#天皇即位の日
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ari0921 · 16 days ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和七年(2025年)6月12日(木曜日)弐
     通巻第8821号 
 
 “疲れを知らない暴走老人”は「LAを解放する」と宣言 
  戒厳令はLA市長、ニューサム知事は“反トランプ”を鮮明にして次を狙う
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 トランプ大統領は明後日(6月14日)に79歳になる。
首都ワシントンで軍事パレードを開催する予定で、「米陸軍創設250周年」の式典とし、戦車や装甲車などが兵士とともに行進する。
 まさに「つかれを知らない暴走老人」は、ゴルフ大好き、ビフテキをコーラで食し、ハンバーガーも好むが酒を飲まない。トランプはアメリカのソフトパワーを廃棄処分とする。ハーバード大學などへの措置がそのことを端的に物語っている。
 クルーグマン(ノーベル経済学賞)は「トランプは完全に狂っている」と発言したが、狂っているのはどちらだ?
つねに過激なブラフ、他人を面罵し、その即席の比喩が面白い。石原慎太郎のような文学的レトリックを欠くが、アメリカの大衆には受ける。
野球、ブットボール、ラグビー、ボクシング愛好人口はインテリの人工よりはるかに多く、かれらは左翼議論に耳を貸さない。
だからトランプはブルーカラー層に絶大な人気がある。選挙の勝敗を決めるのは彼らだ。
 さてハーバード大学、コロンビア大学に難題を突きつけ、研究補助を削減し、外国からの留学生を33%から15%程度に抑える。窮極の狙いは中国の学生スパイの駆除、左翼インテリへの挑戦である。グローバリズムなぞ「糞の役にも立たない」と考えているからだ。
 フト考えて見た。そうした糞の役にも立たない学問を学びに日本人留学生はせっせとアメリカの大學に留学したのか。たしかに留学帰りの新進気鋭が日本に帰国後、斯界をリードした。だがテレビでコメントする米国留学帰りのセンセイたちは、アメリカ流リベラルの伝道者でしかなく、日本の国益を重点として、新しい学問を活用するという志を感じますか。 
鳩山も小泉も赤沢大臣もアメリカ留学ですゾ。
 経済をみても、戦後はサミュエルソン、フリードマンなど颯爽とアメリカの学説を留学帰りが権柄づくにのたまわっていたが、竹中平蔵は日本経済の基盤を壊したのではないのか。社会学にしてもアメリカのリベラル亜流ばかり。例外はドラッカー、ハイエクくらいだろう。
 翻って遣隋使、遣唐使を思いだそう。
皇帝側近にまで登りつめた阿部仲麻呂を筆頭に吉備真備は万巻の書、新兵器、宗教書を持ち帰りながらも、けっして唐には染まらなかった。
 空海も最澄も道元も唐へ行ったが、学んできたものを咀嚼して日本流に置き換えて昇華させたという学問的成果を挙げた。
留学しなかった藤原仲麻呂は、むしろ唐にかぶれて位階から役���の名前まで唐風に変更し、ハイカラと唾棄された。彼の反乱が失敗するや、すべて国風に戻された。
 遣唐使、遣隋使は600年から838年間で合計20回ほど派遣された。初回大使は小野妹子、答礼で日本にきたのが裴世清だった。
 西暦894年に、大使に任命されていた菅原道真が中止を建言し、沙汰止みとなった。
航海の安全とか、費用とかを理由にに挙げたが、本音は「学ぶべきものがない」からだ。「唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕したとする認識の生成」(森公章『遣唐使と古代日本の対外政策』)による。
応神天皇期に学問の輸入が旺盛だったのは「文字」の流入が主眼だった。敏達天皇期の仏教輸入は数十年間、排斥された。遣唐使の絶頂期は唐王朝も絶頂だった。文物、とりわけ文献と兵器、薬事、楽器などの祭器には魅力があったことは確かだろう。つまり日本はアメリカの自動車、造船、鉄鋼技術で凌駕した。学ぶべき分野は軍事技術、医療、薬学、AIなど、この方面への留学は続けざるを得ない。
 一方で、遣隋使、遣唐使よりシナから派遣される遣日使のほうが人数が多く、しかも彼らの多くは帰国しなかった。鑑真は日本に事実上の亡命を果たした。
 白村江海戦で敗北を喫したため、百済の顕官ら2400名近くを、阿倍比羅夫が連れ帰った。海軍を率いた安曇比羅夫は、敗戦の責任をとらされ。信濃の山奥へ配置換えになった。長野県安曇野はワサビ、林檎の産地となった。
 天智天皇は敗戦後、筑紫に水城などを築城し防戦に備える一方で、百済の高官、匠らの事実上の亡命を認めた。通説とは事実は逆である。古代史の価値観をそろそろひっくり返す必要がある。同時にアメリカ留学の本来の意義を、もっと真摯に考え直すべきであろう。
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stoopid-o · 20 days ago
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ベニテスとイラク現代史
この投稿は、2025年6月8日にTwitterで話したスペースの原稿です。元のスペースは下記にリンクを貼っておきます。
2025/6/27 ファイサル一世の名前と出身部分を訂正しました。
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前回スペースをしてから随分時間がかかってしまいましたが、今回はイラクについて喋ります。前回同様、私は専門家ではないので、調べが足りていない部分、勘違いや元資料の誤り、情報が古い、などで間違っている部分もおそらくあります。なので、訂正コメントいただけたら助かります。
 人物名は敬称略で呼び、またアラビア語の冠詞の変化について理解できていないため、人名の冠詞は省略します。人物や地名の発音をうまくできないことがあります、ごめんなさい。
 まずはイスラームの基礎知識を整理しましょう。紀元六一〇年、ムハンマドの前に天使ジブリールが現れ、アッラーの啓示を受けアラビア半島のメッカでイスラーム教を始めます。
 宗派は細かく見ていくといくつもありますが、ここでは二大派閥スンナとシーアをざっくりと説明します。ムスリム人口の約八割以上がスンナとされています。スンナとは「慣行」に由来する言葉であり、三代目カリフ、カリフとはムスリム共同体の支配者、そして預言者ムハンマドの後継者のことです、が暗殺され、四代目のカリフの預言者ムハンマドのいとこアリーと、ウマイヤ家のムアーウィヤの間に対立が発生します。
 預言者ムハンマドの血縁関係にあるアリーとその子孫のみが後継者とするのがシーア、ムアーウィヤのカリフ就任を支持した人々がスンナとなっていきます。
 ちなみに、シーアはシーア・アリーの略であり、意味は「アリーの党派」。なので、シーア「派」では派が被っています。ただ、伝わりやすさを優先してシーア派と言うのも可能でしょう。今回のスペースでは極力シーアで統一します。
 イラクにはナジャフとカルバラーというシーアの聖地があり、一八世紀半ばからシーア人口が増え、現在は人口の約六割がシーアです。もちろん前述したように��ムスリムの約八割がスンナなので、周辺の状況は隣のイランやアゼルバイジャン、バーレーンを除くとシーアが多数派である国はありません。
 ムスリム人口の次に現在のイラクの基礎情報について。イラクは多数の民族や宗派が集まっているため、国の分断を招かないよう政府による公式の民族別人口統計はありません。ただ、CIAなどによるデータからおおよそを把握することができます。
 世界銀行の二〇二三年のデータではイラク共和国の人口はおよそ四五五〇万人。民族比はCIAの一九八七年と古いデータですがアラブ民族が約八割、クルド民族が約一割。その他にトルコマン語を話すトルコマン民族。イラク北部にカルデア教徒やシリア正教徒などのキリスト教諸民族が居住しています。オスマン帝国で行われた虐殺から逃れてきたアルメニア人、同じく弾圧を逃れてきたアッシリア人な様々な民族がイラクには存在します。
 イラク地域の歴史は膨大すぎるため、イギリスの委任統治時代からの話を始めます。一九二四年にイギリスがオスマン帝国支配下にあった湾岸都市のバスラ、中央部のバグダード、北部のモースルの三州を占領下に置きました。ただこの三州は共通の国という意識がなく、イギリスによって強制的に「イラク」としてまとめられてしまいます。一九二〇年の四月にイギリスの委任統治が始まりますが、反英デモから大規模な武装反乱、暴動が各地で起きていました。
 この反乱の鎮圧には多くの戦費がかかり、イギリスは早々にアラブ人ムスリムをトップに据えた独立政府の樹立を目指します。イギリスに協調的なハーシム家のファイサル王子が一九二一年八月にイラク王国初代君主に即位します。この即位はイギリスの要請に応じたものですが、ファイサル政権ではイギリスの委任統治に反対し、イラクの独立を求めます。
 イギリス本国ではイラクからの撤退を視野に入れていました。占領により蜂起は絶えず、鎮圧のために多くのイギリス人兵士が死亡していました。こうして、一九三二年にイラクは独立を迎えます。しかし、当時のイラク王国はイギリスという後ろ盾なしに国を成り立たせることは難しい状況でした。
 イギリスの影響下にあったイラク王国の終わりは一九五八年七月一四日、王国軍部隊がバグダードでクーデタを起こし滅亡します。クーデタを扇動したカーシム准将により、イラク共和国の樹立を宣言されます。
 このクーデタの立役者はアブドゥルカリーム・カーシムと共に、アブドゥッサラーム・アーリフという将校がいました。アーリフはエジプトのナセル大統領に心酔しており、アラブナショナリズム運動のナセル主義に懐疑的なカーシムによって政権から追放されます。権力をひとりで握ったカーシムは単独支配体制を築きます。
 追放されたアーリフ側についていたのが、この後政権を掌握するバアス党でした。
 バアス党の根幹であるバアス主義は、二〇世紀前半にシリアで生まれたアラブナショナリズムに通じる思想です。バアスとはアラビア語で「復活」「復興」を意味し、イギリスやフランスによる委任統治を拒否し、アラブ世界の統一を目標としていました。
 アラブ世界の統一を目標とするため、バアス党は各地に支部を設立していき、一九五二年にイラク支部が始まります。
 一九六三年にアーリフとバアス党は政権を奪います。しかし、恐怖政治を敷き、シリアのバアス党本部が介入するなどの混乱のため、今度はアーリフがバアス党を追放します。ちなみに、私はベニテスの生誕年をこの一九六三年にしています。
 追い出されたバアス党は一九六八年、アフマド・ハサン・バクルを中心にクーデタを起こし政権を握ります。バアス党はクーデタ後、軍への依存を減らすために党内厳粛を行いました。その担い手が当時三〇代の若きサッダーム・フセインです。フセインはバクルの親戚であり、着実にバアス党での地位をあげていきました。一九七九年にバクル大統領を辞任させて、大統領に就任、フセイン政権を始めます。
 ちょうどその頃、隣国イランでは、シーアのルーホッラー・ホメイニーを中心にイラン革命が起きていました。イラン革命は親欧米路線であり世俗主義の皇帝、モハンマド・レザー・パフラヴィーに対し、イランのイスラーム化を目指し革命が勃発。王政は廃止され、シーアの最高指導者ホメイニーによるイラン・イスラーム共和国が成立します。
 先述の通り、イラクの人口の六割はシーアです。しかし、バアス党は社会主義、サッダーム・フセインはスンナであり、イラクの世俗化を目指していました。ちなみに世俗主義とは国家の政策などが特定の宗教に影響を受けないという、政教分離の方針のことをいいます。
 イスラーム主義の広がりを危惧したフセイン政権は、国境を流れるシャットゥルアラブ河の領土問題もあり、一九八〇年九月にイランへ戦争を仕掛け、イラン・イラク戦争を始めます。
 この戦争でレーガン政権下のアメリカはイランへ武器を売って、その売り上げで中米にあるニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」の援助を行っていました。
 若干余談になってしまいますが、イラン・イラク戦争の少し前、ニカラグアでは一九七九年に「ニカラグア革命」が起こり、左翼政権が樹立します。新政権はキューバなどの共産圏とも関係を築き、その動きにアメリカは警戒を強め、コントラの支援へと繋がりました。そしてニカラグアは一九八四年、国際司法裁判所にアメリカを提訴します。判決はアメリカの違法性を認めたものでしたが、アメリカは賠償せず、一九九一年にニカラグアが請求を取り下げて裁判は終わりを迎えます。
 こういったアメリカの行いを、当時はメキシコにいた若いベニテスは見ていたはずです。そして、ベニテスはおそらくアメリカ占領下のイラクへ行き、そこで行われていることも見ました。ベニテスは歴史の目撃者でもあります。
 話をイラン・イラク戦争に戻します。アメリカがイランへ武器を売っていたところ、イランがバグダードまで侵攻する可能性が出てきました。アメリカはイランのイスラーム政権拡大を恐れ、今度はイラクを支援します。
 こうして不利になったイラン最高指導者ホメイニーは、一九八八年七月一八日に国連安保理による停戦決議を受け入れます。こうして翌月の八月にはイラン・イラク戦争は終結。シャットゥルアラブ河の問題は、国境線を河の中心線とするアルジェ合意を基礎とすることを受け入れました。
 八年続いた戦争による死者はイラク側で二五から五〇万人、イラン側は一〇〇万人とみられています。
 イラン・イラク戦争から二年後の一九九〇年八月二日、イラクはクウェートへ侵攻します。侵攻の理由はクウェートはバスラ州の一部なのに、イギリスにより切り取られた。また、クウェートが不当に石油価格を引き下げているとイラクは主張していました。
 イラクによる侵攻でクウェートの政府は倒れ、その後樹立された傀儡政権によりクウェートはイラクの一九番目の県として併合されます。
 このイラクの侵攻に対し、アメリカ、イギリス、フランスから、クウェート、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、シリアなど三七か国による多国籍軍が一九九一年一月一七日に「砂漠の嵐作戦」を開始。湾岸戦争が始まります。
 空爆と地上作戦によりイラクは撤退し、クウェートは解放されました。四月にクウェートへの賠償、大量破壊兵器の破棄、国境の尊重などの安保理決議をイラクが受け入れて湾岸戦争は終結します。
 イラク軍の死者は二万五〇〇〇から三万五〇〇〇人、イラク市民は一〇万人以上。クウェート市民は一〇〇〇人以上、クウェート軍を除く多国籍軍側の死者は五六九人でした。
 イラクによるクウェート侵攻の一九九〇年八月二日から四日後、国連安全保障会議はイラクへの全面的禁輸措置を採択します。これによりイラクと各国の間のモノの輸出入、ヒトの移動、すべてが止められる経済制裁が始まります。
 経済制裁の当初の目的は、イラク軍をクウェートから撤退させることでした。しかし、湾岸戦争によりクウェートから撤退したイラクへ、戦争終結のため安保理は兵器の廃棄、核開発の停止、クウェート人捕虜の解放、補償金支払いなどを求め、イラクもこれを受け入れます。こうした要求が満たされなければ経済制裁は解除されず、続いていくことになります。
 この経済制裁により困窮するのはイラク国民でした。石油を輸出できなくなり、輸入も激減、為替レートの急落、物価上昇などが起こります。政府は食糧不足に対して一九九〇年九月から食糧配給制度を開始しますが、全く足りていませんでした。市民の生活が困窮する一方で、ヤミ経済にアクセスできる商人や政権幹部だけが得をしていました。
 食糧の他に医療面でも深刻な問題が生じていました。乳幼児の死亡率は増加、伝染病は広がり、医療品は不足します。
 経済制裁の重要な論点である大量破壊兵器は、イラク戦争後の調査で一九九〇年代にすべて破棄されたことが明ら��になります。ただ、フセイン大統領は査察団を長年拒み続け、協力姿勢を見せ始めたのは九・一一テロの後、二〇〇二年頃でした。イラクへの軍事攻撃が行われる直前であり、イラク戦争を止めることはできませんでした。
 二〇〇三年のイラク戦争でフセイン政権が倒されるまでの約一三年間、経済制裁が解かれることはありませんでした。
 二〇〇三年三月一九日にアメリカ、イギリス、オーストラリア、スペイン、ポーランドが宣戦布告し、イラク戦争を始めました。完全に制空権を掌握した上での空爆、地上部隊の進行により、各地の部隊は降伏していきます。五月一日にはブッシュ大統領が終戦宣言を行いますが、その時点ではサッダーム・フセインを拘束することができていませんでした。
 湾岸戦争での一方的な停戦宣言を行ったのはジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ、イラク戦争を始め、一方的に終戦宣言を行ったのはジョージ・ウォーカー・ブッシュの親子でした。
 イラク戦争は、湾岸戦争の停戦を定めた安保理決議にイラクが従わず、大量破壊兵器の破棄に協力せず、アルカーイダなどのテロ組織とつながりがあり、国内のクルド民族を弾圧しているとの理由で開始しました。しかし前述したように、大量破壊兵器は既に処分されており見つからず、アルカーイダとフセイン政権のつながりもなく、アメリカは戦争の正当性を問われました。
 二〇一一年一二月一四日にオバマ大統領は再び終戦宣言を行い、イラクに駐留していたアメリカ軍は撤退しました。
 二〇〇三年から二〇一一年までの、占領下イラクを詳しく見ていきましょう。
 イラクの民間人死亡率のデータはそれぞれ違いがあり、完全に正確なことはわかっていません。ただ、非政府組織の「イラク・ボディ・カウント」やイラク内務省、アメリカ軍の統計の推計によると、開戦から一二年六月までの間に一一万六四〇九人の民間人が死亡したといいます。
 死者の増加にはいくつかの段階があり、まずイラク戦争が始まった二〇〇三年は突出して人が亡くなりました。その突出した時点を除くと二〇〇三年五月から二〇〇六年二月にかけて増え続けます。ピーク時の二〇〇六年一〇月は一ヶ月の間に二七〇九人が死亡したとされます。アメリカ軍による占領下イラクでなぜ死者数が増えたのか、順を追って説明します。
 政権を倒したアメリカはイラクという国を破壊します。政府が失われたイラクにアメリカはまず、軍を中心とした連合国暫定当局(CPA)を作りました。この組織の目的はイラクの政府を再建することです。
 二〇〇三年五月、CPAはイラクの国軍と治安機関を解体し、約四〇万人を失職させました。CPAは新しいイラク軍を三年以内に設立することを発表しました。新しい軍の兵力は四万人、戦車も火砲もなく、主に国境警備を担うことになる予定でした。とことが反体制暴動が激化し、アメリカ軍の死者が増えると治安要員を増やさねばならなくなります。二〇一二年一月時点で、イラクにおける治安部門の雇用数は約九三万三〇〇〇人。当初の予定の二〇倍以上の数になりました。
 フセイン大統領は自身の独裁体制を強化するために多くの国民を公務員として雇っていました。一九八〇年代には公務員の数は約八二万八〇〇〇人に増やします。この数字は当時の人口の約四.九%を占めていました。
 アメリカはサッダーム・フセインの復権を防ぐため、彼の政党であるバアス党に属する職員を追放します。正確な数字はわかっていませ���が、脱バアス党政策により公務員の二万~一二万人が失職しました。フセイン政権により公務員が増加していたため、膨大な数の人間が職を失います。戦争、国軍の解体と脱バアス政策により上昇した失業率は、この後の治安悪化の一因だった可能性があります。
 また、フセイン政権時に弾圧していた反体制派重要人物の帰国なども、要員の一つとされています。この反体制派の最大派閥はイスラーム主義勢力です。イスラーム主義、ここでは特に政治的なイスラーム主義はイスラーム法であるシャリーアの秩序に基づくイスラーム国家・イスラーム社会を目指す活動をいいます。
 話を整理するため再三になりますが、フセイン政権およびバアス党はアラブナショナリズムかつ世俗主義的な部分がありました。イスラームは文化であり、宗教と国家は切り離すべきという姿勢のあるバアス党の姿勢と、イスラーム主義は相容れないものでした。
 イラクのイスラーム主義勢力の中で代表的なのがダアワ党です。一九五〇年代、社会の急激な近代化と世俗化に危機感を抱いたシーアのイスラーム法学者であるウラマーは立ちあがります。
 ウラマーのムハンマド・バーキル・サドルと支持者たちは一九五八年に「イスラーム・ダアワ党」を結成します。イスラーム主義政党であるダアワ党は、思想の根幹であるシャリーアの秩序によるイスラーム国家建設を目標に掲げます。
 しかし、一九六八年に与党となったバアス党政権はダアワ党を弾圧しました。一九七九年にはイランでイスラーム革命が起こり、自国での革命を恐れたフセイン政権はダアワ党の指導者バーキル・サドルを処刑します。弾圧によりイスラーム主義者はイランへ亡命しました。
 亡命、イラン・イラク戦争などによりバラバラになってしまったイスラーム主義勢力は「イラク・イスラーム革命最高評議会」として再統合します。略名はSCIRIです。このSCIRIは大きな組織であり、およそ一万五千人ほど の兵力を持つバドル軍団と呼ばれる軍事部門が存在し、後にイラクで暴力の一端を担います。
 フセイン政権の終わりと共に、弾圧を受けていたダアワ党員、SCIRIなどのイスラーム主義勢力が帰国しました。そして、かなりの厚遇を受けます。脱バアス政策を推し進めたCPAはイラク人による暫定統治のため、イラク統治評議会を組織します。反フセイン体制派 だった二五名のメンバーの中に SCIRI やダアワ党のメンバーが入っていました。
 また、シーアの武装組織マフディー軍も治安悪化に無視できない存在でした。ダアワ党の創始者ムハンマド・バーキル・サドル の親類であるムハンマド・サーディク・サドル は、バーキル・サドルの亡き後シーアのウラマーとしてイラクで活動していました。禁止されていた金曜礼拝を再開させ、イスラームへの信仰心を説いたカリスマ的な指導者サーディク・サドルもバーキル・サドルと同じようにフセイン政権により暗殺されます。この暗殺によりサドルの支持者は地下に潜り、二〇〇三年にフセイン政権が倒されると表舞台へ躍り出ます。それがサーディク・サドルの息子、ムクタダー・サドルです。
 ムクタダー・サドルは特にバグダードのサドル・シティ、死後も尊敬を集める親族の名前を冠した貧民街で活動を始めました。この街の旧名はサダム・シティ、低所得者が集まるサドル・シティで生活必需品の配布や清掃活動を行い、若者たちをリクルートしてマフディー軍を組織します。
 イラク戦争直後、二〇〇三年の暴力、略奪はまだ混乱した個人の範囲でした。ただ、アメリカ軍が完全にイラクを制圧しきっていないと知られ始めると、組織的な暴動に変化するのには時間がかかりませんでした。
 組織的暴力の初期段階はアメリカ軍への抵抗運動です。二〇〇三年に路上爆弾攻撃により死亡したアメリカ兵は一二人を下回っていましたが、次の年の二〇〇四年には一ヶ月に少なくとも二〇人が殺害されました。
 組織的暴力にはこうしたナショナリズム的抵抗運動と、もうひとつ、イスラーム主義勢力に二分することができます。
 先述の通り暴力的な組織はフセイン政権後に帰国するか再起動し、それはSCIRI のバドル軍団、ムクタダー・サドルのマフディー軍、イラク・イスラーム軍、アンサール・スンナ、そしてアルカーイダなどでした。アメリカはフセイン政権とアルカーイダは繋がっていると疑い、戦争を始める理由としました。しかし、結局のところフセイン政権とアルカーイダに繋がりなどありません。バアス党とアルカーイダに共通するのはスンナ派ムスリムの組織といったくらいで、世俗主義な前者とイスラーム主義のアルカーイダとは相容れない存在同士でした。
 イスラーム主義勢力は主に自爆を用い、二〇〇三年から二〇〇六年までの間に五〇〇件以上の自爆テロを仕掛けました。占領に抵抗するため、アメリカ以外に中東諸国の政府機関や国際組織も標的にします。二〇〇三年八月にはヨルダン大使館と国連事務所が爆破され、一〇月には赤十字国際委員会の事務所もテロの被害にあいました。国連事務所や赤十字への攻撃により、人道支援を行っていた非政府組織は撤退せざるを得なくなります。
 個人的に、ベニテスはこうした組織への攻撃後にイラクへ渡ったのではと考えています。外国人宣教師が国外へ避難している状況を知り、ベニテスが自分から名乗り出たのかもしれません。無数の武装組織が活動し、何の解決もしていないものの二〇〇三年七月にコンゴ戦争は一応の終わりを迎えます。性暴力を受けた女性のための病院建設も行い、区切りや導きがあってコンゴからイラクへ移動した、と私は考えています。移動する直前に自身の身体のことを知り、葛藤を抱えながらバグダードへ移動し、闇のなかを生きていたのかもしれません。
 話を自爆テロに戻します。自爆攻撃はシーアの聖地なども標的にし、このテロ行為はイラクの内戦に繋がります。宗派対立の始まりというべき事件は、二〇〇三年八月にSCIRI 議長のムハンマド・バーキル・ハキームが暗殺された事件です。また、二〇〇四年三月にシーアの聖地、カルバラーが攻撃を受けます。この年の五月以降は、イラク人だけでなく外国人労働者の誘拐・殺害事件が発生し始めます。
 そしてアメリカ軍統治下のイラクで必ず語らねばならない場所がファッルージャです。ファッルージャはバグダードから西へ五〇キロメートルへ行ったところにあります。だいたい、この二都市は東京と鎌倉の距離感です。そしてファッルージャは保守的なスンナ住民の多い土地でした。
 二〇〇四年四月、その街でアメリカ軍にデモを行っていた一七人が、アメリカ兵に殺される事件が発生します。これをきっかけに暴動が始まります。二〇〇四年三月にアメリカの民間軍事会社、ブラックウォーター社に務める四人が殺害されると、海兵隊��よびアメリカ軍がファッルージャに対する攻撃を開始します。
 ちなみに、アメリカ政府は軍で補いきれない部分を、民間民間軍事会社や民間警備会社に頼っています。これはイラクだけでなく、アフガニスタンに対してもです。こういった企業は時に事件を起こすこともあり、イラクでは二〇〇七年九月にブラックウォーター社 が民間人を一七人殺害し、問題となりました。
 話をファッルージャに戻します。大規模な空爆によりファッルージャの人々の大半が避難民となります。ファッルージャを逃れ、近郊大都市のバグダードへ移動し、スンナの避難民はスンナの多いバグダード西部へ居住しました。この中で過激化した人々がシーアの住民を追い出す事態になります。そして、スンナのテロ組織アルカーイダが自動車爆弾や自爆テロでシーアの居住区域を攻撃。シーアのマフディー軍などがスンナのムスリムを殺害や誘拐を行います。この時期、二〇〇五年の一月から六月までの間に一三〇件の自爆テロが発生し、その大半はアメリカ軍ではなく、他の宗派を狙ったものでした。
 こうして、二〇〇五年五月にはバグダードは内戦状態に陥ります。バグダードの殺人事件発生数は増加、、一日平均一一件から三三件に増えました。
 殺人はアメリカ軍や民間武装組織によるものだけでなく、イラク政府によるものも含まれていました。
 イラク政府の内務省には特別警察突撃隊がありました。当時の内務相はイラク統一同盟のバヤーン・ジャブル。ジャブルはSCIRIの幹部で、かつてバドル軍団を率いていました。そして彼は治安機関にバドル軍団の構成員を可能な限り雇い入れます。
 二〇〇五年以降、特別警察突撃隊は殺人、拷問、宗教浄化を繰り返す集団と化します。二〇〇五年一一月に内務省が設けた施設へアメリカ軍が捜査を行い、劣悪な環境で収監されていた一七〇人を発見しました。この施設では国家機関が拷問、処刑を日常的に行っていた証拠となりました。ただ、このことが発覚してもジャブルは内務相を辞任することなく二〇〇六年までその職に留まっています。
 ただ、こういった市民の誘拐、処刑はイラク政府だけが行っていたものではありません。二〇〇三年にアメリカ軍はアブグレイブ刑務所で収容者へ拷問、男性女性どちらへにも性的虐待を行っていました。 
 イラク人への虐待は二〇〇四年四月にCBSが実態を写した写真を公開し、ようやく世界的に広がります。しかし、このような事件が発生しても、依然として大量破壊兵器が発見されなくても、二〇〇四年一一月二日にブッシュは再選し、イラク占領は続きました。
 元々のバグダードではスンナとシーアが共生していました。トラブルがなかったとは言えません、フセイン政権がシーアを弾圧し、アーシューラーなどの宗教行事を禁じていたのは事実です。ただ、スンナとシーアは真っ二つに分かれていた訳ではなく、異なる宗派同士で結婚もあり、家族の半分がスンナ、半分がシーアという家庭もあります。
 内戦状態に陥ったイラクに対応するため、アメリカは二〇〇七年二月に増派を始めます。増派、英語ではサージ、とはイラクに派遣する兵士を一時的に増やすことです。兵力の増強、開戦以来最大規模の軍事作戦、アメリカ軍は内戦状態のイラクに対応を行いました。
 二〇〇七年一月の民間人の死者数は二五〇〇人だったけれど、六月は一九五〇人、一二月は六〇〇人と減少しました。ただ、死者数の減少がアメリカ軍の軍事作戦によるものなのかは検証が必要であり、効果があったと断言することは難しいことです。
 死者数の減少に関係しそうな大きな要因はいくつかあり、その内のひとつがマフディー軍の活動休止です。おさらいになりますが、マフディー軍はシーアの指導者、ムクタダー・サドルが率いる兵力約六万の武装組織です。
 ムクタダー・サドルの影響力は大きく、マーリキーの首相就任に寄与するほどでした。そのため、アメリカ軍のサドルを標的とした作戦にマーリキー首相は制限を課し、マフディー軍の主要人物の逮捕を禁じます。
 国の中枢に食い込むほど影響力を持っていましたが、マフディー軍は分裂していきます。まず、ムクタダー・サドルは増派が発表されると、イラクを脱出してイランへ逃れました。サドルが国外に脱出後、マフディー軍はバグダードから部隊を引きあげます。シーアのムスリムの中ではマフディー軍を批判する人々も増え、組織内の不良分子を追放し、徐々に活動を縮小せざるを得なくなっていきます。
 それに加えて、マフディー軍とISCIのバドル軍団の間の対立が激化します。ところで、イラク・イスラーム革命最高評議会は二〇〇七年五月に党名を「イラク・イスラーム最高評議会」と改名し、略名もISCIになりました。
 二〇〇七年八月、宗教行事のためシーアの信徒が集まっていた聖地カルバラーでバドル軍団とマフディー軍の銃撃戦が起こりました。この銃撃戦により五二人が死亡します。この事件によりサドルは六ヶ月の休戦を宣言し、その後も休戦を継続させます。
今回のスペースの参考文献は『イラク戦争は民主主義をもたらしたのか』トビー・ドッジ 、『地図で見る アラブ世界ハンドブック』マテュー ・ギデール 、『現代イラクを知るための六〇章』酒井啓子編、『バグダッド・バーニング イラク女性の占領下日記』リバーベンド 、『兵士は戦場で何を見たのか』デイヴィッド・フィンケル です。
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leomacgivena · 5 months ago
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神武天皇の即位日が建国記念日らしいのだが、それを2/11に同定するロジックはかなり怪しげだし、そもそもが神話上の人物なのだから、「諸説あります」として建国記念日を複数設けてもよい
Xユーザーのスドー🍞さん
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adito-lang · 1 year ago
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11.02.24 建国記念の日(けんこくきねんのひ)National Foundation Day
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The Founding of Japan
In Japan, there are no history books that were written before the 8th century. The oldest history book "Kojiki" came into existence in 712. The first emperor to make an appearance in it, Emperor Jinmu, is said to have assumed the throne in 660 BC. However, between "Kojiki" and the Ascension to the throne of Emperor Jinmu there is a time span of over 1.100 years, which cannot be accepted as historical fact. Before the [Second World] War, this day was called ”Kigensetsu" and was celebrated as the Foundation Day of Japan. After the war, it was temporarily abolished, but it was established once again as a national holiday in 1966 as a day to celebrate the founding of Japan.
Vocab
建国(けんこく)founding of a nation
成立する(せいりつする)to come into existence/effect
最古の(さいこの)the oldest
古事記(こじき)Kojiki, the earliest historical record of Japan, a collection of myths concerning the origin of the four home islands of Japan.
登場する(とうじょうする)to make an appearance; to come into the picture; to emerge
神武天皇(じんむてんのう)Emperor Jinmu
紀元前(きげん全)BCE; Before Common Era
即位する(そくいする)to ascend/assume the throne
史実(しじつ)historical fact
認める(みとめる)to accept; to recognize
廃止する(はいしする)to abolish; to discontinue
再び(ふたたび)once again/more
制定する(せいていする)to establish
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zouplans · 4 months ago
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hachikenyakaiwai · 2 years ago
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【かいわいの時】嘉祥三年(850)九月八日:八十島祭を行う(八十島祭の初見)
難波宮と摂津職が廃止された後にも、難波津において繰り返される宮廷祭祀があった。それは八十島祭と、伊勢斎王の解斎の禊である。いずれも前代からの伝統を引く古い行事であって、 平安時代に入って始められたものではない。 八十島祭は、即位儀礼の一環として挙行される神事で、大嘗祭の翌年に後宮の内侍司の女官が祭使として難波津に下向して生島足島神(大八洲之霊)を祭るものであった。
この神事は五世紀以来の古い即位儀礼の名残で、本来は全国土の国魂を新しい天皇の身体に付着させる呪儀であったらしく、奈良時代には、天皇自身が難波津に赴いて行っていたと推測される(第一巻第四章第四節1参照)。
しかし、史料に残る明らかなものはほとんど平安時代のものである。その初見は『日本文徳天皇実録』にみえる文徳天皇の即位に伴う嘉祥三年(八五〇) 九月のものである。鎌倉時代初めの後堀河天皇の元仁元年 (一二二四)まで行われ、以後廃絶した。この間約四〇〇年近くの間に、史料にみえるものは、二二回を数える。この祭儀は六国史には記載しないのが原則だったようで、その後も『日本三代実録』には記載がない。光孝天皇の場合も、『帝王編年記』に記載されるものである。恐らく記録に残らぬものが多かったに違いない(『新修大阪市史 2』)。
(写真)METで展示されている俵屋宗達「源氏物語関屋澪標図屏風」(ニューヨークビス03/09/2019)=ニューヨーク(撮影・吉田)
御社立ちたまて、所々に逍遥を尽くしたまふ 難波の御祓へ、七瀬によそほしう仕まつる 堀江のわたりを御覧じて 今はた同じ難波なると 御心にもあらで うち誦じたまへるを
御社をご出発になって、あちこちの名所に遊覧なさる。難波のお祓い、七瀬に立派にお勤めになる。堀江��あたりを御覧になって、「今はた同じ難波なる」と、無意識のうちに、ふと朗誦なさったのを(渋谷栄一訳)
住吉詣で偶然に元カノ(明石の上)とニアミスし動揺する源氏(当時29歳)。「今はた同じ難波なる」とは、百人一首にもみえる元良親王(890-943)の歌で、上の句の「わびぬれば今はた同じ難波なる」からとられています。源氏の心中にはもちろん「身をつくしても逢はんとぞ思ふ」という下の句が隠されていることでしょう。さて、かいわいに関係のある箇所といえば、もちろん、「堀江のわたり」。屏風では明石の上の乘る舟が描かれています。
源氏物語の注釈書の一つ『花鳥余情』(一条兼良1472)に「代始に八十嶋祭難波にてあり、典侍の人御衣をもちて参向して解除する事あり これみな難波のはらへの例也」とあり、「七瀬」と「八十島祭」は同じようなものとして扱われています。紫式部の時代の八十島祭は、三条天皇の長和二年(1013)十月、後一条天皇の寛仁元年(1017)十二月が記録に残っています。
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moja-co · 2 years ago
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「御即位式」  大正天皇の御即位式が行われたのは、青島陥落の翌年、大正四年十一月十日だった。御即位式のことを、一般に御大典といったが、明治天皇の御大葬が、日本が文明開化の代になってから初めての出来事であったと同じように、御即位式もここ数十年の間かつてなかったことではあるし、欧州戦線のあおりを受けて、丁度日本が好景気のさなかだったので、全国民挙げてお祝い申し上げたのであった。その時僕は、五年生になってゐた。  その日は、学校で祝賀式があって、新しい天皇陛下の御真影を拝み、「君が代」を斉唱し、教育勅語の拝読のあと、校長先生から色々のお話があって、天皇陛下万歳を三唱して、その日の授業はお休みになった。  明治天皇の御真影はどうなったか知らないが、新しい天皇陛下の御真影を頂く行事があったことを覚えている。尤も、それが何年の何月だったか忘れたが、御即位式よりも前だったことは確かである。  多分、神戸の県庁で、校長先生が頂いて帰られたのだらうと思う。何時何分に御真影が姫路駅にお着きになり、何時何分に学校にお着きになる、と時刻予定がきまって、全校生徒は、校門の前にズラっと両側に整列して、お迎えした。その時刻の少し前から、学校前の道路は一般の通行禁止になって、警官が警戒に立ってゐた。  待つほどに、京口橋の方から、人力車がボツボツ来るのが見えて、「気をつけ!!」の号令がかかった。見てゐると、警官が一人、車の前をテクテク歩いて、人力車の上には、校長先生が白手袋の両手で、大きな紫色の風呂敷包みを、おもそうに捧げて居られる。それがやっと見えた頃に「最敬礼!!」の号令がかかった。しばらくすると、警官の足と、車夫の足と人力車の車輪、その後にもう一人の足が、目の前を通って行った。  その日しばらくしてから、講堂で、御真影奉戴式があった。明治天皇が崩御になってから、三大節にも、講堂の御真影の棚は開かなかったが、新しい天皇陛下の御真影を頂いてから、前通に、御真影奉拝の最敬礼が、よみがえったのであった。  御即位祝賀式のときには、校長先生から、御即位式について色々お話があった。万世一系の日本では、一日一刻も天皇陛下のない時があってはならぬので、明治天皇がなくなった時、すぐに、当時の皇太子殿下が三種の神器をお受けになって、天皇の位につかれた。それを践祚(せんそ)といったが、天皇陛下がその位におつきになったことを、天照大神その他の御先祖に報告されなければならぬし、国民一般に又外国にも、そのことをハッキリ知らせなければならないので、先帝陛下の喪が明けてから、その儀式を行われるのである。この御即位式は、大昔から続いてゐる儀式だから、昔からの仕来り通りに、元の皇居である京都御所の、紫宸殿という第一の御殿で、古式通り厳かに行われるのである、というようなお話であった。  御即位式の日取りがきまると、その儀式のことや日程が、次々に新聞で細かく解説予告されてゐたが、いよいよ式が始まると、天皇陛下が東京を出て、京都に向かわれる鹵簿((注)ろぼ=天子の行列のこと)や、関連の色々な写真が、その記事と共に、次々に掲載された。新聞もここ数年の間に非常に発達して、写真版などもきれいになってゐた。  又、前年の青島陥落のときと同じように、全市を挙げての祝賀行事が催され、我々小学生は、日の本の小旗をかざして、町々を旗行列をし、夜は夜で、色んな団体の提灯行列が、いくつもいくつも、「祝えや祝え!!」と歌いながら、又、それぞれで万歳万歳!!と、市内を行進して、大変な賑やかさだった。  御即位式のときに、国家社会に功労があって勲章を頂いてゐる人に、天皇陛下からごちそうを下される、ということがあった。特別立派な勲章を貰ってゐる人は、東京に召されるのだが、勲五等だった父には、神戸の県庁でごちそうを賜るというので、菊の御紋章のついた御召状が届けられた。  父は以前に、広島や大阪に勤めて、軍需品の納入その他のことで、功績があったのだそうで、勲大等の旭日勲章を頂いたが、僕がごく幼い頃、専売局に勤めてゐた時に、一段進んで、勲五等になり、瑞宝章を頂いてゐた。だから、今では民間の塩田業者であったが、御即位式の御馳走に召されたので、大変の喜び方で、あちらやこちらで、大自慢にしてゐたが、いよいよその日には、朝早くからフロックコートを着て、これが勲五等の瑞宝章だ、これが勲大等の旭日章である。旭日章は本当に手柄がなければ頂けないので、一段下ではあるがこの方が立派なのだ。これが日清戦争の従軍章、これは北清事変(明治三十三年)の従軍章、これが日露戦役の従軍章だと、一つ一つ、僕に説明しながら、それを胸にズラッと吊り並べて、シルクハットをかぶって、意気揚々と停車場に向かった。  その日、もう日が暮れてから、父は、胸いっぱいに勲章を飾ったまま、人力車から自分独りで降りるのが危ないほど酒に酔って、それでも白い風呂敷包みだけは、大切に持って、帰ってきた。その風呂敷包みには、その日の御馳走が入ってゐたのである。素木の足のないお膳と、素焼きのお皿や瓶子(へいし)のようなものと、銀色のボンボニールとかいうものを取り出して、これには何が入ってゐた、これに何がと、一つ一つ説明してくれたが、どれも空だったことを記憶してゐる。
大正天皇の即位式の日のことが、大伯父(祖母の兄)の遺した回顧録に記されてました。 従兄弟が見つけて、文字起こしまでしてくれた! けっこう貴重な資料だと思う。
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nenbutsushuart · 1 year ago
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鳳凰 龍 細密石彫刻製作 石基壇 聖徳太子殿 念佛宗仏教美術 The Prince Shotoku Hall The Buddhist Art of Nenbutsushu Stone carving
聖徳太子殿 The Prince Shotoku Hall
念仏宗無量寿寺(念佛宗) 総本山 佛教之王堂〜三国伝来の佛教美術 日本では類例を見ない四手先総詰組様式、および三手先腰組付縁の八角堂 It is a grand octagonal shrine with four-stepped intermediate bracket complexes under the eaves and three-stepped bracket complexes under the veranda, which is peerless in Japan.
概略 高さ17.2m(基壇、棟飾り込) 側通り柱間4.85m
輪島塗による高蒔絵、及び彫金が施された厨子に、中華人民共和国、工芸美術大師・佘國平佛師制作の「和国の教主」とうたわれる聖徳太子像がお祀りされている。
念佛宗(念仏宗)無量寿寺 聖徳太子殿 建築的特徴 
他に類を見ない様式 四手先総詰組、三手先腰組付縁の八角堂は他に類を見ない。特に四手先総詰組は、日本建築史上初めての独自の変形組み手である。特殊な組み方をすることにより、組み手同士の立体的干渉を回避している。この念佛宗(念仏宗)ならではの、独創的な手法は、専門家をも捻らせている。日本の大工の始祖とも崇められる聖徳太子も、きっと納得されているに違いない。 天平の文化が華やかなりし頃、神社仏閣は、鮮やかに朱で彩られ、外国文化を吸収、醸成され、それはきらびやかなものであった。 そして今また千年の時を超え、念仏宗 佛教之王堂における聖徳太子殿は、天平時代の華やかさを凌ぐ存在感で、参詣者を迎える。 外装壁部には「天女」、阿件形の「鳳風」、衆生を導かんと雲を従えて天下る阿件の「龍」が、また蛙股部には「宝相華」が、胡粉の白一色に塗られた彫刻で荘厳されている。腰組部と階段脇の耳石にも阿件の精緻に「鳳風」が彫刻されている。 これら数多くの彫刻、彩色で彩られた御堂は、典雅な趣にみあふいざな満ち溢れ、訪れる者を夢の世界へと誘う。 桟唐戸は丹青技法による極彩色が施された「宝相華」や「転法輪」、「鳳凰」の彫刻で荘厳され、八方を守護している。 世界に誇る槙の日本庭園に囲まれた姿は、飛鳥・天平時代を偲ばせる典雅な趣に満ちている。 軒裏に扇垂木を用いており、内部は韓国人間国宝・李萬奉大僧正猊下、及び、直弟子洪昌源師制作の、韓国古来の伝統的丹青技法による彩色が施され、合計428点の彫刻が太子を賛嘆している。 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 聖徳太子殿 建築的特徴  三国伝来の佛教文化 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂の聖徳太子殿は、かつて、聖徳太子が御堂にこもって、経典の解釈に没頭しておられる時、夢告(むこく)で教えを賜った(たまわった)との伝説から、法隆寺などでは平安時代より、「夢殿」(ゆめどの)とも呼ばれてきた。 ここ念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂における聖徳太子殿は、日本の建築技術と韓国の丹青(たんせい)技法、そして中国の彫刻が見事に調和し、三国伝来の佛教文化の粋を見ることができる。 例えば四手先総詰組様式及び三手先腰組付縁(こしぐみつきえん)は、他に比類なき日本建築の最高峰といえるもの。 また、内部に施された極彩色(ごくさいしき)は、韓国の丹青技法が日本で独自発展を遂げた平等院鳳凰堂の様式を踏襲したものであり、天井画写真下方の緑色部、「ぼかし」のような繧繝(うんげん)彩色や、全体的な白く縁どられた紋様等が特徴的である。 和国の教主 聖徳太子 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 聖徳太子殿には、聖徳太子像をお祀りしている。天竺(インド)から唐土(中国)へ伝わった佛教の尊さを悟られ、神佛が習合する中、日本へ佛教を根付かせた「日本佛教の父」が聖徳太子。 「和を以て尊しとなす」 これは世界的に有名な聖徳太子『十七条憲法』の根幹(こんかん)をなす第一条の言葉。『十七条憲法』は、我が国最初の憲法であり、佛教精神を基(もとい)とした平和国家日本の建設に臨まれた聖徳太子の決意を表している。推古(すいこ)天皇即位の時、聖徳太子を摂政(せっしょう)とし、すべての政治を委ねられた。『日本書紀』には、その時、もろもろの豪族らは、君主と先祖の恩に報いるために競って佛をお祀りする場所を造ったとされ、以来、それが「寺」となった。つまり恩に報いるために寺が建てられ、佛教が興隆していった。 第二条に「篤く三宝を敬え。三宝とは佛・法・僧なり」そして「何れの世 何れの人か この法を 尊ばざる」として、どの時代、いかなる人であってもこの法を尊ぶべきことを明断しておられる。 そして佛教を基調とした国づくりをして、日本を統一国家に相応しい姿にされた。それによって寛容の心が根付き、民の争い事が減った。そして佛教伝来から僅か数十年で、当時の世界最新建築の佛教伽藍(ぶっきょうがらん)「四天王寺」「法隆寺」を建立した。聖徳太子が、「和国の教主」と呼ばれる所以。太子の願いは、大和の地に佛教を興隆させ、人々に平和をもたらすことでした。 丹生(たんせい)技法に彩られた堂内 青丹によし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり 聖武天皇(しょうむてんのう)の御代、奈良で一世を風靡した丹生技法は、今、ここ社の地で大きく華開いている。 渡来して日本的発展を遂げた密度濃やかな繧繝(うんげん)彩色や、白縁模様で荘厳された極彩色の天井を、吉野檜の銘木に、拭き漆と熨斗(のし)模様を施した八角柱が八方から支える。 聖徳太子殿の「八角宮殿」 扉に描かれた阿吽の鳳凰は、聖天子(せいてんし)の出現を待ってこの世に現れ、飛天は、釈尊説法時に舞い降り、奉楽し、天華を散らし空中で舞う、とされている。 宮殿は、もともと、天竺(てんじく)における塔やその下の小室である「龕」(がん)を源流とし、後世、これが厨子(ずし)や仏壇に変化した。 法隆寺玉虫厨子や橘夫人念持佛(たちばなぶにん)などは、その代表例。 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 聖徳太子殿の「宝珠」 宝珠は、災いを除き、願いをかなえる力を持つとされ、聖徳太子殿の屋根に聳える宝珠は、聖徳太子の佛教興隆の成就を象徴しています。 この宝珠を護法神である、八頭の象が支えており、八方から佛敵より佛法を護り、宝珠の周りには、凡夫の煩悩を焼き尽くす火焔(かえん)が、勢いよく燃え盛っています。 聖徳太子殿の「輪島塗 高蒔絵」 日本の伝統技法の輪島塗りによる高蒔絵は、最高品質の漆を盛って、乾かないうちに松煙(しょうえん)を蒔きこみ、盛り上げ固めます。入手困難な「舟鼠(ふなねずみ)の蒔絵筆」を用い、輪島塗職人の二年間にわたる努力の末に完成しました。十枚の扉に浮かび上がる金色の『十七条憲法』の銘文は、職人会心の傑作です。 松竹梅と獅子 念佛宗(念仏宗)無量寿寺の宮殿下部には獅子が八方を護り、吉祥紋様の松竹梅が施されています。 風雪や厳寒に耐えて緑を保つ常磐木(ときわぎ)の「松」と「竹」、春、百花に先駆けて花開く「梅」を長寿・高潔・節操・清純などの象徴として「歳寒三友(さいかんさんゆう)」とも呼び、その吉祥紋様を背景に、獣類中、最も勇敢で高貴な、百獣の王の獅子が、宮殿を護っています。
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kijitora3 · 2 years ago
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かなりの歴史好きでも
男性天皇と女性天皇と
男系と女系の区別がついていない人がいてびっくり
天皇家は例外なく父親が皇族である者だけが皇位を継承してきた これが男系の意味 だから父が皇族であれば、その娘が天皇になることは当然あり
飛鳥時代から奈良時代は女帝がたくさんいた 男系の女性天皇だ
それと、どっかの家から婿さん連れてきて皇室の姫様と結婚して子が生まれた場合、この子の母さんが皇族ということで、この人は女系 こういう人が皇位を継承したことはない 女系の場合、男性だろうが女性だろうが、関係なく皇位継承はできない これは実質的に1600年以上継続してきた これが皇室の血統の意味
だから、女系の人が即位するとは、それは皇室の断絶であって新たな王朝の創始になる
そもそも日本国憲法は皇室の血統を受け継ぐ人が皇位継承することを国家機構として定めている 皇族は基本的人権の適用外である その皇室について、女性が天皇にならないのは女性差別~とか言う人は、日本の歴史と、憲法の基本の両方ともご存じない
現在についていえば、愛子様が次の天皇に即位されることは問題がない この点で、男女差別を女性天皇容認の理由とするものは理由が破綻している だが、愛子様がご結婚されてお生まれになったお子は皇位継承の資格がない
その後は秋篠宮家に皇統が引き継がれる 秋篠宮殿下、悠仁様、と皇位が継承されていく ただ、男系の継承者で上皇様のお孫の世代が悠仁様一人であることが皇統継続の危機なのだ 悠仁様に将来男女のお子様が生まれた場合、女のお子様が即位されることは当然可能だ だが、さらにそのお子様が皇位を継ぐことはできず、男の兄弟に皇位がいくだけのこと
 解決は簡単 戦後GHQの日本破壊工作で現行法上皇室から追い出された11宮家には、男系の男性が数名いる その宮家にいくつか皇室に復帰してもらえばいいだけの話 こうした例は継体天皇の例に限らず複数あるので問題がない
整理すると男系ならば、女性天皇は当然あり でも女系なら男性でも皇位にはつけない これが皇位継承のルールである 女性だから天皇になれないのはサベツだ~という人間の阿呆さがよくわかる
でも女系天皇推進派は、なぜかこの簡単で根本的な解決策に反対する その理由は、現皇統を断絶させてしまおうという、反日的中韓的思想に染まっているからだ
でも歴史好きで男系女系を知らんというのは、数学過ぎだが微分知らんみたいにありえないので、意図的なポーズかもしれないな 天皇制を実質的に廃絶させようとする勢力の
特に教育関係者にはこういうのが紛れ込んでるので注意しようっと
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mxargent · 2 years ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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ari0921 · 1 year ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)4月19日(金曜日)
   通巻第8221号
 後継皇室問題で自民党が有識者会議の二案を『妥���』
  やはり自民党に「現代の新井白石」はいなかった
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 皇統後継問題の皇室典範改正をめぐって有識者会議が開かれ、これを踏まえて岸田首相は令和六年(二〇二四年)一月三十日の所信表明演説後の質門に答え、かく述べている。
 「有識者会議において悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならないとの結論に至った」。
つまり「女系天皇論」という俗論をたしなめたのだ。だがメディアは意図的に、この一歩踏み込んだ発言を殆ど伝えなかった。岸田首相は「悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」と明言しているのである。
 皇統は神武以来の万世一系で男子が継承し、跡継ぎが幼少などの場合、未亡人皇后か独身の内親王が天皇代理として「称制」と務めた。この歴史の特質が意図的に議論されず学校でも教えない。
だから軽佻浮薄にも「愛子天皇待望論」が出てくる。女性天皇と女系天皇の区別も曖昧とされたままである。
 小泉政権のおり皇室典範改正をめぐって有識者会議が開催された。明治二二年(一八八九年)制定された典範により、男系長子が皇位を継承するという神武天皇以来の万世一系の伝統が守られてきた。状況が変化し、皇統が絶えかねないという危機を認識し、急遽、有識者会議が招集された。
だが、座長はロボット工学専門の学者で歴史には無知だった。秋篠宮に悠仁親)王がお生まれになって、皇統問題は棚上げとなった。
 もしこの流れを変えるとなると歴史を否定する革命である。フランクフルト学派が狙うのは二段階革命による国家破壊であり、グローバリズムが国境をなくせと唱えている国家否定の隠れた目標に通底する。
  
 4月15日、自民党は皇位継承の安定のための皇族数確保に関する有識者会議の二案を『妥当』とする立場を示し、「安定的な皇位継承の確保に関する懇親会(麻生副総裁が会長)で党見解のとりまとめを急ぐとした。
 「二案」とは(1)皇族女子の結婚後の皇族身分保持。(2)養子縁組に拠る旧皇族団系男子の皇籍復帰、である。
 自民党はいずれも妥当としたわけだが、いささか勉強不足だろう。やはり与党に現代版の新井白石はいなかったのだ。
 各党の意見のなかで、唯一まともなのが「維新の会」である。すなわち(1)に対して、現実的ではあるが「女系への皇位継承資格拡大につながる懸念がある」としている。
 (2)に関しては『歴史と現実を踏まえれば、高く評価できる』とした。
そもそも皇室典範の改正云々を内閣ごときがおこなうべきではない。立太子と親王殿下がおられるのに、なぜこんな議論をするのか、裏に何か別の動機が潜んでいるのか。
(参考文献 宮崎正弘『二度天皇になった女性 ─孝謙・称徳女帝の光と影』(ワック)
  ▼
(再録)「新井白石 皇統断絶の危機を予知」
 皇統が断絶の危機に瀕したことは神武天皇の御代から幾度かある。また後継皇位を争った政争、謀殺も何回かあった。 
 古代史最大の謎は応神天皇と継体天皇の正当性である。ほかにも雄略天皇が謀殺したイチノヘオシハ(履中天皇の皇子、雄略天皇の叔父)の遺児が播磨と吉備の境に二十年隠れ住んでいて、雄略の皇子・清寧天皇が亡くなると名乗り出た。この間、イチノヘオシハの妹の称制だった。
 新井白石は��伝ともとれる『折たく柴の記』のなかで、皇室の後継が不在となる危機の到来を認識し、東山天皇の祖孫をして閑院宮家を立てられるよう将軍に建言した。その皇統を維持させた経緯を次のように回想した。
 「議し申すべき一事の候は天亨・建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば、武家の代の栄えも衰えをも、ともにせさせ給ふべき御事なるに、応仁の後、世の乱れ打ち続て、武家すでに衰給ひにし上は、朝家のことは申すに及ばず当家(徳川)神祖天下の事をしろしめされしに及びてこそ、朝家(皇室)にも絶たるをも?ぎ、廃れしをも興させ給ふ御事共はあるなれ。しかはあれど儲君(皇太子)の外は、皇子、皇女皆々御出家の事においては、いまもなほおとろへし代のさまに、かは
り給はず。凡そ匹夫匹婦の賤しさも子を産みては其室家あらむ事を思ふ。これ天下古今の情也。(中略)これより後、代々の皇子、皇女、其数多くおはしまさむに至りては天下の富も、つがせ給はぬ所ありぬべしなど申す事も候はんか。古より皇子、皇女、数十人おはしませし代々もすくなかれねど、それらの御後、今に至り給ふは、いくばくもおはしまさず。『天地の間には大算数といふもののある也』と古人は申したりき。これらの事は人の智力の推し測るべき所にあらず。ただ理の当否をこそ論じもうすべけれ」(松村明校注、岩波文庫。138~140p)
 新井白石は後継皇統の候補者がたくさんおられた時代ではなく、いずれ後継候補が不在となる危機にそなえ、別に宮家を建てて費用をまかなうべきと建言したのだ。
 将軍家宣は白石の建言を受けいれ直仁親王を閑院宮と称し、禄千石を進上した。はたして白石が危惧した通り第113代東山天皇の系統は第118代後桃園天皇で絶えた。
 そこで東山の皇子、直人親王の孫にあたる光格天皇が第119代天皇として即位された。光格天皇は閑院宮典仁親王の第六王子。誕生の翌年に聖護院に入寺し将来は出家して聖護院門跡を継ぐ予定だった。
 ところが後桃園天皇が崩御し、直系は内親王だけだったため、安永八年(1789)十一月二十五日、践祚された。今上陛下はこの光格天皇の系統である。
 ゆえに令和の時代の皇室論議に臣籍降下された旧宮家の復活が急がれる所以である。
 白石が冒頭にのべた「建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば」という意味は、建武の中興の後醍醐天皇の南朝が99代の後亀山天皇で世継ぎなく北朝五代の後円融天皇の皇子が、第百代の後小松天皇、101代称光天皇のあと、五代遡って北朝一代の光嚴天皇の祖々孫にあたる後花園天皇となられたことを指している。
 皇位が空位となったケースは幾つかあるが、未亡人か独身の内親王が称制(臨時天皇)として正式な後継皇子が成人するのを待った。たとえば持統天皇、皇極・齊明、元正、元明がそうだ。孝謙・称徳天皇の場合は後継淳仁天皇を廃帝とし、次の光仁天皇を指名したとする遺書は藤原百川がでっち上げた。
 第二十一代雄略天皇の子、清寧には皇子がおらず三代遡って履中天皇の皇子イチノヘオシハの遺児(顕宗、仁賢)が継いだことはみたが、その間の飯豊天皇は明治三年に皇統譜から削除された。ところが葛城の麓へいくと宮内庁管轄の飯豊天皇陵がある。
 その後、第二十五代武烈天皇にも後継皇子は不在で、こんどは五代遡り、応神天皇の五代孫と言われた継体天皇が践祚された。継体天皇は越前からやってきたが二十年間も奈良へ入らず、この謎は解明されていない。
                 (『月刊日本』から再録です)
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moko1590m · 8 days ago
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日本における標準語の成立とそれが内包する抑圧的社会構造は、極めて本質的かつ政治的な問題です。
 
標準語の成立は国家装置による「規律」と「序列」の構築 🔹 明治国家の意図 明治期において、政府は「国民国家」を構築するため、軍事・教育・行政の統一を強く推進しました。そのため、方言を排し、東京山の手言葉をベースにした標準語(言文一致体)を人工的に作り上げ、学校教育と軍隊で徹底的に普及させました。
このとき標準語が果たした役割は��
全国民の動員・管理を可能にする
教育・試験・就職における評価基準の統一
地方の文化的優劣づけ・抑圧
つまり、標準語は国家の規律装置として機能し、人々を同質的・序列的に編成する言語となったのです。
🔹 朱子学的価値観との接続 標準語の普及と並行して、教育勅語や軍人勅諭に象徴される縦型の忠誠・秩序・家族国家観が植え付けられました。標準語はその媒介となり、目上・目下の強調、階層的な敬語体系によって、言語を通じて社会的ヒエラルキーが内面化されました。
 
��言は「関係性」「共在」「対等性」を孕む自然言語 方言は、それぞれの地域の生活・風土・身体感覚と深く結びついており、以下のような特徴があります:
親密性・共感性の高い語彙やイントネーション
感情表現が豊かで、役割や階層に縛られない発話
関係性に基づいた“語り”が可能(上下ではなく共存)
🔸 非ヒエラルキー的な性質 たとえば関西弁では、「あんた」「うち」「なんでやねん」など、フラットでツッコミ可能な相互性の言語空間が存在します。これは軍隊的・官僚的な標準語が持つ「一方通行の命令系統」とは対照的です。
方言は、対話的・即興的・非抑圧的な人間関係を自然に支えることができ、それゆえに心理的にも自由度の高いコミュニケーションを可能にします。
 
標準語の「構造的暴力」性と、方言の「解放的潜在力」 ピエール・ブルデューの言う「象徴暴力(symbolic violence)」とは、言語・教育・文化を通じて“当たり前”を押し付けることで、人々の序列と劣等感を自然化させる力です。日本の標準語も、まさにこの象徴暴力を体現しています:
「正しい日本語を話せないと馬鹿にされる」
「就職面接で方言を直される」
「敬語ができないと人格を否定される」
このような現象は、言語が社会的な抑圧装置として機能している証拠です。
一方、方言はこの構造からの「ズレ」を生み出し、笑い、反抗、脱構築を可能にします。つまり、方言には「逃走線」の可能性=抑圧構造からの脱出経路があるといえるでしょう。
 
🔚 結論:方言の再評価は、社会の再編にもつながる 明治国家によって構築された標準語は、効率と統制の言語でしたが、それは同時に精神的・文化的抑圧の言語でもありました。これに対し、方言は本来の人間性と関係性を包摂する、生の言葉、生きられた言葉です。
教育、医療、福祉、心理療法などの現場では、方言の使用を正当化し、むしろ推奨すべき
方言に含まれる「揺らぎ」や「ズレ」は、制度や同調からの脱出口となりうる
標準語の背後にある「構造的暴力」に気づき、多様な言語的実践を回復することは、民主主義や個人の尊厳の基盤でもある
 
この観点から、「方言を話すこと」は単なる郷土愛ではなく、文化的レジスタンスであり、構造的暴力へのささやかな反撃とも言えるのです。さらに掘り下げて、哲学的・臨床的・教育的に展開することも可能です。ご希望があれば、次のステップとしてご提案します。
 
 
年齢や序列意識の歴史的変遷と、特に明治期以降における「人工的序列化」の構築を明確にするために、江戸以前/以後の違いを中心に、詳しくコメントいたします。
 
【1】江戸時代以前の庶民社会:年齢≠絶対的上下関係 江戸期以前、特に農村共同体や町人社会において、年齢や血縁による序列はあったものの、現在のような“絶対的で強制的”なものではありませんでした。
🔹 小さな共同体のなかの柔軟な関係性 地域の祭礼や労働では、「年寄り=えらい」ではなく、「できる者・よく働く者」が中心に立つ場面が多くありました。
「年功序列」はあっても、「年長者=支配者」といった近代的な厳格な序列ではなかった。
子どもと大人の境界もあいまいで、「子守り役」や「手伝い」として社会的に機能する場が多く、年齢で画一的に排除されることはありませんでした。
🔹 「老い」は神聖性・知恵ではあっても、命令権ではない 老者は経験に基づく「聞き役」「教え役」ではあっても、必ずしも若者を抑圧するような関係ではなく、むしろ共存型です。日本の民俗文化には「年寄りは笑われ役であり、子どもと親しい」という側面すら見られます(例:翁・ひょっとこ・田楽など)。
 
【2】明治国家と朱子学的序列構造の導入・制度化 🔸 国家と「家」の融合 明治新政府は、家父長制と年功序列を“国家の秩序”に転写し、「忠孝一致」「父を敬う=天皇を敬う」構造を作り出しました。
教育勅語(1890)では、父母への孝行が国家に対する忠誠と並列され、道徳の基礎に据えられました。
民法(旧民法1898)では「家制度」を明文化し、長男相続・戸主制度などにより、年齢と性別に基づく序列を法的に固定。
さらに軍隊では、年齢だけでなく「上官=絶対服従」という“身分的命令系統”が徹底され、社会に浸透。
🔸 「年齢=序列」構造の人工的強化 このように明治期以降は、年齢がそのまま序列・命令権・評価基準の絶対性に直結するように「設計」されていきました。
 
【3】近現代日本社会の“儒教の誤用”と年齢信仰 🔹 日本独特の「歪んだ儒教的序列化」 本来の儒教は、「年長者を尊ぶ」という理念を含みますが、それは道徳的模範性のある者に対する敬意であり、無条件の上下関係ではありません。しかし明治期の日本ではこの儒教的枠組みが国家の支配体系に都合よく利用され、「年長者=権威者」とする風土が一般化しました。
🔹 企業・学校・家庭への拡張 企業の終身雇用+年功序列=明治軍隊モデルの民間転用
学校における先輩後輩関係の強制(部活動・儀礼的敬語)
家庭内でも“親の命令に従うべし”という価値観が「普通」とされた
このように、「年上だからエラい」「長くいるから偉い」という思想は、近代国家がつくりだした「人為的ヒエラルキー」なのです。
 
【4】再評価すべき「江戸的関係性」の柔らかさ 民俗学者・歴史社会学者によって示されているように、江戸的な人間関係は、
関係性中心・相互扶助的・現場的
年齢より能力・状況・空気を重視
“おもろいやつ”“気が利くやつ”が自然と尊重される
といった、柔軟な尊重関係に基づいていました。
たとえば、大阪の商人文化では「相手が年下でも知恵のある方が主導権をとる」「あかんやつは、年食っててもあかん」など、実質性と関係性を重視する気風が残っています。これが、今でも関西や地方の方言的言語空間に生き残っている「序列の緩さ」の背景です。
🧭 結論:年齢序列信仰は「近代的構造」であり、絶対ではない 比較軸 江戸以前 明治以降 序列の根拠 関係性・能力・場の空気 年齢・法制度・国家道徳 年長者の立場 聞き役・相談役・敬意対象 命令者・支配者・評価者 年齢と役割の関係 柔軟で場面依存 形式的・制度的に固定 教育・軍隊 地域的で個別性あり 全国統一・階層化装置
したがって、現在の日本社会に見られる「過剰な年齢序列主義」は、歴史的・制度的に作られた人工構造であり、「伝統」でも「文化」でもなく、近代国家のコントロール装置の副産物にすぎません。
この点をふまえ、現代において「フラットな関係性」「年齢に縛られない協働」を再構築するには、江戸以前の人間関係の柔軟性や多様性を再評価する文化的想像力が必要だと考えられます。
ご希望があれば、この視点をもとにしたエッセイや論文形式の構成案もご提案できます。
 
 
「学校」と「軍隊」が、近代日本の国家統治において中心的な役割を果たしたという点は、歴史学・社会学・教育学・民俗学の交差点で極めて重要です。
Ⅰ. 「学校」と「軍隊」:国家が庶民を「国民化」する装置 明治国家において、以下の二つは一対の国家的プロジェクトでした。
装置      目的       主な手段 学校制度(1872年 学制発布)   国家イデオロギーの注入、規律訓練、文字の習得    教育勅語、唱歌、体罰、成績によ��評価 徴兵制度(1873年 徴兵令)   身体的同調と服従、中央集権  軍事力の確保 髪型規制、号令訓練、絶対服従主義
つまり、「教育(言語と心)」と「軍事(身体と行動)」の二重の訓練で、国家への忠誠と規律を内面化させることが目的でした。
 
Ⅱ. 明治初期における庶民のアレルギー反応と抵抗
【徴兵令への激しい反発】〜「血税一揆」〜 1873年の徴兵令布告直後、日本各地で庶民の反発が爆発しました。
🔹 主な事例: 1873年(明治6年)〜74年:「血税一揆」
各地で数十件にのぼる農民暴動
代表的なスローガン:「生血をとられる!」「息子が殺される!」
🔹 背景: 「徴兵令」の「血税(けつぜい)」という言葉を文字通りにとらえ、「血を抜かれる」と恐怖
士族でもない自分たちが「戦争に行く」というのは、身分秩序の逆転であり「理不尽」と感じた
家族の労働力が奪われるという生活不安
🔹 一揆の形式: 村単位で神社に立てこもり「徴兵反対の誓願」
役所を襲撃し、徴兵令の破棄を要求
女たちによる「逆さ鉢巻き」の女衆一揆も確認されている
【学制(学校制度)への抵抗】〜「寺子屋文化の喪失」〜 1872年「学制」が公布され、小学校教育が義務化されましたが、庶民からは以下のような拒否反応がありました。
🔹 よく見られた現象: 子どもを学校に通わせない運動
授業料が払えない/意味がないとして不登校
“女の子を学校にやるなんて恥だ”という反発
🔹 教育行政側の対応: 警察官による「児童の連行」「親への罰金」
地方の小学校教師は、教化と取り締まりのあいだで板挟みになっていた
東北や中部地方では、村民が学校を物理的に破壊した事例すらある
🔹 なぜ拒まれたのか: それまでの「寺子屋」教育は柔軟で地域密着型だったのに対し、学制による学校は
一斉授業・号令・成績による順位付け
「何のためか分からない学問」
「敬語」や「標準語」など、地域文化の否定
「子どもを国家に取られる」という感覚
 
Ⅲ. 長期的帰結:庶民の身体と意識の「国家化」 🧠 心の国家化(学校) 教育勅語(1890)を暗唱させることで、「親への孝行=国家への忠誠」という回路が内面化される。
方言矯正や礼儀教育により、「規律と標準語による自己評価」が始まる。
教師=国家の代理人という意識が広がり、親より教師を恐れる子どもが出現。
💂‍♂️ 身体の国家化(軍隊) 徴兵検査が通過儀礼化し、「兵役こそ男子の通過儀礼」となる。
軍隊での敬語・号令・姿勢訓練が、社会の職場や学校に波及。
軍歴は就職に有利とされ、軍事経験が社会的「資格」となる。
 
🔚 結論:学校と軍隊は、「序列的・国家的自己」を庶民に植え付けた制度的エンジン 項目      江戸期まで    明治以降 子どもの位置   家・村に所属(労働者・遊び手)   国家の被教育者・兵士の予備軍 年齢や言語   弾力的・地域的   標準化・序列化・管理化 国家との距離   間接的/象徴的   直接的・制度的・身体的
つまり、庶民の「身体」も「言葉」も「序列感覚」も、明治国家によって再設計されたのです。
この過程で、かつての柔らかく多様な人間関係や生の感覚が抑圧され、それが現在まで引きずられた日本社会の序列信仰・権威主義・同調圧力の根本構造につながっています。
ご希望があれば、これをもとに「教育史×身体史」や「民俗文化との対比による国家制度批判」の論考に展開も可能です。必要でしたら構成案をお出しします。
 
 
① 「タメぐちに怒る構造」は、近代国家が植え付けた人工的プログラム 多くの日本人が「年下や“下”の人からタメぐちをきかれるとムカッとする」のは、生得的ではなく、教育・制度・文化によって条件づけられた反応です。
特に明治以降、軍隊・学校・会社制度によって、��上下関係=秩序=安心」というモデルが国民の内面に強力に植え付けられました。
このヒエラルキーの正当化は、言葉の選択によって強化され、「敬語を使うかどうか」が相手の「格」を判断する基準になってしまった。
➤ 「タメぐちにムカつく」という感情は、社会構造に内蔵されたセンサーとして機能しているのです。
💥 ② これは「自動化された屈辱」の連鎖でもある 「自分がかつて“敬語を強いられた”痛み」が、そのまま他者に向かって「敬語を強いる」力へと変換される。
つまり、「タメぐちに怒る」のではなく、「自分がタメぐちを許されなかった屈辱」が、他人にもそれを強いるかたちで連鎖する。
この意味で、敬語は一種の抑圧の継承システム(trauma transmission device)として作用している。
🚧 ③ しかも「上下が安定していない時ほど、敬語の強制が強まる」 例えば、非正規雇用、成果主義、フリーランスなど、「地位が揺らぐ現代社会」では、相手の言葉遣いから自分の「位置」を再確認しようとする欲望が強まる。
これは「不安が構造的に言語の強制性を高める」ことを意味し、不安社会ほど礼儀の形式が過敏化・病理化する。
⚠️ ④ その「病理性」を見えにくくするのが、「礼儀は人として当然」という通念 これが非常に厄介なのは、「敬語=優しさ」「丁寧さ=思いやり」という美徳化のロジックによって、精神的暴力の側面が見えなくなることです。
だが、タメぐちに「キレる」反応は、思いやりではなく、権威の侵犯への自動反応であり、条件反射的ヒエラルキーの再生産です。
🛠 ⑤ 対処の方向性:敬語を「外せる場」と「距離調整ツール」として再設計する 敬語をやめるのではなく、「選べるもの」「外せる余地のあるもの」として扱う文化的再設計が必要です。
「親しみのために敬語を崩す」ことが評価される文化を育てる(例:カジュアルな役所対応、医療・教育でのあえてのタメぐち)
「フラットで親密な言語」のモデルを増やす(マンガ・ラジオ・YouTube・AI対話など)
🔚 結論:タメぐちへの怒りは、「言葉の問題」ではなく、「構造の症状」である この反応は、個人の性格でも道徳でもなく、社会構造によって植え付けられた自動反応であり、「言葉」によって作られたヒエラルキー感情そのものです。
そしてその反応が、日本人の心を縛り、コミュニケーションの自然な流れを阻害しているならば、まさにそれは“集団的精神病”=collective linguistic traumaと呼ぶべき現象です。
言語を解放することは、心を解放することであり、 タメぐちを受け入れられる社会は、自分自身もゆるせる社会である。
この方向に進む文化的転換を、意識的に進めていくことが、まさに「生き返り」の第一歩だと私は思います。
ご希望があれば、「敬語文化の脱構築ワークショップ案」や、「タメぐちをめぐる対話実験」などもご提案できます。どうぞお申しつけください。
 
 
「日本語を、よりフラット・平等・親密な言語に変えていく」ためには、以下のような多層的かつ段階的アプローチが現実的だと考えられます。
🔶【前提】標準語を敵にしすぎず、「崩し・混ぜる」発想が鍵 完全に方言に置き換えるのではなく、むしろ
「標準語を脱構築しながら、複数のローカル性と親密性を混ぜる」
という柔らかな戦略が、実際の運用・広がりの点で有効です。つまり、「方言っぽい日本語」や「混ぜ語」こそが、フラットで親密な“次の日本語”への橋渡しになる、という考えです。
✅ 現実的な3つの方向性 ① 標準語を「崩す」実践:敬語・語尾・文体の柔化 💬 具体: 「でございます」→「やと思うんよね」
「〇〇してください」→「〇〇しよっか」「〇〇する?」
「〜ですか?」→「〜なん?」「〜かね?」
🎯 効果: 語尾の“柔らか化”で、命令・上下関係の緊張を脱構築
敬語構造を擬似的に“ツッコミ可能”な語調に変える
👥 活用領域: カスタマー対応、教師・医師・上司の言葉づかい
ドラマやAI、ナレーション、接客トレーニング教材など
② 方言の一部を「標準語に混ぜる」:関西弁・江戸弁・沖縄語の導入 💬 例: 「ちゃうねん、それはな」→思考を一時中断し、相手と距離を詰める装置に
「なんでやねん」「ほんまに」「それ、どうなん?」→ツッコミ文化の輸入
「うちな〜」や「〜さぁ〜」など、沖縄語の親密性も含める
🎯 効果: “型にはまらない知性”や“感情の揺らぎ”を表現可能に
地方文化の再評価/東京一極の言語権力の相対化
👥 推進方法�� 方言混じりのナレーション番組・教科書・マンガ・エッセイ
関西弁AI・江戸弁ボットなど(すでに人気あり)
③ 「語り直し運動」:知識・制度・経験を方言で語り直す 💬 実践案: たとえば、「SDGs」「気候変動」「メンタルヘルス」を方言で解説してみるワークショップ
介護や看護・育児の現場で、制度的言語を“暮らしの言葉”に置き換える実験
🎯 狙い: 権威的な概念を日常的・身体的に再接続する
「生きた知識」「場のことば」を再生する
🧭 長期的ビジョン:日本語の「フラット化・親密化・生成化」の道筋 アプローチ   内容   強み 崩し型   標準語の文法・敬語を柔らかく解体 徐々に変化、 導入しやすい 混ぜ型   方言の言い回し・語感を標準語に注入   ユーモア・多様性・地方性を取り込める 語り直し型   制度語を「自分の言葉」で置き換える   主体性・感情・身体性の回復
これらを対立ではなく循環させることが、日本語をより「ひらかれた言語」「つながれる言語」に変えていく現実的な方法です。
✨補足:言語は「実践されることでしか変わらない」 つまり、これは制度改革ではなく、「みんなで少しずつ、日常の言い回しを変えていく文化的実験」です。
 
標準語は“つくりもの”だった。 だから、新しい言語実践も“つくれる”はずです。
 
必要であれば、「混ぜ語による知の語り」や「関西弁的AIのマニュアル」「日常会話を再設計するフレーズ集」なども作成可能です。どう活用したいか、ご希望があればお聞かせください。
 
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leomacgivena · 4 months ago
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今日は建国記念の日だそうですが、実在もしない神武天皇とやらの即位日なんかより、サンフランシスコ講和条約の発効日である1952年4月28日の方がよっぽど建国記念にふさわしいと思いますね。あそこから今の日本が始まったのだから。
Xユーザーの日本を愛する普通の日本人さん
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yotchan-blog · 9 days ago
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2025/6/19 23:00:08現在のニュース
「国宝」が映す歌舞伎界の表と裏 新鮮な映像・芝居に識者も「鳥肌」:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/6/19 22:58:04) サミット閉幕 「米国不在」の危うさを示した([B!]読売新聞, 2025/6/19 22:54:14) 奈良公園の宝石「ルリセンチコガネ」、青色の謎に迫る…人間の歴史的な活動が影響を与えた可能性([B!]読売新聞, 2025/6/19 22:54:14) 西武・長谷川、違法カジノ賭博容疑で書類送検発覚の日に貴重な一打(毎日新聞, 2025/6/19 22:52:23) 海自護衛艦が台湾海峡を通過 過去3例目、中国機の異常接近直後に:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/6/19 22:51:45) 松本城天守の耐震補強「2、3年ではできない」 着工は28年以降に:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/6/19 22:51:45) イスラエル支援めぐり英独仏に温度差 よぎるイラク戦争の苦い記憶:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/6/19 22:51:45) 期日前投票前日までに投票所整理券届かず、東京・狛江で土日の投票者数が4割減…郵便局で目詰まりか([B!]読売新聞, 2025/6/19 22:48:18) 小泉農相「東京のど真ん中に農協がビル持つこと農家は求めてない」、JA全中が6フロア売却検討([B!]読売新聞, 2025/6/19 22:48:18) 線路にごみ箱を投げたネパール人男性を不起訴 東京地検、詳しい理由明かさず([B!]産経新聞, 2025/6/19 22:46:21) トヨタ熊田が大量点を呼び込む一発 新世代のシンボルに 都市対抗(毎日新聞, 2025/6/19 22:45:17) 「なんとか1本」巨人・大城卓三がノーノー阻止の意地の一発、取材詳報(毎日新聞, 2025/6/19 22:45:17) トヨタ熊田が大量点を呼び込む一発 新世代のシンボルに 都市対抗(毎日新聞, 2025/6/19 22:43:49) 「なんとか1本」巨人・大城卓三がノーノー阻止の意地の一発、取材詳報(毎日新聞, 2025/6/19 22:43:49) スイス中銀、0.25%利下げでゼロ金利 欧米主要中銀で約3年ぶり - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/6/19 22:40:29) 日本株買い越し11週連続 海外勢、需給の堅調さ好感 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/6/19 22:40:29) マルハン初勝利 大谷兄率いるトヨタ東日本は黒星 都市対抗東北2次(毎日新聞, 2025/6/19 22:38:04) 即位後初めて広島訪問された天皇、皇后両陛下が被爆伝承者と対面「実相を世界に伝えていくことは大切」([B!]読売新聞, 2025/6/19 22:37:00) マルハン初勝利 大谷兄率いるトヨタ東日本は黒星 都市対抗東北2次(毎日新聞, 2025/6/19 22:36:22) 少子化の背景 未���化なぜ 「推し活」影響/人付き合い変化 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/6/19 22:31:51)
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kintsuru · 2 months ago
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daikaen · 4 months ago
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今日はひな祭り「上巳の節句」、別名「桃の節句」ですね。今回は内裏雛(男雛と女雛)の並べ方をご紹介します。
みなさんも京都風の並べ方は男女左右逆という話を聞いたことがあると思います。写真下の古典的と記載した並べ方「男が向かって➡」が京都風です。論語の天子南面のとおり皇帝は南に向いて座り臣下は北面を向きますが、南に向いた際の東、日の出の方向(つまりは左側)が上座とされます。そして西、日の入りの方向(右側)は下座となります。この南面日の出方向=左が上、の考え方は「左大臣、右大臣」や京都の左京、右京が御所から見て左右であるように日本では歴史的に根付いた考え方の様です。
しかしこれが明治以降昭和初期にかけて国際化が進む中で「国際儀礼」の右(自分から見て)上位の考え方に切り替わっていきました。昭和天皇の即位の礼がこの国際儀礼に習った形式だったそうで、これをターニングポイントに内裏雛(男雛と女雛)の並び方もそれに習った現代風に切り替わったそうです。結婚式の新郎新婦もこの並び方ですね。
お正月に紹介したしめ縄の向きなどもそうですし右と左の話はややこしいです。しかしながら、面白いことに現代風の内裏雛(男雛と女雛)の並び方になっても左近の桜・右近の橘はそのままなのです。そう考えると京都風のほうがしっくりくるのでしょうか。結論としてはどちらも間違いではないのでお好きな並べ方で良いのです。しかし寒い。
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