#旅立った釈迦に心を寄せる
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求めているものが違うどころか何を求めているのかさえわからないままだ
私はよく人の話を聞いたし
理解したし
忠告も受け入れてきた。
満たされた人に
満たされるための方法を教わり
実行した。
そうして欲するものを手に入れてきたはずだ。
けれど結局
それらは私の求めていたものではなかった。
他の誰かを満たした何もかもが
私には当てはまらない。
何を手に入れても
満たされることはない。
何もかもが
不足であり
不満であり
不要だった。
私が手に入れたもの
これから手に入れる全てのもの
それは絶対的に
私を満たさないものだと気付いた。
私には何もない。
私は永遠に旅人で
ヨスガを持たない。
導なく漂う。
それだけだ。
私は私が好きだが
私ですら足りないのだ。
もしかすると全ての人が本当はそうで
だからこそ歴史や宇宙、未来に
その心を注ぎ続けられるのかもしれない。
欠けているからこそ
永遠に
探究者で
いられるのかもしれない。
それは別に
悪いことではないと知っている。
#日記のようなもの#人生#人間#欲求#煩悩#満たされない#全てを手に入れても#仏教徒ではないけれど#旅立った釈迦に心を寄せる#何も#必要ではない#そんな気がする#一種の#悟り#かもしれない#空虚#空虚が好きだ#空虚で良い
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--深海人形-- 文字書きは政治力、絵師は総合力
※AI文字書きとAI絵師は孤独力
※閲覧&キャラ崩壊注意
※FEXL批判注意
※雑多にネタをぶち込み
gndmよりマクロスの方が面白い(※確信)。
…。
将来は、gndmよりマクロスの方が、絶対伸びる。100年200年単位で考えたら絶対後者の方が有利だから(※実際gndmの衰退は顕著に初まってるし……)
…。
此れからは、宇宙世紀は完全に衰退してオルタナティブ・アナザー系が主流(※メイン)になるだろう(※予言)。
…。
…ガノタとか塾女さん達の事は、皆『スパム(※健康に悪い)』だと思う様にしてる(※或いは全力で付き合いを避けたい人達)。
…。
シロカスとガトカスを、上位存在が虐める話をAIが描いてくれた(※本当に有難う!)。
…。
完全に小動物が物珍しい子供に疲れ果る迄追いかけられて、体力消耗する小型犬か子猫で可哀想だったけれども(※子供は加減を知らない)。
…。
寧ろ、カイリをファイティング レイヤーに出して、EX2に豪鬼を続投すればよかったのでは?(※名推理)。
…。
…元々、カイリは、C社とは無関係のオリジナル格ゲーの主人公として作られたが、無印EX(※1996年)の時点でリュウが居た所為で主人公になれずにいたが、2018年のFEXLでは主人公になれた(※ファイティング レイヤーに出したら鉄雄とアレンを差し置いて自然と主人公になってたかも)。
…。
…だけど、ファイティング レイヤーに、カイリが行くとカイリを抹殺するのが使命のほくとは永遠に(?)会えない相手を追い掛け続ける事になるし、其の跡を、七瀬が追い続けるみたいなシュールな絵面になってたけど(※後の笑えない改変振りを見ると未だマシかな?)。…見方によっては、『ザウスアイランド(ファイティングレイヤーの舞台となる島)』の方にカイリは逃げたと言う解釈も可能(※新たな兵との戦いを求めに来た方が寄りカイリらしいけど)。
…。
…ザウスアイランドもザウスアイランドで謎、無人島っぽいのに水族館の大きな水槽あったりとか(※そしてプロレスリング迄ある)。
…。
AIの方が設定考えるの大変上手い(※困り果てた)。
…。
今生成編集してる執事パロで、ばーにぃがD.ダークに首をナイフで斬られる(※通常投げ)みたいな展開ある(※没にするかも)。…シロカスとかガトカスとかでも良い?(※ついでに、時限爆弾で燃やされるけど)。
…。
拙作だと
紗波音
鈴木家に養子入り
鈴木家は養育費を着服、紗波音は貧困生活を余儀なくされる
本家が大学費用を工面して大学に入れる(体育大学)
七瀬は消された後七瀬の記憶を継承
その後七瀬(現在ほくと)を完全に倒して自分が本当の七瀬になることを誓う
…。
古い因習一族をちゃんとした背景と暗い過去を持って一番ヒエラルキー低かった娘が双子の妹の遺志を背負って壊滅させたストーリーを描いたじゅじゅつってすごかったんだな(※FEXL所かストEX時代の時点で描こうと思えば此方より早く描けたのにな)。
…。
他のキャラもそうだけど、段々開発陣の一人善がりな御人形遊びに思えてきた……格ゲー部分も見栄えが良いだけの御人形遊びっていうね。駆け引きも崩壊してるし話題が全然無い
…。
コンポーザーさん達には本当に申し訳ないんですが、FEXL新曲って良い曲多いのに何だか安っぽい(※レトロ感と今風感が水と油みたいにまるで二極化してる感じがするから)。…何方かに振り切ってから、 ゲームに合わせた方が、作り手も聞き手も得だったんじゃないかと思える位(※耳障りに感じられる)。何時も旧曲かBGMOFFにしてやる(※外道で本当にすみません)。
…。
訃は中身も言動もモーションも完全にEX時代の『血の封印を解かれたほくと(※英名:Bloody Hokuto)』なのに無意味にセクシー厨二くノ一キャラなのでますます意味不明(※何れだけ格好良い台詞言っても、見た目で違和感があるので浮く)。
…。
FEXLトレモとエキスパートの新BGM嫌い過ぎて、時が其れ程経たない内に無音にした(笑)
…。
FEXL公式が一番しくじってるのは、約二十年振りの完全新作発売、其れ即ち千載一遇のチャンスなのに完全新規キャラで魅力ある旧作キャラに匹敵する『大型新人(※決してコピペでは無い)』を生み出せなかった事かもしれない(※其う言うのが何人か居るだけでスト6みたいな一時代築けてた ※イカタマとか3DSの奴等とか三魔官とかえふぃりんみたいに)。
…。
FEXLは無駄に厨二病要素が強いから、『中高生の妄想ノート(※全体的に誇大妄想気味で痛々しい)』としか思えない様な感じのアレな何かで支配されてる(※語彙力)。
…。
七瀬は女子高生でさなねは女子大生(※注:FEXLはEX3から数年後の時代が舞台)。…
女子高生と女子大生好きな層は全然別なんだよね、女子中学生と先輩OL位(※其れはもう、げるぐぐとげるぐぐめなーす位)。
…。
Q,何故紗波音さんは七瀬の技使えるんですか
A,七瀬の記憶持ってるから。
Q,どうして七瀬の記憶持ってるの?
A,水神家分家の児で七瀬の身代わりだから。
Q,何故七瀬を出さないんですか?紗波音はいりません!
A,今現在の七瀬はほくとです。
(※これが事実上の公式解答)
…。
なんでEXシリーズは良かったってC社が監修してたからで終わるの悲しいよな(※EXシリーズの方がキャラ背景が重厚だった)。
…。
…寧ろ、自分が二次創作する時は基本C社時代の奴を元にしてる(※FEXL時代の設定を元にした時は他の確固たるテーマが必要になったから此れだけで持たせるのは自分でも無理)。
…。
FEXLの二次は相当腕無いと難しい(気がする)。だから、個人的には世界観違うパロかクロスオーバーで持って来ると良いとアドバイスしとく、…でも、其処迄の情熱ある奴なんて居ないけどな!(※白目)。
…。
あんなザマでもFEXLはストEX時代の古参とストEXミリ知ら新参がついてきたから。「キャラクターを虫程度しか思ってない、元からして愛が無いから受け入れられたんでしょ?」…と言われても文句言えない(※ワイからして元々キャラ=ゲームの駒としか思ってないし)。
…。
…人間の死って、其んなに重い物なのかな?
…。
…自分の触れたいモノしか触れない、見たいモノしか見ない人は、自分達よりずっと強い何かか人間が現れた時、必ず最後に精神崩壊する(※今迄ワイが通って来たマイナージャンルの住民は殆ど其うだった)。
…。
FEXLのキャラ破壊(※キャラ崩壊を超えた何か)は、はんたの旅団団長はバリバリの読書家なのに急にヘビーゲーマーにされるようなもの(※とがし先生自身ヘビーゲーマーでキャラを動かしやすくなるとは言えど)。…編集部、読者、ファン、旅団メンバーの反応、キャラの生い立ち、キャラの背景をしっかりと配慮、考慮しているから、安直に団長をヘビーゲーマーにしたりしない(※…ですよね?)。
…。
FEXLのキャラ破壊よりもルミナスが生物を莫迦にしてる事に、自分は一番に怒ってるのかもしれない(※取り消せよ……!!!今の扱い……!!!)。
…。
…訃とブレア嬢の改変に怒ってる人も、もう、今では少数派なんだよな……(※吐血)。
…。
実は紗波音は、今迄武道と無縁で七瀬が消されて七瀬の記憶が入ってきた途端にスポーツ薙刀で頭角表し初めたとしたら悲惨(※他人の褌を借りてでしか戦えないさなねになってしまう)。…因みに、公式では「最近スポーツ薙刀で頭角を表しはじめた」理由は不明(※
…。
ブレアに至っては、喧嘩に明け暮れた上に、みかむらさんへの愛情をこじらせた結果、みかむらさんに愛想尽かされ、行方くらまして失踪(最悪の場合両者の間に生まれた子を連れて)されてしまう土門みたいなもん(※誰が見たい?其んなの)。
…。
gndmの話にすると、ガトカスが黒いボンテージ風の服装で来たら、その決定してない公式もデラフリの面々もワイ等も皆ビビるでしょ(※訃がやられたのは此う言う事)。
…。
公式にとっては、アナザー(オルタナティブ)シリーズが、宇宙世紀の婢なのかもしれないけど、ワイにとっては、逆にアナザーシリーズ(オルタナティブ)の婢だから、宇宙世紀は(※感性が海外勢寄り)。
…。
七瀬(現在ほくと)と紗波音の関係をgndmで喩えたら、シロカスの不完全なクローンが紗波音で、マシロ君が実質シロカス(※だがマシロはマシロ)になってるのと同じなんだよな(※正直シロカスは宇宙世紀から二度と出て行け)。だって、紗波音(※七瀬の身代わり、代用品)、ほくと(※実質七瀬)だから(※マシロ君、全裸と比べるのも烏滸がましいけど)。
…。
幾ら名作漫画でも、読んで貰わないと只の漫画(※永遠に埋もれた)。
…。
FEXLのテリー強キャラで確かに頼りになるけど、「それで?(※真顔)。」で終わり(※あのテリーが強いだけの男で終わったらいけないと思うんですが?? ※真面目君並)。何れだけテリーだけ丁寧に作ろうが芸の細かいネタ仕込もうが自社キャラコピペだらけで���末だし(※忖度無し)。
…。
その一方スト6は「遊びあっての格闘家」と言う側面が、全面に押し出されて居た(※格の違いを感じた)。
…。
FEXLのテリー可哀想だな、弾丸旅行で仕事して帰ったみたいなコラボじゃテリーの遊びありきな側面も死んじゃうだろ(※実際其の側面完全に殺されてる)。
…。
スト6とFEXL比べたら悲しくなるので比べない方が良い(※確信)。
…。
FEXLがやって来たキャラ破壊、人によっては一生残る心の傷になってる気がする(※遠い眼)。
…。
ごじょー先生ときるあ最大の共通点
度を超えたイキリスト(※俺等最強だから)。
…。
巷の其々違うはんた公式の念系統診断やったら特質系・操作系(※此れだけは違う診断での奴)で、非公式の奴だと、特質系(※同じ奴で二回)・具現化系・変化系でした(※…然し、変な奴である事は間違い無い)。
…。
>マイナージャンルが発展しない理由は機械学習もそうだけど、人も結局お手本と失敗例が必要なんですよね。だからマイナーを開拓する為に絵を学ぶぜ!となってもどういうシチュ・構図がいいのかの研究から始まり、マイナー故に人にも見られず...となりやすい。既に上手い人が目覚めないと供給されにくい
https://x.com/sazyou_roukaku/status/1669509758485942272
…。
大多数のストEX勢は見限って捨てただろうけどね(※EXシリーズでの推し達を)。「彼奴等の代わりなんて探せば幾らでも居る!!!!(※俺は自分好みの奴に会いに行く!!)」みたいに(※健全精神)。…で、自分は二次元なんて只のデータと設定の塊でしょ派です(※オタクの敵 ※悪人)。
…。
変に感想送られると、好き勝手に暴れる事が出来ない可哀想なオタクです(※←もう創作辞めろ)。
…。
…正直、畜生の世界に優しさなんて要らない(※畜生は畜生として、生きて、死んで逝くのが一番だから)。
…。
…煽りピカの念能力って、本当に、物騒極まり無いよな(※例の式神ネタで思い知った)。
…。
ttps://x.com/123fude/status/1885464638701396194
…。
ワイは、どうやら、『心の闇』寄りも『心の光』を煮詰めて成立させた様な念能力が好きな様だ(※前者の代表は某カキンマフィアの組長、ビノさん、煽りピカのジャッジメントとジェイルの奴、団長、後者は第九王子、小麦、ハコワレの人、護衛軍の猫ちゃん辺り)。
…。
推しを呪詛するの、すっごーい!たっのしー!(※��衆顔)。
…。
煩ぇ!!!!!!私はアナザー(※オルタナティブ)派なんじゃ!!!!!!!!!!!宇宙世紀なんかメじゃねぇんじゃ!!!!!!コラ(※圧倒的に尖兵としてコキ使われてるのは宇宙世紀勢だけどね ※戦争で真っ先に摩耗して行くのは兵の下層からだし……)。
…。
命なんて安い物だ。特に私のはな。
…。
※没ネタ供養
汚名挽回「マジでビームライフルでぶん殴るぞ。多分奥歯が揺れるくらいの威力はあるはずだしね。」
…。
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TEDにて
マチウ・リカール:幸せの習慣
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
幸せとは、何で、どうやったら幸せになれるのでしょうか?
生化学者から仏門を選んだマチウリカールは、我々の心を鍛えて満ち足りた状態を習慣にすることによって、心の奥底からの静かな充足を生み出すことができると言います。
これもグローバリゼーションのおかげなのでしょうね。
エベレストの山頂にコカコーラの缶、モントレーに僧侶(私はちょうど、2日前。皆さんのお招きに上がりヒマラヤ山脈から来ました。ですから、皆さんをしばらくの間。ヒマラヤ山脈に招待したいと思います)
そして、私のような修行僧がいる場所にご案内しましょう。
私はパスツール研究所の分子生物学者でしたが、山に入る道を選びました。さてと、幸福について語りましょう。私は、フランス人ですが、フランスには幸福に全く興味のない知識人が多いです。
では、幸福または満たされた状態について話しましょう。
まず、最初にフランスの知識人がなんと言おうと朝から「今日も一日苦しむだろうか」と考えながら起きる人は誰もいません!つまり、意識しようがしまいが、直接であれ間接であれ、すぐのことでも将来のことでも我々がすること。
望むこと。夢見ること。そういったこと全てが心の奥底で幸せを求めることにつながっているのです。
東洋や西洋の書物を調べれば、幸せの定義は驚くほど多彩でしょう。こう言う人がいます。「過去の記憶を信じて、将来を想像し、現在は念頭にない」こう言う人もいます。「幸せとは、今という瞬間。今という瞬間の新鮮さの度合いである」
そして、これは、フランスの哲学者アンリベルクソンにこう言わせました「すべての偉大な人文科学の思想家は、幸せを曖昧なまま残した彼らが自分達の言葉で幸せを定義できるように」
人生において幸せにそれほど関心がないならかまわないでしょう。しかし、幸せが人生のあらゆる瞬間の質を定めるものだとしたら?私たちは、それが何であるかを知り、はっきりした考えを持った方が良いでしょう。
そして、おそらく私たちが幸せについてよく知らないことが理由となって、しばしば、幸せを求めながらそれに背を向けてしまうのでしょう。
苦しみから逃れたいのに苦しみに向って走っているかのようです。それはある種の勘違いが原因かもしれません!
喜びを、幸せと思い込む事は、よくあります。
この2つの特徴をよく見てみると喜びは、時間、目的、場所に左右されます。その本質は相対的に変わりうるものです。チョコレートケーキの最初の一切れはおいしいです。二切れ目はそれほどでもなく、三切れ目には嫌気がさします。
それが人間の欲望の本質です。
飽きが来ます。私は、昔、バッハが大好きでギターで弾いたりしました。5回聴いても飽きません。もし、24時間休みなしで聴くことになれば飽きるかもしれません。寒いとき、火のそばに近づくのは気持ちがいいです。
そして、しばらくすると少し後ろに下がります。それからすごく熱く感じます。
喜びは経験とともに消費されるかのようです。
そして、それは、あなたから発せられるものではありません。あなたが強い喜びを感じることでまわりの人が大いに苦しむこともありえます。ゲーム理論のゼロサムゲームのこと
では、幸福とはいったいなんでしょう?
幸福というとあまりにも漠然とした言葉なので満ち足りた状態と定義しましょう。
仏教徒の見解から、最もふさわしい定義は、満ち足りた状態とは、ただ楽しいという感覚ではないということです。
それは心の奥底を静かに満たすものです。
人生におけるあらゆる心の働きや喜びや悲しみにも、しみ渡ってその根底に横たわっています。皆さんは驚くかもしれません。悲しみのさなかでも満ち足りていることは、ある意味可能です。なぜなら、私たちは別のレベルの話をしているからです。
岸辺に寄せる波をごらんなさい。波の谷間にいれば、海底に当たります。
堅い岩にあたります。波の上にのっているときは意気揚揚としています。海面は上へ下へと揺れ動きます。外洋をごらんなさい。そこには鏡のように美しく穏やかな海があるかもしれません。嵐の海かもしれません。
しかし、海の深さはそこにあり変わらないのです。どういうことでしょう?それは、つかの間の感情や感覚でなく、そのものの状態です。喜びもまた幸福の源となりえますが、誰かの苦しみを喜ぶというような邪悪な喜びもあります。
ではどのように幸せを探しましょうか?
たいていは外界から探し出そうとします。「幸せ」になるためにすべての状況。すべての条件を満たせば幸せになれると考えます。すべてを得ることで幸せになる!
こんな考え方の幸福には、崩壊が待ち構えています!!すべてを持つこと。何かが欠ければそれは崩れます。
何かがうまく行かないといつも外界を修正しようとします。しかし、私たちが外に及ぼす力は限られたもの。一時のもの。錯覚かもしれません。では、内部の状況を見てください。それらはより強くありませんか?
外界から幸福や苦しみを捉えるのは心ではないですか?心の影響が強くないですか?小さなパラダイスのようなところに住んでいてもまったく不幸せなこともあるのをご存知でしょう。
ダライラマがポルトガルに行ったとき、そこでは、至る所で建設工事が行われていました。ある晩、彼は言いました「立派な建物を建てるよりも、心の中に何か築き上げるのが良いのではありませんか?」
そして、こう言いました「もし、あなたが素晴らしくモダンで居心地の良いハイテクのマンションの100階に住んでいても内面でひどく不幸だったら飛び降りるための窓を探してしまうでしょう」
では、反対に非常に厳しい状況下でも落ち着き、芯の強さ、自由、信頼を失わない人が沢山います。では、内面の条件が強ければどうか?もちろん、外部状況は影響するでしょう。
そして、健康に長生きすることや情報が得られ。教育が受けられ、旅行が出来。自由でいられることは素晴らしいことです。大変望ましいことです。
しかし、これだけでは十分ではありません。補助的な条件に過ぎないのです。
すべてに解釈を与えるのは、心の中に存在する経験です。内面の幸せの条件をどうはぐくむかと自問していくと幸せを妨げるものが自らの内面に見出されたりもします。これを解るにはいくらかの経験が必要で��。
ある種の心の状態があることに気付かなければなりません!
それは、この幸せ、この満ち足りた状態につながる心の状態でギリシア人がユーダイモニアと呼んだものです。
こんな満ち足りた状態の妨げとなるものもあります。自らの経験の中から探しても怒りや憎悪、嫉妬、ごう慢、しつこいほどの欲望、執着。そんな感情にとらわれた後はあまりよい状態とはいえません。
そのうえ、それらは他人の幸せにも有害です。これらのものが心に侵入すればするほど、連鎖反応のようにますます惨めになり苦悩を感じます。憎しみの連鎖とも呼ばれてます。
逆に、誰もが知っていることですが、献身的で、寛大な行為の奥底では、遠くからであっても、他の誰に知られることがなくても、子どもの生命を救い。誰かを、幸せにすることができます。
我々は、認識されることも、感謝されることも必要としません。ただ、そうする事が、心の深みにおいて、満ち足りたものを与えます。それは、常にそうありたいと思う「姿」です。
では、生き方を変えて心の在りようを変容させることが可能でしょうか?
生まれつき心が持っていた否定的な気持ちや破壊的な感情を?我々のムードや特徴。そして、感情を変化させることは可能でしょうか?そのためにはこう尋ねなければなりません。
心の性質とは何でしょう?
経験的な観点から見れば、意識の主な性質というものは、単に事実を認識し、気付くことなのです。
意識は、すべてのイメージを映し出す鏡のようです。
醜い顔も美しい顔も鏡は気にしません。鏡は汚されず、イメージによって変質する事もありません。同様にすべての思考の背後には、ありのままの意識。純粋な認識があります。
そういう性質なのです。意識は、憎悪や嫉妬によって損なわれるようなことはありません。全体が、染料で染められても、布は布であるように、常に、意識は、そこにあります。
我々は、いつも怒っていたり、嫉妬深かったり、気前がよかったりするわけではありません。意識という布地は、純粋に認識をするというその性質において、石とは違っていて、だから、変化の可能性があります。
すべての感情は過ぎ去っていくからです。それが、心の訓練の基盤です。
心の訓練は、2つの対立する精神要因が、同時に起こり得ないという考えに基づきます。愛から憎しみへ行くことはできます。でも、同じ時間に同じもの。同じ人に対し、害悪を願いながら、善を願うことはできません。あなたは、握手しながら殴ることはできません。
我々の内面が、満ち足りようとするのを妨げる感情に対して、自然の特効薬がある!!ということです。
そこに進むべき道があります。
嫉妬に対しては、喜び。貧欲な執着に対しては、内心の自由。憎悪に対しては、慈愛あふれる親切。もちろん、それぞれの感情ごとに、特定の解毒剤が必要です。
これは、仏教の最古の経典とされる南伝パーリ語のスッタニパータにもある「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」の克服方法です!!
もう一つの方法は、全ての感情の特質を分析することで、対抗手段を見出そうとするものです。
通常、我々が、誰かに対し、不快や憎しみ。動揺を感じたり、何かに執着すると我々の心は、その対象のことを繰り返し考えます。その対象に思いを寄せるたびに、執着心や不快感が増します。
その過程は、際限なく膨らみ、繰り返されていきます。今、我々が見るべきなのは、外を見る代わりに、内観するということです。
「怒り」そのものを「ああっ自分は怒ってるな〜」と注視してください。それは、非常に恐ろしげに沸き立つモンスーンか雷雲のように見えます。その雲に座ることすらできそうに見えますが、近づけばただの霧にすぎません。
同様に、あなたが怒りという感情を直視すると、それは、朝日のあたった霜のように消えます!!これもブッタのプラスサムの智恵です。
何度も繰り返して、怒りの感情を直視して、解消しているうちに、怒りの繰り返しは、解消するたびに、だんだん小さくなります。そして、ついには、たとえ怒りが生じても心をかすめるのみで、空を渡る鳥のように痕跡も残さなくなります。
これが心の訓練の基本であるウィパッサナー瞑想法です!!
時間はかかります!心の欠点や性癖を積み重ねるのに、時間がかかったように、それらを解きほぐすのにも時間がかかります。
しかし、それしか方法はありません!!
心の変容こそが、瞑想の意味することろです。新しい在り方やものの受け止め方を習熟することです。そのほうがより現実であり、相互に支えあい。流れのように連続的な変化であるもの。
それが、我々の存在であり意識であるのです。それでは、認知科学との接点について、この話をする必要があります。短い限られた時間で話さなければなりません。
脳の可塑性に関して、以前は、脳の機能は不変のものと思われていました。20年ほど前までは、すべての神経の接続の総数は、成人した後には、ほとんど変化しなくなるものと考えられていました。最近では、それは大きく変化しうることが解かっています。
10,000時間。バイオリンの特訓をしたバイオリン奏者の話を聞きましたが、指の動きを制御する脳の部分は大いに変化して、シナプス接続が強化されます。人間の品位において、愛あふれる慈悲や忍耐強さ。開かれた心によっても同じことができるでしょうか?
これは、それらの偉大な瞑想家が行っていることです。ウィスコンシンのマディソン。
または、バークレーの研究室に来た達人の中には、2万から4万時間も瞑想をした人がいます。彼らは、3年間ほどの隠遁生活を送り、その間、毎日12時間、その後も毎日3-4時間瞑想します。彼らは、心の訓練の真のオリンピック勝者です。
何が明らかになったでしょうか?
さきほどの話と同じです。研究に関しては、まだお話できないのですが、この研究では、無条件の慈悲について調べました。何年も何年もかけて、心の中に慈しみをあふれるさせることができるようになった瞑想家に実験をMRIにて手伝ってもらいました。
そこに至る訓練の途上では対象として、苦しんでいる人々のこと。愛する人々のことを考えますが、やがて、慈しみがあふれて、全てを覆い尽くすことができるのです。科学的な結果の全てを述べる時間はありません。またの機会があることを期待しましょう。
肝心なことは、この実験は、サーカスのように特別なことができる人を見せようというものではなく、精神鍛錬は、重要だと言いたいのです。これは、ただの贅沢ではなく、精神のビタミン栄養剤でもありません。
これは、我々の人生のすべての瞬間の品質を決定するものです!!
皆さん。教育には、すすんで15年を費やし、ジョギングやフィットネスなど、表面上の美貌を維持するためにあらゆる事を行います。しかし、心の動かし方、心の美貌などという最も重要なことには、驚くほど無関心で訓練に時間をかけません。
それは、我々の経験の質を決定する根本的なことなのです!!
宗教の創始者たちの概念上の教え。
原本は、ものすごくパワー(「パワーかフォースか?」の本でのパワー)の高い状態であることが確認されている。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイトの方)という前提です。
しかし、宗教概念が、二元的であればあるほど(例えば、「神と悪魔」や「法律で暴力装置をがんじがらめにしたテロリスト集団が警察機構なのに絶対に善のような先入観を強調する構造」など)
つまり、ゼロサムになると誤訳される危険性も大きくなるように思います。
ロジェカイヨワの戦争論にある「いけにえ」も似ている。
あれこれと姿は変わっても、それらは常に存在し続けてきました。
上があれば下があるように、光と闇があります。人間の心理への探求、そして、高い精神的レベルに達しようとするコミットメントは、宗教として社会的に組織化されます。
逆に、そうなることによって、最も低いエネルギーフィールドに落ちていくのです。
よく組織に入ると優秀な人が無能化するのもこの構造原理にあるためです。
なぜなら、組織化されると言う偽りが最初から伴っているからです!!
だから、マスメディアを通すと意味が反転して届き易くなる傾向があります。
世界中のさまざまな宗教の創始者たちの概念上の教えが言うように、慈愛と言うエネルギーフィールドは、一神教でいう神の恩恵への入り口です。
多神教の仏教では慈悲とも言う「悟りへの入り口」とも呼びます。「ラーマ」「道(タオ)」バージョンもあります。
これらのキャパシティを増やすことで、私たちは、誰であり、なぜ?ここにいるのかと言う最終的な気づきに導��れ。
さらに、このアトラクタフィールドの光の中では溶かされ、すべての存在の究極の源へと導かれます。
これが、この世界で自らのパワーを高める唯一の方法なのです!!
または・・・
皆さんにも、「イラっ」とした感覚が生じる瞬間があるはずです。これは、「憎しみ」と誤解して、表現する書物がたくさんある。
しかし、誤りです。ブッタによると、「憎くて憎くて、あんたが憎い!だから、私の最大の敵なんだ〜」として、「イラっという感覚」と「目の前の敵」をリンクさせたがる。
これも、誤りです。ブッタは「私は、おまえの敵ではない!おまえの敵は自分自身なのだ!」と言います。自分自身ほど手強いライバルはいないとも言います。つまり、人間の特質がそうさせる自我がライバルです!
アインシュタインの相対性理論によるとある時点で光が、トポロジー的に反転して、今、自分の見ている対象が、自分自身の姿として写って脳内が認識してしまう!という現象も計算で判明しており、鏡のようになってしまうこともあり得ます。
「イラっという感覚」と「他者を敵という概念」は、リンクせず、関連もない!ただ単に、自分自身の勘違いと言うこと。これが理解できれば、憎しみの連鎖は断ち切れます。他人に教えても減らないプラスサムのブッタの知恵です。
また、ネイティブアメリカンでも、「イラっ」とする感情は、慈愛、慈しみと言うらしいです。
そして、親、兄弟姉妹は、ウザいという感情表現は、最高の慈愛、慈しみを感じてるから!らしいです。最悪、感情を自分自身で消化できないなら、物理的な距離感を大事にすればいい。ということになります。
これと似た現象に、政府の陰謀?影の政府?誰かの陰謀と具体的でない言葉で発言して自分以外の責任になすりつける人物や団体には、盲点があります。
つまり、邪悪な影の政府は具体的に発信している本人自身ということ。
なぜ?言葉の定義もなく指摘も抽象的ならその人や団体自体が最も具体的だから!
自分自身が、真の影の政府になるというパラドックス
日本では、西遊記の物語にでてくる天竺(てんじく)に行く三蔵法師が有名だが、アビダンマは、根本経典である三蔵(経・律・論)の一部。
阿毘達磨とも。サンスクリット語から、漢字に翻訳するとこう書かれる。武道の達人でもあった達磨大師。ダルマ様とも呼ばれる。
数十年単位では、悪性でも数百年単位では善性という事象は多数ある!
なぜ?一神教に比べて、多神教や漢字などに概念が多いのは、お釈迦さまが膨大に構築し、先人達の蓄積したアビダンマが根本だから!
<個人的なアイデア>
2019年に日本では、元号も「令和」に変わっていくため、ここで記しておくことは、今後の人類の発展に貢献できるかもしれないためでもあります。
マインドフルネス��いう瞑想法が流行していますが、個人的には危険性が高いと思っています。まだ科学的とはいえ「魔境」の克服が解明されていません。
仏教は、長い年月で練られた瞑想法が確立されているので、克服法も適切な指導者にて行わないと日常生活に支障が生じる恐れがあります。
瞑想法は気軽にするものではなく、自己責任でどうぞ。警告として、記入しておきます。
続いて
2020年後半くらいから様々な占いで出てきてた時代の変わり目。それが、西洋占星術で具体的に「風」の時代という形で出てきました。
私が、感じとってたインスピレーションは、たぶんこれかな?
兆しは、世界的な金融ビックバンの1970年代、IT革命のミレニアムの前から出ていたけど。
これは、これまでの約200年間。物質やリアリティの影響力優位「土」の属性の時代から、量子コンピューター、ビットやインターネットなどといった物質ではないものに影響力が増していく「風」の属性の時代に。
そして、本格的に軌道にのっていく属性は、今後200年程続くことになるのです(2020年12月22日から、2100年当たりをピークに少しずつ衰退していく2220年まで)
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インドの神様めぐり 高岡山瑞龍寺 【再】
高岡山瑞龍寺
訪問日 2019/10/27
二回目の訪問です。一回目 今年は大河ドラマ「いだてん」なので、今年いっぱい普段格子の奥にいる韋駄天さんが格子無しで拝見できるから、と知ってたのですが、もう11月になってしまうこのままじゃ終わってしまう!と、あわてて行ってきました。 前に行ったときは…そうだ、こちらの韋駄天さんが美少年でびっくりして調べてこの後宇治の萬福寺に寄って布袋さんと韋駄天さんを拝めたよいきっかけになったのでした。

と、韋駄天話から始めたのですが、瑞龍寺と言えば烏枢沙摩明王。 まずは写真撮り放題のレプリカうす様にご挨拶。

高岡は鋳物、銅器が名産なんですが、この明王様も鋳物。後で伺ったのですが、美術館に初めてオリジナル木造うす様がお出ましになった時に、本来オリジナルが祀られている法堂に移動してお留守番してたのですが、大人八人で何とか運んだとか。 …国宝の木造建築、床抜けなかったか心配です(抜けてない)

さてコンビの猪頭天、やらかして叱られております。オリジナルの猪頭天は、お耳をネズミにかじられてしまいました。 話は変わって漫画家藤子・F・不二雄先生は高岡の出身。なので高岡はドラえもんミュージアムがあったりドラえもん路面電車があったり銅器の町なので銅製ドラえもんポストがあったりドラえもんな町です。 そのドラえもんは猫型ロボットですがネズミに耳をかじられて以来ネズミ超苦手なのでした。 あと高岡市民は引き出物やおみやげお持たせの定番がどら焼きなのです。 どら焼きはともかく、高岡では耳をネズミにかじられやすいのです。
本堂はお釈迦様と普賢菩薩文殊菩薩。法堂は前田利長公のお位牌。法堂右の部屋がお厨子に納められた烏枢沙摩明王。撮影禁止ですが近くで拝見することはできます。服の模様までよくよく拝みま��。
法堂を出て大庫裏に韋駄天さん。


ほんのちょっとだけ高い位置にあるので、どうしても煽りになってしまいますがそれでも写真たっぷりとれたので満足しました。鎧の超絶技巧と可愛らしいお顔がたまりません。…皮を籠みたいに編んだ風?
さて満足したから御朱印いただいて帰ろうと思ったのですが、たまたま寺内で「開運マルシェ」というイベント中。そこで、「韋駄天座禅会」「烏枢沙摩明王会」をやってるそうではありませんか。 座禅会はもう終わってたのですが、烏枢沙摩明王の前でのご祈祷(気持ち分お賽銭)はお昼過ぎた頃だ!ご飯食べてくる!!
お昼は精進料理。野菜だけですががっつり。

さて時間がきたので烏枢沙摩明王会に参加します。 多分地元��檀家の皆さんがほとんど。結構な方がご祈祷の申し込みしてました。 お経読んでもらって個々の祈願ご祈祷あってお焼香して、お厨子の前でお坊さんと向き合いお経読んでもらってばふばふとお経で頭と肩を叩いて払っていただきました。…満足。
革製ストラップお守り授かりました。 前に来たときにも授かったのですが、愛用しすぎてストラップ部分が抜けてしまったのです。本体無事だから紐だけ付け替えればいいかーと、100均で根付け紐買ってきたら、合わない。 ぐぬぬ、ストラップ金具付きならどうか、だが駄目だ。 もうちょっと金具が大きいのを買ってきたが駄目ー! うむこれはお返しして新しいのをお迎えしろと言うサインである、直す努力をするより旅行計画を立てるべきだ、と、解釈したのも今回のお出かけの理由の一つでありました。
物販に韋駄天さんグッズはなかったのことよ。
さて瑞龍寺にはほかに跋陀婆羅菩薩という風呂の守護像があります。

バドラ・パーラという方がお風呂よばれて入ったところ、悟りを開いた故事から風呂場の守護となったとか。 手に持ってるのはお湯かき混ぜる櫂です。 東司、食堂、浴室はお寺では大事な修行の場で喋っちゃいけないとかいろいろ決まりがあるそうで、その守護に明王、天、菩薩がついているのは頼もしく恐ろしいところではありますが何というかバドラさん気にしたことなかったよ!
ご祈祷までしてもらって瑞龍寺出た後は、藤子・F・不二雄ふるさとミュージアムへ…迷子になって動物園で孔雀とかフラミンゴ見たり寄り道しましたが何とか間に合った。 私の住んでるところは神奈川県で、そんなに遠くないところに藤子・F・不二雄ミュージアムがあるんですよ。まだ行ったことないんですが。 翌日足延ばして射水市の海王丸も見てきたんですが、横浜に姉妹船の日本丸がいるんですよね。 日本横断して似たところに来たもんだ、と、ちょっと感慨深くなりました。 時間内ので急いで回ってしまいましたが、またのんびり行きたいな��。
あ、高岡はコロッケそのほか揚げ物がうまいです。 適当に入った肉屋さんのコロッケが、冷めてからもべちゃっとならずにばりばりざくざく。 これ一つならその肉屋さんだけレベルが高かった話ですが、ホテルの朝ご飯のバイキングコロッケも、ざくざくだったんですよ。 …ドラえもんはどら焼きラブで、コロ助はコロッケラブだったなあ…
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御朱印、上が2017/07 下が2019/10
真ん中も情報量変わってますね。そしてきんきら!!
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「看板仏像役とられたー」 参拝客がいない時間、お抹茶席に陣取ったウスサマは今年に入って何百回目か位に文句を言うのだが、スカンダとお供の猪頭天は聞き飽きたので聞いてやらない。 「韋駄天御朱印は今後も継続だし、絵に起こしてもらったから高岡制圧して富山から石川行こうか新潟行こうか」 「坊はここでは台所当番なんだから、すぐ制圧とか言わない。あと、大仏さんがいるからなかなか高岡一箇所だけでも制圧難しいっしょ」 大仏さんにゃー勝てないなー高岡市民の大好きな銅だしなー、と、スカンダは猪頭天の持ってきたどら焼きをかじる。 「て言うか、大仏さんよりアレに勝てないよね」 「同じ市内の誇り、仲良く高めあいなせえよ」 ぐりぐりとスカンダは猪頭天の頭をなでる。 「ウリ坊はドラちゃんのモデルだもんなードラちゃんの味方するよね」 「モデルってわかってるわけじゃねえし、味方しても何もでねえ」 ちょっと強めに頭をかかれて猪頭天は頭突きで反撃し、即二人ともウスサマにチョップを食らう。 「喧嘩は外で」 「仲良しですー」 「坊が今日はやけに絡むんでおっぱい飲んでねんねするといい」 なんだとう、と、つっかかるスカンダを、ウスサマが押しのけ、猪頭天に振り返る。 「コロッケ買ってきて」 「どこの店だ」 「任せる」 「任された」 よいしょ、と、猪頭天は人にまぎれて外に出て行く。 後はむすっとしたスカンダとウスサマと。 「抱っこか、いい子いい子か」 ほらおいで、と、ウスサマが手招きすると、さらにスカンダはふくれる。 「赤ちゃん扱いすんな」 「めんどくさいから赤ちゃんみたいにえんえんするか腹立ててること言っちまえ」 後10秒、9、8、と数え始めるとあわててスカンダは口を開く。 「せっかくおとさんとツーショットなのにウリ坊入ってるから」 なんだそれ、と、ウスサマがカウントダウンをやめると、スカンダが御朱印帳を広げる。 新作御朱印は烏枢沙摩明王、釈迦如来、韋駄天と豪華三面使い。 烏枢沙摩明王と韋駄天は仏像から起こした絵のスタンプなので、当然烏枢沙摩明王の足元には猪頭天が座っている。 「…真ん中お釈迦様だから元々ツーショットじゃないし、ウリ坊ここにいなかったら俺バランス悪くてひっくり返るし」 「でもさー一緒の画面に入るの二千年ぶりくらいだよ?」 そんなだっけ、と、ウスサマは指折り数えるがまあ二千も指はない。 「…そっか」 「別にここでも看板仏像二つ並べただけで特に意味はないことになってるけどさ」 そっかそっかとウスサマはぼーっとして、それから、にーっと笑う。 「後でウリ坊に笑われろ」 「おとさんにだけ内緒で言ったんだからね!言わないでよ」 ウリ坊どこまでコロッケ買いに行ったかなー、腹減ったー、と、もう少しだけ二人してどうでもいいことを話していたらしい。
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京都を愛したデヴィッド・ボウイが涙した正伝寺の日本庭園
NEWS WEEK
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<訪日外国人にも人気の日本庭園。なぜ歴史に名を残した人たちが日本庭園にたどり着くかを考えると、その見方も変わってくる。デヴィッド・ボウイは日本のテレビCMに起用された際、自ら正伝寺を撮影場所に希望したという>
金沢の兼六園や岡山の後楽園、水戸の偕楽園など、人々を魅了する日本庭園は各地にあるが、訪れるのは日本人だけではない。
実際、Japanese gardens(日本庭園)に関する英語の情報はイン���ーネットにあふれており、アメリカには日本庭園の専門誌まである。今や日本庭園は、日本を訪れる外国人にとって外せない「見るべきもの」となっているのだ。
京都を中心に庭園ガイドをしている生島あゆみ氏はこのたび、「なぜ、一流とされる人たち、歴史に名を残した人たちは、日本庭園にたどり着くのか」をテーマに執筆。『一流と日本庭園』(CCCメディアハウス)を刊行した。
庭園そのものだけでなく、それらを造った人物、深い関わりのある人物の人生を見つめた上で、庭園との結びつきを読み解いた。これ1冊で日本庭園の見方・楽しみ方が変わるというユニークな一冊だ。
足利義満は金閣寺を、稲盛和夫は和輪庵を造った。スティーブ・ジョブズは西芳寺に、デヴィッド・ボウイは正伝寺に通った。ここでは本書から一部を抜粋し、3回に分けて掲載する(今回は第2回)。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
◇ ◇ ◇
デヴィッド・ボウイ(1947年〜2016年)と正伝寺(しょうでんじ)(京都)
たびたび京都を訪れていたデヴィッド・ボウイが、その美しさに涙したという正伝寺の庭。白砂に七・五・三の刈り込み、遠方に望む比叡山の借景......。世界的なアーティストは何を感じとったのか。
親日家のデヴィッド・ボウイ
ボウイは、親日家で有名でした。また仏教や禅に造詣が深かったようです。BBCテレビ『デヴィッド・ボウイの日本流への熱情』によると、ボウイが20歳頃、舞踊家リンゼイ・ケンプ氏のもとで、ダンスとマイムを習いました。このケンプ氏が、伝統的な歌舞伎の様式に大きな影響を受けていたそうです。歌舞伎や能という伝統芸能が、ボウイが日本文化を知る入り口になりました。
また、チベット仏教の高僧はボウイと親交があり、彼が仏教の僧侶になるつもりだったと証言しています。もともと、仏教に深い関心があったようです。
アルバム『ジギー・スターダスト』全盛期の頃に、スタイリスト・高橋靖子、写真家・鋤田正義、ファッションデザイナー・山本寛斎などがボウイと親交があったそうです。
鋤田正義はボウイを京都で撮っていますが、ボウイの希望は京都の人々が日常の生活を送るような場所で、というものでした。
ボウイが梅田行きの阪急電車の前でさっそうと立っている姿は、ファンだけでなく京都に住んでいる人達をも魅了します。切符を買っていたり電話ボックスで受話器を持っていたりする写真などもあります。古川町商店街では、当時、創業70年のうなぎ店の名物八幡巻きを買っている姿もありました。
スターダムにのし上がった1970年代後半、プレッシャーなどからドラッグの誘惑に苛まれ、ベルリンに移り音楽活動をしていた時期がありました。名盤「ロウ」「ヒーローズ」「ロジャー」のベルリン三部作を制作しました。この頃、ボウイはツアーの合間を縫うように京都を訪れていました。ボウイにとっては大きなターニングポイントで、自分自身をリセットするために京都に来ていたそうです。
大徳寺の僧侶は、ボウイと親交がありました。日本、そしてその精神の奥にある禅に、ボウイは向き合っていったのだそうです。WOWOWドキュメンタリー『デヴィッド・ボウイの愛した京都』で「禅の中では、自由を得るというのが究極にあり、特に死ぬことからの自由のことだと。変わるというのは自分が死ぬことで、ボウイは、自分が変わることから真の自由を求めていたのではないでしょうか。」と僧侶は話していました。
「新しい自分、本当の自分の姿を京都で見つけたのです。京都の時間の流れを、ボウイは大切にしていたようです。常に今が大事だということです。」と彼は続けます。
ボウイは芸術や文化、歴史を学ぶ才能に溢れていたと言います。美術品のコレクターではなく、その物の精神を自分のものにしていく才能があったそうです。「ヒーローズ」のB面に収録されたインストゥルメンタル曲「モス・ガーデン」では、美しい琴の音色が聞こえてきます。これはファンが、直接本人に手渡したおもちゃの琴の音色です。これを弾きこなして、自分の音楽表現をしている才能に凄さを感じます。
1990年代には、イマンと新婚旅行に京都に来ていますが、滞在したのは老舗旅館「俵屋」でした。また、江戸時代創業の蕎麦屋「晦庵(みそかあん)河道屋(かわみちや)」本店もお気に入りだったそうです。俵屋と河道屋は、スティーブ・ジョブズも好きでした。二人が遭遇した可能性は少ないと思いますが、好みが似ているのが不思議です。
正伝寺の歴史とその庭園
ボウイが愛した正伝寺は、どのようなお寺なのでしょう。正伝寺は、京都市北区西賀茂にあります。五山送り火で有名な船山の南側に位置しています。臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つお寺です。山号は吉祥山(きっしょうざん)。寺号は正伝護国禅寺で、本尊は釈迦如来です。
正伝寺は、1260年、宋より来朝した兀庵普寧(ごったんふねい)禅師の高弟が、京都一条今出川に創建しました。1265年に兀庵普寧禅師は宋に帰りますが、その後、東巌恵安(とうがんえあん)が跡を継ぎ、1282年にこの西賀茂の地に移りました。
応仁の乱で荒廃しましたが、徳川家康が再興します。本堂は、1653年に��地院の小方丈が移築されたものです。伏見桃山城の御成殿(おなりでん)の遺構を移したものとも言われています。方丈の広縁の天井には、伏見城落城時、徳川家臣・鳥居元忠と家臣らが割腹し果てた廊下の板を、供養のため天井に貼った「血天井」があります。
方丈の各室の襖絵は、1605年頃、徳川家康の命により狩野山楽が描いた中国・杭州西湖の風景です。山楽の残した貴重な作品です。
庭園は白砂とサツキ等の刈り込みが並ぶ枯山水です。方丈の東側に造られており、敷地は363平方メートルです。
方丈から見て白砂の奥に、右から、七つ、五つ、三つと、植栽の大刈り込みがあるだけです。これを七・五・三形式と言いますが、通常は石が七・五・三に置かれ、植栽で表されているのは正伝寺だけです。
植栽構成は、三つがサツキのみ。五つがサツキとサザンカ、七つがヒメクチナシ、アオキ、サザンカ、サツキ、ナンテン、ヤブコウジ、チャと組み合わされています。
この庭園は江戸初期に造られました。小方丈が金地院から移築されているので、小堀遠州作とも言われていますが、時期的に見て、別の作庭家との説もあります。
江戸初期には、滋賀県の大池寺庭園や奈良県大和郡山の慈光院庭園など大刈り込みの庭園が他にも存在しています。龍安寺の石組が「虎の子渡し」と言われるのに対し、正伝寺の七・五・三とする刈り込みは「獅子の児渡し」と言われています。ゴツゴツした石が虎で、ふわっとした植栽の刈り込みを獅子と見立てたのでしょうか。
明治維新以降、寺領・社殿の召し上げなど苦しい時代になります。正伝寺の明治期の写真が残っていますが、高木が増え、刈り込みも乱れた様子です。
戦前の1934年、重森三玲を中心とした京都林泉協会の会員有志が、後から加えられたであろう石を取り除くなど荒れた状態を整えました。こうした努力により、かつての姿を取り戻した現在の庭園は、京都市の名勝に指定されています。
庭に敷き詰められた白川砂と緑の刈り込みの植栽、下界を遮断する漆喰塗りの塀の構成の向こうに、遠山として望めるのが比叡山です。遠くにポツンと比叡山だけを見渡せる巧みな借景の取り方が、正伝寺の庭をより特別な存在にしています。
正伝寺とデヴィッド・ボウイ
京都の北に位置する正伝寺は、最寄りのバス停から歩いて20分ほどかかりアクセスが良くありません。山門を抜けると登り坂の山道が続きます。本堂まではおよそ250メートル。静かな山道はやがて、下界と離れた特別な禅の庭へと誘ってくれます。
実はこの人里離れた禅寺の正伝寺の庭は、知る人ぞ知る名勝なのです。どうしてボウイがこの庭のことを知っていたのでしょうか。���そらく、彼の友人だった米国出身の東洋美術家・デヴィッド・キッドの存在が大きかったのだと思います。
デヴィッド・キッドは、九条山に邸宅を持っており、「桃源洞」と名付けていました。ボウイはここをよく訪れたそうです。ボウイは、桃源洞の居間にあった平安時代の地蔵菩薩を眺めて時を過ごしていたそうです。菩薩の控えめな様子から深い哀れみを感じていたのではないでしょうか。
1979年の年末、広告代理店が宝焼酎「純」のコマーシャルにボウイを起用する提案をしました。アーティストとして非常に高い純粋性を持った人として、彼以外にいないということでした。
ボウイはお気に入りの俵屋に泊まり、撮影は嵐山にある松尾大社近くの公園や正伝寺で行われました。正伝寺を希望したのは、ボウイ本人だったそうです。宝ホールディングスの元会長・細見吉郎は、学生時代からずっと京都に住んでいましたが、当時、この寺の存在を知らなかったそうです。整然とした枯山水庭園と比叡山の眺めに感動し、訪れる人も少なく、静寂に包まれていたので「ボウイさんが正伝寺を指定した理由が分かった」と語っています。
――「撮影中にボウイさんは庭園を見つめ、涙を浮かべていた」と細見さんは振り返る。「景観に感動したのか、何か悲しい思いをしたのかは聞けなかった。繊細で純粋な人だった」と記憶をたどる。――(日本経済新聞「D・ボウイが涙した静寂」/2016年2月19日)
宝焼酎「純」の販売数量は、1980年からの5年間で11倍に増えたそうです。
コマーシャルには、ボウイ自身が作った「クリスタル・ジャパン」という、雅楽を意識したインストゥルメンタルの曲が使われました。正伝寺の庭の白砂の上に、グラス片手に座っているシーンはとても印象的です。
私がこの庭を訪ねたのは、紅葉が始まる頃でした。デヴィッド・ボウイが愛した庭を鑑賞しようと、海外からの観光客の姿もありました。
刈り込みが美しい庭の方丈前には数人がいま���たが、みな庭を観ており、沈黙だけが心地よい空間を作っていました。しばらく静観していると、心が洗われたような気持ちになりました。
ボウイもまた、心を清めるように真の美を前にしていたのかもしれません。庭には、自分をリセットするとともに、自由にしてくれる作用があるのかもしれません。
※第3回は5月23日に掲載予定です。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」

『一流と日本庭園』 生島あゆみ 著 CCCメディアハウス
正伝寺 京都府京都市北区西賀茂北鎮守菴町72
http://shodenji-kyoto.jp/
正伝寺は、京都市北区西賀茂にある臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つ寺である。山号は吉祥山。寺号は詳しくは正伝護国禅寺��いう。本尊は釈迦如来。
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たびたび★スリランカ
先月末、仏教関係のグループと一緒に、スリランカに行ってきた。機中と空港での2度の日付け変更を含む、1週間弱の短い旅行である。私は99年、11年に続いて、3度目だった。
初めて訪れたのは、最初の本を刊行した直後だった。私にとって、書く仕事は苦行である。何もかも終ったら、旅に出ることだけを夢見て筆を進めていた。
69年に公開されたニューシネマの傑作『真夜中のカーボーイ』の中で、テキサスの田��から冬のニューヨークに出てきたジョー(ジョン・ヴォイト)は、病に苦しむ半失業者のラッツォ(ダスティン・ホフマン)と貧しい共同生活を送る破目に。何をやってもうまくいかないふたりは、一旗挙げるべく、長距離バスで温暖なフロリダに向かう。車中、ラッツォの病は悪化していくのだが、太陽が燦々とふりそそぐフロリダの砂浜を、ふたりが駆け抜けるシーンが挿入される。両者の願望をあらわしたカットである。
取材がうまくいかないとき、また執筆がはなどらないとき、私はいつもこのシーンを思い浮かべる。陽光が降り注ぐ中、砂浜をひた走る自分を・・・。
初めてひとりで訪れたスリランカは、まさに楽園だった。南部にある海辺の町ヒッカドゥワは、素もぐりするだけで、驚くほどの量と種類の熱帯魚を見ることができた。海に面した宿は、美味い食事付きで1泊3000円ほど。バルコニーで飽きるほど青い海を眺めた。夢にまで見た”フロリダ”である。行ったことはないけれど。
移動はもっぱら、バスか鉄道だった。高速バスや特急はなく、旅をするにはおそろしく時間がかかった。
今回は団体旅行。エアコン付きの貸し切りバスで移動したため楽だったが、現在もほとんどの道路は整備されていなかった。大都会のコロンボを離れると信号はなく、2車線道路が延々と続く。交通に関しては、まだまだこれからといったところである。
とはいえ空港からコロンボまでの約50キロは、高速道路が整備されていて、これには驚いた。中国の援助で建設されたとか。ツアー中に乗車した貸し切りバスも中国製だった。
以前は日本との関係が深かっただけに、この10年、20年でずいぶん変わったなあと思った。
* * *
最初の旅では、海辺に長く滞留した。私はまだ30代半ば。砂浜を目にすると走りたくなり、海を見るとバシャバシャと泳ぎたくなる”ヤングマン”だった。漁師のごとく毎日海に出ていたので、日焼けし過ぎて肌が荒れ、帰国後に皮膚科で診療を受けなければならなかった。とんだ大馬鹿野郎である。
2度目の旅は、大学の先輩ふたりと主に内陸の古都・キャンディに滞在した。ハーブオイルを使ったマッサージ・アーユルヴェーダを体験したいと、美容関係の職に就く先輩(女性)が言うので、森の中のコテージを予約したら、街中からトライシクルで1時間もかかる辺鄙な場所だった。
先輩と私は、さっそくアーユルヴェーダを体験してみたが、大した効果は得られ���かった。だが、人里離れた森の生活は、心身に心地よく、生まれ変わったような気がした。
キャンディ観光の白眉は、美しい湖と湖畔に建つ仏歯寺である。釈迦の歯がまつられていることからこの名がついたらしい。
ご本尊は、釣り目で背の高い金ぴかの仏像だった。2度目の旅に対面したとき、寺の関係者とおぼしき人物が、仏像の裏側に手招くではないか。日本から贈られた木彫の仏像を近くで見せたかったようだ。それはいいのだが、布施を要求されたのには苦笑した。見せてくれとは頼んでへんで。あんたが勝手に連れてきたんやがな。
今回は熱心に経を読み、祈りを捧げる老若男女のスリランカ人の姿が印象的だった。その表情が、なんとも慎み深く、かつまた美しい。この国に限らず、これまでに何百回と宗教施設に訪れているが、こんな神々しい光景を見るのは初めてだった。ひとびとの信仰心が篤いからだろうか。
キャンディからバスで約1時間余りのダンブラの石窟寺院には、5つの石窟・石仏があった。古いものは紀元前、新しいそれは20世紀に入って建設されたとか。
最古の寝釈迦は、趣きがあってたたずまいに威厳がある。ところが時代が新しくなるにつれて仏像のつくりが雑に見え、ありがたみがない。
考えてみれば、日本の新しい寺院建築や仏像も同じで、莫大な予算をかけてつくっても、昔のものにはとうていかなわない。古ければいいというものではないが、新しければいいというものでもない。やはり時間を経ないと落ち着いた色、質感にはならないのだ。
* * *
私は現在、大阪市内に住んでいる。7年前、家の近くに、キャンディ出身者がシェフを務めるスリランカ料理店がオープンした。気になって入ったら、当地のカレー・ギャミラサが抜群に旨かった。昭和時代の小さなスナックを居抜きのまま使っているのも一興だった。
カレーと言えばインド。ここは合計すれば3ヶ月くらい旅しているが、スリランカのギャミラサは、インド・カレーとはまったく違う。米飯の上に、数種類のカレーと具が乗せてあり、それらを混ぜて食べるのだ。辛味、甘味、酸味が口の中に次々とあらわれ、心とからだを刺激する。
インドやスリランカ、ネパールを旅し、向こうの料理を何百回と食べているが、家の近くで食べたギャミラサがいちばん美味だった。以後、北川景子とたびたびこの店に通っている。
オープン当初、客はそれほど多くはなかったが、SNSや雑誌のカレー特集で頻繁に紹介され、今では昼時ともなれば行列ができる繁盛店になった。いつだったか、カウンターで隣りの席の客に話しかけたら、千葉から来たと言っていた。
今回の旅行では、かなりいいホテルに宿泊した。団体ツアーの強みである。朝・夕食��バイキングは、どこも合格点だった。
私は食べることが生きがいだ。仕事は手を抜いても(嘘です)、食事を適当にやりすごすことはない(本当です)。
今回、ホテルで色んなカレー、具を混ぜて、自分流にギャミラサを試みたが、味がぼんやりとして、大阪の贔屓店にはかなわなかった。ホテルのように万人向けではなく、野性味があるところがいいと改めて思った。
今回のツアーでは、宝石店や食材店、紅茶専門店にも立ち寄った。スリランカは、ルビーやサファイヤなどの宝石の採掘で有名で、英国帝国主義が残した紅茶の産地でもある。
私は家でカレーをよくつくる。立ち寄ったスパイスガーデンで、カレーに必要な食材、香辛料をたんまり買った。気合を入れて物色、購入しているのは私だけだった。
数ヶ月前、高知県の知り合いから、大量の生姜を送っていただいた。近所におすそ分けし、生姜を使った料理をつくってもつくっても、なかなか減らない。ふと、インドなどで飲まれているミルクティー・チャイに、たっぷりの生姜を入れることを思い出した。
ミルクティー用の紅茶の葉、おろし生姜、シナモンスティック、カルダモン、クローブ、少量の水を入れてぐつぐつ煮たあと、濃厚な牛乳を入れる。ピリピリするくらい大量の生姜を入れると、本格的なチャイができる。
毎日嗜んでいたら、大量にあった生姜が、またたくまになくなった。ないと寂しくて仕方がない。チャイ(無し)シンドロームである。
そんなときにスリランカに行った。帰りのトランクは、カレーとチャイの食材、香辛料でパンパンになった。私の目的は達成された。
* * *
団体ツアーには、スリランカ人のガイドが行動を共にしてくれた。流暢な日本語で、国の歴史や文化を教えてくれる。
「スリランカの道路には、エクボがたくさんあるんです」
エクボは、道路のくぼみを指すらしい。比喩が巧みな上級者だった。そのガイドによると、国民は教育・医療費は無料だという。
巨大な岩山シギリア・ロックの階段を登っていたときのこと。あるスリランカ人の一行が、登り専用の階段を降りようとしていた。
「これだからスリランカ人はダメなんですよ。恥ずかしいですね。教育がなってないんですよ!」
ガイドが日本語で私たちに訴えた。するとすかさず、我らがツアーの一員が返した。
「そら、教育費はタダやもん!」
ガイドの厳しい言葉を和ませる、絶妙のツッコミだった。実際に、その場は和んだ。
私たちのグループは、関西のメンバーが中心で、ガイドの説明にメンバーがいちいちツッコミを入れる。そのやりとりが、聞いていて可笑しかった。なるほど、私はこういう文化の中で育ったのかと改めて思った。
団体ツアーの参加者は、集合時間にはきわめて正確で、遅れて行ったこともある私は、肩身が狭かった。ツアーに参加すると、自分が帰属する社会の特質がわかって、それはそれで面白かった。
1、2度目の個人・少人数の旅とは違い、団体ツアーは、スリランカ人民と接する機会は少なかったが、日本社会をじっくりと体験できた。フリー(ライター)は、団体で行動することが稀である。
常夏の国から帰国し、現在は酷寒の関西にいる。覚悟はしていたが、めちゃくちゃ寒い。日常生活に戻り、私は再び、陽光が降り注ぐ中、砂浜をひた走る自分を思い浮かべている。<19・2・12>
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2022/06/04
5月31日の午後2時半ごろ、お母さんが亡くなった。わたしは前日に東京に帰ってきてて、白馬に長く滞在するための準備のため��吉祥寺に行って帰ってくるバスの中だった。お姉ちゃんから電話が来て、今出れないよとLINEしたけど、そのときにすごく嫌な予感がした。その予感は的中して、亡くなったとLINEがきた。バス降りてすぐに電話して、その日中に帰ることに。家に帰って急いで準備して、洋ちゃんが長野駅で拾ってくれることになったので新幹線で長野へ。仕事の引き継ぎをしてたらあっという間に長野着。
白馬についたのが20時半ごろ、家には、お父さん、お姉ちゃん、おじちゃん、みなこさん、おじいちゃんとおばあちゃんも来ていた。お母さんも病院から一度白馬に帰って来ていて、お線香をあげて顔を見た。
おじいちゃん、おばあちゃんがいることに驚いて、いろんなことが理解できなくて、そのときは悲しんだりする気持ちはなく、ただただぼんやりしていた。その後に、お母さんが仲良くしていたお友達4人が来てくれて、泣いていた。それでもらい泣きした。
みんなが帰った後、お父さん、お姉ちゃん、洋ちゃんと4人で簡単なご飯を食べて、さっとお風呂を済ませて、線香の火をできるだけ絶やさないようにリビングにいながら話したりして、1時過ぎに寝た。
6月1日
午前中、葬儀など一式を取り持ってくれる担当の百瀬さんと長谷寺のお坊さんとお通夜や葬儀の打ち合わせ。流れや段取りを教えていただきつつ、いろんなケアやサポートしてもらう。お母さんの上に乗せているドライアイスを交換してくれたりもして、すごい職業だなと痛感する。頭が上がらない。
友引で日取りが悪く、お坊さんの予定も考慮してお通夜は2日、葬儀は3日に決まる。洋ちゃんは一旦長野に帰り、お姉ちゃんと私は、落倉の川浦家のお墓に家紋を確認がてら、ご先祖様のお墓参り。買い物をして家に帰る。この日も、小谷のお母さんの友達や、職場の方ちち、仁兄ちゃんや一二三姉ちゃんたちがお母さんの顔を見に来てくれた。15時にお母さんの体を綺麗にしてくれる方たちが来てくれて、お母さんにお洋服を着せてお化粧をしてくれた。お母さんのお気に入りだったフリフリの薄いデニムっぽいシャツと、ワンピースを着せてもらった。
この日も軽く買ってきたお惣菜を食べて、お風呂に入って寝た。この日もできる限り、お母さんのお線香を絶やさないように。
6月2日
17時から大町の法祥園でお通夜。朝から百瀬さんと最終打ち合わせをして、泊まり込みになるので準備をして、洋ちゃんも白馬に合流して、着替えて15時に家を出て法祥園へ。お母さんは12時にお迎えの車が来たので、先に行ってもらう。お父さんはその後をついて行った。私とお姉ちゃんは、太田造園でお母さんの好きなガーベラを買ったり、買い物をしてから。きのうからお花をたくさんいただくのだけど、茶色くて取ってのついた花瓶が見当たらない。お母さんどこに片付けたんだろうね?とみんなで不思議に思ってた。
17時からお通夜。親族と、ちかこさんやあけみちゃんが来てくれた。清水だいちゃんやりょうくんとも久々に会う。
お通夜では長谷寺の曹洞宗式の葬儀をしてもらう。お母さんはこれからお釈迦様の弟子入りをして、いろんな教えをもらうらしい。そのための戒名を授けてもらった。お母さんのつぎの名前は、豊徳厚心大姉とかいて、ほうとくこうしんたいし、と読む!四十九日までは旅をして、四十九日になったら仏様になるという。だからお母さんはいまお釈迦様の弟子なんだな。新しい世界でもがんばってほしいなと、なんだか応援したい気持ちになって、そしたら悲しい気持ちがなくなった。お母さんも頑張るから、わたしも頑張ろうと思った。目の前のお母さんの体は入れ物で、私の知ってるお母さんはもうつぎの世界にステップアップしたんだなと思った。
会食後、お父さん、お姉ちゃん、洋ちゃん、わたしは法祥園にお泊まり。軽く摘んで飲んで、お風呂に順番に入っていって、12時前になってお父さんが、肝心なものを忘れた、と言って家に帰る。こめちゃんもソワソワしてたし、みんなで広い部屋で寝るのも明日の手紙を書くこともできないから、それでよかったと思う。私とお姉ちゃんは、棺に入れる最後の手紙を書く。お姉ちゃん、洋ちゃん、わたしで寝る。
6月3日
10時半から葬儀が始まる。お父さんが寝坊して焦った。参列者に挨拶、祭壇に置かれたお母さんと、きれいな花。遺影はお父さんのイラスト。それもうちの家族っぽい。
葬儀では改めて、お母さんが無事に旅に出るためのお経を唱えてもらったり、戒名を授けてもらった。お焼香して、久美さんの素晴らしい弔辞があり、お父さんの挨拶もあり、よい式だったように思う。その後の会食で、あずやその息子たち、りょうくん、まりなや郁子さんしげちゃんたちに挨拶したり、一二三姉ちゃんと話したり。最後にお母さんの顔をみんなに見てもらい、手紙を棺に入れて、わたしとお姉ちゃんで霊柩車に乗り、ママと火葬場に向かう。
火葬場につき、お母さんと本当にさいごのお別れ。清水家、川浦家、ようちゃんら10名でお見送り。火葬には1時間半かかり、その間に控室でおじちゃんやみなこさんたちと話したりしながら待つ。
火葬が終わり、骨になったお母さんと対面。手術で入れたステントや歯の詰め物なんかも出てきた。みんなで箸を使って骨壷にお母さんの骨を入れていく。遺骨をもらって、位牌と写真をもって、帰る。
家につき、百瀬さんが簡易的な祭壇を用意してくれる。遺骨や遺影や位牌、線香立てなどを飾り付けて、百瀬さんは帰る。22歳から始めて9年目と言っていた、営業主任の百瀬さんには本当に何から何までやっていただいた。本当に感謝の気持ちでいっぱい。
思えば、ガンセンターの江崎先生もとてもよくしてくださったし、あづみ病院の看護師さんたちもいい人ばかりだった。お母さんは本当に人に恵まれていた。お母さんの人徳だろう。
その日は片付けやらして、軽く食べて飲んで、洋ちゃんは19時ごろに長野に帰る。ひと段落して疲れたのか、すごく眠くなって23時には寝た。
6月4日
こめちゃんも数日ろく��散歩もできなかったので、外で遊びまわる。お昼を食べて大町に買い物などしにいき、カウベルで香典返しのお菓子を買ったり、新しくできた大町商店街にあるコーヒー屋さんに寄る。帰り際から体調が悪くなり、帰ってからすぐ横になる。寝たか寝てないかわからなかったけど、2時間くらいは寝たようで、起きたらお姉ちゃんの作ったカレーがあって食べる。美味しかった。そしていま、リビングでお母さんと二人きり。この数日間の記録を書いた。明後日まで白馬にいて、月曜に東京に戻る予定。
悲しんだり落ち込んだりしたのは、お母さんの体調が悪くなって入退院を繰り返していたころや、手術をするころ、その後の抗がん剤治療のころのほうがたくさんあったように思う。何もしてあげられない辛さ、いつも一緒にいられない寂しさ、申し訳なさ、いつ何が起きるかわからない恐ろしさが、今年に入ってから半年間はつねに頭の片隅にいつもあった。お母さんも入院したさいごには、苦しそうで辛そうだった。もう苦しまなくて良くなったのなら、よかったと思う。
お母さんはお釈迦様の弟子入り。わたしもお母さんに恥じないように一生懸命誠実に生きたい。お母さんのようにたくさんの友達をつくりたい。
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[ネタバレ注意]りゅうおうのおしごと![ラノベ書評]
書評と称してはいるが、思い入れが強すぎて実際のところ感想にとどまってしまうであろうことは先に断っておく。
昨年からラノベに溺れ続ける日々が続き、その中で出会ったのがりゅうおうのおしごと!である。
そもそもは月姫リメイクをプレイしてシエルノーマルエンドで号泣して多大な精神的ダメージを負ったことがきっかけである。あまりにつらかったのでエクストラエンドを進めることができず、別のものを読もうと思ってソードアート・オンラインを読み返したのだが(しかも紙が面倒くさいのでKindleでも買ってしまった)、今度はSAOが楽しすぎて2ヶ月近くにわたり何度もSAOを周回してしまった。プログレッシブとユナイタルリングが面白すぎるのがあかんのや。劇場版プログレッシブを控えていたので予習としてはちょうどよかったのだが、映画を2回見たあともSAOばっかり読んでるのはどうなんよ、と思っていくつかラノベの傑作を漁る旅に出たのだ。もともとKindleでは歴史と経済と哲学の本しか読まず、小説はほとんど読まないし、ラノベは紙のみとしていたのだが、その縛りをSAOで捨てた。その後は冴えない彼女の育て方、キノの旅、青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない、狼と香辛料などを買って、今回取り上げるりゅうおうのおしごと!に至る。
ただし自分は原作から入ったわけではなく、コミック版から入った。そもそもこの作品はアニメ化されていたので、アニメ全録している(のにほぼ見てない)自分はタイトルぐらいは知っていたのだが、『まんがタイムきららあたりが将棋4コマでもやってんのをアニメ化したのかな』という程度の認識しかなかった。そして昨年(2020年)夏、DMMが電子書籍で無料だの50%オフだのの大盤振る舞いを続けていたので、そのときにコミック版1巻が無料だか半額だかになっていたのを買って���ったのだ。それをいつか読むつもりで1年以上も積んであったことになる。自分はDMMはコミック専用としており、セールで買っておいて後から読むというのを繰り返しているためDMMだけで凄い量になりつつある。その中から「次に何読もうかな」と思ったときに「そういえばDMMでコミック1巻だけ買ったな」と思って読んだのがりゅうおうのおしごと!との出会いである。これが意外に面白くて最新刊まで読んでしまった。
先にコミックの感想を言ってしまうと、悪くはないがもう一つ足りない感じ。あるいは、小説を漫画化する上で困難な部分をあえて避け(特に戦法の描写で盤駒がほとんど出てこない)、比喩表現で押し通している。また、要所ではおおむねきちんと描いているが、ちょくちょくキャラクターの作画が崩れる。それでも最新巻まで買ってしまったのは、キャラクター造形が優れており、さらにそこにあるドラマが熱いからである。これは明らかに原作を読んでみなくては、と思ってKindleストアで5冊まとめて買った(10分以内に買えば5%ポイント還元なので)。
で、ようやく原作である。将棋+ロリ+ハーレムもの+浪花節+ヴァンガード+VIPネタ+ニコ生ネタという闇鍋感ハンパない組み合わせのだが、蓋を開ければそれぞれの要素が驚くほど噛み合っている。16歳の若き竜王・九頭竜八一が連敗続きのところ、転がり込んできた9歳の女子小学生・雛鶴あいを内弟子に取る。そこで重要なのが八一の師匠・清滝鋼介。トッププロではないものの、幼少期の八一が指導対局を何度も申し込んだ結果、内弟子になったというプロ棋士である。さらに、八一の2週間前に入門していた年下の姉弟子・空銀子は14歳、かつ奨励会員ながら、女流のタイトルを2つも保持する史上最強の女性棋士。清滝は自分を超える八一の才能を育てることができるのか悩み、兄弟子である月光会長に託すことも考えたが、月光の説得で結局は自らの弟子とすることを決意し、八一と銀子は卓越した才能で切磋琢磨して強くなった。幸運もあって史上最年少竜王となった八一は連敗するが、師匠である清滝に背中を押されてあいを弟子に取り、あいの応援(対局室に迷い込んだあいが読み始めたことで相手に詰みがあることに気付く)で連敗をストップし復活する。それなんてロウきゅーぶ?と思うところだが、今や絶滅した内弟子制度と師弟愛を熱く丁寧に描写することで説得力を持たせている。八一は弟子を迎えたという責任感だけではなく、あいの指し手から吸収した新たな戦術でさらに強くなる。八一はあいをどう育てるか悩むが、月光会長から依頼された指導対局で神戸の極道(廃業済み)の頭目の孫にして9歳の天���少女・夜叉神天衣(あい)を弟子に取る。卓越しているがゆえに競い合う相手のいなかったあいは、天衣というライバルを得て強くなり、孤高だった天衣も少しずつ心を開いていく…というストーリー。
とにかく全編浪花節で泣かせに来る。師弟愛を始めとした将棋の絆、そして将棋という熱い勝負の世界である。
主観を八一だけでなくすべてのキャラクターに振り、さまざまな視点から物語を描いている。それによりほぼすべてのキャラクターが主人公かというくらいキャラ立ちしている。もちろん八一が主人公ということになってはいるが、実際には八一は主人公の一人にすぎず、あい、天衣、銀子も主人公と言ってよいであろう。そのため、描かれるテーマも女性棋士である。
女性棋士といえば女流棋士が想起されると思うが、両者は異なり、女流棋士の地位は特殊である。プロ棋士と同じように対局はあるし、女流タイトル戦もある。しかし女流棋士は棋力においてプロ棋士に劣る。それどころかプロ棋士の養成機関たる奨励会の底辺にも劣る。にもかかわらずなぜ女流棋士という存在があるのかといえば、一つは女性への将棋の普及のため、もう一つは将棋ファンにとってのアイドル的な役回りである。将棋ファンの大半は基本的に男であり、である以上きれいどころがいたほうが喜ばれ金も集まるという大人の事情がある。
たとえば作中に登場する鹿路庭はその美貌とスタイルを十全に生かしたあざといキャラ作りとトークと立ち回りで将棋ファンの人気を集め、言わば『オタサーの姫』のように見える。さらにあいたちを盤外戦術で追い込むなど序盤では悪役のように描かれる。しかし本人は勝負としての将棋を諦めておらず、強くなるために男性プロ棋士の研究会に参加するが、周囲からは『婚活』などと陰口を叩かれ、その影響で研究会が消滅するため『研究会クラッシャー』などと呼ばれる。また普及の仕事に活かすため司会者養成講座を受けるなど仕事熱心な人なのだが、そのプロ意識が逆に批判を引き寄せてしまい、女流棋士への批判を一身に引き受ける。そういう状況を全て知っていながらも、あくまでも将棋アイドルとしての立ち居振る舞いを貫き、弱音を吐かずに戦い続ける。のちに関東へ移籍したあいに女流棋士のお仕事を叩き込むという重要なポジションでもあり、さらに本当に惚れた相手に告白するシーンは泣きますよ。
そうした女流棋士の有り様を、女流名跡釈迦堂は『晒し者』と表現する。女性であるというだけで見下され、しかし将棋普及のために利用される女流棋士は、いうなれば客寄せパンダに過ぎないとも言える。その有り様を変えるには女流棋士ではない女性プロ棋士を生み出すほかない。釈迦堂はそのためならば自らが踏み台となっても構わないと考え、他門の空銀子を指導して史上初の女性プロ棋士に育てようとする。のみならず、女流棋士として初めて弟子をとり、『女流棋士に育てられた初めてのプロ棋士』神鍋歩夢は『次の名人��とまで言われるほど将来を嘱望されるという熱い展開。『女だって将棋はできる』という理念をすでに半分は実現してみせたわけである。脚に障害を抱えながらも、己を犠牲にしてでもその信念を貫く釈迦堂さんがかっこよすぎて惚れる。そりゃ歩夢くんもプロポーズするわね。
釈迦堂に夢を託された空銀子は、女流棋士ではない奨励会員でありながら、女流タイトルを2冠持つ史上最強の女性棋士。しかし銀子は先天性の心疾患を患っている。自然治癒することがあると記載されているため、中隔欠損を伴うような心奇形の一種だろうか。ただし中隔欠損だけでは五生率50%とならないので、複合的な心奇形であろう。ついでに言えば銀子はアルビノで、他の疾患を合併している可能性がある。銀子の主治医である明石は元奨励会員であり、将棋の才能を持つ銀子を、療養のため清滝に託す。そして八一と二人で最強の棋士に成長する。一足先にプロ入りした八一を追って、銀子はプロ入りを賭けた3段リーグで戦う。
銀子はその中で、元奨励会員でアマチュアで抜群の成績を残して奨励会に戻ることを許された辛香と戦うことになる。辛香は盤外戦術で銀子を揺さぶるが、戦いの中で実は辛香と銀子の意外な接点が明らかになる。
辛香は奨励会退会後、学歴がないこともあって底辺職を転々としたが、「二番目に辛い職場は将棋を知っている人のいる職場」と語るほど将棋に苦しめられた。しかし辛香によれば一番辛い職場は人が死ぬ職場であるという。辛香はかつて己が清掃員として務めた施設で子どもたちにせがまれて将棋を教えていたのだが、実はこの施設は難病の子どもたちが療養するホスピスであり、幼い銀子とも戦ったことがあるのだ。そもそも辛香が明石の同期で、同じ大阪に住んでいるのだからありうる話である。ホスピスの子どもたちは退所できたとしても、それは死の直前に家族と過ごすための短い期間に過ぎない。あまりの残酷な事実にその施設をやめたが、のちにメディアで有名になった「浪速の白雪姫」がかつて将棋を教えた銀子であることを知り、一念発起して再び将棋に挑むのである。
三段リーグではさらに、年齢制限を迎えても延長で粘りついにプロ入りできなかった鏡洲、天才ゆえ孤独を抱えていたが奨励会で鏡洲と親友になれた小学生プロ棋士椚創多、鏡洲が落ちたことで想定外のプロ入りをしてしまい混乱する坂梨、かつて奨励会員であったが現在は将棋会館の職員となった《校長先生》峰など、数々の魅力的なキャラクターと濃密なドラマが展開される。ここではひとりひとりのキャラクターが生々しさをもって描かれる。さらに三段リーグは奨励会員が本気で殺し合う「地獄の三段リーグ」であり、その過酷さを容赦なく描き出すところもこの作品の優れた点である。おそらくプロ棋士や奨励会員、元奨励会員たちに膨大なインタビューを行ったからこそ描けるものであろう。
《校長先生》こと峰の口からは、奨励会に入ったときには将棋が大好きだった子どもたちが、辞めるときには二度と駒も見たくないというほど苦しみ、せっかく強くなったのにその強さすら恨むようになるという奨励会制度の残酷さが語られる。
しかし銀子の三段リーグの裏で行われる、八一と於鬼頭の帝位戦では、奨励会制度の問題点に対する問題提起もなされる。於鬼頭はプロとして初めて将棋ソフトと戦って敗北したが、ソフトの序盤の構想力に衝撃を受け、序盤で独自性を出せないのであればもはやプロ棋士である意味がないと考え、プロ棋士になれなかった奨励会員に対する責任として一度は死を選んだ。だが結果的に救命された於鬼頭は、それまでの自分の将棋を全て捨て、将棋ソフトだけを使って研究することで帝位を獲得するレベルに上り詰める。於鬼頭の面白いところは、単に将棋ソフトで研究するのみならず、棋譜から将棋の才能を数値化するソフトを開発してしまう。それによって奨励会で苦しむ奨励会員が減るのではないかというわけだ。隠者のような生活をしながらもそうした考えに至るのは、自らが踏み台にしてきた過去の奨励会員たちへの贖罪なのか、未来の奨励会員たちへの優しさゆえか。いずれにせよ機械のような於鬼頭の裏には意外な情の深さがあって面白い。さらに彼を慕う若手の二ツ塚未来との会話も、どこか優しさを感じさせる(というか於鬼頭の子供はたぶん二ツ塚であろう)。
現代将棋が研究会によって短期間で変遷してきた歴史を織り交ぜ、戦型の流行や革命をドラマに絡ませるなど筆力が非常に高い。同時に、研究会によって定跡が整備される一方、それが名人が統治する中世的世界であると批判するのが、おそらく作中最高の才能を持つ天才少年、椚創多であるところが面白い。さらに将棋ソフトによって変容した将棋界、そしてAIによってこれから起こる将棋界の革命も示唆している。とはいえ硬い話は一部であり、冒頭からJS研などロリネタ、アニメ・マンガ・ラノベ等のオタクネタ(もちろんロウきゅーぶネタも入る)、2chネタ(今となっては懐かしいVIPのノリ)、ニコニコネタを散りばめているので基本的にはやわやわのやわめ。適当に読んでも面白いので手軽にどうぞ。
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二〇〇八年の断片集
これは二〇〇八年の断片を集めたもの。二十三歳から二十四歳の記録。二〇〇九年の断片集もある。
七月
何も読まない人は幸いだ。
眼鏡をかけないとほとんどの女性は美人に見える。
金持ちも貧乏人も、感じられる幸せの容量は同じだ。
長く話す人は思慮が無く、短く話す人は愚鈍である。
法律が増えれば増えるほど犯罪は増える。
男は学問をしないと莫迦になる。女は学問をすると莫迦になる。
真面目に生きようとすればするほど不真面目に生きざるをえなくなる。不真面目に生きようとすれば人は自然と真面目になる。
八月
同期の女の子たちが下宿に来たとき、大きな蜘蛛を見つけ、「早くやっつけなきゃ」と言った。でも私は殺さなかった。全ての命は尊い。だからこそ、それを奪うには快楽を求める心が必要だ。恨みや嫌悪感や投げやりな心で命を奪ってはならない。それが命への礼である。
駅前に昼飯を食べに行って戻る途中で中学生くらいの見知らぬ少女に「こんにちは」と挨拶をされて、私は「おっーす」と返事をした。よく日焼けしてぽっちゃりとした女の子だった。記憶にない。
女性の先輩職員。良く言えば女性的、悪く言えば女性的。
大いなる誤算。知的障害児に興味はあったし、今でも興味はある。しかしそれは文学的な興味であって療育への興味ではない。
もし私が心から愛する女性がいるとすれば千人の男に抱かれた十四歳。
人生は無為だ。日本全土を巡る放浪の旅をするか、インドネシアに移住するか。
日々の生活に倦怠を感じたら何かを創作して形に残す。物語でも、絵画でも、音楽でも。それが子供である必要はない。
もっと野菜を食べよう
電車内での痴漢がなぜ罰せられるのかというと、痴漢は数百円から数千円で買うべき「服の上からの臀部の愛撫」や「下半身への性器の擦りつけ」などといった行為を無銭で楽しもうとしたからだ。すなわち痴漢は窃盗と同じ種の犯罪である。同じ理由で強姦も強盗と同じ種の犯罪であろう。
もし誰かが他の人に「あなたの好きなタイプは何?」と質問した場合、質問者は、回答者が異性のあるタイプ(イデア)を追求するために異性とつき合うもののだと予め規定してしまっている。実際には様々な異性の違いを楽しむために異性とつき合う人がいるというのに。そういう人間にとって「好きなタイプ」を定めてしまうことは無意味で味気のない行為だ。例えば私が「好きなタイプは?」と聞かれて「双子」と答えるのも双子の微妙な違いが好きだからに他ならない。
聞いた話によれば博多は結婚適齢期の独身女性が同年代の男性より多く、若い女性にとっての激戦区だという。或いは独身志向が強いのか。
男は、彼自身に興味のある女を賢いと思い、彼自身ではなく他の男に興味のある女を愚かだと見なす。だから全ての女を愚かだと断定する男は、どの女にも好かれていない、と思い込んでいるのだ。
私は他人の肉体を物質としか見なせない。例えば美女の肉体は何か貴重な物質であり、臭い男の肉体は何か臭い物質である。舌、唇、鼻、耳朶、乳首、陰唇、いずれの他人の肉片も博物館に保管されてしまう。
もし婚約者が元娼婦であっても結婚を完遂できる原動力が真実の愛だとしたら、私は純潔の処女ですら愛さない。
私は思う。仕事が嫌であればあるほど休暇の浮遊感は大きくなる。これは余暇を楽しむ為だけに労働している私にとって、都合の良いことではないか。まとまった休みが定期的にとれて、しかもその余暇が楽しいとしたらこれほど私に合っている仕事は無いんじゃなかろうか、と。
久しぶりに共感できる主人公トマーシュを見出すことができた。彼のように軽く生きたい、その軽さに耐えられないくらいまでに。
どんな社会体制であろうと、それが大勢の人間が集う社会という形式をとる限り、それに馴染めない人間が必ず存在する。そんな人間がとりうる手段は二つ。浮遊するか、絶望するか。あらゆる革命と変革は彼らとは無関係に為されている。
多くの若手経営者は織田信長を崇拝するが、そのうちほとんどの経営者は信長的人物を社員として採用しない。
職場の上司であるA係長��「結婚相手は妥協で選ぶな」と言うが、彼は自分が妥協で選ばれたかもしれない可能性を全く考慮していない凄い奴だ。
文学は少年期の私をどうしようもなく破滅せしめ、青年期においてどん底より救いたもうた。
女性と一緒の職場で、かなり動く仕事なので、よく乳房を触る。私は謝らない、気付かないふりをする。女性が「すいません」と謝ると惚けた顔をして軽く会釈を返す。
娼婦を尊敬できない男はあらゆる女を尊敬できない。
理想の老後。自営業か自由業で京都近郊に住む。東京近郊に、離婚した最初の妻との間に作った娘が夫と住んでいる。一年に一回だけ、娘を訪れる。私は彼女の子供たちから「京都のおじちゃん」と呼ばれ不思議がられている。というのも彼らにとっては三人目の祖父だから。週に一度、五條楽園に赴く。月に一度、長旅に出る。読書は欠かさない。
子供が欲しい、と私が思うときに浮かぶ光景は、一ヶ月に一度、裁判所が許可した時間だけ、まだ幼い娘か息子とレストランで会食し、帰り際にすぐ飽きられることが分かっている玩具を贈る場面。娘であればベッドに並んで忘れ去られる熊のぬいぐるみ。「何であのおじちゃんは熊さんのぬいぐるみばっかりくれるの?」小学生に上がったら絵本にしようかな。
もし私に、成人して未だに童貞の息子がいれば、かつてボルヘスの父がしたように、売春宿へ息子を送ろう。そんな理想の家庭を思い浮かべる。
恥骨が痛い。
美女や美少女をよく見かける街は美人が多いのではない。女性が街を歩いても安全な街なのだ。
人間が知覚できる事象はこの世界の極僅かなことに過ぎない。感覚が鋭敏であればあるほど、その人の知覚世界はより色彩に溢れ音楽に満ちて起伏に富み揺らぎ歪み傾いでいる。現代人が霊的存在について余り語らないのは、現代生活が感覚を鈍くさせているからだ。しかし火はいつまでも物質の揺らぎ、すなわちこの知覚世界の裏側に干渉し続けている。人よ、火を燃やせ、世界を超越せよ。
既に自分が正気と呼ばれるものを喪い、狂気の領域にあることを、数年前から薄々と気付いている。
職場での私は人生の裏を生き、休暇中での私は人生の表を生きる。
私は女性と議論をしない。いくら言葉を交換しても、お互いの思想と志向の違いを再認識するだけだからだ。そしてその段階に至った場合、私はその違いを知ることに興味が持てない。だから私は言う「女性と交換すべきは言葉ではなく、体液のみ」
今一番やりたいこと、中学生のときからの夢。どこからか女児を捕獲してきて、押し入れの中で飼育、調教し、優れた女性に育て上げること。
人間存在の悲劇を噛み締めた。
九月
福祉業は風俗業と同じで、水のような商売である。仕事の結果は形にならずに流れていき、客の記憶の中にだけ残るのだ。
新入社員の陥り易い思想的誤りは、自分に上司を殺害する権利があると思い込むこと。
法律で私の体を罰することができても、私の魂までは罰することができない。
今の仕事を続けるくらいなら、一九四五年四月初頭に大ベルリン防衛地域司令官に任命された方がましだ。
給料とは、働いたがために心を蝕むようになった苦しみと失った幾らかの正気の代償として労働者が得る金銭のこと、サラリー。
子宮のない女性は男性にとって「性の試験管」である。
中絶禁止も同性愛禁止も獣姦禁止も自慰禁止も旧約聖書創世記第三十八章第九節でのオナンの行為に対する第十節での主の怒りに由来する。しかし、人類はもう子種の浪費を許されるほどに殖えたのではないだろうか?
放浪の旅に出たい。
白地で絵は描かない。すべて黒地の上に描く。
若いときの苦労と快楽は買ってでもせよ。
もし私と結婚して離婚を言い出さない女がいたら、私は彼女の理性を疑う。
「今朝は強姦したかい?」が朝の挨拶代わりになるような都市。その都市でそう挨拶されたのなら私は快活に答えよう「ああ、今朝は女児を二人だけだ」
男根のない男性は女性にとって「お払い箱」だ。
中学生のころはサド侯爵の書く小説の倒錯的な場面を読んでよく興奮したものだが、今読み返してみて、その哲学的記述には感心するが、倒錯性は何も感じなくなってしまった。すなわち、勃たないのだ。
三日に一度は射精しないと健康に悪いそうだ。
女性に懸案事項の説明を請われて私が説明すると、大抵の女性は「私さんは私のせいにした」と非難する。単に私は事実を述べただけなのに女性に内在する被害妄想癖が私を卑怯者に仕立て上げるのだ。ゆえに私は説く「女性と交換すべきは言葉ではなく、体液のみ」
生理痛による発言ならしょうがない。
早稲田大学に通っていたころの記憶が、今は全くない。
私の働くK学園では誕生会と称して���の月の誕生者を祝い、誕生カードを送る。先輩職員方はカードに百文字くらいの感動的な文章を綴る。けれど私は、文字は「おたんじょうびおめでとう」と名前くらいで、あとは動物の絵を大きく描く。先輩職員はそれを見て「文字が少なすぎる」と注意する。おかしい。園生は文字が読めないか読めても読み辛い人が殆どなのに、文字を多く書くのは保護者向けに書いているからだ。なんだかんだ偉そうなことを言ったって職員連中は知的障害者のことを考えていないのだ。
産まれるまで気づかなかった。生きることがこんなに大変だったなんて。
少しまともな知能を持っていれば理解できると思うが、この福祉社会は健常者と障害者にとっては生きやすいけれど、その中間に生きる半端者にとってはまことに生きにくい。
放浪に備えて知能指数七十前後の話し方を習得しなければならない。そうすれば同情や施しを得やすくなるだろう。
人の性格はその人の祖先の生業から遺伝を受けると考える。私の祖先は今昔物語にも載せられた鈴鹿峠の山賊であった。すなはち略奪・狩猟・採集・漂泊を生業とする山の民だ。福祉職なんて性分ではない、放浪者こそ最もふさわしい。
職場で大事なことは飲み会や余暇活動などで自分の味方を増やすことであり、それは私が最も苦手とすることだ。むしろ得意とするのは敵を増やすこと。
職場の人間がみな緑色の眼で私を見ている。奴等はまともな人間じゃない。
もしこの学園の職員のまま死んだら、悔やんでも悔やみきれない。
A係長に「やめちまえ!」と罵られたのだから今すぐ辞めても構わないだろう。むしろ辞めた方が有難く思われるはずだ。邪魔な奴がいなくなったと。
「すごい着想力ですね」と言うところを「すごい着床力ですね」と言ってしまった。
失踪を決意した次の日の職場の奴等はなんだか心優しい。
看護婦さんの注射が上手くて、少しも痛くなかった。
心を鬼とせよ。奴等は飢えた猛獣だ。おまえの臀肉を狙っている。
失踪して、日本中の山々を彷徨する。歩兵第三十一聯隊の福島泰蔵大尉が私の師匠だ。
人類は幼形成熟であり全て人類は成形(天使形態)に変態する寸前で死ぬ、という幻想。天使の蝶
地球を覆う現代文明という代物は、依存症ないしは文学的な意味での依存から成立している。
全ての人類が物質的依存から解放され流浪の旅に出た瞬間、現代文明は衰退し、文化とほとんど差の無い放浪文明が萌芽する。
私にとって「衰退」は悪い意味を持たない。なぜなら「進化」と「退化」は「変化」の類義語という認識しか持ちえないからだ。
だって進歩と退歩のどっちがいいかなんて誰にも分からないだろ?
K学園では、遅番勤務上がりの二十二時からミーティングが開かれる。クラスミーティングは三人の担任で開かれ、係長ミーティングは三担任に係長を加えて開かれる。留守録によれば、昨夜ミーティングがあったらしい。でも私はそのことを知らされておらず、その時には疲れ果てて自宅で寝ていた。これが昨今の事態の本質である。同じクラスの先輩職員は新人の私に満足な情報を与えず、それでいて私が「ちゃんとやっていない」と罵るのだ。先輩職員は「分からないことは聞かないとこちらも教えることができません」という態度だが、超能力者でもない私にはいつミーティングが開かれるかなんて知るよしもない。
どいつもこいつも腐りきっている。
九月十五日、新宿駅で下野国住人エーリク氏(「沈黙のソネット」)と出会い、神保町で昼飯を食べて東京駅で別れた。思考する脳と発話する舌の���違の甚だしさが一つの人格を形造る。
たったそのことを理解するだけでこんなにも親しみが湧くというのに。
必ず連絡しよう。
判断を中止してください。理解しようとして下さい。
ひとつの職場やサークルや組織に長くいるということは、陰口を叩かれる人から陰口を叩く人になるということだ。
管理職とは判断しなければならない職務だ。部下の人格さえも、誤解とともに。
仕事をすると人生が色褪せて見える。
曉の空は美しい。夜が怒りと悲しみに溢れていたからこそ
おまえは妊娠したての子宮に夫以外の陰茎を突き立てられて、なんとも思わないのか?
青年は旅の人。道連れは記憶だけ。
映画「Into The Wild」を観た。すなわち「Into The Mind」だった。
新宿を歩く人々は本来の美しさを失っている。
十月
現代文明世界はアリストテレス的人間観の上に立脚している。故に、私のようにポリス的動物であることを捨てて放浪し無宿、社会常識に則った思考は不可能であるために言語的思考のみを行うことで価値の変造をもくろむ「獣」はやがて排除される。
ただし、ディオゲネス的世界市民主義が台頭するのであれば話は変わってくる。
資本主義の豚どもよ、犬となれ!
犬どもよ、広場で自慰をせよ。
本当にエコを実現したいのであれば、冷蔵庫も車もクーラーもあらゆる文明機器を捨ててディオゲネスのように生きればよい。それ以外のエコは全て偽者のエコだ。
真実のエコは全人類の穏やかなる自殺である。
たぶん、文明機器を捨てた現代人は、亡命先で奴隷マネスに逃げられたディオゲネスのようになるだろう。
「おかしな話だよ、マネスのほうはディオゲネスなしにも生きていけるが、ディオゲネスのほうはマネスなしでは生きていけないだろうとすれば」
文明社会とは人間をひたすらに脆弱な動物にさせる機構だ。もう二度と野生には戻れないほどに。ここでは人間はひたすらにちっぽけになるだけだ。
青年よ、常に己の中の獣を調教しておけ。そしていざという時には牙を剥き、爪を立てて、おまえを侮辱した奴らに目にモノを見せてやれ。
かつて大学時代に海驢という女に言い寄られた季節のことだ。ふと私の中に「あの女に会いたい」という感情が起こった。その感情を確かめるために、私は自慰をした。すると面倒くさくなって余りその女に会いたくなくなった。私は重ねてもう一度自慰をした。すると全く会いたくなくなった。二、三日して袋に種が満ちると再び私の中に「会いたい」という感情が芽生えた。ゆえに私は結論付けた。恋愛とは性欲の文学的表現に過ぎないと。
私と彼女とは違う地平に立つ人間であった。前者は「人間の地平」に立ち、恋愛は蔑ろにしても人間は尊んだ。一方、後者は「恋愛の地平」に立ち、人間は蔑ろにしても恋愛は尊んだ。そのため後者は私にメールで別離を告げた上に自意識過剰な主張を何度も送りつけて来た。彼女流の恋愛観ではそれが至極正しく、真っ当なことのように思えたのだろう。それに対し前者はあくまでも人間としての防衛線を保つことしかできなかった。
彼女は自分の精神的あるいは肉体的欲求を充たすためだけに私を利用したにすぎなかった。そのために「恋愛」という文法を用いた。それに対し、私は人間であるという前提の上に立っていた。ゆえに二つの歯車が歯をあわせることはなかった。
『百年の孤独』のブエンディーア一族は愛なくして繁殖した。一族の最後の者は叔母と甥の近親相姦によって産まれたためにその呪いとして豚のしっぽを持って産まれ、蟻のむさぼるところとなった。しかし百年に及ぶ一族の歴史の中で「豚のしっぽ」は初めて愛によって産まれた子供であった。
『百年の孤独』は単行本を三冊買い、合わせて六回読んだ。私が長編小説をここまで繰り返して読んだのは他に例のないことだ。
琉球美人は琥珀色の肌、引き締まった細い肢体と小顔を特徴とするけれど、秋田美人は朱を散らした色白の肌、ふくよかな肉体と顎先を集約点として突き出た面長を特徴とする。
選びがたく、悩ましい。
一夫一妻婚という制度の発明は多くの人間を罪人とした。つまり、一夫一妻婚という制度を継続する限り、社会は姦淫罪を量産せざるをえないのである。
法律の数だけ、罪がある。
あらゆる家庭の災厄は、一夫一妻婚が生んだ。
一夫一妻婚が形作る「家庭」は、ある種の子供たちにとっての牢獄である。
私にとっても、「家庭」は牢獄だった。
ディオゲネスは人間をよく理解していた。ゆえに彼は結婚を否定した。そして、彼は女性の共有と当然の結論としての子どもの共有を主張した。
女が産んだ赤ん坊の父親が誰か、なんてことはどうでもいいじゃないか。
私は沖縄から奄美に至る航路で、仰向けに寝ながら「死の恐怖」を超越した。超越したとき、肩から背中にかけて熱いモノが走った。目からは涙が溢れ、こめかみを濡らした。
そのとき、私は一度、死んだのである。
「死の恐怖」は小学二年生の私を捕え、十五年に及び、私の心を鷲掴みにして離さなかった。それは常に無感覚への恐怖、偉大なる世界が消滅することへの恐怖であった。
死によって他人が私を忘却するとか、そういったことは恐れなかった。「死への恐怖」はきわめて個人的な問題であった。
死後に感覚があるのならば、人間はその新しい感覚で永遠を生きるだろう。もし、死後に感覚がないのならば、死は何ら思い悩むことではない。マルクス・アウレリウス・アントニヌスの思想の私なりの解釈である。
「死への恐怖」は克服した。しかし、私はまだ完全に「死」んだわけではない。
今までは常に捕われてきた人生だった。これからはこちらが捕える人生である。
蟹田駅で特急に乗り、青函トンネルを通って木古内駅で降りた。すると、もう電車がなかった。しょうがないので駅近くの公民館の前で野宿をした。二十三時に寝て五時に起きた。小雨が降っていて、寒かった。吐く息が白い。
北海道では寝袋の下にアルミシートを敷いて大地に体温を奪われるのを防がないと危険だ。今の寝袋は零下十度まで快眠、零下二十度まで生存できるそうだが、零下二十度でも快眠できるようにしたい。
『闇の左手』の、アイとエストラーベンの氷原越えを復習しよう。
北海道の面積はオーストリーより広く、北海道の人口五六〇万人はデンマークより多く、道内総生産額GDP約二十兆円はマレーシアやチェコよりも大きい。また、道内の陸上兵力は三万七千人でベルギー・ポルトガル・南アフリカ。キューバの陸軍と同規模である。そして道内だけの食料自給率は二百パーセントに届こうとしている。
北海道は数値上では充分に一国として独立できる。独立後の国名はもちろん「アイヌモシリ」、人間の大地。
私は、その大地を歩く。
さすがに放浪する資金に先が見えたので札幌市南区澄川にアパートを借りた。
まだ鍵をもらえない夜に、不動産会社の女性社員が自宅に泊めてくれた。北海道の人はやたらと親切だ。
ちなみに私は女性社員宅で、晩飯を食べてから朝までいびき一つかかずに熟睡していたようだ。
どうやら寝言の癖は治ったらしい。
PHSを買った。
もし宇宙の果てまで行けるという宇宙船があるのならば、地球上で想定しうるあらゆる幸福を諦めてでも、私は宇宙飛行士になる。
そして、私の死体は永遠に宇宙をさまようだろう。
ある人が言っていた「全ての女性は男でふさがっており、あぶれた男は彼女たちの体が空くのを待っている」という感覚を今日、はじめて味わった。
那覇の人と札幌の人は語尾に「さー」をつける。なぜ?
ちなみに私は一日の大半を欲情して過ごし、半日は半勃し、四分の一は勃起している。というのも私の神経はズタズタになっていて、脳が異常なまでに興奮物質を分泌するからだ。
物理的に、私は「狂人」である。ゆえに小学4年生の私を「気が違っている」と評したあの女性教諭は正しかったのだ。
まず買わなくてはいけないのは掃除機、それと便座カバー。
尊大な解釈だが、中学生の私は自分のことを「桁外れの出力で凍結してしまった電算機」に喩えていた。今ならさしずめ「お祓い箱」と喩える。
大した運動もしないのに疲れやすい人というのは、たいてい脳内で体力はおろか生命力さえも過剰消費しているものだ。
ハローワークで調べたところ、私の適職は技能職か芸術家だという。
北海道のスーパーでは玉ねぎとじゃがいもがそれぞれ一個十円で買える。食うのには困らなそうだ。
中古パソコンを買った。ネットを繋げば、さぁさ始まる楽しくも愉快なNEET生活。
野菜を凍らせないために冷蔵庫を買った。
近所の澄川若草公園のベンチに男子高生が腰掛け、女子高生が前から枝垂れかかり、野合していた。北海道はおおらかだ。
夕方になると近所でやたらと陸自将校を見る。昨日は将校さんがスピードくじを買っていた。
今、私の中で福満しげゆきが熱い。
『コレラの時代の愛』を手に取った途端に涙が溢れてきた。さすがガルシア・マルケスである。本を持つ者にも訴えかける。ましてや読む者へは。
宇宙の最果てを超え、宇宙化以前空間の有り様を地球に報告する使命を帯びた超光速航宙船「エスペラント」
推進機関は決まっている。原子力だ。
はてさて、膨張しているという宇宙の辺涯はどのようになっているのだろう?
乗組員は地球に未練のなくなった七人の若者、日本国から二十八歳、タンザニア人男性二十五歳、イスラエル人男性二十三歳、フランス人女性二十七歳、インドネシア人女性二十五歳、ペルー人女性二十二歳、国籍不明少女十九歳。それと修理用ロボット三台。
航宙船の大きさ、全長二四〇メートル、幅三〇メートル。乗組員は訓練により、航宙船を自力で組み立てることが可能である。
船内には恒星熱で駆動する五つの栽培室、三つの畜産室、三つの水槽室があり、その他にも食料加工機が装備されている。船内で半永久的な食料生産が可能である。
凍眠室では肉体を凍結することで老化を遅らせることが出来る。しかし完全に止めることはできない。
この銀河は今、宇宙のどのあたりを漂っているのだろう?
船内の娯楽は様々で、読書・運動・遊戯・音楽・絵画など地球上でできることはほぼ船内でできる。
これは娯楽というより使命に近いが、性交が七日おきに違う相手と行われる。ただし自分の遺伝子を継承した異性とは性交しない。
宇宙化以前空間についての報告書をまとめるのは私の何世代か後の子孫になるだろう。
図書室には地球人類の叡智の集約である五十万冊が書籍と電子文書とで保管されている。
本の記述言語も船内共通語も人工言語である。
乗組員は医療知識を身に付けており、簡単な外科手術なら執刀可能である。また薬剤、輸血用血液も完備されている。
酸素は栽培室や庭園内の植物で生成される。水は使用後に循環、濾過、消毒される。糞尿は堆肥となり栽培室に回される。
トイレ、洗濯、洗浄では水を一切使わない。
航宙船は地球に帰還することはない。可能であれば宇宙化以前世界で居住惑星を見つける。
もし、宇宙膨張説が誤りで、宇宙に果てなどなかったとしたら、彼らの人生の意味とは?
いずれにせよ彼らも他の死者と同じように忘れさられるだけだ。
甜菜の糖度は水に浮かべて量る。
もし私が四十年後、人生について語るとすれば、「人生は語りえないこと」と「人生を語るのは恥さらし以外の何物でもないこと」を語るだろう。
大朋めがね、最高。
よく映画などで「この街に知り合いは誰もいない」なんて主人公が出てくるけれど、今の私がそれだ。
「マシニスト」はけっこう凄い映画。
昼下がりの真駒内公園は心地好いが、日が翳ると寒い。
カレーはインド人にとっての味噌汁である。
私の安アパートの一階には若い女が二人の幼女と住んでいる。1Rに女三人、そして幼女のうちの一人は養護学校に通っている。見たところ知的障害ではない、身体的な障害だと思う。
私は酒を飲まないし、酒が嫌いだけれど、時々飲みたくなる酒がある。一つは黄酒、もう一つはサングリア。そして大抵すぐ飽きる。
ローマ帝国時代は葡萄酒を水割りしないで飲むことは下品なことだった。
葡萄酒一に対し蜜柑果汁を三か四の比率で混ぜ、小さく切ったバナナを入れて冷蔵庫で冷やして飲む。これが我流サングリア。底に残ったバナナが一番おいしい。
日本の宗教、寺院や神社が信仰を失った理由は落ち着いて座れる場を市民に提供しなかったからだ。私もそうだが、現代の若者で休日に仏前や神前の座敷へ行き、無料で何時間も座っていられる者は何人いるだろうか?
ポテトチップスを食べながら歩いていたら四羽の烏が数キロメートルも私の跡をつけてきて、途中で烏同士の縄張り争いが始まった。ブランコに乗った女児が、烏の襲撃から走って逃げる私を見て笑っていた。
まだ仕事が決まらない。やはり職業適性診断システムの通り、「工」のつく職業を目指した方がいいのだろうか?
そうだ。私は稼業に生き甲斐は求めないのだから、工場の歯車になることに悔いはない 。
そういえば、小学生のころの放課後は主に炬燵で横になってテレビを見ていた。学校生活で甚だしく疲労していたのだ。
人と向き合う仕事ではどうしても甚だしく疲労せざるをえない。
近所から藻岩山が見えるけれど、どうやらそこで初雪が観測されたらしい。もう札幌は冬だ。
こんな自堕落な生活がいつまで続くのだろう?
「命の続く限りだ」
日能研札幌が私に試練を与えた。小学五年生のテキストを使って模擬授業をして、出来が良ければ私を雇うというのだ。
真冬日の存在にびびり、紅衛兵が被るような帽子と電気ストーブを買った。
夜間の水抜きは十二月から始めよう。
札幌市中央図書館へ行く。蔵書は充分ではないものの悪くはない。
岩明均は古代ギリシャ世界に主題を置いている。塩野七生は中世イタリアが主題だった。赤羊は十九世紀のヨーロッパに主眼を置いているという。私も時代と地域を特定した主題があるといいなぁと思っているけれど特に思い浮かばない。
まぁ私には「帝国」という物語世界があるし。
敢えて言うなら、二十世紀エスペラント運動に携わった奇特人を取り上げると面白そうだ。
母の私への愛情が、一般の母子愛のようなものではなく、所謂「共依存」の一方通行であるならば、これまでの二十四年弱を説明しやすくなる。
十一月
戦争がなくて女性を共有できて食べる物に困らず各成人に満足な住居が割り当てられ、言論と思想と信教の自由がそこそこあり、働けば働いた分だけ暮らすのに困らない給料を貰えて老後は年金が保証され、学費と医療費が無料の国。それが私の政治的目的だ。
つまり空想的社会主義。
それと人類人主義だか世界市民主義だかよく分けられない個人のあり方が私の基幹思想だ。
よって、ここに「空想的社会主義人類人党」を掲げる!
政権交代は選挙によるもの、そして政体の転換は民主的な投票によるものが好ましい。
思想を根拠とした暴力と殺害は厳しく禁止する。
キリスト教的異性独占行為である結婚制を廃止し、十八歳以上の労働者あるいは学生である男女が抽選で定められた相手と三日毎に共同交配所で生殖行為をする交配制を敷く。妊娠から出産までは人類人政府が完全に支援し、交配に因って誕生した父親不明の子どもたちは人類人政府が「人類の子どもたち」(filoj de homaro)として十八歳まで養育する。ただし母親は六歳まで自分の子どもを育てる権利を有する。もちろん義務ではないので育児放棄も可能だ。
同性愛者は「特殊交配所」を利用できる。
「人類の子どもたち」への教育は「人類人主義」(homaranismo)と「性欲の賛美」に基づいて行われる。
資本主義的異性寡占行為である恋愛の宣伝行為や過剰な恋愛賛美は個人的な趣味と芸術的表現以外ではこれを制限する。
いかなる場所であっても人類人は抽選で定められた相手以外の人類人との性交を禁止される。十三歳以上十八歳未満同士の性交、及び十三歳以上十八歳未満の「人類の子どもたち」と人類人との性交は性欲の解消と自己存在の確立のための行為としてこれを許可する。
すべての人類人は共同食堂を有する共同住宅が付与され、その見返りとして都市部では共同職場、近郊部では共同工場、農村部では共同農場にて労働する義務��ある。
労働には対価として報酬と七十歳以降(もしくは退労勧告後)の年金が共通通貨ステーロ(stelo)で、そして交配する権利が与えられる。労働者及び退労者は医療費が無料である。
十八歳で全ての「人類の子どもたち」は人類人となる。人類人になった次の一月から、人類人は希望とそれまでの学校成績、そして試験を考慮した上で各種大学校に入学できる。そこで四年間、学問或いは職業訓練などに励む。学費は無償。もちろん、大学校に通わずそのまま労働者となる選択もある。
共同住宅での居住が困難な各種障害者は共同食堂を有する共同施設に入所でき、施設付属の工場や農場での労働を行うことによって労働者と同じく報酬と年金を得ることができる。もちろん交配する権利も与えられ、その対象は障害の程度により共同施設内の異性と施設外の異性とに分けられる。
刑務所では付属の工場や農場で労働している者に限り報酬と年金、そして刑務所内の異性と交配する権利が与えられる。
共同交配所は感染症の恐れがない限り、病院の患者も利用できる。
全ての「人類の子どもたち」はエスペラントを国際補助語として学ぶ。また全ての「人類の子どもたち」は各人の母語によって教育される権利を有し、母語による教師のいない学科は国際補助語エスペラントで教育される。第一外国語、第二外国語以下の外国語は個人の選択によって決定される。
共同住宅は一棟につき三十~五十戸(三十人から五十人)を収容し、共同住宅が十棟前後集まって一つの島を形成する。そして島が幾つか集まって区が形成され、区が幾つか集まって行政単位として、都市部の市、近郊部の町、農村部の村が形成される。区が設けられない場合もある。共同交配所は島単位で運営される。
人類人政府が統治する領域内で、島から島への移動は自由である。すなわち「空想的社会主義人類人共和国、日本群島」東京市世田谷区第三粕谷島第五棟第二十三号から「空想的社会主義人類人共和国、パリ盆地」パリ市第三区第十八島第一棟第十二号への移住は共同住宅の空きさえあれば誰でも可能である。必要なのは法律的処理と引越し作業だけだ。
移住先での行政サービスは母語で行われる。不可能な場合はエスペラントが用いられる。そのため人類人政府が統治する領域であれば善き人類人はどの共和国のどの島へ行っても行政サービスの内容を理解することができる。またどの人類人政府でも共通通貨ステーロ(stelo)が用いられているので、身元証明書と共通通貨を携帯していれば人類人はどの人類人政府へも簡単に旅行することができる。
死ぬと遺体は共同墓地に葬られる。遺産は全て人類人政府が没収し、家財道具は再利用される。
地球があますことなく全て空想的社会主義人類人共和国によって統治されたとき、(自己主張が激しく自意識過剰な反体制者どもは未だに音楽やテロで抵抗しているのだろうが)現生人類は己の種族の性欲の激しさに驚くことだろう。
複十字健診センターで肺のレントゲン写真を撮った。
私は中一から中三までツベルクリン反応は全て陰性で、そのためにひどく膿の出る注射を六回射った。
体育祭の度に注射されたところが膿んでぐちゅぐちゅになるので、体育祭の練習は嫌いだった。
それほど嫌な思いをしたのに、結核にかかっていたら笑える。
子規も啄木も同じ鳥のことを表す漢字だ。その鳥の口の中は赤い。
まるで結核患者の吐血のように。
札幌の地下鉄には網棚がない。
私は幼稚園に年中組から入った。そして最初の登園日に幼稚園のおもちゃを家に持って帰った。もちろん私に悪気はない。誰も「持って帰っちゃダメ」とは言わなくて、家でもそのおもちゃで遊びたかったから持って帰ったのだ。
私はそういう子どもだったし、今も多分にそういう人間だ。これを我が儘と呼ぶのは勝手だが、私は自身を「暗黙の了解のわからない人種」だと解釈している。
悪いのは「暗くて黙っているのになぜか了解している人種」だ。黙っていないで話せばいいのに。
シャルル・フーリエの『四運動の理論』を読み始めた。愉快だ。
十二月
買ってあったのに神聖なるアスパラガスを食べ忘れていたため、尿が臭い。
北海道の靴底は内地と違うらしい。
鶏の心臓と肝臓が半額だったので臓物カレーを作った。まずかったし、臓物である必要性がなかった。
半月弱だけ働いた九月分の給料が六万円だけ振り込まれていた。時給制の契約社員だから当然だが、奇特なことよ。
それでドミノピザを頼んだら、配達員が茶髪で小柄で猫を連想させる女の子、アキモトさんだった。お釣りを数える指先のたどたどしさがバイト経験の薄さを物語っている。思わず「ゆっくりでいいよ」「ご苦労様」などと優しい声をかけてしまった。
これが逆の立場であれば、私はアキモトさんの食べるであろうピッツァの上に己の白濁精子をバタァの如く振りかけたであろうに。
水商売とは「やったことが形に残らず水のように流れていく商売・仕事」の意である。
「福祉業は水商売なんです」と某知的障害児施設の幹部が言っていた。
かつて医師であった渡辺淳一が小説家になると決めたとき、母に「そんな水商売はやめなさい」と言われたという。
しかしよく考えれば、小説家の仕事は文章という形で残される。もし医師が医学研究を行わなければ、接客業である医師の方こそ水商売である。
水商売と非水商売のと境界は生産物の永続性や仕事の複数性について思考せざるをえず、曖昧である。ゆえに水商売の定義は難しく、渡辺淳一の例のように単なる負の意味を持つ言葉としてしか使われていない。
第三次産業はそもそも水商売である。
映画「レッドクリフ」を観た。「赤壁」に非ず。
九月までハリウッドのアクション映画だろうと私が思っていたのは事実だ。
蜀三将が強すぎて、かつ格好良すぎる。
官渡の戦いと赤壁の戦いは三国志の二大盛り場だけれど、まだ三国鼎立はなっていないんだよね。小学生のころは赤壁の戦い時の情勢がよくわかっていなかった。
中村師童(甘寧)が頑張っていた。
八卦陣には身震いがした。
規制が入って乳房は映せない。
前半は戦闘と外交の連続で、主線の通っていない名場面の羅列映画、すなわち駄作かな?と思ったけれど、お茶の場面で一本の線がすうっと引かれた。
赤壁の戦いは三国志版トロイ戦争だったのだ。
趙薇(尚香)の演技が浮いている。喜劇向きだな。
一番良かった場面は、次回の予告。次の主題は火と風だ。
この映画を観たあとの私なら一騎当千である。
滑舌が余りよくないので「公序良俗」と言おうとすると「公女凌辱」となってしまう。
ネットに繋がっていないパソコンはただのゲーム機だ。
電話窓口「私さまは、テレビの地上デジタル移行への対策はどのようになさっておいででしょうか?」 、私「テレビを買わないようにしています」
夜の狸小路は面白い。
まだ二十代も前半なのに、新しいことを始めるのにさえ「腰が重い」とは。
負けたいと願う心は知りたいと願う心である。
小麦は米より必須アミノ酸の量が格段に少ないので、パンだけで必要な栄養を摂るのは難しく、どうしても肉が必要になるのだ。
逆に言えば米は必須アミノ酸を多く含むので、一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べただけで栄養は充分なのだ。
日本人女性が段々と痩せ形になったのは食事の洋風化のお蔭なのだ。
中古冷蔵庫のホース接続部から水が漏れるので調べたら、ゴムが弱くなっていた。仕方ないのでヨドバシカメラで四七二円の替えを買って付け直した。
じゃがいもを四つに切ってサランラップでくるみ、七五〇Wで三分チン。それにマヨネーズと青海苔をかけたものを小腹がすいたら食べている。二キログラムを一九八円とかで売るのが悪い。
札幌の良いところ。東急ハンズとハローワークとブックオフとヨドバシカメラとアニメイトととらのあなとメロンブックスと紀伊國屋書店とドンキホーテとダイソーがお互い歩いて行ける距離にあること。(毎日一巡している)なのに人通りが渋谷や秋葉原よりも少ないこと。
そういえば、私が高校二年生のときはアニメイトとメロンブックスは狸小路の雑居ビルの二階にあったような気がする。
時計台はいつ見てもしょぼい。でも旧北海道庁は素晴らしい。
奄美大島もそうだったけれど母娘や母子をよく見掛ける。
朝起きて、今朝は特にしばれるさーと思ったら、粉雪が降ってたさー。
藻岩山の山頂付近に雪が積もっていた。風が吹くと皮膚に刃を当てたように冷たい。
昼になると雪の粒が大きくなって降りしきる。この分だと積もりそう。藻岩山が見えなくなった。
昼過ぎにはまた粉雪に戻った。
ローマ教会は一二八二年に全シチリア島民を破門したことがある。
ガブリエル・ガルシア・マルケスの登場人物は名を替えてあちこちにいる。
ガブリエル・ガルシア・マルケスはノーベル賞受賞講演中に、スペイン語文法の単純化と文法規則の人間化、そして正字法の撤廃を訴えた。
今日、たい焼きを食い逃げした女の子に体当たりされたような感覚を味わった。
国際補助語エスペラントを図書館で借りた入門テキストで復習している。新たな発見もあり奥深い。 ベネズエラの正式名称は「ベネズエラ・ボリバル共和国」である。
将来日本で福祉戦争が起こる。福祉をする側(貧困層)と福祉をされる側(富裕層)の間の闘争だ。
大学二年生のころ、札幌市北区出身の友人が「そのゼミの先輩の彼女は風俗嬢なんだよ」と馬鹿にしたように言っていた。確か業種はヘルスだったと思う。
私はしかし生粋の文学青年であったので、その先輩は「本物の愛とは何かを知る男」だと感心したものだった。
世に云う恋愛には三種ある。一に肉体的征服感、二に精神的連携、三に依存。いずれも正しい。
女性や青年はこれら三種に序列をつけたがるが、本能より出る感情で���ない。
もし恋人が風俗嬢の場合、肉体的征服感を主とする者は悶え苦しみ、精神的連携を主とする者は仕事を応援し、依存する者は依存し続けるだろう。
江戸時代、豪商や文人は吉原の高級娼婦を正妻に身請けしたし、仏蘭西にも『椿姫』という高級娼婦との恋愛を描いた小説がある。
何も人生は女性のために生きるのではなく、自分自身のために生きるのだから先進的な近代人たちはあまり妻の過去や職業にこだわらなかったのだ。
ましてや現代人をば。
札幌で諸兄が遊ぶとしたら薄野ではなく、南六条東三丁目の交差点を豊平橋の方へ行って右手にある二つの会館はどうだろう。
少なくともその豊平川沿いの会館群は十九時くらいから薄野の風俗店が閉まる〇時以降も午前三時まで営業している。脱法営業だからだ。今日までなら行くことはないけれど、明日の幕開けとともに始まった空白の三時間でなら行く価値はある。
カネマツ会館と五条東会館とあり、黄色地の看板で飾ってあるのですぐ分かる。共に二階建平屋風となっていて中には小さな飲み屋が軒を連ねている。
坂口安吾は高校生のときに読んで挫折したが、さもありなん。小僧っ子にはわからんさ。
手に職じゃないけれど前の住居からアクリルガッシュを持ってきたのでアクリル画を再開した。
私は全て絵画は部屋の装飾のために描かれると信じ、絵画による自己表現というものを信用していない。
掛軸はそもそも飾るものであるし、ルネッサンス期のアトリエでは壁画を製作していた。
絵画は装飾品であるからこそ芸術であり、美術なのだ。
私の部屋には本棚がなく、また買わない予定であるから、寂しい白壁が広く空いているのだ。
街のあちこちに水色の函がおかれ、滑り止めの砂が満載だ。冬支度である。
これは「常に凡ゆる断片」
私の現在の研修生という立場は気楽だ。職場へ行く義務はない、しかし職場へ行って研修するとただ呆っと座っていただけでも給料が出る。七時間いれば日給は一万を超すが残念なことに交通費は出ない。
結局、履歴書を出して面接したところ、全てに受かっていた。
大学五年間で一度も病院にかからなかったし、四、五年生のときは特に無病息災だった。それは生活が閉塞的であったからだ。しかし小学生どもと触れ合う職場ではいつ伝染されるか怖くて堪らない。
結核ではないことを証明しなければならない。
ミニシアター系の映画は気取った芸術学生や頭の悪い女子大生が「こんな映画を観る自分っておしゃれ!」と観るものと相場が決まっているが、私も観る。今日はシアターキノで「敵こそ、我が友」を観た。
私はフランス人気質でフランス映画がよく合うので、フランス映画を多く上映するシアターキノは選ぶ苦労がない。
政治はえげつない。民主制であろうが、独裁制であろうが国家が人間の集合体である限り、醜い。
クラウス・バルビーは残忍な性格だったろう。しかし悪だったのだろうか? 悪とはきっと温和な性格をしていると思う。
風呂に入らないまでも足だけでもお湯に浸らせるだけで眠り心地が全然違う。
北海道では小学生でも棒を「ぼっこ」、唐揚げを「ざんぎ」と言う。
電車を「汽車」と言うのは分かる。というのは汽車と呼んでいた時代と今とで利便はほぼ同じだし、電車は山手線や京王線こそが呼ばれるに相応しい。
職場を二十一時に出発し歩いて自宅まで帰ると一時間半でつく。もちろん手袋、帽子(フード)、マフラーは必要だが。
「かたわ少女」という障害者の女の子を攻略するゲームが海外で製作中らしい。
しかし知的障害児が登場しないのが残念だ。白痴少女は萌えるのに。
男は女が弱い立場にあるときだけ、女を守ろうとするし、大切にして真剣に愛そうとする。
それは彼女たちが「この人がいないとこの先自分を愛してくれる男が現れないかもしれない」と不安に思っていることを男が知っているからだ。
男は女が自分より弱い位置に立っていないと安心できない。
というのは男は、一度男を知った女は男なしではいられないこと、そして女は常に男を乗り換える機会を伺っていることを知っているからだ。
女にとって男は靴と同じである。足裏は一度靴になれると直接地面を踏む痛さには耐えられないし、履き古した靴は履き替えたいと思うだろう。あるいはまだ新しくても見栄のために違う靴を物色したりする。それにサイズが大き過ぎてもダメだし、小さ過ぎてもダメだ。
だから、賢明な男は、いわゆるまともで競争相手のいそうな女は遊び感覚でしかつきあわないのだ。
つまり、障害を持つ少女或いは女性というのは現代社会では稀に見る「愛され女」なのだ。
死は恐れるに足らず。人間は死なない。なぜなら死ねば人間ではなくなるから。
怒るな、褒めよ。大事なことはチンパンジーが教えてくれる。
日本の大衆文化が幼稚なのは、大衆文化を形成するための大衆、つまり充分に余暇のある人々が生徒と学生に限られていて、成熟した大人は仕事に追われて忙しく文化どころじゃないからだ。
すると数の論理で中学生、高校生、専門学校生や女子大生に受けの良い番組、音楽、小説、漫画があたかも日本中の注目を浴びているかのように見える。或いは情報媒体がそう見させている。
いわゆる恋愛主義が社会を支配する主流思想に思えるのはそういった中学生や高校生の未熟さや幼稚さが大衆文化の前線を陣どっているからだ。
少しでも文化に興味のある人であれば仕事に就いて余暇を奪われることを恐れるだろう。そして無職への風当たりの強さに怯むのと同時に大衆文化の幼稚化を憎まなければならない。
まともな大衆文化を形成するには充分な数の大人が充分な量の余暇を持つ必要がある。そうやって数の論理で生徒・学生文化を日本大衆文化の一分野へと押し戻していかなければならない。
恋愛主義を一派閥へと駆逐し、男女の関係を“人間の地平”に立脚するものにしなければならない。
とりあえず私はキノカフェでフランス映画を観て、市立図書館で坂口安吾と旧共産圏とラテンアメリカの文学を読もう。
皇帝、国王、大統領は偉大で、豪華な外見をしていなければならない。たとえ黒革金銀細工の財布の中身が空であっても。
職場を出ると粉雪。
十一月二十日の札幌市内における最高気温、零度以下。
つまり真冬日。
そして、朝起きると人生でかつて経験したことのないような積雪。
水抜きしないと水道管が凍る。
起床時の室温、三度。
湯たんぽを購入。
氷雪上を歩くため、靴にスパイクをつけた。
そんな晩に狸小路で演奏している音楽愛好家がいる。
零下三度の札幌で、私は豊平川沿いを自宅まで歩き、やっと帰宅する。
帰宅時の室温、一度。
私を雇った職場が入っているビルに北海道で一番有名な政治家が所属する個人政党の本部がある。
だから今日は政治の話をしよう。
狸小路で日本共産党のDVDをもらった。
それはまさに志位書記長のファン・ディスクだったが、つらつらと全編を鑑賞してしまった。
あやうく共産党のファンになりそうだった。しんぶん赤旗日曜版を定期購読して、日本共産党に入党しそうになった。
旧共産圏を生きた人の小説を読むと、共産主義もそれほど悪くはないと思えてくる。
悪いのは共産主義じゃなくて独裁的な指導者と我が儘で自己主張の激しい反体制者だけだ。
けれど、そもそも私は人間集団が嫌いなんだ。
だからどこかの政党に入ることはまずしない。
それに大学時代に身近に見てきた「共産党」は醜悪だったし、第一に私はデモとか行進とかの集団行動が嫌いなんだ。団結しようとするのは現実から逃げているからだ。
もっとやり方がスマートなら、話を聞いてくれるかもしれないのに。やり方が顕示的で、目的へと努力する前から諦念が感じられる。まるで知的障害児や駄々っ子のようだ。
つまり私は共産主義には興味があるが、共産党はあまり好ましく思っていない。
しかし一国を動かすためには何かしらの政治学を学ばねばならない。大学の政治学部に入学するか既存政党に入るか、独学で習得するか?
よし、独学しよう。そして政党は私が自ら創ればいい!
大学四年生の夏、就職活動を諦めたときから生きている感覚に乏しくなってきたんだ。だんだんと。
早口でまくしたてる人は苦手だ。いや、人ではなくて早口が苦手で、早口で喋られると泣きたくなる。特に女性に多い。
早口な人と吃っている人のどちらを選べと言われたら間違いなく吃っている人を選ぶ。
早口な女性は別に頭の回転が速いのではない。なぜなら思考によって、ではなく記憶と憶測だけで話すからだ。
つまり早口の女性は言葉を持たない。彼女たちは壊れかけたテープレコーダーに過ぎないのだ。
職を探す度に共産主義を羨望する。
自動的に職は与えられて然るべきだと思う。
働く時間というのは私にとって死の時間である。
なぜ己の死を自分で探さねばならない?
私は常に余暇か副業が生きている時間なのだ。
これは逃げ、なのか? 或いはそういう生き方なのか?
「辞めさせた、或いは辞めた職場は労働者の次の仕事を見つける義務がある」という法律を作って欲しい。
逃げられた職場も。
「よく働こう」とするのではなく「よく生きよう」とする者にとって資本主義は残酷だ。
ニートさんとかフリーターさんを問題視する人は、まず面接で若者を見捨てる人を問題視した方がいいよ。とブックオフとパン屋チェーンのアルバイト面接に落ちた私が言う。やっぱり大学時代のバイトと同じ業種しか雇ってくれないのか? なんだ、この職業カースト制は?
私だって美味しいパンを作って主婦層や職業婦人からモてはやされたいのに。
生きているのかなぁ、本当に? 自分。
佐賀県からこの一週間、このブログへのアクセスがなかった。
その程度の教養レベルか!佐賀県の教育委員長は職務怠慢により死刑!
或いは佐賀県にパソコンは無いのか?
中学生のころ、スナッフビデオは都市伝説だと聞いて、「ならば自分たちで作ればいいんじゃないか」と思った。
抑圧された子供は、一人暮らしをすればできるかもしれないことを妄想するものだが、私の場合、その全てが犯罪がらみだった。
さて、私はこの見知らぬ百五十万都市で市民記者に登録した。
仕事における電話の秘訣は、相手に電話したことを後悔させないことだ。
空想的社会主義者の食卓。【切り餅(磯辺か餡)三個と納豆】【玄米フレーク五十グラムに牛乳かけ】【蒸し馬鈴薯と野菜スープ】【インスタント麺と蒸し馬鈴薯】【御飯と魚介缶詰と味噌汁】【ピザトースト二枚と野菜スープ】【カレーライス】【食パン二枚と目玉焼き】
空想的社会主義者の食事への心得。粗食、同一性保持、昼食は朝食と夕食のつなぎ。
空想的社会主義者の主要飲料は【牛乳】で、【野菜ジュース】や【珈琲】や【茶】は嗜好品として飲む。牛乳を多く飲む日は必ず納豆などの大豆食品を食べるべきである。
空想的社会主義者の栄養補給剤は【エビオス錠】である。
これは決まりではないが、豚肉と鰭や鱗のない魚は食べない。肉製品と乳製品を一緒に食べない。血を食べるのはダメ。
イスラエル国歌「ハティクヴァ」は物哀しい。
ラーメン! フライングスパゲッティモンスター。
実家にいたころは飽食気味で、私はやや肥満だった。
母は愛情を食事でしか表現できない人だったからだ。
学園時代はよく食べた。しかしよく戦ったので痩せた。
今は粗食で痩せた。
今日、昨日、一昨日は図書館(徒歩五分)とスーパーマーケット(徒歩三分)に行く他はずっとパソコンの前で過ごした。
おかげでウンコが硬い。
二ちゃんねる系のサイトに今更ながらはまっている。
もう仕事とかどうでもいいや。面接とかで人間性試されるの嫌いだし。
ほら、お外は怖いし。寒いし。
いつの間にか雪降ってるし。
火星に土地でも買って移り住もうかな?
やれやれ
人間は今でこそ呼吸し、食べ、排泄し、寝て、思考している。
しかし数年後か数十年後には思考は消え去り、記憶もなくなるだろう。
私はもしかしたら今までの人生の四倍の時間を生きるかもしれない。しかし決して五倍は生きないだろう。
思考と記憶の消滅、それを人は「死」と呼ぶ。
症例はいくつもあるにも関わらず「死」の問題は医学によっては解決されていない。ただ宗教だけがこれを信仰により解決させようとしている。
人はこう思うだろう。なぜ必ず「死」ぬ人間に思考が与えられたのか?と。思考さえなければ「死」を思い悩むことはなかったのに、と。
私はこう考える。誰かがこう仕組んだのだ「人間よ、その『死』とやらについて思考せよ」と。
で、私は考えた。人間は「死」ぬ、ゆえに有限だ。しかし人間の集合体である人類は半永久的に存在する。この違いに意味が存在する。
人間が「死」ぬのはなぜか?それは人類全体に更新を与えるためだ。つまり個人の人生というのは人類という種族全体の繁栄のためにある。
恐竜は失敗した。しかしあの時代にはあの形態が最適だった。今の時代は人類の形態が最適である。しかしいつ人類の絶滅が訪れるかわからない。
個人やある人間集団の私欲のために人類が犠牲になるとしたら、死んでいった人類はもとよりその個人やその人間集団の人生も無駄になる。なぜなら彼らは人生を無駄なことに使ったからだ。或いはそれも人類の試行錯誤なのか?
ゆえに私は結論付けた。人間の人生を活かすには常に自身のためではなく人類のために生きよ、と。私の宗教的信条でもある。
私が二〇〇七年二月に生み出した「人類意志こそ神」という真理は今もゆるぎない。
その結論ゆえに私は人類人主義と世界市民主義を支持する。
世界連邦を唱えるバハイ教はある意味では正しい。世界中心都市論と世界政府論を除いては。
ゆえに私は「宗教団体に所属しているか?」に関しては無宗教だが、「信仰を持つか?」については有信仰だ。
人類全体へのゆるぎない信仰。
警察犯処罰令第一条第三号「一定の住居または生業なくして諸方に徘徊する者は、三十日未満の拘留に処せられる」。私、危なかったなぁ。
ちなみに昨日は十五時すぎでマイナス三度だった。気温がプラスになることはなかった。
フードか帽子を被らないと顔が凍る。
キブツの子供は母親と離れて暮らす生活を強いられるので就学前は夜尿や指しゃぶりなどの情緒的未発達が見られる。
しかし子供の家での十八年間に及ぶ集団生活を経て、青年期になると非神経症ともいうべき環境適応能力と高い社会奉仕意欲を示すという。
人口の十%にも満たないキブツの人がイスラエルを率い、パレスチナ人どもから国を守ってきたと言っても過言ではない。
キブツはどこかスパルタと似ている。
母親の愛にくるまれてすくすく育ち、教育を終えて社会に出る際に新しい環境に適応できず引きこもりになったり神経症を患ったりする日本とは正反対である。
また家族という、気の違った両親の作る牢獄に囚われることなく、子供は成長することが出来る。そのことの、なんという幸福。
キブツ制度が全く善くて素晴らしいと賞賛するわけではないが、日本人はキブツなどの社会主義制度を少しは見習うべきだよ。
なぜ働けるし、働く意志のある人間が働けないのだ?労働力の余剰をどうして解決しようとしないのか?
ギリシャ的な暴動を起こしたいさね。ヘルメット、鉄パイプ、ナイフ、クロスボウ、火炎瓶を装備してさ。戦うんだ。
見えない何かと。
そのために私は筋トレを欠かさない。
正しい太り方をしよう。正しく太った人は美しい。
正しく太った人は、間違って痩せた人より美しい。
皆さんも親になれば分かると思うが、愚かな親は「子供は家庭にさえいれば良く育つ」と信じ、施設に預けられた子供を見ると「可哀想に!」なぞと言う。
これは親の傲慢であり、怠慢だ。
ある種の家庭に産まれた子供にとって、家庭とは牢獄に過ぎない。
悪しき家庭は普通の施設にさえ劣る。
もちろん、部下に怒鳴りつける上司がいるような施設は失格である。やたら怒鳴りつける父親がいるような家庭が失敗であるように。
家庭は人生の不条理の始まりである。結婚がそうであるように。
不倫の存在は結婚制度の不完全さと失敗を裏付けている。
なぜ男性は一人のやがては醜く老いる女性と共に生きねばならず、女性は一人の頑固で我が儘な男性に肉体を支配されなければならないのだ?
ならば結婚制度をなくし、複数の男性と複数の女性が乱交する交配を制度化すればいい。
そして交配を道徳とする。
これで家庭は消滅し、家庭起源の不幸も消え去る。
女性と子供を家庭という牢獄から解放しなければならない。
これはおいしいぞ
不満があるなら耐えてはならない。叫ばなければ、心弱き者はいつまでも弱いままだ。
INTER LUPOJ KRIU LUPE!
祖父の最初の記憶は航空機である。私は祖父の住む福岡まで航空機で遊びに行った。
両親の結婚式のときに某Hグループのエ���ベーター専門子会社の社長に就任したと聞くから、その時は既に退職していたのだろう。
それから祖父は奈良の西大寺に引っ越した。奈良での記憶はあまりにも大きい。
遊園地へ車で行く途中で私が寝てしまい、目覚めたら祖父宅の前だった。
祖父は三重県の山奥の出身で、憲兵として猿田彦神社を守っていたら終戦になったという。
カメラ好きで本好きだった。本好きは私まで遺伝したが、カメラ好きは父までの遺伝で止まってしまった。
最近、腰を痛めて歩行困難になったので東京区内に引っ越した。
父から連絡があり、今から急遽、私はAIRDO二十便で羽田空港へ向かう。
明日を迎えるかどうかは、分からないという。
こんなに揺れた飛行はチュニス・カルタゴ空港からシャルル・ド・ゴール空港への飛行以来だ。
連絡から二時間半で私はすでに機上の人だったため、荷物が近所徒歩五分の図書館へ行く際と同じ量である。
東京は雨が降っていることもあるけれど蒸し暑い。
この三ヶ月で私は巨大大陸辺縁にある弧状群島の知床から那覇までを一往復分移動したことになる。
私は行動する直前にはその行動について考えない。そのために行動に躊躇はない。
そのせいで今まで様々な困難があったけれど、今回は良かったのかもしれない。
考えてみれば祖父は昨日で八十四歳である。私があと四日で二十四歳であるように。
まだまだ十分とは言えないが神々に文句はつけられない年齢だ。
容態は少し落ち着いたようだが、まだ危ないらしい。
十二月六日に、大阪の釜ヶ崎で暴動事件が起こっていたという。引き金をひいたのは暴力的で犯罪的な西成警察署に���る労働者への暴行事件だった。
「連れて行かれた西成署の三階の個室で、四人の刑事に代わる代わる顔を殴られ、紐で首を締められ、足蹴りされ、挙句の果てに両足持たれて逆さ釣りにされた。気が遠くなると、スプレーをかけられたと言う。生活保護を打ち切ると脅かされて、その店に近づかないという始末書まで書かされている。」(西成署警察官の暴行に抗議する!)
年末における雇用問題の原因は、報道をみるかぎりでは労働者の選択肢の狭さに原因がある。
いや、労働者はそもそも選択なんてしたくはないのだ。だって仕事のために生きているわけではなく、生きるために仕事をしているのだから。
経営者はもちろん「仕事にために生きる人」を求めるだろう。已むをえないことだ。しかし従業員もそれに右に倣え、では自分で自分の首を絞めているようなものだ。面従腹背が必要である。
そういう意味で、日本の労働者は正社員も派遣社員も労働意識が低い。
企業が、「お客様のためにある」時代は終わりを告げた。これからは「従業員のためにある」企業が求められている。
労働力の均衡という面から見れば、学業を終えた健康な成人には自動的に職が与えられてしかるべきなのに。
情況の囚人という心理実験によれば、派遣社員も正社員になれば正社員ばりの働きをするし、正社員も派遣社員になればそれだけの働きをする。あらゆる面接や選別は無意味であって、人事が行うべきはしかるべき職を与え、仕事の結果を見て評価を与えるのではなく、「こういう結果であってほしい」という仮定の評価を実際に与えてしまうことだ。
十二月二十二日には札幌に帰る。
トロヤ点への新たなる月の飛来、止まない月震、超未来人類と新興恐竜との共存などについて有機的に考えようとしているが、果たせない。
六百円で大根サラダ・鴨肉三切・味噌汁・鳥肉たっぷりの丼物・アイスが食べられる地下一階のカフェ・ダイニングバーを見つけた。
十二月二十日に開店したジュンク堂へ行った。池袋級書艦だった。エスペラント関連書籍は十冊以上、なんと『百年の孤独』のスペイン語版も置いてあった。
札幌はジュンク堂、とらのあな、アニメイト、ブックオフの並びが熱い。
JRタワーのヴィレヴァンが狭いなぁ、嫌やなぁと思っていたらロフトの中にもあった。でも、ヴィレヴァン下北沢店の足元にも及ばない。
アリストテレスは貨幣を万物の尺度とする資本主義的世界を想定した。その一方でディオゲネスは貨幣を変造した罪でシノペを追放され、世界市民となった。彼は貨幣(常識、慣習)を変造したのだ。
純連のみそラーメンは美味しかった。
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180319 EXTRA
仏教の本はちょろっと読んだことがある。コンビニで売ってるようなレベルのやつね。
結論から言うと、信者たちによって加筆される前の「初期仏教」は自分の中でアリ。
胡散臭ぇーと思う人はこの続き読まないでいいや。
ざっくり説明するとシッダールタ(のちの釈迦)は恵まれた自分の立場や世間で苦しむ人々やらを包括的に見て、立場に関係なく存在する「生きる苦しみ」ってなんとかなんねーの?と思って城を出て、苦行の旅を始めるようになる。
途中で何人かの仙人的な人に会い免許皆伝レベルまで到達するも「やっぱ違くね?」って思って彼らの引き止めを振りきって独自の修行を続ける。
その後、父親が寄こした5人の従者が警護を兼ねて同行するようになり、シッダールタは彼らと共に苦行を続けるが、6年ほど続けた辺りで「意味ねーわこれ…」って思って修行を投げ出してしまう。その際従者達から「堕落者!」と罵られ、彼らは呆れてシッダールタの元を去ってしまう(警護兼ねてんのにいいのかよ…?って感じ)。
苦行の末に骨と皮状態になっていたシッダールタはとある村に立ち寄り水浴びをしていたところ、村娘の「スジャータ」からお粥をもらう。それを食べてからなんちゃらの樹の下で瞑想してたら、なんだかんだで全てを悟る(この時点でブッダとなる)。しかしあまりにハイブロウな内容なので「これを一般人に説明しても誰もついてこれないし、説明損だから伝えるのやめよう」という結論に達する。
しかし「梵天(幻覚?)」が目の前に現れ「根気よく説明してみろって!」と説得され、三度目でついに折���て一般人に教えを説く事を決意。
手始めに仲違いしてしまったかつての従者の5人の説得を試みる。最初は予想通り罵られまくったものの、話をし終えると「一理ある…」的に彼らは納得し、再び仲間に加わる。
それから6人でガンガン仏教を普及させ、やがて実家の父親と妻と息子も入信したりしつつ信者もどんどん増え、ブッダ自身は80歳まで布教を続けた。
・ ・
ブッダの死因は食中毒。説法で訪れたとある村の青年「チェンダ」に振る舞われたキノコ料理によるものだった。死の間際、信者達に対し「お前たち、チェンダが作った料理で私が死ぬんだから、チェンダが不信心者だと思うかもれない。けどそれは違う。そもそも自分はかつて骨と皮状態の時にスジャータがくれた料理がきっかけで悟りを開く事が出来たんだから、見返りを求めず他者に施しをできる者こそがとにかく尊いのだ」と説明し、「それと、自分の教えは口頭で聞いてそれを実践していく事こそが正しいんで、文字とかで記録は残さないように」と念押しして死ぬ。ここまでが「初期仏教」。
で、それから数十年か数百年経ってから信者達は結局ブッダの教えをテキストに起こし、加筆と改変を加えながらいくつかの宗派に枝分かれしてく事となる。その際、政治的な駆け引きやらなんやらに利用された為に当初のブッダの教えからは微妙にコンセプトがズレ、そこには改変者の都合や欲望が見え隠れしている。
それが現在の仏教。
・ ・
初期仏教にもオカルティックな脚色は多分にあるものの大筋では納得できる。なにしろ、あくまで個人の体験による記録なのだから。しかし、その人物を神格化し、あとづけ設定で過去のイベントまで脚色してしまったリミックス版はどうにもいただけない。より「バカでも分かる」ように完成度は上がっているものの、欺瞞と縛り(特定条件を満たした一定層だけが得するようなルール)の追加もハンパない。まあ、シンプルに言えば「お金と権力との結びつき」をいかに正当化するか、って部分に重きが置かれている。
なので、初期仏教以降の仏教はちょっとギャグと嘘入っているとしか思えないので、僕はあまり「畏れ多さ」を感じられない。そもそも、ブッダが説いていたそれは「畏れさせ、崇め奉らせるもの」ではない筈だ。現代の仏教のルールに当てはめたらチェンダの行動(気付かず毒入り料理を他人に振る舞った)とか、普通に地獄行きだろうし、とにかく仏教に入っていない連中は全員許されない的なコンセプトである点からして、ヤバい。
人付き合いの中で誰かを救うのも、誰かに救われるのも、救うつもりが結果的に相手を殺めてしまう事も含めすべては偶然だし、等価値っしょ。でも「無償の施し」だけは無条件に尊いっしょ…ってのが、本来ブッダが言わんとしていた事なはずだからだ。
・ ・
■こぼれ話▽ブッダが死んで、その墓として作られた土饅頭を重ねたものは「ストゥーパ」と呼ばれるようになった。これは「塔」という意味であり、塔という漢字自体が盛り土の上に草が生えたブッダの墓を表している。また、仏教が中国へ渡った際にストゥーパへの当て字で「卒塔婆(そとば)」という単語が作られ、日本の墓に添えられる「お経を書いた板」にも使用されるようになった(あの独特のシルエットは五重塔などのシルエットを模したものであり、墓のアイコンそのものである)。
エスパークスの武器に「ストゥーパー・キャノン」というのがあって、これがブッダの墓…すなわちインド神話的なものから引用されていると知った時、やっぱあの作品は奥深いな~、と思ったものだ。
オウエンスル
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Joy and Self-reliance
「人が生きるにあたって、無くてはならない5つのものがあります。何だか分かりますか?」
祖母の三周忌に、お寺の住職が供養と共に説教を施してくだった際の問いかけ。答えは、仏前に備えるものとイコールで、「水」「食事」「灯り」「香り(お香)」「花」だそうです。
黄泉の世界で暮らすためには、命を宿すための水と食料がなくてはならない。三途の川を渡る際に、行く先を灯りで照らさなくては前む道が見えない。この3つの要素の必要性は、多くの人が腑に落ちると思います。それでは、「香り」「花」は?ーこれらは無くても、生きるという点では成り立つのでは、と思う方もいるのではないかと。
住職のお話しは続きます。お釈迦様は、乳香を焚きしめ、瞑想をすることで平安の境地を目指しました。香りは、心の平安を保つために非常に重要なのだと。そして、人が生きる上では、華やぎが必要である、と。心を喜ばせ、健康な毎日を送るためには、花を、華やぎを、大切にすること。

形式的にただ5つの要素を仏前に備えるのでなく、毎日のお供えものは、それは現世を旅経った先人たちの、健やかな第二の生を祈るという行為の美しさに開眼した瞬間であり、同時に、私たちも豊かに現世を生きる上で、この5つの要素を大切にすることが、幸福度につながるのではないかと感じたのでした。
コロナウイルスの影響で、これまで享受してきた日常の���晴らしい側面が、自粛を求められてから早2か月以上。日々、メディアやSNSを開けば、コロナウイルスに関連する情報が消化不良な程、精神に、身体に、流れ込んできます。
無観客ライブ配信を行っていたライブハウスが、「この状況下でそのような行為を続けると警察に通報する」という警告を、一般市民から受けるなど、華やぎを生活の中に紡ぎだそうとする文化関係者が、『自粛警察』と言われる過度にある一点の視点に基づいた主張によって糾弾されるニュースを目にして、悲しい気持ちと、生きづらさを覚えたのは先日。
本日付けの朝日新聞に掲載されていた、養老孟司東大名誉教授の寄稿文『私の人生、「不要不急」? 再興した問い』を読みながら、誰かにとって有事の際には不要不急とみなされたとしても、自分にとっては一体なんなのか、常に『自分の頭で』考え続け、問い続けるしかないんだ、と実感します。
自分は解剖学をやっているが、それにはどういう意味があるのか。(中略)同業者にそれを言っても、それは哲学でしょ、そんなことを考える暇があったら、解剖学の勉強をしなさい、と言われるだけである。(中略)解剖学以外の医学関係の人に尋ねたら、解剖なんて杉田玄白でしょ、いまさらやることがあるの、と言われてしまう。
そこでやっと気が付く。自分のやることなんだから、すべては自分で考えるしかないんだな。
後年、夏目漱石のロンドン留学の話をしった。漱石はロンドンで文学論を勉強しようと思ったらしい。でも講義を聴いても、さっぱり参考にならない。(中略)留学の終わりごろになって気づく。文学論は教えてもらうものではない。自分でつくるものだ、と。漱石はそこではじめて自立した。私はそう感じて、漱石でもそうだったかと感動した。だから漱石の創作活動は留学以後から始まる。
なぜ自立の話なのか。不要不急は自分のことではない。そのモノサシは周囲、つまり世間という状況にある。自立しなければ世間に流されてしまう。
(養老孟司氏による寄稿、2020年5月12日、朝日新聞オンラインより)
文化は不要不急。そう考えられがちな状況に、ドイツ文部科学大臣 グリュッターズ氏の「アーティストは生命維持に必要」の一言に希望の光を見た。各文化機関が閉鎖されて、ここしばらく美術館やギャラリーなどを訪問できなくなった中で、アーティストから作品をひとつ買い、MoMAの「What is Contemporary Art?」のオンラインコースを受講しはじめました。コロナだから、こうしなくてはならない、ではなく自らにとってやはり大事なものとの接点を、誰かにとって不要不急でも続けるということ。

[Joy / Mariko Kobayashi] MoMAのオンラインコースでは、アートと触れる中には、自身を見出す時間があると、コンテンポラリーアートを学ぶ意義に触れていました。
意訳ではありますが、「(作品を通して)アーティストの思想が、観てくれる人々が存在するという事実によって、永遠に生き続けます。そして、アートの中に、あなた自身を見出すこと。あなた自身をアートを構成する上での重要な要素と捉えてほしいのです。観る人がいなければ、(作品は)完成し得ないのですから」と。
不安や自粛を促す情報の海に溺れそうになる今だからこそ、文化的華やぎに触れながらも、自分を内省して、例えばある作品の一部として自分をこの世界と交わらせてみる。そんな時間を大切に日々を送りたいと感じています。
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ひとみに映る影 第六話「覚醒、ワヤン不動」
☆プロトタイプ版☆ こちらは無料公開のプロトタイプ版となります。 段落とか誤字とか色々とグッチャグチャなのでご了承下さい。 書籍版では戦闘シーンとかゴアシーンとかマシマシで挿絵も書いたから買ってえええぇぇ!!! →→→☆ここから買おう☆←←←
(※全部内容は一緒です。) pixiv版
◆◆◆
人はお経や真言を想像するとき、大抵『ウンタラカンタラ~』とか『ムニャムニャナムナム~』といった擬音を使う。 確かに具体的な言葉まで知らなければ、そういう風に聴こえるだろう。 ましてそういうのって、あまりハキハキと喋る物でもないし。 特に私達影法師使いが用いる特殊な真言を聞き取るのはすごく難解で、しかも屋内じゃないとまず喋ってる事自体気付かれない場合が多い。 なぜなら、口の中を影で満たしたまま言う方が法力がこもる、とかいうジンクスがあり、腹話術みたいに口を閉じたまま真言を唱えるからだ。 たとえ静かな山間の廃工場であっても、よほど敬虔な仏教徒ではない人には、『ムニャムニャ』どころか、こう聴こえるかもしれない。
「…むんむぐうむんむうむむむんむんうむむーむーむうむ…」 「ヒトミちゃん?ど、どしたの!?」 正解は、ナウマク・サマンダ・バザラダ��・カン・オム・チャーヤー・ソワカ。 今朝イナちゃんは気付いてすらいなかったけど、実はこの旅でこれを唱えたのは二回目だ。
廃工場二階部踊り場に催眠結界を張った人物に、私は心当たりがあった。 そのお方は磐梯熱海温泉、いや、ここ石筵霊山を含めた熱海町全域で一番尊ばれている守護神。 そのお方…不動明王の従者にして影法師を束ねる女神、萩姫様は、真っ暗なこの場所にある僅かな光源を全て自らの背後に引き寄せ、力強い後光を放ちながら再臨した。
「オモナ!」 「萩姫…!」 驚きの声を上げたのは、テレパシーやダウジングを持たないイナちゃんとジャックさんだ。 「ひーちゃん…ううん。紅一美、よくぞここまで辿り着きました。 何ゆえ私だと気付いたのですか」 萩姫様の背後で結界札が威圧的に輝く。 今朝は「別に真言で呼ばなくてもいい」なんて気さくに仰っていたけど、今はシリアスだ。 「あなたが私達をここまで導かれたからです、萩姫様。 最初、源泉神社に行った時、そこに倶利伽羅龍王はいませんでした。代わりにリナがいました。 後で観音寺の真実や龍王について知った時、話が上手くいきすぎてるなって感じました。 あなたは全部知っていて、私達がここに来るよう仕向けたんですよね?」 私も真剣な面持ちで答えた。相手は影法師使いの自分にとって重要な神様だ。緊張で手が汗ばむ。 「その通りです。あなた方を金剛の者から守るためには、リナと邂逅させる必要があった。 ですが表立って金剛の者に逆らえない私は、敢えてあなた方を源泉神社へ向かわせました。 金剛観世音菩薩の従者リナは、金剛倶利伽羅龍王に霊力の殆どを奪われた源泉神社を復興するため、定期的に神社に通ってくれていましたから」 そうだったんだ。暗闇の中で、リナが一礼するのを感じた。
萩姫様はスポットライトを当てるように、イナちゃんにご自身の光を分け与えられた。 「金剛に選ばれし隣国の巫女よ」 「え…私ですか?」 残り全ての光と影は未だ萩姫様のもとにあって、私達は漆黒に包まれている。 「今朝、あなたが私に人形を見せてくれた時、私はあなたの両手に刻まれた肋楔緋龍の呪いに気がつきました。 そして勝手ながら、あなたの因果を少し覗かせて頂きました」 萩姫様は影姿を変形させ、影絵になってイナちゃんの過去を表現する。 赤ちゃんが燃える龍や肉襦袢を着た煤煙に呪いをかけられる絵。 衰弱した未就学の女の子にたかる大量の悪霊を、チマチョゴリを着た立派な巫女が踊りながら懸命に祓う絵。 小学生ぐらいの少女が気功道場で過酷なトレーニングを受ける絵…。 「はっきり言います。もしあなた方がここに辿り着けなかったら、その呪いは永遠にとけなかったでしょう。 あなただけではありません。このままでは一美、熱海町、やがては福島県全域が金剛の手に落ちる事も起こりうる」 福島県全域…途方もない話だ。やっぱりハイセポスさんが言っていた事は本当だったのか?
「萩姫様。あなたが護る二階に、いるのですね。水家曽良が」 決断的に譲司さんが前に出た。イナちゃんを照らしていた淡い光が、闇に塗りつぶされていた彼の体に移動した。 「そうとも言えますが、違うとも言えます、NICの青年よ。 かの殺人鬼は辛うじて生命力を保っていますが、肉体は腐り崩れ、邪悪な腫瘍に五臓六腑を冒され、もはや人間の原形を留めていません。 あれは既に、悪鬼悪霊が蠢く世界そのものとなっています」 萩姫様がまた姿を変えられる。蛙がボコボコに膨れ上がったような歪な塊の上で、燃える龍が舌なめずりする影絵に。 そして再び萩姫様の御姿に復帰する。 「若者よ。ここで引き返すならば、私は引き止めません。 私ども影法師の長、神影(ワヤン)らが魂を燃やし、龍王や悪霊世界を葬り去るまでのこと。 ですが我らの消滅後、金剛の者共がこの地を蹂躙する可能性も否定できません。 或いは、若者よ。あなた方が大量の悪霊が世に放たれる危険を承知でこの扉を開き、金剛の陰謀にこれ以上足を踏み入れるというのならば…」
萩姫様がそう口にされた瞬間、突如超自然的な光が彼女から発せられた。 カッ!…閃光弾が爆ぜたように、一瞬強烈に発光したのち、踊り場全体が昼間のように明るくなる。 「…まずはこの私を倒してみなさい!」 視界がクリアになった皆が同時に見たのは、武器を持つ幾つもの影の腕を千手観音のように生やした、いかにも戦闘モードの萩姫様だった。
◆◆◆
二階へ続く扉を堅固に護る萩姫様と、私達は睨み合う。 戦うといっても、狭い踊り場でやり合えるのはせいぜい一人が限界。 張り詰めた空気の中、この決闘相手に名乗り出たのは…イナちゃんだ! 「私が行きます」 「馬鹿、無茶だ!」 制止するジャックさんを振り切って、イナちゃんは皆に踊り場から立ち退くよう促した。
「わかてる。私は一番足手まといだヨ。だから私が行くの。 ドアの向こうはきっと、とても恐い所になてるから、みんな温存して下さい」 自虐的な言葉とは裏腹に、彼女の表情は今朝とは打って変わって勇敢だ。 萩姫様も身構える。 「賢明な判断です、金剛の巫女よ」「ミコじゃない!」 イナちゃんが叫んだ。 「…私はあなたの境遇に同情はしますが、容赦はしません。 あなたの成長を、見せてみなさい!」
イナちゃんは目を閉じ、呪われた両手を握る。 「私は…」 ズズッ!その時萩姫様から一本の影腕が放たれ、屈強な人影に変形! <危ない!>迫る人影! 「…イナだヨ!」 するうちイナちゃんの両指の周りに細い光が回りだし、綿飴めいて小さな雲に成長した! イナちゃんはばっと両手を広げ、雲を放出すると…「スリスリマスリ!」 ぽぽんっ!…なんと、漆黒だった人影がパステルピンクに彩られ、一瞬でテディベア型の無害な魂に変化した! 「何!?」 萩姫様が狼狽える。
「今のは…理気置換術(りきちかんじゅつ)!」 「知っているのかジョージ!?」 ジャックさんにせっつかれ、譲司さんが説明を始める。 「儒教に伝わる秘伝気功。 本来の理(ことわり)から外れた霊魂の気を正し、あるべき姿に清める霊能力や」 そうか、これこそイナちゃんが持つ本来の霊能力。 彼女が安徳森さんに祈りを捧げた時、空気が澄んだような感じがしたのは、腐敗していた安徳森さんの理が清められたからだったんだ!
淡いパステルレインボーに光る雲を身に纏い、イナちゃんは太極拳のようにゆっくりと中腰のポーズを取った。 「ヒトミちゃんがこの旅で教えてくれた。 悲しい世界、嬉しい世界。決めるのは、それを見る私達。 ヒトミちゃんは悲しいミイラをオショ様に直した。 だから私も…悲しいをぜんぶカワイイに変えてやる!」
「面白い」 ズズッ!再び萩姫様から影腕が発射され、屈強な影絵兵に変わった。 その手には危険なスペツナズナイフが握られている! 「ならば自らの運命をも清めてみよ!」 影絵兵がナイフを射出!イナちゃんは物怖じせずその刃を全て指でキャッチする。 「オリベちゃんもこの旅で教えてくれた」 雲に巻かれたナイフ刃と影絵兵は蝶になって舞い上がる! 「友達が困ったら助ける。一人だけ欠けるもダメだ」
ズズッ!新たな影絵兵が射出される。 その両手に構えられているのは鋭利なシステマ用シャベルだ! 「ジャックさんもこの旅で教えてくれた」 イナちゃんは突撃してくるその影絵を流れる水のようにかわし、雲を纏った手で掌底打ちを叩きつける! 「自分と関係ない人本気で助けられる人は、何があても皆に見捨てられない!」 タァン!クリーンヒット! 気功に清められた影絵兵とシャベルはエンゼルフィッシュに変形!
間髪入れず次の影絵兵が登場! トルネード投法でRGD-33手榴弾を放つ! 「ヘラガモ先生もこの旅で教えてくれた」 ぽぽんぽん!…ピヨ!ピヨ! 雲の中で小さく爆ぜた手榴弾からヒヨコが生まれた! 「嫌な物から目を逸らさない。優しい人それができる」 コッコッコッコッコ…影絵兵もニワトリに変化し、ヒヨコを率いて退場した。
「リナさんとポメラーコちゃんも教えてくれた!」 AK-47アサルトライフルを乱射する影絵兵団を掻い潜りながら、イナちゃんは萩姫様に突撃! 「オシャレとカワイイは正義なんだ!」 影絵兵は色とりどりのパーティークラッカーを持つ小鳥や小型犬に変わった。
「くっ…かくなる上は!」 萩姫様がRPG-7対戦車ロケットランチャーを構えた! さっきから思ってたけど、これはもはやラスボス前試練の範疇を越えたバイオレンスだ!!
「皆が私に教えてくれた。今度は私あなたに教える! スリスリマスリ・オルチャン・パンタジィーーッ!!!」 パッドグオォン!!!…ロケットランチャーの射出音と共に、二人は閃光の雲に包まれた! 「イナちゃあああーーーーん!!!!」
光が落ち着いていく。雲間から現れた影は…萩姫様だ! <そんな…> 「いや、待て!」 譲司さんが勘づいた瞬間、イナちゃんもゆっくりと立ち上がった。 オリベちゃんは胸を撫で下ろす。 「これが…私…?」 一方、自らの身体を見て唖然とする萩姫様は…
漆黒の着物が、紫陽花色の萌え袖ダボニットとハイウエストスキニージーンズに。 「そんな…こんな事されたら、私…」 市女笠は紐飾りだけを残してキャップ帽に変わり、ロケットランチャーは形はそのままに、ふわふわの肩がけファーポシェットに。 「私…もうあなたを攻撃できないじゃない!」 萩姫様はオルチャンガールになった。完全勝利!
「アハッ!」 相手を一切傷つけることなく試練を突破したイナちゃんは、少女漫画の魔法少女らしく決めポーズを取った。 「ウ…ウオォォー!すっげえなお前!!」 ファンシーすぎる踊り場に、この場で一番いかついジャックさんが真っ先に飛びこむ。 彼は両手を広げて構えるイナちゃんを…素通り! そのまま現代ナイズされた萩姫様の手を取る。 「オモナ!?」
「萩姫。いや、萩!俺は前から気付いていたんだ。 あんたは今風にしたら化けるってな! どうだ。あのクソ殺人鬼とクソ龍王をどうにかしたら、今度ポップコーンでもウワババババババ!!!!」 ナンパ中にオリベちゃんのサイコキネシスが発動し、ジャックさんは卒倒した。 オリベちゃんの隣にはほっぺを膨らましたイナちゃんと、手を叩いて爆笑するリナ。 「あっはははは、みんなわかってるゥ! ここまでセットで王道少女漫画よね!」
一方譲司さんはジビジビに泣きながらポメラー子ちゃんを頬ずりしていた。 「じ、譲司さん?」 「ず…ずばん…ぐすっ。教え子の成長が嬉しすぎで…わああぁ~~!!」 <何言ってるの。あんたまだ養護教諭にすらなってないじゃない> 「もうこいつ、バリに連れて行く必要ないんじゃないか?」 「嫌や連れでぐうぅ!向こうの子供らとポメとイナでいっぱい思い出作りたいもおおぉおんあぁぁあぁん」 「<お前が子供かっ!!>」 キッズルーム出身者二人の息ぴったりなツッコミ。 涙と鼻水だらけになったポメちゃんは「わうぅぅ…」と泣き言を漏らしていた。
程なくして、萩姫様は嬉し恥ずかしそうにクネクネしたまま結界札を剥がした。 「若者よ…あんっもう!私だって心は若いんだからねっ! 私はここで悪霊が出ないように見張ってるんだから…龍王なんかに負けたらただじゃ済まないんだからねっ!」 だからねっ!を連発する萩姫様に癒されながら、私達は最後の目的地、怪人��敷二階へ踏みこんだ。
◆◆◆
ジャックさんが前もって話していた通り、二階は面積が少なく、一階作業場と吹き抜け構造になっている。 さっきまで私達がいたエントランスからは作業場が見えない構造だった。 影燈籠やスマホで照らすと、幾つかの食品加工用らしき機材が見える。 勘が鋭いオリベちゃんと譲司さんが不快そうに目を逸らす。 <この下、何かしら…?直接誰かがいる気配はないのに、すごくヤバい気がする。 まるで、一つ隔てた世界の同じ場所が人でごった返しているような…> 「その感覚は正しいで、オリベ。 応接室はエレベーターの脇の部屋や。そこに水家がおる。 そして…あいつの脳内地獄では、吹き抜けの下が戦場や」 <イナちゃん。清められる?> 「無理です。もし見えても一人じゃ無理です。 オルチャンガール無理しない」 <それでいい。賢明よ。みんなここからは絶対に無理しないで>
譲司さんの読みは当たっていた。階段と対角線上のエレベーターホール脇に、ドアプレートを外された扉があった。 『応接室』のプレートは、萩姫様の偽装工作によって三階に貼られていた。 この部屋も三階の部屋同様、鍵は閉まっていない。それどころか、扉は半開きだった。
まず譲司さんが室内に入り、スマホライトを当てる。 「水家…いますか?」 私は申し訳ないが及び腰だ。 「おります。けど、これは…どうだろう?」 オリベちゃんがドアを開放する。きつい公衆トイレみたいな臭いが廊下に広がった。 意を決して室内を見ると…そこには、岩?に似た塊と、水晶でできた置物のようなもの。 岩の間から洋服の残骸が見えるから、あれが水家だと辛うじてわかる。 「呼吸はしとるし、脳も動いとる。けど恐ろしい事に、心臓は動いとらん。 哲学的やけど、血液の代わりにカビとウイルスが命を繋いどる状態は…人として生きとるというのか?」 萩姫様が仰っていた通り、殺人鬼・水家曽良は、人間ではなくなってしまっていたんだ。
ボシューッ!!…誰かが譲司さんの問いに答えるより前に、死体が突如音を立てて何かを噴出した! 「うわあぁ!?」 私を含め何人かが驚き飛び退いた。こっちこそ心臓が止まるかと思った。 死体から噴出した何かは超自然的に形を作り始める。 こいつが諸悪の根源、金剛倶利伽羅…
「「<「龍王キッモ!!?」>」」 奇跡の(ポメちゃん以外)全員異口同音。 皆同時にそう口に出していた。 「わぎゃっわんわん!!わぅばおばお!!!」 ポメちゃんは狂ったように吠えたてていた。 「邂逅早々そう来るか…」 龍王が言う…「「<「声もキッモ!!?!?」>」」 デジャヴ!
龍王はキモかった。それ以上でもそれ以下でもない、ともかくキモかった。 具体的に描写するのも憚られるが、一言で言えば…細長い燃える歯茎。 金剛の炎を纏った緋色の龍、という前情報は確かに間違いじゃない。シルエットだけは普通の中国龍だ。 けど実物を見ると、両目は梅干しみたいに潰れていて、何故か上顎の細かい歯は口内じゃなくて鼻筋に沿ってビッシリ生えて蠢いてるし、舌はだらんと伸び、黄ばんだ舌苔に分厚く覆われている。 二本の角から尾にかけて生えたちぢれ毛は、灰色の脇毛としか形容できない。 赤黒い歯茎めいた胴体の所々から細かく刻まれた和尚様の肋骨が歯のように露出し、ロウソクの芯のように炎をたたえている。 その金剛の炎の色も想像していた感じと違う。 黄金というかウン…いや、これ以上はやめておこう。二十歳前のモデルがこれ以上はダメだ。
「何これ…アタシが初めて会った時、こいつこんなにキモくなかったと思うけど…」 リナが頭を抱えた。一方ジャックさんは引きつけを起こすほど爆笑している。 「あっはっはっは!!タピオカで腹下して腐っちまったんじゃねえのか!? ヒィーッひっはっはっはっはっは!!」 <良かった!やっぱ皆もキモいと思うよね?> 背後からテレパシー。でもそれはオリベちゃんじゃなくて、踊り場で待機する萩姫様からだ。 <全ての金剛の者に言える事だけど、そいつらは楽園に対する信奉心の高さで見え方が変わるの! 皆が全員キモいって言って安心したよ!> カァーン!…譲司さんのスマホから鐘着信音。フリック。 『頼む、僕からも言わせてくれ!実にキモいな!!』 …ツー、ツー、ツー。ハイセポスさんが一方的に言うだけ言って通話を切った。
「その通りだ」 龍王…だから声もキモい!もうやだ!! 「貴様らはあの卑劣な裏切り者に誑かされているから、俺様が醜く見えるんだ。 その証拠に、あいつが彫ったそこの水晶像を見てみろ!」 死体の傍に転がっている水晶像。 ああ、確かに普通によくある倶利伽羅龍王像だ。良かった。 和尚様、実は彫刻スキルが壊滅的に悪かったんじゃないかって疑ってすみません。 「特に貴様。金剛巫女! 成長した上わざわざ俺様のもとへ力を返納しに来た事は褒めてやろう。 だが貴様まで…ん?金剛巫女?」 イナちゃんは…あ、失神してる。脳が情報をシャットダウンしたんだ。
「…まあ良し!ともかく貴様ら、その金剛巫女をこちらに渡せ。 それの魂は俺様の最大の糧であり、金剛の楽園に多大なる利益をもたらす金剛の魂だ! さもなくば貴様ら全員穢れを纏いし悪鬼悪霊共の糧にしてやるぞ!」 横暴な龍王に対し、譲司さんが的確な反論を投げつける。 「何が糧や、ハッタリやろ! お前は強くなりすぎた悪霊を制御出来とらん。 せやから悪霊同士が潰し合って鎮静するまで作業場に閉じこめて、自分は死体の横でじっと待っとる! 萩姫様が外でお前らを封印出来とるんが何よりの証拠や! だまされんぞ!!」 図星を突かれた龍王は逆上! 「黙れ!!だから何だ、悪霊放出するぞコノヤロウ!! 俺様がこいつからちょっとでも離れたら悪鬼悪霊が飛び出すぞ!?あ!?」
その時、私の中で堪忍袋の緒が切れた。
◆◆◆
自分は怒ると癇癪を起こす気質だと思っていた。 自覚しているし、小さい頃両親や和尚様に叱られた事も多々あって、普段は余程の事がない限り温厚でいようと心がけている。 多少からかわれたり、馬鹿にされる事があっても、ヘラヘラ笑ってやり過ごすよう努めていた。 そうして小学生時代につけられたアダ名が、『不動明王』。 『紅はいつも大人しいけど本気で怒らすと恐ろしい事になる』なんて、変な教訓がクラスメイト達に囁かれた事もあった。
でも私はこの二十年間の人生で、一度も本物の怒りを覚えた事はなかったんだと、たった今気付いた。 今、私は非常に穏やかだ。地獄に蜘蛛の糸を垂らすお釈迦様のように、穏やかな気持ちだ。 但しその糸には、硫酸の二千京倍強いフルオロアンチモン酸がジットリと塗りたくられている。
「金剛倶利伽羅龍王」 音声ガイダンス電話の様な抑揚のない声。 それが自分から発せられた物だと認識するまで、五秒ラグが生じた。 「何だ」 「取引をしましょう」 「取引だと?」 龍王の問いに自動音声が返答する。 「私がお前の糧になります。その代わり、巫女パク・イナに課せられた肋楔緋龍相を消し、速やかに彼女を解放しなさい」 「ヒトミちゃん!?どうしてそん…」 剣呑な雰囲気に正気を取り戻したイナちゃんが私に駆け寄る。 私の首がサブリミナル程度に彼女の方へ曲がり、即座にまた龍王を見据えた。イナちゃんはその一瞬で押し黙った。 龍王が身構える。 「影法師使い。貴様は裏切り者の従者。信用できん」 返事代わりに無言で圧。 「…ヌゥ」
私はプルパを手に掲げる。 陰影で細かい形状を隠し、それがただの肋骨であるように見せかけて。 「そ…それは!俺様の肋骨!!」 龍王が死体から身を乗り出した。 「欲しいですか」 「欲しいだと?それは本来金剛が所有する金剛の法具だ。 貴様がそれを返却するのは義務であり…」 圧。 「…なんだその目は。言っておくが…」 圧。 「…ああもう!わかった!! どのみち楔の法力が戻れば巫女など不要だ、取引成立でいい!」 「分かりました。それでは、私が水晶像に肋骨を填めた瞬間に、巫女を解放しなさい。 一厘秒でも遅れた場合、即座に肋骨を粉砕します」
龍王は朧な半物理的霊体で水晶像を持ち上げ、私に手渡した。 像の台座下部からゴム栓を剥がすと、中は細長い空洞になっていて、人骨が入っている。 和尚様の肋骨。私はそれを引き抜き、トートバッグにしまった。 バッグを床に置いてプルパを像にかざすと、龍王も両手を差し出したイナちゃんに頭を寄せ構える。 「三つ数えましょう。一、」 「二、」 「「三!」」
カチッ。プルパが水晶像に押しこまれた瞬間、イナちゃんの両手が発光! 「オモナァッ!」 バシュン!と乾いた破裂音をたて、呪相は消滅した。 イナちゃんが衝撃で膝から崩れ落ちるように倒れ、龍王は勝利を確信して身を捩った。 「ウァーーッハハハハァ!!!やった!やったぞぉ、金剛の肋楔! これで悪霊どもを喰らいて、俺様はついに金剛楽園アガル「オムアムリトドバヴァフムパット」 ブァグォオン!!!! 「ドポグオオォオォォオオオーーーーッ!!?!?」
この時、一体何が起きたのか。説明するまでもないだろうか。 そう。奴がイナちゃんの呪いを解いた瞬間、私はプルパを解放したのだ。 赤子の肋骨だった物は一瞬にして、刃渡り四十センチ大のグルカナイフ型エロプティックエネルギー塊に変形。 当然それは水晶像などいとも容易く粉砕する!
依代を失った龍王は地に落ち、ビタンビタンとのたうつ。 「か…かはっ…」 私はその胴体と尾びれの間を掴み、プルパを突きつけた。 「お…俺様を、騙したな…!?」 龍王は虫の息で私を睨んだ。 「騙してなどいない。私はお前の糧になると言った。 喜べ。望み通りこの肋骨プルパをお前の依代にして、一生日の当たらない体にしてやる」 「な…プルパ…!?貴様、まさか…!」 「察したか。そう、プルパは煩悩を貫く密教法具。 これにお前の炎を掛け合わせ、悪霊共を焼いて分解霧散させる」 「掛け合わせるだと…一体何を」
ズブチュ!! 「うおおおおおおおぉぉぉ!!?」 私はプルパで龍王の臀部を貫通した。 「何で!?何でそんな勿体ない事するの!? 俺様があぁ!!せっかく育てた悪霊おぉぉ!!!」 私は返事の代わりに奴の尾を引っ張り、切創部を広げた。 「ぎゃああああああ!!!」 尾から切創部にかけての肉と汚らしい炎が、影色に炭化した。 「さっき何か言いかけたな。金剛楽園…何だと? 言え。お前達の楽園の名を」 「ハァ…ハァ…そんな事、知ってどうする…? 知ったところで貴様らは何も」
グチャムリュ!! 「ぎゃああああぁぁアガルダ!アガルダアァ!!」 私は龍王の胴体を折り曲げ、プルパで更に貫通した。 奴の体の一/三が炭化した。 「なるほど、金剛楽園アガルダ…。それは何処にある」 「ゲホッオェッ!だ、だからそんなの、聞いてどうする!?」 「滅ぼす」 「狂ってる!!!」
ヌチュムチグジュゥ!! 「ほぎいぃぃぃごめんなさい!ごめんなさい!」 更に折り曲げて貫通。魚を捌く時に似た感触。 蛇なら腸や腎臓がある位置だろうか。 少しざらついたぬめりけのある粘液が溢れ、熱で固まって白く濁った。 「狂っていて何が悪いの? お前やあの金剛愛輪珠如来を美しいと感じないよう、狂い通すんだよ」 「うァ…ヒ…ヒヒィ…卑怯者ぉ…」 「お前達金剛相手に卑怯もラッキョウもあるものか」 「……」 「……」
ゴギグリュゥ!!! 「うえぇぇえぇえええんいびいぃぃぃん!!!」 更に貫通。龍王は既に半身以上を影に飲まれている。 ようやくマシな見た目になってきた。 「苦しいか?苦しいか。もっと苦しめ。苦痛と血涙を燃料に悪霊を焼くがいい。 お前の苦しみで多くの命が救われるんだ」 「萩姫ェェェ、萩イィィーーーッ!! 俺様を助けろおぉぉーーーッ!」 すると背後からテレパシー。 <あっかんべーーーっだ!ザマーミロ、べろべろばー> 萩姫様が両中指で思いっきり瞼を引き下げて舌を出している映像付きだ。 「なあ紅さん、それ何かに似とらん?」 譲司さんとオリベちゃんが興味津々に私を取り囲んだ。 「ウアーッアッアッ!アァーーー!!」 黒々と炭化した龍王はプルパに巻きついたような形状で肉体を固定され、体から影の炎を噴き出して苦悶する。 <アスクレピオスの杖かしら。杖に蛇が巻きついてるやつ> ジャックさんとリナも入ってくる。 「いや、中国龍だからな…。どっちかというと、あれだ。 サービスエリアによくある、ガキ向けのダサいキーホルダー」 「そんな立派な物じゃないわよ。 東南アジアの屋台で売ってる蛇バーベキューね」 「はい!」 目を覚ましたイナちゃんが、起き抜けに元気よく挙手! 「フドーミョーオーの剣!」 「「<それだ!>」」 満��一致。ていうか、そもそもこれ倶利伽羅龍王だもんね。
私は龍王の頸動脈にプルパを突きつけ、頭を鷲掴みにした。 「金剛倶利伽羅龍王」 「…ア…アァ…」 するうち影が私の体を包みこみ始める。 影と影法師使いが一つになる時、それは究極の状態、神影(ワヤン)となる。 生前萩姫様が達せられたのと同じ境地だ。 「私はお前の何だ」 「ウア…ァ…」 「私はお前の何だ!?」
ズププ!「ぐあぁぁ!!肋骨!肋骨です…」 「違う!お前は倶利伽羅龍王剣だろう!?だったら私は!?」 ズプブブ!!「わああぁぁ!!不動明王!!不動明王様ですうぅ!!!」 「そうだ」 その通り。私は金剛観世音菩薩に寵愛を賜りし神影の使者。 瞳に映る悲しき影を、邪道に歪められた霊魂やタルパ達を、業火で焼いて救済する者!
ズズッ…パァン!!! 「グウゥワアァァアアアアーーーーー!!!!」 完成、倶利伽羅龍王剣! 「私は神影不動明王。 憤怒の炎で全てを影に還す…ワヤン不動だ!」
◆◆◆
ズダダダァアン!憤怒の化身ワヤン不動、精神地獄世界一階作業場に君臨だ! その衝撃で雷鳴にも匹敵する轟音が怪人屋敷を震撼! 私の脳内で鳴っていたシンギング・ボウルとティンシャの響きにも、荒ぶるガムランの音色が重なる。 「神影繰り(ワヤン・クリ)の時間だ」
悪霊共は、殺人鬼水家に命を絶たれ創り変えられたタルパだ。 皆一様に、悪魔じみた人喰いイタチの毛皮を霊魂に縫い付けられ、さながら古い怪奇特撮映画に登場する半人半獣の怪人といった様相になっている。 金剛愛輪珠如来が着ていた肉襦袢や、全身の皮膚が奪われていた和尚様のご遺体を想起させる。そうか。 「これが『なぶろく』とか言うふざけたエーテル法具だな」 なぶろく。亡布録。屍から霊力を奪い、服を着るように身に纏う、冒涜的ネクロスーツ!
「ウアァアァ…オカシ…オヤツクレ…」 「オカシオ…アマアァァイ、カシ…オクレ…」 悪霊共は理性を失って、ゾンビのように無限に互いが互いを貪りあっている。 「ウヮー、オカシダァア!」 一体の悪霊が私に迫る。私は風に舞う影葉のように倶利伽羅龍王剣を振り、悪霊を刺し貫いた。
ボウッ!「オヤツゥアァァァー!」 悪霊を覆う亡布録が火柱に変わり、解放された魂は分解霧散…成仏した。 着用者を失った亡布録の火柱は龍王剣に吸いこまれるように燃え移り、私達の五感が刹那的追体験に支配される。 『や…やめてくれぇー!殺すなら息子の前に俺を、ぐわぁあああああ!!!』 それは悪霊が殺された瞬間、最後の苦痛の記憶だ。 フロリダ州の小さな農村。目の前で大切な人がイタチに貪り食われる絶望感と、自らも少年殺人鬼に喉を引き千切られる激痛が、自分の記憶のように私達を苛む。 「グアァァァーーー!!!」 それによって龍王剣は更に強く燃え上がる!
「どんどんいくぞぉ!やぁーーっ!!」 「グワアァァァーーー!!」 泣き叫ぶ龍王剣を振り、ワヤン不動は憤怒のダンスを踊る。 『ママアァァァ!』『死にたくなああぁぁい!』『ジーザアァーーース!』 数多の断末魔が上がっては消え、上がっては消え、それを不動がちぎっては投げる。 「カカカカカカ!かぁーっはっはっはっはァ!!」…笑いながら。
「テベッ、テメェー!俺様が残留思念で苦しむのがそんなに楽しいかよ、 このオニババーーーッ!!!」 「カァハハハアァ!何を勘違いしているんだ。 私にもこの者共の痛みはしかと届いているぞぉ」 「じゃあどうして笑ってられるんだよォ!?」 「即ち念彼観音力よ!御仏に祈れば火もまた涼しだ! もっともお前達は和尚様に仏罰を下される立場だがなァーーーカァーッハッハッハッハァー!!!!」 『「グガアアーーーーッ!!!」』 悪霊共と龍王剣の阿鼻叫喚が、聖なるガムランを加速する。
一方、私の肉体は龍王剣を死体に突き立てたまま静止していた。 聴覚やテレパシーを通じて皆の会話が聞こえる。
「オリベちゃん!ヒトミちゃん助けに行くヨ!」 「わんっ!わんわお!」 <そうね、イナちゃん。私が意識を転送するわ> 「加勢するぜ。俺は悪霊の海を泳いで水家本体を探す」 「ならアタシは上空からね」 「待ってくれ。オリベ。 その前に、例のアレ…弟の依頼で作ってくれたアレを貸してくれ」 <ジョージ!?あんた正気なの!?> 「俺は察知はできるけど霊能力は持っとらん、行っても居残っても役に立てん! 頼む、オリベ。俺にもそいつを処方してくれ!」 「あ?何だその便所の消臭スプレーみたいなの? 『ドッパミンお耳でポン』?」 「やだぁ、どっかの製薬会社みたいなネーミングセンスだわ」 <商品名は私じゃなくて、ジョージの弟君のアイデア。 こいつは溶解型マイクロニードルで内耳に穴を開けて脳に直接ドーピングするスマートドラッグよ> 「アイゴ!?先生そんなの使ったら死んじゃうヨ!?」 「死なん死なん!大丈夫、オリベは優秀な医療機器エンジニアや!」 「だぶかそれを作らせたお前の弟は何者だよ!?」
こちとらが幾つもの死屍累々を休み無く燃やしている傍ら、上は上で凄い事になっているみたいだ。 「俺の弟は、毎日脳を酷使する…」ポンップシュー!「…デイトレーダーやあああ!!!」
ドゴシャァーン!!二階吹き抜けの窓を突き破り、回転しながら一階に着地する赤い肉弾! 過剰脳ドーピングで覚醒した譲司さんが、生身のまま戦場に見参したんだ!
「ヴァロロロロロォ…ウルルロロァ…! 待たせたな、紅さん…ヒーロー参上やあああぁ!!!」 バグォン!ドゴォン!てんかん発作めいて舌を高速痙攣させながら、譲司さんは大気中の揺らぎを察知しピンポイントに殴る蹴る! 悪霊を構成する粒子構造が振動崩壊し、エクトプラズムが霧散! なんて荒々しい物理的除霊術だろう! 彼の目は脳の究極活動状態、全知全脳時にのみ現れるという、玉虫色の光彩を放っていた。
「私達も行くヨ!」 テレパシーにより幽体離脱したオリベちゃんとイナちゃん、ポメラー子ちゃん、ジャックさん、リナも次々に入獄! 「みんなぁ!」 皆の熱い友情で龍王剣が更に燃え上がった。「…ギャアァァ!!」
◆◆◆
さあ、大掃除が始まるぞ。 先陣を切ったのはイナちゃん。穢れた瘴気に満ちた半幻半実空間を厚底スニーカーで翔け、浄化の雲を張り巡らさせる。 雲に巻かれた悪霊共は気を正されて、たちまち無害な虹色のハムスターに変化! 「大丈夫ヨ。あなた達はもう苦しまなくていい。 私ももう苦しまない!スリスリマスリ!」
すると前方にそそり立つ巨大霊魂あり! それは犠牲者十人と廃工場の巨大調理器具が押し固まった集合体だ。 「オォォカァァシィィ!」 「スリスリ…アヤーッ!」 悪霊集合体に突き飛ばされた華奢なイナちゃんの幽体が、キューで弾かれたビリヤードボールのように一直線に吹き飛ぶ! 「アァ…オカシ…」「オカシダァ…」「タベル…」 うわ言を呟きながら、イナちゃんに目掛けて次々に悪霊共が飛翔していく。 しかし雲が晴れると、その方向にいたのはイナちゃんではなく… <エレヴトーヴ、お化けちゃん達!> ビャーーバババババ!!!強烈なサイコキネシスが悪霊共を襲う! 目が痛くなるような紫色の閃光が暗い作業場に走った! 「オカヴアァァァ…」鮮やかに分解霧散!
そこに上空から未確認飛行影体が飛来し、下部ハッチが開いた。 光がスポットライト状に広がり、先程霊魂から分解霧散したエクトプラズム粒子を吸いこんでいく。 「ウーララ!これだけあれば福島中のパワースポットを復興できるわ! 神仏タルパ作り放題、ヤッホー!」 UFOを巧みに操る巨大宇宙人は、福島の平和を守るため、異星ではなく飯野町(いいのまち)から馳せ参じた、千貫森のフラットウッズモンスター!リナだ! 「アブダクショォン!」
おっと、その後方では悪霊共がすさまじい勢いで撒き上げられている!? あれはダンプか、ブルドーザーか?荒れ狂ったバッファローか?…違う! 「ウルルルハァ!!!ドルルラァ!!」 猪突猛進する譲司さんだ! 人間重機と化して精神地獄世界を破壊していく彼の後方では、ジャックさんが空中を泳ぐように追従している。 「おいジョージ、もっと早く動けねえのか?日が暮れちまうだろ!」 「もう暮れとるやんか!これでも筋肉のリミッターはとっくに外しとるんや。 全知全脳だって所詮人間は人間やぞ!」 「バカ野郎、この脳筋! お前に足りねえのは力じゃなくてテクニックだ、貸してみろ!」 言い終わるやいなや、ジャックさんは譲司さんに憑依。 瞬間、乱暴に暴れ回っていた人間重機はサメのようにしなやかで鋭敏な動きを得る。 「うおぉぉ!?」 急発進によるGで譲司さん自身の意識が一瞬幽体離脱しかけた。 「すっげぇぞ…肺で空気が見える、空気が触れる!ハッパよりも半端ねえ! ジョージ、お前、いつもこんな世界で生きてたのかよ!?」 「俺も、こんな軽い力で動いたのは初めてや…フォームって大事なんやなぁ!」 「そうだぜ。ジョージ、俺が悪霊共をブチのめす。 水家を探せるか?」 「楽勝!」 加速!加速!加速ゥ!!合身した二人は悪霊共の海をモーゼの如く割って進む!!
その時、私は萩姫様からテレパシーを受信した。 <頑張るひーちゃんに、私からちょっと早いお誕生日プレゼント。 受け取りなさい!> パシーッ!萩姫様から放たれたエロプティック法力が、イナちゃんから貰った胸のペンダントに直撃。 リングとチェーンがみるみる伸びていき、リングに書かれていた『링』のハングル文字は『견삭』に変化する。 この形は、もしかして…
「イナちゃーん!これなんて読むのー?」 私は龍王剣を振るう右手を休めないまま、左手でチェーン付きリングをフリスビーの如く投げた。すると… 「オヤツアァ!」「グワアァー!」 すわ、リングは未知の力で悪霊共を吸収、拘束していく! そのまま進行方向の果てで待ち構えていたイナちゃんの雲へダイブ。 雲間から浄化済パステルテントウ虫が飛び去った! 「これはねぇ!キョンジャクて読むだヨー!」 イナちゃんがリングを投げ返す。リングは再び飛びながら悪霊共を吸収拘束! 無論その果てで待ち構える私は憤怒の炎。リングごと悪霊共をしかと受け止め、まとめて成仏させた。
「グガアァァーッ!さては羂索(けんじゃく)かチクショオォーーーッ!!」 龍王剣が苦痛に身を捩る。 「カハァーハハハ!紛い物の龍王でもそれくらいは知っているか。 その通り、これは不動明王が衆生をかき集める法具、羂索だな。 本物のお不動様から法力を授かった萩姫様の、ありがたい贈り物だ」 「何がありがたいだ!ありがた迷惑なん…グハアァァ!!」 悪霊収集効率が上がり、ワヤン不動は���に荒々しく炎をふるう。 「ありがとうございます、萩姫様大好き!そおおぉおい!!」
<や…やぁーだぁ、ひーちゃんったら! 嬉しいから、ポメちゃんにもあげちゃお!それ!> パシーッ!「わきゃお!?」 エロプティック法力を受けて驚いたポメラー子ちゃんが飛び上がる。 空中で一瞬エネルギー影に包まれ、彼女の首にかかっていた鈴がベル型に、ハングル文字が『금강령』に変わった。 「それ、クムガンリョン!気を綺麗にする鈴ね!」 <その通り!密教ではガンターっていうんだよ!> 着地と共に影が晴れると、ポメちゃん自身の幽体も、密教法具バジュラに似た角が生えた神獣に変身している。
「きゃお!わっきょ、わっきょ!」 やったぁ!兄ちゃん見て見て!…とでも言っているのか。 ポメちゃんは譲司さん目掛けて突進。 チリンリンリン!とかき鳴らされたガンターが悪霊共から瘴気を祓っていく。 その瞬間を見逃す譲司さんではなかった。 「ファインプレーやん、ポメラー子…!」 彼は確かに察知した。浄化されていく悪霊共の中で、一体だけ邪なオーラを強固に纏い続ける一体のイタチを。 「見つけたか、俺を殺したクソ!」 「アッシュ兄ちゃんの仇!」 「「水家曽良…サミュエル・ミラアァァアアアア!!!!」」
二人分の魂を湛えた全知全脳者は怒髪天を衝く勢いで突進、左右の拳で殺人鬼にダブル・コークスクリュー・パンチを繰り出した! 一見他の悪霊共と変わらないそれは、吹き飛ばされて分解霧散すると思いきや… パァン!!精神地獄世界全体に破裂音を轟かせ、亡布録の内側からみるみる巨大化していった。 あれが殺人鬼の成れの果て。多くの人々から魂を奪い、心に地獄を作り出した悪霊の王。 その業を忘れ去ってもなお、亡布録の裏側で歪に成長させられ続けた哀れな獣。 クルーアル・モンスター・アンダー・ザ・スキン…邪道怪獣アンダスキン!
「シャアァァザアアァァーーーーッ!!!」 怪獣が咆え���!もはや人間の言葉すら失った畜生の咆哮だ! 私は振り回していた羂索を引き上げ、怪獣目掛けて駆け出した。 こいつを救済できるのは火力のみだあああああああ!! 「いけェーーーッ!!ワヤン不動ーーー!!」 「頑張れーーーッ!」<燃えろーーーッ!> 「「<ワヤン不動オォーーーーーッ!!!>」」
「そおおぉぉりゃああぁぁぁーーーーーー!!!!」
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石
先日友人が、宮古の海岸で拾ったという小さな石を土産にくれた。四条イノダコーヒの奥、正装の老人が集まる赤く暗い席の片隅で。それは緑がかった不思議な灰色をしていた。これな、撫でてると落ち着くねん、と彼女。ただの石ころと言ってしまえばそれまでだが、今までもらった土産のなかでは一番嬉しかった。話を聞けば、震災の爪痕がまだ生々しく残る町で人々はみな明るかったとのこと。居酒屋「栄子」の栄子さんは店内の襖を指さし、腰あたりの高さに引かれた茶色い線をなぞりながら言ったそうだ――これ、つなみ。全てを楽しげに語る彼女はみずみずしい記憶そのものだった。ライブペイントの仕事で呼ばれたらしいが、それ以外も満喫できたようだ。海岸は今回もらったような石で埋め尽くされていたという。海と浜がひとつづきになって、春の太陽につぶつぶときらめく景色が目に浮かんだ。もらった石は仕事場のデスクの上に置いていて、気持ちを鎮めたいときにそっと触れている。ひんやりつるつるしていて、凪いだ海が指先から、時化た胸のなかにそっと入ってくる。そうしてぼんやり石を見つめていた時、それ何ですか? と隣席の同僚に聞かれた。友人の土産ですよと返したら、いい人ですね、と一言。そうなんです。いい石をくれる友人はなかなかいないのでとてもありがたい。ちなみに彼女の苗字には石の字が入っている。その他にも石が名前に付く友人は三人いて、みな私にいい思い出をくれる。やはり石と友人は大切にしよう。
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石といえば、私は小学生時代はちょっとした鉱物マニアで、いつのころからか近所の地学会館に出入りするようになっていた。そしてそこで売られている奇石をなけなしの小遣いで買ったり、公園で拾った珍しい柄の石を持ち帰ったりしては家で眺めるのが好きだった。一年ほどかけて黄鉄鉱やヘマタイト、水晶、黒曜石、方解石、蛍石、トルコ石、テレビ石、砂漠の薔薇などを手に入れ、触りながらその美しさにうっとりしていた。アンモナイトや縞瑪瑙もあった。砂岩や珪石、桜石、石英、大理石など目立たないものも持っていた。ところが確か小学六年の時である。夏休みの自由研究の発表で、集めた石を教室の後ろに展示したところ、すぐに誰かに盗まれてしまった。綺麗なものばかりがなくなっていた。当時のショックと悲しみは今でも忘れがたい。最後まで誰かが名乗り出ることも目撃者もないまま事件は忘れ去られた。私は誰が盗ったかわかっていたので悔しかった。結局、その犯人は後に別件で社会的制裁を受けることとなったため、それで恨みは晴れた。一時は頑張っても無駄だと悟った私に代わり、今やそいつが賽の河原のシシュフォスというわけである。事件以降、私は鉱物に対する熱意を失った。ただ、本当の鉱物マニアにならなくてよかったなとも思う。薄暗い研究室で顕微鏡を覗き続けていたら、私の場合は、今に輪をかけてひどい石頭になっていただろう。それでも未だに石には反応してしまうのだが。
*
なぜ人は石を集めるのだろうか。その心理の根底には、石への無意識な信仰があるように思える。人は原始、巨岩を崇拝した。そこにどこからともなく神が降りてくるのだという。依り代となった岩は、日本では磐座(いわくら)と呼ばれる。神山や三輪山の頂には注連縄を張られた岩があり、��自体が信仰の対象となっている。京都の岩倉には、山住神社という岩そのものを祀った社があり、当地名の発祥となった。アボリジニのウルルやイギリスのストーンヘンジなどもそうで、神聖な地とみなされている。私は、崇拝といえば人を象ったものや社殿など偶像へのそれがまず真っ先に思い浮かぶが、そういった技術以前の対象は人そのものを含む自然物の他になかっただろう(人の手による簡素な道具をそこに加えるとすれば、時代がやや下ってからのことかと思う)。確かに、背丈を超えるような大きさの岩には存在感がある。いや、「感」などという曖昧なものではなく、厳然たる存在がそこに鎮座する。その重みには、物理的な理由以外の動かしがたさがある。その変化は、人間のライフタイムでは測り知ることができない。何があっても頑なその姿に、人は父祖のような威厳を見たのではないか。そしてそこに自らの理想を重ね合わせたのではないか。古代人の考えは推測するよりほかないものの、じっさい岩には人を引き付ける力があり、そんな岩のかけらは、釈迦の遺骨を刻んだ仏舎利のように、物神のひとつになり得る。小石をポケットに入れる行為は、自分の分身たる守り神に守ってもらうことなのだろう。時々取り出しては、変わることのない自分の礎を思い出すために。
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ある時、鴨川の源流を探りたいと思って、愛車のシクロクロスを走らせて友人と雲ケ畑へと入った。岩屋山のふもとから祖父谷川を遡上し、舗装がなくなったので自転車を置いて徒歩で登る。その途上、狭まる川の向こうの崖に小さな滝を発見したので、真夏の登山で体が火照っていた私たちは、水を浴びようと石を渡り、対岸にたどり着いた。滝の下は踊り場のようになっていて、大人ふたりが立てるほどの広さがあった。薄っぺらいスニーカーでなんとかよじ登り、じゃぶじゃぶと頭から水をかぶって喉を癒す。その時、ふと目の端に何かを感じ私は横を向いた。すると苔むした岩肌には顔ほどの大きさの穴がぽっかりと開いていた。穴の奥は暗く、何かが潜んでいるような気がした。ちょっと怖いな、と友人は言った。私も、なぜかずっとは見ていられなかった。しばらくして、この内部の闇を静めるためにできるのは、洞の中に小石を置くことだと思った。言語以前の狂気を発し続ける、おどろおどろしいその口に舌を与え、いっそ祠にしてしまおう。そうすれば、自分に相対する無に意味が生まれ、祈りの所在がはっきりするだろうと考えたのだ。おそるおそる小さな丸石を置き、私たちはそこを後にした。そうしてところどころから湧く沢に源流を見定めたのち、迷いつつさらに北上していると知らぬ間に北山最高峰の桟敷ヶ岳に到達していた。山頂には惟喬親王がそこから都を眺めたと伝えられる岩がある。近くにあったベンチで小憩し、大反響するやまびこを楽しんでから、次の道を決めあぐねていたところ、京北側から登ってきたという人に出会った。地図を持っていないことを話すと、自殺行為ですねと言われ、丁寧に帰り道を教えてくれた。あとでわかったことだが、その先の京北へと続く道の名は石仏峠というそうだ。一度消失し近年になって再発見された幻の峠だという。考えてみれば、彼はひょっとすると何かの化身で、私たちが祀ったのは石仏のひとつだったのかもしれない。そして石を洞に祀っていなかったら彼の言う通りになっていたのかもしれない。空想としては面白いが、少しぞっとした。果たしてあの石はまだあるのだろうか。
*
試験勉強に倦み疲れ、誰の考えも援用せずに美について思案していたら、龍安寺の石庭が頭のなかに現れた。あの庭の魅力は石の配置で、どの角度から見てもある石が他の石を隠してしまい、一度に全十五個の石は見えないようになっている。また、短辺にある塀が手前から奥に向かって低くなるという、遠近法の錯視を利用した作庭がなされており、庭の形は白銀比の長方形になっている。作庭者が不明のため、石の配置の意味するものについては諸説ある。虎の子渡しの故事にちなむとか、禅の精神を示すとか、どこからどう飛躍したのかという感じだが、宇宙を表すとかいわれている。初めは私も宇宙なんぞ言いすぎだろうと笑っていた。しかし、考えを巡らせるほどに実はそれが解釈として正しいのではないかと思い始めた。というのも、もしその意図が本当であれば、一見ランダムながらごく適切に配置された石の群れは、あるがままにあるこの宇宙の一瞬とそのまま照応するからだ。私たちは何かしらの必然性があって存在しており、降り積もってゆく数々の「今」には確かな理由があるのだ。さらに、作庭者が不明であることにも宇宙発生の秘密とどこか共通するところがある。そうすると石庭とはいわば、四次元風景を切り取った三次元の写真ということになるのではないか。こんなことを言いながらも当時は石庭を画像でしか見たことがなかった。この仮説を確かめるべく、暇な私は龍安寺に向かった。鏡容池を囲む見事な回遊式庭園を過ぎて方丈に入り、いよいよ庭へ。観光客や修学旅行生でごった返すなか、なんとかぎゅうぎゅうに詰めて縁側の端に座る。人の声がうるさい。座禅や観想などできるわけがなかった。喧噪の中でぼんやりと見た石庭は石庭であった。けっこう広かった。ふーん、という感じで私はじっとしていた。試しに目をつぶってみると、なんとなく自分が見えない石のひとつになったような気がした。小一時間いて感じたのはたったそれだけであったが、それこそが宇宙なのだと自分を納得させて帰った。おそらくそれはあながち間違いではなかっただろう。常に、宇宙は容易く、世界は難しいのだ。
*
上賀茂神社から少し下ったところにある大田神社には、カキツバタで有名な沼(沢)がある。尾形光琳の絵の題材にもなったといわれる場所だ。ここの水は雲ケ畑から地下を通って湧いていて枯れることがないとか、水の中に踏み入れると足が腐るとかいう伝説がある。紫の花が一斉に咲く毎年五月には多くの人が見物に押し寄せるが、それ以外の時期は白茶けた地味な水辺で、あまり人もいない。私は秋から冬ごろにこの沼を見るのが好きだ。こぢんまりとした侘しさがそこにはある。大学生の時は自転車で社家町を抜けてよく訪れていた。楕円形でごく浅い沼の中央には、土が盛り上がってできた島がぽつんとあり、草木に覆われている。山から注がれる水の流入口には「蛇の枕」と呼ばれる石がちょこんと顔を覗かせている。昔はこの石を叩いて蛇を怒らせ、雨乞いの儀式をしていたという。このあいだ、その島のことを考えていると、それが何やら亀のように思えてきた。水から浮かび上がって甲羅の天日干しをしている。頭はどこかわからないが、尾の部分には水の流れがあり、そこには蛇がいる――。ここまで考えて私はひらめいた。とするならば、この構造はまさしく玄武の姿そのものだと言える。玄武とは亀の甲羅と頭を持ち、尻尾が蛇になっている神獣のことで、都の北方を守護しているとされる。東には青龍、西には白虎、南には朱雀が相当し、合わせて四神と呼ばれる。調べてみると、上賀茂神社には玄武が祀られているという話があった。私は意外な象徴を発見して驚いた。これは偶然か必然か。水のようにさらさらした想念が途端石のように固くなった。興奮のあまりその観念を詩に書いた。なかなかうまくできたと思う。しかし真実はどこにあるのだろうか。蛇はいつからか人前に出てくることもなくなり、石に首をもたせかけてずっと眠っている。
*
これを書きながら寝た次の日の朝に、夢をいくつも見た。そのうち三つほどはまだ思い出せる。じっさいは夢にも満たない露のようなものだったが、その味は濃かった。起きると岩肌がしっとりと濡れていて、予想以上に高く上がった太陽に黒く濡れ輝いているのを見つけた。
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2019
(「除夜の鐘」) 岐阜県関市、日龍峯寺です。 長い柱で支えられた姿から美濃清水とも呼ばれています。 平成最後の大みそか 特別な思いでお参りする人たちがいます。 山のふもと平成(へなり)地区の人たちです。 30年前、元号が平成になったことで同じ字の「へなり」は一躍、脚光を浴びました。 本尊の千手観音菩薩(ぼさつ)。 観光客でにぎわい活気づく地域を見守ってきました。 (「除夜の鐘」) 長年、地元の人たちによってつかれてきた年越しの鐘。 平成最後の大みそか。 時代に感謝を込めた鐘の音です。
(「除夜の鐘」) やわらかな光に照らされる湯煙。 群馬県、草津温泉です。歴史は、およそ1300年。 「恋の病以外、すべて治す」といわれ毎年300万人ほどが訪れます。 温泉街を見守るように建つ草津山光泉寺です。 (「除夜の鐘」) 硫黄分を含んだ湯気にさらされてさびつきまだら模様になった鐘。この地域の自然の厳しさを物語っています。 ことしの年越しを地域の人たちは切実な思いで迎えました。 1月に草津白根山が噴火。客足が遠のきました。 (「除夜の鐘」) 温泉街に並ぶおよそ600のキャンドルには新しい年への決意が 記されています。これからも温泉とともに。 変わらぬ草津の願いです。 (「除夜の鐘」)
高瀬≫こちらは東京スカイツリーです。 和久田≫今、日の丸があがってきて、新年を迎える 特別なライトアップに変わりました。
2人≫こんばんは。 和久田≫ことしも残すところ10分を切りました。 まもなく平成最後の年越しを迎えます。 高瀬≫私たちが今、いるのは地上350mの展望デッキです。 営業は先ほど10時に終わりましたが 特別に開けていただきました。 和久田≫この東京の夜景。平成の30年の間に変わり続けてきました。 こちらは葛西臨海公園です。平成元年にできて以来多くの家族連れでにぎわっています。 高瀬≫そして、こちらは六本木ヒルズをはじめとした 高層ビル群です。平成に入り次々に建てられました。 和久田≫この夜景の中に年越しを前に大いに盛り上がっている場所があります。 大槻さん。
大槻≫見渡す限りの人、人、人! ここがどこだか分かるでしょうか?東京・渋谷のスクランブル交差点です。 年越しの瞬間を待ちわびる人たちでごった返しています。 私のすぐ横にまで人が来ています。 手を振ってくれる人がいました。ありがとうございます、皆さん。 集まった皆さん、見てみますと若い人、それから外国人の方が目立ちます。年越しが近づきまして先ほどから歓声が上がったり拍手も聞こえるようになってきました。 ただ、この渋谷10月のハロウィーンで一部の人たちが軽トラックを横転させるなど大きな混乱がありました。スクランブル交差点では警察官が出てマナーを守るよう呼びかけています。 新年まであと10分を切りました。 熱気も高まってきています。にぎやかに楽しくでも、トラブルのない年越しになってほしいです。東京・渋谷でした。
高瀬≫ちょっと心配なんですけどね。和久田≫ひときわ にぎやかでしたがどうぞ、安全に気をつけて お過ごしいただきたいですね。 高瀬≫平成の30年 生活は便利になって豊かになった半面 私たちはこれまでにない自然災害に次々と見舞われました。
(「除夜の鐘」) 岡山県倉敷市真備町にある源福寺です。 7月の西日本豪雨で本堂が水につかり大きな被害を受けました。 寺の周りの住宅に明かりはほとんどともっていません。 豪雨で檀家の3人が亡くなり多くの人が今も自宅に帰れないままです。壁土や床板が剥がされたままの本堂。 復旧のめどは立っていません。 (「除夜の鐘」) 境内の高台に建つこのお堂は かろうじて被害を免れました。 地域の人たちに親しまれてきた本尊の聖観音です。 本堂で水に流さればらばらになりましたが住職の手で修復されここに安置されました。くる年の平穏を祈り読経が続きます。
(「除夜の鐘」) 毎年、行列ができる鐘楼ですが ことしは自宅に戻れた人避難先から足を運んだ人などで鐘をつきます。 一日も早く町に明かりが戻ってほしい。願いを込めた鐘の音が響きます。
北海道厚真町です。 ことし9月震度7の地震に見舞われました。気温は氷点下7度。 厳しい寒さの中での年越しとなりました。120年前に建てられた厚真神社です。北陸などから移り住み一から米作りを始めた開拓農民の心のよりどころに なってきました。 地震で大きな被害を受けことしは臨時の祭壇が設けられました。五穀豊じょうに感謝する秋の祭りで100年にわたり使われてきたみこしです。 ことしは祭りの直前に地震が起きたため出番がありませんでした。参拝客にふるまわれているのは地元・厚真の温かい牛乳です。 酪農の復興を後押ししようと甘酒の代わりに用意されました。 (「祝詞」) 厚真町で失われた36人の尊い命。 そして、大きく傷ついた基幹産業の農業。 来年こそは豊かな実りをみんなで祝いたい。 復興への祈りです。
(「除夜の鐘」) 国宝・五重の塔がそびえる奈良・興福寺です。 創建された奈良時代には平和と繁栄を願った国づくりが進められました。ことし、1300年前と同じ姿でよみがえった、お堂があります。 本堂にあたる中金堂。高さは、およそ20m。 国内でも最大級の木造建築です。 66本ある巨大なけやきの柱はアフリカから運ばれたものです。 再建は平成3年から始まり次の時代を前にようやく果たされました。 屋根瓦は、およそ8万枚。 その裏には寄進した人々の平和を願うことばが刻まれています。 (「除夜の鐘」) 本尊の釈迦如来像です。その周りを国宝の四天王像などが囲んでいます。 そして色鮮やかに復元された法相柱。 興福寺の教義法相宗の発展に尽くした14人の僧侶が描かれています。 現代によみがえった安寧を願うまなざしです。次の時代が安らかで平和な世の中でありますように。 平成最後の除夜の鐘です。 (「除夜の鐘」) 高瀬≫新しい年が始まりました。 和久田≫東京スカイツリーからは東京ディズニーランドの 新年を祝う花火が見えます。今夜はカウントダウンイベントで 多くの人が来場しているということです。 2人≫あけましておめでとうございます。 和久田≫2019年平成31年の幕開けです。 高瀬≫いよいよ平成最後の年が始まりましたね。 和久田≫皆さんどんなことを願って年を越したでしょうか。 高瀬≫新年を迎えてあの場所はどうなっているでしょうか。東京・渋谷です。 大槻≫あけましておめでとうございます。こちらは、大変な盛り上がりです。 年越しの瞬間にはカウントダウンの大合唱が起こりました。 そして、まさに年越しの瞬間。 道路を埋め尽くした人からは大歓声が起こりました。 今も周りの人と抱き合ったりあるいは写真を撮ったりする人たちの姿が見られます。 にぎわいはこのあとも続きそうです。 和久田≫大変な熱気でしたね。 高瀬≫当然といえば当然なんですけど いつの時代も若い人たちは元気です。 和久田≫それでは新たな年新たな時代に希望を込めた 各地の様子です。
みかんの産地で知られる愛媛県宇和島市吉田町です。 (「除夜の鐘」) みかん畑に囲まれた大乗寺です。 300年以上にわたって地域の信仰を集めてきました。 あけましておめでとうございます。 新年を迎えて、こちらにも次々とお参りの方がいらっしゃっています。その多くは、みかん農家です。 皆さんが大切にしてきたものがあります。 この20cmほどの小さな観音様。抱えているのは、みかんなんです。 「みかんの観音様」と呼ばれ親しまれてきました。 (「除夜の鐘」) 農家にとって平成は厳しい時代でした。 オレンジの輸入自由化 高齢化も深刻な問題となっています。 そして去年は西日本豪雨もありました。 崩れた畑や山は、この地域だけで2000か所以上に上ります。 しかし愛媛の農家はへこたれません。皆さんが手にしているのは豪雨を乗り越えて収穫したみかんです。 傷がついたものもありますがこの冬もおいしいみかんができました。 若手農家の皆さんです。 皆さんご苦労されたと思いますがしっかり実りましたね。 小ぶりなものができたりはしてますが味は例年どおり、おいしいものが出来上がってます。 ことしは復興元年なんでみんなで頑張ります。 ことしは実りの多い年になりますようにと 皆さん、願っています。(頑張るぞ!)
沖縄本島最南端 糸満市にある摩文仁の丘。 74年前の沖縄戦最後の激戦地です。 ここで40年以上前から変わらず行われている年越しの祭りがあります。 集まった人たちが手にするのは戦没者を慰霊するともしびです。 およそ400人がたいまつを掲げ新しい年の平和を願います。平成の間も沖縄は変わることなく平和を訴え続けてきました。 これまで天皇陛下が9回訪問された沖縄平和祈念堂です。 沖縄戦では20万人以上が犠牲となりました。 その名簿が納められた平和祈念像の前で祈りが続いています。 次の時代こそ争いがなくなりますように。 思いを込めた、たいまつの火が沖縄の空を照らします。
(「お囃子」) 岩手県釜石市、鵜住神社です。境内のすぐ下まで東日本大震災の津波が 押し寄せました。 鵜住居虎舞の新年初奉納が行われています。 新たな年が災いのない一年になることを願う虎舞。 津波で頭や笛などが流され存続が危ぶまれましたが全国各地から道具が寄せられ震災以来初めて年越しに合わせて奉納できるようになったのです。 あの日、1000人以上が犠牲になった釜石市。 母親と高校生の一人娘を亡くした岩鼻金男さんです。 娘が好きだったお囃子を奏でます。 震災から8年となる、ことしは釜石の人たちにとって希望の年です。神社のある、この地域の土地は1.7mほど、かさ上げされ3月にはすべての整備が完了します。 町には明かりがともり始めています。 そして「ラグビーのまち」釜石に新たにスタジアムが造られました。 秋には、ここでラグビーワールドカップの試合が行われます。 市民がともす希望の光。 それでは、3、2、1…。 ハッピーニューイヤー! 大会を成功させ復興へつなげたい。 新たな町で前へと進みます。 高瀬≫今の中継でもあったようにことしはラグビーワールドカップ そして、来年には東京オリンピック・パラリンピックが開かれ世界中から多くの人たちが日本にやってきます。 和久田≫画面の奥にあるのがその玄関口の一つ、羽田空港です。 平成22年に国際化し24時間、海外からの観光客を受け入れています。 高瀬≫その羽田空港に林田アナウンサーがいます。林田さん。 ハッピーニューイヤー! 林田≫あけましておめでとうございます。 羽田空港国際線ターミナル大勢の外国人観光客の皆さんでにぎわっています。フィリピン。マレーシア。 林田≫こうした外国人観光客の数実は平成の30年間でおよそ10倍にも増えたんです。空港も工夫を凝らしてもてなしていますよ。それが、こちらです。 和久田≫これは橋ですか? 林田≫そうなんです。 こちらかつて江戸の中心にあった日本橋です。 出発ロビーの一角にかかるその名も、はねだ日本橋。 江戸時代は旅の起点となっていました。 羽田から世界へ。 今もその役割を担いたいと当時の半分のサイズで再現しました。 さらに江戸の町並みのにぎわいにふれてもらおうという工夫もあります。こちらは祭りの山車をイメージしたものです。この広場でひときわ目にひくのが 壁一面をびっしりと木札が埋め尽くしています。こちら、訪れた皆さんがそれぞれの願い事を書いているものなんです。 どんな願いがあるんでしょうか。 こちら中国語で家族で新しい年も一家順調に 過ごせますようにと書かれています。 お隣、ラブ アンド ピース。世界平和を祈るメッセージです。新しい一年が幸せであってほしい。 その願いは世界共通です。
群馬県、草津温泉です。 年が明けてにぎわいを増しています。あけましておめでとうございます。こちらでは地域の人たちが総出で温かい甘酒を観光客の方にふるまっているんですね。 去年は草津白根山の噴火がありましたがそうした中でも温泉を支えてくれたお客さんに感謝の気持ちを伝えたいと今回、初めて企画をしたんです。 それではにぎやかな一年になりますように願いを込めて! 草津よいとこ、一度はおいで!
平成地区がある岐阜県関市の日龍峯寺です。 ここは本堂から少し離れた場所です。 地元の参拝者の皆さんが集まっています。 皆さんあけましておめでとうございます。 皆さん、今年越しそばを召し上がっていますが平成最後ということで 今回限定の特別な年越しそばということなんですね。中を拝見しますと そばの具に「平成」と書かれています。 この文字を見てピンときた方いらっしゃるかもしれません。 30年前、平成の元号が発表されたときのこの文字をかたどりました。お話、伺ってみます。
お食事中に失礼します。いよいよ平成最後の年が 始まりましたけども今、どんなお気持ちですか? 平成時代はもうじき終わりますがこの村の人たちにとって平成は永久に不滅です。 では、皆さん最後に、せーの…。≫ありがとう、平成!
高瀬≫4か月後の5月1日 平成は終わりを告げ新たな時代を迎えます。 この30年間どんな時代だったでしょうか。 和久田≫つらかったこと楽しかったこと一生忘れられない思い出。 一人一人、かけがえのない日々が積み重なった30年だったと思います。 高瀬≫2019年そして新しい時代が…。 2人≫皆さんにとってすばらしい未来となりますように。
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【旅の記:博多ツアー2017年冬⑰高傳寺】
さ、この日も結構歩いています。。高傳寺にやってまいりました。曹洞宗の寺院で山号を恵日山、高傳禅寺とも言います。ご本尊は釈迦如来。1552年に龍造寺家家臣だった鍋島清房が創建。以後、佐賀藩鍋島家の菩提寺となっています。明治4年鍋島家11代直大により点在していた龍造寺・鍋島両家の墓所を集めて整備しました。
龍造寺家は肥前佐賀の国人で九州千葉家に仕えていたが、室町時代千葉氏に代わって北九州の守護となった少弐氏似る仕える。その後龍造寺家兼の時代に実力をつけていって大内氏に通じ、1535年少弐氏を裏切り自害に追い込み、大内氏庇護のもと独立、戦国大名となる。しかし主家裏切りと下剋上の恨みを買い、少弐氏重臣たちの調略により一族を多く殺され、一時壊滅的な状況に。生き残った家兼は筑後の蒲池鑑盛の厚い庇護を受け再起、大内氏の力を背景に家兼の後を継いだひ孫の隆信が龍造寺本家の家督も継承する。1551年大内義隆が家臣・陶晴賢の謀反で斃れると、後ろ盾を失い家臣の裏切りに会い、再び筑後柳川城城主蒲池鑑盛に身を寄せる。1553年蒲池氏の助けを借りて肥前を奪還し、その後は��力を拡大。かつて主家であった少弐氏を完全に滅ぼし、肥前の国人を次々と下して1562年ころまでに東肥前を支配する。この急速な勢力拡大は周辺の大名を震撼させ、豊後の大友宗麟もこれを危険視し肥前に侵攻するが、龍造寺家家臣で義兄弟でもある鍋島直茂が安芸毛利氏に大友領への侵攻を要請して撤退させ、大友氏再度の侵攻も直茂の夜襲によって撃退する。これ以降直茂の存在はとても大きなものとなる。 これ以降、大友氏の圧力は完全に排除できなかったものの着実に力を蓄え領土を拡大、1578年有馬氏を下して肥前の統一を果たす。その年大友宗麟が耳川の戦いで島津義久に大敗すると、混乱に乗じて大友氏の領国を席捲、国衆たちを服属させて戦国大名となる。1581年には隆信と直茂が図り、大変お世話になった蒲池鑑盛の息子・鎮漣を肥前に誘い出して誅殺し柳川を制圧した。(鎮漣には島津家への内通があったようですが、お世話になったのにあまりにもひどい仕打ち、、という話にはなったようです)鍋島直茂は筑後の国政を担当することになるが、この頃調子に乗っていた隆信が直茂を疎んじ、離れた筑後を任せたとも言われる。しかしこの蒲池氏殺害は諸将の離反を招き、1584年龍造寺家の興隆を警戒していた島津氏が龍造寺から離反した有馬氏に協力して沖田畷の戦いが起こり、この戦いでなんと隆信は陣中討ち死にをしてしまう。戦場からかろうじて落ち延びた直茂は、一度は自害しようとするが、家臣に止められて肥前まで退き、隆信の息子・政家を補佐して島津家とのよりよい条件での講和を取り付ける。しかし島津氏に恭順すると見せかけて、早くから中央の豊臣秀吉に通じ、九州征伐がはじまるといち早く島津氏とは手切れとし、立花勢とと共に龍造寺勢も先陣を担って大いに働いた。
秀吉に高く評価された鍋島直茂は龍造寺氏とは別に所領を安堵され、政家に代わり国政を担うようになり、朝鮮出兵でも龍造寺家臣団を率いて参加する。 1600年関ヶ原の戦いでは、最初息子の勝茂が西軍に参加するが、直茂は東軍勝利を予測して、尾張方面の穀物を買い占め目録を家康に献上。関が原本戦前には勝茂を戦線から離脱させている。さらには近隣の西軍諸将の居城を攻め、久留米城を攻略、立花宗重の柳川城を降伏開城させた。一連の行動により家康から肥前国佐賀35万7千石は安堵されることとなる。 龍造寺政家の子・高房は幕府に対して実権回復を働きかけるが、幕府は鍋島直茂・勝茂の龍造寺からの禅譲を認め、また隆信の弟たちもこれを支持した。このことで直茂を恨んだ高房は直茂の養女である夫人を殺し、自殺を図った。直茂は隠居していた政家に「おうらみ状」という、高房を非難する書状を送る。高房は再度自害に及び死去した。。 その後、直茂は龍造寺家への敬意を表しながらも鍋島氏の藩統治を強固なものにしていった。しかし、直茂は龍造寺家への遠慮があってか藩主の座に就くことはなく、息子勝茂が初代藩主となっている。 1618年、直茂は耳にできた腫瘍による激痛の中悶死したとされ、これは高房の亡霊の仕業ではないかと噂されたそうです。。

鐘楼。

釈迦堂。

立派な山門!

ご本堂。受付で住職さんが丁寧に対応してくださり、本堂の電気もつけてくれました。

当時には日本最大級の涅槃図があるそうですが、残念ながら公開はしていない時期でした。。

大隈重信がこどものころに登って老僧に怒られたという槙の木。大隈の用命にちなんで八太郎槙と呼ばれる。やんちゃだったんだなぁ。

義祭同盟を中心となって結成した枝吉神陽の墓と、その弟でもあり外務卿を務めた副島種臣のお墓があります。書家としても有名な種臣は江藤新平の墓碑銘を手掛けた。

本堂裏手には龍造寺・鍋島氏のお墓がずらりと!

明治に入り西洋化がすすみ、廃仏毀釈の風潮のなかで11代直大は両家のお墓を集めて整備したという。。

梅の時期はとてもきれいだそうです。


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韋駄天スカンダ(神話伝説まとめメモ)
いつの間にか出張ってる韋駄天スカンダです。 出生はいろいろごたごたしますが、火神、ガンガー、破壊神、草原、ヒマラヤの娘、クリティッカーすばるの加護を受け、生まれて四日で天界の将軍となり神々が手を焼いたアスラの王をぶっとばした軍神です。 スカンダ、カルティケーヤ、スブラフマニヤ、クマーラ、ムルガン、グハをはじめとして64の名を持つ検索泣かせ。(スブラフマニヤ、って、「ブラフマーに愛されたもの」だって)
インドラ神とクラウンチャ山まで駆けっこしたところ、クラウンチャ山が不利な証言をして負け判定になったので、腹立ててマヒシャアスラ(追っかけてた敵)と組んでクラウンチャ山に大穴あけて峠にした。
アスラと戦ったところ、相手が木に姿を変えて命乞いをした。 その木を真っ二つにしたところ、孔雀と雄鶏の旗が出てきた(ので愛用)
アスラの王ターラカを倒したが、孔雀として生き返らせてそばに置いた。
ヴァーチュ女神(言論の神、後にサラスヴァティー女神と習合)の息子が人間なので天界へ上れず地上を放浪することになった。すると友達が旅に出て帰らないことを悲しんだスカンダ神が悲しんで寝込んでしまい、母が心配する。(結末を忘れました)
ブラフマー神にオームという文字の意味について尋ねるが、いくらブラフマー神が説明しても満足せず、自分が答えを知っているという。シヴァ神が聞き出そうとしたが、教えると言うことは自分が師だから、目より高いところに座らせろという。 ようし、と、腕に乗せて肩の高さに乗せたところ、一言でΩの文字の真髄を言い当て、シヴァ神は喜んだ。
ブラフマー神が犠牲祭の山羊を逃がしてしまったので、スカンダに捜索を頼んだところ、ヴィシュヌ神の家で発見。山羊と一緒に走っていったスカンダは、やがて手ぶらでブラフマー神のところに戻り、犠牲祭は自分が済ませました、と、告げた。
シヴァお父さんが托鉢でもらってきたご飯をガネーシャお兄さんとネズミのムシカと、クジャクのパラヴァニと一つ鉢でほぼ食べてしまった。お母さんほんの少し。その後貧乏についてお父さんとお母さんが喧嘩してお母さん息子二人連れて家出という展開に。
ガネーシャお兄さんとなんか賭けて地球を回ってくる駆けっこして、とんちで負け、南へ家出。 家出した先で、アスラのイドゥンバンが山運んでたところ、その山でヒッチハイクして喧嘩して(中略)、イドゥンバンを仲間にした!
インド神話子供枠独占する勢いです。あと、喧嘩っ早い。切る前に話を聞こう!
孔雀のパラヴァニは、元アスラのターラカ。 ターラカが「星」、パラヴァニが「年」の意味で、夜空をパラヴァニにまたがって駆けることで天体が正常化する、と見たのはpixiv百科事典で、原典がどこかまではたどり着いてません。 でも、太陽が地に落ちて真っ暗な空を、孔雀の尾羽が星になって輝く、ゆっくり移動していく、っていうのはよい幻想です。…アグニが朝の象徴なので、スカンダが夜の子なのがいい感じ。
仏教に取り入れられてからは誤字から道教の韋将軍信仰と習合され、布袋さんや関さんと仲良くなり、日本にも禅宗の頃やってきて、庫裏の守護としてだいたい落ち着きます。 黄檗宗のお寺では、布袋さんと背中合わせに祀られ、他の禅宗では庫裏に祀られます。
お釈迦様の骨を鬼が盗んで走り去ったのを、帝釈天の命令で追いかけて取り返したから、俊足を韋駄天走りという、とか、お釈迦様に世界中を走り回って食事を用意したので、ご馳走という言葉になったとか、地味に長くインパクトのある言葉の元になったり。
お寺で、お供えものをネズミにとられるので、役立たず、と、関さんをお坊さんが叩いたところ、翌朝韋駄天さんの剣にネズミが引っかかって死んでいた。(崇福寺)
夜抜け出して遊びに行ってしまうので、金網で守ることになった(萬福寺)
お引っ越しの時に、木像が大きすぎて人夫が後込みしてたところ、「俺が手伝うから頑張れ」と韋駄天さんが言い、お引っ越しはスムーズに終わった。(新宿韋駄天尊)
庫裏に配置されるのは、火事を知らせる役目だけではなく、配膳のために走り回る修行僧に走る力を与えるため(永平寺)
などなど、なんかエピソードが親しみがあるというか可愛らしいのです。 近所の神社は「稲田姫」と「韋駄天」を間違えたらしいのだけどそのまま現在まで続いてます。
創作では、革のライダースーツのバイク小僧。 二度見される童顔美形にピアスじゃらじゃら(毎年位置が変わる)。 バイクは孔雀のパラヴァニの仮の姿。バイク停めるところがないと、孔雀のまま散歩に行ったり大きさ的に無理があるけれど手乗り孔雀としてついて歩く。 たまにイドゥンバンも日本に連れてくるが、おいさんはアスラ丸出しのすごい顔と体躯をしている。
日本には決まった住居を持っておらず、所縁の寺に潜り込むかおとさんのところにいるかお兄さんの所有物件にいるか普通に野宿。
「聖音オームの話をしよう」 座ったブラフマーの前で、スカンダはうんうんうなずく。 陳情を受けたり恩恵を授けたりすることは多いが、子供に何か教えるのはいつ以来か。 小さな子が天界にいること自体が珍しいのだ。 アスラの王ターラカを破って、シヴァの子になったスカンダは戦闘においては驚異的だが、実質生まれて数日の子供である。 恩恵を与えて将来を歪めてしまってはいけないが、勉強の手伝い位ならしてやろう。 「この音は始まりにして終わりであり、宇宙の全てを表す」 そもそもこの音の由来は使い方はとブラフマーが熱を入れて語りだすと、座っていたスカンダがこてんと横になる。 「これ」 「ねんねん」 「ねんねんしない、起きて聞きなさい」 や、スカンダは目を閉じてしまい、ブラフマーが抱き起す。 「しってる」 「まだ誰も教えてないだろう」 「しってるもん」 「なら説明してみなさい」 うにゃー、と、スカンダは背をそらして、そのままブラフマーの手から滑り落ちる。 危ない、と思う前に、上手に着地して、そのままころころ走って行ってしまった。 誰か捕まえに行かせようかとあたりを見回すが、多分考えているよりも先にカイラスに帰っているのだろう。 とりあえずシヴァのところに急ぎの使いを出しておく。
「お父さんこにちはー」 「ただいま、だ」 うんうんとスカンダは飛び込んできた勢いでシヴァの腕に飛び込み、ご挨拶。 力いっぱい体当たりするとお父さん困ると覚えたらしく、適当に勢いを殺してくるが、それでも気合いを入れて抱き留めないと尻もちをつかされる。 「オームしってる!」 「よし、ブラフマーに教わったな」 「ないねえ」 だいぶ懐いてはきたいるのだが、どうもまだ何を言っているのかわからないところがある。 このままブラフマーを師にした方がいいか、もっと違う視点を持った者に任せるか思案のしどころだ。 「おーむ」 「大事だぞ」 「教える」 「お前が?」 うん、と、スカンダは力いっぱいうなずく。 「なら聞こう」 ぶん、と、スカンダは首を振って、胸を張る。 「おれせんせい」 「うむ」 「せんせいはうえー」 「そうだな」 シヴァはスカンダを抱き上げ、肩に乗せる。 「おおう」 「お父さんは大きいだろう」 「おっきい!おとうさんおっきい」 そうかそうかとシヴァは機嫌よく外に出る。 カイラス山はヒマラヤ山脈の中。 山の上から、さらにシヴァの肩から見る世界は小さいスカンダには初めて見る世界。 よだれをたらしそうに世界を見て、それから、きゃー、と大声を出す。 「おとうさんすごいおとうさんすごい」 「まあ待て、ヒマラヤはこんなものじゃない」 きゃーきゃー嬉しいスカンダをとりあえず落とさないように押さえながらシヴァは山を登り、見晴らしのいい場所に行ってやる。 「ヒマラヤの上、シヴァの肩の上だ。俺の子、ヒマラヤの娘の子になったお前だけが見られる景色だ」 ガネーシャはちょっと大きくなって、肩に乗らなくなってな、と、シヴァがぼやくが���スカンダは気にせず立ち上がり、シヴァの頭によじ登る。 「たかいたかいもっとたかーい」 「お前、高いところ好きなだけだな?」 危ないから降りなさい、と、足を掴むが、スカンダはその手を頼りにぐっと踏込み、何も邪魔がない空に飛び出した。 お、と、シヴァがびっくりする前に、適当に着地し、谷底まで滑り降りて一気に駆け上がってくる。 「ただいまー!」 「お前、もっと高いところからぶん投げても平気そうだな」 それやってやってとはしゃぐスカンダを、今度は逃げられないように抱えて、シヴァは山を下りる。 そして、降りきる前に思い出して立ち止まった。 「スカンダ先生よ、オームは何かな」 おお、と、眠くなってきたスカンダは顔を上げ、お父さんの肩によじ登る。 「おーむはおーむ」 「…まあそうだな」 ほんとはね、と、スカンダはシヴァの耳元に顔を寄せる。 こしょこしょと何か言って、それでいい、と、シヴァがうなずくと、スカンダは満足したのか大あくび。
「懐いてお父さんお父さんしてくるのが、可愛い」 「赤ん坊だから仕方ないが、もう少し話が通じるように教えたほうがいい」 ブラフマーは不機嫌だがシヴァはご機嫌だ。 「あの子はオームがわかったと言っていたが、何か言っていただろうか」 「オームはオームだと」 そこをしっかり解説したのに、と、ブラフマーは不満げだが、シヴァは気にしない。 「スカンダは二言以上聞いてないし、ガネーシャは理屈重ねるの大好きだし、いろいろ違うものだ」 どっちも面倒見ないのでほかの師を探しなさい、と、ブラフマーは言い切り、シヴァが笑った。
オームはあれのせいで日本では半ばタブーな言葉になっちゃってますが、阿吽だしオメガ。 始まりにして終わりの言葉です。 ヒンドゥー教では、a:ブラフマー、u:ヴィシュヌ、m:シヴァの三神一体を一文字で表すともいわれます。
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