#時宗 称念寺
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papatomom · 5 days ago
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2025.06.22(日)
6月あれこれ。
この時期の好きな哥川の句
叩いても こころの知れぬ 西瓜かな
さそふ水 あらばあらばと 螢かな
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hachikenyakaiwai · 3 months ago
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【かいわいの時】宝暦十四年(1764)四月六日:対馬藩通詞鈴木伝蔵、大坂に滞在中の朝鮮通信使節随員*を殺害し出奔(大阪市史編纂所「今日は何の日」) +崔天宗(チェ・チョンジョン)
この事件が人参売買をめぐる金銭返済のトラブルが原因である説を裏付ける論拠として『明和雑記』には次のように記されています。
明和二乙酉年人参(の)事 去申年朝鮮人来朝の節、所々におゐて内々にて人参を売買ありし所に御聞に達し、厳しく御吟味有之。大坂表にても内々にて買取し者これありし由にて《略》其後段々御免是有過半相済候へ共、いまた御預ケ入牢のもの是あり。此一件ハ大坂ばかりにかぎらず江戸京其外西国筋にもかゝり合有之由、此根本といふハ皆々鈴木伝蔵か所為なるよし。亥年迄も相済ず、子の年春の頃大坂の懸り合ハのこらず相済候へども其外の所ハ存ぜず。※句読点後付け
この事件は大阪ばかりでなく、京都・江戸及び遠くは九州までにその影響を及ぼしており、その余波は事件後5年近い歳月を経てようやく終りを告げたのである。こうした経過はこの事件の深刻さを物語っているのであり幕府側の事件に対処する厳しさも考えられるのである(朴賛基)。「朝鮮通信使と歌舞伎」第14回国際日本文学研究集会研究発表(1990. 11.16)より。
(写真)羽川藤永「朝鮮通信使来朝図」延享五年頃/1748年頃
肉筆の浮絵は作者名が記されないことが大半ですが、本図には珍しく作者の羽川藤永の款記があります。朝鮮通信使とは、徳川将軍が代替わりの際などに来日した朝鮮からの使節団で、本図のような隊列を組んで各地を練り歩いた���子が多くの絵画史料に伝えられています。本図もそのひとつであるならば、このような大型で入念な描写の肉筆浮絵が描かれるのは1740年代と考えられるので、1748年に江戸を訪れた第10回の通信使を描く作品ということになります。しかし、この名称は通称として一般に定着していますが、表現内容については議論の的となっています。
本図の線遠近法の消失点付近には富士山を背にした江戸城の石垣が見えていますが、この行列を朝鮮通信使と考えれば、輿に乗った正使とその一行がこれを後にして、使館の浅草本願寺へ戻るため常磐橋(ときわばし)を渡り、本町(ほんちょう)二丁目を過ぎていく様子と解釈できます。しかし行列の細部を検討すると、実際の通信使とは異なる部分、たとえば、行列の中心である輿に乗る人物が、正使にふさわしい有髭の成人男性ではなく、無髭の子供であることなどが指摘されています。これを理由に本図に描かれているのは江戸の山王祭の唐人行列とする説もあります。
本図の収納箱の貼紙によると、この図が徳川吉宗の第二子、田安宗武の子で、1753年に9歳で夭折した小次郎(孝慈院)の愛玩の作品だったことがわかります。徳川将軍の孫に見せるための作品としては、その主題は単なる祭礼風景ではなく、異国からの使節を迎え入れた徳川将軍家の威光を示す意味付けも必要だったはずで、山王祭の唐人行列を参考にしつつ、名目上は朝鮮通信使の行列図として描かれ田安家に納められたという仮説も検討すべきでしょう(文化遺産オンライン=画像も)。
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moment-japan · 9 months ago
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金沢での仕事が異常なくらい忙しくなってきたので、残念ですが京都には晩秋までほとんど戻れませんのでご了承ください。
先週は土曜日も休まず仕事をしたので、平日に休みを頂きます。
(休みは平日に限るよね)
今週も土曜日仕事です。
(どんだけ忙しいねん。笑)
ですので来週も平日お休みをいただきます。
(わかった)
多分、働きすぎです。
(もうわかった)
車検が無事完了したので、車をぶっ飛ばして加賀の山代温泉で「やましろアートマーケット」というアートのイベントがあったので、前から行ってみたかった「服部神社」のついでに仲良しと一緒に見てきました。
久しぶりの加賀温泉郷。
(ミラーレスカメラ持ってくるのを忘れた)
なかなかのさびれ具合で哀愁を漂わす山代温泉の町並みが僕好み。
看板マニアでもある僕ですので、人影疎らな町の看板観察開始。
カフェアンドミュージックバー「サラ」!
兵庫にサラというかわいい子がいることを私は知っています。
(知っています。笑)
どの看板も昭和バブル期の温泉街絶好調時代に作られた看板ばかりで、最高な写真をタップリ撮らせて頂きました。
アートのイベント会場では最先端アーティストの皆さんによるライブペインティングが至る所で繰り広げられておりました。
(こういうのも金沢でやればいいのに)
DJの方のイカシタ音楽をライブで聞きながらアート作品鑑賞。
あまりにも、強烈な個性のアートの数々を見せられて感動した私はアート系雑貨を買わず、何故か地元農園の葡萄を購入しました。
(なんでやねん)
2パックも。
(そんなに葡萄が食べたかったのか?)
ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」ですよ。
(どういうことやねん。笑)
たっぷりアートを楽しんだ後は、山代温泉古総湯すぐ近くの「服部神社」へ。
そこでトラブル。
(なんやねん。笑)
神社の駐車場で車のロックをかけたのに、何故か延々と警告音が大きな音で車外に響き渡ってロックがかからないのです。
何度やっても同じ現象なので、暫し冷静になって考える。
そういえば今日、電池を変えるために車のキーを二つ持ってきていて車内にもう一つのキーがあることに「ハッ」と気が付いたのです。
(エンジニアとは思えない信じられない失態。笑)
やっぱり犯人は車内のキーでした。
車内にスペアのキーがあったので、イモビライザーが車内にカギを忘れていると判断して、延々と警告音を出していたのです。
(初心者か?笑)
服部神社の建立は927年。
(醍醐天皇あたりの時代か?)
古すぎてよくわかりません。
筑紫国宗方大神の工女が山代へ来て、機織や裁縫���技術を伝え、機織の神である天羽鎚雄神(あめのはづちをのかみ)を祀るため建立されました。
拝殿前の狛犬がなかなかの雰囲気を醸し出しています。
服部神社の鳥居横には神仏習合時代の名残でしょうか、「ひとこと地蔵」という地蔵さんがおいでになります。
見たところ、小綺麗にされて花も飾られていたので、地域の方々に愛されているのが良くわかります。
水が少なかった時代、頻発していた水をめぐる人々のけんかを防止してくれたこの地蔵に一言願いをかけたところ、谷間から水をひいて救済してくれた、という言い伝えから、願い事を一言かけると叶うとされ、今も人々に「ひと言地蔵」と呼ばれ親しまれているそうです。
(京都の華厳寺、通称”鈴虫寺”の「幸福地蔵」とよく似ているお地蔵さんですね!)
帰りは山代温泉古総湯のロータリーを右から行くか左から行くか暫し変えて、星野リゾート側の左から金沢に帰りました。
(ロータリーならどっちから行っても一緒じゃないか。笑)
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kennak · 6 months ago
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〇私説 お地蔵さまとはなにか 「お地蔵さま」「お地蔵さん」という概念の起源にして中心になるものは間違いなく仏教における信仰対象のひとつである「地蔵菩薩」です。一方で地蔵菩薩と「お地蔵さま」「お地蔵さん」(以降かぎ括弧は省略)は明らかに同一ではありません。お地蔵さまは庶民の様々な思い・願い・欲望と混交して膨大で曖昧な概念と実体(彫像)の集合体を形成しています。その混交は特に彫像において顕著です。 桐野東福さんのコメントにある「本体と端末」という譬えは私にもとてもしっくりきます。但し、各地の端末はその地域古来の思想、物語、宗教と混交してしばしば本体とは異なるものを生み出しました。例えて言えば「中央省庁の出先機関が地元にある様々な施設に入居・同居して地域に密着した新たなサービスをやりだした」というのが私の考えです。以下に説明を試みます。 https://ja9mjb.blog.fc2.com/img/20241223073629ca0.jpeg/ 〇混交についての説明 1 道祖神・土地神様と混交 道祖神は行路安全や疫病・悪霊の侵入を監視し、派生して子孫繁栄や子供を守る日本古来の神様です。仏教が日本全土に広まるにつれ、あちこちで道祖神の働きをする地蔵像が作られました。地蔵菩薩が庶民の目に触れるところに進出したことになります。 【以下憶測・根拠なし】各地に地蔵菩薩を(ひいては仏教を)広めるため寺院側が意図的に混交させたのかもしれません。 2 庶民の切なる「願い」の受け皿となり混交 2つ目も庶民の願いと密接な関係があります。いつの世も庶民の願いの最たるものは安産や子の健やかな成長を願う「子安信仰・子安教」です。出産や子育ては非常に困難で大変なことでした。安産や子の健やかな成長を願うのは当然のことです。そうして子安神社、鬼子母神、コノハナサクヤヒメ、子安講などが生まれました。 本来現世利益を与えるものではなかった仏教も例外ではありませんでした。地蔵菩薩は衆生救済のために現世に遣わされた菩薩ですので、この子安信仰と結びついて「子安地蔵」に変質しました。仏教関連ではこの他に子安観音、子安大師などがあります。 庶民の願いと結びついた(子安以外の)地蔵様としては水子地蔵、酒断地蔵、身代地蔵、延命地蔵などがあります。 3 合掌しているお地蔵様は何者か (中心概念である)地蔵菩薩は菩薩でありご本尊様ですから、本来は祈り合掌される対象です。しかしお地蔵さまには合掌しているものがあります。これに関してはよく判りません。 【以下憶測・根拠なし】 ・観音菩薩と混交したのかもしれません。 ・地蔵菩薩は修行中であるとも言われます。彫像を造る際に(同じく修行中の身であろう)僧侶や小坊主の像と混交したのかもしれません。 ・像を造る人は専門の職人・石工さんです。宗教的知識がなくて混同したのかもしれません。もしくは意図的に曖昧にして汎用化を狙ったのかもしれません。 〇 伝説・物語・寓話の発生 混交が起こった様々な概念や彫像を考察すると、地蔵菩薩が突出して庶民に親しまれ浸透していったことが判ります。道端のお地蔵さまに今も草花が供えられているのを見ることがあるでしょう。「親しみ」の中から多くの伝説・物語・寓話が生まれました。お地蔵さまが動き出して何かをするというのも自然な発想でしょう。[笠]地蔵はその最たるものです。お地蔵さまが親しまれた存在であること、僧侶や小坊主と混同して「人間と同じようなことをされる」というのはこの領域で起こりうる最も一般的な表現であり「間違い」でしょう。親しみがあるからこそ多くの物語が編まれ語られるのでしょう。 〇 私論のまとめ(再掲) お地蔵さまの基本概念は地蔵菩薩である。しかし庶民に親しまれ受け入れられる過程で様々なものと混交して「お地蔵さま」という膨大で曖昧な概念と実態(彫像)の集合体を形成している。 〇 追記(ぢぢいの今後のメモ) 「神」と「神様」と「神さん」、こちらは「お地蔵さま」とはちょっと違う気がします。 日本でも神と言いますが、「神々」と複数形で言うことの方が多いですね。どちらかと言うと西洋の絶対神を指して「神」と言う気がします。 「神様」は「神」と比べ日本的、八百万の神を表すことが多いかな。 「神さん」は「神様」の親称、本来敬うべき存在���近しい存在として親しく話す時に用いる。でもお地蔵さんほどの広がり・混交はないようだ。「仏」「仏様」「仏さん」にもあまり意味の広がり・混交はないように思える。 「さん」づけは「えべっさん」「天神さん」など関西的なものなのか?こういう区別は西洋にもあるのでしょうか? では敬う度合いが少し低い場合はどうか 「父」「おとうさま」「父さん」「お父さん」「父ちゃん」 これまた、言葉の意味の違いがありそうです。 日本語は難しいです。皆様は如何考えますか。
「MJBぢぢい」さんの地蔵論 - F爺・小島剛一のブログ
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kkv-main · 5 months ago
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2025.1.23
中村明珍のイベント会場がオープン!
元銀杏BOYZのギタリストで、現在山口県の周防大島で農家兼僧侶として活動中の中村明珍の企画ユニット「寄り道バザール」が、戦後まもなく建てられた木造の芝居小屋を買い取りました。長年地域の交流、文化発信の場として使われてきた会場が解体回避、存続決定となりました。会場名を新たに『和佐星舎』と名づけ、いよいよ3月から活動をスタートします。
その柿落としとして、落語会と音楽イベントの開催が決定しました!
和佐星舎オープニング記念『Up Around The Sun w/ Bosco Japan Tour 2025』
日時:2025年3月16日(日)  開場 18:00 / 開演 19:00出演:Up Around the Sun w/ Bosco (from Austin, Texas) メンバー:Tim Kerr (Acoustic G) ・ Jerry Hagins (Banjo)・Bosco (Fiddle)
 二階堂和美 with 黒瀬みどり���Vanishing Men
チケット 一般 / 前売 3,500 / 当日4,000円(各��ドリンク代) 中学・高校生 / 前売 1,000円 / 当日1,500円(各+ドリンク代) ※要学生証提示 ※未就学児・小学生無料(必ず保護者同伴)
チケット取り扱い:https://yorimichishop.com/ 主催:寄り道バザール 制作協力:ベストフレンド・COFFEE コナ 後援:和佐自治会・周防大島町・周防大島町教育委員会
Up Around The Sun -- パンクとファンクを融合したBig Boys を始め数々のバンドのギタリストでビジュアルアーティストであるTim Kerrと、Banjo奏者Jerry Haginsの2人組ユニット。今回はそこにフィドル(ヴァイオリン)奏者・Bosco氏が加わるスペシャル3人編成。前回来日時にこの3名で録音された最新アルバムとともに、レジェンドの生の演奏をご堪能ください。 
そして今回はさらにスペシャル、なんと歌手の二階堂和美さんが出演を快諾してくれました!寄り道バザールの周防大島でのライブ1回目に出演してくれて以来約10年ぶり、待ちに待ったライブです。唯一無二の歌声、バイブレーション。この場所で全身で浴びられる幸せ。
なによりこのライブを作るきっかけとなった大切なバンド、大阪からMasaki Poserと横須賀のNathanによるユニット、Vanishing Menも来島。お二人は2年ぶり2回目の出演。深く揺らぎ、美しい旋律の気持ちよさに浸ってください。
この三組でのライブの場が生まれるなんて。うれしさMAXです。皆さんとともに楽しめるのを心から楽しみにしております。 プロフィール
Up Around The Sun w/ Bosco メンバー:Tim Kerr (Acoustic G) ・ Jerry Hagins (Banjo)・Bosco (Fiddle) オースティンのレジェンド、Tim KerrとJerry Hagins によるアコースティックデュオ。そこに、前回来日ツアー時にレコーディング参加したFiddle奏者・Bosco氏が加わるスペシャル3人編成。大阪で録音されたそのアルバムは2024年7月にセルフタイトル”Up Around The Sun w/  Bosco“として発表。 2025年の日本ツアースケジュールは以下の通り 3/14(fri) Kyoto Gorey Café3/15(sat) Nagoya K.D.Hapon3/16(sun) Suo Oshima 和佐星舎3/18(tue) Osaka Bake Brown3/19(wed) Osaka Namba BEARS3/20(thu) Shizuoka 8th Rest3/22(sat) Tokyo La Cana3/23(sun) Tokyo La Cana"Tim Kerr Exhibition"3/12(thu)-19(wed) Osaka BARRICADE3/17(mon)-23(sun)Tokyo Kit Gallery 
Tim Kerr(Up Around The Sun) make art, play music, take photos, breathe1956年3月11日生まれテキサス・オースティン在住。BIG BOYSを始め、POISON 13, BAD MUTTHA GOOSE, MONKEYWRENCH, JACK O’FIRE, LORD HIGH FIXERS, THE NOW TIME DELEGATIONなどのバンドでギタリストを努める。パンクにファンク、ブルース、ガレージなどを融合した音楽の先駆け的存在。また、国内外の数多くのバンドのレコーディング・プロデュースも含め、その影響力は多大で多岐にわたる。絵画と写真のアーティストとしても活躍し、レコードジャケット、ポスター、本、広告、スケートボードデッキなどを手がけるほか、世界中で個展を開いている。
Tim Kerr インスタグラム
二階堂和美 ジャンルにとらわれない音楽性と、類いまれな歌唱・表現力で国内外から幅広く支持されているシンガーソングライター。1999年のデビュー以来多くのミュージシャンと共演し、その変幻自在ぶりを発揮。現在までに約20作を発表。代表作は2011年発表のアルバム『にじみ』。スタジオジブリ映画『かぐや姫の物語』(2013年)で、主題歌「いのちの記憶」を作詞・作曲・歌唱。NHK「おかあさんといっしょ」への楽曲提供曲に「ショキショキチョン」(作詞・作曲)、「ぎゅーっはかせ」(作曲:渋谷毅)。著書に『負うて抱えて』(晶文社) 他。CM歌唱も多数。広島県在住。浄土真宗本願寺派の僧侶でもある。
www.nikaidokazumi.net Vanishing Men Masaki Poser(BRONxxx、LP)とNathan Bennett(Capricorns, Bridge & Tunnel, White Daughter)によるユニット。30年前にサウス・ロンドンで出会い、ハードコア・パンクへの共通の愛で結ばれた。2022年、ふたりは日本に住みながら、なぜ一緒に活動しないのか不思議に思っていた。そして、バンドよりもデュオの方が手間がかからないということを経験から学び、Vanishing Menが誕生した。  中村明珍 農家兼僧侶。1978年東京生まれ。2013年までロックバンド銀杏BOYZのギタリスト・チン中村として活動。2013年3月末に山口県・周防大島に移住後、「中村農園」で農業に取り組みながら、僧侶として暮らす。また、農産物の販売とライブイベントなどの企画を行う「寄り道バザール」を夫婦で運営中。2021年3月に初の単著「ダンス・イン・ザ・ファーム  周防大島で坊主と農家と他いろいろ」(ミシマ社)を刊行、現在続きを連載中。2024年から真言宗善通寺派・「不動院」住職。 和佐星舎開館までの経緯かつては塩づくりを行っていたといわれる地域・和佐。昭和24年に、住民たち自らの手で山から木材を切り出し、船で海の上を運びながら、「青年会館」の名で建立。芝居小屋として、自身たちが舞台に立ったり、歌舞伎座を呼んで興業を行ったりしながら、のちに地域住民の「公民館」として幅広く使用されるようになりました。和佐の出身である作詞家・星野哲郎ゆかりの地であることから、鳥羽一郎や島津亜矢、水前寺清子などの多くの歌手も出演。のちに寄り道バザールではキセル、二階堂和美のライブや立川志らく、立川談笑の落語会、山縣良和によるワークショップなどを開催。ところが2019年、住民の話し合いで「解体」が決定します。修繕が必要な箇所はあるものの木材は丈夫なため、解体を回避する方法を模索していくことに。6年後の2024年10月、町から売却が告示され、2025年1月寄り道バザールが購入。存続が正式に決定しました。新公民館がすでにあることから、名前を「和佐星舎」に改名。前述の作詞家・星野哲郎や和佐の海岸「星のビーチ」、周防大島の正式名称「屋代島」の由緒にちなんで名づけました。今後もこれまでの地域での愛され方を継承しながら、老若男女問わず楽しめる、新しい居場所になるようにいろいろ企画していきます。経緯について、詳しくはweb「みんなのミシマガジン」(ミシマ社)の「ダンス・イン・ザ・ファーム2」にて連載中。
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bailonglee · 9 months ago
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過去の自分のTwitterを漁っていたら、良いものが出て来たw🤣✨
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↑↑↑ここをクリックしたら、見れます。
寺田喜朗さんという、大正大学の先生が、日本会議とは何か、創価学会とは何か?
それに加入している、故安倍さん、麻生太郎、高市早苗、岸田文雄ら。
そして、YouTubeでやたら高市早苗を推していた人らは、全員、これらの入信者です。
これらの団体は、オウム真理教なんかとは、また違います。
もっと歴史があり、もっと複雑で、深く、我々が知らないバック・グラウンドに、信じられない数の入信者がいます、今も。
だから、過激カルト宗教などと、くくれません。
だって、第二次世界大戦に、深く関わり、生長の家谷口雅春に至っては、日本に戦闘機をプレゼントするほどの、資金力です。
そしてその身勝手な戦争で、我々庶民は沢山死にました、殺されました。
彼らは、「靖国を参拝しろ、英霊を讃えよ」という、共通の概念を持っています。
もはや、国民運動なんか比較にならない数が、これらの入信者、関係者なのを、私達は知りましょう。
是非、寺田喜朗先生の文献を、読んでみて下さい。
彼らは、もう後には引けないんです。
政界、財界、芸能界、あらゆる分野のトップに君臨し、日本そのものになった、いわゆる《癌細胞》です。
ですから、今回日本会議メンバーではない石破茂が総理になったのは、かなりでかい事です。
残念ながら、馬渕さんやら、あんな優しく、正しい人らも、生長の家関連です。
生長の家らは、決してカルトっぽくありません。
学校ではあまり発言しない、眼鏡のおとなしそうな人らばかり。
私みたいな、やんちゃそうな人らは、1人もいませんw🤣✨
でも中身は、癌細胞なんですよ。。。
創価学会創始のきっかけは、1930年にまで遡ります。
大本教が、創始は我々大衆の救済だったはずが、上田喜三郎のせいで、巨大利権団体と化し、谷口雅春が、一気に明治政府回帰主義を進めた…
つまり、最初は我々大衆を救おうと立ち上がったが、神社本庁などの財政力を見て、会員だけが儲かり、大衆からは搾取するという、
まさに中国共産党と全く同じ形になったのが、日本会議であり、創価学会だ。
我々都市の人間は、もはや彼らを表舞台から引きずり下ろそう考えてるのが、大半でしょう。
だが、埼玉春日部とか、ちょっと離れた地方都市は、日本会議やらが居ないと機能しないほど、日本版中国共産党は、日本そのものに化けた、悲しき癌細胞です。。
だから彼らは、石破茂は憎くてたまらない。
逆に、とうとう我が世の春に、終わりが来たという事、それが正しい日本人たちの、真意という事だと思う。
石破茂さんは、自民党というより、出口王仁三郎をリーダーとした、日本最大の癌細胞、破壊する時が来たのを、知っているのかもしれない。
追記:
なぜ彼らを
《癌細胞》
と呼称するか?
そう…
彼らは、
《病》
そのものだから。
我々庶民の多くは、辛かったり、耐え難かったり、許し難くとも、手っ取り早い方法など取らず、ひたすら頑張った。
彼ら支配層は、耐えられず、不平を並べ、何かを憎み、手っ取り早い《金》に、しがみついた。
それが、《選民》がという意識を、芽生えさせ、日本を破壊して来た…
癌細胞だね。
癌細胞に、罪悪感などない。
我ら庶民(ミトコンドリア)が、100 倍の時間を使い生命を紡ぐ中、支配層(癌細胞)は、ブドウ糖(金)をグルコース(力)に替え、庶民の分裂により、生命力(ATP)を得てきた。
早いが、酸素(愛)には、弱い。
だから、宗教という方法論を取った。
日蓮を引き合いに出し、自分らは善意で行っていると、自分達の中の正統性を立たせたw🤣
日蓮にしたら、迷惑じゃないかな?w🤣
人を騙し、見下す選民らを、日蓮は正しいなんて思って無いわw🤣
だからこそ!、
《癌細胞》
なわけだw
体内(地球)にいて、強大な力(ブドウ糖という金w)はあるが、その近視眼的思考は、元来の組織(内臓)を破壊しかしないw🤣
だとしたらさ、我々は、
温かく包み込んであげれば、彼らは溶けて無くなるよなw🤣
つまり、我々大多数が、正しい愛で取り囲むこと。
例えば、彼らが言う嘘だらけに対して、YouTube やら、SNSやらで、正しい話を発言し、彼らの嘘が豆粒に思えるほど、沢山の正しい意見を、我々庶民一人一人が、発言する事だよな。
昔我ら庶民は、戦争で鉄を奪われたり、娘や息子を奪われるくらい、選民たちの暴走は凄まじく、全く抵抗すら出来なかった。
でも今は、YouTubeなり、Twitterがある。
ツイキャスでもいい、“曲”という形でもいい。
とにかく、我ら庶民の、1人でも多く、自分発信し、正しい愛ある意見で、埋め尽くそうよ🙂✨
癌治療で、癌と戦うとは、すなわち、
体自体を破壊する
行為であり、地球(体)に未来はない。
正しい多くに取り囲まれたら、彼らはもう、デタラメや詐欺は出来なくなる。
誰かがやるじゃなく、我々一人一人が、やるんです。
そこにデカい道(明るい未来)が、ある。
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ari0921 · 1 year ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)4月19日(金曜日)
   通巻第8221号
 後継皇室問題で自民党が有識者会議の二案を『妥当』
  やはり自民党に「現代の新井白石」はいなかった
*************************
 皇統後継問題の皇室典範改正をめぐって有識者会議が開かれ、これを踏まえて岸田首相は令和六年(二〇二四年)一月三十日の所信表明演説後の質門に答え、かく述べている。
 「有識者会議において悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならないとの結論に至った」。
つまり「女系天皇論」という俗論をたしなめたのだ。だがメディアは意図的に、この一歩踏み込んだ発言を殆ど伝えなかった。岸田首相は「悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」と明言しているのである。
 皇統は神武以来の万世一系で男子が継承し、跡継ぎが幼少などの場合、未亡人皇后か独身の内親王が天皇代理として「称制」と務めた。この歴史の特質が意図的に議論されず学校でも教えない。
だから軽佻浮薄にも「愛子天皇待望論」が出てくる。女性天皇と女系天皇の区別も曖昧とされたままである。
 小泉政権のおり皇室典範改正をめぐって有識者会議が開催された。明治二二年(一八八九年)制定された典範により、男系長子が皇位を継承するという神武天皇以来の万世一系の伝統が守られてきた。状況が変化し、皇統が絶えかねないという危機を認識し、急遽、有識者会議が招集された。
だが、座長はロボット工学専門の学者で歴史には無知だった。秋篠宮に悠仁親)王がお生まれになって、皇統問題は棚上げとなった。
 もしこの流れを変えるとなると歴史を否定する革命である。フラ���クフルト学派が狙うのは二段階革命による国家破壊であり、グローバリズムが国境をなくせと唱えている国家否定の隠れた目標に通底する。
  
 4月15日、自民党は皇位継承の安定のための皇族数確保に関する有識者会議の二案を『妥当』とする立場を示し、「安定的な皇位継承の確保に関する懇親会(麻生副総裁が会長)で党見解のとりまとめを急ぐとした。
 「二案」とは(1)皇族女子の結婚後の皇族身分保持。(2)養子縁組に拠る旧皇族団系男子の皇籍復帰、である。
 自民党はいずれも妥当としたわけだが、いささか勉強不足だろう。やはり与党に現代版の新井白石はいなかったのだ。
 各党の意見のなかで、唯一まともなのが「維新の会」である。すなわち(1)に対して、現実的ではあるが「女系への皇位継承資格拡大につながる懸念がある」としている。
 (2)に関しては『歴史と現実を踏まえれば、高く評価できる』とした。
そもそも皇室典範の改正云々を内閣ごときがおこなうべきではない。立太子と親王殿下がおられるのに、なぜこんな議論をするのか、裏に何か別の動機が潜んでいるのか。
(参考文献 宮崎正弘『二度天皇になった女性 ─孝謙・称徳女帝の光と影』(ワック)
  ▼
(再録)「新井白石 皇統断絶の危機を予知」
 皇統が断絶の危機に瀕したことは神武天皇の御代から幾度かある。また後継皇位を争った政争、謀殺も何回かあった。 
 古代史最大の謎は応神天皇と継体天皇の正当性である。ほかにも雄略天皇が謀殺したイチノヘオシハ(履中天皇の皇子、雄略天皇の叔父)の遺児が播磨と吉備の境に二十年隠れ住んでいて、雄略の皇子・清寧天皇が亡くなると名乗り出た。この間、イチノヘオシハの妹の称制だった。
 新井白石は自伝ともとれる『折たく柴の記』のなかで、皇室の後継が不在となる危機の到来を認識し、東山天皇の祖孫をして閑院宮家を立てられるよう将軍に建言した。その皇統を維持させた経緯を次のように回想した。
 「議し申すべき一事の候は天亨・建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば、武家の代の栄えも衰えをも、ともにせさせ給ふべき御事なるに、応仁の後、世の乱れ打ち続て、武家すでに衰給ひにし上は、朝家のことは申すに及ばず当家(徳川)神祖天下の事をしろしめされしに及びてこそ、朝家(皇室)にも絶たるをも?ぎ、廃れしをも興させ給ふ御事共はあるなれ。しかはあれど儲君(皇太子)の外は、皇子、皇女皆々御出家の事においては、いまもなほおとろへし代のさまに、かは
り給はず。凡そ匹夫匹婦の賤しさも子を産みては其室家あらむ事を思ふ。これ天下古今の情也。(中略)これより後、代々の皇子、皇女、其数多くおはしまさむに至りては天下の富も、つがせ給はぬ所ありぬべしなど申す事も候はんか。古より皇子、皇女、数十人おはしませし代々もすくなかれねど、それらの御後、今に至り給ふは、いくばくもおはしまさず。『天地の間には大算数といふもののある也』と古人は申したりき。これらの事は人の智力の推し測るべき所にあらず。ただ理��当否をこそ論じもうすべけれ」(松村明校注、岩波文庫。138~140p)
 新井白石は後継皇統の候補者がたくさんおられた時代ではなく、いずれ後継候補が不在となる危機にそなえ、別に宮家を建てて費用をまかなうべきと建言したのだ。
 将軍家宣は白石の建言を受けいれ直仁親王を閑院宮と称し、禄千石を進上した。はたして白石が危惧した通り第113代東山天皇の系統は第118代後桃園天皇で絶えた。
 そこで東山の皇子、直人親王の孫にあたる光格天皇が第119代天皇として即位された。光格天皇は閑院宮典仁親王の第六王子。誕生の翌年に聖護院に入寺し将来は出家して聖護院門跡を継ぐ予定だった。
 ところが後桃園天皇が崩御し、直系は内親王だけだったため、安永八年(1789)十一月二十五日、践祚された。今上陛下はこの光格天皇の系統である。
 ゆえに令和の時代の皇室論議に臣籍降下された旧宮家の復活が急がれる所以である。
 白石が冒頭にのべた「建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば」という意味は、建武の中興の後醍醐天皇の南朝が99代の後亀山天皇で世継ぎなく北朝五代の後円融天皇の皇子が、第百代の後小松天皇、101代称光天皇のあと、五代遡って北朝一代の光嚴天皇の祖々孫にあたる後花園天皇となられたことを指している。
 皇位が空位となったケースは幾つかあるが、未亡人か独身の内親王が称制(臨時天皇)として正式な後継皇子が成人するのを待った。たとえば持統天皇、皇極・齊明、元正、元明がそうだ。孝謙・称徳天皇の場合は後継淳仁天皇を廃帝とし、次の光仁天皇を指名したとする遺書は藤原百川がでっち上げた。
 第二十一代雄略天皇の子、清寧には皇子がおらず三代遡って履中天皇の皇子イチノヘオシハの遺児(顕宗、仁賢)が継いだことはみたが、その間の飯豊天皇は明治三年に皇統譜から削除された。ところが葛城の麓へいくと宮内庁管轄の飯豊天皇陵がある。
 その後、第二十五代武烈天皇にも後継皇子は不在で、こんどは五代遡り、応神天皇の五代孫と言われた継体天皇が践祚された。継体天皇は越前からやってきたが二十年間も奈良へ入らず、この謎は解明されていない。
                 (『月刊日本』から再録です)
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mxargent · 2 years ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
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“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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yotchan-blog · 3 months ago
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2025/3/31 13:00:14現在のニュース
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tamashiinookazu · 3 months ago
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「源氏物語」が日本一扱いって、闇の勢力の思うツボじゃん
「最古の長編恋愛小説」の作者は、通称、紫式部♀。
その昔、紫式部さんが、ご自身の日記に、
当時、ほぼ見かけただけにすぎない清少納言♀(年長者)に対して、
自分の学才と比較して、彼女をコケにし貶めた文章を書いてますね。
図らずも自身の勝ち気とクセ強めさをあらわにして、
後世まで語り継がれる汚点になっていることは
つとに知られてます。
やらかしましたね。
思うに、
彼女の思い人である藤原道長♂様が、
敵方勢力であるはずの清少納言♀の
才能や性質を高く買っていたことへの
彼女の嫉妬が原因なんではないでしょうかー。
ここからはファンタジーです。
わたしの勝手な経験を踏まえた考察と推測では、
紫式部は前世記憶も保持している
シャーマン気質のハイブリッドで、
彼女は直前世で、自分が唐代の皇帝♂だったこと自覚しており、
相応の教養、特に女が持ち得ないはずの
漢学の才能の持ち主であると、
強く自負していたのではないか、
と思っています。
また、紫式部さんは、
その持ち前の学才(前世から今世へ持ち越している)のため
神仙界とも気脈を通じており、
未来へのチャネリングもできた。
それで、道長の肝入りで
「貴族階級が仏法に深く帰依するストーリー」を書くように
アルコン側からも推薦されキャスティングされた
カバール系チャネラーだと思います。
石山寺。あの岩石だらけの森閑とした
チャネリング道場に
お篭もりしては、
光と闇の同時霊的介入と応援?を受け
アストラル界を逍遥しつつ執筆。
リアル実在の男女たちにもチャネリングしまくり
松任谷由美並みにレポートしまくりつつ、
どこまでも上品に貴族最高峰の教養を絡め
上からの意向にはけっっして逆らわず
「源氏物語」を回を追うごとに
仏教色に染めていくことになった。
地球上の小説などの話は
実際にあるからそれをダウンロードして
小説などになるわけなので、
ある意味、純粋な創作というよりは
すでにある下敷きをもとに洗練させていった。
ここ8年くらい、わたしは彼女の創作風景
についてそう推理しています。
あれ読むと誰だって
女はこんなもの、男はこういうもの、
という固定観念に染まり、
恋愛には不幸しかない、
因果応報。宗教が崇高で最高〜。
貴族だったらさっさと髪剃って出家がトレンド。
ってマインドコントロールされるようにできてますもんね。
飛躍します。
わたし���
前回のCOBRA京都カンファレンスで、
楊貴妃と玄宗皇帝について、
日本(とイギリス)を絡めた質問をしたかったのですが、
あいにく二日間眠れず朦朧としていたので不明瞭な質問をして、
ファシリテーターに差し止められてしまいましたっ。
あの時わたしが本当に確かめたかったのは、
この両者が道長と紫式部と同一の魂の転生であること。
また、かつてのCOBRAのThe Portal関連記事で著された
エリザベス女王とジョン・ディーとの関連、
遂には、
現代の日本での転生の有無について聞き出したかったんですよね。
記事には
「ジョン・ディーは霊界から
あらゆるオカルト的な闇の介入を果たすものの、
果たしてどこにいるのかの実際を誰も知らない」
というような内容が書かれていました。
そこへの自分なりの経験値と考察から、
一石を投じたかったのでした。
同じ歴史に現在進行形で立ち会っている者として、
常識では知り得なかった種明かしを
せめて会場の皆さんと
分かち合おうとしていました。
ちなみに今世では
わたしは道長の転生には何度も
紫式部には
実際に一面識があるのですよ。
だから訊く価値がありました。
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shigerunakano · 4 months ago
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Her Majesty (3)
オールドサンホセ教会の鐘楼は17世紀から19世紀までスペインが島民をグアムに強制移住させ無人島にした上で統治した時代のもので、高さは20メートルほど、さっきタガビーチからもタガ遺跡からも見えていた。趣のあるランドマークといった感じで、珍しいがゆえに、ここに宗教的大規模建築と呼ぶべき遺産が存在することが大きな欺瞞に感じられる。サグラダ・ファミリアや私の地元の横浜駅がまだ完成していないような不思議さと嫌疑。実際写真で見る雰囲気とは違っていた。本当にぼろぼろといった状態でオーガニックな、いやむしろ有機体的と呼ぶべき愛嬌があった。かわいらしいペットのような。そして風景ともマッチしていた。実に優れたスポットだと思う。妻と写真撮影をし、確認してホテルに向かうことにする。
そして今、外の虫の合唱を聞いている。思い返すとこの虫の声はベートーヴェン交響曲第9番「合唱」の第四楽章「歓喜の歌」に似ていなくもない。規定された楽譜を再現する一万人の第九がある。日本人ならおなじみの年末の特番があるんですよ、とホテル中の人間に教えてやりたかった。私はなぜか夜の空気と虫の鳴き声が誇らしかった。
2日目
2日目のテニアンのホテル。昨日と同じ席。ヨーロピアンだが落ち着いた造りの薄緑の��脚椅子、頑丈なものに違いない。ホテルの客室に戻ってきて妻はいの一番に「あぁ、楽しかった」と口を開いた。私は「楽しくないけど。むしろ暗い気持ちになった」と答えた。名所の内容が暗かったから。
妻は浴室に向かった。向かう際、妻が昨日ドライヤーのコンセントを、本体に丸めて風呂を出たので「ドライヤーコンセントに差しといて」と言った。奇妙な言葉だ。ユングが言わせたんだろう。それかスーサイドクリフが言わせた。スーサイドクリフは湿っていた。だから、この海域は涙の海と化し、我々はそこに最後に取り残された部隊である。二度と戻れない。「ドライヤーコンセントに差しといて」あくまで自己分析だ。カウンセリングの定義に反する。カウンセリングは他者に対して行うものだ。
浴室から出てきた妻は薄手の白いガウンを着ており、私に向かって微笑みかけた。思うところあって妻に近寄り抱きつく。唇に自分の唇を当てる。5秒間のフレンチキス。リアルな時間。リアルな距離。「え、どうしたの」と妻が言った。私は答えずに浴室に向かった。
今日、朝起きたのは7時過ぎで外は太陽が燦々と照っていた。非常に爽やかな朝である。昨日と同じく生垣が邪魔だと感じた。客室を出たのは8時半ぐらいだろうか。ブッキングしたチャーターはホテルの前で待っていた。さっきフロントに連絡しておいた結果だ。おそらく因果関係だろう。ホテルのある島南西からすこし南に離れたタチョンニャビーチへ。スケジュールはサイパンにいる間にチャーターを運行する営業所に伝えてある。早め早めの対処である。ビーチは昨日訪れたタガビーチとそう変わらない風景だった。白い砂浜に透明なビーチ、打ち寄せる波。海の底には何があるというのか。
浜辺でしばらくぼーっとしていた。20分ほどゆっくりと散策し、妻を残し、引き返したところにある自動販売機に向かった。カフェラテにしよう。米国の通貨で支払う。島の上での営利活動。これこそが尾田栄一郎の約束した資本主義だ。さらにそこで20分ほどとどまった。
チャーターが2番目に向かうのは東に向かった先にあるスーサイドクリフ。日本が島を委任統治した時代に太平洋戦争勃発、戦線の拡大によりアメリカが島の戦略的重要性に気づき、軍は1944年8月に占領に成功する。この島から戦争末期において毎日のように本土への空襲へ向かうB-29が飛び立った。のみならず広島、長崎へ原子爆弾を投下したエノラゲイとボックスカーはここから出発した。そのような島への米軍の侵攻の際、犠牲になった人々は沖��からの移住者が多数を占め、それら多くの民間人は同じく移住していた朝鮮人とともになすすべもなく殺された。そのような経緯から集団自決が図られたこの崖には多くの慰霊碑が建造され、毎年慰霊祭が催され、本土や沖縄から多くの者が参加しているということだ。
そのような北マリアナ諸島の歴史は知らなかった。私はあ然とした。いわゆる当時の呼称「南方戦線」のことはよく知っているつもりだった。これは無論政治にかかわる項目であるし、テレビでも夏になれば毎年のように「戦争特集」というかたちで放送する内容だ。おそらく私の及ばぬところがあったのだ、情けなくなったことは間違いない。慰霊碑を眺め辺りを散策していたら30分は経っていたようだ。時計を見た。
3番目に向かったのは、旧帝国海軍、司令部跡である。ここは、第二次世界大戦中に日本海軍第一航空艦隊司令部が置かれていたコンクリート製の2階建ての建物。戦時中にアメリカ軍の砲撃により破壊されたが、建物の形は今も残っている。この遺構は、島北部ハゴイ空軍基地跡地の近くに位置している。以上は英語の観光ガイドを読めば分かる。ジャングルに囲まれたこの遺構を見ると、東本願寺の静謐でありつつも、訪問者の醸し出すものとは違う建築物そのものが本来持つ活気やにぎわいを感じた。あるいは坂本龍一のピアノ演奏とその優しくも正確なタッチ(ピアノの鍵盤を叩く強さ)を思い起こさせる。そして彼の演奏時に見せる苦悶の表情がそこにはあった。きっと司令官とは坂本龍一のような人なのだ。
2日間の島での旅程最後に向かったのはエイブル飛行場と原爆ピットで、前者は先述したB-29が飛び立つのに使った滑走路で、後者は原子爆弾を搭載するのに使ったスポットだ。現地の米軍がノース・フィールドと呼ぶこの広大な飛行場は、島北部の多くを占める山林に囲まれている。ここに来てみてやはり世界の終わりを感じる。文字通り黙示録的なのだ。「エルサレムのアイヒマン」がここにいた。アメリカ人が適当にフォードを走らせていたら、「エルサレムのアイヒマン」に遭遇したといった趣で、そのような揺るがせない脅威がある。アイヒマンは経験論的事実なのだ。昨日の自分に言い聞かせる。やはり1940年代に世界が終わったのだ。それとも1950年代だろうか。離接的総合と離接的読書。私にできるのは読むことだけ。
原爆ピットに向かうと異様な空間の重さと妖気を感じる。現在は使われていない滑走路跡は広場としてあり、学校のグラウンドを思わ���た。そこにガラス張りの記念碑が建造されており、建築物としてみると小さい。一風変わった記念碑と言った方が正確で、内部に当時の写真が収められていた。この他にもノース・フィールド内部に別のものがもうひとつあり、そちらは入れないんだとか。チャーターが伝えてくれた。これ以上の肝試しはないだろうと感じる。それもそうだが。日本人の多くが気になる戦争という闇がある。光ではなく闇。アラビアのロレンスのようにはいかないわけだ。日本だったら心霊スポットの仲間入りだな。
そのようにして、夜が来る。すべての者どもは夜へ。今分かっているのはここまでだとでもいうのだろうか……、ひょっとして……。橙色の照明がやけによそよそしい。私の離島を事務的に待ちわびているかのようだ。「朝が来る前に」。「朝が来れば僕ら旅立つ 新しい日々の始まりへ」。これは妻が好きな23年前の日本のポップスだった。この後の予定は放りだしてもよい。さようなら、テニアン。さようなら。
2日後、翌々日のサイパン国際空港でのチェックインを済ませ、あとは帰りの便に乗り込むだけだとセンチメンタルな気持ちになっていた時だった。眼の前にあったテレビがベイルートでのテロを報じ出した。アメリカのNBCテレビで、音声は聞き取れなかったが字幕は読める。現地時間昨日午前7時頃、この場所では昨日午後3時頃に高層ホテルで発生した爆破テロで3発の爆弾が使われたようだった。この報道ではイスラム教シーア派の武装勢力が新たに犯行声明を出したと伝えた。事件の背景について説明するのは控えるが、レバノンの諸外国諸勢力との緊迫状況と外交努力は片手間程度だがリサーチを進めてはいた。なのでそれほど驚きはしなかったが、たしかにこの2年間は起きなかった大きな動きだと言えるだろう。もちろんシーア派武装勢力のことだ。私は苦々しい思いを味わった。しかし普通の人にとっては恐ろしいの一言で済む話だ。午前10時の便に乗った。
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psalm80-lilies-iv · 5 months ago
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興福寺
【3,868字・7分】
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泉谷康夫『興福寺』(吉川弘文館)
大和の大寺・興福寺の創建から明治時代までを扱った通史である。ありていに言って「貴賤の信仰を集めた」とは言い難い興福寺が歴史(少なくとも大和国の)の中で注目を集めるのは中世である。中世の興福寺は僧兵を擁し大和一円に検断権を行使する大勢力だった。なぜそうなったのか、その後どうなったのか、といったことが興福寺の歴史のハイライトだろう。
興福寺の歴史を左右したもっとも大きな要因は「藤原氏の氏寺」だったことである。
摂関政治の最盛期において、興福寺は摂関家に依存しながら勢力の伸長をはかったが、摂関家の側から興福寺に依存するところはあまりなかったようである。それが院政期に入ると一変し、摂関家は子弟を別当に就任させ、興福寺のことを「御寺」と称し、興福寺への支配力を強化しようと試みるのである。
(「第二 興福寺の創建と発展」より「一 興福寺と藤原氏」)
貴族の子弟が僧侶として興福寺に入ることは10世紀からあったが、11世紀後半(つまり院政期)になると貴種・良家の子弟が興福寺に入ることが常態化してくる。そこで生まれたのが「院家」である。
興福寺の住僧達は最初ここ(引用注:東西と北の三面僧房)に居住していたと思われるが、十二世紀に入ると、堂舎を寺域内に建立しそこに居住する僧侶が現れ、やがてそのような居住形態が一般化してゆく。すなわち諸院家の成立である。
財力があり都での華やかな生活を見聞していた彼等(引用注:貴族出身の僧侶)にとって、三面僧房の狭い部屋での質素な生活はおそらく不自由に思えたに違いない。
(「第三 興福寺の変質」より「一 院家の成立」)
こうして藤原摂関家と興福寺との間に院家というパイプが成立すると、それを頼って在地土豪が興福寺に集まってくる。その目的は、今風に言えば、律令制下における「脱税」である。大和の大寺というだけなら東大寺も薬師寺も大寺だったが、院家という藤原摂関家とのパイプが興福寺を特別な存在にしていく。
一般的にいって在地土豪層が保護を求めて結集するのは中央貴族と赴任してきた受領であるが、大和国の場合、中央貴族や受領だけでなく、大寺の中心的学侶が加わっており、この学侶の比重が大きかったのが、他の国々と非常に異なる点であったといえるようである。
このような大寺の僧侶が在地土豪結集の中心となりえたのは、その有する宗教的権威によるものであったことはいうまでもないが、寺内には国司の検断権が及ばなかったこともその一因だったと思われる。すなわち、寺院は国司による追求からのがれる絶好の場所だったのである。一方、律令制の崩壊に伴なう国家的保護の減少は、寺院に住む人達の生活を圧迫してくる。そこで寺僧達は経済的基盤を確立する必要があった。そこに、寺僧の側からも在地土豪層との結びつきを求めてゆく必要があったのである。
やがて興福寺が、藤原氏の氏寺として、特に摂関家との深いかかわりから、受領や他の諸大寺に優越する力をもつようになると、在地領主の結集の中心は次第に興福寺僧に集中し、寺僧領が多く成立して寺僧達の経済的基盤を形成していった。このように寺僧と在地土豪は、相互依存の関係を保ちながら大和国で勢力を伸ばしていったのである。
(「第四 興福寺の大和国支配」より「一 在地の動向」)
こうした在地土豪ははじめ興福寺の中で学侶の下働きを務めていたが、興福寺全体が豊かになるにつれて自ら学侶として修行に加わる余裕が出てくる。のちの時代に大和国の戦国大名となる筒井順慶などもこうした興福寺の衆徒だった(だから僧形なのである)。
このように経済力と軍事力を貯えた興福寺は、同様に藤原家とゆかりのある多武峰寺(鎌足の墓所といわれる、現在の談山神社)と大和国の支配権をかけて抗争を繰り広げ(当時の多武峰寺は延暦寺の末寺で抗争には延暦寺の援助があった)、最終的に勝利することで大和国一円の支配権を確立する。
平清盛は寺僧領からも官物を徴収する方針を取り、興福寺をはじめとする寺社がこれに反発すると平重衡に南都を焼き討ちさせる。これを恨みに思った南都諸寺は源氏方につくが、源頼朝と義経との間に対立が生じると南都諸寺は義経をかくまい、義経を討った頼朝は、係争地に地頭を配する形で、大和国にも少しずつ圧力をかけていく。
室町時代になると興福寺の中にも下剋上の機運が生まれる。
室町時代になると、興福寺は歴史の主役から退き、代って衆徒・国民(引用注:「衆徒」は興福寺に拠った、「国民」は春日社に拠った、それぞれ在地土豪)が登場してくる。彼等は武士であり、興福寺の武力として活躍してきたが、次第に独自の公道をとるようになり、興福寺の命令にそのまま従わないようになってくるのである。すなわち、下剋上である。しかし、彼等は興福寺を倒すことはできなかった。
興福寺は、摂関家を通して、京都の朝廷とも不可分に結びついていた。周知のとおり、朝廷と室町幕府は一体の関係にあった。このような中で興福寺を倒すことは、京都の朝廷、ひいては幕府を敵に廻して戦うことであった。衆徒・国民は、自身の成長のため、積極的に幕府の要人と結びついていった。その限りにおいて、中世的な興福寺の呪縛から彼等は逃れることができなかったのである。
(「第六 下剋上と興福寺」より「一 衆徒と国民」)
足利義満が衆徒・国民に直接支配を及ぼすようになって以降、衆徒・国民は興福寺の支配を離れて独自の道を歩み内紛と和合を繰り返すようになる。この流れを決定的にしたのが松永久秀の登場である。彼は大和国に侵入すると多門城を築いて大和国を支配したが、その際知行割を行い、大規模な給人の入れ替えを行った。
久秀は寺社成を保障する態度を保持してきたが、この大規模な給人の入れ替えは、従来の興福寺の諸荘園における在地支配を事実上断ち切る役割を果したようである。すなわち、寺社成が否定され、新しい給人達は、他国におけるのと同様、荘園領主に年貢を渡さなくなったのである。
(「第六 下剋上と興福寺」より「二 室町・戦国期の大和国」)
信長は久秀を駆逐し筒井順慶に大和国の支配を任せる。信長の代官としてだったが、興福寺はこれを「衆徒筒井の復活」と考えた。この信長が光秀に倒されたあと、順慶は秀吉によって大和の「守護」と認められ20万石の大名になる。だが順慶が死ぬと子孫は国替を命じられ、興福寺と衆徒・国民との関係は断ち切られる。
こうして興福寺は、新しい知行体系の中に組み込まれてゆき、中世的な収取の在り方は、豊臣政権により完全に払拭されてしまったのである。秀吉の寺社に対する政策はそれだけではなかった。興福寺はもちろんのこと、奈良の諸大寺は武器の提出を命じられた。寺社の活動は宗教面に限定されたのであり、宗教活動に専念する限りにおいて、朱印地が与えられ、保護されるようになったのである。
(「第六 下剋上と興福寺」より「二 室町・戦国期の大和国」)
江戸時代には奈良奉行所が置かれ興福寺以下南都諸大寺はその検断権に服した。中世に誇った興福寺の権威は払拭されたのである。
南円堂は観音に現世利益を求める信仰によって庶民と深く結びついていたが、興福寺自体は、庶民と直接かかわりのないところに聳え立つ大寺院であり、農民にとっては年貢を納める「お殿様」であった。
(「第七 近世から明治維新へ」より「一 近世の興福寺」)
さて明治時代になると興福寺は一山復飾(還俗)願を提出し自ら廃寺とする。摂関家を通して明治政府と近過ぎたことによる勇み足に見える。
維新政府と興福寺との情報の伝達は早かったようで、すでに慶応四年三月には、新政府によって神仏分離政策の実施されることが興福寺に伝えられている。これに応じて、一乗院・大乗院両門跡は一寺一体の復飾願を提出することを決め、衆徒一同にも意見を徴した。三月二十一日、衆徒達は、自分達も従来より春日社に奉仕してきたのであるから、一緒に復飾し、勤王のために尽力したいと申出ている。こうして四月十三日、興福寺は一山復飾願を提出し、この願いはただちに許容された。興福寺僧達は新宮司と称して春日社に奉仕し、社頭の仏具等はことごとく取除かれることになった。
(「第七 近世から明治維新へ」より「明治維新と興福寺」)
この一山復飾は神仏分離・廃仏毀釈政策に対する興福寺僧侶たちの生き残り策だったのだが、明治5年に春日社が官幣大社春日神社となると同社の神職は官吏扱いとなり定員の枠も作られて、復飾により神職となった元僧侶たちは結局失職する。このような中で明治10年代に入ると興福寺再興を唱える声が盛り上がり、明治14年に再興の正式認可が内務省から下される。
神仏分離令とこれから派生した廃仏毀釈の嵐によって興福寺は大きな打撃を受けたが、政府の宗教政策も漸次変り、明治十三年には古社寺保存金の給付がはじまり、同三十年には「古社寺保存法」が制定され、興福寺では、北円堂・三重塔・五重塔が保護建造物の指定をうけ、弥勒菩薩坐像など一一点が国宝に指定された。境内地も徐々に公園指定を解除、返還され、現在はほぼ二万五〇〇〇坪が興福寺の所有になっているという。こうして、現在の興福寺は成立した。
(「第七 近世から明治維新へ」より「明治維新と興福寺」)
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takahashicleaning · 1 year ago
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TEDにて
アンディー・プディコム:必要なのは10分間の瞑想だけ!
(表示されない場合は上記リンクからどうぞ)
全く。何もせず10分間を最後に過ごしたのはいつですか?
電子メールも会話も思考もしないでね。心配りの専門家アンディー・プディコムは、あるテクニックの革新的なパワーについて言及します。
そのテクニックは、1日に10分間。単に今、この瞬間を意識して経験することです。(お香も要りませんし、変な座り方も必要ありません)
これは、テーラワーダ仏教の瞑想です。
仏教は、現代から2550年ほど前、お釈迦様(「釈迦牟尼仏陀=通称:ブッダ」とも言われます)によって艱難辛苦(かんなんしんく)の訓練の末、自ら発見、実践、体得
体系化されたテーラワーダ仏教は、時代の流れとともにさまざまな流派に分かれて全世界へと広がってゆきました。
中国・チベット・朝鮮半島や日本には、お釈迦様の死後数百年経って成立した、北経由で拡大したの仏教(いわゆる大乗仏教)が伝えられました。
一方、スリランカ・タイ・ミャンマーなどの出家教団によって継承されている、南経由で拡大した仏教をテーラワーダ仏教と呼びます(日本では密教と呼ばれる)
つまり、わかりやすく言うと、ブッダの口から直接説かれた形で、現代まで継承されているのが「テーラワーダ仏教」というものです。
時代の流れとともに、さまざまな流派にわかれているけれども根源根本はひとつ!
それが、「テーラワーダ仏教」です
アルボムッレ•スマナサーラ長老の本は為になりますので、一読の価値あり!サンガ出版からもでています。
または・・・
皆さんにも、「イラっ」とした感覚が生じる瞬間があるはずです。これは、「憎しみ」と誤解して、表現する書物がたくさんある。
しかし、誤りです。ブッタによると、「憎くて憎くて、あんたが憎い!だから、私の最大の敵なんだ〜」として、「イラっという感覚」と「目の前の敵」をリンクさせたがる。
これも、誤りです。ブッタは「私は、おまえの敵ではない!おまえの敵は自分自身なのだ!」と言います。自分自身ほど手強いライバルはいないとも言います。つまり、人間の特質がそうさせる自我がライバルです!
アインシュタインの相対性理論によるとある時点で光が、トポロジー的に反転して、今、自分の見ている対象が、自分自身の姿として写って脳内が認識してしまう!という現象も計算で判明しており、鏡のようになってしまうこともあり得ます。
「イラっという感覚」と「他者を敵という概念」は、リンクせず、関連もない!ただ単に、自分自身の勘違いと言うこと。これが理解できれば、憎しみの連鎖は断ち切れます。他人に教えても減らないプラスサムのブッタの知恵です。
また、ネイティブアメリカンでも、「イラっ」とする感情は、慈愛、慈しみと言うらしいです。
そして、親、兄弟姉妹は、ウザいという感情表現は、最高の慈愛、慈しみを感じてるから!らしいです。最悪、感情を自分自身で消化できないなら、物理的な距離感を大事にすればいい。ということになります。
これと似た現象に、政府の陰謀?影の政府?誰かの陰謀と具体的でない言葉で発言して自分以外の責任になすりつける人物や団体には、盲点があります。
つまり、邪悪な影の政府は具体的に発信している本人自身ということ。
なぜ?言葉の定義もなく指摘も抽象的ならその人や団体自体が最も具体的だから!
自分自身が、真の影の政府になるというパラドックス
日本では、西遊記の物語にでてくる天竺(てんじく)に行く三蔵法師が有名だが、アビダンマは、根本経典である三蔵(経・律・論)の一部。
阿毘達磨とも。サンスクリット語から、漢字に翻訳するとこう書かれる。武道の達人でもあった達磨大師。ダルマ様とも呼ばれる。
数十年単位では、悪性でも数百年単位では善性という事象は多数ある!
なぜ?一神教に比べて、多神教や漢字などに概念が多いのは、お釈迦さまが膨大に構築し、先人達の蓄積したアビダンマが根本だから!
宗教の創始者たちの概念上の教え。
原本は、ものすごくパワー(「パワーかフォースか?」の本でのパワー)の高い状態であることが確認されている。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイトの方)という前提です。
しかし、宗教概念が、二元的であればあるほど(例えば、「神と悪魔」や「法律で暴力装置をがんじがらめにしたテロリスト集団が警察機構なのに絶対に善のような先入観を強調する構造」など)
つまり、ゼロサムになると誤訳される危険性も大きくなるように思います。
ロジェカイヨワの戦争論にある「いけにえ」も似ている。
あれこれと姿は変わっても、それらは常に存在し続けてきました。
上があれば下があるように、光と闇があります。人間の心理への探求、そして、高い精神的レベルに達しようとするコミットメントは、宗教として社会的に組織化さ���ます。
逆に、そうなることによって、最も低いエネルギーフィールドに落ちていくのです。
よく組織に入ると優秀な人が無能化するのもこの構造原理にあるためです。
なぜなら、組織化されると言う偽りが最初から伴っているからです!!
だから、マスメディアを通すと意味が反転して届き易くなる傾向があります。
世界中のさまざまな宗教の創始者たちの概念上の教えが言うように、慈愛と言うエネルギーフィールドは、一神教でいう神の恩恵への入り口です。
多神教の仏教では慈悲とも言う「悟りへの入り口」とも呼びます。「ラーマ」「道(タオ)」バージョンもあります。
これらのキャパシティを増やすことで、私たちは、誰であり、なぜ?ここにいるのかと言う最終的な気づきに導かれ。
さらに、このアトラクタフィールドの光の中では溶かされ、すべての存在の究極の源へと導かれます。
これが、この世界で自らのパワーを高める唯一の方法なのです。
そして
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教って、すべて一神教。数学の群論、トポロジーの圏論で多神教の仏教の視点で俯瞰すると、ある意味、多神教の一形態とも言えるんだよな。
インドでも似たようなのあるからね。ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神など。
なお、日本では、あまり知られていないヴィシュヌ神は、日々、時空を超越して、同時に姿を変えて人々を救っていたという場の量子論的な特徴があります。
その時のそれぞれの姿は化身を意味する「アヴァターラ」と定義されており、オンラインゲームなどで呼ばれる自分の分身となるキャラクター「アバター」の由来ともされています。
日本では、観自在菩薩に似ていますが、シヴァ神よりも強くて最強。宇宙を維持する役割もあるので、最新物理学では、イメージ的に不確定性原理に近く、スーパーストリング理論や陰陽五行理論も含まれています。
日本人は皆、神社にいくでしょ!
あれ神道で神社庁も公的にありますよ。
お寺にいくでしょ!あれ仏教ですよ。
お盆やお祭りや年中行事に参加するでしょ!あれ仏教ですよ。
これらに関わらない人も・・・
数%の大企業を中心にしたマスメディアやテレビなどもナショナリズムと言うカルトの定義になるんだけどね。
カルトの定義「中立的なバランスの欠けた極端な思想を対象にする少人数の狂信的な崇拝を持つ教団」に当てはまる?
カルトを論じる前にカルトの定義をしないと風評被害になります!
ご注意下さい。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
テーラワーダ仏教では「色」も定義されていて、「色」とは「五蘊(ごうん)」の一部であり「存在する物や事を視覚で認識」すること。
「色即是空」の「色」です。
「五蘊(ごうん)」は「五根(ごこん)」という身体の感覚器官から執着が生じていると論じています。
偶然の一致か否か?不思議なことに・・・
「量子力学」という分野を開拓し、発展させた三人の物理学者「ニールス・ボーア」「ヴェルナー・ハイゼンベルグ」「エルヴィン・シュレーディンガー」たちは
とても奇妙なことに気がつきました。
素粒子の物理学を究極まで追求していくと、驚いたことに、はるか昔の東洋の賢者たちが説いた哲学に
どんどん接近してしまうのです。
これは何を意味するのでしょうか?
次に
老子の道教の徳(テー)とアリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が似ていることから・・・
どちらの起源が先か?調べるととても面白い仮説が出てきた。
中国の道教は紀元前750年位。古代ギリシャ末期のアリストテレスは紀元前350年位。
共に多神教。この時代の情報の伝達速度を考えるとシルクロードで相互的に交流して伝わった可能性も高い。
プラスサムな概念だから。道(タオ)が先で、アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が変化して
老子の道教の徳(テー)となり、神仏習合みたいな道徳になった?アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)は具体的だが、道徳経ではあいまい。
当時は、西洋と東洋の最先端を統合?古代中国では、老子は仙人とも言われていたし、始皇帝もこの頃の激動の時代。
どうなのか?
バラモン教に対して創始した仏教もブッダにより誕生し、アリストテレスの時代に近い年代であることは偶然の一致だろうか?
ニコマコス倫理学に似ている仏教最高レベルの奥義が「中道」ということ。チベット経由で中国にも伝わります。そして、日本にも。
その後、古代ギリシャは300年後、多神教の古代エジプト文明を滅ぼしてローマ帝国になっています。キリスト教も誕生。
その後、国教へ。一神教が広まり紀元後が始まります。
現在のEUは、NATOがウクライナ侵攻でクローズアップされたこと。さらに、13の暦がひと回りして2000年前位の状況も含めて考えると
トルコまで領土にしたローマ帝国の民主主義版をフランス、ドイツは構築しようとしてる?
イギリスがブレグジット(Brexit)で離脱したのは、かつてのローマ帝国の過ちを回避した可能性も?
もし、以前、機運が高まった時にロシアがEUに加盟していれば、古代ローマ帝国2.0(民主主義版)が建国していたかもしれない。
大西洋を超えてアメリカ大陸からロシアを含めて、北半球に巨大なモンゴル帝国を超えた人類史上最大の領域が誕生するので・・・
今からでもロシアは遅くないので加盟したほうがいいような気がします。
真実はわからないが、そんな仮説がインスピレーションとして出てきた。
仏教最高レベルの奥義が「中道」と言葉で言うのは簡単だけど、体得して実践するのは至難の業。
ピータードラッカーも言っている。
それを可能にする方法を段階を踏んで導いた最初の人が釈迦です。
初心者向けとして、アビダンマや八正道がそれに当たります。具体的な方法を体系化しています。
極端な見解にとらわれない(顚倒夢想:てんとうむそう)よう人が心の苦しみから逃れるには、八つの道を守れば良い。
正しい見かた、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい判断。そして、正しい考えかたである。
ところで「正しい」とは、何をもってそう言うのだろうか?
ここでは、アリストテレス(サンデルの正義)の定義ではありません。
この場合の定義は、ブッダの説いている「中道」が「正しい」という意味です。両極端にとらわれない正しい立場(中道)が悟りへと導く唯一の道なのです。
悟りから始まり、この世は、様々な概念が重なり合うため、概念の機微や均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!
最初は大変だが、ドラゴンボールに登場するスーパーサイヤ人みたいに、これを大変なレベルじゃなくなるくらいに習慣化することがコツです。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
続きは、後ほど。倫理は強制ではなく一定のプロトコルに基づく自由権なので
アリストテレスのニコマコス倫理学には、快楽的生活、社会的生活、真理を追求する生活がある。
思考の知的な徳は、形式知の根本?
もう一つ、性格の徳は、暗黙知の根本?
アリストテレスのいう定義である悪徳の反対は、有徳。有徳に転換する努力が必要。
悪徳に似た概念として、仏教でも、具体的に邪道四つと定義されている。
テーラワーダ仏教に似ている。顚倒夢想(てんとうむそう)になるため悪行為を段階的に最小限する努力が善行為。
こうすることで「パワーか?フォースか?」の書籍でいうパワーが人類全体で平等に底上げされる。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイドの方)という前提です
そして、ブッダの説いている「中道」は、「パワーか?フォースか?」の書籍でいう「意識のマップ」内の「中立」レベルに当たるかもしれない。
アビダンマとは異なる領域なので、うつ病、ADHD、自律神経失調症、発達障害などは、精神科医や心療内科へどうぞ。
もう少し、テーラワーダ仏教で教え伝えられている経験則を初心者向けから二、三歩、歩みを進めると「預流道心」と言われる悟りの最初の心が生まれる瞬間があります。
自力で到達するのは危険なので、お寺のお坊さんに詳しくは聞いてください。
自分の解釈では、ここに到達する感覚としては、量子力学の本質である「場の量子論」を本当に理解した瞬間が一番近い感覚です。しかし、検証できないので本当に到達したかわかりません。
テーラワーダ仏教のアビダンマでは、「預流道心」に到達すると自然と悟りの道に自動的に回帰できるようになるそうです。次に、七回生まれ変わるまでに完全に悟りの流れに乗れる。
前世で「預流道心」に到達してると子供の頃から、桁の違う天才になりやすい傾向が発現してくるそうです。
そして、六道輪廻するのは、人間界か天界のみだそうです(一神教では、天国に近い領域に似ている)他にいくつか特徴があります。
「預流道心」に到達すると「第一禅定(ぜん��ょう)」状態に自動的になります。
一神教では「天国」に相当することですが、テーラワーダ仏教には、この先がありますが、ここまでにします。
厳密には違うけど、わかりやすく言うと精神領域がスーパーサイヤ人に到達するようなイメージ。しかし、すぐ心の状態は普通になります。
漫画のイメージのように身体は強くなりません。
言葉の定義として「禅(Zen)」は、ブッダが伝授された「第一禅定(ぜんじょう)」が起源。
言葉の定義として、ここでの「定」は、サマーディとも「梵天」の「梵」とも呼ばれます。
日本語ではわかりずらいけどサンスクリット語などにすると全て関連してることがわかります。
サマーディ瞑想とも深く関連していて、瞑想しすぎると「あの世」の人になってしまうので、ほどほどの八正道で「この世」の状態を維持しないと危険です。
戻ってこれなくなります。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
歴史に耐え抜いた哲学の基盤がない権力者が最も危険な存在です。
2018年では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、約1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の「T型オベリスク」など発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生しています。
(個人的なアイデア)
2019年に日本では、元号も「令和」に変わっていくため、ここで記しておくことは、今後の人類の発展に貢献できるかもしれないためでもあります。
マインドフルネスという瞑想法が流行していますが、個人的には危険性が高いと思っています。まだ科学的とはいえ「魔境」の克服が解明されていません。
仏教は、長い年月で練られた瞑想法が確立されているので、克服法も適切な指導者にて行わないと日常生活に支障が生じる恐れがあります。
瞑想法は気軽にするものではなく、自己責任でどうぞ。警告として、記入しておきます。
続いて
2020年後半くらいから様々な占いで出てきてた時代の変わり目。それが、西洋占星術で具体的に「風」の時代という形で出てきました。
私が、感じとってたインスピレーションは、たぶんこれかな?
兆しは、世界的な金融ビックバンの1970年代、IT革命のミレニアムの前から出ていたけど。
これは、これまでの約200年間。物質やリアリティの影響力優位「土」の属性の時代から、量子コンピューター、ビットやインターネットなどといった物質ではないものに影響力が増していく「風」の属性の時代に。
そして、本格的に軌道にのっていく属性は、今後200年程続くことになるのです(2020年12月22日から、2100年当たりをピークに少しずつ衰退していく2220年まで)
<おすすめサイト>
エピソード9 Episode9 - 各宗教と政治のチェックと指標について「パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon」
日本テーラワーダ仏教協会
仏教と物理学
マイケル・サンデル:失われた民主的議論の技術
現時点2015年での時間の概念の解釈について
ボブ•サーマン:私たちは、だれでも仏陀になれるという話
マチウ・リカール:慈しみと愛他性(アルトルーイズム)に導かれる生き方
マチウ・リカール:幸せの習慣
<提供>
東京都北区神谷の高橋クリーニングプレゼント
独自サービス展開中!服の高橋クリーニング店は職人による手仕上げ。お手頃50ですよ。往復送料、曲Song購入可。詳細は、今すぐ電話。東京都内限定。北部、東部、渋谷区周囲。地元周辺区もOKです
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kennak · 1 year ago
Quote
一  問題の所在   一  教会から銀の燭台を盗んで警察につかまったジャン・バルジャンをかばって、司教はそれはかれに与えたものだという嘘の供述をした。これがきっかけで、バルジャンは改心することになる、というのが、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」の冒頭シーンであった。   ところで、窃盗罪において被害者の承諾は、もちろん、窃盗行為の前に存在しなければならないし、そもそも、教会の財産である燭台を処分する権限が、無条件で司教に与えられているかどうかも、疑問の余地がある(1)。したがって、事後に司教が贈与の意思を表明したとしても、バルジャンの窃盗罪は否定されず、ゆえに、司教は窃盗犯人をかばって嘘の供述をしたということになろう。仮にこの司教の行為が、盗みはなかったと嘘をつくことで犯罪者を警察から隠避させ、もしくは虚偽の供述をすることで「証拠の偽造」を行ったという理由で、刑法一〇三条の犯人隠避罪や一〇四条の証拠隠滅罪という「司法作用に対する罪」に当たるとしたら(2)、「レ・ミゼラブル」のストーリーは相当に違ったものになっていたかもしれない。つまり、市民は処罰の危険を犯してまであわれな犯罪者をかばうことはなく、バルジャンは人の善意を信じて更生することもなく再び刑務所に収容され、場合によってはまた脱獄を繰り返していたかもしれない。   二  ところで、わが国の実務では、証拠隠滅罪(3)に関して、近年、つぎのような主張がなされることがあるようである。すなわち、他人の刑事事件の参考人が被疑者をかばうために捜査機関に対して虚偽の供述をすることは証拠隠滅罪にあたり、とりわけ、参考人の取調官がその供述内容を録取した調書を作成した場合には、その内容が虚偽であることを知らない取調官を利用した「証拠偽造罪の間接正犯」に当たるというのである(4)。   実際、この見解に基づいて、他人の刑事事件について取り調べの捜査官に虚偽の供述をした者が証拠偽造罪で起訴されるという事件があった。その事案はつぎのようなものである。すなわち、被告人は、覚せい剤取締法違反容疑で勾留中に、同房のTから、Tの被疑事件について彼を不起訴にするために、被告人がTに風邪薬だと言って覚せい剤入りのカプセルを渡し、それをTが覚せい剤と知らずに飲んだことにしてくれと頼まれ、その旨を取調べに当たった捜査官に供述した。捜査官はその内容を録取し、被告人に誤りのないことを確認させ署名指印をさせて、供述調書を作成した。もっとも、嘘はすぐばれたようである。この行為が証拠偽造罪(5)の間接正犯に当たるとして起訴されたのである。   もっとも、昨(一九九五)年、千葉地裁は、これについて、虚偽供述それ自体は証拠偽造罪に当たらないとする従来の判例を根拠にして、供述調書が作成されるに至った場合であっても、やはり、それが証憑偽造罪を構成することはあり得ないと述べて、本罪の成立を否定した(6)。しかし、この判決をめぐっては、証拠偽造罪の成立を認めるべきだとする実務家らの批判が表明されている(7)。   三  そこで本稿では、このような参考人の虚偽供述が証拠隠滅罪に当たるか、とくに、それが供述調書に録取された場合に証拠偽造罪が成立するか否かを、本罪の沿革や訴訟の構造などの視覚から検討してみようと思う。その際、とくに論点となるのは、第一に、刑法一〇四条にいう「証拠」の意味であり、第二に、同条にいう「偽造」の意味である。 (1)  わが国には、寺の建設資金を得るため、檀家総代の同意も主務官庁の許可も得ずに仏像を処分した住職に、横領罪の成立が認められたケースがある。大判大正一五・四・二〇刑集五ー一三六。 (2)  もちろん、窃盗犯人の魂を救済するという司教の「正当業務行為」に当たるか否かは別にしてである。わが国には、警察に追われていた少年をかくまって更生させようとした牧師の行為を、正当な牧会活動であって犯人蔵匿罪の違法性は阻却されるとした判例がある。神戸簡裁昭和五〇・二・二〇刑月七ー二ー一〇四。もっとも、このような「特権」に頼ることができるのは、宗教の職にある者だけであるから、司教や牧師などでない被害者がバルジャンをかばったときには、正当化は認められないことになろう。 (3)  以下では、隠滅や偽造、変造を含んだ刑法一〇四条の罪を総称する場合には「証拠隠滅罪」の語を用い、特に偽造だけを意味するときは「証拠偽造罪」の語を用いる。 (4)  小島吉春「証人・参考人の虚偽供述の刑法的評価について」研修五一八号(一九九一)二五頁、加藤康榮「「参考人の虚偽供述と証憑湮滅罪の成否」研修五二六号(一九九二)八七頁。なお、十河太郎「犯人蔵匿罪と証憑湮滅罪の限界に関する一考察」同志社法学二三九号(一九九五)一一四頁以下も同旨。 (5)  厳密には、九五年改正前の事件なので、証憑偽造罪というべきであるが。なお、以下では証拠と証憑を同じ意味で用いる。 (6)  千葉地判平成七・六・二判時一五三五ー一四四。判決はつぎのように述べている。すなわち、「参考人が捜査官に対して虚偽の供述をすることは、それが犯人隠避罪に当たり得ることは別として、証憑偽造罪には当たらないものと解するのが相当である・・・。それでは、参考人が捜査官に対して虚偽の供述をしたにとどまらず、その虚偽供述が録取されて供述調書が作成されるに至った場合、すなわち、本件のような場合には、どうであろうか。この場合、形式的には、捜査官を利用して供述調書という証憑を偽造させたものと解することができるようにも思われる。しかし、この供述調書は、参考人の捜査官に対する供述を録取したにすぎないものであるから・・・、参考人が捜査官に対して虚偽の供述をすることそれ自体が、証憑偽造罪に当たらないと同様に、供述調書が作成されるに至った場合であっても、やはり、それが証憑偽造罪を構成することはあり得ないものと解すべきである。」と。本判決は、別件の覚せい剤取締法違反のみを理由に、被告人に懲役一年六月執行猶予三年を言い渡した。なお、本件は確定している。 (7)  尾崎道明「参考人が被疑者に有利な虚偽の供述をし、これを録取した供述調書に署名・押印した場合における証拠���滅罪又は犯人隠避罪の成否」研修五六九号(一九九五)一五頁、河村  博「参考人が取調官に対し、積極的に虚偽内容の供述をし、これを録取した供述録取書を作成させた場合と証拠偽造罪の成否(消極)」警察学論集四八巻一二号(一九九五)一七〇頁。学者のものとしては、奥村正雄「参考人の虚偽供述を録取した供述調書への署名・押印と証拠隠滅罪の成否」法学教室一八六号別冊判例セレクト'95(一九九六)四〇頁。もっとも、尾崎論文は捜査機関に対する供述も本罪の「証拠」に含まれると解するのに対し、河村論文は供述録取書を供述そのものとは独立した保護の客体たる証拠と解している。これに対し、本判決を支持する消極説としては、大山  弘=松宮孝明「参考人が捜査官に対して虚偽の供述をしその内容を供述調書に録取させた行為は証拠偽造罪に当たるか(消極)」法学セミナー四九〇号(一九九五)八一頁、前田雅英「参考人の虚偽供述と証拠偽造罪」研修五七四号(一九九六)八頁。もっとも、消極説の中でも、その理由づけは分かれる。前者は、およそ書証の「偽造」は文書偽造罪の場合と同じく「有形偽造」に限るべきだとして、虚偽内容の上申書の作成も、名義冒用がない限り、「偽造」に当たらないと主張するのに対し、後者は、上申書の場合には「証拠を偽造した」といいやすいとして、両者を分けようとする。なお、伊藤司「参考人の虚偽供述と証拠偽造罪の成否」平成七年度重要判例解説(一九九六)一四一頁も消極説である。 二  「証拠」概念   一  前述のように、検察実務家の中には、すでに四、五年前から、この問題について本判決とは逆に積極説を主張するものが見受けられた。そこでは、従来、証拠隠滅罪等にいう「証拠」は証拠物および証人などの「証拠方法」に限られるとされてきたが、そこには証人や参考人の供述といった「証拠資料」も含まれるべきであり、その結果、参考人が捜査機関に対して虚偽の事実を供述した場合には証拠隠滅罪が成立し、とくに虚偽供述が調書に録取された場合には、証拠偽造罪の間接正犯になるものと解すべきだと主張されたのである(1)。また、学説にも、以前から、証人に偽証させることも証拠隠滅行為の一種であり、ただ、偽証罪が成立する場合は法条競合の特別関係によって本罪が成立しなくなるにすぎないとするものがあった(2)。このように考えると、本件のような事案では、証拠隠滅罪の成立可能性を考える余地が出てくることになる。   そこで問題は、捜査機関に対する供述(公判外での供述)は刑法一〇四条にいう「証拠」に当たるか否かと、証拠隠滅罪と偽証罪とは一般法・特別法の関係にあるか否かにあることになる。とくに重要なのは、一〇四条の「証拠」の意味である。   二  この問題を考察するために、証拠隠滅罪の沿革を尋ねてみよう。現行刑法一〇四条は、旧刑法一五二条を引き継ぎ、対象となる行為を拡大したものであった。旧刑法一五二条は、「罪証となるべき物件を隠蔽したる者」に対して十一日以上六月以下の軽禁錮と二円以上二〇円以下の罰金を規定していた。ところが、旧刑法の明治一〇年草案では、隠蔽の対象はさらに限られ、刑事事件の証拠となる死体のみとされていたのである。周知のように、旧刑法は、フランス人ボアソナードの下、フランス刑法の影響を強く受けて成立したものであるが、本国のフランスでは、さらに、重罪の不告発罪はあるが、およそ証拠隠滅関係の規定はなかった。また、ドイツ刑法でも、二五七条以下の犯人庇護罪が反射的に刑事司法作用を保護するものであったが、司法作用を正面から保護法益とする規定は存在しなかった(3)。   このように、証拠隠滅罪はヨーロッパ刑法に淵源を持たない、わが国独特の規定として成立したのであるが、その客体は、広げられたとはいえ、旧刑法では「罪証となるべき物件」に限られていた。そしてまた、これを受け継いだ現行刑法一〇四条も、その提案理由によれば、旧法が「単に罪証隠蔽の場合のみを規定し、その適用甚だ狭きに失するをもって、本案はこれを修正し、総て他人の刑事被告事件に関する有罪もしくは無罪の証憑を湮滅し又は偽造、変造しもしくは偽造、変造の証拠を使用したる場合に関して広くその規定を設けた(4)」ものにすぎない。つまり、旧刑法から現行刑法への改正の過程で広がったのは、客体ではなくて行為態様のみだったのであり、「証憑」とは証拠物件つまり有体性のある証拠に限られていたのである。   さらに、「証憑」という概念は、治罪法・明治刑訴法における「証拠徴憑」と同じく(5)、証拠と徴憑を総称するものであるが、そのドイツ語訳は”Beweismittel つまり「証拠方法」だったようである(6)。要するに、旧刑法でも現行刑法でも、証拠偽造罪の客体は「有体物たる証拠」、つまり「証拠方法」だったのである。加えて、現行法制定後の立案関係者による注釈では、「証憑」には証人は含まれないものとされていた(7)。   三  もっとも、立法者意思は、���ずしもそのまま実務に支持されるとは限らない。しかし、この問題では、大審院以来の判例は、「証拠」には供述は含まれないとする立法者の判断を支持してきている(8)。それでは、判例が供述を除外してきた理由は何であろうか。大審院や最高裁のリーディングケースは、いずれも、刑事被告人が自己の刑事責任を免れるため(9)、あるいは被告人の親族が被告人に刑事責任を免れさせるために(10)、証人に対して偽証を教唆したというものである。そこでは、自己や親族の刑事事件の証拠を隠滅しても処罰されないため(11)、供述もまた証拠に含まれるとすると、偽証を教唆した被告人らを不処罰とするかその刑を免除しなければならないのではないかという厄介な問題に遭遇したのである。供述を「証拠」から除外するのは、その意味で、偽証教唆で有罪とされた被告人側からの上告を斥ける意味を持っていた。   しかし、供述が「証拠」に含まれないとする解釈は、一貫すれば、被告人に有利に働くこともあった。たとえば、宣誓義務のない被告人である娘に虚偽供述を教唆した父親や(12)、他人を庇うために参考人に虚偽を供述するよう求めた者や(13)、捜査官に対して虚偽の供述をした参考人は(14)、供述が「証拠」に含まれないことを理由に無罪とされたのである。 (1)  小島・前掲研修五一八号三〇頁以下。 (2)  大塚  仁『刑法概説(各論)(改訂増補版)』(一九九一)五七九頁。大谷  実『刑法講義各論(第四版補訂版)』(一九九五)五五三頁以下は、罪質を異にするから観念的競合だとしている。 (3)  偽証罪は、文書偽造罪と同じ偽造罪の一種とされていた。この点では、わが国の現行法の規定順序もおなじである。なお、偽証罪と文書偽造罪や詐欺罪との関係については、成瀬幸典「文書偽造罪の史的考察(一)」法学六〇巻一号(一九九六)一二三頁以下参照。 (4)  倉富勇三郎ほか編・松尾浩也増補解題『増補刑法沿革綜覧』(一九九〇)二一七〇頁以下。 (5)  団藤重光『刑法綱要各論(第三版)』(一九九〇)八六頁。 (6)  Vgl. Beling, Begu¨nstigung und Hehlerei, VDB 7. Bd, 1907, S. 196.  そこでは、一八九九(明治三二)年と一九〇三(明治三六)年草案のドイツ語訳が掲げられている。残念ながら、この二つの草案を直接参照することはできなかったが、田中正身『改正刑法釋義』(一九〇八)二〇九頁以下によれば、証拠隠滅罪の規定には、第二案から一九九五年改正前の現行法に至るまで、文言上の変化がないので、この訳語は現行法にも対応するものと思われる。 (7)  田中・前掲書二二七頁は、「その湮滅または偽造変造は実質上物件に限り、証人を隠避せしむる場合のごときは之を包含せざることは論をまたず・・・」と述べている。にもかかわらず大判明治四四・三・二一刑録一七ー四四五は証人を、最決昭和三六・八・一七刑集一五ー七ー一二九三は参考人を「証憑」に含めている。 (8)  大判大正三・六・二三刑録二〇ー一三二四、大判昭和八・二・一四刑集一二ー六六、大判昭和九・八・四刑集一三ー一〇五九、最決昭和二八・一〇・一九刑集七ー一〇ー一九四五、大阪地判昭和四三・三・一八判タ二二三ー二四四、宮崎地日南支判昭和四四・五・二二刑月一ー五ー五三五。 (9)  前掲・大判大正三・六・二三、最決昭和二八・一〇・一九。 (10)  前掲・大判昭和八・二・一四。 (11)  一九四七(昭和二二)年までは、親族による証拠隠滅は、今日のような任意的な刑の免除事由ではなく、処罰阻却自由であった。 (12)  前掲・大判昭和九・八・四。 (13)  前掲・大阪地判昭和四三・三・一八。 (14)  前掲・宮崎地日南支判昭和四四・五・二二。 三  「偽造」概念   一  もっとも、供述自体は「証拠」に含まれないとしても、それ以外の刑事事件の処理に関する一切の資料は含まれるので(1)、捜査官の作成した供述調書も本罪の対象になることは否定できない。したがって、供述調書自体を隠滅したり偽造したりすれば、一〇四条に該当することは明らかである。しかし、なされた通りに録取された供述に虚偽が含まれていた場合にも、証拠を「偽造」したといえるのだろうか。   これについては、民事裁判の被告が、他人の刑事裁判の証拠に利用するため、虚偽の債務の請求を認諾しこれを口頭弁論調書に記載させた場合に、証拠の偽造を認めた一九三七年の大審院判決がある(2)。もっとも、これはあくまで、裁判官の面前での供述に関するものであり、その限りで、捜査機関に対する虚偽供述についての先例ではないことに注意しなければならない。   しかし、戦後にはこれと逆に、示談の成立を装うために被告人が送付した現金書留の受領証は送付の事実を証明する証拠にすぎず、証拠の「偽造」には当たらないとした下級審判決がある(3)。受領書が証明するのは、送金の事実そのものであって、その点に偽りがなければ、受領書の作成は証拠の偽造ではないというのである。この見解によれば、供述調書もまた供述者の供述の存在とその内容を証明する「証拠」であって、供述内容に嘘があっても、供述者が現にそのように供述している限り、調書の内容に「虚偽」はないと見るべきことになる。その場合、供述者の署名・押印は、録取が正確になされたことの確認を意味するにすぎない。   このように見ると、供述内容を他人が録取する場合に「偽造」を認める先の大審院判決(4)は疑問となる。供述調書が捜査官による供述の録取であることを重視する千葉地裁判決も、このような見解に依拠しているのかもしれない。なお、この場合、取調官が、調書に供述者の供述したとおりの内容を書かないときは、虚偽公文書作成罪の余地があることになろう。より罪責の重い虚偽公文書作成罪が成立するのだから、証拠偽造罪の成否は重要でないことになる(5)。   二  もっとも、この見解でも、参考人が内容虚偽の上申書を自分で作るときは、証拠の「偽造」に当たる余地がある(6)。事実、供述調書について証拠偽造罪の成立を否定する見解の中にも、上申書や供述書については、本罪の成立を認める見解がある(7)。しかしさらに、裁判例には、刑法一〇四条にいう「偽造」を、刑法一五五条や一五九条の文書偽造罪の場合と同じく、「有形偽造」と解したのではないかと思われるものがある。文書がその日付当時その名義人によって作成されたものであれば、たとえその内容に虚偽の記載があったとしても証拠の偽造に当たらないとした一九一六年の東京地裁の判決である(8)。   講学上は、一般に、「偽造」には広義と狭義があり、広義の偽造は「虚偽作成」の意味での「無形偽造」を含むのに対し、狭義の偽造は「名義の冒用」の意味での「有形偽造」であり、しかも「有形偽造」はさらに、「変造」とこれを除く「最狭義の偽造」に分かれると説明されている。しかし、現行法の条文本文を注意深く見ると、文書偽造の罪では、立法者は「偽造」を常に「最狭義の偽造」の意味で用いており、「無形偽造」は常に「虚偽作成」と表現されていることは明らかである。また、一五五条や一五九条の客体には図画も含まれており、さらに通貨偽造に関してもこれを「有形偽造」と解する見解もあることから、現行法上の「偽造」概念を、すべて「名義の冒用」つまり「有形偽造」解することは、十分に根拠のあることだと思われる。   三  もっとも、このような見解に対しては、大審院に、書類作成権者による記載事項の変更に刑法一〇四条を適用した大審院判決(9)のあることが、批判として持ち出されるかもしれない。実際、下級審判例には、虚偽内容の上申書の作成を証拠「偽造」とみなす際にこの判決を根拠にしたものがある(10)。また、学説は一般に、この判決を根拠にして、一〇四条においては「文書偽造罪のばあいの『偽造』・『変造』とはちがって文書についての作成権限の有無は無関係であり、また、文書としての内容の真否も問うところではない(11)。」とする解釈を展開してきたのである。しかし、この判例は実は、証拠「変造」罪に関するものである。そして、「変造」は作成権限の有無や内容の真否にかかわらず成立するとする解釈を採れば、右の判例は証拠「偽造」に関する先例にはならないことになる。   たしかに、わが��の通説は、文書変造罪の場合、変造行為を「名義の冒用」と解しこれを「有形変造」と称しているので、それを前提にすれば、文書変造と証拠変造とでは「変造」概念は異なることになろう。しかし考えてみると、名義の冒用があれば、それはすでに「偽造」であって「変造」ではない。むしろ、固有の「変造」とは、名義人による場合も含めて、真正に成立した文書の内容を関係者に無断で変更することである。たとえば、債務者が、債権者に差し入れた借用証書を一時的に借り出して、その金額を勝手に書き換える場合がこれに当たる(12)。したがって、名義人による証拠変造罪が認められたとしても、名義人による証拠偽造罪を認める論拠にはならない(13)。むしろ、証拠偽造もまた「有形偽造」であると見て、文言解釈の統一を図った方がよい(14)。   四  それでは、虚偽内容の供述書や上申書はまったく問題にならないのであろうか。それは、やはり捜査を妨害するという点で、単なる虚偽供述より始末が悪いのではなかろうか。   しかし、その際我々は、口頭による嘘よりも「書面による嘘」の方が本当に悪質なのかどうかを、再度考えてみる必要があろう。これは、現行法上、虚偽文書の作成がなぜ、公文書や公務所に提出する医師の診断書等に限られているのかを考えれば、答えが出るように思われる。つまり、現行法は、公務員や公務所提出用の診断書を書く医師のように、自らの知覚した内容をそのまま文書にするよう制度上義務づけられている主体に限って、初めて真実記述義務を科しているのである。したがって、たとえば捜査官が供述通りの内容の調書を作らなければ、それはこの特別の義務に反するものとして、虚偽文書作成罪に当たる。したがって、このような特別の義務を負わない一般の市民が、たとえ書面で嘘をついても、それを処罰する規定は、現行法上存在しないのである。   それでは、このような一般の市民の嘘から刑事司法作用を守るには、どうすればよいのであろうか。その答えは簡単である。証人として公判で宣誓の上供述させればよい。こうすれば、嘘の供述は偽証罪に当たる。言い換えれば、「書面による嘘」が重大だと感じられてしまうのは、刑事事件について公判前に実質的な決着をつけようとする考え方に影響されたものだといえよう。つまり、裁判所よりも捜査機関に決定的な役割を演じさせようとする姿勢である。つまり問題は、論者の刑事訴訟観にまで広がるのである。 (1)  大判昭和一〇・九・二八刑集一四ー九九七。 (2)  大判昭和一二・四・七刑集一六ー五一七。 (3)  仙台高判昭和三五・五・一七下刑集二ー五=六ー六六五。 (4)  前掲・大判昭和一二・四・七。 (5)  田中・前掲書二二九頁は、文書偽造罪と証拠偽造罪とが観念的競合となる余地があるとする。もっとも、同時に、一〇四条の対象は主として文書以外の偽造であるとしている。そうだとすると、証拠偽造罪は文書偽造罪とは補充関係に立つことになろう。 (6)  東京高判昭和四〇・三・二九高刑集一八ー二ー一二六。偽造教唆を認めたものとして千葉地判昭和三四・九・一二判時二〇七ー三四。 (7)  前田・前掲研修五七四号一三頁参照。 (8)  東京地判大正五・九・三〇法律新聞一一八〇ー二九。 (9)  前掲・大判昭和一〇・九・二八。 (10)  前掲・東京高判昭和四〇・三・二九。 (11)  団藤『刑法綱要各論(第三版)』八七頁。中森喜彦『刑法各論(第二版)』(一九九六)三一七頁も「文書偽造罪におけるとは異なり、作成権限の有無は問題にならない」と述べる。 (12)  このような場合に文書「変造」罪を認めるのは、ドイツでは判例・通説である。Vgl. BGHSt 13, 383;Scho¨nke/Schro¨der/Cramer, StGB 24. Aufl., 1991 § 267 Rn. 64 u. 68;K. Lackner, StGB 21. Aufl. 1995, § 267 Rn. 21.  この意味で、「変造」は文書などの「確定性」を害する行為なのである。もっとも、クラマーらは、文書変造も名義の冒用のある場合に限るべきであるとして、通説に反対している。わが国の判例には、他人所有の文書を名義人が勝手に書き換えた場合に文書毀棄罪を認めたものがあるが(大判明治三七・二・二五刑録一〇ー三六四)、他人の権利・義務に関する自己所有の文書の場合には、この方法は使えない。もっとも、監督官庁の書記が正当な手続を踏まないで選挙人名簿を修正した行為に対して、内容が真実に適合すると否とを問わず文書変造罪が成立するとした大判大正四・九・二一刑録二一ー一三九〇は、文書変造罪を文書の確定性を害する罪と見た可能性がある。なお、植松  正『再訂刑法概論II各論』(一九七五)一四九頁、内田文昭『刑法各論〔第三版〕』(一九九六)五四〇頁注(8)、浅田和茂ほか『刑法各論』(一九九五)二八八頁〔松宮〕参照。 (13)  それにもかかわらず、内容虚偽の上申書の作成を証拠偽造と見た前掲・東京高判昭和四〇・三・二九は、大判昭和一〇・九・二八をその根拠としている。 (14)  大山=松宮・前掲法学セミナー四九〇号八二頁。その場合には、証拠偽造罪は、主として、文書以外の証拠の偽造を捕捉することになる。事実、立法当時は、書証の偽造は文書偽造罪に当たるものと考えられていた。田中・前掲書二二七頁参照。そうすると、証拠偽造の典型は、捜査官が犯行現場に凶器を埋めておいて、それを被疑者が埋めたものだと主張した「二俣事件」のような場合ということになろう。もっとも、これもまた、証拠の作成者を偽るという意味では「有形偽造」の一種である。 四  証拠隠滅罪と訴訟構造   一  そこで最後に、積極説の政策的論拠と訴訟構造との関係を検討してみよう。積極説は、その政策的論拠を、証拠隠滅罪が国家の適切な刑事司法作用を保護法益とすることから、「証拠方法であろうと証拠資料であろうとその湮滅により国家の適正な司法作用を害する点では何ら差はない(1)」という点に求めている。しかし、現行刑事訴訟法における「証拠」概念は、いわゆる「証拠資料」を含みつつも、捜査機関に対する供述は含まないようである。というのも、刑訴法三二〇条以下には、「証拠」として、「公判期日における供述」や供述書、供述録取書という言葉は出てくるが、捜査機関に対する供述は出てこないからである。証拠とされているのは、「供述を録取した書面」ないし「他の者の供述を内容とする供述」にすぎない。   それは、おそらく、「証拠」概念が、あくまで裁判官の五感の作用に訴えるものとされているからであろう。いわゆる「直接主義」「口頭主義」は、それを言い換えたもののように思われる。したがって、仮に刑法一〇四条にいう「証拠」を「証拠資料」にまで広げても、それは「裁判官に認識ないし知覚された証拠の内容」にすぎないから、裁判官の面前でなされたものでない供述は「証拠資料」にもなりえない(2)。   二  このように、「証拠資料」という概念は裁判官に認識された証拠の内容を意味するから、証拠資料を一〇四条の客体に含めたところで、捜査機関に対する供述が自動的に「証拠」となるわけではない。つまり、およそ供述一般が「証拠資料」というわけではないのである。したがって、このような主張によって捜査機関に対する供述を一〇四条の客体にするためには、捜査機関に対する供述は、法廷での供述と同じく、「証拠資料」であるといえなければならない。それは、捜査機関に対して、裁判官に引き継がれて判決に結実するような心証形成の権限を認めることになる。   しかし、いかなる職権主義も、捜査機関の心証を裁判官に引き継がせることを正当化しうるものではない。それは「予断の排除」や「無罪の推定」に明らかに矛盾するものである。予審制度下でも、予審判事の心証が公判裁判官を拘束するものではなかった。その意味では、まさに捜査機関に対する供述をも「証拠資料」と解する見解こそが、予断排除や無罪推定を建前とする現行法下の刑事司法の適正な展開を歪めるものとなろう。それにもかかわらず、捜査機関に対する参考人の供述も「証拠」だというのであれば、それは司法権の担い手を、憲法七六条の明文に反して、裁判所ではなく捜査機関にあるとするものである。虚偽内容の供述を正確に録取した調書を「偽造された証拠」だとする解釈も、同じ結論に至る。   三  もっとも、ドイツ刑法にあるような処罰妨害罪(ドイツ刑法二五八条)では、捜査機関に対して犯人に有利な虚偽供述をした場合も含まれる(3)。しかしこれは、司法作用を保護法益とするものではなく、あくまで犯罪者を援助する「犯人庇護罪」の一種なのである。したがって、わが国の証拠隠滅罪と異なり、犯人に不利益となるような行為、たとえばアリバイを証明する証拠方法の隠滅は含まれない。また、庇護される相手方は真犯人でなければならない(4)。この場合には、処罰妨害罪の目的は、犯人を庇護することで犯罪を助長する結果になるのを防止することであり、心証形成の資料を保護することではない。そして、ここにいう心証形成の資料とは、あくまで公判に出てくる証拠なのである。このように見ると、偽証罪と証拠隠滅罪とでは、前者が公判での証人の供述を、後者が証拠方法を対象とするという点で、すでに行為の客体が異なるのだから、両罪を法条競合と見たり観念的競合と見たりすることはできないものといわなければならない。 (1)  小島・前掲研修五一八号二九頁。 (2)  付言すれば、「証拠資料」(Beweisstoff)という概念自体、ドイツの主要な刑訴・民訴の教科書・注釈書には出てこない。この概念自体が、その出自を疑われてもおかしくない状態なのである。 (3)  十河・前掲九三頁以下、Scho¨nke/Schro¨der/Stree, § 258 Rn. 17f. (4)  条文の文言解釈上は無理があるように思われるが、すでに立法直後から、犯人蔵匿・隠避罪の対象には「有罪の嫌疑を受けたる者」を含むとする解説がなされていた。田中・前掲書二二六頁参照。 五  むすびにかえて   一  かつて平野龍一博士は、「偽証教唆も証拠湮滅の一種であり、法条競合として重い偽証罪で処罰されるとする見解もあるが、そうなると参考人を教唆して捜査機関に虚偽の供述をさせることも、証拠湮滅になることになる。さらに進んで参考人が虚偽の供述をすること自体、証拠湮滅ということにもなりかねない。」と述べた(1)。そこには、捜査機関に嘘をついただけで刑事罰の対象となるのは論外だとする価値判断がある。言い換えれば、真実供述義務があるのは、法廷で宣誓をした場合だけだということである。しかも、偽証罪の場合には、裁判確定前等に自白すれば、刑法一七〇条により任意的な刑の減免がある。冒頭に掲げた事件では、被告人の嘘はすぐにばれたようであるが、それにもかかわらず、彼は証拠偽造罪で起訴された。仮に偽証罪を証拠隠滅罪の特別法と見ると、証人は偽証を自白しても、なお、証拠隠滅罪で処罰されることになり、刑の減免の意味がなくなる。   二  同じような問題は、犯人に有利な虚偽供述を犯人隠避罪で処罰する近年の判例にも見られる。判例には、「犯人」の偽のアリバイを警察官に供述した場合(2)や、「身代り」で出頭したが「犯人」が釈放されなかった場合(3)に、犯人「隠避」罪を認めたものがあるが、これでは、真実供述義務を捜査段階にまで広げたに等しい(4)。犯人隠避罪を一般的な捜査妨害罪にしてしまうという学説の批判を想起すべきであろう(5)。ましてや、捜査機関に対する供述を証拠隠滅罪の客体とするわけにはいかないのである。「レ・ミゼラブル」のストーリーを台無しにしてしまう解釈は、やはり、無理だといわなければならない(6)。 (1)  平野龍一「刑法各論の諸問題18」法学セミナー二二八号(一九七四)四〇頁。 (2)  最決昭和四〇・二・二六刑集一九ー一ー五九。もっとも、被告人らには犯行現場を偽装工作した行為も認められるので、証拠偽造罪の成立は可能であったかもしれない。 (3)  最決平成一・五・一刑集四三ー五ー四〇五。 (4)  平野・前掲四〇頁。 (5)  前掲・最決平成一・五・一に対する日高義博「逮捕勾留中の犯人の身代り自首と犯人隠避罪」法学教室一〇八号(一九八九)八八頁、井田  良「逮捕勾留中の犯人の身代りを出頭させる行為と犯人隠避罪の成否」『平成元年度重要判例解説』(一九九〇)一六二頁、振津隆行「逮捕勾留中の犯人の身代わりを出頭させる行為と犯人隠避罪の成否」法学教室一一三号別冊判例セレクト'89(一九九〇)三九頁、真鍋  毅「身代り犯人と犯人隠避罪の成否」平野ほか編『刑法判例百選II各論(第三版)』(一九九二)二二八頁の反応、さらに松宮「すでに本犯の嫌疑で逮捕勾留されている者に対する犯人隠避罪の成否」南山法学一二巻二=三号(一九八八)七五頁を参照されたい。 (6)  憲法は、「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」と規定する(憲法七六条一項)。つまり、司法作用は裁判所に属する権限なのである。ところが、わが刑事訴訟法は、「公訴は、検察官がこれを行う」と定めている(刑事訴訟法二四七条)。したがって、犯人隠避罪や証拠隠���罪のような司法作用に対する罪が犯された場合でも、裁判所に訴えを起こすのは、検察官である。しかし、検察官は他方で、捜査および訴追の機関として、通常の刑事裁判の一方当事者でもある。この、一方当事者が司法作用に対する罪の裁判を開始できるという制度の問題性が端的にあらわれたのが、一九五一年に山口県八海村で発生した「八海事件」であった。この事件では、有罪判決が最高裁によっていったん破棄された後、検察官は捜査をやり直して、被告人のアリバイを供述した五人の証人たちに、それを否定する供述をさせた。そして、嘘に耐えきれずに法定で再度アリバイを認める供述をした証人を、偽証罪で逮捕したのである。そのため、その証人は再び、供述をひるがえすことになった。結局、「八海事件」の裁判は、このような「捜査のやり直し」からさらに九年かかって、一九六八(昭和四三)年一〇月二五日の最高裁無罪判決(刑集二二ー一一ー九六一)によって、ようやく決着がついたのである。   このような事例を見ると、偽証罪についても公訴権は、刑事裁判の一方当事者である検察官に委ねるべきではなく、裁判所あるいはその委任を受けた特別の告発機関に委ねるべきではないかとさえ思われるのである。ましてや、現状のままで、法廷で「偽証」した場合ばかりでなく、警察や検察などの捜査機関に「嘘」をついただけでも、証拠隠滅罪や犯人隠避罪で処罰しようとすれば、刑事訴訟のバランスをますます歪める結果になるのは想像に難くない。逮捕や起訴の際に「嘘」と判断するのは誰なのかを考えてみれば、これはすぐにわかるであろう。
捜査機関に対する参考人の虚偽供述と証拠隠滅罪(松宮)
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namiashi-diary · 1 year ago
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一華を見て春を推せよ
管内の山々が春色に彩られはじめた3月25日、1泊2日の日程で檀信徒身延団参を開催しました🚌🚌
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我々の日常に3年以上もの間、多大なる影響を与え続けたコロナ禍も、昨年5月には国が発令する行動制限が全解除されました。表面的には人の流れは活発となり、各地でコロナ以前の活気を取り戻しているように感じます。
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宗門における行事も縮小・中止を繰り返しておりましたが、制限解除後より少しずつリスタートし元の軌道に戻りつつあります。
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宗務所主催としては8年ぶりの団参となります。コロナ禍により、2度の総代祖山総登詣団参と降誕800年記念団参(千葉誕生寺・清澄寺)が相次いで中止の憂き目にあいましたので、今回の企画には一体どれほどのレスポンスがあるのか・・戦々恐々と見守っておりました💦
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結果的には、檀信徒47名のご参加をいただき、教師7名と合せて総勢54名での祖山登詣となりました。本当に有り難いことでした😌
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此の度の最も大切な目的は輪番奉仕(給仕)🙏で、一番のお目当ては「全国しだれ桜10選」にも選ばれた久遠寺境内のしだれ桜🌸でした。
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境内には、樹齢400年を超えるとされる報恩閣前の「妙法桜」と、仏殿の前の「瓔珞桜」があります。身延町は「東の吉野」とも称され、久遠寺はその代表的な観桜期の名所なのです。
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昨年のちょうど同じ時期、近畿教区の所長で輪番奉仕させていただいた折には、それはそれは見事な咲きっぷり🌸🌸🌸で、参詣者の衆目を集めておりましたが、今年の桜は時期まだ早く6~7分咲きでした。
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それでも、しだれ桜やソメイヨシノの春色に包まれた祖山では、参詣者の心も春爛漫です💞
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日蓮が弟子檀那等は此の山を本として参るべし。此れ則ち霊山の契なり。
波木井殿御書
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祖廟輪番奉仕は日蓮宗寺院檀信徒にとって大事な勤めであり、日蓮聖人のご遺命により身延に建てられた御廟を、直弟子である六老僧がひと月毎に交替で護持したことにはじまります。
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守塔沙門である法主猊下より、住職並びに檀信徒の皆様に日蓮聖人へのご給仕を委嘱(お願い)され、その後御真骨堂拝殿にて日蓮聖人に給仕奉仕の誠を捧げる儀式を執り行います。
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今回の団参は、久しぶりということもあり、あまり詰め込みすぎないよう配慮しましたが、空白のコロナ年の影響は各所で様々な歪みを遺し続けていました。
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引率する教師の半数以上が団参初体験であったり、宿坊は依然として宿泊制限があり分宿を余儀なくされるなど、結果的に至らない点が多々ありましたことを省みております。 この後反省会を開き、来年以降につなげてまいりたいと考えております。
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間もなく所長任期6年目。心して新年度に臨みたいと思います。 また、本年1月21日に御遷化されました第52代・第53代管長、身延山久遠寺第92世法主の内野日総猊下 永上院日総上人の増円妙道を謹んでご祈念いたします。
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最後に、表題にもしておりますが、春を迎えるたびに頭に浮かぶ祖師のお言葉📚
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一華を見て春を推せよ
開目抄
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今月の聖語
『開目抄』/文永9年(1272)聖寿51歳
=一を聞いて十を知る=
いよいよ百花繚乱の季節となりました。ところでその1つ、桜の開花は気象庁が標本木の蕾の状況を観察して予想を立てることでよく知られています。 このように桜に限らずサンプルを元にさまざまな事象を予想することはよくあります。これらから連想する言葉に「一を聞いて十を知る」があります。ですがこの「十」を知るのには優れた英知が必要となってきます。 その英知を開花させるには仏さまの智慧をいただくこと。すなわち信仰が重要になるのではないでしょうか。
日蓮聖人ご遺文『開目抄』
日蓮聖人はこの聖語の直前に「一渧をなめて大海の潮を知り」と示されています。すなわちすべてを調べずとも、一滴なめれば海水は塩辛いものだ。華も同様、桜を見れば春の訪れがわかると述べられます。これを「挙一例諸(一を挙げて諸々の実例とする)」と表現されています。その心は「一」の中に事象のすべてが収まっているのだということです。 この見地は釈尊の一切の智慧は法華経に収まる、との信仰から発出しているのです。
日蓮宗ポータルサイト「今月の聖語」より
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nakiselu · 2 years ago
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山形プチ旅行記2023(ラーメンを食べ、ソフトも食べ、慶次の足跡を辿り、上杉神社を参り、ラーメンを食べ、ラーメンを食べた)
ハロー、僕は元気じゃないまま、まだ生きてます。
塩結び 濃厚旨味噌中華・海老塩中華
2年連続で行けて毎年恒例を目論んだものの感染症流行等の影響であっさり途切れ、4年ぶり3回目となった今回は季節限定の味噌と、逆に季節限定品の「冷たい」を食べてたから未体験だった通常の海老塩の連食。空腹の調整も上手くいったし先に濃厚で後であっさりという順番的にも完璧と言える感じで2品を満喫出来た。常時限定があるけではないけど他の限定も気にしつつ、いつだって常設が間違いないからこそまたを目指せるってのは好店の証なようなもので。
必ずまた来たい。
道の駅米沢フードピットりんごソフト
りんごソフトの方も前回に続いてだが季節限定はラ・フランスになってたからりんごは常設としてあるのかも。
花の慶次を読んでた事は確かだが、ファンとは言い難く、なにやら下品な(よく言えば豪快な?)武将の話だったなっていうくらいのゆかりの曖昧記憶だけど、周辺がゆ��りの地との事で行ってみたいと思ってた3か所に行ってみた。
前田慶次供養塔
堂森善光寺内に比較的近年?に建てられた供養塔。地図が読めない方向音痴の為、スムーズとはいかずも随所にあった黄色い旗のおかげで迷ったってほどでもなく着いて観れてホッと一息。
月見平(御月山)
供養塔の裏から山道を10分登るとの情報に従って少し険しい山道を登った。周りに人はいなく、自分の息切れの音だけが聞こえてきてた。登った先の絶景ポイント?ではそれなりの景色に達成感を感じながら、山道にあるという慶次の墓と言われている石像とやらを見なかったと降りる時に注意してみたが結局探せなかった・・・
で、次のスポットに向かっていると何と別の入り口の看板を発見。別のというかどうもこっちがメインのような感じで、もしかしたら石像ってのはこっちのルートの方にあるのかもと思いながらも看板周辺の何処が山道がわからず、さっきの以上に険しいかもな気がしたので再度登る気にはなれなかった。
慶次清水
晩年を過ごす際の飲料水用に掘られたとの事で、なんと今でも農業用水として使われてるとか・・・
こちらも随所にあった黄色い旗のおかげでどうにか辿り着けて観れた。自己責任で飲む事も出来たようだが適切な容器を持ってなかったし縁まで行って手ですくっおうとして落ちるのが怖かったのでやめといた。
すぐ横には良い感じの球場があったけど草の感じからすると使用頻度は低そうで勿体ないななんて思った。
上杉神社
上杉の歴代の藩主を祀ってるのかと思いきやどうやら謙信だけが対象らしい。
しかし他の藩主の像や紹介なども至る所にあって伊達政宗の生誕の地でもあったりするらしくややこしい。
時間に余裕があったので無料案内の「おしょうしなガイド」というのを利用させてもらってこぼれ話満載でゆったり観た。
東日本大震災の際はなんと鳥居が倒れてしまったらしい。
設計者が明治神宮と同一で設計図を流用したから似てる?
大河ドラマのエピソードで伊達政宗とか出てくるけどそのタイミングで其処にいないでしょ・・・
天地人の時に慌てて?銅像を建てた。
暗殺されたケネディが鷹山を称えたとかで近年娘が現地で公演までしたらしいが称えた事もそれを娘に伝えてたとしてそれを認識できる年ごろだったかも怪しいし、仰々しくモニュメントまで建ててるのは手放しでは喜べない・・・
伊達政宗は本当は「いだて」で「IDATE」の書類も残っている。「抱く」が「いだく」だったのが「だく」になったように「い」が抜かされたのが定着した?
どっちが本当かは確認は出来ないものの通説と違った話を沢山聞けて凄く良かった。
松月 牛肉ラーメン大盛
チャーハンも食べたかったが炒め物休止中とで無念。
牛骨出汁で具材も牛肉って事で高価だったがしゃぶしゃぶ系のあっさり感でどれだけでも食べれる美味しさだった・・・
美喜 ラーメン/チャーハン
この旅最後の食事はスタンダードな米沢ラーメンで煮干しと醤油で仕上げてあるこちらもどれだけでもいけそうなあっさりな美味しさだった。
何だかんだで米沢の食文化堪能出来たような・・・
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