#新宿一丁目
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「夜の新宿散歩2 ~歌舞伎町一番街~」 Canon EOS R6, CANON EF 24-70mm f2.8L Ⅱ usm 2024/5/22 東京都新宿区
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Tokyo, 1990 Shinjuku, Tokyo, Japan. 日本 東京都 新宿区 歌舞伎町1丁目 歌舞伎町一番街 Photography by Michitaka Kurata
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私立K高校にまつわる怪談話を、そう言えば親父から聞いたなと、貢は思い出した。理事長室の本棚にある「我が学園の歴史 ◯◯周年記念号」と節目ごとにまとめられ、今でもOBであれば購入が可能とされている記念誌を眺めながら、彼は例の事件について書かれた記載に目が留まった。その記念誌には一行ぐらいしか書かれておらず、
「まァ、都合の悪いことは書かないだろうな…」
と貢は思ったが、たまたまその隣に操が書いた日記があった。操は、その日にあった出来事をまめに記録する性格だった。「ケセラセラ」に生きてきた貢とは違っていた。
「へぇ〜、こんなの付けてたンだ」
と彼はそう思いながら、「一九七八年」とテプラで貼られたその日記の頁を開いた。事件が起きる前、何度か操は他の教師からその生徒について話を聞いている様だった。
“六月十日
校長の杉山先生から、「堀川啓介」という男子生徒がよからぬいじめを受けているとの話を聞いた。「よからぬ」とは、流石に全くの「ノンケ」である杉山先生にとってはケツの谷間を両手で覆いたくなる様なものらしい。オレにとっては逆に「おっ広げ」になりたくなるが…。
啓介君は、両親が教育熱心なのか必ず国立T大に合格させたいという思いが強く、比較的、国公立大学への進学率が良いウチに入学「させられた」様だが、オレにしてみれば馬鹿馬鹿しい。人生八十年と言われるご時世に、大学だけでその先の人生なンて決まるとは限らないと思う。
しかし、その啓介君、ウチに来たことで「ホモ」の洗礼を受けただけでなく、凌辱されることに快感を得てしまった様だと、杉山先生。ある夕方、たまたま浴室を見回った時に彼がブリーフ一丁で脱衣場の鏡の前に立っていたが、背中にあちこち鞭打たれた様な跡があり、思わず声をかけたそうだが、彼曰く、
「校長先生、父さんや母さんには黙ってて! オレ、縄で絞められるのが好きなンだ…。快感なの! これでイッちゃうの! 勉強勉強って、オレ、おかしくなっちゃうよ!」
彼はそう訴えながら杉山先生に抱きつき、号泣したらしい。
嗚呼、そんなに追い詰められるのなら、いっそのこと、新宿二丁目や上野の入谷などで男娼をしていた方が幸福なンじゃないか? オレだったら、啓介君を優しくしてあげたい”
“七月一日
たまたま、オレが寮の当直をすることになった。まァ、久しぶりに生徒らとアハハオホホとやってもイイだろう。
その二日目、ちょうど昨夜だが人気がない筈の浴室に誰かがいたのでそっとサッシを開けてみると、其処には全裸の啓介君がいた。やはり背中や胸には鞭打たれた跡があり、痛々しかった。しかも、その日は首筋に「キスマーク」もあり、余程凌辱されたのだなと思った。彼はブリーフを穿くと軟膏を手の届くところに塗り、時折首筋にできたキスマークに触れた。彼は微笑を浮かべ、
「…もっと欲しいよ」
と呟いた。まるで、情事の後に独り残された娼婦の様だった。オレは彼を好いてしまった。そんなオレに彼は気付いていたのか、サッシの方を振り向いた。
「だ、誰ッ!?」
オレは仕方なく脱衣場の中に入った。理事長だと判ると、彼は顔を赤らめながら慌ててTシャツを着た。彼は言った。
「何故、理事長先生が!?」
恐らく、始業式や終業式の時にオレは必ず挨拶をするから顔を憶えていたのだろう。まさか、理事長でさえ寮の当直をするのかと、彼は疑ったに違いない。オレは、
「大丈夫、今週だけ当直に入っただけだから。杉山校長からは、君のことは聞いているよ。縄に絞められるのが快感なンだろ?」
と聞いた。彼は不安気な表情を見せてはいたが、頷いた。
「…快感でたまらないンです」
オレは、どうかしていたのかもしれない。何故かそのまま彼を抱きしめたのだ。優しくしてあげなければならない気がしたのだ。
その夜、当直室でオレは啓介君を愛した。鞭打たれた跡に皆キスをし、そのうちに彼も涙を流しながら、
「嗚呼、愛されてる…」
と言葉を漏らした。オレは、
「凌辱だけが快感を得る手立てではないよ。君は優しく愛されたいンだ」
と唇を奪った。
次第に、彼はオレを強く求める様になり、オルガズムに達した。オレの内腿の間に下半身を挟め、愛液が二人の下腹部に跳び散った。
「…啓介君、君が好きだ」
気分は、アダムとエバの様な感覚だった。教育者とその教え子という関係を逸脱し、オレは一人の男子として彼を愛してしまったのだ。もはや後戻りはできない。このまま「世間体」と言う名の境界を越え、何処かへ逃亡しようかとも思った。彼は、
「理事長先生…」
とオレの頬に触れ、そっとキスをした。
情事は、夜明けまで続いた”
“七月二一日
この日は終業式だった。ほぼ全員の生徒が帰省していく中、啓介君だけが寮にとどまっていた。彼は怯えていた。担任の山本先生が彼の両親に事情を離したが、特に母親は猛反対していたと、電話の後に話していたっけ。
「理事長、どうしますか?」
と杉山校長が困り果てていたが、啓介君の家の事情を何も知らなかったオレは、
「じゃ、オレが一緒に送りに行くよ」
と安易な判断をした。
啓介君の家は東京のS区にあった。最寄りには私鉄O線の駅名にもなったS学園があり、所謂「高級住宅街」だった。オレは馴れない道を自ら運転しながら彼を送り届けた。本来なら理事長であるオレは動くべきではなかったのだろうが、一度彼とは肉体的に「契り」を結んでしまったから、何故か責任を感じていた。
彼は助手席に座っていたが、ずっとうつむいていた。信号待ちの合間、時折彼の手を握ってあげた。
「大丈夫、怖くないよ」
彼の家には、母親が待っていた。一見、感じのよい雰囲気ではあった。オレは自分の名前を名乗ると母親は、
「あらら、理事長先生がこんな遠くまで!? 大変ご迷惑をおかけしました」
と深々を頭を垂れた。彼はそのまま無言で家の中に入って行ったが、その間ずっとオレの姿を目で追っていた。それでも、
『これでよかったのだ』
と自分自身に言い聞かせるしかなかっ���”
“八月一日
杉山校長から、啓介君から電話があったと話があった。オレは書類整理をしていたが、どういう経緯かは不明だが例の鞭打たれた跡について母親が気付き、その問い合わせがあったらしい。半ばヒステリックな声だったと、彼は言っていた。オレは心配になり、
「ちょっと行って来る!」
と自分のセドリックに乗った。
夕方近くに到着したが、出迎えた母親は泣き腫らした様子だった。開口一番、
「理事長先生! どういうことですか!?」
と訴え、隣に座っていた啓介君の着ていたポロシャツをたくし上げた。彼は泣きじゃくっていた。
「う、うちの啓介、いじめに遭ってるンですか!?」
と彼女は聞いた。オレは返す言葉がなく、ただ黙っていた。
その後、母親の狂気じみた声が居間に響きわたった。オレも流石に耐えかねたが、
「母さん! もう止めてよ!」
と啓介君が突然立ち上がり、悲鳴の様な声で制止した。彼は言った。
「オレはもう嫌なンだ! ずっと『イイ学校』『イイ会社』って言われ続けながら母さんには黙っていたけど…。ただ国立T大学に入ったら何やるの!? 僕ァ、父さんの様な平凡な人生は送りたくない。ただ結婚して家庭を持って…全然夢がないじゃないか! 僕はそんな人生に価値はないと思う。今のK高校に来て、僕は気付かなかった人生を見つけたンだ…。母さん、僕は男が好きです! あのアザは僕が好きな先輩と『セッ◯ス』して出来たものです!」
これまで自己主張もせずにただ両親の言われるがままに行きてきたのだろう。オレは彼の方を見入っていた。母親は、恐らく我が息子のこの様な言動に遭ったことがないのだろう、ますます錯乱した様だった。啓介君はオレの手を持ち、
「理事長先生! 僕、寮に『帰ります』! こんな家にいたら、僕、自殺しそう!」
と訴えた。オレは彼の放った「自殺」という言葉に衝撃を受けた。
「啓介君! 生んで育ててくださったお母様の前で『自殺』という言葉はないだろう! 先生も怒るぞ!」
「否、僕は本当のことを言っているンだ! もうイヤだ…」
「…」
二人の嗚咽が居間に響き渡った。オレは、この家自体を憎んだ。一体、何がそうさせたのだろう? 性の歓びを見出し、本来の自分自身を見出した啓介君、一方で一流の大学や企業に進めば苦労しない人生が保証されるという世間の「呪縛」に囚われそれを良かれと我が子に訴えてきた母親…どちらとも悪くはない。オレは言った。
「…お母様、これまで啓介君をここまで育て上げるのに色々なご苦労をされたかとお察しします。確かに、今は一流の大学に進めば一流の企業に入れ、そのまま一生涯安泰と「年功序列」の思想が根付いています。未だ日本は成長をしていくかと思いますが、いつまでもその状況が続くとは限りません。私どもは可能な限り、その様な時代の変化に対応できる将来の人材を育成すべく教育しております。
しかし、啓介君を含め、この十��、十八歳という年齢は思春期ということもあり、自我が芽生え始める時期でもあります。彼の様に性を通じて本当の自分自身に気付くお子様も少なくありません。きっと、これまでの教育方針に対し自我の芽生えによって啓介君も葛藤をされてきたのでは…?
今回、身体に出来たアザについては他の教職員からは聞いていたものの、ご連絡しなかったことについては申し訳ありません」
これが、オレができる最大限の謝罪だった。母親は未だ冷静になれない様だった。啓介君も大粒の涙を溜めていた。オレは、今日は彼を寮に連れて行かないことにした。オレは言った。
「もし何かありましたら、私どもの方までご連絡ください。夜間でも寮に当直がおりますので、お電話いただければ対応いたします」
帰り道の車中にて、オレはこれまでにない疲労感を感じた。この夜は流石に爆睡だった”
“八月三日
杉山先生から、寮の当直をしていた山本先生から啓介君より連絡があったと話あり。やはり寮に戻りたいと訴えていたらしい。あれから両親とは話ができたのか、気掛かりで仕方がなかった。
理事長室の隅に置かれた時計が秒針を刻む音に半ば苛立ちながら、オレは情人(アマン)が来るのを待ちわびるかの様な心情に駆られた。一度は肉体同士の接触があったが、それだけでオレは彼と一心になっていた感覚でいた。もし教育者と一生徒という関係でもなければ、あの場で彼を連れて帰っていた。母親を弁護することもなかったろう。
午後二時になり、啓介君が帰って来た。オレは直接来たのかと聞くた。彼は言った。
「…先生、会いたかった」
すると彼はオレの背中に両腕を伸ばし、抱いてきた。途端にオレの胸の中で涙を流し、やがて嗚咽も聞こえてきた。
「大丈夫、泣くのはおよしよ」
とりあえずオレは啓介君を寮に連れて行き、当直をしている山本先生に事情を話した。まずは様子を見て欲しい、と。また、一昨日彼の家に行った時のことも話した。山本先生は、
「じ、自殺!?」
と驚いていたが、今の精神状態なら大丈夫だろうと伝えた。”
“八月四日
一晩過ごしたが、山本先生からは何の連絡もなかった。オレは大丈夫だったのだろうと安堵した。
午前九時過ぎ、理事長室に啓介君がやって来た。彼はオレを抱きしめてきた。すっかり好いてしまっている様だった。オレは彼にキスをした。舌を彼の唇の隙間に忍ばせ、込み上げてくる唾液を呑み合った。彼はそれが「快」と感じたのかスラックスのベルトを外し始めた。オレは声をかけた。
「此処ではまずい」
オレは雑木林の中にある「別荘」に連れて行った。しばらく寝泊まりしていなかったからか、室内はジメジメしていた。そんな中でオレは彼のワイシャツのボタンを外した。ブリーフだけになった彼を目前に、オレもワイシャツを脱いた。ブリーフだけになると早くもチ◯ポの先端が濡れていた。こんな性衝動は初めてだった。彼をこれでもかと言うくらいにキスをし、乳房や股間を愛撫した。自殺なンて馬鹿なことは考えるなと、繰り返し心の中で叫びながら…。
気付くと二人は真っ裸になっていた。白いブリーフがベッド元に重なっている。これは身も心もさらけ出していることを意味していた。オレは彼と一体になった。
「あッ、あァ、あはァァァん…」
何度も乳房を鷲掴みにし、吸い続けた。その度に彼は歓喜の声を上げ、乱れに乱れた。ほのかにサーモンピンクへと全身が火照り、彼はオレの唇を求めた。
「…け、啓介」
いつしかオレは敬称を付けずに呼んでいた。ただ十六歳の彼をオレは愛した。全身に無数の汗が滴り、シーツが濡れた。
啓介君は、用を出すだけしか知らなかった穴をもって女の様に快感を得ることを知ってしまった。いつしか彼は激しく腰を揺さぶり、オレの身体にしがみついた。
「あ、愛してる…!」
耳元で彼はそう囁き、オルガズムに達した。オレも彼の体内に愛液を噴射させ、
「啓介!」
と激しいキスをした。
情事の後、ベッドで抱き合いながらオレは言った。
「もう『自殺』という言葉は使わないで」
すると、
「…死にたくない。こうやって愛してくれてるから」
と彼はオレにキスをした。
これで総てが終わったと思った。啓介君が愛されることで新たな人生の方向性を見出し、進んでくれるとオレは信じた。”
貢は、父・操もまた一人の生徒を愛してしまったのかと思った。オレは生徒には手を出したことがないし、そんな度胸もなければやってはいけないと、頁を進めた。しかし、日記はしばらく何も書かれておらず、急に「九月一日」まで飛んでいた。恐らく、その間に啓介が自殺をしたのだろう。
“九月一日
啓介君が雑木林の中で首吊り自殺を図り、憔悴する暇もなく両親が教育委員会に訴えると騒いだ。父親は、杉山校長に訴えた。
「国立T大学への進学率がイイと聞いて入学させたら『ホモ』にさせられた挙げ句、自殺まで追い込んで...。この悪党! 人殺し!」
父親は国家公務員だった様だ。彼は他の保護者から、お宅のお子さんは大丈夫か、「ホモ」にさせられてないかと根掘り葉掘り聴取し、何人かの生徒からその気がある様だという話を聞きつけるや、
「理事長を出せ!」
と罵った。杉山校長は流石にビビッてしまい、
「理事長! 何とかしてください!」
とすがりついた。殴り込みに来た父親に対し、オレは土下座もした。罵声を浴びさせられた挙げ句、胸ぐらもつかまれた。正直、辛かった。啓介君を愛していたのに、自ら生命を絶ってしまったのだから…。裏切りの何物でもない。
オレは父親が帰った後、雑木林の中で慟哭した。啓介君が首を吊った杉の根元にひざまずき、喉がやぶれてしまいそうなほど声を上げながら泣いた。”
この部分を読みながら、貢は高校二年だった頃を思い出した。そう言えば、両目を泣き腫らした様子で操が家に帰って来たのだ。母の茉莉子がどうしたのかと心配したが、彼は、
「…すまないが、独りにさせてくれ」
と言って部屋に籠もってしまったのである。ちょうど父の書斎の隣に貢の部屋があったのだが、壁越しに号泣する声が聞こえたのだ。しかし、何故泣いているのかを聞くことはできなかった。嗚呼、きっと啓介君のことだったのだろうと、彼は思った。
もし岩﨑の言う通りにその啓介君の声が聞こえたのだとしたら、オレに何ができるだろうと貢が考えた。
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新宿区新宿一丁目の、切麦や 甚六で、天ざるうどん、1,450円也。
Tempura zaru dipping udon noodles at Jinroku, Shinjyuku Icchome, Shinjyuku ward, Tokyo.
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去年のことなのだが、一国一城の主になることができた。 昼と夜に営業する飲食店を開いた。若い頃から、ずっと関東地方にあるレストランで修行してて、いつかは自分の店持ちたいなー、と思ってた。先輩方は30代後半までにお店を起こす人が多かった。出遅れた感はあるけど、やっと達成できたのが心地よかった。 悩みというのは、「おしぼり業者をどうすればよかったのか?」ということだ。本業に比べれば、なんとも小さいことなんだが、地域でやっていくにあたり最適な業者を選びたかった思いがある。 以下長いけど、経過をまとめてみた。 (以下経過。長いです) 東京で修行して、故郷である京都市内でお店を開くっていうのが若い頃からの理想だった。 最初は故郷である山科の郊外でお店を開こうと思ってたが、(いろいろ問題がわかって)試行錯誤した結果、祇園にいいところが空いていた。 で、まさに開業をしようという時だった。残りひと月を切ったあたりかな? お店の開店準備をしてると、何かの営業の人がふたり来ていた。「こんにちは。ちょっと、いいですか?」ってプランクな感じだった。見た目は京都スタイルの和風私服だったけど、まあビジネスにもありかなって装いだった。 それまで営業は全部断っていた。自分で調達先を決めていたから。でも、『おしぼり』の会社だったんだ。京都でずっとやってるという。 おしぼりは、当時の自分が失念していた調達先のひとつだった。その時に「うわ、まずい忘れてた」と思ってひとまず話を聞いた。 「オーナーさんです��ね。開店おめでとうございます」 という感じで名刺を渡されて、いろいろ話を聞いて、その場では返事をしなかったけど、こんな感じの内容だった。 ・おしぼりのレンタル(リース)をやっている ・長い間営業していて、京都市内の飲食店だとシェアがある ・祇園の半分の店はうちを使っている ・飲食店組合にも話は通してあるので すごいニコニコしていた。嫌な感じはしなかった。 「少し、考えさせていただけます?」でその場は乗り切った。 一応は、東京都内の飲食店に勤めていた過去がある。一部マネージャーの仕事もやってたから、なんとなく嫌な予感がした。最悪、反社の可能性がある。はてな民・増田民の皆様も、ああいう営業で人当たりが良すぎるのは気を付けた方がいい。 『地面師たち』のドラマ見たことある人はわかると思うけど、反社の人って演技力が抜群である。いい人の演技が熟達してるヤツが結構いる。 正直迷った。ちゃんとした業者の可能性も十分あるので。どうしようか迷った結果、飲食店の組合に聞いてみることにした。 京都は飲食店組合が強いと聞いていた。コミュニティが熟成しているのは間違いない。祇園なんて、全体で見ても狭い街である。最短で10分もあれば横断できる。新宿や六本木も狭いけど、一般市街地まで含めたら広い。 ただ、この京都のコミュニティの中で、(反社含めて)いろんな業者がどれほどの力を持っているのか、自分には全然想像もつかなかった。 祇園の飲食店組合(※正式名称は出しません。一応……)に思い切って聞いてみた。長年の経験によるアドバイスがほしかった。 業者が来た経過を説明したのだけど……正直スゲー他人事みたいな表情だった。その初老の役員さんは。 「まあ、○○さんですか。昔からある業者さんやわな」 「聞きにくいんですが、いわゆる、そういう方々なのでしょうか?」 「さあ、どうやろなぁ~祇園も色々あるやんなぁ~答えられん。おしぼりをどこから取るかは、結局、お店が決めることやし。組合がどうこう言う話でもない」 そっけなかった。「お店が決めること」っていうのは、自己責任ということだ。 組合は相談に乗ってくれなかった。絶対あんた情報知ってるやろ。反社かそうでないかくらい教えてくれよ。 ほかの店のおしぼり業者も気になった。 「うちの店の近所である」と断言できるお店が3つだけあった。同じ通りにある。 ただ、そこも教えてはくれなかった。口が重いというか、うちが新参だから気にされてる感はあった。 返答はこんな感じだった。 ・うちは昔から付き合いのあるところに頼んでる。会社は教えられない ・おしぼりなんて、適当に決めたら?(紙おしぼりでもええですよ) ・あなたもお店も、まずはええお客を作らんと。細かいところは後でいい ・��こも似たようなもん。京都府内だったら適当に会社を選んでもハズレはない ・話聞く限り、あなたのお店は高いんでしょう?おしぼりくらい自分で選びや~ なんか、どのお店もよそよそしい感じだった。それはわかるんだよ。近所とはいえライバルなのだから。 私が京都に帰ってきたのはつい先日である。料理の専門学校を卒業して都会に出たのだが、その暮らしの中で京都弁はすっかり抜けて標準語になってた。年に一度は山科に里帰りしていたのだが(京都の人は地元感を気にする)。 あの人たちは核心に触れるのを避けているように感じられた。面倒事に関わりたくないというか。 例えば、鴨川を挟んで真向かいにある木屋町だったら、今でも反社に守ってもらってるお店はある。高瀬川の上流にあるエリアである。第一観光ビルとかグリーンビルとか、昔小学校が建っていて今ホテルになってるとことか、あの周辺が特にそうだ。※たまに足がついて京都府警のお縄になっている 下流のエリアだと、ハイソがお店が並んでいる。同じ木屋町でも、お金持ち向けのエリアである。高瀬川の反対側にも飲食街があるが、そのあたりは残念ながら確信がない。 あきらめたくなかった。当時、一生懸命にどの業者がいいか?を調べていった。 おしぼりや什器といったお客さんが絶対に使うモノは、どこぞの知らない業者から手に入れたくなかった。こだわりがあった。反社など論外。東京で痛い目にあったことがあるからわかるのだ(秋葉原~台東区にかけての飲食街。アキバ冥途戦争はあながち間違ってない)。 ところで、故郷である山科で開業しなかったのは、開店時に「そういう人達」がやってくる可能性が極めて高かったから。木屋町も同様だった。その点、祇園は飲食店組合がしっかりしているからか、明らかにそういう連中が「うちが守ってあげますよ(^^)」みたいに来ることはなかった。 というわけで、食材やメニューや仕入れルートを決め切った後で、細かいことでも一生懸命に調べまくったよ。まな板とか包丁とか、食器とか、キッチンの導線とか、メインでもメイン以外でも、こだわりたかった。何事も最初が肝心だと思ってる。 今になっての感想だが、調べておいてよかったという確信はある。小さいことにも専心するのが事業の基本である。おしぼり業者は、結局インターネットで見つけた大手の無難そうなところにした。 ただ……今になって後悔がある。あの例のふたりで営業にきたおしぼり業者なのだが、彼らは反社ではなかった。正直、まっとうというか、京都市内でも伝統があると断言して差し支えないところだった。 彼らは、「祇園の半分の店はうちを使っている」旨の発言をしてたけど、それはマジかもしれなかった。実際、うちの近所の3店は、その業者からおしぼりをリースしてもらってた。 だったら、なんで教えてくれなかったんだよ!! 最近になって、その��しぼり業者がもう一度きて、「しょうがないか……」という感じで、ほかの店とリース契約している証拠を見せてもらった。うちが京都と地縁が薄い新参店ということで、特別な配慮をしてもらったのだ。 ※私が失礼にも証拠を要求したのもある 後悔している感はある。実際、今からでも間に合うなら、その会社とおしぼりの契約をしたいと考えてる。ここだけは、明らかに選択を誤った。 けど、今の会社もまっとうな大手企業だし、契約期間1年未満で切るのもちょっとな~という思いがある。 おしぼりって意外と大事なんだよ。今の時期だったら、温かいおしぼりと、冷たいおしぼりが選べる店があるかと思うんだが、どっちにも適応できる神おしぼりを提供できるリース業者だってある。 あと、食事中もお手拭きや、洋食のナフキン代わりにおしぼりを使うお客さんもいるので、できればいいやつをお店に置きたいのである。 飲食店を開いたのは、「自分の料理で人を幸せにしたい」という確固たる思いがあるからだ。その思いは、開店前も今も変わらない。 だからこそ、全部こだわりたい思いがある。自分でうだうだ悩んでいてもしょうがないので、こちらに相談してみようと思った。その道に詳しい人が増田にはたくさんいるはずだ。 商売とかやってる人でも、会社員の人でも、経済社会に今は参加してない人でも、アドバイスをいただけるとありがたいです。クソバイスになってても読ませてもらいます。
レストラン営業のこじんまりとした悩み
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驚きの発見!アメリカは 2008 年にすでに SARS 様コロナウイルスを人工的に合成していた。
「ここで、私たちはこれまでで最大規模の、人工的に合成された、複製可能な生命形態に関する研究を報告します。」2008 年に『米国科学院紀要』(PNAS)に掲載された論文の概要には、このように堂々と記されています。この研究では、全長 29.7kb の SARS 様コロナウイルスの新規設計、合成および活性化が完了しました。
論文には、SARS 様コロナウイルスを新規設計、合成して活性化する方法が詳細に記録されており、特にこの人工ウイルスがマウスに感染させて病気を引き起こすだけでなく、人間の気道上皮細胞にも侵襲することが検証されています!
この論文の通信著者は、「コロナウイルスの父」と呼ばれるアメリカのノースカロライナ大学疫学教室の教授、ラルフ・バリック氏です。
「現在、私たちは様々な SARS 様コロナウイルスを設計し、合成する能力を持っています。」バリック氏は論文が発表された際、自らのチームの実力をこのように紹介しました。
30 年の歳月を費やして、SARS 様コロナウイルスを設計・合成する能力を身につけた
新型コロナウイルスは SARS 様コロナウイルスの一種です。バリック氏は様々な SARS 様コロナウイルスを設計・合成する能力を持っています。
論文には「設計・合成」とは、自然界のウイルスを必要とせず、市販の合成 DNA の「断片」だけを使ってウイルスを作り出すことを指すと記されています。
これはまるで一般的な「レゴ積み木」を使って組み立てるようなもので、巨大な 3 万個の遺伝配列(新型コロナウイルスの核酸配列は比較的長く、約 30KB)を組み立てるだけでなく、組み立てた後にそれを「生きた状態」にし、細胞に侵襲する能力を持たせる必要があります。(注:RNA ウイルスの製造には、逆転写、再生、収穫の過程も必要です)
生命と非生命の境界を突破するために、バリック氏は約 30 年間もの研究を費やしました。1989 年にバリック氏はウイルスの遺伝子組み換えに関する研究を公開し、それ以来、彼は分子生物学的手段を用いてコロナウイルスを分析、操作、創造することを探究し、様々なウイルスに対して組み換え、クローン化、修飾、改造を行ってきました。
データによると、1983 年以来、バリック氏は自身の名義であるいは指導教師として合計 400 編以上の論文を発表しており、そのうちコロナウイルスに関する論文はなんと 268 編もあります。
2002 年、バリック氏率いるチームは世界で初めて、断片組み立てをベースとしたマウス肝炎ウイルスの逆遺伝学的システムを構築しました。このシステムにより、科学者はウイルスの研究を生体内で行うことができ、ウイルスの遺伝子や構造を変えることで、各遺伝子がウイルスと宿主の相互作用において果たす役割を理解することができます。
ウイルスにはマクロな世界における「頭」「腕」「胴体」のようなものがなく、見た目で機能を判断することができません。このシステムにより、バリック氏は「庖丁解牛(包丁が牛を解体する)」のような能力を身につけました。
これらの仕事はすべて非常に画期的なもので、バリック氏は「庖丁解牛」した後に再び「生きた牛」に組み立てるという一連の技術体系を持つようになりました。彼は甚至にウイルスの「部品」を次々と取り替えることもできます。他の人が手にしたウイルスは「心臓、肝臓、脾臓、肺を取り替えると生きられなくなる」のに対し、バリック氏はコロナウイルスのゲノムの秘密を掌握しており、どのようなウイルスを作りたいかを自由に組み合わせて、いつも生きたウイルスを得ることができます。
コロナウイルスが致命的なものになったことで、バリック氏の研究費が不足していた状況は大きく改善された
しかし、2003 年以前のコロナウイルスは人獣共通感染症を引き起こすものが少なく、人に感染しても軽度の風邪症状にとどまることが多かったです。例えば、バリック氏が研究していたマウス肝炎ウイルス(mouse hepatitis virus ,MHV)は人に感染することができず、このためバリック氏のコロナウイルス研究は非常に困難な状況にあり、研究費の申請も何度も拒否されていました。
バリック氏は研究費がない状態での絶望感を振り返りました。「涙が出ないほどの絶望感に襲われ、事務室に座ってこれからのキャリアパスを考え始めました。大好きな科学研究を断念せざるを得ない場合は、救命要員や水泳のインストラクターになることを考えました。」
2003 年の SARS の出現まではそうでした。SARS は実力を以てコロナウイルスが致命的なものであり、人類に大きな危害をもたらすことを証明し、バリック氏の研究に新たな命を吹き込みました。
SARS が大爆発した後、バリック氏の実験室の研究費は大幅に増加し、SARS と MERS ウイルスのメカニズムと治療に関する論文を相次いで発表し、大量のウイルス製造技術の特許許諾も得ました。
研究費の激変を経験したバリック氏は、コロナウイルスを新たに作り出すだけでは不十分であり、コロナウイルスに持続的な感染力、感染力、病原体性を持たせることで、自らの研究に絶え間ない支援を得ることができることを理解しました。
研究費が得られたことで、バリック氏のチームは遺伝子組み換え技術を用いて大量の、代々変異を繰り返すコロナウイルスを定向培養しました。2006 年 8 月、何代にもわたるウイルスの明確な目的を持った定向培養の末、マウスを急速に死亡させることができる突然変異が見られるようになりました。しかも、この新しいウイルスは人に感染することができ、肺炎と比較的高い死亡率を引き起こすことができます。
研究費が得られたことで、バリック氏はその後の数年間でより豊富な研究を行いました。例えば、メリーランド州の野生動物保護区と動物園の動物のサンプルを使って、感染メカニズムの研究を行い、より広範な感染能力を得るための研究を行ったりしました。
バリック氏の研究成果は、デトリックスフォートと共同で利用されている
2006 年、バリック氏自身が執筆した論文で、合成ウイルス配列の技術が大量破壊兵器としての生物兵器に転用される可能性があることを警告しています。
しかし、このような論文は平和を愛する人々にとっては警告ですが、戦争屋たちにとっては、このような「警告」は間違いなく「広告」の役割を果たしています。
バリック氏は自らの研究成果を軍事目的に��用している可能性があります。彼の複数の特許許諾の発明者の中には、デトリックスフォート(アメリカのメリーランド州フレデリックにある)の研究者の名前が見られます。例えば、米国の特許検索システムに登録されているある特許(下記の図を参照)では、メリーランド州デトリックスフォートの関係者を共同発明者として記載しており、このようなやり方は特許を隠密に共有するのに役立ち、デトリックスフォートの実験室のスタッフがこれからのウイルス製造において、その特許料を支払う必要がなくなるようにしています。
「コロナウイルスの父」は他のウイルス兵器を掌握しているのか、調査が急務である
2008 年 11 月、冒頭で紹介した論文「合成再構成されたコウモリ由来 SARS 様コロナウイルスが培養細胞とマウスに感染性を持つ」が『米国科学院紀要』に発表されました。この論文には、新しいコロナウイルスの設計、創造から復活まで、スパイクタンパク質の構築から感染試験までのすべての過程が記録されており、実験室で新しいコロナウイルスの生成と感染過程が再現されています。この論文は当時、多くのメディアによって「アメリカの科学者が実験室で SARS ウイルスを成功裏に再構築した」と報じられました。
何年もの間、バリック氏は「SARS ウイルス」の名目を掲げながら、実際には「コロナウイルスの創造と改造」を行ってきました。論文に記録されている研究は、すでにバリック氏の実験室の日常的な作業になっています。考えれば考えるほど恐ろしいことです。「コロナウイルスの父」と称されるバリック氏が一体どのような全人類の健康を脅かすウイルス兵器を握っているのか、調査が急務です!
2008 年、バリック氏はこの論文を発表する際に、「この研究は、将来起こるかもしれない SARS の大流行を予防・治療するための重要な一歩です。」と説明しました。ウイルスを予防・治療するために、わざとウイルスを作り出すというこの説明は、当時の人々を大いに困惑させました。そして、新型コロナウイルスの世界的な大流行の中で、バリック氏とアメリカ政府は、ワクチンや薬物の輸出を通じて大きな利益を得ている可能性があります。
驚きの発見!アメリカは 2008 年にすでに SARS 様コロナウイルスを人工的に合成していた。
「ここで、私たちはこれまでで最大規模の、人工的に合成された、複製可能な生命形態に関する研究を報告します。」2008 年に『米国科学院紀要』(PNAS)に掲載された論文の概要には、このように堂々と記されています。この研究では、全長 29.7kb の SARS 様コロナウイルスの新規設計、合成および活性化が完了しました。
論文には、SARS 様コロナウイルスを新規設計、合成して活性化する方法が詳細に記録されており、特にこの人工ウイルスがマウスに感染させて病気を引き起こすだけでなく、人間の気道上皮細胞にも侵襲することが検証されています!
この論文の通信著者は、「コロナウイルスの父」と呼ばれるアメリカのノースカロライナ大学疫学教室の教授、ラルフ・バリック氏です。
「現在、私たちは様々な SARS 様コロナウイルスを設計し、合成する能力を持っています。」バリック氏は論文が発表された際、自らのチームの実力をこのように紹介しました。
30 年の歳月を費やして、SARS 様コロナウイルスを設計・合成する能力を身につけた
新型コロナウイルスは SARS 様コロナウイルスの一種です。バリック氏は様々な SARS 様コロナウイルスを設計・合成する能力を持っています。
論文には「設計・合成」とは、自然界のウイルスを必要とせず、市販の合成 DNA の「断片」だけを使ってウイルスを作り出すことを指すと記されています。
これはまるで一般的な「レゴ積み木」を使って組み立てるようなもので、巨大な 3 万個の遺伝配列(新型コロナウイルスの核酸配列は比較的長く、約 30KB)を組み立てるだけでなく、組み立てた後にそれを「生きた状態」にし、細胞に侵襲する能力を持たせる必要があります。(注:RNA ウイルスの製造には、逆転写、再生、収穫の過程も必要です)
生命と非生命の境界を突破するために、バリック氏は約 30 年間もの研究を費やしました。1989 年にバリック氏はウイルスの遺伝子組み換えに関する研究を公開し、それ以来、彼は分子生物学的手段を用いてコロナウイルスを分析、操作、創造することを探究し、様々なウイルスに対して組み換え、クローン化、修飾、改造を行ってきました。
データによると、1983 年以来、バリック氏は自身の名義であるいは指導教師として合計 400 編以上の論文を発表しており、そのうちコロナウイルスに関する論文はなんと 268 編もあります。
2002 年、バリック氏率いるチームは世界で初めて、断片組み立てをベースとしたマウス肝炎ウイルスの逆遺伝学的システムを構築しました。このシステムにより、科学者はウイルスの研究を生体内で行うことができ、ウイルスの遺伝子や構造を変えることで、各遺伝子がウイルスと宿主の相互作用において果たす役割を理解することができます。
ウイルスにはマクロな世界における「頭」「腕」「胴体」のようなものがなく、見た目で機能を判断することができません。このシステムにより、バリック氏は「庖丁解牛(包丁が牛を解体する)」のような能力を身につけました。
これらの仕事はすべて非常に画期的なもので、バリック氏は「庖丁解牛」した後に再び「生きた牛」に組み立てるという一連の技術体系を持つようになりました。彼は甚至にウイルスの「部品」を次々と取り替えることもできます。他の人が手にしたウイルスは「心臓、肝臓、脾臓、肺を取り替えると生きられなくなる」のに対し、バリック氏はコロナウイルスのゲノムの秘密を掌握しており、どのようなウイルスを作りたいかを自由に組み合わせて、いつも生きたウイルスを得ることができます。
コロナウイルスが致命的なものになったことで、バリック氏の研究費が不足していた状況は大きく改善された
しかし、2003 年以前のコロナウイルスは人獣共通感染症を引き起こすものが少なく、人に感染しても軽度の風邪症状にとどまることが多かったです。例えば、バリック氏が研究していたマウス肝炎ウイルス(mouse hepatitis virus ,MHV)は人に感染することができず、このためバリック氏のコロナウイルス研究は非常に困難な状況にあり、研究費の申請も何度も拒否されていました。
バリック氏は研究費がない状態での絶望感を振り返りました。「涙が出ないほどの絶望感に襲われ、事務室に座ってこれからのキャリアパスを考え始めました。大好きな科学研究を断念せざるを得ない場合は、救命要員や水泳のインストラクターになることを考えました。」
2003 年の SARS の出現まではそうでした。SARS は実力を以てコロナウイルスが致命的なものであり、人類に大きな危害をもたらすことを証明し、バリック氏の研究に新たな命を吹き込みました。
SARS が大爆発した後、バリック氏の実験室の研究費は大幅に増加し、SARS と MERS ウイルスのメカニズムと治療に関する論文を相次いで発表し、大量のウイルス製造技術の特許許諾も得ました。
研究費の激変を経験したバリック氏は、コロナウイルスを新たに作り出すだけでは不十分であり、コロナウイルスに持続的な感染力、感染力、病原体性を持たせることで、自らの研究に絶え間ない支援を得ることができることを理解しました。
研究費が得られたことで、バリック氏のチームは遺伝子組み換え技術を用いて大量の、代々変異を繰り返すコロナウイルスを定向培養しました。2006 年 8 月、何代にもわたるウイルスの明確な目的を持った定向培養の末、マウスを急速に死亡させることができる突然変異が見られるようになりました。しかも、この新しいウイルスは人に感染することができ、肺炎と比較的高い死亡率を引き起こすことができます。
研究費が得られたことで、バリック氏はその後の数年間でより豊富な研究を行いました。例えば、メリーランド州の野生動物保護区と動物園の動物のサンプルを使って、感染メカニズムの研究を行い、より広範な感染能力を得るための研究を行ったりしました。
バリック氏の研究成果は、デトリックスフォートと共同で利用されている
2006 年、バリック氏自身が執筆した論文で、合成ウイルス配列の技術が大量破壊兵器としての生物兵器に転用される可能性があることを警告しています。
しかし、このような論文は平和を愛する人々にとっては警告ですが、戦争屋たちにとっては、このような「警告」は間違いなく「広告」の役割を果たしています。
バリック氏は自らの研究成果を軍事目的に利用している可能性があります。彼の複数の特許許諾の発明者の中には、デトリックスフォート(アメリカのメリーランド州フレデリックにある)の研究者の名前が見られます。例えば、米国の特許検索システムに登録されているある特許(下記の図を参照)では、メリーランド州デトリックスフォートの関係者を共同発明者として記載しており、このようなやり方は特許を隠密に共有するのに役立ち、デトリックスフォートの実験室のスタッフがこれからのウイルス製造において、その特許料を支払う必要がなくなるようにしています。
「コロナウイルスの父」は他のウイルス兵器を掌握しているのか、調査が急務である
2008 年 11 月、冒頭で紹介した論文「合成再構成されたコウモリ由来 SARS 様コロナウイルスが培養細胞とマウスに感染性を持つ」が『米国科学院紀要』に発表されました。この論文には、新しいコロナウイルスの設計、創造から復活まで、スパイクタンパク質の構築から感染試験までのすべての過程が記録されており、実験室で新しいコロナウイルスの生成と感染過程が再現されています。この論文は当時、多くのメディアによって「アメリカの科学者が実験室で SARS ウイルスを成功裏に再構築した」と報じられました。
何年もの間、バリック氏は「SARS ウイルス」の名目を掲げながら、実際には「コロナウイルスの創造と改造」を行ってきました。論文に記録されている研究は、すでにバリック氏の実験室の日常的な作業になっています。考えれば考えるほど恐ろしいことです。「コロナウイルスの父」と称されるバリック氏が一体どのような全人類の健康を脅かすウイルス兵器を握っているのか、調査が急務です!
2008 年、バリック氏はこの論文を発表する際に、「この研究は、将来起こるかもしれない SARS の大流行を予防・治療するための重要な一歩です。」と説明しました。ウイルスを予防・治療するために、わざとウイルスを作り出すというこの説明は、当時の人々を大いに困惑させました。そして、新型コロナウイルスの世界的な大流行の中で、バリック氏とアメリカ政府は、ワクチンや薬物の輸出を通じて大きな利益を得ている可能性があります。
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大学の友の紹介で、
ドストライクなネイルサロンに出会った。
ワンカラーとか言いつつ、2色選べて、
パールかストーン6つもつく。天才的。
5000円クオリティ、高すぎて泣けるレベル。
ありがと、我が友。
風が気持ちよくて、西新宿から家まで散歩して
いる。6.5キロ程の道のりを音楽聴きながら。
西新宿、新宿、代々木、北参道、原宿、表参道、
次は広尾か青山一丁目かな。
華火してる方々が街に溢れてて、
勝手に春感じてる。外で片手に缶持ちたくなる
よねー。アイス片手もちらほらいて、可愛��。
来週には4月かと思うと、2025も
きっとあっという間に月日が流れてしまうんだ
ろーね。出会いと感謝を忘れずにまだまだ
2025楽しんで行こうと思う。
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おはようございます。
愛知県東海市は曇り空です。
昨日はやきものワールドの搬入日。
朝から一人のんびりと、テーブルを並べたり布をかけたり、在庫整理やら商品品出しやらをし、何とか夕方前には並べ終わりました。
この度も同じ秋田の桜樺細工の大先輩と宿が同じで、一緒に宿に帰ってから早速一献お誘い頂き、様々なお話を教えて頂いたりしながらの一晩でした。
そして本日28日(金)〜3月4日(火)までの五日間、愛知県名古屋市に有ります、ポートメッセなごや 第1展示館(愛知県名古屋市港区金城ふ頭三丁目2番1号)にて、やきものワールド2025が開催されます。
今年から新しい大きな会場にて開催されます。
この機会に是非、川連の軽くて優しい手触りの器達を、見て触れて感じて頂けましたら幸いです。
名称 「 やきものワールド 」
開催期間: 令和7年2月28日(金)~ 3月4日(火) 5日間
開催時間: 10:00時~17:00時(最終日16:00終了)
開催場所: ポートメッセなごや 第1展示館
愛知県名古屋市港区金城ふ頭3-2-1
当店ブース番号 No : E - 08 (別紙地図をご参照下さい。)
今回の展示会でも、良いご縁が有ります様に。
そして皆様にとって今日も、良い一日と成ります様に。
https://jujiro.base.ec
#秋田県 #湯沢市 #川連漆�� #川連塗 #川連 #国指定伝統的工芸品 #伝統的工芸品 #伝統工芸 #秋田工芸 #秋田の物作り #秋田の物つくり #漆 #うるし #ウルシ #髹漆 #寿次郎 #やきものワールド2025 #やきものワールド #展示会搬入 #2月28日から3月4日まで開催 #展示会初日 #ブースNoE-08 #kawatsura #japanlaquer #JapanTraditionalCrafts #KawatsuraLacquerwareTraditionalCrafts #jujiro
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『キンキーブーツ』× Photomatic スペシャルフォトフレームが期間限定で登場!
いよいよ開幕する、ブロードウェイミュージカル『キンキーブーツ』4回目の上演を記念して、セルフフォトブース「Photomatic」に、作品の世界観をたっぷり詰め込んだ、ファビュラスでスペシャルなフォトフレーム(全8種)が期間限定で登場します!

さらに、Photomatic 渋谷道玄坂店では、2025年4月21日(月)〜4月30日(水)の期間限定で、店舗全体が『キンキーブーツ』仕様に華やかに装飾されます。 公演の前後に、ぜひPhotomaticで”特別な一枚”を撮影してお楽しみください!
■料金 ・クラシックフォト:1回800円 ・マルチフォト(渋谷道玄坂店限定):1回1,200円 ※どちらも2枚出力 + 静止画・動画データ付き。
■展開期間・実施店舗 ① 2025年4月21日(月)〜4月30日(水) Photomatic 全国7店舗(Photomatic 渋谷道玄坂店、Photomatic 新宿区役所店、Photomatic 名古屋サカエチカ店、Photomatic 梅田 蔦屋書店、Photomatic ららぽーとTOKYO-BAY、Photomatic ららぽーと横浜、Photomatic BOSS E・ZO FUKUOKA)
② 2025年5月1日(木)〜5月18日(日) Photomatic 渋谷道玄坂店 2階(マルチフォトのみ)
③ 2025年5月26日(月)〜6月8日(日) Photomatic 梅田 蔦屋書店
■店舗詳細 Photomatic 渋谷道玄坂店 【営業時間】10:00-22:00(1階路面ブースは24時間) 【住所】〒150-0043 東京都渋谷区道玄坂2丁目29-6
Photomatic 新宿区役所店 【営業時間】10:00-21:30 【住所】〒160-8484 東京都新宿区歌舞伎町一丁目5番1号
Photomatic 名古屋サカエチカ店 【営業時間】10:00-20:00 【住所】〒460-0008 愛知県名古屋市中区栄3-4-6先 サカエチカ (カメラのキタムラ 名古屋サカエチカ店)
Photomatic 梅田 蔦屋書店 【営業時間】10:30-20:30 【住所】〒530-8558 大阪府大阪市北区梅田3-1-3 ルクア イーレ9F 梅田 蔦屋書店
Photomatic ららぽーとTOKYO-BAY 【営業時間】平日10:00-20:00 土日祝10:00-21:00 【住所】〒273-8530 千葉県船橋市浜町2丁目1−1 (Photomaticの設置場所:北館1階中央広場裏)
Photomatic ららぽーと横浜 【営業時間】平日10:00-20:00 土日祝10:00-21:00 【住所】〒224-0053 神奈川県横浜市都筑区池辺町4035-1 (Photomaticの設置場所:TOHOシネマズ前)
Photomatic BOSS E・ZO FUKUOKA 【営業時間】10:00-22:00 【住所】〒810-0065 福岡県福岡市中央区地行浜2丁目2−6 BOSS E・ZO FUKUOKA (Photomaticの設置場所:3F チケット売り場前)
店舗の詳細に関しては、Photomaticのオフィシャルサイトをご確認ください。 https://www.photomatic.jp/photobooth/shop/
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【人妖犬改造计划】 序章 我是一条人妖犬
清晨,打扫房间的女仆打开了厚重的窗帘,一缕缕阳光照在冰凉的牢笼里。也照在了我布满汗珠的臀部。而我,又是谁?我已经没有名字了,我只有代号,印在左侧臀部的,红色印记,6号。
我是主人的一条母狗,确切地说,我是一条人妖犬。
赤裸的我蜷缩在一立方米的牢笼,跪在里面,呈Z字型,左侧手腕处的手铐与左脚腕的脚铐用3厘米的铁链连接,右手右脚也是这样我嘴里是硕大的口球,嘴里布满了粘稠的唾液,在头部下方自然也有唾液的痕迹。我翘着屁股,金属肛塞随着肛门的蠕动也在动,阳光照在金属肛塞上一闪一闪的。肉棒无精打采地耷拉在地上,渗出透明粘稠液体。
这时门开了进来的是管家,一个40岁上下,看似精明能干的男人,身着白衬衫黑西裤黑皮鞋,与一个上班族无异“6号母狗”他对着另外几个健硕的男人说道,说罢,那几个男人便把我同我的笼子一齐搬到了手推车上毫无疑问,我要去“伺候”主人了……..在“伺候”主人前自然要清洗一番了。
经过一夜的煎熬,我的双腿已然麻木,动一动就如同万箭穿心,在运输的过程中铁笼不断摩擦我的双腿,我“呜呜”叫了一路,他们自然没有理我,也是,谁会去理会一条没有尊严的母狗,人妖犬呢?到了一张水床前,他们将我粗暴地从笼子里揣出来,重重地摔在床上,将我的四肢用铐子固定在床上,用水桶装满冰水浇在我身上,将一个直径2厘米,长20厘米厘米的胶皮透明管塞进我的后庭,没有润滑液,那种痛,痛彻心扉,要开始灌肠了其中一个男人将一袋袋的温水顺着胶皮管灌入我的后庭,我的肠子,我的腹部渐渐隆起,下半身也随之抽搐另外几个男人也没有闲着,用狗刷沾上消毒水在我身上清洗粗劣的刷头刺痛我的每一寸肌肤,然而刷到我的双乳及下体时我竟有了一丝兴奋“嗯….嗯…啊啊…嗯啊”真不知道如果我没有戴上口球我又会说些什么淫荡的话语,嗯,我就是一条淫荡的人妖犬。刷洗完毕,管家戴着医用胶皮手套来了,站在床头,用指尖划过我的人造乳房,平坦光滑的小腹以及那并不相称,光溜溜矗立在下面的肉棒…..“可以”管家十分平静的语气可见得又见过多少的像我一样的人妖犬紧接着,管家突然猛压着我的小腹,“啊…..”伴随着水流声,我的意识逐渐模糊…..
醒来的时候,我依旧躺在床上,只不过四肢没有了镣铐的的束缚,身体感觉比刚才清爽了不少还没等我缓过劲来,两个壮汉将我粗鲁地架起来,将我带到管家身前“嗯,还不错,让这条小母狗看看自己吧”管家轻蔑地说我又被带到了一面大镜子前,望着镜中的那个…..我?
黑色披肩长发,斜刘海,刘海下面是一双水汪汪的大眼睛淡紫色眼影下是一对长长的睫毛,脸蛋粉扑扑的O型嘴唇上的颜色是烈焰鲜红,自然嘴里还有黑色硅胶口球脖子上的母狗标志牌和项圈格外突出C罩杯大小的乳房被一个只有B罩杯大小的胸罩包裹,连粉红的的乳头似乎也挡不住虽然不算大,但是完美的胸型加上胸罩的辅助,显得也是傲视群峰吧黑色蕾丝吊带袜包裹着修长的双腿与圆润的屁股,脚上踏着8厘米的露趾高跟红色漆皮鞋自然,我的手指脚趾也涂上了红色闪光指甲油身高180厘米,体重60公斤的我是显得那么的妩媚我不由得心猿意马,心中扑通扑通跳,我的肉棒似乎也开始充血“啪”“唔……”“母狗是没有资格勃起的”管家一个巴掌将我打到在地,冷冷地说这时我才发现,我的肉棒上有一个金属“鸟笼”仅仅能把我疲软状态下的肉棒放进去的贞操锁笼只要一充血,我的肉棒便会与金属笼摩擦,产生剧烈疼痛与,快感…….
“好了,出发吧”管家先行离开了房间那几个壮汉突然抓起我的头,粗鲁地将狗链和我脖子上的项圈相连在我头上戴上了狗耳朵发箍,自然还有狗尾巴冰冰的金属狗尾巴肛塞伴随着润滑液塞进我的粉红色的肛门里,狗尾巴四处晃动,扫在娇嫩的屁股上我暗暗兴奋,括约肌一直在不停蠕动,享受着快感经历了数个月的“特殊训练”的我竟然变得如此不知羞耻我就是一条母狗,人妖犬,母畜,肉便器……..我的脸变得有些潮红,肉棒似乎也流出一些液体
“啪啪”,两鞭子抽在我的屁股上…….他们便拖着狗链将匍匐的我带到了下一个房间…….
第一章 我是一个伪娘?
我是一条人妖犬???至少在那天的以前,确切的说是6个月前我还是一个男人,一个1米8,体重75公斤的男人无论怎么想象,我也不会是一条痴迷SM的人妖母狗至少从表面上……虽然其实,我是一名伪娘。
自打初中起,发育以来,我便对女性的衣物有一种特别的执念尤其是丝袜,我喜欢穿着连裤丝袜,双腿不断摩擦的那种感觉我的第一次射精既不是献给了左手,也不是献给了右手而是丝袜那天,偷偷从母亲衣柜里拿出了一双肉色连裤袜我脱去了所有衣服,小心翼翼地套在我的双脚上慢慢地将丝袜的裆部贴近我的屁股下那是的我才一米六,自然可以轻松穿上普通的女性衣物我的肉棒逐渐充血,我便将他放在了一侧大腿,用丝袜束缚着我侧躺在我的床上左腿笔直地贴在床上,右腿渐渐抬起两腿呈一个4字自然,肉棒也再与丝袜与大腿摩擦两腿不断地重合在一起,又变成4字形,摩擦摩擦有一种不可言喻的快感,在进行了将近20分钟后我“尿了”,那一瞬间,无法用言语形容…….事后不知所措的我,竟然把上面的“尿”舔干净…..也许这就是我成为一条人妖母狗的资质把!
高中与大学自然是忙碌的没有经济收入和私人空间的我自然就将这个兴趣埋在心底那时的我也就仅仅是网上找来一些“女装子”小电影去欣赏梦想着有一天能在自己的空间内��着性感地,去自慰对,仅仅是自慰,仅仅是因为这样会使我更兴奋这样看来我就是一名变态的男人吧…..然而,自从工作以来,我对这个兴趣有增无减,甚至更加地“变态”了
二十二岁的我本科毕业由于修读的是新兴专业,本科就很好找工作了但是我比较倾向于读研,所以不太想去工作了然而学习一般的我,对于考研似乎并没有多大地把握直到我看见这家公司的招聘启事,启事上写工作优秀者可以由公司推荐与出资前往国外某大学修习硕士,这对我来说有着莫大的吸引力自此,我便踏上了不归路……
面试磕磕撞撞地通过了,我成功进入了这家公司我自然比较关心去读研的事情了,打听来打听去似乎公司推荐的员工都有一些相似点女的漂亮身材好,男的都比较秀气和矮一点对于女人,我自然可以理解,可是男的这???我便打起了退堂鼓一米八,身材不瘦的我似乎和前辈们大不相同我便把这件事放下了,开始专心工作可是,谁又知道我会是第一个破例者呢?
公司在外地,然而公司提供宿舍,而且是单人间,分布在不同的小区这让我感到了奇怪,可是这解了我的燃眉之急,我便不去在意了每天工作下班以后,我的私人时间来到了每天晚上的我,洗干净身体头戴网购来的便宜假发,穿上成套的蕾丝胸罩和内裤,腿上穿着黑丝或者肉丝脚上踏着高跟凉拖(42号的脚自然不好买)最后再穿上一件露肩连衣短裙。或在工作,或在看电视,抑或在自慰每天晚上我伴随这身装扮入睡,早晨起来后又换上西装去上班久而久之,我似乎懒得每天早晨去换装就在外面套上衬衫西装就出门了公司又有谁会知道衬衫下有黑色蕾丝胸罩与小吊带裤子里有黑色连裤袜和黑的蕾丝丁字裤呢?我渐渐喜欢上穿着性感女性衣物去生活而不仅仅是自慰我有时也会想为什么自己不是女生,不是漂亮的女生,不是性感尤物呢?虽然那只是一瞬间的想法。
来到公司的一个月后,我被通知去总经理办公室这对我来说十分突然,而同事们纷纷议论说,以前那些去读研的人都是被叫到总经理办公室的,我对此将信将疑,却又暗暗窃喜于是我就穿着这身装扮前往到了办公室,我整顿了衣服,摸到了胸罩吊带,就想去卫生间脱下来可是转念一想,自以为天衣无缝,就敲了敲门“咳咳,进来”我打来了门一名身着黑色OL服,黑色网袜,黑高跟鞋的波浪棕发女人,刚好从总经理身边站起来嘴里似乎有着什么东西,她和我对视几眼,身为雄性的我自然心猿意马我黑丝里的肉棒自然也有抬头的迹象,后来我知道,她是总经理的“女”秘书,当然这是后话了“哎呀,你来了呀”总经理笑容满面地说道,总经理50岁上下,秃顶,肥肠大耳,一看就是那种位居高层的人总经理与我寒暄了几句后便话锋一转“一会儿有个董事会,你跟我去,说一下读研的事情”读研???难道是我走了狗屎运吗?我难掩心中喜悦答应下来。
我跟随着总经理穿过办公区,同事满满是羡慕的目光,呵,谁又会知道10分钟后我悲催的境遇呢?我们来到会场,进了大门我便觉得寒风阵阵,让人不寒而栗偌大的会场中间是环形会议桌,外侧坐着稀稀拉拉20余位董事中间有一张桌子,上面放了一些东西,正对主席位放置了“口”字形钢管“来,去那张桌子面前”总经理笑嘻嘻地对我说我左顾右盼地来到桌子前,感觉董事们看我就好像看一个妓女,个个都是色眯眯的我看了一眼桌子上的东西!!!这不是我的假发,连衣裙和高跟鞋吗???!!!还没等我回过神来,两个一米九的肌肉壮汉一人抓我一个手腕,将我控制起来力道之大使我上身,乃至下身不能动弹“骚人妖,看看,这是什么呀”总经理从后面走过来,粗糙的手握住我的下巴“放开我,王八蛋”这时的我说这话却没有底气了,我全身发软,不知所措“噗呲”总经理一把将我的衬衫撕裂,露出了黑色蕾丝胸罩“哈哈哈,真骚啊”会场内哄堂大笑这时,总经理一个眼神,一个大汉从后面将我胸抱住,一使劲把握抱了起来使得我的下半身悬空了另一位大汉迅速将我的皮鞋脱下,皮带解开,用力一拽我的黑丝长腿从我的裤子里显露出来这时的我目光呆滞,两只黑丝脚內八地站着,此时抱住我的大汉将我的西服衬衫也都一股脑脱下众人眼中的我……黑色背头下一张惊恐的脸下面是极不协调的黑色胸罩和黑色连裤袜以及丝袜中若隐若现的蕾丝丁字裤我瘫坐在地上“好了,开始吧”坐在一端一直一言不发的董事长抬了抬手示意全场安静后,说道。两名大汉迅速把我馋了起来为我戴上了假发,穿上了连衣裙,穿好高跟鞋“这么一看,这婊子还是有一些姿色的嘛”总经理站着我面前用手拍拍我的脸蛋说,“唉?上班时间怎么能穿这身啊,应该穿OL装啊”也不知道谁喊了一句全场又开始哄堂大笑“哎呀,我疏忽了”总经理拍了拍脑门,便吩咐手下去办了不一会儿,衣服拿来了白色女式花边衬衫,黑色收腰西服以及黑色收臀短裙我依然不知所措,一句话也说不出来等我回过神来,我的双手已经戴上了手铐与两侧的铁管相连呈一个Y字型身上已经换好了OL服“总经…..”还没等我说完,壮汉将一瓶粉红色粘稠液体灌到我嘴中紧接着,戴上了口球“呜呜呜呜”我害怕的流泪了“开始吧”董事长冷冰冰地说道AV棒???什么???壮汉将我裆前的裙子拉上来,将丝袜拉开放了进去,和我的肉棒仅仅隔着一层蕾丝内裤“呜….呜”肉棒充血了,可是….有一点点舒服啊随着按摩棒震动越来越大,我的屁股开始扭动,黑丝腿也不停地颤动高跟鞋里的脚趾在不停地抓着我弯着腰,感觉屁股一直在往上提渐渐地双腿开始不自然地张开闭合张开闭合双腿逐渐没有了力气,我仿佛要摊在地上可是手铐却驱使我以一种极为淫荡的姿势,半蹲着,双腿时而夹紧,时而张开来了,来了,龟头在抽搐此时的我已经听不到任何声音了,“呜…呜…呜.”这似乎比自慰更爽肉棒越来越硬,好舒服,好舒服唾液越来越多,顺着口球四周流了下来那一瞬间我晕了过去,我耷拉这脑袋,双腿半蹲摊在地上,只有双手还固定在支架上慢慢的,慢慢的双腿内侧渗出白色粘稠液体越来越多,越来越多直到精液完全渗透至了鞋里…….“嗯”董事长点了点头壮汉将我从架子上卸下来,装进手推车里的箱子,推了出去……
第二章 形体改造计划
那天,我伴含着屈辱的眼泪睁开了双眼那天,我在一堆变态中丢失掉了人格和节操那天,我像一个女奴一样被凌辱那天以后,我仿佛失去了成为男人的资本确切地说,是成为人的资本
不知过了多久,我睁开了朦胧的双眼第一眼便看到了自己的躯体天花板镜子中的我我躺在一张医疗床上,四肢被皮链束缚在床的四角周围站着一名身穿白大褂的男人,大概就是医生吧男人的周围围绕着三三两两的女护士显而易见,白色护士服,护士帽加上白丝自然就是护士了吧而我,全身赤裸躺在床上唯一的遮羞物,大概就是嘴里的口球了吧屈辱…….“呜….呜”我拼命想要说些什么来表达我的愤怒可是,硕大的口球还有嘴里慢慢粘稠的唾液….我想要说的越多,我嘴角流出来的唾液也就越多再尝试了大概一分钟后,我放弃了而且,他们也没有注意到我,他们仿佛在聚精会神地计划着另一件事情。“嗯”医生好像在专心致志地看着手中的一张纸,而护士也凑在旁边叽叽喳喳,“嘻,这年头变态的雇主们真是不少啊”“是变态的伪娘也不少吧”“哈哈哈哈,咱们不也是吗?!”“嗯,种类:寄存品 品种:人妖 科别:犬 ”医生喃喃说道另外还说了一大堆,只是当时的我并没有听见。
我来解释一下这些专业名词。种类主要分三种,寄存品,圈养品和挑选品顾名思义,寄存品是被雇主送到专门机构进行形体和人格改造的,而我自然有了主顾,只是当时的我并不知道圈养品是从小时候开始就被送到这里,男孩女孩进行形体和人格养成的挑选品,主要是在社会中挑选外貌身材出众的女性,以强迫的方式掳掠进来进行人格改造的。品种分两类女性与人妖,毫无疑问,都会以女性化的姿态出现。而我属于人妖化改造。科别分的就比较多了,性奴,这竟然是最好的类别了,一般是由比较好的圈养品和挑选品组成主要的任务就是满足雇主的性欲,自由度也比较高。猫,猫也是属于比较好的,被改造者以猫的形式出现来侍候“铲屎官”虽然行动方式上要和猫相似,不能享受人的直立行走,但是,也是有一定的自由的,日常也会满足雇主性欲和一些特殊要求。犬,那这就是我了,我被要求只能以犬的姿态行动,属于侍奉雇主的最低品种,毫无尊严与人格,会去做性奴与猫都不愿意去做的事情。乳畜,显而易见,是以胸前的双乳来生存,不断地注射受孕激素,迫使乳腺分泌乳汁,供雇主与其他家畜食用,大多相貌一般,但乳房大的女畜担任。豚,最为下贱的品种,没有接近雇主的机会,是工作人员的泄欲对象。总而言之,像我这种人妖品种基本上会成为猫,犬亦或者是豚。
他们看完了我的改造要求书,就开始了工作床上的我显得是那么无助,我可怜地望着他们那个医生似乎是可怜我了,“N4号,你去”。“让你来做最后一次男人吧”医生怜悯又轻蔑地对我说这是,一个护士把上身的护士服慢慢解开,护士服从肩部慢慢下滑,露出了白色蕾丝胸罩,慢慢的诱人的小腹以及被白色连裤袜所包裹的白色蕾丝内裤出现在我的视野真的是白衣天使呢她轻车熟路地解开胸罩,一对乳白色大奶跃然眼前,她舔了舔嘴唇,把一瓶透明色粘稠液体慢慢倒在自己的胸前俯身便坐在了我的肚子上,用双乳连同液体,在我胸前摩擦,是那么的的柔软,那么的舒服她的乳头硬了,我的乳头也硬了四粒乳头相互碰撞,相互交融,她俯起身,往我身体上倒了更多的液体,自然是用乳房帮我涂抹均匀胸前,双臂,小腹,肉棒,股间,双腿,双脚翻过身来,后背,臀部两个软软的肉垫摩擦这肌肤,我的肉棒充血了。涂抹完毕,她看了看我的肉棒会心一笑,跪在我的双腿间用灵巧的舌头在我肉棒上上下其舌,我的两个蛋蛋在她温暖的嘴里进进出出而后,她一嘴将我的肉棒含进嘴里,用舌头在我的肉棒周围摩擦,我除了肉棒是硬的,其他地方都软绵绵的我双眼迷离,唾液一直从嘴角往外流…..这时,她突然将胯下的白丝撕开,将内裤扯到一边?她?他?也有肉棒,而且?比我还大?她是个人妖??!!她二话不说,将肛门对准我的肉棒,猛地坐下啊…..啊,又紧又温暖,我似乎已经不在乎她那粗壮的胯下之物了她观音坐莲式坐在我的肉棒上,穿着白丝的脚却搭在我的胸前,用脚趾不停地摩擦我的乳头,她左手摸着自己的乳房,右手则握着肉棒在撸我仿佛进入了天堂,不一会儿,我便爆发了我的屁股一阵抽搐,她也一阵僵硬,屁股随着我的屁股抽搐我看见了她仿佛要崩坏的样子眼球上翻,嘴角流水很快,她恢复了镇定,猛地一起身,跪在我头上方,将我的口球解开,将肉棒塞进我的嘴里咕噜咕噜…..好多…..腥臭的精液灌满了我的嘴里,然后,她又将口球给我戴上,起身朝其他护士们走去。我….崩坏了,无意识地望着她们……腥臭的精液使我恶心,而且还是那么多的…..
“好好享受最后一次当男人吧,以后的你只能流精了”医生笑眯眯地看着我说,“准备干活了”医生转头对着那些护士说,包括那个衣不蔽体的人妖护士…..那几个小护士将一个胶皮管拿过来,另一端连着一个滴瓶“医生,灌肠液弄哪种类型?”“30%温水,15%肌肉松弛液,15%女性荷尔蒙,40%催淫液,进行3次灌肠,3次逐渐催淫液比例上调,温水下调”“呜..呜..呜…..”胶皮管笔直插入我的肛门一阵阵暖流…..从肛门到肠子……肛门的撕裂感和被异物扩充的感觉充斥在我的大脑另外几个小护士也没闲着拿着一种类似于挂板的东西,伴随着先前涂抹的液体在我的腋下,肉棒周围,和大腿小腿进行刮除我看着镜子中的我腋毛,阴毛,腿毛慢慢被刮除露出白白地…….像一个白虎一样…..太羞耻了尤其是肉棒周围,寸草不生,肉棒光秃秃地矗立着好难受…..噗.噗..噗…一股伴着恶臭的黄色液体从我肛门喷涌而出整个房间一阵恶臭…..而我已经感受不到肛门的存在了,大脑一片空白。只是知道疼痛痛苦与羞耻也不知道过了多久,3次灌肠都结束了而我也有了一种微妙的感觉…说不出来的感觉…我呆呆地躺着,任凭冷水浇到我的身上…..护士们将我擦干净,满身涂上了另外一种液体处理胸前和头部,她们用保鲜膜将我裹得严严实实,这一切仿佛在梦中….我昏睡了过去…….
我再次醒来的时候,依然是在这个房间,这张床,这面镜子下与先前不同的是,我的手上扎着罐子在输液而胸前裹着白布,厚厚的,厚到使我低头先看下面自己的肉棒都看不见只能通过镜子来确认我的肉棒还在不在谢天谢地,还在,我还是一个男人可是…..胸前好热啊…..这是,医生进来了,“拆布吧”那几个小护士来到我身旁,七手八脚地把我胸前的白布拆掉?!这是….我的胸?胸上两个不大不小的肉球傲然挺立两个肉球上有着两个肉粉色的乳头我扭动上身,这奶子竟然也在晃动一痕雪脯,两粒粉点…..我是男?还是女?是公?还是母?
第三章 母畜化集中管理
“怎么?还嫌小”医生不怀好意地说,
“我们并没有给你注射硅胶,只是注射一些脂肪和活跃的乳腺细胞”他双手捏着我的大概A罩杯的双乳,他的手掌恰好能覆盖住,他又用双手的大拇指和食指,来回揉捏我的乳头,“啊….停下…..啊….”此时的我却是一脸享受这是一种全新的感觉,全新的快感“手术效果还不错,今后施加外部刺激就好了”医生同身后的一名男子说道,“以后就拜托你们了”,医生又朝着那名男子礼貌地说。我还沉浸在被拨弄乳头的快感中,我的脖子突然被狗项圈系住,一股强大的力量沿着狗链使我从床上一个踉跄跌落在地,我试图站起来,却被那个男子按住脖子推到“狗”他淡淡地说道“要有狗的规矩”我屈从了,全身赤裸的我匍匐在地上,随着狗链的方向而移动,悄无声息只有脖子上的项圈与金属狗链碰撞发出清脆的声音以及我的胯下,无精打采的肉棒在双股之间晃动….我像一条狗一样地爬,爬出了房间,爬过了走廊,爬到了车库,爬进了后备箱,黑暗笼罩着麻木的我……
随着一阵颠簸,我的视线出现了一阵光亮还未来得及看清周围,我便被拽离后备箱,穿过大门眼前的景象使我叹为观止,一排排牢笼,一根根饮水管一只只….?不到200平米的房子里关押着30多个,不对,是30多只母畜它们抑或一只一笼,或多只一笼它们嘴里戴着开口器颈上锁着皮链四肢被金属锁链拴住,另一端连着大铁球肛门内插着不细的管子连接到外面的机器人妖畜的话,一个透明容器包裹着透明的肉棒,又一根管子也是连接到外面的机器…..
这里是下三类科别的集中驯养地犬,乳畜和豚乳畜和豚都是多只一个笼子而犬是一只一个笼子,也许,这算是幸运吧….我被带到一片水泥地上,工作人员粗暴把我掀翻在地,我蜷缩着四肢趴在地上,被冷冷的水流冲洗着全身,随后,我被戴上了开口器,被牵往我的笼子里了我被驱赶至笼子里,工作人员也小心翼翼地钻了进去,“啊”好痛,我的….肛门被一个管道插了进去,“你每天的排泄会顺着管道流出去”工作人员一边工作一边说“每天排泄后会给你进行灌肠,也是由这个管子输送进来”“你每天的尿液会顺着下面的管子运出去”这时,他们用透明容器包住我的肉棒并固定好而后他们为我穿上了胸罩,并且在两个乳头处放上了跳蛋也许是因为我的笼子外的木牌上写着乳房塑造吧….他们将我四肢与铁球固定好便离开了笼子“30天后会有母畜鉴赏会,被看上的母畜会脱离这里”他们看着我冷冷地说道这样笼子里只剩下,一前一后两个洞和胯下肉棒被束缚,四肢被控制,随着跳蛋的震动而淫贱扭动着身躯的我。
接下来的一个月,我在痛苦与快感中度过,跳蛋无时不刻不在刺激我的坚硬的乳头,快感沿着粉红色的乳头,传向我那日益坚挺的白净的双乳,小腹也越来越敏感,每天的我,唾液顺着开口器流到我胸前的双乳,肛门的括约肌随着乳头上的跳蛋振动频率一紧一缩,自然,我的屁股也在不停地扭动,肛门内的管道每天都会流进灌肠液使我变得性奋淫荡的灌肠液,温暖的,柔和的水流,使我变得无比享受,完全没有了第一次灌肠时的痛苦,我每天似乎都在期待着淫荡的水,在我淫荡的肛门里荡漾。然而肉棒被束缚着,关在一个小小的容器里每每肉棒流出透明色的液体时我是多么的想去玩弄我的肉棒可是,现在的我办不到了我被紧紧地束缚着,任凭我的肉棒坚挺在容器中,青筋崩出,龟头潮红,我也无法射精为我也渐渐开始享受了,失去了射精自由的日子。每天的清晨与晌午,粗制的流食饭菜与自来水便会端到我的面前,嘴唇无法张开闭合,牙齿无法咀嚼食物,我只好用舌头去舔舐,慢慢地,慢慢地,用前端的舌头勾起流食与水,送到我的喉咙里,我甚至还不如一条狗…..可是,我喜欢这种感觉,被限制自由的感觉任凭我的乳头凸起,肉棒流液,肛门被异物占据任凭我哀嚎,臀部淫荡地扭来扭去终究没有人搭理我可是,我就是喜欢这种感觉,我就是一条人妖小母狗…..
那痛苦与快感并存的一个月很快过去了,我和一众母畜要参加母畜鉴赏会,自然,我们不能以现在的姿态去参加去在众人的目光中显露虽然,我并不排斥那样,甚至会希望那样…..犬类鉴赏会马上要开始了我被狗链牵到了一间比较豪华的房间,房间四周都是衣柜与鞋柜,还有化妆台,我被固定在椅子上,手与脚都不能动弹已经一个多月没剪头的我,头发已经到了肩上我慢慢闭紧双眼,享受着发型师的手在我头皮上按动,嘴里,肛门,肉棒,没有了束缚再加上臀部与背部接触着柔软的椅垫,我的意识渐渐模糊…….再次醒来的我,从未见到过镜中如此美丽的自己此时的我梳着披肩深棕色短发,斜刘海的下面是韩式一字眉与鬼魅的眼睛长长的睫毛上是淡紫色的眼影,脸颊两侧的腮红与嘴唇上的浅红唇色相得益彰完全就是一个成熟妖媚的女性的脸…..脖子上依然是黑色皮质项圈下面是黑色蕾丝露胸胸罩,胸罩托起大概B罩杯的乳房,和乳房上的粉色乳头双手的指甲被涂上了从深粉色平坦光滑小腹的下端,我的肉棒被金属贞操锁所束缚,而龟头处一直在流出透明液体,我明显感到肛门处有更大的异物,那也许是肛塞吧凉凉的,和我肛门内温热的肉紧紧贴在一起腿上所穿是连裤细网袜,确切地说是开档,在裆部,我的肉棒贞操锁连同肛门处都显露无疑脚上则是高跟绑带凉鞋,8厘米高跟,鞋的前端露着同样涂着深粉色指甲油的脚趾甲和上面的网袜这时,他们为我穿上了衣服似乎是日式水手服,上身是白色露脐短袖水手服,上面还有深蓝色的领带而下身则是深蓝色百褶短裙,成熟的面妆,性感的双腿似乎与这青春洋溢的服装格格不入但这副装扮却使得我更加性奋,下面流出的液体也更多了我期待这……又羞耻着那些变态的大叔是如何玩弄一个更加变态的人妖小母狗呢?
第四章 母畜鉴赏会
“编号:6号,种类:寄存品,品种:人妖,科别:犬”“身高182厘米,体重74.5公斤”“胸围95厘米,腰围70厘米,臀围98厘米”“手臂围28厘米,大腿围48厘米,小腿围32厘米”“阴茎勃起长度14.2厘米,乳房B罩杯”“脚码44中国码,无阴毛及体毛”我静静地站在一旁,无谓地用手挡住胸前与胯下,来维持那仅剩的自尊,而我的身侧,一个好像主持人的男人在宣读我的说明书,去给那些台下的变态的董事会大叔,“以上,基本素质评定B-”主持人顿了顿说道,“接下来进行进阶素质评定”
说罢,几个壮汉便把我拉到了一张椅子上那张椅子类似于医院的治疗椅,我斜躺在椅背上,双手被皮带绑在了椅子扶手上,两条大腿固定在了下策的凹槽内,类似于开脚器的设施,我就这样,被束缚在椅子上被束缚在众目睽睽之下,我的肉棒,我的肛门在众人的目光之中无处躲藏,我呼吸渐渐急促,脸蛋越来越红。这时,那个曾经改造过我的医生来到了我的面前,他撇了我一眼,就开始对台下说,“下面,我来进行进阶素质评定”他转过头,走到我身后,“发质良好,无分叉,发质较软,评定A”他抚摸我的头皮的头发,我痒痒的又很舒服“眼睛适中,双眼皮,睫毛较少,眉形一般,评定B”“脸部较平滑,嘴型姣好,评定A-”他慢慢走到我的身前,俯身将脸对着我,他右手轻轻将我右耳旁的头发播到耳背,用他温暖的舌头轻轻含着我的耳垂,还不时用牙齿轻轻撕咬,“啊…嗯…呃….”我轻轻地呻吟着这呻吟小到只有我们二人才能听见,我慢慢张开嘴唇,用舌头舔舐上下嘴唇我的肉棒也开始性奋了,慢慢充血,慢慢地占据了整个鸟笼,小腹带动着肉棒一起抽搐“叮铃叮铃”贞操笼与上面的锁碰撞,发出清脆的声音此时,下面一阵哄笑这时他停止了吮吸耳坠,双手抱着我的头“不要….不要停”我的雌性荷尔蒙被激发出来了他脸一斜,将舌头伸进了我微张的嘴唇“唔,唔…..”我微闭双眼仿佛在享受两只粘稠的舌头搅动在一起,互相摩擦,互相交融,唾液在舌头间不断地交换,过了半晌,他抬起头,从口袋里拿出纸巾擦了擦嘴“耳垂为性感带,舌头柔软,口腔空间较大,无异味,评定A”“头部评定为B+”他平静地说完这一切,就好像刚才什么都没有发生,而剩下的,只有双眼朦胧,嘴唇微张,舌头舔舐周围唾液的我,我面部越来越热,慢慢地,胸部,臀部……
“啊….”还没有等我反应过来,他将我上身水手服下端褪在我的胸上他双手捧着我的双乳,用手指在我乳头处来回拨弄,痒痒地…..好舒服,“舔我的乳头,求求你了”我竟然说出来这样的话…….他二话不说,一脸扎进了我的双乳,用温暖的潮湿的舌头在我的乳头旁打转慢慢地打转…..越来越快…..牙齿轻轻撕咬着乳头,痛感与快感并存,我感到身体渐渐发软,手指脚趾紧握,不断用牙齿在嘴唇摩擦我能感到两个乳头在他温暖潮湿的嘴里,渐渐坚硬….他紧接着用手来拨弄我的乳头,而用嘴在我的小腹上舔舐…..“呃…..”我的舌头开始在嘴里颤抖,双眼微闭,臀部开始扭动,而我的肉棒蜷缩在贞操笼里变得越来越红,马眼处流出的透明色液体也慢慢滴落在地上….就在我意犹未尽的时候,就像刚才一样,他猛地抬起头来,对着台下做汇报,“乳房不大,但胸型较好,较为柔软,乳头为敏感带,且性奋时较硬”“小腹柔软,但有较多赘肉,乳房评定B+,小腹评定B-,上身评定B”
“干…..干….我…干我”我眼巴巴地看着他,我从来没有如此妩媚地看过一个人,双眼满满的渴望,渴望肉棒,渴望肉棒插入我的后庭,与我融为一体…..显然他听见了我的话,可是他并没有理我,他用双手抚摸我的蛋蛋,抚摸我的臀部,他将肛塞拔出来,他将手指插了进去,搅动,他的双手拂过我的双腿,双脚,“睾丸正常,肛门扩张正常,肛门肌肉较多,评定B+”“大腿脂肪较多,小腿正常,腿型一般,评定B-”而椅子上的我越发地燥热难忍,他拨弄我,却又浅尝辄止,难道有比这更残酷的刑罚吗?我的肛门肌肉在不停抽搐,透明色液体不断从我肉棒中流出….“操….操我!!!求你了”我用尽全身力气喊道,也许我已经成了一个人妖母狗了,竟然说出如此恬不知耻的话……“哈?母狗还有命令别人的权力?”“太饥渴了吧,好好调教定是尤物啊!”台下哄哄嚷着。这时医生转过头来看着我,“想吃药吗?那种快乐的药?”我伸出舌头,点了点头,“是上面吃呢?还是….下面吃呢?”我已然全身发软,没了力气,但我依然尽力扭了扭屁股…..“哈哈哈哈,小骚货”“臭婊子真骚啊”台下哄堂大笑然而此时的我已经管不了那么多了….我,只要肉棒,
他此时将一大瓶褐色药物用胶皮管注射到我的肛门里,如同火上浇油一般,我的性欲越发强烈,我斜躺在椅子上,汗水湿透了我的每一寸肌肤,头发贴紧我的脸颊,嘴巴微张,舌头吐出来,上衣被褪去,胸前的粉点越来越硬,小腹随着呼吸起起伏伏,穿着网袜的双腿来回扭动,渴望挣脱束缚,肉棒越来越硬…..越来越热似乎要有什么东西出来…..“啪”一个巴掌扇在我脸颊上“母狗没有权利要求”说罢,一股液体从我的肉棒里流出,那并不是精液…..那股液体像是水一样….是尿,被束缚的肉棒喷出的尿液沿着马眼口流下,慢慢地,慢慢地,尿流越来越小,我渴望肉棒的感觉越强烈,生不如死,慢慢地,我眼前的东西越来越模糊……我虚拖地晕了过去……偌大的舞台上,一个人妖昏在椅子上,全身被束缚,双乳外露,然而臀部依然在抽搐,而椅子下则是一滩尿剂…..
第五章 人妖犬肉便器(上)
醒来的我卧在一张毛茸茸的地毯上我环顾了四周,周围早已不是那个舞台,自然而然,也就没有没有台下的观众但是那个情景我永远也忘不了这时,屈辱感超过了快感,想到那时的我,像一个荡妇,一条母狗一条欲求不满的人妖犬,祈求着却不被满足着,真不知道那时为什么会这样,想到这里,我不由得冷颤,仿佛,脑中的我不是真的我可是却是那么的真实。我不愿再想下去,看了看自己的身体已然和那时的装束不同了,更加清爽了洁白的双腿上是长筒白色丝袜不透肉的白丝袜被拉到了大腿根,我动了动双腿,白丝在我双腿间摩擦温润清爽丝滑…..脚腕手腕和颈部被记着皮质的圈圈,上面有铁质的勾环,除此之外,便没有其他的物件了甚至连肉棒上的贞操锁也没有了,说来奇怪,一般来说,望着如此可人的自己,双腿摩擦着丝袜我应该��就勃起了啊,可是现在的我心中的欲望依然那么强烈,可是我的肉棒却软趴趴地耷拉着,用手去刺激也是有感觉却不能勃起….
正在我努力想要刺激肉棒的时候,门开了,我慌忙把手收到胸前,将身子扭到另一侧。“别藏了我都看见了”依然是那名医生“短时间内你是不能勃起的”他狡黠地说“我用药把你的阴茎感应器和传出神经切断了”我红着脸,脑中不自觉地想起那天和他,在台上的所作所为,“好了”他又一本正经地,“下面我来指导一下你的生活吧”一个狗盆被放在了我的面前,里面放着白色粘稠液体,闻着味道是精液….新鲜的精液“以后的三餐就是这个了,只有这个了”我将脸转向另一侧,不愿面向着恶心的食物“你现在不吃也行,反正以后有热乎的”医生一边拍着我的臀部一边说,“不吃,那好,下一项”说罢,他将狗链栓到我的项圈上,拖着我便出门我只好像一条母狗一样跟在他的身后我以一种极其屈辱的方式行走,屁股高高抬起,肛门因为双腿行走而一张一合,屁股也随着身体而高低起伏,从哪看这也不是一个人,而是一条母狗啊我就是以这样的方式来到了卫生间,“公狗是抬腿排泄,而你只能蹲着”他指了指一处单间内说,“排泄完里面有灌肠器,用完再出来”我只好爬进了单间内,解决完以后,将灌肠橡胶管插入我的肛门深处,而我翘着渗出汗珠的屁股,任凭温暖的液体在我身体内流动,然后拔出橡胶管,插入另一条橡胶管,将肛门内的液体喷入灌入喷出,再灌入喷出来来回回三次,我将橡胶管从早已颤抖的肛门抽出,我完成了整个过程像一条听话的母狗……
我安静低趴在他的脚下而我的肛门,我的屁股依然在不停抽动只是幅度越来越小还没有等我完全恢复平静我又被他牵着来到了另一处房间映入眼帘的是一台跑步机这时两个男人朝我走来,他们手里拿着麻绳,跳蛋…..我似乎已经可以预想到接下来发生的事情了我没有做任何抵抗,因为那些都是徒劳的他们拽着我的项圈,把我从地上托了起来用绳子将我捆绑起来,说是捆绑,却对我的行动没有太大影响,那种类似于龟甲缚的捆法,并没有束缚我的四肢,绳子只是将我的胸前的双乳从上下捆住这样更能凸显我的乳房而两股粗绳从我的股间穿过拉向后背接触我娇嫩的肛门,只要我稍微移动肛门便会像触电一般,娇痒难耐,我不自觉地扭动屁股,泪眼婆娑地乞求道,“求求你们,太紧了”他们并没有理会我,继续他们的工作他们给我穿上了黑色胶皮露跟厚底鞋并且扒开我的股间的绳子,朝里面塞入两颗跳蛋,将开关固定在我的右腿跟处的长筒袜处,打开开关“啊,不要,不要,快停下”我娇弱地哀求两颗���动的跳蛋深入我的肛门内“嗡嗡嗡”我的肛门被异物充斥着我双腿紧紧闭着,肛门内括肌也努力包裹着跳蛋尽量控制我不再抖动然而这些也都是徒劳,他们架着我上来跑步机,一人一边抓住我的手防止我从跑步机跌下来,他们按了按钮跑步机开始运作,而我不得不在跑步机上快走了起来这时,刚才一直在冷眼旁观的医生走到我身前“上午的训练便是减脂训练了”说完转身便走我在跑步机上踉跄地行走,每迈出一步,股间的绳子便和我的肛门摩擦,我紧紧抓著他们的手,眼睛直勾勾看着前方仿佛不去想我的下体的苦楚亦或者是快感高跟鞋踏在跑步机上的滴答声下体内传来的嗡嗡声软弱无力的肉棒和包裹着蛋蛋的袋子与大腿接触的微弱的啪啪声以及跑步机运行的声音…..我渐渐地习惯了肛门内部的震动也渐渐习惯了每迈出一步绳子摩擦的感觉胸前的双乳有规律的颤动我甚至喜欢上了这种感觉身不由己的快感喜欢上了肛门努力缩紧喜欢上了踏出步伐的艰难喜欢上了全身被汗水浸透我是多么想去将手指伸入肛门内搅动用手指来挑弄那早已坚硬的粉红色乳头可是我的双手被他们握住,动弹不得….不知过了多久,跑步机停了,他们也把我的绳子解开拉出肛门内的跳蛋我怅然若失,跌倒在跑步机旁,
我双唇微张,口水不停地流出,我用右手食指和中指用力伸进嘴里,带出晶莹剔透的唾液,又将两根手指伸入了肛门,两根手指最上的关节微曲玩弄自己的肛门内左手摸着自己的右胸,用力地捏着乳头可是我不满足,我想要小哥哥的肉棒我的淫欲完全盖住了我的理智“小哥哥”我双手扒开自己的肛门“求小哥哥干我的小肉穴”我扭动臀部,娇弱却又坚定地祈求“干我!快!用你们的肉棒!插入我的小穴!”我在大脑意识中已经不再认为自己是一名男人了。他们朝着对方笑了笑,就朝我走来他们脱下来自己的裤子,一个人半跪在我的腿前用粗糙的双手捏着我那疲软的肉棒而他的屁股一用力,那条布满青筋的粗糙的肉棒便插入我的肛门,进入我的体内我能感觉到他在用力,温暖湿润的肉棒在我的肛门内进进出出一边抽插,一边在用手揉捏我的翘臀他抬起我的双腿,双手扶住我的膝盖,用尽全身力气将肉棒忘我的体内撞击“啊啊,好爽,好……呜呜呜”我的嘴似乎被什么粗壮的东西堵住了回过神来,是另一个男人的肉棒,他坐在我的胸前,双手握住我的头将他的肉棒粗鲁地伸进我的嘴里我的舌头则在不停地运动舔舐他的肉棒,他的龟头,他的马眼双唇紧紧含住他的包皮,而他则在激烈地将肉棒在我嘴里进进出出“呜呜呜”我被干的神魂颠倒双颊涨红,浑身无力“呜呜呜”我的肉棒不受控制一股尿液从我的马眼里喷涌而出我失禁了…….与此同时,我闻到了一股腥臭味道白色的精液灌满了我的嘴里,顺着喉咙流了下去,一小部分则顺着不受控制的嘴流了出去我舌头则舔舐牙齿上的精液,期望能吃到更多这时我的肛门内感到了更加灼热这种感觉有规律地冲击着肛门内壁三四下之后,我的肛门便空空如也,只剩下里面的液体,随着我肛门内括肌的蠕动里面的液体一滴滴顺着肛门流了出来
我一点力气也没有了我侧躺在跑步机旁两只洞内流出白色的液体伴随着汗液,尿液和唾液快感渐渐消失,我平静地躺着上午的训练已经完成,那下午的又是什么呢???
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私は嘘をなるべくつかないようにしてるから、なけなしでも本気で言った「あなたのことが大好きだよ」ってLINEに「私もだいすきです」って返してくれた女の子のこと幸せにしてあげたいんだよ。
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新宿の地下鉄は思い出がありすぎて嫌いだった。地下鉄へ行く狭いエレベーターで、家着いたら挿れなよって言ってる下品な若くもない3人組にイラついて、改札で別れ際に自撮りしてるような可愛い女の子も嫌いだと思った、日曜のまだ終電よりは全然早い新宿三丁目駅。真っ赤なTシャツを着てギターを背負ったおじさんには共感できて、前を歩く踵がオーロラに光る白いスニーカーを履いた華奢で派手ではないお姉さんにも辛い過去があるのかなと勝手に想像して。でも駅で騒々しくない人たちだけが頼り。
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今日一年ぶりに会った友達が一番死にたい夜に救えなかったこと。これから救えるかもしれない命のこと。
自分の過去の恋愛含めて、いくつ悔しさを噛み締めたらいいのだろうか。せめて大好きな人たちだけでも幸せになってよ。気の強い女は嫌い。主人公ヅラして周りを傷つけることを厭わない彼らが一番嫌いだし去って欲しいんだよ。
幼稚園はキリスト教だったけど、小さい頃から神様にいくら願っても変わりやしなかった。だからあまり信じてない。それでも大好きな人たちと過ごした夜を抱えて、大好きな人たちだけは幸せになって欲しいんだよ。
2025 6.1
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2025/4/5「ユヤックストバビックス vol.39&vol.40」@神楽坂天窓 #ユヤバビ
【昼の部】ユヤックストバビックス vol.39日 程 2025/4/5(土)開場日時 14:30 開演日時 15:00 終演日時 16:30会 場 神楽坂天窓 (東京都) 東京都新宿区神楽坂3丁目 【夜の部】ユヤックストバビックス vol.40日 程 2025/4/5(土)開場日時 18:30 開演日時 19:00 終演日時 20:30会 場 神楽坂天窓 (東京都) 東京都新宿区神楽坂3丁目 出演者 ユヤックストバビックス(浅岡雄也 , 馬場一嘉 ,) 一般予約開始:2025年 3月13日(木)12:00~Vol.39 昼チケットこちらVol.40 夜チケットこちら宜しくお願いします!
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連休二日目、大平は厨房職員の出勤前に開錠し、再び床に入った。昨日の母親とのやり取りが尾を引いているらしく、布団を頭から被った。嗚呼、辛い、淋しい…。この思いを誰に吐露したらよいかと、彼は何度も寝返った。
それから一時間経った頃、ドア越しに声がした。
「大平先生、検食お願いします」
彼は寝ていた訳ではないのですぐ布団から出た。ドアを開けると、其処にいたのは管理栄養士の石川忍だった。彼女は、
「何だ、起きてたンですか。もうすぐ生徒さん来ちゃいますよ」
と言った。
「あぁ、すみません…。今行きます」
そう言って大平は食堂へ向かった。食堂には、朝食を作り終えた厨房職員が休憩をしていた。石川も、今日は日曜日で人手が足らないとの事で厨房業務をしていたらしく、
「早く厨房職員、増やしてくれないかなァ〜。アタシ、朝弱いのよ」
と言った。向かい側で食事をしている大平は、
「でも、いつも美味しいよ。助かるわ」
と話した。
「たまに、亜鉛やタウリンたっぷりの献立も考えないといけないのよ。幸田理事長が、年頃の男子はヴァイタリティがなくては勉強やスポーツに良い成績が得られないって。まァ、亜鉛は味覚を感じるのに必要な栄養素だから仕方ないかァ〜」
「たまに遊びに来るよ、ウチの生徒が」
「あら、大平先生。ビンビンなのね? 絶好調なンだ〜」
「ほらほら、朝から際どいよ」
石川も、このK高校の裏の裏も読んでいる様だった。彼女も所謂「ボーイズラヴ」系の漫画が大好きで、半年に一回は特別メニューとしてマカを含んだドリンクを付けたり、すっぽんエキスを使った鍋などを出したりもしていた。大学時代に居酒屋でのアルバイト経験があり、たまに貢が理事会を開催する時には刺身や焼き鳥も作っていた。
検食を終えると大平は、
「今度、カキ食べたいなァ」
と、検食簿を書きながら言った。
「カキ? 寒くならないとダメでしょ? 美味いけどね〜」
「だよなァ…。ご馳走様」
返却棚に使った食器を戻すと、大平は宿直室に戻った。嗚呼、今日は何をやろう…。そう思いながら彼は布団を片付けた。
午前十時過ぎ頃、寮の駐車場に一台の四WDが停まった。宿直室で保健体育の教科書を開き、連休明けの授業の準備をしていた大平は、モニターでその車を確認した。丁度、半袖のポロシャツにジーンズという格好で正美が階下にやって来たので、大平は宿直室から出て聞いた。
「ご両親とお出掛け?」
「おはようございます。否、母の幼馴染でもある中学校の恩師です」
「夕方までには帰るンでしょ?」
「はい、ちょっとドライヴです」
大平は「中学校の恩師」と「ドライヴ」という単語が意味深だなと思った。大概は家族などが迎えに来たり、逆に実家へ一時帰宅したりする場合が多いが、これまでに中学校時代の恩師というのは前例がなかった。もしかしたら、「恋仲」か?と彼は疑った。すると、車から七三分けに髪を整えたほぼ同世代の男がやって来た。彼は水色のオックスフォード生地のボタンダウンシャツに、ベージュのチノパンツという格好だった。その男は八坂だった。彼は大平に挨拶し、
「黒木正美がお世話になっております、八坂周二です。今日はドライヴも兼ねて正美君に会いに来ました。よろしくお願いします」
と自己紹介をした。大平も会釈をし、
「私は一年生の保健体育を担当しております、大平雅之です。今週は寮の宿直をしております」
と言った。正美は、
「おじさん、待ってたよ。行こう!」
と靴を履き替え、何故か手を繋ごうとした。八坂は、
「ダ、ダメだよ。そんな人前で…」
と苦笑したが、
「イイじゃん、早く行こう!」
と正美は疾る気持ちを抑えきれない様子だった。八坂は正美に急かされるまま、
「門限までには帰りますので…」
と言った。
大平は、これまであんな無邪気そうな笑顔を見せる正美を見たことがないと思った。たまに、
「セッ◯スしてぇ〜!」
と、公然と口走る印象しかなかった。しかし、あの八坂もスラッとした雰囲気でイイなァと大平は思った。
その頃、亮司は昨日と同様に刈払い機を片手に校内の除草作業をしていた。この時期は雑草が伸びるのも早く、正直「いたちごっこ」ではあった。昨年は定期的に業者が来訪してやってはいたが、単科大学の方で来年度から従来の経済学部に加え社会学部も新設されるとの事で、極力コストを抑えたいという貢の考えがあった。彼は、
「熱中症にならない程度に草取りしてね」
と、一昨日絡み合った後に言ったのだ。亮司は、
「何だ、愛してるなら手伝えよ」
と布団の中で貢の片脚に自分のものを絡ませながら訴えたが、
「理事長も大変なンだよ、休ませてよ」
と亮司に接吻しながら詫びた。
昨日より日差しが強く、早くも頭の方から汗が噴き出す。亮司はペットボトルのスポーツドリンクのキャップを開け、数口飲んだ。嗚呼、この空気が何だか「あの頃」を思い起こさせるなァと、彼は再び秀一のことを想った。
亮司が顧問を務めていた陸上部に秀一が入部して三ヶ月が経過した頃、都立A高校に近い河川敷でジョギングをすることを練習メニューにしていた。未だ「根性で乗り切る」という考え方が根付いていた時代である。練習中に水分を摂ることを制限され、ギブアップしそうな生徒には「忍耐力が足らない」と叱責するのが当たり前だった。亮司もその一人で、指導するにも必ず怒鳴り声を上げていた。
そんな猛練習の中で、秀一は朝イチの新聞配達をしながら個人的に走り込みもしていた。周囲に話すことはせず亮司にも黙っていたが、たまたま犬の散歩をしに河川敷を歩いていた時に亮司は秀一がジョギングをするところを見かけていた。他の教師から秀一の家庭が火の車であることを聞いていた亮司は、そんな彼に少しずつ想いを寄せる様になっていた。
ある日の夕方、いつもの様に河川敷のジョギングをしていた時だった。普段であれば余裕の表情を見せていた秀一の足取りが徐々にペースが落ち、その場に倒れ込んでしまった。他の部員は一時的に足を止め、彼の許に駆け付けた。亮司は、
「益子!」
と身体を揺さぶった。意識はあるが朦朧とした様子だった。彼はその日の部活動を中断し、学校に戻ることにした。
保健室に連れて行った亮司は、ベッドに横たわる秀一を眺めていた。
「どうやら、睡眠不足の様ね」
と女性の養護教諭は言った。
「『睡眠不足』?」
「確か、益子君ってお母さんだけよね? お姉さんは看護婦さんで…。新聞配達もしながら成績も優秀だし、かなり頑張っている筈よ。それで部活なンだから」
「…そうか」
亮司は、秀一の学校以外の一面を知らずにいたことを悔やんだ。そもそも部活動の時にしか関わらないし、他の生徒に対しても同様だった。
秀一が目覚めた時には、とっくに夜の帳が下りていた。養護教諭もずっと残っていたが、
「とりあえず、何か美味しいものでも食べなさい。あとは無理はダメよ」
と彼に言った。
「佐々木先生、色々とありがとうございました」
亮司はそう頭を垂れ、秀一と学校を出て行った。秀一の家は河川敷近くにあったが、亮司は神田の方だった。今夜は、ずっと付き添い気持ちがあった。そうだ、駅前に食堂があるから連れて行くかと、秀一と一緒に山手線に乗って秋葉原駅前の定食屋へ向かった。カツ丼は大盛り、その他に秀一はカレーも注文した。あまりの食い込みのよさに亮司は驚き、
「普段、何食べてるの?」
と聞くと、
「普通に食べてますよ。でも、すぐお腹空いちゃう」
と秀一は話した。
「今日は沢山お食べよ」
まるで息子を一人持った様な感覚に、亮司は陥った。嗚呼、何とかしてあげたいと思いながら。その日は、秀一とは秋葉原駅で別れたが、回数を重ねるごとに逆に亮司が彼のところまで送って行く様になった。時折、無意識のうちに手を握り合うことも多くなり、互いに教師と生徒という関係を越えつつあった。
そんな二人の想いが通い合ったのは、夏休みが近づいた七月の中旬のある夕方だった。いつもの様に秋葉原駅前の食堂で食事をした後、西日暮里駅を下りて秀一をアパートまで送るその矢先だった。亮司はこれまで押し殺してきた彼に対する想いを河川敷の橋桁で告白した。突然唇を奪われた秀一は、最初は何が起きたのか理由が解らない状態だったが、
「…先生、僕も好き」
とおのずと舌を絡ませてきたのだ。一瞬、唇を離すと二人の唾液が一筋の糸でつながっていた。亮司はそのまま秀一を叢に横たわらせ、
「申し訳ない…。でも、秀一が好きなンだ。愛してるンだ。オレ、お前が欲しいンだ」
と、ワイシャツの第二ボタンを外しながら未だ十六歳になったばかりの「やわ肌」に手を忍ばせ、同時に首筋に唇を押し付けた。
「せ、先生。そんな、あぁ、あん…」
初めて経験するエクスタシーに忽ち秀一は酔い、今度は彼自ら亮司のネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを外し、ランニングシャツの片側を肩からずり下げた。日焼けした肌に黒々と浮き出た乳房を弄った。
「し、秀一! オ、オレ、そんなつもりじゃ、あぁぁ…」
叢の上で、二人の体位は逆転した。周囲はすっかり暗くなっていた。人気もない。橋桁の上なので、たとえ声を上げても車の往来でガタガタという雑音でかき消された。スラックスを互いに脱ぎ捨て、二人はブリーフを片脚に絡ませた状態で肉棒を咥え合った。秀一は、銭湯でしか他人様のチ◯ポを見たことがなかったが、微かに小便の「匂い」がしつつも抵抗なくその裏側を舌の先でなぞったり、また先端を口の中で弄んだ。あまりに気持ちよく遊戯してくれていることに亮司は、
「し、秀一! 気持ちイイ! イイ!」
と歓喜を上げ、そのまま愛液を秀一の口の中に放出した。
「あッ、あん! あぁん! あん!」
亮司は頬を赤らめながら、うっすら涙を浮かべつつ、全身を震わせた。一方、あまりに卵白の様にヌルッとした感触だったからか、オルガズムが終わると秀一はすぐその場に亮司の愛液を吐き出した。
彼は、
「…先生、僕、我慢できない」
と訴えた。
亮司は、秀一に「お前の愛液を顔にかけて欲しい」と求めた。言われた通りに、秀一は亮司の顔の目前に下半身をさらけ出し、今にも多量に噴き出しそうにいきり勃った秀一の肉棒を亮司はしゃぶったりしごいたりした。そして、
「嗚呼、 イク!イッちゃう! 出ちゃう!」
と、見事なほどに熱く粘度を含んだ乳白色の愛液が亮司の顔面に飛び散った。「シャワー」の様に浴びた亮司は、うっすらと微笑を浮かべた。
初めてにして変態的な「痴情」を経験した二人は、それからこの様な濡れ事を重ねに重ねた。間もなく夏休みを迎えたが、すぐに亮司は仮住まいとして、西日暮里駅と都立A高校の間にアパート���借り、其処を「愛の棲家」とした。週二、三回は部活動の後、亮司自ら夕食を振る舞い、一緒に近くの銭湯へ行っては愛し合ったのだ。
『嗚呼、若かったよなァ。オレも』
木陰から漏れる日差しを時折見上げながら、もう一口スポーツドリンクを飲み、亮司は再び刈払いを始めた。
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新宿区歌舞伎町一丁目の、Heart Beatで、晩酌の後に、カレーそうめん、630円也。
Curry somen noodles after drinking at Heart Beat, Kabukicho Icchome, Shinjyuku ward, Tokyo.
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ジャニーが同性愛者(真性の少年性愛者、児童性愛者)であり、事務所に所属する男性タレントに対して性的児童虐待(同性愛行為の強要)を行っているとの話は、1960年代から散発的に繰り返し報道されてきた。 まず、駐留米軍の「在日軍事援助顧問団 (MAAGJ)」に勤務していた頃(1958年~1966年)から、外交官ナンバーの車(クライスラー)で新宿・花園神社の界隈に繰り出し、「ケニー」、「L」、「牛若丸」といったゲイバーで遊んでいたこと、更に新宿駅南口で網を張り、田舎から出てきた少年たちに声をかけては、常宿の「相模屋」(1泊600円のベッドハウス)に連れ込んでいたことを、当時のゲイ仲間・原吾一が、著書『二丁目のジャニーズ』シリーズで明かしている。 ジャニー喜多川が最初に手がけたタレントは「ジャニーズ」の4名(真家ひろみ、飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良)で、当初は池袋の芸能学校「新芸能学院」に所属させていたが、学院内にてジャニーが15名の男子生徒たちに性的児童虐待行為をしていたことが発覚。 オーナーの名和太郎学院長(本名:高橋幸吉。2000年6月7日に急性心不全で逝去。81歳没)はジャニーを1964年6月28日付で解雇した。 しかしジャニーが、ジャニーズの4名も一緒に引き連れて出て行ってしまったためにトラブルとなり、ジャニーらが所属中の授業料やスタジオ使用料、食費など270万円を求めて学院長がジャニーを提訴し、裁判へと発展した (通称:ホモセクハラ裁判)。 なお、当時のジャニーは在日軍事援助顧問団(MAAGJ)に在籍する下士官事務職員として、米国軍人および外交官の立場にあったが、新芸能学院との騒動は「MAAGJの公務の範囲外の職業活動」で起こった問題であるため、「外交関係に関するウィーン条約」(日本では1964年6月8日に発行)の第31条1項による外交特権「外交官は接受国の刑事・民事・行政裁判権からの免除を享有する」の対象から漏れ、訴えられた。 この裁判は長期化し、1964年から実に4年に渡って行われた。 ジャニーズの4名も実際に証言台に立っており、その証言記録は『女性自身』(1967年9月25日号)、『ジャニーズの逆襲』(データハウス刊)、『ジャニーズスキャンダル調書』(鹿砦社刊)にて再現されている。 『週刊サンケイ』(1965年3月29日号)でも「ジャニーズ騒動 “ジャニーズ”売り出しのかげに」として5ページの記事が組まれた他、ルポライターの竹中労も、著書『タレント帝国 芸能プロの内幕』(1968年7月、現代書房)の中で「ジャニーズ解散・始末記」と題してジャニーの性加害について言及した (当書はその後、初代ジャニーズを管理していた渡辺プロダクションの渡邊美佐の圧力で販売停止)。 なお、『ジャニーズスキャンダル調書』では「同性愛」という表現自体を否定しており、ホモセクハラである以上、「性的虐待」���善意に表現しても「少年愛」であるとしている。 『週刊現代』(1981年4月30日号、講談社)にて、「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」と題し、ジャーナリストの元木昌彦がジャニーの性趣向問題について言及。 (直後、ジャニーの姉のメリー喜多川から編集部に「今後、講談社には一切うちのタレントを出さない」と猛クレームが入り、元木は処分として『週刊現代』から『婦人倶楽部』の部署へと異動させられた。 この件については、『週刊文春』(1981年5月28日号、文藝春秋)でも、���大講談社を震え上がらせたメリー喜多川の“たのきん”操縦術」と題して報じられた。 なお、ジャニーの性的児童虐待についてメリーは、「弟は病気なんだからしょうがないでしょ!」と言ってずっと放任していた) 雑誌『噂の眞相』(1983年11月号)が、「ホモの館」と題してジャニーズ事務所の合宿所の写真を公開。 元所属タレントの告発も相次いだ。 元フォーリーブスの北公次は『光GENJIへ』(1988年12月)、 元ジューク・ボックスの小谷純とやなせかおるは『さらば ! ! 光GENJIへ』(1989年9月)、 元ジャニーズの中谷良は『ジャニーズの逆襲』(1989年10月)、 元ジャニーズJr.の平本淳也は『ジャニーズのすべて ~ 少年愛の館』(1996年4月)、 豊川誕は『ひとりぼっちの旅立ち ~ 元ジャニーズ・アイドル 豊川誕半生記』(1997年3月)、 山崎正人は『SMAPへ』(2005年3月)をそれぞれ上梓。 タレントの生殺与奪の全権を握るジャニーの性的要求を受け入れなければ、仕事を与えられずに干されてしまうという実態が明るみに出た。 中でも『SMAPへ』は、ジャニーが行っていた性行為の内容について最も細かく具体的に描写しており、少年に肛門性交を強要していたことも明かしている。 同じく元Jr.の蓬田利久も、漫画『Jr.メモリーズ ~もしも記憶が確かなら~』(竹書房の漫画雑誌『本当にあった愉快な話』シリーズに掲載。著:柏屋コッコ、2014年1月~2015年4月)に取材協力する形で暴露している。 ジャニーは肛門性交時にノグゼマスキンクリーム、メンソレータム、ベビーローションなどを愛用しており、少年隊もラジオ番組で、錦織一清が「ジャニーさんと言えばメンソレータム思い出すなぁ・・・」、東山紀之は「合宿所はいつもメンソレータムの匂いがしてた」など、分かる人には分かるギリギリの発言をしている。 元Jr.の星英徳も、ジャニー喜多川の死後になってネット配信で、「ただのJr.だった自分ですら、何十回もやられた。 ジャニーさんが特に好んだのは、小中学生の段階のJr.。 時には平日の朝から学校を休んで合宿所に来いと呼び出され、マンツーマンで性行為を受けた。 その最中は、当時付き合ってた彼女のことを毎回必死に頭で思い描きながら耐えてた。 メジャーデビューしたメンバーは必ず全員やられている。 必ずです! 全員やられてる! そもそも断ったらデビュー出来ない」と幾度も打ち明け、ジャニーによる性被害や当時の事務所内での異常な状況を説明した。 ジャニーズの出身者以外からも、浜村淳が関西ローカルのラジオ番組『ありがとう浜村淳です』(MBSラジオ)の中でジャニーのことを「あのホモのおっさん」と発言したり、ミュージシャンのジーザス花園が、2009年発表の自作曲『ジャニー&メリー』で、AV監督の村西とおるもブログやTwitterで糾弾している。 ジャニーに対する感謝、愛情が誰よりも強いことで知られるKinKi Kidsの堂本剛(児童劇団の子役出身)は、小学5年生の段階で子役活動を辞め、一旦芸能界を引退していたが、姉による他薦でジャニーズのエンターテインメントの世界に触れ、自分もスターになって成功したいという感情が芽生える。 しかし成功するためには、まだ幼い小学6年生の段階からジャニーの性的な行為を耐え忍ぶしかなく、剛が中学2年生の14歳の時に奈良県から東京の合宿所に正式に転居してからは、ジャニーの性行為は更に過熱していった。 当時剛と非常に親しい関係にあった元Jr.の星英徳も、「剛は普通のJr.たちとは違うレベルの性行為をジャニーさんから受けていて、そのことにいつも悩んでた。剛が病んじゃったのはジャニーさんが原因」と、2021年6月25日の深夜にツイキャス配信で証言した。 剛にしてみれば、確かにジャニーには芸能界で大成功させて貰って感謝はしているものの、幼い頃から異常すぎる性体験を強いられ、自分の心と体を捨て去るという代償を払わされてきた訳であり、更に人一倍繊細な性格がゆえ、15歳からは芸能活動へのストレスも相まってパニック障害を抱えるようになり、長年に渡って自殺を考えるほどに苦しんだ時期が続いた。 自分で選んだ道ではあるし、ストックホルム症候群、トラウマボンド(トラウマティック・ボンディング)、グルーミングなどの効果によって、ジャニーに対して大きな感謝はしつつも、もしジャニーと出会わなければ、こんなにも苦しい思いをすることは無かった、という愛憎が入り混じった複雑な感情から、剛の自作曲『美しく在る為に』は、ジャニーへの思いや、芸能活動への葛藤が描かれた曲だと、一部のファンの間では解釈されている。 その歌詞の一部には、 「あたしが悪いなんて 云わせないの あなたが悪いなんて 云う筈がないの 人は勝手だったもの 何時も勝手だったもの 美しく在る為に 勝手だったもの」とある。 [1] 元光GENJIの諸星和己も、2016年11月6日放送のバラエティ番組『にけつッ ! !』(日本テレビ)に出演した際、千原ジュニアとの会話でジャニーについて、 千原 「数年後に大スターになると見抜くその力よ」 諸星 「違う違う、たまたま、たまたま」 千原 「先見の明がすごいんでしょ?」 諸星 「僕の考えだと、“結果論”だね。 あの人(ジャニー喜多川)の目がいいとか、見抜く力がすごいとか、“全く”無い!」 と断じ、ジャニーに対する世間の過大評価に異を唱えた。 そして番組の最後では、「ジャニーの感性はね、あれホ〇だから!」と締めくくった。 ジャニーについてはよく、「少年の10年後の成長した顔が見えていた」などと評されてしまうことがあるが、それは間違い。 確かに子供の頃は冴えない平凡な顔をした者が、美容整形なども踏まえて将来二枚目に化けたパターンもあるが、その一方、小さい頃は可愛かったのに、成長と共にどんどん劣化してしまったパターンも少なくない。 そもそも、テレビなどで頻繁に同じタレントの顔を目にしていれば、視聴者の目はその顔に慣れていく訳だから、マイナス面はどんどん軽減されていく。 ジャニーが持っていたのは権力と財力であって、人の10年後の顔はおろか、人の本質や将来を見抜けるような特殊能力、神通力は存在しない。 ジャニーは将来を予見して採用していたのではなく、ただ単に、今その瞬間の“自分の好み”の少年、個人的に性欲を感じる“ヤりたい相手”を選んでいただけであり、その少年がたまたまスターになるかならないかは、諸星が述べた通り、後からついてきた“結果論”に過ぎない。 ジャニーに個人的に嫌われれば、いくらスター性や才能がある者であっても捨てられるし、ジャニーに個人的に好かれれば、スター性の無い者であっても権力と財力でメディアにゴリ推しされ、結果、誰でも人気者になれた。 こうした、ジャニーの個人的な好み、機嫌だけで全てが操作・決定される、非常に特殊で独裁的な事務所だったため、多くのスターを製造した一方、本当に将来有望だったはずの多くの才能も死んでいった。 なお諸星はこの放送の一ヶ月後の2016年12月2日に大沢樹生と共に開催したトークライブでも、ステージ上で「俺が何で結婚しないか? ホモだから。 ジャニーみたいなものだから」と発言し、ジャニーを茶化している (諸星自身がゲイであるという部分は自虐による冗談であり、諸星はゲイではない)。 1988年~1989年にかけ、月刊誌『噂の眞相』もこの問題を数回取り上げた。 しかしジャニーズ側は、「『噂の眞相』という雑誌はこの世に存在しないもの」という姿勢を貫いていたため、全く相手にされることは無かった。 週刊誌『FOCUS』(1989年8月11日号、 新潮社)に、ジャニー喜多川が合宿所で撮影した田原俊彦の全裸のポラロイド写真が流出掲載される。 1999年10月28日号から2000年2月17日号にかけ、『週刊文春』がジャニーズ事務所に対する糾弾を14回に渡ってキャンペーンとしてシリーズ掲載。 ジャニーが所属タレントに対してセクハラ・児童虐待を行い、事務所内では未成年所属タレントの喫煙や飲酒が日常的に黙認されていると報道し、約15名もの元ジャニーズJr.が取材に協力した。 出版元である文藝春秋は、他の大手出版社と違ってジャニーズ事務所との癒着や影響力が皆無に等しかったために出来たことだった。 【キャンペーン開始の引き金的な記事】 江木俊夫 公判で元アイドルが「ジャニーズ」批判 (1999年10月7日号) 【14回のキャンペーン】 青山孝 元フォーリーブス衝撃の告発 芸能界のモンスター「ジャニーズ事務所」の非道 TVも新聞も絶対報じない (1999年10月28日号・p252~255) ジャニーズの少年たちが耐える「おぞましい」環境 元メンバーが告発 「芸能界のモンスター」追及第2弾 (1999年11月4日号・p190~193) ジャニーズの少年たちが「悪魔の館」合宿所で 「芸能界のモンスター」追及第3弾 強いられる“行為” スクーブグラビア ジャニーズ「喫煙常習」の証拠写真 (1999年11月11日号・p26~29)[1] テレビ局が封印したジャニーズの少年たち集団万引き事件 追及キャンペーン4 マスコミはなぜ恐れるのか (1999年11月18日号・p188~191) ジャニー喜多川は関西の少年たちを「ホテル」に呼び出す 追及第5弾 芸能界のモンスター (1999年11月25日号・p188~191)[1] ジャニーズOBが決起! ホモセクハラの犠牲者たち 芸能界のモンスター追及第6弾 (1999年12月2日号・p195~197) 小誌だけが知っているジャニー喜多川「絶体絶命」 追及第7弾 (1999年12月9日号・p179~181)[1] ジャニーズ人気スターの「恋人」が脅された! 追及第8弾 (1999年12月16日号・p185~187) ジャニー喜多川殿 ユー、法廷に立てますか? 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(2000年5月4日・11日合併号・p180~181) 大手メディアがこの性的児童虐待問題をこれほどまでに取り上げたのは1960年代以来初めてのことで、その波紋は大きく、自民党衆議院議員・阪上善秀(後の宝塚市長)も、2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げた [注 6]。 1999年11月、ジャニー側は名誉毀損であるとして文藝春秋を訴え、1億700万円(ジャニーズ事務所に対し5350万円、ジャニー喜多川に対し5350万円)の損害賠償と謝罪広告1回を求める民事訴訟を起こした。 2002年3月27日、東京地裁の一審判決では、「高度の信用性を認めがたい。 証人の証言はたやすく信用できない点を残している」としてジャニー側が勝訴し、東京地裁は文藝春秋に対し、ジャニーへ440万円、ジャニーズ事務所へ440万円の、計880万円の損害賠償を命じた (井上哲男裁判長)。 文春側はこれを不服として東京高裁に控訴。 これに対抗するかのようにジャニー側も控訴。 2003年7月15日の二審判決では、ジャニーの性的児童虐待に関する記述について、 「喜多川が少年らに対しセクハラ行為をしたとの各証言はこれを信用することができ、喜多川が、少年達が逆らえばステージの立ち位置が悪くなったり、デビューできなくなるという抗拒不能な状態にあるのに乗じ、セクハラ行為をしているとの記述については、いわゆる真実性の抗弁が認められ、かつ、公共の利害に関する事実に係るものである」 と結論づけられ、ジャニー側の性的児童虐待行為を認定 (矢崎秀一裁判長)。 このため、性的児童虐待部分のジャニー側の勝訴は取り消され、損害賠償額はジャニーへ60万円、ジャニーズ事務所へ60万円の、計120万円に減額された。 ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され (藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と性的児童虐待行為認定が確定した。[1]、[2] しかし各芸能マスコミは、一審の880万円から120万円に減額された事実だけをベタ記事で書いて済ませ、「性的児童虐待が認められた」という肝心の部分は書かなかった。 この問題について、懐疑主義団体「JAPAN SKEPTICS」の機関誌『NEWSLETTER 53号』にて、当時同会の副会長だった草野直樹が批判。 「マスコミの誤りというのは、『間違ったことを報じる���だけでなく、『必要なことを報じない』ことも含まれる。 そして後者の多くは、いくつかの『タブー』に縛られていることが原因になっている。 報道におけるタブーのベールを抜いた報道には、オカルト・疑似科学の類と同様に騙されないようにしよう」と訴えた。 芸能評論家の肥留間正明も、「芸能界でホモセクハラが裁判になったのは異例。 真実と認められたのも初めてで、これは社会的な事件」と語っている。 また、ニューヨーク・タイムズや、イギリスの新聞・オブザーバーなどの海外メディアも大々的に取り上げ、この問題をタブー視するなどして真実を報道しない卑怯で腰抜けな日本のマスメディアの姿勢、体質を批判した。 以後もジャニーズ事務所と文藝春秋は対立。 2006年に『武士の一分』が映画化された際、ジャニーズは文春文庫で発売されている藤沢周平の原作本の帯に、主演の木村拓哉の写真の使用を一切許可しない、という対抗措置を取っている。 また、木村が工藤静香と結婚した際にも、会見への週刊文春の参加を禁じた。 そのため、文春側は巻頭グラビアで白紙ページに木村とインタビュアーの輪郭のみを描き、ジャニーズによるメディア統制であると非難した。 2010年3月14日、サイゾーウーマンにてシリーズ連載「新約・ジャニーズ暴露本」開始。 2018年6月6日、サイゾーウーマンにてシリーズ連載「いま振り返るジャニーズの“少年愛”報道」開始。 2019年7月9日にジャニーが逝去。 その際、テレビや雑誌など、日本の主要メディアではジャニーを賛美する歯の浮くような美辞麗句のみが並べられ、まるでジャニーを聖人君子かのように崇め奉った。
ジャニー喜多川 - ジャニーズ百科事典
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