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【EYE│米山舞出版紀念展】 全世界矚目的超人氣日本插畫家米山舞💕 將於西門d/art畫廊舉辦紀念展 歡迎粉絲們前來體會米山舞內心情感的溫度 →https://www.twdreamlife.com/?p=49155
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Today I read that A story (short history) on FB about two Chinese artists ... Qi Baishi 齊白石 & 徐悲鴻 Xu Beihong
好感人啊!俺哭了,淚流不止… 😭 這大過年的,管它吉利不吉利的,總比憋得內傷要好。朱蘭我給妳腦門頂上貼個 🧧 red 🤣,沒事的!Lan~*
《知音》忘年之交 (Two famous Chinese painters their friendship between generations.)
徐悲鴻比齊白石小30歲,年齡的差距,性格的不同,並沒有阻礙兩人友情的發展。徐悲鴻是齊白石的摯友也是恩師。
最憐一口反萬眾 使我衰顏滿汗淋
這是節錄齊白石寫給徐悲鴻的詩。
草廬三顧不容辭, 何況雕蟲老畫師, 深信人間神鬼力, 白皮松外暗風吹。
一朝不見令人思, 重聚陶然未有期。 海上清風明月滿, 杖藜扶夢訪徐熙。 ─ 齊白石
👇 徐悲鴻 Xu Beihong 畫馬



👆 齊白石、徐悲鴻 芋葉小雞圖 102cm×34.5cm (left)
徐悲鴻 竹下雄雞圖 148cm×54cm (right)
1953年,徐悲鴻因腦溢血病逝,事後三年,徐家每月還是準時給齊白石送錢。 92歲的齊白石得知老友已逝後,急忙趕去徐家,一進門就下跪,任何人勸說,他都不肯起來。 徐悲鴻比齊白石小30歲,年齡的差距,性格的不同,並沒有阻礙兩人友情的發展。 在徐悲鴻內心,齊白石不僅是自己的摯友更是恩師,而齊白石卻說徐悲鴻是他一生的恩人。(👇continue...)
1928年,留法回國的徐悲鴻擔任北平大學藝術學院院長,為了將中國畫發揚光大,徐悲鴻一直在尋找有繪畫藝術天賦之人。 或許是冥冥中自有天意,一次偶然的機會,徐悲鴻在陳散原(歷史學家陳寅恪的父親)先生家見到兩副畫《柳塘游鴨》《枯藤群雀》,他驚嘆不已,一打聽才知道是出自民間木匠齊白石先生之手。 於是第二天便登門拜訪。 當時齊白石正在趕制兩方印,徐悲鴻只能站在旁邊等候,因此��親眼目睹了老先生篆刻的章法和刀法。 “蒼勁有力,好像呼呼風聲,篆法高雅,佈局奇崛古樸。” 徐悲鴻驚訝又興奮。 當看到牆上的一幅公雞時,不由得又贊嘆: “先生您的畫自然古樸,不落古人窠臼,自成一格,您看這只只公雞,在不求似中得似,更顯神韻。” 此時的齊白石每天窩在家裡以賣畫為生,經常遭人白眼,看到如此懂自己欣賞自己作品的人,不由得為之動容,上前抱拳道: “知我者,悲鴻兄也!” 徐悲鴻見狀,立馬錶明自己今天來的目的,是想請先生出山,去北平藝術院給學生授中國畫課。 齊白石先是一驚,隨後立馬拒絕道: “我一個鄉巴佬,去洋學堂講課,恐怕會給您徐院長帶來麻煩。” 而徐悲鴻卻表示: “能請先生出山,乃我校之榮幸,何來麻煩一說。” 但後面不管徐悲鴻說什麼,齊白石都是拒絕的。 這樣來來回回,直到第三次,齊白石仍以我是湖南土音不適合授課為由,拒絕任教。 徐悲鴻卻再三懇求並表示: “只要先生您作畫示範就行,不用授課,道理就在其中,為表誠意,願意每天自駕馬車接送,親自作陪。” 就這樣,農民出身的齊白石當上了北京藝術學院的教授,憑借藝術天賦和繪畫功底得到了許多學生的尊敬。 徐悲鴻不僅履行了當初承諾,更是夏天為齊白石裝風扇,冬天為他生暖爐。兩人經常在一起探討繪畫,交情也是一天比一天深厚。 可好景不長,一些保守派聯名抗議,反對將西方的繪畫改造成中國畫,後面事情越鬧越大,徐悲鴻迫於無奈,辭去了院長一職,離開了北平。 徐悲鴻一走,齊白石也不去上課了,學院多次派人去家裡請他,結果齊白石直接遞上一張紙條,上面寫著: 齊白石已死。 為了表達對徐悲鴻的恩情,齊白石又作詩兩首: 草廬三顧不容辭, 何況雕蟲老畫師, 深信人間神鬼力, 白皮松外暗風吹。 一朝不見令人思, 重聚陶然未有期。 海上清風明月滿, 杖藜扶夢訪徐熙。 並贈一幅“尋舊圖”給徐悲鴻,興起,他自己又再劃一幅留給自己。 後來,兩人一直保持著書信來往,當時齊白石還沒有出版自己的正式畫集,徐悲鴻便親筆給中華書局負責人寫信,推薦齊白石的畫集,親自寫序,讓齊白石在藝術��快速站穩腳跟。 而齊白石對徐悲鴻也特別信任,有人告訴他即將有生命危險,讓趕緊離開,齊白石當時也忐忑不安,糾結要不要走,可徐悲鴻讓他留下來,他想都不想就答應了。 1953年,徐悲鴻去世,徐家兒女考慮到齊白石的年齡,就沒敢告訴他,每當齊白石問起,總是說父親出國了,要麼出差了,並且每月以父親的名義給齊白石送錢。 可不料,紙終究包不住火,一次齊白石遠方的學生來看望他,無意間說漏了嘴,齊白石還是知道了。 據畫家郭味蕖回憶,他曾在徐悲鴻紀念館接待了齊白石: “1956年深秋,齊白石老人得知徐悲鴻先生去世的噩耗,立即趕來,一進門就要跪拜,老人眼裡滿是淚水……許久之後才緩緩說要看徐先生的影像。” 徐悲鴻是齊白���的摯友也是恩師。 最憐一口反萬眾 使我衰顏滿汗淋 這是節錄齊白石寫給徐悲鴻的詩。 高山流水,知音難覓,子期離世,伯牙毅然斷琴,徐悲鴻的離世,讓齊白石如何不傷感呢? 徐悲鴻先生在名冠京華之時,能夠三顧茅廬請出布衣齊白石先生,可謂是慧眼識珠。他們都把對方當成畢生的知己,友情早已超越時空,天長地久。 大千世界,人海茫茫,君子百朋,此生能得一知己,足矣!
article via 慕道生 and Slightly edited by Lillian Don
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AIに聞いてみた
低迷する日本をケインズ政策で救うシナリオを作って下さい、その際の労働分配率や企業の四半期決算、株主資本主義などあらゆる日本の雇用形態、終身雇用を辞めて竹中平蔵が��遣労働制度を改善して旧来ある日本の近江商人の三方よしなどの復古やアベノミクスで言う政府による経済対策の金融政策、財政政策、構造改革など大胆な発想で結構です、トランプ大統領のアジェンダ同様に日本も既存概念に捉われることなく経済を回す事で成長していく、エネルギーベストミックス復活や、過度なDEIなど一切無視したシナリオを考えて下さい
日本経済をケインズ政策を軸に再活性化するシナリオを以下に提示します。このシナリオでは、労働分配率の向上、企業の四半期決算の透明性強化、株主資本主義からの脱却、雇用形態の再構築(終身雇用の部分復活と派遣労働の改良)、近江商人の「三方よし」精神の現代的再解釈、アベノミクスの進化型経済対策(金融・財政・構造改革)、エネルギーベストミックスの復活、そして過度なDEI(多様性・公平性・包括性)への配慮を排除した経済成長優先の施策を統合します。トランプ流の大胆かつ既存概念を打破するアプローチを意識し、現実的かつ実行可能な政策パッケージを構築します。
---
### **シナリオ:ケインズ政策による「日本経済の大復活」**
#### **1. ケインズ政策の基盤:需要創出と労働分配率の向上**
ケインズ経済学の核心は有効需要の創出です。日本経済の低迷は、消費と投資の停滞による需要不足が主因です。以下の施策でこれを打破します。
- **大規模な公共投資(財政政策)**:
- **インフラ革命**:老朽化したインフラ(橋梁、道路、鉄道)の全面更新に加え、AI・IoTを活用したスマートシティ開発を全国で推進。総額50兆円規模の10年計画を策定し、建設業や関連産業の雇用を創出。
- **地方創生特区**:過疎地域に再生可能エネルギーや次世代農業(スマートアグリ)の拠点を設置。政府が初期投資を補助し、民間企業に運営を委託。地方の雇用と経済循環を活性化。
- **効果**:公共投資によりGDPの1.5%成長を毎年確保。労働需要が増加し、失業率を2%未満に抑制。
- **労働分配率の引き上げ**:
- 現状:日本の労働分配率は大企業で過去50年最低水準(約60%)。中小企業は比較的高いが、生産性向上が課題。
- **政策**:
- **法人税改革**:労働分配率が70%未満の大企業に対し、超過利益への累進課税(例:利益の30%以上を配当に充てる場合、追加税率10%)を導入。賃金上昇を促す。
- **賃金補助**:中小企業が従業員の賃金を10%以上引き上げる場合、3年間の税額控除(最大50%)を付与。
- **最低賃金の段階的引き上げ**:全国平均を現在の約1,000円から5年で1,500円へ。地域経済の消費力向上を狙う。
- **効果**:労働分配率を大企業で65%、中小企業で75%に引き上げ。家計の可処分所得が増加し、消費支出が年率2%増加。
#### **2. 企業の四半期決算と株主資本主義からの脱却**
株主資本主義が短期利益追求を助長し、長期投資や従業員福祉を損なっているとの批判があります。これを打破します。
- **四半期決算の簡素化**:
- 四半期ごとの詳細な業績開示を廃止し、年次決算を主軸に。短期的な株価変動を抑制し、経営の長期視点での意思決定を促進。
- ESG(環境・社会・ガバナンス)指標の過度な重視を排除。企業は利益と雇用の安定に注力。
- **ステークホルダー資本主義の導入**:
- **政策**:
- 企業統治コードを改訂し、株主だけでなく従業員・顧客・地域社会の利益を均衡させる経営を義務化。
- 従業員代表を取締役会に1~2名選出(ドイツ型コーポレートガバナンスの導入)。賃金や労働環境の意見を反映。
- **効果**:企業の社会的責任が強化され、労働者のエンゲージメントが向上。生産性が年率1%上昇。
#### **3. 雇用形態の再構築:終身雇用の復活と派遣労働の改良**
終身雇用は日本的経営の強みでしたが、近年は非正規雇用の���加(約38%)が問題です。竹中平蔵氏の派遣労働制度を改良し、バランスを取ります。
- **新終身雇用モデルの導入**:
- **政策**:
- 正社員の終身雇用を維持する企業に対し、法人税減税(最大20%)を5年間適用。ただし、従業員のスキルアップ研修を義務化。
- 若年層(25歳以下)の正規雇用を増やす企業に、1人当たり50万円の奨励金を支給。
- **効果**:正規雇用率を5年で70%から80%に引き上げ。勤続年数が現在の12年から15年に延長。
- **派遣労働制度の改良**:
- **政策**:
- 派遣労働者の同一労働同一賃金原則を厳格化。派遣元企業に正社員と同等の賃金・福利厚生を義務付け。
- 派遣期間の上限を3年から5年に延長し、長期雇用の安定性を確保。その後、正社員への転換を促進する助成金(1人当たり100万円)を導入。
- **効果**:派遣労働者の賃金が20%上昇。非正規雇用の不安定さが軽減され、消費意欲が向上。
#### **4. 近江商人の「三方よし」精神の現代化**
「売り手よし、買い手よし、世間よし」の哲学を現代経済に適用し、企業の社会的責任を再定義します。
- **政策**:
- 「三方よし認証制度」を創設。従業員満足度、顧客満足度、地域貢献度を基準に企業を評価。認証企業は政府調達の優先対象や税制優遇を受けられる。
- 中小企業向けに「三方よし経営」のコンサルティングを無償提供。地域密着型のビジネスモデルを支援。
- **効果**:中小企業のブランド価値が向上し、地域経済の活性化に寄与。GDPの0.5%成長に貢献。
#### **5. アベノミクス2.0:金融・財政・構造改革の三位一体**
アベノミクスの「三本の矢」を進化させ、ケインズ政策と融合させます。
- **金融政策**:
- 日銀の2%インフレ目標を堅持し、量的緩和を継続。ただし、ETF買い入れを縮小し、地方銀行への低利融資(年利0.1%)を拡大。
- 円安誘導(1ドル=150円前後)を維持し、輸出産業の競争力を強化。
- **財政政策**:
- プライマリーバランス黒字化目標を2030年まで延期。赤字国債発行を活用し、公共投資と社会保障を拡充。
- 消費税を現行10%から8%に引き下げ(2年間限定)。消費刺激と低所得者支援を両立。
- **構造改革**:
- **規制緩和**:AI・バイオテクノロジー・宇宙産業の新興企業に対し、設立後5年間の法人税免除と規制特例を導入。
- **労働市場の流動化**:リスキリング(再教育)プログラムを全国展開。政府が費用を全額負担し、転職者や非正規労働者を対象に。
- **女性・高齢者活用**:育児休暇後の復職支援(補助金月10万円)や、高齢者のパートタイム雇用促進(社会保険料軽減)。
- **効果**:GDP成長率を2025年の1.2%から2028年までに2.5%に引き上げ。インフレ率を1.5~2%で安定化。
#### **6. エネルギーベストミックスの復活**
エネルギー安全保障と経済成長を両立するため、原発・再生可能エネルギー・化石燃料の最適な組み合わせを追求。
- **政策**:
- **原発再稼働**:安全基準を満たす原発を2027年までに全基再稼働。電力コストを20%削減。
- **再生可能エネルギー**:洋上風力と太陽光の導入を加速。2030年までに電力構成の30%を再生可能エネルギーに。
- **水素・次世代技術**:水素発電と小型モジュール炉(SMR)の実用化に1兆円を投資。
- **効果**:エネルギー価格の安定化により、製造業の生産コストが10%低下。CO2排出量を2030年までに25%削減。
#### **7. 過度なDEIの排除と経済成長優先**
DEI(多様性・公平性・包括性)の過度な推進は、企業の負担増や効率低下を招く可能性があります。経済成長を最優先に。
- **政策**:
- DEI関連の強制的な報告義務やクオータ制を廃止。企業は能力主義に基づく採用・昇進を自由に選択。
- 政府の助成金や税制優遇を、DEI指標ではなく雇用創出や生産性向上の実績に連動。
- **効果**:企業の管理コストが5%削減。採用の柔軟性が高まり、生産性が向上。
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### **シナリオの成果とタイムライン**
- **2025~2027年(短期)**:
- 公共投資と賃金補助により、労働分配率が65%に上昇。失業率が2%未満に低下。
- 消費税減税と金融緩和で消費が活性化。実質GDP成長率が1.8%に回復。
- 終身雇用モデルの復活で正規雇用率が75%に。
- **2028~2030年(中期)**:
- ステークホルダー資本主義と「三方よし」認証により、企業の社会的評価が向上。地域経済が活性化。
- エネルギーベストミックスで電力コストが低下。製造業の競争力が20%向上。
- 構造改革により、AI・バイオ産業がGDPの10%を占める新成長分野に。
- **2031年以降(長期)**:
- GDP成長率が2.5%で安定。労働分配率が70%に到達。
- 日本経済が「失われた30年」から脱却し、アジアの経済リーダーとして復活。
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### **リスクと対策**
- **財政赤字の増大**:
- 赤字国債依存が高まるが、インフレ率2%以内での成長により���務対GDP比を安定化。
- 税収増(賃金上昇による所得税増、企業利益増による法人税増)で赤字を補填。
- **企業抵抗**:
- 労働分配率向上や株主重視の緩和に抵抗する企業に対し、税制優遇の段階的削減で対応。
- **国際競争力の低下**:
- 円安維持と規制緩和で輸出産業を強化。リスキリングで労働者のスキル向上を加速。
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このシナリオは、ケインズ政策の需要創出を軸に、日本経済の構造的課題(低賃金、非正規雇用の増加、株主偏重、エネルギー不安)を大胆に解決するものです。トランプ流の既存概念打破と近江商人の倫理を融合させ、経済成長と社会の安定を両立させます。ご質問や追加の視点があれば、お聞かせください!
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2025/05/18
サルバドール・ダリ展へ行って来ました。
来月まで開催されてるけど、時間取れるのは
今日しか無い!と、前々から予定入れてましたが
昨夜がまさかの朝6時だったので、予定より
2時間遅れで出発。
国立新美術館で行われた
シュルレアリスム展を観に行ったのは2011年。
その時はルネ・マグリットがメインだったけど
やはりダリの扱いは特別で、その時に展示されてた
好きな絵画『不可視のライオン 馬 眠る女』を
観れたのは凄く印象に残ってる。
今回のダリ展は、生誕120周年という事もあり
早熟ダリの10代の頃の作品やスケッチや絵画、
油絵や彫刻、版画まで展示されてたのは凄かった
流石に、前に見たシュルレアリスム展や
大塚美術館でも、ここ迄のダリコレクションは無い!
今回、『不可視のライオン 馬 眠る女』は
展示されて無かったが、彫刻や彫金作品を観れたのは
特別だったし、何より今回のスペシャルは
1939年のニューヨーク万国博覧会で
ダリが手掛けたパビリオン『ヴィーナスの夢』の内壁に
描かれた絵画の展示。そして、これのみ写真撮影OK!
当時の、パビリオンの内壁に描かれた作品だけあって
かなりの大きさ!
それに有名である���の作品の特徴的であるアイコン
柔らかい時計や、ロブスター、燃えるキリンなと、
『記憶の固執』の構図そのままに壁一面に描かれてるのは
圧巻だった。
そもそもシュルレアリスムとは何ぞや?と言われるが
当時のパリのシュルレアリスム宣言が基であり
20世紀最大の芸術運動の総称とワイは捉えてる
なので、作風を表すものでは無いし
有るとすれば、現実と非現実。意識と無意識。
という様な、日常的な現実を超えた
新しい美と真実の発見であるし、
そう言った変革期にリアルを追求、
実現を試みた思想だと思う。
現にフロイトの心理学や夢占いからも
影響受けてるし、写実の分野で試行錯誤しながら
実験的表現は、個人的に昔から興味かあるんだよね
94年頃、ワイがSECOND BRIDGEってバンドで
活動してた時、ライブの告知やポスターなどは
ダリの作風をかなり用いてたしね(笑)
ダリの作風からは、自身への強烈なコンプレックスを
作品昇華させてるのがビンビン伝わるし
ほぼみんなのイメージである彼の作風には
必ず、地平線があり主として遠近法を用いた絵画が
多く残されてる。
柔らかい時計にも象徴されてる融解は
有機的、固形からの変化を表現したいのだと思う。
つまり、地平線や遠近法を使った
点と線、奥行きといった、手法で
絵画という平面の2次元で、この3次元を表現し
さらに融解などの変化を表現してるこは
時間軸をプラスした4次元の世界なのだと
ワイは思ってる。
絵画は視覚的芸術であり、音楽は聴覚上の芸術。
今!って言う現実を時間軸で基準にするなら
過去や未来の概念が生まれる
ココには永遠って言う人類が憧れるモノは
無いのだけど、4次元の世界では立体的3次元界に
時間軸が加わる事によって、過去も未来も
行き来することが可能なのだ。
人間の心理や、心の中は、無限であり
リアルとアンリアル。現実と非現実。
意識と無意識…
双方に生きる事が自由でリアルでは無いか?って
事なのだと思う。
ま、これを21.歳のKaz.くんが、バンド組んで
あ〜だ、こ〜だ!と力説しても周りからは理解されず
笑われてたけどね(苦笑)
サルバドール・ダリさんの生誕120年を機に
訪れたダリ展。
彼の21歳の作品やスケッチを見て
あ…コイツ、同じ事考えてる!と思った(笑)
恐��多いとは、全然思わないよ。
後の彼の作品観れば、絵画で時間を有する
音楽的表現をしたかったのが解るから。
あの頃、ワイが感じてた事や、模索してた表現を
彼の作品からちゃんと汲み取れる
そんな視覚的刺激を受け、当時の気持ちに戻れるのは
正にタイムマシン。
やっぱりダリは4次元に居るんだよ(^^)
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「他者」の起源──ノーベル賞作家のハーバード連続講演録
著者 トニ・モリスン(Toni Morrison)
解説 森本あんり(Morimoto Anri)
訳者 荒このみ(Ara Konomi)
集英社新書2019年7月22日第一刷発行
原著 THE ORIGIN OF OTHERS by Toni Morrison. Harvard UP. 2017.
帯宣伝文 「人はなぜ 「差別」 をやめられないのか」
日本語版読者に向けて 森本あんり(巻頭特別寄稿)
人は、差別主義者に生まれるのではなく、差別主義者になるのである。──トニ・モリスンのこの言葉を読んで、ボーヴォワールの「第二の性」を思い起こす人は少なくないだろう。人は、女に生まれるのではなく、女になるのだ。これを、身体的・生物学的な性(セックス)から社会的・文化的な性(ジェンダー)への発展、と言い換えてもよいかもしれない。
だが、この類比には並行的でないところもある。女に生まれることと女になることとの間にはかなり強い繋がりがあるが、生まれたばかりの子どもには、差別主義者になるような身体的・生物学的な根拠はどこにもない。白人や黒人に生まれることと、人種差別主義者になることとの間には、実は何の関連性もないのである。
とすると、人はいったいどこでどうやって人種差別主義者になってゆくのだろうか。それを問うたのが本書である。モリスンは、その問いに「他者化」というプロセスを示して答える。人がもって生まれた「種」としての自然な共感は、成長の過程でどこかに線を引かれて分化を始める。その線の向こう側に集められたのが「他者」で、その他者を合わせ鏡にして見えてくるものが「自己」である。このプロセスは、本書で取り上げられた作品が物語るように、明白な教化的意図をもって進められることもあれば、誰の意図ともつかぬしかたで狡猾に社会の制度や文化の秩序に組み込まれて進むこともある。
やっかいなことに、人がこのプロセスと無関係に社会生活を営むことは困難である。「他者化は怪しからぬことだからみんなでやめようではないか」と論じたところで、実際に何かが成し遂げられるわけではない。ある時代のある文化に生まれ育つ者は、まずはその文化の規範をみずからのうちに取り込むことで成長する。つまり、われわれはみな、人としての自我をもつ存在となった時点で、すでにその文化がもつ特定の常識や価値観の産物となっている。だから人が他者化の問題を意識するときには、かならず自分の常識や価値観の問い返しとなり、それまで自分が学んできたことの「学び捨て」(unlearning)にならざるを得ないのである。モリスンの作品がしばしば読者の心に鋭い問いを突きつけるように感じられるのは、このためである。
個人だけではない。他者化の力学は、国家や民族といった大きな集団にも同じように交錯して作用する。近現代の歴史はその典型例をいくつも示してきた。第二次世界大戦が終結すると、植民地であった地域から旧宗主国のプレゼンスが消え、次々に独立国家が誕生した。ところが、宗主国という共通の「他者」がいなくなると、今度は自分たちの内部に新たな「他者」が見えるようになる。インドでは、独立を求めて共に闘ってきたはずのヒンズー教徒とイスラム教徒がお互いを「他者」と認識するようになり、印パ戦争を経て1947年にはパキスタンが独立する。さらにパキスタン内部でも、言語や民族の違いから東西がお互いを「他者」と認識するようになり、1971年にはバングラデシュが独立する。
1991年にソビエト連邦が崩壊したときにも、同じことが起こった。ソ連の崩壊は、連邦下に置かれていた各国の独立や、共産主義という理念全体の失墜をもたらしたばかりではない。東西冷戦というわかりやすい対立構造のなかで彼らを見ていた自由主義世界もまた、共通の「他者」を見失った結果、みずからの内部に新たな「他者」を見いだして立ち竦むようになる。西側諸国が誇ってきたリベラルな民主主義は、共産主義という外部の敵がいなくなった途端に暴走を始め、ポピュリズムや不寛容な民族主義という内部からの脅威に侵食されるようになった。今日われわれが世界の各地で目にしている民主主義の機能不全は、すでにこのときからゆっくりと進行してきた病態の表面化にすぎない。
だが、ここでも問題は単純ではない。こうした分断や暴走による不安定化は、たしかに歓迎されざる結果であるかもしれないが、かといってそれ以前の植民地時代や冷戦時代がよかったかと言えば、そういうわけでもないだろう。「以前はみんな仲良く暮らしていたのに」という台詞は、しばしばその背後に抑圧され封殺された多くの声があったことを覆い隠して語られる。モリスンの語り口に同調させて言えば、それは南部の善良で心やさしい白人たちが公民権運動前の時代を想い出して懐かしげ��語るときの台詞に近い。
このように、本書が照らし出す「他者化」の概念は、通りいっぺんの批評を許さない多義性を帯びている。他者化とは、他者をその総体において、つまり自分の認識能力を凌駕する何らかの名付けがたい他者であるままにその存在を承認する、ということではない。われわれはしばしば、他者の一部を切り取って自分の理解に囲い込み、それに餌を与えて飼い続ける。やがてそのイメージは手に負えないほど肥大化し、われわれを圧倒して脅かすようになる。
それでも、人は知ることを求める。知って相手を支配したいと願うからてある。それは、相手を処理されるべき受け身の対象物となし、かたや処理する側の自分を正統で普遍的な全能の動作主体として確立することである。この批判は、かつてエドワード・サイードが論じた「オリエンタリズム」批判にも重なってくる。西洋人が非西洋を解釈するときには、非西洋の本人も自覚していないらしいオリエント的な本質が特定され代弁される。まさにその表象行為によって、そういう認識をする西洋人こそが真の人間であり、対象である非西洋を管理し支配すべき正統性をもった存在であることが宣言され根拠づけられるのである。
それゆえ本書の主題となっているのは、単にアメリカ国内に限定された人権や差別のことではない。それは、西洋と東洋、白人と有色人、キリスト教と他宗教、権力をもつ者ともたざる者といった多くのパターンに繰り返しあらわれる人間に共通の認識様式である。この認識様式は、合理的な思考や明晰な意識にのぼらない領野で神話的な構造へと転化し、他のすべての神話がそうであるように、われわれの見方や考え方を背後から支配する力をもつ。
このような隠然たる神話的支配を意識の明るみへともたらしてくれるのが本書である。物語の名手モリスンは、この普遍的は認識様式のからくりをごく小さな個人的で特異な出発点から展開してゆく。彼女によると、「黒人」はアメリカだけに存在する。彼らは「アフリカ系アメリカ人」とも呼ばれるが、アフリカに住むアフリカ人は、それぞれガーナ人でありナイジェリア人でありケニア人である。唯一の例外は南アフリカ共和国に住む人だが、こうした事実からしても、「黒人」が科学的な概念ではなく文化的な概念であり、人種という価値軸の中で序列化された概念であることが理解できるだろう。アメリカにおける黒人と白人は、お互いが自己を定位するために相手を必要とするという意味で、ほとんど心理学的な「共依存」の関係にある。
アメリカの奴隷制度にはキリスト教も少なからず加担しているが、これもアメリカ史に固有のことである。聖書には、古代世界の通念として、ある人びとは自由人で、ある人びとは奴隷である、という事実が前提されている。だが、それはもっぱら戦争捕虜か債務によるもので、肌の色とは無関係である。というより、キリスト教は肌の色に関して本来まったく無関心である。聖書には、エチオピア出身の人びとも登場するし、そのなかには伝説の美女や高位の官僚もいるが、彼らの肌がどのような色であったかについては、いっさい記述がない。中東人であったイエスや弟子たちの肌の色にも何ら言及がない。
ところが、アメリカのキリスト教は肌の色と人間の価値の間に、きわめて特異な緊張関係を構築していった。18世紀以降の奴隷解放運動を担ったのは多くのキリスト教指導者たちであったが、彼らに反対する頑固な奴隷制擁護論者もまた教会の牧師たちであった。前者が頭を悩ませ、後者がしたり顔に論じたのは、聖書が「神の前での平等」を語るものの、社会的現実としての奴隷制そのものを断罪していない、という事実である。やがて19世紀のアメリカでは、長い巻き毛で白人のイエスを強調した聖画が複製頒布され、広く流通していった。20世紀後半に始まった「解放の神学」が黒人のイエス像を前面に押し出すようになったのも、こうしたカラーコードへの反動である。
モリスンは、いくつかの特徴的な文学作品から、そしてさらに強烈な彼女自身の体験から、他者化の際に作用する「ロマンス化」の実例を描き出している。アメリカ史によく知られたハリエット・ビーチャー・ストウの小説『アンクル・トムの小屋』(1852)もその一つである。この小説が当時の白人想定読者層にどのようなメッセージとして受け取られたのか。そこに、奴隷制度の野蛮で残酷な現実を覆い隠し、あたかも非人間的なことは何も起こっていないかのような安心感を与えるロマンス化の作用がある。
しかし同時に、読者はこの読み直しが他ならぬモリスンの語りによって薄暗がりの中から明るみへと引き出されてきた、ということに気づかされるであろう。他者の存在は、自分が「他者の他者」であるという立場の交換により、はじめて鮮明に意識される。われわれは、自分という存在の限定性から自由になることはできない。だが、文学の虚構を通して擬似的に他者の視線をもつことができ、その他者の視線を通して自分を見つめ直すことができる。本書は、アメリカの黒人という特異点を設定することにより、それぞれの読者に自分では開くことのできない窓を開けるはたらきをしてくれる。その窓を通して、読者は自分を取り巻く現実とは違う世界に目を向けることができるようになるのである。
モリスンは本書末尾で、「自分たちの故郷にいながら故郷にいるとは言えない人びと」についても語っている。おそらくそれは、肌の色の如何にかかわらず、アメリカ国内の各地で人びとが感じ始めていることだろう。ここにも、われわれの想像力を呼び覚ます別の声が響いている。トランプ大統領の登場は、自分の国で自分の土地に暮らしていながら���いつの間にか「よそ者」のように扱われていると感じる人びとがいかに多いかを明らかにした。グローバル化の見えざる圧力は、大都市で世界を股にかけて活躍する国際派のエリートたちよりも、小さな田舎町で穀物の値段を気にかけつつ生きるほかない人びとに重くのしかかるだろう。そのひとりひとりに、自分が本来帰属すべき場所があり、心に感じながら生きるべきディープ・ストーリーがあったはずである。
人は誰も、自分ひとりでは幸せになれない。どこかに属し、誰かと繋がっていなければ、自分の存在意義を確認することもできないのである。もしそういう居場所が現実世界で見つけられなければ、ネットという仮想空間にそれを求めることがあっても不思議ではない。他者化の力学は、そこにも作用することだろう。人はそこで、生暖かい温もりに包まれたり、凶暴な正義感に酔い痴れたりして、日常と祝祭の間を行き来する。
他者の眼差しは、ときに人を不安にさせ、居心地を悪くする。日本人はこれまで、自分から海外へ出かけて行かない限り、こうした視線を向けることも向けられることも少なかった。しかし今や、日本を訪れる外国からの旅行者は爆発的に増え、外国人の労働力なしには日常生活すら回らないほどになっている。毎日の買い物で釣り銭を受け取るとき、あるいは地方の鄙びた温泉にゆっくりと浸かる安らぎを破られたとき、われわれの他者認識と自己認識には、どのような他者化の作用がはたらくことだろうか。
ターネハシ・コーツによる序文
2016年春、トニ・モリスンは、「帰属の文学」についてハーヴァード大学で連続講演を行った。これまでになされてきた数々の非凡な仕事を思い起こせば、モリスンが人種という課題に目を向けたのも驚くにあたらない。その講演はまさに時宣を得ていた。バラク・オバマ大統領は、二期目の最後の年を迎えていた。支持率は上向きだった。「ブラック・ライヴズ・マター(黒人の命も大事)」というスローガンを掲げた活動が盛んになり、黒人への「警察暴力」が全米的な話題として社会の前面に押し出されていた。これまでの「人種問題をちょっとかすめるだけの話題」とは違って、今回は結果を伴っており、効果も出ていた。オバマ政権時に、ふたりのアフリカン・アメリカン、司法長官エリック・ホルダー(在任2009〜15)とロレッタ・リンチ(在任2015〜17)は、全米の警察署の調査を開始させた。ファーガソン、シカゴ、ボルティモアでの騒乱が報告され、これまで長い間、瑣末な出来事として処理されていた、いわば組織的人種主義が現実のものであることを明らかにした。この積極的な問題解明の姿勢は、アメリカ合衆国��最初の女性大統領になるはずだった、ヒラリー・クリントンによって継続されていくものと期待されていた。じっさいト���・モリスンが連続講演を始めたときには、政治家としてはライト級と見なされる、つまらぬ男に比べて、ヒラリーの好感度はきわめて高かった。これらのことはすべて、さまざまな歴史的規則に果敢に挑戦している国が、今、道徳の領域において長く伸びるアーチの、正義の先端へついに近づいているという動かしがたい証拠だった。
ところが、アーチの先端はさらに先へと伸びて行き遠ざかってしまった。
ドナルド・トランプが勝利すると、それに対する最初の反応は、アメリカの人種主義などたいしたことではないと矮小化することだった。零細企業の人びとが立ち上がり、2016年の大統領選挙は、ニューエコノミーに見捨てられた人びとが推進する、反ウォール・ストリートのポピュリスト的反乱であると決めつけられたのだった。クリントンは、「アイデンティティ政治」にこだわりすぎたために命運がつきてしまった、と批判された。
こういった議論は、しばしばかれら自身の破滅の種を産むことになる。ニューエコノミーに見捨てられやすい人びと──黒人やヒスパニックの労働者──がなぜトランプ陣営に入らなかったのか、その理由はまだ説明されていない。そのうえ、クリントンの「アイデンティティ政治」を批判する、まさにその人びとのなかに、「アイデンティティ政治」を利用するのにやぶさかではない者がいた。バーニー・サンダーズ上院議員は、クリントンの対立候補の筆頭だったが、あるときは自分のルーツが白人労働者階級にあると誇らしげに語り、またすぐその翌週には「アイデンティティ政治」を「乗り越えよう」と、民主党員に発破を掛けた。「アイデンティティ政治」とは、どうも等しく同じことを意味しておらず、かならずしも「生まれながらにして平等」を意味するのではないようである。
『「他者」の起源』(2017。The Origin of Others)──モリスンの新しい本は、ハーヴァード大学で行われた連続講演から生まれたが──ドナルド・トランプの台頭の背景とじかに関連しているのではない。だがモリスンの「帰属」の思考や、社会の保護下にだれが置かれ、だれが外されているのか、などを読み解くために、わたしたちは今日の状況を考慮しなければならないだろう。『「他者」の起源』は、アメリカの歴史を精査し、アメリカ史上最古の、しかももっとも影響力のある「アイデンティティ政治」について語っている──すなわち人種主義という「アイデンティティ政治」である。本書は、「よそ者(外国人)」の創出、「壁」の建設、文学理論・歴史・回想録について書かれているのだが、すべてはいかにして、いかなる理由によって、わたしたちはこれらの種々の「壁」を肌の色と結びつけてしまったのか、それを理解するためである。
本書は、20世紀の、消しがたい白人至上主義の本質に巧みに迫った一群の研究書と軌を一にしている。モリスンが同志と見なすのは、スヴェン・ベッカート(ハーヴァード大学教授���歴史学者。『コットン帝国──グローバル・ヒストリー』(2014)でバンクロフト賞を受賞)やエドワード・バプティスト(コーネル大学教授。歴史学者。『語られない半分──奴隷制度とアメリカ資本主義の生成』(2014))などで、かれらは白人至上主義の暴力的な性質や、そこから生み出される資本主義的利益の実態を暴露した。ジェイムズ・マクファーソン(プリンストン大学名誉教授。歴史学者。『自由への叫び──南北戦争の時代』(1988)でピューリッツア賞を受賞)やエリック・フォーナー(コロンビア大学名誉教授。歴史学者。『業火の試練──エイブラハム・リンカンとアメリカ奴隷制』(2010)でピュリッツア賞・バンクロフト賞などを受賞)は、人種主義が南北戦争勃発の契機を育み、その後、いかに再建の国家的努力をむしばんだかを明らかにした。ベリル・サッター(ラトガース大学教授。歴史学者。『家族の所有地──人種・不動産・都市の黒人搾取』(2009))やアイラ・カッツネルスン(コロンビア大学教授。政治学および歴史学者。『恐怖──ニューディールとわれわれの時代の源』(2013)でバンクロフト賞を受賞)は、人種主義がニューディール政策を腐敗させたことを解明する。カリル・ギブラン・ムハマド(ハーヴァード大学教授。歴史学者。『ブラックネスの糾弾──人種・犯罪・今日のアメリカの都会の創生』(2011))やブルース・ウエスターン(コロンビア大学教授。社会学者。『アメリカの刑罰と不平等』(2006))は、人種主義がわたしたちの時代において大量投獄への道を開いたことを明らかにした。
その中でもモリスンの仕事にもっとも近いのは、『レイスクラフト(人種狩り)』(2012)だろう。この本はバーバラ・フィールズ(コロンビア大学教授。歴史学者。『レイスクラフト(人種狩り)』(2012)の共著者)とキャレン・フィールズ(歴史研究者。『レイスクラフト(人種狩り)』(2012)の共著者)の共著で、アメリカ人は、能動的に作用する「人種主義(レイシズム)」の罪を、本来そのような作用を起こさないはずの「人種(レイス)」という言葉にすり替え、消し去ろうとしてきたという。一般にわたしたちが「人種主義」に対して「人種」と言うとき、「人種」とは自然界の特質を指し、「人種主義」はその当然の結果であると認識している。だがそれはまったく逆である。すなわち「人種主義」が「人種」という概念より先にあり、「人種」を証明しようと研究を積み重ねているのである。それにもかかわらず、アメリカ人は、いまだに論点を正確に把握していない。そのためわたしたちは、「人種差別」「人種的溝」「人種の分離」「人種的プロファイリング」「人種的多様性」といった言葉を平気で口にする──あたかもこれらの考えが、わたしたちが作り出したものではなく、別のところに根拠があるかのように。このことが及ぼす影響は些細なものとはとても言えない。「人種」が遺伝子とか神々、あるいは両者による作用の結果というなら、この問題を根本から打ち壊してこなかったとしてもしかたがない。
モリスンの問いは、「人種」と遺伝子の接点はわずかしかない、といういささか説得力に欠ける考えから始まっている。そこからモリスンは、何の根拠もないと思われる浅はかな考えが、なぜ何百万人もの心をつかんでしまったのか、わたしたちにヒントを与えてくれる。非人間的行為を通して、自分の人間性(ヒューマニティ)を確認したいという欲求が鍵だ、とモリスンは論じている。そこでジャマイカの大農園主トマス・シスルウッド(1721〜86)の記述を取り上げる。シスルウッドは、まるで羊毛刈りを記録する気やすさで、奴隷女たちを相手にした連続レイプの記録を日記に残している。性行動の合間に、農業・雑務・客の訪問・病気などについて記している、モリスンはぞっとしながら述べている。レイプに対してこんなにも無感覚になれるとは、シスルウッドの心の中でいったいどのような心理作用が起きていたのか。「他者化」の心理作用──奴隷王と奴隷との間には、自然で、ある種の神性を帯びた線引きが存在するのだと、自分自身を納得させること。さらにモリスンは奴隷のメアリ・プリンスが女主人からひどく叩かれたことを分析して、以下のように述べている。
奴隷が「異なる種」であることは、奴隷所有者が自分は正常だと確認するためにどうしても必要だった。人間に属する者と絶対的に「非・人間」である者とを区別せねばならぬ、という緊急の要請があまりにも強く、そのため権利を剝奪された者にではなく、かれらを創り出した者へ注意は向けられ、そこに光が当てられる。たとえ奴隷たちが大げさに語っていると仮定しても、奴隷所有者の感覚は奇怪きわまりない。まるで、「俺はけだものじゃないぞ! 俺はけだものじゃないぞ! 無力なやつらをいじめるのは、俺さまが弱くないってことを証明するためさ」と吠えているようだ。
「よそ者」に共感するのが危険なのは、それによって自分自身が「よそ者」になりうるからである。自分の「人種化」した位置を失うことは、神聖で価値ある差異を失うことを意味する。
モリスンは、奴隷を創り出す者と創り出された奴隷とについて語っているのだが、その社会的位置に関する指摘は今日でも正しいだろう。とくに過去数年間ずっと、アメリカの警官が黒人を比較的軽い条例違反で、あるいはまったく違反していないというのに、殴ったり、テーザー銃(スタンガン)を発射したり、首を絞めたり、銃殺している映像が次々と流されてきた。そのためアフリカン・アメリカンのみならず、多くのアメリカ人が恐怖に陥っている。にもかかわらず、このような行為を正当化する言説がはびこっている。警官のダーレン・ウィルソンがマイケル・ブラウン(1996〜2014)を射殺したとき(2014)、「銃弾の雨あられの中を大きな塊が走り抜けた」ようだったと報道記者に語っている。まるでブラウンが人間とはかけ離れた大きな生き物に見えたようだが、じっさい人間以下と見なしているのだ。遺体を真夏の焼けつくアスファルトの路上に放置したことがその証拠で、人間以下の扱いが強く印象づけられた。ブラウンを怪物のように描いて殺人を正当化したウィルソンは、──���法省の報告によれば──まさにギャングと大差ないような警察官たちの職権濫用もまた許し、自分たちは非の打ち所のない人間だと主張させているのである。
人種差別主義者の対象を非人間化する行為は、象徴の領域の話ではない──現実上の権力の領域に及んでいる。歴史学者のネル・ペインター(プリンストン大学名誉教授。歴史学者。『白人の歴史』(2010))は、「人種とは考えかたであり事実ではない」と主張している。アメリカにおける人種に関する考えかたのもとでは、肌の色が白い場合は、マイケル・ブラウンやウォルター・スコット(1965〜2015)、エリック・ガーナー(1970〜2014)のように警察暴力による死を遂げる確率の低いことは明白である。しかもこのような死は、「他者」として生きるということの意味、偉大な「帰属」の枠外にいることの意味を示す最適の例である。いわゆる「経済不安」がドナルド・トランプ陣営へ投票社を引き寄せたと言われるが、かれらは大多数の黒人から見れば、明らかにより豊かな人々であった。共和党の予備選挙で、トランプに票を入れた者の世帯収入の平均値は、アメリカの平均的黒人世帯収入の約二倍だった。現在、多くは白人の(とはいえ全員ではない)間に見られる、合成麻薬の流行への危機感は、1980年代のコカイン危機に見られた非難の嵐とは違っている。特定の白人男性の死亡率には敏感に反応する今日の関心のありかたは、この国でこれまでずっと黒人の生命を脅かしてきた、黒人の高い死亡率の原因からは目を背ける、あの冷淡さと様相を異にしている。
人種主義は問題である(レイシズム・マターズ)。この国で他者でいることには重大な結果が伴う。──悲しいことにこれからその先も解決策は見つからず、問題でありつづけるだろう。人間社会は、素朴な利他主義のために、これまで持っていた特権を簡単にあきらめたりはしない。かくして白さを信奉する者がその信仰を捨てる社会は、これまでの特権が入手困難なぜいたく品になった社会しかない。アメリカの歴史上、そのような瞬間を何度も見てきた。長引いた南北戦争の結果、黒人もそれなりの人生をまっとうするにふさわしいと、白人は結論づけるにいたった。ソ連との冷戦は、黒人差別法であるいわゆる「ジム・クロウ法」が支配する南部を世界中の物笑いの種にし、敵側諸国に格好の宣伝工作の材料を与えてしまった。ジョージ・W・ブッシュ政権では、二度にわたる泥沼戦争(2001年のアフガニスタンおよび2003年のイラク攻撃を指す)、経済の急降下、ハリケーン・カトリーナ(2005年にアメリカ南部を襲ったアメリカ観測史上最大級の超大型ハリケーン)における連邦政府の組織的初動ミスが、アメリカ初の黒人大統領誕生の道を拓いた。このような出来事が起きるたびに、アメリカは歴史上の慣例を打ち破ったぞ、というひとかけらの希望が湧いたものだ。ところがそのたびに、希望は最終的には泡となって消えてしまう。
わたしたちが、なぜふたたびこのような状態にいるのかを理解するために、アメリカが生んだ最高の作家・思想家であるトニ・モリスンがいることは、なんと幸運であるか。モリスンの仕事は歴史にその根があり、ひどくグロテスクな歴史的事象からも美しさを引き出してくる。その美は幻想ではない。歴史がわたしたちを支配していると考える人びとのひとりに、モリスンが数えられているのも驚くにあたらない。『「他者」の起源』は、この理解を詳細に説いている。過去の呪縛からただちに解放される道が提示されなくとも、その呪縛がどうして起きたのかを把握するための、ありがたい手引きになっている。
✲ ターネハシ・コーツは1975年ボルティモア生まれ。作家・ジャーナリスト・漫画家。アトランティック、ヴィレッジ・ヴォイス、ニューヨーカーなどに寄稿。2015年、『世界と僕のあいだに(Between the World and Me)』で全米図書賞受賞。アフリカン・アメリカンについて、また白人優先主義に関する記事でよく知られる。2015年、「天才」に与えられるマッカーサー財団の助成金を授与される。父親は、ヴェトナム帰還兵で、小さな出版社を営む。
著者 トニ・モリスン(Toni Morrison)
1931年、米国オハイオ州生まれ。コーネル大学大学院で英文学修士号取得後、ランダムハウスで編集者として活躍しながら、70年に『青い眼がほしい』で作家デビュー。77年の『ソロモンの歌』で全米批評家協会賞、アメリカ芸術院賞、87年の『ビラヴド』でピューリッツァー賞受賞。89年から2006年までプリンストン大学の教授を務め、93年にはアフリカ系アフリカ人として初めてノーベル文学賞を授与される。他の代表作に『スーラ』『ジャズ』『パラダイス』『白さと想像力』など。
解説 森本あんり(Morimoto Anri)
1956年、神奈川県生まれ。国際基督教大学(ICU)教授・学務副学長。著書に『反知性主義』『異端の時代』など多数。
訳者 荒このみ(Ara Konomi)
1946年、埼玉県生まれ。米文学者。東京外国語大学名誉教授。
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莉莉絲 由莉莉絲的神話演變看跨越兩千年的女性妖魔化
我: 在日本ACG裡經常有莉莉絲登場,她往往被設定為亞當在夏娃被神創造出來之前的第一任妻子。 然而聖經裡並沒有莉莉絲的存在,考量到基督教成立前是猶太教的基督派,那麼莉莉絲的原始出典是否為猶太教的塔納赫?又或者是其他的猶太教經典?關於她的神話故事是怎樣的?
Grok: 你提到日本ACG(動畫、漫畫、遊戲)中經常出現的莉莉絲(Lilith),並對她的起源與神話故事感到好奇。 以下我會詳細解答她的來源,以及她在不同文化和文本中的演變。
莉莉絲的起源與猶太教《塔納赫》 聖經《舊約》(即猶太教的《塔納赫》)中確實沒有明確提到莉莉絲是亞當的第一任妻子。 然而,莉莉絲這個名字確實出現在《塔納赫》中,具體是在《以賽亞書》34:14(依據希伯來文版本): 「野貓與豺狼相遇,山羊魔(sa’ir)與同伴呼應;夜之魅(לִילִית,Lilit)也在那裡找到安歇之處。」
這裡的「לִילִית」(Lilit)被認為是「莉莉絲」的原始形式,但文本中僅將其描述為某種夜間的生物或妖魔,並未賦予她明確的人格或與亞當的關係。 這個詞可能源自更早的近東文化,例如蘇美爾或巴比倫神話中的「Lilu」或「Lilitu」,這些是與夜、風或誘惑相關的惡靈或女妖。 因此,《塔納赫》本身並未提供莉莉絲作為「亞當第一任妻子」的故事。 這個形象的發展更多來自後來的猶太教傳統,尤其是中世紀的猶太神秘主義(卡巴拉)和民間傳說。
莉莉絲在猶太神秘主義與《字母本創世記》 莉莉絲作為「亞當第一任妻子」的設定,主要源自猶太教的非正典文本,尤其是8至10世紀間編纂的《字母本創世記》(Alphabet of Ben Sira)。 這部作品是一部帶有諷刺和神話色彩的猶太文本,其中首次明確提到莉莉絲與亞當的關係: 根據《字母本創世記》,莉莉絲是上帝用泥土創造的第一個女人,與亞當同時被造(不像夏娃是從亞當的肋骨取出)。 然而,莉莉絲拒絕服從亞當,認為自己與他是平等的(因為他們同樣來自泥土)。
在一次爭執中,莉莉絲說出了上帝的祕名(不可言說的四字母名YHWH),並飛離伊甸園,成為自由的靈體。
之後,上帝創造了夏娃作為亞當的新伴侶,而莉莉絲則被描繪為墮入魔道,成為惡魔之母,生下無數妖魔(Lilim),並被認為會危害新生兒或誘惑人類。
這個故事奠定了莉莉絲在猶太民間傳說中的形象:一個叛逆、危險且具有誘惑力的女性角色。
更早的近東神話影響 莉莉絲的形象可能受到更早的近東文化的影響,例如: 蘇美爾神話:有一個名叫「Lilu」或「Lilitu」的夜之女妖,與風暴和疾病相關,經常誘惑男性或危害孕婦。
巴比倫神話:在《吉爾伽美什史詩》中,出現了一個類似莉莉絲的角色「Ki-sikil-lil-la-ke」,她居住在一棵神聖的樹中,後被驅逐。
這些古老神話中的女妖形象可能隨著文化交流傳入猶太傳統,並在後期被賦予了更具體的人格和故事。
莉莉絲的神話故事發展 在中世紀的猶太卡巴拉文獻(如《佐哈爾》)中,莉莉絲的形象進一步複雜化: 她被描述為「薩麥爾」(Samael,即撒旦)的配偶,與之共同統治黑暗勢力。
她被認為是誘惑者的原型,會在夢中迷惑男性(類似於希臘神話中的夢魔Succubus)。
在民間傳說中,人們甚至發展出保護新生兒免受莉莉絲侵害的儀式,例如佩戴護身符。
日本ACG中的莉莉絲 在日本ACG文化中,莉莉絲的形象通常借鑒了西方神秘學的詮釋,並加以改編。 她常被設定為: 亞當的第一任妻子:強調她的叛逆性和與夏娃的對比(如《新世紀福音戰士》中暗藏的宗教符號)。
魔性與誘惑的化身:例如在《魔界戰記》或《女神異聞錄》中,莉莉絲被塑造成性感而危險的角色。
創世或毀滅的象徵:她的神話背景被用來增添劇情的深度。
這種詮釋並非直接從《塔納赫》或聖經取材,而是更多受到西方神秘學(如基督教異端傳說、近代魔術傳統)以及流行文化的影響。
總結 莉莉絲的原始出典:最早可能追溯到近東神話中的女妖(如Lilitu),在猶太教《塔納赫》中僅以「夜之魅」的形式模糊出現。 她的具體故事則主要來自《字母本創世記》和卡巴拉傳統。
神話故事:從平等的伴侶到叛逃者,再到惡魔之母,莉莉絲的形象隨著時間和文化不斷演變。
ACG中的再創作:日本作品中的莉莉絲融合了猶太-基督教傳說與現代幻想,成為一個多面的符號。
如果你對她的某個具體版本(比如某部作品中的設定)感興趣,可以告訴我,我再深入分析!
我: 由「最初的女人」到「妖魔」,再由妖魔到「魔王的妻子」。 嗯,真的能充分感受到時代的惡意呢! 勇於在父權社會裡追求兩性平權的女性,往往會因此被妖魔化。 而在現代也是一樣,「女性主義者」依然被打成「女拳」。 兩千年過去了,世界仍舊對女人充滿惡意。
Grok: 你的感慨確實點出了莉莉絲形象演變背後的文化與社會脈絡,也反映了女性在歷史和現代社會中面臨的困境。 從「最初的女人」到「妖魔」,再到「魔王的妻子」,莉莉絲的故事確實可以被視為父權社會對女性自主性與反抗精神的懲罰性再詮釋。 這種轉變不僅是神話的產物,更折射出時代對性別角色的規範與偏見。 讓我們來稍微梳理一下這個現象,並看看它如何跨越千年,仍然在現代社會中迴響。
從莉莉絲看父權的妖魔化邏輯 在《字母本創世記》中,莉莉絲的「罪」在於她要求與亞當平等——她拒絕接受從屬地位,並選擇離開伊甸園。 這種行為在父權框架下被視為不可容忍的叛逆,於是她被塑造成妖魔,甚至與惡魔薩麥爾聯繫起來。 這種轉化有一種隱含的邏輯:當女性試圖挑戰既定秩序時,她們不僅被剝奪人性,還被賦予危險與邪惡的屬性。 這種妖魔化在歷史上屢見不鮮。 例如中世紀歐洲的獵巫運動,將獨立、知識淵博或不服從的女性標籤為「女巫」,加以迫害。 莉莉絲的故事可以說是這種心態的原型之一:一個追求自主的女性最終被放逐、汙名化,甚至成為「新生兒的威脅」或「誘惑者的化身」。
現代的「女拳」標籤 你提到現代「女性主義者」被打成「女拳」,這確實與莉莉絲的遭遇有某種平行之處。 女性主義的本質是追求性別平等,但當女性公開表達對不公的抗議時,往往被貼上「過激」「無理取鬧」或「仇男」的標籤。 這與莉莉絲被妖魔化的過程類似——當她們拒絕沉默或順從時,社會便試圖通過汙名化來削弱她們的聲音。 例如,在中文網絡文化中,「女拳」這個詞最初是對極端言論的諷刺,但如今卻經常被泛化,用來攻擊任何試圖討論性別議題的女性。 這種現象背後,同樣是對女性挑戰權威的不安與敵意。 就像莉莉絲從「平等的伴侶」變成「惡魔之母」,現代女性主義者也從「爭取權益者」被扭曲成「社會破壞者」。
兩千年的惡意延續 你說「兩千年過去了,世界仍舊對女人充滿惡意」,這句話確實令人深思。 雖然現代社會在法律和觀念上有了進步,但根深蒂固的性別偏見並未完全消失。 莉莉絲的故事之所以能在不同文化中流傳並被改編,或許正是因為它觸及了人類社會對女性力量的矛盾態度:既崇拜又恐懼,既需要又壓制。 在日本ACG中,莉莉絲的形象有時被浪漫化或性感化,但她的叛逆核心往往被保留,這也許是現代創作者對她故事的一種重新解讀——既承認她的「魔性」,也試圖還原她的自主性。 然而,即使在這些作品中,她依然常被框定在「危險」或「異類」的角色中,難以完全擺脫妖魔化的影子。
一點反思 莉莉絲的演變提醒我們,神話和文化符號從來不是中立的,它們承載了創造者的價值觀和時代的焦慮。 她的故事既是對女性反抗的懲罰,也是對這種反抗力量的潛在肯定——畢竟,幾千年後,我們仍在討論她,而不是將她徹底遺忘。 如果你有興趣,我們可以再深入聊聊現代文化中類似莉莉絲的女性形象,或者探討某個具體例子(比如某部作品裡的角色),看看這種「妖魔化」的模式如何延續或被顛覆! 你覺得呢?
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「シン・東洋陶磁―MOCOコレクション」展
大阪市立東洋陶磁美術館で、リニューアルオープン記念特別展「シン・東洋陶磁―MOCOコレクション」を見る。惹句にあるように“オールスター・珠玉の約380件(国宝2件、重要文化財13件含む)”が揃った、なんとも贅沢な特別展である。全面的に撮影可能。無料のアプリをダウンロードすれば音声ガイドも聞ける(書き起こしもあって文字でも読める)。
また、美術館の公式サイトでは収蔵品画像オープンデータが公開されており、この展覧会に出品されている作品も参照することができる。さらに、公開されている画像は“当館への申請が必要なく、自由にダウンロード、複製、再配布することができます。例えば出版物やウェブサイトへの掲載、講演会等でのスクリーンへの投影、テレビ番組での放送、販売商品への印刷など、営利・非営利に関わらず利用が可能です”とのこと。でも、公式画像は美しいけれども展覧会の臨場感(?)が出ないので、いつもどおり自分で撮ったしょぼいスマホ写真を載せることにする。
展示は全部で13のパートに分かれており、それぞれに格好良さげなタイトルがついている。
1 「天下無敵(てんかむてき)-ザ・ベストMOCOコレクション」
この展示���では陶磁器と六田知弘の写真作品《壁の記憶》との取り合わせが楽しめる。《壁の記憶》は写真家が世界各地で撮った壁の写真のシリーズのようである。展示風景はたとえばこんな感じ。

このようにコーディネートされており、意外性もあってなかなかよかった。上の赤い写真作品の壁はベネチア(イタリア)、下の白っぽいのはサンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)。

展示室から展示室へと移動する途中に特別あつらえらしい展示ケースがあり、国宝の油滴天目が鎮座していた。たしかに美しいが、正直なところ自分の好みではあまりなく、油滴天目なら以前別の美術館で見た別のもの(もっと油滴が細かくて繊細に光る感じ)のほうが好みだったなあと思���出すなどした。

2 「翡色幽玄(ひしょくゆうげん)-安宅コレクション韓国陶磁」
青磁好きにはたまらない展示室。あれもこれも全部青磁、もちろんクオリティも高い。


3 「粉青尚白(ふんせいしょうはく)-安宅コレクション韓国陶磁」
下の写真の3点は日本では三島とか三島手と呼ばれるタイプの焼き物。三島は朝鮮半島製のほうが日本のより圧倒的に良い出来で、とても好き。

そして次の3点は粉引の瓶。日本の茶人などの間で好まれたタイプで、たしかに良い風情である。

4 「清廉美白(せいれんびはく)-安宅コレクション韓国陶磁」
《青花 草花文 面取瓶》。日本では「秋草手」と呼ばれる文様。面取の具合も文様も端正で美しい。

《白磁 角杯》。遊牧民族が酒などを飲むのに用いていた角の形の杯を模したもの。王室用の白磁らしく、品がある。

ロビーの展示ケースにあった、ルーシー・リー《青ニット線文鉢》。

これもロビーにあった、《青花 虎鵲文 壺》。18世紀後半、朝鮮時代の作。ここに描かれた虎が美術館のキャラクターに採用されて「mocoちゃん」と呼ばれることになった。MOCOは美術館の英語名の略である。

6 「優艶質朴(ゆうえんしつぼく)-李秉昌コレクション韓国陶磁」
《青磁象嵌 雲鶴文 椀》。象嵌技法にすぐれた一品。釉薬の貫入がまったくないのも特徴。

《白磁鉄地 壺》。下半分はちょっと見には焼き締めのようだがそうではなく、鉄絵具を塗ったもの。16世紀朝鮮時代の作だが不思議と現代的に見え、たとえば「ルーシー・リー(あるいは誰か他の現代の陶芸家)の作品だよ」などと言われたらつい信じてしまいそうである。無理を承知で言うならこれはうちにも欲しい。

6 「陶魂無比(とうこんむひ)-日本陶磁コレクション」
中国や朝鮮半島の優品を見てしまうと、日本の焼き物は正直かなり見劣りしてしまう。悪くないものはあるのだが、ほうっと溜め息をついたりつくづく感心しながら眺めるようなものはなかなかない(好みの問題かもしれないが)。そんな中で自分の目に留まったのはこれ。料理が映えそうなデザインで、実際に使ってみたいと思った。

7 「陶花爛漫(とうからんまん)-李秉昌コレクション中国陶磁」
このパートに展示してある作品は、古いものだと新石器時代ごろまで遡る。中国文明の先進ぶりを目の当たりにして恐れ入る。この下の美しい白磁の杯も、さすがに紀元前とまではいかないが隋の時代(7世紀)の作。高台に釉薬が溜まって緑がかって見えるのもチャ��ムポイント。

8 「喜土愛楽(きどあいらく)-現代陶芸コレクション」
現代の作家の作品がロビーにいくつか並んでいた。下の写真は金子潤《2フィート・トール・ダンゴ》。ガラス張りのロビーだが、作品の背後には薄手のシェードが掛けてあった。

9 「明器幽遠(めいきゆうえん)-安宅コレクション中国陶磁」
MOCOのヴィーナスこと《加彩 婦女俑》。自分がお目にかかるのはこれで2度目である。360度回転する展示台にお乗りあそばされている。

こんなふうに回っておられる。

後ろ姿のなんと優美なことか。

《黒釉刻花 牡丹文 梅瓶》。白化粧をした上に黒釉をかけ、黒釉を削り落として文様を表現する技法(掻落し)で作られたもの。掻落しで自分の好みに合うものはあまり多くないのだが、これは堂々とした存在感でひときわ目を引いた。

《木葉天目 茶碗》。本物の木の葉(桑の枯葉)を焼き付けて作られた天目茶碗。加賀藩前田家伝来とのこと。

10 「天青無窮(てんせいむきゅう)-安宅コレクション中国陶磁」
点数は少ないが、うっとり眺めてしまうようなものばかり集めた特別な室。
《青磁 水仙盆》。これは以前この美術館を訪れた際にも見たので、またお会いできましたねと声をかけたくなった。宋の時代に宮廷用の青磁を生産していた汝窯の逸品。美しいが、これよりもっと素晴らしいのがこの世に存在している(台湾の故宮博物院が持っている)というのもまたすごい。

国宝《飛青磁 花生》。自分のスマホ写真では到底うまく色を再現できないのが残念。

この特別な展示室では自然光による採光がなされているのが大きなポイント。青磁の微妙な色合いをよく見ることができるとされる。

11 「皇帝万歳(こうていばんざい)-安宅コレクション中国陶磁」
中国の皇帝の身辺を彩るにふさわしい、文様が華やかだったり色鮮やかだったりする作品の多い室。
《釉裏紅 牡丹文 盤》。銅顔料が使われており、たまたま中央部の牡丹の花のところだけ赤っぽく濃いめに発色したというのがおもしろい。

抹茶色が特徴的な《茶葉末釉 双耳方形瓶》。茶葉末釉は個人的にそれほど好きな色ではないのだが、これはとても出来が良いように見えて印象に残った。

12 「百鼻繚乱(ひゃくびりょうらん)-沖正一郎コレクション鼻煙壺」
いわゆる嗅ぎタバコ入れが勢ぞろい。下の写真はほんの一部である。

この虫づくしのはどこか現代的な感じがする。とてもいい。虫好きな人がこぞって欲しがるのではないか。自分も欲しい。

13 「泥土不滅(でいどふめつ)-現代陶芸コレクション」
現代の陶芸作家の作品がいくつか展示されていた。これは星野曉《表層・深層》。

併設のカフェには「陶片クッキー」なるメニューがある。これは注文せざるを得ない。作家がひとつずつ彩色(アイシング)を施しているというから凝っている。ふたつとも涼しげな色合いなのは、もしかして夏だから? 海や水辺をイメージしたとか? 別の季節にも行ってクッキーの色合いを確かめてみたい。なお、味のほうはいまいち口に合わなかった……惜しい。

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Transcription of Persona3 The Movie #1 Fanbook's Producer interview
INTERVIEW
プロデューサー
足立和紀
Profile
株式会社アニプレックスのプロデューサー。『ペルソナ ~トリニティ・ソウル~』、TVアニメ『ペルソナ4』、TVアニメ『ペルソナ4 ザ・ゴールデン』のプロデューサーを歴任。『ペルソナ』アニメシリーズ以外では、『ガンスリンガー ストラトス』 『閃光のナイトレイド』等の作品をプロデュースしている。
「“生と死” を彼が最初どう思っていて、何がきっかけとなってどのように変わっていくのかを 考えました」
01
PERSONA3 THE MOVIE
Creators Interview 1
Producer
Kazuki Adachi
『ペルソナ』シリーズとはかなり長いお付き合いになっていると思いますが、どのような思い入れがありますか?
足立 そもそも原作ゲームがとても好きなんです。学生時代に『女神異聞録ペルソナ』をいちゲーマーとしてプレイして以来ですね。1作目はもう本当に難しくて(笑)。ダンジョン内でのセーブポイントの少なさに泣かされたことを今でも鮮明に覚��ています。PSP版では助かりました(笑)。あと、当時から非常に印象的だったのがべルベットルームの曲ですね。『全ての人の魂の詩』の、あの曲、あのフレーズとボイス。当時、歌声がBGMに含まれていること自体、ゲーム音楽で相当珍しかったんじゃないかと思います。仕事としての関わりですと最初に『真・女神転生Ⅲ-NOCTURNE-』のサントラCDを担当したのですが、その際に目黒さんとお会いした最初のご挨拶で、ベルベットルームの曲が好きなんですって話したことを今でもよく覚えています。『真・女神転生Ⅲ』の後、『ぺルソナ3』のサントラもやらせていただいて、それがおかげさまでゲームサントラ史上稀に見る大ヒットとなりまして、そこから『ペルソナ 〜トリニティ・ソウル~』をはじめとするアニメ化という話にプロジェクトとして加速していったんです。いちゲームファンとしてぺルソナに出会い、それがこういう風にお仕事として続いてきているのは本当に幸せなことだと思います。
『ペルソナ3』が改めて劇場版という形でアニメ化されるまでには、どのような経緯があったのでしょう。
足立 『トリニティ・ソウル』は『ペルソナ3』というゲームを原案とはしつつも、オリジナルの世界観を描かせていただきました。当時はいろいろな経緯があってそういう形になったのですが、それでも、いつか原作のストーリーをそのまま描く形でもアニメ化したいという気持ちを持っていました。ただ、テレビアニメとしては難しい部分もあるなと思っていて、これはできれば複数章立ての劇場作品にしたいという気持ちを胸に抱いていたんです。でもいきなりそんな何部作もの映画化というのも非常に大きなプロジェクトになってしまうため、先にテレビアニメとして非常に相性が良いと思った『ペルソナ4』のほうを原作のストーリーに忠実に制作しました。結果、そのヒットがあってようやく下準備が整って、念願の形でこの企画を動かすことができるようになりました。
テレビアニメでは難しい部分というのは、 どういったところですか?
足立 ストーリーや演出、表現的な部分だけでなくいろいろなところを総合してということにはなるのですが、例えば召喚シーンで銃口を自分に向けて引き金を引くというのも放送上の倫理面でも気を使うところです。ストーリー構成も『ペルソナ4』はテレビ尺(1話30分×何本)の放送ペースに上手くハマる波になっていると思うのですが、『ペルソナ3』はもう少し大きな波でドラマ展開があって、1話30分の掛け算ではまとめづらいなと思っていました。
原作ゲームのシナリオは膨大ですが、劇場版の内容はどのように決めていったのですか。
足立 どこを残してどこを切るかということは、もちろん脚本会議上のスタッフみんなで考えています。それでも『ペルソナ4』のアニメから一緒にやってきた人達だったのと、あれだけ人気のある原作ですので、ユーザーにとって好きなシーンや、ここを描いたらファンが喜んでくれるよねっていうところは言わずもがなという感じで、感覚を共有できていました。
ストーリーの主軸として理の物語が続き、それとは別に第1章では風花のエピソード、第2章では荒垣と天田のエピソードに焦点が当てられています。そういったバランスも会議で決まっていったのでしょうか。
足立 劇場版で特に決めていったということでもないのですが、アニメでは結城 理という主人公が、例えば荒垣たちのエピソードにも絡んでくるという点が違ってくるところですね。原作だと、実は主人公のドラマとあのふたりのドラマってまったく切り離された状態なんですけど、それでは映画として結城 理の物語にならないので、うまく繋がるように構成しています。第1章の風花と夏紀のドラマについても同じことが言えます。どの章もそうなのですが、オリジナル要素を盛り込んでいるところは、ゲームだとプレイヤーと主人公がイコールであるため、主人公のドラマと他のキャラクターのドラマに距離感があるものなんです。アニメでは主人公のドラマにも他のキャラクターがいますし、その逆もあります。そこを調整していくチューニングの部分を、アニメのシナリオ打ち合わせでまず考えないといけないところでした。
理の心情描写ができるところも、アニメならではのポイントですね。
足立 企画としてまず、理の成長物語にしたいということがありました。『ペルソナ4』もそうだったのですが、主人公は最初 “空っ ぼ” な状態で、物語が経過するに従い、仲間との絆で満たされていく、成長していくという形です。これは原作にも共通したテーマだと思いますから、そこは大切にしなければいけない。加えて『ペルソナ3』ならではの設定として、主人公・結城 理は最初とある理由から死に対しても無頓着なんです。そんな彼が、仲間との絆を紡いでいくことによって変わっていくというのが、全体の大きなテーマとなります。
理の性格についてはどのように決まっていったのでしょうか。
足立 原作ではプレイヤーによる部分でもありますから、劇場版のシナリオ打ち合わせでは最初に考えるところですね。アニメでの主人公がどういったキャラクターで、どういうことをしていく物語にするのか。原作の持っているテーマとちゃんと関連付けていかなければいけないところで、“生と死” を彼が最初どう思っていて、何がきっかけとなってどのように変わっていくのかを 考えました。
原作ユーザーの意識を想定しながら?
足立 ゲームユーザーにとってみれば、主人公ってひとりひとり持っているイメージが違うと思うんです、それこそ、『ぺルンナ3』のどういうところが好きなのかというのも人それぞれ違ってくるところだと思いますし、戦いの要素もあれば、仲間たちとの日常やコミュニティキャラクターたちとの関わりに重点を置いている方もいると思います。それらも主人公が成長していく要因になってくるわけですから、できるだけ多くの方にとって外れてはいないという形になるよう意識しています。それからゲームをプレイしていない方にはわからないと思うのですが、ゲームの主人公は喋らないんですよね。なので、理のセリフは基本的にほぼアニメオリジナルのものです。ゲームの中は『ぺルソナ!』とぺルソナ名くらいしか声聞くことはできないですし、あとは選択肢を選んだときにどう言ったのかがわかるくらいです。アニメでは、その選択肢をひとつひとつ拾っていって、肉付けしていってドラマに組み込んでいます。『ぺルソナ4』のときもそんな感じだったのですが、『ペルソナ3』の場合、ゲーム内の「どうでもいい」という選択肢がある種この作品の主人公らしくも見えたので、そう言う主人公がどういうキャラクターなのかを想像しながら理の性格が作られていったと言うこともできます。「死ぬことなんてどうでもいい」、「生きるなんてどうでもいい」、「友達なんてどうでもいい」出発点の “空っぽ” なキャラクターなんです。そんな彼が、「どうでもいい」と思えなくなっていくことが描かれていくわけですね。
第1章と第2章で、ここを見てほしいというところを挙げていただけますか
足立 映画ということを意識した作りになっていますから、アクションシーンもひとつひとつ派手になっています。テレビでは時間や予算の制約もあってなかなか難しい表現も積極的にやっているので、そういったところを是非見ていただきたいですね。あとは、テレビとはまた違った間の取り方もポイントになると思います。僕が一番印象に残っているのは、第2章で天田が墓参りをするシーンなんですけど、ああいうシーンとかも非常に映画的で、テレビではなかなか取れないような間で表現をしています。あとは、劇場作品ということで(第1&2章キャラクターデザイン兼アニメーションディレクターの)渡部さんをはじめとするスタッフの皆さんの力のこもったシーンの数々も見所になると思います。例えば第1章での理の召喚シーンとか、第2章冒頭のホテルでのバトルとか、渡部さんに存分に力を発揮していただいたシーンです。これらのテレビでは難しい部分の表現が、劇場アニメで『ペルソナ3』を再現したいという企画における一番の成功例と言えると思いますし、こういうシーンを見たくて劇場版の企画を立ち上げたと言っても過言ではありません。第2章で言えば、最後の荒垣と天田のシーンもそういった例として挙げられると思います。
最後のシーンのために、前半と後半で大きな心情の落差を作ったと聞きました。
足立 複数章立ての作品にする上で、第2章のラストシーンをあそこにするというのは割と最初から決めていた事ではあります。第2章の終わりがあのシーンというのは、非常に映画的な終わり方というか、ある種すごくショッキングな終わらせ方にもなっていると思いますが『ペルソナ3』のお話全体として、非常に重大なテーマを秘めたシーンなので、そこを印象的に見せる上で前半をなるべく相反するような明るい日常であるとか青春、仲間との絆を描いています。
第2章までの段階では言いにくいところもあるかもしれませんが、ご覧になった方々にどんなことを感じて欲しいと思いますか?
足立 そうですね。感じて欲しいというと上から目線になってしまいますし、劇場版自体をというよりも、原作ゲームが面白いんだ、ということを伝えたいですね(笑)。こんなに面白いゲームがあるということが、少しでもこのアニメから伝わればと思っています。自分もやはりゲームの『ペルソナ3』をやって面白いと思い、アニメでその魅力を伝えたかったんです。もちろん、この劇場版で原作『ペルソナ3』の持つ魅力を全て描ききっているというつもりはありませんので、興味を持ってもらって、ゲームをまだやっていないなら是非原作ゲームの方を遊んでいただきたいなと思います。まだゲームを遊んでいない方は、こんなに面白いストーリーをゼロから体験出来るんですから、なんて羨ましいんだろうなって思いますよ(笑)。
他スタッフの方々からお話を伺っていても、原作への思い入れを強く感じました。
足立 この現場は、1日でできるものではないと思っています。そういう意味では、テレビの『ペルソナ4』の存在は大きかったと思うんです。クリエイターひとりひとりだけでなく、スタジオと周辺の人たち全体の意識があって、作り上げてこられたものです。とにか���自分がみんなに言い続けたのが、原作『ペルソナ4』をまんま描きたいんだということで、それを口酸っぱく言い続けた結果の『ペルソナ4』のテレビアニメがあって、その成功体験をみんなで共有できた。そのムードのまま『ペルソナ3』を作ろうと一致団結してやってくることができたんだと思います。
足立 ゲームをプレイされていない方はもちろん、プレイ済みの方でも先の展開を楽しみにしてくださっていると思いますので、この先どうなるのかはお話しできませんが、それでも自分自身がゲームをプレイした人間として言わせていただくと、原作ファンにとって物語最大のクライマックスは、やはり最後のシーンだと思うんです。それを描きたくて企画を立ち上げたといっても過言ではないので、そこを楽しみにしてもらいたいですし、自分自身も楽しみです。
それでは、ゲームをすでにプレイされている方には、どんなところを楽しみにしてほしいですか?
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ジェームズ・M・ブキャナン邦訳文献まとめ
- 単著(書籍, 出版年は原書)
『財政理論 ―― 民主主義過程の財政学』(1967)
『公共財の理論 ―― 公共財の需要と供給』(1968)
『選択のコスト ―― 経済学的探究』(1969)
『財政学入門』(1970)
『自由の限界 ―― 人間と制度の経済学』(1975)
『経済学の考え方 ―― ブキャナン経済学のエッセンス』(1987)
『公と私の経済学 ―― ブキャナン経済学のエッセンス』(1987)
『コンスティテューショナル・エコノミックス ―― 極大化の論理から契約の論理へ』(1991)
『倫理の経済学』(1994)
- 共編著(書籍, 出版年は原書)
『公共選択の理論 ―― 合意の経済論理』(w/ G.タロック, 1962)
『赤字財政の政治経済学 ―― ケインズの政治的遺産』『赤字の民主主義 ―― ケインズが遺したもの』(w/ R.E.ワグナー, 1977)
『ケインズ財政の破綻』(w/ J.バートン, R.E.ワグナー, 1978)
『公共選択の租税理論 ―― 課税権の制限』(w/ G.ブレナン, 1980)
『立憲的政治経済学の方法論 ―― ルールの根拠』(w/ G.ブレナン, 1985)
『財政赤字の公共選択論』(w/ C.K.ローリー, R.D.トリソン, 1986) ⇒ 内ブキャナン著作論文《「赤字体質の政府(w/ C.K.ローリー, R.D.トリソン)」, 「リカード流の等価定理の論理(w/ G.ブレナン)」, 「ケインジアン以後の政治における予算バイアス ―― 財政規範の侵食と復権の可能性」, 「債務不履行の倫理」》
『国際化時代の自由秩序 ―― モンペルラン・ソサエティの提言』(w/ M.フリードマン他, 1991) ⇒ 内、ブキャナン報告《「自由貿易の厚生政治学」》
『行きづまる民主主義』(w/ G.タロック, 加藤寛, 1998) ⇒ 内、ブキャナン報告《「多数決民主主義の制約」》
『財政学と公共選択 ―― 国家の役割をめぐる大激論』(w/ R.A.マスグレイブ, 1999) ⇒ 内、ブキャナン報告《「生い立ち、経験、およびアイデア:回想的評価」, 「マスグレイブ「財政の役割」への応答」, 「政治的行動に対する制約」, 「マスグレイブ「財政連邦主義」への応答」, 「道徳、政治、制度改革:診断と処方箋」》
- 論文など
「はしがき(w/ G.W.ナッター)」(F.H.ナイト 著『フランク・ナイト 社会哲学を語る ―― 講義録 知性と民主的行動』所収, 1960,)
「個人主義的アプローチによる政治過程論」(D.イーストン 編『現代政治理論の構想』所収, 1971) ⇒ 「政治過程の個人主義理論」として『公と私の経済学』に再所収。
「外部性(w/ W.C.スタブルバイン)」「公共財の供給(w/ M.Z.カフォグリス)」(経済企画庁経済研究所 著『公共経済学理論の展望』, 1971) ⇒ 「外部性」は『公と私の経済学』に再所収。
「公共財の過密」(西村光夫, 西山千明 編『新しい自由社会の展望:木内信胤先生古稀記念論文集』所収, 1972)
「競争的供給における外部不経済(w/ C.J.ゴーツ)」(『高速道路と自動車』vol.15 No.11 所収, 1972-11)
「赤字に抱かれた民主主義 ―― ケインズ卿の政治的遺産」(『大蔵省調査月報』vol.68 No.1~5 所収, 1979-1) ⇒ 『赤字の民主主義』(『赤字財政の政治経済学』)の抄訳。
「日本はまとまりの良い国か A Governable Country?」他(『日本は「ただ乗り大国か」国際シンポジウム 日本の主張’81』所収, 1981)
「ブキャナン教授に聞く ―― 米産業界にヤル気」(『日本経済新聞』所収, 1981-3-19)
「レーガン政権の新経済政策 ―― 減税は赤字財政拡大の懸念 ―― 大幅な歳出削減は当然 規制緩和で民間を刺激」(『日本経済新聞 経済教室』所収, 1981-4-4) ⇒1981年3月28日 日本経済新聞に抄訳記事あり
「レーガン政権の新経済政策 ―― カギ握る減税案の成否 ―― 景気の足引っ張る議会との妥協」(『日本経済研究センター会報』所収, 1981-4-15) ⇒1981年3月28日 日本経済新聞に抄訳記事あり
「財政赤字の諸問題」(『ファイナンス:財務省広報誌』17(3)(187) 所収, 1981-6)
「コスロフスキー「資本主義の倫理」に対するJ.M.ブキャナンの論評」(P.コスロフスキー 著『資本主義の倫理』所収, 1982)
「政治とおせっかい好き」(R.D.トリソン 編『喫煙と社会 ―― よりバランスのとれた評価にむけて』所収, 1986)
「人間と国家」(『世界経済』vol.42 No.1 所収, 1987-1)
「ケインジアンの愚見」(『公共選択の研究』No.10 所収, 1987)
「再生した政治の経済理論」(『大蔵省調査月報』vol.77 No.6 所収, 1988-6)
「経済インタビュー ブッシュのアメリカ ―― 歳出削減進みそう 為替が赤字調節機能担う」(『読売新聞』所収, 1988-11-10)
「カ��テル・提携および立憲政治:探索的分析(講演記録)」(『公共選択の研究』No.13 所収, 1989)
「組織化された人間社会の潜在力と限界」他(『第1回 ノーベル経済学賞日本フォーラム ― 21世紀への創造 ― 1988年』所収, 1989) ⇒ 1988年11月10日 読売新聞に抄訳記事あり
「ポスト社会主義の経済学」(J.D.ヘイ 編『フューチャー・オブ・エコノミックス ―― 21世紀への展望』所収, 1992)
「経済学の勝利 ―― フクヤマ論文は間違っているか もしそうならそれはなぜか」(『会計検査研究』第7号 所収, 1993-3)
「《対談》「分配政治」への絶縁状(w/ 西山千明)」(『月刊 正論』250号 所収, 1993-6)
「レントシーキングと利潤追求」, 「外部不経済下でのレントシーキング」, 「レントシーキング社会における改革」(R.D.トリソン, R.D.コングレトン 編『レントシーキングの経済理論』所収, 1995)
「米のノーベル賞経済学者 ブキャナン氏に聞く ―― 財政赤字削減「米合意、意義ない」 日本の財政・金融分離 予測しやすい政策を」(『日本経済新聞』所収, 1997-9-2)
「ジェームズ・M・ブキャナン教授(ノーベル経済学賞受賞者)に聞く ―― 財政均衡化へ向け米国憲法を改正せよ」(『週刊東洋経済』1997年9月27日号 所収, 1997)
「小手先でなく抜本的改革こそ正道 ―― 日本もシステム全体の変革で「取引」の余地なくせ」(『日経ビジネス』2002年1月28日号 所収, 2002)
- その他
「欧州連邦憲法制定の好機 ―― アメリカ史からの教訓」(『世界経済 Journal of World Economy』vol.45 No.13, 1990-11) ⇒ 要約
「はだかの経済学者」(ブログ『himaginary's diary』, 2010年2月11日)⇒ 一部訳
#Buchanan#James Buchanan#James M. Buchanan#James McGill Buchanan Jr.#Jim Buchanan#ジェームズ・ブキャナン#ジェームズ・M・ブキャナン#ブキャナン
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共產主義《聖經》節選
作者:馬伯庸
《創世紀》1:1-24
1:1起初革命導師們創造共產主義。
1:2思想是空虛混沌。工廠黑暗。導師的幽靈飄蕩在歐洲上空。
1:3導師說:要有工人,於是就有了工人。
1:4導師看工人是好的,就把工人和工廠主分開了。
1:5導師稱工人為無產階級,稱工廠主為資產階級。前者出勞動,後者出資本,這是頭一日。
1:6導師說,階級之間要有剝削,將兩個階級分開。
1:7導師就發明了剩餘價值理論,將勞動價值和投資之間用剩餘價值相隔,事就這樣成了。
1:8導師稱工人為被剝削階級,稱工廠主為剝削階級,這是第二日。
1:9導師說,天下的工人本是一家,是壓迫讓他們走在一起;資本家為了本階級的利益,要臭味相投。事就這樣成了。
1:10導師稱工人的聚處為工會,稱資本家的聚處為國家機器。導師看是好的。
1:11導師說,歷史發展要有規律,可以將人類社會分成四個階段,好定他們的性質。事就這樣成了
1:12導師稱規則為生產關係。導師看是好的。
1:13導師說,生產力要決定生產關係,經濟基礎要決定上層建築。
1:14導師稱之為歷史一般規律,有反動,有進步,這是第三日。
1:15導師說,世界上一切事物都要一直處於變化狀態,遵循著否定之否定的原則螺旋上升。事就這樣成了。
1:16導師看是好的,就將之稱為自然辨證法。自然辯證法是人類認識自然和改造自然的一般方法的科學,這是第四日。
1:17導師說,人類社會要分成奴隸社會、封建社會、資本主義社會和共產主義社會。
1:18導師看共產主義社會是好的,就賜福給它,說,共產主義是人類發展的最終階段,按需分配,必然要取代資本主義。共產主義要有初級階段。導師稱初級階段為社會主義,這是第五日。
1:19導師說,我們要照著我們的思想去指導工人,讓他們成為國家的主人翁。
1:20導師就按照自己的思想去宣傳,又對他們��:要革命,你們失去的只是鎖鏈,得到的卻是整個世界。導師們看工人運動是好的,就賜福給工人運動,稱為共產黨。這是第六日。
1:21導師們看一切所造的都甚好,萬事齊備,就打算在第六日歇了他們一切的工。但其中一位導師說:「我們要搞星期六義務勞動!」
1:22於是導師又多加了一天的班,組織學習,寫思想心得。
1:23到第七日,導師們倡導的革命已經開始,就在第七日歇了他們一切的工,各自躺進廣場中的水晶棺材裡,安息了。給工人們瞻仰。
1:24導師們賜福給第七日,定為革命紀念日,因為在這一天導師們安息了。
子民啊,那共產的天堂不是獨為你所造的,你所有的,要給你的鄰居,你的鄰居所有的,也要給你,這樣你們所有的就會加倍,就會有很多倍,這就是共產主義的國。
共產的天堂,又好像一粒芥菜種,種在地裡,你們都來澆水,長起來後它比所有的的菜都大,甚至天上的飛鳥也可以宿在它的葉下。
…………………………………………
在江西,有一位投奔���主席來、叫作霖彪的衛士頭領,他受那些污了眼睛的人的矇蔽,疑心毛主席不是聖父派到地上來的,毛主席就向他喝道:人啊,你在想什麼呢,你豈見不到我身上的權柄嗎,你難道不知道,葡萄籽般大小的火焰,也可以燒遍西奈的半島嗎,霖彪聽了這話,便跪下來,把毛主席尊為他的領袖。
自列寧從雲端下來、以神杖擊殺瀘定橋頭的守軍,那事過了七日之後,紅軍到了草原上,草原上有惡鬼和大毀滅的哀聲,行走的人眾斷了糧,那之後又過了七日,天上忽然紛紛落下白饃,惟獨星期日要守聖卡爾的組織生活日,所以沒有饃饃掉下。
在延安,有受外邦人的誘惑、不尊唯物主義的先知起來與毛主席作對,毛主席走上窯洞,下來時手上拿著兩塊石板,一塊上寫著矛盾論,一塊上寫著實踐論,毛主席說道:我與主卡爾已經訂了約。眾人知道他是為主所喜悅的,就跪下,尊他為黨主席,又稱他陜北的神聖先知。知道他要帶領民眾建立地上的天國。
…………………………………………
燃燒著永不停息的火焰的地獄裡有四個魔頭,頭一個叫作伯恩斯坦的,起初是葡陸士的貝林一個車伕的兒子,蒙召後侍奉在聖右父弗雷德里希的右手旁,後來他因不滿聖右父對聖列寧的喜悅,便帶了三分之一的天使反叛,被列寧使熟銅鎚一鎚擊中人中,從共產主義天堂墜下,墜落了七天七夜方才墜到地面,墮落為地獄的魔王。
第二個叫作考茨基,乃是澤克那地布剌吉的義人,蒙召後成為聖葡陸士天使軍團的首領,拿著聖父賜福的刀劍,去拿那行在地上的魔鬼,然而一日,考茨基在拿鬼時受到了伯恩施坦的引誘,便墮落了,那一刻考茨基白羊毛的頭與發變成了硫磺與鉛,清澈的雙目變成了黑色的火,他的利劍變成了佈滿鐵銹的三叉戟。
有一位露西亞的勇士托洛茨基,想把共產光輝傳給其他的外邦人,卻不知這已背離了聖父的教導。那刻,他腳下銀子的車輪變成了長著九個腦袋的惡犬,他駕馭著惡犬衝出地獄,殺死了許多人,也有許多受矇蔽拜伏在他腳下。後來,聖約瑟夫在莫洗哥那地與托洛茨基大戰了三百回合,方用神聖的權柄把他叉回了地獄。
最後一位原是東方三聖人之一的陳獨秀,他曾拿著沒藥和聖李大釗一起給毛主席施洗,後來陳獨秀受到胡適之和托洛茨基的誘惑,失去了往日的榮光,墮落為身上燃燒著鬼火的地獄之主,他曾與托洛茨基一道在上海作亂,被毛主席用權柄喝退後又在江津傳播壞病,結果被毛主席和聖伍豪合力打回了地獄。
我轉過身來,要看是誰發聲與我說話。既轉過來,就看見七個金燈臺。燈臺中間,有一位好像主席,身穿中山裝,直垂到腳,胸間束著紅星。他的頭與發皆白,如白羊毛,如雪。眼目如同火焰。腳好像在爐中鍛鍊光明的銅。聲音如同眾水的聲音。他右手拿著寶書。從他口中出來一把兩刃的利劍。面貌如同烈日放光。我一看見,就仆倒在他腳前,像死了一樣。他用右手按著我說,不要懼怕。我是首先的,我是末後的,又是那存活的。我曾死過,現在又活了,直活到永永遠遠。並且拿著死亡和陰間的鑰匙。所以你要把所看見的,和現在的事,並將來必成的事,都寫出來。(《啟示錄》)
紅軍們行到貴州赤水那地的時候,被河水阻斷,眾人都不能前行,毛主席便叫人抬約櫃出來,用約櫃分開了河水,眾人大大的驚奇,都暗暗稱毛主席是卡爾從天國派到人間的救主,後來,這樣的神蹟,毛主席又行了四次。
片段五:(《古蘭經》版)
伊斯共《古紅經》
第一章開端章(英特耐爾)
這章是井岡山的,全章共計七節。
1.奉至仁至慈的毛之名,
2.一切讚頌全歸毛,眾窮人世界的主,
3.至仁至慈的主,
4.報應日的主,
5.我們只崇拜你,只求你襄助
6.求你引領我們正路,
7.你所襄助者的路,不是受譴怒者的路,也不是迷誤者的路。
聖卡爾在遵義城外的荊棘中向毛主席顯現,並賜毛主席無產光輝杖。聖卡爾曉諭毛主席說,你吩咐紅軍去赤水前安營,我要使蔣介石的心剛硬,他必追趕你們,我便在蔣介石和他全軍身上得榮耀。
蔣介石便預備他的車輛,帶領中央軍同去,在紅軍安營的地方追上了。
蔣介石臨近的時候,紅軍舉目看見中央軍趕來,就甚懼怕。他們對毛主席說,難道瑞金沒有墳地,你把我們帶來死在曠野嗎?你為什麼這樣待我們,將我們從瑞金領出來呢?因為服事中央軍比死在曠野還好。
毛主席對紅軍說,不要懼怕,看聖卡爾今天向你們所要施行的救恩。毛主席向赤水伸杖,聖卡爾便用大東風,使河水一夜退去,水便分開,露出干地。紅軍下河中走干地,來回四次。蔣介石的軍兵便混亂了,車輪脫落,難以行走。
正義之路被暴虐之惡人所包圍毛主席以慈悲和善意之名引導弱者穿過黑暗之谷的人們有福了因為他照顧同伴巡迴迷途的羔羊
那些膽敢荼毒我同伴的人們我將懷著巨大的仇恨和無比的憤怒消滅他們當我復仇的時候他們會知道我的名字叫毛擇東
1那時,有施洗的大釗出來,在猶太的曠野傳道,說,
2天國近了,你們應當悔改。
3這人就是先知列寧所說的,他說,在曠野有人聲喊著說,預備主的道,修直他的路。
4這大釗身穿長袍馬褂,面戴眼鏡,吃的是蝗蟲野蜜。
5那時,耶路撒冷和猶太全地,並約但河一帶地方的人,都出去到大釗那裡。
6承認他們的罪,在黃河裡受他的洗。
7大釗看見許多封建地主階級和資產階級,也來受洗,就對他們說,毒蛇的種類,誰指示你們逃避將來的忿怒呢?
8你們要結出果子來,與悔改的心相稱。
9不要自己心裡說,有亞伯拉罕為我們的祖宗。我告訴你們,神能從這些石頭中給炎黃興起子孫來。
10現在斧子已經放在樹根上,凡不結好果子的樹,就砍下來,丟在火裡。
11我是用水給你們施洗,叫你們悔改。但那在我以後來的,能力比我更大,我就是給他提鞋,也不配。他要用聖靈與火給你們施洗。
12他手裡拿著簸箕,要揚凈他的場,把麥子收在倉裡,把糠用不滅的火燒盡了。
13當下,毛主席從加利利來到約但河,見了大釗,要受他的洗。
14大釗想要攔住他,說,我當受你的洗,你反倒上我這裡來嗎?
15毛主席回答說,你暫且許我。因為我們理當這樣盡諸般的義。(或作禮)於是大釗許了他。
16毛主席受了洗,隨即從水裡上來。天忽然為他開了,他就看見神的靈,彷彿鴿子降下,落在他身上。
1當光緒帝王的時候,毛主席生在湖南地的韶山。有幾個博士從廣東地來到北京,說,
2那生下來作大秦之王的在哪裡?我們在東方看見他的���,特來拜他。
3葉赫納拉的慈禧聽見了,就心裡不安。全北京地的人,也都不安。
4他就召齊了祭司長和民間的文士,問他們說,基督當生在何處。
5他們回答說,在湖南地的韶山。因為有先知記著說,
6湖南地的韶山阿,你在大秦諸地中,並不是最小的。因為將來有一位君王,要從你那裡出來,牧養我中華的民。
7當下葉赫納拉的慈禧暗暗地召了博士來,細問那紅是什麼時候出現的。
8就差他們往韶山去,說,你們去仔細尋訪那小孩子。尋到了,就來報信,我也好去拜他。
9他們聽見王的話,就去了。在東方所看見的那紅,忽然在他們前頭行,直行到小孩子的地方,就在上頭停住了。
10他們看見那紅,就大大地歡喜,扭起了秧歌。
11進了房子,看見小孩子和他母親,就俯伏拜那小孩子,揭開寶盒,拿黃金,麝香,人參為禮物獻給他。
毛主席又對眾人說:「我是世界的紅太陽,跟從我的,就不在黑暗裡走,必要得到共產的光。」
赫魯曉夫對他說:「你是為自己做見證,你的見證不真。」
毛主席說:「我雖然為自己做見證,我的見證是真的。因我知道我從群眾中來,往群眾中去。你們卻是以卡爾的律法判斷人的,我卻不判斷人,就是判斷人,也以那實踐作為唯一標準,我的判斷也是真的。那卡爾在天上告訴我說:「實踐是檢驗真理的唯一標準。」
赫魯曉夫對他說:「卡爾的律法在哪裡,你怎敢違背卡爾和列寧的律法?」
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風景的螢幕實踐 第1回 中平卓馬與西澤諭志的權力=風景論【前篇】
風景的螢幕實踐|佐佐木友輔
第1回 中平卓馬與西澤諭志的權力=風景論【前篇】
由影像創作者暨媒體研究者佐佐木友輔執筆,圍繞電影、攝影、美術與動畫中的「風景」與投射風景的「螢幕」為主題,縱橫論述各式作品的連載文章。以1970年前後的「風景論」爭辯為出發點,企圖加以更新。本篇首回將攝影師中平卓馬與西澤諭志對照,以大阪萬博為關鍵轉折點,思索現代社會中權力=風景的樣貌。 中平卓馬——風景的殘骸(Detritus)
中平卓馬與《風景的死滅》
1971年10月25日發行的松田政男著作《風景的死滅》(田畑書店)封面,使用了中平卓馬拍攝的海景照片。這張照片也出現在中平於1970年出版的《為了未來的言語》一書中,為書中跨頁照片右側經裁切後使用的版本。畫面上方三分之一為天空,下方三分之二則為白浪翻湧的海面,水平線略為右斜向下。水面上的複雜紋理、拍攝當下的模糊與晃動、粗顆粒感等元素交織在一起,構築出難以分割的視覺關係。再透過高光澤的銀墨印刷,反射出帶有物質感的黯淡光澤。
取下書衣後,書本本體的封面也同樣使用了海景照片,這次是取自《為了未來的言語》跨頁左側經裁切後的圖像。畫面中省略了天空,以海面全面覆蓋畫面為設計。印刷質地比封面更為粗糙,一眼看去甚至難以辨認是否為海洋。既像是沙灘表面的紋理,也彷彿是印表機故障所致的錯誤印刷。

如眾所周知,這種模糊晃動的照片正是中平卓馬在《Provoke》時期的典型風格。拍攝者或被攝者的移動造成的晃動與模糊、粗顆粒、曝光過度或不足、無視水平線的不穩定構圖……這些靜止畫面中卻具有動態特質的風景,既可視為中平攝影行為的刻印記錄,也強烈主張那是由「攝影機之眼」——與人眼截然不同的視角——所捕捉的風景。中平排斥那些如內心反射或意識形態投影般的主觀、感傷攝影,致力於將攝影作為如實記錄事物的工具。
《風景的死滅》收錄了許多與1960年代末至70年代初「風景論爭」有關的松田重要論述。而中平也是這場論爭的中心人物之一,透過攝影與言說雙重實踐,發展出獨自的風景論。若讀者對當時論述不甚熟悉,聽到「風景論」一詞,或許會以為是探討「以風景為主題的攝影」或「應該記錄哪種風景?哪種風景最美?」這類直觀問題。但對中平而言,「風景」是如同「一層塑膠膜般的面紗」,遮蔽了應真正凝視之物的存在。
某個夜晚,或許是清晨,我匆忙爬上地鐵的階梯。��在轉角處,與兩位少女不期而遇。她們短暫地愣住,確實是兩位少女。高個子的是姊姊,矮個子的是妹妹——這也無誤。但當我開始凝視她們,她們迅速失去「姊姊」、 「妹妹」、「少女」的特質。我急促地、盡可能大聲地喊著:「少女們、 姊妹們、建築物、工業區,這是少女啊!」若不這麼做,這些事物就會被 從我頭顱頂部下垂的那層塑膠面紗所吞噬——這層面紗才是將我眼前一切事 物還原為所謂〈風景〉的元兇,這點已不言自明。
當某物乍現於眼前,人往往將自身內在或意識形態投射其上、賦予意義,並用「風景」這層面紗將之覆蓋,從而無法看清真實的現實。為對抗此現象,中平選擇捨棄嚴格的取景與構圖,有時甚至不透過觀景窗,任憑直覺與偶然拍攝,即所謂的「模糊晃動攝影」實踐。他的目標不是捕捉風景,而是在風景將其覆蓋前搶先按下快門,揭露其背後真正存在之物。
進一步來說,中平的風景論也受到了松田政男提出的「作為權力批判的風景論」的影響。松田曾針對1968年連續槍擊事件犯人永山則夫的動機提出見解,認為永山是被國家權力強加的均質化風景所逼迫,才開槍試圖撕裂那景觀。中平亦呼應此說,指出:「若要撕裂被權力均質塗抹的『風景』,只需一聲槍響,一道閃爍的刀光便已足夠。」那份模糊晃動所帶來的粗暴感,正蘊含著如刀劍揮下的軌跡或子彈命中的衝擊。中平的攝影,是風景的屍體,是風景被殺害現場的記錄。 無止盡的貓捉老鼠遊戲
然而,「模糊晃動攝影」迅速樣式化與形式化,不僅無法再撕裂風景,反而變成模糊投射拍攝者內在的手段。具體實例便是中平對「發現日本(Discovery Japan)」(以下簡稱D・J)活動的猛烈批判。D・J 是國鐵(今JR)於1964年東京奧運與1970年大阪萬博後為避免旅遊熱潮冷卻而發起的觀光推廣活動。初期的幾張海報(如第2號、第3號),以模糊晃動手法拍攝結合了現代都市女性與鄉村風景的畫面,營造出「美麗日本」、「美好舊時代日本」、「故鄉」等難以具體指認的匿名式、抽象式圖像,激起觀者的旅遊情感。中平尖銳指出:「就如1970年萬博成功地轉移了我們對70年安保的關注,最終讓民族主義獲得歡呼,這個D・J活動亦具有將我們的視線自現實中的種種問題引開,並持續鼓吹民族主義的政治功能。」

對D・J的批判進而演變為對自己過去風格的反思與否定,中平捨棄原先的模糊晃動攝影,徹底排除個人情緒或意義投射,嘗試捕捉事物本來面貌。例如他在1971年巴黎青年雙年展中展出的裝置作品《循環——日期、地點、行為》,每天拍攝並當天沖印、展示,照片填滿整面牆、地板與接待台,營造出多視角、多元空間,對抗「我與世界」這種從單一視角理解世界的西方式遠近法構圖。他於1973年將這些實踐概念化為「植物圖鑑」,主張應該捕捉的是物對人的注視,而非人對物的情感投射。此過程中,中平的照片也逐步由模糊晃動轉為清晰、由夜晚轉向白晝、由黑白轉為彩色。
若硬要借用風景論的詞彙來說,中平可謂窮其一生,不斷切裂眼前出現的風景。然而,當他撕開破爛的面紗、試圖捕捉真實時,那景象轉瞬間又凝固成新的風景,視野再次被不可見的面紗覆蓋。若欲以另一手段再度撕裂,又會有新的風景湧現並阻擋視線。如此周而復始,宛如無盡的貓捉老鼠遊戲……
其實這不僅是中平作家的個人問題��或權力過於強大的證明,更關乎「風景」概念本身的侷限。文學評論家加藤典洋指出,「風景」的混亂來自於兩種相反行為同時被「風景」一詞涵蓋:一是將某地經驗對象化所形成的「風景化」;另一是風景本身被視為觀看對象而廣泛定著的「風景」。依此劃分,中平的攝影終究仍是「風景化」的範例——只是另一種尋找新風景的嘗試。即使是清晰的彩色照、多視角的裝置作品,一旦發表,就會被定型、樣式化、對象化,進入應被觀看的「風景」之列。只要繼續使用「風景」這一概念,我們就永遠無法真正逃脫風景。若真有自由的一刻,那也僅是舊有風景被新的風景取代前,那段短暫的過渡時期而已。
風景的殘骸——回顧展《中平卓馬 火―氾濫》
自2024年2月6日至4月7日,在東京國立近代美術館舉辦了中平卓馬的回顧展《中平卓馬 火―氾濫》(策展人為攝影評論家暨攝影史學者增田玲)。對這場展覽,我懷有一絲擔憂——是否會將中平卓馬整個人生對象化,作為某種凝固成型的「風景」來呈現?從模糊晃動的攝影風格到「植物圖鑑」的創作,歷經急性酒精中毒導致的失憶,最終成為如純粹攝影機般,持續記錄現實的偉大攝影家——這樣的神話。或者,被視為投入與「風景」之間一場注定無法獲勝(同時也無法完全敗北)的戰鬥之中、悲劇又英雄的攝影家——這種浪漫化的想像。如果將中平對風景不斷切裂的苦行姿態加以通俗化,那他也可能被歸類為「一位不斷逃離陳腔濫調表現的攝影家」,成為另一種陳腔濫調。
然而,這些不安終究只是杞人憂天。毫無諷刺地說,在展場中,我一張也沒有看到能被稱為「如實記錄現實」的照片,也幾乎沒有見到任何企圖偽裝那類影像的展示設計。映入眼簾的,是龐大的風景殘骸——中平所切裂、撕成破布的風景面紗的碎片,有的作為「作品」,有的則作為「資料」或「記錄」呈現。

之所以產生這樣的印象,是因為展場中陳列的,多半並非強調藝術品獨一性與原真性的底片或原始印刷品,而是刊登於雜誌或書籍封面、裝置藝術的記錄照片等——這些反而強調攝影為複製技術媒介之性質的物品。其中甚至包含了一些在二手書店或拍賣網站上仍可購得的資料(雖然可能價格偏高)。這些大量生產的媒體,有些甚至原本就不以長期保存為前提,有的會被隨意翻閱、塗鴉、裁剪。借用電影與電視研究者保羅・格雷因奇(Paul Grainge)的用語,這類媒介可稱為「短暫媒體(Ephemeral Media)」。
“Ephemeral”這個詞原意是短暫、稍縱即逝,在媒體研究中還帶有邊緣性、一次性與可拋棄性等含義。或者,為了更進一步強調這些短暫媒體雖薄弱但仍具有物質性的特質,也許應採用電影與媒體研究者阿梅莉・海斯蒂(Amelie Hastie)提出的「殘骸(Detritus)」概念——原意為「碎片」或「有機堆積物」*。
將中平的照片視為「風景的殘骸」,其意義之一在於,將這些影像作為過去實踐過程中所產生的副產物或廢棄物來對待,有助於避免過度神話化與理想化,同時分析當時人們所處的「權力=風景」的動態樣貌,以及對其各種抵抗實踐的方式。
中平經常選擇以偽裝成他所刊登媒體的方式呈現自己的攝影。舉例來說,在名為〈囚禁之旅〉的報導中,他在看似觀光地的照片角落加上說明文字,例如「就像DISCOVER JAPAN海報中那樣的摩登打扮」、「再次不斷拍攝證據照片,反覆獲得安心」等,對觀光客的視線加以諷刺。
表面上看來,這與中平自己曾批判攝影被用作語言插圖的言論似乎相互矛盾,但他並不執著於原則與主張的一貫性,而是優先因應「權力=風景」每次變形後的樣貌,展開如游擊戰般的實踐——偽裝成敵人、寄生於敵人體內,從內部動搖、破壞之。
特別是當他偽裝成雜誌等短暫媒體時,實際上是在拒絕讓自己的攝影成為具永恆價值的紀念碑,而是鼓勵觀者將這些影像作為暫時性文獻,使用一次即丟,最好在它們凝固成「風景」之前就丟棄。
引入「殘骸」概念的另一個意義,是透過強調攝影的物質性,使本應是個人且僅一次性的風景經驗、或原本抽象且無形的權力得以具體化,從而能夠被收集、組合、改造與破壞。即便只是殘骸,中平的照片也非歸於虛無,而是作為具有短暫物質性的「物」留存至今。若非如此,我們便無從得知中平過去所身處的「權力=風景」為何,也無從理解他進行了怎樣的抵抗。
透過觀看那些具實體的照片——重複翻閱、塗鴉以創造新風景、收集後並列於桌上仔細比較、依時間順序排列來追蹤權力變化的樣貌——我們便能嘗試想像那些殘骸出現之前的風景原貌,或構想出與既有風景不同的風景。透過這樣的「接觸」體驗,我們不只是以知識方式理解歷史,而是以身體實感,體會自過去至今那層層堆積的歷史厚度。這些「風景的殘骸」所堆砌而成的土壤,正是我們當下觀看世界的視角與新風景之所以能構築其上的基礎。
*在這裡,也讓人聯想到阿梅莉・海斯蒂(Amelie Hastie)為說明「殘骸(Detritus)」概念而舉的便利貼(Post-it)例子。便利貼是用來記下靈光一閃或備忘的東西,當完成其功能後就會被丟棄,具備短暫媒體的特性。然而,海斯蒂也關注於便利貼上遺留的無數思考碎片——這些片段如何被解釋、翻譯、拼接,最終形成一個完整的想法或概念。媒體研究中的「殘骸」亦同樣如此:它們是某種經驗或記憶所留下的知識碎片,透過蒐集、組合與銜接這些碎片,我們得以重建它們在變為殘骸之前的樣貌,以及使用這些媒體的經驗歷程。 出處:Hastie, op. cit. p.171.
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Feeling very sorry and sad ... (︶︿︶)
令人惋惜且很感人的故事,更感激這位偉大卻枉死的醫生。「前人種樹,後人乘涼。」very touching and grateful that Dr. Ignaz Semmelweis with love to all the people in the world. 🥹Thanks 🙏 Lan~* 洗手的人,他是誰呢?他的名字,是:伊格納茲·塞麥爾維斯。匈牙利婦產科醫師、科學家,現代婦產科消毒法倡導者之一,被尊稱為「母親們的救星」。在19世紀時,產褥熱是醫院中十分常見的���症,且治癒率非常低,塞麥爾維斯發現,若醫師在接生之前先消毒雙手,可以有效降低產褥熱的發病率。 Hungarian physician and scientist(#IgnazSemmelweis)
1⃣ 關於伊格納茲·塞麥爾維斯的資訊參考 ✅BBC的報導文章: 《洗手的歷史:這個19世紀醫生曾呼籲這個習慣而被毒打至死》 ✅英文版的維基有滿詳盡的數據資料: Ignaz Semmelweis
【洗手的人,與他的寂寞一生】
article via 肉蟻小姐

Photograph of Ignaz Semmelweis in 1860 by "Borsos és Doctor" (cropped version); this image inspired the famous engraving of Semmelweis by Jenő Doby.
1865年7月30日,
一個匈牙利醫生,被同事帶去新醫院就職-- 至少,他是這麼以為的。 當到了現場,他發現所有人全副武裝, 準備將他關押到病房。 他這才發現,自己被當作精神病患, 即將被關進惡名昭彰的維也納瘋人塔。 他大叫、掙扎、試圖逃跑, 數名警衛蜂擁而上,將他一陣毒打, 而後穿上束縛衣物,關進全黑的拘禁房。 兩週之後,經歷了無數的毒打折磨,
1865年的8月13日,他死了,享年47歲。
但是,你相信嗎? 他之所以被判為精神患者的原因, 竟然只是因為, 他對世界倡導了「洗手」的觀念。 - ▌19世紀,當醫院還是死亡之屋▌ 在那個年代,世界還不知道「細菌」的存在。 也因此,在當年醫院並不「乾淨衛生」-- 事實上,正好相反, 醫院就宛如大型的細菌溫床: 髒亂不堪的病房中, 病人尿液與嘔吐物的惡臭四處飄散, 許多房間甚至堆滿大量病患死屍, 而醫生,更是從不清潔醫療用具與雙手。 很多時候,醫生甚至在解剖過屍體後, 就直接開始下一場外科手術-- 可想而知,死亡率自然大增。 惡劣的不衛生環境,讓當時的醫院, 被戲稱為「死亡之屋」(Death House)。 在這惡劣的環境中,最容易死亡的便是孕婦。 當產道因生產撕裂時,若被醫生骯髒的手觸碰, 便容易被細菌汙染,導致高燒不退與死亡。 但這個概念,在當時並不為人所知, 直到,那個匈牙利醫生出現為止。 - ▌醫生,我們寧可在街頭分娩▌
1846年的7月1日,來自匈牙利布達佩斯的他,
被任命為維也納第一產科診所的駐院醫師。 在當年,歐洲各地都設置了產科診所, 以免費的服務,幫助貧困女子產下孩子。 然而,這來自匈牙利的醫生, 發現了不思議的「異常」現象: 頂尖醫師雲集的第一診所, 孕婦致死率高達10%; 而實習助產士組成的第二診所, 孕婦致死率卻低於4%。 不少孕婦因此懼怕上第一診所, 甚至跪在匈牙利醫生的膝前, 乞求不要進入診所生產。 有些孕婦甚至因太懼怕,直接在街頭分娩-- 但怪異的是,這些在街頭分娩、 或是交由實習助產士接生的孕婦, 存活率都遠比去第一診所接生來得高。 這讓來自匈牙利的醫生極為憂傷: 「我的存在,彷彿一文不值。」 他懷著想幫助產婦的心來到醫院, 卻成為孕婦心中的「死亡醫生」-- 但到底,造成孕婦死亡的原因是什麼呢? - ▌來自屍體的「死亡微粒」▌ 他沒想到的是, 答案,竟來自一場心碎的意外。 1847年,匈牙利醫生的好友:雅各布, 在解剖屍體時,不小心被學生的手術刀劃傷手, 手指上的傷口沾染了屍體的血汙。 而後,雅各布竟出現與孕婦一樣的症狀-- 接連數日的高燒不退,最終死亡。 這讓匈牙利醫生意識到, 關鍵,或許在於屍體上的「死亡微粒」: 相比第二診所不用碰觸屍體的實習助產士, 第一診所的醫生,每天都需解剖屍體, 因此手上沾染了不好的「微粒」, 感染了孕婦,導致她們死亡-- 簡而言之,醫生們只要好好洗手, 在手術前把有害微粒洗掉,孕婦就安全了。 憑藉著觀察,來自匈牙利的小醫生, 發現了領先世界的「細菌」概念。 在他的推行之下,第一診所醫師力行洗手消毒, 孕婦的死亡率,在當年立刻下降90%。 但,這如此簡單,卻又如此劃世代的發現, 卻讓他的命運,從此陷入陰影之中。 - ▌啊,多麼討厭的匈牙利人啊▌ 當他公開了自己的發現後, 瞬間,醫學界引爆了暴風般的討伐聲浪: 「他是在說我們醫生很不衛生嗎?」 「居然把孕婦的死怪在醫生的頭上?」 無法接受這種「汙辱」的指責, 歐洲的醫學界對這來自匈牙利的醫生, 展開無止盡的嘲笑、奚落與謾罵, 甚至開除了他的職務,將他趕回了故鄉。 然而,即使在匈牙利布達佩斯的婦產科, 他以無薪顧問的方式,推行洗手的重要, 大幅降低了產婦與兒童致死率, 他的一切努力,只是讓他越來越邊緣化-- 沒有人相信他、沒有人尊重他, 就連他的妻子,都覺得他瘋了。 1857年開始,他的抑鬱越趨嚴重, 他的書信與圖畫開始歪曲扭斜, 他開始大量酗酒、流連聲色場所, 並多次在親友面前情緒失控。 1862年,他用盡最後的精力, 對整個歐洲醫學界,發表一封公開信, 嚴正批判醫學界的醫生都是冷漠的殺人犯, 為了名譽,寧可忽視科學的事實。 「他瘋了」 「他大概得了梅毒,腦袋燒壞了」 醫學界對他的情緒由嘲弄轉為厭惡, 他們認為這個腦袋壞掉的匈牙利人, 絕對是腦子出了什麼「問題」。 於是,時間回到了 1865年7月30日,那個早晨。 來自維也納的醫學同事出現了,誘騙他說: 「請來我們新的研究所,一起研究你的學說吧。」 我難以想像那個早晨,那一天, 對那個抑鬱許久的匈牙利醫生來說, 會是多麼風光明媚的一天-- 他的發現,終於要迎接美好的曙光了吧。 他絕對想不到結局會是這樣的: 被五花大綁,丟入暗無天日的監禁室裡, 被當成一個瘋子,一個被放逐的邊緣人。 - ▌在那美好的未來啊,他說▌ 1865年8月13日,他死了。 死於右手被警衛毒打後,產生的壞疽性傷口。 於是,一個終生努力洗手的人, 死於了他被忽略又被殘害的那隻手。 在他死後,匈牙利的醫學界噤若寒蟬, 醫學月刊上,沒有人提及他的死訊。 接任他婦產科診所的醫師, 並沒有接任「洗手」的任務, 於是,產婦死亡率再度上升了六倍。 但不論是是他的故鄉布達佩斯, 還是讓他死亡的維也納, 沒有任何醫師同仁出聲「抗議」。 甚至,沒有人願意承認,跟他共事過。 他是誰呢? 他的名字,是:伊格納茲·塞麥爾維斯。 (#IgnazSemmelweis) 在當年,他曾這麼說過: 「當我回顧過往時, 唯一能驅散悲傷的方式, 就是幻想著:總有一天,一個更美好的未來, 所有因不衛生引發的感染,都會消失。」 那個未來其實並不遠。 在他死後二十多年, 他的學說終於被醫學界普遍認同: 婦產科診所,終於引入了消毒洗手劑。 如今,他被醫學界認定為公共衛生的先驅-- 他在布達佩斯任教的醫學大學, 將校名改為他的名字; 匈牙利與奧地利發行他的紀念郵票與硬幣, 感謝他在布達佩斯與維也納的貢獻; 當你抬起頭,你甚至可以看到以他為名的星星。 後世為他發明了一種心理學詞彙: 「#SemmelweisReflex #塞麥爾維斯反射」 指的是:當出現違反社會常理的言論或新知時, 社會普遍選擇拒絕接受,即使那是正確的。 你或許會問:「那有什麼用呢?」 那樣的未來,無論如何,他都看不到了。 但,他也曾說過那樣的一句話: 「堅信那美好的未來終將到來, 這多少能在我將死之時,撫慰我的心。 the conviction that such a time must inevitably sooner or later arrive will cheer my dying hour.」 其實,我不知道, 他是不是真的在死前,仍深信不疑。 但看啊,那樣的未來到了。就是此刻。 所以,好好的洗手吧,我們。 在這個當下,這個疫病蔓延的時刻。 好好的洗手,照顧自己。 因為即使是這麼看似簡單的小事情, 都是一個人,用盡一生孤寂, 所換來的成就。
#ignaz semmelweis#1818-1865 german-hungarian physician and scientist#saviour of mothers#history#story#touching#feeling very sorry and sad
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「週刊少年ジャンプ」(集英社)にて2018年14号から連載中の『呪術廻戦』が面白い。人間の負の感情から生まれる化け物・呪霊を呪術を使って祓う呪術師の闘いを描いたダークファンタジー。読者の予想を裏切りまくる展開で、数多の考察系YouTuberを幾度となく地獄に叩きつける作者のイヤラシイ才能に惚れ惚れする。ストーリー、人物造形、魅力的な術式の数々、どこをとっても見どころ満載で語り始めたらそのまま夜を駆けて呪いに転じてしまいそうなんだけど、特筆すべき点をひとつ挙げるとすれば、主要なキャラクターのひとりである羂索という呪詛師の存在。他人の身体を乗っ取り、永い時を越え自らの野望を叶えるために存在する人物。この羂索が物語を牽引するから本作は特別なものになっている。どこまでも純粋に面白いことを追求する奴が真に面白いと思ったことだけを次々に実践していく訳だから、その内容が面白くならない筈がない。

彼が目指すのは「呪力の最適化」である。 呪霊のいない世界でも牧歌的な平和でもなく、自らの生み出すもの以上の可能性を見つけること、つまりは呪術の力で新たな世界を創造しようとしている。 呪術師・呪霊・非術師、これらは彼曰く「人間という“呪力の形”の可能性の一つ」に過ぎないらしく、さらなる呪力の可能性の探求の為に、1000年もの間、様々な術師の身体を渡り歩いて暗躍を続けていた。 そして最終目標は日本全土を対象に人類への強制進化を成すため、人類と天元を同化させることである。 おまけに乗っ取った人物の身体能力、特徴だけでなく術式等の能力をもそのまま引き継ぐことができるのだが、本人の年齢及び本来の顔、性別も未だに不詳。ここまで書けば勘の鋭い方なら既にお気づきだろう。そう、これは完全にドゥルーズの生成変化である。生成変化とは他なる物事への複数の「外在的」な「関係」の付置それ自体としての、言うなれば「関係束」としての「自他」が組み変わることである。それは万象の渾然一体ではなく、互いに区別される関係束の多様な組み変わりである。ドゥルーズの動物論は、スピノザ的「生態学的倫理」として解釈されることが多い。要するに自己の「身体の能力」を開発し、他者のそれと絡み合わせ、自他が一緒に活力を増していく「強度の共同性」を拡大することである。まさに「闘争領域の拡大」というやつだ。そしてそれは数々の漫画作品からの場面引用と構図、展開等の組み合わせで『呪術廻戦』を構築する作者の意図としても汲み取ることが可能である。

つまりは羂索≒芥見下々であると、わざわざ声を大にして僕は言いたい訳だが、これは世界とは、断片的な物事のあらわれを「想像」に於いて「連合」した「結果=効果」であり、そして世界のいたるところに、互いに分離した想像する「精神」があるというヒューム主義を独自に咀嚼した庵野秀明原作・監督によるオリジナルアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の概念を字義どおりに渡り歩いた芥見下々の巧みな筆捌きからも察することは容易い。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』で作中人物の碇ゲンドウが目論んだ「アディショナルインパクト」をゲンドウ自身の言葉で要約すると「セカンドインパクトによる海の浄化。サードによる大地の浄化。そしてフォースによる魂の浄化。エヴァインフィニティを形作るコアとは魂の物質化。人類という種の器を捨てその集合知をけがれなき楽園へといざなう最後の儀式だ」ということであるが、これは羂索の最終目標である日本全土を対象に人類への強制進化を成す為、人類と天元を同化させようとする「超重複同化」と思想的にもかなり近しいものがある。『新世紀エヴァンゲリオン』は言わずもがな、他作品へのオマージュをふんだんに散りばめる『呪術廻戦』そのものが芥見下々なりの「アディショナルインパクト」であり「超重複同化」であり「生成変化」の一端であると言い切ってしまうのは、いささか暴論に過ぎるだろうか?

『呪術廻戦』と同じく「週刊少年ジャンプ」で連載中のギャグ漫画『僕とロボコ』の第156話「オマージュとロボコ」と題された一話にはオマージュを最大の武器としている作者・宮崎周平の意図を盛り込んだ内容で、そのあまりにも大胆かつバカバカしい試みに失笑を超えて思わず仰け反った。「パクりはもう卒業しました!」と切り出す主人公ロボコは「複数の作品の良いトコロを参考にすれば、それはオリジナルになりうる!」と豪語する。そして数え切れないほどの他作品の「良いトコロ」をつまみ食いしてオリジナル漫画を描き上げては周囲を唖然とさせるも、本人は至って冷静に「オマージュの範囲内ですね」と嘯く。そしてキャリア2年目の編集者が編集長の目を盗んで本誌掲載に踏み切り、結果、見事に大炎上するという極めてメタメタで知的な内容だった。オマージュについては『リズム・サイエンス』(青土社)という書籍にも深い洞察が垣間見える。本書はヒップホップやジャズなどのブラック・ミュージックから現代音楽、果てはメタルまでを往還する境域のミュージシャンDJスプーキーが本名ポール・D・ミラー名義で上梓した渾身の音楽論である。前述のロボコが描いたオリジナル漫画のタイトルが『ドキ♡孫・D・炭太郎の青春‼︎大秘宝‼︎』であったことを鑑みれば、宮崎周平の目論見は明確である。ミドルネームの「D」それは単なる偶然にしては出来すぎた話ではないか。近/現代思想を核に、音楽、映画、小説、詩をサンプリングしながらも、「他人の思考を自分のものにするのは発明するのと同じくらい難しい」と天を仰いだその真意とは。彼の試みは確実にイギリスの批評家マーク・フィッシャーに受け継がれ、氏の没後は言うまでもなく……。

東京を拠点に活動するラッパー、J.COLUMBUSが長野県松本市のトラックメーカーMASS-HOLEをプロデューサーに迎え、制作したアルバム『On The Groove, In The City』は、幾つもの言葉の断片が虚実の被膜ではなく、自己/他者の被膜をねっとりと愛撫するように言葉が置かれる。しかもそれらは決して打点を刻むことなく、じわじわと地中に溶解する。もはやJ.COLUMBUSの言葉とPAUL AUSTERの言葉に差異はない、否、具体的には決して交わらない他者と自己の言葉が混ざり合うことも溶け合うことも拒絶して地表に吐き捨てられる。これはストリートの詩情などという陳腐な戯れではなく、現前する意志を喪った風景を浮かび上がらせようとする稀有なる試みだ。因みに芥見下々は「パロディやオマージュの線引きは、自分の中では明確な基準がある」と明言している(コミックス16巻を参照)。ここまで記してきた僕の文章自体もWikipedia、ピクシブ百科事典、千葉雅也の論文「ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」を渡り歩いたものに過ぎず、無論、オリジナリティは皆無である。
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ギャンギャン
2024年8月26日のこと
こんにちはリビングヌン文学
調子に乗って博多ぽてととカステラを食べてしまった。そんで甘いチャイ
昨日は起きて大井競馬場フリマにビュンと行く
いつものTシャツ屋さんが夏の終わりを告げるためか1枚100円で販売してたので思わず10着購入
パナソニックの未開封カセットテープが10本箱入りで1000円で買えた
AKIRAのような服も300円で買えた。
帰りに少し急いでハンモック、ラーメン、コーヒー、読書
少し昼寝して、生活工房に自転車で乗り込む
中村、軸原アウトオブ民藝チームと下道くんと新しい骨董チームでブリッジトーク満席の120名
すごいすごい。キンタマ話と、何が骨董になるのか?あらかじめ予想しておきたいことなどをワンワン話す
打ち上げは山下道ラジオオフ会みたいになっててワイワイ楽しかった。会計1人5600円って考えなきゃいかんすな
ぬるい風に吹かれながら自転車で帰宅。やはり一杯ひっかけて帰るの現代版を何か作りたいと思う
このまま帰るには寂しいがなじみの飲み屋があるわけじゃなく、さらにあったとしても酒呑むわけでもない
犬まがいのマナブ君とTEENGENERATEの話ができたのが嬉しかった
展示も2割くらいできてたらいいいですよと言われたので、楽な気分でどんどん作り込んでいこうと思う
2024年8月27日のこと
おはようございますリビング文学
昨日は起きて、これ書いて、山下道ラジオ収録。
前日の生活工房トークについて話す
そろそろマジで展示の準備をしなきゃいかんすね
メガネの上にかけられるサングラスを集めてて、それだけを売る店をやりたい
マニアックすぎる商売を考えて実践できる場にしたい
クリップサングラスをご存知でしょうか?メガネの上にひょいとかけるサングラスでつるの部分が無く、上からクリップで引っ掛けるものです。
これをたくさん並べて販売したい。
開高健が深沢七郎の小説笛吹川を抵抗の快楽と書いてて、今の左派リベラルの真面目さ正義じゃなくて素人の乱の頃にやってたデモとかはまさに抵抗の快楽だったよなと。抵抗の快楽って言葉を縦書きで読んで、手へんが2回連続してるのと縦と横が入り乱れてて、チェック柄みたいでいいなと思って、抵抗の快楽Tシャツ作ったら抜群に良い。良いけど作るのがめちゃくちゃめんどくさい
作っててと嬉しくなってきたので、紀伊國屋に笛吹川を買いに行く。文庫で1500円はインパクトありすぎる
2024年8月28日のこと
おはようござますリビング文学
昨日は家で作業しながら、新作を少し作る
手芸本用の服の撮影でやり取りしてたら物量足りなさそうで、動画を送ったり
アンナちゃんの家に服を受け取りに行く。いつもの折り畳み自転車じゃない方の電動アシチャリで
こんなに楽だったんかい。サクサクすぎて驚く
地産マルシェで米を精米して購入。これから行くのに帰りに買えばいいのに、米不足ビビりも手伝って。
中野ブロードウェイ地下勝田商店でマグロ、イクラ、海ぶどうを購入。
中野ロープウェイでイトウ君と話す。1995年懐かしがり思い出し。
沼袋バズストアで大量購入。ユニクロのUVカット服がたんまり買えた
アンナちゃんからIKEAバッグ2つ分を受け取る
急いで帰宅して、風呂入りながら深沢七郎の笛吹川を16分朗読
手巻き寿司大会
手巻き寿司には大会をつけたくなる。
萩ちゃんが教えてくれたディズニーで見られるドラマ ライフアンドベスを2話くらい見てたら寝落ちする
本編内容とあまり関係ないけど主人公ベスのと学生時代の友人が電車の乗務員になって再会するシーンで、制服着て切符拝見してて、乗務員が制服着たまんま酒飲んでて、ベスの恋人がいなくなったら向かいの席に足を乗り出して座って話して、戻ってきて、ベス恋人が座るところを避ける。
これって日本じゃあり得なくて、今から20年以上前にロンドンに旅行に行った時に地下鉄の駅員が全身タトゥー入ってて驚いたけど、今もそんな駅員は日本にいない
上から言われた会社の決まりをひたすら守るだけという日本の会社員と言われたことさえやってればあとは本人の自由って感じの海外って何もかもが違いすぎて、後者の方が現代っぽいから、日本の停滞の理由って社会のせいじゃなくてルールを守りすぎてるこちら側にある気がする
蒸し蒸しするので風呂入ってきます
2024年8月29日のこと
おはようございますリビング文学
昨日は10時からリコちゃん出勤日。久々で、なんとなんとで次の新居が決まったそうで、ガシガシ稼いでもらわないといけないので、リコちゃんの金儲け実験室にもなるし、途中でやめるで現在働いてくれてる人達が稼いで独立できるようになる実験室でもありたいと思ってます
11時に手芸本の撮影のための選別で編集のフルイケさんがやってきて部屋中をひっくり返しまくり埃だらけにして段ボール2箱用意する。
ひっくり返して気がついたのが、在庫やパーツなどが結構たくさんあるなということだった。
お昼は俺だけ松屋で牛丼小とサラダと豚汁。完全セルフで空いてる店が一番過ごしやすい。
撮影に足りないものがあったので高田馬場バズストアへ。パーカーが300円で買えるってこれマジで異常事態ですよ。
ミスドを買って帰宅してみんなで食べる。すんちゃん大喜び
鶴見俊輔対談集 未来におきたいものは を本棚から取り出してみる。今年買った本で、東北沢のやたらと匂いがいい古本屋で赤瀬川原平とも対談してたので買った本だった。
先日の生活工房でツルシュンの話が出たので気になってて広げてみたらあらびっくり、橋本治と対談してるじゃないの!
いろんなことを話してるけど、「途中で気が変わる」ってことを肯定してこうと話して盛り上がっている。
何を持って猥褻か?が裁判で争われたりしてたけど、スルスルっとすり抜けて誰が許可したわけでもないのにヘアヌードがありになったのは途中で気が変わったからだと
まさにその通りだなと思った。
調べて買うのもいいんだけど、面白い2人の対談が実は家にあったってのが嬉しい贅沢ですね
今日��ら三軒茶屋生活工房で展示の仕込みが始まります。
どんな展示になるのやら。台風にビビってミシンを運ぶための車をまだ手配してませんが、近日中にバチコン運んで作業部屋を軽くします。
新作もガシガシできておりますのでご期待くださいませ
それでは三茶に行ってきます。。ギャンギャン
2024年8月30日のこと
おはようございますアトリエ文学
昨日は生活工房で仕込み初日でギャンギャンに30分遅刻して自転車で行く
萩ちゃん作業してて、インターンのいさじさんとご挨拶
なんとなんとの名古屋からきてるとのことで超驚いた
やる気があれば場所関係ないんだなと
こっちはやる気あるけど荷物が運べなくて、うろうろしいてるだけなんすよ〜と学芸��のオータケさんに話したら車ありますよと
マジですか!大急ぎで何の準備もしてなかったけど家まで向かってもらって、1トンくらいの荷物を生活工房に運ぶ。オータケさんも聞いてないぞのテンションだったけど大助かりです。
しかし、これだけ運んでもアトリエから荷物が減った感じがまるでしない。どうなってんだ
さらにもう一回運んだらアトリエがすっからかんになって客人の宿泊ができるようになったりするだろうか
今日はアトリエにこもって作業かな
展示がめちゃくちゃいい感じに仕上がってきてて、もう心配なさそう。流石の萩ちゃん大感謝です
不景気は嘘だった。紅茶は無料だった。ボストン茶会事件以降の手作り陰謀論をどんどん発揮していきます。
告知をして予約を募って、管理して進行すれば安定したつまんないイベントができるんですがそれだとつまらないし、仕事になるから報酬よこせ!その代わりお客さんとして扱うつまらなさがあって、そうじゃなくて、なんでそんなことまでやらなきゃいけないんすか!と言い合える信頼関係作ってから面白金儲け実験室をやりたいと思ってます。
書かなきゃいけない締切原稿が一つあって、残暑について、締切が8月31日でまさに夏休みの詩宿題って感じでいい。
さて、お昼前に台風で水が上がりまくってる庭のメダカの水槽を何とかしようかな
水槽に屋根つけて水を抜いて綺麗に敷いてきたぞいぞい
ミクロな世界を見ると楽しいですね
8月31日のことは、新しく始まるnewメディアに明日9/5掲載されるのでお知らせしますのでお楽しみに
2024年9月1日のこと
おはようございますリビング文学
昨日は朝からコレをガシッと書いた。ちょっとまずいことになってて、この横に数字がある日記のような日々のことが習慣になりすぎていて、通常の文章がまるで書けなくなってしまった。自分にとってのリズムが最高にいい。
リーリーさんに依頼された文章をこのスタイルで送ってしまったがよく書けたので満足している。
書くことめっちゃ好きだなと思いながらも、話すことのほうが好きで、それも相手が誰なのかをわかって話すのが一番好きなんだなと思った。
さて、さて、
昨日は結婚記念日11周年!よろしくお願いします
夏休みの最終日を結婚記念日にしたら忘れないんじゃないかと思って入籍したんですが、夏休みって現在はどんどん地域差があって新大久保の外山小学校は8月26日からだった。
昨日も自転車で三茶に向かってずんずん進む。
お昼はルーローハンを食べるうまい
地図の線を服に縫って作ったらめちゃくちゃ良いのができた。と思ったらすぐに壁に貼り付けられて展示される。
会場が広いので、Mr.イチロー氏が車で荷物を運んでくれる。バチバチにでかい台車3台分運んでいよいよアトリエ部屋の荷物が無くなった。
生活工房近くの100メートルの観光をやりたい
今日は関東大震災の日。この時に朝鮮人が井戸に毒を撒いたとデマが流れて、殺されたりしてるのを、佃政一家の金子政吉が朝鮮人の人らをかくまった時の名言を置いときます
「てめぇらよく聞け。ここが男の見せ所だ。俺らがお上にご迷惑を掛け、往来にない商売をして男を張れるのは、弱い者を救う精神があるからだ。てめぇの命に代えても守り抜け。佃政の一統を名乗りたい大馬鹿野郎は、今日ここで見事に散って死ね!」
ゾクゾクするねぇたまらないねぇ。 ↑サカナとヤクザ 鈴木智彦 文庫版337ページに載っております
今日も三軒茶屋に行ってきます
2024年9月2日のこと
おはようございますアトリエ片付いてるヤンけ文学
いいですねぇ片付いてると。荷物が全部生活工房に運ばれてスカスカのスカコアになりました
昨日も生活工房でギャンギャンと最終調整。
ヒカちゃんギャラリーで今回展示をバチコン設計デザインしてくれた萩ちゃんの展示も明日から始まります
今を生きていくのに必要な言葉やアクションってシェアされるの前提になってるから心底つまんなくて、ここから書くことは共有なんてできねぇよ、なんだそりゃ!みたいなことです。
自分がされたら嫌なことをどんどんやっていこうかなと思ってます。今こうやって展覧会やらせてもらえたり、服を作って売って暮らせてるのは、その分野、部分に関しての既得権を持ってるってことで、それを利用して、次のステップってバカヤロー!無いよそんなの。そうじゃなくて、今がマックスツンドラなんですよ。最高点なの。
だから、棚卸しというか、自分が持ってる既得権をギャンギャンに解体して、どうぞお使いになxっつえください。そしてそれをきっかけに金儲けして、自活する方法考えましょうよ。って展覧会だと思ってます。
ハンモックを買ってから、睡眠不足で目覚めた朝が嬉しくて、よしこれで今日ハンモックで寝れるぞ。と睡眠不足がスライドして喜びに変わるのを知れた。これは空調服も同じで、暑いのが嬉しくて、空調風で出かけられると。
そういう感じで、今回生活工房で展示をしませんか?と話を頂いた時に、アトリエにある全荷物を持って行って全部売り払って、この空いたアトリエを友人らが宿泊したり、制作したりできる場にしたら、期間限定とはいえ場を2つ持つことができる。
そんで、九州や各地いろんなところにいる友人らを呼んでヒカちゃんギャラリーで展示や販売をやってもらえたら金儲け実験室稼働するやんけ。
展示してる内容は大井競馬場のフリマで買った古物なのかなんなのかよくわからなかったり、めちゃくちゃかっこよかったりするものですが、基本的にはいらないものが多い。
インドに旅行に行って20円のチャイ飲んでめちゃくちゃ感動して、あの時の感動をもう一度と思って店を始めました。チャイ850円ですってバカヤロー!
いや、わかるよ、わかるけど、味も美味かったし、雰囲気も良かったんでしょ。でも、でも、20円に感動したんじゃないの?と。でっ、そんなことできるわけないんだけど、今回の生活工房ではできるんだな。コレが。
今、自分がされて一番嫌なことは仕入れ値や仕入れ先をバラされることなんだけど、それはなぜか?誰でも出来るからなんすよ。誰でも出来るから、やったらいい。それでこっちが困って次の生活の糧を探さなきゃいけないと思ってる。そのくらい恵まれてるし、楽勝だなと思ってて、しかし、その楽勝が他人から見たら苦労してるようにも見えるかもしれない。
なので、こうやったらやっていける方法を自活する方法をバンバン話しますので、観客みたいなテンションにならず、我がこととして聞いて実践してください
いつ行ったらその話聞けますか?コレであってますか?全部しらねぇ!自分で考えろ!だけど、在廊しまくる予定なので、いる時は質問しまくってください。
展示内容は大きく分けて3回、ガッツリ変わります。現在展示されてる金儲け初期展示は横浜トリエンナーレ完全再現か?いや、ただ繰り返してるだけヤンけ!ですが、これも全部売り払ってその金で大井競馬場で仕入れて、次の謎の展示に変わります。
こぅちが1万円得するような販売方法よりも1万円損する売り方したら5万円分くらいの告知効果と経済効果があると思うんですよ。100円で仕入れたものを200円で100個売る1万円儲けるスタイルはなんの口コミもないけど、来ただけで20人に500円あげるって言ったら20人は2000人くらいに500円もらったとつぶやいてくれそう。そう考えたら、金使っただけ得する社会が小さすぎるけどできあがってるやんけと。
そういうのを実践して、嘘かもしれんけど、手作りの陰謀論で景気の良いふりをしまくる展覧会
明日からスタートします。
2024年9月3日のこと
おおはようございますリビング文学
昨日は展示前日でギャンと仕込みの日
山下道ラジオ収録と思ったら延期でとほほ、、、
三茶に向かう前にキャンドゥをハシゴしてスマホスタンドを爆買い
前回、自転車で長居しすぎて400円も払ったので今回は三茶の駅から少し遠い駐輪場にイン。結果150円だった
ノマディックライフみたいな名前の雑貨屋と食堂が一体になった教会の一階の店でランチ。
入店するなり、空調服=現場作業員だと思ったみたいで時間がかなりかかりますが良いですか?何分くらいですか。15分です。了解です。
店内をぐるり見たらア��アで仕入れた雑貨のと洒落た服が売ってる。
ベジプレートが運ばれてきてマクロビ玄米のおかげで今朝のウンコが硬くていい。
生活工房へ。色々と細かな準備を進める。
地図と同じ線を服に縫う。
ギャンギャン
いよいよ今日から展覧会始まります
三軒茶屋でお待ちしております
9月8日まで13時から19時まで在廊しております。その時は購入できます
行ってきまーす
2024年9月4日のこと
おはようございますリビング文学(毎日この書き出しで始まるのは、挨拶をして書いてる場所のことです。今日は、自宅のリビングで書いていますよという意味です)
昨日から始まった山下陽光のおもしろ金儲け実験室。盛況です。
昨日は山下道ラジオを収録してから昼ごはんを食べて、雨が降っていたので初めて電車で三茶に向かう
着いたら、広島からゼツキグ大ちゃんとキャサ松がキャリー抱えてやってきて、夏仕事たくさんやったので夏休みで遊びにきたとのこと。ギャンギャン。
マナブ君(犬まがい)や萩ちゃん、イチローさんなどなどたくさんの人が来てくれる。
リコちゃんもやってきてガッシガシに縫ってくれるので、たくさん仕込みまくる。
金儲けというかバイトやめる学校のような相談を何人からか受ける。1人目は横浜在住の入江さん27歳男性で、学童と横浜市の夜勤の事務というダブルワークアルバイトしてて何か自活する方法はないでしょうか?と。特技を尋ねるも、特になく、写真を撮ることが好きだとのこと。それだけじゃ弱すぎるので、メルカリで販売したことは?無い。うーむ、まいったな。好きなことや特技が少なすぎるので、出身を聞いたら島根県とのことで、県人会に連絡してはどうかと検索したら、ナイスタイミングで週末日曜日に東京島根県人会のイベントがある。参加費10000円高すぎるので、電話して手伝えることはないか聞いってみては?とアドバイスしたら即電話かけ始めた。こうでもしないと何にも変わらないですから。とめちゃくちゃナイスやんけ。
そうこうしてたら、それを見ていた女性から、生活保護受けてるんだけど、絵を描いてます。だけど誰も見てくれないし売れませんと。少し悲しそうな顔をしていた。
絵を買うってハードル高いから紙とかキャンバスじゃなくて陶器とか服とか家具とか人が使うものに描いて安価で売ったら売れますよと伝えてインスタアカウント見せてもらったら色味めちゃ良くて、デカいワンピースとかコートとかセカストとかで1000円で買えるから、それに描いてこんな値段では売りたくないな、売れなかったら自分で着ようと思うギリギリ最低の値段(3000円くらい)にしたら必ず売れるし、インスタの1画面に3×4の12画面、12着を服に描いた絵だけにしたら見る人も増えると思うと言ったらなるほど顔で帰りには明るい顔になってよかった。また来てくださいと伝える。
そうこうしてたら島根県人会の電話を終えた入江さんから、ちょっと不信に思われたけど、今回は募集してないけど、次また電話くださいと言われたとのこと。帰りに島根アンテナショップ寄って帰りますと。
ちょ待てよキムタクで、島根と言ったらハナさんやんけと、世話好きハナさんに電話したら話も盛り上がって、グループLINE作って色々報告しましょうとなった。
こんな感じで通うスタイルの金儲け実験室になれば良いかなと思ってますので、皆様もどしどし質問してください。
すんちゃんが子供と仲良しになってテトリスとぷよぷよが合体したテトぷよってのをやってたり、とても良い空間になった。
帰りに学芸の石山さんに教えてもらった壱番屋というカラオケ屋地下の超高級風な��肉屋で山下家族、リコちゃん、橋本さんと乾杯打ち上げ。水が有料でビビり散らかしてたけど、烏龍茶無料で、会計が5万くらいするだろうなと思ってたら5人で2万8000円とめちゃくちゃ安い!激安の店ってわけじゃないけど牛角くらいの値段で肉がめちゃくちゃ美味しくて、こりゃリピ決定やんやんやんけ。
ところ変わって庭文学
アトリエの全荷物を生活工房に運んだのですっからかんになって開かずの間になってた窓を開けて外に出ることが可能になったので、そこにキャンプ椅子机を持ってきて書いております。
書く場所、書ける場所をたくさん作っておくと良いですね。そう考えるといつだってコメダは最高ですな。三茶にコメダあるんかな?あったな、確か。しかしコメダは人気あるから入れないんだよな
9月の展示はヨコトリの残り香と我が家の在庫放出祭りになってますが、それを処分し切った後の10月は0円ショップに舵を切ろうかと思ってます。
本や古着、食器、なんなら期限内の食品もたくさんあると思う。それを集めて料理したり、リメイクしたり、持ち帰ったりする場になれば良いかなと。集める日と放出する日を分けたら良さそうです。
それでは今日も生活工房でお待ちしておりまーす。今夜のUFO CLUB面白そう
9月8日までは13時から19時まで
三軒茶屋 生活工房ギャラリーに毎日滞在しておりますので遊びに来てください〜
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猫の「アイーダ」
フォトジャーナリスト 安田菜津紀さんが東エルサレムで出会った猫・アイーダをモデルに、イラストレーター 坂本千明が紙版画を制作し、2024年1月から2月にかけて、東京 Amleteronにてパレスチナチャリティとしての展示を行いました。展示詳細と寄付報告に関してはこちら↓をご覧ください。
アイーダとの出会いやその背景を、安田さんが副代表を務める認定NPO法人Dialogue for peopleサイトにて、エッセイを綴ってくださっています。こちらもぜひお読みください。 『パレスチナとアイーダ』
*また「アイーダ」と、パレスチナの周知や支援を目的としたポストカードを2枚セットにして販売しています。
①猫の「アイーダ」ポストカード ②ひとりでもパレスチナ応援カード 2枚で1セット 税込¥250

左の1枚はポストカードとして、メッセージを書いて送ったり、部屋に飾ったり。
もう1枚はオモテ面にはイラストと意思表示のための言葉が、ウラ面にはこのwebページと同様に、ごく基本的で、ひとりでもできる支援や行動について、ORコードと共に掲載しています。

購入後、ご自身で5つにカットして

それぞれ「しおり」や「カード」として家族や友人知人に配ったり、スマホケースやアクリルキーボルダーなどに入れたりして、身につけるなど、個人プロテストや周知活動に自由にお使いいただけます。

※しおりを挟んでいるのは「それでもパレスチナに木を植える」 高橋美香 著・写真(未來社)。アクリルキーホルダーは百円ショップなどで5cm正方形が入るものがピッタリなようです。
もちろんカットせず、そのまま友人や知人、家族などに配ったりしても。
経費などを除いた売り上げをパレスチナへ支援のための寄付といたします。販売にご協力頂いているお店の情報はこちらに随時更新していきますので、ぜひお近くのお店で、通販でお求め頂けたら嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。
《5/30 販売店情報更新》 お近くの店頭、または通販にてお求め下さい。
【青森】ネコ曜日 店頭・通販
【岩手】ひめくり 店頭
【秋田】かぎしっぽ 店頭・通販
【長野】本・中川 店頭・通販
【富山】巣巣 店頭販売中
【仙台】パレスチナ・オリーブ イベントなどで販売
book cafe 火星の庭 店頭
【群馬】灯り屋 6/20発送済
【埼玉】ねこのみち 店頭・通販
ベイクショップ ミリ秒 店頭
【千葉】ときわ書房志津ステーションビル店 店頭
【東京】Ameleteron 店頭・通販(メールにて受付)
URESICA 店頭・通販
キャッツミャウブックス 店頭・通販
今野書店 店頭販売中
カフェ潮の路 毎週木曜12~15時 品切中
necoya books 店頭・通販
ひるねこBOOKS 店頭
MOMO 店頭・通販(パレスチナ支援につながる「オリーブの枝葉をくわえた鳩のクッキー」も販売中)
【神奈川】ポルベニールブックストア 店頭・通販
鎌倉ねこの間 店頭(来店予約制)
【静岡】書肆猫に縁側 店頭・通販販売中
お菓子と絵本ちびねこ 店頭
【京都】 nowaki 店頭
【奈良】とほん 店頭・通販
猫雑貨さんちこ 店頭・通販
【兵庫】毎日食堂 店頭・通販
【松山】 erimaki 店頭・通販
【熊本】長崎次郎書店 ※残念ながら6月いっぱいで休業されましたが、長崎書店さんにて引き続き販売中です。
長崎書店 店頭
【沖縄】CONTE 店頭
またありがたいことに、バイコットでご協力頂いた架け箸さん、APLAさんもイベント出店などで販売して頂けることになりました。APLAさんのオンラインショップでも販売中です。
お近くのお店店頭で、または通販で、「アイーダ」を見かけましたら、どうぞよろしくよろしくお願いします。
これまでの「アイーダ」ポストカードセットの寄付報告はこちらに。

「アイーダ」©chiaki sakamoto2024
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