#猿の演劇論第2期レポート
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thetheatretheoryoftheapes · 6 years ago
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#8「世界大戦とレジスタンスの記録」
世界大戦におけるレジスタンスの記録は世界に様々にあります。では、日本の演劇において存在したのか? 戦後新劇や総力戦体制下の移動演劇に焦点に当てながら、日本の演劇人が満州事変から始まる世界大戦の中で何を見、考え、行動していたのかを探りました。 下記は、講義の概要をまとめたものです。 -- 講義では、「ジャガイモを掘るベケット石を投げるサイード」にまず触れました。「ジャガイモを掘るベケット」とは、第二次世界大戦におけるナチスドイツに対するレジスタンスの諜報員であったベケットがパリから逃げる時に、畑のジャガイモを食べながら生き延びたエピソードを指しています。(それが「ゴドーを待ちながら」の原風景となっていると、幾つかのベケット伝に書かれています。)また、「石を投げるサイード」は、パレスチナのインティファーダを指します。圧倒的に不利な状況にあっても侵略行為を犯すインスラエルに石を投げるサイードの姿勢。こうした世界大戦におけるレジスタンスの行為としてのささやかな振る舞いというものが、実は演劇活動とか、あるいはサイードのような思想家としての活動としての根拠になっているのではないか、と鴻さんは考えます。 そしてまた、こうした状況下での作家の姿勢について、戦後日本の新劇復興という活動も視野に入れながら、日本の演劇人について考えたとき、一体どういったことが起こっていたのでしょうか? ◼︎ドイツの、そして日本の戦争責任 鴻さんは、まずドイツの思想家カール・ヤスパースは『我々の戦争責任について』(橋本文夫訳、ちくま学芸文庫)について触れました。その著書の中で、ヤスパースは、「我々」すなわちドイツ人の戦争責任とは何かについて語っています。その中で、戦後の裁判についての言及がこうあります。 -- ……「この裁判は全てのドイツ人にとって、国民的な恥辱である。せめてドイツ人が判事であれば、少なくともドイツ人がドイツ人に裁かれることになるであろうに。」とある論者がいう。
これに対してはこう答えることができる。いわく、「裁判が国民的恥辱なのではなく、裁判を招来したゆえんのもの、[なぜ裁判が行われることになったのか?] すなわち、そのような政府が存在してかくかくの行為をしたという事実こそ、国民的恥辱なのである。国民的恥辱という意識はドイツ人にはどっちみち逃れられないものだが、それが裁判に対しての意識であって、裁判の起こるもととなった原因に対する意識でないとすれば、それは方向を誤っている。 さらにまた戦勝国がドイツ人の法廷といったものを構成させるか、あるいはドイツ人を陪審判事に任命したとしても、事情は少しも変わらない。 -- この部分を、ドイツ人を日本人として読み替えた時、それはそのまま東京裁判の話のようだと鴻さんは言います。また、ここで重要なのは、ヤスパースは戦勝国と敗戦国という区別をしている点でもあると指摘します。ヤスパース自身はドイツ人なので敗戦国の人間。この本は敗戦直後1946年にそうしたことを考えながら書かれているものです。 -- 戦勝国が敗戦国の人間による法廷といったものを構成させたり、あるいは、敗戦国の人間を陪審員に任命したとしても、事情は少しも変わらないのではないか。ドイツ人が法廷にいるのは、ドイツ人の自己解放力によるものではなく、戦勝国の恩恵によるものである。してみれば、国民的恥辱に変わりはないはずだ。裁判は、我々が犯罪的な政権から自己を解放したのではなく、連合国に敗北したことによって解放されたという事実から裁判が生じている。こうした状況の中から、戦後が出発しているということをどう認識するのかということが、実は大きな問題なのであるにもかかわらず、この裁判はインチキであるというような、要するに、戦勝国が敗戦国を裁くという絶対的に有利な立場から、法的な機関というものを無視することもできるような形で裁きの無効性を主張するような議論もよく起こるのだけれども問題は自らの力によって敗戦に追いやられた政権を、つまり、その独裁的な権力を倒すことができなかったということが、後々の我々に大きな禍根を残しているのだ。 -- ヤスパースは、世界大戦における戦争責任の問題は、過去に遡り、問題を様々な形で考え直していかなければならないのではないか、という提言を1946年にドイツの人たちに向けてしていた。この本の解説を書いている加藤典洋は、こういうような明瞭な提言というものが、悲しいかな、日本にはなかったと書いていると鴻さんは語ります。 ヤスパース自身は、ナチスの政権下でユダヤ人の妻がいました。ナチス党から離縁を勧告されたとき、それを拒否して大学を去りました。ヤスパースはそうした形で具体的な抵抗を示していたのです。しかし一方で、ヤスパースは殺されることがわかっていながら、それでも抵抗して死んでいくべきであるとは言いませんでした。ではどこまで抵抗するべきなのか? そこに、道徳の問題が絡んでくるとヤスパースは書いてる。そして、そこでは、ある種の抵抗をした人たちと、また多くの抵抗しなかった人たちを含めた、罪の問題をどう考えていけば良いのかという分類がなされている、と鴻さんは解説します。 ◼︎ 満州事変から第2次世界大戦へ、その歴史的局面 ヤスパースは、著書の中で、ナチスの政権が1933年に政権を取ったところで、後戻りのできない状況になっている、そこが一つの転換点だったと分析しています。第一次世界大戦が終わってから15年、新たな戦争を避けるための様々な局面もあったというのです。 例えば、日本軍の満州侵略という暴力行為がなかったなら、それに対する適切な国際的な対応というものがなされていたならば、ナチス的な政権の独裁というものも防げるような方策を考えることができたと書いています。 そのこと自体の検証はできないけれども、世界がどのように動いていくのかということを考察するときに、ドイツの思想家が1946年の敗戦の直後に、ドイツがこういうような状況に向かっていくのを阻止できなかった原因の一つに日本軍の満州侵略を上げていることは興味深いことであると鴻さんは考えます。 また、鴻さんは、満州事変が世界大戦へ向けた一つの転機であるというような発言をしているのは、ヤスパースだけではないと言います。フランスの思想家シモンヌ・ヴェーユは『フランス支配圏内における植民地の新たな主要件』という論文の中で、帝国主義社会における人間の大きな問題である植民地をどのように扱えば良いのか? と問い、日本について言及しているそうです。 フランスは、ドイツに対するレジスタンスをしながら、しかし、一方で植民地政策を続けていました。この頃、イギリスの植民地は南アフリカからアフリカ大陸を南北縦断するように、フランスの植民地は西アフリカからアフリカ大陸を東西縦断するように、それぞれが植民地展開をしていた。その縦横がぶつかるところで、植民地戦争が起こり、フランスはイギリスに負けたけれども、まだ植民地を持っていたのです。 シモンヌ・ヴェーユは、基本的には、植民地に関しては具体的な方策を考えながら解放を目指すべきであると考えていました。植民地住民は彼ら自身の利益を目指して、彼らの政治的経済的生活に関与すべきである、しかし、実際はそうではない。そうした政策が実際に遂行されるのであれば、あらゆる植民地問題が解決へ向かう。部分的な解放であれ、それによる自由が完全な解放へとつながる可能性がある、と1938年に語っています。 しかしながら、フランスはそうした解放への動きは全くしなかった。こういう状態で、もし日本が今、インドシナを奪おうとしたとき、日本がベトナム人(フランス植民地)を利用することは大いに考えられる。フランスが少しの自由を保障していれば、日本がそれを習うこと��難しい。フランスは植民地解放へと動き出すべきであるとシモンヌ・ヴェーユは主張していたと鴻さんは説明します。 このようにシモンヌ・ヴェーユも、1938年に日本がフランス植民地インドシナをフランスから奪い取りに来るだろうことを予測していました。日本は、実際3年後の41年に真珠湾攻撃と合わせて、上陸作戦を開始します。37年盧溝橋事件をきっかけに、日本の中国大陸への具体的な侵略が開始されたとフランスの知識人たちは見ていたのです。 ◼︎ 外の世界がなかった日本 ー 総力戦体制と移動演劇 鴻さんは、1927年にヨシフ・スターリンは、中国革命は3段階で起こるだろうと予測していたと言います。 第1段階は、ブルジョワジーが革命を支持する形で外国帝国主義に対する戦いが開始される。第2段階は、ブルジョワ民主主義革命が起きて、それ以降はブルジョワは革命から離れていたにもかかわらず、農民の革命に対する支持が開始される。第3段階でソビエト的な革命が起こる、こうした将来が必ずやってくるとスターリンは考えたのです。そして、中国では実際に共産革命が起こりました。 また、スターリンは日本についても言及していると鴻さんは引用します。 -- 西欧で我々の敵である者たちは、皆もみ手をしながらこう言っている。中国で革命運動が起こった。これはボルェヴィキ(ソヴィエト)が中国人民を買収したのだと悪口を言っている。これはロシア人が日本人と戦う道へと導くであろうと皆が言っている。こんなことはデタラメである。中国の革命運動は信じられないほどである。我々は帝国主義者どもの束縛から中国を解放し、中国を単一国家にするために戦っている。中国革命に共鳴している。日本もまた、中国の民族運動の力を考慮する必要があることを理解する。 -- このスターリンの日本に関する予測は当たりませんでしたが、しかし、こうした裏には、自分たちの国以外の国がどのようになっているのか、その人たちが何を願い何を考えているのか、もしかしたら事態はこうなるかもしれないということを考えながら、スターリンが記述していることがわかる、戦後、ヤスパースは我々(ドイツ人)の戦争責任を考えていたけれども、日本人はそう言ったことは考えていなかったのか。では何を考えていたのか? と鴻さんは問います。 こうした日本の盲目性に関して、森秀男が「戦中と戦後をまたぐ――『女の一生』の場合――」という論文を書いています。鴻さんたちが、『シアターアーツ』で「戦争と演劇」という特集を組んだ時に、掲載された論文です。 これは、今も繰り返し上演されている文学座の『女性の一生』という作品について書かれたものです。作者である森本薫が『女の一生』を執筆時は戦中でした。戦時中に上演されたということは、それは“反戦”演劇ではなかったということです。戦時下で上演された『女の一生』の台本は、戦後の台本とは異なります。初演台本と戦後の改定された台本、そして定本として読まれている台本がそれぞれいろんな形で違っているのです。この初演台本は長いこと簡単には読めませんでした。この経���についてよく知っている文学座の戌井市郎などに、森秀男さんが話を聞きながら、変更箇所について調べたことがこの論文に書かれているそうです。 『女の一生』が、どのように戦前の演劇から戦後の演劇へと変わったのか? 例えば、主人公のけいが想いを寄せるが、中国へと姿を消す栄二という登場人物は、戦後の改定において、最初は左翼的な人間だったのが、転向して情報員として戦争協力する仕事などをしながら、敗戦後、帰国する、という設定がなされたりしている。 1961年の『女の一生』パンフレットで、森本薫から杉村春子に当てた敗戦前後の私信の抜粋が公開されました。また、当時舞台女優に宛てた森本薫の手紙が残っています。そこでは、森本薫が次のように言っています。 -- 1945年8月3日付 『怒涛』や『女の一生』がダメなのは、描くことだけに力を入れて自分を込めるというか、なんといったらよいかわからんが、ともかく作家自体が芝居の中で求めているものがはっきりしない。あるいはないことだ。 -- 1945年10月11日付の手紙 とにかく皆誰かなんとかしてくれるだろうという他力本願を捨てて本当に一生懸命準備しなければなら��。僕は『田園』から『女の一生』までの文学座を省みて、岩田豊雄に逃げられたり、戦争にいじめられたりしながら、我々自身大して自信もなく歩いて来た道は、そう無駄な道ではなかったと思う。我々は我々が到達したところからしか出発できない。しかも我々は率直に楽しめる現代劇から真面目に社会を考える現代演劇への第一歩を踏み出している。僕は色々と取り越し苦労をしているように見えるかもしれないけれども、今回の出発に関して新しい風は左翼演劇からは現れないということを断言する。左翼演劇ではなく、自分たちのやろうとしている演劇から新しい風が吹き始める。 -- 森秀男は、「森本薫は8月15日を境に、戦中と戦後という時代をほとんど苦労なしにまたぐことができたようだ。戦争中、時局に順応した作品を書かなければならなかったことへの自責の言葉は見当たらない」と書いています。 この時、「時局に順応した作品を書かなければならなかったことへの自責の言葉」がどういう風に語られるのかについて問題にしているのがヤスパースであり、その道徳的罪であるとか、政治的罪についてを『我々の戦争責任について』で書いている。戦争犯罪を実際に犯すことと、その国の政権が独裁的で侵略戦争をしていからという理由でそれに抵抗できなかった人間は、戦争犯罪人ではない。ただし、道徳的罪はあるだろうとヤスパースは言っている。そこで、自責の言葉がどういう風に語られるのかが問題である、と鴻さんは展開します。 ◼︎日本戦時下の移動演劇 ー その問題性と魅力 ここで、鴻さんは「だんだん日本の演劇人の戦争中の行動と、それに対する戦後の自責の念のなさという私の批判が始まるのではないかと思う人もいるかもしれないのですが、こういうことを踏まえた上で、私はいま全く違うことを考え始めている。」と、日本の移動演劇の歴史について語り始めます。 例えば、戦時下の演劇が孕む問題性とその魅力が同居するときにどうしたら良いのか?  ー日本では戦中、移動演劇が盛んでした。演劇をより多くの人に見せるために、農村地帯や漁村、山村など様々な場所に展開しました。有名なのは、移動演劇の部隊であった桜隊が1945年8月6日広島にいたということです。その時に、原爆が落とされて、桜隊のメンバーが原爆で亡くなっています。(そのことを巡って、井上ひさしは『紙屋町さくらホテル』という作品を書きました。新国立劇場のこけら落としに執筆され、1997年に上演。鴻さんが劇評を執筆しています。) そして、戦争が終わり、他の移動演劇も敗戦とともに消えていき、なくなってしまいます。 演劇評論家の茨木憲は、『昭和の新劇』という本のなかで、戦後の新劇人たちは、戦時下において自分たちがやってきたことの反省において新劇活動をしなかったということを告発していると鴻さんは参照します。 日本の戦後新劇のはじまりを告げたのは、1945年12月に文学座と俳優座の合同公演として上演された、アントン・チェーホフの『桜の園』でした。1940年に国の一斉検挙があり、新協や新築地の両劇団は国情に適しないから解散するようにと命令された時、当局の推奨を受ける形で存続していた文学座は「国情に適した」劇団だったのでしょう。そして、戦後の合同公演で直ちに、雰囲気劇としてチェーホフを上演したのです。 ここには、森秀男によって詳細に分析された『女の一生』の改ざんの問題における日本の戦後新劇人の自覚のなさと共通するものが見られると鴻さんは考えます。 そして、茨木憲が著者の中で戦時下の空白期と書いているところに、実は移動演劇がありました。 戦時下に移動演劇連盟が作られたのが1941年6月。その後、1943年2月に再編成されます。この移動演劇の活動初期1年半で動員した観客の数は約450万という膨大な数に上ります。農村、山村、漁村、工場、鉱山などを周り国民に観劇の機会を与えることを目的に公演回数は3,500回を数えました。 時は真珠湾攻撃の直前。ビラ広告のキャッチコピーは「米英撃滅 今このとき!」。勇ましい宣誓文が続きます。 -- 我々は文化領域における翼賛運動の一助たる我らの職域を明瞭に自覚する 我々は協力一致の精神と誠実明朗の態度をもって我々の使命に奉仕する -- 移動演劇は、東京毎日新聞などの資本を得つつ、主に公的な資金で運営されていました。入場料は無料です。移動演劇は商業演劇のような単なる娯楽ではなく、教化=教え諭すことで、正しい国民を作っていくことを目的に上演されていたのです。 移動演劇連盟の委員長は、��田國士。大政翼賛会の文化部長であった岸田國士が個人の資格で委員長になりました。そして、副委員長が伊藤熹朔、事務局長も兼任していました。伊藤熹朔は千田是也の兄です。このように、演劇界の重要人物たちが移動演劇連盟を仕切っていたのです。 伊藤熹朔は、昭和18年に『移動演劇の研究』という本を書いています。移動演劇は、劇場がないような場所でも上演をするので、ときには劇場作りから始めなければならず、巨大な装置は使えないという点から色々な工夫がなされていました。 ここで重要なのは、国民全員が見る体制を作ること、単に楽しむためだけでなく、国民が考える場所を提供することを目的に移動演劇が作られたと書かれていることだと鴻さんは指摘します。 いろいろな場所で上演できるような一種の実験的な試みを展開しつつ、新しい創意工夫のもとに移動しながら演劇を上演していく、こうした移動演劇という新しい様式を作り上げていったと伊藤熹朔は書いています。 鴻さんは、この研究書を読みながらロシア・アヴァンギャルドのアジプロ演劇を想起したそうです。ロシアでは、1918年にボルシェビキのプロパンダ演劇のための劇場が列車となり移動し上演するアジプロ列車というものができました。アジプロ船もありました。 当時の日本ではアジプロ列車についてどの程度知られていたのか不明ですが、移動演劇では、舞台美術家である伊藤熹朔が中心を担って、プロセニアム劇場ではない形の舞台で、どういう演劇を、具体的に作っていくのかが模索されました。 このように、劇場なしでの上演を巡って移動演劇に新しい可能性があると考えた人たちがいて、それが国策で行われました。非常事態において行われていたことが、重要な演劇的な意味合いを持っている可能性があると鴻さんは論じます。 研究書の中で伊藤熹朔は、移動演劇の起源はギリシア演劇の起源にあるテスピスの車輪だと書いています。そうした歴史的な起源にまで遡りながら、伊藤熹朔は自分たちがやっていることは芸術的な革新運動であると思っていた。それを国策演劇であるということで切り捨ててしまうと、その面が見えなくなってしまう。一方で、独裁政権化の軍事政権ファシズムが演劇による総力戦化という中でそういうことが行われていたことは事実です。この2つの歴史的事実をどう繋げて考えていくことができるのか? さらに、植民地主義の抱える矛盾。ソビエト科学アカデミーの中の歴史書シリーズの中に、「植民地に対する侵略と略奪がなければ資本主義の成長はありえない」という一文があります。資本主義がなければ私たちはいないのだけれども、その植民地をいかに解放するのかというシモンヌ・ヴェーユの悩み。 それらの文脈の中に、日本の移動演劇がどう位置付けられるのか? 鴻さんは、日本の植民地主義や戦争責任を巡る議論と移動演劇の活動を参照しながら、それを演劇論として論じるのは非常に困難な作業であるが、そうした探求を進めることこそ演劇研究の役割であると言って講義を終えました。 参考文献: カール・ヤスパース『われわれの戦争責任について』(橋本文夫訳、ちくま学芸文庫、2015年)[ドイツ語原典は、1946年出版、初訳は、1950年桜井書店から『戦争の責罪』として刊行され、その後『責罪論』、『戦争の罪を問う』などのタイトルで幾度も出版されている]。 伊藤喜朔『移動演劇十講』(健文社、1942年) 伊藤喜朔『移動演劇の研究』(電通出版部、1943年) シモーヌ・ヴェーユ『シモーヌ・ヴェーユ著作集1:戦争と革命への省察』(春秋社、1968年) スターリン『スターリン全集』7、10(大月書店、1952、53年) 文/椙山由香 
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thetheatretheoryoftheapes · 7 years ago
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#6 「神話、歴史、そしてモダニティー/このアジアの片隅で」
サイードが『文化と帝国主義』で論じた「帝国主義の楽しみ」とは?…鴻さんが、現代インド演劇の歴史を辿りながら、近代/帝国主義の魅惑と戦略を分析。近代/帝国主義を思考し、ポストコロニアル批評の歴史的な意味を問い直す。その営みを今日へとつなげる壮大な試みの一端です。
下記は、講義内容の概要をレポートにまとめたものです。 ■ プロローグ 講義は、南インドのケーララで活動する演出家、シャンカル・ヴェンカテーシュワランが2016年に東大駒場で開催したワークショップについての話から始まりました。 ワークショップの成果として、無言劇のショートピース「雪の駅」が発表されました。上演後、どういった光景を表しているのか? と観客に問われた時、シャンカルは、カシミールの人たちが降る雪を見ながら何を考えるのか、を課題としたと答えました。カシミールは、インドとパキスタンが領有権を争っている紛争地帯です。 鴻さんは、その話を聞きながら、ベケットの「ゴドーを待ちながら」だなと思ったそうです。遠く西の空が赤く燃えているね、といったセリフは、ドイツに占領されたパリが燃えているという情景を想像させます。そこに、レジスタンスの諜報員として活動しながら、パリから逃げてきたベケットの気持ちが反映されていると言います。 その後、ワークショップの打ち上げの席で、鴻さんは、シャンカルから内戦状態にあるスリランカの話を聞きました。スリランカでの戦闘のターゲットは、知的財産が蓄積されている図書館だったそうです。 それはまた、鴻さんに、「サラエボで、ゴドーを待ちながら」という、スーザン・ソンタグの活動を思い出させました。紛争地域であるサラエボでも、図書館が破壊されました。そこは、ヨーロッパで最も重要なアラビア関係、イスラム関係の本が集積されていた場所です。相手は、そういう知的な財産を抹殺し、そこに立ち返ることができないようにさせるのです。 シャンカルは近年、「Criminal Tribes Act」という作品を製作しています。大英帝国の植民地時代に作られた差別法令であるCriminal Tribes Act(犯罪部族法令)が、現在の独立したインドでもまだ残っていて、その法令が別の形で適用されていることを問題化する現代インドについての作品です。 この作品が現代インド演劇の一つの可能性として感じられるという鴻さんは、ここに至るまでのインド演劇の展開をポストコロニアルの視点から振り返ります。 ■植民地独立後の現代インド演劇が担うもの  鴻さんは、2000年代初頭、ニューデリーのデリー大学などを中心として展開されたNational School of Drama が主体になってやっている演劇祭や、バンガロール、チェンナイなど幾つかの演劇祭を訪れています。 そうした中、ニーラム・マンシン・チャウドリーが演出した「キッチンカタ」を、日本とドイツに招聘するため観に行ったのが、インド北部パンジャブ州の州都であるチャンディーガルという都市でした。 チャンディーガルは、近代建築で有名なスイスの建築家、ル・コルビュジエによってデザインされた人工都市です。もともと、大英帝国統治時代のパンジャブ州の文化的な中心はラホールという古都でした。しかし、インド独立後の分割統治によって、ラホールはイスラム国家であるパキスタン側に入りました。そのためインド側では、チャンディーガルを州都とすべく、ヨーロッパ的な近代都市計画に基づいた都市を作り上げたのです。 チャンディーガルは、帝国主義的な統治のシステムが如実に反映された空間でもあります。整然と碁盤の目上に並ぶ居住区域は、北から南へ上流階級、中流階級、下層民と分かれており、上流階級居住区の上には、議事堂が建設され、さらにその北にロックガーデンというアモルファスな非均質空間があります。 しかし、実際には、下層民の空間の中から、何か腐食するように、人が集まる空間ができてバザール化し、そこに行くとインドらしい景色が広がっている。コルビュジエの描いたモダン都市は、このように腐食されていき、その腐食した空間に本当の町の息吹があると、街を案内しながらチャウドリーさんは鴻さんに語りました。 「キッチンカタ」は、ロックガーデンの野外劇場で演じられました。「キッチンカタ」のカタはインド伝統舞踊カタカリのカタで”物語”という意味です。台所でインドの女性たちは、主人の食事を作りながら、自分の身に起こった差別的な悲しい物語について語っている。ナッカルという非可蝕民として差別されているパンジャブ地方の芸人たちが、そうした台所での悲しい物語を、歌として語り継いでいく。インドのカースト制度の外にいる人たちがインドの現実を舞台で物語ることで、インドの現実が力強く表現されていく作品でした。鴻さんは、この体験を、近代的に装飾されたチャンディーガルという都市の崩壊のプロセスとともに思い出します。 ■『オリエンタリズム』から『文化と帝国主義』へーポストコロニアリズム理論の発展 そして、これを1947年独立以降のインドの一断面としつつ、インドの歴史を辿っていくとき、鴻さんが注目するのが、エドワード・サイード『文化と帝国主義』(1993年)であり、その議論の発端である『オリエンタリズム』(1978年)です。 『オリエンタリズム』では、現存する最古のギリシア演劇とも言われるアイスキュロス作の悲劇「ペルシア人」において、ヨーロッパであるギリシアを勝者として、オリエントのペルシアを敗者として表象していることが、オリエンタリズムの文学的始まりとして論じられています。(後の「トロイアの女」も同様の構図が引き継がれています。) しかし、鴻さんが近年足を運んだギリシアやトルコでの調査を通して、この作品が古代ギリシアで上演された当時、つまり、アンドレ・ボナールのいうアテナイ帝国主義の時代、ギリシア人は、ペルシアやトロイアの実態、またその先の国々のことも熟知、観察した上で作品を書き、観ていたのではないかと考えるようになりました。それは、ソフォクレスと同時代に『歴史』を著したヘロドトスが、サルディス(トルコ)、ペルシア、そしてエジプトまでも旅をしながら実際に見聞きした物語を集めたことからもわかります。鴻さんは、その事実を考え含めることで、勝者=オキシデント、敗者=オリエントの表象を主な問題として扱った『オリエンタリズム』から、より発展的に帝国主義の文化的戦略を論じた『文化と帝国主義』の意味がさらに明確になると考えます。 アテナイを中心に、様々な場所へ植民していくギリシア人たちが、ギリシアの外のことを知っていく。その原型を示すのが、ホメーロスの「オデュッセイア」だと鴻さんは、ボナールに依拠しながら指摘します。ギリシア悲劇よりも数百年前に成立した物語で、場所は特定されていないけれども、オデュッセウスが旅するのは、地中海のアテナイから遠く離れたどこかであるように描かれています。 オデュッセウスは旅の中で、不思議な土地々々を訪れます。有名な場所の一つが、セイレーンの住んでいる土地です。ある岸辺に近づくとセイレーンの歌声が聴こえてくる。あまりに魅力的な歌声に誘われ、その歌声の聴こえる岸辺に上がるとセイレーンたちに食べられてしまう。そのため、船乗りの間では、その歌声が聞こえてきたら、直ちに立ち去るようにと言い伝えられていました。しかし、冒険家のオデュッセウスは何としてもセイレーンの歌を全部聴きたいと考えました。自分を帆柱に縛り付けさせ、漕ぎ手たちには蝋の耳栓をさせて、無事に難関を切り抜けます。 一方、セイレーンたちからみると、自分たちの歌声によって、本来ならば、近づいてくるはずの船が立ち去ってしまった。マックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノは、『啓蒙の弁証法』という本の中で、この物語に触れながら、この出来事の後、セイレーンたちの国でパニック状態が起こったに違いない、そのことによって、セイレーンたちの国が崩壊したのではないかと書いています。つまり、これは啓蒙の力によって、啓蒙されていない土地が破壊されていく様子であると考察したのです。旅を通して、���デュッセウスたちは、怪物たちに遭遇し、怪物たちの考える策を、はるかに超えたアイデアで、次々と怪物たちを退治していく。帝国主義者のたちのやるべき任務を描くこと、それが、オデュッセウスの話の核にあるというのです。 このように敵を知恵で攻略しながら啓蒙していくオデュッセウスの姿は、『文化と帝国主義』で分析されている「帝国主義の楽しみ」に通ずるものであると鴻さんは考えます。 ■ 帝国主義の楽しみ:ヨーロッパ近代の統治プロセス 「帝国主義の楽しみ」と題された章で、サイードは、ラドヤード・キップリングの『少年キム』という小説作品を題材として分析しています。 ラドヤード・キプリングは1865年インド生まれのアイルランド人です。6歳でイギリスの学校に行き、17歳でジャーナリストになるためインドに戻ります。24歳からはアメリカ、南アフリカに滞在しつつ、最後はイギリス、イングランドに落ち着き作家活動を開始。1901年に『少年キム』を書き、1907年にノーベル文学賞を受賞します。 『少年キム』の主人公キムもまた、インド生まれのアイルランド人の少年として描かれています。幼くして両親を亡くしたキムは、パンジャブ州のラホールの博物館で、聖なる水を探し求めて旅をするチベット仏教のラマ僧に出会います。その後、ラマ僧とともに、インド各地を放浪するキムは、ロシアと植民地での覇権を争う大英帝国のグレート・ゲームというスパイ組織と関わるようになります。そこで出会うのは、最初に登場するラホール博物館の館長が象徴するように、軍人でありながら医者であったり、スパイでありながら民族誌研究者だったりといった博識な英国人たちです。その中では、1857-58年にインド北部で起きたセポイの乱について、インド人たちの大反乱を大英帝国がいかに鎮圧したのかということが度々語られます。そして、キムは、新米スパイとして着々と任務をこなしながら、さらなる教育を受けるため、聖ザビエル学園に3年通います。その一方、聖なる水を求めるラマ僧を通して、物語は、あたかも現実のインドのように民族誌的に記述されていきます。物語の最後に、ラマ僧は聖なる水を見つけ、キムもスパイとしての重大な使命を全うし、若きスパイ研究員としての前途が示されます。その時、キムは何かをやり終えた後の、自分の身の回りのものの意味が失って見えてくる深い病に陥っていきます。ところが、それは、やがてすぐに、唐突に、啓示的に、キムが自分の世界が再生していくのを感じて終わります。 サイードは、幻滅と失敗が19世紀のヨーロッパ文学の特質であった、ところが、『少年キム』ではそれは回復されたかのようになっていると指摘します。インドでの様々な調査と分析によって描かれたこの物語の中で、優れた英国人は、帝国の統治において、インド人たちに何かを授与していく存在であり、それを阻む陰謀家たちはやっつけられ、それらのプロセスが成就された時に、何か虚しさを感じていたかに見えたキムの眼の前で世界が蘇ってくる。このような描写によって、キプリングが描いた大英帝国のインド統治の姿は全面的に肯定されていきます。しかし、この全面的な肯定は、植民地インド��対する、大英帝国側の都合の良い解釈と描写によって成り立っているのです。サイードは、ここに、このキプリングの『少年キム』が帝国主義文学として持つ力、その有効性があるのだと分析します。 また、このことは、ミシェル・フーコーが『言葉と物』で分析したようなヨーロッパ的な知の偉大さと関係があると鴻さんは説明します。フーコーは、20世紀は二つの偉大なる知をもたらしたと書いています。一つは、無意識の領野を研究することで意識の構造を明らかにした精神分析学。もう一つは、ヨーロッパの外の世界を調査分析することで、ヨーロッパ文化を構造化した文化人類学。鴻さんは、この二つの知の構造を支えて、生み出したのが帝国主義であり、そして、帝国主義を支えているのは、この知を生み出すプロセスなのだと言います。 キムの才能は徹底的に知的に努力すること。極めて仔細な深い観察という行為によって、その観察の元に、物事をコントロールする方法を見出していくのです。このために、教育システムというものがあります。フーコーの監獄の誕生というシステムは、人間を規律訓練の枠組みの中に投げ込んで、そして、ある社会システムをいわば有効に機能するために必要な人間を作りあげるためのシステムです。そうした監獄のシステムが、近代教育システムの誕生とともに生み出される中で、教育とか医療というものが、19世紀的なヨーロッパ近代の中核を担うようになりました。 それが実質的に力を持ちうるということを、とりわけ「聖ザビエル学院」というものが、インドの教育システムの中核を為すということをはっきり描いているという意味でも、19世紀ヨーロッパの統治システムの思想を『少年キム』の中に、見出すことができる。ここにおいて、キプリングは、徹底的に優れた帝国主義作家としての相貌を見せているのだと、サイードは書いています。 したがって、問題は、もし仮に大英帝国による統治のシステムに対して、反乱もしくは離脱しようと思う時に、一体何を考えなければいけないのかという点にあります。ただただ帝国主義はダメであるというだけではなく、オリエンタリズム批判を超えた先にしか、帝国主義に対する具体的な戦いというものは始まらないだろうということが『文化と帝国主義』で示されていると鴻さんは読み解きます。 ■ 2000年代のポストコロニアル演劇「マジックアワー」 こうしたポストコロニアル的な視点から、シェイクスピア作品を読み直した演劇作品の一つがインド人アーティスト、アルジュン・ライナの「マジックアワー」(2002年)です。マジックアワー=魔術的な時間というタイトルは、ダンスや演劇の持つ非日常的な空間や陶酔的な時間を指します。フィクションにおける事実の隠蔽や捏造が、それとして何の批判にさらされることもなく通り過ぎていく。シェイクスピア作品におけるマジックアワーというものが孕む帝国主義的な側面を問題化した作品です。 この作品では、インドのカタカリのダンサーであるアルジュン・ライナが、例えば、「真夏の夜の夢」に登場する妖精王のオーベロンとティターニアが、インドの少年を取り合う場面を、インド人がどのように考えるのかといったことを語ります。「真夏の夜の夢」において、植民地は帝国のおもちゃのように扱われているけれど、それを意識もされず帝国主義の楽しみとされることに、私たちは賛同するわけにはいきませんよと、カタカリを踊りながら叙事的に物語っていきます。 また、「テンペスト」では、本国を追われ、南の島を治める元ミラノ大公プロスペロー、妖精のエアリエル、島に住む怪物キャリバンの関係に植民地統治の構造が反映されています。土地の言葉を知らないプロスペローに対し、土地の言葉もプロスペローの言葉も理解するエアリエルは、プロスペローの手下となり、現地人であるキャリバンを監視し、支配します。植民地統治は土地の人々から収奪をする時に、自らが行うのではなく、選ばれた土地の人たちを使って収奪するのです。 シェイクスピアの作品にはそうしたことが描かれている。それに対して、どうするのかということを考え表現する人たちが出てきた。『少年キム』を読んで、優れた英国人が支配はしているけれど、支配をすることによって、インド人は困っているのではなく、助かっているのだという風に描かれている。これに対して、そうですね、と思うのか、それさえなく、冒険譚に喜びを見出すのか。実際のそこに描かれている権力空間から、帝国主義の本質という���のを捉え直す作業、自覚化する作業というものに取り組まなければならないと鴻さんは主張します。 ■ ポストコロニアル批評の失効が告げられる時 しかし一方で、近年、ポストコロニアルの有効性を巡る問題も明らかになってきました。大英帝国による帝国主義的な支配と統治によって、約300-350年で作りあげられた帝国を転覆し、そこに新たなものを作り上げようとした時に、どのようなものを作るのか、どのような形での統治のシステムが必要になってくるのか、あるいは何を壊そうとしているのか、そうしたことまで含めてどうするべきなのかというビジョンが、実はポストコロニアル批評の中に欠けていたのではないか。このことを指摘したのが、インド出身の理論家ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクでした。 インドは1947年に分割独立しましたが、約350年にも渡る植民地支配があった中で、大英帝国への政治的、経済的な依存度は高いままでした。独立後のインドでは、多種多様な民族からなる広大なインドを統一する理念は何なのか、ということが問題となりました。そうした中で、スピヴァグをはじめ、植民地からポストコロニアルへと具体的に動き始めた人たちが出てきたのが1970年代、その後、1990年くらいには、ポストコロニアル批評に可能性を感じたアーティストたちが出てきて、「キッチンカタ」や「マジックアワー」という作品を作り始めました。しかし、2010年前後にインドで起こったことは、ヒンドゥーナショナリズムでした。 2007年にスピヴァクが、一橋大学で講演を行いました。その中で、大英帝国の植民地主義と統治の形態というものから脱却したはずのインドが、ヒンドゥーナショナリズムによって、例えば、インドにいるパーシー(ペルシャ人)を迫害、弾圧している。新たなヒンドゥーナショナリズムによる帝国主義的支配といった問題が顕在化してきた時に、ポストコロニアル批評は失効したと、スピヴァクは語り、「ポストコロニアル批評の後には何がきますか?」という問いにも、「わかりません。」と答えました。 この衝撃的な講演は、鴻さんに、もはやどうにもならないような事態が起きているという認識をもたらしました。こうした中で、演劇人はどう応答するのか? こうした状況を打開するための試みのひとつとして、大英帝国時代の部族弾圧法令を取り上げた、シャンカルの「Criminal Tribes Act」といった作品が出現してきたのだと鴻さんは考えています。 ■ それは、抵抗の終焉か?『文化と帝国主義』に立ち返って 本講義では、2000年辺りの現代演劇の動きとして、さらにインドネシア、オーストラリアの作品についても触れました。 鴻さんは、2005-6年にインドネシアのジョグジャカルタでテアトルガラシの「タイムストーン」という作品を観劇しました。動かない時間をテーマに、第一部ではインドネシアの神話的な空間を儀礼的に上演し、第2部では近代的な病院の場面が展開しました。かつて神話的であった社会が、歴史化された社会へと変貌していった。医療的な空間の中に新たな統治形態が示されているように鴻さんには感じられました。 上演後、演出家のユディ・タジュディンに、あなたにとって、重要な演劇テーマはなんですか?と尋ねた時、ユディは「神話、歴史、そして近代」と答えたそうです。インドネシアの場合、オランダによる植民地支配がありました。ヨーロッパによって収奪されつつ、生まれてくる新しいもの。それが、統治の空間としての医療空間でした。フーコーによると、そこでは、人体=ヒューマンボディが、社会的システム=ソーシャルボディのように統治される。インドネシアは、そういう意図的に意識化された知の構造をヨーロッパによって強制的に摂取させられている。しかし、神話というものも消えたわけではない。歴史というものを自覚することで、新たな統治の形態と、近代以前の統治の形式を配置することで、現代のインドネシアをどの方向に向けていくのが良いのかということを考えることが我々にとって重要であり、演劇活動として必要なことだとユディは語っていたそうです。 また、オーストラリアの先住民アボリジニーの問題を扱った作品、ブラック・スワン・シアター・カンパニーの「マムの生涯における輝ける場面」(2001年)(改題されたタイトルは「ナパジ・ナパジ」)は、マラリンガという南オーストラリアの地域で、英国が行った核実験のために土地を追われたり、被害者となったアボリジニーの復権を訴える作品です。また最近では、ふじのくにせかい演劇祭2018で、アボリジニーの俳優ジャック・チャールズが演じる「ジャック・チャールズvs 王冠」という作品が上演されました。作者自身がアボリジニーとしてどういう生涯を生きてきたかということを語り、演じながら、アボリジニーの人たちの主張と権利に関する問題が展開される作品です。 鴻さんは、こうした抵抗の演劇に、強く惹かれながら、しかし、ある意味、神話的な世界であると同時に、歴史における具体的な経験として、自分たちの踊りや歌しか武器がないというのは弱いのではないのかとも感じるようになりました。 『文化と帝国主義』に立ち返ると、帝国主義の統治システムについて批判するだけでは不十分であり、その統治を転覆させた時に、新たな統治の構造、もしくは反統治といったビジョンの提示がどのようになされるのかということが必要になってきます。 あるいは、たとえば、1994年にアパルトヘイトが廃止された南アフリカなどでも、2000年初頭に帝国主義からの解放、独立を経て、問題を解決するための具体的な道のりが示された希望の時代がありました。しかし、2010年頃に新たな問題が噴出し、その方法がうまくいっていなかったことが明らかになってきました。そして、2018年現在は、うまくいかなかった、だから諦めようといった状況にあるのではないか、抵抗の終焉といった状況にあるのではないかと、鴻さんは感じています。 しかし、鴻さんは、もしレジスタンスを放棄するならば、演劇は消えていくと考えます。演劇がビジョンを提示し、実現されなかったビジョンの欠陥について改めて分析し、その挫折を踏まえた上でビジョンを提示していく。演劇が演劇であるために、そのあり方を消さないためにどうすれば良いのか。革命なき戦争の時代の演劇、その新たな展開へどのように踏み出していくのかということが、今まさに問われていると訴えました。 参考文献:
ラディヤード・キップリング『キム:印度の放浪児』(1952年) 文/椙山由香
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thetheatretheoryoftheapes · 7 years ago
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#4「キマイラ演劇はいかにして出現したか/コートジボワールの衝撃」
偽装された演劇祭?ー鴻さんが、コートジボアールの国際舞台芸術祭MASAでの衝撃的な体験を振り返りながら、批評がいかに、演劇作品それ自体と、その背景にある歴史や社会との関係を捉え、言説化しうるのかを問いかけます。また、3月に旅したヒッタイト(トルコ)の話を織り交ぜ、「演劇と帝国主義」の視点から、鴻的ギリシア悲劇論もさらなる展開をみせました。下記は講義の要約です。 ■帝国の周辺としての古代ギリシアと演劇の起源 前回は、「演劇と帝国主義」をテーマに、鴻さんが、エドワード・サイードの『文化と帝国主義』を参照しながら、ヨーロッパの人たちが植民地を演劇においてどう描いているのか、植民地であったところに生きる人たちがどんな演劇を作るのか、ということを考える意味について論じました。今回は、演劇における植民地主義の問題と、古代ギリシアにみられる演劇の起源の関係について考えます。 鴻さんは、この2つの関係について調査するため、今年3月に、トロイアと、その背後にあったヒッタイトの遺跡を訪れ、さらに、アッシリア文化をギリシアにつなげるキリキア、あるいはイオニア哲学始まりの地であるイオニアにも足を伸ばしました。そして、それらを実際に目にした時、古代ヒッタイト王国の遺跡の巨大さに驚いたそうです。古代ギリシアのミケーネ文明やクレタ島のクノッソスの遺跡よりも遥かに巨大であった古代ヒッタイトは帝国でした。 そのことに着目した日本の哲学者が柄谷行人であったと鴻さんは言います。ギリシアは、帝国の周辺であり、周辺の植民地のようであった場所が文明の発祥地になった。つまり、それは、一般的に偏狭の地と言われる場所に偉大な文化が起こるという逆説を示唆しています。 ヒッタイト王国と敵対関係にあったエジプト帝国、メソポタミア、アッシリア帝国の緊張関係から紀元前1275年頃、ヒッタイトとエジプトがカディシュの戦いを起こしました。その後、結ばれた平和条約は、文字で残されていて、解読もされています。しかし、この帝国の戦いの中に、将来ギリシア悲劇を生み出すミケーネ文明は入っていません。帝国ではなかったギリシアは、帝国エジプトと帝国ヒッタイトの周辺であり、トロイアもまた、ヒッタイトの属領のようなものであったと考えられます。 ここで、鴻さんが関心を持っているのが、ある種の強大な国家があり、その国家と交渉関係にある周辺地域との交易が実り豊かなものを作り出す可能性があるのではないのか、ということです。もちろん、国家があり、それほど大きくない周辺の国がある時に、必ずしも、それらが植民地であるとは限らない。また、20世紀の帝国主義のヨーロッパとヨーロッパの植民地の関係も、宗主国と植民地は、搾取する側��搾取される側の関係だから、素晴らしいものではない。にもかかわらず、その関係の中から新しい文化が生み出されてくる可能性があり、それをどういうふうに分析したらいいのか。鴻さんは、サイードもその可能性を考えていた1人ではないかと捉えています。 ■コートジボアールの偽装された現代舞台芸術祭−文化的文脈の重要性 鴻さんが、そう考えるようになったきっかけは、アフリカの幾つかの演劇祭に訪れた時でした。例えば、2001年の3月にコートジボアールのアビジャーンという町で、2年に1回開催されているMASAというアフリカ演劇祭を訪れた時、3月3日から10日間で、演劇だけでなく、ダンスや音楽も含めて、約40団体が作品を上演していました。セネガル、南アフリカ、コートジボアールなどアフリカ各地からの作品を主に観たそうです。その頃は、日本でアフリカの現代演劇を観ることはあまりなかったことなので、単純にアフリカに現代演劇があるのだということに感激したそうです。1週間でのアビジャーンの滞在は、ホテルとフェスティバル会場との往復。そして、ゲストとして、村のお祭りに招待されたり、アビジャーンの市場に連れて行ってもらったりしながら過ごしたそうです。 その時に観た、イマコ・テアトリ(Ymako Teatri)の『パレオ(Paleos)』について、音楽とダンスと対話劇がどのように融合しているかということを、猿の演劇論第2期第1回目の講義で話しました。今回、改めてその事に触れようと思い、過去の記録を探したところ、その年のMASAに関する批判文章を見つけたそうです。 それによると、この年は、これまでMASAに関する記事を書いてきたフランスの新聞、ルモンドやリベラシオンなどが、全く記事を書かなかった。なぜかというと、北部、西部地区にはいまだ内戦状態のところがあり、政情不安定で危険だからという理由で、フランスのリベラシオンなどの記者すらこの年の演劇祭には来なかったというのです。一方で、海外からのゲストたちは、本来とは違う、コートジボアールの姿を安全に隔離される形で見ている。海外ゲストたちが送迎される車は特別に仕立てられた車であって、しかも通常はコートジボアールにあるたくさんの検問所が、フェスティバルの1週間は廃止されたということを、この外国のお客たちは知らない、と書かれていたそうです。 今となっては、これが事実かどうか調べることも難しく、MASAに参加するために来た外国人ゲストの一人であった鴻さんには、この事実はわかりませんでした。ただ、この文章は、作品の批評とか分析といったことだけでなく、そういうことも含めた調査がなされなければいけないのではないかということを、鴻さんに思い至らせました。 イマコ・テアトリ(Ymako Teatri)の『パレオ(Paleos)』は、大統領選をモチーフにした作品です。前年の2000年10月に大統領選挙で、いわゆる民主派と言われる大統領が当選しました。そうした中で、MASAが開かれ、そこで、コートジボアールの劇団が大統領選をめぐる演劇を上演する。その選挙においてどういうふうなポジションを取るべきなのか、ということを言い争っている人たちがいて、舞台上で議論をしている。そういう意味で、政治的に危ういことをやっていたのだけれど、鴻さんは、当時、それを美しい民主主義的な出来事のように感じつつ見ていたそうです。 議論をする人たちとともに、ダンサーや楽団がいて、集団的なコロスを作っていた。ダンサーや楽団に囃し立てられるようにして、議論がなされているけれども、その議論が包み込まれていくような形で、ある種の村落共同体的な雰囲気が浮上してくる。そこに、村落共同体のユートピア的な空間が立ち現れます。タイトルのPaleosというのは、Paleoristic、「太古の」という意味です。“Waiting for the Wild Beasts to Vote”というのが、原作のタイトルであり、つまり、太古的な匂いを漂わせているもの、Wild Beastsが、選挙をすることで、そこに民主的なものを実現するという意味です。選挙なしの共同体ではなくて、選挙のある始源的な共同性によって、新しい社会が誕生することが知覚されるときに、演劇という形式が登場してきた。このようなことが、コートジボアールの世界演劇祭で展開されていて、その演劇祭の冒頭の開会式に、前年の選挙で選ばれた大統領が来て、スピーチをしていた。鴻さんは、そのことを素晴らしいことだと思って見ていた。しかし、それらすべてが、実は演出されていたことであるという批判文章が、その2年後の2003年に書かれているのです。 「猿の演劇論」第2期の最初の回で、鴻さんは、『パレオ(Paleo)』をムヌーシュキンの太陽劇団と比較しながら、サイードの『文化と帝国主義』の中で語られていたことが、演劇においてはアフリカで起こっていたと考察しました。しかし今、そのように作品の魅力を肯定的に捉え、分析するだけでなく、作品が上演されたフェスティバルを取り巻く文化的な現実との関係をも含めて、どのように語るべきかということが問われているのではないかと考え直しています。 ■地中海の交易の歴史から『オリエンタリズム』を再考する サイードは『オリエンタリズム』において、アイスキュロスのギリシア悲劇『ペルシア人』を参照しながら、そこに描かれるギリシアに敗れ、嘆き悲しむペルシア人のイメージが、オリエンタリズムの起源だとしています。鴻さんは、これが『トロイアの女』にも反復されていると考えています。ギリシアに敗れた者たちの嘆きを描くことで、ギリシア悲劇が成立しているのです。サイードは、普通にギリシア悲劇を観ているだけでは、そのことにあまり目がいかないと指摘しています。こうした状況を逆転するために書かれたのが、サイードの『文化と帝国主義』であったと鴻さんは考えています。 そして、鴻さんが古代ヒッタイトにこだわるのもまた、こうした悲劇の誕生が、ギリシアが弱小国家であった過去とのつながりの中で捉え直す必要があると考えているからです。乱暴な説ではあるが、と注釈しつつ、鴻さんは、紀元前1200年頃にあったとされるトロイア戦争は、紀元前2000-1200年頃の弱小国家群であったギリシアが植民地解放闘争のようなものを仕掛けた戦争の最終局面と考えられると推論します。負けたトロイアは滅亡し、消えていく。同じころ、ヒッタイト帝国も消滅に向かいます。ギリシアは勝ったとされているけれども、ギリシアも帝国も同時に消滅していく。その物語を、約400年後に、政治的、経済的基盤を手に入れたギリシア人たちが、『イーリアス』や『オデュッセイア』などで勝利の物語として歌い上げた。そして、その弱小国家群であるギリシアが、植民地に落ち込まないための戦いの連続の中で、ギリシアを攻め損ねたペルシアの敗北を歌った。鴻さんは、ギリシア悲劇は、このようなかなり広い世界地図の中での関係が前提となって誕生したと考えているのです。 鴻さんがディレクションをした2002年のカンプナーゲルのラオコオーン・サマーフェスティバルのシンポジウムに登壇した、イラク人の演劇研究者でアクティビストでもあるラミース・エル=アマリさんは、そのトークのなかで、かつては地中海が交易の場として重要であったと語っています。地中海の南には、エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア。北にはギリシア、トルコ。東にシリア、レバノン、パレスチナ。この重要な文化的な場が意識から消えるとき、地中海の南と北の交易が絶たれるような時に、問題が起こると指摘しています。 鴻さんが、フランスからアフリカへ飛行機で向かう時、窓からアルプスの雪を見ていると、すぐにユーゴスラビアの上空になり、やがてギリシアを通過、それから、クレタ島上空というアナウンスがあって、そうしたらすぐにカイロへ到着したというのです。この時に、鴻さんのなかで、カイロとギリシアを巡る興味が一気に湧き上がりました。エジプトの巨大な遺跡群ルクソールは、かつてテーバイと呼ばれていました。エジプトの遺跡とヒッタイトの遺跡の獅子の門は同じような作りをしています。また、クノッソスの宮殿には、エジプトの壁画を模したような壁画があります。ミケーナイの城塞都市を建設したのはヒッタイトの人たちであったという説さえあるそうです。これらは、ギリシアのアテネ、クレタ島のクノッソス、エジプトのカイロをつなぐ文化的交易が存在していたことを示しています。 サイードの『オリエンタリズム』にあるギリシアの超越的権力性のようなものに対するコンプレックスを克服し、こうした広い世界地図からギリシア演劇の起源を再考する必要がある、そして、地中海の北と南の関係性に意識をおきながら、アフリカ演劇もまた考えられるべきであると鴻さんは論じます。 2003年に初演され、日本にも来日した南アフリカのヤエール・ハーバーの『モルーラ(灰)』は、アパルトヘイトが廃止されてから約10年後、これまで迫害、抑圧されてきた人たちが、加害者にどう対応するのか、これは大変な問題でした。この演劇ではそれが、真実和解委員会の形式を用いながら、アイスキュロスのギリシア悲劇『オレステイア3部作』をなぞって演じられました。加害者と被害者の発言が行われる舞台上では、加害者のセリフが王妃クリュタイムネーストラーの台詞として語られていき、夫アガメムノーンを殺害したことは認めるが、しかし、アガメムノーンも愛する娘を殺害したではないかと訴える。だが、自分も夫を殺害した後では、恐怖からか、娘のエレクトラを虐待している。そして、どのように虐待していたのかを示すため、エレクトラを相手に実際にアパルトヘイトの中で行われていた虐待の仕方を演じる。虐待されるエレクトラを演じるのは小柄の黒人、そしてクリタイムネーストラーを演じるのは大柄の白人です。ものすごい迫力の感じられるシーンです。このように、舞台では、『オレステイア3部作』の物語になぞった復讐の応酬が繰り広げられ、その物語を支えるようにコロスが現れ、倍音の歌と南アフリカの伝統楽器の演奏が行われました。その中で、唐突に物語の中で復讐の断ち切りが行われていく。この作品は、アパルトヘイト後に実際に加害者として復讐されたPoor Whiteの問題を背景としています。アパルトヘイト後の復讐では、白人の中でも貧しい人たちが襲撃の対象となったのです。アパルトヘイトがなくなったことは���いことだけれど、アパルトヘイトがなくなったことによっても問題が起きていたのです。ヤエール・ハーバーは、そのことを指摘しつつ、真実和解委員会という方法によって解決の糸口を探ろうとするような作品を作りました。 さらに、鴻さんがカイロ実験演劇祭で観たシリアの『MESS』という作品では、観客は、ある古い由緒ありげな建物の中庭の席に座っていると、向こうの建物の窓越しに、虐待される女性と姿の見えない加害者のやり取りが展開されているのを垣間見ます。その後、女性とその協力者たちが始めた抵抗運動の決起集会のようなものが中庭で展開されはじめるのですが、最終的に現れた(加害者である)巨大な図体の男性の圧力によって失敗に終わらせられるという、シリアにおける女性解放運動がどのようなものであるかを考えさせる作品が上演されていたそうです。 このほかにも、アジア、アフリカ、南アメリカで、鴻さんが2000年から2004年に観た作品は、政治的、アクティビスト的な問題意識を問うものが多くありました。そして、その当時は、復讐の問題とか、和解の困難性、あるいはイスラムにおける女性の社会的位置とか、それに対する解決のヴィジョンを演劇的構造の中で考えるというように、あるはっきりとした可能性の容態というようなものを提示できるような形で世界は動いているように感じられていたと鴻さんは言います。しかし、これらの事柄が、あれから15年を経た今、どうなっているのか? 次回以降、そのことを、大きな問題として考えていきたいと、講義は締めくくられました。 参考文献: 1. 大林公子、『アフリカの小さな国――コートジヴォワールで暮らした12ヶ月』(集英社新書、2002年) 2. エイゼンシテイン「無関心な自然ではなく」(『エイゼンシュテイン全集』第9巻(キネマ旬報社) 3. Ahmodou Kourouma, Waiting for the Wild Beasts to Vote,(London,Vintage,2004)、[『パレオ』の原作小説] 文/椙山由香
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thetheatretheoryoftheapes · 7 years ago
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#3 「ダンテ、ベケットそしてアリストパネース―コメディアの二つの系譜:ソクラテスの視座から」
演劇の起源において、哲学との遭遇から出現したトラゲディアとコメディア。その実際の上演を、ソクラテスは、アリストパネースは、どのように観て、議論したのか? 彼らの生きた時代に思い巡らし、失われた議論の果てから、コメディアの本質に迫りました。下記は講義の要約です。 ■ ソクラテスの視座から-演劇の起源における哲学との出会い ドイツの文学研究者のE・R・クルツィウスが『ヨーロッパ文学とラテン中世』という著書で、ダンテについて言及しています。そのなかで、イタリア中世の詩人、ジョヴァンニ・ボッカッチョとダンテを比較して、「ボッカッチョは面白い。しかし、ダンテは偉大である」と言っていますが、この言葉は、鴻さんの好きな言葉の一つだそうです。それになぞらえて、鴻さんは、「ソクラテスは面白い。しかし、ソポクレスは偉大である」と考えます。 一方、デルフォイのアポロンの神託によるソクラテスとソポクレスの比較は違います。アポロンの巫女の神託は、哲学者ソクラテスの弟子のカイレフォンに「ソポクレスは賢い、エウリピデスはさらに賢い。しかし誰より賢いのはソクラテスである」と告げます。それを聞いたソクラテスは、果たして自分が本当に賢いのかどうか確かめるために、いろいろな人と議論を始める。そうすると議論に勝ってしまう。それでソクラテスは神託の言葉を否定できなくなる。このようなソクラテスを描いたのが、ソクラテスの弟子のプラトンです。 演劇をやっている人の多くは、ギリシア演劇を観ますが、必ずしも、その戯曲が古代ギリシアで上演された時に、どのように観られただろうかということまで思い馳せません。例えば、ソポクレスの『アンティゴネー』は、紀元前441年頃の上演と言われています。(講義では、年表を配布、『世界古典文学全集 第12巻 アリストパネス』 p.12-p.14)そのとき、ソクラテスは、28歳。年1度の大ディオニーシア祭は、アテナイの市民全員が集まって観ることになっているのだから、ソクラテスは『アンティゴネー』を観ています。『アンティゴネー』が問う、正義とは何か、このことをソクラテスが考えないはずはありません。(残念ながら観劇記録は残っていません。) 「ここで、今が紀元前450年、私がソクラテスだと考えてみてください。」と鴻さんは言います。紀元前469年にソクラテスが生まれるので、今は19歳です。8年前にアイスキュロスの話題作『オレステイア』が上演されています。そのときソクラテスは11歳ですから、この作品は見ていません。6年前には、アイスキュロスが亡くなっている。ソクラテスは13歳です。オレステイア三部作については見ていないけれども、やがてそれを読むことになる。その5年後、紀元前445年にアリストパネースが生まれる。およそ10年後には、ソポクレスの『アンティゴネー』が上演される。 このような形で、アリストパネースの視座から古代ギリシアを読み解いたのが、アレクシス・ソロモスの『The Living Aristophanes』です。(この本では、アリストパネースは紀元前450年生まれという説をとっています。)『アンティゴネー』の上演があった時、アリストパネースは4歳-9歳。そして、ペロポンセス戦争が起こった紀元前431年は、14歳-19歳です。この本では、ある視座から当時のギリシアの重要な人たちを配置してみると、私たちもさまざまなものが見えてくるだろうということが示唆されているのです。 アリストパネースの生きた時代、ペロポネソス戦争が始まり、アテナイにペストが流行し、その翌々年、紀元前429年に、アテナイの政治家の重鎮であったペリクレスが死去します。これらの社会の出来事の関連が、アリストパネース作品から読み取れると鴻さんは説明します。 例えば、『アカルナイの人々』は、ペロポネソス戦争が始まり、アテナイ近郊に住むアカルナイの人々が土地を捨てアテナイに逃れてきた状況を描いた物語です。『The Living Aristophanes』では、当時こうした状況にあったのは、アカルナイの人々だけではなかっただろうと書かれています。アテナイ周辺の村々のほとんどの人たちがアテナイに逃れてきていただろうと推察されるのです。(配布された地図を見ながら。『ギリシア喜劇全集4 アリストパネースⅣ』 P24)軍港であるペイライエウスからアテナイの城壁の間に長壁(紀元前450-445年)が築かれています。さらに、その南側にパレロンの長壁(紀元前461-457年)があります。ペロポネソス戦争が始まる紀元前431年までに長壁が二重になっているのです。そのアテナイの長壁内は、戦争当時、家を失った難民でごった返していた。戦争でアテナイ近郊が難民で溢れ、衛生状態の悪いなか、ペストが蔓延し、重要な政治家であるペリクレスが死んでしまうといったことが起こったのです。その状況を、アリストパネースは15-20歳で見ていたということになります。 さらに、鴻さんは、アリストパネースが紀元前440-435年に受けたとされるアテナイの初等教育にも関心を向けます。その当時、ホメーロスの叙事詩を筆記するということが初等教育で行われていたのです。『イーリアス』や『オデュッセイア』は、アリストパネースの生きた時代から、約750年前にあったとされる戦争の話を神話として伝えたものです。そこでは、デュオニュソスは力強い神ではなく、自らの信者を見捨て、女神のテティスに泣きつくような、だらしない神として描かれている(『イーリアス』第6書 130-140行)。戦士アキレウスの勇壮な物語だけでなく、それらを取り巻く神々の悲喜劇も描写する、ホメーロスの神話的な世界に子供の頃に触れていたのです。 もう一つ重要な出来事は、紀元前540年頃を前後して、ペルシャに攻略されたイオニア地方の人々が放浪をはじめ、アテナイでも活動を開始したことです。それらの人たちはやがてアテナイを席巻することになり、アリストパネースもそうしたソフィストと呼ばれる人たちに関心を持ち、接触をします。 『The Living Aristophanes』では、アリストパネースの最初の作品の主人公はソフィストであることに注目します。アリストパネースの最初の作品『ダイタレース(宴の人々)』は、紀元前427年に上演され、2位を取りました。その戯曲はほとんど残っていませんが、残されたほんのわずかな断片から、都会から田舎に帰ってきた息子と父親の会話の様子が伺えます(講義では資料として配布。「アリストパネース断片(ダイタレース)」『ギリシア喜劇全集4 アリストパネースⅣ』p289-p301)。父親が高等教育を受けさせようとアテナイに送った息子は、ソフィストの集まりに出て、弁論を鍛えて帰ってきたが、勤労を軽視する。父親は、会話の中で、当時の有名なソフィストであるトラシュマコスの名前を出しながら、その姿勢を皮肉ります。一方、田舎に残ったもう一人の息子は素直に実直に育っている。この2人の兄弟を並べて、ソフィストの弁論というものが、現実にどのように有効なのか、を批評的に描いた作品です。紀元前427年にアリストパネースの書いた最も古いコメディアの最初の作品のモチーフが、都市と農村の関係、そして、都会のソフィストの言説といったものだったのです。この批判的な言説は、その2年後に書かれた『アルカナイの人々』にも入り込んでいきます。アリストパネースは、哲学者がアテナイで新たな活動を始めるなか、それらに関心を持ちつつ、自己で分析し、戯曲を書き始めたのです。 アリストパネースの作品に、ソクラテスの仲間であるソフィストが出てくる。さらに、紀元前423年の作品『雲』の主人公はソクラテスです。その上演をソクラテス自身が観ていたことは有名な話です。このように、演劇の起源において、劇詩人と哲学者たちには強いつながりがあったと鴻さんは説明します。にもかかわらず、現代では、そのつながりのなかで演劇を観ていこうとしない人たちの方が多い、それだけでなく、つながりがあると思わない人たちも多い、では、その流れはなぜ起こったのでしょうか? ■ プラトンの芸術否定論 そこで、問題になるのがソクラテスの弟子であるプラトンです。紀元前375年に書かれる、プラトンの代表作『国家』では、ソクラテスが様々な人と国家について論じます。その舞台となる時代は、登場人物や話の内容から、だいたい、紀元前430-420年の間と特定されています。(鴻さんは、プラトンは自分の誕生年である紀元前427年を舞台としたのではないかと考えています。)副題は「正義について」。法と正義、共同体の正義を巡って、ソクラテスとその他の人たちが対話をします。このテーマを代表する演劇作品は『アンティゴネー』です。28歳の時に観てから数十年、42歳となり哲学者として絶頂期にあるソクラテスが、しかし、その作品を問うような場面は『国家』には出てきません。紀元前430-420年の当時、ソクラテスが絶対に話したであろうことが、ほぼ50年後、紀元前375年にプラトンが書いた『国家』には出てこないのは、おかしいと鴻さんは考えます。 また、鴻さんは、『国家』において、ソクラテスが、ホメーロスを否定する発言をしていることにも疑問を持ちます。『国家』では、死を恐れず勇気ある人を育てるにはどうしたら良いか?という問いに、ソクラテスが、黄泉の国を恐ろしいものだと描くのはやめるべきである、また、英雄アキレウスが親友の死を目の前に嘆く描写は、ことごとく排除すべきである、と答える場面があります。ホメーロスについての議論は良いけれど、神や英雄が嘆くなんておかしい、ホメーロスのそうした文章は排除すべきである、とソクラテスが言ったことになっている。しかし、鴻さんは、ソクラテスがそういうことを言うとは考えられないと言います。こうした記述を、あたかも記録のように、プラトンが『国家』に書いている。哲学から芸術を排除しようとする、プラトンの芸術否定論は、抽象的なものではなく、かなり具体的に提案されたものであったと指摘します。 鴻さんがそう考える証左として、紀元前427年に、ソフィストが劇中に登場するアリストパネースの『宴の人々』が上演されていたことを挙げます。さらに、アリストパネースは、紀元前405年の作品『蛙』で、ディオニソスが、偉大な神々でもなく、英雄でもない、客観的な視点で描きます。このようにホメーロスの神話的な世界観を学びながら、ソフィストに関心を持ち、現実の戦争に、コメディアの上演という形で具体的な対応をとろうとするアリストパネースが現れた同じ時期に、そうした異質なものの対話的な衝突が生み出す豊饒な世界の存在をソクラテスは知っていたはずである。そのようなソクラテスが、親友の死を嘆くような弱気なアキレウスの部分はホメーロスから削除すべきだなどと言った平板な世界像を語るだろうか? と鴻さんは、疑義を呈します。 さらに、問題はそこだけではないと指摘します。それまで、いわゆる哲学者と劇詩人の間の共通の議論の場が存在していたものを、分離する作業というものが、プラトンによってなされ、それが大成功に終わったのではないか。プラトンが勝利した歴史の後で、私たちは演劇を観ているのではないか、と分析するのです。 ■ ダンテ、ベケットそしてアリストパネース-コメディアの本質を巡って ダンテ、ベケット、アリストパネース、この3名の作家を並べて論じていたのは、英文学者の高橋康也でした。実際、サミュエル・ベケットはダンテが大好きで、初めての小説である『蹴り損の棘もうけ』では、ダンテの『神曲』の登場人物ベラックワと同名の人物を主人公にしています。ベラックワは、煉獄編の門の前にいる人物で、怠け者の罪で煉獄にいる。悔悛の気は全くなく、門の前でただ待たされている。この人物は、ベケットのお気に入りでした。『蹴り損の棘もうけ』では、ベラックワが、イタリア人家庭教師に付いてイタリア語の勉強をしている。その時に、ダンテの『神曲』天国編を読んでいるけれど、よく分からない。質問を繰り返すなか、やっと核心的な質問に辿り着きそうな時に、戸口に沢山の人が来て騒ぎとなり、その問題は解決されないまま終わってしまいます。このように、ベケットは、その構想を引き継ぐ形で、『神曲』をさまざまな形で自分の作品に取り入れました。ほとんどの作品はダンテの『神曲』のアリュージョンだとも言われています。 『神曲』の日本語タイトルの元となる��イタリア語のタイトル“La Divina Commedia”= “Divine Comedy”(神聖喜劇)を与えたのが、前述したボッカッチョです。ダンテが当初つけたタイトルは“La Commedia”。英語に直訳すれば“The Commedy”であり、「神聖」という意味はありませんでした。 ベケットは、ダンテの『神曲』の本質、つまりコメディアの本質は何かということを考えながら、イタリア語を習う人物と教師の議論が、核心に迫るところで頓挫してしまう物語を書きました。これは、プラトンの『饗宴』のアリュージョンとも言えると鴻さんは考えます。プラトンの『饗宴』は、悲劇作家アガトーンの作品がレーナイア祭で優勝した翌日の祝勝記念パーティーの場面を描いています。アガトーンの作品にちなんで、エロスについて語ろうではないかと議論が始まり、ソクラテスが話し始めるなかで、アリストパネースに対する批判的な言説がソクラテスから出てくる。それに、同席していたアリストパネースが意を唱えようとしたところで、戸口で騒ぎが起こり、呑んだくれ、へべれけになったアルキビアデスが入ってきて、話がうやむやになる。それから、多くの人が泥酔するなか、アリストパネースとアガトーンとソクラテスの3人での劇を巡っての対話が始まります。ソクラテスは、アガトーンには喜劇を書くように、アリストパネースには悲劇を書くようにと話します。そこで、アリストパネースが、悲劇と喜劇の違いをたずねます。ソクラテスがその本質的な違いを述べようとする。しかし、肝心なシンポジウムの報告者には、その内容がわからなかったのか、対話の詳細は残されませんでした。その上、報告を『饗宴』としてまとめたプラトンは、ホメーロスにも悲劇にも興味はなかったので、調査もされなかったと考えられます。ベケットは、こうして断ち切られてしまった、コメディアの本質についての問題性を、作家として演劇において探求したのではないか、と鴻さんは論じます。 ほかにも、鴻さんが考えるアリストパネースとダンテに共通する特徴は、冥界記述、中でも、実在した人物に対する批評的な記述にあると言います。アリストパネースは、紀元前405年の『蛙』で、当時から三大悲劇作家と言われ、すでに亡くなり、冥界にいるとされるエウリピデス、ソポクレス、アイスキュロスを登場させ、各々に自作がどれだけ優れているかの議論をさせます。これはダンテも『神曲』でもやっている手法で、死んだ後に、その生涯を振り返り、それによって作家論が書かれるというものです。このように、人の生涯であれ、戦争であれ、正確に現実を構造化してみせる、そのことがコメディアにおいて重要であるとアリストパネースは考えていた。そうしたやり方を、イオニアの哲学者たちから習ったのだと考えられます。 ■ イオニアの哲学による、叙事詩→悲劇への変換 ここで、具体的に、イオニアの哲学と演劇の関係を考えるとき、鴻さんのテーゼである「ホメーロスの叙事詩をイオニアの哲学で変換すると、古代ギリシア悲劇が生まれる」というものがあります。 イオニアの自然哲学は、自然現象や社会現象を、ある種客観的に分析して構造化することで、神話的な世界から、いわゆる科学的な世界へと人々の認識を移行させました。ソフィストたちはイオニアの自然科学が、同時に、社会科学的な側面も色濃く持っていたということを身に背負いつつ登場してきた人たちです。そうして新たに認識された(されつつあった)世界構造というものとリンクしながら、自然科学的、かつ社会科学的な世界構造というようなものをどのように描くかということに、興味を持ったのがアリストパネースでした。 つまり、ホメーロス的な神話的な世界が、イオニア哲学の自然科学的な認識というものによって、変換されて、舞台にされた時に、コメディアとトラゲディアが出てきた。その結節点にコメディアの場合はアリストパネースがいたと言えます。そして、ダンテはアリストパネースを読んだことがなかったというのが通説ですが、思考の相同性において、ダンテがやったことは、アリストパネースによってすでにやられていたと言います。 そして、鴻さんが今試みているのは、この紀元前5世紀の演劇��哲学的認識の表象についての議論を推し進めることで、プラトン的な芸術批判を、転覆させていくということを具体的にしていこうとすることでもあると語られました。 ボナールの『ギリシア文明史』では、古代ギリシアにあって、症例研究を重んじる臨床医学的なヒポクラテスとアリストパネースが並んで論じられています。臨床医学的な症例研究とは、その姿、皮膚の色の変化など、皮膚の表面に現れ出てくるものを観察しながら、病気の本質を突き止めていくことです。ボナールは、ヒボクラテスの臨床医学的な記述が、社会的な分析に用いられるとアリストパネースのコメディアとなることを示唆しています。鴻さんは、このように世界の分析的記述というものが、何かを呼びかけながら、なされ続けている限りにおいて、コメディアは書き続けられていく、と考えています。 ■ Q&A 参加者: 今回の話が、現代にどうつながっていくのか、今後の展開とともに教えてください。 鴻:今日の話は、演劇が現実とどう関連しているのかを構造的に明らかにしようという試みのつもりで話しています。ギリシアにおいてそれがどのように推移していたかということです。イオニアの哲学については、より具体的に話していく必要があると思っていますし、今後も研究を続けていきます。ただ、講義として、「Part1. 演劇の起源と哲学の系譜」は、今回で終了です。4月からは、次の展開として、「Part2.演劇と帝国主義」というテーマで、アフリカ、南アフリカ、アジアなどの20世紀の演劇作品を挙げながら、帝国主義の問題を考えていこうと思っています。
参考文献: アンドレ・ボナール『ギリシア文明史』(岡道男・田中千春訳、人文書院、1975年) E・R・クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』(南大路振一、岸本未通夫、中村善也訳、みすず書房、1971年) サミュエル・ベケット『蹴り損の棘もうけ』(「ダンテと海ざりがに」の章など) 「アリストパネース断片(ダイタレース)」、『ギリシア喜劇全集4 アリストパネースⅣ』(岩波書店、久保田忠利ほか訳、2009年) トラシュマコス断片、『ソクラテス以前哲学者断片集 第Ⅴ分冊』(岩波書店、1997年) アリストパネス『世界古典文学全集 第12巻 アリストパネス 』‎(高津春繁 編纂、筑摩書房、1964年)
   文/椙山由香
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thetheatretheoryoftheapes · 8 years ago
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Prologue 「石を投げるサイード、じゃがいもを掘るベケットーポスト・インペリアズム演劇の起源」
21世紀演劇へのビジョンを考える始まりに、まずは、20世紀の偉大な思想家サイードと劇作家ベケットに学びます。猿の演劇論第2期のテーマであるポスト・インペリアリズムの概要を含めつつ、これからの議論の起点となる講義を展開しました。下記は、そのおおまかな内容をまとめたものです。 -- 鴻さんは、日本の現代演劇は、多くの人が言うように、1960年代に始まると考えます。寺山修司、鈴木忠志、唐十郎たちの登場と共にです。そして、いわゆるこのアングラの時代に、ヨーロッパのいろいろな作家が紹介されたなかの一人がサミュエル・ベケットでした。一方、ヨーロッパでは、1896年にアルフレッド・ジャリの『ユビュ王』が発表され、現代演劇の嚆矢となりました。そして、ほぼ同時期にチェーホフの『かもめ』も上演されましたが、チェーホフは現代演劇ではなく、近代演劇です。このように、20世紀、日本は近現代演劇の時代であり、ヨーロッパでは20世紀は現代演劇の時代であったというのが通説であると言います。 そして、20世紀は戦争と革命の時代でもありました。第一次世界大戦とロシア革命やドイツ革命の挫折。カントールが「人間は泥と灰と石鹸になった」と語る第二次世界大戦後、中国革命からの社会主義の拡大。これらの二度の世界大戦は実は一つの世界大戦であり、1991年のソヴィエト連邦崩壊まで、それは続いていたという説もあるそうです。さらに、法��フランシスコが第三次世界大戦の只中にあると言う現代。鴻さんが、革命なき戦争の時代と呼ぶ21世紀の始まりであり、ロシア革命から100年、ソヴィエト連邦崩壊から25年を経た2017年。鴻さんは、2000年初頭に世界各国を旅して見てきた演劇が15年を経て歴史化されるときにあるのではないかと考えています。 ■ 石を投げるサイード そうした2017年、鴻さんが日本の演劇界において注目しているのが、ここ20-30年の流れのなかでも、特に多く紹介されていたアラブ圏の演劇、映画やトークなどです。  例えば、フェスティバル/トーキョー2017で上映された『十字軍芝居ー三部作(Cabaret Crusades)』 、『パレスチナ、イヤーゼロ』、国際演劇協会で招かれたパレスチナ人劇作家ガンナーム・ガンナームのトークや、ふじのくに せかい演劇祭でのシリア人劇作家ムハンマド・アル= アッタールの作品上演、早稲田大学でのシリア映画『カーキ色の記憶』上映など、現在のアラブ地域で作られている作品に触れられる機会が多くありました。 これらの作品を見ながら、鴻さんは、1998年3月、ユダヤ人彫刻家であるダニ・カラヴァンに会うためにテルアビブに行った時の体験を思い出しました。(会場では、その時の体験記を配布しました。*) ダニ・カラヴァンはテルアビブで生まれたユダヤ人です。イスラエルの国会議事堂の壁画やネゲブ砂漠での対エジブト戦のイスラエル軍の勝利を祝うネゲブ記念碑などが代表作としてあります。そのダニ・カラヴァンが、ヴァルター・ベンヤミンへのオマージュとして、スペインのポルト・ボウに『パサージュ』という作品を作りました。ユダヤ人であったベンヤミンは、ナチスから逃れるためにアメリカへの亡命を求めてマルセイユに行くが、船に乗れず、ピレネー山脈を超えたスペインの港町ポルト・ボウで客死します。自殺とも他殺とも言われる謎の死でした。ダニ・カラヴァンは、その地の海辺の断崖に、鋼鉄の壁で、ベンヤミンも見下ろしただろう海に向かって通路と階段をつなぎました。しかし、その先は、ガラスで閉ざされ、見えるけれど行き着くことができません。 鴻さんは、この作品は、ポーランド人映画監督アンジェイ・ワイダの『地下水道』にも着想を得ているのではないかと考えます。ナチス占領下のワルシャワで抵抗するポーランド人たちが地下水道へ追いつめられる様子を描いた作品です。マンホー��の外はナチス占領下、汚泥の中を逃げ回りながら、とうとう地下水道の出口の明かりが見えて駆け寄って行くと、鉄格子がはめられている。その先には、美しいヴィスワ川が流れている。そして、その対岸にはソ連軍が見える。立ち並ぶソ連軍は彼らを見殺しにする。ソ連軍のワルシャワ解放の欺瞞性を暴く作品です。 『パサージュ』の入口には、ダニ・カラヴァンの生命の樹であるオリーブの樹が植わっています。ダニ・カラヴァンは、ユダヤ人、ベンヤミンがナチス・ドイツに追われた死を、ある種美しい物語として作品化しました。また、エジブトと��戦いをアメリカからの圧倒的な支援で勝利したイスラエル軍を讃えるような作品も作り、イスラエル政府の国会議事堂の壁面も作りました。では、ダニ・カラヴァンはただ政府寄りの芸術家であるのか? 1998年3月に鴻さんは本人に手紙を書き、ラマット・ガン(テルアビブ)の現代美術館で会うことができました。その展覧会のエントランスには、根こそぎになったオリーブの樹が逆さ吊りになった作品がありました。そのオリーブは、イスラエル政府が入植のためにパレスチナ人の家屋を巨大ブルトーザーで破壊し、植わっていたオリーブを根こそぎにしたものでした。この受難のオリーブは、イスラエル軍のそうした行為を明示化したものです。また、その展覧会には、石が転がった鏡の部屋がありました。「インティファーダ」と呼ばれるその部屋では、反射鏡になっている壁に向かって、床にある石を拾って投げます。そこには「石は弱者の武器だ」と書かれていました。 この頃に、パレスチナ人思想家であるエドワード・サイードもまた、パレスチナ占領地区で石を投げました。インティファーダは暴力的とも批判されますが、彼が石を投げたのはイスラエル軍隊の戦車です。パレスチナ人たちは、破壊された自らの家の瓦礫を投石としました。 1948年、イスラエル建国の際には、大量のパレスチナ人の家屋が破壊されました。パレスチナ人劇作家であるガンナーム・ガンナームは、1948年イスラエル建国のために両親が追われたハイファで生まれ、さらにそこからヨルダン川西岸地区に移り、そこで育ちました。しかし、1967年の中東戦争により、ヨルダン西岸地区がイスラエル軍に占領され、再び、土地を失ったのです。 1948年、パレスチナ人が放逐されたその年を起点として、ユダヤ人演出家のイナト・ヴァイツマンが作った作品が『パレスチナ、イヤーゼロ』です。 エドワード・サイードは2001年の『戦争とプロパガンダ』で、アメリカの多くの知識人が、こうしたパレスチナ人の物語についてほとんど知らないと書いています。1967年から続く34年にも渡る非合法なイスラエルによる軍事占領について、質問されたほとんどのアメリカ人は知らなかったというのです。彼らに支配的な影響を与えているのは、1958年のレオン・ユリスの小説『栄光への脱出(Exodus)』であり、ナチスに迫害されたユダヤ人が約束の地へと導かれる物語です。 そうした状況下、サイードは石を投げるしかなかった。イスラエル軍の重装備の軍隊に対してパレスチナ人が石を投げる。ダニ・カラヴァンは、石を投げるパレスチナ人の行動を支持する。ここにしか、パレスチナ、イスラエル問題を解決する道はないだろうという点で、サイードとダニ・カラヴァンは一致している。それはある種の妥協であると鴻さんは指摘します。サイードは、ユダヤ人がイスラエルに残ることを許容し、そして、パレスチナ国家も作る。ダニ・カラヴァンは、ユダヤ人を追い出さないでほしい、ただし、入植前のイスラエルの占領地区は返す、という。現在可能な妥協点です。しかし、現実にはこんな案は受け入れられてはいない。ただパレスチナ人居住区の破壊が進行していく。だから、ダニ・カラヴァンは「インティファーダ」の部屋を作った。かたやパレスチナ人思想家で、かたやユダヤ人芸術家で、こうした考えを持つ人たちがいたのです。 ■『文化と帝国主義』の演劇的展開 では、パレスチナ、イスラエル問題の解決をそのように考えていたサイードは、世界をどのように見ていたのか? それが書かれたのが、ソヴィエト連邦崩壊期の1988-89年に書き始められ、ソヴィエト連邦消滅直後の1993年に出版された『文化と帝国主義(Culture and Imperialism)』(大橋洋一訳、みすず書房、第1巻1998年、第2巻2001年)です。 20世紀は帝国主義戦争の時代であった。『文化と帝国主義』では、帝国主義の時代に世界で何が起こっているのか、それを文化的に考える必要性において、植民地における表現活動を文化論的に捉えました。もう一つは植民地を次々に拡大したヨーロッパの文化に対して、植民地はどういった意味を与えているのかを思考することも課題でした。それを読み解くにあたって、小説を題材にとったのです。ヨーロッパ人が、アフリカやアジアを舞台にした小説を書いた時にどういうことが明らかになるのか、アジア、アフリカ、南アメリカからどういった作家や物語が出てきているのか、といったことを分析しました。 鴻さんは、2002-2004年にハンブルグのカンプナーゲルでラオコオーンという世界演劇祭のディレクターを務めた時に、アジア、アフリカ、南アメリカの元植民地地域の演劇をよく見に行きました。 日本からヨーロッパを経由し、アフリカや南アメリカへ、またその逆の移動を通して、日本人である自分が、ハンブルグに住む人たちが描くヨーロッパを中心とした地図に介入し、変化を起こしていることに気づきました。同様に、日本を起点にしながら、また、ヨーロッパを起点しながら、場所への距離が二重化することで、鴻さん自身の地図もまた変化していきました。 鴻さんが、かつてのフランスの植民地であった、コートジボアール最大の都市アビジャンで開催されるアフリカの演劇祭MASA(Marché des Arts du Spectacle Africain)を訪れた時、カンプナーゲルの人たちは、日本人である鴻さんがそこで何を考えるのか、ということに興味がありました。 その時に鴻さんが見た作品の一つが『Paleo』という作品です。その頃、コートジボアールで最初の大統領選挙がありました。その結果に対する反発で国の一部は交戦状態にありました。その大統領選の問題をテーマにした作品でした。政治的論争劇として、激論が交わされる中、周囲の群衆が歌ったり踊ったりし始めます。論争する人たちを包み込むように群衆が舞台前面にせり出し、祝祭的な空間で共同体を息づかせ、しばらくするとまた、さあーっと去っていく。そうすると、また論争していた人たちが思索的な方向へと観客を誘導する。ギリシア悲劇を思わせるようなコロスの使い方だったそうです。 鴻さんはその様子を見て、フランスのムヌーシュキンによる太陽劇団を思い浮かべました。太陽劇団は、弾薬庫のむき出しの舞台を利用しながら、南アジア的な打楽器を用い、セリフ劇だけれど群衆的な動きも見せる、ヨーロッパ的な前衛劇を上演していました。 この時、ヨーロッパの前衛劇の動きが宗主国のフランスだけでなく、コートジボアールでも展開されている、と考えることもできます。しかし、『文化と帝国主義』で、サイードはそういう考え方は、植民地の文化を収奪する帝国主義者の発想であると述べています。サイードは、むしろ、ヨーロッパによって危機にさらされている部分がどのように表象されているのか、そのように問題化される植民地の文化というものが、どのように表われているのかをつぶさに見ようとします。 コートジボアールは異なる約60の部族が構成。それぞれの言語があり、大まかには4つの言語グループがあります。4つのグループが使う共通語はフランス語です。つまり、自国語と植民地の言葉と2言語構造を持っています。そのように2言語を操ることができ、自分の文化とヨーロッパから押し付けられた文化を操ることができるようになる時、サイードは支配の構造が逆転すると書いています。 コートジボアールでは、民族的なダンスや音楽を用いたコロス的なもの、ヨーロッパ的な対話劇と両方を持った新しい表象の演劇が生まれていました。それは、ムヌーシュキンたちが努力して得ようとした非対話的な演劇的要素とは違うものです。『Paleo』では、植民地化され、そこから独立しようとするプロセスの歴史を、現在の視点から見直し、問題にしていこうということが演劇化されている。サイードが『文化と帝国主義』で小説を対象に言っていたことがコートジボアールの演劇で起こっていると鴻さんは感じました。 鴻さんは、2000年前後に元植民地と言われる様々なところで演劇を見ながら、そういうような形で演劇と帝国主義という問題が新たな演劇の形式の出現として意味を持つということが議論されなければならないと考えるようになりました。しかし、サイードのように小説ならできるけれど、演劇では難しいのではないか、一人では難しいかもしれないとも考えるようになりました。 また、2000年代初頭、鴻さんがそうした国々を回る中で、ヨーロッパのディレクターやキュレーターがどこへ行ってもいることに驚きました。宗主国から植民地が独立していくプロセスの中でポストコロニアル批評がでてきました。そうして、元植民地に登場してきた作品のポジションは批評化され、かつヨーロッパ的な価値観をも手中に収めている。しかもそれを作っているのは、元植民地の人間である。それがヨーロッパの演劇よりも魅力的であるらしいということで、元宗主国の演劇人たちが見に来ていたのです。 日本人はそうした旧宗主国としての意識が薄いから、例えば、台湾に行って何が起きているのか、我々よりも非常に優れた視点で世界を見ているかもしれないなどとは考えない。そうした点で、黄金町バザール2017に出展していた毒山凡太朗の映像作品『君之代』は興味深かったと言います。作品では、台湾で日本の植民地時代に教育を受けた人たちに当時習った教育勅語や小学校唱歌を口にしてもらう。台湾の人たちは思い出話をしながら複雑な表情をする。一気に蘇る70年前の記憶、そこに植民地主義の影が映し出されていたそうです。 ■ ジャガイモを掘るベケット さらに、BankART Studio NYKで開催されていた日産アートアワード2017の展覧会に出展されていた田村友一郎の『栄光、終焉そして終演/End Game』が、ベケットの『勝負の終わり(Endgame)』をモチーフにした優れた作品として紹介されました。 2つの映像が流れるなか、一方の映像には、英語のテキストが映し出されていきます。そのテキストをピアノの伴奏に合わせて読んでいる人がいます。例えば、“Finished, it's finished, nearly finished, it must be nearly finished.” それは、ベケットの『勝負の終わり』の冒頭のクロヴのセリフです。そして、それはイエス・キリストの最期の言葉の一つでもあります。もう一方では、日産のグローリアという車が走っていて、崖から落ちる。その壊れた車を解体して、ドラム缶みたいなものを作る映像が流れていたそうです。 ジェイムズ・ノウルソンの『ベケット伝』(高橋康也ほか訳、白水社、2003年)によると、ドイツ占領下のパリで、ベケットは1941年にグローリアと呼ばれる、レジスタンス組織に正式に加わりました。占領された地域で情報を集めて翻訳する諜報活動を行っていたのです。その時の体験が、その後の作品『ゴドーを待ちながら』や『勝負の終わり』に深く刻印されていると『ベケット伝』には書かれています。 グローリアが崖から墜落し、壊れた車体を加工して、『勝負の終わり』を上演するためのドラム缶を作る。もし田村友一郎が、ベケットが入っていたレジスタンス組織の名前がグローリアということを知りながら、この作品を作っているのなら、その意味はとても難しくなると鴻さんは言います。 ベケットの参加したグローリアの他の諜報員たちは捕まっていく、ベケットも逃亡する。ベケットが逃亡した翌日、ベケットの部屋が捜索されて、1日違いで助かった。逃げたけれど、アイルランド人なので、持っているお金をフランスの紙幣に簡単に変えられない。空腹で乞食をしながら凌いだ。それは、ジャガイモの収穫の季節で、ベケットは、売り物にならないジャガイモをもらって逃亡を図りつつ、生き延びた。 鴻さんも、こうした体験が、ベケットが作品を描き続ける原動力になっていたと考えています。例えば、『ゴドーを待ちながら』には、その時にベケットが見た風景が出てくる。「空が赤いね」という台詞は、夕日が綺麗だね、という意味ではない。あの街も燃やされてしまったね、ここも危険だね、という意味が一方にあるのだと言います。そして、ベケットは、ジャガイモを掘って諦めるのではなく、戦うのだと言っている。 鴻さんは、20世紀の偉大な思想家であるサイードと、劇作家のベケットが意味を見出している人間の活動というものが「石を投げるサイード、ジャガイモを掘るベケット」に表象されているのだと語ります。革命は、まさに今、武装解除した思想家たちの逃亡によって消えていきそうだけれど、サイードやベケットは諦めていなかった。現在、私たちはもっと悲惨な状況にいるが、革命なき戦争の時代における演劇のビジョンとは何かを考える時に、この「石を投げるサイード、ジャガイモを掘るベケット」を起点にしながら、帝国主義と演劇について考えていく。そして、ポスト・インペリアリズムについても考えていくということを猿の演劇論 第2期でやっていきたいと締めくくりました。 ■ Q&A 参加者:ダニ・カラヴァンが、国会議事堂の壁面を作ったり、パブリックアートなど行政の仕事をしながら、政府に批判的な展覧会を開催したことに対して、イスラエル政府はどう思っているのか? 鴻:ダニ・カラヴァンが国会議事堂の絵やネゲブ砂漠の戦勝記念碑を作ったのは彼の活動の初期の頃。その後、オスロ合意が93年にあり、イスラエルの占領地区からイスラエルは撤退すべきであり、独立して二国家共存すべきであるという人たちと行動を共にした。イスラエル国家とは敵対的であると思う。
ホロコーストで殺されていくユダヤ人を題材にしたポルノがある。そういうものを見るイスラエル人男性が増えている。ユダヤ人のなかで、虐殺され、虐待される記憶が変質していく。パレスチナ人に対するイスラエル人の行為の残虐化と関係があるのではないか。[アンドレア・ドウォーキン「イスラエル・それは結局のところ、だれの国なのか?」(岡真理訳、『批評空間』第2期3号、1994年)にこの問題に関する興味深い考察がある] 参加者:『文化と帝国主義』についての分析は、なぜ小説だとできるけれど、演劇だと難しいのか? 鴻:演劇は、自分で見にいかなければならないから。その場所に行って、自分で見るということが必要なので、難しいのではないかと思う。ただ、ヨーロッパの人たちはそれをしている。私はもう無理だと思うので、���ろいろなテーマや課題を皆さんに伝えたいと思っている。
*鴻英良=インタビュー・構成 、『特集記事:ダニ・カラヴァンへの旅「ボーダーの不安」』InterCommunication No.25 Summer 1996 文/椙山由香 
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thetheatretheoryoftheapes · 7 years ago
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#5 「帝国主義の罠/アパルトヘイトのあとで」
90年代に力を持っていたポストコロニアル批評を再考し、さまざまな地域の植民地以降から現在までの演劇を巡る困難性と可能性について語ってきた「演劇と帝国主義」。今回は、これまでのエピソードや議論をつなげて大きなマップに位置付けていくような講義となりました。その内容をまとめたレポートになります。後半に向けて、ぜひ一読ください。
■「ルワンダ94」について
講義の最初には、「ルワンダ94」がルワンダで初めて上演された時の記録映像の一部を上映しました。映像は、ルワンダの風景や、虐殺の調査現場の様子なども収めながら、7-8時間かかる上演を90分に再構成したものです。
「ルワンダ94」は、ベルギーの演出家ジャック・デルクヴェルリたちによって、1994-2000年に原型が作られ、2001-02年に完成形態として上演されました。
1994年のルワンダの虐殺では、約80-100万人の人たちが殺されたと言われています。それは、20世紀の虐殺の中でも最大級の事件の一つです。ツチ族とフツ族の部族同士の対立がある中、フツ族の大統領を乗せた飛行機が何者かに撃墜されました。それをきっかけにして、かねてから準備されていた虐殺が行われたのです。
ベルギーのグルポーフという集団が、その出来事に関する舞台のようなものを作ろうと考え、動き始めたのは96年くらいでした。まずは、なぜ、そうしたことが起きたのかを調べ、実際にルワンダに行き、虐殺の現場に行くだけでなく、様々な人たちにもインタビューをしました。
1994年当時、ルワンダはベルギーの国際連盟委任統治領であり、実質上、植民地の様な状況でした。ベルギー領として有名なベルギー領コンゴは貴重な鉱物資源が取れる場所です。そのコンゴを見下ろせる位置にあるルワンダは、コンゴを支配する上で重要な拠点でした。ルワンダはもともとドイツの植民地でしたが、第一次世界大戦後、戦勝国で敗戦国ドイツの植民地分割する際に、最後までルワンダに拘ったベルギーが統治することとなったのです。
ベルギーはルワンダ統治において、ドイツ人のやり方を踏襲しました。ルワンダに住む、ツチとフツ族を仲違いさせる方法です。どちらか一方の部族に、何年間か毎に統治を任せる。統治する側が、統治される側を搾取し、圧力をかける。そうした関係性を続けるなかで、2つの部族の軋轢は深まり、1994年に至るまでも、何度も衝突を続け、その抗争のなかでたくさんの人が死んでいました。
つまり、ルワンダの虐殺は、植民地主義の宗主国の政策の中で作り上げられた関係の中で起きた事件であり、ただの部族抗争ではなかったのです。
この事実は、ベルギーの演劇人にとって重要なことでした。そして、ベルギーの人たちは、その調査を通じて知り合ったルワンダの人たちと、作品を作り始めたのです。
■ ポストコロニアル/ポストインペリアルの視点
ポストコロニアル批評は、植民地の人たちの視点から、多くの場合、植民地の人たちによって展開されていきます。
『ポスト植民地主義の思想』の著者ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクは、インドは1947年に大英帝国の植民地から制度的には独立したが、その後も実質的な従属関係が続いていたと書いています。インドの精神的、経済的な大英帝国への依存は急にはなくなりませんでした。しかし、70年代終わりくらいから80年代の半ばくらいに精神的にも経済的にも自立の思考が出てきて、ポストコロニアルな思想というものが現実化していき、1980年代に、それに連動していくような表現活動が出てきたと鴻さんは分析します。
スピヴァグは、著作『サバルタンは語ることができるのか?』で、寡婦は夫の火葬の際に、火に飛び込まなければならないサティーという風習を例に、インドの昔ながらの習俗への自己批評とともに、イギリスからの独立も提唱しました。
���ンドのアーティストであるアルジュン・ライナは、シェイクスピアの「真夏の夜の夢」における、インドの少年を白人の男女が取り合う物語に対する批評をインドの伝統的舞踊カタカリを通して行いました。
このように、ポストコロニアル批評においては、帝国主義者が無意識の中で作り上げたものが、インドでもそのまま浸透してしまうといった流れを転覆するような、批判の思想というものを、インドのアーティストが作り上げるといったことが実際に行われていたと鴻さんは指摘します。
一方、「ルワンダ94」は、素材はルワンダの虐殺であり、それを作っているのは、ベルギーのグルポーフというグループです。宗主国ベルギーの人たちが、この虐殺事件は、ルワンダの犯罪ではなく、ベルギーの犯罪ではないのか? と考えながら、ルワンダの人たちとともに植民地の問題を問題化する。これが、ポストコロニアル批評とは違う、インペリアリズムを内側から植民地の人たちとともに問題化していく、ポストインペリアルのあり方だと鴻さんは考えます。
■ 植民地主義と民主主義、そして社会主義
ロシア革命のあった1917年の前後、1915-20年の間には、象徴派、未来派、シュールレアリズムといった20世紀の特質をなす様々な芸術が生まれました。20世紀がどういう時代になるのかがこの時期に決定づけられたとも言えます。それから100年を経た2018年現在もまた、21世紀がどういう時代となるのかを決定づける時ではないのか? 同じようなことが試されている歴史的瞬間にあるのではないかと鴻さんは考えます。
しかし、残念ながら、2017年のロシア革命100周年、そして、2018年の68年50周年でも、それを巡る言説はパッとしませんでした。例えば、ロシア革命100周年において、2月革命は良かったけれど、10月暴力革命は良くなかった、あれほどの被害を出してしまったことは失敗であり、なければ良かったといった言説が多勢でした。
鴻さんは、こうした状況を20世紀の終わりに、演出家がタデウシュ・カントールは、「マーケットのテロルはコミュニズムのテロルより悪質なものになるに違いない」という言葉において予測していたと指摘します。
鴻さんが、91年の春にカントールの遺作を観るためにポーランド・クラクフを訪れたとき、クラクフの文化を金融資本主義からいかにして守るかをテーマにした国際会議が開かれていました。そこで、鴻さんがハッとさせられたことは、ヨーロッパの偉大なものを3つのうちの一つが「社会主義の理念」であると、閉会式のときにその議長によって語られたことでした。
ロシア革命100年では、社会主義は何であったのかが問われませんでした。21世紀は本当の意味で社会主義の理念が消えるときなのか? 本当の意味で考え抜かれて、社会主義の理念とはこういうものであったと語れる時代になるのか? 21世紀に人類が存続するかどうかとかかわる大きな問題だと鴻さんは捉えています。
■ ポストインペリアルシアターと古代ギリシア演劇
鴻さんは、ポストインペリアルシアターの起源として、ギリシア悲劇を挙げ、その歴史的経緯について仮説を説きました。
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社会主義の理念が示そうとしたものは、近代的な共同体の理念でした。アガンベンの好きな言葉で、ビオス・ポリティコスという言葉があり、それは、直訳すると、ポリティカル・ライフ、ポリス的な生き方という意味です。ポリス的な生き方とは民主主義を確立すること、しかし、実際には奴隷制度もあり、古代ギリシアの民主主義は、不完全な形で作られつつありました。だから、その欠陥を克服するためにも演劇を必要とし、演劇とともにそれを構想したのです。
それは、おおよそ前800-700年の間は、ホメーロスたちの叙事詩によって試みられ、前550-400年の間は、悲劇によって、前450-380年の間は、喜劇によって行われました。ビオスポリティコス(ポリス的な生)をどのようにしたら作り出せるのかという基盤を、叙事詩によって予感させ、そして、具体化を悲劇によって展開させ、そして、出来上がったものがうまくいかなかったという反省をコメディアによって行ったのです。
民主主義の実現ために、なんとかしなければならないと思っていた。けれどもどうしたらよいかわからなかった。それをどうにかしなければならないということをずっと考えている人たちがいて、近代世界の登場とともにやっと具体化して、理念として提示されたものの一つが 社会主義の理念でした。
そして、その社会主義の具体的な遂行として、曲がりなりにも初めは成功したとされているのがロシア革命でした。けれども、実際にはスターリン主義になったり、うまくいきませんでした。それは、コメディアの精神によって批判されなければいけないけれど、それを忘却するような形で展開してしまった。
21世紀に社会主義の理念というものがどういう形態として有効なのか、それを演劇とともに考えようとする探求の場としなければ、ギリシア以来の演劇の意味がなくなってしまうと鴻さんは訴えます。
■ 古代から現代へ、植民地主義以降を考える
36年ーこれは、日本が朝鮮半島を併合した1910年から、日本の敗戦により朝鮮が独立する1945年間での月日です。36年も植民地として統治していたことすら忘れていることは大きな問題であるけれども、植民地が終わった後どうなっているのかということにも関心を寄せるべきだと鴻さんは言います。
南アフリカのアパルトヘイトは、1994年に制度としては終わりましたが、ポストアパルトヘイトという問題が浮上しました。
鴻さんは、南アフリカの訪問で、アパルトヘイト以降、黒人の復讐の対象となったPoor White(貧しい白人)の問題を描いたヤエール・ハーバーの『モルーラ(灰)』を観ました。ヤエール・ハーバーは、ドイツナチスから逃れて南アフリカに移住したユダヤ人の子供です。南アフリカにおいて、非黒人であり、白人のなかのマイノリティーでもあるユダヤ人は微妙な立場です。この作品では、アイスキュロスのギリシア悲劇『オレステイア3部作』を素材に、真実和解委員会の裁判形式を使って、復讐を遂げるか、それとも、赦しと和解は可能なのか?を問いかけました。加害者は自分のしたことを正直に喋り、自分のしたことを再現する。被害者の方も自分が何をされたのか、ということをしゃべり、相手がやったことを認めることによって許せる場合には許そう。実際にそのことで、過去を水に流すことはできないけれど、復讐はやめよう。それが、ネルソン・マンデラたちが考え出したことであり、それを実際の演劇で、ギリシア悲劇をそのまま使いながら真実和解委員会と合わせて、実際に南アフリカで行われていた虐待や虐殺の形式を踏襲しながら舞台化したのです。
2002年には、こうした和解への努力が行われていました。それがうまくいっているかはわからないけれど、努力��ることに意義があると思われていた。そういうことをすることにある力があると思われていた。94年から7-8年経った時の解決を探る、そういうような要の所に演劇上演というものがあったと鴻さんは振り返ります。
けれども、文献によると2012年8月16日にマリカーナ鉱山虐殺事件が起こります。マリカーナというイギリスの会社のプラチナ鉱山で、白人の警察が暴力的に黒人労働者のストライキを鎮圧しました。発砲で労働者34名が死亡、70名以上が負傷し、この事件で黒人の労働者の怒りが頂点に達し、同様のストライキが全国に飛び火しました。
この事件で、ポストアパルトヘイトの抱える問題をどうにかしなければいけないという認識は広がったが、どうしたらよいかはわからない。ある種、解決に向かっていたことが、どうにもならないというような錯乱。ある種の闇の中に、南アフリカが入っていきつつありました。
この事件はまた、2010年南アフリカのサッカーのW杯幻想と対になっているとも分析されています。W杯は、南アフリカは良くなったという幻想を掻き立てるために開催されていました。しかし、それによって隠せなかったものがあったのです。
19世紀、20世紀の200年くらいの間に作られた植民地支配の仕組みがあり、真実和解委員会のようなものによって、それを乗り越えるような努力がなされました。しかし、そう簡単にはいかないような歴史の重みが、そこにはありました。2000年前後の真実和解委員会の取り組みは、2012年の事件によって、やはり無駄であったということになるのでしょうか?
ホメーロスの叙事詩は紀元前750年頃に成立しました。紀元前720-700年頃にはギリシア語のアルファベット文字がギリシア本土ばかりでなく、イタリアのエトルリア辺りまで広く使われるようになり、ホメーロスの叙事詩は早ければその時期に初めて文字として記録されたと考えられています。その頃にホメーロスを歌っていたのがホメロダイと言われる人たちで、ギリシア一帯のイオニアやピュロスやクレタ島を旅しながら、ギリシアの商人や船乗り、鍛冶屋、大工などの技術者と言われる人たちに向けて歌っていました。それぞれの地域には、1万人程度の商人、船乗りや技術者たちのコミュニテイが存在していました。アンドレ・ボナールは、ホメーロスの叙事詩は、そうした人たちが聞いて喜ぶように、トロイア戦争の話を作り変えているだろうと書いています。
そうしたコミュニティ中心にアテナイが浮上してきた時に、ギリシア悲劇が出現してきました。最初はホメーロスを聞きながら、戦いの論理、商いの論理、物を作る論理を磨いていた人たちが、自分たちの社会を考えた時、例えば、婚姻制度について考えます。ミケーネ社会のままで良いのか? 母と関係を持って良いのか? 復讐はどうするのか? 殺人に対して、1人殺したならば、死刑ではなく、例えば、6年の懲役といった制度は、これはこの時代にできました。譲歩と許し、その基準を考えるということです。
例えば、アンティゴネーは、兄を葬りたい。しかし、兄は敵軍の将軍である。その当時、敵の大将の死体を相手に渡して葬ることは、降伏を意味しました。だから、埋葬をするわけにはいかない。この作品は、そうした戦争の約束事を変えたら良いじゃないですか、と提案し、一方で、愚かなクレオーンの姿を描くことで、ここに出てくる支配者の様な形では統治ができないということを伝えました。支配者を愚��する作品ではあったけれど、そうした優れた点が認められ、この作品を上演した直後にソフォクレスが将軍に任命されました。
ホメーロスは、帝国ではなく小国であったトロイアを、あたかも巨大帝国のように描いて、ギリシアなどの小国が連合して勝った物語を歌い上げました。さらに、その小国の共同体の論理というようなものを作り上げていこうとする時に、どうしたら良いのかという事例を、ミケーネ社会の伝説を素材にして、現代劇としてソフォクレスが書いたのだと鴻さんは説明します。
20世紀の終わり、カントールは死の直前に、マーケットのテロルに対して戦う方法というのを考えるのが演劇だとつぶやきました。その時に、ヨーロッパ会議の議長がヨーロッパの偉大なものとして、社会主義の理念を挙げたことは連動していると鴻さんは言います。
ポストアパルトヘイトにおいて、真実和解員会は無駄ではなかった。それは一つの可能性であり、希望であった。しかし、真実和解委員会の機能は崩壊しているようである。とはいえ、そうならば、やめればよかったということではない。
この言説は、ロシア革命100周年の言説と重なります。そうではない、じゃあどうしようか? その視点が、ロシア革命100周年では語られなかった。68年50周年に関しても、問題をそのように提示されなければならない。そして、このように、20世紀を振り返りつつ、21世紀の課題を解決しようとするときに、ギリシアの歴史が参照例になると鴻さんは主張するのです。
古代ギリシャは小さな空間ではない。エジプトのテーバイとオイディプスの王国テーバイはなぜ同じ名前なのか? なぜ、エジプトの守り神であるスフィンクスが、なぞかけでギリシアの人々を困らせるのか? それは、エジプトが周辺の弱小共同体を植民地化し、苦しませていたことの隠喩と考えられます。その植民地とされているテーバイはスフィンクスの謎を解くことで救われます。しかし、またオイディプスの問題によっておかしくなっていきます。そこで、親族関係の問題が問われ、民主制アテナイの親族関係が成立していきました。
こうした関係構造の中に、20世紀と21世紀を位置付ける。ポストアパルトヘイトと真実和解員会を位置付ける。解決の道を逆戻りするような2012年の虐殺事件を乗り越えていくためにはどうしたら良いのか。鴻さんは、そうしたことをこれからも考えていきたいと言います。 参考文献 1.『舞台芸術』第4号、特集「歴史と記憶」、(京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター発行、発売月曜社、2003年) 2.スコット・ランキン『ナパジ・ナパジ』(『動乱と演劇:紛争地帯から生まれた演劇 その3』所収、2012年) 3.阿部利洋『紛争後社会と向き合う:南アフリカ真実和解委員会』(京都大学学術出版界、2007年) 文/椙山由香
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thetheatretheoryoftheapes · 7 years ago
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#7「 戦時下の日本の演劇人、そして戦後の演劇人」
鴻さんが「日本を中心に、実際に見ていない歴史的な演劇について語るのは初めてである」という本講議では、これまでのポストコロニアル/ポストインペリアル演劇の流れを戦前〜戦中の日本演劇へと接続し、日本の帝国主義、植民地主義と演劇の関係について考察する第一歩となりました。 下記は、講義内容の概要をまとめたものです。 ■  なぜ戦争は起こったのか? 戦争を起こさないために 戦争と演劇というテーマは、演劇の起源から主要な問題系でした。そして、そのテーマは常に世界戦争と関わりがあったのだと鴻さんは考えます。例えば、ギリシア悲劇「トロイアの女たち」においては、トロイア戦争が当時の世界戦争だったのではないかという観点から鴻さんはこれまで論を展開してきました。講義告知文で幾つかのギリシア演劇のタイトルを参照例として書いた中に、「ヘラクレス���子供たち」がありましたが、実はこの作品は戦争と演劇というテーマにおいてかなり難解な作品であると鴻さんは説明します。 「ヘラクレスの子供たち」は、ヘラクレスの死後、ヘラクレスの子供たちがスパルタを追放になるところから始まります。追放された子供たちが放浪の旅に出て、様々な町を訪ね歩きます。どの町でも、追放された子供たちを暖かく迎え入れようとしますが、すぐにスパルタの使者が現れそれを阻止します。そして、放浪を続けざるを得ない子供たちが最後に辿り着いたのがアテナイでした。そこで、再び現れたスパルタの使者に対し、アテナイの市民は「行き場をなくして困っている子供たちを見捨てて、なぜ正しい国と言えようか」とスパルタの使者の脅しに屈せず、使者を追い返します。そして、そ��後スパルタとの戦争が始まります。 鴻さんは、この作品をアメリカの演出家ピーター・セラーズの演出で観たそうです。当時、ユーゴスラビアが内戦状態になり、サラエボが爆撃され多くの難民がアドリア海を超えてイタリアに逃げてきていた時でした。そして、イタリアの路上でユーゴスラビアの難民の子供たちが苦しんで困っている時に、ローマの劇場でこの作品が上演されたそうです。舞台には、難民の子供たちも並び、騒然とした中で難民排斥に反対する演説から始まりました。その集会が終わると、その子供たちが観客席の最前列に座り、上演が始まりました。鴻さんは、この作品に感動し、ギリシア演劇の時代から続く演劇の持つ力が今に示されたように感じました。しかし、一方で作品の歴史を読み解くと、実はそう簡単なものではないことがわかりました。 「ヘラクレスの子供たち」の初演は紀元前429年。アテネがスパルタと戦争を始めてから2年後のことです。つまり、古代の世界大戦とも考えられるペロポネソス戦争が展開するその雰囲気の中でこの作品が上演されたことになります。そう考えると、この作品の意図を楽観的に考えることはできません。そこには、戦争と演劇における膨大で複雑な問題系が横たわっているのです。 鴻さんは、日本の演劇の場合も同じことが言えると考えます。鴻さんは、2年前に大野一雄論を書き、埴谷雄高について考えた時に、日本の演劇と戦争について調べました。大野一雄は情報将校として中国に派兵されました。その時に、若い日本軍人が狂ったように中国人を殺していたというようなことを語っています。それからパプアニューギニアに行き、どういう経験をしたのかに関しては固く口をつぐんでいます。自分が人を殺した話はしていません。こうしたことと彼の舞踏はどう関係しているのか? 鴻さんは、そのことについて、論考「虚体、死体、そして〈外〉へ-二一世紀のダンスの理念に向けて」(「ゲンロン5幽霊的身体」2017年)に書いています。 鴻さんは、このことを問題にすることで糾弾したいわけではない、戦争責任や謝罪に収斂するところに問題の解決があるわけではないと考えています。戦争は長い期間展開されています。その中で世界認識というものがどう変化していくのか。そして、最も重要な問題は、戦争はなぜ起こったのか、ということであると言います。 フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは、トロイア戦争が始まったのは、トロイアの王子パリスがスパルタの王メネラオスの妻ヘレネーを誘惑し連れ帰ったことが原因ではないだろう、と書いています。では、本当の理由は?一般的には交通の要衝であったトロイアを巡る経済問題であったという説ですが、この説もシモーヌ・ヴェイユは退け、そこにある深い問題に哲学的に迫ります。 今の私たちが、過去の2度の世界大戦はどうして起こったのか、今、再びその続きが始まろうとしているのか、それを防ぐためにはどうしたら良いのか、といったことを考えるときに、戦争の始まる理由がよくわかっていないということが問題なのです。日本の場合、文化人や知識人は戦争についてどう考えていたのか、実はそういうことが、日本の演劇において、これまであまり考えられてこなかったのではないのかと鴻さんは続けます。 ■ 世界大戦と日本演劇、その空白 日本のアングラ演劇を例にすると、鈴木忠志の初期代表作「劇的なるもの」は新劇の物語的な左翼演劇への批評的見地から現れたものです。新劇は、言葉で物語を物語りながら、それが身体化されていない。鈴木忠志たちは身体化された言語を問題にしたのです。「劇的なるものを巡ってⅡ」では、歌舞伎やベケットの「ゴドーを待ちながら」のセリフ、数学者の岡潔の発言などが劇中で発されます。そうした異なる質をもった言語が身体化されて出てくるときに俳優の本質が多様に変化する、その瞬間を作ることが劇的なのだと鈴木忠志は語っています。「劇的なるもの」では、それは個人の身体で起こっていましたが、それが集団という中で起こったときにどうなるのかということを実践したのが、「トロイアの女」でした。「劇的なるもの」を巡って作られた身体を通過して屹立してくる言葉。その方法を集団的に空間化することによって戦後の日本の焼け跡が蘇ってくる。戦争に敗北した日本。その敗北の姿がトロイアに集約して現れてくる。これまで、そうした部分にあまり焦点を当てて語られてこなかったのではないかと鴻さんは考えるのです。 日本のアングラ演劇の演出家鈴木忠志は1939年生まれ、唐十郎は1940年生まれで、どちらも幼少時代に日本の敗戦を迎えました。さらに唐十朗の父親は日本軍の従軍カメラマンとして、大陸に渡りましたが、いつの間にか日本に戻ってきています。その間に何があったのか?こうした歴史的な背景がそれぞれの作品にどのように影響しているのかということを考察するため、鴻さんが参照するのが唐十郎の「ユニコーン物語」です。 1975年に状況劇場がパレスチナの難民キャンプで「風の又三郎」を上演した経験をもとに作られたのが、「ユニコーン物語」でした。そのセリフに「南の島に雪が降る。黒い雪が。」とあります。俳優の大久保鷹が、そのセリフを言うときにイスラエル軍に攻撃されているパレスチナの難民キャンプを思うと語っていたそうです。劇中、このセリフが発された時に、南洋諸島へと地図が広がる。そして、第2幕になると人間の腐乱死体が映し出される。それは日本軍なのか、それともポリネシアの島の殺された人たちなのか。こうしたことから、唐十郎をどう捉え直すことができるのか。 これらに比べて寺山修司の戦争はロマンチックなものとして語られてきましたが、もっと悲惨なものとも言えます。日本が戦争に負けて、青森の三沢米軍基地で働き始めた母親は、おそらく米軍将校に強引に命じられたのでしょう、寺山を親戚の家へ預けて青森から福岡へと拉致されるように移り住みました。寺山は米軍によって母と引き裂かれたのです。子供が大人を襲撃するという寺山修司の処女作であるラジオドラマ「大人狩り」が初めて放送されたのは、その福岡のラジオ放送局でした。そこに見える、米軍へのある種の憎悪。しかし、寺山修司の作品についての議論の中には戦争の話は全くと言っていいほど出てきません。日本人と日本軍が戦地で何をしていたのか、ということとの関係はあまり語られていないのです。太田省吾は、敗戦後、満州から引き揚げた経験を「水の駅」の中に描きました。負けた後の幻影、辛い話はそうした形で作品化されます。 戦前に連なる1920年代、築地小劇場の始まりは、ドイツ留学中に日本の関東大震災のニュースを聞いた土方与志が、日本に戻り小山内薫に会って劇場を作ったところに始まります。土方が、その日本への帰途に列車乗り換えのためにモスクワに1週間滞在した際に偶然観たのが、ロシアアヴァンギャルドの演出家フセヴォロド・メイエルホリドの代表作の1つ「大地は逆立つ」でした。メイエルホリドの作品を観た人間が築地小劇場を立ち上げ、日本とヨーロッパの前衛の関係について考え始めました。同時にソ連の左翼演劇にも影響を受け、そこからプロレタリア演劇の流れが生まれます。他方、1927年にメイエルホリドについての論文を書き、プロレタリア演劇の中心で活動していた演出家の杉本良吉は、1933年以降に政府からの弾圧が厳しくなると地下活動を始めました。そして、1938年にソヴィエトへ亡命しようとします。1938年1月3日早朝、岡田嘉子と一緒にそりに乗って雪原の樺太国境を越えた話はあまりにも有名です。モスクワで演劇を学び、戦争が終わったら日本で演劇活動を再開しようと考えたのです。しかし、ソ連国内に入った時に直ちに拘束され、日本のスパイとして、処刑されてしまいました。このように、日本のプロレタリア演劇は1933-34年から勢いをなくし、1935年くらいから先は活動がほぼなくなってしまいます。 ■ 日本演劇の戦前〜戦後ー三好十郎と転向 今回の講義では、この1935年以降から終戦までの時代に焦点をあてて考えるために、鴻さんは劇作家の三好十郎を例にとりました。三好十郎は、生まれたのが1902年、1922年に20歳、1940年に39歳でした。取り上げた代表作は1937年日中戦争の真っ只中で書かれ、新築地小劇場で初演された「浮標(ブイ)」。戦後1948年に文化座で初演された「その人を知らず」です。 「その人を知らず」を発表した際、この作品は転向演劇であると批判されました。転向とは、鶴見俊輔を発起人とする思想の科学研究会の「共同研究転向」によると、語源はイエスの弟子達を弾圧するサウルが、ある時イエスの啓示にあい、イエスを信じるようになったことにあると言われています。つまり、それが正しいと思っていたことが、そこには幼稚な未熟さがあったために信じていたけれども、より深い知と洞察と世界に対する眼差しによって、新たな世界像を獲得した時に人は転向するということです。そして、転向を誘う人間は極めて優秀な知識人であったり理論家であることが多いと言われています。一方、ただ謝って心を入れ替えているように見せる人たちは偽装転向と定義されます。偽装転向をした人で最も有名な人は昭和天皇であると言われています。昭和天皇は平和主義者であったが、周りが戦争主義者であったから戦争主義者として振る舞っていた、これが偽装転向と言われる理由です。 三好十郎にとって、転向は大きなテーマの一つであったと言えます。「その人を知らず」は、あるキリスト教徒の話です。戦争になったら日本臣民であれば戦争に行くべき、という圧力のなか、このキリスト教徒の青年、片倉友吉は、自分はキリスト教徒なので人を殺すために戦争には行けないという理由で徴兵を拒みます。そのことによって、彼が働く工場の周りの人たちが困ってしまい、彼の弟も仕事を辞めなければならないような事態となります。これを受けて神父も、この時勢だから徴用には応じるようにと説得します。しかし、その説得においても、拷問を受けても主人公は意思を変えません。これを受けて他の信者までも動揺が広がります。 その後、戦争が終わり、戦争機械を作る工場が普通の工場へと変わり、教会にも新たに人が集まってきます。���てが平時の状況に戻ってきたとき、工場には労働組合ができていました。軍需景気が終わり工場でリストラが始まったのです。雇用を巡り労働争議が起こり、その結成大会にどんな圧力をかけられても権力に屈しなかったという理由で友吉がかつぎ出されます。しかし、友吉が演説で語ったことは、労働組合の思惑とは全く違いました。友吉はむしろしどろもどろで、こんなになってみんなに迷惑かけて申し訳なかったのだの、でもエスさまを捨てられなかっただの、まったく論理的でもなく、組合にとってはまったくの役立たずで、すまないとか、しかたなかったとか言うばかりなのでした。こういうみじめったらしい場面を描きながら、「友吉はイエスの教えのために戦ったのであって、労働者のために戦ったわけでもなく、彼の結果的に反権力的な行動は国家権力に逆らう為でもなかった。しかし、今そこにいる人たちは、戦時中国家権力に寄り添っていただけで思想的にも戦っていない。それが突然思想的に熱狂してこのようになるのはおかしい。」三好十郎は、そのようなことを友吉を通して伝えたかったのだろうと鴻さんは指摘します。 三好十郎は、戦争に反対ならば戦時体制に対して抵抗しなければならなかった、それもしなかったのに、戦後になって、自分は戦時体制に反対だったという人たちに対してとても批判的でした。そうした人たちが、日本の戦後社会を作っていくということに厳しい眼差しを向けていたのです。 もう一つの「浮標(ブイ)」では、画家である主人公の妻が死にそうで千葉の寒村で療養をしているというところから始まります。妻の家では妻亡き後の遺産相続についてもめています。主人公の男は、優秀な画家でしたが、ある理由で絵を描くことをやめてしまいました。漫画などを書きながら生計を立て、友人たちからの新進の画家グループへの誘いも断り続けています。妻も夫に絵を描くことを勧めます。しかし、妻の死期が迫り頼み込んでも主人公は絵を描くことができません。そうした中、友人が訪れ、金にもなるし絵を描いてグループに入るよう勧められます。まるで商売のような話に、主人公は激昂し「それは芸術活動ではない」と友人を追い返します。物語の最後、妻は息絶え、主人公の画家も行き場はない状況で幕となり��す。 この作品は、かつてはプロレタリア演劇に関係し、マルクス主義などにもシンパシーを感じていた三好十郎が、革命の闘士ではなく、妻への複雑な愛情に声を殺して嘆くような主人公を描いているということで、転向演劇の代表作だと言われました。 この主人公のもとを訪れる友人の場面は、グルジアの映画監督テンギズ・アブラゼの「懺悔」を思い出させると鴻さんは言います。「懺悔」では、ある画家の部屋に最高権力者が来て、この才能を自分のために使わないかと誘います。画家は、それを断り、収容所に入れられ拷問の末に殺されるのです。この政治家のモデルはスターリンです。多くの作家を弾圧し殺しているスターリンは、多くの作品を見て、その作品を実に正確に分析して見せ、優秀な作家の能力を自分の体制のために使わないかと誘っていたのです。 「浮標」の主人公も、「懺悔」の画家と同じように、権力になびいて芸術を語るような人たちとは私は付き合わないと主張しています。絵を描けない理由もそこにあります。友人グループが先生と呼ぶ人は、藤田嗣治のようです。戦争画であればお金になる。戦争画を描くことを選んだ画家です。(とはいえ、藤田の代表的な戦争画「アッツ島玉砕」などは、戦争の悲惨を何よりも明瞭に伝えてくるという意味で反戦的に見えるかもしれないから問題は複雑です。この絵が戦意高揚のかなめでもあるような時代はどのような構造に支えられているかなど、極めて複雑な問題がありますが、いまは立ち入れない、別の機会に譲るとのことです。)「浮標」の主人公は、妻の命があと10日となったとき、ようやく絵を描き始めますが、観客からは何を描いているかは見えません。このように、抵抗の姿勢をどう考えるか、ということが、「浮標」の主人公の中に屈折した形で、1940年に作品として描かれています。鴻さんは、三好十郎の描く世界をそのまま受け取れるほどまだ研究ができていないが、と注釈をした上で、総動員体制の時代に絵を描かないという、それを直接的な抵抗の姿とし描いていたらば上演できなかったのではないかと推察します。 日本の第一次世界大戦でのドイツへの宣戦布告は野心的な戦略からでした。ドイツは南太平洋に膨大な植民地を持っていたのです。第一次大戦でドイツが敗北すると、それらが日本の委任統治領となり、山東半島も一時手に入れました。これが、後の中国侵略への足がかりとなるのです。また、アフリカのドイツの植民地はフランス、オランダ、ベルギーなどに割譲されました。第一次大戦後の帝国による植民地の再分割が、第二次世界大戦の原因ともなったのです。こうした大きな意味での戦争について反対であるとは、実は「その人を知らず」の友吉は考えていないのです。世界資本主義という文脈の中から現れた戦争というものに反対しているわけではないのです。そして、「浮標」の主人公は、戦争に奉仕する絵は描かないけれども、なぜ、戦争は賛美されるべきものでないのかまでは語りません。 日本はドイツへ宣戦布告し、ヨーロッパの帝国主義を範として、有能な植民地主義者としての頭角を現しました。植民地とは帝国主義の略奪、侵略と収奪の必然の形態です。それを問題にしようとするのであれば、統治の問題にまで踏み込んで考察をして反対しなければならないと鴻さんは考えます。ギリシア演劇においてはその議論がなされていた、だから、そこを参照しつつ、現代における演劇と戦争というテーマを論じることが必要であると鴻さんは主張するのです。 参考資料: 1. 宍戸恭一『三好十郎との対話』(深夜叢書社、1983年) 2. 山室信一ほか編『現代の起点:第1次世界大戦』(第1巻「世界戦争」)(岩波書店、2014年) 3. 江口朴朗監修『第2次世界大戦』(第7巻「戦争下の南アジア」)(太平出版社、1985年) 4. 尾崎宏次『戦後のある時期』(早川書店、1979年) 文/椙山由香
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thetheatretheoryoftheapes · 7 years ago
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#2「起源の前、もしくは、もう一つの起源(古代ギリシアと反転するアジア)」
叙事詩『イーリアス』や、ギリシア悲劇『トロイアの女』に描かれたトロイア戦争。勝者が歴史を、そして文化を書き換えていく。そのとき、アジアはどこに消えたのか? その謎を巡り、演劇の起源を大胆に読み直しながら、現代社会、そして演劇への示唆を導き出します。下記は、講義の概要をまとめたものです。 ■『トロイアの女』にみる戦争と演劇 鴻さんが演劇を観始めた頃は、アングラ小劇場の全盛期。もともと理系の学生だったので、大学を卒業するまで自分から演劇を観に行くことはありませんでした。少し働いた後、入り直した大学が文化系だったので、皆が芝居を観に行っていました。その最初の頃に観たのが、後に鈴木忠志の代表作の一つとなった『トロイアの女』の岩波ホールでの初演(1974年)でした。また、アテネフランセ文化センターでの寺山修司の『盲人書簡』(1974年)では、劇場の扉が釘で打ち付けられ、監禁され暗闇の見えない中で演劇が演じられました。そして、不忍池の水上音楽堂を舞台とした、唐十郎の『腰巻おぼろ 妖鯨篇』(1975年)の冒頭では、唐十郎が「それでは皆さん、さ��うなら!」と言って、すっと池に飛び込み、落ちる寸前にニカッと笑って消えていく。その瞬間、唐十郎と目が合ったのだそうです。こうした演劇を立て続けに観ることで、演劇とはなんだろう? と思い、劇場に通い始め、個々の作品について調べ始めるようになったそうです。それからずいぶん時が経ち、ギリシア演劇についても色々調べるようになりましたが、そうした調査の中で、重要な示唆を与えた本の一つが、太田秀通『ミケーネ社会崩壊期の研究』でした。 ミケーネ社会は、トロイア戦争をきっかけに、だいたい紀元前1200年前後に崩壊していきます。ホメーロスの『イーリアス』にある、トロイア戦争でのギリシア軍船表(太田秀通『ミケーネ社会崩壊期の研究』P102-107を資料として配布)からは、29名の指揮者が様々な場所から軍船を率いて駆けつけていることがわかります。総勢1175曹。1曹につき、平均120名が乗船していると考えると、約14万のギリシア連合軍がトロイアに攻め込んだことになります。そして、10年間トロイアを包囲して、陥落した。その後に、戦利品を船に詰め込んで故郷に帰ろうとするときに、たとえば、『オデュッセイア』の物語は始まります。オデュッセウスは、いろいろな風に悩まされて、故郷に帰るのに10年もかかります。メネラーオスも、エジプトに漂着してから、スパルタに帰るまで7年かかっています。鴻さんもこうした物語に惑わされていましたが、実は、現地に行ってみると、ギリシア軍船が集結し出発したアウリスからトロイアまでの距離は、丸一日船を漕ぎ続ければ3日くらいで着いてしまうような距離だったそうです。つまり、こうしたフィクションの中で、現実の何かが消されている部分があるのではないかと考えられると言うのです。 日本人が戦後、鈴木忠志の『トロイアの女』を観るとき、戦後の焼け跡で、狂気に陥った老婆の幻想の中に、戦争に負けた女の嘆きを描いた『トロイアの女』の物語が展開します。鴻さんは、鈴木忠志が意識していたかどうかはわからないけれども、この芝居は、トロイア戦争の史実に近い形での何かを表していたのではないかと分析します。ギリシア軍が10年間トロイアにいたのではなく、無数の戦闘が繰り返される世界大戦のようなものがギリシアとその周辺で展開されていて、トロイアもまた、周辺と連合軍を形成してギリシアと戦っていたのではないだろうか、かなりの長期間の世界大戦があり、その最終局面にトロイアの陥落があったのではないかと鴻さんは推察するのです。(それは、日本の敗北で終わった第二次世界大戦の様相と重なります。)そして、それを語り伝える人たちがいて、トロイア戦争があった紀元前1180年頃から400年後の紀元前780年頃にホメーロスが『イーリアス』という歌に歌い上げた。しかし、そこではなぜかトロイア連合軍にいた国々の痕跡が薄くなっている。注意深く『イーリアス』を読むと、トロイアの前に陥落していく場所が出てきます。敵であるトロイアの複層的な姿を消していくことで、物語を“我々の”物語としていく。そういう働きの中で、敵の姿を推し量る証拠も消していく。こうしたことは、太田秀通をはじめとする幾人かの研究者も言っているそうですが、証拠が見つかっていません。トロイア側の戦闘の場所や方法がわからないのです。トロイア側がどういった歴史的文化的なものを持っていたのかを消すことによって、自分たちの歴史や文化の独自性を語るような操作をしたのではないか。そうすることで、自分たちの文化を豊かで根拠あるものにしていこうと実践的に動いている人たちがいたのではないかと鴻さんは考えています。 では、トロイアの背後にあっただろう巨大な文化圏とギリシア文化圏がぶつかったのがトロイア戦争だとすると、その向こう側に何があったのか。そのことを書こうとしたのが、たとえば、エーベルハルト・ツァンガー『甦るトロイア戦争』です。資料(エーベルハルト・ツァンガー『甦るトロイア戦争』表紙裏を配布)にある地図からは、ヒッタイト、カナンといった知られた名前も出てきます。トロイアのあった地はアヒアワと呼ばれており、ギリシアはアカイアと呼ばれていました。アヒアワは、アヒア、アジアとなるという説もあるそうです。他にも、アッシリアやエジプトも含めてこれらの関係がどうあったのかをこの本では書いています。年表(エーベルハルト・ツァンガー『甦るトロイア戦争』裏表紙裏を配布)を見てみると、エジプト、トロイア、ヒッタイト、ギリシアなどは同時期に存在しています。それが、ギリシア、トロイア、ヒッタイト、ウガリトなどは、紀元前1100年頃からいわゆる暗黒時代に入ります。トロイアが陥落した後に、勝った側のギリシアの文化も消えていくというのは、歴史的に大きな謎の一つです。ギリシアでは文字さえも消えてしまうのです。(この時期については、一般的に、大戦で二つの国が憔悴した時に、海の民などの他勢力が、入ってきたと考えられているそうです。) 暗黒時代は、何が起きたかわからないから暗黒時代と呼ばれています。この400年の暗黒時代にもかかわらず、考古学的には、紀元前8世紀くらいには、トロイアと他の地域との結びつきや、それらの地域のギリシアとの交流が、その400年前から存在していたということがわかっていました。鴻さんは、ギリシア演劇の成立過程においてさえ、そのことが見て取ることができると言います。演劇にとって最も重要な始まりはギリシア悲劇です。しかし、さらにそれを遡ると、ギリシアのディオニソス崇拝のディオニソス神とつながりがあり、その神に向けたヤ���を犠牲にする儀礼があったとも言われています。ディオニソスのぶどう酒は豊穣の印です。その豊穣をもたらす祝祭的雰囲気の中で、汚れを追放するという意味でヤギを屠ります。そのことで冬が到来した時の苦しみが放逐される。ヤギと共に汚れが去り、ぶどう酒を持ったディオニソスと共に新たな豊穣の世界がやってくる。そうした儀礼というものがもとになって演劇が誕生したというのが通説となっています。そのことを一般向けに記した書がジェーン・エレン・ハリソンの『古代芸術と祭式』です。 ■ 演劇の起源を再考する。古代ギリシア演劇の特異性とは何か。 ロシア語の『アザゼールとディオニソス』というタイトルの本からも資料を配布しました。アザゼールとは悪魔の名前です。この本の内表紙絵には、車に乗ったディオニソスが描かれています。両側にいるのが半人半獣の精霊サティロス。ぶどうの房が浮いたように描かれています。この本には、この絵が、ギリシアにおいて、テスピスが車に乗ってやってきて芝居を始めるという、演劇の起源につながっていると書かれています。また、他に重要な図として、ヤギの角をかぶり、ぶどうの房ともろこしの束を持った神様に、王か司祭のような人がお願いをしている儀礼の図があります。これは、現在のトルコ南東部にあたるキリキア地方と呼ばれたところから見つかりました。ヒッタイトのディオニソスと解釈されています。崖の岩肌に刻まれた巨大な浮き彫りだそうです。そして、他の絵と比較すると、アッシリアでのヤギの犠牲の絵に出てくるアッシリアの族長たちの衣装が、この司祭の服装と似ていることから、キリキアの彫刻にアッシリアの服装をした人が描かれていると考えられます。こうしたことから、本書では、アッシリアにディオニソスと同様の信仰があり、その信仰がキリキア(ヒッタイトの南)を経由して、エーゲ海の島々に伝播していった。そうしたことが紀元前1500-1200年にあったのだろうと書いています。ここで重要なのは、ヒッタイト経路という交通経路が陸路として存在していたということです。海の経路はフェニキアの商人たちが牛耳っていました。つまり、ヒッタイト周辺の一連の文化は、当然エーゲ海の島々とつながっており、そこからギリシアという国も出現してきた。そして、エジプトはヒッタイトと交易関係があり、カナンの地においては、フェニキアと覇権を争っていました。さらに、この本では、ディオニソスがトラキア(ギリシャ北部)の神と言われていることにも疑問が呈されています。アンカラとイオニアの間くらいにプルギアという地があるが、ロシア語のような音声表記をすると、トラキアとプルギアは同じ。アジアのトラキアという言葉もある。それが、ギリシア語では分けられている。実は、ディオニソスがアジアの神であるということは、ギリシア人も認めている事実です。 この『アザゼールとディオニソス』という本を書いたのは、ロシア人演出家のエヴレイノフです。エヴレイノフは、演劇の起源はギリシアにあるのではなく、アッシリア(バビロニア)のマードックの入城儀礼にあると主張しています。アッシリアにマードックという王様がいて、冬から夏になる時に入城儀礼を行う。その入城儀礼は、車に乗って王が町々を通過し、最終的にバビロニアの王城の中に入ってくるというものでした。車に乗って王が城に入るまでに、様々な演技が車の上で行われる。これがギリシアの演劇の起源とも言われるテスピスのもとであるというのが、エヴレイノフの考え方です。そして、このバビロニアのマードックの儀礼が陸路や海路を通じてエーゲ海の島々に伝わったと書かれています。アッシリア、エジプトとギリシアとのつながりを考えながら、ギリシア悲劇の特異性を改めて考え直すことに意味があるとエヴレイノフは考えていました。 そして、エヴレイノフは、この本を出版する前のロシア革命3周年記念の1920年に『冬宮奪取』という巨大演劇イベントを演出しました。それを演出するにあたり、彼が考えたことは、マードックの入城儀礼を当時のロシアに蘇らせることでした。バビロニアの王城に車に乗って王がやってくる、その車の周りにはたくさんの人たちがいる。それと同じように、ペテルブルグの様々な地区からいろんな人たちが山車のようなものを作り、行列をしながら、冬宮(現在のエルミタージュ美術館)に向けて集まってくる。そして、革命にまつわる様々な芝居をしながら、それぞれの町のステーションで立ち止まりつつ、冬宮広場に結集する。その広場では、赤軍と白軍の戦いのシーンが仮設舞台で演じられ、赤軍が勝利し冬宮に乱入すると、冬宮の明かりが消されて、冬宮内での権力奪取のシーンが影絵として演じられる。 『冬宮奪取』で、エヴレイノフは、ギリシア演劇に結集した歴史の流れを時空間に開き、古代ギリシア的な意味での演劇というものの別な可能性を開いたのではないかと鴻さんは考えます。現実に、何百年もあったかもしれない、アッシリアからギリシアへ渡っていった演劇史をロシアで再現しようとしたのです。『冬宮奪取』は、1920年に上演されました。出演者は6000人、観客は10万人という巨大イベントでした。『アザゼールとディオニソス』が書かれたのは1923年。上演をするにあたって歴史的な研究を行い、最終的に本にまとめたと考えられます。鴻さんは、こうした世界戦争と演劇、世界史と演劇という観点からの歴史研究を通して、演劇の起源のアジア的な反転といったことが可能になるのではないかと考えています。 古代ギリシアを、その周辺との繋がりから再考するために、もう一つ重要な本として、鴻さんが挙げたのは、���ンドレ・ボナールの『ギリシア文明史』です。1954年〜59年にかけてフランス語で全3部作が出版されました。この本では、ミケーネの漁師たちが、ナイル川のデルタ地帯や小アジアの国々で略奪を行っていたということが書かれています。そこからも、ギリシア勢力の地理的な広がりと文化的な交流を見て取ることができます。さらに、この本では、こうした行いの末に、アカイアの貴人たちが多数の部下を引き連れて行った遠征の最後に当たるのが、歴史的事実としてのトロイア戦争であると断言しています。 現実の儀礼から始まり、最終的に私たちの見ることができるギリシア悲劇が誕生しました。ここで注意しなければならないのは、古代演劇は祭式から出現してきた、だから演劇は儀礼的であると多くの人が誤解している点だと鴻さんは指摘します。これは全くの間違いであり、演劇は儀礼から誕生したかもしれないが、演劇は儀礼ではないと言います。では、儀礼から出てきた舞台表現において、ギリシアの特異性とは何か? ピュロスを中心としたピュロス王国など別々の地域や国として存在していたミケーネ文明は一つの巨大帝国へと統合されることなく崩壊します。そして、暗黒時代を経て400年後に同じような地理的形態に条件づけられたギリシアが出現してくる。ポリスという形態の無数の文化共同体から構成されます。専制的な帝国ではなく、ポリス連合体、その単位としてのポリス。直接民主主義的な議論が可能になる大きさの討議の場として、演劇が収斂していく。その中でギリシア悲劇が誕生してくる。もし帝国が存在していたら、ポリスをどう考えるかということを具体的に議論する場としての演劇は成立しなかったかもしれない。演劇が仮に儀礼から誕生したとしても、儀礼から切断されることによって悲劇が誕生したと鴻さんは論じます。ポリスを立て直し、王国を新たな社会形態として形成するためにはどうしたら良いのかという思考の形式を獲得するための場へと儀礼がなだれ込む。反復的に行われる儀礼ではなく、新たな孤立的共同性の立て直しの中に自らを参入するときの形態として儀礼を変換させるといった作業を行う人たちの中からギリシア演劇が誕生してきたと言います。そのために、ギリシアという大きな国家ではなく、ミケーネ社会のような小国の独立性を保ったまま、ポリスの生成というものが必要であった。アッシリア、エジプトは巨大帝国でした。アッシリアの儀礼がギリシアの儀礼とよく似ていたにもかかわらず、アッシリアから生まれるのは、エヴレイノフのような演劇なのです。鴻さんは、こうしたことを考えながら、ギリシア演劇の特異性を再考する必要があると説明しました。 ■ Q&A 参加者: ロシア語で『アザゼールとディオニソス』の中表紙に書かれていることについて説明してください。 鴻: 正式なタイトルは『アザゼールとディオニソス—セム族におけるドラマの起源との関わりにおける舞台の誕生について』、1924年の出版です。ディオニソス劇場の構成の中で、コロスが歌い踊るオルケストラ。観客席にあたるテアトローン。そのテアトローンの向こう側にある仮設小屋をスケーネと呼んだ。エヴレイノフは、セム族の入城儀礼での移動舞台、日本でいう山車のようなものが、スケーネのもとになったと考えています。 参加者:現存の『トロイアの女』では、トロイア側への同情的な見方が強いように思います。そこには、ローマの権力がトロイアの物語を変形させたという歴史があるのではないかと思っています。 鴻:それは、エウリピデスの『トロイアの女』は原作のままではなく、写本を通じてローマ時代に書き換えられたのではないか、ということですよね? それはわかりませんが、サイードは、オリエンタリズムの起源にギリシア悲劇があるという言い方をしている。アイスキュロスの『ペルシア人』では、ペルシア人は、小アジアを占領し、ギリシアに襲いかかるが、サラミスの戦いで敗走してしまう。勝利したギリシア人たちが、敗北した側の嘆きを観る。勝つ側からの視点としてオリエントを描くということが、あそこから始まるのであると『オリエンタリズム』には、書かれている。[注:エドワード・サイード『オリエンタリズム』、今沢紀子訳、平凡社ライブラリー、上、133-137頁]そういう意味では、『トロイアの女』も同じ。勝ったアテナイの人々が、負けたトロイアの女たちの嘆きを演じさせて、それを観ている。こうした点で問題点はあるかもしれない。 鈴木忠志は、1974年、終戦から約30年目に、負けた側の日本の老婆が、悲しみにふけりながら、負けたトロイアの女の幻想を見ている姿を描いた。それを観る日本の観客、ここで戦争責任ということはどうなっているのか。日本の侵略戦争はどうなっているのか。そういうことは無化されているのではないか。支那事変から始まる日本の戦争をどういうポジションから描いているのかということが、あまり問題にされてこなかった。そういった点から議論を蒸し返すということも必要かもしれない。 戦争と演劇を語るときに、その戦争が何であったかがそれなりに考察されなければならない。シモーヌ・ヴェイユは、ヘレネが奪われたからトロイア戦争が起こったわけではないと書いている。では、本当の理由は何か? それがはっきりしないということが問題なのです。さらに、シモーヌ・ヴェイユは、トロイア戦争を経済戦争だとも思っていない。通説では、トロイアは交易の中心として重要な位置にあったために戦争になったと考えられている。ギリシアからすると、ウクライナ地方の穀物、カフカス地方の錫と銅を安く運ぶために重要な場所であった。そこで、トロイアは高い交通税をとって富を築いていたので、叩かれたのだと考えられている。しかし、シモーヌ・ヴェイユは、経済のために本当に戦争するのですか? と問うている。戦争をするのは、国家です。国家が軍国主義的な欲動にかられて戦う国民を必要とするのである、だから注意しなければならない、と、シモーヌ・ヴェイユは書いています。 『トロイアの女』に関しては、その2年前にメロス島の虐殺というのがあって、その虐殺した人たちの悲しみを描いたとも言われています。その芝居を虐殺した側のアテナイの人たちはどういう気持ちで見たのか。そういった観覧記録というものが残っていない。というか、いま探しています。 参加者:(予告にあった)ピ��ゴラスについてのお話がなかったのですが。 鴻:ピタゴラスの話をしませんでしたね。ピタゴラスは若い頃、エジプトに留学している。私は、そのことに興味を持っています。ピタゴラスの定理、直角三角形の三辺abcにおいてa2 + b2 = c2となる。この定理は、エジプトでピラミッドを建てる際に、直角を作る方法を考える必要があったから導き出されたと考えられます。しかし、それを考えたのはピタゴラスではありません。ピラミッドはピタゴラスが生まれる前に建っている。つまり、ピラミッドを建てた幾何学の中に、直角三角形の二辺の二乗の和は斜辺の二乗に等しいというものがあって、それをエジプトに留学したピタゴラスが知ったのだと考えられるのです。重要なのは、形式的、抽象的と思われる事柄が、エジプトではピラミッドという具体的、物質的なものとつながっていて、それが信仰の素になっているということを理解してピタゴラスが戻ってきたことです。そして、ピタゴラスだけではなく、実は、タレスも留学している。つまり、イオニアの自然哲学の素は、ギリシアで自然に独自に出現してきたわけではない。ピタゴラスを考えると、演劇とは別のところでも、ギリシアの重要な思想がエジプトとつながっ��いる。エジプトとの交渉の中で、ギリシアで研鑽されたギリシアの自然哲学が、ホメーロスの世界に作用した時に悲劇が生まれた、と私は考えているのです。つまり、数学的、論理的な悲劇の構造性は、イオニアの哲学を身につけた人たちの中から出てきた。イオニアの哲学は、例えば、エジプトとの交渉の中で研鑽されてきた。ホメーロスの叙事詩を使って、アッシリアの儀礼とイオニアの数学を操作するとギリシア悲劇ができる。さっき、ギリシアにおいてなぜ悲劇が誕生したのか、を話しましたが、ポリスの他にも、エジプトの交渉で研磨されていった自然哲学における論理的構造性というのも一つの重要な要素です。 参加者:演劇は儀礼ではないという点で、ポストコロニアリズムの議論の中で、最終的に前近代的な共同体の復活や儀礼を再評価していく傾向があるように思います。 鴻:私はそうさせないための戦略的な思考方法を模索しているのです。 参加者:鴻さんにとって古代ギリシアは帝国主義ではないのですか? 鴻:アテナイ帝国主義という言葉がありますから。それはどの時代を指しているのかによります。スパルタと戦争を始めた紀元前5世紀頃はアテナイ帝国主義と呼ばれている。メロス島虐殺は、従わないものは殺せ、という帝国主義的な発想から起こった。ギリシアは、デロス同盟から拡大へ、帝国主義的な方向へ向かっていき、スパルタと戦って滅びていった。ミケーネ社会も、結局は小アジアに攻め入って、勝ったギリシアもその後50-100年全く消えてしまう。文字までなくなってしまった。それも帝国主義の失敗と言えます。
サイードが『文化と帝国主義』の中で、キマイラ型といった形態について説明しています。(私はサイボーグ型と呼んでいます)2000年前後のポストコロニアリズムには、始原的な古くからのユートピア的なものに戻っていくのではなく、サイボーグ的なものを目指すという動きがあった。ヨーロッパから独立して、自分たちの古きよき文化に戻るのではなくて、サイボーグ化することによって、新たな文化を作る可能性を手にした。そのことによって、その地域が存続していく。そこに可能性があった。ずっと抑圧されてきた人たちが逆転する可能性があるのです。 次回の予告として、ボナール『ギリシア文明史』の第2巻にアリストパネスについての章があります。その隣の章が医学の祖であるヒポクラテスです。アリストパネスとヒポクラテスの文章は非常に似ています。アリストパネスはソーシャルボディを、ヒポクラテスはヒューマンボディについて記述した時に同じような記述になった。そう考えるきっかけをくれたのがボナールです。次回のコメディア論は、この問題にも迫っていきます。 参考文献: 太田秀通『ミケーネ社会崩壊期の研究―古典古代論序説 』(岩波書店、1968年) 『シモーヌ・ヴェーユ著作集Ⅰ 戦争と革命の省察』(松崎芳隆ほか訳、春秋社、1968年) エーベルハルト・ツァンガー『甦るトロイア戦争』(和泉雅人訳、大修館書店、1997年) ニコライ・エヴレイノフ『アザゼールとディオニソス—セム族におけるドラマの起源との関わりにおける舞台の誕生について』(アカデミア出版、レニングラード、1924年、未邦訳)
文/椙山由香
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