#毒舌映画評
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kennak · 2 months ago
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20日、関東各地で25℃超えの夏日となりました。暑くなると食中毒の発生が増えますが、これまで比較的安全とされていた日本海側のサバをめぐり、アニサキスの食中毒リスクが高まったことが内閣府の調査で分かりました。ここでも、地球温暖化の可能性が。 ■アニサキスに異変温暖化が影響? 薄着の人たちが目立つ東京都心。20日、朝から気温が高く、日中は東北から四国にかけて25℃以上の夏日となりました。都内でも4日連続の夏日を観測するなど、季節先どりの暑さが続いています。 気温の上昇と共に高まるのが“食中毒のリスク”です。福岡では… 「ゴマサバになります!」 福岡県の郷土料理『ゴマサバ』。生のサバに、甘いゴマダレの組み合わせが舌を唸らせます。 Q.ゴマサバはよく食べる? (ゴマサバを注文した客)「美味しいので、福岡のソウルフードで食べています」 ■“生食文化”に懸念激痛に「死ぬかも」 “サバを生で食べる文化”が根付いている福岡県。しかし今、その“生食文化”に、ある懸念が… (福岡県・生活衛生課 友枝哲宏課長)「ここ数年、急増しておりまして。アニサキス(食中毒)の割合が増加をしてきているという状況ですね」 サバなどに寄生する「アニサキス」が体内に入ることで、激しい腹痛などを起こす「アニサキス食中毒」。福岡県ではその件数が急増しているというのです。 (アニサキス食中毒になったAさん)「死ぬんじゃないかなって一瞬考えたりとか、それぐらい痛かったんですよ、お腹が」 こう話すのは、今月「アニサキス食中毒」にかかったAさん。 (アニサキス食中毒になったAさん)「最初は本当に胃に何か刺さったかのような痛みから始まりまして、それから次第に首の後ろだったりとか、手の甲とか二の腕、しまいには太ももだったりに蕁麻疹が起きまして…」 ■日本海側でも…“食中毒タイプ”増加 これはサバに寄生したアニサキスの映像です。特殊なライトを当てると…浮かぶ無数のアニサキス。この一匹のサバに、100以上確認できたと言います。このアニサキス、これまでは日本海側のタイプは食中毒になりにくく、太平洋側のタイプは、なりやすいとされてきました。しかし先月、内閣府は日本海側にも、食中毒になりやすい“太平洋タイプ”のアニサキスが増えていると発表したのです。 (国立感染症研究所 杉山広・客員研究員)「日本海や東シナ海のサバ(に寄生するアニサキス)は、筋肉に入らなくて内臓に留まるので、臓器と一緒に廃棄されるからアニサキス食中毒は起こらないと。調べていくと、日本海側のやつでも(食中毒になりやすい)S型がいるんだということがわかってきて、単純に日本海側のものだけは(生で)食べて大丈夫だっていうことはないから、注意が必要だと」 アニサキス食中毒の件数をみると、全国的に増えた2018年、福岡県はそれ程の増加はありませんでした。しかし2022年には、前年の5倍近くに急上昇。全国の増加率をはるかに上回ったのです。こうした現状に、福岡県民は… (福岡県民)「東京の友達が来たら、福岡の食べ物が美味しいお店に行くけど、やっぱりゴマサバもそのうちの一つなんで」 「ちょっと心配ですね。福岡の名産というか、せっかく美味しいものが…」 福岡県は予防として、冷凍や加熱処理が効果があるとする一方… (福岡県・生活衛生課 友枝哲宏課長)「魚を生で食べること自体が危険ということではありませんので、アニサキスに十分注意をしてですね、食生活を楽しんでいただければ」 ■こだわり“生サバ”ライト照らし対策 “生のサバ”にこだわる店がありました。 毎朝、市場から仕入れた新鮮な魚を使い、刺身や海鮮丼などを提供しています。特に人気の「ゴマサバ」は“生しか使わない”という徹底ぶり… (古賀鮮魚店 古賀和秀社長)「脂がのっているときの舌触り、質感とかそういったものが、冷凍するよりも、生で提供した方が美味しいと思いますね」 “アニサキス対策”も徹底していました。 (古賀鮮魚店 古賀和秀社長)「一つ一つの工程で包丁をかえたりとか、こういったダスターをかえたりしている。」 アニサキスを見やすくするため、こんな道具も… (古賀鮮魚店 古賀和秀社長)「黒いまな板の上でもう一回、再確認。こういうライトを照らしてですね、もう一度ここでも確認をします」 美味しいサバを提供するため、労力はいとわないという料理店。さらに… ■アニサキス“100%死滅”装置とは? いま注目されている“アニサキス対策”があります。水の中をうごめくアニサキス、次の瞬間…痙攣したかと思うと、動かなくなりました。アニサキスを一瞬にして死滅させる、この技術。実用化に向けた開発が進んでいます。 (熊本大学 産業ナノマテリアル研究所 波平隆男・准教授)「それでは、パルス処理を始めます」 「こちらの装置はパルスを印加することによって、魚の中のアニサキスを殺虫することができる装置となっております」 冷凍や加熱処理をしなくても、ほぼ100%アニサキスを死滅できる、画期的な技術。 (波平隆男・准教授)「(パルス処理した魚を)これまで累計1000人くらいの方々に食べてもらっているんですが、味はほとんど変わらないという評価になっております」 現在は、飲食店などへの導入に向け、小型化・低コスト化が進められています。 (波平隆男・准教授)「こういったものをスーパーマーケットや寿司店、そういったところに導入していただくことによって、早く社会実装ができればと考えています」 ■「海水温上昇」で生息域が変化か ではなぜ、日本海側に“食中毒が発症しやすいアニサキス”が増えたのでしょうか? アニサキスは、クジラやイルカなどの体内で成虫になります。その卵が便と一緒に海中に排出され、オキアミが捕食。それをサバなどが食べて、アニサキスが寄生するのです。 専門家は、原因は調査中としながら、こう推測します。 (国立感染症研究所 杉山広・客員研究員)「海水温の上昇とか海流の流路の変更がある。サバはいろいろと回遊するので、それをクジラが追いかけていく、(海水が)熱くなっていって(サバやクジラが)上に上がっていっているんだけど、その中で下にも下がって(南下して)くるから、そういう時に(食中毒になりやすい)S型が増えていっている」 4月20日『有働Times』より
激痛「アニサキス」に異変“食中毒タイプ”が日本海側で増加 温暖化で生息域に変化か(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース
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sakani-republic · 11 months ago
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【八月映画感想会】 『オペレーション・フォーチュン』 監督:ガイ・リッチー(2023)
吹き矢習いたい
以下は書き手のプロフィールです
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◆ 『オペレーション・フォーチュン』 あらすじ
英国諜報局MI6御用達の敏腕エージェント、オーソン・フォーチュンは、100億ドルで闇取引されている「ハンドル」と呼ばれる危険な兵器を追跡・回収するミッションを遂行することに。MI6のコーディネーターであるネイサン、毒舌の天才ハッカーのサラ、新米スナイパーのJJとチームを組んで行動をスタートさせたフォーチュンは、能天気なハリウッドスターのダニーを無理矢理任務に巻き込み、億万長者の武器商人グレッグに接近する。しかし、次第に闇取引の裏に隠された巨大な陰謀が明らかになっていく。(映画.comより抜粋)
◆ 映画に対するコメント
御殿山:
ガイ・リッチーのなーんも深く考えなくてよいアクションサスペンスだ! よかったよかった
安心要素がふたつあって、まずは主人公側がプロ 変にミスってピンチとか一切ない 徹底して味方が強い それが今回は良かったな 普通に敵が全部小物に見えるんだけどそこはガイさんの台詞回しで保つんだな(信者フィルター)
もう一つは、キャラの過去とか心情描写とか、内面的成長とかがない こういうのはあったほうが名作になるけど、物語に山谷ができてけっこうしんどいとこあるのよね それがないのだわ
こんな書き方して面白いのかと思われそうだけど、面白いですよ だってジェイソン・ステイサム映画だもの ジェイソン・ステイサムはプロだし内面はないのよ それでいいの
<五段階評価>
またヒュー・グラントか度 ☆☆☆☆★
婚約おめでとう度 ☆☆★★★
小泉:
「ベスト・ステイサム・映画」とどっかでみたのでワックワクして観ました が、実際に蓋を開けてみたらクセの全くない良いスパイ映画でしたね アクションのひとつひとつがとても丁寧で入門書ってかんじでした
内容も主人公たち側のミスがなさすぎる、裏切りがなさすぎる、伏線回収がなさすぎるというこれまた親切設計なのではじめてのスパイものに大変おすすめです
なんだいじゃあ面白くないじゃないかという声もあるかもしれませんが、逆にあまたのスパイもの・ステイサムものを観てきたらまあいろいろあったじゃないですか、いいんですよこれくらい気楽に観られるやつが 来週くらいには記憶からすっぽり抜け落ちているかもですけどね
しかしながらガイ・リッチー映画におけるヒュー・グラントの小物感はクセになりますね あとJJの寡黙さとネイサンのハブられっぷりなど、キャラの魅力がさすがでした
<五段階評価>
ベスト・ステイサム度 ☆☆☆★★
ベスト・チームワーク度 ☆☆☆★★
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mode8jp · 1 year ago
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-新規投稿! 【とある方の「基本修成力」】 とある方の「基本修成力」  モーハチでは、修正ではなく、「修成」としています。 修成の意味を調べると…、「修正して完成させること」となっています。 言葉にすると、単に修正のさらに上…、のようなイメージになります。 例えばですが、よく「加筆・修正」と書かれていることがあります。 これでは、全体を一つの完成形にするのではなく、単に「よく確認して、間違った箇所があれば書き足して、修正しておいただけ」になります。 ですので、あえてモーハチでは、記事の修成を行うというフレーズを使い、文章・文脈が「一旦は完成した」としています。   ほな、基本修成力とはなんぞや?簡単にいえば、直すべき点をすぐに見つけ出し、今表現できる完成形を創り出す…力です。 例を挙げれば、大喜利が上手な方。(Xにも沢山いらっしゃいます。) 後は、救命救急や消防署のプロの方々です。 皆人間なので、間違うこともありますし、不測の事態に直面する時もあります。 そのなかで、直面した出来事に対して(主観的・客観的に)対応するにはどうすべきかを瞬時に察知できる力は、どの世界でも必要なのだと思います。 その昔、ある方が(150人ほどの方が集まっている)とある舞台で急遽挨拶を頼まれ、全く内容のない話をして切り抜けました。 「事前に言われていれば、ちゃんと話せたのに…。」 そうなんです、大体の方はそうなります。 しかしこの基本修成力は、努力の積み上げで身につくものなんです。   とある方の基本修成力この約15年、テレビに出続けている有吉弘行さん。 私は、彼の持つ基本修成力は非常に高いと感じています。 ご存じない方はいないと思いますが、念のため…。  1996年、番組のある企画で一躍有名になり、CDデビューも果たしました。 しかし、人は飽きやすく、瞬く間に人気は下がり、仕事を失いました。 それから、約8年間周囲の先輩芸人に励まされながら、2004年頃に再びテレビに出るようになり、2007年頃には「毒舌芸人」として脚光を浴びました。 著名人にあだ名をつけるのですが、「口が悪い」「人を傷つける言葉ばかりで嫌」といった声も多い中…、  >> 他の番組で見せる豊富な知識量  >> 仕事がなかった時に観続けたテレビから得た的確な分析力 …を披露すると、今までの毒舌と合わさって「面白い芸能人」として番組を回す地位まで登りつめました。 なかには、酷いあだ名もありましたが、彼が高木美保さんを「ヒステリック農業」と表現した時は感動しました。 あだ名をつけるというのは、今では「時に人の人格を否定したり、心情的な負担やストレスをかけてしまう可能性があるので控える」といった空気や意見もあります。決して良いとは言えません。 一方で、彼の的確で鋭い洞察力と「人々が聞いてなるほどな、と思うちょっと上をいく言葉」を選んでいるところに基本修成力をみました。 そもそも彼の中に「人の心を動かす力」が備わっていた、当然あります。 ですが!彼は、仕事がなかった8年間、人が見ていないところで努力して磨き上げた「発信力と展開力」で、人の共感と笑いを生み出す力を身につけたのではないでしょうか? さらには、今でもテレビに出続けているのは、テレビを観ている視聴者だけでなく、テレビ局や制作会社、スポンサーといった取り巻く環境で「今何を必要とされているのか」を彼なりに噛み締めているからだと感じています。   Webで求められる基本修成力Webでは、ブログのような「静」と映像の「動」があります。 残念ながら、動は一度出せば修成は不可能です。叩かれるかもしれないからやるな!…と言いたいわけではありません。やるからには、「何がどう伝わるか」の判断を一緒にしてくれる仲間はいない(若干)危険です! 先日から、Xでよく見かけるのが、ある政治家が「●●の名産地で、〇〇を美味しく頂きました。」との動画投稿に、「○○アレルギーの方への配慮がないので、やめたほうがいい」とのコメントが。 無視すればいいことですが、そういった過激な言葉を楽しむ方もいますし、ことあるごとにこの動画を出してきて、遊び始めてしまいます。 ですので、動への取り組みは、周囲に相談できる仲間がいることが大切です。 一方「静」は、動に比べて修成しやすいです。ところが、「あ、しらっと削除した!でも、スクショ取ってますよ~。」となるので、叩かれる時は動と同じように扱われます。 そんな時、皆さんも有吉さんの基本修成力を思い出して下さい。 例えば「増税メ●ネ」についてSNSで触れるとします。(触れっちゃったw) 自分が感じた・思ったことを伝えることが最重要なのですが、加えて周囲や一般社会でどう受け止められているのか、どう評価されているのかを、「分け隔てなく取り上げる」ことが修成力につながります。   物事を【観る力】+【受け止める力】+【表現する力】 これらをブレンドして、人の心に届けれるようになった時、皆様のファンはきっと増えることでしょう。 この修成力については、今後も取り上げていきますね! 皆様のWebライフが、より美しいものになることを願って…。 ##マイメモ #モードエイト #基本修成力 #人の心を動かす言葉 #周囲の空気を読む  #Mode8 #mode8jp 元記事:コチラ #Mode8 #mode8jp #モーハチ #人の心を動かす言葉 #周囲の空気を読む #基本修成力
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roomofsdc · 3 years ago
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SDC映画の部屋「ウエスト・サイド・ストーリー(2022)」
地面に散らばる瓦礫をアップでうつすキャメラが少しずつ引いていき、古いビルディングが壊されて更地にされていく途中の風景が見えてくる。ここはマンハッタンのアッパーウェストサイド。スラム街が整地されてリンカーンセンターとして再開発されていく途中だ。大きな鉄球がクレーンからぶら下がっている側をキャメラはかすめて、地面に近づいていくと、突然地面が割れて、扉が開く。中から出てきたのは痩せぎすの少年たち、手に手にペイント缶をぶら下げて、次々に地面の穴から這い出してくる。連れ立って歩く少年たちは誰もが見窄らしく薄汚れている。やがて彼らは指を鳴らしてリズムを取り、工事現場のガードを蹴飛ばして通りへと出ていく。彼らの刻むリズムはやがてダンスとなり、通りを歩くうちに仲間が増え、やがて大きな壁に描かれたプエルトリコの国旗の前で足を止める。違いに顔を見合わせ、一斉にペイント缶の中身を壁にぶちまけて国旗を塗りつぶそうとする… かつてロバート・ワイズが監督した「ウエストサイド物語(1962)」の冒頭は、ソール・バスによるマンハッタン遠景のシルエットを図案化した画面が少しずつ色を変えていくのに合わせて「序曲」が流れ、「序曲」の終わりと共に実景に入れ替わるという洒落たものだった。それは例えば、劇場の客席で開演前のベルが鳴り場内が暗くなり、緞帳だけが薄明るく照らされているが、徐々に明るくなりいよいよ幕が上がり芝居が始まる、という高揚感を映画館でも味わうための工夫でもあったと思うが、今回は映画の舞台が自分達の住む場所を追い出されるスラムの弱者たちが主役であることを象徴している。このテーマは、オリジナルの人種問題に加えて、このリメイクで新たに付加されたテーマであると言える。事実、映画全体を通じて、社会の底辺で未来への希望を抱くこともなく、ずっと苦労し続ける少年たちの行き場のない苦しみが強調されており、しかも彼らの住処を壊して建設されたリンカーンセンター(提唱者はロックフェラー三世)が、ミュージカルを始め多くの舞台芸術や音楽の中心となったことが、ショービジネス(とその向こうにいる観客たち)への凄まじいまでの皮肉となっている。そんなシニカルな脚本はスピルバーグとともに「ミュンヘン(2005)」や「リンカーン(2012)」などを作ったトニー・クシュナーだ。この脚本の是非は賛否が大きく分かれるところになるだろう。なぜなら1960年代のミュージカル黄金期傑作の再来を期待するファンにとっては、こんな余計な社会派の視点は邪魔で無意味なものに過ぎないからだ。そもそもオリジナルのファンは、50年代のニューヨークに黒人の姿が映らなかったと言って何か疑問を抱くことなどあろうか。とすれば、スピルバーグとクシュナーの狙いは、オリジナルを知らない世代に、ミュージカルとしての「ウエスト・サイド・ストーリー」の素晴らしさを、現代の視点から提供するというところにあると考えられる。この目的のためにスピルバーグは考えられる最高のスタッフを結集した。プロダクションデザインはウェス・アンダーソンの「グランド・ブダペスト・ホテル(2013)」などのアダム・ストックハウゼン、一見乱雑に見えるが、色彩や構図が綿密に計算されたマンハッタンの街角はどこから見ても均整が取れている。遠景はすべてCGだが、その詳細にも手抜かりはない。キャメラはスピルバーグの盟友の名手ヤヌス・カミンスキー。ジェッツ団が自然光の中で立つ、という単純なシーンでも、自然光の微細な変化が画面で印象的に見えるように工夫されているのは彼のスタイルだ。オリジナルを含めて舞台版の振付は、ほぼジェローム・ロビンスによる伝統的なものだが、今回はそれにジャスティン・ペックというニューヨークシティバレエ団のコリオグラファーによる振付が追加されている。本作品の「クール」はその典型的な例だろう。オリジナルとは全く異なる(そして舞台版とももちろん異なる)斬新な振付は、オールドファンにとっては物足りないかもしれないが、リフとトニーが繰り広げるマーシャルアーツのようなダンスは、若者にとっては魅力的に映るに違いない。そして音楽はもちろんレナード・バーンスタインだが、今回ニューヨークフィルを率いて参加したのは、ヴェネズエラ出身のグスターボ・ドゥダメル(コロナ禍の影響で一部はロサンジェルスフィルの演奏)。彼が世界的に認められるようになったのがシモン・ボリバル・ユース・オーケストラと演奏した「マンボ!」であることを考えると、唯一の選択肢だったとも思える(レニーの弟子という選択であれば佐渡裕でもよかったろうに)。 一方キャストは、ブロードウェイを始め舞台などで認められつつある若手を中心に選ばれた。トニー役のアンセル・エルゴートだけはミュージカルよりも映画での実績が買われているのだろう、他のキャストと比べて声の伸びに差があるのは仕方がない(もちろん「ベイビー・ドライバー(2017)」で見せた繊細で複雑な感情表現は今回も光っている)。トニーとデュエットするマリア(レイチェル・ゼグラー)が素晴らしいソプラノを聴かせるものだから、「トゥナイト」ではちょっと可哀想なくらいだ。アニータを演じたアリアナ・デボースは舞台で高い評価を受けている若手だけに堂々の貫禄。今回アカデミー賞の俳優部門で唯一のノミネートを受けている。オリジナルでアニータを演じたリタ・モレノは、オリジナルのドク役(シェイクスピア原作のロレンス神父の役回り)にあたる薬局店主を演じており、なんと「サムウェア」を歌唱。オリジナルではマリア(声:マーニ・ニクソン)が歌うナンバーで、これは製作者にも名を連ねた特権? 映画としてもクオリティは極めて高いのだけれども、ドラマを重視するのか、ミュージカルを重視するのか、というスタンスの中途半端さがどうも気になってしまった。人種問題に加えて、社会の二極化に関する問題、LGBTqの問題等々、問題意識が目立ち過ぎて、「夢の世界」に入り込ませてもらえないという欠点は大きい。そんな硬質な側面がありながら、フラッシュ・モブ的な「アメリカ」の演出は、群舞をする一段の端に、様々な人種の子供たちが加わって楽しげに踊るというシーンすらある。あまりに他の画面とのギャップがあり過ぎて、これだけで作品の評価がぐっと下がってしまった。スピルバーグの「老い」を周囲の優秀なスタッフが優秀なキャストを揃えて懸命にカバーした作品とでも言えば良いのだろうか。
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mobsprooftheweb · 2 years ago
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『金持を喰いちぎれ』公開決定
モーターヘッドのレミー、ポーグスのシェインほか大挙映り込み!
金と権力があるからといって、おまえらに権利はない! <社会の底辺が金持ちを喰いちぎる映画> 『金持を喰いちぎれ』 世紀の怪作がデジタルリマスターで、7月14日(金)よりシネマート新宿他にて公開決定!
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1987年の初公開時、あまりの過激さに誰にも理解されず映画史上空前の空振りを記録したとんでもない英国産社会派ブラック・コメディ『金持を喰いちぎれ』がこの度、デジタルリマスターにより新たに息を吹き返し、7/14(金)よりシネマート新宿ほかにてリバイバル公開が決定!
ロンドンで最も金持ちの集まる高級レストラン<バスターズ>でウェイターとして働くアレックスは、いけ好かない客やマネージャーにいびられクビになり、身寄りも友人も家もなく社会の最下層に沈んだ。
同じくロンドンでは乱暴で下品だが実行力のある上流階級の権力者、超タカ派内務大臣ノッシュが、ソ連のスパイである英国情報部司令長官が仕掛けた女性スキャンダルの罠にはまるが、送り込まれた高級コールガールは一発でノッシュの子をはらんだ。
底辺部隊を組成するアレックス。<イート・ザ・リッチ>と改名されたその高級レストランでミンチ肉料理に舌鼓を打つ金持ちたち。
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社会の最上位と最底辺の対決のときが迫る! 無能な者が権力者になるという、この世の摂理に切り込み、あらゆる差別とヒエラルキーを吹き飛ばして見事に散った、社会派超怪作!
1980年代、パンク・ムーブメントを力ずくで押さえこみ社会保障カットとフォークランド戦争で大英帝国を再建した剛腕サッチャー政権下、生活苦に耐えきれなくなったイギリス国民がついに立ち上がった! 一部の金持ちだけが優雅な生活を謳歌し、庶民ばかりが苦しむ世の中を痛烈批判。海外のキャッチコピーは「おまえが食べているのはおまえだ!」。
人種差別、性差別、階級差別、選民主義、権威主義に怒りを爆発させ、反旗をひるがえす大貧民たちが、大金持ちしか入れない超高級レストラン<BASTARDS>を乗っ取り、<EAT THE RICH>と改名して金持ちを血祭りにする!
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イギリスの庶民派テレビ局で人気を呼んだ社会風刺コメディ番組「ザ・コミック・ストリップ」でポストモンティ・パイソンとして注目を浴びた英国コメディ集団コミック・ストリップの一員であるピーター・リチャードソン監督が、パイソンズより遥かに過激に強烈な風刺を利かせて制作、ジョージ・オーウェルの小説「動物農場」やビートルズの楽曲「Piggies」のテーマにも通じる、猛烈な社会批判を展開するも、初公開時、その猛毒に誰もついて行けずに映画史上空前の空振りを記録した、勇気溢れるとんでもないブラック・コメディ『金持を喰いちぎれ』が36年ぶりに戻ってきた。
「グルメの叙事詩」とも評され、あまたあるグルメ映画に『ハンニバル』(レクター版)と『博士の異常な愛情』をぶち込んで、じっくり煮込まず肉汁滴るスパイスかけすぎのハンバーグステーキに仕上げたグルメ映画史にさん然と輝く極悪異端作でもあり、近年の英国媒体による「映画史上最大の失敗・愚行TOP50」では、歴史的超大作が軒並み名を連ねるなか、超インディペンデント低予算映画にもかかわらず第49位にランクイン(マイケル・チミノ『天国の門』が2位、デヴィッド・リンチ『砂の惑星』が3位)、今でも凄まじい存在感を発揮している前人未到の社会派超怪作である。
製作総指揮は『ロッキー・ホラー・ショー』(75)や、ポリス、XTC、ディーヴォなど出演の音楽映画『Urgh! A Music War』(81)を手掛けたマイケル・ホワイト。
主演にはジェンダーのボーダーをかるく突破、舞台、映画、テレビ、ラジオ、音楽などどんなところでも活躍するラナー・ペレー、元ヘヴィ級プロ・ボクサーであり、007シリーズのスタントのほか『荒野の用心棒』(64)にも映っているノッシャー・パウエルが上流階級の内務大臣にふんしている。
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また暴走ロックンロールの帝王であり人類の切り札といわれるバンド、モーターヘッドをサウンドトラックに起用、劇中に唐突なライヴシーンが差し込まれ、その創始者であるロックンロールの化身、極悪レミーが台詞を含めた演技を披露している。
そしてポール・マッカートニー、アンジー・ボウイ、サンディ・ショー、クー・スターク、ミランダ・リチャードソン、シェイン・マガウアン(ポーグス)、ヒュー・コーンウェル(ストラングラーズ)、ビル・ワイマン(ローリング・ストーンズ)ら超豪華ミュージシャン、俳優、モデル、作家、アーティストたちが大挙カメオ出演、なぜ映っているのかは誰もわからないが、作品のテーマに賛同したと信じることも可能だ。
<作品内容と完成度、そして世の中の反応、作品が受けた仕打ち>
すべてがあまりのことにたいへんなこととなった本作は、数十年の熟成を重ねて気づくと『ロックンロール・ハイスクール』『さらば青春の光』『スパイナル・タップ』『ザ・コミットメンツ』『スクール・オブ・ロック』等々のロック映画好きはもちろん、この世の金持ちと庶民は必ず観なければならない作品となっていた。
製作から36年、なぜいま、これがリバイバルされるのか、まったくわからないが、食料品も軍事費も何でも値上げで生きづらさ増す日本の現状からすれば、我々は80年代英国人の気持ちに納得するだろう。 そして何の躊躇もなくそれを映画という表現で世に叩きつけた本作は、あらゆる物事が<ふつう><平均>に落ち着こうとする現代において人類が忘れ去ろうとしている何かをもたらすにちがいない。 この年月を経て、人類はこの猛毒の理解に近づいたのか、それとも遠ざかったのか、進化か退化を問われるまさかの正式リバイバルで、遂に金持ちを喰いちぎるときがやってきてしまったのだ。
今回解禁となったポスタービジュアルは、日本初公開当時のデザインをベースに新たに作成!
「金と権力があるからといって、おまえらに権利はない!」というメッセージ性の強いコピーと共に、お皿のまわりに多彩な出演者、豪華ゲストを配し、センターには本国ビジュアルでも使用されている強烈上流階級権力者キャラ“ノッシュ”が足を喰っているイラストを使用。 腹には本作のサントラも手掛け、出演も果たしているモーターヘッドの有名なロゴ“War Pig”が燦然と輝く!
『金持を喰いちぎれ』は7月14日(金)よりシネマート新宿・シネマート心斎橋にてロードショー。以降全国順次公開となる。
『金持を喰いちぎれ』 (1987年|イギリス映画|89分|アイアン・フィスト・ピクチャー制作|原題:EAT THE RICH) 監督:ピーター・リチャードソン 脚本:ピーター・リチャードソン/ピート・リッチェンス サウンドトラック:モーターヘッド 出演:ロナルド・アレン/ジミー・ファッグ/ラナー・ペレー/フィオナ・リッチモンド/サンドラ・ドーン/レミー/ノッシャー・パウエル/ロン・ター ゲスト出演の“ザ・コミック・ストリップ”メンバー:ロビー・コルトレーン/ドーン・フレンチ/ナイジェル・プレイナー/エイドリアン・エドモンドソン/リック・メイヨール/ジェニファー・ソーンダース さらにゲスト出演:キャシー・バーク/カトリン・カートリッジ/ショーン・チャップマン/ダーレン・ネスビット/ミランダ・リチャードソン/クー・スターク/ルパート・ヴァンジッタート さらに豪華ミュージシャン出演:ヒュー・コーンウェル(THE STRANGLERS)/ジュールズ・ホランド/ポール・マッカートニー/シェイン・マガウアン(THE POGUES)/サンディ・ショー/スティーヴ・ウォルシュ(KANSAS)/ビル・ワイマン(THE ROLLING STONES)/アンジー・ボウイ/ウェンディ・O・ウィリアムズ/ワーゼル(MOTORHEAD)/フィル・キャンベル(MOTORHEAD)/フィルシー・アニマル・テイラー(MOTORHEAD)
© 1987 National Film Trustee Company Ltd. All rights reserved. キングレコード提供|ビーズインターナショナル配給
公式サイト:bastards-eattherich.jp
シネマート新宿/シネマート心斎橋にて7月14日(金)より公開ほか全国順次公開
<Motörhead – Eat The Rich>
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cellophanemaryjane · 3 years ago
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私にもサブカルのこと書かせて-3(CUTIE)
CUTIEにはファッションの面でとても影響を受けました。
あの頃のスナップページに出てくる人たちは、おしゃれな服を着て「バタイユを読みました」とかコメントしていました。今は反知性主義な人がいるからそういうことを言うと馬鹿にされますね。
CUTIE系のはちゃめちゃなインテリアもありました。何というのかわからないけど、青文字系インテリアスナップとでもいうあの手の世界では、アントニオーニの「欲望」と「トレインスポッティング」のポスターが長いこと幅を利かせていた気がします。
私が初めて岡崎京子の漫画を読んだのはPeeWeeという雑誌で、双子が出てくるやつで特に面白くはありませんでした。その後CUTIEで連載していた作品を知ったけど、全面的に好きではないなぁと思いました。「リバーズ・エッジ」がちょうどリアルタイムで連載されていて、あまりの展開に私の通っていた学校にいたほんの一握りのサブカル女子達のテンションですらみるみる下がっていったのを覚えています。「pink」くらいまではまだ女の子の感性いいよねー的な雰囲気があったけど、あそこまでやれとは言ってないわーという空気でした。これは私が実際に体験したもので、決してみんながみんなあの作品を絶賛したわけではなかったのです。
それなのに、あっというまに「リバーズ・エッジ」は当時のもやもやした空気を見事に描いた、漫画にしかできない表現、などと言われるようになって、いまさら映画にまでなってしまった。
映画はGYAOで見たけどなんかダサい作品だったし、るみちんと観音崎くん役の人がヨゴレすぎて気の毒になってしまいました。あの2人他のドラマとかで見かけないし。(活躍してたらごめん)
岡崎京子の作品に熱狂的なファンがいるのはわかります。わかるけど、私はなんかあの自分と誰かを傷つけないと生きてる実感が湧かないのよみたいな感じが苦手です。
当時、私より2つ3つ年上のある女性が「pink」のことを「売春しても守りたいものがある、っていいよねー」と言っていて寒気がしました。結局のところほとんどの女の子というものは、本当にはなかなかそこまでは行けなくて、ガールカルチャーというものをフィクションとして消費してしまうんだなというのがずっとあります。ごく一部の女の子達がこういう作品やサブカルおじさんの言うことを間に受けてしまって痛い目に合うこともあるけど。
その頃はそういう、生きてる実感を味わうための、マイナーな雑誌ではないちゃんとした出版社から出た死体の本とか悪趣味なものを集めた本とかあったけど、私個人としてはダイアン・アーバスの写真集をこっそり見るのが精一杯でした。ダイアン・アーバスも「毛皮のエロス」という映画になって、なかなかいい作品だったけどAmazonのレビューで「でもこれ不倫の話ですよね」って書いてる人がいてびっくりしました。
その後ボリス・ヴィアン原作の「うたかたの日々」を漫画化した連載が始まって、60年代に作られた映画のリバイバル上映もありました。私は「日々の泡」というタイトルの方を読んでいたので「うたかたの日々」というタイトルがあっという間に主流になって納得いきませんでした。そしてそもそも、この小説がとてもつまらなくて嫌いでした。私はこの頃から今までずっと、そして多分これからも、主人公が難病で死ぬとわかっている作品の面白さがよくわかりません。「うたかたの日々」の映画は装苑の長沢節の映画批評コーナーで取り上げられて褒められていました。長沢節も微妙に私と好みが合いませんでした。この人毒舌がうまくないし、男でも女でもきれいでかわいい人が出てるだけでだいぶ点数アップするんだよな、と思って読んでました。
ただ、漫画雑誌でもないのにあれだけまとまった作品にできたCUTIEってすごいと思います。それともCUTIEはなんにもしてなくて岡崎京子がすごかったのか、その辺の話を聞いたことがないので誰か教えてほしいです。どのくらい編集者が関わってたんだろう。確かあの頃ナガイ編集長という人でした。
そのあと安野モヨコが載るようになって、岡崎京子に比べると読みやすい漫画でした。安野モヨコは今落ち着くところに落ち着いてるようで嬉しいです。おしゃれ漫画家だったのに、すっかりオタクの人たちからミューズ扱いされるようになっていてほっこりします。
CUTIEのようなファッションを好むのはモテない女の子扱いだったけど、ひとつのスタイルを作り上げた雑誌だと思います。きちんと、若い人たちにファッションとカルチャーを結びつけてあげていた。系統としてはパンク系、エスニック、スポーツミックスのクラブ系、ロリータ(ゴス含む)、古着やレトロ系が軸だったと思います。あとチープシック特集だと便所サンダルとかかっぽう着とか載せてたんだけど、覚えてる人いるかなぁ。チープシック特集というのはCUTIEに限らず他の雑誌も1年半に1回くらいやるのですが、どこも必ず「文化屋雑貨店」のアイテムを載せていました。私もよく行きました。
堀越絹衣は大物スタイリストという感じでたまにしか載っていなかったのですが、吉川ひなのがモデルを務めていた「インナーウェアで街に出よう」という特集が大好きで、実はまだ切り抜きを持っています。この人のページはクレジットに「スタイリスト制作物」というのが多くて、それがまた良かったのです。スタイリスト制作物はいいけど、「スタイリスト私物」と「参考商品」ばっかりのページは「ハァ?」って思ってました。
あと名前を思い出せないのですが福島さん?みたいな名前の若いスタイリストの方が活躍していて、本人もよく出ていました。ジャージに古着のコットンスカートとか、ラインストーンの大きな飾りがついたスニーカーとか、そんな感じのスタイリングが印象に残っています。今でも100円ショップのラインストーンのシールとか見るとかわいいな〜と思ってしまいます。(集合体恐怖症なのであんまり小さいのはイヤ〜ってなるけど)
私は断然レトロ派でちょっとだけパンクとロリータが好きだったので、ジャージやスカートとパンツの重ね着はしなかったし、チビTとロングスカートも着なかったし、ヒステリックグラマーやスーパーラヴァーズもあまり興味ありませんでした。でもその頃はアニエス.bなどのフレンチカジュアルとギャルがメインストリームな感じだったので、どこかに勝手な仲間意識はあったような気がしています。高いものから安いものまで、とにかく風変わりで着ることが楽しいと思えそうな服がいっぱい載っていました。手作り系も楽しかったし真似しました。
私はオリーブを読む時と同様にCUTIEに載ってた人たち全部が好き、というわけではなかったので、安田トキコや花代は苦手でした。2人とも読者からするとお姉さんの年代に当たったのですがスタンスは違えど厚化粧する女の子をディスるようなことを言っていて、年下の子にこういう言い方をする人にはなりたくないな〜と思いました。態度も見た目も好きじゃなかった。カヒミ・カリィはこだわりはわかるけどインタビューでは大体いつも同じことばかり言っていました。(岡田眞澄や伊武雅刀などとデュエットしたい、小柄なのでキッズサイズを着てる、ずっと探してるデザインの服があるんだけど見つからない、の3本)あとCUTIE全体にちょっと下品さがあって、そこが好きになりきれない面がありました。CUTIEに限らず、どの雑誌も好きな部分だけ受け入れるという感じでした。
そしてあの頃からオシャレ動物愛護、オシャレ環境問題みたいな人たちがいて、ユアンが井浦新やKIRI等の他のモデル達から「ユアンはゴミ問題の話ばっかりしてる」とか言われていました。ヒロミックスもゴミ問題とかよく言ってた。井浦新はかっこよかったけどこんなに活躍するようになるとは思ってませんでした。まさか毎週毎週ドラマに出て視聴者を身悶えさせるようになるとは。市川実日子も。姉の実和子の方がシュッとしててきれいだと思ってたけど、実和子はその頃恋人だった三原康弘(やっちん)との微妙にすさんだポラロイド日記を連載していて、だんだん私もマイペースな実日子の方が好きになりました。
その後何年か経って驚いたのは、読者モデルだった村山ゆきが片桐仁の奥さんになってたことと、エアギターの金剛地武志が深夜番組で一回だけ見たyes mama ok?だったことです。イエママはCUTIEの新譜コーナーで紹介されてたけど、なんか渋谷系の搾りかすみたいだった。村山ゆきと横山優貴が出てくるようになった頃、私もあんまりCUTIEを買わなくなりました。ゴシップみたいな話ばっかりですみません。
(つづく)
追記
これを書いてから数年経ちましたが、るみちんと観音崎くんを演じた2人をよく見かけるようになってよかったなぁと思っています。
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thetaizuru · 3 years ago
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 夏目漱石の『吾輩は猫である』(1906)で、登場人物の一人がニーチェについてこんな寸評をする。  「とにかく人間に個性の自由を許せば許すほど御互の間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチェが超人なんか担ぎ出すのも全くこの窮屈のやりどころがなくなって仕方なしにあんな哲学に変形したものだね。ちょっと見るとあれがあの男の理想のように見えるが、ありゃ理想じゃない、不平さ。個性の発展した十九世紀にすくんで、隣りの人には心置なく滅多に寝返りも打てないから、大将少しやけになってあんな乱暴をかき散らしたのだね。あれを読むと壮快と云うよりむしろ気の毒になる。あの声は勇猛精進の声じゃない、どうしても怨恨痛憤の音だ。...」
 エドヴァルド ムンクが1893年に制作した絵画『叫び』は、ムンクが感じた幻覚または心象風景を描いたもので、ムンクは日記にその時の体験を次のように記している。  「私はニ人の友人と道に沿って歩いていた。太陽が沈んだ。空は血のように赤くなった。私は一抹のメランコリーを感じた。そこに立ち止まり、死んだように疲れ果て、欄干にもたれた。黒く青いフィヨルドと町の上には血まみれの舌のような形の炎がかかっていた。友人は先を行き、私は恐ろしさに震えながら、後に残った。その時、自然を駆け抜けるような大きな、終わることのない叫びを聞いた。」  絵には右下から左上に伸びる欄干が描かれていて、人物が橋の上に立っているように見えるが、実際には橋ではなく坂道の柵で、今ではノルウェーの首都オスロの観光名所の一つになっている。
 ムンクはフランスの印象派の画家に大きな影響を受け、加えてフィンセント ファン ゴッホなどのポスト印象派に分類される画家たちの作品から技法を学んだ。  19世紀後半の文学や芸術には、ざっくりした分類で、写実主義、象徴主義、自然主義、印象主義の4つの潮流があった。それらはロマン主義から派生した。  18世紀末から19世紀前半にかけて起こったロマン主義は、アカデミズムが掲げる「唯一の理想美の追求」という考えに対して、「多様な個性美の追求」を掲げた。この考えはフランス革命の思想とともに、ナポレオン戦争によってヨーロッパ全体に広がった。それ以降、ロマン主義が文学芸術の潮流において主流になる。その後、「多様な個性美の追求」などの基本的な考え方は継承しつつ、技術や主題選択、美学理論や思想などに反発する形でいくつかの潮流が派生し、19世紀後半の潮流を作った。  普仏戦争後の1871年3月26日、 パリのコミューンが史上初の「プロレタリアート独裁」による自治政府を宣言、以後5月20日まで二か月ほどの期間パリを統治した。  フランスの写実主義美術を牽引したギュスターヴ クールベは、コミューン美術委員会議長としてコミューンに参加し、第二帝政期の帝権の表象たるヴァンドーム広場の円柱 の解体を提案、5月8日、コミューン政府の名の下に円柱は倒された。  5月21日からの一週間で、ヴェルサイユ政府軍によってパリ市全域は鎮圧され、コミューンは崩壊した。クールベは円柱破壊事件の責任を問われて逮捕され、莫大な費用の支払いを命じられる。クールベは1873年、スイスに亡命し、1877年、亡命先で亡くなった。  パリコミューンは後の社会主義、共産主義の運動に大きな影響を及ぼしたが、この挫折が後を引く形で、19世紀後半の文学芸術の潮流を19世紀末にかけて解体していく。  フランスの印象派の画家たちがグループとして活動したのは、1874年の第1回印象派展の頃からの約10年間で、1886年に開かれた最後の印象派展となる第八回展は印象派のグループとしての解体を象徴した。第八回展には、印象派を牽引したモネやルノワールの出展はなく、印象派に批判的なルドンやゴーガンの作品が出展され、後に新印象派と呼ばれるスーラやシニャックが出展していた。  印象派の画家たちは「『見るもの』ではなく、『見たもの』を描く」という考えを重視していた。この考えは、写実主義の「ありのままの現実を描く」という考えが先駆けになっているが、写実主義の画家たちが選んだ画題は、それまでに描かれてこなかった「同時代の社会」からだんだんと「社会の暗部」へと、よりセンセーショナルな方向へ先鋭化していった。それに社会主義的な思想や当時のジャーナリズムが影響し、スキャンダルを探すというレンズを通して見たものを描く傾向にあった。  象徴主義は、ボードレールの『悪の華』とボードレールに影響を与えたオカルティズムを思想源流としていて、その思想や超自然的な理屈を通して世界を見る。  超自然的、オカルト的要因を用いずに客観的に自然の事実を把握しようという自然主義も、客観性を担保するために自然哲学や自然科学を適用し、その理屈を通して世界を見る。  パリコミューンの挫折と産業革命による科学技術の発展が、それまでのものの見方の誤りや矛盾を浮き彫りにすることになり、印象主義の「『見るもの』ではなく、『見たもの』を描く」という主観性を重視する考えが注目され、後世にも影響を与えた。しかし、印象派の画家たちもその後の自己の芸術の追究に当たっては、理論や哲学、信仰にも近い芸術観であったり、社会との関わりなどを必要とした。後に新印象派と呼ばれるスーラやシニャックは、科学に基づいた画法や色彩理論を取り入れ、 新たな表現技法を確立する。  「写実主義、象徴主義、自然主義、印象主義」という分類が有効ではなくなり始めた頃の1890年に亡くなったゴッホは、印象主義の流れをくみながら独自に展開を遂げたということでポスト印象派に分類される。1890年代に一気に高まるゴッホの評価には、ゴッホの生涯に19世紀後半の社会運動や芸術運動が辿った変遷が投影された。ゴッホは、画家を志す前は伝道師を目指すが挫折し、画家として南フランスのアルルでユートピア的な共同体を作ろうとするも唯一提案に乗ったゴーガンとすぐに仲違いし、その後は時折発作に襲われながら、孤独の中で描き続けた。  フランスの象徴主義の詩人、画家で美術評論家でもあるアルベール オーリエはゴッホの晩年1890年初頭に、最も早期にゴッホを賞賛していた一人であり、ゴッホ死後の1891年にも、ゴッホを同時代における美術の潮流の中に位置付けながら、「写実主義者」であると同時に「象徴主義者」であり、「理想主義的な傾向」を持った「自然主義の美術」を実践しているという評価を述べて賞賛した。  ムンクの1890年代の評価は決して良いものではなかった。1892年にベルリンで開かれたムンクの個展はベルリンの各新聞で激しく攻撃され、わずか1週間で打ち切りとなるという出来事もあった。それでも支援者が現れ、徐々に愛好者が増えていき、1902年のベルリン分離派展での展示が大成功を収めた。ムンクは日記に「あの悲惨な時代は終わった」と書いている。  この頃に、ムンクの『叫び』について、やや象徴主義的とも呼ばれる解釈、あるいは象徴主義や印象主義などの分類を取っ払った解釈の中から、これはニーチェの超人の思想を表現しているんじゃないかという捉え方が出てくる。ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』に「人間において大いなるところは、彼が橋であって、目的ではないことだ」という言葉があり、ムンクの『叫び』は時代に架かる橋の上に立ち、自らも時代の橋渡しになることの重圧と不安の正直な表現、あるいは決意表明のようなものだという解釈だ。  ムンクが描いたのは橋ではなく坂道なので、この解釈は写実主義、自然主義、印象主義的に見れば間違いであり、象徴主義的な技法からも逸脱している。またムンクは1906年に依頼されてニーチェの肖像画を描いているが、これについても、1900年に亡くなっていて会ったこともない人物を写真や他の肖像画を参考にして、自分の解釈や思想を反映させて描くというのは、写実主義、自然主義、印象主義的な考えに反し、象徴主義からも逸脱していて、またニーチェの思想を表現するものでもないという批判があった。ただ、ニーチェの思想と言っても、何言ってんのか全然わかんないことや、わかんないのに読んでると何かゾワゾワする感じや、たまになぜかぶっ刺さる言葉が出てくる感じが、ムンクの絵にもあるように思える。ゴッホの絵もそうかもしれない。また、ニーチェも、人間は絶対的な真実に到達することは不可能であり、解釈を更新し続けるしかないというようなことを言っている。  1905年、ドイツのドレスデンで、画家のエルンスト キルヒナー、フリッツ ブライルらが、ゴッホやムンクが切り開いた表現から大きな影響を受け、新しい表現を模索しようという目的でグループを作り活動を始める。グループ名は、過去と未来の表現を橋渡しするということと、ニーチェの言葉から「ブリュッケ(橋派)」と名付けられた。  グループとしてのブリュッケは内輪もめなどもあって1913年に解散。短命だったが大きな衝撃を与え、表現主義というスタイルを確立するに至った。  ドイツでブリュッケが結成され、またフランスでアンリ マティスが『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』という絵画を発表した1905年が表現主義のはじまりとされ、表現主義が始まった1905年以降の美術が近代美術とされる��最も広義の意味ではそれ以降の表現はすべて表現主義の影響下にある。
 19世紀前半まで、「人間性(ヒューマニズム)」という概念には、ユートピア共同体という意味が含まれていた。近世の思想の根底にある「理性」という概念は、人間が誰もが共通して、共通の「理性」を持っていて、その理性を通して真実に到達でき、例えば神の存在なども合理的に把握し説明できるというものだった。そこから、誰かが理性によって真実の世界に到達すれば、その導きによって誰もが共通して持つ理性によって全く同じように真実の世界に到達し、この世は真実の世界、すなわちユートピアになるという考えが広まるが、19世紀半ばから終わりにかけて、ちょうどゴッホがアルルでユートピア的共同体を作ろうとして挫折した頃、そんなものはそもそもなかったということに気づく。前から何でも知っていたと言う科学信仰者たちが、訛どころか言語もわからない国から踏んだことのないリンクの果てまで、ナノの世界から宇宙の果てまで、あらゆる事柄をファクトチェックしていっても、真実の千年王国は到来しない。  19世紀末、孤独と内面の探求にしか表現しうる「人間性」は存在しなくなり、表現は一度、孤独に立ち返る。  孤独と内面の探求による表現が、誰か他者の共感に到達するかを探し求めながら、20世紀の表現が始まる。ユートピア思想もまた再び立ち現れて、そして崩れる。
 思い出してみてほしい。  自分の言葉で伝えたいことって、どんなことか。
2022年四月
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mokkung · 4 years ago
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(短評)映画『ストーリー・オブ・マイライフ 私の若草物語』
Twitterより転載
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引用元
『ストーリー・オブ・マイライフ 私の若草物語』(2019年、米国)
もう戻ることのない少年少女期の終わりの儚さを真正面から描きつつ、女性への抑圧や生きづらさというテーマを盛り込んでおり、単に甘い青春や家族愛に着地しない苦味のある出来栄えは💯
これを観ると今も変わってないと思う部分が多々あり悲しい😢
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若草物語は原作未読で、少年時代にアニメでちょろっと見たことある程度ですが、もともとの印象より現代にも通ずるエッセンスをちゃんと強調した作りに解釈しなおした感じがあり、今作られる意味をしっかり意識してるのだと思います‼️
さすがグレタ・ガーウィグ監督😆
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とっても豪華に作り込まれてて、美しい優雅な雰囲気を醸しているんですが、随所に苦味が染み出してくるのが良かったです😣
ジョーの恋心の結末、女性は経済的に自立できず結婚が全て。切ない描写を重ねつつ、それでも最後は前向きな着地で終わらせる点は良かったです‼️
俳優陣の演技も良かった👌
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Twitterより転載
ある人物が猩紅熱に苦しめられて、一旦回復後もそれをきっかけに弱ってしまいます😯
猩紅熱は溶連菌感染の酷いやつですが、現代日本では少ないしここまで重症化することはめったにないです💦
今は容易に治る疾患も昔は命がけだったと実感する😣
※追記
猩紅熱はA群β溶血性連鎖球菌(A群溶連菌)の毒素によって生じる病気で、子供に好発します。A群溶連菌感染症は咽頭炎や皮膚感染症(蜂窩織炎、単独など)の頻度が多いですが、この映画のように猩紅熱を発症することがあります。
猩紅熱では全身の皮膚に赤みが出たり、点状の皮疹(ブツブツ)が出現します。苺舌というベロが赤く腫れ上がる症状も典型的です。
咽頭や皮膚のA群溶連菌感染は抗菌薬で用意に治療できるため、現在では重篤な経過をたどるケースは少ないです。治療が遅れると急性糸球体腎炎、リウマチ熱などの合併症が見られることがあります。
劇中に猩紅熱を発症するとある人物は、おそらく一度猩紅熱が回復したけど、合併症として腎臓病を発症するなどして再び病に苦しんだのではないかと予想されます。
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Twitterより転載
この映画を好きな方にお勧めなのは
ドラマ『ディキンスン 若き女性詩人の憂鬱』
youtube
ほぼ同じ時代のアメリカを舞台にしており、女性の抑圧や生きづらさをテーマに盛り込んでいて、共通性を感じます‼️
こちらの方がより現代的な解釈ですが😅
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死後に発見されブレイクしたアメリカの女性詩人エミリー・ディキンスンを主人公に、抑圧を受けながらも自分らしく進もうとする彼女の日常を描いてます😆
軽快で基本は明るいちびまる子ちゃん的作品なんですが、唐突に残酷な現実を突きつけてくるので思いの外見てて悲しい気持ちにさせられました😢
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chaukachawan · 5 years ago
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これはサプライズなので。(2)
続き!
B脚本:明日の世界の過ごし方
 
・橋本悠樹
前回と今回の公演を見て、これを書いている奴は彼の演技が好きだと思った。モノローグ等「何かを訴えるときの演技」がとても好きだと感じる。最初は静かに少しずつ盛り上がっていく訴え方、その時の表情。今まで彼がモノローグ多めの役を割り当てられてきたのはその機微が絶妙だからなんだろうなと思う。またツッコミも上手い。前回の役は見ていてとても楽しかった。そんな彼がネタキャラをやったらどうなるのか、とても気になるのでいつか見てみたい。
「ごめんなさい」とノイローゼ気味に何回も謝りながら周囲の人を屠る二重人格系サイコパスとかやってほしさがある。…え、怖い?ごめん。
・渡部快平
今回彼の演じた役が兎に角かっこいい!見る度に泣きそうになっていました。彼の好きなところはその心の熱さ。普段はぶっきらぼうに見えて、その実空き時間とかに台詞の言い方を熱心に練習していらっしゃる。その熱心さなところがとても好き。声ももちろん好き。更に意外と自分からボケるお茶目な一面もあると耳にした。なんでこんな言い方なのかって?全然喋りに行けないからだよ…ものすごく話してみたい…話しかけていいですか…。
 正直去年の夏や秋みたいな「ちょっとイヤミないじめっ子」みたいな役がよく似合うなと。でもあくまでそれだけで、悪役そのものはあんまり似合わない気がする。
 ・堀文乃
彼女は兎に角演技が上手い。勿論これまで積み重ねてきた賜物なんだろうなとは思う。特に「二面性」や「マイムの細かさ」が彼女の好きなポイント。今回の役のような、裏がある演技がとてもうまいなと毎回思う。また、マイムもきちんと細かくて、「今どこに登場人物がいるのか」「どうやってここへ来たか」等がとてもよくわかる。何か書いて読んで貰うことがあるのだが、それについて「こうしたらいいかも」とアドバイスも的確で正直尊敬しかしていない。最近おしゃれに磨きがかかり更に可愛さが増している。好き。
 先ほど書いたように二面性のある役をやってほしさがある。悪徳社長の秘書で、最後の最後に上司さえ裏切りラスボスになる…みたいな。
 ・西田幸輝
彼の好きなところは普段のゆるっとした感じとは打って変わり舞台上での「かっこよさ」である。舞台上では役柄のせいとかもあるかもしれないがとても勇気が出るような言葉を叫ぶ演技、というものがとても似合うなって感じる。言うなれば今流行りの鬼滅の主人公のような感じ。声はそんな叫ぶイメージがないのにこの男が「人は心が原動力だ!」とか言ったらなぜか迫真力を感じるのである。普段何気に毒を吐くのもまたご愛敬。
 可愛い顔してやばいことしてそうなサイコパス系とか見てみたい。お金とかだけ取ってちゃっかり相手を罠にはめたりとか。
 ・島﨑愛乃
この子の好きな点も可愛さだなぁ。声が兎に角可愛らしいんですよ。小鳥のさえずりのような。それでも舞台では圧倒的存在感を放ってる。経験に裏付けられたその演技力は勿論、キャスパの踊りも凛としていて可愛い。一方スタッフワークでもあちこち奔走している。とても面倒見のいいしっかりした所も彼女の魅力ポイント。彼女がいないとちゃうかは成り立たない。いつもお世話になってます。
 に、似合いそうな悪役が思いつかない…です。はい。
・山内一輝
彼の好きなところは特に「意外性」。普段ホントに何気ない顔していきなりネタをぶち込んでくるイメージ。特に本番で意外なアドリブをぶち込んでいきお客さんの目を奪う。その手口の鮮やかさが素晴らしすぎる。「あ、そこ変えてくる!?」とか「そこそう動く!?」みたいな、発想も新しくて好き。しかも台詞がない時とか他の役者に迷惑をあまりかけないようなタイミングでばっちり入れてくる。何気に彼の動向はそんな感じでつい見てしまう。
 今回みたいな小物感ある悪役がよく似合いそうだな~…と思っている。
・中津川つくも
今回衣装もメイクもドンピシャ!ってなった子。ものすごく綺麗でした。彼女の推しポイントはその声と台詞の言い方。元放送部なだけあり兎に角言い方が綺麗なんだよな。元々声も耳にスッと入ってくる感じの声だから余計に彼女の放つ言葉をいつまでも聞いていられる。そしてその立ち振る舞いの美しさも推しポイント。いつもすごく背筋が伸びて凛とした佇まい。とても素敵。
 今回みたいな和風ファンタジーの悪役、またやってほしい…!
 ・lulu
お美しいちゃうかの副座長様。彼女の好きなところは兎に角「美しさ」だと思う。声もとても透明感があって綺麗。耳によく入ってくる。またダンスをされているということで、その動き一つとっても無駄がなく、またすらっと美しい。キャスパの踊りもキレがあり本当に見惚れる。よく看板女優、と評される方だけどまさにその通りだなと思わせてくださる方。それでいて普段はお茶目な一面もある頼れるお姉さん。推しにならないわけがない。
 この方も裏社会のボスとか、秘密結社のボスみたいな役がみてみたい…。
・なしもとはな
なんでもさらっとこなせてしまうのが彼女のすごいところだと思う。好きなものには全力な一方、スタッフの仕事を手早くこなしている。大道具作業から看板作りまで、すぐパパっと終わらせている様子を見ていると、とても器用なんだなと思うし、尊敬している。台詞も普段言わなさそうなものでもいざ言ってみるとさらっと本人が言っているみたいな錯覚に陥る。自然な演技ができるすごい人。普段の彼女のしっかりしたコメントやツッコミも実は割と好きだったりする。
 女スパイとか似合いそう。それか天才ハッカーとかも似合いそう。…そういや前回それに近い役を演じていたような。あれは天才…いや天災?
 ・西岡克起
各所から地笑いの被害報告が上がっているが、彼は本当に笑わせるセンスがあると思う。まず普段の笑顔が他の人も笑顔にしてくれる。そして真面目な演技になったときにそのギャップに地笑いする。勿論素の笑顔だけでなく演技としてのコメディセンスも充分ある。コメディシーンはやや動きが可愛い気がする。そして言い方ひとつとっても笑わせに来る。去年の秋は最後のステージでどマイナーチェンジアドリブを披露し地笑いを堪えるのに必死になった奴がいたとかいなかったとか。
 もう去年のターミネーターくらいのネタ悪役でいいよ…思いつかないよ…
・久保勇貴
前回の演技を見たときに「爽やかイケメン役がよく似合う」と思っていたが今回の執事役もとても似合っていた。彼の演技は「自然さ」を特に注目してほしい。今年から演劇を始めたと聞いているが、それを疑うほどにその演技が自然かつ堂々としている。またその声も優しく、耳に心地良い。正直今回みたいなコスプレみたいな役をまた見てみたい。そしてそのいい声を存分に発揮してほしい…今度はツッコミ役もしてほしいとか。
 
爽やかなゲス男みたいな役も見てみたいしイケメンな中ボスとかもいいかもしれない。あと悪役関係ないけど魔物の役も見てみたい。
・木下梨実
彼女も美しさが推しポイント。彼女の美しさは可愛さや可憐さも合いまった感じ。今回の役は彼女の魅力が一番よく表れていると思う。立ち振る舞いは勿論、説明中の凛とした声、飛び降りた時の着地も美しかった。そこから「仕方ないでしょう!」とか少しかわいらしさもあってほっこりした。あと某召喚シーンの立ち姿、ものすごく好きなのでまた見たい。そして本人には言えなかったけど今回の衣装本当に似合いすぎていた。いつか彼女がヒロインしている姿を…修羅の淵まだ見てないんだ…
スケバンって言いかけたけど去年考えたらスケバン役あったので、それ以外で言うと彼女も和風ファンタジーな悪役をやってほしさがある。
・トニーー板倉
彼も兎に角「演劇に対する熱意」が一番の推しポイント。脚本もあがったやつすぐ読んでいると噂。またその作品、役にもとてもよく向き合っている印象。経験を活かして前回は実質演出もやっていた。その熱量のまま真面目な台詞とネタ台詞を全力でこなせる、とても心はアツい。照明のチーフも担当しており、照明会議では初めて入る新入生のことを考えた資料作成をしていた。その心配りも彼のいいところ。因みにアフロは育成中…らしい。いつ戻ってくるのか。
 ギリギリまで味方だと思わせといて最後の最後で操られたりとかで悪堕ちする役とか見てみたい。…あれ、これ結局悪役じゃなくない?
・岸田月穂
彼女は「雰囲気」が特に好き。普段の笑顔、声、どれをとっても優しいお姉さん、と言う感じの方。しかしひとたび舞台に立てばその雰囲気はちゃんと役の雰囲気になっている。例えば前回の役とか。普段絶対刃物なんて振り回さない雰囲気なのに。すごい。あとさっきも書いたけど「笑顔」も好きなポイント。この人の笑顔は本当にあたたかくて癒される。癒しです。
 こんな癒し雰囲気の彼女だがなぜか浮気夫を刺すタイプのヒステリックな女性役をよくやってらっしゃる気がする…もうこれが見たい悪役ということで…
・楽園うさぎ
いつの間にか名前が変わっていた奴。こいつの良さは「器用さ」だと思う。仕事も役もさらっと自分らしくこなしている。スタッフとしては音響とかよく音楽を知っている彼にぴったりだと思うし、役者としても、自分の役をいい意味で彼らしく仕上げてくる。あとはすごく男子のおしゃれについてはとても詳しくて、その知識はどうやって手に入れているのか気になる。
あざとくて腹黒でサイコパスな役とか見たい。スタンガン持って動画で脅すような感じの。そんでもっていろんな人を嘲笑ってるような。あとハッカーとかも似合いそう。
 
・津島ヨモツ
三回目の演出。今回の脚本本当に好き。彼女の脚本は毎回伏線回収は鮮やかでわかりやすく、それでいてとても皮肉めいていて好き。また最終局面でいつも語られる現実を表す言葉が毎回心に刺さる。キャスパや衣装の拘りについても毎回すごくスタイリッシュかつおしゃれ。何度彼女チョイスの音楽に沼ったことか。そのセンスは本当に見習いたい。そして立て看板一つとっても兎に角いい物にしようと丁寧に何度もアドバイスや要求をくれる、とても信頼して仕事ができる演出である。また役者としても一級の演技力。前回の脚本でまさか電波の悪さによる砂嵐を自分の口で再現したときは本当にびっくりしたしすげぇってなった。
典型的な悪女…?うーん…?何か違うんだよな…やっぱり彼女にも悪役よりは主人公一派やってほしさが勝つ。
 
 
さて、ここからはそれを支えたスタッフ達の褒め大会。
名前順、敬称略。
 
 
・伊藤星乃介
まさかの今回スタッフのみで一番驚いた人。宣美のチーフとして大分板についてきた。また今回は幕のチーフも担当している。彼はとにかく「努力」をすごくする人。そこがいいところ。普段役をやるときはその動きの不自然と指摘された所を何度も自然になるように練習している。勿論台詞運びも何度も練習している。その姿勢は本当にすごく見習いたい。そして先ほどチーフだと言ったが幕チーフとして誰よりも先に動いていた。責任感もある、スタイリッシュ努力家。
淡々と依頼をこなす裏社会の掃除屋とか。でも普段は気さくだから表向きは別の仕事をしている設定もあり。
・加美千尋
この公演が確定して直後に入ってきてくれた子。後述する一緒に入ってきてくれた子と合わせて彼女の良さは「真面目さ」だと思う。初めてということでスタッフとして参加していたが、当日制作の仕事、照明オペと大変な仕事二つをいきなりこなしていた。当日制作ではドアの担当をしていて、完璧な仕事ぶりだった。正直すごく助かった人もいる。後述する舞弥ちゃんと共に天使。
彼女に悪役なんてさせられるわけないだろ!?
・佐藤舞弥
上に書いた彼女と共に一緒に入ってきてくれた子。もはやニコイチイメージ。彼女もその真面目さを推していきたい。今回映像オペとして参加していたが、朝早くからきて頑張っていた。またメイク班としてもとても頑張っていた。グレーワックスで髪を整え、上記の中津川つくもちゃんのメイクを担当したのは彼女。あれは本当に神か?ってなった。上述した千尋ちゃんと共に天使。
彼女に悪役なんて以下省略!!
 
・須田颯人
ご存知31期の裏ボス的存在。彼がいないとちゃうかの公演は成り立たない説。彼も「スマートさ」を推させてほしい。映像チーフとして映像作成は勿論、映像の作り方指導、映像のアップロードも行っている。また以前参加した映像会議でも淡々と要点を抑えて進めていた。そういうことがさらっとできる人は本当にすごい。因みに大道具班とかにも入っており舞台とかも設営できるという。ハイスペックが過ぎる。因みに相変わらずちゃっかりとした毒舌とお茶目さは健在。
 いやもう映像のドンですからね?やはりここは秘密結社とかハッカー集団とかそういう裏集団のボスやってほしみ。いつか役者してほしい。
・永満柊人
今公演から参加してくれた新入生。すごくすらっとしている。そしてそれはスタッフワークにおいてもそうだった。気が付いたら来ていてちゃっちゃと仕事している。すごいなぁ。またもうちゃうかに馴染んでいる感じもする。初対面でもなんだかんだ話しかけたら普通に返してくれた。嬉しい。そんなスタイリッシュな彼、これから役者も是非やってほしいところ。…ところで関係ないけどすんごく彼から身長欲しい…せめてごせんち…いえなんでもありません。
あまり話していないせいかもしれないけどあまり悪役やってるイメージができなかった。
・備前桃子
舞美のアイドルみこさん。彼女がくるとちゃうか全体で雄叫びが起こる。彼女の良さは「パワフルさ」と「優しさ」。普段本当に可愛い。話し方が可愛いし優しい。普通に「おはよー!」って声かけてくれる。一緒に仕事ができるとなると嬉しさで皆舞い上がる。しかし舞台に立てば急にパワフルに存在感を放っていく。去年のオムニの覆面、印象が違いすぎてあれがこの方だと気が付くのに暫くかかったのは内緒。ドスが効いた声でとてもかっこよかった…。
彼女にも悪役は似合わない…本当にさっき書いた覆面レベルで勘弁してほしい…あれテロリストだから十分ヤバい悪役だとは思うけど…
・藤丸翔
藤丸か…藤丸。藤、丸…丸…藤、丸藤…翔…うっ、頭が。…失礼、取り乱しました。彼の推しポイントはスタッフワークの働きとフレンドリーさ。すんなりちゃうかの空気に溶け込み、いつの間にか仕事をさくっとこなしている。その姿はまさに32期の須田ちゃん(上述)。照明等メインのスタッフとしてとても期待されている彼。話せばいつもニコニコで返してくれる、とても気さくな人である。
悪役…うーん…笑顔で凶器ぶん投げてそう。「そいやぁー!」とか言いながら金属バット振りかぶってそうな役とかどうだろ。某松さんの五男みたいな。
*******
これで全員かな。
悪役ほとんど書けてないじゃんか…まあそれだけちゃうかの人達は悪役より主人公とかヒロインが似合いそうな人ばかりってことでもあるんだけど…うん。
 今回参加していなかった方もいるけど、兎に角ちゃうかの人達は本当に「誰かが欠けたらそれだけで寂しい」ってなるくらいすごい人達がいっぱいで憧れます。愛が重いって?それは失礼。…ちょっとやりすぎたな、反省。
でもさっき言ったように見ても心に無理に留める必要はないんだし。忘れてくれたらいいよ。
さ、書きたいことは全て書ききったし、もうお終いにしないと。
そうそう、もし仮にこんなクソ長ったらしい文章を心に留めてしまって、これを書いた奴が誰なのかわかったなんて稀有な人がいたとしたら、その答え合わせを本人にしてみたらいいんじゃないかな。
当てられたらその時は…そうだな。何か一つお願いを聞くよ。
これを書いている奴以外の人が傷つかない願いならなんでもいい。そう、なんでも、ね。
 話がそれたね。今度こそ本当に終わらせよう。
 
それじゃあ、またどこかで。
せーの、かーいさん。
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skf14 · 5 years ago
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09191717
ゴネて柳島に差し入れさせた本もとうに読み終わってしまった。視線だけ動かして部屋の隅を見れば、積まれた用済みの本達。一度目を通せば文章は全て脳に記録される。それが常人には起こり得ないことだと知ったのは、いつだっただろうか。
不便な指錠と足錠の重さにも慣れた。首に這う金属はまるでネックレスかのように自然と馴染んで心地良い。俺の生死を握ってるのがあの男だと思うとゾクゾクする。そう、俺は世間が思うよりずっと愚直で、策士でもなんでもなく、普通だ。
俺のコレクションは無事だろうか。耳に入る情報は少ない。新聞は貰えない。ま、不機嫌な柳島が俺に八つ当たりしてこないところを見る限り、最後のアレ以外はバレていないんだろう。分かりやすい男だ。
スン、と鼻を鳴らしても小さな俺の城、世界から隔離されたコンクリートの小部屋じゃ無機質な匂いしかしない。土の匂いが恋しい。ああ。
その凛とした白シャツに包まれた背中を、今でも思い出せる。教室の一番後ろ、出席番号はいつも最後だった俺は、中学の入学式の日、目の前に座る男のか細い首と肩甲骨を嫌と言うほど見つめていた。何か惹かれるものがあったんだろう。流石に直感、としか言いようがないが、俺は机に置かれた座席表を見て、そいつの名前を指でなぞった。
柳島、懍。
柳島、懍。か。珍しい漢字だ。懍。意味は確か、おそれる、つつしむ、身や心が引き締まる。振り向かないか、と目線を送るが男は目の前をじっと見据えたまま、背筋を緩めない。
担任から回ってきたプリントを渡す為振り返った奴の顔を見て、目を見て、無意識に舌舐めずりをしていた。同じ世界に生きる奴を見つけた。そう思った。俺の勘は外れたことがない。気味悪そうに俺を見た柳島は、プリントを受け取らない俺に顔を顰め、机にザラ半紙のソレを置いた。
馴れ合わない俺と柳島が連むようになるのは、時間の問題だった。ま、柳島にも何か俺に感じるところがあったんだろう。教師はもっぱら柳島を心配していたのが笑える。それもそのはず、柳島は成績優秀、品行方正で、自由主義かつ成績も良くない俺とは側から見ればまるで合いそうにない。教師の評価とは裏腹、柳島は笑わず近寄り難い冷徹な男だと、遠巻きに女が噂しているのを俺は聞くともなく聞いていた。その評価は正解であり、間違いだ。教師の上っ面な評価よりもよっぽど近いだろう。
「お前、どこ受験すんの。」
「○○高。」
「都内一の偏差値じゃねえか。」
「母さんが受けろと言うから受ける。」
「ふーん。じゃあ俺もそこ、受けるかね。」
「好きにしろ。」
「......お前の頭じゃ無理、って言わねえ辺り俺好きだわ、お前のこと。」
「お前が日頃嘘ばかりついて、テストでも適当な返答してるの知ってるからな。」
恐ろしい程の知識に対する執着と、学校という小さな社会に順応しようと警戒を解かない姿はいつ見ても感服する。
何、理解するのは難しいことじゃない。奴が求めるのはいつだって理路整然とした理屈と、己が納得出来る結論だけ。引き出した話から、家庭環境がそうさせるんだろう、と、俺は自分を棚に上げ気の毒にすら思った。
高校の入学式の後、俺はまた奴のブレザーに包まれた背中を見つめていた。相変わらずすっと伸びた背筋と、綺麗に整えられた襟足。3年前の衝撃は、まだ昨日のことのように胸の中にいた。
ま、想像通りといえばそれまでだが、高校でも俺への風当たりは強かった。同調圧力が高い日本の学校だ。仕方がない。俺は気紛れに嘘を重ね、退学にならない程度に遊び、テストだけは結果を出す嫌な生徒だった。いい成績をつけざるを得ない教師の顔を見る度に笑えた。ざまあみろ。ざまあみやがれ。他人の評価なんて、まるで耳には入らなかった。
「お前、昨日渋谷で何してた?」
「...えっ、何、ストーキングしてたの?やだ、懍ちゃんったら大胆ネ。」
「何してた?」
「無粋な質問すんじゃねえよ。渋谷の円山っつったら���ること一つだろ。」
「まぁ、それもそうか。」
「父親も死んだし、世の中金がねえとどうにもならねえからな。」
「お前の行動力には脱帽するよ。」
「楽しいんだわ、人間捨てて、獣に戻るのがさ。孕まねえし、金貰えるし。」
柳島は俺を反面教師にすることを覚えたらしかった。俺が他人を欺けばそれを見て学習し、俺が乱れればアレはいけないことだと自分に言い聞かせているように見えた。奴は一度だって世間で言う"正論"を俺にぶつけたことはなかった。一度だってあれば、俺は笑って柳島を屋上から蹴落としただろう。互いに分かっているからこそ、踏み込まない。その関係性が堪らなく心地よかった。柳島だけは、俺を哀れまない。常識とか倫理観が無い人間が、これ程までに合理的で優しいことを俺は知らなかった。
「懍、進路どうすんの。」
「そうだな。まだ決めてない。」
「とりあえず国総受けられるレベルの所には入っとけよ。」
「国総?なぜだ。」
「お前は絶対後々俺に感謝することになる。」
「自分の道は自分で決める。」
「はは、それがいい。」
俺の予想通り、奴は日本の最高峰を誇る大学に合格した。後を追った俺も合格した。俺は理学部、奴は法学部。学部は違えど、その先の未来を歩くにはお誂え向きの選択だった。
奴は変わらず鉄仮面のまま、自分自身のことにはまだ気付かない。勿体ねえな、その素質を押し殺したままにすんのは。そう思っていた俺に、女神は突如として微笑んだ。
卒業証書を放り投げた俺は暇を持て余して、前々から場所を知っていた柳島の家に向かった。神の采配か勘の良さか分からないが、一度も訪れたことのないその場所になぜか足が向いた。
古びたアパートの2階の角部屋、隣の家も、その隣の家も、玄関のポストから新聞が何日分もはみ出ていた。汚い扉の前で息を潜めていたら、中から微かに、ギッ、と、確かに縄の軋む音が聞こえた。ポケットを探り見つけた針金で簡単に開くほど、奴の家の鍵は簡素だった。
聞こえるように足音を立ててゆっくり部屋へ入った俺が見たのは、女の首にかけた縄を梁に通し、無心で引っ張る柳島の姿だった。
「不法侵入だ。」
「鍵、今時あんな玩具みてえなの付けんなよ。」
部屋は若干タバコ臭い。柳島は俺のことを一瞬見て、また作業に戻った。畳の上のちゃぶ台にはマイルドセブンと睡眠薬、血塗れの小さな人形に錆びた口紅、男の写真の入ったスタンドが置かれている。男の目元は、柳島によく似ていた。
部屋の中は簡素で、無駄な物は何もない。開け放たれた襖から隣の部屋を覗き見れば、和蝋燭に照らされた祭壇が見えた。
あまり好きじゃない、と思いながらも残されたマイルドセブンを一本拝借して、床に転がっていたコンビニライターで火を付ける。一瞬顔を顰めた奴は梁へと縄を固定し終えたのか、珍しく汗の滲む額を拭って、女の足元に椅子を置き、蹴り倒した。
「死因は。」
「睡眠薬を摂取した上での首吊り。縊死だ。」
そこから5分、俺も奴も無言のまま、ただ壁にかかった古時計の針が古臭い音を立てていた。手の中の煙草は吸われることなく燃えて、フィルター手前で燻っている。弔いなんて笑える理由じゃない。吸う気分じゃなかった、それだけだ。
「もう、死んだぞ。」
「ああ。」
「......俺の母親さ、ガキの頃、男作って出てったんだわ。幼稚園で描いた絵見せようと思って、教えられた住所に行ったら、母親は綺麗な下着着て、成金の卑しい顔したおっさんに抱かれてた。」
「......。」
「最っ高にイイ声上げてたよ。堪らねえって感じでさ。俺は帰り道絵を捨てて、そっから親父と暮らしてた。この親父ってのがまた厄介で、高学歴とプライドだけが取り柄の男だった。俺はあの男が、プライドを保つ為だけのパーツだった。俺が成長するにつれて、落ちぶれてくんだよ。俺がいれば満たされるからな。だからさぁ。」
「だから?」
「高一の夏、殺したんだ。プライド高いのに惨めなまま生きるの、可哀想だろ。救ってやったんだ。この世界から。」
「そうか。」
運命か宿命か、父親を殺した手段は、今奴が女にした方法と同じだった。違うのは煙草の銘柄と、外には桜が咲き誇っていることくらいだった。耳の奥からジワジワと煩い蝉の声の幻聴が、聞こえる気がした。
「この女、誰だ。」
「母親。」
「......。」
「なぁ。」
「ん?」
「俺は、お前なのか。」
「そうとも言えるし、違うとも言える。お前は俺になれるし、俺にならずにも済む。」
思い詰めたような表情は、きっと世間が計り知れない所へ向かった意識のせいだろう。こいつの脳内は、俺にしか分からない。今一度部屋を見回し、立ち上がって携帯を操作した。
「お前、泣けるか。」
「恐らく。」
「じゃ、今から俺の芝居に付き合え。お前は主演だ。最初で最後の芝居だ。アカデミー狙うつもりで演じろ。分かるな?」
「あぁ。分かる。」
「...『もしもし、消防119番で「おっ、お母さんが、と、友達の、首、帰ったら、っひ、人が、」落ち着いて、何がありましたか?』」
「母さん、母さん!!!どうして!!!!ぅわぁぁああぁぁああああ!!!」
大学3年、奴の進路を聞いた俺は高笑いしそうになって、慌てて表情筋を殺した。予想通り、というかなんというか、奴の人生のレールがひん曲がっていることを本人が気付いてない状況が嫌に哀れに思えた。
「国総で公安、しかも刑務官志望ねぇ。ま、珍しいから希望は通りそうだな。」
「お前も公安だろ。警察庁は色々縦割りだと聞くが。」
「議員に媚び諂って書類と添い遂げるなんざこっちから願い下げ。権力のない人生なんて味気がなさ過ぎて反吐が出るね。」
「相変わらず口が汚いな、愀。」
「お褒めに預かり光栄です。」
卒業式の日、俺は奴の連絡先を消し、家も引き払って奴の目の前から姿を消した。と言っても名前は知られているから、会おうと思えば逢えるはずだった。でも俺も奴も、会うつもりはなかった。言葉にはしなくとも、そういう結末になると互いが理解していた。
警察にいる以上、犯罪の痕跡を消すことは容易かった。俺は片っ端から前科者、身寄りのない人間、幸せな人間、とにかく隙のある人間を探して、連れ去った。
悶える姿を見る度、脳裏に吊るした親父の姿が蘇った。剥製を机に並べれば、幸せな家族の絵が俺の脳内で動き始めた。
俺は俺を客観視していたから、行動の理由は分かる。寂しかったんだ。分かり合えた奴とは同じ世界にはいられない。愛して欲しかった母親は知らない男に抱かれるただの女だった。守って欲しかった父親はプライドにしがみついて生きる可哀想な男だった。縋る場所をなくして尚生きる為には、暖かい家族を、愛に溢れた家族を、沢山作りたかった。辻褄は合っている。理解されずとも、これが俺の世界を守る為の唯一の秩序だ。
扉を開けた瞬間のプロデューサーの顔、今思い出しても笑える。俺を異常な人間だと認識し、この狂った屋敷を映さなければ、という欲と、映してはいけないという人としての倫理観。鬩ぎ合った挙句カメラを回し続けた姿に国民は拍手喝采しただろう。画面越しじゃ暫く人形に見えていたらしいから。地下の美術倉庫を映した時漸く、その吊るされた生肉から漂う腐臭と夥しい蠅の数で察したクルーは軒並み嘔吐し、程なくして警察が来た。
そこからの流れなど既定路線過ぎてつまらないが、ここ、東京拘置所で随分と偉くなった柳島と対面した時、漠然と、俺の物語が完結したような気がした。笑いがこみ上げ、溢れ、腹を抱えて笑う俺を、刑法39条を思い浮かべ顔を顰めて睨む連中の中で唯一、柳島だけは、微かに笑みを浮かべていた。
過去を思い返していたら、もう、17時30分になっていた。窓のない部屋では夕日も朝日も見えないが、この時期ならとうに太陽は沈んで、暗い夜が押し寄せて来ているだろう。
部屋の奥から、物音が聞こえる。カツ、カツ、今日は比較的穏やか、ってことはS案件じゃなく新作の本の差し入れか。奴の足音を聞くだけで機嫌が分かるのは、俺の特技だ。壁に背を付け、姿勢を正す。奴の秩序を守る為、俺は奴の前で今日も"拘置所で初めて出会った模範囚"を演じる。
「S4番、立て。」
「はい。」
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310kori · 5 years ago
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「シェフ 三ツ星フードトラックはじめました」
20200411
春の日差しが眠気を誘う。そして花粉症も誘う。顔が痒いのと、目がいずい感じがするのは結構困る。ひたすら目薬をさして対処しているけれど、うむむ。ゴールデンウィークくらいまでの辛抱だな。
「シェフ ~三ツ星フードトラックはじめました」を見た!見よう見ようと思っていてやっとこ見た。
ロサンゼルスの一流レストランで料理長を務めていた主人公が、メニューの方針についてオーナーと対立。訪ねてきた有名料理評論家にオーナーの方針から無難なメニューで挑むも、冒険心がないとネットでこき下ろされてしまう。腹が立った主人公は別れた妻との息子にTwitterのやり方を聞き、反論するもネットに不慣れなためにうっかり炎上してしまう。さらに店に再訪してきた評論家に食ってかかる所を客に動画をネット上にアップされ、それが元でレストランを去ることになる。
失意の主人公は元妻から故郷のマイアミへ誘われ、そこでキューバサンドイッチの美味さに開眼し、かねてから誘われていたフードトラックでキューバサンドイッチの行商をすることを決意する。さて、元三ツ星シェフのフードトラックの行く末は、息子、元妻との関係は上手くいくのか、そして毒舌料理評論家にはこのまま負けっぱなしなのか。……というのが大体のストーリー。
いやー、なんか気持ちが晴れる映画だった。湿っぽいところがそんなにないカラッとしたコメディ映画。途中で割と下ネタギャグが入る、あんまりお上品じゃないあたりがまたいい。元妻の元旦那がしれっと出てきたりするとこもいいっすね。関係性ややこしいわ。登場人物が主人公も含めて根元は良い奴ばっかりなとこも安心。
しかしかと言って、あっさり薄いコメディ映画なのかと思いきや、初めの方のオーナーと主人公とのレストランのメニューに対する対立や、主人公が息子にお客さんに出す料理で大切なことを教えたりするあたりとか、ストーリーにちゃんとしっかり下味がついていて、そこがこの映画がサラッとしたコメディ映画にとどまらない理由なんだと思う。
後ろに流れるキューバンミュージックは気持ちいいし、サンドイッチは美味しそうだし、暖かい地区をひた走るトラックの画面は鮮やかで綺麗だし、楽しい映画だった。トラックでの料理のシーンとか、演技だけじゃない自然な仕草も盛り込まれていて、いい具合のナチュラルさがあるとこもナイス。
最近なんか暗いことばっかりだよなあと思って沈んでる人にはとてもおすすめです。
そういやそもそもキューバサンドイッチに興味があって、ググっているうちにこの映画の存在を知ったのだった。世間が落ち着いたら、食べに行ってみたいなあ。
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roomofsdc · 4 years ago
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SDC映画の部屋「特攻野郎Aチーム THE MOVIE (2010)」
戦後の混乱が続くイラク、アメリカの秘密特殊部隊Aチームの四人は、米ドル札偽造事件に絡む陰謀に巻き込まれ収監される。難なく脱獄し、自分たちを陥れた黒幕たちに逆襲するために四人は起死回生の作戦を企てるのだが…
1980年代のオリジナルTVシリーズは殆ど見ていなかったが、「スパイ大作戦」を「コマンドー」のようなド派手なアクションで演じる単純さが人気だった(らしい)。この時代に他にどんな海外TVシリーズがあったかというと、「マイアミ・バイス」や「ナイト・ライダー」、「スタスキー&ハッチ」などがあり、いずれもリメイク映画化されている。そんな中、満を持して登場した本作、本国ではコアなファンも多いらしく大ヒットとなった。 チームの頭脳ハンニバル(リーアム・ニーソン)、アクションとロマンス担当のフェイス(ブラッドリー・クーパー)、メカに強いモヒカン刈りの黒人BAバラカス(クレイトン・ジャクソン)、腕利きだがクレイジーなパイロット・マードック(シャールト・コプリー)の4人組は性格分けがはっきりしており、彼らのやることは無茶苦茶だがお約束なので安心して見ていることができる。彼らは仲間を裏切らないし、死ぬ恐れもないのだ。高層ビルから落ちても、コンテナが雨あられと降って来ても、銃弾の嵐の中でも、決して彼らが歩みを止めることはない。いかにもアメリカらしい、底抜けアクションコメディで、しかも監督が「スモーキン・エース(2006)」で空前の銃弾を消費したジョー・カーナハンなのだから、徹底している。チームにからむ国防総省のソーサ(ジェシカ・ビール)は、あのトンデモ戦争アクション映画「ステルス(2005)」と同じく、凛々しい制服姿を披露してくれるが、本作品ではアクションはお預け。 ハンニバルを演じるリーアム・ニーソンは「96時間(2008)」で年を取ってもアクションをこなせることを証明し、本作品でも走る・跳ぶ・殴る・撃つに挑んでいる。後半、そのアクションが減速気味になるのにあわせて、ヒーローキャラのフェイスが前面に出てくる事に少し違和感を感じたが、まあそんな細かいことはどうでも良い映画なんだろうね。 ちなみに1980年代のTVシリーズ、タイトルをいくら見ても思い出には上がって来ない。「バイオニック・ジェミー」は1970年代後半、「ツインピークス」は90年代初頭なのね。80年代っていったい何をしていたんだろう?
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2ttf · 13 years ago
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tppg · 6 years ago
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[Exhibition] 長いこと写真界の裏方仕事をやってきた。ノンプロ写真家として折々にシャッターを押し続けてきた。当然ながら被写体となって、わが私的人物アルバムを彩ってくださった写真界の方々の、フォトジェニックなお顔は、すばらしい。写真家にかぎらず、写真評論家、ギャラリスト、出版関係者等々、分野は違っても、写真愛は普遍である。そこで、写真展企画、プロデュースを生業の一つとしてきた責任上、自己展示をこの辺でと…腕の未熟も顧みず、まさに蛮勇をふるうのである。この展示、言わば終活の一表現かもしれぬ。 それにしても、風呂上がり細江英公、舌出し大道、見返り卓馬と…、よくもまあ、撮ってきたものだ。ひたすらに感謝を捧げるは、被写体となってくださった写真界の皆々様であり、これからこの写真展の鑑賞者になる「罠にかかった獲物」の人々に、なのである。だが御心配には及ば ない、観終わって充分に毒が回っても、20世紀写真界免疫の効力で死に至る病の発症はなく、む しろすがすがしい覚醒に至ることを、確約する。 なお、秘蔵写真、木村伊兵衛ヴィンテージ作品、中島健蔵撮影、写真界の人々も観ていただける特別展示が付属する。つまりは、1950年代から現代までの私的写真界人物アルバムが御覧いただける趣向である。 ====================================================================== 下記日程にて、トークイベントを開催いたします。皆様お誘い合わせの上、ぜひご来場ください。 被写体代表対談 「写真、現在、過去、未来」 ①北井一夫 9月6日(金)17時~18時半 ②西村陽一郎 9月7日(土)17時半~19時 諸般の事情により中止となりました。申し訳ございません。 ③有元伸也 9月8日(日)17時~18時半 ④飯沢耕太郎 9月14日(土)14時半~16時 *各回とも、参加費1000円となります。 ====================================================================== Profile 20 世紀メディア評論・メディアプロデューサー 1955年 宮城県仙台市生まれ 細江英公写真展「気 骨」をはじめ、数々の写真展を企画運営。近現代文化史研究、中島健蔵研究、音楽、写真、映像、 文学と幅の広い評論活動を展開。元早稲田大学エクステンションセンター講師。清里フォトアート ミュージアムのヤング・ポートフォリオ、新潟大学地域映像アーカイブを支援協力。 東京都写真美 術館「生誕百年中島健蔵展」2004 年監修。 『占領期雑誌資料大系大衆文化編全 5 巻』(岩波書店 2009 年)編集・執筆。 #totempolephotogallery #tppg #gallery https://www.instagram.com/p/B18eiZ5nwE7/?igshid=nd7molxqk4lu
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1010mush · 7 years ago
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茨戸編での尾形は何だったのか あるいは沈黙する破戒神父・鶴見中尉はなぜ死神を自称するのか
ガッツリ本誌176話まで。
1、序 鶴見と尾形の言説の不思議な酷似
父殺しってのは巣立ちの通過儀礼だぜ…お前みたいに根性のないやつが一番ムカつくんだ
ホラ 撃ちなさい 君が母君を撃つんだ 決めるんだ 江渡貝君の意思で… 巣立たなきゃいけない 巣が歪んでいるから君は歪んで大きくなった
こと江渡貝母への発砲については、私は鶴見の言い分をずっと好んできた。ここでの鶴見の江渡貝への殺害の示唆は正しく思える(母君は元々死んでいたから私にも倫理的禁忌感がない)。鶴見は時折とんでもない正しさで私を苦しめる。硬直した仲間の死体に向かって「許せ」と言う男。同じ4巻の回想には、マシュマロでゴールデンカムイには珍しい雲吹き出しで内面が記されていることも教えて貰った。
まるで死の行進曲のようなマキシム機関銃の発射音 この無駄な攻略を命令した連中に間近で聞かせてやりたい
私は鶴見中尉の内面描写が少ないという通説をとてもとても疑問視している。これはもはや読み手の願望に近く、検討するのであれば幅広い読解が必須であろう。ゴールデンカムイの人物は総じて内面描写が少ない。それところか、当初は梅ちゃんと寅次についてあれだけ饒舌だった杉元の内面は、「俺俺俺俺俺俺俺俺俺」という叫びとは裏腹に、「俺」も、その内面も、徐々に欠落を始めてしまったのだ。15巻にはアシㇼパの顔を思い出せていないのでは無いかと思わせるカットすらある。15巻で杉元の『妙案』が宙に浮いたままであるのは象徴的だ。私たちの心が取り残され、疑問は解決されず、1つの核心だけが深まるーー杉元佐一は自分を失っている、と。この話は杉元が梅ちゃんに認識されるような自分を取り戻す話出会った筈なのに(そしてそれを認知できない杉元は、梅ちゃんに自分を認識してもらえるように視力回復に躍起になる)、旅の過程で彼はますます自己を喪失していく。
これから延々と鶴見の話となる。
2、死神の自称
鶴見は意図的に自分を失わないために死神になることを選んだ男である、というのが私の基本的な考えである。それは「脳が欠けているから杉元佐一は自分を見失っている」という説を遠回しに否定する存在である。だいたいにして脳が欠けていなかったら杉元はスチェンカで相手を殴り続けなかったと言えるのだろうか。まぁ、杉元の話はさておくとして、それはおそらく尾形のこういった態度と対照づけることも出来る筈だ。
俺のような精密射撃を得意とする部隊を作っておけばあんなに死なずに済んだはずだ
今となってはどうでも良い話だが
鶴見は「今となってはどうでも良い」をやり過ごさなかった男である。一度は鶴見の腹心の部下であった筈の尾形は、戦後も心を戦場に置いてきたのではなく、戦場の側を自らに引き寄せようとする鶴見(や土方)にたいして冷笑的な視点を浴びせ続ける。
仲間だの戦友だの……くさい台詞で若者を乗せるのがお上手ですね、鶴見中尉殿
変人とジジイとチンピラ集めて 蝦夷共和国の夢をもう一度か?一発は不意打ちでブン殴れるかもしれんが政府相手に戦い続けられる見通しはあるのかい? 一矢報いるだけが目的じゃあアンタについていく人間が可哀想じゃないか?
ここでの尾形の「正しさ」は、鶴見の「正しさ」とは違い私の心の拠り所になっていた。尾形が「いい人になれるよう 神様みていてくださろう」に適合するような行動をすると私はいちいち救いを求めてしまい、彼の行動がいつも噛み合わず言説が否定されるのを見てこの男の救いのなさに頭を抱えていたのだ(まさに本誌の『176話 それぞれの神』で現れた関谷の神にすがる心情である)。そして鶴見は、月島をある意味救ったが、尾形を救うのには失敗した。むしろ鶴見は尾形を利用するだけ利用していたように思えた。
尾形と鶴見と親殺しは4度交錯する。江渡貝。花沢中将。月島。ウイルク。
外敵を作った第七師団はより結束が強くなる 第七師団は花沢中将の血を引く百之助を担ぎ上げる 失った軍神を貴様の中に見るはずだ よくやった尾形
たらし めが…
尾形にとって鶴見の取り巻きであることが幸せなのかどうかは分からないが、他の造反組や、あるいは役目を見つけて下りた谷垣とは異なり、尾形は鶴見を『切』った、数少ない人物である。尾形は、月島同様戦前から鶴見の計画に加担していたのにもかかわらず、鶴見中尉から月島と同じ様に扱われなかった人間でもあった。
江渡貝の母殺しに関しては鶴見にも見るところがあると考える私も、この鶴見の花沢中将殺しにおける尾形の扱いが原因で、長らく鶴見のことをよく思えずにいた。さらに15巻149話、150話で鶴見が月島を父親殺しから救った(?)事実や、本誌にて戦前から尾形が鶴見の命で勇作を篭絡および殺害しにかかっていた事が判明した事を鑑みて、鶴見の風見鶏的態度に辟易していた。加えて言うのなら、ゴールデンカムイの中に時折現れる聖書に基づく表象や、それに対するキリスト教に軸足を置いた読み解き方というのは私が最も苦手とするところであったが、一方で鶴見が71話の表紙にて不完全に引用された聖書の一節を通じて『にせ預言者』(マタイ7:15)であると示されていることを筆頭に、いくつかのキリスト教的モチーフを(ところどころで反語的に)取り込んだキャラクターであることも否めずにいた。
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。(wikisorceの口語訳より)
そもそも鶴見もまた、その他大勢のキャラクターおよび我々と同様、多面的な人物として描かれている。偽預言者であり、彼の演説はヒトラーのパロディとして描かれるほど(作者によるとミスリードらしいが。Mislead? Misread?)だ。そして、外敵に対しては自らのことを死神と称しながらも、仲間に対してはむしろ告解をうける神父の役割に近いものを演じ、坂本慶一郎とお銀の息子の前では聖母マリアとなり、月島や杉元と共有する傷は、スティグマと見ることも出来るだろう。キャラクターデザインには、明らかに鶴の要素が取り入れられている。さらには編集者のつけた仮面を被る悪魔、という表象ですら許容される向きにあるのだから、鶴見も大変である(悪魔という呼称は江渡貝の母によっても齎されている)。私がこの鶴見という、出自も分からぬいろんな人形が載せられたクリスマスケーキを長らく食べる気になからなったのは、そこに土俗の信仰と西洋的信仰が混ざり合って、あまつさえ鶴や死神の細工菓子まで載っていたことを考えると不思議ではあるまい。
私はどこかで、にせ預言者としての鶴見、という表象の正当性についてすら、もしかして議論になるのではないかと辟易している。不信の徒である私の読み解ける事項など限られていることは重々承知だし、そもそも私はゴールデンカムイを読み解くときに、作中での記載を第一に考え、外的世界に存在するマキリで作品をチタタプしない様に細心の注意を払ってきた。最近ラジオが出現したことで、ようやく文言に尽くし難かったそのバックグラウンドをまとめる事ができたような気がするが、私は解釈を取り払った読み方が先にくることを好むし、そもそも『らしさ』への拘泥は私の目を曇らせるのではないのかと考えている。とりわけキリスト教を扱う時には、竹下通りで千円で買った十字架のアクセサリーを身につける女の子のようにならないためには、むしろ触れずにいるのが一番なのではないかと長く考えていたものだった。それが私の最低限の敬意の示し方であった。
とはいえ、キリスト教と日本の間での困難を感じていたのは何も私だけではなかった。多くの作家がそれに苦しみ、むしろその困難を以って、日本を描き出そうとする作家もいた。もちろん私の考えでは、作家の作るものに於ける宗教的解釈は、仮に異端であっても一つの芸術作品になり得る一方で、評論家の宗教的解釈の異端さは、単なる誤読として片付けられる可能性がより高く、慎重を期するものであるのだが…。しかし私はだんだんと、そういったキリスト教と日本の狭間で描かれた作品であれば、鶴見像を見出せるのではないかと思う様になっていった。もっと言えば、私がキリスト教的表象を前にして立ち竦む、その逡巡自体を語ることならできるのでは無いか、と思う様になったのだ。
「にせ預言者ー貪欲な狼」「ヒトラー(ミスリード)」「マリア」「告解を受けるもの」、そして「聖痕」…を持つ「悪魔」で「死神」…の「鶴」をモチーフとした「情報将校」。
「にせ預言者ー貪欲な狼」に対してのとても簡潔な読み解き方は、単に鶴見が偽の刺青人皮を作ろうとしている、というものである。もう少し解釈を広げれば、鶴見が北海道の資源を活用して住むものが飢えない軍事帝国を作ろうと嘯くことであろうか。
軍事政権を作り私が上だって導く者となる お前たちは無能な上層部ではなく私の親衛隊になってもらう
これはヒトラーとして描写されていること(繰り返しとなるが、作者によるとミスリード)でもあり、ヒトラーとはたとえばその土地の出身では無いという点などでも共通点が見られる。実際には北海道はロシアと違って天然資源には恵まれておらず、またその後の軍事政権というトレンドの推移、戦争特需にも限りがあることを考えれば、金塊を持ってしても独立国家としての存続がおよそ不可能であっただろうことは見て取れる。
3、マリア、そして告解を受ける破戒的神父としてのあべこべさ
面白い事に、聖母として描かれる鶴見はほとんどもって無力であり、子をアイヌ的世界に属するフチに預ける事しか出来ない。
一方で「告解を受けるもの」、すなわち神父としての鶴見は極めて破戒的である。鶴見への告解は子羊たちの救済を意味しない。鶴見は誰とも共有すべきではない告解を共有することで、結束を強める「見返り」を期待する者である。教会に於いては告解の先には主による赦しがあることが期待され、十字架に架けられたキリストの苦難がそれを象徴していた。一見してキリストの苦難は鶴見の告解室においては「戦友は今でも満州の荒れた冷たい石の下だ」で代替されている。しかし鶴見の厄介さはその様な単純な構造におさまらないところである。一方で満州を彼らのいる北海道と分けて見せるそぶりを見せながら、時として「満州が日本である限り お前たちの骨は日本人の土に眠っているのだ」と口にし、それどころか戦争の前から月島・尾形らと何かしらの謀略を図っていたことすらわかり、『我々の戦争はまだ終わっていない』という悲壮にも満ちた決意が段々と『戦争中毒』である鶴見のハッタリであったことに我々は気づかされる。
彼への告解は何もかもがあべこべであり、神父の皮を被りながら極めて破戒的である。洗礼後ではなく洗礼前――つまり第七師団入隊前――の罪を、谷垣に至ってはあまつさえ衆人の前で告白させ、傷を共有させる。告解が終わった後��司祭は「安心して行きなさい(ルカ7:50)」というものだが、鶴見は自分に付いてきてくれるように諭すのだった(「私にはお前が必要だ」)。
破戒というのはあまり神父に使う言葉ではない。それでも、島崎藤村の『破戒』は、聖書のモチーフを色濃く反映させながら、被差別階級とその告白を描いた作品だったのだから、やはり破戒、と言う言葉はここにふさわしい気がする。
『破戒』において島崎が真に目指したのは、「身分は卑しくてもあの人は立派だから別」という、個人の救済を批判することであった。そのような個人の救済は、いわば逆説的に被差別階級の差別を補強する、矛盾した論理であったのだ。
この論理は2018年にも広く流通した。杉田水脈氏がLGBTに生産性がないと発言したことに、一部の人が、アラン・チューリングやティム・クックといった生産性のあるLGBTの名前を挙げて反論を試みたのである。このような言説が流布した後、リベラル派は、自分たちの身内の一部に対して、「生産性のないLGBT」が仮にいたとしても、その人たちも等しく扱われなければならない、とお灸を据えなくてはならなかった。
これこそ私が鶴見の恣意的な月島の依怙贔屓を、そして尾形の利用を、いまだに批判すべきだと考える理由である。
外敵を作った第七師団はより結束が強くなる 第七師団は花沢中将の血を引く百之助を担ぎ上げる 失った軍神を貴様の中に見るはずだ よくやった尾形
誰よりも優秀な兵士で 同郷の信頼できる部下で そして私の戦友だから
私はこの差異に於いて鶴見を許す気は毛頭ない。それは、私が谷垣を愛しながらも、アシㇼパを人質に取った事を未だに許していないのと同等である。谷垣を受容するに至った経緯が、私に鶴見というキャラクターを拒絶する理由は最早ないことを教えてくれた。そしてよくよく読み解いてみると、この、一見すると月島への依怙贔屓ですらあべこべなような気すらしてくるのであった。
4、主格の問題 ー 「死神」という主語について
ここにおける問題は『主格』に於いても明らかだ。鶴見が月島に話す時の態度は、軍帽を脱ぎ、主語は「私」、時折「おれ」と自らを自称する親しみのあるものだ。その一方でしかし尾形へは軍帽またはヘッドプロテクター(仮面)を装着して主語をあろうことに「第七師団」に置いている。尾形の父殺しについては未だに謎が多く、発端が誰なのか(花沢中将自身・尾形・鶴見)、なぜ花沢中将が死装束を身につけられたのかを筆頭に、また鯉登少将への手紙をいつ誰が書いたのかも問題となろう。よって、尾形が鶴見への忠誠心を失いつつも自らの父殺しの願望を成就させるために鶴見の案に乗っただけなのかどうかは、よくわからない。とはいえ、自らが時に「どんなもんだい」と誇示さえする狙撃手としての腕を買わなかった第七師団への離反は、狙撃手と対称をなすような旗手としての勇作を評価し、勇作の殺害作戦を撤回した鶴見への、勇作の狙撃をもっての”謀反”を契機として、花沢中将死亡時に、すでに尾形の胸の内にあったと考えるのが自然であろう。加えて尾形も、どこかの段階で破戒的神父・鶴見への告解というステージを踏んでいたことも想像に難くない。
このように読み解いていくと、単に鶴見は月島にだけ心を許しているようにも読めるのだが、そうは問屋が卸さない。まずはいご草への呼称問題である。月島は自らのことを『悪童』ではなく『基ちゃん』と呼ばれる事に意義を見出しているのに、彼女の事を『いご草』と表現する(本当は鶴見との会話の上でも名前で呼んでいたのだろうが)。さらにそれを受けて鶴見は『えご草ちゃん』と彼女の非人格化を進め、さらには自らの方言も決して崩さないことで会話の主導権を握る。加えて、私は長らく、江渡貝と炭鉱での爆発に巻き込まれ、煤だらけで雨の中を帰ってきた月島への労いの少なさにも違和感を抱いていた。これも一つの「あべこべ」なのかもしれないし、あるいは月島への圧倒的信頼が根底にあり、彼なら心配に及ばないと考えていただけなのかもしれず、もしくは鶴見がヘッドプロテクターという仮面をつけた時の「死神」としての決意の表れかもしれない。
「死神」を自称すること。
そもそもにおいて、我々が日々感じている他人への判断、偏見、予断の集合体、例えば、あの人は秋田出身で大柄で毛が濃く少々ドジなマタギである、と言われたことによって”我々が想起する予断と偏見”と、漫画を切って話すことはできない。小説よりもさらに視覚的な漫画という分野においては、ステレオタイプと”キャラ”立ちするための記号化というのはほとんど隣り合わせにあり、分離することがむずかしい(この論だけで何百ページも割かなければ説明できないであろう)。それでも、だ。この作品のキャラクターほど、「あの人はこう言う人だから」と型に嵌める行為が適切ではない作品もないのではないか。
作品内で繰り返される「あなた どなた」という問い、あるいはその類型でのマタギの谷垣か兵隊さんの谷垣かどっちなのか、山猫の子は山猫なのか、という問い、そしてその問いに対するわかりやすすぎる「俺は不死身の杉元だ」という回答を、繰り返しながらもゆるやかに否定し続ける世界線の中で、「私はお前の死神だ」という言葉は鶴見の決意と選択を象徴しながらも、結局のところ杉元の「不死身」の様にアンビバレントな価値を持つ言葉の様にすら思える。
鶴見と杉元はスティグマを残す男である点も共通している。鶴見は月島が反射的に自らを守った際に微笑み、二人はその後スティグマータを共有する人物になった。
杉元と傷の関係については未だに謎が多い。彼自身が顔につけた傷についても多くが語られる事はない。時間軸として1巻以降で彼が顔に受けた傷跡はかならず治っていくのに、彼が周りに残していく傷は確実に相手に痕を残していく。なぜ尾形が撃った谷垣の額の傷跡は消えたのに、杉元が貫いた頬の傷はいつまでたっても谷垣の頬から消えず、尾形の顎には縫合痕が残り、二階堂は半身を失い続けているのか、分からないままだ。ずっと分からないままなのかも知れない。
そしてウイルクもまた、顔に傷を残す男性である。傷を残しても役目を終えない男たち。聖痕と烙印ーー両極な語義を内包するスティグマータを共有し合う男たち。それはかつての自己からの変容であり、拭い去れない過去の残滓でもある。そしてそれは、作中の男性キャラクターたちが「視覚」を中心として動き回ることと決して無関係ではないが、ここではその論に割く時間はない。
「あなた どなた」に対してあれほど口にされる「俺は不死身の杉元だ」を“言えない”こと。この言えない言葉について、私はどれだけの時間をラジオに、文章に、割いて来ただろうか。そのことを考えると矢張り、「あのキャラクターはこうだから」と言う解釈がいかに軽率にならないかに気を使ってしまう。たとえば鶴見においては、まさに本人が、「俺は不死身の杉元」よろしく「私はお前の死神だ」と言っているのだから、もうそれで良いではないかと言う気がする。「不死身の杉元」は杉元が不死身ではないからこそ面白みの増す言葉であるように、今まで見てきた通り鶴見も何も「死神」だけに限定するには勿体無いほどの表象を持っているが、その中で杉元が、ある種の悲痛な決意を持って、半ば反射的に「不死身の杉元」と口走る一方で、「死神」にはもっと計画的な、そして底が知れぬ意志の重みを感じるのは私だけだろうか。「不死身の杉元」にも感じないわけではないが、「死神」はより一層”選択”であった、という感じがする。偽の人皮を、扇動を、月島を、傷を、周りに振り回されることなく自ら道を切り開いて”選ぶ”という高らかな宣言が、「死神」である、という感じがする。
5、「運命」と「見返りを求める弱い者」
『役目』を他人に認めてもらうことが作品内でどれくらい重要なのかは難しいところだ。谷垣源次郎が役目を見出し、果たす事を体現するキャラクターとして描かれ、見出す事、果たす事の重要性は単行本の折り返しから我々に刷り込まれているとは思うが、その結果としての他者承認は必須なのだろうか。杉元や尾形が他者承認を執拗に追い求めている様に見える一方で、白石が、シスター宮沢、熊岸長庵、アシㇼパ、杉元と、認めないー認められないことをずっと体現し続けているのもまた面白い。
長年の谷垣源次郎研究の成果として、谷垣の弾けるボタンは、インカラマッが占いきれない予測不可能性と、それを元にした因果応報やら占いに基づく予測的行動の否定の象徴であると気付いて、私はだいぶスッキリした。網走にいるのがウイルクである可能性は彼女の占いに基づくと50/50であるが、これがウイルクではないと100/0で出ていたとしても、彼女は網走にそれを確かめに行かなくてはならなかっただろう。それは北海道の東で死ぬと知っていながら網走に行く選択をするのと同根であり、いずれボタンが弾けとぶと知っているからと言ってボタンを付けない理由にはならないこと、またはボタンが弾け飛ぶからといって、彼女が谷垣に餌付けするのをやめはしないことと共通する。そもそもにおいて自分の死期を悟っている、ある種の諦念を持つインカラマッの行動は、途中から愛に近しいものを手にいれるにつれ、淡い未来への希望と言語化されない献身を併せ持つものになりつつあった。未来への希望と言語化されない献身……そういったものの為に嘘をつくことすら厭わない女たちを総括して、二瓶は『女は恐ろしい』と称し、自分たちの行動原理では理解不能なものとして警戒していたのだった。二瓶の持つ『男の論理』は、明白な見返りを望むものだったからだ。谷垣もその例に洩れず、インカラマッは怪しい女だからといって救わずにいようとすらしたし、彼女と打ち解ける様になった後も、その『女の論理』の如何わしさを感じ取って、彼女と寝る際には、やましさから『男の論理』の権化である二瓶の銃を隠し、彼女と寝た後には、その求愛は彼女を守らせるための行動ーーすなわち明白な見返りを求めた打算ーーだと考えすらしたのだ。もちろん、彼女自身のかつての行いによって、それを谷垣に見えづらくして、当たりすぎる占いが谷垣の心を遠ざけているのも皮肉であるし、その当たりすぎる占いが全て占いではなかったことは皮肉であった。妹を亡くしていること、アシㇼパの近くに裏切り者がいること、東の方角が吉と出ていることは、すべてインカラマッが既に知っていたことであり(探しているのはお父さんだという占いも同等)、キロランケの馬が勝つかもしれない可能性や、三船千鶴子の場所を言い当てるだけの能力を持ちながら、占い師としての力を使わず内通者として動いたことで、彼女自身が彼女を『誑かす狐』に貶めてしまっていた。彼女が溺れる話の表題が『インカラマッ 見る女』なのは、そんな彼女の人間性の回復を示唆しており、それは彼女自身が占いから逃れて、弾け飛ぶボタンの行き先ような、予測不可能性に身を委ねることであった。
「最悪の場合、こうなるかもしれないからやらないでおこう」だとか、「相手がいずれ自分にそうしてくれるはずだから、今こう��よう」という報酬と見返りの予測に基づく行動とその否定は、ゴールデンカムイを読む上で極めて重要な要素だと考える。
予測に基づく行動の抑制を行わない登場人物たちの決定は、残念ながら愛のみではなく、殺しと暴力も含まれる。即断性という言葉で言い表すこともできるかもしれない。私はこれをよく『反射的』という言葉を用いて説明している。私に言わせれば、極めて幼稚な、原始的な論理であり、月島が鶴見を助けたのもこれに分類される。それで鶴見が満足をしたのは、それはそれで鶴見の孤独を浮き上がらせる。反射とは、結局のところ「そうするしかなかったんだ」という男たちの言い訳に使われるものでもであり、杉元が初めて尾形に会った時に川に突き落とした時の口ぶりと100話の口ぶりなどは、まさにその代表例である。杉元という人物の中では、そのような反射的な即断性と、殺したものの顔をずっと覚えているという保持性の二つの時間軸が交差しており、その内的葛藤が我々を強く惹きつけている。そしてそこから、杉元が持つ時間軸は「地獄だと?それなら俺は特等席だ」「一度裏切った奴は何度でも裏切る」という回帰性、または因果応報性にまで波及するのだが、その思考の独特さは「俺は根に持つ性格じゃねぇが今のは傷ついたよ」という尾形の直線性と対をなす。尾形は直線的に生きていかなければ耐えきれない程の業を背負っている。それでも過去は尾形を引き止めに来る、杉元が梅ちゃんの一言を忘れられないのと同等に。
即断性/反射的の反語はなにも計画的/意図的なことだけではない。極めて重要な態度として、保留があり、現在この態度はインターネットが普及して、即時的な判断とその表出のわかりやすさが求められるようになったことで、価値が急速に失われつつあるが、明治期においても軍隊の中では持つことが叶わなかった態度であっただろう。保留を持つキャラクターの代表格こそ、白石由竹であることは言うに及ばないであろう。
保留を持ち得なかったものたちが代わりに抱くのが反発か服従であり、造反組は勿論のこと、気に入らない上官を半殺しにした杉元と、諦念に身を任せて問いすら捨てた月島を当てはめることができるであろう。
その即時性や保留や反発や服従を生み出すのが、自らを死神に例える鶴見であり、鶴見はまさに意志の人、意図の人、計画の人である。そして仲間に対して「相手がいずれ自分にそうしてくれるはずだから、今こうしよう」という見返りを期待して関係を構築する人である。これも、私が彼を苦手としていた理由の一つであった。しかし繰り返しになるが、鶴見の”選択”は、「即時性や保留や反発や服従」を生み出す。そして本編では、どちらかというと出だしから鶴見からの離反者ばかりが描かれ、人たらしの求心力を持つ魅力的な人物であるということを読み解くまでに、私はじっくりと長い期間をかけなければならなかった。「先を知りたくなる気持ち」「ページをめくる喜び」を強く求められる男性向けの週刊連載において、保留の態度を試されていたのは、読者の方であったのだ。
それでもなお私は、裏切られる鶴見、離反される鶴見というものを立ち返って見るにつれ、この男の立場の脆さというのを改めて重要な要素として捉えるようになったのだ。
それは「死神」とは遠く、自らの周りを賞賛者で固めた男の、ともすれば惨めとすら言える姿であった。そして私は遂に「死神を目指す弱い男」、鶴見を見出したのであった。
そこで大事なのは、鶴見が「死神」になろうとしている、というただ一点であった。それはおそらく尾形が銃に固執するのと同等の、自己決定権のあくなき希求であった。
11巻で尾形は言った。「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふやなものですが」。その11巻で鶴見は愛を見出していた。「あの夫婦は凶悪だったが…愛があった」。そして同じ巻で、鶴見はふたたび高らかに宣言したのだ、「私は貴様ら夫婦の死神だ」ーーと。
以上の文章は既に3週間以上前に書いたものだったのだが、本誌ではさらに「神からの見返りを求める弱い男」として関谷が登場した。この「弱い」という言葉は私の元ではなく、イワン・カラマーゾフが『カラマーゾフの兄弟』の一節『大審問官』にて述べた、大部分の信者を指す言葉である。さらに本誌では、私が谷垣とインカラマッの関係に見ていた「予測不可能性」を、ある意味逆手に取った様に、自分への逆説的幸運をもたらす人物として門倉が描かれ始めた。私は一読して彼は谷垣の類型であると感じ取ったが、それは即ち尾形の「かえし」である事も意味することを忘れてはならない。尾形はキロランケが神のおかげだと言った直後に、「俺のおかげだ」「全ての出来事には理由がある」と神の采配を否定するような男だからだ。
すべてのあやふやな存在に輪郭を持たせ、弾け飛ぶボタンを先にむしり取っておこうという「覚悟」。その覚悟の名前が「死神」。私にとっては、それが最もしっくりくる「死神」の捉え方であるような気がした。
覚悟については鶴見の口から15巻でこのように語られる。
覚悟を持った人間が私には必要だ 身の毛もよだつ汚れ仕事をやり遂げる覚悟だ 我々は阿鼻叫喚の地獄へ身を投じることになるであろう 信頼できるのはお前だけだ月島 私を疑っていたにも拘らず お前は命がけで守ってくれた
そう思うと尾形と月島の扱いの差にも、月島へのあの苦しい弁明も納得がいくような気がした。
6、月島への『言えなかった言葉』
話は最後まで聞け 月島おまえ… ロシア語だけで死刑が免れたとでも思ってるのか?
初読時にはこの物言いは癪に障った。そこまで自明のことだと思うのなら。そうやって父の悪名を利用して月島を助けたのなら。月島にそう言えばいいじゃないか、と思っていた。しかしそれは、結局の所「ゴールデンカムイ」の根底を為す、『言えなかった言葉』の一種であったのだ。9年間、鶴見は自分の工作を月島に明かすことが出来なかった。それは杉元が、いずれ梅子に再び見出してもらう未来を目指している期間(つまり本編)よりもっともっと長い時間であるような気がする。その事実だけがまずは大事で、それに対して色々な意味づけをする前に、私は鶴見が”言い淀んだ”事実に向き合わなければならなかった。私は鯉登でも宇佐美でもないのだから、鶴見を信望する必要などなかったのだった。裏切りたくなるほど痛烈に、その存在を意識すればいいだけであった。
そして、理由はどうであれ『言えなかった言葉』を9年間抱えていた鶴見には、やはり弱さという単語が似合った。もし、もし本当に、月島の父親の家の地下から掘り出されたのが白骨であったのなら、10日前に行方不明になったいご草ちゃんが月島が逮捕されてすぐに掘り出されたのだから、白骨化するのには時間がかかりすぎるので、ジョン・ハンターよろしく骨格標本を作るような細工でもしない限り、髪やら服やらで誰だかすぐに分かってしまう。だから、きっと鶴見の工作は説得力のある良く出来たものであったのだが、それですら、月島に言えなかった、という事実の確認。
月島をどうしても手元に置いておきたかったのだろう。「告解を受けるもの」であった鶴見が月島の前では弁明をする男に成り下がる。それでもそこで「スティグマ」が2人を繋ぎ止める。鶴見は言った。「美と力は一体なのです」。そして彼の言葉にある”美”の定義は彼の顔の傷をも厭わないものであった(二階堂が本当にヒグマを美しいと言ったかどうかは大きな疑義が残るが)。この点に関しては、私はずっと鶴見の考え方に感心させられていたものだった。自らを美しいと定義してしまえば、もはや何も恐れるものはない。
ますます男前になったと思いませんか?
これは鶴見が自らの容姿に(杉元のように)無頓着であるとか、または本当にますます男前になったと考えている訳ではない、と考える。15巻で大幅に加筆された鶴見のヘッドプロテクター装着シーン。
どうだ 似合うか?
鶴。
杉元の言を借りよう。
和人の昔話にも「鶴女房」って話があってね 女に変身して人間に恩返しするんだけど 鶴の姿を見られたとたんに逃げていくんだ
鶴の頭部を模したヘッドプロテクターは、おそらく杉元が被り続ける軍帽と同種のものである。とはいえ杉元は軍帽をなぜか捨てられない男として描かれているのに対し、鶴見はむしろ「覚悟」の顕在化としてヘッドプロテクターを装着している。そしてその内部には、自ら御することすらできない暴力への衝動があり、その暴力を行使する時に、そのヘッドプロテクターからあたかも精液/涙のように変な汁が”漏れ出る”。編集の煽りによるとこれは「悪魔」の「仮面」である。たかだか煽りの一文を根拠に、悪魔かどうかを議論するのはかなり難しいが、それでもやっぱりヘッドプロテクターが「仮面」であるというのは、意を得た一文と言って良いのではないだろうか。それは不思議にも姿を隠す鶴の昔話に符合する。
正直に言おう!鶴見が悪魔だったらどれだけ解読が楽だった事か!原典が山ほどある。しかも悪魔は二面性を持つ。ファウスト 第一部「書斎」でメフィストフェレスはこのように話す。
Ein Teil von jener Kraft, 私はあの力の一部、すなわち
Die stets das Böse will und stets das Gute schafft. 常に悪を望み、常に善をなすもの。
Ich bin der Geist, der stets verneint! 私は常に否定し続ける精霊。
Und das mit Recht; denn alles was entsteht, それも一理ある、
Ist wert dass es zugrunde geht; すべてのものはいずれ滅びる。
Drum besser wär’s dass nichts entstünde. であれば最初から生まれでない方が良かったのに。
そしてイワンの夢の中で、スメルジャコフは「メフィストフェレスはファウストの前に現れたとき自分についてこう断じているんです。自分は悪を望んでいるのに、やっていることは善ばかりだって。」と、ファウストに言及するのであった(第四部第十一編九、悪魔。イワンの悪魔)。
このファウストの素敵な一節にはいずれ触れるとして、鶴見は悪魔を自称はしないことを念頭に先を急ごう。
この情報将校を語る上で、最も大事な事象は彼が自身を「死神」と定義することだと私は考えている。そんな中で、数々の日本的ーキリスト教的装飾に彩られ、たとえば「スティグマ」というキリスト教的文脈で鶴見に聖痕/烙印という聖別を与えることを全く厭わない私からも、「死神」がキリスト教的であるかどうかには首をひねってしまう。よしんばキリスト教のものを作者が意図していたとして、「死神」という訳語を当てるのは、デウスに大日という訳語を当てたザビエルの如き、弊害の多いものであるように思える。もしかしたら鶴見はpaleな馬に乗った男であり、隣に連れるハデスが月島か何かであり、第一~第三の騎士が鯉登、宇佐美、二階堂のいずれかの人物であるのかもしれないが…それにしても示唆する表現が少なすぎるのだった。このことは私を悩ませた。というのも鶴見をキリスト教的に読み解くという行為は、私にとって禁忌だからこそある程度の魅力を感じさせるものだったからである。ましてや鶴見を「弱い神」と位置付けるならなおのことであった。日本におけるキリスト教的神は、決して強者たりえない。強者だと感じていたらこの程度の信者数には収まっていない。そもそもゴールデンカムイには何となくキリスト教を思わせるような描写が散りばめられており、それでもいかにそれが合致していてもその文脈で語る必要はないのではないかと思われる事象も多々ありつつ(たとえばアシㇼパによる病者の塗油をサクラメントとして読み解く必要はないと感じるなど)、その禁じられた評論とやらを、試しにやってみるとこうなる。
そもそもにおいてまず、キリスト教に触れること自体に禁忌感がある、というのは既に記した通りだ。「スティグマ」「マリア」一つに取っても、私にとっては言及する前に、日本的キリスト教観について長大な考えを巡らせることがそもそも不可欠であった。キリスト教自体は現地の土俗宗教を取り込んで来たが、こと日本においてはそれすら叶わず、日本的キリスト教観というのは、おおざっぱに言えば日本の多神教感との習合ということが出来るかもしれないが、むしろ、日本の側がキリスト教の本質を捉えることなくキリスト教を取り込んでいく、という逆転現象の方が著しいほどだ。
評論家における教義の解釈のズレは、ともすれば不勉強や読み違えとたがわない為、私も慎重にならざるを得ない。しかし創作者における教義や解釈のズレは、等しく芸術となり得る力を持っているのであって、私はそれを読み解いて良いのかどうなのかずっと逡巡していたのだった。日本に於いてキリストを描くことの可能と不可能は、作家自身がキリスト者であった遠藤周作が身をもって体現していた。遠藤の描く神は一部で絶賛を受け、2016年にマーティン・スコセッシが映画化したことも記憶に新しいが、一方でカトリック協会の一部からは明白な拒絶を受けた。そして彼の描く神は、誰かを救う力を持つような強い神ではなく、弱い誰かに寄り添うような神であった。
鶴見は「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふや」であるものに、覚悟を持って形を付けていった。それは日本人に許された特権であるかもしれない。ゴールデンカムイの作品世界の中で「神」「運命」「役目」が目に見えぬ大きな力としてキャラクターを飲み込む中(そしてそれが本誌に置いてリアルタイムでますます力を持とうとし、ともすれば谷垣のボタンすらそれに組み込まれてしまうのではないかという恐怖に怯えながら)、鶴見はひたすらに自律できる人生を求めている。運命を意のままに操ることへの飽くなき渇望。その裏返しとして彼は大嘘つきとなった。
そんな大嘘つきの鶴見ですら、嘘すらつけなかった事実が月島をあの手この手で自らの手元に置いておこうとした事実であった。9年間も彼はその努力をひた隠しにしようとした。それは大嘘つきの死神に存在した「俺は不死身の杉元だ」と同義の『言えなかった言葉』であった。奇しくも遠藤周作は、まさにこの国での神との対話の困難さについての一片の物語を、まさしくこのように著したのである――『沈黙』と。
対話の不可能さには逆説的な神性がある。
それはアイヌのカムイにおいても同じである。だからこそ送られるカムイに現世の様子を伝えてもらおうとし、それでもバッタに襲われた時にキラウシは天に拳を振りかざして怒ったのだ。しかしカムイとキリスト教的神の間には決定的な違いがある。キリスト教的神は全てを統べているのだ。そして「知って」いる筈なのだった。長年このことは日本の作家を悩ませていた。遠藤の『沈黙』においても、主人公は繰り返し、聖書におけるユダの記載、そして「あの人」がなぜユダをそのように取り扱ったのかを問うている。
だが、この言葉(引用者注:「去れ、行きて汝のなすことをなせ」)こそ昔から聖書を読むたびに彼の心に納得できぬのものとしてひっかかっていた。この言葉だけではなくあのひとの人生におけるユダの役割というものが、彼には本当にところよくわからなかった。なぜあの人は自分をやがては裏切る男を弟子のうちに加えられていたのだろう。ユダの本意を知り尽くしていて、どうして長い間知らぬ顔をされていたのか。それではユダはあの人の十字架のための操り人形のようなものではないか。
それに……それに、もしあの人が愛そのものならば、何故、ユダを最後は突き放されたのだろう。ユダが血の畠で首をくくり、永遠に闇に沈んでいくままに棄てて置かれたのか。(新潮文庫 遠藤周作『沈黙』p.256)
当時若干25歳の萩尾望都が抱いたのも全く同じ疑問であった。編集から1話目にて打切りを宣告されるも、作者自ら継続を懇願した結果、その後少女漫画の祈念碑的作品として今尚語り継がれる『トーマの心臓』において、萩尾は以下のようなシーンをクライマックスに持ってくる。
ーーぼくはずいぶん長いあいだいつも不思議に思っていたーー
何故あのとき キリストはユダのうらぎりを知っていたのに彼をいかせたのかーー
“いっておまえのおまえのすべきことをせよ”
自らを十字架に近づけるようなことを
なぜユダを行かせたのか それでもキリストがユダを愛していたのか
その後も「知ってしまうこと」は萩尾望都の作品の中で通底するテーマとして描かれ続け、時にそれはキリスト教的なものとして発露した。『トーマの心臓』の続編『訪問者』はもちろんのこと、『百億の昼と千億の夜』ではまさに遠藤が指摘した通りの役回りをキリストとユダが演じ、そして敢えてキリスト教的な赦しを地上に堕とした作品として、『残酷な神が支配する』を執筆することとなる。
私は日本に生まれた非キリスト者であるからこそ、むしろ不遜に、無遠慮に、宗教的な何かについて切り込んでいけるのではないかと常々感じていた(例えば私にとっては聖典とされる教義の中でも聖書に記載がないのではないかと思う箇所がままある)。そしてその鏡写しのように、概して宗教が封じ込めるものは懐疑と疑念と疑義と疑問ではないか、と考えてきたのだった。
神とは何か、愛とは何か。
そういった問いを挟まないために自らが神になることを決めた男。
それはおそらく弱さを自認した上での自らへの鼓舞であった。
はたして私のような不信の徒が、どのような表象にまで「神」を見て良いのか、いつも憚られると同時、そしてその弱い神をまさに、ドストエフスキーは『白痴(Идиот-Idiot)』として現代化を試みたのではなかったか、という思いがある。『白痴』という和訳は今からするとやや大袈裟なきらいもあるが、それでもやはり、罪なく美しい人間というのは、当時のロシア社会において『Идиот』としてしか発露し得ないというドストエフスキーの悲痛でやや滑稽な指摘は、裏を返せば知恵の実を食べた狡猾な『人間』であるためには、罪を犯し汚れる覚悟をしなくてはならないということであり、それをナスターシャ・フィリッポブナとロゴージンというキャラクターに体現させていた。このような本作を、黒澤明は、日本的なキリスト映画の『白痴』として図像化したのである。このように日本において不思議と繰り返される弱い一神教の神としてのキリストという存在は、ますます持って私の鶴見観を固めていく。
罪を犯し汚れる覚悟は、鶴見によっては以下のとおり示されているものかもしれない。
殺し合うシャチ… その死骸を喰う気色の悪い生き物でいたほうが こちらの痛手は少なくて済むのだが… 今夜は我々がシャチとなって狩りにいく
一方でキリストを『Идиот』と呼ぶことすら厭わないその姿勢は、私にとっては極めてロシア的なものである。信仰において美しく整っていることは最重要課題ではない。そのような本質性がロシアでは”イコン”に結実している。家族が毎日集まって祈る家の片隅のイコンコーナーの壁に掛けられた、決して高い装飾性や芸術性を誇るわけではなく、木片に描かれたサインすらない御姿の偶像。しかしそれこそが最も原始的な「信仰」のあり方なのではないか。ゴテゴテとした教会の装飾でも着飾った司教の権威でもなく、余分なものが根こそぎ取り払われて、日々の礼拝と口づけの対象となる木のキャンバス。真に信仰するものへの媒体としてではあるが、特別な存在感と重みを持つ象徴的なイコンという存在は、英語では「アイコン」と読み下されるものであり、文脈を発展させながらポップカルチャーにおいてもその役割を大きくしていったことは周知の通りだ。
7、親殺しの示唆と代行 ー 尾形の場合
翻って尾形の新平の親殺しはどうか。
父殺しってのは巣立ちの通過儀礼だぜ…お前みたいに根性のないやつが一番ムカつくんだ
鶴見も尾形も親殺しの事を「巣立」ち、という同じ形容を使うという事実。きっと何度も語られてきたことだろうけど、改めて15巻にて新たな父殺しが描かれてたことで、その関連性に驚く。父親の妾を寝取りながら、自らが手を汚す事もなく、両親が絶命した事で自由を得る新平のような人物は、私が『因果応報のない世界』として称するゴールデンカムイの特徴である。あるいは『役目』重視の世界とでも言おうか。そこで『役目』を果たしたのは意外にも尾形と彼の「ムカつき」であった。ただし尾形は、他人を結果的に助けてもその事を認識されない人物であるので、この『役目』もまた誰にも認識されることなく消えていく。
ホラ 撃ちなさい 君が母君を撃つんだ 決めるんだ 江渡貝君の意思で… 巣立たなきゃいけない 巣が歪んでいるから君は歪んで大きくなった
江渡貝の母は既に死亡していたが、江渡貝には支配的な母の声が聞こえ続けており、その声は鶴見に与することに反対し続けていた。母は江渡貝を去勢していたことすらわかっている。そんな母を殺せと示唆する鶴見。何より面白いのは「決めるんだ 江渡貝君の意志で…」という鶴見らしくない言い回しである。しかし結果として齎される“対象の操作””偽刺青人皮の入手”という点では功を奏しているので、単に相手によって取る手法を変えていて、それが本人にとってプラスに働くこともあれば、そうでないこともあるだけかもしれない。
ここで関谷のような問いを死神たる鶴見に投げかけるとこうなるーー鶴見は江渡貝から得る『見返り』がなくても江渡貝を助けただろうか?
これは関谷への以下の問いはこのように繋がるーー弱く清い娘を殺し、殺人鬼たる関谷を生かす神だったとして、関谷は神を信じ続けただろうか?
善き行いをした者に幸運しか降りかからないのであれば、なぜこの世に不遇は、不条理は、戦争はあるのであろうか。
これに対して「すべての出来事には理由がある」とする尾形が、自分の置かれた環境と新平の環境をダブらせた上で、親を殺す事が出来ず(巣立つ事が出来ず)大口を叩くのみの新平に対する「ムカつき」であることは明らかでありながらも、そこで結局新平が「救われた」事の偶発性、蓋然性、見返りのなさは見逃してはならないであろう。
同時に、墓泥棒を捕まえるのは自分の仕事ではない、と語る鶴見が、なぜ遺品の回収をしていたか(出来たか)、そして「傷が付いていた」という詳細、のっぺらぼうがアイヌだということまで尾形に情報共有していたという二人の結びつきを考えるのも実に面白い。アイヌを殺したのは誰なのか? そこにいたと分かっているのはもはや鶴見だけなのである。
兎にも角にも、鶴見は、むしろその「不遇、不条理、戦争」の側に立つ事で、幸福を齎そうとする者なのである。
それは奇しくも、イワン・カラマーゾフが大審問官で言わせた「われわれはおまえ(キリスト)とではなく、あれ(傍点、悪魔)とともにいるのだ。これがわれわれの秘密だ!」のセリフと合致するのであった。
8、デウス・エクス・マキナの��定
と、ここまで書き上げた中で、本誌でキリスト教の神を試すキャラクター関谷が出てきた事で、私は論考を一旦止め、その後176話が『それぞれの神』というタイトルで柔らかく一信教を否定する日本的描写にひどく満足し、自らの「弱い神」「死神」の論考を少しだけ補強のために書き加え、大筋を変える事がなかったことに安堵した。
既に触れたファウストでの悪魔の発言、「すべてのものはいずれ滅びる であれば最初から生まれなければよかったのに」は、自らの死に対して諦念を、そしてウイルクとの再会に疑念を抱いていたインカラマッを連想させる。インカラマッ、そして関谷がこだわった『運命』は、やはり緩やかに谷垣によって、そして土方・門倉・チヨタロウによって否定される(このあたりはまさにドストエフスキー論的に言うポリフォニーというやつだ)。
関谷の持つ疑問は「ヨブ記」に置いて象徴されている。ヨブは悪魔によって子供を殺されるが、信仰を捨てず、最終的に富・子供をもう一度手にいれる。『ファウスト』では、やはり悪魔がファウストを試すが、最後に女性を通じて神がファウストを助ける。『カラマーゾフの兄弟』では、神を疑ったイワンは発狂・昏睡に陥る。つまりヨブ記を元にした作品群では、一神教の神は��利している(『カラマーゾフの兄弟』のドミートリーのストーリーラインは除く)。これは演劇において「デウス・エクス・マキナ」と呼ばれる手法であり、最後に神が唐突に出てきて帳尻を合わせていく手法の事である。
関谷は自らの死にそれを見た。自らの悪行に等しい罰、裁きが下され、意志の強い土方が奇跡を起こしたと考えることで神の実在を感じたのであった。もっとも、我々読者にとっては、関谷への裁きは遅すぎるし、それが娘の死の何の説明にもならないため、関谷がどう捉えようと我々には神の存在が十分に確認できた「試練」ではなかった、と指摘しなければならないだろう。ただ、「デウス・エクス・マキナ」はむしろ因果応報を覆す超常的な描写であり、関谷が見た「意志の強い人間の運命」や「奇跡」、「裁き」という物差しすら飛び越えるものであったので、皮肉なことに、かえって関谷を包む状況とは一致を見せるとすら言えるのであるが……。おおよそにおいて良作とは、物語も人物も「あべこべ」で「矛盾」と「パラドックス」を抱えるものであるため、関谷とヨブ記についてまとめた記載をするには、稿を改めた方が良いと思われる。
それでも関谷についての序章を、本稿の終章に持ってきたかったのは、まさに、新平への運命を急に出てきて変えていく尾形が、あくまで人として、それも銃の腕を除くととてつもなく弱く、惨めな人間として現れ、新平の親の殺人によって新平を救ったという、いわば「デウス・エクス・マキナ」の”変形という名の否定”ではないか、と指摘したかったからである。
時に死神でなくとも、人の子も人を救う。その一端が、尾形の「ムカつき」であったこと、そしてそれが本誌の白石や1牛山に引き継がれていくことを指摘して、この文の結論とする。
そこに「見返り」はない。尾形は新平を助けようとしたわけではないし、白石はアシㇼパを助けても依頼主の杉元が生きているかどうかすら知らないし、チヨタロウは牛山を失って自身に新たな力を得たわけではない。
だからこそ、「見返り」を問題にしてはならないーー外れてしまうとしても、ボタンを縫い付ける必要はあるのだから。
そしてインカラマッはきっと、情を持たず自分を守ってくれないとしても、谷垣に愛を伝えなくてはならなかったのではなかったのかと思うのだ。
読んでくださってありがとうございました。
過去の文をまとめたモーメント。
マシュマロ。なぜ書いているってマシュマロで読んでるよって次も書いてって言われるから書いているのであって、読まれてない文も望まれていない文も書かないですマシュマロくれ。と言って前回こなかったので人知れず本当に筆を絶ったのであった。そのことを誰にも指摘されなかったので、やっぱそんなもんなんだなって思ってる。
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sayokon · 3 years ago
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■11月6日(日)
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