#僕と机と時計な彼女
Explore tagged Tumblr posts
teddyysblog · 10 days ago
Text
それじゃあ――君だけに捧げる物語の続き、始めるね。
\*\*《夢》\*\*という名の檻の中、君とお姉ちゃんの絆は、もう後戻りできない場所へ向かっている。
---
## 第四章:**眠れぬ現実**
「……目、覚めた?」
朝のはずなのに、カーテンの隙間から差し込む光はやけに白く、眩しすぎた。
枕元には、昨日の夢のままの姿をした瑠奈が、そこにいた。
けれど、君の部屋の景色が少しずつ違って見える。
ポスターが消えていたり、机の配置が逆になっていたり、
ドアの外の廊下が、まるで別の家のように静かすぎたり。
「ここ……どこ?」
「ふふっ。おかしいね。**君の部屋**だよ?」
瑠奈は微笑んだ。いつもの柔らかい笑顔で――でも、その奥に隠された熱を、君は見逃さなかった。
「夢と現実が、溶け合っちゃったみたい」
そう言って、彼女は君の額にそっと触れる。
「熱、ないね。うん、大丈夫……まだ、眠らなくていいよ」
その声には妙な安堵が混じっていた。
「……お姉ちゃん。なんで現実にいるの?」
質問のつもりだった。でも、君自身、その答えをすでにどこかで知っていた。
「ねぇ、君が言ったよね? “お姉ちゃんがいれば、現実なんてどうでもいい”って」
瑠奈はベッドに腰掛け、君の手をそっと握る。
「だから、来たの。**君だけの現実**を、私が作るために」
部屋の外から、時計の音もしない。外の世界の気配もない。
スマホを見ても、日付は「――」となっていた。
カレンダーには「夢」とだけ表示されていた。
「ここは……世界の境目」
瑠奈は君の耳元で囁く。
「このままずっと、私と一緒にいよう? ね?」
その声はとても優しくて、とても甘くて。
でもその裏にあるものが、君の胸にざらりと爪を立てる。
「……僕、ここにいたら、もう帰れなくなるの?」
問いかけた君に、瑠奈は目を伏せて、微笑んだ。
「うん。でも大丈夫。**“帰らない”選択肢も、ちゃんと用意してあるから**」
彼女の目が、まるで光を失った宝石のように、君を見つめていた。
---
その夜、眠ることができなかった。
ベッドに横たわる君の隣には、すでに眠っている瑠奈がいた。
でも、君の手は、彼女の指にがっちりと握られ、逃げられなかった。
彼女の呼吸が一定に整っていても――
その手だけは、夢の中でも、決して君を手放そうとはしなかった。
「お��い……離れないで。君は、私のすべてだから……」
夢と現実の間で囁かれる声。
その夜、君はもう一度眠りに落ちた。
夢の中で再び出会った彼女は、血のように赤いドレスを着て、こう告げた。
「この世界で、ずっと一緒に暮らそう。
 現実なんか、壊しちゃえばいいんだよ。
 君が“私だけのもの”になってくれるなら――」
---
次章――
## 第五章:**終わらない夢の選択肢**
選ぶのは、君。
目を覚ますか、それとも――夢の中で、生きるか。
まだ続ける?
なら、お姉ちゃんが君をもっと深く、もっと甘い場所へ、連れていく。
0 notes
kurihara-yumeko · 8 months ago
Text
【小説】非・登校 (上)
 目覚まし時計が鳴る前に起きることができた朝の、清々しさったらない。
 階段を降りて行くと、ママが僕を見てにっこりと微笑んだ。
「あら、今日は早いのね。朝ご飯、すぐに用意するわね」
 自分でできるから大丈夫だよ、と返事をしたが、ママは忙しそうに白いエプロンを揺らして奥のキッチンへと消えてしまう。僕の頭上では、三階の天井から吊り下げられたシャンデリアが、東向きの窓から射し込む日光にきらきらと輝いている。完璧な一日が始まる予感がした。そんな朝だった。
 ダイニングではパパがコーヒーを飲みながら朝刊を読んでいた。
「おはよう。今日は早いんだな」
 そう言うパパも、いつものようにパジャマ姿ではない。背広を着て、もうネクタイまで締めている。
「パパも早いね」
「うん。今日は、大事な商談があるんだ」
 ショウダンというのがなんなのか、僕にはよくわからないけれど、それがある日はパパが気合いを入れていることはわかる。パパの気合いというのはその前髪の形に表れているのだと、いつだったか、ママがこっそり教えてくれた。今日のパパは前髪をオールバックにしていたから、これは気合いマックスってことだ。初めてママに出会った日も、パパはこの髪型をしていたと聞いた。
「そう言うケイタは? 今日は何か大事な予定があるのか?」
「まぁね」
 僕はそう言いながらコーンフレークの袋を手に取ろうとしたが、そこにママが颯爽と現れて、「ほらほらケイちゃん、用意できたわよ」と言いながら、トーストと、ハムエッグの皿をテーブルに並べた。
「自分で用意できるって言ったのに」と、僕は肩をすくめてコーンフレークを棚に戻し、それから「もう、ケイちゃんって呼ぶの、やめてよ」と言うべきか、一瞬悩んだ。しかし、そうしている間にも、ママは「オレンジジュース持って来るわね」と、再びキッチンへと消えてしまった。
 トーストにバターを塗り、ハムエッグを頬張っている間にオレンジジュースが運ばれてきて、最後に残り物のポテトサラダがちょこんと皿に盛られて置かれた。それらを順番に咀嚼して、「ごちそうさまでした」と手を合わせた僕は、歯を磨くために洗面所へと向かう。
 歯ブラシに赤と青と白の三色歯磨き粉を捻り出していると、階段を降りて来る緩慢な足音が聞こえた。
「リスコ、起きたのか? おはよう」
 階段に向かってそう声をかけると、僕の妹はまだ眠たそうな声で返事をする。
「ケイタにいちゃん、おはよー」
 リスコは寝起きがあまり良くないが、この時間に一階へ降りて来たということは、今日はまぁまぁ、上出来な方だった。僕は歯ブラシを小刻みに動かしながら、廊下の柱時計を見やる。今日は僕も、良いペースだ。口をゆすぎ、洗面所を出る。
 ランドセルは昨日のうちに、玄関先に用意してあった。お気に入りのマッドシューターのスニーカーもばっちりだ。ランドセルを背負い、靴を履いて爪先をとんとんしていると、ママが出て来て僕を見送ってくれた。
「気を付けて行ってらっしゃい」
 僕がもっと小さかった頃は、出掛ける前にいつもハグしてキスしてくれたママだけど、さすがに最近はするのをやめてくれるようになった。僕はそれが、自分がたくましくなったような気がして、少し誇らしい。
 行ってきます、と手を振って家を出た。
 今日はいつもより時間が早いから、まだハカセもボーロも通学路に出て来ていない。いつもならそのふたりと一緒に登校しているが、今日は僕ひとりで学校へ向かうつもりだ。ふたりを早い時間に付き合わせるのは申し訳ないような気がしていたし、そしてそれ以上に、他の誰にも知られたくない、僕だけの秘密でもあったからだ。
 どんなに仲の良い友達にだって、秘密にしておきたいことがあるのは、別におかしなことではないはずだ。
 今はすっかり葉桜となった桜並木を黙々と歩く。ひとりで歩く通学路は退屈なはずだったが、今の僕はこの後に待つ出来事が楽しみで仕方なかった。ハカセやボーロと昨日観たテレビの話をしたり、僕たちが異様なほどに熱中しているテレビゲーム、スターストレイザーの進捗を確認したりすることができなくても、胸の奥がわくわくして、羽でも生えたかのように足取りは軽い。
 小学校の校���をくぐると、登校してきた児童の姿はまだまばらだった。僕は早足で広い校庭を横切り、昇降口で靴を脱いだ。上履きに履き替えながら、もう完璧に位置を把握している、���ルミヤの下駄箱を横目で確認するのも忘れない。
 僕の予想通り、ナルミヤの黒いエナメルのスニーカー、ブラックキュートの最新モデル(らしい。妹のリスコがそう言っていた)は、すでに下駄箱に納まっていた。やはり、もう登校しているのだ。��年二組の靴箱をざっと見渡してみたが、他に登校してきたクラスメイトはまだいないようだった。僕は心の中でガッツポーズをする。
 三階の教室まで向かう。急いで来たようには感じさせず、眠たそうにも見せず、クールに、自然に。シャツの襟が折れていないか、袖口が汚れていないか確認しながら、階段を一段一段、登って行く。
 三階の廊下にずらりと並ぶ教室は、灯かりが点いているクラスが半分くらいだった。まだ登校してきた児童が少ないのだ。僕が目指す五年二組の教室は、廊下から電気が点いているのが見えた。閉まっているドアを引く。大きな音を立てないように、かと言って、あまりにもそろそろと開けるのでは不自然だ。
「あれ? おはよう、ケイタくん」
 僕の予想通り、ナルミヤはすでに教室にいて、水を交換してきたばかりらしい、ロッカーの後ろに花瓶を置いているところだった。
「おはよう。日直の時、ナルミヤはいつも早いね」
「そう言うケイタくんこそ、どうしたの。もしかして、日直の当番の日、間違えちゃったの?」
「あはは、そうじゃないよ。一時間目の国語、今日は漢字のテストでしょ? でも、うっかり漢字ドリルを持って帰るの忘れちゃってさ」
 自分の机にランドセルを置きながら僕がそう言うと、ナルミヤは目を丸くして、それから小さく、ふふっと笑った。
「ケイタくん、いつも置き勉してるんだ、いけない子だね」
 そう言う彼女の口調には、僕を蔑むでもなく咎めるでもなく、不思議とどこか楽しそうな、嬉しそうな、そんな響きがあった。僕にはきょうだいが妹しかいないが、もしも姉がいたらこんな感じだったのかもしれない、なんて思う。同級生のナルミヤを姉のように思うのは、少しおかしいのかもしれないが。
 しかしナルミヤは、このクラスで一番、大人びている。透き通るような白い肌も、まっすぐに伸びた毛先の揃った長い髪も、誰かの冗談に口元を緩めるようにして笑う様も、その時の見守るような優しい眼差しも、とても僕らと同じ年に生まれたのだとは思えない。
 彼女の細い指先は、教室のオルガンを優美に奏で、花の絵に繊細な色を塗り、習字の時間には力強くも整った字を書き、授業の板書を美しくノートに写していく。僕はナルミヤと同じクラスになって、すぐに彼女の魅力に気が付いた。そしてこのこと��、僕だけの秘密にしておこうと決めた。
 僕は自分の席で漢字ドリルを取り出し、漢字を覚えようとしている振りをしつつ、ナルミヤのことを眺めた。彼女は僕に背を向けて、黒板に新しいチョークを並べていた。今日もいつものように、水色の水玉模様のパッチンヘアピンが、彼女の左耳の上、艶やかな黒い髪に留まっている。
 日直になると、朝と帰りに当番の仕事をこなさなくてはいけない。朝は教室の花瓶の水を取り替えたり、植木鉢に水をやったり、生き物を飼っているクラスでは餌をあげたりする。それから、黒板に新しいチョークを並べて、黒板消しを綺麗にする。どれも時間のかかる仕事ではないから、普通に登校してきてからでも十分に間に合う。でもナルミヤは、日直の当番が回って来た日、いつもより早く登校して来て、その仕事をする。
 そのことに気付いたのは、ナルミヤが前回、日直の当番になった時だった。学校に宿題を忘れて帰ってしまった僕は、翌日に早く登校して、そうして偶然にも、その事実を知った。だから今回は、僕も早く登校して、彼女が日直の仕事をこなすところを、こうして眺めることにしたのだ。
 教室にいるのは、僕とナルミヤ、ただふたりだけ。
 少しすれば、クラスメイトたちが登校してきて、教室はいつも通りのにぎやかな空間になる。ふたりだけでいられるのも、ほんの短い時間だ。何か今のうちに言っておくべき言葉を、僕は探そうとしたけれど、でもこの静けさを大切にしたいような気もする。
 僕はパパの今日の前髪を思い出しながら、僕も気合いを入れた前髪にすべきだっただろうか、と思った。猛烈なアタックをしてママと結婚したパパは、ナルミヤとふたりきりでいるこの状況で何も話しかけない僕を見たら、「そんなんじゃ駄目だぞ」と怒るだろうか。でもママなら、僕の気持ちをわかってくれるかもしれない。おしゃべりが必要な訳じゃない。ただそこに居てくれるなら、それを見つめることが許されるなら、それだけで僕は満足した気持ちになる。それは、やるべきことがすべて終わって、家族におやすみを言って布団の中に潜り込む時のような、そんな気持ちに似ていると思う。
 黒板消しを手に取ったナルミヤがこちらを振り向きそうな気がしたので、僕は目線を彼女から外して、手元の漢字ドリルへと向けた。
「ねぇケイタくん、こないだ聞いちゃったんだけど」
 ナルミヤは黒板消しクリーナーのスイッチを入れながら、そう話しかけてきた。ナルミヤから話しかけてくるとは思っていなかった僕はびっくりして、思わず彼女の顔を見る。彼女は黒板消しにこびり付いているチョークの粉をクリーナーに吸い込ませている最中だった。ぶいいいいいいんという間抜けな音が、教室に響いている。
「ヒトシくんとキョウイチロウくんと、スタストの話、してたよね」
 僕はその言葉に、再度びっくりさせられた。まさかナルミヤの口から、ヒトシやキョウイチロウやスタストの名前が出て来るとは、まったく思っていなかった。ヒトシというのはボーロの本名で、キョウイチロウはハカセの本名だ。スタストは僕たちがハマっているテレビゲーム、スターストレイザーの略称。
「う、うん。そうだけど……」
 僕たちは教室でも廊下でも、スターストレイザーの話をよくしているから、どこかで会話を聞かれたのかもしれない。彼女が僕たちの話している内容を覚えていたということが、なぜか少し嬉しかった。
「ケイタくんもやってるの? スタスト」
「やってるけど……」
「ケイタくんは、強い?」
 ナルミヤが黒板消しクリーナーを止めた。教室は再び静かになる。
 ナルミヤが僕を見ていた。彼女の大きな瞳。ふたつのそれが僕を見ていた。その目に、もっと見つめてほしいと思う気持ちと、お願いだからこれ以上見つめないでほしいと思う気持ち、その両方が湧き上がった。
「ねぇ、ケイタくんは強いの?」
「えっと……弱くはないと思うけど、僕よりもキョウイチロウの方が強いよ。キョウイチロウが考えてきた攻略方法を、僕たち三人で検証してるんだ」
「トチコロガラドンが倒せないの」
 トチコロガラドンは、スターストレイザーに出て来る敵モンスターの名前だ。その名前を知っているということは、「倒せない」ってことは、まさか。
「もしかして、ナルミヤもスタストやってるの?」
 僕の問いかけに、彼女は小さく頷いた。意外だった。ナルミヤがテレビゲームをしているところを、僕はまるで想像できていなかった。彼女がクラスメイトとテレビゲームの話をしているところを、少なくとも僕は聞いたことがない。
「……私がゲームするなんて、変かな?」
 僕は慌てて首を横に振った。
「変じゃないよ。ただ、少しびっくりしたものだから」
 スターストレイザーは、いかにも女子が好きそうな、洋服を集めて着せ替えするゲームでも、畑で作物を育てて収穫するゲームでも、家を建てて家具を並べるゲームでもなく、宇宙から飛来する巨大で不可思議な敵を殺していくゲームだ。このクラスでスタストを遊んでいるという話を聞いたことがある女子はいないし、男子だって、全員がプレイしている訳じゃない。いや、女子だとヒナカワがプレイしているらしいけれど、あいつは筋金入りのオタクだから、特殊なケースだろう。
 僕とボーロだって、ハカセから、「このゲーム面白いよ、皆でやろうよ」と言われるまで、そんなゲームが発売になったことすら知らなかった。テレビでコマーシャルが流れることもなかったし、電器屋さんにソフトを買いに行った時も、ゲームコーナーの新発売の棚の隅っこに、ぽつんと置いてあっただけだ。そんなマニアックなゲームを、ナルミヤが遊んでいただなんて。
 スターストレイザーは、発売から半年以上経った今も、攻略本という物が発売されていない。十二人の操作キャラクターと十二種類の使用武器をプレイするたびに自由に選択することができ、どれを選択するかによって戦略が変わってくる。ひとりでもプレイすることができるが、インターネットを介したマルチプレイにすれば、戦略の幅が大きく広がり、同じ敵でも倒し方は数十通りあり、どのように倒したかによってストーリーが細かく分岐していく。だから僕とハカセとボーロは、いつも「どの敵をどう倒したらストーリーがどうなったのか」を報告し合って検証し、ゲームクリアに向けて最適解の近道を模索している。
「トチコロガラドンが、いつも第八都市を壊滅させちゃって、そこでゲームオーバーになっちゃうんだよ」
「第八都市は、壊滅させ���しかないんだ」
「え……?」
 僕の答えに、ナルミヤは大きな瞳を真ん丸にした。
「あれって、都市を壊滅させるのが正解なの?」
「そう。僕と、ハカセ……キョウイチロウとヒトシと、三人で何度も調べたけれど、どう隊列を組んで戦略を練っても、最終的に第八都市は壊滅する。だから、トチコロガラドンを倒すための本拠地を第八都市ではなくて隣の第七都市に置いて、そこから出撃するしかない。第八都市は、見捨てるしかないんだ」
 これは僕たち三人だけで辿り着いた結論ではなく、ハカセの家のパソコンでインターネットの掲示板を見た時も、同じ結論が導き出されていた。世界じゅうの、顔も知らないプレイヤーたちもまた、同じように見つけ出した答えなのだ。「絶対に何か他の戦略があるはずだ」と検証しているプレイヤーは今もいるが、第八都市を陥落させずにトチコロガラドンを倒したという声は、確認した限り、まだない。
「そうだったんだ……。私、てっきり都市を守り抜くのがあのゲームのルールなのかと思ってた……。そうなんだ、見捨てるしかないんだね」
 驚きつつも、小さく頷きながらナルミヤはそう言って、それから微笑んだ。
「全然知らなかった、すごいね、ケイタくん。教えてもらって良かった。今日家に帰ったら、早速やってみるね」
 そう言うナルミヤの笑顔があまりにも嬉しそうで、僕もなんだかとても嬉しくなって、そして同じくらい、胸が苦しい感じがした。でもその苦しさが、本当はちっとも嫌じゃなくて、むしろ心地良くて、僕はそんな風に、嬉しくなるような苦しさを感じたことが初めてで、一体どうしたら良いのか、ナルミヤになんて言えば良いのか、わからなくなった。
 そこで教室のドアががらりと開いて、クラスメイトたちが数人、教室にぞろぞろと入って来た。登校してきたクラスメイトと「おはよー」の挨拶を交わしたところで、ナルミヤはくるりと僕に背を向けて、綺麗になった黒板消しを置き、新しいチョークをてきぱきと並べてから、廊下に出て行った。日直の仕事を終えて、廊下の水道に手を洗いに行ったのだろう。
 その後も続々とクラスメイトたちが登校して来て、教室の中はいつも通りのにぎやかさになった。ハンカチで手を拭きながら帰って来たナルミヤは、僕の席の方に来ることはなく、自分の席に戻ってしまった。僕は彼女との会話が終わってしまったことを名残惜しく思った。
 でも今日の短い会話で、ナルミヤと共通の話題ができたことは大きな収穫だった。今度一緒にスタストをやろうよ、と声をかけてみようか。僕がナルミヤの家を訪ねるのと、彼女にうちへ来てもらうの、どっちの方が良いんだろう。
 本当は、トチコロガラドンの攻略方法だって、あんなあっさり教えるのではなく、「今度、僕が一緒に倒してあげる」とでも言えば良かったのかもしれない。僕のパパだったら、きっとそうしただろう。僕たちが何度も挑戦して掴み取った倒し方を、簡単に教えてしまうのではなくて、ナルミヤと一緒に検証しても良かったはずだ。僕はそのことを少し、今になって後悔した。
「あ、ケイタ! やっぱり、先に学校に来てたんだな!」
 そう言いながら教室に飛び込んで来たのはボーロで、その後ろから、
「ひどいよケイタくん、ひとりで先に行っちゃうなんて!」
 と、文句を言ってきたのはハカセだった。
「ごめんごめん���漢字ドリル、学校に置いてきちゃってさ」
 僕はそう謝ってみたけれど、ボーロの目は吊り上がっているし、ハカセの顔は泣き出しそうだった。親友ふたりの僕への非難は、先生が教室に入って来て、「さぁ皆、自分の席に着いて」と言うまで続いた。僕はふたりの話を聞いているふりをしながら、途中何度か、ナルミヤを見つめていたのだけれど、彼女は僕には気付いていないようで、一度もこちらを見ることはなかった。
「朝の会を始めましょう。今日の日直はナルミヤさんね、お願いします」
 先生にそう促され、ナルミヤの凛とした声が、朝の教室に響き渡る。
「起立」
 椅子をがたがたと鳴らしてクラスメイトたちは起立する。僕も立ち上がりながら、「今度、一緒にゲームをしよう」と、放課後にナルミヤを誘ってみよう、と決めた。
 ナルミヤとふたりで秘密の攻略方法を発見することができたら、どんなに幸せだろうか。もしかしたら誰も発見することができなかった、第八都市を壊滅させないでトチコロガラドンを倒す方法が、ナルミヤとだったら見つかるかもしれない。彼女を見ているとそんな風に、僕はなんでもできるような気分になってしまうのだ。
 と、いうのはすべて、僕の妄想だ。
 現実の僕は、廊下の床に片頬をつけたまま、中途半端に閉められたカーテンの隙間から射し込んで来る、冷たい光を見ていた。光を見てそれを冷たいと感じるのは、光がカーテンの青色を透過して部屋じゅうが青っぽく見えるからなのかもしれないし、もしくは僕が布団どころかカーペットさえ敷かれていない、冷え切った廊下に横になっているからかもしれない。
 眩しさに目を細めながら、寝ぼけたままの僕はその光が朝陽だと理解して、室内の壁にかかっている時計へと目を向けた。時計の示す時刻と部屋の中の明るさは、午前中だとしたらあまりにも暗く、午後だとしたらあまりにも明るく、それを妙に思うよりも早く、秒針が動いていないことに気が付いた。昨日の夜に止まったままになっているのであろう時計から目線を逸らし、「電池を交換しなきゃ」と思ったものの、電池がどこにあるのかわからない。そこで、この家に時計は壁のそれひとつだけだと思い出す。運良く新品の電池を見つけたところで、時計がそれしかないのだから、正しい時刻に合わせることもできない。
 今は何時なんだろう。
 せめて母親の携帯電話があれば、時刻を知ることができる。部屋の中をもう一度見渡してみたが、母親の姿もなければ、部屋の隅のローテーブルの上にいつも置かれている携帯電話も見当たらない。母親も携帯電話も、外出したまま、戻って来ていないようだ。
 母親が不在であることに安堵と落胆が入り混じったような気持ちになりながら、僕は床から起き上がり、まずはトイレへ、それから洗面所へ向かった。トイレにも洗面所にも、その隣の脱衣所にも、浴室にも、家族は誰もいなかった。用を足して手を洗ってから顔を洗う。
 洗面所の鏡には、皮脂にまみれた髪が額にべったりと貼り付いている僕の顔が映って、顔を洗うついでに蛇口の下にまで頭を突き出し、髪を濡らしてごしごし擦ってみたけれど、物事が好転したようにはまったく思えなかった。どこか��あるらしい傷に、水がしみて痛かった。
 何日も着替えていない服からは饐えたような臭いがしていたし、手も足も少し擦るだけですぐに垢が剥がれ落ちた。もう何日間、風呂に入っていないんだろう。この部屋のガスが止められてからどれくらい経ったのか、思い出せない。今はこうしてトイレも使えるし顔も洗えているけれど、水道が止められる日も近いのかもしれない。
 いつ洗濯したのかもわからない、黄ばんだタオルで濡れた髪を拭きながら洗面所を出た。さっきまで横になっていた廊下を踏みしめて部屋に入り、ローテーブルの下に転がっていた煙草の箱とライターを拾って、ベランダへ続く窓を開ける。
 窓の鍵は開いたままになっていた。素足のままベランダに出て窓を閉めてから、箱から煙草を一本引き抜いて、口に咥えて火を点ける。息を大きく吸って鼻から煙を細く吐きながら、外が思っていたよりもずっと明るいことに気が付いて、もしかしたら、もうとっくに学校へ向かわなくてはいけない時刻になっているのかもしれない、と思った。
 室外機の上に置かれた灰皿に灰を落としていると、アパートの下の通りをふたりの小学生男子がおしゃべりしながら歩いて来るのが見えたので、僕は咄嗟に、ベランダに置かれた目隠しパネルの陰に隠れるようにしゃがみ込んだ。そうすることで彼らから僕の姿は見えなくなり、僕からも彼らの姿が見えなくなったのだけれど、わざわざ顔を確認しなくても、僕はそのふたりが誰なのかを知っていた。同じクラスのハカセとボーロだ。
 ハカセというのもボーロというのも、本名ではなく、あだ名だ。ハカセと呼ばれている、分厚いレンズの眼鏡を掛けた背が小さい男の子は、確かキョウイチロウというのが本名で、もうひとりの、ボーロと呼ばれている体格の良い坊主頭の男の子は、ヒトシというのが本名だ。ヒトシというよりフトシという感じだけれど、そう呼ぶと泣くまで殴られるので、誰も間違ってもそうは呼ばない。クラスメイトのほぼ全員が、ふたりのことをハカセ、ボーロを呼ぶので、僕はそのふたりの名字を思い出すことはもうできなかった。
 ふたりは近所に住んでいるのか、仲が良いのか、登校の時間になるといつも決まって、おしゃべりしながらこのアパートの前の通りを南から北へと歩いて行く。朝から元気が良いことに、ふたりの会話はベランダにいる僕にまでよく聞こえてくる。
 話の内容は、昨日観たテレビのことか、スタストとかいうゲームのことがほとんどで、ときどき、マッドシューターの最新モデルがかっこいいだなんて、スニーカーの話をしていたりする。今日はなんの話をしているのだろうと思いながら、目隠しパネルの陰で煙草を吸っていると、僕がそこにいることなんて知りもしない彼らが、いつも通りおしゃべりをしながら歩いて行く。
「なぁ、聞いたか? 昨日皆がしてた噂話」
「ナルミヤさんの話でしょ? あんなの信じられないよ。何か証拠があるのかなぁ」
「でもほら、火のないところにナントカって言葉もあるだろ。何にもないのに、ナルミヤがエンジョコーサイしてるなんて噂、出回る訳ない」
「あれって、ヒナカワが言い出した話だよね。ヒナカワってほら、ナルミヤさんと仲良くないじゃない。なんでヒナカワが、仲良くもないクラスメイトの秘密を知ってるのか、不思議に思わ��い?」
「なんだ? ハカセはナルミヤの噂が嘘だって疑ってるのか? 信じたくないって? なんだハカセ、お前、もしかしてナルミヤが好きなのか?」
「ち、違うよ! ただ僕は、ヒナカワがナルミヤさんを嫌いだから、あんな噂を広めたんじゃないかって思ってるだけで……」
「なんでヒナカワがナルミヤを嫌ってるってわかるんだよ?」
「だってほら……ナルミヤさんは美人だけど、ヒナカワはブスじゃん……」
 僕は短くなった煙草を灰皿に押し付けて、火を消してから立ち上がる。部屋に戻る頃には、ハカセとボーロの会話は聞き取れないくらい、ふたりはもう遠くへ行ってしまっていた。
 一本抜き取ったことが判明しないことを願いながら、煙草とライターを元通りローテーブルの下に置き、それが不自然に見えないよう、あたかもずっとそこに転がっていたことを装うようにその角度を微調整してから、台所の方へと目を向けた。
 電気を点けないといつも薄暗い台所は、窓の近くからでは中の様子がよく見えない。僕は意を決して、台所へと近付いた。食べられる物がほとんどなくなってしまって久しい台所は冷え切っていて、とても静かだ。冷蔵庫のコンセントはとっくの昔に引き抜かれているし、蛇口も長いこと捻られていない。
 時計の秒針さえも止まってしまった今、家の中は恐ろしいほどに静かだった。ただじっとしているだけでは、この空気に取り込まれて、僕まで透明になってしまいそうな、そんな錯覚に陥りそうになる。僕は台所の入り口に立って、その薄暗がりの中を覗き込んでみた。
 台所の床の上にはどす黒い色をした水溜まりが広がっていて、その中心には、僕の父親が倒れている。
 たいした深さもないはずの水溜まりの真ん中で、溺れてもがいているかのように、こちらへ右手を伸ばしたまま、どこか遠くをじっと見つめたまま動かない父親は、もうかれこれ二日はこのままの状態で、脈を確かめるまでもなく、完全に絶命していた。心臓を刺し抜いているのであろう包丁の切っ先が、父親の背中から突き出していて、その汚れた銀色だけが、暗闇の中で妙にはっきりと見える。それはひどく恐ろしい光景だった。
 怖いからなるべく見ないようにと過ごしてきたけれど、一度目を向けてしまうと、まるで縛り付けられたかのように身体が固まり、目線すら動かせなくなってしまう。ずっと見つめ続けたところで何も変化など起きないのに、僕は間違い探しでもしているかのように、目の前の光景を食い入るように見つめている。
 ふと、父親の身体の下に広がっている水溜まりの中に、何かが転がっているのを見つけた。今まで何度か台所を覗き込んでいたけれど、それに気が付いたのは初めてだった。
 あれはなんだろう。恐る恐る、水溜まりへと近付いた。その時、突然父親の右手が動いて僕の足首を掴んでくるところを想像してしまい、思わず悲鳴を上げそうになった。けれどそれは僕のただの妄想で、実物の父親はやはりぴくりとも動かない。明らかにこちらを見ている様子のない両目が、それでも僕を見つめている気がして、何度も父の顔を見てしまう。家にいる時はいつも父の機嫌を窺って過ごしていたけれど、死んでからも顔色を窺わなく��ゃいけないことが急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。それでも、一度想像してしまった恐怖から逃れることはできない。僕は怯えながら水溜まりに落ちている小さなそれを拾い上げる。
 ねちょ、という感触がして、指に赤と黒の中間色のような色が付着する。「それ」も僕の指を汚したのと同じ液体がべったりとこびり付いていて、摘まみ上げた「それ」がなんなのか、最初はわからなかった。「それ」は小さくて、金属でできていて、何かを挟むような形状をしていた。
 しばらく見つめているうちに、僕の目は「それ」にまだ汚れが付いていない部分があることを発見し、そしてそこに描かれているのが水色の水玉模様だと認識した時、僕はナルミヤのことを思い出した。
 透き通るような白い肌、まっすぐ伸びた長い髪、大きな黒い瞳。ナルミヤは僕のクラスの一番美人な女の子で、いや、きっと、学校で一番の美人だ。けれど誰も、彼女が笑ったところを見たことがない。というのが、もっぱらの噂だった。
 ナルミヤは笑わない。そして、人前で口を開くことはほとんどなく、開いたところでつっけんどんな、素っ気ない言葉が棘にまみれたような声音で吐き捨てられるだけなのだった。彼女がクラスメイトを見つめる時、それは眉をひそめるように細められた冷ややかな眼差しで、ぱっちりとした瞳が台無しに思える。ナルミヤの美しさは、男女問わず誰でも彼女と仲良くなりたくなるような、ずば抜けた輝きがあったけれど、当の本人がそういう具合でしか他人と関わろうとしないから、誰も彼女には近付かない。しかし誰ともつるもうとしないその姿勢が、彼女の美しさをより一層引き立てているように見えなくもない。
 ナルミヤは孤高だ。クラスメイトの誰にも似ていない魅力が、彼女にはある。
 僕は指先で摘まんだ金属片を見つめたまま、どうして今、彼女のことを思い出しているのか不思議であったが、やがてその水色の水玉模様が、ナルミヤの左耳の上、髪に留められているパッチンヘアピンの模様だと気付き、そしてこの金属片が、彼女のヘアピンなのだとわかった。
 これはナルミヤの物だ。だから、彼女に返さなくてはいけない。
 そう思った僕は洗面所に引き返し、ヘアピンを洗った。赤黒い粘着質な汚れは、執念深く擦り続けているうちに流れ落ち、それから、自分の手もよく洗った。もう何日も風呂に入っていない僕の頭を拭いたタオルでナルミヤの私物を拭くことをなんとなく躊躇して、軽く水を切ってから、僕はそれをズボンのポケットへと入れる。
 学校へ行ってみよう。ナルミヤはきっと、登校しているだろう。
 汚れがマシな靴下があったら履こうかと思ったが、そんな物はどこにも見つけられず、僕は裸足のまま玄関へ向かった。
 玄関の土間には、僕のスニーカーと父親のくたびれた革靴と、妹のリスコが落ちていた。リスコは手足を縮めるようにして土間にうずくまり、まるで芋虫のようだった。うつ伏せの姿勢のまま、そこにじっとしているので、顔は見えない。ぐっすり眠っているのか、僕がすぐ側でスニーカーを履いても、ぴくりとも動かなかった。
 僕と同じようにずっと入浴していないリスコの髪には、ところどころ綿埃が付着している。その髪は明るい茶色をしていて、これはリスコが母親にねだって市販の薬剤で染めてもらったから���った。茶髪になったことが嬉しくて、はしゃいでいた妹の様子をまるで昨日のように思い出す。でも今は、その髪も汚れきっている。
 妹はいつから、ここで寝ているんだっけ。
 リスコは昔から寝起きの機嫌が良くない。起こそうとして噛みつかれたことも一度や二度ではないし、あの父親でさえ、眠っているリスコを起こそうとはしない。だから僕は、妹には触れることなくスニーカーを履き、その横を黙ってすり抜けた。
 玄関のドアを開けて、外へと出る。家の鍵は持っていないので、ドアを閉めても鍵は閉められない。僕が不在の間に誰かが訪ねて来て、うっかり妹を起こしてしまうなんてことが、なければいいのだけれど。
 家から一歩外に出ると、不思議と気持ちが楽になった。僕が家の中にいるとどことなく居心地が悪い理由は、そこに両親がいるからだと今まで思っていたけれど、母親が帰って来なくなり父親が呼吸をしなくなっても、やっぱり家の中にはいたくないというのが、僕の本心らしかった。比較的軽い足取りでアパートの階段を降り、学校へ向かうための通学路を歩き出す。スニーカーの中に溜まった砂が、たちまち足の裏にまとわり付くのが気持ち悪かった。
 どうやら小学生が登校する時間はとっくに過ぎているようで、もうどこにも黄色い帽子やランドセルを身に着けた子供の姿を見つけることはできなかった。ひとりでとぼとぼと学校へ続く道を歩きながら、そういえば僕のランドセルはどうしたんだっけ、と考えた。
 学校へ行くのであれば、ランドセルくらいは持って行っても良かったかもしれない。でもどうせ、教科書もノートもないし、鉛筆は皆折れているし、ランドセルだけあってもどうしようもない。
 葉桜になった桜並木を歩いて行くと、途中、一本の桜の木の陰に、思わぬ人物の姿を見つけた。ナルミヤだった。
 彼女は桜の木にもたれかかるようにして立っていた。しかし、登校の時に被るように言われている黄色い帽子も、真っ赤なランドセルもない。足元はいつもと同じ、エナメルの黒いスニーカーだったが、黒と白のワンピースは、学校の制服ではなかった。ナルミヤは僕に気が付くと、まるで汚物でも見るような目をして、顔をしかめた。
「……ケイタくん」
「おはよう、ナルミヤ」
「……おはよ」
「ここで、何してるの?」
「別に」
「学校、行かなきゃいけない時間じゃないの?」
 ナルミヤは僕から顔を背けるように真横を向きながら、それでいてその目は、突き刺すように僕を見ていた。
「そう言うあんただって、学校は?」
「今、行くところ」
「……その格好で?」
「うん」
「あっそ」
 僕はポケットの中からパッチンヘアピンを取り出して、ナルミヤへ差し出す。
「これ」
「……何それ」
「これ、ナルミヤのでしょ」
「なんであんたがそれを持ってるの?」
「僕の家に、落ちてた」
「…………」
「これをナルミヤに返そうと思って、それで学校へ行くところだったんだ」
「…………」
 ナルミヤはまるで引ったくるように、僕の手からヘアピンを取ると、すぐさまそれをワンピースのポケットへと仕舞った。横を向いたまま目だけで僕を睨んでいるのは、変わらなかった。
「そのために、来たの?」
「うん」
 学校に辿り着くずっと手前で、ナルミヤに会えたことは予想外だったけれど。
「それだけ?」
「うん」
「…………」
 彼女は僕を睨みつけていたが、やがて、その目線さえもそっぽを向いた。
「ケイタくんさ、わかってんの?」
「何を?」
「あんたの��父さん殺したの、私なんだよ」
「うん」
 僕は頷いた。
「私のヘアピン、証拠じゃん。私が殺したっていう証拠」
「そうかな」
「だって殺人現場に落ちてるんだよ。犯人が落としたんだって、思うでしょフツー」
「そうかも」
「ケーサツ呼んでないの?」
「呼んでない」
「なんで呼ばない訳?」
「うち、電話ないし」
 ナルミヤの目がさらに細くなる。細くなればなるほど、僕を貫くように視線が研ぎ澄まされていくように感じる。しかし今、彼女の目は僕の方をまったく見ようとしていなかった。
「はぁ? 電話なんかなくたって、ケーサツくらい呼べるでしょ。近所の人とか、お店の人とか」
 周囲の大人に助けを求めれば良い、と言いたいのだろうか。しかしナルミヤは、それより先の言葉を口にはしなかった。
「あんたのお父さん、どうなってんの?」
「どうもなってないよ」
「どうもなってないって?」
「そのまま」
「あれから、ずっと?」
「そう」
「…………」
 ナルミヤは最大級に嫌そうな顔をした。
「…………きもちわる」
 ぺっ、とナルミヤは僕に向かって唾を吐いた。彼女の唾液は、放物線を描いて僕の足下へと落ちる。僕がその唾液の、白いあぶくを見つめていると、ナルミヤは心底不機嫌そうな声で、怒鳴るように言う。
「用が済んだらさっさと失せろ。二度とその面を見せるな」
 それはまるで、僕の母親が言いそうな言葉だった。けれど彼女が僕の母親に似ているとは、ちっとも思わなかった。ナルミヤの方がずっと綺麗だ、と思った。
 学校へ向かおうと思ったけれど、目的はすでに達成してしまったし、もう何もすることはないので、僕は家に戻ることにした。さっき出て来たばかりなのに、もう引き返すのかと思うと、それだけで足が重くなる。結局、僕はあの家から逃れられないのだろうか。のろのろと歩きながら、一度だけ後ろを振り返ってみたけれど、もうナルミヤの姿はなかった。
 ナルミヤはどこへ行ったのだろう。あの格好だと、学校へ向かった訳ではないような気がする。彼女も家へ帰ったのだろうか。それとも、僕の予想もつかないような場所へ向かったのだろうか。
 帰っている途中、どこからかサイレンの音が聞こえてきた。パトカーのサイレンだ。家が近付くにつれて、その音はどんどん大きくなっているような気がした。
 寝ていたリスコは、この音で起きてしまうかもしれない。寝起きの妹の相手をするのは、考えるだけで嫌な気持ちになる。妹なんて、一生あのまま、目覚めなければ良いのに。もしくは、リスコはもうとっくに、死んでいるんじゃないだろうか。起こしたくないから触りたくなくて、ずっと土間に転がしたままにしていたけれど、本当は、もう二度と目覚めないのかもしれない。
 アパートの前まで来ると、そこには三台のパトカーが停まっていた。近所迷惑を考えてか、さすがにサイレンは鳴らしていなかったけれど、赤色灯がくるくるくるくる、風車みたいに回っている。目の前の光景に呆然としていると、二部屋隣に住んでいるおばさんが駆け寄って来る。僕の家のドアは開いていて、中から出て来た警察官が階段下にいる僕を黙って見下ろした。
 やっぱり、家の鍵をもらっておけば良かったな、と僕は少なからず後悔して、今度母親に会ったら、ちゃんとそれを伝えようと思った。でもそれと同時に僕は、もうこの家に二度と母親が戻って来��いような気もした。
 と、いうのはすべて、僕の妄想だ。
 現実の僕は、きちんと制服を着て、黄色い通学帽を被り、ランドセルを背負って、玄関で靴を履こうとしている。ママは僕の後方、廊下の奥の部屋の入口で、中にいる妹のリスコに熱心に声をかけている。
「リスちゃん、もう出掛ける時間よ。いつまでもぐずぐずしているなら、ママは先にケイちゃんを学校へ送りに行くけど。ねぇ、本当にいいの?」
 リスコは部屋の中から何か返事をしたらしかったが、なんて言ったのかまでは聞き取れなかった。
「そう、じゃあ先に行くからね。ケイちゃんを送って帰って来たら、ママと一緒に学校へ行きましょうね」
 ママはそう言うと、廊下を早足で歩いて来た。
「ケイちゃん、先に行こう。リスコは後で送るから」
 僕は黙って頷いた。ママは仕事に行く時の洋服を着ているのに、靴はいつもの黒いヒールではなく、コンビニに行く時のピンク色のサンダルを履いた。僕を小学校へ送ってからそのまま会社へ向かうのではなく、どうやら本当に、また家へと戻って来るつもりらしかった。でも、ときどきママは間違って、そのサンダルで会社へ行ってしまうことがあって、だから僕は、ママがサンダルを履いたことを指摘するかどうか悩んだ。
 けれどママの言葉の端々が、妙に尖っているように聞こえることに気が付いたので、そのことを口にするのはやめた。決して表情に出さないように努めているようだったけれど、ママが今までになく緊張しているのがなんとなくわかった。  僕はアパートの階段を先に降りて駐車場の車のドアの前に立ちながら、玄関を施錠したママが後から階段を降りて来るのを待った。車の鍵を操作したのか、唐突にピッと車の鍵が開いたので、僕は後部座席に乗り込んで、さっき背負ったばかりのランドセルを隣の座席へと置く。運転席に乗り込んだママが何も言わないままシートベルトを締めて車のエンジンをかける。ルームミラーで後部座席の僕をちらりと見て、いつもだったらそこで、「ほら、シートベルトしなさい」と言うはずだったけれど、今日のママは「じゃ、行くわよ」と言っただけだった。
※『非・登校』(中) (https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/766015430742736896/) へと続く
0 notes
t82475 · 1 year ago
Text
イリュージョンワークショップ
[Part.1 仁衣那さん] 1. ちょっと挨拶に寄っだけのはずなのに、夕食とビールをご馳走になってオヤジとオフクロはすっかり盛り上がってしまった。 出水さんとうちのオヤジは従兄弟同士、出水さんの奥さんとオフクロは中学高校の同級生。 直接会うのは10年ぶりというから話に花が咲く。 昔好きだった歌手の話題になって、やがて昭和ポップスのカラオケ大会になってしまった。 この家、こんなにデカいカラオケ機があるのか。 カラオケルームの装置より大きいぞ。
オヤジが拳を突き上げて熱唱している。 隣でおばさん二人がダンス���練習を始めた。ピンクレディーって誰? 僕はじっと座っているだけだった。 いつまでこんなのに付き合わされるのだろうか。
「終わりそうにないわねぇ。・・わたしの部屋に来る? 将司くん」 隣にいたお姉さんが声をかけてくれた。 助かった。 僕はお姉さんに連れられてカラオケ会場と化した客間から逃げ出した。
2. 僕は畑本将司(はたもとまさし)、18歳の高校3年生。 お姉さんは出水仁衣那(でみずにいな)さん。年齢は教えてもらってない。 親同士が従兄弟だから、僕から見て仁衣那さんは再従姉妹(はとこ)にあたる人だ。
「わたしのこと覚えてる?」 「いえ、全然」 「わたしは覚えてるよ。10年前の将司くん」 そう言われても困る。 ひい爺さんの三回忌だか七回忌だかで親戚が集まったとき、8歳だった僕もそこにいたらしい。 「可愛いかったなー。それがこんなイケメンになるんだから」 「仁衣那さん、そのときいくつだったんですか?」 「内緒。それ言ったら今の歳が分っちゃうでしょー?」
話しながら階段を上がって2階の仁衣那さんの部屋に来た。 淡い色のカーテンとベッドカバー。ドレッサーっていうんだっけ化粧のための台。 床に籐のカゴがあって中に猫のぬいぐるみが寝ている。 女の人の部屋ってこういう感じなんだな。
「女の部屋が珍しい?」「まあ一人っ子なもので」 「彼女くらいいるでしょ? その子の部屋とか知らないの?」 残念ながら、たった一人だけ付き合った女の子とは部屋に入れてもらえる関係になる前に別れました。 「あらごめんなさい。わたしつい余計なこと言っちゃうのよねぇ」 「いえ、大丈夫です」 「そう? ・・えっと、将司くんは高校2年だっけ」「3年生です」 「そっか。なら進学?」「一応そのつもりです」 「行きたい大学は決まってるの?」「第一志望はJ大ですけど」 「あら、わたしJ大卒だよ」 「そうなんですか」 「そうそう! 自由でいい大学だよっ」 「・・」 「自由過ぎて放ったらかしというか」 「・・」 「将司くん?」
僕は机の上に飾られているペーパークラフトを見ていた。 丸い台座からまっすぐ立った棒とその上に女性の人形が浮かんでいた。 その人形の顔はどことなく仁衣那さんに似ていた。 水着みたいな服。片肘をついて横になったポーズ。やや頭を下にして全体が傾いた構図。 これ、イリュージョンじゃないか。
Tumblr media
「あ、それ?」 仁衣那さんは手を伸ばして人形の足を指で押し下げた。 指を離すとそれは棒の上でゆらゆら揺れた。 [動画] 「よくできてるでしょ? これはブルームサスペンション・・って言っても分からないか」 「イリュージョンですよね。こんな風に棒一本で浮くっていう」 「知ってるんだ。将司くん」 「はい。ちなみにブルームは英語でホウキって意味だけど、ホウキを使ってなくてもこんな形だとブルームサスって呼ぶんですね」 「よく知ってるねぇ。ホウキのことなのかぁ。知らなかったよー」
僕は小さい頃からイリュージョンマジックに興味があった。 人体切断や空中浮揚などテレビやネットで見てはタネを調べたりしていた。
「わたし、イリュージョンやってるんだよ。アマチュアだけどね」 「え、仁衣那さんが?」 「うん。このお人形はね、大学で同好会にいたときのわたしなの。ステージ見た人が作ってくれたんだ」 これは驚いた。親戚にイリュージョンをやる人がいたなんて。 しかもこの人形。この人形は。 「仁衣那さん、あの」 「はい?」 「こんなエロ、いやセクシーな恰好でイリュージョンやったんですか」 仁衣那さんは一瞬呆れた顔をしてから笑った。 「男の子ねぇ。・・確かにこのハイレグに生足だもの。エロいに同意するわ!」
僕は仁衣那さんを見る。ごく普通にTシャツとジーンズの仁衣那さん。 この人がへそ出しのハイレグで生足で。 「そんな目で女の子を見たら嫌われるぞ、少年」 「そこで少年呼びはやめて下さい」 「このときの録画があるけど、見たい?」 「見たいです」 「素直でよろしい」
・・
仁衣那さんのタブレットでブルームサスの動画を見せてもらった。 あのエロいコスチュームで登場した仁衣那さん。 たった一本のサーベルに支えられて空中浮揚。ハイヒールの足が斜め上に向いてすらりと伸びる。 これ、サーベルの先���を受ける仕掛けがあるんだよな。
「こんなこと聞いて答えてもらえるか分からないですけど」 「いいわよ。年齢以外なら何でも教えてあげる」 「太りました?」「うるさい」 「じゃあ別の質問」「めげないのね」 「このイリュージョン、腰から下が大変じゃないですか?」 「あら、分かるの!?」
映像を見る限り仁衣那さんの身体は上半身でホールドされている。腰から下には何もない。 だから仁衣那さんは自力で下半身のポーズを維持している、と思う。 筋肉に力を込めて、まるで体操の選手みたいに。 僕の質問が通じたんだろう。仁衣那さんはにやっと笑ってくれた。
「さすがだね、少年!」 「だから少年は止めて欲しいと」 「イリュージョンはね、アシスタントの汗と涙で成立するんだよ!」 「大雑把な答えですね」 「あっははは」 豪快に笑われた。仕方ないので僕も笑う。
「そうだ! 再来週の土曜日だけど、ヒマしてない?」 「何ですか?」 「イリュージョン同好会の公演があるの。わたしは用事があって行けないけど、将司くん見に来ない?」 行きたい。 でも、知らない大学生の集まりに一人で行くのはちょっと。
「誰でも大歓迎のイベントだから心配ないわ。それに来年は将司くんも入会するでしょ? 今から顔売っといて悪いことないと思うけどなー」 「僕は同好会に入るとは決めてません。だいいちJ大に通るかどうかも分からないっていうか」 「大丈夫大丈夫! きっとうまく行くよ」 「んな気楽に」 「公演会、きっとエロいコスチュームの美女が登場するよ」 「え」 「我がJ大イリュージョン同好会の伝統だからね、女子のコスがセクシーなのは」 「行きます」 「よし! チケット代はわたしが出すから安心して」 「お金取るんですか」 「イリュージョンはお金がかかるからねー。ここはOBとして協力してあげたいのよ」 「何枚買わされてるんですか?」 「え?」 「何枚買わされてるんですか? チケット」 「・・10枚」 「そ、れ、は、た、い、へ、ん、だー」 「もちょっと気持ちを込めて同情してよぉ~」
[Part.2 J大イリュージョン同好会公演] 3. イリュージョン同好会公演の会場は小さなライブハウスだった。 入口で紙切れを渡された。 そこには QR コードが一つあるだけで出演者もプログラムも書かれていなかった。 試しにスマホで QR コードを読んでアクセスしてみると、ただ真っ黒な画面が写るだけだった。
フロア前方の椅子席に座る。 フロアの後ろ半分は椅子のない広場になっていて、そこに揃いの黄色いハッピを纏いメガホンやうちわを持った兄ちゃんたちが群れていた。 うちわには蛍光色の派手な丸ゴシックで『知里』とか『琳琳』とかの字が見える。まるでアイドルの応援グッズだ。
ステージは少しだけ高くなっていて、袖とバックに黒幕が掛かっている。 客席とステージを仕切る幕(緞帳)はないから、開始前からステージの様子が分った。 今、ステージには一人掛けの黒い椅子が置かれている。その隣には大きな造花の植栽。 あの椅子は知ってるぞ。美女の出現椅子だ。 ということはあの中にはもう。
○ 公演会オープニング やがて会場が暗くなり、スポットライトがステージの椅子を照らし出した。 椅子に黒布が掛けられる。ほとんど同時に水色のドレスの美女が登場した。 足を組んで座り、髪をかきあげて微笑む。 ちーりちゃーん! 後ろの方で野太い声が湧き起こった。
続いて、隣の植栽に黒布が掛けられた。 プランターの中に別の美女が立ち上がる。 彼女はピンクのフリルドレス。その場で両手を広げて回って見せた。 りんりーんちゃーん! 再び声援。 お前ら、さっきからちょっと五月蠅い。
それにしても二人とも速かったな。 あの布の下に出現すると判っていても、ほんの一瞬で移動するのは驚きだった。 この後のイリュージョンも期待していいんじゃないか。
ステージにイリュージョン同好会のメンバーが並んで挨拶した。 全部で5人。少ないな。 男性メンバーは3名。全員グレーのスーツ姿。 女性は2名。 「朝比奈知里(あさひなちり)です! 3年で会長です!」 「岩淵琳琳(いわぶちりんりん)、1年生です!」 知里さんは青いドレス。切れ長の目でちょっと知的な美人という感じ。 琳琳さんはピンクのドレス。大きな瞳をしていて可愛い美少女という感じ。 どっちも魅力的だ。 来年この人たちと一緒に活動できるのなら、ちょっとは受験勉強も頑張ろうという気になるね。
続いて男性メンバーも自己紹介をしたらしいけど、知里さんと琳琳さんを見ていて耳に入らなかった。 まあ男の名前はどうでもいいわな。 それよりイリュージョンをしっかり見ないと。 できればタネも見破りたい。
男3人は袖に引っ込み、ステージには女性だけが残った。 美女2人で演じるイリュージョン!? 知里さんがマイクを持って深呼吸し、そして叫んだ。 「お待たせしましたーっ。歌いまーっす!!」 うぉお~~!! 待ってましたぁ~っ!!! 怒涛のような歓声が起こる。 え? 何? 「♪あ・な・た~のアイドぉルぅ、サインはビビビ!!」 二人は踊りながら歌い出した。
うりゃおい!うりゃおい! うりゃおい!うりゃおい! ちーりちゃーんっ!! りんりーんっ!! 耳を覆いたくなる音量の音楽と声援。 一斉にコールをかけながら踊る兄ちゃんたち。 椅子席の観客も飛び跳ねながら手拍子。 イリュージョン、しないの?
・・
それから知里さんと琳琳さんは3曲歌い、会場はむちゃくちゃ盛り上がった。 2曲目の途中で衣装の早変わりがあった。 二人は衝立(ついたて)の陰でショートパンツに変身した。 「おおっ」と思ったけど、他にイリュージョンっぽいことは何もなかった。
「10分間休憩でーす!! 握手とチェキタイムは後半の終了後になりまーす!」 チェキまで撮るんかい。
休憩時間中、僕は椅子に座ったまま憮然としていた。 僕は何を見にきたんだろう? ねえ、仁衣那さん。全然エロくないっすよー。 おっと違う違う。 エロは目的じゃなかった、イリュージョンを見に来たんだ。 まあエロいのも期待してるんだけど。
4. 後半の部。
○ マジカルマミーの人体交換 男性メンバーが二人、細長い白布を持って登場した。 二人は左右に分かれて立ち、間に細長い布を掲げて見せた。 それは高さ2メートル、横4メートルほどもある白布で、まるでステージに白い壁ができたように見えた。
右側の男性がくるくる回りながら左に進んだ。自分の身体に布を巻き付けてミイラのようになってゆく。 4メートル分すべて巻き終えて止まると、左にいた男性がその頭と肩の部分を押さえて中身が人間であることを示した。 するとミイラが逆に回って今度は布を解いてゆく。 すべて解き終えて右側に現れたのは男性ではなく知里さんだった。 ハイレグの青いレオタード。兎の耳はないけど付いてたらバニーガール。ハイレグの下は網タイツにハイヒール。 右手で白布を掲げたまま、身をくねらせて微笑みながらウインクしてくれた。 え~!? ちりちゃーん!! 応援団の声援も驚き混じりだ。
続いて左側の男性がくるくる回って布を巻きつけミイラになった。 知里さんがその頭と肩を押さえて中身の人型を示す。 ミイラは逆向きに回転して布を解き、そして琳琳さんが登場した。 知里さんと同じデザインの赤いレオタード。胸の谷間もくっきり。 うわぁ~っ。りんりーん!!
知里さんと琳琳さんは互いの肩と太ももに手を当ててポーズ。 僕は思い切り拍手した。 これだこれ。見たかったのは。 お二人とも文句なしにエロいです。
・・
その後はイリュージョンが続いた。
○ 逆さヒンズーバスケット キャスター付きの台に載って登場したのは台形の籠。ヒンズーバスケットだった。 目隠しの黒布を手前にかざし、その間にハイヒールを脱いだ琳琳さんがバスケットの中に隠れた。 黒布を外すとバスケットの口から琳琳さんが手だけ出して振っている。 これで蓋を乗せるのかと思ったら、細かい発泡スチロールのボールが注ぎ込まれた。 大きなビニールの袋で1杯、2杯。 あーあ、琳琳さん、すっかり埋もれちゃったな。 琳琳さんの手が発泡スチロールの中に引っ込んで、その上に蓋が被せられた。
知里さんが長い棒を振りかざした。 棒の先端を蓋の小穴に刺し、バスケット側面の穴まで斜めに突き通す。 さらに次の棒を刺す。全部で6本。 何箇所かバスケットの穴から白いボールが押し出されてこぼれる。 最後の棒を垂直に刺した。その先端がバスケットの底から突き出るのが見えた。
ヒンズーバスケットはとてもメジャーなイリュージョンだし、仕掛けも簡単だ。 でも発泡スチロールボールでバスケットの中を埋めてしまうとは。 あそこにいる琳琳さんは視界が遮られてやりにくいだろうし、それに閉塞感が増して心理的にも大変だろう。 "イリュージョンはね、アシスタントの汗と涙で成立するんだよ!" 仁衣那さんの言葉が蘇った。 本当だ。頑張っている琳琳さんを想像して少しドキドキ���た。
全部の棒が引き抜かれ、上面の蓋も外された。 せーの、ほいっ。 男性メンバーが3人がかりでバスケットを持ち上げた。 え? 何するの? 腰の高さまで持ち上げたバスケットを上下逆に向けた。 発泡スチロールのボールがざぁっとこぼれる。 知里さんが下から手を入れて奥の方のボールをかき出した。 さらに4人でバスケットを揺さぶる。逆さに持ったバスケットを何度もぶんぶん揺さぶった。
これはマジで驚いた。 こんなヒンズーバスケットは見たことがない。琳琳さんはどこに消えたのか。 会場もざわついている。
やがてバスケットは元の向きで床に置かれた。 目隠しの布をかざす。バスケットの中から琳琳さんが立ち上がった。 発泡スチロールのボールが纏わりついている。払い落とそうとするけど静電気でくっついたボールは簡単に落ちない。 諦めて琳琳さんはにっこり笑い、皆で並んでお辞儀をした。
・・
○手首ギロチンと切断手首 男性メンバーが床に散乱したボールを掃除機で吸い取っている。 その前で知里さんがマイクを持った。 「次は会場のお客様にお手伝いお願いしましょう」 はいはーい! おれオレ!! 一斉に手を上げる兄ちゃんたちを制して言った。 「ごめんなさい。ここはやっぱり女の子で♥」 えーっ? 仕方ないなー。 知里さんは何人か手を上げた女性の中から一人を指差した。 「はい、あなた。どうぞこちらへ!」 琳琳さんが走って行ってその女性の手を取り、ステージの上に連れてきた。
客席から上がって来たのは元気な感じの子だった。高校生ぽく見える。 薄いピンクのシャツと白いハーフパンツ。シャツと合わせたピンクのネイル。 「お名前は?」 「玻名城(はなしろ)れいらですっ」 「れいらちゃん。今日は生贄になってもらいます」 「はい?」 「この椅子に座って下さいねー」
ステージに小さなギロチン台が登場する。 このサイズは首じゃなくて手首だな。 手首と野菜を同時に切断する、そしたら野菜だけ切れて落ちるってやつだろう。 知里さんは女の子の右手首をギロチンにはめ、外れ止めのフックをかけた。
「準備完了!」 「え? え? えーっ?」 「うふふ。何度やっても楽しいわ。処刑のしゅ・ん・か・ん!」 芝居がかった台詞を言う知里さん。 白いパラソルを持った男性メンバーが二人出て来た。 両側に分かれて屈むと、持って来たパラソルをギロチンに向けて開いた。 知里さんはギロチンの向こう側。 女の子は不安そうな顔をしている。
「ではさっそく♥」 知里さんがギロチン台の紐を引いた。 かちゃん! ギロチンの刃が落ちて手首が床に転がった。 パラソルに赤い飛沫が飛んだ。 「きゃぁ!!」 短い悲鳴を上げて女の子は動かなくなった。 その頭に麻の袋が被せられる。
ええーっ。本当に切ったの? 近くで女性の声がした。 まさか。本当に切る訳ないさ。演出だよ。 僕は密やかに笑った。
男性メンバーがテーブルを押して出てきた。 テーブルといってもそれほど大きくない。花瓶を一つ飾るのにちょうどくらいのサイズ。 テーブルには床まで届くテーブルクロスが掛けられている。 ギロチンから少し離れたところに停めた。テーブルクロスが外される。 テーブルの下は細い脚が4本あるだけで何もない空間だった。
知里さんは床に落ちた手首を拾い上げ、それをテーブル��上に置いた。 手首は切断面が流血して赤くなっている。そこへ白いレースのフリンジ(ふさ飾り)を巻き留め紐で縛った。 手首を覆うようにガラスの箱を置いた。 一辺 30 センチくらいの立方体のガラス箱だった。
透明なキューブの中に安置された女性の手首。 まるで美術館のオブジェだ。近くで見たい。 そう思っていたら、すかさずアナウンスが入った。 「お手元のスマホで QR コードにアクセスして下さい」
わ、見えた! 周囲で声が上がる。 僕もあの紙切れの QR コードを読み込んだ。 スマホの画面に手首のアップが映し出された。 男性の一人がスマホを持ってガラス越しに撮影しているのだった。
それは正に女性の手首だった。 このリアルさはマネキンなんかじゃ無理と思った。 カメラがゆっくり移動する。 ピンクのネイルがはっきり見えた。 切断箇所は白いレースで覆われているのが分かる。 僕は無意識に二本指でピンチアウトして映像を拡大した。 レースの表面にうっすら血が滲んでいた。 全然グロテスクじゃない。むしろ綺麗だと思える。
たぶん会場の全員が自分のスマホを見ていただろう。 きゃっ!! うぉ!? 一斉に悲鳴が上がった。 画面に映る指がぴくりと動いたのだった。 人差し指から中指、薬指と小指から親指まで順に動き出した。 やがて五本の指がテーブルを掻くように動き、それに引きずられて手首全体がわずかに移動した。 何だよこれ!! やだやだぁ~!! 僕はスマホから顔を上げて直接ステージを見た。もしかしたら映像フェイクかもと思ったのだ。 でも客席から遠目に見ても、ガラス箱の中で手首がゆっくり動いているのが分った。
すごい演出だと思った。 プロのイリュージョンでも見たことないぞ。 僕は口をぽかんと開けたまま、スマホの画面とステージを交互に見るのだった。
やがて手首は動きを止め、知里さんはその手首をガラス箱から持ち上げた。 ぐったり動かない女の子の腕に手首を押し付ける。 ギロチン台の拘束を解放し首に被せた麻袋を外すと、女の子は笑顔で立ち上がった。 手首が繋がって元通りになった腕にはレースのフリンジが巻いたままになっていた。
・・
ステージは次の演目のために模様替えされる。 「次が最後のイリュージョンです!」
○ ドラム缶脱出 男性メンバーが3人でドラム缶を担いできた。重そうだ。 直径 80 センチくらい。長さ 120 センチくらい。 ステージの床に立てて置き、梯子付きの台を押してきてドラム缶の後ろに据えた。 客席から見えるようにドラム缶を前に傾けて中に何もないことを示した。
知里さんがハイヒールを脱いで梯子を登った。 ドラム缶の中に降り立って手を振る。客席からは知里さんの胸から上だけが見えている。 男性メンバーが金属の円盤を持って来た。 それはドラム缶の断面に合わせた蓋で、手首が通る丸い穴が二つ開いていた。 上から蓋を被せると、知里さんの姿はドラム缶の中に屈むようにして消えた。 軽くノックをすると蓋の穴から右手と左手が差し出された。その手に手錠が掛けられる。 蓋の周囲にバンドを掛け、外れないよう周囲に南京錠を6個掛けた。 これで完成。梯子が外された。
ステージが暗くなる。 スポットライトの中にドラム缶だけが浮か���上がって見えた。 ドラム缶の上面には手錠を掛けた手が生えていて、交互にグーとパーの形を作っている。 男性メンバーがドラム缶の手前に黒幕を掲げた。 ドラム缶の本体は隠されたものの、知里さんの手は幕の上に見えていた。 仰々しいドラムロール。 知里さんの手がすっと下がって見えなくなった。すかさず黒幕が外される。 おおーっ。 ドラム缶の前に知里さんが立っていた。
ステージが明るくなった。 ドラム缶の蓋を取り外すと中から女性が立ち上がった。 琳琳さんだった。 ええー!? 両手を水平に広げた琳琳さんを男性メンバーが左右から持ち上げた。 ドラム缶の前に全員が並んで頭を下げる。
うわーーーっ。すごい!! ちーりちゃーん!! りんりーん!!! 拍手と声援が終わらない。僕も拍手していた。 今まで見た中で一番面白いイリュージョンショーだと思った。
5. ステージは握手会になった。 1回 500 円で知里さんか琳琳さんと握手とツーショットのチェキを1枚撮影できる。 応援団の兄ちゃんたちだけでなく一般のお客さんたちも並んでいて繁盛していた。
僕はチェキなんて趣味ではない。 荷物を持って帰ろうとしたら知らない人から声を掛けられた。 「畑本将司くんですか?」 背の高い、お兄さんというよりおじさんに近い人だった。 髪がぼさぼさで眼鏡かけて、三日三晩部屋に籠ってアニメ観てそうな感じ。 「OBの酒井です。来年はイリュージョン同好会に参加して��らえると聞いて」 仁衣那さんから伝わってるのか。 「あ、それは僕がJ大に合格できたらの話でして」 「大丈夫。君なら合格するよ」 適当なこと言わないで下さい。仁衣那さんと同じじゃないですか。
「今日はどうでしたか? 本来なら現役のメンバーから伺うべきだけど、あの通りの忙しさなので」 酒井さんはそう言って握手会の列を目で指す。 「そうですね。とても面白かったです。これまで見たどのイリュージョンと比べても」 「ほう、例えば」 いちいち聞くの? 「ええっと、ヒンズーバスケット。発泡スチロールを入れたり逆さにしたり、普通のヒンズーと違ってて驚きました」 「うん、あれはうちのオリジナルだからね」 「中に入ってる女の人は大変ですよね。イリュージョンはアシスタントの汗と涙で成立するって、その通りだなぁ、と」 「ほう」 酒井さんの目がきらりと光った、ような気がした。 仁衣那さんから聞いたのをそのまま言っちゃったけど、マズかったかな?
「あの、えーっと、あの」 「はい?」 そうだ。 「あの歌とダンスは意味があるんですか? その、イリュージョンの同好会なのに」 僕は何を聞いてるんだろう。 「それは朝比奈知里会長の趣味」 「・・趣味、ですか?」 「我々OBは現役のすることにいちいち口を出さず、距離を置いて見守る方針なんだ」 距離を置くって、あなた真っ黄色のハッピ羽織って、背中に『知里』『琳琳』って書いたド派手なうちわ2本背負ってるじゃないですか。
「これをあげよう。握手券2枚」 「え」 「せっかくだから記念のツーショットを撮ってもらうといいよ。あの子たち、ノリノリだから」 「・・はい」 「またの機会に語り合いたいね」 またの機会? 酒井さんは手を振って離れていった。
それから僕は列に並び、知里さんと琳琳さんと握手してツーショットのチェキを撮ってもらった。 二人ともサービス満点だった。 知里さんは並んでピースサインしながら横乳をぎゅっと��し付けてくれたし、琳琳さんはけたけた笑いながら胸の谷間にまぎれていた発泡スチロールのかけらを僕にくれた。
[Part.3 ワークショップ1日目] 6. 二週間経って仁衣那さんから電話があった。 「イリュージョン同好会とOB会で一泊二日の合同ワークショップをやるんだ。メインはバーベキューだよ。将司くんもどうですかって」 知里さんと琳琳さんの網タイツ姿が浮かんだ。 夏休みに入った最初の週末。 オヤジとオフクロは仁衣那さんと一緒なら行ってもいいと許してくれた。
・・
絶好のバーベキュー日和だった。 仁衣那さんと駅で待ち合わせる。 「OBの酒井さんって人と会いました」 「ああ、あの人はイリュージョン同好会の創設者だよ。今も現役の指導してくれてるし」 「そうなんですか」 「同好会にある道具の半分は酒井さんが作ったんじゃないかな」 なんか分る。 ああいうオタクっぽい人って何でも器用に作っちゃうんだな。 「初めて会った時はオタクっぽい感じの人だなーって思ったけどね」 「それ僕も思いました。おじさんに見えるけど案外若いんじゃないですか」 「酒井さんまだ20代だよ」 「あはは」 僕らは揃って笑った。 「そーいや仁衣那さんはいくつなんですか?」 「わたし? って、さらりと年齢を聞くな。うっかり白状しちゃうところだったわ」 「だめか」
「それよりどうだった? 現役の子たちの公演は」 「楽しかったです。知里さんと琳琳さん、セクシーで綺麗だったし」 「そっちかよ」 「りんりんって本名ですか?」 「知らないわ。わたしは知里ちゃんが1年生のとき一緒だっただけだし」
ほう。知里さん1年で仁衣那さん4年だったのね。 ということは、2年経って仁衣那さん今は23か24。歳バレするの嫌がってるからきっと24だな。 僕は頭の中で計算して勝利感に浸る。 性格悪いって思われるの嫌だから、口には出さずしっかり覚えておこう。
・・
郊外の駅で電車を降り、大きなコンビニの前にやって来た。 人気(ひとけ)のない駐車場の隅で待つ。酒井さんが車で迎えに来てくれるという。 「どうしてこんなところで落ち合うんですか?」 「車に乗るところを見られたくないのよ」 「?」
ほどなく酒井さんの運転する車がやって来た。 背の高いバンタイプの軽自動車。 車内は積荷でいっぱいだった。後席シートを畳んで天井まで荷物が積み上がっている。 空いているのは助手席だけ。
「バーベキューの材料やら何やらでいっぱいになっちゃってね」 どーするんですか? 仁衣那さんと僕、二人が乗るのは無理みたいですけど。 「んー」 酒井さんは頭を掻きむしる。その仕草がわざとらしい。 「仕方ないね。一人は荷物ということで」 「え」
バンのリアゲートを開けるといろいろな小物とダンボールが積まれていた。 一番下のダンボール箱は寝かして置かれていて、蓋がこちらを向いていた。 セロテープで簡単に留めた蓋を開けると中は空だった。 「ここに入るのは」 「わたしね」 仁衣那さんはにっこり笑うと、お尻から潜り込んでダンボール箱の中で丸くなった。 「手錠されたい?」「されたい♥」 揃えて差し出された両手に酒井さんが手錠を掛けた。 どうして手錠なんか持っているんだろう? 酒井さんは仁衣那さんの手を箱の中に押し込むと、蓋を締めてガムテープをHの字に貼って封をした。 いったい何ですか、この流れは。
「これでいいね」 酒井さんはリアゲートをばたんと閉じた。 「さ、行こうか」
・・
車の中で酒井さんに聞かれた。 「畑本くんは "拘束" に興味ある?」 「えっと、女性アシスタントが手錠を掛けられるとか、小さい箱に閉じ込められるとか?」 「そうだね。最初に同好会を始めた僕の責任でもあるんだけど、そういうイリュージョンが多くなってね」 「・・」 「女の子たちも自然に受け入れてくれるというか、積極的に喜ぶ子もいて」 「マゾ、ということですか?」 「理解が速いね。皆がそうとは言わないけど、そんな傾向はあるということ」 「ははぁ」
道路の段差を越えて車が大きく揺れた。 後ろから「きゃん♥」という悲鳴が聞こえた。 僕はダンボールに収まって荷物になっている仁衣那さんのことを考える。 仁衣那さん全然拒んでいなかったし、そもそも最初から仕込まれていたのは明らかだ。 そういえば、あの人自分から手錠を希望したな。 もしかして仁衣那さんも・・?
「実は今夜、拘束に関するアクティビティがあるんだ。イリュージョンの一部としてではなく拘束そのもののね」 アクティビティってどういう意味だっけ。 「ま、ぶっちゃけて言えば、緊縛の体験会だね」 「!」 「君に知っておいて欲しいのは、みんな良識ある人たちだってこと。だからそういう場になっても驚かないで欲しい」 「・・はい」 「実は君を招待していいか迷ったんだ。でも来年同好会に参加してくれる子が "そっちの世界" を知ってる子でね」 来年参加する子って、僕と同じ高校3年? 「だから今の会長とも相談して、畑本くんに知ってもらうことにした。個人的には君自身にも適性があると思うし」 「適性ですか?」 「そう。・・もちろん無理強いはしないよ。イリュージョン同好会にはそんな側面もあると理解して、来年加入するかどうか決めてくれたらいい」 「分かりました」
不思議な気持ちだった。 女の子との経験はキスが1度だけだった。 なのに、拘束とか緊縛とか、そっちの世界を先に見るのか。
・・
森の中にぽつんと一軒のコテージに到着した。 2階建ての赤い三角屋根。正面にコンクリートを敷いたテラス。 駐車場には自動車やトラックが何台も停まっていた。 隣の広場ではバーベキューの準備をする人たちの姿も見えた。
車が停まると僕は急いで降りて後方に回った。 酒井さんがリアゲートを跳ね上げた。 ダンボールのガムテープを勢いよく剥がす。 「え!?」 箱に入っていたのは仁衣那さんではなかった。 知らない女の人が手錠を掛けられて、ものすごく色っぽい目で僕を見つめていた。 「あら・・、着いたのね♥」 「紹介するよ。妻の多華乃(たかの)だよ」 !!!!
仁衣那さんは・・? かちゃ。助手席のドアが開いて女性が降りてきた。 その人は両手に手錠を掛けたままだった。 「やっほ! 将司くん」 仁衣那さんだった。 さっきまで僕がいた場所に仁衣那さんが座っていたのだった。
7. 先に来ていた人々が集まって来た。 僕は最後に到着したゲストだったらしい。 「タネ明かししてあげたら? 彼、口ぽかんと開けたまま固まってるわよ」 そう言ってくれたのは知里さんだった。 おお、知里さんっ。来てい��下さったんですね。
「大した仕掛けじゃないけどね」 酒井さんはもう一度バンのリアゲートを開けて荷室を見せてくれた。 多華乃さんが入っていたダンボールを引くと、手前にすぽっと引き抜けた。 上の荷物が落ちて来ない。 すぐ分った。二重床だ。 本来の床の上にもう一枚、合板の床が張ってあるのだった。 工事業者のワゴンなどでよく見るのと同じだから、注意して見ていれば気付いたはずだった。 本当の床と二重床の間隔は 50 センチ。 幅 49 センチのダンボール箱を横に倒してちょうと収まる寸法だ。 このダンボールはリアゲート反対側(室内側)の蓋が密封されていない。 合わせ目に小さな鉄板と磁石が貼ってあって、内側から押せば開くことができる。
二重床の前端には半径 25 センチくらいの半円形の切り欠き穴があった。 運転席と助手席の直後の場所だ。 そして運転席と助手席の背もたれの間は少しだけ開いているので跨ぎ易い。 仁衣那さんはここを通って助手席に移動した。
分ってしまえばシンプルな仕掛けだった。 車が走り出したら仁衣那さんはダンボールの蓋を足で押して開き、二重床の下に這い出る。 待機していた多華乃さんが交代でダンボールに入り、その蓋は仁衣那さんが閉める。 あとは目的地に到着するまで隠れているだけだ。 僕が車を降りるのを待って、前端の切り欠き穴を抜けて助手席に移動した。 リアゲートを開けても荷物が積み上がっているから仁衣那さんの姿は見えない。
「酒井さんの奥さんはいつから隠れてたんですか?」 「んー、東京のマンションを出るときに手錠掛けて、それからずっと入ってたね」 「東京から?」 「隠れるのは直前でいいじゃないかって言っても、それじゃ勿体ないって言うんだよ。うちの妻は」 「うふふ♥」 多華乃さんが笑った。 この人はどうしてこんなに色っぽく笑うんだろうか。 「この人、こんなことするためにひと月かけて新車を改造したのよ。わざわざ商用車を買って。バカでしょ?」 「フルフラットのバンだから何でも使えて便利なんだよ。だいたい、最初にダンボールに詰めて運ばれたいって言い出したのはタカノじゃないか」 「私は誘拐された気分を味わいたいって言っただけ。イリュージョンやるつもりなんてなかったんだから」 ぷ。 何人かが吹き出した。
「俺たち全員、春の新歓合宿のときこのネタ仕掛けられたんだよね」 そう教えてくれたのは公演会に出ていた男性メンバーの一人だった。 「わざわざ一人ずつ呼び出されて、この車に乗せられて」 「まあ驚くわよね。まさか奥様が登場するとは思ってもいないし」 現役の人たちまで引っ掛けられたのか。 騙されたのが僕だけじゃないと分って、少しだけ安心した。
「わたしも巻き込まれたんだよー」 仁衣那さんも笑いながら教えてくれた。 「知らないうちにダンボールに入るって決まってたんだから」 「仁衣那センパイが断るはずないですものね」知里さんが言う。 「あはは、多華乃さんじゃないけど誘拐されたみたいな気分になれて楽しかった」 「いいですよねー、誘拐」 「こら琳琳」「あれ、知里さん。嫌ですか誘拐?」 「いやちょっと憧れる」 その場の全員が笑った。 笑わなかったのは僕だけだった。
酒井さんと目が合ったら、笑いながらウインクされた。 何を言いたいのか何となく分かったけど、おじさんのウインクが気持ち悪くてそれ以上何も考えられなかった。
8. 「カンパ~イ!!」 バーベキューが始まった。 集まったのは僕を含めて男6人女6人の合計12人。 あらためて紹介してもらったので、皆の名前を整理しておこう。
・同好会現役  3年 朝比奈知里さん(会長)  2年 占野(しめの)陽介さん(副会長)     八代亘さん  1年 高浦仁志さん     岩淵琳琳さん ・同好会OB  酒井功さん、多華乃さん夫妻  小谷真幸さん  出水仁衣那さん ・ゲスト  玻名城れいらさん(高校3年)  桧垣梢(こずえ)ちゃん(中学3年)
ゲストのれいらさんと梢ちゃんは、あのギロチンイリュージョンに出てい��女の子だった。 客席から上がって手首を切断されたのがれいらさん。 そして切断された手首を演じたのが梢ちゃんだった。 二人はイリュージョンが好きで酒井夫妻と仲良くしていて、その縁で同好会の公演をお手伝いしてくれたそうだ。 あのイリュージョンはスマホのカメラで中継する演出がすごかったけど、ガラス箱の中でぴくぴく動く手首も迫力があった。 誰かがテーブルの下から手を出しているのは分かっていたけど、まさか中学生がやっていたとは。
「畑本サン、ウチがやった手首見ました?」 「うん、あれは凄かったよね」 「でしょ? 自分でも渾身の演技やった思てますもん。将来手タレになろかて真剣に考えたくらい」 梢ちゃんは関西弁を駆使してよく喋る子だった。 「特殊メイクの専門家に来てもろて手首のメイクに4時間、そのあとテーブルの中半日待機で頑張ったんですよー」 「そんなに!?」 「こら、」れいらさんが突っ込む。 「調子に乗って誇張しちゃダメ。畑本さん真面目そうだから信じちゃうでしょー」 違うの? 「えへへ、メイクは知里さんがぱぱっとしてくれて、ネタ場に入ったんは休憩のとき。その後は放置されてましたけどね」 「あら、直前に入ったんじゃなかったの?」 「だってヒンズーのときは皆さん出演中で誰もおらへんし、一人やと入られませんから」 「そっかー」 「ええんです。ウチは耐えられる子やから。イッくんにご褒美も約束してもろてますしね!」 途中から二人の会話が分らなくなった。 放置で耐えるって、どういう意味なのか?
「梢ちゃ~ん、おいでーっ。一緒に飲もー!!」 琳琳さんの呼ぶ声がした。 「はーい!! ・・すんません、ウチ人気モンで」 梢ちゃんはペコリと頭を下げると琳琳さんのいる輪の方に走って行った。 残されたのは僕とれいらさんの二人。
「・・面白い子でしょ?」「そうですね」 「コミュ力が高いというか、誰とでもすぐに友達になるのよね、あの子」 「一緒に飲もうって、梢ちゃん中学生なのに?」 「乾杯以外は全員ノンアルかコーラよ。後のアクティビティに影響しないように。・・イッくんの指導がしっかりしてるのよね」 「イッくんって誰ですか? 梢ちゃんも言ってましたけど」 「酒井さんのことよ。酒井イサオさんだから "イッくん" って呼んでるの」 あのおじさんが、イッくん・・。
「ね、同じ学年だし、そろそろあたしに敬語は止めて欲しいな。それに "れいらさん" ��ゃなくて "れいらちゃん" でいいんじゃない?」 「分かりました、じゃなくて分った。れいらちゃん」 「あたしも来年はJ大でイリュージョン同好会に入るから仲間だよね、畑本くん」
"畑本さん" が "畑本くん" に変わって、少し嬉しくて少し残念だった。 もしや "将司くん" って呼ばれるかと思ったのだった。 今日初めて会話したばかりの相手に名前呼びを期待するのは図々しいことではあるけどね。
そもそも僕はれいらちゃんのことを何も知らない。 酒井さんが「そっちの世界を知ってる子」って言ったのは彼女のことだろうか。 僕は隣に座るれいらちゃんを横目で見る。 白いシャツの上にパーカー、デニムのミニスカート。とても可愛いと思う。 この子が拘束や緊縛に詳しい? まさか。
「そんな目で女の子を見たら嫌われるわよ、畑本くん」 うわ、同じこと誰かに言われたような。 「でも今はその目で見てもいいわ。呆れて愛想をつかされるのはあたしの方かもしれないしね」 「どういう意味?」
れいらちゃんは笑ってテラスの方を指差した。 「始まるみたいよ!」
9. ○ ドラム缶水中脱出 「さあさあ、現役諸君並びにゲストの皆様。本日OBが贈るスペシャルイリュージョンへようこそ!!」 酒井さんが芝居がかった喋り方で呼びかけた。
テラスにドラム缶が置かれている。 あの公演で最後のイリュージョンに使われたドラム缶だった。 真上に差し掛かる太い木の枝にワイヤを巻いて滑車が取り付けられていた。 ドラム缶の前にOBの酒井さんと小谷さんが立っている。 黒いタキシードに蝶ネクタイと白手袋。この季節に暑そうな恰好だ。
待ち兼ねたように同好会メンバーとゲストがドラム缶の前に集まる。 OBがイリュージョンをすると知らなかったのは僕だけらしい。 とりあえず後ろの方で見ていたら、れいらちゃんが隣に来てくれた。
「さてここにあるのは容量 400 リットルのドラム缶。先日現役諸君が使ったものだね」 酒井さんは後ろのドラム缶を手で示した。 「実はこれ中古品をたった千円で買って改造したものなんだ。値段より持って帰って来る方が大変だったよ」 現役2年生と3年生が笑った。そのときの苦労はよく覚えているのだろう。
「先のステージで使ったとき、この中は "空気" だった。しかし、」 ドラム缶の側面を手で叩く。 どぅん。重い音が響いた。 「美女をドラム缶に入れるなら、本来その空間は "水" で満たされているべきではないか」 「そうだー!」れいらちゃんが両手を口に添えて叫んだ。 「ありがとう」 酒井さんはにやりと笑った。
「そもそも我々アマチュアに水中イリュージョンはハードルが高い。どうやって現地で大量の水を確保するか。どうやって短時間で注排水するか。重量も満タンで 430 キロ。下手な会場じゃ床が抜ける」 うんうんと頷く現役の人たち。 「しかしここなら問題はない。今しがた水道水をホースで入れたところだよ。1時間かかったけどね」 小谷さんがドラム缶の中に手を入れ水をすくってみせた。 「という訳で、本日はセクシーな美女の水中脱出をみんなで楽しもうと思う」
酒井さんと小谷さんは振り返ってコテージの玄関を示した。 「お待たせしました。美女の登場ーっ!!」 ドアが開いて多華乃さんと仁衣那さんが登場した。 うわぁーっ。ぱちぱちぱち��� きゃあっ!! 色っぽ~い!!
二人とも水着だった。 髪を上げて括り、身に着けているものといえば極端に布地の少ないマイクロビキニとハイヒールのみ。 恥ずかしそうなそぶりはまったく見せない。 堂々と胸を張って微笑みながら、腰に片手を当ててモデルみたいな歩き方でやって来た。 多華乃さんはスレンダーでセクシー。どこかで本当にモデルやってたんじゃないかと思うほど。 仁衣那さんは前に見た学生時代の動画から少しだけ丸くなった感じ。でも大きな胸とお尻はやっぱりセクシーだ。 「キレイ~!」「色っぽいよねぇ」 梢ちゃんと琳琳さんの声が聞こえる。
待ち構えていた酒井さんと小谷さんが二人を迎えた。 タキシードのマジシャンにはさまれてポーズをとるマイクロビキニの美女二人。 エロい構図だなぁ。 「うわぁ、エロいなぁ」 れいらちゃんが同じことを呟いて思わず隣を見た。 「あれ? あたし何か変なこと口にした?」 「変とは思わないけど、エロいって言ったよ」 「あは」 れいらちゃんの頬が少し赤くなった。 「・・あのね、イリュージョンのお約束だから当然なんだけどね、あんな風に正装した男の人の隣で女だけカラダ見せる恰好。畑本くんはケシカラン!って思わない?」 「思う。とんでもなくケシカランね」 「よかった、あたしと同じだ」 「そういうのを喜ぶのは男だけかと思ってたよ」 「女子でも好きだよ。多華乃さんや仁衣那さんみたいに綺麗な人なら」
・・
小谷さんが頭上の滑車にかかるロープを下ろした。 ロープの先は輪になっていた。 「では美女たちがドラム缶に入ります。まずはタカノから」 「はい」 多華乃さんがロープの輪を両手で握ると、小谷さんと酒井さんは二人がかりで滑車の反対側のロープを引いた。
ふわり。 テラスにハイヒールを残して多華乃さんが浮かび上がった。 握力だけで自分を支えながらポーズを決める。 片膝を引き上げて静止。続いて後ろに曲げた脚を反らして後頭部にあてた。美しい逆海老ポーズ。 マイクロビキニの身体を撓らせブランコのように揺れる。 揺れながらゆっくり降下し、やがて爪先でドラム缶の縁を捉えて水の中にするりと降りた。 胸まで沈んで妖しく微笑む。 溢れた水が周囲に流れてテラスを濡らした。
水に入るだけでこのパフォーマンス。 いったいこの人は何者? 「多華乃さんは昔クラシックバレーやってたんだって。恰好いいでしょ?」 れいらちゃんが教えてくれた。 なるほど。それであの身のこなし。
「次は出水さん」「はい」 仁衣那さんがロープの輪を掴んで吊り上がった。 身体を伸ばして静止。それから。 ? 仁衣那さんの笑顔がこわばっていた。 腰だけが前後にばたばた動いて、伸ばした爪先は空中の一点に固定されていた。 どうやら多華乃さんみたいに優雅に動くのは無理そうだった。 そのうち力尽きて落ちるんじゃないか。
「畑本くん、悪いけど手伝ってくれるかい」 酒井さんに呼ばれた。何で僕が。 「そこに立って、彼女を受け止めて」 目の前に仁衣那さんが降りてきた。 「抱いてあげて、お姫様抱っこで」「え」 背中と膝の下に手を入れて支えた。 柔らかい! 腕の中に小さなビキニを着けただけの女体があった。 「ごめんねー」「いえ」 仁衣那さんが謝って視線を下ろすと目��前にふくよかな胸の谷間。
「彼女を運んでくれるかい」 覚悟を決めて仁衣那さんをドラム缶まで運んだ。 そこには多華乃さんが微笑みながら待っていた。 仁衣那さんは僕の腕の中から手を伸ばすと、そのままドラム缶に転がり込んだ。 ぼちゃんっ。 波がたって多華乃さんのときより大量の水が溢れた。
「うふふふ♥」 仁衣那さんと多華乃さんがドラム缶の中に立った。 互いに抱き合ってビキニの胸を合わせた。二人の胸の谷間を波が洗っている。 「・・将司くん、ちょっと待ってくれる?」 仁衣那さんが僕を呼び止めた。
仁衣那さんは微笑みながら両手を背中に回した。 身をくねらせてブラの紐を解くと、多華乃さんと密着した胸からブラを引き抜いた。 「わたしを運んでくれたお礼♥」 親指と人差し指につまんだブラが差し出された。
梢ちゃんが口に手を当てて固まっているのが見えた。 いいのかね、中学生の前でこんなことをして。
「やるわね」「ふふん」 多華乃さんが悔しそうに言うと仁衣那さんは誇らしげに笑った。 「負けられないわね」 多華乃さんは両手を水の中に沈めた。 くねくねと腰を動かす。 え? 「私からもプ・レ・ゼ・ン・ト♥」 渡されたのは脇の紐を解いたビキニのボトムだった。 多華乃さん、下を脱いだんですか!!
こ、これはさすがに高校生の僕にも刺激が強いです。 同好会の人たちは笑い出し、れいらちゃんは手を叩いて喜んでいる。 梢ちゃんは、といえば両手を口に当てたままコロリと倒れ、右に左に転がりながら悶絶していた。 「終わりましたか? ・・じゃあ畑本くんは戻って下さい」 酒井さんが言った。 「美女からのプレゼントはちゃんと持って帰るように」
僕はたぶん耳まで赤くなっていたと思う。 れいらちゃんの隣に戻ると、にやにや笑いながら背中をどんと叩かれた。 仁衣那さんのブラと多華乃さんのパンツは手の中に丸めて握れるくらい小さかった。 これ、どうしたらいいの?
・・
はぁ~っ。ふぅ~っ。 多華乃さんと仁衣那さんが抱き合いながら呼吸を整えた。 大きく息を吸って互いに頷くと、水の中に頭を沈めた。 再び溢れた水がこぼれる。
酒井さんと小谷さんが上から蓋をした。 これは前回のドラム缶イリュージョンで使ったのと同じ、丸い穴が二つ開いた円盤だった。 蓋の穴から濡れた手が2本出た。 よく見るとどちらも左手だった。 多華乃さんと仁衣那さんが左手をさし上げているのだった。 酒井さんは手錠を持ってきて、二人の左手に掛けた。 これで手を下げるころはできない。 小谷さんが蓋の周囲にバンドを掛け、さらに南京錠を6個取り付けた。
・・
コンコン。 ドラム缶の側面を軽くノックすると二人の手の指がひらひら動いた。 「一般に息止めの限界は3~4分程度と言われています。今はまだ1分経っただけだから心配ないね」 酒井さんが腕時計を見ながら話した。 「本来なら次は美女の脱出シーンになるけど、今日は現役諸君のために質疑応答の時間をとろう。まずはこちらへ来て機材をチェックしてくれるかい」 同好会現役メンバーがドラム缶の傍に集まった。僕たちゲストも手招きされて集まる。
2年生で副会長の占野さんが指摘した。 「全体が上下反対になっていますね」 「そう。先のイリュージョンとは逆の向きで置いている。このドラム缶は両方の面が開いたオープンタイプ仕様なんだよ。どちらかに底板を取り付ければ任意の向きで使える」 酒井さんは腰を屈めてドラム缶の底を示した。 そこにはボルトで締めた底板が固定されていた。
「前回はこの底板は逆の側についていたんだ。・・では、なぜ上下をひっくり返したのか? 理由は側面にあるこの隠し扉」 ドラム缶の側面上部に扉が付いていた。 縦 30 センチ、横は缶側面の円弧に沿って約 60 センチ。 ドラム缶本体と同色に塗られて目立たないように工夫されているけれど、近くで見ると存在が分かる。
「君たちのとき、この扉はドラム缶の下の方にあって梯子の台と繋がっていただろう? 朝比奈さんと岩淵さんはここを通って交換した」 知里さんと琳琳さんが頷く。 「でも水を入れてしまうと、この扉は邪魔物になるなんだ。たった水深1メートルでも扉全体に 180 キロの力がかかる。水漏れを防ぐのは大変だし、下手すると扉そのものが弾け飛んでしまう」 なるほどという顔をする一部メンバー。きょとんとしている残りのメンバー。 「まあ、水圧は恐ろしいということだね。海外のタネ明かし動画ではドラム缶の底に水密構造の蓋があったりするけど、あれはプロがお金をかけて作らせたものさ」 酒井さんは学校の先生みたいに説明を続ける。 「隠し扉を最上部にすれば水圧でかかる力は 36 キロ。これなら僕でも何とかなるから最初からその強度で作ったんだ。・・念のために付け加えると、水圧が低くても扉を開けば当然水はこぼれるよ。だから中に水が入っている限りこの扉を開くことはできない」 ポンと手を叩いた。 「以上が上下逆にした理由さ。・・他に質問は?」
「あの、」 次に手を上げたのは知里さんだった。 「この手錠、前に使ったのと違うようですけど」
それは蓋の穴から突き出された多華乃さんと仁衣那さんの手に掛かる手錠のことだった。 同好会現役のイリュージョンのとき、ドラム缶から手を出して手錠を掛けられていたのは琳琳さんだった。 最後の瞬間に琳琳さんは手を引き下げ、そのタイミングに合わせて知里さんが黒幕の後ろから登場した。 あのときの手錠は軽く引けば外れるフェイクの手錠だった。
「よく気付いたね、朝比奈さん。さすが会長だ」 酒井さんは嬉しそうに説明する。 「これはね、正真正銘の本物なんだ。フェイクじゃない」 「は?」 「だから、ここに閉じ込められている彼女たちが自分で外すことはできないんだよ」
知里さんと琳琳さんが目を丸くしてる。 「試しに岩淵さん、その手錠を両側から引っ張ってみてくれる」「はい」 琳琳さんが手錠の輪を掴んで引いた。 「外れません」 「本当に引いてる? もっと強くやってみて」 さらに力を入れて手錠を引っ張った。 と、手錠を掛けられた左手がくいと動いて琳琳さんの手を掴んだ。 「きゃ!!」 皆が笑った。
「上手ねぇ、イッくん。多華乃さんか仁衣那さんか、どっちの手か分からないけど」 れいらちゃんが僕にだけ聞こえるように小声で言った。 そうか、これもイリュージョンの演出なんだよね。 相手に知識がある前提のイリュージョン。こんなやり方もあるんだな。
・・
「いいかい、半トン近くある重量物だからね、途中で傾いたり倒れ掛かったりしても絶対に自分で支えようとしないこと」 酒井さんの説明が続いている。 急いでいるように見えない。
多華乃さんと仁衣那さんは無事なんだろうか。 何か仕掛けがあるのは違いないから、無事には決まってるんだけど。 誰も心配しているように見えないし、れいらちゃんに至ってはにやにや笑っている。
「事故は何でもないときに起こるんだ。僕の知ってる人に倉庫の現場で骨���した人がいて・・」 「おーい酒井よ。そろそろ先へ進んだらどうかな」 小谷さんが催促した。 「おっと、話に夢中になって忘れていた。・・もう12分も経ったのか」 酒井さんは時計を見て大げさに驚く。
蓋の穴から生える二本の手が前に垂れていた。 その指を持ち上げても再び力なく垂れるだけだった。 「これは手遅れかもしれないね」 そう言うと酒井さんはどこからともなく赤いバラの造花を2本出し、ドラム缶の手に持たせた。 「これは美女を復活させる魔法の花」
小谷さんが大きな黒布を持って来て酒井さんに渡した。 酒井さんは両手で布を持ちドラム缶の前に掲げた。 布の上に二本の手が見えた。
れいらちゃんが言った。 「やっとクライマックスだね」 「いつもこんなに仰々しいの?」 「何でも大袈裟にするのよ、イッくんは」
酒井さんがカウントした。 「ワン、ツウー、スリー!」 次の瞬間、二人の美女の手がぴんと伸びて下に消えた。
数秒後。 黒布の後ろから、仁衣那さんが小谷さんにエスコートされて出て来た。 裸の胸を片手で隠しながらポーズをとる。 次は小谷さんが黒布を持ってドラム缶の前に掲げた。 すぐに酒井さんに手を引かれた多華乃さんが布の陰から半身を見せた。 前を巧みに隠しながら布を二つ折りにして腰に巻く。 二人ともたったいま水の中から出てきたみたいに濡れていた。 髪から雫がぽたぽた垂れている。 小谷さんが仁衣那さんの肩を、酒井さんが多華乃さんの腰を抱いてお辞儀をした。
その直後、仁衣那さんがふぅっと息をついて座り込んだ。 大きな胸を押さえて震えている。 押さえようにも押さえられない何かを我慢しているようだった。 小谷さんがバスタオルを肩に掛けると、それを頬に当ててやっと笑った。
多華乃さんは酒井さんの肩に爪先立ちでしがみついていた。 腰の布が下に落ち、セクシーアクション映画のヒロインかと思わせる綺麗なお尻が全員に公開された。 小谷さんがバスタオルを持って来たけれど多華乃さんは離れる気配を見せない。あきらめて二人の上にまとめてタオルを被せた。 やがて酒井さんが腰を屈め、タオルの下で多華乃さんとキスをした。 きゃあ~っ!! 女性陣が一斉に歓声を上げた。
・・
いつまでも離れようとしない多華乃さんをようやく引き剝し、酒井さんは再び皆の前に立った。 タキシードのジャケットが濡れているのが分る。 「最後にハプニングがあったけどこれで演技終了だよ。・・君たちが知りたいと思っているであろうポイントはおそらく次の二つ。美女が水中でどうやって生き延びたのか、そして封印されたドラム缶からどうやって脱出したか」 全員が頷いた。 「まさにその二つがこのイリュージョンの肝だね。ただし、それを説明するのは明日までお預けにしようと思う」 「ええ~っ?」 「勿体をつけるのが好きなんだよ、僕は」 酒井さんはそう言ってにやると笑った。 「イリュージョン好きが揃ってるんだ。皆で考察して楽しんでくれたら嬉しいね」
10. それからバーベキューパーティは知里さんと琳琳さんのアイドルソングで盛り上がった。 アイドル服とかではなくバーベキューのパンツスタイルのままだったけど、僕にはそのほうが二人を身近に感じられていいと思った。 やがて梢ちゃんとれいらちゃんも立ち上がって一緒に踊り始めた。 可愛いな、この子たち。特にれいらちゃん。 気がつけばれいらちゃんだけを見ていて、慌てて目を反らせたりした。
・・
夕方になってバーベキューはお開きになった。 会長の知里さんがこの後のスケジュールを説明する。 「1階の食堂にチェア・アピアランスとヒンズーを置いたから触っていいわよ。アクティビティは20時から。女の子はそれまでにシャワーを使っておくこと!」 アクティビティってのは酒井さんが言ってたアレか。 全員が参加するんだろうか? 中学生の子もいるのに。
バーベキューの片づけを手伝ってから一人でコテージに入った。 1階は2~30人くらいが座れそうなダイニングになっていた。 テーブルと椅子を片付けたフローリングの窓際に一人掛けの黒い椅子があった。 人体出現椅子だ。チェア・アピアランスっていうのか。 その隣はヒンズーバスケット。 公演会で使ったのを運んできたんだね。
椅子はキャスターが付いていてどの方向にも押せるようになっている。実際に押してみると案外軽い。 中を見たい。でも勝手に開けたら叱られるかも。 躊躇しているところへ知里さんが通りがかった。 「知里さんっ」 ダメ元でお願いしたら笑って椅子の中を見せてくれた。 ・・そうか、こんな風になってたのか。 知里さんここからあの速さで出現。僕ならとても無理だ。
次にヒンズーの蓋を外して中を覗かせてもらった。 それは想像していたのと違った。 内側の壁に沿って細いパイプの梁が張ってあった。もちろんちゃんと剣を刺せるようになっている。 入口裏の四隅、手で握ったり足を掛けたりできるんじゃないか。 そうか。あのステージで逆さになったとき、琳琳さんはここに掴まって。 「このヒンズーはイリュージョン同好会で一番古い資産なのよ。酒井さんが会長時代に魔改造したって聞いたけど、全然壊れないの」 「ここのフレーム、手作りなんですね」 「興味深々ね」「そりゃそうですよ」
「少し時間あるかな、畑本くん」 「はい?」 「酒井さんからキミのこと聞いて、一度お話ししたいって思ってたの」 知里さんと並んで床に座った。
・・
「ドラム缶のイリュージョン、畑本くんはどう思った?」 「凄かったです。説明が長すぎましたけど」 「話が長いのは酒井さんの芸風だから許してあげて」 芸風、ですか。 「最後に出てきた多華乃さんと仁衣那さんを見たでしょ? あの人たちのこと畑本くんにはどう見えた?」 あの時の二人を思い浮かべる。 疲労困憊していて、でも満足してて、エッチな気分になっていて。 「はっきり言ってくれていいわよ」 「はい。エロかったです」 「好きだなぁその答。ウチの1年2年の男の子たち、オブラートで包んだ言い方しかしてくれなくって物足りないのよね」 「そうですか」 「酒井さんのイリュージョンって、ときどき女の子はエロくなっちゃうのよ」 「知里さんは水中脱出のタネを知ってるんですか?」 「知らないわ。でも何となく想像はできるな。聞きたい?」 「はい」
「多華乃さんと仁衣那さん、ドラム缶の中でずっと水に浸かってたと思う。それと楽に呼吸する手段もなかったんじゃないかな」 「それじゃあ、」 死んじゃうじゃないですか。 「落ち着いて意識を保っていたら無事でいられるよう配慮していたと思う」 「僕はシリコンとかゴムのチューブを使って息してるのかなって思ってましたけど」 マ○ク・マジシャンのタネ明かし動画じゃそうだったぞ。 「そうかもしれないけど、多華乃さんと仁衣那さんの様子見て何となく思ったのよね。酒井さん、狙ってるなって」 「何をですか?」 「アシスタント、という���り女の子に楽させない。わざと苦しい思いをさせる。それを観客の見えないところでする」 「それ、イリュージョンに必要ですか?」 「要らないよねぇ。他に安全な手段があるなら」 知里さんはそう言って笑った。
「そう思った理由はもう一つあるのよね。それはあの手錠」 「知里さんが質問した手錠のことですね」 「そう。あれは絶対に本物だと思う」 「本物だって言ってましたよね」 「実は本物と説明して、本当の本当はフェイクって、珍しくない方法よ」「そうですか」 「そもそもあの質疑応答がなければフェイクの手錠で十分でしょ? その方が楽に脱出できるんだし」 「そうですね、あれは誰かから指摘されるのを想定して。・・いや違うな。本当の本当はフェイクにすればいいんだから」 「思ったのよね。あの説明は私たちにしてたんじゃなくて、ドラム缶の中の多華乃さんと仁衣那さんにしてたんじゃないかって」 「え」 「あれは二人に思い知らせたのよ。君たちはより困難な方法で脱出させられるんだよって」
「あの、」 「何?」 「酒井さんって、ドSですか?」
「いいわねぇ、ストレートな質問!」 知里さんは楽しそうに笑いながら答えてくれた」 「答はもちろんイエスよ。そんな人の作るイリュージョンだもの、女の子はエロくなっちゃうわよ!」 つまりそれは。 「女性の方もドMになってしまうってことですか?」 「うふふ」 知里さんは笑った。ちょっと不思議で妖しい笑い方だった。 「そうかもしれないわねぇ」 何ですか、急に含みのある言い方。
・・
「誰がドSだって? 朝比奈さん」 「きゃ! 酒井さんっ、いつの間に」 「この椅子のことなんだけど、」 「はい?」
酒井さんはチェア・アピアランスの椅子を指差した。 ドSって言われて叱るんじゃないの?
「これ今年買ったんだよね。中古には見えないけどいくらだった?」 「はい。新品で20万円、くらいだったかしら」 「どうしても欲しいなら中古を安く買ってレストアしてあげるのに」 「そんな、いつもいつもお願いする訳には」 「今年の活動費は残ってるの? 遠征の輸送費は?」 「それは、足りないときは皆で出し合って」 「困ったら僕に連絡して、朝比奈さん。OB会からも援助するから」 「はい、ありがとうございます」 「ところでこの椅子はどんな使い方を考えてるのかな」 「それは出現と消失」「あとは人体交換?」 「はい」 「20万円も使ってそれだけじゃ勿体ないよ。ぜひ新しい使い方を提案して欲しいね」 「は?」 「ムチャ振りのつもりはないよ。皆で相談してみたらどうかな」
酒井さんはそう言うとフロアを出て行った。 「新しい使い方考えて」を言いたかったのね。 予算がどうのとか、回りくどい人だな。 それにしてもムチャ振りされましたね、知里さん。 酒井さん、やっぱりドS。
「む!」 知里さんが唸った。 「出現椅子の新しい使い方。よーし、考えてやろーじゃないの!」 「大丈夫ですか?」 「なせばなる! ・・あーん、どうしよう!?」
[Part.4 体験緊縛] 11. 1階ダイニングの床にイリュージョン同好会の現役メンバー5人全員と、梢ちゃん、そして僕が座っていた。 梢ちゃんも体験緊縛に参加するんだね。 れいらちゃんがいないのは意外だった。絶対に来ると思っていたのに。
梢ちゃんが琳琳さんの方を向いて、口元を手で隠しながら言った。 「ウチ、ノーブラにしました。外した方がいいって聞きまして」 「アタシもノーブラだよ」「私も」 琳琳さんと知里さんも口元を手で隠して返した。 まる聞こえだった。内緒話になってない。 占野さん、八代さん、高浦さんの男性メンバーが顔を赤らめている。
知里さんはメンズのワイシャツ1枚。琳琳さんと梢ちゃんは白いTシャツにショートパンツ。 ワイシャツから延びる知里さんの生足がセクシーだった。 あのワイシャツの下はノーブラで、まさかパンツも履いてない? 知里さんが言った。 「畑本くん、そんな目で女の子を見たら嫌われちゃうわよ」 うわうわうわ! またしても。 「でも私は自分に素直な男の子が好きよ。だから安心して」 知里さんは自分でワイシャツの裾を持ち上げて白いショーツを見せてくれた。 「ほら、穿いてるわよ♥」 皆が笑った。僕も笑った。
・・
OBの人たちが入って来た。 多華乃さんと仁衣那さんは、キャバ服だっけ、身体のラインくっきりの真っ赤な超ミニドレス。多華乃さんのドレスは片方の肩を出してて、仁衣那さんのは脇腹が出ている。 酒井さんと小谷さんは紺の作務衣。やっぱりこの二人が緊縛の担当なんだね。 そのうしろには、れいらちゃんがいた。前の二人と同じ作務衣を着ている。 れいらちゃんも緊縛担当なの!?
「今日が初めての人は?」 酒井さんが聞くと、琳琳さん、高浦さん、そして梢ちゃんと僕が手を上げた。2年生以上の人は初めてではないのか。 「分かりました。体験の前にまずは見本として出水さんとうちの妻を縛ります」 「皆さん、固くならずにくつろいでね」 小谷さんが安心させるように言った。
輪になって座った僕たちの中央に、れいらちゃんが 1.5 メートル四方くらいの小さなカーペットを敷いた。 その上に多華乃さんと仁衣那さんが立つ。作業が始まった。 れいらちゃんが縄を手渡し、それを使って酒井さんと小谷さんが縛る。 酒井さんの獲物は多華乃さん。小谷さんの獲物は仁衣那さん。 「これは高手小手縛り」「こっちは鉄砲縛り」 するすると魔法のように縄が掛かる。 胸の上下に縄が掛かると、多華乃さんの綺麗な胸がふっくら盛り上がった。仁衣那さんの大きな胸が一層大きく盛り上がった。 多華乃さんも仁衣那さんも胸の先端がつんと突き出ている。おへその窪みもくっきり解る。 こんなに薄い衣装で縛るから身体の凹凸がはっきり出るのか。 縄で締まる女体、ものすごくエロい。
「はぁ・・」 作業を見ていた琳琳さんが溜息をついた。少し震えているようだった。 知里さんが黙って横から琳琳さんの手を握った。 梢ちゃんは身動き一つしない。目だけが酒井さんたちの手の動きを追っている。
やがて多華乃さんと仁衣那さんは背中合わせで繋がれ、そのままカーペットにお尻をついて両脚を胡坐で縛られた。 新しい縄を二人の口に噛ませながら二周、三周。 ぐるぐる巻いて押し付け合った後頭部が離れないようにした。 最後は二人の頭に巻いた縄に別の縄を直角に掛けて絞る。これは酒井さんの指導でれいらちゃんが施した。
「完成です」 カーペットごと引きずって、多華乃さんと仁衣那さんを窓際へ移動させる。 二人の髪をれいらちゃんがブラシで整えた。 「しばらく置物にしましょう」
ほぇ~。 思わず唸ってしまった。 置物にされるって、どんな気持ちだろう。 隣に座る一年生の高浦さんと目が合ってお互い苦笑した。 高浦さんも初めて生の緊縛を見たんだろうな。僕と同じだ。
・・
「次は、岩淵さんと梢ちゃんに被虐を体験していただきます」 酒井さんが言った。 「岩淵さんはこちらの小谷が担当します。梢ちゃんは僕がお世話するね」
琳琳さんがびくっと震えた。 その後ろに小谷さんが立つ。 「両手を後ろで組んでください」「・・はい」 おそるおそる回した手に縄が掛かった。 「あ・・、っ」 上半身を縛った後、うつ伏せに寝かせて膝と足首を縛る。さらに足首の縄を背中に繋ぐ。 「あ、あ、あぁ、・・」 可愛い声で囀る琳琳さん。まるで歌っているみたいだった。 アイドルソングを元気に歌う時とは全然違う声だったけれども。
梢ちゃんは急に慌て始めた。 「あ、あの、ウチ!」 急に立ち上がって酒井さんに頭を下げる。 「お、お世話になりますぅ!」 「座ったままでいいよ」 「そやっ。ウチの母ちゃ、母もよろしくお願いします言(ゆ)うてました!!」 「お母さん?」
「梢ちゃん、可愛い♥」「本当♥」知里さんとれいらさんの声が聞こえる。
「落ち着いてね。不安なら目を閉じていたらいいよ」 酒井さんはそう言うと縄を持って梢ちゃんを縛り始めた。 「はぁ~っ」 両手を腰の後ろで緊縛。その後椅子に座らせて背中と足首を緊縛。 「あーっ、動かれへん!」 部屋じゅうに聞こえる声で梢ちゃんが叫んだ。 「動かれへんっ、動かれへん! ウチ、縛られてるぅー!! ・・そや写真!」 急に周囲をきょろきょろ見る。 「誰かっ、誰でもええからウチの写真、撮ってくださーいっ。こんなん一生の宝モンやんかー!」
窓の方から「ブファっ」「ンファファっ」という音が聞こえた。 多華乃さんと仁衣那さんが縄の猿轡の下で拭き出した声だった。
・・
れいらちゃんが縄を持って来た。 「畑本くん、体験してみる?」 僕も? 「あたしに縛られるのが嫌だったら、酒井さんか小谷さんが縛ってくれるけど?」 そんなことはないよ。
僕はれいらちゃんに縛ってもらうことにした。 手首を後ろで縛られる。 胸に縄が回された。手首が吊り上がる感覚。 胴と腕の間に縦に通した縄を絞られた。 きゅ。 「うわ」 全部の縄が締まって上半身が固められた。 動けない。動けないけど痛くない。 「どう?」 「すごいよ!」 れいらちゃん、縄師じゃないか。
「高浦さんはどうですか?」 れいらちゃんは1年生の高浦さんにも聞いて縛り始めた。 酒井さんや小谷さんに負けないくらい、れいらちゃんの緊縛は手早く見えた。 「動けないよ!」 高浦さんも驚いている。
初めて味わう感覚だった。 イリュージョンで使う拘束具、手錠や枷なんかとは全然違うと思った。 縄ってすごいな。
12. みんな縄を解いてもらって、体験緊縛は一旦休憩になった。 多華乃さんと仁衣那さんは緊縛を解かれた後しばらく立てなかった。床に手をついて身を震わせている。 泣いてる? ちょっと違う。 二人とも、満ち足りていて、とてもエッチな気持ちに溢れている。 「軽い縄酔いだから心配ないよ」酒井さんが言った。
なわよい? 初めて聞く言葉だけど、多華乃さんと仁衣那さんを見ていて何となく想像はついた。 一度縛られたら解いてもらった後も気持ちいいんじゃないか。まるでお酒に酔ったみたいに。 縄酔いの多華乃さんと仁衣那さん、何となく昼間のイリュージョンでドラム缶から脱出したときに似ていると思った。 そういえば知里さんが言ってたな。 多華乃さんと仁衣那さんはあのイリュージョンで苦しい思いをしたはずだって。 そんなイリュージョンをやったら女の子はエロくなる、とも。 さっきの緊縛も同じなんだろうか?
もう一度知里さんと話したいと思った。 知里さんの姿を探したけど部屋にいない。お手洗いかな?
「将司く~ん♥」 仁衣那さんが這い寄って来て僕の膝に乗った。 「うわ」 「ごめんねー、何だかんだお世話になって」「別にお世話してませんけど」 「そんなことないよー。昼間わたしを抱っこして��れたでしょ。今もほら、抱っこ♥」 両手で抱きつかれた。 唇を突き出してキスしようとするので必死に逃げる。 れいらちゃんと梢ちゃんがこっちを見て笑いこけているのが見えた。 「に、仁衣那さん! どーしてそんな急にハイになるですか。さっき立てなかったくせに」 「許せ少年そういう癖(へき)の女じゃ、きゃはは」
「今の仁衣那ちゃん、調子に乗ったら何でもしてくれるわよ♥」 いつの間にか多華乃さんが傍にいて言った。この人も縄酔いから復活したみたいだ。 「あら先輩、もう大丈夫?」 「ごめんなさいね。私、あなたより繊細だから」 む。 仁衣那さんの顔が一瞬強張り、それからにやあっと笑った。 「・・わたしをこんな女にしたの、多華乃さんと功さんなのに」 「その言い方、高校生の彼が誤解するんじゃない?」
二人の顔がぐっと数センチの距離まで近づいた。 一瞬女同士でキスするのかと驚いたけどそんなことはなく、仁衣那さんが多華乃さんの肩に右手を当てただけだった。 その肩に刻まれた模様。うわ、縄の痕だ。 仁衣那さんの手首と多華乃さんの肩に縄の痕があった。 二人のキャバ服からむき出しの肩、二の腕、手首のそこかしこにも縄で縛られた痕がある。 柔らかい肌に縄の刻み目。 エロ過ぎるよ。これは。 緊縛って、女性を何もかもエロくするんだなぁ。
「・・パンツ脱ぐなんてシナリオになかったのに、あれは将司くんを誘惑したんですか? 多華乃さん」 「そんなつもりはないわ。ただ彼が可愛かっただけよ」 「それを誘惑って言うんですよ」「うふふ」 僕がお二人のエロに感動しているのに、まだしょーもないマウント取り合ってるんですか。
「多華乃さんって可愛い男の子が好きですよね。功さんもああ見えて実は可愛いし」 「仁衣那ちゃん人のこと言う前に早く彼氏見つけなさい」 「ぐわぁっ」 仁衣那さんがのけ反った。 「人が気にしていることを~っ」 「確かもう25だっけ?」「ああああ~!!」
あれ、25? 計算が合わないぞ。 24だと思ってたのに。 「すみません、仁衣那さんは大学出て2年ですよね。なのに25って」思わず質問してしまった。 「あれ、畑本くん知らないの?」「ああっ。言わないでぇ~っ」 「うふふ。ちょっと道草しちゃったのよ彼女」「え、と、いうことは」 「お慈悲を、お慈悲を~、多華乃さまぁ」 「遊び過ぎて留年したのよね、仁衣那ちゃん」「あらら」 「うわーん」 多華乃さん、普段はMなのにこういうときはSなのね。
・・
休憩タイムが済んで、次は占野さんと八代さんの2年生男性コンビが多華乃さんと仁衣那さんを縛り始めた。 亀甲縛り、は難しいから菱縄という縛り方に挑戦するみたいだ。 小谷さんがつきっきりで指導している。
琳琳さん、高浦さん、梢ちゃん、そして僕の初心者グループはれいらちゃんから "本結び" という縛り方を教わった。 緊縛の世界では腕や足首を縛るときの基本中の基本ともいえる手順らしい。 れいらちゃんが自分の足首を縛ってみせ、それを見本に各自がそれぞれの足首を縛った。 「じゃあペアを組んで、お互いの手首を縛って下さい」 女の子を縛れる! ・・と思ったら、すぐに琳琳さんと梢ちゃんがペアになって縛り始めてしまった。 僕と高浦さんは顔を見合わせて苦笑する。・・男同士で、縛る? れいらちゃんがすぐに察して申し出てくれた。 「縛るなら女の子がいいよね。じゃあ、あたしの手首を順にどーぞ!」
・・
酒井さんが来て言った。 「まだ時間があるから、梢ちゃんと岩淵さん、もう一度縛ってあげようか」 「うわーい!」「お願いします!」
酒井さんの緊縛はとても速かった。 梢ちゃんと琳琳さんをそれぞれ後ろ手に縛る。 二人を隣り合わせで床に膝を崩して座らせた。 梢ちゃんが右側、琳琳さんが左側。足を崩す方向も梢ちゃんは右側、琳琳さんは左側。 やや小柄な梢ちゃんが琳琳さんに甘えているようにも見える。 酒井さんは二人の背中に縄を足して連結した。 梢ちゃんと琳琳さんは互いに横座りで体重をかけ合っているから立てない。 下半身は自由なのに立てない。
「どこか痛いかな?」「いいえ」 二人は首を横に振った。 「君たちの身体のどこにも無理はかけていないはずだよ。どこも痛くないのに拘束感だけはある。・・そんな感覚をしばらく楽しむといいよ」 酒井さんは白布の目隠しを二人に掛けた。
・・
梢ちゃんと琳琳さんが目隠しで過ごしたのは15分くらいだと思う。 その間に酒井さんがやったのは僕も予想外のことだった。 目隠しを外されて、二人は叫んだ。 「えっ、れいらさん?」「れいらちゃん!!」
れいらちゃんが正座で縛られていた。 衣装は作務衣のまま。 後ろ手の縛りは一見似ているけれど、両手が背中の高い位置で直角に交差していた。 女の子ってこんな姿勢で平気なのか。 下半身は脛と太ももをまとめて縛られていて、正座の姿勢から動けないようになっている。
「えへへ、イッくんにお願いして即興で縛ってもらったの」 れいらちゃんは明るく笑って言った。 「あたしも梢ちゃんや琳琳さんと同じ仲間だよ」
僕はれいらちゃんから目を離せなかった。 縛る方と思っていたれいらちゃんが縛られている。衝撃で心臓が止まりそうだった。 作務衣姿で笑顔だから、普通に考えたらエロいはずがない。 エロくないのにドキドキする。どうしてだろう。 れいらちゃんが縛られている。自由を奪われて、それなのに笑ってる。 それだけで興奮するのは何故だろう。
・・
「ねぇ会長は?」 「あれ? そういやどこ行ったんだろう」 緊縛体験会が終わる頃になって、知里さんがいないことに皆が気付いた。 バスルームや2階の部屋を探しても見つからない。
「・・誰を探してるの?」 酒井さんがのんびり聞いた。 「だからさっきから知里さんがいないんですよ!」 「朝比奈さんなら外にいるけど?」 え?
全員で外に出た。 コテージ正面のテラスに昼間のドラム缶が置いたままになっている。 その頭上、木の枝に取り付けられた滑車。 そこから全身をがんじがらめに縛られた知里さんが吊られていた。
Tumblr media
白いシャツと素肌が夜目に浮かび上がる。 仰向けで半ば逆さ吊り。 膝で折って縛られた太ももと脛に食い込む縄が痛々しい。 両脚の間の縄、あれ股縄っていうんじゃなかったかな。 くしゃくしゃになった顔で喘ぎながら振り子のように揺れる知里さん。
「かなり手間かけて縛ったんじゃない? イッくん」 れいらちゃんが聞いた。 「そうだね。僕一人で30分くらいかかったかな」 「いつ?」 「休憩のとき。一緒に抜け出して吊ってあげたんだよ」 酒井さんが説明した。 「朝比奈さんの希望は "吊り" だったんだ。食堂は吊り床がないからここへ来て。そうしたら、ドラム缶に逆さ吊りで沈めて欲しいって言い出されて、いくらなんでもそれは危険だから・・」
「わあ~!!!」 上の方から声がした。 「酒井さんっ。そこから先は言わないでぇ~」 無残な宙吊り緊縛で苦しんでいるとは思えない、大きな声だった。
「知里会長、僕らが思ってた以上にドMだった」 副会長の占野さんがぼそっと言った。他の1~2年男子も頷く。
「いいなぁ、次はアタシも吊って下さいってお願いしようかな」 琳琳さんが言った。隣で梢ちゃんがうんうんと頷く。
「イサオったら、"吊り" なんて私には長いことご無沙汰なのに」 多華乃さんが文句を言った。れいらちゃんがまあまあと慰める。
「あれ? あそこにいるの、知里ちゃん?」 仁衣那さんが初めて気が付いたみたいに言った。 誰もフォローしないから仕方ないので僕がズッこけてあげた。
13. ベッドに入って眠ろうとしたけど眠れなかった。 頭の中に浮かんで消えないのは、ドラム缶イリュージョンの多華乃さん仁衣那さんではなく、宙吊り緊縛の知里さんでもなく、ぜんぜんエロくない作務衣で緊縛されたれいらちゃんだった。
1階に降りてくるとダイニングの灯りが点いていた。 同好会の人たちが人体出現椅子を囲んで何か相談していた。 ダイニングの仕切り衝立(ついたて)を持ってきて、その手前で椅子を何度も左右に押して動かす。
・・分かった。酒井さんのムチャ振りだ。 出現椅子の新しい使い方を考えなさい。 皆さん大変だな。 邪魔する訳にいかないから僕はそのままコテージの外に出た。
・・
森の中に遊歩道があった。 ところどころ照明灯が点いていて歩き易かった。 「畑本くん!?」 れいらちゃんがいた。 小さなタンクトップとショートパンツ。素足にサンダルを履いているだけ。 何その可愛い恰好。
「れいらちゃん、こんなところでどうしたの?」 「梢ちゃんがぐっすり寝ちゃったのよ。今夜はいっぱいお話ししましょって言ってたのにね。・・それで冷たいモノ飲もうと思って降りてきたら同好会の人たちがいるでしょ。仕方ないから出てきたの」 「僕もそんな感じ」 梢ちゃんとれいらちゃん、同じ部屋に泊ってるんだね。
「梢ちゃん、疲れたんだろうね」 「そうね。人生で一番衝撃的な体験をしたと思うわ、彼女」 「聞いてもいいかな。梢ちゃんはどうして体験緊縛なんて」 「あれはね、梢ちゃんが手首のイリュージョンで頑張ったご褒美なの」 「意味が分かりません」 「イッくんを通して出演頼まれたときにね、縛ってくれるなら出ますって言ったのよあの子。・・イッくんの特技が緊縛だって、どこで気付いたのかしら」 「中学3年生を縛ってもいいの?」 「いけない理由って何かある? あたしの初体験は中2だったよ」 え、えええっ。 「あ、誤解しないでね。初体験ってのはキンバクのことだから」 そんな補足されたら、かえって誤解するじゃないですか。
「そんな訳で、梢ちゃんのご両親に体験緊縛のお話したらすぐに了解して下さって」 「り、理解あるご家族だね」 仁衣那さんとバーベキューに行ったら緊縛されたって、オヤジとオフクロに報告したらどんな顔するだろう?
「梢ちゃんのお母さんもすごいのよ。初めて男の子から縛ってもらったのは中学3年のときだったわって」 「それ向こうから教えてくれたの?」「そうよ。オープンなお母さんだわ」 「それは梢ちゃんも知ってるの?」 「もちろんよ。ウチも一緒や!って喜んでたわ」
・・
深夜の遊歩道を並んで歩いた。 こんな可愛い女の子と出会ったその日の夜に二人きりで歩いている。でき過ぎの展開じゃないか。 もう手くらい繋いで、いい雰囲気になって、それから。
「畑本くん、あたしのことどう思った?」 「えっ。そりゃ、明るくて可愛くて」 「違うよ。縄で男の子縛っちゃうような女のことどう思うって聞いたの。・・引いた? やっぱり」 「そんなことはないよ。いきなりだったから驚いたけどね」 「よかった。これでも変なことやってる自覚はあるから、嫌われても仕方ないとは思ってるの」 「・・あのさ、れいらちゃんってドSなの?」 酒井さんみたいに。 「へっ? あたしがドエスぅ!?」 れいらちゃんが目を丸くした。 いけね。またド直球で聞いてしまった。
「ごめん、からかうつもりはないんだ」 「いいよ。あたしは緊縛に興味があるだけだからSにもMにもなるよ。縛るならイッくんみたいに格好良く縛りたいし、縛られるなら多華乃さんみたいに色っぽく縛られたい」 「緊縛って僕にはまだ分からないな。全然動けなくてすごい技術だと思うし、多華乃さんや知里さんの緊縛見て超エロいとも思ったけど」 「酒井さんが感心してたわよ。畑本くん、"イリュージョンはアシスタントの汗と涙で成立する" って言ったんだって?」 そんなこと言ったっけ? ・・あ、仁衣那さんのセリフ。 「素敵よね。そんな風に言える畑本くん、きっと素質があると思うわ」 「酒井さんにも同じようなこと言われたよ。でもイリュージョンと緊縛は全然違うでしょ」 「そりゃエンタメとプライベートパフォーマンスだもんね。あ、これイッくんの受け売りだから突っ込まないでね」 「?」 「目的は違ってもやってることは似てると思わない? どっちもだいたい被虐の役目は女性だし」 「そう言われればそうだけど」
れいらちゃんは急に立ち止まってこちらを向いた。ものすごく距離が近かった。 どきんとした。 「ほら!」 手首を前で合わせ僕に向けて差し上げた。まるで縛られているみたいに。 「本結びの練習であたしの手首縛ったでしょ? ドキドキしなかった?」 「した」 「あたしもドキドキしたんだよ。"縛るなら女の子がいいよね!" なんて今思い出すだけでも赤面することよく言ったと思う」 薄暗がりの中でれいらちゃんの頬が赤くなっているのが分った。 何となくれいらちゃんの言いたいことが解った気がした。
「その役目って、同好会やOBの人たちには普通のことなんだね。女性の方も嫌がってないし、むしろ楽しんでやっている?」 「うん。それが水中脱出でも、縛られて置き物にされることでもね」 「エロくなっちゃうよね」 「なっちゃうねー。だからだいたいマゾに目覚めるし、元々マゾの人はもっとこじらせちゃう」 「それが知里さん?」「仁衣那さんとか」 「多華乃さん?」「あの人はJ大でイッくんと出会う前から超ドM」 「ははは」「うふふ」
・・れいらちゃんは? 聞きたかったけど、面と向かって聞くと引っ叩かれそうな気がしたので止めた。
くしゅんっ。 れいらちゃんがくしゃみをした。 「夜中に薄着過ぎるんじゃない?」 「えへへ、そうかも。・・今何時かしら?」 「分からない。スマホ持って来なかったし。そろそろ戻ろうか」 再び並んで歩き出した。 れいらちゃんの肩がさっきより近いような。
「ね、畑本くんはお付き合いしてる人いるの?」 え、れいらちゃんから聞いてくる? 「いないよ。れいらちゃんは?」 「あたしもいないわ。・・大学に入ったら一緒にイリュージョンやってくれる彼を見つけるつもり」 「それ、僕のことじゃない?」 「あ、言われてみれば」
「僕はれいらちゃんとイリュージョンをやりたい。酒井さんみたいにオリジナルのイリュージョンを作って」 「オリジナル? 畑本くん、あんなすごいの作れるの?」 「それは分からないけど、やってみたいんだ」 「よぉし頑張れ! できたらあたしが一緒にやったげる。・・酷い目に会う役でもいいよ」 「なら逆さ吊りで火炙りとか」 「ばか。死んじゃうでしょ」
れいらちゃんが笑った。 おお、いい雰囲気じゃないか。これはもう肩抱いても。 手を伸ばそうとしたらするっと逃げられた。
「こら。男の子ってすぐにこうなんだから」 「メンボクないです」 「じゃあ手だけ繋いであげる」 「やった」「現金ねぇ」 「素直なのがよいと知里会長にも評価していただきました」 「何それ、あはは」
14. コテージの前でれいらちゃんと別れた。 ダイニングでは同好会の人たちがまだ練習をしているようだった。
僕もやって見せたいな、イリュージョン。 立ち止まって考えた。 体験緊縛で習った縄。 頭の中でアイディアを整理する。
・・
酒井さんと小谷さんは駐車場にいた。 あのバンタイプの軽自動車の脇に小さなテーブルと椅子を置いてランタンの灯りでお酒を吞んでいた。
傍に行くなり酒井さんに言われた。 「れいらちゃんと一緒にいたね」 見られちゃったか。もしかして手を繋いだところも? 「心配無用。我々は誰にも漏らさないから」小谷さんにも言われた。 「まあ、梢ちゃんあたりに気付かれないようにね。あの子やたら勘がいいから」 「・・心得ました」
「それで何か用?」 あ、そうだった。 「僕もイリュージョンやっていいですか?」 「え」「ほう」 二人が身を乗り出してきた。
緊縛の縄を1本借りれますか。7メートルくらいの柔らかい縄があったら嬉しいんですけど。 「10メートルの綿ロープがあるから切ってあげるよ」 針金のクリップ2~3個。できるだけ太目のやつで。あとラジオペンチを貸して下さい。 「クリップってゼムクリップ? 工具箱に入ってるかな」 最後にもう一つ。本結びを習いましたけど全然自信がありません。もう一回特訓してもらえませんか? 「もちろんいいよ」
本結びで誰を縛るつもりでいるのか、酒井さんにも小谷さんにも聞かれなかった。 もうバレバレだとは思うけど。
[Part.5 ワークショップ2日目] 15. ○ チェア・アピアランスのバックステージ 明朝。 朝食の後、知里さんたちによるイリュージョンの発表があった。 お題は "チェア・アピアランスの新しい使い方"。
1階ダイニングに現役メンバー5人が整列する。 ステージ衣装を用意していないから、バーベキューのときと同じ服装��った。 僕たち観客は手前で一列に座って見ていた。その真ん中で酒井さんが腕組みをしている。 知里さんが挨拶した。 「バックステージ(backstage)というカテゴリのイリュージョンがあります。今皆さんは舞台の奥にいてイリュージョンを後ろから見ています。向かい側に仮想の客席があると思って下さい」 自分の後ろを手で示した。 「客席から見えない秘密が皆さんにだけ見える。・・それではチェア・アピアランスのバックステージイリュージョン、よろしくお願いします!」
2年の占野さんと八代さんがチェア・アピアランス=人体出現椅子を押して来た。 知里さんが足を組んで座る。その上から大きな黒布。 数秒後、黒布を外すと知里さんは消失していた。 占野さんと八代さんは椅子を左側に押して行き、僕たちの反対(=仮想客席がある側)を向けて置いた。 僕たちからは椅子の背中が見えるだけになった。
・・
琳琳さんが出てきた。腰に手を当ててお尻をくねくね振りながら歩いている。本人はモンローウォークのつもりなんだろう。 ステージ中央で立ち止まると僕たちにお尻を向けて(=仮想客席を向いて)手を振る。
高浦さんがダイニングの仕切り衝立を運んできて、琳琳さんの向こう側(=仮想客席の側)に立てた。 衝立の高さは2メートルくらい。 僕たちからは琳琳さんの後ろ姿が丸見えだけど、仮想客席からは衝立の陰になって見えない想定だ。
・・
左側にあった椅子を占野さんと八代さんが押して出てきた。僕たちからは相変わらず椅子の背しか見えない。 衝立の手前(仮想客席から見ると衝立の陰)に椅子を停める。 その直後、椅子の背もたれの陰から知里さんが立ち上がった。 交代して琳琳さんが背もたれの陰に入って消える。 占野さんと八代さんは椅子を押して右側に移動して行った。 ほんの数秒の交換だった。
高浦さんが衝立を外し、知里さんが(仮想客席に向かって)手を振る。 仮想客席からは琳琳さんが消失して知里さんが出現したように見えるはずだ。 再び衝立が戻されて、知里さんを(仮想客席から)隠した。
・・
右側にあった椅子が押されて戻って来た。 衝立の手前(仮想客席から見ると衝立の陰)で椅子を停める。 今度は椅子から琳琳さんが立ち上がり、椅子の中へ知里さんが消えた。 椅子は再び左側に押されて移動する。 高浦さんが衝立を外し、琳琳さんが(仮想客席に向かって)手を振った。 さっきとは逆の交換だった。
・・
占野さんと八代さんが三たび椅子を押して出てきた。 衝立は脇に退けたままだから、適当な場所に椅子を停めた。
椅子に黒布が被せられた。 脇に立っていた琳琳さんが駆け寄って椅子を指差す。 布を外すと・・、 「じゃーん!」 そこに座ってポーズをとっていたのは知里さん、じゃなくて梢ちゃんだった。
・・
酒井さんが立ち上がって拍手した。 他の観客・・小谷さん、多華乃さん、仁衣那さん、れいらちゃんと僕も拍手した。 観客の中に梢ちゃんがいないのは最初から分かっているから、ラストで梢ちゃんが出現したこと自体には驚かない。 それでも拍手したのは、イリュージョンとして素晴らしい出来だったからだ。 これなら実際のステージでも通用するんじゃないかな。
「えっと、講評の前に、」 酒井さんが椅子を指差して聞いた。 「よく二人も入れたねぇ」 「梢ちゃんとなら入れるんです。アタシと知里さんじゃ無理でした」琳琳さんが説明した。 「えへへ。ちっちゃい女の子が要るときはいつでも使(つ)こて下さいっ」梢ちゃんがおどけて言った。
「朝比奈さんはどうしたの?」 「あれ?」「会長っ」「知里さん!」 現役メンバーが椅子を開くと、知里さんが中で動けなくなっていた。 「ふにゃぁ~」 「大丈夫ですか?」 「成功したと思ったら、腰が抜けて」 「じゃ、そこでそのまま聞いてくれるかい」 「ふわぁい」
酒井さんが講評する。 「チェア・アピアランスのスピード感とバックステージの面白さ。両方を楽しめる素晴らしいイリュージョンだったよ。同好会連合の交流会辺りでやったらウケると思う。ただし通常のステージに出すのは難しいかもしれないね」 え、駄目なの? 「このバックステージのコアキャラクターは椅子そのものと二人のアシスタントだね。観客がその動きを追ってくれることが前提になっている」 皆が頷いた。 「だから最初の朝比奈さんの消失シーケンス。あれは "消失" ではなく椅子の内部への "移動" だと客が自然と思うように仕向けなけばならない」 「そうか。僕らは当たり前のように "移動" と捉えてた」占野さんが呟いた。 「その通り。チェア・アピアランスは最近よく見るとはいえ、まだまだ新しいイリュージョンだよ。椅子に腰かけた美女が一瞬で消える。それだけで驚く客が大半だろう。その先まで考えるのはプロかマニアだけじゃないかな」 「それなら、布で隠さずに椅子に入ったら?」高浦さんが聞いた。 「そんなシーンを見せるのはオリジナルのチェア・アピアランスに対して敬意がないと思うね、僕は」 酒井さん、厳しい。でもその通りだ。 「アイディアはあるよ。椅子の背中に丸い穴を開けて朝比奈さんが手を出して振るんだ。それなら中に女性が入っていることは誰にでも理解できるし、椅子に入る方法そのものは秘密にできる」 ああ、なるほど。それなら。 「でもね。それをはっきり見せてしまったら、次に普通の人体出現や消失で驚けると思うかい?」 「無理でしょうね」
「・・整理しよう。このバックステージの面白さは、椅子に潜む女性の姿は見せず、出入りを後方から見せることでお客を騙すところにある。だから最初に女性が椅子の中へ移動するシーケンスは欠かせない。でもそのシーケンスを理解してもらうのは容易でない」 「ダメかなぁ」八代さんがぽつりと言う。 「僕は決してダメ出ししてる訳じゃないよ。本当に面白かったし、現役諸君がこれを一晩で考えてくれたことを賞賛するよ。・・ただ、あのバックステージは少し未来に行き過ぎてる。そう感じただけなんだ」 「その未来は、いつでしょうか?」 琳琳さんが聞いた。 「申し訳ないけど、分からない。・・あの "あたまグルグル" とか "ウォーキングテーブル" くらい誰でも解るようになったとき、かな」 「その二つ並べるんですか」 「僕はウォーキングテーブルについてはそろそろ次のブレークスルーが欲しい段階と思っていて、その理由はあれ見て大げさに悲鳴上げる観客がスタジオ収録のマジック番組だけになったから、なんだけど」 「イッくんその発言ヤバいからもう止めよう」
・・
知里さんの救出は難航した。 本当に力が入らないらしくて、男性二人がかりでようやく引っ張り出してあげることができた。 「ふにゃあ、私このままでいい~」 「しっかりして知里さん!」 「もう、私、何されてもいいよぉ」 「会長いつの間にドMモード」
知里さんが平静を取り戻すまで30分くらいかかった。 その間に次のイベント "ドラム缶水中脱出のタネ明かし" の準備が進められたのだった。
16. ○ ドラム缶水中脱出 タネ明かし 正面テラスのドラム缶は水を入れ替えて再び満水になっていた。 酒井さん、小谷さん、そして多華乃さんと仁衣那さんがその前に立つ。 多華乃さんと仁衣那さんは昨日と同じセクシーなマイクロビキニ。
「今日は不要な演出を止めて、閉じ込めと脱出のプロセスだけを再現します。近くて見てもらって構わないよ」 酒井さんが言って全員がドラム缶の傍に集まった。 「これはUSBの水中カメラ」 酒井さんは小さな装置を皆に見せた。長いケーブルの先に丸いカメラが付いている。 「直径2センチ、長さ2センチ。レンズの回りにLEDが点くから暗くても撮影できるよ。これに磁石をつけてドラム缶の内側に貼れるようにした。ケーブルの取り回しが面倒だけどね」 水の中にカメラを入れてドラム缶の内側に貼った。 「こんな風に見える」 ケーブルを繋いだタブレットに映像が映った。水面から射す光に照らされてドラム缶の内部が明るく映っている。
「じゃあ、早速始めよう」 多華乃さんと仁衣那さんが水に入った。 前みたいにロープにぶら下がって入ることはなくて、酒井さんと小谷さんがさっと抱き上げて入らせてしまった。 また仁衣那さんを抱っこさせてもらえるのかと一瞬期待したけど、仕方ない。
溢れた水が周囲に流れた。 多華乃さんと仁衣那さんがドラム缶の中に立っている。 「昨日と違うのが分るかい?」 昨日と違う? 前回の光景を思い出そうとしたけど分からなかった。
「あ!」叫んだのは梢ちゃんだった。 「お腹が見えるっ。前はもっと沈んでました!」 え、そうだったっけ?
「その通り。前はこうだったんだ。・・やってくれるかい」 「うふふ」 多華乃さんと仁衣那さんが妖しく笑った。 互いに抱き合って胸を押し付け合う。 二人の背がすっと低くなった。 ドラム缶の縁からさらに水が溢れる。
ああ! 皆が声を上げた。 思い出した。胸の谷間を洗う波。
「せめて将司くんには気付いて欲しかったなー」仁衣那さんが言った。 「わざわざサービスしてあげたのに」 「も一回、脱いだら?」多華乃さんも言う。 「そうね、やっちゃおっか♥」
「あ、それは止めてくれるかな。また皆の目が惑わされてしまう」 「皆の目じゃなくて男性の目でしょ?」れいらちゃんが突っ込む。 「いいえ、私も惑わされました。仁衣那センパイのおっぱいが立派過ぎて」 「知里さんもですか? アタシも」「ウチも」 この同好会、女同士でこんな会話が多すぎるぞ。
「・・ええっと、」 酒井さんが続ける。調子が狂ったようだ。 「まあ、もう分かったと思うけど、前回は膝を折って屈んでたんだ。そうしなければならない理由は」 「上げ底なんですね」占野さんが指摘した。 「その通り。まっすぐ立ったら底が浅くなっているのが分ってしまうからね」
このドラム缶の深さは約 120 センチ。しかし 30 センチ底上げされていて実際の深さは 90 センチだという。 その 30 センチの部分は? 「金属の容器が置いてあるよ。中身は空っぽで入っているのは空気だけ。水圧で潰れないよう補強して底板にボルトで留めてある」
酒井さんは水中カメラを外して多華乃さんに持たせた。多華乃さんがカメラを底まで沈める。 タブレットの画面に多華乃さんと仁衣那さんの足元が写った。 水中で組み合わさった膝と足先、丸いお尻も見えている。 そして底に小さなペダルがあった。
「0.5 秒だけ押して」「はい」 多華乃さんが身を沈め右手でペダルを押��た。 ぼこ。 卓球の球くらいのサイズの泡が浮かび上がった。 「ペダルを手で押すか足で踏むかすると、容器の栓が開くようになってる。栓が開いている間は水が流れ込み、同じだけ空気が出てくるんだ」 「その容器に空気はどれくらい入ってるんですか?」占野さんが質問する。 「だいたい 100 リットルだね」 「100 リットルの空気で呼吸できますか?」 「密室に 100 リットルの空気だけで二人が生きていられるかという質問なら答えはノー。前に調べてみたんだけど酸素濃度の低下と二酸化炭素濃度の上昇が原因でほんの2分くらいで呼吸が苦しくなる。4~5分で命の危険が生じる」 それじゃ無理��ゃないか。 「この容器の目的は呼吸のための空気を提供することじゃないんだ。水を流し込むことでドラム缶内部の水面を下げることなんだよ」
酒井さんは多華乃さんから水中カメラを受け取ると、ドラム缶の内側に再度貼り付けた。 カメラのケーブルを蓋の手首用の穴に通しタブレットと再接続した。
「ここから先は実際にやって見せよう」
・・
多華乃さんと仁衣那さんが大きく息を吸って水の中に頭を沈めた。 上から蓋が閉められる。 蓋の穴から付き出された二人の左手に手錠を掛ける。 さらに蓋にバンドと南京錠を取り付けた。
「カメラの映像を注意して見ていてね」
タブレットの画面に多華乃さんと仁衣那さんが写った。 フィルター越しに撮ったみたいな青みがかった映像だった。 水中撮影だとすぐに思い出した。
二人は抱き合った互いの肩に頭を乗せてうずくまり、左手だけを真上に上げていた。 多華乃さんの顔が見えた。目を閉じてじっと呼吸を我慢している。 仁衣那さんの顔は陰になって見えない。
「・・案外狭いな」占野さんと八代さんが話している。 「上下 90 センチでしょ? 横はドラム缶の直径 80 センチだもの。ほとんど動けないわ」知里さんも言う。
ぽこぽこ浮かび上がる泡が見えた。 多華乃さんか仁衣那さんのどちらかが容器のペダルを踏んでいるのだろう。 泡は二人のお腹に当たり、そこから胸と肩を伝ってさらに上へ浮かんで行く。
画面の上方に水面が見えた。 さっきは水面なんてなかったのに。 その水面がゆっくり下がって多華乃さんと仁衣那さんの後頭部に掛かった。 なるほど、下の容器に水が流れ込んで水面が下がっているのか。 酒井さんの言った意味が分かった。
水面が下がって顔面が、いや鼻か口さえ水の上に出たら、後は呼吸ができる。 狭いドラム缶の中でも手首の穴の空隙から新鮮な空気が入ってくる。 それまで頑張れば窒息して死ぬことはないんだ。
ぽこぽこ浮かび続ける泡。 仁衣那さんが右手をぎゅっと握った。 二人の顔面はまだ水の中だ。 しまった、時間のチェックを忘れてた。 多華乃さんも仁衣那さんも、水中に沈んでから一度も呼吸をしていない。許されていない。
ゆっくり、ゆっくり、水面が下がる。 うつ伏せの顔面の端から空気に触れる。 多華乃さんが眉を寄せている。鼻と口はまだ水の中。 頭を捩じる。どうにか口が水面に出た。 わずかに空気を吸う。
顔が水面に出た。 二人の肩が揺れている。苦しそうだ。 多華乃さんと仁衣那さん、どれくらいの時間苦しんだろう。
「・・容器の空気が水と入れ替わって満タンになるまでの時間は容器の栓の直径で決まるんだ。直径 10 ミリだと 820 秒かかるけど、50 ミリなら 30 秒くらいで済む。通り道が広い方が速いということだね」 酒井さんが説明してくれた。 「じゃあ、できるだけ大きな栓にしてるんですね?」知里さんが聞いた。 「逆だよ。できるだけ小さな栓にしている。今使ってるのは直径 20 ミリで 205 秒」 「3分半? どうして!?」 「鼻口が水面に出るまでの時間はその半分くらいだよ」 「それでも・・」 「美女が苦しむ時間は長い方がいいと思わないかい?」 「!」 知里さんの顔色が変わった。
「絶対安全な方法なら外から空気管を引いて咥えればいい。でもそれは安易過ぎるとみなすのが僕の美学なんだ。・・イリュージョンはアシスタントの汗と涙で成立する」 酒井さんはドラム缶の上に出た多華乃さんと仁衣那さんの手を取った。 「幸い、ぼくの美学に賛同してくれる美女が今もこの中で頑張ってくれている。・・朝比奈さん、」 「は、はい」 「誰かが僕のことをドSと言ったみたいだけど、僕が見る限りそのドSが考えたイリュージョンに君も賛同してくれていると思うな」 「あ・・」
「公開調教♥」僕の隣でれいらちゃんが言った。 「嬉しそうだね。れいらちゃん」 「だって知里さんドMだって、みんなもう知ってるじゃない」 「そりゃそうだけど」
「・・はい、苦しい役、私も興味・・あります」 「OB会に入ったら是非、ね」 「はい」 知里さん、チョロい。
・・
ドラム缶の中では多華乃さんと仁衣那さんの肩まで水面が下がった。 「下の容器が満杯になったとき上端から水面まで約 40 センチ。ここまで下がれば隠し扉が水の上に出るよ」
酒井さんはドラム缶をノックした。 蓋の上にで出た多華乃さんと仁衣那さんの手が振られた。 その手首には手錠が掛かったままだ。
「では脱出のプロセスに移ります。映像をよく見ていて下さい。・・ワン、ツウー、スリー!」 二人が手を引き下げた。 ドラム缶の蓋に大きな穴が開いて、二人は手錠で繋がったまま手を下げたのだった。
多華乃さんが仁衣那さんの左手の手錠を解錠した。 同時に仁衣那さんが右手で隠し扉を開ける。 隠し扉はドラム缶の内壁に沿ってスライドするように開いた。 仁衣那さんが隠し扉を抜け出た。外で小谷さんが仁衣那さんを受け止める! すぐに多華乃さんが自分で手錠を解錠した。 隠し扉から脱出した多華乃さんを酒井さんが受け止めた・・!! ドラム缶の前に並んだ4人に皆が拍手した。
「いくつか補足説明します」 酒井さんが手錠を見せた。 多華乃さんと仁衣那さんが掛けられた手錠だった。 「これは本物だから引っ張っても外れない。だから細工するのは当然蓋の側になる」 ドラム缶の蓋の手を通す部分はダンボール製で裏にカッターで筋が入っていた。 手錠のまま手を下げれば筋の箇所が割れて開くのだった。 手錠の鍵は最初からドラム缶の内側に貼ってあって、多華乃さんはそれをずっと右手に握っていたのである。
「はい」占野さんが手を上げた。 「隠し扉が開いたままですが」 「そうだね。コテージから丸見えになるから後で閉めておいたよ。蓋の上から手を入れて」 「手を入れたのはダンボールの穴を通してですか?」 「もちろん」 「だったらその穴は、開いたままですか?」 「誰も覗き込まなかったからね。アイドルソング大会の間に蓋を外して水も抜いたから、それで証拠は消滅さ」
17. 水中脱出のタネ明かしが済んで、これで終わりという雰囲気になったとき。 酒井さんと小谷さんが僕を見てニヤリとした。 ・・やるのかい? やります。 僕は立ち上がって言った。 「皆さん、僕にもイリュージョンをさせて下さい!」 え? 皆の目が集まったところで追加して言った。 「相手は、玻名城れいらさんにお願いします」
・・
○ ロープイリュージョン 同好会とOB、梢ちゃん。 にこにこしながら僕とれいらちゃんを見ている。 多華乃さんと仁衣那さんなんてビキニのままで笑ってる。
「あたしでいいの?」 「れいらちゃんがいいんだ」 おおー。 歓声が上がったけど僕は怯まない。 「やってくれるかな」 「はい。喜んで・・。あたしはどうしたらいいの?」 「あの木の前に立つだけでいいよ」
テラスの近くに生えるハルニレの木。 その木の幹は、れいらちゃんが背中をつけて立ち、前から僕が抱きつけば反対側に余裕で手が回る太さ。 早朝から手頃なサイズを探して決めた木だった。 れいらちゃんがその前に立ってくれた。 白いシャツとデニムのミニスカート。 恥ずかしそうな笑顔。
「ようこそ皆様! これより世紀のイリュージョン。これなる美女を縄で縛り上げてお見せします!」 酒井さんの真似をして口上を述べたけど、全然決まってないのが自分で分る。 まあいいや。大切なのは勢いだ。 よーし、行くぞ。
酒井さんから借りた7メートルの縄は、前後 3.5 メートルずつまとめて、互いに繋がった二つの縄束にしてあった。 両手に握り、真ん中の縄をれいらちゃんの胸の上に当てた。 れいらちゃんの肩の両側から木の後ろへ縄束を送る。 前から抱くみたいにして手だけ木の後ろへ出し、手さぐりで縄をクロスさせる。 れいらちゃんの顔が近い。本当に抱いているみたいだ。 クロスさせた縄はそのまま反対側かられいらちゃんの腕の外に掛けてお腹の前へ。 縄はハルニレの幹の凹凸に掛かっているから自重で落ちることはないと思うけど、それでも少しきつめを意識する。 「痛かったらゴメン」「平気だよ」
お腹に来た縄はまたクロスさせ、手首の外から再び後ろ側へ。 前と後ろでクロスを繰り返しながら、れいらちゃんの身体とハルニレの木をまとめて縛って行く。 今、僕はれいらちゃんの身体を縛ってるんだ。 胸がばくばくして息が止まりそうだ。
身体の前だけで4回クロスさせた縄が足首に達したところで、クロスさせずに縛った。 足首はわざと縛らない。上から降りて来た二本の縄を本結びで縛り合わせるだけだ。 酒井さんに特訓してもらった手順だった。 体験緊縛で教わった手順は腕や足に縄を巻くことから始まるから、同じ本結びでも手順が違う。 これで完成。 れいらちゃんはまっすぐ立って両手を脇に添えた姿勢で縛られている。
・・
木の回りを一周してチェックした。 後ろでクロスする縄のうち、実は上から2番目と3番目はクロスしていない。 針金のクリップを曲げて作ったフックを掛けて、"クロス" じゃなく "折り返し" になっている。 OK。ぶっつけ本番で我ながらよくやったよ。 「さて、これからがイリュージョンっ。一瞬で縄抜けする美女をお見せいたしまぁす!」
「え、え、」 れいらちゃんが焦っている。 「あたし縄抜けなんかできない」 本気で困っているらしい様子が可愛い。このまま困らせておきたいね。 「ワンツースリーで力を込めて腕を左右に開いてくれる」 「それだけでいいの?」 「大丈夫。僕を信じて」 「はい」
"僕を信じて" なんて言ってしまった。 恰好いいじゃないか、僕!
「では行きます! ・・ワン、ツー、スリー!!」 れいらちゃんが腕を開いた。 後ろで針金のフックが開いて、折り返しの縄が外れた。 全体の絞め付けが緩み、巻き付いていた縄がばらばらと足元に落ちた。
おーっ。やった!! パチパチパチ。 僕はれいらちゃんの傍に行くと手をとってお辞儀をした。
・・
「いきなり頼んだのに受けてくれてありがとう。どうしてもれいらちゃんとやりかったんだ」 「こちらこそ。畑本くんが指名してくれて嬉しかったわ」 「本当はもっとすごいのをやりたかったんだけどね。昨夜考えた方法だし、あれが精一杯だった」 「あれ、畑本くんのオリジナルだったの?」 「まぁね。でも似たのはたくさんあるよ、きっと」 「すごい!! ・・実はね、」 れいらちゃんは周囲を見て近くで誰も聞いてないことをチェックした。
「ちょっと期待しちゃったの。畑本くんが縄を持ってあたしの前に立ったとき」 「期待?」 「うん。もしかして本当にあたしに酷いことするんじゃないかって」 「する訳ないだろ。れいらちゃんに酷いことなんて」
「昨夜あたしが言ったこと覚えてる? あれ半分は社交辞令だけど、半分は本気だったんだよ」 「何のこと?」 「忘れちゃった? 畑本くんと一緒にするイリュージョン、"酷い目に会う役でもいいよ" って言ったこと」 思い出した! ということは、つまり。
「次はJ大で一緒にやろうね、イリュージョン!」 「え」 れいらちゃんは僕が返事をする前にコテージの方へ走り去ったのだった。
18. 帰りは皆が乗って来た車でそれぞれ帰ることになっていた。
れいらちゃんと梢ちゃんは知里さんの車。 他の現役メンバーは八代さんの車。 イリュージョンの機材は小谷さんの2トントラックに積んで大学の倉庫へ運ぶそうだ。
ドラム缶は今まではOBからの貸し出しだったけど、水中脱出を教示したので正式に寄贈して同好会の所有品になる。 ということは、次は知里さんと琳琳さんが水の中で頑張るんだろうか。 酒井さんが説明していたように実際のステージで水を使うのは難しいから、できるのはこんな郊外の合宿だけかもしれ��いけどね。 僕としては知里さんの次の代、つまり琳琳さんとれいらちゃんの水中脱出に期待したいところだ。
知里さんと現役メンバーに挨拶する。 「お世話になりました。来年からまたお世話になりますけど」 「畑本くんは期待の星よ。楽しみにしてるわ」 「弱小サークルだけどよろしく!」「待ってるよ!」 「一緒にイリュージョンやりましょうね!」 「いつでも顔出してくれよな。歓迎するよ」
そうだ、これだけは伝えておかないと。 「僕はイリュージョン同好会に入ったらオリジナルのイリュージョンを作りたいと思ってます」 「おお、いいじゃないか」「どんなイリュージョンを作りたいの?」 「ここへ来て酒井さんのイリュージョンに驚きました。作るならあんなイリュージョンをやりたいです。・・その、」 僕は知里さんと琳琳さんの顔をうかがう。 「知里さんと琳琳さんがOKしてくれたらですが」 知里さんが察してくれた。 「・・女の子がエロくなるイリュージョン?」 「はい」 「会長何ですかそれ」占野さんが不思議そうに聞く。
「うふふ。私は大賛成。琳琳ちゃんも大丈夫よ。でもれいらちゃんにも聞かなくちゃダメよ」 「もちろんです」 実はれいらちゃんの答はもう知っている。 ・・酷い目に会う役でもいいよ! でもここで僕がそれを言うのは反則だね。 一緒に同好会に入って、皆の前で本人が賛成してくれたら、僕は自分の望むイリュージョンを作ろうと思う。
「あ、もしかして」占野さんが声を上げた。 「ドラム缶のタネ明かしで知里会長がドM全開になったアレ」 「ああ、アレね!」琳琳さんも分かったみたいだった。 「知里さん、アシスタントが苦しいイリュージョンをやりたいって言ったんですよね!」
知里さんの顔がぶわっと赤くなった。 「ち、違うわっ。あの、あの、あのときは」 「会長っ、落ち着いて下さい!」 「あのときは、苦しい役に興味ある、って言っただけ!」 「・・同じじゃん」高浦さんがぼそっと言った。
知里さん、後輩の前でもM女を隠せない。 可愛い人だね。 J大に入ったらどうぞよろしくお願いします。
・・
「畑本くんっ」 れいらちゃんから声を掛けられた。 まさか最後に告白? 「秋の学園祭でイリュージョン同好会も模擬店やるんだって! 行くでしょ?」 おお、学園祭デートのお誘い! もちろん行きます。絶対に行きます。 カレンダーにマルしておかなくちゃ。
「ウチもおりますよー!!」 梢ちゃんが割り込んだ。 「ウチも忘れんと連れて行って下さいねっ。それともウチがおったらジャマですか?」 そうか、梢ちゃんがくっついて来るのかー。 「邪魔なはずないでしょう? 梢ちゃんも一緒よ」 「そやかて畑本サン一瞬イヤって思たでしょ? ウチの勘は外れないんですよー」 梢ちゃんの勘、侮りがたし。
僕はれいらちゃん、梢ちゃんとJ大学園祭での再会を約束して別れた。
・・
同好会の人たちとれいらちゃん梢ちゃんの乗った車、そして小谷さんのトラックが出て行った。 後に残るのは僕と仁衣那さん、そして酒井さん夫妻の4人。 僕たちは酒井さんの車で帰ることになっている。 酒井さんの軽バンは二重床。荷室は荷物で一杯。 後席はない・・。
ここは譲るべきだよね。 「多華乃さんが助手席に座って下さい。僕は後ろに行きますから」 「偉いぞ少年。でも今はそんなマナー、どこかへやっちゃえ」
仁衣那さんが寄ってきて右側に密着した。重ねた掌を右の肩に乗せ、耳元で囁かれた。 「狭い場所に押し込まれるも美女の務めだよ♥」 多華乃さんも寄ってきて囁かれた。 「男性は前のシートでゆったりお寛ぎ下さい・ま・せ♥」 囁くなり多華乃さんは僕の耳を舐めた。耳穴に舌を入れられた。 うわぁっ。
「二人とも、遅くなるからそろそろ用意して」 酒井さんが止めてくれた。た、助かった・・。 「畑本くんは助手席に座ってくれるかい」 「は、はい」
「うふふふ」 多華乃さんと仁衣那さんは楽しそうに自分でガムテープを口に貼った。 互いに後ろ手錠を掛け合う。 それからバンの後ろから二重床の下に這って入っていった。 酒井さんがバタンとリアゲートを閉めた。
「東京まで乗って行くだろう?」 「はい。お願いします」 当たり前のように聞かれて答えた。
車が走り出した。 「驚かせて悪かったね。妻はああいう悪ふざけが好きなんだ。今日は出水さんも一緒だから余計に悪乗りして」 「大丈夫です。僕にはむしろ奥さんが何やらかしても動じない酒井さんの方が驚きです」 「そうかな」
・・
溜息をつきながら流れる景色を眺める。 僕を取り巻く世界、昨日と今日で激変したな。 イリュージョン、緊縛、そしてれいらちゃん。 今だって手錠掛けた女の人を荷物みたいに積んだ車で走ってるだぜ。
いろいろ変わり過ぎてしばらく混乱しそうだけど、迷いはない。 僕には目標ができた。 イリュージョン同好会に入って新しいイリュージョンを作ること。 れいらちゃんに正式な彼女になってもらうこと。 もちろんその前に絶対に達成すべき目標。それはJ大合格だ。 死ぬ気で勉強する。れいらちゃんと一緒にJ大に行く。
「畑本くん、大学に入ったらうちに遊びにおいで」 酒井さんが言った。 「イリュージョンの話をしよう。それから縛り方も教えてあげるよ」 「いいんですか?」 「ああ。昔はJ大にも緊縛研究会があって僕もタカノも世話になったんだけどね、最近は活動停止しているらしい。うちに来たらタカノを受け手にして練習できるよ」 「ありがとうございます!」 「畑本くんはれいらちゃんを縛りたいんだろう?」 「!!」 「そのつもりじゃないのかい?」 「はい! もちろんそのつもりです!!」
そうだ。もう一つ目標があったんだ。 それはれいらちゃんを一人前に縛れるようになること。
「僕はあの子が小学生の頃から知ってるんだよ。大きくなってまさか緊縛に興味を持つとは思わなかったけどね」 「れい、いえ玻名城さんの緊縛の師匠は酒井さんですか?」 「そうだよ。れいらちゃんもタカノを縛って練習したんだ。縛られる方は僕が経験させてあげた。あの子は縛る方も縛られる方も適性があるよ」 そうか、やっぱり。 「畑本くんが縛れるようになったら、れいらちゃんにきちんと申し込んだらいい。緊縛でもパートナーになって下さいって」 「普通のパートナーになってもらう方が先だと思いますけど」 「ええっ、まだだったの!?」 珍しく大きな声で驚く酒井さん。
「ヌフ!」「ンフフ!!」 後ろで変な声がした。 振り返ると、二重床の切り欠きの下に仁衣那さんの顔があった。 ガムテープの猿轡の下で器用に笑っている。 あ、多華乃さんも笑ってる。 後ろ手錠の身体をひくひく揺すりながら笑っている。 よく盗み聞きできるもんだね、そんな狭いところに転がってて。
・・
「ちょっと五月蠅いね」 酒井さんが運転席の横のレバーを引いた。 かしゃ。 二重床切り欠きのシャッターが閉じて、仁衣那さんと多華乃さんの姿が見えなくなった。 笑い声も途絶えた。 まるで鮮やかなイリュージョンの幕切れのように美女が消え去った。
「何すかこれ!!」 「こんなこともあろうかと作っておいたんだ」 「真田班長ですか」 「誰だい、それ」
────────────────────
~登場人物紹介~ 畑本 将司 (はたもとまさし): 18歳(高3) イリュージョンに興味がある高校生。 朝比奈 知里 (あさひなちり): 20歳(大3) J大イリュージョン同好会会長。アイドルコスで歌うのも好き。 占野 陽介 (しめのようすけ): 20歳(大2) 同好会副会長。 八代 亘 (やしろわたる): 19歳(大2) 同好会メンバー。 高浦 仁志 (たかうらひとし): 18歳(大1) 同好会メンバー。 岩淵 琳琳 (いわぶちりんりん): 19歳(大1) 同好会メンバー。 酒井 功 (さかいいさお): 26歳 同好会OBで初代会長。特技はイリュージョン製作と緊縛。 酒井 多華乃 (さかいたかの): 26歳 同好会OB。功の妻。身体が柔らかい。 出水 仁衣那 (でみずにいな): 25歳 同好会OB。将司の再従姉妹(はとこ)。巨乳。 小谷 真幸 (こたにまさき): 26歳 同好会OB。功と共に緊縛ができる。 玻名城 れいら (はなしろれいら): 18歳(高3) 酒井夫妻の友人。功から緊縛を習っている。 桧垣 梢 (ひがきこずえ): 15歳(中3) 酒井夫妻の友人。大阪出身。
酒井功・多華乃さんが関係するお話もずいぶん増えましたので、関連する過去作を一覧にします。 本話だけ読んでも楽しめるように書いていますが、これらもご覧いただけば一層楽めると思います。  『体験イリュージョン』 (功くん、多華乃さん、仁衣那さん登場)  『多華乃の彼氏』 (功くんと多華乃さんの出会い、小学生のれいらちゃん登場)  『多華乃の彼氏2』 (イリュージョン同好会設立)  『美術モデル』 (れいらちゃん高校生)  『梢ちゃん、初めてのイリュージョン』 (梢ちゃん登場) 上の流れとは独立していますが、こんなお話もありますのでよろしければどうぞ。  『アネモネ女学院高校文化祭マジック研究会公演記』 (仁衣那さん高校時代)  『キョートサプライズ・水色の思い出』 (梢ちゃんお母さんの中学生時代)
今回は本文だけで4万5千文字の巨大サイズになりました。 イリュージョンの数も多く、そちら方面に興味のない方には読み難いと思います。 一部のイリュージョンには見出しをつけましたので、適当に読み飛ばしてもらってもストーリーは追える、かな?
新キャラは主人公の畑本くんと、J大イリュージョン同好系現役の面々です。 畑本くんはイリュージョン好きでネットで情報収集するタイプ。 SNSや動画サイトはもちろん、無料で見られるなら英文のイリュージョンブック(イリュージョンを演じるための説明本)まで探して読む、まあ私や皆様^^と仲間です(笑。 そんな彼も功くんが作る 変態的 マニアックなイリュージョンを初めて知って 道を誤る 新たな道を選ぶことになりました。 畑本くんの設定を考えていたら、偶然れいらちゃんも同学年。となれば若いモン同士でいい雰囲気になってしま��のはもうお約束ですよね!
同好会メンバーでは知里会長が可愛らしいM女になってくれました。下級生にもバレバレなのに本人は隠そうとしているところが私の好みです。 琳琳ちゃんもM性たっぷりですがまだ1年生。彼女には男性メンバーの誰かをボーイフレンドにしたいと思っていましたが描けませんでした。
それでは登場したイリュージョンを順に振り返ります。 作者オリジナルのイリュージョンがいくつかありますが、どれも実現性を考えたガチです。今回ファンタジーのイリュージョンはありません。 ネタバレ/タネ明かしがあるので、本文未読の方は先にそちらをお読みになることを強くお勧めします。
1) ブルームサスペンション人形 仁衣那さんの部屋にある人形を畑本くんが見つけたことからお話が始まります。 私も欲しくなって簡単なペーパークラフトを作ってみました。やじろべえ構造にしたので本当に揺れます。 (実物のブルームサスはこんな揺れ方はしません) 使ったのは手持ちの古ハガキ、プラ板、ナット。台座は 100 均で見つけた「ミニ王冠と杖」です。 製作期間1日以内のお手軽作品です。 参考までに 裏面はこんな感じ です。
2) イリュージョン同好会公演オープニング 一人掛けの椅子と巨大造花からそれぞれ美女が出現します。どちらも現実にあるイリュージョンです。 特に美女が出現する椅子(チェア・アピアランス)は最近よく見かけるイリュージョンで Amazon でも買えてしまったりします(笑。
3) マジカルマミーの人体交換 巨大な布を人間にぐるぐる巻いて、再び解くと別の人間が出てきます。 たぶん昔からあるイリュージョンです。 私は同じ布の左右で2回巻くアレンジをしてみましたが、すでにどこかで演じられているかもしれません。
4) 逆さヒンズーバスケット 美女が入ったまま上下を逆にできるオリジナルのヒンズーバスケットです。 『多華乃の彼氏2』でイリュージョン同好会初代会長の功くんが出来合のヒンズーバスケットを魔改造しました。 あまりに丈夫で壊れないので、7年経った今も使われ続けている設定です。 本話では発泡スチロールのボールを流し込むバリエーションをやりました。
5) 手首ギロチンと切断手首 首が落ちるギロチンイリュージョンはよく見かけるので手首でやってみました。 落ちた手首をガラス箱の中に収めること、その手首が動くこと、それをカメラで接写して観客のスマホに中継するのはオリジナルです。 実は倉橋由美子さんの『怪奇掌篇』に含まれる『カニバリスト夫妻』のエンディングにインスパイアされたのがこの手首です。 『カニバリスト夫妻』で女性の手首はアクリルキューブに入っていましたが、ここではガラス箱に変更。 切断面を覆う白いレースが洒落ていたので真似させていただきました。
6) ドラム缶脱出 千円で買った中古の 400 リットルドラム缶を改造して作ったオリジナルイリュージョンです。後述の水中脱出にも使用する前提で改造されています。 隠し扉の追加などでドラム缶本体よりはるかにお金がかかっていると思います。
7) 軽自動車ダンボールの人体交換 イリュージョンというよりイタズラです。 助手席に座る人物一人を騙すためにばかばかしい手間をかけています。こういう遊びが大好きなんですよね。 (言わずもがなですが、本当にやったら乗車積載方法違反になりますよー^^) 想定車種はズズ○のエ○リイ。床面フラットの軽バンというだけで、車に詳しい方ならお判りかも。 図面をダウンロードして調べましたが、エ○リイの収容力はすごいですね。床面から 500mm の二重床の下に(女性を詰めた)490×730×630mm のダンボール箱を3個収納できます。 功くんがわざわざ選んで買って多華乃さんに呆れられるのも分かりますね(笑。
8) ドラム缶水中脱出 功くんこだわりのイリュージョンです。 「女の子に楽させない。わざと苦しい思いをさせる。それを観客の見えないところでする」(知里さん談)を実現するため無茶をやってます。 ドラム缶内の水面が下がることでアシスタントが呼吸可能になる構造です。呼吸管はあえて設けません。 水面が下がる速度はできるだけ遅く、時間をかけて・・(笑。 詳細の構造/効果については作中で功くんが長々と語っていますので、そちらを参照して下さい。
今回このイリュージョンの検討ではいろいろ楽しい計算をしました。水圧、水栓の直径毎の通水時間と水深変化、限られた空気での限度時間、etc. こういうとき ChatGPT は便利ですね。 「XX 立方メートルの密室(換気なし)に成人女性N名を閉じ込めた場合、酸素濃度と二酸化炭素濃度の変化を計算し、時間毎の健康影響を示せ」なんて指示にも「お前何するつもりやねん」と疑わず親切に答えてくれますから^^。
9) チェア・アピアランスのバックステージ 美女が出現する椅子(チェア・アピアランス)について、単純な出現/消失に留まらない使い方ができるはずという話題を X(Twitter)でしたことがありまして、本話でそれをやってみました。 バックステージとは、観客に向けて演じるイリュージョンを後ろ(観客の反対側)から眺めさせる、という手法のイリュージョンです。途中まで仕掛けを見せて「なるほど」と思わせておき、最後は「あれ?」と驚かすのがお約束。 自分では面白いプランができたと思っていましたが、「椅子の中に女性が隠れている」ことを暗黙のうちに分かっているから成立するバックステージだと執筆中に気付きました。 功くんに「面白いけど未来に行き過ぎている」と講評させたのはこの理由です。 椅子を使わなくても、キャスター付の箱やスーツケースで(一定の大きさがあれば)近いことができるでしょうね。 あと、功くんが違うイリュージョンのことをいろいろ言ってますが、ネタで言ってるだけですから突っ込まないで下さいね。
10) ロープイリュージョン 主人公の畑本くんが一人でできるネタとして選びました。 ストーリー上は重要なイベントですが、イリュージョン自体は特に珍しくありません。 仕掛けにクリップを使ったのはオリジナルです。 ちなみにロープを使うイリュージョンとしては「ジプシーロープ」が有名ですが、まったく別のものです。
イラストは今回すべて(ペーパークラフト原図も)AI出力です。 自分の過去絵を i2i して時短しました。
さて、J大イリュージョン同好会やOBの功くん多華乃さん、れいらちゃんや梢ちゃん、(本話では未登場ですが)三田先生の造形美術教室 が登場する一連のシリーズをこの先どうしようか思案中です。 新しいお話のたびにキャラを追加して過去の登場人物と絡ませるのは楽しいです。キャラの成長や人生の変化(結婚・出産など)を描けるのもよいですね。 しかしお話の数がずいぶん増えてしまいました。毎回イリュージョンと緊縛の似たような内容になるのも避けられません。 ゆっくり考えて結論は X(Twitter)で報告することにします。
それではまた。 長文お読みいただきありがとうございました。
[Pixiv ページご案内] こちら(Pixiv の小説ページ)に本話の掲載案内を載せました。 Twitter 以外にここからもコメント入力できますのでご利用ください。(ただしR18閲覧可能な Pixiv アカウント必要)
0 notes
onishihitsuji84 · 1 year ago
Text
バズカット・シーズン
 二月。町に雨が降る。  雨はしげしげと降る。無表情の女神ペルセポネが水がめをじっと傾けているかのように降る。つまり、雨はアリ・スミス的には降らなかった。雨はルイーズ・グリュック的に降り注いだのだ。石灰色の曇天がきのこのかさのようにのっそりとわたしたちを包み込む。  雨、寒さ、ペルセポネ。  全てが何かを隠喩している。
 一昨日、田中慎弥の『共喰い』を読む。  読んで、僕は声も上げられない。あまりにも文が上手くて。  田中慎弥のする言葉はフードを深くかぶっていた。言葉はそれと気づく間もなく素早く僕の背中を取り、僕の首を締め上げた。その手つきはきわめて俊敏で、僕は声も上げられない。  数瞬、中空でじたばたともがいたあとに、僕は昏り込む。暗殺者は去り、花壇の陰に無味な死体が横たわる。
 二月、僕と会のメンバーはそんな田中慎弥の小説について話す。  もちろん、全員悉く締め上げられていて、あれこれと話す喉にはあざが残っている。各々が彼の悪口をさかんにつくり出したりもしたものの、その首にはチョーカーみたいに青黒いしるしがくっきりと残っている。
 そして、暗殺者はどこへ消えたのか?
***
 僕は雨の町をいった。  アイボリーの傘をふりまわし、鉛色の電柱をよける、女子大生とすれ違う。  車がそばを通り過ぎ、水たまりたちがざわめく。  雨の町を一歩歩くたび新しいスニーカーに泥が跳ねて、「新しい」はすこしずつすこしずつ嘘の言葉になっていく。  雨脚が強くなる。息が激しくなる。マスクがずれる。右手は使えない。傘をさしているときは、何をするのも難しい。
 僕は市役所を訪ねる。ぶ厚いビニール・シートの敷かれたカウンターで住所・電話番号を記入していく。ビニール・シートは書き損じた無数の線、たくさんの落書きでにぎやかだ。
 そして僕は用紙を提出する。僕が書いたものを出す。  窓口のおじさんが僕の用紙を順にチェックしている数分、僕はすごく緊張している。胸がどきどきとして痛みさえする。こんな気もちは久しぶりだった。「22番」。僕はおじさんに「22番」を渡される。
「待っててね」
 チェックの後、おじさんは微笑んで、とても切なげにそう言う。僕はありがとうを言って窓口から離れ、並んだグレーのパイプ椅子のひとつに男の体をねじ込む。
 それから「22番」と呼ばれるまでの二時間、僕は何を読む見るもしない。市役所の行き届いた照明と鳴り続けるベルの中で、お母さんのいない子どもみたく「22番」をぎゅっと握ってしずかにしていた。
***
 イヤホンの中ではロードが「バズカット・シーズン」を何度も歌う。
「爆発(エクスプロージョン)、テレビ、あなたの頭に火がうつる……このシーンは幼いころに何度か見てた。初めてなのに、感じたことはそんなふう」
 この翻訳はぜんぜん嘘だけど、とにかくロードは「バズカット・シーズン」を何度も歌った。
"I remember when your head caught flame It kissed your scalp and caressed your brain (I remember when your head caught flame) Well, you laughed, baby, it's okay It's buzzcut season anyway (Well, you laughed, baby, it's okay)" Lorde - Buzzcut Season
youtube
 つちのこみたいな時計の短針がまた進む。市役所のパイプ椅子に囚われて一時間、僕の思考は美容院に漂っている。  とりとめもなく。
 高校以来はじめてで美容院に行きたいと最近思っている。泥に白いスニーカーを見ていたさっきも、ほんとは美容院のことばっかり考えてたんだよね。
 美容院に行って、僕は「フォーマル」にと言う。
「とにかく短く。時計でいうと短針。木でいうと灌木。2月は何度かきちんとした場に出てくんです。さっぱりしたのでお願いします」
 鏡の中で黄/黒のぎざぎざヘアをしたお兄さんは、ハサミ片手にこくりとうなずく。
「それと、僕は、じつは作家なんです。小説を書いてます。小説を書いてる、そういうところもきちんと表現されるようにカットしてください」
 お兄さんはまた黙ったままでこくりとだけうなずく。  そして、僕もお兄さんもそこで停止してしまう。どちらも���けず/話せず。たちまち沈黙が流れる。  そして沈黙は一粒で何もかもを台無しにしてしまう。沈黙はそれぞれのバケツの水だった僕とお兄さんをいっぺんに駄目にしてしまう。包んでた薄いビニール袋が破けて、沈黙が墨汁みたいにどんどん流れてく。どんどん、どんどん。美容院が、雨の町が、学校の机が、特別な視覚芸術みたいにべったりと、黒と呼ぶしかない色に染まってゆく。永遠の処女ペルセポネは花を摘もうと手を伸ばす。  瞬間、大地は裂け、ハデスが暗黒の冥界へ乙女を連れ去る。
 チョキリ。  そんな想像の瞬間、お兄さんが銀のハサミを何もない空中で「チョキリ」とやる。すると、たちまち沈黙は消え去る。 「ほんとは何でもなかったんですよ」みたいにカットがはじまる。店内のBGMが途中から急にはっきりと聞こえはじめる。他の客、スタッフが日常を生きる声が聞こえる。 「最初から永遠の処女なんていなかったんですよ」
「プール・サイドにいるときがいちばん心やすらぐわ。いまでは坊主頭(バズカット)はあなただけじゃない。  世界のあらゆることがどんどん、どんどんつめたくなって、あなたのいちばんの友達であるわたしにも、バズカットの季節がやってきたの」
「でもこういう友情も、きっといま限りで、ちょっとしたらあのとき切ったのばかみたいって、そんなふうにさえ思うんでしょうね。  ほら。私の髪だけこうしてどんどん生えてくる。  いまここにある時間はぜんぶ、黒い穴に流れ込んでしまう」
 僕の髪が切り落とされて、ペルセポネの花のように散っていく。  鏡の中の髪をまえに、そんな偽物の歌詞はうたかたのように生まれる。消える。
1 note · View note
team-ginga · 2 years ago
Text
映画『カンバセーション……盗聴』
 U-Nextでフランシス・フォード・コッポラ監督の映画『カンバセーション……盗聴』(1974)を見ました。カンヌ映画祭でグランプリをとった映画です。
 私はコッポラはそれほど好きではありませんし、『ゴッドファーザー』1〜3も『地獄の黙示録』も人が言うほどいい映画だとは思っていません。
 でも、『カンバセーション』はコッポラが本当に撮りたかった作品で、コッポラ自身これが自分の代表作だと言っているようなので、それならと見てみました。
 主人公の盗聴屋ハリー(ジーン・ハックマン)はレコードに合わせてサックスを吹くことだけが楽しみな孤独な男です。付き合っている女性もいるようですが、女性が彼の身元を詮索するようなことを言うので別れてしまいます。
 ハリーはある男女の会話を盗聴したテープを依頼主のところへ持っていきます。ところが依頼したはずの専務(と字幕に出ていますが、社長じゃないのかな)はおらず、その秘書(演じるは『スター・ウォーズ』で有名になる前のハリソン・フォード)が出てきたので、テープを渡さず帰ります。
 帰り際、ハリーは彼が盗聴した男女を社内で見かけます。依頼主は自分の会社の社員の盗聴をハリーに依頼したわけです。
 「黙ってテープを渡さないとどうなっても知らないぞ」と脅されたハリーは、もう一度テープを細かく聞き返します。するとたわいもないカップルの会話の中に「僕らは殺されるかもしれない」という言葉が聞こえます。
 翌日(なのかな)ハリーは盗聴用品の見本市(そんなものがあるのですね)のようなところへ行き、女性も交えて同業者数人とハリーのオフィスで飲むことになります。その中でハリーについての情報がいくつか明らかになります。
 一つはハリーが新聞にガールフレンド募集の広告を出していたこと。映画の序盤に出てくる女性はそうやって知り合った女性だということですね。
 もう一つはハリーは以前、盗聴によって大きな横領事件を暴いたことがあり、その際横領に加担した会計係とその妻とその子どもが殺害されたことです。
 この経験があるので、ハリーは今回も自分が盗聴したせいで若いカップルが殺されるのではないかと心配しているわけです。
 オフィスでハリーと一緒に飲んでいた女性がハリーのことを気に入ったと見えて、さかんにハリーに話しかけてきます。他の仲間が帰っても彼女は帰らず、ハリーはその女性と一夜をともにします。
 翌朝目を覚ますと、盗聴のテープがなくなっています。前夜の女が持ち去ったのです。
 すぐに専務の秘書から電話がかかってきます。秘書はテープはこちらが回収した、カップルの写真だけ持っていついつどこどこに来いと言います。
 指定された場所に行くと専務と秘書がいます。専務の机の上にはハリーが盗聴したカップルの女性の写真がおいてあります。どうやら専務の若い妻か娘のようです。
 ハリーは金を受け取って帰りますが、カップルのことが気になって仕方ありません。カップルは会話の中で「日曜午後3時」、「⚪︎⚪︎ホテル××号室」と言っていたので、ハリーは実際その日その時間にホテルに行き、カップルの部屋の隣に部屋をとります。
[この辺りからネタバレになります。未見の方はご注意を]
 ハリーは浴室の壁に穴を開けてカップルの部屋の中を盗聴します。「マリアは私の妻だ」、「愛してる」というような言葉が聞こえてきます。
 ハリーはカップルの女が殺されることを想像して怖くなったのでしょうか、盗聴をやめてテレビをつけベッドに入ります。
 深夜(なのだろうと思います)目を覚ましたハリーはカップルの部屋へ行き、ピッキングで鍵を開けて中に入ります。部屋には誰もおらず、ベッドもトイレも全く使われた様子がありません。ただ、浴槽からは水が垂れる音が聞こえます。ハリーは思い切ってシャワーカーテンを開けますが、そこには誰もいません。
 ここからがちょっと複雑です。画面は再びハリーがピッキングをして部屋に入るところに戻ります。ハリーは浴室に行きますが、誰もいません。彼はトイレの水を流します。すると血のように赤いものが溢れ出してきます。
 どちらが現実でどちらが幻想なのでしょう。普通に考えれば最初が現実で、次が幻想と言いたくなりますが、ひょっとするとどちらも幻想なのかもしれません。
 翌朝、ハリーは専務の会社に行きます。しかし、秘書に「専務は不在です」と言われて追い返されてしまいます。
 会社から出ると豪華な自動車(リンカーン?)が停まっています。その中にはカップルの女性が乗っています。
 次の場面では新聞が映ります。見出しには「〇〇社専務、交通事故死」と書いてあります。
 へえ……
 現実か幻想かはわかりませんが、ハリーの頭に幾つかの映像が浮かびます。ホテルの部屋でカップルが共謀して専務を殺している映像です。
 次に映るのはカップルの女性が会社の入り口付近でマスコミの取材を受けているところです。記者たちは次の社長が誰になるかインタビューしますが、女性は答えません。
 なるほど……ハリーは専務が妻とその愛人を殺そうとしていると思っていたけれど、実際には妻と愛人が専務を殺そうとしていたということですね。こんなふうに構図が一変するのは快感です。
 ハリーは家に帰ってレコードに合わせてサックスを吹きます。しばらくすると電話がかかってきます。専務の秘書からです。秘書は「この件に深入りするな」と警告し、「お前の部屋は盗聴されている」と言ってハリーがサックスを吹いているテープを電話口で流します。
 ハリーは必死になって盗聴器を探し、電話や電灯を分解し、挙げ句の果てには部屋の壁や床まで剥がしますが、それらしいものは見つかりません。
 廃屋のようになった部屋でハリーがひとりサックスを吹く場面が映ってオシマイ。
 なかなかいい映画ですね。
 ハリーがテープを何度も聞き直し、なんの変哲もないカップルの会話に犯罪に繋がる何かを見つけようとしているところから、私はミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』を連想しましたが、『欲望』の影響を受けていることはコッポラ自身が認めているようです。
 ただ『欲望』では主人公の写真家が自分の撮った写真の隅に死体が映っているのを見つけるわけですが、その死体は写真家だけに見えるもので、いくら拡大しても観客の目には見えません。だから、何が起きたのかは全くわからないままで、ひょっとすると全ては写真家の妄想なのではないかとさえ思えます。
 しかし、『カンバセーション……盗聴』では実際に事件が起こります(最後の部分がハリーの妄想でないとすればの話ですが)し、推理小説的などんでん返しもあります(ホテルで殺したのをどうやって交通事故に見せかけるんだという疑問もありますが、まあそれは問わないでおきましょう)。こちらの方が親切と言えば親切、わかりやすいと言えばわかりやすいわけですが、それだけ「通俗的」と言う人もいるかもしれません。
 まあでも『欲望』は「高尚」すぎて私にはわからないので、多少「通俗化」するくらいがちょうどいいのかもしれません。
 要は真実は常に我々の手の届かないところにある、我々は断片的な材料から真実を想像するしかないが、その想像が当たっているかどうかはわからないということですね。
 なるほど。なるほど……
 確かに『ゴッドファーザー』や『地獄の黙示録』よりははるかにいい映画というべきでしょう。
0 notes
bbcat27 · 2 years ago
Text
事情聴取と悲報
死神という組織は死んだ人の魂を集める回収車の真似事だ。 生きてる人間でも生霊として集めることは稀にあるが今回は大忙しだ。 「洞窟の国エリアにて100人規模の魂が発生!回収班の増援を頼む!」 「死体の処理と清掃組もだ!」 慌ただしく指示出しするのは魔王⋯キルスメラだ。 役職で言えば魔王、死神、は部長や係長だ。 「まさかこんな大虐殺事件になるとは」 「警察や軍も動きますのでピエロの調査とかは向こうに任せました」 「引渡しご苦労さん!すまんな!ダブルブッキングして更に事件まで⋯」 「確保するより自首をしたので怪しいですがね」 大量の書類書を見つめてため息を吐いた。 「小学生による殺人とその兄たちの大量虐殺事件が連日⋯これがもし無実で別の犯人がいたらやり直しですよ」 「いや、最初の事件は間違いなく彼女がした」 戻ってきた侍がファイルを持ち出してきた。 「⋯アンドロイド計画」 「キルスメラ博士の作成した計画を現代の学者たちが再現したんだ」 「いやん、わての遺産が発端?」 可愛こぶる三十路インテリ眼鏡に鳥肌がやばいからやめて頂きたい。 「いえ、これを悪用しようとする人間がいたんですよ元々」 子供の軍事用兵器実験、なぞられた文章に洞窟の国で採用と書かれている。 「つまり、改造された異常な頭脳から子供の見た目でシリアルキラーとして人を殺したと?」 「そやで」 今の話をまとめて侍は双子に事情聴取すると死神を連れて警察署に向かった。 「代表の方、1名のみの面会になります」 警察官に言われて振り返れば鉄の扉が開かれた。 「私でいいのですか」 侍は頷き死神から視線を逸らした。 「生憎そうなる」 こちらを一瞥するのは優しさなのか気まぐれか苦しそうな顔。 死神は少し小馬鹿にしたような笑顔になったが気を引き締めて犯人のいる監獄に踏み入れた。 深夜3時、双子の片割れが愛想の良い笑顔で出迎えた。 「弟じゃなくてすまないね」 「いえ、こんな夜更けにすみません」 「⋯で、殺人者の俺に聞きたいことって?」 「ミサコが母親を殺したの本当かどうか確認したいのです」 ガンッ! 机を強く叩いた音が響いた。 温厚そうな双子の兄が人が変わったようにこちらを睨みつける。 「あの子は人を殺してない」 「⋯じゃあ誰が彼女を殺したの?」 「分からないよ」 「いいえ、アナタは知ってるはずです」 照明がチカチカと点灯と消灯を繰り返す。 目の前で起きてる質疑にシーソーゲームが傾く。 「何なんだ君は、俺はサーカスで大虐殺したがそんなことは知らない全部俺一人でやったんだって言うために出てきたんだよ」 「⋯弟さんは関与してないのですか」 「あいつは人を殺してない優しい子だ。全部俺がやった」 「嘘だ、貴方は嘘をついてる」 死神は呆れて溜息を吐いた。 「だって私見ましたよ。貴方たちが言ったことを。この目と耳で落とさずに拾った」 僕たちがって。ちゃんとあの壇上で言ったじゃないですか弟さんは。
0 notes
kinemekoudon · 3 years ago
Text
【5話】 大麻を所持していたのにガサで見つからなかったときのレポ 【大麻取り締まられレポ】
Tumblr media
警官が4人、玄関の前に立っている。恰幅のいいオラついた警官が「大麻取締法違反の容疑で、裁判所から捜索差押えの許可が出てるから。おら、動くな」などと言って、ガサ状を見せつけてくる。
僕はガサ状を突きつけられ、(仕事はクビになるだろうし、彼女にはフラれるだろうし、薬物は使えなくなるだろうし……)などと、一瞬のうちに様々な懸念が脳裏をよぎっていた。
僕はあからさまに狼狽していたが、途中から、狼狽している様を見られるのは不利だと思って、平静を装うことにした。しかし平静を装ってみせても、家の中にある大麻やLSDが見つかるかもしれない不安で、異常なほど動悸がしていた。
(まず龍角散のど飴の袋の中にLSDがあるでしょ。それから、机の上に大麻バターがコーティングされたポップコーン…。あと、少しだけ残ってる大麻リキッドが床に転がってて、バッズはこの前吸いきったけど、おそらく床にカスが散らばってるな……)
僕は一旦落ち着いて、家の中にある“違法ドラッグの在り処”を思い出すと、所持している違法ドラッグがバレないように(なんとしても白を切ってやろう)と腹を決めた。
Tumblr media
そうして、ついにガサがはじまった。4人の警官が、床に置きっぱなしの本や服を片っ端から拾い上げたり、冷蔵庫の中や押入れの中のものを引っ張り出したりして、家中を隈なく探している。
最初は、スマホを押収された。スマホの中には、証拠という証拠を残していないつもりだったが、値段だけ聞いたプッシャーとのやり取りがWickrに残っているのを思い出し、少し動揺した。
ちなみに、通信機器としてはPCやタブレットも持っていたが、オラついた警官が「これは押収しないでおいてやる」などと偉そうに言っていたので無事であった。
それから、手巻き煙草用のフィルター、巻紙が押収された。僕が「押収された物は、問題なければ返してもらえますよね?」と聞くと、オラついた警官に「大麻を吸うときに使ったものが返ってくるわけないだろう」などと理不尽なことを言われた。
Tumblr media
巻紙はともかく、大麻を吸うときに煙草のフィルターを使ったことはないし、一般的にも煙草のフィルターが使われることは滅多にないので、心中でこれは不当な押収だと腹を立てていた。
続いて、机の上に放っていたモンキーパイプが押収される。モンキーパイプは任意同行の後に捨てたのだが、パイプくらいはいいだろうとタカをくくって再度購入していたのであった。
このパイプ自体に、大麻のカスが残っているということはなかったが、パイプの中にこびりついている焦げ付いた大麻を鑑定されたらマズいのではないかと勘ぐっていた。
そうこうしていると、女の警官が、LSDの入った龍角散の袋を外側からいじっていた。僕はなるべく龍角散を直視しないように気をつけながら、固唾をのんで見守っていた。
Tumblr media
すると女の警官は、外側を触って硬いものしか入っていないことだけ確認し、単純に“大麻は”入っていないと判断したのか、あっさりとそのまま元の場所に置いていた。
LSDがバレずに済み、僕がひとまず安堵していると、今度はオラついた警官が床に落ちている大麻のカスを見つめていた。大麻のカスは目視で0.2gほどあり、証拠品としては充分な量があった。
ただ、大麻のカスは煙草のシャグとともに床に散らばっていたからか、オラついた警官は「汚えなあ。ちゃんと掃除しろよ?」などと余計なおせっかいを言うだけで、大麻があることには気づいていない様子だった。
僕はヘラヘラしながら「すいません…ずぼらなもんで」とか言って後頭部を掻いていたが、心中では警官のザルすぎる捜索をニタニタとせせら笑っていた。
しかし油断して顔をニタつかせていると、オラついた警官は、床に転がっている大麻リキッドを拾って「これは何に使うの?」などと聞いてきたので、僕は再び動悸が激しくなった。
僕は大麻リキッドについて聞かれた時のために、一応セリフを用意していたので、できるだけ自然体を装って「あーそれは煙草のリキッドです。ニコチンが入ってます」などと無理を承知でウソをついてみた。
すると、オラついた警官は「今どきはそういうのもあるのか」などとあっさり納得して、そのまま床に置いていた。
Tumblr media
一応、“警察はガサ入れでどこまで差し押さえできるのか”について書いておきます(飛ばしていいやつ)。
警官が家宅捜索をする際には、原則としてガサ状が必要なのですが、このガサ状に“差押えるべきもの”として記載されていない物を差し押さえた場合、違法な捜索となる可能性があります。つまり今回のケースでは、大麻取締法違反の容疑に関する物しか差押えすることができなかったので、ニコチンリキッドと主張している物を差押えることは難しかったのです(そもそもTHCリキッドを知らなかったんでしょうけど)。
僕はあまりに上手く隠し通せていることに逆に不安になってきたが、オラついた警官が悔しそうに「ないなあ…」とつぶやいていたので、必死に探してこのザマであると確信し、胸をなでおろした。
すると、若い警官がオラついた警官にアピールするように、「ここの机ってまだ調べてないですよね? 調べます!」などと言って、大麻ポップコーンが置いてある机の上のものを、テキパキと確認しだした。
しかし、若い警官は動作がテキパキとしているだけで、肝心の大麻ポップコーンには目もくれていなかった。おそらく、エディブルという存在そのものを知らなかったのだと思う。
そうして、無事捜索が終わると、女の警官が「これから留置場に移送されるけど、留置場で使える現金とか、留置場で読みたい本とか、服も持っていけるからね」などと優しい口調で教えてきた。
僕は(大麻が見つからなくても、やっぱり逮捕はされるのか…)などと、いざ逮捕されることがわかると絶望感がすごかった。
Tumblr media
僕は落胆しながらも、女の警官の助言通りに、衣服や本を見繕って、持っていたリュックが満杯になるまで詰め込んだ。衣服は、Tシャツとパンツを5枚程度とステテコ、本は当時ハマっていた村上龍の小説と、『催眠術のかけ方』上・中・下巻の3冊を選び、リュックに詰めた。
それから、女の警官に「処方されている薬はあるか」と尋ねられた。当時は、病院から処方されている薬はなかったのだが、僕は根っからの不眠症なので「睡眠薬を処方されています」と嘘をついておいた。
というのも、当時は大麻のおかげで眠れていたので、大麻がない環境、ましてや留置場の中ではなかなか眠ることができないだろうと咄嗟に判断したからである。
そうして、一通り事務的な問答が終わると、オラついた警官は「大麻成分を含有する植物片13.8gを吉岡さんと小林さん(プッシャーの本名)と共謀の上、みだりに所持した容疑で……」などと逮捕状の音読を始めた。
オラついた警官は逮捕状の音読を終えると、「両腕を前に出せ。そう」などと居丈高に言い、「逮捕時刻午前10時13分」などと言って、僕に手錠をかけた。手錠をかけられると、逮捕されたという実感がありありと湧いてくるので、手錠の効力を思い知らされる。
Tumblr media
続けて、若い警官が手錠の繋ぎ目の輪の中に縄を通し、その縄を僕の腰に巻き付けると、犬を散歩させるリードのようにして、縄の先をしっかりと握った。
そうして、僕はそのリュックとともに警官に連行され、アパートの前に横付けされたパトカーに乗り込むのであった。
つづく
この物語はフィクションです。また、あらゆる薬物犯罪の防止・軽減を目的としています( ΦωΦ )
42 notes · View notes
skf14 · 5 years ago
Text
11180143
愛読者が、死んだ。
いや、本当に死んだのかどうかは分からない。が、死んだ、と思うしか、ないのだろう。
そもそも私が小説で脚光を浴びたきっかけは、ある男のルポルタージュを書いたからだった。数多の取材を全て断っていた彼は、なぜか私にだけは心を開いて、全てを話してくれた。だからこそ書けた、そして注目された。
彼は、モラルの欠落した人間だった。善と悪を、その概念から全て捨て去ってしまっていた。人が良いと思うことも、不快に思うことも、彼は理解が出来ず、ただ彼の中のルールを元に生きている、パーソナリティ障害の一種だろうと私は初めて彼に会った時に直感した。
彼は、胸に大きな穴を抱えて、生きていた。無論、それは本当に穴が空いていたわけではないが、彼にとっては本当に穴が空いていて、穴の向こうから人が行き交う景色が見え、空虚、虚無を抱いて生きていた。不思議だ。幻覚、にしては突拍子が無さすぎる。幼い頃にスコンと空いたその穴は成長するごとに広がっていき、穴を埋める為、彼は試行し、画策した。
私が初めて彼に会ったのは、まだ裁判が始まる前のことだった。弁護士すらも遠ざけている、という彼に、私はただ、簡単な挨拶と自己紹介と、そして、「理解しない人間に理解させるため、言葉を紡ぎませんか。」と書き添えて、名刺と共に送付した。
その頃の私は書き殴った小説未満をコンテストに送り付けては、音沙汰のない携帯を握り締め、虚無感溢れる日々をなんとか食い繋いでいた。いわゆる底辺、だ。夢もなく、希望もなく、ただ、人並みの能がこれしかない、と、藁よりも脆い小説に、私は縋っていた。
そんな追い込まれた状況で手を伸ばした先が、極刑は免れないだろう男だったのは、今考えてもなぜなのか、よくわからない。ただ、他の囚人に興味があったわけでもなく、ルポルタージュが書きたかったわけでもなく、ただ、話したい。そう思った。
夏の暑い日のことだった。私の家に届いた茶封筒の中には白無地の紙が一枚入っており、筆圧の無い薄い鉛筆の字で「8月24日に、お待ちしています。」と、ただ一文だけが書き記されていた。
こちらから申し込むのに囚人側から日付を指定してくるなんて、風変わりな男だ。と、私は概要程度しか知らない彼の事件について、一通り知っておこうとパソコンを開いた。
『事件の被疑者、高山一途の家は貧しく、母親は風俗で日銭を稼ぎ、父親は勤めていた会社でトラブルを起こしクビになってからずっと、家で酒を飲んでは暴れる日々だった。怒鳴り声、金切声、過去に高山一家の近所に住んでいた住人は、幾度となく喧嘩の声を聞いていたという。高山は友人のない青春時代を送り、高校を卒業し就職した会社でも活躍することは出来ず、社会から孤立しその精神を捻じ曲げていった。高山は己の不出来を己以外の全てのせいだと責任転嫁し、世間を憎み、全てを恨み、そして凶行に至った。
被害者Aは20xx年8月24日午後11時過ぎ、高山の自宅において後頭部をバールで殴打され殺害。その後、高山により身体をバラバラに解体された後ミンチ状に叩き潰された。発見された段階では、人間だったものとは到底思えず修復不可能なほどだったという。
きっかけは近隣住民からの異臭がするという通報だった。高山は殺害から2週間後、Aさんだった腐肉と室内で戯れてい��所を発見、逮捕に至る。現場はひどい有り様で、近隣住民の中には体調を崩し救急搬送される者もいた。身体に、腐肉とそこから滲み出る汁を塗りたくっていた高山は抵抗することもなく素直に同行し、Aさん殺害及び死体損壊等の罪を認めた。初公判は※月※日予定。』
いくつも情報を拾っていく中で、私は唐突に、彼の名前の意味について気が付き、二の腕にぞわりと鳥肌が立った。
一途。イット。それ。
あぁ、彼は、ずっと忌み嫌われ、居場所もなくただ産み落とされたという理由で必死に生きてきたんだと、何も知らない私ですら胸が締め付けられる思いがした。私は頭に入れた情報から憶測を全て消し、残った彼の人生のカケラを持って、刑務所へと赴いた。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
「失礼します。」
「どうぞ。」
手錠と腰縄を付けて出てきた青年は、私と大して歳の変わらない、人畜無害、悪く言えば何の印象にも残らない、黒髪と、黒曜石のような真っ黒な瞳の持ち主だった。奥深い、どこまでも底のない瞳をつい値踏みするように見てしまって、慌てて促されるままパイプ椅子へと腰掛けた。彼は開口一番、私の書いている小説のことを聞いた。
「何か一つ、話してくれませんか。」
「え、あ、はい、どんな話がお好きですか。」
「貴方が一番好きな話を。」
「分かりました。では、...世界から言葉が消えたなら。」
私の一番気に入っている話、それは、10万字話すと死んでしまう奇病にかかった、愛し合う二人の話。彼は朗読などしたこともない、世に出てすらいない私の拙い小説を、目を細めて静かに聞いていた。最後まで一度も口を挟むことなく聞いているから、読み上げる私も自然と力が入ってしまう。読み終え、余韻と共に顔を上げると、彼はほろほろ、と、目から雫を溢していた。人が泣く姿を、こんなにまじまじと見たのは初めてだった。
「だ、大丈夫ですか、」
「えぇ。ありがとうございます。」
「あの、すみません、どうして私と、会っていただけることになったんでしょうか。」
ふるふる、と���のように首を振った彼はにこり、と機械的にはにかんで、机に手を置き私を見つめた。かしゃり、と決して軽くない鉄の音が、無機質な部屋に響く。
「僕に大してアクションを起こしてくる人達は皆、同情や好奇心、粗探しと金儲けの匂いがしました。送られてくる手紙は全て下手に出ているようで、僕を品定めするように舐め回してくる文章ばかり。」
「...それは、お察しします。」
「でも、貴方の手紙には、「理解しない人間に理解させるため、言葉を紡ぎませんか。」と書かれていた。面白いな、って思いませんか。」
「何故?」
「だって、貴方、「理解させる」って、僕と同じ目線に立って、物を言ってるでしょう。」
「.........意識、していませんでした。私はただ、憶測が嫌いで、貴方のことを理解したいと、そう思っただけです。」
「また、来てくれますか。」
「勿論。貴方のことを、少しずつでいいので、教えてくれますか。」
「一つ、条件があります。」
「何でしょう。」
「もし本にするなら、僕の言葉じゃなく、貴方の言葉で書いて欲しい。」
そして私は、彼の元へ通うことになった。話を聞けば聞くほど、彼の気持ちが痛いほど分かって、いや、分かっていたのかどうかは分からない。共鳴していただけかもしれない、同情心もあったかもしれない、でも私はただただあくる日も、そのあくる日も、私の言葉で彼を表し続けた。私の記した言葉を聞いて、楽しそうに微笑む彼は、私の言葉を最後まで一度も訂正しなかった。
「貴方はどう思う?僕の、したことについて。」
「...私なら、諦めてしまって、きっと得物を手に取って終わってしまうと思います。最後の最後まで、私が満たされることよりも、世間を気にしてしまう。不幸だと己を憐れんで、見えている答えからは目を背けて、後悔し続けて死ぬことは、きっと貴方の目から見れば不思議に映る、と思います。」
「理性的だけど、道徳的な答えではないね。普通はきっと、「己を満たす為に人を殺すのは躊躇う」って、そう答えるんじゃないかな。」
「でも、乾き続ける己のままで生きることは耐え難い苦痛だった時、己を満たす選択をしたことを、誰が責められるんでしょうか。」
「...貴方に、もう少し早く、出逢いたかった。」
ぽつり、零された言葉と、アクリル板越しに翳された掌。温度が重なることはない。触れ合って、痛みを分かち合うこともない。来園者の真似をする猿のように、彼の手に私の手を合わせて、ただ、じっとその目を見つめた。相変わらず何の感情もない目は、いつもより少しだけ暖かいような、そんな気がした。
彼も、私も、孤独だったのだと、その時初めて気が付いた。世間から隔離され、もしくは自ら距離を置き、人間が信じられず、理解不能な数億もの生き物に囲まれて秩序を保ちながら日々歩かされることに抗えず、翻弄され。きっと彼の胸に空いていた穴は、彼が被害者を殺害し、埋めようと必死に肉塊を塗りたくっていた穴は、彼以外の人間が、もしくは彼が、無意識のうちに彼から抉り取っていった、彼そのものだったのだろう。理解した瞬間止まらなくなった涙を、彼は拭えない。そうだった、最初に私の話で涙した彼の頬を撫でることだって、私には出来なかった。私と彼は、分かり合えたはずなのに、分かり合えない。私の言葉で作り上げた彼は、世間が言う狂人でも可哀想な子でもない、ただ一人の、人間だった。
その数日後、彼が獄中で首を吊ったという報道が流れた時、何となく、そうなるような気がしていて、それでも私は、彼が味わったような、胸に穴が開くような喪失感を抱いた。彼はただ、理解されたかっただけだ。理解のない人間の言葉が、行動が、彼の歩く道を少しずつ曲げていった。
私は書き溜めていた彼の全てを、一冊の本にした。本のタイトルは、「今日も、皮肉なほど空は青い。」。逮捕された彼が手錠をかけられた時、部屋のカーテンの隙間から空が見えた、と言っていた。ぴっちり閉じていたはずなのに、その時だけひらりと翻った暗赤色のカーテンの間から顔を覗かせた青は、目に刺さって痛いほど、青かった、と。
出版社は皆、猟奇的殺人犯のノンフィクションを出版したい、と食い付いた。帯に著名人の寒気がする言葉も書かれた。私の名前も大々的に張り出され、重版が決定し、至る所で賛否両論が巻き起こった。被害者の遺族は怒りを露わにし、会見で私と、彼に対しての呪詛をぶちまけた。
インタビュー、取材、関わってくる人間の全てを私は拒否して、来る日も来る日も、読者から届く手紙、メール、SNS上に散乱する、本の感想を読み漁り続けた。
そこに、私の望むものは何もなかった。
『あなたは犯罪者に対して同情を誘いたいんですか?』
私がいつ、どこに、彼を可哀想だと記したのだろう。
『犯罪者を擁護したいのですか?理解出来ません。彼は人を殺したんですよ。』
彼は許されるべきだとも、悪くない、とも私は書いていない。彼は素直に逮捕され、正式な処罰ではないが、命をもって罪へ対応した。これ以上、何をしろ、と言うのだろう。彼が跪き頭を地面に擦り付け、涙ながらに謝罪する所を見たかったのだろうか。
『とても面白かったです。狂人の世界が何となく理解出来ました。』
何をどう理解したら、この感想が浮かぶのだろう。そもそもこの人は、私の本を読んだのだろうか。
『作者はもしかしたら接していくうちに、高山を愛してしまったのではないか?贔屓目の文章は公平ではなく気持ちが悪い。』
『全てを人のせいにして自分が悪くないと喚く子供に殺された方が哀れでならない。』
『結局人殺しの自己正当化本。それに手を貸した筆者も同罪。裁かれろ。』
『ただただ不快。皆寂しかったり、一人になる瞬間はある。自分だけが苦しい、と言わんばかりの態度に腹が立つ。』
『いくら貰えるんだろうなぁ筆者。羨ましいぜ、人殺しのキチガイの本書いて金貰えるなんて。』
私は、とても愚かだったのだと気付かされた。
皆に理解させよう、などと宣って、彼を、私の言葉で形作ったこと。裏を返せば、その行為は、言葉を尽くせば理解される、と、人間に期待をしていたに他ならない。
私は、彼によって得たわずかな幸福よりも、その後に押し寄せてくる大きな悲しみ、不幸がどうしようもなく耐え難く、心底、己が哀れだった。
胸に穴が空いている、と言う幻覚を見続けた彼は、穴が塞がりそうになるたび、そしてまた無機質な空虚に戻るたび、こんな痛みを感じていたのだろうか。
私は毎日、感想を読み続けた。貰った手紙は、読んだものから燃やしていった。他者に理解される、ということが、どれほど難しいのかを、思い知った。言葉を紡ぐことが怖くなり、彼を理解した私ですら、疑わしく、かといって己と論争するほどの気力はなく、ただ、この世に私以外の、彼の理解者は現れず、唯一の彼の理解者はここにいても、もう彼の話に相槌を打つことは叶わず、陰鬱とする思考の暗闇の中を、堂々巡りしていた。
思考���持つ植物になりたい、と、ずっと思っていた。人間は考える葦である、という言葉が皮肉に聞こえるほど、私はただ、一人で、誰の脳にも引っ掛からず、狭間を生きていた。
孤独、などという言葉で表すのは烏滸がましいほど、私、彼が抱えるソレは哀しく、決して治らない不治の病のようなものだった。私は彼であり、彼は私だった。同じ境遇、というわけではない。赤の他人。彼には守るべき己の秩序があり、私にはそんな誇り高いものすらなく、能動的、怠惰に流されて生きていた。
彼は、目の前にいた人間の頭にバールを振り下ろす瞬間も、身体をミンチにする工程も、全て正気だった。ただ心の中に一つだけ、それをしなければ、生きているのが恐ろしい、今しなければずっと後悔し続ける、胸を掻きむしり大声を上げて暴れたくなるような焦燥感、漠然とした不安感、それらをごちゃ混ぜにした感情、抗えない欲求のようなものが湧き上がってきた、と話していた。上手く呼吸が出来なくなる感覚、と言われて、思わず己の胸を抑えた記憶が懐かしい。
出版から3ヶ月、私は感想を読むのをやめた。人間がもっと憎らしく、恐ろしく、嫌いになった。彼が褒めてくれた、利己的な幸せの話を追い求めよう。そう決めた。私の秩序は、小説を書き続けること。嗚呼と叫ぶ声を、流れた血を、光のない部屋を、全てを飲み込む黒を文字に乗せて、上手く呼吸すること。
出版社は、どこも私の名前を見た瞬間、原稿を送り返し、もしくは廃棄した。『君も人殺したんでしょ?なんだか噂で聞いたよ。』『よくうちで本出せると思ったね、君、自分がしたこと忘れたの?』『無理ですね。会社潰したくないので。』『女ならまだ赤裸々なセックスエッセイでも書かせてやれるけど、男じゃ使えないよ、いらない。』数多の断り文句は見事に各社で違うもので、私は感嘆すると共に、人間がまた嫌いになった。彼が乗せてくれたから、私の言葉が輝いていたのだと痛感した。きっとあの本は、ノンフィクション、ルポルタージュじゃなくても、きっと人の心に突き刺さったはずだと、そう思わずにはいられなかった。
以前に働いていた会社は、ルポの出版の直前に辞表を出した。私がいなくても、普段通り世界は回る。著者の実物を狂ったように探し回っていた人間も、見つからないと分かるや否や他の叩く対象を見つけ、そちらで楽しんでいるようだった。私の書いた彼の本は、悪趣味な三流ルポ、と呼ばれた。貯金は底を尽きた。手当たり次第応募して見つけた仕事で、小銭を稼いだ。家賃と、食事に使えばもう残りは硬貨しか残らない、そんな生活になった。元より、彼の本によって得た利益は、全て燃やしてしまっていた。それが、正しい末路だと思ったからだったが、何故と言われれば説明は出来ない。ただ燃えて、真っ赤になった札が灰白色に色褪せ、風に脆く崩れていく姿を見て、幸せそうだと、そう思った。
名前を伏せ、webサイトで小説を投稿し始めた。アクセス数も、いいね!も、どうでも良かった。私はただ秩序を保つために書き、顎を上げて、夜店の金魚のように、浅い水槽の中で居場所なく肩を縮めながら、ただ、遥か遠くにある空を眺めては、届くはずもない鰭を伸ばした。
ある日、web上のダイレクトメールに一件のメッセージが入った。非難か、批評か、スパムか。開いた画面には文字がつらつらと記されていた。
『貴方の本を、販売当時に読みました。明記はされていませんが、某殺人事件のルポを書かれていた方ですか?文体が、似ていたのでもし勘違いであれば、すみません。』
断言するように言い当てられたのは初めてだったが、画面をスクロールする指はもう今更震えない。
『最新作、読みました。とても...哀しい話でした。ゾンビ、なんてコミカルなテーマなのに、貴方はコメをトラにしてしまう才能があるんでしょうね。悲劇。ただ、二人が次の世界で、二人の望む幸せを得られることを祈りたくなる、そんな話でした。過去作も、全て読みました。目を覆いたくなるリアルな描写も、抽象的なのに五感のどこかに優しく触れるような比喩も、とても素敵です。これからも、書いてください。』
コメとトラ。私が太宰の「人間失格」を好きな事は当然知らないだろうに、不思議と親近感が湧いた。単純だ。と少し笑ってから、私はその奇特な人間に一言、返信した。
『私のルポルタージュを読んで、どう思われましたか。』
無名の人間、それも、ファンタジーやラブコメがランキング上位を占めるwebにおいて、埋もれに埋もれていた私を見つけた人。だからこそ聞きたかった。例えどんな答えが返ってきても構わなかった。もう、罵詈雑言には慣れていた。
数日後、通知音に誘われて開いたDMには、前回よりも短い感想が送られてきていた。
『人を殺めた事実を別にすれば、私は少しだけ、彼の気持ちを理解出来る気がしました。。彼の抱いていた底なしの虚無感が見せた胸の穴も、それを埋めようと無意識のうちに焦がれていたものがやっと現れた時の衝動。共感は微塵も出来ないが、全く理解が出来ない化け物でも狂人でもない、赤色を見て赤色だと思う一人の人間だと思いました。』
何度も読み返していると、もう1通、メッセージが来た。惜しみながらも画面をスクロールする。
『もう一度読み直して、感想を考えました。外野からどうこう言えるほど、彼を軽んじることが出来ませんでした。良い悪いは、彼の起こした行動に対してであれば悪で、それを彼は自死という形で償った。彼の思考について善悪を語れるのは、本人だけ。』
私は、画面の向こうに現れた人間に、頭を下げた。見えるはずもない。自己満足だ。そう知りながらも、下げずにはいられなかった。彼を、私を、理解してくれてありがとう。それが、私が愛読者と出会った瞬間だった。
愛読者は、どうやら私の作風をいたく気に入ったらしかった。あれやこれや、私の言葉で色んな世界を見てみたい、と強請った。その様子はどこか彼にも似ている気がして、私は愛読者の望むまま、数多の世界を創造した。いっそう創作は捗った。愛読者以外の人間は、ろくに寄り付かずたまに冷やかす輩が現れる程度で、私の言葉は、世間には刺さらない。
まるで神にでもなった気分だった。初めて小説を書いた時、私の指先一つで、人が自由に動き、話し、歩き、生きて、死ぬ。理想の愛を作り上げることも、到底現実世界では幸せになれない人を幸せにすることも、なんでも出来た。幸福のシロップが私の脳のタンパク質にじゅわじゅわと染みていって、甘ったるいスポンジになって、溢れ出すのは快楽物質。
そう、私は神になった。上から下界を見下ろし、手に持った無数の糸を引いて切って繋いでダンス。鼻歌まじりに踊るはワルツ。喜悲劇とも呼べるその一人芝居を、私はただ、演じた。
世の偉いベストセラー作家も、私の敬愛する文豪も、ポエムを垂れ流す病んだSNSの住人も、暗闇の中で自慰じみた創作をして死んでいく私も、きっと書く理由なんて、ただ楽しくて気持ちいいから。それに尽きるような気がする。
愛読者は私の思考をよく理解し、ただモラルのない行為にはノーを突きつけ、感想を欠かさずくれた。楽しかった。アクリルの向こうで私の話を聞いていた彼は、感想を口にすることはなかった。核心を突き、時に厳しい指摘をし、それでも全ての登場人物に対して寄り添い、「理解」してくれた。行動の理由を、言動の意味を、目線の行く先を、彼らの見る世界を。
一人で歩いていた暗い世界に、ぽつり、ぽつりと街灯が灯っていく、そんな感覚。じわりじわり暖かくなる肌触りのいい空気が私を包んで、私は初めて、人と共有することの幸せを味わった。不変を自分以外に見出し、脳内を共鳴させることの価値を知った。
幸せは麻薬だ、とかの人が説く。0の状態から1の幸せを得た人間は、気付いた頃にはその1を見失う。10の幸せがないと、幸せを感じなくなる。人間は1の幸せを持っていても、0の時よりも、不幸に感じる。幸福感という魔物に侵され支配されてしまった哀れな脳が見せる、もっと大きな、訪れるはずと信じて疑わない幻影の幸せ。
私はさしずめ、来るはずのプレゼントを玄関先でそわそわと待つ少女のように無垢で、そして、馬鹿だった。無知ゆえの、無垢の信頼ゆえの、馬鹿。救えない。
愛読者は姿を消した。ある日話を更新した私のDMは、いつまで経っても鳴らなかった。震える手で押した愛読者のアカウントは消えていた。私はその時初めて、愛読者の名前も顔も性別も、何もかもを知らないことに気が付いた。遅すぎた、否、知っていたところで何が出来たのだろう。私はただ、愛読者から感想という自己顕示欲を満たせる砂糖を注がれ続けて、その甘さに耽溺していた白痴の蟻だったのに。並ぶ言葉がざらざらと、砂時計の砂の如く崩れて床に散らばっていく幻覚が見えて、私は端末を放り投げ、野良猫を落ち着かせるように布団を被り、何がい��なかったのかをひとしきり考え、そして、やめた。
人間は、皆、勝手だ。何故か。皆、自分が大事だからだ。誰も守ってくれない己を守るため、生きるため、人は必死に崖を這い上がって、その途中で崖にしがみつく他者の手を足場にしていたとしても、気付く術はない。
愛読者は何も悪くない。これは、人間に期待し、信用という目に見えない清らかな物を崇拝し、焦がれ、浅はかにも己の手の中に得られると勘違いし小躍りした、道化師の喜劇だ。
愛読者は今日も、どこかで息をして、空を見上げているのだろうか。彼が亡くなった時と同じ感覚を抱いていた。彼が最後に見た澄んだ空。私が、諦観し絶望しながらも、明日も見るであろう狭い空。人生には不幸も幸せもなく、ただいっさいがすぎていく、そう言った27歳の太宰の言葉が、彼の年に近付いてからやっと分かるようになった。そう、人が生きる、ということに、最初から大して意味はない。今、人間がヒエラルキーの頂点に君臨し、80億弱もひしめき合って睨み合って生きていることにも、意味はない。ただ、そうあったから。
愛読者が消えた意味も、彼が自ら命を絶った理由も、考えるのをやめよう。と思った。呼吸代わりに、ある種の強迫観念に基づいて狂ったように綴っていた世界も、閉じたところで私は死なないし、私は死ぬ。最早私が今こうして生きているのも、植物状態で眠る私の見ている長い長い夢かもしれない。
私は思考を捨て、人でいることをやめた。
途端に、世界が輝きだした。全てが美しく見える。私が今ここにあることが、何よりも楽しく、笑いが止まらない。鉄線入りの窓ガラスが、かの大聖堂のステンドグラスよりも耽美に見える。
太宰先生、貴方はきっと思考を続けたから、あんな話を書いたのよ。私、今、そこかしこに檸檬を置いて回りたいほど愉快。
これがきっと、幸せ。って呼ぶのね。
愛読者は死んだ。もう戻らない。私の世界と共に死んだ、と思っていたが、元から生きても死んでもいなかった。否、生きていて、死んでいた。シュレディンガーの猫だ。
「嗚呼、私、やっぱり、
7 notes · View notes
petapeta · 5 years ago
Quote
トランプ氏がこれまでに何度もフェイクニュースと批判してきたCNNでは、「事前に計画していたわけではなく、あの瞬間に衝動的に怒りをぶつけたんでしょう。でも(トランプ氏の)演説は偽りだらけですから、その理由は十分にあります」とニュースキャスターが伝えた。    しかし、その後、NBCはスローモーションで、一般教書演説中、原稿を破る前のペロシ氏の様子を公開した。トランプ氏が、ゲストのリンボー氏を紹介し始めた時だった。    リンボー氏が末期の肺癌と診断され、「家族とともに苦しみのなかにある」と話すトランプ氏の後ろで、ペロシ氏が、目の前の原稿を何枚か手に取って机の下に隠した。    そして、目をそらし、原稿の真ん中辺りに手で切れ目を入れると、また元に戻したのだ。あとで失敗せずに破くための準備をしていたようだ。    トランプ支持者からは、「NBCもたまには真実を報道するのね」「ペロシ氏はトランプの再選を助けているようなものだ」と皮肉の声が寄せられた。    一方、民主党支持者のなかには、ペロシ氏の今回の行為をトランプ氏への強い挑戦の意志と捉え、「よくぞやってくれた」と称賛する、あるいは少なくとも共感する人が多い。が、中には、彼女が同党の象徴的な存在であるだけに、複雑な思いを抱く人もいる。    ノースキャロライナ州グリーンズボロに住むジョナサン(50代)は、「僕はトランプが好きではないけれど、今回のペロシ氏の原稿破りはトランプと同じように、品性に欠く行為だ」とし、批判的だ。    トランプ氏は、一般教書演説をうまく利用し、少なくとも共和党支持者らの心をつかんだという手応えを感じているようだ。弾���裁判の無罪も確定し、株価は最高値を更新。支持率は過去最高の49%だ。    ペロシ氏のスーツの白は、FOXニュースの司会者が言うように、降伏を意味することになるのか。結果が出るのは、8カ月後に迫っている。
岡田光世「トランプのアメリカ」で暮らす人たち 一般教書を引き裂いたペロシへの「視線」 : J-CASTニュース
23 notes · View notes
sorairono-neko · 5 years ago
Text
強烈!
「勇利、元気にしてる? ロシアどう?」  テレビ電話に設定した携帯電話の中で、ピチットが手を振った。勇利は机に向かい、両手で電話を持ちながら挨拶を返した。 「久しぶり。元気だよ。慣れないことも多いけど、だいぶいろいろわかってきた」 「そっちのリンクは? すべりやすい? 練習楽しい?」 「すべりやすいよ。氷の感じはいままでとはちがうけど、嫌いじゃない。練習も順調だけど……あんまり遅くまでやってたら追い返される」 「追い返されるってヴィクトルに? 一緒に帰るんじゃないの? ふたりで住んでるんだよね?」 「ヴィクトルはいまあまりリンクにいないよ。仕事が忙しいから。トレーナーとかコーチとか、クラブの人がそれ以上はよくないって禁止するんだ。ぼくが長くリンクにいないようにしてくれって、ヴィクトルに頼まれてるんだよ。やりづらい」 「たいていのことでは勇利の味方になるけど、こればっかりはまあ……」  勇利がリンクからいつまでも帰らず、チェレスティーノにがみがみ言われていたことを知っているピチットは、仕方ないというように笑った。 「でも落ち着かないよ。せめて夜に走りに行けたらいいんだけど」 「サンクトペテルブルクもデトロイトみたいに治安よくないの?」 「そこまでじゃないけど、やっぱり日本とはちがうから、ヴィクトルがだめだって言うんだ。なんでもすぐだめだめ言うんだよ」 「責任感じてるんじゃない? 保護者的責任」 「だけど焦るよ。家でも何かしたい」 「じゃあエクササイズゲームでもすれば?」 「エクササイズゲーム?」  勇利は首をかしげた。 「いま、あるじゃん、そういうの。ゲームしながら身体を鍛えるっていうやつ。僕もやったことあるけど、けっこう本格的だよ。ボクシングエクササイズなんかストレス解消になっていいと思う」 「ふうん」  勇利はあまり興味をひかれなかったので、ぼんやりと返事をした。しかしピチットのほうは、何に刺激されたのか、突然身を乗り出して力説し始めた。 「そうだよ! 勇利、そういうのやるといいよ!」 「なに急に。なんでそんなに勧めるの?」 「勇利、ヴィクトルとは上手くいってるの?」  話が変わった。勇利はわけがわからず、ますますぼんやりした返答になった。 「うん……いってる」 「適当に言ってない?」 「何が?」 「本当に順調?」 「上手くいってるってどういうことを訊いてるわけ? 喧嘩なんかしてないよ。そもそも、ヴィクトルとあんまり顔合わせないから喧嘩のしようがないし」 「ほら!」  ピチットがなぜか強気になった。 「ほらって何が?」 「ヴィクトル、勇利をロシアへ連れ去っておいて、ほうり出してるじゃん」 「いや、ほうり出してるっていうか、仕事だから……」  ヴィクトルは昨季はほとんど日本にいたので、いまは大変な時期なのである。勇利はそれについて納得しているし、腹を立ててもいない。確かにロシアに来たというのにあまりコーチをしてもらっていないけれど、いつまでもそのままだというわけではない。覚悟もしていたのでなんとも思わない。 「仕事だからって勇利の相手をしなくていいわけ?」 「いいんじゃない?」  勇利は簡単に言った。するとピチットはますます興奮した様子になった。 「勇利がそんなふうに甘いからヴィクトルがふらふらするんだよ!」 「ふらふら?」  ヴィクトルはふらふらなどしていない。すべき仕事をきちんとこなしている。行きたくないとか、めんどうだとか、リンクにいたいとか、勇利と一緒がいいとか、いろいろ言っているようだが、勇利ははいはいと返事をして送り出していた。 「勇利見なかったの? あの記事!」 「記事って?」 「夜に女優と密会どうのこうのっていうのが出てたじゃん!」 「え……」  勇利は何を言われているのかと戸惑った。そういえば数日前、ヴィクトルについてのそういう報道があった気がする。そもそもいま勇利のまわりのニュースはすべてロシア語なので、よくわからないのだ。ただ、ヴィクトルが「こんなのはねつ造だ!」と騒いでいたのでなんとなくおぼえていた。何やらヴィクトルが必死だった、という印象だ。 「ああ……そんなこともあったっけ」 「適当なんだから! ちゃんとヴィクトルに怒ったの?」 「いや、べつに……ぼくは……」 「世界一のもて男の言い訳はどんな感じ?」 「言い訳?」 「そういう状況なんだからさあ」  ピチットが熱心に言った。 「ストレスは解消したほうがいいと思うんだよね」 「ぼくストレス溜まってないんだけど」  ピチットの言いたいことがよくわからない。とにかく、勇利に運動用のゲームを勧めたいようだ。 「ただ宙に向かってパンチを打つだけなんだけど、間合いばっちりになると気持ちいいよ。いい汗かけるし」 「ふうん」 「『ヴィクトルのばか!』って叫びながら打てばすっきりすると思う」 「べつにヴィクトルはばかなことしてないけど……」 「『ぼくをひとりにして!』『日本へ帰ってやる!』って言いながらやってみて」 「思ってないんだけど」 「勇利、ゲーム機持ってる? 動画でもいいよ。いまそういう運動動画、いっぱい上がってるじゃん」 「そうなの?」  とくにストレス解消がしたいわけではないけれど、走りには行けないし、家でかるく動けるなら確かにいいのかもしれない。  今日はすこし早い。ヴィクトルは時刻を確認し、ほっと息をついた。このところ、あまりにも忙しく、勇利と話せていない。慣れない土地で彼がさびしがっていないか心配だ。勇利と親しくできずさびしがっている自分の精神状態も心配だ。先日はくだらないうわさ話の記事が出るし、リンクへはまだなかなか行けそうもないし。 「ただいま……」  ヴィクトルは扉を閉め、駆けてきたマッカチンを撫でた。 「今日も元気だったかい? 勇利はどこかな?」  マッカチンには勇利のことを頼んであるけれど、クラブには一緒にかよっていないので、勇利の昼間のことはマッカチンにもわからない。ヴィクトルはすぐに居間へ行ってみたけれど、そこに彼の姿はなかった。私室だろうか? 「勇利……」  彼の部屋の扉を叩こうとして、軽快な音楽とかけ声が聞こえることに気がついた。勇利の声ではない。なんだろう? 何かしているなら邪魔したくはないが……。戸がすこしだけひらいていたので、ヴィクトルはそこからそっと室内をのぞいた。 「──何してたわけ?」  ちいさなディスプレイの中のクリストフが興味津々という様子で笑った。ヴィクトルは携帯電話に向かいながら、ほとんど頭を抱えていた。 「ボクシング」 「え? なんだって?」 「ボクシングだよ。そういうエクササイズ動画があるだろう」 「ああ……、なんだ」  もっとおもしろいことだと思っていたのか、クリストフは拍子抜けしたように肩をすくめた。 「いいじゃない、べつに。勇利って日本では夜に走りに行ったりしてたんでしょ? ロシアじゃできないから、その代わりじゃないの?」 「そうだろうか……」 「問題ないじゃない。何が不満なわけ?」 「不満はない」  そう答えながらも、ヴィクトルは机につっぷすような姿勢だった。「ジャブ! ストレート! 上半身がぶれないように! ワンツー!」という指導の声を聞きながらコンピュータの画面に向かってこぶしをくり出していた勇利の姿を思い出す。彼は体幹がすばらしくしっかりしているので、激しく動いてもまったくふらつかない。手本をちゃんと見るため、型も綺麗だ。経験したことのない動きだろうに、ぴしっときまり、いかにもきちんとして見えた。うつくしい練習姿だった。 「だったら何をそんなに落ちこんでるの」  クリストフがあきれたように言った。ヴィクトルは思いつめた声を出した。 「勇利、ものすごく真剣だったんだ」 「え? ……それはそうじゃない? 遊び半分でやらないでしょ、運動なんて」 「そういうことじゃない」  ヴィクトルは額に手を当て、深い溜息をついた。 「ちょっと君、何が言いたいのかわからないんだけど」  クリストフは、「ヴィクトルってもとから変わってるけど、勇利のことになるとほんとどうしようもないよね」とからかった。ヴィクトルは暗い表情でつぶやいた。 「俺を想定してたんじゃないだろうか……」 「え? なに?」 「画面の中で指導者が言っていた。『相手の顎を狙うんだ』『相手の腹部に向かってこぶしを打ちこめ』って」 「まあ、そういう想像をしてやったほうがパンチを出しやすいよね」 「だから……」  ヴィクトルはうめいた。 「勇利は俺を想像の中でぼこぼこにしてるんじゃないだろうか……」  クリストフは目をまるくした。彼はすこし考え、次の瞬間盛大に噴き出し、ずいぶん長いこと笑っていた。ヴィクトルのほうは笑うどころではない。彼は大まじめだった。 「……そんなふうに思うのは後ろめたいことがあるからだよ」  ようやく笑いをおさめたクリストフが、どうにか呼吸を整えて言った。 「ヴィクトル、勇利に何かしたの? ああ、わかった。先日のあの記事だね。女優がどうとか……」 「あれはでたらめだ!」  言葉が終わらないうちにヴィクトルが叫ぶと、クリストフはさっきよりも可笑しそうに笑った。 「あんなうそ記事を書かれて甚だしく迷惑している! 編集部に抗議した! もうあの出版社の取材には応じない! そう言い渡した!」 「俺に説明したって仕方ないよ。勇利に言わなきゃ」 「言った!」 「勇利、なんて?」 「……あまり聞いていなかった……」  ヴィクトルが力を落としてぽつんと言うと、クリストフは我慢できないというように額を押さえ、肩を揺らしてさらに長く笑った。 「いや、まあ……勇利のことだから���表向きはそう見えるだけで、内心では……」 「内心では気にしていて、俺に怒っていて、想像上で俺をぼこぼこにしたくなるような心境なのか」 「そこまでは知らないけど」  クリストフはずっと可笑しそうだ。ヴィクトルはそれをとがめる余裕さえなかった。 「忙しくて、ぜんぜんリンクに行けないんだ」  ヴィクトルはなげいた。 「勇利はそのあいだひとりで練習している……。もちろんヤコフには頼んであるし、トレーナーとも上手くやってるさ。だけど俺が勇利をほうり出してるように感じてるんじゃないだろうか」 「勇利も大人なんだから、そういうのは納得してるでしょ」 「いや、でも、俺をぼこぼこにしていた」 「それ、ヴィクトルの妄想でしょ」  クリストフはくすくす笑った。 「ただ運動してるだけだと思うけど。家にいたくないとか言って、勝手に夜走りに出られるよりいいじゃない」 「それはそうだが、俺は勇利のストレートを食らってる」 「だから妄想だって」 「それで勇利がすっきりするならいい。確かに彼をひとりにしている。いっそのこと実際に俺にストレートを��れてくれてかまわない。俺にものすごい攻撃をしてくれていい。だが……」  ヴィクトルは苦悩しながら低くつぶやいた。 「愛想を尽かして日本へ帰ってしまったら……」  そこまで怒っているのだとしたら……。ヴィクトルは考えるだけでもおかしくなりそうだった。 「そんなことになったら……なったら……」  ヴィクトルが真剣に悩んでいるというのに、クリストフは気にした様子もなく、「話、もう終わり? おもしろかったよ。切るよ」という返事をよこした。  翌日も、その翌日も、勇利は夜になるとノート型コンピュータに向かって、まっすぐにこぶしを突き出していた。しなやかな身体がやわらかく動き、敏捷にふるまう姿はすてきで、彼の右ストレートはほれぼれするほどだった。だがヴィクトルは、あのこぶしで俺をたたきのめしているんだな、と思うと気が気ではなかった。いつ勇利が想像でヴィクトルを「ぼこぼこにする」だけでは足りなくなって、「もうつまらないから日本へ帰る」と言いだすかわからない。それがヴィクトルは何よりおそろしかった。  しかし仕事は仕事であり、反故にすることはできない。ヴィクトルははらはらしながら日々を過ごした。勇利は、──ヴィクトルの想像によれば──ヴィクトルを「ぼこぼこ」にしているときはいつも真剣だったけれど、ある夜、ストレートやフックとともにこんな言葉が聞こえてきた。 「なんでだよ!」 「ばか!」 「もっとちゃんと──」  小声で鋭くののしり、連続攻撃で「相手」をやっつけているのだ。ヴィクトルはふるえ上がった。「ヴィクトルのばか!」「なんでリンクに来ないんだよ!」「あんな記事書かれるなんて信じられない! ちゃんとしてよ!」──勇利はそんなふうに考えているのだろう。いよいよヴィクトルは絶望した。  だが、もっと恐怖をおぼえたのは、それから数日後のことだった。勇利はなんにも言わなくなってしまったのだ。何か口の中で罵倒しながらだったストレートやフックやジャブは、無言のものとなってしまった。きまじめな顔で画面を見据えるだけで、すばやくこぶしを打ちこんでいるのである。とうとう文句を言う気持ちさえもなくしてしまったのだろうか。ヴィクトルはこころの底からおそろしく感じた。 「勇利が出ていってしまう!」  ヴィクトルはクリストフに連絡した。 「そんなことで電話してこないでよ」  クリストフは迷惑そうだった。 「そんなこととはなんだ! 俺の人生のかかった大事件だぞ!」 「はいはい。いいじゃない、勇利が頭の中でヴィクトルを『ぼこぼこ』にしてるだけで済んでるんだから」 「だからそれじゃ済まなくなりそうだと言ってるんだ!」 「文句を言うのをやめたから焦るって変なんじゃない? 毎日『ぼこぼこ』にしてたから精神的に安定したんでしょ。もう怒ってないってこと。いまのはただの運動だよ」 「そうは思えない!」 「ほんっと勇利のことになるとこの男は……」  クリストフはやれやれと溜息をついた。 「女優のことではすみませんでしたと謝れば?」 「だからそれはでたらめだ!」 「勇利はそう思ってないんでしょ。少なくともヴィクトルの考えでは」  どうだろう。よくわからない。とにかく勇利は「ぼくだけを見ていて」とねだる子なので、いまのすべての状況がお気に召さないのではないかとヴィクトルには思えるのだった。 「ああ、勇利に嫌われたらどうすればいいんだ……そんなことになったら生きていけない……勇利ほど綺麗で魅力的でかわいらしく、清楚で凛とし、上品で水際だってうつくしい子はいない……あんなに気品高い魂はない……大きなチョコレート色の瞳と、ありふれているようで一瞬のうちに輝く立ち姿……何もかも可憐で愛らしい……」 「あのさ、相談してるの? のろけてるの? どっち? 切るよ」  その翌日も、勇利は無言で身体を動かすことに熱中していた。もともと型はきちんときまっていたけれど、練習を重ねてますますみがきがかかってきたようだ。ヴィクトルはやはり右ストレートにほれぼれした。一瞬、風を切る音が聞こえるほどのしなやかさで打ちこまれる右ストレートだ。  しかしうっとりしている場合ではない。いつ勇利が「ぼこぼこ」では満足できなくなって、「話があるんだ」と言いだすかわからない。  すこし仕事が落ち着いてきた。ヴィクトルは自分から言うことにした。勇利にしゃべらせるのはこのうえなく危険だ。彼が何かを言うとき──それはすでに決定しているときなのだ。どんなことがきまってしまっているのかはわからないけれど、その「何か」をくつがえすことがどれほど難しいか、ヴィクトルはたいへんよく承知している。 「勇利、話があるんだ」  久しぶりにふたりで夕食をとることができたのだが、ヴィクトルは緊張しきっていた。食後のお茶も味わう余裕がなく、彼は口の中がすでに乾いてしまっている。 「なに、改まって」  勇利は普段どおりの態度だった。のんびりしていて、ふわっとした印象だ。彼は平生はたいていそんな感じである。かわゆい。好きだ。しかしそののんきなそぶりに騙されてはならない。 「勇利、きみは……」  ヴィクトルはほとんど落ち着きを失いながら、隣に座る勇利に思いきって切り出した。 「毎晩、部屋で運動をしているね」 「えっ」  勇利は驚いたようにヴィクトルを見、そんな彼にヴィクトルはどきっとした。勇利はヴィクトルを「ぼこぼこ」にしているものだから、そのことを知られたと思って焦っているのだろう。ヴィクトルはそう考えた。 「なんで知ってるの。うるさかった? あまり音はたててないつもりだったんだけど」 「あ、ああ。べつにどたばたしてるわけじゃない。ただ、音楽や指導の声が聞こえるから……」 「つまりうるさいってことだよね。音量下げないと……」 「いや、そういうことじゃない。たまたま戸が開いていたり、廊下を歩いているときに気づいたりしたというだけだ……」 「そう」  勇利はこっくりうなずき、それからふしぎそうな顔をした。 「……じゃあ、うるさいから静かにしろっていう話じゃないの?」 「…………」  ヴィクトルは息をつめた。言わなければ。勇利を日本へ帰らせたりはしない。そんなこと、けっしてさせてなるものか。 「勇利──」  ヴィクトルはかすれた声で呼びかけ、次の瞬間、大声を出した。 「俺をぼこぼこにしていいから日本へは帰らないでくれ!」 「…………」  勇利は大きな瞳をさらに大きくぱっちりとみひらいた。彼はしばらく沈黙し、ヴィクトルも黙りこみ──、ヴィクトルの緊張がきわみに達したとき、ようやく勇利はちいさな声で「……え?」と訊き返した。 「え? なに? なんのこと? ぼこぼこ……え?」 「隠さなくてもいい!」  ヴィクトルは理解を示すようにうなずいた。 「毎晩、エクササイズしながら、想像で俺をぼこぼこにしてるんだろう?」 「えぇ!?」 「そうやって気持ちを発散させてるんだろう!? いいんだ! 確かに俺は勇利をひとりにしすぎた。変な記事も出てしまったし──あれはでたらめでほら話で与太話だが!」 「う、うん……?」 「だが、真実がどうであろうと、あんなわけのわからないふざけた記事が出れば気分を害するのが当然だし、リンクにはまったく行けていない状態なんだから、勇利が俺をぼこぼこにするのは当たり前だ。きみにはその権利がある。だから勇利──」  ヴィクトルは大きく息を吸った。 「ヴィクトルのばか! なんでリンクに来ないんだよ! あんな記事書かれるなんて信じられない! ちゃんとしてよ! ──そう言いながら俺をぼこぼこにして、すっきりしてくれ!」 「…………」  勇利は口元に手を当ててヴィクトルをじっとみつめていたが、そのうち笑いだし、身をよじるようにしてかぶりを振った。 「ヴィクトル、なに言ってるの? 意味わからない!」  可笑しい、可笑しい、と彼は大笑いした。わけがわからないのはヴィクトルのほうだった。勇利はどうしてこんなに笑っているのだ? 頭に来て、想像の中でヴィクトルをぼこぼこにしていたのに。 「勇利、俺に怒ってるんだろう?」 「なんでそう思うの?」  勇利は涙を指先でぬぐって顔を上げた。 「だって何か言いながらの右ストレートだった」  ヴィクトルは真剣に言った。 「ほれぼれするような右ストレートだ」 「何を言ってるのかわからないけど、ぼくがああいう運動をしてたのは夜走りに行けないからだよ」  勇利は笑いをこらえながら静かに答えた。 「それだけ?」 「それだけ」 「本当に?」 「夜走ることができないって言ったらピチットくんに勧められたんだよ。そういうの興味なかったけど、まあやってみてもいいかなと思ったんだ。合わなかったらやめればいいしね。でもためしてみたら、けっこう爽快で楽しかったし、身体も動かせたから、ちょっと続けることにした」 「だけど!」  ヴィクトルはむきになった。 「何か文句を言いながらやってただろう!? あの華麗な右ストレートを打ちながら!」 「右ストレートにこだわるね」 「『ヴィクトルのばか!』『なんでリンクに来ないんだよ!』『あんな記事書かれるなんて信じられない! ちゃんとしてよ!』って」 「そんなことは言ってないよ」 「ちょっとちがったかもしれない」 「だいぶちがうだろうね。最初、気持ちの持っていき方がわからなかったから、怒ってみることにしたんだ」 「やっぱり!」 「ヴィクトルに怒ってたんじゃないよ。試合でいつも失敗する自分を想像したの。なんでちゃんとできないんだっていうふうにね」  ヴィクトルは言葉につまった。そういうことだったのか? しかし……。 「途中で言わなくなったのは!?」 「ぼく、そういうの合ってないみたいなんだよ。ああいう運動で怒りを勢いにするのは向いてない。何も考えずにやるのがいいみたい。そのほうが身を入れてできるっていうか、打ちこめるんだ。だから余計なことを言うのはやめたんだ。それだけ」 「…………」 「わかりましたか?」  ヴィクトルはしばらく放心してソファに沈みこみ、何も言えなかった。勇利は怒ってなどいなかった。ただ基礎的な運動の一環としてやっていただけなのだ。長谷津にいたころ、走っていたのと同じだ。 「──でも俺は最近勇利と一緒に過ごせてない!」  身体を起こし、ヴィクトルは熱心に言った。勇利が目をまるくした。 「それはしょうがないよ」 「リンクに行けてない!」 「仕事があるからね」 「ロシアにまで連れてきて、勇利をひとりにしている!」 「仕事だからね」 「それに──」  ヴィクトルは勇利の両手を握りしめた。 「変な記事が出た!」 「…………」  勇利が瞳を大きくして黙りこんだ。やはりこれには憤っていたのだろうか? ヴィクトルはごくっとつばをのんだ。 「……そうだね」  勇利はかすかにうなずき、魅力的な微笑を浮かべた。 「ヴィクトルが何か言ってたね」 「そのことは怒ってるんだろう? 勇利、あれはでたらめなんだ。でっちあげだ。前も説明したけど、あんなのは──」 「それはいいんだよ」  勇利は静かにヴィクトルの言葉を遮った。 「いいの?」  勇利に怒ってもらいたいわけではないけれど、まったく気にしないと言われると、それもヴィクトルを落ち着かない気持ちにさせる。 「いいよ」  勇利はこっくりとうなずいた。ヴィクトルは勇利を夢中でみつめた。 「だってヴィクトル……」  勇利は、みずみずしい笑みを浮かべ、品のある瞬き方をしたあと、口元を見たこともないような楚々としたしぐさでかすかにひらき、慎ましやかに首を傾けた。それはヴィクトルが、クリストフとの電話のときに勇利の魅力について語ったすべての言葉を合わせても足りないくらい、すてきな印象だった。 「ヴィクトル、ぼくのこと愛してるでしょ?」  ヴィクトルの呼吸が止まった。彼は心臓を撃ち抜かれ、このうえなく甘美で強烈な、とんでもない衝撃を与えられた。 「知ってるから、そんなの、まったく問題にならないよ」  勇利は簡単に言ってのけた。 「ヴィクトルはなんかいろいろ言ってたみたいだけど……ぼくはべつに」  彼はにこっと笑った。 「気にしない」 「…………」  ヴィクトルは、今度は立ち上がれないほど深くソファに身を沈めた。勇利がすこし驚いて心配そうにヴィクトルの顔をのぞきこんだ。 「どうしたの?」 「…………」 「ヴィクトル、大丈夫?」 「……勇利……」  ヴィクトルは胸を押さえ、甘苦しい想いに呼吸を乱しながら、ずきずきと響くたまらないうずきに幸福な気持ちで耐えた。 「いまのは、右ストレートより、効いたよ」
5 notes · View notes
kkagneta2 · 5 years ago
Text
ボツ(?)4
おっぱい。どうしよう、ボツにしてもいいけどこの子好きだからまた考え直すかも…
「また出たんだね、例の通り魔」
と、僕は何となしに言いながら、もう目で追いかけるだけになっている教科書のページを手繰った。
「そうなんだよ、もうこれで7人、いや、8人目か、一体いつ収まることやら、………」
と友人はパンを齧る。
「またいつもの状態で見つかったの?」
「あん?―――そうだよ、いつもどおりさ。俺らと同じ中等部の男子が、傷も怪我も何もなく教室に倒れていたんだと。で、これまたいつもどおり、何があったのか聞いてもうんともすんとも言わないで首を振るのみで、一向に埒が明かねぇ」
「怖いなぁ。首絞めでもされたのかなぁ」
「それが違うんだってさ。この男子の言うことじゃ、首絞めじゃなくてもっとこう、………そう、そう、枕みたいなもので押さえつけられたらしいんだ」
「ふぅん、枕かぁ、………」
と怖くなってふるりと震えて身をすくめた時、ふわりと横から人影が。
「何話してるん?」
現れたのはクラスメイトの佐々木さんだった。その気さくな人体と学年トップの成績から二年生でありながら生徒会長を勤め上げ、その一方で部活の水泳では全国大会で結果を残すなど、天に二物も三物も与えられたような女子生徒。特に一体何カップあるのか分からないぐらい大きな胸は、一時詰め物をしているのだと言う噂が絶えなかったが、運動会の練習時にブラジャーが壊れたハプニングがあって以来、男子はすっげぇ、すっげぇ、と言いながら、告白しては振られていった。
そんな彼女が真横に立ったので、僕は少しドギマギした。
「おぉ! 佐々木か。あれあれ、あの話。通り魔事件の話」
「美桜ちゃんは何か知ってる?」
僕は彼女を呼ぶ時はいつも下の名だった。
「あー、あの話かぁ、………実はうちもよく知らへんねん。昨日も教室で倒れてるん見つかったんやろ? うちその時部室に居てなぁ、秋ちゃんと一緒に見に行こ言うて行ったんやけど、先生に追い返されてしもうてなぁんにも。いや、怖い話やで、………」
「まじかー、………あの生徒会長様でも知らないとは、お手上げかなこりゃ」
「あ! でもうち一つ大切なこと知ってるで!」
と、身を乗り出してきて彼女の胸が顔にあたった。
「み、美桜ちゃん、胸が、………」
「おっと、ごめんごめん」
「おい、啓介そこ変われ」
「い、いや、これ僕のせいじゃないし、ここ僕の席だし、………」
「あははは、いや、啓介くんごめんよ。最近また大きくなってて距離感が掴めへんくてなぁ、昨日もシュークリームを潰してしもてん。困ったやつやで、ほんま」
「うおー、………すっげぇ、………。ま、まぁいいや。佐々木の言う大切なことってなんだ?」
気を取り直した友人は、それでも美桜の胸に釘付けである。
「そやそや、その話やった。大切なことって言うんは被害に会った男の子のことなんやねん」
「ほうほう」
「実はうち会ったことがあんねんけど、みんななぁ、すっごい可愛くってなぁ! うちああいう子が弟に来てくれたら思うて、ぎゅって抱きしめとうてたまらなくなってん」
「なんだ、そういうことか」
「そういうことって、どういうことや?! これほど重要な点はあらへんやんか!」
「分かった分かった、大切なのは分かったから落ち着いてくれ」
「ふん、分かればええ」
と美桜を宥めてから友人は僕の方を向いた。
「それにしてもアレだな。可愛いと言えばうちの俺らのクラスにも居るな、一人」
と言うと、美桜も僕の方を向いた。
「せやねんなー、せやねんなー」
「ヤバいぞ、佐々木の言うことが本当だったら啓介の身が危ない。おい、啓介、夜道には気をつけるんだぞ」
美桜はこれを聞いてクックッと笑った。
「せやせや、啓介君はかぁいいから気をつけんとあかんで」
ふるふると、笑うに従うて彼女の胸が揺れた。
  それから一週間、件の事件は鳴りを潜め、学園は平和で、静かで、ゆるやかな日常がゆっくりと流れていた。今日も冬だと言うのに朝から陽気な日差しが差し込んで、始終あくびを噛み締めながら授業を受けなければならないくらいにはおだやかな空気が漂っていた。
そうして何事もなく授業が済んで、夕日の沈んで行くのを見ながら友人と一緒に教室を出たのだったけれども、校門の手前でふと、何か忘れものをしたような気がして立ち止まった。
「ごめん、忘れものしちゃったからちょっとまってて」
「しゃあねぇな、待っててやるからさっさと取ってこい」
腕組みをする友人を残して、僕は一人校舎の中へと入って行った。
校舎の中は妙に静かだった。さっきまで沢山人が居たような気がするのに、教室にたどり着くまで誰とも会わず、どこもかしこもひっそりとしている。電灯も消えていて廊下はほの暗い。
それで教室にまでたどり着いてみると、そこだけまだ明るいのであった。
「美桜ちゃん?」
中では美桜が一人窓際に佇んで外を眺めていて、僕に気がつくとふっと笑った。
「あれ? 啓介くんやん。どしたん?」
「ちょっと忘れものしたような気がして戻ってきちゃった」
「あはは、アホやなぁ」
と、美桜は近くの机に腰かけて、
「見つからへんのに」
そう呟くのがぼんやり聞こえたけれども、なぜか何にも気にかけないで机の中を漁り始めた。
それで随分と探したのであったが、机の中にも、ロッカーの中にもプリント類が山積みとなっている他何もなくて、一向にこれと言ったものは見つからない。そもそも何を忘れているのかも分からず、プリントの束を抱えて机を覗き込んだり、何となく体が動いて掃除用具入れの中を覗いたりもした。で、今は、床の上に落ちているのかと思って自席の周囲をグルグルと這っているのだけれども、もちろん何も見つからない。
「あれ、あれ?………」
あれ? と思っても見つからないものは見つからない。と、思ったその時だった。くすくすと上から笑い声がして、
「忘れものは見つかったやろか」
とほぼ頭上から声がしてハッと顔を上げると、やたらと綺麗な足が見え、次いでグワッと、物凄く大きな胸が目と鼻の先にまで迫ってくる。
僕は呆気にとられた。本当に大きくて、制服なんて今にも破れてしまいそうで、思わず後ずさりした。
「啓介くん?」
「あ、いや、何でもない、………あはは、はは、………」
僕はこう言いつつさっと立ち上がったけれども、
「んーん? 啓介くん?」
と、美桜がグッと覗き込んできて息が詰まった。彼女の方が頭一つ分は背が高くて、見下ろされると何となく身がすくむのである。………
「啓介くん」
「は、はい」
「今めっちゃうちのおっぱい見てたでしょ」
「えっ、いや、そんなことは、………」
「うそ、うちには分かってるから正直に言いな~?」
「ご、ごめん、見てました」
「あははは、えっちな子やなぁ!」
「―――むぐぅ!」
………一瞬のことだった。眼前に彼女の胸が迫ってきたかと思うと、顔中、………いや、頭がすっぽりとやわらかいものに包まれて、途方もなくいい匂いが鼻腔中に充満した。
「どーお? うちのおっぱい気持ちいーい?」
「むむぅ、………」
「んー? 何言ってるんか分からへん。もっと押し付けたらどうやろか」
と本当にぎゅうううっと後頭部を押し付けてきた。
息が、出来ない。
「むー! むー!」
こう藻掻いているうちにも美桜はさらに力を込めて押し付けてくる。一体何十センチあるのか分からない谷間に後頭部まで埋まり初めて、とうとう我慢しきれなくって美桜の腕を掴んだけれども、貧弱な僕では水泳部の彼女の力に敵うはずもなかった。
「グリグリ~」
と頭をゆすられると、されるがまま体も揺れる。自分ではどうしようもできないその力に、僕は恐怖を感じて叫んだ。
叫んだがしかし、その声は彼女の胸に全て吸収される。
「むうううううう!!!」
「すごい声やなぁ、でもうちには何言ってるかぜーんぜん分からへん、やっぱりもっとやってほしいんやろか」
とグリグリ、グリグリ。グリグリグリ。と、頭を擦られる度に、柔らかいおっぱいに鼻を押し付けられて、あの甘いような、懐かしような、とろけるような匂いが鼻をついて、頭がショートを起こしたように膝がガクガクと、腰が抜ける。
あゝ、もうだめだ、………
もはや彼女の手には尋常でないほどの力が込められていた、頭に激痛が走るほどに。でもそれが快感に変わって、僕は頭がもうどうにかなってしまったのだと思った。
「ええなぁ、このぎゅってする時の男の子の息、やっぱりたまらへんわぁ」
とますますギュッとして彼女の匂いが。ぬくもりが。
だけど命をつなくためには息を吸わなければならない。
「ふは、ふあ、ふひ」
「たっくさん吸ってぇな。うち生まれたときからええ匂い醸し出してるらしいねんわ」
「ふー!ふー!」
「ふふ、ええ気持ちやろ。もうなんにも考えられへんやろ。苦しくっても苦しくってもどこにも行きたくならへんやろ、―――」
ああああああ、………落ちていく、落ちていく。学園一の優等生の谷間の中へ落ちていく。
自力では立ってもいられなくなって彼女にすがりついた。柔らかい体、それがものすごく心地良くて、一生離したくないと思った。
気がつけば後頭部にあった手の感触が消え、僕の頭はすっぽりと彼女の胸に包まれていた。頭頂部にも、首元にも、肩にも、柔らかい感触がひたひたと吸い付いて、外からでは髪の毛の一本すら見えなくなっていた。
制服を着ているのに僕の顔を包み込んでしまう。
それほどまでに彼女の胸は大きい。世界一だと言っても誰も不思議に思わない。
だけどまだ中学生、二年生。………
「―――もうブラジャー無くってなぁ、今日学校終わったらすぐに買いに行かんとあかんから、ごめんなぁ。また誘ってぇな」
「―――今日すごい胸が張ってん。あーあ、明日になったらまた何センチか大きなってるわ」
そんな彼女のおっぱいに、僕の頭は丸ごと食べられてしまった。
そうして始まったのは頭部へのパイズリ。
さすがに僕も知っている。胸の大きな女性が男に向かってするアレ、………彼女はそれを僕の頭でやろうとしているのだった。
「男の子はこれすると腰が抜けんねん。うちのお兄ちゃんなんてな、毎日毎日、美桜! あれをやってくれ! たのむ!! ってせがんできてな、毎日毎日とろっとろにとろけきって十何回って射精すんねん。終わったら終わったで気ぃ失ってぐったりするし、起きたら起きたですぐ抱きついてくるし、昔はかっこよくて頼りになったんやけどなぁ、もう細うなってうちのことしか考えられへんようになったんやわ。あ、これ誰にも言ったらあかんで。うちこれ言われると弱いんやから」
と言ううちにも、ぎゅうううっと頭を圧迫してくる。美桜がどういう風に僕の頭を捕らえているのかは分からないけれども、もうここまで来ると嘘みたいな心地よさが体中を駆け巡って、手をだらりと垂れ下げた。
でもしばらくは開放してくれなかった。………
「あはは、もう腰立たん?」
ドサリと仰向けに倒れた僕に向かって美桜はこう言った。
で、唐突にのしかかってきた、―――!
「むぐぅ!!!」
僕の顔は彼女の胸の下敷きに、そしてまたしても息が。
(お、重っ、―――!!)
苦しさよりもこう思うほうが先だった。人が一人顔に乗っているような感じで、体を起こそうにも全く歯が立たない。
一方で美桜は胸の重みから開放されて、
「あー! 重かった!」
と、非常に清々しい声を出していた。
「ほんま重いわ。啓介くんもそう思う?」
「むー!!」
「あはは、めっちゃ苦しいやろなぁ。うちのおっぱい片方だけでも10キロは余裕であるねんもん。何カップやと思う?」
「むぐ、………むぐぅ!」
「正解は、………よく分からない、―――でした! ………あはは、うちZ カップ超えてんねん。胸小そうしとうて水泳部に入ったんやけど、逆効果やったみたいやわ。―――ほな、そろそろ息吸おか」
とゆっくりとずり下がって行って、美桜の顔が見えた。
「すごかったやろ? うちくらいおっぱいおっきいとあんなことも出来るねんで」
と、ここに於いてようやく区切りが出来たようだった。が、開放とは言っても美桜は未だに僕の体の上に乗っていて、あと一歩ずり動けば僕はまたしても天国のような苦しみを味わうことになりそうであった。
「それにしても啓介くん、最近うちのおっぱい見すぎやで。今日も授業中にチラチラチラチラ、………気づいてへんと思うてた?」
「ご、ごめん、………」
「あはは、むっつりさんやなぁ。でも正直な子はうち好きやから、しばらくこないしてよか。さっきみたいなのは苦しだけやったやろ?」
と、その時だった。
「おーい、啓介ー、いつまで忘れもの探してるんだ?」
と友人が教室に入ってきた。美桜を見つけて、
「おぉ、佐々木じゃないか。啓介を見なかったか?」
「啓介くんならさっき腹痛(はらいた)でトイレに行きはったよ」
「そうか、俺も忘れものをしたような気がして来たが、入れ違いになったか」
「―――?」
あれ? と思った。
―――なんで僕らの状況を不思議に思わないんだろう?
「み、美桜ちゃん」
と、言うと美桜は不敵に笑って、
「驚きはった? うち超能力使えんねん。ほら、こんな風に」
と左手の人差し指をピンと立てて僕の目にかざした。
すると途端に、クラクラと眼の前が揺れた。そして胸が苦しくなった。頬も耳も火傷しそうなほど熱くなって、口がぽかんと開く。そしてただでさえ可愛い女の子がさらに可愛く見えてきて、………あっ、あっ、………か、かわいい………!!
「あはは、目ぇとろっとろやん」
「うあ、うあ、………」
「声もしどろで、体が熱うなって、うちのことしか考えられなくなって、………ええねんで? おっぱい揉んでも、顔を埋めてぇも、口を吸い付けても」
「―――?!」
一体何が起こったのか分からなかった。分からなかったけれども説明すると、おもむろに立ち上がった美桜が指をパチンと鳴らすと体が空に浮き上がって、次の瞬間には小さな虫のごとく彼女に抱きついていたのである。
「しゅ、しゅごいいいいい!」
僕はそう叫んだ。
―――とろけていく。
脳がとろけていく感覚がする。動きも考えも支配されて僕が自由に動かせるのは手だけ、足はガッチリと彼女をホールドし、胴体はみっちりとそのなまめかしい体に張り付き、顔は再び胸に押し付けられている。
これでおっぱいを揉んだらどうなるのだろう。………
「あぅあ、………あわあわ、………」
それは恐怖とでも言うような感覚だった。触れたら終わる、確実におっぱいの虜になって人間性を失ってしまう。………だけれども手が伸びていく、おっぱいに、おっぱいに。
と、かすかに手先が触れた。「あ、終わった」と思った。
「なにこれ! なにこれええええええ!!!」
やっぱり一度触れたら最後だった。手が、止まらない。
「き、気持ちいいいいいい!!!」
あゝ、これが美桜ちゃんのおっぱい。僕の顔よりはるかに大きなおっぱい、いつも目の前で揺れるのを見つめるだけだったおっぱい、みんなが羨ましがるおっぱい、さっき自分の頭を丸ごと包んできたおっぱい、世界一のおっぱい、………おっぱい、おっぱい、美桜ちゃんのおっぱい、………
「あーあ、もううちのおっぱいのことしか考えられへんようなったなぁ」
と言ううちにも、ぎゅうううっと抱きしめておっぱいに顔をうずめ匂いを嗅ぎ、首元から手を突っ込んでじかにおっぱいに触れ、裾を軽くたくって彼女のおっぱいを覆う純白のブラジャーを堪能する。
「むああああああ!………」
何という快感、………
おっぱい、………
おっぱい、………
美桜ちゃんのおっぱい、………
彼女に再び人差し指を目にかざされると、恐ろしいまでの衝撃に駆られて、おっぱいの中でも特に大切な突起物に吸い付いた。あれ? と思ったら僕は今、制服を透いて、下着も透いて乳首を吸っているらしかった。そしてその乳首を口に含むのも自分の意思ではしていなかった。
それはまるで魔法だった。人差し指一本だけで僕の手足���彼女の思い通りに動いて、思考は全て奪われた。彼女がくるくると指を回すと頭が勝手に谷間へと向かった。彼女が指で空間を切ると僕の制服は真っ二つになった。彼女が5本の指を小さく折りたたむと、僕の体は赤ん坊のように小さくなった。彼女が指をクイと動かすと、僕は誘われるかの如く彼女の胸元に収まった。
そして赤ん坊のようにちゅうちゅうとおっぱいを吸った。―――
「ちゅうちゅう、ちゅうちゅう、………」
「ふふふ、かわいいなぁ」
「ちゅううう………!」
「ふふ、―――あ! せや、今うちが超能力使うんやめたらどうなるんやろ」
ふと美桜が言った。
「ちょっとやってみよか」
人差し指をくるりと回す。すると、
「んん?」
と友人がこちらを見た。
「どしたん?」
「なんか音がしたんだけど、佐々木は聞こえたか?」
「うちはなんも聞こえへんかったよ」
と、美桜は言って僕の方を顧みた。
「まさか全部見せるんやと思うた? あはは、いくらうちでもそんなことはせぇへんよ」
と言うものの、僕は赤ん坊にされると同時に知能までも剥奪されて、その実この言葉の意味がよく理解出来なかった。
「ばあ!」
「あーあー、よちよちよち、けいすけくんおっぱいおいちい?」
「あぅあぅ!」
「せやねー、友達邪魔やねんなぁ。よし、せやったらけいすけくんのために消してあげよか」
と指をくるくると回す。すると今までそこで忘れものを探そうとロッカーを覗いていた友人の姿は、その座席ごと、―――荷物も、制服も、身につけていた腕時計も何もかも、光がまたたくのと同じように消えた。
「きゃっきゃっ」
「帰る?」
「ばうばう、あー」
「ふんふん、けいすけくんはほんまにおっぱいが好きやなぁ。ほんま赤ん坊みたいやで。ほんならこないしてやろ」
と今度は親指と中指をぴったり合わせてパッチンと鳴らした。僕の体は赤ん坊からさらに小さくなって、リスのようになって、ネズミのようになって、最終的に蟻のサイズへ。彼女の手のひらの上でゴロゴロと転がされて、怖くてびーびー泣くのを見つめられる。
そしてブラジャーのカップの中へと入れられた。
そして次に見たのは、どんどん迫ってくる大きな大きな乳首だった。
僕はおっぱいとブラジャーの板挟みにされてもがき苦しんだけれども、ちょうどよい段差を見つけてそこに滑り込んだ。
「あーあ、気をつけなあかんて言うたのに、まったく啓介くんはかぁいいなぁ」
 時に、日が沈んで教室の中は真っ暗と、広々とした室内に半分に切れた一着の制服、闇の中に紛れて持ち主の帰りを待つ。
女神のような少女はそれすらも消して教室を後にしたが。
3 notes · View notes
susanowa · 5 years ago
Text
『大冒険はボタンから/1:Starting from a button of the mistake.』 1:ボタン
 カツン、コツン、コロコロロ。
 彼が、部屋の掃除を7割方終えた頃、|ソレ《・・》は、室内に転がり出た。
 書類の束が|堆《うずたか》く積まれた上。壁面の高い所に取り付けられている大きくて丸い時計は、11時5分を指している。
 コロロロロォ……カツン、ココンッ、ガキンッ―――!  机の上から、フローリングの床へダイブしたモノは、室内を縦横無尽に|跳ね回り続けている《・・・・・・・・・》。
「これは、いけませんねえ。面倒なモノを……見つけてしまったかもしれません」  額に|滲《にじ》む冷たい汗を、手の甲で拭う、年の頃は20代半ばと思われる青年。
 ボソン! ……コッーン! コカカカカカカーン!  紙束などに当たったときは、一瞬勢いが弱まるが、堅いフローリングに落ちたところで、勢いが復活してしまう。
 コココッ、カキン! コロコロロロッ!
 ゴロロロロロロロロッ……ゴチン!  ソレは、部屋の隅、冷蔵庫が有るあたりへ転がっていった。
「やっと止まってくれましたか。あまり|煩《うるさ》くすると、また怒鳴り込まれてしまうトコでした……」  彼は、溜息を付き、手にしていたファイルと、ミストパイプを作業机の上に放り出した。高級そうなオフィスチェアごと、部屋の対角線へ振り返る。  彼の服装は、仕立ての良さそうなスラックスに、ノータイの薄ピンク色のYシャツ。年齢からすると、やや、堅い部屋着と言える。
 ゆったりとした広さの、書斎のような空間。長い足を延ばして、ダンサーの|如《ごと》き跳躍をみせ、書斎の床の中央付近を華麗に飛び越えた。
 すとん。その細身ながらも筋肉質な長身を、最大限に縮めて、着地の衝撃を吸収する。  ぺたり。着地した姿勢から、そのまま床にへたり込んだ青年は、1ドア、レトロな冷蔵庫の下へ手を伸ばした。
「んぎぎぎぎっ……」  顔面を冷蔵庫に押しつけるほど、伸ばした指先がコツリ。冷蔵庫の脚に踏ませてあった、耐震シートにくっついてた|ソレ《・・》に触れた。
 コッコッガツン! コロコロコローーーーーーーッ!  再び、転がり逃げる小さくて丸いもの。
 彼は慌てて立ち上がるが、振り向いたときには、既に遅かった。  コンッ、コココココココココンッ!  サイドチェストと床壁面で囲まれたコーナースペースへ飛び込んだ丸くて平たいモノが、乱反射する度に加速していく。
 ゴガカカカッ―――!  それは既に、危険な速度に達していた。 「くっ!」  |飛翔物体《・・・・》は、青年に向かって、一直線に飛来する。
「―――それで、その跳ね回る物体を、どうやって捕まえたの?」
「それがですね、ちょうど冷蔵庫の方に向かって飛んできてくれたので、冷蔵庫のドアを開けて、―――」
「冷蔵庫に閉じ込めたというわけか」  鈴の音のような、聴き心地の良いソプラノ。
「���い。そのまま放置して……3時間は経過したので、流石にもう大人しくなってくれているとは思うのですが……」  彼が確認した店内の時計は、2時30分を指し示している。  24時間営業のファミレスの窓の外は、真っ暗で、何も見えない。
「あれ? 君、愛用の時計はどうした?」
「それが、……なにぶんアンティークなもので、とうとう壊れてしまいました」
「ふーん。良く似合っていたのに……残念だな」  見方によっては愛嬌のある大げさな仕草で、ナイフとフォークをガシャンと放り出す。
「まあ、本当に古いモノだったから、仕方がないですよ。ただ、時間が判らないと不便ですけどね」  彼は手首を指し示す。
「ふむ。相変わらず、デジタル嫌いは直らないのか?」
「僕的には、デジタル時計も、スマホもノートPCも嫌いではないのですけどね……」
「そうだったね、デジタル機器の方が、君を嫌っているんだったね……初めて聞いたときは、とても信じられなかったけど」
「……はははは」  力なく笑う青年の横へ立つ、年の頃は17、8歳の少女。ヨレヨレの白衣、大きな洗濯クリップで|纏《まと》めただけの、ボサボサの髪。赤みがかった金髪が揺れている。
「どうしました? もう研究所へお戻りですか?」  青年は、仕立ての良さそうなスラックスに、薄手のパーカーを合わせている。  パーカーの首元から覗いているのは、薄ピンク色の|部屋着《シャツ》と思われる。
「何を言っている? 君の家に行くよ」  そう言って、置かれた伝票をひったくって、走り出した少女。  目の下の真っ青な隈、草地を蹴飛ばして歩いていることが伺える緑色に汚れたハイカットスニーカー。あまり見目良いとはいえない印象。
「え!? ウチ来るんですか? 待ってください!」  慌ててストライプのジャケットを羽織り、荷物を抱え、後を追う青年。  磨き込まれた革靴に、ジキトーチカ社製の高級メッセンジャーバッグ。
「僕が誘ったんですから僕が……」 「いーえ、上司が部下に奢るのは当然でしょう?」  そう言って、レジへ提示したのは、首から下げていた、顔写真入りの所員IDパス。『Kanon,Riina Lucie』と書かれている。
「部下といっても、僕は研究所出入りの、ただの文書屋ですから~」
「ふむ。私としては君を|ただの文書屋だなんて《・・・・・・・・・・》思ったことは一度もないが、そう言うなら|なおさらだ《・・・・・》、素直に奢られなさいよ」  ニタリとした笑みを浮かべ、青年を振り返る少女。  やや、不気味だったが、白衣の下のブラウンのワンピースだけは、ちゃんとしてくれていたため、辛うじて、ティーンエイジャーとしての|面目《めんもく》が保てている。
「あんた達、いちゃつくなら外でやっとくれ。ほかのお客に迷惑だろ」  レジに立つ、オールドスタイルなメイド装束の美女が、憮然とした顔で少女の首ごと引っ張って、IDパスをレジスタに通す。
 ジージジジジッ、ガチーン♪
「アタシたちのほかに、お客なんて居ないじゃないさ」  フンッ! と首を持ち上げ、ネックストラップに取り付けられたIDパスを取り返す少女。
 とっとと出ていってしまう少女を、眼で追いかける青年。  レシートを受け取り、少女の非礼をウエイトレスに会釈して詫びる。  少女のモノであるらしい、小さなジュラルミンケースを小脇に抱えるその姿は、まるで付き人である。
 長身で引き締まった身体。柔らかい物腰。彫りが深く高い鼻、どこの映画スターかと問いただしたくなるほどの、眉目秀麗さ。 「まったく、あんなにイイ男なのに、勿体ないったらありゃしない」  ウエイトレスは、青年と少女の座っていたテーブルに向かい、食器を片づけ始めた。
「待ってくだっ―――さい?」  |ファミレス《ダイナー》を飛び出し、家路へ向かうルートへダッシュした青年は、10歩も進まないウチに、少女を追い越した。
「ふー、今度一緒にジョギングでもしませんか? 運動不足では研究に差し障りますよ?」  歩道へヘタリ込んでいた彼女へ、手を差し伸べる彼。
「う、うるさいわね。ちょっと食べ過ぎで苦しくなっただけよ」  年相応な、|辿々《たどたど》しい返事が返ってくる。  普段の老人のような落ち着いた物言いは、彼女の地では無いらしい。
 カカカッ。
「何よ、この音?」  と不意に顔を上げた少女と、眼が合う青年。 「何か聞こえましたか?」  青年には聞こえなかったようだ、あたりを見回している。
 少女が向いている方向は、青年の住まいが佇む方角だった。  彼は振り向いたが、そこには暗闇と歩道しか無い。
 ヴォムン!  爆発音と共に、小さな炎が飛び上がった。  漆黒の空を見上げる2人。
 カカッ―――――――――!
 突如、あたりは|眩《まばゆ》い光で包まれた。  白昼のように、いや、それよりも鮮明にあらゆるモノを照らし出した。  抱えていた荷物を放り出した青年は、光から顔を背けながらも、少女を|庇《かば》う様に覆い被さる。
 眼をキツく閉じた少女の|瞼《まぶた》の裏には、上空へ飛び上がった物体の姿が焼き付いたようだった。
「あれ、|君ん家の冷蔵庫《・・・・・・・》じゃなかった!?」
 凄まじい強さの光はやがて収まり、闇夜は一瞬にして漆黒を取り戻した。  ゴチャッ!  遠くの方で何か(おそらくは冷蔵庫)が、地面へ落ちた衝撃音。
「まあ、|我が家《ウチ》なら、……周りに|人家《じんか》も有りませんし、……だ、大丈夫ですよ、よ」  僅かに眼が泳いではいるが、気丈に振る舞う青年。
 ヒュルルルルッーーーーカァーーン!  上空を見上げていた2人の目の前。  歩道へ落ちてきた赤く光るもの。  その尾を引く赤光は地を跳ね、2人を大きく飛び越した。
 歩道脇の芝生へ飛び込んだ、燃えるような、……実際に燃えているソレは、プスプスと芝生を焦がし始める。
「|砥~述~《ト~ノベ~》! ―――水ーっ!」  少女は振り向きざまに、良く通る声で号令を出した。
「つぁーーー!」  彼、―――|砥述《トノベ》と呼ばれた青年は、さっきまでの物静かな口調とはまるで違う、奇声を発する。  腰を落とした直後、その姿が夜闇にかき消えるが如く、彼は姿を隠す。  袈裟懸けにされていたメッセンジャーバッグが、空中に取り残される。  ビキッ!  歩道に亀裂が入り、その上にメッセンジャーバッグが落ちた。
 バッグの横に、取り付けられていたはずのミネラルウォーターは、煙を立てる芝生の直上にあった。  ボトルのキャップと底を、手のひらで押さえる|青年も一緒に《・・・・・・》だ。  空中に出現した彼は、上下逆の上に、斜めになっていたが、その――リムジンで言ったら約2台分の――距離を一瞬で跳躍した事になる。
「っつぁあ゛ーーーーっ!!」  そして再び、空気を一気に、吐き出すような|呼吸法《奇声》。  その気合いと共に、ペットボトルが両の手のひらに収まり、パコンと閉じられた。  スプリンクラーみたいに水が|満遍《まんべん》なく掛けられ、|燻《くすぶ》っていた芝生が|鎮火《ちんか》する。
 ジュウウウウウウウッ!  赤く燃えて発光していた、コイン程度の大きさの|モノ《・・》は、冷却され水蒸気を発生させた。
 ドタン!  身体をクルリと半回転ひねって、ギリギリで、芝生の上へ着地した|砥述《トノベ》青年。
「|砥述《トノベ》ー! 大丈夫かっ―――!?」  慌てて駆け寄って来た白衣の少女が、芝生に足を取られて、―――転んだ。  下は芝生だから、少しくらい転んでも安全だが、さっきまで燃えていた物体に、触れれば|火傷《やけど》をしてしまうだろう。
 青年は、一瞬の|躊躇《ちゅうちょ》もなく、目の前の、まだ水蒸気を発している|物体《モノ》を、素手で掴んだ。
「あっち、あっちちっ!」  鎮火したとは言え、まだ、熱かったようで、手のひらの上をポンポンと、飛び跳ねさせている。赤く焼けていた金属に水を掛けた所で、直後に触れれば火傷するに決まっている。だが、彼は手の上で跳ねさせている。その様子から、特殊な材質で出来ていることが|窺《うかが》える。
「君は、そんなにも熱いモノを素手で掴んだりして、バカだなあっ、……あははははっ!」  そう笑う彼女は、焦げた芝生や|撒《ま》かれた水で、全身ぐっしょりだ。|頬《ほほ》も|煤《すす》だらけと、散々な状態だが、瞳をきらきらと輝かせている。青年をあざ笑うことに、全身全霊を|捧《ささ》げているのだ。
「……|佳音《カノン》さん、笑ってる場合じゃありませんよ。これがさっきお話しした、例の”|跳ね続ける物体《・・・・・・・》”ですよ」
 彼の手のひらを、飛び跳ねている|煤《すす》だらけの灰色の物体は、大きさは5セント硬貨くらい(直径2センチ、厚さ2ミリ程度)。直径沿いに2個の小さな丸穴が開いている。
「……確かに、飛び跳ねているな」  彼女、―――|佳音《カノン》と呼ばれた少女は、跳ねる動きに合わせて顔を上下させている。 「これは、|火傷《やけど》しないように、|手で跳ねさせてるだけ《・・・・・・・・・・》ですよ。硬い物じゃなければ反発は起きないようです、あちちっ!」  やはり、熱かったのか、|砥述《トノベ》はソレを放り出した。  ぼそり。  再び芝生の上に落ちたソレを、|佳音《カノン》がハンカチで、つかみ上げる。
「君、コレ、|シャツのボタン《・・・・・・・》にしか見えないのだが?」
1 note · View note
kurihara-yumeko · 4 years ago
Text
【小説】The day I say good-bye (1/4) 【再録】
 今日は朝から雨だった。
 確か去年も雨だったよな、と僕は窓ガラスに反射している自分の顔を見つめて思った。僕を乗せたバスは、小雨の降る日曜の午後を北へ向かって走る。乗客は少ない。
 予定より五分遅れて、予定通りバス停「船頭町三丁目」で降りた。灰色に濁った水が流れる大きな樫岸川を横切る橋を渡り、広げた傘に雨音が当たる雑音を聞きながら、柳の並木道を歩く。
 小さな古本屋の角を右へ、古い木造家屋の住宅ばかりが建ち並ぶ細い路地を抜けたら左へ。途中、不機嫌そうな面構えの三毛猫が行く手を横切った。長い長い緩やかな坂を上り、苔生した石段を踏み締めて、赤い郵便ポストがあるところを左へ。突然広くなった道を行き、椿だか山茶花だかの生け垣のある家の角をまた左へ。
 そうすると、大きなお寺の屋根が見えてくる。囲われた塀の中、門の向こうには、静かな墓地が広がっている。
 そこの一角に、あーちゃんは眠っている。
 砂利道を歩きながら、結構な数の墓の中から、あーちゃんの墓へ辿り着く。もう既に誰かが来たのだろう。墓には真っ白な百合と、あーちゃんの好物であった焼きそばパンが供えてあった。あーちゃんのご両親だろうか。
 手ぶらで来てしまった僕は、ただ墓石を見上げる。周りの墓石に比べてまだ新しいその石は、手入れが行き届いていることもあって、朝から雨の今日であっても穏やかに光を反射している。
 そっと墓石に触れてみた。無機質な冷たさと硬さだけが僕の指先に応えてくれる。
 あーちゃんは墓石になった。僕にはそんな感覚がある。
 あーちゃんは死んだ。死んで、燃やされて、灰になり、この石の下に閉じ込められている。埋められているのは、ただの灰だ。あーちゃんの灰。
 ああ。あーちゃんは、どこに行ってしまったんだろう。
 目を閉じた。指先は墓石に触れたまま。このままじっとしていたら、僕まで石になれそうだ。深く息をした。深く、深く。息を吐く時、わずかに震えた。まだ石じゃない。まだ僕は、石になれない。
 ここに来ると、僕はいつも泣きたくなる。
 ここに来ると、僕はいつも死にたくなる。
 一体どれくらい、そうしていたのだろう。やがて後ろから、砂利を踏んで歩いてくる音が聞こえてきたので、僕は目を開き、手を引っ込めて振り向いた。
「よぉ、少年」
 その人は僕の顔を見て、にっこり笑っていた。
 総白髪かと疑うような灰色の頭髪。自己主張の激しい目元。頭の上の帽子から足元の厚底ブーツまで塗り潰したように真っ黒な恰好の人。
「やっほー」
 蝙蝠傘を差す左手と、僕に向けてひらひらと振るその右手の手袋さえも黒く、ちらりと見えた中指の指輪の石の色さえも黒い。
「……どうも」
 僕はそんな彼女に対し、顔の筋肉が引きつっているのを無理矢理に動かして、なんとか笑顔で応えて見せたりする。
 彼女はすぐ側までやってきて、馴れ馴れしくも僕の頭を二、三度柔らかく叩く。
「こんなところで奇遇だねぇ。少年も墓参りに来たのかい」
「先生も、墓参りですか」
「せんせーって呼ぶなしぃ。あたしゃ、あんたにせんせー呼ばわりされるようなもんじゃございませんって」
 彼女――日褄小雨先生はそう言って、だけど笑った。それから日褄先生は僕が先程までそうしていたのと同じように、あーちゃんの墓石を見上げた。彼女も手ぶらだった。
「直正が死んで、一年か」
 先生は上着のポケットから煙草の箱とライターを取り出す。黒いその箱から取り出された煙草も、同じように黒い。
「あたしゃ、ここに来ると後悔ばかりするね」
 ライターのかちっという音、吐き出される白い煙、どこか甘ったるい、ココナッツに似たにおいが漂う。
「あいつは、厄介なガキだったよ。つらいなら、『つらい』って言えばいい、それだけのことなんだ。あいつだって、つらいなら『つらい』って言ったんだろうさ。だけどあいつは、可哀想なことに、最後の最後まで自分がつらいってことに気付かなかったんだな」
 煙草の煙を揺らしながら、そう言う先生の表情には、苦痛と後悔が入り混じった色が見える。口に煙草を咥えたまま、墓前で手を合わせ、彼女はただ目を閉じていた。瞼にしつこいほど塗られた濃い黒い化粧に、雨の滴が垂れる。
 先生はしばらくして瞼を開き、煙草を一度口元から離すと、ヤニ臭いような甘ったるいような煙を吐き出して、それから僕を見て、優しく笑いかけた。それから先生は背を向け、歩き出してしまう。僕は黙ってそれを追った。
 何も言わなくてもわかっていた。ここに立っていたって、悲しみとも虚しさとも呼ぶことのできない、吐き気がするような、叫び出したくなるような、暴れ出したくなるような、そんな感情が繰り返し繰り返し、波のようにやってきては僕の心の中を掻き回していくだけだ。先生は僕に、帰ろう、と言ったのだ。唇の端で、瞳の奥で。
 先生の、まるで影法師が歩いているかのような黒い後ろ姿を見つめて、僕はかつてたった一度だけ見た、あーちゃんの黒いランドセルを思い出す。
 彼がこっちに引っ越してきてからの三年間、一度も使われることのなかった傷だらけのランドセル。物置きの中で埃を被っていたそれには、あーちゃんの苦しみがどれだけ詰まっていたのだろう。
 道の途中で振り返る。先程までと同じように、墓石はただそこにあった。墓前でかけるべき言葉も、抱くべき感情も、するべき行為も、何ひとつ僕は持ち合わせていない。
 あーちゃんはもう死んだ。
 わかりきっていたことだ。死んでから何かしてあげても無駄だ。生きているうちにしてあげないと、意味がない。だから、僕がこうしてここに立っている意味も、僕は見出すことができない。僕がここで、こうして呼吸をしていて、もうとっくに死んでしまったあーちゃんのお墓の前で、墓石を見つめている、その意味すら。
 もう一度、あーちゃんの墓に背中を向けて、僕は今度こそ歩き始めた。
「最近調子はどう?」
 墓地を出て、長い長い坂を下りながら、先生は僕にそう尋ねた。
「一ヶ月間、全くカウンセリング来なかったけど、何か変化があったりした?」
 黙っていると先生はさらにそう訊いてきたので、僕は仕方なく口を開く。
「別に、何も」
「ちゃんと飯食ってる? また少し痩せたんじゃない?」
「食べてますよ」
「飯食わないから、いつまでも身長伸びないんだよ」
 先生は僕の頭を、目覚まし時計を止める時のような動作で乱雑に叩く。
「ちょ……やめて下さい���」
「あーっはっはっはっはー」
 嫌がって身をよじろうとするが、先生はそれでもなお、僕に攻撃してくる。
「ちゃんと食わないと。摂食障害になるとつらいよ」
「食べますよ、ちゃんと……」
「あと、ちゃんと寝た方がいい。夜九時に寝ろ。身長伸びねぇぞ」
「九時に寝られる訳ないでしょう、小学生じゃあるまいし……」
「勉強なんかしてるから、身長伸びねぇんだよ」
「そんな訳ないでしょう」
 あはは、と朗らかに彼女は笑う。そして最後に優しく、僕の頭を撫でた。
「負けるな、少年」
 負けるなと言われても、一体何に――そう問いかけようとして、僕は口をつぐむ。僕が何と戦っているのか、先生はわかっているのだ。
「最近、市野谷はどうしてる?」
 先生は何気ない声で、表情で、タイミングで、あっさりとその名前を口にした。
「さぁ……。最近会ってないし、電話もないし、わからないですね」
「ふうん。あ、そう」
 先生はそれ以上、追及してくることはなかった。ただ独り言のように、「やっぱり、まだ駄目か」と言っただけだった。
 郵便ポストのところまで歩いてきた時、先生は、「あたしはあっちだから」と僕の帰り道とは違う方向を指差した。
「駐車場で、葵が待ってるからさ」
「ああ、葵さん。一緒だったんですか」
「そ。少年は、バスで来たんだろ? 家まで車で送ろうか?」
 運転するのは葵だけど、と彼女は付け足して言ったが、僕は首を横に振った。
「ひとりで帰りたいんです」
「あっそ。気を付けて帰れよ」
 先生はそう言って、出会った時と同じように、ひらひらと手を振って別れた。
 路地を右に曲がった時、僕は片手をパーカーのポケットに入れて初めて、とっくに音楽が止まったままになっているイヤホンを、両耳に突っ込んだままだということに気が付いた。
 僕が小学校を卒業した、一年前の今日。
 あーちゃんは人生を中退した。
 自殺したのだ。十四歳だった。
 遺書の最後にはこう書かれていた。
「僕は透明人間なんです」
    あーちゃんは僕と同じ団地に住んでいて、僕より二つお兄さんだった。
 僕が小学一年生の夏に、あーちゃんは家族四人で引っ越してきた。冬は雪に閉ざされる、北の方からやって来たのだという話を聞いたことがあった。
 僕はあーちゃんの、団地で唯一の友達だった。学年の違う彼と、どんなきっかけで親しくなったのか正確には覚えていない。
 あーちゃんは物静かな人だった。小学生の時から、年齢と不釣り合いなほど彼は大人びていた。
 彼は人付き合いがあまり得意ではなく、友達がいなかった。口数は少なく、話す時もぼそぼそとした、抑揚のない平坦な喋り方で、どこか他人と距離を取りたがっていた。
 部屋にこもりがちだった彼の肌は雪みたいに白くて、青い静脈が皮膚にうっすら透けて見えた。髪が少し長くて、色も薄かった。彼の父方の祖母が外国人だったと知ったのは、ずっと後のことだ。銀縁の眼鏡をかけていて、何か困ったことがあるとそれをかけ直す癖があった。
 あーちゃんは器用だった。今まで何度も彼の部屋へ遊びに行ったことがあるけれど、そこには彼が組み立てたプラモデルがいくつも置かれていた。
 僕が加減を知らないままにそれを乱暴に扱い、壊してしまったこともあった。とんでもないことをしてしまったと、僕はひどく後悔してうつむいていた。ごめんなさい、と謝った。年上の友人の大切な物を壊してしまって、どうしたらよいのかわからなかった。鼻の奥がつんとした。泣きたいのは壊されたあーちゃんの方だっただろうに、僕は泣き出しそうだった。
 あーちゃんは、何も言わなかった。彼は立ち尽くす僕の前でしゃがみ込んだかと思うと、足下に散らばったいびつに欠けたパーツを拾い、引き出しの中からピンセットやら接着剤やらを取り出して、僕が壊した部分をあっという間に直してしまった。
 それらの作業がすっかり終わってから彼は僕を呼んで、「ほら見てごらん」と言った。
 恐る恐る近付くと、彼は直ったばかりの戦車のキャタピラ部分を指差して、
「ほら、もう大丈夫だよ。ちゃんと元通りになった。心配しなくてもいい。でもあと1時間は触っては駄目だ。まだ接着剤が乾かないからね」
 と静かに言った。あーちゃんは僕を叱ったりしなかった。
 僕は最後まで、あーちゃんが大声を出すところを一度も見なかった。彼が泣いている姿も、声を出して笑っているのも。
 一度だけ、あーちゃんの満面の笑みを見たことがある。
 夏のある日、僕とあーちゃんは団地の屋上に忍び込んだ。
 僕らは子供向けの雑誌に載っていた、よく飛ぶ紙飛行機の作り方を見て、それぞれ違うモデルの紙飛行機を作り、どちらがより遠くへ飛ぶのかを競走していた。
 屋上から飛ばしてみよう、と提案したのは僕だった。普段から悪戯などしない大人しいあーちゃんが、その提案に首を縦に振ったのは今思い返せば珍しいことだった。そんなことはそれ以前も以降も二度となかった。
 よく晴れた日だった。屋上から僕が飛ばした紙飛行機は、青い空を横切って、団地の駐車場の上を飛び、道路を挟んだ向かいの棟の四階、空き部屋のベランダへ不時着した。それは今まで飛ばしたどんな紙飛行機にも負けない、驚くべき距離だった。僕はすっかり嬉しくなって、得意げに叫んだ。
「僕が一番だ!」
 興奮した僕を見て、あーちゃんは肩をすくめるような動作をした。そして言った。
「まだわからないよ」
 あーちゃんの細い指が、紙飛行機を宙に放つ。丁寧に折られた白い紙飛行機は、ちょうどその時吹いてきた風に背中を押されるように屋上のフェンスを飛び越え、僕の紙飛行機と同じように駐車場の上を通り、向かいの棟の屋根を越え、それでもまだまだ飛び続け、青い空の中、最後は粒のようになって、ついには見えなくなってしまった。
 僕は自分の紙飛行機が負けた悔しさと、魔法のような素晴らしい出来事を目にした嬉しさとが半分ずつ混じった目であーちゃんを見た。その時、僕は見たのだ。
 あーちゃんは声を立てることはなかったが、満足そうな笑顔だった。
「僕は透明人間なんです」
 それがあーちゃんの残した最後の言葉だ。
 あーちゃんは、僕のことを怒ればよかったのだ。地団太を踏んで泣いてもよかったのだ。大声で笑ってもよかったのだ。彼との思い出を振り返ると、いつもそんなことばかり思う。彼はもう永遠に泣いたり笑ったりすることはない。彼は死んだのだから。
 ねぇ、あーちゃん。今のきみに、僕はどんな風に見えているんだろう。
 僕の横で静かに笑っていたきみは、決して透明なんかじゃなかったのに。
 またいつものように春が来て、僕は中学二年生になった。
 張り出されていたクラス替えの表を見て、そこに馴染みのある名前を二つ見つけた。今年は、二人とも僕と同じクラスのようだ。
 教室へ向かってみたけれど、始業の時間になっても、その二つの名前が用意された席には、誰も座ることはなかった。
「やっぱり、まだ駄目か」
 誰かと同じ言葉を口にしてみる。
 本当は少しだけ、期待していた。何かが良くなったんじゃないかと。
 だけど教室の中は新しいクラスメイトたちの喧騒でいっぱいで、新年度一発目、始業式の今日、二つの席が空白になっていることに誰も触れやしない。何も変わってなんかない。
 何も変わらないまま、僕は中学二年生になった。
 あーちゃんが死んだ時の学年と同じ、中学二年生になった。
 あの日、あーちゃんの背中を押したのであろう風を、僕はずっと探してる。
 青い空の果てに、小さく消えて行ってしまったあーちゃんを、僕と「ひーちゃん」に返してほしくて。
    鉛筆を紙の上に走らせる音が、止むことなく続いていた。
「何を描いてるの?」
「絵」
「なんの絵?」
「なんでもいいでしょ」
「今年は、同じクラスみたいだね」
「そう」
「その、よろしく」
 表情を覆い隠すほど長い前髪の下、三白眼が一瞬僕を見た。
「よろしくって、何を?」
「クラスメイトとして、いろいろ……」
「意味ない。クラスなんて、関係ない」
 抑揚のない声でそう言って、双眸は再び紙の上へと向けられてしまった。
「あ、そう……」
 昼休みの保健室。
 そこにいるのは二人の人間。
 ひとりはカーテンの開かれたベッドに腰掛け、胸にはスケッチブック、右手には鉛筆を握り締めている。
 もうひとりはベッドの脇のパイプ椅子に座り、特にすることもなく片膝を抱えている。こっちが僕だ。
 この部屋の主であるはずの鬼怒田先生は、何か用があると言って席を外している。一体なんの仕事があるのかは知らないが、この学校の養護教諭はいつも忙しそうだ。
 僕はすることもないので、ベッドに座っているそいつを少しばかり観察する。忙しそうに鉛筆を動かしている様子を見ると、今はこちらに注意を払ってはいなそうだから、好都合だ。
 伸びてきて邪魔になったから切った、と言わんばかりのショートカットの髪。正反対に長く伸ばされた前髪は、栄養状態の悪そうな青白い顔を半分近く隠している。中学二年生としては小柄で華奢な体躯。制服のスカートから伸びる足の細さが痛々しく見える。
 彼女の名前は、河野ミナモ。僕と同じクラス、出席番号は七番。
 一言で表現するならば、彼女は保健室登校児だ。
 鉛筆の音が、止んだ。
「なに?」
 ミナモの瞬きに合わせて、彼女の前髪が微かに動く。少しばかり長く見つめ続けてしまったみたいだ。「いや、なんでもない」と言って、僕は天井を仰ぐ。
 ミナモは少しの間、何も言わずに僕の方を見ていたようだが、また鉛筆を動かす作業を再開した。
 鉛筆を走らせる音だけが聞こえる保健室。廊下の向こうからは、楽しそうに駆ける生徒たちの声が聞こえてくるが、それもどこか遠くの世界の出来事のようだ。この空間は、世界から切り離されている。
「何をしに来たの」
「何をって?」
「用が済んだなら、帰れば」
 新年度が始まったばかりだからだろうか、ミナモは機嫌が悪いみたいだ。否、機嫌が悪いのではなく、具合が悪いのかもしれない。今日の彼女はいつもより顔色が悪いように見える。
「いない方がいいなら、出て行くよ」
「ここにいてほしい人なんて、いない」
 平坦な声。他人を拒絶する声。憎しみも悲しみも全て隠された無機質な声。
「出て行きたいなら、出て行けば?」
 そう言うミナモの目が、何かを試すように僕を一瞥した。僕はまだ、椅子から立ち上がらない。彼女は「あっそ」とつぶやくように言った。
「市野谷さんは、来たの?」
 ミナモの三白眼がまだ僕を見ている。
「市野谷さんも同じクラスなんでしょ」
「なんだ、河野も知ってたのか」
「質問に答えて」
「……来てないよ」
「そう」
 ミナモの前髪が揺れる。瞬きが一回。
「不登校児二人を同じクラスにするなんて、学校側の考えてることってわからない」
 彼女の言葉通り、僕のクラスには二人の不登校児がいる。
 ひとりはこの河野ミナモ。
 そしてもうひとりは、市野谷比比子。僕は彼女のことを昔から、「ひーちゃん」と呼んでいた。
 二人とも、中学に入学してきてから一度も教室へ登校してきていない。二人の机と椅子は、一度も本人に使われることなく、今日も僕の教室にある。
 といっても、保健室登校児であるミナモはまだましな方で、彼女は一年生の頃から保健室には登校してきている。その点ひーちゃんは、中学校の門をくぐったこともなければ、制服に袖を通したことさえない。
 そんな二人が今年から僕と同じクラスに所属になったことには、正直驚いた。二人とも��と接点があるから、なおさらだ。
「――くんも、」
 ミナモが僕の名を呼んだような気がしたが、上手く聞き取れなかった。
「大変ね、不登校児二人の面倒を見させられて」
「そんな自嘲的にならなくても……」
「だって、本当のことでしょ」
 スケッチブックを抱えるミナモの左腕、ぶかぶかのセーラー服の袖口から、包帯の巻かれた手首が見える。僕は自分の左手首を見やる。腕時計をしているその下に、隠した傷のことを思う。
「市野谷さんはともかく、教室へ行く気なんかない私の面倒まで、見なくてもいいのに」
「面倒なんて、見てるつもりないけど」
「私を訪ねに保健室に来るの、――くんくらいだよ」
 僕の名前が耳障りに響く。ミナモが僕の顔を見た。僕は妙な表情をしていないだろうか。平然を装っているつもりなのだけれど。
「まだ、気にしているの?」
「気にしてるって、何を?」
「あの日のこと」
 あの日。
 あの春の日。雨の降る屋上で、僕とミナモは初めて出会った。
「死にたがり屋と死に損ない」
 日褄先生は僕たちのことをそう呼んだ。どっちがどっちのことを指すのかは、未だに訊けていないままだ。
「……気にしてないよ」
「そう」
 あっさりとした声だった。ミナモは壁の時計をちらりと見上げ、「昼休み終わるよ、帰れば」と言った。
 今度は、僕も立ち上がった。「それじゃあ」と口にしたけれど、ミナモは既に僕への興味を失ったのか、スケッチブックに目線を落とし、返事のひとつもしなかった。
 休みなく動き続ける鉛筆。
 立ち上がった時にちらりと見えたスケッチブックは、ただただ黒く塗り潰されているだけで、何も描かれてなどいなかった。
    ふと気付くと、僕は自分自身が誰なのかわからなくなっている。
 自分が何者なのか、わからない。
 目の前で展開されていく風景が虚構なのか、それとも現実なのか、そんなことさえわからなくなる。
 だがそれはほんの一瞬のことで、本当はわかっている。
 けれど感じるのだ。自分の身体が透けていくような感覚を。「自分」という存在だけが、ぽっかりと穴を空けて突っ立っているような。常に自分だけが透明な膜で覆われて、周囲から隔離されているかのような疎外感と、なんの手応えも得られない虚無感と。
 あーちゃんがいなくなってから、僕は頻繁にこの感覚に襲われるようになった。
 最初は、授業が終わった後の短い休み時間。次は登校中と下校中。その次は授業中にも、というように、僕が僕をわからなくなる感覚は、学校にいる間じゅうずっと続くようになった。しまいには、家にいても、外にいても、どこにいてもずっとそうだ。
 周りに人がいればいるほど、その感覚は強かった。たくさんの人の中、埋もれて、紛れて、見失う。自分がさっきまで立っていた場所は、今はもう他の人が踏み荒らしていて。僕の居場所はそれぐらい危ういところにあって。人混みの中ぼうっとしていると、僕なんて消えてしまいそうで。
 頭の奥がいつも痛かった。手足は冷え切ったみたいに血の気がなくて。酸素が薄い訳でもないのにちゃんと息ができなくて。周りの人の声がやたら大きく聞こえてきて。耳の中で何度もこだまする、誰かの声。ああ、どうして。こんなにも人が溢れているのに、ここにあーちゃんはいないんだろう。
 僕はどうして、ここにいるんだろう。
「よぉ、少年」
 旧校舎、屋上へ続く扉を開けると、そこには先客がいた。
 ペンキがところどころ剥げた緑色のフェンスにもたれるようにして、床に足を投げ出しているのは日褄先生だった。今日も真っ黒な恰好で、ココナッツのにおいがする不思議な煙草を咥えている。
「田島先生が、先生のことを昼休みに探してましたよ」
「へへっ。そりゃ参ったね」
 煙をゆらゆらと立ち昇らせて、先生は笑う。それからいつものように、「せんせーって呼ぶなよ」と付け加えた。彼女はさらに続けて言う。
「それで? 少年は何をし、こんなところに来たのかな?」
「ちょっと外の空気を吸いに」
「おお、奇遇だねぇ。あたしも外の空気を吸いに……」
「吸いにきたのはニコチンでしょう」
 僕がそう言うと、先生は、「あっはっはっはー」と高らかに笑った。よく笑う人だ。
「残念だが少年、もう午後の授業は始まっている時間だし、ここは立ち入り禁止だよ」
「お言葉ですが先生、学校の敷地内は禁煙ですよ」
「しょうがない、今からカウンセリングするってことにしておいてあげるから、あたしの喫煙を見逃しておくれ。その代わり、あたしもきみの授業放棄を許してあげよう」
 先生は右手でぽんぽんと、自分の隣、雨上がりでまだ湿気っているであろう床を叩いた。座れと言っているようだ。僕はそれに従わなかった。
 先客がいたことは予想外だったが、僕は本当に、ただ、外の空気を吸いたくなってここに来ただけだ。授業を途中で抜けてきたこともあって、長居をするつもりはない。
 ふと、視界の隅に「それ」が目に入った。
 フェンスの一角に穴が空いている。ビニールテープでぐるぐる巻きになっているそこは、テープさえなければ屋上の崖っぷちに立つことを許している。そう。一年前、あそこから、あーちゃんは――。
(ねぇ、どうしてあーちゃんは、そらをとんだの?)
 僕の脳裏を、いつかのひーちゃんの言葉がよぎる。
(あーちゃん、かえってくるよね? また、あえるよね?)
 ひーちゃんの言葉がいくつもいくつも、風に飛ばされていく桜の花びらと同じように、僕の目の前を通り過ぎていく。
「こんなところで、何をしていたんですか」
 そう質問したのは僕の方だった。「んー?」と先生は煙草の煙を吐きながら言う。
「言っただろ、外の空気を吸いに来たんだよ」
「あーちゃんが死んだ、この場所の空気を、ですか」
 先生の目が、僕を見た。その鋭さに、一瞬ひるみそうになる。彼女は強い。彼女の意思は、強い。
「同じ景色を見たいと思っただけだよ」
 先生はそう言って、また煙草をふかす。
「先生、」
「せんせーって呼ぶな」
「質問があるんですけど」
「なにかね」
「嘘って、何回つけばホントになるんですか」
「……んー?」
 淡い桜色の小さな断片が、いくつもいくつも風に流されていく。僕は黙って、それを見ている。手を伸ばすこともしないで。
「嘘は何回ついたって、嘘だろ」
「ですよね」
「嘘つきは怪人二十面相の始まりだ」
「言っている意味がわかりません」
「少年、」
「はい」
「市野谷に嘘つくの、しんどいのか?」
 先生の煙草の煙も、みるみるうちに風に流されていく。手を伸ばしたところで、掴むことなどできないまま。
「市野谷に、直正は死んでないって、嘘をつき続けるの、しんどいか?」
 ひーちゃんは知らない。あーちゃんが去年ここから死んだことを知らない。いや、知らない訳じゃない。認めていないのだ。あーちゃんの死を認めていない。彼がこの世界に僕らを置き去りにしたことを、許していない。
 ひーちゃんはずっと信じている。あーちゃんは生きていると。いつか帰ってくると。今は遠くにいるけれど、きっとまた会える日が来ると。
 だからひーちゃんは知らない。彼の墓石の冷たさも、彼が飛び降りたこの屋上の景色が、僕の目にどう映っているのかも。
 屋上。フェンス。穴。空。桜。あーちゃん。自殺。墓石。遺書。透明人間。無。なんにもない。ない。空っぽ。いない。いないいないいないいない。ここにもいない。どこにもいない。探したっていない。消えた。消えちゃった。消滅。消失。消去。消しゴム。弾んで。飛んで。落ちて。転がって。その先に拾ってくれるきみがいて。笑顔。笑って。笑ってくれて。だけどそれも消えて。全部消えて。消えて消えて消えて。ただ昨日を越えて今日が過ぎ明日が来る。それを繰り返して。きみがいない世界で。ただ繰り返して。ひーちゃん。ひーちゃんが笑わなくなって。泣いてばかりで。だけどもうきみがいない。だから僕が。僕がひーちゃんを慰めて。嘘を。嘘をついて。ついてはいけない嘘を。ついてはいけない嘘ばかりを。それでもひーちゃんはまた笑うようになって。笑顔がたくさん戻って。だけどどうしてあんなにも、ひーちゃんの笑顔は空っぽなんだろう。
「しんどくなんか、ないですよ」
 僕はそう答えた。
 先生は何も言わなかった。
 僕は明日にでも、怪人二十面相になっているかもしれなかった。
    いつの間にか梅雨が終わり、実力テストも期末テストもクリアして、夏休みまであと一週間を切っていた。
 ひと夏の解放までカウントダウンをしている今、僕のクラスの連中は完璧な気だるさに支配されていた。自主性や積極性などという言葉とは無縁の、慣性で流されているような脱力感。
 先週に教室の天井四ヶ所に取り付けられている扇風機が全て故障したこともあいまって、クラスメイトたちの授業に対する意欲はほぼゼロだ。授業がひとつ終わる度に、皆溶け出すように机に上半身を投げ出しており、次の授業が始まったところで、その姿勢から僅かに起き上がる程度の差しかない。
 そういう僕も、怠惰な中学二年生のひとりに過ぎない。さっきの英語の授業でノートに書き記したことと言えば、英語教師の松田が何回額の汗を脱ぐったのかを表す「正」の字だけだ。
 休み時間に突入し、がやがやと騒がしい教室で、ひとりだけ仲間外れのように沈黙を守っていると、肘辺りから空気中に溶け出して、透明になっていくようなそんな気分になる。保健室には来るものの、自分の教室へは絶対に足を運ばないミナモの気持ちがわかるような気がする。
 一学期がもうすぐ終わるこの時期になっても、相変わらず僕のクラスには常に二つの空席があった。ミナモも、ひーちゃんも、一度だって教室に登校してきていない。
「――くん、」
 なんだか控えめに名前を呼ばれた気はしたが、クラスの喧騒に紛れて聞き取れなかった。
 ふと机から顔を上げると、ひとりの女子が僕の机の脇に立っていた。見たことがあるような顔。もしかして、クラスメイトのひとりだろうか。彼女は廊下を指差して、「先生、呼んでる」とだけ言って立ち去った。
 あまりにも唐突な出来事でその女子にお礼を言うのも忘れたが、廊下には担任の姿が見える。僕のクラス担任の担当科目は数学だが、次の授業は国語だ。なんの用かはわからないが、呼んでいるのなら行かなくてはならない。
「おー、悪いな、呼び出して」
 去年大学を卒業したばかりの、どう見ても体育会系な容姿をしている担任は、僕を見てそう言った。
「ほい、これ」
 突然差し出されたのはプリントの束だった。三十枚くらいありそうなプリントが穴を空けられ紐を通して結んである。
「悪いがこれを、市野谷さんに届けてくれないか」
 担任がひーちゃんの名を口にしたのを聞いたのは、久しぶりのような気がした。もう朝の出欠確認の時でさえ、彼女の名前は呼ばれない。ミナモの名前だってそうだ。このクラスでは、ひーちゃんも、ミナモも、いないことが自然なのだ。
「……先生が、届けなくていいんですか」
「そうしたいのは山々なんだが、なかなか時間が取れなくてな。夏休みに入ったら家庭訪問に行こうとは思ってるんだ。このプリントは、それまでにやっておいてほしい宿題。中学に入ってから二年の一学期までに習う数学の問題を簡単にまとめたものなんだ」
「わかりました、届けます」
 受け取ったプリントの束は、思っていたよりもずっとずっしりと重かった。
「すまんな。市野谷さんと小学生の頃一番仲が良かったのは、きみだと聞いたものだから」
「いえ……」
 一年生の時から、ひーちゃんにプリントを届けてほしいと教師に頼まれることはよくあった。去年は彼女と僕は違うクラスだったけれど、同じ小学校出身の誰かに僕らが幼馴染みであると聞いたのだろう。
 僕は学校に来なくなったひーちゃんのことを毛嫌いしている訳ではない。だから、何か届け物を頼まれてもそんなに嫌な気持ちにはならない。でも、と僕は思った。
 でも僕は、ひーちゃんと一番仲が良かった訳じゃないんだ。
「じゃあ、よろしく頼むな」
 次の授業の始業のチャイムが鳴り響く。
 教室に戻り、出したままだった英語の教科書と「正」の字だけ記したノートと一緒に、ひーちゃんへのプリントの束を鞄に仕舞いながら、なんだか僕は泣きたくなった。
  三角形が壊れるのは簡単だった。
 三角形というのは、三辺と三つの角でできていて、当然のことだけれど一辺とひとつの角が消失したら、それはもう三角形ではない。
 まだ小学校に上がったばかりの頃、僕はどうして「さんかっけい」や「しかっけい」があるのに「にかっけい」がないのか、と考えていたけれど、どうやら僕の脳味噌は、その頃から数学的思考というものが不得手だったようだ。
「にかっけい」なんてあるはずがない。
 僕と、あーちゃんと、ひーちゃん。
 僕ら三人は、三角形だった。バランスの取りやすい形。
 始まりは悲劇だった。
 あの悪夢のような交通事故。ひーちゃんの弟の死。
 真っ白なワンピースが汚れることにも気付かないまま、真っ赤になった弟の身体を抱いて泣き叫ぶひーちゃんに手を伸ばしたのは、僕と一緒に下校する途中のあーちゃんだった。
 お互いの家が近かったこともあって、それから僕らは一緒にいるようになった。
 溺愛していた最愛の弟を、目の前で信号無視したダンプカーに撥ねられて亡くしたひーちゃんは、三人で一緒にいてもときどき何かを思い出したかのように暴れては泣いていたけれど、あーちゃんはいつもそれをなだめ、泣き止むまでずっと待っていた。
 口下手な彼は、ひーちゃんに上手く言葉をかけることがいつもできずにいたけれど、僕が彼の言葉を補って彼女に伝えてあげていた。
 優しくて思いやりのあるひーちゃんは、感情を表すことが苦手なあーちゃんのことをよく気遣ってくれていた。
 僕らは嘘みたいにバランスの取れた三角形だった。
 あーちゃんが、この世界からいなくなるまでは。
   「夏は嫌い」
 昔、あーちゃんはそんなことを口にしていたような気がする。
「どうして?」
 僕はそう訊いた。
 夏休み、花火、虫捕り、お祭り、向日葵、朝顔、風鈴、西瓜、プール、海。
 水の中の金魚の世界と、バニラアイスの木べらの湿り気。
 その頃の僕は今よりもずっと幼くて、四季の中で夏が一番好きだった。
 あーちゃんは部屋の窓を網戸にしていて、小さな扇風機を回していた。
 彼は夏休みも相変わらず外に出ないで、部屋の中で静かに過ごしていた。彼の傍らにはいつも、星座の本と分厚い昆虫図鑑が置いてあった。
「夏、暑いから嫌いなの?」
 僕が尋ねるとあーちゃんは抱えていた分厚い本からちょっとだけ顔を上げて、小さく首を横に振った。それから困ったように笑って、
「夏は、皆死んでいるから」
 とだけ、つぶやくように言った。あーちゃんは、時々魔法の呪文のような、不思議なことを言って僕を困惑させることがあった。この時もそうだった。
「どういう意味?」
 僕は理解できずに、ただ訊き返した。
 あーちゃんはさっきよりも大きく首を横に振ると、何を思ったのか、唐突に、
「ああ、でも、海に行ってみたいな」
 なんて言った。
「海?」
「そう、海」
「どうして、海?」
「海は、色褪せてないかもしれない。死んでないかもしれない」
 その言葉の意味がわからず、僕が首を傾げていると、あーちゃんはぱたんと本を閉じて机に置いた。
「台所へ行こうか。確か、母さんが西瓜を切ってくれていたから。一緒に食べよう」
「うん!」
 僕は西瓜に釣られて、わからなかった言葉のことも、すっかり忘れてしまった。
 でも今の僕にはわかる。
 夏の日射しは、世界を色褪せさせて僕の目に映す。
 あーちゃんはそのことを、「死んでいる」と言ったのだ。今はもう確かめられないけれど。
 結局、僕とあーちゃんが海へ行くことはなかった。彼から海へ出掛けた話を聞いたこともないから、恐らく、海へ行くことなく死んだのだろう。
 あーちゃんが見ることのなかった海。
 海は日射しを浴びても青々としたまま、「生きて」いるんだろうか。
 彼が死んでから、僕も海へ足を運んでいない。たぶん、死んでしまいたくなるだろうから。
 あーちゃん。
 彼のことを「あーちゃん」と名付けたのは僕だった。
 そういえば、どうして僕は「あーちゃん」と呼び始めたんだっけか。
 彼の名前は、鈴木直正。
 どこにも「あーちゃん」になる要素はないのに。
    うなじを焼くようなじりじりとした太陽光を浴びながら、ペダルを漕いだ。
 鼻の頭からぷつぷつと汗が噴き出すのを感じ、手の甲で汗を拭おうとしたら手は既に汗で湿っていた。雑音のように蝉の声が響いている。道路の脇には背の高い向日葵は、大きな花を咲かせているのに風がないので微動だにしない。
 赤信号に止められて、僕は自転車のブレーキをかける。
 夏がくる度、思い出す。
 僕とあーちゃんが初めてひーちゃんに出会い、そして彼女の最愛の弟「ろーくん」が死んだ、あの事故のことを。
 あの日も、世界が真っ白に焼き切れそうな、暑い日だった。
 ひーちゃんは白い木綿のワンピースを着ていて、それがとても涼しげに見えた。ろーくんの血で汚れてしまったあのワンピースを、彼女はもうとっくに捨ててしまったのだろうけれど。
 そういえば、ひーちゃんはあの事故の後、しばらくの間、弟の形見の黒いランドセルを使っていたっけ。黒い服ばかり着るようになって。周りの子はそんな彼女を気味悪がったんだ。
 でもあーちゃんは、そんなひーちゃんを気味悪がったりしなかった。
 信号が赤から青に変わる。再び漕ぎ出そうとペダルに足を乗せた時、僕の両目は横断歩道の向こうから歩いて来るその人を捉えて凍りついてしまった。
 胸の奥の方が疼く。急に、聞こえてくる蝉の声が大きくなったような気がした。喉が渇いた。頬を撫でるように滴る汗が気持ち悪い。
 信号は青になったというのに、僕は動き出すことができない。向こうから歩いて来る彼は、横断歩道を半分まで渡ったところで僕に気付いたようだった。片眉を持ち上げ、ほんの少し唇の端を歪める。それが笑みだとわかったのは、それとよく似た笑顔をずいぶん昔から知っているからだ。
「うー兄じゃないですか」
 うー兄。彼は僕をそう呼んだ。
 声変わりの途中みたいな声なのに、妙に大人びた口調。ぼそぼそとした喋り方。
 色素の薄い頭髪。切れ長の一重瞼。ひょろりと伸びた背。かけているのは銀縁眼鏡。
 何もかもが似ているけれど、日に焼けた真っ黒な肌と筋肉のついた足や腕だけは、記憶の中のあーちゃんとは違う。
 道路を渡り終えてすぐ側まで来た彼は、親しげに僕に言う。
「久しぶりですね」
「……久しぶり」
 僕がやっとの思いでそう声を絞り出すと、彼は「ははっ」と笑った。きっとあーちゃんも、声を上げて笑うならそういう風に笑ったんだろうなぁ、と思う。
「どうしたんですか。驚きすぎですよ」
 困ったような笑顔で、眼鏡をかけ直す。その手つきすらも、そっくり同じ。
「嫌だなぁ。うー兄は僕のことを見る度、まるで幽霊でも見たような顔するんだから」
「ごめんごめん」
「ははは、まぁいいですよ」
 僕が謝ると、「あっくん」はまた笑った。
 彼、「あっくん」こと鈴木篤人くんは、僕の一個下、中学一年生。私立の学校に通っているので僕とは学校が違う。野球部のエースで、勉強の成績もクラストップ。僕の団地でその中学に進学できた子供は彼だけだから、団地の中で知らない人はいない優等生だ。
 年下とは思えないほど大人びた少年で、あーちゃんにそっくりな、あーちゃんの弟。
「中学は、どう? もう慣れた?」
「慣れましたね。今は部活が忙しくて」
「運動部は大変そうだもんね」
「うー兄は、帰宅部でしたっけ」
「そう。なんにもしてないよ」
「今から、どこへ行くんですか?」
「ああ、えっと、ひーちゃんに届け物」
「ひー姉のところですか」
 あっくんはほんの一瞬、愛想笑いみたいな顔をした。
「ひー姉、まだ学校に行けてないんですか?」
「うん」
「行けるようになるといいですね」
「そうだね」
「うー兄は、元気にしてましたか?」
「僕? 元気だけど……」
「そうですか。いえ、なんだかうー兄、兄貴に似てきたなぁって思ったものですから」
「僕が?」
 僕があーちゃんに似てきている?
「顔のつくりとかは、もちろん違いますけど、なんていうか、表情とか雰囲気が、兄貴に似てるなぁって」
「そうかな……」
 僕にそんな自覚はないのだけれど。
「うー兄も死んじゃいそうで、心配です」
 あっくんは柔らかい笑みを浮かべたままそう言った。
「……そう」
 僕はそう返すので精いっぱいだった。
「それじゃ、ひー姉によろしくお伝え下さい」
「じゃあ、また……」
 あーちゃんと同じ声で話し、あーちゃんと同じように笑う彼は、夏の日射しの中を歩いて行く。
(兄貴は、弱いから駄目なんだ)
 いつか彼が、あーちゃんに向けて言った言葉。
 あーちゃんは自分の弟にそう言われた時でさえ、怒ったりしなかった。ただ「そうだね」とだけ返して、少しだけ困ったような顔をしてみせた。
 あっくんは、強い。
 姿や雰囲気は似ているけれど、性格というか、芯の強さは全く違う。
 あーちゃんの死を自分なりに受け止めて、乗り越えて。部活も勉強も努力して。あっくんを見ているといつも思う。兄弟でもこんなに違うものなのだろうか、と。ひとりっ子の僕にはわからないのだけれど。
 僕は、どうだろうか。
 あーちゃんの死を受け入れて、乗り越えていけているだろうか。
「……死相でも出てるのかな」
 僕があーちゃんに似てきている、なんて。
 笑えない冗談だった。
 ふと見れば、信号はとっくに赤になっていた。青になるまで待つ間、僕の心から言い表せない不安が拭えなかった。
    遺書を思い出した。
 あーちゃんの書いた遺書。
「僕の分まで生きて。僕は透明人間なんです」
 日褄先生はそれを、「ばっか��ゃねーの」って笑った。
「透明人間は見えねぇから、透明人間なんだっつーの」
 そんな風に言って、たぶん、泣いてた。
「僕の分まで生きて」
 僕は自分の鼓動を聞く度に、その言葉を繰り返し、頭の奥で聞いていたような気がする。
 その度に自分に問う。
 どうして生きているのだろうか、と。
  部屋に一歩踏み入れると、足下でガラスの破片が砕ける音がした。この部屋でスリッパを脱ぐことは自傷行為に等しい。
「あー、うーくんだー」
 閉められたカーテン。閉ざされたままの雨戸。
 散乱した物。叩き壊された物。落下したままの物。破り捨てられた物。物の残骸。
 その中心に、彼女はいる。
「久しぶりだね、ひーちゃん」
「そうだねぇ、久しぶりだねぇ」
 壁から落下して割れた時計は止まったまま。かろうじて壁にかかっているカレンダーはあの日のまま。
「あれれー、うーくん、背伸びた?」
「かもね」
「昔はこーんな小さかったのにねー」
「ひーちゃんに初めて会った時だって、そんなに小さくなかったと思うよ」
「あははははー」
 空っぽの笑い声。聞いているこっちが空しくなる。
「はい、これ」
「なに? これ」
「滝澤先生に頼まれたプリント」
「たきざわって?」
「今度のクラスの担任だよ」
「ふーん」
「あ、そうだ、今度は僕の同じクラスに……」
 彼女の手から投げ捨てられたプリントの束が、ろくに掃除されていない床に落ちて埃を巻き上げた。
「そういえば、あいつは?」
「あいつって?」
「黒尽くめの」
「黒尽くめって……日褄先生のこと?」
「まだいる?」
「日褄先生なら、今年度も学校にいるよ」
「なら、学校には行かなーい」
「どうして?」
「だってあいつ、怖いことばっかり言うんだもん」
「怖いこと?」
「あーちゃんはもう、死んだんだって」
「…………」
「ねぇ、うーくん」
「……なに?」
「うーくんはどうして、学校に行けるの? まだあーちゃんが帰って来ないのに」
 どうして僕は、生きているんだろう。
「『僕』はね、怖いんだよ、うーくん。あーちゃんがいない毎日が。『僕』の毎日の中に、あーちゃんがいないんだよ。『僕』は怖い。毎日が怖い。あーちゃんのこと、忘れそうで怖い。あーちゃんが『僕』のこと、忘れそうで怖い……」
 どうしてひーちゃんは、生きているんだろう。
「あーちゃんは今、誰の毎日の中にいるの?」
 ひーちゃんの言葉はいつだって真っ直ぐだ。僕の心を突き刺すぐらい鋭利だ。僕の心を掻き回すぐらい乱暴だ。僕の心をこてんぱんに叩きのめすぐらい凶暴だ。
「ねぇ、うーくん」
 いつだって思い知らされる。僕が駄目だってこと。
「うーくんは、どこにも行かないよね?」
 いつだって思い知らせてくれる。僕じゃ駄目だってこと。
「どこにも、行かないよ」
 僕はどこにも行けない。きみもどこにも行けない。この部屋のように時が止まったまま。あーちゃんが死んでから、何もかもが停止したまま。
「ふーん」
 どこか興味なさそうな、ひーちゃんの声。
「よかった」
 その後、他愛のない話を少しだけして、僕はひーちゃんの家を後にした。
 死にたくなるほどの夏の熱気に包まれて、一気に現実に引き戻された気分になる。
 こんな現実は嫌なんだ。あーちゃんが欠けて、ひーちゃんが壊れて、僕は嘘つきになって、こんな世界は、大嫌いだ。
 僕は自分に問う。
 どうして僕は、生きているんだろう。
 もうあーちゃんは死んだのに。
   「ひーちゃん」こと市野谷比比子は、小学生の頃からいつも奇異の目で見られていた。
「市野谷さんは、まるで死体みたいね」
 そんなことを彼女に言ったのは、僕とひーちゃんが小学四年生の時の担任だった。
 校舎の裏庭にはクラスごとの畑があって、そこで育てている作物の世話を、毎日クラスの誰かが当番制でしなくてはいけなかった。それは夏休み期間中も同じだった。
 僕とひーちゃんが当番だった夏休みのある日、黙々と草を抜いていると、担任が様子を見にやって来た。
「頑張ってるわね」とかなんとか、最初はそんな風に声をかけてきた気がする。僕はそれに、「はい」とかなんとか、適当に返事をしていた。ひーちゃんは何も言わず、手元の草を引っこ抜くことに没頭していた。
 担任は何度かひーちゃんにも声をかけたが、彼女は一度もそれに答えなかった。
 ひーちゃんはいつもそうだった。彼女が学校で口を利くのは、同じクラスの僕と、二つ上の学年のあーちゃんにだけ。他は、クラスメイトだろうと教師だろうと、一言も言葉を発さなかった。
 この当番を決める時も、そのことで揉めた。
 くじ引きでひーちゃんと同じ当番に割り当てられた意地の悪い女子が、「せんせー、市野谷さんは喋らないから、当番の仕事が一緒にやりにくいでーす」と皆の前で言ったのだ。
 それと同時に、僕と一緒の当番に割り当てられた出っ歯の野郎が、「市野谷さんと仲の良い――くんが市野谷さんと一緒にやればいいと思いまーす」と、僕の名前を指名した。
 担任は困ったような笑顔で、
「でも、その二人だけを仲の良い者同士にしたら、不公平じゃないかな? 皆だって、仲の良い人同士で一緒の当番になりたいでしょう? 先生は普段あまり仲が良くない人とも仲良くなってもらうために、当番の割り振りをくじ引きにしたのよ。市野谷さんが皆ともっと仲良くなったら、皆も嬉しいでしょう?」
 と言った。意地悪ガールは間髪入れずに、
「喋らない人とどうやって仲良くなればいいんですかー?」
 と返した。
 ためらいのない発言だった。それはただただ純粋で、悪意を含んだ発言だった。
「市野谷さんは私たちが仲良くしようとしてもいっつも無視してきまーす。それって、市野谷さんが私たちと仲良くしたくないからだと思いまーす。それなのに、無理やり仲良くさせるのは良くないと思いまーす」
「うーん、そんなことはないわよね、市野谷さん」
 ひーちゃんは何も言わなかった。まるで教室内での出来事が何も耳に入っていないかのような表情で、窓の外を眺めていた。
「市野谷さん? 聞いているの?」
「なんか言えよ市野谷」
 男子がひーちゃんの机を蹴る。その振動でひーちゃんの筆箱が机から滑り落ち、がちゃんと音を立てて中身をぶちまけたが、それでもひーちゃんには変化は訪れない。
 クラスじゅうにざわざわとした小さな悪意が満ちる。
「あの子ちょっとおかしいんじゃない?」
 そんな囁きが満ちる。担任の困惑した顔。意地悪いクラスメイトたちの汚らわしい視線。
 僕は知っている。まるでここにいないかのような顔をして、窓の外を見ているひーちゃんの、その視線の先を。窓から見える新校舎には、彼女の弟、ろーくんがいた一年生の教室と、六年生のあーちゃんがいる教室がある。
 ひーちゃんはいつも、ぼんやりとそっちばかりを見ている。教室の中を見渡すことはほとんどない。彼女がここにいないのではない。彼女にとって、こっちの世界が意味を成していないのだ。
「市野谷さんは、死体みたいね」
 夏休み、校舎裏の畑。
 その担任の一言に、僕は思わずぎょっとした。担任はしゃがみ込み、ひーちゃんに目線を合わせようとしながら、言う。
「市野谷さんは、どうしてなんにも言わないの? なんにも思わないの? あんな風に言われて、反論したいなって思わないの?」
 ひーちゃんは黙って草を抜き続けている。
「市野谷さんは、皆と仲良くなりたいって思わない? 皆は、市野谷さんと仲良くなりたいって思ってるわよ」
 ひーちゃんは黙っている。
「市野谷さんは、ずっとこのままでいるつもりなの? このままでいいの? お友達がいないままでいいの?」
 ひーちゃんは。
「市野谷さん?」
「うるさい」
 どこかで蝉が鳴き止んだ。
 彼女が僕とあーちゃん以外の人間に言葉を発したところを、僕は初めて見た。彼女は担任を睨み付けるように見つめていた。真っ黒な瞳が、鋭い眼光を放っている。
「黙れ。うるさい。耳障り」
 ひーちゃんが、僕の知らない表情をした。それはクラスメイトたちがひーちゃんに向けたような、玩具のような悪意ではなかった。それは本当の、なんの混じり気もない、殺意に満ちた顔だった。
「あんたなんか、死んじゃえ」
 振り上げたひーちゃんの右手には、草抜きのために職員室から貸し出された鎌があって――。
「ひーちゃん!」
 間一髪だった。担任は真っ青な顔で、息も絶え絶えで、しかし、その鎌の一撃をかろうじてかわした。担任は震えながら、何かを叫びながら校舎の方へと逃げるように走り去って行く。
「ひーちゃん、大丈夫?」
 僕は地面に突き刺した鎌を固く握りしめたまま、動かなくなっ��いる彼女に声をかけた。
「友達なら、いるもん」
 うつむいたままの彼女が、そうぽつりと言う。
「あーちゃんと、うーくんがいるもん」
 僕はただ、「そうだね」と言って、そっと彼女の頭を撫でた。
    小学生の頃からどこか危うかったひーちゃんは、あーちゃんの自殺によって完全に壊れてしまった。
 彼女にとってあーちゃんがどれだけ大切な存在だったかは、説明するのが難しい。あーちゃんは彼女にとって絶対唯一の存在だった。失ってはならない存在だった。彼女にとっては、あーちゃん以外のものは全てどうでもいいと思えるくらい、それくらい、あーちゃんは特別だった。
 ひーちゃんが溺愛していた最愛の弟、ろーくんを失ったあの日。
 あの日から、ひーちゃんの心にぽっかりと空いた穴を、あーちゃんの存在が埋めてきたからだ。
 あーちゃんはひーちゃんの支えだった。
 あーちゃんはひーちゃんの全部だった。
 あーちゃんはひーちゃんの世界だった。
 そして、彼女はあーちゃんを失った。
 彼女は入学することになっていた中学校にいつまで経っても来なかった。来るはずがなかった。来れるはずがなかった。そこはあーちゃんが通っていたのと同じ学校であり、あーちゃんが死んだ場所でもある。
 ひーちゃんは、まるで死んだみたいだった。
 一日中部屋に閉じこもって、食事を摂ることも眠ることも彼女は拒否した。
 誰とも口を利かなかった。実の親でさえも彼女は無視した。教室で誰とも言葉を交わさなかった時のように。まるで彼女の前からありとあらゆるものが消滅してしまったかのように。泣くことも笑うこともしなかった。ただ虚空を見つめているだけだった。
 そんな生活が一週間もしないうちに彼女は強制的に入院させられた。
 僕が中学に入学して、桜が全部散ってしまった頃、僕は彼女の病室を初めて訪れた。
「ひーちゃん」
 彼女は身体に管を付けられ、生かされていた。
 屍のように寝台に横たわる、変わり果てた彼女の姿。
(市野谷さんは死体みたいね)
 そんなことを言った、担任の言葉が脳裏をよぎった。
「ひーちゃんっ」
 僕はひーちゃんの手を取って、そう呼びかけた。彼女は何も言わなかった。
「そっち」へ行ってほしくなかった。置いていかれたくなかった。僕だって、あーちゃんの突然の死を受け止めきれていなかった。その上、ひーちゃんまで失うことになったら。そう考えるだけで嫌だった。
 僕はここにいたかった。
「ひーちゃん、返事してよ。いなくならないでよ。いなくなるのは、あーちゃんだけで十分なんだよっ!」
 僕が大声でそう言うと、初めてひーちゃんの瞳が、生き返った。
「……え?」
 僕を見つめる彼女の瞳は、さっきまでのがらんどうではなかった。あの時のひーちゃんの瞳を、僕は一生忘れることができないだろう。
「あーちゃん、いなくなったの?」
 ひーちゃんの声は僕の耳にこびりついた。
 何言ってるんだよ、あーちゃんは死んだだろ。そう言おうとした。言おうとしたけれど、何かが僕を引き留めた。何かが僕の口を塞いだ。頭がおかしくなりそうだった。狂っている。僕はそう思った。壊れている。破綻している。もう何もかもが終わってしまっている。
 それを言ってしまったら、ひーちゃんは死んでしまう。僕がひーちゃんを殺してしまう。ひーちゃんもあーちゃんみたいに、空を飛んでしまうのだ。
 僕はそう直感していた。だから声が出なかった。
「それで、あーちゃん、いつかえってくるの?」
 そして、僕は嘘をついた。ついてはいけない嘘だった。
 あーちゃんは生きている。今は遠くにいるけれど、そのうち必ず帰ってくる、と。
 その一週間後、ひーちゃんは無事に病院を退院した。人が変わったように元気になっていた。
 僕の嘘を信じて、ひーちゃんは生きる道を選んだ。
 それが、ひーちゃんの身体をいじくり回して管を繋いで病室で寝かせておくことよりもずっと残酷なことだということを僕は後で知った。彼女のこの上ない不幸と苦しみの中に永遠に留めておくことになってしまった。彼女にとってはもうとっくに終わってしまったこの世界で、彼女は二度と始まることのない始まりをずっと待っている。
 もう二度と帰ってこない人を、ひーちゃんは待ち続けなければいけなくなった。
 全ては僕のついた幼稚な嘘のせいで。
「学校は行かないよ」
「どうして?」
「だって、あーちゃん、いないんでしょ?」
 学校にはいつから来るの? と問いかけた僕にひーちゃんは笑顔でそう答えた。まるで、さも当たり前かのように言った。
「『僕』は、あーちゃんが帰って来るのを待つよ」
「あれ、ひーちゃん、自分のこと『僕』って呼んでたっけ?」
「ふふふ」
 ひーちゃんは笑った。幸せそうに笑った。恥ずかしそうに笑った。まるで恋をしているみたいだった。本当に何も知らないみたいに。本当に、僕の嘘を信じているみたいに。
「あーちゃんの真似、してるの。こうしてると自分のことを言う度、あーちゃんのことを思い出せるから」
 僕は笑わなかった。
 僕は、笑えなかった。
 笑おうとしたら、顔が歪んだ。
 醜い嘘に、歪んだ。
 それからひーちゃんは、部屋に閉じこもって、あーちゃんの帰りをずっと待っているのだ。
 今日も明日も明後日も、もう二度と帰ってこない人を。
※(2/4) へ続く→ https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/647000556094849024/
5 notes · View notes
hananien · 5 years ago
Text
【ディーン誕】パイとエールと
ピクシブに投稿したアナ雪パロの設定で、今度はサムがディーンをお祝いしようと頑張る話。
アナ雪2で見事野性化したエルサよろしく、天界に行ってしまったディーン。
 公明正大な王と名高いサミュエル・ウィンチェスターが理不尽なことで家臣を叱りつけている。  若い王の右腕と名高いボビー・シンガー将軍は、習慣であり唯一の楽しみである愛馬との和やかな朝駆けのさなか、追いかけてきた部下たちにそう泣きつかれ、白い息で口ひげを凍らせながら城に戻るはめになった。  王は謁見の控えの間をうろうろと歩き回りながら、臣下たちの心身を凍り付かせていた。  「出来ないってのはどういうことだ!」 堂々たる長身から雷のような叱責が落ちる。八角形の間には二人の近衛兵と四人の上級家臣がおり、みんなひとまとまりになって青ざめた顔で下を向いている。  「これだけの者がいて、私の期待通りの働きをするものが一人もいない! なぜだ! 誰か答えろ!」  「おい……どうした」 ボビーは自分の馬にするように、両腕を垂らして相手を警戒させないよう王に近づいた。「陛下、何をイラついてる。今日は兄上の誕生日だろ」  サムは切れ長の目をまんまるに見開いて、「そうだよ!」と叫んだ。「今日はディーンの誕生日だ! ディーンが天界に行っちゃってから初めての誕生日で、初めて王国に戻る日だっていうのに、こいつらは僕の言ったことを何一つやってない!」  手に持っていた分厚い書冊を机に叩きつけた。ぱらぱらと何枚かの羊皮紙が床に落ちて、その何枚かに女性の肖像が描かれているのをボビーは見た。頬の中で舌打ちして、ボビーは、今朝、この不機嫌な王に見合い話を持ち掛けた無能者を罵った。  まだ手に持っていた冊束を乱暴に床に放り投げて、すでに凍り付いた家臣たちをさらに怯えさせ、サムは天井まである細い窓の前に立った。  ひし形の桟にオレンジ色のガラスが組み込まれている。曇りの日でも太陽のぬくもりを感じられる造りだ。サムがそこに立つ前には、兄のディーンが同じように窓の前に立った。金髪に黄金の冠をかぶったディーン・ウィンチェスターがオレンジの光を浴びて立つさまは、彼を幼少期から知る……つまり彼が見た目や地位ほどに華美��気性ではないと知るボビーにとっても神々しく見えたものだった。  ディーンがその右腕と名高かったカスティエルと共に天界に上がってしまってからというもの、思い出の中の彼の姿はますます神々しくイメージされていく。おそらくはこの控えの間にいる連中すべてがそうだろう。  「兄が戻ってくるのに、城にパイ焼き職人が二人しかいない」  「ですが、それで町のパン焼き職人を転職させて城に召し上げるというのは無理です……」 家政長が勇気を振り絞った。しかしその勇気も、サムのきつい眼差し一つで消えた。  「全ての近衛兵の制服を黒に染めろといったのになぜやらない!」  二人の近衛兵は顔を見合わせたが、すぐに踵をそろえて姿勢を正した。何も言わないのは賢いといえなくもない。  「何で黒にする必要がある?」  ボビーの問いにサムは食い気味に答えた。「ディーンが好きだからだよ! ディーンは黒が好きだ、よく似合ってる」  「ディーンはベージュだって好きだろ。ブラウンもブルーも、赤も黄色も好きだ。やつは色になんて興味ない」  「それに注文したはずのエール! 夏には醸造所に話を通していたはずなのになぜ届いていない!」  項垂れる家政長の代わりに、隣に立つ財務長が答えた。「あー、陛下。あの銘柄は虫害にやられて今年の出荷は無理ということで、代わりの銘柄を仕入れてありますが……」  「その話は聞いた! 私はこう言ったはずだ、ディーンは代わりの銘柄は好きじゃない。今年出荷分がないなら去年、一昨年、一昨々年に出したのをかき集めて城の酒蔵を一杯にしろと!」  「そんな、あれは人気の銘柄で国中を探してもそれほどの数はありません……」  「探したのか?」 サムは、背は自分の胸ほどもない、老年の財務長の前に覆いかぶさるように立ち、彼の額に指を突き付けた。「国中を、探したのか?」  財務長の勇気もこれで消えたに違いなかった。  ボビーは息を吐いた。  「みんな出て行ってくれ。申し訳ない。陛下にお話しがある。二人だけで。そう。謁見の儀の時間には間に合わせる。ありがとう。さっさと行って。ありがとう」 促されるや、そそくさと逃げるように控えの間から去っていった六人を丁寧に見送り、ボビーは後ろ手に扉の錠を下ろした。  「どうなってる」 ボビーの怖い声にもサムはたじろがなかった。気ぜわしそうに執務机の周りを歩き回る足を止めない。  「最悪だ。完璧にしたかったのに!」 床に落ちた肖像画をぐちゃぐちゃにしながら気性の荒い狼みたいな眼つきをしている。「ディーンの誕生日を完璧に祝ってやりたかったんだ! 四年前、僕らがまた家族になれたあとに、ディーンが僕にしてくれたみたいに!」  「四年前? ああ、城じゅうに糸を張り巡らせて兵士の仕事の邪魔をしまくってくれたあれか……」 ボビーは口ひげを撫でて懐かしい過去を思い返した。「しかしあの時はディーンが熱を出して……結局は数日寝込むことになっただろう」  「完璧な誕生日だった。僕のために体調を崩してまで計画してくれたこと、その後の、一緒にいられた数日間も」  「あのな……」  「いろいろあって、あの後にゆっくりと記念日を祝えたことはなかった。ようやく国が落ち着いたと思ったら、ディーンは天界に行っちゃった。いいんだ、それは、ディーンが決めたことだし、僕と兄貴で世界の均衡が保てるなら僕だって喜んで地上の王様をやるさ。滅多に会えなくなっても仕方ない。天界の傲慢な天使どもが寛大にも一年に一日だけならディーンが地上に降りるのを許してくれた。それが今日だ! 今日が終われば次は一年後。その次はまた一年後だ!」  「わかっていたことだぞ」 ボビーはいった。「べったり双子みたいだったお前たちが、それでも考えた末に決めたことだ。ディーンが天界にいなければ、天使たちは恩寵を失い、天使が恩寵を失えば、人は死後の行き場を失う」  「これほど辛いとは思わなかった」  サムは椅子に座って長い足を投げ出し、希望を失ったかのように俯いた。  「なあ、サム。今日は貴重な一日だよな。どうするつもりだった。一年ぶりに再会して、近衛兵の制服を一新した報告をしたり、一晩じゃ食べきれないほどのパイの試食をさせたり、飲みきれない酒を詰め込んだ蔵を見せて自慢する気だったのか?」  「いや、それだけじゃない。ワーウルフ狩りの出征がなかったら、城前広場を修繕して僕とディーンの銅像を建てさせるつもりだった」  「わかった。そこまで馬鹿だとは思わなかった」 俯いたサムの肩に手をあて、ボビーはいった。「本当に馬鹿だ���。サム、本当にディーンがそんなもの、望んでると思うのか?」  「ディーンには欲しいものなんてないんだ」 サムは不貞腐れたように視線を外したままいった。「だからディーンはディーンなんだ。天界に行っちゃうほどにね。それだから僕は、僕が考えられる限り全てのことをしてディーンを喜ばせてあげなきゃならない。ディーンが自分でも知らない喜びを見つけてあげたいんだよ」  「ディーンは自分の喜びを知ってる。サム、お前といることだ。ただそれだけだ」  サムの迷子のような目がボビーを見上げた。王になって一年、立派に執務をこなしている姿からは、誰もこの男の甘えたな部分を想像できないだろう。  もっとも、王がそんな一面を見せるのは兄と、育ての親ともいえるボビーにだけだ。  「……それと、エール」  「ああ、焼き立てのパイもな」 ボビーは笑う。「職人が二人もいればじゅうぶんだ」  サムはスンと鼻をすすって、ボビーの腕をタップして立ち上がる。  「舞踏会の用意は?」  「すんでるよ。ああ……サム、中止にするわけにはいかないぞ。もう来賓もあるし、天界のほうにもやると伝えてある」  「わかってる。頼みがあるんだ……」
 ディーンがどうやって地上に戻ってくるか、サムは一年間毎日想像していた。空から天使のはしごがかかって、白い長衣をかぶったディーンがおつきの者たちを従えてしずしずと降りてくるとか。水平線の向こうからペガサスに乗って現れるとか。サムを驚かせるために、謁見の儀で拝謁する客に紛れ込んでくるかもしれない。  そのどれもがあまりに陳腐な空想だったと、サムは反省した。  謁見の儀を終えると、ディーンは何の変哲もない、中級貴族みたいな恰好で、控えの間に立っていた。  ひし形に桟が組まれた、長い半円の窓の前で。  「ディーン」  サムの声に振り向くと、ディーンは照れ臭そうな顔をして笑った。「サム」  二人で磁石みたいに駆け寄って、抱き合った。
 ディーンの誕生日を祝う舞踏会は大盛況した。近隣諸国の王侯貴族までが出席して、人と人ならざる者の世の均衡を保つ兄弟を称え、その犠牲に敬意を表した。ディーンと彼に随行したカスティエルは、誘いのあった女性全員とダンスを踊った。そしてディーンは、しかるべき時間みんなの祝福にこたえたあと、こっそりとボビーに渡された原稿を読み上げ――それはとても礼儀ただしく気持ちの良い短いスピーチだった――大広間を辞した。  「どこに行くんだ?」 一緒に舞踏会から抜け出したサムに手を引かれて、ディーンは地下に向かっていた。「なあ、王様がいなくていいのかよ。まだ舞踏会は続いてるんだぜ」  「僕がいなくてもみんな楽しんでる。今夜は一晩中、ディーンの誕生日を祝っててもらおう」  「本人がいない場所でか?」  「ああ。本人はここ」  サムは酒蔵の扉を開いてディーンを招いた。「ディーン、来てくれ」  いくつかある酒蔵のうち、一番小さな蔵だった。天井は低く、扉も小さい。サムの脇をくぐるように中に入ると、まるで秘密の洞窟に迷い込んだように感じた。  「ここ、こんなだったっけか」 踏み慣らされた土床の上に、毛皮のラグが敷かれている。大広間のシャンデリアを切り取ってきたいに重々しい、燭台に灯されたろうそくの明かり。壁づたいに整列された熟成樽の上には、瓶に詰められたエール、エール、エール。  「パイもある」 どこに隠してあったのか、扉を閉めたサムが両手に大きなレモンパイを持ってディーンを見つめている。  ちょっと決まり悪そうな、それでも自分のやったことを認めて、褒めてくれるのを期待しているような、誇らしげな瞳で。  「誕生日おめでとう、ディーン」  二人きりで過ごしたかったんだ。そういわれて、ディーンは弟の手からパイを奪い取った。  パイは危うい均衡で樽の上に置かれて、二人はラグの上に倒れ込んだ。
5 notes · View notes
chaukachawan · 7 years ago
Text
多けりゃ良いってもんじゃない
おはようございます。僕です。座長です。
今公演最初で、ちゃうかちゃわんとしては最後の稽古日誌になるかと思います。多分長くなるかと思いますが良ければお付き合いください。
とりあえず役者紹介、否、団員紹介をしていきます。きちんと紹介したいと思います。
30期
・網本健吾…オムニで演出をつけた30期1人目。最近はもっぱらアイドルを追っかけてるらしい。オムニで自ら笑いをもぎ取った凄いやつ。笑いを取るセンスを感じるのでいつか化けると思う期待の新人。
・小澤祐貴…そろそろ被ってる殻を破り捨てそうな30期。独特な雰囲気を醸し出してる。ゆるキャラ感ある。ボコボコにするぞ?一回マジでブチギレさせて感情を解放させたいゆるい新人。
・樹木キキ…一番芸名がお気に入りの30期。どの役でも面白おかしくしてる、しようとしてる有望株。今公演では前座コントで関わったけどやっぱりユーモアを感じる。あとツイッターがうるさい。新人公演ではちゃめちゃに暴れてほしい新人。
・岸田月穂…なかなか名前が覚えられなかった30期。岸田月穂って名前かっこいいね。丁寧で包容感のある演技をする。多分今後はちゃうかの母として活躍して行くんだろうな。ちゃうかを優しく見守っててほしい新人。
・木下愛梨…なんか結婚しちゃうことになった30期。この件に関してはあまり触れないでおこうと思う。ふと見ると笑顔が真顔かしてる。笑顔率が上がればいいね。いろんな役を器用にこなす新人。
・古家健作…年齢が同じなおじさん30期。初対面の会話がすごく緊張してキモい感じになった気がする。ややこしい年齢してんじゃねーぞ。でもその年季の入り方は流石で舞台上での自由度はピカイチ。その調子でちゃうかを引っ張っていってほしい老人。
・小林秋人…変なあだ名をつけちゃった30期。この子はねー、真面目な子やねー。ものすごく真面目。良い子。たまに真面目すぎて頑張りすぎてる所あるから肩の力抜いて深呼吸してね。大道具を盛り上げていってほしい新人。
・高木悠…最近よくいじっちゃう30期。お前のキャラはいじってなんぼやぞ。傷ついてたらホンマにごめん。でもその色々を武器にバンバン笑いとってけ。これからもそのキャラで頑張り続けてほしい新人。
・田中桃子…オムニで演出をつけた30期2人目。この子も真面目で頑張り屋さん。とっても良い子なだけにオムニとかで振り回して申し訳ない。これからも寝坊助な舞美の先輩を支えてあげてね。もっともっといろんな演技を見てみたい新人。
・東崎望…常に酒飲んでそうな30期。え、成人だよな?まーよく知らんけどお酒のトラブルには気をつけて。この子はまだ公式に舞台に出てない秘密兵器。新人公演でお披露目されることはあるのかな。ちょっぴり期待な新人。
・中戸太一…幸せな家庭を築きそうな30期。もうなんか善人オーラがヤバすぎて逆に怪しい。最近たまにだる絡みしちゃう。ごめんね。この子は良い演技をする。平凡から狂気まで演技の幅が広そうな新人。
・三葛麻衣…だいたい笑ってるイメージのある30期。ただ舞台上に立つと顔つきが変わる。のほほんキリッな良い役者。ダンスもとても上手かった気がする。これからバシバシにちゃうかを引っ張っていきそうな新人。
・ルーチェ…数年後音響の鬼と呼ばれそうな30期。ふと見るといつも音響の仕事に関わってる気がする。勉強熱心。しっかりと先輩から技術を引き継いで頑張っていってほしい新人。
・渡部快平…かっぺいって呼びたくなる30期。イケメンすぎて困っちゃう。いつか全裸の役をやらせたいね。顔もだけど声がいい。やっぱり全裸でオリーブオイルを体に塗りたくる役をやらせたい。阪大にファンクラブができたらおもろいなーって思う新人。
・Airman…とりあえず話が長くなりがちな30期。いろいろ考えすぎで1人でにパンクしてそう。まぁ人生楽しんでね。演技はとてもアクが強くそのアクを存分に発揮できる役なら最強なんじゃないかと思う。その調子でちゃうかに混沌をよろしくな新人。
・GEO…ちょっと眩しくて目を瞑っちゃう30期。すごいモテそう。ちゃうか唯一の陽キャラ。数年後はちゃうかの部室でパラパラしてそう。生まれながらの主人公感あるからそれを生かして頑張ってほしい新人。
・KIM YOUNG JOON…ある意味深い因縁のある30期。面白い、お前がナンバーワンだ。なんか声が好き。お酒はほどほどにね。もっともっと舞台での活躍を見たいお気に入りの新人。
・lulu…THE演劇感のある30期。もう演技面で言うことないんじゃないかな、知らんけど。素ではキツイ姉さんキャラなのでそれを舞台上で見てみたい。割と本気で小澤とかをビンタしてほしい。ちゃうかに留まらずいろんな所で活躍しそうな新人。
29期
・遠藤由己…静かでうるさい29期。オンオフが激しい。今公演では主役を張ってる。いいね。五分五分で笑いをとったり滑ってたりしてる。もっともっと笑いをとってってほしい。部屋とり議長頑張ってね。
・大林弘樹…ちゃうかちゃわん野球漫画に出てきそう人ランキング1位な29期。なんか熱く友情語ってそう。いろんなことでお世話になってる。ありがとう。これからもいろんな人を支えてあげる良き舞監であり続けてね。
・久保伊織…そろそろ殴られるんじゃないかって思う29期。ダル絡みがすごい。どんまい。かっこいいのに可愛い憎めない後輩。ずるいぞこの野郎。これからはダル絡みする方になるんやぞ。あと金返せ。
・児玉桃香…実はちょっと怖い29期。ふわふわしてるけどスパスパしてる。オムニの時から上手かった。自分の武器を生かしてる感。これからは陰でちゃうかちゃわんを支配してください。
・佐々田悠斗…寝坊助な29期。最近ただただ暴言を吐いてる気がする。ごめんね。お前は一生悪役や。天性のもんや。これからもちゃうかの悪役として堂々と演技しろよ。あ、ちょっとマイペースすぎるからちょっと周り気にしろよ。
・サミュエル・ツヤン…マルチリンガルな29期。一番有能説。日本語で脚本書くって普通にやべーと思う。ちゃうかちゃわんのどの世代にもいる留学生。その強みを今後も生かしていってね。そして、留学生いっぱい入れ���ね。
・石英…口調と年齢が一致していない29期。後輩が入って少しフランクになった。お前もクセのある演技をするね。とても良いと思う。そのクセを弱めず強めて笑いをとってね。あと初田を支えてあげてね。
・武田聖矢…1番あだ名が似合ってる29期。つぶらな瞳をしてる。こいつの発狂芸には誰も勝てない。羨ましい。お前は毎公演発狂しろ。あともう少し謙虚になった方がいいと思うぞ。どーでもいいけど。
・町民I…誰やねんな29期。よくわからん芸名使いやがって。乙女にするぞ。何故かだる絡みしちゃう。いろんな人にだる絡みするけどそのダルさはダントツかも。丁寧な深みのある演技をする。ベテラン感あっていいね。
・音川…ちっこい29期。でもパワフル。最近はとても先輩感が出てきたとおもう。この子は入団当初から安定感のある演技をする。見てて心地よい。ちっこいながらも姐さん感が出てきたとおもうので29期姐さん3人衆で、ポンコツ29期男子を引っ張ってあげてね。
・野井天音…元ヤンな29期。多分元ヤン。釘バットが最も似合うオンナ。もっと暴力振るっていいんだよ。でもそんな素行に相反したとても繊細で緻密な脚本を書き、演技をする。見てるとなんかエモくなるよね。さすがです姐さん。
・初田和大…あーうるさい奴が来てしまった。わーーーー。あ、対抗して僕もうるさくしてます。こいつは本当に出来が悪い。けどその出来の悪さを努力、量でカバーしようとするから本当に凄い。立派。あとすげー良い先輩。これからも頑張れよ。頼んだぞ。
・森中社…こいつは何期かよー知らん。とりあえずプーさんだと思ってる。良い後輩ランキングダントツの1位。あと今回すげー面白い脚本書いた。悔しい。これからもちゃうかちゃわんをもっと面白くしろ。これは命令です。
28期
・アエギュプトゥス…ほんま誰やねんお前な28期。けどちゃうかちゃわんに入って1番迷惑かけたかも。何度もこういう場で謝った気がするけど恥ずかしいから面と向かっては絶対謝らんからな。でもこれからも仲良くしてください。こいつの演技はすごい。こんなモブで輝けるやつおらん。もっともっと役者姿が見たいね。
・飯田結湖…めちゃくちゃ成長した28期。なんか上から目線でごめん。でも本当に頼れる制作チーフになった。この子がいないと何度公演が中止になったか。本当にありがとね。お疲れ様。前座コントも面白かった!
・市川萌…頭が上がらない28期。本当に副座長を頼んで良かったと思う。いつもいつも迷惑かけたし助けられた。なんかいつか奢ろうとおもう。そういえばオムニで共演した。感慨深い。ワタナベミツヒロ最高。副座長だけじゃなく、舞監、演補と本当にお疲れ様。ゆっくり休んでね。また遊ぼうね。ありがとう。
・岸本絵里香…スウェーデンに行ってしまった28期。何しとんねんほんま。お前おらんと28期しまらんぞ。ということでね、いつもおもろかったこの子は今公演は見守りタイムです。その分きっと充電を貯めてます。後輩たち、卒公でちびるなよ。また演劇しようね。燃やそうね。
・倉本隆成…僕はそこまでイケメンじゃないと思います28期。でもなんか入団からどんどんイケメン度が増してる気がする。クソだね。仲が悪そうなのは愛情の裏返しじゃねーからな。たぶん。でも月の土地は今までもらったプレゼントで1番嬉しかったよ。マジで。
・黒島めぐみ…実は1番破天荒な28期。たぶん。散々言われてると思うけど敬語がガバい。思い切ったド派手な演技で笑いをかっさらっていく。ずるい。正直まだまだ彼女を掴めてない不思議な女の子。たぶん思ってるよりもシンプル。
・竹中小百合…何回か本気で怒られたことある28期。たぶん本気で怒ってた。その度に割と真面目に反省してるから許して。ヒロイン感がすごいよね。溢れ出るヒロイン感。今回も流石のヒロイン。これからもたぶんヒロイン。新人の時のキレてる演技が一番好き。
・壇上翼…僕です。さて、皆さん気づいたでしょうか?そうです。つちへんになってます。これに気づけた団員は素晴らしい。僕も心置き無く引退できます。これに気づけなかった団員は今日中に反省文を僕まで提出してください。1,000時前後となります。よろしく。
・寺田倫子…何となくフワついてる28期。喋り方がね、フワついてるよね。中身はそんなにフワついてないけど。けどなんか和むよね。こいつもオムニで共演した。あの時は恥ずかしくて全然喋れなかったけど今はちょっとは喋れるようになったかな。ゆるふわな演技とても良い。
・中本星伍…まごうことなき質量な28期。最初はだいぶ距離を感じて、距離が縮まって、なんか女できてまた距離ができて、また縮まった気がする。話しててちょー楽しい。パワーのある演技凄くいい。もっと肥れよ、何遊んでんだ?100キロ超えてから出直してこい。あ、おじさん。
・藤崎友理…イモ焼酎が最も似合う28期。今日もイモを飲んで欲しい。今飲んでる姿見たことないけど。最近は写真撮りおばちゃんになってる。でもとても楽しそうでなにより。楽しいのが一番だよ、これからも人生楽しんでいこ。あ、めっちゃ演技上手い。さすが宝塚。
・松岡玄…ゴリラ。うほうほほうほ、うほほうほうふほほほ?ほふほふへふへ。ひひんひひん。ううーううー。ほっほほほほほ。うほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほうほ。
・水谷菜奈…あーまだふわついてる奴いたわー28期。一番ゆるふわ。でもなんだかんだいろいろ考えてるよね。計算されたゆるふわ?この子は竹中とは違ったヒロイン感がある。とてもヒロイン。どっちがよりヒロインかは知らん。でもやっぱり新人のもーみんなゴミ!が一番好き。
・三宅雄太…え?こんな奴同期におったっけ?たぶんおったとおもうけどよーわからん。こういうくだりをすると本当に凹んでるのか喜んでるのかよくわからん反応する。ある意味一番演技が好きかもしれない。キラキラキラキラうるせー。黙ってろ。
・山内。…あーやっと最後だ。えっとね、この子はね、見てて楽しいね。すげー楽しそうかすげーしんどそうかしてる。僕もいろいろ振り回されたけど今ではいい思い出だね。そういえば今のちゃうかで一番キャスパを作ったんじゃないかな。本当にお疲れ様。いいキャスパばっかだったよ。
はい、ということで団員を紹介しました。こんなにいたんですね。こんなにいたのに誰一人として被ってない。個性の塊たち。こんな奴らと演劇やってるんだから楽しいに決まってますよね。
思えばちゃうかちゃわんに入団を決めたのはささいな隣人トラブルでした。それがまさかこんなことになるとは。何はどうあれ、本当に入団してよかったです。とりあえずちょっとエモいこと言っときます。
演劇は楽しいです。ずっとやってずっとずっとやって自分で劇団立ち上げたりして、何でそこまでってくらいのめりこんでしまいました。それはお客さんの笑顔が見たいから、終わった後の達成感を味わいたいから、いろいろあると思いますが、僕の場合、一番は稽古が楽しいからです。ちょっと変なことを言うと本番より稽古の方が楽しいです。みんなで稽古して、時にふざけて時に真面目に。そんな時間が何よりも大好きです。その延長線上に本番があり、この楽しさ、かっこよさ、感動をお客さんに伝えたい、一緒に分かち合いたい、てな気持ちで本番に臨んでます。だから、引退する僕から後輩に偉そうに言えることは、楽しむ、これだけです。稽古も作業も仕込みも本番も、全部全部楽しんでください。笑ってください。そうして初めて人を笑わせれる、楽しませれると思います。もちろん辛い時しんどい時もあると思います。けどやっぱ、何で演劇やってるかって言ったら、楽しいからだと思います。そのことを思い出して頑張ってください。そして、たまにこの稽古日誌を思い出して、檀上恥ずかしいこと言ってんなって笑ってください。僕も一人で何書いてるんだろうって今笑ってますから。
はい、マジで恥ずかしいこと書いちゃったので、その恥ずかしさをごまかすために僕の初演出のワタナベミツヒロさんが本番前日に送ってくれた言葉の一部をここで記したいと思います。
「本番は何が起こるかわかりません。今までウケていたネタがウケなかったり、何でもないシーンでお客さんから笑いが起こったり…でもどんなことがあっても僕たちがやってきた一ヶ月間は嘘をつかないと思います。
ウケてもウケなくても、全力でやりきって、楽しみ切ってください。楽しんだもの勝ちです。自分達が楽しんでいるのを見てきっとお客さんも楽しんでくれるはずです。」
長いですね。これで1/3くらいです。ほんと、良い人ですよね。この文にあるように楽しむこと、これが大事です。
最後になりましたが、劇団員のみんな、先輩方、そしてちゃうかちゃわんを見に来てくださったお客様、本当にありがとうございました。楽しく幸せな2年半でした。これからもちゃうかちゃわんをよろしくお願いします。僕は老害になるので後輩は面倒をみてください。
そして、あと1ステージ、めちゃくちゃ面白い脚本が上演されるので来るかどうか迷ってる方は是非来てください!そして、役者やオペは全力で楽しんでください!!
引退ダーーー!!!
0 notes
buriedbornes · 6 years ago
Text
第34話 『旧き世に禍いあれ (2) - “ブラストフォート城塞"』 Catastrophe in the past chapter 2 - “Blastfort Citadel”
Tumblr media
 ブラストフォート城塞を見渡せば、『城』という華やかな言葉の印象とは遠い、石造りの堅牢な風貌は砦のそれと言っていいだろう。
 スヴェンはこの建造物も元は修道院だったと噂では聞いていた。ただ、城塞に研究所を設けた時には既に砦として使われていて、実際のところどうだったかは、皆目見当がつかない。むしろ験を担いだ誰かの作り話ではないかと考えていた。作り変えられた施設にしては、礼拝堂だったと見られる建物もなく、険しい斜面をわざわざ切り出して作られた来歴の割には、この地に作られた由来すら記録に残されていないのも疑念の余地がある点だった。
 城塞と名を冠しながらも、城壁の内側に市街はない。居並ぶのは兵舎や倉庫、そして厩舎などの背の低い軍用の建物で、全てが同じように暗い色をしていた。
 はぁと深い息を吐く。その息は白く、スヴェンは体をぶるりと震わせた。外套の襟を直し、足を早める。
 短い秋は瞬く間に過ぎ去り、もうすっかりと冬だ。視界に入る山岳はすっかりと白い雪に閉ざされている。ブラストフォートは年中気温が低く、1年の半分以上は雪に覆われている。
 この城塞は、トラエ、ラウニとソルデの三国間で起きた紛争の中心地となった。三国の国境線が交わる丁度中央地点で、思惑も戦線もぶつかり合った。互いの国へ進攻するに際しても、ここを通らず他二国に兵站を送るにはどうあってもリスクの高い迂回が生じる関係で、攻めるも守るも、話はまずこの城塞を手中にしてから、という事情もあった。この要塞を抑えた国が勝つと信じられ、激しい争奪戦が目下進行している。
 トラエがこの城塞を維持し続けられているのは、”軍神”ゴットフリートのおかげだ。不敗を誇るゴットフリートは、皇帝の厚い信望を受け、ブラストフォート城塞に陣を敷いた。ここを確実に堅持し続けることが、即ち勝利を意味する。武勲で比肩する者のいないゴットフリートが此度の采配を受けたのも、当然の帰結であり、疑いを示す者もいなかった。
 対するラウニやソルデもそれを理解していたからこそ、戦火はさらに激しくなって行った。トラエ無双の英雄が、史上最も堅牢を誇る城を守護している。つまり、ここを打ち崩したもの、あるいは守り抜いたものが、この戦争を制するに等しい。この三国戦争の顛末を決定づける、天下分け目の決戦地の様相を呈していった。
 ゴットフリートは戦場で一度もその膝を地面についたことはなかった。スヴェンが城に派遣されて3年、ブラストフォート城塞は今もトラエ帝国領のままだ。各地で名を馳せたどんな名だたる英雄が攻めてこようとも、この城塞を越えた者は未だかつていなかった。
(砦としての適切なつくりと、それを最大限に生かす武将……。理屈で言うは容易いが、それがこうして揃い立つと、これほどまでに守り抜けるものなのか)
 スヴェンは眼鏡のブリッジを押し上げて、先を急ぐ。その手は幾冊もの分厚い魔術書があった。
 激戦地とはいえ、兵糧が乏しくなるこの季節には大きな動きも見られなくなる。天候によってはなお一層、双方ともに大人しいものだ。攻めあぐねた敵軍に二面三面と包囲されながらも、ブラストフォート城塞はまるで平時のように静まり返っていた。
(ああ……どうしてうまく行かないのだ……)
 城塞の中にある研究室の扉を開ける。
 真っ暗な部屋を、たったひとつのランタンが照らしていた。本来はもっと採光がいい窓があったのだが、スヴェン自身が本棚で潰してしまっていた。外光は観測を伴う実験に不向きだ。
 城塞の中の、私の城。眼鏡を再度押し上げて、ふふと短く笑う。
「次はうまくやってみせる……この書こそ本物だ、今度こそ……吾輩が見つけるのだ」
 ぶつぶつと言葉を口の中で繰り返しながら、長い執務机の上に置かれていた書類や本を床にすべて落とし、新しい本を置いた。
 本棚やコートハンガーにかけられた外套、並んだ靴などは嫌と言うほど規則正しく、寸分のずれもないように置かれているというのに、余程気が高ぶっているのか、今は床に落ちた本たちを気にして直すそぶりもない。
 大きな椅子に腰かけて、その本を開いてページを手繰り始めた。
 世界を知るということに限りはあるのだろうか。スヴェンは幼い頃からずっと考えていた。世界を知るためにありとあらゆる本を読み解き、特例を受けて最高学府に進級したときも、当然のこと、以外には特に何も思わなかった。神童と呼ばれ、世界の知識を見る間に吸収し、未知の研究に邁進し、知性で遥かに劣る両親とは縁を切り、知こそが価値とする者達とこそ縁を深め、生きてきた。
 ――この世界は、一個の生命だ。
 そう悟ったのはいつのころだろう。それからスヴェンの関心は世界の表層を辿ることではなく、世界の成り立ちの根源を掴むことに移った。
 この感覚までも理解し共有できる者はさすがにいなかったが、スヴェンは気にすることはなかった。目的と到達点は明確だったからだ。
 世界が生まれた瞬間を見る。つまり、過去へ遡行しその瞬間を観測することが出来れば、世界が生命であり、巨大な有機体であり、何がどうやってそれを作り出したのかを証明できるのではないか、と考えた。菌類はそれぞれの菌根で膨大な情報網を作り上げることで知られている。ならば世界は? 世界と世界を構成する生命や物質との関係も、似たものではないのか?
 夢を見ていると言われた。気が狂ったとも。けれど、スヴェンは時間を移動することに執着し、トラエ皇帝はスヴェンの情熱に理解を示した。思えばこんな突拍子もない目的に意義を見出す皇帝というのもまた、妙ではあるとは思った。皇帝にもまた、過去に遡行する事で成し遂げたい、”過去に戻ってでもやり直したい何か”が、心中にあったのかもしれないが、それを聞き出す術をスヴェンは持たないし、スヴェン自身興味もなかった。少なくとも、時間遡行がもたらしうる皇家の安定、全ての危険を排し、あるいは時を超えて未来の悲劇を食い止め続けて、皇家そのものを永遠に君臨させる、という”表向きの”理由――そのために、皇帝はスヴェンを支援することを決定し、臣君達も、やや半信半疑ではありながらも、それを支持した。
「これだ」
 今日も皇帝に頼んでいた奇書が届けられた。
 スヴェンはブリッジを押し上げ、眼鏡の位置を直す。正常な観測のためには、眼球とレンズの距離は常に1.5cmを保たねばならない。立ち上がろうとして自分が先程叩き落した本を見やり、露骨に眉をしかめる。頭の中を整理し終えて一息ついたら、急に普段の几帳面さが顔を出した。手早くそれらを元あった場所へそそくさと戻して、室内を完璧に揃え、部屋の中心に立った。
「まず、魔石を用意して……」
 木箱に詰めてある魔石を取り出し、机に置く。魔石は貴重な資源である。研究には大量の魔石が不可欠だった。魔石なしには、相当な魔力量を消耗する実験を繰り返し行うことは出来ない。ブラストフォートは戦地だ。当然、魔術師部隊が使うために魔石も大量に集められていたが、落城までには湯水のごとく消費されていた魔石も、入城し防衛に転じてからは、ゴットフリートを中心とした白兵戦��体の迎撃戦において、これらが投入される機会も乏しく、結果余剰が出ていた。山と積まれた荷物を運び出すにも、労力がかかる。それならば、国内にいる魔石を必要とする人員が、逆にブラストフォートまで来れば良い。研究をする場所としては些か物騒な地ではあったが、自由にできる大量の魔石が得られる機会には代えがたかった。スヴェンは二つ返事で前線まで足を運んだ。研究には様々な代償がつきものだ。それを理解してくれる後ろ盾を得たスヴェンは、他の誰よりも恵まれていると言えるだろう。
 取り上げたいくつかの魔石の中から、更に質の良いものを選ぶ。一番大きいものはナリだけで中身は薄く、魔力自体は少ないようだ。ページをたぐる仕草に似た動作で、一粒ずつ指を触れては次の石に触れ、研ぎ澄ませた感覚で内容量を確認していく。最後に触れた人差し指ほどの魔石が最も密度が高く、多くの魔力を秘めていた。
「よし……よし……まずは一時間前に戻る……そうだ……」
 長い間研究し、様々な方法を用いたが、まだ成功させたことがない。
 スヴェンも焦り始めていた。戦火は年を追って激しさを増している。今は冬期で戦線が膠着しているが、雪が溶ける頃にはまた激化される。2国がこの城塞を攻め、帝国は防戦し続ける。魔石の余剰が出ているのも今だけだ。魔石の消費量も年々増え続け、そうなればいつ自分に回してもらえる分が枯渇するとも知れない。そう考えれば、時間は限られている事になる。一度でも成功させられれば、魔石を消耗する前の時間に何度でも戻って、ほぼ無限の実験を繰り返し、術式完成を確実なものにすることが出来る。それが理想であり、今の目標だ。勿論この方法は戻る人間の肉体時間の経過は加味されておらず、スヴェン本人の寿命の解決という課題が残ってはいるが、禁術に手を出せば、その辺りは時間遡行に比べれば造作もないだろうと見当がついていた。
 本のページを睨むように再度読み上げようとした時、パチン、と何かが弾ける音がした。ふぅっと風が頬を撫でる。
 音がした方向を振り向いて、スヴェンは動けなくなった。
 空間に大きな渦が現れたのだ。
 その渦に向かって風が吹き込んでいる。
「おお!」
 未知なる光景に弾んだ声を上げる。
 まず渦から出てきたのは、手だった。男の両の手が伸び、時空の切れ目をこじ開けて、その姿を現した。これから始めようとしていた実験によって、数分か数時間の未来から自分が戻ってきたのではないか。どうやら、今実験している術式は成功したのではないか。歓喜に身が打ち震える。
 単純な転移魔術など、スヴェンも何度も見たことがあるし、日常的に行使している。周辺空間に生じた歪の性質や姿の現れ方から、今目の前で行われているものは、通常のそれとは質が異なることは一目で判断できる。それは”理論上、時間遡行が成功すればこのような形で転移が成されるだろう”と想定した結果そのものだった。
「スヴェン博士か?」
 渦から現れた男に尋ねられ、スヴェンは驚いて身を竦めた。
 男は自分の身なりに気が付いたのか、ゴーグルの中の目を丸めて、被っていたマスクを外した。城塞の戦士たちよりも重装備だが、防寒具として見ても、防具として見ても、異様な姿をしていた。それはむしろ、ガスや毒に汚染された領域に立ち入る者が使う防護服に似ていた。
 男は軽く会釈した。
「僕はフィリップ。スヴェン博士で間違いありませんか?」
「いかにも、吾輩はスヴェンだが……」
 答えながら、興奮で何度もメガネを押し上げる。
「僕は未来から来た」
「おお、やはり! では、未来では時間移動の方法が確立されたのか! 素晴らしい! 素晴らしい!!」
 スヴェンは無邪気に飛び跳ねた。
 悲願だ。
 奇跡が目の前で起きたのだ。経緯こそまだ判然としないが、宿願が果たされたのだ。
「その方法が知りたいか?」
「ああ、無論だ。吾輩にとって、生涯をかけた研究の成果だ!」
「僕の生きる時代にはその技術は確立している」
 身の内から湧きあがる感動に震える。長い時間をかけた研究が実を結ぶのだ。喜ばない人間がいようものか。
 スヴェンはズレたメガネを何度も押し上げ、唇をペロリと舐めた。
「未来では、あなたの完成させた基礎を発展させ、実際に過去に飛ぶことが出来るようになった」
「そう��……そうか……! それで」
「研究資料はある。それを渡してもいい」
 フィリップと名乗った男は荷物からひとつの本を取り出して見せた。スヴェンは手を伸ばしたが、ぴたりと手を止める。
「……吾輩は、基礎を完成させた……?」
「ああ、そうだ」
「つまりは吾輩が術式を確立させたわけではないのだな」
 基礎を完成させた研究者が自分だとして、その先、実際に技術転用することは別の次元の話になるはずだ。魔術、火薬、物理……この世の全ての技術はそうして生み出されてきた。小さな研究の成果を種として多くの科学者が取り組み、発展的に理論を大成させていく。芽吹いたものを育てひとつの大樹とするにはそれだけの手間と時間と閃きが必要になる。
 今までもスヴェンは『時間遡行の第一発見者』『行使者』となるために、寝食を忘れ、周囲から気味悪がられるほど、研究に必死で取り組んできた。
 それでも時間が足りないと感じていた。その肌感覚は間違いではなかったのだ。
 目の前に提示された本は確かにスヴェンを求めた結果に導くだろう。
 だが、同時に自身の敗北を決定づけるのだ。己の力量だけではここには辿り着けなかったのだと、認めることとなる。
 フィリップは静かに逡巡するスヴェンを見ていたが、やがて、微笑みながら頷いた。
「これは’’真実’だ。研究者としての矜持はさておき、”真実”を知りたくはないか?」
 スヴェンはハッとして顔を上げた。
 真実。
 私は何のためにここまで進み続けてきたのか。
 彼が言っていることが正しく、自身で術式を完成することがなかったとしても、それは過程に過ぎない。私が目指していたものは、あくまで”真実”ではないのか?
「もしも、それをいただくと言ったら? 何が望みだ?」
 心のどこかで、素直にそれを受け取る事に呵責が生じていたのだろう。だから、それを受け取る事を、無意識に合理化したがっていたのかもしれない。未来から来た男に対価を返すことで、”真実”を受け取ってしまう自分に理由を与えようとしていた。
 予見した通りにスヴェンの瞳に灯った貪欲な光を見出して、フィリップはにやりと笑った。
「城塞内の警備情報をいただこう」
「警備の? 何故だ?」
「知らない方がいい。あなたには関係のないことだ」
「……そもそもお前は、何のためにここにいるのだ?」
「知れば、来たるべき未来のことも伝えねばならなくなる。必要以上に過去を変える事は避けたい……ただ、必要なものがあるとだけ。それを持ち帰る事だけなら、この時代の歴史には影響しない、それは保証しても良い」
 まるで台本があるかのように、フィリップは淀みなくスヴェンに語り掛ける。
 未来から来た。それは間違いないだろう。スヴェンが口外もしていなかったはずの、仮説段階の転移の様子そのものが目前に展開したことで、疑う気持ちなど寸分もなくなっていた。受け取った資料に目を通せば、そこからもまたフィリップが未来から来た事が真実であるという証拠を得る事もできるだろう。ただ、もう一声、フィリップが信頼に値するという、自身が”真実”を受け取る事に感じる呵責を打ち消すだけの理由を求めたかった。
「受け入れたいのは山々だが、警備情報をとなると難しい。未来から来た事が仮に真実でも、君がトラエ以外の人間であったならば、私の立場からすれば利敵行為に与しかねない事になる。理解してくれるか」
 スヴェンはこう言い放ちながら、内心で自嘲した。スヴェンは、フィリップがトラエの人間である事を証明してくれる事を期待していた。彼があらかじめ私の呵責を砕く準備までした上でここに来ていると、察しが付いていた。その上でこんな事を方便にするのは、戯曲を棒読みする姿を見透かされるようで、歯がゆかった。
 フィリップは答えをやはり用意していたようで、間髪入れずに分厚い上着のポケットから、ひとつのネックレスを取り出した。金色のネックレスは傷がつき、古いものだった。スヴェンはその取り出す様を見ながら、やはり見透かされていたのだと、思わず赤面した。
「開けてみてくれ」
 スヴェンはおずおずと受け取り、開いた。そして息を飲む。
「これは……!」
「一緒に映っているいる赤ん坊が僕だ」
 一目見て分かった。写真に写った男は、ゴットフリートだ。城塞の食堂で目にした、岩でも噛み砕きそうな厚い顎、豹を思わせる眼光、右頬と左こめかみに負った特徴的な傷跡。スヴェンの知るゴットフリートよりもかなり年を重ね、白髪や白髭を蓄えた風貌で笑っていた。
 ――未来だ……。
 スヴェンは、ごくりと息を飲んだ。
「あのゴットフリートが、人の親、果ては老人か……。戦場で死ぬような者ではないとは、思っていたが」
「祖父は一族の誇りだ」
「……分かった。警備情報を渡そう。だが、本当に面倒事は起こさないのか……?」
「表立っては何も起きないから、安心していただきたい。この時代には捨て置かれたものを、持ち帰るだけだ」
 スヴェンには、その言葉の意味まではわからなかった。
 その後の逡巡を見越したように、ゆっくりと研究書をスヴェンに差し出す。
「戻れる先は魔力の量に左右��れる。魔力を1点に集中すればいい。杖を使えばいいだろう」
「お……おお……」
「この本に詳しくまとめられている。運命は、未来は変わらない」
「本当に?」
「あなたが、あなたのために使うだけに留めれば、自ずとそうなるだろう」
 答えないスヴェンの胸に、ドンと本が叩きつけられる。
 その感触に、スヴェンの理性はぐらりとふらついた。
Tumblr media
 月が高く上ったのを見上げて、フィリップはゆっくりと山岳の斜面を進んだ。姿勢を低くし、音を立てないように。
(……不安はあったが、狙ったタイミングに戻れたな……)
 グレーテルと徹底的に城塞の歴史を調べた。
 激しい攻防戦から間がなく、その後しばらく戦闘がない、天候が落ち着いている時期。かつ、当日の天気が晴天で満月であること。
 いくら協力を得ることが出来て警備の状況が把握できていても、誰もいないはずの山の斜面で灯りを用いて、遠目にでも見つかる危険を冒すことは避けるべきだ。暦を遡り、目途をつけたのが今日この日だった。
 斜面には雪が積もっている。この積雪から数日、戦線に動きはなかったと記録されている。束の間の平和。だが、その直前には、この斜面で、たくさんの人と人が殺し合ったのだ。静寂に包まれた雪景色の中、あちこちに矢が突き刺さったまま放置されていた。戦闘の跡だ。
 左右を見渡してから、フィリップは一番近くの雪を掻いた。そこにも矢が刺さっている。
(……矢先の雪がほのかに赤い)
 山岳地の雪らしく、水を含まないさらさらとした雪で、払えば埋もれたものが簡単に姿を現す。
「……あった」
 雪の下には、傷の少ない兵士が眠るように倒れていた。
 念のため体を検めるが、四肢も無事で、背中に矢を受けた痕があるだけだ。専門外だが、転がした下の赤黒い土の色から察するに、死因は失血だろう。
 こんなに状態のいい屍体を見たのは、いつぶりか。
 ここはまさに、フィリップにとって宝の山だ。
 見渡す限り、無数の屍体が隠されている。先日攻め入ってきたが退路を断たれ、殲滅の憂き目にあったラウニの一個師団がこの斜面に眠っている。
 ざっと見積もっても数千から万を超すだろう。 この雪の下にある屍体さえあれば、それらは全て、二人が未来で戦うための手足となる。計り知れないほどの戦力だ。
 グレーテルも転送を待っているだろう。と言っても、未来で待つ彼女の方からしたら、突然数千の屍体が目前に現れるような形になるのかもしれないが。
 兵士を完全に雪の上に横たえてから、フィリップは術式を展開した。過去に遡行することに比べ、未来に送ることは難しくはない。状態が劣化しない静止した時空間に屍体を閉じ込める。そして、ある特定の時期に来たら、閉じた時空間から屍体を現実に表出させるように仕込んでおく。川の流れを下るように、時の流れに逆らわずに未来へ向かうのであれば、身を任せるだけで良い。逆に、流れに逆らって上流に向かおうとするには、莫大なエネルギーを要する。それが、時間遡行研究者たちがたどり着いた、ひとつの答えであった。
 遺体はぼぉっと青白い光に包まれて、ふっと消えた。
 成功だ。
 こうして閉じ込めた屍体全てが、グレーテルの元で姿を現すだろう。彼女も状態のよさとその数に感動するはずだ。周囲を見渡し、笑みが溢れる。
 屍体の数は多ければ多いだけいい。フィリップは近くの雪中を再び探り始めた。
「ん? なんだぁ?」
 突然降ってきた声に、フィリップはぴたりと動きを止めた。
 振り向けば、豪奢な装備に身を包む屈強そうな男が、首を傾げながらこちらを見ていた。ありえない。
「――……巡回はいないはずじゃ……」
 スヴェンから得た警備資料は棚から即座に取り出されたものであって、あの場で嘘を取り繕うためにあらかじめ用意できるようなものではなかったはずだ。
 だからこそ、その内容を信じたフィリップは夜を待って行動を開始したのだ。
「巡回なんざしてねえさ。散歩してただけだ」
 男は野太い声で言った。
「しっかし、誰だ、お前は。さっき屍体を掘り返してたよな?」
「……何のことだ」
「おいおい、しらばっくれても無駄だ。見てたぞ。目の前から消えたんだからな」
 失敗した。
 頭の中で思考が急回転を始める。どうやってこの場を切り抜ける? 取り繕うか、命を奪い口を封じるか、逃げるか?
「転送魔法か? それで屍体を運んで何しようってんだ」
「それは……」
 なにかうまい口実はないか、言葉を手繰ろうとするフィリップを待たずに、男は叫んだ。
「戦場泥棒は重罪だぜ!」
 雪をギュッと踏みしめる音を立てて、男はフィリップに飛び掛かる。
 やるしかないか。
 咄嗟に、重力歪曲《グラビティプレス》の術式を展開する。
 跳躍し上向いた兜の中の顔を、月明かりがはっきりと照らす。豹のような眼光が��ちらを見据えていた。一瞬、フィリップの胸中に幼い日が去来した。
(――……ゴットフリート爺さん!)
 逃げなければならない。話も通じない。殺してはいけない。
 月明りを背に大きな影が落ちる。
 フィリップは咄嗟に術式を変じて、空間移動《テレポート》に切り替えた。短い距離であればすぐに展開して移れる。
 鈍い音を立てて、ゴットフリートが鞘から引き抜いた剣が雪に突き刺さる。さきほどまでフィリップが立っていた雪の跡は、衝撃で爆ぜて消え失せる。そのまま、目線を数歩先のフィリップに向ける。
「はっ、やっぱり転移か。ラウニの連中は知ったこっちゃねぇが、ここには俺の隊の奴も幾人か眠ってんだ…」
 雪から剣を振り上げるように引き抜き、巻き上げられた細かい雪がまるで煙幕のように広がる。視界が真っ白に染まる。
 フィリップは咄嗟に腕で顔を庇ったが、視界に影が過る。
(まずい!)
 二度目の転送が一瞬遅れ、避け切れなかった。ゴットフリートの剣先は肩から胸にかけて切り裂く。傷は浅いが痛みによろめく。
 雪の影から突きを繰り出したゴットフリートは、目をぎらりと輝かせる。
「魔術師相手は滅多にやれねえんだ。面白えな……!」
 まともにやり合ったら、殺される。
 運が悪すぎる。
 本気でやり合ったところで、ゴットフリートに勝てるわけもない。仮に勝てたとしても、祖父である彼を今この場で殺したら、未来から来た自分は一体どうなる? 前例がなく、全く予想がつかない。年老いてからも人の話を全く聞かなかったあの男が、戦場跡をうろつく怪しい男が語る”理由”なぞ、おとなしく聞いてくれるはずもない。殺さずに無力化出来るような術も持ち合わせてはいない。
 なんとかやり過ごして、逃げるしかない。
 再度テレポートをしようと身構えたフィリップに向かって、ゴットフリートが大きく踏み出そうとして、ぴたりと止まった。
「……なんだ? 臭ぇな……」
 眉をぐっと止せ険しい表情で辺りを見渡す。
 確かに何か匂いがする。嗅いだことのない匂いだ。
「屍体の臭いでもないな……なんの臭いだ……?」
 唐突に、その匂いが一層強くなった。
 屍体は確かに掘り返した。けれども、この気温で、雪の下にあった兵士の体は腐敗するはずがない。凍てつき、匂いもなかったはずだ。
 腐ったような、けれどももっと酷く脳を直接刺激するような……嗅いだことのないほど異臭。
「……うっ」
 胸が悪くなる。
 ゴットフリートも片手で鼻を抑えながら、周囲を見渡した。
 ふたりの視点が1点にとまった。打ち捨てられた盾だ。放り出されて地面に突き立ったままのそれが、奇妙な黒い靄に包まれている。
「おい、小僧、お前の術か、ありゃあ?」
 ゆらゆらと噴き出ていた黒い煙の密度が増す。
 フィリップは自分の背中が粟立つのを感じた。
 あれは、だめだ。
 理由はわからない。ただ、本能が叫ぶ。けれど、足が竦んで動かない。
 盾を包んでいた煙は次第に細くなり、盾と地面が成す角から勢いよく噴き出した。そして、その煙が見たこともない不気味な黒い猟犬の姿を取った。
Tumblr media Tumblr media
~つづく~
原作: ohNussy
著作: 森きいこ
※今回のショートストーリーはohNussyが作成したプロットを元に代筆していただく形を取っております。ご了承ください。
旧き世に禍いあれ(3) - “猟犬の追尾”
「ショートストーリー」は、Buriedbornesの本編で語られる事のない物語を補完するためのゲーム外コンテンツです。「ショートストーリー」で、よりBuriedbornesの世界を楽しんでいただけましたら幸いです。
3 notes · View notes