#死刑執行人もまた死す
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映画『死刑執行人もまた死す』
というわけでAmazon Primeでフリッツ・ラング監督の映画『死刑執行人もまた死す』(1943)を見ました。
フリッツ・ラングがドイツからアメリカに亡命して撮った国策映画であり国威高揚映画ですね。それが悪いというつもりはありません。あの名作『カサブランカ』(1942)だってそうですから。
でもこれはひどい……というか、あまりにも中途半端な映画です。
1942年に現実にナチス占領下のチェコで起きたラインハルト・ハイドリッヒ副総督暗殺事件を題材にした映画とのことですが、現実の事件を伝えたいのか、ナチスの暴虐を告発しレジスタンスの勇敢さと犠牲的行為を讃えたいのか、緊迫感のあるサスペンスを作りたいのか、ひねりの効いたサスペンスコメディーを作りたいのかわかりません。
どれか一つに焦点を定めればいいのに、全部を一緒くたにやろうとしたため全く統一性のない映画になっています。
ヒロインはプラハに住むマーシャという若い女性です。彼女は八百屋で買い物をしているときに、一人の男が走ってきて建物の中に隠れるのを目撃します。
男はスボボダという医師で、ラインハルト・ハイドリッヒ副総督を暗殺し逃げてきたのですが、もちろんこの段階ではマーシャはそのことを知りません。ゲシュタポに「男を見なかったか」と聞かれたマーシャはあらぬ方向を指して「あっちに逃げて行きました」と嘘をつきます。
その直後、街には外出禁止令が敷かれます。スボボダはホテルに部屋を取ろうとしますが断られてしまいます。
困ったスボボダはマーシャの家へ行きます。ゲシュタポが去った後、マーシャの行方を目で追っていたから自宅を知っていたという設定ですが……どうして見ず知らずの人物のところへ行くのでしょう。彼女なら匿ってくれるという確信は一体どこから来るのでしょう。
……というか、後からわかることですが、ズボボダはプラハに住み、プラハで働いているわけです。それならプラハに自宅があるんじゃないですか。なぜそこに帰らないんでしょう。
でもズボボダはマーシャの家へ行き、マーシャは彼を一晩匿います。翌朝、ゲシュタポがマーシャの家にやってきてマーシャの父親であるノヴォトニー教授を連行します。
「え? なぜ?」と思いますが、連行されたのは教授だけではありません。ナチスは暗殺の報復として四百人の市民を連行し、1日ごとに四十人処刑するつもりなのです。
マーシャは父親を救うためにスボボダ医師が働いている病院へ行きます。スボボダは前夜ヴァニャックという偽名を使い建築家だと言っていましたが、包帯を巻くのが上手だったこと、���会の鐘が聞こえるところで働いていると言っていたことから見当をつけたのだと言いますが……ありえませんね、そんなこと。
スボボダは困ります。彼が自首すればマーシャの父親も四百人の市民も助かるわけです。
究極の選択ですね。サルトルの『悪魔と神』で二千人の神父の命と二万人の市民の命のどちらを選ぶか選択を迫られるハインリッヒ神父や、『アルトナの幽閉者』で二人の捕虜の命と自軍の兵士たちの命のどちらを選ぶか選択を迫られるフランツの苦悩を思わせます。
スボボダはレジスタンスのリーダーに自首することを申し出ます。しかし、支部長が「これは戦いだ。自首することはまかりならん」と言ったので、この問題はあっさり(!?)解決します。
スボボダは自首しないと言うので、マーシャはスボボダをゲシュタポに告発しようとしますが、街の人々がどれほどナチスを憎んでいるかを知って考えを変えます。
ところ変わってレジスタンスの集会所ーーチャカという男が市民四百人を救うために暗殺者を差し出すことを提案しますが却下されます。実はこのチャカはナチスのスパイで、前にもレジスタンスのメンバーを密告したことがあります。
レジスタンスのメンバーはチャカの正体を暴くため罠を用意します。チャカはドイツ語ができない、だから密告者ではないという前提がある(なぜそういう理屈になるんでしょう。随分おかしな前提です)のですが、チャカの前でドイツ語でジョークを言うとチャカは笑います。ドイツ語ができるんだ、ということは密告者だということになってチャカは追い詰められます。
その瞬間にゲシュタポが踏み込んできて、メンバーは逮捕、リーダーはかろうじて逃亡しますが、銃撃により傷を負っています。
スボボダはリーダーを治療し自宅に匿いますが、ゲシュタポはそこにも踏み込んできます。奥のドアを開けると、そこにいるのは……マーシャです。
マーシャはスボボダの恋人のふりをします(えーっと、いつの間にマーシャに事情を話し、協力を取り付けたんでしょうか。よくわかりませんが、マーシャはすっかりレジスタンスの協力者になっています)。
警部のグリューバーはそれでも二人を疑い、マーシャの婚約者のヤンを呼んでマーシャと会わせます。
マーシャはヤンの前でも芝居を続けます。婚約者に裏切られ憔悴しているヤンをグリューバーは飲みに誘い、キャバレーでその夜を過ごします。
スボボダとマーシャはチャカに報復するため、暗殺の日にマーシャが逃したのはチャカだと証言します。チャカは暗殺の時間には行きつけのレストランにいたと言いますが、レストランの支配人もウエイターもウエイトレスもみんな「その日はチャカ様はおいでになりませんでした」と言います。
いや、レストランの人間だけではありません、タクシーの運転手やホテルの女主人などあらゆる人間がチャカに不利な証言をします。
うーん、全員がレジスタンスのメンバーか協力者だということですか。ちょっとできすぎじゃないでしょうか。
追い詰められたチャカはグリューバー警部ならアリバイを��明してくれると言います。
ヤンと一晩飲み明かしたグリューバーは、些細なことからスボボダはやはりレジスタンスのリーダーを匿っていると確信して、ゲシュタポに電話しようとします。ヤンはそれを止めようとして揉み合いになり、グリューバーに殴られて気を失います
揉み合いの中で電話が壊れてしまったので、グリューバーはスボボダが務めている病院に行きます。
え? なぜ?
電話が使えないなら、別のを探せばいいし、ゲシュタポに直接行ってもいいじゃないですか。ご都合主義にも程があります。
グリューバーはスボボダを逮捕しようとしますが、意識を取り戻して病院に駆けつけたヤン(彼は一体どこまで事情を知っているんでしょう。彼の行動原理はよくわかりません)やスボボダの同僚の逆襲に遭い殺されてしまいます。
グリューバーが見つからないので、チャカの立場はどんどん悪くなります。チャカの家の執事までレジスタンスの協力者のようで、チャカに不利な証言をします。
最終的にチャカの家の地下室でグリューバー警部の死体が発見され、チャカは暗殺の犯人として逮捕されます。
護送の途中、ゲシュタポはチャカを車からおろし「走れ」と言います。言われるまま逃げようとするチャカを警官が射殺します。うーん、どういうことなんだろう。裁判にかけると面倒なことになるので、手っ取り早く殺してしまえということなんでしょうか。
暗殺の犯人は警察によって射殺されたので、人質となっていた市民たちは解放される……かと思いきや、そうはなりません。彼らはみんなーーマーシャの父親の教授も含めてーー銃殺されてしまいます。
なぜかここだけ非常に現実的……というか悲しい物語にしていますね。
ラストでは新しく赴任してきた副総督がベルリンから暗号文書を受け取ります。そこには「チャカは犯人ではなかったことが明らかになった。しかし、市民の平穏とナチスの威信を保つため、チャカが犯人だったということでこの事件はおしまいにする」という趣旨のことが書かれています。
Not the endという字幕が出てオシマイ。
うーん、なんなんだ、これ。
これって国威高揚になるんでしょうか。これを見てナチスを憎み、最後までナチスと戦おうと思うアメリカ人が増えるんでしょうか。
単なる国威高揚映画なら誰も見てくれない。だから面白おかしい要素やサスペンスやラブロマンスの要素も入れて楽しい映画を作ったということなんでしょうか。
フリッツ・ラングはどういう気持ちでこの映画を撮ったのでしょう。彼は心底ナチスを憎み、この映画を作ったのでしょうか。それとも今後もアメリカで映画を撮り続けられるよう、いわば保身のために「映画職人」としてこの映画を作ったのでしょうか。
マーシャの父親の教授が死を覚悟して娘に言うことばは確かに感動的です。彼は自由の大切さを語り、チェコはいずれ再び自由の国となるだろう、自分はそのために戦士として死んでいくのだと息子(マーシャの小さな弟)に伝えてくれと言います。
でも、その直後父親は処刑者リストに載っていないとのことで処刑を免れるのは物語としては艶消しですし、第二次大戦後チェコスロバキアがソ連に占領され東側に組み込まれたことを思うと、非常に複雑な思いがします。
追記: 『死刑執行人もまた死す』は実にかっこいいタイトルですね。 原題はHangmen also die。 Hangmenと複数になっているところを見ると、暗殺された副総督だけではなく、市民たちを支配し殺害する為政者全体を指しているということでしょうか。 でも、個人的には「ハングマン」と言われるとなんだか安っぽく感じてしまいます(昔そういうテレビドラマがあったので)。
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