#氷川簸王子神社
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また、神社熱が出始めて休みにふらっと神社巡り。今回はかなりマニアックな氷川神社巡り。 *氷川神社、、、東京と、埼玉周辺にある280社ぐらいある神社。 自分のお店の氏神様も上目黒氷川神社。 なので、せっかくなら総本社の大宮の武蔵一宮氷川神社に行こうって事で行ってきた。 その後に、バスを合計5回くらい乗り継いで、氷川簸王子神社と、氷川女體神社の家族三社を合計5時間6時間かけて周ってきた。 #武蔵一ノ宮氷川神社 #御祭神 #須佐之男命 #スサノオノミコト *お父さん #氷川簸王子神社 #御祭神 #大黒様 #スサノオノミコトの子供 #ちなみに恵比寿様のお父さん *子供 #氷川女體神社 #御祭神 #奇稲田姫 #クシナダヒメ #スサノオノミコトの奥さん #大黒様のお母さん *お母さん 、、、。 というマニアックな神社巡りをしていました。 そして三社は地図上で一直線上に繋がる位置に建てられている。 レイライン上に位置してんだけど、 マニアック過ぎるので説明しないけも、気になる人はレイラインで調べてみてねー! ちなみにスサノオノミコトの大元の御魂があるのは、島根県の須佐神社にあるので興味ある人はぜひ。たかちんも去年行ってきました。 出雲大社に行くより須佐神社の方がすごいって言う人多いので☆ #たかちんの神社マニアック日記 (武蔵一宮 氷川神社) https://www.instagram.com/p/B4BzEBfDE-_/?igshid=1igwndgmzbch5
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氷川八景 第八景 〜大宮一宮氷川神社「深層の祀り」〜①

1868年に大政奉還が施行され、同年10月13日に明治天皇は東京に入城すると落ち着く間もなく、同月28日には大宮の氷川神社に行幸して、自ら祭祀を執り行います。
おそらくそこで明治天皇が目にしたのは、一つの本殿を持たず、男体社、女体社、簸王子社、荒脛巾社という四つの独立した社殿を持つ複合宗教施設ともいうべき、古態を残す大変にユニークな神社でした。
明治天皇はこの行幸に先駆け、なんとこの氷川神社を武蔵の国どころか日本国ぜんたいの鎮守となすよう詔を発布するのです。
「…すなわち武蔵国大宮駅氷川神社をもって当国の鎮守となし…」
大宮の住民にしてみれば、太平の眠りを覚ます寝耳に水だったことでしょうけど、なによりビックリしたのは当の氷川さまだったかもしれません。
千年余り都のあった京都の名だたる神社や、天皇家ゆかりの伊勢神宮を差し置いて、武蔵一宮とはいいながら、中央の歴史とはほとんど関係のない辺境���国の神さまを、近代ニッポンの鎮守として祀りあげるのですから。

(氷川神社HPより転載)
しかしその後、近代国家を目指す明治政府に、政教一致は相応しくないという理由からか、いつしか氷川さまのニッポン鎮守計画は何となくウヤムヤになって忘れられていきました。
とはいいつつ毎年宮中から勅使を送られるという、たいへんな厚遇を賜ります。
そこで、神社としてちゃんとしなくちゃといった思惑が働いたのか、氷川神社の近代化は進み、以降多額の国費を注ぎ込みながら幾度となく大改築工事が行われると、四つの社殿のうち、荒脛巾社を除く三社が本殿に合祀されたりして、1940年には京都の下鴨神社ソックリに、現在の「完成された」神社となって今に至るのです。
いっぽうでは、度重なる改築によって、近世以前の面影は全くというほど失われてしまいました。 県内の氷川の分社のどこでも見られるような歴史的文化財がほとんどなくなってしまったのです。
けれども、注意深く探してみれば、どこかに在りし日の片鱗が見つかるかもしれない。 そう思い立ち、氷川神社の広い境内をあちこち探ってみることにしました。

本殿を囲む回廊から外れたところにある「蛇の池」。
江戸時代に干拓された見沼の名残で、今でも豊富な湧水が認められています。氷川神社はもともと、この広大な見沼のほとりで水の神様を祀っていたと言われます。
また日本では、大陸から仏教とともに龍神が輸入されるまで、もっぱら蛇が水を司る神様の役目を担ってきました。
いうなればここは氷川の至聖所。
かつて禁足地だった聖地も、近年整備され公開されるようになりました。埼玉の歴史は水害との戦いの歴史でもありました。
多くが湿地帯であった武蔵の国の平野部では、荒川を中心とした大小いくつもの河川が引き起こす度々の水害に悩まされていたのです。 この地に住む人々は、長い年月、命がけで荒れ果てた沼地を開墾してきた誇りがあったに違いありません。
彼らには、中央の権力によらない彼ら自身の神さまが必要だったのだと思います。 それが旧武蔵の国に200社以上もある氷川の信仰をつくりだしたのではないではなかったのかと僕は考えます。
聖なる湧水といっても、澱んでます。濁ってます。 芦ノ湖の倍はあり、諏訪湖より一回り小さいほどの規模があった見沼が、どうして湖ではなく沼とよばれたのか。 きっとこの池のように濁っていたからであろうと、失われた見沼の風景に思いを馳せるのでした。

さて本殿を挟んだ向こう側に行くと、門客人神社の祠がありました。
ここは昔、荒脛巾(アラハバキ)社といい、明治初期まで四つあった氷川の主要な神殿の一つです。
アラハバキとはあまり記録の残っていない謎の多い神さまですが、ここでは氷川神社が成立する以前から祀られていた太古の神様である説が有力であるようです。
なんとなくなんですけど、ここの神様と「蛇の池」の蛇神様とは、関連が深い、あるいは同一のものだったんじゃないかと踏んでるんですよわたしは。
実はこの祠、江戸期の建築で、建造物としては大宮の氷川神社に残された数少ない指定文化財の一つです。 にもかかわらず、それと示すものは何もなく、全長2キロに及ぶ、全国に誇るべき参道から本殿につづく流れとは外れた暗がりに、ひっそりと祀られてますが、捨ておかれることなく美しく整えられ祀られておりました。
近代になって国家神道が確立され、全国に残された多様な信仰形態が淘汰され、一元化されてゆく過程において、関東以北に多くあった原始の信仰を残すアラハバキの神さまは、隅っこに追いやられたり、多くが失われ、忘れ去られていきました。
ここのアラハバキの神さまも、門客人神社と名を変えられた上に、ひとり本殿から外されて表舞台から遠ざかってしまいます。
それがどういう理由かわかりません。
どういう理由かわからないけれども、摂社として大切に大切に受け継がれているあり方が印象的です。

さて境内を巡ると、多くの末社がそこかしこに見受けられ��中、一の鳥居ちかくに戦艦「武蔵」の顕彰碑がありました。
戦中に沈没した武蔵丸は長らくその行方が知れませんでしたが、やっとここ最近、フィリピン沖の海底に発見されたのは記憶に新しいところです。
この顕彰碑は戦艦武蔵が発見された同年2015年、戦後70年を経て建立されました。
氷川神社と船の関係で言ったら、ここ大宮の氷川神社の祭神を分祀し、その名を冠した豪華客船「氷川丸」がよく知られているところでしょう。
氷川丸は激動の戦中戦後を生き延び、引退後も現在に至るまで在りし日の華麗な姿のままに、横浜の山下公園に係留されている奇跡の船として有名です。
一方、戦時中に国運をかけて造船された戦艦武蔵も、主祭神として氷川の神さまを乗せて戦地に赴きました。 そしてさしたる戦績もないまま、米軍からの総砲撃を受け、千余名の若者たちの命もろともに、氷川の神さまも沈んでいったのです。
家族も、青春も、未来も全てを戦争に取り上げられて散っていった若い命。 彼らは、戦後故郷に帰ることなく、今も遠い海の底で眠っています。
複雑な思いを抱きながらしばらく佇み、僕は再び、一宮氷川の歴史の深層を辿ることにしました。
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