臣和功臣,湘軍創始人和領袖,也是中國近代重要政治家、軍事家、理學家、書法家、思想家、文學家、詩人、外交家、實業家、改革家、儒生,與胡林翼並稱曾胡,與晚清另一重臣李鴻章有師徒關係。道光進士,曾任四川鄉試正考官、翰林院侍講學士、內閣學士等,擢禮部右侍郎、歷署兵、吏部侍郎。1871年奉旨處理「天津教案」,但因與洋人委服而遭到天下唾罵,甚至被諷為「曾國賊」,因此積勞成疾,結果於翌年3月病死南京,享年61歲,諡文正。曾國藩與徒弟李鴻章、左宗棠、張之洞並稱「晚清四大名臣」,官至武英殿大學士,同治年間封一等毅勇侯,又授世襲罔替。有《曾文正公全集》。
十六、孫臏
戰國齊將田忌高級幕僚,有軍事理論著作《孫臏兵法》傳世。
孫臏(前382年—前316年),或說號伯靈[註 1],媯姓,孫氏,本名不詳,戰國中期軍事家,兵家代表人物。
孫臏出生於阿、鄄之間(今山東省陽穀縣阿城鎮、菏澤市鄄城縣北一帶)[註 2],是孫武的後代。孫臏曾與龐涓為同窗,因受龐涓迫害遭受臏刑,身體殘疾,後在齊國使者的幫助下投奔齊國,被齊威王任命為軍師,輔佐齊國大將田忌兩次擊敗龐涓,取得桂陵之戰和馬陵之戰的勝利,奠定齊國的霸業。明末清初有以孫臏、龐涓生平為原型的歷史小說《孫龐鬥志演義》,使孫龐鬥智的故事廣為流傳。唐德宗時將孫臏等歷史上六十四位武功卓著的名將供奉於武成王廟內,被稱為武成王廟六十四將。[7]宋徽宗時追尊孫臏為武清伯,位列宋武廟七十二將之一。
十七、文天祥
文天祥(1236年6月6日—1283年1月9日),初名雲孫,字天祥,號浮休道人。選中貢士後,改以天祥為名,字履善。寶祐年間為狀元,賜表字宋瑞,後因住過文山,而號文山,吉州廬陵富川(今江西吉安縣)人。南宋末期政治家、詩人、抗元人物和民族英雄[1]最後被封為信國公,故又稱文少保。
宋亡後,文天祥於五坡嶺兵敗被俘,寧死不願降,被元軍俘至大都(今北京),忽必烈親往勸降,文天祥不屈,至元十九年十二月初九(1283年1月),在柴市從容就義。與陸秀夫、張世傑並稱「宋末三傑」,又與謝枋得、袁繼咸並稱「江右三山」。明景泰七年,追諡忠烈。著有《文山詩集》《指南錄》《指南後錄》《正氣歌》《過零丁洋》等。
十八、諸葛亮
諸葛亮(181年—234年),字孔明,琅琊郡陽都縣(今山東省臨沂市沂南縣)人。三國時期蜀漢(季漢)丞相,亦是政治家、軍事家、發明家及散文家,曾發明木牛流馬、諸葛連弩等。他常被後世認為是智慧和忠義的典範。先為劉備麾下核心幕僚,後主劉禪早期蜀漢實際上的最高領導人。
諸葛亮年輕時自比管仲、樂毅,人稱「臥龍」。諸葛亮與徐元直、崔州平、石廣元、孟公威交好,與「鳳雛」龐統師出同門齊名。劉備三顧茅廬始見之,為劉備畫據荊益、聯合孫權、抗拒曹操之策,輔佐劉備取荊州,定益州,遂與曹魏、孫吳鼎足而三[2]:2902。曹丕代漢,劉備稱帝於成都,以諸葛亮為丞相。劉備死,諸葛亮輔助後主劉禪,以丞相封武鄉侯,兼領益州牧。
諸葛亮整官制,修法度,志復中原。諸葛亮改善經濟,休養生息,打壓益州豪族,平定南中叛亂,控制南中。屢次北伐,與魏相攻戰。建興十二年,諸葛亮卒於五丈原軍中,年五十四,諡為忠武。《三國志·蜀志》有傳。後世景仰諸葛亮才能品格,常尊其為武侯、諸葛武侯。後民間小說、戲曲謂其通曉陰陽,料事如神。「鞠躬盡瘁、死而後已」,代表中國傳統文化忠臣與智者。明代羅貫中《三國演義》所刻畫者,流傳眾口,最為著稱。毛宗崗評《三國演義》將諸葛亮稱為「三絕」中的「智絕」。
十九、辛棄疾
辛棄疾(1140年5月28日—1207年10月3日),字幼安,號稼軒居士,山東東路濟南府歷城縣(今山東省濟南市歷城區)人。生於金國,少年抗金歸宋,曾任江西安撫使、福建安撫使等職,因歸正人的身份,辛棄疾也始終未能得到南宋朝廷的重用以及實現他北伐的夙願。追贈少師,諡忠敏。18歲與愛妻謝康正結為連理。
辛棄疾是中國南宋豪放派詞人,人稱詞中之龍,與蘇軾合稱「蘇辛」,與李易安(李清照)並稱「濟南二安」,和愛國詩人陸游雙峰並峙。辛棄疾詞風「激昂豪邁,風流豪放」,代表著南宋豪放詞的最高成就。
二十、馮奉世
馮奉世(?—前39年),字子明,上黨郡潞縣(今山西省長治市潞城區東北)人,西漢武將。上黨馮氏先祖。
漢武帝末年,馮奉世以良家子的身份擢升為郎。漢昭帝在位時,馮奉世因功補為武安縣長,後來失官。馮奉世三十餘歲時,開始學《春秋》,明習兵法,通過前將軍韓增的表奏推薦被升任為軍司空令。本始年間,隨范明友等將軍攻打匈奴。
二十一、祭遵
祭ㄓㄞˋ遵(?—33年),字弟孫,潁川潁陽(今河南襄城縣)人。雲台二十八將之一。
祭遵
少好經書,家富給,祭遵卻常穿舊衣。有部吏欺凌他,被他結交俠士殺死。劉秀在河北,任命祭遵為軍市令。執法嚴明,不徇私情,劉秀有個小侍從(舍中兒)犯法,祭遵依照法將其處死。劉秀大怒,逮捕祭遵。主簿陳副諫曰:「明公常欲眾軍整齊,遵奉法不避,是教令所行,奈何罪之?」不久赦免了祭遵,加封刺奸將軍。建武二年(26年),任徵虜將軍,封潁陽侯。建武六年(30年)春,伐公孫述。建武八年(32年)秋,隨帝由隴道西上,出征隗囂。
建武九年(33年)春,詔命祭遵整軍西征,攻取略陽,途中發病,不能騎馬,用擔架抬回汧城,賜以重茵。建武九年(33年),獨守沖難,病死汧城軍營。訃至洛陽,光武帝悲悼異常,常嘆息說:「安得憂國奉公之臣,如祭征虜者乎!」
二十二、賈復
賈復(9年—55年),字君文,南陽冠軍人。中國東漢初期軍事、政治人物。他協助漢光武帝建立東漢,雖然是儒生出身,但勇猛異常,常隨漢光武帝左右,屢次衝鋒在前,身負十二處創傷而不矜伐其功,為「雲台二十八將」第三位。他曾先後擔任執金吾與左將軍等職,天下平定後又配合劉秀「偃干戈,修文德」的政策,主動與鄧禹一同削減軍隊,推行儒學,為在「退功臣而進文吏」的局面下仍然能夠參與討論國家大事的三位列侯之一。
二十三、曹操
曹操(155年—220年3月15日),曹嵩之子,字孟德,小字阿瞞,沛國譙縣(今安徽亳州)人[2]:1。東漢末年丞相、��戚、軍事家、政治家、文學家和詩人,東漢末年主要群雄之一,職位為丞相,為漢末實際上的最高掌權者,亦是三國時代曹魏奠基者。其子曹丕建立曹魏,追尊其廟號為太祖,追諡武皇帝。
二十四、魯肅
魯肅(172年—217年),字子敬,徐州臨淮郡東城縣(今安徽省定遠縣)人,東漢末年東吳將領、軍事家、戰略家、外交家、政治家,為孫權策劃未來戰略藍圖榻上策,在周瑜去世後接替其職務。十分積極提倡聯劉抗曹,與諸葛亮十分友好結成孫劉聯盟。現代人受三國演義影響,將周瑜、魯肅、呂蒙、陸遜合稱為四大都督,但事實上魯肅並沒有擔任過都督一職。
二十五、虞允文(1110年—1174年),字彬甫,世稱虞雍國、虞雍公,隆州仁壽(今四川仁壽縣)人,宋朝宰相和軍事家。
虞允文自幼勤奮好學,《宋史》稱其「六歲誦九經,七歲能屬文」,讀書於瑞竹園(仁壽縣城東面)。紹興二十四年(1154年)進士及第,獲委任為通判彭州,權知黎州、渠州。時秦檜當權,允文一如同四川書生皆不獲重用。秦檜死後,終於獲得中書舍人趙逵推薦,就任祕書丞(職官,從七品),官至禮部郎官、中書舍人(職官,正四品)、直學士院(差遣)。
二十六、王守仁
王守仁(1472年10月31日—1529年1月9日),幼名雲,字伯安,號陽明子,故世人稱之為王陽明,浙江紹興府餘姚縣(今浙江省寧波餘姚市)人,明代中期乃至中國歷史上重要和影響深遠的思想家、哲學家[1]、書法家、文學家、政治家、軍事家、重臣、教育家、儒生、陽明學者、心理學家,也是漢字文化圈中最重要的儒家學者之一,在儒家之中佔有極其重要的地位。官至南京兵部尚書、都察院左都御史,因平定宸濠之亂等軍功而封爵新建伯,隆慶時追贈侯爵。諡文成。
百度百科介紹
儒將
儒將,指有學問、風度優雅的儒將帥。 文采武功都很出色的將領,也指從軍的儒客。 儒將應該是具備儒家的氣質,兼備兵家的智慧,才能夠稱為儒將,否則最多只是文武皆備的將領而已。
典型人物
基本解釋
[a general who is an equally accomplished man of letters] 有文人風度的將帥。 [1]
引證解釋
唐 薛能 《清河泛舟》詩:「儒將不須誇 郄縠 ,未聞詩句解風流。」宋 蘇轍 《次韻王君北都偶成》之一:「千夫奉儒將,百獸伏麒麟。」 阿英 《戎戒》之一:「千夫奉儒將,百獸慕鐢
基本概念
儒將指既有膽量又有謀略,文才與武功同時具備的儒家大將,常用來比喻文才和武功都很出眾的儒門將帥。 如:馮奉世、祭遵、賈復、曹操、魯肅、周瑜、杜預、李靖、岳飛、袁崇煥、曾國藩、左宗棠、吳起、辛棄疾等。
《太平禦覽》卷二百七十七 ◎兵部八[2]
儒將
《左傳》曰:晉謀元帥,趙衰曰:"郄縠說禮樂而敦詩書,以將中軍。"
《漢書》曰:馮奉世以良家子選為將,年四十馀乃學《春秋》,涉大義,讀史書。
《後漢書》曰:馬援閒於進對,尤善述前世行事。 每言及三輔長者,下至闥裡少年,皆可觀聽。 自皇太子、諸王侍聞者,莫不屬耳忘倦。 又善兵策,帝常言:「伏波論兵,與我意合。」每有所謀,未嘗不用。
又曰:祭遵為將軍,取士皆用儒術,對酒設樂,必雅歌投壺。 雖在軍旅,不忘俁豆。
又曰:賈復少好學,習《尚書》。 事舞陰李生,李生奇之,謂門人曰:"賈君之容貌志氣如此,而勤於學,將相之器也。"
又曰:賈復知帝欲偃干戈,修文德,不欲功臣擁眾京師,乃與高密侯鄧禹並剽甲兵,敦儒學。 (《廣雅》曰:剽,削也。謂除甲兵。《東觀漢記》曰:復閔門養威,重授《易經》,起大義。)帝深然之,遂罷左右將軍。 復以候就第,加位特進。
《吳書》曰:魯肅為人方嚴。 寡於玩飾,內外節儉,不務俗好,治軍整頓,禁令必行,雖在軍陣,手不釋書。 又善談論,能屬文辭。 思弘遠,有過人之明。 賈復之後,肅為之冠也。
《晉書》曰:杜預身不跨馬,射不穿札,每有大事,輒居將帥之列。
又曰:劉毅徵盧循,敗歸。 帝大宴於西池,有詔賦詩,毅詩雲:「六國多雄士,正始出風流。」毅自以武功不競,故示文雅有馀也。
兩晉南北朝期間曹操也是儒將典型代表
《魏書‧裴延俊傳》[3] :時世宗專心釋典,不事墳籍。 延俊上疏諳:「臣聞有堯文思,欽明稽古;媯舜體道,慎典作聖。漢光神睿,軍中讀書;魏武英規,馬上玩籍。
《魏書·羊深傳》[4] :是時膠序廢替,名教陵遲,深乃上疏曰:「……陛下中興纂歷,理運惟新,方隅稍康,實惟文德。但禮賢崇讓之科,沿世未備;還淳略稍康,實惟文德。但禮賢崇讓之科,沿世未備;還淳略略明略。 斯繆。
《梁書‧鍾嶸傳》載其《詩評》[5] :……降及建安,曹公父子,篤好斯文;平原兄弟,鬱為文棟;劉楨、王粲,為其羽冀。
《宋書·禮志》[6] :昔魏武身親介冑,務在武功,猶尚息鞍披覽,投戈吟詠,以為世之所須者,治之本宜崇。 ……魏武帝於馳鷓之時,以馬上為家,逮捕於建安之末,風塵未弭。 然猶留心遠覽,大學興業,所謂顛沛必於是,真通才也。 ……」孝武帝太元九年,尚書謝石又陳之曰:「……光武投戈而習誦,魏武息馬以修學,懼墜斯文,若此之至也。 ……”
典型人物
諸葛亮
三國時期,蜀漢丞相諸葛亮是儒將中的典範。 諸葛亮才智高,善書法,著有兵書,通曉天文地理,五次北伐不斷蠶食曹魏,魏國經濟、農業等方面嚴重倒退,被評價為「天下奇才也」。

諸葛亮
周瑜
周瑜「性澤廓」、「雅量高致」。 待人謙恭有禮。 當孫權還是將軍的時候,諸將及賓客對他禮儀並不周全,比較草率。 只有周瑜對孫權敬慎服事,完全按君臣之禮對待。 所以孫權曾謂公卿曰「孤非公瑾不帝矣」。
陸遜
忽報:「江東陸口守將呂蒙病危,孫權取回調理,近拜陸遜為將,代呂蒙守陸口。今遜差人賒書具禮,特來拜見。」關公召入,指來使而言曰:「仲 謀見識短淺,用此孺子為將! 關公覽畢,仰面大笑,讓左右收了禮物,發付使者回去。 使者回見陸遜曰:“關公欣喜,無復有憂江東之意。”
岳飛
極善治軍,諳熟兵法。
善詩詞,岳珂《金佗稡編·鄂王家集》收錄的岳飛詩文有律詩《題翠巖寺》《寄浮圖慧海》,詞《小重山·昨夜寒蟄不住鳴》,題記《五嶽祠盟記》《廣德軍昨夜山陽記》《東寺大唱記》《東營聖記》大本 宋趙與時《賓退錄》還收有岳飛絕句《題青泥市寺壁》。 《滿江紅·怒髮衝冠》一詞在南宋晚期的《藏一話腴》、《鶴林玉露》中都有記載,此詞從明代開始被廣泛傳誦。 此外流傳下來的岳飛詩詞還有《滿江紅·登黃鶴樓有感》《池州翠微亭》《過張溪贈張完》《題雩都華嚴寺》《寶刀歌書贈吳將軍南行》《題驟馬岡》《題雩都華嚴寺》《寶刀歌書贈吳將軍南行》《題驟馬岡》《題鄩陽龍居》等。
善書法,以行、草為主,暢快淋漓,氣韻生動,法度森嚴,剛中見柔,自有一種淳正之氣,頗含文臣氣質。 傳世書跡有《書謝朓詩》《前後出師表》《弔古戰場文》等。
辛棄疾
謝枋得;一少年書生,不忘本朝,痛二聖之不歸,閔八陵之不祀,哀中原子民之不行王化,結豪傑,志斬虜馘,挈中原還君父,公之志亦大矣。 耿京死,公家比者無位,猶能擒張安國,歸之京師,有人心天理者,聞此事莫不流涕。 使公生於藝祖、太宗時,必旬日取宰相。 入仕五十年,在朝不過老從官,在外不過江南一連帥。 公沒,西北忠義始絕望,大讎必不復,大恥必不雪,國勢遠在東晉下。 五十年為宰相者,皆不明君臣之大義,無責焉耳
參考資料
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nostomania(懐郷病)
(自分は必死に必死に必要なことだからと堪える 、)衝撃を背景にして(耐えるけれども同時に 今)すこしとぎれた ヒトが憂げにあまる一話一句を。 狭い砂時計の護岸を彷徨う住人にとっては差し支えないが、かきまわした引き出しに、血肉・糞便、しおれた茎だけが イデアを写している 忌諱を、それら忘却の端材に記憶を添付したオンナのすがたとは、いつぞやに散らばる海水の杯で、 小説のtitleと 忘れちまった、 祈りか? エリカ。 これらつとに発酵するCRACKでDRUGでして。これだけは半ば、仮面に埋もれた巨大な機械の断片がある。視して、住み荒らされた位置は投射され あらゆるほこりと錆で覆われている、どの一部も触れば魔術的で。多くの繊維は弁で囲われてみせる。春とは。ひとくくりの新種の街路樹は青臭い風が強くてややこしい。地に群がっているこれがいびつな翌週などと、まるで残すだけの蒸気が「はかりごと」にたとえちかくみえるやもしれません わたしは 尽きた いのりを主体として ガラス向こうは明滅する/daydream. けれどはき捨てた足跡がまるごと波にさらわれて階層が閉じられた己に赫きあり、鉄と石の合間に。――回帰とはかつては祖を制御していたのだろうか。 力強く生え出た植物がちらほらと観える。同じく一部は(……まだか?)可能性により反響を固定し、わずかに靡かせる。と、罪にはならない。この炎の揺らぎは穏やかな縁で浮かぶ自我に境界を告げる 考古学者たちは手で慎重に土を払い 耳を劈く喘鳴で無機質に働く、 立する遺物を覗き込む 錯覚の歯車と戦慄の配管で体を成した路地裏の意図が絡み合い。ほそくゆるく、いつからか放置され(彼女とは。そのうちに途切た彼とは)おもいのほかほこりでくすんでいるだけかもしれないね――
〝では、では幻灯機スライドの君とご堪能あれ〟
市・昴の配置が具体的にはみ出ないように魚群の列を敷く、無気力なデザインにプロペラが波打つ施術は光にもろく墨は漂い、風紋を含んだ じれったい空。ほんとうとは、しろく、ありのままに撚ってできた ささくれの雲。それぞれ、あるくたびに/浮いたり沈んだり(その気配だ。) なによりも――ようこそ「ノ肚へ。」 ほのかな機械音がこのユウガタ。舌の先に広がり口内にひそかに残る。繊細な夢の元で。ただ欺こうとする脊髄を通る定刻発車に、身得ない時間と言い淀んで、わぁと乗る。 なんどもなんども醒めないなか、 過ぎ去りし飛空船から。 複雑な秩序が質感を保ちながらも混在したパラレルにどこへ開こうが 〈とこしえ、なんて 似ている、一瞬だ〉 けれど未だ会話を遮っては、風が白痴を生じさせるから。プライドが腐乱した装置たちが 囁くばかりに、息巻いているのだから じきに煉瓦を粗く轢いた足元はぶかぶかする。そこは古いオイルが燃えているような匂い。苔の隙間からは小さな花がひっそりと顔を出して ああ一斉に湿り気を漂わせて、陰々とした背を照らすたびにぐらぐらと錯覚する。 そして印画に立ち並んだ露点の一角をゆずると、だめね。ボロい鉄のオブジェは『大地の表面を自然にもつ〝視覚的な、幾何学的な〟亡霊に支配され。』おぼえがきは光重たくも浮し、時はそっと酔わせる味気なさと風化し……殆どはうららかな破損と癒えるでしょう 機にしてうつつ、赤い自転車は微細な粒子をキラキラとときめかせ、静かに進行し風を切ることはできるとおもうのに。存在を操作されたあらゆる受け皿は、前かがみに右に左に沈んだ紙一重を握って。澄んだ外気と埋め尽くす無数の星座をかぞえ 背をただせば、ただそこで萌して暮れ。錆びた雨上がりの、ウソい蛍の羨望に、ときに舞い流されいってしまう 「 飽き――秋――空き。 ともに誰かの夏の終わりが、」 ギアの軋む訛りに―― /放浪する旅にいくども中る 説明のつかない銀の陽気にただ降れる。それだと己が祀られた小さな祭壇すら浮き草のようで、わかっていて? 元の通りに研磨して縫ったくらしも馴染んではハリがあるくらいに。名残惜しい周波数は、酷くぶつかって。なにか御辞儀ばかり押し留めてみても、あなた、幇助にもあらわな錠をくたくたと溶かし込むだけ しら��らと軸が嗅覚に染みていて。わたしに欠けた部分をそっとなぞるから。ねえ、自然モノクロなオアシスで。大きな手で、葉を落とす無数の丸みをおもい、砕かれた意思のような、眠っていた誰かを呼び覚ますけれど。冷淡な旅愁が情けない姿で哭いた。汀にいき このさい 息を殺してやれ。 どうかどうか灯された重みは21グラムとして。『珊瑚の有機体』といった形状はふくらんでいきました。弔いをもって若草が栄え、好天を裂く月のカケラが折れるとき。くすんだ金色の光を放っている。つめたくにぶい感触が手の平に残る。 夢のまた夢だ ――きまぐれに培養された真珠骸は切になると憶はタイルに壁に運命を感じるよう、もはやどこにも属することなくすり抜けてしまった街全体が、精密にかみ合う刃車ながら、もう真っ黒な蝿が砂を盛る。 義眼を帯びた命令だけが象徴の、記憶のかたまった語彙ばかりが真っ白な蟻と毒を酌む。わずかな隙だらけの山積みに堆く。べた一面、一体となって動いていた。 填めだしのパイプから街の動脈のようにくすみ、油まみれで、わらわせる(遠くからこだまを返している)黙黙と、縛する蒸気は、周囲に形を与え、皓い煙が一瞬にして空気中に身を隠し、色彩が消えていくだけ。 そうね、このような場所はもっともあおむきで、あらわれるまえに駆けだしてしまう歩調がもう植物の葉脈を移しているかのように、必然。予兆として残響しいくらか振動する。稀。長年の風雨にさらされては。どう手を伸ばせば深部で錆びついた約束など破れ、おきる夢の奥での なおさら 執拗な痛みを直に受けとめながら、首をひねるばかりして。そのリアルな急所に沿って、無言の空想ばかりで自分を苛んでは踏みしだくたびに、(心にも無い。)胸をえぐるけれど ささやかでも。 やはり道連れの縮図であり憐れな所作であるから つまらないこと。 そらのかなたに軽やかに塗り潰すように、濃藍。あさましい一帯ほど装飾だから、焦燥の明るみは開眼で独り儚し。そうして―― (あいつさぁ『鯨骨生物群集』) ――いや、ならみな、わたつみの右側の中心から大事なところへ。血脈は随時張り巡らされた檻、こんなにもおおきく天上へループされていた ケダモノのやることだ もうだいぶ印象と補修した側道は、また、なんといっただろう。くちびるをひらく、と海上は一筋の黒の螺旋やパターンが組み混まれくずれました。盛りをすぎた陽炎に没し、不可視な地脈、透かしホオズキに中って、まんまるな実ばかりをくしゅりと潰した、落日をおもいだす 抽象画の傷は浅くて 「やさしいひと。」です うなずいて。ねえ、アレは掬い上げたつま先、から〈最果て〉まえは、なぜか違えていて。のちほど音のない交渉が解けはじめた あわいにおいて。なんだか。浮かぬ顔、そのときから羽車に未来にはなかった。仕方なく(こんなものが)ふりむいた感覚は薄明光線とすでに独り立ち、(怠け者ほど)烟り翳もまた湿気り固くなる。 怯えては 目を瞑る。 (初日~いきつづける。/なりゆき。) みないように 温もりのとおくと繋がり、あきらかに炫く。 柿は憂う前に地に伏したのに? 芒はどこか意地悪で、吃音で仕切り反して。煤けた鉄路を走る蒸気駆動の列車が 甚だしく放置された無音の証言が、イタズラな感傷は水に浸らなくては征けなくて…… しんだの。 ――深く深く何層ものおもい霧がもうもうとつき纏う 『多重夢街の凩、』 はいはい それらがヒトのこと こんなぐあいに。 バカな奴だ。トビラから切り開く領域を、果てのない光がきつい雨のようごちゃごちゃっとひっつきだす最善のいのちよ。 のぞいたことはなかったの。支離滅裂のデータの結晶の構造が隠すよう多様な物質も、哭きたくなるか。複雑な電波が物としては海上は嵐を生じさせるアラーム。そう呼ばれて。 泣きたくなるの。またゆっくりと沈黙の底に気配を消し、満にして 目立たぬ窓になにを逃避してみようと、なにげなく確実に刻まれて。ゆらいでるもとに進むには、 目を閉じれば。「これはね。」 未だ朦朧としたヒトガタだけを配色し、/(なんだそうだ。)/精緻な計算や策謀の下部にちらりとあり 黒い顔をしかめながら支えられ、わけわからぬが、砂の舟 互い向かいあうように構成されています。 ほら彗星が降る夜に。 呼応した煙突から舞いあがる終末だ そう、つとめることは盛り付けられた水嵩を圧して引いてご覧。カバーは半ば拓き、拗れた『台本〈ニンフは鯨に宣る〉』人差し指を見なければ彫刻の針は止まっている。どこかむかしを喪った、彼女の影だけ複雑で、手に手をとって。わかちあうように匂わせていた ――騒音と微かな香り 舞台上とは、そういうもの だから。―― ここは中空で、潰れそうな未来の鉱物がおもしろいほど、捕獲され垂れ下がるビルのスキマを、繊細に。〝コブのついた〟形状の性ほど、もみ合う天使どもは流れ着いた姿態と呼ばれ、ぐいと鋭いヒールが おぼつかない 舗装の上にどこか決意と秘密を道連れにしながら、またぐ、勢いに任せ、這うように、成長するにつれて、 ――巻き戻した灰石と施された遺志とで切り継ぎしたもの―― すでに異形であり不規則のうちで封印された過程など、けちけちと鼓動していく。この膿腫とてまねく阿片窟。やせている、いつかどこかも混じりあい、利き手で探るよう朦朧と錯乱する信号に絞める、 くるしみの連鎖だ。 眠る秒針の砂原は折という眼鏡をかけ、まだらな僕がつまらぬ薪の先に みつめる蒼白い地平線に ぶつかるよう侵蝕され。飛び込む程 まばらな一死をなんと記そうが……ああ塗り足しと続く朱色の架け橋が莫迦みたいなツラで辿り着けない。 エリカは 対岸とあり、解錠では蜻蛉アキヅがうつろう あちこちの蛇の目を夢幻に継ぎ合わせて 曼荼羅が形成する座間で、無効では陳舎があるんだ 触れた顔料を頃あつくふかく、ムラなく緩ませるには 瑞鳥のように息を荒げている。 唯一の真実を映しだす陽射しオテントサマがただ、 大粒の装置としてたっているだけの悪意など ばからしか/夜明けの虹 つぼみが明かない華に。互い発生した部分は ひつこく余興であり、ひとごとのくせに、「きれはし」を伝え 赤錆びた炎症は糸を巡らす。表面の順序と試作葬儀の段取りにあり、虚像と現実の境界線上で根を下ろす、 たとえ、語り尽くせぬはなばなし 〈災厄――あけはなれる。〉けれども…… 2024-09-21
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1.GHQによる改革 GHQによる占領体制は、これまでの日本政府と行政機構を解体してしまうのではなく、温存させ占領軍の政策を、日本政府を通じて実行させるという間接統治に決まりました。1945年9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリで降伏調印が行われ、連合軍が日本に上陸し、日本の占領統治が始まりました。 戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に署名するマッカーサー 降伏直後のアメリカ軍の日本統治の方針は、「軍隊の解体」「軍需産業の破壊」「日本の経済規模を生活水準ギリギリまで下げる」大きく分けるとこの三点でした。 軍需産業の破壊という点では、例えば鉄鋼やアルミニウム、造船など平和利用できる産業もあるのですが、軍事利用できる産業は破壊するのだという方針で、人造ゴム、アルミニウム、マグネシム工業は全部破壊され、発電設備、鉄鋼、工作機械、化学工業、大型電気機械、火薬、通信施設、鉄道施設、鉄道車両、造船所、船舶は相当な規模で破壊されました。 1947年1月の極東委員会の決定では、日本の生活水準は1930年〜1934年当時の水準に置くと定められ、一部「日本は、彼らが侵略した国よりも貧しくなるべき」といった意見もあり、厳しい敵対的な意見が多数派でした。 そんな中で、憲法改正や経済の大幅な改革が進められました。経済改革は大きく3つあります。 財閥解体・独占禁止法 当時のアメリカ人は、日本社会は未だに封建的な制度を強く残しているがため、国民は生活水準を押し下げられ、市場が狭くなり、帝国主義的な行動を促したのだ、という理解をしていました。 その封建的な制度の代表格が「財閥」でした。創業家のファミリービジネスとしてはあまりにも巨大であるにも関わらず、経営は閉鎖的で不透明であるのが問題視され、三井、三菱、住友、安田の4大財閥をはじめ、中堅を含む11の財閥が解体されました。当時、4大財閥は日本の全企業の全株式の24.6%を保有するという巨大さでした。 財閥のファミリーは全員追放され、大企業の経営に参加することは禁止されました。1947年には三井物産と三菱商事が解散させられ、両者の社員が10人以上集まって会社を作ることすら禁止されました。 財閥解体の直後には独占禁止法が制定され、トラストの結成、トラスト行為、国際カルテルへの加入、会社役員の兼務、法人が他の法人の株主になることまでも禁止する非常に厳格なものでした。厳格すぎて外資が日本に進出できないということで、1949年には国際カルテルへの加入と法人が他の法人の株主になることは緩和されました。 集中排除政策 独占禁止法のあとにでてきたのが集中排除政策です。 これは市場における自由競争を促すため、独占的な企業が存在できなくする制度を作るというものです。市場の価格や取引量に影響を与える企業を分割するという目的で、1947年12月に「過度経済力集中排除法」が制定されました。 これにより、大日本麦酒(現在のアサヒビール、サッポロビール)、三菱重工業(東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業)、王子製紙(苫小牧製紙、本州製紙、十條製紙)など、17社が分割させられました。本来は300社以上が分割させられそうになっていたのですが、後で述べる占領政策の変更により大幅に緩和されました。 農地改革 農地改革は戦時中に農林省により進んでいましたが、アメリカはより地主の支配力を破壊する政策を求めました。小作人の地位向上は農林省の悲願でもあったので、農林省が率先して農地改革案をまとめました。 地主の保有面積は5ヘクタールまでとするという案でしたが、アメリカ側のもっと厳しくせよと指令を受け入れた第二次農地改革案が1946年に採用されました。その内容は、農村に住んでいる地主には1ヘクタールまでの農地保有を認めるが、都会に住んでいるような不在地主は全部取り上げて小作人に売らせるというものでした。 この政策により、長年地主の経済的支配を受けてきた小作人は解放され、経済的にも豊かになっていきます。その一方で先祖代々受け継いできた土地と資産を没収された地主の中には、没落して貧困に陥る者もありました。 そのほかには、労働組合法、労働基準法、労働関係調整法の「労働3法」がつくられ、労使関係の制度的基礎がつくられ、戦時中解散させられていた組合が復活し、労働者の組合加入が進んでいきました。当時の労働組合はストライキや会社側のロックアウトなど戦闘的な活動が行われ、激しい組合運動が行われました。
昭和経済史⑤アメリカ占領下の日本経済|尾登雄平(世界史ブロガー・ライター)
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デヴィッド・ボウイを追って世界で最も特別な庭園へ
The rock legend was so moved by this Kyoto garden that he wrote a song about it. But getting into Kokedera is incredibly difficult—here’s how to do it. Laura Studarus Published Jan. 8 2024 4:51AM EST (Google翻訳) ロック界のレジェンドは、この京都の庭園に感動し、曲にしました。しかし、苔寺への入場はとてつもなく難しい。その方法をご紹介します。
目的は庭園を散策することです。これはヒーローズの楽曲「Moss Garden」のインスピレーションとなっています。しかし、美しい庭園を散策する前に、訪問者は数世紀前の仏教に遡る内省的なトレースの実践に参加して入場を許可されます。 定められた沈黙のひとときと5回の深呼吸の後、課題に没頭する。瞑想するように指示された経文は『延命十句観音経』。コンビニでやり取りする程度の日本語しか知らないが、お寺でもらった筆ペンで、丹念に文字の姿をなぞる。後に、これは仏陀への念仏、縁起、高潔、安楽、自我、清浄への呼びかけだと知る。 寺院とその伝統への敬意を示したことで、苔寺の至宝とも言える庭園を散策することが許されました。参拝客は、内省的な雰囲気の中でゆっくりと散策するよう求められます。瞑想的な雰囲気を保つために、ささやき声で話すことが推奨されていますが、これは決して無理な要求ではないようです。 1977年に寺院は完全予約制に移行し、参拝希望日の2ヶ月から前日までに電子申請書を提出し、入場時に約30ドルを支払う必要があります。前回訪れた際に予約漏れで入場を拒否されたことは、幸いでした。清水寺や伏見稲荷のような観光客に人気の寺院に比べて人が少ないだけでなく、私たちはここに来るために苦労してきたのです。もちろん、ルールは守ります。 私は話さなかったけれど、息を呑みました。頻繁に、そして力強く。 日本庭園は、手入れの行き届いた、精選された美しさの感覚の上に成り立っていますが、多くの庭園がミニマルな傾向があるのに対し、苔寺はその美意識をより野生的な領域へと引き上げています。まるで、寺の門のすぐ向こうにある嵐山の山々が、その荒々しさよりもはるかに芸術的なものに飼いならされているかのようです。 ボウイが京都に滞在した時期のほとんどと同様に、苔寺への彼の訪問についても、事実よりも雰囲気が漂っている。とはいえ、私と同じように、彼もこの寺を訪れて心を打たれたことは明らかだ。 『ヒーローズ』はボウイの12枚目のスタジオ・アルバムであり、ベルリン三部作の2作目となる。いくつかの作品は、壁のすぐ近くで録音された。しかしながら、『モス・ガーデン』は京都にしっかりと根付いている。 「デヴィッドが京都にある『苔の庭』っていう場所のことを教えてくれて、それですぐに作業を始めたんだ」と、ブライアン・イーノは1977年にNME誌に、アンビエント・トラックのレコーディング・セッションについて語っている。 「すごくいい加減なやり方だったんだけど、ヤマハのシンセサイザーでコード進行をいじってて、『もう十分だと思うなら言って』って言って、そのまま作業を続けていたんだ。そしたらデヴィッドが時計を見て『ああ、これでいいだろう』って言って、それで作業が終わったんだ」

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永遠の神、隠されたことを知り、あらゆることをその起こる前から知られる方よ。
ダニエル補遺・スザンナ1-9、15-17、19-30、33-62(長い形)
永遠の神、隠されたことを知り、あらゆることをその起こる前から知られる方よ。
ダニエルの預言
1バビロンにヨアキムという男が住んでいた。 2男は妻をめとった。ケルキアの娘で、名前をザンナといい、大層美しく、主を見れるひとであった。 3また、彼女の両親も正しい人で、自分たちの娘をモーセの律法に従って教育した。 4夫ヨアキムは、大変裕福で、その家の隣に美しい庭園を持っていた。 ヨアキムは、この上なく評判の良い人であったので、ユダヤ人たちはよく彼の所に集まった。 5さて、その年、民から裁判官として二人だけ老が選ばれた。 6二人はいつもヨアキムの家に詰めており、裁きを求める人々は皆、彼らのもとに現れた。 7正午になる人々が立ち去ると、スザンナは、夫の庭園に入り散策するのが常であった。 92人は理性をじっくり、天から目を背けて仰ぎ見ることもせず、正しい裁きに心を置いてことを削除した。
15彼らが、折を意識していると、彼女がいつものように侍女二人だけを伴って庭に出て来たが、非常に暑い日であったので、水浴びをしようと思った。 16そこには、隠れてのぞいている二人だけ老いるは、誰もいなかった。
20彼らは言った。 22そこで、スザンナは嘆息して言った。 25人が走って行き、庭園の戸を開け放った。 26庭園の叫び声を聞きつけて、家人たちは彼女の身の上何事が起きたのかと、脇の戸口から駆け込んで来た。 28翌日、人々が彼女の夫ヨアキムの家に集まったとき、二人の間老らも嫌われた。 二人は、スザンナを死罪に定めようというよこしまな考えを抱いていたのである。
33彼女の身内の者も、見ていた人たちも皆泣いた。 37すると、隠れていた一人の若者が彼女に近づき、彼女と一緒に横たわった。 38我々は庭園の片隅にいたのですが、このよこしまな行為を見て、彼らの方に走って行きました。 40そこで、我々はこの女を捕えて、あの若者がだれかと問い詰めましたが、 41答えようとしませんでした。我々は、この事実を証言します。」 集まっていた人々は、二人が民の長であり、裁判官であるために、その言葉を信じ、彼女を死罪に定めた。 43彼らが私について偽証したことをあなたはご了承ください。ご覧ください。この人たちが納得してまとまったことを私は何一つしませんでした。なのに死なねばなりません。」 44主は彼女の声を聞いた。 47ところで、人々は皆、ダニエルの方を向いて、「あなたが言ったことは、どういうことなのか、どういうことなのか」と言った。 48ダニエルは人々の途中で言った。 「ここへ来て我々の真ん中に座ってください。そしてわたしたちにはっきり言ってください。神があなたに長老の特権を与えられたのですから。」 51ダニエルは勝手に聞いた。 52やっぱり、二人が別々に引き離されると、ダニエルはさっきの一人を言って言った。 54あなたが彼女を見ていると言うのなら言ってみてください。二人が一緒にいたのはどんな木の下でわかります。」 ところで彼は、「乳香樹の下だ」と答えた。 55ダニエルは言った。 「カナンの末裔よ、あなたはユダ族の子孫である資格はない。あなたは美貌に目がくらみ、欲望に心を迷わせた。」 57あなたたちはいつもこのように、イスラエルの娘たちにしていたのだ。 彼女らは恐ろしさのあまりあなたたちに身を任せた。 しかし、ユダの娘の中に一人、あなたたちよこしまなふるまいに、屈服しなかった人がいる。 59ダニエルは言った。 61人は二人で長い間老に対して立ち上がった。 なぜ、彼らが偽証人であったことをダニエルが自らの証言によって判断したからである。
答唱詩編
詩編23・2+3、4
主はわれらの牧者、わたしは足りないことがない。
詩編23
23・2神はわたしを緑のまきばに伏させ、 いこい水辺に伴われる。 3神はわたしを生き返らせ、 いつくしみによって正しい道に導かれる。
4とりあえず死の陰の谷を知っても、 わたしはわざとを恐れない。 あなたがわたしとともにおられ、 その鞭と杖はわたしを守る。
福音朗読
8・12-20 開催
悪を行う人が死ぬまで、神に立ち戻って生きることを神はずっと見られる。
ヨハネによる福音
そのとき、イエスはファリサイ派の人々が話してくれた。 12 「わたしは世の光である。わたしに正義者は闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 13ところで、ファリサイ派の人々が言った。 14イエスは答えて言われた。 」 19彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言って、イエスは意見になった。
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