#映画史上最悪の死亡シーン
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シェイクスピア『リチャード三世』
4月23日はシェイクスピアの記念日です。没日は23日、誕生日は明確にはわからないんですが洗礼日が26日なので恐らくこのへんの日付っぽいということでまとめてシェイクスピアデーとなっております。
今年はリチャード三世のポスター風イメージを描きました。
シェイクスピア戯曲は400年以上前に作られた古い芝居の台本です。とはいえ現代でシェイクスピアものをやるとき、シェイクスピア時代の上演の再現を目指す場合を除き、基本的には現代の価値観、現代の人の好み、上演する今、私たちに合わせた演出で行います。
例えば、『ジュリアス・シーザー』のシーザー役をアメリカの大統領選挙風の舞台で明らかにトランプ大統領を想起させるファッションで演出をしたり、『リア王』を家庭の問題として痴呆老人の妄言と徘徊、姉妹間の親の世話の押し付け合いとしたりもしますし、ミュージカルや映画で有名な『ウェスト・サイド・ストーリー』は『ロミオとジュリエット』の翻案で、最近また新しく映画が作られましたし、アラブ圏の演出家が中東を舞台にして自分たちのための物語として『ハムレット』や『リチャード三世』を上演したりもしています。日本だと黒澤明の映画が一番触れやすいと思いますが、戦国時代とか日本の歴史劇風にやったりしますね。少し前の流行りで、直接ではない��品になりますが、『ゲーム・オブ・スローンズ』や『鎌倉殿の13人』も物語構造、エピソードや人物造形などがシェイクスピア戯曲の影響下にある作品として有名です。シェイクスピア戯曲または演劇に直接触れたことがなくても、シェイクスピア戯曲を参照して作られた作品は巷にあふれていますので、そうとは知らずどこかで見たことがあるかもしれません。
エンタメコンテンツでは流行パターンの作品が膨大に創られるというのがありますが、(ここ十年ぐらいの潮流だと、ゲーム・ファンタジー世界観/異世界転生/悪役令嬢ものあたりでしょうか)シェイクスピア戯曲もいわゆる「型」のようなもので、シェイクスピアものをやる、というのは、「あのお話の型でバリエーションを作っている」という読み取り方もできます。
上演芸術の古典と呼ばれるものは基本的に「皆様ご存じの! あのお話をやります!」という構造です。題材は神話だったり歴史だったり、多くの人が読んでいる文芸だったり、同時代のセンセーショナルな出来事だったりしますが、「皆の共通認識になっているもの」を「目の前でやってみせる」からウケるのだ、という構造だと私は思っています。
日本だと歌舞伎・能楽・文楽(浄瑠璃)は漫画やアニメ、ゲームなどのエンタメコンテンツを上演にかけることがありますが、これは「皆の共通認識」になっている物語が漫画・アニメ・ゲームに比重があるからで、上演をやる意義、芸能の何を見せるのかの軸が「生きている人間の芝居や踊り」というところにあるならば、台本に「流行りのモノ」をもってきてやるのは何の不思議もないわけです。
シェイクスピア戯曲・演劇も、歴史や神話などの元ネタがあるものを芝居という形にまとめてやってみせていた芸能で、シェイクスピア自身が無から何かを創造していたわけではありません。芝居が面白くなるように、歴史的な時系列も地理関係も改変しまくっていますし、何百年も前の歴史上の人物も戯曲上のなんらかの性格を持ったキャラクターとして描かれます。これは、歴史から題材をとってきてはいても、上演される時代の人々にウケるための創作であり、歴史上の人物の実像とは一致しないものです。たとえなんらかの記録が多少のこっていたところで、何百年も前に死んだ人の言葉遣いや身振りや性格や実際に心の中に思っていたことなんて十全にわかりようがないので創作するしか方法がない。立ち上がるキャラクターはうまくいったとしても「説得力のある虚像」です。「生き生きした人物像」という芝居のファンタジーを観客は見て説得されているのです。描かれるのがファンタジー・虚像であっても、これを観ている体験は現実であり、ここを明確に区切って考えるには訓練が必要です。
シェイクスピア戯曲『リチャード三世』について。
シェイクスピアの「リチャード三世」は非道な悪役です。身体障害を持って生まれ、母親から愛されず、自分のような見た目の者が女から愛されることはないと世界を呪い、欲し��ものは誰も逆らえない権力であり、親族を殺しまくって王位につくも統治能力がなく、戦場でめみじめに殺される男の話です。
こう書きだしてみると加虐性のあるろくでもない男ですが、「リチャード三世」はシェイクスピア戯曲のうちでも人気タイトルのひとつで、魅力的な悪役として描かれることが多いです。実際、王位につくまでの、手段を選ばず他者をだまし、陥れ、殺していく様は「面白い話」として機能します。これは暴力の達成の話、且つ上昇の話だからです。
リチャードが権力の頂点にたったとき、仲間はおらず、信頼もなく、孤独です。王になったらもう地位上昇の高揚もありません。殺してきた者たちの亡霊を夢で見て「絶望して死ね」と呪われ、戦場で馬を失い、殺されます。
歴史上のリチャード三世がどんな人物であったかの歴史解釈とは別に、シェイクスピアのキャラクターとしてのリチャード三世は影響力があり、「リチャード三世」といえばまずシェイクスピアのリチャード三世を思いうかべるひとのほうが多い状態と言ってもいいでしょう。(歴史にもシェイクスピアにも興味がなければ「誰? 何?」って感じだとは思いますが)
日本でいうところの織田信長みたいなものでしょうか。歴史解釈的にどうかというより歴史題材コンテンツのキャラクターイメージが強いというか。これは、良いとか悪いとか言いたいわけではありません。コンテンツが流行ると影響力があるなあ、という話です。良い効果がある場合もあるだろうし、悪い効果がある場合も普通にあるでしょう。状況や条件次第なので。
前半で「皆の共通認識」という言葉を使いましたが、一人一人がなんらかの神話・歴史・物語を深く知っている必要はなく、「よく知らんけどなんかそういうのらしいね」ぐらいでも「共通認識」として機能します。
シェイクスピア戯曲のエンタメ虚像とは別に、15世紀イングランドにリチャード三世は実在したわけですが、2012年に英国レスター市でリチャード三世の遺骨が発掘され話題になり、エンタメ虚像じゃないリチャード三世の印象もまた広まったのではないかと思います。このリチャード三世の遺骨発掘の経緯は映画にもなっています。
リチャード三世の歴史準拠の再評価は昔からありましたが、2012年の発掘があったことで色々な調査が進んで、新たな解釈、そこからまた別の、シェイクスピアのものではない、フィクションのリチャード三世像も生まれるのだろうなと思います。
遺骨発掘シーンの再現を盛り込む演出が入った『リチャード三世』の公演もあったりしましたし、シェイクスピアのリチャード三世上演のほう��も、ヴィジュアルやキャラクターイメージの変化はそれなりにありそうな気はします。
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シェイクスピア戯曲を読んだり上演を見ていて、「よくわからないんだよな……」と思っているのが権力欲で、全く共感がないまま面白いと思って読んだり観たりしています。登場人物に、その判断力があってなんで権力構造には従順でボンクラになるんだ? 的な感想を持ってしまうというか。いや、権力構造の上位者になりたいという欲求はありふれてあるものだということはわかるんですが。
ダンスを見る趣味のスタンスから考えると、欲がなんであれ感情/行為/動作のアップダウンがある=動的になるのでそこを面白いと思っているんじゃないかなあと思うんですが、自分のことだがよくわからない。人なり出来事なりが動いてる状態・動きを発生させる構造、現象に面白さ・愉しみがある、のだと思うんだけど。
ちょっと話はズレますが、『リチャード三世』で言えばリチャードがアンを口説き落とすシーン、成功していると感じた上演をあんまり観たことがないです。緊張感があり印象的だという感覚はあれど、アンが憎しみと嫌悪を持ったまま口説き落とされるって、そのように表現できてると感じたことほぼないんですがあれ、難しくないですか? ものすごく難しくないですか? あり得なくはないだろうがそうとう難しくない? 感情が、字面ではわかっても腑に落ちないというか。
物語創作のセオリーで「これは私の物語だ」と思わせることが必要と言われたりしますが、共感が発生しない、私ごとにはならないことでも全然面白いが? と思っていて、面白さってなんなんだろうとずっと疑問です。
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『君たちはどう生きるか』

全てが謎なまま上映開始した『君たちはどう生きるか』ですが、『千と千尋の神隠し』以上のハイスペースで観客を動員していると聞いて驚いています。
徹底的なネタバレ対策が講じられた本作を、「ネタバレされる前に観たい」という人が多いのでしょうか。
私もそのうちの1人で、上映開始5日後に観てきました。そして自分でも不思議なのですが、初めてジブリ映画で涙が出たのです。
アニメーションの美しさ
あまりに当然のことでつい言及し忘れてしまいそうなので敢えてはじめに書きますが、私が感動した理由の1つはアニメーションの美しさです。
冒頭で主人公・眞人が階段を移動するときの描写や、建物に燃え移った炎の躍動感はそれだけでも観客に「映画を観に来て良かった」と思わせるでしょう。
冒頭部分を除くと、監督の若かりし頃の作品で見られるような、誇張された迫力あるアクションは本作ではあまり見られません。
しかし、コップで水を飲む動作、弓を射る動作、船を漕ぎ出す動作、パンにバターを塗る動作など、人が深く考えずに普段から行っている動作が、アニメーション表現のテンプレートを用いることなく極めて写実的に描出されていることで、「動作の美しさ」に対する純粋な感動を覚えます。
アニメにありがちな相槌や独り言のような台詞が一切排除されている点も、この動作の写実性を補強していると思います。
背景美術も非常に綺麗でした。
パラレルワールドに存在する墓の島には、ベックリンの絵画『死の島』を想起させる黒々とした巨大な杉がそびえ立ち、中央には先史時代の支石墓のようなものが鎮座していました。
実在する美術が組み合わされた墓の島は、死の恐ろしさを強く感じさせながらも人を引き込むような魅力を併せ持っており、眞人を迷い込ませる説得力がありました。
このように監督の頭の中にストックされているモチーフが見事に再構築されており、「ジブリの世界」を十分に満喫することができました。
眞人の成長の物語
物語の柱となるのが、主人公・眞人の成長です。タイトルである『君たちはどう生きるか』という問いに対する答えを眞人が見つけていく物語だと捉えることも可能でしょう。
生と死の間の世界で命の偉大さに触れ、少女時代の母と冒険を繰り広げることで精神的な成長を果たす眞人は本作品の見どころの1つだと感じています。
主人公が直面する「生」と「死」の存在
先述の通り、物語の冒頭シーンの迫力は、多くの観客に強烈な印象を残すことだろうと思います。
母が入院する病院の火事の知らせを聞いた主人公・眞人が獣のように階段を駆け上がり、人混みを掻き分けて家事現場に向かうシーンです。炎の描写はビデオ映像を見る以上に肉眼で見るそれに近く、母の「死」を眞人にも観客に���強烈に刻みつける場面でした。
次の場面では数年の時が流れ、眞人は父の再婚相手であるナツコと出会います。
ナツコはすでに夫との間の子を宿していました。ナツコは自己紹介もそこそこに眞人の手を取り、自らの腹を触らせます。
父が経営している飛行機工場とともに疎開してきた眞人は、ナツコの実家に暮らすことになります。
母が炎の中に消える悪夢を見て、夜中に部屋からこっそりと起き出した眞人は、仕事から帰ってきた父と出迎えたナツコが深いキスをかわしているところを目撃します。眞人はそれがどういう意味なのか分からないほど子供ではなく、しかしナツコににこやかに接することができるほど大人でもありませんでした。
眞人はナツコとのやり取りでは礼儀正しいながらも必要最低限の会話のみに留め、今は亡き実母の存在を求めつづけているように見えました。
母の「死」で頭がいっぱいだった眞人は、継母の出現によって「性」に限りなく近いところにある「生」を意識し始めることになります。
ジブリの世界で描かれる「命の営みの尊さ」
パラレルワールドに引き込まれたナツコを追って眞人がたどり着いたのは、現実世界の "下"にあると言われる、生と死の間にあるような世界でした。
そこで窮地に立たされた眞人を救ったのは、死の世界に住むキリコという女性でした。その世界の構成員のほとんどは幻か実体を持たない生命体で、殺生ができるのは自分だけなのだとキリコは眞人に話します。
眞人はキリコとともに魚を獲り、生命体に分け与えた残りを調理して食べ、眠ります。
食事や睡眠など人の生活の根幹を成す部分が丁寧に描かれていた場面です。また、それまでは他人に心を開かなかった眞人の表情が一気に豊かになる場面でもあり、個人的にとても心に残りました。
眞人がキリコの家のテラスに出ると、まるでサンゴの産卵のように、白い風船のような生命体が夜空いっぱいに昇っていました。キリコによるとこの生命体たちが "上" に行くことで、現実世界で新たな命として誕生するのだそうです。
数えきれないほどの生命体たちを見ているとき、眞人の脳裏にはナツコの赤子の存在があったことでしょう。
その幻想的な光景は、命の営みもまた生活の根幹を成す要素であり、命は尊いということを眞人と観客に語りかけているようでした。
亡き母への未練との訣別
序盤の眞人は母親のことを非常に恋しがっており、フロイトのエディプス・コンプレックスをも想起させました。
生と死の間の世界を出発した後、眞人はパラレルワールドでようやく母親に出会えるのですが、母は母でも少女時代の母だったのです。
実は母親も若い頃に眞人同様パラレルワールド��迷い込んだことがあり、そのときの母親と現在の眞人が時空を飛び越えてパラレルワールドで出会っている、ということになります。
「ヒミ」と名乗る少女時代の母と眞人はナツコを探すための冒険に出ます。
冒険の過程で眞人とヒミは、親子の愛情とは別に同年代の友達同士のような絆を築いていきます。
これによって眞人は「母親」という自ら理想化してしまっていた存在を俯瞰して見ることができるようになり、ナツコのことを新しい自分の母親として受け入れます。そして、今までは同年代の友達を作らず距離を置いていましたが、友達を作るために心の扉を開ける決心をします。
この物語をエディプス・コンプレックスになぞらえるならば、エディプス・コンプレックスは定義上では男性の近親相姦的願望は父親によって抑圧されるか同年代の異性の他人を関係を持つことで解消されるとされていますが、
「実の母親が同年代の友人となることでコンプレックスと訣別する」
という回答は斬新で面白いと思いました。
原始的な感情としての「平和の希求」
私が『君たちはどう生きるか』に最も心を動かされたポイントは、
「善い人でありたい」
「平和な世界を作りたい」
という極めてピュアなメッセージ
です。
眞人が迷い込んだパラレルワールドは、自分の母の大叔父が造った世界であったということが判明します。
天才の大叔父が造り上げた世界で、眞人は生の尊さや自然の美しさを目にします。同時に、パラレルワールドの住民の僅かな「悪意」によって、パラレルワールドの均衡が崩れ世界が瓦解する瞬間にも立ち合います。
そして、自分が元いた世界では世界中を巻き込んだ戦争が繰り広げられています。
以上の経験を踏まえた上で、眞人は大叔父との問答の中で「平和を目指すこと」「そのために自信が悪意を持たないこと」を誓うのです。
このシーンを見たとき、私は自身の奥底にあった何か強い感情が揺さぶられるのを感じました。
「平和」という言葉を口にするのは、大抵は太平洋戦争を振り返るまさに今の時期や、ニュースで遠い国の争いを見たときや、ミサなどで祈りを捧げるときなどで、今まで平和とは理性で以て考え話し合う対象であると捉えていました。
しかし、眞人の言葉によって引き摺り出された私の感情は、理性とは程遠い原始的なものでした。
安心していたい、大切な人を守りたい、未来を守りたい、そのために悪いことはしたくない……誰しもが持っているこのような強い気持ちに、今まで経験してきたどんな平和学習などよりもこの作品が鋭く迫ってきたのは、戦争の時代を知っている監督の気持ちの強さと表現力の賜物だと思います。
誰しもが持っている平和を望む本能に語りかけてくる本作品は、多くの人の涙を誘うのではないかと思います。
終わりに
『君たちはどう生きるか』ぜひ観てください���動員数を増やして、監督に次回作を作らせてください。
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映画『異端の鳥』
Amazon Primeでバーツラフ・マルホウル監督のチェコ・��クライナ合作映画『異端の鳥』(原題 The Painted Bird、2019)を見ました。
前々から気になっていて、Amazon Primeでは「マイリスト」に入れていたのですが、169分という長さもあり、見るにはかなり根性がいると思ったのでのびのびになっていた映画です。
物語はーー
10歳くらいのいたいけな少年が行く先々で酷い目に遭うというものです。
「え? それだけ?」と言われそうですが、ホントにそうなのだから仕方ありません。
時代は第二次大戦中ーーネットでは「少年はユダヤ人であるため迫害される」とありますが、私がバカなだけなのか、あるいは予備知識なしに見たからか、それが明確にわかるのは映画のラストです。
それまでは少年は何の理由もなく迫害されているだけで、確かに途中「ユダヤ人だ」と言われてナチスのところに連れて行かれる場面や露天商に「このユダヤ人め、商品を盗む気か」と殴られる場面もありますが、少年が本当にユダヤ人かどうかは必ずしも定かではありません。
映画は白い子犬を抱いた少年が森の中を必死に走っているところから始まります。少年は他の少年たちに捕まりボコボコにされ、子犬は灯油のようなものをかけられ焼き殺されます。
いきなりショッキングなシーンですね。「犬と子どもは死なせない」という往年のハリウッド映画とは一線を画した映画であることがここではっきりします。
少年は田舎の村で祖母らしき人物と暮らしています。ある日、少年は祖母が椅子に座ったまま死んでいるのを見つけて、思わず手に持っていたランプを床に落とします。あっという間に火の手が上がり、祖母の家は全焼してしまいます。
少年は村人たちからリンチを受けますが、呪術師の老婆が少年を買い家に連れて行きます。少年は老婆の助手として働きます。
あるとき少年は流行病にかかります。老婆は少年を首まで土に埋めます。カラスの群れが少年を襲おうとします。
この場面は映画のポスターにも使われていますが、老婆は決して少年を虐待しているわけではありません。熱病を治すための呪術的処置なのだと思います(フグの毒に当たった患者を土に埋めるというのと同じですね)。
流行病から回復した少年は、ある日川に落ち流されてしまいます。たどり着いたのは川辺の水車小屋。そこには老人(ウド・キア)とその妻と若い使用人が住んでいます。
少年は水車小屋に住まわせてもらうことになりますが、老人は妻が若い使用人と関係を持っているのではないかと疑っています。ある日、老人はついに使用人に襲いかかり目玉をくり抜いてしまいます。
こんなところにはいられないと思ったのでしょう、少年は翌朝早くに水車小屋を出て行きます。途中、目をくり抜かれた若い使用人が木の根元にいるのを見て、少年は彼に目玉を渡します。
えーっと、次に少年が行くのは鳥匠というのかな、鳥を捕まえて売っている老人のところです。老人はある日、捕まえた鳥にペンキを塗って放ちます。鳥は仲間たちのところへ飛んでいきますが、仲間たちはその鳥をよそ者=敵とみなし、一斉に襲いかかって殺してしまいます。
原題のThe Painted Bird(ペンキを塗られた鳥)というのはここからきています。そしてそれは同時にどこへ行ってもよそ者=敵とみなされる少年のことでもあります。
また別の日、老人は野原で出会った全裸の女性とその場で関係を持ちます(この映画にはほとんど説明というものがないので、老人と女性はこのとき初めて出会ったのか、それとも二人は継続的に関係を持っているのかはわかりません。私自身は継続的に関係を持っているのだと思いました)。
この女性はおそらく売春婦なのでしょう、近くの村の少年たちを性的に誘惑しています。それに腹を立てた村の女たちは彼女を押し倒し、ガラス瓶を彼女の膣に入れて足で蹴ります。
老人は止めようとしますが、老人もまた村の女たちに殴られ、助けることができません。老人は女性を家に連れて帰り看病しますが、女性は死んでしまいます(ということなのだと思います。何しろ説明らしい説明がないのではっきりしません)。
少年が小屋に帰ると老人は首を吊って苦しそうに足をバタバタさせています。少年は最初は助けようとしますが、それが無理だとわかると逆に老人に抱きついて死なせます。楽に死なせてやろうということですね。
いかん、この調子で書き続けると非常に長くなりそうです。端折って書くと……その後、少年はある村でユダヤ人だと言われナチスの分隊に連れて行かれます。ナチスの将校は老兵に少年を射殺するよう命じますが、老兵は射殺するふりをして少年を逃がしてくれます。
えーっと、それからユダヤ人を収容所に運ぶ列車から数名の囚人が逃亡する場面があって、彼らはほぼ全員ナチスに射殺されて、少年が死んだユダヤ人から食糧や靴を奪っていると、またナチスに捕まって街に連れて行かれて、でも将校の前に跪き靴を磨くことで解放されて、親切な神父に助けられるけれど、神父は肺病か何かにかかっているため信者の中年男に預けられて、中年男は信心深い顔はしているけれど、その実激しい折檻をするだけでなく、少年を性的な意味でも虐待して、耐えきれなくなった少年はネズミがうじゃうじゃいるトーチカの中に中年男を突き落として、教会へ行くと親切な神父は肺病で死んていて、その葬儀の場で転んで聖書を破いてしまったためにまた村人からリンチに会って、それから今度は老人と若い女が一緒に住んでいる家で暮らすことになって、老人はすぐに死んでしまって、若い女は少年を性的に誘惑しようとするけれど、少年はまだ幼いためそういうことはできなくて、若い女がヤギと獣姦しているのを見せつけてくるのに腹を立てた少年が、ヤギを殺してその首を女のいる部屋に窓から投げ込んで、女の家を出た少年は森の中の小道を歩いている老人を襲って金品を強奪して、ソ連の兵隊に拾われて、別れ際兵隊から��ストルをもらって、その後孤児院に入れられて、町の露天商に「このユダヤ人め、商品を盗む気か」と言われ殴られて、翌日復讐のためピストルを持ち出しその商人を撃ち殺して、そうこうしている間に孤児院に父親が迎えに来て、少年は自分を捨てた父親を恨んでいる様子だけれど、故郷の街に帰るバスの中で父親の手首に番号が入れ墨で入っているのに気づいて、曇ったバスの窓にJOSKAと自分の名前を書くところで映画は終わります(おお、後半一気に言えたぞ。自分を褒めてやりたい。なお、少年の名前がわかるのはこのときが初めてです。それ以前は名無しのままです)。
確かにこの映画は殺人やリンチ、性的虐待、獣姦などショッキングなことの連続です。でも、内容的には「ユダヤ人はこんなに酷い目に遭ってきたのです」というだけじゃないのかな。
「だけ」というとユダヤ人に失礼なのかもしれませんし、「お前は世界が/歴史が/人種差別というものがわかっていない」と言われそうですが、戦争の悲惨さや差別の恐ろしさをこれでもかこれでもかとばかりに見せつけてくる映画やドラマには正直私は辟易しています。子どもの頃からそういうものを散々見せられてきたからです。
ホロコーストを描くなら、例えば『ライフ・イズ・ビューティフル』のような新しい視点から描いて欲しい(『ライフ・イズ・ビューティフル』はホロコーストをコメディーで描くという画期的な映画です)、教育や啓蒙のための映画なら仕方ないけれど、芸術としての映画を考えるならそうするべきだろう、歴史的現実を伝えるのはドキュメンタリーに任せておけばいいというのが私の偽らざる思いです。
この映画は東欧を舞台にしているからでしょうか、あるいは最初のシークエンスで少年が祖母らしき人物と田舎の村で暮らしているからでしょうか、私はアゴタ・クリストフの『悪童日記』を連想しました。
『悪童日記』も戦争の悲惨さを描いていますし、作者はユダヤ人ではありませんが、ユダヤ人に関する記述も出てきます。『悪童日記』も盗みや殺人、強姦、売春、SM、同性愛など10歳の双子の少年を主人公にしているとは思えないほどショッキングな要素に満ち満ちています。
私は『悪童日記』の方が好きだな。
追記: 私がホロコーストについて無知である、無関心であるとは思わないでください。 私の敬愛する恩師ジャクリーヌ・レヴィ=ヴァランシ教授はユダヤ人でした。彼女の死後知ったことですが、第二次大戦中ジャクリーヌさんの家族はゲシュタポに捕まりましたが、まだ子どもだったジャクリーヌさんだけは逃げることができました。 それからジャクリーヌさんは親戚や知人に頼って暮らしてきました。もちろん学校に行くこともできません。アンネ・フランクと同じような生活をしていたわけです。 ジャクリーヌさんが学校に行けるようになったのは戦争が終わってからのことです。それからジャクリーヌさんは大学へ行き、大学院へ行って、カミュ研究の第一人者となり、国際カミュ研究会の初代の会長になったのです。 私はジャクリーヌさんの死後、パリのノートルダム寺院の裏にあるユダヤ人強制連行の慰霊のモニュメントへ行きました。帰り際、出入り口の上に Pardonne. Mais n'oublie pas(許しなさい。でも忘れないでください)と書いてあるのを見て、私は泣き崩れました。 私はホロコーストを小説や映画や芝居で描くなと言っているわけではありません。ただ、こんな酷いことがあったと言い立てるだけでは現実は変わらないし、それは芸術作品のすることではないと思っているだけです。 戦��の悲惨さについても同じです。私が知る最高の戦争文学はカート・ヴォネガットの『スローターハウス5』です。ヴォネガットはドイツのドレースデンの捕虜収容所で連合軍のドレースデン爆撃を経験した作家ですが、戦争の悲惨さを言い立てるだけでは意味がないし、そんなことで戦争はなくならないという確信の上に立ち、ナンセンス・ユーモアSFとしてこの作品を書いているからです。
追記2: 『悪童日記』は映画化されていますが、あの映画はどうかなあ……『悪童日記』は語られる出来事と淡々とした語り口のコントラストが見事なのですが、映画ではそれが全く活かせていなかったように思えます(まあ映画という形式ではそれははなから無理なことですから仕方がないのですが)。
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(500) Days of Summer
この前の休みは気になっていた「Shoplifters of the World」を鑑賞してきました。伝説のバンド「The Smiths」が解散を発表した1987年。どうでもいいですが僕が産まれた年でもあります。舞台はアメリカのコロラド州デンバー。主人公は熱烈なザ・スミス好きの青年ディーン。突然の解散が発表された日の夜。スミスファンやそうでない人にも彼らの素晴らしさを伝えたい気持ちを抑えきれません。地元のラジオ局を乗っ���って、音楽の歴史に新たな1ページを残す為、オールナイトでスミスの楽曲しか流さない"The Smiths Night"を実行します。この作品は実話ではないものの、同じ事を考えたファンが実在したらしいです。なのでちょっぴり実話ベースです。

"The Smiths"なんて弱っちい音楽聞かねーよ!な姿勢を崩さないベビメタ大好きなラジオDJの"フルメタル・ミッキー" (彼がなんならこの映画で1番心に残る存在だったし、居なかったら物語は薄っぺらいものになってました) 初めはそんな思いしかなかったミッキーですが、ディーンと一緒にハッパを吸ったり、お互いにリスペクトするアーティストの影響を受けて"肉"を食べないポリシーや、ディーンの過去の自殺未遂の話などをスミスの楽曲を通して少しずつ心を通わせます。

ディーンが心を惹かれている女の子のクレオの話も同時進行するワンナイト青春ストーリーでしたが、こちらはそんなに大した内容ではなかったので割愛します笑 よく言えば分かりやすい青春群像劇でしたが、悪く言えば薄味すぎました。ラストがあからさまなハッピーエンドなのが個人的には納得がいかず、星5満点で評価するならば、ストーリーは☆2.7点。音楽は9割スミスだったので、もちろん満点です。映画館の音響でスミスが聴ける事と、モリッシーやジョニー・マーの本人映像を観れて"The Smiths"はカッコ良かったんだと改めて再認識できる映画です。ここ最近、映画館で観た映画で、アレクサンダー・ロックウェル作品の「SWEET THING」という作品があります。こちらの方が何倍も面白い青春作品だったので激しくオススメ。

僕はスミスファン歴がまだまだ浅いヒヨっこです。お肉も好きなのでガチ勢でもないです。なのでこのBLOGで一丁前にバンドについては書けません。代わりにスミスを好きになったキッカケについて書かせて下さい。The Smithsをカッコイイと認識し始めたのは2011年公開のマーク・ウェブ監督作品「(500)日のサマー」 始めに言っておきます。大大好っきな映画です。

"This is a not love story"というナレーション物語は始まります。この物語は恋愛において「彼氏・彼女というレッテル」が必要なのか?というのが1つのテーマになっています。建築家になる夢を諦めかけ、繋ぎでグリーティングカードのライターの仕事をしている"トム"はある日、社長秘書として新しく会社にやってきた"サマー"に出会います。

出会って4日目の会社のエレベーター。先に乗っていたトムが扉を閉めようとした時に、サマーが駆け足でやってきます。密室に二人っきりになり、トムのイヤホンからある曲が音漏れしていました。それがThe Smithsの「There Is The Light That Never Goes Out 」 サマーが「好きなバンドよ」と話しかけますが、ヘッドホンをしているトムは軽い挨拶かなと軽く流します。すると、サマーが「私もザ・スミスが好き」と会話を続けます。

すかさずヘッドホンを取ったトムは戸惑いを隠せません。すると「君のそばで死ねたら、天国の気分」とサマーが同曲のワンフレーズを口ずさむじゃありませんか!普段は迷惑に思われる音漏れよありがとう。"The Smiths"よありがとう。この瞬間にトムは完全にサマーに恋に落ちるのでした。。。この映画と言えばな名シーンですし、何回観てもトムと同じ心境にならずにはいられません。これをきっかけにザ・スミス好きになった方は僕だけじゃないはず。

同じバンドが好きだという共通点から少しずつ距離が縮まり、運命の恋を信じているトムと、恋を全く信用していないサマーとの「真剣にはならない恋愛関係」が始まりました。
トムがサマーの事を本気で好きなるのなんてあっという間でした。だってサマー可愛すぎるんですもん。当たり前に交わしてくれるキス。IKEAでの手繋ぎデートやSEXもそれなりに。。いやいや。こんなの間違いなく本気になります。ならない方がおかしいくらい。そんなモヤモヤが溜まり、そろそろ"彼女"と呼べる関係値なのか確かめたくなってきた259日目。とあるBarでサマーをナンパ男から守った後に現状の関係性を遂に聞いてしまったトム。そんな彼に待っていた言葉が、気になる異性に言われたくない言葉TOP3に間違いなく入るであろう 「私たちは友達でしょ?」でした。その後の402日目。共通の同僚の結婚式でひさに再会します。2人だけの思い出話で盛り上がったりと、もしかしたら復縁あるのかもと浅はかな期待を持ってしまいますが、結論はサマーにとってトムは運命の人ではなかったのです。
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宇多田ヒカルの楽曲"日曜の朝"の中で「彼氏だとか彼女だとか呼び合わないけれど君が好きだ」というすごく好きな一節があります。この曲を聴くたびに男は"彼女"というレッテルを欲してしまう生き物なのかなと思ってしまいますし、こと"恋愛"に関してサマーの様な考え方は女性目線だとなんじゃない普通の事で、男の方が変に運命の類を信じているロマンチストだと思います。やっぱり女性の方が何事にも関して1枚も2枚も上手です。

恋愛経験少なめ、かれこれ4年近く彼女のいない僕が言うのもおこがましいですが、恋愛って基本的に一方通行じゃないですか?自分の事ばかりを押し付けるのが愛情だと思ってしまう瞬間もあるかもしれません。でも、好きになった相手に一方通行だった道を譲れるくらいの気持ちが生まれてからが"彼氏や彼女"と名乗れる本当の恋愛なのでは?と思ってしまいます。いつもこの映画を観ると心に留めて置く教訓です。(なかなか実生活では生かされませんが笑)

サマーとの関係はタイトル通り500日で終わってしまいます。でもトムはこの"最低で最高の500日"で傷心し、挫折を経験したからこそ建築家の夢を再度目指します。今年お亡くなりになった瀬戸内寂聴さんの残してきた言葉の中で「挫折感の深い人は、愛の深い人になる」と僕の大好きなありがたいお言葉があります。この時のトムは正にそれでした。
そして迎えるサマー出会ってから500日目。建築事務所の面接の順番待ちをしている時に、同じく面接を受けに来ていた女の子と出会います。その子の名前は"オータム"でした。夏が終わっての秋。そのオータムに対してトムは"運命の出会い"を一旦忘れて新たらしい一歩を踏み出します。物語は終始、恋愛恐怖症になりかねないストーリーだったのに、このラストシーンに救われた男性が世界中にどれだけいたのか計り知れません。少なくとも僕はその中の1人。端折るところのない脚本。The Smithsはもちろんのこと、Regina Spektorの「US」も最高だったサントラ。トムの良き相談相手であり、ちょっぴりおませさんな妹のレイチェルを演じたクロエ・モレッツの可愛いさ。文句の付け所のない最高すぎる映画が(500) Days of Summerなのです。

"The Smiths"はこの映画以外にも、ゴローさんとタツオさん二人の影響も受けて更に好きになりました。これからも二人の背中を追いかけて色んなことをインプットしていきたいです。
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映画『モヒカン故郷に帰る』 〜死にゆく人と向き合うとき〜
2016年 日本 監督:沖田修一 脚本:沖田修一 撮影:芦澤明子 美術:安宅紀史 編集:佐藤崇 出演:松田龍平、柄本明、前田敦子、もたいまさこ、千葉雄大
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好きな映画は無数にありますが、その中でも僕にとってこれまでの人生で出会えて本当に良かったと思う大切な映画がいくつかあります。その一つが『横道世之介』(2013)。特に強くメッセージ性を押し出してくる感じは無い、ただ上京したての大学1年生の1年間を描いている映画なんですが、人との出会いとか、人生のちょっとしたことがかけがえのない瞬間だったりするんだなと思わせてくれる映画で、何だか昔の友だちと会いたくなる映画です。
映画『横道世之介』予告編
この映画を観て以来、監督である沖田修一さんの作品に興味を持っていて、今回沖田監督が広島で撮影した映画である『モヒカン故郷に帰る』を観たのですが、これも大変良い作品だったのでレビューを書きたいと思います。
あらすじ
デスメタルバンド「断末魔」のボーカル、田村永吉(松田龍平)は、妊娠した恋人の会沢由佳(前田敦子)を連れて、結婚報告のために故郷広島の戸鼻島にある実家へ帰省する。矢沢永吉ファンの父・治(柄本明)、カ���プファンの母・春子(もたいまさこ)、弟・浩二(千葉雄大)は、長男が7年ぶりに帰ってきたことに驚き、さらには家族喧嘩が勃発するも、最終的には結婚を祝福する。結婚祝いの宴会後、突然倒れた治は救急搬送され、末期肺癌であることを知らされる。死にゆく父親の世話をするため、永吉と由佳はしばらく島で暮らすことを決める・・・。
リアルな広島の島暮らしを観ているかのようだ!
この映画はオール広島ロケで撮影されていて、主に広島県呉市の下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島がロケ地となっている��、エキストラも現地の住民を多用しています。そのおかげで非常にリアルな瀬戸内の田舎の雰囲気を作り上げることに成功していると思います。僕はこのような島の患者さんを多数診療することがありますし、このような島々を訪れたことは何度もあり、いつも見かける光景、いつも見かけるような人々の営みが垣間見える映画で、映画と現実がリンクしたような妙な気分になりました。役者の広島弁も概ねナチュラルで、時々若干のぎこちなさは感じましたが、ほぼ違和感なかったです。「はよ出んさいや!」、「安川のほうじゃった」、「なんかあるじゃろ!」、こういう台詞は完全に我々の日常で飛び交っている言い方そのまんまでしたし、若い人と高齢の人で広島弁の訛り具合を変えているところもリアル。
ロケ地ガイド
余談ですが、ロケ地になった病院は下蒲刈病院というところで、僕はここに行ったことがあります。目の前が船着き場で隣が中学校という独特な立地が面白い場所です。柄本明演じるお父さんが、入院中に病院の屋上から吹奏楽部の指導をするというシーンがありましたが、この立地ならではの演出ですね。また冒頭で主人公が属するデスメタルバンド(というよりハードコアバンド?)がライブをするシーンのロケ地はBad Landsというライブハウスだと思いますが、僕は大学生時代にバンドをやっていて、ここで何度かライブをしたことがあり、懐かしかったです。
引用元
柄本明の演技がすごい!
役者陣については、それぞれ個性的な役を、良い感じに演じていてとても良かったと思います。松田龍平のイケメンだけどさりげないダメ男感とか、前田敦子のバカっぽいけど素直で良い女の子キャラとか、とても魅力出来でした。しかし何と言っても柄本明がすごい!進行癌の患者を演じているのですが、リアル過ぎてびっくりしました。現実にこういう癌の患者さんいます!歩き方とか、ベッドに横たわっている時の様子は、本当に患者さんかと思うレベルでしたし、時間が立つにつれて病気が進行して衰弱していく様子も、全然わざとらしくないのに、ひと目で前より悪くなったと分からせる佇まいが見事。
びっくりしたのは呼吸の演技です。診断時のCTを見るかぎり、肺癌だけでなく基礎疾患として比較的進行したCOPDを患っていることが分かるのですが、墓参りに行くときに階段を登るシーンの呼吸の仕方が完全にCOPD患者の演技をしている!ちゃんと息を吐く時間が長くて、少しヒューヒューゼーゼーした音がして、COPD患者の息切れ演技としてバッチリなんですよ。これにはびっくりしました。おそらくこのような細かい人物描写もちゃんとこだわって演技しているのだと思われます。こんなにちゃんとCOPD演技をしている映画は珍しいです。柄本明、恐るべしですね。
ちなみに僕は長く広島県に住んでいますが、矢沢永吉が広島出身だということは有名であっても、柄本明演じる父・治のような矢沢永吉原理主義者は今まで見たことはありません。一方で、もたいまさこ演じる母・春子のようなハードコアなカープファンはちょくちょく見かけます。やたらとグッズや記念品を飾ってたり、サインをたくさん持ってる、あんなノリのおじさんおばさんは珍しくありません。
※COPDとは:chronic obstructive pulmonary diseaseの略で、日本語では慢性閉塞性肺疾患といいます。たばこの煙などの有害物質が原因で気管支が炎症を起こして内腔が狭くなったり、肺が破壊されたりして、呼吸がしんどくなる病気です。
引用元
沖田修一印の会話劇と演出
以前、映画『キツツキと雨』について書いたときにも少し触れましたが、沖田監督の持ち味は、オフビートな笑いや少し間の抜けたコミカルな掛け合いによる会話劇で、その中で少しずつ移りゆく人間関係や心情変化を、説明的な台詞は多様せず、表情やちょっとした行動、または小道具や音楽など台詞以外の周辺情報でじんわりと伝えることのように思います。本作もそのような監督の持ち味が生きた映画でした。音楽室での吹奏楽部の演奏シーン、ラッパ少年を車で送るシーン、浜辺でおにぎりを食べるシーンなどは、ちょっとコミカルだけど別に感情を吐露する台詞もないのに、グッと胸に来るものがありました。ただ最終的に亡くなる治の、死に際の一連の件は若干コミカルにし過ぎな気がしないでもないですが・・・。
一番印象的だったのは広島カープ・菊池選手の使われ方です。カープファンの母・春子はどうやら菊池選手推しの様ですが、劇中前半、ラジオから聞こえるカープ中継では菊池選手が得点のチャンスを逃してしまうシーンばかり流れています。それは夫の治が進行癌だと分かって入院した時に聴いていたラジオでもそうでした。しかし中盤のある展開で流れているカープ中継では、菊池のホームランでサヨナラ勝ちするのです。そして母・春子は大喜びで大げさにも涙を流す。このシーンは、一家の一つのポジティブな転換点を、野球中継を通してさり気なく演出していて上手いと思いましたし、春子の涙と永吉の笑顔を見て僕もホロリしてしまいました。
死にゆく人と向き合うことの大切さ
本作は、死が避けられない父親を目の当たりにした主人公が、父親が幸せに過ごしてもらえるよう奮闘し、死が近い父親との生活の中で父親の本当の姿や気持ちを知り、そして自分も父親になるのだという新たな人生の転機を受け入れていく物語です。僕は仕事柄、たくさんの進行癌患者さんたちを診療してきましたし、それによって亡くなる人たちを看取ってきました。この一家のように、終末期の患者さんができるだけ自宅で過ごせるよう奮闘した家族もたくさん知っています。死を迎えることはとても悲しいことではあるのですが、この映画のように死を迎えつつある家族の一員と真剣に、そして前向きに向き合ってきたご家族は、いよいよ死を迎えるとき、悲しい気持ちは当然あるけれど、穏やかで温かい最後を迎えられることが多い気はしています。すべてがそうとは言いませんし、いろんな死の迎え方がありますから、これが正しいと言うつもりは無いのですが、どういう状況であれ、辛いけれど死にゆく人と真剣に向き合うことは重要で、それをアシストするのも医療のしごとなのかなと、この映画を見て改めて思ったりしました。
また例えどんなに元気でも、みんな衰え、いずれは死を迎えます。突然死が訪れることだってあります。この映画で描かれたように、親はいつまでも元気というわけではありません。最近、自分の親も衰えたなと実感することが増えました。多分、いずれ自分もこの映画の主人公のような立場に立たされることがあると思います。その時自分はどうするだろうか。親は自分に何をしてほしいと思うのだろうか。そんな事を考える切っ掛けになる映画でした。そして、たまには実家に帰ろう。
最後に
この映画では主人公永吉が死にゆく父親の看病をしながら、親はどういう思いで自分にこの名前をつけたのか、親は成長した自分に対してどういう思いをしていたのかなどを思い知らされ、自身もまた親になったことで思いを新たにすることになります。
最近、僕も妻の間にも子供を授かり、現在絶賛育児中です。親になったことで、少しずつ自分の親がどういう思いで自分を育てたのかということを理解したり想像できるようになってきました。この映画のラストはそんな自分にも重なるような、開かれた終わり方になっていて、このタイミングでこの映画を観たことは本当に良かったです。
細野晴臣が手掛けた主題歌「MOHICAN」も素敵なのでぜひ聴いてみてください。沖田監督の新作『おらおらでひとりいぐも』も楽しみです!
MOHICAN - 細野晴臣
映画『おらおらでひとりいぐも』予告編
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2020年ベスト映画
長い文章を人目にさらすのが
だいぶ久々だなぁと思いながらいざ書くぞ!
2020年。終わってもう10日以上!?はやぁ…。
コロナですっかり現場がなくなり、ライブは配信、イベントも配信。
友達に気軽に会いに行くのも難しくて
zoom飲みなんてしてみたりして。
というような情勢で、今までより楽しんだのが映画だった。それも映画館で観るやつ。
ということで配信で見たのは今回のランキングから外しています。
振り返ってみれば2020年のはじめとおわりに好きなやつが固まっててなんか面白い。
ではいきます!
10、mid90s
スティーヴィー(主人公の男の子)がちっちゃすぎて本当にあんた、ワルになれるのか!?と見守る形になってしまった・・・
二番弟子の子に嫉妬されちゃってウワー!みたいなのはとてもわかるというか思春期の感情って感じ。グループのリーダー、レイはかっこいいよね・・・。
ラストシーンがめっちゃエモくてよかった。全体的な雰囲気が好き!という映画。
9、魔女見習いをさがして
おジャ魔女世代なので観ないと〜!と思って観たら思った以上におジャ魔女世代向けというか
昔夢中になったものに支えられて生きてる人たちの話で新しい切り口〜!となった。
百田夏菜子さんめっちゃ声優上手い。
あと男はみんなおんぷちゃんがすき。
わたしは推しとかいう概念あんまりなかったなぁ〜と思いながら観てたらそういえばはづきちゃん好きだったなと思い出した。
8、アルプススタンドのはしの方
地元の高校が舞台演劇でやって話題になった作品…をまた映画にしたもの。
高校生の演劇!わたし��星…!とか思い出しつつ鑑賞。
高校球児たちや、華やかな人達とはまた違う
はしの方、にいる人たちのお話。
なのでグラウンドは一切映らず(それが舞台装置だから演劇っぽくて良いのだが)
自分は完全にこっち側だなぁと思いつつみたけど
わたしよりガンガンに青春してた、いいわね…
7、劇場版鬼滅の刃 無限列車編
鬼滅の刃、アニメ化して配信中くらいから観てました…そんでハマって原作電子書籍で集めてって、本誌追いついて最終回までハラハラしながら読んだタイプの人ですので映画楽しみにしてた!
煉獄さんの話はほんと漫画でも泣いたけどアニメになると余計泣けたよね…。
炭治郎の芯を作った人だよ。尊敬だよ。
正直話題になりすぎて今さら特にいうことない。でも好きな作品だった。こんなに忠実にアニメ化してくれたらワニ先生も嬉しいよね。
アホみたいに上映してた時期の、朝7時30分〜の回で観たのが良い思い出。
こんな朝から映画ってやってくれるんだね…
6、ブックスマート
結構ゲラゲラ笑える。なんのかんの全員いいやつで幸せになった〜。
ハリポタの組み分けの話、アメリカでもするんだ!イケてるひとたちでもするんだ!わー!ってめっちゃテンションが上がった…。
ネタが多すぎて話が絞れねぇな…。
主人公の女の子たちがいわゆる陰キャ(死語?)ではあるが、頭が良くて自分に自信があるのでめっちゃ褒め合いをするところがとても良い。仲の良さ伝わる。
あと、ジェンダー的なことも、当たり前に描いていてそこに大して主題を置いてなくてたまたま「そうなの」というだけ、という雰囲気が最近の映画だなあとなった。
5、羅小黒戦記
シャオヘイかわいいよ…無限さまかっこいいよ…。
画面がずっと美しいしかわいいしアクションもすごいし、ありがてぇ〜って感じで笑顔になった。
話が好き!というよりは画面が好きだ!!!という映画。
アニメでもなかなか珍しいかもしれない…。絵柄が大好き!動きが大好き!
早く配信とか始まって欲しい。何か作業しながら流していたい。
以下、観た当時の気持ちのまま書いた感想をそのまま貼り付けちゃうので、
ネタバレが多く含まれますのでご注意ください…あといちいち長いのが多いと思うけど…。
(ていうほどこれ読んでくれる人いるのかは不明)
4、殺さない彼と死なない彼女
※これは2019年の映画だけど私の初見が2020年だったので
話題になる前はいつものしょうもないデートムービーかよと思っていました(ほんとごめん)
でも、そうではなかった。びっくりするほど真っ直ぐ心に届く映画でした。
こんな口調で東京の高校生たちはしゃべるのか!?うそやん?というちょっと芝居かかった口調も最初は違和感があったがだんだん癖になる。
3つのお話が平行してるようでいてちょっとずれてる構成もよかった。ラスト付近でつながっていくところがオムニバスの楽しいところ。
・きゃぴ子と地味子のお話
きゃぴ子が一番好きなのは地味子なんだから二人が付き合えば全部解決しないか?と思わされるいい百合だった…。
でも女同士で好きあってても、そういう好きじゃない場合の方が多いからな。男の人にしか埋められない心の穴があるんだろうか。
かわいい子のことをやっかむ人たち、まあそらいるんだろうけど、かわいいことは素晴らしい才能だし、勝てないなあと思うし。
きゃぴ子に素直にかわいいって言い続ける地味子もかわいいよ。
・八千代と撫子のお話
一途に好きって言い続ける撫子(原作では君が代ちゃんなんだな)がめちゃくちゃかわいい。
通話録音しようとするシーンがめちゃ好き。
好き好き言われる側としては、なんでそんなに好きなんかわからなくなるよね、わかる。
そして、八千代が撫子を好きになったって伝えたら、その関係が壊れるんじゃないかって心配する気持ちもめちゃわかる。
しかし撫子はそこで八千代君に飽きちゃう女じゃなかった、よかった・・。ハッピーエンドで。トラウマを癒してくれる女神だったよね…。
・小坂と鹿野のお話
口が悪すぎるけど、お互い絶対好きじゃん素直になれよ!!!と思い続けてたらまあ、そう来たか…。
原作を全く知らずに臨んだので、まあどっちか死んじゃうんだろうなとは思った、思ってたけど、ほんとにどっちも死なないでほしくなる。
なな、生きて。ってそれちゃんと対面で言いなさいよ…。で泣く。
夢の世界がだいぶ救いがあったけど、なんで彼は殺されないといけないんかまったく不条理すぎて殺人鬼はほんとにお前が死ねって思ったな…。
鹿野が小坂のクローゼットで服を抱きしめるところとかほんと無理だった泣いた…。幸せになってほしかった。
最後に、あなたについていきたいって言ってた鹿野が、小坂を追い抜く演出がマジでよかったです…。(映画オリジナルなんだね)
時系列のずれにも伏線があったんだね。撫子を慰めれるほど元気になってえらい。
観終わったときメイクがほぼ落ちてました。観れてよかった。悲しいけど暖かいものが残る作品。
※後日原作も読んだけど同じところで泣いちゃってびっくりしたよね。涙腺にダイレクトよ。
3、ジョジョ・ラビット
ラストシーンでちょっとずつ我慢していた涙が我慢できなくなってボロボロ泣いてしまった、。
結構デリケートな話なのに、思ったより軽やか、序盤はこれ大丈夫なのとか思いつつ。
「ハイルヒットラー!」の応酬とか茶化してやってるもんね・・・
でも戦争と国の思想の刷り込み、差別の恐ろしさはしっかり伝わってくる。
男女差別もバリバリにあるし、弱い者には価値がないっていうのを空気から伝えてきて、しんどい・・。
エルサが隠れている部屋が見つかった時はこれはアレじゃん(ネタバレ防止)
とかとても思ってしまった。隠れ家のモチーフかぶり・・・。
ユダヤ人ってゲシュタポにバレそうになったところが本当に冷や冷やした、絶対に気づかれないでほしい…と祈るように見ていた。
そして見逃してくれるキャプテン.Kが。
フィンケルと同性愛をはぐくんでる(全然明言されてないけどおそらく・空気で、と他感想でも拝見)し、
おそらく表では隠していたけど同性愛もナチスは迫害対象だったらしいしナチズムには反対してたんだろうな、
というのがラスト近辺でもわかる。かっこよくていい男だった。
で、お母さん、ロージーもめちゃくちゃいい女。あんな美女かつ賢い、なのにお母さんって、設定がよすぎ。
そしてお母さんが亡くなってしまったことをあんな形で知るのしんどすぎるし、そこで靴ひもを結ぼうとするけど結べないジョジョ・・・
がラストでエルサの靴ひもを結んであげる。で成長を演出する。ってそんなんグッとくるに決まってるじゃないですか。
極めつけのダンスもね。人は自由になると踊りたくなるのか。音楽が髄所に効いてる映画だったしなぁ。
以下、思ったこと箇条書き
・ヨーキーもいい役。冷静でほんとに10歳なの!?柔軟。と思う。ジョジョにいい友達がいてよかった
・お腹の中で蝶が舞うような。をちゃんとイメージから表しているシーンよかった、かわいい。
・アドルフ・ヒ���ラー役は監督!?て後で知ってびっくりした。何でもできるんだね・・・。あの感じがでています。
・飢えてるときウサギ食べるのか!?と思ったけど食べませんでしたね・・・
・戦争中のわりにラスト以外は暮らし向きとしてはそれをほんのりとしか感じない、ドイツって結構戦時中も普通の暮らしができてる方だったのかな・・・(史実良く知らないけど)
※めちゃ余談だけど、最近読んだ「戦争は女の顔をしていない」(漫画版)という作品において敵国の女性兵がドイツ人女性がベランダでコーヒーを飲んでいるところを行軍中に見かけて、そんな優雅なことが戦時中もあるなんて!とびっくりしてしまう。みたいなエピソードがあって、それを思い出した。
2、朝が来る
辻村美月さんの作品が元々好きってのもあるけど。
知り合いの映画好きの人たちか絶賛するのわかった。
こんなリアリティある演技合戦が観られるとは…。
例えば施設のギャルや新聞販売所のギャル。
本物連れてきたのかってくらいいそうだったしマジで同一人物かと思った。
あとやっぱ蒔田彩珠さんの吸引力がすごい。
人を惹きつけ���魅力。ボサボサの金髪になっても魅力が失われない。
死んじゃわなくて本当よかった。警察来た時死んだわ…って思ってしまったし。
ちびたん、いい子に育ててもらえてよかったね…幸せになってくれ。
1、パラサイト
…めちゃくちゃ面白かった、面白いって一言で言っちゃうだけじゃダメな気がするけど
ネタバレ禁止ならもうとにかく観てよ~!(PG-12…ひっかかる…じゃなければ)というしかないな
序盤1時間くらいは本当にエンタメで、キンプリの映画みてるんかなくらい声に出して笑うの我慢した、キム家は演技がうますぎるし、
パク家は騙されやす過ぎる。(ダソンには気付かれてたかもしれないが)
ヨンギョ(奥さん)のびっくりし方とか、大げさなんだけどほんとにこういう人いそうなんだよな…。て思っちゃう。
とはいえ、ちゃんと仕事はしてるんだよな、キム一家。
雇用されるかされないかは、技能とか技術じゃなくて「人のつながり」「コネ」ていうのが、
今の社会なんだね始まりがアレだったので…。ギジョン(ジェシカ)がどんな授業してたかは謎だけど。
普通に家政婦の仕事とかハードだと思う、おいしいものが食べれそうなのはいいけどさ…。
ギウ(ケビン)は紹介してくれたお友達のこと一瞬で裏切っていて笑った、でもその友達が紹介しなければあんなラストにはならなかったんやなあ…。
パク家がキャンプに行った時に好き放題していたときまではまあ悪いんだけどほんとに爽快だった、たんのしかっただろうなって。
そっからの急激な展開!もう面白いのにさらにそれが深まる…というか別のベクトルに行くっていう。
富裕層(高台)と貧困層(半地下)だけじゃなく、そしてまた更に下(地下)があるっていうね、
二人分食べるんだよねってドンイクが言ってたのはそういうことでしたか!伏線回収がいっぱい…。
そして本当の意味でパラサイトしていたのはムングァンの夫でした…。面白い…
そこでのいざこざからはだいぶとドロドロした展開に。北朝鮮ジョークがいっぱい…韓国映画なんだな…普段観ないから新鮮。
ちょいちょい日本語に近い単語が聞こえてきておもしろいよね。お隣なのに何にも知らんよね…。
・・脱線した、それでパク家も帰ってくるって言うね!大雨なんだから予測しときなさい!
ここでもでてくる「切り干し大根のようなにおい(貧困層のにおい?)」の話があとであんな形で引き金になるなんて。
そっから脱出までもかなり息が詰まった…。家政婦、死ななくてよかった…て思ってたのに亡くなりそう…助けられなかった夫の声がもう。
そしてキム家がやっと出られたと思ったら、(ここで高台から階段で降りていくカメラワークがめちゃくちゃ象徴的)まさかの洪水で家が水没。
何かを掬い上げないといけない中でギテクがチュンスク(元砲丸投げの選手だったみたい)のメダルをひっつかむのに、
妻への愛情と過去の栄光にすがる、みたいな切なさを感じでグッと来てしまった、
そして暴発する半地下のトイレのふたを無理矢理閉めて一服するギジョンのかーっこいいこと。名シーン。
次の日に、あの惨劇が起きる。
結局純粋な悪者がいないんだよね、一番かわいそうなのはドンイクさんよ、なーんも悪いことしてないのにね…。
金持ちをヤなやつとして描くのはもうほんとに古いんだろうよ、下層の洪水被害のことなんて息子の誕生日をめいっぱい祝うことに比べたら全然大事じゃない、そらそうよね。
私にもお金持ちの友達いるけど、彼らマジでいい奴だから、「金は性格のしわを伸ばすアイロン」は本当のことだと思う。
苦労せずその地位を得てるってこともないんだろうけど、心の余裕ってやつは段違いなんだろうな、いいな…。
それはめちゃくちゃ思った。
ラストシーン(モールス信号ってあんな長い手紙かけるんか、すごいや…。)
父の手紙を解読してお金持ちになって父親を助けるって言ったギウの決意に嘘はないんだろうけど、韓国の社会構造ではそれは本当に夢であり、ノープランなのと同じなのかもしれない…。というラストが何とも言えなかった。
以上!!長いな!!!いつも自分のためだけに書いているから大変独りよがりな文章かと思いますが・もし読んでもらえた人がいるならありがとうございます。
今年もコロナはおさまる気配ないのでなんのかんの映画に行ってしまう気がする。
習慣てすごいよね。良い映画に出会えると良いなあ。
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『八月の光』、分厚いですよね(後半)

後半です。前半ではクリスマスとジョアナを中心に愛と承認についてうだうだ書きました。後半では腹を括って書ききれなかった「信仰とはなにか」問題について書かねばなりません。書き切るためにも、とにかく気合でページを進めるのみです。デスマーチ……(私はものを読むのが得意でない)。 後半で取り扱う人物がまー軒並みクズでして、奴隷労働をさせられることになった怒りをフォークナーに癒してもらうために読み始めたはず��、より一層怒り狂うはめになりました。
【主な登場人物】
リーナ・グローヴ:神がジェファソンに導き給うた。そろそろ産まれそう。
ジョー・ブラウン:自分が作った酒でアル中になるバカ。
ジョー・クリスマス:愛した女を殺し家を燃やして逃走中。賞金首。
ジョアナ・バーデン:愛の渦に飲み込まれ死亡。享年44歳。
バイロン・バンチ:おれがリーナを守る!夫に会わせてやるからな!
ゲイル・ハイタワー:実はバイロンとマブダチ。本は結構読むらしい。
それでは参りましょう。悪態が炸裂して大変なことになりそうです。
【目次】
383ページ 頭蓋骨に蛆が詰まっているとしか思えない
395ページ 「確信」への憧憬
403ページ ハイタワーの受け取った「おつり」
474ページ まるで死が賜物であるかのように
495ページ 黒人の神様
498ページ 罪を抱えきれない弱い人間
526ページ リーナの出産
574ページ このタイミングで新キャラ出すの何なの
631ページ ハイタワーの死/リーナの再出発
やっと読み終わりました(656ページ)
383ページ 頭蓋骨に蛆が詰まっているとしか思えない
前半冒頭で「走る下半身」として紹介したジョー・ブラウンという男がいましたね。こいつの名前は偽名です。リーナの夫になることから逃れるために町を移り、名を変えました。本名(かどうかも怪しいが)ルーカス・バーチ、バイロン・バンチと名前が似ていた偶然がリーナを彼のそばまで運んできたのです。必然でしょうね。 このクソ野郎は、リーナから逃げて流れ着いたこの町に同じく流れ着いたストレンジャーであったクリスマスとつるんで密造酒の製造販売で儲けようとするのですが、脳が5gくらいしかないのであちこちでヘマをやらかしてクリスマスに睨まれます。とはいえクリスマス自身もストレンジャー特有の警戒心があり他に仲間にできそうな人もなく、同じくストレンジャーであるブラウンと一緒に過ごすことを選びました。宿のない彼をジョアナに与えられていた小屋に招いて共に暮らすようになると、ブラウンはクリスマスとジョアナが男女関係であることを知るようになります。へえ、こいつはおもしれえや。あの北部人の女とね。のみならず、クリスマスが酩酊して「自分には黒人の血が流れている」と独白するのも聞く。いよいよこいつの弱みを握ってやったぜ。こいつは使えそうだ。 それで、火事の現場に偶然居合わせたブラウンに容疑がかかった際、相棒クリスマスの複雑で繊細な事柄をぜんぶ、ぜーんぶぶちまけて、自分の利益に替え��うとするわけです。我が身の安全とクリスマスの首に懸かった賞金の千ドルのために、知ってることをすべて警察に打ち明けて、「あいつが殺したんだ!あいつが悪人だ!」と喚く。「俺は何もかも知っている!犯人を明らかにしたんだから千ドルよこせ!」とぎゃんぎゃん叫ぶ。なんなんだこの下劣野郎は。最悪すぎる。
ブラウンはしゃべりたがった、熱心に大声でしゃべりたがり、どうやら彼がそうするのも千ドルの賞金が欲しいためだとすぐに明らかになったのだった。 「おまえは共犯証言をして自分の罪を軽くしたいわけかね?」保安官が尋ねた。 「俺はそんな証言したくねえよ」ブラウンは表情も声もやや荒っぽく、突っかかるように言った。「誰がやったか俺は知ってるんだ、千ドルくれれば話すんだ」
ちょっと頭蓋骨に蛆が詰まっているとしか思えないですね。それとも、この時代、1930年代のアメリカの南というのは、ここまで人を貶めなければ自分が生き延びることができないような時代だったのでしょうか。
2020年を生きる私はブラウンのキャラクターに対してはっきりと憎悪をもっていますが、当時の土地や時代のことや、信仰のもう手に負えないほどの形骸化のことに鑑みるに、彼が神を無視し、慣習を無視し、父親となってこの世に囚われることを拒み、逃げ、逃げ続け、この世に反抗して生きられるのならば何だってやる、という態度を選択するのももしかすると一つの生き様なのかもしれない、とわずかな同情の余地をもつこともできます。彼の発言や行動の迂闊さと利己心をみるに、そこまで確固たる思想があるとはまったく思えないけど、絶対ないとは言い切れないよね。
もちろん、どう擁護しようと、こいつのせいでリーナは孕んで共同体から疎外され、こいつのせいでクリスマスはリンチに遭って死ぬわけです。 ですが、彼を悪であると断じていいのかどうかはわかりません。
リーナはすごく晴れ晴れしく旅を続けています、この男を追う旅を。この小説のラストシーンは再びリーナの歩みで締めくくられるのですが、そのリーナの姿の晴れやかなことといったら。生きる勇気をもらえるラストシーンです。この美しさ、晴れ晴れしさは、未読の方には是非読み通して味わっていただきたいものです。 クリスマスは、これは想像にすぎないけれど、多分ジョアナを殺して一人になった時からずっと死にたかったのだろうと思います。二人で死ぬつもりだった女を一人で死なせて、彼はもう生きていくことはできなくなったような気がする。二人で死のうとしていたような女を一度人生に置いて、それから再び一人になるということはできないような気がします。
ジョー・ブラウンの存在は、「引き金は意思を持たない」ということを示しているのかもしれません。事実、この世には、明確な意志で以って引かれる引き金なんかほとんどないのです(私たちが抗いながらも自殺に憧れる理由��しょうか)。
395ページ 「確信」への憧憬
これまでこの記事では愚昧な男バイロン・バンチと追放された牧師ゲイル・ハイタワーのことにはほとんど触れずにきました。どちらも物語の主要人物なのですが、どうも魅力に欠いて、それは彼らに主体性がないからだと思います。自己についても他者についても社会についても責任を有していない。呆れたことですが、一般的なことかもしれません。 動くことはもちろんsurviveするための能動的選択ですが、不動のまま耐え続けることもまた生き延びるための一つの選択肢でしょう。とくに共同体から疎外されては生きてゆかれないような状況では、動くことのほうが愚策であることが多い。 バイロンとハイタワーの両者は「耐える」ことを選んだ者でした。 ある側面では、この小説の結末について思えば、これはそういった「どこに自分を見出せばいいかわからない」ような生を生きてきた彼らを救済する物語であるとも言えるかもしれません。
「彼女はいまあなたがしているように僕を見つめてて、それから言ったんです、『その黒ん坊の名は何というの?』まるで神様が見るみたいに、人間の嘘から知りたいことだけを、尋ねもせずに、見つけだしちまうんです」
バイロン・バンチがリーナに恋をするのも頷ける話です。確信を持つ人間は、従い続ける人間にはあまりにも眩しく見えるものでしょう。
バイロン・バンチは、よりによってジョアナの死体と家が燃え上がっているまさにその時にジェファソンにたどり着いたリーナと偶然出会って恋に落ちます。「ルーカス・バーチ(下半身ジョー・ブラウン)を探していたら、バーチじゃなくてバンチならここにいるっていろんな人に言われたわ。バンチってあんたなのね。」みたいな感じで話します。今書き出してみて気づいたけど、売野機子の描く物語の登場人物にこういう話し方をする子がけっこういますね。『かんぺきな街』とか。
バイロンがリーナを保護し、彼女の望みを叶えるためにブラウンに会わせてやろうとするその健気さ、甲斐甲斐しさというのは、明らかに当時理想とされていた男性像から逸脱したものです。言ってしまえば性役割が反転しています。ここがリーナというキャラクターの底知れなさで、この人、主語が一貫して「あたし」なんですよね。前半の登場人物紹介で「電波」と書きましたが、彼女を電波と言わしめる社会順応性のほうがどう考えても悪ですね。
403ページ ハイタワーの受け取った「おつり」
『いかん、わしはせんぞ。わしはお役ご免の株を買ったんだ』。それがいまは口でしゃべる言葉ほどになって、繰り返し、執拗に、主張するように、『わしはそのために支払ったのだ、値段をごまかしはしなかった。誰にもそうは言わせんぞ。わしはただ平和が欲しかっただけだ。言い逃れもせずに彼らの値段どおり払ったんだ』。
『 』は作中人物が頭の中で考えた会話や独白を示すそうです(原文では ‘ ’ )。ゴシック体(原文はイタリック)となっている“意識の中を走る「思考の流れ」”との違いが相変わらずよくわかりませんね。より強く現実に即している思考ってことなのかな。
本書ではバイロン・バンチとハイタワーの対話に少なくない紙面が割かれているのですが、この箇所ではバイロンがハイタワーにクリスマスを助けるための嘘をついてくれないかと懇願します。 バイロンはハイタワーに頭を下げつつ、「悪人と同様に善人にも負債が——償わねばならぬ負債が——あるとあなたに言いましたね」と話しています。ハイタワーはそんなこと、つゆほども承知していない。 先に「耐える」者として触れたとおり、そして上記の引用からも見て取れるような、「ただ悪事を犯さないというだけで“善人”である」というスタンスをとっていたハイタワーには、自分が支払わなければならない負債なんか到底あるとは思えないのです。 しかしその後、ハイタワーはほとんど自らの意志で「おつり」を受け取ることになりました。
この場面の前後で、クリスマスの祖父母が新たに登場します。ここにきて新キャラ出すのやめろ。クリスマスの(微妙にたいしたことない)出生の秘密が明らかになると同時に、前半で触れた孤児院の「番人」はクリスマスの祖父だったことが判明します。孤児院のシーンでの描写でも完全にヤバい男でしたが、何がどうなってあんなにヤバかったのかが明らかにされて私も安心しました。詳しくは後ほど。
474ページ まるで死が賜物であるかのように
それでいてなおその音楽は冷酷で執念ぶかい性質を持ち、用心ぶかくて、わが身を犠牲にする情熱もなく、頼み、懇願するのだが、それは生をではなく、死を請い願っているのであり、他の新教音楽と同様、人々に生命を禁じるその高い調子は、まるで死が賜物であるかのように、死を請い願っているのだ。
ハイタワーが今は自分の所属先ではなくなってしまった教会、そこで奏でられるパイプオルガンの音色について回想しているこの箇所は、明らかにイエス・キリストを擬人化(擬人化?)した挙句クリスマスに重ねている文章ですね。 この、クリスマスの心情を髣髴とさせる一節をハイタワー(堕落した牧師)の思念として描き出すのもなかなか皮肉に満ちていながら、……もしかすると、「わかりあえなさ」を強調しているのかもしれません。
この人々は喜びや陶酔には耐えられぬようであり、そこから逃避するために暴力と酒と喧嘩と祈りを用い、破滅するときにも、また、同様に、きまって暴力を用いるのだ だから彼らの宗教も当然のことに、彼ら自身やお互いを、十字架上に追いあげるようなものになるのだ と彼は考える。この音楽の内奥には、あの人々が明日はせねばならぬと知っているものに対する彼らの宣言と献身とが聞きとれるように思える。また、前の週は奔流のごとく過ぎ去り、明日に始まる来週は��淵であり、いまだけは瀑布(ばくふ)の落ち口に集まった水の流れが一つに調和して厳粛で朗々たる響きをあげているといったふうなのだ、それも弁明のためでなくて自らの落下を前にしての末期の挨拶であり、それを神へではなくて鉄棒のはまった監房に死を待つあの男へであって、その合唱ばかりか他の二つの教会の音楽も聞えてくる監房にいる男に、彼らは喜んで磔のための十字架を建てようとしているのだ。(太字箇所はここではゴシック体)
『というのも、あの男を憐れんだりすればそれは彼ら自身への疑問を生むことになるからだ、彼ら自身を憐れむ希望と必要を生むことになるからだ。だから彼らは喜んであの男を磔にする十字架を建てるのだ、喜んで。それが恐ろしいことなのだ、まったく恐ろしい、恐ろしい』
思念はイエス・キリスト、クリスマス、そしてハイタワー自身が民衆から受ける仕打ちを重ね合わせながら、自己を守るために他者の理解を拒むという民衆的暴力の陰惨さに辿り着きます。 この箇所を他人事として棚上げすることは許されないように思われます。私たちが他者を拒むとき、それが暴力の行使にあたることにはほとんど気づきません。しかしそれは、『八月の光』あるいは聖書に描かれる実際上の血祭りとなんら変わりないと、ここにはっきりと記されていました。
ハイタワーとクリスマスは、それこそクリスマスの死の瞬間まで一切、直接に接触することはありません。隠居しているハイタワーは、クリスマスの存在を知ってはいるものの、バイロンの噂話で聞きかじる程度です。 こうしてかつての自分が民衆から受けた迫害にあらためて思いを馳せる夜を経たことで、その後ハイタワーはクリスマスを暴力と死から逃そうとする行動をとることになるのですが、結局守りきれず、無力感に包まれたままハイタワーもまた孤独に息をひきとりました。
直接に愛し合うことのない人間がほとんど唯一の理解者としてこの世に存在しうるということは、絶望でしょうか。それとも希望でしょうか。自分が生きながらにして享受でき���い救いははたして救いなのでしょうか。生前評価されなかった画家を死んでから愛でるというおこないの下劣について、私たちはどう折り合いをつければいいのでしょうか。
死が賜物であると宣べるとき、私たちはこの生の耐え難い無力感から解放されることの安堵に支配されてしまうのでしょう。その安堵に抵抗し続けることの困難に、それでも立ち向かわなくてはならないのですが。
495ページ 黒人の神様
『坊や、なんであっしばかり見つめとるだね?』するとその子(引用者注:孤児院時代のクリスマス)は言った、『おじさん、どうして黒ん坊になったの?』それで黒ん坊が言った、『あっしが黒ん坊だなんて誰が教えたい? ええこの白人の父(てて)なし子め!』するとその子が言うんだ、『ぼく黒ん坊じゃないよ』、そして黒ん坊が言った、『おまえはそれより悪いだ。自分が何だか知らねえんだから。それもだ、これからずっと一生知らねえだ。おまえは行きて、そいから死ぬだがそれでも死なねえままだ』
呪いがすごい。この���詛によって、人種差別の罪、暴力でもって黒人を奴隷として使役してきた白人の罪のすべてがクリスマスに注がれています。神なき人の子に重すぎる原罪を背負わせるのやめろ。
そしてその子が言うんだ、『神様は黒ん坊じゃないよ』、そしてその黒ん坊が言うのさ、『おまえは神様が何だか知ってるにちがいねえな、だっておまえがどんな人間かは神様だけが知っとるんだからよ』。
「神様は黒ん坊じゃない」! その次の黒ん坊のセリフもまたすごいものですが、「神様は黒ん坊じゃない」という一節に衝撃を受けました。そうだよな、黒人の歴史においては、キリスト教が布教される(あるいは強制される)その担い手は白人だったわけで、それは書物ではなく口承と絵図とモチーフのみによって教えられたわけで、イエス・キリストは黒人の姿をしていない……。一度も考えたことがなかった。黒人にとっては、神の子は自分と同じ肌の色をしておらず、よりイエス・キリストの姿(と思い込まされているもの)に近い白人たちのほうが上等な生き物であると思わされてきたのかもしれない。白人たちも当然その傲慢に染まっていたことでしょう。聖書におけるイエスの肌は褐色であるにもかかわらず。 ここで私が割って入って「神様は黒ん坊でもないけど白人でもありませ〜〜ん残念でした〜〜〜!」と叫びながらハリセンでクリスマスの頭をはたけたら何か変わっていたかもしれません。悔やまれます。
その直後の黒ん坊のセリフ「おまえは神様が何だか知ってるにちがいねえな、だっておまえがどんな人間かは神様だけが知っとるんだからよ」、こっちが真実ですね。どんなに正しいことに触れても、それが正しいと知らなければ受け取ることは叶わないのはやるせないものです。私もきっとおびただしい正しさを取りこぼして過って生きているのだろうな。
それにしても、構造が明らかになるにつれフォークナーの筆力にひれ伏すばかりです。私事ですが、ここ何年かは、複雑きわまりない人生から「咀嚼可能なていどに簡易化をほどこした物語」を抽出することに取り組んできましたが、そろそろ「複雑な物語構造を組んで現実を再構築する」ということに取り組んでみたい気がしています。
498ページ 罪を抱えきれない弱い人間
クリスマスの祖父について少し触れておきたいと思います。老ハインズと呼ばれている、町で噂のキチガイ爺です。「番人」の描写の時もやたらと神神神神言ってましたが、この人もまたあんまりよろしくない形で神と共にあり神を都合よくつかって救われたがっている人です。彼は常時、神と会話(対話でなく会話です)をしています。
老ドック・ハインズはあれが馬車に乗って出てゆくのを見送ってから、神様がおいでになるのを待っとると神様がやってきて老ドック・ハインズに申された、『おまえも行ってよろしい。おまえはわたしの仕事を果した。あとはもう女の悪業しか残っておらぬが、それはわたしの選んだ手先に見張らせる値打ちもないものじゃ』。
クリスマスを孤児院から養父母に引き渡したあとのシーンですね。老ハインズは自分を神の使者だと思っているようです。 彼の一人芝居の滑稽さには正直ちょっと笑ってしまうのですが、直後に来るシーンはかなり切実で泣けてしまいます。
夜になると彼は言った、『神様、あの父なし子は?』そして神様が言われた、『あれはまだわたしの大地を歩いておる』、そして老ドック・ハインズは神様と連絡をとっておってそして晩になると彼は言った、『神様、あの父なし子は?』そして神様が言われた、『あの子はまだわたしの大地を歩いておる』、そして老ドック・ハインズはなおも神様と連絡をとっておって、そしてある夜に彼はもがいたり荒れくるったりしてから大声で叫んだ、『あの父なし子、神様! わしは感じます! わしは悪魔の歯と牙を感じます!』そして神様が言われた、『それはあの私生児じゃ。おまえの仕事はまだ終っておらん。彼はわたしの大地の汚れであり憎しみなのじゃ』
ぐううう……(ぐうの音)。いやね、今となっては「私生児くらいでそんな……」という感じですが当時は気が狂うほどの罪だったんでしょう。自分の手から放してしまった孫をずっと気にして、不安にかられて、神様、神様と唱え続けている老ハインズの哀れな姿に胸が締めつけられます。ついに不安も苦しみも罪の意識も自責の念も背負いきれなくなり、ハインズは神様に「彼はわたしの大地の汚れであり憎しみなのだ」と言わしめてしまいました。 貶めることで安堵しようとする。人間のそういう弱さはよくわかります。自分の罪を自分で抱えきるには人間は弱すぎる。老ハインズと同じことを私もよくやっていると思います。でも、人間が弱いからと言って、自らその弱さを手放しに許すことは堕落にほかなりません。生きる以上、私たちはこの弱さに抗っていかなければならない。
526ページ リーナの出産
さて、物語も終盤にさしかかっています。ついにリーナが出産するのですが、ブラウンが彼女を匿うことにしたのは実はジョアナ・バーデン邸の一角、クリスマス(とブラウン)が寝泊まりしていた小屋なんです。 クリスマスがジョアナを殺して家を焼いたそのすぐそばの小屋でリーナの子が産まれた瞬間、そこには、大人になったクリスマスに再会することで罪を許されたいと願ったものの叶わなかったクリスマスの祖父母(老ハインズら)と産婆役のハイタワーが集い、ここまできてもなお事態を我が事とみなしていなかったために医師を連れて来るのが間に合わなかった情けないバイロン・バンチが遅れてやってきて……なんというか、すごい構図ですね。ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(1897-98)を思い出します。

ゴーギャンこれ。好きなんだよね。
『哀れな女だ』と彼は考える。『哀れにも不毛な女。あと一週間だけ生きのびておれば、幸運がこの場所に戻ってきたものを。この不毛の破滅した土地に運と生命が戻ってきたものを』。
ハイタワーはリーナの小屋に医師役として通いながらこんなことを考えますが、ほんとにそうかなあ。ジョアナとクリスマスが破滅し、家が燃え上がって何もかも失われてしまったからこそ、ここに新たな生命が芽吹いたんじゃないのかな。わからないけど、そんな気がします。世界は運動し続けるもので、とどまることはないと思う。
574ページ このタイミングで新キャラ出すの何なの
おい、もうほぼ読み終わろうとしているこのタイミングでなぜまたも新キャラを登場させる。すごい度胸だフォークナー。登場させたペラッペラの新キャラにクリスマスを惨殺させる役割を担わせるのに何の意図があるんだフォークナー。 この新キャラ(警官パーシイ・グリム)は物語に颯爽と現れて颯爽とクリスマスを殺して消えます。なんなんだ。
留置所から逃げ出したクリスマスはハイタワーの家に駆け込み(クリスマスの祖母が彼に会いに留置所へ行き、ハイタワーが守ってくれるはずだと説いたためです)、ハイタワーも彼を追っ手の警官グリムから守ろうとするのですが、空しくクリスマスはグリムに撃たれて殺されてしまいます。
他の連中が台所に着いたとき、テーブルは横にのけられ、グリムは死体の上にかがみこんでいた。彼が何をしているのかと近づいて、一同は男がまだ死んでいないのを知った、そしてグリムのしていることを見たとき、彼らの一人は咽喉のつまった叫びをあげ、壁のほうへよろめいていって嘔吐しはじめた。グリムもまた、血だらけの大ナイフを背後に投げすてながら飛びさがった。「これで、きさま、地獄に行っても白人の女にいたずらできないぞ」と彼は言った。
このシーンは……ちょっとあまりにも悲惨で口を噤んでしまいますが……。直後に「尻や腰のあたりの切り裂かれた服の間からは」という記述があるので、おそらくそういうことですね。一体、警官には正義の名の下にそんな仕打ちをおこなう権利があるというのでしょうか。正義は最悪。いや……マジで最悪ですね正義……。正義によって私刑が正当化されると思っている人間は本当に吐き気のする悪でしかないですね……。おえ。
彼らはこの澱んで僧院めいた薄暗さの中へ、いま彼らが彼にしたばかりの残酷な夏の光に似た何かを持ち込んだのであった。 その光の残映は彼らの上に、彼らのまわりに、ただよっていた——それは光の持つ恥知らぬ残忍酷薄な明るさともいえた。
「八月の光」が何であったのか、端的に述べられた箇所です。 柔い光は人に優しく、あたりを照らして私たちに景色を与え、世に温度と色彩をもたらし、それは恩寵というべき恵みです。しかし、あまりにも強い光は私たちから視力を奪い、体を灼熱に焦がし、すべてを奪いつくす暴力と転じます。それは私たちの力ではどうにも操ることのできないもの、畏怖すべき自然です。 このグリム然り、『異邦人』のムルソー然り、どうも「太陽のせい」で人は道を踏み外しがちになるようです。それはお前が常日頃からきちんと責任について考えておらず、また畏れという意識のもとに生きてないからだと思います。バーカ。
631ページ ハイタワーの死/リーナの再出発
『いずれにせよ、人間の手で神様に非難や責任を押しつけえないものが、何かあるにちがいないのだ。どこかにあるにちがいない』。
終わりから2番目の章はハイタワーが息をひきとる間際におこなう回想に充てられています。祖父の栄光、父の真面目さ、自殺させた妻のこと、などなど。相変わらずあまり反省の様子は見受けられませんが……。初めて知ったのですが、死ぬ間際にはアメリカ人にも走馬灯が見えるようです。
それでも、上に引用したハイタワーの独白は、「八月の光」を否定しうる力強い一節に違いありません。この小説に登場した人物には、神を信じるのではなく、神に責任を転嫁したり、神を都合よく利用したり、神にすべてを預けて破滅へと堕ちていったりする者も多くありました。まともに神を信仰していたのは記憶の限りではリーナくらいでしょうか。 別に神を信仰することが圧倒的な是ということもなく、神のかの字も口にしないジョー・ブラウンのあっぱれな逃げっぷりもそれはそれでよかろうと思います。人倫には悖るし、局部を切り取られるべきはクリスマスではなくこいつなわけだが……。
自分を手放してしまうこと、抗うことを諦めてしまうこと、すべてを「八月の光」のせいにして責任を取らないまま都合よく救済されようとすること。生きるという重圧からの解放に誘惑され、ともすれば抗い難く飲まれてしまうそういった堕落に抵抗し続けることこそ、私たちが生きるこの世界にたいする責任を果たすことに繋がるのかもしれません。
ちゃっかり逃げおおせたブラウンを追って、リーナは再び立ち上がります。今度はバイロン・バンチも一緒です(残念ながらまだまだ片思いの模様。)。
『逞しいもんだ。男どもがあんたを踏みつけにして行っちまうと、あんたおはやつらの残したものを集めて、また進むというわけだ』
そのとおり。私たちは何度踏みつけにされても立ち上がるのです。
やっと読み終わりました(656ページ)
読み終わったぞーーー!!!ワーーー!!すごかった!!! 軽い気持ちで書き始めた感想文のために2周もするはめになり、私もリーナと一緒にずいぶん遠いところに来た気分です。私の読解力の低さゆえ一読では読みきれないところが結構あったので、こうして精読する機会を得られてよかった。
しかしフォークナーの筆力えげつないな……。
と言うのが今は精一杯です。人の人生を初めから終りまで描き切るようなことは、今の私には逆立ちしたってできっこありませんが、「人の人生を初めから終りまで描き切るようなことも人間には可能なのだな」ということをこの20代の終りに初めて知れたので、おそらくこれから先、見ようとするもの、見える��とをわかっているので見ようとすることができるもの、が格段に増えてくると思います。とても嬉しい。嬉しいな。精読できてよかったな。
追うリーナ、逃げるブラウン、彷徨うクリスマス、助けるジョアナ、閉じるハイタワー、従うバイロン。人間同士を物語によって絡めあい、多様な生き様を浮き彫りにしつつ、フォークナーはけっしてその是非を問わない。善悪を診断しない。評価を下さない。優れた小説とはかくあるべし、というまさにお手本のような作品でした。これは個人的な感触にすぎず、後日もっと学びを深めたあかつきには撤回することになる謂いかもしれませんが、多くの小説においてはテーマがすでに正義を帯びているような気がします。気がするだけだけど……。
というわけで、拙い感想文に長々とお付き合いくださり本当にありがとうございました。長かったでしょう……。読んでいただけて嬉しいです。ありがとうございます。 最後に、フォークナーがノーベル文学賞を受賞した際のスピーチより有名な一節を引用して締めくくりたいと思います。
I believe that man will not merely endure: he will prevail. He is immortal, not because he alone among creatures has an inexhaustible voice, but because he has a soul, a spirit capable of compassion and sacrifice and endurance.
——私は、人間とはただ耐えるだけの存在ではなく、打ち克つことのできる存在であると信じています。人間は永遠の存在です。あらゆる生き物のうちただ人間だけが尽きることのない声をもっているから、というわけではありません。人間に魂があるからです。他者を思いやり、自己犠牲を厭わず、忍耐強く耐え抜くことのできる精神を人間が備えているからです。
訳は拙訳でした。全文はこちら↓ https://www.nobelprize.org/prizes/literature/1949/faulkner/speech/
リーナの旅は続く。わたしは次は何を読もうかな。
(2020/05/17 16:21)
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映画に登場するジュエリー①

ジュエリーが人生のさまざまな局面でどのような役割を果たすか知りたければ、映画や小説を参考にするといい。そう説いていたのはたしか、オランダの美術史家のマリアン・ユンカー氏である。彼女の言うとおり、こういった創作物のなかでジュエリーが効果的な小道具として用いられている場面はよく見かける。ここではそのようなジュエリーの例を挙げたい。ただし、ここで取り上げるのは、私が最近観た映画にでてきたジュエリーのなかで印象に残っているものであって、そのジュエリーや描写がとりわけ優れていると言いたいのではない。またそれぞれの映画についてネタバレが含まれるのでご注意を。
『エミリー・ローズ』(原題:The Exorcism of Emily Rose)2005年
実話に基づく、エクソシスムを題材にした作品。異常行動になやまされる少女、エミリー・ローズが悪魔憑きとみなされ、神父による悪魔祓いを受けるが、その甲斐なく死亡してしまう。ストーリーは、少女の死の責任を問われ法廷で裁かれる神父ムーアと、弁護士エリン・ブルナーを中心に展開する。エリンはキャリア志向の敏腕弁護士だけあって打算的で、悪魔憑きという事象に懐疑的ではあるものの出世目当てに神父の弁護をひきうける。
信仰心のうすいエリンだが、調査を進めるにつれ、エミリーにたいする神父の掛値ない愛情を感じとり、じょじょに裁判への向き合い方を変えていく。その変化を象徴的にあらわすのが、裁判に行きづまったエリンが偶然道端でひろったロケットのペンダントだ。指先ほどの大きさのこの金のロケットは楕円形で、ECBの三文字と小さな曲線模様が彫られているだけのごくシンプルなものだ。エリンはこれをなにかの「しるし」だと考え、判決の日、そのロケットを首にかけて法廷に立つ。全体的に暗い色調の法廷シーンで、エリンの胸元でペンダントが妖しい光を放つさまをとらえるカメラワークが印象的だ。
懐疑的で理論家のエリンがたまたま拾ったペンダントをお守りにするという設定はムリがある、という見方もできるかもしれない。だが、ここでは、エリンが華々しい出世街道から、悪魔憑きという事象に真摯に向き合おうと気持ちを切り替えるタイミングでこのジュエリーが登場していることに注目したい。つまり、このペンダントは、エリンの心境変化と、理屈では説明のつかない力そのものを象徴する小道具として用いられているのだ。
『ザ・ルームメイト』(原題:The Roommate)2010年
こちらは友人への異常���執着心の末路を描いたサイコスリラー。主人公は大学に入学し、新生活に胸を躍らせるサラ。初めての寮生活に一抹の不安をいだくものの、同室のレベッカとすぐに意気投合し親しい友人同士となる。だが、しだいにレベッカがサラに対して執着心を見せるようになり…という物語。この作品ではいくつかのジュエリーが重要なアイテムとして登場する。以下、順を追って取り上げていく。
ひとつめは、サラの持ちもののピアスだ。このピアスは琥珀色のカラーストーンが主役の、耳から垂れ下がる逆扇型の大振りなもの。小粒のクリスタル(スワロフスキー?)とパールが揺れるビンテージ風のデザインだ。おそらく石はどれもイミテーションだろうがファッショナブルな一品である。サラはレベッカと連れだってでかけるさい、自分の服とこのピアスをレベッカに貸してやる。ところがレベッカはピアスホールをあけていない。レベッカはそのことを口にせず、サラに見つからないようにしながら、そのピアスを直接耳に刺す。痛さで一瞬顔をゆがめながらも鏡に映る自分を見て満足げにうっすらと笑みを浮かべるさまは、このあとどんどんエスカレートしていく狂気の幕開けの描写としてとても効果的だ。
ふたつめは、サラの友人であるトレイシーのへそピアス。トレイシーは外交的でひとなつこいが男好き、パーティーで羽目を外してはサラに迷惑をかける。そんな女はサラの友人としてふさわしくないと考えたレベッカは、ふたりの仲を引き裂くべく画策し、シャワー室にいるトレイシーを背後から襲った挙句、この一件をサラにばらしたら殺すと脅したあと、トレイシーのへそピアスを引きちぎる。この事件のあと、当然ながらトレイシーはサラと距離を置くようになり、レベッカの思惑どおりの展開となる。へそピアスというアイテムが冒険好きで奔放なトレイシーの性格と、引き裂かれた友情を象徴している。
そしてみっつめは、サラが9歳の時に亡くなった姉、エミリーの形見のネックレスだ。サラにとって亡き姉はなにものにも代えがたい存在で、いつでも一緒にいられるようにとの願いを込めて、胸元に彼女の名をタトゥーで刻んでいる。そのエミリーが遺したのはしずく型の金のネックレスで、サラの宝物だ。寮生活がはじまって間もないある日、サラの留守中にレベッカがサラの私物を物色する。その途中、幼いサラと生前のエミリーが写る写真を入れたフォトフレームに、このネックレスがかけられているのを目にしたレベッカは、おもむろにそれを手に取り自分の首にかける。帰宅したサラはそれを見て顔をこわばらせるが、レベッカの謝罪を受け水に流してやる。
このネックレスは物語の後半でも登場する。狂気に歯止めのきかなくなったレベッカは、サラと同じ「エミリー」のタトゥーを刻み「私を姉さんだと思って」とサラに詰め寄る。それを見ておそれおののいたサラは寮を出ていくことを決意し荷物をまとめるが、大事なネックレスだけがどうしても見つからない。もちろんそれを持っているのはレベッカだ。このあと、レベッカとの恐怖の対決をへて、サラはようやくネックレスと自分の人生を取り戻す。
これらのジュエリーのなかで、とくに重要な役割をはたしているのが最後のネックレスだ。狂気に化けた執着心のおそろしさが際立つこの映画が、他方で姉妹間のつよい愛情と、苦境を糧に前に進もうとするタフな女性の生きざまをも描き出していることを、ほかならぬこのネックレスが教えてくれるからである。
ここで取り上げたジュエリーはどれも、デザインの面でもコンセプトの面でも、とりわけ特別なものではない。だからこそ、なんの変哲もないジュエリーに個性を与え誰かにとって特別な存在たらしめるのは、それを取り巻く人とのかかわりであることを浮き彫りにしている。
*冒頭の画像はこの文章のテーマに合ったものをフリー画像から選んだものであり、劇中にでてくるジュエリーではありません(著作権の問題です)。どんなジュエリーか気になる方は作品を見てみてください。ひとつ注意しておくと、どちらも必ずしもホラー映画というわけではありませんが、怖い映画が苦手な方にはおすすめできません。
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2019.07.01まで
「クリスチャン・ボルタンスキー展」
国立新美術館にて。生と死にまっとうから向き合った男の作品たち。同行した友人に聞かせてもらった生死感もふくめて、本当にいろいろと考えさせられた。ボルタンスキーの生きる時間を刻む鼓動の数、監視カメラ、「死の概念」を問う番人たち、服の山、消えていく電球。空間の使い方などはやはりさすが長年創作に打ち込んできただけあるなと思ったり。いや芸術家ってすごいな、ものを考えるだけでなくかたちにするんだから。やったもん勝ちなとこはあるけれどね! わたしならどんな作品を作るだろう、銀のお皿にプラスチックのフォークおいて「スーサイド」とかいうタイトルつけたらもうそれじゃね?かっけえ〜
どうでもいいけど「塩とたばこの博物館」同時にマッチデザイン展も行ってきて、塩のナチュラリティヒーリングオーラ(適当)にめっちゃ咳き込んだのと(除霊????)、たばこないしマッチなど生活必需品なのにいつの時代もおしゃれで、くーっ、となった。
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「家畜人ヤプー」
石ノ森章太郎。原作はかの三島由紀夫も絶賛したというマゾヒストの聖典。大学生時代に読んだときは「差別!偏見!日本国民の史実および人体への冒涜!わーん!キモいよー!」てひたすら胸糞だったのだけど漫画読むと「あれ…?これもしかしてギャグだったの…?」ってなる。主に史実の強引なねじ曲げと、どう考えてもむしろコスパの悪い人体家具やセッチン(※調べなくていいよ)、読ませる気ないだろってぐらい念密に練り上げられた無駄なSF設定…声出して笑えるとこもある。ただ前述の人体改造系は絵にするとさらに怖いし気持ちがわるいね。肌の色によっての差別はもはや過去の産物となりつつあるけど、エログロが平気な人はギャグマンガだと思って読むとおもしろいかも。いやキツイとこいっぱいあるけど!!!!
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「南極料理人」
邦画。何回見たっけ?本当に好き。かわいい。堺雅人とおじさんたちが愉快に南極で暮らす平和な映画。ごはん食べるシーンが多いのだけど、おにぎりのためにダッシュで帰ったり無粋なおしゃべりもなく無言で食らいつくそれだけで「しあわせ…」てなる大人たち、夜中のラーメンとか、、、「作る」と「食べる」はひとをしあわせにする。確実に。家族以外でもそれはあったかいよ。
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「ナイトクローラー」
洋画。主演のジェイク・ギレンホールは「ベルベット・バズソー」ぶりだけどやっぱり怪演。なにせ主人公が初っ端からあたまおかしいもんだから真っ当なことを言う相棒の方が見ててすこし鬱陶しくも感じてくるといういやらしい魅せ方。予告に出てたパパラッチってことばは劇中に一度も出てこなかったなあ。で、あれ?と思ったらギルロイ監督、ベルベット・バズソーも監督してた!いいコンビだなあ。いい意味での気持ち悪さわかってやがるよ〜。爬虫類系のぎょろ目にナチュラルバッドな精神はギレンホールの良さ。調べてみたらギレンホールの正式な呼び方って「イエレンフーレヘイ」らしくてなんか笑った。口の中にパンぎゅうぎゅうに入れて喋ってるやつやん。
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「ANIMA」
トム・ヨークとポール���アンダーソン氏のコラボ作品。同名のアルバム発売中。映像はNetflixで見れるのでみんなみてほしい、いや聴いてほしい。RADIOHEADのトム・ヨークはわたしのなかでひとつの概念というかコンテンツとして確立してる人間なのだけどもファッションや外見と存在感を含め彼の作る音楽に浸る時間は最高。冒頭はなぜだか運命を感じたのだけどボルタンスキーの描く生死感に似たようなものを感じた。黒い服とコンテンポラリーダンス。行くあてもなくふらふら踊るトムの美しさよ。徐々に人間らしい表情を取り戻していく。女性とのやりとりが優しくて、夜明けはきれい。もちろん音楽の移り変わりもすごくて、ベーストーンの効いたエレクトロ感はほんとうに気持ちいい。踊りたくなるんだよ!ふらふらと!これがトムよ!て思ってたら、人と触れ合っているときの感触のように優しい曲調に変わってくの。なみだでる。映画のなんかそれっぽいシーンで流されても困る気がするんだ、もうほんとジャンル:トム・ヨーク。
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「ムーンライト」
洋画。言わずと知れたアカデミー賞作品。映像と雰囲気で多くを語らず観客の感情を揺さぶってくるという点で凄く良くできてる映画だとおもった。ただほんとうに重くて、私はどちらかというどずっと痛くて、あまりにも痛くて最後までなんか顔がしかめっ面だった気がする。いや痛い。人生って痛い、こういうふうに。なにも上手くいってないのは自分だけのように思えて、そしてそれが自分である意味がわからないまま大人になってしまうものだよ。でもなんか無理矢理感じて!感じて!ここで!このシーン!ていうなんかこう不躾だけども押し付けがましさみたいなのがあって、そうなんだよ映画にはこういう押し付けがましさも大事なんだけど、いかんせん痛いもんだから、あんまり痛いと辛いから、みんなちょぴっとだけ救いのシーンを残したりするのよ。最後みたいにね。でもなんか納得いかねえんだよ〜つまりこうだよ!て言葉で説明してほしいときもあるというか…という文句を垂れながらもその映像美とマイノリティへのリアルはすばらしかったとおもう。同性を一度でも好きにならなかった人ってむしろ少数じゃないかしら? アカデミーではLALALANDと並んでたけど私はLALALANDの痛みのほうがまだふわっと受け取れるな。ゴズリングかわいいしな。
/
「シング・ストリート」
洋画。アイルランドの田舎の少年がロックを知って少しずつ成長していく青春もの。さわやかだ。全編を通して曲がいいので耳も気持ちいい。1980年代だから彼らは「未来の音楽」として歌うのだけど私達にはむしろレトロで、それがまたさわやか。80年代のロックが嫌いな人いない。ロックなんてダセェんだよ、という兄貴につられてだんだん目覚める少年、が、もうあまりにも恥ずかしいんだけど(デヴィッド・ボウイ風のメイクをしたりいじめっ子に対して「your not created」とかいうかっこよさげなセリフを吐いたり歌詞なんか片想いのまんま歌っちゃったりして)それがまた青い。さわやか。いやわかるんだよ、ロックとかバンドとかアーティスティックなことやってると「おめーらとは違う、あたしは未来を生きてる」みたいな気持ちになったことあるよ!!だから恥ずかしいんだおばち���んは!!!主人公と兄貴が恥じる親のようになってしまった大人には染みるだろうな。個人的には、かっこ悪い大人にもなれず、かといって弟のように眩しく今を生きることもできずに、中途半端で終わっていく人生に足がすくんで怖がりながらもなんとか前を向こうとする兄貴の存在感が堪らなかった。どの世代にもカツーンとハメてくるような映画。ずる〜い!こんなの良いって言うしかないよ〜!さてじゃあこのお話はハッピーエンドかと聞かれると青春映画にありがちな「物語はおわるけど現実は続くよ〜」みたいな終わり方なのでそれなり。見る前から知ってたエンドですねこれはね。でもいいんだ。青春だから…(意味ありげな表情)(劇的にカッコイイ自分のアングル)(かわいい女の子と逃亡)
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今日の東京は雨模様です。桜が散り、鮮やかなツツジや藤、チューリップや木蓮が、自分達の出番を待っていたかのように私たちの目を楽しませてくれますし、ハゴロモジャスミンの香りも季節が巡ってきたことを教えてくれます。明るい太陽の光に包まれた花々の姿はイキイキとして美しいですが、雨や曇りの日に見せる表情にもまた、捉え難い魅力があります。
それはまるで、役者が舞台に立っている時と舞台裏にいる時の二つの面を持っているかのようです。私たちの人生にもまた、舞台と舞台裏の二つの場所が用意されています。『晴れの舞台』という言い方があるように、太陽光のように明るいスポットライトを浴びて注目され、喝采を受ける時もあれば、舞台裏で失敗しながら練習し、休息して英気を養い、目標に向けて準備に勤しむべき時もあります。スピリチュアルな視点から見ると、舞台裏の方が『晴れの舞台』です。悩み、苦しみ、光を求めて努力を積み重ねている時、周りにいるスピリット達はあなたに注目し、喝采を送っているのです。

先日、『社会から虐げられた女たち』という邦題のフランス映画を観ました。ヴィクトリア・マスによる史実を元にした歴史小説が原作です。なんとなく見始めた映画ですが、主人公がミディアムでした。(このパターン、実に多し)霊界について描かれた映画だと分かると、次はインチキ霊媒師がいつ登場するのか(このパターンもまた多し)、あるいは恐ろしい悪霊がいつ現れるのか(このパターンも残念ながら多し)、ストーリー展開を冷静に追っていたら意外に良作でした。(原題は『狂女たちの舞踏会』。邦題とポスターヴィジュアルが惜しい!暴力的なシーンがあります)
物語は19世紀末、フランスのブルジョワ階級に長女として生まれたウジェニーが、文豪ヴィクトル・ユーゴーの国葬に参列しているシーンから始まります。当時まだ女性達の社会進出が許されず、自由や権利も抑圧されている中、ウジェニーはヴィクトル・ユーゴーの著書『静観詩集』を読み耽る本の虫で、男性だけが参加を許されている討論会に出たいと主張したり、しばしば家の中で霊の姿を視る、ちょっと変わり者です。ある日、モンマルトルのカフェで出会った芸術家風の男性から、スピリティズムの創始者アラン・カルデックの著作『霊の書』を紹介されます。本を読み進めるうちに霊の存在を確信した彼女は自分に霊能力がある事を家族に打ち明けますが、厳格な父親に精神病院に入れられてしまいます。その病院の名前は、ピティエ=サルペトリエール病院。(写真上)パリの13区に現存する総合病院で、英国王室に新しい風を吹き込んだダイアナ妃がこの病院で息を引き取ったというのも因縁深いです。
当時、この病院は精神疾患と診断された女性たちを治療という名目で拘禁していた施設でした。実在したジャン=マルタン・シャルコー医師による非人道的な治療や催眠療法などの見世物のような公開実験が行われていた実際の様子(写真上)が、この映画の中でも描かれています。精神疾患と診断された女性たちの中には男性優位社会の中で権利を主張したり、社会規範に対抗した人々も含まれていました。そして霊媒であるウジェニーもまた、異分子、危険人物と見なされて収監されます。
ある日、ウジェニーは患者達を日々厳しく監視している看護師長ジュヌヴィエーヴの亡くなった妹と交信し、彼女にメッセージを伝えます。ジュヌヴィエーヴはそのエビデンスの正確さに驚き、動揺しますが、愛に溢れたメッセージの内容に深く癒され、霊の存在を確信します。この映画では、男性優位社会からの抑圧に苦しむ2人の女性が真の自由を得るまでの葛藤を、身体をきつく締め付けるコルセットを脱ぎ捨てるシーンや女性同士の友情、霊の存在を否定する男性とそれを受け入れる女性、といった対比の中でシンボリックに描いています。また、家族の中で唯一ウジェニーの霊能力を理解し、支え続けた弟のテオがゲイという設定という点も興味深いです。

ウジェニーがテオとジュヌヴィエーヴの助けを借りて精神病院から脱出したのは、この病院で例年開催される仮装舞踏会の最中でした(写真右上)。四旬節(イースターを迎えるまでの40日間)に行われるこのパーティの間、思い思いに着飾った患者達は勿論、興味本位でやってきた招待客達や医師達も皆、我を忘れて大いに踊り、騒ぎ、本能のままに振る舞い、誰もが正気と狂気の境目のあやふやさを持っている姿を映し出しています。
映画の冒頭でウジェニーが熱心に読んでいたヴィクトル・ユーゴーの著書『静観詩集』は『瞑想詩集』とも呼ばれ、足繁く降霊術に参加していたと言われているユーゴーが愛娘であるレオポルディーヌの突然の事故死に直面して書き始めた作品です。その中の詩の一編には、こう書かれています。「私たちがこの世で終わりだと思っているものは、実は始まりなのだ。」
この映画もまた、この詩人をシンボリックに表した権威主義、男性中心主義や家父長制というひとつの時代が彼の死と共に終焉を迎え、20世紀に向けて花開くフェミニズムや多様性の夜明けを描いた作品なのです。
夏学期クラス(5月〜7月)へのお申し込み受付中です。今学期から新しく『サンスクリット般若心経クラス』が始まります。インド・チベット密教で現在も唱えられている、サンスクリット語での般若心経を学ぶクラスです。5回に分けてゆっくりと発��を確認しながら学んでいただけるので、マントラやサンスクリット語が初めての方でも安心してご参加ください。日本語の般若心経との違いを比べてみるのも楽しいと思います。また、トランスクラスも水曜日クラスが新たに加わります。
夏学期クラスへのお申し込みはこちらからどうぞ。継続の方は直接ショップからお申し込みください。
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今後のイベント・ワークショップ
・4/21, 22, 24 プラクティカル・ミディアムシップ
・4/27 アイイス・ドロップイン・ナイト お申し込みはこちらまで
#awareness#unfoldment#spiritualism#spiritual#spirit communication#mediumship#awarenessclass#le bal des folles
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ノートルダム・ド・パリとノートルダムの鐘
劇団四季のミュージカル『ノートルダムの鐘』を観た。
もともとディスニーアニメ映画の『ノートルダムの鐘』が好きで、ミュージカルでもやっているとは知っていたのだけど観ないまま今まで来てしまい、ようやく観た。
以下、ディズニー映画アニメの『ノートルダムの鐘』を履修済み前提で書いています。ネタバレというかアニメ・ミュージカル・原作比較をしたりしますので未見の方はご注意下さい。
この舞台作品はディズニーアニメ映画の『ノートルダムの鐘』を元にはしているが登場人物の設定、ストーリーが原作寄りになっている。原作はヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』で、古典だしアニメももう二十年以上前の作品なので、今更ネタバレもなにもないと思うので結末を言うけどアニメ映画の『ノートルダムの鐘』はカジモドがエスメラルダを救出して民衆に迎えいれられハッピーエンドだが、ミュージカル版はカジモドはフロローを明確に殺すしエスメラルダも死ぬ。なのでアニメのキャラクター性やストーリーを期待するとだいぶ違う味わいなので戸惑うと思う。
ミュージカル版『ノートルダムの鐘』の初期はアニメ映画に沿った形の作品だったようだ。紆余曲折あり作品の改定が行われて、曲も追加や変更等があり、アニメから離脱して原作寄りの割と大人向け作品になった。売春宿とかも普通に出てくる。
アニメではフロローは判事だったがミュージカル版では原作の通り聖職者になっているし、ジプシーを憎むようになった経緯、最愛の弟とのエピソードも描かれる。カジモドのイマジナリーフレンドであるガーゴイルたちはキャラクター自体がなくなり、コロスがその役割を負っている。フィーバスが戦場から離れパリにきて聖堂の護衛騎士になるくだりはアニメにはない新しい歌が追加されていてフィーバスの登場の見せ場になっている。アニメでは物語の外枠を語るクロパンが語り部であり狂言回しとしてかなりいい位置にいたのだけど、ミュージカルでは普通の脇役になっていて、持ち歌も減っている、というか違う歌になっているシーンもある。
パンフレットに書いてあった解説でなるほど、と思ったのが、ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』では聖職者のフロローを教会権力、騎士であるフィーバスが王権、カジモドを民衆の力として、三つの属性がエスメラルダというシンボル(価値のあるもの)を求め奪い合うという意味が読み取れる、というもの。アニメでは民衆の勝利で終わったが(エスメラルダの恋人はフィーバスになるが、フィーバスは護衛隊長ではなくなるし、救ったのはカジモドで、民衆はそれを助け迎え入れているので)、ミュージカル版は原作に近づけたので、だれも何も得られないほぼ全滅エンドのようなものだ。
民衆の力、ミュージカルというとやはりユゴー原作の『レ・ミゼラブル』も思い出す。レミゼは主人公の運命の諸々ののち次世代へ、という希望があるが、『ノートルダム・ド・パリ』にはない。
アニメではクロパンが「では聞かせよう、怪物の物語を」と言ってスタートし、最後は「誰が怪物かわかっただろう?」と終わる。ここで示唆されている「怪物」とは、怪物と蔑まれているカジモドではなく、ヴィランであるフロローである。
ミュージカルではこの形をとらない。
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以上、アニメとミュージカルの違いについてのメモ。
以下、ミュージカルの感想メモ。
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音楽がめちゃめちゃいいよね。劇場で聴くの最高。音楽だけで泣くってあるんよ。ストーリーがどうでもいいと言ってしまうと身もふたもなさ過ぎて申し訳ないんだけど、音のエモーショナルさは強力すぎる。言葉や意味の読解の前にくる、感情を喚起する力がある。音楽が良すぎるのよ。(ミュージカル版のストーリーは構成があんまりよくないって思ってます)
アニメ版が好きであほほど見てるしサントラもめちゃめちゃ聞きこんでいるので曲は知っているし、ミュージカル版のサントラが出てからは舞台を観ないままミュージカル曲も周回して聴いているので、全部知ってて観て「音楽いいよね……」をした。アニメ版の日本語吹き替えも、当時の四季の俳優さんたちだったのだ。やっとミュージカル版も観れたので満足。作品制作の時代の前後関係的に無理だろうけど日下武史さんの舞台版フロローがあり得たら観たかったなあ。
私は劇団四季のミュージカルを生で観るのは片手で数えられる程度でしかないのだけど、私の中では劇団四季・宝塚歌劇団の作品は期待したものを期待通りに体験できる、絶対安全レベル作品と呼んでいる。お金をかけたプロダクションでロングランしている安定したものを観る安心感・充足感がすごい。普段観ている舞台ジャンルが実験的要素が強い作品だとか、コンテンポラリーダンスなので、特に新作はマジで何が見られるかわからないことが多いため、四季でやる作品はものすごく安心してみられるなとしみじみ思った。2.5次元系や歌舞伎はほとんど観てないのであまり詳しくは語れないけど、原作履修ののち観るのが当然、というのは古典分野の構造なんだよね。歌舞伎や宝塚もゲームアニメマンガコラボがそれなりにあるのはそのあたりの相性がいいからではと思う。芸能の基礎には「みなさんご存じ! 話題の・有名な・アレを私が語ります!」があるからな。
脱線したのでミュージカルの話に戻る。
ミュージカル版を観てしみじみ思ったのが、エスメラルダは本当になんも悪いことしてないのに、3人の男から好意を寄せられ状況に翻弄されて死ぬの理不尽すぎる。救いがなんもない。歌が美しいし強いし、他者への心にあふれている、自立した女で、すごく良いのにまじでなんも救いがない。普通に生き延びたいだけなのに。
実際舞台の中でも捕まったエスメラルダがフロローに向かって「なんでこんなことになっているのかわからない」と言っていたと思うけど、フロローも「私にもわからない」とか言ってて、お前、お前ーーーお前が勝手に惚れて勝手に憎んで一方的に殺そうとしてるのに!? ってなる。加害者が被害者意識を持っている、というのはよくある構造なんだけど、情念+権力持った人間の絵にかいたような振る舞いすぎてうわーってなる。
ミュージカル版の主人公はフロローだよね。
カジモドが生まれるまでの過程をフロローの半生として描いてるあたりで誰の心情に沿って作品を観るべきか、という導入になっているし、カジモドは物語の展開への関与が薄すぎるので。
とはいえカジモドの描き方がよくて、���の状態で出てきた俳優が姿勢がいびつで顔が歪んだ「せむしおとこ」の状態に変化するところを客に見せて「カジモド」が現れる。喋り方も、フロローやエスメラルダと話すときは発話がかすれてぎこちない(カジモドは耳があまり聞こえず唇を読んでいるという設定がある)が、石像の友達と話すときは詰まりもなく流暢に話す。肉体を持ったカジモドは障害があり「劣ったもの」として扱われてしまうが、精神世界では不具合はなく自由にふるまえるのだ。
そういえばHellfireの部分はアニメではフロローの心象風景だったので、舞台では演出どうするんだろうと思っていたけど、コロスが若干その役割を負っていたけどどちらかというとヴィジュアル効果ではなく歌唱に重点を置いたシーンになっていたな。
カジモドがフロローを殺すところは、聖堂のバルコニーからフロローを投げ落とす様になっていて、舞台の奥行を使って担がれた俳優がザーッと下がっていくのを「落下していく人を上から見ている」様にしているのが面白かった。
ちなみに、フロローとカジモドの関係は、アニメ版、ミュージカル版、原作で全部違う。
アニメ:フロローが追い詰めて殺したジプシーの子供がカジモド。カジモドのことも殺そうと思ったが司祭に説得されて神の意志を感じ育てることにした。
ミュージカル:フロローは最愛の弟とともにみなしごとして聖堂で暮らす。フロローはまじめに教会に学ぶが弟は放蕩しジプシーと駆け落ちして生まれた子供がカジモド。病にかかった弟の死に際にカジモドを託され、育てることにした。
原作:フロローの両親が亡くなり、歳の離れた弟が残され、自分が育てなければと強い愛情を感じている。往来で捨て子(カジモド)を見かけ、自分が死んだら弟もこうなってしまうのかという心痛から、放っておけないと感じ、その捨て子を拾って育てる。カジモドはフロローに従順に、弟は素行不良な若者に育ってしまう。
アニメ版のフロローの性根が邪悪なのはディズニーアニメのヴィランのキャラ性を鑑みれば理解できるけど、ミュージカル版は業が深すぎんか???? カジモド甥じゃん???
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【My Favorite Movies of 2022】









【My Favorite Movies of 2022】
ノー・シャーク
バスタブとブロードウェイ: もうひとつのミュージカル世界(U-NXET邦題ブロードウェイとバスタブ)
エルヴィス
セイント・モード/狂信
アポロ10号 1/2: 宇宙時代のアドベンチャー
スペンサー ダイアナの決意
NOPE/ノープ
ミセス・ハリス、パリへ行く
幸せへのまわり道
マイ・ニューヨーク・ダイアリー
*今年も「3年ルールで2020年以降公開を新作とカウント」します。 ◆劇場で
『エルヴィス/Elvis』
“その時、腰が動いた”。メンフィスからラスベガスまで悪夢と背中合わせのスターダムを貪り、貪られ、燃え尽きるまでの英雄暗黒神話。パーカー大佐を語り手に大胆に解釈した、魔術(ブードゥー?)的ジェットコースター映画。20世紀アメリカ史、ポップ音楽史、芸能史、信仰、亡霊…の複数レイヤーはぴったりくっ付いたまま、どれも切り離せない。エルヴィスもその一つ。でもこんだけアメリカの光と影を象徴するポップアイコンは、エルヴィスかマリリン・モンローくらいだろうな。(奇しくもその2人の映画が同じ年に…)
『スペンサー ダイアナの決意/Spencer』
『ジャッキー』に続き、パブロ・ララインの20世紀実録風「亡霊映画」。ジョニー・グリーンウッドの音楽、まるで棺を運ぶように進む車列、そこにあるキジの屍、そして「何かが見ている」気配を感じる亡霊視点のカメラが過剰にオカルトホラー。ダイアナは魂を失くした着せ替え人形と化し、二つの屋敷の間に放置された案山子だ。けど、ララインは亡霊を殺しはしない。ただ穏やかに安らぎを与えるのだった。
『ミセス・ハリス、パリへ行く/Mrs. Harris Goes to Paris』
憧れは力なり。キラキラ輝くドレスと、それに心奪われる瞬間のドリー・ズーム!ミセス・ハリスの赤い頬、ちょこまかした仕草、時に押しが強い姿勢、旅行鞄で佇む姿はまるでパディントン。でも実は対価についての話であり、「箱とその中身」の話で、ある意味左岸派映画。贅沢は敵じゃない!レスリー・マンヴィルとイザベル・ユペールの共演こそ、ほんと贅沢でした。
『NOPE/ノープ』
思った以上にスローバーン。そして思った以上に『ヴァスト・オブ・ナイト』と対になる。何せ、方や「I see you」、方や「I hear you」だもの。アレはアダムスキー型というより、下から見上げたカウボーイハットみたいだった。
『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』
作家になるにはNYだ!と、まずは憧れの力ありき。でも書く以前に読んでばかりの読書映画。ひたすらインプットの日々、消化しきれないほどの情報や知識や刺激的体験が次々と。羨ましいやらわかりみ深いやら。「フラニーとゾーイー」を久々に読み直したくなった。
◆配信で
『ノー・シャーク/No Shark』 https://www.amazon.co.jp/dp/B09KGFZ86K?tag=vod_contentsdetail-22
サメに食われたいのにサメはなし。NYのビーチを転々としながら、ひたすらその時を待つ女の脳内モノローグが延々と続く。まるで「ゴドーを待ちながら」か、ひとりマンブルコアか。正に人を食ったようなオチと、Toby Goodshankのエンディング曲がダメ押しする、デッドパンでナンセンスな「探索的狡噛」。それでもれっきとしたビーチ映画でサメ映画(反ジョーズ映画)。あの声とリズムが妙に心地良かった。
『バスタブとブロードウェイ: もうひとつのミュージカル世界/Bathtubs Over Broadway』 https://video.unext.jp/title/SID0067147
企業ミュージカル・レコード沼へようこそ。それは知られざるミュージカルの宝庫、もう一つのショウビズ世界。名作や名曲があり、巨匠もスターもいた。深い、深いぞこの沼は…!愛と情熱、同志との出会い、真剣で貪欲な探究心が思わぬ広がりを見せていくのにワクワクしかないドキュメンタリー。マニアの真っすぐで曇りのない愛が起こす奇跡に清々しく心洗われた。
『セイント・モード/狂信』 https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B09HNDY45W/ref=atv_dp_share_cu_r
『キャリー』meets『ミザリー』を更にメンタル・スプラッターに振り切った感じで、ローズ・グラス監督デビュウ作は完成度高いと思う。陰気に寂れたコニーアイランド、ワンルームのアパート、主演モーフィッド・クラークが良い。
『アポロ10号 1/2: 宇宙時代のアドベンチャー』 https://www.netflix.com/title/81161042
ロトスコープ・アニメで事細かに再現したスペースエイジの子供時代。ギプスしてる子が必ずいたとかイタズラ電話とかあったあった、TVアンテナに巻いたアルミホイル細かすぎ!でも記憶とは既にファンタジー。同じ69年の『ベルファスト』と通じると思った。ベトナム戦争とアイルランド紛争、少年の頭の中で混じり合う虚実、モノクロやアニメーションとしてパッケージ化した少年時代…けど、こちらには帰る家があって安心して眠れる。その楽観性が尊い。
『幸せへのまわり道』
(Amazonプライム、 U-NEXTほか)
トム・ハンクスはご本人完コピ以上に��優しく細めた目の奥にぞっとさせるブラックホールを演じているから恐るべし。殆ど瞬きしないし笑顔なのに笑ってない、『コラライン』のボタンの目みたいな…つい覗き込んでしまうようなその目に映る自分を見つめざるを得ない。ロジャースさんのシーンは全部、心がツーンとする。君たちは僕であり、君にできたなら僕にもできる。大変だけどやらなくちゃ…。ご本人の歌声が流れる中、優しさの王国ミニチュアセットを組み立てる男たちの手!
◆他にも良かった
『アネット』
緑のローブで殆どメルド(ドニ・ラヴァン)と化してるが、アダム・ドライヴァーはマイクとも人形ともプロレスができる、ほんと良いプロレスラーだな!先にサントラ聴いてたのもあって、スパークスのナンバーが頭から離れない。
『レット・ゼム・オール・トーク』
事件のないミステリー。ロードのないロードムービー(客船だから)。けど作家と探偵と死体はいる。そこがとても面白い。いわば聞き込みをする探偵役、ごく自然と年上に懐き気を許させるルーカス・ヘッジスのリアクションが絶妙。ソダーバーグは今まで特にピンとこなかったけれど、これはかなり好みで楽しかった。
『さよなら、私のロンリー』 https://www.netflix.com/title/81239497
エヴァン・レイチェル・ウッドの長くて重たそうな髪とダボダボな古ジャージ姿、動物的で芸術的な身のこなし、そして野太い声のインパクトたるや。生まれたてでおっぱい目指して匍匐前進する場面はちょっと感動しちゃう。痛くて甘くて苦くて儚くて曖昧で奇妙な、説明しにくい感覚をユーモラスに掬い取ってみせるミランダ・ジュライ。『ニューヨーカー誌の世界』にある短編小説の映画化『ロイ・スパイヴィ』も、ほろ苦く甘い後味が好き。
『ユダ&ブラック・メシア 裏切りの代償』 https://www.netflix.com/title/81341644
銀貨30枚より銃よりも強いのは、権力のバッヂ(今だからこそ尚更うんざりする話だ)。言葉と目力で深く静かにカリスマ性を放つダニエル・カルーヤと、身軽な身体で飄々とリアクションするラキース・スタンフィールドがとても良い。特に「何なんだよもう!」って巻き込まれて焦って悪足掻きするラキースは毎度最高、そのジレンマは滑稽なほど哀しい。監督シャカ・キングの演出が非常にソリッド。
『ワールド・トゥ・カム 彼女たちの夜明け』 https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B09HNDVQL7/ref=atv_dp_share_cu_r
黒髪長身キャサリン・ウォーターストンと赤毛ヴァネッサ・カービー、これ時代が違えば『テルマ&ルイーズ』だ。だから悲劇だけど希望でもある。展開とは裏腹に、雪に覆われ荒涼とした冬景色から夏を迎え、来るべき世界へと「台帳には記録されない」女たちの地図。
夜空に星のあるように(リヴァイバル)
ザ・フォッグ(リヴァイバル)
ディナー・イン・アメリカ
スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム
ヒッチャー ニューマスター版
家をめぐる3つの物語
ザ・ハーダー・ゼイ・フォール 報復の荒野
パワー・オブ・ザ・ドッグ
ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!
幸せの答え合わせ
TOVE/トーベ
目指せメタルロード
トラブル・ウィズ・ユー
ペトルーニャに祝福を
元カレとツイラクだけは絶対に避けたい件
洞窟
マチルダ・ザ・ミュージカル
ホワイト・ノイズ
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Bohemian Rhapsody 感想
誤解を承知で言うのなら、この映画は「泣ける」ものではなかった。
ボヘミアン・ラプソディが公開され、知り合いの多くが鑑賞する中、自分はその勇気が出せずにいた。QUEENの、フレディの半生が映画化? どうせ、ありもしないドラマ、薄っぺらいラブコメが詰めこまれたものになるのではと疑っていたからだった。自分の中のフレディが、映画のフレディによってぼんやりと薄められるのを恐れていた。
しかし、結局、見に行ってみて「めっちゃイイ!」と自分でも呆れるほどの手のひら返しをしてしまった。
確かに、見かける感想の中には、「実際の出来事と順序が異なる」「フレディが似ていない(歯を強調しなくても……)」「ロジャーはもっとかわいい」とかいったものが散見される。分かる。分かるのだが、実際に映画を見た自分は、それらに対して「そんなん分かっとるがな」と返すことができる。 この作品は、嘘と真実が、絶妙な塩梅で調理されたものだ。 QUEENのメンバーであり、映画の音響監督でもあるブライアン・メイが『これは伝記映画ではなく、硬い岩から掘り出されたような、純粋なアートだ(パンフより)』とコメントしているように、この作品は忠実な伝記ではない。時系列や出来事には、順番が前後したり脚色されたりしている。だが、それが映画を魅力的に仕上げている。
何より私が良いと思ったのは、この映画がお涙頂戴の泣ける映画ではなかったことである。泣ける映画というのは、いわゆるエンタメであり「ほら泣けーいまが泣くところだぞ」といわんばかりに涙を誘ってくる。だが、今作はそうではなかった。と、思う。辛いシーンはたくさんあったが、それ以上に受け取ったエネルギーが大きすぎて、とても泣くことができなかった。
以下、作品の内容に大きく触れる。
本作には、QUEENの史実を知らないという人にも、あるいは純粋な映画作品として楽しむ人にも配慮された作品づくりがされている。とにかく構成が美しい。 まず、主人公であるフレディが目覚めるところから始まる。彼は何やら準備をして、大きなライブ会場へと向かっていく。彼がステージに上がったところで、時系列は過去へと遡る。……このシーンまでで、フレディの顔が映されることはない。しかし、その後ろ姿や身振りを見ただけで、既に彼を知るファンは「フレディだ」と画面に釘付けになっている――それから、彼の半生が描かれて、再び冒頭のライブ・エイドに戻ってくるという構成だ。終盤で、同じシーンが繰り返されるのがまた素晴らしいと思う。ループ構造になっているのである。
この映画では、フレディが生まれたり、死んだ��する描写はない。私たちは彼の「現在」を常に見る。だから、映画の冒頭はライブ・エイド当日の目覚めから始まるし、ライブ・エイドで終わる。なんだか、ライブ前日の、長い夢を見て微睡むフレディを見ているような気もしてくる。
QUEENメンバーの役者は本家にそっくりだと思う。なんというか、QUEENの一番輝かしいころを詰め込んで、生き生きと動いているのだ。特にフレディは若い頃に似ている。そして、"Keep Yourself Alive"でタンバリンを客に向ける仕草、身体の逸らし方、足の曲げ方やブライアンに寄って行くところなどなど動きが完全に本家であった。 ブライアンもめちゃくちゃ似ている。本物なのではないかと思ったほどだ。ロジャーのフレディとのつるみ方や、ジョンの扱いなども、まるで本物を見ている気分にさせられた。 フレディの、マイクの上部分だけを持つライブパフォーマンスはよく知られているが、作中でフレディが初めてのライブでマイクの高さ調節をする時に誤って引っこ抜くという描写をしていることで、知らない層にも後々のライブパフォーマンスのシーンが受け入れられやすくなっている。
作中に流れるのはすべてQUEEN(おまけの例外も有り)の楽曲で構成されており、場面ごとに歌詞やタイトルが合致している。それに、これはちょっとしたファンサービスかもしれないが、QUEENの楽曲やライブやらを連想するアイテムが散りばめられているのも面白い。王冠を被ったフレディ、自転車を漕ぐ女性などがそうだ。フレディの最初のライブで、前説で”Beautiful people~”と言うが、これは実際のライブ・エイドで彼が口にするセリフだったはずだ。彼の一貫性も表現されていると思う。
作中で最も悪人として描かれているポールは、初登場の場面でバックに"DANGER"の看板を映り込ませる演出がなされるほどの徹底ぶりで、フレディをメアリーや他メンバーから引き離し孤独にしていく。実際に彼が何をしたのか、あるいはしてないのかを私は知らない。それでも彼が悪の代表の役割を担ったことで、この作品は彩りが増したことは間違いないと考える。
フレディはポールに翻弄されっぱなしである。ポールはゲイである。ポールは彼をゲイの世界に誘う役割を果たしている。フレディにキスをしたり、まっぱの男をフレディが訪れる部屋に寝かせていたり、ボヘミアンラプソディをラジオで流してもらうため、ケニーを紹介したのも、恐らくポールであろう。ちなみに、ポールやケニー、フレディの愛人ジムも、エイズで亡くなっている。
結果、フレディは家族同然だったメンバーに「家族ではない」と言い放ち、ポールの元で、酒や薬やらに溺れていく。一度はソロデビューを蹴ったことをメンバーが知らないだけに、辛い場面だった。 ライブシーンや感情的になるシーンが多いので、映画だけでは勘違いをしてしまいそうになるが、本来の彼は恥ずかしがりやであるという。実際、映画内でもロジャーとブライアンに自身を売り込むときにもじもじっとするのを見ることができる。全体的に、スターではなく、彼が非完全なただの人間であるということに改めて気づくことのできる内容だと思う。
また、これはまだ確信が持てていないのだが、映画内ではフレディが遅刻する描写がよくされている。彼が終盤距離の離れたメンバーと仲直りをするシーンでは、遅刻魔のフレディではなくメンバーがわざと遅刻してやって来るというのが笑いどころだ。しかし、思い出してみると、フレディが序盤でジョンの車に「遅いぞ」と声をかける場面がある。あの仲直りは、単にフレディが早く来て、メンバーが遅れたというよりは、みながスタート地点に立ち初心に返ったことも表現しているのではないだろうか。
ライブ・エイドでは、完全に我々は観客となって追体験ができる。拍手ができないことをこんなに歯がゆい映画はなかった。後日、声出しOKの応援上映会を見に行ったほどだ。 もう、この時点では役者のラミはフレディにしか見えなくなっている。それに、彼の動きは本家フレディを追いかけて完全再現していた。それだけではない。再現率の高い会場(マイクに巻かれたテープやピアノの上の飲み物の数まで)、スタッフの服装や動き、メンバーのパフォーマンス、指の動き(音源編集はされているが、手元も全て役者本人のものである)。作品の情熱がこれでもかと詰め込まれている。いわばライブ・エイドのイデアである。我々はイデアを通して、本物のライブ・エイドを見た。
ライブ・エイドの最後、フレディは大きく手を振りながら、我々観客に「お別れの時間だ」という。行くな、とみんなは思う。私も、彼がいなくなってしまうのが怖かった。だが、もう一度この映画を見れば、たちまち彼は微睡みから目を覚まして、その歌声を響かせてくれるに違いない。
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🎞Camille Claudel (1988) / Bruno Nuytten Isabelle Adjani
彫刻家ロダンに振り回された弟子の壮絶な人生を映画化した作品。監督の作品数は非常に少なく、これは1988年に作られており、女性作家ならではの苦悩に焦点当てた良い映画だと思う。女性でなかったらこんなことにはならなかっただろうに、と節々が心に刺さり教訓的で、色々な人の顔が思い浮かんだ。カミーユが『あなたは私から若さと才能を奪った』と叫ぶシーンは胸が痛む。
彼女は実力のある、美術史でも認められる重要作家だ。 若きカミーユはロダンと関係を持ってから、ロダンとの子を流産したり、芸術のキャリアにおいても巨匠ロダンを切り離すことができず、精神病を患うほど���人生をロダンに振り回される。 最期は、精神病院で30年過ごし、第二次世界大戦の終戦2年前に亡くなっている。案外時代は近い。ヴィクトル・ユゴーの死を街中が悼んだり、ドビュッシーとの交流シーンも出てくる豪華布陣の19〜20世紀。当時の頽廃的な雰囲気もまた若い女性との関係��助長したのだろうか、クリムトのように… 結局はロダンが悪い。しかし人に利用されたとしても作ることを捨てなかったところが、この映画の、カミーユの人生の僅かな救いとなっている。
カミーユの悲劇に、時代を貫く普遍的なテーマを発見する。 ただの男女関係ではない、作家同士でありながら師弟関係であることの複雑さがある。暗に上下関係があり、しかも男性側がキャリアも年齢もあるケースはハラスメントも起こりやすい。
美術業界とて男性優位の価値観は横行している。中高年男性作家が若い女性作家(師弟関係とも限らない)を連れる光景は、昔はよくあるものだったらしい。そうすることが男性作家のステータスになっていたのかもしれないと思うと、彼らの美とは何か疑う。 今でも現代美術において女性を消費するような表現が、沸々と怒りを買っている。芸術だから、で済まされたことが今も昔も本当に沢山あり、現代日本で哲学者をかたる人物でさえも、そこの認識は甘いと思う。
おっさん作家が若い女性(仕事仲間)に手を出す案件は、残念ながら昔からよくあるパターンのようだ。 これに対して若い女性は、若い作家はどう利用されずに立ち向かえば良いのか。若い女性に向けて、男や権力を警戒する教育が必要なのではないか(ちなみに作中でのカミーユのブチ切れ方が良い。ロダンの家に瓶を投げて「資本主義者!」と叫ぶ姿は全共闘そのもの。この乱暴さは革命の名残なのだろうか…)。
#カミーユクローデル #フェミニズム https://www.instagram.com/p/CZKJ1JjPuGh/?utm_medium=tumblr
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映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』は10億人の人の歴史を踏みにじる 私の実家では、食べ物の好き嫌いを言ってはならない。「この食べ物をつくるために、誰かが時間と労力をかけているのよ」と母に昔から教えられてきた。 私たちの家では、食べ物を無駄にはできない。自分が食べるものに、他の誰かが費やしてくれた時間と労力をありがたく思うことは、誰もがすること、あるいはすべきことだろう。 しかし、私の家族がテーブルに乗っている食べ物に感謝する理由は、もっと深いところにある。私の両親は、インドとパキスタンの分割とそれに続く混乱と飢饉を経験し、そのトラウマを抱えながら生き抜いてきた。 彼らは、飢えた人々が虫けらのように死んでいくのを見てきた。彼らにとって、そして、そのような両親に育てられた私にとって、食べ物とは「権利」ではなく、常に「恩恵」だった。 私はこう言われて育ってきた。「私たちは最悪の飢えを見て、生き延びた。お前はそういう親を持つ子なんだよ」と。だから、私は決して食べ物を無駄にできないし、これからもしない。 映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(原題:Darkest Hour、日本公開は2018年3月30日)のはじめの方に、チャーチルが朝食を取るシーンがある(ゲイリー・オールドマンの演技は素晴らしかった)。 スクランブルエッグ、薄切りのベーコン、シャンペンとスコッチウィスキーが、クリスタル製の塩入れや胡椒入れ、磨きこまれたカトラリーと一緒に、銀のトレーに乗っている。時は1940年。チャーチルが首相になろうとする頃だ。手紙を口述筆記させながらイライラしたチャーチルは、その豪勢な朝食を脇へ押しやり、葉巻を吹かし出す。その朝食にはおそらく二度と手をつけないのだろう。 この男がその3年後、現在のインド東部からバングラデシュにかけて広がるベンガル地方で300万人が餓死した、ベンガル飢饉を引き起こしたのだ。 私の家族にとって、そして、ベンガル周辺の多くの家族にとって、食べ物との関係は、ベンガル飢饉にまでさかのぼる。75年たった今の時代に生きる私も、食卓にのぼる米に感謝の気持ちを持つ。 ベンガルの人々は非常に長い間、自らが栽培した米を、イギリスの軍隊や市民を養うためにすべて取り上げられていた。イギリスによる食料の徴収は、世界の歴史でも最悪の飢饉の1つを起こすほどひどかった。 飢えの軌跡を辿れば、非常に明確な支配構造が見えてくる。 私たちは何百万人もの同胞を飢えで亡くしたが、このことが書籍で語られることはほとんどない。一方、パンやジャガイモが配給されていた時代のヨーロッパでの苦労や困難の話は、様々な場面で聞こえてくる。 私の世代はそれほどの規模の飢饉を見たことがないし、おそらく、そうした飢饉を生き抜いた人のトラウマを表す語彙も表現も持ち合わせていない。しかし、世代を超えて語り継がれてきた当時の話を、誰もが聞いて育ってきた。 友人の祖母は友人に、飢えた男性が「米を恵んでくれ」と訪ねてきたときのことを語った。祖母は急いで台所に行き、すでにかなり制限されて少なかった配給の貯えの中から、少し分けてやろうとした。しかし戸口に戻ってくると、男性は亡くなっていたという。友人の祖母に会ったことはないが、私の祖母も昔から、食べ物を分けてくれと頼まれたら決して拒んではいけない、と言っていた。 チャーチルは1896年、イギリス陸軍軽騎兵第4連隊の少尉としてインドに赴任した。 彼がインドを、「俗物と退屈なやつだらけの、神のいない土地」と形容したことは有名だ。イギリスの首相となったチャーチルは1943年、ベンガル沿岸の農業地帯のほとんどを空軍基地に変えさせた。日本軍から植民地を守るためだ。 映画『遠い雷鳴』で、ベンガルの田舎にある黄色と緑の肥沃な田が、ゆっくりと消えていくシーンを見たことを覚えている。まずは、灯油が足りなくなる。そのあと、すべてが壊れていく。礼節は消え、信頼は壊れ、約束は無視される。すべて、一握りの米のために。 子どものころ、祖父母からいろいろな話を聞いた。当時物騒だったカルカッタ(現コルカタ)で、米を炊いたあとに捨てる余ったゆで汁のでんぷんを食べさせてくれと頼んで回る物乞いのことを。街の路上では、そうした人々が何千人も死にかけていた。チャーチルが、穀類を運ぶオーストラリアの船に、ベンガルを迂回させたからだ。 ビルマにいた私の大おじと大おばは、飢えと渇きに苦しむこうした地域を通り抜け、故郷の町ノアカリ(現在はバングラデシュ)まで、ほとんどの道のりを歩いて帰ってきた。ようやく故郷にたどり着いたものの、大おじは疲労とトラウマから立ち直ることができなかった。 別の友人は、皿の上の米は1粒も残さず食べるよう言われて育った。彼女の祖母は飢饉を生き延びたが、「明日、目が覚めたら何も食べるものがないかもしれない」という恐怖を決して拭い去ることができなかったのだ。飢饉が最悪の状態となったのは、彼女の祖母が17歳のとき。友人にその話を語っていたのは、70歳くらいのときだった。 カルカッタでは、イギリスがつくった社交クラブが栄え、チョウリンギー通りの中心地には新しいレストランが次々にできた。その一方で、地方の女性たちは売春をするようになった。 親は娘を売り、生き残った家族は金もなく、死者の魂を弔う気力もなかった。私のおばは、子どもたちを食べさせるために売春をする母親たちの話や、子どもたちを満足に食べさせてやれない申し訳なさに耐え切れず、子どもたちを殺してしまった父親の話をする。 山と積まれた死体が、キツネや犬に食べられているころ、膨大な餓死者が出ているという知らせがチャーチルに届いた。しかし彼は、飢饉はインド人が「ウサギのように子どもを産むこと」に対する代償だと言ったという。 チャーチルの答えは、「なぜガンジーはまだ死なない?」だった。 このときチャーチルは、インドから食料をむしり取りながら、インド人兵士がたくさんいる英国陸軍を統率していた。 ヒトラーと戦い、反ヒトラーの道徳性を称える一方で、彼自身はベンガルの飢饉につながる政策をとり、その政策を喜んでいた。インドの人口を「気持ちよく」間引けるからだ。 この男は私たちにとってのヒトラーだ。 だが、この男への憎悪は、世界のどこに見られるというのだろう? その代わりに、チャーチルを描いた映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』は2018年1月、アカデミー賞6部門でノミネートされた。 2017年に公開された『ダンケルク』(こちらはアカデミー賞8部門にノミネートされた)は、「白人ばかりの連合軍」という嘘で虚飾された映画だった。 同様に、『ウィンストン・チャーチル』の脚本家は、映画の中のあるシーンを勝手に丸ごと、完全に都合よくつくり変えてしまった。 チャーチルがロンドンの地下鉄に乗るシーンだ。首相が現れたことに驚いて立ち尽くす乗客たちに、チャーチルは、戦争についての意見を求め、彼らが和平交渉という案を拒絶するのを聞く。チャーチルは「古代ローマの歌」の勇壮な詩を暗唱し、その詩を黒人男性が締めくくる。そしてチャーチルは彼とハイタッチするのだ。 しかし、ジョー・ライト監督が時代設定をあと数年遅くしていたら、おそらくチャーチルには、ベンガルの飢えた人々のための食料供給所で料理をさせたはずだ。 チャーチルは、有名な人種差別主義者だった。 彼の頭の中にある進化論的な人種のピラミッドでは、白人のプロテスタントが最上部を占め、最下層はアフリカ人。ユダヤ人とインド人はその上だったという。 このことは、多くの歴史家や知識人たちが書いてきたことで、ごく最近では、国連事務次長を務めたこともある作家のシャシ・タルールが、『Inglorious Empire :What the British Did to India(不名誉な帝国:英国はインドに何をしたのか?)』に著している。 私はもちろん、チャーチルを英雄化し、ベンガル飢饉については何も触れずにいるこの映画(『ウィンストン・チャーチル』)には不満がある。 しかし、もっと怒りを感じるのは、この映画がでっち上げようと決めたこのエピソードについてだ。 チャーチルが黒人男性とハイタッチし、「古代ローマの歌」を暗唱して絆を深めるシーンによって、ただの戦争屋を人間味あふれる人物にしてしまうことは、単に歴史を歪曲しているだけでなく、素知らぬ顔で嘘をつくことにもなる。 私は、ベンガルから何千マイルも離れたニューヨーク市内の映画館でこの映画を見ながら、自分の国の歴史について、その中でこの男が果たした役割について、私が知っていることすべてが揺らぐのを感じた。間違った認識を刷り込まされ、狂わされている感じだった。 祖母の記憶、私たちが聞きながら育った話、子どものころから食べ物に対して感謝を持ってきたこと、そうしたことすべてが捻じ曲げられていたのだ。 映画と文学を学ぶ人間として���歴史フィクションというジャンルのことは理解しているし、その限界もわかっている。私たちは何十年もかけて、ポストコロニアル理論(植民地主義や帝国主義に関わる文化・歴史を広範囲に取り扱うもの)を読み、何も語られていない歴史の境界から、物語を掘り起こそうと努めてきた。 それなのに、私たちから搾れるだけ搾り取って去っていった70年後に、また別の白人男性が、映画館に座る私たちに向かって、イギリス人は君たちにとって実にいい人たちだったと語りかける。イギリス人には英雄しかいない、と語りかけるのだ。 イギリスにとっては、チャーチルのような独裁者を英雄化し、輝ける過去の物語をつくり上げることが実際に必要だということはわかる。EU離脱問題に揺れる今の時代ではなおさらのことだ。恥ずべき暴力の上につくられた国には、称えるべき歴史が必要だ──実際には、称えるようなことをたいしてしてこなくても。だから嘘をつく。 しかし、重大な国民的アイデンティティの危機に直面しているときに、戦争屋で人殺しでもある人物を、人間味あふれる人物に仕立てて、国民的英雄にしようとすることと、2世紀の間苦しめられてきた植民地の辛い歴史の真実を覆い隠してしまうほどの大きな嘘を、不道徳にもでっち上げることは、次元の違う話だ。 イギリスは、自分に嘘をつこうとする中で、10億の人々の歴史をないがしろにする物語をつくっているのだ。 もちろんそれは、今に始まったことではないのだが。 この記事は英語から翻訳されました。翻訳:浅野美抄子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan
https://www.buzzfeed.com/jp/bedatridattachoudhury/by-glorifying-churchill-britain-is-committing-new-crimes-1?utm_term=.mxKAYbpLL#.mnKoJD2GG
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2021/09/04まで
「ファミリーズ・シークレット」
洋画。秘密をかかえたごく普通の家族がひとりの男の登場によっていろいろと変わっていく話。どうか登場人物が誰一人として不幸になりませんようにと心から願いながら見る映画ははじめてだった…ちゃんとみんな幸せになったので満足だ…。エズラ・ミラーがすごく良い役。
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「チャーリーズエンジェル」
2019年版。クリステン・スチュワートがあああああああああんまりにもかっこよくてかわいくてキュートでクールでスマートでビューティフルなので語彙力を失う。すべての女性はクリステンの前で女になる。なっちゃう。好き。笑顔、変顔、怒った顔、いたずらっぽい顔。抱いて。 映画の内容としてはいい感じのサクサク感だったと思う。エラ・バリンスカのスタイルと顔はずっと見てられるし、ナオミ・スコットはずっとかわいい。言い出し��ら止まらないんだけど女ボスレーっていうのもすごくよかった。個人的には!ね!チャリエン好きだからひいき目あるかもしれない。 チャリエン好きとしてどうしてもア~てなったのは初代ボスレーの立ち位置で……あんなにしなくたっていいじゃない…ちょっと悲しいよファンとしては…!でもVS男にするには仕方ない要素なのかな?あとケリー・ギャレットの登場は激熱で正直泣きそうになった!!! 映画のチャリエンのオマージュ多くてうれしかったけどドリュー・バリモアがかかわってたらそうだよねそうだよねって感じでうれしい。なんならドリュー、ディランで出てくれてよかったのに!!! あとあと、チャリエンの良さって女3人で強い男1人に立ち向かうとこだと思う。めちゃバランスいい。ジェーンが少年漫画の主人公ばりに何度も立ち向かって敵に打ち勝つとこいい。だってそうでもないと勝てないから!リアリティあるよ!あと無口な殺し屋っていうのも痩せ男オマージュでよかったな… 意外といつまでもオタクの早口とまらなくてわろた。いい映画だよ~~~!!て感じじゃないけどわたしはこれからも5回は見ると思う。クリステン・スチュワートに愛をこめて。チュ………
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「ジョジョ・ラビット」
だいぶ前に見たのにずっと頭の中に残っている。ヒトラー政権まっただ中のドイツにおいて、ずる賢く汚い大人だけではなく純粋無垢な子供も居たということを当たり前だけど知る。これは壮大な深い愛の物語なので、ある意味ほかの部分はもう受け取らなくていい気がする。良い映画。 笑っていいような泣けるような、コメディだけど愛やシリアスさを感じる作品なのでとてもみんなに勧めたい。ナチだのユダヤだの戦争だの嫌いっていう人にもぜひ。スカヨハがほんとーにキュートなんだ。いいお母さんだ。ヨーキーのかわいさは言葉では表せられないのでぜひ見て。
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「スキャンダル」
原題:bombshell アメリカの超有名放送局FOXで実際にあったセクハラ訴訟スキャンダルをハリウッドの三大女優(!!!)達が共演して映画化、もうこの三大女優ってだけでも見る価値があるので特に女性の皆様は見てほしい…スカッとはしないけど。ドキュメンタリー風でカットも楽しい。 こ~んなわかりやすい権力図が現代でもおそらくどこかであって一生なくならないのだと思うと嘆かわしい。女性へのハラスメントだけでなく男性のソーシャルハラスメントもあるのだからうんざり。映画としてはちょっとリアルに寄りすぎて物足りない部分もあるのかも?私はこのくらいでも嫌いじゃない。
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「yesterday」
洋画。めちゃくちゃ見たくてリアタイできなかったもののうちのひとつで、期待しすぎちゃったかもしれない…!ビートルズの楽曲、これでもか~ていうぐらい盛りに盛られた小ネタ、おしゃれな小物たち、エド・シーラン(エド・シーラン!!!)、あと大好きなケイト・マッキノンも、すんごい良くって、こんなハッピーな映画にケチつける俺って異端?(笑)て感じになるかもしれないけど本当にあの終わり方はずっこけたぞ!!!それでええんか…?幸せってとり逃してしまうこともあるじゃない…ぜんぶ回収するなんてそんな馬鹿な…映画じゃないんだから…いや映画だけどさぁ!? ラブ・ストーリーってあんまり見ないからこういう強引な展開に私がついていけてないのか?ギャビン可哀想すぎるよ~そして最後にギャビンの横に急に出てきた女だれやねんと。お前がおるからってギャビンの事はなくなったことにはなれへんのやぞ。ご都合主義すぎてモヤモヤしたよおおおお。 でも本当にビートルズってすげ~…て思うし、ネタが細かすぎてわからないところもあったけど楽しかった!設定も最高にいいなあ。本当に完全に誰も知らないってわけじゃないのもいい。エドの携帯の着信音がShape of youなのは笑かしにきてる。デブラみたいな人間がアーティストをだめにするのね… あと本当におじいちゃんになった彼のことがすごく純粋にうれしくて涙が出そうになった。そうだよどんな人生でもきっと幸せに生きられたんだ。何かを得るから何かを失うんだよ。でもジャックお前はなにも失って無くない!?やばいまたモヤモヤしてきた。レット・イット・ビーが最初スカるの面白い。
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「キャビン」
洋画。若きクリヘムとDetroitのマーカス役の方が出てた。由緒正しきホラーってこうやって作られるのね……!ちゃんと面白いしちゃんとB級だった。細かいネタもわかるともっと面白そう!
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万城目学「悟浄出立」
タイトルになってる作品がすごく好きで何度か読んでいたのだけどそのあとの話はまったく記憶がないのでなぜかこっから先に進んでいなかったのだと思う。後悔するくらいすべて面白かった。人と人とのたましいの繋がり、それぞれの人生の轍がとてもよく描かれている。 一緒に旅をする仲間や友人や家族、または少しだけすれちがった赤の他人との交流。しぐさや会話によって成り立つ感情。こういうのって文字にするととても美しいな。たぶんだれにでもあることなのだと思う。そういう一瞬を残していけるのならば理想的。私のこのなんでもないTwitterも今風の記録だなあ。
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「エノーラ・ホームズの事件簿」
ネトフリ映画。よ、よかった~なにがよかったってヒロインがかわいい~~~。何も考えずにみられるエンタメ映画だし、やっぱりホームズ時代のロンドンって素敵だ。
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「パラサイト 半地下の家族」
韓国映画。改めてまともに見ました、期待以上に面白くて意外と長い上映時間にも関わらずさっくり観れた。いつか観るときのためにネタバレを避けていたのが高じて最後の展開には胸が震えた。韓国の格差社会、わかりやすいほどむなしい。 彼は地下で住むことによってすべてから抜け出せたのだという考察が良い。どうやら韓国は半地下物件=貧困層、月5万くらいで借りられるところらしいのだけどあまり知らなかった。立派な職業技術があるにも関わらずその日暮らしの人間たちが富裕層の暮らしと隣り合わせになったとき、 こういうことは起こりえると思う。私もたまに自分自身を抑えきれないほど他人への劣等感が増すときもある。あと大体富裕層の人たちって基本的には優しい。圧倒的にステージは違うのだけど。「計画をたてなければ計画が壊れることもない」というようなセリフが印象的。あきらめの境地。 個人的にはこの作品の売り方もすごくよかった気がする。ネタバレ禁止、ポスターからする異様な雰囲気、あとポン・ジュノ監督は本当に現代社会の問題とコメディを入り混ぜるのが上手だ。反日表現もあったそうだが、まあお国柄といったところ…。本人もここまでハネると思わなかったんじゃないかな。 象徴的な例の洪水シーンなんだけど、あそこってすごくわかりやすく作られてて私みたいに難しいことが考えられない人間にも見やすい。「US」が比較にあげられてたようだけどあっちは私にはわかりづらかった(バカで)。あともっと怖い話だと思ってたけどめっちゃ笑った。いいコメディ配分だった!
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「永遠に僕のもの」
アルゼンチン・スペイン映画。私が見たかったすべてが割とそこにあって、ストーリーとか演出は置いといてサイコパスフェロモンむんむん美少年がヒゲモジャ美青年に惑わされてどんどんエスカレート…、ていうわけでもないか。カルリートスはもとからだいぶネジが外れていたもの。 とにかく予告から不穏でオタクがにやける演出が多かったので、その部分を期待してみた方はとても満足できると思う。カルリートスは相棒を愛し、自分を愛し、家族を愛したというそれだけのこと。ほかは死のうが壊れようがどうでもいい。からっぽの金庫はカルリートスのようでむなしい。 相棒の股間にジュエリーをのせるあたりって、やっぱりカルリートスの同性愛的な部分をみせたかったんだろうか……それより相棒のほうが同性愛にハマってて(?)私は満足したけど……あの地方ではブロンドだと珍しいんだね。地域の治安の悪さもとことん感じた。総合的にはよかった。
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「デンデラ」
邦画。ババアしか出てこない��でババア好きはどうか見てほしい。でも内容はだいぶ暗いし辛いです。人におすすめできるものではないけど、老いることは罪ではないなと思った。私はね。赤ん坊とかいう人間ではないものから生まれ育って、にんげんになり、植物に落ち着くのは悪くないよ。 たくましく年をとりたい。誰かに見せつけられる、心にきざまれる人間になりたい。女だからって弱く生きていたくはない。復讐ができるほど強くなりたい。40の小娘、と言ってみたい。老いることは罪ではない。でもとてつもなく恐ろしい。この世は地獄。
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「5パーセントの奇跡 ~嘘から始まる素敵な人生~」
タイトル長いな!?ドイツ映画。ドイツ語が耳に新鮮で良かった。ストーリーは史実にもある通り奇跡のような本当の話なのだろうけど、最後がどうにも納得いかない!?身体的ハンデとは、コンプレックスにもなりえるのはわかった。人には言えないと 思うのも納得できる。でも子供を預かったり、ホテルの仕事を失敗してまで認められることではなくない!?上司の態度の急変もなんだかモヤモヤしてしまった。ただただ友人がまぶしい。彼はすばらしかった。現実にいたならもっと良い気分になりそう。いやもちろん!本人もすごいです!
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「残穢」
邦画ホラー。サスペンス要素があってけっこうおもしろい上にこわかったので満足した…。本当かなんてどうでもよくて、伝承というのはそれだけで人を呪い殺すパワーがあるのではないかと強く思った。竹内結子の演技と声色がすごく好きです。とても惜しい女優さんを亡くした。
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「ザ・ファブル」
邦画。邦画なのに(笑)、アクションの幅がちゃんとしててけっこうおもしろかった。なにより岡田君が見てて飽きない。あと向井理とか福士蒼汰とか木村了とかがひたすら顔がいい。木村文乃と山本美月もはちゃめちゃに顔がいい。演技ともかく顔がいい。誰よりかっこいい佐藤浩市がいい。
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「夢売るふたり」
邦画。阿部サダヲと松たか子とかいう天才がぶつかって演技してて本当に本当によかった、ストーリーに説教臭さとかなくてシンプルでああ…ていう終わり方で、男の悪いところ、女の悪いところ、包み隠さず表現してる(ていうか役者がしてくれてる)。個人的に好きだったのは 松たか子が真っ青な顔をしてふつふつと怒りを身体に押し込めるところ(映画のなかではいくつもあるシーン)もうここが良すぎてここのためにお金払ってもいいと思った。あと松たか子のエrってなんかすごい…すごかった。ソロのえrのほうがすごかった。いいの?見ちゃって……でも女って感じで最高。阿部サダヲのはやくイきすぎて「クソッ!ごめん…」てなるとこ笑う。鈴木砂羽がえrrrrrrっろだった。邦画嫌いの皆様にも見てほしい一品。ああでもやっぱりお金で幸せは買えないのかもしれない。
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「ドクター・ドリトル」
洋画。RDJrのことが見たかったけどそういえばいろいろ有名な人が出てらした。声で。あと日本語版は藤原啓治さんだったので…良さ…。CGで動かされる動物たちは本当にリアルですごい。技術ってすごい。ストーリーは8歳児向けなので頭の中からっぽにして見れるよ。
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「グリーンブック」
見返してて改めて良さしか感じない。トニーの人間らしさとドクの潔癖な部分が目立つかと思いきやドクのほうがめちゃくちゃ人間らしくてわざと潔癖になっているだけのただのひとりの人間で、トニーの勝手な陽気さに癒されていく過程がたまらなく尊い。アメリカは広いね。 ターコイズグリーンの鮮やかなキャデラックが本当に本当によくって、ヴィンテージカーに興味のない私でもため息がでるほど美しい車だと思う。もともとキャデラックってけばけばしい車だとおもってたクチなので感動してた勝手に…… 差別的な表現もあるけど本当にマイルドで(それがまたきっつくて)、でもあえてだからこそ「品性」を極めてきたドクが捕まったときの言葉が良いんだよ~~最後のクリスマスのシーンまでずっとずっと面白くて良い映画。さわやかで後味が残らずそれでいて印象深い。みんな見て。
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「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結」
みんなが大絶賛したほうのスースク。絶賛される理由がわかるくらいやりたい放題で、血と内蔵成分がたっぷり補給できる。ハーレイが可愛いままちゃんとヴィランで最高だった。キャラクターはどいつもこいつも濃くて、かつちゃんと悪役。KAIJUも良かった。 ジェームズ・ガン監督の作品はどれも良いものなんだろうな。初期だけどスクービー・ドゥーとかも子供のころから何度も見てた。死なないだろうな~と思ってたキャラもばんばん死んじゃうけど悲しみに浸る暇もないのよなあ。このスピード感が好みなのかも。
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