#珊瑚海海戦
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真珠湾攻撃は奇襲にも関わらず出撃350機のうち29機という少なくない損害を出している。低空雷撃と急降下爆撃を行った機に損害が集中し、これらの攻撃方法は対空砲火に脆弱だった。もっとも日本機が全く防弾されていないというのもあるが。源田参謀はこれに気づいていたが改善される事はなかった。これらが顕在化するのは珊瑚海海戦まで待たねばならなかった。
1941年12月8日の「真珠湾攻撃」に「零戦35機」を率いて参加した当事者の「貴重な証言」(現代ビジネス)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024年)6月24日(月曜日)弐
通巻第8303号
「韜光養晦」路線から野心ぎらぎら満艦飾の「戦狼路線」へ
ど派手の武威、領海領空侵犯の裏に何かが隠されているのではないか
*************************
韜光養晦とは1990年代に「最高実力者』(肩書きがないのにトップだった)、トウ小平が強調したスローガンで、「才能を隠して、内に力を蓄える」という中国の外交・安保政策の基本方針だった。出典は三国志、劉備玄徳の言葉で、この四字熟語にこめられていた意思は臥薪嘗胆、立志報復だった。
中国は89年の天安門事件で国際的に孤立し、西側から厳格に経済制裁を突きつけられて、経済が頓挫したため、爪を隠して国際社会における存在空間を広げながら、基本的には、経済力もつける必要があった。他方で西側の中国制裁を「われわれの政権転覆を狙う『和平演変』だ」と言っていた。
日本が真っ先に西側の掟を破り中国に助け船をだした。
北京五輪を契機に、中国はすっかり自信をつけ���ばかり、2010年頃にGDPで日本を超えて世界第二位となると、米国以外の指導者すら見下ろすような態度を取り始め、胡錦濤政権後期に「韜光養晦」路線をすてた。日本に対しては傲岸不遜、上から目線で「教えてやろうか」という態度に変わった。やっぱり、臥薪嘗胆、立志報復のしっかりとして意思を含んでいたのだった。
習近平となるとトウ小平路線などきれいさっぱりと忘れ去り、というより習はトウ小平やエリツィン、ゴルバチョフを嫌っており、改革など眼中にはない。尊敬するのは毛沢東だから始末がわるい。
韜光養晦は中国共産党指導部の記憶細胞から消えた。
南シナ海に人工島を造成し、ベトナム、マレーシア、フィリピン、ブルネイ、インドネシアと領海をめぐる諍いがエスカレートした。
台湾海峡には連日、脅迫の武威、戦闘機から空母、巡洋艦に潜水艦、台湾侵攻は尖閣諸島占拠がセットになるから尖閣海域への海警艦船は武装して領海侵犯をくり返し、恫喝を継続させている。6月22日から23日の48時間で台湾上空に出現した中国の戦闘機は未曾有の77機に達した。
米国の有力シンクタンクCSISは「軍事力の衝突によらずとも海警の陣容を見れば、海上封鎖で台湾を日干しにする能力がある」と報告書を出している。
フィリピン沖合の珊瑚礁をうめたて、「ここは中国領だ、文句あるか」と白昼堂々の侵略行為を見せつけた。
さらに過去数年来、南太平洋の島嶼国家群への大規模に進出し、これら一連の中国の軍事的膨張にアメリカはすっかりつむじを曲げた。しかしそのアメリカとて、もはや単独での防衛は難しくなり日本のほかにインド、豪州とのシェアを重視している。
▼それでも中国を擁護しつづけたキッシンジャーはいなくなった
中国の軍事的威嚇、恫喝の武威デモンストレーションは、米国、印度、日本、台湾、豪州を十分すぎるほどに刺激した。痴呆��人さえ習近平を独裁者と言い出した。強力なチャイナ・ロビィ、中国の代理人だったヘンリー・キッシンジャー元国務長官は視界から消えた。
日本をも刺激した。なにしろ平和憲法、非武装中立の虚言を吐き続けてきた日本がGDP1%の防衛費枠を突破しても国民の反対はごく少数だった。バイデン政権は台湾にかれこれ十五回にわたって高性能武器を供与し、米海兵隊は台湾兵の訓練にあたっている。
さらにはアメリカでスパイ気球、スパイクレーンに技術スパイ、スパイ根城の孔子学院と、あらかたの最新技術を盗み出し、ハッカーを大々的に仕掛け、TIKTOKなどを使ってフェイク情報をおくり続けた。これほど無神経な行為はないだろう。アメリカを怒らせるにフルセットだった。
ちょっと考えて見ても、中国の立ち居振る舞いは愚かではないか。
自らの野心を相手に邪推させることは戦略的思考から言えば愚昧きわまりなく、孫子が生きていたら「おまえ、何をやっているんだ」と怒り出すだろう。
しかし、もう一度よく考えて見ると、中国伝来の方式とは、外に向かって何かを喧伝しているとき、内部での矛盾を隠蔽している可能性が高い。
おそらく共産党高層部と軍のなかで、熾烈な権力闘争が起きているに違いなく、そうした脆弱性を糊塗するためにも、外部に向かって威張りちらす、居丈高に横暴に振る舞って国内矛盾をすり替えているように思えてならない。
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「Can You Catch A Cold?」サンプル5
字幕大王2024.06.25
サンプル4はこちら
水俣病の混乱
細菌論に夢中だったために伝染病と間違われた病気は栄養不足だけではない。1956年5月のこと、5歳の少女が日本の水俣市の病院に入院した。水俣は八代海に面した人口約5万人の小さな漁村だった。その少女は、けいれん、歩行困難、言語障害などの異常な神経症状を呈し、急速に体調を崩していた。数日後、彼女の妹と町内の他の3人もまったく同じ症状で病院を訪れた[45,46]。
その後、数週間から数ヶ月で、村の人々が病気になるケースが急増したが、罹患したのは村人だけではなかった。大量の魚が奇妙な泳ぎ方になり、やがて死んで陸に打ち上げられた。海鳥は飛べなくなり、異常な行動をとるようになった。これらの動物を捕食する猫も具合が悪くなり、口からよだれを垂らし、気が狂ったかのようにぐるぐる走り回った[47]。動物と人間の間で何らかの病原体が伝播したのだろうか。誰も確かなことはわからないが、この��流行は伝染病の特徴をすべて備えているように思われた。最初の患者が出た後、村に住む人々が次々と同じ症状で倒れ始めたのだ。そのため、ある種の「奇妙な伝染病」が発生したという噂が広まった[48]。やがて、この病気は伝染性髄膜炎であるという未確認の報道が出始め、地域社会は大きなパニックに陥ったのである[49]。
謎の病気への恐怖は極めて大きく、近隣の町の人々は水俣人を排斥し始め、長い間築かれてきた密接なコミュニティの絆は急速に失われていった[50]。伝染病まん延を抑えるため、家屋は消毒され、病人は隔離された[49]。この対策にもかかわらず、伝染病が地域住民を襲い続けた。初期の報道によれば、少なくとも55人が感染し、17人が死亡した[45]。
しかし、約3年後、研究グループはついに病気の原因が地元の肥料製造会社であると突き止めた。同社が、合成肥料製造の廃棄物であるメチル水銀27トンを水俣湾に投棄していたのだ[51]。この水銀が地元の水路を汚し、何百平方キロメートルもの海を汚染した。かつては美しく肥沃な自然の珊瑚礁であった水俣湾は、有毒な荒れ地となり、かつては豊かであったその恵みを不運にも口にした人間や動物を毒した。
1963年2月、水俣病の発生原因を調査していた研究グループから正式な発表があった。誰もが落胆したが、水俣病の原因は感染性微生物ではなく、メチル水銀に汚染された水俣湾の魚介類の摂取によるものだった[49]。長年にわたって、この環境破壊の犠牲者たちは、日常生活で出会う人々に伝染性ではないと安心させねばならなかった[52]。この災害によって900人以上が死亡し、200万人が慢性的な健康被害に苦しんだ[51]。
水銀中毒の混乱
水俣で起きた出来事にもかかわらず、医療関係者は今日に至るまで、水銀中毒を感染症として誤って診断している。2018年8月のこと、15歳女性、13歳女性、11歳男性の3人兄弟が救急外来を受診した。彼らには、発熱、筋肉痛、皮疹、倦怠感など、非特異的な症状が進行していた。検査は陰性の連続であり、その結果、「ウイルス性症候群」と診断された。子供たちは休ませるために家に帰らせられたが、その3日後、兄弟はさらに悪化した状態で救急部に戻ってきた。うち一人は神経障害を起こしていた。子供たちは溶連菌性咽頭炎(連鎖球菌性咽頭炎)と猩紅熱(しょうこうねつ)と診断された。彼らには��生物質が投与されて退院した[53]。
その数日後、子供たちはセカンドオピニオンのために別の救急外来を受診した。この時までに、症状はかなり悪化しており、激しい頭痛、息切れ、手足のしびれ、全身の脱力感などが生じていた。結論に飛びついてウイルスやバクテリアのせいにするのではなく、救急医たちはさらに詳しく調べた。すると、子供たちが自宅で水銀の瓶で遊んでいて、それがカーペットにこぼれていたことがわかった。母親はこぼれた水銀を掃除しようとして掃除機を使った。母親はそうとは知らず、これが水銀を加熱・気化させて、子供たちはうっかり吸い込んでしまったのだ。不思議なことに、母親には何の症状も現れなかったので、この病気は小児感染症のように思われたのだ。
子供たちが水銀中毒であることを知った医師たちは、水銀除去のためにキレーション療法を開始した。二人の子供は完全に回復したが、1人は関節、背中、筋肉の痛みが続き、歩行器が必要になった。この出来事はケーススタディとして記録され、2020年2月の医学雑誌に掲載された。著者の結論としては、水銀中毒が感染症に似ている可能性があることだ[53]。子供たちは同じ家で暮らしており、似たような症状を呈していたため、最初の病院の医師は、小児期の伝染病が兄弟間で広がったに違いないと誤って考えたのだ。ここでもまた、一面的なレンズを通して世界を見ることが誤った思い込みを招き、正しい診断と治療を遅らせたのである。
なぜこれが重要なのか?
壊血病、ペラグラ、水銀中毒といった病気の原因を正しく特定することが重要だったことは明らかだ。しかし、いずれの場合も、細菌論というレンズが真実を邪魔し、調査者を無益な捜索に向かわせ、一般大衆を無用なパニックに陥れた。これらの事例だけを見ても、間違った説明モデルを適用したことによる影響を定量化するのは難しい。数え切れないほどの資源、時間、人命が、存在もしない敵と戦い、追いかけて失われたのだ。また、どれだけの人々が仲間はずれにされ、孤立し、非人道的な扱いを受け、タイムリーで効果的な医療を拒否されたかを考えると胸が痛む。それは伝染病だからではなく、伝染病であることを恐れたからである。このように、我々が世界を見るレンズは強力だ。良くも悪くも、レンズは我々のあらゆる知覚を彩り、我々の見方に一致する結果をもたらす。
もちろん、今では良くわかっており、これらの病気を伝染病と見なすことはない。壊血病、ペラグラ、水俣病のような病気を振り返り、その過ちに気づくのは簡単なことだ。現在の我々から見れば、人間がハンセン病患者のような烙印を押され、治療を拒否され、檻に入れられた動物のように閉じ込められていたのは野蛮なことのように思える。��知恵とはおかしなものだ。我々は今、すべての答えを持っていると思い込んでいる。しかし、我々がいまだに伝染病だと考えているが、そうでない病気が他にもあるとしたらどうだろう?ここまで来たと誇らしげに振り返っても、まだ同じ過ちを犯しているかもしれない。プライドと甘さに目がくらみ、過ちを犯し続けていることに気づかないまま、我々は突き進むのだ。
今にして思えば、過去の研究者の一部が傲慢でなく、型にはまっていなかったのは幸運だった。彼らは謙虚であり続け、心をオープンにし、勇気を持って行動した。もし彼らが、受け入れられているパラダイムに挑戦しようと思わなかったら、今日の世界はどうなっていただろう?我々はまだそれらの病気を伝染病とみなし、かつてと同じ非効率的で非人道的な治療法を続けていたかもしれない。単純な食生活改善の代わりに、重金属を注射し、ペラグラのために隔離されることを想像してみてほしい。壊血病や脚気、くる病に他人から感染することを恐れて暮らすことを想像してみてほしい。おそらく我々は、ワクチン接種、手洗い、社会的距離、抗生物質、抗ウイルス薬、マスク、ロックダウンといった現代的な方法で、これらの(存在しない)細菌から身を守ろうとするだろう。そのあいだ、人々はライフスタイルや環境によって不必要に死に続けるのだ。そういった想像は難しくはない。例えば風邪やインフルエンザなど、他多くの病気についても、今日の世界はこのような方法で対処しているからだ。ただひとつ違うのは、現代の研究者たちが、伝染病モデルによってこれらの病気を正確に説明できると信じてこんでいることだ。この信念は現在、集団心理に深く刻み込まれており、間違いの可能性を受け入れるのは難しい。文化もまた変化しており、受け入れられているパラダイムに異議を唱える者は、狂った陰謀論者のレッテルを貼られる。
我々はあまりに自身を確信しすぎてしまっている。しかし、本章で示すことは、結果を観察して原因を誤って帰することが、いかに物事を間違えやすいかである。また、結論を急ぐのではなく、厳密に管理された(controlled)科学実験によって因果関係を確認することがいかに重要であるかを強調している。我々は過去にも過ちを犯したし、因果関係を正しく理解しなければ、我々自身がどれほど進歩していると考えていようと、過ちを犯し続けるだろう。誤った例が強調しているように、病気を伝染病と誤って診断することは、あらゆる種類の悪影響をもたらす。病人にとっては、適切な診断や治療へのアクセスが遅れ、より深刻な機能障害や身体障害につながる可能性がある。総合的には、これは広範囲に及ぶ影響をもたらす。実際、病気の原因を伝染病と混同してしまえば、より恐れを抱く回避的な社会が培われ、資源の配分を誤り(研究助成金など)、誤った経済(医薬品など)��支え、組織(政府など)に権力を譲り渡し、誤った道を進む間に、より多くの人々が病気になり、命を落とすという機会損失を最終的には被ることになる。
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「Can You Catch A Cold?」サンプル5 | 字幕大王
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架空戦記小説・書籍カバーイラスト
『原子力戦艦「大和」(3) -ガダルカナル島、大争奪戦!-』 (林譲治著/電波社)
架空戦記小説。 いまだ激戦が続く南洋珊瑚海。戦艦榛名を撃沈した米艦隊は引き続き他の標的を狙うが、秘密兵器とも言える戦艦金剛の対空攻撃により、航空部隊に多大な被害を被る。多くの戦艦と空母二隻を撃破し、米海軍の戦力を大幅に削った連合艦隊は、いよいよ米豪遮断作戦の一歩として、ガダルカナル島基地の建設を目論む。だが一方の米海軍も、迫りくる日本を迎え撃つべく、ガダルカナルを要衝とすべく動き始めていた。くしくも同じ島を奪い合うこととなった日米両軍……そんな矢先、帝国海軍の切り札とも言える『大和』『武蔵』を擁する原子力艦隊が出撃していく。果たして、日米戦の運命を決する南洋の要衝争奪戦の行方はいかに!?
2025年5月
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nostomania(懐郷病)
(自分は必死に必死に必要なことだからと堪える 、)衝撃を背景にして(耐えるけれども同時に 今)すこしとぎれた ヒトが憂げにあまる一話一句を。 狭い砂時計の護岸を彷徨う住人にとっては差し支えないが、かきまわした引き出しに、血肉・糞便、しおれた茎だけが イデアを写している 忌諱を、それら忘却の端材に記憶を添付したオンナのすがたとは、いつぞやに散らばる海水の杯で、 小説のtitleと 忘れちまった、 祈りか? エリカ。 これらつとに発酵するCRACKでDRUGでして。これだけは半ば、仮面に埋もれた巨大な機械の断片がある。視して、住み荒らされた位置は投射され あらゆるほこりと錆で覆われている、どの一部も触れば魔術的で。多くの繊維は弁で囲われてみせる。春とは。ひとくくりの新種の街路樹は青臭い風が強くてややこしい。地に群がっているこれがいびつな翌週などと、まるで残すだけの蒸気が「はかりごと」にたとえちかくみえるやもしれません わたしは 尽きた いのりを主体として ガラス向こうは明滅する/daydream. けれどはき捨てた足跡がまるごと波にさらわれて階層が閉じられた己に赫きあり、鉄と石の合間に。――回帰とはかつては祖を制御していたのだろうか。 力強く生え出た植物がちらほらと観える。同じく一部は(……まだか?)可能性により反響を固定し、わずかに靡かせる。と、罪にはならない。この炎の揺らぎは穏やかな縁で浮かぶ自我に境界を告げる 考古学者たちは手で慎重に土を払い 耳を劈く喘鳴で無機質に働く、 立する遺物を覗き込む 錯覚の歯車と戦慄の配管で体を成した路地裏の意図が���み合い。ほそくゆるく、いつからか放置され(彼女とは。そのうちに途切た彼とは)おもいのほかほこりでくすんでいるだけかもしれないね――
〝では、では幻灯機スライドの君とご堪能あれ〟
市・昴の配置が具体的にはみ出ないように魚群の列を敷く、無気力なデザインにプロペラが波打つ施術は光にもろく墨は漂い、風紋を含んだ じれったい空。ほんとうとは、しろく、ありのままに撚ってできた ささくれの雲。それぞれ、あるくたびに/浮いたり沈んだり(その気配だ。) なによりも――ようこそ「ノ肚へ。」 ほのかな機械音がこのユウガタ。舌の先に広がり口内にひそかに残る。繊細な夢の元で。ただ欺こうとする脊髄を通る定刻発車に、身得ない時間と言い淀んで、わぁと乗る。 なんどもなんども醒めないなか、 過ぎ去りし飛空船から。 複雑な秩序が質感を保ちながらも混在したパラレルにどこへ開こうが 〈とこしえ、なんて 似ている、一瞬だ〉 けれど未だ会話を遮っては、風が白痴を生じさせるから。プライドが腐乱した装置たちが 囁くばかりに、息巻いているのだから じきに煉瓦を粗く轢いた足元はぶかぶかする。そこは古いオイルが燃えているような匂い。苔の隙間からは小さな花がひっそりと顔を出して ああ一斉に湿り気を漂わせて、陰々とした背を照らすたびにぐらぐらと錯覚する。 そして印画に立ち並んだ露点の一角をゆずると、だめね。ボロい鉄のオブジェは『大地の表面を自然にもつ〝視覚的な、幾何学的な〟亡霊に支配され。』おぼえがきは光重たくも浮し、時はそっと酔わせる味気なさと風化し……殆どはうららかな破損と癒えるでしょう 機にしてうつつ、赤い自転車は微細な粒子をキラキラとときめかせ、静かに進行し風を切ることはできるとおもうのに。存在を操作されたあらゆる受け皿は、前かがみに右に左に沈んだ紙一重を握って。澄んだ外気と埋め尽くす無数の星座をかぞえ 背をただせば、ただそこで萌して暮れ。錆びた雨上がりの、ウソい蛍の羨望に、ときに舞い流されいってしまう 「 飽き――秋――空き。 ともに誰かの夏の終わりが、」 ギアの軋む訛りに―― /放浪する旅にいくども中る 説明��つかない銀の陽気にただ降れる。それだと己が祀られた小さな祭壇すら浮き草のようで、わかっていて? 元の通りに研磨して縫ったくらしも馴染んではハリがあるくらいに。名残惜しい周波数は、酷くぶつかって。なにか御辞儀ばかり押し留めてみても、あなた、幇助にもあらわな錠をくたくたと溶かし込むだけ しらじらと軸が嗅覚に染みていて。わたしに欠けた部分をそっとなぞるから。ねえ、自然モノクロなオアシスで。大きな手で、葉を落とす無数の丸みをおもい、砕かれた意思のような、眠っていた誰かを呼び覚ますけれど。冷淡な旅愁が情けない姿で哭いた。汀にいき このさい 息を殺してやれ。 どうかどうか灯された重みは21グラムとして。『珊瑚の有機体』といった形状はふくらんでいきました。弔いをもって若草が栄え、好天を裂く月のカケラが折れるとき。くすんだ金色の光を放っている。つめたくにぶい感触が手の平に残る。 夢のまた夢だ ――きまぐれに���養された真珠骸は切になると憶はタイルに壁に運命を感じるよう、もはやどこにも属することなくすり抜けてしまった街全体が、精密にかみ合う刃車ながら、もう真っ黒な蝿が砂を盛る。 義眼を帯びた命令だけが象徴の、記憶のかたまった語彙ばかりが真っ白な蟻と毒を酌む。わずかな隙だらけの山積みに堆く。べた一面、一体となって動いていた。 填めだしのパイプから街の動脈のようにくすみ、油まみれで、わらわせる(遠くからこだまを返している)黙黙と、縛する蒸気は、周囲に形を与え、皓い煙が一瞬にして空気中に身を隠し、色彩が消えていくだけ。 そうね、このような場所はもっともあおむきで、あらわれるまえに駆けだしてしまう歩調がもう植物の葉脈を移しているかのように、必然。予兆として残響しいくらか振動する。稀。長年の風雨にさらされては。どう手を伸ばせば深部で錆びついた約束など破れ、おきる夢の奥での なおさら 執拗な痛みを直に受けとめながら、首をひねるばかりして。そのリアルな急所に沿って、無言の空想ばかりで自分を苛んでは踏みしだくたびに、(心にも無い。)胸をえぐるけれど ささやかでも。 やはり道連れの縮図であり憐れな所作であるから つまらないこと。 そらのかなたに軽やかに塗り潰すように、濃藍。あさましい一帯ほど装飾だから、焦燥の明るみは開眼で���り儚し。そうして―― (あいつさぁ『鯨骨生物群集』) ――いや、ならみな、わたつみの右側の中心から大事なところへ。血脈は随時張り巡らされた檻、こんなにもおおきく天上へループされていた ケダモノのやることだ もうだいぶ印象と補修した側道は、また、なんといっただろう。くちびるをひらく、と海上は一筋の黒の螺旋やパターンが組み混まれくずれました。盛りをすぎた陽炎に没し、不可視な地脈、透かしホオズキに中って、まんまるな実ばかりをくしゅりと潰した、落日をおもいだす 抽象画の傷は浅くて 「やさしいひと。」です うなずいて。ねえ、アレは掬い上げたつま先、から〈最果て〉まえは、なぜか違えていて。のちほど音のない交渉が解けはじめた あわいにおいて。なんだか。浮かぬ顔、そのときから羽車に未来にはなかった。仕方なく(こんなものが)ふりむいた感覚は薄明光線とすでに独り立ち、(怠け者ほど)烟り翳もまた湿気り固くなる。 怯えては 目を瞑る。 (初日~いきつづける。/なりゆき。) みないように 温もりのとおくと繋がり、あきらかに炫く。 柿は憂う前に地に伏したのに? 芒はどこか意地悪で、吃音で仕切り反して。煤けた鉄路を走る蒸気駆動の列車が 甚だしく放置された無音の証言が、イタズラな感傷は水に浸らなくては征けなくて…… しんだの。 ――深く深く何層ものおもい霧がもうもうとつき纏う 『多重夢街の凩、』 はいはい それらがヒトのこと こんなぐあいに。 バカな奴だ。トビラから切り開く領域を、果てのない光がきつい雨のようごちゃごちゃっとひっつきだす最善のいのちよ。 のぞいたことはなかったの。支離滅裂のデータの結晶の構造が隠すよう多様な物質も、哭きたくなるか。複雑な電波が物としては海上は嵐を生じさせるアラーム。そう呼ばれて。 泣きたくなるの。またゆっくりと沈黙の底に気配を消し、満にして 目立たぬ窓になにを逃避してみようと、なにげなく確実に刻まれて。ゆらいでるもとに進むには、 目を閉じれば。「これはね。」 未だ朦朧としたヒトガタだけを配色し、/(なんだそうだ。)/精緻な計算や策謀の下部にちらりとあり 黒い顔をしかめながら支えられ、わけわからぬが、砂の舟 互い向かいあうように構成されています。 ほら彗星が降る夜に。 呼応した煙突から舞いあがる終末だ そう、つとめることは盛り付けられた水嵩を圧して引いてご覧。カバーは半ば拓き、拗れた『台本〈ニンフは鯨に宣る〉』人差し指を見なければ彫刻の針は止まっている。どこかむかしを喪った、彼女の影だけ複雑で、手に手をとって。わかちあうように匂わせていた ――騒音と微かな香り 舞台上とは、そういうもの だから。―― ここは中空で、潰れそうな未来の鉱物がおもしろいほど、捕獲され垂れ下がるビルのスキマを、繊細に。〝コブのついた〟形状の性ほど、もみ合う天使どもは流れ着いた姿態と呼ばれ、ぐいと鋭いヒールが おぼつかない 舗装の上にどこか決意と秘密を道連れにしながら、またぐ、勢いに任せ、這うように、成長するにつれて、 ――巻き戻した灰石と施された遺志とで切り継ぎしたもの―― すでに異形であり不規則のうちで封印された過程など、けちけちと鼓動していく。この膿腫とてまねく阿片窟。やせている、いつかどこかも混じりあい、利き手で探るよう朦朧と錯乱する信号に絞める、 くるしみの連鎖だ。 眠る秒針の砂原は折という眼鏡をかけ、まだらな僕がつまらぬ薪の先に みつめる蒼白い地平線に ぶつかるよう侵蝕され。飛び込む程 まばらな一死をなんと記そうが……ああ塗り足しと続く朱色の架け橋が莫迦みたいなツラで辿り着けない。 エリカは 対岸とあり、解錠では蜻蛉アキヅがうつろう あちこちの蛇の目を夢幻に継ぎ合わせて 曼荼羅が形成する座間で、無効では陳舎があるんだ 触れた顔料を頃あつくふかく、ムラなく緩ませるには 瑞鳥のように息を荒げている。 唯一の真実を映しだす陽射しオテントサマがただ、 大粒の装置としてたっているだけの悪意など ばからしか/夜明けの虹 つぼみが明かない華に。互い発生した部分は ひつこく余興であり、ひとごとのくせに、「きれはし」を伝え 赤錆びた炎症は糸を巡らす。表面の順序と試作葬儀の段取りにあり、虚像と現実の境界線上で根を下ろす、 たとえ、語り尽くせぬはなばなし 〈災厄――あけはなれる。〉けれども…… 2024-09-21
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'Double Eagle'
[PC98 / X68000] [JAPAN] [MAGAZINE] [1989]
Double Eagle is a golf simulation game. The tagline "2way Golf Simulation" refers to the two game modes to choose from. • GOLFLIFE is career simulation. The player's character starts out 20 years and 1 month old and with 100 yen, and has 30 in-game years to win tournaments, move up the Japan and World rankings and advance up the classes (Amateur class, Professional Class B, Professional Class A and Professional Class S) before retiring at age 50. There are four stats: physical, mental, technic (technique) and fatigue that affect your performance. To start out you need buy or rent a club at the golf shop. Extra money can be earned by doing one of the three side jobs. At first there is light work, hard labour and caddie, moving up the classes lesson, TV booking and commercial become available. Each job pays differently as well as affect your stats, most notably increases fatigue. To get rid of fatigue you can rest at home, hot springs or hospital. There's also three training options: gym increases the physical stat, image increase mental stat and course allows to practice on courses, thus gain technic. Each action advance the time by one month. The game features 40 tournaments, either two-day or three-day with all participants playing 18 holes each day. Some tournaments also require a qualifying round for the main competition. On the course you're joined by 2 or 3 AI players. • PLAYGOLF allows 1-4 players (human and/or AI) to play an 18 hole round. There are 12 courses to select from as well as different seasons/conditions - spring, summer, autumn, winter and snow. ~MobyGames
Other games in ad, bottom right clockwise:
Daikairei: Nankai no Shitou (with separate disks) 大海令 -南海の死闘-
Daikairei Campaign Disks: Battle of the Coral Sea + Battle of the Midway 珊瑚海海戦 + ミッドウェー海戦
Ē Ressha de Ikō II A列車で行こうII
Source: Oh!X, October 1989 (Vol. 8, #10) || Gaming Alexandria; Joey Wawzonek (via the Internet Archive)
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タツノオトシゴ
タツノオトシゴ(学名:Hippocampus)は、独特で魅惑的な海の生き物です。パイプフィッシュ科に属する小型の海水魚の一種です。その名前は、細長い胴体、小さなひれ、そして最も特徴的なのは、馬の頭と似た独特の頭部から来ています。通常、浅い熱帯や温帯の水域に見られ、海藻や海草が生い茂った場所、または珊瑚礁の近くを好みます。彼らは巧みにカモフラージュする達人であり、周囲の環境に溶け込むために体色と模様を変化させることができます。そのユニークな繁殖戦略で最もよく知られています。メスのタツノオトシゴは、卵を産むのではなく、卵を孵化させるまでオスの育児嚢に卵を移します。その後、オスは孵化するまで卵を孵化させます。これは、動物界では珍しい父親の育児の例です。
手抜きイラスト集
#タツノオトシゴ#Seahorse#Cavalluccio marino#Caballo de mar#Seepferdchen#hippocampe#手抜きイラスト#Japonais#bearbench#art#artwork#illustration#painting
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セブ島観光の日
セブ6日目、やっと観光らしい観光をしに行きました。
有名な歴史的建造物が集結しているエリアがあり、徒歩でほとんどまわれるのだが暑過ぎて3、4箇所が限界🙂↕️
メトロポリタン大聖堂→マゼランの十字架→サントニーニョ教会→サンペドロ要塞 の順で見学スタート✨

大聖堂は残念ながら中に入れなかったので外観だけ。白珊瑚石で作られた外壁が珍しい。スペイン統治時代に世界周遊航海に出たフェルディナンドマゼランがセブ島に立ち寄ったことによって、フィリピンにキリスト教が浸透。その後たくさん教会が建てられたけど、戦争でほとんど壊れてしまい、この大聖堂も何度か再建されたもの。当時のままではないのだけれど、歴史的な背景を知ってから見学するとより感激しますね。

大聖堂完成から500年の年に記念して建てられた十字架。

キリスト教の布教者であるフェルディナンドマゼランが途中でセブ島に立ち寄らなかったら... この地で殺されることもなく、世界一周を達成してたのではないかと思わざるを得ません。もしそうなったらフィリピンにこんなにキリスト教が普及してなかったかも知れませんが。道半ばで命を落としてしまったこと無念だったろうな...

これは[マゼランの十字架]と言う名称で、セブで欠かせない見どころスポットの一つ。マゼランがセブ島に初めてキリスト教を普及し、当時の王と王妃がキリスト教の洗礼を受けた場所にあります。その際に実際に使った十字架らしいのですが、十字架の外側を削って盗む人続出💦保護する為にコーティングされたみたい。
八角形の建物内部に洗礼の儀式の様子が描かれているのも必見✨観光客が続々とくる人気の場所でした😊

すぐ後ろにはフィリピン最古のカトリック教会であるサントニーニョ教会があります。
正式名 「Basilica Minore del Santo Nino de Cebu」

サントニーニョはスペイン語で 聖なる少年の意味。幼い頃のイエスキリストのことを指していて、この教会内に戦火でも無傷だった奇跡のサントニーニョ像が祀られていました。

内部は祭壇以外にも見所たくさん。想像以上��広くて、素敵な中庭や宗教画が展示されてる通路もあります。


キリスト教が9割を占めると言われるフィリピン。西洋色が強いのも当然、スペインに統治されていた時代が約380年続き、その後はアメリカ、最後に日本も占領。フィリピンの方々がどんな気持ちでいるのか怖い部分もありましたが、出会う方皆さんとっても優しくて日本人ウェルカム。勝手にフィリピンにいだいていた印象を覆された旅行でした。

写真10枚までなので次回に続きます✨
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敵空母に間違えて着艦しようとした日本軍機#珊瑚海海戦 #ゆっくり解説 #世界大戦 #ww2 #歴史 #太平洋戦争 #日本海軍 #空母 #hist...
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とにかく「いい島だな」と、きれいだから島は、珊瑚礁で。そして、海も、とてもきれいなんだ。ほんと、なんて言うか、今で言えば、観光地だっぺが、とても、素晴らしい所だったの。うんじゃから、「これはええ所へ来たな」っちゅう印象でいたの
「小さなスコップ陣地構築」|戦争|NHKアーカイブス
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「え、光りだした!?」夜に怪しく輝く琉球グラス その秘密に驚いた – grape [グレイプ]
以下引用
今回紹介するのはおしゃれな琉球グラス。 お酒やソーダを飲むのにもピッタリなこのグラスには、ある秘密が隠されています。
実はこの琉球グラス、暗くなると…光ります!
独自の発展を遂げた『琉球グラス』
琉球グラスは、沖縄で独自に発展したガラス製品です。
今の琉球グラスが本格的に生産されるようになったのは、戦後間もない頃。 当時、駐留米軍が捨てた清涼飲料の空き瓶をリサイクルして作られたグラスが、現在の色鮮やかな琉球グラスの始まりとされています。 一般的なグラスは、薄くて透明感があることが好まれます。 一方、空き瓶が原料となっている琉球グラスは、独特な厚みと深みのある色、気泡も入っているのが特徴です。 しかし、それが商品の魅力として高く評価され、現在は人気の工芸品となっています。 琉球グラスの製法は、ガラスを拭き竿の先に巻き取って息を吹き込み形を整える『宙吹き』と、型の中に直接息を吹き込む『型吹き』があります。 1400度にもなる炎で熱せられドロドロに溶けたガラスを扱うため、暑い中でも気が抜けません。 職人さんの強い集中力と高度な技術が伴ったグラスといえます。
誰もが驚く秘密が隠された『ホタル石のグラス』
(中略)
こちらは『暗闇で光る蛍石入りの琉球グラス』なんです。 グラスが光る秘密は蓄光する『蛍石』。太陽光や蛍光灯の光を吸収し、暗闇で吸収した光を放出する性質を持っています。 明るいところでは普通の琉球グラスとして、暗いところでは光る不思議なグラスとして楽しむことができます。
今回紹介するグラスはすべて職人さんが一つひとつ手作りした��の。 色味や模様、気泡どれをとっても同じものは1つもなく、違った表情が楽しめますよ。 そして、グラスが厚底なのもポイント。高さがあるぶん、どっしりとした見栄えで、高級感のあるグラスとなっています。
気泡が美しい珊瑚グラス
海と珊瑚をイメージさせる『ホタル珊瑚グラス』。 プクプクとした泡が印象的で、まるで海の中にいるような気分になるグラスです。
コロンと丸い形がかわいいタルグラス
愛する人の幸せを願って作られた『LOVE&STARタルグラス』。 きらめく銀河のようにデザインされた気泡と、絶妙な配色がマッチするグラスです。
まるで銀河が渦を巻いているかのようなビアグラス
いつもの晩酌が特別なひと時になる『LOVE&STARビアグラス』。 まるで銀河のようなデザインで、暗闇で光らせると光の渦の中にいるかのようです。
天の川のようなロックグラス
夜空にきらめく天の川のように光る『ホタルウェイブグラス』です。 グラスの凹凸が波打つ海にも見え、空に浮かぶ雲もイメージできます。このグラスがあれば、いつでも天の川を見ることができますね。
明るくても暗くてもかわいいハートのグラス
特徴的でキュートなデザインが目を引く『LOVE&STARハートグラス』。 一風変わったグラスを使いたい人におすすめのハートの形をしたグラスです。
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2023.07.12
Newham
Maryland
North Greenwich
"The Line"
-Alex Chinneck A Bullet from a Shooting Star
-Thomson & Craighead Here
-Richard Wilson A Slice of Reality
-Gary Hume Liberty Grip
-Antony Gormley Quantum Cloud
-Laura Ford Bird Boy (without a tail)
-------------
テムズ川沿いに野外展示が並ぶ"The line"を見に行った日。
ホテルの朝食を食べて徒歩で最寄り駅へ。工事現場を撮ったらおっちゃんが手を振ってくれていた。
Maryland駅からJubilee線でNorth Greenwich駅まで行き、O2アリーナをぐるっと囲むように展示されている5つの野外展示および、そこからケーブルカーで渡った先にある1つの計6つを見ることが出来た。The line自体はもっと多くの展示があるのだが、回っている途中で既に体調がおかしいことに気付いていたので、なんとかどうしても見たかったBird Boyまで会いに少し無理をした。
最初はAlex ChinneckのA Bullet from a Shooting Star。逆さまの鉄塔が地面に突き刺さっている。以前は近づけたようだが、周囲の開発が行われている関係でほぼ封鎖されてしまっていた。しかしNorth Greenwich駅を降りたらすぐに見えるその存在感。非情に異質というわけでもなく、周囲に溶け込んでいる流れ星はとても魅力的だった。
そのままHereを通過してA Slice of Reality。輪切りにされた船。実際にあった船だか、それのレプリカだか。船の内部には何かの缶やら板やらが残っていて、今にも中から人がひょこっと顔を出しそうだった。船に打ち付ける水の音を聞きながら、彼が語る止まった時間を眺めた。ここには何があったのだろう。
次はLiberty Grip。マネキン3体の腕をモチーフにしたよくわからない滑らかなシェイプを、記念像のようにブロンズで塗装。いたずら心として切り口をピンクとグリーンで塗ったらしい。とても可愛らしい作者だと思ったし、ステートメントを読む前はなんとなくエロチックな雰囲気だなと思っていたのだが、読んだ後は作者が二ヒヒと笑っているような、楽しい印象を抱いた。よくわからんけど好きという芸術鑑賞で一番楽しいやつ。
Quantum Cloud。でっけー。下半分は規則正しいが、上半分はカオスな渦が巻いている。量子だとかエネルギーとか質量とか、そういう科学的な何かを表現した何からしい。なるほど分からん。
ロンドンケーブルカーに行く途中に何かでっかい像を発見。The Lineとは関係ないものらしい。体には枝が生え、足元には珊瑚。海なのか山なのか。呪術廻戦の花御みたいだった。
ケーブルカーに乗る前にカフェに行き、くそでかチョコクロワッサンとラテを頼んだ。ここ��も無事英語で詰む。「レギュラーミルクでいい?」って聞かれてんのにノーサンキューって言っちゃって怪訝な顔された。当たり前だ。(その後ちゃんとなんとかなった)
ケーブルカーはオンラインでチケットを買って乗車。揺れるし怖いしヒーヒー言いながら10分ほどでテムズ川を横断。上から見る景色は楽しかった。
最後に、Bird Boy (without a tail)。彼の写真を見て一目惚れし、絶対に会いたいと思っていたので感激だった。ケーブルカーの真下にあったので、近さに笑ってしまった。
"Laura Ford's sculptures present a complex interplay between vulnerability and menace. She uses humour and an acute observation of the human condition to engage with wider social and political issues. 'Bird Boy' is a figure of a lost child wearing a bird costume, which could appear as a protective disguise or a demonic curse. Standing motionless on the edge of a pontoon in the Royal Docks, 'Bird Boy' hopes he will go unnoticed but, despite his scale, his presence is powerful and commands attention."
(ローラ・フォードの彫刻は、脆弱性と脅威の間の複雑な相互作用を表現しています。 彼女はユーモアと人間の状態に対する鋭い観察を用いて、より広範な社会的および政治的問題に取り組んでいます。 「バードボーイ」は鳥の着ぐるみを着た迷子の姿で、身を守るための変装や悪魔の呪いのように見えます。 ロイヤルドックのポンツーン(海上に人工的に作った平底の浮桟橋)の端にじっと立っている「バードボーイ」は、気づかれないことを望んでいますが、その規模にもかかわらず、その存在は強力であり、注目を集めています。)
天気も良かったし周囲にはベンチでくつろぐ人が大勢いるし、肝心のバードボーイの足元には永遠に鳥が2羽鎮座している。想像の500倍はなごやかな雰囲気だったので少しぽかんとしたが、これはこれで、彼が幸せそうで良かった。
その後Canning Town駅まで歩き、Stratford駅へ。電車の中に犬が居た。この時点で相当に体調のヤバさを感じる。Bootsで水とマスクを購入。バスでホテルまで帰った。
その3時間後ぐらいに頑張って最寄りの薬局まで行きコロナ簡易検査キットを購入(高かった)。薬局までの道のりで、黒人の兄ちゃんが窓から叫びまくってるのを見て「多分私は今日撃たれて死ぬ」と本気で思いながら超速足で、しかも黒人のにーちゃんを避けるため回り道までしてホテルへ帰った。撃たれなかった。
そうして無事に陽性が判明。結局この日の外出移行、Playoff3日目まで一切ホテルを出なかった。
PCRを受けたほうがいいのか、大会を見に行けるのか、ロンドンまで来て何でこうなったのか、わりと精神的にゴリゴリ落ち込む中なんとか乗り切れたのは、スーツケースに詰められるだけ詰めたインスタント食品と、Hellotalkという言語交換アプリで知り合ったロンドン在住の日英カップルさんのおかげ。丁度彼らがStratford近くに住んでいるということで、この辺りでPCRを受けられる場所を教えてもらったり、ロンドンにおけるコロナの扱いなどを聞いた。(日本人の彼女さんから「簡易キットで陽性ならPCRも陽性だと思う」と言われたので冷静になり、結局PCRは受けなかった。8000円ぐらいするんだもの)
人生初海外旅行、ツアーなども無く完全ソロ、でコロナ。ついてないにもほどがあったが仕方がない。ロンドンでパン屋に行けなかったことへの後悔が今も体中に染みついている。
13日・14日しっかり休み、15日のBracket stageから大会を現地観戦。あまり人が居ないあたりに座り、1席分は必ず開けて、マスクもしながら観戦はしたが、おそらく誰かしらには移してしまったと思う…。でも私もこのために日本から来てるから許してほしいと心で思いながら静かに過ごした。
大会は9時から22時まで続くので途中でご飯調達をしなきゃいけなかったけど、会場周辺に何があるのか分からず、試合間のインターバル時間が短かったから探す時間もなかったので会場の売店をうろうろ。(飲食物の持ち込みは禁止だった)
売店はホットドックが7ポンドというイカれた値段。それでも何かしら食べておかなきゃと思い選んだソーセージロール(5ポンド)がヤバかった。ソーセージの味が濃い。濃いっていうか岩塩。これを食べきったら俺は脱水症状で死ぬ。ここまでの滞在中ほとんど日本から持ってきたインスタント飯しか食ってなかった自分に対して、海外に来たことを改めて実感させてくれる忘れられない味となった。(結局、他の売店でチキンラップを発見したことでなんとか難を逃れた。)
選手に会うのも控えたが、連絡をくれたMoist esportsと、彼らと一緒に居たOnic esportsの選手たちには会うことができた。約3年半前、私が競技シーンを見始めた頃から知っている選手たち。当時とは比べ物にならないほど成長を遂げた彼らにやっと会うことが出来て本当に嬉しかった。
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ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) はアメリカ海軍の航空母艦。
ヨークタウン級航空母艦のネームシップ。
その名を持つ艦としては三隻目。1942年、ミッドウェー海戦で沈没した。
1940年4月に行われた演習「Fleet Problem XXI 」での結論でハワイ水域の艦隊勢力を維持するため、ヨークタウンは翌年の春までアメリカ西海岸、ハワイ海域で活動した。
しかしながらドイツ海軍のUボートによる成功は、アメリカの海軍力変更を要求することとなった。大西洋艦隊強化のため、海軍はヨークタウンを含む主要戦力を移動させることとなる。
ヨークタウンは駆逐艦ウォリントン (USS Warrington, DD-383) 、ソマーズ (USS Somers, DD-381) およびジョーエット (USS Jouett, DD-396) と共に1941年4月20日に真珠湾を出港、パナマ運河を5月6日、7日に通過しバミューダに12日到着する。
このときからアメリカ海軍は戦争状態に突入し、ヨークタウンはニューファンドランドからバミューダへかけての範囲を4回偵察し、アメリカが中立でいる間に17,642マイルを航海した。
日本海軍による真珠湾攻撃で、アメリカ太平洋艦隊は大敗を喫する。
無傷の空母は戦略的な重要��を持つこととなる。1941年12月7日の時点で太平洋に配備されていた空母はエンタープライズ、レキシントン (USS Lexington, CV-2) 、サラトガ (USS Saratoga, CV-3) の三隻で、レンジャー (USS Ranger, CV-4) 、ワスプ (USS Wasp, CV-7) 、そして最近就役したホーネット (USS Hornet, CV-8) は大西洋にいた。
ヨークタウンは1941年12月16日にノーフォークを出港し太平洋に向かった。この間にヨークタウンは航行しながら20mm機銃を取り付けた。
12月12日にパナマ運河を抜け、1941年12月30日にサンディエゴに到着。そこで、新たに形成されたフランク・フレッチャー少将率いる第17任務部隊の旗艦となった。
サンディエゴでは補用機42機を搭載し、それによってヨークタウンの搭載機数は129機となった。
1942年に入り、日本軍は次の作戦としてポートモレスビー攻略を計画していたが、アメリカは暗号解読によりそれを察知した。
4月29日、ヨークタウンは次のような命令を受信した。
「五月一日より、珊瑚海で作戦行動すべし。
米豪交通線を確保するため、好機あらば敵艦隊および海上輸送、航空機を撃滅せよ」
5月5日、ヨークタウンはレキシントンと合流。またオーストラリアから出撃してきた第44任務部隊(クレース少将、重巡洋艦オーストラリア、軽巡洋艦ホバート)も合流した。これらの部隊は5月6日に統合され第17任務部隊となった。
ヨークタウンは油槽船ネオショーからの給油を開始したが、日本軍機に接触されたことから5月6日夕刻に補給を中断して艦隊は北西に向かった。
5月7日、ヨークタウンからドーントレス10機が索敵に発進し、そのうちの1機が空母2、重巡2発見を報告してきた。
これを受けてヨークタウンから42機(戦闘機8、急降下爆撃機24、雷撃機10)、レキシントンから50機(戦闘機10、急降下爆撃機28、雷撃機12)が発進した。
だが、敵空母発見は報告時のミスであり、実際には索敵機は空母は発見していなかった。
しかし、攻撃隊は日本軍のMO主隊(空母祥鳳、重巡洋艦4、駆逐艦1)を捕捉、攻撃した。攻撃隊は祥鳳の撃沈に成功し、結果的に日本軍のポートモレスビー攻略を断念させる。損害は戦闘機2機、急降下爆撃機3機であった。
一方この日、日本軍はネオショーを空母と誤認して空母翔鶴と瑞鶴から攻撃隊を発進させ、ネオショーを撃破し随行していた駆逐艦シムスを撃沈した。
5月8日、レキシントンから18機の索敵機が発進した。
索敵機は日本の機動部隊を発見し、ヨークタウンから39機(戦闘機6、急降下爆撃機24、雷撃機9)、レキシントンから43機(戦闘機9、急降下爆撃機22、雷撃機12)が発進した。
攻撃隊ではまずヨークタウン第5哨戒機中隊(急降下爆撃機7)が翔鶴を攻撃したが命中弾なし。
続いてヨークタウン第5爆撃機中隊(急降下爆撃機17)が攻撃し、翔鶴に1000ポンド爆弾2発を命中させた。
第5爆撃機中隊の攻撃後、ヨークタウン第5雷撃機中隊(雷撃機9)が翔鶴を攻撃したが、命中魚雷は無かった。
ヨークタウン攻撃隊の損害は喪失、急降下爆撃機3、大破、急降下爆撃機9、雷撃機1、小破、急降下爆撃機6、雷撃機2であった。
翔鶴はこの後のレキシントン隊の攻撃でさらに100ポンド爆弾1発が命中している。
アメリカ軍の攻撃隊が日本の空母を攻撃しているころ、アメリカの空母も空襲を受けていた。
ヨークタウンはまず雷撃8~9本を受けたがこれは回避した。
次いで江間保大尉率いる瑞鶴艦爆隊の攻撃を受け250キロ爆弾1発が艦橋後方、2番エレベーター前に命中し、また3発の至近弾によって燃料漏れが生じた。
命中した爆弾は飛行甲板、第5爆撃隊の待機室、海兵隊居住区、倉庫の順に貫通し、飛行機用補用品倉庫の装甲甲板で炸裂した。
この攻撃でヨークタウンは第7, 8,9ボイラー室からの煙路が破壊され、速力が24ノットまで低下した。
この攻撃ではレキシントンも損傷し、いったんは復旧したものの爆発を起こして炎上し、自沈処分された。
珊瑚海海戦終了後、ヨークタウンは5月10日にトンガタプ島に投錨。
この時のヨークタウンは燃料事情が深刻となっており、既に重油は無くなり、ディーゼル油を炊いてかろうじてトンガにたどり着いていた。
ヨークタウンはすぐさま補給を行おうとしたものの、そこで唯一補給可能であったものはイギリス船搭載のもののみであり、その質は悪く硫黄が浮いていたという。燃料補給とともに応急修理もなされた。
5月24日、フレッチャー少将は速やかに帰投せよとの命令を受け、同日ヨークタウンはトンガタプ島を離れ、5月27日に真珠湾に到着した。
真珠湾に帰港すると、太平洋艦隊司令長官チェスター・W・ニミッツ大将が直接損傷状況検分を行い、応急措置を施せば戦列復帰は可能と判断、3日で修理を行うよう命令した。
修理は24時間体勢の突貫工事で、作業効率を優先し民間人である修理工に兵隊を指揮監督させる方式で行われた。
修理法は破損箇所に鋼板をツギハギで溶接、換気不十分で艦内温度が48.9℃の蒸し風呂状態といったいささか乱暴なものであったが、オアフ島の一部を停電にして海軍工廠に電力を優先に供給するよう調整するなど全面バックアップが取られ、2日後の29日11時には穴は完全に塞ぎ終わりドックの外へ出す事が出来るまでに回復された。
ただ、ヨークタウン乗組員の回想では修理はいい加減な間に合わせであり、実際、艦各所の隔壁が破壊されていたりずれていたために水密性も大きく悪化しており、ただでさえ低い水雷防御力が更に低下していた。
ミッドウェー海戦においてヨークタウンは、当初フレッチャー少将の指示により後方で艦隊直掩と索敵を担当することとなっていた。
しかしレイモンド・A・スプルーアンス少将率いる第16任務部隊が発見した日本空母艦隊へ攻撃隊を発艦させた際、フレッチャー少将は新たな敵艦隊が居なかったことからヨークタウンも攻撃に加わることを決めた。
攻撃に向かう際、レスリー少佐機含む爆撃機隊4機が整備時の配線ミスで爆弾を誤投棄してしまうアクシデントがあったが、レスリー隊はそのまま日本艦隊へと向かった。
ヨークタウン発艦時にペダーソン飛行長が行った航行指示が功を奏し、ヨークタウン攻撃隊は全部隊がまとまって日本艦隊に辿り着き、攻撃を行うことができた。
42機にも及ぶ零戦の直援隊による攻撃を受け、雷撃機隊はマッセイ少佐含む10機が撃墜される大損害をうけたものの、サッチ少佐率いる戦闘機隊は後にサッチ・ウィーブと呼ばれる対零戦用編隊空戦術を行い1機被撃墜に対して5機撃墜という戦果を上げた。
そしてレスリー少佐率いる爆撃機隊は、攻撃を受けて緊急支援要請を出したマッセイ少佐らの攻撃機を援護するため前方に見える空母蒼龍を攻撃。爆弾3発を命中させ、後に沈没させる戦果を上げた。
なおこの時レスリー少佐は前述のアクシデントにより爆弾を誤投棄してしまっていたが、僚機の援護のために部隊の先頭��立ち、機銃掃射をもって突撃したという。
この時同時に攻撃を行ったエンタープライズ爆撃機隊の攻撃により、空母赤城、加賀も後に沈没する事となった。
だが、この後ヨークタウンは残る飛龍の反撃を一身に受けた。
飛龍攻撃隊の接近に伴いヨークタウンでは対空戦闘準備が行われていたが、この時ヨークタウンは全力出力で284RPM、30.5ノットを発揮していたという。
まず第1次攻撃隊として小林道雄大尉率いる18機の九九式艦上爆撃機の攻撃が行われ、直掩機の迎撃により10機が撃墜され、対空砲火の迎撃により2機が投弾前に撃墜された。
ヨークタウンでは5インチ砲はじめ全ての火力を用いて日本軍機を迎撃したが、残る6機の爆撃を受け3発が直撃した。
これによりヨークタウンは炎上し、第1ボイラー室を除いて全ての動力を喪失、航行不能に陥ったが、迅速な応急修理もあって被弾から約25分後には艦載機の発着艦が可能となり、更に1時間後の13時50分には第4から第6ボイラーの復旧に成功した。
しかし、被弾による影響によりレーダーと無線は使用不可能になっており、フレッチャー少将は12時34分に旗艦を重巡洋艦アストリアへ変更すること決意し、移乗した。
応急修理完了から約40分後の、ヨークタウンは飛龍からの第2次攻撃隊として6機の零戦に護衛された友永丈市大尉率いる九七式艦上攻撃機10機の雷撃を受ける。
ヨークタウンは最大速力で20.5ノットしか出なかったが、友永大尉ら第一中隊5機中4機が放った魚雷をすべて回避した。
だが次席指揮官の橋本敏男大尉率いる第二中隊率いる5機中4機が放った魚雷の内2本が左舷を直撃、再びヨークタウンは航行不能に陥った。
この際、橋本大尉は友永大尉機がヨークタウン艦橋に体当たりしたと証言しているが、アメリカ側では被弾し海面に突入したと記録されている。
この被雷により全てのボイラーが停止、短時間のうちに26度まで傾斜し、転覆の危険もあった。
バックマスター艦長はヨークタウンが助からないと考え、14時58分に総員退艦を下した。
ヨークタウンは日本軍による鹵獲を警戒して雷撃処分のための駆逐艦ヒューズと共に取り残された。
だがバックマスター艦長はまだヨークタウンを諦めておらず、重巡アストリアに救助隊を集結させていた。
ヨークタウンは修理不足により水密性が悪化した状況でありながら沈没せず、6日午前4時40分、総員退艦から38時間後にハムマン (USS Hammann, DD-412)がヨークタウンに横付けした。
バックマスター艦長以下救助隊は駆逐艦ハムマン(USS Hammann, DD-412) からヨークタウンに移乗し、左舷5インチ砲架の切断投棄、艦載機の残骸の投棄等の作業を開始した。
だが日本海軍もまだ行動しており、連絡を受けて遅れて戦場に入った田辺弥八少佐指揮下の日本潜水艦伊一六八によってヨークタウンは現地時間6月7日5時半に発見された。
ヨークタウンは3ノットで曳航されながら駆逐艦ハムマンが横付けして復旧作業の最中であり、傾斜が22度まで回復していた。
厳重な警戒態勢であったが、伊一六八はその場で360度旋回をしたり、ヨークタウンや駆逐艦の真下を通過するなどして距離を計り、発見から8時間後の13時に4本の八九式魚雷が発射された。
これを発見したハムマンは即座に機銃で魚雷の迎撃を図り、ヨークタウンからの離脱を行いつつ、爆雷を起爆状態にセットし、対潜戦闘に移ろうとした。
だが、ヨークタウンには2本の魚雷が右舷に命中。ハムマンもヨークタウンから離脱するだけの時間があるはずもなく魚雷1本が命中、ハムマンは轟沈した。
魚雷の被害に加えハムマン轟沈時のボイラー爆発と爆雷の誘爆の衝撃がヨークタウンを襲い、右舷喫水線下の損害が更に拡大した。
皮肉にも右舷への浸水で傾斜角が17度まで回復したが、既に浸水量はヨークタウンの浮力を超え、船体は沈みつつあった。
バックマスター艦長はそれでもなおヨークタウンを救おうと夜通しヨークタウンを修理する志願者を募ったが、ヨークタウンの状態は悪化し復旧作業は断念された。
ヨークタウンは2度目の総員退艦が行われた。
ヨークタウンを討った事で、護衛の駆逐艦からの反撃は熾烈を極め、伊一六八も大きな損傷を受けたが現場からの退避に成功した。
ヨークタウンはさらなる大浸水にも関わらず、翌日5時頃まで艦を保ち続けたが、ついに左舷から転覆し沈没した。
その最期は決して美しいものではなく、艦載機の残骸の立てる耳障りな轟音が鳴り響く中、魚雷とハムマンの爆雷で破られた醜い船腹を晒して沈没していったと云う。
ヨークタウンは沈没に長時間を要したため戦死者数は58名と極めて少数に留まった。
ヨークタウンは第二次世界大戦での戦功により3つの従軍星章を受章した。
2つは日本軍の拡張を止���るのに大きな役割を果たしたことに対して与えられ、もう1つは珊瑚海海戦とミッドウェー海戦での功績に対して与えられた。
ヨークタウンに止めを刺した伊一六八はその後の海戦によって撃沈されたが、田辺艦長は他の潜水艦に転勤となっていたため終戦まで生き延びた。
戦後、田辺艦長はGHQから伊一六八のヨークタウンへの攻撃について執拗な調査があり、その慎重かつ大胆な攻撃方法に調査を担当した米兵も驚いたとされている。
1998年5月19日に、海底に眠るヨークタウンの船体が確認、撮影された。
船尾から海底に衝突したために、最後部は変形しているが、舷側部の魚雷命中孔以外は大規模な破損は見つかっていないとされている。
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(^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 5月8日(土) #大安(丙辰) 旧暦 3/27 月齢 26.0 年始から128日目(閏年では129日目)にあたり、年末まではあと237日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に行き💪夜を感謝に眠ろう😪💤 夜が来ない朝はありませんし、朝が来ない夜はない💦 睡眠は明日を迎える為の☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 雨上がりましたね✋早朝でも日が昇るのが早いので 雨露が少し残って居てそこいらじゅう✨キラキラ光って 眩しい朝です✋こんな時間帯も視界が遮られちゃう ので運転には注意デス🏍今日は終日、雨の心配は無さ そううなので1号車で参りました😅💦 . 今朝も、ご婦人と遭遇しましたが本当に元気そうに 歩いて行きました🙏時刻は5時29分✋この時間でも もう明るいですよ☀暦で云うと、もう夏なんです✋ 5月5日の立夏から夏ですもんね😅💦しかし、今年は 気温が若干、低い感じがします✋やっぱ氷河期スカ😅💦 . 今日一日どなた様も💁♂お体ご自愛なさって❤️ お過ごし下さいませ🙋♂ モウ!頑張るしか✋はない!ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #珊瑚海海戦. 太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月上旬、MO作戦中に日本海軍と連合国(アメリカ合衆国・オーストラリア)軍の間で発生した戦闘。 ポートモレスビー攻略を目指して珊瑚海に進出する日本軍の計画を知った連合国軍が先に進出し、空母機で日本の攻略部隊を空襲した。 日本海軍は空母部隊で敵空母のポートモレスビー作戦を攻略しようとして連合国海軍の間で史上初の航空母艦同士の海戦が発生。 日本側は連合国空母1隻撃沈、1隻大破の戦果を得るが上陸作戦中止(海戦は戦術的勝利)。 5月8日の戦闘では、米空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)と日本海軍の空母2隻(瑞鶴、翔鶴)が攻撃を交わした。 この海戦は対抗する両艦隊が互いに相手の艦を視界内に入れずに行われた、歴史上最初の海戦となった。 . #声の日. . #コカ・コーラの日(#Coca-Cola day). . #ゴーヤーの日. . #世界赤十字デー. . #松の日. . #袋物の日. . #ごはんパンの日. . #スートブロワ記念日. . #童画の日. . #紙飛行機の日. . #小鉢の日. . #歯ブラシ交換デー. . #信州地酒で乾杯の日(毎月8日). . #生パスタの日(毎月7日、8日). . #ヨーロッパ戦勝記念日・VE (Victory in Europe) デー. . #第二次世界大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日. . #韓国父母の日. . #八田與一の慰霊祭(台湾). . . ■今日のつぶやき■. #好きこそ物の上手なれ(スキコソモノノジョウズナレ) 【解説】 誰でも好きでやっていることは一生懸命になるし、それに関して勉強したり工夫したりするので、自然に上達するものである。 芸事は、無理して嫌だと思いながらやっても、成長はないということ。 人は好きなものに対しては熱心に努力するので、上達が早いと云う事。 . . 1993年(平成5年)5月8日 #大澤玲美 (#おおさわれいみ) 【グラビアアイドル、タレント】 〔埼玉県さいたま市〕 . . (副都心線 北参道駅近辺) https://www.instagram.com/p/COlx3hOn2-cSXl3HVBODEdH8S36Gx4q7P5VUoE0/?igshid=wwyig3zpxw0q
#大安#珊瑚海海戦#声の日#コカ・コーラの日#coca#ゴーヤーの日#世界赤十字デー#松の日#袋物の日#ごはんパンの日#スートブロワ記念日#童画の日#紙飛行機の日#小鉢の日#歯ブラシ交換デー#信州地酒で乾杯の日#生パスタの日#ヨーロッパ戦勝記念日・ve#第二次世界大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日#韓国父母の日#八田與一の慰霊祭#好きこそ物の上手なれ#大澤玲美#おおさわれいみ
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沖縄:楽園の光と影
冬休みに沖縄本島へ旅行したので、ちょっとばかし、僭越ながら感想を。
沖縄へ行ったのは生まれて初めてなので、初心者らしく、那覇市と本島南部をめぐっての旅行とした。中部、北部は、またの機会があれば、ということで。
冬とはいえ、気温 17 度くらいで秋のような感じがする。22 度まで上昇した日もあり、さすがに初夏のように暑く、那覇市内のモノレールでは冷房が効いていた。これだけ温暖だと、移住する人が多いのも分かる。

さて、琉球民族の創世神話によれば、東の海の彼方にニライカナイという楽園があり、太古の昔���こからアマミクないしアマミキヨという女神が、沖縄本島の東に位置する久高島(クダカジマ)へ降臨し五穀を伝えたという。沖縄本島の南部にある聖地、斎場御獄(セーファウタキ)から、この久高島を拝むことができる。この斎場御獄へ行ったが、隆起珊瑚による巨岩がのしかかるようにそびえ立ち、非常に神秘的かつ迫力あって圧倒的。上の写真は、その聖地にある三庫理(サングーイ)という最高聖地のパノラマ写真で、今でも神女と呼ばれる神に仕える女性たちしか入ってはいけない区域がたくさんある。
大和民族が戦国時代にあって乱世を過ごしているころ、琉球王朝は、ひとあし先に琉球列島の統一を果たし、中国、台湾、日本、そして東南アジアはマレー半島のマラッカ王国やインドネシアのマジャパイト王国といったイスラム国家にいたるまで、広範囲にわたって大いに交易し活躍した。東南アジアには琉球王国の商館がいくつも点在し、イスラム商人との商談で熱気を帯びていた。また中国とは冊封体制に入り、明の皇帝から琉球国王の称号をさずかり、盛んに貿易を行った。

しかし江戸時代初期に、琉球王国の富に目をつけた島津藩が、武力をもって琉球王国へ侵攻。それ以来、琉球王国は中国と大和民族との二重支配を受けつつも、行政的には独立国家として存在し続けた。このために、琉球地方の文化は、中国と大和との両方の影響を色濃く受けつつ、独自のものへ昇華し、独特の進化を遂げるに至った。
首里城へ行けば、往時の琉球王国の活躍ぶりや、二重支配に苦しむさまなどがよく分かる。ちょうど年始イベントとして首里城にて行われた琉球王朝の宮廷の踊りや民族舞踊の踊り手たちの集合写真。

大和民族のものとは違う、あでやかで鮮烈な色彩感覚が、南洋の青空とシャープなコントラストをなして目にしみる。首里城の正殿は、一見、紫禁城のミニチュア風に見えなくもないが大和民族の建築と同じ唐破風(からはふ)があり、その上に龍が乗っているところが、なんともハイブリッド文化ぶりを発揮していて興味深い。しかも単に混ぜただけでなく、それがさりげなく沖縄独特の味付けでもって昇華されているところが、おもしろい。

また、首里城から南へ下ると金城町の石畳道があり、ここも古色豊かで風情満点。沖縄民家にかこまれた石畳道を歩くと、いつの時代にいるのかも忘れる。NHK 朝ドラ「ちゅらさん」の主人公の家も、ここの民家を借りて撮影された。
だが明治時代に入り、帝国日本政府は琉球王国に対し、清との冊封関係を廃止するよう通告、これを琉球王国が拒否すると武力で琉球へ侵略、ここに琉球王国は消滅した。これを日本では琉球処分という四文字熟語だけで表現しているが、独立国家を武力征服したその帝国主義的実態は、韓国併合と同じく琉球併合と言ったほうが良いのではないか。
やがて起きた太平洋戦争における日本唯一の地上戦、それが沖縄。
大戦末期、米軍は、沖縄本島を、来たるべき日本本土上陸作戦のための拠点として占領すべく、1945 年4月に沖縄本島への上陸作戦を開始。対する日本軍は、やはり沖縄を本土決戦のための前哨戦とするも、米軍を撃退するのではなく、あくまで本土決戦を遅らせるための時間稼ぎとして、沖縄を利用した。つまり、極力長く持久戦に持ち込むことで米軍が本土上陸するのを遅らせたのであり、沖縄は本土を守るための捨て駒として利用されたのである。
米軍が投入した戦艦や巡洋艦などによる艦隊は 200 隻以上におよび、激しい艦砲射撃が沖縄を襲い、先ほどの斎場御獄にも、砲弾が着弾して炸裂した直径数メートルものクレーターが、にごった泥水をたたえて今なお存在する。

そしてもうひとつの戦跡、ひめゆりの塔と資料館は、私にひとつの大きな疑問と宿題を残した。
戦前、那覇市にあったひめゆり学園は、教師になることを夢見る女学生たちが学んだ場であった。彼女らは、沖縄戦のため看護兵として動員された。米軍は沖縄本島の北部と中部を一ヶ月ほどで制圧するも、南部では日本軍��おびただしい陣地や地下壕をはりめぐらし、その激しい抵抗に遭って、この小さな島の狭い南部だけを制圧するのに2ヶ月以上もかかった。そしてこの南部にて、ひめゆり学園の女学生たちは看護のため投入された。
太平洋戦争当初、ひめゆり学園では毎年、美人投票が行われるなど、おだやかな毎日が続いていた。だが、教師になるべく勉強していた彼女らは、臣民の模範となるべく、戦前の軍国主義教育を受けた軍国少女たちでもあった。だから日本が勝つことを信じ、降伏することを恥とした。敗戦色が濃くなると、お国のために射撃訓練も経験し、慣れない銃の反動で肩を痛める者もいたという。看護兵に動員されても赤十字がかかげてある病院施設は攻撃されないと信じ、注射や点滴などの作業にも熱心に取り組んだ。しかし米軍は全てを無差別攻撃し、ひめゆり学園の女学生たちは、その半数以上が命を落とした。
資料館では、英語と日本語の両方で、戦前から戦後までの様子が描かれている。それを観て私の中にわきおこった疑問と宿題とは、これをいかにして戦勝国の人々に伝えるか、であった。
帰国子女の私がかつて直面したのは、たとえばアメリカ人が「日本が真珠湾を奇襲したから、我々は原爆を落としたのだ。結果、我々は全体主義国家を打破し、民主主義の世界を取り戻したのだ」という自負心あふれる論調であった。東アジアの人なら「我々の祖父母は日本軍に乱暴され殺されたのだ。その報いが沖縄であり原爆だ」などと言うかもしれない。アメリカでは、真珠湾攻撃での悲話が語り継がれている。たとえば撃沈した戦艦の中に生存者がいて、救いを求めるべくハンマーで艦体を必死で叩く音で知らせるのだが、それがやがて聞こえなくなった、という話。そんな人たちに、いくら沖縄戦や原爆の悲惨さを訴えても、なかなか彼らのこころには届かない。リメンバー・パールハーバーは復讐の合言葉だが、ノーモア・ヒロシマはノーモア戦争なのだという反戦思想は、彼らには響いてこないのだ。私には重い宿題が残った。
正義は国や民族によって違う、それは教育によって刷り込まれる。我々の民主主義とて、遠い未来から見れば原始的な思想かもしれない。我々が教育によって刷り込まれた殻をやぶって、ほんとうの反戦・平和へと実現するためには、どうしたらいいのか。正義は違えど共存できることを証明するには、どうしたらいいのか。
平和祈念公園へ行けば、そこには平和の礎(へいわのいしじ)と呼ばれる石板がえんえんと続き、その表面には沖縄戦の犠牲者ひとりひとりの名が刻み込まれて、とむらいとしている。沖縄人や日本軍だけでなく、韓国朝鮮人、台湾人、中国人、米軍、英軍の犠牲者まで、とむらっているところが、全世界の平和への祈りとなっている。沖縄戦では 12 万人が犠牲になり、12 万人の未来が消えた。

黙して語らぬものは、それゆえに語るべきものが、あまりに大きい。
ささやかながら献花。そこから見下ろす太平洋は、冬とはいえ青い亜熱帯の海の色で、何事も無かったかのように、波がひねもす打ち寄せ、ただ潮騒だけが、静寂をつつみこんでいた。

嘉数の丘(かかずのおか)に登り、そこに残された日本軍のトーチカの残骸を前に、全世界へ黙祷。ここは大戦中の激戦地で、米軍が忌まわしい丘とまで呼んだという。トーチカは激しい銃撃戦のため原形をとどめないまでにぼろぼろになり、鉄骨がむきだしになっていた。
そして丘の上から見下ろすは、普天間基地。
一説には、日本の敗戦が視野に入っていた 1945 年4月に米軍が沖縄上陸作戦を強行したのは、すでに米政府は日本敗戦後の世界情勢を考えており、共産圏へ対抗すべく橋頭堡として沖縄を手に入れて要塞化しておきたかった、という思惑があったからだとも言われる。いずれにせよ沖縄は米軍の要塞の島となったことに、変わりは無い。
戦争が終わり、ようやく我が家へ帰ってきてみれば、家はブルドーザーでつぶされ米軍が使う滑走路の下敷きになっていたという沖縄の人々。その上に、日本の国防がなりたっている皮肉。
普天間基地には、オスプレイが8機ならんで見えた。オスプレイが危険かどうか、そんなことはどうでもいい。それより基地の周囲には背の高いマンションがびっしり密集していて、こりゃーこんなところに基地をつくったらいかん、と強く思った。現に 2004 年には、米軍大型ヘリの墜落事故まで起きているし。

カミさんが言ってたが、沖縄では敗戦はあっても、まだ終戦を迎えていないのだ。
関空やセントレアのように海上に造られた空港や、全国にある赤字垂れ流しローカル空港を、米軍と共同利用できるようにして、基地を分散させたらいい。でもそんなことすれば、地元民は猛反対するだろうし、韓国や台湾も在沖縄米軍をあてにしてるから反対するだろうが、自分がいやがることを沖縄だけに押し付けるのは、やはり良くない。騒音は爆音でうるさいし、墜落事故は怖いし、やっぱオスプレイは来てもらいたくないし、米兵で治安悪化するだろうが、沖縄の負担が軽くなるなら、受け入れるしかない。韓国や台湾での有事における初動が遅れるというなら、それをカバーするような外交政策と戦略をたてたらいい。日本の首相や地方自治体の首長連中は孤独な決断を迫られるが、国土の 0.6 %の面積しかない沖縄に、全国の米軍基地の 75 %が密集する負担を軽くするためなら、いずれは歴史がその英断をたたえることになるのではないか。
そして、沖縄の経済は基地に依存しなくても良いよう、海底資源を開発するとかしたらいい。琉球トラフにプレート境界ならでの海底温泉でもあって、そこでレアメタルでも見つかれば儲けもの。

那覇市の最大観光スポット国際通りと第一牧志公設市場「まちぐぁー」では、あふれんばかりの活気に圧倒される。市場の持ち上げシステムを使い、1階で熱帯魚やカニなどを注文し、2階にて調理してもらって食す、うまい!! 沖縄そば、うまい!! 夜は居酒屋でイラブー(海蛇)汁、うまい!! アグー豚、うまい!! ゴーヤ、うまい!! 海ブドウ、うまい!! なに食っても、うまい!! こんなうまいもんばっかりに囲まれて沖縄の人は、ずるい。
ライヴハウスにて、ネーネーズのライヴを観る。かつて坂本龍一のアルバム「Neo Geo」「Beauty」に参加した沖縄民謡を歌う若い女性アーティストを中心に結成された、女性4人組の沖縄民謡ポップス集団、それがネーネーズ。メンバーチェンジのため初代メンバーはいなくなったが、今でも那覇市のライヴハウスを拠点にアルバム出したり全国ツアーしたりしている。そのライヴハウスで彼女たちを観た。楽しい歌と語り、皆でカチャーシーなる沖縄伝統の振り付けで踊るも、観客全員が盆踊り状態になってしまい、やはり沖縄人には勝てない。

外国人観光客も多く、島のあちこちで韓国人観光客がヒュンダイのハッチバック型レンタカーを乗り回しているのに出会う。韓国には、ここまで南にある島は無いからね。日産の電気自動車 LEAF も、那覇市内のそこらじゅうでレンタカーとして走っている。
でも、その足元がかつての大戦の激戦地であり、今では地上の楽園となっているという実感は、やはり現場にたってこその説得力。こればかりは、ほんとうに現場へ行かないと、その押しつぶされそうなくらい圧倒的な実感がわいてこない。
サザンの桑田による歌に「平和の琉歌」というものがある。私は桑田は汗くさいまでに暑苦しくて苦手だったが、ネーネーズによるカバー版には、深く考えさせられた。詳しくは「たるー」という人による下記サイトでの解説を読んでほしいが、要約すると、標準語による原曲に対し、カバー版では琉球語での歌詞が追加されており、大和民族たる桑田が「愛を植えましょう この島に」と言えば、琉球人のネーネーズは「情けを知らせてあげたい この島の」と琉球語で返事する。愛や情けが必要なのは琉球ではなく、大和民族なのではないかと:
ひめゆり学園の生存者は、米軍が沖縄の子供たち相手に開いた学校にて、米人教官の助手教師として働いた。彼女らは子供たちと共に、民主主義という慣れない言葉に初めて接した。
そしてその上に、今の楽園のような南の島、沖縄がある。
2013年01月08日19:54 初出
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国際派日本人養成講座
No.1136 終戦直前、日本は原爆実験に成功していた
http://blog.jog-net.jp/201910/article_5.html
2019/10/20 06:35
日本の原爆実験成功は現代の我々にとって、何を意味するのか?
■転送歓迎■ R01.10.20 ■ 50,273 Copies ■ 6,760,888Views■
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■『世界が称賛する 日本人が知らない日本 2「和の国」という"根っこ"』
育鵬社刊、¥1,650(税込み) Kindle版も発売中
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(発売日10/9時点 アマゾン日本論2位、総合59位)
本著は日本の国柄を「和の国」ととらえ、それがどのような「根っこ」から生じ、成長していったのか、をたどった本です。
この「根っこ」をさらに太く深くすることが、現在の我が国の危機克服とさらなる発展につながると考えております。
■令和日本が根ざすべき「和の国」の「根っこ」はこうして生まれ、育った
・1万年以上も続いた、戦争も環境破壊もない縄文時代
・「和の国」実現のための三大原則を示した三種の神器
・「和の国」を作ろうと呼びかけた神武天皇の即位宣言
・全国で16万基もの古墳を造築した「和」のパワー
・天皇から少年兵士まで真心を通わせる和歌
・心を開いて語り合えば道理が通って「和」に達すると説いた聖徳太子の十七条憲法
・西洋人たちに感銘を与えた幕末の「和の国」の民の幸福
・「衆議公論」による和の民主主義を目指した五箇条の御誓文
・まずは家庭内の「和」から始める事を説��た教育勅語
・皇室の無私の祈りが「和」の心で国民を統合する
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■1.米政府の機密文書から明らかになった日本の原爆開発成功
第二次大戦終了直後に、米国の情報機関に衝撃的な情報がもたらされた。1945(昭和20)年8月12日、すなわち日本が降伏するわずか3日前に、朝鮮北部の興南(半島の付け根の日本海側)で原子爆弾の爆発実験に成功していた、というのである。
この情報は、CIA分析官トニー・トルバをリーダーとする8人からなる米・国防総省のチーム、およびその後に設立されたもう一つの別の政府調査機関による機密文書の調査で検証され、さらに多くの事実との突き合わせが行われた。
ロバート・ウィルコックスによる『成功していた日本の原爆実験』[1]は、彼の長年の研究に、新たに公開された機密文書の内容を加えて出版された書籍である。それを一般読者向けにダイジェスト版としたのが、『世界が隠蔽した日本の核実験』[2]だ。
本編では後者を参照しつつ、日本の原爆開発がどのように進められ、それが現代の我々にとってどのような意味を持つのか、考えて見よう。
■2.日本の核物理学者たちの研究は「米側と並んで走っていた」
戦時中の日本で原爆が開発されていたと言うと、「そんなバカな」と思う人がほとんどだろう。アメリカの科学技術は群を抜いており、日本が零戦や戦艦大和のような通常兵器はともかく、核開発のような最先端技術をもっていたはずはない、という先入観が一般的だ。
実は、米国のある科学史専門家は、1940年当時の日本の核物理学者たちの研究は「米側と並んで走っていた」と評価している。それを裏付ける明白な史実がある。敗戦のわずか4年後に理論物理学者の湯川秀樹・京都帝国大学教授が日本人として最初のノーベル賞を受賞した事だ。湯川教授も原爆開発に参加していた。
原爆開発の初期のリーダーだった核物理学者の仁科芳雄は、8年間ヨーロッパに滞在して、アルバート・アインシュタインや量子論の育ての親ニールス・ボーアと親交を結び、昭和10(1935)年に日本で最初のサイクロトロン(核粒子加速装置)を開発している。昭和40(1965)年にノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎も、仁科の門下生である。
仁科は真珠湾攻撃の報に接して「この国にとり、米国に対して戦争に突入することほど愚かなことはない」と言っていたが、「すでに戦争に入ったのだから、どうしようもない。・・・いかなる場合においても、我々は祖国のために全力を尽くすべきだ」と語っている。[2, p66]
陸軍の原爆開発計画は、仁科の名をとって、「ニ計画」と呼ばれたが、空襲による研究開発設備の破壊などにより、昭和20(1945)年春には正式に中止された。その成果を引き継いだのが、その3年前に本格化していた海軍の「F計画」であった。中心となった京都帝国大学の荒勝文策も、ベルリン大学でアインシュタインの下で学んでいた。
アメリカでは、アインシュタインがフランクリン・ルーズベルト大統領に書簡を送って、原爆開発を促していた。開発の中心となった人物「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーはニールス・ボーア門下のユダヤ人学者だった。日米とも原爆開発はヨーロッパで核物理学を学んだ人々によって主導されていたのである。
■3.洞窟内の武器組立工場に「放射能に注意」
「F計画」で空襲の危険に晒されていた日本本土に代わって、原爆開発の土地に選ばれたのが、朝鮮北部の興南であった。
ここには東洋一の規模とされた日本窒素の産業施設があった。そして、鴨緑江とその支流に設けられたダムにより、豊富な電力が供給された。日本本土の全体の発電能力が3百万キロワットだった時に、この地域だけで1百万キロワットの電力供給をしていた。また朝鮮北部には豊富な鉱物資源があり、ウラニウムも採取できた。
トルバの後で、日本の核開発を調査したもう一つの機関の中心人物、元空軍の画像分析・核兵器検知の専門官だったドワイト・ライダーは、現地の航空写真で、日本式のH型の鉄塔に支持された6万6千ボルトの高圧送電線が洞窟の中に引き込まれていることを発見した。
その地は朝鮮戦争中に米軍と中国人民解放軍が激戦を繰り広げてり、米軍は撤退時に巨大な洞窟内の武器組立工場を発見していた。内部に500メートル以上の長いトンネルがあることを確認しており、そこには「放射能に注意」という警告が貼られていた。
近くの清津は日本の主要な軍事基地であり、周辺の鉱山とともに「朝鮮の鉄と鉄鋼の中心地」だった。ライダーはこう述べている。
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第二次大戦中、清津のみで、ウラニウムの濃縮、先進的なウラニウムの製粉設備、電池、原子炉などの建設に必要な、すべての施設、設備と能力を持っていた。清津はそれらの業務に必要とされた、鉄鋼、コンクリート、電子装置、電力を保有していた。[2, p184]
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■4.「成層圏にまで達するきのこ雲になった」
昭和20(1945)年8月6日、米国は広島に原爆を投下し、一般市民も含めた無差別大量虐殺を行った。9日には長崎にも投下。日本の原爆実験はその3日後の12日だった。米軍にもたらされた、ある日本人の証言は、次のようなものだった。
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8月12日の明け方、ロボット式(弊誌注:無人という意味だろう)のボートがポンポンと音を立て錨の周りの船の間を抜けて、小島に達した。ボートにのっていたのは「原子爆弾」だった。・・・
日本がある、東の方が明るくなり、ますます輝きを増した。その瞬間、海の向こうに太陽は顔を覗かせていたものの、爆発的閃光が投錨地に照り輝き、溶接工用のめがねをかけていた観察者が盲目になった。火球の直径は1,000ヤード(弊誌注:約900メートル)と見積もられた。様々の色をした蒸気雲が天空に立ち上り、成層圏にまで達するきのこ雲になった。
激しい水と蒸気によりかき回され、爆発点の真下にあった船は見えなくなった。錨の周りの外周にいた船やジャンクは激しく燃え上がった。大気がわずかに晴れ渡ったとき、観測者たちは5~6隻の艦艇が消えて無くなっているのに気付いた。[2, p43]
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この「爆発」が核爆発ではなく、通常の火薬かジェット燃料の爆発だったという見方がある。核爆弾なら火球の半径よりも、破壊半径の方が広いはずなのに、ほぼ同じ大きさであることがその理由とされている。
しかし、この翌年ビキニ環礁で行われた世界最初の浅海での核爆発実験では、火の玉はすぐに消え、水蒸気による凝縮雲ができた。興南の実験では、この凝縮雲を火の玉と誤認したとすると、1,000ヤードという直径は過大だったとは言えない。
またビキニ環礁の実験では、爆発で巻き上げられた水と珊瑚礁が水面に落下して、キノコ雲の円柱底部を覆う巨大なナイアガラの滝のような現象が確認された。興南の実験でも同様の現象が言及されている。
すなわち、米側がビキニ環礁で初めて知った浅海での爆発現象が、その前の興南の実験で伝えられているのである。これは興南の実験が作り話ではない事を示す有力な根拠である。

ビキニ環礁での原爆実験
■5.「人類の文明をも破滅させる」
この3日後の8月15日に昭和天皇が「終戦の詔書」を発せられた。そこには原爆を「残虐ナル爆弾」として非難されているが、実はその後に謎の一節が続く。詔書のこの部分は以下の如くである。
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敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ(ぶ)所 真ニ測ルヘカラサルニ至ル 而(しかも)モ尚(なお)交戦ヲ継続セムカ 終(つい)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ。
(現代語訳)敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害がどこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続ければ、我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずである。
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アメリカだけが原爆を持っているとしたら、これ以上戦うことによって、「我が民族の滅亡をきたす」のは分かるが、それがなぜ「人類の文明をも破滅させる」事になるのか。日本も原爆を持っていた事を知って、はじめてその意味が明らかになる。
終戦のほぼ一年前、昭和19(1944)年夏、陸軍の「ニ計画」を統括する杉山元・参謀総長が東條英機総理大臣とともに昭和天皇に拝謁した。杉山元帥が後にある友人に語った所によれば、こういう内容だった。
二人が天皇に説明したのは、(1)世界のいくつかの主要国が原爆開発を進めている、(2)日本も開発してきて、ようやく完成が見えてきた、(3)完成したら、まずハワイに投下して、戦局を一気に挽回できる、という内容だった。
■6.「それでは、人類絶滅の悪の宗家に日本がなるではないか」
杉山元帥は昭和天皇がお喜びになるものと信じて奏上したのだが、昭和天皇は静かに、しかし力強く、こう答えられた。「自分はそれに反対である」。そして、その理由を次のように説明された。
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数カ国がその新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注して完成させ使ってくるようになるであろうから、全人類を滅亡させることになる。
それでは、人類絶滅の悪の宗家に日本がなるではないか。
またハワイに投下する計画とのことだが、ハワイには、日本の同胞が多数移住し、現地民とともに苦労し今日を築きあげたところである。そのような場所に新兵器を使用することには賛成しかねる。[3, p208]
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昭和天皇は仁科博士の研究所を訪問されたことがあり、その際に原爆の放射能も含めた恐ろしさを聞かれていた可能性がある。[3, p117]
杉山元帥は恐懼したものの「勝つにはどうしても原爆が必要だ」と考えて、秘密のうちに開発を続けさせた。しかし「原爆を積むロケット」の燃料製造工程で誤爆事故が起き、陛下の知られる所となった。杉山はこう語っている。
陛下は私(杉山)を呼ばれ、「まだやっていたのか」と強く戒められた���「まことに面目ないことであり、それ以上続けることはできなくなった」。そしてかくも天皇の心を煩わせた責任をとって、日本が勝っても負けても「自決して陛下にお詫びする」と友人に語ったそうだ。その言葉通り、杉山元帥は終戦後、自決を遂げた。
陸軍の「ニ計画」が中止となったのは、これが原因だったようだ。しかし、海軍は「F計画」で朝鮮北部での開発を続け、爆発実験成功までこぎ着けた。海軍は原爆を特攻機に乗せて、日本近海の米艦隊を撃滅する計画を立てていた。終戦の御聖断が遅れて、これが実現していたら、米軍はさらに何発もの原爆を投下して、日米間で本格的な核戦争が始まっていたかも知れない。
昭和天皇が「我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させる」と危惧されたのは、こういう事態だったのだろう。終戦の御聖断は、こういう事態を防いだのである。
■7.ソ連軍の核施設奪取
米国の核開発を行っているロス・アラモス研究所には数人の共産主義者がおり、彼らはソ連に核開発の情報を伝えていた。それにより、スターリンは1943年に核開発を開始させた。ドイツが敗北した後、ソ連は核開発の研究所から数人の核科学者と設備を奪った。
ソ連の対日侵攻は、長崎への原爆攻撃と同日、1945(昭和20)年8月9日に始まった。その日のうちに、ソ連軍の歩兵、空挺部隊、海軍艦艇は朝鮮半島の北端部に殺到した。ソ連は日本の原爆開発を知っていたのである。
米軍の把握した情報によれば、この一帯には多くの日本軍の駐屯地が配置され、それらの部隊は降伏せずに、侵入してきたソ連軍と激戦を展開した、という。しかし、11月にはソ連軍は核施設を奪取した。こうして、ソ連は日本の核開発設備や原材料を入手し、何人かの科学者を拉致した。非協力的な者は拷問されて、協力を強要された。
ソ連は興南の核施設を用いて、原爆の材料の製造に使用していた。ソ連が最初の原爆実験に成功したのは1949年8月とされている。米国はソ連が10年はかかると見ていたが、戦後わずか4年で成功にこぎ着けたのは、日本の核施設と科学者を奪ったからだと考えられている。
■8.原爆実験成功の事実は何を意味するのか?
現代において、日本が原爆実験に成功していた史実を明らかにする意義はどこにあるのだろう。まず、それは今の日本が核兵器を作ろうと思えば、すぐにでも作れる、という潜在能力の裏付けとなる。
2004年に米国科学者連盟は、日本なら核実験なしでも「一年以内に」核兵器を保有できるとの見積もりを出している。ただし、これらは専門家による予測であって、それを信じない国もあるだろう。
しかし、その予測が、過去に原爆実験を成功させた「実績」に裏付けられた場合、他国からの核恫喝に対する、より明確な抑止力になる。核で脅かされたら、1年以内にもっと大量の核で反撃できるのだぞ、という抑止である。
もう一つは、昭和天皇が「人類の文明をも破滅させる」として、核兵器競争に反対されたことの意義である。原爆実験に成功する力を持ちながらも、人類の文明のために放棄したという事は、国際社会における我が国の道徳的地位を飛躍的に高めることになる。それは単に「唯一の被爆国」という被害者意識よりも、はるかに崇高かつ能動的な「和の国」らしさ[d]を世界に示すことになろう。
(文責 伊勢雅臣)
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