#残念な仕上がりの人形は自作
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mayamiyamaillustration · 1 year ago
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東京は、昨夕から雪騒動☃️❄️
雪国で暮らす人々の苦労が身に沁みます。
私のスーパーヒーローの一人、レイモンド・ブリッグスの「ゆきだるま⛄️」は、おあつらえむきな本。小さかった甥っ子も気に入り、「ゆきまちゃ、びうの!(雪だるまちゃん、観るの!)」と本を開いて、お人形握りしめてDVDまで鑑賞する日々でした。
It's been snowing in Tokyo since last evening☃️❄️
I’m sympathizing the hardships of people living in snowy regions.
One of my superheroes, Raymond Briggs “The Snowman⛄️”is today’s mood book. My nephew also loved this book. When he was so tiny, used to opened it up, hold the dolls in his hands, and watch the DVD.
©️ 1978 by Raymond Briggs
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wakkayamawheels · 11 days ago
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modern wheels for classical braking systems
とってもありがたい事に今でもリム ブレーキ用の車輪(ロード バイク用、その他)に関する相談をいただく機会があります。
他のスポーツ用途の車体でもBMXとか、ロードに限らずマウンテン バイクだって保存状態の良い旧車を大切にお手入れして乗られている方も居られます。
ただ、スポーツ走行用途の車種ではリム ブレーキの存在が徐々に少なくなってきている事は間違い無さげです。
ロード バイクでのディスク ブレーキ化も完成車メーカーの標準装備化されて既にかなり経っていますし、車体だけでなく、ロード バイク用完成車輪メーカー各社の製品内容でも高性能モデルに関してはほぼディスク ブレーキばかりとなっています。
中には比較的小規模なメーカーさんが個性的なリム ブレーキ用の車輪を製品化されていたりもしますが、大半のリム ブレーキ用車輪はアルミ合金製のリムを使ったクロス バイク等との兼用グレードであったり、ハイ パフォーマンス モデルとは言い難い製品が多い様子です。
そもそもアルミ合金製のリムであってもモダンなデザインの製品は大半がディスク ブレーキ用ばかりで、リム ブレーキ用のリムでそれほど幅が広いリムはほぼ存在しないと言っても差し支えないでしょう。
尤も、幅の広さとリム ブレーキが使える事を条件に、重量や見た目のゴツさに目を瞑っていただけるなら、皆無ではないです…が、SunRingleのRhynoLiteとか実測で600g前後の重さや、些か厳ついビジュアルに対して、普段は変態じゃないふりをしている…保守系(意味違うし)ロード サイクリストから素直にご理解が得られるとは考え難いです。
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リム幅は内外22/27mmで或る意味、今時な感じがしなくもないのに、高さは16mm…。 基本設計が古い事もあり、残念ながらチューブド専用でチューブレスには対応していませんが、モダンなロード バイク用のタイヤを履くのに丁度良いくらいの横幅を備えています。
ぃゃ、個人的には箱型でハトメ付き、仕様によっては銀色のリムって今時珍しいと思いますし、クラシカルな細身のフレームに付けても「真横から眺めるだけなら」そんなに違和感無いと思うんですけどねぇ…また話しがズレました、すみません。<(^_^;
つまり、世間一般ではリム ブレーキ用で高いスポーツ性能を持った車輪の需要が無いか、有っても非常に少ない、と言う認識で回っているのだと思われます…が、時々いただく相談はわりと気合の入った内容だったりして、内心「ぅをぉ…(^o^;」っと思ったりしています。
と言うのも皆さん一様に、既にモダンな規格のロード バイクに乗られていて、昔乗られていたリム ブレーキのロード バイクの車輪を今更慌てて新しく用立てたり、仕立て直す必要が有りそうには見得ないからです。
ただ、一つ気になっている事は、確かにタイミングとしては絶妙なのかもしれません。
実際、完成車輪メーカーの多くが商品リストから高性能リム ブレーキ用製品を無くしていると言う事は、その構成パーツ供給元であるリム メーカーさんもリム ブレーキ用の高性能リムを新規で開発する理由が無くなります。
もちろん、既に安価で簡易なブレーキとして世界中で普及しているシステムなので、数年で地球上から消失するとは思いませんが、少なくとも今後のロード レース用機材として再び主流化する可能性は殆んど無いか、もし有るとすればUCIの機材規定などで保護的なルールを作られればワンチャンあるかどうか…といった状況ではないで��ょうか。
そんな状況下の中、各リム メーカーさんの製品リストを調べてみると、やはり最新のディスク ブレーキ専用リムとはそれなりの隔たりがあり、モダンなタイヤ規格に対応した幅や構造はもちろん、重量でも多少のビハインドが否めませんし、今後ディスク ブレーキ用の700cリムとは色々な面で違いが広がっていくと思われます。
リム ブレーキ用700cリムは市場規模の縮小という経済的な側面だけでなく、そのブレーキやフレーム、フォークの構造による寸法上の制約があり、昨今増えてきている太いタイヤを収められるだけの余裕を確保するのが難しい為、モダンなタイヤ システムへの移行もまた困難になってきています。
もちろん、相談いただく方にはそういったタイヤ クリアランスの問題がある事を説明させてもらっていますが、それでも出来るだけ新しいタイヤシステムとの親和性が高い構造の車輪(リム)を大抵は希望されています。
具体的にはチューブラーからTLR対応であったり、高さだけでなく、幅も含めたリムの大断面化(タイヤ以外の理由では主に高剛性化による真円度の保持性と、流体力学的な効率化の追求)、あとは可能な限りのブレーキ性能向上などでしょうか。
何れにせよ、スポーツ性能向上を目的とする為に同じコストを投じるのであれば、既に普段使われているディスク ブレーキ用の車輪へ向けた方が費用対効果としてだけでなく、絶対的なパフォーマンスも確保しやすいですが、何故か「リム ブレーキ用で」となってしまう事がちょっとだけ不思議に感じています。
尤も不思議な事ばかりでもなく、ブレーキ システムが何であるかに関わらず、モダンなタイヤ利用や流体力学的な効率化が為された車輪に付け替えてタイムを計ると、大抵の場合は配管、配線類を内装化するよりも明確な速度の向上が計測される様にはなるので、実利が無くはないですし、慣れ親しんだ乗り心地や操作感の延長でタイムを削れるなら、その方が道具としての使い易さや満足感は高く感じられる様になるのかもしれません。
ただ、大半のリム メーカーさんが古いモデルを除くと、既にディスク ブレーキ用のリムに追加加工でリム ブレーキに対応させているケースが多く、新たにリム ブレーキ専用の設計で作られているリムは皆無と言っても差し支えない状況になっていて、今後ディスク ブレーキに対して更にリム設計の最適化が進むと、近いうちに追加加工での対応も難しくなる可能性は高くなっています。
実際、競技用マウンテン バイクのリムでもホントに飛んだり落っこちたりしてもいいのか心配なくらいの軽さの製品がありますが、それらは元々リム ブレーキによって側壁を強く圧縮されたり、その摩擦による耐熱性を考慮しなくてもいいからです。
そんな中、リム ブレーキ用のモダンなリムを出していただけるメーカーさんがまだあったので、色々と個性的なリク��ストを追加して作っていただきました。
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写真が下手くそなので、ちょっと分かりにくいと思いますが、波型のリムに凹面孔無し、溝付きの超硬ブレーキ トラックを付けてもらっています。
これ(実測で30mm強くらい)以上の幅が広いリムだと、大抵のブレーキ アーチの掴み角度が広がり過ぎるのと、対応する最低タイヤ幅も大きくなり過ぎるので、実際に使えるフレーム、フォークが殆んど無いんじゃなかろうか…と思います。
昨今、少しづつ一般的になりつつある波型のリム、正直なところ玉石混交と言わざるを得ない現実もありますが、まともな設計をされた製品のパフォーマンスは素直にお薦めできます。
一般的な円形リムに比べて、流体力学的なドラグの低減はもちろんですが、突然煽られる様な横風に対する安定性が向上し、ハンドルや車体全体のふらつきが小さくなる為、実走時にかかるペダリング以外の余計な疲労やストレスも小さくできます。
この恩恵は出力が高く技術的にも成熟したエキスパート サイクリストに対してだけでなく、むしろ体重が軽かったり出力が小さいなど、外乱要因の影響が大きくなるサイクリストに対して、より大きなメリットが出ている様です。
今回の場合、前用のリムは波の凸凹の数がちゃんと20山になっていて、よくある24山の24本スポーク限定ではありません。 これはとってもありがたいです。
まぁ24山でも1/3ピッチ飛ばして16本のスポークで構成できる様にニップル孔の位置や穿孔角度を指定する事も可能なので、お施主の体格によっては大して問題にはならなかったりもしますが。*(-_^)
でも、これってリム作る時に20山の波型もメーカーさんは用意されているわけで、そういう意味ではリム ブレーキの、更に前輪に対しても結構まじで投資されているんだなぁ…と改めて感謝しているところです。
自分が考えているよりも世界規模ではまだまだ新規でリム ブレーキ用のモダンな構造のリムが求められている証拠なのかもしれないですが、ちょっと変わった車輪のご相談をいただく製作者としては、多様性の確保という意味でも本当にありがたいと感じています。
この様にブレーキ システムだけでなく、用途やそれぞれの乗り手の体格、好みなど、特注製作の車輪であれば大抵のご希望に近付ける事ができます。
しかし、それも量産品とは違う構成部材のサプライヤーがあってこそ車輪として製作が可能となっています。
これでリム ブレーキ用車輪に使える新しいリムの話しは終わりかな…と思っていたら、メーカーさんから新たな話のネタを送っていただいてしまったので、もう少しリム ブレーキが使えるモダンなリムについて紹介する事になりそうです。
どうやらメーカーさんの中には弊所よりも諦めが悪い…熱意溢れる方がおられる様です。
こちらが「もう流石にこの次は無いんじゃなかろうか…」と思って油断しているところへ次の弾を撃ってこられるので、マジで油断大敵です。(^-^;
とは言っても、「もう流石にこの次は無いんじゃなかろうか」とは思いますが、次回も引き続きリム ブレーキで(文字通り)擦り続けさせていただきます。<(^-^;
もうしばらくお付き合いいただけましたら幸いです。
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moko1590m · 1 month ago
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「本来は手段にすぎないものが目的化される」という現象は、個人の行動レベルから制度、国家、宗教、経済に至るまで、あらゆる領域に見られる**構造的誤配(ミスアロケーション)**とも言えます。
これはしばしば「目的の形式的痕跡だけが残り、中身や本質が抜け落ちる」状態であり、ドゥルーズ的に言えば「コード化による生命の停止」、あるいはラカン的に言えば「象徴界における欲望の代理物の肥大化」とも読めるでしょう。
🔍 手段が目的化してしまう例(ミクロ〜マクロまで)
✅【日常・個人レベル】
お金を貯めることが目的になってしまい、お金を使うことで得られる体験や幸福を避けるようになる
「ダイエット」のための食事管理が行き過ぎて、健康を害する(本来は健康のため)
「勉強」そのものが目的になり、「学ぶこと」や「考えること」がないがしろにされる
完璧なスケジュール帳を作ることに満足して、何も実行しない
人に感謝されるために善行をする(善行が手段から自己承認の目的へ)
写真を撮ることが目的になり、目の前の景色を直接見なくなる観光
「資格」を取ることに執着し、スキルや実践には興味がない
婚約指輪・結婚式に異常にお金をかけるが、肝心の結婚生活に関心がない
✅【家庭・教育レベル】
宿題を提出することが目的になり、内容や理解はどうでもよくなる
運動会や文化祭の「演出」や「統率」を優先し、子どもたちの創造性や楽しさが抑圧される
制服や校則の遵守が目的化し、生徒の個性や状況が無視される
学校に「行くこと」そのものが目的になり、「何を学ぶか」が失われる(不登校への偏見など)
✅【職場・労働レベル】
働くことが生きる目的化し、「なぜ働くのか」が問われなくなる(ワーカホリズム)
業績評価の数字を上げることが目的化し、本来の価値(顧客満足・創造性)が損なわれる
「時間通りに出社・退社」することが目的となり、成果や創意が軽視される
「会議を開くこと」が目的化し、実際には何も決まらない
✅【社会制度・行政レベル】
選挙制度が形式的になり、「形式的な投票率」ばかりが重要視される
福祉制度が「不正防止」ばかりに偏り、本来の「支援」機能が働かなくなる
交通安全運動が「旗を振るイベント」になり、実際の交通安全には結びつかない
マイナンバー制度などの「デジタル化」が自己目的化し、市民の利便性が後回しにされる
✅【経済・テクノロジー】
GDPを上げることが目的化し、環境や福祉が犠牲になる
AIの開発が「最先端を走ること」それ自体に意味があるとされ、倫理や社会的帰結が無視される
仮想通貨やNFTなど、「所有」することが目的化し、価値の意味が不透明になる
本来シンプルでいい仕組みにテックを導入し、「効率化」や「DX」自体が目的化する
✅【文化・宗教・芸術】
儀式や伝統行事が「守ること」が目的になり、本来の意味や精神性が忘れられる
「原典への忠実さ」が目的化し、創造的解釈が禁じられる(経典・聖書・古典芸能など)
芸術が「市場価値」や「評価」ばかりで測られ、表現や感動が後回しになる
仏教の「布施」などが「徳を積むポイント制度」のように機能する
✅【国家・思想・政治】
憲法や法制度の「文言解釈」ばかりが重視され、現実とのギャップが広がる
「国民の一体感」の名のもとに、多様性や異論が抑圧される(ナショナリズムの暴走)
戦争の記念が「記念そのもの」に固定され、歴史的反省や未来への意味づけが曖昧になる
国家という仕組みが「神聖視」され、市民の生が犠牲にされる(例:徴兵制、戦争)
✅【その他/逆説的な例】
「平等を実現する」手段が官僚的ルールになり、そのルールによって不平等が生まれる
「環境保護」が目的化し、人間の生活とのバランスが見失われる
「正義」を掲げて行われる行動が、人を傷つけたり排除したりする(道徳の武器化)
🧭 総括:なぜ目的化が起きるのか?
象徴や制度が自己増殖する力を持ってしまうから
評価可能なもの(数値・形式)が優位になりやすいから
不安に対して、安定した「形」を手放せないから
「なぜこれをするのか?」という問いを避けることで、精神的コストを下げられるから
🌱 対抗策のヒント
「そもそも、これは何のためだったのか?」という問いを、定期的に意識する
手段をズラす/逸脱する/再接続することで新たな意味を開く(生成変化的実践)
「目的のように見えるもの」が、実は別のものの代替・代理表現であることを見抜く
ご希望があれば、こうした「目的化を脱構築するための遊び」や「ズレによる再発見」の実践例も提案できます。いかがでしょうか?
スポーツ。カンニングして、または、傾向と対策、過去問を学習して試験をパスすること。手続きを大切にしすぎて、制度趣旨に反した制度運用をすること。自家用車を宝物のように大事に使って、その機能を十分活用しないこと。国家というものを神聖視して、国家というものに縛られて不幸になってしまうこと。
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ou-dan · 4 days ago
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みんぱくへ行った
しばらく前に。
 もう終わってしまった展示なのですが「点と線の美学 アラビア書道の軌跡」を見に。
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 アラビア書道、カリグラフィー、タイポグラフィーの企画展示です。アラビア書道の基礎的な説明や道具展示、作家の作品から印刷物や生活用品や建築の一部など色々と紹介されていて面白かったです。個人的には新聞組版と記事の題字が興味深かったです。文字系の筆耕的なお仕事とかがあるんだな。
 あとアラビア書道で使われる紙。さわれる実物展示だった。
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 この企画展目的で行ったので、常設の膨大な展示のほうはざっくり見ただけなんですがざっくりって言ったってめっちゃ量あるね……企画展の展示場所が常設の展示場の中にあるので……
 みんぱくは世界の色々な地域の色々なものが並んでいますがもちろん日本のものもあり、これだけ物量あるとやっぱりインパクトあるね。
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 鷺舞の衣装展示もありました。  京都発生の芸能ですが京都では踊りが途絶えたけど島根で継承されていて、二十世紀入ってから島根で継承されているものを京都で再現復活し祇園祭で舞われていたものの、また途絶えていたのが最近二十年ぶりぐらいに再び復活した、という紆余曲折ありながらも続いている芸能です。島根のほうのは重要無形文化財、ユネスコ無形文化遺産に登録されている風流踊のなかのひとつですね。
 これは去年の祇園祭の鷺舞のインスタライブ。京都の方は現在は祇園会鷺舞講という団体がやっています。
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 「風流踊」というのは風流踊というなにか特定の決まったジャンル形式の踊りがあるというわけではなくて(いや一応「こういう踊りのことを言います」という説明はあるといえばあるんだが現代の言葉で語る時の機能とちょっと違う枠組みなんじゃというかめんどうなのでこの話はやめるね)、日本の各地のいろんな民俗芸能の類の一括概念すぎるので言いたいことが色々あるが、そのぐらいざっくりガッとまとめた言葉でくくって記録しておかないといけないからこうなっているんだろうなあ……と思っています。
 あとこれは韓国の農楽の衣装とか。
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 プンムルノリとかサムルノリとかは何度か見たことあるのですが、帽子の上についているくるくるまわるやつめちゃ印象的だよね。
 この動画の46:32からのやつです。
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 あとは南~東南アジア各国の人形劇・影絵芝居~仮面舞踊劇あたりの展示ががっつりあって物量~って思いながら見ました。
 昔、アジア各国の演劇や伝統芸能がたくさんかかる舞台芸術祭が東京であって、その時色々観ることができてめっちゃよかったんですよね。ベトナムの水上人形劇とかも見たな。時々そういう芸能フェスティバル的なものがあるけど、なかなか行く機会がつかめなくて最近は全然見れてなくて残念です。まあ今なら万博行けってことなのかもしれないですが。
 みんぱくの来歴というか、1970年の大阪万博で太陽の塔の中で展示されてた各国の仮面とか神像とか民具とかがみんぱくに収蔵されているんですよ。国立民族学博物館が大阪にある理由は「万博があったから���ってのめっちゃでかい要因なので。
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 万博についてもちょっと語りたいことあるな。万博についての学術的な研究会があったり研究者の方も結構いらっしゃってですね、そういう方面の講演とか展示とか行ければちょいちょい行ってるんですが、大航海時代以降20世紀までの植民地主義をどう脱して今、現代の万博をするのか、みたいなあたり、一般のメディアでももうちょっと語られてもいいような気はするんだけど「お祭り」として見ようとするとフォーカスはしない話題だよなあとか結局植民地主義を脱しきれてはいないだろうよとかこう、むずかしいね。
 昔の万博、博覧会の類は世界各国のいろんな民族の人を開催地に連れてきて生活再現をさせたりする「人間の展示」をやっていたんだけど、これはかなり批判される文脈にあるんですが、現代のいわゆる「芸能のショー」と切り離せることだと思ってんの? というのが自分の中の結構重めのテーマなんですよね。「展示する」「見る」という行為はめっちゃ力関係のことなんですよ。何の了解があれば他者を鑑賞していいことになるのかというか。舞台芸術、あるいは芸能全般の、見る/見られる、展示としての見る/見られる、ちょっとでもバランス崩れると暴力になる危ういものであるよなと思っているので。なんというかな、見る/見られるの相互に了解があったとしても、「それダメじゃない?」はなんらかの文脈上では発生しうる。文化摩擦的なことなんだけども。私の興味が舞台芸術なのでこの枠組みで見てるけど、現代のSNS事情を思うと膨大な人たちが生活の様をインターネットでダダ漏れさせている中での「見る/見られる」概念は結構ザルになってると思うので、「何が悪いの?」ってなることの方が多そうな気もするのだよな。いやまじで「見る」��て力の行使なんだよ。何が具体的に悪いとか決めたいのではなくて、見ることは力の行使なのでなんかの拍子に暴力になることがまあまああるっていう現象のことを気にしています。
 話題は逸れるしとりとめなくなってきたけど、いろんな文化やモノを見る箱として、ヨーロッパとかのでかい博物館の収蔵品は侵略した国から収奪したもので成り立っている部分が結構あって、返還するしないは現代でもちょくちょく揉めているし、19-20世紀ごろのことを思うと日本もまあ、まあ、あるよねそういうの、というこう。
 モノが今ここに存在することの意味というか。人と人のつながりとしてうまくまわっていればいいんだけど。
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jun4matsuo · 1 month ago
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プレゼン感想戦 #18
 こんにちは  更新をサボっておりましたが実は生活そのものをサボってました。いやー、先週まで突っ走っていたのもあって軽い燃え尽き症候群でした…。気圧やらもあってうまいこと休めず2日間くらいずっとダラダラとしてたんですが、ぼちぼち気合いを入れ直していかねばなりませんね。  ちなみにプレゼン翌日の土曜日は知り合いの結婚式に参加してきました。ソロで結婚式に参加するのは初めてだったので粗相をしないか不安だったのですが、無事楽しんできました。いやー、結婚、幸せそうでいいですね…私には縁のない話な気がしますが…。知り合いは姉の幼馴染かつインターネット絵描き仲間という不思議な関係性なのですが、まさかの結婚式に参加したらイラスト本の新刊が手に入るという謎体験をしました。
 さて、先日のプレゼンの振り返りをしたいと思います。Slackではまだフィードバックを頂いていないのでそれについてはまた後日になりますが、プレゼンの総括や質疑応答への返答などをきちんと文字にしておこうと思います。今考えていることや追加で答えたいことなどは☆、先生から頂いた内容にはダブルクォーテーションマークをつけておきます。
・動いた時のリボンなどの揺れが少ない。将来的には柔らかくなるのか?感覚で作ってるものなので口出しする物なのか? →揺れるなどの動きは物理演算にあたる(Live2Dはデフォーマの変形と物理演算の2段階に分かれている) 物理演算については今後もアップデートしていきたい。
・研究で幾何形態に当てはめようとしているのは、人体の形そのものに着目しているのか、それとも人体の動きそのものに着目しているのか、という部分はどうなっているのか?どちらもしようとしている?
→解剖学まで踏み込むことになる可能性があるが、形を捉えると同時にどこを軸に回転するかも考えないといけないため、複合的に考える必要性がある。あまり動きという面では考えてなかった。
”何を目指しているのか?違和感を消していくのか、何かしらの拡張をしていくのか?アニメーションの演技では人体でないものをモチーフに置き換えて��くなど?”
→合理的に見せると言っても現実的な動きに即しているのか。昔の三年後期ゼミでやろうとしていたクラゲを参照して髪の靡きを表現するのに似ている。 ☆まだ決めきれていませんが、どちらかというと最終的には違和感を消す方向に近いと考えています。
・キャラクターと実際の骨格は違う。人体を数値化して違う骨格のキャラに移したら辻褄は合うのか?
→式にしたときに変数にしたい。今回は自分の絵柄に当てはめることになるが、変数にすることで別の絵柄などにも融通が利くようにしたいと考えている。
”Live2Dの仕組みの中でそういったスクリプトを組む環境はあるのか?”
→ないと思う(あったとしても自身の技術的には無理)。出てきた数値を手打ちで入力することになる
”Live2Dというインフラに依存しているのではないか。Live2Dが無くなったときにも成立する価値があると強い”
・VtuberのLive2Dはモデラーの個性が出る。そういう個性が逆にないもになるであろうところが個性になってると思った。Live2Dつくるハードルが高いのでそういう人向けの合理的な動きを保証したベース動作キットみたいなのがあると良さそう。UnityでLive2Dを再現しているケースがあり、そこでは顔が横まで向いている表現の広さがあった。
→Unityで再現しているのは知らなかった。が、左右180度の顔の回転を表現している先行例はLive2D上で既にあり、そのモデラーの教本なども買ってみた。しかし、左右180度の回転はそもそもアバターとしての魅力があるかと言われると、好みの問題にはなるがとても良いものとは思えなった。 ☆ベース動作キットを作るという点完全無視してしまっていました。本当にすみません。構想シートの段階でも言及していましたが、初心者モデラー救済みたいなのが作れたらより貢献的ではあると考えます。それはとてもいいんですが、他の人のことまで考えられるかどうか…余裕次第かもしれないですね。
・何を以て良くなったとするのか。感覚を排除して合理的にやろうとするのはわかるが、どうなったら良くなったというのかというのは結局感覚に戻っているのでは?評価の基準は?※提案として「滑りの排除や違和感が無いように」など
→個人的には、作るプロセスにおいて感覚を用いることと合理性を用いること、とはまた別に、鑑賞した時の感覚が存在すると考えていた。クオリティアップを目標とはしているものの、基準は明確に決められておらず見たままとした言いようがない。一目瞭然であれば良かったしそれを想定していたが、思いのほかうまいことできてしまった為困っている。指摘の通り基準を決められてないのが少しモヤっている。
”違和感を消すことが目的なのではなく、消すことでこんなことができますというのを言ってほしい。新しいアバターでこれまでできなかったことができるようになりますだとか、コミュニケーションやVtuberのあり方、配信を見たそのものの価値が変わっていくという話に繋がる展望を語れればよい。作品の目的が何に繋がるのかを言えるかどうかで、基準がどうだの評価がどう変わるかといった部分への着目は解決する”
→それに対する解答はふんわりとあって、配信上のアバターが下手くそなLive2Dだと、配信の内容よりも下手くそだなっていう視点になってしまう。それは配信者としては避けたい。ポジティブに見てもらえる。Live2Dの出来によって配信の価値がネガティブに左右されないのが一番大きい。
・Live2Dのモデラーに話を聞くのがいいんじゃないか。モーショントラッカー側のポイントのように、どこがどのパーツの頂点になるかを自身で考えれば骨格の問題が解決するのでは?
→聞くっていう環境はできる。実際感覚で作った際は助言をいただいたりした。しかし、結局これからやる数学に基づいたモデリングでは他の人に聞く意味があるのか、先行例もあるのか?聞く事への価値をあまり感じられていない状態。 ☆頂点の話スルーしてました。ごめんなさい。これ聞いてた時に勝手に納得していたんですが、実際録音聞きかえして意味を考えたときにあまり理解できなかったのでちょっと質問しなおそうと思います。
”Live2Dのノウハウとして、より良くしていくという視点での話をするのであれば聞いた方がいいかもしれない。そうじゃない範疇まで可能性を拡大していくのであれば、全く別の世界の視点を聞いた方がよかったりする場合もある”
・Live2DではなくAdobe Charcter Animatorがある。どこまで一緒かわからないがもしかしたらスクリプトなどにも使えるのではないか?
→盲点だった。 ☆時系列的には先になるが少し触ってみようと思います。が、調べたところLive2Dとはノウハウや形式などがかなり違うように感じます。そもそもLive2DはLive2D社の独自の技術でもあり、Caのような手軽さではなく細かな部分まで自身で調整を行うという点は唯一無二なのではないかと感じました。どちらにせよこの辺の話は触ってみないとわかりませんね。
"違和感なくして何が言えるのかで展示形態なども変わってくるのではないか。感覚で作った方が上手くいくのではないかという懸念もその先の目的の話に繋がる。違和感をなくすためのノウハウとして、感覚でやるのが上手い人のやってることも数理化できてしまうとなると、いわゆるデモクラタイゼーション(民主化)といって、できない人でも誰でもできるようになるメソッドの提供みたいな話になってくる。そういうやり方でやっていくのもいいかもしれない。それも目的の一つ。キャラの3Dモデルを作ればという懸念についてだが、2次元表現は3次元で再現できない場合もあるため、日本の平面文化がある中では、3Dが絶対的正義ではないので心配しなくても良いと思う"
 以上が質疑応答でした。こいつ、人の話スルーしすぎだろ。2つ言われると1個が飛んでく感じですね。ほんとごめんなさい。  総括ですが、先生からもいただいた通り、その先の何が言える��、があと一歩欲しいという感じみたいですね。それを定められれば、質問でもあったことや抱えていた課題や懸念の多くが解決するのかもしれません。スターターキットやらデモクラタイゼーションの話も面白そうですよね。実際構想シートではその面を押し出していましたし。  ちょっと優柔不断な面が出てきていますので、リサーチを行いながら7月に向けて考えていこうと思います。6月後半にはある程度絞りたい気持ち。
 プレゼン、本当に緊張していたのもあってプレゼン中ちゃんと言いたいこと全部言えてたんですかね~。もうだいぶ時間置いたのに不安しか残っていません。質疑応答では数学の話わかりやすかったとお褒めの言葉をいただいていて恐縮なんですが、問題はそこ以外の部分もちゃんと言えてたかですね。テーマ発表会までには人前で喋るのとか上手くなっておきたい…。せめて言ってること飛ばないようにしたい。
 それでは長くなりましたが今回の更新は以上となります。  今週でプレゼン最後になりますね。またゼミでお会いしましょう…!
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picnicism · 10 months ago
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こういう記事がそろそろ出てくるだろうと思っていたら案の定。 https://www.newsweekjapan.jp/mobile/reizei/2024/08/post-1363_1.php?fbclid=IwY2xjawE88BZleHRuA2FlbQIxMQABHRegVFIbRRSphNXoIefI7vCoR9IJwXLxiHaC_qh6CPl_BHx4aXvGbKALfw_aem_aoGNxaLnHGhG28u1uzRvCw アメリカに農協マネーを差し出すための布石が打たれようとしているなあ、という感じがする。 なぜそう思うのか、少し述べてみたいと思う。 この記事は、以前、小泉進次郎氏が進めようとした農協改革は正しかったが中途半端に終わったので、もし総理大臣になったら改革を今度こそ実現すべきだ、ということを暗ににおわせている。しかしそもそも、小泉氏の進めようとした改革は本当に日本農業のためになるのか? 記事では、農林中金が農業に対して0.1%しか融資していない、世界中で資金を運用することばかり考えている、という当時の小泉氏の批判をそのまま正しいとしている。しかし、この小泉氏の批判は、農林中金の果たしている重要な機能を無視している点で、非常に危険。 農林中金は、その資金を世界中で運用することで上げた利益を、農協の赤字補填に使っている。このおかげで農協は、農家に対して補助金を出しているような格好となっている。国が十分に出してくれない補助金を、農林中金が補っている。金融機関が、農業に補助金!なんと気前のよい! 記事では、投資に失敗して赤字が発生したことを批判しているが、よく言われるように失敗はつきもの。けれど、長期で見るとしっかり利益を上げ、その利益を農協への「補助金」として差し出しているのだから、私には何が問題なのかわからない。 ただ、誰にとって問題なのか、私にはなんとなく想像がつく。農協マネーは、欧米系と異なる独自の巨大マネーとして、世界でも存在感がある。こんな存在、欧米資本からしたら目の上のコブ。できれば弱体化させたいし、何なら自分たちの勢力圏内に入れてしまいたい。つまり自分のものにしたい。 それには、���本人自身に農協批判の嵐を起こしてもらい、農協マネー、つまり農林中金を弱体化させてもらうのが吉。そうしたら自分たちの手を汚さずに済む。「農業への投資を増やせ!」というのは、一見妥当な意見に見える。しかし儲けを出しにくい今の日本の農業界で、その実現は困難。 「改革が進められないのは既得権益層が組織を牛耳ているからだ、株式会社化して適切なマネジメントが行われる組織に改革せよ」という批判の声を日本人自身に行わせれば、農林中金は農業投資を増やすこともままならず、国民の批判にも耐えきれず、国が主導する改革を飲まざるを得なくなるかも。 そして、欧米資本が農林中金の株式を持てば、事実上の傘下に収めることができる。わずかな資金で農協マネーを封じ込めることができる。自分たち欧米の思いのままにならない巨大マネーを、目の上のたんこぶを一つとり除くことができる。 これと同じことが行われた疑いの濃いのが、郵貯マネー。郵貯マネーは農協マネーと並び、欧米資本にも負けない巨大マネーとして、世界金融の一翼を担っていた。この郵貯マネーを欧米の意向に逆らえないものにしたい、そのために行われたのが、小泉改革だった、そんな疑いがある。 小泉進次郎の父親、小泉純一郎氏は郵政民営化を掲げ、自分に逆らうものを「既得権益層」として攻撃し、この痛快な言葉に酔った日本国民は、少なからずが一緒になって郵政を批判し、その批判に抗しきれなくなった郵政は、改革を飲まざるを得なくなった。 するとどうしたわけか、アフラックというアメリカ資本が郵政の中に滑り込んだ。がん保険をやるなら別に日本の生命保険会社でもいいはずなのに、なぜアメリカ資本?でも、これによりアメリカ資本が、郵貯マネーに一定の手綱をはめることができるようになった。 小泉進次郎氏にやらせようとしているのは、父親が郵貯をアメリカに差し出させたのを、農協マネーで再現させようとしているのではないか。そう考えると、進次郎氏がなぜ的外れな農林中金批判をしたのかが理解しやすい。農林中金が儲けて、農家に事実上の補助金を出すことの何が悪いのか? 一見正しそうな意見に見える発言をして国民批判を巻き起こし、日本人自らが改革に乗り出した格好をとって、事実上、欧米資本の傘下に下らせる。それが狙いだとすれば、私は非常に危険だと思う。まあ、この辺は私の邪推。邪推だから証拠は不十分。不十分だけど、大いに警戒すべきだと思う。 もう一つ、記事では、日本農業が補助金漬けだと指摘している。しかしちょっと待て。欧米の農家は補助金漬けやないか。まるで欧米は補助金を一切受け取っていないかのようなフリをして、補助金漬けを批判するというのはちょいとズルくないか。 ヨーロッパ各国、とくにイギリスやドイツなんかは、世界大戦がはじまる前、アメリカなどの農業大国から食料を輸入すればいいや、と考えていた。アメリカの穀物は安かったから、買った方が得だったからだ。ところが二つの世界大戦で食料が輸入できず、ひどい飢餓を経験した。 もう二度と飢餓はご免だ、と考えたヨーロッパ各国は、自給率をいずれも高めた。花と野菜しか育てていないように見えるオランダでも食料自給率(カロリーベース)は65%、イギリスも70%ある。これだけの自給率を維持できている理由が、補助金。 ではどんなふうに補助金を出しているかというと、例えばフランスの場合、事実上の輸出補助金を出している。フランスの小麦農家は、小麦を国際価格で販売するのだけれど、その価格では生活できないから、不足分の所得を政府が補助している。その割合、なんと90.2%。 日本には、こうした手厚い所得補償はない。政府が出す農業への補助金は、温室を建てるとか機械を購入するとかの購入時の補助金で、農家の所得を補ってくれるものではない。だから、日本の補助金は農家の収入を潤してくれるわけではない。欧米は潤してくれるのに。 こうした事実を言わないで、まるで日本の農家だけが補助金まみれであると批判するのは非常にバランスが悪い。先進国はどこも、農業に手厚い補助金を出しているのだから。なぜか?自国で食糧危機が起きないようにするためだ。 もし安易に補助金批判を日本国内で強め、補助金を減らしたら、補助金をもらって収入を補っている欧米の農業よりもずっと日本農業は弱体化するだろう。補助金をもらうから日本農業は弱体化するのだ、という批判は、実は大いに問題がある。 実は日本の農家の中でも、補助金を政府からもらうことに批判的な人がいる。この人たちは野菜や花など、腹の膨れないものばかり作っていることに注意。コメや麦などの穀物を生産している農家は、補助金なしにはやっていけない。これは欧米も同じ。なぜなのか。 「ないと命にかかわる作物は、べらぼうに安くなる」という、奇妙な経済の仕組みがあるからだ。なぜそんなことになるのか、水の値段で考えてみよう。 水は足りないと命にかかわる。だから余分に確保しようとする。しかし余分に確保しているということは、市場経済で言えば在庫のだぶつき。 「余っているんだろ」と市場に見抜かれると、値段がべらぼうに安くなる。このため、水はタダみたいな安い値段になってしまう。しかし水は足りないとなると死んでしまうから、不足した場合は極端な高値になる。金銀財宝を山と積んでもコップ一杯の水が欲しくなる。 このように、命にかかわる商品は、市場経済に乗せるとバカみたいに安い値段か、バカみたいに高い値段かの両極端になる。政府は、足りないと国家が危うくなるから余分を確保しようとする。だから在庫がだぶついていると見られて、安い値段で売買されることになる。 コメや麦といった基礎食料は、水と似たような価格形成をする。足りなければ命にかかわるから、余分を確保しようとする。そうすると在庫がだぶついていると市場に見抜かれて、安い値段になってしまう。でも本当に足りなくなったら、バカみたいに高くなる。 このように、コメや麦などの穀物は、命にかかわる基礎食料だから、凶作になるのでもない限り、非常に安い値段に据え置かれがち。だから、コメなどの穀物で儲けることは非常に難しい。だから欧米も、穀物農家には所得補償という形でしっかり補助金を出している。 コメなどの基礎食料を作らず、野菜や花などの「腹の膨れない」商品を作っている農家は、「命にかかわらない商品」を作っているから、市場経済に乗せても、変に在庫をだぶつかせないように気をつければそこそこの価格で売れる。足りなくても他で代わ��が利くから、在庫をなくしてもあまり批判されない。 このため、穀物を作らない農���は、そこそこの値段で商品が売れるから、補助金をもらわなくても生活できる。そうした立場の違いを考えずに、穀物農家は補助金をもらい過ぎだ、と批判することは、ちょっと慎重になった方がよいと思う。相手の立場を理解していない発言と取られて仕方ない。 ずいぶん長くなってしまったけれど、進次郎氏がかつて進めようとした農協改革は、残念ながら的外れだったと言えると思う。もしあの方向性のまま農協改革を進めたら、恐らく農協マネーを欧米資本に譲り渡すような結果に陥っていただろう。果たしてこれは日本のためになるのだろうか? 農協マネーが海外で稼いでくれることで、その稼ぎを農業に投じてくれることで、日本農業は踏みとどまっている面がある。この機能を破壊することが、果たして日本のためになるのだろうか?自ら自殺しに行くような改革ではないだろうか。ここは慎重に考えなければならない。 また、補助金漬けという批判も、上述したようにいろいろおかしい。むしろ欧米を見習って、所得補償の形の補助金スタイルを考えてもよい時期かもしれない。補助金の出し方に改革は必要かもしれないが、補助金を単純に減らすことは日本農業だけを弱体化させかねず、危険。 なのに、冒頭の記事のようなのが「日本人の手で」出てくることに、関心が湧く。筆者の冷泉彰彦氏ってどんな人?と思ったら、アメリカ在住らしい。あー・・・。なんか、思っていた通り過ぎて。 もし私が欧米の為政者だとしたら。「かつて農協改革の急先鋒だった進次郎氏が首相になれば、旧態依然とした農協、既得権益層の農家を叩き潰してくれるだろう」という記事をバンバン書かせ、日本に農協批判の声を上げさせるだろう。 そのためには、日本の広告を握っている電通などに働きかけ、そうした記事を増やしたり、テレビ番組を作らせたり運動するだろう。そうして日本で農協批判が巻き起こるようにし、日本人自らが「改革」という名の農協解体を進めるよう、上手く誘導したくなるだろう。 もし農林中金が株式会社化したら、その株を一定割合持つだけで、農林中金を事実上飲み込むことが可能。ここまでの流れを日本人自身に作らせれば、欧米の手を汚さずに濡れ手に粟の利益を得ることができるだろう。もし私が、欧米の為政者や資本家なら。 今回の記事は、進次郎氏に農協改革をやらせる機運を高めさせるための、走りになるものではないか、と、若干疑っている。私はその勢いに水をかけたい。農協と日本農業は改革は必要かもしれないが、その方向性は明らかに的外れにしか思えないからだ。 日本は、自ら農業を弱体化させる方向に進むべきではない。改革を進めるなら、現場をよく知り、どんな手を打つのが適切か、よく見極めながらでなければならない。思いつきのアイディアを現場に押し付けるようなおっちょこちょいは厳に慎んでいただきたい。
農協マネーを欧米に差し出すための布石|shinshinohara
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arraytale001 · 6 months ago
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chapter 9
file 08
後戻りはできない
( (この音楽を聴きながら第9章を読んでください。ベートーヴェン -「月光ソナタ」第1楽章 - 432 Hz -(ピアノ演奏))
殺人鬼を捕まえるには、殺人鬼のように考えることが必要だ——時には自分自身がその存在になる必要さえある。それがSansとRaysが始めたゲームだった。Sansには勝つためにできることはあまりない、少なくとも彼はそう思っていた。彼はSnowdinを彷徨いながら、弟を置いていき、彼にまとわりつく雪を払った。
残念ながら、これは夢ではなかった。Sansは魂が抜け落ちたかのように歩き、その目は遠くを見つめ焦点を失っていたが、彼の心はただ一つのことに向かっていた。自由に動けるのは自分だけだという苦い現実が、彼の口の中に嫌な味を残した。彼は目を閉じ、この悲劇的な現実を受け入れる準備をした。
「これがゲームの始め方だっていうのなら、俺もそれに乗るしかねぇな。」
Sansは自分を助けるか、あるいは奈落に突き落とす可能性のあるさまざまなシナリオを思い浮かべた。どの計画も、彼がずっと避けてきた暗い場所へと導いていた。それまでは遠くから観察するだけだったが、今ではもはや制限はなかった。道徳を犠牲にする道が大きく開けていたのだ。
「さよならだ、Sans。」彼は真剣にそう言った。そして結果を受け入れた。これが彼の新しい自分への歓迎だった——血に染まった道を歩き、光を置き去りにしなければならない。
「フリスク、今どこにいるんだ、ん?」
彼はあの人間を利用することができた。そしてもう一人...あの人間と同じ姿を持つもう一つの存在。 この世界の暗い領域に玉座を持つ女王。
「Chara、お前に会うのが待ちきれねぇ。」
Raysのおかげで、SansはUndertaleの世界の隅々まで知っていた。プレイヤーを無力にし、彼らの意志を強制的に従わせることができる存在さえ知っていた。 FriskとFloweyだけが知る隠された存在、Chara。Sansは成功のために彼ら両方を見つけなければならなかった——力ずくでなければ不可能だったとしても。
Sansはそれに気づいていなかった。だが、その笑み——いや、むしろその薄笑いは——Raysと同じものだった。それが無意識のうちに彼の顔に浮かんでいた。その笑みには恐怖が宿っていた。それは決意と深い絶望によって形作られたもので、雷鳴のように轟き、隠れた深みから獲物を打ちのめす準備ができていた。
Sansの足取りはいつもより軽やかだった。これまで彼が拒絶してきた最悪の側面を、今回は拒むことなく、両腕を広げて受け入れていた。その背後に漂う暗い霧は今や彼の身体を支え、彼の最も暗い側面から遠ざけていた鎖を断ち切る満足感で彼を強化していた。
Sansが到着したのは、お気に入りの場所——Waterfallだった。その場所はいつものように静かで穏やかだった。魔法の結晶のような青い輝きが、彼の肩に溜まった緊張をほぐしてくれた。それはまさに目に優しい光景で、とても美しかった。水の穏やかな流れと周囲に咲くエコーフラワーが、彼の心をより静かにしてくれた——Sansは彼を押し潰していた負の感情が水のように蒸発し始めるのを感じた。それは静寂の雰囲気がもたらす癒しだった。
突然、花々の囁きが聞こえてきた。そ���は彼が過去に言った言葉を繰り返していた。「責任を取る準備ができていない。」 Sansは自分の過去の戯言を再び耳にして、思わず笑い出した。
通常であれば、Sansはこうした囁きに悩まされていたはずだ。しかし今回は、Sansは全く動じなかった。彼は「自由」を感じていた——それも、いつもとは違った形の自由だった。Sansはその暗い奈落に突き落とされたのではなく、自らその中に手を伸ばし、それを支配していたのだ。
支配。Sansは初めて、自分の心を完全に支配しているという感覚を得た。 エコーフラワーの囁きは今や、彼にとって些細なことでしかなく、全く気にならなかった。
古びた公園のベンチはいつものようにそこにあり、使われていないようで色褪せていた。彼はその上に腰を下ろし、声を上げた。
「おい、Rays。」
返事はなかった。
「俺を見てるのは分かってるぜ。けど、それってすごく不公平じゃねぇか?」
再び、沈黙。しかしSansは確信していた。Raysが確かに聞いていて、そして今頃間違いなく、広い笑みを浮かべているだろうということを。
「15日だけくれ。俺を見るのをやめろ——たった15日だ。それくらいできるだろう?」
今回は、SansはRaysからの返答を待った。
突然、彼の目の前の地面が動き始め、文字を形作った。それはこう綴られていた。
「お願いって言って。。魔法の言葉を使え、Sans。」
もちろん、そんなに簡単にはいかないだろう、とSansは思った。既に絡み合った彼の思考はさらに重くなっていく。Raysが欲しがるものを渡さなければ、計画を隠すためのプライバシーは得られないだろう。 復讐——すべてはそこに帰結していた。SansはこれまでにRaysを散々侮辱してきた。その結果、今やRaysは自分のプライドに傷つけられた仕返しを求めていた。Sansはこれを予想していた。Raysがいつか動き出すだろうと分かっていたのだ。
Sansは長いため息をつき、不快な言葉を口にする準備をした。Raysはその間、ポップコーンの入ったバケツを手にしながら、辛抱強く待っていた。Sansは、Raysがこういう瞬間をどれだけ楽しむかをよく知っていた。
Sansは心を決め、言いたくない言葉をどうにかして口に出さなければならなかった。その忌々しい言葉を言う必要があった。勝利を掴むために、Sansは自分の快適な領域を飛び出し、再び頭を下げなければならなかった。彼の失墜を待ち望む悪魔に向かって。
Sansは頭を下げ、苛立ちを隠せない声で言った。
「... お願い 。」
そして——
「プッ——」
Sansはその声が聞こえた瞬間、すぐに顔を上げた。その嫌いな声が、今やすぐ近くから聞こえてきたのだ。彼の目は、嘲笑の表情を浮かべて彼のプライドを踏みにじるように見つめる姿とぶつかった。だが、それはいつものRaysではなかった——その姿は人間の形をしており、同じ服を着ていたが、顔は全く違っていた。
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「マジかよ?」
「俺がお前の顔を使うの嫌だろ?だから、もっとイケメンな人間の姿を取ることにしたんだ。どう思う?」
彼は広い笑みを浮かべ、Sansからの褒め言葉か、不満げな反応を待っていた。Raysはどちらの反応でも実際には気にしなかった。ただ、この大きく変わった外見でSansがどんな影響を受けるかを楽しむことだけが目的だったのだ。
一方で、Sansには、このRaysの馬鹿げた振る舞いがいつまで続くのか分からなかった。彼は、Raysが聞きたい言葉を言ったからといって、それで終わるような相手ではないことを知っていた。何か別の目的があるはずだ。そのため、Sansは無関心な態度を選んで応じた。
「さぁな、どう思う?俺、ファッションとかよく分かんねぇし。」
Raysはこの些細な返事をすでに予測していた。
「残念だな。お前を感心させる顔を決めるのにかなり時間をかけたのに、サンズ。」
それに対してSansはくすっと笑いながら返した。
「がっかりだろ。」
「少しね。最初からお前に期待なんてしてなかったけど。」
「Sansはすぐに目を岩壁に埋め込まれたクリスタルに向けた。それは明るく輝いていた。Raysは、Sansがすでに会話に興味を失っているのを見て、すぐにベンチに向かい、空いている場所を探して座った。Raysが隣に座っても、Sansは何の反応も示さず、ただ無関心さを漂わせていた。彼は顔を手で支え、沈黙を支配した。やがて、Raysが沈黙を破った。「うーん、まだ足りないな。うん、すごく不満だ。」Raysは体を寄せ、広い笑みを浮かべた。「さっきのお願いのことだけど、本気じゃなかっただろ、Sans。とてもがっかりだよ。」」
Sansは心の中でため息をつき、軽く目を転がしながら小さく息を吐いた。
「今度は何だよ?」Sansは隣のエコーフラワーを見続けたまま言った。
Raysはすぐには答えなかった。しかし、数秒後、ついに口を開いた。
「跪け。」
Sansはそのショックを隠しきれなかった。鋭い刺すような感覚が彼の扁桃体へと一気に流れ込むのを感じた。Sansは魂も心も、恐ろしく衝撃的な感覚に包まれた。一言が巨大な爆発のように感じられた——Raysは彼にとって最悪の状況を望んでおり、それはこれからも続いていくのだ。祈ることは無駄だった。Sansは自分の悪運を受け入れ、プライドを投げ出さなければならなかった。
「...それがお前の望みなら。」
Raysはすぐに満足そうに微笑んだ。Sansが不本意ながらもその尊厳を投げ出した姿をじっくりと観察していた。その満足そうな表情はSansにとって屈辱的であり、苦々しく酸っぱい一時的な勝利の祝賀だった。
「始めようか、Sans。」
Sansはすぐに立ち上がり、重い足取りでRaysに向かって歩き始めた。ここにいるのが自分とRaysだけであることに感謝した。自分の崩壊した姿を、多くの目にさらしたくなかったからだ。
右足を下ろし、頭を垂れながら、体は動かすのが非常に重く感じられた――まるで背中が1トンの石に圧迫されているかのようだった。心の中での抵抗は、Raysの力に屈することを拒んでいたが、その圧力を解き放ち、自分を最も低い位置に降伏させなければならなかった。Raysの前に膝をつき、最悪の敵の前に。
手は汚れた地面に触れ、全ての無意識の拒絶が尊厳を保とうとしていた。Sansは顔を上げ、両目に火花を宿したままRaysを見つめた。「お願いだ」Sansはその二つの言葉を口にした、それは致命的な毒のようで、口から汚物が出るように感じられた。喉の骨は、舌を刺す酸っぱい味で締め付けられるようだった。
そして、ついに…
「HAHA!おお、これを見ろ、私はこの美しい瞬間をよく覚えておこう。」
Raysは楽しそうに拍手を始め、その目は興奮に満ちた満足感で輝いていた。彼はそれを心から楽しんでいた。その表情は、コロッセオの闘技場で剣闘士の戦いを楽しむ王のようであり、頬を流れる血を拭いながらその快感に浸る姿そのものだった。
屈辱の感情はSansの喉元に引っかかっていたが、彼はそれを抑え込んだ。手を握り締め、魂の中の炎をゆっくりと消し去り、今にも爆発しそうな感情を飲み込んだ。
「まあ、もう立っていいぞ。満足した。すごく楽しかったよ。」
Sansはすぐに立ち上がり、膝についた砂や汚れを見つめた。そして、独裁者のように椅子に座り続けるRaysを見上げた。彼の黄色と赤の目は、獲物を憐れむ狩人のようであり、退屈した結果その獲物を再び逃がしてやるような目をしていた。
「15日間か。よし、その15日間は目を閉じてやる。」Raysは目を細めて言った。
「きっと退屈な時間になるだろうけど、それが面白い挑戦でもある。お前の計画がどう進むか、楽しみにしてるよ、Sans。」
Sansは膝と手を払いつつ、少し苛立った顔でRaysを見つめたが、感情を抑えていた。
「そうだな、お前は待つしかない。それが楽しいところだ。お前に最高の驚きを用意しないとな。」
Raysはすぐにニヤリと笑った。それは何か非常に面白いことを思いついた時の表情だった。
 「なあ、Sans。」Raysは左側を軽く叩き、Sansにもう一度座るよう合図した。Sansは無言で従い、その場に腰を下ろした。
 「お前に贈り物をやるよ。」
 「贈り物?」
 Raysは右手を開くと、火花がまるで花火のように手のひらに現れた。「アクセスだ。」彼の目��大きく見開かれると、火花の周りを数字の集まりが旋回し始めた。それは壮観な花火のショーのようだった。そしてRaysは再び口を開いた。
 「お前に好きなNPC一人へのアクセスを与えてやる。」
 Raysは混乱した様子のSansをじっと見つめながら続けた。「そのNPCはお前の仲間、友達、あるいは奴隷になるかもしれない。お前がどう扱うかは自由だ。そのNPCを完全に支配する権限を与えてやる。どうだ?」
Sansは驚愕した表情でRaysを見つめていた。まさか、本気か?混乱しながら考えた。
 Raysは一体何を考えている?何が狙いだ?なぜこんなことをする?頭の中で疑問が積み重なり、それはまるで積み上げられたブロックタワーのようだった。しかし、Sansは答えを得ることができなかった。いや、問い詰める必要もなかった。「アクセス」を得るということは、今の壊れた状態で選択肢がほとんど残されていない自分にとって拒むことのできない贈り物だったからだ。
「で?」RaysはSansをちらりと見ながら尋ねた。彼にはSansの答えが既に分かっていたようだった。
 「それは見事な贈り物だな。受け取るよ。」
 Sansは微笑みながら、決意のこもった目でRaysを見つめた。
 「その調子だ!」
そう言うや否や、RaysはSansの手首をしっかりと掴んだ。すると、焼けるような感覚が瞬く間に広がった。突然のまばゆい光が目を覆い、Sansは何も見えなくなった。彼は体と心に何かが侵入してくるのを感じた。異様な清涼感に襲われると同時に、頭の中がかき乱され、魂が激しく震えた。それは心臓が速く鼓動し、その衝撃が全身を駆け巡るような感覚であり、自分の力が完全に奪われるような混沌だった。
Sansは何が起きているのか理解できなかった。身体がけいれんし、まるで盲目になったかのような感覚が襲った。そしてその瞬間、全身と精神が強烈な衝撃を受ける中、Sansは何も感じなくなり、痺れるような感覚に襲われた。脚に力が入らず、完全に弱り切っていた。この感覚は、Raysが彼にUndertaleのすべての情報を与えた時の感覚と似ていた。しかし、今回はそれよりもさらに苛烈で、完全に予想外で、パニックに陥るほどのものだった。
そしてついに...
 「起きろよ、lazybones。」
Sansはパニックになり、目を開けた。彼はもう椅子に座っておらず、非常に乱れた状態で地面に横たわっていた。そして...
 「Rays?」Sansは周囲を見渡したが、そこには自分以外誰もいなかった。Raysはもうその場にいないようで、跡形もなく姿を消していた。彼を地面に残し、自分の玉座に戻ったようだった。
 「...クソ野郎が。」
Sansはよろめきながら立ち上がり、脚は震え、非常に疲弊していた。息は荒く、体力は極限まで低下していた。彼はあまりにも弱っており、庭の椅子まで這い寄り、背中を預けて長い溜息をついた。
 「まあ、約束は守ったな...公平なゲーム、ってか。」
SansはWaterfallを歩きながら、周囲の美しい景色を楽しんでいなかった。彼の目はターゲットにした人物を探していた。Raysの贈り物を受け取ったが、Raysには彼を助ける気などないことを知っていた。彼は、Raysが自分の���戦相手を助けようとする善良な人間ではないことを、そう単純に考えていない。Raysはただ、もっと驚きの要素で物事を盛り上げたかっただけだ。それが彼を生きていると感じさせる唯一のことだった。何の味もないプログラムではなく、運命を嘆く負け犬だ。そして、Raysは15日間彼を監視できなかったので、Sansが何を計画するのかを予測させることになった。
そして最終的に、あまり時間が経たず、彼が探していた人物、もちろんFriskを見つけた。しかし…
「彼はUndyneと戦っているのか。」
Sansは、Raysとの会話中にそのゲームがプレイヤーによって行われていることに気づいていなかった。彼は安全な距離から静かに戦いを観察していたが、突然、彼の心にひとつの考えが浮かび、彼を動揺させた。
今まで感じたことのないような衝動、背中を優しく撫でられるような感覚。冷静な口調で残酷な言葉を囁きながら、彼は平穏と微かな恐怖を感じた。いつもとは違う自分に迷い込んでいた。今回は、暗い深淵が手を差し伸べてきて、彼の手を掴み、強く引き寄せた。
「ようこそ」とそれは言った。Sansは目を閉じ、体をさらにその中へと漂わせた。かつての自分から遠く離れて。
「…試してみる価値があるかもな」と彼は囁いた。
Sansの第一歩は、最も暗い道に踏み出すことだった。
彼はその一つにじっと目を向けた。ナイフのように鋭い骨の先端が空中に突き出し、その先端から血が流れるのを待っていた。それは非常に間違った一歩だとSansは気づいた。しかし他に方法はなかった。彼はそれをやらなければならなかった。ためらってはいけない、さもなくばまた敗北の終わりを迎えるだけだ――彼の道徳は粉々に砕け散った。Sansの目の前に広がっているのは、命のないコードの集合体、自己の世界を理解することさえできないNPCたちだった。それをUndyneに見ようとした、以前のように彼女を見たくはなかった。
Sansは旧い自分を否定し、新しい自分で立っていた。
Sansは引き下がらない、彼はその危険な道を歩み続けるだろう。
「ごめん。」
数百本の骨の弾幕が素早く飛び、容赦なくターゲットを貫き、空中で紙のように引き裂かれた。Sansは無力なまま、自分の手で友人の一人が死ぬのを見守った。Undyneはすぐに死に、反応することも、なぜ自分がその残虐な死に値するのかも理解できなかった。血が流れ、彼の体を濡らした…まるで血に満ちた泥のプールで溺れているようだった。Sansは自分を引き渡し、さらに深くその中に沈み込んでいった。
Sansは自分の行動がひどく間違っていたことを知っていた。彼は許しを受けるに値しない。
だが、Sansはそれを受け入れた。犠牲にしなければならないものがあった。そしてそれが、彼の感情、彼の友人、そしてかつての自分だった。もはやユーモアのあるSansではなく、検察官は力の座から引きずり下ろされ、決して洗い流せない罪で汚れていた。
「ふふ、これがどういう感じか。」
血で汚れた手を見る幻想を見て、Sansは広く笑い、息を吐いた。
「本当に気持ち悪い。」
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myonbl · 3 months ago
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2025年3月16日(日)
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西本願寺の宿泊施設・聞法会館では、<おてらくご>という落語会を(コロナ前までは)時々開催されていた。今回久しぶりの開催ということで、会場へ行くつもりであったが(天気が悪いので)YouTube配信を楽しんだ。今日は笑福亭松喬師、本願寺に関わりの深い「お座参り」を初めて聴かせていただいた。画面でおわかりの通り、Appleの教職員割引の最後の戦利品=iPadMiniの初めての出番でもあったのだ。
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4時45分起床。
日誌書く。
ツレアイの起床を待って、洗濯開始。
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朝食には、昨晩の鍋の残りの野菜をいただく。
珈琲をいれる。
洗濯物を干す。
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noteから5周年記念のバッジが届く。コロナによる在宅ワークを意識して、<私と落語>というメモを書き始めたのが最初だった。4月からは、noteの役割についても、再考しないといけない。
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ライフ西七条店で買物、特売のハウスの袋麺、2割引の鶏もも肉。
BSでカーリング世界選手権予選(女子)を観つつ、iPadをセットして<おてらくご>の開演を待つ。
笑福亭松喬師の「お座参り」「テレスコ」の2席を楽しむ。
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ランチは2色スパ、タマゴとブロッコリー・ベーコンとピーマン。
録画番組視聴、土曜は寅さんから
第22作 男はつらいよ 噂の寅次郎
旅の途中、静岡県の大井川にかかる蓬莱橋で雲水(大滝秀治)に、“女難の相”があると見立てられた寅さん。早速、失恋した小島瞳(泉ピン子)を慰める。さらに、木曽路をゆくバスの中で、博の父・飈一郎(志村喬)と再会。「今昔物語」を例えに“人生の儚さ”を教えられ、柴又へ戻ってくる。ちょうどその頃、とらやには、美しい女店員・荒川早苗(大原麗子)がつとめていた。美人の出現に「今昔物語」もなんのその、張り切る寅さんだったが…  離婚を決意して別居中の美しき人妻、荒川早苗に大原麗子。早苗と二人きりのとらやでの寅さんのリアクションがおかしい。第1作、第8作に続いて、これが三度目となる志村喬演じる、博の父と寅さんの絶妙のやりとり。コミュニケーション不全の博よりも、飈一郎と寅さんとの関係は濃密である。「今昔物語」が、いつしか「コンニャク物語」になってしまう寅さんにとって、やはり美女の出現は、人生そのもの、という展開の妙。早苗のいとこで、彼女に密かな好意を寄せている高校教師・添田肇を、東映の室田日出男が好演している。
軽く午睡。
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セントラルスクエア花屋町店で買物、煮出しパック・削り節・小麦粉・アスパラガス・茄子。
今夜は天ぷら、手羽中・アスパラガス・サツマイモ・ナスを揚げる。
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食事しながら録画モードでサラメシ、今夜が最終回。
(最終回)首里城の漆職人▽小豆島しょうゆ蔵▽ドクターイエロー
初回放送日:2025年3月13日
14年にわたってお届けしてきたサラメシもいよいよ最終回!▽2019年、火災に見舞われた沖縄の首里城。再建に携わる漆職人の仕事ぶりとサラメシを拝見!▽香川県・小豆島で150年以上続くしょうゆ蔵。昔ながらの木おけ仕込みのしょうゆづくりにこだわる中、5代目が始めたのが…▽1月末に引退したJR東海のドクターイエローT4編成。引退目前の検測にお邪魔し、共に歩んできたベテラン検測員の仕事とサラメシを見つめる。
日本の話芸から、
春風亭一之輔 落語「笠碁」
初回放送日:2025年3月16日
春風亭一之輔さんの落語「笠碁」をお送りします(令和7年2月28日(金)千葉県袖ケ浦市民会館で収録)【あらすじ】とある大旦那、子どものころから仲がいい別の店の大旦那と、へぼな碁を打つのがなによりの楽しみ。ある日、「待ったなし」にしましょうと決めて打ち始めたのだが、やはり待って欲しいと言い出してしまう。相手は待てないと拒むので、あの手この手で説得するのだが…
刑事コロンボ
(10)「黒のエチュード」
何度見ても新しい!ミステリードラマの金字塔。映画監督としても活躍した俳優のジョン・カサベテスが、愛人のピアニストを殺害した指揮者を演じる。 一流楽団の理事長の娘を妻に持ち、楽団の指揮者を務めるアレックス・ベネディクトは、愛人のピアニスト、ジェニファーから離婚を迫られていた。離婚すれば今の地位を確実に失うアレックスは、コンサート本番前に楽屋を抜け出し、ジェニファーを殺害。用意しておいた遺書をタイプライターに残して自殺に見せかける。だが、タキシードの襟につけていた花を現場で落としたことに気づく。
片付け、入浴、体重は2日で1,100g増。
パジャマに着替え、スコッチ舐めながら日誌書く。
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辛うじて3つのリング完成。
明日からは、退職後の生活リズム形成のための2週間、頑張らねば。
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kennak · 10 months ago
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エジプトにいた増田です。 思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。 そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。 大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。 (いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。 シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。 また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。 ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした) 先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。 イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。 お経的��いうのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。 日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。 何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。 (お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです) 一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。 ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。 外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。 話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。 キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。 何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。 現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には���味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。 英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。 特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。 クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。 音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。 またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。 こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。 この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。 わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。 良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。 余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。 カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。 「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。 では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。 英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。 ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。 実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。 別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。 同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。 あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。 これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。 その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。 では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。 色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。 キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。 この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。 大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。 そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。 まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。 そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。 人生、旅じゃないですか。
エジプトにいた増田です。 思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑し..
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houteiyugi-movie · 2 years ago
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特別講義 in 専修大学のイベントレポートが到着!
公開を前に本日10月26日(木)、映画の舞台にロースクールが設定されていることにちなんで、法律家を志す学生が集う専修大学法学部の法廷教室にて本作の特別試写会を開催!上映後には原作小説を手がけた五十嵐律人さん、本作の深川栄洋監督、専修大学法学部の関正晴教授による“特別講義”と称してトークイベントが行なわれました。さらにイベントの途中で、法律家を目指す学生たちにエールを送るべく、主演を務めた永瀬廉さんがサプライズで登場!学生との質疑応答も行なわれ、会場は大きな盛り上がりを見せました。
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弁護士でもある五十嵐さんは、原作となる小説を執筆したきっかけについて「もともと法律が好きだったんですが、その面白さがなかなか法律に携わってない方に伝わらないという思いがあり、小説という形で法律の面白さを描けないかと考えました。映画でも出てくる“無辜ゲーム(※生徒たちがゲームとして繰り広げる模擬裁判のようなゲーム)”がアイディアの着想となり、そこからどんどん発展していきました」と明かしました。
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深川監督は、この小説を映画にする上での難しさについて「まず法律用語が難しい(苦笑)。若い人にどう見てもらい、乗ってもらうか? どういうふうに広い裾野に物語の面白さ、法律の面白さと危うさを感じさせるかが難しいポイントでした」とふり返りました。
そうして完成した映画について、五十嵐さんは「どの時間を切り取っても面白い。事件だけでなくそこに至る過程や裁判のパートも飽きさせない工夫や展開の仕方があって、原作をより面白く、エンタテイメントにして完成させてくださって感謝の気持ちでいっぱいです」と称賛を送りました。
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関教授は法律家の視点で、本作について「いろんな場面で法律の制度や手続きについて出てきますが、そこをうまく使うというのが(よい)アイディアだなと思いました。時効や再審制度、証拠の追加などもそうですし、証人尋問のシーンは特に感心しました。一問一答で現実の裁判に近いものを感じました。普通の刑事ドラマだと主人公が喋りまくって尋問している感じではないんですが、今回の映画は尋問の仕方が実務に近かったです」とそのリアリティを含め、絶賛!これには五十嵐さんも「刑事訴訟法を専門にしている先生のお墨付きをいただけて嬉しいです」と笑みを浮かべていました。
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そして、イベント中盤に完全サプライズで主演の“セイギ”こと久我清義を演じた永瀬さんが登場すると、会場は悲鳴のような歓声に包まれました! 真ん中の裁判長の席に座った永瀬さんは「緊張します…」とはにかみつつ「(映画の中では弁護士なので)こっち側じゃなかったので、ホンマに全部が見渡せる席で、特別な感覚がありますね」とご満悦。学生たちに向けて「弁護士の役をやらせていただき、ロースクール生の頃も少しだけ演じさせていただいて、弁護士になるために並々ならぬ努力をしないといけないことをこの映画を通じて学びました。みなさんも、そういう思いをされているかと思うと、少しだけみなさんのお気持ちがわかるし、親近感がわきます」と笑顔で語りかけました。
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そんな、永瀬さんの劇中での弁護士ぶりについて、関教授は「一問一答の形式で、テキパキと杉咲花(織本美鈴役)から言葉を引き出すところの歯切れが良く、まさに法廷でやっている尋問に近かった」と称え、永瀬さんは良い弁護士になれるか? という質問に「訓練を積んでいけば」という条件付きで太鼓判を押しました。これには、法律用語のセリフに苦戦したという永瀬さんは「えげつない訓練じゃないですか!」と苦笑いを浮かべていました。
学生の中には劇中の無辜ゲームのようなことをやった経験があるという人も。ある学生は、この法廷教室で「模擬裁判をやりました。学生が一からシナリオを考えて、役になり切りました」と明かしました。ちなみに裁判の中身は「殺人事件で死刑か? 無期懲役かなど量刑の争い」とのこと。
別の学生は「おとぎ話の『ヘンゼルとグレーテル』を題材に、2人が魔女を殺したことを立証できるか?」というユニークな模擬裁判をやったと語りました。これに“裁判長”永瀬さんは「テーマが面��いですね!」と感心しつつ「ヘンゼルとグレーテルについてそこまで知らないけど、殺すのは良くないですね。有罪で!」と即判決を下し、会場は笑いに包まれました。
また、法律を学んでいた役に立ったことについて、ある学生は相続法の知識を今後の遺産相続の際に活かせると明かし、労働法を専門とする別に学生は、アルバイト先での有給や休業補償について、バイト先に働きかけた経験を明かし、永瀬さんは「法律は僕らの生活と切り離せないので、知っておいて損はないですよね。知識があると、行動もできますもんね」と感心しきりでした。
またある女子学生は永瀬さんに「法律を学んでいる女性のイメージ」についての質問が。永瀬さんは、法律家になるための勉強の大変さやその量の多さに言及しつつ「過酷な状況に耐えられる忍耐力がある強い女性が多いのかなと思います」と語りました。
また、学生からは本作の撮影において苦労したことについての質問も。永瀬さんはやはり、耳慣れない法律用語に苦労したようで「発音も含めそれらをすらすら言わないといけなくて、常にそうした言葉が板についている感じで芝居をしないといけない。一度、法廷シーンで噛んでしまって、長回しでみなさんに申し訳なかったですが、2回目ももっと噛んでしまって…(苦笑)。スイッチが入ると取り戻しづらい空気感で、大変でした」と緊張感のある法廷シーンならではの苦労も明かしました。
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五十嵐さんは、そんな永瀬さんについて「なりたての弁護士という役で、専門家だけどわからないところもあるんですよね。僕も同じ気持ちでしたし、そういう不安や悩んでいる姿や、法律家も完璧じゃないところを表現されていて素敵でした」と自身と重ね合わせてその演技力、表現力を称えました。
さらにある学生からは、King & Princeが歌う本作の主題歌「愛し生きること」について「お気に入りのフレーズは?」というユニークな質問も!永瀬さんは「綺麗な嘘で抱き締めるから」というフレーズを挙げ「全体的に今回の映画のために作られていて、バシッとハマった感覚があるし、どこかで救われた自分がいる感覚もあります。『綺麗な嘘で抱き締めるから』という言葉は、どこかでセイギの美鈴(杉咲花さん)に対する気持ち、馨(北村匠海さん)に対する思いに通じる部分があると思うし、好きです」と明かしてくれました。
イベントの最後に永瀬さんは「この物語はセイギと美鈴と馨がメインで進んでいきますが、それぞれが抱えている過去や思い、人それぞれに自分の正義感があると思うけど、その正義感や信念を突き通すことの苦しさ、つらさ、難しさも含めて描かれてると思います。あまり、法律が近くない存在の人十分に楽しんでいただけると思うし、映画をきっかけにもしかして法律に興味持ってくださる方もいるんじゃないかと思います。余白を残して、考えていただくところが多々ある映画なので、見終わって感想を話し合って、それぞれの意見を交換し合っても面白いと思います」と呼びかけ、温か��拍手に包まれてイベントは終了しました。
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公式サイト
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chaukachawan · 7 months ago
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もうちょっとだけこのまま 
舞原です。最後は同期。新人の時の役者紹介を見たりしながら書きます。みんなあれから1年半経ったけどあの時みんなに対して何を感じてたのかしら。今改めてここで言いたいこと・言えることを書きます。今回も1番好きな役とかセリフを添えて。 
今回の同期紹介の厚みは2年半の厚みです。新人のときにも1年の厚みはあるので新人が厚い分こっちが薄かったり、新人が薄い分こっちが厚かったりします。悪しからず。 
たぴおか太郎 
2年半疲れ様です。なんだかんだずっとちゃうかにいましたね。別に今更言いたいこともないんですよね。私が何かを紹介する必要もないと思います。結構迷惑かけたし結構迷惑かけられましたが、まあお互い様ということで。あなたのおかげてよりちゃうかが楽しいものとなりました。ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。 
やっぱりこれかな
22新人/OLサンタと幸福論 斎藤 
「そんな…嘘おおおおおお!!! 」 
岡崎仁美 
あなたが書いたら書きましょう。それが私にとって1番良いからです。書いてくれたら絶対書くことだけは約束しますから。 
あまりにもお似合いですね。 
24秋公/BE YOU AGAIN 寧々 
「これでもうおしまいなんだなあ」 
水琴冬雪 
君は本当に素晴らしいね。ありがとう、コントに出てくれて。実は新人しか座組が一緒じゃないし、一緒と言っていいかも怪しかったから一緒にコント出来て良かった。こんな恥ずかしいセリフをスラスラ喋れるんだもの。ありとあらゆる身内に気持ち悪がられてて楽しかった。心がポンポン跳ねたよ。…あれから1年半ほど経ったけどさ、ベガはもうあの時の話は「過去の話」として消化できているのかな。まあでもベガはもう「前進」は出来ているんだろうなぁ。 
これはあくまで最近の話なんだけどさ。私はベガのことを新人の頃は「不憫枠2」って思ってたらしいんだけど、そんなこともないなって思っちゃった。本当になんなんだろうね。不当だなっていうことをする人って結構いるし、ベガからしたら私とかその筆頭なんだろうなとは思うんだけど、その不当にもちゃんとそれなりに理由もあるのかなって思ってしまった。 まあ普通に不憫な時もあるけど。
1年初めにやったエチュードとか覚えてるに決まってるよ。だってあの伝説のBLエチュードが生まれた回なんだから。2年半の間エチュードとかやってたけどあれに勝るものはないと思うなぁ。 
(PS) 
34期の中でもベガだけちょっと団員紹介の書き方を変えたんだ。特別仕様なんだけど、気づいてくれたかな?気づいてくれたら嬉しいな。 
なんだかんだ役者そんなやってないんやね 
22外公/ゴミたちの日 32巻 
「そこのあなた!...悩みがあるわね」 
緒田舞里 
まりお。本当にずっとちゃうかにいましたね。私とは正反対。ちゃんとちゃうかのことを好きで、楽しい場所として感じてたのでしょう。いや、むしろ自分でちゃうかを「心地のいい場所」にしたんでしょうね。まりおはそれを成し遂げたんでしょう。本心からまりおのこういうところ凄いなと思います。デカい名前としては新歓隊長とか振付くらいしかないかもしれないですけど、ちゃうかを裏から支え続けてましたね。だからこその今のまりおがあるんでしょう。私には出来ない生き方だからこそ素直に尊敬します。新人の頃の私はまりおのことをどうやら「不憫枠」と呼んでいましたが今のあなたにはそんな面影一つも感じないですね。
最近やっとまりおがちゃんと優しい人間なんだなって思うことがありました。ビアゲの本番前のことです。緊張、というか不安になってた時に「大丈夫、あんなに練習してきたんだからいける」と鼓舞してくれましたね。「いや流石にまりおの方が練習してたやろ」とは思いましたが、「あれ、まりおってこんなこと言ってくれる人間だったっけ」って思って。こういう励ましって一部の人間に対してしかやらないのかなぁとか思ってましたけど意外にも私にもやってくれてびっくりしました。 
朝までお話付き合ってくれてありがとうございました。引退し切るまでにあなたのことを知れて良かったです。 
あなたはニノでしょう。 
24新歓/夢にまで魅せられて 二宮 
肆桜逸 
新人の頃はどうやらうちらには共通の話題が割と少なかったそうです。でも2年を経て2人で話せることが増えたような気がします。もうドアを擦ることも少なくなってしまい、あれも2年前の公演になってしまいました。どうやら1年の時のマダミスでは女性キャラRPしかしていなかったようですが、最近はもっぱら男性キャラRP、というかスチルRPしか見ていない気がします。まあ何でもいいんですけどね。今後も遊んでいきましょう。稽古場にいるときに「手持無沙汰で困ったからとりあえずスチルに話しかけとこう」いうのが何度かあったのでありがたかったです。 
これはほぼスチルにしか伝わらないからここでちょろっと出すんですけど「妄想、サイゼリア」のタイトル名は「奇想、アムネジア」をオマージュしています。ちょっと韻が踏めるでしょう。マダミス何も関係ないんですけどね。 
新人は殿堂入りです。なのでこれ。 
24外公/タイムマシンの作り方 園田 
「クソが!!!!」 
児 
やっぱ基本的に本心は知られたくないんですかね。それこそ2年半の厚みと言いますか、関わっている時間自体は結構長くなっているもんだから結構そういうものオープンにしていってるのかなとか思ってたけど、私が勝手に思っているよりかはクローズなのかなぁとか思ったり。まあでも新人くらいの頃よりかはオープンなのかも。知らんけど。 
演劇の話をここでするのはもう別に野暮な気もすると言いますか、みんなわかりきってるだろと思うので触れません。演劇外で関わる方が心地いいことの方が多いですし。在りが欲しは良かった。それだけは言っておく。 
最後にこんな文句つけるのもおかしな話ですが、あなた新人の時の役者紹介で長く書かれすぎです。長く書いたのは私ですが。あの頃は言いたいことだらけだったのでしょうね。そう考えると対応の仕方上手くなったなって思います。 
さすこた 
24秋公/BE YOU AGAIN 伊織 
「僕は観客、美菜は役者。」 
VIVI 
去年の秋公以来まじで見てない。元気に史跡巡りしてるのかなぁ。去年の外公バラシ帰りにコンビニで「今日はビール一杯で我慢する」みたいなこと言って缶買ってたのが印象的。九州の人ってやっぱりみんなお酒強いのかなぁ。 
らっしー 
座長。らっしー以外考えられなくてほぼ押し付けられてるみたいなもんでしたが、完遂してくれてありがとうございます。ごめんな、うちらに座長の資格がなくて。でもこの34期メンバーで上に立てるのはらっしーしかいなかったと思います。バイタリティがかなり高くおよそちゃうか民には似つかわしくないのですが、意外と抜けてるところもあってちゃんとちゃうか民らしい一面もそなえています。バ先で何かと破壊してしまっている模様です。
秋公演期間中結構ご飯食べたりできて楽しかったです。ありがとう。体動かしに行きましょう。 
らしこはこれ一択 
24オムニ/用もなしでは怖いし 先輩 
「せーんぱい」 
統括のフォーニャー 
失われし統括。ふぉにゃも稽古場被ったのは新人と今回だけでメチャ少なかったけど、今公演で結構関われたのでよし。ちゃうかの人間の凸と凹に対して綺麗に形を変えてはまることのできる稀有な存在。INFPの星ですよね。何がすごいって凸にも凹にも対応できること。なんでもフラットにできるのが本当に強い。ESに書いてたりするんかね。でもなんか急に言葉が強くなることもあるのがちゃんと人間としてのギャルだなぁって感じがします。これ読まれたら普通に「は?何言ってんの」とか言われそうだし。 そういうの全部ひっくるめてフォーニャーのすごいところだったなぁって思います。
やっぱりこれずっと好きだわ。 
22オムニ/題目未定 
「街並みが!街並みが綺麗だと思うのも結局人間だからであって、乱数を眺めているの大して変わりが無いのです!」 
舞原の絞り滓 
まほろという名前は04 limited sazabysの「mahoroba」という曲から来ています。折角なので最後に添えました。絞り滓は残留思念体からインスピレーションを受けてます。 
これはどっちも大切な思い出。先輩からと後輩からのプレゼント。
23秋公/息を吸う、吐く ケイ 
「僕…学校…行こうかな…」 
24外公/タイムマシンの使い方 須藤 
「だがしかし、それは我々がタイムマシンを諦める理由にはならない」 
じゃがりーた三世 
レプさん。レプトン今Tumblr見てるんかね?レプさんは2回生以降しっかり思想を表に出すようになったなぁと。脚本通ったのがデカいんですかね?レプトン独自の視点で物事に斬りかかるようになったなぁと思います。それがレプトンの面白さを加速させてると思います。ちゃうかには付かず離れずといったところで、多分目的であった「脚本を書く」ための役者経験をある程度積んでからはあまり見かけることもなくなってしまいましたね。まあ実験も忙しいだろうし。結局気軽に誘えるちゃうか民は作れなかったんですね。 
友達の作り方よな。今からそんな気軽に誘える友達って大学でつくるのは難しくないか…?とは思っちゃいますね。やっぱりちゃうかに見いだせませんかね?今更過ぎるか? 
んで、新人の頃から言われてますけど34期PVは結局どうなったんですか?撮ったけどあげるんですか?あげないんですか? 
書いてたら疑問形ばかりになってしまいました。
 
レプさんはやっぱ新人でしょ〜 
22新人/OLサンタと幸福論 課長 
「それにしても、新人ちゃんたちはどこ行ったのかな~。まだ、質問に来てくれないな~。うへへへへ。」 
宮濵一颯 
ロキ。最近はインスタを使いこなしているようです。留学はどうなんでしょうか。人生観変わるんかね。帰ってきたら留学の話沢山聞かせてください。ロキは感情的に寄り添うということにはあまり向いてなくて、寄り添う前にロキの価値観の中で咀嚼するために質問をしてくることが多いです。人によってはこのロキのことを「ノンデリ」と表現する人もいるでしょう。ある種ウィークポイントですがここがロキのいいところだと思います。感情的な時に理性で抑えてくれる方向に働いてくれることもあるし、逆に強く共感してくれた時は「わかってくれるんだな」というパワーに繋がります。 
エンドロ、良かったですね。演劇っていう分野はまさに「選ばれた人と選ばれなかった人」というのが頻繁に見えるものですよね。自分が今まで個人競技ばっかりやっていて「選ばれる」というのにあまり慣れていないからこう感じるだけでしょうか。選ばれなかった側の描写が上手かったのは私も感じました。ロキが書いた役者紹介を見て思ったのですが、ロキはしっかり敬意を払って人に接していると思います。これは演出のときも、演出じゃないときも。こういうところがロキに人がついていく理由なんだろうなぁって思います。まあもうちょっと他の演出に対しても謙虚であってもいいとは思いましたがね。香夜も良かったですね。楽ステコンちゃんのシーンあたり幕裏で泣いてる人いましたけど結構つられそうでしたよ。 
アドリブめっちゃ面白かったなぁ。 
23秋公/妄想戦争☆クレイジーオンザベッド セールス 
「大好きだ!」 
アリリ・オルタネイト 
今期まじで授業被らなかった。こっから研究室も配属だしうちらの化学科同盟ももう終わりに向かってきているのかもしれない。どうせ研究室被らんし。悲しいね。でもイルルのおかげでかなり私のGPAが回復しました。ほんまにありがとう、今一番実感している。IUPSの人脈に感謝です。2年後期とか3年前期はほとんど毎日顔を合わせていて、色々マウスとか某人のこととかの日常的な話とかが聞けて楽しかったです。やっぱり学科に気楽に話せる人が一人いるかいないかでQOLが激変するので。 
イルルこどもシリーズのうちの2人目 
22新人/OLサンタと幸福論 娘 
「プレゼントが、プレゼントがぁぁぁぁ、うわぁぁぁぁぁ 」 
もし人生をやり直せるとしたらどう生きる?と考えた時にもっと違うように生きることも出来るんだろうなぁとか誰しも少しは思うじゃないですか。 
ちゃうかで出会った人間と出会えないとなるとそれは少し嫌で、嫌だと思えるくらいにはこの人たちと大学生活の1部を過ごせて良かったなぁと自分でも思えてるんだなって思いました。 
劇団ちゃうかちゃわん、ありがとうございました。舞原でした。
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elle-p · 9 months ago
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Transcription of Persona3 The Movie #1&#2 Fanbook's Producer interview
INTERVIEW
プロデューサー
足立和紀
Profile
株式会社アニプレックスのプロデューサー。『ペルソナ ~トリニティ・ソウル~』、TVアニメ『ペルソナ4』、TVアニメ『ペルソナ4 ザ・ゴールデン』のプロデューサーを歴任。『ペルソナ』アニメシリーズ以外では、『ガンスリンガー ストラトス』 『閃光のナイトレイド』等の作品をプロデュースしている。
「“生と死” を彼が最初どう思っていて、何がきっかけとなってどのように変わっていくのかを 考えました」
01
PERSONA3 THE MOVIE
Creators Interview 1
Producer
Kazuki Adachi
『ペルソナ』シリーズとはかなり長いお付き合いになっていると思いますが、どのような思い入れがありますか?
足立 そもそも原作ゲームがとても好きなんです。学生時代に『女神異聞録ペルソナ』をいちゲーマーとしてプレイして以来ですね。1作目はもう本当に難しくて(笑)。ダンジョン内でのセーブポイントの少なさに泣かされたことを今でも鮮明に覚えています。PSP版では助かりました(笑)。あと、当時から非常に印象的だったのがべルベットルームの曲ですね。『全ての人の魂の詩』の、あの曲、あのフレーズとボイス。当時、歌声がBGMに含まれていること自体、ゲーム音楽で相当珍しかったんじゃないかと思います。仕事としての関わりですと最初に『真・女神転生Ⅲ-NOCTURNE-』のサントラCDを担当したのですが、その際に目黒さんとお会いした最初のご挨拶で、ベルベットルームの曲が好きなんですって話したことを今でもよく覚えています。『真・女神転生Ⅲ』の後、『ぺルソナ3』のサントラもやらせていただいて、それがおかげさまでゲームサントラ史上稀に見る大ヒットとなりまして、そこから『ペルソナ 〜トリニティ・ソウル~』をはじめとするアニメ化という話にプロジェクトとして加速していったんです。いちゲームファンとしてぺルソナに出会い、それがこういう風にお仕事として続いてきているのは本当に幸せなことだと思います。
『ペルソナ3』が改めて劇場版という形でアニメ化されるまでには、どのような経緯があったのでしょう。
足立 『トリニティ・ソウル』は『ペルソナ3』というゲームを原案とはしつつも、オリジナルの世界観を描かせていただきました。当時はいろいろな経緯があってそういう形になったのですが、それでも、いつか原作のストーリーをそのまま描く形でもアニメ化したいという気持ちを持っていました。ただ、テレビアニメとしては難しい部分もあるなと思っていて、これはできれば複数章立ての劇場作品にしたいという気持ちを胸に抱いていたんです。でもいきなりそんな何部作もの映画化というのも非常に大きなプロジェクトになってしまうため、先にテレビアニメとして非常に相性が良いと思った『ペルソナ4』のほうを原作のストーリーに忠実に制作しました。結果、そのヒットがあってようやく下準備が整って、念願の形でこの企画を動かすことができるようになりました。
テレビアニメでは難しい部分というのは、 どういったところですか?
足立 ストーリーや演出、表現的な部分だけでなくいろいろなところを総合してということにはなるのですが、例えば召喚シーンで銃口を自分に向けて引き金を引くというのも放送上の倫理面でも気を使うところです。ストーリー構成も『ペルソナ4』はテレビ尺(1話30分×何本)の放送ペースに上手くハマる波になっていると思うのですが、『ペルソナ3』はもう少し大きな波でドラマ展開があって、1話30分の掛け算ではまとめづらいなと思っていました。
原作ゲームのシナリオは膨大ですが、劇場版の内容はどのように決めていったのですか。
足立 どこを残してどこを切るかということは、もちろん脚本会議上のスタッフみんなで考えています。それでも『ペルソナ4』のアニメから一緒にやってきた人達だったのと、あれだけ人気のある原作ですので、ユーザーにとって好きなシーンや、ここを描いたらファンが喜んでくれるよねっていうところは言わずもがなという感じで、感覚を共有できていました。
ストーリーの主軸として理の物語が続き、それとは別に第1章では風花のエピソード、第2章では荒垣と天田のエピソードに焦点が当てられています。そういったバランスも会議で決まっていったのでしょうか。
足立 劇場版で特に決めていったということでもないのですが、アニメでは結城 理という主人公が、例えば荒垣たちのエピソードにも絡んでくるという点が違ってくるところですね。原作だと、実は主人公のドラマとあのふたりのドラマってまったく切り離された状態なんですけど、それでは映画として結城 理の物語にならないので、うまく繋がるように構成しています。第1章の風花と夏紀のドラマについても同じことが言えます。どの章もそうなのですが、オリジナル要素を盛り込んでいるところは、ゲームだとプレイヤーと主人公がイコールであるため、主人公のドラマと他のキャラクターのドラマに距離感があるものなんです。アニメでは主人公のドラマにも他のキャラクターがいますし、その逆もあります。そこを調整していくチューニングの部分を、アニメのシナリオ打ち合わせでまず考えないといけないところでした。
理の心情描写ができるところも、アニメならではのポイントですね。
足立 企画としてまず、理の成長物語にしたいということがありました。『ペルソナ4』もそうだったのですが、主人公は最初 “空っ ぼ” な状態で、物語が経過するに従い、仲間との絆で満たされていく、成長していくという形です。これは原作にも共通したテーマだと思いますから、そこは大切にしなければいけない。加えて『ペルソナ3』ならではの設定として、主人公・結城 理は最初とある理由から死に対しても無頓着なんです。そんな彼が、仲間との絆を紡いでいくことによって変わっていくというのが、全体の大きなテーマとなります。
理の性格についてはどのように決まっていったのでしょうか。
足立 原作ではプレイヤーによる部分でもありますから、劇場版のシナリオ打ち合わせでは最初に考えるところですね。アニメでの主人公がどういったキャラクターで、どういうことをしていく物語にするのか。原作の持っているテーマとちゃんと関連付けていかなければいけないところで、“生と死” を彼が最初どう思っていて、何がきっかけとなってどのように変わっていくのかを 考えました。
原作ユーザーの意識を想定しながら?
足立 ゲームユーザーにとってみれば、主人公ってひとりひとり持っているイメージが違うと思うんです、それこそ、『ぺルンナ3』のどういうところが好きなのかというのも人それぞれ違ってくるところだと思いますし、戦いの要素もあれば、仲間たちとの日常やコミュニティキャラクターたちとの関わりに重点を置いている方もいると思います。それらも主人公が成長していく要因になってくるわけですから、できるだけ多くの方にとって外れてはいないという形になるよう意識しています。それからゲームをプレイしていない方にはわからないと思うのですが、ゲームの主人公は喋らないんですよね。なので、理のセリフは基本的にほぼアニメオリジナルのものです。ゲームの中は『ぺルソナ!』とぺルソナ名くらいしか声聞くことはできないですし、あとは選択肢を選んだときにどう言ったのかがわかるくらいです。アニメでは、その選択肢をひとつひとつ拾っていって、肉付けしていってドラマに組み込んでいます。『ぺルソナ4』のときもそんな感じだったのですが、『ペルソナ3』の場合、ゲーム内の「どうでもいい」という選択肢がある種この作品の主人公らしくも見えたので、そう言う主人公がどういうキャラクターなのかを想像しながら理の性格が作られていったと言うこともできます。「死ぬことなんてどうでもいい」、「生きるなんてどうでもいい」、「友達なんてどうでもいい」出発点の “空っぽ” なキャラクターなんです。そんな彼が、「どうでもいい」と思えなくなっていくことが描かれていくわけですね。
第1章と第2章で、ここを見てほしいというところを挙げていただけますか
足立 映画ということを意識した作りになっていますから、アクションシーンもひとつひとつ派手になっています。テレビでは時間や予算の制約もあってなかなか難しい表現も積極的にやっているので、そういったところを是非見ていただきたいですね。あとは、テレビとはまた違った間の取り方もポイントになると思います。僕が一番印象に残っているのは、第2章で天田が墓参りをするシーンなんですけど、ああいうシーンとかも非常に映画的で、テレビではなかなか取れないような間で表現をしています。あとは、劇場作品ということで(第1&2章キャラクターデザイン兼アニメ���ションディレクターの)渡部さんをはじめとするスタッフの皆さんの力のこもったシーンの数々も見所になると思います。例えば第1章での理の召喚シーンとか、第2章冒頭のホテルでのバトルとか、渡部さんに存分に力を発揮していただいたシーンです。これらのテレビでは難しい部分の表現が、劇場アニメで『ペルソナ3』を再現したいという企画における一番の成功例と言えると思いますし、こういうシーンを見たくて劇場版の企画を立ち上げたと言っても過言ではありません。第2章で言えば、最後の荒垣と天田のシーンもそういった例として挙げられると思います。
最後のシーンのために、前半と後半で大きな心情の落差を作ったと聞きました。
足立 複数章立ての作品にする上で、第2章のラストシーンをあそこにするというのは割と最初から決めていた事ではあります。第2章の終わりがあのシーンというのは、非常に映画的な終わり方というか、ある種すごくショッキングな終わらせ方にもなっていると思いますが『ペルソナ3』のお話全体として、非常に重大なテーマを秘めたシーンなので、そこを印象的に見せる上で前半をなるべく相反するような明るい日常であるとか青春、仲間との絆を描いています。
第2章までの段階では言いにくいところもあるかもしれませんが、ご覧になった方々にどんなことを感じて欲しいと思いますか?
足立 そうですね。感じて欲しいというと上から目線になってしまいますし、劇場版自体をというよりも、原作ゲームが面白いんだ、ということを伝えたいですね(笑)。こんなに面白いゲームがあるということが、少しでもこのアニメから伝わればと思っています。自分もやはりゲームの『ペルソナ3』をやって面白いと思い、アニメでその魅力を伝えたかったんです。もちろん、この劇場版で原作『ペルソナ3』の持つ魅力を全て描ききっているというつもりはありませんので、興味を持ってもらって、ゲームをまだやっていないなら是非原作ゲームの方を遊んでいただきたいなと思います。まだゲームを遊んでいない方は、こんなに面白いストーリーをゼロから体験出来るんですから、なんて羨ましいんだろうなって思いますよ(笑)。
他スタッフの方々からお話を伺っていても、原作への思い入れを強く感じました。
足立 この現場は、1日でできるものではないと思っています。そういう意味では、テレビの『ペルソナ4』の存在は大きかったと思うんです。クリエイターひとりひとりだけでなく、スタジオと周辺の人たち全体の意識があって、作り上げてこられたものです。とにかく自分がみんなに言い続けたのが、原作『ペルソナ4』をまんま描きたいんだということで、それを口酸っぱく言い続けた結果の『ペルソナ4』のテレビアニメがあって、その成功体験をみんなで共有できた。そのムードのまま『ペルソナ3』を作ろうと一致団結してやってくることができたんだと思います。
足立 ゲームをプレイされていない方はもちろん、プレイ済みの方でも先の展開を楽しみにしてくださっていると思いますので、この先どうなるのかはお話しできませんが、それでも自分自身がゲームをプレイした人間として言わせていただくと、原作ファンにとって物語最大のクライマックスは、やはり最後のシーンだと思うんです。それを描きたくて企画を立ち上げたといっても過言ではないので、そこを楽しみにしてもらいたいですし、自分自身も楽しみです。
それでは、ゲームをすでにプレイされている方には、どんなところを楽しみにしてほしいですか?
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moko1590m · 2 months ago
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「分割統治+権威主義」的な支配から逃れて生き抜くために、個人が、現在の社会状況において出来る対処法の中で、「その支配をしている側の一員になる」こと以外の対処法を、できるだけたくさん教えてください。
「分割統治+権威主義」的な支配構造は、社会を分断し、個人の自由や連帯を抑圧することで支配を強化する戦略です。このような環境で、支配側に加担せずに生き抜くためには、個人が主体性、知恵、コミュニティを活用して対抗する必要があります。以下に、現在の社会状況(2025年5月時点)を考慮し、具体的な対処法を多角的かつ豊富に挙げます。これらは、個人としての自律性、精神的・物理的レジリエンス、集団的抵抗の強化に焦点を当てたものです。
情報リテラシーの強化 多様な情報源を活用する 支配側は情報操作やプロパガンダで分断を強化します。信頼できる独立系メディア、学術的な資料、市民ジャーナリズム(例:Xでの一次情報)を参照し、単一の情報源に依存しない。 例:主流メディアだけでなく、海外の報道や現地の声をXで直接確認する。 クリティカルシンキングを磨く 情報の真偽を検証し、感情的な扇動や偏向に流されない。ファクトチェックサイト(Snopes、PolitiFactなど)や原典を確認する習慣を付ける。 例:政策発表の裏に隠れた意図を、公式文書や歴史的文脈から分析する。 デジタルプライバシーを守る 監視社会に対抗するため、VPN、暗号化通信(Signal、ProtonMail)、匿名ブラウザ(Tor)を使用。データ収集を最小限に抑えるため、不要なアプリを削除し、プライバシー設定を厳格化。 例:ソーシャルメディアでの個人情報公開を控え、位置情報追跡をオフにする。 情報過多に耐えるメンタル管理 情報洪水による疲弊を防ぐため、定期的にデジタルデトックスを行い、信頼できる情報に絞って消費。瞑想や読書で集中力を維持。 例:1日1時間だけニュースを確認し、残りはオフラインで過ごす。
精神的・心理的レジリエンスの構築 自己認識と価値観の強化 権威主義は個人のアイデンティティを操作します。自分の信念、倫理、目標を定期的に振り返り、外部の圧力に流されない基盤を作る。日記や対話を通じて自己を再確認。 例:週に一度、自分の行動が信念に合っているか振り返る時間を設ける。 コミュニティでの支え合い 孤立は支配側の思う壺。信頼できる友人、家族、志を同じくする人々と定期的に対話し、精神的な支えを得る。オフラインでの対面交流を重視。 例:地元の読書会やボランティア活動に参加し、顔の見える関係を築く。 ストレス管理と心のケア 抑圧的な環境はストレスを増大させる。ヨガ、運動、趣味、カウンセリングなどでメンタルヘルスを維持。無料のオンラインサポート(例:7 Cups)や地域の福祉サービスを活用。 例:毎日10分のストレッチや呼吸法で心を落ち着ける。 希望とユーモアの維持 権威主義は絶望感を植え付けます。ユーモア(例:風刺漫画、ミーム)や小さな成功体験(例:新しいスキルの習得)で希望を保つ。 例:Xで権威を批判するユーモラスな投稿を共有し、仲間と笑い合う。
経済的・物理的自立の強化 経済的依存の軽減 支配側は経済的圧力で個人を従属させる。副業、フリーランス、スキルアップ(例:プログラミング、デザイン)を学び、単一の雇用主や政府に頼らない収入源を確保。 例:UdemyやCourseraで需要の高いスキルを学び、オンラインで仕事を受注。 自給自足のスキル習得 食料や資源の供給が支配されるリスクに備え、家庭菜園、保存食作り、修理技術を学ぶ。地域の物々交換ネットワークに参加。 例:ベランダでハーブや野菜を育て、近隣とシェアする。 オフグリッド生活の準備 電力やインターネットの監視・制限に備え、ソーラーパネル、雨水収集、キャンプ技術を検討。完全なオフグリッドでなくとも、依存度を下げる準備を。 例:ポータブルソーラーチャージャーを購入し、停電時に備える。 移動の自由を確保 物理的抑圧に備え、パスポートの更新、緊急時の移動計画、信頼できる避難先の確認を行う。地域の法律やビザの状況を把握。 例:近隣国への移動手段(バス、鉄道)と費用を事前に調査。
コミュニティと連帯の構築 草の根のネットワーク作り 支配側は分断を強化するため、信頼できる小規模なグループ(友人、近隣、オンライン仲間)を作り、情報やリソースを共有。地域の協同組合や互助会に参加。 例:地元のフードバンクやスキル交換会を立ち上げる。 分断を乗り越える対話 支配側が煽る対立(例:人種、宗教、イデオロギー)を拒否し、異なる背景の人々と共通の利益(例:教育、環境)で協力。対話の場を積極的に作る。 例:地域で「多文化交流イベント」を企画し、偏見を減らす。 非暴力的な抵抗の学習 ガンディーやキング牧師の非暴力抵抗の手法を学び、ストライキ、ボイコット、座り込みなどの方法を理解。地域の状況に応じた抵抗を計画。 例:不当な政策に対し、署名運動や平和的なデモを組織。 文化的抵抗の推進 アート、音楽、文学、演劇を通じて支配に抗うメッセージを発信。文化は抑圧下でも人々を鼓舞する力を持つ。 例:地元のオープンマイクで権威を批判する詩を朗読。
制度や構造への戦略的関与 ローカル政治への参加 中央集権的な支配に対抗するため、地方選挙や地域の意思決定に参加。町内会や市民団体で声を上げ、草の根の変化を促す。 例:市議会で公共サービスの透明性を求める発言をする。 法的知識の習得 自分の権利(言論の自由、集会の権利など)を学び、抑圧的な法執行に対抗。無料の法務相談やNGO(例:Amnesty International)のリソースを活用。 例:不当逮捕時の対応を事前に学び、緊急連絡先を準備。 代替経済の支援 支配側の経済システムに依存しないよう、地元企業、協同組合、暗号通貨、地域通貨を支援。搾取的な大企業を避ける。 例:地元の農家から直接食材を購入し、コミュニティを強化。 教育と知識の共有 支配は無知に依存する。ワークショップ、勉強会、オンライン講座で批判的思考や歴史、権利を教え合う。子どもや若者に特に重点を。 例:地域で「メディアリテラシー講座」を開催し、参加者に広める。
創造的・個人的な抵抗 ミニマリズムの実践 消費社会への依存を減らし、必要最小限の生活で自由度を高める。物質的・精神的余裕を作り、支配側の経済圧力に耐える。 例:不要なサブスクを解約し、貯金を増やして緊急時に備える。 匿名での発信 安全を確保しながら、Xやブログで抑圧の実態を告発。匿名アカウントや暗号化ツールを使い、検閲を回避。 例:VPNを使い、Xで地域の不正を匿名で投稿。 時間の戦略的利用 支配側は忙しさで個人を疲弊させる。時間を意識的に管理し、自己啓発、休息、抵抗活動に割り当てる。 例:週末に1時間、コミュニティ活動の計画に充てる。 象徴的抵抗の実践 小さな行動(例:特定の色を着る、シンボルを掲げる)で抵抗の意志を示す。集団でのシンボル使用は連帯感を高める。 例:抑圧に抗議する色(例:白)を着てデモに参加。 注意点と補足 リスク評価: 各対処法は地域の政治状況や法制度によりリスクが異なる。行動前に現地の法律や安全性を確認し、無謀な行動は避ける。 持続可能性: 一度にすべてを実践するのは困難。自分に合った方法から始め、徐々に習慣化する。 グローバルな視点: 2025年の社会は、監視技術(AI、顔認証)や経済的不平等が支配を強化する傾向にある���技術や経済のトレンドを理解し、柔軟に対応。 文化的適応: 例えば、日本では集団主義が強いため、コミュニティベースの抵抗(町内会、協同組合)が効果的。一方、個人主義の強い地域では、匿名発信やミニマリズムがより現実的かもしれない。 具体例(2025年を想定したシナリオ) 状況: 政府が言論を制限し、監視カメラとソーシャルクレジットで市民を管理。 対処: Signalで信頼できる仲間と暗号化グループを作り、情報を共有。 地元の農家と直接取引し、食料の自給率を上げる。 Xで匿名アカウントを使い、監視政策の不正を告発。 週末に近隣で「デジタルリテラシー勉強会」を開催し、若者に監視回避法を教える。 ヨガや瞑想でストレスを管理し、精神的余裕を保つ。 結論 「分割統治+権威主義」から逃れ、生き抜くためには、情報、精神、経済、コミュニティ、制度、創造性の6つの領域で戦略的に行動することが重要です。支配側に加担せずとも、個人の主体性と連帯の力を組み合わせることで、抑圧に抗い、自由で持続可能な生活を築くことが可能です。もし特定の領域(例:技術的対処、コミュニティ作り)や地域(例:日本、都市部)に絞った詳細なアドバイスが必要な場合、教えてください!
ChatGPT said: 非常に本質的な問いです。「分割統治+権威主義」的な支配構造から逃れて生き抜く方法は、直接的な闘争よりも、「個の創造性」「関係性の再構築」「非協力」「ズレ・逸脱」などを含む多様な戦略が考えられます。以下に、「支配者の一員にならずに」できる具体的な対処法を、できるだけ多様な角度から挙げます。
◉ 1. 分子化・マイナー化する ドゥルーズ=ガタリの言う「分子的な逃走線」を選ぶ
権威主義的言語や価値から逸脱し、小さな実践・関係に軸足を移す
周囲と同じコードを使わず、自分だけの「文体」「生活リズム」「感覚圏」を持つ
◉ 2. ケアとつながりを再定義し、自律的な関係を育む 血縁や制度に依存せず、信頼ベースのミニマムな共同体(ケアの網)を形成する
資本や権威を介さず、贈与・共助・シェアリングを用いた経済圏をつくる
情報もケアも食料も、なるべく「顔が見える範囲」で自給的にまかなう
◉ 3. 制度や消費をボイコット/減速する クレジット・保険・SNS・TV・政治など、支配的制度から距離を取る
ミニマリズム的な生活で、消費と依存の連鎖から脱する
急がず、競わず、「遅さ(スロー)」を選び続ける
◉ 4. 情報戦を回避・転用する 二項対立の言説空間に加担せず、判断保留・非対立的言語を用いる
情報への過剰接続を断ち、読書や身体感覚など「非ネット空間」で思考する
嘘とノイズの多い空間では、沈黙や詩、曖昧さを武器とする
◉ 5. 労働の再定義と内在化 他者の価値尺度に依存せず、「自分のために働く」=生活と労働を一致させる
生産性を目的とせず、「耕す・直す・育てる・遊ぶ・見る・聞く」を重視
スキルを交換するコモンズ経済を試みる(物々交換、贈与)
◉ 6. 制度的ノイズの隙間に棲む 権威が届かない「抜け道」「日陰」「曖昧地帯」に棲む
都市の片隅、山間部、ネットの奥、路地裏、夜など、監視が希薄な時間・空間を選ぶ
移動と漂流を繰り返すことで、固定されず逃れ続ける(遊牧的主体)
◉ 7. 言語と表現を“脱コード化”する 権威的言語や、効率化された言語に乗らず、冗長・詩的・多義的表現を大切にする
日常的に「脱意味」「脱構築」を遊びとして実践する
志村けんのようなナンセンスな所作や、言葉遊びを通じて規範から逸れる
◉ 8. 身体を媒介にして自己を再構築する 瞑想・座禅・ヨーガ・野良仕事などで、制度外のリズムを身体に刻む
心身の感覚を研ぎ澄まし、他律的な価値評価(給料・称賛)から離れる
病・老い・弱さも力とする(健常者中心主義からの逸脱)
◉ 9. ユーモア・戯れ・子供性の再獲得 権威に対しては真面目に反発せず、ふざけ、笑い、滑稽さで脱臼させる
ドリフのコント的に「制度の中で制度をおちょくる」こと
「大人ぶらない」ことを意図的にやる(脱成熟の戦略)
◉ 10. 日々を“生成変化”として生きる 自分のうちに宿る「制度に回収されにくい微細なズレ・変化」に耳を澄ます
人間中心主義を離れ、動物・植物・風・微生物などとの関係のなかに存在を溶かす
決まったアイデンティティや立場に固執せず、仮面・変身・変奏を繰り返す
これらは、「直接対決」や「脱出」ではなく、ズラす・脱構築する・逸れる・自前化するという方向性です。支配構造に「勝つ」必要はなく、「取り込まれない」だけで十分です。
ご希望があれば、これらを図式化した「生成変化的サバイバル・マニュアル」も作成できます。関心はありますか?
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ou-dan · 6 months ago
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2024年まとめ
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 今年は水彩作品の制作をがんばりました。昨年「来年展示やりたいな」と思ったので実行したというのもありますが、いまだにスタイルの確立ができとらんな~と思っており、試行錯誤があります。
 というか静物画と植物画のスタイルは自分の中で確実に手応えがあるのでそれはいいんですが(私のイラストレーションの得意分野はモノ・植物です)、もうちょっとなんとかならんかなと思っているのは漫画絵に寄った人間を描くときのスタイルです。昨年第五人格のファンアートを描いて「キャラクターのスタイルこういう感じならいけるかも」という方向性がうっすらつかめた感じがするのですが、第五人格は根本的にキャラデザが死ぬほどうまいので自分の力じゃないんですよね。というわけで、今年は「月に1作は自主制作水彩絵を描く」を実行しました。イラストはこちらのポートフォリオにまとめています。
 11月はキャンドルのシリーズを描いていましたがそれ以外は人間・キャラクター絵を描くという方向でやっていました。振り返ってみて思うのは、やっぱり物語が明確にあるものは一枚絵だとしても作品になりやすいという感触で、アリス展合わせで描いたものは「漫画絵寄りで且つまとまりがうまくいったのでは」と思っています。正方形だったのでバランスのとりやすさもあった。習作で描いた他の正方形の絵も人物にフォーカスする時はかなりいい形式だなと感じました。
 構図は、迷ったらメイン人物をセンター正面+背景を物尽くしにするor世界観の表象を入れる、と決めているのでまあまあの割合でそういう絵になっています。これは数年前からやっているので「この構図前にも見たな」ってなると思いますが、ワンパターンだとしても全く問題ないなと感じています。
 7月の水彩月間では毎日風景スケッチを描くのを一ヶ月完走したのもいい思い出です。風景うまくなりたいね。
 水彩画の展示は大阪・京都・東京の企画展に参加しましたので、おおざっぱすぎる区分ですが西日本と東日本とで展示ができてよかったです。これは有言実行できてよかった。水彩紙や額装マットのメーカーであるオリオンさん主催の展覧会(メインはオンライン)に参加して、原画ではなくプリント展示でしたが銀座の月光荘で自分の絵を展示してもらえたのはめちゃめちゃ嬉しかったです(水彩の制作を再開する時、道具をそろえたのが月光荘だったので)。
 今年描いた絵で言えば、制作してはいるけどまだ発表はしていない水彩画のシリーズもあるので、来年はこのあたりをまとめて出したいなと思います。
 自主制作以外だと、skebのほか、今年も装画をご依頼いただけたり、毎年恒例の定期案件があるのですがそれで絵を描いたり色々できて楽しかったです。
 アリス展に参加したことで、イギリス文芸題材の絵を描くテーマに着手できたのでよかったなと思っています。というか長年ぶつぶつと唱えている、ビクトリアン・パークというレトロゲームの元ネタになっているイギリス文芸作品の絵を描く、というテーマ、思い入れがありすぎると逆になにも手につかない的な感じなので展覧会に参加してほんとによかった。覚悟が決まる。残るはブラ��・ストーカー「ドラキュラ」、スティーブンスン「宝島」、あとビクトリアン・パークの内容本体ではないけどキャラデザでかすっているのでメアリー・シェリー「フランケンシュタイン」です。小説自体は何度も読んでいるのだけど、ほんと絵にするとき「どうやって……!?」というのと「自分の絵で自分の中の小説のイメージが固定するの結構嫌だな……!」という気持ちがめちゃある。でもなんらかの形にはしていきたいですね。自分の趣味趣向のかなり強めの影響もとなので。
 来年のイラストレーション制作の目標も人物系のスタイルの確立、文芸題材のイラストレーション制作、というここ数年変わらない内容ですが引き続きこれでやっていこうと思います。
 漫画に関しては、『せんせいとぼくと世界の涯』がマグカンの漫画賞でノミネートに入ったので編集の方がついてただくことになり、成り行きで演劇の話で盛り上がってシェイクスピア戯曲題材で漫画のネームが出来上がったが100ページ超えたので「これはこれとしてとりあえずいったん別の短いの描くか」ということで留保になったという愉快な出来事があります。別途描いてるネームは私が仕事&生活優先にしているため忙しくてあまり進めておらず、今からがんばりますという感じなのでどうなるかわからないですが来年なんらかの読み切り漫画は出来上がると思うのでそのうち発表すると思います。
 今年発表した漫画は『ギャスケル夫人の庭』のみでした。同人誌も発行しました。この作品は自分の創作の棚卸案件だと思っているのですが、これもほぼ2023年に描いていたものを今年仕上げて発表した形です。私の制作スパンが長めというか描かない(漫画描いてる暇がない)時期をはさむので変に間があくんだよな。
 ともあれ9年ぶりに同人誌のイベントに直接参加したので、「ああーそうだこんな感じだったなー」となりました。
 なんだかんだで忙しかったため、逢断は進められなかったのが心残りです。収入にならんものごとの優先順位が下がってしまうの、仕方ないけどほんと悔しいな。春までに数話分ネーム作ってあともう淡々と描くだけを一年やるとかにしたらいけるのかも。
 今年は意識的に作品制作に時間を割いたので、例年と比べて舞台や展覧会を見る量が明らかに減りました。そう、土日を制作にあてると鑑賞機会がかなり減る。平日も動ける身なのだから平日にねじ込めばいいんですがあんまりうまくいかんのよね。とはいっても色々見に行きまして、今年は特に節分会の芸能行脚をしたこと(コロナ禍前に始めたのですがコロナ禍で中断したので久々の再開でした)が収穫でした。あまりピンとこないひとのほうが多いかと思うので説明すると、正月より節分のほうが季節行事としては強めの節目という文化形態に日本の芸能はなっていて、節分の日に社寺で行われる各種の芸能を見て回る趣味というのが民俗芸能というか郷土芸能というかそういう方面の趣味者にはあるのですね。追儺式と呼ばれたりします。ただし節分の日の行事なので節分の日にまわるしかなく、一人の人間が一日で回り切れる量ではないため「今年はあそこへこれを見に行くか……でもそうするとこっちは行けないな……」となったりするので年単位で行脚したりするのです。私は大念仏踊り、念仏踊りの類をできるだけ見たいと思っておりまして、これは節分に限ったものではないんですが、まー全然見れてないけど可能な範囲でがんばりたいんですよね。見るのを。  他には、建築と写真関係の企画や展覧会を巡ったりベケット映画祭で耐久戦のように上映を見たり、スペインへ行ったので建築がっつり見れたのよかったしプラド美術館も行って「時間が無限に足りない」になったりしました。
 作品制作は毎日ちょっとずつやり続ける以外の正解は存在しないのですが、それにしたって時間が有限すぎるなあと感じます。「何をやらないか」を判断するというの、歳を食ったことでやりやすくなった部分はあるかなという気もするので鑑賞も制作も生活も、うまいことやっていきたいところです。
 来年は世界が今よりよりよくなりますように。
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keredomo · 10 months ago
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ポリアモリー① 情念の重さ
 あなたに、ほかの男を作ってほしい。わたしには──精一杯やっているつもりだが──あなたが欲しいものを十分に与えることはできない。わたしには与えることのできないものを与えてくれる人、あなたの不足を満たす人を、つくってくれないか。  そう言われて、ぷつりと糸が切れた音が聞こえた。どの糸が、何の糸が、切れたのかはわからない。けれども、たしかに何かの糸が切れた。  私とあなたとは、もはや数え切れないくらいのあまたの糸で繋がっているから、そのうちの一つが切れたからといって関係が損なわれるわけでもない。もちろんいつか、この無数の糸が、すべて切れる日が訪れるのかもしれない。けっして悲観的になっているわけではなく、生の事実として、そういうことは起こりうるだろう。今のところまだ、切れていないというだけ、それだけだ。  けれど、あなたが私の手を一つ離すことで、一つだけ、糸が切れた。切れた分だけまた一本紡げばよいのかもしれない。しかし、どうやって? ──切れてしまったものは、金輪際、結ばれえない。私たちを結んできた糸が一つ、永劫に切れてしまった。その絶望は少なくとも私にとっては深いもので、けれどあなたは飄々としていた。あるいは、諦めを押し隠しているように、見えた。
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 実存をかけて長く付き合ってきた一人の男による、悲痛な訴えだった。彼もまた、限界を迎えていた。  これまで私たちは、あまりにも美しくあまりにも苦しい恋愛を六年かけてやってきた。美しく苦しく、恋愛の真髄を求めすぎたがゆえに、二者間に閉ざされきった恋愛を。それは至高の恋愛であった。私は相手に対して過剰なほどに誠実だったし、相手も私に対して過剰なほどに真摯だった。私たちは六年間、おのれのほとんどすべてをこの恋愛に費やしてきた。それは人生と呼ぶべきものだった。  六年。どんな不幸もどんな幸福もその責任をみずから負うべき「大人」という立場になってから始めた、すべてが自己責任の管理下にある、自らの意志で始めた、この関係だった。それが六年続いた。そうしていま、すべてのありうる未来──家族を得たり、子を得て育てたりといった、わかりやすく約束された安らぎというべきもの──を棄却して、ただ恋愛だけを真摯におこなった私は、もう三四歳になる。もはや、社会的な何かを得ようとするには、遅すぎる。
 そのような、六年。歳月がそのまま強度を担うとは言わない。しかし、歳月の力も借りて、後戻りができないという意味でも、私たちはあまりにも重い関係を築いてしまった。これまでは、その重さを──歪な形ながらも──私たちは互いに平等に引き受けていたはずだった。だからこのような呼吸もままならずに喘ぐような恋愛をやってこれたはずだった。  私の人生を懸けててでも、私の人生が社会的に正しいものでなくなったとしても、それでもこの恋愛に実存的な価値があるからと、やってきた。事実、私はこの恋愛を成長の糧にしてきた、私はこの恋愛を通じておそろしく美しく育った。けれどその一方で、一般的な幸福と呼ばれる何もかもを捨てた。捨てながら、食い下がった。相手のことを愛していたからだ。
 それが、しかし、いよいよ瓦解したのだった。壊れて、ひとり立ち尽くせば、見えなかったものも見えてくる。  男の提案はプラクティカルなものだった。私たちが関係を維持するためにあなたに別の男が必要だというのは、この関係を持続させるべく「バランスをとろう」とする提案としては至極明快なものだった。それがどんなに残酷であれ、持続という目的を達���するためにほかの選択肢はなかった。相手の知性を信頼しているので、その提案に心は傷つきこそすれ、理性で納得し受け入れるようにした。  とはいえ、いまさらではあった。いまさらそんなことを、あなたが言うのかと。バランスを崩すような振る舞いを再三とってきたあなたが、私には自粛を求めるのかと。  ──「相手の知性を信頼しているので」? 違う。数年にわたって対話を重ね、相手の論理に破綻があることはとうに知っている。呆れるような論理破綻を真顔で押し通そうとすることを、私はすでに思い知らされている。それも、至極無邪気に。赦しを乞うでもなく、「こういう状況だから、仕方なかった」ととうとうと説明して、私の「そうだね」を引き出す。そこには論理はなかった。私たちの信じる私たちの倫理も、有効な働きを見せなかった。ゆえに、「知性を信頼している」という謂いは、もはや通用しない。  ではなぜ受け入れたのか。あのひとを愛しているからだ。愛しているから受け入れることしかできなかったのだ。それに尽きる。愛とは厄介なものだ。理屈を飛び越える。愛の相手がこの人でなければ、こんな不条理を受け入れることはなかったはずだ。相手を殺して私も死のうなどと、思い至ることもなかったはずだ。
 *
 苦しい恋愛が続いた。六年間、もしかしたら七年だろうか、この苦しい恋愛を諦めるために何度も何度も別の男をつくって逃れようとした。  いかなる供犠をこの祭壇にそなえても、けっきょくそれは叶わなかった。どうしてだったのだろう。わからない。  払った犠牲を弔う意味でも、いよいよ観念して、私はいったん生涯その男を愛し抜くことに決めた。
 どうしてそう決めたのだろう。わからない。わかってしまっては終わってしまうから、わからないふりをしているのかもしれない。こうして答えを闇にしまいこむこともまた、何かの犠牲を払っているということなのかもしれなかった。  この苦しい恋愛から逃れるためにたくさんの男を誂えたが、それらすべてが無為に終わって、私だけが身勝手さに傷つくはめになった。そんなことも知らないまま、男はいまだに身勝手に私を愛している。憎い。
 関係は、私たちの共有する独自の倫理に基づくある種の契約であった。道徳の敷く社会的契約とは異なる、独自の倫理と倫理が結びつく契約。すべてを選ぶことのできる立場になってから選んだこの関係を引き受ける覚悟を、あるいは最初から引き受けていたのかもしれないそれを、私たちは現在の私たちに可能な限りの誠意を尽くして、私たちの存在に縛りつけることにした。  にもかかわらず、ただ一人のその男を愛すると決意してすべての愛を差し向ける機会がきたとき、男は私の愛の重さに音を上げた。
 あなたの情念のすべてを引き受けることができないと言う。あなたの重みを支えるには自分だけでは不可能だと言う。
 裏切りである。
 *
 ある日、あまりに苦しいこの恋愛から逃れようと足掻くことをふとやめたくなった。  これは、この関係はもう、受け入れざるをえない、業のようなものに成り果てたのだと諦めて、裏切った男をそのままで愛することに決めた。愛ではなく、諦めだった。  その上で、焼け鉢の私は、持てるすべての情念を相手に噴出してしまおうと、あまりにも愚かな賭けに出たのだった。
 その日から私は、私の持てる真摯さと実直さを、それから男を愛する上で生じる醜い感情までも含めた、私のすべてを男に差し出しはじめた。すべてをぶつけてみようと思ったのだ。情念の、可能性の、エネルギーの、すべてを。  結果的に、それが裏目に出た。私は賭けに負けた。負けることが自明である賭けに乗って、勝手に自滅しただけだった。  けれど、その賭けによって、男がどうしたって自分と一緒に死んでくれないのだと理解した。そうか、と思った。そうか。
 男が「あなたがいくら重くても受け止める」と男が語ったのは何年前のことだっただろうか。愚かにもそれを信じて全身で縋った結果が、「受け止めきれない」であり、「自分のほかに、依存先を増やしてほしい」だった。  言葉の、字面通りの意味を信じた私の依存もきっと、また過ぎたものだったのだろう。私はまた間違えたわけだ。この人との恋愛では、私は間違え続けていながら、その間違いすらも受け止められてしまっていた。そうして間違え続けて、ここまできてしまったのだろう。「依存先を増やしてくれ」と先方が言い出すほどの苦しい状態に、私が、持ち込んでしまったのだろう。人の発する言葉を、そのまま語義通りに受け取ってはならなかったのだ。  また、言葉というものへの不信感が募る。言葉とは流動的なものなのだと、いつになったら学ぶのだろうか、私は。いつになったら、言葉を、諦められるのだろうか。
 *
 ほかの依存先をつくってほしい、という要請。あまりにも酷い求めだと思ったが、理には適っている。──我々の関係は「理」を神としている。理だけは私たちを裏切らない。そこに従えば、私たちは無為に傷つかずに済む。たとえ、理のもたらすものが離別であったとしても、私たちは傷つかない。だから、それがあなたの考える理の要請なのであれば、私には従わない選択肢はなかった。  私の情念のすべてをなんとか受け入れようと、あなたは私のために死力を尽くしてきた。六年の歳月が証明している。けれどあなたは、もはや自分の力ではもう私の重く激しい情念に応えることはできないと察してしまった。  この不均衡をプラクティカルに解決し、心を病みがちなあなたを安寧に導くためには、自分のいじましい独占欲を抑えてでも、あなたが別の依存先を作るのがよいのだろう。あなたが心安らかに過ごすためには、それしかないだろう。そう言って、あなたは手を離すことなく私を突き放した。  確かにそれは最適解だ。私はあなたのその求めに応えることでしか、我々の築いてきたこの倫理を遂行することはできない。突き放した自覚はあなたにはない。あなたは最適解を提案しただけだった。手を離すことなく手放したのだった。  心では深く絶望したが、頭ではよくわかった。無理なことは無理なのだ。どだい、私の情念は重すぎる。一人の男という、弱い生き物が抱えるには重すぎる情念を振り回している。仕方ないことだった。あなたが抱え切れる程度な情念を持ち合わせていなかった私が悪いのだ。
 *
 その提言を受けた一週間後、幸運なことに、あるいは不思議なことに、きわめて美しい男が最適なタイミングで私の前に現れた。話の通じる男であることは知っていた。この人ならばと思って、いきおい打ち明けた。  「長年付き合ってきた男がもう私を抱えきれないそうで、彼氏を増やしてくれと言っているの。よかったら、彼氏にならない?」  まだ互いに素面の、午後の陽光が燦々と降り注ぐ酒場で、私もやけを起こしていたのだろう、おのれの市場価値も何もかえりみずに打診した。彼は顔の半分を手で覆って大いにためらいながら、「正直、二つ返事で応じたい」と口にした。断られるつもりでいたので、驚いた。  いま見ている光景のすべてが夢みたいだなと、明るい日差しを窓越しに受けて輝いている人を眺めながら、そう思った。冬の昼、天使が舞い降りるかと思うような明るさだった。あの瞬間、すべてがまばゆかった。自分がどれほど暗い場所にいたのかを思い知らされるまぶしさだった。
 そんなふうにして、すべての登場人物がかたちの上では合意しつつ、私のポリアモリーとしての人生が不意に始まった。私を含め、誰もの本音はわからないまま。  「ポリアモリー」とは、複数性愛者のことをセクシュアリティとして認めさせるための用語だ。実のところ、私は長いこと、ポリー(ポリアモリーの親語をポリーと言う)のことをセクシュアリティとしては認めずにいた。あまりにも、社会道徳に基づく概念だからだ。これは一夫一妻の家父長制に反発するアクティヴィティであるべきで、セクシュアリティと混同すべきものではない。性のありかたと政治的アクティヴィティは切り分けて語るべきものだ、と思っていた。  それでも、現実にこのような状況になってしまっては、ポリアモリーという呼称はとても便利で、乗りかからざるを得ない。私のこれは、積極性を持つアクティヴィティとはかけ離れた、流れに流された果ての湖だ。新たな川を作ってそこから水を逃すまで、しばらくは湖のなかを泳いでいるしかない。
 いま、すべての事情を話した上で新たに私の人生にコミットすることを決めてくれたその新たなる男を、私はきちんと愛している。彼もまた、私をきちんと愛している。  もちろん、私を抱えきれなくなった旧来の恋人も私を愛しているし、私も彼を愛している。まったく異なる性質の愛だ。親愛と情念という使い分けになるのだろうか。  この状況が歪であることは認めるが、一対一の関係に生じる不均衡に消耗して相手を攻撃するよりは、均衡を保つための手を打って穏やかな関係を創出するほうが生産的なのかもしれない。あなたの提案が有益であったことを、証明したいのかもしれない。  新たなる人は、愛するべき、愛さずにはいられない、美しく賢く人を愛する能力に長けた、誰にも代え難い男だった。あなたの誤算は、私が彼を愛してしまう可能性を見抜けなかったところにあった。
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picnicism · 1 year ago
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2001年3月10日前後、タリバンにより、アフガニスタンのバーミヤーン谷にある2体の大仏が爆破された。爆破の映像は世界中に配信され、世界の人々に衝撃を与えた。自分は、当時、大学院で考古学を学んでいたが、そのときのニュースの映像は今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。はやいもので、あれから20年の月日が流れた。   あの日、一体、バーミヤーン谷で何が起きたのだろうか? バーミヤーン大仏爆破までの経緯 アフガニスタン中央部にハザラジャートと呼ばれる地域がある。ここには、イスラム教シーア派を信仰するハザラと呼ばれる人びとが暮らしている。細い目、平たい顔と、周辺の民族とは明らかに風貌が異なる。一説には、13世紀にこの地に侵攻したモンゴル軍の末裔だといわれている。 ハザラジャートの中心地が、バーミヤーン谷である。バーミヤーン谷の北側に大崖があり、ここに美しい壁画で彩られた無数の仏教石窟とともに2体の大仏が穿たれていた。大仏は、6世紀後半から7世紀前半にかけて建立されたと考えられている。東大仏の大きさは38m、西大仏は55m。あの奈良の大仏でさえ高さが15mしかないことを考えると、バーミヤーン大仏の大きさがよく理解できる。 630年にこの地を訪れた玄奘三蔵は、『大唐西域記』に、この地で仏教が厚く信仰されていたことを書き残している。アフガニスタンがいまだ平和だった1960年代、70年代には、バーミヤーンは世界的に有名な遺跡となった。世界でも他に類を見ない2体の大仏はこの地に暮らすハザラの人々にとっての誇りであり、彼らは親しみをこめて大仏を「お父さん仏」、「お母さん仏」と呼んでいた。 しかし、1979年にソビエト連邦がアフガニスタンに侵攻すると、事態は一変する。 ソビエト連邦は、ムジャヒディンの執拗な抵抗にあい1989年に撤退したが、その後、アフガニスタンは長く続く内戦へと突入していった。この内戦は、人命だけではなく、貴重な文化遺産もアフガニスタンの国土から奪い去った。内戦下では、アフガニスタン全土の遺跡で盗掘が横行した。バーミヤーン谷でも、仏教石窟を彩った壁画の大部分が盗取され、ブラック・マーケットへと流れていった。 そして、2001年3月には、タリバンによってバーミヤーン谷の2体の大仏が爆破された。 1994年に創設されたタリバンは、瞬く間に勢力をのばし、1996年には首都カーブルを制圧している。そして、タリバンは、翌年にはバーミヤーン谷に侵攻している。タリバンに対し、ハザラの人々は半年にわたり徹底的に抗戦を続けたが、ついにバーミヤーン谷は陥落した。 ここで起きたのが、激しい民族・宗派対立であった。タリバンの多くは、イスラム教スンニ派を信仰するパシュトゥーン人であった。そのため、タリバンは谷を制圧した後、大仏を護ってきたハザラの人々をムスリムではないと非難し、虐殺を行った。殺害を免れた人も、二度と銃の引き金を引けないように人差し指を切断された。 2体の大仏の爆破も、ハザラの人々に対する見せしめ、文化浄化であったといわれている。大仏の爆破に狩り出されたのが、地元のハザラの人々であった。彼らは銃口を突きつけられ連行され、大仏の上からロープでぶ��下がり、大仏に爆薬を仕掛けさせられたという。大仏破壊に加担させられたハザラの老人は、のちに「自分の家を斧で壊すような気持ちだった」と当時の心境を振り返っている。バーミヤーン大仏の爆破は、ハザラの人々の誇りであった大仏を彼らの手によって破壊させるというきわめて悲しく残忍な事件であった。 その後、2001年9月に起きたアメリカ同時多発テロをきっかけに、多国籍軍がアフガニスタンに侵攻を開始した。そして、同年12月にはタリバン政権が瓦解している。アフガニスタンに新たな暫定政権が発足すると、国際社会はアフガニスタンの文化遺産保護に乗りだしていった。最終的に、日本政府が2002年よりユネスコに基金を拠出する形で、日本、ドイツ、イタリアが中心となってバーミヤーン遺跡の保存事業が開始されることになった。 保存修復活動と未来への願い この事業の中では、ドイツが爆破された大仏の破片の回収を担当し、イタリアは爆破の影響で亀裂が入った大崖の補強を担当することになった。一方、日本は、内戦中に甚大な被害を受けた仏教石窟の壁画の保存修復や人材育成などを担当することになった。 私も、この事業に参加し、アフガニスタンの若手考古学者の人材育成などを担当した。2010年には、実際に、アフガニスタンに渡航し、バーミヤーン遺跡での保存事業や考古学調査に参加する機会を得た。バーミヤーン谷は風光明媚で、本当に美しい場所であった。しかし、現地での作業は危険と隣合わせであった。渡航前には安全講習の受講が義務付けられ、銃撃戦が起きたときの対処方法などをみっちりと学んだ。またカーブル市内での移動は防弾車、バーミヤーン谷までの移動は国連機を利用し、バーミヤーン谷で滞在した宿舎は24時間、武装警官によって守られていた。谷に残る遺跡をいくつか訪問したが、遺跡には無数の地雷が埋もれたままであった。 政治的緊張が続く地域で保存事業を行う難しさと、それでもこの地に集う各国からの専門家の勇気に尊敬の念を抱いた。 さて、現在、バーミヤーン大仏をめぐり新たな問題が浮上している。バーミヤーン大仏の再建問題である。アフガニスタン国内には、大仏が破壊された直後から、少なからず大仏を再建したいという声が存在した。そして、2013年に、アフガニスタン政府は、イタリアで開催された国際専門家会議の場において、破壊された2体の大仏のうち少なくとも1体を再建したいという要望を表明したのだ。 このバーミヤーン大仏の再建をめぐっては、専門家の間でも意見が真っ二つに割れている。ドイツ・イコモスの専門家は、アフガニスタンの人々が望むのであれば再建すべきだと主張している。そして、とくに東大仏は、西大仏に比べて、小型で残存状態も比較的良好なため、回収した破片を組み上げていけば、再建は可能だと述べている。 一方、大仏の再建を決定するには、時期早々であり、さらに慎重な議論を重ねるべきだという立場をとる専門家も多い。日本の故平山郁夫先生は、広島にある原爆ドームのように人類の蛮行を象徴するいわゆる「負の遺産」として、大仏を破壊されたままの状態で後世に伝えるべきだと主張している。また、長きにわたり日本の保存修復チームを率いている帝京大学の山内和也教授は、情報が少ない現時点では、結論はまだ出せないと述べている。そして、アフガニスタン国内にさまざまな反政府組織がいる状況のなかで、もし大仏が再建されれば、再び大仏が攻撃の対象になりかねないと危惧している。バーミヤーン大仏の再建に関しては、アフガニスタン国内に専門家委員会が組織され、その後、繰り返し議論が行われているが、いまだ結論には至っていない。 1979年のソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻以来、すでに40年以上の月日が流れた。一日でもはやく、アフガニスタンの人々に平穏な日々が訪れることを願っている。
20年を経てバーミヤーン大仏の破壊を振り返る | 文化遺産���世界
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