#南佐久郡口碑伝説集
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長野県南佐久郡の狐憑き(四)
長野県南佐久郡川上村に狐に憑かれた人がいた。 その狐憑きは、他人が彼を見ている間は目をつぶって知らん顔をしていたが、他人がよそ見をしていると、目を開いてその様子を窺った。 食べ物は常につまみ食いで、唇の動かし方も変わっている。 また、ときどき爪を立てて畳をガリガリ引っ掻いた。
ある晩、寝ていた狐憑きが突然、怒鳴った。 「おらちのおやじが来た!」 家人が外に出てみると、狐筋だと言われている家の主が来た。 「狐憑きだけあって、狐筋の家の者がすることはちゃんと分かっているのだな」と家人は囁き交わした。
あるとき、猟銃を突きつけて狐憑きの人を脅した。 「さあ狐め! 出ていかぬと撃ち殺すぞ」 すると狐憑きは「出て行く、出ていく」と言いながらその場で転んだ。 狐は離れ、その人は正気を取り戻したが、疲労困憊でそのまま寝ついてしまった。 その後は特に異常なことはなく、徐々に快方に向かったという。
彼が狐に憑かれていた間、何と何を土産として、どこそこへ出しておけ、と言うことがあった。 言われたとおりのものを用意し、言われた場所へ出しておくと、いつの間にやらなくなっていた。狐が持っていったのだろう。 また二階の味噌玉がなくなることがしばしばあった。それも狐の仕業だという。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』六、動物・變怪等の話 「19、狐つきの話」)
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●柳田國男の世界
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●柳田國男の世界 この人の本はあまり読んだことがない。 何故か少し恐怖があった。 何ともコトバにしようがないほどの感じである。 民俗学的には良いものを出しているようだ。 でも批判もタダ有るようだ。 下の方の論文などは一度読む価値があるように思える。 折口という人と比較されたり並べていろんな話もあるようだ。 どれが良いのかハ��キリしない。 人それぞれの取り方もある。 私は読んでも味方も敵にも成れない。 もともと、柳田が資料に頼らない歴史を民俗学としたから、 そういう学問になっている このコメントが引っかかる。 ◆柳田國男 - Wikipedia http://bit.ly/yTENHp 柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は日本の民俗学者。 現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、晩年に名誉町民第1号となった。正三位勲一等。 日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、著書『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。 日本における民俗学の開拓者であった。 ◆柳田國男の世界 | 福崎町 http://www.town.fukusaki.hyogo.jp/category/3-2-0-0-0.html
故郷 七十年 [2016年5月17日] 國男 年表 [2014年2月3日] 國男ゆかりの地 [2014年2月3日] 福崎の人々 [2014年2月3日] 柳田國男の世界 [2014年2月3日] 福崎という土地 [2014年2月3日] 其の一 [2014年2月3日] 其の二 [2014年2月3日] 其の三 [2014年2月3日] 其の四 [2016年5月17日] 其の五 [2016年5月17日] 其の六 [2016年5月17日] 其の七 [2016年5月17日] 其の八 [2016年5月17日] 其の九 [2016年5月17日]
森鴎外と出会い、松浦萩坪に師事し、自然主義の文学青年と交流。「文学界」に新体詩を発表、斬新な詩作で仲間を刺激した。 が、「なぜに農民は貧なりや」という言葉に示されるように、社会構造に対する鋭い疑問から、文学への傾倒を絶ち、農政学を志した。
◆福崎町立柳田國男・松岡家記念館 http://bit.ly/zeFzJs 本館は,『後狩詞記』や『遠野物語』などの多くの著作をあらわし,「日本民俗学の父」と 呼ばれる柳田國男(文化勲章受章,福崎町名誉町民第1号)と,医学・国学・言語学・ 美術などの分野で活躍した松岡家の顕彰を目的に,昭和50年に設立された記念館です 。 ◆1144夜『海上の道』柳田国男|松岡正剛の千夜千冊 https://1000ya.isis.ne.jp/1144.html 2006/05/23 今夜は柳田国男の『海上の道』をもって、いったん「千夜千冊」を擱筆するつもりでとりあげようと思っているのだ��、その前に少し書いておきたいことがある。何にも煩わされることなく柳田や折口を読んでいたころがひたすら懐かしいということだ。 ◆成城大学 | 民俗学研究所 柳田國男について http://bit.ly/zD7Dft 「日本民俗学」の創始者で、近代日本を代表する思想家でもあった柳田國男(1875~1962) 成城大学民俗学研究所は、日本民俗学の創始者で近代日本を代表する思想家の一人でもある、柳田國男の寄贈書を納めた「柳田文庫・民俗学研究室」を基盤とし、設立されました。我国における民俗文化の研究センタ—としての役割を担うべく、日本の民俗文化及びこれに関連する研究、調査並びに資料の蒐集を行っています。 ◆柳田國男について https://www.seijo.ac.jp/research/folklore/kunio-yanagida/intro/ 名もなき庶民(常民)の歴史や文化を明らかにしたいと考え、 「常民文化の探求」と「郷土研究」の必要性を説く 「日本民俗学」の創始者で、近代日本を代表する思想家でもあった柳田國男(1875~1962)は、明治8年7月31日に兵庫県神東郡田原村辻川という農村の医者・国学者であった父松岡操の六男として生まれる。幼少期に体験した飢饉、故郷を離れて見聞きした庶民の暮らしや間引き慣習の悲惨さを思い、「経世済民の学」を志向、東京帝國大学法科大学(現東京大学)で農政学を学ぶ。 「日本民俗学の祖」柳田國男の旧居は、小田急線の「成城学園前」下車3分、駅前の道を北進して2つ目の四つ角を左に折れると、木立の中に洋館があり、現在は、建て直されてご子孫が住まわれている。 柳田國男存命中の大きな書斎を持つ建物は、昭和63年に解体され、柳田家先祖ゆかりの信州飯田にある「飯田市美術博物館」の中に移築され、今は当時の面影はない。 ◆柳田國男館 - 飯田市美術博物館 http://bit.ly/AoL6VZ 「民俗の宝庫」―伊那谷の「生きた学び舎」としての活用をねがうものです。 ◆柳田國男記念公苑 [茨城県利根町公式ホームページ] http://www.town.tone.ibaraki.jp/page/page003532.html 2019/12/04 柳田國男記念公苑は、國男が少年時代を過ごした旧小川家の母屋、土蔵(資料館)で構成されており、著作物や文書等を展示しています。また、会議、講座、宿泊施設として利用できます。 ◆柳田国男 家系図研究にも影響を与えている http://bit.ly/zhfiMj 家系図の分野で有名な丹羽基二氏の大学での恩師にあたるそうです。(「日本人の苗字」にありました。) 神隠しの体験について語っていたりする神秘家としての柳田国男がいるわけですが、遡れば陰陽道の中心地播磨という関連もあるかも知れません。 宮本武蔵とは、赤松 つながりでもあるのですが、養子の宮本伊織の神隠し体験ともなんらかのつながりが あるかも ... ◆第866回談話会要旨(2012年12月2日=いくつかの「先祖の話」:京都で読む柳田祖霊神学) 2013年5月6日 · http://www.fsjnet.jp/regular_meeting/abstract/866.html 主な登場人物2 ―京大文化史学派の『先祖の話』受容― 京都大学・菊地暁
今回のシンポジウム「いくつかの『先祖の話』 ―京都で読む柳田祖霊神学―」(日本民俗学会第866回談話会、京都民俗学会第31回年次研究大会シンポジウムを兼ねる)はシンポジウム「京都で読む柳田国男」(2005年、柳田國男の会、国立歴史民俗博物館共同研究「日本における民俗研究の形成と発展に関する基礎研究」、京都大学人文科学研究所共同研究「近代京都研究」共催)の第2ラウンドともいうべき企画である。「京都で読む柳田国男」は、民俗学史をとりまくいくつかの「中心史観」への挑戦だった。柳田中心史観、純粋民俗学中心史観、東京教育大中心史観、そういった一連の偏向をともなう学史叙述は、結果的に、地方や隣接分野における実践の脱落につながった。そこでその偏向を転倒させるため、「京都」という視点の挿入を試みた。すなわち、粗野に対する洗練、野外に対する文献、在野に対する官学といった、「野の学問」の正反対を抱え込む「京都」をあえて前景化させることによって、民俗学という運動の射程と多様性を可視化させようとしたわけである。 ◆ぶく速 柳田国男と折口信夫って どっちのほうが強いの?http://bit.ly/x6R8bG 2011/12/23 ▽英雄の条件 「大人物出でよというのはかつて政界の常套語であったが、これは今いる連中がみな凡庸だという意味の反語であったかもしれぬ」 「丸太棒であれ鸛(コウノトリ)であれ、何か自分たちを統御してくれるものを恋しがっていた者は多いのである。 しかしその適任者が仲間の内に、今まで埋もれていたということはあまり喜ばなかった。英雄はもう少し毛色の変わった馬に乗って、雲の彼方より出現してこなければな��なかった」 これは、民俗学の泰斗である柳田国男が1930年に書いた「明治大正史世相篇」の「英雄待望」の章の文章だ。この本には文明時評的なところがあるが、この部分も皮肉で面白い。 柳田とか折口とかの著作って学術書と言えるの?文学とかエッセイ、随筆の類だろ もともと、柳田が資料に頼らない歴史を民俗学としたから、そういう学問になっている �� ◆遠野物語の柳田国男、農政の先駆者としての顔: オーライ!ニッポン https://blog.canpan.info/ohrai/archive/82 2019/02/03 遠野市を訪問したことから、遠野物語の柳田国男、民俗学の祖である柳田国男のもう一つの顔、農政の先駆者としての姿を知った。柳田が考える農政とはどのようなものだったのであろうか。 並松信久氏(京都産業大学 大学院 経済学研究科教授)は、論文「柳田国男の農政学の展開」の中で、柳田国男の農業政策の目的は生産量の増加ではなく、それを通して国民総体の幸福を実現することにあり、これは柳田がJ.S.ミル(JohnStuartMill,1806_1873)のイギリス功利主義の影響を受けていることを物語っている。 論文「柳田国男の農政学の展開」(PDF) https://ksu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1516&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=21
◆水木しげるが漫画化した柳田國男『遠野物語』の“お色気シーン” http://bit.ly/z8x7Oi 作家の嵐山光三郎氏は過去に『水木しげるの遠野物語』(小学館刊)を書評しているが、この原稿で衝撃の事実が明らかになっている。以下、嵐山氏の書評だ。(『週刊ポスト』2010年4月9日号より)
◆柳田國男「ネブタ流し」を読む http://bit.ly/Aqfjb8 柳田國男の「毛坊主考」は、多面的な作品である。表題のとおり、地方の集落で半俗半僧侶生活を送る念仏の徒についての話もあれば、シュクや茶筅などの被差別的な扱いを受けていた人々の生態とその信仰について、また、各地に残る由来のわからなくなった塚や山という異界の周辺にたむろしている者(童子)たちについての話もあった。 この多様性は、「毛坊主考」が「郷土研究」誌上に連載されたものであるということに由来する。 柳田は、地域の口碑や伝承、他の地域の攘却行事を参考にして、ねぶたを“御霊祭”の一種として捉えていこうとしているのだ。 ◆遠野物語 - Wikipedia http://bit.ly/y0ckcQ 『遠野物語』( とおのものがたり)は、柳田國男が1910年(明治43年)に発表した説話集。日本民俗学 の黎明を告げた���著である。 ◆柳田国男 海上の道 - 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54331_53583.html +一二. +一三. +一四. +一五. +一六. +一七. +一八. +一九. +二〇. +二一. +二二. +二三. +海神宮考. +緒言. +一 昔話の島嶼型 ... それからこの方の記録だけによって海上の交通史を説くのは間違いのもとであろう。 昭和三十六年六月. 柳田国男. [#改丁] ... 日本の海端に、ココ椰子の実が流れ着くということは、決して千年ばかりの新らしい歴史ではなかったはずであるが、書物で海外の知識を学び取ろうとした者は、かえって ... 寄木 ( よりき ) は流木の浜に漂着したものといい、親はこちらで言うならば長者のことである。 「椰子の実」と柳田國男 =流木のロマン= ■ 日本は四方を海に囲まれ、その海岸線の 総延長は3万6千km(地球の9/10周に相当)にも及び、ロシア連邦、オーストラリアに 次いで世界で3番目に長い。日本は紛れもなく海洋大国なのです。 ◆島崎藤村の「椰子の実」は実にロマンチック… | 八重山毎日新聞社 http://www.y-mainichi.co.jp/news/12500 2008/12/02 島崎藤村の「椰子の実」は実にロマンチックだ。愛知県・渥美半島の伊良湖岬を民俗学者の柳田國男が訪れたとき、散策の途中に恋路ヶ浜で拾ったヤシの実の話を友人の島崎に語ったのがきっかけで生まれた叙情詩だという ▼波に揺られ、長い歳月をかけて南の島からたどりついた1個のヤシの実は文部省唱歌となり、多くの人々に親しまれている。その舞台になった渥美町(合併で田原市)は、石垣島沖から毎年ヤシの実を流して自然のロマンを再現、実際に漂着したケースもある ▼ところがどうだろう。八重山に流れ着くのは嫌なものばかりだ。復帰前は爆発物の「機雷」や米軍機の燃料タンク、廃油ボール、そしていまは海外の漁具類やごみだ ▼かつては海岸線を歩くのが楽しかった。珍しい形をした流木や漁具のガラス玉を拾って持ち帰った。だがいまは漂着ごみ量にぼうぜんとなる。プラスチックの容器をヤドカリが抱えて歩いている光景にも出会った ▼先に開かれた環境���の漂着ごみ地域検討会で、観光客アンケート結果として「ごみ回収で滞在日数は0.9日増える」と報告された ▼漂着ごみは静かに島々に負のイメージを広げており、事態は深刻。回収しても次々とごみは流れ着く。その悪循環を断ち切るのが外交力であり、政府に強く望みたい。(黒島安隆) ◆童謡集/椰子の実(歌詞付き) https://youtu.be/eG1gB5dluU8 2009/08/02 有名な童謡曲集~MillesVents風~シリーズ 第2弾 とても難しい日本語で書かれた歌詞・・・ それを少しでも聴いて頂いた方に理解出来るようにと工夫して歌ってみました・・・。 伝わったでしょうか? ---歌詞の親切な解釈--- (文語調に不慣れな方の為に、歌詞の概略をしるしておきます) ※歌詞そのものではありません
名前も知らない 遠い島から
流れ着いた 椰子の実がひとつ
ふるさとの岸を離れて
お前はいったい何ヶ月 海をただよって来たんだい
お前が育った椰子の木は きっと生い茂り
枝の下に 影ができるほどなんだろうね
僕もまた 波の音を枕に
一人さすらう 浮寝の旅さ
椰子の実を手に取り 胸に当てれば
さすらいの憂いが また新たにわく
海に沈む夕陽をみていると
遠い異郷の地に流れ着いた今の我が身に
涙があふれて流れ落ちる
思いははるか 果てしない波の彼方
いつの日にか 故郷へ帰ろう
いつの日にか 故郷へ帰ろう ~Pucky訳~ ◆日本近代史の中の日本民俗学-柳田国男小論 http://bit.ly/xwOKIY 戦前の大東亜共栄圏の夢が軍事政治的には潰え去ったけれど、経済的覇権として甦ったのだ。 なぜ私たちは「大日本主義」の時代になると「日本」「日本人」を問いたくなるのだろうか。 外部より内部に目を向けたがるのだろうか。 ◆南方熊楠のキャラメル箱サイト内検索:柳田国男 http://bit.ly/wxM9F9 南方熊楠の手紙:神社合祀反対運動の終結、その他(口語訳1)明治44年12月10日 ◆柳田国男と遠野物語 2019/12/28 https://youtu.be/94ZghOx8jXM ◆柳田国男.mpg 2010/08/16 https://youtu.be/oWm7zXLOBCI
◆遠野の昔話 『オシラサマ』 2015/04/04 https://youtu.be/h0hVjjrd5Gc 川崎市立日本民家園 佐々木家住宅 語り部 大平悦子氏 ●とおの物語の館 - 遠野市 http://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/48,23855,166,html 2013/04/25 昔話の世界を体感 とおの昔話村が、平成25年4月27日、「とおの物語の館」としてリニューアルオープンしました。 昔話を映像や音声で楽しむことができる「昔話蔵」や、語り部による昔話を聞くことができる劇場「遠野座」などのほか、お食事処やギフトショップも充実。見て、聞いて、食べて遠野をまるごと満喫できます。 ◆遠野の語り部 2008/12/08 https://youtu.be/96rY_9SQEWE 遠野の語り部、カッパの昔話 岩手の方言をお楽しみください ◆柳田國男「神道は、太古の昔から現在にいたるまで連綿と続く、自然発生的な日本固有の民族的宗教である」 幕末の国学、柳田國男の「国家神道」批判、http://bit.ly/A5bfro ◆第4回講座-神道研究入門- http://yamaguchi-gokoku.jp/subupage4.html 神道を敵視する立場から神道を研究するわけですから、そうした人たちの神道の研究書に従えば、天皇は人民統治手段として神道を用い、神も支配したという結論に導かれる論理になっており、神道は超国家主義的宗教とされました。
◆補足 「国家神道」がムラを壊した 04 09/10 http://bit.ly/xLHSWv 近代国家としての日本は終始一貫して「国家神道」を、国民の国家への忠誠と献身とを引き出す道具として利用した。 このような国家的計略を「日本に固有のものとはとうてい言えない」と批判したのは官僚出身の民俗学者、柳田国男であった。 ◆民俗学 - Wikipedia http://bit.ly/xOE6LS 民俗学(みんぞくがく、英語:folkloristics)は、学問領域のひとつ。高度な文明を有する諸国家において、自国民の日常生活文化の歴史を、民間伝承をおもな資料として再構成しようとする学問で、民族学や文化人類学の近接領域である。 ◆国家神道批判 [柳田国男の昭和] http://bit.ly/xbZnG6 国男にとって、神道とは神と人とが交感し、交歓する祭にほかならなかった。その原風景が残るかぎり、たとえ国家が敗れても、くには残ると信じていた。 ◆祭政分離はとうぜん [柳田国男の昭和] http://bit.ly/xKz8M5 記事はGHQの検閲をへている。 国男の発言は、明治憲法と国家神道を廃絶しながら、政治から切り離された国の祭祀者としての天皇を認めるというマッカーサーの考えを側面から支援するものとなっていた。 だが、それだけでは終わらない。 国男はさらに進んで、政治に利用されることのない神道の再生をひそかに構想していたのである。 ◆【日本近現代史】歪められた日本の歴史 | 日本人の信仰と聖書 ... http://nihonjintoseisho.com/blog001/2019/06/06/history-of-japan-2/ 2019/06/06 「高校生のためのおもしろ歴史教室」というウェブサイトを大変興味深く読ませていただいております。「日本を不思議の国から当たり前の国にいま、周辺国の陰謀によって悪化しつつある国際的評価に正しい主張をしてまいりましょう」日本を美しくする会相談役 鍵山秀三郎(月刊「致知」平成27年10月号「巻頭の言葉」/致知出版社) という文章が紹介されていましたので、一部をご紹介させていただきます。 ◆戦後日本 : 柳田国男らの民俗学による歴史学の破壊 file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/symp_012__39__27_36__39_48.pdf A・N・ メシェリャコフ ロシア国立入文学大学 (日本語訳 ・土田久美子) 二十世紀はユートピアの世紀であった。ソビエト連邦でも、ナチス・ドイツでも、そして日本でもユートピアを建設する試みが見られた。 すなわち、ソ連は共産主義 、ドイツは「新秩序」、日本は「大東亜共栄圏」の建設を試みたのである。 ユートピアの思想を実現させる為 、いずれの三力国でも一社会的・文化的相違はあるにせよ一「全体主義」として特徴づけられるべきシステムが構築された。 いずれの三力国でもユートピアの建設は、国内外に対する広範囲の武力行使によて 実現された。 二十世紀はユートピア建設の世紀であるだけでなく、その破綻の世紀でもあった。 前述のいずれの国家もこの運命を免れることは不可能であった。 ドイツと日本は戦争に敗北し占領下に置かれ 、ソ連は第一に非効率的な経済システムの為に崩壊した。 全体主義が破綻した後 、いずれの三力国でもより民主的・個人主義的な社会を創り出す政策がとられ 、それは「全人類的��価値への参加として理解されたそれと同時に、かつての希望の破綻に伴い 、厳しいアイデンティティの危機が生じた。 危機には解決を要する。 新しいアイデンティティを創造した日本の経験はかなりの独自性で際立っており、あらゆる観点からの研究がなされる必要がある。
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狐による失踪(二)
長野県南佐久郡野沢町取出の人が、他所の集落の棟上げ式に呼ばれて出かけていった。 ���ころが夜遅くなっても帰ってこない。 朝になってから村中総出で捜索を始めた。 すると麦畑が荒らされているのが見つかった。 その跡を探して進んでいくと、臼田の饅頭坂の上で失踪者が見つかった。 「諏訪湖がきれいだ」などと呟いていた。 ああ、狐に馬鹿されたんだな、と村人たちは理解したという。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』六、動物・變怪等の話 「16、狐に化かされた話」)
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魘される元凶
長野県南佐久郡小海村の本村という集落での話である。 今から三十年ほど前、とある家系は、親族がほとんど死に絶え、養子に迎えた者も行方不明になり、ついに家は無人になってしまった。 やがて、ある男がその家を買って���むようになった。 引っ越してきてからの彼は魘されて眠れない日々が続いたそうだ。 ある日、煤払いをしていると紙包みが一つ落ちてきた。 開いてみると槍の穂が一本と書き物がある。 書き物は煤けて真っ黒になっており、一文字も読めない。 槍の穂は捨て置くわけにもいかず、神棚に上げておいた。 その後も魘されて眠れない日々が続いて困っていると、先住者の行方不明になった養子という人が見つかった。 現住者が先住者に槍の穂を渡したところ、それ以降、現住者は睡眠時に魘されることはなくなったという。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』八、神佛・社寺等の話 「50、槍の話」)
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長野県南佐久郡の狐憑き(二)
長野県南佐久郡内山村に、きち、という女性がいた。 松井集落から中村集落に嫁入りしたが、あるとき、実家の母が病気になったので看病するために戻ったところ、突然、狐に憑かれて大騒ぎを始めた。 困った実家の家族たちは村中の若衆を呼び集めた。 若衆らは桟俵を頭に乗せ、油揚げを持ち、きち、を追いかけ始めた。 大勢の異形に追いかけられた、きち、は悲鳴を上げながら、相立集落の方に逃走した。 途中でバタリと倒れたので、若衆が起こしてみたら、狐は離れており、彼女は正気を取り戻していたという。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』六、動物・變怪等の話 「19、狐つきの話」)
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狐による失踪(一)
長野県南佐久郡小海村親沢で子どもが二人、苺採りに行ったまま夕方になっても帰ってこなかった。 子どもたちの行き先は川平の焼山で、今もそこにいるんじゃないか、という話になり、川平の人たちに頼んで総出で探してもらったが見つからない。 では子どもたちは親沢に戻ってきているのだろうか、という話になり、今度は親沢を探したが、やはり見つからない。 ついには二つの集落に留まらず、村中すべてを捜索した。 瓢を叩きながら「エイやあ」「シウやあ」と呼んで探し歩く者も出た。
翌朝、二人は小海村の集落の一つである本村の熊野神社で見つかった。 「どうしたのだ」 訊くと、二人の子どもは答えた。 「昨夜はとっても面白かったぁ。歌を謡ってもらったり、ご馳走をもらって食べたりしたんだよ」 ああ、狐に馬鹿されたんだな、と村人たちは理解したという。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』六、動物・變怪等の話 「16、狐に化かされた話」)
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長野県南佐久郡の狐憑き(三)
長野県南佐久郡野沢町取出の女の話である。 あるとき、同町野沢から帰ってきた彼女がおかしなことを口走り始めた。 何を訊いてもその答えが要領を得ない。 やがて女が、鮭飯が食いたい、と言い始めた。 そこで、ほぐした塩引き鮭を振りかけた飯を与えた。 どうも狐に憑かれたようだから覗いてはいけない、と年長の家族は言ったが、若い者はそれを聞かずに障子から覗いて見た。 食い方が異様に早かったそうだ。 飯を食ってしまうと、彼女は布団を被って寝てしまった。 次の日になっても狐は離れない。その次の日も同様である。 このようにしばらく女は���に憑かれたままだったので、その間は油揚飯や小豆飯などを食べさせた。
犬をけしかければ離れる、という話を家族の誰かが聞いてきた。 そこで大きな犬を連れてきて女に向かって吠えさせたところ、狐は離れ、女は正気を取り戻した。 まともになった女に家族は、一体どうしたんだ、と訊いたが、何でもなかった、と答えるだけだったという。 さらにいろいろ聞いてみると、彼女がおかしくなった日、野沢からの帰り道で、彼女は薄雪の中で転んだと答えた。 それが狐に憑かれるきっかけだったのだろうか。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』六、動物・變怪等の話 「19、狐つきの話」)
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千曲川の泣き声
千曲川は古くから氾濫を繰り返し、人々はおおいに苦しめられてきた。 そのときの氾濫でも、岸にあるたくさんの人家が流されたのであった。 長野県南佐久郡高野町では、とある農家の重い土蔵だけが流されずに残ったので、家人や近所の人々が皆、この土蔵の中に避難した。 しかし、刻々と水は増し、ついにはこの土蔵も流されたそうだ。 土蔵は同郡青沼村十日町の神明様の近くまで流されてきたときに、とうとう崩壊し、中の人々は悲しい声をあげて溺死した。 それ以来、洪水のたびにこの川岸では泣き声が寂しく聞こえるという。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』十二、いろいろの禁忌、其他 「38、人の泣き声」)
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三つ目の兎
長野県南佐久郡北牧村宮下にある諏訪神社の周辺には、宮下の七不思議というのが伝わっている。 その一つに三つ目の兎というのがある。 諏訪神社の森から数町ほど北にある高嶺さんの森に三つ目の兎はいる。 それを見た者はめったにいない。 だが「三つ目の兎なんて、そんな馬鹿なものがいるもんか」などと話をした後にこの森を通ると、ひょっこり姿を見せるという。 この兎が出ると、村に異変があると言われているので、村人は三つ目の兎の話を嫌っている。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』九、不思議の話 「8、宮下の七不思議」)
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狐による失踪(三)
長野県南佐久郡桜井村川久保には、昔は狐や狸がたくさん棲んでいた。 ある夜、男が百々川へ魚獲りに行った。 ふつうなら夜明け前に帰ってくるはずなのに、その日は男が帰らないまま夜が明けた。 朝日の中、村人たちが心配して探しに出る相談をしていると、遠くから、頭が高く尖った者が、こちらに向かってくるのが見えた。 それは当の男であった。頭が尖っていたのは、もじを被っていたからだ。 もじ、とは筌、つまり川に沈めて魚を誘い込んで捕まえる、竹を編んで作った籠のような漁労具である。 村人たちは彼に、なぜ夜明け前に帰ってこなかったのか、と訊いた。 男が言うには、その夜は面白いように魚が獲れたのだという。 大喜びで魚を獲り続けながら川を進むうちに、いつしか内山村の峠にまで行っていたそうだ。 「それで帰りがこんなに遅くなったんだ」 しかし、大漁だったという獲物を彼は雑魚一匹持っていなかった。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』六、動物・變怪等の話 「16、狐に化かされた話」)
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狐久保
長野県南佐久郡田口村三分に狐久保という処がある。 そこには狐たちが棲んでいて、巣穴を構え、仔を産み育てていた。 明治の初め頃まで、村人たちはその狐をお稲荷様といって崇めていた。 そのお稲荷様が夏仔を産んだときには、村人たちは赤飯を炊いて持っていき、どうか仔を増やしても悪さはしないでくれ、と狐に頼んだ。 この久保の狐がカインカインと鳴くときには何か不思議が起こり、コンコンと鳴くときには喜び事があると、村では言っている。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』六、動物・變怪等の話 「17、狐久保」)
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川上村の狐火(一)
長野県南佐久郡川上村居倉の農夫から聞いた。
狐火は、今にも雨が降り出しそうな暗い晩によく出た。 はじめに一つの火��見えて、それが十、二十とだんだん増えていく。 それは提灯のようにも見えるし、松明のようにも見える。 奇妙なのは狐火は必ずこちらに向かってくるように見えるのに、いつまで経っても近づいてこないことだ。 今でも稀に狐火を見ることがあるが、狐火の方に向かって小便をするとピタリと消えてしまうという。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』六、動物・變怪等の話 「18、狐火」)
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送り犬(七)
長野県南佐久郡北牧村松原から南牧村海尻へ下る道に、昔、山犬が出た。 夜遅く海尻の方から帰ってくる人の後をつけてきたという。 村の見えるところまで来ると、山犬は何処へ行ったのか、見えなくなる。 このようなときには家に帰りついた後、小豆飯を炊いて、門口の石の上などに置く。 その小豆飯はいつの間にかなくなってしまう。 送ってきた山犬が食べるからである。 小豆飯を出すことを怠ると、山犬は何らかの仇をしたという。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』六、動物・變怪等の話 「2、送り犬」)
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送り犬(四)
長野県南佐久郡小海村土村の人が、あるとき、種を売りに行って夜道を帰ってきた。 すると、大きな犬のようなものがどこからともなく出てきた。 それは痩せており、胴が長く、耳は口まで下がっていた。 恐ろしくなった彼が急ぎ足になると、犬も速度を上げて追ってくる。 犬らしきものはぴったりと彼の後ろ八、九尺のところをついてきた。 彼はこんな言い伝えを思い出した。 「山犬に逢ったら屈んではいけない。屈むと、人間が自分に投げつける石を拾っている、と山犬は怯え、かえって人に噛みついてくる」 彼は恐ろしさにもつれそうになる足を踏ん張り、歩き続けるうちに、こんな言い伝えも思い出した。 「山犬についてこられたときは、何かを引きずればいい」 しかし自分は今、薬箱しか持っていない。引きずるものなど何もない。 そのうえ彼は煙草も吸��ないから火も持っていない。 なすすべなく歩き続け、明神様の前まで来た。 するとなぜか、すっ、と山犬の姿が見えなくなったという。
これは送り犬である。送り犬は人に巫山戯かかってきたりしない。その者を守るのだと言われている。 また、迎え犬というのもいる。これは高みで待ち構え、人に食いついてくると言われている。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』六、動物・變怪等の話 「2、送り犬」)
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送り犬(三)
長野県南佐久郡北牧村馬越の人から聞いた。 夜遅く他所から帰って来る人がいると、山犬がその人の後をつけてきて、村の家々が見えるところまで送ってきたという。 山犬につけられているときに、転んだり、屈んだりすると、途端に山犬が襲いかかってくる。 だから肚を据えてまっすぐずんずん歩いてくるものだ、と年長者たちは警告する。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』六、動物・變怪等の話 「2、送り犬」)
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赤子の泣き声の正体(一)
長野県南佐久郡臼田町に弥勒寺という寺がある。 ある秋の末、寺の境内から赤子の泣き声が聞こえるようになった。 それが毎晩続くので、不審に思った村人たちが探してみたが、どこにも赤子が見つからない。 やがて村人たちは、こう考えるようになった。 あれは赤子じゃなくて、住職に責められて泣く小僧の声なのではないか。 そこで人々は住職に掛け合った。 しかし、寺の中にも変わったことは別になかった。 結局、赤子の声の原因は判らないまま、有耶無耶になった。 ところが、しばらくしたある夜、大師堂の番人が大きな貉を捕らえたら、それきり、赤子の泣き声も止んだという。
(南佐久教育会・編『南佐久郡口碑伝説集』六、動物・變怪等の話 「22、むじなの話」)
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