#延暦寺
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Monks from Enryakuji Temple (延暦寺) on Mount Hiei assisting with rites for the prevention of illness at Kitano Tenmangū Shrine (北野天満宮) in Kyoto in early September 2024
Monjes del templo Enryakuji (延暦寺) en el monte Hiei ayudando con ritos para la prevención de enfermedades en el santuario Kitano Tenmangū (北野天満宮) en Kioto a principios de septiembre de 2024
Image from the temple's official twitter account
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比叡山延暦寺
平安京の鬼門を守る比叡山延暦寺。高野山と並ぶ山岳信仰の歴史があり、数々の宗派の源となった日本仏教の母

比叡山の中枢とも言える東塔エリア

駐車場から最初に着く大講堂。比叡山で修行された各宗派の宗祖の木造が祀られており日本仏教の源を実感



大講堂横の鐘楼


国宝の根本中堂は修復中。令和9��12月に完成予定🤣一応中に入って不滅の法灯を拝むことはできる。

修復中の外観を見学できるのでこれはこれでレア。一応中に入って不滅の

廻廊の屋根


本堂の屋根

根本中堂を出て文殊楼に向かう急峻な階段

一歩踏み外すと大変なことになりそう😅

延暦寺の山門にあたる文殊楼


文殊楼から大書院を臨む




萬拝堂。日本全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神を��請し、合わせて世界に遍満する神々をも共に迎えて奉安しているところ。休憩所もある。

先祖回向の修行場の阿弥陀堂

横にはエリアの名前に繋がる法華総持院東塔



戒壇院


最後は西塔エリアに向かい左右同じお堂を渡り廊下で繋いだ常行堂と法華堂のにない堂


続きは以下から
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ヒエイザンエンリャクジ
比叡山延暦寺は、滋賀県大津市にある日本仏教の聖地として知られる古刹です。788年に最澄によって開かれ、天台宗の総本山となりました。比叡山の広大な山域に多くの堂塔が点在し、根本中堂や大講堂、横川中堂などの重要な建造物が知られています。延暦寺は、日本仏教の重要な拠点として、多くの高僧を輩出し、日本の宗教や文化に大きな影響を与えてきました。また、厳しい修行で知られる「千日回峰行」が行われることでも有名です。比叡山は世界文化遺産に登録されており、歴史的価値の高い建築物や美術品、貴重な歴史的文書などが数多く残されています。自然豊かな環境の中、歴史と信仰の深さを感じられる場所として、多くの参拝者や観光客が訪れています。
手抜きイラスト集
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天台宗総本山 比叡山延暦寺
滋賀県大津市坂本本町4220 京都市と滋賀県大津市にまたがる天台宗総本山。 ずっと京都にあると思ってました。
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[Image above: D. T. Suzuki (11 November 1870 - 12 July 1966) was a Japanese Buddhist scholar and doctor of literature. ]
A message from 23 nights temple Q&A: Part 2 [Part 1]
Next question was, want to know more about Tendai Buddhism and how to do face-to-face learning outside of Japan:
More than 1,400 years after its introduction, Buddhism in Japan was born from the founders of sects in Japanese history and culture. Today, about 13 major sects exist, including the Tendai sect. Of these, three are Zen sects: the Soto, Rinzai and Obaku.
Among them the most representative are, Saicho, founder of the Tendai sect, whose head temple is Enryaku-ji on Mt. Hiei; Kukai, founder of the Shingon sect, who brought esoteric Buddhism to Japan, whose head temple is Kongobu-ji on Mt. Koya; and Dogen, author of the Shobogenzo, a philosophy book said to be a manual for Zen meditation practice and originator of mindfulness. Founder of the Soto sect, whose main temple is Eiheiji Temple.
Buddhism means 'Buddha's teachings'. In the beginning, everything was transmitted orally and it was only after Buddha's death that documents and scriptures were created. All of the Buddhist scriptures that remain today were described by the memory of Buddha's disciples. In the meantime, it underwent various transformations through the views of translators and other factors, and representative gurus from different countries established and divided into sects. The Tendai sect is one of these sects, founded by Master Saicho. Incidentally, my trusted teacher is a Zen monk of the Soto sect, and he says that one should not be confined to a sect. It is because Dogen, the founder of the Soto sect, taught that the Buddha's teaching is one and that we should not be obsessed with sects.
Those wishing to study face-to-face or Buddhist thought outside Japan should visit your local Buddhist temple or Zen centre. You can easily find one by hitting the usual keywords. However, not all are good teachers. It is recommended to search patiently for a teacher or centre that suits you. For international learners, books by Japanese Buddhist scholar D.T. Suzuki are relatively accessible. He wrote on Zen in English and introduced Japanese Zen culture to the rest of the world. He was also a prolific translator of Chinese, Korean, Japanese, Vietnamese and Sanskrit literature.
In fact, the teachings of Zen that we are learning are not like there is a holy scripture that says this is the absolute truth, nor is there a founder who says that this is the absolute truth.
And it is best not to decide on a teacher based on sect or culture, but to knock on the door of a person you can identify with. More importantly, he or she may not only be in the temple.

二十三夜堂からのメッセージ Q&A: その2 [その1]
次の質問は、天台宗についてもっと知りたい、日本国外で対面で学ぶ方法を知りたいというものでした:
伝来から1400年余りの年月を経て、日本の歴史文化のなかで、宗派の開祖たちから生まれたのが「日本の仏教。 現在、大きな宗派として存在しているのは、天台宗を含め約13宗派。その中で禅宗は、曹洞宗、臨済宗と黄檗宗の3宗。
中でも代表的なのは、天台宗の開祖の最澄、総本山は比叡山延暦寺、日本に密教をもたらした、真言宗の開祖の空海、総本山は高野山金剛峯寺、そして、坐禅修行のマニュアルとも言われている哲学書「正法眼蔵 (しょうぼうげんぞう)」の著者でマインドフルネスの元祖、曹洞宗の開祖の道元、大本山は永平寺など、が挙げられる。
仏教とは「ブッダの教え」という意味である。当初、全ては口頭で伝えられており文書·経典ができたのはブッダ没後のことだ。今日残っている仏教経典はすべて、ブッダの弟子たちの記憶によって記述されたもの。その間訳者の見解などを通して様々な変形を繰り返し、各国の代表的な教祖が宗派を立ち上げ分かれていった。天台宗はその一つで、最澄が立ち上げた宗派である。因みに私の信頼できる先生は曹洞宗の禅僧だが、彼は宗派に囚われるべきではないと言っている。というのも曹洞宗の開祖である道元禅師が「ブッダの教えは一つであり、宗派に執われるな」と教えていたからだ。
国外で対面学習や仏教思想を学びたいとご希望の方々は、ローカルの仏教寺院、または禅センターを訪ねてみると良いと思います。お決まりのキーワードを叩けば、すぐに見つかります。但し、全てが良い先生とは限りません。自分に合った先生やセンターを根気よく探すことをお勧めします。海外の方々は、日本の仏教学者、鈴木大拙氏の本が比較的手に入りやすいと思います。彼は英語で禅に関する著作を発表し、日本の禅文化を世界に紹介し、また中国語、韓国語、日本語、ベトナム語、サンスクリット語などの多作な翻訳者でした。
実際、私たちが学んでいる「禅」の教えは、これが絶対の真理だという聖典があるわけでも、これが絶対の真理だという教祖がいるわけでもありません。
宗派や文化で師を決めるのではなく、ご自分が共感できる門を叩くのが最良��と思います。もっと言えば、その人はお寺にのみいらっしゃるとも限りません。
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【かいわいの時】宝暦十四年(1764)四月六日:対馬藩通詞鈴木伝蔵、大坂に滞在中の朝鮮通信使節随員*を殺害し出奔(大阪市史編纂所「今日は何の日」) +崔天宗(チェ・チョンジョン)
この事件が人参売買をめぐる金銭返済のトラブルが原因である説を裏付ける論拠として『明和雑記』には次のように記されています。
明和二乙酉年人参(の)事 去申年朝鮮人来朝の節、所々におゐて内々にて人参を売買ありし所に御聞に達し、厳しく御吟味有之。大坂表にても内々にて買取し者これありし由にて《略》其後段々御免是有過半相済候へ共、いまた御預ケ入牢のもの是あり。此一件ハ大坂ばかりにかぎらず江戸京其外西国筋にもかゝり合有之由、此根本といふハ皆々鈴木伝蔵か所為なるよし。亥年迄も相済ず、子の年春の頃大坂の懸り合ハのこらず相済候へども其外の所ハ存ぜず。※句読点後付け
この事件は大阪ばかりでなく、京都・江戸及び遠くは九州までにその影響を及ぼしており、その余波は事件後5年近い歳月を経てようやく終りを告げたのである。こうした経過はこの事件の深刻さを物語っているのであり幕府側の事件に対処する厳しさも考えられるのである(朴賛基)。「朝鮮通信使と歌舞伎」第14回国際日本文学研究集会研究発表(1990. 11.16)より。
(写真)羽川藤永「朝鮮通信使来朝図」延享五年頃/1748年頃
肉筆の浮絵は作者名が記されないことが大半ですが、本図には珍しく作者の羽川藤永の款記があります。朝鮮通信使とは、徳川将軍が代替わりの際などに来日した朝鮮からの使節団で、本図のような隊列を��んで各地を練り歩いた様子が多くの絵画史料に伝えられています。本図もそのひとつであるならば、このような大型で入念な描写の肉筆浮絵が描かれるのは1740年代と考えられるので、1748年に江戸を訪れた第10回の通信使を描く作品ということになります。しかし���この名称は通称として一般に定着していますが、表現内容については議論の的となっています。
本図の線遠近法の消失点付近には富士山を背にした江戸城の石垣が見えていますが、この行列を朝鮮通信使と考えれば、輿に乗った正使とその一行がこれを後にして、使館の浅草本願寺へ戻るため常磐橋(ときわばし)を渡り、本町(ほんちょう)二丁目を過ぎていく様子と解釈できます。しかし行列の細部を検討すると、実際の通信使とは異なる部分、たとえば、行列の中心である輿に乗る人物が、正使にふさわしい有髭の成人男性ではなく、無髭の子供であることなどが指摘されています。これを理由に本図に描かれているのは江戸の山王祭の唐人行列とする説もあります。
本図の収納箱の貼紙によると、この図が徳川吉宗の第二子、田安宗武の子で、1753年に9歳で夭折した小次郎(孝慈院)の愛玩の作品だったことがわかります。徳川将軍の孫に見せるための作品としては、その主題は単なる祭礼風景ではなく、異国からの使節を迎え入れた徳川将軍家の威光を示す意味付けも必要だったはずで、山王祭の唐人行列を参考にしつつ、名目上は朝鮮通信使の行列図として描かれ田安家に納められたという仮説も検討すべきでしょう(文化遺産オンライン=画像も)。
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キリスト教の正統派は、歴史的に、異端を何百年にもわたって、処刑してきました。20世紀の中国の文化大革命でも、同様に、異端者は多数処刑されたようです。世界史において、このように、イデオロギーなど、思想を根拠として、それに合わない相手を敵とみなして攻撃するということは広く行われてきたと思いますが、その例を、できるだけたくさん教えてください。
ChatGPT said:
おっしゃる通り、「異端」や「敵対的思想」に対する迫害は、宗教・政治・文化を問わず、世界史のあらゆる時代と場所で繰り返されてきました。以下に、宗教・政治・哲学・民族など様々な分野にまたがる例を、できるだけ多く、系統立ててご紹介します。
🔹【宗教的迫害の例】
◆ キリスト教世界
カタリ派弾圧(13世紀フランス) 南フランスの異端カタリ派に対して、ローマ教皇とフランス王が「アルビジョワ十字軍」を派遣し、大量虐殺。
魔女狩り(15〜18世紀ヨーロッパ) 魔女とされた人々(特に女性)を異端・悪魔崇拝として処刑。数十��人規模の犠牲が推定される。
プロテスタントとカトリックの相互弾圧(16〜17世紀) 宗教改革以降、プロテスタントがカトリックから弾圧され、逆にプロテスタント諸国ではカトリックが迫害される事例も。
◆ イスラーム世界
スンニ派とシー��派の対立 特に初期のウマイヤ朝、アッバース朝などで、シーア派が異端視され、反乱や弾圧の対象に。
スーフィズムの弾圧(例:サウジアラビアでのワッハーブ派による) 神秘主義的信仰が「正統イスラーム」に反するとされ排除。
◆ 仏教世界
法華一揆や比叡山延暦寺の焼き討ち(日本・戦国時代) 特定の宗派が政治的・軍事的勢力となり、他宗派や権力と対立、あるいは弾圧対象に。
中国・唐代の「会昌の廃仏」(845年) 道教を擁護する武宗が仏教を外来の異端とみなし、大規模な弾圧を行った。
🔹【政治・イデオロギーによる弾圧】
◆ フランス革命(1793–94年)
「恐怖政治」期における反革命派の粛清 ジャコバン派が多数の「反革命分子」をギロチンで処刑。ロベスピエール自身も後に処刑される。
◆ ソビエト連邦(スターリン時代)
「大粛清」(1936–38年) トロツキー派や古参ボリシェビキ、知識人などが「反革命」「反スターリン」とされて処刑または強制収容所送りに。
◆ ナチス・ドイツ(1933–45年)
ユダヤ人、共産主義者、障害者、ロマ、同性愛者などの抹殺 人種イデオロギーに基づく迫害。ホロコーストによるユダヤ人の組織的大量殺戮は象徴的。
◆ 中国・文化大革命(1966–76年)
毛沢東思想に合わない知識人、宗教者、教師などが攻撃対象 紅衛兵による集団糾弾・暴力・拷問・処刑が行われた。多くの古典文化や書物も破壊された。
◆ カンボジア・ポル・ポト政権(1975–79年)
知識人・都市住民の大量虐殺 「原始共産主義」に基づき、メガネをかけている人さえも「知識階級」として拷問・殺害された。
🔹【哲学・思想・科学への迫害】
ソクラテスの処刑(紀元前399年) 若者を堕落させた罪とされアテナイで死刑に。民主政による思想統制の例。
ガリレオ・ガリレイの宗教裁判(1633年) 地動説を唱えたことで異端審問。自説の撤回を強いられた。
ジオルダーノ・ブルーノの火刑(1600年) 無限宇宙や異星人の存在を示唆した思想が異端とされ、ローマで火あぶりにされた。
🔹【民族・文化へのイデオロギー的攻撃】
アルメニア人虐殺(1915–1917年、オスマン帝国) キリスト教徒のアルメニア人がトルコ民族主義の下で大量虐殺され、約100万人が犠牲に。
ロヒンギ���迫害(ミャンマー) 仏教徒主導の民族主義とイスラム教徒との対立のなかで、ロヒンギャが「異端民族」として迫害。
🔹【まとめ:思想的異端の処罰に共通する構造】
これらの例に共通するのは、「正統(orthodox)」が国家や宗教機構によって定義され、 それに反するものは「異端(heretic)」や「敵(enemy)」として人格や存在そのものが否定されるという構造です。 ドゥルーズやデリダのような哲学者は、こうした排除の構造自体を批判的に捉え、「意味のゆらぎ」や「差異」を受け入れる思考の重要性を示しています。
ご希望があれば、それぞれの事例を掘り下げたり、哲学的視点(たとえばデリダやフーコーの権力論)からの分析もお手伝いできます。どの方向に深めてみたいですか?
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天台宗いろいろ問題が多い宗派ですね。 歴代山口組の組長の法要・善光寺のセクハラ・本山の延暦寺での暴力事件・重要文化財の仏像流失等々、醜聞に事欠かない。 天台宗の開祖伝教大師最澄は、このような事を起こされ嘆いているだろう。
「不快以外のなにものでもなかった」住職からの性暴力被害訴える尼僧 天台宗の調査は「担当者が加害者側の住職らと知人関係」第三者による調査求める上申書提出(MBSニュース)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース
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『天和笑委集』でお七一家が避難したとされる「正仙院」という寺を実在の寺として見つけることはできないが、延宝8年(1680年)の『江戸方角安見図』では本郷森川宿の近くに「正泉院」という寺を見つけることが出来る。江戸災害史研究家の黒木喬によると正泉院はお七一家が焼け出された天和2年師走28日(新暦1683年1月25日)の火事の火元となった大円寺の裏にある寺だが火元でありながら大円寺自身は大して焼けなかったように正泉院も焼けなかったのだろうとして、黒木はこれが天和笑委集でいう正仙院ではないか?としている。『江戸方角安見図』はインターネットで公開もされているが江戸方角安見図の駒込一の右下隅に「正泉院」が見える。 西鶴が二人の恋の場の寺の名を駒込・吉祥寺とし、西鶴の流れを汲む多くの作品や現代の歌舞伎などでも吉祥寺が避難先の寺とされるが、お七一家が家財道具を持って逃げるには少し遠い(西鶴の好色五人女の挿絵では家具類を持って避難している)。黒木は西鶴が大阪なので大阪でも名の知られている寺を物語の舞台に選んだのだろうとしている。日本大学藝術学部教授を務めた目代 清も避難先はおそらくは円林寺か円乗寺で少なくとも吉祥寺ではないと断言している。
八百屋お七 - Wikipedia
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2025年4月30日(水)
琵琶湖一周旅行 第5日目。
桜が美しい季節の、世界遺産 比叡山 延暦寺を観光。
松ノ馬場駅から無動寺坂を登って東堂へ。西堂から、京都トレイルランニングコースを通って、横川へ。その後、本道を下山して坂本へ。
途中、修行僧が先輩に呼ばれ、���座に大声で返事し、下駄で何十段もの階段を駆け上って行ったのを見た。とても厳しい戒律の場だと改めて痛感する。
充実した一日に、スーパーホテル 大津駅前店のウェルカムバーで乾杯して、就寝。

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2025/4/8 7:00:05現在のニュース
郵便配達員、業務中にコンビニで飲酒、泥酔状態 点呼なし、公表せず:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/4/8 6:51:26) 余録:宮城県気仙沼市のカキ養殖家… | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/4/8 6:51:04) トランプ関税「軌道修正する必要」 投資家やマスク氏ら支持者が訴え(毎日新聞, 2025/4/8 6:49:52) NYダウ続落、349ドル安 3営業日続落、乱高下する場面も(朝日新聞, 2025/4/8 6:46:45) 東証大幅続落、2644円安 3万1136円 下落幅、史上3番目:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/4/8 6:45:45) つくば市、スマホアプリで街灯・防犯灯の故障を通報 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:42:28) 【滋賀・大津】比叡山坂本、水運で栄えた門前町 延暦寺・京と縁深く - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:42:28) 教師悩ます保護者LINE 不満投稿より直接話そう - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:42:28) 就活での短所ハラスメント 聞くのは長所だけにして - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:42:28) 入試面接に生きる「探究」 知的アイデンティティー構築 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:42:28) 川重、国税が10億円を追徴 防衛予算が裏金化「指摘に従い納税」:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/4/8 6:39:35) ガザ戦闘1年半、5万人死亡・1.7万人孤児 停戦交渉も見通せず(朝日新聞, 2025/4/8 6:39:32) トランプ氏、中国に50%の追加関税を示唆 報復関税の撤回要求 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/4/8 6:39:23) 職場同じ人と結婚したら異動 受け入れなくてはダメ? - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:37:06) 高額化粧品、値上げでも市場拡大 見せるより機能性重視 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:37:06) 岡山・北木島、「石」で磨く魅力 資源開発も観光も - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:37:06) 筑��大学発SoPros、微細藻類で「温活」市場開拓 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:37:06) 長野県への本社移転26社で過去最多 2024年、民間調査 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:37:06) 長野県、トランプ関税受け相談窓口 協議会も設置予定 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:37:06) サンリン社長に百瀬久志氏 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:37:06) ETC障害、応急復旧完了 全料金所で運用再開 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:37:06) エムケー精工、仕事と介護の両立支援を強化 研修拡充 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:37:06) 料理宅配、値下げ三つどもえ ウォルトは店頭と同額 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:37:06) 新年度も家計厳しい? 半数以上が「暮らしに余裕なくなった」(毎日新聞, 2025/4/8 6:35:31) トランプ氏、大谷翔平を執務室で歓迎 ドジャース表敬 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/4/8 6:31:02)
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奥比叡ドライブウェイ
眼下に琵琶湖を見下ろす絶景ロード。琵琶湖展望台から琵琶湖大橋が見える。

京都市内の街並み

平安京の鬼門を守る比叡山は高野山と並ぶ山岳信仰の歴史があり、山全体が歴史が刻まれたパワースポット

山頂

山頂からの絶景。紅葉と琵琶湖の共演


奥比叡に延暦寺横川地区の横川中堂。残念ながら紅葉は落葉



元三大師堂


こちらは紅葉🍁


屋根の落ち葉が良い感じ

鐘撞堂はまだ青葉

雰囲気ある参道

こちらもまだ青葉の恵心館

日蓮上人所縁の定光院跡

ちょっと移動して西塔エリアの伝教大師の御廟のある浄土院へ。静寂な参道を歩く。

白砂の庭が美しい浄土院




釈迦堂


長く急峻な階段😅

恵亮堂




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Her Majesty (4)
穏やかな午後だ。眼の前の自分と同じ法学部准教授、後藤輝明はいつもと同じく苦しそうな声と表情で自分の立てた計画と予定を私に説明していた。彼は2つ年下の37歳。ここが京都だと分かったうえで気取っているのだ。府外から来た人間に限ってそのように重苦しい態度をあえて取りがちだ。最初は自分は京都に染まらない、快活にそして軽妙に振る舞ってみせると意気込んでいるものの、1年も経てば思った以上の京都の京都然とした雰囲気にやられてしまう。魅了されてしまうのだ。
9月末だが、非常に暑いと感じる。例年よりも暑いだろうか。陽射しもいやに鮮烈で、屋内にいても汗がにじみ出てくる。後藤はここに入ってくる時に10分以上遅刻しているのに謝罪の一つもなかった。いやはや。
極めて優秀な男だ。おそらく京都府で1番頭がいいだろう。そしてこれはお世辞でもなんでもない。場所は立零館大学法学部キャンパスのほど近くにある、CafePark MICKで、学生がよく訪れるお店。ロコモコが安いので食べ盛りの学生にはありがたいのだそうだ。私はコーヒー一つを注文し優雅に外の雰囲気を味わいながら話を聞いていた。優雅に振る舞う努力をしていただけだが。そのような意味で京都とはたんなる空間なのだ。やり方次第でいかようにもなる。
「やはり以上のことから、我々はカール・シュミットの決断主義をアインシュタインが、スイス連邦工科大学チューリッヒ校を卒業して特許局に勤めていた時期に、特殊相対性理論を精緻化した事実に適合して、業績面、倫理面双方からアプローチすることが必要だと思うんだ」
「うん、それでいいよ。昨日メールで答えたけど」
後藤からの提案に私は答える。
話し合いは1時間ほど続いた。短く済んだほうだろう。内容は法学部教員同士の研究発表に関わるもので、これは不定期に開催されるもの、だいたい半年に一回、各セメスターごとに開かれる儀礼のようなものだと見ていい。我々は別れ、私は龍安寺駅から電車に乗った。
京都市北区は夕方であっても夏のような暑さで何度かハンカチで額や腕を拭った。ハンカチはあくまでもエチケットとして持ち歩いているものだ。本来の意味のエチケット。ソニーの社員はたぶんハンカチを持ち歩かない。カップルが目立った。
キャンパス近くの駅から最寄り駅の車折神社駅までは、乗り換えの時間を含めて30分ほどの所要時間。車は持っていた。家に置いてある。
「愈現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車程二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸氣の恩沢に俗さねばならぬ」夏目漱石、「草枕」
私は山の中を歩く。比叡山。延暦寺。ここまでは車で来た。1時間ほど。東塔駐車場に停め、ケーブルカーに乗る。それは坂本ケーブルと呼ばれ2025メートルあり、日本で最も長いケーブルカーとなっている。そこから1キロ弱10分程歩く。あくまでドライブであり、たいそれた気は起こしていないし、妻も来ていない。ここに来たのは2度目。過ごしやすい季節で、紅葉が見られだしたようだ。天気は曇り、実に素晴らしい、来てよかった。
高校を卒業し東京に住むことにしたのは、家に金があったからだが、奨学金を受け取ることへの交渉条件という側面もあったし、主観的な理由ももちろんあった。東京に住みたかった。私が大学5年になった時にある種の転機が訪れたと言わなくてはならない。ちょうどその頃に以前から望んでいた大学院入学を決め、卒業論文の執筆と並行して院の入試勉強を行い、派遣形態でのホテル清掃のシフトも減らした。あまりにも忙しく、入試だけでなく、休学なりなんなりして卒業論文の執筆を諦めようと思ったほどだ。しかし子どもの頃から勉強は得意であるという自覚はあったし、人生最大の勝負時だと腹をくくって一生懸命頑張ったのだ。誰にも否定はさせない。そしてさいわいなことに卒業論文の審査も通り、同時に早瀬田大学大学院法学研究科への入学の資格も手にした。その後私は旅に出た。岡山県岡山市、後楽園に行ってみたかった。後楽園は岡山藩主(大名)池田綱政が1687年に作らせたもので、完成は1700年のこと。日本三名園に指定されている。岡山市の路面電車に乗りながら思った。私は二度と東京の自宅に帰らない。旅人は帰らない。魂を置き去りに。2016年3月のことだった。そうして私は大学院入学を契機に普通の人生を逸脱したのだ。「ドラえもん」のセワシくんでもない限りそう考える。大学院が普通の場所であってはならぬのだ。それが倫理であって、明治政府への敬意とみなされなくてはならぬ。私には使命感と義務感しかなかった。まったく快くはない。達成感もない。世話になった親に自慢する気にもならなかった。多分私の魂の一部は今でも岡山にある。岡山のどこかで、流転している。中部地方にベルクソンの生命がある。
大学院に入った頃ホテル清掃の仕事をやめ、歌舞伎町で働き出した。ホストクラブのボーイだった。目的は金だったが、もともと繁華街や人混みが好きでここには地元である横浜があると思っていた。実のところ新宿は横浜と似ていた。渋谷や下北沢とは違い、役所的なオートメーションがあった。それが自分のようなガリ勉にはありがたかった。ここには母親がいる。あるいは父親が。それらの順次的移行。「お母さんに甘えるのはやめなさい」誰かがそう言っている気がした。しかしここには依然としてキャバクラ嬢という母がおり、私を高揚させた。自分はたしかに都会育ちなのだ。キャバクラ嬢こそが人間だ。強くそう誓った。きっとここで関東の死滅は約束された。それこそが私小説とロナルド・D・レインの役割だ。そして風俗にも行った。2、3ヶ月に一回だろうか。そこで働いている内に私は露骨に口が悪くなった。表情のせいだ。歌舞伎町にいる人たちは表情を殺している。内面を掴まれたくないのだ。ここでは体の掌握が必要なのだから。余計な表情はピエロやクラウンのようなアルカイックなスマイルに預けておけばよい。それか日曜の朝に。
赤と深緑の豪奢な出で立ちの大講堂を通り過ぎ、左に曲がる。そこに根本中堂がある。天台宗の総本山である比叡山延暦寺の中心的な建築物。現在の根本中堂は、織田信長による焼き討ちの後、徳川家光の命により1634年から1641年にかけて再建されたもの。内部は外陣・中陣・内陣に分かれており、本尊を安置している内陣は中陣や外陣よりも3メートル低い石敷きの土間となっている。この構造は「天台造」または「中堂造」と呼ばれ、天台仏堂の特色を示しているという。中陣の天井には「百花の図」と呼ばれる極彩色の草花が描かれており、柱は76本あり、諸国の大名が寄進したことから「大名柱」と呼ばれている。このように、根本中堂はその壮大な規模と精巧な構造で知られ、訪れる者を多様に触発する。以上のことは、英語が付属するパンフレットに書いてあった。さらに奥へ進もう。みんなにこんにちは。
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興福寺
【3,868字・7分】

泉谷康夫『興福寺』(吉川弘文館)
大和の大寺・興福寺の創建から明治時代までを扱った通史である。ありていに言って「貴賤の信仰を集めた」とは言い難い興福寺が歴史(少なくとも大和国の)の中で注目を集めるのは中世である。中世の興福寺は僧兵を擁し大和一円に検断権を行使する大勢力だった。なぜそうなったのか、その後どうなったのか、といったことが興福寺の歴史のハイライトだろう。
興福寺の歴史を左右したもっとも大きな要因は「藤原氏の氏寺」だったことである。
摂関政治の最盛期において、興福寺は摂関家に依存しながら勢力の伸長をはかったが、摂関家の側から興福寺に依存するところはあまりなかったようである。それが院政期に入ると一変し、摂関家は子弟を別当に就任させ、興福寺のことを「御寺」と称し、興福寺への支配力を強化しようと試みるのである。
(「第二 興福寺の創建と発展」より「一 興福寺と藤原氏」)
貴族の子弟が僧侶として興福寺に入ることは10世紀からあったが、11世紀後半(つまり院政期)になると貴種・良家の子弟が興福寺に入ることが常態化してくる。そこで生まれたのが「院家」である。
興福寺の住僧達は最初ここ(引用注:東西と北の三面僧房)に居住していたと思われるが、十二世紀に入ると、堂舎を寺域内に建立しそこに居住する僧侶が現れ、やがてそのような居住形態が一般化してゆく。すなわち諸院家の成立である。
財力があり都での華やかな生活を見聞していた彼等(引用注:貴族出身の僧侶)にとって、三面僧房の狭い部屋での質素な生活はおそらく不自由に思えたに違いない。
(「第三 興福寺の変質」より「一 院家の成立」)
こうして藤原摂関家と興福寺との間に院家というパイプが成立すると、それを頼って在地土豪が興福寺に集まってくる。その目的は、今風に言えば、律令制下における「脱税」である。大和の大寺というだけなら東大寺も薬師寺も大寺だったが、院家という藤原摂関家とのパイプが興福寺を特別な存在にしていく。
一般的にいって在地土豪層が保護を求めて結集するのは中央貴族と赴任してきた受領であるが、大和国の場合、中央貴族や受領だけでなく、大寺の中心的学侶が加わっており、この学侶の比重が大きかったのが、他の国々と非常に異なる点であったといえるようである。
このような大寺の僧侶が在地土豪結集の中心となりえたのは、その有する宗教的権威によるものであったことはいうまでもないが、寺内には国司の検断権が及ばなかったこともその一因だったと思われる。すなわち、寺院は国司による追求からのがれる絶好の場所だったのである。一方、律令制の崩壊に伴なう国家的保護の減少は、寺院に住む人達の生活を圧迫してくる。そこで寺僧達は経済的基盤を確立する必要があった。そこに、寺僧の側からも在地土豪層との結びつきを求めてゆく必要があったのである。
やがて興福寺が、藤原氏の氏寺として、特に摂関家との深いかかわりから、受領や他の諸大寺に優越する力をもつようになると、在地領主の結集の中心は次第に興福寺僧に集中し、寺僧領が多く成立して寺僧達の経済的基盤を形成していった。このように寺僧と在地土豪は、相互依存の関係を保ちながら大和国で勢力を伸ばしていったのである。
(「第四 興福寺の大和国支配」より「一 在地の動向」)
こうした在地土豪ははじめ興福寺の中で学侶の下働きを務めていたが、興福寺全体が豊かになるにつれて自ら学侶として修行に加わる余裕が出てくる。のちの時代に大和国の戦国大名となる筒井順慶などもこうした興福寺の衆徒だった(だから僧形なのである)。
このように経済力と軍事力を貯えた興福寺は、同様に藤原家とゆかりのある多武峰寺(鎌足の墓所といわれる、現在の談山神社)と大和国の支配権をかけて抗争を繰り広げ(当時の多武峰寺は延暦寺の末寺で抗争には延暦寺の援助があった)、最終的に勝利することで大和国一円の支配権を確立する。
平清盛は寺僧領からも官物を徴収する方針を取り、興福寺をはじめとする寺社がこれに反発すると平重衡に南都を焼き討ちさせる。これを恨みに思った南都諸寺は源氏方につくが、源頼朝と義経との間に対立が生じると南都諸寺は義経をかくまい、義経を討った頼朝は、係争地に地頭を配する形で、大和国にも少しずつ圧力をかけていく。
室町時代になると興福寺の中にも下剋上の機運が生まれる。
室町時代になると、興福寺は歴史の主役から退き、代って衆徒・国民(引用注:「衆徒」は興福寺に拠った、「国民」は春日社に拠った、それぞれ在地土豪)が登場してくる。彼等は武士であり、興福寺の武力として活躍してきたが、次第に独自の公道をとるようになり、興福寺の命令にそのまま従わないようになってくるのである。すなわち、下剋上である。しかし、彼等は興福寺を倒すことはできなかった。
興福寺は、摂関家を通して、京都の朝廷とも不可分に結びついていた。周知のとおり、朝廷と室町幕府は一体の関係にあった。このような中で興福寺を倒すことは、京都の朝廷、ひいては幕府を敵に廻して戦うことであった。衆徒・国民は、自身の成長のため、積極的に幕府の要人と結びついていった。その限りにおいて、中世的な興福寺の呪縛から彼等は逃れることができなかったのである。
(「第六 下剋上と興福寺」より「一 衆徒と国民」)
足利義満が衆徒・国民に直接支配を及ぼすようになって以降、衆徒・国民は興福寺の支配を離れて独自の道を歩み内紛と和合を繰り返すようになる。この流れを決定的にしたのが松永久秀の登場である。彼は大和国に侵入すると多門城を築いて大和国を支配したが、その際知行割を行い、大規模な給人の入れ替えを行った。
久秀は寺社成を保障する態度を保持してきたが、この大規模な給人の入れ替えは、従来の興福寺の諸荘園における在地支配を事実上断ち切る役割を果したようである。すなわち、寺社成が否定され、新しい給人達は、他国におけるのと同様、荘園領主に年貢を渡さなくなったのである。
(「第六 下剋上と興福寺」より「二 室町・戦国期の大和国」)
信長は久秀を駆逐し筒井順慶に大和国の支配を任せる。信長の代官としてだったが、興福寺はこれを「衆徒筒井の復活」と考えた。この信長が光秀に倒されたあと、順慶は秀吉によって大和の「守護」と認められ20万石の大名になる。だが順慶が死ぬと子孫は国替を命じられ、興福寺と衆徒・国民との関係は断ち切られる。
こうして興福寺は、新しい知行体系の中に組み込まれてゆき、中世的な収取の在り方は、豊臣政権により完全に払拭されてしまったのである。秀吉の寺社に対する政策はそれだけではなかった。興福寺はもちろんのこと、奈良の諸大寺は武器の提出を命じられた。寺社の活動は宗教面に限定されたのであり、宗教活動に専念する限りにおいて、朱印地が与えられ、保護されるようになったのである。
(「第六 下剋上と興福寺」より「二 室町・戦国期の大和国」)
江戸時代には奈良奉行所が置かれ興福寺以下南都諸大寺はその検断権に服した。中世に誇った興福寺の権威は払拭されたのである。
南円堂は観音に現世利益を求める信仰によって庶民と深く結びついていたが、興福寺自体は、庶民と直接かかわりのないところに聳え立つ大寺院であり、農民にとっては年貢を納める「お殿様」であった。
(「第七 近世から明治維新へ」より「一 近世の興福寺」)
さて明治時代になると興福寺は一山復飾(還俗)願を提出し自ら廃寺とする。摂関家を通して明治政府と近過ぎたことによる勇み足に見える。
維新政府と興福寺との情報の伝達は早かったようで、すでに慶応四年三月には、新政府によって神仏分離政策の実施されることが興福寺に伝えられている。これに応じて、一乗院・大乗院両門跡は一寺一体の復飾願を提出することを決め、衆徒一同にも意見を徴した。三月二十一日、衆徒達は、自分達も従来より春日社に奉仕してきたのであるから、一緒に復飾し、勤王のために尽力したいと申出ている。こうして四月十三日、興福寺は一山復飾願を提出し、この願いはただちに許容された。興福寺僧達は新宮司と称して春日社に奉仕し、社頭の仏具等はことごとく取除かれることになった。
(「第七 近世から明治維新へ」より「明治維新と興福寺」)
この一山復飾は神仏分離・廃仏毀釈政策に対する興福寺僧侶たちの生き残り策だったのだが、明治5年に春日社が官幣大社春日神社となると同社の神職は官吏扱いとなり定員の枠も作られて、復飾により神職となった元僧侶たちは結局失職する。このような中で明治10年代に入ると興福寺再興を唱える声が盛り上��り、明治14年に再興の正式認可が内務省から下される。
神仏分離令とこれから派生した廃仏毀釈の嵐によって興福寺は大きな打撃を受けたが、政府の宗教政策も漸次変り、明治十三年には古社寺保存金の給付がはじまり、同三十年には「古社寺保存法」が制定され、興福寺では、北円堂・三重塔・五重塔が保護建造物の指定をうけ、弥勒菩薩坐像など一一点が国宝に指定された。境内地も徐々に公園指定を解除、返還され、現在はほぼ二万五〇〇〇坪が興福寺の所有になっているという。こうして、現在の興福寺は成立した。
(「第七 近世から明治維新へ」より「明治維新と興福寺」)
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名言集日本史編第壹
饒速日命ニギハヤヒノミコト「虚空見日本国ソラミツヤマトノクニ」
素戔嗚尊には奇稲田姫の他に大市姫オオイチヒメという妃がいる。大市姫が産んだのが大歳神オオトシガミ、宇迦之御魂神ウカノミタマノカミ、饒速日命。大歳神は暦を作った。(太陰暦だと思われる)。宇迦之御魂神はお稲荷さん。饒速日命は神武天皇を日向から大和に案内した。饒速日命が考えた名前が日本国の名前の由来。日本は大陸の一番東にあり太陽が海から登ってくるから。文献上の初出は古事記。
聖徳太子
「一に曰く和を以って尊しとなし諍いなきことを旨とすべし。二に曰く篤く三法を敬え。三法とは即ち仏法僧なり。三に曰く、詔を承りては必ず謹め、君をば天アメとす、臣をば地ツチとす。」
別名厩戸王ウマヤドノキミ巨人だったとか超能力者だったとかいない説も有力。仏教でよく言う「仏法僧」の出典は華厳経ケゴンキョウ。三番目の儒教に関する言及が重要。聖徳太子は日本を平和にするために天皇を中心とする国造りを目指した。大化の改新で実現する。
最澄「油断大敵」
比叡山延暦寺には最澄が灯した火がある。「当番など決めないで気づいた人が油を足しなさい」みんな火が気になってよく見にくる。実は戦国時代に事件があったのだが結果的には最澄の火は消えずに現代まで続いている。天台宗では仏教のすべての教えを学ぶことができる。中学日本史で習う鎌倉仏教の始祖は一人を除いて全員比叡山で学んでいる。その一人は一遍。
「一隅を照らす」
天台宗の標語。昔からずっと言われていることなのでさまざまな解釈がある。つまり意味は自分で考えて
空海
「色は匂えど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ。初の奥山今日越えて浅き夢見し酔いもせず」
五十音全てを一回ずつ使ってこの様な趣のある歌を詠むとは中々。別のいろは歌をみんなで詠むサイトがあるが中々うまくいかないようだ。
空海のことは真言宗の人に聞いてくれ。空海は高野山の地下で今も生きているらしい。
真言宗は密教と呼ばれ真言宗の真の教えは僧侶の弟子にならないと教えてもらえない。真言宗において師弟の関係は親子の関係よりも深い。最澄は上記の性格により空海に頭を下げて学びに来たことがある。空海も人格者なので快諾。そんなある時最澄が修行に何年かかるのかと聞くと三年もかかると言う。最澄は断念。そこで最澄は愛弟子の一人泰範タイハンを空海に送った。しかし泰範はいくら手紙を送っても帰ってこなかった。そこで空海が代筆。「泰範は真言が真の教えだと気付いた様です。邪魔をしないでください。」それ以来二人が親交することはなかった。
結論から言えばどちらも優れた教えだ。日本では仏教の話はデリケートだから僧侶に聞いてくれ。
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