#皇室のみやび
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皇室のみやびー受け継ぐ美ー
縦バージョン
第4期に行ってきました。写真撮影可のも多くて、たくさん撮った中からいくつかご紹介です。
伊藤若冲は、大胆でユーモラスな感じだけど、近くで見るとすごく細かくて、目が離せません。グッズがなくて残念!
花鳥十二ヶ月図は、菜の花は今のと葉っぱが違うかしら。とか、色づいた柿が美味しそうに見えました。
蒔絵の箱は、お菓子を入れてたのかしら。と思ったら、香包を入れた香箪笥でした(^_^;)
そして七宝の花瓶!美しいわ〜(*´∀`*)
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汚辱の日々 さぶ
1.無残
日夕点呼を告げるラッパが、夜のしじまを破って営庭に鳴り響いた。
「点呼! 点呼! 点呼!」
週番下士官の張りのある声が静まりかえった廊下に流れると、各内務班から次々に点呼番号を称える力に満ちた男達の声が騒然と漠き起こった。
「敬礼ッ」
私の内務班にも週番士官が週番下士官を従えて廻って来て、いつもの点呼が型通りに無事に終った。辻村班長は、これも毎夜の通り
「点呼終り。古兵以上解散。初年兵はそのまま、班付上等兵の教育をうけよ。」
きまりきった台詞を、そそくさと言い棄てて、さっさと出ていってしまった。
班付上等兵の教育とは、言い換えれば「初年兵のビンタ教育」その日の初年兵の立居振舞いのすべてが先輩達によって棚卸しされ、採点・評価されて、その総決算がまとめて行われるのである。私的制裁をやると暴行罪が成立し、禁止はされていたものの、それはあくまで表面上でのこと、古兵達は全員残って、これから始まる凄惨で、滑稽で、見るも無残なショーの開幕を、今や遅しと待ち構えているのであった。
初年兵にとつては、一日のうちで最も嫌な時間がこれから始まる。昼間の訓練・演習の方が、まだしもつかの間の息抜きが出来��。
戦闘教練で散開し、隣の戦友ともかなりの距離をへだてて、叢に身を伏せた時、その草いきれは、かつて、学び舎の裏の林で、青春を謳歌して共に逍遙歌を歌い、或る時は「愛」について、或る時は「人生」について、共に語り共に論じあったあの友、この友の面影を一瞬想い出させたし、また、土の温もりは、これで母なる大地、戎衣を通じて肌身にほのぼのと人間的な情感をしみ渡らせるのであった。
だが、夜の初年兵教育の場合は、寸刻の息を抜く間も許されなかった。皓々(こうこう)とした電灯の下、前後左右、何かに飢えた野獣の狂気を想わせる古兵達の鋭い視線が十重二十重にはりめぐらされている。それだけでも、恐怖と緊張感に身も心も硬直し、小刻みにぶるぶる震えがくるのだったが、やがて、裂帛(れっぱく)の気合
怒声、罵声がいり乱れるうちに、初年兵達は立ち竦み、動転し、真ッ赤に逆上し、正常な神経が次第々に侵され擦り切れていった。
その過程を眺めている古兵達は誰しも、婆婆のどの映画館でも劇場でも観ることの出来ない、スリルとサスペンスに満ち溢れ、怪しい雰囲気につつまれた素晴しい幻想的なドラマでも見ているような錯覚に陥るのであった。幻想ではない。ここでは現実なのだ。現実に男達の熱気が火花となって飛び交い炸裂したのである。
なんともやりきれなかった。でも耐え難い恥辱と死につながるかもしれない肉体的苦痛を覚悟しない限り抜け出せないのである。ここを、この軍隊と云う名の檻を。それがあの頃の心身共に育った若者達に課せられた共通の宿命であった。
この日は軍人勅諭の奉唱から始まった。
「我ガ国ノ軍隊ハ代々天皇ノ統率シ賜ウトコロニゾアル……」
私は勅諭の奉唱を仏教の読経、丁度そんなものだと思っていた。精神が忘れ去られ、形骸だけが空しく機械的に称えられている。又虐げられた人々の怨念がこもった暗く重く澱んだ呻き、それが地鳴りのように聞こえてくるそんな風にも感じていた。
勅諭の奉唱が一区切りついたところで、一人の古兵が教育係の上等兵に何か耳うちした。頷いた上等兵は、
「岩崎、班長殿がお呼びだ。すぐ行けッ」
全員の目が私に集中している。少くとも私は痛い程そう感じた。身上調査のあったあの日以来、私は度々辻村机長から呼び出しをうけた。あいつ、どうなってんだろ。あいつ班長殿にうまく、ゴマすってるんじゃないか。あいつ、俺達のことを、あることないこと、班長殿の気に入るように密告してるんじゃないか。同年兵も古兵達も、皆がそんな風に思っているに違いない。私は頑なにそう思い込んでいた。
つらかった。肩身が狭かった。
もともと私は、同年兵達とも古兵達とも、うまくいっていなかった。自分では余り意識しないのだが、私はいつも育ちや学歴を鼻にかけているように周囲から見られていたようである。運動神経が鈍く、腕力や持久力がからっきし駄目、することなすことがヘマばかり、ドジの連続の弱兵のくせに、その態度がデカく気障(きざ)っぽく嫌味で鼻持ちがならない。そう思われているようだった。
夏目漱石の「坊ちゃん」は親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしていたと云うが、私は生まれつき人みしりのする損なたちだった。何かの拍子にいったん好きになると、その人が善人であれ悪人であれ、とことん惚れ込んでしまうのに、イケ好かない奴と思うともう鼻も引つかけない。気軽に他人に話しかけることが出来ないし、話しかけられても、つい木で鼻をくくったような返事しかしない。こんなことではいけないと、いつも自分で自分を戒めているのだが、こうなってしまうのが常である。こんなことでは、同年兵にも古兵にも、白い眼で見られるのは至極当然内務班でも孤独の影がいつも私について廻っていた。
あいつ、これから始まる雨霰(あめあられ)のビンタを、うまく免れよって――同年兵達は羨望のまなざしを、あいつ、班長室から戻って来たら、ただではおかないぞ、あの高慢ちきで可愛いげのないツラが変形するまで、徹底的にぶちのめしてやるから――古兵達は憎々しげなまなざしを、私の背に向って浴せかけているような気がして、私は逃げるようにその場を去り辻村班長の個室に急いだ。
2.玩弄
部屋の前で私は軽くノックした。普通なら「岩崎二等兵、入りますッ」と怒鳴らねばならないところだが、この前、呼び出しをうけた時に、特にノックでいいと辻村班長から申し渡されていたのである。
「おう、入れ」
低いドスのきいた返事があった。
扉を閉めると私はいったん直立不動の姿勢をとり、脊筋をぴんとのばしたまま、上体を前に傾け、しゃちこばった敬礼をした。
辻村班長は寝台の上に、右手で頭を支えて寝そべりながら、じっと私を、上から下まで射すくめるように見据えていたが、立ち上がって、毛布の上に、どっかとあぐらをかき襦袢を脱ぎすてると、
「肩がこる、肩を揉め」
傲然と私に命じた。
私も寝台に上がり、班長の後に廻って慣れぬ手つきで揉み始めた。
程よく日焼けして艶やかで力が漲っている肩や腕の筋肉、それに黒々とした腋の下の毛のあたりから、男の匂いがむっと噴き出てくるようだ。同じ男でありながら、私の身体では、これ程官能的で強烈な匂いは生まれてこないだろう。私のは、まだまだ乳臭く、淡く、弱く、男の匂いと云うには程遠いものであろう。肩や腕を、ぎこちない手つきで揉みながら、私はふっと鼻を彼の短い頭髪やうなじや腋に近づけ、深々とこの男の乾いた体臭を吸い込むのだった。
「おい、もう大分、慣れて来たか、軍隊に」
「……」
「つらいか?」
「いエ……はァ」
「どっちだ、言ってみろ」
「……」
「つらいと言え、つらいと。はっきり、男らしく。」
「……」
「貴様みたいな、娑婆で、ぬくぬくと育った女のくさったようなやつ、俺は徹底的に鍛えてやるからな……何だ、その手つき……もっと、力を入れて……マジメにやれ、マジメに……」
辻村班長は、岩崎家のぼんぼんであり、最高学府を出た青白きインテリである私に、マッサージをやらせながら、ありったけの悪態雑言を浴びせることを心から楽しんでいる様子であった。
ごろりと横になり、私に軍袴を脱がさせ、今度は毛深い足や太股を揉みほぐし、足の裏を指圧するように命じた。
乱れた越中褌のはしから、密生した剛毛と徐々に充血し始めた雄々しい男の肉茎が覗き生臭い股間の匂いが、一段と激しく私の性感をゆさぶり高ぶらせるのであった。
コツコツ、扉を叩く音がした。
「おお、入れ」
私の時と同じように辻村班長は横柄に応えた。今時分、誰が。私は思わず揉む手を止めて、その方に目を向けた。
入って来たのは――上等兵に姿かたちは変ってはいるが――あっ、辰ちゃんではないか。まぎれもなく、それは一丁目の自転車屋の辰ちゃんなのだ。
私の家は榎町二丁目の豪邸。二丁目の南、一丁目の小さな水落自転車店、そこの息子の辰三は、私が小学校の頃、同じ学年、同じクラスだった。一丁目と二丁目の境、その四つ角に「つじむら」と云ううどん・そば・丼ぶり物の店があり、そこの息子が今の辻村班長なのである。
私は大学に進学した関係で、徴兵検査は卒業まで猶予されたのであるが、彼―― 水落辰三は法律通り満二十才で徴兵検査をうけ、その年か翌年に入隊したのだろう。既に襟章の星の数は私より多く、軍隊の垢も、すっかり身に��いてしまっている様子である。
辰ちゃんは幼い時から、私に言わせれば、のっぺりした顔だちで、私の好みではなかったが、人によっては或いは好男子と言う者もあるかもしれない。どちらかと言えば小柄で小太り、小学校の頃から既にませていて小賢しく、「小利口」と云う言葉が、そのままぴったりの感じであった。当時のガキ大将・辻村に巧みにとり入って、そのお気に入りとして幅をきかしていた。私が中学に入って、漢文で「巧言令色スクナシ仁」と云う言葉を教わった時に「最っ先に頭に想い浮かべたのはこの辰ちゃんのことだった。ずる賢い奴と云う辰ちゃんに対する最初の印象で、私は殆んどこの辰ちゃんと遊んだ記憶も、口をきいた記憶もなかったが、顔だけは、まだ頭の一隅に鮮明に残っていた。
辻村班長は私の方に向って、顎をしゃくり上げ、辰ちゃん、いや、水落上等兵に、「誰か分かるか。」
意味あり気に、にやっと笑いながら尋ねた
「うん」
水落上等兵は卑しい笑みを歪めた口もとに浮かべて頷いた。
「岩崎、裸になれ。裸になって、貴様のチンポ、水落に見てもらえ。」
頭に血が昇った。顔の赤らむのが自分でも分った。でも抵抗してみたところで、それが何になろう。それに恥ずかしさに対して私は入隊以来もうかなり不感症になっていた。部屋の片隅で、私は手早く身につけていた一切合切の衣類を脱いで、生まれたままの姿にかえった。
他人の眼の前に裸身を晒す、そう思うだけで、私の意志に反して、私の陰茎はもう「休メ」の姿勢から「気ヲ付ケ」の姿勢に変り始めていた。
今日は辻村班長の他に、もう一人水落上等兵が居る。最初から突っ張ったものを披露するのは、やはり如何にもきまりが悪かった。しかも水落上等兵は、私が小学校で級長をしていた時の同級生なのである。
私の心の中の切なる願いも空しく、私のその部分は既に独白の行動を開始していた。私はどうしても私の言うことを聞かないヤンチャ坊主にほとほと手を焼いた。
堅い木製の長椅子に、辻村班長は越中褌だけの姿で、水落上等兵は襦袢・軍袴の姿で、並んで腰をおろし、旨そうに煙草をくゆらしていた。班長の手招きで二人の前に行くまでは、私は両手で股間の突起を隠していたが、二人の真正面に立った時は、早速、隠し続ける訳にもいかず、両手を足の両側につけ、各個教練で教わった通りの直立不動の姿勢をとった。
「股を開け。両手を上げろ」
命ぜられるままに、無様な格好にならざるを得なかった。二人の視線を避けて、私は天井の一角を空ろに眺めていたが、私の胸の中はすっかり上気して、不安と、それとは全く正反対の甘い期待とで渦巻いていた。
二人は代る代る私の陰茎を手にとって、きつく握りしめたり、感じ易い部分を、ざらざらした掌で撫で廻したりしはじめた。
「痛ッ」
思わず腰を後にひくと、
「動くな、じっとしとれ」
低い威圧的な声が飛ぶ。私はその部分を前につき出し気味にして、二人の玩弄に任せると同時に、高まる快感に次第に酔いしれていった。
「廻れ右して、四つん這いになれ。ケツを高くするんだ。」
私の双丘は水落上等兵の手で押し拡げられた。二人のぎらぎらした眼が、あの谷間に注がれていることだろう。板張りの床についた私の両手両足は、時々けいれんをおこしたように、ぴくッぴくッと引き吊った。
「顔に似合わず、案外、毛深いなアこいつ」
水落上等兵の声だった。突然、睾丸と肛門の間や、肛門の周囲に鈍い熱気を感じた。と同時に、じりッじりッと毛が焼けて縮れるかすかな音が。そして毛の焦げる匂いが。二人は煙草の火で、私の菊花を覆っている黒い茂みを焼き払い出したに違いないのである。
「熱ッ!」
「動くな、動くとやけどするぞ」
辻村班長の威嚇するような声であった。ああ、目に見えないあのところ、今、どうなってるんだろう。どうなってしまうのだろう。冷汗が、脂汗が、いっぱいだらだら――私の神経はくたくたになってしまった。
3.烈情
「おい岩崎、今日はな、貴様にほんとの男ってものを見せてやっからな。よーく見とれ」
四つん這いから起きあがった私に、辻村班長は、ぶっきらぼうにそう言った。辻村班長が水落上等兵に目くばせすると、以心伝心、水落上等兵はさっさと着ているものを脱ぎ棄てた。裸で寝台の上に横になった水落上等兵は、恥ずかしげもなく足を上げてから、腹の上にあぐらを組むように折り曲げ、辻村班長のものを受入れ易い体位になって、じっと眼を閉じた。
彼白身のものは、指や口舌で何の刺戟も与えていないのに、既に驚くまでに凝固し若さと精力と漲る力をまぶしく輝かせていた。
「いくぞ」
今は褌もはずし、男一匹、裸一貫となった辻村班長は、猛りに猛り、水落上等兵を押し分けていった。
「ううッ」
顔をしかめ、引き吊らせて、水落上等兵は呻き、
「痛ッ……痛ッ……」と二言三言、小さな悲鳴をあげたが、大きく口をあけて息を吐き、全身の力を抜いた。彼の表情が平静になるのを待って、辻村班長はおもむろに動いた。大洋の巨大な波のうねりのように、大きく盛り上がっては沈み、沈んでは又大きく盛り上がる。永落上等兵の額には粒の汗が浮かんでいた。
凄まじい光景であった。凝視する私の視線を避けるように、流石の永落上等兵も眼を閉じて、烈しい苦痛と屈辱感から逃れようとしていた。
「岩崎、ここへ来て、ここをよーく見ろ」
言われるがままに、私はしゃがみこんで、局部に目を近づけた。
一心同体の男達がかもし出す熱気と、激し��息づかいの迫力に圧倒されて、私はただ茫然と、その場に崩れるようにすわりこんでしまった。
戦いは終った。戦いが烈しければ烈しい程それが終った後の空間と時間は、虚しく静かで空ろであった。
三人の肉体も心も燃え尽き、今は荒涼として、生臭い空気だけが、生きとし生ける男達の存在を証明していた。
男のいのちの噴火による恍惚感と、その陶酔から醒めると、私を除く二人は、急速にもとの辻村班長と水落上等兵に戻っていった。先程までのあの逞しい情欲と激動が、まるで嘘のようだった。汲(く)めども尽きぬ男のエネルギーの泉、そこでは早くも新しい精力が滾々(こんこん)と湧き出しているに達いなかった。
「見たか、岩崎。貴様も出来るように鍛えてやる。寝台に寝ろ。」
有無を言わせぬ強引さであった。
あの身上調査のあった日以来、私はちょくちょく、今夜のように、辻村班長の呼び出しをうけていたが、その度に、今日、彼が水落上等兵に対して行ったような交合を私に迫ったのである。しかし、これだけは、私は何としても耐えきれなかった。頭脳に響く激痛もさることながら、襲いくる排便感に我慢出来ず私は場所柄も、初年兵と云う階級上の立場も忘れて、暴れ、喚き、絶叫してしまうので、辻村班長は、ついぞ目的を遂げ得ないままであった。
その時のいまいましげな辻村班長の表情。何かのはずみでそれを想い出すと、それだけで、私は恐怖にわなないたのであるが、辻村班長は一向に諦めようとはせず、執念の劫火を燃やしては、その都度、無残な挫折を繰り返していたのである。
その夜、水落上等兵の肛門を責める様を私に見せたのは、所詮、責められる者の一つの手本を私に示す為であったかもしれない。
「ぐずぐずするな。早くしろ、早く」
ああ、今夜も。私は観念して寝台に上がり、あおむけに寝た。敷布や毛布には、先程のあの激突の余儘(よじん)が生温かく、水落上等兵の身体から滴り落ちた汗でじっとりと湿っていた。
私の腰の下に、枕が差し込まれ、両足を高々とあげさせられた。
「水落。こいつが暴れんように、しっかり押さえつけろ。」
合点と云わんばかりに、水落上等兵は私の顔の上に、肉づきのいい尻をおろし、足をV字形に私の胴体を挟むようにして伸ばした。股の割れ目は、まだ、水落上等兵の体内から分泌された粘液でぬめり、私の鼻の先や口許を、ねばつかせると同時に、異様に生臭い匂いが、強烈に私の嗅覚を刺戟した。
「むむッ」
息苦しさに顔をそむけようとしたが、水落上等兵の体重で思うにまかせない。彼は更に私の両足首を手荒く掴んで、私の奥まった洞窟がはっきり姿を見せるよう、折り曲げ、組み合わせ、私の臍の上で堅く握りしめた。
奥深く秘められている私の窪みが、���然、眩しい裸電球の下に露呈され、その差恥感と予期される虐待に対する恐怖感で、時々びくっびくっと、その部分だけが別の生き物であるかのように動いていた。
堅い棒状の異物が、その部分に近づいた。
思わず息をのんだ。
徐々に、深く、そして静かに、漠然とした不安を感じさせながら、それは潜行してくる。ああッ〃‥ああッ〃‥‥痛みはなかった。次第に力が加えられた。どうしよう……痛いような、それかと云って痛くも何ともないような、排泄を促しているような、そうでもないような、不思議な感覚が、そのあたりにいっぱい。それが、私の性感を妖しくぐすぐり、燃えたたせ、私を夢幻の境地にさそうのであった。
突然、激痛が火となって私の背筋を突っ走った。それは、ほんのちょっとした何かのはずみであった。
「ぎゃあッ!!」
断末魔の叫びにも似た悲鳴も、水落、上等兵の尻に押さえつけられた口からでは、単なる呻きとしか聞きとれなかったかもしれない。
心をとろけさせるような快感を与えていた、洞窟内の異物が、突如、憤怒の形相に変わり、強烈な排便感を伴って、私を苦しめ出したのである。
「お許し下さいッ――班長殿――お許しッ ――お許しッ――ハ、ハ、班長殿ッ」 言葉にはならなくても、私は喚き叫び続けた。必死に、満身の力を振り絞って。
「あッ、汚しますッ――止めて、止めて下さいッ――班長殿ッ――ああ――お願いッ――お許しッ――おおッ――おおッ―― 」
「何だ、これくらいで。それでも、貴様、男か。馬鹿野郎ッ」
「ああッ、……痛ッ……毛布……毛布……痛ッ――汚れ――汚れますッ――班長殿ッ」
毛布を両手でしっかりと握りしめ、焼け爛れるような痛さと、排便感の猛威と、半狂乱の状態で戦う私をしげしげと眺めて、流石の辻村班長も、呆れ果てで諦めたのか、
「よしッ……大人しくしろ。いいか、動くなッ」
「うおおおー!!!」
最後の一瞬が、とりわけ私の骨身に壊滅的な打撃を与えた。
「馬鹿野郎。ただで抜いてくれるなんて、甘い考えおこすな。糞ったれ」
毒づく辻村班長の声が、どこか遠くでしているようだった。
終った、と云う安堵感も手伝って、私は、へたへたとうつ伏せになり、股間の疼きの収まるのを待った。身体じゅうの関節はばらばら全身の力が抜けてしまったように、私はいつまでも、いつまでも、起き上がろうとはしなかった。
班長の最後の一撃で俺も漏らしてしまったのだ。腑抜けさながら。私はここまで堕ちに堕ちてしまったのである。 瞼から涙が溢れ、男のすえた体臭がこびりついた敷布を自分の汁と血で汚していた。
どれだけの時間が、そこで停止していたことか。
気怠(けだる)く重い身体を、もぞもぞ動かし始めた私。
「なんだ、良かったんじゃねぇか、手間取らせやがって」
おれの漏らした汁を舐めながら辻村班長が言った。
そして汚れたモノを口に突っ込んできた。
水落上等兵は、おいうちをかけるように、俺に覆い被さり、聞こえよがしに口ずさむのであった。
新兵サンハ可哀ソウダネ――マタ寝テカクノカヨ――
(了)
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日記を書く気になれなくてインスタにいました。写真撮って加工して音楽選んで、明日には消えるけどアーカイブには残ってて見返せるというストーリーの存在が気楽で気分だった。
5月後半は病気になってしまい、痛くて痛くてほんとにつらかった。もう痛みは引いたけど、あと1ヶ月お薬の日々が続きます。
痛みで寝込んでる間に、韓国ドラマの「奇皇后」を鑑賞。
✍︎中国ドラマ「瓔珞~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」ですっかり アジアの時代劇にハマり、時代劇ファンの友達にオススメを聞いて「 奇皇后」→「宮廷の諍い女」の順で鑑賞することに。今は諍い女の序盤。
6月初旬はハッピー期。日本インカレの応援のため岡山に行き、そのあと��子達も一緒にこっちに帰ってきたので、嬉しくて楽しくて、朝から買い物に行って唐揚げやお弁当や餃子など、リクエストされた料理を作りまくるウキウキの3日間でした。
一方、私の母の病状はあまり良くなくて、予定していた転院日までその病院にいるのが危険だと感じたので、病院に相談して転院日を早めてもらいました。
朝一で映画「国宝」を観てから美容室に行く計画を立ててどちらもネットで予約してたけど、今日が転院になったので両方キャンセル。
母の具合が悪いとなぜか美容鍼に行きたくなくなるので、来週予定してた美容鍼もキャンセル。
でも転院を早めたのは正しい判断だった。転院前の病院で虫垂炎を見落とされていました😭
息子たちについては喜びや期待感がいっぱいで、母については不安と恐怖もあるけど希望も持っていて、愛情を基準にいろんな感情が綯い交ぜになったような毎日。
でも、安定しないからこそ 今この瞬間をしっかり見つめて生きられてる気がします。
大丈夫。
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AIに聞いてみた
そもそも国家財政の原資とはどこから捻出したの?
国家財政の原資は主に以下の3つから捻出されます:
1. **税収**:所得税、法人税、消費税、財産税など、国民や企業から徴収される税金が最も大きな原資です。日本の場合、税収は一般会計歳入の約6~7割を占めます(2023年度で約70兆��規模)。
2. **国債発行**:税収だけでは賄えない場合、政府は国債を発行して資金を調達します。これは借金であり、将来の税収で返済されます。日本では歳入の3~4割が国債発行に依存(2023年度で約30兆円)。
3. **その他の収入**:国有財産の売却、公共事業の使用料、特別会計からの繰入金など。規模は小さいですが、例えば日本ではたばこ税やガソリン税などもこれに含まれます。
歴史的には、近代国家の財政は租税制度の確立(例:17世紀の欧州での常設軍のための税制)や中央銀行の設立(通貨発行権)によって賄われるようになりました。日本では明治維新後の地租改正(1873年)で税収基盤が整備され、現代の財政システムの基礎が築かれました。
必要なら、特定の国や時代に絞って深掘りできます!
歴史的背景と内容を詳しく
日本に統一的な税制が初めて確立したのは701年の「大宝律令」で、租・庸・調(現物納 租税)という唐の均田法にならった税の仕組みができてからです。 「大宝律令」では、班田収授法により、人民には田を与える(口分田)代わりに、租・ 庸・調という税のほか、雑徭(ぞうよう)という労役が課され、税制の仕組みができました。
日本の国家財政の原資とその歴史的背景について、特に統一的な税制の確立を中心に詳しく説明します。ご指摘の通り、日本で統一的な税制が初めて確立したのは701年の「大宝律令」であり、唐の均田法をモデルとした「租・庸・調」の税制が導入されました。以下では、この歴史的背景と内容を、時代ごとの変遷や仕組みの詳細を交えて解説します。
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### 1. **大宝律令と統一税制の確立(701年)**
#### **歴史的背景**
- **律令国家の形成**:7世紀後半から8世紀初頭にかけて、日本は中央集権的な国家体制を構築する過程にありました。飛鳥京や藤原京の時代に、豪族中心の地方分権的な政治から、天皇を中心とする統一国家への移行が求められました。これには、唐の先進的な政治・経済制度をモデルとする「律令制」の導入が不可欠でした。
- **唐の影響**:遣唐使を通じて唐の制度を学び、特に均田制(土地を人民に分配し、税を徴収する制度)や租庸調の税制が参考にされました。701年の大宝律令は、これらの制度を日本に適応させた最初の包括的な法典です。
- **財政需要**:中央集権国家を運営するためには、軍事(防人や兵器)、官僚機構(官人の俸禄)、インフラ(都城や道路整備)など、��額の財政支出が必要でした。これを賄うため、統一的な税制が求められたのです。
#### **税制の内容:租・庸・調・雑徭**
大宝律令に基づく税制は、班田収授法(土地の分配制度)と密接に結びついていました。以下はその詳細です:
1. **租(そ)**:
- **内容**:口分田(班田収授法で人民に分配された田)から収穫された稲の一定割合(通常3~5%)を税として徴収。
- **目的**:国家の主要な財源であり、朝廷の運営資金や官人の俸禄に充てられた。
- **特徴**:現物納税(稲)であり、農民の生産力に依存。土地の肥沃度や天候で変動した。
2. **庸(よう)**:
- **内容**:地方の農民が都(平城京など)に上京して労役に従事する代わりに、その労役を免除する代替として布や米などの現物を納める税。
- **目的**:都での建設事業(宮殿や寺院)や行政業務の労働力を確保。
- **特徴**:成人男子(丁男)に課され、年10日程度の労役が基準。遠方の農民には負担が大きく、代替納付が一般的だった。
3. **調(ちょう)**:
- **内容**:地方の特産物(絹、麻布、魚、塩など)を納める税。地域ごとに指定された品目が異なった。
- **目的**:朝廷や貴族の生活物資、交易や贈答用の高級品の確保。
- **特徴**:成人男子だけでなく、女子や老人にも課される場合があった。地域の産業や資源に応じた徴収。
4. **雑徭(ぞうよう)**:
- **内容**:国家や地方の公共事業(道路整備、灌漑施設建設など)に動員される労役。年60日を上限に課された。
- **目的**:インフラ整備や軍事活動の労働力確保。
- **特徴**:現物納税ではなく直接的な労働提供。農民にとって重い負担だった。
#### **班田収授法との関係**
- 租・庸・調の税制は、班田収授法(6歳以上の人民に口分田を分配する制度)を基盤としていました。口分田は原則として6年ごとに再分配され、死亡や成長に応じて調整されました。
- 土地を分配することで農民の生産力を確保し、その収穫から税を徴収する仕組みは、唐の均田制を参考にしたものですが、日本では土地不足や地方豪族の抵抗により、完全な実施は困難でした。
#### **財政の運用**
- 徴収された租(稲)は正倉(国衙や郡衙の倉庫)に貯蔵され、官人の俸禄や軍事費、災害時の備蓄に使用されました。
- 調や庸の現物(布や特産物)は、朝廷の消費財や交易品として活用され、一部は外交(唐や新羅への贈答)に用いられました。
- 雑徭による労働力は、平城京の建設や東大寺大仏の建立など、大規模プロジェクトに不可欠でした。
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### 2. **律令税制の変遷と限界(8~10世紀)**
#### **律令税制の課題**
- **負担の不均衡**:租・庸・調は農民にとって重い負担であり、特に庸や雑徭の労役は農作業の妨げとなった。逃亡する農民(浮���)や戸籍を偽る者も増加。
- **土地私有化の進展**:班田収授法は次第に形骸化し、貴族や寺社が私有地(荘園)を拡大。税収の基盤である口分田が減少し、国家財政が不安定化した。
- **地方の抵抗**:地方の国司や豪族が税の一部を着服したり、徴収を怠ったりする問題が頻発。中央への送納が滞った。
#### **税制の改変**
- **出挙(すいこ)**:国家が農民に種籾や食料を貸し付け、収穫時に利子(通常50%)を付けて回収する制度。租の補完として財政を支えたが、農民の貧困を加速。
- **田租の固定化**:9世紀以降、班田収授法の崩壊に伴い、土地ごとの固定税(田租)が導入され、荘園からも税を徴収する試みがなされた。
- **庸・調の簡略化**:労役や特産物の納付が困難になったため、現金や米での代替納付が進んだ。
#### **財政の多元化**
- 10世紀に入ると、律令制が衰退し、荘園公領制が台頭。国家は荘園や公領から年貢(固定税)を徴収する形にシフト。
- 貨幣経済の萌芽(和同開珎など)も見られたが、依然として現物経済が主流で、米や布が財政の中心だった。
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### 3. **中世・近世の財政と税制**
#### **中世(12~16世紀)**
- **荘園公領制**:鎌倉時代や室町時代では、荘園や公領から年貢(米や特産物)を徴収。武家政権(幕府)は独自の税(関銭や段銭)を課した。
- **戦乱と財政**:戦国時代には、領主が領内の農民や商人から直接年貢や労役を徴収。統一的な税制は崩壊し、地方ごとの徴税が主流に。
#### **近世(江戸時代:17~19世紀)**
- **石高制**:豊臣秀吉の太閤検地(1590年代)により、土地の生産力(石高)に基づく年貢制度が確立。米を基軸に、4公6民(収穫の4割を年貢)などが基準。
- **幕藩体制**:幕府と藩がそれぞれ年貢を徴収。農民だけでなく、商人や職人からも営業税や冥加金が徴収された。
- **財政難**:18世紀以降、幕府や藩の浪費や災害で財政が悪化。借金(札差からの融資)や通貨改鋳で対応したが、経済の混乱を招いた。
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### 4. **近代国家と税制の確立(明治維新以降)**
#### **地租改正(1873年)**
- **背景**:明治政府は、幕藩体制の崩壊後、近代国家の財政基盤を構築する必要があった。欧米の租税制度を参考に、土地税を中心とした税制を確立。
- **内容**:
- 土地の私有化を認め、地価の3%を現金で徴収(後に2.5%に軽減)。
- 年貢のような現物納税を廃止し、貨幣経済に基づく税制へ移行。
- **影響**:農民の負担は軽減された地域もあったが、地租が高すぎるとして一揆(地租改正反対一揆)が頻発。政府はこれを財源に軍事や産業振興を推進。
#### **近代税制の多様化**
- **所得税(1887年)**:日本初の直接税として導入。富裕層を対象に所得に応じた課税。
- **消費税の原型**:酒税、たばこ税など、特定の商品に対する間接税が導入され、財政の安定化に寄与。
- **国債発行**:日清・日露戦争(1894~1905年)で戦費を賄うため、国債発行が本格化。外債も活用された。
#### **20世紀の展開**
- **法人税(1940年)**:企業収益に対する課税が制度化され、工業化に伴う財源を確保。
- **消費税(1989年)**:高度経済成長後の社会保障費増大に対応し、3%の消費税が導入(現在は10%)。
- **現代の財政**:税収(所得税、法人税、消費税)と国債発行が主な原資。2023年度の日本の一般会計歳入は約114兆円で、税収が約70兆円、国債が約30兆円、その他(国有財産売却など)が約14兆円。
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### 5. **国家財政の原資の普遍性と日本特有の特徴**
#### **普遍性**
- どの時代・地域でも、国家財政は「税収」「借金」「その他(資産売却や通貨発行)」の3要素で構成される。
- 古代から近代まで、税の形態は現物(米、布)から貨幣へ、労役から現金納付へと変化したが、国民の生産力(農業、工業、サービス業)を基盤とする点は不変。
#### **日本特有の特徴**
- **米中心の財政**:律令時代から江戸時代まで、米(租や年貢)が財政の基軸だった。これは日本の稲作文化と密接に関連。
- **労役の重視**:律令制の庸・雑徭や中世の夫役など、労働力の動員が税の一形態として長く存続。
- **国債依存**:近代以降、特に20世紀後半から、国債発行が財政の大きな柱に。日本の債務残高(2023年で約1200兆円)はGDP比で世界最高水準。
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### 6. **補足:現代とのつながり**
- **租・庸・調の現代的意義**:租は所得税や法人税、調は消費税や地方税、庸・雑徭は社会保障負担(年金や健康保険)に似た構造とみなせます。国民の生産力から国家が資源を徴収する原理は変わっていません。
- **財政の課題**:律令時代に班田収授法が崩壊したように、現代でも少子高齢化や経済停滞で税収基盤が縮小。国債依存度の高さが課題です。
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### 7. **ご質問への追加対応**
もし特定の時代(例:律令制の詳細、江戸時代の石高制、明治の地租改正)や他の国の税制との比較、現代財政とのつながりなど、さらに深掘りしたい点があれば教えてください!また、資料やデータを用いた分析(例:律令時代の税収規模の推定)も可能です。
以上、日本の国家財政の原資とその歴史的背景について、詳細に解説しました。
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【間人浦】
紫金山・アトラス彗星とスーパームーンは 雲に覆われ撃沈…(笑) ですが穏やかな夕景を見る事が出来ました✨ 2024年10月17日撮影
親子がいる!と思ったら「間人(はしうど)皇后・聖徳太子母子像」でした(笑) 聖徳太子の母・穴穂部間人皇后が、蘇我、物部氏間の戦乱からこの地に身を隠し、戦乱が収まった後、都へ帰る時に村人へ感謝の念を込め自らの名「間人」を村名に贈りました。村人は皇后の名をそのまま地名にするのはおそれ多いとし���、皇后の御退座に��なみ、「間人」と書いて「たいざ」と読むようになったと伝えられています。 写真を撮りそびれたのですが 撮影した場所の直ぐ横に古墳の石室がありました。 石舞台みたいに中が見える感じでした。 古墳時代後期(6世紀末~7世紀初)の古墳で ヤマト王権や吉備などと並ぶ独立性ある「丹後王国」があったとか。 聞いた事がなかったのでびっくり。 また訪れてみたいです✨
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はにわ展

東京国立博物館ではにわ展を見る。「挂甲の武人」(上のチラシ画像のメインビジュアル)の国宝指定50周年を記念した特別展である。埴輪以外の出土品も展示されている。
つかみは修復後初お目見えの「踊る人々」。最近では、踊っているのではなく馬の手綱を持って馬を引いているのでは、という説が有力になってきているらしい。

修理の模様を収めた動画がとてもおもしろかったのでリンクしておく。(この動画は会場では流れていなかった)
踊る人々の次は、国宝ばかりを集めた展示、および2メートル超の高さを誇る円筒埴輪を含む展示。撮影禁止だったり見学者多数でうまく撮れなかったりしたのでここに載せられる写真はないが、埴輪だけでなく大刀(金の象嵌)、沓(金銅製)、耳飾り(金製)、甲冑など状態の良い出土品も並んでいて、ヤマト王権の威勢を見せつけるかのような展示室だった。
以降の展示室では、埴輪を造形で分類して紹介する流れがわかりやすかった。まず基本の円筒埴輪とそのバリエーション。壺のように見えるものも埴輪で、そのまま壺形埴輪と呼ばれている。



船形埴輪。

武具の形をした埴輪。

そのほか見学者の写り込み多数でここに���写真をアップできないが、盾形埴輪、靫形埴輪、椅子形埴輪などがあった。靫(ゆぎ)は矢を入れる道具。
土ではない素材で作られた埴輪様のものが古墳に置かれることもあったのだそうで、例として武装石人(下の写真)、大刀の形をした木製品、靫の形の木製品が紹介されていた。

このあと群馬県太田市の窯で焼かれた「挂甲の武人」埴輪5体が揃い踏みする室へと向かう。展示のしかたがやたら凝っていて、戦隊モノのヒーローをキャラづけして紹介するようなノリだった。たとえば下の写真は国立歴史民俗博物館所蔵のもので、台が黄色、そして展示ケースの背面に埴輪の上半身がぼうっと浮かび上がるように見えている。埴輪ごとに台の色が異なり(キャラごとに色が違うのは戦隊モノのお約束)、ケース背面もそれぞれ同様にデザインされている。

おもしろかったが、埴輪そのものをつぶさに見るというより展示方法に注意が向いてしまったので、個人的にはもっと淡々と見たかった。出来の良いよく似た埴輪が5体揃ったというだけでじゅうぶん派手なのだから、見せ方まで派手にしなくとも……と思ったり、しかし埴輪を作った人がこうして華やかに展示されたのを見たら喜ぶかもしれないな……と思ったり。

埴輪は赤、白、灰色、黒の顔料で彩色されることもあったのだそう。上のチラシ画像のメインビジュアルの挂甲の武人が当時彩色されていたらこんな感じかも?という復元が下の画像。


次の3枚は、挂甲の武人が着ているのと同じタイプの冑、挂甲、籠手。こういうものも現物がちゃんと出土してるのか!と驚いた。



造形別埴輪紹介に戻る。人の形の埴輪がたくさんあったが見学者の写り込みも多数でやはり写真は載せられない。モチーフとしては、盾や杯や何かを持った男子や女子、座った男子や女子、力士などが挙げられる。
家形埴輪はとても神聖なものなのだそうで、これも多数展示されていた。下の写真は作りかけのままの家形埴輪。埴輪工房が焼失した状態で発見されたとのことで、気の毒ながらたいへん興味深い。

導水施設形埴輪。導水施設。意外すぎてキャプションを二度見三度見してしまった。聖水の儀礼または遺骸を洗浄した施設と考えられている由。

これは埴輪棺。このように古墳を飾るためではない埴輪もあったとのこと。

みんなの人気者、動物埴輪の皆さん。

少なくとも四つ足の動物のお尻にはたいてい穴が空いているように見えた。鳥のお尻にも空いていることがある。


下の写真の中央は鵜形埴輪。ここで鵜が出てくるとは想像できなかった。

魚形埴輪。鵜がいるなら魚もいて不思議ではない。

最後は近現代における埴輪の受容のされかたに関する展示。内容的にはごくあっさりしているので、この分野については東京国立近代美術館の「ハニワと土偶の近代」を見るべきだろう。
東京タワー近くの芝公園から出土した男女の埴輪。これが出土したときの調査が郷土研究のきっかけになったとのこと。

三船敏郎が所持していたらしい、ひよこ形埴輪。

版画家の斎藤清が下の写真の埴輪をモチーフにした作品を作っている。

次の埴輪は、映画『男はつらいよ』主演の渥美清に似ていると話題になったそうだが、別に似てないよね……?と思ったら、葛飾柴又の古墳から出土したものだそうで、まあ納得。

群馬県が開催したHANI-1グランプリで優勝した埴輪。満面の笑みが勝因か。

下の3体は明治天皇の陵に奉献された埴輪と同じ形で作った模型。吉田白嶺の作。このあたりのヤマト民族らしいきな臭さなどは上述の「ハニワと土偶の近代」の��備範囲。

おまけ。展示室の壁の装飾。

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デジモンアドベンチャー :くるみ割り人形の物語は、チャイコフスキーの 1892 年のバレエ『くるみ割り人形』、E.T.A. ホフマンの 1816 年の物語『くるみ割り人形とねずみの王様』、および 1979 年のサンリオのストップモーション アニメ映画『くるみ割り人形』を大まかにベースにしています。
時は1999年お台場東京、街中を歩き回って人々の家をのぞき、就寝時間を過ぎて家に帰ると子供たちをネズミに変える謎の老人、ジャンカリンの物語です。
シュタールバウム家の一人娘クララ(八神ヒカリ演じる)は、明日弟のフリッツ(八神太一演じる)が遊びに来ることに興奮して眠れませんでした。ゲルダおばさん(城戸丈演じる)はジャンカリンの話をして彼女を怖がらせようとするが、クララは大人になりすぎて信じられないと言う。ドロッセルマイヤーおじさん(石田ヤマト演じる)が到着して彼らを驚かせます。彼はクララにくるみ割り人形を与え、彼女はそれを愛します。彼女はそれを守れるならすぐに寝ると約束します。
クララは真夜中に目を覚ますと、くるみ割り人形がなくなっている。彼女はネズミの群れがくるみ割り人形を階段から運んでいるのを見て、彼らを追って居間に入る。彼女が人形を取り戻すと、ネズミのリーダーで頭が二つあるネズミのマウゼリンクス (ヴァンデモンが演じる) と対峙する。王様はクララにくるみ割り人形を渡すように命じるが、彼女は拒否する。クララが気絶すると、くるみ割り人形が生き返り、ネズミから彼女を守ろうとする。
翌朝、クララは寝室に戻っていた。クララは叔母にネズミと人形がなくなったことを話すが、ゲルダは馬鹿げたことを言っているだけで熱があるのだと主張する。ゲルダ叔母が部屋を出た後、クララは腕の引っかき傷を見て、夢だったのではないかと考える。それからクララはベッドから起き上がり、部屋を出て、リビングルームの階段を見下ろす。錯乱したクララはリビングルームに降りて、おじいさんの時計を見つめる。そして降りて時計を見ると、ドロッセルマイヤーおじさんが「チクタク、ティー…」と何度��言っているのが聞こえる。クララは時計を覗き込み、中に入る。
ドロッセルマイヤーおじさんが中にいるのではないかとクララは考える。それはジャンカリンのようで、ジャンカリンに怯えてしまう。怖がったクララは歩き回り続けるが、ジャンカリンが何度も現れる。クララは怖くなってそこに座った後、暗闇の中を歩き回り、一緒に踊っているバレリーナを見つけます。踊りが終わると辺りはさらに暗くなり、光が戻ると、彼女は自分が宮殿にいることに気づきます。
そこで彼女は自分と同じ少女の肖像画と、眠っているネズミ人間が入ったガラスの棺を目にしました。人形の城の皇帝(泉光子郎演じる)、侍従長(高石タケル演じる)、そして会葬者の一団が現れ、クララをメアリー王女が戻ってきたと信じている。クララが間違いを正した後、人形の城の皇帝は彼女が人形の国にいると説明します。彼らは双頭のマウゼリンクス率いるネズミたちと戦争をしていた。敗北は避けられないと思われたとき、人形たちは降伏した。しかし、人形の城の皇帝はマウゼリンクスの最後の任期に同意することを拒否した。メ王女マリー(太刀川ミミ演じる)は息子のシュヌルル(ピコデビモン演じる)と結婚しなければならないというものだった。拒否したことに対する罰として、マウゼリンクスは王女を醜いネズミのように見えさせ、人形の城の皇帝が結婚に同意するまで眠り続けるという呪いをかけました。
人形の城の皇帝が物語を終えると、衛兵の隊長とフランツ(八神太一演じる)という名前の若い中尉が入ってきて、人形の城の皇帝に、世界中から賢者が集まったことを告げます。 人形の城の皇帝とフランツは、賢者が全員集まれば、王女マリーを呪いから解放する知識が得られると信じている。しかし、賢者たちの理論はいずれも突飛であるか、効果がありません。すぐに、どの治療法が王女を助けるかについて議論が勃発します。
誰も助ける方法を知らないことに絶望したクララは、城を出て通りをさまよいます。街頭の歌手が、すべての答えを持っていることで知られているジプシー占いの方向を彼女に示します。クララは彼女のところに行き、王女を救い、マウゼリンクスを倒す方法を知っているかどうか尋ねます。ジプシー占いは魔法の水晶玉を使用してマウゼリンクスを監視し、王女を救う唯一の方法は王の力の源であるクラカトークのクルミを破壊することであると明らかにします。これは、純粋な心を持つ誰かが魔法の真珠の剣を振るう場合にのみ可能です。ジプシー占いは剣を提供しますが、それを戦いに運ぶ人を見つけるのはクララ次第です。
クララはフランツが十分に純粋な心を持っていると信じて城に戻ります。彼女は王女を救うために彼が何をしなければならないかを彼に言います。 人形の城の皇帝はフランツに、成功したら娘と結婚させると約束し、フランツは人形軍団を率いて戦いに向かう。彼らは、ネズミたちがシュヌルルと王女との著名な結婚を祝っているときに到着します。おもちゃの兵隊が負けているように見えたとき、フランツはクラカトークのクルミを破壊し、マウゼリンクスを殺します。しかし、彼は彼に呪いをかけ、くるみ割り人形に変えます。
クララはくるみ割り人形を宮殿に運び、宮廷と人形の城の皇帝が王女マリーの目覚めを祝っていることに気づきます。フランツの新しい様子を見て、王女は結婚の約束を破棄し、くるみ割り人形を醜いと言います。クララはフランツを人間に戻す方法を知る者を探して王国を出て放浪するが、シュヌルが攻撃から生き残って彼女を追っていることに気づかない。
道を歩いていると、クララはチェッカー ゲームをしている 2 人に出会いま���。しかし、彼女が道を尋ねて彼らに話しかけようとしたとき、彼らは森の人形使いと呼ばれる奇妙な男によって操られている人形であることが明らかになりました。最初は森の人形使いがなぞなぞを話し、クララの質問に答えるのが難しくなります。しかし、森の人形使いは、この道のさらに先に時計商人と呼ばれる人物が住んでいることを明らかにし、フランツの魔法を解くのを助けることができると考えられています。
やがて彼女は時計商人に出会い、フランツを救う唯一の方法は本当の愛だと告げられる。クララはフランツを愛していると宣言するが、時計商人はそれだけでは十分ではないと言う。旅に疲れ果てたクララは眠りに落ちる。彼女はフランツが再び人間になり、魔法の王国に入る夢を見る。城で末永く幸せに暮らすために階段を上ろうとしたとき、クララの足が動かなくなる。フランツは彼女なしで歩き続けるので、クララは彼の足をつかんで行かないでと懇願する。
彼女は目を覚まし、ガーが彼を引き離そうとしているときにくるみ割り人形をつかんでいることに気づく。彼女はシュヌルルにフランツを助けて代わりに自分を殺してほしいと懇願するが、シュヌルルはフランツが母親を殺した罪で死ななければならないと主張する。フランツがくるみ割り人形を刺そうとしたとき、クララは自分の体を盾として使う。これによりフランツは呪いから解放され、シュヌルルは破壊される。
クララはベッドで目を覚まし、隣にはドロッセルマイヤーおじさんがいました。クララが何が起こったのかを語り、ドロッセルマイヤーに時計で何をしていたのか尋ねようとしていると、ゲルダおばさんがやって来て、フリッツが来たと告げました。彼はフランツそっくりでやって来ました。
フリッツは家に戻ると、クララに花束を手渡し、「マルチパン城の王女様にぴったりだよ」とささやきました。彼はクララの手に優しくキスをし、クララはフリッツをとても恋しく思いました。
声の出演: クララ(八神ヒカリ演じる):和多田美咲 フランツ、フリッツ(八神太一演じる):三瓶由布子 ゲルダおばさん(城戸丈演じる):草尾毅 ドロッセルマイヤーおじさん(石田ヤマト演じる):浪川大輔 不思議婆さん、森の人形使い、時計商人:吉田鋼太郎 人形の城の皇帝(泉光子郎演じる):小林由美子 王女マリー(太刀川ミミ演じる):高野麻里佳 侍従長(高石タケル演じる):潘めぐみ オランダ風名士、文学博士、フランス風名士、ロシア風名士、中国風名士、死刑執行人、プロシア風名士、詩人、イギリス風名士、インド風名士:藤井隆 ジプシー占い:北浜晴子 マウゼリンクス夫人 (ヴァンデモンが演じる) :一の宮あつ子 鼠王シュヌルル(ピコデビモン演じる):山田隆夫
#digimon adventure#digimon adventure: the story of the nutcracker#デジモンアドベンチャー#くるみ割り人形#デジモンアドベンチャー くるみ割り人形の物語#クララ#フリッツ#フランツ#八神ヒカリ#八神太一#yagami hikari#yagami taichi
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滋賀県大津市立皇子山中学校2年だった男子生徒が2011年10月11日に自殺した事件。背景に激しいいじめと、加害者側の事件正当化と居直り、学校や教育委員会ぐるみでの事件隠蔽などが指摘された。 この事件によって、いじめ防止対策推進法が制定されるきっかけ��なった。 経過 滋賀県大津市立皇子山中学校2年だった男子生徒は2011年10月11日朝、自宅マンションから飛び降り自殺した。 学校側は事件直後にアンケートをおこなった。大津市教育委員会は2011年11月2日に記者会見し、死亡した生徒が同級生に殴られていたことや成績表を破られたなどの事実を認め、いじめと判断できるとする見解を示した。しかしこの時に公表されたいじめの内容は一部にとどまっていた。 事件後の2012年1月に就任した越直美大津市長は2012年3月13日、市内の中学校で一斉に卒業式が実施された際、当初別の中学校で挨拶予定だったのを急遽変更して皇子山中学校で挨拶、自身の学生時代のいじめ被害体験を明かしながら「全力でいじめのない社会に取り組む」と述べた。 遺族は2012年2月24日付で、大津市・いじめていたとされる生徒3人・各生徒の保護者を相手取り、約7700万円の損害賠償を求めて大津地裁に提訴した。(大津地方裁判所平成24年(ワ)第121号 損害賠償請求事件) 被告となった加害生徒は、被害生徒と同じクラスだったA・Bと、被害生徒とは別のクラスだったCの男子生徒3人とされている。 2012年5月22日、民事訴訟の第一回口頭弁論がおこなわれた。加害者側はいじめを全面的に否定し、また大津市も「自殺との因果関係は不明」と争う姿勢を示した。 事件が大きく報道される 自殺事件発生時や提訴時の報道は、最小限の事実関係のみを短文の記事で報じる小さな扱いだった。しかし死亡した生徒への悪質ないじめがあったという同級生の証言が複数ありながら学校・市教委が公表していなかったことが2012年7月4日に発覚し、各マスコミで大きく報道された。 アンケートでは、「生徒が自殺の練習をさせられていた」「ハチの死骸やゴミ・紙など異物を無理やり食べさせられようとしていた」「金品を恐喝されていた」「生徒の死後、教室に掲示された生徒の顔写真が、画鋲で穴を開けられたり落書きをされていた」「万引きを強要されていた」「葬式ごっこがあった」「加害者が被害者について『死んでくれてうれしい。でももう少しスリルを味わいたかった』と話していたのを聞いた」など、いじめの実態が次々と明らかになった。しかし学校側は「確認できない」などとして、調査結果も公表していなかった。 いじめの様子を担任教諭が目撃しながら、この教諭は「あまりやりすぎるなよ」とへらへら笑って声をかけるだけで何もしなかったことが指摘されている。担任は、自殺した生徒がいじめ被害を相談した際「どうでもいい」「君ががまんすれば丸く収まる」と発言して放置したとも指摘されている。 学校側は2012年7月、校内放送で校長が講話。その際「自殺の練習と報道されているのは嘘」「報道には嘘が含まれている」等と話し、マスコミ取材には答えないよう口止めを図っていたと、生徒からの証言で明らかになった。さらに学校側が遺族に対して事件への口止めを図る念書を書かせていたことも判明した。 加害者側の態度 加害者側は生徒の自殺直後「遺体の一部でも落ちてへんかな」などと現場を徘徊したり、同級生が「○○君が自殺したのはお前らのせいや」と問い詰めると「なんで俺らのせいなん。どうでもいいわ」と吐き捨てたりしたと指摘されている。 また加害者の保護者は、保護者会などで被害者の保護者や学校に対して威圧的な対応を取り、「自分の子どもがいじめの加害者扱いされて被害を受けている」かのように主張した。 加害者3人のうちA・Bの2人は事件からしばらくして京都方面に転校した。Bは転入先の京都府宇治市立中学校でも2012年6月、別の生徒への集団リンチ事件を起こし、2012年8月に家裁送致された。また皇子山中学校に残ったCは2012年5月、担任教諭に暴行を加え小指骨折や打撲などの怪我を負わせている。 大津市の対応 越直美大津市長は2012年7月10日夜に記者会見した。遺族側との訴訟について、いじめと自殺との因果関係を認め遺族側の訴えを認める方向での方針転換を図り、訴訟を中断して事実関係の再調査をおこない、和解などの形も検討する方針を表明した。また第三者による調査委員会を立ち上げ、遺族側の意見も反映させる意向も示した。いじめ調査の内容が隠蔽されていたことについて、市長は7月9日になって初めて知り、調査内容を公表するよう澤村賢次教育長を3時間にわたって説得したという。なお、澤村教育長は2007-08年度に皇子山中学校校長を務めていた経歴を持つ。 しかしその一方で大津市教委は2012年7月11日、市長発言について「市長の見解だ」と市長とは食い違う発言をおこない、「自殺との因果関係は不明」と従来の主張を撤回しない姿勢を示した。 遺族側は2012年7月11日にマスコミ取材に応じ、市の対応について「和解の具体的な内容は現時点では出ていない。市の真意を見極めたい」と話した。 澤村賢次教育長は2012年7月13日になり、いじめは自殺の要因の一つと言及するも、その一方で「家庭にも問題があるのではないか。裁判で明らかにする」と、まるで家庭に問題があるかのような中傷をおこなった。 越直美大津市長は遺族側に謝罪したいという意向を示した。しかし遺族側は市長との話し合いの場を設定すること自体は求めていたものの、謝罪については当初「何に対して謝罪したいのかはっきりしてほしい」と保留した。 大津市と被害者側の関係者は2012年7月25日に大津市役所内で会談した。越市長は調査が不十分だったことや、自身が2012年1月に当選して2月に訴訟になっているのに提訴時点で再調査を出来なかった遅れについて謝罪した。遺族側は、市長の態度は一定評価したものの、学校や市教委に対しては不信感をつのらせ、遺族側の意向を反映した第三者調査委員会の設置を求めた。 第三者委員会の設置 大津市は第三者委員会について、遺族側推薦の委員と市側推薦委員が同数(3人ずつ)になるよう調整して設置を決定した。遺族側推薦委員には、いじめ問題に詳しくテレビ出演などでも知られる教育評論家・尾木直樹氏が含まれている。2012年8月25日に第1回調査委員会が開催された。 第三者委員会は2013年1月31日、「いじめが自死につながる直接的要因になった」と明記した最終報告書を越直美市長に提出した。加害者のうち A・Bの2人から継続的に受けた行為19件をいじめと認定した。一方で加害者とされたCについては、クラスが違ったことなどをあげ、関与が少ないとしていじめとは認定しなかった。 民事訴訟の進行 2012年7月17日に第2回口頭弁論が開かれ、大津市側の代理人は「現時点で市としていじめと自殺の因果関係を認める可能性は高い。和解協議をさせていただく意思がある」と主張を変更する陳述をおこなった。市側は、近く設置する外部調査委員会や警察の捜査結果が出るまで約4ヶ月間訴訟進行を中断してほしいと訴えたが、遺族側が難色を示し、市の主張と関わりない部分については通常通り進行することになった。 加害者側は3人とも、「遊びの延長線上でいじめではない」と主張した。 原告側と大津市については、2015年3月までに大津地裁が和解を勧告。大津市は和解を受け入れる方針を決め、2015年3月6日に大津市議会に和解関連議案を提出した。和解案は2015年3月13日の大津市議会で全会一致で採択され、同年3月17日に原告側との協議をおこなって正式に和解が成立した。 一方で加害者側は一貫していじめを認めておらず、加害者3人とその保護者に対して約3800万円の損害賠償を求める訴訟が続いた。2017年に断続的に加害者とその両親、担任教師などへの証人尋問がおこなわれたが、いずれも指摘された行為は認めながら「いじめではない」という見解を述べた。 大津地裁は2019年2月19日、「いじめが自殺の原因」だと認定し、また自殺の予見可能性も認定し、加害者3人のうち2人に対して計約3700万円の損害賠償を命じる判決を出した。一方でもう1人については、いじめへの関与度合いが低いとして、賠償責任を認めなかった。また保護者については、監督責任を認めなかった。 一審判決については、「これまでのいじめ自殺訴訟では、いじめと自殺との因果関係を認定せずに原告側敗訴となったケースが多かった。いじめと自殺との因果関係を明確に認定したことは、当該個別案件だけにとどまらず、いじめ訴訟全体にとって従来の判例から前進する画期的判決となった」と評価された。 原告側は控訴しなかった。しかし加害者とされた生徒のうち1人が2019年3月6日、一審判決を不服として大阪高裁に控訴した。またもう1人の生徒も2019年3月7日に控訴した。 加害者側は2019年8月23日の第1回口頭弁論で、いじめを認めず判決変更を求めた。控訴審は2019年10月30日の第2回口頭弁論で結審した。 大阪高裁は2020年2月27日、いじめの事実は引き続き認定しながらも、「自殺は自らの意思による」「両親側も家庭環境を整え、いじめを受けている子を精神的に支えることができなかった」などとして過失相殺を認め、賠償額を約10分の1の400万円に減額する判決を出した。 両親は二審判決を不服として、2020年3月12日付で最高裁に上告した。しかし最高裁は2021年1月21日付で上告を棄却、二審大阪高裁判決が確定した。 警察の捜査 滋賀県警大津警察署は当初、生徒の家族からの被害届受理を3度にわたって拒否していた。いじめ隠蔽の事実が大きく報じられた2012年7月時点では、家族は4度目の被害届提出を検討していたという。 事件が大きく報道され、大津署の受理拒否も大きく批判されたことが背景にあるのか、滋賀県警は方針を転換、2012年7月11日付で20人体制の専従捜査班を設置した。 滋賀県警は2012年7月11日、大津市教育委員会事務局(市役所内)や皇子山中学校を暴行容疑で家宅捜索した。いじめ事件で学校や教育委員会事務局が家宅捜索を受けるのは異例であり、過去にはほとんど例がないとみられる。 家族は2012年7月18日、暴行・恐喝・脅迫・強要・窃盗・器物損壊の6容疑で、いじめ加害生徒3人を刑事告訴し、受理された。滋賀県警は 2012年12月27日、加害生徒3人のうち2人を暴行容疑で書類送検した。残る1人については事件当時13歳で刑事罰の対象にならないとして、暴行などの非行事実で児童相談所に通告した。 事件関連の派生騒ぎ 加害者やその家族の情報割り出し 事件報道では、一部テレビ局が関連文書を入手してその文書を放映した。文書中の個人名にはマスキングをかけて放送したが、マスク漏れやマスクが不十分な箇所があり、加害生徒の実名が読み取れる状態になっていた。さらに、加害生徒の顔写真とされるものや、加害生徒の家族構成、加害生徒の保護者が経営するとされる会社の名前や所在地などの情報なども割り出される騒ぎになった。 脅迫状などが送付される 事件が大きく報じられた直後の2012年7月9日以降、皇子山中学校・滋賀県庁・大津市役所などに、「加害者や教師はカメラの前で謝罪しろ。謝罪しなければ、学校と教育委員会と警察を爆破する」「学校に爆発物を仕掛けた」「加害者を殺す」「加害者の氏名や調査状況を公表しなければ生徒を無差別に射殺する」などとした脅迫状が次々に郵送される騒ぎも発生した。中には、カッターナイフの刃・包丁・小瓶に入った液体などが同封されたものも複数あったという。消印などから、別々の人物がそれぞれ別の場所から投函したとみられる。 これらの脅迫状事件では、愛知県の60代男性や埼玉県の高校生ら複数の人物が検挙された。 無関係な人が巻き込まれる ネット上で加害者やその関係者の割り出しが加熱し、全く無関係な人を「加害者の関係者」と一方的に決めつけて中傷し、無関係な人の勤め先などに抗議電話などをかける嫌がらせも相次いだ。 今までに、加害者とされた生徒とたまたま同姓だっただけなどの事情で、無関係であるにもかかわらず「加害者の関係者」と決めつけられて、実名と勤務先などがインターネット上に書き込まれ、勤務先に抗議電話が殺到した事例として、少なくとも3件が明らかになっている。しかしいずれも事実無根であり、実名や勤務先が名指しされる被害にあった人は、加害者とされた生徒とは一切関係ないことが明らかになっている。 滋賀県警は2012年10月までに、無関係の人物を「加害者の親族」呼ばわりする虚偽書き込みに関与したとして東京都の30代男性と兵庫県の30代男性を割り出し、名誉毀損容疑で書類送検した。東京都の男性は不起訴処分、兵庫県の男性は罰金の略式命令を受けた。 澤村教育長が襲撃される 2012年8月15日午前8時頃、大津市役所内の教育長室で、澤村賢次教育長が暴漢からハンマーで頭を殴られて負傷する事件が発生した。市役所は開庁時間外だったが、警備員などは配置されておらず、職員に紛れて構内に入れる状態だったという。また犯行直前の暴漢を目撃した市職員は「不審者とは認識できなかった」としている。 澤村教育長は出勤直後に教育長室に入ったところで、乱入した男に殴られ、目の奥の頭蓋底骨折や眼球打撲などのケガを負った。騒ぎに気づいて駆けつけた教育委員会職員が暴漢を取り押さえ、警察が殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。調べによると被疑者は埼玉県在住の19歳男子大学生で、動機について 「いじめ問題に関し真実を隠していると思い殺してやろうと思った」と供述したという。 澤村教育長は約3週間後の2012年9月4日より職場復帰したのち、2012年12月24日に任期満了で退任した。 被害者への中傷 加害者側の関係者や学校・教育委員会の筋から、DV・虐待など被害生徒の家庭に問題があったことを苦にして自殺したかのような噂が振りまかれた。一部週刊誌報道では、加害者側がそういう主張をおこなったと報じられた。また澤村賢次教育長も具体的な内容には踏み込まなかったものの、自殺の原因を「家庭の事情」かのようににおわせる発言を記者会見の場で公然とおこなった。 定年退職した公務員を名乗るブログ主によって、「被害者の家族が警察に被害届を出して受理拒否されたと聞くが、嘘の被害届を出すことは虚偽告訴にあたる」「被害者の家族がマスコミにリークして騒ぎをたきつけた」と読めるような、被害者や遺族を中傷する内容が記されたブログが発見され、コメント欄に抗議コメントが殺到して炎上する騒ぎになった。このブログ主は、ブログの内容から元警察幹部の可能性があり、さらには加害者の親族や関係者ではないかという噂が流れたが、ブログ主の正体は明らかになっておらず、真偽は不明である。 教育委員会の処分 滋賀県教育委員会は2013年2月26日、いじめ事件の不適切対応を理由に、校長を減給の懲戒処分にした。校長は同日付で依願退職した。 また大津市教育委員会は同日付で、いじめ事件での不適切対応を認め、教頭に文書訓告、当時の2年学年主任の教諭を厳重注意の行政処分とした。不適切言動が指摘された担任教諭については「休職中で本人への調査ができなかった」として、この時点では処分を見送っている。 担任教諭は2013年4月より復職したという。滋賀県教育委員会は2013年5月17日付で、担任教諭を減給処分にした。
大津市立皇子山中学校いじめ自殺事件 - きょういくブログ
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皇居東御苑 The East Gardens of the Imperial (HIgashi-Gyoen) 所要時間 大手本 → 本丸、二の丸ーー大手門 およそ60分 →二の丸、ーーー平川門 およそ30分 →本丸ーーーー北桔橋門 およそ30分
乾門 Inui-mon Gate 至千鳥ヶ淵 For Chidorigafuchi 科学技術館 Science Museum 国立公文書館 National Archives of Japan 東京国立近代武術間 The National Museum of MODERN ART, Tokyo 乾濠 Inui-bori Moat 発券所 Ticket office 北桔橋門 Kita-hanebashi-mon Gate 平川濠 Hirakawa-bori Moat 1a出口 (Exit) 地下鉄 竹橋駅 Takebashi Sta. 清水濠 Shimizu-bori Moat 平川門 Hirakawa-mon Gate 天守台 Tenshudai (Tenshukaku Dunjon Base) 宮内庁書陵部庁舎 Shoryobu (Archives and Mausolea Department Bldg.) 桃華楽堂 Gakubu (Music Department Bldg.) 梅林坂 Bairin-zaka Slope 都道府県の木 Symbolic Prefectural Tree Emblems 天神濠 Tenjin-bori Moat 発券所 Ticket office 大手濠 Ote-bori Moat 内堀通り Uchibori-street 諏訪の茶屋 Suwano-chaya Tea House 竹林 Bamboo Garden 石室 Ishimuro (Stone Cellar) 桜の�� Sakura Blossom Island 富士見多門 Fujimi-tamon Defence-house バラ園 Rose Garden 茶畑 Tea Garden ユーロッパアカマツ Scots Pine 本丸 Honmaru 本丸大芝生 Honmaru Oshibafu (Lawn) 本丸休憩所 Honmaru Rest House 汐見坂 Shiomizaka Slope 白鳥濠 Hakucho-bori Moat 展望台 Observatory 二の丸休憩所 Ninomaru Rest House 二の丸雑木林 Ninomaru Grove 秋の七草 The Seven Flowers of Autumn 新雑木林 Renewed Grove 菖蒲田 Iris Garden 二の丸庭園 Ninomaru Garden 蓮池濠 Hausike-bori Moat 松の大廊下跡 Site of Matsuno-o-roka Corridor 果樹古品種園 Orchard (Old Species of Japanese Fruits) 野草の島 Wild Grass Island 緑の泉 Green Fountain 中雀門跡 Site of Chujaku-mon Gate 大番所 O-bansho Guardhouse 中之門跡 Site of Nakano-mon Gate 百人番所 Hyakunin-bansho Guardhouse 同心番所 Doshin-bansho Guardhouse 大手休憩所 Ote Rest House 三の丸尚蔵館 Sannomaru Shozokan The museum of the Imperial Collections 皇居東御苑管理事務所 Office of the East Gardens of the Imperial Palace 発券所 Ticket Office 大手門 Ote-mon Gate 現在地 You are Here C13b出口 (Exit) Otemachi Sta. 坂下門 Sakashita-mon Gate 富士見櫓 Fujimi-yagura (Mt. Fuji View Keep 蛤濠 Hamaguri-bori Moat 桔梗門 Kikyo-mon Gate 桔梗濠 Kikyo-bori Moat ←至 二重橋 For Nijubashi Bridge 皇居外苑 Kokyi gaien National garden 至 JR東京駅 For Tokyo Sta. 和田倉噴水公園 Wadakura Fountain Park 日比谷通り Hibiya-street
皇居東御苑は、旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園として、宮中行事に支障のない限り次のように公開(無量)しています。(Free of charge)
1.出入門 大手門、平川門、北桔橋門の3つの門から出入り出来ます。 2.休園日 (1)月曜日及び金曜日 ただし、天皇誕生日以外の「国民の祝日等の休日」は公開します。なお、月曜日が休日で公開する場合は、火曜日(休日を除く)を休園します。 (2)12月28日から翌年1月3日までの日 3.入園手続き 入園するは、各門内の発券所で入園票を受け取り、退園の際にはいずれかの発券所にお返し下さい。 宮内庁
1.The Gardens are open on the following days. However the Gardens are closed in the period between 28 December and 3 January and may be closed due to Court functions and other reasons. ① Wednesdays ② Thursdays ③ Saturdays ④ Sundays ⑤ National Holidays (excluding the Emperor’s Birthday, 23 December) ⑥ Mondays immediately following the National Holiday which falls on Sunday ⑦ Tuesdays (excluding Tuesday immediately following ⑤ and ⑥) 2.While you are in the Gardens, please keep the plastic ticket which you will receive at the gate. Please return the ticket to the officer at the exit gate. IMPERIAL HOUSEHOLD AGENCY
公益財団法人菊葉文化協会 寄贈 財団法人日本宝くじ協会
Vocab 皇居(こうきょ)imperial 御苑(ぎょえん)imperial garden 所要時間(しょようじかん)time required, time taken 至(し)to 科学時術(かがくじじゅつ)science and technology 近代美術館(きんだいびじゅつかん)museum of modern art 濠(ほり)moat, canal 発券(はっけん)issuing (a ticket, etc.) 宮内庁(くないちょう)Imperial Household Agency 書陵部(しょりょうぶ)agency that takes care of records and the tombs 庁舎(ちょうしゃ)government office building 梅林(ばいりん)plum grove 都道府県(とどうふけん)prefectures of Japan 竹林(ちくりん)bamboo grove 茶畑(ちゃばたけ)tea field ユーロッパアカマツ Scots/Scotch pine, Pinus slyvestris 芝生(しばふ)lawn, grass 休憩所(きゅうけいしょ)rest area, rest stop 展望台(てんぼうだい)observation deck 雑木林(ぞうきばやし)thicket; grove of miscellaneous trees 秋の七草(あきのななくさ)seven flowers of autumn: bush clover, Chinese silvergrass, kudzu, fringed pink, golden lace, thoroughwort, and balloon flower 菖蒲(しょうぶ)Japanese iris (Iris ensata var. ensata) [coll.] 果樹(かじゅ)fruit tree 品種(ひんしゅ)breed variety, cultivar 野草(のぐさ)wild grasses 泉(いずみ)fountain 番所(ばんしょ)guardhouse 桔梗(ききょう)Chinese bellflower (Platycodon grandiflorus) 外苑(がいえん)outer garden 噴水(ふんすい)water fountain 付属(ふぞく)being attached (to), belonging (to) 宮中(きゅうちゅう)imperial court 行事(ぎょうじ)event, function 支障(ししょう)obstacle, hindrance 休園日(きゅうえんび)day on which a park (or kindergarten or zoo) is closed 祝日(しゅくじつ)national holiday なお furthermore 除く(のぞく)to exclude, except 手続き(てつづき)procedure, process 票(ひょう)ticket, stub (suffix) 公益財団法人(こうえきざいだんほうじん)public interest incorporated foundation 文化協会(ぶんかきょうかい)cultural association 公益財団法人菊葉文化協会(こうえきざいだんほうじんきくようぶんかきょうかい)a cultural association that focuses its research on making artifacts of the imperial household available to the public. 寄贈(きぞう)donation, gift 宝くじ(たからくじ)lottery ticket
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天壌無窮の皇運を扶翼すべし
3月 14, 2017
FBに短文を投稿しようかと思ったけど、ここは一発話題の教育勅語を考察してみようか。 12の徳目が素晴らしいから教育勅語は正しいんだという論調は全く問題ないんだが、教育勅語が気に入らないと言っている人達が一番気に入らないのは 「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」 ここでしょう? ここを論じることなくしては、議論にならないわけだ。 正面突破しようか。 この一文の前にある 「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」と繋げて 「国が危機的状況に陥ったら自らを犠牲にして天皇陛下のために死ね」 と訳して、軍国主義だ〜〜〜とやるわけだ。 「一旦緩急あれば」はまさしく「国の」とは明記していないものの、確かに「危機的状況」には違いない。 「義勇公に奉じ」はもちろん「勇気を持って公の為に尽くしなさい」となる。 「以て」それにより 「天壌無窮の」天地に永遠に続く 「皇運を」後に回す 「扶翼すべし」助けなさい。 ここで皇運をどう捉えるかが問題だ。 皇=天皇陛下と捉えれば 皇運、即ち陛下の運、運命ないしは皇室の運という事になる。 ************ よく考えてみてくれ この教育勅語は 「朕おもうに我が皇祖皇宗「国」をはじむること広遠に 徳をたつること深厚なり」 皇祖:天照大神 皇宗:神武天皇以降歴代の天皇 は、遠い昔に日本国を建設され、代々その徳は深く厚いものだった。 つまり「国」を語るところから始まっている。 そして以下のように続く 我が臣民(略)億兆心を一にして代々(よよ)その美をなせるは これ我が国体の精華にして教育の淵源また実にここにそんす 日本国民は全国民心を一つにして代々その美しさを体現してきたのは、これはこの国の在り方そのものが発露したものであって、正に教育の根がそこにあるのです。 となる。 その後12の徳目が列挙されるわけだが、 なぜ国家を語るところから始まって 一旦緩急あれば、の段に突然天皇陛下お一人のことに話が変わるのか。 全体を読めば「天皇のために死ね」と解する事のおかしさが分かる。 この場合皇運とは皇国の運命と訳すべきで有り、即ち日本国の運命という事になる。 よって���緩急」とは単なる危機的状況ではなく 国家を揺るがす一大事に於いては、と訳すべきで有り、 義勇公に奉じ:その際には自らを顧みず皆のために全力を尽くし、 これをもって 天壌無窮の:天地に永遠につづく(べき) 皇運を扶翼すべし:日本国の運命を助けよ。 となる。 陛下だけ守って国民が居なくなれば、これは国ではなくなる。 公に奉じておいて、陛下だけの運命を守れ、では辻褄が合わない。 6年前の東日本大震災のおりに自衛隊の方々は、自分たちも余震に脅かされいつまた周辺の瓦礫が崩れ自らも二次被害に遭うかも知れないという状況にありながら、必至に行方不明者の捜索を行い、一人でも多くの被災者の命を救おうとしてくれた。 もちろん先の大戦の折にも、硫黄島に向かった兵士達は自らが生きて帰って来れないことは重々承知していた。しかしながら硫黄島が獲られればそこから本土に空襲に向かう爆撃機が飛び立つことが出来る事も知っていた。だからこそ、彼らが一日でも長く抵抗することが本国の愛する家族を守ることになる。だから5日で占領出来ると考えていたアメリカに対して1ヶ月以上も粘り続ける事が出来た。 昨今日本の道徳心が低下した等と言われるが、私は、日本人の心は根底では変わっていないと思っている。 話がずれた。 ************************* 皇運=日本国の運命 を理解するためには、そもそも天皇陛下と我々臣民(国民)との関係を理解している必要がある。 仁徳天皇の民の竈の話は有名だ。 日本独自の伝統~仁徳天皇 詳しい内容は上記リンクに譲る。 臣民(国民)の竈から煙が出ていない、すなわちご飯が食べられていない事を知り、年貢の徴収をとりやめた。おかげで皇居に雨漏りがするほど貧しくなってしまった。この事を苦にした皇后陛下に対し 臣民(国民)が貧しいことは自らが貧しい 臣民(国民)が富めるときは自らも富んでいる と答えられた仁徳天皇。 そして、竈に煙が戻り充分食べられるようになった人々は、 陛下の心に答えて自ら集って皇居を治した。 という話。 この話が事実かどうかは些末な問題だ。 それ以上に1300年近く前に編纂された日本書紀に書かれたこの話が、以降1000年以上の長きにわたって日本で語り継がれ、模範とされてきた事実が重要だ。 日本に於いて天皇陛下と我々国民の関係は、互いにその幸せを願い、助け合う存在だという事。時に人はこれを親と子になぞらえて語る。 陛下は国民を「たから」とよび我々は陛下を敬う。 この陛下と国民との関係を理想として、我々はこの国を代々継承してきた。 この関係は住民を自らの富のために搾取してきたヨーロッパの王の姿とは大きく異なる。結果フランスでは革命が起こり王が処刑される。 時にそのような理想的な天皇陛下に恵まれなかったことも歴史の中にはあったかも知れない。 それは正に夫婦と同様、仲むつまじい夫婦という理想を追いかけながら、現実は夫婦喧嘩もし、日々の様々な問題を乗り越えていく。 同様に、陛下と我々国民の間も長い歴史の間に於いて理想通りに行っていない時期もあったかも知れないが、それでも理想的関係を模索しながら切磋琢磨してきた歴史なのではないだろうか。 そう考えると、現代の我々国民のありかたは、はたして理想的姿を体現出来ているのか、幾ばくかの疑問が残ることを否めない。 また話がそれた。 天皇陛下の国民への思いは今も変わらない。 国民に知ってほしい陛下の祈り 詳しくは上リンクに譲るが、陛下は元旦早朝より日本の国の平穏を願い祈りを捧げる。 また、毎日祈りを捧げてから一日を始められるそうだ。 国民の平和と繁栄を第一に思う陛下だからこそ、日米開戦に最後まで反対されたのは他でもない天皇陛下だった。 大東亜戦争開戦前の御前会議 上リンクより引用
昭和16年9月6日、日本は昭和天皇の前で御前会議を開きます。その席で昭和天皇は、「外交が主か、戦争が主か」と閣僚たちに尋ねられました。及川海相が「重点は外交にある」と答えました。すると昭和天皇は、懐から紙片を取り出され、御自らお詠みになられた。 よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風の たちさわぐらむ四方の海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟であると思うのに、なぜ争いの波風が起こるのだろうか。そう詠まれたこの歌は、明治天皇の御製です。昭和天皇のこのお言葉に、列席した閣僚たちは、全員、ただうなだれるより言葉がなかった。しばらくの間、誰もがうつむき、言葉を発する者さえなかった。
そして終戦を決断出来なかった政府に、終戦の聖断を下したのも陛下だった。
「迫水久常の手記」(終戦時内閣書記官長)天皇の聖断で受諾した“ポツダム宣言”
上リンクより引用
そして、いまにして思えば、終戦ができたのも、一に天皇陛下の御仁徳のおかげであった。陛下の真のご信念はいつも平和にあった、ということを、私はそのときほど強く感じたことはない。戦争終結の動機も、実にそのご信念から発したものであった。
陛下は常に国と国民の平和と繁栄を望み、その為に祈っている。 だからこそ我々は陛下のため、即ちこの国のため、この国に住む家族全ての同胞の為に資力を尽くす。 これを君民一体という。 これが理解出来れば、 皇運がすなわち我々全て日本に住む国民の運命だという事が容易に理解出来るはずである。 ******************* 最後に教育勅語のそもそもの在り方を好く現していると思う末尾を語って締めくくろう。 この道は(略):即ち12の徳目 古今につうじて謬(あやま)らず:昔から今に至るまで変わらないことで 中外にほどこして悖(もと)らず:外国の人達に伝えても正しいことです。 「朕汝臣民と共に拳々服膺して みなその徳を一にせんことをこいねがう」 私は、あなた方国民と共にこの正しい道理(12の徳目)を両手で大事に抱くように大切にしします。だから我々みながこの徳を一緒に体現していくことを願ってやまないのです。 教育勅語を支配者である天皇が従属者である国民に対して、あたかも命令のように下したものであると主張する旨が如何に根拠のないものか、この最後の一文を理解すれば良く分かると思う。
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アメリカが主導した昭和天皇の戦争犯罪の証拠隠滅
昭和天皇と731部隊
http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
(ドイツでは人体実験にかかわ���た医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。
新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。
それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。
1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。
このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
(1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。
日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html
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皇室のみやびー受け継ぐ美ー
第4期に行ってきました。アップの写真をいくつかご紹介です。
気の遠くなるような手仕事です。
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鳳凰 龍 細密石彫刻製作 石基壇 聖徳太子殿 念佛宗仏教美術 The Prince Shotoku Hall The Buddhist Art of Nenbutsushu Stone carving
聖徳太子殿 The Prince Shotoku Hall
念仏宗無量寿寺(念佛宗) 総本山 佛教之王堂〜三国伝来の佛教美術 日本で���類例を見ない四手先総詰組様式、および三手先腰組付縁の八角堂 It is a grand octagonal shrine with four-stepped intermediate bracket complexes under the eaves and three-stepped bracket complexes under the veranda, which is peerless in Japan.
概略 高さ17.2m(基壇、棟飾り込) 側通り柱間4.85m
輪島塗による高蒔絵、及び彫金が施された厨子に、中華人民共和国、工芸美術大師・佘國平佛師制作の「和国の教主」とうたわれる聖徳太子像がお祀りされている。
念佛宗(念仏宗)無量寿寺 聖徳太子殿 建築的特徴
他に類を見ない様式 四手先総詰組、三手先腰組付縁の八角堂は他に類を見ない。特に四手先総詰組は、日本建築史上初めての独自の変形組み手である。特殊な組み方をすることにより、組み手同士の立体的干渉を回避している。この念佛宗(念仏宗)ならではの、独創的な手法は、専門家をも捻らせている。日本の大工の始祖とも崇められる聖徳太子も、きっと納得されているに違いない。 天平の文化が華やかなりし頃、神社仏閣は、鮮やかに朱で彩られ、外国文化を吸収、醸成され、それはきらびやかなものであった。 そして今また千年の時を超え、念仏宗 佛教之王堂における聖徳太子殿は、天平時代の華やかさを凌ぐ存在感で、参詣者を迎える。 外装壁部には「天女」、阿件形の「鳳風」、衆生を導かんと雲を従えて天下る阿件の「龍」が、また蛙股部には「宝相華」が、胡粉の白一色に塗られた彫刻で荘厳されている。腰組部と階段脇の耳石にも阿件の精緻に「鳳風」が彫刻されている。 これら数多くの彫刻、彩色で彩られた御堂は、典雅な趣にみあふいざな満ち溢れ、訪れる者を夢の世界へと誘う。 桟唐戸は丹青技法による極彩色が施された「宝相華」や「転法輪」、「鳳凰」の彫刻で荘厳され、八方を守護している。 世界に誇る槙の日本庭園に囲まれた姿は、飛鳥・天平時代を偲ばせる典雅な趣に満ちている。 軒裏に扇垂木を用いており、内部は韓国人間国宝・李萬奉大僧正猊下、及び、直弟子洪昌源師制作の、韓国古来の伝統的丹青技法による彩色が施され、合計428点の彫刻が太子を賛嘆している。 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 聖徳太子殿 建築的特徴 三国伝来の佛教文化 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂の聖徳太子殿は、かつて、聖徳太子が御堂にこもって、経典の解釈に没頭しておられる時、夢告(むこく)で教えを賜った(たまわった)との伝説から、法隆寺などでは平安時代より、「夢殿」(ゆめどの)とも呼ばれてきた。 ここ念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂における聖徳太子殿は、日本の建築技術と韓国の丹青(たんせい)技法、そして中国の彫刻が見事に調和し、三国伝来の佛教文化の粋を見ることができる。 例えば四手先総詰組様式及び三手先腰組付縁(こしぐみつきえん)は、他に比類なき日本建築の最高峰といえるもの。 また、内部に施された極彩色(ごくさいしき)は、韓国の丹青技法が日本で独自発展を遂げた平等院鳳凰堂の様式を踏襲したものであり、天井画写真下方の緑色部、「ぼかし」のような繧繝(うんげん)彩色や、全体的な白く縁どられた紋様等が特徴的である。 和国の教主 聖徳太子 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 聖徳太子殿には、聖徳太子像をお祀りしている。天竺(インド)から唐土(中国)へ伝わった佛教の尊さを悟られ、神佛が習合する中、日本へ佛教を根付かせた「日本佛教の父」が聖徳太子。 「和を以て尊しとなす」 これは世界的に有名な聖徳太子『十七条憲法』の���幹(こんかん)をなす第一条の言葉。『十七条憲法』は、我が国最初の憲法であり、佛教精神を基(もとい)とした平和国家日本の建設に臨まれた聖徳太子の決意を表している。推古(すいこ)天皇即位の時、聖徳太子を摂政(せっしょう)とし、すべての政治を委ねられた。『日本書紀』には、その時、もろもろの豪族らは、君主と先祖の恩に報いるために競って佛をお祀りする場所を造ったとされ、以来、それが「寺」となった。つまり恩に報いるために寺が建てられ、佛教が興隆していった。 第二条に「篤く三宝を敬え。三宝とは佛・法・僧なり」そして「何れの世 何れの人か この法を 尊ばざる」として、どの時代、いかなる人であってもこの法を尊ぶべきことを明断しておられる。 そして佛教を基調とした国づくりをして、日本を統一国家に相応しい姿にされた。それによって寛容の心が根付き、民の争い事が減った。そして佛教伝来から僅か数十年で、当時の世界最新建築の佛教伽藍(ぶっきょうがらん)「四天王寺」「法隆寺」を建立した。聖徳太子が、「和国の教主」と呼ばれる所以。太子の願いは、大和の地に佛教を興隆させ、人々に平和をもたらすことでした。 丹生(たんせい)技法に彩られた堂内 青丹によし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり 聖武天皇(しょうむてんのう)の御代、奈良で一世を風靡した丹生技法は、今、ここ社の地で大きく華開いている。 渡来して日本的発展を遂げた密度濃やかな繧繝(うんげん)彩色や、白縁模様で荘厳された極彩色の天井を、吉野檜の銘木に、拭き漆と熨斗(のし)模様を施した八角柱が八方から支える。 聖徳太子殿の「八角宮殿」 扉に描かれた阿吽の鳳凰は、聖天子(せいてんし)の出現を待ってこの世に現れ、飛天は、釈尊説法時に舞い降り、奉楽し、天華を散らし空中で舞う、とされている。 宮殿は、もともと、天竺(てんじく)における塔やその下の小室である「龕」(がん)を源流とし、後世、これが厨子(ずし)や仏壇に変化した。 法隆寺玉虫厨子や橘夫人念持佛(たちばなぶにん)などは、その代表例。 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 聖徳太子殿の「宝珠」 宝珠は、災いを除き、願いをかなえる力を持つとされ、聖徳太子殿の屋根に聳える宝珠は、聖徳太子の佛教興隆の成就を象徴しています。 この宝珠を護法神である、八頭の象が支えており、八方から佛敵より佛法を護り、宝珠の周りには、凡夫の煩悩を焼き尽くす火焔(かえん)が、勢いよく燃え盛っています。 聖徳太子殿の「輪島塗 高蒔絵」 日本の伝統技法の輪島塗りによる高蒔絵は、最高品質の漆を盛って、乾かないうちに松煙(しょうえん)を蒔きこみ、盛り上げ固めます。入手困難な「舟鼠(ふなねずみ)の蒔絵筆」を用い、輪島塗職人の二年間にわたる努力の末に完成しました。十枚の扉に浮かび上がる金色の『十七条憲法』の銘文は、職人会心の傑作です。 松竹梅と獅子 念佛宗(念仏宗)無量寿寺の宮殿下部には獅子が八方を護り、吉祥紋様の松竹梅が施されています。 風雪や厳寒に耐えて緑を保つ常磐木(ときわぎ)の「松」と「竹」、春、百花に先駆けて花開く「梅」を長寿・高潔・節操・清純などの象徴として「歳寒三友(さいかんさんゆう)」とも呼び、その吉祥紋様を背景に、獣類中、最も勇敢で高貴な、百獣の王の獅子が、宮殿を護っています。
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Persona 3 FES Official Fanbook pages 148-149 transcription.

用語集
Glossary of PERSONA 3 & PERSONA 3 FES
甘味処 小豆あらい
【Y編/場所名】
巌戸台商店街にある甘味処。コミュニティのイベントで何人かの友人と入ることになるが、店内の様子は残念ながら不明。とりあえず男女共に人気の店らしいので、味もなかなかなのだろう。店頭に飾られた “小豆ちゃん” というマスコットキャラクターがトレードマーク。店名の “小豆洗い” とは有名な妖怪の名前が由来。“小豆とぎ” とも呼ばれ、川のほとりで小豆を洗いつつ「小豆とごうか、人とって喰おか、シャカシャカシャカ」と不気味な歌を歌うといわれる。基本的に音のみの妖怪だが、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、目が大きな痩せた小男という姿で描かれている。新潟や福島、長野といった大きな水系がある地に伝わる例が多いが、東京でも江戸時代に某旗本家の炊事場で音���立てたという記録があり、ほぼ本州全域に分布する妖怪話である。
アルカナ
【共通/基本設定】
タロットカードの種類を表わす言葉。本来はラテン語で “神秘” という意味で、18~19世紀ごろにタロットを占い用として使用するようになり、カード1枚ごとに隠された意味を見出すようになってからこの言葉が使われるようになった。1組のタロット78枚中、寓意画を描いた絵札22枚を大アルカナ、それ以外の56枚を小アルカナと呼んで区別する。小アルカナのほうは、さらにソード、ワンド、カップ、ペンタクルの4つの組 (スート) に分けられ、さらに各スートは1から10までの数札と、ペイジ、ナイト、クイーン、キングの人物札4枚に分類される。一般的なタロット占いでは大アルカナのカードだけを使うものがメジャーだが、実際には56枚の小アルカナそれぞれにも隠された意味があり、本来は78枚の全カードを使用するのが正式なものとなっている。ちなみに、小アルカナのタロットが現在のトランプの原型といわれるが、実際にはトランプが先にあってタロットの原型になったという説や、そもそもトランプとタロットの発生はまったく無関係という説もあり、その正しいところは判明していない。
アルダナ
【Y編/バトル】
塔シヴァと女教皇パールバティによるミックスレイド。技名の由来は、性的信仰 (シャクティズム) を伝える聖典『カーマ・スートラ』に記された言葉 “アルダナーリーシュバラ”。これは “半身が女性のシヴァ神” という意味で、シヴァとパールバティとの合体によって両性具有神となり、宇宙創造のシンボルとなったものである。
伊織順平アワー
【Y編/イベント・6月1日】
学校にウワサとして流れた怨霊話を寮で説明するときに、順平が始めた小芝居。おそらく、怪談で有名な某タレントの語りを意識したものであると思われる。ただ順平の語りは、発音が良すぎてやや怖さに欠ける。本家のように、もっとボソボソと囁くような声でやれば完璧。
伊織の叫び声
【Y編/会話・5月17日】
試験前になると、自室から聞こえてくる。上の階にいる女子や、さらに上の作戦室にいる美鶴にまで聞こえているようなので、相当なボリュームの叫び声なのだろう。苦情が出ないのが不思議なくらいだ。もしかして他人の勉強の邪魔をしようという順平の策略なのかも?
幾月修司
【Y編/人物】
最初は月光館学園の理事長と紹介されるが、実は桐条でシャドウとペルソナを研究していた技術者であり、特別課外活動部の顧問である。昼行灯的なのん気さを持ち、周囲が凍りつくほどの冷たいダジャレを連発するのが好き。だが、さらにその姿すらも世間をごまかすためのもので、シャドウ研究を始めた桐条鴻悦の遺志を継ぎ、ひそかに滅びを召喚する宣告者 “デス” を捜し求めていた。10年前の事故時点では、さほど高い地位にはいなかったが、率先して事故の後処理を行なうことで信頼を得て、桐条家現当主である桐条武治の右腕的存在となっている。入寮直後に主人公のペルソナ暴走を見て、10年来追い求めていたデスを発見したことに 気付き、滅びを招くための儀式を密かに進めていた。最終的に死の儀式は失敗し、幾月は天文台から墜落して死亡。ただし、その遺体は未確認である。恐ろしい計画を誰にも気付かれずに遂行したところから、終末思想という滅びの狂気に蝕まれていたように言われているが、監視カメライベントで見られる一生懸命にダジャレを考案する様子を見ると、ダジャレ好きという部分だけは演技ではない愛すべき幾月の一部分であったと思われる。
イゴール
【共通/人物】
ベルベットルームの主で、この世界で唯一ペルソナ合体を行なえる存在。メアリー・シェリー原作の小説『フランケンシュタイン』に登場する召使い、イゴールが名前のルーツとなっている。極端に長い鼻を持ち、『ペルソナ』シリーズをとおして徐々に長くなっているのでは?との疑惑がある。ちなみに相方のエリザベスの名前の由来も、主のイゴールと同じく『フランケンシュタイン』から。ただしこちらは、小説版ではなくハリウッド映画版。シリーズ2作目として作られた『フランケンシュタインの花嫁」に登場する、女性型人造人間の名前から取られている。
「以上、ナビでした」
【Y編/イベント・4月7日】
ゲーム冒頭、登校時に主人公を案内してくれたゆかりが、別れ際に言ったセリフ。入寮直後にはやや硬かった態度が柔らかくなり、ちょっと無邪気で子供っぽく見える瞬間である。戦闘時のナビは美鶴と風花の役目となっているが、ゆかりのこの口調でナビをしてもらいたかったかも?
痛いの痛いの、飛んでけー!
【Y編/テレビ・4月9日ほか】
テレビ番組『偶然見かけたこんな人』で、レポーターのトリッシュが使う決めゼリフ。トリッシュはペルソナシリーズの『女神異聞録ペルソナ』と『ペルソナ2 罪』および『ペルソナ2 罰」で、回復施設を営む妖精として登場していたのだが、そのときの挨拶がこの「痛いの痛いの⋯⋯」だったわけだ。ちなみに『偶然見かけたこんな人』で紹介される街の人は、みな前作・前々作の登場人物となっていて、しかもその人物の誕生日に現われるようになっている。興味がある人はチェックしてみよう。
一期一会
【A編/イベント】
真田が順平との出会いをそう表現した。とくに言葉の使い方として誤りがあるというわけではないが、そもそも一期一会とは “誰かとの出会いは、それが最初で最後のつもりで誠意を尽くさねばならない” という意味の茶道で使われていた言葉。むしろ真田たちにとっては、主人公や荒垣との関係において、この言葉を使うべきかもしれない。
稲荷社
【Y編/場所名】
長鳴神社にある稲荷社。小さい社だが、近所に住むお年寄りたちはマジメに拝んでいるようで、お供え物のイナリ寿司が常に置かれている。ここで祈ると、さまざまな効果があるらしいが、何が起こるか祈ってみないとわからないのが玉に瑕だ。
犬語ホンヤク機能
【Y編/イベント・7月29日】
順平が評して言った、アイギスの特殊能力。監視カメライベントでは荒垣もそう言っている。もしかしてアイギスの製品仕様書に、“犬語翻訳機能 (オプション)”とでも書いてあるのだろうか?アイギスが言うには、高次な精神を持つ生き物は、言葉ではなくイメージを発することができ、それを読み取っているのだとか。人間にもあった能力だが、言葉に頼ることで失ったらしい。もちろん、メティスも同様のことが可能。
「今ならお買い得であります」
【Y編/会話・8月1日】
自分のペルソナの長所をアピールするアイギスが言った。本当に買えるものなら買いたいと思う ユーザーは少なくないだろう。ちなみにフィギュアなら、壽屋から 「ペルソナ3 アイギス 1/7スケールPVC塗装済み完成品」(6,090円/原型師:新居興介) が2007年8月に発売。また2007年10月にも、アルターから「ペルソナ3 アイギス 1/8スケールPVC塗装済み完成品」(6,090円/原型師:齊藤史樹) が発売される予定。
妹ちゃん
【A編/人物】
順平がメティスを呼ぶときの呼び方。いろいろとオリジナルなニックネームをつける順平にしては、ちょっと手抜きっぽいかも。やはり多少、壁を感じていたのだろう。
要らない苦しみ
【Y編/イベント・11月21日】
チドリが順平にもたらされたと言い、彼を遠ざけようとした。順平のことを考えると胸が苦しくなるとは、どう考えても恋愛感情なのだが、チドリがそんな経験のないまま成長してしまったが故の悲劇である。ただ、恋だとわかっていても苦しいものなので、彼女の気持ちもわからなくもない。
イレギュラー
【Y編/基本設定】
タルタロス外で出てくるシャドウ。ゲーム中の主人公たちは知らないが、そもそもシャドウは人間の中から発生するため、すべてのシャドウは発生時点においてはイレギュラーとなる。ただ、その瞬間を捕捉されることが少ないため、シャドウはタルタロス内にいる、という状態になっているだけである。ゲーム中に確認されたイレギュラーは、まずコロマルが神社で戦ったものがそうだが、それ以外では天田の母が死んだ晩に出たシャドウも同様��ある。
巌戸台分寮
【共通/場所名】
月光館学園の学生が入る寮。学校からやや離れた巌戸台地区にある。本来、学生寮は男女別であるのが原則だが、ここだけは特別課外活動部の拠点という関係から男女共用。またその成り立ちに関しても、妙に内装が広く豪華だったり学生寮には相応しくないとも思えるカウンターバーがある点からわかる通り、元はホテルとして使われていた建物だったという裏設定がある。なお、ゲーム中には台所や風呂が見当たらないが、じつは奥にあるドアから行ける場所にそういった施設がある ことがドラマCDでの描写から明らかになっている。
ヴァルホル
【Y編/バトル】
皇帝オーディンと剛毅ヴァルキリーによるミックスレイドで、仲間ひとりを3ターン完全無敵にする技。“ヴァルホル” とは別名で “ヴァルハラ”。古ノルド語で “戦死者の館” という意味となり、戦争で命を落とした戦士の魂がヴァルキリーによって集められ、オーディンの居城となるこの場所で不死の戦士として来たるべき終末に備えると言われる。
ウインナーコーヒー
【Y編/会話・8月1日】
天田は真剣にウインナーコーヒーが何かということを知らず、コーヒーにウインナーソーセージを入れるのだと勘違いし、からかわないで下さいと文句を言っていた。なんて可愛いんだ、コイツは。
ウエストすっきり低周波パット
【Y編/監視カメラ】
風花が時価ネットたなかで密かに買ったというダイエット用品。低周波を流して起こる筋肉の痙攣によって、強制的に腹筋を動かして脂肪を燃焼させるという仕組み⋯⋯かと思ったら、お腹がビクビクするのがメチャクチャくすぐったくて、笑いをこらえることで腹筋を鍛えるようになっているようだ。また、タイマーロックでもついているのか、一度装着するとしばらく外せないという構造的欠陥を持つ。ちなみに、これをつけて悶絶して苦しむ風花の声を、部屋の外で聞いた美鶴は、気まずそうに「気にせず続けてくれ」と言うが、いったい何をやっていると勘違いしたのだろう?
受付のオバチャン
【Y編/会話・9月28日】
順平が言うには「オレとチドリの仲を阻む、思わぬ伏兵」。ふたりの関係やその他を、根掘り葉掘り聞いてくるらしい。順平の表現を借りると、“オレとチドリの聖域に、イボつき健康サンダルで踏み込んで” くるとか。何やら戦う気満々だが、順平レベルでは返り討ちにあうのがオチだろう。
海丑
【Y編/場所名】
巌戸台の複合ビルに入っている牛丼チェーン店。真田のお気に入りの店で、彼は外で食料をテイクアウトする場合、ここの牛丼しか買ってこないとか。ただしプロテインと同時摂取するという、牛丼好きならずとも目を背けたくなる食べ方をする。それより減量が必要なボクサーとして、栄養の取りすぎが心配だが大丈夫だろうか?
裏口
【Y編/場所名】
入寮直後、大型シャドウに寮を襲撃されたイベントの際、主人公を連れたゆかりが最初に脱出しようとした扉。1階の奥に存在するが、普段は開けることができない。ただ、ゲーム中には用がないからこのドアの先には行かないだけで、実際はみんなが利用する厨房と風呂がこの先にあるらしい。プレイヤーが操作していないあいだに、主人公も食事に入浴にと利用しているに違いない。
占いゲーム
【Y編/場所名】
ゲームパニックにあるゲームで、1回2000円。ドクター・エドガーによる怪しげな占い、と説明されるが、もしやこのドクター・エドガーとは某学園の保健教諭のことかも⋯⋯?占いを行なうと装備ペルソナの魔力がアップする効能があり、このへんの怪しさも江戸川説の根拠となっている。
ウワサ
【Y編/イベント・4月7日】
ゲーム冒頭で流れた、主人公とゆかりが付き合ってるとのウワサ。転校初日の登校時にゆかりに付き添ってもらったのが原因である。その後ゆかりが入寮時の影時間の件について、「昨夜のこと言ってないよね」とわざわざ自分から学校で漏らしたせいで、きっとウワサに拍車がかかってしまったのだと思われる。
運命と言う名のフォーチュン
【Y編/コミュ】
鳥海先生の隠者コミュ後日談で、英語の寺内が言う。インド人の旦那と出会ったのが、運命という名のフォーチュンだったらしい。日本語がおかしいというか、英語がおかしいというか、いつもはツッコミを入れられる側の鳥海先生をして、「“頭痛が痛い” よりビックリだわ⋯」とツッコませしむ発言である。なお、珍しくセリフが多いこのイベントで、寺内先生はここぞとばかりに名言を連発する。「素晴らしい発想のチェンジ」、「私にもセイム体験あります」など必見。

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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和七年(2025年)5月7日(水曜日)弐
通巻第8773号
「失われた八十年」(宮崎正弘)
�� (北国新聞「北風抄」、4月28日号から再録)
*************************
▲失われた八十年
「失われた三十年」とは誰が言い出したのか。
知日派ジャーナリストのリチャード・カッツは『「失われた三十年」に誰がした』(早川書房)を書いた。読んでみると何のことはない。日本的経営のアキレス腱とガバナンスのあり方を問うたもので、肝心要の日本の精神に言及していない。
江藤淳は「第二の敗戦」と表現した。日本経済新聞にいたっては「次は失われる四十年」とか、「日本を待つ”転落の五十年”」(二〇二五年四月十九日コラム)と絶望的なほど自虐的である。
1990年代央にバブル崩壊があって、日本経済は右肩下がりとなり、若者から活気が失せ、社会はダイナミズムを喪失した。就職氷河期といわれた。
「失われた十年」、「失われた二十年」が連続し、メディアは自嘲的にこうした比喩を多用した。
ラジカセからウォークマンの爆発的ブームもデジタルカメラのブームも去って、鉄鋼・造船は中国に、日本が自慢した半導体は台湾と韓国に市場を奪われていた。
能登震災の仮設住宅もままならないのに米国の圧力でウクライナ支援に1兆7000億円もの国民の血税を支払わされた。
まさにアメリカのATMが日本だ。
「失われた三十年」という言い方は主に経済的停滞を視野に入れてGDPの伸び悩み、技術開発力の停滞、賃金上昇の低さから判断した分析でしかない。
わずか三十年の話ではない。
戦後八十年、日本はずぅっと『日本らしさ』が失われたままなのである。
いったい何を喪失したかと言えば、自立自存の精神、大切な主権の喪失である。
基盤となる大和精神の消滅である。日本は日本ではなくなって、これまでの歴史とは「別の国」が極東の島国に残存し、グローバリズムなどと面妖な呪���を称えている。
私たちが守ろうとした国は深い霧の中で喘いでいるかのようだ。
古代では縄文時代から弥生への転換期に、それまで日本にはなかった環濠集落が造成されるようになった。
次に三世紀後半から六世紀にかけて各地に造成された古墳が、仏教伝来ととともに寺院築造がブームとなって、突然廃れた。これは歴史上の“大事件”である。「失われた300年」なのである。
前方後円墳など日本独自の文化・文明が異教の乱入で消えたのだ。
奈良時代には外国かぶれが流行した。唐の文化が朝廷を覆い尽くしていた。
平安遷都を経て菅原道真の遣唐使廃止(894年)まで、国風文化は時間をかけてようやく甦るのである。
古今集、源氏物語、更級日記など日本独特の文化が花開いた。日本文学はこのときに“真昼”を経験した。
以後、元寇の襲来まで摂関政治の貴族社会は曲がりなりにも続いた。政治の実権は武士に移行したが、朝廷の権威に変わりは無かった。
次の日本らしさの喪失は1543年の種子島への鉄砲伝来、フランシスコ・ザビエルの来日(1549)以後の、キリシタン伴天連の猖獗である。異教の教えは日本古来の神道、仏教と衝突した。
ところが、信長の保護と奨励により伴天連は猖獗を極め、1633年までのおよそ90年間は「伴天連の世紀」である。
明治時代は「西側信仰」の時代だった。
近代化と重工業化、脱亜論、鹿鳴館の西欧かぶれは日本らしさ喪失の再現ではなかったのか。
萩原朔太郎は『月に吠える』のなかで、
「その菊は饐え、その菊はいたみしたたる(中略)。菊は病み、すえたる菊はいたみたる」
皇室の御紋章が病んでいるとは日本の歴史が病んでいることである。
朔太郎はこうも読んだ。
「桜の木の下に立ちてみたけれども わがこころはつめたくして、花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。いとほしや」
桜は日本の国花、その衰微を嘆いた。
国風の蘇生、日本独自の文化の再生は、表面的なGHQ政策の排除だけではなく、基底からの刷新が必要であり、まだまだ日本を取り戻すには、時間を要する。
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4月、5月に観た映画
※ネタバレ含みます
ドラえもん のび太の絵世界物語
傑作すぎる… オープニングから最高で映画代はもうそこで回収できる 最高すぎて泣いた 「はいりこみライト」で絵画の中に次々とドラえもんたちが入っていき、その絵に合わせた姿になるんですよ そんなのさぁ!子供の頃夢見るやつじゃん!!! そのラストが「ドラえもん」という漫画なの粋ッッ〜〜〜!!!!! オチも「はいりこみライト」を正面に当てて観客を絵の中に招く形で終わるの粋すぎる…… イラストの選出もセンス良かった 知名度あんまないのでは?というのも選ばれてましたね
クレアが表情豊かでかわいい! マイロとの甘酸っぱい関係もあり嬉しい
のび太の描いたドラえもん最高〜〜 ドラえもんとのび太の関係性の話をされると問答無用で泣ける
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名探偵コナン 隻眼の残像
ミステリー色が強めで好き 終盤になると規模がデカくなるの良いですよね コナン映画は景気が良い 内調が出てきたのにはびっくりした 内調の人、原作に出てきて国内の陰謀渦巻く規模がでかい事件やって欲しい
長野県警面子はちょっと地味なのでは?と思ってたけどそんなことはなかった 暴担当がいっぱい居た 銃撃戦の見応え良かったな〜 細かい動きが多くて何度か見たくなる場面ですね
勘ちゃんヒロイン枠じゃん…とか思ってたら終盤のアレが来てテンション上がった かっっこいいーー!!!!
コナンくん人間やめてる 今作のコナンくん普通に怖い
ハロ嫁のガラス張り部屋が再利用されててめちゃくちゃ笑いそうになった あの部屋なんなの!?
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教皇選挙
口コミの良さで観に行きました 公開日から人気だったので気になっていた まさか現実でもコンクラーベが行われるとは、びっくり
タバコの吸い殻で会話シーンを表現したりと演出がずっと良い…… コンクラーベという儀式は秘匿されているので実際どうなっているのか当事者たちにしか分からないけれど、その一端を垣間見れるような感じ 現実でも今回のコンクラーベに向けて映画を見て予習してた枢機卿の方が居たみたい 実際のコンクラーベはあんなドロドロ政治劇では無いらしいけど
保守派とリベラルの対立が中心にあり現実でも問題になっていることで時事性が高いと思った 最後のオチも現実への問題提起で、バチカンの今後をより良いものにしたいという製作陣のメッセージを感じる 女性の描写が特にそう 枢機卿は男性だけ教皇になる者も男性だけ そんな中で彼らを世話するのは女性 そこに対しても言及があり、男性社会で女性がどういう扱いを受けるのかの話をしている そこから変わろうとする者と自由なシスターたちを映して終わる爽やかなラストシーン良かった
それなのに映画の批評感想でも「ジジイが投票しているだけなのに面白い!」というものが散見されあれだけ女性の話をしたのに透明化されてしまうのかと暗い気持ちになった ちゃんと観ろ!!!!
やっぱり脚本が良い作品が好き〜 原作読みたいと思ったけど英語版しかないのよね これだけ話題になったのだから翻訳して欲しいな
ポスターも構図がキマっててかっこいい

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岸辺露伴は動かない 懺悔室
原作の懺悔室はマジで動かないので映画化にあたりどうするのか気になっていたけどこう来たか〜〜と唸った 実質続編じゃん! 懺悔室2じゃん!!!
露伴先生が教会は禁止なのに写真撮ってたりするカスムーブがナーフされていた ナーフというか禁止されているという情報が出てこないのでナーフされたように見える カスなのは変わらん! 神父と間違われて懺悔を聞く辺りのカスやってる心情も台詞にならなかったので無いけど、その辺の心情を表情で伝えてて凄かった 露伴先生がカスなこと考えてる!のがわかる
娘の幸せを邪魔する父親、吐き気を催す邪悪ですよ 原作だと尊敬に値する奴だったけど娘を掘り下げた話になると敵になる た、確かに…… 室内でも傘をさす喪服の男、キャラデザがバチバチに決まっててかっこいい
ポップコーンの場面良かった ポップコーンが顔に落ちてなんとかしようとしてる下りは特に役者さんがジョジョの表情してる あと鳩がすごい 鳩の演技がすごい
漫画のことに手を出されてブチ切れの露伴先生良〜〜〜 宝くじを踏みつけるシーン好き
映画オリキャラのロレンツォが良いキャラしてて最高 泉編集タイプの陽イタリア男が影のある幸薄女のマリアにベタ惚れしてるの良すぎるだろ 細かくは覚えてないんだけど「君の初めての一番になれるんだね」みたいな台詞! キザでロマンチックで最高だった
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パディントン 消えた黄金郷の秘密
パディントン三作目、ロンドンのくまがペルーに帰る!
故郷ペルーでの冒険なのでロンドンのシーンは少ないんですが序盤のパスポートを取得して正式にロンドン市民になるパディントンだけで、ロンドン味を十分に味わえる エリザベス女王陛下とお茶会友達なのに市民権持ってなかったのかパディントン 今回の映画で本物のパスポート作ってもらったらしい 晴れてロンドン市民になれて良かったね
パディントンはペルーからロンドンに来た移民な訳ですけどそんな彼が故郷にも自分の居場所があったことを知っても、ロンドンの家族たちの元を選ぶところほんと〜に良かった 自分のルーツ知った上で自分の居場所を自分で選ぶことに価値がある コメディ作品だけれども真剣にアイデンティティの話をしている
胡散臭い敵キャラが良かった 胡散臭い敵キャラは最高ということをパディントンは教えてくれる 胡散臭い敵キャラ×2でお得感がある
パディントン2の敵キャラが服役を終えるらしいことにびっくりしました そんな年月経ってるのこれ 改心自体はしてるけど懲りてなさそうなところがチャーミング 改めて良いキャラしてますよアイツ パディントン2は最高の映画 今一度改めてみんな観ましょう
続編が決まっているらしい! 次はパディントン4! パディントン3は物語に一旦幕を閉じるような話だったので次回作がどうなるのか全く予想がつかない! 今後ともペルーから来たロンドン英国紳士のクマが景気良く物を破壊してくれると嬉しいです
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