#宝覚寺の大仏
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tomoshiha · 28 days ago
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五月にみたもの覚え書き
 世がゴールデンウィークだからといって別に休みでもないのは毎年のことなのだけれども、なんもせんのもなんなのでなにかしらやることにしている。今年は東洋美術史をざっくり勉強する、と決めて、4月の末に武蔵野美大出版局の『東洋美術史』を買ってきた。ゴールデンウィーク中に通読することを目標にしていたものの、すっとろくて半分もいかず、五月も終わろうかという頃にようやっと読み終わった。ついでなのでずっと積んでいた美術出版社の『東洋美術史』も���読して、こちらも完走した。
 で、先日、用があって神戸に帰省した。ついでなので奈良に寄ったりして、あれこれ見てきた。その覚え書き。 
 大和文華館にはずっと行きたいと思っていたのだけれどもなかなか機会がなく、あっても逃し、行きたいな行きたいなと思っているうちに十年くらい経っていた。行けてうれしい。老若男女がバランスよくおり、そのどの層も、出されているものを信頼してじっくり見ているかんじがあってよかった。健全な集中力が展示室内をひたひたにしている。
 静かな衝撃だったのが北魏の石造二仏並坐像で、字の通り、仏と仏が並んで坐っている。こういう形式の仏像をはじめて見た。ほんのわずかに顔がお互いの方に傾いている。小ささも相俟って、閉じた、親密なかんじがする。とてもいい。
 青花双魚文大皿。二匹の魚のまわりに水草を二種描いている。一種は金魚藻みたいな形のやつで、もう一種は一枚一枚の葉の長いもの。前者が星を散らしたみたいな効果を出しているのに対し、後者はストロークの長い有機的な曲線が水の流れを感じさせるような効果を出していて、この取り合わせの妙がいい。外側は陸の植物複数種が切れ目なくぐるりと囲む(四季の花を組み合わせることで永続性を象徴させているらしい)。魚は、描かれている見込みの面積からすると小さめなのだけれども、背びれをグッと立てて全開にし、胸を張っるようにして頭のほうを起こし、口をギュッと結んで、上げた顎ごしに下を睨みつけるような、気合の入った顔をしている。でも小さい。小さい体に大きいガッツというかんじがして、いい。真横から描かれているが、胸びれも腹びれも左右両方が見えるようにズラしてあり、それが動きと若干の立体感を感じさせて、イキイキして見える。「魚」は中国語の発音がと「余」と音が同じなので縁起がいい、ということらしいけれども、たとえ縁起が最悪だったとしてもぜひ見たい、いい絵。
 『大和文華館所蔵品目録』として矢代幸雄直筆の書類が展示されていた。使われている紙が大和文華館仕様の原稿用紙なのだけれど、これがとても素晴らしくて、上部に広くスペースが設けられているので図なり註なりをたっぷり書き(描き)込める。一枚あたりがA5くらいの縦長で、ふつうの原稿用紙のハーフサイズ(だから200字?)にな���ている。もしやミュージアムショップに売ってやしないかと覗いてみたけども、なかった。売るべきだと思う。売ってください。
 国宝展開催中の奈良国博は噂に違わぬ大混雑。奈良国博が、というより奈良がもう全体的に大混雑で、鹿にしても飽食状態なんかして人間に対する関心がやや薄く、煎餅差し出されても「まあそんなに言うんやったらもらってやってもいい」くらいの反応でしかない。しんどいので、見たかったやつだけじっくり見た。
 百済観音は細身な印象が強いが、腕は案外太い。肩の丸みがそのまま腕の太さになって、そのまま肘までおりるかんじ。本体のS字のシルエットに共振するように、装飾の曲線がつく(耳飾りと袖)。全身のシルエットそれ自体が蝋燭の灯のようにも見える。
 宝菩提院願徳寺菩薩半跏像。ウナギの群れのごときぐりゅんぐりゅんの衣文がすごい。衣自体にはほとんど嵩がなくて、濡れた布が体にまとわりついているようでもある。滝を描いた山水画をなんとなく彷彿とさせる。菩薩の体を源として、なにかが激しく流れ落ちているかんじがする。この作品を取り囲む人だかりからおじさまがひとり、「ピカイチやな……」と呟きながら出てきた。ほんまやね。
 中宮寺菩薩半跏像。この一軀のために一室設けられている。白い空間の真ん中に、黒い仏像が置かれている。シルエットの簡潔さが際立つ。パッと見は安らいだ表情のようにも思えるのだが、単眼鏡で眺めてみると小鼻の上あたりの肉にやや緊張したかんじがあり、差し迫った表情のようでもある。左目の下に筋状に漆の乱れがあるようで、これが涙の跡ようにも見える(同展出品の法隆寺地蔵菩薩立像の左目下にも筋みたいなものを見つけたけどなんなんだろう)。肘の位置が左右でけっこう違うが、肩は水平で、前後にもずれない。後ろ姿がいい(今回の展示では360°どこからでも見ることができる。一生分見とくつもりで、長いこと真後ろに立ってボーっと眺めていた)。肩甲骨などの凹凸は彫り出されず、中央の溝だけが一本、すばらしい微妙さで彫られていて、背中のなめらかな曲面の連なりをつないでいる。やや前側にかがみこむような姿勢なので背中がわずかに丸まっていて、そのことによって高い集中力を感じさせる。尻は体重で潰れることなく、高さを保ったまま小ぶりに締まる。それで腰の位置が高く見え、上半身に若干浮遊感が生まれているように思う。
 神戸にいる間に空いた時間で白鶴美術館にも行ってきた。ここは春季と秋季だけ開館していて、対する私は夏と年末年始くらいしか帰省しないので、行きたいな行きたいなと思っているうちに十年くらい経っていた。行けてうれしい。阪急御影から��側に十数分くらい歩いたところにある。
 おもに本館一階の展示室の古代中国の青銅器をじっくりみた。図版で見るといかにもいかめしいかんじがあって、近寄りがたく思っていたのだが、実物を見ると案外まろやかな印象を受ける。表面がなめらかな部分なんかは翡翠みたいに見える。単眼鏡で細部を観察するのがとても楽しい。饕餮夔龍文方卣は特にのびのびとしたかんじがあって、把手のつけ根のひょうきんな顔(キリンのツノみたいなのが生えている。顎がしゃくれていて、ちょっと口角が上がって見える)とか、フタの持ち手の犬の顔がついた鳥みたいな造形とか、見ていて飽きない。象頭兕觥は字の通り象の頭が象られていて、おもしろい。
 西周時代の車馬具のなかに「節約」という名称のパーツがあっておもしろかった。綱紐をつなげるのに使う、K字状のもの。
 金象嵌渦雲文敦は足とフタのついた球形の青銅器で、器形がまずたいへん愛おしい。三本足(動物の足のような形。こどもの虎のみたいなかんじ。かわいい)に二つの把手(虎?の顔)がついていて、顔に正面から向きあうようにして見ると足の一方が近く、もう一方が離れて見えることになり、そこにリズムが生まれている。なおフタには環が三つついていて、今回は足の位置に揃えて置かれていたけれども、ズラしてみるとまた違うリズムが生まれそうで、妄想していると楽しい。この環というのがやや外向きに開くように配置されていて、その点でも大らかさというか開放感みたいなものが感じられ、好きにさせられてしまう。
 二階は漢から唐ぐらいまでの金工作品が出ていた。
 鍍金花鳥文銀製八曲長杯は八辨の花形を横に引き伸ばしたような変わった形をした器で、杯というには浅いようにも思えるけれども、皿というには深さがある。外側側面は、銀色の地の上に金色の植物と鳥の文様がたっぷり詰めこまれている。他にも唐代の小品がいくつも出ていたけれども、いずれもたいそう趣味がよくて、なんという時代であろうかと思った。自分が遣唐使だったらたぶん、船に積む品物が選べなくて泣いちゃう。
 二階の展示室の端っこの小さい区画(昔は貴賓室だったらしい)が次の展示の予告のコーナーということになっていて、出品予定の南宋と明のやきものが出ていた。次は��磁器の名品展的なことをやるらしい。自前のコレクションであれこれ展示を組み立てて回していけるからこそできることなんだろうなと思う。賢い。
 新館ではコーカサスの絨毯をみた。閉館間際であんまりゆっくりはできなかったのだけれども、眼福だった。V字型の鳥がたくさん織り出されたカザック絨毯が特によかった。絨毯の真ん中の淡い緑色の菱形の区画に、クリーム色、黄土色、朱色、こげ茶色の鳥がわんさかいる。絨毯の縁の枠の部分にもちらほらいる。
 帰りは住吉川沿いを少し歩いた。それからどういう道を通ったのかあんまり覚えてないのだけど、途中に時間が止まったような小さい公園を見つけた。一度は通りすぎたものの、やっぱり気になったので引き返し、写真を撮った。近くのどこかの部屋からピアノの音が聞こえていて、同じフレーズがつたない指で繰り返し練習されているようだった。
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ou-dan · 6 months ago
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2024年まとめ
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 今年は水彩作品の制作をがんばりました。昨年「来年展示やりたいな」と思ったので実行したというのもありますが、いまだにスタイルの確立ができとらんな~と思っており、試行錯誤があります。
 というか静物画と植物画のスタイルは自分の中で確実に手応えがあるのでそれはいいんですが(私のイラストレーションの得意分野はモノ・植物です)、もうちょっとなんとかならんかなと思っているのは漫画絵に寄った人間を描くときのスタイルです。昨年第五人格のファンアートを描いて「キャラクターのスタイルこういう感じならいけるかも」という方向性がうっすらつかめた感じがするのですが、第五人格は根本的にキャラデザが死ぬほどうまいので自分の力じゃないんですよね。というわけで、今年は「月に1作は自主制作水彩絵を描く」を実行しました。イラストはこちらのポートフォリオにまとめています。
 11月はキャンドルのシリーズを描いていましたがそれ以外は人間・キャラクター絵を描くという方向でやっていました。振り返ってみて思うのは、やっぱり物語が明確にあるものは一枚絵だとしても作品になりやすいという感触で、アリス展合わせで描いたものは「漫画絵寄りで且つまとまりがうまくいったのでは」と思っています。正方形だったのでバランスのとりやすさもあった。習作で描いた他の正方形の絵も人物にフォーカスする時はかなりいい形式だなと感じました。
 構図は、迷ったらメイン人物をセンター正面+背景を物尽くしにするor世界観の表象を入れる、と決めているのでまあまあの割合でそういう絵になっています。これは数年前からやっているので「この構図前にも見たな」ってなると思いますが、ワンパターンだとしても全く問題ないなと感じています。
 7月の水彩月間では毎日風景スケッチを描くのを一ヶ月完走したのもいい思い出です。風景うまくなりたいね。
 水彩画の展示は大阪・京都・東京の企画展に参加しましたので、おおざっぱすぎる区分ですが西日本と東日本とで展示ができてよかったです。これは有言実行できてよかった。水彩紙や額装マットのメーカーであるオリオンさん主催の展覧会(メインはオンライン)に参加して、原画ではなくプリント展示でしたが銀座の月光荘で自分の絵を展示してもらえたのはめちゃめちゃ嬉しかったです(水彩の制作を再開する時、道具をそろえたのが月光荘だったので)。
 今年描いた絵で言えば、制作してはいるけどまだ発表はしていない水彩画のシリーズもあるので、来年はこのあたりをまとめて出したいなと思います。
 自主制作以外だと、skebのほか、今年も装画をご依頼いただけたり、毎年恒例の定期案件があるのですがそれで絵を描いたり色々できて楽しかったです。
 アリス展に参加したことで、イギリス文芸題材の絵を描くテーマに着手できたのでよかったなと思っています。というか長年ぶつぶつと唱えている、ビクトリアン・パークというレトロゲームの元ネタになっているイギリス文芸作品の絵を描く、というテーマ、思い入れがありすぎると逆になにも手につかない的な感じなので展覧会に参加してほんとによかった。覚悟が決まる。残るはブラム・ストーカー「ドラキュラ」、スティーブンスン「宝島」、あとビクトリアン・パークの内容本体ではないけどキャラデザでかすっているのでメアリー・シェリー「フランケンシュタイン」です。小説自体は何度も読んでいるのだけど、ほんと絵にするとき「どうやって……!?」というのと「自分の絵で自分の中の小説のイメージが固定するの結構嫌だな……!」という気持ちがめちゃある。でもなんらかの形にはしていきたいですね。自分の趣味趣向のかなり強めの影響もとなので。
 来年のイラストレーション制作の目標も人物系のスタイルの確立、文芸題材のイラストレーション制作、というここ数年変わらない内容ですが引き続きこれでやっていこうと思います。
 漫画に関しては、『せんせいとぼくと世界の涯』がマグカンの漫画賞でノミネートに入ったので編集の方がついてただくことになり、成り行きで演劇の話で盛り上がってシェイクスピア戯曲題材で漫画のネームが出来上がったが100ページ超えたので「これはこれとしてとりあえずいったん別の短いの描くか」ということで留保になったという愉快な出来事があります。別途描いてるネームは私が仕事&生活優先にしているため忙しくてあまり進めておらず、今からがんばりますという感じなのでどうなるかわからないですが来年なんらかの読み切り漫画は出来上がると思うので��のうち発表すると思います。
 今年発表した漫画は『ギャスケル夫人の庭』のみでした。同人誌も発行しました。この作品は自分の創作の棚卸案件だと思っているのですが、これもほぼ2023年に描いていたものを今年仕上げて発表した形です。私の制作スパンが長めというか描かない(漫画描いてる暇がない)時期をはさむので変に間があくんだよな。
 ともあれ9年ぶりに同人誌のイベントに直接参加したので、「ああーそうだこんな感じだったなー」となりました。
 なんだかんだで忙しかったため、逢断は進められなかったのが心残りです。収入にならんものごとの優先順位が下がってしまうの、仕方ないけどほんと悔しいな。春までに数話分ネーム作ってあともう淡々と描くだけを一年やるとかにしたらいけるのかも。
 今年は意識的に作品制作に時間を割いたので、例年と比べて舞台や展覧会を見る量が明らかに減りました。そう、土日を制作にあてると鑑賞機会がかなり減る。平日も動ける身なのだから平日にねじ込めばいいんですがあんまりうまくいかんのよね。とはいっても色々見に行きまして、今年は特に節分会の芸能行脚をしたこと(コロナ禍前に始めたのですがコロナ禍で中断したので久々の再開でした)が収穫でした。あまりピンとこないひとのほうが多いかと思うので説明すると、正月より節分のほうが季節行事としては強めの節目という文化形態に日本の芸能はなっていて、節分の日に社寺で行われる各種の芸能を見て回る趣味というのが民俗芸能というか郷土芸能というかそういう方面の趣味者にはあるのですね。追儺式と呼ばれたりします。ただし節分の日の行事なので節分の日にまわるしかなく、一人の人間が一日で回り切れる量ではないため「今年はあそこへこれを見に行くか……でもそうするとこっちは行けないな……」となったりするので年単位で行脚したりするのです。私は大念仏踊り、念仏踊りの類をできるだけ見たいと思っておりまして、これは節分に限ったものではないんですが、まー全然見れてないけど可能な範囲でがんばりたいんですよね。見るのを。  他には、建築と写真関係の企画や展覧会を巡ったりベケット映画祭で耐久戦のように上映を見たり、スペインへ行ったので建築がっつり見れたのよかったしプラド美術館���行って「時間が無限に足りない」になったりしました。
 作品制作は毎日ちょっとずつやり続ける以外の正解は存在しないのですが、それにしたって時間が有限すぎるなあと感じます。「何をやらないか」を判断するというの、歳を食ったことでやりやすくなった部分はあるかなという気もするので鑑賞も制作も生活も、うまいことやっていきたいところです。
 来年は世界が今よりよりよくなりますように。
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mxargent · 2 years ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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xf-2 · 4 months ago
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戦国時代の日本を舞台にし、主人公の1人を織田信長に仕えた黒人の「弥助」に設定した、仏ユービーアイ(UBI)ソフトのゲーム『アサシン クリード シャドウズ』の発売が予定されている3月20日まで1カ月となった。弥助が屈強な侍として描かれるなど、不確かな内容が史実として海外で拡散されることを懸念する声が強まり、注目が集まったが、今度は実在の寺社について、使用許可を取らずにゲーム内に登場させている疑惑が浮上。特に、弥助が神社に入り、祭壇などを壊す映像が動画配信サイトで公開されると、SNSで批判の声が上がった。この神社の担当者は産経新聞の取材に「しかるべき対応をする」と話した。
「打診あれば使用断った」
この神社は、1400年以上の歴史があるとされる「播磨国総社 射楯兵主(いたてひょうず)神社」(兵庫県姫路市)。発売日が近づき、ユーチューバーらによるシャドウズの先行プレイ映像が配信サイトで次々に公開されると、弥助が神社の中で暴れ、置かれている物を刀で壊していく動画が話題となった。英語版で場所は「itatehyozu Shrine(神社)」と表示されていた。これはあくまでプレイヤーがそのように操作した場合の映像だが、少なくとも先行プレイ用のソフトでは神社内部を「壊せる」仕様になっているようだ。SNSでは、「日本文化への蔑みがひどい」「神道を侮辱している」「無神経だ」などの反応があった。
同神社の担当者に、事前にUBIから使用に関する連絡があったかを尋ねたところ、「なかった。もしあればお断りしていた」と不快感を示した。「しかるべき対応」の詳細についてはノーコメントとしたが、ゲームからの削除を求めている可能性がある。SNSで対応に乗り出したという噂が出ている神社本庁の担当者はこれを否定した。
東大寺も「先方と協議」
シャドウズを巡っては昨年公開された映像で東大寺(奈良市)��登場していると指摘されていた。国宝に指定されている八角燈籠が映っていた。昨年10月時点で同寺の担当者は「(UBIとの)協議は事実だが、相手があることなので詳細は明かせない」と答えていた。その後もこの方針は変わっていないとしており、現時点で同寺とUBIに何らかの合意がまとまっているかは不明だ。ちなみに、東大寺は弥助が来日する十数年前の1567年に松永久秀と三好三人衆の戦いによって主要堂塔が焼失しており、ゲームの舞台となった時代にはまだ、再建されていない。
こうした問題は他にもあった。シャドウズの世界観を伝える画像「コンセプトアート」に、火縄銃の保存伝承活動と関ケ原のPR活動を行っている現代の「関ケ原鉄砲隊」の旗が無断で使用されていることが判明。UBIは昨夏に謝罪コメントを出したが、ゲームの豪華版に添付される冊子からは削除できないとしていた。ゲームの発売が2度延期された中、ようやく鉄砲隊の削除に応じ、この件は基本的に解決したようだ。
海外のファンからも批判
弥助は実在の人物だが残された史料が少なく、侍だったかどうかも断定できない。シャドウズはアサシンクリードシリーズで初めて日本を舞台にし、UBIは主人公の侍に日本人でなく弥助を〝採用〟した。日本史を題材にしたゲームで史実に反した登場人物やストーリーが使われることは珍しくないが、すでに海外で、弥助が合戦で華々しく活躍した「伝説の侍」だったと信じている人がいる所に、影響力のある人気ゲームがその拡散を後押しするという懸念が強まったことなどにより、発売中止を求めるオンライン署名にまで発展した。「日本人だけでなく、海外のファンから『日本史を尊重すべきだ』という批判も多��」(ゲーム業界関係者)という。
プレイステーション5用の『アサシン クリード シャドウズ』。3月20日に発売を予定している(ユービーアイソフト提供)
UBIは海外メディアの取材などに、シャドウズの開発では日本の専門家による時代考証を徹底したという趣旨のコメントをしていた。しかし、これまでに公開された映像では、畳の形が正方形だったり、桜が満開になっている季節に道の脇にスイカが並べられていたりするなど、日本人が違和感を覚える描写も目立っていた。
主人公の操作次第で物語の進行に関係ない物を動かしたり、壊したりできる仕様は、ゲーム内の世界にリアリティを与える効果がある。また、さまざまな場所で登場人物を活躍させることはゲームの内容を豊かにし、プレイヤーを楽しませることにもつながる。ただ、今回は「実在の神社を無断で」という点が批判されている。この件に関して、産経新聞は2月18日夜にUBIの日本法人にコメントを求めたが、20日正午までに返答はなかった。(高橋寛次)
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ryuukouji · 6 months ago
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第1451回「若獅子」2024/12/27【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
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第1452回「元寇を思う – 敵国降伏の門 –」2024/12/28【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
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第1453回「博多の禅」2024/12/29【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
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第1454回「神も仏も」2024/12/30【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
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第1455回「感動が人を変える」2024/12/31【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
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第1459回「餅をついて供える」2025/1/4【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
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第1460回「日曜の楽しみ」2025/1/5【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
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nightflight-1101 · 7 months ago
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まきちゃん!私こそもっとまめに頑張るよ、、、!
奈良、去年初めて足を運んだのだけど、すごく不思議な気持ちになった。なんだか、学校で習った日本史って、ノンフィクションだったんだな〜と。
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数年前に出来たばっかりのホテルとかコンビニと、千年以上前のお寺が、さらっと肩を並べていることに新鮮に驚く。生活圏の中に歴史が溶け込んでいて、歴史と共に街が生きてる感じ。
千年前もこの場所で、人間が笑ったり泣いたり、健やかだったり病んだりしながら生きていた、その事実がありありと目の前に存在していて、圧倒されると同時に少しおののく。そして、いまこの瞬間も、いずれは日本史になってくんだなって思うと、また不思議なきもちに。
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東大寺、法隆寺、奈良博にも行って、たくさん仏像を見た。ちょっと富山では味わえない感覚だったな。宝物を大事に守っていくためにも、やっぱり戦争はしちゃダメだ、そんなことを思ったりもした。
この時は生駒山まで足を伸ばしたのだけど、なんでもない住宅地に竜田川が流れてて衝撃を受けた。神代もきかずの、竜田川って、これか、、、、!
確かに、知識や理性は鎧だよね。護ってくれたり、強くなれたり、反対に頑なになってしまったり。わたしも、しなやかに、自然体でいたい。
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近ごろは我ながら仕事を頑張ってる。やっぱり文章を書くのが好きだ。限られた紙面にできるだけたくさんの記事を載せなければいけないので、原稿を決められた字数の中におさめるのに必死な日々。
でも、
彼女はゆっくり話し始めた
と、
彼女はゆっくりと話し始めた
は、全然違う。
そうばっかりも言ってられないのだけど!
自分は作家やエッセイストじゃないから、情報を相手に正しく伝えることが仕事であり、最優先事項。そこに、どれだけ、自分の感覚的な言葉選びを織り込むか。伝達すると、表現する、も、また似て非なるもので、そのバランスが難しくも楽しい。
でも、やっぱり、100%、表現することだけを楽しむような、自分の中の泉から溢れてくる言葉たちをただただ流し出すような、そんなふうに文章を書く時間だって必要なんだよね。オンでもオフでも、言葉に翻弄されてる。
(舞)
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nenbutsushuart · 11 months ago
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五百羅漢 石彫刻 念佛宗無量壽寺総本山「佛教之王堂」仏教美術 兵庫県加東市 The Five Hundred Arahats Park The Buddhist Art of Nenbutsushu  Life-sized stone statues of 500 arhats, disciples of Lord Buddha, scattered in the vast site named the Five Hundred Arhats Park, were carved by Mr. She Guo Ping, a living national treasure of China. 概略 中華人民共和国、工芸美術大師・の等身大オリジナルの五百人の石像羅漢(佛弟子)が配された広大な庭園。 五百羅漢とは、本来、二千五百年前、釈尊御入滅直後に開かれた、第一回結集(経典編纂会議)に参集した五百人の佛弟子をいう。 五百人の羅漢が問答し、瞑想にふけり、楽器を奏でる等々、各人各様の自然な姿の独創的芸術表現は、釈尊御在世の当時を彷彿とさせる。 なだらかな緑の起伏の中、五百羅漢像の間を遊歩道が縫うように走り、佛教が天竺(インド)から唐土(中国)を��て東方東漸、日本に渡った、シルクロードの終着駅「奈良」の若草山を想起させる。 南門をくぐり、湖畔をあるけば、ほどなく、緑の芝生に木漏れ日がきらめく、美しい公園が見えてくる。 石畳の散策道と点在する木立に、演出された、なだらかな丘陵の中に、絶妙のバランスで配された数々の石像は、中国人間国宝 佘國平佛師制作制作による五百羅漢像であり、二千五百年前、天竺にて釈尊の薫陶を受け、悟りを開いた五百人の弟子たちの様子が、鮮やかに描き出されている。 どれ一つとして同じ顔はなく、口角泡を飛ばし、議論に熱中する者、じっと目を閉じ、沈思黙考する者、あるいは楽器を奏で、余興を演じる者など、まさに、息づかいが聞こえてきそうな臨場感は、訪れる者に、その場の一員になったような錯覚をもたらす。 釈尊のご入滅後、十大弟子の筆頭であった摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)は、それまで各人の記憶の中にしかなかった釈尊の教えを、後世にまで伝え残す必要があると考えられた。 そこで、インド各地に散らばっていた釈尊の弟子たちを、王舎城(おうしゃじょう)郊外に招集し、佛典編集会議を行った。出席者は、選りすぐられた五百人。 そこでは、真の友たちが在りし日の釈尊を偲び、ある者は笑い、ある者は泣き、悲喜こもごもの思い出に耽りながら、昼夜を忘れて語り合ったはず。 この世に平和と安寧をもたらすために、珠玉の教えを伝えんとした往時の五百人の熱意は、二千五百年の時空を超えて、シルクロードの終着駅、ここ大和の地において結集し、世界の佛教徒の参詣を、今や遅しと待ち受けている。
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harawata44 · 1 year ago
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「どっこいしょ」の本当の意味が衝撃的!ただの“掛け声”ではなく“お祈りの言葉”だった - ライブドアニュース
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以下引用
知って楽しい!おもしろ雑学
Q.「どっこいしょ」ってどういう意味?
A.語源は『六根清浄』という仏教用語。邪念を捨てて、心を清らかにしようという意味です。(東北福祉大学学長 宝林寺住職 千葉公慈さん)  立ち上がるときや、荷物を持ち上げるときなど、ふと口をついて出てしまう「どっこいしょ」という言葉。何げなく使っているけれど、どういう意味があるのだろうか。 「どっこいしょとは、人間の根底にある五感などを研ぎ澄まし、邪念や迷いを捨て心が清らかになりますように、という意味のお祈りの言葉です」  そう教えてくれたのは、東北福祉大学の学長で、日本文化に詳しい千葉公慈さんだ。 「このどっこいしょには語源となる言葉があります。それは『六根清浄』という言葉です。  山岳信仰という山そのものを神様とする宗派があり、その修験者は、山に登ることで身と心を清めます。  修験者の山登りの起源は7世紀ごろで、登るときに、運動部が練習で発するような『イチ、ニ』『サン、シ』という掛け声を、先導者の『六根清浄』という掛け声に続いて同じように唱え、何度も繰り返しながら山頂を目指します」(千葉さん、以下同)  険しい山を登りながら必死に唱えるうちに、だんだんと言葉が崩れて、『六根清浄』が『どっこいしょ』という響きに変わっていったそう。 「修験者ではない一般の山登りをする人も、修験者のまねをして唱えるようになり、それから山登りをしない人にも広まっていって、力むときなどの掛け声として定着していったと考えられます」  ちなみに、六根とは人間の五感の視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の5つの感覚に、考える「思考」の能力を足したもの。この6つの感覚を研ぎ澄まして清めていこうというのが、『六根清浄』なのだ。
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moko1590m · 1 year ago
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『完全なる目覚めの経典』(円覚経)には、「仏陀の説いたことのすべては、月をさす指であると理解しなければならない」(指月の譬え)と書かれています。
月を指す指|お経や仏教書を読む時に注意している事があれば教えてください。
『円覚経』は7世紀末から8世紀初めにかけての成立であると考えられているが、初期の禅宗の灯史である『伝法宝紀』[8](でんほうぼうき、713年)に早くも引用されている。中国唐代撰述の偽経ではあるが、圭峰宗密 が25歳で『円覚経』に出会い、29歳で受戒、37歳(816年)以降生涯をかけて多くの疏鈔を撰述した[9]。その後、中国仏教に大きな影響を与えてきた大乗起信論にとって代る重要経典となった。宗密の後、宗派を問わず、多くの注釈書が撰述された[10]。後世、同じく中国撰述経典である『楞厳経』と共に「教禅一致」を説く経典と見なされ、宋・元・明と時代が下がるに従って重視されるようになった[11]。荷沢宗の法系に属する圭峰宗密は、この経を最高のものと位置づけ、生涯をその研��・注疏撰述に献げて、『略疏』4巻・『略疏鈔』12巻・『大疏』12巻・『大疏鈔科』3巻・『大疏釈義鈔』13巻などを著した[12][13]。
月を指せば指を認む(つきをさせばゆびをみとむ) 
《「楞厳 (りょうごん) 経」から》月を示そうと指さしても、肝心の月を見ないで指を見る。道理を説き聞かせるのに、本旨を理解しないで、文字や言葉の端々にばかりこだわることをいう。
楞厳経 (りょうごんきょう)
Léng yán jīng
大乗仏典の一つ。10巻。詳しくは,《大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経》といい,唐の則天武后の時代(690-704)に,インド僧般刺蜜帝が南海の制司寺で口訳し,ちょうど流謫中の房融が筆録したとされる。早くより偽経の疑いがあるように,新しく興りつつあった禅や菩薩戒,密教の教義を,仏説の権威を借りて総合的に主張しようとしたものらしい。楞厳とは,クマーラジーバ(鳩摩羅什)訳の《首楞厳三昧経》と同じく,堅固な三昧の意である。ほぼ時を同じくし同じ意図をもって現れる中国撰述の《円覚経》とともに,後代もっとも流行し,各派の教義に影響して,多数の注釈書を生むとともに,自分の顔を見失う演若多達の譬(たと)えや,山河大地,雨滴声の語など,禅の公案として参究される。
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uro-9000 · 2 years ago
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大魯上人
大魯上人
鹿児島の浄土真宗の礎を築いた大魯和尚(だいろ)の墓は旧吹上町の光専寺の敷地内にございます。
大魯は幕末に本願寺で起きた教義上の論争(三業惑乱)で異端者として追放され、京都から肥後、天草を経て薩摩に逃れた。
当時藩では浄土真宗を厳しく禁じていた(※かくれ念仏のぺージ参照)
それでも大魯は煙草講(たばここう)などの名で人々を集め、洞穴に隠れて念仏の教えを説いた。
そして各地を回り30年、多くの人々に慕われながら天保7(1836)年上草田の辻の久保で没した。明治の初め、藩の政策で薩摩半島の技術者が大隅半島に移住したが、その中に大魯の影響を受けた念仏者がいて教えを伝えた。その後、明治22年にこの地に改葬した。やがて念仏禁制が解かれると浄土真宗は県全域に広まった。
鹿児島で浄土真宗がこれだけ広まっている事は大魯和尚の功績が大きいといえる。
大魯上人が本願寺から追放された理由
大魯上人が本願寺から追放された理由である「三業惑乱」というのは、江戸時代に浄土真宗本願寺派(西本願寺)において起きた法論(教えをめぐっての論争)のことです。
この騒動を寺社奉行として裁断したのが、龍野藩の第8代目藩主の脇坂安董(わきざかやすただ)であったというお話です。
『脇坂家譜』の安董についての欄には「同月(文化3年7月)十一日西本願寺宗意惑乱之ヲ裁断ス」と記されています。
善龍寺(龍野市)では龍野で出版された『真宗新義古義裁断実記』という書物も残っています。
この「三業惑乱」事件というのは異安心(いあんじん)論争で、異安心とは真宗の安心(「あんじん」と読みます。救いの境地)と相違した誤った安心を言い、どちらが正意の安心かをめぐっての論争です。救いとは究極は各自の心の問題なので、本来なら安心自体を判断裁定することは無意味でもあるし不当なことと思いますが、安心がその人の思考をともない教相(教え)として外面化し他人に説いた場合、多くの人に影響を及ぼしてしまいますので、看過するというわけにもいかなくなったのです。
安心と教相(教え)とは密接不離な関係にありますので、教えが違えば迷信、邪信を生み出すというような可能性もはらんでいるのです。
ですから厳密には、「安心論争」「異安心論争」というよりは「教義論争」といったほうが妥当だと思われます。
そして教義は真宗の場合は溯れば開祖である親鸞聖人にあり(その本源は阿弥陀如来の「本願」にありますが)、その著述に基づいて、教義論争が行われます。
この事件が発生したのが寛政9年(1797)で一件落着したのが文化3年(1806)で、実に10年の歳月を要しています。安董が寺社奉行として幕政に参与していた期間が寛政3年(1791)から文化10年(1813)までの22年間ですから、安董はこの「三業惑乱」事件の発生から落着まで寺社奉行として見届けていたことになります。
そして最期に落着させました。本願寺派の教義は安董によって守られたという歴史的側面も多分にあると思います。面白いことに、脇坂家の始祖の甚内安治(じんないやすはる)は、天正6年に豊臣秀吉の命を受けて石山合戦(織田信長対本願寺の戦争)で本願寺側であった三木城を攻めたとき、抜群の手柄を立てたそうで、いわば本願寺の敵であったのですが、その本願寺の窮地を子孫の安董が救ったということになるのですから、脇坂家と本願寺とは順逆の違いはあれ縁深いと言えます。
安董は「三業惑乱」事件の裁断によって、その手腕が高く評価されたこともあり、天保8年(1837)には老中に就任しました。
この事件の発端は、寛政10年(1798)に行なわれた蓮如上人(真宗の中興上人、本願寺第8代法主)の300回法要のあと、その前年の寛政9年(1797)に学林(僧侶の修学道場)の第7代能化(「のうけ」と読みます。
宗派の教義を研鑚し人を教化する学寮の責任者)に就任した智洞が門主の文如上人に代わって『無量寿経』の講説を行ない、この中で「三業帰命」の説を唱えたことにあります。
この説は溯れば第2代能化の知空(ちくう)、及びその弟子の峻諦(しゅんたい)などより発し、第6代の能化となった功存(こうぞん)が『願生帰命弁』という著書を著わして「三業帰命」の説がますます鮮明に示され、その後を継いで能化となった智洞に至った頃には、本願寺派の真宗安心の規準とまでなっていました。
「三業帰命」とは「三業安心」ともいわれ、「帰命(きみょう)」の曲解より起こった異安心です。
すなわち、「三業帰命」とは、「阿弥陀様助けてください」と意業(心で)、口業(口で)、身業(体で)の三業で阿弥陀仏に救済を求めることで、三業に帰命の相がともなっていなければならないという説です。
「これだけ阿弥陀様のことを思っているから救われる」「念仏を称えていれば助かる」「これだけ仏壇の前で拝んでいるから救ってくださる」といった自己の三業(行ない)を阿弥陀仏にさしむけることで救いの助けにしようとしたり、三業で帰命していることを救いの証拠にしようというのですから、とどのつまり、その計らい心、自惚れ心(自力)は阿弥陀仏の救済を絶対的に信知していないことから生じるのであって、三業による「たすけたまえ」という「帰命」はその表われの何物でもありません。阿弥陀仏の本願に不足があるから、その不足分を三業で補おうとする心が働くのです。
これは結局は阿弥陀仏の本願を疑っている姿です。機の深信に徹していないから救われるための手段が自分にあると自惚れ、法の深信に徹していないから本願力に不足を思うのです。
どうして功存が『願生帰命弁』という著書を著わして、「三業帰命」説を強調したかというと、当時、北陸を中心に「十劫安心」という異安心が広まっていました。また京都では「土蔵秘事」という異安心が広がっていました。
功存は特に「十劫安心」を正すために『願生帰命弁』を著述したと思われます。 「十劫安心」という異安心は、「十劫秘事」とも「十劫正覚の秘事」「十劫領解」とも呼ばれ、十劫の昔に阿弥陀仏が成仏されたときに、すでに衆生の救済も成就されているのだから、それを忘れないのが信心であるという邪義です。「十劫安心」は必然「無帰命安心」であり、仏に帰命せずともよい、帰命の安心を不要とします。そこで、功存は帰命の安心の欠けた「十劫安心」を正すために、著書の中で「たのむ一念」の帰命を力説したのです。本願寺派で真宗の教化に絶大な能化の取り締まりにより、「十劫安心」は一応の収まりをみせましたが、その教化が未徹底なままで功存は病死してしまいました。
また、功存が能化だった頃には、「本尊論」についての法論も起こりました。
播州の智暹(ちせん)が『真宗本尊義』を著述して学林を問い質した法論でした。 明和4年(1767)5月のことです。本山は両者を戒告して事件を解決しようとしました。
同年の6月には学林は裁決を不服として本山に乱入したりしました。
また功存の『願生帰命弁』に記された「三業帰命」説に対しては多くの批判が上がっていました。
安永4年(1784)7月、大麟(だいりん)が『真宗安心正偽編』などを著述して功存の『願生帰命弁』を批判、安永7年(1787)4月、宝厳(ほうげん)が『興復記』を著してこれまた功存の説の批判を展開しました。
功存が『願生帰命弁』を刊行してからというもの本願寺派内は法論が頻発に起きていました。
功存が能化の時代に「三業惑乱」という爆弾の導火線にすでに火がついていたのです。
功存は「阿弥陀仏をたのむ」こと「帰命」することに力を入れて説いたために教化が「三業帰命」に傾きましたが、それをより徹底して教化すべく、智洞は「三業帰命」説を前面に出して説きました。そして全国の僧侶・門信徒が集まる法要のときにも、智洞が公然と「三業帰命」説を唱えたものですから、この説に不審を抱いた安芸の大瀛(だいえい)、河内の道隠(どうおん)などの在野の学僧(古義派、正義派)が、智洞を代表とする学林(新義派、三業安心派)と対立し、ついに寛政・享和・文化にまたがる10年間にわたって、西本願寺教団内部をはじめ、24カ国に及ぶ未曾有の大紛争となってしまいました。
大瀛は智洞の説の誤りを明らかにするために『横超直道金剛ベイ』を執筆しました。教義の解釈上の対立、相違問題は政治的な紛争へと発展し、混乱と暴動事件を引き起こし、ついには幕府の裁断を受けなければならなくなり、そこで寺社奉行であった安董の出番ということに相成ったわけです。
「三業安心」説の是非をめぐっての争論が各地でまきおこり、ことが「後生の一大事」、救いに関わる問題ですから、門信徒は動揺し、その是非を手次寺に糺すものの埒があかず、嘆願書で本願寺派本山に問い合わせても、本山はこれをとりあげようとしません。
享和元年(1801)になると、門信徒の中には示威行動に出る者も現れて、京都の町々は動揺する門信徒であふれ、奉行所から内々で注意を受けることになります。
大瀛は享和元年(1801)5月に『横超直道金剛ベイ』を刊行しましたが、翌月には販売禁止にされてしまいました。本山は混乱するだけで事態を収拾することができず、翌年の1月になって美濃国大垣領の門信徒の百姓たちが一揆のいでたちで、本山に詰め掛けようと河原に集結しました。このことを知った領主の戸田采女正は当時の老中で、百姓たちの動揺を静めるために本山に対して、宗旨を整えて門信徒の不安を一掃するようにと要請しました。それにも関わらず本山は何ら手段を講じないまま7月に入り、大垣領の門信徒は再び集結しましたが、代官に鎮圧されました。
事態を重く見た戸田采女正は事件を幕府に届け、もはや一宗門内の紛争ですまなくなりました。
7月の終わりには、江戸築地の輪番(江戸在住の本山の役僧)が寺社奉行脇坂淡路守役宅へ呼び出され、留守居役星野鉄三郎から事情聴取されています。
幕府は従来、寺社に対し、教義や宗門の紛争などは余程のことがない限り、黙認する方針でした。しかし、ことが「一向一揆」に似た社会的に不穏な行動であったため介入せざるを得なくなってしまいました。
この事件を担当した寺社奉行師匠番脇坂安董は享和2年(1802)11月、本願寺派本山に対し幕府の厳しい警告書を突き付けたため、本山役人は事態を収拾しようとして三業安心派の学林と対立するようになりました。翌年の享和3年(1803)1月、三業安心派の僧侶・門信徒は巻き返しのために本山に押し寄せ、安心(往生)の権限を学林へ一任せよと強要し、ついに槍を持って門主の室近くへ侵入するなどの狼藉を極める暴挙に出て、宗門はますます混乱してしまいました。
これに対して諸国の古義派の門信徒、特に安芸門徒の学僧たちは大瀛を中心にして、智洞の誤りを全国に訴え、何度も公開討論を申し込んだり、門主の権限を回復するように本山にせまりましたが、本山はこれを黙殺しました。享和3年(1803)2月には、能化智洞の退職を求めました。
大瀛とそれを支持する石見の履善(りぜん)、京都の春貞(しゅんてい)、河内の道隠などは上洛して本山に論戦を挑んだために京都は騒然となりました。
4月になると学林は本山の休講措置を無視して安居講会を開こうとして古義新義の2派が対立したため、本山はこの処置に窮して京の町奉行所へ訴えてしまいました。
町奉行所はこの時とばかりに両派の取り調べを開始し、5月には智洞、大瀛をはじめとする、この騒動に関わった中心人物たち40人余りの入牢を命じました。
翌年の文化元年(1804)1月に幕府は取り調べのため智洞・道隠・大瀛らを江戸に連行しました。
智洞はこのときすでに罪人として鶤鶏籠(とうまるかご)で江戸へ護送されています。
そして2月2日より寺社奉行役宅にて取り調べを受けました。
5月には正義派の中心的存在であった大瀛がこの事件の結末を見ることなく獄死しました。
智洞もまた獄中にあって死に、その他の者も遠島に処せられた。
学林の僧はこの事件が宗門の教義のことだからと安心していましたが、安董は寺社奉行の中でも、また歴代の奉行の中でも仏教に通じていて、しかも、安董の陰には真宗大谷派の宗学を大成した大谷派講師の香月院深励(こうがついんじんれい)師が控えておりましたから、突っ込んだ取り調べを行ないました。
文化3年(1806)7月11日、安董は「三業帰命」は不正義とする判決を下して、本願寺派本山に対して、宗門不取締の責を問い100日間閉門という寛大な処分を行ないました。そして、8月21日登城し、老中の松平伊豆守より、今度の宗論裁断について、勲労の論旨を賜わるとともに御調役の星野鉄三郎に銀10枚、西田金次郎・清水兵蔵両名に銀7枚を賜わりました。
閉門が解除された11月、門主の本如上人は、『御裁断御書』を発表して宗門内としても事件は一件落着しました。
「三業惑乱」事件が契機となり、能化職制度は廃止され、本願寺派の宗学は、学轍分裂に至り、行信論に三業を論じることを嫌うあまりに、極端な離三業の所行説が発展しました。
その代表的学轍が空華轍で、現在の本願寺派宗学の筆頭勢力となっています。
ちなみに智洞一派の徒は、三業惑乱後もまだ智洞の遺響を守っていたことから、如何に智洞の異説が教界内に一大勢力を持っていたかが窺われます。
また、三業惑乱後も三業だのみ説を強く誡めている説法がしばしば見られたことからも、如何に三業惑乱が本派にとって一大苦難であったかが知られます。
本派の三業惑乱は隣山の大派にも影響を及ぼし、大派でも三業帰命説、及びそこから派生する異説、諸問題について研究されることとなりました。
「三業惑乱」以降、本願寺派に属する僧侶たちは三業を論じない傾向になりましたが、「無帰命安心」に堕してもいけなくなり、困惑が続いていたようです。
「三業惑乱」後に、本山は全国の本願寺派僧侶から各自の信仰の申告書を集めたそうです。
そこには、蓮如上人の言葉を書写して自分の信仰を表わす人が多かったということです。「信心」に関しての無難な回答をすることで自己の信仰が糾弾��れることを免れたのでしょう。
ちなみに脇坂安董は、この「三業惑乱」事件の他にも、延命院事件といって延命院住持日道の不行跡を糾弾しました。ことは大奥にも関係する難事件でありましたが、断固として日道を斬罪に処して寺僧をふるえあがらせたという。
三業惑乱終結後、龍野に帰った安董に、八十歳の母が「三業惑乱はなんと治まった」と尋ねた。それに答えて安董は、「何もほかのことではなかった。阿弥陀様は真実の親であった」と答えた。
母は、「噫(ああ)そうであったかそうであったか。親子の仲なら、かれこれ云うことはいらなんだのう」と喜んだという。
浄土真宗光専寺
仏事・法事等で不明点あればご連絡下さい。
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sugabucks · 5 years ago
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#宝覚寺 #宝覚寺の大仏 #宝覚寺の布袋様 #笑う大仏 #寶覺禅寺 #臨済宗妙心寺派 #台湾 #台中 #台湾旅行 #台中旅行 (台中寶覺寺) https://www.instagram.com/p/B85OtY1n361/?igshid=1ih8snpzvea5w
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shunya-wisteria · 3 years ago
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天空の古刹 立石寺
山寺とも呼ばれる天空の古刹 宝珠山 立石寺を参拝。
山形と仙台を結ぶ仙山線 山寺駅で途中下車。 麓の根本中堂を参拝後、登山道へ。松尾芭蕉が句の着想を得たといわれるせみ塚等を経て、石段を進むこと1時間弱。
まだ暑さの残る時期の訪問で、大粒の汗が取り留めなくながれ。。。悪縁切りのご利益があるとされる奥之院・大仏堂へお参りし、ちょっと一息。さらに先の開山堂へ。
岩の上に立つ開山堂と朱色の納経堂は、天空の古刹と呼ばれるだけあって圧巻の光景。青空の下で輝く姿は映えないわけがない。 開山堂の脇を進んだ先、舞台造りの五大堂から見下ろす自然豊かな集落もまた素敵でした。
ありがたい修行の石段いわれる道中ですが、豊かな自然と句碑等の史跡が楽しめ、運動不足・体力の乏しい私でもあまり苦なく足を進められました。
さて、下山後は近くのお店に入り、かき氷でクールダウン。次の��車を待つこといたしましょう。
立石寺と平泉の中尊寺・毛越寺、松島の瑞巌寺は、9世紀に慈覚大師 円仁が開山し、松尾芭蕉が訪れたみちのく 4つの古刹であり、これらを巡る旅は四寺廻廊と呼ばれているとか。偶発が重なり(?)この度、1年で四か所を巡ることができてしまいました。
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moment-japan · 2 years ago
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愛染明王坐像〔重文)奈良国立博物館蔵
建長8年、 山城国相楽郡〔現在の京都府木津川市)で、大仏師・快成と小佛師快尊・快弁の手によって東大寺大仏殿の焼け残りの柱材を用いて造像・建立された愛染明王。
願主は真言律宗の開祖・叡尊の高弟で阿闇梨の寂澄。
尚、叡尊の高祖は空海です。
真言律宗は真言密教とその戒律である三昧耶戒(さんまやかい)を修学する宗派。
三昧耶戒とは、サンスクリット語のサマヤ(約束・契約という意味)からきており、仏との約束に基づく戒めと誓約という密教だけに存在する戒律のことを三昧耶戒といいます。
鎌倉・室町時代に一大宗派に躍り出た真言律宗ですが、明治時代にこの宗派も例外なく薩摩・長州の輩連中による廃仏毀釈によって復活が不可能というくらいの壊滅的な被害を受けました。
しかしその後、さまざまな知識人や常識ある人々の助けもあり、現在、北は福島、南は熊本まで100近くの末寺を擁する宗団にまで復活しました。
数多な国宝を有する京都・浄瑠璃寺も真言律宗の寺院です。
浄瑠璃寺はもともと奈良・興福寺の末寺でしたが、薩摩・長州からの廃仏毀釈で壊滅的な被害を受けた興福寺と同じ被害を受けないようにと、真言律宗に転じ貴重な文化財を守りました。
鎌倉時代作、奈良国立博物館蔵の重文・愛染明王。
真紅の身体と三眼六臂の憤怒相、怒髪天の頭上には、ひとたび雄たけびをあげれば、どんな猛獣や邪鬼もおとなしくなるという獅子の冠、後部には執着や愛欲を焼き尽くす日輪形光背、腕には煩悩を打ち砕く五鈷杵に衆生の眼を覚まさせる鈴の五鈷鈴、悟りの世界の象徴である蓮の花、そしてトレードマークであるキューピットのような弓矢などを持っています。
仏教における仏は、そのいくつかが古代ローマ神話に出てくる神が起源になっています。
愛染明王もローマ神話の神クピードー(キューピット)が地中海からシルクロードを通り中央アジアでヒンズー教の神仏に姿かたちを変え、日本に伝わってくる過程で、このスタイルになったといわれています。
愛染明王は左手の第三の手だけは何も持っていない金剛拳のように見えますが、この拳の中には衆生の思いや願いに応じるための摩尼宝珠を隠し持っています。
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ari0921 · 2 years ago
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我が国の未来を見通す(63)
「気候変動・エネルギー問題」(28)
「気候変動・エネルギー問題」(総括)〔後段〕
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□はじめに
先週、連休を利用して島根県を訪問し、出雲大社を
特別参拝させていただきました。私などが詳しく解
説する必要はないと考えますが、ご案内いただいた
禰宜(ねぎ)が神話に基づき解説してくれた大社の
歴史は、地上界を支配すべきは天照大神(とその子
孫)とし、地上を治めていた大国主命から話し合い
によって(戦争することなく)国を譲り受けました。
天照大神は、感謝の気持ちを込めて大国主命を祭神
とする出雲大社を建設されたとのことでした。
私自身は、『逆説の日本史』(井沢元彦著)などで
語られているような出雲大社の“いわれ”を知らな
いわけではありませんが、江戸時代の中ごろに再建
されたとされる国宝の現本殿や神話時代から語り継
がれている、東大寺の大仏殿を超える日本一の高さ
48m、階段の長さが109mに及んだとされる初
代本殿の威容などを知ると、禰宜の解説の方により
納得がいきました。
大国主命は、今では広く「えんむすび」の神として
人々に慕われていますが、この“縁”は男女の縁だ
けではなく、生きとし生けるものが共に豊かに栄え
ていくための貴い結びつきを指すそうで、我が国の
悠久の歴史の中で、代々の祖先の歩みを常に見守ら
れ、目に見えないご縁を結んでおられるのだそうで
す。
このように、(正確にはわからないそうですが)3
000年に近い歴史が有する出雲大社の歩みをお聞
きすると、その歴史はけっして“神話の世界”では
なく、我が国の「国づくり」の歴史、そしてこの間
に出来あがった「国柄」、特に神話の時代から「和」
を重んじる国であることなどが改めて理解できまし
た。この精神がやがて聖徳太子の「十七条憲法」第
1条「和を持って貴しとな��」として具現化される
のでした。
私自身はこれまで全国各地、数多くの神社仏閣を参
拝させて頂く機会がありましたが、特に、淡路島の
伊弉諾(いざなぎ)神宮、高千穂神社、伊勢神宮、
宗像大社などにはそれぞれの神話があり、そのつど
納得し、このような歴史を持つ日本に生まれたこと
に誇りと感じ、言いようもない幸せ感を味わった経
験がありますが、今回はこれまでの経験に勝るもの
がありました。
終戦後、GHQの占領政策によって、我が国は、神
話を教育することを含めて戦前の歴史を全否定され
ました。しかし、世界を見渡せば、神話を含めて国
の生い立ちを教えない国はありません。ポツダム宣
言には「日本が世界征服を企てた」となっており、
我が国はこのような“汚名”を受け入れることを余
儀なくされましたが、500年の長きにわたり、世
界征服を企てたのは欧米列国であり、この流れに
「待った」をかけた国こそが我が国でした。
その上、本来、「和」を尊ぶ我が国の国柄が語り継
がれていた神話の中にも存在することをGHQのス
タッフは身抜けなかったのでしょう。もしこのよう
な我が国の本性を熟知していたら、あるいは日米開
戦などは起こらなかったのでは、と想像してしまい
ます。
島根県には、国宝・松江城や日本一の庭園美術館
「足立美術館」などもあって、あらためてこの地域
の歴史や豊かさを堪能しましたが、島根県のみなら
ず全国各地にその地域ならではの歴史や文化があり
ます。天変地異など様々な混乱を経験しても、それ
らを残していただいた先人たちにあらためて感謝申
し上げますと共に、今に生きる私たち世代もまた後
世に残し、伝える責任があることに思いが至りまし
た。
▼我が国のエネルギー政策の“落とし穴”
 
さて、最近の我が国は、気候変動・エネルギー問題
のみならず、「国益」を一顧だにせず、というか
「国益」という言葉自体も忘れ、国際社会、特に西
欧列国に追随するとか、周辺諸国と謝罪することな
どをもって“国是”としているような風潮があるよ
うな気がしてなりません。かつてのグローバル・ス
タンダードなどもその部類だったと考えます。
もちろん、戦前のように、「国際秩序への挑戦者」
となることは許されないですが、戦前の“贖罪意
識”が強過ぎるのか、様々な状況を冷静・沈着に判
断して我が国が歩む道として最適の選択肢は何か、
というプロセスそのものをスキップしているように
思えてならないのです。そのようなことを何度も繰
り返すと、「進むべき進路を誤った」とされる戦前
と同じ結果になり、後々に禍根を残す可能性がある
ことを危惧します。
これまでも「木を見て森を見ず」という言葉を使用
しましたが、現在の我が国は、あらゆる分野で「専
門家」と称される人たちが発言力を持ち、それゆえ
に、専門とする極めて狭い世界の事象に拘泥し、結
果としてその考えに翻弄されているような気がして
なりません。各界に“森が見えない人たちがなんと
多いことか“とつい思ってしまいます。
特に、気候変動問題においては、菅義偉内閣になっ
て、突然「脱炭素」を宣言し、まさに「国益」やそ
の実行の可能性より、国際社会追随の政策に転換し
たことはすでに紹介しました。当時から「エネルギ
ーは安全保障最優先にすべき」との声もありました
が、様々な事情もあったのでしょうが、“見切り発
車”しました。いったん舵を切ると、トランプ前大
統領のような強いリーダーが出現しにくい我が国に
あっては、軌道修正がますます困難になることは明
白なのです。
また、「ブレーキをかけることを忘れた高齢者の運
転のように」と表現しましたが、アクセルばかりを
踏み込み、ついには「一石三鳥」のような勇ましい
キャッチコピーまで飛び出しました。国を挙げた勇
ましい政策には必ずその“副作用”があることを我
が国は長い歴史の中で何度も経験しましたが、その
ような歴史を学び、あるいは各方面からの警鐘を鳴
らす発言に耳をそばだてるような感性は、首相をは
じめ、政治家や官僚の皆様にはなさそうです。
政府が唱える政策に協力するのは当然としても、様
々な思惑をもって「脱炭素」政策に便乗する人たち
は、いったい全体、地球にとってCO2とは何なの
か、本当に異常気象なのか、地球温暖化は進んでい
るのか、それらの原因が人為的CO2の排出にある
のか、さらには、「脱炭素」は可能なのか、そのコ
ストはどれほどかかるのか、CO2を削減すること
が地球にとって本当によいことなのか、その上で、
自分たちのやろうとしていることは本当に日本のた
め、地球のためになるのか・・・などを考えたこと
があるのでしょうか。
おそらくそのような思考は停止したまま、「政府が
奨励しているから」「国連(あるいはIPCC)が
言っていることだから」「皆、やっているから(や
らないと取り残されるから)」と自らを納得させる
・・・私の周りにもそのような人がたくさんおりま
す。なかでも、金儲けの絶好の機会と野心的な思惑
を持つ企業関係者にあっては、その真実の解明より
「お金になるならなんでもよい」くらいの感覚なで
しょう。
民主主義とは、誤解を顧みず話せば、主権者たる国
民の大多数の支持があれば何でもできるし、何をや
ってもよい政治形態です。バラマキと言われようが
刹那的と言われようが、支持率さえ確保できればよ
いと考える政治家が政策を断行し、その結果、主権
者が喜べば、世の中は丸くおさまり、波風は立たな
いのです。
地球温暖化とは裏腹に、「100万年にわたる地球
の気温推移の歴史をみると、人間の出すCO2など
とは全く無関係に一定のリズムを刻んでいる」とし
て、「実際の地球は寒冷化に向かっている」との考
えを持つ人たちも少なくないですが、その寒冷化を
防止するためは、温室効果ガスが必要不可欠であり、
その主体はCO2になることでしょう。
何も考えずに「脱炭素」に協力していている人は、
かつての氷河期のように地球上の生命体そのものを
脅かすことに加担しているという考え方もできるの
です。
▼実行の可能性とコスト意識
さて我が国は、中国などの発展途上国と比較して、
先進国としてエネルギーを消費した歴史が古いこと
は間違いないですが、それでも1970年代に2度
体験した石油ショックから立ち直るために、並々な
らぬ“省エネ”努力を積み重ねてきました。その結
果、実質GDP��たりのエネルギー消費は世界平均
を大きく下回る水準を維持しており、インドや中国
の5分の1から4分の1程度の少なさであり、最近、
省エネが進んでいる欧州の主要国と比較しても遜色
ない水準となっていることも紹介しました。
つまり、すでに省エネに取り組み、それをもって過
度にCO2排出を排出しないという長い歴史があり
ます。そして、生活空間からしても“ウサギ小屋”
と揶揄されるようなつつましやかさも現存し、今と
なっては他国に誇るべきことですが、だからこそ、
これから先、さらに省エネを推進し、CO2排出を
削減することは至難の業だということもいえるでし
ょう。
これもすでに紹介したように、環境省の発表では、
これまで国と地方自治体合わせて30兆円の経費を
投入し、今後は税金で20兆円を投入して150兆
円の投資を呼び込むと皮算用していますが、すでに
省エネを推進し、CO2排出は地球全体の3%ほど
に留まっている我が国にあっては、仮に2050年
に「脱炭素」を実現したとしても、その効果は測定
できないレベル(試算では0.0008℃度程度)
にしかなりません。
最近、このような日本にあって、依然として現実的
な“良心”を有している機関を発見しました。経済
産業省系の研究機関といわれる「公益社団法人地球
環境産業技術研究機構」(RITE)です。RIT
Eはまず、「2030年にCO2を46%削減する
ためにGDP損失��30兆円発生する」として、2
0兆円の実質増税を含み、政府が考えるカーボンプ
ライシングは「経済への足かせになる」と警鐘を鳴
らします。
RITEはまた、「2050年に『脱炭素』を実現
するためには、技術面やコスト、自然制約・社会的
制約などの様々な面で課題や制約を乗り越えること
が必要であるが、技術革新などの進展には大きな不
確実性が存在するため、30年後の姿を具体的に見
通すことは困難である」とし、さらに、電力分野の
みならず非電力分野の技術を実装しない限り、「2
050年の『脱炭素』は極めて困難である」と結論
づけています。
この結言を導くために、RITEは電力構成につい
て5つのシナリオを取り上げて検証していますが、
なかでも再エネ100%のケースでは、電気料金が
2倍になることも試算しています。
東京都は、情緒的な判断だけでその効果もろくに検
証しないまま、都内の新築戸建住宅に太陽光パネル
の設置を義務化し、そのための支援制度を新設する
ということが話題になりました。この支援のための
経費は都民税から流用されることは間違いないでし
ょう。気候変動対策とか「脱炭素」を目的にすると、
コスト意識が頭から離れてしまいがちですが、その
コストは最近話題の電気料金の値上げだけではなく、
石油やガソリンなどの燃料代、そして所得税や地方
税などにも含まれることも再認識する必要があるの
です。
▼「脱炭素」と安全保障
さて、太陽光発電は国内の広大な土地を中国など外
国資本が買いあさる格好の材料になっていることも
指摘しました。最近、中国がアメリカ国内の農地を
購入し、アメリカが警戒していることが話題になっ
ていることも付け加えておきましょう。その面積は、
現時点では1554haほどで、1位のカナダや2
位のオランダなどには及ばず第18位、農地全体の
0.9%に留まっているようですが、高い伸び率で
農地が増えていることに加え、日本を含め、世界規
模で農地を買いあさっていることもあって、アメリ
カ国内では余計に警戒感を増大させているようです。
再エネを推進しようとするとコストがかかる。コス
トを削減しようとすると中国製の太陽パネルを使用
する必要がある、あるいは、太陽光発電のために中
国資本を招へいする必要がある、招へいすればする
ほど、中国資本の森林や農地が増える、増えれば増
えるほど安全保障上の問題に懸念が残る・・・。
上記のサイクルで何を優先すべきかは明らかなので
すが、「脱炭素」以外に盲目になっている人たちに
は、国内の森林や農地が外国資本に買収されること
に危機意識を持たないことが問題なのだと考えます。
前回、地球温暖化の提唱者たちの当初のシナリオが
狂っているのではないか、と指摘しましたが、我が
国にあっては、補助金付きで、中国資本を招き入れ、
国内はおろか、中国の世界戦略に加担するようなこ
とになるのだけは何としても避けたいものです。政
府の早急な英断が求められると考えます。
私は、「脱炭素」などのような“絵空事”(あえて
こう表現します)を根本から見直し、エネルギーの
安定確保(しかもなるべく安価で)を最優先するこ
とを提言したいと考えますが、読者の皆様はどう考
えるでしょうか。
▼まとめ
 
さて、本メルマガで取り上げました我が国の「少子
高齢化問題」「農業・食料問題」「気候変動・エネ
ルギー問題」には共通の要因があり、これらの問題
を抜本的に解決するためには、それぞれ小手先では
なく、国家レベルの根本からの「改造」が必要と考
えます。それらは、国防とか防災なども共通してい
ることでしょう。
本メルマガ「我が国の未来を見通す」は、「我が国
の歴史を振り返る」の後継として発信しているもの
ですが、この後、本メルマガの総括として、我が国
の歴史から学ぶ「知恵」を活かしながら、我が国の
将来に立ちはだかるであろう“暗雲”にいかに立ち
向かうか、について読者の皆様と一緒に考えていき
たいと思います。
しばらく整理と充電の時間を頂いたのち、第4編
「『強靭な国家』をつくる」(仮称)を題して、日
本を守り抜き、日本の未来を創造するための様々な
「知恵」について発信していきたいと計画していま
す。請うご期待!
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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【福井県謡曲古跡めぐり若狭/嶺南編】14箇所目 2021/3/18
能「鵺」「頼政」
観音堂
《福井県小浜市矢代》
真言宗醍醐派。
所在 小浜市矢代10号9番地
本尊 聖観世音菩薩
境内坪数 210坪
堂の建坪 35坪
由緒。当堂ノ創立ハ大同元年丙戊二月ナリ 是ヨり先天平宝字元年丁酉春二月ノ初丿 唐船一艘風波ノ難ヲシノギ萍流浮転シテ遂ニ此海浜ニ漂着ス 土人就テ其国所ヲ訊問スレドモ言語互ニ不通 船中ヲ伺ヒ見ルニ異裝ノ婦女六人品格甚ダ貴嬌ナルヲ覚ユ 男子ト相像スル者二名共ニ咽喉ヲ撫テ食ヲ乞フノ状アリ 土人糧及薪木ヲ給ス 此ニ泊スル事数旬其ノ状土人ヲ試が如ク居ラント欲スル如シ 然シテ村民船中所載ノ貨物ヲ利セソガ為忽チ悪念ヲ起シ 其ノ三月船ニ迫リ終ニ一行ノ人ヲ刺害シテ 所載ノ貨財什器ヲ掠奪スルニ船中扇ヲ設ケテ観世音ノ像ヲ奉スルニ在り 又奪ヒ去ツテ柴ノ庵ヲ造リ之ヲ安置ス 是ヨリ大同元年ニ至ル迄五十年間災厄頻リニ至ルヲ以テ 村民前非ヲ悔悟シ亡霊ヲ招魂スルニヨリ又当堂ヲ創建シテ亡人ノ遺幸セル観世音ノ像ヲ安置ス 実ニ是レ人皇五十一代平城天皇ノ御宇大同元年丙戌春二月也当観世音臨産ノ感験明ナルヲ以テ著名ナリ(以下略)以上由緒は矢代栗駒操 「仏堂礼拝施設存続届」(昭和17年5月30日宗教団体法による届出書)による。
 「観音堂 在二矢代浦一 相伝 古此地領主源頼政創建 一説大同年中創建本尊仏白二異域一来者」若狭国志。
「矢代観音堂 矢代浦にあり、頼位山福寿寺と号す、従三位頼政郷此地を領する時之を創建す、本尊は観世音の像なり。一説は大同年中の草創にして本尊は支那より来ると、今世は金谷村万徳寺の僧堂事を司どる」若狭郡県志。
古来稲富浦と称されていたが、従三位源頼政が平治2年(1160)禁庭で怪獣ヌエを射止めた賞として朝廷から稲富を賜わり、その時使用した箭羽が稲富産であったことから、以後稲富を矢代と改称したと伝える。 
矢代観音
 矢代浦は、もと稲富浦といって、源頼政の領地であった。そのころ高倉天皇はふしぎな病気にかかった。毎晩夜がふけてから、どこからともなく怪物か雲に乗って現われ、御所の上へ来て、天皇を悩ませした。朝廷では源頼政に怪物退治を命じた。
 頼政が、どうして怪物を退治ようかと、心をくだいていると、ある夜の夢に観音様が現われ、「わたしはお前の領内の稲富浦にある観音である。お前が怪物を退治しようと思うならば、わたしに願をかけよ。」といった。さっそく領内を調べると、はたして稲富浦に観音堂があった。頼政は大いに喜び、はるばる京都からこの地に来て、観音堂に断食七日の願をかけた。
 七日七晩の満願の夜、また観音様か夢に現われ、「山鳥の羽で矢羽を作ったならば、必ず怪物を��とめることができよう。」と告げた。翌朝稲富浦の山中で山鳥を捕えて羽をとり、宮川村の竹やぶで矢竹をとって矢を作り、その矢を射て、みごとに怪物を退治した。
 頼政は稲富の観音様にお礼参りをして、稲富の一部と外面(そとも)を観音様に寄進した。これから稲富を矢代と呼ぶようになった。今も宮川村に頼政を祭った堂があり、矢代には頼政の屋敷跡がある。また矢代では山鳥を食べない。 
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c3oyama · 4 years ago
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2/7 #フナの日 誕生日/ #向井理 #加護亜依 #香坂みゆき #宮本恒靖 #阿久悠 #香坂みゆき #小林稔侍 #青島美幸 誕生日 1478年 トーマス・モア(法律家) 1812年 チャールズ・ディケンズ(作家) 1893年 鈴木茂三郎(政治家) 1906年 愛新覚羅溥儀(清朝第12代・満州国皇帝) 1926年 津島恵子(女優) 1927年 ジュリエット・グレコ(歌手) 1934年 金美齢(評論家) 1935年 バーブ佐竹(歌手) 1937年 阿久悠(作詞家・作家) 1940年 益川敏英(物理学・ノーベル賞受賞) 1943年 小林稔侍(俳優) 1948年 石鍋裕(仏料理人) 1959年 カルロス・ポンセ(野球) 1959年 青島美幸(エッセイスト) 1961年 山本亨(俳優) 1962年 デヴィッド・ブライアン(ボンジョヴィ・ミュージシャン) 1963年 香坂みゆき(女優) 1966年 クリスティン・オットー(水泳) 1968年 寺岡呼人(ミュージシャン) 1969年 ハッピハッピー。(元アニマル梯団コアラ・タレント) 1972年 諏訪内晶子(バイオリニスト) 1972年 本宮泰風(俳優) 1975年 松田樹利亜(歌手) 1977年 宮本恒靖(サッカー) 1977年 森野文子(女優) 1978年 アシュトン・カッチャー(俳優) 1980年 イ・ジョンヒョン(韓国・歌手・女優) 1982年 向井理(俳優) 1984年 高木梓(タレント) 1986年 上村彩子(元AKB48・歌手) 1988年 加護亜依(元モーニング娘。・歌手) 1992年 矢島舞美(歌手・℃-ute) 1993年 太賀(俳優) 1996年 萩原舞(歌手・℃-ute) 誕生花は 貝母(バイモ)、花言葉は“誠実な心” 誕生石は 瑪瑙(agate)、宝石言 フナの日 茨城県古河市の古河鮒甘露煮組合が2001(平成13)年に制定。 「ふ(2)な(7)」の語呂合せ。 2000(平成12)年に11月27日に「いい鮒の日」として制定したが、翌年から2月7日に変更された。 いい鮒の日 11月27日 北方領土の日 日本政府が1981(昭和56)年に制定。 1854(安政元)年12月21日(新暦1855年2月7日)、日露和親条約が締結され、北方領土が日本の領土として認められた。 北方領土は択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島からなり、面積は4996平方kmで沖縄の2倍強ある。 江戸時代から日本は北方領土の開発・経営をしていた。「日露通好条約」により、ロシアとの国境が択捉島とウルップ島との間に確定された。その後、1875(明治8)年の「樺太千島交換条約」によって樺太全島を放棄する代わりに千島列島全てが日本領となり、1905(明治38)年の日露戦争���勝利により、「ポーツマス条約」で南樺太も日本領となった。 第2次大戦の敗戦により、1951(昭和26年)の「サンフランシスコ平和条約」で、日本が戦争によって奪った土地の権利・権原等は放棄することとなり、千島列島もその中に含まれた。しかし、北方領土は戦争によって獲得した土地ではなく、権限を放棄する千島列島には含まれないが、ソ連は千島列島の一部であるとして北方領土を占領し、その状態が現在まで続いている。 北方領土問題対策協会 竹島の日 2月22日 ふるさとの日 [福井県] 福井県が1982(昭和57)年に制定。 1881(明治14)年のこの日、石川県・滋賀県から越前・若狭を分離して福井県が設置された。 長野の日(オリンピックメモリアルデー) [長野県] 日本青年会議所北陸信越地区長野ブロック協議会が1998(平成10)年に制定。 1998(平成10)年のこの日、長野冬季オリンピックの開会式が行われた。 日本青年会議所北陸信越地区長野ブロック協議会 独立記念日 [グレナダ] 1974年のこの日、カリブ海の島国・グレナダがイギリスから独立した。 歴史・出来事 1184年 源平・一ノ谷の戦い 1690年 東京・湯島聖堂が完成 1691年 湯島聖堂の昌平坂学問所が完成 1754年 日本初の人体解剖(山脇東洋) 1855年 日露通商友好条約締結 1873年 仇討ち禁止令 1960年 東京の市外電話局番が3桁になる 1965年 米軍が北ベトナム爆撃(北爆)開始 1987年 映画『マルサの女』公開 1992年 EC加盟12国がマーストリヒト条約に調印 #今日は何の日 #パーソナルカラー #カラードレープ #カラーパレット #こんにちは #色見本 #PCCS #ドレープ120色 #パーソナルカラー用品 #テストドレープ #C³ #色のみかた #シーキューブ (パーソナルカラー用品ドレープ、見本帳,PCCSのご用命はc3(シーキューブ)) https://www.instagram.com/p/CK-GG01A1ov/?igshid=q3mlvyzd5vcf
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