#海鮮まぶし
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hotoop · 26 days ago
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山梨県甲斐市の中央自動車道・双葉サービスエリア(下り線)が、このたび全面リニューアルを実施しました。本プロジェクトには、企業ブランディングを手がける株式会社イマジナ(東京都千代田区、代表取締役:関野吉記)が参画。コンセプト設計から空間デザイン、メニュー開発までトータルで支援しました。
このリニューアルの目玉となるのが、北海道・知床の名宿「北こぶしリゾート」初監修による海鮮メニューの誕生です。山梨県という内陸地にいながら、知床の“極上海鮮”を味わえる新メニュー「海鮮まぶし」が、双葉サービスエリア下り線で提供開始となりました。
■プレスリリース配信元-株式会社イマジナ https://companydata.tsujigawa.com/company/2010001143563/
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moji2 · 2 months ago
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「本屋」
じっとしていたら、滅入るので本を買いに京都まで行く。
雨だけど、家にいたらうぅーってなるので、墓参りして、車止めて、電車で神宮丸太町駅へ。
高い交通費を出さなくても、通販で買えるのにね。なにかしてないと気持ちが持たないのよ。
本屋に着いた。こじんまりした本屋には、楽しそうな本が沢山あります。
「幸あれ 知らんけど」平民金子さんの本を買いました。岸政彦さんが帯を書いてたので。
本屋の前のご飯屋がとても美味しくて、12時開店ってことで、1時間ほど街をぶらぶらしてました。
カレイの唐揚げとお造り美味しかったけど、盛り盛り海鮮丼にするべきだった。めちゃくちゃ美味しそうだった。
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ari0921 · 2 years ago
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カルタゴ滅亡をトレースする現代日本
◆カルタゴはなぜ滅んだのか?!
日本と同じような商人国家であったカルタゴが、完膚なきまでに滅ぼされた例を他山の石として日本人は国防を考え直す必要があると切に思うからです。
カルタゴは紀元前250年頃、地中海に覇を唱えていた大国でした。
第2次ポエニ戦争に負けて、戦勝国から武装を解除させられ、戦争を放棄することになったカルタゴは、戦後の復興を貿易一筋で見事に成し遂げ、戦後賠償も全てきれいに払い終えました。しかし、その経済を脅威だと捉えたローマ帝国によって、結局は滅ぼされてしまいました。
滅ぼされる直前、カルタゴの愛国者であるハンニバル将軍は、ローマの考えを悟り、祖国の危機をカルタゴ市民に訴えましたが、平和ぼけした市民は耳を貸そうとしませんでした。
それどころか「ハンニバルは戦争をしようとしている!」と中傷する者さえいました。しかも、最終的にハンニバルはローマに洗脳された者達によってローマに売られ、自殺にまで追い込まれてしまったのです。
平和ぼけした市民は、ローマから無理難題を次々に要求されてからはじめてハンニバルの警告が正しかったことに気が付きましたが、時すでに遅く、徹底抗戦に踏み切るもカルタゴの陥落を防ぐことはできませんでした。この間、たった3年の出来事でした。
ちなみに、生き残ったカルタゴ市民は約5万人でしたが、その全てが��隷にされてしまいました。城塞は更地になるまで徹底的に破壊され、再びこの地に人が住み、作物が実らぬように大量の塩が撒かれたと言われています。
これはただの負け方ではありません。まさに地上からの抹殺です。
この悲惨なカルタゴ滅亡の理由は2つあると言われています。
1つは、カルタゴ市民が軍事についてほとんど無関心だったことが挙げられます。もともと自国の防衛はおおむね傭兵に頼っていた上に、国内世論も「平和主義的」な論調が強く、有事に備えて軍事力を蓄えておくといったことはままなりませんでした。
2つめは、国内の思想が分裂状態であったことが挙げられます。そもそも挙国一致して事に当たらなければ有事を乗り切ることはなかなか難しいものですが、カルタゴにはそれがなく、戦時中にハンニバルが外地を転戦している間も市民は素知らぬ顔をしていました。そして、ハンニバルを売り渡したのは、ローマに洗脳されたカルタゴの売国奴達でした。
自らの手で愛国者を切り捨てる・・・かくしてカルタゴは「滅ぶべくして」滅んだわけですが、私は今の日本がこのカルタゴに酷似している様に見えて仕方がありません。
今こそ日本の国防を真剣に考えないと本当に危ないと思います。
【対比】日本と似すぎているカルタゴの運命
カルタゴは、フェニキア人が建国した海洋国家で、現在のアフリカ大陸チュニジアに位置しています。
カルタゴは、世界一の造船技術を持ち、スペイン、シチリア島などの海外領土を支配していました。
紀元前3世紀、地中海貿易により富を蓄え、ローマ帝国と並ぶ強国となります。
BC264年、両者の中間にあるシシリー島で紛争がおこります。そして、これを契機にカルタゴとローマは、世界の覇権を賭けて激突します。この戦いは、23年間の中断をはさんで63年間続きます。(第一次ポエニ戦争、第二次ポエニ戦争)
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1867年、島国日本は、長い眠りから覚め、明治維新により近代国家への道を目指します。西洋文明を積極的に取り入れ、富国強兵に邁進します。日清・日露の戦争に勝ち、朝鮮、台湾、南樺太と領土を拡張します。
強国となった日本は、戦艦大和を建造して、世界有数の海軍を持ち、
太平洋をはさみ、超大国アメリカと対峙します。
1941年12月、日本連合艦隊は、ハワイの真珠湾の奇襲に成功します。太平洋戦争が始まります。
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カルタゴの英雄ハンニバルは、象36頭と兵士5万人を率いて、スペインを出発します。象を連れて、アルプス山脈越えに成功、ローマの本拠地イタリア半島を奇襲します。ハンニバルは、イタリアに、なんと15年も踏みとどまり、ローマを一時追い詰めます。
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「マレーの虎」山下奉文中将は、マレー半島を南下、シンガポールに侵攻します。インド兵への離反策が成功し、1942年2月15日シンガポールは陥落、イギリス軍は降伏します。
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カルタゴは、地力に勝るローマに対して次第に劣勢になります。ついに、名将スキピオ率いるローマ軍が、カルタゴの本拠地に進軍します。カルタゴは、イタリアで善戦していたハンニバルを帰国させ、本土決戦に賭けます。BC202年、天下分け目の戦い(ザマの戦い)が行われます。カルタゴの完膚なき負け戦でした。
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アメリカは、生産力、技術力で日本に勝っていました。ミッドウェー海戦を境に、戦局は逆転します。ガダルカナル、硫黄島、沖縄。日本は、敗退を続けます。本土空襲が激しくなり、広島と長崎に原爆が投下されます。日本の完膚なき負け戦でした。
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カルタゴは、ローマに無条件降伏します。
全ての海外領土は、放棄され、軍船、象もローマに引き渡されます。軍隊は、自衛のためのものだけが許されました。そして、自衛のためでも戦争する場合、ローマの許可が要ることになったのです。(この許可の項目が、後に大問題となります)
そして、50年賦で1万タラントの賠償金をローマに支払うことが決まります。
ともかく、カルタゴの町は、無事に残りました。100人会は、貴族の世襲制でしたが、戦後まもなく代議員が選挙で選ばれるようになります。
カルタゴは、民主主義の国家に生まれ変わります。
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「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え・・・」玉音放送が流れ、日本は無条件降伏します。
日本列島以外の領土は、返還されます。アメリカが決めた平和憲法で戦争が放棄されます。(後に自衛隊が誕生します。)国土は焼け野原、アジア諸国には賠償金の支払いが必要でした。ともかく、本土決戦だけは避けられました。
日本は、天皇主権の国家から、主権在民の民主主義国家に生まれ変わります。
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カルタゴ人(フェニキア人)は、ユダヤ人やアラビア商人と同じセム語族で、最も商才があるといわれている種族です。
軍事国家への野心を棄てたカルタゴ人は、ますます貿易や商売に熱中するようになります。ローマ人は、楽しむために働きましたが、カルタゴ人は働くこと自体が人生の目的でした。奇跡の経済復興が実現します。
戦勝国ローマは、休む間もなく、マケドニアやシリアと戦わなければなりません。軍備費の要らないカルタゴは、次第にローマに匹敵する経済大国に、のしあ��ります。
BC191年ローマは、シリアを打ち破ります。
無敵の軍事大国ローマにとっての脅威は、経済大国カルタゴに移っていくのです。
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日本人には、勤勉さと物作りの才能がありました。
焼け原から立ち上がった日本人は、ひたすら一生懸命働くことで豊かになろうとしました。エコノミックアニマルと日本人は、陰口を叩かれます。奇跡の経済復興が実現します。
アメリカの核の傘に入り、軍事費もいりません。戦勝国アメリカは、ソ連との冷戦を戦わなくてはなりませんでした。
10%を超す高度経済成長が続きます。日本は、世界第二位の経済大国になります。
ソ連が崩壊し、日米の経済摩擦が激化します。
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BC187年、カルタゴは、50年賦と決められた賠償金を一括払いしたいと申し出ます。いくら叩いても不死鳥のように蘇る、カルタゴ人の経済力に、ローマ人は、羨望と恐怖心を抱きます。ポエニ戦争の悪夢がふと蘇ります。
経済大国カルタゴの最大の悩みは、隣国のヌミディアでした。ヌミディアは、騎馬兵団で有名な、戦争に強い国です。自衛力しか持たないカルタゴを侮り、その領土を侵犯します。
カルタゴは、ローマに調停を頼みますが、黒幕のローマはもちろん取り合いません。ついに、カルタゴとヌミディアの間で戦争が起こり、平和の国カルタゴは、敗北します。
ローマの事前許可のない戦争開始は、条約違反でした。
ローマは、カルタゴに対して、突然宣戦布告をします。
驚いたのは、カルタゴです。ローマの許しを得ようと、300人の貴族の子供を人質に差し出します。しかし、8万人の世界最強のローマ兵が、上陸し、カルタゴに進軍します。
カルタゴの使者が、「どうすれば、許していただけるのですか?」とローマの司令官に聞きます。
「全ての武器を差し出せ。」司令官は、答えます。
カルタゴは、20万人分の鎧、投げやり、投げ矢、2000の石弓を司令官に差し出します。
すると、司令官は、最後の要求を使者に言い渡します。
我々は、カルタゴの街を根こそぎ破壊することを決めた。
カルタゴ人には、今の街より10マイル内陸部に
新しい居住地帯を造ることを許可しよう。
使者からローマの意向を聞いた20万人のカルタゴ人は、驚愕して、嘆き悲しみ、最後に激怒します。
「こんなひどい仕打ちがあろうか。街を破壊するだと。
内陸部に引っ込めだと。どうせ死ぬなら戦って死のう!」
カルタゴ人は、丸腰で戦う覚悟を決めます。返事の猶予期間の30日間、密かに戦争準備がすすめられます。
武器職人は、連日徹夜で武器を作ります。
若い女性は、長い髪を元から切っ��石弓の弦が作られます。
こうして、始まったのが、第三次ポエニ戦争でした。
(戦争というより、ローマによるカルタゴの民族浄化です。)
カルタゴは、ここで奇跡的な粘りを見せます。なんと丸腰で三年間ローマの猛攻を食い止めたのです。
しかし、戦闘と飢えと疫病で、20万人のカルタゴ市民は、10万人に減ります。
そして、ついに、ローマ兵は城壁を破り、街へ進入します。
女、子供までがレンガを投げて抵抗しますが、5万人が虐殺されます。
ビュルサの砦に逃げ込んだ5万人のカルタゴ人は、オリーブの枝を掲げて投降します。
彼らは、一部が処刑され、残りは奴隷として売られます。
カルタゴの街は、十数日燃えつづけ、灰は1メートル積もります。カルタゴの復活を恐れたローマ人は、この地に塩を撒き不毛の土地にします。
700年続いた経済大国カルタゴと世界の富を独占したカルタゴ人は、BC146年こうして滅んだのです。
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yoshichans-world · 1 year ago
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ぷらっと和歌山へ♪
ゴールデンウィークの前半、よく晴れていたので久しぶりに星狩りに出かけました♪
ついでに美味い海鮮でも食べて帰ろうと思っていましたが、予約が取れず、また疲れてしまって、とっとと帰ってきました。おかげで今年も渋滞知らずです。笑
星だけで撮影に出かけたのは、久しぶりだなぁ。。写欲をもって上げていかないとですね(^-^)
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chibiutsubo · 6 months ago
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#日常
妹夫婦&姪っ子たちや叔父夫婦が集まっての我が家のお正月の風景。今年のメインは飛騨牛のすき焼きだったのですが、甘辛味がそこまで好きではない私は、せっせと海鮮とおせちをつつき回していました。すき焼きかしゃぶしゃぶかと問われたら私は断然しゃぶしゃぶ派なんですが、多数決に負けた……そうか、皆さんすき焼き派なのね……。しゃぶしゃぶの中でも豚しゃぶが好きです。さっぱりが美味しい。
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メインに加えて毎年近所のお店のおせちを頼んでいたのですが、おせちの定番メニューだと誰も手を付けないので、今年は肉づくしおせちとやらを頼んでみました。ローストビーフやらハムやらマリネやら色々入った洋風メニュー。……なのですが、やっぱり皆さん冬はあったかいもの(すき焼きとか揚げ物とか)に人気が集中。喜んでモサモサ食べていたのは私だけだったのでした。まあ、余ったから私のワインのお供(ほとんど飲めないけど)ができて私は嬉しい。
母「それなりにお値段張るんだよコレ。あんたしか食べないならもう来年からおせちいらないんじゃないの?」
否定はできない。
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asagaquru · 1 month ago
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日記にしなかった21
元彼氏については、彼の音楽の趣味だけが今も好きだ。Apple Musicでわざわざ彼を探し、新しいプレイリストがないか確認する。
何度も波に晒された流木のように少しずつ美しい流線を描いていくのが記憶なんだと思う
過去の恋愛を思い返してみても、色鮮やかすぎて自分の記憶じゃないように思えてしまう。煌めく星というよりは、何処かへ真っ直ぐ落ちていく隕石。大気圏内でメラメラと燃えていたそれは、今や海に落ちて冷えてしまって、周りの漂流物と区別がつかない。かつての輝くように発していた熱く白い炎の面影もない。
漠然としたあきらめや、一歩引いている見ている自分がいる。
サウナに7分も入れず、水を浴びる。
過去から見れば今の自分が1番年老いている。未来から見れば1番今の自分が若いのだから。
かき氷を一気に食べたかのように、頭蓋骨を超えて脳が冷える。わたしの歩く先にはオリオン座が瞬いている。あとは北斗七星と白鳥座しか星座はわからない。足元ではいつのまにか降った新雪が押し固められてギュギュと歩くたびに悲鳴を上げる。寒くて美しい冬のことを、毎日好きになったり嫌いになったりしている。
昨日帰ったのは0時を少し過ぎた頃だった。布団に入って
眠剤を放り込んで、睡魔が迎えにきてくれるのを待つ
なごり雪がしぶとく溶けない札幌。桜の木は咲く前が一番紅い。樹木全身に花の色をたぎらせて、春を待っている。
フロントガラスに打ち付ける小雨が、街灯に照らされてスパンコールのようにきらきらしている。
小雨降る札幌。次の季節はいつも雨が連れてきてくれる。
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kaoriof · 8 months ago
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ゴッホ展を観に、友だちと東所沢まで行ったけどチケットが売り切れだった。仕方ないね、といって、でもせっかくきたんだし、と思って、コンビニに寄って買ったパピコを片手に緑の中をすこし歩く。今年の夏、はじめて蝉をみた。繊細な模様の羽根がか細く音を立ててはためいている。「ほぼ水になったアイスがいちばんおいしくね?」 そういう、ぼそっとつぶやいた何気ない言葉は静かにがらんどうの青空の中に溶けていき(あるいは沈んでいき)、わたしたちの夏の匂いの一部となっていく。この広い空に眼があったなら、風にくちびるがあったならどれほどうつくしいのだろうかをずっと考えていた。全ての境界線が暑さ���じわじわ入り交じりゆくのを肌で感じながら、たとえばアマゾンの熱帯雨林に想いを馳せること、深海魚の生態について検索すること、もう2度と逢えない人に逢いたいと願ってしまうこと。蝉と、夏の太陽。波立つ海、燃え盛る炎。死者の言葉や羨望、未練、その姿かたちは今この瞬間にも車窓から見える光景の隅々にまで溶け込んでいて、わたしたちは明日もまたアスファルト下に沈む沢山の人間の流した血と涙の上を歩いていく。草花の幹に、雨の雫の一滴に、海水の塩になって、失われた生命はその記憶を繋いでいく。そんなことをぐるぐる何度も考えては、ほんとうにこれでいいのか、これが正しいのか、わたしはまた自らの想像力の足りなさでだれか傷つけていないだろうか?と言葉を反芻していた。大学の講義のフィードバックで「だれのことも傷つけずに生きていくことができない世界なら生きていきたくない」という学生のコメントが紹介された。そのときに先生(その人は先生と呼ばれるのを嫌う人だったけれど)が「怒りの気持ちは大切にするべきもの/忘れずに守っていくもの」と言っていた。あなたがそう感じてしまうのはあなた自身の問題ではなく、そう思わせてしまう社会の問題であり、その社会に対する怒りとあなたは向き合わなくてはいけない。そんなようなことを言っていた気がする。大好きなみんなへ 怒りに含まれる矛盾や素直な疑問は必ず次のより良い環境の土俵になるし、そうして得られた安らぎはだれかの優しくありたいと思う理由としてきっと光っていくから大丈夫。友達と東所沢から今度は渋谷まで移動して、おいしいサンドウィッチを食べた。ドンキホーテでピアッサーを買って、店頭に並ぶサンプル品のアイライナーで耳たぶに印をつける。渋谷の騒音の中、針が耳たぶを貫通する音はほんとうに小さかった。わたしの呼吸音はすごく小さかった。わたしたちの微かなときめきすら、その瞬間に街のどこかで繰り広げられているであろう壮絶なドラマと比べれば小さいのだろうなと思った。でも、それでよかった。それがよかった。「ピアス開けたら人生って変わるらしい」と、友達が耳を冷やしながら呟く。わたしは3月にピアスを開けたけど、そこからの人生すごく色鮮やかだったなーと思う。新しく出逢ったひとがたくさんいる。つらいこともあったし、人のことを信じたくないと思うことも多かった。でもわたしは多分どんなことがあろうと人との関係を疑いからはじめない。人のこと信じないことを選択するくらいなら信じて裏切られたほうが美しく傷つけるし、好きな人に期待しないでいるよりも期待してしまう自分の幼さや素直さをいとおしく思えるほうが伸び伸びとやさしい。一昨日、Twitterに写真を撮らせてほしいとのDMをいただいた。レンタカーで三浦までいって、ほとんどはじめてわたしは人が誰もいなくなった海に入った。その日は全てが青くて、露わにした太腿にはオレンジの花の花粉の色が染み付いた。下着にレースのワンピースだけ羽織って、押し寄せてくる波に体重を預ける。髪が濡れて、額に張り付く。カメラのレンズを見つめると、まるでその先に昔の自分がいるような気がして、涙がでてしまいそうだった。「知らなかったこと」が一瞬のうちに「知っていること」になっていくこと、その瞬間の微かな光の揺らめきと運命の歯車の軋む音が、夏の全てに意味を与えていく。もっと傷つきたい。駆け出していきたい。わたしも大人になったら、その人が私にしてくれたように、自分よりも幼いエネルギーの塊みたいないのちに素敵な景色を見せてあげたい。そう思える旅路だった。眩しくて鋭く発光する若さをぎゅっと抱きしめる。あなたの瞳をみつめながら、その眼差しに自分の人生の影を溢したこと。そこで交差した運命のような幻のような愛でもない何かについて考える。傷ついた分、その傷口に咲いた花の香りの美しさで感性の彩りが増すように、わたしは言葉を諦めたくない。未来のわたしは過去のわたしを慈しめているかしら。わたしはずっと昇って登っていく、丘の上で逢おうね。
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kozy-ogawa · 1 year ago
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近所で魚の美味しい定食屋さんとして有名な「おさかな家族」 @osakanakazoku にランチを食べに行ってきました。
日替わり定食から海鮮バラチラシ(¥2280)を選択。上手いし、ボリュームもあり、大満足でした。
海ごはん おさかな家族のホームページ
所在地: 〒263-0001 千葉県千葉市稲毛区長沼原町783−6
#Lifelog #日記 #おさかな家族
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chisasarasa · 1 month ago
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250207
朝、自分が小さくなったみたいだ、と思う。 どうして毎日こんなにもささくれだっているのだろう。 仕事。 あまりにもストレスなく働くことができて、これが合っているということなのかもしれない。自分のペースで作業をし、考えることができる。分子生物学的な実験業務。 これから先もずっとこの仕事をしたい。 仕事をするのなら。
一度帰宅して、イオンへ行く。 もうすぐバレンタイン。 一角にチョコレートが並んでいる。人気のものはすでに売り切れ。 彼がカービィの缶に入ったチョコレートがほしいと言うのでプレゼントしたら、思いのほか喜んでいた。 わたしがひとりで選んでいたら、選ばなかったと思う。 明日は休み。 何をしよう、と思いをめぐらせて、ねた。
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250208
朝、眼鏡がみつからない。 いつも枕元に置いてねるのに。 仕方なく予備の眼鏡をかける。 クリアな世界が目に映って、いつもの眼鏡は茶色のカラーレンズであることを思い出す。
窓の外が白く光っている。 溶けないままの雪が積もっているから。 友人への贈り物を買いたくて、歩く。往復1時間くらい。 とても疲れた。どこをみても光るような白。 雪のうえを歩くこと、注意深く気を付けて歩くから、へとへと。 でも、素敵なチョコレートとキャンドルを買えて、満足。
夜、鶏の肩小肉と赤玉ねぎでバターサワー煮を作る。 玉ねぎの鮮やかな色がすっかり抜けてしまったけれど、おいしかった。 ひさしぶりにちゃんと自炊をした気がする。 自炊ができて、嬉しい。
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250209 これからタイで暮らし始めるという人に会う。 その人は札幌で出会った人であるけれど、たまたま十勝に暮らしている人で、たまたま弟の小学生の頃の友人だった。 小学生の頃、神奈川から北海道へ引っ越したとのこと。 洋服にリズムのある刺繍をする人。 いろんな人に会って、話して、不思議な1日だった。 初めましての人に詩集を渡した。 知り合いのいない十勝にきて、孤独だったと話をすると、詩人には孤独なときも必要、と言う。詩人。わたしは詩人。 その人が以前に住んでいたのも神奈川で、わたしの中高の最寄り駅が最寄り駅だったという。ひさしぶりに懐かしい響きを耳にする。南林間。
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250210
朝、頭が痛いような。 人に会って、話をすると、たくさん思考が巡って、小さな犬が走り回る。 お米を炊き忘れたからフルグラを食べる。 昨日、一昨日と少し活動しすぎたのだろう。微熱。 いつものことだから、いつものように風邪薬を飲んでおく。 仕事。 助教の方と大雪の大変さをひとしきり話す。 この研究室は大体の人が道外出身だから、みんなそれぞれ雪に���れていない苦労がある。 とにかく車の運転気をつけましょうね、と言い合う。 春が待ち遠しい。 北海道の桜は花と葉が同時に存在するらしい。 たぶん、わたしの知っている儚さのあつまる桜とは、ちがう。
夜、ひとり。 今週、彼は夕勤だから夜遅くに帰ってくる。 ひとりで家にいると、ひとり分の音しか出ないんだな、と食器を片付けながら思った。
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shitakeo33 · 6 months ago
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「あーもう、やってらんねえよ。こんな会社辞めてやる!」 飲食店で同僚相手に会社の不満をぶちまける男性に、女性店主が話しかける。「私の知り合いで印刷会社の社長さんがいらっしゃるのよ」 実は、店主は拉致の協力者。ターゲットを見定め、特殊工作員に存在を伝える。以後、男性は行動を見張られる。あるとき、転職先の社長の部下を名乗る男に声を掛けられ…。 12月8日、北朝鮮の人権問題を考える映画祭で上映された「あなたが知らない本当の拉致問題~拉致の真相を暴き出す~」(佐羽英(さはね・ひで)監督)の描写だ。わずか10分間の作品だが、拉致実行までの巧妙な手口に思わず固唾をのむ。 「日本海側でさらわれるイメージのままでは拉致の本質が分からなくなる」。上映後、北朝鮮による拉致の可能性が排除できない「特定失踪者」の支援団体「特定失踪者問題調査会」の荒木和博代表が製作意図を明かした。 拉致は分業制で、協力者の存在が欠かせない。店主が男性に狙いを絞ったのも「姿が消えても怪しまれない」(荒木氏)ためだ。男性が転職すれば、かつての同僚と疎遠になっても不思議ではなく、行方不明の発覚を遅らせることができる。
北朝鮮の拉致は「夜道」や「海岸」で起こってるんじゃない 巧妙に誘導する国内協力者の影 - 産経ニュース
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gaann · 6 months ago
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厳選まぐろ赤身、一本釣りかつお、いか、本日の海鮮漬け、天然ぶり胡麻醤油漬け、数の子、茶碗蒸し、生チョコ風モンブラン
Lunch on Dec.27th,2024
Sushi.
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utagejp · 6 months ago
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玄界灘の天然カンパチ丼
〜風の谷農苑にて〜
玄界灘は古より本州〜朝鮮半島〜中国を結ぶ重要な海上交通路。 その由来は船乗り達により、玄い(黒い)界隈(海域)と呼ばれていたからなのだとか。
カンパチは、左右体側に斜めに走る太い暗褐色の線があり、顔を正面から見ると八の字に見えるからその名が付いたとされます。
今朝は脂がのったカンパチを、タレ(白だし、煮切った酒)に10分漬け、酢飯にのせました〰️😋
美味しく健康に、自然の恵みに感謝していただきます(合掌)。
#カンパチ #玄界灘 #カンパチ丼 #風の谷農苑 #イチビキ #大地の宴 #greateramberjack #kanpachi #daichinoutage #utage_jp #tokyo #japan
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ari0921 · 15 days ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和七年(2025年)6月12日(木曜日)弐
     通巻第8821号 
 
 “疲れを知らない暴走老人”は「LAを解放する」と宣言 
  戒厳令はLA市長、ニューサム知事は“反トランプ”を鮮明にして次を狙う
*************************
 トランプ大統領は明後日(6月14日)に79歳になる。
首都ワシントンで軍事パレードを開催する予定で、「米陸軍創設250周年」の式典とし、戦車や装甲車などが兵士とともに行進する。
 まさに「つかれを知らない暴走老人」は、ゴルフ大好き、ビフテキをコーラで食し、ハンバーガーも好むが酒を飲まない。トランプはアメリカのソフトパワーを廃棄処分とする。ハーバード大學などへの措置がそのことを端的に物語っている。
 クルーグマン(ノーベル経済学賞)は「トランプは完全に狂っている」と発言したが、狂っているのはどちらだ?
つねに過激なブラフ、他人を面罵し、その即席の比喩が面白い。石原慎太郎のような文学的レトリックを欠くが、アメリカの大衆には受ける。
野球、ブットボール、ラグビー、ボクシング愛好人口はインテリの人工よりはるかに多く、かれらは左翼議論に耳を貸さない。
だからトランプはブルーカラー層に絶大な人気がある。選挙の勝敗を決めるのは彼らだ。
 さてハーバード大学、コロンビア大学に難題を突きつけ、研究補助を削減し、外国からの留学生を33%から15%程度に抑える。窮極の狙いは中国の学生スパイの駆除、左翼インテリへの挑戦である。グローバリズムなぞ「糞の役にも立たない」と考えているからだ。
 フト考えて見た。そうした糞の役にも立たない学問を学びに日本人留学生はせっせとアメリカの大學に留学したのか。たしかに留学帰りの新進気鋭が日本に帰国後、斯界をリードした。だがテレビでコメントする米国留学帰りのセンセイたちは、アメリカ流リベラルの伝道者でしかなく、日本の国益を重点として、新しい学問を活用するという志を感じますか。 
鳩山も小泉も赤沢大臣もアメリカ留学ですゾ。
 経済をみても、戦後はサミュエルソン、フリードマンなど颯爽とアメリカの学説を留学帰りが権柄づくにのたまわっていたが、竹中平蔵は日本経済の基盤を壊したのではないのか。社会学にしてもアメリカのリベラル亜流ばかり。例外はドラッカー、ハイエクくらいだろう。
 翻って遣隋使、遣唐使を思いだそう。
皇帝側近にまで登りつめた阿部仲麻呂を筆頭に吉備真備は万巻の書、新兵器、宗教書を持ち帰りながらも、けっして唐には染まらなかった。
 空海も最澄も道元も唐へ行ったが、学んできたものを咀嚼して日本流に置き換えて昇華させたという学問的成果を挙げた。
留学しなかった藤原仲麻呂は、むしろ唐にかぶれて位階から役所の名前まで唐風に変更し、ハイカラと唾棄された。彼の反乱が失敗するや、すべて国風に戻された。
 遣唐使、遣隋使は600年から838年間で合計20回ほど派遣された。初回大使は小野妹子、答礼で日本にきたのが裴世清だった。
 西暦894年に、大使に任命されていた菅原道真が中止を建言し、沙汰止みとなった。
航海の安全とか、費用とかを理由にに挙げたが、本音は「学ぶべきものがない」からだ。「唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕したとする認識の生成」(森公章『遣唐使と古代日本の対外政策』)による。
応神天皇期に学問の輸入が旺盛だったのは「文字」の流入が主眼だった。敏達天皇期の仏教輸入は数十年間、排斥された。遣唐使の絶頂期は唐王朝も絶頂だった。文物、とりわけ文献と兵器、薬事、楽器などの祭器には魅力があったことは確かだろう。つまり日本はアメリカの自動車、造船、鉄鋼技術で凌駕した。学ぶべき分野は軍事技術、医療、薬学、AIなど、この方面への留学は続けざるを得ない。
 一方で、遣隋使、遣唐使よりシナから派遣される遣日使のほうが��数が多く、しかも彼らの多くは帰国しなかった。鑑真は日本に事実上の亡命を果たした。
 白村江海戦で敗北を喫したため、百済の顕官ら2400名近くを、阿倍比羅夫が連れ帰った。海軍を率いた安曇比羅夫は、敗戦の責任をとらされ。信濃の山奥へ配置換えになった。長野県安曇野はワサビ、林檎の産地となった。
 天智天皇は敗戦後、筑紫に水城などを築城し防戦に備える一方で、百済の高官、匠らの事実上の亡命を認めた。通説とは事実は逆である。古代史の価値観をそろそろひっくり返す必要がある。同時にアメリカ留学の本来の意義を、もっと真摯に考え直すべきであろう。
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chibiutsubo · 10 months ago
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#おでかけ #海鮮丼 #どんと屋
海なし県民は、この宝石箱のような海鮮丼を求めてせっせと海端に出掛けるのです。見よこの!きらめくお刺身たちを!!!!
色々と丼ものは種類があったのですが、地物中心の海鮮丼の方を頼みました。ほかにもアジ丼とかイカ丼とかあって、もう少し近ければ月イチで通って色々食べたいところです。
市場のすぐ前にあるお店で、結構並ぶお店なのかお店のサイトでは待ち時間が見られるようになっているほど。この日は夏休み最終日で少し遅めの時間だったからか、待ち時間なしでスルッと入ることができました。でもその後あれよあれよという間に席が埋まったので、単にタイミングが良かっただけなのかもしれません。
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3000円近くしますが、こういう時は値段を考えてはいけない。食べたいものを食べるのです。
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kennak · 7 months ago
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私の手元に、古ぼけた書類の束がある。手製の表紙をめくると目に入ってくるのは軍の最高機密を意味する「軍機」の朱印だ。昭和16年12月8日、日米開戦の象徴となった真珠湾攻撃に関する詳細な計画、命令書である。なぜこんなものが私の元に来たのか、そして軍の機密のその中身とは――。 「進藤三郎」という男 昭和15年9月13日、圧倒的勝利に終わった零戦のデビュー戦を指揮し、漢口基地に帰還した進藤三郎大尉 平成12(2000)年2月2日、ひとりの元海軍少佐が88年の生涯を終えた。その人の名は進藤三郎。太平洋戦争に興味のある人ならまず知らない人はいないであろう戦闘機乗りである。 進藤は昭和15(1940)年9月13日、制式採用されたばかりの零式艦上戦闘機(零戦)13機を率い、中国・重慶上空で中華民国空軍のソ連製戦闘機33機と交戦、27機を撃墜(日本側記録。中華民国側記録では被撃墜13機、被弾損傷11機)、空戦による零戦の損失ゼロという鮮烈なデビュー戦を飾った。続いて、昭和16(1941)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃では、空母赤城戦闘機分隊長として第二次発進部隊制空隊の零戦35機を率いた。その後、激戦地ラバウルの第五八二海軍航空隊飛行隊長、空母龍鳳飛行長などを歴任し、筑波海軍航空隊飛行長として派遣先の福知山基地で終戦を迎えた。 戦後はトラック運転手や福島県の沼沢鉱山長などの職を転々としたのち、生家のある広島に戻って東洋工業株式会社に入社、出向した山口マツダで常務取締役まで務めた。 戦争中はその華々しい「活躍」がしばしば新聞にも載るほど著名な海軍軍人だったが、戦後は一転して平凡な会社員生活で、戦争の話はよほど心を許した相手にしか、最後まですることを好まなかった。 進藤が保管していた書類に入る前に、進藤自身の「真珠湾攻撃」について、1996年から99年にかけての私のインタビューをもとに再現しよう。 突然の転勤命令 昭和16年4月、新編された当時の赤城戦闘機隊搭乗員たち。中列中央・飛行隊長板谷茂少佐、その右・分隊長進藤三郎大尉。このメンバーのうち数人は、のちに第五航空戦隊に異動した 昭和14(1939)年、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことに端を発する欧州での大戦は、日本がドイツと軍事同盟を結んだことで、もはや対岸の火事とは言えなくなっていた。日米関係は悪化の一途をたどり、昭和16年7月28日、日本軍の南部仏��進駐を機に、アメリカは日本への石油輸出を全面的に禁止、イギリス、オランダもこれに同調する。世にいう「ABCD包囲網」である。 この制裁措置は、石油その他の工業物資の多くをアメリカからの輸入に依存してきた日本にとって、まさに死命を制するものだったった。米英蘭との戦争は、もはや不可避と考えられた。海軍も、極秘裏に開戦準備に入る。 航空母艦赤城、加賀の第一航空戦隊、蒼龍、飛龍の第二航空戦隊を主力に、第一航空艦隊(一航艦=司令長官・南雲忠一中将)が新たに編成されたのは、昭和16(1941)年4月のことである。一航艦は、空母と少数の駆逐艦だけで編成されたが、実戦に際しては、臨時に配属する速力の速い戦艦、巡洋艦、駆逐艦などを合わせ、これが世界初の試みとなる「機動部隊」として作戦に従事することになっていた。 進藤は、機動部隊の編成にともなう人事異動で、南雲中将の座乗する旗艦赤城の戦闘機分隊長に転勤を命ぜられた。進藤の直接の上官、赤城戦闘機隊の飛行隊長は板谷茂少佐である。 「支那事変での長く続いた戦地勤務で、私の体は疲れ切っていました。できれば今度は内地の練習航空隊の教官配置につけてもらえないかと思っていた矢先の転勤命令。空母乗組は“搭乗員の華”、誰もが羨む配置なんですが、正直なところ、はじめはうんざりしましたね」 と、進藤は振り返る。 猛訓練で体が悲鳴を上げていた 機動部隊の旗艦・空母赤城。巡洋戦艦を建造中に空母に改装。当時世界最大級の航空母艦だった 空母搭載の飛行機隊は、洋上訓練や出撃のとき以外は、陸上基地で訓練を行うのを常としていた。搭乗員が揃うと、赤城戦闘機隊は、鹿児島・鴨池基地を拠点に、飛行訓練を開始した。 まずは、搭乗員全員の零戦での慣熟飛行から始まり、着艦訓練の前段階として、母艦の飛行甲板を想定した、飛行場の限られた範囲に飛行機をピタリと着陸させる定着訓練が行われる。5月になると空戦、無線電話、着艦訓練と、訓練もより実戦的になり、空戦訓練は、1機対1機の単機空戦よりもチームワークを重視する編隊空戦に重点が置かれ、2機対3機、3機対6機の編隊同士の空戦訓練が、実戦さながらに行なわれた。吹流しを標的とする射撃訓練も、さかんに行われた。 9月に入ると空母翔鶴、瑞鶴からなる第五航空戦隊が新たに機動部隊に加わり、赤城の搭乗員の一部は五航戦に転勤する。進藤の回想。 「猛訓練が進むにつれ、疲労がどうしようもないほど蓄積してきました。体がだるく、食欲もない。8月には黄疸の症状も出始め、��囲から『君の目は黄色いじゃないか』と言われるほどでした。これはもう、海軍をクビになっても仕方がない、休暇療養を願い出ようと決心したんですが……」 ところが、そう決心した矢先の、進藤の記憶によれば10月1日頃、各航空戦隊の司令官、幕僚、空母の艦長、飛行長、飛行隊長クラスの幹部が、志布志湾に停泊中の赤城の参謀長室に集められ、ここで南雲中将より、「絶対他言無用」との前置きのもと、真珠湾攻撃計画が伝えられた。航空参謀・源田実中佐からは、この作戦に対応するための訓練を急ピッチで進める旨の指示もあった。 少佐の本音 揚子江上空を飛ぶ零戦一一型。進藤大尉が撮影した 「しまった。これを聞いたからに��、休ませてくれとは言えないな」 と、進藤は観念したと言う。傍らにいた板谷少佐が、やや興奮の面持ちで、 「進藤君、こりゃ、しっかりやらんといかんな」 と、声をかけてきた。だが、解散が告げられ、基地に帰る内火艇に乗り込むときに、 「俺たちはただ命令通りに死力を尽くして戦うだけだが、その後始末はどうやってつけるつもりなのかな」 と、誰にともなくつぶやいた板谷少佐の言葉がいつまでも心に残った。こちらのほうが本音なんだろうな、と進藤は思った。 昭和16年10月には、戦闘機隊の訓練は仕上げの段階に入りつつあった。訓練項目に航法通信訓練が加えられ、コンパスと、波頭を目視して判断する風向、風力を頼りに長距離を飛ぶ三角航法、無線でモールス信号を受信する訓練などが行なわれた。高高度飛行の訓練も実施され、耐寒グリスを塗った20ミリ機銃による、高度8000メートルでの射撃訓練も行われた。一航戦では、18機対18機の大規模な空戦訓練も実施された。二航戦は9機対9機、五航戦は3機対3機までしかできなかったという。 11月に入ると、志布志湾に機動部隊の6隻の空母と飛行機が集められ、11月3日、南雲中将より機動部隊の各艦長にハワイ作戦実施が伝達された。その日の夜半、「特別集合訓練」が発動され、翌4日から3日間にわたって、全機全力をもって、佐伯湾を真珠湾に見立てた攻撃訓練が、作戦に定められた通りの手順で行なわれた。 〈十一月四日 「ハワイ」攻撃ヲ想定 第一次攻撃隊 〇七〇〇(注:午前7時)発進、第二次攻撃隊〇八三〇発進。十一月五日 第一次〇六〇〇、第二次〇七三〇。十一月六日〇五〇〇ヨリ訓練開始〉 と、進藤はメモに書き残している。11月6日には、戦闘機隊が半数ずつ、攻撃隊と邀撃(ようげき)隊の二手にわかれ、攻撃隊はいかに敵戦闘機の邀撃を排除して攻撃を成功させるか、邀撃隊はいかに攻撃隊を撃退するか、という訓練も行なわれた。激しい訓練で、攻撃隊の九九式艦上爆撃機のなかには不時着する機も出た。 特別集合訓練が終了すると、赤城、蒼龍は横須賀、加賀、飛龍は佐世保、翔鶴、瑞鶴は呉と、それぞれの母港に入って準備を行い、飛行機隊はふたたび、陸上基地に戻って訓練を続けた。このとき、戦闘機が洋上で単機になってしまった場合に備えて、無線帰投方位測定機(クルシー)を使っての帰投訓練が熊本放送局の電波を利用して実施されている。 覚悟を決めた日 第二次発進部隊制空隊(零戦)指揮官・進藤三郎大尉の命令書(軍機) 11月中旬には、各母艦は飛行機隊を収容し、可燃物、私物の陸揚げや兵器弾薬、食糧の最後の積み込みを終え、佐伯湾に集結した。 赤城が佐伯湾を出たのは、11月18日のことである。行動を隠匿するため、出航と同時に、各艦は厳重な無線封鎖を実施した。 空母6隻を主力とする機動部隊は北へ向かい、千島列島の択捉島(えとろふとう)単冠湾(ひとかっぷわん)に集結した。湾の西に見える単冠山は、すでに裾まで雪に覆われていた。11月24日、6隻の空母の全搭乗員が赤城に集められ、真珠湾の全景模型を前に、米軍の状況説明と作戦の打ち合わせが行われた。機動部隊の行動についてはもちろん、攻撃隊の編成や各隊ごとの無線周波数など、詳細な作戦計画が、すでにでき上がっていた。進藤が保管していた機密書類はこの日の日付から始まっている。 11月26日、機動部隊は単冠湾を抜錨、各艦、単冠山に向かって副砲、高角砲の試射を行った。凍てつく空気に、砲声が轟いた。艦隊はそのまま針路を東にとった。 「自信を持って戦いに臨める。しかし、今度こそは生きて帰れないだろうな」 と、進藤は、遠ざかってゆく雪の単冠山を見ながら、しばし物思いにふけった。 時化模様の航海が続いた。護衛の戦艦、巡洋艦、駆逐艦、補給船、潜水艦など、総勢31隻もの艦隊を、隠密裏にハワイ北方までたどり着かせなければならない赤城艦上の機動部隊司令部は緊張の連続だった。 12月1日、機動部隊は日付変更線を越えた。機動部隊は日本時間で行動するので、時差で時間感覚がずれてくる。この日の御前会議で、日本は英米との開戦を決定する。 12月2日、「新高山ノボレ 一二〇八」 という暗号電報が、聯合艦隊司令部より届いた。これは、「X日(開戦日)を12月8日とす」という意味である。開戦は、12月8日午前零時と決まった。ただし、日米の外交交渉次第では、まだ作戦が中止になることもあり得る。しかし反転命令は出ず、矢はついに弦を放れた。 12月8日午前1時半(日本時間)。第一次発進部隊が次々と6隻の空母を発艦した。 第一次発進部隊は、零戦43機、九九艦爆51機、九七艦攻89機(���ち雷撃隊40機、水平爆撃隊49機)、計183機で、総指揮官は淵田美津雄中佐である。第一次攻撃では、雷撃隊が二列に並んで停泊している米戦艦の外側の艦を攻撃、水平爆撃隊が上空より内側の艦を爆撃する。さらに艦爆隊は飛行場施設を爆撃することになっていた。 そこらじゅうで火柱が 九九式艦上爆撃機。急降下爆撃を行う 機動部隊の各母艦では、第一次の発艦後、すぐに第二次発進部隊の準備が始められた。 第二次は零戦36機、九九艦爆78機、九七艦攻(水平爆撃のみ)54機、計168機が発艦し、うち零戦1機と艦爆2機が故障で引き返している。こんどは、艦爆が第一次で撃ちもらした敵艦と飛行場を狙い、艦攻が敵飛行場を水平爆撃することになっていた。 赤城から発艦するのは、零戦9機と九九艦爆18機。2時13分、進藤の搭乗する零戦、A1(本来はローマ数字だが、機種依存文字のためアラビア数字で表記)‐102号機は、その先頭を切って発艦した。第二次発進部隊の総指揮官は瑞鶴艦攻隊の嶋崎重和少佐、進藤は、制空隊(零戦隊)全体の指揮官を務める。 「第一次の発進を見送ったときにはさすがに興奮しましたが、いざ自分が発進する段になると平常心に戻りました。真珠湾に向け進撃中、クルシーのスイッチを入れたら、ホノルル放送が聞こえてきた。陽気な音楽が流れていたのが突然止まって早口の英語でワイワイ言い出したから、これは第一次の連中やってるな、と奇襲成功を確信しました」 第一次に遅れること約1時間、真珠湾上空に差しかかると、湾内はすでに爆煙に覆われ、ものすごい火柱が上がっていた。心配した敵戦闘機の姿も見えない。空戦がなければ地上銃撃が零戦隊の主任務になる。進藤はバンクを振って(機体を左右に傾ける合図で)各隊ごとに散開し、それぞれの目標に向かうことを命じた。 「艦攻の水平爆撃が終わるのを待って、私は赤城の零戦9機を率いてヒッカム飛行場に銃撃に入りました。しかし、敵の対空砲火はものすごかったですね。飛行場は黒煙に覆われていましたが、風上に数機のB-17が確認でき、それを銃撃しました。高度を下げると、きな臭いにおいが鼻をつき、あまりの煙に戦果の確認も困難なほどでした。それで、銃撃を二撃で切り上げて、いったん上昇したんですが」 頭によぎった最悪のシナリオ 開戦を告げる昭和16年12月9日の新聞紙面 銃撃を続行しようにも、煙で目標が視認できず、味方同士の空中衝突の危険も懸念された。進藤は、あらかじめ最終的な戦果確認を命じられていたので、高度を1000メートル以下にまで下げ、単機でふたたび真珠湾上空に戻った。 「立ちのぼる黒煙の間から、上甲板まで海中に没したり、横転して赤腹を見せている敵艦が見えますが、海が浅いので、沈没したかどうかまでは判断できないもののほうが多い。それでも、噴き上がる炎や爆煙、次々に起こる誘爆のすさまじさを見れば、完膚なきまでにやっつけたことはまちがいなさそうだと思いました。胸がすくような喜びがふつふつと湧いてくる。 しかしそれと同時に、ここで枕を蹴飛ばしたのはいいが、目を覚ましたアメリカが、このまま黙って降参するわけがない、という思いも胸中をよぎります。私は昭和8年、少尉候補生のときの遠洋航海でアメリカに行き、そのケタ違いの国力と豊かさをまのあたりにしていますから、タダで済むはずがないことは容易に想像できる。これだけ派手に攻撃を仕掛けたら、もはや引き返すことはできまい。戦争は行くところまで行くだろう、そうなれば日本は…………負けることになるかもしれないと、このときふと考えました」 空襲を終えた攻撃隊、制空隊は、次々と母艦に帰投し、各指揮官が発着艦指揮所の前に搭乗員を集め、戦果を集計した。進藤は、赤城の艦爆隊と合流して帰還した。南雲中将が、わざわざ艦橋から飛行甲板上に下りてきて、「ご苦労だった」と進藤の手を握った。 ほどなく、最後まで真珠湾上空にとどまっていた総指揮官・淵田中佐の九七艦攻が帰艦する。大戦果の報に、艦内は沸き立った。しかし日本側にとって残念なことに、いるはずの敵空母は真珠湾に在泊していなかった。 艦上では、第三次発進部隊の準備が進められている。蒼龍の二航戦司令官・山口多聞少将からは、蒼龍、飛龍の発艦準備が完了したとの信号が送られてきた。しかし、南雲中将は、第三次発進部隊の発艦をとりやめ、日本への帰投針路をとることを命じた。 激しい戦闘の代償 日本機の空襲を受けるハワイ・真珠湾の米艦隊 「当然もう一度出撃するつもりで、戦闘配食のぼた餅を食いながら準備をしていましたが、中止になったと聞いて、正直ホッとしました。詰めが甘いな、とは思いましたが…………」 体調不良を押してここまできたが、ようやく任務が果たせた。緊張の糸が切れた進藤は、そのまま士官室の祝宴にも出ず、私室で寝込んでしまった。 真珠湾攻撃で日本側は、米戦艦4隻と標的艦1隻を撃沈したのをはじめ、戦艦4隻、その他13隻に大きな損害を与え、飛行機231機を撃墜、あるいは撃破するなどの戦果を挙げた。資料によって異なるが、米側の死者・行方不明者は2402名、負傷者1382名を数えた。いっぽう、日本側の損失は、飛行機29機(第一次9機、第二次20機。うち零戦9機、九九艦爆15機、九七艦攻5機)と特殊潜航艇5隻で、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名。別に、12月9日、上空哨戒の零戦1機が着艦に失敗、搭乗員1名死亡)。米軍の激しい対空砲火を浴びて、要修理の飛行機は100機あまりにのぼった。 ――ちなみに、真珠湾攻撃当時、連合艦隊司令長官・山本五十六大将57歳、機動部隊指揮官・南雲忠一中将54歳、航空参謀・源田実中佐37歳、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐39歳、第二次発進部隊指揮官・島崎重和少佐33歳、雷撃隊指揮官・村田重治少佐32歳、第一次制空隊指揮官・板谷茂少佐32歳、第二次制空隊指揮官・進藤三郎大尉30歳、加賀戦闘機分隊長・志賀淑雄大尉27歳、そして昭和天皇40歳だった。 真珠湾攻撃の帰途、二航戦の蒼龍、飛龍は、ウェーク島攻略作戦に参加するため、本隊を離れた。残る赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴は、12月23日から24日にかけ瀬戸内海・柱島の泊地に投錨する。各艦の飛行機隊は、零戦隊は佐伯基地経由で岩国基地へ、艦爆、艦攻は鹿屋基地経由で宇佐基地へと向かい、ここでしばしの休養が与えられた。 進藤は、12月25日、岩国基地から呉海軍病院に直行し、軍医の診察を受けた。診断の結果は、「航空神経症兼『カタール性』黄疸」、二週間の加療が必要とのことで、そのまま入院することになった。十二月三十日付で赤城分隊長の職を解かれ、さしあたって任務のない「呉鎮守府附」の辞令が出る。この日から広島の生家での転地療養が認められ、進藤は、ひさびさに正月を両親と迎えることができた。 再び始まる苦しい戦い 昭和17年11月、進藤大尉がラバウルに向け出発直前、東京駅にて 「海鷲・進藤大尉」の帰郷は誰からともなく近所に伝わり、毎日のように真珠湾の話をねだりに客がやってくる。子供たちは、道で進藤の姿を認めると、憧憬のまなざしで、直立不動になって挙手の敬礼をした。 真珠湾攻撃から帰った進藤は、療養生活を送ること2ヵ月半、ようやく黄疸の症状もおさまり、昭和17(1942)年2月12日、〈大分海軍航空隊司令ノ命ヲ受ケ服務スベシ〉の辞令を受けて大分空に着任。四月一日、戦闘機搭乗員の訓練部隊として徳島海軍航空隊が新たに創設されると、その飛行隊長兼教官に補せられた。 最前線・ニューブリテン島ラバウルで作戦中の第五八二海軍航空隊飛行隊長兼分隊長への転勤辞令が出たのは、昭和17年11月8日のことである。処分しそびれていた真珠湾攻撃の軍機書類の保管を元海軍機関大佐の父に託してラバウルに向かう。五八二空に着任したとき、進藤は新たに部下となる隊員たちに、 「海軍戦闘機隊のモットーは編隊協同空戦だ。搭乗員が戦果を挙げる陰には、整備員や兵器員といった裏方の努力が不可欠である。けっして一人の手柄を立てようなどとは思わず、より長く、より強く、一致団結して戦い抜くように」 と訓示をした。そして、進藤の長く苦しい戦いがここから始まる。
1941年12月8日の「真珠湾攻撃」に「零戦35機」を率いて参加した当事者の「貴重な証言」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
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kaoriof · 10 months ago
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実験するみたいに目をぎゅうと細めてコンタクトの洗浄液をケースに流し込む。とびきり良い映画を観たあとは、なんかこう、ぜんぶ立体に聴こえて、ぜんぶ鮮明にみえる。あまりに見えすぎている、という感じ。
思い立って新宿から日比谷までレイトショーを観に1時間半かけて歩く。気まぐれに入った喫茶店があまりにタバコ臭かった。「あのヘッドフォンの人かっこいいね」と言う友達に、「そう?カッコつけすぎじゃない?」と答える。そこからずっと歩いて、赤信号で立ち止まって、たまに思い切り走って笑ったりした。夜に蝶々ってそういえば見たことがないなとか思いながら、脳みそのずっと奥のほうではあなたのことばかり考えていた。疲れてしまった。自分を良いように魅せるとか、価値があるように振る舞うとか。己が太陽のようにまっさらで溌剌としているように感じられる日もあれば、ただただ静かに降り注ぐ小雨に涙が出るほど心の糸が張り詰めている日もあるし、ほんとうに疲れた。もう多分彼からの連絡は来ないけど、別にそれでいい。「何も無い花こそ本当、花だけ本当」「嘘じゃないから」という歌詞について考える。生きているだけで汚れるというのは本当かもしれない。ぜんぶ疲れたから草むらに裸で寝転んで、湿気った土に頬をぴたりとくっつけたい。パスタを素手で不細工に食べたいし、名前も知らない誰かとキスをして、産まれたての赤ん坊のように泣き出したい。もう誰もわたしの何も知らなくて良いとさえ思う。わたしは家族と友達がだいすきで、雨上がりの匂いや木の葉の揺れに感動できる感性を大切にしていて、この世界をとびきり愛している(そして世界もまた愛を返してくれる)そこらへんのただの女の子だということ。(22歳はもう女の子じゃないかもしれないけれど“おんなのこ”という響きがすき)どんなに急いでいてもコンビニのレジではバーコード面を表にして商品を差し出すし、エレベーターではみんなが降りるまで開閉ボタンを押す。荷物を抱えながら階段を登る人に手伝いましょうかと声をかけようか悩んで、通り過ぎて、でもまた戻って頑張って声をかける。一度も会ったことがない人でもそれが大切な人の友人で病に伏しているのだとしたら一番美しい花を買って見舞いにいく。自分の内側にいる幼くてあどけない、やさしいわたしがいつだってその手を握り返してくれる。100年後には何もかも閉じてしまう物語だから、せめて今だけはわがままでいたい。でも傲慢なのはいやだ。全部欲しい。一つ残らず見たい。叶うなら恐竜がどんな姿見で空を飛ぶのかみたかった。光を反射する鱗肌と、重たいその足音が大地に響き渡るのを聞きたかった。お母さんがまだわたしと同い年だった頃、彼女と会って話をしてみたかった。100の異なる人生を同時進行で生きてみたい。豪雨の中でワルツを踊りたい。自分の子どもを産みたい。ずっと一緒にいたいと思えるような人と出逢いたいし、ほんとはその運命を最後まで守り切れるほど成熟した女性でありたかった。
0時を少し過ぎて映画が終わると、終電が近いのか、エンドロールを見届けないまま人がぞろぞろ帰っていった。スクリーンライトに照らされて、綿毛みたいに細い埃が頭上で舞っているのを目で追う。降り注ぐ奇跡と、約束された明日。また「花だけ本当」という歌詞について考える。わたしも花の香りの名前を名付けてもらったのに、「本当」を生きてはゆけない哀しさ。(わたし、ほんとうはこんな性格じゃないのにな)と思う行動ばかりとってしまって、いつも後悔している気がする。でももういい、全部。どうでもいい。人がいなくなって不気味な白さを放つ駅で、なぜか笑みが、走り出した足が止まらなかった。「それ、罪滅ぼし?」 「お前みたいなやつの書いた作品が世に出回るなんて害でしかないから」 映画の台詞がしゃぼん玉みたいに脳裏を過っては消える。月9のドラマの主題歌を聴く。これはだれの人生?大好きな音楽を聴くと、いろいろな景色を想像する。割れるガラス、草原、海、笑い声、蝶々、風、カーテン、白、眩しい光、流れ星、男の子、裸足。やっぱり幸せかも、と思った。はやく戦争が終わりますように。もっと書きたいけどここまで。明日は図書館へ行こう。
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