#南河内万歳一座
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mxargent · 2 years ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチ��テトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督��催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕���聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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officek-paper · 2 months ago
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2016−12 南青山マンダラ
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森田 梅泉(笛)<BAISEN 忘年会ライブ>スペシャルゲスト増尾好秋(G) 開場:18:00 ¥3,200 開演:19:30 前売店頭 開場:18:00 ¥4,500 開演:19:00新元 店頭-8+ Closed for special event 出演:日比野 景 塚本 伸彦 M兵几D飛上雅 細田 真子(Pf)〈AII “BLEU" Program〉 Closed for special event オペレッタ「メリーウィドウ〜パリの恋人たち〜」 野間 美希(Pf) 開場:18:00 4,000 演出:角岳史 植売店頭・カンフェティ ¥3,700 原永里子(Vc)LIVE <セカンドCD発売記念>上杉彩(PF) 開場:18:30 品演:19:30(+1ドリンク別) 筋売店頭・カンフェティ 戸川純(Vo) 3,800 <戸川純avecおおくぼけい vol.2> 開場:17:00 ¥4,800 おおくぼけい(Pf/アーバンギャルド) 開演:18:00税売+ <MIHASHI MIKAKO RISING…---50年目の陥落…・> 聖児(Vo)/松本哲平(PI)< Sollatiege Matsuroto 開場:19:30) X'mas Special Live 開演:20:00ドリンク別) 前0?店頭 本園太郎(Vo.G) 田中 徹(Drs)本杉光司(B) 開場:18:30 5,500 猿三橋美香子(Vo)鬼怒無月(G)(ゲスト梅津和時(Sax.C) 開場:18:30 3,500 クリスマスLIVE~2017 関 淳二郎(G) 野崎洋一(Pf) & more 開演:19:30 Qdrink&dessert付) 葡売 店躓 キッチンドリンカーズ三橋美香子(Vo)スト 山本精一(Vo.G)仙波清盛(Drs)近藤(Key) 開演:19:301ドリンク8) 煎売店頭 三橋美香子と総本山三橋美香子(Vo)藤達郎(Key)井誠(���笛能)勝井祐二(Vn)植村弘(Drs) cm姫由美子(Vo) <愛!愛!愛!> 森若三栄子(Pf) 開場:12:00 ¥6,000 宇井かおり(Vo)西村直人(P)西村泳子(Vn)松浦このみ(語り)西村直(S.E) 開場:18:00 ¥4,000 設楽圭司(Sax,FI) 開演:13:00(チケット売り切れ 佛坂 咲干生(Tp) 開演:19:00(班 店頭 Jz Craze 安部 一城(G) <ジェイズクレイズ・Xマス LIVE 2016> 開場:18:30 ¥3,600 開演:19:30 前売店頭 浅井 雄作(B) 富松万里子(Pf)大澤 史郎(Vn) ペジヨン(韓国舞踊) <韓国舞家へジョンと素敵なアーティスト vol.1 ¥4,000 開液:19:001ドリンク別) Le Chiacchiere LIVE XIV 松尾 子(Va.Vn) 土屋 智明(和太鼓) 開場:17:00¥4,500 開演:18:00(売 店頭 今福優(和太鼓) 宮内 健(Per) &more 25年の歳月と共に舞い叩く? 前売 店頭 中嶋 ジョージ(Pf)山平嗣(二胡) 開場:15:00 三代目JSB (JinbaSoBa) Hitomi Mochizuki(Key) 開場:15:30 開演:16:30 ¥4,000 佐久間レイ(Vo) 25日: 岡田邦子(Vn)五十嵐彩子(Vn) 開演:16:00 山下国���郎(Vo.G) 歌と語りの音楽温泉 ¥5,000 陣馬そば山下屋 Mika Naramura(Vn) 忘年会LIVE Vol.2 Yukiko Yamashita(Per) AOb 50 2nd:服場:10:30+ドリンク3) 柏売 店頭 ヨース毛(Vc) ザッハトルテ くあわて小うのサンクトルテ> スト ¥4,000 都丸 智栄(Acc) クリスマスライブ 磯部 舞子(Vn) 開演:19:30(1ドリンク別) (前売 店頸-0+ =2days= 佐田 詠夢 開場:18:00 26日:開演:19:00 平成うたあわせ十二番 茜空?茜空く~薬学ごだこたえあわせ」?> special support 開場:18:30 ¥2,800 showmore / 横山千晶(mille baisers) 開液:19:30(ドリンク別) 0日:開8:52 山本達彦(Vo.Pf) MIKIKO(Vo) TOMMY(3#) ¥3,000 Live en Quatre Saisons ? Hiver) ¥6,700 Acoustic AKARA-忘年会ライブー 開場:18:30 JUNN(尺八)TAKA(篠笛) 開演:19:30+1ドリンク別) =2days= 開場:14:00税73E 店w 莉元 店頭 11日:開演:15:00 フレデリック・ヴィエノ(Pf) 斎藤ネコカルテッド"忘年会”ライブ(StVグリート田(2nd.Vn) 開場:18:30 ¥4,200 ほさか夏子(Vo)<~祝&DVD・CDリリースアニバーサリー・ライブ>自外の質を9 開場:17:30 ¥5,000 山田雄司(Va) 森亮一(Vc) 開演:20:00 織売店頭 渡辺 介(Per)吉久亜紀(Vn) 開演:18:30 (売店頭 Vo:クリステル・チアリ 近ナッコ 真行寺恵里竹内道郎 まるたまり 3場:14:00 ¥5,000 花柳輔蔵(日本舞踊)西川光(邦楽打楽器) Jam For Joy Vol.68 福富英明 G:安斎昌之 玉川雄ー 遠田篤 池田 昭代(語り)く語りて候> 開場:18:00 ¥3,800 姜小青(古箏)海老沼真二(Pf)大山喜善(R八) Key:あいあい小西真澄本真 まめ妓B:大野弘毅 河野誠志 MINA 三宅 惠介 開場:18:00(ドリング) 谷宮 愛美(箏)本百香(琵琶) 開演:19:00(元 店頭 「忘年会Live 2016」 Drs:新谷康二郎 おにぎり 沢木浩作 滝山清貴 ?演:19:00煮班店頭 Horns:座光寺基光(Tp) はぐれ雲永松(Tb) 藤野美由紀(Sax) 「関節炎」 出演:川端 二(劇団NLT)中島久之 藤木雄太(劇団アルターエゴ) *出演者は変更になる可能性がありますので、その際はご了承ください。 <月刊! ギイ・フォワシィ> 演出:中村 まり子 翻訳:中村 まり子 開場:18:00 ¥3,000 (wed) 開演:19:00 (1ドリンク別) 3,300 「動機」 出演:泉関 奈津子(劇団NLT) 邁 前功 店嗔 原マスミ(Vo.G)2016年最後の弾き語り 開場:16:00 開類:17:001ドリンク別) 演出:山崎哲史(花天月地プロジェクト) 翻訳:利光哲夫 精売 店頭 小杉 十郎太(Vo.G) ◆営業時間:開場・開演時間については各日スケジュールをご覧ください。 松田 真人(Pf,Key) 開場:18:30 ¥4,700 (thu) ~ Birthday & Christmas Live ~ 粂絢哉(G) 開演:19:30 前売店頭・+ 前売券の販売・お問い合わせは、PM4:00からPM10:00までです。 南青山MANDALA ライブ終了後はBar TimeとしてAM12:00まで営業しています。 ◆ライブチャージ:特別に記してない場合ライブチャージにはファーストドリンクが含まれています。東京都港区南青山3-2-2 VRビルB1 仲井戸”CHABO”電市?土屋公平<CHABOのマジカル60'sツアー> ◆席には限りがありますので立ち見になる場合もございます。ご了承ください。 〒107-0062 TEL:03(5474��0411 開演:19:00(チケット売り切れ ◆当店での企画、催し物に関するご相談はお気軽にスタッフまでお問い合わせください. ◆今後のライブスケジュール情報は、受茶羅グループのWEB SITEでもご覧になれます。 www.mandala.gr.jp 町支 寛二(G.Vo) カンフル罪 ※E568k、Va)く?年忘れ、物忘れ、そう、悪えないもラーおいっとく?> 開場:16:00 ¥6,200 開演:17:00 (売店頭 Ol/jan./2017 <月刊!ギイ・フォワシィ> ¥4,000 南壽あさ子 劇作家ギイ・フォワシィの作品を一年間のロングラント演 01888 アコースティックコンサート2017 1orink別 移籍第一弾シングル & more ブラックでエスラリの効いた演劇にご明待ください。 Y3,000 「flora」が9月28日(水)に 1/11(wed)「動機」「相寄る魂」 18藤吉久美子Vo/NeW Ye/LNE2072011880021930 発売決定! 累計200万末を超える大人気RPG 上保美香子VOP1/森山優理子NG.P) ※21500081320 「アトリエ」シリーズの新作 フィリスのアトリエー 今後のライブ情報を cam ストリングオーケストラ 不思議な旅の鏡金期額〜」の オープニングテーマ& 先行してお知らせ! 松ヶ下 宏之No.Pi.G) イベントリスタートテーマが Ticket info, TEL.03(5474)0411 Cte BAND STYLE ONEMAN?お正だよ全員集合?¥4,200 26 Misko Plavi (ミシュコ・プラヴィ) THE TON-UP MOTONo SINGLE KEEP ON STANDING!! 2015.1.28 release 千駄ケ谷1 南青山3丁目 青山通りフランフラン■ リビエラ■ MARDRLA 東京メトロ 外苑前駅 「TA出口 西麻布! 東北・関東大農災におきましては、被災者の方々に謹んでお見舞い申し上げます。当店では皆様の安全を最優先して営業致します。また、収益の一部を義援金として被災地へ寄付させて頂きます。
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yotchan-blog · 2 months ago
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2025/4/23 21:00:31現在のニュース
羽田空港、未明の緊急着陸 エンジントラブルの貨物便が都心飛行「音で目が覚めた」の声も([B!]産経新聞, 2025/4/23 20:55:58) 中国、��校近くで車暴走と台湾・香港メディア 子供が倒れている映像も([B!]産経新聞, 2025/4/23 20:55:58) 聖域は譲れない? コメ輸入拡大案、自民内でも反発 焦点は森山氏 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/4/23 20:55:50) 浜松市、管楽器の貸し出しサービス 吹奏楽部8割減に危機感 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:51:40) 伊勢市に古民家再生ホテル 6棟で25日開業 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:51:40) 決算:ブロンコビリー、1〜3月純利益29%減 原材料高響く - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:51:40) 石破首相、小池都知事や大村愛知県知事と面会 関税対応で - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:51:40) 大阪メトロ中央線の車両故障、万博協会側に情報伝わらず 対応検討へ(毎日新聞, 2025/4/23 20:49:33) 「面倒」意識広がり 郵便局の7割、配達員の飲酒点呼せず(毎日新聞, 2025/4/23 20:49:33) 全裸で塾侵入の容疑者、当て逃げなど約20件関与か けが人は十数人 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/4/23 20:48:29) 埼玉・八潮の陥没事故、全面的な対策完了に「5~7年」 県が見通し:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/4/23 20:48:10) SNSで拡散した憎悪が招いたテロ事件 娘のうそを信じた父の後悔:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/4/23 20:48:10) 愛知県のタクシー、尾張・三河地区も値上げへ 今秋にも - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:45:49) レクサスの上海新工場、6月に着工 27年稼働目指し市政府と協定 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:45:49) 名古屋証券取引所、東証グロース改革で「個人重視の市場として役割増す」 竹田正樹社長 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:45:49) 【愛知】名南M&A、地銀顧客企業の再編ニーズ共有 中小の事業承継促進 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:45:49) バンナム系、名古屋に体験型店舗を24日開業 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:45:49) 中部同友会、付加価値の高い経営に注力 25年度計画 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:45:49) 【愛知】東海理化社長「製造現場、データで見える化」 協力会総会で - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:45:49) 20万個の岩石を高速解析 東大、小惑星の形成過程の解明や落石防止に - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:45:49) シャープ、鴻海に半導体事業を9月めど売却 155億円で - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:45:49) 国務省、「米国第一」に組織再編へ 人権や難民支援の部署を統廃合(朝日新聞, 2025/4/23 20:43:28) フランシスコ教皇の一般弔問始まる 簡素化求めた生前の意思が随所に(朝日新聞, 2025/4/23 20:43:28) デンマーク国王が銀座で豚骨ラーメン 一風堂との意外なつながり:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/4/23 20:42:43) 10歳息子を殺害容疑、父親逮捕 「殺すつもりで首絞めた」 札幌(毎日新聞, 2025/4/23 20:42:16) そごう・西武、西武池袋店長に労組委員長 売却反発のスト主導 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/23 20:39:58) 読売333終値、495円高の3万3456円…291銘柄が値上がり([B!]読売新聞, 2025/4/23 20:39:22) 葉桜の季節「酷暑の足音」…混み始めてきたエアコン売り場、例年より「2か月早まった」([B!]読売新聞, 2025/4/23 20:39:22) 八潮陥没で不明のトラック運転手、来週にも捜索再開…現場付近の下水道管破損に備え4km複線化へ…([B!]読売新聞, 2025/4/23 20:39:22) 電動工具で指切断や骨折相次ぐ DIY普及が背景、国民生活センターが注意呼びかけ([B!]産経新聞, 2025/4/23 20:36:26) EU、米アップルとメタに計1100億円の制裁金 巨大IT規制で初(毎日新聞, 2025/4/23 20:35:14) 第四北越銀行と群馬銀行が経営統合へ最終調整 24日にも基本合意、地銀有数のグループに([B!]産経新聞, 2025/4/23 20:30:38)
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yaasita · 1 year ago
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会場は日本なのに…中国国内“ライブ禁止”のロック歌手の歌を聞くためだけに多数の中国人来日し涙 日本人が知らない“中国”の一面
国際取材部
2024年5月31日 金曜 午後6:30
4月下旬から約10日間かけて、あるロック歌手のツアーが日本全国5都市で行われた。全会場でチケットが完売し、1万人もの観客が涙を流し熱狂したが、コンサート会場にいた客の大半は中国人だった。しかもわざわざこのコンサートを見るためだけに来日した人も多い。彼らはなぜ、多くの金と時間をかけ、わざわざ日本に来たのか?その答えは、彼らの視線の先で歌う1人の中国人男性の歌に込められている。その歌手は、共産党の監視の目が光る中国国内では、公の場で歌う事ができない。この事実を知る日本人は、ほとんどいない。
以下の文章は、東京大学のある中国人訪問学者が執筆し、東京大学大学院の阿古智子教授が翻訳したものを編集した記事である。
満場の観客が流した涙
数千人規模の会場は満員。そのほとんどが中国人。涙を流している人が多い。
日本ではほとんど知られていない45歳の中国人ロック歌手が、ツアーのため来日し、4月20日の大阪を皮切りに名古屋、福岡、仙台、東京で公演を行った。ツアーはどの回も満席だった。
最終公演の東京では、歌手が最後に「自分のような農家の息子が日本でコンサートができるなんて。それになんと、チケットは完売だったんだ!」と語ると、観客は笑い、涙を流した。PANDA RECORD公式SNSより
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一部の観客にとって、このコンサートに来るのは、そう簡単なことではない。
現場で観客にランダムに聞いてみたところ、80%以上が航空券を購入し、わざわざ中国から日本に来ているようだった。
さらに、中国ではチケット購入用のウェブサイトにアクセスできないため、コンサートの予約をするためには、VPNなどでネット規制を回避してサイトにアクセスしてチケット代を払い、さらに、ビザの申請、航空券の購入、ホテルの予約もしなければならない。そこまでして、初めてコンサートに来ることができるのだ。
実際に大阪のコンサートに行って中国に一旦帰り、その後また仙台に行き、東京に行ってはまた中国に戻るというように、日本と中国を行ったり来たりするのを2、3回繰り返している人もいるという。
彼らに話を聞くと、「どの会場でも泣いていた」「曲が始まるとすぐに、涙が顔に溢れた」という。
誰かが冗談で、どのコンサートも「大規模なお葬式の会場」のようだったと言った。
歌手は「南京市民の李さん」
歌手は1978年に中国・江蘇省の農家に生まれた李志(リージー)。 現在、南京をベースに活動しており、「南京市民の李さん」と呼ばれている。李志さん PANDA RECORD公式SNSより
しかし、彼はここ数年間、中国では公演ができない状況に追い込まれている。
彼の曲は、経済発展によって激動する中国の40年間の「小人物(普通の人々)」の、「どうしようもない人生のあれこれで構成される生活の断片」を描いている。
たとえば、南京の通りの名前と同じ「熱河」というタイトルの曲の歌詞は、このようなフレーズだ。
熱河通りには長年営業している理髪店がある どんな髪型のカットでもたった5元 店の主人とその妹は椅子に座り、何も言わずに鏡を見つめている 彼らのふるさとは安徽省全椒県の岸辺にある この街に移ってから896日が経った 熱河通りはいつも同じ顔をしている
李志の歌は、埃っぽい中国の普通の人々の無力さを歌ったものであり、政府の公式メディアが毎日宣伝する「ポジティブなエネルギー」とは相容れないものだ。
しかし、李志の歌が禁止されたのはそれが原因ではない。直接の理由は、2018年に彼が著作権侵害で中国の大手商業プラットフォームを訴え、「権利擁護」の道を歩み始めたからだと思われる。
この「権利擁護」が中国政府に嫌われたのだろう。だから、禁止されたのだろう。PANDA RECORD公式SNSより
彼が発表した有名な楽曲のうち、中国で聞けなくなっているのは、1989年の天安門事件を想起させる「広場」や「人民に自由は必要ない」だ。
中国で大きな自由を望むことはできないが、かといって「人民に自由は必要ない」と言うこともできないらしい。だから、中国でこの曲を聴くことはできない。
コンサートを開催してくれた日本に感謝
李志は中国に多くのファンがいる。
中国には、2つの世界があるようだ。1つは当局の宣伝の中の中国であり、戦狼外交官やロシアのプーチン大統領とハグしている指導者がいる。しかし、その外側にまた別の世界がある。そこでは、誰もが互いを知らず、共に関わり合うこともできない。市民団体が政府に危険視されているからだ。だから、コンサートに誰が来ていたのかわからない。
コンサート会場内での携帯電話の使用は禁止されていた。コンサートについて調べても、中国のソーシャルメディアにはほとんど痕跡が残っていない。感情のこもった感想文を書いても、それは友人同士で共有することしかできない。
李志の背中の写真をソーシャルメディアに投稿した者もいたが、それはすぐに削除された。だから、コンサートから1カ月経った今、コンサートに行き、共に歌い、泣き、笑ったという記録は非常に少ない。実際に起こっていることすら記録できない。コロナ後の中国ではよくあることだ。
だが、誰も文句を言わなかった。コンサートが開催されただけでもありがたいことだ。中国の人々はこのコンサートを開催してくれた日本に感謝している。PANDA RECORD公式SNSより
この公演を主催した日本のPANDA RECORDは、李志という歌手とそのバンドを、よ���多くの日本の人に知ってもらおうと企画したという。実際には、日本人よりも、中国人の熱意が彼らの期待を大きく上回ったにちがいない。 多くの観客が中国から飛行機で来るとは予想していなかっただろう。
PANDA RECORDの喜多直人社長は、「チケット販売システムで購⼊者の国籍や居住地が集計できないので分からないが、中国からわざわざきた観客もいた。チケットは完売し、およそ1万人が来てくれて、コンサートは大成功だった。彼らは素晴らしい演奏、音、照明を披露してくれた。今後も中国の素晴らしい音楽を日本で紹介していきたい」と話している。
人々で埋め尽くされる会場を眺めながら、ここに来るために必要な航空券、ホテル、消費額について考えた。中国の厳しい統制によって、日本にもたらされている、この「自由経済」(Freedom Economy)の規模の大きさに、日本の経済アナリストは気づいているのだろうか。コンサート会場には日本人はほとんどおらず、誰も分析できていないと私は思っている。
今回、李志は「熱河」のような「安全な」曲を歌い、 観客は携帯電話を専用の袋に入れて封をし、コンサートの間、使うことができなかった。つまり、彼は「一線を越えた」わけではないが、数年ぶりに彼のステージを見て、彼の声を聞くことができただけで、多くの人が涙を流した。
涙の理由…言論統制で覆い隠される悲劇
なぜ観客は泣くのか、おそらくそれは、これが「普通で自由なコンサート」だからだ。
日本人には中国人の痛みを理解するのは難しいかもしれない。 言論統制が行われている中国では、毎日のように悲劇が起きている。
5月1日未明、広東省梅州市で築10年にも満たない高速道路が崩落し、50人近くが死亡した。政府系メディアの報道はすべて、事故に遭う前に車を止め、高速道路の真ん中でひざまずき、後方の車に停車するよう促している運転手に焦点を当てた。これによって多くの命が救われたわけであり、確かに感動的な話だ。しかし、高速道路の建設の質に関わる政府の説明責任と調査結果は、どこに報じられているのか。中国のほかの災害の犠牲者と同様、亡くなった50人の名前は伝えられない。
5月13日、元弁護士で女性市民ジャーナリストの張展氏が刑期を終えて釈放された。張氏は、新型コロナウイルスがまん延した武漢で起きたことを携帯電話で記録したことが原因で拘束され、2020年12月に「騒乱挑発罪」で懲役4年の判決を受けた。 出所から1週間以上経ってようやく、外の世界が彼女のことを知った。彼女は未だ限られた自由し���享受できない。中国には、刑務所の外にいても、政権にとって「危険な」人々を監視し統制する大規模なシステムがある。出所した張展氏 Xより
5月中旬から、邢燕軍という企業家が中国の法曹界で注目されている。彼は李志と同年代で、「居住監視」という制度で拘束されていた。これは、当局が指定する特定の場所に居住させられ、監視と取り調べを受けることを指す。彼は4月3日に死亡し、家族が説明を求めている。
悲劇は実際に常に起こっている。
5月2日の東京コンサートには、周雲蓬という盲目の中国人ミュージシャンがいた。 彼は2007年に「中国の子ども」という曲を書いた。もちろんこの曲は、中国では演奏できない。曲の中に中国の子どもたちに関連する多くの悲劇に言及しているからだ。たとえば曲の中に、1994年新疆ウイグル自治区のカラマイ市で起きた火災のことが書かれている。教育委員会の指導者を歓迎する文化公演の最中に火事が起き、「指導者を先に逃げさせるのだ!」と生徒たちに指示が渡った。結局、指導者たちは無傷だったが、小中学生288人が死亡するという大惨事になった。
ほかには、沙蘭中央小学校の水害のことも曲の中に。2005 年、黒竜江省寧安市沙蘭鎮の沙蘭川上流で突然大雨が降り、最も高度が低いところにあった沙蘭中央小学校に激流が押し寄せ、105人の子供たちの命を奪った。
どの事故も心が痛むような内容だが、この曲を中国で演奏することはできない。
観客には中国出版業界の人が何人もいた。彼らは非常に厳しい検閲の下で、書籍を出版してきたが、撤去もされ続けている。何人も健康上の問題を抱えている。
観客席には中国の弁護士の姿もあった。彼は「法の支配」を可能な限り守ろうとしているが、本当の意味の「法の支配」は中国にあるのだろうか。
爆買いやタワマン購入だけが“中国人”ではない
2024年の東京で、こんな特殊なコンサートが行われたのだ。歌手も、観客の学者、弁護士、出版人も、ほとんどが40歳以上の中高年だった。歌った内容は中国のごく普通の生活の断片に過ぎなかったが、誰もが涙を流しながらそこに立っていた。PANDA RECORD公式SNSより
日本では、タワマンを購入し、投資する中国人について数多くの報道が行われている。中国に関する分析の多くは経済関係のもの。それこそが、唯一合理性に叶っていると見ているからなのか。
しかし、老いる親と小さい我が子を抱える中年の中国人たちが、どのような状況で故郷を離れ、文化も言語も異なる国で人生をやり直す決心をしているのか、日本人は考えたことがあるだろうか。
コンサートで中国人が流した涙からさらに理解を深められるのではないだろうか。
※コンサートの写真はすべてPANDA RECORD公式SNSより東京大学大学院���阿古智子教授
阿古智子 東京大学大学院総合文化研究科教授。 大阪外国語大学、名古屋大学大学院を経て、香港大学教育学系Ph.D(博士)取得。 在中国日本大使館専門調査員、早稲田大学准教授などを経て現職。 主な著書に『香港 あなたはどこへ向かうのか』『貧者を喰らう国―中国格差社会からの警告』(新潮選書)など。第24回正論新風賞を受賞。
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shintani24 · 1 year ago
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2024年5月14日
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高齢者の孤独死、推計年間6.8万人 今年1~3月に1.7万人確認(朝日新聞)2024年5月14日
孤独・孤立対策推進本部の会合で発言する岸田文雄首相=2024年4月19日午前8時9分、首相官邸、岩下毅撮影
孤独・孤立の問題への対策をめぐり、政府は13日、今年1~3月に自宅で亡くなった一人暮らしの人が全国で計2万1716人(暫定値)確認され、うち65歳以上の高齢者が約1万7千人で8割近くを占める現状を明らかにした。年間の死者数は約6万8千人と推計される。政府は「孤独死・孤立死」の実態把握を進めており、本格的な推計に向けて今回のデータを生かしていく考えだ。
13日の衆院決算行政監視委員会で、立憲民主党の長妻昭氏の質問への警察庁の答弁で示された。同庁によると、今回のデータの公表は初めて。今年1~3月、警察への通報や医師からの届け出で警察が取り扱った一人暮らしの遺体(自殺も含む)のうち、65歳以上の高齢者は1万7034人だった。年齢が上がるほど死者数は増え、85歳以上は4922人となった。今回の3カ月分のデータを単純に年間ベースに置き換えると、65歳以上の死者数は約6万8千人と推計される。
ニッセイ基礎研究所の推計(2011年)では、65歳以上の孤立死は年間で2万6821人。東京都監察医務院によると、20年に東京23区内で自宅で亡くなった一人暮らしの65歳以上は4207人で、15年と比べて1.35倍に増えた。
太田差惠子(介護・暮らしジャーナリスト)補足 現在のところ、「孤独死」には確立した定義はなく、人によってとらえ方は異なります。大きく分けて次の2つです。
誰にも看取られずに亡くなること
死の数日後に「異臭」によって発見されること
もし、①を孤独死とするなら、独居に限らず避けることは困難だといえるでしょう。一方、②に関しては避ける術はあります。
普段から孤立しないこと。見守る側について、家族や地域と考えがちですが、それが難しいケースが増えています。
人的・ITによる見守りなども効果があるでしょう。対策を考えるために、実態を明らかにすることはとても大切だと考えます。
西尾元(法医解剖医/兵庫医科大学法医学講座主任教授)補足 わたしどもは日常的に法医解剖を行っています。法医解剖というと、犯罪捜査のイメージがあるのかもしれませんが、わたしの施設で解剖する遺体の約半数は、一人暮らしの方になっています。多くは高齢者です。一人暮らしをしていて、例えば病気や夏場の熱中症で、病院に連絡を取れないままに亡くなったような場合、解剖になることがあります。遺体が見つかった時に、亡くなった状況がわからないからです。独身者だけでなく、現在結婚していて誰かと同居していても、最後は一人になります。地域包括センターといった行政サービスや病気を在宅で見てもらう医療サービスなどが役に立つかもしれません。いまや、一人でひっそりと自宅で亡くなるという死に方は、この国の珍しくない死に方となっています。
竹内豊(行政書士)補足 業務で遺産整理手続きを行うことがありますが、数年前から「孤独死した方の相続人」からの相談が増えています。
孤独死の場合、親族(相続人)との付き合いがほとんどない方が多く、その結果、相続人も当事者意識が低く「かかわりたくない」といって相続手続に非協力的であったり、逆に降ってわいた遺産を「できるだけ多くもらいたい」といった感じで、相続人同士で協議が整わないリスクが高くなりがちです。
遺産分割協議は相続人全員の同意がなければ成立しません。成立しないと預���金は凍結されたままですし、不動産は相続人の間で「共有」のままで売却などできません。その結果、金融資産の払戻しはできず、不動産は空き家になる確率が高くなってしまいます。
遺言書を残せば、遺産分割協議をしないで財産を「好きなように」残すことができます。ご自身の相続が上手くいかないと心配な方は遺言書を残すことを検討してみてはいかがでしょうか。
荒川和久(独身研究家/コラムニスト/マーケティングディレクター)見解 孤立死はたとえ結婚して子がいたとしても、誰にでも訪れる可能性があります。少なくとも現時点で孤立死した75歳以上の世代はまだ皆婚時代でほとんどが結婚していた世代です。2020年国勢調査の段階でも65歳以上の単身者は約740万人いますが、そのうちの75%が元既婚者(離別・死別で一人になった)です。今後は、これに加えて生涯未婚だった人たちが加わるため、孤立死は増加するでしょう。
今まで国全体の孤立死に関する統計はとられていませんでしたが、実態が把握されればいろいろと対策も検討できるようになるでしょう。
ただ、いずれにせよ老後の一人暮らしは増えるし、人には必ず死が訪れるわけで、孤立死自体がレアケースではなくなってきます。今後は、テクノロジーを活用した生存確認や見守り機能などの充実で、たとえ亡くなったとしても早期に発見できる体制が望まれます。
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がんす横丁で知るヒロシマ ~街の秘密を探る・八丁堀界わい~(NHKニュース お好みワイドひろしま)2024年5月14日
昭和24年から36年にかけ、新聞に掲載されたエッセイ「がんす横丁」。書いたのは、NHK広島放送局の初代アナウンサー 薄田太郎さんです。
原爆投下前の広島のにぎわいを回想し、人気となった「がんす横丁」をもとに、かつての広島の姿を探しに街を訪ねました。
広島のにぎわい
「がんす横丁」をひもとくと、かつての広島の街のにぎわいがあふれています。
『京口御門あたりに見世物小屋がならび、(中略)八丁堀の新埋め立て地に常陸山、梅ヶ谷両横綱の相撲興行があって、娯楽場としての小競馬場ができ、広島の東部に新盛り場を現出した』 がんす横丁より
発展の秘密は広島城にあり!
岡崎キャスター 「広島城のお堀に街の発展の秘密があるということで、探って行きたいと思います」
教えてもらうのは、原爆投下前の広島の地域や文化に詳しい神道学者で、広島修道大学 非常勤講師の中道豪一先生です。
中道先生 「街の発展の大きなポイントのひとつが、お堀や運河を埋め立ててにぎわいを作ったというところになります。水の恵みを受け、時には水の脅威と闘いながら街を発展させていった」
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現在の広島城の堀の外周は、およそ1.5キロ。
しかし、明治10年の地図には外側の堀、そして、南に向かって流れる西塔川と平田屋川という2つの川が。現在これらの堀や川は、現在は存在しません。
どうしてなくなってしまったのでしょうか。がんす横丁にそのヒントがありました。
『この堀をそのまま残しておくことは、ただいたずらにレンコンをはびこらすのみで、(中略)この堀を埋めて電車を走らせ、道路にして家を建てるという都市計画(そのころはまだそんな言葉はなかったようである)で始められたと想像する。』 がんす横丁より
都市計画一大プロジェクト!
都市の近代化を目指す広島市は、城下町のなごりである広島城の外堀や川を埋め立て、これを道路や宅地にする計画を打ち出しました。
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明治43年、外堀から始まり、西塔川、そして平田屋川と次々に埋め立てていきました。
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つまり西塔川は、現在の鯉城通り。平田屋川は、現在の並木通りや地蔵通りにあたります。
中道先生 「このあたりは増える人の住む場所を確保するという目的もおそらくあったと思われますが、電車道とたくさんの人や車が通る道に変化しています。まさにこれは水の都広島の水を埋め立てて、生まれたにぎわいのひとつというふうに言えるかと思います」
八丁堀の秘密を探る
いまも賑わうおなじみの八丁堀も広島城の堀だったということで、やってきました。
歩いているとひっそりたたずむ灯ろうを発見。
岡崎キャスター 「ちょっとひっそりしすぎではないですか?」
中道先生 「実は、謙虚に外堀の存在を主張している」
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灯ろうを見てみると、「広島城八丁堀外濠跡」と書かれていました。
八丁堀という地名は、この角から外堀の長さが8丁、およそ880メートルだったことに由来しています。
埋め立てられた八丁堀界わいは、多くの娯楽施設が建てられました。太陽館など、3つの活動写真館が建ち並ぶ盛況ぶりが、がんす横丁にもつづられています。
『太陽館で忘れられないのは、大声の呼び込み屋であの電車道に面して「いらっしゃい、松之助の自来也はこちら」というバン声は、白島の電車終点近くまで聞えた。』 がんす横丁より
『広島最初の百貨店福屋が八丁堀角にできたのは昭和四年十月一日で、四階まで運転されたエレベーターは広島人をびっくりさせた。(中略)「一度乗ってみようではがんせんか」と手弁当持ちの見物人がつめかけて、福屋は開店早々からさかんな売れ行きで、四階の食堂も毎日満員であった。』 続がんす横丁より
広島市内中心部に魚市場!?
最後に訪れたのは、八丁堀から南に入ったところにある商店街。ここも川にまつわる場所だといいます。
中道先生 「こちらは中の棚といいまして、古くからある魚市場と言われています」
商店街のあちこちに、魚がデザインされたロゴが。
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かつて広島市には、3カ所の魚市場がありました。その真ん中に東魚屋町があったため、通称「中の棚」と呼ばれていました。いまの「中の棚商店街」です。
さらに中へ進むと、中の棚稲荷神社があります。広島の中でもかなり古い歴史を持つと言われています。
中道先生 「魚で商売する人が中の棚に集まるわけですが、そこの守り神として、おまつりされたのが、こちらの中の棚稲荷神社です」
この神社の特徴は、ほかの稲荷神社では、2月に行われことが多い例祭を6月に行うこと。そこには、魚市場で働く人たちならではの願いが込められています。
『一年一度の祭りには棚が乾かないよう、必ず雨が降るように祈った。すなわち、雨が降れば棚がぬれると縁起をかついで商売繁昌を願った。』 続がんす横丁より
中道先生 「棚に置いた魚がいわゆる雨に濡れて新鮮であるように、そのような意味を込めて、6月に例祭をあてたというふうに言われています。とにかく広島は水の都と言われてきました。ここでは川や運河、水を使った産業を含めると、広島にはものすごくたくさんの思い出や記憶が埋もれている」
薄田さんがこの「がんす横丁」を書いたのは、ある思いがありました。はしがきには、次のようにつづられています。
『あの町角にみかけたかつての小景や、盛り場のシルエットは、あとかたもなく原爆に打ち壊されてしまった。筆者は、その打ちのめされた裏小路の一寓から、ありし日の広島の幻影をしのんでみたかった。』 がんす横丁より
そこには、薄田さんの広島を愛する気持ち、あのときの広島を覚えておいてほしいという強い思いがありました。
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kachoushi · 1 year ago
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅰ
花鳥誌2024年1月号より転載
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日本文学研究者
井上 泰至
 「恋の季題」は材料も尽きてお開きとしたが、書き物は続けてほしいとのお話だったので、『虚子百句』を私なりに読んでいくことにしたい。
 まず、本書の成り立ちや、おおよその性格を説いて、なぜこの書物を丁寧に読んでいくことにしたのか、その理由をあらあら述べておきたい。
 本書は昭和三三年、すなわち虚子の亡くなる前年の自選句集である。京都の便利堂からの依頼を受けたもので、短時日の間に選んだものであるから、本書の価値は、ある程度割り引いて考える必要はある。が、ともかくも虚子が、自分の代表作と認めた百句だったことは間違いない。
 選句の基準については、追々検討を加えていくが、��ず揮毫しやすく、たびたび揮毫してきた句であったことは、序で虚子自身が明らかにしている。本書は、虚子の揮毫を写真で掲載し、五十句ずつを高濱年尾と星野立子が分担して、簡単な句の評釈をつけるという趣向のものだった。年尾の跋文によれば、虚子も事前に二人の文章を検したという。
 本書の企画を持ち込んだ便利堂は、明治二十年創業の書店兼出版社である。コロタイプ印刷機を早くに導入し、美術書の出版で信頼を得た。岡倉天心が創始し、今日でも美術史学の権威的雑誌の位置を保っている「國華」は、便利堂の図版印刷の高度な技術が遺憾なく発揮されたものである。
 四代目店主中村竹四郎は、国宝級の貴重書の複製印刷をも数々手がけ、『虚子百句』刊行の翌年には文化功労者として表彰されている。虚子の字は、それ自体が俳句文化の遺産としての価値を持つ、と認識されていたわけである。
 つまり、主役は百句のみならず、その揮毫でもあったわけで、この点には留意しなければならない。書は、運筆から句の呼吸や中心点を確認できる。同じ字であっても、楷書か行書かといった書き分けがあれば、それは句の眼目ともなる。
 一例を挙げよう。小諸市立虚子記念館に残る十二ヶ月十二句の揮毫を屏風に仕立てたものは、展示の目玉だが、「心」を詠んだ句が三句ある。
  鶯や文字も知らずに歌心 虚子
  二三子や時雨るる心親しめり 同
  我が心ある時軽し罌粟の花 同
 このうち三句目のみ「心」はきちんと楷書で書かれ、他の二句はややリラックスした崩し字となっている。三句目は愛児六を失った悲嘆の中で詠まれた句だからである。書道家に聞くと、「心」の字のバランスは、筆をとる者の「心」を反映するのだと言う。
 こうした鑑賞の醍醐味も『虚子百句』にはあることが、当然予想される。年尾の跋文によれば、この頃の虚子は眼が弱って、それが字に出てしまっている、という。確かに、青年期・壮年期のそれから比べ、運筆の力や字配りを焦点化する眼の力の衰えは隠せない。それでも、修練とは凄いもので、序文の虚子自身の言によれば、百句の大方は一、二時間で揮毫してしまったというから驚きである。字の味わいも、私の能力の範囲で解説を試みたい。
 本書の構成は、春夏秋冬・新年の部に分かれ、各部の句の配列は、成立順となっている。従って明治・大正・昭和と万遍なく句が拾われている。『百人一首』が古典���歌そのものの粋であり、歴史でもあるように、『虚子百句』も虚子の句業の入門書にして到達点でもある。これが本書を読む何よりの理由である。
 本書の装幀を担当した福田平八郎(一八九二〜一九七四)についても、簡単に触れておこう。虚子との縁は、『虚子京遊録』(昭和二三年)『喜寿艶』(昭和二五年)に続き、これが三度目である。  大分出身で、上村松園や竹内栖鳳も出た京都市立絵画専門学校を卒業。京都日本画画壇で重きをなす。トリミングやデザイン感覚に秀で、書物の装幀も得意とした。『虚子句集』の竹の絵は、自家薬籠中の画題であったと考えられる。
 本書は二〇一〇年、岩波書店から復刊された。解説は東京大学教授であった、日本近代文学専攻の野山嘉正が担当した。
 最後に一言。平成期、伝統派で、虚子句の解説つき選集といえば、稲畑汀子氏の『虚子百句』が定番だった。虚子自身の選句とは違ったところに新味を出した素晴らしい本だが、時に稲畑氏らしからぬ、非常に硬い内容と文章の評釈があるのは惜しい。この連載は、あくまで虚子の自選に立ち戻り、虚子句の成立事情と、選句の背景を平易に語ることに徹したい。ただし、この自選句集の性格上、私の虚子観・俳句観が問われることは言うまでもない。
1 美しき人や蚕飼の玉襷
 初出は明治三十���年四月三十日の新聞『日本』。季語は「蚕飼」。蚕はふつう四月に孵化して繭籠る。
 初出では「蚕」の題で内藤鳴雪・坂本四方太・河東碧梧桐・佐藤紅録らの各三句も載る、題詠句である。虚子の他二句は〈蝋燭の灯影に白き蚕かな〉〈蚕飼ふや年々ふやす桑畠〉。『新歳時記』にはこの句を採用せず、写生句らしい〈逡巡として繭ごもらざる蚕かな〉を載せたか。
 蚕は食欲旺盛だ。食べ残した桑やフンは蚕網(さんもう)を使って取り除く。蚕は眠る。睡眠と脱皮を四回ほど繰り返して成長すると、絲を吐き始める。ここで蔟(まぶし)という仕切りのある箱に移す。繭籠らせるのである。絹糸を吐き、繭を成す様は、実に神秘的だ。春の陽が漏れてくる中、吐き出されたばかりの絹糸は光そのものである。この過程に、ひと月ほどはかかる。
 蚕網をかけ、桑を与えると、蚕は網目を通り上にあがる。蚕網の下は蚕のフンと桑の食べ残しが残る。網を上げると、蚕とフン、食べ残した桑の分離ができる。蚕の成長に合わせて網目の大きなものへ変えながら使用する、といった具合である。丁寧さと経験が要求される女性の仕事である。
 養蚕は、明治期日本の主要産業だった。欧州では産地の南仏で病害が発生し、需要が高まったのである。巨利を成した者も多い。出荷は横浜が多かった。
 女性は襷掛けで、髪も縛る。明治期の浮世絵等を見ると、襷の色は赤が代表的である。かの富岡製糸工場では、技術のある女工は赤襷をして周囲から尊敬されたという。
 国を挙げての養蚕業振興を宮中も率先して奨励し、皇后美子が手ずから養蚕を行い、浮世絵などで宮中養蚕が喧伝された。皆赤襷で、髪はおすべらかし、すなわち、後ろでまとめた髪に「長かもじ」を継ぎ、水引や絵元結などを掛けて、長く垂らしたのである。
 結髪の問題にこだわったのも、襷掛けの女性は、皆髪を結ったり、挙げたりして、うなじがあらわになる点が一句の焦点だと考えるからである。つまり、「美しき人」の美しさの拠って立つところは、「襷」に暗示される、黒髪と白いうなじだったのだ。
 「玉襷」という言葉は、『万葉集』以来ある言葉で、これ自体一種の神々しさを醸し出す。『虚子百句』の評釈で、年尾が宮中養蚕を詠んだと解したのも一理ある。しかし、もっと重要なのは、「玉襷」は「うなじ」の連想から、大和の畝傍山を呼び出す決まり文句だったことの方である。謡曲の「恋重荷」に用例がある。虚子がこれを知らないはずはない。
 蚕と繭の「白」と、後れ毛を残したうなじの「白」の連想が、この女性の「美し」さを支えるものだったと考えたい。虚子は、和装の女性の髪にはかなり執心した。
 「まあ旦那でいらしつたんですか。どなたかと思ひましてね。お断り申しましたですけれど何だか気になりまして、一寸御挨拶だけに。どうも姉さん有難う。姉さん有難う」と二人に挨拶して末座に坐つたまゝ一寸こぼれた鬢を掻き上げる。
 小光は総髪の銀杏返しに結つてゐるのが仇つぽくて、薄つすらと白いものゝついてゐる額の広々としてゐるのも美しい。 (『俳諧師』)  小光のモデルは、女義太夫の竹本小土佐で、虚子は彼女の語りがかかる東京中の演芸場へ出かけ、追い回したのであった。虚子の眼裏に焼きつけられた美しさは、挙げた髪やこぼれた鬢にあった。
 谷崎潤一郎も言っている。女性美の焦点は首だと(『陰翳礼賛』)。和服で身体が露出するのは、首・手先・襟足だ。首は細く長くなければいけない。「猪首」という言葉を想起すればよい。肌は白くなければいけない。そこにうなじの後れ毛が色気を呼ぶ。
 「玉襷」はその呼び出しであり、それは説明しないことが肝要だから、「美しき」とだけ冒頭に置いて謎を掛けた。だから、『喜寿艶』でも、この句については、木で鼻をくくったような説明しかしていない。
 完全な主観句で、実際にそういう女を見たのか、絵の中の女か、記憶の中の女か、そんなことはどうでもいい。小説家志望で主観派が本質だった虚子らしい、冒頭の一句なのである。『虚子百句』は『新歳時記』のような教育的意義を取り払った、「作家」虚子の選集だった。
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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theatrum-wl · 4 years ago
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【劇評】未来のために残すものと残さないもの
『ゴミと罰』南河内万歳一座 小泉 うめ  
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[撮影:谷古宇正彦]
外出自粛が要請される生活の中で家に籠って断捨離を敢行した人はかなり多いのではないだろうか。これには技術的なこともあるだろうが、性格的になかなかモノが捨てられないという人は少なからずいるようだ。結果的に捨てるとしても、いざ取り掛かってみると次から次に出てくる懐かしい品々につい手が止まってしまうようなこともしばしばあるだろう。
ゴミというのは不思議なもので、どんなに大切にしていたものでも、どんなに思い出が詰まっているものでも、捨てると判断した瞬間にそれらはすべてゴミになる。また他人にとってはゴミでしかないものがその持ち主にとってはゴミではないこともあるし、またその逆の場合���ある。旗揚げ40周年の記念すべき年を疫病によって身動きの取れない状態にされた南河内万歳一座の新作は、おそらくそんな時間の中でゴミになったりならなかったりしたものについて考えながら遊ぶような物語である。
舞台には旧家に起きた火事でできたという空き地に大量の黒いゴミ袋が山積みに捨てられており、その前で町内会長の田島(荒谷清水)を中心に町内の人々が集まって喧々諤々と相談をしている。町内会と言っても昭和の頃のそれとは違い、町は再開発され人の入れ替わりも多く日常的なコミュニケーションが取れていない様子である。問題が起こって急に集まってみてもそれぞれに好き勝手なことを言うばかりでなかなか話がまとまらない。他にも水道管の破裂や公園の倒木による停電それに害鳥問題などが最近続けて起こっていて、これは何かの呪いだと言い出す者もいる。
ここでは1人が何かを言えばその意見に影響されてお互いのこともよく知らない人々が一団となって舞台上を右往左往する様が滑稽だ。これは長年群像劇をやってきた南河内万歳一座のお家芸とも言える演出だが、特に今は定まった答えのない大きな問題に社会が直面している中で流言に振り回される人々をますます風刺して想わせる。
結局大したことも決まらないまま、とりえあえず見張りを立てることになる。その1人の立花(岸本武享)はこの町に住んで10年になる若者だが、近々住んでいるアパートが立ち退きになるため引っ越しをすることになっているらしい。立花もその時にはここに不要なものを捨てにくれば良いのだろうと思っていたようだ。なんとなくの個人の思い込みの集合体として社会は上手く回っている部分も多々あるのだが、それに潜む誤解によって少しずつ悪い方に向かっていて気が付けば手が付けられないような大問題になっているというのもよくあることである。山積みになっているゴミもどうやらそのようにしてできあがったものだということが分かってくる。
やがてブルーシートで隠された屋敷の中からこの家ただ1人の生き残り���少年(寒川晃)とその執事の田沼(福重友)が現れて、それらのビニール袋は彼らの預かりものだということを明かす。最初から舞台後方に張られていたブルーシートはその後ろに何かとんでもないものがあることを想わせているのだが、それを剥がすことで前半の空き地でのシーンから後半に現れる地下室のシーンへと鮮やかに転換される。それは単に場所が変わったというだけでなく、その後の展開と相まって後半では立花の脳内世界に入り込んだようなファンタジーの様相を呈する仕掛けとなって効いている。
彼らについて地下室に入って行くとそこには夥しい数の箱が積まれており、この家の引っ越しの準備が進められていた。この家はあちこちから捨てたくても捨てられないものを預かっている家だということが分かってくる。家族や家を失うことはもちろん大変なことなのだが、この少年は更にそれに加えてどうしようもないものを押し付けられて取り残されている。それは今ここで起こっている問題だけではなく、将来も引き継がれていく問題を暗示しているのだろう。
劇団を主宰する内藤裕敬の作品からはここ数年で大きく変化した点を感じている。初期の作品ではとにかく「今」という瞬間に対する苦しいことや納得のいかないことを題材にその悲しみや怒りを演劇にして社会にぶつけているように感じていた。しかし最近では作品を通して自分たちがいなくなった「未来」に対する不安やそのためにしなければならないことを併せて強く語るようになっている。その理由は結婚して子どもをもったことにもあるだろうし、年を重ねながらもこうして若い世代を交えて演劇を創っていることも影響しているのだろう。
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[撮影:谷古宇正彦]  
地下室ではツナギを着た作業員たちがゴミを運んでいる中に、手紙を探しているお姫様の様なクララ(松浦絵里)、金貸しの老婆(鴨鈴女)、そしてゴミについて調べている刑事(野田晋市)らが次々と現れては立花を惑わせる。彼らはこれから引っ越しをしようといている立花の思い出の詰まったもの達であり、彼らが発する声はそこから蘇ってくる記憶なのであろう。それは正に捨てようとするものたちとの葛藤のようでそれらがゴミになる瀬戸際のようにも見える。
ゴミになるのは必ずしも形あるものばかりではない。人は生きていれば少しずつその心の中に捨てたくても捨てられないものを溜めていく。不要なものを自由に捨てることができれば良いのだが、思い出はいつも玉石混淆で、生きていれば辛いものも苦いものも不随意にどんど��蓄積されていくものである。
最後に立花は少年から南京錠のかかった箱を返される。それは思ってもみなかったゴミだと言うが、それによって栄華を極め贅沢ができた誇り高きものだと説明される。ブルーシートに黒いゴミ袋という舞台美術に劇場に入った時からなんとなく想像しいていたイメージがここで一気に持ち上がってくる。立花が返されたゴミは放射性廃棄物なのかもしれない。少年はそれを子、孫、その先々の代までも抱えて行けと言う。たとえ自分がそれを抱えることは良いとしても、それを引き継ぐ時の説明の言葉がないとも話す。いつの間にかそこは旧家の地下室などではなく、放射性廃棄物の貯蔵センターを想わせる場所となる。たとえ原子力発電に反対していたとしても、未来の人間からすればこの時代を生きた人間の責任はそれぞれにある。またそれによる電気が供給されて使用したのであれば、それによる廃棄物は自らの分のゴミとして背負わなければならないということだろう。
立花の分のゴミを返したことで田沼は少し安堵するが、少年はここの仕分けを済ませても自分には引っ越す場所が決まっていないと言う。それはちょうどなかなか場所が決まらない放射性廃棄物の最終処分場の問題と重なってのしかかってくる。それは未来の子どもたちからの現代を生きる人間がタイムマシーンでも使ってしっぺ返しを受けるようにも見える。作品の中では色々なゴミの話が出てくるが、ゴミとして捨てることができるものはまだ扱いやすい。本当に面倒なのはこのように捨てたくても捨てられないものである。今を生きるということは目の前を直視して一生懸命過ごすことと捉えられがちだが、こうして未来をも見据えて判断を重ねていくことこそが今を生きる者の責務であろう。
今回の公演は「一度一緒に演りたかった関西の俳優達+南河内万歳一座☆オールスターズ」と銘打たれている。そう言うだけのことはあって、客演の野田晋市、山藤貴子、岸本武享が発する熱量やその佇まいは日頃それぞれの劇団で見せている味わいだけに留まらず、どことなくかつての南河内万歳一座の看板俳優たちと重なるようなシーンがたくさんある。劇団員も鴨鈴女、荒谷清水を軸に層の厚さを見せてがっちりと客演陣を受け止めているのが頼もしい。
南河内万歳一座が活動しているこの40年の間、社会には今回の疫病に限らずバブル経済が崩壊したり阪神淡路大震災や東日本大震災もあったりと様々なことが社会を揺るがしてきた。そしてそんなことが起こる度にエンターテイメントは一旦不急のモノ扱いをされてきた。しかしいつもそんな時に人々を元気づけてきたのもエンターテイメントであり、そうした中で劇団は生き残ってきた。そんなことを思い出せば、本作からは「こんなところでゴミになってたまるか」という劇団の魂の声も聞こえてくるようである。
かく言う筆者も半年くらいの時間をかけてこの作品の舞台美術くらいの量の持ち物の整理をした。その中から南河内万歳一座がオレンジルーム��扇町ミュージアムスクエアで公演をしていた頃のチラシも出てきた。それらはゴミとならずにまた箱に戻して保存されている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・小泉うめ 観劇人。観客発信メディアWLスタッフ。舞台感染対策。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一度一緒に演りたかった関西の俳優達+南河内万歳一座☆オールスターズ 『ゴミと罰』 ■作・演出・出演:内藤裕敬 ■出演:鴨鈴女、荒谷清水、福重友、皆川あゆみ、鈴村貴彦、松浦絵里、市橋若奈、寒川晃、有田達哉、ことえ(以上、南河内万歳一座) 野田晋市(リリパットアーミーII)、山藤貴子(PM/飛ぶ教室)、岸本武享(劇想からまわりえっちゃん) ■日程:2021年1月19日(火)~24日(日) 19:30~ ※20・22日=14:00~/19:30~、23日=13:00~/17:00~、24日=14:00~ ■会場:一心寺シアター倶楽 ※各回60席限定。 ■料金:前売=一般3,500円 学生・65歳以上3,000円 青春18歳差切符(年齢差18歳以上のペア切符)5,500円、当日=各500円増
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manabukuga · 6 years ago
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‎⁦‪#おはようございます‬⁩ ‎⁦‪#早上好‬⁩ ⁦‪#안녕하세요‬⁩ ‎⁦‪#おはぺったん‬⁩ ⁦‪#おはていたん‬⁩ ‎ ⁧‫#السلام‬⁩ ‎⁦‪#be_punk‬⁩ ⁦‪#bonjour‬⁩ ‎⁦‪#may_the_focus_be_with_you‬⁩ ‎⁦‪#नमस्ते‬⁩ ⁦‪#tere_hommikust‬⁩ #⚡︎ ‎⁦‪#虎家のパン 残りアンドーナツわずかで営業中ッッ! #北九州芸術劇場 #空晴 #南河内万歳一座 (虎家のパン) https://www.instagram.com/p/BucZHyOFhcC/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1eq5q1x74jqqn
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suzukishika · 4 years ago
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八嶋 それは僕が中学3年か、高校1年生の時に、 地元の奈良にいて、 人生で初めて自分で「チケットぴあ」っていうところに 電話をして、 初めてひとりで奈良から大阪まで電車に乗って行って、 初めて「泉の広場」っていうところをあがって、 初めていかがわしい風俗街を通り抜けて、 初めて劇場で整理番号をもらって、 初めて時間潰さなきゃいけなくて、 初めてひとりで「スタッフ」っていう喫茶店に入って、 初めてアイスカフェオーレというものを飲んで、 初めてガリガリの頃のいのうえひでのりさんを見て。 時間が来たから、初めて劇場に入ろうと思ったら、 初めて「靴を脱げ」って言われて、ビニールを渡されて。 で、初めて座席に座ったら、 初めて開演前に人が出てきて、 「はい、まだちょっとお客さんいらっしゃるんで、 ヨイショって言ったら詰めてください!」と言って、 「ヨイショ!」ってもうギューギュー詰めにされて。 で、舞台にはツギハギだらけの緞帳があって、 「南河内万歳一座」のそれが開く。
第3回 劇場へつづく、とてつもないストーリー。 | 劇場に来るという とてつもないストーリー。 八嶋智人 | 八嶋 智人 | ほぼ日刊イトイ新聞
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monqu1y · 4 years ago
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戦後の事件簿  「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命に��だわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた  図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった  1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した  1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない  1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛か���、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した  1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した  1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した  1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている  1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した  1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が���戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された  1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した  1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた  1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した  1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった  1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された  1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された  1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった  1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された  1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた  1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については��事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた  1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された  1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した  1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した  1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された  1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した  1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った  1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した  1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた  1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した  1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された  1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している  1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった  1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引かれ、弾が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した  1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱���生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない
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 1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった  1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った  1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した  1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した  1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した  1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した  1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった  1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒��場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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2025/3/3 21:00:14現在のニュース
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xf-2 · 6 years ago
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003年4月15日夜、福岡市中央区の日本語学校に魏と王、楊らが職員室に忍び込み、現金約五万円を盗んだ。そこは王が在籍していた学校だった。王、楊はその1月にも、同区のファストフード店に侵入し、現金230万円を盗んでいた。ここは楊のアルバイト先。4月9日には魏が別の中国人留学生2人と共謀し、中国人留学生から現金約26万円を奪うという事件も起こしている。 「3人で何かやろう」  5月上旬には、楊のアルバイト先だった同市博多区のラーメン店経営者襲撃を計画する。「面識があると発覚の危険性が高い」として断念したが、この時すでに「殺害して金を奪う」ことを念頭に置いていた。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
中国人留学生
王亮(ワンリャン 当時21歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は土木会社を経営し、裕福な家庭に育った。02年春、日本の大学進学を目指して福岡市内の日本語学校に入学し、同級生とともに寮で暮らし始めた。当初授業の出席率は96%と高かった。(出席率が95%以下になれば入国管理局に報告されるという。さらに低くなると強制送還される)だが王はこの年の9月、同級生とトラブルを起こし、その時の学校の対応に不信感を抱き、ほとんど学校に出てこなくなった。同級生によるとこの頃から王の様子が変わっていったという。03年4月の時点で、王はMさん宅から700mほどのところにある家賃2万円のアパートに楊とともに住んでいた。5月15日に日本語学校から、このままで除籍処分になると通告された。就学生が除籍処分されると、就学ビザを取り消され不法滞在になる。王は1度中国に帰り、両親に再編入のための授業料の工面を依頼していた。だが、両親が王持たせたはずの授業料は学校に納めておらず、除籍処分となっていた。
楊寧(ヤンニン 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は長春市の中日友好協会に勤め、母親は同市の製紙工場に勤務。王とは両親同市が古くからの知り合いだった。01年10月に就学ビザで来日し、日本語学校を卒業した後、私立大学国際商学部に入学し、アジアの貿易経済について学んだ。02年には1科目を履修しただけでさぼり、後期には病気と称して休学したが、実際は福岡市内のハンバーガーショップでアルバイトをしていた。03年4月に1度は復学したが、年間50万円余の学費が払えず、納入期限の6月末を前に「親から学費を受け取るために一旦帰国する」と大学側に説明して出国した。この時、実家には戻っていない。
魏巍(ウェイウェイ 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
河南省出身。父は工場を経営する資産家。魏自身も高校卒業後、3年間人民軍(※)で班長を務めた。その後大連の外国語学院で日本語を学び、日本留学後は先端技術を学ぶという希望を持ち、01年4月、福岡の日本語学校に入学している。02年4月には予定通り、コンピューターの専門学校に入学した。ここでは成績もよく、奨学生候補だった。故郷には恋人もいて、ごく普通の学生だったが03年になると一転して学校を欠席がちになった。魏のアパートには中国人の女性が何人も出入りするようになり、4月には留学生仲間と中国人宅に押し入り、26万円を強奪、6月には知人の女性に暴力をふるったとして傷害容疑で逮捕された。この頃、インターネットカフェにしばしば通うようになり、王や楊と知り合った。4月9日にはかつて住んでいたアパートへ強盗を押しこんだこともある。また、他人名義で携帯電話を契約する詐欺も働いている。金にも対して困っていない優秀な学生だった彼が、03年春を境に突如犯罪行為を繰り返すようになっていた。
出典blog-imgs-34.fc2.com
福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
Mさん一家
殺害されたMさん一家は、Mさん(41歳)、妻C子さん(40歳)、小学6年の長男K君(11歳)、小学3年生の長女H子ちゃん(8歳)の4人暮らし。  Mさんは1962年福岡市で生まれた。私立博多高校を中退し、中州のクラブ勤めを経て上京。東京・麻布十番の焼肉店などで修行した後、88年に福岡市中央区で韓国料理店をオープンさせた。この店は繁盛し、有名人なども多く来店、テレビでも紹介されるほど有名店になった。その後、東区にも別の焼肉店を開店し、売上も好調だった。    C子さんも福岡県出身。九州女子高校を卒業後、94年頃まで化粧品会社の美容部員として福岡空港の国際線ターミナル店で働いていた。MさんとC個さんは高校時代から交際しており、90年5月に結婚した。Kくん、H子ちゃんも生まれ、幸せ家庭を築いていた。  しかし、最初の悲劇が起こった。01年9月、BSE(牛海綿状脳症)騒動が起こり、その煽りを受けて経営していた両店は廃業に追い込まれたのである。  MさんはC子さんの親族と一緒に婦人服販売会社を始めるが、売上が低迷、さらに東区の焼肉店開店のために自宅を抵当に入れて借りた4000万円の返済も滞るようになった。  03年3月、夫婦は婦人服販売業の業績が上がらないことから、C子さんの親族から独立して、衣料品などをデパートに卸す仕事を始めた。その2ヶ月後、Mさんの知人から休眠中の会社「W」を継承して復活させた。C子さんを社長にして、衣料品販売業を本格的に乗り出した。  また失業し、金に困ったMさんは闇ビジネスと呼ばれる仕事にも手を広げていく。事件後、家宅捜索で福岡市中央区のマンションから大麻草が発見されている。Mさんは大麻草を栽培して、売りさばいていたとされている。  またMさん一家は94年から96年にかけて、外資系生保会社と、99年には国内の生保会社と、一家4人の生命保健契約を締結した。保健金額はMさんが1億2000万円、C子さんが2500万円、KくんとH子ちゃんが各2100万円の総額1億8700万円に上り、その月々の保険料は14万円近くになっていた。  ちなみにMさん一家は王、楊、魏の3人とは面識はなかった。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
強襲
凌遅刑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%81%85%E5%88%91
凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。また「水滸伝」にも凌遅刑の記述が記載されている。また、この刑に処された人間の人肉が漢方薬として売られることになっていたとされている。この刑罰は李氏朝鮮(朝鮮王朝)でも実施されていた。また、これに酷似したものとして隗肉刑がある。
Mさんの帰宅
日付が変わって翌午前1時40分頃、Mさんが帰宅してきた。愛車のベンツC200に乗って、自宅の車庫前まで帰ってきた時、携帯電話で友人と会話している。Mさんは「今、家についた。これから駐車場にいれるから、後でかけ直す」と電話を切ったが、その友人に再び電話がかかってくることはなかった。家に入ろうとしてきたMさんを犯人達は玄関で待ち伏せていた。工事現場から盗んできた鉄パイプを、いきなり後頭部を殴りつけた後、前に向かって横から額を殴り、さらに左目周辺や頬を殴ったり、全身を蹴ったりした。さらに犯人達は2階で失神していたH子ちゃんを担ぎ下ろし、父親の目の前でいたぶったり殴打しながら、Mさんに何かを聞き出そうとリンチを加え続けていた。だが、Mさんはなにも答えず、「用がなくなった」ということで、H子ちゃんの首を絞めて殺そうとした。Mさんは土下座して、「娘だけは助けてくれ」と言ったが、彼らはこれを嘲笑し、殺害した。さらにMさんの首を白いビニール紐で絞め、気を失った彼を浴槽に浸けて溺死させた。  3人は一家の遺体を運びやすくするため、まずMさんの両手に手錠をかけ、首から足にかけて工事現場で盗んできた太い電線で縛り、H子ちゃんを背負わせる格好で固定した。また、ちょうど血のついて放置しておけない玄関マットがあったので遺体を覆い隠すために持ち出し、車を乗り捨てる際に近くの草むらに捨てた。  3人は一家4人をベンツに乗せ、その車に一緒に乗りこんだ。 博多港箱崎埠頭の岸壁に到着した3人は遺体を海に沈めるために、前もって用意しておいた重りを1個ずつつけ始めた。Mさんの腕とH子ちゃんの足を手錠でつなぎ、その手錠のチェーンの部分に別の手錠をつないで、鉄アレイをつけるなど、万全を期した。C子さんとKくんはそれぞれ両手に手錠をかけ、鉄アレイをつけた。千加さんは服を着ていないので浮き上がりそうだったので、特別に鉄製の重りを針金で巻きつけていた。  遺体を捨てた後、Mさんのベンツを運転して久留米市に向かった。これはNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)でも確認された。ベンツは「ブリジストン久留米工場」クラブハウスの専用駐車場に乗り捨ててあるのが発見されてい。3人はベンツ放置後、JR久留米駅��ら福岡に戻った。  20日午後、博多港箱崎埠頭付近の海中から一家の遺体が次々と発見された。これほど早く遺体が発見されることは、3人にとって誤算以外の何物でもなかったはずだ。  なお事件当日の行動については3人の供述をもとに書いたが、3人が責任をなすりつけ合ったり、供述そのものを変えているので、不確かな点も多い。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
3人の浮上
事件に使われた手錠は台湾製でレバー操作をすれば簡単に取り外しができる金属製のおもちゃ、鉄アレイは重量20kgのもので、それぞれ福岡市内にある量販店で売られていた。この店の防犯カメラにそれらを買った人物が映し出されていた。その映像から似顔絵が公開されると、日本語学校の生徒が「同級生(王)に酷似している」と証言、ここで王とその交友関係が洗われるようになった。ここで楊の存在が浮上し、楊の携帯電話の通話記録から魏の存在も明らかになった。  また、遺体に付けられていた直方体の鉄製の重り(重量30kg)は魏が過去に頻繁に出入りしていた女性宅がある福岡市博多区の賃貸マンションの所有会社が非常階段への鉄製扉を開放させておくために特別注文したものだった。  事件後、魏は出国2時間前に空港へ向かう途中の路上で、別の暴行事件により身柄を拘束された。だが、この時すでに王は楊とともに福岡空港から上海に出国していた。この航空券は犯行の3日前に楊が用意していた。2人は中国の公安当局に身柄を拘束されることになった。 供述 「窃盗目的で侵入した。黒幕は存在しない」(王、楊) 「Mさんは高級車を持っていて金持ちそうだったから狙った」 「5月下旬に王から『おまえは格闘技ができるだろう。それなりに荒っぽいが、カネになる仕事がある』と誘われ、楊を入れて3人でMさん一家を襲った。家族4人の首を絞めて殺した後、遺体をMさんのベンツでう実まで運んで投げ捨て、その車も遠くまで捨てに行った。王は誰かに殺しを依頼されていたようで、私は成功報酬として約1万円を受け取っただけだ。残りの報酬はまだもらっていない」 (魏) http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
出典kyushu.yomiuri.co.jp
公判を終え福岡地裁を出る魏被告
福岡一家4人殺害事件
王被告土下座にも消えぬ怒り 遺族、厳罰求める
出典kyushu.yomiuri.co.jp
福岡一家4人殺害事件
中級人民法院裏門で、通行人をチェックする職員
憤りは収まらなかった。昨年六月に起きた福岡市の松本真二郎さん一家四人殺害事件。遼寧省遼陽市の中級人民法院で十九日に開かれた初公判で、孫たちの命を奪った元留学生二人と初対面した遺族には、日本語での謝罪もむなしく響いた。「頭を下げれば済むと思っているのか」。一年四か月を経ても消えない激しい怒りが、異国の法廷に広がった。  王亮被告(22)は白いワイシャツ、白っぽい綿のズボン姿で法廷に姿を見せた。楊寧被告(24)は、黒いトレーナーに白っぽいズボンをはき、二人ともオレンジ色のベストを着ていた。両足には鎖、両手には手錠がかけられていた。  起訴状が読み上げられる間、楊被告は、検察側の質問に対し、はきはきと答えたが、何度もまばたきするなど緊張が見て取れた。王被告も時折、目元に手をやるなど、落ち着かない様子だった。  犯行現場となった松本さん宅の子供部屋や浴室、廊下に残された血痕などの写真がスクリーンに次々と映し出されると、王被告は終始目をそらし、楊被告も顔を上げようとしなかった。  静寂が破られたのは、王被告の意見陳述の途中だった。突然、後ろを振り返り、約三メートル離れた傍聴席の最前列に座っていた松本さんの妻千加さんの父親、梅津亮七さん(78)に向かって土下座し、約三十人いた傍聴席から驚きの声が上がった。さらに、裁判長に向き直った後、もう一度後ろを向き、日本語で三回、「すみません」と繰り返し頭を下げた。  数日前に遼陽市入りした梅津さんは、公安当局などを回り、両被告の逮捕に謝意を伝え、厳罰を要請したという。公判終了後、「頭を下げて済むものではない。それ以上にひどい目に遭わされた」と怒りが収まらない様子だった。 http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20090427-462876/news/20090427-OYS1T00564.htm
裁判経過
楊寧被告人は1審で死刑判決を受け、控訴棄却を経て2005年7月12日に死刑執行された。一方、王亮被告人は遼寧省遼陽市人民検察院により無期懲役が確定した。 日本で逮捕起訴された魏巍被告人は1審の福岡地裁で事実を認めた後、ほぼ黙秘を通し、死刑判決を受けた。2審では、一転して動機や犯行過程、3人の役割、遺族への謝罪などを詳細に証言したが、控訴は棄却された。上告したが2011年10月20日に最高裁第1小法廷(白木勇裁判長)は上告を棄却して死刑が確定した。 2014年現在、魏巍は福岡拘置所に収監されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
出典stat.ameba.jp
福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
日中の捜査共助と問題点
同事件は主犯格2人が中国に逃亡したため、中国との捜査共助が最大の焦点となった。結果的には日本国内の反響の大きさに配慮した中国当局が積極的に協力したため、早期逮捕が実現したが、一方で他の事件では日中間の捜査協力がほとんどなされていない実態や、アメリカ、韓国以外と犯罪人引渡し条約が結ばれていない現状も指摘され、国際化する犯罪に各国捜査当局の対応が遅れている点が浮き彫りとなった。 また、福岡地裁で行われた魏巍被告人の公判では、中国公安当局が作成した王亮、楊寧両被告人の供述調書が日本の裁判で初めて証拠採用された。これまで日本の刑事裁判では、海外の捜査当局が作成した調書は「証拠能力なし」とされることが多かったため、この判断は「国際犯罪の捜査に道を開く」と評価されたが、黙秘権が存在しない中国の調書を問題視する意見もあり、議論を呼んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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kurobu9696 · 8 years ago
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知人が出るというので、南河内万歳一座のびっくり仰天街を観てきました。とても楽しかったです♪( ´▽`) #南河内万歳一座 #びっくり仰天街 (一心寺シアター倶楽)
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team-ginga · 8 years ago
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ヒョードルの落日
 勝手な印象ですが、演劇人には格闘技好きが多いような気がします。
 寺山修司はボクシングが好きで、『明日のジョー』の力石の葬式を企画したほどですし(つまらない映画ですが、ボクシングの映画も撮っているはずです)、南河内万歳一座の入団条件は「ドロップキックができること」だとその昔、聞いたことがあります。
 いつぞや南河内万歳一座の芝居を見に行って、舞台で役者がブレーンバスターをかけあっているのを見て、「変わらないな」とちょっと嬉しくなったのを覚えています。
 たった2つの例だけで物を言うなと叱られそうですが、演劇と格闘技は相性がいいのだろうと思います。
 今日、Abema TVでベラトール(@マジソンスクエアガーデン)を見ました。ニューヨーク初の総合格闘技大会だそうです。
 波乱の大会でした。
 アマチュアレスリング、アマチュアボクシング、アマチュア総合格闘技チャンピオンで鳴り物入りでプロデビューしたアーロン・ピコがわずか24秒で「かませ」相手にフロントチョークで敗北。
 ベラトール生え抜きでライト級チャンピオンのマイケル・チャンドラーは試合開始早々に足首を痛めてドクターストップで王座陥落(足がおかしな方向に曲がっているのを見るのは結構ショッキングです)。
 「氷の皇帝」、「60億分の1」(あの頃、地球の総人口は60億だったんですね。今は「35億」かける2で70億のようですが)と言われたあのエメリヤエンコ・ヒョードルは試合開始1分あまりで対戦相手のミトリオンとパンチが相打ちになり、ダブルノックダウン。先に立ち上がったミトリオンがヒョードルをパウンドアウトして下しました。
 ヒョードルが負けることはある程度予想できたので、「波乱」とは言えないのかもしれません。そもそもヒョードルvs.ミトリオンを差し置いて、チェール・ソネンvs.ヴァンダレイ・シウバがメインエベントになっていることが、関係者・主催者の今のヒョードルに対する評価を示しているのかもしれません。
 確かにヒョードルはファブリシオ・ヴェウドム、アントニオ・シウバ、ダン・ヘンダーソンに3連敗した時点でもう終わっているというべきでしょう。
 でも、Prideに熱狂した私にとってはやはり寂しいかぎりです。
 その後のチェール・ソネンvs.ヴァンダレイ・シウバは、3ラウンドに渡ってソネンがタックル&パウンド(タックルで相手を倒して上に乗って殴り続ける作戦)でシウバを蹂躙し判定勝ち。
 もうシウバに多くは期待していませんでしたが、こちらも一つの時代の終わりを感じます。
 「世の中はいつも変わっているから/頑固者だけが悲しい思いをする/変わらないものをなにかにたとえて/そのくせ崩れちゃ/そいつのせいにする」(中島みゆき)ですかね。
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2ttf · 13 years ago
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9 notes · View notes
theatrum-wl · 2 years ago
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【投稿企画】先月の1本・来月の1本(2023年4月)
読者の方々からお寄せいただいた4月の「先月の1本・来月の1本」をご紹介します。先月の観劇の記憶を思い起こしながら、来月の観劇のご予定にお役立ていただければと思います。投稿はどなたでもご参加いただけます。是非いっしょに舞台芸術を盛り上げていただければと願っています。 
 ・りいちろ (11本以上) 【先月の1本】 食む派「冷やし中華いななき」(座・高円寺) 座・高円寺で開催された視点『SHARE'S』への参加作品、『SHARE'S』参加の8団体はみな異なって面白かったが、そのなかでも一番演劇として解き放たれた感があって印象に残った。これからの団体の作品も楽しみに。 【来月の1本】 空間ベクトル「 おしまいの夜」( 古民家スペースギャラリーいせやほり ) 久しぶりに観る北村耕治氏の戯曲、はじめて足を運ぶ空間でどのような物語が紡がれるのかがとても楽しみ。
・小泉うめ 観劇人・観客発信メディアWL(6~10本) 【先月の1本】 劇団飛び道具「���サナエだった」 (アトリエS-pace) 京都の秘密兵器にして虎の穴。劇場でひととき安心して騙される気持ち良さが彼らにはある。 【来月の1本】 くじら企画「黄昏ワルツ」( ウイングフィールド ) 凛さんがコットーネで演りたかったホンモノがここにある。この週末は南河内万歳一座とのハシゴが可能です。夕方も早めに終わるので是非ミナミで呑み語りましょう。
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