#何故ゆえに前からの写真が撮影できないのか不思議でならない
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21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa
1年ぶりくらいの21世紀美術館。
ゴールデンウイークなので人出が凄くて吐きそう。
(尋常ではないくらい人が沸いている)
今回、有料コーナーは見たい作品がなかったので無料で鑑賞できる「POP UP ART」を鑑賞。
写真最初のインスタレーションは米国コロンビア大学の視覚芸術教授Sarah Sze(サラ・ジー��の作品「喪失の美学」。
大量生産される製品のみで制作されているらしく、建築的構造の中に自然のプロセスを表現しているそうで、巨大な未来都市の形をしたシャンデリアのようでちょっと素敵。
次のコンクリート作品は、支配構造への反発たるパンクの精神で作品を制作するスイス人作家ユニットのペーター・フィッシュリ(Peter Fischli ) ダヴィッド・ヴァイス(David Weiss)で「
無題・コンクリート・ランドスケープ」。
21美の中にこれだけ客がいるのに何故かここだけ一人も客がいない(笑)。
そっとガラス越しに作品に近づくと案内係の美術員さんがアイコンタクトで奥へと手招き(笑)。誘われるまま、誰もいない外の広いフロアにポツンと佇むこちらの綺麗な長方形のコンクリートを鑑賞開始。
しかし、不思議だ。
何の変哲もないコンクリートの塊なのに、誰もいないところでひとりで鑑賞していると、あらゆる雑念が消えて無の境地というか禅の世界観というか、不思議な感覚を覚える(笑)。
屋外で展示されると、時間と共に雨や光にさらされて埃がたまり、苔が生え、表面に凹凸が生じ、自然の変化が反映される風景表現となるということらしい。
なるほど、このコンクリートの塊から「詫び寂び」を感じ取った自分のセンスは間違いはなかった。
(なんやねん。笑)
2003年のヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞も受賞しているほどのユニットだけあって、こんなありきたりのコンクリートで哲学するパンキッシュなペーター・フィッシュリ& ダヴィッド・ヴァイスには今後も注目。
その他にもいろいろなアーティストの作品があったけど、今日はここまで。
帰り際、美術館前の石浦神社から上下黒の法被を着た子供中心の和太鼓奉納演奏が聞こえてきたけど、リズムが普通の「和」のリズムではなくベリーダンスなんかで有名な「アラブリズム」(笑)。
(なんとセンスのいい子供たちなんだ!)
このリズムに気が付いた自分のセンスの良さに再び感動。
そして、観光客にいつものように記���撮影を頼まれて、いつものように笑顔で了解する。
そして夕日を浴びながらフランス人とイタリア人とブラジル人とドイツ人とロシア人でごった返す長町武家屋敷を通って実家に帰宅。
(中国人はほとんど見かけなくなった)
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月末振り返り(2025年5月)
2025年、5月終わり。まもなく、梅雨入りか。 この振り返りを書いている時点の関東地方、気温は20度を下回り、大雨が続いている。 作物のことを考えると雨は必要不可欠だとわかりつつも、 こういった天候に必ずやってくる頭痛とも付き合う必要があり、 毎年、毎月、毎日、毎秒、困っている自分がいる。
前回4月の振り返りで告知(?)していた除湿機、無事に購入。 ただいまだにわからないのは、除湿機の構造。 てっきり部屋の湿度を吸い取って、それが水として溜まっていると思って居たけれども、 「除湿機 構造」で検索すると、どうもそういう原理ではないようだ。 吸い取られた水を見て「買ってよかった」と思う自分と裏腹に、 「果たしてこれは本当に除湿しているのだろうか」と思う自分もいる。
4月に引き続き、5月も世界は大きく動いた。 連日入ってくるニュースに全くが気が休まらない。
いろんなニュースがあったけれども、すごく懸念しているのがガザ地区の食糧危機の問題。 本来ガザ地区に入ってくる予定だった支援物資が、全く入ってきていない。 海外メディアはイスラエルが支援物資を運ぶための入り口を封鎖していると報道、 それに対してもちろんイスラエルはその事実を否定、対立するハマスが強奪などをしていると主張。 紛争においていつもわりを食うのは、こどもや女性。 かなり辛い映像だけれども、BBCが報道した私たちが直視しないといけない映像。 *映像には、衝撃的な映像が含まれます。ご自身のご判断でご覧ください。
正直、自分が見たい世界を見続けたいと思う。 でも、世界には見たくない世界が広がっている。 それにだんまりを決め込むこともできる、でもそうはなりたくない。 「無関心」とかそういう話ではない。 スクリーンに映る、痩せ細った乳児は私たちが生み出しているのだから。
引き続き、インプットの時間
5月の連休明けから中旬まで、大型のプロジェクトに関わ��予定があった。 ただ直前になってキャンセルの連絡があり、大型連休はひたすらインプットのための時間を割いた。
インプットといっても、「決まったプロジェクト完遂」のためにひたすらアイデアを練るとかではなく、 日々、映画や書籍や展示会からの情報を取り込み、頭の中にあるアイデアに紐付け、メモをする作業。 すごく地味な作業だけれども、今年の秋以降におおきく作用してくるだとう思っている。
実をいうと、こういったインプットを「意識して」継続するのは、苦手だ。 同時にわかったのは、私は動いていることで「仕事をしている」と思う傾向が強いようだ。 逆をいうならば、動いていないと「仕事をしていない」と自分に烙印を押している。 そういった意味では、この期間のインプットを「意識して」することは、 新たな自分を作り出す、更新するための時間だと思うと、非常にrichだと思う(ようにしたい)。
火の鳥展へ
兄の影響で、幼少期から大好きな漫画家の1人手塚治虫の「火の鳥展」へ。 この展示少し変わっていて、生物学者の福岡伸一さんが「火の鳥」を再定義するというもの。
展示自体の詳細は書かないが、 福岡伸一さんの解説が非常に面白く、実家にある火の鳥全巻を再読しようと思った次第。
皮肉というか、非常に趣深いと思ったのが、 「火の鳥」ではひたすらに人間として生まれたが故の「業」のようなものを表現しているが、 その「業」が詰まった六本木ヒルズで展示がされていたのが皮肉であり、 非常にアンビバレントだなと思った。
かなり前からAIやロボットの出現を予測し、 それを的確に言い当てていた手塚治虫の先見性の高さ、 何より私が生まれながらにしてもったを「業」を自己反省せず、 経済成長を至上命題として進んでいること。 悲しいという感情を通り越して、面白いとまで感じてしまう。
この展示に、国賓として某米国大統領を招聘したら面白いのに。

(日中に訪問したが、夜に訪れるとまた違った風景が見れたかも)
1年ぶりの登山を、2度ほど。
前述のように、大型連休中後の大型プロジェクトがキャンセルされた。 大型プロジェクト前などはなんだかんだ準備やら連絡やらで時間がカツカツになる。 だけど、時間がぽっこりできたということで、パートナーと登山へ。

(パートナーが撮ってくれた写真。新緑に囲まれていた)
パートナーと登山に行くのは実に2年ぶり。個人的には、1年前の八ヶ岳縦走以来。 標高は高いほうが景色の良さと登山の報われた感は大きいのだけれども、 そんなことよりも「歩く」ことをひたらすに考えることができるのが登山だと思っている。 道中でみる、以前から知っていたつもりの景色を再定義し、 登りはじめに毎度感じる「なんで登ろうとしているんだろう」という答えのない問い、 頂上に着いた後のなんでもできるという達成感、 やがてやってくる下山中の面倒だなと思ってしまう感情など。
こうして書いてみて思うのは、登山をしていて、 やってくる感情というのは、驚くほどに同じだ。 だから、気を抜いていると道迷いをしたり(過去に経験あり)、 急に出てきた獣にいつも以上にびっくりしてしまったり。 すべての感情が「はだか」なんだろうと思う。
パートナーとの登山で登山熱が再熱したわけではないが、 その翌週には、昨年から仲良くしていただいている方と、山中湖の石割山へ。
開始早々、400段の急すぎる階段を登りながら、 「お前は登山とほんまに向き合っているんか」という 石割神社からの声のようなものを受け止め(たような気がするだけ)、 天候は悪いなかでもハイペースで登山を終え、無事に帰宅した。
健康のため���かではなくて、やはり登山はやめれない。 普段着飾っているものをすべて剥いでくる唯一の場所じゃないかと思っている。

(あいにくの天気だったけれども、山頂では一瞬晴れ間も)
5月に出会った素晴らしい作品
5月はあまり映画を観る時間を確保できなかった。 その代わりにすごく時間を割いたのが、中国サスペンス小説。
以前のエントリーで、日本のノンフィクション文学はレベルが高いと書いた。 では中国はどうかと言われると、圧倒的にサスペンスのレベルが高いと思う。 もちろん日本でも、湊かなえさんや東野圭吾さんを代表するような、 非常にクオリティの高いサスペンスを書く著者は多く存在する。
国が変われば社会環境も異なるというのは至極当たり前だけれども、 「共産主義」という見えやすい管理型社会である中国において、 特に警察や法律などを取り巻くルールのようなものは少し事情は異なり、 さらに人々が社会に抱く不満や疑念のようなものも異なる。
そういった環境の中だらこそ生まれたと思える作品をいくつか紹介。 『悪童たち』(紫金陳 著 稲村文吾 訳) 『死亡通���書 暗黒者』(周浩暉 著 稲村文吾 訳)
もちろん中身については書かないが、 1977年に終結宣言がなされた文化大革命時代から、 中国はどのように変わってきて、その世代を生きた親から生まれた子供たちが見ている世界、 そういったものがこれら小説に反映されている。
自身が中国語を学習しているというのもあるが、 そのあとは芋蔓式に少し古い中国映画にはまっている。 「1978年、冬。」も素晴らしい映画だった。
こういった作品たちに触れれば触れるほど、 自分のできることはまだまだあると感じ、同時に世界の広さを再認識する。
急に思い出した「どうにもできない(なかった)こと」について
どういった経緯で思い出したかはわからない。 思い出は大学時代に遡る。
私は20歳を過ぎて、APUという大分県別府市にある大学に入学した。 いわゆる、高校卒業後のストレート入学ではなかった。 その年齢まで浪人をしていたわけではなく、16歳から20歳まで労働に従事していた。 (なぜ高校学齢期に労働に従事していたかはいつかの機会で説明するかも)
入学後もおぼろげに感じていたことではあったが、 卒業して、時間が経ち、その感じていたことはほぼ確信近いものになった。 それは、「同級生の実家はどんだけ太いんだと」ということ。
私のようにアルバイトを掛け持ちしながら、奨学金をもらっている「苦学生」もいた。 ただ、そういった友人はごく少数だったと記憶している。 多くの友人は、家賃、生活費、交際費(大学生は飲み会)など、 ほぼすべてのお金を実家から送金してもらっていた。
当時、大学生だった私は友人との間にある境遇の差にすごく苦しんだ。 苦しんだというよりは、羨望の念から、大学生活を謳歌する彼らを侮蔑の目で見ていた。 で、そのネガティブな感情を消してくれたのは、 ネパールやバングラデシュから来ていた国際学生の存在だった。 (この話、よく講演でも話している話題。なぜネガティブな感情が消えたかはいつかの講演の機会で)
大学を卒業して、約15年が経とうとしている。 たまたま大学時代の友人と都内で食事をした。 順当にいけば管理職だろうなと思っていたが、友人らはもれなく立派な管理職になっていた。
(依頼されている原稿とかではないので、文章にまとまりないことご容赦ください)
大学の同輩ではないが、大人になってできた友人知人、 世の中ではハイスペと呼ばれる人たちの実家はもれなく、実家が太い人たちばかりだ。 親が大学教授、一流企業の部長職、地元の代議士などなど。挙げればきりがない。
教育社会学でよく言われる「階層の固定化」とはまさにこれ。 じゃあお前はどうしたいんだと問われると、 この固定化を流動的にするような、何かしらの作品や表現をしたいということ。
同時に、なんとか大学に進学できた学生が 心配なく卒業できるような奨学金制度も創設したい。 (そんなお金はないんだけれども)
別府での4年間は、人生にとって忘れることのできない出会いと時間の連続だった。 同時に、自分が「考えること」を必死に続けた場所でもあった。 あの時感じた感情を、ふらっとに捉え、作品に昇華していきたいな。
—— 梅雨、そして夏。
まもなく6月突入。旧暦では水無月とされている月。 水がないわけではなくて、水が必要とされている月。 すなわち、私たちを豊かにしてくれる作物が大きく成長する月。
意図的に操作されているとしか思えないお米問題、 いい加減抜け出して、誰にとっても損のないような環境で、 大切な人(たち)とテーブルや食卓を囲みたい次第。
今月もご縁をいただいた皆さま、ありがとうございました。 自分、今月はよく耐えて、生きた。来月も楽しく、笑って生きていこう。
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2024年8月2日
広島原爆投下後の写真ネガ 新たに10点確認 路面電車など写る(毎日新聞)
広島駅駅舎屋上から南東に向かって写す。多くの人々が電車を待っている。写真右手の人だかりがある場所に露店の闇市があった=1946年2月撮影
原爆投下から1カ月後と半年後の広島市中心部を撮影した写真のネガ計10点が、毎日新聞大阪本社の未整理だった資料から確認された。広島駅前にできた闇市の雑踏や復旧途上の路面電車、焼け跡に建ち始めた家屋などが写っており、破壊し尽くされた街の再建と復興に人々が歩み始めていた時期を捉えている。
1945年9月撮影の3カットと46年2月撮影の7カットで、広島平和記念資料館(原爆資料館)や専門家の協力を得て検証し、45年9月の2カットを除いて撮影地点を特定した。いずれも撮影した記者の氏名は記録がなかった。
46年2月撮影分のうち4カットは広島駅前の光景で、全壊全焼した一帯に建ち始めた住宅や商店、闇市の露店に詰めかける人々、電車を待つ乗客の長い列などを捉えている。別の地点のカットに写っていた電車は判別した形式や車番から、大破した後に修理して復帰した車両と判明した。
広島電鉄によると、原爆で保有していた123両のうち108両が大破したり焼損したりするなど甚大な被害が出た。突貫作業で復旧を進めたが戦後初期は車両が少なく、停留所では大勢が待ったという。
原爆資料館の石田芳文館長は「原爆の傷痕がまだ深く、行政による復興計画が本格的に動き出す前の戦後間もない時期、生きるために懸命だった人々の息吹が伝わってくる。長い復興の過程を検証できる貴重な資料で、『被爆の実相』の理解にもつながる」と話している。【宇城昇、広瀬晃子】

お金持ちだけが医療を受けられる?…コロナが流行ってるけど治療薬はこんなに高い 「いのちの格差」実態は(東京新聞)2024年8月2日
猛暑の本格化と足並み���合わせるよう、新型コロナウイルスの第11波が到来しつつある。喉の痛みに止まらぬせきなど、特有の症状に直面する人々はいま、別の悩みも突きつけられる。コロナ治療薬の高さだ。頭がふらつく中でも価格におののき、処方をためらう人もいるという。「経済格差」「健康はカネ次第」。そんな言葉も浮かぶ現状を改めなくていいものか。(山田雄之、木原育子)
◆「9割が値段でためらい、6〜7割があきらめる」
新型コロナ用の治療薬の一つ「ゾコーバ」
東京・渋谷区の「みいクリニック」。最近は多い日で30人が発熱外来を訪れ、10人ほどが新型コロナと診断される。宮田俊男理事長は「高熱や強い倦怠感、喉の痛みを訴える人が多く、症状が強い」と話し、こう続ける。「ほとんどの患者が値段を聞いてためらい、20〜30代前半は『やっぱり大丈夫です』と断る」
「値段」とは、新型コロナ用の治療薬の金額だ。
同院は、重症化や後遺症のリスクを抑えるために治療薬の処方を提案するが、「9割が値段でためらい、6〜7割が諦める」。飲み薬として通常出す「ゾコーバ」は、医療費の窓口負担3割の人で5日分が1万5000円程度になる。
「値段が高くて処方できないのは歯がゆい」
東京・北区の「いとう王子神谷内科外科クリニック」の伊藤博道院長もそう漏らす。夫婦で感染しても1人分だけの処方を希望するケースもあり、「『お金が払えない』と聞いたら、勧められない」と息を吐く。
◆第11波の主役・変異株「KP.3」の特徴は
新型コロナ用の治療薬「ゾコーバ」などの調剤明細書
新型コロナの感染者数は11週連続で増加し、第11波に入ったと目されている。厚生労働省によると、約5000の定点医療機関から7月15〜21日に報告された感染者数は6万7334人で、1医療機関あたり13.62人。インフルエンザで流行の注意報を出す基準の10人を超えている。九州は多く、佐賀は31.08人、宮崎が29.72人。主流はオミクロン株「JN.1」から派生した変異株「KP.3」。感染やワクチンで得た免疫を回避する力が強く、感染力も目立つ。
国内で新型コロナ用の治療薬として一般流通する飲み薬は軽症や中等症向けのゾコーバ、重症化リスクがある人向けのラゲブリオ、パキロビッドの3種類だ。厚労省の資料には7月12日時点で「全ての受注に対応でき、十分な在庫量が確保できている」とある。先の伊藤院長は「ゾコーバは発症後3日以内、他は5日以内の服用を勧めている」と解説する。
◆「必要な患者に行き届いていない」
コロナ禍の必需品となったマスク
コロナ治療薬は以前、全額公費負担だったが、新型コロナの感染法上の位置づけが「2類相当」から「5類」に移行された後の昨年10月から、最大9000円の自己負担に。今年4月には公費支援が廃止され、3割負担の人は5日分でゾコーバが1万5000円程度、ラゲブリオとパキロビッドは3万円程度となった。
なぜ高額なのか。厚労省の担当者は、新型コロナで入院する患者向けの点滴薬については「新薬として研究開発経費や副作用といった安全性の調査費などを積み上げて薬価を算出した」と述べた一方、他の薬は「類似薬と比較し、薬価を決めている」と説明した。
公費支援の有無で治療薬の処方率が変わる傾向があるようで、医療従事者向けサイトを運営する「エムスリー」の調査では、3種類の飲み薬の処方率は昨年8月で2.2%、公費支援廃止後の今年4〜6月は10.5%程度だった。伊藤院長は「現場でも今、処方希望は患者全体の1割の感覚。必要な患者に行き届いていない」と訴える。
◆アビガンはいま…
新型コロナ用の治療薬といえば、物議を醸した過去もある。
代表例は、富士フイルム富山化学(東京都)が開発したアビガンだ。元々は新型インフルエンザの治療薬だったが、コロナ禍当初、新型コロナへの有効性を示す治験結果がないにもかかわらず、故・安倍晋三政権下の判断で投薬が進んだ。肝心の有効性はその後も確認できず、2022年10月に治療薬の承認申請を取り下げた。ちなみに、アビガンは今、マダニにかまれることで起きる感染症の治療薬として承認されている。
塩野義製薬のゾコーバも承認まで時間がかかった。同年2月に厚労省に承認申請したが、胎児に影響が出る可能性があり、「妊婦または妊娠している可能性のある人」は禁忌になるなど、分科会も有効性を判断しかね、7月に継続審議に。その後も臨床試験を重ね、11月に緊急承認された。
◆「夏場だけでも自己負担軽減を」
「内閣感染症危機管理統括庁」の看板を掛ける岸田文雄首相(左)と後藤茂之感染症危機管理相(当時)=2023年9月
そんな経過を経た今、治療薬を服用しやすい環境の整備を求める声が上がる。
7月16日にあった都医師会の会見では、尾崎治夫会長が「今回は喉が痛くなるのが特徴。食事が���を通らなくなり、暑さと相まって衰弱し、昨年以上に重症化するケースが増えるのでは」とし「夏場だけでもいいので、自己負担額が軽減されるよう国や都に対策をお願いしたい」と提言した。
同月22日に厚労省が開いた有識者ヒアリングでも、治療薬の負担軽減を望む指摘があり、解熱剤や鎮痛剤などの増産を求める訴えもあった。
◆「エビデンスがあまり確立していないことも問題」
高額ながら治療薬が必要とされるのはなぜか。
インターパーク倉持呼吸器内科(宇都宮市)の倉持仁院長は「重症化を避けるという意味で効果があり、これ以上悪くさせないという歯止めの意味もある」と解説する。
「コロナで自宅療養することに慣れ、症状が出ても解熱剤を飲むなどして、まずは経過をみる人も多い。持ちこたえるように普通の生活を送り、喉が痛くなるなど、どうにもならなくなって来院し、ゾコーバを処方する場合もある」
一方で「『治療したらこうなった』『治療しなかったらこうなった』というエビデンスもあまり確立していないことも問題だ」と指摘する。ただ、そうはいっても「未投与の場合、肺などさまざまな臓器でウイルスが増殖し、炎症を引き起こし、持病がある人は特に悪化しやすい」。
◆「人権無視も甚だしい」
新型コロナについて会見する東京都医師会の尾崎治夫会長=YouTubeから
そんな治療薬だが、現状では経済的な理由で治療薬を諦める人もいる。
NPO法人「医療制度研究会」理事長の本田宏医師は「ひと言で大問題だ」と切り出し、「家庭の懐事情で医療に差が生じるのは、医療へのアクセス権を阻害しているという面でも『いのちの格差』を生んでいる」と続ける。
本田氏は国の医療費抑制策の問題を指摘する。
「『医療費が増えると国が���ぶ』と、医療費を削る一方で患者の窓口負担は増やしてきた。限界まで医師数を抑制し、コロナでは在宅死も起きた。お金持ちだけが医療にアクセスできる現状になり、人権無視も甚だしい」
今も社会的に影響が大きいコロナ。昭和大の二木芳人名誉教授(感染症学)は「ゾコーバの価格も高いが、重症化の可能性がある人が口にする二つの飲み薬も高額だ。二つの薬は、ともすれば命に関わる人々が対象になる。全体的に治療薬の資金援助が必要だ」と訴える。その上で「ゾコーバなどがもっと安価であれば、多くの人がもっと積極的に飲む。結果的にウイルスの脅威は減る。社会全体の不安感を取り除くとの意味合いでも急ぎ、対策してほしい」と話した。
◆デスクメモ 先日、新型コロナになった。当初は38度前後の熱。解熱鎮痛薬の処方のみ。やがて喉に激痛、声が出なくなった。医院でゾコーバを勧められるとうなずいた。ただ詳しい額を知ったのは薬局でのこと。出ないはずの声が出そうになった。普通の風邪との差。何とかしてと切に思った。(榊)
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1月
年女。元旦から地元の友人2人とデニーズに6時間居座り、年末年始限定メニューの存在を知る。卒業式ぶりにネイルをした。魂24周年にバリチルで開催したパーティーで初めてオーダーケーキを頼んだがかわいくて大満足。こうきとまなみと神田大明神と湯島天神に初詣に行き、一瞬リョータに会う。シネマカリテで『そばかす』を観た。
まなみと日産グローバル本社でSAKURAの試乗をし、帰りに寄った中華屋で居眠りをした。あゆみさんとすえぴとネロの店で新年会をする。
THE FIRST SLAM DUNKの衝撃。三井への恋心を15年振りに思い出す。
すみちゃんとの大人の休日倶楽部が発足し、蔵前〜合羽橋あたりを散歩。観音山フルーツパーラーでももちとあゆみさんとすえぴが初対面。帰りにみんなにつかあってもらって、Tnewtiesで靴とワンピースを買った。
ことごとくおみくじの引きが悪い。

2月
休職中の同期に久しぶりに会えた。元気そうで一安心。こうき主催のスイーツ会兼合同お誕生日会。ダロワイヨでケーキをたくさん食べた。工場の同期と遊んでザファを一緒に観た(THE SECOND SLAM DUNK)ら、同期は24時間経たないうちに2回目を観に行っていた。代官山のあたりをプラプラ散歩し、無数のトイプードとすれ違ったり旧朝倉邸に住みたがったりする。自主的Tłusty czwartekでミスドを食す。
かなこと海を見てカラオケ。バリチルで三井の寿の宴を行う。21卒22卒23卒になった高校の友達と卒業旅行で箱根へ。富士屋ホテルで豪遊し、星の王子様ミュージアムに涙ながらの別れを告げる。
テニミュ青学vs氷帝が当日の公演中止でぴよと残念会。

3月
同期とご飯に行ったら2ヶ月ビハインドで私のお誕生日プレートをオーダーしてくれていて、この子たちのことは何があっても守ろうと思った。私お姉ちゃんだから。
大学の部活の先輩同期とかなり久しぶりに会った。大手町有楽町エリアで昼から夜まで遊んで、現役の時もこんなに遊んだことないから新鮮だった。私はちゃっかり途中の大丸でコスデコのアイグロウジェムをタッチアップし購入していた。
妹と母と受験お疲れ様の一泊2日熱海旅行。恋愛おみくじに「六歳年下が良い」と言われてじゃあ、三井寿か。と思う。月曜有給旅行の良さを感じたが穏やかな春の熱海の空気に当てられて情緒が不安定になる。
念願の姫鶴一文字を初顕現。宝箱からかなり早い段階で飛び出してきてくれて嬉しかった。
THE THIRD SLAM DUNKで横断幕特典シールをもらう。すみちゃんとピューロに行き、バツ丸のカチューシャを買ったらマレフィセントになった。三井を応援するネームプレートを作る。
在宅後ダッシュで駒沢に向かい、まおとA東京の秋田ノーザンハピネッツ戦を観る。なまはげがいたり、ありえない技(天井ダンク)を持つマスコットキャラがいたり、選手の概念車を教えてもらえたり、SDGsがボコボコにされたりと見どころ満載。ザファのおかげでプレーの解説がしやすい。ありがとう井上雄彦。
本社の同期4人ですみだ水族館にお出かけ。大阪人の登場シーンが肩揺らしすぎ歩くの早すぎ治安悪すぎで爆笑。いつの間にか水族館に墨田区の伝統アピールとして大金魚ゾーンができており不意打ちを喰らう。その後浅草寺で引いたおみくじ:凶。
かなこと銀河劇場でマリー・キュリー観劇。すごく良かった。韓国作品らしくフェミニズムのベースに労働者の健康被害問題や企業の製造責任、資本主義批判まで織り込んでおり見事な構成力。そうこうしていたらミューマギの第二公演情報解禁があり、まさかの山﨑昌吾ジャーファルに椅子から転げ落ちる。
ぴよのお誕生日@バリチルを開催。調子に乗ってバカのバースデーケーキを買ったら大変な目に遭った。
ももちとすみちゃんの作った和風シナリオを通過。知人の作ったシナリオは初だったが手癖を感じて面白い。バカ男子大学生コンビだったのでロールプレイが楽しかった。ガチ恋粘着獣の影響でYouTuberの探索者にした。
客先から一部品番値上げOK連絡をもらい、祝いにケーキを買って帰る。ここまで足掛け半年。


4月
まおとBunkamuraのマリー・ローランサン展を観る。ローランサンとシャネルのメディアを介したラップバトルの話やテニミュのような前衛映像で爆笑。
閉館前の三菱一号館美術館に駆け込み、グッズを買う。そのまま散歩してヒューマントラストシネマ有楽町で『ジョージア 白い橋のカフェで会いましょう』を観る。すごくリラクシングでおおらかな映画で良かった。お国柄かな。
カイザーの話をされすぎてブルロ原作を読み始める。何もかもがめちゃくちゃすぎて読んではTwitterを開き、読んではTwitterを開くハメになった。おかしすぎる漫画。
はるかさんのお誕生日会があり、ウォカジンのヘアピンで爆盛り上がり。まったく、兄貴は意外と抜けてるところがありやすからね。
すみちゃんとラシーヌの苺アフタヌーンティーに行き、ノリタケの加州安定ティーセットが届く。
アニメのオペラオーが良すぎてメロメロになる。本当に彼女のことが大好きだしこの手の人間に弱い。ウマ娘は人間ではないが。
品川区民として初めての選挙(区議会議員選挙)。出張ついでにTさんと京都で遊んで私が行きたかった京都府立植物園に付き合ってもらう。何故か28,135歩も歩いた。
わが、まお、あゆみさん、すえぴと日本橋でピザを食べてから千葉ジェッツのA東京戦を観戦。冨樫を初めて生で観た。千葉なのに東京のイキリ中学生たちがコラボしていて何故?と思う。今回は席が取れなすぎてバラバラに座ったから観ながら話せなくて残念。観戦後の焼肉で炎の男の写真撮影に興じる。

5月
2日にネスの夢小説を読み「ふ〜ん結構ネスのこと好きかもと思った」とツイートしている。

運転練習を兼ねてGWに家族で伊香保に行こうとしたが関越が混みすぎて秒速5センチメートルしか進まなくなったため途中で諦め森林公園へ行く。エゴイストなので別行動して一人だけサイクリングをした。地元のイタリアンで祖父母の誕生日祝いをした。
こうきとポコの再会。この時祖父母がこうきを質問攻めにしており申し訳なかった。
降り頻る雨の中ポラ科とポーランド祭りに行き、帰りに駅のムンバイでチャイをしばく。
金夜のミュージアムナイトですえぴとマティス展に行く。プロヴァンスの映像コーナーがあり、教会の鐘の音を聴いた瞬間幸村精市との存在しない記憶とホームシックの幻肢痛に襲われた。とにかくヨーロッパに行きたい。
ももちとひなと湘北を想う湘南ドライブ。逗子マリーナの駐車場が法外な値段という学びを得る。これがあゆみさんから譲り受けたネスと初めてのお出かけ。
文フリに出かけて東直子��まほぴ、安田茜にサインをもらう。のいちゃんとたほさんにもご挨拶して差し入れを渡す。いつかドームに連れて行きます!と言われて最前行きます!と返した。
こうきとすえぴ、あゆみさんが対面し4人でヴァーミリオンのポップアップへ。この時はオーブのガーネットの指輪を買った。昼食場所を探したが渋谷の人口密度が高すぎてお高めの地中海料理に入る。イスカンダルセットというワクワクセットを注文。
母の日プレゼントで母にageteのネックレスを見繕った。チャーム別売りのやつ。
すみちゃんと劇場版コナン(魚影)を観た。元太のセリフ全てと陰謀論者の目暮警部で爆笑する。観終わった後がってん寿司でうなぎを食べてネスにも見せてあげた。

6月
マンシティvsバイエルンのチケットが当たりまくる。ここから1.5ヶ月ほどチケット捌きに奔走する。チケ取引が中学の先輩や大学の後輩に会うきっかけになったので何だかんだよかった。
すえぴとあゆみさんと六本木ヒルズで薔薇のアフタヌーンティー。スタンドの高さがありすぎて起立して写真撮影。PWCを始める。三笘が来た瞬間ゲームバランスが崩壊し三笘ゲーと化した。
ミューマギの公演が始まり、6公演入る。今回はキャストが増えたのでオープニングとエンディングの厚みがすごかった。まさかの客降りで山﨑ジャーファルさんが数メートル先を歩いて行った。長生きはするものだと思った。マギ、サイコー!でも紅玉ちゃんの個人ブロマイドがないのはまだ納得してない。アクスタが売り切れすぎて買えないかと思ったがぴよが捕獲してくれた。
ネスの夢小説を書く。執筆中は納期にミートするために定時退社��ていた。わりと気に入っているので続きが読みたい。
部署の奨励金で帝国ホテルのご飯を食べ、その後走って若手による新入社員歓迎会に移動。

7月
前日深夜に母に誘われ、急遽クレイジー・フォー・ユーを観劇。萌さんをリアルで初拝見。エンタメに全力な作品でかなり良かった。衣装もすごい。タイミングよくたかりかさんとも会えた。
ぴよとあゆみさんと東京タワーで迷子のストライカー探し。その後言ったカフェでマスターの爺さんに絡まれ怪しげな成功譚を聞かされる。
はるかとこうきと浦和レッズvsFC東京を観戦。初めてのスタジアムだったのでドキドキだったが色々新鮮で楽しかった。埼玉出身者としてコバトンと写真撮影。試合は0-0で内容もしょっぱい。酒井も3分くらいで怪我したし。翌日に国立でこうきと町田ゼルビア vs東京Vを観戦。シチュエーションが整っておりかなり熱い試合とブーイングが見られた。
リトル・マーメイドをひなと観た。冒頭にアンデルセンの引用があり大事をあげて椅子から転げ落ちる。
あゆみさんが妄言バースの夢小説を書いてくれた。嬉しすぎて仕事中に読みまくる。やってることが10年前と同じ。
すえぴあゆみさんももちとココス呪術コラボを冷やかす。
ポラ科ドライブで秩父へ行きそばを食べる。ポテくまくん邸を表敬訪問。
あゆみさんと渋谷シティの試合観戦。コートが近く、ボールを蹴る音が聞こえてすごかった。妹と国立西洋美術館のスペインのイメージ展に行く。
大学の部活の納会に参加しバスケをした後2次会までこなす。
マンシティvsバイエルンの当日、午後休を取ってネイルを変えてから国立へ向かう。かなりお祭りムードで楽しい。こうきにバイエルンバウンドの服装を褒められて嬉しかった。はるかさんも合流して写真撮影やらトロフィーチラ見やらをした。試合はシティのパスワークのすごさとバイエルンの疲労を感じた。
バリチルでリョータとソーちゃんの誕生日会をした。

8月
地元の祭りで3年ぶりの花火がまさかの強風で打ち上げ中止。同日に花火大会があった板橋では火事が起きていたので妥当な判断だったと思う。
すみちゃんと大人の休日倶楽部有楽町編を実行し、シンガポール料理、プラネタリウム、マリアージュ・フレールを巡る。マリアージュ・フレールで友人の結婚祝いを買った。
友人の結婚パーティーに参加したが、レストランでやる簡単なものだったためか泣かなかった。中学時代のいつメンと会えて嬉しいが、私が恋愛の話題に非対応なためやりづらさはある。最近どう?と聞かれたので順調だよ〜と言ったらいつから付き合ってるんだっけ?と言われる。流れを無視して交際ではなく人生の話をしてしまいすみません。でも結婚した友人のことは誇りに思うし尊敬するし応援してる。私たちもうホグワーツにも帝光中にもいないけど、それぞれの戦場で変わらず戦おうね。
お盆は車を乗り回すためムーミンバレーパークやスタジアムジャポンや伊香保に出かけた。
ひなとまなみと島でバカンス。海で浮いたり原チャリを乗り回したりと満喫。花火もお菓子も買ったのに朝が早かったため夜ご飯後に爆睡。星が綺麗らしかったが当然見れず。護岸されていない箇所で泳ごうとしたら波が激しすぎて引き波の時に足に当たる石で流血した。
ももちこうきあゆみさんと才能の原石たちとで本能のままに餃子��食らった。あゆみさんももちまおとHUBでサバトも開催。
かなこれみかと横浜散策。ダイナーでハンバーガーを取り違えられ、中華街にあるフォーチューンアクアリウムの存在を初めて知る。
ひなとTHE FOURTH SLAM DUNK。

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野澤ゼミの夏休み in 宇都宮
はじめまして。3年生のジョセフです!
今回は夏休みの期間を利用して、北関東最大都市、栃木県宇都宮市に行って参りました!最近、「宇都宮という選択」と銘打って広告出しまくってますよね。目的は、餃子を食べる事!もそうですが… 8月26日に開業したばかりの、宇都宮芳賀ライトレール線、通称「芳賀・宇都宮LRT」に乗車することもかねて行って参りました!開業したばかりのLRT、「ネットワーク型コンパクトシティ」にどのような影響を及ぼしそうか、見て参りました。

1,栃木県宇都宮市の都市計画
東京から約100km、上野東京ラインで2時間、新幹線で行けば50分。人口50万の栃木県宇都宮市です。2019年策定の宇都宮市マスタープランによると、「本市の都市構造は、高度な都市機能が集積した中心部と、それを囲み中心部から放射状に伸びた道路や市内を巡る環状の道路網などで結ばれた古くから発展した地域から成り立っています」とのこと。ゆえに、中心部一極集中を避け、中心市街地を核としながらも市内の各拠点が役割を補完しあう「ネットワーク型コンパクトシティ」を目指す都市です。
そもそも国交省によるとコンパクトシティは3つの型があり、合併前の旧町村中心部を拠点としてネットワークで結ぶ「多極ネットワーク型」、徒歩圏を団子のようにし、公共交通を串にして各拠点を結ぶ「串と団子型」、そして交通結節点及び拠点機能の整っている都市の核と、都市内の各地区が連携する「あじさい型」があります。宇都宮市は「多極ネットワーク型」になります。
2. LRTに実際乗車してみた!
LRT(ライトレール)は、交通環境負荷を軽減し、バリアフリーを実現するなど、いわば「ハイテク路面電車」と言えるでしょう。もちろん営業距離にもよりますが、同じ営業距離を想定した場合、地下鉄や新交通システムよりも予算を抑えて導入することができます。また、LRT導入に当たっては、自治体と事業者それぞれに国から補助金がおります。宇都宮LRTは宇都宮市と隣の芳賀町が共同で所有しています。
実際に宇都宮駅東口から乗車し、気になった点をアップしていきたいと思います。
まずは時刻表。平日ピーク時は1時間8本程度、休日昼間は1時間5本程度の運行を保っています。3両編成、割とお客さんは乗っていました。Wi-Fi完備。


東口の様子。この日は土曜日で、東口に新しくできた「宇都宮テラス」の広場ではマルシェが開催されており、家族連れなどで賑わっていました。ただ、近くに病院が2棟あるので、あんまり騒がしいことはできないですかね。


ここで一つ驚いたのが、宇都宮市、LUUPがある!(写真撮り忘れた…)こちらLUUPのポートマップですが、北関東唯一かつ現状日本最北のLUUPが置かれている都市なんですね。仙台や札幌にもないのに…。

さあそしてこの乗客たちはどこで降りるのか?と見ていたら、乗客の2/3は5駅目の「宇都宮大学陽東キャンパス駅」で降りました。家族連れが多かったため間違いなく近隣の商業施設「ベルモール」に行く客と思われます。ベルモールへの渋滞を少し緩和で来ているのでしょうか。普段の様子を知らないので何とも言えませんが…。
さあそしてそのベルモールを過ぎたあたりからは調整区域。一気に雰囲気が変わります。私は時間の都合上、鬼怒川を超えた先の「飛山城跡」で下車。のどかな場所に急に最先端のLRTが現れる、なんとも不思議な雰囲気。

この先は渋滞が問題となっていた「清原工業団地」を過ぎ、URが開発した「ゆいの杜」を見ながら、本田技研工業の拠点、終点の「芳賀・高根沢工業団地」へと向かいます。ちなみに飛山城跡駅の駅前には駐車場があります。「パーク・アンド・ライド」というネットワークを形成するための施設です。

LRTに乗って気付いたこと
A,まず、自動車やLUUPとの共存可能性についてです。車社会である宇都宮市でかつ幹線道路を走るLRTは、慣れるまでは��介な存在になるでしょう。事実、開業して1か月足らずですでに接触事故を4回起こしています。この先増えるのか減るのか…。また、そこにLUUPが加わったらカオスです。上手く使えばいいと思うのですが、私が見た限りLUUPを使用している人は1人もいませんでした。ポートにも結構余っていました。この日がたまたまかもしれませんが、少なくとも車、LRT、LUUPと3つも走り出すとやや怖い気もします。
B,ところどころ、道が狭いです。上記のように、3つの乗り物が走り出した更に狭いです。特に、LRTの開業によって片側2車線が1車線のみになっているところもありました。こういった場所は、トランジットモールを推進して、車利用を制限するべきだと思います。
C,早く西口へつなげた方がいいと思います。延伸計画はあるようですが、宇都宮市で元々栄えていたのは西口側。ネットワーク型コンパクトシティの形成においては、東口と西口の流動性を高くすることが求められるのではないでしょうか。西口にも一応行ってみました。
3. これからの宇都宮市
これからの宇都宮市は、先述の「ネットワーク型コンパクトシティ」の実現に向けてLRTの西口延伸を目指すとのことです。しかし、問題は西口側。西口前には再開発でタワマンが建つようですが、駅前にタワマン林立となればモデルの実現は難しいのでは?なんて思ってしまいます。ただ、ペデストリアンデッキの弊害とも言えるでしょうが、バス乗り場が非常にわかりにくいので、これは早急に何とかしてほしいですね。LRTになればそこの問題は解決するとかしないとか…。


以上、簡単にではありますが、宇都宮駅前についてでした!
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VR event (Japanese ver):
Verse 1: 「未来ノハロウィンを 体験シニ行きまショウ!」 そんな言葉と共に見知らぬ国に 連行されてきたアリス・スノウ・ ドロシー・アラジンにハーメルン。 しかし彼らの目の前に飛び込んで きたのは廃墟の如く荒れ果てた ボロボロの街並みだった。 「なんと醜い国でしょうか」 「アレ? おかしいデスネ……」 どうせまたガセネタでも掴まされたの だろうと、5人は帰ろうとしたが―― 「……これはなんだ?」 ズラリと並んだヘルメットらしきものが 気になり、装着してみることにした。
Alice: な、なんだこれは!?
Snow White: 突然景色が 変わった!?
Dorothy: ああ、これは ヘッドギアですね
Dorothy: 頭に装着すると 映像が流れる代物です
Hamelin: なんと 煌びやかな……!
Aladdin: 随分と面白い装置が あるものだね
ヘッドギアを装着した途端、 景色がカラフルに変わった。 左側には巨大な滝が流れ落ち 右側では煌びやかなショーが上映され 並ぶ建物はどれも目映く、華やかだ。 そのどれもが、本当に目の前に 存在しているようにしか見えない。 その上、気づけば5人の服装は ハロウィンの仮装に変わっていた。 「これは凄い!もしかして、これは 仮想現実ってやつですか!」 「コレはメタバースハロウィンデス!」 「30年先ノ未来デスネ!!」 はしゃぐ人形達とドロシーを筆頭に、 一同は新たな世界に魅せられた。
Verse 2 現実では外を出歩く人など ほとんど見当たらなかったが、 メタバースと呼ばれるこの世界では たくさんの人が出歩いている。 彼らはあちらこちらで騒ぎ、 誰彼ともなく挨拶を交わしていた。 「潤滑なコミュニケーションにより あらゆるパフォーマンスの向上が 見込めそうな世界だね」 「決めまシタ!ココを第二ノ ライブラリとシ、今年ノハロウィン イベントはココで開催シマス!」 「わざわざこんな騒がしい場所で?」 嫌そうに辺りを見回したアリス。 そこへ何かが襲いかかってきた。
Nightmare: Trick or Treat! Snow: なんだこいつらは? Nightmare: オ菓子ヲクレナキャ 悪戯シチャウゾ! Alice: ぞろぞろ湧いて 出てくる…… Nightmare: Happy Halloween! Hamelin: 鬱陶しいですね Hamelin: ひとまず全て追い 払ってしまいましょう
襲いかかってくるお化けらしきモノ達を 倒すと、5人の手元には コインがジャラジャラと 降り積もった。 「なんだこれは?」 「これは恐らく、このメタバース内で 取引されている仮想通貨だろうね。 ……ビジネスの匂いがするな」 「仮想通貨……?」 いち早く理解を示したのは、アラジンと この手のことには目がない人形達だ。 「ツマリ敵を倒シテ仮想通貨ヲ稼ぎ、 ソレで生活ヲするのデスネ!!」 「30年後ハ通貨も全テデータに 置キ換えられてイルようデス!」 「何を言っているのかわからない……」
Verse 3: 困惑気味の面々に人形達が説明する。 「メタバースとはネット上ニ存在スル 仮想空間ノことデス」 「現実とリンクした生活ヲ送ッタり 他者ト交流スルことガできマス」 「メタバース内デ生活シテいく上デ 欠かせナイのが仮想通貨なのデス」 「手っ取り早イのは体感スルことデス。 手始メにアリスの生写真ヲ撮り NFTに紐付ケテ売り出しまショウ」 「NFT?更にわけがわからない……」 「アリスさん、脚を交差したほうが 美しいポーズになりますよ」 ハーメルンの助言により、アリスの 写真は非常に美しく仕上がった。
Parrah: ソレでは写真ヲ 販売しまショウ! Alice: ただの写真が 売れるのか……? Nightmare: うわあああ! ���少女の生写真!! Nightmare: これは価値が高い! 欲しい! Nightmare: 俺に売ってくれ! いくらだ!? Dorothy: おや、人が 集まってきましたよ Nightmare: 俺が落札したい! 金をかき集めるぞ! Nightmare: 僕は5千SINoCOINで 落札する!! Snow: お、落ち着くんだ!
アリスの生写真は 1万SINoCOINで売れた。 これは現実世界で約1億円の価値となる。 この国ではメタバースこそが 生活の全てなため、 途方もない金額が やり取りされているのだ。 「いくらなんでも高額すぎる……」 「イイエ、コレが未来なのデス!」 「オ金儲けノチャンスですヨ。 全員ノ写真ヲ撮リまくりまショウ!」 こうして、急きょ撮影会が始まった。 ドロシー・ハーメルン・アラジンは ノリノリで、アリスとスノウは渋々と、 様々なポーズを取らされる。 「デハ生写真の宣伝も兼ネテ、被写体 自ら人々ト交流スルのデス!」
Verse 4: ようやく撮影会から解放されたので、 アリス・スノウ・ドロシーの��人は ストリートを歩いてみることにした。 「そちらは召喚獣ショップで、 あちらは黒魔法屋ですって!」 「怪しい店に入ろうとしないで」 「どれも興味深いじゃないですか!」 「それなら、あそこはどうだ。 服を売っている店のようだぞ」 はしゃぐドロシーを抑えるため、 とりあえず害のなさそうな 衣服店に入ることとなった3人。 そこでは、普段なら到底見ることの ないような様々な服やアクセサリーが 販売されていた。
Dorothy: 試着はどれだけしても タダのようですよ Dorothy: 試しにあれこれ 着てみましょう! Snow: これは…… 妖精の服とあるが…… Snow: !?すごい、 羽が生えたぞ……! Dorothy: 似合っていますよ スノウさん! Alice: 兎の被り物が こんなにある…… Alice: ……全部欲しい Dorothy: これはハマる わけですねぇ
試着ボタンを押すだけですぐに 衣服が反映され手軽に着替えられる 快適さを、3人は驚きながらも楽しむ。 「何か欲しくなる……」 「これだけ試したらそうなりますよね」 「しかし、所持金が足りないな」 人形達から小遣いはもらっていたものの、 服を買うにはまったく足りない。 相談の上、3人はアクセサリーを 買うことにした。すると―― 「あの美少女達が買っただと!?」 購入したものが一瞬で拡散され、 アクセサリーが飛ぶように売れていく。 店主は売上が跳ね上がった礼にと、 ライブのチケットをくれた。
Verse 5 一方その頃、アラジンとハーメルンは 美術館を訪れていた。 館内には様々な地域、言語、世界観の 美術品が展示されており、 メタバースならではの演出がふんだんに 取り込まれた作品ばかり。 「ここまで多様な美を一度に目にする ことができるとは……素晴らしい!」 「おや、こっちは若手アーティストが 自由に出展できるスペースの���うだ。 どこまで続いているのだろうね」 館内は建物の外観からは想像できない ほど広く、見る物が尽きない。 メタバースで様々な制約が取り払われて いると知り、2人は夢中になった。
Aladdin: メタバースには無限の 可能性を感じるよ Hamelin: 新たな表現が次々に 生まれるでしょうし Hamelin: 今までとは違う評価軸 も出てくるでしょうね Aladdin: それに新しい インスピレーションは Aladdin: イノベーションを 起こすきっかけになる Aladdin: ここでは表現や価値が 流動的になるだろう Hamelin: であればメタバースに おける美と価値は――
アラジンとハーメルンの会話はとめどなく続く。 気づけば2人は、人々で溢れかえる大きなドームの前に来ていた。 聞けば、ここでこの世界の一大イベント、メタバースライブが開催されるという。 「この世界は新体験で満ちているね。 どうせなら余すことなく体感してみようじゃないか!」 「私の想像を超えた新たな美しさとの出会いが期待できそうです」 興味を示した2人のもとに、ちょうど衣服店でチケットを譲り受けたアリス達が合流する。 こうして5人はライブ会場に入った。
Verse 6 ドーム内で5人を迎えたのは 星が煌めく無重力空間だった。 ステージが宙を自在に飛び回り、 ライブに参加する人々もまた ふわふわと漂っている。 彼らは国中の様々な場所から アクセスしているようで、 参加人数はとても数え切れない。 あまりの熱気に驚きながらも、 アリス達はアナウンスに従って 自らのデバイスを操作した。 すると自動的にサイリウムが現れる。 やがて始まったライブでは、 サイリウムを使った 全員参加型の 企画が始まった。
Alice: このサイリウムで お化けを倒す……? Snow: なるほど! こいつらを倒すと Snow: ライブの演出が 変わるのか! Hamelin: 徐々に豪華に なっていきますね Dorothy: どんな技術を使って Dorothy: この演出を実現 しているんでしょう? Aladdin: なんにせよ、 この一体感は Aladdin: メタバース ならではだね Alice: もっと豪華な演出が 見たくなる……!
「ここは素晴らしいですが……」 メタバースの魅力を理解しながらも、 ドロシーだけが不思議そうにする。 「現実世界との関係性が気になります」 この世界に希望を持つのは どんな人間なのか。 何故、国中の人間が 『この世界が生活の全て』だと 思えているのか。 現実に戻りたいと思うことはないのか。 「ちょっとすみません。 皆さんは現実で一体どんな暮らしを してたんですか?教えてください!」 ドロシーの問いに、 住人達は揃って顔を顰めた。
Verse 7: 住人達は頭を掻き毟り、 涎を撒き散らしながら吠え立てる。 そのあまりの異様さに、 スノウがとっさに ドロシーの手を引いた。 「逃げるぞ!」 住人達の怒声を背に、5人は走る。 彼らの声は徐々に膨れ上がり、 どこまでも追ってくるようだ。 「ア!ココにいまシタカ!」 路地裏に逃げ込んだところで、 慌てふためいた人形達と合流した。 「街ノ人達に現実世界ノ話をシタラ 急に怒り出シテ訳が分かりまセン」 「何?お前達もか?」 一同は顔を見合わせた。
Nightmare: お、お前……! Nightmare: 何故そんなことを 聞くんだ!? Nightmare: 現実のことなんて 思い出させるな! Dorothy: あれ? もしかして Dorothy: 聞いちゃマズい 内容でしたか? Nightmare: 黙れ黙れェ!! Nightmare: 二度とその話を するなあッ!!!! Nightmare: アア……ア…… アアア……! Snow: 今度はなんだ!? Hamelin: 醜い姿ですね…… まるでゾンビです Nightmare: モウ、エナドリハ…… 飲メナイヨ…… Nightmare: デモ……コノ楽園ヲ 維持シナイト…… Nightmare: ……居場所ガ ナインダ…… Aladdin: 楽園の維持? Alice: この人達は、この 世界の運営者……? Dorothy: ハッキング終了! ようやく分かりました
ここの住人達は、何かを隠している。 そう判断した一行は、状況把握のため この世界を調査することにした。 ドロシーがシステムのハッキングを 試みるが――すぐに人々の怒声が 聞こえてきて、中断を余儀なくされる。 「皆さん、もっと奥に逃げますよ!」 「何故彼らはあんなにも 執拗に追ってくるんだ?」 「コンテクストが気になるところだね」 疑問を感じつつも 5人と2体は声を潜めながら走り、 路地の奥深くへと身を隠した。 そうしてようやく追っ手の気配は 遠のいたが、代わりに現れたのは――
Verse 8 「どうやらここは、若者達が現実から 目を背けるために作られたようです」 低収入、高税金、老害の圧力―― 若者達は辛い現実から逃げるために メタバースへと身を投じた。 だが、苦しみを誤魔化せたのは一時的で 現実世界の環境が悪いことにより、 満足な創作活動はできなくなっていった。 メタバース内で創られるものの質が 悪化するのを防ぐため、彼らは24時間 栄養ドリンク漬けの日々を送り―― やがて、心身共に限界を迎えた。 この世界でも思うように体を動かすこと が出来なくなり、理想の姿を保つことも 出来ず、ゾンビに成り果てたのだ。。
Aladdin: ビジネスにはコストが 必要だけど Aladdin: この世界は少々 やり過ぎたみたいだね Alice: こんなに華やかな 世界なのに Alice: こんな裏側が隠されて いたなんて…… Nightmare: 高税金……ウウ、 老々介護……!! Snow: なんて深い 嘆きだ……!
「このゾンビが、若者達のなれの果て だと言うのか……?」 華やかなメタバースを作り上げた彼らが、 この楽園には到底相応しくない姿で 呻き、苦しんでいる。 その醜悪さに、一同は息を呑む。 「見たのか……そいつらを……!」 いつの間にか背後に追っ手が迫っていた。 彼らはアリス達の側にいるゾンビ達を 見て、悲鳴と共に身をよじる。 「あああ……思い出させルナ!!」 「俺達もすぐにソウナルンダ……!」 続々とゾンビと化し始めた住人達が、 涙を流しながら襲い来る。 アリス達は応戦するしかなかった。
Verse 9 増えるゾンビ達に追い立てられる��うに して、一同は街の中心地に戻ってきた。 だがそこにも、ゾンビが溢れ返っている。 「ライブ楽シカッタ……モットヤリタイ ……騒イデ全テヲ忘レタイ……」 栄養ドリンクの瓶を両手に持ち、 呻くゾンビ。それがメタバースライブの 出演者の1人であることに一同は気づく。 「ヒヒ……美少女ガ買ッテイッタ アクセサリー、マダマダアルヨォ!」 「あれは……衣服店の店主か?」 「コレヲ飲ンデイレバ好キナダケ 美術館ニ納品デキル……ヒヒヒッ」 「あそこでエナドリをがぶ飲みして いるのは若手アーティストかな」
Nightmare: 邪魔ヲスルナァ! 老人共メ!! Nightmare: コレ以上俺達ヲ 苦シメルナ! Dorothy: まったく話が 通じませんよ! Dorothy: もう離脱するしか ありません! Hamelin: 美しい所でしたが 仕方ありませんね Nightmare: オオオオオ!! Alice: くっ……
Verse 10 アリス達が楽しんだ華やかな メタバースは、もう見る影もなかった。 地面には無数の栄養ドリンクの瓶が 転がり、人々は過労で正気を失っていく。 「ドウシテ俺達ガコンナニ辛イ思イヲ シナケレバナラナインダ!?」 「現実ナンテクソ食ラエ!」 「!?何をしているの……?」 メタバースと現実の区別すらつかなく なった住人達が、現実の不満をぶつける ように、あちこちを破壊し始める。 「やめろ!ここはお前達の 理想郷ではなかったのか!?」 止めようとする一行を、 彼らは敵と見なした。
壊れゆくメタバースの世界を止められず、 一同は元の寂れた通りに戻ってきた。 メタバース世界の崩壊と同時に、 現実の国もまた崩壊を始めたのだろうか。 ボロボロだった建物は完全に崩れ、 人の気配はまったく無い。 動かなくなったヘッドギアを捨て、 アリス達はライブラリへと戻った。 なんとも言えない気持ちを抱いている 彼らに、人形達が声をかける。 「イヤハヤ、お疲れ様デシタ!」 「華やかさノ裏ニハ闇がアル。 ソシャゲも一緒デス!学べまシタネ」 「お前達はもっと人の気持ちを考えろ」 八つ当たり気味に、人形達は殴られた。
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♡ #ライオンズの頃の涌ちゃんしか知らなかった私にはすごく大人に見えた 涌井くんはライオンズ戦は投げないだろうと 思ってたら投げた🤣 ライオンズの頃はエースではあったけどあんな風格というかオーラはなかったような… そんな涌井さんがドラゴンズにやってきて 早々に見れたのは良かったわ。 #結局押切もえさんは名古屋へ行くの? #そんなにライオンズの選手と交流してなかったけどいないかその頃の選手は ✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧ #ドラゴンズ #ドラゴンズファン #ドラゴンズファンと繋がりたい #ドラゴンズ愛 #中日ドラゴンズ #ドラゴンズ好き #ドラゴンズ大好き #ドラゴンズ頑張れ #涌井秀章 #涌井秀章投手 #ベルーナドーム #オープン戦 #西武ライオンズvs中日ドラゴンズ #安定の後ろ姿 #何故ゆえに前からの写真が撮影できないのか不思議でならない #ガン見する方が優先するからであろう (ベルーナドーム) https://www.instagram.com/p/CpuM1dZvxDW/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#ライオンズの頃の涌ちゃんしか知らなかった私にはすごく大人に見えた#結局押切もえさんは名古屋へ行くの#そんなにライオンズの選手と交流してなかったけどいないかその頃の選手は#ドラゴンズ#ドラゴンズファン#ドラゴンズファンと繋がりたい#ドラゴンズ愛#中日ドラゴンズ#ドラゴンズ好き#ドラゴンズ大好き#ドラゴンズ頑張れ#涌井秀章#涌井秀章投手#ベルーナドーム#オープン戦#西武ライオンズvs中日ドラゴンズ#安定の後���姿#何故ゆえに前からの写真が撮影できないのか不思議でならない#ガン見する方が優先するからであろう
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20周年迎えた911か・・・ あの日、崩壊したビルの真下にいて死にかけたうちの夫、今朝は、友達と釣りにいきましたわ。 事件後何年もトラウマで苦しんだ夫だけど、彼の中では「終わったチャプター」なんだって。 911のあと家族を失ったひとたちは勿論、大勢のひとがいろんな形で影響を受けました。 ヒラリー・クリントン(当時NY州選出上院議員だった)が「911に対しては、人の数だけエピソードがある」と言ったのだけど、そのとおりだと思った。そこにいた人もいなかったひとも、誰もがエピソードを持ってる。 影響を受けたのは、個々人の人生や、生活や、考え方だけじゃない。 アメリカという国家そのものが、あの日を境にして、予定していたのとは違う道を歩むことになった、それに気づかされた、いわば、Brutalな日だったと思います。 わたしの夫は、いまはもう引退しちゃったけど、長いこと報道の分野にいて、テレビニュースのフリーのカメラマンだった。あの日は欧州の某テレビ局のために仕事を請け負って、国連ビル前に早朝から詰めていたが、ダウンタウンのツインタワーで何やら妙なことが起きてるらしい、ということで急遽現場へ。 最初の飛行機のインパクトの直後は、ニューヨークでも実際に何が起こってるのかわかってなかったんです。第一報では小型機がタワーにぶつかって炎上したらしい、という話が流れたの。 私はというとその日は仕事してなくて、パジャマ着たまま自宅の南向きの窓から煙が出てるタワーをボーと見ていた。 夫と報道クルーは国連ビルからイーストサイドハイウェイに入り南下、ツインタワーに着いたときは、まだポリスラインがひかれる前で立ち入り禁止になる寸前だったから、早めに現場に到着した報道陣だけがワールドトレードセンター真横まで行くことができた。うちの夫はその数少ない報道陣の一人だった。 私はコーヒー片手にパジャマ姿で、ミッドタウンのアパートビルの19階にあった自宅の南向きの窓から燃えてるビルをみてたんだけど、突然真っ赤な炎が上がったのが見えた。それがセカンドインパクトだったんです。アクション映画でしかみたことがないような、大きな赤い炎。いまでも目に焼き付いている。 あわててテレビをみたら現場は大混乱になっていた。怖くて震えました。わたしが当時働いていたオフィスは、テロ現場のすぐ近くで、わたしの机の後ろの窓からツインタワーがすぐ目の前に見えてた、そういう場所だったの。慌ててオフィスの同僚に電話したけど誰も出ない。 そのときもまだ、テレビニュースでも、はっきりとは「これはテロだ」とは言ってなかったの。 なんなのこれは?事故・・・?じゃないよね?なにこれ?なに?どうなってんの?不安だけが募ってゆく。なんかとんでもないことが起こって混乱して大騒ぎになってるらしい、それだけはわかる。そんな状態。 そしたら夫から電話がきて「たいへんなことになってる。ここは大騒ぎだ。絶対に家から外に出るな。こっちに来るな。家の中にずっといるんだ、いいな!」と叫ばれた。「うん、わかった。そっちも気を付けてよ。」と言って電話を切り、ずっと窓から見えるタワーとテレビ画面を交互に見続けていた。 なにがなんだかわからないまま、不安だけが募ってゆく。そのうち仲の良い友達から電話が入って「ペンタゴンやられたよ!テロだよ!!」と絶叫された。 文字通り膝震えたよ。だって夫はタワーのすぐ近くにいること、わかってたんだもん。 それから少ししたら、タワーが崩れたんだ。崩れるところが窓からも見えたし、テレビの画面でも見えた。怖くなって床にうずくまって、夫に連絡とろうと思って、何度も何度も夫の携帯に電話したけど、出ないの。 心臓バクバクしてくるし、怖くて泣きっぱなしよ。何度かけても夫は電話に出なかった。 自宅でひとりでこころぼそくて、でもなにもできないし、うずくまって泣いてたら、日本の親からも電話くる、友達からも電話くる、そのたびに、夫と連絡とれないといって、わたしは泣いた。 そして2棟目も崩れた。テレビでは全局がワールドトレードセンターを大写しにしていたが、タワーが崩れるとき、キャスターも、Oh My God!!!!と画面で絶叫した。報道陣が最大近寄れるあたりから流れてくる画像は恐怖のひとことでした。体中真っ白になったひとたちがストリートを歩いている。 夫がその日��事をしていた欧州のテレビ局のニューヨーク支局から電話がきて、国連ビルからツインタワーに向かったクルーは、ディレクターとサウンドマンとカメラマンの3名で、前者2人とは連絡がついたが、大混乱の中カメラマンとはぐれてしまい、私の夫とだけ、まだ連絡がついていないと言われた。 なにか動きがあったら必ず知らせるから、ともかく気を確かに持って、連絡を受けられるようにしておいて、と言われて電話が切れた。動転してしまい、親と友達に電話して事情を語り、泣き続けた。窓の外をみるとダウンタウンのほうからサードアベニューを北に向かって歩いてくる人々が目にはいった。 ワールドトレードセンターはマンハッタン島の南端の金融街のあたりにあり、地上も地下も交通手段はメチャクチャになっていたから、現場で崩壊のインパクトを受けた人々は、自宅に戻るために、島の南端からアベニュー沿いに歩いて北上した。私が窓から見てたのは、その人々の群れだったんです。 「群れ」という言葉がふさわしい。それほど大勢の人々が一斉に集団で北上していた。その様子、はっきりと覚えている。中には全身、崩壊したビルの粉塵をかぶって真っ白になってたひとも少なからずいました。 タワーと一緒にアンテナも崩壊したから、NYシティでは携帯電話がつながらなくなってました。 「なにか動きがあったら即座に連絡するから」と言ってくれた支局長からは、その後なにも連絡はない。夫の携帯電話にはつながらない。ひとりで惚けたようになって、まどの外をぼんやりみてたことを思い出します。 そしたら、電話が入ったんです。夫から。28丁目の公衆電話から掛けてる、といって。当時はまだ、ストリートに「公衆電話」なるものがあったんだよね。彼、生きてたんですよね。少ししたら階下のドアマンから連絡はいって、夫がロビーにいるからすぐ降りてこいという。 突っ掛け履いてロビーに降りていったら、そこに、全身粉かぶったみたいな姿の夫がカメラを持って、立ってました。わたし、そこで、大声で泣いたよ。ドアマンも一緒に泣いてた。 これから現場で写した映像をフィードしにスタジオに行くというので、また一人になるのが嫌で、わたしも付いていった。 スタジオに入ると、そこにいた支局のひとたちがみな一斉に駆け寄ってきて、そこにいるみんなが泣きました。夫はカメラをスタジオの台の上に載せて、そこで、彼も、安心したんでしょうね、ウッとなってちょっと泣いて、またそこでみんなが泣いたんだよ。 うちの夫が写してきた映像は、その欧州のテレビ局のNY支局のスタジオからEditもされず本社に送られ、シンジケートを通して欧州の他の多くの国でも流れました。テロ現場内側の様子を、911の起こったまさにその当日に、欧州のどこかで見たひとがいたら、あれはうちの夫が写した映像です。 さっきも書いたけど、テロが起こってまもなくポリステープが張られ、現場付近はメディアも含め立ち入り禁止になったため、あのときタワーの真下に行けたジャーナリストは実はそんなに大勢はいなかった。 崩壊現場の大混乱と、警官、消防士、医療隊員らの姿を映した貴重な映像で、賞も幾つか頂いた。 うちの夫が写した映像でわかったこと。あの当日、ポリスも、消防士も、医療隊員も、みんな、あんなすごい大混乱と粉塵の中で「職務を遂行していた」んですよ。ファーストレスポンダーの彼らは、本当にあの現場で「働いていた」んです。写ってるんだから、ウソでも誇張でもないよ。感謝の念しかない。 うちの夫が現場を離れて徒歩で北上を始めたとき、一台の車が止まって、「どこまでいくんだ、乗ってけ」と言って乗せてくれて、28丁目まで連れていってくれたんだって。白い革張りのレクサスで、粉だらけ泥だらけの夫を躊躇なくのせてくれた見知らぬ誰かがいた。 テロの翌朝はショックで死んだように静まり返ってたニューヨークだけど、輸血が必要だといえば大勢が長い列を作って献血した、救助隊の犬のブーツが擦り切れたと聞けばわんこブーツが山のように集まった、消防車や救急車が通れば大声で「Thank you!」と叫ぶひとが大勢いた。 いまでは素晴らしくきれいになってるウェストサイドのチェルシーポートのあたりや、ハイラインがあるあたりね、あの近辺は、当時はまだ開発前だったんで、広い空き地の確保が可能で、崩壊現場から見つかった死体の一時置き場だったんですよ。 いろんなことを昨日のことのように思い出す。あの体験を通じて、ニューヨーカーの多くは素朴で暖かいひとたちだというのも確認した。ああいうときに人間、本性が出るからね。ヒューマニティの存在を確認させてもらいましたよ。 そして、もうひとつ、夫の話を聞いて確認したことは、人間の生死を分けるものは運でしかない、ってことかな。うちの夫は、燃えてるタワーを真下から撮影していたが、角度を変えようとして、通りの向こう側に向かって歩き出した瞬間に、背後でタワーが崩壊始めた。 必死にすぐ隣のビルのワールドフィナンシャルセンター(WFC)に向かって走ったが、WFCの1階ロビーは内側から鍵がかけられてて、通せんぼ状態になった。土地勘あるひとなら想像できると思いますが、通り隔てた向こう側から110階分の瓦礫が真上から落ちてきたというんだから。 通せんぼ状態になった一角には、うちの夫のほか、警官や消防士ら10名以上が行く手を塞がれてギュウギュウになり、このまま死ぬのか・・・と思った瞬間、ひとりの警官が拳銃でWFCのロビーのガラスを撃ち破って人が通れるぐらいの穴があき、そこからWFCのロビーになだれこんで全員が助かった。 あのとき、あのポリスマンが機転きかせて発砲しなかったら、その場で全員窒息死したかもしれない。 うちの夫が助かった場所のすぐ目と鼻の先では、瓦礫にあたったのでしょうか、死んだ人が実際にいたわけ。あすはどうなるかわからない。何が生死をわけるかなんて、わかりませんよ。 わたしたちは「生かされている」。 今日を生きよう。
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2021/7/24
朝、目覚ましより先に目を覚ます。相変わらず遠足が楽しみで早起きしてしまう子どもです。すると雨が降りはじめ、なぬ! と思っていると、すぐに雨は止んで、むしろ陽射しが窓から注いでくる。浮きうきで支度をしていると、Nから連絡が来ている。Tが美容室に行くから午後からにしてほしいと。それならカリー食べられるじゃん、となり、予定通りに家を出る。今日も積雲の多い晴れ。上昇する夏のイマージュ。熱気球や光のきらめきを感化しながら、ふたりに会えるのが楽しみで仕方ない。
オープンと同時にOさん��お店に入る。今日は早いですねって驚かれる。この時間はいつもお客さんが少ないらしく、ほんとうにひとりもお客さんがやってこない。久しぶりに音楽談義に華を咲かせる。一昨日ひさしぶりに聴いたAC/DCが凄いかっこよかったってはなしから、Oさんは意外にもAC/DCの大ファンだと知れる。こう言っちゃあれですけど、AC/DCってバカのひとつ憶えっていうか、そんな感じだからバカにされがちだと思うんですけど、あの潔いギターがかっこいいですよねって。すると、Oさんも同じ意見で、そうなんですよ、アンガス・ヤングって腹くくってギター弾いてるんですよね、そういう姿勢に惹かれるんですよ、どの曲も同じような感じなんですけど、ある意味でミニマルミュージックなんですって、かなり良いことを言う。ものすごく共感する。アンガス・ヤングのように腹をくくっているギタリストをもうひとり思い付き、キース・リチャーズもそんな感じですよねって。すると、Oさんも同じ意見で、そうなんですよ、僕のなかではアンガスとキースは同類ですね、キースのギターもミニマルミュージック、ひとつのことをどこまでも突き詰めた職人芸ですよねって。お客さん、ほんとうに一人もやってこず、音楽談義が白熱する。
湘南新宿ラインで待ち合わせ。毎度のこと待ち合わせがめちゃくちゃ下手くそなわれわれ。時間を過ぎても誰とも会うことができず、平行世界(パラレルワールド)のことを考える、じぶんだけがいま待ち合わせの存在していない世界線にいるのではないか、と。偶然会うことは得意なのになぁ。そしたらNから連絡が来ていて、Nの居るらしいプラットホームの場所に向かう。Tにも連絡をする。遠足スタイルのNにようやく会うことができる。TからはOKサインがきている。ところが待てども待てどもTの姿が見えない。乗るつもりだった電車が行ってしまったそのあとすぐにTがひらひらとやってくる。バッド・タイミングすぎて、ある意味でグッド・タイミング。そんなのも関係なくTが久しぶりのNをわぁーーっと抱きすくめる。こんな光景を見られただけで大いに大満足で、わざわざこれから海に行かなくてもいいくらいに今日という一日を達成してしまう。これは勝手な偏見かもしれないけれど、ふたりはいい意味に左右対称というか左右非対称で、たぶん、おたがいに自覚していない長所をそれぞれに強く持ち合っている(コントラの感想もきれいさっぱり真逆だったし)。だから、ふたりが一緒にいると最強(最狂?)という感じがするし、ふたりはほんとうにいい友であると思う。
湘南新宿ラインのボックス席、昨日セブンでNに教えてもらったアンダー・ザ・シーをTも知っているかどうか5月8日のピアノの録音をTにも聴いてもらう。録音の日付を見ながら2カ月以上も気になり続けていたんだなぁと思う。電車で音が聴こえ辛いこともあってか、Tはまったくわからない模様。Nにも聴いてもらうと、すぐに昨日のあれねっとなる。Nとふたりでメロディを口ずさんでTに聴かせる。そんなこんなでディズニーやジブリのはなしになる。すでに何回も観ている映画にコメントを付けたり、ツッコミを入れながら観るやつやりたいなぁと思う。窓の外は積乱雲がものすごい。移動の時間が大好きだなぁとあらためて思う。どこかに行くっていう目的も目的でいいけれど、それに伴う移動の時間は目的に付随する二義的なものではなくて、むしろ、移動の時間のなかにこそ目的の限定的な立場からはみ出してそれを包摂するような自由な豊かさがあるような気がする。究極的には行って帰ってくるだけで充分なのかもしれない。
京急線に乗り換える。新幹線スタイルの座席、しかも、先頭車両の一番前の座席がロマンスカーのような展望座席になっている。生憎、展望座席は埋まっていて、後方の席に三人横並びで座る。トンネルの多い路線、トンネルの影のアーチが見えてきて、列車がトンネルの外に走り出て車内がそぞろ明るくなるたびに『恋恋風塵』の冒頭のショットを思い出す。Nは席を離れて、展望座席の後ろから展望窓の風景を覗いている。Tが今日のNちゃんの後ろ姿って小学生の遠足みたいだよね~って。前々からNが何かに似ていると思い続けてきて、ついにこの謎が解けた、トトロだってことを打ち明ける。展望座席が空いたから、そっちに移動する。窓の外は積乱雲がものすごい。線路の周りは緑にあふれ、山間の町並みは茶畑のように段々に家々が連なっている。遠くのほうに海が見えてきそうで、なかなか見えない。停車駅のひとつで、Tがその町並みを眺めながら、すごーい外国に来たみたいって。それは言い過ぎかってすぐに撤回する。大笑いしながら、まあ、イオンあるからねって。ついに車窓から海の濃いブルーが見えて三人とも大はしゃぎ。
三崎口駅に到着。電車から降りると、線路の途切れる終着地がある。バスで水族館に行く。終着点の水族館の名前のバス停で下車すると、空き地みたいなところにマリモをでかくしたみたいな変な植物たちが疎らに群れをなしている。なにこれかわいいと三人とも大興奮。植物が生えているというより、植物のような動物がジッと立ち止まって群れをなしているというほうがピンとくる。もののけ姫のこだまみたいな感じでジッとこちらの様子を窺っている。基本的には疎らに群れをなしていながら、三体がぴったりくっついて仲良し三人組みたいになっているのもいる。マリモのなかからエノコログサが飛び出ている。Tが夜になったらきっとここには誰もいないよ、みんな森に帰っちゃうんだ、みたいのことを言う。大笑いしながら、ほんとうにそんなふうに思われる。水族館のバス停のはずなのに、水族館はまだ先にあって、しかも、けっこうな距離がある。なんで水族館の前まで行ってくれないのって何度もブーたれる。入園してすぐ、���っかいアシカが眠っている。アシカってこんなにでかいんだってびっくりする。Nはアシカにも似ているような気がする。なんだろう、ヒゲの雰囲気がそう感じさせるのかな。まずは、当水族館の押しであるらしいカワウソの森に行く。想像とだいぶ違っていて、カワウソも一匹しか見られず、ちょっとショックを受ける。自然公園みたいなところに野生のヘビに注意の看板が出ていて、さっそくハンターことTの心が燃え上がっている。ヘビ捕まえていいの?! って言うから、野生のヘビならいいんじゃないって。水族館の屋内に入る。入口のところにサメの口の骨のとげとげしい模型があって、すぐ近くまできて、その大きさにびっくりして思わず仰け反るような姿勢になると、Nになんで~って突っ込まれる、ずっと見えてたのにって。いや、近くまできたら思ったよりでかいのにびっくりしてって弁明する。館内に入るなり、いきなりでっかいチョウザメがいて目が点になる。数体の古代魚が水槽のなかでゆらゆらと身を踊らせている。それから個々の小さな水槽を順番に見てまわる。大勢の魚がスクランブル交差点のように錯綜と泳ぎまわっている水槽で、TかNのどっちだったかが全ての魚たちが誰ひとりとしてぶつかることなく泳ぎまわっていることに感心している。チンアナゴがエイリアンみたいな動きでおもしろい。二階に上る。二階は円形の壁沿いにぐるっと大きな水槽が張り巡らされていて、魚たちが回遊できるようになっている。水槽の上からは太陽の光が注いでいて、フロアのあっちこちに光や虹のきらめきが踊っている。サメが特に目を引く。凶悪そうなギザギザの口に、何よりも眼球がひっくり返ったような冷徹な目。鼻に瘤のようなものを付けているサメがいて、あれは何だろうとしばらく後を追ってみるも、よくわからない。ノコギリザメがいて、ふたりにも声をかける。ノコギリザメはけっこうかわいい感じ。見にいくとノコギリザメは泳ぐのやめて、ジッとこちらの様子を眺めている。その瞳の動きで三人を順番に見渡しているのがわかる。ノコギリザメから離れると、ノコギリザメのほうも泳ぐのを再開させる。一階に戻ると、シマ吉くんの催しが行なわれている。魚も芸を覚えることにびっくり仰天。シマ吉くんかわいい。館内を出て、キムタクみたいなペンギンを見に行く。からだを唐突にブルブルッと震わせたり、羽を暢気にひよひよさせたり、ペンギンの動きには変なメリハリがあって見応えがある。そしたら、一羽だけ気ちがいのようにからだを意味不明にくねらせながら泳いでいるペンギンがいる。意味不明に水飛沫を立てるその一羽に三人とも釘付けになる。Nが私もこんなふうに動いてみたいけど人間だからなぁ、みたいなことを残念そうに口にする。でも、Nはたまにいきなり唐突に、衝動的に常軌を逸したような動きを見せるよなぁと思う。件のことで警察署に行くまえ、小川のところで連絡待ちしているときに、いきなりNがわあああっと手に持っていた葉っぱを小川に投げつけたのはほんとうに美しかった。いったん駅に戻って、三戸浜を目指すことにする。なんでバスは水族館の前まで来てくれないんだって相変わらずブーたれながら歩いていると、車がきて道を開ける。車が過ぎて、遠いバス停に向けて再発進しようとすると、Nがいきなり手に持っていたエノコログサをわああっと振り乱しながら急接近してきて、うわわわっと腰を抜かしそうになる。なんで、なんで、いきなりそんなことするの?! Nは悪い笑みを浮かべ、だってKさん、とここでいったん絶妙な間を置き、素直にそのことを言うべきか言わないべきか迷っているような、あえて間を置くことでそのことを強調するような感じで、ビビりなんだも~ん! って。この野郎、ひとをバカにしやがって、いつかぜったい仕返ししてやるからなって心に強く思いつつ、ほんとうに最高だなって思う。ビビりなんだも~ん! いままでNからもらった言葉でいちばん嬉しいかもしれない。
バスで駅に戻り、三戸浜を目指す。収穫が済んで畑にきれいに整列しつつも朽ち果てている植物たちの残骸をTが戦時中の死体のようだと形容する。あるいは向日葵の蛍光色の質感、夜になったら光り出しそう。子猫の亡骸。急に夏の終わりが顕在化する。いまが夏でよかったと思う、すぐに骨に還ってしまうから。Nが持ち歩いていたエノコログサを子猫に捧げる。持ち歩いていて、よかったなぁと心の底から思う。ねこじゃらしはそこらへんにも普通に生えていて、すぐにでも摘んでこられるけども、これは人間側のエゴかもしれないけれど、大事に持っていたそれを捧げるというのはせめてもの救いになる。意気消沈しながらも海への歩みは止まらない。海への入口の畦道を通り抜けると、大きな海が広がっている。夕陽を受けた波のまにまが橙色の光のすじを浮かべている。三人とも大はしゃぎで海のほうに駆けてゆく。サンダルのNが早速パンツの裾をたくし上げて海のなかに入っていく。勢いのある波を受けたNがこっちへ振り返って驚きと喜びの入り混じったようなとってもいい笑顔をみせる。さらにずいずい海のほうに身を入れてゆく。Nのからだが踊っている。このあいだと同じくらいの時間なのに波の寄せ方がぜんぜん違っている、浜のかなり深いところまで波が来ていて、くつで歩ける場所がほとんどない。そればかりではなく、このあいだは空の高いところにずっと見えていた月がどこにも見当たらない、昨日の感じからして今日はおそらく満月だろうと思われるけれど。じぶんもスニーカーと靴下を脱いで波打ち際を歩く。波はけっこうな勢いで、裸足だからと油断していると下半身がびしょ濡れになってしまう。びしょ濡れになって色々諦めたらしいTがサンダルを脱いで裸足になる。Nも裸足のほうが気持ち良さそうとサンダルを脱ぐ。まずは廃墟を目指す。でっかい丸太が波打ち際に落ちている。海のほうに蹴ってみるものの、重すぎてぜんぜん動いてくれない。それだというのに、ひとたび波が丸太に届くと、波はいとも簡単に丸太をさらって、さらに次の波が丸太を波打ち際に叩きつける。あっぶな! と三人で丸太をよける。Tが海の殺意を感じるよーとはしゃいでいる。波打ち際をずいずい歩いていると、後ろのふたりから何これすごーい! 魔法使いみたいって歓喜の声があがる。何かと思えば、じぶんの足が濡れた砂浜に触れるたびに、フワッと空気の膨らみのようなのがあたりに拡がっている。まさに魔法使いが歩いているかのよう、もののけ姫のシシ神様の歩き方みたいってはなしにもなる。波の勢いにかなり苦戦しながらも廃墟が近づいてくる。廃墟の辺りを境に砂浜が岩場に変わっていて、岩にぶつかった波が壮絶な潮砕けとなって舞い上がっている、絶句して、ゴクンと唾を飲み込む。廃墟に到達。Tからもらったウエットティッシュで足の砂を落として靴下とスニーカーを履き直す。いざ、廃墟に潜入! 底の抜けた階段の脇をロッククライミングのように慎重によじ登る。続いてTも。続くNが半ばの空中で動けなくなってしまい、あわわ、あわわ、この次どこに足をもっていったらいいのー?! って。どうにかこうにか登りきる。廃墟にもかかわらず落書きなんかがいっさいない、純然たる野生の廃墟。下から見る限り、底が抜けそうな感じがしたけれど、踏んでみるかぎり最初のフロアは問題なさそう。ところが、その先に伸びている廊下は底抜けしそうというより、すでに床の木肌がひび割れて底が見えている。あっぶな! と咄嗟に引き下がって、そばに来ていたTにも注意を促す。ここで行きにも少し話題になった(そんなことはすっかり忘れていた)Nの「ばけたん」なるお化け探知機がついに初お目見えになる。「ばけたん」が赤く光れば悪霊がいる、青く光れば天使がいる、緑に光れば平常でとくに何もない。どう考えても赤く光りそうなシチュエーションでありながら、どういうわけか青く光る。底抜けの大丈夫そうな場所をひと通り探索して外にもどる。出るときもNは半ばの空中で動けなくなってしまい、あわわ、あわわ、どうにかこうにか地面に帰ってくることができる。続いて洞窟。入り口の岩場にはでっかいフナムシが無数に蠢いている。ふたりから虫がだめなのに、なんでフナムシは平気なのって不思議がられる。セミが夏の天使なように、フナムシは海の天使だからって思っていることを素直に応えながら、でも、だとしても何で平気なんだろうって不思議に思う。ひとりでは怖すぎて一歩しか中に入れなかった洞窟も三人いれば心強い。スマホのライトで先を照らしながら、ちょっとずつ、ちょっとずつ、中のほうに入ってゆく。洞窟の側面にも天井にも隙間なく無数のフナムシが蠢いている。Nがここでも「ばけたん」を発動させてみる、結果は緑の光。洞窟は大広間の先に細い小路が続いている。その入口まで行って引き返そうとすると、Tがこの先まで行ってみようよって。もう無理、もう無理、これ以上は無理って断ると、さすが度胸のあるTはひとりで小路に入ってゆく。小路の突き当たりまで行ってもどってくる。小路の突き当たりはさらに左右に枝分かれしているらしい。
夕陽は海上の雲にのまれ、空は暗くなりつつある。岩場をさらに進んでゆくと、一人キャンパーが三組だったか四組、おたがいに微妙に距離を取りながら座っている。焚火のいい匂いがする。岩場にはフナムシなかにカニもたくさんいる。そんな岩場の一角にどんなカニとも比べものにならないでっかいカニをTが発見、すぐさまハンターの心が燃え上がり、捕獲に向かう。カニの捕まえ方なんて知らないよ~(だったらヘビの捕まえ方は知っていたのか……)と弱音を吐きながらも果敢にカニに立ち向かってゆく。数分の格闘のすえ、見事にカニを捕獲、持っていたビニール袋に入れる。Nはその場に腰掛け、じぶんは岩場の先端のほうまで行き、Tはその中間くらいから三者三様に暮れてゆく空と海を眺める。岩にぶつかる波の潮砕けがもの凄い。しばらく経って、Nのいる地点まで戻ろうとすると、Nが大きく手を振る、大きく手を振り返す。ふたたび三人が集まると、Nが家が恋しくなっちゃうって泣きそうな声で言う。たしかにそうなのだ。こんな最果ての辺境で、しかも、もうすぐ夜が来ようとしている。どうして、じぶんはいつもこんなところにわざわざひとりで赴いているのかってことをこのとき初めて考える。それからNがいい写真撮れたよって、ふたりがそれぞれに海を眺めている写真を見せてくれる。そろそろ帰ろうか、来た道を引き返すことにする。廃墟の辺りで海を離れて、上の道路を歩くことにする。Nだけ足の砂を落としていなくてどこかで洗いたい、いちどは海に下りていこうとするけれど、あいだには砂浜があるから海で洗ってもまた砂だらけになってしまう。きっと、そこらへんに水道があるでしょってことになり、そのまま上の道路を歩いてゆく。しばらくすると、マリンスポーツの拠点みたいな施設がある。水道はありそうでなくて、人間はじぶんたちを除いて人っ子ひとりいない。そんな施設のさなかに芝生のお庭がある。芝生のお庭になら水道あるでしょって探すけど、水道はどこにもない代わりに芝生の隣に敷居に囲われたプールがある。その敷居は簡単に跨いでいける感じで、だあれもいないし、あのプールで洗っちゃえば。Tが敷居を跨ぐまでもなく普通に入口を発見して、勝手に入口の鍵みたいのを開けて中に入っている。足を洗ったNがプールの水すごいきれいだったって戻ってくる。ふふ。とうに日は暮れて、暗い夜の山道を駅に向かって引き返す。Nが暗いよぉ、怖いよぉと頻りに泣きそうな声で連呼する。そんなつもりじゃなかったけども、仕返しを無事に達成。Nのスマホのライトでできるでっかい影。とりわけ樹々の左右から覆い被さる真っ暗な坂道、ここで「ばけたん」をやってみようになるけれど、Nのかばんから「ばけたん」が消失してしまう。どこかに落としてきちゃったかなぁ。自動車のヘッドライトからほとばしる影に驚いたりしながら、街灯のある明るいところに移動して「ばけたん」の捜索。かばんを隈なくひっくり返しても見つからず、「ばけたん」の性能には半信半疑ながら三千えんのお買い物がたったの二日で消失してしまうのにはさすがに気の毒な感じがして、色んな可能性を示唆していると、かばんのポケットのひとつから「ばけたん」が発見される。よかったぁ。その場で「ばけたん」を発動させると緑色に光る。山道を経て、畑道のところまで来ると、びっくりするぐらい赤い光線を発する怪しい満月が空のかなり低いところにのぼっている。Tがどこかのタイミングで(たぶん廃墟だったかな)口走った『夕闇通り探検隊』の一言が胸に突き刺さる。月のなかを鉄塔の陰翳が横切る。
帰りの電車でも頻りに「ばけたん」のはなしになる。乗換駅でも発動させてみる。緑色。廃墟でいちどだけ出た青以外はぜんぶが平常の緑色を示す。Nから、こんな胡散臭い商品なのに何故か高評価のアマゾンのレビューを見せてもらう。それでもまだ胡散臭さは拭えなくて、いっぽうで廃墟のときだけ色が変わったことがどうも引っかかっている。帰り際になってNがぽろっと口にした「乱数の偏り」という言葉にアンテナがビビッと反応して、これはきっと何があるぞと思う。帰ったらじっくり調べてみようと心に決める。
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【写真:米島虎太朗君撮影】
2020/09/21
『君よ、恐れることなかれ』
少々長い文章、許してね。ある知り合いの青年に対して書いたものです。よかったら、読んでみてください。 『君よ、恐れることなかれ』
秋の気配も感じられる今日このごろ、永い永いコロナ禍の中、僕らの中に必要以上に何者かに恐れる感情が増幅されているような気がします。
他者の評価が怖い。どう見られているのかが怖い。失敗したくない。完璧でいたい。間違いをなくしたい。常に不安なので、何事も消極的にしかできない。顔色を伺う。空気を読むというより、むしろ先回りして忖度する。冒険しない。傷つかないための努力をおしまない。見て見ぬふりをする。同調圧力というより、むしろ自ら進んで同調していく。SNS等での匿名の顔なし発言では、誰よりも威勢がいい。内容よりも見かけが大事。努力より要領が大事。プロセスより結果が大事。人を騙すより騙される方が怖い。だから、間違いたくない。失敗したくない。
こうした心理的循環(Circulation)は、現在日本のみならず世界で蔓延している類似状況のような気がしますが、特にこの国では、「不安」→「消極性」への繰り返す循環が顕著のようです。その背景に、日本特有の「隣組」的な同調圧力が今もなお根強く存在することが、昨今のコロナ禍でも明白です。
よく言われることですが、現代日本の原型は明治の開国時にあります。
江戸と現代はどうも一直線には繋がっていないようです。それは明治の開国期が、日本に対する欧米列強による植民地支配の第一回目に対応していることから明らかでしょう。欧米の価値観の流入により大幅に外面的な様子と価値観の細部が影響を受け変化したわけです。そして1945年の敗戦時に米国による更なる植民地化によってこの傾向が進みます。これが二回目の植民地化です。
この辺りから、日本人は極端に、もしくは、必要以上に「失敗を恐れる」ようになり、「他者に同調する」傾向が強まったのではないかと推測します。というのも、江戸期の日本人はもっとばらばらで、いい加減で、適当だったことが、例えば歌舞伎の歴史的な推移からも見て取れます。歌舞伎の主要な観客であった町人たちはいい加減に歌舞伎を楽しんでいたので、江戸期の歌舞伎は町人の楽しみだったわけですが、明治以降、劇場が枡席から椅子席へ変わり、プロセニアムという額縁舞台になり、まるでクラシックのコンサートのように静かに鑑賞するものに変わりました。ここでは適当もいい加減も大騒ぎも許されません。まさに他者との関係により同調的になり、忖度するものが正しい世界に様変わりしたというわけです。しーんと静まり返った劇場の原点は不思議なことにこの開国期から現在に至っているのだと思われます。すなわち、「同調圧力」(周りに合わせ失敗を許さぬ雰囲気)の始まりは欧米化に対する「過剰適応」の結果だったのではないかと推察します。現在現実の欧米の劇場はそんなことはないのね。故に過剰適応だと思う。
日本の学校教育はまさにこの「同調圧力」の路線に乗っかって行われています。
僕らの頃(昭和期)も、今もなお、教師たちは心を込めて「失敗のないよう」に指導したがります。生徒に失敗しないように指導することが正しいらしい。したがって、生徒から見れば、失敗したり間違うことは「良くないこと」なので、極力それを避けようとします。その結果、顔色をうかがうようになり、声は小さくなり、目を合わせず、言い直すことを極端に嫌がり、間違うよりも無解答を選ぶようになります。
同調圧力というのは様々な形を伴いますが、間違わないように、あらゆることを消極的に行うという姿勢もまた、ひとつの同調圧力の結果ではないでしょうか。
教師は生徒に失敗しないように指導する。生徒は失敗したり間違えたりすると叱られるので声を控え、冒険はしなくなり、常に周囲の目や評価を恐れるようになる。これは生徒のみならず教師も同じではありませんか?そして、日本社会全体がこの傾向に陥ってはいませんか?常にあらゆることが「消極的」に進んでいくこの傾向に。
ニヤニヤ笑いながら要領の良い人間が尊ばれ、要領が悪く時間のかかる人間は顧みられない社会。
これは大きく間違っている。
「失敗や間違いが許されない」ということが間違っている。
「大多数に所属していれば安心」という態度が間違っている。
いい歳をして青臭いと思われる向きもあるかもしれませんが、僕には最近の目に余るこうした間違いを許さない風潮がどうにも我慢がなりません。
間違いや失敗はない方がいいに決まっていますが、間違いや失敗がなければ僕らは何も学べません。試行錯誤以外に学ぶ手段はないのですから。
しかし、間違いや失敗を恐れる気持ちが固定化すると、試行錯誤が不可能になり、全てにおいて消極的になり、思考力も衰え、判断力は減退し、簡単に被支配層に転落します。
その意味で、まさに現代の「恐れる傾向」は新自由主義的経済帝国主義には欠かせない支配ツールになっているのでないかと僕は思っています。ここにきて明治開国以降の世界的経済支配が完成しようとしているわけですが、その中でもう一度試行錯誤する勇気を認識し獲得することは、本当に重要な意味があると考えます。
現在、新しい政権が、そのスローガンの冒頭に「自助」を掲げています。
それは、数十年ほど前から顕著になった「自己責任」の謂であります。自己責任はとても大切な考え方ではありますが、これもまたとても支配層には都合の良い言葉になっています。この言葉もまた「恐れる気持ち」を強めています。すなわち、この世のすべてが自己責任なのだから、失敗や間違いは絶対に許されない、と暗に教育しているわけです。恐れる気持ちは創り出されているのです。創造された恐れに僕らはひたすら怯えているのが現状なのではないでしょうか。
コロナもテロも自然災害も、まったく支配層に都合の良い目に見えない恐怖を僕らにもたらしています。目に見えないわけですから、ひたすら恐れて、あらゆることがに対して消極的にならざるを得ません。
2001年のテロの恐怖、2011年の地震と津波の恐怖、2020年のコロナのウィルスの恐怖、このところほぼ十年ごとに偶然のように繰り返される目に見えない恐怖によって、人々は世界中で恐れることが日常してしまっているようです。
確かに、こうした恐怖の源は世界のいたる所にあり、恐れずにはいられません。ですが、「恐れること」や「怖がる態度」だけでは決して防御の姿勢とは言えないのではないでしょうか。
むしろ、本質的恐怖と向き合うために、TRIAL & ERROR(試行錯誤)を繰り返し正しく間違い、正しく失敗し、正しく分析を重ねる方が意味があるのだと思います。
失敗や間違いを恐れるあまり、そして自己責任を回避しようとするあまり、更に他人からの評価を下げたくないあまり、目の前の問題を本質的に分析することさえできなくなっている、というのが現状のような気がします。
そして、現在コロナがその消極性を更に後押ししてるというところではないでしょうか。罹患者を悪戯に責めたり、マスク警察の行動や、有名人に対する攻撃を面白がるという風潮は、激しさを増しているのではないかな。それもすべては訳もなく怖いから。
それ故に、はっきりしているのは、無闇矢鱈に恐れないこと。失敗や間違いを気にして消極的になり過ぎないこと。むしろ、失敗や間違いを体験することの方が価値あるプロセスであることに気が付きたい。
人の目を意識するあまりに攻撃的なるのはやめたい。むしろ自らの痛みから想像力を育むことで災厄から最終的に身を守ることになるのではないかな。
まず完璧主義をやめる。
失敗と間違いを楽しむ。
自己責任を人に押し付けない。
不安を他人に向けた攻撃に転化させない。
これまで受けてきた教育の内容と常識をもう一度疑うこと。
僕たちはこの百年以上もの間に、見事なぐらい、絶えず怯えた消極的で無責任な他動的な状態を恒常的にしてきたのだと思うな。
この世には、あたり前のことだが、誰一人完璧な人間もいないし、だからといって不完全に開き直る必要もないが、堂々と失敗し間違い、それを意味あるものとして経て、自己の体験を積んでいけたなら、現在のような萎縮し、いじけた世界を乗り越えられるのではないかな。理想論かもしれないが、まずは「試行錯誤」を日々の基本に据えたいと僕は思います。
間違ってこそ人生。失敗してこそ人生。
だから、君よ、恐れることなかれ!明日は明日の風がふくからさ。
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G 7/28
怒涛の更新、ノリに乗っています。これ、時系列でやっているけれどページになると遡る感じになってしまうのが申し訳ない。
朝、鳥の鳴き声が聞こえて起床。ホテルだとなかなか寝付けないのに、友達の家のベッドならいくらでも寝れる不思議。
この日の朝は黙ってパンにバターを塗りたくる。
雑にものをおいて並べただけの食卓が何故美しいのだろう。

ビーツのペーストを塗ってみると、思わぬビーツの匂いの強さに衝撃。こんなに香るものだっけか!

自転車に乗り、公園を通って川を渡り、ポツダムの中心部へ。木陰に包まれたワイドな道を駆け抜ける。途中、お祈り中の教会へ入って挨拶。
ポツダムにも、ベルリンと同じくブランデブルク門と呼ばれる門が存在します。大きさは違いますが、これまた立派で、下を通るのがなんだか恐れ入る感じ。その向かいの道路にて、お馬様のお通り。タ、タイムスリップしたのか。
門の近くの路地を行くと、公園への門が出てきます。みんな、人が二人分通れるくらいに開いた門から譲り合って出入りしていて、自転車はそのまま入っていく人が多い中、そんな狭い道は速度落としても通れない私・わざわざ降りる・それでも自転車が門にぶつかる・恥ずかしかった。
木々に囲まれた一本道、抜けた先に見えるのはサンスーシ宮殿。庭園自体��素晴らしい、その奥にそびえ立っているので、漕ぐスピードは自然に速くなります。噴水の前までつくと、自転車は置いて歩きでの散策です。



蔓で覆われた階段、と思いきや。

全てがこのように、窓や扉を彷彿とさせる作りになっています。階段状の温室と言われています。フリードリヒ大王の夏の離宮、それがこの宮殿。こじんまりしていると思いきや、夏の離宮、という言葉がまさにぴったりな場所。


宮殿の裏にある空間。中に入らずとも、周りをゆっくり一周して見学できます。ここでも歴史の先生が隣にいました。なんでそんなに物知りなんだ、と思いましたが、自分の国の歴史について胸を張って語れることはとても尊敬してしまう。
また自転車に乗って、すぐ脇道の緑道なるところを通る。公園のようなのに、誰かの広大な別荘に迷い込んでしまったかのような感覚。ちょくちょく建物がある。私の大好きな Lykee Li のI Follow riversを鼻歌していたら自然とハモってくれて、何とも爽やかで幸せなサイクリング。アヌシー湖でのサイクリングといい、人生でも指折りで、生きてるって幸せだな、と感じた瞬間。漕いでる間は写真が撮れないのが残念だけれど、あの美しい風景は私の目に焼き付けました。今も思い出す度に鮮明な、煌めいた緑が見えます。

そのままサイクリングで向かった先は、近くの大学。とても敷地が広い。こんなにクラシカルな建物で学びが受けれる環境、憧れがますます強くなる。
家に帰る前に、近くの湖でスイミング。丁度汗が滴ってきたので、一刻も早く冷たい水の中に入りたい。湖の周りの芝生に各々タオルを敷いて、手荷物やら自転車やたスクーターは放ったまま、湖までまっしぐら。草むらを進むとこじんまりと、それでも綺麗な水が目の前に広がる。何度も同じことを言うけれど、私は泳げないので、浅瀬でひたすら水遊び。ちょっと泳いで来るね、とAdrianが向こう岸までスルスルと泳ぐ間、お一人様で犬泳ぎや水中潜りで夏を堪能していました。湖の真ん中に行くにつれ、次第に足元がぬめぬめしてきて不思議に思うと、水面から大量の海藻が見える。ゆるりと海藻が水中で揺れて、しばらく立ったまま足裏の感覚を楽しむ。すると戻ってきたAdrianが、ちょっと顔!!といってくる。メイクしていたことをすっかり忘れていて、どうやらマスカラが大胆に落ちていたらしい。二人で爆笑しながら水でゴシゴシ拭くも広がるだけのようで、ヤケになりながら水中に潜りました。芝生に戻ったら、広がりすぎてタレ目みたいに、黒いチークをつけてるかのような顔面、こりゃ恥ずかしい。子供も寄ってこないわ。

水着を乾かしがてら自転車を飛ばし、お昼ごろに帰宅。この日のランチは、南ドイツの名物料理、シュペッツレを作ります。超濃いチーズと、炒めたオニオン、味付けは塩と胡椒、粉から自分たちで作った麺と絡めて完成。流石ヨーロッパ、戸棚からパスタを作る道具が出て来る出て来る。パスタの大きさは一口大くらいでちぢれているような形。自分で作ったというのもあるけれど、これがすっっごく美味しかった。こってりしすぎてるのではと不安だったものの、チーズ本来の美味しさと、オニオンがポイントで凄くマッチして感動的な美味しさ!テラスで音楽を流しながら至福のひととき。

午後は、初日に断念したCMBYNの鑑賞会にチャレンジしよう!と思っていたのですが、リビングのBlu-ray対応テレビでも、日本のDVDだからなのか再生できず意気消沈。スイカと大量の焼き菓子で機嫌を取り直しました。時間が経つと眠くなってしまい、夕方まで目を閉じる。
夕飯、何食べたかまたすっかり忘れてしまった。写真もない。え、食べたんかな。
夜になってまた部屋で爆音ダンスを繰り広げていたところ、Adrianの親友ちゃんが家に来る!と言うことで、3人でテラスでお茶会。ドイツの印象として、英語が堪能な人が多い気がする。少なくともコミュニケーションが容易くとれて嬉しい。また時間が過ぎると、大抵夜にいつも集まっている公園で、友達たちが呼んでいるらしい。せっかくだからみんなに会って!ということで、これは夢に見た海外の仲間内でわいわいする系パーティーに私も参加...?と心の中で焦り出す。急いでパーカーに着替えて、近くのパーティーパーク(みんな知り合いが集まりすぎてそう呼び始めたらしい)まで自転車で走る。ところがどっこい、本当に運のない私、乗っていた自転車が途中でパンク。キューキューと言いながらタイヤが回らなくなりました。急遽そのへんの木にロックして、後ろに乗らせてもらう。夜の住宅街でオレンジ色の街灯だけに照らされた中、ドイツ語講座をしてもらう。あまりに楽しい。
公園に着くと、森の中のような道をずんずん進み、湖のそばの広場に到着。確かに何グループかの話し声と、いろんなジャンルの音楽が聞こえる。合流した先には4人ほどのガールズがいて、暗闇の中、はじましての挨拶。みんな年下だったけど恐らく私が一番年下に見られていた。今日人少なくない!?と驚く二人。いつもはもっとはちゃめちゃなんだよ〜見て欲しかった!と残念がられる。いや見たかったーーーー!!!!!
携帯のライトだけなのに課題をやってる子がいたり、誰に向けてかはわからないが永遠に喋っている子がいたり、とても自由。Kokoがいるからみんな今日は英語ね、とAdrianの親友ちゃんが声をかけてくれるとみんな瞬時に英語で話しかけてくれる。なんて優しくも賢い子達なんだと終始感動していました。やっぱりこういう時に話す話題は、日本とドイツの文化の違いについて。ドイツではこうなのに!えー、日本ではこんなんだよ、と色んな発見がある。近くにいた別グループの子たちとも知り合いなのか、気付いたら十数人で円になっていた。これが私の最近のお気に入りなんだ、と友達の一人がSpotifyからランダムで曲を流す。聞こえてきたのがテクノだったので、この前一緒にやったじゃん!と腕を引っ張られて突然のテクノダンス発表会。日は落ちてるし!!と覚えていた限りで踊ると、Woahの声がたくさん聞こえてまたも照れ臭い。みんな盛り上がってきた頃、湖行って来るわ!!!と何人かの人影が湖へ走って行った。その頃私はというと、昼間の疲れからなかなかの眠気に襲われていて、結局日付が変わる前くらいに離脱。もう会えないの!と驚かれけれど、最後はみんなとハグをしてお別れ。たった数時間前の出会いなのに、心がぽかぽか温かい。
お家に帰って、また軽く紅茶を飲んでから就寝。夢は見たのかなあ。
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写真作家 木原結花 故人との対話<前編>
行旅死亡人という身元不明の遺体を表す呼称がある。この情報を基にその故人の仮のイメージを作成する写真作家 木原結花。彼女が作り上げる人物の仮構と故人のオリジナリティの側面との葛藤をBesideは取材した。前編では彼女��作品の概略や意図などを、後半では今後の作品の方向性や故人のオリジナリティと自身の想像との葛藤などを掲載する。
アイデンティティを見出されない故人達
-行旅死亡人とは?
行旅死亡人とは、氏名や戸籍等が判明しない身元不明の遺体を指す言葉であ る。遺体の情報は、官報や新聞、警察のホームページなどで発見された際の特徴を 文字によって 記されている。それは推定年齢、身長、性別、服装などわずか数行の情報のみである。
最初の作品である「行旅死亡人」は木原結花自身が、故人の文字情報を基にその人物の姿を想像し、実際に遺体が発見された場所に赴きその場の風景を撮影。事前に作成した架空の人物像と風景を合成した作品である。
-一作目の「行旅死亡人」の作品の意図は?
「私は、アイデンティティを見出されないまま事務的な作業で処理される人物にアイデンティティを求め、ある種それを与える作業を行いました。でもそれは同時に本物 のアイデンティティを隠してしまうことになるとも思っています。 この出来上がったイメージはいったい何なのかを考えて見た時に、それは虚構なのか、事実 なのか。もしくはそのどちらでもあるのか、ないのか。あやふやで掴みきれないそのあり方 は、まさに行旅死亡人のような気がしています。」
-作品を制作する事になったきっかけは?
「私がこの作品を制作するようになったきっかけは、当時小学生だった頃の夏休みでの出来事。近所の公園で遊んでいると、ホームレスのおじさんがやっ てきました。そのおじさんはベンチに座り、おもむろに豆腐を食べ始めました。当時の私は、ホームレスという存在を知らなくて、空き缶や大量の物を積んだ自転車を押しながら、真夏の昼間の公園で豆腐を食べ始めたおじさんに好奇心を抱いたんです。」
「私はおじさんに色々な事を話しかけました。おじさんは嫌がるそぶりを見せずに話を聞いてくれた事をよく覚えています。その後もおじさんは時々公園に来ては豆腐を食べ、私の遊び相手になってくれました。でも夏休みが終わった頃から、そのおじさんを全く見かけなくなりました。私自身も自然とおじさんの存在を忘れていました。」
「大学三回生の時に、ゼミの先生から細江文昌氏の「アノニマスケイプこんにちは二 十世紀」という写真集を見せて頂いたんです。この写真集は、行旅死亡人の記事と風景写 真を合わせた作品で、私はこの作品を見て行旅死亡人という言葉を知りました。行旅死亡人になる人はホームレスの方が多いという事を知り、私は小学生の時に出会ったおじさんの事を思い出したんです。ただ、そのおじさんは日焼けした浅黒い肌でメガネをかけていたという事は覚えているのですが、はっきりとしたおじさんの姿は思い出せませんでした。」
「その時私は、おじさんはもしかして行旅死亡人になったのではないかと考えました。おじさんは確かに私の目の前に存在していました。そのおじさんのように、たくさんの行旅死亡人の方々も誰かの目の前にいて、話をして、存在していたはずです。私は「行旅死亡人」と一括りにされてしまった人たちを一人ひとり掬い上げたいと思いました。彼らの存在を証明したいと思い、「行旅死亡人」という作品を制作しました。
-この作品での重要なポイントは?
「私は故人の遺体が発見された場所に実際に足を運ぶようにしています。行旅死亡人の情報には、発見された場所が記されています(正確な場所が記されている 場合もあれば、○○付近と記されている場合もある)。人物像は想像するしかないですが、発見された場所には実際に行くことができます。発見場所に赴くと非常に不思議 な感覚になります。何の変哲も無い住宅街であったり、とても不気味な海辺であ ったりと場所の雰囲気は様々です。共通して感じるのは、ここで人が亡くなった というのがとても信じられないと思ってしまうことです。」
「私が今立っているこの場所に、過去に人の亡骸があったなんて。特に私は、その場所の太陽光や風の強さ、匂いを感じるように意識しています。 彼らが亡くなる前の薄れていく意識の中で感じたであろう太陽の日差しや風の強さ、匂いというのは、今私が感じ取ったものと全く同じとは言えないと思います。それでも大切な彼らの人生の一部として受け取りたいと私は思っています。 」
-この作品を通して鑑賞者に伝えたい事はなんですか?
「人は二度死ぬ。一度めは肉体の死。二度目はその方を覚えている人が一人もいなくなった時」という言葉をよく耳にすると思います。行旅死亡人の存在を知った時、私はこの言葉が思い浮かんできました。 写真に写っている人が死んでしまい、完全に忘れ去られたとします。でも写真がどこかに残っていると、その写真を見た人がそこに写っている人物がどんな人か想像すると思います。それは2度目の死から死者を1度目の死まで蘇生しようとしているのではないかと私は考えます。 私は、行旅死亡人の文字情報からどんな人物かを想像し、ポートレートを 作成することで蘇生を試みているのです。
「もしいつか、この作り上げた虚構が行旅死亡人の文字情報から作り上げたという 文脈を失い、ポートレートだけが残ったとします。その時、これを見た人が新たに想像し、新たな文脈を作り、死者蘇生を試みて欲しいと私は思っています。果たしてその時、この写真からはいったい新たに何が生まれるのだろうか。 それぞれが考えて欲しいと思っています。」
仮構による故人との対話
-二作目「日焼けと祈り」
二作目となる「日焼けと祈り」は、サイアノタイプと呼ばれる太陽写真を用いて制作された作品である。 実際に行旅死亡人が発見された現場に赴き、行旅死亡人の文字情報からフォトモン タージュによって作成した人物像の等身大ネガフィルムを感光材の塗った画用紙に重ね、現場の太陽光で感光させる。 さらにその場で水洗現像し、乾燥も行う。現場が日陰であれば感光せず白抜けし、 風が吹いていると画用紙は、風に煽られ皺ができ、さらに強風の場合は原型が判らない程に破れてしまう。 破れた画用紙を拾っていると、まるで散り散りとなった骨を拾い集めている様な錯覚を覚える。
-この作品を制作するきっかけや意図は?
「彼らが薄れゆく意識の中で感じたであろう太陽の光や地面の感触、風などを記録で きないかと私は考えました。何故なら、それらの物理的な刺激も彼らの人生を構成する 重要な要素であると思ったからです。でも普通の所謂カメラで撮影される写真では、それらの 物理的な刺激を記録することができないです。そこで私は、レンズを通さずに直接太陽 光で露光できるサイアノタイプの手法を用いて、風の影響を受けやすい画用紙を 支持体に選ぶ事にしました。」
「出来上がったプリントを見てみると、サイアノタイプの特徴である青色の中に、文字情報から紡ぎだした人物像が浮かび上がってきます。その人物像は文字情報から私が勝手に導き出したモンタージュであるため、実際の彼らの姿では決してないです。しかし社会の周縁に消え去った名前も顔も分からない彼らを捉えるためには、私は彼らの姿を仮構するしかないのです。」
「サイアノタイプは日本語では青写真とも言われ、過去には機械図面や建築図面の複写に使用されてきました。現在では複写技術の向上から使用されなくなりましたが、そこから転じて「心に描いている将来の姿」、「未来図」という様な意味として、「青写真」 という言葉は今も使用されています。 そう考えると、青の中で浮かび上がっている彼らの姿は、私の仮構ではあるのですが、もしかすると彼らが輪廻転生した際の未来の姿ではないかと考えてしまいます。 」
「写真は形象を写す装置であるが、私はこの作品で形象を写すのではなく、形象を 作り与えました。形象を与えるためには、写真という装置でなければ与える事ができな いと考えました。」
「薄れゆく意識の中で感じたであろう太陽光が皮膚をヒリヒリと刺激する感覚を彼らはどの ような気持ちで感じていたのか。私は知る事ができません。それもまた理解しようとすると仮構するしかないので、私は大変もどかしく思います。」
後編では、人間のオリジナリティと再構築の関係をテーマに想像とオリジナルの狭間での葛藤を深掘りする。作り上げられた仮構は、故人の延長線上の存在なのか?今後の作品の展開などを質問していく。
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Moment of bliss. European debut concert at the gorgeous Teatro Verdi, Italy on Mother’s Day🇮🇹 Hope you’re proud mama☺️
È stato un momento indimenticabile per me cantare e suonare per la prima volta in Italia nel bellissimo Teatro Verdi a Bussetto🎤🎻🙏
Il mio sogno si è avverato anche grazie ai miei amici musicisti e al supporto da parte degli staff❤️
Sono davvero felice e sorpresa allo stesso tempo che il pubblico abbia cantato con me non solo « Va, pensiero » che è un brano famosissimo in Italia, ma anche un brano giapponese! 🇮🇹🇯🇵
In più, con i brani di Queen e i brani sul violino, hanno tutti iniziato a battere le mani insieme a me dando il ritmo ! 😍
S pero di ritornare in Italia presto! E migliorerò di sicuro anche la lingua italiana! Grazie mille di tutto! 😘
E dato che il giorno del concerto è stato la festa della mamma; buona festa della mamma, mamma! Spero di averti resa orgogliosa! 😬
Ci vediamo il più presto possibile! xxx

今さらですが、サラinイタリアです~(どこかで聞いたような。。)
令和初のコンサートはイタリアにて!イタリアの大作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ出身の地、ミラノ近郊のブッセートにある、19世紀に建てられた馬蹄形の美しいオペラ劇場、その名も「Teatro Verdi(ヴェルディ劇場)」で開催。憧れのヨーロッパでのデビューコンサートとなりました🇮🇹
私は大学でイタリア語を先行して留学は最初イタリアに行くのが夢だったのですが、母の圧力と三島由紀夫の小説で日本へ留学。そんな日本からイタリアに行ける日が来るなんて!夢のようでした。話し言葉のイタリア語は大分忘れたため、必死に移動の飛行機でイタリア語を復習!絶対にMCでは英語では話さない、そう自分の中で決めていました(ドM)。飛行機の中でもう一つ大きなストレスがありました。。。イタリアに出発する前に激痛に襲われ、レギュラーのラジオにも行くことができず(宇宙飛行士の野口聡一さん、お許しを!宇宙に行くときは体調万全にします~)、救急車で病院へ。人生初の石でした!!またいつ痛みが再発するか分からない不安のまま飛行機へ。
奇跡的に痛みは再発せず、無事にミラノ空港に降りたと思いきや。。何?!巨大なふわふわした花粉は空から雪のように降ってくる!!この時期だけに降るPollineというやはり花粉のようなものでした。そして、私はこのPollineアレルギーになるという着いてから早速事件。
バンドメンバーは日本からのジャズレジェンド、クリヤマコトさん、現地からはベーシストFrancesco Angiuli、ドラマーはAlex Battini de Barreiro。プレイも人柄も最高!今でも連絡を取り合うほど仲良くなりました。憧れだった国には今度具体的な人の顔が思い浮かぶ。そんな大事な場所になりました。現地でコンサートを助けてくださった日本のチームも素敵な出会いがありました!日本語、英語、イタリア語が完璧な彼女にイタリアのニュアンスを教えて頂きおかげさまでコンサートMCができました!Grazie Hibi xx


そしてセットリストはこちら!
【2019年5月12日(日)ミラノ近郊ブッセート、ヴェルディ劇場でのセットリスト】
1部
1. A Time For Us(映画『ロメオとジュリエット』より)
2. ニュー・シネマ・パラダイス より
3. カルーソー
4. ヴィヴァルディ:《四季》~〈夏〉
5. Animus
6. Canto Della Terra(大いなる世界)
7. アヴェ・マリア(カッチーニ)
2部
8. 君が代
9. 蘇州夜曲
10. 君をのせて(映画『天空の城ラピュタ』より)
11. Don’t Dream It’s Over (Alta Marea)
12. Queenメドレー
13. 故郷
14. 行け、わが想いよ黄金の翼に乗って(ヴェルディ:歌劇《ナブッコ》より)
15. マイ・ウェイ
〈アンコール〉
16. モンティ:チャールダッシュ
17. Con Te Partirò(君と旅立とう Time To Say Goodbye)
イタリア語、イタリアにまつわる曲を多めに。そして日本の曲もいくつか披露しました!


ヴェルディ劇場はミニチュアなスカラ座のようで、とにかく自分にとって理想のインテリアでした!いつか家を立てられたら一部屋でもいいのでこのスタイルにしてみたい~~ こんな憧れな舞台で憧れのバルコニー席もたくさんあったので、一曲目はイタリアにゆかりがある「ロミオとジュリエット」をバルコニーから歌唱。イタリアの皆さんもびっくりしてくれました^^そしてインストの途中で舞台に戻りヴァイオリンと歌へ。。。と思いきや、ここで二度目の事件。クリヤさんたちもおそらく、中々出てこないな、どうしたんだろうと思われたことでしょう。実は舞台袖にミラノ市長さんがいらしていて、本番なのに長話で捕まっちゃいました!!見ての通り、歴史に出てくるような趣があるキャラクター。間延したとはいえ、何とかステージに戻ることができ、ロミジュリが終わる���ここで用意して来たイタリア語での自己紹介挨拶!と思ったら。。市長さん、またですか。。あとで聞いたらスタッフさんも止めようとしたが止められず、勝手に舞台に上がり、マイクをお持ちでなかったので、頑張って片手にヴァイオリン、片手にマイクを市長さんの声が聞こえるように持ちました。最後には貴重なヴェルディーのプレゼントを渡されたものの受け取れず、嵐のように去っていった市長さん。予定していたMCもこの流れではワークせず、たどたどしいイタリア語で頑張る。
「Verdiは10月の9か10に産まれたと言われてますが、私の誕生日は10月8日です。同じ天秤座!」思ったほどの反応がない。頑張れわたし。「実は、私のミドルネームはイタリアと関連しています!「ミラン」なんです!イタリアでのコンサート、運命を感じます!頑張ります!」。やっと笑ってくれた!ホッとする。
イタリアといえばオペラや素晴らしいヴァイオリンを始め、世界一のものがたくさん!そんなイタリアの皆さんの前で歌とヴァイオリンをお届けでき光栄でした。「残念ながらStradvariusではないですが」。ちょっとしたブーイング。フランス産とは流石にいう勇気はなかった。アンドレア・ボチェッリとデュエットさせて頂いたCanto Della TerraではBrava!と叫んでくださった方が多く、やはりイタリア人にとってとても大事な曲だと実感。

そして2部は着物で登場!日本のルーツを音楽で表現。会場には日本からのお客様とイタリアにお住いの日本の方々もいらして下さっていました!「令和」について説明させて頂き、令和初のコンサートということで、上皇様上皇后様の前でアカペラで歌わせて頂いた「君が代」をイタリアで歌わせて頂きました。

一曲はオーストラリアのルーツミュージックをお届けしたく、選曲を迷っていたら、なんと私が生まれた年にヒットした曲がイタリアでも有名でイタリア語バージョンもあることを知り、ピアノ弾き語りでDon’t Dream It’s Over (Alta Marea)をお届けすると、お客さんもサビを歌ってくださり盛り上がってくれました。これまでの選曲はクラシックより、クラシッククロスオーバーのものが多かったので、歴史的なヴェルディー劇場で他のジャンルはタブーなのだろうかとちょっと不安でした。一番のリスクだったのはこの次の曲~クイーンメドレー。「イタリアの皆さん、Queenお好きですか?」「Si!!! ~はい!」と答えて下さりました。ヴェルディー劇場でドラムの弾き語りの時、バルコニーからの子供たちが腕を投げるような動作でyeah!と叫んだり、ここはオペラ座ということが嘘かのように、会場はロックで盛り上がる。イタリアの方の「音楽」への愛を感じられました。
さて、ここでプチ事件その3?ドラムへ移動する最中ヒールで大変!と思ったのですが、それはステージが斜めっていたからです!イタリアではこれが普通だと言われました。確かに、客席は逆に平らなので、ステージが斜めでないと後ろの奏者が見えない。音響もよく聞こえるとのこと。ただ急激の坂には足が着いて行きませんでした(笑)

そして次は、日本とイタリア、両国にとっての第二の国歌を会場とともに歌いました!先ずは日本から「ふるさと」。最初は皆さんシャイだったせいか会場は静かでしたが、後半になると会場に日本の美しいメロディーが広がっていく。少人数の日本の方、すごい大きく歌われている!と思ったのですが、よく見ると。。イタリア人が歌っていました!!事前にローマ字で歌詞カードを配っていたのですが、メロディーを覚えられてすぐ共にふるさとを歌い上げたこの光景にはうるっと来ました。そしてイタリア人にとっての第二の国歌はなんと、ヴェルディ作曲のもの!また物凄いご縁を感じられました。オペラ《ナブッコ》より「行け、わが想いよ黄金の翼に乗って」。こんなに難しい曲が国歌だなんて!呑気なラテンドラマーのAlexすら大声で歌われていました!

最後はイタリア人でもあるフランク・シナトラがヒットにさせてMy Wayもイタリアの方が喜んで下さいました。人生悔いなく生きたい。日本に帰るまで食いなくピッツァとパスタをたらふく食べたいというところでも笑って下さいました。石になっても本物のイタ飯の誘惑には勝てん。

アンコールの一番最後にはTime To Say Goodbye~ただし、完全イタリア語バージョンでお届けしました!「私はあなたとともに旅立つ。」美しいタイトルなのでイタリアで撮影したTimelessの写真集のタイトルもCon te partioにしました。

Universal Live Report
https://www.universal-music.co.jp/sarah-alainn/news/2019-05-22-report/
夢のような憧れの国でのデビューコンサート、チャンスを作って下さった関係者の皆様、Hario、遠い日本からいらして下さった皆様、心からありがとうございました🙏🌹
コンサートの日は母の日だったので、hope I made you proud❤️

余談
コンサートの後1日オフだったので、思い切ってスイスに行って来ました!!美しいラグーンがあると聞き、電車でもいけると思い、イタリアで最も美味しいという噂のpanzerottiをまず買いに行ってから電車でピクニック!のはずが。。その日?時間?に限ってpanrezottiのお店がクローズド。遠回りしたのに~ そしていざ電車へ。後もう少しでスイス!とワクワクすると、メンバーの一人があることに気づく。。パスポートがない。そう、電車であってももちろんパスポートがないと外国にはいけません。急いで仕方なく見つかる前に電車をおりたものの、そこはもうイタリアではなかった。。。!帰りの電車でもパスポートがないとイタリアに帰れない!!なんとか説明してイタリアに戻れたものの、せっかくのオフが移動で終わってしまう、不思議なアドベンチャーになりました。一瞬だけ小さなイタリアの避暑地でインスタ映え写真をとってすぐ急いで電車に乗りましたが~ この写真からはそんなアドベンチャーが全く伝わらないですね、笑 写真からは真実は全く分からない、ということです(笑)

#teatro verdi#verdi#italia#italy#busseto#Makoto Kuriya#Alex Battini de Bareira#Francesco Angiuli#Sarah Àlainn#Miimo#violinist#クリヤマコト#イタリア#ヴェルディ#ヴェルディ劇場#サラ・オレイン
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3月に入ってから御言葉で異性の罪、情の罪についてのお話があったので、なんとなく警戒していたのだけれど、やっぱりというか、案の定というか、異性から告白されるというイベントが発生した。
有料記事を読んでいる方は既にご存知の通り、信仰を持つとサタンが堕落させようと必死で信仰者に恋愛イベントを持ち込み出します。
今までモテと無縁だった人でも謎のモテ状態になる。異性の罪が一番重い罪だとサタンは知っているからです。
異性の罪と聞いて有料記事未読の方は何がなにやらだと思うんですけど、神様と疎通して恋人同士になることが本来人間にとっての「幸せ」というものなんだよという話であり、世の中の男女が上手く行かない原因の根本がこれなのです。
アダムとエバがまだ霊的に成長してないのに身体の関係を持ってしまって、人生が狂った。そして彼らは神様が人類の救いの為に立てた中心者でもあったので、人類の運命も狂った。それを聖書の中では木の実を食べたで表現している。ことを私はRaptさんのブログで初めて知りました。
まあ異性の罪についての詳しい話は有料記事をお読み頂くとして、今回どうやって告白イベントをクラッシュして乗り切ったかを書き出し、分析して、自己反省していこうと思います。
告白されたのはコロナ休校で学校に通わなくてもよくなった休校中でした。
そう。私はつい最近まで通学していました。
その前はアルバイトをしていたのですが(アルバイトする前はポルターガイスト現象に見舞われたりしながら半ば世捨て人というか、ニートみたいな感じで、そもそも社会に参加してなかったんだけど、それは人によっては馴染みのない話だからまたの機会に)、
個性才能を発見したいというか、手に職をつけたほうがいいなとか…
いや本音を言うと、御言葉の中に電気的なことや工学的な話が出てくるから、それを理解できるようになりたいなという理由で学生になることにしたのでした。スマホの中身とか仕組みが分からないし、コンピュータやネットの概念が自分の中でフワッとしていたからです。
私はもともと小さい頃は図鑑を読んだり図工をしたりするのが好きで、小学校では本ばかり読んでいたし(バレエもやってたけど)、中学では美術をやって、高校は霊現象に見舞われてたから中退したけど美術部の先生には入部を誘われていた(寮生で門限とかもあったから入れなかったわけだけど…)所謂どっちかといえば文系人間であった。
でも今回通ったのは理系分野だったので、もう、それはそれは未知の世界だったわけなのですが、意外や意外、文系は設計などのモノ作りの世界に向いてるっぽい?
いや、単に神様がそう導いてくれただけの可能性のが強い?
入学試験の日に面接があって、面接官をやっていた先生たちが「女の人他にいないけど大丈夫ですか?」って訊いてきたので、「え?女の人だと困る事例が今までにあったのでしょうか?」って訊き返したら、「いやそういう話は特にないです」と返されたので、なんだそれは…どういう意図の会話だったのだ…?と疑問に思いました。
一応卒業生に女の人は何人かいるんだけど、学年飛び飛びで発生するからお互いに写真でしか知らない感じです。
最終学年の夏季休暇より前だったかに会社見学先で会った女性の先輩は、2人きりになった瞬間に「女の人1人だけだと大変ですよね…」って切り出してきたから何かあったんだと思う。
そして先生たちには相談できなかったんだと思う。女の人は、いや人は、「この人に相談したところで解決しない」とわかっている相手に相談したりなどしないからである。この先生たちはあまり頼りにならない存在だとみなされていたんだろうなと思う。
私も入学早々話しかけてきた男の人(クラスメイト)相手に頭痛と吐き気を覚えたことがあって、「授業内容に関わること意外で私に話しかけないでもらえますか?何故か頭痛がするんで」と素直に伝えたんですけど(読んでる人は笑ってもいいです)、「え?なんで?いろんな雑談するほうが楽しくない?」みたいにヘラヘラ食い下がってきたし、それから1年くらいはしつこかった。
本当に面倒臭かった。めっちゃ滅びを祈ってた。どうせサタンに主管されてた人だと思ったから。そう、彼が他のクラスメイトと話す内容は大変下品な下ネタか、目下年下の人間を見下す高圧的で卑劣なもので、あと無い学歴で高学歴マウントをとろうとする(たまにいるよねこういう謎の行為するやつ)などの老害行為とか、とにかくこの世の地獄のような思想を煮詰めた煮こごりみたいな人だった。
そんでその下品な男の人は1年くらいして、ようやく私のことを「最初から生理的に受け付けなかったし」と言って避けるように(無視するように?)なってくれた。私はそれまでずっと「好き嫌いという以前に、人として生理的に受け付けないので関わりたくないです」とめげずに伝え続けてきたので、その台詞はパクリでは?と思いながらも、あと最初からそう思ってくれて話しかけないでくれていたなら私も楽だったのに…とか相手の発言に矛盾を感じながらも喜びました。
今まであなたによって発生してしまった無駄な時間はなんだったんだろうな?あとあなたが勝手にメルカリに出品した私が制作したキーホルダーも返してくれると嬉しかったけどそれは返してくれないのな?(追記:返してもらえませんでした)まあいいよ悪人が離れてくれればそれで。この世の物品など平和な生活に比べたらなんてことないぜ。
そんなこんなで、私は紅一点ながらも下心を持った男の人には塩対応する部分をみんなに見せてきたので、その後謎アタックしてくる人や、謎アプローチしてくる人はいなくなりました。他の科の頭のおかしい人が名前を連呼しながら横を通過したりとかはあったけど、その他は概ね平和に過ごせたと思う。
男子生徒と女子生徒で態度変えるタイプの男の先生たちからは「人使いが荒い」と言われていたし、クラスメイトにも「まあ…あの人はクレイジーだから…」とか「誰よりも男らしい」とか言われていたので、まあ大丈夫だろう、みたいな。
まあ大丈夫じゃなかったことが今回発覚したんだけど。
突然の休校が決まったのはニュースで臨時休校が話題になってからずっと後で、その前は周りに建っている小中学校や高校が休みになる中うちの学校はというと、スカイプを使ってのんびり他校とロボットカーレース的なことをしていた。
会社によってはリモートワークの環境作りに四苦八苦していたようだけど、流石は電気系の先生が多めの学校というか、大会におけるスカイプ空間は学校の設備と先生たちの私物によってサクサク構築されていった。やっぱり最近売れてる自撮り用の小さいながらも高性能なカメラは便利そうである。結構高いみたいだし、海外製は当たりハズレもあるみたいだけど。
そんな感じでのんびり過ごしていたのに突然休校することになったのは周り(東京都の偉い人とか)の目を気にして焦ったからなのか?
ちなみに学校から感染者は1人も出ていないし、もちろんインフルすら出てない。
まあコロナはインフルなのでパンデミックの報道はデマなんだけど、学校は男の人ばかりであるせいかみんな基本的に不健康な生活を送っていたので、そういう暮らしを目にすることに私は若干辛みを感じていたので、休暇は素直に嬉しかったです。(なんで男の人は健康な食事にあそこまで無頓着なのだろうか?)
休暇だけど最終学年なので、つまりは卒業であり、ある意味クラスメイト達とはこの先恐らく二度と会わなくなることを意味します。
それでサタンも焦ったのでしょうか?今回は卒業制作を一緒に仕上げた人間から告白されたんですね。
学校最終日、私はいつものように普通に登校しました。
休校になることは突然知らされたので、荷物や教科書を全て持って帰らねばならなくなったこともあり、まあまあ驚きましたが、それ以上に驚いたのがその日はなんとなくカートをゴロゴロ引いて登校してきたので、スムーズに荷物が持って帰れるという偶然でした。(いや、神様は偶然はないと仰っていましたから神様が霊感で持たせて下さったのでしょう。よって私は神様に感謝しました)
それまでの授業ではラズパイでサーバを構築してHPを作る授業が行われていたのですが無事終わったので、持ち込んでたモニタをもって帰ろうと思ってカートを持ってってたんですね。そこで突然の休校です。
午前中は後輩に教室を明け渡す為に作業場を掃除したりして過ごして、午後は後輩たちのプレゼン大会が予定されていて、いつもより授業の始まる時間が遅かったので私は一旦家に帰ることにしました。あとなんか掃除中にヘアゴムが切れてしまってピンチで、そのへんにあった針金で留めていたので、家でまとめ直したかったというのもある。
やばいピンチだ…と針金で留め直してたとき、思い返せば今回告白してきた人が髪を下ろしたらどうなるのか的な質問をしてきて、「どうって、邪魔ですよね。作業するのに」と返したら「そっか」と笑っていたけど、なんか違和感を感じたやり取りだったのだけど、そういうことだったのかね?
思い返せば中学生の頃プールの授業のあとで髪を下ろして乾かしてたら、当時学校にいた私のことを観察する会的な謎の集団がわざわざそれを見にやってきたことがあった。だからそう、こういう髪に関することで注目してくる男の人はもうなんか駄目なんだと思う。そういうことだったのかも。
そんで家に帰ってから髪を留めて、なんとなくハンカチを新しいものに替えて、また学校へと出発しました。
ちなみに家に着いたとき、たまたま祖母が家にいて何故かご飯を炊いていて、「ちょうど出来たから食べていく?」っていうので、いつもはお昼ごはん食べないんだけどその日は食べてから出発したのでした(よってちょっと出遅れた)。いつもは一駅歩くのだけど、遅刻は嫌なので駅のホームで電車を待っていたら、若い女の人達が「〇〇駅ってどうやって行くんだっけ?」とワイワイ喋りながらスマホで乗り換え検索しながらこちらに向かってきた。でも〇〇駅は反対方向の電車に乗ってから乗り継がなければならないので声をかけてそれを伝えたら、ちょうど反対側に電車がくるところだったのもあり「ありがとうございます!」と言いながら彼女たちは駆け足でギリギリセーフで乗車していった。(そこで私は思った。ああそうか、それで私は家を出遅れたのかも。神様��りがとう!)
なので学校に着いた時刻はプレゼン予定時刻ギリギリだったんだけど、予定が押したみたいでまだ余裕であった。神様ありがとうございます。
後輩達は私達の学年より真面目な子達が多いので、プレゼンはとてもクオリティが高かった。んだけど中に仏教かぶれの人がいて若干むむってなった。仏教は悪魔崇拝だからです。まあネタ化されてたからガチではないのかもしれないけど。全ての神社仏閣が滅びますように。
最後はなんか、お別れの挨拶をそれぞれ述べて終了という流れになったんだけど、プレゼンを指導していた外部講師の方が今日で十数年に渡る講師活動を終えるとのことで泣きながら色々と思い出を語っていた。熱血タイプの先生なので涙が思いと一緒に溢れてしまったのだろうと思う。私達も突然で驚いたけど色々とタイミングが良すぎである。もういっそ今日が卒業式ってことで良いのではと思った。
お化粧が崩れるのも構わず泣いている先生を見ていて、「そういえば私何故か新しいハンカチ持ってきてたな」と思い出し、そのハンカチを渡した(この時新しいハンカチを持たせて下さったのは間違いなく神様だと思った)。
彼女は潔癖症なので未使用であることを伝えて渡した。「もう学校最後だから洗って返せない。どうしよう!」と言うので、「あげますよ」って言ったら、「洗わないでとっておこうかな(笑)」とか言いだしたので、潔癖症なのにご冗談をと思いながら「いや洗いましょう。何か繁殖しちゃうかもしれないじゃないですか」って返したら「コロナとか?」と笑われたので、私はその流れのまま「コロナはインフルエンザなんですよ」って話をした。
(私最近会う人会う人誰とでもコロナはインフルの話をしているけれど、まだ誰にも否定されたり拒絶されてない。Twitterの工作員とは随分反応が違うよね)
そんなこんなで授業もおわり、作業室で卒業制作で作ったマシンを班員と二人で動かしたりして遊んだ。校長先生を乗せる約束をしていたのにまだ乗せてなくて可愛そうだという話があったので、久々の起動に様子を見ながら発進させてたんだけど、校長を呼んで乗せてたらしばらく動いてマシンは死んだ。
FETが爆発したりしたわけじゃないから、多分ダイオードが死んだとかじゃん?という結論になったんだけど、調べないとわからん…わからんけどもう時間がないので、あとはもう後輩たちが好きにすれば良いんじゃん?ということになった。大掃除のときにモータドライバの同人誌を託したことだし(次回はデジタルアイソレータとか入れてみてほしい)。
校長先生や担任の先生たちとのお喋りも今日で最後か…というわけで、せっかくなのでコロナの画像がサンゴ礁の写真を加工した画像だった説や、タピオカヤクザの話や、蓮舫議員の闇のお婆ちゃん陳杏村の話をした。私は学級日誌でも毎度こんな話しか書いてなかったので先生たちも慣れていたのもあると思うんだけど、割とスムーズに受け入れてくれました。東京都からお金が出てパーツとか買ったりする学校だったけど、都知事をディスったところで咎める者は誰もいなかった。小池百合子はやはり都の職員からも嫌われているのではないか。
このまま興味を持って色々調べるようになってくれれば嬉しいのだがどうだろうか。調べてくれますように。
そして私の知らないところで同性に伝道されるなり、ネットで伝道されるなりすれば良いと思う。
先生たちには「忘れ物があったら取りにおいでね」と言われたけど、学校まではルート的に結構距離があるので、私は「思い出と一緒に置いていきますね」と答えた。そしたら「じゃあ思い出が欲しくなったらいつでも来て下さい」と返されてしまった。グヌヌ被せボケ…
最後まで一緒に残っていたもうひとりのクラスメイトは「あと2時間くらいお話していたいですね!」とか言っていた。勘弁してほしい。
死にかけのマシンはホールに飾られることとなった。
試作の小型機は班員が夜なべして書いたプログラムのお陰か元気に走ったので、最後に走らせて展示場に到着させた。
班員は小型機にゴリアテと名付けようとか言い出して、私はゴリアテ倒す派なので(ダビデの話参照)その場で反対したのだけれど、その後どうなったのかは分からない。今思えば何かの暗示であったのかもしれない。今回告白してきた人間はこの班員であるからである。
そんなこんなで帰りが遅くなってしまったのが良くなかったんじゃないかと今では思う。
校門を出たら外は真っ暗だった。冬だったので星がキラキラしていて大変綺麗で良かったんだけど「星が綺麗ですね…ってもう寝る時間じゃん!」と焦った。私は早く寝て早く起きて祈ったりしたいからです。
さてさよならするぜと班員に別れを告げるとき、私は特に台詞が思い浮かばなかったので、「とりあえず禁煙したら」と言った。彼は喫煙者だったからである。そしたら今までは絶対無理とか言っていたのに、今回は珍しく「禁煙外来に行こうと思う」と言い出した。
喫煙者が減ることは良いことだし、そのことは普通に嬉しかったので神様に感謝して、私は家に帰った。
その日は風が強くて、家の近所の庭的な広場に誰かのTシャツが落ちていたので、風向きから推測したマンションに届けに行った…のはいいものの、どこに置けばいいのか分からなかったから、そこら辺にいた住人らしき方に訊いて、エントランスに引っ掛けてきた。住人らしき方は見ず知らずの私にお礼まで言ってくれて、最近世間がピリピリしているというのに、優しく対応してくれてありがとうと思った。
それから1週間くらい経った頃だろうか。なんだか体が重かった。生理でも無いのに日中眠かった。
勉強したくても頭がモヤモヤするというか、お祈りの時間に起きられてもなんだか体が重かった。そういう日が数日続いた。
そんなある日、制作課題用に作ったSNSルームに置きっぱにしていたファイルをダウンロードしようとPCを立ち上げログインしたら、告白文が踊っていた。
いや、その前から就活どう?的な情報交換はしてた(私の就活はゆっくりでギリギリだったので先生やクラスメイトたちが私の代わりに心配していたというのもある)のだが、まさかこれを使って告白されることになるとは。そういう素振りを相手が見せたことがなかったので余計に驚いた。
読んだ瞬間はいつものごとく目眩と吐き気に襲われた。なぜ私は異性に好意を向けられたと認識した途端に吐き気と頭痛がしてくるんだろう?神様を信じるようになってからそうなるようになったのね。霊魂の苦しみが脳を通して肉体に伝わるからでしょうか?その仕組が知りたいのですががが。
ところで異性の罪は重罪なので、思わず「ブルータスお前もなの…?」と呟いてしまった。
霊魂は肉体と違って異性の罪によって、まるでウジやハエや汚物を飲まされているかのような地獄を味わうのだと、以前主が御言葉の中で仰っていました。
相手にこうして罪を犯させるような行動を私はどこかでしてしまっていたのだろうかとか、なんかそんな感じでショックを受けたついでにそのままブルータスについてググったら、なんと告白された日とカエサルが殺された日が同じ3月15日だったので思わず笑ってしまった。
よくイルミナティたちが日付にこだわって重要人物を殺したりするけど、確かその中に3月15日もあった気がする(そういうツイートを前に読んだ気がする)。
サタンが験担ぎして告白させたのかもしれんな。はっはっは…(真顔)
(そういえば志村けんが死にましたね。やっぱり小林麻央が海老蔵に生贄として殺されたみたいな感じで他殺なんでしょうか?)
告白文の内容は概ねこんな感じであった。
最終日にそちらから告白を受けたが(してないんですが?)、過去に色々あって二股かけて失敗しているのと(なんですと!?)、一緒に住んでる腐れ縁のルームメイトが人生に問題を抱えていてこれからも自分が助けになり支えていきたいので(誰のことだ?)、貴方の気持ちには応えたいが応えるわけにはいかないと思った。けれど前から可愛いと思っていたし称賛する気持ちは絶対に伝えたいと思っていたので今回告白に至ったと。その他、私と会うのを楽しみに学校に通っていたこと、可愛さにため息がとまらない(?)、私が小型機を操縦している様がキラキラして見えた(?)、ここ1週間ほど私のことを考えていた、買い物しに車を出して気付けば学校まで運転しておりそのまま夜空を眺め続けてしまった(重症では?)ことなどが書かれていた。
()は私の感想です。
そんで、うーん…?私そもそも告白してないけど?どういうこと???ってなった。
私としては、突然相手が目の前でサンドペーパーを敷きだしたと思ったらそのまま助走をつけて全裸で一気にスライディンクした挙げ句血まみれになりながら「どうもすみませんね…」とヨロヨロ退出していったような、こちらとしては見てはいけないものを見てしまったような、そんな気分である。
というか、1週間念を送られていたから具合が悪かったのかもしれないな…?
なんか頼もしいとか崇高とかいう文字も文章内に組み込まれていたので一応リスペクトしてくれてたっぽいことは分かるんだけど、恋愛フィルターを通してそう見えてただけだと思うと素直に受け取るわけにはいかないですよね。だって正気じゃないんだから。
校長先生が入学当初、学校の仲間は将来同じ分野の仕事仲間にもなるわけだから仲良くして情報交換していくといいよ的なアドバイスをお話してくれてた気がするんだけど、でもそこで相手に恋愛フィルターがかかっちゃったらさ、相手が間違ってるときに情が邪魔して相手を正論でコテンパンにしてあげられないわけだからもうその時点で良き仕事仲間とは言えないじゃん。
それに男の人って(弟もそうなんだけど)相手を褒めるときもそんないちいち褒めたりしないですよね。あっても一言で終わるじゃないですか。「スッゲ」「ヤベえ」「ウケんだけど」「流石ですな」「かっけえ」みたいな。だからこうやってリスペクトしてますよ感出して長文ぶつけてくるときは告白じゃなくとも下心があると疑った方が良いっぽい。よ。
可愛いに関してもよくわからなかったんだけど(私には可愛げがないという定評がある)、告白文を見るに、どうも頑張っていた姿がいじらしく見えたとかそういう意味での可愛いということであったらしい。ということは、男の人に比べたてまだまだ頼りない部分があったために可愛いに繋がってしまったのかもしれない。ネットで調べたところ庇護欲を掻き立てる女性はモテるらしいので、こいつは一人でもやっていけるなと思わせるキャリアウーマン的な女性にならないといかんなこれはと思ったし、反省した。
しかし腑に落ちないのが私が告白したことになっている部分なんだけど、どうも「星が綺麗ですね」と最終日に言ったことが告白と取られたらしいのね。
でも「月が綺麗ですね」は聞いたことがあるけど「星が綺麗ですね」はちょっと聞いたことがない。
それに夏目漱石が「月が綺麗ですね」と言ったという話はデマであることがわかっているし、それを告白に持ってくる現代っ子がどれくらいいるのかね?
わからん。
わからんので調べたら、出てくるわ出てくるわ…

ちょっとバリーエーション増やしすぎじゃない?
これじゃあ異性の前で景観を褒めてはいけないことにならないかい?
しかも「星が綺麗ですね」はタロットが元ネタだと?悪魔崇拝者共め…なんと迷惑な。(ちなみに占いもタロットも、悪魔崇拝からきた文化です)

なので私は告白してないのでそれは勘違いだし、一応漱石はデマだよと伝えた。
(あとうっかりここにたどり着いてこれを読んでる方で陰謀論よくわからない人向けにお知らせしとくと、夏目漱石の名前の由来はフリーメイソンなので、興味が湧いた方は調べてみて下さい。)
あとキラキラして見えるとかため息が止まらないとか深夜徘徊とか目に余る異常行動が気になったのでそっちも調べたんだけど、人は恋に落ちると脳内麻薬が出て、なんかそういう状態になるらしい。
というか、完全に病気だよね。
脳内麻薬で脳が酸欠になるらしい。煙草でも脳は酸欠状態になるっていうのに、お前さんはこのまま死ぬつもりか?
冷静になあれ。
とりあえずセロトニンが不足するとそういう情緒不安定状態になるらしいので、日光浴をおすすめしといた。
そしてSNSからは重要ファイルをサルベージした後離脱した(Twitterにおけるブロック��ようなものです)。
しかし業務用のSNSで告白って公私混同って感じで普通にルール違反だと思う。勘違いとは言え、気持ちに応えるわけにはいかないからと理性で踏み留まってくれたのは、有難いっちゃ有難いけれど、結果告白してしまったのでは無意味なのではないか。それは踏み留まれているとは言えないわけで。
恋は病気。
愛は理知。
冬の星が綺麗な理由は太陽が早く沈むから残照の影響が少なく湿度も低いためにその分光がこちらに届くから。
よって、さらばだブルータス。
というか以前「背中を押すのは友人の特権だ」とか発言してたような気がするのだけど、友達だと思ってくれていたのは嘘だったということか?
まあ私は私で男友達ですら御免だしこの先男とはプライベートで仲良くするつもり無いですって言ってたわけだけど、大事なことだからそれ2回くらい伝えたはずなんだけど、聞いてなかったのかねブルータスは。
ちなみに「ブルータスお前もか」は「月が綺麗ですね」と同じく言ってないのに言ったとされてる言葉の一つなのであった。綺麗にオチまでついてしまったのであった…
実はその後、学校に卒業書類貰いに行かなきゃいけない日があって、ちょっと憂鬱だったんだけど、エンカウントしないように祈って早めに登校したら、早めに書類もらえたし、早めに帰れたのでブルータスには会わずに済みました。
神様ありがとうございます!
あと水筒持ってくの忘れたんだけど何故か先生が自販機の飲み物奢ってくれるっていうのでお水を買ってもらえました。
先生ありがとうございました。
おしまい!
帰りが遅くなった最終日、家族が私の身を案じて祈ってくれていたそうである。私は本当に、神様に、みんなに助けられて生きてきたし、今もそうである。感謝します。どうかみんなの信仰生活も守られますように。
今サタンが絶賛大暴れしているそうなので、他の信仰者の方々もゲリラ告白をされたりしているのだろうか。どうか無事に撃退できますように。
あと恋の脳内麻薬は3年くらい出続けるらしいから3年は会わない方がいいっぽい。先生には悪いけど文化祭も行かないほうが良さそう。
異性の罪を犯したときに3年くらい期間を設ける話はもしや脳内麻薬にも関係しているのだろうか?まだまだ分からないことが沢山ありますね。
しかし思いがけずスムーズに荷物が持って帰れたり、知らない人が電車に間に合ったり、奇跡的なタイミングでハンカチを差し出せたからといってなんだっていうんだろう。神様にとって有益かというと、そうでもない。
結局学校は神様に意識を向けて生活し辛い空間だったことが証明されただけなんだと思う。卒業が早まってよかった。それこそ、神様に感謝すべきことだったのではないか。
唯一連絡手段が残された相手と縁が切れたことも、信仰生活を送るうえでとても有難いことであったと思います。ありがとうございました。
あと私は異性からの好意に気付かなさすぎであるということが発覚したので、これからもっと遠巻きにしてもらえるように頑張ろうと思いました。
そして恋愛コラム的なことが書かれているサイトって、全部占いへ誘導するようなものばかりで、この世の中に恋愛の文化を広めたのがサタンであることがよくわかる構図だなと思いました。
人間との恋愛は人間を幸せにはしません。不幸への入り口です。
占いは闇です。何も解決しません。
何事も神様に求めるべきです。神様に相談しましょう。
今回色々あった中で私にとって良かったことって、コロナはインフルだって話ができたことくらいじゃないでしょうか。もっとディープな話をスムーズに展開できるようになりたいですね。
反省!
こうして自分を省みる機会を与えて下さった神様とRaptさんに感謝します。どんなに神様が機会を与えて下さっても、Raptさんの宣布する御言葉がなければ理解できないし、悟れないからです。それから私の為に祈ってくれた方々にも感謝します。本当に命拾いしました。ありがとうございます。
コロナのデマが世界中の人々にバレますように。
あと最近初めて行った公園が心臓の形してる気がした。

そして電車の広告にあった有名テニスプレイヤーの顔がそっくりで、2人は血縁かもしれないと思った。

この春あちこち散歩したけれど、東京都民は都知事の言うことなんて心の底では信じていなくて、パンデミックは演出不足であるなと思った。
だって人がわんさか住んでる団地で1人も感染者出てないし、誰も死んでないし、噂好きなおばさまも誰かが死んだ噂すら聞かないって言ってるし、というか2月も3月も全然救急車来てないし(12月と1月は夜でもバンバン来てたのに。餅かな?)。
都民はみんな訝しがっている。
陽の光を浴びながら元気に遊ぶ子どもたちを見ながら散歩したけど、あれはあれで免疫力がアップしてインフルにかかりにくくなって良いのではないかと思った。
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ひとたびにして永遠
聞き分けよく、申し分のない態度で送り出したはずだった。これはまちがいではない、ほかにやりようはないし、お互いに必要なことだとわきまえてもいた。けれど、やはり──怒っていたのかもしれない。だからヴィクトルは、ひと月という長いあいだ、勇利に連絡を取らなかった。 ひと月! よくもそんなに耐えられたものだと、勇利からのメールを受け取ったとき、ヴィクトルは自分自身、驚いた。勇利の言葉を目にしてしまうと苦しくなった。しかしその「ひと月をなにごともないように過ごし抜いた」という英雄的事実は、やはり愛情を反対側から見た結果だったのかもしれない。いとおしかったからこそ、腹が立ち、感情がみだれ、そんなに言うなら勝手にしろとなげやりになって、そしらぬふりをしたのだ。 ヴィクトルのそんな反抗的態度とはまったく異なり、勇利のメールは、きわめて愛情深く、優しいものだった。ヴィクトルはマッカチンを抱きしめながら、それをむさぼるように読んだ。 最愛のヴィクトル こちらは今日は雨です。ヴィクトルが好きだと言った、ぼくの部屋のすぐ外の木が、しずくを打ちつけられてうなだれています。ヴィクトルに会えなくてぼくもしおれそうです。 お元気ですか? このひと月のご無沙汰は申し訳ないのひとことです。とても忙しかったのです。でも、ぼくがこれだけ忙しいのだから、貴方はもっとそうなのでしょうね? もしかしたらぼくのことなどもう忘れているかもしれません。そのときのことを考えて、自己紹介しておきましょう。お久しぶりです。勝生勇利です。貴方が大事にして、いろいろ教えてくださった生徒ですよ。思い出しましたか? 日本ではどれをどんなふうにどうしようと考えていたのですが、考えるまでもなく、ぼくの予定は管理されてしまいました。誰にでしょう。よくわかりません。ぼくは先日まで、スケート連盟の人に会ったり、これまでのスポンサーに挨拶したり、これからもよろしくお願いしますと言われたり、何かの番組でしゃべったり、こういうことに興味はないですかと声をかけられたり、とにかく、人と会っていました。正直なところ、誰と何を話したのかおぼえていません。すぐになんでも忘れるヴィクトルを思い出し、こういうところも先生に似たのだと思いましたが、ヴィクトルは人を楽しませたり喜ばせたりすることは好きなので、こんなことは忘れたりしないのかもしれません。実際、オフシーズンに愉快なことに精を出す貴方を見ているから、やっぱりここは先生に似たのではなく、ぼくの身勝手な一面だと納得しました。 つまらない話はやめておきましょう。 といって、おもしろい話もないのです。とにかく昨日までそういうことをしていて、あまり長谷津にもいられませんでした。ホテル暮らしが続いて、退屈でした。夜にはいつも貴方を思い出しました。早くゆっくりメールを書きたいと思っていました。 さて、ぼくは昨日長谷津へ戻ってきて、もう我慢できなくなったので貴方にこうして文章を綴っています。でも、そんな日々だったものだから、何も報告できることがありません。ヴィクトルこそ、ぼくが東京で退屈していたように、いまぼくのこのメールを読んで退屈しているかもしれませんね。でも、これからさきは楽しいメールを送りますと約束もできません。なにしろぼくはおもしろみのない人間なのです。貴方ならわかっているでしょうけど。 あれ? でも、よく、「勇利はおもしろいなあ」と言われた記憶があるな。なぜかな? それでは、このあたりで。 そちらはまだ寒いでしょうね。マッカチンと抱きあって眠っていることでしょう。風邪をひかないようにね。 貴方の勝生勇利 灰色の空を背景にした、濡れた木の写真がくっついていた。勇利の部屋の窓からの風景だった。それを見た瞬間、ヴィクトルの胸は引き絞られた。勇利に会いたい。そう思った。 ヴィクトルは、勇利が競技生活を終えようがどうしようが、ふたりのあいだにある絆は不変で、離れることはないと信じていた。だから勇利が日本へ一度帰ると言ったとき、「ああ、とりあえずのんびりするのがいいかもね」と簡単な挨拶をした。 「勇利が帰るなら俺も帰るよ。いつにする?」 勇利はまじめに言った。 「ぼくひとりで帰るよ」 「なぜ? あ、俺の予定を気にしているのかい? べつにいいよ。用事があればこっちへ来ればいいんだし、いますぐしなくちゃいけない仕事もないし。まあ、いろいろ──苦情は言われるかもしれないけど、深刻なものじゃない。俺が好き勝手にするのなんて、みんな慣れてるからね。生涯関わらないでくれと言えばちょっと待てと引き止められるだろうけど、すこし休暇が欲しいと要求するくらいなんでもないさ」 「ちがうんだヴィクトル。ぼくは考えてみたいんだ」 「何を?」 「今後のぼくたちのことを」 そのとき、ヴィクトルは直感的におののき、めまいを起こしそうになった。勇利がまたいやなことを言い出すのではないかとおびえた。しかし勇利は「離れたい」と言ったわけではなかった。「考えたい」──そう言ったのだ。 「ぼくたちは近づきすぎていると思う。お互いのことしか見えない」 「それで何か問題があるのかい?」 「問題はないよ。でも、もっといろんなヴィクトルを見たいし、ぼくはヴィクトルのことを改めて考える時間が必要なんだ」 「それってつまり、俺はもういらないということ?」 「なんで?」 勇利は笑い出した。 「ヴィクトルのこと考えたいのに、なんでいらないなんて思うの? 反対じゃない?」 「別れることを考えたいんじゃないのか?」 「ヴィクトルのことを考えたいんだよ」 その「ヴィクトルのこと」の中に「別れ」もふくまれるのではないかと気が気ではなかった。勇利はヴィクトルを愛している。これはいつも感じていることだ。しかし、愛されているからといって油断できないのが勝生勇利なのである。 勇利は一度きめたらこころを動かさない頑固さを持っている。ここで「だめだ。日本へは帰さない」とヴィクトルが譲らなかったとしても、なんとしても自分の思い通りにしてしまうという予感があった。ヴィクトルはあきらめた。そのことをクリストフにこぼしたら、彼は笑って気楽に言った。 「いいんじゃない。確かに君たちはひとつになりすぎだよ。いまは完全にとけあっちゃってるからね。離れないとわからないこともある。スケートと同じさ。自分ですべっていたら、いいのか悪いのか、判断がつかないことがあるだろう。あとで映像を見て、ああ、こんなふうだったか、って理解できる。たまには風を入れることも必要だよ」 「そんな理屈はくそくらえだ」 「ずいぶん上品な言葉遣いをするじゃないか。けど、ゆるしたんでしょ?」 「ああ。好きなだけ羽を伸ばしてくるといいと言った。でもすぐに勇利は泣くぞ。俺がいなくてさびしくて、やっぱり一緒にいたいから貴方も日本へ来て、あるいはロシアに戻ります、そんなふうに泣きついてくる。一週間もしないうちにね」 「つまり勇利は、自分がそうなるかどうかためしたくて離れたんだ」 「……ならなかったらどうなると思う?」 「なるんでしょ」 クリストフは楽しそうだった。 「自信があるんだろ、ヴィクトル」 勇利はひと月、連絡をよこさなかった。 勇利は、俺がいなくても生きていけるかどうか、それをためしているのでは? ヴィクトルはそんな思いがぬぐえなかった。しかしそれなら、メールなんて送ってこないはずである。完全にヴィクトルを切り捨てにかかるにちがいない。けれど勇利は、最初のメールのあと、しばしば連絡を入れてきた。それも、運命をこころみているとは思えない、愛情深い様子だった。 最愛で最愛の最愛なヴィクトル 今日はすこしリンクですべってきました。大変です。東京でも、時間があれば知っているリンクへ足を運んですべっていたのですが、改めて時間をかけて滑走してみたら……、驚かないでください。 トリプルアクセルが跳べなくなっているのです! クワド? 訊かないで。 冗談ではありません。トリプルアクセルといえば、ぼくの代名詞ですよ。勝生勇利ほどトリプルアクセルをうつくしく跳べる者はいないと、世界じゅうで評判なのです。毎回かならずGOEプラス3の加点、ヴィクトル・ニキフォロフよりもすばらしいジャンプ、プリンスオブトリプルアクセル。そんな勝生勇利です。もう跳べません、なんてとても口にはできません。 ……ごめんなさい。だいぶおおげさに言いました。こういうのを日本語で「盛る」と言います。ヴィクトルは日本語がだいぶ上手になりましたよね。この表現は知っていましたか? ともあれ、ぼくがトリプルアクセルを得意にしていることと、トリプルアクセルが跳べなかったことは本当です。これはやばい。今日から猛練習を始めることにします。まず筋肉量が落ちているのをどうにかしなければいけません。ああ、こんなとき、優秀なコーチがいてくれたらなあ……。 なんて。 ヴィクトルは、マッカチンと仲よくしていますか? それでは、また。 貴方だけの勝生勇利 写真は、なつかしい、アイスキャッスルはせつの玄関口だった。ヴィクトルはいますぐ勇利のところへ行って、トリプルアクセルの見本を跳んであげたくなった。 いや、待て。いまの自分のトリプルアクセルはうつくしいだろうか? このところ忙しくてリンクに顔を出していない。明日は行かなければ。 愛するヴィクトル 今日は地元のちいさな地方誌の取材を受けました。昔の話をしました。スケートを始めたころのことです。いえ──バレエを始めたころのことかな。ヴィクトルにいつからあこがれているのか、という話もしましたよ。ぼくが貴方に夢中になったのは何歳のときだったか、そのことを貴方に語ったことはありましたっけ? もし知りたかったら、この地方誌を取り寄せればいいかもしれません。取材をしてくれた人は、「いつもはたいていあまるけど、このインタビューが載る号は瞬く間になくなるにちがいない」と言っていました。まさかそんなことはないと思いますから、簡単に手に入るでしょう。 いろんな人が、ぼくに会うたび褒めてくれます。女性はいつも「肌がお綺麗ですね」と言います。冗談だと思っていましたが、今日会った人にも言われたので、もしかして本当では、という気がしています。ヴィクトル、貴方もよくそう言ってくれましたね。 みんな、ほかにもいろいろ褒めてくれるのですが、差し引いて聞いています。おもしろいのが、どれも、ヴィクトルが一度は言ってくれたことのあることばかりなのです。でも──、そう、ひとつだけ、初めて���いた言葉があります。それはこんなのです。 「勝生さん。勝生さんがニキフォロフさんを見るときの目がとてもすてきです。最高にかわいらしいです。いつもそんな目で見ていらしたのですか?」 どうですか? 貴方は、ぼくが貴方を見るとき、かわいい目つきをしていたことに気づいていましたか? 貴方は「かわいい」とか「綺麗だ」とかは言ってくれましたが、「俺を見るきみのまなざしが最高にかわいい」と言ってくれたことはありません。かわいいそうですよ。知らなかったならおぼえてください。知っていたら──、どうして言ってくれなかったのですか? ひみつだったの? ぼくからも貴方に言うことがあります。ヴィクトル、貴方の目は──ぼくを見るとき、みんなが知るヴィクトル・ニキフォロフじゃなくなりますよ。ぼくはその瞳がとても好きなのです。ご存じでしたか? 貴方の従順な 勝生勇利 ヴィクトルはリンクへかよい、まるでシーズン中であるかのように熱心に練習をして、トリプルアクセルも、四回転のジャンプも、すべてうつくしく仕上げた。機嫌よく帰宅し、食事をしているところへ、勇利からメールが届いた。見ると今日は文章がほとんどない。その代わり、動画がくっついていた。 ヴィクトルコーチ ぼくのトリプルアクセル、いかが? 貴方の忠実なる生徒 ヴィクトルは勇利のジャンプをじっくりと眺め、ここがいい、ここがよくない、プラス3はつけられない、と判断した。 愛するヴィクトル 今日は用事があって福岡へ行ったのですが、リンクで南健次郎くんに会いました。おぼえていますか? 試合で顔を合わせたことが何度もありますよ。日本の選手です。ぼくを見ると口が利けなくなったようです。でもすぐに立ち直っていました。ぼくはすこしすべりました。動画撮影の許可を求められたのでいいよと答えました。 今日使ったリンクは氷がやわらかかったです。ヴィクトルは固い氷が好きなんだよなあ、と思いました。 ぼくがどういう氷が好きか、貴方はおぼえてくれていますか? 貴方の勇利 ヴィクトルはすぐさま調査をし、南健次郎のSNSを探し当てた。いちばん新しい投稿に動画があって、「尊敬する勇利くん!!」と興奮ぎみに言葉が添えられていた。勇利はジャンプをすることもステップを踏むこともなく、まるで一般的な人のようにすいすいとすべっているだけだった。こちらを見ようともしない。相変わらず不親切である。しかしヴィクトルは食い入るように勇利の姿をみつめた。 右手を見た。 きらっ、と光るものがあった。 ヴィクトルは驚くほど安堵し、やすらかな気持ちでマッカチンを抱きしめ、眠りについた。 最愛の貴方 ヴィクトル、大切な話があります。 じつは……。 太ってしまいました……。 なんということでしょう……。 いえ、愛するヴィクトル、安心してください。貴方が長谷津へ来たときほど肥えてはいません。ぼくはいま、甘やかされているのです。ヴィクトルもずいぶんぼくに甘いひとですが、ゆるしてくれないこともたくさんあります。貴方がいなければぼくはこうなってしまうのです。知っていましたか? ぼくがダイエットが得意なことはご存じでしょう。明日からがんばります。走りますし、食事制限もしますし、筋力ももっとつけます。そのためにいちばん効くのが何か、ぼくはわかっています。 「そんな身体じゃ、何を教えても無駄だね、こぶたちゃん」 貴方の、こちらのこころを凍らせるようなすてきな笑顔を思い浮かべて励みたいと思います。 痩せるまで連絡しません。そうしたら一日でも早く痩せられるのでは、と思います。 ヴィクトルはどうして太らないの? ずるいよ。 おやすみなさい、ヴィクトル。 貴方の夢を見る 勝生勇利 いとしいヴィクトル 痩せました! 驚きましたか? わりとすぐだったでしょう? ぼくはやればできる子なのです。知っていましたか? これでも、コーチによく「勇利はやればできる子なんだよ」と褒められたものです。 そして思い出しました。ぼくはちびっこスケート教室なるものの講師を任命されていたのです。すっかり忘れていました。痩せてよかった……。 というわけで、スケート教室の先生をしてきました。 あ、なんですか? おまえなんかに講師が務まるのかって? ばかにしないでください。 ええ、ぼくもそう考えました。自分の資質のなさに気づいていないとお思いでしたか? 大丈夫です。ぼくはグランプリファイナルで選手を優勝させるという大きな目標もありませんから、それほど重大な役割ではありません。どこかのレジェンドコーチほどよくわからない宇宙語も使わないし、とめどのないお説教もしません。「なんで自信が持てないんだ?」と不思議そうにしたりもしません。いいですか。ぼくのコーチングはこうです。 「みんな、いまからジャンプをするからよく見ておいてください。見ておぼえるんですよ。わかりましたか? おぼえたら各自やってみるように」 ……冗談です。もうすこし言葉は尽くしました。でも、ごまかしの上にごまかしを重ねた感じです。ぼくの指導で優秀な選手が出るとはとても思えません。でも、本当に幼い子たちなのでそれでいいのです。スケートをする楽しさが伝わればいいなと思いました。スケートは楽しいものなのです。世界一のあこがれの選手に片想いをして、その選手と同じ氷の上に立ちたいとねがいながらするスケートは最高です。 みんな転んでばかりです。教える時間より、助け起こす時間のほうが長かったくらい。でもどの子も笑っていました。ぼくは自分がスケートを始めたときのことを思い出しました。ヴィクトル、貴方も最初はあんなふうに転んだのでしょうか? とても想像がつきません。ぼくの中のヴィクトルは、いつも最高にかっこうよくて、すてきで、超越していて、崇高で、きわだった皇帝なのです。 ぼくがそう思っていること、知っていましたか? 勝生勇利 追伸 でも、家ではちょっと子どもっぽいところもありますよね。 勇利はいま、日本ではいちばん有名な男子のスケート選手なので、インターネット上にもいろいろな記事が出ていた。また、南健次郎のように、動画をアップロードする者も少なくなかった。加えて、ウェブ上の番組に呼ばれることもあり、そうした姿もときおり見られた。ヴィクトルは最近の勇利を目にするたび、彼の右手に黄金のリングが輝いているのを確かめた。時に、「それはヴィクトル・ニキフォロフさんとおそろいの……」と尋ねられると、彼はほほえみ、「ええ、そうです」と落ち着いて答えた。ヴィクトルのひとりよがりかもしれないが──外すつもりはないという意思が感じられた。勇利からの恋文──ただのメールだとヴィクトルは受け取っていなかった。あれは恋文だ──も途切れることはない。たわいないことでも、彼は熱心に書き送ってくれる。ともに住んでいるときにはなかったことだ。ふたりでいたころは、必要なことを、そっけない文句で、飾らずに連絡してくるだけだった。いまは愛情のこもった文章を綴り続けている。 しかし、それでいて勇利は、「そろそろロシアに戻りたい」とか、「ヴィクトルは日本へ来る気はない?」とか、そういったことは言い出さなかった。ヴィクトルは、もしや勇利は、このへだたりを保って今後付き合いたいのでは、とそんなことを考え、そわそわした。 ヴィクトルのことは愛してる。でも一緒にいなくても万事上手くいくんだということがわかったよ。──いつそう言い出すかわからない。 そんなのはだめだ、と思った。それは無責任というものだ。勇利は、一度ヴィクトルを殺し、生まれ変わらせたのだ。新しく誕生したヴィクトルは前よりも傷つきやすく、勇利の愛情を欲している。勇利はよく「わかっていますか?」「知っていましたか?」「気づいていましたか?」と尋ねるけれど、彼こそわかっているのだろうか。 おまえが俺を変えたんだ。 愛するヴィクトル 貴方がウミネコをカモメと言った海へ行ってきました。ひとりで行きました。貴方が隣にいなくてつまらなかったです。 写真は、夏にヴィクトルがはしゃぎまくっていたシャワーです。楽しかったですね。 勝生勇利 ヴィクトルは、勇利の撮ったなつかしい海を後ろにした写真に見蕩れた。勇利のこころに初めてふれたときのことがありありと思い出された。 いとしのヴィクトル 今日は、いつかふたりで出かけた長谷津城を訪れました。みんな誰かと一緒でした。ひとりなのはぼくだけでした。 写真をつけておきます。 ぼくがいま、誰に会いたいかおわかりになりますか? 勇利 いとしいヴィクトル ヴィクトルといつだったかお酒を飲んだお店に行きました。あのとき飲んだのは何だったでしょう? おぼえていないので、ヴィクトルが好きな焼酎を頼みました。美味しかったです。ヴィクトルがいればいいのになあと思いました。 写真をつけておきます。なみなみと注がれているから、ぼくがまた酔っ払って余計なことをしたのではないかと心配でしょう。大丈夫です。この一杯きりにしました。 帰ってきて、ぼくはいまひとりで自室にいます。さっき、ふと思い立って、ヴィクトルが使っていた部屋に行ってみました。そこはがらんとしていました。ベッドに寝転がってみると、ヴィクトルの匂いがしました。不思議ですね。もう長いあいだヴィクトルはこれを使っていないのに。そのままうとうとしたら、ヴィクトルの夢を見ました。内容は忘れてしまいました。目がさめて、「ヴィクトル?」と呼びかけてしまいました。そうか、夢か、と思いました。ここにはぼくひとりしかいません。 この自室にいると、いまにもヴィクトルが扉を開けて、「勇利!」と飛びこんできそうな気がします。 ヴィクトル、知っていましたか? ぼくは貴方が来るまで、部屋の壁一面に貴方のポスターを貼っていたのです。現在? どうでしょう。知りたいですか? 壁の写真を送ろうかと思いましたが、送ってあげません。 ヴィクトルはいま何をしていますか? ぼくはいま、ヴィクトルのことを考えています。 明日から東京です。何かの番組の収録だったと思います。何だったかな……。 おやすみなさい。 今夜ヴィクトルの夢を見られたら、今度こそおぼえていたいです。 ヴィクトルはぼくの夢を見ますか? 貴方の勝生勇利 勇利。俺を変えたのはおまえなんだ。おまえが俺を殺して生かした。なのにそんなことも知らないで、よくもこんな恋文を送ってくるな。ヴィクトルはせつなさを感じながら部屋の中を歩きまわった。いますぐ勇利のところへ行きたい。しかし彼は考えているのだ。──いったい何を考えているのだろう? こんなに愛を語っていても、明日には���もう考えるのはよすことにします。メールを送るのもやめます」と言い出しそうでこわい。 おまえが俺を新しくしたのに。おまえが……。そんなことをずっと考えていたら、ふと思い出すことがあった。 「──ねえヴィクトル」 あのとき勇利は、自分の金メダルを眺めていた。ヴィクトルに寄りかかり、すこし酔ってとろんとした目をしていた。 「ぼくには誕生日がふたつあるんだよ」 「え?」 生まれるときに時刻が変わった、という意味かと思った。しかしそれなら、変わったあとの日付が誕生日になるはずだろう。 「ぼくが生まれたのは、十一月二十九日」 勇利はほのかに笑った。 「でも、ソチでのグランプリファイナルのとき、全部が終わったと思ったんだ」 ヴィクトルは、あのとき、帰る人々でごった返すロビーで傷ついた顔をした勇利を思い出した。 「ああ、おしまいだって。おおげさかもしれないけど、そう思った。本当だよ」 「うん」 「でも」 夢見るように勇利は目をほそめた。 「雪の降る春の日、ヴィクトルがぼくの前にあらわれて、ぼくは新しくなったんだ」 彼はヴィクトルにことさらにもたれかかり、甘えるようにささやいた。 「あの日がぼくのふたつめの誕生日……」 勇利はヴィクトルの手を握りしめ、耳元に口を寄せて、熱心な言いぶりで礼を述べた。 「どうもありがとう、ヴィクトル。ぼくを変えてくれて」 ──勇利。 ヴィクトルは勇利の私室へ入った。勇利のナショナルジャージが、壁際にかかったままになっていた。これを着た彼が幾度ヴィクトルに飛びつき、笑ったかしれない。ヴィクトルは手を伸ばした。そしてジャージを荒々しくつかみ、胸に抱きしめた。 「勇利……」 勇利は指輪を外さない。しかし、彼はここにはいなかった。 それからふっつりと恋文が届かなくなった。ヴィクトルは、そうか、東京だと言っていたな、と思ったけれど、べつに東京からでもメールは送れるだろうと不機嫌になった。しかし、心配はしていなかった。仕事をしているのだろうと受け取っていた。ところが、三日経っても四日経っても音沙汰がない。いったい幾日の仕事なのだろうとそわそわした。まだやっているのか。それとも、別の仕事が入ったのか。まさか何か事故が起こったわけじゃないだろうな。ヴィクトルはニュース記事を丁寧に調べた。何も問題はなさそうだった。 そわそわしていたのが、いらいらに変わってきた��一週間が過ぎた。もう我慢できない、日本へ行ってやる、と思ったとき、勇利からなにごともなかったかのようにメールが届いた。 恋しいヴィクトル こんにちは。いまぼくがどこにいるかおわかりになりますか? じつは日本にはいません。 バルセロナです! うそだと思う? 写真をくっつけておきますね。 今日着きました。 わかると思うけど……、時差ボケです……。 ごめんなさい、もう寝ますね。 死にそう……。 おやすみなさい。 眠りのとりこ 勝生勇利 追伸 いまでもぼくをスリーピングビューティと呼んでくださる? バルセロナ! ヴィクトルはあぜんとした。 どうしてバルセロナなのだろう? これも仕事だろうか? ただの旅行か。勇利は旅に興味があるたちではない。誰かに会いに行ったのか。バルセロナに友人はいないはずだ。ヴィクトルはなんだか落ち着かなかった。 バルセロナ。バルセロナ……。 親愛なる貴方 こんばんは。そちらはいま何時かな。今日は、ぼくたちの初めてのグランプリファイナルの会場となったところへ行ってきました。中には入っていないよ。何か催しがおこなわれていたみたい。あのとき、ロビーに飾ってあったぼくのパネルを、ヴィクトルがしみじみと眺めていたことを思い出しました。 じつはまだ本調子ではないので(眠いだけ)今日の活動はこれで終わり。明日はいろいろできるといいな。 おやすみなさい。 夢の住人 勝生勇利 厳しいヴィクトル先生 雨だったので、一日ホテルにいました。もったいないかな……。 夜には雨が上がったので、屋上のプールに行ってみました。ヴィクトルが入ったあそこだよ。 あそこ……、いいね。のんびり泳ぐことができて。星空が綺麗でした。 ヴィクトルとは海にもプールにも行ったけど、本気で泳いだところは見せたことがないかもしれません。ぼく、泳ぎはわりと得意なんだよ。スケートの選手になっていなかったら、水泳選手になっていたと思います。……冗談です。でも、得意なのは本当。ヴィクトルと本気で勝負すればよかったな。 いまは部屋に帰ってきて、ぼんやりしています。プールの写真を一緒に送るね。なつかしい? 明日は晴れると思います。 ここへ来てからもずっとヴィクトルのことを考えてるよ。 言うことを聞かない生徒 勝生勇利 ヴィクトルはだんだん不安になってきた。勇利は何のためにバルセロナにいるのだろう。あのプールに入ったということは、つまりあのときのホテルに泊まっているのだ。それでどうするつもりなのだろう? 勇利は──。 勇利は、いったい……。 愛する貴方 晴れたのであちこち出歩いてきました。おぼえていますか? あのとき、ぼくはヴィクトルに観光に連れていってとねだり、貴方はぼくをいろいろなところに案内してくれましたね。あのとき行った場所、ほとんど全部、ひとりで行ってみました。変わってなかったよ。入ったお店も同じ。どれも、ちゃんといまもありました。ごはんもね、そこで食べた。たまたまテーブルが空いてたので、席も同じ。ヴィクトルがスーツを買ってくれたお店、ひとりで入るのは勇気が必要だったけど、思いきって足を踏み入れました。驚いたことに、あのときの店員さんがいて、ぼくをおぼえてくれていました。正確にはヴィクトルをおぼえていたんだと思う。貴方は有名人ですからね。すこしだけ話しました。 ナッツ屋さん。行きました。思い出すと可笑しくなる。ナッツで喧嘩するぼくたちって何なのでしょう。でもたぶん、いま同じことになってもやっぱり喧嘩するのでしょうね。あのナッツ、結局どこへ行ったんでしょう? 誰が食べたのかな? あのあと、ぼくがロシアへ渡ってから、ヴィクトルがおみやげだと言ってナッツを買ってき、いたずらっぽい顔をしたことを思い出しました。 あのときは、ヴィクトルについていろんなところへ行って、とても疲れたけど、ひとりで行くとちっとも疲れなかったです。淡々と目的地を目指すだけだからでしょうか。 こちらにはもう一日います。明日行くところもきまっています。 おやすみなさい。 貴方の勇利 今日の写真は、勇利が休憩していたベンチだった。本当にあそこに勇利は行っているのだ、とヴィクトルは思った。そしておそろしいほどの焦燥にかられた。 勇利はなぜ、ふたりの思い出の場所に、ひとりで足を運んでいるのだろう? いったい何のために? まるで……。 まるで、過去を清算しているようではないか……。 ふたりで過ごした長谷津でヴィクトルのことを考え、ふたりが絆を結んだバルセロナでもヴィクトルのことを考えている。 ヴィクトルとの、どんなことを? 思い出をたどって……、終わりにするためでは? 勇利はヴィクトルに、別れを告げているのではないか? 彼はあのとき、普段にはしたがらない観光をしたがった。別れるにあたり、思い出をつくろうとしたのだ。最後のデートだと。 それを、いま、たどって……。 勇利は……。 「うそだろう」 ヴィクトルは低く言った。 「うそだろう、勇利」 最愛のヴィクトル バルセロナは今日で最後です。明日、ここを発ちます。 今日は大聖堂に行ってきました。 おぼえていますか? ぼくはここで貴方に指輪を渡しました。 貴方は優しくぼくにもはめてくれましたね。 とてもうれしかった。 ただのおまもりです。 でも、ものすごいききめのおまもりです。 一生の宝物だと思いました。 ぼくはこれを外しません。 階段に座って、あのときのことを思い出していました。 なつかしかった。 勝生勇利 俺はどうしておとなしく待っているのだろう。 ヴィクトルは自分に猛烈に腹が立った。 勇利がいないのに、どうして何もしないのだ? 勇利のすることを見ているだけ。なぜ、恋文が届くというだけで満足しているのだ? 考えたい、と言われたからといって何なのだ。そんなことは知ったことではない。こんなの、ぜんぜん俺らしくない。 ヴィクトルはヴィクトルでいて欲しい。 俺は俺なのだ。 「ヤコフ」 ヴィクトルは、深夜だというのにヤコフに電話をかけた。 「頼みがあるんだ」 勇利は明日、日本へ帰るのだろうか。そして──どうするのだろう? もう満足しました。貴方との思い出を訪ね歩いてみちたりました。これ以上は望みません。終わりにしましょう。さようなら。──そんな言葉を送りつけてくるつもりか。 ヴィクトルは誰もいないリンクに立った。勇利のことを考える。勇利のことだけを。 繊細な旋律が流れ始めた。ヴィクトルは両手いっぱいに愛をみたし、勇利のことを想った。なめらかに踊り、すべった。これまで、こんなに複雑な感情をともなってスケートをしたことがあっただろうか? それは祈りのようだった。そして、情熱でもあった。情愛でもあった。つまるところ──愛だった。勇利が織り上げた愛を、ヴィクトルは思い出していた。 勇利のスケートを初めてじっくりと目にしたのは、ヴィクトルの「離れずにそばにいて」をすべったときだった。映像ではあったけれど、ヴィクトルは視線を外せない思いで熱心にみつめた。勇利は、ヴィクトルのまねをし続けた昔を思い出すためにあれをすべったという。難しいプログラムだ。試合でそのまま使うものである。しかし勇利は、うわべだけではなく、ほとんど自分のものにしていた。相当すべりこんだにちがいない。勇利はあの曲を通して自分をみつめ──そしてヴィクトルをみつめていたのだ。 勇利は自分の愛を表現するとき、何を考えていただろう? ヴィクトルは、勇利の振りをすっかりなぞりながら、あのときの勇利を思った。この曲を振り付けしたのはヴィクトルだ。勇利を理解し、彼の深い想いがあらわれるようにした。しかし、ヴィクトルの思うそれと勇利の本物のこころはまったく同じではない。勇利は……ヴィクトルのことを、どんなふうに……。 勇利がヴィクトルをみつめたように、ヴィクトルもいま、勇利をみつめていた。 あのころ、愛のようなものに気づき始めた勇利。彼はどんな気持ちでいただろう。そして──グランプリファイナルで最後だときめたとき、何を思ったのか。 ヴィクトルは、「終わりにしよう」と言った勇利を責め立て、激怒した。あのときはそれが精いっぱいだった。勇利を求めていたのだ。「もっと俺を必要としているのかと思った」──そうも言った。しかし、勇利がヴィクトルを求めていなかったとはけっして言えない。彼には決断する勇気があっただけだ。そのあと、勇利と過ごした日々を思えばわかるではないか。彼はヴィクトルをこころから熱愛し、楚々とした、はかりしれぬ愛を捧げ続けた。おぼつかない気持ちで「終わりにしよう」なんて言ったはずはない。彼は苦しんだ。じゅうぶんに……。 自分よりも、ヴィクトルを取ったのだ。 それはヴィクトルの望むところではなかった。勇利はヴィクトルの気持ちを考えていなかった。そうかもしれない。彼のひとりよがりではある。でも、ヴィクトルを愛していなかったという証拠にはならない。むしろ正反対ではないか。勇利は、自分のことよりも���ィクトルを……。 勇利……。 またそうやって俺を愛するあまり、俺の手を離そうというのか。 きみの紡ぐ愛は繊細に過ぎる。 そして──身勝手だ。あまりにも……。 ヴィクトルは微笑を浮かべた。そうだ。勇利はそういう子なのだ。そんな勇利だから、ヴィクトルは愛してしまった……。 でも──。 勇利。 俺もね……。 身勝手さでは、おまえに引けを取らないんだよ。 知ってたかい? この曲……。 いい曲だね。 一緒に、何度も何度もすべった。あのときは勇利のお手本だったけど……。 いまは、俺の愛を織りこめるよ。 俺だけの、きみにだけそそぐ、愛を……。 ヴィクトルは、最後に、手を、差し伸べた。 いつも勇利がヴィクトルに向かってそうしていたように。 このときはヴィクトルが、勇利に向かって……。 それで初めて気がついた。 この手のさきに愛するひとがいるというのは、どんなに胸のあたたかくなることだろう。 ──勇利。 いつもこんな気持ちで俺を見ていたの? 「どうもありがとう、ヤコフ」 ヴィクトルはリンクサイドに上がると礼を述べ、物穏やかにほほえんだ。ヤコフはなんともいえぬ奇妙な表情をしていた。 「おまえが人のプログラムをすべるのを初めて見た」 「そうだっけ」 「いい演技だ」 ヴィクトルはちょっと目をみひらいた。 「ヤコフが率直に褒めてくれるのは珍しい。初めてじゃないか?」 「いい演技だ」 ヤコフはもう一度言った。 「本当に……」 「…………」 こころからのその賛辞に、ヴィクトルはかすかな笑みを浮かべた。 「俺……、彼を見ていたんだ……」 その夜、一本の動画がインターネット上にアップロードされた。 【Victor NIKIFOROV】I tried skating.【YURI ON ICE】──。 ヴィクトルは食事の支度をしていた。まったく自分は料理の腕が上がったと彼は考えた。勇利と暮らすようになってから、格段にそれは進歩したのだ。しかしヴィクトルは、自分のつくるものより、勇利の用意する食事のほうが好きだった。でもそれと同じくらい、自分のつくったものを食べた勇利が喜ぶのが好きだった。 「マッカチン、そろそろごはんにしようか?」 マッカチンが返事をした。マッカチンのごはん、ごはん、と戸棚のほうへ行ったら、玄関の呼び鈴が鳴り渡った。何かが届く予定も、訪問の約束もなかったのでヴィクトルは首をかしげた。しかし、誰だろう、と思う間もなく、開錠の音がし、続いて扉がひらいたので、はっとして息をのんだ。一目散にマッカチンが玄関へと走っていった。ヴィクトルは動転しながらあとを追った。 「わっ。元気だな……。はいはい、ただいま。いい子にしてた?」 マッカチンが喜んで吠えた。ヴィクトルは廊下で立ち止まり、戸口に視線を注いだ。 「ん」 マッカチンを撫でていた勇利が顔を上げた。彼はぱっと立ち上がると顔を輝かせ、両手をひろげた。 「ヴィクトル!」 なつかしい、おさなげな笑顔にヴィクトルは見蕩れた。勇利は気持ちよさそうに叫んだ。 「ぼくは貴方と結婚する! そして、貴方の人生をしあわせにするぞっ」 ヴィクトルは目をみひらいた。勇利は靴を脱ぎ散らかし、ヴィクトルに駆け寄った。そして飛びつくようにして抱きついた。ヴィクトルはふらついた。しかし、しっかりと受け止めた。 「ただいま! ね、太ってないでしょ!」 「勇利……」 ヴィクトルはぼうぜんとした。勇利はヴィクトルの胸に頬をすり寄せ、しあわせそうにほほえみながら、仔猫のようなしぐさをした。 「ヴィクトル、いい匂いがする! ごはんつくってた?」 「あ、ああ……」 「ぼくのぶん、ある?」 「あるよ……」 「食べる!」 勇利が元気に言った。ヴィクトルはうなずき、「じゃ、支度するから」と答えた。 「荷物を片づけておいで」 「はーい」 勇利は、さほどのものは持っていなかった。手まわりの品だけ、といった印象だ。遠征のおり、ジャージやスケートシューズ、衣装、着替え、と持ち歩いていたことを思えば、かなり身軽な様子である。ヴィクトルは上の空で食卓をととのえた。 「いただきます!」 ふたりは向かいあって食事を始めた。マッカチンも食べ出した。ヴィクトルはそっと勇利のそぶりをうかがった。勇利は「ヴィクトルのこれ、久しぶり」と言いながら炊き込みごはんをたべている。まるで、ちょっと数日仕事で留守にしたけれど、何の問題もなく帰ってきた、といった具合だ。 「バルセロナからそのままこっちへ来たの?」 「うん、そうだよ。出国しようとしてちょっと足止めされたけどね」 「何かあったのかい?」 「とくに予定をきめてなかったから、いろいろ狂っちゃって。飛行機に乗れなかっただけ」 「そう……」 「おいしいなー。ヴィクトル、おかわり」 「また太るぞ」 そう言いながらもヴィクトルはおかわりのぶんを与えた。勇利は終始にこにこしており、普段通りだった。ヴィクトルは、何のためにバルセロナへ行ったのか、ということを訊けないままだった。いやなことを言われるかもしれない。いや、しかし──勇利はここへ帰ってきたとき、なんと言っただろう? 「もうくたくただよ。いまあるのはね、食欲と睡眠欲。できればお風呂も入りたいけど、眠気に勝てるかなあ」 「旅行、楽しかった?」 「写真見た? なつかしかったでしょ?」 「……ああ」 勇利は食事のあと、目をこすりこすり風呂へ入った。そして上がるなり「むり」とつぶやいて寝室へ直行して寝てしまった。ヴィクトルは、夢ではないのか、勇利は本当に帰ってきたのか、と思いながら片づけをした。幾度も寝室をのぞきに行って、勇利の寝息を確かめた。マッカチンが勇利にくっついて眠っていた。 ヴィクトルは寝支度を済ませると、そっと勇利の隣にすべりこみ、彼の寝顔をみつめた。ずっと見ていた。眠れなかった。勇利の頬にふれようとして、手をひっこめた。 勇利……。 それでもいつの間にか寝入ったらしい。夜半、ふっと目ざめると、勇利の目がぽっかりと開いていた。彼の瞳は、暗闇の中で、濡れたようにひかっていた。 「……勇利」 「体内時計がめちゃくちゃなんだよね」 「……そうだろうね」 「眠れなくなっちゃった……」 ヴィクトルは手を差し伸べた。このほどは、慎重に、そっと勇利の頬にふれた。勇利は天井からヴィクトルのほうへ視線をまわし、まぶたをほそめてにっこりした。 「あれ……、見た。すごいね……」 勇利はささやいた。 「うれしかった。ありがとう」 「……あれをすべって、勇利のいろいろなことがわかったよ」 「ぼくもあれを見て、ヴィクトルのことがわかったよ」 「どんなこと?」 「わかるでしょ?」 「…………」 「わかるはずだよ。ぼくはもう、胸がいっぱいなんだ」 「勇利……」 「ん?」 「帰ってきたとき言ったことは、本当?」 「うん」 勇利は熱意のこもったまなざしをヴィクトルに向け、こっくりうなずいた。 「もうきめたから」 「…………」 「で、指輪を買おうと思ったんだけど」 「えっ」 ヴィクトルは仰天した。 「買ったのか!?」 「時間がなくて……」 「…………」 勇利は照れたように笑った。 「なんだか、ヴィクトルにすぐ会いたくなっちゃって、でも飛行機が取れなくて、いらいらして、ホテルでふてくされてたら、時間が経っちゃったんだよね。そのあいだに店に行けばよかったんだけど、すっかり動転してて」 ヴィクトルは息をついた。 「……指輪なら、もうもらったよ」 「それはお礼だよ」 「金メダルを獲ってくれたから、それでいい」 「そっか」 ヴィクトルはせつなくなって口をつぐんだ。 「ヴィクトルはやっぱりかっこいいね」 勇利はつぶやいた。 「あんなスケート、見たことないよ……」 しばらくふたりとも黙っていた。勇利はもぞもぞと身じろぎすると、ヴィクトルのほうへ寄ってき、ぎゅっと抱きついて首元に額をくっつけた。 「……ヴィクトルだ」 「うん」 「ヴィクトルの匂い……」 「うん」 「いつぶりかな?」 「さあ……」 ヴィクトルは額に落ちかかる勇利の髪をそっと払ってやった。 「おぼえてないな……」 「ヴィクトルはすぐ忘れるもんね」 「勇利と会えない時間なんてまじめにはかっていたら、気が狂う」 「…………」 「勇利はそんなふうに思うこと、ない?」 「……ヴィクトル、ぼくね」 勇利は低くささやいた。 「ずっと、貴方だけ見てたんだ」 「……うん」 「ヴィクトルのスケートを見て、夢中になってから、もうずっと。脇目もふらずに、ヴィクトルだけを」 「……ああ」 「ぼくはヴィクトルのスケートが好きで好きで……、」 勇利はほのかにほほえんだ。 「スケートから離れても、ヴィクトルが好きなんだろうと思った」 「…………」 「ヴィクトルをどうしようもないほど愛していて、おぼれていて、どっぷりで、離れられないんじゃないかって」 「…………」 「そうじゃないかと予感してたんだ」 勇利が何かを探すように手をさまよわせた。ヴィクトルは彼の手を握った。強く……。 「その疑いは濃厚だった」 勇利の声は、青くかすむ神秘的な夜の中にしみこんでゆくようだった。しかし、けっして消えない。ヴィクトルのこころにとけて、じわっとそこをあたためる。 「それを、確かめたかったのです」 カーテンの隙間から、わずかばかり入ってくるおぼろなひかりが、勇利の頬を白く照らした。真珠のような純潔さに、ヴィクトルは陶然となった。 「……それで?」 ヴィクトルはちいさく言った。勇利はあえかな息をつき、微笑を浮かべた。 「思った通りでした」 「…………」 勇利……。 いま? いま……、それを知ったのかい? いまごろ……。 俺は……。 俺はもう、とっくに……。 「……変わった子だね」 「そうかな」 「そういうの、好きだけど」 「そう?」 「ああ」 「そっかぁ……」 勇利は夢見るように笑った。 「……楽しかった?」 「何が?」 「長谷津とか……バルセロナとか……」 「何度もメールに書いたけど」 勇利はヴィクトルの耳元にくちびるを近づけ、優しく言った。 「貴方がいないから、つまらなかったよ」 ヴィクトルは胸が痛くなり、ものが言えなかった。 「ヴィクトル……」 「…………」 「ぼくのこと……、最後まで……、」 勇利の愛情深い声が可憐な懇願をした。 「……おねがいします……」 勇利は寝息をたて始めた。ヴィクトルは起き上がり、まくらべの棚のひきだしを開けて、そこからちいさな箱を取り出した。そして、もうずいぶん前に支度していた指輪を、勇利の薬指にそっとはめた。自分の指にも通した。勇利が何かをつぶやいた。すてきな夢を見ているように、彼は口元に微笑を漂わせていた。 そこでヴィクトルは、棚に携帯電話を置き忘れていたことに気がついた。近頃は仕事の用事が多いので、電話をふたつにわけているのだ。こちらは私的なものである。深夜にヤコフにかけてから、そのままだったのだと思い出した。電池が切れてしまっている。なにげなくコードにつなぎ、メールが入っていることに気がついた。ヴィクトルははっとした。急いで開封し、視線を走らせる。そしてすやすやといい気持ちそう��眠っている勇利を見た。 「勇利……」 あのヴィクトルのすべりを目にして、勇利はこころをきめたのだと思っていた。しかし……。 「勇利」 ヴィクトルはたまらないという表情になった。我慢できず、身をかがめ、勇利のくちびるにおごそかに接吻した。 「勇利……、俺もだよ」 最愛なるヴィクトル 眠れません。 明日……ううん、今日発つというのに、これでは寝坊してしまいそうです。でも、いくら寝ようとしても眠れないので、こうしてヴィクトルのことを思い出しています。 ヴィクトル。 ぼくは貴方と離れてから、たくさん貴方にメールを書きました。メールを書いていないときでも、貴方のことを考えていました。何をしていても、ヴィクトルのことで頭がいっぱいでした。一緒にいるときより、いっそう、そうでした。そうだろうと思っていました。でも、実際体験すると、「そうだろう」と想像していたのとずいぶんちがいました。 さびしく、せつなく、つらかったです。 思ったより、ずっと……。 何を見ても、何をしても、ヴィクトルがそばにいないことが不思議でした。貴方がいたらなんと言うだろうと考えました。どんなふうに笑うだろうと思い浮かべました。 ヴィクトル……、ぼくは、貴方のスケートをひと目見たときから夢中でした。でも……。 いつからぼくはこんなふうになってしまったのでしょう? 貴方はいつ、ぼくをこんなふうにしたのですか? いつだったか、ぼくには誕生日がふたつあると言ったのをおぼえていますか? ぼくは、苦しいくらい貴方が好きです。 その気配はずっとしていたし、予感もありましたが、それに、今日、気がつきました。 新しいぼくになったのです。 ぼくのみっつめの誕生日です。 ヴィクトルはいつもぼくを新しくしてくれますね。どうして? どうしてぼくはこんなに貴方が好きなのでしょうか? そのひみつを、貴方は説明できますか? ぼくにもいつか解き明かせるでしょうか? これが最後の便りになります。もう、メールなんかでは満足できません。ぼくはヴィクトルに会って、ヴィクトルにみつめられ、ヴィクトルの声を聞いて、ヴィクトルの匂いを感じたい。 ヴィクトルに抱きしめられたいです。 貴方はこんなぼくをどう思うでしょう? 度を超した愛情だとひるむでしょうか? おかしな子だと笑うでしょうか? 貴方の気持ちがわかればいいのですけれど。でも、わからなくても構いません。ぼくはまっすぐ貴方の胸に飛びこみます。 貴方はぼくのすべてです。 もう、ずっと前からそうだったのです。 ようやくはっきりとわかりました。 貴方は知っていましたか? ぼくの愛は貴方のものだと。 永遠に貴方の 勝生勇利
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ば��ることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を��奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって���段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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