#倫敦の鬱屈
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駆け抜けきれなかった20代からのバトン

先月、自身3年ぶり、東京では6年ぶりのリサイタルをおこなった。この6年のあいだに何の本番もなかったわけではない。オーケストラの公演や短い出番のソロなど舞台の上で弾いてはいたが、ソロをたっぷり弾く機会は実にひさしぶりであった。というのも、演奏活動に空白を作らなければならないほど自分の身にいろいろなことが起きたのだ。
わざわざ人に言うほどのこともない、とそれぞれの出来事の最中は黙していたが、ほとんど寝ているしかなかった3か月間、全てを投げ打って博士論文の追い込みに徹した半年、そして愛猫の闘病の日々は、何もなかったかのようにして振る舞うにはあまりにも大きなことで、自分の根幹を揺るがすものだった。振り返るにも痛みを伴うが、このあたりであえて書き残しておこうと思う。
そもそも日本での前回の本番というのが2019年冬のことで、そこから世界はあの2020年春を迎えるのはみなさんもご存知の通り。このときほとんどの演奏家が未来の予定を一旦白紙にしたはずだ。わたしはイギリスのナショナ���ロックダウン直前の2020年3月8日にロンドンでひとつ本番があり、その後演奏会という形でお客さんの前に再び立てたのは2021年12月だった。この間に、自宅のバルコニーから2度、玄関先から1度、ご近所さんに向けてささやかなライブをおこなった。
その裏側で、2021年4月に激しい腹痛で救急車を呼んで以来、病院に何度も足を運んで様々な検査を受けることになる(余談だが2021年夏に乗っていたタクシーが後続車に軽く追突をされて鞭打ちの治療に通ったことも忘れ難い)。およそ2年のあいだにイギリスの医療機関で受けられた検査はレントゲン1回・婦人科検診複数回・様々な血液検査とピロリ菌検査。一度もCTまで辿り着けなかった。検査の甲斐も虚しく原因不明のまま腹痛は半年に1回ほど繰り返され、食べるものに神経質になり、外食を悉く断って付き合いが悪いと噂された気もしたがそんなことを構う余裕も無い。
コロナ禍以降初の公演となった2021年12月の本番は短い出番でつつがなく終えたが、そのすぐあとにコロナのオミクロン株を拾う。急性期は軽く済んだものの予後が悪く、2か月ほど倦怠感を引きずり、何なら今もあのときやられた記憶力を司る何かの扱いに少し手こずる。暮れの演奏会がご縁を呼んで2022年春に在英日本大使館でリサイタルの機会を得るも、本番の数日前に例の腹痛が再発。そうして激しい痛みを繰り返すこと4回目の2022年10月には2度目の救急車コールと相なり、このときも原因不明・重篤な病ではないとけんもほろろに帰された。引き受けていたオケの仕事だけは辛うじて顔を出したが、体調は全く上向かない。
業を煮やして日系病院にかかり直したら俄かにヘルニア疑いが浮上し、診断確定には更なる検査を要するためイギリスの専門医の予約までは取り付けた。しかし重ねてウイルス性胃腸炎を引っ掛けたのがとどめとなり、1か月近く先の診察を待てず這うようにして日本に舞い戻った。帰国して3日と経たないうちに痛みの原因はヘルニアと確定。ただこれは過去2年に渡って受けてきた検査でほかの可能性を潰してあったからこその診断の速さだったとも思う。2度目の救急コールからひと月で体重を5kgほど落とした。体調を崩してからロンドン��戻るまでの3か月近くを、楽器を弾くことはおろかPCを立ち上げることもできずほとんど横になって過ごした。
博士論文の提出は半年近く遅らせることにして、伴って学生ビザも苦労して延長手続きをし、2023年明けてロンドンに戻ってからは生活の全てを投げ打って論文の仕上げに徹した。その半分は布団の中で書いたと言っても過言ではない。出かける用事があるときはその前後に多めの休養を要し、体力が追いつかなくて寝るしかない時間も多く、万全でない体を最大限に使って何とか7月に提出した。夏の一時帰国のフライト当日の未明のことだった。
その夏日本にいる間は友人を誘ってヴァイオリン・ソナタを1曲録音したが、実を言えばソナタを全楽章通して弾き切ることにすらそのときは不安があった。でもそう口外することも躊躇したのは、そして今だから語れるのは、あのときは自分が復活する自信を持ちきれなかったからだ。録音をしてみたら思いがけずちゃんと弾けて安堵したが、共演者がいたからというのもあるし、これだけのことがあった2年間、研究材料として、そしてYouTubeを口実として個人的な録音だけはコンスタントに続けていたので、それは助けになった。録音の直前だけやっつけ仕事のように楽器を触るのは後ろめたかったが、触らないよりマシだと思った。
以降もヘルニアは痛むので、うまい折り合い方を探して現在も模索は続く。少し飛んで2025年5月のヘルシンキへの学会旅はわたしにとって挑戦的であったし、実際学会中日はあまりにヘルニアが痛み途中で断念して宿に帰った。
話を2023年に戻すと、腹は痛みつつ、食べるものに相変わらず神経質になりつつも、2023年秋、わたしは博士論文の口頭試問に臨んで修正を伴う合格となった。2023年11月のオーケストラの本番は実に1年ぶりの舞台だった。連日のリハーサルを乗り切って、このお腹でもできたという小さな自信を得る。2024年3月、論文の修正を何とか仕上げて期限間近の学生ビザを何とか卒業生ビザに書き換えた話は昨年のブログに詳しい。
散々悩んでのビザ取得だった。申請するときに実家の14歳の愛猫の顔がよぎった。でも結局、先人たちの「帰ることはいつでもできる、ビザ申請は機会が限られる」という言葉はその通りだと思ってイギリスでの生活を続けることを選んだ。審査結果が届く頃に実家から最近猫の���合が芳しくないと知らせがあり、「会えるうちに会っておこう」とビザを受け取り次第日本へ飛んだ。そしてわたしの飛行機があと数時間で羽田に着く頃、猫ががんを告知されていた。
猫との闘病の7か月間の詳しくは別に項を立てると思うが、ここでも少し触れたい。愛猫の死はわたしにとって初めての身内の喪失だった。当初2週間の滞在のつもりで帰ったが、そこから猫の抗がん剤治療を決心、「最初の1か月が投与の頻度が高くて大変」という獣医師の説明を受け、わたしはロンドンへの戻りの便を遅らせて治療の最初を伴走した。その6週間は永遠にも感じられる時間で、その間に死なないとも言い切れない病状で、変更した航空券を使えないことがあるかもしれないと覚悟していた。
ロンドンに生活を残したまま、わたしは全てを投げ打っても完全帰国すべきか迷った。腹を決めてビザを得たつもりが、いきなり散々悩んだ末、わたしは結局ロンドンに戻ることを決めて目の前の数週間を夢中で過ごした。愛猫が死んだあともわたしは生き続けねばならない。そして何かを諦めたことを猫のせいにしたくなかった。猫が気の毒だ。
投薬直後の猫は終日誰かの付き添いが必要で、夜中にイギリス時間でオンラインレッスンをしたあとから朝までの時間帯はわたしが担当した。家族3人で24時間を回すのも体力的にキツかったから、その後わたしがイギリスにいる間は夜のほぼ全てを母が看たことを思うと言葉にならない。そして日本の田舎にいる間、車を持たないわたしの行動範囲はほとんど自宅と動物病院の往復のみ。SNSで人の動向を見るのが辛くて目を背けた。そのときは気持ちも卑屈になっているので、「遊びに誘われても煩わしい」と思って日本にいることすらもひた隠しにした。世界がとても遠く感じられた。
こうなると本番どころではなく、先の予定を入れるのは怖かった。演奏会なんぞ企画した日にはキャンセルのリスクを負う自信もなく、引き受けたら穴を開けられない演奏の仕事を入れてうっかり最期に立ち会えなくなるのも恐ろしい。未来の日付を見るとその頃まだあの子は生きているだろうかと考えてしまいても立ってもいられなくて、目の前のことしか見たくなかった。指導教官に勧めてもらった学会の締切も忘れる勢いだったが、先生はわたしの様子から何かを感じ取ったのだろうか、締切ぎりぎりで連絡をくれて、さらに申し込みのプロポーザルの添削を買って出てくれたので甘えた。結果として秋にノルウェーの学会に招待されたが、自分ひとりではなし得なかった。
2025年6月半ば、ロンドンに戻るや否や論文の製本を発注して滑り込むように7月の卒業式に間に合わせた。猫の隣で���備したエルガー『カラクタクス』序曲は忘れ難い。1週間前までは家のロフトで治療中の猫をほかの猫から隔離しながら過ごしていたわたしが、ロンドンの地でコンサートマスターの任���を果たしていることが不思議だった。どちらにも夏至目前の強烈な朝日がただそこにあったことが思い出される。そして父親が来るはずだった卒業式には、代わりに大家さんが来てくれた。
博士号取得なんてめちゃくちゃめでたい場面なのに、わたしの心はまったくめでたくなかった。想像よりもずっと大きな不安を抱えて踏み出した社会人の一歩は、変わらずにわたしを信じてくれた生徒の存在に支えられた。その後年末までに2回ほど日本に戻った時期も含めて、わたしが日本にいるあいだは辛抱強くオンラインレッスンで待っていてくれた生徒たちは、誰1人欠けることなくその日々の最後まで付き合ってくれたのだった。
願掛けのつもりで12月に東京行きの飛行機を予約し、それでも何かあればすぐ飛んでいく覚悟��四六時中携帯を握りしめて過ごした。猫には会いたいけれど“最後のフライト”がなるべく遠くあってほしい。リンパ腫の転移が疑われて胸水に怯える秋、10月の学会まではもってくれ、11月下旬のオケの本番まではもってくれ、と祈りながら恐る恐る入れた予定を遂行し、ロンドンで社会人1年生として不器用にも懸命に過ごして年末を待った。
結果として飛行機は2週間ほど早めることになったものの、当初宣告された余命からはかなり粘っていた。何の因果か彼(猫)はわたしを、わたしの誕生日に呼び寄せた。仕事の全てを放り出して駆けつけたわたしは、最期の1週間を一緒に過ごして、冬至が迫ったある朝、太陽が顔を見せる前に自分の膝の上で看取った。西の空に三日月が残っていた。
彼(猫)の葬儀を終えて、ロンドンに戻る便を待ちながら手持ち無沙汰になったところで、開催を決意したのが先日2025年5月のリサイタルだった。輪廻転生的なことで起こる再会はあまり信じていないが、ヴァイオリンの練習をわたしの足元で聞くのが好きなあの子だから、ヴァイオリンさえ弾いていれば音が届くかもしれない。そのまま呆然として退屈な年末年始を過ごすこともできた。でもここで立ち上がらなかったら2度と弾けなくなる気がした。
年末からほんの5か月で会場確保から告知宣伝とリサイタルにしてはずいぶん急ごしらえだったが、企画とレパートリー自体は何年も胸の内に温めていただけあって準備は間に合った。それこそ2時間のソロのプログラムをすること自体も6年ぶりで、技術的にも体力的にも不安なまま当日を迎えたのが本当のところだ。でも流れに身を任せるように弾いていたら、気がつくと最後の曲まで到達していた。1��前、あの子(猫)が余命宣告された頃に、思い出作りのために映ってもらった動画で弾いた、あの曲。
猫の最期に駆けつけた頃、わたしのメールボックスには2025年5月の学会の招待や研究領域での執筆の話が届いており、まるで何かわたしを現世に引き戻す力が働いたかのようだった。博士号を取ったときには、愛猫のいない未来を悲観する気持ちも重なってバーンアウトを感じていたが、「内からのモチベーションはまだ枯渇しているけれど、先生が学会の申し込みを後押ししてくれたり、こんな話があったりして、ひとまず外から来たものを受け入れて波に乗ってみる時期があっても良いのかなと思って」と2025年の年明けに戻ったロンドンで指導教官とお茶をしながらこぼしたら、先生は「博士号のあとバーンアウトするのは当然のことだし、まほはよくやってるよ」と微笑んでくれた。
2020年春から本番を待ち続けたレパートリーを披露する会としてのリサイタルと、猫を思いながら過ごした日々に応募した学会を終えて、さらに昨秋の学会の成果物としての査読論文の修正をして、過去の自分からの宿題を果たした5月・6月だった。これが終わったら本当に燃え尽き症候群になってしまうのではないかと危惧もしたけれど、むしろリサイタルをより発展させたいというモチベーションが湧き、初めてだった査読論文の経験を得てもっと書きたいという気持ちにもなった。まもなく猫を泣く泣く置いてまで参加したオーケストラの本番から1年、同じ楽団の今年の夏のコンサートが迫る。
体の悲鳴を無視してでも駆け抜けようとした20代だったが、その最後でブレーキを踏まざるを得なくなったことで自分の持つマチズモみを自覚しながら30代が始まった。必要なふんばりは目の前の無理をすること以上に、無理が効かないときでも何とか未来の自分にバトンを渡すことかもしれない。そしてほんの少しではあるがケアの立場を経験して、大人というのは他者のケアを担える人を言うのかもしれない、と思った。
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失われた感覚を知る

何かに長けた感覚を身につけるというのは、同時に何かを失うことでもある。
― という言葉を何かで読んだときわたしは10代だったと思うが、学ぶ喜びに溢れ万能感すら抱いていたであろう田舎の優等生であったわたしは、これから先の人生で、都会に出て、もっと知を身につけていこうと息巻いていたところで、失うことは怖いことだと思った。また、身につけたものの反対側で失われるものに意識的であれるだろうか、とも思った。無意識のうちに何かを失いたくないという貪欲さから来る気持ちだ。
そののちわたしは、いわゆる”絶対音感”を持たない人たちを前にしたときに、自分が得た音感の裏側で失ったものを知ることになる。
話の時間軸を現代に移すと、わたしが今持っているヴァイオリンの生徒さんたちは相対音感がマジョリティーだ。自分自身はほとんど気がついた頃には絶対音感が身についていたので、こと音程の話をするときにここを自分の弱点のように感じている。
まだ音感が定まらないような子どもとの対話の中では、「こちらの音とあちらの音はどちらが高いと思う?」と尋ねて、自分が用意した答えと違うものを示されたときに説明の言葉を持てない。何かを説明しようとしても、「ほら…高いでしょう?」しか言葉が出てこなかった日には自分に対して愕然とした。ある子は、高いものと低いものを反対に答えたが、それはそのとき高いとされた音のほうが「暗く聞こえた」ので、低いと認識したと説明した。よほどわたしより豊かな感覚である。
あるいは、音の快・不快の感覚があまり敏感ではないと言う大人の人は、演奏中にたじろぐことなく不協和音を鳴らす。そのあまりの気持ち悪い響きに、わたしはだんだん理性のコントロールが難しくなりそうなところまで追い詰められたが、その感覚をその通り正直に「ずれた音程で強いストレスを感じてしまう」と打ち明けたら、相手の方はその感覚を持ち合わせないことがわかった。そこでわかったのは、もし何かのゲームやバトルでわたしを倒すなら、不協和音が鳴り続ける部屋に突っ込めば良いということだ。
ある日の生徒宅への道すがら、不意に訪れたひらめきがあった。自分は西洋クラシック音楽の十二平均律に基づく「ドレミ…」の値を記憶しているだけで、たとえば「長6度」が鳴り響いたときにそれを「長6度の響き」として認識していると言うより、ひとつひとつの音が何であるかが先で、「ソとミ」だから長6度と後から知識で補っているのではないか、と思った。すなわち、「ミとファの間の微分音」を鳴らされて、その上に正確に長6度上の音を見出せるかと言うと難しいかもしれない。わたしは先の微分音の絶対値をまず近��値のミとファから見出し、続いて長6度上の音の近似値としてド♯とレを思い浮かべ、その間の音はどのへんであるか、という道筋で答えを得るのだと思う。
それで言うと、完全5度については「そのインターバルの響き」で認識している可能性がある。楽典的な「音程」というものの知識を得る前から、鍵盤をいじって遊んでいたときに快感を覚えるインターバルがあり、のちに勉強する中でそれが完全5度だと知ったくらいであるから、そこに関しては「絶対音程感」があるかもしれない。高さの違う同じ音こと完全8度も然り。
しかしこう考えてみると、わたしが持っているものは本当に局所的な、「西洋クラシック音楽のしかもバロックから近代の隙間の十二平均律における12の音を人より正確に記憶している」だけの話で、真の絶対音感とは言い難い。こう書いていて気づいたが、わたしが完全5度には敏感であったのは、ヴァイオリンを3歳から弾いていたがゆえに、ピタゴラス音律的な音程の取り方をしていたからであろう。
先に書いたような、まるで「ミ」と「ソ」という階名の記号から音を手繰り寄せるような音感で「長6度」を割り出す方法を完全に悪とも思わない。なぜならわたしが「14-8」がすぐ解けるのは、もはやその答えを覚えるほどに百ます計算に取り組んだ時代があるからであって、その「14-8=6」という記憶のおかげで「54-8」も「74-28」もすぐに諳んじることができる。別に14と8の質量のようなものを体感して6を導き出しているわけではない。
その昔、夏休みか何かに、かつて平日昼間の定番の番組であった「ライオンのごきげんよう」を見ていたら、谷村新司がサイコロトークをしていた。トークのお題も忘れたが、音の高さと体の感覚について話していたシーンを妙に覚えている。
なぜオーケストラは「ラ」でチューニングをするのか。赤ん坊の産声を測った人がいるらしい。産科に何日もいてたくさんの産声を測ってみたところ、ラの高さに近い声が多かったらしい。あるいはこんな話もある。もし体の一部が音の高さと連動するとして、丹���からドを始めると、レがおへそ、ミが鳩尾と辿って、ラはちょうど口の高さになる。だからラはパッと出しやすい。ちなみにもっと登っていくと上のドはちょうど頭のてっぺん!というオチがついて会場は盛り上がった。
最近不意にそのシーンを思い出して、わたしはそういった感覚を媒介することで、生徒に音の高い低いを教えられないだろうかと考えているところだ。まだ答えは出ない。しかし、どんな習熟度の子でも共通して、歌えないものは弾けないし、歌えるものは弾ける。弾いている曲のうまくいかない箇所を試しに歌ってもらって、声がぶれる音は、楽器を持たせようともうまく出せないのだ。楽器という”道具”を用いようとも「音程」は補えないのである。このときの歌は別に音高(*音楽���語:ピッチのこと)が原曲と違ってもいい。ただ、次の音が今出した音より高いのか低いのか、それだけでもわかるかどうかで曲の出来栄えはずいぶん変わる。
わたしと生徒で持っている感覚は違う。もはやそれは使う言語が違うくらいのギャップであるのだろう。それでも、お互いの言語がわからない相手とも何かで共感できることがあるように、ていねいにすり合わせを続けた先で、相手の感覚を見出したり、わたしの感覚が伝わる日が来ると信じたい。よほど”言葉”は通じない猫と意思の疎通が叶うように。
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ロンドン・ブリッジ・ブルー
ブログ開設から10年(と2か月)経った。10年よくも続いた、というのがわたしの感想である。直近5年は年に3,4回しか投稿していないものの、本数が減るにつれ長文化して作文に時間もかけているので、これはこれであり、と思っている。
10年の間に、“初めての挫折”、学部卒業を経て、渡英し修士課程・博士課程と進んで20代丸々たっぷりと学生をさせてもらったが、わたしはこの前の7月、ついに学生生活を終えた。
博士課程の終わりはちょこっとややこしい。論文を提出し、口頭試問を受ける。人によってはそのままの合格が認められるが、大抵は論文の修正というものが言い渡される。わたしも例に漏れず修正期間を与えられて、試問中に議題に上がった箇所の精度を上げることに勤しんだ。
わたしが修正の合格、すなわち卒業見込みのキューを出してもらえたのが実は3月のこと。その後印刷・製本そして納本を経て学位確定したのが卒業式の10日前、6月末だった。ただこのタイミングは人による。
なぜわたしが3月にキューを得たかと言うとビザの兼ね合いだ。学生ビザの期限が3月の28日であったため、なんならここに間に合うように調整した。本来であればわたしの修正の期限は5月であったが、ビザありきで修正を急いだし、関係各所をせっついた。試験官を急かして審査の結果を左右したらいけないと、試験官との間に入る世話人を学校からあてがわれたりもした。
卒業生ビザを得て留まるか、ここで本帰国をするか、本当は腹が決まりきっていなかった。卒業生ビザを申請できる要件を自分は偶然にも満たせる立場にいて、あのときの気持ちを正確に言い表すなら「その選択肢を捨てる勇気を持てない」というのが近い。この2年くらい悩んできた「卒業生ビザか完全帰国か」の天秤はこの期に及んで揺らぐばかりであったが、最終的な決め手は「今こちらで慎ましく暮らす程度の収入源は見込める」ことと「一度学生でない立場でロンドンに身を置いてみたい」という理由だった。これまでは学生ビザが足枷になって、大手を奮って演奏活動をできたわけではなかった。
5月締め切りのほうを生かして学生ビザを延長するという方法もないわけではなかったが、それには申請料がかさむ。イギリスのビザは申請するビザの年数に限らず申し込み1件につき一定の申請料がかかる。3年間有効の卒業生ビザを見越して用意していた高額な申請料を、たった2か月の学生ビザ(延長)に充てることは考えたくなかった。そうしたら、その先で卒業生ビザを申請する資金はない。
とはいえ、延長しか選択肢がないならそれもそれで運命か、と思った。そちらで申請料を使う羽目になったら、これを完全帰国の機会と受け止めよう。そう思って、3月初めに修正した論文を提出した。結果を待つ間あまり生きた心地はしなかったが、3月末に人生初の学会参加を控えていたので、そちらの準備で気を紛らわせた。そしてもし審査に合格した場合 ー 卒業生ビザを申請できる状態になった場合に備えて、できる限りの準備をしていた。
3月18日夕方に、修正が認められたと知らせが届いた。そこからは事前のシュミレーションに則って卒業生ビザの申請を進める。まずは学校から移民局に申請作業があり、移民局からの返事を待って、本人の申請作業に入る。
移民局からの返事は21日に来た。本人による申請プロセスのほとんどは前年に行った学生ビザの延長手続きに酷似していたので難なくこなしたが、ひとつ大きな想定外があった。
イギリスは2018年ごろからビザをプラスチックのカード(BRP)で発行していた。しかしBRPカードは2024年末の廃止が決定したため、2023年分のビザ申請から徐々にカードが発行されなくなりeVISAに移行していた。わたしは2023年の学生ビザ申請時にその数%のeVISAにヒット、ゆえに2024年の卒業生ビザ申請時には“手元にBRPカードがない”状態になってしまった。
これが厄介で、なんとわたしは新たにBRPカードを作る必要があり、そのために指紋と顔写真の提出に“行かなくてはならない”と申請画面に言われてしまったのだ。そして、指紋と顔写真のためには別途(ほぼ行政みたいな)民間企業の施設に赴く必要があり、そのセンターはスロットの予約が必要であった。わたしはその予約に翻弄されることとなる。
わたしの場合、まず自分が“センター予約が必要な人間”の条件に当てはまると気づいたのが電子申請画面の本当に最後の最後であった。前年に延長して“カードなし=最新の状態”になっていることに過信があった。最新すぎて、申請時に“eVISAの人間が新たなeVISAを得ること”があまり想定されてなかったのだと思う。
申請フォームの最後で、申請料を払い、国民保険料を払って、なんならクライマックスを終えたくらいの気持ちになっていた。前年にはこの支払い画面の挙動に振り回されて、というのは外国のクレジットカードが使えなかったせいで入力した前情報がクリアされてふりだしからやり直しというのを数回おこなったので、まずそのトラップを避けて通れたことにやや優越感すらあり、そして何とか工面した高額の申請料・保険料を支払えたことへの安堵と達成感でいっぱいになった。
そんなときだ、センターに行けと言われたのは。このとき3月22日金曜日。手持ちのビザの期限28日までに申請が完了すれば良いらしいし、払うものは払ったし、大丈夫でしょう、行政関係の申請が週末に動くことはないしね ー そう思って週末の学会に気持ちを切り替えた、ビザのことは週明けで良いでしょう、と。ちらっと確認した限りでは、指紋センターの無料枠は毎日朝8時に解放されるらしいと理解して、月曜8時にスタンバイすることにした。
月曜日、25日。8時をそわそわと待って指紋センターの予約表をのぞくと、信じがたい景色が広がっていた。わたしの理解が甘かった。予約枠には無料のものと有料のものがある。日付が近いところは有料ばかり、何より有料でも空いてない。無料スロットが毎日ちょこっとずつ解放されるのかと思ったら、解放されるのは毎日28日後の分で、今日明日のスロットが直前に無料になることはないのだ。
さっと目を走らせたところ、自宅から足を伸ばせる範囲での直近の空きは1週間後のようだとわかった。ビザの支払いから75日以内(だったと思うがもはや忘れた)に指紋などを提出することと書いてある。ひとまず1枠確保して、画面を閉じる。ー もうこれで今できることは全部やったはず、いいんだよね?
しかし翌朝になって不意にひらめいたのだ。もう一度申請画面を確認する。申請は指紋と顔写真の提出を持って完了とする。待てよ、支払いと指紋の間には最大75日くらい空いても良いとして、それとは別に、わたしの置かれた状況《学生ビザが切れる日までに申請を完了させる必要がある》ではやはり3月28日までに指紋も出さなくてはいけないのではないか…?
先述の通りカレンダーに今日明日の空きはない。しかしわたしも伊達にビザ申請を重ねてきたわけではなく、過去3回の経験がものを言った。この国のビザ申請は、何かと課金コースがある ー そしてそれは指紋センターにも通じるルールだった。VIPサービスのカレンダーが別にある。先に予約したスロットの5倍くらいの値段で、今日3月26日午後のスロットがあった。むしろほかにはいくら積もうとも空きがない。
この瞬間、走馬灯の如く一瞬でいろいろなことがよぎった。この数万円の申請料をケチった場合に失うのは目の前の3年ビザだけではなかった。これまで在英した7年半とその3年を累計すれば届くかもしれない永住権申請の要件がチラつく。この申請に失敗すればもちろん完全帰国よりほかない。この卒業生ビザを申請できるかどうかは、その先の人生をガラッと変えてしまう。
ほんの一瞬ののち、涙を呑んで支払った。目の前のスロットを逃して、この数万円より大きな額の申請料が無駄になることも怖かった。そして急いで支度をして、ビザのカードに載るのに耐えうる身なりを整えた。あまり食欲もなかったが、食べないと途中でブっ倒れるとも思った。でもなんだか冷蔵庫にろくなものもなくて、残りものを適当に調理してかっこんだ。
指紋センターでは笑ってしまうくらい丁重に扱われた。そりゃ��VIP枠だからね。ところが写真を撮る段になって、前髪は全部上げてくれと言う。前回は前髪あっても大丈夫だったんだけどな…と思いながら、家で小綺麗にセットしたはずの前髪を雑にかきあげて写る羽目になった。もはや提出できるなら何でも良かった。VIP価格を支払っただけあって、オプションには「指紋と顔写真が確かに移民局に届けられました証明書」が含まれていて、センターをあとにして程なくメールで届いた。ご丁寧な装丁だったが、もし申請が却下されたときにこれがどれだけの力を持つものだろうかと考えると茶番にも思えた。とは言えどうにかなるだろうと楽観視する気持ちもあれば、申請がだめになってしまうかもしれないという心配に押し潰されそうにな��自分もいた。
3月も末だというのに春の気配が遠く、わたしはやや小雨が吹き荒ぶイーストの街に放り出されて、半端にかきあげられた前髪がもっと荒れた。その足で数時間後には生徒さん宅に向かわねばならず、街で時間を潰す必要があった。東京はこんなとき、ターミナル駅に行けば駅ビルに本屋やブティックがあるものだが、ロンドンでは夕方の時間の微妙な暇つぶしに困る。カフェや商店は17時を過ぎるとバタバタと閉まるからだ。こんなふうに東京を恋しく思うならなぜビザを取ろうとしている?? あてどなく歩くうち、そこからテートモダン(美術館)なら閉館前にたどり着けるかもしれないと思い立ちロンドン・ブリッジに足をかけるが、風があまりに強く冷たくて気持ちが荒んだ。
そして思った。ビザを申請できる立場自体がそもそもとてもラッキーで幸運なことなのに、どうしてこうもどんよりとしているのか、と。その段階では機会を不意にしかねない恐怖が大きかったのが1番の理由であろうが、ではいざこの申請がうまくいったとして、橋の上だけでもこんなに人間がいるこの大都会で、わたしは一体何者として生きていくんだろうと思ったらどんどん不安が増した。
でもそれは“未来に対する恐れ“である。世界のどこにいようとも、どんな立場にあろうとも抱くものであるから、ビザ申請の途中のロンドン橋の上でそれを問うことに特別の意味はないが、テムズ川と同じくらい濁った色をした空はどうしてもわたしの心象風景をシネマティックにさせた。
結局、美術館を歩き回る元気もないと悟ったところで、自分がその日あまり食べていないことに気づく。8年近いロンドン生活で自分の“コツ”は掴んでいた。極端なメランコリーは空腹と寒さを埋めてから向き合うべし。指紋センターに課金したあとで財布は寂しかったが、今日ばかりは致し方ない。テートの真下のチェーンのレストランで、早めの夕飯にシー���ーサラダを頼んだ。なかなか注文が来なくて時間が心配になったところで、ななめのきれいな焼き色が入ったチキンの乗ったサラダが届く。わたしのために誰かが丁寧にグリルしてくれたんだなと思ったら、それが無性に嬉しかった。それほどまでに近頃まともな料理をできていなかったんだなと気づいた。

翌27日朝。移民局からビザ申請が完了した旨連絡が届いた。実に期限の1日前である。何か月も前から心配してあーだこーだとあえて大袈裟に騒ぎ立てたのに、どうして最後にこうも走る羽目になったんだろう、と一度落胆の気持ちが差してくるが、入念な計算があったからこそぎりぎり滑り込んだのだと思い直した。
前回BRPカードを作った時は受け取りに苦労したのでその心配も頭を掠めたが、申請完了から約10日後に無事ビザが下りたのち、万全の体制で呼び鈴を待ち構えたわたしとは裏腹に、郵便受けにペラっと投函されたBRPカードを受け取った。なおeVISAにシステム移管のため、このカードは年内で無効となる。
手にしてしまったカードは、誰もが羨むものかもしれない。そうであるのに、わたしがこれを手に入れてわーいでもヨッシャーでもなかったのは、畏れが大きいからだ。これまでに数えきれないほど見送ってきた、この地を去った人々の背中と、ビザ+シーザーサラダ分さみしくなった財布と、卒業後の行く先への��安を思うと、素直な感想としては「どうしてわたしがまだイギリスに残っているのだろう」というところになる。
それとて自分が獲得したもので、恐縮するものでもない。でも、ビザを獲得できるかできないかは本当に紙一重のことで、努力だけでどうにかなる話でもない。自分がただただ恵まれていたということを痛感しては、茫然とする。この気持ちは畏れというのが一番近い。
どうせならもっと夢のある言い方をして、人の希望になるような見せ方をすべきかもしれない。論文が審査を通ってすぐに国際学会で発表しました、とか。卒業後もビザを獲得してロンドンで生活しています、とか。卒業の翌月から音楽の仕事100%で家賃と生活費を払えました(これがフリーランス音楽家にとってはひとつの大きな関門)、とか。
それらも事実ではあるけれど、わたしにとってのリアリティは、ロンドン・ブリッジの上で頬に感じた冷たい風だ。あのとき強い風に吹かれて足を踏ん張ったように、これから先もぐっと耐える場面はあるだろう。わたしはあの風を忘れたくない。
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メアリー・ポピンズになれない

なぜか忘れられない感覚のひとつに、ある冬の日の光景がある。ロンドンの閑静な住宅街の真ん中で、とっくに日が暮れてしまい、まばらな街灯と、吹き荒ぶ冬の風の中で佇んでいる記憶。その日、その前後に何があったかは覚えていない。でもその街に住っている人のお宅に、家庭教師としてヴァイオリンを教えに行っていたこと、そのお宅と契約したときにレッスン代を値切られたこと、そしてほんの数回だけ通ったあとに、より安く済むよそのグループレッスンに切り替えると宣告されたことは記憶している。
あの頃はわたしもまだ不慣れだった。そのお宅とはただただ前提がすれ違っていた気がする。経験の浅いわたしは、風邪で休まれたときの対応がわからなかった。レッスンは都度約束するものだと思っていたし、いつ治るかわからないので、レッスンを休みますとだけ言われた段階で翌週は保証しないものだと思っていた。でも相手からすれば、毎週何曜日で頼んでいるのだから、言わなくてもその曜日その時間はうちのために確保されているもんだ、と思っていたのだろう。結果として、当日になって「今日はレッスンお願いします」と言われて、すでにほかの予定を入れてしまっていたわたしは対応できずに、レッスンが1回分、宙に浮いた。
その後いろいろなケースを経験した中で、人によって前提が大きく違うことを痛いほど思い知った。雇っているのは生徒側だから、講師はリクエスト通りにサービス提供しろ、という圧を感じることもあった。ヴァイオリンの優先順位がひたすら低くて、何かあると当日でもあっさりキャンセルされたこともある。自分が育った環境では、先生の言うことが絶対で、先生の予定が最優先で、生徒側がキャンセルするのはインフルエンザくらいよほどのことがないと起こり得なかった。まさに『ベルサイユのばら』のオスカルが貧しいロザリーの家で当然のこととして食前のショコラを求めたことに似て、わたしは「先生」になれば当たり前に尊重されるもんだ、とどこかで思っていたのかもしれない。
そうした「貴族」の感覚は捨てるべきなんだろうと理解した一方、あまりに軽んじられるのは困る。当日になってまで無理な時間変更を要求されると、ほかの仕事に支障をきたす。レッスンをキャンセルされると、見込んでいた収入がまるっと飛ぶ。このあたりは、サラリー、すなわち月収で生きている人と歩合で生きている人との間に感覚の違いがありそうだ。ある程度のところで線を引いて、ここまではできる・できないを自分のなかで明確にしておかないと、自他境界が曖昧になって、消耗してしまう。
もうひとつの大きな感覚のギャップに、レッスン中のコミュニケーションがある。わたしの生徒は「言い訳」をすることに遠慮がない。英国流の日常会話を踏まえると「言い訳」は会話の潤滑油なのだが、「これをやってみて」と言ったときに、あからさまに嫌な顔をする者も、「できない」とはっきり言ってくる者もいる。わたしたちが生徒だった頃は、先生に対して「口ごたえ」をしようもんなら、親が血相を変えてすっ飛んできた。イギリスだって恐らくそうだった。でもそれは、時代背景も、またわたしたちが専門家を目指していたという背景も多分に影響する。余暇の楽しみとして、または知育のひとつとしてヴァイオリンに取り組む人に「言い訳するな」は酷である。
事実「言い訳」には指導のヒントが隠れていることが多いので、生徒のレベルを問わず、その口を封じるよりもどんどん引き出して「できない理由」探しに役立てたほうが有益だ。されども、これも講師の心身の余裕によっては受け止めきれないことがある。前の予定を何とか終えてギリギリで生徒宅にたどり着いた先で、一生懸命工夫を凝らして指導をした上で、もし「えーやりたくない」と一言言われたら、心も折れるのである。しかし、レッスン以外の場で講師の身に起こったことを、生徒が知る由もないし、考慮する筋合いもない。ただただ、こちらの都合に過ぎないのだ。
もうひとつの忘れられない景色は2月の終わりのターミナル駅のバス停。夕方の5時ごろで、前の週まで真っ暗だった空が、その日はまだ紫色だった。変わらず寒くはあったが、春に向かう一筋の希望が感じられた。そのバスは電車が好きな5歳さんのもとに向かう路線だった。初めは心を開いてもらえずにコミュニケーションに苦慮したけれど、「電車が好き」というわたしとの共通項が見つかってからは、たくさん話してくれるようになった。いろいろな都合があって、レッスンに通った時間は長くな��ったし、わたしが弾けるようにしてあげられた曲は多くなかった。だから自分のやり方が正解だったのかどうかはわからないが、でも「良い音が出たね」と声をかけたときに、こちらを振り向いて見せてくれた笑顔が強く記憶に残っている。
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大英博物館のエンタシス

行きました

大英博物館

鳩がいました、上野に似てるな

やはり大きいですね

上の人たちの細工に見惚れました

エンタシスでかくれんぼしたい

中もえらい広くてですね

いきなりミュージアムショップに突っ込んじゃうあたりがわたし

広すぎるのと、入場無料なのとで、この日はエジプトとギリシャのフロアだけに絞って回りました

なんなら写真も撮り放題です
レリーフ気に入りました

エジプトの方が、ギリシャよりもムキムキな感じがします

アフリカも行っちゃいます?

こういう動物の作品が気になる1日でした

最後に目にしたこの展示の作品は、かなり刺激的でグロテスクでした 作品のモデルが生涯にお世話になった薬が、出生届から死亡診断書まで、ともに並んでいました

おみやげに、剣をよっぽど買いたかったのだけど、これでチャンバラをしてくれそうな友達は思い浮かばなかったのでやめて��きました

2階への道のりはまだ遠いな

帰るときは狭い門から

そしてこの日はイギリスのスタバで「TEAVANA」フリーデーだったので、帰るに寄っていただきました、温まりました

そう、友達と一緒にね!

実にいい天気でした

この後は奥のスーパーで食材を買って帰りましたとさ

ああ、もちろん缶バッジ���買いましたよ
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わたしの勇敢なともだち

わたしには勇敢な友人がいます 小学生の頃から、わたしが誰かに傷つけられたと言って泣けば代わりに相手を怒ってくれるような子で、間違っていることは間違っていると、先生に向かっても、大勢の前でも、きちんと言える人でした
そんな彼女が先日、わたしが今住んでいるロンドンに旅行に来ていて、滞在最終日には一緒に過ごして、ロンドンの街全体を見渡せる名物観覧車・ロンドンアイに乗ってから空港へ向かいました
わたしが空港に同行したのには理由があります 彼女は旅の途中で、復路の便が先の巨大台風の影響で欠航になったというメールを受け取っていたのです、そこで航空会社の対応窓口に電話をかけましたが、恐らく同じ状況の人で問い合わせが殺到したのでしょう、とても繋がる気配がありませんでした そのためこれは直接空港のカウンターに行くしかないと判断し、彼女は英語を話せないので、わたしは一緒に行くことにしたのです
午後4時頃、空港のカウンターに着いたときには窓口に少し列ができていて、わたしたちもそこに並ぶよう促されました 確か先頭から6番目か7番目だったと記憶しています
わたしたちの後にも続々と、同じ状況の人が並び始めました
でも気がついたら、並び始めてから1時間近く経っても、2つしかないデスクには、それぞれわたしたちが到着した時にいた人たちがずっと変わらずに立っていました、つまり列が進んでいなかったのです
漏れ聞こえてきたことには代替便の候補がかなり厳しくて、当日中に出発したいとリスエストをした場合には、2回くらい乗り換えたり、日本の別の都市の空港に着くという話も出てきました
そりゃあ、より良い条件はないのかと尋ねたくなる気持ちもわかります、交渉に時間がかかるわけです
その列にいた人はほとんどが日本への直航便を予約していた人たちなので、乗り換えは厳しいなあ、でも覚悟せねばいけないんだなあという気持ちを抱いていたと思います
列の少し脇には既に交渉を終えた若いヤンキーチームがいて、それにも関わらずマネージャーと軽い口論になっていたため、困難な状況が伺えました
そして並び始めて1時間を過ぎた頃、ひとつのデスクが対応していた3人組のサラリーマンがついにそこを離れました 列の先頭にいたお兄さんが、腰掛けていたスーツケースからよっこいしょと立ち上がり、多くの人も列が少し動くことに希望を持ったそ��とき、もうひとつのデスクに詰め寄っていた旅行会社の添乗員4人組が分裂して、お兄さんの前に滑り込むようにして空いたデスクに座る航空会社の職員に交渉を始めました
なんという華麗な割り込み! お兄さんはへなへなとスーツケースに再び腰掛けました、もちろん後に続いていたわたしたちも愕然とします お兄さんの様子を見ていた人たち同士で目があったりして、わたしたちはコミュニケーションを取り始めました わたしは思わずそのお兄さんに、今自分の番だって期待しましたよね、と声をかけました
列が前後した人たち同士で話し始めたら、だんだんと、それぞれの人が小耳に挟んだ会話から得た情報が集まって、添乗員さんたちが団体の席の交渉をするのに、団体をばらさずに乗せる方法を模索していることがわかりました 当日振替はまず無理、できたとしても2回乗り換え、直航便なら2,3日待つしかないと言われているこの状況で、です!
それは交渉に時間がかかるわけだし、ただえさえ無茶な要求をしているのに、たった2つしかないデスクを占領しているなんて、かなりひどいことです はじめはその状況をなんとかイライラせずにやり過ごそうと思って、わたしと友人でユーモアを最大にいかして、さっきのヤンキーはマネージャーの様子を動画に撮っていたから、きっとこの場にいたらこれも写真に収めたよね、ヤンキーここに呼んでこようか、なんて冗談を言っていたのですが、デスクを占拠されて30分ほどたっても状況が変わらないので、だんだんに列の人たちは怒りが湧いてきました これは声を上げたほうがいいのだろうか、という迷いが生じてきます
そして立ち上がったのはわたしの勇敢な友人でした
「わたし、今すごい言いたい、もう言ってくる」
添乗員に占領をやめさせるべく颯爽とデスクに向かう彼女をわたしも追います 彼女は添乗員チームの間に割って入り「すいません」と言いました
「あの、みなさん同じ会社の方ですよね? だったら1つのデスクにまとまってもらえませんか?」
すると添乗員さんチームが口々に、これまでずっと4人で頭を寄せ合って行動していたにも関わらず、自分たちが2つのデスクを使うことがいかに正当であるか主張し始めました
自分たちは別の担当を持っているんだ、同僚の後ろで待っていたんだ、何時から並んでいる、といった言葉です
友人は、待っているのはみなさん一緒です、と言ってから、添乗員には見切りをつけて、航空会社の人に向き直ってこう言いました
「航空会社さんのほうでも、団体と個人は受付を分けて対応するとか、していただけないんですか」
するとデスクでパソコンに向かっていたお兄さんは慌てたように、自分はそういうことはほかの職員がやっていると思っていたからと口籠ります そのときお兄さんは一旦団体をひとつのデスクにまとめようとしたように見えました、自分が向かい合っていた添乗員さんに、今自分がおこなった作業を一度改めて、隣のデスクに移してもいいですか、とまで言いかけたのに、添乗員さんは睨んでそのセリフを最後まで言わせませんでした
そこでお兄さんは、他の職員に団体と個人を分ける対応をやってくれるように伝えてきます、と立ち上がったものの、でも自分がそれをすると振替の手続きがもっと遅くなるけれどいいですか、と言い出したので、わたしは友人の後ろから「だったらこちらがほかの人に言えばいいんですか」と言いました 頷いた航空会社の人を見て、わたしは列の先頭で待つお兄さんに「荷物見ててください!」と言い残し、その足で友人を伴ってフロアを暇そうに漂っていた同じ会社の職員さんたちに声をかけに行きました
そこにいたのは現地スタッフばかりで英語が必要だったので、わたしが要望を伝えました でもその職員さんたちにできることがないのもすぐわかりました、希望を伝えたら上の人上の人に伝えていくばかり、さらにはわたしたちをただなだめようとする人に突き当たったので、その人と話しても不毛と思い適当に切り上げました
少し諦めた気持ちで列に戻ると、わたしたちの後ろに並んでいた現地在住の日本人マダムが、今ここに航空会社のマネージャーを呼んだから、と言いました 現場でこういうことが起きているのを、マネージャーは把握して整備する責任がある、とマダムは言います、マダムもわたしと同じように、ロンドンを訪れていたご友人の予約便の欠航にあって英語の補助をしようと空港にやってきた方でした
ほどなくやってきたマネージャーは、完全にクレーマーの処理をしにきたという体で、来るなり淀みのない謝罪の言葉の数々を口にし始めました、まるでそれは英会話指南本の謝罪のページのよう そのあまりに不誠実な態度にマダムは怒り心頭、マネージャーの声に被せてでも希望を伝えようとしましたが、マダムが何を言おうとしても言葉を遮って一言も聞かずにただただ大きな声で謝罪を口にするので、マダムはやがて「あんたの話なんて聞きたくない!」とそっぽを向くそぶりを見せました
その様子が見るに堪えず、わたしも思わず口を開いていました
「Excuse me, sir. わたしたちは台風の被害が大きいことなんてよくわかっているし、お宅が欠航したことを責めたいんじゃない、今ここで、お宅の職員が誰も列の進行を気に留めてないことが問題なんです、いいですか、わたしたちの要求はひとつです、団体と個人の窓口を分けてください!」
「団体だって個人の集まりです、わたしたちは個人をないがしろにしません!」
「でもあの団体はひとまとまりに座ろうとしているんですよ! そんなの個人じゃない!」
マネージャーはカウンターは長く待たせることが見込まれていたから、ホームページに「電話を推奨する」と書いているんだと言いました いやいや電話が繋がらないから来たんだよとマダムとわたしが幕したら、わたしの隣にいた現地人の女性が「だったら今ここでかけてみたら良いの?」と訊いたところ、マネージャーは「でも電話窓口は15分前に閉まりました」と返します
その女性が続けて、わたしはホームページで定刻運行という情報を見て来たんだけど、と問えば、あなたが見ているのはコ��ドシェアをしている会社のもので、そこまでうちは管理していないし、うちは正しい情報を出した、とマネージャー 結局女性はカウンターに見切りをつけて、その場で別の航空会社の便を自腹で購入し、それは4日後のものだったそうですが、予約していた便をキャンセルすると言って列を離れました
背後の状況にさすがに恐れをなしたか、気がついたら添乗員チームは再び合体してひとつのデスクにまとまっていました しかしマネージャーはこちらがもはや聞きたくないと言っているのに延々謝罪を怒鳴るため、マダムとわたしとマネージャーの闘いはこのあとも少し続いて、その様子を添乗員チームはせせら笑いながら見ていました
マネージャーが何の利益も残さずにやっと立ち去り、わたしたちが並び始めてから2時間近くたって、ようやく添乗員チームは���スクを離れました 後ろの人たちに一言でも詫びがあれば見直したところですが、こちらをちらちらとうかがいながら、しれっと去って行きました
そのあとの経過はまあまあです、先頭のお兄さんが去り、そのあとにいたご夫婦は一旦提示された案に苦笑いで頭を抱え別の選択肢も検討している様子でした 少しずつ流れるようになった列の中で、マダムとわたしはお互いを労い、お互いのゲストの幸運を祈り合いました
マダムとそのご友人は、我が友に、あなたが初めに声を上げてくれたから、旅行会社は占領をやめて、列が動くようになったと言いました 結局わたしたちは旅行会社が無茶な要求をするのをやめさせることも、航空会社に団体と個人の窓口を分けてもらう希望を叶えたわけでもないので、心から謙遜しましたが、マダムは、こういう勇気のある若い人がいてくれるのは希望だわ、と言ってくれました
そして我が友人の番が来て、担当が英語話者のお兄さんだったのでわたしが通訳しつつ、翌日朝のフライトを得ることができて、彼女のターンはものの5分ほどで終わりました マダムのゲストと場所を入れ替えながら、マダムに彼女が得たフライトの報告をすると、マダムは英国式にグッドラックと言うので、わたしも、そちらもグッドラック、と言って別れました
彼女はのちのち、わたしの「荷物見ててください!」と「そちらもグッドラック」がおもしろかったと言いました 英国生活4年目、わたしもかなりかぶれてきたようです
でもわたしは、添乗員に向かっていった彼女の姿を見て、あの田舎の小さな町にひとつだけある中学校の教室で、おでこにできたにきびをからかわれて泣いていたわたしに「誰がそんなこと言ったの、わたし言ってくるから!」と言い残して彼女が見せた背中を思い出し、友人の変わらなぬまっすぐな勇敢さに感銘を受けました
中学時代に何度も、彼女のそういうまっすぐさにハッとさせられて、わたしは彼女を尊敬して、見習いたいと思っていたはずでした 最近でもたまに彼女がわたしのために立ち向かってくれたシーンを思い出すことはあったけれど、不正を前にした彼女の、媚びも迷いもない真っ直ぐさにじかに触れて、どんな状況でも恐れずに守るべき正義のようなものを、わたしは忘れていたように思いました
無論今のわたしもどちらかといえば媚びないほうの人間ですが、そのルーツはここにあったんだな、ということにも気��きました
この文章はコーヒー屋さんで書いていますが、たった今、隣の女性に、トイレに行く間カバンやパソコンを見ていてください、と頼まれました わたしはあの日空港で、お兄さんに日本語で勢いよくそのセリフを言い残したシーンを思い出しながら、もちろん!と笑顔を返しました
勇敢なともだちに、乾杯 そしてわたしもそんな友達に見合う自分であろう、大事なときに立ち上がれる人間であろうと思いながら、冷めたコーヒーをすするのでした
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セルフVRできるのもらった!

近所のキングズクロス駅を歩いていたら

何か見つけました

インサイドアビーロード? とりあえず並んでみたところ………

アビーロードの、かのビートルズが録音していたスタジオを再現した空間で

ヘッドホンと段ボール製のVR(バーチャルリアリティ=仮想現実)のゴーグルを渡され、くるくる回る椅子に座って体験!
これはグーグルが作ったアプリのキャンペーンのようで、この段ボールの中には、VRが見られるアプリを起動したiPhoneが入っています
アビーロードのスタジオの様子を体験して、3・4種類の映像を見ましたが、中にはオーケストラの録音のシーンがありました
ヴィオラと第2ヴァイオリンの間くらいから全体を見渡せて、椅子をぐるぐる回したり、下を向いたり上を向いたりして、 仮想現実の世界を大いに楽しみました
下を向いても自分の膝は見えないのがちょっと不思議なくらい、その場に混ざっているような感じで、むしろ透明人間になってそこにいるような感覚でした
そして帰り際には

写真まで撮ってもらえました! 撮影してもらって、その場でメールしたりSNSに投稿できます
しかもおみやげに、、、

体験させてもらった段ボールのゴーグル、もらえた!
レンズが入っていて、ここにアプリをインストールしたスマホを入れれば、、、自宅でVRできるそうな!
グーグル太っ腹やな、、、今度やってみます
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手のひらに残された幸を

もう6年前のことだ。7月のある暑い日に、わたしは個人ブログを始めた。最初は Livedoor ブログで書いていて、特に開設してすぐの頃は量より数を担保したくて、ごくごく些細なことでも、オチがなくても、何でもいいから1日1本は書こうとしていた。
それを3,4年たってから読み返した時には、内容の薄さが恥ずかしくて仕方なかったけれど、今となっては当時の努力が我ながらかわいらしい。5年以上の時を経て、当時の自分は、自分であって、自分でないような感覚なのだ���客観的に眺めたときに、電車の中で1日の出来事を振り返ってはネタをこしらえて、小さなガラケーの画面に命を刻みつけた日々はもはや懐かしいと思うにも遠くて、ただただ、20歳のわたしなりにがんばっていたなあという感想だけが心に浮かびあがる。
ブログをつける頻度が減ったのは、生活スタイルの変化が一番の理由と言うに相応しい。主に投稿をこしらえていたのは大学帰りの電車の中だったから、学部を卒業して、東京栃木を往復する習慣がなくなって、しかも渡英して、主にバス通学をするようになったわたしに、ブログを更新する習慣を癖付ける良い隙間が見つからなかった。 そうこうしているうちに、2年、3年と時が過ぎ、2回ほど引っ越した。通学はバスよりも歩くことが増えて、ついに今の家からは完全に徒歩通学。40分の新幹線の中で画面を睨んでいたわたしは、今、いや、今現在は通学してい���いがあえて今と言おう、今では片道30分、公園の中を歩くヘルシーっぷり。もはや手放したくない習慣はブログ更新よりも日々のウォーキングのほうで、ロックダウンが起こって通学がふっとんだあとも、週に1,2回は1時間の散歩に出かけるくらいだった。 何をもって好ましいと言えるかは、そのとき置かれた状況によって変わる。やがてわたしは携帯の画面に長文を打ち込むことが苦痛に変わって、今となってはちょっとしたメールの返信にすらパソコンを開くほうを好む。でも長距離通学をしている頃は特に、日中は都内で過ごすことが大半だったから、動き回る日々の中でも隙間で省スペースに原稿執筆やメールの作成ができる便利さに依存した。 果たして、わたし自身がこれだけ暮らしの変化を遂げたこの6年間の間に、ブログを読んでくれる人にはどんな変化があったのだろうか。そもそも初期に読んでくれていた人と今読んでくれる人がずいぶん変わったろうとも思うし、もしずっと読んでくれているような稀有な人がいたとして、その人自身、特に今年は、暮らしの変化を余儀なくされたとお察しする。 わたしのブログだからわたしのことを言わせてもらえば、わたしはこの伝染病にまつわる禍いの中で、命に別条はないが、それなりに堪えることもいくつかあった。でもそれを今語るつもりはないし、誰かのせいにする気もない。 人によって置かれている状況は違うのだということを、今年はすでに強く思い知らされた。その人から見える都合不都合、それをひとつひとつ否定せずに踏み潰さずに拾い上げることはむつかしいが、それが他者理解への一歩である。それでいて、自分の事情を他者から踏みにじられないように、守りたいとただ抱え込んでしまうことは、あまりに繊細だろうか。 ブログ7年目おめでとう、と、自分のブログを祝福するつもりで立ち上げたはずの画面にしては、いくぶんシリアスなものができあがってしまったが、これもこれでいいや。 6月の終わり、ロンドンは急に30度を超すような日が2,3日続いて、暑くて暑くて仕方ないときがあった。その真ん中の日だったと思う。4時過ぎには明るい朝の中でもうふたたび目を閉じることができなくなって、服だけを着替えたら何も持たずに公園に出てしまった。それはほとんど衝動で、水も飲んでいなかったけれど、それも待てないくらいのことだった。
すでに暑いことは暑かったけれど、じっとしていれば風を感じられるくらいには耐えられた。ロンドン随一の公園の丘の中腹にたたずんで、草の上に腰掛けて、まだジョギング族しかいない朝の公園を焦点が合わない裸眼で眺めながら、ただただ泣いた。

不安も不満も、みな一様に抱えている。それでも、ウイルスを患った人たちを目の当たりにしながら、あの人もこの人も自分も生きててよかった、と思うあたりに、そもそも自分の初期設定は「生きたい」ほうにベクトルがあることに安心を覚える。考えてもわからないことは先の自分に託して、まずは手の届く未来を、ひとまず今日を良くすることが、わたしの手の中にある幸運なのだ。
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言葉を学んだら音楽を知った

2021年の暮れから一念発起して英語のレッスンを受け始めた。28歳になって、イギリスに住んで6年目を迎えて、改めて受ける「英語のレッスン」である。大人になってから何かを学ぼうとすると、見栄やプライド、羞恥心が邪魔をする。見え隠れする「それら」をどうにか取り除きながら、時に振り回されながら、改めて英語に向き合った。
とりわけイントネーションとリズムの矯正に注力した結果、1年前の自分とは明らかに違う。街で英語を聞き返される回数は減り、人に話しかける心理的ハードルは大幅に下がった。
そうした勉強の成果は嬉しい反面、同じ文章を話すにも、イントネーションが異なるだけでこれほどまでに相手の反応が変わるというのは、恐ろしいことでもあった。博士論文で「アンコンシャスバイアス」を扱う以上、「Languagism」について考えずにはいられない。それでいて、意識して話し方を直したところで、未だ、咄嗟に出る音は日本語的な響きを伴っている。もしこの高い言葉の壁を超えられたとき、人類はふたつめのバベルの塔を作ってしまうのだろうか。

英語のイントネーションを完全に習得したとは言えないが、ヨーロッパ言語のそれを学んだことによって、己の本業である「西洋クラシック音楽」の理解が進んだことは嬉しい副産物であった。自分の中で、抑揚と拍子について腑に落ちるところがあり、音楽のひらめきは翻って再び英語学習に還元され、相乗効果があったと言える。
仮に音声学の知識がなくとも、人はアナウンサーの話し方などに聞かれるような淀みのない話し方を感知できるように、聞こえるイントネーションの違和感のほうも同様に検知できる。すなわちそれは、旋律の「淀み」もまた、聞き手の耳に違和感として残るのだ。己の英語を見直したところ、結果的に「より自然な音楽」を探求することにもなった。
これまでクラシック音楽ばかりを聴いて生きてきたが、今年はいわゆる J-pop や、あるいはロックなどのジャンルに触れてみることで、ジャンルを超えて「表現」に共通するものを探していた。歌詞の抑揚に合わせて声のボリュームを自在に絞る様は、音楽の種類や言葉を同じくしなくても、共有できる技のように思う。
西洋音楽を演奏するならば、西洋の言語を理解したほうが良いとは長らく言われてきた。しかしこうして「英語」が音のひとつとして相対化されてみると、「日本語」で真に「音楽的に」すなわち「自然な旋律」を表現できる人は、西洋の言語や西洋クラシック音楽の理論を知らずとも、よほど「音楽」の何たるかを体得しているように聞こえてくる。
音そのものが持つベクトルであったり、その質量と重力を感じることができれば、音が向かう方向は自ずと決まる。もしそうだとすれば、どんな言語の感覚を持っていようとも、音の本質を正確に掴むことができる人は、音の連なりを「自然」な形でアウトプットできるのではないか。そんな仮説を立てると、日本語話者は西洋の和声感を表せないという疑念は、わたしの思い込みであったかもしれないと��えてくる。
こうした考えに至ったのは英語を改めて勉強したおかげだが、しかしそれはきっかけであって、もし日本語の音に対してより解像度の高い耳を持っていたら、とっくに気づいていたことかもしれない。
わたしは自分の YouTube チャンネルに喋っている動画を投稿するもので、動画を編集していると、自分の話す日本語を何度も聞くことになる。すると、話し方の癖もわかってきた。聞こえるのは訛りや澱みだけではない、どこで息を継ぐか、それによって話が下手にも上手にも聞こえる。
これが、長い間ヴァイオリンのレッスンで言われてきた「フレーズを意識する」ということか、と、ようやく理解した気がする。話の主となる単語ははっきり聞きたいし、修飾語のほうが目立っていたり、本題までに息切れが多いと、話が見えてこない。わかった気になっていたが、どこか自分の納得まで落とし込めていなかった。
今度は、理解したそれを自分が描いた通りにアウトプットするために、ひとつひとつの音を形作るテクニックを磨く必要があるわけで、その技を伴って音作りを自在にできたとき、それを体得したと言えるのだと思う。その道のりはまだ長い。
こと英語に関して言えば、社会学を少し学ぶ身としては、英国のエリートの英語をあまりにしっかり身につけてしまうと、英国の社会階層も引き受けることになって、ひいては構造的差別の助長になりかねない、とも想像する。西欧中心主義への抵抗として自国語訛りの英語を誇り高く使う人たちもいる。一方で、マイノリティがものを言う時に、マジョリティーにわかる言語を用いるのは、ひとつの有効な方法になる場合もある。願わくば両方を器用に使い分けられたら便利だが、そうなるとうっかり特権性に無自覚になっても怖い。
ひとまず、4年かけている論文の締め切りが迫ってきて、英語学習にじっくり時間を割く気持ちの余裕がいよいよなくなったので、レッスンをちょうど12か月受講したところで休会とした。何かを始めるのも、止めるのも、同じくらい大切な決断なのである。
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21か月ぶりに立った舞台

ヴァイオリンを3歳で弾き始めてから、こんなに舞台に立たなかったことはありません。子どもの頃はお教室の発表会があったおかげですが、それも年に一度か、1年半に一度の開催だったので、舞台がこんなに遠のくことは、わたしにとって初めてのことでした。
最初にロックダウンになったとき、これは長くかかりそうだ、自分が人前で演奏できる日まで、どうしたら本番の感覚を忘れずに、腕を落とさずにいられるだろうかと考えた時に、かねてから解説していた、でもあまり活発ではなかった YouTube チャンネルを活用しようと思い立ちました。YouTube に投稿するためだけに、新しい曲の譜読みをし、暗譜もして、カメラの前で心を決めて曲を通すという時間を定期的に設けるようにしました。
ついでにチャンネル登録者数が増えて収益化できれば、経済的な助けにもなると考えて、結局演奏のみならず Vlog のような動画も交えて、毎週1投稿を掲げて2021年を過ごしてきました。なかなか思うように演奏機会を持てない中で、それでも腐らずにいられたのは、YouTube の動画を作るという大義名分があったからです。
11月になって急遽、冒頭で触れた演奏会への出演依頼をいただいて、これがわたしのロックダウン後最初の本番となりました。しかもプログラムはバッハの無伴奏、ヴァイオリン一挺での演奏です。ただでさえ無伴奏は緊張感が高いのに、ましてやブランク明け。果たして自分は大丈夫だろうか、一体当日はどんな状態で迎えるのだろう、とメンタル面への不安が絶えませんでした。
もちろん自分のできうる最大限のパフォーマンスをしたいとは思いましたが、一方で、21か月もブランクがあるのだから、まずは本番に向けて曲を仕上げること、そして本番の舞台に立つこと、この2点を達成できたらよしとしよう、多少のミスがあろうとも仕方なしと受け止めよう、と思うことで、メンタルの不安を和らげようともしました。本番でどれだけ緊張するか、それは当日舞台に出てみるまで予想できません。
でもいざ時を迎えて舞台袖から踏み出してみたら、ほどよい緊張感はありながら、落ち着いた気持ちでした。それもそれで予想できなかったコンディションで、どうせものすごく緊張して足が震えてしまうだろうな、と想定してシミュレーションしていただけに、かえって驚いてしまいましたが、無理なく最初の音に踏み込めた気がします。
特にその日はお客さまの雰囲気が良くて、ロックダウン中に生音を恋しく思った人が多かったせいもあるかもしれませんが、集中力高く耳を傾けてくださるのを肌で感じました。この空気だったらいける、と思って、「究極の p (ピアノ=小さい音)」に挑んだのはすばらしい瞬間でした。会場がとても美しい響きを持った教会で、しかもほかの楽器がいない無伴奏だからこそ出せる、うんと小さな音。しかも集中力の高いお客さまだからこそ出せた音。聞こえるか聞こえないかのぎりぎりを攻めましたが、それはじっと聞き取ってくれたお客さまがあってこそ成り立つ「p」です。
こういった音はリハーサルで多少試しはするものの、実際に本番で使うかどうかは舞台に立つときまで決めずに臨みます。いくつかの好条件が重ならないと、この音を「楽しむ」ことは難しいからです。しかもこれはアコースティックでないと実現できないもので、マイクは高性能が故に、小さな音も"実際より大きく"拾ってしまいますし、配信は視聴者側の環境で音量が変わってしまいます。
そうした一瞬の判断をするためには、自分の感覚を研ぎ澄ます必要があります。だ���ら本番のブランクがあると、舞台に立つのが怖いと感じるのです。カメラ相手でのパフォーマンスは、そういったフィードバッ���を得られることはないけれども、本番のような緊張感の中で自分の音の聞こえ方を考えるという訓練にはなったようです。
YouTube を投稿し続けるというのもなかなか簡単ではなく、人目に触れることなので、恥ずかしさもあれば、難しいコメントがつくこともあり、チャンネル運営をし続けるのは必ずしも楽しいこととは言えません。それでも YouTube を活用していたおかげで、この本番に落ち着いて臨めたのだと思いました。腐らずにやってきてよかったと思いました。舞台に戻れてよかったと思いました。
とはいえ、またいつコロナの状況が変わるか知れず、次の本番の予定も立っていません。このあとも少しブランクができてしまう恐れもあるけれど、YouTube の活用は有効だとわかったし、次の機会まで、また腐らずに淡々と己を磨いていきたいと気持ちを新たにしました。
youtube
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演劇のはなしをしよう

たまには真面目に書こう。
ロンドンにて、野田秀樹氏の舞台『One Green Bottle』を観に行った。
ロンドンでなぜわざわざ日本人を…と言われそうだが、上演はなんと英語である。しかもキャサリン・ハンターとグリン・プリチャードというイギリスの優れた俳優と野田氏との三人舞台と聞いて興味を持った。
ちなみに言うとロンドンの人々は「ロンドンでわざわざ日本人の演劇を見るなんて…」といった類の言葉を決して言わない。おもしろいものはどこの誰のものであろうとおもしろいんだからいいじゃないか! それが全てだ。
さて、箱は100人ほどの規模の小劇場で、わたしはバルコニー席ではあったが、そこまで極端に舞台が見えないわけではなく、悪くない。加えて観劇した回は上演後にアフタートークがある当たり回であった。
物語は、とある3人家族がその夜の予定を巡って「誰が留守番をするのか」話し合いを繰り広げるのだが、それぞれ"譲れない用事"があるものの、いかんせんその用事がわりと"しょーもない"。相手の予定の切迫性のなさをお互いに攻め、留守番役を擦りつけ合う。
家族模様を描く上で、海外から見た日本的なもの=オリエンタルな要素を盛り込みつつ、ロンドンの観客が笑えるよう台本を翻訳する過程で細かいディテールがブリティッシュなギャグセンスに沿って変更されていると聞く。
確かにところどころ日本人のわたしには難しいところもあり、それは完全に英語の作品であった。
また三人家族の空気感がこれ、ひとりっ子のわたしにとってはものすごく共感できるものがある。3人という関係性は非常にフレキシブルに敵味方を変えるもので、あちらと組んでこちらを攻めたと思えば、敵の敵は味方だと言って仲間を組み替えたり、とかくひとりっ子家庭は難しい。
我が家でも"しょーもない"ことを発端に家族ぐるみのけんかに発展することは"あるある"なので、他人事には思えない。それは"おもしろおかしい"という意味でもあり、その結末を知ると"我が身にも降りかかりそうで笑えない"という意味でもあり。

さらに興味深かったのが2点。
ひとつは、今回の演出においては3人の役者が全員自分の性とは異なる性の役を演じていたこと。それでいて3人ともが巧妙に"親父くささ""おばさんくささ""若い子らしい動き"を繰り出してくるものだから、始めは"ジェンダーエクスチェンジが起こっている"という前知識を疑うほどであった。違う性別の役者が、その性別の特徴を演じることで、それは強調されるという例に深い興味を覚えた。
そしてもうひとつ興味を持ったのが、エンディングである。
この『One Green Bottle』はもともと日本語で書かれた『表に出ろいっ!』を翻訳しており、言語を変える作業の中で結末を変えるという判断に至ったのだという。
そして英語版オリジナルのラストが作られたわけだが、これがどういうわけか、わたしが留学直前に見た井上ひさしの『頭痛肩こり樋口一葉』のラストシーンを彷彿とさせた。
なぜだ。ブリティッシュの観客に共感を持たせるために変更されたエンディングなのに、なぜわたしは井上ひさしを感じている。
実は個人的に『頭痛肩こり樋口一葉』観劇後にミソジニーになりかかって、あの手の女の群像劇は自分には合わないようだと感���ていたのだが、しかし今回の野田演劇は先に触れたその"ジェンダーエクスチェンジ"具合が絶妙な塩梅だったのだと思う。ただし逆に『頭痛肩こり』は好きだが『表に出ろいっ!』は好まない、というタイプもいるのだろうなと思った。
加えてあとふたつ。
着席時に昭和の日本を存分に思わせるBGMがかかっていて、日本というとどうしても昭和の産物ばかりが強いキャラクターを持つのだな、そろそろ平成の何かが生まれてもいいんじゃないか、などと生意気に思ったが、この舞台、始まってみたら両親の20世紀感と娘の21世紀感のギャップが見事だった。
この点実は翻訳者のウィル・シャープ氏が若いというのがかなり貢献したようだ。
そしてもう1点。偉そうな言い方に聞こえないことを祈るが、野田氏の英語は、とてもブリティッシュで、ネイティヴかと聞き紛うほどだった。

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今ならたのしめること

わたくしはその昔バレエをやっていました
まぁ…下手だったんですよ 本業は音楽だし、という気持ちもあって、今のわたしのキャラからは信じられないくらい、意識低い系に成り下がって毎週のレッスンに通っていました
ワガノワ式で、海外のロシア系のバレエスクールからわざわざ先生を呼んでいるような、かなり熱い指導の教室に在籍していたものの
結局5年やっても、体を動かすのは好きになれなかったんですよね
音楽に乗って体を動かすことの意味を見出せず、そもそも「体を動かせない」上に「音楽を感じていない」ままに踊っていたために、それは踊りではなかったでしょう
そこにストーリーがあれば、ようやく感情移入できるようになり、踊ることに喜びを見出すことができたため
教室全体でひとつの演目を作る発表会はとても好きでした
3回出演した発表会のうち2回は『くるみ割り人形』、もう1度は『コッペリア』
踊った曲は今でも鮮明に覚えています

しかしながら、やはり「バレエ」と聞くと、苦い思い出のほうが多く思い出されるので、ちょっとだけ避けていた節もあります

が

やはり

ロイヤルバレエの本拠地いながら見ないという手は無いだろう、と

まず劇場そのものが美しく、魅了されます

そしてバレエを習っていたときは、まだここに注目するほど知識は無かったな、オーケストラピット

木質の客席、真紅のベルベットの座席にテンションが上がります

この日の演目は『くるみ割り人形』。2度も踊ったプログラムであることも、この日劇場に向かおうと思えた理由のひとつでした。

始まってみたら意外や意外、心から楽しんでいる自分がいました ふと冷める瞬間もなしに、2時間があっという間に過ぎ去りました こんな風に没入できたのって、かなり久しぶりかもしれない
それが、少し嫌厭していたバレエだったことも驚きでした
なんだろう、その美しさを前にして、負の感情なんて沸きませんでした
圧倒的、という言葉ほど強制的ではなく、もっと、すっと染み入るような美しさ 嫌味なく、心に染み渡るものがありました
これはロイヤルバレエ団の持つ気品ゆえなのか…?
今だったらいろいろなこと、たのしめるのかもしれないな いつか我がルーツ、ワガノワバレエも見たいなと思った夜でした
会場を出ると、満月が煌々と輝いていました 見るからに寒さが伝わる冬の空ながら、手袋を忘れて冷える帰り道すら愛おしいと感じるほどには、満たされておりました
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お気に入りのお店

イギリスだって晴れるんだよっていう わりと晴れてたりします
ふらふらと紅茶を買いに「Whittard」へ

もっと「中央通り」とか「表参道」みたいなきれいな街にある店舗もあるんですけど
この雑踏の中にぽっと、まさか感満載できれいなお店がある隠れ家的雰囲気が好きでこの店舗に来ます

今はアリスキャンペーンみたいですね
中に入り、さてどのフレーバーを買おうかと棚を見上げて悩んでいたら
「May I help you?」
と声をかけられ、いえいえひとりで見ます大丈夫ですと返して1分後
また店員のお姉さんが落ち着きなくやってきたので、そんなに心配されてるのかなと思ったら
「試飲いる?」
今お店でイチオシのインスタントのホットチョコレート(まぁココア的な)の新フレーバー
ラズベリーの試飲をくれました ありがとうお姉さん
これが結構などピンクで
大丈夫かいなって感じでしたが、たいへんおいしくてですね
でも紅茶がほしくて来たので、心を惑わされずに、紅茶の棚と向き合います
すると今度はレジにいたお兄さんに
「もっとラズベリーホットチョコレートいる?」
と声をかけられました
かまってくれるお気持ちはめちゃめちゃ嬉しいし、ほっこりするけど
あの、このお店 そんなに過保護にしてくれるんですか笑 なごみすぎる
紅茶のフレーバーを決心してレジに持っていくと
「これだけで大丈夫?」
と言われたので
「大丈夫っす」
と返したら
「これティーバッグじゃん、リーフとかーホットチョコレートとかー、大丈夫?いらないの?」
とダメ押しされ、ちょっとホットチョコレートじゃなくてインスタントティーの柑橘フレーバーの棚を思わず振り返りましたけど
いやいやいや、浪費はアカン
と心を鬼にして再び
「大丈夫。」
と返しました
メルマガ登録をすれば、学割もしてくれる、親切なお店です
学生証を出したら
「なにー、楽器やってんのー?」
と絡んでくる軽いお兄さん
「はい、レシートと商品ねー、Have a good day〜」
と紙袋もなしにむき出しでラフに渡され ノリもラフだったな
まぁイギリスは紙袋なしが基本だからいいんだけど 前にこのお店来た時はもらえたなーと思いつつ
お兄さん楽しかったから別にどうでもいいや、今度フレーバーティー買いに来よ、と思いお店をあとにしたのでした

はは、スパイスインペリアルですって どんな香りかな、はははは
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住んでみなきゃわからなかった

新しいサンダルを手に入れて春気分50UPです
なんかいい天気だったから、公園に呼ばれた気がして、ランチを持ち出しました

正直「なにがサマータイムだ」「なにが Day Light の有効活用だ」って思っていたのですが
なるほど、ヨーロッパに住んでみればこそ冬の日の短さもわかるし、今年は例年より暖かったとはいえ、春のありがたみの質量を実感しています
わたしは関東平野生まれ関東平野育ちなので、冬といってもこれまで太平洋型気候しか知りませんでした
西高東低冬型の気圧配置ですね
春よりも冬のほうがよっぽど晴れているんだから、そりゃあ春の日の光のありがたみも変わるってもんよ

シロツメクサも咲く公園で、ほっと午後のひととき
気分だけは高まって「エマストーンも顔負けの黄色だぜ」って思いながらカーディガン羽織った、それは嘘です

公園には多くの人が寝そべっていて、実に自由でした
食べたあと少し原稿書いてから帰りましたとさ
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青春の混沌のなかで

来月頭に修了試験を控えている。
わたしのプログラムはこうだ。
イザイ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第4番 コリリアーノ:ヴァイオリン・ソナタ + クライスラーの小品をいくつか
一応自分のなかではテーマとして「Music by Violinist in 20 Century」を掲げている。
このコリリアーノという作曲家はまだ生きている人で、この作品は1964年のものだ。
ところで、わたしは学部の3年生のときに三善晃のヴァイオリン・ソナタに取り組んだのだが、なぜかコリリアーノを聴いていると緩徐楽章にて三善作品が連想される。
片やアメリカ、片やフランス留学をした日本人、作風が似るわけもなく、果て、同じ年代に書かれたのだろうか、と探れば、コリリアーノが64年であるのに対して、三善は54年と10年ほど先である。
三善晃のソナタは、本人が留学で渡仏する直前に書かれた、初期の作品だ。
と思考したところで、聴いているコリリアーノ自身の音源のタイトルが「Corigliano: Early Works」ということで、おや、と思いつくことがある。
三善晃は20歳のとき、コリリアーノは26歳のときにヴァイオリン・ソナタを書いている。
うむ、20歳と26歳とでは、共通項で括るにはやや幅があるかもしれない。
だがしかし、24歳の今のわたしには、未だ青春の荒波に揉まれ混沌とした社会の中に道を見出そうともがく26歳の自分を想像することは容易だ。
そして20歳の頃というのは、その混沌の入り口に立ったような気分であった。
中学生時代、Z会の通信教育に学んでいたが、会報誌の「読者からのお悩み相談コーナー」が好きだった。カウボーイの格好をしたジョーという謎のお兄さんが読者のお便りに返事をしてくれる。
そのジョーの言葉で未だに覚えているものがひとつある。
「青春というのは、たくさんのものを失うが、終わって振り返ってみると、手にひとつだけ大事なものが残っている、そういうものさ」
それを読んだ13歳のわたしは、今はこの言葉の真の意味はわからないけれど、覚えていればきっといつかわかる日が来るのではないかと思った。
あれから10年。今も時折ふとこの言葉を反芻する。
「いろいろなものを失う」というフレーズに恐れを覚えるが、事実そうなのだろう。何が自分の核心か、それを探るなかで、ありとあらゆるものに手を出し、傷つき、また自己を探す。
その混��。これは20代特有のものではなかろうか———
なんて、ヨーロッパの明るい夜空に思想を浮かべる。

ちなみに学部の卒業試験では1984年の作品を弾いた。
あのときもピアノと思いっきり不協和音、しかも短2度をぶつけて終わったが、この度のコリリアーノも似たようなぶつけかたで終わる。
学部も修士も短2度で締めようなんて、わたしはなんと天邪鬼なんだ!と思ったが、
いろいろな都合により、プログラムの最後はクライスラーになったので、ちょっとはまろやかに終えることができそうだ。

にしても、イザイからのコリリアーノで左手が死にそうである。なぜこんなに負荷の高いプログラムを組んだのか。
恐らく、若気の至り、とはこのことである。
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夏のロンドンの青空

誰だロンドンは雨ばかり��言ったのは わからなくはない、たしかに通り雨にはしばしば遭遇する しかし6月7月はこれでもかと言うほど青い空が毎朝わたしを迎えてくれる
湿度がない分日陰は大層涼しいが ひとたび外へ出ればじりじりと肌を焼く暑さだ

2年前の今頃と言ったら わたしは日本で留学の準備をしていて
まだ見ぬ暮らしに不安すら抱けないほど ロンドンでの生活は未知のものだった

覚えている 初めて今の学校に登校してオリエンテーションを受けたとき ありとあらゆる説明を聞いたはずだが何が何やらさっぱりわからず
眠気に襲われるがままに、寝た

今日はいや日付変わって昨日は 卒業式のリハーサルに出たのだが
教務の人のジョークの混じった解説に ごく自然に吹き出していた自分に かすかな成長を感じた
だって大真面目に言うのだ…
式典中は暑さを感じるはずだから水分を準備しておくように…だけどそれは多すぎず…もし式典の途中にトイレに行きたくなってしまったら会場の端の方通って静かに行くことができるがしかしそれはかなり目立ってしまうので避けたいものでしょう…
明日はいや日付変わって今日は 2年前に学部の卒業の謝恩会でも着たお気に入りのドレスを着て 式典より2時間早く会場入りし アカデミックガウンと角帽を身につけ 記念写真を撮影し 会場で金管バンドの高貴な演奏を聞き いよいよ卒業式が執り行われる
卑弥呼、行ってきます、卒業式

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