#大原学園盛岡校
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
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“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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中産階級ハーレム① ─ 野球
①大正4(1915)年に大阪朝日新聞の主催で開催されることになった全国中等学校野球大会は、年々���選参加校が増えて人気を呼び、鳴尾運動場で行われた第9回大会(大正12年)準々決勝では観客がグラウン��にあふれ出して試合続行が困難になる事態となったことなどから、阪神電鉄が所有する西宮市の土地に大正13(1924)年に建設された、約6万人収容の甲子園球場に舞台を移すことになった。こうした野球熱の高まりにつれ、もう1つ全国的な大会の新設を望む声も増し、同年から大阪毎日新聞が主催する全国選抜中等学校野球大会(いわゆるセンバツ)もスタート。
大正3(1914)年に早慶明による三大学リーグ戦が発足、以降順次大学が増え、応援団の問題で早慶だけは対戦なしという変則リーグ戦が組まれるなど曲折の末、大正14(1925)年に東大も加盟して東京六大学リーグが結成された。さらに翌大正15(1926)年秋には六大学関係者が神宮奉讃会にはたらきかけ建設された3万3千人収容の神宮球場に舞台を移すことになった。②はその開場式の模様。
③早大の人気選手から東京日日新聞(現毎日新聞)記者となった橋戸頑鉄氏らの奔走で、中学・大学を卒業した野球選手たちが集��各地のクラブ・チーム、実業団チーム、鉄道局チームによる全国大会として都市対抗野球大会が昭和2(1927)年から開催され、第1回は大連満鉄倶楽部が優勝を飾った。
④当初「満員になるのに10年はかかる」といわれた甲子園での中等学校野球が大観衆でふくれあがるのに時間はかからず、中京商、松山商、明石中の「3強」が激���した昭和7(1932)年の夏の大会は連日超満員、スタンドの頂上からも観衆がはみ出し、危険な状態に。
⑤日本の野球は近代国家となった明治初年にもたらされ、大正から昭和のはじめにかけ人気スポーツとして異常といっていいほどの発達を遂げたが、中心は当時の中等学校野球と東京六大学リーグで、大正期に日本運動協会というプロチームが生まれたが発展を見ずに終わった。また昭和7年、文部省の「野球統制令」により学生野球も大きな制約を受けることになった。その中にはプロチームとの試合禁止もあり、正力松太郎の読売新聞が昭和6年、9年の2度にわたって米大リーグ・チームを招いた際、相手となる日本チームは9年には学生抜きの社会人選手で構成され、中学生の沢村栄治やスタルヒンは野球部を退部して参加した。ベーブ・ルース(↑画像の先頭から2人目)やルー・ゲーリッグを擁する大リーグ選抜は17戦全勝と強さを示したものの、沢村が9三振を奪いゲーリッグのホームランによる1点に抑えた試合など注目を集め、この時の日本チームを母体として大日本東京野球倶楽部、後の読売ジャイアンツが生まれ、プロ野球は2度目のチャレンジで実ることに。
⑥米中との大戦を遂行する軍部から「野球は敵性スポーツ」との声が日々強まり、昭和18(1943)年春、文部省は東京六大学野球連盟に対しリーグ戦の中止と連盟の解散を通達した。秋には文科系学生の徴兵延期も中止され、10月16日、早稲田の戸塚球場で出陣学徒壮行早慶戦が行われた。試合後、両校の選手・応援団が「海ゆかば」を合唱、12月1日には全国の学徒が兵役に就いた。
⑦昭和22(1947)年8月2日、昭和天皇と皇后が��楽園球場で行われた都市対抗野球をご観戦になり、グラウンドにもお立ちになった。プロ野球の天覧試合より12年早く、戦争期の天皇の位置づけを思えば驚くべきことといえよう。
⑧都市対抗大会を中心に隆盛を築いた社会人野球。昭和31年の都市対抗では慶大を卒業したばかりの藤田元司投手の快投で横浜・日本石油が優勝。
⑨人気・実力で先行した六大学野球や社会人野球に対し、後れをとる形となったプロ野球も昭和25(1950)年の2リーグ制・日本シリーズ開催などで徐々に盛り上がりを見せる。盟主を自認する巨人の監督を追われた三原脩が西に下って西鉄監督に就任、31年から3年連続で古巣巨人を降して黄金時代を築いた。特に33年の日本シリーズは3連敗から4連勝するという逆転劇で、連投の稲尾和久は「神様、仏様、稲尾様」と讃えられた。
⑩昭和35(1960)年夏、36年春と2季連続で甲子園大会を制し、横浜市内をパレードする法政二・柴田勲。36年夏には三たびの対決となる「怪童」尾崎行雄の浪華商に屈した。
⑪読売ジャイアンツに大学球界のスター長嶋茂雄(昭和33)、高校球界の王貞治(昭和34)が入団、打撃タイトルを独占したり昭和40年以降9連覇の原動力となって国民的人気を獲得。子どもの好むもの巨人・大鵬・卵焼きと謳われる。
⑫昭和38(1963)年、南海の野村克也は捕手ながら52本塁打を放ち当時のプロ野球記録を更新。後にプレーイング・マネージャーを含め4球団で監督も務め、知将として手腕を発揮。
⑬昭和40年代初めに当時の六大学野球記録である通算22本塁打を放った田淵幸一(法政大)。戦前~戦後にかけ高い人気を誇った六大学野球は次第にプロ野球に押されたが、この時期には法政の田淵や山本浩二、明治の星野仙一や高田繁、早稲田の谷沢健一や荒川尭らが活躍して黄金時代の再来と称された。
⑭昭和40(1965)年秋に始まったドラフト会議の一期生として巨人入団した堀内恒夫投手、42年の対広島戦で投げてはノーヒットノーラン、打っては3ホーマー。
⑮昭和44(1969)年10月、「プロ野球の父」正力松太郎氏の死去と前後して、暴力団と関係し八百長を行う「黒い霧事件」が発覚。多数の選手が永久追放などの処分を受けた。
⑯昭和46(1971)年のオールスター第1戦でセ・リーグの先発・江夏豊(阪神)が9連続奪三振を記録。↑画像はパ・リーグ四番の江藤慎一(ロッテ)をうちとった瞬間。
⑰昭和48(1973)年の高校野球は、前年夏の予選でノーヒットノーランを連発するなど「怪物」の異名をほしいままにした江川卓(作新学院)の剛腕に沸く。準決勝まで進出した選抜大会での奪三振60は今も破られていない。卒業後は法政大⇒巨人で活躍したが、ドラフト指名をめぐるゴタゴタや肩の変調などで悲運のイメージが付きまとった。
⑱昭和49(1974)年10月、長嶋茂雄が「わが巨人軍は永久に不滅です」の言葉を残し現役引退。
⑲昭和52(1977)年9月3���の対ヤクルト戦、巨人の王貞治は鈴木康二朗投手から通算で756本目となるホームランを放ち、アーロンの持つ大リーグ記録を上回ったとのことで同年当時の福田内閣は国民栄誉賞を創設して表彰した。
⑳昭和54年夏の甲子園大会で壮絶なドラマが展開された。3回戦の箕島×星稜の試合である。箕島の石井毅、星稜の堅田外司両投手の好投で1対1のスコアで延長戦に。星稜が12回に1点をあげるとその裏、箕島は二死から嶋田宗彦捕手が同点ホームラン。星稜は16回にも1点を奪ったが、今度もその裏二死後に箕島・森川康弘外野手が同点ホームラン。そして大会規定の引き分けイニングに入った18回、箕島は2走者を置いて上野敬三内野手が左前へサヨナラ打(↑画像)して死闘に決着。
㉑同年の日本シリーズは広島と近鉄という創設当初は弱小だった球団による対決となり、3勝3敗の第7戦、広島が1点リードで迎えた9回裏、抑え投手の江夏豊が「江夏の21球」として語り継がれる巧投で無死満塁のピンチを切り抜け日本一に。
㉒同年、前年初の日本一に輝いたヤクルトの広岡達朗監督は、チームの不振が続いたうえ森、植村コーチの処遇をめぐり球団と対立、シーズン中の8月に退団した。解説者を経て昭和56(1981)年オフに西武ライオンズ監督に就任。1年目の57年に日本一に輝くなどヘッドコーチ⇒監督の森昌彦(祇晶)と西武黄金時代の礎を築く。
㉓昭和57年8月、横浜球場での大洋×阪神でとんでもない事件が起きた。7回表、阪神・藤田の三塁前小飛球をファウルと判定されたことに激昂した島野コーチが一塁コーチスボックスから走ってきて鷲谷塁審に暴行、その鷲谷塁審を守ろうとした岡田主審に今度は柴田コーチが暴行、選手たちが止めに入っても暴力をやめず全治2週間の傷を負わせるという前代未聞の醜態。
㉔KKコンビこと1年生夏(昭和58年)にエースと四番打者として甲子園を制覇した桑田真澄(左)と清原和博(右)。以降5期連続出場して2年生春・夏とも準優勝、3年生春がベスト4、そして最後の夏に再び優勝。
㉕昭和61年の最優秀選手は両リーグとも2年連続で三冠王を獲得した落合博満(ロッテ)とランディ・バース(阪神)。バースの打率.389は現在までプロ野球記録。
㉖昭和60年こそ阪神に屈したものの、その前後の時期、西武ライオンズが工藤、秋山、清原、石毛らの活躍で黄金時代に湧く。62(1987)年の日本シリーズでは、かつてドラフト会議で指名を確信していた巨人が盟友・桑田を指名したことで屈辱を味わった清原がその巨人を倒し日本一目前というところで男泣き。
中産階級ハーレム (JAGATARA, 詞・曲:江戸アケミ)
中産階級ってのもお安くないぜ
一度なったらやめられねえ
スコッチ・ウイスキー、
ファミコン・ソフト、週に一度のゴルフ場通い
できた女房にはげまされ カラオケ・パブでは人気者
満員電車にゆりゆられ 行きつく先は老人ホーム
たった一人の箱入り娘は 情報誌片手にロック狂い
アダルト・ビデオに胸ときめ��せ 不倫さわぎもおつなもの
夏には夏で有給休暇 家族そろって海外旅行
にっこり笑ってシャッター押せば 楽しい思い出わいてくる
受験戦争と高度成長に乗り遅れた者は使い捨ての百円ライター
管理社会の落し子たちは 今日もディスコで踊りあかす
さしせまるエネルギー危機には 一億火の玉原子力
でも中産階級ってのはおかまいなしだぜ 今の日本を支えてる
中産階級ってのは最高だぜ 一度なったらやめられねえ
中産階級ってのは最高だぜ 努力しだいであんたもなれる
中産階級ってのは最高だぜ アンタもなってみろよ
中産階級ってのは、
中産階級ってのは、
中産階級ってのは ホントにいるのかい、
ホントにいるのかい?
中産階級ハーレム、
中産階級ハーレム、
中産階級ハーレム…………
ヤツは肥えた──!
ヤツは超えた!…………
頭そうじするんだ…………
だいじょうぶマイフレンド
※写真はすべてベースボール・マガジン社刊『激動の昭和スポーツ史』の「プロ野球・上下」「高校野球・上下」「社会人野球」「大学野球」より。旧ブログの運営元であるgooブログが2025年11月にサービス終了することになり、残しておきたい記事をピックアップして新ブログに順次再投稿していきます。
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2024/11/2 15:00:36現在のニュース
豊川優勝 3年連続14回目の都大路へ 高校駅伝・愛知女子(毎日新聞, 2024/11/2 14:57:04) 廃棄果物が缶酎ハイに 味わい再現、産地も大盛況 注目の「CSV(共通価値創造)」 近ごろ都に流行るもの([B!]産経新聞, 2024/11/2 14:54:54) 湯田ダムで水没の鉄道遺構見学会が超人気、10年に1度の工事で水位下がり散策可能に([B!]産経新聞, 2024/11/2 14:54:54) 聖光学院が6大会ぶりの花園へ 全国高校ラグビー福島県予選(毎日新聞, 2024/11/2 14:49:44) 安全統括管理者を組織外から選任へ 熊本市電 中間報告書 /熊本 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/2 14:48:43) JR那須塩原駅、自動改札機が乳牛柄に 実は生乳生産額全国2位 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/2 14:48:43) 山林の男性遺体、猟銃誤射が原因か 死因と身元判明 北海道・厚��部 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/11/2 14:43:45) 和歌山北が優勝 2年連続24回目都大路へ 高校駅伝・和歌山男子(毎日新聞, 2024/11/2 14:42:26) 大阪万博キャラ「ミャクミャク」のラッピング電車、10日から岡山の山陽線などで運行([B!]読売新聞, 2024/11/2 14:39:28) 「平成筑豊鉄道」法定協議会に福岡県も参加へ…沿線の田川市長「課題解決に県のリーダーシップ不可欠」([B!]読売新聞, 2024/11/2 14:39:28) 名経大高蔵が優勝 2年ぶり2回目都大路へ 高校駅伝・愛知男子(毎日新聞, 2024/11/2 14:35:01)
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九州地方フィールドワーク
9月25日から3泊4日で九州地方へフィールドワークへ行ってきました!先生の運転する車で佐田岬の港へ向かってからフェリーで九州へ上陸を果たした我々でした。
熊本県に着き、最初に訪れた水俣の資料館では、教科書では知ることのできない水俣病の現実、実情を身をもって感じることができました。水俣の海で採集された有害なヘドロや、猫で動物実験を行っていた際に使われていたケージなどは、胸にくるものがありました。1日目のホテルは素晴らしいビンテージ具合で、味ってやつを感じました。
2日目は水俣食べる通信に関する取材を行いました!かなりの山道を不安になりながら進んでいると徐々に看板が増えてきて、たどり着いたのはモンヴェール農山さんです。農山さんが、「おじいさんから受け継いだ土地は、幼い頃からの"遊び場"って感覚だ」と、おっしゃっていたのが印象的です。また、自身も農業大学校へ通うなど行動や言葉の端々に情熱を感じました。その次に向かったお茶の坂口園へ行った際に聞いたお話の中にも、気になった農家さんへは直で訪れて知識を増やしているとのお話を聞いて、何か共通点を感じました。坂口さんには実際に和紅茶の試飲をさせていただきました。とんでもないいい香りに山口先生、ゼミ生全員の表情が一瞬で晴れたのを見逃しませんでした。その後、熊本から福岡までの長距離ドライブです。みなさんお疲れで声がやんだと思ったらグッスリでした。
3日目の福岡では、冷泉荘へお邪魔しました!このビルのコンセプトはビンテージであり、時間が経てば経つほど価値が出るという面白い建築物でした。吉原さんとサンダーさんとお会いすることができました。各人、別ベクトルで先生言うところの"変態"だったように思います。新しくて綺麗でおしゃれな建物に価値があると思いがちな我々に、これからまちづくりを考えていくなかで必要なことが学べました。帰りの車内もなんだかんだ盛り上がり、知識も経験も、先輩同級生ひいては先生との仲も深まったナイスなフィールドワークとなりました!先生、先輩、九州にてお話を聞かせていただいた皆さんにありがとうございました!
(大石幹太)



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全国私立寮制学校協議会は、2023年11月に「寮のある学校合同相談会」を開催する。11月3日に名古屋、11月4日に神戸、11月11日に横浜、11月12日に東京の全4会場で行われる。入退場自由。予約不要。 寮生活は、同質、異質の人間ともつきあわなければならない。このような人間関係は社会そのものであり、中学・高校時代に経験することは、人生にとって貴重な体験になるとともに、小さなグローバル社会体験の場ともいえるという。 「寮のある学校合同相談会」は、全国の寮のある学校が集まり、合同で行う。参加各校に個別ブースを設け、寮生活や教育方針などについての説明や、保護者・受験生の相談に応じる。 参加校は、全寮協加盟校27校とオブザーバー校3校。男子校では、函館ラ・サール中学校・高等学校、静岡聖光学院中学校・高等学校の2校。女子校では、盛岡白百合学園中学高等学校、不二聖心女子学院中学校・高等学校、函嶺白百合学園中学高等学校の3校。共学校では、自由学園中等科・高等科、立命館慶祥中学校・高等学校、松風塾高等学校、秀光中学校・仙台育英学園高等学校(秀光コース)、秀明学園秀明中学校・高等学校、郁文館中学校・高等学校/郁文館グローバル高等学校、暁星国際中学校・高等学校、公文国際学園中等部・高等部、関東学院六浦中学校・高等学校、佐久長聖中学・高等学校、開志国際高等学校、片山学園中学校・高等学校、国際高等専門学校、国際高等学校、麗澤瑞浪中学・高等学校、早稲田摂陵高等学校、高野山高等学校、近畿大学附属新宮高等学校・中学校、岡山中学校・高等学校、如水館中学校・高等学校、岩田中学校・高等学校、沖縄尚学高等学校・附属中学校の22校。オブザーバー校の盛岡中央高等学校・附属中学校、吉備高原学園高等学校、キリスト教愛真高等学校の3校で計30校が参加。
【中学受験】【高校受験】30校参加「寮のある学校合同相談会」全国4会場 | リセマム
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法務局一階駐車場からの大原学院!じゃなかった大原学園! 早く着きすぎ、午後は日建学園!じゃなかった日建学院でおセミナー! #八幡平市 #二戸市 #一戸町 #滝沢市 #雫石町 #盛岡市 #岩手町 #盛岡 #雫石 # #法務局 #登記事項要約書 #土地 #公図 #大原学園盛岡校 #大原学園 #日建学院 #日建学院盛岡校 #おセミナー #セミナー #学院 #学園 #4号特例 #4号特例縮小 # (Hachimantai-shi, Iwate, Japan) https://www.instagram.com/p/Cn5vJe-hcTF/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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「全国の同和を連れてくるぞー」現在、弊舎が追及している三重県津市相生町自治会長にからむ恫喝。音声で視聴した人は多いだろう。同自治会長は部落を盾に市や企業に要求行為をした。また現在、弊舎と解放同盟で係争中の「全国部落調査」裁判においても同盟員たちは「部落民」という立場に異常なほど執着する。
部落をピンポイントで転住する者、親類が部落だから自分も部落民と考える者、その子らに「部落」を継承させようという者…。人種や血統でもない「部落」という地位にすがり、そして左翼運動でもお馴染みの活動家や学者が「部落問題」に群がってくる。こうした一派自体が実は「部落化」しているように見えるのだ。
部落免罪符に執着する人々
9月28日、第3回証人尋問、弊社代表・宮部が「部落出身である」と証言する。すると「あなたは部落出身ではなーーーい」と原告弁護士が激怒する。
それから動員された傍聴席の部落解放同盟役員、活動家らも一斉に「何を言っているんだ」「うそつくな」とヤジが飛ぶ。なぜ人の出自に対して「嘘」と言えるのだろう。まるで「部落」が天下御免の印籠で、己と仲間以外、その印籠は使わせない! そんな不遜さが垣間見えた。
裁判は原則、静粛に膨張するのがルールだしそもそも大勢の活動家、シンパを動員している時点で公正で平等な裁判とは到底思えない。そしていきり立つ担当弁護士。刑事事件をテーマにしたドラマでありがちな心理戦というよりか「アジテーション」の類。あの強い言葉は被告に向けたというよりも傍聴席の“ クライアント”に向けた「闘っている」アピールだろう。なにしろ現在の士業たちは決して楽ではない。このポリコレ全盛期、活動家は絶好のクライアントでまた人権派弁護士という特化した分野で名を挙げられる。そんな意欲が伝わってきた。
当日は閉廷後、原告側は報告集会を開催。その様子は参加者のSNSが詳しい。
反ヘイト運動にも関わる上瀧浩子弁護士、李信恵氏の姿も。投稿した山本崇記氏は静岡大学准教授でいわゆる「社会学者」。京都朝鮮学校公園占用抗議事件の裁判支援会「こるむ」の事務局長としても知られる。朝鮮学校無償化等、旧しばき���、こういった分野に詳しい方ならすぐに分かるだろう。いつもお馴染みのメンバーたちだ。
仲間のピンチとあれば必ず駆け付ける。とにかく「徒党」を組むと異様な結束力を持つ。今回、登場する面々に接触したことがあるが対話が成立したことはない。SNSでも即座にブロックする。なぜなら解放同盟周辺の活動家たちは対立する相手と関係したこと自体を問題視するからだ。一つ実例を挙げよう。自分の妻が部落出身だから解放同盟員だったという人物を取材したところ、なんと「示現舎に対応した」という理由で除名されてしまったのだ。(「特定企業で引き継がれる「大垣市人権のまちづくり懇話会」の怪」参照)。
社会に「人権啓発」を呼びかける割に、運動体が相手にするのはおおかた活動仲間、そして絶対に反論しない役所と企業、マスコミといったところ。
部落問題に関心を寄せる社会学者の論法
「社会学者」という存在も人権問題、部落問題に欠かせない。そういえば労働研究者の上西充子氏がご飯論法という用語を作り、到底流行ったとは思えないがなぜか流行語大賞の候補になった。ならば部落問題における社会学者論法というものをご紹介しよう。
弊舎の活動に対する批判集会、シンポジウムでしばし「社会学者」なる人々が登場する。密室の集会で「示現舎許すな」というアジテーションに終始するのみだが、それでも多少なりとも対話できたことがある。そんな中で彼らの「論法」を掴み取った。
●学会では部落差別があると結論付けられている。部落差別を調べた統計がある!
これが最も多い。学会と言ってもどのような学会なのか明示され��ことはない。しかも学会の主張や決定事項が一般市民を制限するものでもないし、学会が社会の「上位概念」でもない。そこで何が討議されているのか共有されていない。「統計がある」。これは個別に部落調査でもしたのだろうか。もしそんなものが存在するならば見せてほしい
●自分で調べてください! 勉強してください。
根拠を問うとこのような返答が待っている。これは社会学者に限らず活動家肌の学者、マスコミ関係者でも見られるが…。
●だから児童虐待がDVが後を絶たない
おや、部落問題を話していたのではない? それがいつしか児童虐待やDVの話になりイエという話にすり替わっている。このパターンも少なくない。大学教員、研究者の間で「人権問題」は虎の尾。これを踏むとキャリア形成の道はまず絶たれる。だから懸命に人権問題に関心を持とうというのは悲壮ですら��るが結果、社会学者という存在を貶めている気がしてならない。
なお老婆心ながら助言を。「部落差別許すな」と叫んだところで自身が排除や糾弾から逃れられると思わない方がいい。やはり人権問題の講師が仲間内からつるし上げられたケースを示しておく。先鋭化した運動の敵意というものは必ず内に向かうものである。
2018年12月18日、大阪港区波除HRCビルで開催された「『ネットと部落差別』研究集会」にはやはりどこかで見た顔ばかりが集まってきた。掲載した写真はその打ち上げの模様という。同じ陣容が、同じ対象に、同じような話を説く。もちろんこの集会で弊舎のことが話題にならないはずがない。密室、仲間内で論敵を批判するわけで、啓発や教育というよりも活動家たちの「戦意高揚集会」だ。
さてこの部落解放同盟山口県連・川口泰司書記長が全国部落調査の原告であるのはご存知の方も多いだろう。同氏は反差別活動家の李信恵氏とも懇意にしている。李氏と言えば大学院生のリンチ事件にも関与した人物。
2016年11月25日に山口市で開催された「第7回部落解放・人権確立をめざす県民のつどい」で主催者である同書記長は李氏を講師に呼んだ。
それから大学院生リンチ事件に関する告発本を刊行した鹿砦社と李氏は係争することになるが川口氏から2018年8月28日、陳述書が提出されていた。
私は、部落解放同盟山口県連の書記長の立場にあります。2016年11月25日に山口市で開催された「第7回部落解放・人権確立をめざす県民のつどい」に、講師として李信恵さんをお招きした講演会をおこないました。その際、私ども主催側に対して、李信恵さんは「リンチ事件の犯人なのに、なぜ、講師として呼んだのか。講師としては不適切ではないか。主催者は、リンチ事件の犯人と知った上で講師として呼んだのか」との抗議電話がかかってきたことがあります。
また、同イベントを「後援」している山口市役所にも、「なぜ、リンチ事件の犯人である李信恵が講師として呼ばれている集会を山口市が後援したのか」と抗議電話がありました。同イベントの事務局をしている部落解放同盟山口県連に、山口市から問い合わせがあり、丁寧に事情を説明した結果、「後援」取り消しには至りませんでした。以上の事実に間違いありません。
リンチ問題を問わず李氏がどういう見識があり人権問題の講師として呼ばれているか分からない。川口氏との関係があって招聘されたのは言うまでもない。要は「内輪」で仕事を振った格好だ。
現場ではどのような判断があったのか山口市人権推進課に聞いたが「担当者が変わり詳細は分からない」とした。同課によれば会場は山口南総合センター(山口市名田島)で約600人を集めて開催されたということ。「動員などはありません」(同課)としたが、行政、学校関係者、市教���から17人が出席したという。一般的な感覚ではそれを「動員」という。
それにしても本当に奇妙なものだ。いつも同じ面々が集まって、同じような主張を繰り返す。そして密室の空間で仲間とともに批判の声を挙げる。この手の運動は極めて狭い人間関係の中で展開されているものだ。
それはまるで「丑の刻参り」のような趣きすらある。一同で杭を持っては「示現舎が、鳥取ループが」と呪う。そこに人権問題の向上や、差別の解消という目的は汲み取れない。そして仲間の利益に反する者は許すな! と言わんばかりにどこからともなく集結する。その様は言うなれば「活動家部落」。部落! 人権! と声高に叫ぶ面々の部落化というわけだ。
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【浄土宗の心棒】 去る2月末、宗教の視点から社会をえぐるノンフィクション・マガジン、『宗教問題』誌29号を発行いたしました。今回の特集は「浄土宗大騒乱」。その名の通り、日本を代表する伝統仏教宗派・浄土宗内で、おかしな不祥事が続発していることについて各種の取材をしたものです。 宗教団体もまた人間の集団ですので、残念ながら組織運営上の不祥事というのも、起こらないとは限りません。それこそ『宗教問題』誌というメディア自体が、それらを追いかけ続けながら発行されている媒体で、ちょっと一般の感覚からは目を疑うようなおかしなスキャンダルが発生する場合も多々あります。 ただし、一つの教団から短期間のうちに2つも3つも不祥事が飛び出てくるといった事態も、また珍しいことです。そして浄土宗という教団はここ最近、まさにそのような“珍しい”事態に陥っていたのでした。それぞれの詳細は本誌に書いてある通りですので購読していただきたいのですが、まずは何と言っても大本山清浄華院(京都市上京区)の法主人事問題です。伝統と格式ある大本山の法主(住職)が1年以上にわたり、今現在も空位となっている問題で、かつその原因は清浄華院と、浄土宗の教団本部である浄土宗宗務庁との間の紛争なのだと、これは浄土宗内でもっぱら語られている話です。東京にいるとそんな目につく話でもないのですが、京都で��地元の新聞や全国紙の地方版などでかなり盛んに報じられている「一般のニュース」で、かつ今なお解決のメドが立っていない“異常事態”です。また東京のほうでは浄土宗系学校法人・大乗淑徳学園(東京都板橋区)で昨秋、教員が異常なまでの激務を訴えた末に自殺する事件が発生。同学園では教員人事をめぐっての労働争議も発生しており、一体その経営がどうなっているのか、極めて注目すべき事態となっています。そして同じく昨秋、浄土宗の宗務庁では税の申告漏れが発覚し、1400万円の追徴課税を支払うといった事件も起こっています。 前述のように、特に僧侶の個人犯罪でもない、こういう“組織的不祥事”が1年ほどの間に立て続けに発生するというのは、宗教界においてそれなりに珍しいことです。一体この背景には何があるのか、そして浄土宗教団というものの体質とは何なのか、そういう話を、さまざまな浄土宗関係者を訪ね歩いて記事にまとめています。そうした関係者の方々の言、またライターさんたちの取材情報から、“浄土宗の現在”というものを読み取っていただければ幸いです。 ただ雑誌制作を終えて私が個人的に感じたのは、「浄土宗とは意外なほどに中心軸のない教団なのだなあ」ということでした。日本の仏教宗派とは、善しも悪くも“開祖教”のようなところがあります。浄土真宗は“親鸞教”、曹洞宗は“道元教”、日蓮宗は“日蓮教”のような体裁を、“仏教”という枠組みさえ超えかねないほどに追及してしまうような部分が、本当に善しも悪しくもあるのです。ただその“開祖教”心理こそが、そうした宗派に力強い求心力、心棒を与え、今日に至るまでの活力を生み出している部分もあるのです。無論、浄土宗の開祖とは日本仏教史のスーパースターの1人、法然です。浄土宗内にも“法然愛”は間違いなく満ち満ちており、その思いは今日の浄土宗を支える重要な柱の一つです。ただし今回の弊誌の特集でも指摘されていますが、今日の“浄土宗教団”を組織的に成立させたものとは、何よりも政治権力でした。無論、そこには僧侶、信者たちの力も確実に加わってはいるのですが、「徳川家康が信仰し、庇護した宗教が浄土宗だった」という圧倒的事実は、浄土宗の何よりも大きな心棒でした。大本山増上寺は徳川家の菩提寺であり、総本山知恩院は江戸時代を通じて徳川将軍家の養子が門跡(住職)となり、京都東山の地から天皇家の御所を見下ろして威圧する意図さえ込められて、その伽藍を巨大化させていくのです。 徳川幕府を否定して成立した明治新政府は当然のように浄土宗に厳しく、それへの政治的対応に追われた東京・増上寺を中心とした浄土宗の勢力は、知らず知らずのうちに知恩院を中心とした勢力との間に溝をつくっていきます。終戦直後の1947年、知恩院は何と総本山でありながら浄土宗から脱退。この状況は62年に解消しますが、法律的に現今の「宗教法人浄土宗」はこの時にできたもので、実は「その歴史は60年にも満たない」と言うことも、必ずしも間違いではないのです。 以後、「新浄土宗」の中では「新しい教団のあるべき姿を打ち立てよう」という議論よりも、「二度と分裂しないように、激しい議論などは避けてナアナアでやっていこう」という姿勢がむしろ目立ってきたといいます。今回、本誌の取材に応じた前述・清浄華院の執事長は、法主人事混乱の原因の一つとして「出身の地方にもよるが、京都の本山のことなんてどうでもいいという関係者が一定数いる」ということを挙げておられます。求心力、ガバナンス、コンプライアンス、呼び方はさまざまでしょうが、そういった考え方がややもすると浄土宗には希薄な部分があり、それが何かのきっかけで今回、目に見える形で吹き出てきたのかという気もするのです。今回の本誌特集で大乗淑徳学園の不祥事を取り上げましたが、10年ほど前には同じく浄土宗系・佛教大学(京都市)が宗門との関係見直しを画策しているといった情報が流れて騒ぎになったことがありましたし、また同じく浄土宗系・正智深谷高等学校(埼玉県深谷市)が悪質な偽装請負事件を起こしたとしてメディアに叩かれたのは2012年のこと。関係学校に対するグリップも、妙に甘い印象があります。 そして、そういう旧来の体質的問題とともに、現今の浄土宗の動揺のいわば“A級戦犯”として一部関係者が激しく指弾するのが、昨秋まで宗務総長を務めていた豊岡鐐尓氏です。本誌では結局その肉声に触れることはできませんでしたが、同氏に関しては「横暴、傲慢、剛腕」のような世評が確かにあり、特に清浄華院問題に関しては「豊岡氏の個人的なイチャモンのようなことで始まった紛争」と言い切る浄土宗僧侶さえいました。ただし、逆を言えば心棒なきままフラフラとした運営を続けてきた近代の浄土宗にあって、豊岡氏とはそこに強力なリーダーシップを打ち立てようとした、期待のリーダーだったと評する人も同時にいるのです。 豊岡氏は三重県伊賀市の名門浄土宗寺院の生まれで、「そこの寺の住職と言えば、少し前まで押しも押されもせぬ地元の超名士だった」と、ある浄土宗僧侶は語ります。同じ寺の先代住職だった豊岡氏の父親は旧上野市の市長で、豊岡氏はその政治家たる父の膝下で、「政治とは何か」を間近に見て育った人物だそうです。長じて豊岡氏は自身も市長選に出馬するも惜敗。そして宗門政治の世界に入り、2011年に浄土宗の事務方トップ、宗務総長の座に就きます。 「豊岡氏は宗務総長になって執務室に入った時、そこに飾られていた過去の総長たちの肖像を見て不遜な感じで笑ったという。『俺はこんな奴らとは違うのだ』と言わんばかりの態度で。だが、それが彼の個性であり、その“力強さ”に期待を寄せていた宗門人は少なからずいた」(ある浄土宗僧侶) 現在、豊岡氏は浄土宗内で極めて毀誉褒貶の多い人物になっています。それは彼がある意味で“ナアナア”ではない、ハッキリとした態度を示す人物だったことをも表しているのだろうと、私は感じています。ただし、“政治”とは結果責任です。豊岡氏の剛腕は結果的に浄土宗に混乱と動揺をもたらしただけで、総長3期目を狙った活動も頓挫、昨秋に地位を降りたことは前述の通りです。 浄土宗とはかくのように、歴史的にかなり根深い課題を抱えた宗教団体で、今回本誌が特集で取り上げた諸問題は、たまたまそうしたマグマが分かりやすく地表に出てきた瞬間の像だったのかもしれません。本誌は「宗教の視点から社会をえぐるノンフィクション・マガジン」を標榜するメディアですが、今回の特集はそんな浄土宗という“狭いコップの中の騒動”を切り取ったものに過ぎぬ、社会的な視点への広がりはない、悪い意味での業界紙的特集と呼ぶこともできるとは思います。ただ、“ナアナア”でことが動く時代は過ぎ去り、良質なリーダーシップというものが求められている時代に、社会全体が移行しつつある現在であるのも事実かと思います。そういう時代の中で、あえて今回「浄土宗」というコップの中の嵐を、読者の皆様に提示させていただいた次第です。ご関心ある方々にご購読いただければ幸いです。
2020年3月12日 小川 寛大
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【発表】公演詳細!!ツアー型スイッチ「あなたの知らない夜のYCAM」
山口情報芸術センター。Yamaguchi Center for Arts and Media。その名も通称YCAM[ワイカム]。先鋭的なアートとテクノロジーへの取り組みが盛んなアートセンター/研究施設と、敷居の低さには定評のある総合研究所、スイッチ総研のコラボが実現!
両研究所の総力を結集してお届けする、夏の夜のスペシャルなツアー型スイッチ!!
広大なYCAMの館内各所を「スイッチ」を押しながら巡る、約40分のツアー型作品です。通常は立入禁止の秘密エリアにも潜入、ハードコアなアート好きから演劇初体験の方までお楽しみいただけるスリルと失笑に満ちた愉快な夜の40分。
この少し変わった形の演劇に出演してくださる非常勤研究員も募集いたします。
楽しむか、楽しませるか?納涼の仕方はあなた次第!スイッチを押したり押されたりして、夏の夜の物語を始めるのはあなたです!
ある時は図書館。またある時は劇場、展示空間、映画館、そしていくつもの怪しげな研究室…。その実態を知るものはいないと言われる謎の巨大施設YCAM。
二晩限りの特別なツアーでその全貌と正体��明らかに…!?「立入禁止」扉のその先に現れるのは、オバケか、VRか、マッドサイエンティストか俳優か!?
このツアーで目撃することは、貴方と我々だけの秘密です。では、お気をつけて扉を開いてください。ようこそ夜のYCAMへ。
スイッチ総研×YCAM 特別納涼企画 館内ツアー型スイッチ 「あなたの知らない夜のYCAM」
【日程】 2019年8月23日(金)、24日(土)
【出発時間】 19:00~20:30
◆上記時間内、10分毎に出発回が設定されています ◆所要時間40分程度 ◆4名1組・3分間隔で出発 ◆1名から申し込み可能
【集合時間】 申し込み出発時間の5分前
【集合場所】 山口情報芸術センター[YCAM]1階ホワイエ ※集合時間に遅れるとご参加いただけない可能性がございますのでご注意ください
【会場】 山口情報芸術センター[YCAM] 〒753-0075 山口県山口市中園町7-7 https://www.ycam.jp/guide/access/
【チケット】 一般 ¥1,500 any会員 ¥1,000 高校生以下 ¥500
※ 未就学児童入場不可。小学生は要保護者同伴。 ※高校生以下のチケットをご購入の方は当日受付にて学生証をご提示ください。 ※当日券は空きがある場合のみ販売いたします。詳細はお問合せください。 ※当日券はany会員割引の対象外
【発売日】 2019年6月29日(土) 10:00
【チケット取扱い】 山口市文化振興財団チケットインフォメーション(YCAM内) TEL.083-920-6111 (10:00-19:00/休館日:火曜日、祝日の場合はその翌日) http://www.ycfcp.or.jp/ (24時間受付)
【託児】 あり(要申込/1人700円、2人目以降500円) ※ご希望の方は8月16日(金)までにチケットインフォメーションへ要申込(TEL.083-920-6111)
【作】 スイッチ総研
【総合演出】 光瀬指絵
【研究開発/出演】 大石将弘 光瀬指絵
<契約所員> 石倉来輝(ままごと) 小林義典(クロムモリブデン) 矢野昌幸 田島冴香(FUKAIPRODUCE羽衣)※研究開発のみ
<客員研究員> 川上友里(はえぎわ) 森下 亮(クロムモリブデン)
<特別客員研究員/声の出演> 廣川三憲(ナイロン100℃)
<非常勤研究員> イフクキョウコ(スタジオイマイチ) 大木あゆみ 大迫旭洋(不思議少年) 大野真代 加藤真伎(Sophia Shakespeare Company) 高見 駿 出口晃多 西井裕美 野間銀智(万能グローブ ガラパゴスダイナモス) 林 涼子(touch the bonnet) 平田珠凜 深海哲哉(グンジョーブタイ/アマヤドリ) ぶっ☆ちょん 別府僚太 Mitsuko 宮﨑萌美(劇団シバイヌ) 山石未来
【YCAMテクニカル・スタッフ】 安藤充人、江木千尋(やの舞台美術)、大脇理智、河合成善(やの舞台美術)、河村高志(やの舞台美術)、クラレンス・ング、中上淳二、吉岡志乃(やの舞台美術)
【YCAMエデュケーション・スタッフ】 金子春香、原泉、山岡大地
【バイオラボスイッチ監修】 津田和俊
【指示文言英訳】 クリス グレゴリー
◆ツアー型スイッチ 公園などの開けた場所で上演される「点在型スイッチ」とは異なり、定められた鑑賞ルートが存在する。主に夜間に上演。観客は4~5人1組/3分間隔で出発し地図や道しるべを頼りにゴールを目指す。ルート上に置かれた全てのスイッチは場所の特性を活かすと共に「統一されたある世界感」に沿って作られており、場の魅力と物語世界を同時に堪能することができる。“きもだめし” のような上演形態から作品はホラー風味を伴うことが多いが実際は失笑上等、真の恐怖ではなく愉快なスリルを楽しめる。これまでに、六本木ヒルズ、本多劇場、アンスティチュ・フランセ東京、象の鼻テラス&パーク、小豆島坂手の街なか等で上演を行なっている。
◆山口情報芸術センター (Yamaguchi Center for Arts and Media) 通称「YCAM(ワイカム)」。山口県山口市にあるアートセンター。劇場、展示空間のほか、映画館、図書館、ワークショップ・スペースなどを併設。2003年11月1日の開館以来、メディア・テクノロジーを用いた新しい表現の探求を軸に活動しており、展覧会や公演、映画上映、子ども向けのワークショップなど、多彩なイベントを開催している。<公式サイトより> https://www.ycam.jp/
【お問い合わせ】 公益財団法人山口市文化振興財団 〒753-0075 山口市中園町7-7(山口情報芸術センター内) TEL.083-901-2222
【主催】 公益財団法人山口市文化振興財団
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『P-act文庫』、京都での1日
昨日4月16日(日曜)は、以前『メフィスト』で共演した白樫由紀子さんの朗読のイベントを見に、妻と二人で京都へ行きました。
妻はともかく私は京都へ行くのは久しぶりです。
お昼前に四条河原町に着いて、『権太郎』という蕎麦屋で私は天ざる、妻は鳥なんば御膳を食べて、祇園・花見小路を歩いて建仁寺を見学。
建仁寺は建仁寺垣の語源になった寺だと思うのですが、行くのは初めてでしたし、そもそも「建仁寺垣」というのがどういうものなのか私は知りません。
こんな近くにこんないい寺��あるのにどうして知らなかったんだろうと思うほどいいところで、期間限定で見られる講堂の天井画・双竜図もなかなかのもの。講堂の周りの牡丹も盛りは過ぎている感じでしたが見事でした。
近くには猪を祀った寺もありました。今年は卯年ということで、1月に兎を祀った岡崎神社へ行きましたが、十二支それぞれを祀った神社仏閣があるのですかね。寺と神社では意味が違うのかもしれませんが、私は亥年生まれなのでちょっと得をしたような気分です。
そこから四条通りまで戻って京阪で出町柳まで出て、ちょっと遠いかなと思いましたが下鴨神社まで足を伸ばし、境内近くの茶屋で私は冷やし汁粉、妻は申餅という餅を食べ、南に下ってP-actまで歩きました。
P-actは河原町今出川を下ったところにある小さな劇場で、雑居ビル(なのかな)の2階。キャパは15(詰め込めばもっと入るのかもしれませんが、コロナ対策もあって15にしているとか)。
「本日のお題」は3作ーー
田丸雅智作『同期で一番(白雪姫)』、読み人:白樫由紀子 夏目漱石作『変な音』、読み人:杉江美生 大倉燿子作『和製椿姫』、読み人:飛鳥井かがり
全部で70分ほどの朗読会です。
最後の読み人飛鳥井かがりさんがこのP-actの責任者のようで、この朗読会を毎月1回開催し、もう113回目ーー朗読会を2回以上見た人なら誰でも読み人になれるそうで、来年3月まですでに予定が決まっているとか。
大したものです。
正直、朗読と聞いて楽しめるかどうかちょっと不安でした。別に朗読してもらわなくとも自分で本を読めばいいじゃないかと思ってしまったのです。また、一日中歩いてかなりくたびれてもいました。
でも、お三方とも立ったり座ったり声色を使ったり、実に芸達者で、最後まで全く飽きることなく楽しむことができました。
ただ一つ残念だったのは、主催者の意向だったのでしょうが、お三方ともマスクをして朗読していたことです。
司会の分寺裕美さんも言っていましたが、読み手の表情や動きも表現の一つです。その表情が見えないのはちょっと残念でした。
そういえば……とふと思い出したのが、中学生の時マイブーム(?)だったNHKの「お母さんといっしょ」の「お話こんにちは」のコーナーです。
中学生が「お母さんといっしょ」を見るのはどうかと思う方もおられるでしょうが、女優の田島令子さんが毎回10分程度の短いお話を読むこのコーナーが私は好きでした。
作者は毎回違いましたが、かなりのヘビーローテーションで別役実先生のお話を朗読していました。私はこの番組で別役先生の名前を知り、その後別役先生の小説や戯曲を愛読したので、ピッ��ロ演劇学校の特別授業で別役先生を目の前にしたとき感動のあまり震えました(だから演劇界で私が「先生」と呼ぶのは別役実先生だけです。演劇学校でお世話になった本田千恵子さん、島守辰明さんも先生には違いありませんが、ちえさん、辰さんと呼んでいます)。
別役先生の前で先生作の『あーぶくたったにえたった』の一部を学生劇団時代からの友人ホイコと読んで「よく練習してるね」と褒めていただいたことは、私の一生の宝です。
それを思えば、私の最初の演劇体験は朗読だということになるのかもしれません。
それもこれも含めていい1日でした。
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2024/10/25 8:00:10現在のニュース
ドコモ、菊花賞で「つながる」をPR 5G通信品質��善へ新アンテナ トリセツ×カイセツ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:58:51) 東急と鈴与商事、静岡空港で太陽光発電 施設の4割再エネ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:58:51) 京阪バス、12月に運賃引き上げ 大阪府・京都府・滋賀県で - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:58:51) 「AIゴーストライター」が侵食する創作市場 編集委員 瀬川奈都子 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:58:51) ハンガリーに浸る一日 26日 江東区の公園でフェス(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/25 7:56:46) ブルボン新作「ラングレイス」に沸くファン、貴族キャラ・家系図を創作 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) 【埼玉】アメリカザリガニやアカミミガメ…特定外来生物を養殖飼料に 横沢金属 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) 道路陥没、3週間で3回も 老いるインフラ「保全技術」課題 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) 東京女子医大、学長が理事長兼務 不透明資金で - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) ホールに生命吹き込む 音響設計家、豊田泰久さん (人間発見) - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) サツマイモのポタージュ やさしい甘みで温まる かんたん美味 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) O脚・X脚、加齢や歩き方も原因 膝の筋肉鍛え痛み予防 カラダづくり - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) 変わるフリーランスの働き方 11月から労災保険加入も 学んでお得 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) 大腸がんのリスク下げる食物繊維、摂取量の目安や注意点 ナショナル ジオグラフィック - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) 電通と文化服装学院、アバターに「デジタルファッション」 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) メルシャン、長野「椀子ワイナリー」でマルシェ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) 長野商工会議所、善光寺に御開帳の請願 2027年開催へ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) 長野県佐久市、合併20周年記念した手帳カバー - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) 衆議院選挙終盤情勢 長野 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:49:40) 投票率“日本一”の島に政治不信じわり 裏金に怒りとあきらめ交錯 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/10/25 7:49:35) 川崎市民が手作り「しんゆり映画祭」 30回目、あす開幕 役所広司さん主演作など 20作品を上映(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/25 7:49:09) 横浜の南舞岡、日限山小学校 26年4月に統合へ 市教委 斎藤分小と二谷小は当面見送り(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/25 7:49:09) パリ五輪・ブレイキン 初代女王AMIら川崎市役所訪問 市長��感想など語る(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/25 7:49:09) 函館山の観光 混雑緩和へ入れ替え制検討 函館市「分散化の必要」([B!]読売新聞, 2024/10/25 7:45:59) 「眼球使用困難症候群」知っていますか?…「光を1秒見ただけでも、生死をさまようほどの苦しみに」:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/10/25 7:45:48) 「別姓を選べれば結婚する、という若い世代は一定数いる」事実婚はアイデンティティーやキャリアの喪失避けるため:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/10/25 7:45:48) 「日本ツアーもこれくらい」 初日から盛況のZOZOで芽生えた決意(朝日新聞, 2024/10/25 7:44:49) 炭鉱で犠牲、海底に放置された183人 遺骨収容へ動く市民の思い | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/10/25 7:43:16) 日本一「滝」多い山形県、空海が命名「玉簾の滝」が大雨で削られ形変わる…他の滝も土砂流入で近づけず([B!]読売新聞, 2024/10/25 7:39:23) 勝敗のカギ、比例票の行方は 自民は60議席台が焦点 衆院選(毎日新聞, 2024/10/25 7:36:04) 日本人写真家の魅力紹介 「T3 PHOTO FESTIVAL TOKYO」八重洲一帯で開催中 27日まで(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/25 7:31:51) 5年ぶり「弘前ねぷた」 墨田区の北斎祭りで あすから(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/25 7:31:51) 能登の被災地支援コンサート スター歌手一堂に 江戸川で29、30日(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/25 7:31:51) 全日制167校の定員 320人減の4万315人 来年度都立高募集(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/25 7:31:51) B29特集の企画展 空襲標的の武蔵野市で開催 ふるさと歴史館で31日まで(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/10/25 7:31:51) マイナ保険証「持ちたくない」12月から受診どうなる? | 職場のトラブルどう防ぐ? | 井寄奈美 | 毎日新聞「経済プレミア」([B!]毎日新聞, 2024/10/25 7:30:54) 三菱電機、画角2倍の赤外線センサー 病床見守り効率化 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/10/25 7:30:50)
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東北ユースオーケストラ 演奏会2023ツアーは5日目、移動日です。
今朝の岩手日報。

社会面の天気予報の横の目立つ場所に、目立つ記事。団員の岩渕さんのコメントのまま、「本当に良かった」です。
そして、終演後は団員と東京フィルのエキストラの方々と盛岡の老舗「東家」さんで、わんこそば大会が開催できたのも「本当に良かった」です。今回のツアー一行の「いわて旅応援プロジェクト」のクーポンを利用したため、貧乏楽団にはうれしいキャッシュアウトはゼロ円での豪華イベント。
みんなで一緒にご飯を食べて笑ったのは、たぶん2019年夏の河口湖での夏合宿以来の4年ぶりではないでしょうか。
わたくし引率の先生役は78杯でお椀を閉じましたが、中学生女子が100杯超えだったり、東フィルの敏腕ステージマネージャー大田さんが最少記録24杯だったり、みんながフラットに消化杯数でコミュニケーション取れるのもTYOに向いているぞ、わんこそば。
ということで、今日は移動日です。 朝から団員の宿泊先オガールインにはバス3台が待機。

団員のスムースなチェックアウト手続きは、福島事務局のジュニアオケ運営のベテラン大塚真理さん、ジュニアオケで講師の竹田学さん、昨日から合流した東京事務局の須賀雅子さん、さらに宮川裕さんの頼れるスタッフによるものです。

カメラを向けると必ずピースしてくれると、元気ぶりが無言で確認できます。

休憩の鶴巣サービスエリアには、直前合宿からの急上昇上達ぶりを表現しているかの飛行機雲。
さすがに国見サービスエリアでのランチタイムで、蕎麦を食べている人は確認できませんでした。

国見がご実家すぐの竹田さんが教えてくれた、この季節にしか見れない吾妻小富士の「雪うさぎ」なんだそうです。確かにうさぎ、です。
別名「種まきうさぎ」とも呼ばれているそうで、これにちなんで福島市のマスコットキャラクター「ももりん」が、うさぎなんだそうです。福島名産の「もも」と「りんご」で、「ももりん」。オランダ生まれのミ○フィーに似てい・・・。

高速を降りたバスは、郡山。バスの後部座席に座る地元女子団員の恋バナトークが面白すぎて、仕事のファイル作成が進まない訳ですが、昔通った幼稚園の近くになると「原発事故のせいで出来た屋内砂場は楽しかったなぁ」なんて盛り上がりを聞くと、みんなの中の311体験に気づきます。

無事にホテルにチェックイン。一番右のフルート担当の石川慧花さん(福島県、高校三年生)が手にしている、人の顔のようなニットキャップが目につきました。

なんと坂本龍一監督ではありませんか!
裏側は、

猫!
お母さまのお手製なんだそうです。 今回は病気治療中で参加できない坂本龍一監督を肌身につけて、ご回復を祈りながらの演奏会2023ツアーの参加なんですね。 団員みんなの気持ちですね。
WBCで日本に見事な優勝をもたらした栗山英樹監督は、「イメージしたことが現実になる」という信念の持ち主で、ナポレオン・ヒルが原点とも言える成功哲学の発祥の地、アメリカを破りました。
東北ユースオーケストラ の団員も坂本龍一監督と再び同じステージで共演できることを強く信じて、明日からの郡山、明後日の名取、そして最終日の26日の東京公演に臨みます。
当日券を販売しますので、自信に満ちた団員たちのマーラーの交響曲第5番、坂本監督の311への鎮魂を込めたTYOのための書き下ろし曲「いま時間が傾いて」の生演奏をぜひとも聴いてください!
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【速報】第101回全国高校サッカー選手権の組み合わせが決定!前回王者・青森山田は広島皆実と激突
21日、第101回全国高等学校サッカー選手権大会の組み合わせ抽選会が行われた。 大会は12月28日(水)に開幕。決勝戦は2023年1月9日(月・祝)、国立競技場で行われる(※前回同様、準決勝から国立開催) 1回戦 12月28日(水)~29日(木) 尚志(福島) vs 徳島市立(徳島) 北海(北海道) vs 国見(長崎) 日大藤沢(神奈川) vs 西原(沖縄) 松本国際(長野) vs 米子北(鳥取) 盛岡商(岩手) vs 帝京第五(愛媛) 東邦(愛知) vs 履正社(大阪) 鹿島学園(茨城) vs 龍谷(佐賀) 帝京大可児(岐阜) vs 岡山学芸館(岡山) 星稜(石川) vs 東山(京都) 聖和学園(宮城) vs 大分(大分) 丸岡(福井) vs 高知(高知) 日体大柏(千葉) vs 芦屋学園(兵庫) 前橋育英(群馬) vs 日章学園(宮崎) 羽黒(山形) vs…
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20221115(Tue) 晴れ
忘れないうちに、2日前に走った福岡マラソン 2022の感想(完走)を書き殴りメモ。
抽選ということで半ば運試し感覚で応募したら当たってしまったのがすべての始まり。または今年の年初に立てた目標のうちの1つ。
夏の盛りを過ぎた9月からぼちぼち週末に大濠公園を10kmラン→西公園浴場→BEERHOLICというルーティンを確立するも、10月から妙に仕事とプライベートが忙しくなり九大学研都市駅からゴール地点までの試走(24km)が事前の一日最大走行距離だった。大会一週間前には地元のキャンプフェス出店準備もあり思うようにトレーニング出来ず、体調だけは問題ない状態で本番の11月13日を迎えた。
まず最初の反省点としては、日曜日の電車の本数の少なさを見誤り天神到着がギリギリになってしまったこと。手荷物預けは間に合わず天神駅のロッカーにバッグは預けることとなった。それから急いでスタート地点へ駆け込む。天気予報は一週間前からずっと雨予報だったが、その時点では奇跡的にも青空が広がっていた。
8時20分にスタート。しばらくは快調に走る。マークイズ福岡ももちを過ぎたあたりから次第に雲行きがあやしくなり、マリノアシティ福岡の手前、愛宕大橋のあたりで雨が降り始める。今宿のあたりまでは降っていただろうか。それでも普段のランに比べたらとても快調。あっという間に一度試走した区間に合流する。
九州大学の手前の給食、石村萬盛堂のあまおう苺鶴乃子が今回一番美味しかった。はっきり言って、全エイドポイントに置いていて欲しかったレベル。
九大箱崎キャンパスを過ぎて折り返し。この辺までは横風が強かった印象。雨は止んでいた。走ってきた道を戻って元岡小学校から左折。試走の際ルートを間違っていたのでここから今津運動公園までが初めての区間だったが、ここがかなり長く感じられた。終盤の田んぼ区間と同様に変化の乏しい景色をだらだら走る為、肉体的にも精神的にもくる。周りでも歩いたり止まったりする人たちが急増したように思う。自分の脚の調子も、思えばこの辺りから少しずつ重くなり出した頃だったと思う。
今津運動公園のエイドはトイレ休憩と給食のうどんを食べたり意識的にゆっくり過ごすようにした。
25kmを過ぎていよいよアップダウンのある糸島半島海沿い区間。まず、大原海水浴場の辺りで異変が始まる。エイドでゆっくり休息したはずなのに脚が鉛のように重たい。たまらず歩く。サイクリングの時いつも休憩する魚庄(白山神社)の辺りから本格的に登りが始まり、歩くシーンが次第に増え始める。銀の宇宙船(久保田クリニック)の前はほぼ歩いていたような気がする。
それでも最大の勾配となる灘山の辺りはなんとかジョグで越えた。しかしそこからジハングンまでの区間でかなりペースが落ち始める。ペースメーカーの集団に抜かされた気がする。エアーサロンパスのエイドに藁にもすがる思いで飛び込む。こういったものは今迄一度も使ったことがなかったが、効果はかなり感じられた気がする。鉛のような脚が少しだけ解凍した気がした。
しかし、二見ヶ浦の区間に入り今度は猛烈な向かい風の攻勢に直面する。試走イメージでは快調に走るつもりだった景勝ポイントだが、全くペースが上がらない。道沿いのテナントから大音量で流れるZARDの曲が人生で一番心にしみた。
UOVOのところでとっておきだった高価なスズメバチエキス(?)のジェルを投入。しかしこれは効くどころか逆効果に感じた。それまで3,4本MAGONのジェルを消費していたが、エイドでも給食を逐一取っていたせいもあってか、逆に胃のムカつき感を覚えてしまった。ジェルは減らして良かったかもしれない。フルマラソンは内蔵の負担もかなりのものだということか。
試走の際にもひときわ堪えた最後の田んぼの直線区間。やはり、ここが一番の地獄だった。気持ちの上では走りたいのだが、自分の脚とは思えないほど重い。変わらない景色の中、かなりのランナーに抜かれていった気がする。最後の1kmまでが本当に辛かった。経験したことのない辛さだった。傾・祖母縦走の10倍は辛かった。皆こんな辛い中フルマラソンを走り抜いてるなんて信じられない。狂っている。そんな心境。
最後、久しぶりの信号が見えその先にセブンイレブンの看板が見えたらゴール。思ったよりもあっさりとしたゴール。正直言って、感動よりも辛さが上回っていた。タイムは5時間を4分過ぎていた。初のフルマラソンでまぐれでサブ4にどのくらい近づけるか…なんて実に愚かな考えだったと打ちのめされた気分だった。それでもフィニッシャータオルを受け取りカメラマンに撮影されると、完走できたんだという安堵感が急に芽生えてきた。
2日が経ち今の心境としては、次はペース配分を見直し、装備を見直し、走力をイチから鍛え直し、少しでも歩き区間を減らしたい、5時間切りをしたい、といったところだ。そう。もう次の、来年の福岡マラソンのことを考えている!1万6000円も払ってあんな辛い思いをするのに?いよいよ自分も狂っているようだ。
その前に2月の横島いちごマラソンハーフでリスタートしよう。今日出場費を払い、正式にエントリーした。
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中国江蘇省の「南京大虐殺記念館」が2017年12月14日、リニューアルを終えて一般公開を始めた。 しかし、産経新聞の河崎真澄記者の報道(2017.12.15)によると、「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」として顕彰された朝日新聞の本多勝一元記者らの写真と資料が撤去されていたことが分かったという。 河崎記者は日本軍が朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言報道が「虚偽だった」と朝日新聞が認めたことなどから、同紙の過去の報道の信頼性に疑念をもたれる恐れがあると判断した可能性があるとしている。 一方、習近平主席が2015年の公式訪英時、エリザベス女王主催の晩餐会で「日本侵略者の暴行を暴く記事を発表した」などと英国人記者を称賛して中英の友情物語として紹介したことがある。 ところが、岡部伸(産経新聞ロンドン支局長)氏の調査で件の記者は南京に行っていなかったことが判明した。筆者はこの失態の影響もあるのではないかと思料している。 嘘は大きければ大きいほど愛国心が強い証とされた「愛国虚言」ゆえか、本多氏のルポルタージュ「中国の旅」(1971年)以来、「南京大虐殺」は拡大の一途をたどり独り歩きしてきたが、展示品の撤去や事実を確認しない虚偽の紹介は、矛盾の露呈ではないだろうか。 ■ そもそも「南京事件」とは何か 支那事変(日中戦争、日華事変とも呼称)は、北京近傍の盧溝橋事件(1937年7月7日)で始まり、3週間後の29日には日本人居住地を守っていた中国の守備隊が反乱を起こし、250人余の猟奇的殺害、処刑を行う通州事件が起きる。8月9日には上海に拡大した。 「中国に深入りするのは泥沼に踏み込むようなものだ」と不拡大を主張していた参謀本部の第1部長石原莞爾少将や慎重論の米内光政海相も堪忍袋の緒を切らし、作戦を限定する方針のもとに上海への出兵に同意する。 9月にかけて2個師団強(第3・第9師団、1個支隊)が松井石根大将を総司令官とする上海派遣軍として派遣された。 他方、蒋介石の中国側はドイツから招いた将軍の指導下にチェコ製機関銃を配備するトーチカを構築して、75個師団(約75万人)の大兵力を布陣していた。 日本側は苦戦を強いられ、11月には予備役まで招集した第10軍(第6・第101師団、1個支隊)を増派、北支から第16師団も転用して上海派遣軍に編入し、中支那方面軍(司令官松井大将)を編成した。
5個師団基幹でも総兵力は約7万人で、国民党軍の10分の1以下でしかなかった。 蒋介石は住民を盾にする戦術を採り、住民を巻き添えにしたくない日本軍は至る所で思わぬ抵抗を受け、20キロを進むのに1か月余を要した。 その後の南京までの三百数十キロの追撃が30日であったことからも、上海戦の激烈さが分かる。 日本軍が南京攻略戦を開始したのは12月8日である。蒋介石は前日に南京を脱出する。 松井方面軍司令官は9日1600に翌日正午までの停戦命令を出し降伏を勧告するが返答なく、10日1300に攻撃を再開した。 日本軍の攻城に耐え切れず南京防衛軍司令長官の唐生智が12日夜脱出すると、13日早朝に南京は落城する。その後城内の掃討戦を行い、17日に松井司令官を先頭に入城式を行う。 日本軍の意向もあって、12月23日には早くも南京市自治委員会が成立し、翌1938年1月1日を期して発会式を挙行している。 城壁上に上がった陶錫三会長は城下に集う民衆に対して「ここに敵の主都は甦生へのスタートを切った」と宣言する(「アサヒグラフ」昭和13年1月26日)。 「南京事件」と言われたものは、米人宣教師たちが後々の布教のために、「城内における日本軍の暴行」をでっち上げ、国際世論や南京市民の支持を得るプロパガンダであったとされる。 従って、城内の暴行報告は日本軍の南京入城(12月13日)から翌38年2月上旬までの約6週間であった。 しかし、この間の暴行報告を見ても強姦、掠奪、放火などで数も多くなく、虐殺と思われるような事象は見られない。
事実、南京戦以前は100万人いた市民の多くは戦火の拡大と共に脱出した。 残った20万人もドイツ人ジョン・ラーベを長とする国際委員会が設定した安全地帯(安全区や難民区などの呼称もあり、皇居前広場の約4倍)に収容され、安全区外の城内にいる市民はほとんどいない状況であった。 しかも、城内の人口は日本軍の入城後も減ることはなく、2月頃は25万人と推定されるまでになっていた。 この時点で南京市民虐殺30万人説は成り立たず、「南京大虐殺」の虚構は崩れ去る。 しかし、大虐殺は「あった」派は満足せず、何時しか上海戦から南京攻略に至るまでとしたり、南京攻略戦以降の数か月にわたる期間などとするように変化させていく。 また、歴史家で「日本『南京』学会」理事でもある冨澤繁信氏は、大虐殺の出発点となった6週間内の「南京安全地帯の記録」を丁寧に翻訳・研究し、安全地帯の記録で「兵士」と書かれているのを一方的に「日本軍兵士」とする恣意的誤訳などを指摘している。 ■ 本多氏『中国の旅』での記述 日本軍が南京に近づく状況を本多氏の『中国の旅』は、「ここに至るまでに、すでに膨大な数の住民が殺されています」と書いている。 日本軍が入城すると、10万人以上いた蒋介石軍の高級将校は家族を連れ、また主な将校らも北側の2つの門から逃げ出し、門を閉め外から錠をおろして遮断する。 そこに大衆が押し寄せると、「日本軍は機関銃・小銃・手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、餌として食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる・・・大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」。 日本軍は「二つの門を突破して、南京城外へくりだした。長江ぞいに下流(北東)へ、・・・と虐殺をすすめ、さらに南京城北7キロの燕子磯では10万人に及ぶ住民を川辺の砂原に追い出しておいて、機関銃で皆殺しにした。・・・このときまでに、南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」と記している。 本多氏に語る姜根福氏は「アヒルがたくさん浮いているかのように、長江の水面をたくさんの死体が流れていた光景が、今でもはっきりとまぶたに浮かびます」と語る。 続けて、「虐殺は大規模なものから一人、二人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦を受けた。紫金山でも2000人が生き埋めにされている。こうして歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで2カ月ほどつづけられ、約30万人が殺された」と語るのである。
このわずかな引用でも異常な殺し方が見られるが、姜が伍長徳さんから聞いた話として次のような記述がある。 「(日本兵は)逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた」 「・・・下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と皮が離れたりしていた」 「(化学工場では)強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食った」 残酷な殺し方が出てくるが、日本人にはなじめない方法ばかりである。 中国の古典『資治通鑑』にはこうした殺し方が記述されていると言われ、正しくこれらは中国4000年の歴史でしかないようだ。 なお、南京は幾度も事変に見舞われ、その度にこうした殺戮が繰り返された都市でも���る。 ■ ごまかしに終わった藤岡氏との誌上討論 「週刊文春」(2014.9.4号)が「朝日新聞 売国のDNA」で、「本多氏は事実とかけ離れた『南京大虐殺30万人説』を流布させた人物だ」として、上述の「歴史上まれに見る惨劇・・・」を引用したうえで、藤岡信勝拓殖大学客員教授の「この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者30万人などは、まったくのデタラメです」とのコメントをつけていた。 このコメントに対し、「週刊金曜日」編集部から「週刊文春」編集部に「公開質問状」が届く。 両者の意を受けた両編集部が相談した結果、誌上での公開討論を5回行うことになるが、藤岡氏の第1信に対する本多氏側の「週刊金曜日」からは本多氏とA記者が対談する変則的な形の第1信が届く。 これでは2対1の討論で、しかも討論相手の本多氏の発言は10%位(全5信の文字数6000字中の比率)でしかないという。
藤岡氏が「本多氏との誌上討論には同意したが、正体不明の『A記者』なるものと討論することを承諾した事実はない」から「心底驚き、呆れた」「卑怯であり卑劣である」「責任逃れ」だと詰るのも頷ける。 平行線というか不毛に終わったように、日中間の最大の歴史戦は南京事件である。 当時、南京に派遣された特派員は朝日新聞約80人、東京日日(現・毎日)新聞約70人、同盟通信社約50人など、総計200人超とみられ、また「アサヒグラフ」などの写真報道も盛んに行われた。 こうした資料が「南京事件」を全くと言っていいほど扱っていないのは、そもそも事件は「なかった」という最大の傍証ではないだろうか。 筆者がJBpress『欺瞞にみちた創作か、本多勝一氏の「中国の旅」―「柳条湖」をルポルタージュで「柳条溝」とした顛末から読み解く』に見たと同じく、当時の史料や関係者の発言などよりも中国側が長年にわたってシナリオを練り脚色した言説を信じるという「本多ルポルタージュの破産」(殿岡昭郎氏)ではないだろうか。 ■ 記者たちは真実の報道を怠ったのか 南京城を陥落させるまでの数日間は城外で激戦が続くが、入城後に市民を虐殺したという報道はほとんどない。 20万人と言われた市民のほぼ全員が安全区に避難し、安全区以外の城内外にいたのは中国の兵士だけであったとみられているからである。 石川達三など一部の作家が日本兵士の悪逆非道ぶりを見たように東京裁判前に新聞に書いたが、後に「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。・・・(自分が以前書いた)あの話は私は今も信じてはおりません」と否定している。 当時の各新聞やアサヒグラフ、支那事変画報(朝日版、毎日版)などが報道している内容は、平和な日常が返ってきたという印象の記事や写真がほとんどである。 しかし、8年後の南京裁判と東京裁判で、突如として20万とも30万とも言われる虐殺を日本軍がやったとして被告席に立たされる。 戦闘に関わった万を数える将兵や当時現地で取材したほとんどの記者たちも、初めて聞く話に驚き、狐につまされた感じであったと述べている。
前述の通州事件はたった1日の出来事で、記者らしい記者もいなかったが、翌日からは各紙が報道した。 一方、6週間にもわたった南京戦では200人を超す内外記者・カメラマン、作家・画家、内外の外交官などが居合わせながら、誰一人として「虐殺」など語らなかったのだ。 松井石根・中支那方面軍司令官は入城に先立ち9日、唐生智・南京防衛司令官あてに降伏の勧告を行っている。 主旨は南京には歴史���産が多くあり破壊するに忍びないし、また罪のない民衆が傷つくおそれがあるので南京を開放せよというものであった。 しかし、指定時刻になっても南京城からは何の反応もなく、勧告を無視したので攻撃命令が発せられた。日本軍は激しい攻城戦を繰り広げながら包囲網を確実に狭めていった。 南京を逃れて重慶に政府を移転した蒋介石さえ、内外への宣伝と支援要請のため開いた300回もの記者会見で「虐殺」には言及していない。 のちに政権を取る毛沢東も「自分が政権を取れたのは皇軍のお蔭」とは述べるが、虐殺非難など一切しなかった。 「虐殺」ほど世界を驚かし、同情を誘い支援要請に好都合な宣伝であろうに、「一切しなかった」、いや「できなかった」のはなぜか。答えは言うまでもないであろう。 ■ 暴虐を働いたのは支那兵だった 1937~38年の日中戦争当時、蒋介石や国民党軍の行動を実見した米国人ジャーナリストのフレデリック V. ウイリアムズは、『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』(田中秀雄訳)で、蒋介石の国民党が米国を巻き込んで、残虐極まる中国軍を糊塗して、悪逆非道の日本軍とするプロパガンダ大戦略を練り展開する状況を記している。 本多氏の「中国の旅」は、中国にとっては「飛んで火にいる夏の虫」を捕えた場外延長戦ではなかったのだろうか。 宣伝に長けた中国共産党のプロパガンダで、仕組まれた成果は「南京大虐殺記念館」の建設(1985年)にも繋がっていったのであろう。 大阪朝日新聞(12年12月10日付)は、「負傷兵締め出し」「非人道極まる支那軍」の見出しで、ニューヨーク・タイムス南京特派員の9日の報道を転載している。
日本軍に圧迫されつつある支那兵が化学戦研究所や金陵公園内の政府要路の大人たちの広大美麗な邸宅に放火しているというのである。 同時に、中国人負傷兵が城内に入って中国軍から手当てを受けるのを締め出すために門を閉ざしたと伝える。 それどころか、城内で治療を受けていた負傷者までが城外に追い出され、自力で城壁を迂回して揚子江へ出るか、野垂れ死にする以外にない状況に置かれたとの報道である。 日本軍との城外での熾烈な戦闘の一方で、支那軍自身が自国民や負傷兵士を手当てするどころか、死に至らしめている状況を作り出していたのである。 同紙はまた、「狂ふ支那軍の大破壊」「外人の軍事専門家呆れる」の見出しも掲げ、中立国の軍事専門家がニューヨーク・タイムス南京特派員に語ったことを報道している。 それによると、「日本軍の空襲砲撃の与えた損害は殆んど軍事施設に限られてをり、これを全部合わせてもなほ支那軍自身の手によってなされた破壊の十分の一にもたらぬであろう」というのである。 「支那軍は退却に当たり、不毛の原野や残煙立ち昇る廃墟を後に残して、これを日本軍に占領させた方が、ただ空しく退却するよりは、彼らの威信を高めるものだと信じてゐる」からだという。 そして「今や日本軍の進撃を前に奥地に殺到する避難民は数百万に達してゐるが、支那政府が彼らを救済しようとしても何事もなしえぬ今日、彼らは如何にこの冬の衣食住を得んとするか、これは想像に余りあるものがあらう」とも述べる。 日本軍の手の届かないところで、南京市民や負傷兵たちがほかならぬ中国軍によって死に追いやられている状況を遺憾なく示していたのである。 このように、中国政府や中国軍は、市民たちをあっさり棄民として見捨て、われ先にと安全なところに逃げて行った。 日本軍が入城した時に見た死体などの光景は、中国軍が自国の市民を死に追いやった姿であったのだ。 姜根福が語った「南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」というのは、中国軍の仕業であったことが図らずも証明されるのである。
■ 全体的に平穏な南京城内 同盟通信社の前田雄二記者は開城と共に入城するが、「まだ戦闘は終わってはいない。城内の中国軍は統制を失ってはいたが、各要所に立てこもって一歩もひこうとしない部隊であった」と相手のタフネスについてもしっかり記録している。 そして「浅井、祓川、高崎などのカメラは、この市街戦をとり続けた」(『戦争の流れの中に』)と書いている。このように、城内の戦闘状況を撮りつづけていた同盟通信社のカメラマンだけでも3人がいたのである。 当時の新聞などは戦闘状況を報道しているだけで、「南京事件」を報じていなかった。先ほど述べたように、むしろ退却する中国軍の悍ましい状況を報道している。 当時のアサヒグラフなどの写真を見ても、大人も子供もにこやかな顔の写真が多く、日本軍の入城を歓迎したという話はあながち嘘でもなかったことが分かる。 そうした中で、蒋介石の宣伝戦に協力する外国人(特に米国人宣教師など)や外国メディアが外電で針小棒大に事件を仕立てて報じたわけで、実際に戦争に関わっていた将兵や数百人もいた報道記者たちにとっては、初めて耳にすることで吃驚仰天以外の何物でもなかったというのである。 戦後の中国共産党は、戦前・戦中の報道や東京裁判での判決などをベースに、日本に対し三戦でゆさぶりをかけているわけで、吟味なしに被災者たちの声を直接伝えることは、共産党の広報員になったも同然ではなかろうか。 今日においても日常的に、自己正当化や数値の操作などは共産党が得意とするところである。 南京の事象を日本軍の暴行として報道する外国人教授や米国人宣教師たちはどこにいたか、主として安全区に避難していた。 危険地帯を歩き回っている記者やカメラマンらの目と、安全区に保護されている欧米人の目と、いずれが信ずるに足るというのだろうか。 午後は残敵掃討戦になる。 「敵は陣地を放棄する時は建物に火を放つので、黒煙がもうもうとあがる。砲火と銃声がひびきわたり、市内には凄愴の気がみなぎった。住民の巻きぞえをくうものもあり、中国軍の遺棄死体は多数にのぼった」と前田記者は記す。 また「多くは兵服を脱いで住民に成りすました」とも述べている。 前田記者は13日から15日にかけ、何回となく南京城内を車で見て回っている。旧支局が安全区内にあったということで、15日には安全区に入っている。
「店はまだ閉じていたが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していたのだ。私は戦争で荒れた心が和むのを覚えた」という。 報道写真からもそうした情景をみることができる。 14日の状況について、東京朝日新聞(12月16日付)はどういう報道をしていたであろうか。 「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。14日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くと、もう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」 しかし、当然のことながらこの前後にも小競り合いの戦闘は継続しており、16日には日本兵が捕虜を銃剣で処刑している場面に遭遇する。 その後、下関の挹江門に回ると「まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている」場面に出くわす。 また他の場所では銃で処刑しているところも見ており、別の記者が日本の兵士に勧められて中国兵を射殺もしている。 翌17日が入城式で、約100人の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一氏などもいたという。 翌日、再度城内を車で走ると挹江門の死体はすべて取り除かれていたが、護送中に反乱を起こした「夥しい中国兵の死体の山が(揚子江岸に)連なっている」のを目撃している。 市民は安全区に保護されており、決して市民の死体などではない。 戦いの相手であった国民党が発刊した当時の国民党軍の行動記録にも不法殺害や虐殺などの字は見出せない。 前田記者たちは、同社の記者とは言うまでもないが、他の新聞社の記者らとも情報交換しており、自分一人の目で見たことではなく、南京戦場のあらゆるところから何百人もの記者らが見たり聞いたりした言行をベースに書いている。 前田記者が城内を実見した状況や当時の朝日新聞が報道した内容、また国際連盟での中国代表であった顧維均等の発言・討議と、宣伝戦を得意とする中国共産党の息のかかった人物から本多氏が30余年後に聞き書きした内容と、どちらの信憑性が高いかは一目瞭然ではなかろうか。
森 清勇
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薄磯スタディツアー(秋祭り)、ワインボランティア
9月17日に、薄磯地区でのスタディツアーを行いました。今回は薄磯地区の伝承館の訪問、薄磯地区でのボランティア活動、同時に富岡町のボランティア活動を通して震災復興について広く学んでもらうというものです。
今回の主題としていわき市薄磯にあるいわき震災伝承みらい館で、薄磯地区における東日本大震災による津波被害について学びました。
初めて見学に訪れた1年生もいましたが、みらい館では初歩的なところから説明されていて、とてもわかりやすい展示だと感じました。
展示物には、旧豊間中学校の体育館にあり震災時の津波によって被災した「奇跡のピアノ」などがあり、薄磯地区における津波が町に甚大な被害をもたらしたことを実感しました。また、地震や津波、福島の復興などに関する本を紹介するコーナーもあり、どれも興味深いものだったので、そちらも参考資料として読んでみようと思いました。
福島における震災の被害と言うと原発事故ばかりが注目されがちですが、他県の沿岸部と同じように大きな津波にも苦しめられていることを忘れてはならないと強く感じました。

また、薄磯地区にある慰霊碑や豊間地区の防災公園などの視察も行いました。慰霊碑には津波の高さが刻まれており、現地でその恐ろしさを感じることができました。

薄磯の町の様子の変化が下記いわき市HPに載っていますので、現地にいけない方はぜひこちらを比べてみてください。
同時に行われた富岡町でのワインドメーヌでの活動では、ワインの原料であるぶどうの収穫のお手伝いをさせていただきました。
ぶどうの収穫のために、朝6時に集合して作業に取り掛かりました。
早朝の活動は大学生にはつらいですが、いよいよ収穫ということで参加者の皆さんはとても気合が入っていて、私たちも負けじと頑張って作業に取り組みました。
今回収穫したのはソーヴィニヨン・ブラン。今まで成長を見守ってきたぶどうが収穫されるのは感慨深いものでした。これまでの記事でも紹介させていただきましたが、津波被災地域の復興の一つとして始まったぶどうが、年々成長しおいしいワインになると思うと、今年も待ち遠しいです。

午後からは薄磯の秋まつりのお手伝いをさせいただきました。
薄磯区会の方々が来場者にカレーライスや焼き鳥を配っていて、それらの配布のお手伝いが主な仕事でした。
先ほど薄磯地区の津波被害について書きましたが、それとは打って変わって薄磯の元気な様子を見ることができました。天気も良くたくさんの人が足を運んでくださったので、お食事を配布するブースは大盛況でした。

会場にはステージも用意されており、フラガールたちによるフラダンスや地元のアイドルであるアイくるガールズさんのステージなどが企画されていてお祭りを盛り上げていました。どれも華やかで、思わず目を奪われてしまうものばかりでした。
ステージの最後にはいわきの伝統芸能であるじゃんがら念仏踊りもあり、津波の犠牲者の霊を慰めるための太鼓と鉦の音がとても印象的でした。

お祭りのあとには復興と鎮魂を祈る花火が浜から打ち上げられました。500発の花火を普段よりずっと近くで見ることができ、空一面に花火が広がる様子は圧巻でした。

今年度の薄磯地区での活動は、7月に行われた海開きに引き続き2回目となりましたが、これらの活動を通して震災による津波被害から立ち直りつつある薄磯の皆さんの力強さを目の当たりにしました。これからも、薄磯の震災被害について学びつつ、たくさんの人に笑顔になってもらえるよう頑張っていきたいと思います。
今回の活動は一般社団法人 東北地域づくり協会「みちのく国づくり支援事業」の後援をいただいて実施しております。この場を借りて、感謝申し上げます。
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