#漆原 半蔵
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五月にみたもの覚え書き
世がゴールデンウィークだからといって別に休みでもないのは毎年のことなのだけれども、なんもせんのもなんなのでなにかしらやることにしている。今年は東洋美術史をざっくり勉強する、と決めて、4月の末に武蔵野美大出版局の『東洋美術史』を買ってきた。ゴールデンウィーク中に通読することを目標にしていたものの、すっとろくて半分もいかず、五月も終わろうかという頃にようやっと読み終わった。ついでなのでずっと積んでいた美術出版社の『東洋美術史』も併読して、こちらも完走した。
で、先日、用があって神戸に帰省した。ついでなので奈良に寄ったりして、あれこれ見てきた。その覚え書き。
大和文華館にはずっと行きたいと思っていたのだけれどもなかなか機会がなく、あっても逃��、行きたいな行きたいなと思っているうちに十年くらい経っていた。行けてうれしい。老若男女がバランスよくおり、そのどの層も、出されているものを信頼してじっくり見ているかんじがあってよかった。健全な集中力が展示室内をひたひたにしている。
静かな衝撃だったのが北魏の石造二仏並坐像で、字の通り、仏と仏が並んで坐っている。こういう形式の仏像をはじめて見た。ほんのわずかに顔がお互いの方に傾いている。小ささも相俟って、閉じた、親密なかんじがする。とてもいい。
青花双魚文大皿。二匹の魚のまわりに水草を二種描いている。一種は金魚藻みたいな形のやつで、もう一種は一枚一枚の葉の長いもの。前者が星を散らしたみたいな効果を出しているのに対し、後者はストロークの長い有機的な曲線が水の流れを感じさせるような効果を出していて、この取り合わせの妙がいい。外側は陸の植物複数種が切れ目なくぐるりと囲む(四季の花を組み合わせることで永続性を象徴させているらしい)。魚は、描かれている見込みの面積からすると小さめなのだけれども、背びれをグッと立てて全開にし、胸を張っるようにして頭のほうを起こし、口をギュッと結んで、上げた顎ごしに下を睨みつけるような、気合の入った顔をしている。でも小さい。小さい体に大きいガッツというかんじがして、いい。真横から描かれているが、胸びれも腹びれも左右両方が見えるようにズラしてあり、それが動きと若干の立体感を感じさせて、イキイキして見える。「魚」は中国語の発音がと「余」と音が同じなので縁起がいい、ということらしいけれども、たとえ縁起が最悪だったとしてもぜひ見たい、いい絵。
『大和文華館所蔵品目録』として矢代幸雄直筆の書類が展示されていた。使われている紙が大和文華館仕様の原稿用紙なのだけれど、これがとても素晴らしくて、上部に広くスペースが設けられているので図なり註なりをたっぷり書き(描き)込める。一枚あたりがA5くらいの縦長で、ふつうの原稿用紙のハーフサイズ(だから200字?)になっている。もしやミュージアムショップに売ってやしないかと覗いてみたけども、なかった。売るべきだと思う。売ってください。
国宝展開催中の奈良国博は噂に違わぬ大混雑。奈良国博が、というより奈良がもう全体的に大混雑で、鹿にしても飽食状���なんかして人間に対する関心がやや薄く、煎餅差し出されても「まあそんなに言うんやったらもらってやってもいい」くらいの反応でしかない。しんどいので、見たかったやつだけ���っくり見た。
百済観音は細身な印象が強いが、腕は案外太い。肩の丸みがそのまま腕の太さになって、そのまま肘までおりるかんじ。本体のS字のシルエットに共振するように、装飾の曲線がつく(耳飾りと袖)。全身のシルエットそれ自体が蝋燭の灯のようにも見える。
宝菩提院願徳寺菩薩半跏像。ウナギの群れのごときぐりゅんぐりゅんの衣文がすごい。衣自体にはほとんど嵩がなくて、濡れた布が体にまとわりついているようでもある。滝を描いた山水画をなんとなく彷彿とさせる。菩薩の体を源として、なにかが激しく流れ落ちているかんじがする。この作品を取り囲む人だかりからおじさまがひとり、「ピカイチやな……」と呟きながら出てきた。ほんまやね。
中宮寺菩薩半跏像。この一軀のために一室設けられている。白い空間の真ん中に、黒い仏像が置かれている。シルエットの簡潔さが際立つ。パッと見は安らいだ表情のようにも思えるのだが、単眼鏡で眺めてみると小鼻の上あたりの肉にやや緊張したかんじがあり、差し迫った表情のようでもある。左目の下に筋状に漆の乱れがあるようで、これが涙の跡ようにも見える(同展出品の法隆寺地蔵菩薩立像の左目下にも筋みたいなものを見つけたけどなんなんだろう)。肘の位置が左右でけっこう違うが、肩は水平で、前後にもずれない。後ろ姿がいい(今回の展示では360°どこからでも見ることができる。一生分見とくつもりで、長いこと真後ろに立ってボーっと眺めていた)。肩甲骨などの凹凸は彫り出されず、中央の溝だけが一本、すばらしい微妙さで彫られていて、背中のなめらかな曲面の連なりをつないでいる。やや前側にかがみこむような姿勢なので背中がわずかに丸まっていて、そのことによって高い集中力を感じさせる。尻は体重で潰れることなく、高さを保ったまま小ぶりに締まる。それで腰の位置が高く見え、上半身に若干浮遊感が生まれているように思う。
神戸にいる間に空いた時間で白鶴美術館にも行ってきた。ここは春季と秋季だけ開館していて、対する私は夏と年末年始くらいしか帰省しないので、行きたいな行きたいなと思っているうちに十年くらい経っていた。行けてうれしい。阪急御影から山側に十数分くらい歩いたところにある。
おもに本館一階の展示室の古代中国の青銅器をじっくりみた。図版で見るといかにもいかめしいかんじがあって、近寄りがたく思っていたのだが、実物を見ると案外まろやかな印象を受ける。表面がなめらかな部分なんかは翡翠みたいに見える。単眼鏡で細部を観察するのがとても楽しい。饕餮夔龍文方卣は特にのびのびとしたかんじがあって、把手のつけ根のひょうきんな顔(キリンのツノみたいなのが生えている。顎がしゃくれていて、ちょっと口角が上がって見える)とか、フタの持ち手の犬の顔がついた鳥みたいな造形とか、見ていて飽きない。象頭兕觥は字の通り象の頭が象られていて、おもしろい。
西周時代の車馬具のなかに「節約」という名称のパーツがあっておもしろかった。綱紐をつなげるのに使う、K字状のもの。
金象嵌渦雲文敦は足とフタのついた球形の青銅器で、器形がまずたいへん愛おしい。三本足(動物の足のような形。こどもの虎のみたいなかんじ。かわいい)に二つの把手(虎?の顔)がついていて、顔に正面から向きあうようにして見ると足の一方が近く、もう一方が離れて見えることになり、そこにリズムが生まれている。なおフタに��環が三つついていて、今回は足の位置に揃えて置かれていたけれども、ズラしてみるとまた違うリズムが生まれそうで、妄想していると楽しい。この環というのがやや外向きに開くように配置されていて、その点でも大らかさというか開放感みたいなものが感じられ、好きにさせられてしまう。
二階は漢から唐ぐらいまでの金工作品が出ていた。
鍍金花鳥文銀製八曲長杯は八辨の花形を横に引き伸ばしたような変わった形をした器で、杯というには浅いようにも思えるけれども、皿というには深さがある。外側側面は、銀色の地の上に金色の植物と鳥の文様がたっぷり詰めこまれている。他にも唐代の小品がいくつも出ていたけれども、いずれもたいそう趣味がよくて、なんという時代であろうかと思った。自分が遣唐使だったらたぶん、船に積む品物が選べなくて泣いちゃう。
二階の展示室の端っこの小さい区画(昔は貴賓室だったらしい)が次の展示の予告のコーナーということになっていて、出品予定の南宋と明のやきものが出ていた。次は陶磁器の名品展的なことをやるらしい。自前のコレクションであれこれ展示を組み立てて回していけるからこそできることなんだろうなと思う。賢い。
新館ではコーカサスの絨毯をみた。閉館間際であんまりゆっくりはできなかったのだけれども、眼福だった。V字��の鳥がたくさん織り出されたカザック絨毯が特によかった。絨毯の真ん中の淡い緑色の菱形の区画に、クリーム色、黄土色、朱色、こげ茶色の鳥がわんさかいる。絨毯の縁の��の部分にもちらほらいる。
帰りは住吉川沿いを少し歩いた。それからどういう道を通ったのかあんまり覚えてないのだけど、途中に時間が止まったような小さい公園を見つけた。一度は通りすぎたものの、やっぱり気になったので引き返し、写真を撮った。近くのどこかの部屋からピアノの音が聞こえていて、同じフレーズがつたない指で繰り返し練習されているようだった。

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hiya I know that most of my old followers probably don't use this site either, but on the off chance that one of you checks this page sometimes and would like to reconnect the above link directs to my current twitter.
if at any point I change my name, that link will lead to a redirect.
as much as I enjoyed this site back in 2017 and earlier, I don't really see myself returning; at least not any time soon. things have changed a lot (myself included) and I'm just not as interested in it anymore.
so tl;dr - if any of my old friends would like to reconnect I'll always be found through my twitter with open DMs ♥ thank you all for everything
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年末年始は気をつけて https://ameblo.jp/kurushige/entry-12831208362.html
あと、詐欺もね。
https://dawaan.com/instagram-bo-fraud/
https://youtube.com/playlist?list=PLeXkmsAZiHBuQgYgcX_INTkdxaS0E-0M0&feature=shared
いよいよ明日はマンスリーベストナインアワード発表なので昨日にもって投票終了させて頂きます。
〔因みに暫定1位は2023.3ですが、検索語句🥇が低かったから決定させていただきます。〕
伝言したところでお知らせがあります。明後日から
マンスリーベストナイン2024.1は
掲載する🐇2023.12.24から🐉2024.1.27の候補⇨🥇になったらマンスリーベストナインアワード2024の候補となります。
皆さんも既読かリアクション👍を押すように。
ニュース
#山川穂高 君は福岡#ホークス 入り!〔来年からギータとのチームメイト仲間入り〕
ハワイ大満喫したアレゴーズオン岡田#阪神 は誠志郎君達との合流して
いよいよ練習再開。〔帰ってくる前に#オリックス から移籍した漆原君は入団したり、四字熟語に選出や書道ガールに感謝
年間オリコンランキング
来年4月からSTARTO社を在籍する#kingandprince 〔四冠〕と#snowman 〔首位〕
#堺雅人 さんがドラマ#半沢直樹 に使われていた腕時計の会社はドラマ化に。主演は#西島秀俊 さん〔はぐれ刑事純情派5からデビューして32年〕
ズームがデカくなっても🙇
#Jリーグ の期間は北中米ワールドカップがある為、26年の秋から翌年の春までに決まった。
#阿部サダヲ さんのドラマで
主題歌担当は#creepynuts に。
and more....
次回の抜き打ちチェックは
〔SNSのパトロール・年賀はがき作業がある為〕
来年1月上旬まで延期させていただきます。
更新クリア条件
2023.11.3から2024.1の期間中まで
〔失格は〜2023.11.2〕
都合があれば変更する場合にもございます
インスタの調子が悪い〔#インスタ不具合 の〕時は
アップデート〔バージョン〕か再起動しましょう
出来なかったら
AndroidからiPhoneに変えましょう
〔〕ヒント有り
#佐々木蔵之介 💙🐎
西島秀俊 🖤🍩
阿部サダヲ 🧡⚾️
堺雅人 ❤️🦌
#戸次重幸 💜🤖
#片岡愛之助 💖🍓
#kinkikids 💙🎸❤️✝️
もし、よかったらYouTube チャンネルを登録してね。
また見たい方には👍
2度と見たくない方には👎
を押してください。
知らない人はフォローしないように。
皆様、ご視聴をいただきありがとうございます。
今月中で
Amebablog・Instagram・tiktok・youtubeを続きますのでどうぞお付き合いください。
NGワード
ハッシュタグの被害が出てるから代わりにつけておくね。
お願いだから自分のアカウントで#インスタ不具合 発言をやめてほしいです。必ず、アップデート か再起動・再ログイン をお願いいたします。
※#炎上 〔=反発,扇動行為 〕,#誹謗中傷 〔漏えい〕 、露出〔#セックス依存症 ・LBGT 〕、#詐欺 をしないでください。
ご協力をお願いします。
最新ニュースを見て忘れないで
ブロック追加
yajingzhengmei3
現在は
🇺🇦・🇹🇷南部・🇺🇸マウイ島・🇲🇦・🇵🇸支援や #smileup〔旧創業者の会社〕の被害を受けた元タレント達への補償〕の救援を行っています。
皆様へのクリエイター達に感謝してあげています。
あと、threads はInstagramと一緒に連携を。
https://www.threads.net/@sinoeto
神藤彩佳🐼💙
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2013.11.30
model/HIKARU、アブラムシー、ぴの太郎
#はたらく魔王さま#hataraku maou-sama!#真奥 貞夫#芦屋 四郎#漆原 半蔵#maou sadao#sadao maou#ashiya shiro#shiroashiya#hanzo urushihara#urushihara hanzo#cos#コスプレ#ぴの太郎コスプレ2013秋
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Some images that I found out there
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Kanazawa-Kuruwa

郭の中の金沢、辺京の小宇宙
郭_この辺京の遊郭には、金沢の美しさと醜さがくるわれている。

郭は...
北陸の美学の結晶であった。 卯辰山へまっすぐ伸びる石畳、黒光るボッテリとした能登瓦、弁柄色の木虫籠(きむすこ、細い桟の出格子)。九谷の襖の手掛けや輪島塗りの調度品、べっ甲のかんざしや色とりどりの菓子や酒、夜遅くまで鳴り響く唄、笛、鼓の音色。
同時に人身売買の巣窟でもあった。 極めて幼い頃に身売りされた少女は、楼主と養子縁組を結び、自らにかけられた身代金を返すまで拘束を受け、芸妓・娼妓として働いた。町を彩った女のいくらかは楼主となった。
今回は、金沢の光であり影である茶屋街について、制度・人びと・建物・遊び・性の観点から明治・大正の茶屋を前提にご紹介する。

(参照:『金府大絵図』金沢市立玉川図書館所蔵)
明治に生まれた主計町を除けば、ひがし・にし・きた・愛宕の郭は2つの大きな川、犀川と浅野川の金沢城から見て外側に位置している。(これは、江戸の吉原が常に皇居から見て川向いに建てられて、都市の外周部に位置していたこと同様の理由で、穢の場所を都市の外側に配置するためであろう。)
その中でも、金沢人が憧れと嫉妬を込めて名付けた東の廓(言うまでもなく京都の祇園・東山にかけている)であるひがし茶屋街は、北陸の最も代表的な茶屋街であった。

(参照:『金府町絵図』金沢市立玉川図書館近世資料館所蔵)
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A:郭の制度

金沢の花街の仕組みは京都と同様にお茶屋が客の要望に応じて、芸妓を置屋か ら呼ぶ方式である。芸妓は置屋に所属し、お茶屋から依頼があれば、料亭やホテルなど地域外へも出張することが可能なのも、京都と同様の取引制度である。 さらに金沢の三茶屋街の特色として、お茶屋と置屋の兼業が挙げられる。つまり、お茶屋は場所を提供するのだが、同時に芸妓を抱え、他のお茶屋に派遣することもでき、食事は飲食店から取り寄せることとなる。
お茶屋には上茶屋、中茶屋、下茶屋の3つがあり、上茶屋は5等級に格付けされていた芸者の中でも、一等級のものしか置かなかった。上茶屋は農家の出や他国の婦女は抱えたがらない気風があり、それを誇りにしていた。加賀血筋を大事にし、みっちり芸と作法を仕込むとのこと。明治時代には能登半島をはじめ、日本全国から身売りされた少女が芸妓として所属しており、朝鮮出身の芸妓の記録もある。
郭では「旦那」は芸妓の経済的な保護者であり、後援者であった。旦那は月々お手当を置屋の女将に渡すかわりに、贔屓の芸者を自分一人のものにすることができた。女将は抱え芸者の旦那から一ヶ月の手当をもらうこと大きな収入源であった。ある置屋の抱え芸者が、別の置屋の客を旦那としている場合、旦那はその置屋の女将に毎月の斡旋料を支払うこととなっていた。
お茶屋では客は一見の客は挙げない。理由は、遊興費が後でもらえるか不安なことと、もう一つは酒癖が悪い客を案じてであった。たちの悪い客の中には、火鉢の中に小便をしたり、掛け軸に盆をぶつけたり、美人画を盗む客もいたという。二度目から置屋は電話で芸者の予約を受付け、時間の打ち合わせをする。客は遊興費を何ヶ月に一度、現金で女将に直接手渡しでまとめて払っていた。

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B:郭のひとびと

お茶屋に以下の人々が住み込んでいた。どこの家もかなりの大所帯で、大抵は十数人で寝ていた。
①女将:
多くは元芸者で、お茶屋の経営をするとともに芸妓と養子縁組を組み芸妓を育てるとともに労働者として管理する。
②芸妓、娼妓:
女将と養子縁組を結び、芸者として客に奉仕する。住み込みと通いがあったが、殆どが住み込みで、通いは芸者でも年季明けの終わった歳高の人たちだけだった。年季明けや旦那がお金を支払った場合は妾として茶屋街の周辺に暮らしていた。
③たあぼ:
行儀見習いと諸芸習得の傍ら、日中は走り使いの雑用、夕方からは芸者衆の座敷勤めな三味線をもって供をなし、供先きの置き屋とか料亭では家族用玄関の片隅で芸者衆の座敷終わりを待つ。12歳になると振り袖芸者と呼ばれ見習いの芸者とみなされ、さらに15,6歳になると留め袖芸者と呼ばれ水揚げが行われた。このころには体だけではなく、三味線・踊り包などの芸も一人前の扱いを受けた。
④ばんば:
年寄りが多く、飯炊賄いが主な仕事。
⑤べえべ:
10-40代、女中、下働きの女で賄い全般、掃除洗濯、女将の身の回りの世話をした。やりてばばあと呼ばれるべえべは客から以下にして金を使わ���るか、寝床での振る舞いを芸妓に教え込んだとのこと。
男衆:
登楼のの客引き、芸者の世話役として付き添い、用心棒兼見張り役をする。
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C:郭の建物

(参照:金沢「東の郭」の復元 平井聖・大林組)
茶屋は2つの大門を持ち、文字通り塀によってくるわれていた。門の外には妾宅が並んでいた。2本の大通りは卯辰山に向かい、卯辰山がアイストップの役割を果たしている。かつては壱番町へは小川を越えてアクセスするようになっていた。

(参照:『浅野川茶屋町創立之図』文政3年(1820年) 石川県立図書館蔵 「旧東のくるわ」伝統的建造物保存地区保存対策事業報告書 1975年 金沢市教育委員会)
建物の外観は、1階は出格子となっており、木虫籠と呼ばれる細い縦格子がはめてある。縦桟は断面が台形になっており、外から中が見えにくい仕掛けとなっている。2階は今では小窓付きの雨戸になっており、全て開け放てる仕組みになっている。祭りの際には大通りにステージが設けられ、開け放した2階の座敷から芸者の踊りを見下ろしていたのだという。現在では失われているが、かつては木部分に紅殻色の塗装が施されており、赤い色彩と卯辰山の緑が生えたことだろう。また、屋根はかつて石置き板葺きであったが、今では釉薬を全面に施した北陸特有の黒く厚い瓦が葺かれている。

平面は時代を経て大幅に変更されており、機能上の要求から下記図面の小さい方の平面図(明治以降)へと変更されていったようだ。
明治以降の平面図を前提に話すと、まず玄関を入ると黒漆塗りの大きな階段があり、ハイサイドライトから薄光が差し込んでいる。階段の横は長火鉢が置かれた茶の間であり、女将が座って一切を指示していた。奥座敷と茶の間は主に女将が使用する部屋で、奥座敷は仏間、寝室として使用していた。
みせの間は支度部屋で、芸妓が詰めていたから、街路には芸妓の声がよく聞こえていたことだろう

2階は大きく表(前2階)・中・奥(広間)の3室に分けられ、表と奥を座敷とし、中はロビーのように使用されていた。間口が大きい場合は表と奥は2室に分けられ、4畳の部屋を芸妓が踊り演奏するステージのように使用していた。2階の更に奥には廊下や小階段を隔てて「離れ」があり、数寄屋風のしつらえとなっている。水揚げや日中の娼妓の使用にはこの部屋は人目につかないので都合が良かった。
3階はどの家にもあるとは限らないが、座敷を1間もつ場合がある。

(参照:金沢「東の郭」の復元 平井聖・大林組)
座敷の土壁は紅殻色が用いられる場合が多く、柱は紅殻と灰をあわせて塗装されている。金沢では紅殻色や群青色が来客の場所に使用されることが多いようである。

(参照:https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/spot/detail_10094.html)

(参照:https://www.pinterest.de/pin/523332419194794021/)
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D:廓遊び

(参照:金沢「東の郭」の復元 平井聖・大林組)
宴会は夜だけではなく、遊びなれた客は深更にきて朝帰りということも珍しくなかったし、庄屋の番頭などが小僧の手前もあって夜抜け出せないために早朝に密かに遊びに来ることもあったし、昼遊びの客もあった。これらの時間の揚げ代は夜よりもむしろ高かったとのことである。
客としては、加賀友禅などの伝統工芸の職人の親方や商人、旅の客などがいた。
廓の花代の1単位は45分だった。1時間を1番木と言って、拍子木が隣の控えの間で打たれた。合図の1番木で、芸者は時間切れを伝えて帰り支度をはじめ、そこから客を送り出すまでを15分と見ていたようだ。これは線香1本が燃えるまでに40分かかったことからきていると聞いた。
婚礼の祝宴が夜通し続いたりすると、芸者たちは三日三晩睡眠を取ることもできないこともあった。
芸妓は昼に芸を磨いた。自由を厳しく制限された分、芸に自らの存在価値をかけたからなのであるが、当時の売れっ子は芸を磨くだけの時間的な余裕がなかった。遊客は気に入った芸妓がいると���い回し、昼夜となく名指しをしたため、彼女らは歌や踊りの稽古などしている暇がない。流行りっ子ほど無芸という結果になったのであった。しかし、芸に精進することは文字通り体をいじめ抜くことになり、体の形を崩してしまったようで、例えば、笛の達人と言われた美津は増えをあてがう下唇がミミズ腫れのように腫れ上がっていたとのことである。
お茶屋遊びは数多くあるが、ここで流行ったものに「かんざしえらび」がある。座敷で客と芸妓は輪になって歌った。
お姫さんと寝るがに かんざし引こう お姫さんを抱くがに かんざし引こう 人のかか抱きゃ せわしない ほれ せっせっせ せっせっせ
黒く塗った丸い盆の縁にかんざしが10〜20本、妓の数だけ放射状に置かれ、客たちはじゃんけんをして勝ったものからかんざしをとり、そのかんざしの持ち主と一晩寝ることとなった。

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E:郭の性

中店以下にいる芸者は、多くは二枚鑑札を持っていた。芸者と娼妓を使い分けなくては前借りを支払うことができなかったからである。上店では芸者と娼妓の区別が一応はひかれていたが、明治から大正にかけてはほとんど建前になっており、体を張ることによって何十円と貰いが増え、前借金を返すことができたから、体を張る者も多かった。
朝から夜まで客が来た。一人は娼妓を置かなくては営業許可が降りなかったため、芸妓は自分の代わりに一日中客の相手をしてくれる娼妓には感謝していたとのことである。
日露戦争の折には、松山、習志野、大阪に加えて金沢もロシア人俘虜の収容地となり、4000人近くの俘虜が寺院などに収容された。彼らは「大切に」扱われたというが、国から通達を受けた市当局が置き屋の女将に協力を要請し、廓の芸者らがロシア人の相手をしたそうだ。廓には梅毒の予防のために「下洗い」する建物が設置され、性的搾取の対象となった。
第二次世界大戦の際には、芸者は三味線を弾くことや太鼓を禁じられ、専ら復員や動員に押しかける兵隊を相手に慰安婦、接待婦として働いた。
15歳ほどになると水揚げがある。水揚げの相手の旦那は、女将同士であらかじめ相談し、決められ多くは老人だったとのことである。若者では手荒く、過ちがあると良くないと考えられたためと、水揚げをするには大金が必要だったからである。相手が年寄りであることは女たちは皆嫌がった。水揚げというものは一回きりで一人前の女になるというわけではなく、二度も三度もしなければならない。水揚げは特別に料金が高いからお茶屋が儲かったとのことである。場所は自分の住むお茶屋とはとは限らず、離れの間が使用される事が多かった。

(旦那衆が人目を避けて利用した梅ノ橋とかつての妾邸)
金沢の芸妓の生涯を描いたノンフィクション小説である『郭の女』(井上雪著)には花街の美しさと醜さがよく描かれている。
読者は気がつく。 あの美しく見えた芸妓は木虫籠という籠に囚われているのだと。
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武井武雄 刊本作品リスト
※参照: Results – Advanced Search Objects – Museum of Fine Arts, Boston | Artist/Maker: Takei Takeo | DATE OLDER FIRST
※参照: 出品目録:所蔵作品展 「武井武雄 刊本作品の世界」(2021年6月22日-9月12日)PDF
※上記PDF目録を元にMFAの該当ページをリンク
※「技法・素材」の()は「原書に記載が無い」意味で記入
※「001 十二支絵本 1935 (一色凸版)」のみMFAには無い
※参照: Takeo Takei#Books_of_various_materials_(Kanpon) - Wikipedia
※参照: TAKEI Takeo : Kampon - Boston Book Company (web archive)
※可憐判No.を追記(一部自己解釈) 20220209
※「Keep reading」以下 139 lines
刊本No. タイトル 刊出年 技法・素材
001 十二支絵本 1935 (一色凸版)
002 雛祭絵本 1936 (凸版筆彩)
003 諸国絵馬集 1937 (二色凸版)
004 善悪読本 1938 (二色凸版)
005 童語帳 1939 (自刻木版可憐判1? )
006 畑の豆本 1940 (スクラッチ版)
007 本朝昔噺 1941 (合羽版)
008 十二時之書 1942 (石版)
009 伊曽保の絵本 1943 (アップリケ原色版)
010 風村三代記 1944 (伝承木版)
011 燈 1945 自刻木版
012 KOKESHI 1946 伝承木版
013 僕の哥留多 1946 自刻木版
014 お猫様 1947 (自刻木版 活版)
015 牡丹妖記 1948 木刻拓本摺
016 のえる之書 1949 自版糊染本
017 乞食の本 1950 自刻木版
018 聖AGNES之書 1951 木口木版
019 もりどんの話 1951 自刻木版(可憐判2)
020 あいそぽす・ふあぶら 1952 VARI-TYPE・木版
021 菊妖記 1953 レリーフ 拓本
022 秒間の符 1953 CHORD PRINT 條版
023 天竺の花 1953 陶版
024 ARIA 1954 層版・紙拓
025 折鶴物語 1955 瓦版
026 胡蝶散策 1955 三色凸版 胡蝶型
027 姫の尺牘 1955 友禅
028 霊長異聞 1956 WOVEN LABEL
029 第五の世界 1956 HELIOGRAVURE
030 誕生譜 1957 eau-forte
031 木魂の伝記 1957 寄せ木
032 極秘亭探訪 1958 cello-slide
033 六之助行状 1958 鑢孔版
034 雪の讃頌 1958 TANDEM PRINT
035 近くの世界 1958 原色版
036 太陽と孔雀 1959 蝕彩金工
037 えでんの異変 1959 Collotype
038 Sphère 1959 写真による詩集
039 かなりやABC 1959 グランド孔版
040 お化け退場 1959 Colour gravure
041 ストロ王 1960 STRAW MOSAIC
042 Q子の奇跡 1960 ドライポイント電鋳
043 七重と八重 1960 彫紙 漆摺
044 四十四番館 絵入物語 1960 (木版)
045 林檎と人間 1961 石膏版
046 神々の旗 1961 アルミ詩書
047 運のわるい男 1961 木刻乾拓摺
048 宇宙裁縫師 1961 伝承西洋木版
049 HAREM 1961 Applique
050 独楽が来た 1962 日本伝承木版
051 天国と地獄 1963 自刻木版(可憐判3)
052 卵から卵 1963 木綿型染
053 鬼の郷衛門 1963 Wonder view
054 紫の眼鏡 1963 自刻木版(可憐判4)
055 ラムラム王 童話 1964
056 真珠の池 1964 polystyrene paper edition
057 河童河太郎 1964 自刻木版(可憐判5)
058 新しい地球 1965 TOP-STEREO
059 人魚と嫦娥 1966 高岡螺鈿
060 Leoの魔法 1965 relief print
061 造物主失踪 1965 自刻木版
062 侏儒の饗宴 1966 ろうらっくす詩書
063 祈祷の書 1966 Sベランの本
064 二十世紀の虎 1966 自刻木版可憐判(6)
065 人生切手 1966 彫刻凹版
066 さもいや伝 1966 印伝
067 風・水・火・星 1966 Technamation
068 逆立勘九郎 1967 自刻木版可憐判 (7)
069 六つの窓 1967 Qper本
070 悪魔の旗 1967 EMBOSSOGRAPH MOSAIC
071 湖のひと 1967 Miracle tower
072 KAGEYA 1967 木口木版
073 鳩と奇術師 1967 静電印刷
074 笛を吹く城 1968 Sベランによるゴブラン織
075 けちな神様 1968 自刻木版可憐判 (8)
076 あるくJACK 1968 現代ガラス絵
077 眼球異聞 1969 RAINBOW PRINT
078 モスクワの月夜 1969 自刻木版可憐判 (9)
079 Л子の船出 1969 TRANCEART
080 迅四郎の窓 1969 APR・STAINED GLASS
081 世界は渦巻 1969 (凸版)
082 花園の気流 1970 植毛印刷
083 世界革命 1970 自刻木版可憐判 (10)
084 平和白書 1970 THERMOPRINTEX
085 女人禁制 1971 自刻木版可憐判11
086 天とは何か 1971 凸版可憐判 (12)
087 呂宋お菊 1972 拓摺
088 瓢箪作家 1972 COUPAGE
089 面倒無用党 1972 RELIEF
090 現代の神々 1972 伝承木版可憐判 (13)
091 虹を作る男 1972 自刻木版可憐判14
092 小萩抄 1973 折本上下二冊(凸版)
093 おかしな象の話 1973 (凸版)
094 高杉晋作 1973 (多色オフセット)
095 造物主御帰還 1973 自刻木版可憐判15
096 双青の夢 1974 自刻木版可憐判16
097 RomとRam 1974 皮革印刷
098 金色の森 1974 miniature d’or (金線印刷)
099 どん・きほうて 1974 coupage
100 雄鶏ルコック 1975 エンボス
101 小さな雪女 1975 賦形 SNOW VIEW
102 狗猴考 1975 自刻木版可憐判17
103 洗脳奉行 1975 四色凸版
104 天狗天八郎 1975 孔版
105 珍和名抄 1975 自刻木版可憐判18
106 半介の神様 1976 凸版
107 アイウエ王物語 1976 (オフセット 凸版)
108 ナイルの葦 1980 パピルス造本
109 王様の馬車と乞食の馬車 1976 自刻木版可憐判19
110 京之介と千草 EXLIBRIS 1977 (木版 凸版)
111 提灯の詩 1977 ヴィベール造本
112 鼡小僧下呂吉 1977 (凸版 孔版)
113 雷おさん 1977 自刻木版可憐判20
114 紺次とお丹 1977 SEALING PRINT
115 人生の門 1978 (凸版)
116 靉蘭の鯉 1978 剪紙 倪瑞良 (金箔)
117 ルイとカンナ 1978 puf-bord版
118 袖の下 1979 自刻木版可憐判21
119 エリアナ姫と蝶 1979 アルミナ磁器
120 花竜と狸 1979 (三色凸版)
121 車夫萬五郎 1979 (二色凸版)
122 珍竹林之命 1979 (二色凸版)
123 番傘奇譚 1979 Puf-bord版
124 可平と猫 1979 (二色凸版)
125 シンの魔法 1979 自刻木版可憐判22
126 べら棒物語 1980 賦形熱版
127 加藤清正 1980 (三色凸版)
128 百済の仙人 1981 (一色凸版)
129 裸女ネサイ 1980 自刻木版可憐判24
130 月から来た子 1981 凹式金線版
131 千手観音 1981 笹画仙(墨絵オフセット)
132 陶工栗衛門の妻 1981 自刻木版可憐判
133 風神と雷神 1982 蒲葉抄紙 (凸版)
134 赫夜姫後日譚 1982 (三色凸版)
135 釣鐘異聞 1982 彩雲紙 (凸版)
136 いそなげき 1982 STAMPING
137 ABC夜話 1982 可憐判 (自刻木版と凸版併用)
138 鳥遣いの乙女 1983 LASER光線CUT
139 天竺の鳥 1983 印度更紗 印度手漉紙 (二色凸版)
以上
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Art commissioned from Reda 💕
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はたらく魔王さま・漆原は強くて可愛い?正体と最後についても
「はたらく魔王さま」に登場するキャラクター、漆原半蔵は悪魔大元帥の一人である「ルシフェル」として知られています。彼の両親は大天使イグノラと古の大魔王サタンです。 彼は熱線を放つ能力を持ち、岩山や魔力障壁を容易に貫くほどの強さがありました。物語の最後では、彼が父から受け継いだ遺産を手に入れ、エンテ・イスラの月を一つにするために奮闘するのかについて詳しく紹介します。 はたらく魔王さま:漆原は強くて可愛い 漆原半蔵の基本情報:プロフィール 名前 漆原半蔵(うるしはらはんぞう)・ルシフェル 立場 悪魔大元帥の一人、元大天使筆頭、天使と悪��のハーフ 年齢 戸籍上は18歳だが、真奥より年上 父親 サタナエル・ノイ(古の大魔王サタン) 母親 イグノラ(大天使・神) 能力 聖法気と魔力を操る 声優 下野紘(しものひろ) //#はたらく魔王さま…

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2013.11.30
model/HIKARU、アブラムシー、ぴの太郎
#はたらく魔王さま#hataraku maou-sama!#真奥 貞夫#芦屋 四郎#漆原 半蔵#maou sadao#sadao maou#ashiya shiro#shiroashiya#urushihara hanzo#hanzo urushihara#cosplay#コスプレ#ぴの太郎コスプレ2013秋
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古寺章平の小説(二次創作)
君の戦争
彼は覚えている。災厄の日の話だ。小学六年生になったばかりの五月だった。
その日は日曜だった。中学受験に挑むことに決めた彼はようやく塾に通い始めた。誰もが遅いと言ったが大丈夫だと思う。弟が二人もいるのに何年もかけていられない。六頴館対策の模試がある日だった。彼は一人で駅前の塾に出かけていたのだ。
玉狛第二の三雲修が登場した記者会見は彼の真摯な発言と大人たちの機転により、国民には概ね好意的に受け止められている。近界への遠征計画も同様である。
なし崩しに明かされたように見えたが、城戸正宗司令の口から流れるように出てくる口上から遅かれ早かれ公表する腹積もりであったことが伺われた。
語られた計画は今まで秘密裡に行われていた遠征とは性質が違う。目的も異なる。近界の偵察、トリオン技術の取得といったものではない。攫われた無辜の市民四百名余の奪還である。
長期遠征は名誉あるプロジェクトなのだ。
「それでは古寺くん」
メディア対策室室長の根付栄蔵は立っている古寺章平の前で、手元の資料をチラリと見て確認した。
「君は遠征希望だね」
「はい」
古寺は気負いなく答えた。A級部隊にいる以上、目の前の面接官は彼にとって馴染みのメンバーだった。
次いで、忍田真史本部長が遠征に行かない者も臨時隊長に選ばれていると前置きしたうえで問う。
「理由を簡潔に述べてくれ」
長期遠征選抜試験である。
古寺は隊長面接を受けていた。
高校入試の面接のようだと思った。長机に城戸を真ん中にして根付と忍田が座っている。
古寺の椅子はない。短い質問しか用意されてないのだろう。
さらに言えば、質問内容に意味はないのかもしれない。
面接官のもう一人をチラリと見る。目が合う。彼は曖昧に笑った。
この部屋には城戸、忍田、根付、それから古寺の他にもう二人いた。端末を操作する沢村響子と、玉狛支部の迅悠一である。青い瞳はじっと古寺を見ていた。
それでも、古寺は遠征希望の理由を真面目に答えた。
…その日、実際には彼が行方不明者になっていたのだが、彼は家族を探した。自宅は破壊されていた。病院で、避難所で、犠牲者の眠る場所で。
「おつかれ」
面接を終え、声をかけてきたのは歌川遼だった。臨時部隊の隊長としては最年少で同い年、どちらもA級部隊に所属する。入隊は歌川のほうが少し早い。頭の回転がよく、器用で判断も的確だ。性格も穏やかで気が回る。隙がないというのは彼のことをいうのだろう。
宇佐美栞が発掘してきた逸材だ。
だからだろうか。彼に対して一歩引いたところがある。古寺が宇佐美栞に想いを寄せていることも色濃く影響しているのは自覚している。避けるとまではいかないが、ポジションも違う。今、面接してきた上層部よりも馴染みがないといえた。
しかし、歌川は古寺を待っていたようだった。一緒に本部の長い廊下を並んで歩き出す。
古寺の伺うような視線に
「ちょっと話をしたくて」
と歌川は応えた。
「話って?」
古寺が促すと、歌川はうなずいた。
「古寺は面接で遠征希望か聞かれたのか?」
「うん、そうだよ」
「俺もだ。希望しない者もいるって忍田さんが言ってた」
「それはそうだろう」
全員が���征を希望するわけじゃない。実際、狙撃手界隈では希望者が少ないことを知っている。街を守ることと遠征に行くことは全く違うものだった。
「歌川は遠征希望なんだよな」
「まあ、ね」
歌川は苦笑する。しかし、理由を聞かれても本当はうまく答えられないと告白した。風間隊として行くことが任務として当たり前だったから特に理由はないのだ。それらしいことを言ったけどどうだっただろう。
「大丈夫だよ」
古寺は言った。
「迅さんがいただろう」
「ああ」
迅悠一には未来の分岐点が見える。
「もう、視えるものはみえているよ」
歌川は風間隊に所属し、遠征を繰り返している。臨時隊長の中では唯一の遠征経験者となる。B級に対して行う選抜試験ではあるが、A級からは四人が選ばれている。古寺は彼と、それから同隊の菊地原士郎が受験者に選ばれていることに少なからず驚いている。試験の意図について、もっと深く考えなければならないだろう。
「古寺は遠征希望なのかい?」
「ああ」
歌川はほっとしたように笑った。
「俺は古寺と一緒に行けたらいいとアンケートに書いたんだ」
「そうなのか?」
意外だった。
「意外そうだな」
そんなことはないと言いかけて、正直に答えることにした。
「まあ、そうだね」
「古寺なら勉強家だ��信頼できると思った」
「そうかな…ありがとう」
歌川のてらいのない言葉に古寺は赤面した。
「ただ、古寺は遠征に行くつもりがあるかわからなかったから聞いておきたかったんだ」
長期遠征選抜試験は、これによりしばらく開催されないランク戦昇格戦の代わりも兼ねている。また、漆間亘の指摘により、遠征参加を希望するしないに関わらず選抜が行われ、辞退した者にも遠征手当(月十五万円相当)が支給されることとなった。
ここまでの情報で誰もが試験選抜に真剣に取り組むであろうと予測されるし、むしろ選抜されたにも関わらず辞退して残留する者にメリットが大きい。
街を守ることと遠征に行くことは違うものなのだ。
古寺は明確に遠征に行きたい。
自分自身が何がなんでも街を守りたいとは思っていない。もう遅いのだ。古寺の住む町は四年半前に壊されてしまっている。記憶のなかの町は少しずつ古寺の中でも遠くなっていく。
近界は己の都合で違う世界の人間を攫ったり、殺したりする者たちの住む世界だ。道理が相容れない。少なくとも古寺の道理には。
取り戻すのだ。せめて、奪われた市民を。それは、もうなくなったあの日以前の街に生きていた人々だ。
…結局、中学受験は断念し六頴館には高校から入学した。
教室で授業を受けていると、近界もボーダーに在籍する自分も遠い世界にいるように感じる。古寺と歌川の通うのは進学校だ。本当は、二人ともこの街を出ていくことができる学力を持っている。卒業生も都会の大学に進学する者がほとんどだ。古寺の家族がいまだ仮設住宅に住んでいるのには理由がある。古寺の大学進学と同時に父は三門市を離れることを考えている。
古寺はそのつもりはない。
なぜなら、この街に生まれた以上戦うべきではないかと思っている。
古寺は覚えている。あの日、この街で何が起こったのか。
だから、戦おうと思う。
終わり
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「縄文時代について(後編)」~竹末の読書メモ④
お待たせしました!昨年10月のブログ配信以来、久しぶりの投稿です。 前回(2022年10月末)のブログでは、縄文時代は、日本の古墳時代から21世紀の現代までの1700年間の8倍以上の13000年の長さであることの概要をお話しました。また、弥生時代というのは、わずか800年です。なんと1/16の短さです。・・・と言っても、現在を生きる我々からするととんでもない長さなのですが・・・
さて、青森市郊外の青森湾に注ぐ沖館川の右岸台地上にある「山内(さんない)丸山(まるやま)遺跡」はご存じでしょうか? ここでは、戦後、小規模な発掘は行われていましたが、1992年に県営野球場の建設をきっかけに大規模な事前発掘が実施されました。縄文時代前期中頃から中期(今から5500年ほど前にあたります)までを中心に、約1500年続いた大規模集落の遺跡です。その広さは35ha(東京ドームが7.5個分)、ここだけで500人近い人びとが住んでいたと言われています。1994年には、直径約1mのクリの巨木を、4.2m間隔で6本立てた大型掘(ほった)立柱(てばしら)建物跡が見つかり、同年8月には公園の計画が変更され、遺跡として保存されることになったところです。
考古学者の説によりますと、一万5千年ほど前の日本列島は、現在より温暖であったようです。したがって、現在の日本列島の北部地区での縄文遺跡の発見が続いたために、長い間、北方起源と考えられていました。その根拠は、①縄文時代の初期に東北日本を中心に数多く分布した、大型で特徴のある石槍や石斧などが北方系であること、②かねてより、縄文文化が東高西低であると考えられていたこと、などの理由から、「縄文文化は北から南へ伝播し、弥生文化は稲作を中心に、ゆっくりと北上した」と考えられていました。 ところが、近年、種子島も含めた南九州で、約一万一千年前に噴火した桜島起源のサツマ火山灰の下から、続々と縄文時代初期(草創期)の遺跡が発見され、北方起源ではすまされなくなってきたのです。 筆者の住んでいる昭島市の隣にあきる野市がありますが、その多摩川沿岸では縄文遺跡が発掘されています。そもそも昭島市では戦後、200万年前のクジラの骨が発見され、昭島市の市立図書館に隣接する郷土資料館にはクジラの骨や多数の土器が展示されています。今の東京湾から昭島市あたりまで海だったと推定されています。つまり、日本国中にはまだまだ発見されていない縄文遺跡が眠っているのかもしれませんね。
さて、唐突ですが、【図2】に「縄文カレンダー」というものをご紹介しましょう。 國学院大学名誉教授の小林達雄氏(現在85歳)が提唱されたもので、縄文文化の食料の季節変化を円に描いて表わしています。縄文人が、季節の変化を考慮して、計画的な労働を展開していた様子がよくわかります。

図2:縄文カレンダー(國学院大学名誉教授・小林達雄氏提唱)
縄文時代の前半の住居形式は、地面を掘りくぼめた「竪穴式住居」の中で寝起きしていました。後に向けて、次第に「平地式」が増加していきます。 食べ物は、主に自然から集めており、クリやクルミ、トチ、ドングリなどの堅果(けんか)類、シカ、イノシシなどといった陸獣、タイ、スズキ、サケといった魚類。また、甘み不足を補うために、アケビやコクワ、ヤマブドウ、そして昆虫食も食べていたとされています。 堅果(けんか)類は地面に穴を掘って貯蔵もしていたし、ハマグリなどは、いったん煮てから干し貝にしたり、魚や肉類も干し魚や干し肉、燻製にして保存食品にしていたようです。
道具としては、東日本域では、石刃を素材とし、主に手持ちの槍の先として使用されたと推定。 ナイフ形石器類は、北海道、東北、関東などに多様な地域に存在が認められています。 土器の出現は、北と西でほぼ同時期に出現したとみられています。しかし、北も西も大陸からの伝播の痕跡はなく、列島各地での発祥とみられています。 土器の持つ歴史的な意義は、ものを入れる容器としてよりも、煮沸具としての方が大きかったようです。 動物のスジや頬肉など硬い部位の肉、草菜の植物繊維なども煮込むことによって、柔らかくなり食べることができるようになりました。また、熱を加えることによって、人体に有害な物質を除去することも可能になるので、重要なデンプン質の供給源であるトチやドングリ類も食料資源として十分に利用できるようになりました。また、貝類や魚類を土器で煮ただろうし、獣骨を煮て骨髄からスープを取り出したりもしただろうとも言われています。
土器が利用されるのは、なにも食料を調理する場面だけではなく、たとえば、植物の繊維を柔��くするために湯に長時間浸け込んだり、アスファルトを溶かしたりするときにも用いられました。また、ウルシの精製をしたり、染料や顔料も焼成・煮沸し、接着材や塗料としても活用していたと言われています。
樹木についてですが、ナラやクリは縄文時代全時期を通じて重要な植物とされています。特にクリは実が食用にもなる一方、樹木は建築材料にも使われていました。それは比較的加工が容易であることと、耐久性、保存性に優れ、特に水湿に強く腐食しにくい性質があるからです。当時の人々はそれらの特性をすでに知識として獲得していたと思われます。集落の周辺にクリを意図的に植栽し、群生させ、これを管理していたと考えられています。
次に社会構造について触れてみたいと思います。 前期あたりの社会構造は母系的な社会であったと推定されています。というのは墓の人骨分布とそのDNA鑑定から、男性が集団内に婚入してくるような社会構造を有していたことが分かっています。 昔の女性にとって、出産は死の危険がともなう一大事だったでのしょう。江戸時代でさえ、出産の15%くらいは死産で、無事に生まれても、5歳までにおよそ1/4が死んでしまったと言われています。
超自然的で不可解なことを解消し、さまざまな願いを成就するために、縄文人は、祈りを捧げていたようです。森羅万象・万物に生命・精霊が宿ると考え、神格化した、あるいは人と同様な生き物に畏敬の念を持ち、その心を静め、災いを避けるために祈っていたようです。 万物への崇拝、つまり祈りを具体的に表すために、日を決めて行う儀礼である「祭祀」を行い、それを行う建物や墓��を含めた場が「祭祀場」であり、用いられた道具が「祭祀具」と言われています。 土偶は女性を表わし、とくに妊娠の姿を表わすことが多いことから、豊穣を祈る祭祀具であるとされてきましたが、これについては、ある芸術家が異を唱えており、機会があればご紹介したいと考えています。
「七歳までは神の子」といわれて、幼くして死んだ子どもはカミに返すため、葬式もせずに川原や村のはずれに捨て、あの世に送るのが通例であったとされています。 縄文人は、現代人がゴミとして遠ざける物を、汚い物、邪悪な物、遠くに捨てる物とは考えず、逆に自分たちに恵みを与えてくれた物として感謝を込めて送っていたようです。この時期、住居の入口に土器を埋めて乳幼児の遺体を埋め、再生を願うのが一般的な習俗であったとされています。 集落内には、貝塚・ゴミ捨て場・盛土遺構などと呼ばれるゴミの処理・送り(祭祀)をした場所が発見されています。ここは単なるゴミ捨て場ではなく、彼らに恵みを与えてくれた食べカスや、役目を終えた道具類に感謝を込めて、火を焚いてカミの世に送る所であり、現世は良かったと報告させて、また再び戻って来るよう祈ったとされています。
縄文人も様々なアクセサリーを身に着けていました。先日(2022年10月20日)に、NHKBSプレミアムの『英雄たちの選択』で放映されました「追跡!古代ミステリー“顔”に隠された古代人のこころ」でも、貝殻を刳り貫いた腕輪のようなものや、現代のアフリカ原住民が顔に化粧をしているような事例を紹介されていました。たとえば頭飾りとして、漆塗りの櫛や骨角系製の笄(こうがい)、耳飾り、鹿角製の腰飾り、トリの長管骨やイノシシの犬歯による足飾りなどで、装身具の着装は他者との差異を表わすと同時に、同じ装身具を着装することで、他者との同一性を示していたようです。まだ言語というコミュニケーションツールが確立していない状況であったでしょうし、そういった形で差異化をはかっていたのではないでしょうか。
ヒトの移動、渡海ルートは、朝鮮半島から北部九州の西回りルート(現在の瀬戸内海は陸続きだった)、沿海州からサハリンを経由して北海道(一部は新潟、富山、島根まで到達)へと至る北回りルート、そして南西諸島を北上してきた南回りルートが考えられています。舟は丸太を刳り貫いて造ったとされ、最近でも木を刳り貫いて造った舟を再現し、縄文時代の海洋交流を実体験している研究者もおられるようです。
以上、一万5千年以上前から一万3千年以上続いた縄文時代の生活について概説してきました。まだまだ謎の部分が多いのですが、ほとんどのことがわずか百年程度の研究で推察されてきたに過ぎません。彼(彼女)らが、現代の生活を想像することはまったくできなかったでしょう。自分たち人間の創ってきた文明の利器で自然を破壊し、同じ人間同士が殺戮を繰り返すことなど予想だにできなかったでしょう。 遥か昔のことを知ることによって、いろいろ考えさせられる良い機会となりました。
以上、前回と今回までで、ご意見やご要望があれば、下記メールアドレスに送信ください。 [email protected] 【筆者・竹末俊昭…一般社団法人ファブデザインアソシエーション【 FDA 】理事長・元拓殖大学工学部デザイン学科教授】
参考文献: ・「縄文の生活誌」岡村道雄*(講談社学術文庫、2008/11第一版発行) 岡村道雄氏*:1948年生まれ、東北大学博士課程修了、東北大学、東北歴史資料館、文化庁等歴任
・「縄文時代の歴史」山田康弘**(講談社現代新書、2019/01発行) 山田康弘氏**:1967年東京生まれ、筑波大博士課程中退、人類学者
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平成30年 8月22日(水) Day 5
奈良還是當日臨時決定,一來想去奈良著名多寺院和神社,曾是平城京古都(比平安京更早),,即是古時的大和國,發現大阪到奈良原來十分快捷,二來大阪之行基本上零計劃(除了到Big Cat看騷外),還有一整天的空檔,就在星期三早上出發,難波搭近鐵奈良特急,只是大約半個小時。
奈良公園 (Nara Park)
基本上整個若草山,東大寺,春日大社都是奈良公園的範圍,而奈良公園都是奈良鹿的地盤,換言之奈良鹿是棲息在山林、寺院和神社間的小動物。奈良駅外穿過subway便是奈良公園,奈良鹿在行人路旁和公園中曬太陽,或是在人群中尋找食物,而遊客大多都在這兒停下與鹿玩耍,而我則向前直到東大寺,老實說東大寺門前有更多的鹿,而十分主動(有時太過主動啦),但看見你沒有食物通常都會走開,很現實呢!





華厳宗 東大寺 (Eastern Great Temple)

南大門



南大門
木造金剛力士立像


西大門內的參道完全是奈良鹿搵食之熱點,而遊客大多都集中在這兒餵鹿。

鏡池


東大寺 中門


中門內佛像 持国天,兜跋毘沙門天(多聞天)


東大寺 金堂(大仏殿)




盧舎那仏像



虚空蔵菩薩像



広目天像(金堂西北隅)


東大寺經過過天災和戰爭,曾兩度重建。


多聞天像(金堂東北隅)


如意輪観音菩薩像

自言對日本佛教史認識不多,其吸引程度亦不比神社和名城,不過如此大型的古老木建築還是首次見識,大佛香港也有,但風格各異,加上日本獨有的佛像如天聞天和廣目天像,未來過奈良的應該是要來一趟東大寺。

相輪


東大寺法華堂


向若草山方向繼續步行,遊人不多


二月堂


同呢鹿仔幾有緣,都係度坐左陣休息。
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二月堂都滿佈碑和燈籠










登上二月堂盡覽若草山美景



古石牆

下山後步行去春日大社途中,遇上這隻佛系鹿



阿倍仲麻呂
說起奈良時代,阿倍仲麻呂是其中一位重要人物,因漢文了得,受天皇之命遠渡唐朝成為遣唐留學生,後來更成為唐玄宗的秘書監,侍奉左右。文彩了得的他也是《小倉百人一首》歌人之一,他多次渡唐和思鄉之情(最後他沒有回日,在長安過世)亦是戲劇和浮世繪的題材之,奈良時代的偉人吧。


春日大社 南門 Kasuga Grand Shrine








中門


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春日大社建於710年,與奈良的神社和陵墓差不多,所供奉的都是比較古早的神話人物、皇室人物等等。包括武甕槌命,経津主命、天児屋根命、比売神,春日大社內亦有很多小型神社,若宮神社、祓戸神社、一言主神社等等,所供奉的不是古早神話傳說人物,或是雷神水神就是守護神。當然奈良鹿也會這兒棲息。 而春日大社本身的特別建築風格是獨有的,精緻,亮麗,迴廊上的燈籠井井有條,細看之下古今並存,在迴廊輾轉走過一個又一個的曲環,有如順著千年之流回到古代。來到迴廊盡頭的藤浪之屋,是古時神社人員候命的房間,漆黑中萬顆燈籠在搖曳,平靜之感,與外間成形強烈相比。春日大社一般神社的作用,如作結婚之場地,每年每月也有不同的祭典。


其實這間小店已收舖,但老細一拿出面包,奈良鹿一家大細便衝上前了。
興福寺 五重塔 Kōfuku-ji
離開春日大社,還是在公園流連迷路了一回兒,五時多才下山途著石板路到興福寺。

南円堂







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奈良柿の葉寿司是土產,在奈良街頭不難找到,招呼我的店員告訴我柿の葉寿司能放上兩天,因為柿葉有冷凍作用,我買了一盒走隨附一包冰袋,不能帶回香港所以拿來做早餐也不錯,也可以選澤堂食,更有風味。買過寿司已是六時半,走過東向商店街,吃了一頓晚餐後,也買了土產手工品。
2018關西夏之旅 Day 5 – 奈良公園, 東大寺, 二月堂, 春日大社, 興福寺 平成30年 8月22日(水) Day 5 奈良還是當日臨時決定,一來想去奈良著名多寺院和神社,曾是平城京古都(比平安京更早),,即是古時的大和國,發現大阪到奈良原來十分快捷,二來大阪之行基本上零計劃(除了到Big Cat看騷外),還有一整天的空檔,就在星期三早上出發,難波搭近鐵奈良特急,只是大約半個小時。 奈良公園 (Nara Park) 基本上整個若草山,東大寺,春日大社都是奈良公園的範圍,而奈良公園都是奈良鹿的地盤,換言之奈良鹿是棲息在山林、寺院和神社間的小動物。奈良駅外穿過subway便是奈良公園,奈良鹿在行人路旁和公園中曬太陽,或是在人群中尋找食物,而遊客大多都在這兒停下與鹿玩耍,而我則向前直到東大寺,老實說東大寺門前有更多的鹿,而十分主動(有時太過主動啦),但看見你沒有食物通常都會走開,很現實呢! 華厳宗 東大寺 (Eastern Great Temple) 南大門
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