#相模一ノ宮
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2025-3月号
アンビグラム作家の皆様に同じテーマでアンビグラムを作っていただく「月刊アンビグラム」、主宰のigatoxin(アンビグラム研究室 室長)です。
『アンビグラム』とは「複数の異なる見方を一つの図形にしたもの」であり、逆さにしたり裏返したりしても読めてしまう楽しいカラクリ文字です。詳しくはコチラをご参照ください⇒アンビグラムの作り方/Frog96
◆今月のお題は「春」です◆
今月は参加者の皆様に「春」のお題でアンビグラムを制作していただいております。沸き立つアイディアの数々をご覧ください。
皆様のコメントがいただけますと幸いです。

「春の芽吹き」 回転型:peanuts氏
植物が冬を越えて新しい芽を出す。 合体した文字をうまくほぐしながら読んでください。植物のような柔らかな曲線とざらつきが魅力的ですね。

「バネの季節」 回転型:無限氏
Spring。 文字送りに工夫がありますね。「季」「節」とも横画の省略がありますが違和感がないですね。
「春/泉/バネ」回転型+交換型:化学氏
Spring三面相。 メリハリのある書体の選択が成功していますね。交換型の利用により読みやすくできていると思います。
「はなみ」 重畳型:ラティエ氏
お花見の季節ですね。 5倍重畳。ステキな発見です。たしかに、三文字とも走り書きをすればこうなりますね。
「桜ちらし!」 マトリョーシカ型:kawahar氏
桜を散らす雨や風。 「桜」に見出した♥が散っているのがかわいいです。「!」のために斜めにしていますが、♥にも効いています。

「花菜」 回転型:うら紙氏
春が旬の京野菜で、寒咲きナタネの蕾を収穫したもの。 分割により読みやすくなっていると思います。躍動感がよいですね。

「開花予想」 図地反転回転型:douse氏
ソメイヨシノはいつ咲くか。 文字相当部分が太さについてグラデーションになっているのでデザインとして自然ですね。

「花見」 振動型:lszk氏
春といえば。 30年間以上のアンビグラムキャリアを持つ氏の真骨頂。無回転で2通りの読みが可能な「花」とも「見」とも読める絶妙な韻踏みデザインになっています。無回転アンビグラムの醍醐味はいかに上手く曖昧に描くかということなのですが lszk氏はその妙技を極めています。

「桜ノ雨/桜の雨」 回転共存型:ちくわああ氏
halyosyさんの楽曲タイトル「桜ノ雨」より。 かわいらしい書体とデザイン。「の」を舞う花びらに模していて楽しいです。

「桜満開」 図地反転鏡像型: いとうさとし氏
開花から一週間ほどで満開になるといわれます。 「桜」「満」「開」がそれぞれ上下の図地反転鏡像文字になっています。字形に電子味がありData70フォントのようでカッコいいです。
「春と修羅」 敷詰[回転+鏡像]型:つーさま!氏
宮沢賢治の小説のタイトル。 下にある、きれいに並んだ「春と修羅」の文字図形をそのまま敷詰できるのが驚きです。図形化技術が素晴らしいです��。

「校長式辞」 回転型:てるだよ氏
卒業式や入学式で。 ストロークだけで行っている図形化の仕方がかわいいです。花弁がよいアクセントになっているデザインですね。

「別れ」 図地反転型:ヨウヘイ氏
卒業の一つの意味。 一目で読めるのはドット表現の力もあると思います。オンオフのバランスが絶妙です。

「旅立ちの日に」 回転型:螺旋氏
近年の卒業式で歌われることが定番となった合唱曲。 文字の角度が躍っているのが楽しいです。字画の太さに対して点が小さいのがバランスをよくする工夫ですね。

「獅子の大鎌」 回転型:松茸氏
しし座の頭部に相当する7つの星を繋いだアステリズムのこと。 星座内の星を文字に取り込んでいる工夫があります。書体もおしゃれですね。


「春日俊彰/若林正恭」 回転共存型:.38氏
お笑いコンビ「オードリー」の二人の名前で。 対応付けを文字密度で比較してみると、二人の名前はなんともぴったりすぎです。「俊/林」のギミックがテクニカルです。

「はる/HaRu」 振動型:意瞑字査印氏
春です。 無回転で「はる」と「Ha Ru」、どちらにも読めるアンビグラム。似たタイプの文字遊びに[寄せ字]というジャンルがあります。

「春とヒコーキ」 回転型:超階乗氏
お笑いコンビの名前で。 デザインの一部を文字表現に取り入れた楽しい作品です。袋文字の活用もよいですね。

「桜散る 木の下風は 寒からで」 回転型:繋氏
紀貫之の短歌より。「空に知られぬ 雪ぞ降りける」と続きます。 踊るような筆致が楽しく、対応付けにも生きています。「風」が隠れたような効果が面白いです。

「あかるい未来は桜色へ染まって」 回転重畳型:すざく氏
春の色は門出にふさわしい。 文字列生成で。どの文字も読みやすく仕上がっていて見事です。回転重畳型はパズル的な側面が強く、ほかのタイプとは違う魅力があります。

「庭に咲いた花 別れの日は、 もう一年前。」 敷詰回転型:Jinanbou氏
卒業して一年たって。 文字列生成で。こちらも、どの文字も読みやすくすばらしいです。読みやすい文字で長文アンビグラムを作るには敷詰回転型は有力な手段です。

「卒業式/入学式」 図地反転鏡像型: いとうさとし氏
春のイベントと言えば。 なんと左右の図地反転鏡像文字で「卒業式」と「入学式」に読めてしまうアンビグラム。一文字一文字の略し方がすばらしいです。

「従うか抗うか自堕落な風無草滴るはいつかの可惜夜に咲く涙」 回転型:結七氏
ヒプノシスマイク・Fling Posseの楽曲「とりまGet on the floor」の歌詞より。「風無草」が柳の意味で春の季語です。 長い文字列を見事に対応解釈して処理していますね。一文字ずつ見てもステキな���をしています。

「ひねもす/のたりのたり」 回転型:lszk氏
与謝蕪村の句「春の海 ひねもすのたりのたり哉」より。 4字/6字の文字数違いも何のその。海面がゆるやかにうねっているような字形に趣きがあります。
「春空に夢ヲ志せ」 回転型:Σ氏
新たな門出に思うことは。 文字列生成にて。「すずむし」フォント風のかわいらしい文字がとてもよいです。隙間の扱いが巧みですね。文字組もぴったりで素晴らしいデザインです。
最後に私の作品を。
「桃の酒」 回転型:igatoxin
春の季語。 桃の花を浸した酒で、これを桃の節句に飲めば、百病を除き、顔の色艶がよくなるといわ��ます。
お題「春」のアンビグラム祭、いかがでしたでしょうか。御参加いただいた作家の皆様には深く感謝申し上げます。
さて次回のお題は「キッチン」です。調理、包丁、フライパン、皿洗い、揚げ物、換気扇、冷蔵庫、生ごみ、エプロン、厨房、速水もこみち、 など 参加者が自由にキッチンというワードから発想・連想してアンビグラムを作ります。
締切は3/31、発行は4/8の予定です。それでは皆様 来月またお会いしましょう。
——————————–index——————————————
2023年 1月{フリー} 2月{TV} 3月{クイズ} 4月{健康} 5月{回文} 6月{本} 7月{神話} 8月{ジャングル} 9月{日本史} 10月{ヒーロー} 11月{ゲーム} 12月{時事}
2024年 1月{フリー} 2月{レトロ} 3月{うた} 4月{アニメ} 5月{遊園地} 6月{中華} 7月{猫} 8月{夢} 9月{くりかえし} 10月{読書} 11月{運} 12月{時事}
2025年 1月{フリー} 2月{記憶} 3月{春}
※これ以前のindexはこちら→《index:2017年~》
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書物礼賛④
味噌ノ山/ひざが痛い!/自費出版2024
前回取り上げた『大便革命』の印象的な一節「女はたまる、男はくだる」。くりぃむしちゅーのANNで語られる、彼らの名物マネージャーからやがて独立社長となるババア大橋氏の便秘エピソードは抱腹絶倒。大橋氏への愚痴をはじめ、独身時代のくりぃむ有田氏が女性全般への不満をしばしば語るのに対し、現役のラジオ番組・中川家のラジオショーでは兄の剛氏がしばしば女性賛美を語る。
「女はどんなことでも楽しめる。友達と何時間でもしゃべっていられる。嫌いな人とも会話できる」。そうした美質が最大限発揮された入院体験リポート漫画が本書。著者はクリスマス飾りを撤去しようとして転倒し膝の靭帯を断裂。義母の介護があるためしばらく温存療法で耐えていたが、コロナ禍に突入し義母が特養ホームに入所することなったので入院・手術に踏み切ることに。
手術までのあれこれ、装具や車椅子、リハビリの様子など、確かな観察に基づく丁寧な描写、配慮の行き届いた人物造形、入院マニュアルとしても使えるよう大きな出版社から流通させてほしいと思うような充実した一冊となっている。学生時代漫研だったが創作から長く離れていたとのことで、一般社会にはこうしたポテンシャルのある人が山ほど隠れているのだろうなと。長所と短所は表裏一体になっていることが多く、有田氏の不満も剛氏の賛美も「男と女は違う」という本質論なのではないか。芸人さんのラジオは人気があるほど本質を避けて、何を買ったとかどこへ出かけたとかうわべの消費を語りがち。その人から見た本当のことを語ってほしいし書いてほしい。
藤谷治/新刊小説の滅亡・新刊小説の逆襲/破船房2023
2015年ダ・ヴィンチ誌に掲載された短篇とその続篇。文芸出版協会が新刊小説の出版を止める協定を結び、それによって新刊に占められて存在意義を失っていた既刊書籍が一定の復権を果たすも小説の退潮は止めようもなく、それでもなお良質な新刊小説に夢を託す編集者と無名小説家の悪戦苦闘を、筒井康隆『大いなる助走』の舞台設定や文体まで借りたような形で描く。「同時代を見つめた結果、タイムスリップで歴史上の有名人に会うとか、魔界に選ばれた高校生が悪の根源と闘うような小説ができたってことですか? 同時代を見つめるとか、時代の要請じゃなかったんですよ。右顧左眄ですよ。マーケットリサーチだったんですよ」。
鬼越トマホークのユーチューブ・チャンネルに三四郎の相田氏と小宮氏が一人ずつ連続で呼ばれて半生を語る企画は、金持ち学校(成城)で出会った2人の、微妙に異なる角度から語られる学園生活が陰影に富んでいて良い本を読んだような充実感があった。しかしたとえばそれに類するお笑い芸人さんのラジオ番組も、文字に書き起こして即良い本になるとは思えない。本書が言うまでもなく、小説をはじめ紙メディアにおける日本語の語りというのは終っているのだと思う。皆川博子の小説は完成度が高いが、読後感が胸糞で、2度と手に取る気が起きない。松本清張はどれも似たようで抜きんでた傑作がない。出版社であれテレビであれ東京に集中し、国民を「���支配側と)お気持ちお立場ご一緒に」誘導する官僚制の装置であって、分断と棲み分けを志向するから、メジャーな漫画雑誌やオリンピック開会式のように「意味さえ分らない」惨状を呈したのである。意味や価値観を提示すると、森喜朗のような各界のジジイが怒るからねえ。「八戸さんは自分で校正せず、専門家に出したようだ。外注だからお金がかかっている」。甘いですね、私は本をマーケットに送り込むまで、作品を書くのと印刷製本以外すべて自分でやっていますよ。
売野雅勇/砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々/朝日新聞出版2016
チラシを読んでいたら「ちょっとHな美新人っ娘」というキャッチフレーズが目についた。ミルキーというルビがふってある。新人=ルーキーというシャレだと一年以上経つまで気がつかなかった。(中略)原稿用紙に大きな文字で、「少女A(16)」と書いた。新聞の社会面と同じに見えるように、年齢もいれた。(中略)下書き用のノートに残っていた、沢田研二さん用の 「ロリータ」の設定を借りることを、苦しまぎれに思いついたのだ。「ロリータ」が、アッシェンバッハの視点から書かれたものなら、「少女A」では、カメラをタジオの視点にする。しかも、美少年から美少女に変えて。
音楽は救い。しかし私にとって音楽に包まれることは、すなわち自分が非国民であるという自覚にも包まれることになる。日本のポピュラー音楽の全盛は、浜口庫之助らが活躍し、ニューミュージック勢が台頭した1960~70年代。1978年からザ・ベストテンが洋楽を締め出す形で毎週お祭りを提供し、作曲とパフォーマンスの質が世界最悪となっていく没落が始まる。
「セクシャルヴァイオレットNo.1」「もしも明日が…」「おどるポンポコリン」…。あざとい下品な作曲、しかし広告やテレビ番組とタイアップすれば驚くほど売れて儲かる。レコード大賞を受けたウインクの「淋しい熱帯魚」は、洋楽カバーである2つ前のシングル「愛が止まらない」の曲想そのまま少し加工しただけの模造品。恥ずかしくてiTunesに入れられない。日本で一番売れたシングルも盗作だ。歌の下手なボーイズグループなんていうのは他の国では存在しえない。広告・テレビ・芸能の業界人が結託してキャラをでっちあげて素人以下の芸をヒット商品に換える、その音楽上のキーマンが阿久悠、松本隆、そして著者のような作詞家である。
沖田浩之という男性アイドル、私と近い年で、同じ時代にも業界が売り出し方を間違えている印象があった。舟木一夫や橋幸夫のようなズレたイメージ。そこへいくとやはりジャニーズ事務所は巧みだった。サザンや山下達郎が作るようなフェイク洋楽を、下手くそでも衒いなく堂々と歌う。どうせ日本語の歌なんて日本人以外誰も聞かない。低レベルでも細かな消費の記号を散りばめてメディア上で輝ければいいのさ。中森明菜のミルキーっ娘もズレていたが、不良イメージの強さが不満で一度だけレコーディングで歌えばいいからということで出した2曲目「少女A」が大ヒット、スターの階段を駆け上がる。詞・曲は凡庸だと思うが、少しふてくされて、しかし天性が発揮された歌いぶりが素晴らしいのである。
売野氏は1951年生まれ。上智大卒後いくつかの広告代理店、レコード会社宣伝担当を経てフリーランスのコピーライターから作詞家に転身。普段は無口で、自作を売り込む時だけ饒舌になる。売れない雑誌の編集も手がける。業界人としてポジションを得ている、しかしクリエイター��してはズレていて人脈が財産というような人物から気に入られる才能があったようだ。消費の記号をたくさん知っていて流行の波を仕掛けることができる。歌謡曲やJ-popに愛着ある人なら楽しく読めるのでは。私は薄っぺらい人物だなと思いました。
色川武大/喰いたい放題/集英社文庫1990・原著1984
私の母親のところに米を運んできていたおじさんは、荷をおくと熱い茶を所望して弁当を使ったが、彼の弁当は米飯ではなかった。うどん粉のバンか、芋だった。
そうして彼等の姿も昭和三十年代にはほとんど見られなくなった。
察するに、目白のたまごのお爺さんは、そういう類の生き残りであろうか。──私ははじめそう思った。
ほどなくその考えを変えた。お爺さんがたまごをあつかうときの手つきが撫でさするように丁寧なのである。この仕事を本当に愛してるんだな、と思う。たまごを運んで、売る、そうしていることが好きで好きでしようがないんだ。そうとしかいいようがない。ただの惰性で老人に続けられるわけがない。
とにかく、ありふれた無精卵よリも、お爺さんが難行苦行して運んでくる本物のたまごの方が、ずっと安いのである。
主婦たちは皆、容器を持って並んで、ーキロ、ニキロと買っていく。周辺のおソバ屋さんや小料理屋さんも並んでいる。 せっかく安売りしたって、その人たちが商売に使って結局もうけてしまうわけで、あほ らしいようにも思えるが、お爺さんはついぞそんなことは考えないらしい。本質的に人間が高貴なのである。
(中略)まったくそれは絵になる光景だった。ものを売り買いするということは、こういうことなのだ、と思う。(中略)大切なたまごを、カチッ、と割って喰べてしまう。お爺さんの汗と執着が、つぅッと喉のあたりをすべりおちる。実にあっけなく、またうしろめたいが、ものを喰べるということは、実はこういうことなのだと思う。
長々と引用してしまいました。谷崎潤一郎が『文章讀本』の中で文章は含蓄がすべてである的に述べていたが、メディア上にこれでもかと即物的な情報があふれている今、小説家のそういう特権的な意識は通用しないのではないか。結局は、情理を尽くして分ってもらおうという姿勢、そうさせる人徳を賞味させていただくことが読書なのだと思う。それは時代や流行によってすり減らない。何度でも味わえる。著者は阿佐田哲也名義の『麻雀放浪記』でも知られる、博徒から業界紙編集を経て作家として名を成した異色の人物。30代でところかまわず眠ってしまう難病ナルコレプシーを発症、長年の放蕩のため肝臓・腎臓も弱く、それでもなお食を堪能しようとする生きざまが遺憾なく発揮された好著。60歳没。
山本高穂+大野智/東洋医学はなぜ効くのか/講談社ブルーバックス2024
東洋医学によれば気・血・水の流れこそ生命活動の本質。脳ではない。昨夏に始まった耳鳴りと、それに伴って悪化した肩こりを癒すべく、12月下旬から鍼治療を受け始め、人体の神秘を実感。施術初日は最中にお腹がグゥ~っと鳴る人が多いとのこと。自律神経が刺激され胃腸が活発にはたらく。私の場合はそれに加え、2~3日の間風邪をひいたような症状が表れる。悪寒・鼻水・喉の痛み・関節痛など。交通渋滞を緩和しようと体のあちこちで道路工事を行っている感じがその後も続き、ちょっとしたことで調子を崩す。人手不足で道路工事の費用も高騰、そもそもアトピーだったり猫舌だったりタバコの煙を肺に入れるなんてとんでもないという神経過敏の60歳には刺激が強すぎたようである。腎経・膀胱経と呼ばれる経絡に沿って全身を少しずつ、相対的に後頭部など上半身の刺激を弱めてもらうことで症状緩和。ここに辿りつくまで7ヵ月余…。
緩和といっても、耳鳴りにせよ肩こりにせよ病気未満の生理現象・老化現象でもあり、半減がいいところでしょう。なぜ効くのか、効くと断言する書名にすがる思いで手にした本書、先史時代から積み重ねられ、経験則的に体系化された東洋医学、その効能を実証的に解き明かそうという趣旨。ツボ・鍼灸・漢方薬について「家庭の医学」的な小辞典として常備してもよい一冊。
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2024年
この一年に撮った写真から1枚選ぶとすれば、10月に撮ったこの写真です。

10月14日、生田緑地ホタルの里にて。ミゾソバの花が一面に咲いていました。バー��ウォッチング用の超望遠で撮りましたが、この花の愛らしさは写し取れたかなと思います。
あとは、毎月1枚プラス旅先で撮った写真を選びました。
1月14日、小田原の御幸の浜にて。真鶴半島、初島、伊豆大島と、遠くは利島でしょうか。穏やかな相模湾でした。

2月14日、飯室山展望台にて。新宿のビル群が、早朝の関東平野に出現した黄金郷のようでした。

3月30日、代々木公園にて。満開のユキヤナギに沿った小道は、歩くだけで幸せになれそうでした。

4月19日、二ヶ領宿河原堰にて。桜をバックに力いっぱいさえずるホオジロ。

4月29日、諏訪大社下社春宮の神楽殿と御柱。神楽殿の後の大きな建物が幣拝殿。
この日は1日かけて4社まいり(上社前宮、本宮、下社春宮、秋宮)を行いました。

5月18日、二ヶ領宿河原堰にて。ど真ん中に捉えることができたコアジサシ、ノートリミング。

6月8日、多摩川近くの道路にて、巣立ちしたばかりのヒナに餌を与える親ツバメ。

7月4日、稲田中学校北側に植えられていたオニユリ。

8月11日、六花亭アートヴィレッジ 中札内美術村、相原求一朗美術館近くの林。

8月13日、朱鞠内湖。

8月16日、サロベツ原野 パンケ沼。

北海道ではこのほか、二風谷、名寄ひまわり畑、塩狩峠、興部、帯広競馬場(ばんえい十勝)を訪れました。日高町で宿泊した夜の、まさに降るような星空も忘れられません。
9月14日、多摩川宿河原河川敷にて、コミスジ。パッと見た感じは地味ですが、背中の虹色が美しい蝶です。

11月9日、生田緑地ばら苑にて。バラの花に止まったイチモンジセセリ。

12月14日、多摩川宿河原河川敷にて。突然現れたハヤブサ、オートフォーカスが速くないレンズを付けていましたが、よく間に合ってくれました。

12月29日、上田城南櫓。下から見上げるとすごい威圧感でした。

12月30日、諏訪湖(諏訪市湖畔公園)にて、カワアイサ。

12月30日、勝沼ぶどう郷駅前公園から、南アルプスと甲府盆地。 北岳、間ノ岳、農鳥岳、荒川岳、赤石岳など、南アルプスの名だたる峰々が一望できます。

#2024年#ミゾソバ#相模湾#ユキヤナギ#ホオジロ#諏訪大社#コアジサシ#ツバメ#オニユリ#中札内美術村#朱鞠内湖#サロベツ原野#コミスジ#イチモンジセセリ#ハヤブサ#上田城跡#カワア��サ#勝沼ぶどう郷
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3月27日夕、神戸市中央区の兵庫県庁からほど近い県警本部庁舎に県幹部の姿があった。県警の担当者と向き合ったのは、総務部長(当時)の小橋浩一(ひろかず)(60)や県民生活部長(同)の井ノ本知明(ちあき)(57)ら3人。「名誉毀損(きそん)で告訴や被害届を出せないか、知事から相談してこいと言われまして…」。県西播磨県民局長(同)の男性(60)が作成した告発文書をみせ、こう切り出した3人の表情には困惑が浮かんでいた。 この直前、兵庫県知事の斎藤元彦(46)は記者会見で怒りをあらわにしていた。「業務時間中に噓八百含めて、文書を作って流す行為は公務員として失格だ」。斎藤は男性をこき下ろし、文書は誹��(ひぼう)中傷に当たるとして「被害届や告訴なども含めて法的手続きを進めている」と宣言した。 だが、文書はその斎藤自身のパワハラ疑惑などを告発したもの。公益性があり、立件は難しいとの県警側の感触を得ると、以降、斎藤が自ら告訴に言及することはなくなった。 3年前、知事就任にあたって「ボトムアップ」を掲げた斎藤。就任時には職員に向け「失敗を恐れないで。失敗したら私が責任を取る」とメッセージを送った。ある中堅職員はこの言葉に期待を抱いたが、ほどなく失望に変わったという。 就任直後、斎藤が設置したのは、知事の肝煎り政策を進める「新県政推進室」。トップの室長には、後に県警本部に走ることになる小橋が就き、井ノ本も室次長に名を連ねた。 同じく室次長となった現産業労働部長の原田剛治(こうじ)(56)、9月に副知事として招かれた片山安孝(64)を含めた4人は、総務省キャリアだった斎藤の宮城県庁勤務時代に、東日本大震災の復興支援で宮城に派遣されるなどしていて知己を得た間柄だ。 次第に県政の重要事項は、斎藤とこの4人の間で決められるようになった、と職員や県議らは口をそろえる。小橋、井ノ本、原���は昇進を重ね、県庁内の枢要なポストを占めていく。斎藤と4人の蜜月ぶりは、宮城県名物をもじって「牛タン倶楽部」と呼ばれた。 「就任時には部局に任せますと言っていたが、結局はトップダウンだった」。斎藤に近い県議は、その運営手法をこう評する。象徴として挙げるのは、斎藤が自身の功績としてアピールする県庁舎の建て替えだ。 県庁舎は前知事、井戸敏三(79)の時代に建て替えを含めた再整備が決まった。だが、斎藤は就任4カ月後の令和3年12月に凍結を表明。井戸の時代から事業費が約1千億円に上振れしており、「県民の理解を得られない」とした。 大規模な支出を伴う事業は止めたが、その後がなかなか決まらない。庁舎の一部は耐震性の問題で解体する必要があり、現状維持の選択肢はない。5年3月、ようやく斎藤が打ち出したのはテレワークの推進により職員の出��率を4割とし、庁舎をコンパクト化する案だった。 「みんな絶句した。冗談かと思った」。職員の一人が振り返る。県庁は大規模災害時に司令塔の役割が求められる。阪神大震災を経験した職員にとって、斎藤のプランは寝耳に水だった。 「事業を凍結するのは正しい判断だったと思う。ただ、いきなり4割出勤といえば混乱を招く。丁寧さが必要だった」。県議はこう指摘した。 「徹底的に調べてくれ」。今年3月21日、告発文書を入手した斎藤は知事室に牛タン倶楽部の4人を招き、こう指示したという。 人事の硬直化、根回しやコミュニケーションの不足…。斎藤県政のゆがみは、冷静さと客観性を欠いた「告発者捜し」として表出し、不信任の大きな要因となった。(敬称略)
「噓八百」会見直後、斎藤知事側近は県警本部に走った 混迷・兵庫県知事失職㊥(産経新聞) - Yahoo!ニュース
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2024.05 仏果山

低山ながら展望台から見える景色はかなりいい
友人と一緒に丹沢東端の仏果山へ。GWということもあってか(?)本厚木から出るバスは80人くらいの長蛇の列で、最後のひとたちは乗ることができないほどだった・・・たぶん2台目は用意されてない。野外センター前までは約40分の乗車。
【コースタイム】野外センター前バス停(1005)→仏果山(1130-1140)→高取山(1205-1210)→登山口(1250)→宮ヶ瀬ダム(1300)

バスを降りたら30分ほどは車道を歩く。その後ちゃんんとした登山道に。傾斜は普通~ちょっとだけキツめ。

10分ほど登ったら一度車道に出て、再び登山道に入る。

さらに10分ほど登ると展望がかなり良い開けた場所にでる。北東方面で相模原とか八王子方面が見えている。

鉄塔と電線がすぐ近くにあるのだが、通電しているジジジジという音が聞こえてきて怖い。

再び樹林帯を通過し

約30分ほどで仏果山に到着。登り始めてから約1時間で、かなりあっさりした登山。周りは樹林帯で景色はない。

この山頂、10m以上の高さのある見晴台が建てられているのだが

見晴台に立つと360°見渡せ、かなり景色が良い

都心方面?

奥に丹沢主脈の塔ノ岳~蛭ヶ岳、手前にはこのあとに向かう宮ヶ瀬湖

次は高取山へ向かう。まずはいったん高度を落とす。すこし礫が多く歩きづらい。


30分もしないで次の山頂の高取山に到着。

ここも見晴台が建っている。

仏果山よりもさらに宮ヶ瀬湖に近づいた。奥には丹沢主脈が見える。

ゴールの宮ヶ瀬ダムが見えてきた。

先ほど通過してきた仏果山の山頂。見晴台も確認できる。

高取山からダムへの道が少々危険。山頂直下はかなり急であったり、道がかなり狭かったり。
この日は麓の気温が23℃くらいまで上がり、低山なのでやはりそれなりに気温が高かった。しかし終始木陰から漏れる日差しとそよ風でかなり気持ちが良く、春山最高と思える

終盤、再び展望が開けた場所へ出る。湖面が青く綺麗。ゴールはもう間もなく。やはり電線からジジジジという音が怖い。

最後は緩やかな下山だったが、ゴール直前はまたかなりの急傾斜を下り一気に高度を落とす。

バス停から約3時間で宮ヶ瀬ダムに到着。

遊覧船が出ており、青い湖面を滑るように走っていく。


インクラインもあり、ダム底まで移動できる・・・一応、近くにはエレベーター(たぶん無料)もある。手前に見えているのは非常時に使用する階段。20階建てくらいの高低差はあるか?

ダムの先のあいかわ公園は芝生に寝転がると非常に気持ちよさそう。

春は桜並木になるか

先程の宮ヶ瀬ダムの下流に小さいダムがある。


最後に訪れたのは「ステーキレストラン スタンプ」。グーグルさんで評価がかなり高いとのことで。自分はハンバーグを注文、確かにすごく美味しかった!コーンだけでも美味しい。溢れてきた肉汁がおいしいのか?
帰りはステーキ屋さんから徒歩10分くらいの半原バス停より。始発駅のため必ず座れるが、朝の本厚木のバスの列に比べて人が全然乗らず、最後までかなり空いていた。
低山ながら見晴台のおかげで眺めはかなりよく、ダム観光や食事と併せるとなかなかに満足度が高い。もちろん、夏はNGだろう。ちなみに春~秋はヤマビルに注意とのことでところどころに塩が置かれている。
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人吉温泉しらさぎ荘しらさぎの湯 #温泉 #温泉旅行 #温泉旅 #温泉に行こう #温泉街 #温泉宿 #spa #onsen #人吉温泉 #しらさぎ... 2011年8月20日撮影 人吉駅前にある人吉旅館から温泉町にある「たから湯」まではタクシーで行ったが、「たから湯」から「しらさぎの湯」までは徒歩で行ける距離なので歩いて行った。熊本県湧水百選に選ばれた湧水池を眺めながら頂く鮎料理格別で有名らしい。清らかな水で泳がせ身を引き締めた鯉は、臭みが無く歯応えが良いそうだ。たから湯から歩いた道沿いには、しらさぎ荘の隣の湧水池から流れ出た小川が流れており、風光明媚な温泉地に期待が高まる。この温泉は食事処・民宿「しらさぎ荘」によって経営されており、入浴料を母屋で支払い、別棟の浴室へ向かう。無銭入浴を防止するために、その後入浴券の自動券売機が設置された模様。
お湯は45℃程度の熱めの炭酸水素塩泉だが、通常高温だと炭酸成分が少なくなるはずなのだが、この温泉は入浴すると気泡がバーッと体に付着する。ここの売りは手を加えていない自然のままの景色を細長い浴槽から眺められることだ。浴槽内の階段を下りて下る浴槽には薄い黄緑色の少し熱めの極上の湯が満たされている。このお湯の特筆すべき点は、地表まで自噴している泉源から直接供給されている点だ。
”しらさぎの湯”という名前は、人吉温泉発祥の地の立て看板に見える。 「明応元年(1492)正月、相良氏12代当主相良為続が、お弓始めのため、井ノ口八幡宮に参詣された帰りに温泉町に宿をとり入浴したという記録がある。その昔、傷ついた一羽のしらさぎが沼のたまりで傷を癒していたのを村人が知り、近寄ってみると温泉が噴き出しているのに気付き、その昔は、”しらさぎの湯”とも呼んでいたという伝説もある。又今も温泉町に"しらさぎ"という名称が残る由縁であろう。」
訪れた当時、夏草が生い茂る庭には赤い花が咲き、蛇が縦横無尽に動き回っていた。2020年の人吉水害によりしらさぎ荘は宿泊棟、温泉棟共に全壊してしまい、現在はこの素朴で素晴らしい浴舎は見られなくなってしまった。新しい泉源も無事に確保され、宿泊、温泉共に営業を再開している。しらさぎ荘旧建物の解体時に、基礎の下から白蛇が4匹出てきたとかで、このお湯は土地神様にしっかりと守られているみたいだ。
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小学館的漫畫雜誌02(青年向)
接着少年向的部分,我们聊一聊青年向。
小学馆的青年向杂志主要是大漫画四兄弟。
ビッグコミック(BIG COMIC)
ビッグコミックオリジナル(BIG COMIC ORIGINAL)
ビッグコミックスペリオール(BIG COMIC SUPERIOR)
ビッグコミックスピリッツ(BIG COMIC SPIRITS)
月刊!スピリッツ(月刊!SPIRITS)
週刊ヤングサンデー(周刊Young Sunday)
月刊IKKI
コロコロアニキ(コロコロ大哥)
ビッグコミック(BIG COMIC)
发行时间:1968年2月29日 -
人群向:30岁以上的男性
发行日:毎月10日,25日
简称:『ビッグ』『ビッコミ』
增刊:ビッグコミック増刊号
代表作:骷髅13(ゴルゴ13) 、正直不動産、BLUE GIANT系列、HOTEL、荞麦达人(そばもん ニッポン蕎麦行脚)、搞怪刑事 (がきデカ)、双面(ダブル・フェイス)、Big Wing(ビッグウイング)、筑地鱼河岸三代目(築地魚河岸三代)等等
创刊初期得到了诸如手塚治虫、石ノ森章太郎、白土三平、水木しげる、さいとう・たかを、藤子不二雄(藤子・F・不二雄&藤子不二雄Ⓐ) 、楳図かずお、ちばてつや等等大牌漫画家的贡献,并且杂志以超长连载闻名。尤其是『骷髅13(ゴルゴ13)』在日本漫画史上连载篇幅第三长,连载周期第四长。
2021年8月号开始电子版配信。
ビッグコミックオリジナル(BIG COMIC ORIGINAL)
发行时间:1972年 -
人群向:30岁以上的男性
发行日:毎月5日,20日
增刊:ビッグコミックオリジナル増刊、ビッグコミックONE(2009年休刊)
代表作:三丁目の夕日、钓鱼迷日记(釣りバカ日誌)、浮浪雲、あぶさん、風の大地、黄昏流星群等等
72年创刊时是『ビッグコミック』的增刊号,74年独立创刊。杂志最鲜明的特点就是有相当多的连载超过40年的长寿作品,最初,Big Comic 的创始人小西湧之助创办这本杂志的目标读者是“比 Big Comic 大一岁半”。因此,为了与以资深作家的杰作为特色的“大漫画”区分开来,它开始出版更多年轻(当时)漫画艺术家的有趣作品。
2016年6号开始电子版配信。
ビッグコミックスペリオール(BIG COMIC SUPERIOR)
发行时间:1987年 -
人群向:青年
发行日:毎月第2、4个周五
代表作:医龍-Team Medical Dragon-、幽丽塔,厨艺小天王(味いちもんめ)、あずみ/AZUMI、小太郎一个人生活(コタローは1人暮らし)(柴門ふみ)非婚家族、はんなり!
创刊初期的作品来自于『ビッグコミックオリジナル増刊号』,近些年该杂志的作品规模已经不逊色与大漫画系列之前的三本(ビッグコミック』、『ビッグコミックオリジナル』、『ビッグコミックスピリッツ』,也就是大漫画,大漫画ORIGINAL,大漫画SPIRITS)
相对于Original系列针对30岁以上的上班族,Spirits系列针对的学生群体,Superior系列针对的目标群体是20多岁的青年人。
漫画新人赏:新人コミックオーディション(新人 Comic Audition),第1期的巡考审查员是乃���坂太郎。
ビッグコミックスピリッツ(BIG COMIC SPIRITS)
发行时间:1980年10月 -
人群向:青年
发行日:毎周一
简称:『ビッグスピリッツ』、『BCSpi』
増刊・派生誌:月刊IKKI、ヒバナ、月刊!スピリッツ
代表作:柔之道(YAWARA!)、极速悍将(F-エフ)、美味大挑战 (美味しんぼ)、真相之眼 (ギャラリーフェイク)、东京爱情故事(東京ラブストーリー)、爱情白皮书(あすなろ白書)、東京大学物語、一个好人(いいひと)、薙刀社青春日记 (あさひなぐ)、鼹鼠之歌 (土竜の唄)、请叫我英雄 (アイアムアヒーロー)、特攝GAGAGA (トクサツガガガ)等等。
与大漫画、大漫画ORIGINAL、大漫画SUPERIOR合称为大漫画四兄弟,目标年龄是四兄弟中最低的,早期启用宮谷一彦、谷口ジロー等漫画家,创作漫画的劇画意图非常明显,之后以少年杂志风格设计的青春漫画作品有所增加。
因为是青年向的漫画杂志,所以相对动画化的漫画数量,电视剧化的动漫数量更多。虽然被归类为大型漫画,但由于创刊历史,在人员上与『周刊少年Sunday』有着密切的关系。2008年9月起,由于『周刊Young Sunday』停刊,杂志上连载的漫画约有一半被转移过来。
月刊!スピリッツ(月刊!SPIRITS)
发行时间:2009年8月27日 -
人群向:青年
发行日:每月27日
代表作:重版出来!、鼹鼠之歌外传(土竜の唄外伝 狂蝶の舞)、舒特赫尔:西夏恶灵(シュトヘル)、恋如雨止 (恋は雨上がりのように)等。
这是『BIG COMIC SPIRITS』(本刊)的增刊,该增刊与本刊的作品双向流通。它是週刊ヤングサンデー』(周刊Young Sunday)休刊后的后继杂志。『月刊IKKI』停刊后,也有两部作品转移过来。
从该杂志转移到本刊刊登的一次性作品很多,此外转移到『やわらかスピリッツ』(网络漫画网站)的情况也很多。
週刊ヤングサンデー(周刊Young Sunday)
发行时间:1987年 - 2008年
人群向:青年
发行日:月2回刊 → 週刊
简称:「ヤンサン」、「YS」
改名:マンガくん → 少年ビッグコミック → ヤングサンデー → 週刊ヤングサンデー
代表作:冬物語、海猿、ムジナ、世界是我的世界(ザ・ワールド・イズ・マイン)、杀手阿一(殺し屋1)、孤岛诊疗所(Dr.コトー診療所)、少年犯之七人(RAINBOW-二舎六房の七人-)、诈欺猎人(クロサギ)等。
初期与同社内的『ビッグコミックスピリッツ』是长期竞争关系,90年代开始陆续连载了很多带有强烈色情和图像暴力元素以及对犯罪高度敏感的作品(对于小学馆而言)。
2000年奥山任編集長的时代,这些作品都被移除了。杂志试图转移到类似『周刊少年Sunday』体育&恋爱戏剧的风格,但是除了『孤岛诊疗所(Dr.コトー診療所)』之外并没有什么优秀作品。
此后,在奥山离任后,出现了很多人气颇高、不良题材程度高的漫画作品,,譬如『RAINBOW-二舎六房の七人-(少年犯之七人)』『クロサギ(诈欺猎人)』『土竜の唄(鼹鼠之歌)』等。
2008年5月19日,小学馆宣布根据未来的经营决策考虑停刊。连载的半数作品转移到『BCSpi』、剩下的转移到『BCSpi』的增刊『YSスペシャル(YSSP)』上。
月刊IKKI
发行时间:2003年 - 2014年
人群向:青年
发行日:每月25日
代表作:鉄子の旅系列,金魚屋古書店、异兽魔都 (ドロヘドロ)、聖克麗歐學園 (放課後のカリスマ)、Levius -机关拳斗- (Levius -レビウス-)等。
前身是『BCSpi』的双月刊增刊『スピリッツ増刊IKKI』,创刊时的口号『漫画未到黎明期』(「コミックは未だ黎明期である」),和『BCSpi』共用很多工作人员,也启用了很多在女性杂志活动的漫画家。
举办了两月一次的漫画新人赏『イキマン』,在提交的作品中,总有至少一件优秀作品发表。因为有很多漫画爱好者喜欢的漫画,所以也被称为『小学馆的Afternoon』(讲谈社的『月刊アフタヌーン』(月刊Afternoon))、『小学馆的ガロ』(青林堂的『月刊漫画ガロ』)
尽管因发行量小而出现亏损,但由于图书销量增加和媒体混合效应,2007年开始盈利。该杂志的官方网站「イキパラ」开设了“「WEBイキパラCOMIC」,出版新绘制的网络版连载作品。
2014年7月,宣布同年11月号后停刊。据悉,部分作品将在2015年初推出的新杂志(『ヒバナ』(火花))上再次连载。
コロコロアニキ(コロコロ大哥)
发行时间:2014年10月15日 - 2021年3月15日
人群向:20-30岁的男性
发行日:不定期刊 → 季刊 → 年3回刊
代表作:爆走兄弟レッツ&ゴー!! Return Racers!!、コロコロ創刊伝説等。
口号是『小学生不可以』(「小学生お断り」),它是作为 1977 年首次出版的『月刊コロコロコミック』月刊的成人版出版的。主要目标受众为从『コロコロ』毕业的中学生到成人,类型为青年漫画。
已出版的作品的特色:
有以集换式卡牌游戏为题材的作品
有让20-30岁人怀念的曾经的连载作品的续作或者特别偏
以『コロコロコミック』创刊以来的艰辛和『のむらしんぼ(野村 伸[)』现在自身的困境交织的作品『コロコロ創刊伝説』
从第1期开始『新日本职业摔跤』题材,第5期开始的『坦克』题材的作品。
附录包括集换式卡牌游戏卡(原创设计)、智能手机游戏应用程序的序列号以及与田宫合作制作的迷你四轮驱动部件。
随着2021年春季号(第22卷,2021年3月15日发行),为期约六年半的杂志出版结束了,作品转移到『コロコロオンライン』(コロコロ Online)上进行网页连载。虽然事实上就是休刊,不过宣传是『从纸媒进化为电子化』,2022年3月15日,『コロコロオンライン』(コロコロ Online)的漫画专区将整合并更新为「週刊コロコロコミック」,过去的作品和新作品都将在那里发布。
(青年向就整理到这啦~)
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127:底名無し沼さん (ワッチョイ c598-sjqN [2407:fc40:41:e800:*]):[sage]:2023/12/10(日) 20:53:26.95 ID:/DDe6XtV0
金華山の登山道「めい想の小径」で滑落 48歳女性が足首骨折
12月10日 20:51
https://www.zf-web.com/news/2023/12/10/205100.html
128:底名無し沼さん (ワッチョイ 4b55-+ZvJ [2001:240:29d7:8200:*]):[sage]:2023/12/10(日) 20:58:26.85 ID:5ttO+tNA0
また金華山か
標高2000メートル級に山岳事故が起こるな
130:底名無し沼さん (ワッチョイ 45bd-ARYZ [60.124.190.195]):[sage]:2023/12/10(日) 21:47:04.99 ID:OmXAzbuW0
こんな事故るならもう自治体の責任じゃね?
初心者お断り的な施策やったほうがいいわここは気楽に登れすぎる
132:底名無し沼さん (ワッチョイ 3d48-L8ZV [240f:a9:589b:1:*]):2023/12/10(日) 22:51:56.68 ID:e0sUUx8v0
遭難百名山作ったら金華山は間違いなく入るな
133:底名無し沼さん (ワッチョイ 437c-St1A [2404:7a82:32e0:1900:*]):[sage]:2023/12/10(日) 23:01:28.55 ID:2ZVXRUF10
遭難百名山いいねえ
高尾山富士山辺りの定番なところから
伯耆大山那須岳辺りの冬期事故を増やしてるところ
その他センセーショナルな事故が起こった福島吾妻山やトムラウシ山
金華山や千葉の鋸山みたいなそんな低山で?みたいなところ
もちろん魔の山谷川岳は外せない
考えるの楽しいわ
144:底名無し沼さん (ワッチョイ a3ed-tASO [221.117.104.49]):[sage]:2023/12/11(月) 03:58:29.57 ID:/eWbc/UJ0
>>133
下の廊下
ピークではないけど
134:底名無し沼さん (ワッチョイ fdff-CbLu [2001:268:9673:a9ae:*]):[sage]:2023/12/10(日) 23:09:12.40 ID:UW9Oboom0
どうせ大半の枠は南北アルプスが取るんだろ
137:底名無し沼さん (ワッチョイ 3d48-L8ZV [240f:a9:589b:1:*]):2023/12/11(月) 01:01:00.85 ID:bS8jDT2j0
>>133
高尾山は強そうw
西だと六甲も間違いなく入りそう
>>134
地域性をどこまで考慮するかだがやはりアルプスは強いかもなあ
141:底名無し沼さん (ワッチョイ abeb-+86Z [113.144.36.178 [上級国民]]):[sage]:2023/12/11(月) 03:02:34.93 ID:VDrRDVxj0
遭難百名山って山を甘く見てる登山初心者への警鐘にもなりそう
143:底名無し沼さん (ワッチョイ 4591-vAoJ [60.56.155.223]):2023/12/11(月) 03:46:55.88 ID:Obfo/DHn0
>>141
バカには何をやっても効果無いぞ
142:底名無し沼さん (ワッチョイ 15d1-7GLS [2400:4051:c280:7800:*]):2023/12/11(月) 03:25:21.98 ID:hi7sHNL40
那須岳、古賀志山、妙義山、川苔山、相模大山
156:底名無し沼さん (ワッチョイ 15bd-7BHq [126.63.250.32]):[sage]:2023/12/11(月) 14:29:42.08 ID:VRnK9fYS0
>>133
妙義山は入るんかな
159:底名無し沼さん (ワッチョイ 2312-L8ZV [2400:4153:4922:f00:*]):2023/12/11(月) 16:58:16.65 ID:IyFdw3120
>>156
妙義は入れても良さそうやね
九州は屋久島(宮之浦岳)くらいしか聞かんなあ
本土だとたまに英彦山とか聞くけど
四国はかろうじて石鎚が入る程度で平和やね
175:底名無し沼さん (ワッチョイ a3ed-tASO [221.117.104.49]):[sage]:2023/12/11(月) 23:16:24.74 ID:/eWbc/UJ0
>>159
強いて言えば祖母傾でときどき遭難騒ぎなかったっけ
160:底名無し沼さん (ワッチョイ e56d-FYu6 [2400:2200:473:e740:*]):[sage]:2023/12/11(月) 18:31:52.25 ID:1L9EdvIj0
廊下入れるなら大キレットも入れろみたいにならんか
176:底名無し沼さん (ワッチョイ a3ed-tASO [221.117.104.49]):[sage]:2023/12/11(月) 23:16:59.44 ID:/eWbc/UJ0
>>160
入れたらええやん
171:底名無し沼さん (アウアウウー Sa49-GD7i [106.154.143.97]):[sage]:2023/12/11(月) 22:11:09.27 ID:knM/VMz8a
遭難100名山、マジで作ってよ。
スレを立てても良い位だよ。
あのハイキングコースが実は遭難100名山って知ったら、みんなビックリってのもあるかも。
173:底名無し沼さん (ワッチョイ 2396-8Qvt [2001:318:6200:433:*]):[sage]:2023/12/11(月) 22:44:21.66 ID:3rrMSiIX0
羽根田さんあたりに作って貰いたいね
遭難百名山
名山は問題になるかな
遭難百迷山か
174:底名無し沼さん (ワッチョイ 95b1-cbrN [36.2.249.60]):[sage]:2023/12/11(月) 22:46:20.17 ID:I6XGOGEM0
山全体というよりも難所コースでしょ
谷川岳なら一ノ倉沢とか
178:底名無し沼さん (ワッチョイ a364-noSv [221.188.38.207]):[sage]:2023/12/11(月) 23:46:41.23 ID:aOOyI2AO0
遭難百迷山イイネ!
難度の高いところが入るのはまあ当たり前だけど
パンパカ的に印象深い山、「なんでこんなところで」という山は是非入れたいね
既出だけどトムラウシ、金華山、千葉の鋸山、那須岳、妙義山に一票ずつ
181:底名無し沼さん (ワッチョイ c57a-YQnI [124.44.204.54]):[sage]:2023/12/12(火) 03:08:26.34 ID:u+Jv6qsw0
丹沢からは檜洞丸を推したい
難易度はそう高くないのにちょくちょく死亡事故が起こる
182:底名無し沼さん (ワッチョイ e31e-qAtd [240b:251:c920:7100:*]):[sage]:2023/12/12(火) 05:24:18.56 ID:cxNK5vZf0
伊吹の対面に位置する霊仙もなかなかのもんだぞw
185:底名無し沼さん (ワッチョイ 3db9-L8ZV [240f:a9:589b:1:*]):2023/12/12(火) 08:16:06.65 ID:t+paMakl0
比良山系も時々あるよなあ
186:底名無し沼さん (スフッ Sd43-lZGB [49.106.205.150]):[sage]:2023/12/12(火) 10:06:00.69 ID:2oAUoaHBd
>>159
九州だと宮崎の双石山って標高500м程の低山で遭難が多い
ここ数年は毎年のように滑落して死んでる
188:底名無し沼さん (ワッチョイ e524-St1A [2001:268:98ab:15b1:*]):[sage]:2023/12/12(火) 10:41:49.81 ID:IM2viECZ0
>>134
北アは穂高とか剱岳がパッと遭難多い山として思い付くけど南アって意外とこの山ってのがないな
人気の北岳甲斐駒とかは南アの中じゃ単純に遭難の数も多いかもしれないがあんまり遭難のイメージがない
最近のイメージだと強いて言えば笊ヶ岳とかかな
192:底名無し沼さん (ワッチョイ c57a-YQnI [124.44.204.54]):[sage]:2023/12/12(火) 11:49:25.97 ID:u+Jv6qsw0
蔵王山も晴れてれば楽勝だけど吹雪くと途端��凶悪化する
毎年遭難者出してるね
220:底名無し沼さん (ワッチョイ 15be-7GLS [2400:4051:c280:7800:*]):2023/12/13(水) 03:41:57.46 ID:pCL1tHnO0
石棚山陵経由のコースの下の方に道迷いしやすい場所がある
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恒例の寒川神社⛩へ 令和五年、最初の お詣りをさせて 頂きました。 #寒川神社 #相模一ノ宮 #御朱印 #御祈祷 #正式教師 #神社 #神社巡り #神社仏閣 #神社めぐり #御朱印 #御朱印帳 #御朱印巡り #御朱印男子 #御朱印集め #御朱印男子 #御朱印ボーイ #御朱印おじさん #神社巡り#東京福めぐり #御朱印おじさん #東京五社 #東京十社 #東京五社巡り #御朱印集めてる人と繋がりたい #散歩 #縁結び #寒川神社 #寒川神社御朱印 #厄年 #厄除け#新車のお祓い (相模國一之宮 寒川神社) https://www.instagram.com/p/Cn_lCAPSAo5/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#寒川神社#相模一ノ宮#御朱印#御祈祷#正式教師#神社#神社巡り#神社仏閣#神社めぐり#御朱印帳#御朱印巡り#御朱印男子#御朱印集め#御朱印ボーイ#御朱印おじさん#東京福めぐり#東京五社#東京十社#東京五社巡り#御朱印集めてる人と繋がりたい#散歩#縁結び#寒川神社御朱印#厄年#厄除け#新車のお祓い
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. 寒川神社の東隣 相模国一宮、寒川神社代々の神官が祀られている曹洞禅宗の寺院で、徳川家康公とも縁があるとか。 境内にはとんがらし地蔵や相模子安地蔵が佇んでいて心が和みます。 やさしい気持ちでご本尊様、釈迦如来坐像に手を合わせました。 . #寒川神社 #興全寺 #龍寶山 #水子供養 #とんがらし地蔵尊 #徳川家康 #相模一ノ宮 #曹洞禅宗 #相模子安地蔵 #宝篋印塔 #蓄霊碑 #釈迦如来坐像 #寒川 #宮山 #高座 #神奈川 #元旦 #正月 #新年 #初詣 #参拝 #寒川 #さむかわいい @samukawa_official #カメラ #写真 #写真好きな人と繋がりたい (興禅寺) https://www.instagram.com/p/CJnvjQ6gK1F/?igshid=1odhtiu33ruun
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和四年(2022)8月27日(土曜日)
通巻第7441号
中国の湖が枯れて湖底がみえた。深刻な水不足、農作物は壊滅の懼れ
番陽湖は35%の湖水に。屈原の洞庭湖も観光地・西湖も景観が激変した
************************
中国最大の湖は青海湖。淡水湖で世界二位が番陽湖、日本人観光客は必ず訪れるのが杭州西湖、中国史が好きな人は洞庭湖。日本にも北はサロマ湖、支笏湖、洞爺湖、阿寒湖、十和田湖、田沢湖、猪苗代湖と幾多の湖があって、琵琶湖は日本一だが、世界ランキングでは百傑にも入らない(世界一はバイカル湖)。ちなみに番陽湖は琵琶湖の6倍の面積である。
中国の自然災害は桁違い。豪雨が続くと、ダム決壊、洪水、地盤陥没、台風被害などで、道路は河となり、すさまじい犠牲がでる。
三年前はあまりの豪雨に世界最大の三峡ダムの決壊がさかんに言われた。
こんどは逆だった。連日の猛暑、摂氏40度超え、干ばつが電力供給に大きな障害をもたらし、各地で計画停電。重慶はショッピングモール営業時間を午後四時~九時に制限。トヨタとホンダの工場は停まった。四川省は電力の八割が水力だからだ。
四川省は昔の「蜀」。劉備玄徳が治め、杜甫が活躍し、諸葛孔明が戦略を編んだ地。トウ小平の出身地であり、成都、重慶など工業の拠点である。電力需要は6500万キロワット。前年比25%の需要増は、アップルや自動車工場が集中したからだろう。
一ヶ月、雨がまったく降らなかった。摂氏40度(華氏百度)、農作物は枯れ、となりの湖北省と合わせて数千ヘクタールに被害が出た。成都市民のおよそ82万人は飲料水がない。水道がとまったからだ。
くわえて山火事である。8月25日のApに拠れば、540世帯、1500名が非難し、消防隊5000名が動員されているが、未曾有の山火事は一帯をはげ山にしてしまうから、保水力が失われる。
番陽湖は江西省の北西部、九江から南昌へ南下すると左手に広がる。淡水湖で中国一(世界一はキルギスのイシク湖)、湖面面積は3976平方キロだが、洪水期には5050平方キロに湖面が広がったことがある(ちなみに琵琶湖は670平方キロ)。
8月25日現在、水位は五分の一となって、湖中にある展望楼には歩いてけることとなった。番陽湖の中州に北欧企業がリゾートホテルを計画していると九江で政府関係者から聞いたことを思い出した。
九江は洪水でも有名だが、付近は工業団地など開発がブームに沸いたことがあった。番陽湖の水量を調整し、農地へ配水する機能があることから「腎臓の湖」とも言われる。(番陽湖の「番」には、「こざと」)。
歴史好き文学好きの人なら洞庭湖だろう。屈原は政治の腐敗に絶望し、汨羅で入水自殺した。詩人の杜甫は、「岳陽楼」を謳った。この洞庭湖は淡水湖では中国第二位。2820平方キロで関東平野より湖面が広いのだから桁が違う。
杭州観光ではおなじみの西湖、ほかに九寨溝のエメラルド色などが観光客を引き寄せていたが、猛暑、干ばつで景観が激変した。
▲中国一の青海湖は周囲が360キロ、一周したことがある
中国最大の青海湖は青海省の省都、西寧に宿を取って、中国人ツアーに紛れ、一周したことがある。
早朝八時だったかに出発し、帰ってきたのが午後八時、青海湖は周囲360キロの凸凹道だから12時間(途中、昼飯休憩などあり)かかった。
青海湖は塩湖、モンゴル語でココノールという。4635キロ平方キロ。108の河川から流れ込んだが、2022年8月には85%も水位が下がった。
あれは小泉政権のときだった、ツアーで日本人と分かると、まだ日本へのあこがれがつよく残っている時代で、「小泉首相の靖国参拝をどう思うか」と聞かれた。
デジタルカメラを珍しそうに眺め、なかでも親子連れの父親がかなりのインテリで流ちょうな英語を喋った。
「日本にもこのような湖はあるかい?」「琵琶湖(ピーパーフゥ)って東京からどういくのか?」
内蒙古省のホロンバイル草原は有名だが、かつて日本軍の要塞があったハイラル(海拉爾)からバスで三時間。拠点となるのは「満州里」である。典型の炭鉱街。
満州里は、ロシアとの国境でもあり、鉄道がまたいでいる。そこからやや西へ開けるのがホロン湖(呼倫湖)で2335平方キロ。湖畔のレストランで湖魚を酒の肴にしたことがあるが、夏でも革ジャンを着込むほど寒かった。
また思い出した。中国人作家で台湾に亡命した朴内夫(筆名=無名氏)が日本に来たとき、箱根の芦ノ湖を案内した。湖畔のレストランで、氏は松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」は、この池(芦ノ湖)か?」と聞かれて驚いた。
中国人の感覚では、小規模な湖は「池」なのである。
▲じつは中国最大の湖は興凱湖だが、北京条約で75%がロシアに帰属する
ついでにもうひとつ。
日本人が殆ど行かない最大級の湖がある。
黒竜江にある興凱湖で、4403キロと、番陽湖よりも湖面面積は広いが、じつは北京条約によって四分の三がロシア領に編入されている。十数年前に、高山正之氏等と行ったことがあるが、真夏なのに、日本の初冬の寒さだった。
したがって中国側の湖面は1000平方キロでランキングに入らない。
この興凱湖の真南が沿海州のウラジオストクだから、中国人にとってロシアは「癪の種」になる。ロシアがウクライナでへとへとになったら、中国は北京条約の廃棄をせまり、ウラジオストックを回収する挙にでるかもしれない。(詳しくは来月五日発売の拙著『ウクライナ危機後に、中国とロシアは破局を迎える』(宝島社)をご参照されたい)。
8月24日から降雨(慈雨)があって、四川省では25日あたりからようやく工場が再開されている模様である。
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目が覚めたので朝の運動的にオープンワールドについての雑記2を
前回の記事に付け足して言うべきこと何点かある
Morrowindにおけるメニュー画面…メニュー画面は本シリーズにおいて「ジャーナル」と呼ばれる ジャーナル、つまり日記だが、Morrowindにおいてジャーナルは本の体を保つという記述があった。Oblivionでも本っぽい見た目のジャーナルになっていたが、これは最新作Skyrimにはない特徴 Skyrimのジャーナルは基本的に他のゲームの「メニュー画面」と同じで、謎のUIが画面に出現し、星座を眺めてスキルポイントを割り振ったり、世界を上空からドローン視点で眺めることができる。この変更には良しと悪しがある

良しな点として、ジャーナル機能は死ぬほど見にくい ありえん Morrowindは未プレイなのでゲームカタログに記述されている情報を鵜呑みにするなら、体裁が完全に日記(ジャーナル)なので、どのページに何の情報が描かれているかを覚えておく必要があるとのこと 論外だろう、こんなもの Oblivionでは多少改善されてはいたようだが、アイテムが五十音順に並ぶことの弊害や、マップそのものの見づらさなど上げればきりがない不具合があった。いくらなんでもオープンワールドを冒険する人間の日記をメニュー画面にするというのは無理があったのではないかと思う
それともう一つ、「日記」という体裁はそもそもプレイヤーと相性が悪い それはプレイヤーの日記ではないため、キャラクターが抱えている自我を垣間見てしまうことになる その日記がいかに平易な文章を心がけていたとしても、日記とは殆ど主観そのものであり、プレイヤー・プレイヤーキャラクター間の距離を確実に遠ざける この方式を辞めるというのも納得がいく 誰かが書いたジャーナル(日記)より、メニュー画面の方がいい意味でゲーム的だと思う
悪しな点はもちろん見た目と雰囲気 正直これにつきる Oblivion内でメニュー画面を開くと何か物と物が擦れあったような効果音が鳴り、羊皮紙的なサムシングが画面に広がり、なんか雰囲気がある マップなどそれが顕著だ マップはなあ、紙でなければならんのだ ことタムリエルにおいては! スカイリムのマップは、誰がどう見たってGoogle Earthだ タムリエルにGoogle Earthはない!

というまあどうでもよいことは置いておいて、��に付け足すべき点として、前回の記事は「Skyrimを前作と比較して自由度が失われているというもう何年も前にみんなで話して終わったやつ」でしかないが、しかしそれは悪いことではない(という何年も前にみんなで話して終わったやつ) という話をしたい
そもそもがSkyrimはそういう方向性なのだという話 前記事におけるパーサーナックスの台詞引用を見ても分かる通りベセスダはこの事にかなり自覚的に見える Oblivionにおいて、主人公は何者にでもなれた 何者かと何者かを並行してロールプレイすることさえできる自由さだった 何かになりたくなければならなくてよいという、それはもはや現実じゃん
ここで着目したいのは、2作の舞台だ The elder scrollsシリーズというのは「ムンダス」というゲーム全体が表象しているここではないどこかの宇宙にある、「ニルン」という星を舞台にしたゲームシリーズで、そこには広大な大地と海が存在する 「タムリエル」という広大な大陸を中心に展開していたこのシリーズは、その規模の大きさとゲームの描画レベルを釣り合わせるため、一つ一つのゲームで描く範囲を「地域」に分けることにした

タムリエルには「ヴァレンウッド」「エルスウェア」「ブラックマーシュ」「モロウウィンド」「スカイリム」「シロディール」みたいな感じで地域ごとに名前で区分けされており(あと何個かあった気がする)、それぞれの地方を舞台にゲームが展開する 「Oblivion」はシロディール、「Skyrim」はスカイリム といった感じ
Skyrimに比べ、Oblivionはプレイヤーキャラクターの透明さにやけに注力されている 彼だけが後のシリーズにおいてどうなったかを確認できる術がなく、後作であるSkyrimでなんとなく曖昧なヒントを与えられるだけで、確定的な証拠はない。彼は最後まで何者でもなく、何の血も引いておらず、何の神でもない これは昔のJRPGなどではあまりなかった設定であると思われる 彼はどうがんばっても「何か先天的に特殊な存在」にはなれない(それも一種の不自由か?)
「Morrowind」の主人公はメインクエストのプレイ中に自身が神であることに気づくことになり、「Skyrim」の主人公は序盤からドラゴンの力を持った勇者であると気づくことになる Skyrimの主人公ドヴァキンはめちゃくちゃ「主人公」している
少々前回の記事と内容が被ってしまった。ようはSkyrimの主人公とOblivionの主人公がキャラクターとして抱えている濃度の差の話だ 以下に改めて書く

・Oblivionの主人公…囚人。メインクエストを終え、シロディールの勇者と呼ばれることとなる。しかし皇帝の血は途絶え、世に混乱が訪れることとなった。DLCシナリオをクリアすることで、狂気のデイドラ王シェオゴラスを倒し、シェオゴラスのもう一つの人格ジャガラグに「そう…お前という人間…人間…?王…いや、神…うーん…あー…、さらばだ…シェオゴラスよ…」みたいなわけのわからん事を言われる(曖昧さここに極まるといった台詞だ デイドラの王はそもそも不死であるし、第4紀に現れるシェオゴラスは何故か未だグレイマーチに悩まされている そもそも何を持ってシェオゴラスをシェオゴラスたらしめているのかというような問題になりかねない危うい台詞でもある)

・Skyrimの主人公…冤罪で帝国に処刑される直前であったが、神話・伝説の存在とされていた「ドラゴン」の襲来に乗じて刑を免れる。自身が「声の力」を持ち、ドラゴンを殺しうる者「ドラゴンボーン」であると知り、悪のドラゴン「アルドゥイン」を倒すためあれこれした後、ソブンガルデという異世界でかつて神話の時代にドラゴンを滅ぼした勇者たちと共にアルドゥインを倒すことに成功する。付け加えて、彼は神話の時代の壁画に書き残されていた「アルドゥインが再び現れる時、最後のドラゴンボーンが現れる」という感じの記述に従うならば最後のドラゴンボーンであり、本編終了後のDLCクエスト「Dragonborn」にて、「最初のドラゴンボーン」と戦うこととなる

(最初のドラゴンボーン・ミラーク。彼の設定もまた面白い)
おかしいだろ Skyrimの主人公、主人公すぎる そんなことある?これに更に付け加えて言うならば、Skyrimの主人公がアルドゥインを倒すために使う特殊なアーティファクト「星霜の書」は、無理に読もうとすると目が焼け死ぬという人智を遥かに超えた宝具的サムシングで、原文では「Elder scroll」である う、嘘やろ?これもう、お前が主人公じゃん シリーズタイトルを回収するな TESシリーズの主人公のクセにタイトル回収するんじゃあないよ
Oblivionがありとあらゆるところで明示的な言及を避け続けているのに対して、Skyrimはとんでもないほどにドヴ���キンに物語が付随している
めちゃくちゃ前説が長くなってしまった。この、なんというべきか、主人公度の差というべきか、プレイヤーキャラクターとしての透明度の違いは、誤解を恐れずに言うなら「土地柄」が出ているような気がする という話だ

Oblivionの舞台であるシロディールは、タムリエルの中心に位置し、帝国が支配する四季あふれる豊かな土地だ 高低差のない広い平野が広がっていて、そこに様々な植物があり、人が住み、生きているという感じの… 時間軸としては、皇帝が何世代にも渡って守り続けてきたオブリビオン(魔界的な何か)へ通じる扉が開かれる直前に始まる物語でもある

Skyrimの舞台であるスカイリムは、タムリエル北部に位置する雪国地域で、そこには「冬」しかない 山は険しく、生活に困窮する村もある 時間軸としては、帝国軍と反乱軍の争いに決着が付いた直後、伝説として語られていた「ドラゴン」が現れる直前から始まる物語だ(因みに、この”山”はオープンワールドとして問題を孕んでいるという意見が友人から何度か出たことがある 山によってマップが区分けされているせいで、物理的にシームレスな移動が可能なオープンワールドであるにも関わらず”シームレスではない”という意見だ わからないこともない そういう土地だから仕方ない気もする)
ここに、地域性、土地柄がある。雪に覆われた地というのはそれ自体が持つ物語性を有していて、彼らは「スカイリムの子ら」という自意識を持っていて、一人ひとりがそういった物語を濃淡様々に抱えている。そして何より「ドラゴン」は古来よりRPGの世界が驚異として描いてきた最強の物語だ Oblivionに出てくる敵はまあ適当に言えば悪魔みたいな感じで、神話的な意味合いを持っているといえるが、神話は現実との距離が遠い。RPGの世界において、神話より「伝説」の方が聞き馴染みがあり慣れ親しんできたという感覚、わかるだろうか つまり、シロディールの平坦な大地へ赴き冒険する主人公に対して、スカイリムの子を自称する雪国の冒険者は、抱えている物語が大きくて当たり前なのだ(これはちょっと日本人の感覚すぎる話だろうか)
Oblivion、Skyrim共にどんな種族の誰にでもなれるわけだが、どちらも「一般的に選ばれる”人間”に最も近い種族」というのがある Oblivionでは「インペリアル」という、帝国の人間であり、彼らはメチャクチャ普通の人間の見た目をしている 対してSkyrimを起動しだれもが最初に選ぶことになる種族は「ノルド」と呼ばれる、筋肉質で髭を蓄えたたくましい雪の男である
「ノルド」はスカイリム地方に住む多くの人間の事を指す。彼らノルドには種族としての物語がとても色濃く残っている。ノルドとして生まれた者は北の大地を踏みしめ生き、膝に矢を受けて死ぬ。死することで「ソブンガルデ」と呼ばれるノルド専用の天国に行くことができるという信仰があり、これって実在していて…ソブンガルデは実在する。ノルド達は口々にこの世界の名前を叫ぶ。「勝利か、ソブンガルデかだ!」彼らは他の種族と全く違う価値観の元に生きている。根本的に死への恐れの種類が違う。恐れを知らず生き、恐れを知らず逝った。更に彼らの信仰する神「タロス」は、かつて「タイバー・セプティム」というタムリエル全土を支配した最上の皇帝であり、伝承ではノルドとされている。インペリアルが創り上げた八太神信仰を、ノルドは九太神信仰へと変えた
Skyrimのラスボス戦の舞台はソブンガルデであり、プレイヤーがノルドではない、例えばアルゴニアンやカジートである場合、特別にソブンガルデに入れてもらえることになる。が、なんだかとっても変な感じがする 例えば君がエルフとしてソブンガルデに招待されたとしよう。生粋のエルフRPをしている君は、そもそもショールを悪魔とする思想を持っているはずで、ソブンガルデに赴くことそれ自体宗教的にマズいのではと悩む羽目になる…だが、大方のプレイヤーがエルフ系の種族を選ぶのは決まって2周目3周目だ。何故なら、トレイラーを見てスカイリムへの冒険に憧れ購入したプレイヤーはもはやその時点でノルドであり、ドラゴンを打ち倒すノルドの勇者になるべくしてゲームを起動しているのだから
1周目で早速ダークエルフプレイなどをしている多くの異端プレイヤーにマイノリティ宣言をして本当に申し訳ないと思っているが、実際そうだ スカイリムといえばノルド ノルドといえばソブンガルデ、ソブンガルデといえばタロス これはもう否定しようがない このように、Skyrimはその地方を選んだ時点で、物語を有してしまっている。The elder scrollsシリーズが描いたのは世界であり、神話であり、そして人であり、人にとって物語は隣人であり、友人であり、恋人でもあり、子であり親である
ようはSkyrimの主人公は主人公になるべくして産まれた主人公だ ラスト・ドラゴンボーン 勇者
ここにまだ更に付け加えて言おう スカイリムにおける独自システムでもありこのゲームの要となる、ドラゴンボーンの特殊な力「シャウト」は、ドラゴンを殺すことでその力を蓄え、スカイリムの各地の遺跡でドラゴン文字を解読することによりその種類を増やすスキルだ シャウトを扱える人間は少なく、元を辿るとシャウトはドラゴンの力でもある。ドラゴンはシャウト…つまり「声」を力に変える生き物だ
この、「声/シャウト」というのがそもそも生き物が持つあまりに身近な力だ 歓喜するとき、驚愕するとき、悲嘆するとき、皆叫ぶ その「叫び」に物理的な力を齎すというフィクションは、なんなら「魔法」なんかよりよっぽど物語している。 スカイリムをまっとうにプレイした君なら、シャウトでドラゴンを従え、シャウトで空を晴らし、シャウトで敵を吹き飛ばすことが可能なはず
こんなに長く語ればもう分かるだろう The elder scrollsシリーズが5作目を迎えた10年前、Skyrimをその舞台とすると決めたその瞬間から、ドヴァーキンは主人公だった Oblivionに対し方向性を変えるのは当たり前だ 日本でTESシリーズの知名度が爆上がりしたのは間違いなくSkyrimの功績だが、それはオープンワールドゲームとしての完成度が高かったからとか、日本人にまだ馴染みやすいゲームシステムだったからだとか、そういうことではない、敵がドラゴンであり、お前がドヴァーキンになれるからこそ、日本人にもバカ受けした ロトの勇者や、ソルジャークラス1stになっていた君は、ドヴァーキンにもなれた
https://www.youtube.com/watch?v=qJnnPh44Rlo&has_verified=1&ab_channel=BethesdaSoftworks
見ろこのクソ地味なトレイラーを 盛り上がりもクソもない なんかよくわからんポリゴンの世界があって、なんかよくわからん人がいて、なんかよくわからんまま終わる!このゲームの主人公が主人公であるわけがない しかしそれ故にあなたは何にでもなれた
https://www.youtube.com/watch?v=JSRtYpNRoN0&has_verified=1&ab_channel=BethesdaSoftworks
なんだこのトレイラーは、俺はノルドなのか 俺はノルドだ スカイリムの子だ 俺はかつて小学生の時に読んだドラゴンスレイヤーアカデミーを思い出す ドラゴンを殺し世界を救うため、この世に産まれたという使命をうっかり思い出してしまう 雪…雪!雪だ 雪は白いから好きだ 叫びを上げドラゴンを殺しドラゴンの力を奪う しかしそれ故にあなたはドラゴンボーンにしかなれない お前がアルゴニアンであろうとハイエルフであろうと関係ない お前はドラゴンボーンだ ひとたびお前がドラゴンを殺せば、その魂を吸収してしまうだろう それは確定事実だ 2011年の11月11日からお前はドラゴンボーンだった
まとめると、OblivionとSkyrimは同じく広い世界を自由に探検できるゲームであるという前提の元、物語とプレイヤーの距離感を変えることでゲームの目指す方向性を分けている。別にどちらのゲームも、メインクエストをやってもやらなくてもいいし、何をしてもいいのは事実として、物理的にそうだ ただ、オープンワールドでありノンリニアを名乗るゲームにおけるメインクエストというのは、「やってもやらなくてもいい」という事実に関係なく、ゲームの自由度に縛りをかける。最近のIGNの記事にもあったが、オープンワールドと物語は決定的な矛盾を孕んでいる あなたはドラゴンが世界を滅ぼそうとしている時になんの目的もなくパンを盗んだりできるが、「可能」であれば「自由」であるわけではないだろう それとこれとは話が別だ メインのストーリーに背を向けることができるかどうかは、そのストーリーが持つ主人公との関係性によってプレイヤーに大きく委ねられる。倫理���や使命感のRPとのズレ。ゲームにそんなものは必要ないと言うならテトリスでもやってろハゲ

(テトリスおもしろいよね)
Oblivionは限りなく主人公を透明にすることで、シロディールというファンタジー世界の地域を限りなく自由に探検することができる。それも、何者として探検するか、というところに至るまでの自由だ 暗殺者にも、戦士にも、魔法使いにもなれる なったら、何がしたい?
Skyrimは主人公を極度に不透明にすることで、スカイリムの子として雪の国を救う勇者「ドラゴンボーン」になれる。これはめちゃくちゃJRPGっぽいが、それはそれとして、世界を救わない選択も可能だし、世界を救った後にのんびり観光してもいい。暗殺者にも、戦士にも、魔法使いにもなれる。が、君はドラゴンボーンであり、この世界が好きだからこそ、世界を救う。
ようはプレイヤーとプレイヤーキャラクターの距離の違いでもある プレイヤーはこの世にいくらでもいて、それぞれがたくさんの人生の合間にこの世界に顔を覗かせる。その時あなたが、あなたとして世界を冒険したいのか、誰かに自己を投影して冒険したいのか、というのは好みによるところだろう(一応言っておくが、Oblivionでも真剣にメインクエストに向き合い皇帝にアミュレットを託された人間としてシロディールを救う勇者になりきることもできるし、Skyrimでメインクエストを放置して一介の凡人として何者かになろうとすることも全然できる ようはゲームが持つ雰囲気が、どういったゲームプレイをオススメしてくるのかというかなり曖昧な話だ、これは)

(これはニコニコ大百科のドラゴンボーンの記事の項目の一つ ここの記述はものすごく良くて、Skyrimの主人公も”フリーダム”だ ただ、この通りのゲームプレイをしていると、こういった「おかしさ」「面白さ」が発生してしまうというのは誰でも理解できよう)
どちらも稀代の名作であり、本当に面白く本当に良いゲームだ どっちも好き Oblivionの自由は真に現実が自由であるということを思い起こさせる良さがある 緑あふれるシロディールの地は綺麗で、あの時代のポリゴンは私が最もノスタルジックになれる Skyrimの雪は高知に住む私の雪への憧れを刺激する ドラゴンボーンとなってアルドゥインを倒すメインクエストは、盛り上がりに欠けるところはままあるが、そもそも物語が持つ熱量が濃くて良い
続くThe elder scrolls:Ⅵはどちらの方向に傾くのか、どっちでもいいが、スカイリムで「誰か」になるのを十分楽しみ満足した節があるので、次はOblivionの方向性だと嬉しいな 何より、Skyrimの方向性のゲームは世に溢れている そうだ そもそもその話をしようとこういった記事群を書き始めたんだった うっかり好きなゲームを語るだけの記事になってしまった
余談ではあるが、ここで気になるのは「Oblivion」というタイトルだ シリーズのタイトルを並べてみると「Arena」「Daggerfall」「Morrowind」「Oblivion」「Skyrim」となるが、この内、Arenaは大陸全土の揶揄表現で、Daggerfallは都市の名で、Morrowind、Skyrimは地域の名だ しかしOblivionという名前はそもそも異界の呼称で、ムンダス(宇宙)を覆うように存在するデイドラの住まう魔界のことだ 素直にシロディールをタイトルに起用していない理由などがどこかに記載されているかはわからない(ここまで読んで何度もあなた方が訝しんだ通り、これらの記事はまともな調査も行わず適当を並べ立てているだけでなんの論理性もない雑文だということは改めて説明するまでもない) Oblivionというのはそもそも英語で「忘却」や「無意識」という言葉だ 造語でないタイトルはArenaとOblivionだけで、果たして何か面白い意味をこじつけることはできないかとうんうんうなってみたが、うーん無理そう
以前の記事で「ダークソウル」と「GTA」について語るという旨のメモを残したが、「GTA」に関してはそもそもプレイするモチベーションがないのでやめる ダクソは実はもう買ってあり、難易度にへこたれてプレイしきれていないだけなので、今度時間を取ってクリアした後、書く 他にも、以前書いたような「メタルギアソリッド2とボクと魔王」の話を改めて書きたい まあこれらは一旦置いておいて、次は「魔女と百騎兵」の話をする 現在は仕事に追われていて(まんがタイムきららMAXにて連載中の「ぬるめた」という私の漫画の1巻が2021年1月27日、つまり明日発売だ そして来年4月からは、ぬるめたと同時進行で「青騎士」という角川の新雑誌にて全く別の漫画を開始する予定でもある)ゲームがプレイできていないため、「ガレリアの地下迷宮と魔女ノ旅団」をプレイしていない
これを近いうちプレイした後、この「魔女」のシリーズについてメモを残す 今までも何度かしたことがあるような気もするが、「魔女」のシリーズが行った「プレイヤーとプレイヤーキャラクターの距離感」の取り方は完全に今までで類を見ない全く新しい奇抜な発想であり、面白すぎる SkyrimやOblivionにおけるプレイヤーとプレイヤーキャラクターの距離感についての話、物語とプレイヤーの距離の話、こういった話で我々が常に無視し続けている問題がある。それは、「Oblivionをプレイしたプレイヤーの中には、”後に”Skyrimをプレイするプレイヤーもいれば、しないプレイヤーもいるし、”以前”Morrowindをプレイしたことがある人もいれば、したことのないプレイヤーもいるし、”先に”Skyrim”をプレイしてからOblivionをプレイし始めた人もいれば、そうではないプレイヤーもいる」という、かなり「えッそんなの考慮するわけないじゃん」問題である。そう、プレイヤーはゲームのシリーズをプレイする時、そのゲームがシリーズ最初にプレイしたゲームではない可能性があるのだ しかも、これまでにプレイしてきたシリーズの順番さえ、わからないのだ もしあなたがOblivionをプレイしたことがあって、Skyrimをこれからプレイしようとするとある若者であったとしよう、なぜ、Skyrimの主人公はOblivionの記憶を持っていないんだ?Skyrimの主人公はあなたなのに? という、どうしようもない問題が立ちはだかっていたのだ これはTESシリーズにおいても無視されている問題だ、プレイヤーの持つシリーズ世界の記憶。ようはどうしようもなさすぎるが故に誰も目を向けていない問題だったのだ

だが、「魔女」シリーズはそこに解答を出している…というメチャクチャ面白い話です おわり つかれた
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JR東日本は、台風7号の影響で、関東エリアの一部線区で8月16日の運転を取りやめる。 上野東京ラインでは高崎線・宇都宮線と東海道線の直通運転、湘南新宿ラインでは高崎線と東海道線の直通運転、内房線の館山〜安房鴨川駅間、久留里線の全線の運転を終日取りやめる。 総武本線の千葉〜銚子駅間と内房線の千葉〜館山駅間、鹿島線の佐原〜鹿島神宮駅間、外房線の千葉〜安房鴨川駅間、東金線の大網〜成東駅間、成田線では午前8時ごろから、湘南新宿ラインの横須賀線と宇都宮線で午前11時以降、常磐線の勝田〜原ノ町駅間では午後1時ごろから、水郡線では午後6時ごろから運転を取りやめる。 山手線、東海道線、京浜東北線、横須賀線、南武線、横浜線、伊東線、相模線、鶴見線、宇都宮線、高崎線、京浜東北線、埼京線、川越線、武蔵野線、上越線、信越本線、吾妻線、烏山線、八高線、日光線、両毛線、中央線快速電車、中央・総武各駅停車、中央本線、武蔵野線、五日市線、青梅線、常磐線、常磐線快速電車、常磐線各駅停車、水郡線、水戸線、総武快速線、総武本線、京葉線、武蔵野線でも影響が出る可能性がある。 東北・上越・北陸・山形・秋田新幹線は一部列車の運転を取りやめる。特急「さざなみ」と「しおさい」、「湘南」の全列車、「成田エクスプレス」と「ひたち」の一部列車は運休となる。
JR東日本、関東エリアの一部線区で運転取りやめ 台風7号の影響 - TRAICY(トライシー)
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貧困なる精神 ハーバード大教授の珍学説 ⅩⅠ
マーク・ラムザイヤーが2019年に発表した『On the Invention of Idemtity Politics : The Buraku Outcast in Japan』。そのデタラメな内容の検証を数回で書くつもりが、10回を超えてしまった。読んでいたら1行ごとにひっかかるので、こうなったら逐一原典にあたって検証してやろうと思ったからである。貧乏ヒマなし、とはこのことだ。
論文の要点は、ほぼ全文を俎上に載せている。したがって文章の恣意的な選択や意図的な和訳は、一切ない。わかりづらい英文は、英語の専門家に問い合わせた(とくに後半)。「そんな引用の仕方はないよ」「そんなこと書いてないよ」と言われたら、ハーバード大教授の二の舞だからだ。
※ ※ ※
ラムザイヤーは、戦前戦後の部落解放運動の糾弾は、行政から補助金を分捕るための戦略であったと長々と解説し、<共産主義者の排除>の章で次のように述べている。括弧内は、角岡の註である(以下、同じ)。
<(1951年の)オール・ロマンス論争を通じて、部落解放同盟の指導者たちは、京都府の部落に対する予算のレベルを断固として引き上げさせた。京都の部落民でない住民からどれだけ再配分させるか、限界はあったものの、彼らはそれをすぐに実現させた。支出を増やすために、彼らは政府をたたく(tap)必要があった>
51年のオール・ロマンス事件の発生時、部落解放同盟は存在していない。発足は55年である。それはさておき、京都府の予算が足りないから解放同盟が政府をつついた、というのも奇妙な話ではある。
ラムザイヤーが参考資料に挙げている『尼崎部落解放史』(尼崎部落解放史編纂委員会、尼崎同和問題啓発促進協会、1988年)には、次のように記述されている。ちなみに尼崎は、兵庫県の南東に位置する一自治体である。
<(部落解放同盟の前身の部落解放)全国委員会もこの(オール・ロマンス)事件から、国及び地方自治体の行政姿勢に、部落差別が根深くあって十分な施策を講じていないところに重大な原因があることを認識した。こうしてこの事件を契機として、部落解放全国委員会は部落解放運動を行政闘争と(して)推進していくこと、それは部落問題の解決を国策として取り上げさせなくてはならないことを学んだのであった>
問題の解決を国策として取り上げさせる方針が、<政府をたたく>という下品な表現に変わっている。
それにしても数ある地方の部落史の中から、わざわざ尼崎のそれを選び、500頁を超える大冊のわずか4行だけを参考にして勝手に書き換えてしまうのだから、そのエネルギーと貧困なる精神は、驚嘆に値する。それに付き合っている私も、相当な変わり者だ。
ラムザイヤーが参照した『尼崎部落解放史』は、戦前戦後の尼崎にある部落の劣悪な生活実態が詳述されているのだが、例によってハーバード大教授には、それらは目に入らなかったらしい。
※ ※ ※
1969年から始まった同和対策事業は、2002年まで続き、その間に15兆円の予算がつぎこまれた。ラムザイヤーはそう述べたあと、いわゆる同和利権について斬り込んでいる。
<同和対策事業という国策を獲得し、部落解放同盟の指導者たちは、今やその割当額をコントロールする必要があった。最も大きな財源の割り当ては、建設事業であった。そのカネを自らのふところに入れるために(to divert that money to their private accounts)、彼らは同対事業の契約の配分をコントロールする必要があった。それを実現するためには”窓口一本化”を必要とした。必然的に彼らは、他のすべての潜在的仲介者を排除した。とりわけライバルである日本共産党を排除する必要があった>
解放同盟の幹部が私腹を肥やすために同和対策事業を利用した、そのために共産党を排除したと言い切ってしまうところが、いやはや”大胆”ではある。何%の幹部が、そうだったのだろうか? また、清廉潔白な共産党が、利権を狙っていたのだろうか。
同和対策事業をめぐり、60年代半ば以降、部落解放同盟と日本共産党は対立する。劣悪な生活環境を改善するために事業は必要と訴えた前者に対し、後者はそれは権力に取り込まれる<毒饅頭>であるとして反対した。
69年から始まった同対事業は、それを推進してきた解放同盟が主導権を握った。対立は次第に激化し、共産党は解放同盟が窓口を一本化したとして問題視する。
そもそも窓口が主に問題になったのは、同対事業以前から受け皿組織があった大阪においてである。共産党を除名され、のちに解放新聞社の主筆を務めた師岡佑行は、『戦後部落解放論争史 第五巻』(柘植書房、1985年)で、次のように解説している。
<部落解放運動と同和行政とが深いかかわりをもつに至った七〇年代の状況が、解放運動の分裂によって表面化したのが「窓口一本化」の問題であった。だが、行政当局が解放同盟とのみかかわって同和行政を進めたのは大阪、広島などであって、かならずしも全国的にみられたところではなかった。解放運動のそれぞれの組織がどれほど地元において影響をもっているか、あるいは組織がどれだけの議会勢力を保有しているか、自治体首長の立場がなにかなどによって状況は異なるのである>
窓口一本化問題が喧伝されたのは、1万人を超える大規模都市部落を含み(したがって予算規模も大きい)、部落解放運動が盛んな大阪であって、全国的な問題ではまったくない。
ここでもラムザイヤーは、一部であったことをさも全体であったかのように描いている。
※ ※ ※
<建設事業における契約の割当額をコントロールするために、部落解放同盟のリーダーたちは次第に市行政を攻撃した>
そう前置きした上で、大阪府市吹田市で1969年に起った出来事をつづっている。部落解放同盟の指導者たちは、同盟員300人を市役所に送り込んで市行政を立ち往生させ、3日間にわたって市長の家を取り囲み、一晩中太鼓を打ち鳴らし、ガス、水道、電話線を使えないようにし、壁をよじのぼり、敷地内に侵入した。市長は最終的に同盟に同意したーー。
吹田で両者が対立したのは、住宅入居や各種事業の補助金、貸付金の支給をめぐる窓口問題であって、ラムザイヤーが記述しているように、建設業における契約云々の話ではまったくない。
<部落解放同盟は、市から市へと移動した>
次にラムザイヤーが取り上げたのは、大阪府羽曳野市での”騒動”である。部落解放同盟員が122時間にわたって市役所を占拠し、市長を22時間にわたって監禁したーー。
論文でそう述べているが、1973年に起きた���曳野の問題は、同和向け公営住宅の入居をめぐる解放同盟と共産党の対立であって、やはり建設業界の利権とはまったく関係がない。
<同時に部落解放同盟は、財政面で日本共産党を排除する必要があった>
利権問題でラムザイヤーが真っ先に挙げたのが、69年に生起した矢田問題である。大阪市内にある被差別部落・矢田を校区に含む教組の役員選挙で、共産党系の教師が書いた文章(「進学のことや、同和のことなどで、どうしても遅くなることはあきらめなければならないのでしょうか」などとする内容)が問題になった。
ラムザイヤーは、共産党系の教師が200人の部落民の面前で糾弾されたと紹介している。だが、そもそもの争点は、前にも述べたように、労働条件をめぐる文章が差別か否かを争ったのであって、カネの問題ではまったくない。
さらに兵庫県養父郡(現・養父市)において<1974年、八鹿で起った共産党系の教師たちに対する恐らく最も残酷な>事件が起る。八鹿高校事件である。部落解放研究会の設立を求めてハンストをおこなった生徒たちを無視した共産党系の教師を解放同盟が抗議・糾弾し、その過程で多数の教師が負傷した。
<日本共産党は、かつて最も信頼できる情報源では一度もなかった>
ラムザイヤーはここにきて、唐突にそう記す。<恐らく最も残酷な事件>だけに、慎重になったのだろうか。だが、すぐ前に触れた吹田・羽曳野・矢田の”騒動”は、中原京三や一ノ宮美成ら共産党系の執筆者が書いた書籍をそのまま引用している。信頼できないのなら、丸ごと引き写すのはおかしくないか。
共産党は信頼できないと述べたすぐあと<部落民のライターである上原善広は八鹿を訪れ、事件にかかわる人々を取材し、はなはだしい暴力の報告を受けた>と付け加えている。そこで何があったかという事実と、ライターの出自は関係ないだろう。部落出身だから信用できるわけではあるまい(私を含めて)。
共産党の情報源におもねりながらも、それは信頼できないとぬけぬけと書くラムザイヤーは、八鹿高校事件について、<そのときフィールドワークをしていた>人類学者のThomas Rohlenの報告から引用している。
<糾弾が終った時には、12人の教師が椎骨を含む骨折を負い、少なくとも13人は6週間の入院が必要だった。それ以外の5人も1ヶ月、15人が2~3週間、15人が1週間以上の入院を余儀なくされた>
事件のきっかけは、前にも書いたように部落解放研の設立計画であって、建設業の利権ではない。ラムザイヤーは対立の背景や発端を一切書かずに、暴力行為のみを執拗に引用している。
果たしてこれらの出来事・事件は、利権をめぐる解放同盟と共産党の争いの章に入れるべきだったのだろうか?
情報を整理する能力が、根本的に欠けている。<2020・12・16>
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覆される常識、日本美術の「独自性」は縮小していた 「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──? 美術史の研究が進むにつれて、日本美術に関するさまざまな常識が塗り替えられつつある。西洋や中国に目を向けて日本美術を世界の中で位置づけて鑑賞すると、一体なにが見えてくるのか? 美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。(全2回・前編/JBpress) (※)本稿は『そのとき、西洋では──時代で比べる日本美術と西洋美術』(宮下規久朗著、小学館)の一部を抜粋・編集したものです。 ■ 多くの美術品が現存する幸運な国、日本 日本は各時代にすばらしい美術作品を生み出し、今でもそれらは世界じゅうの人々に親しまれている。しかも、それらの多くが遺(のこ)っている幸運な国である。 隣国の中国や朝鮮半島、あるいはベトナムの場合、相次ぐ戦乱や侵略のため、古い時代のものは遺っていないことが多く、時代によってはきわめて大きな欠落がある。そうした時代の美術は、文献資料やのちの模本から想像するしかない。これに対し外国の侵略をほとんど受けたことのないわが国は、戦災や天災で多少のものが失われたとはいえ、縄文時代以降、各時代の重要な作品のほとんどは現存しており、きちんと美術の流れをたどることができる。世界を見渡すと、そのような幸運な国のほうがめずらしいのである。 明治期に近代国家が成立すると、国家の伝統や歴史を見直す作業の一環として日本美術史というものが構想され、明治33年(1900)にはパリ万国博覧会に際して日本最初の美術史と目される『稿本日本帝国美術略史』が編集された。以後、日本美術史は何度も書き換えられつつ徐々に精度を増し、部分的に更新され修正されることはあっても、そのストーリーの大枠はおおむね定着しているようにみえる。 ■ 「日本美術の特質」への問いかけ このような日本美術史を通覧し、現存する作品群を見ると、中国や西洋などさまざまな外来の美術に影響され、目まぐるしく変化してきたことがわかるが、同時にその底に流れる一貫した日本美術の特質というものが浮かび上がってくる。 たとえば和と漢、あるいは雅と俗という二面性が併存したかのよう見えるが、両者は複雑に融合していた。そして、中国や西洋の美術という外来文化の影響やそれに対する古来の様式という二項対立だけでは説明できない日本美術の独自性があると思われるのだ。 1925年、大著『サンドロ・ボッティチェルリ』をロンドンで出版して評価され、東西の美術について高い見識をもっていた美術史家の矢代幸雄(やしろ・ゆきお)氏は、著書『日本美術の特質』(1943年)において、日本美術の特質は、「印象性」「装飾性」「象徴性」「感傷性」の4つにあるとした。また、日本美術史の碩学、源豊宗(みなもと・とよむね)氏は、『日本美術の流れ』(1976年)で、西洋美術、中国美術、日本美術を象徴するモティーフをそれぞれ「ヴィーナス」「龍」「秋草」であるとした。日本美術を貫くのは、繊細な秋草の美学だというのである。 日本における中国美術の影響について先駆的な研究を遺した戸田禎佑(とだ・ていすけ)氏は、『日本美術の見方 中国美術との比戦による』(1997年)において、日本美術のもっとも重要な特質は「平面性」にあるとしている。 近年、『日本美術の歴史』(2005年)を書き下ろした辻惟雄(つじ・のぶお)氏は、日本美術の特質を、「かざり」「遊び」「アニミズム」という3つのキーワードで説明しようとした。日本美術にはつねに装飾性が見られ、遊戯性があり、自然崇拝の系譜があるというのである。また、東京大学で辻惟雄氏の後任であり、旺盛な活動を続けている美術史家、河野元昭(こうの・もとあき)氏は論文「日本美術の素性」(2010年)でこうした先学の見解を検証しつつ、日本美術の最大の特質は「シンプリシティー」にあると論じている。いずれの見解も傾聴に値するものであり、的を射ているように思われる。 ■ 縮小する「日本美術の独自性」 18世紀末から20世紀初頭にかけて流行したジャポニスムは、浮世絵を中心とした日本美術の絵画や工芸がフランスなど欧米の美術に作用し、日本美術が欧米の先進的な美術に影響を与えた稀有な現象であった。浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性は、西洋で伝統美術の様式を打破して新たな造形を生み出そうとしていた芸術家にとってタイムリーであったため、大きな刺激を与えることになった。しかし、皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を継承することはほとんどなかったのである。 また、これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら影響を与えたことはまったくなかった。 12世紀初めの『宣和画譜(せんながふ)』に、徽宗(きそう)皇帝(在位1100~25年)の所蔵する日本の屏風3点について、「金碧(きんぺき)を多用」しているが、「真」に欠けると批判されている。中国や朝鮮の人々にとって、日本美術は中央様式の地方化したものとしか映らなかったのである。 明治以前の日本で、海外で活躍した美術家は知られておらず、中国・元で客死した禅僧画家黙庵(もくあん)やマカオに追放されたキリシタン画家ヤコブ丹羽(にわ)の活動がわずかに推測されるくらいである。 さらに、日本美術の独自性というのは、たまたま日本には中国や朝鮮半島よりも多くの美術作品が遺っているために、そう思われてしまう場合も多いのである。 たとえば、平安時代のやまと絵は、かつては遣唐使廃止による国風文化の産物だとされてきたが、中国美術史の研究が進んだ現在では、やまと絵とされるものの大半は失われた唐宋美術を反映したものであって、その特徴のほとんどは和様化とはいえないということが明らかになっている。截金(きりかね)を多用した繊細で工芸的な平安時代後期の美麗な仏画も、かつては日本化の極みだとされて賞賛されてきたが、じつは、ほとんどが失われた宋代の仏画の技法を模したものであるということもわかってきた。 近年ブームとなった若冲(じゃくちゅう)や蕭白(しょうはく)ら江戸中期の奇想派については、京都の成熟した町衆文化が生み出したものであっても、明(みん)代の奇想派や長崎の来舶清人(らいはくしんじん)の影響によるものも大きいということが指摘されている。 つまり、日本美術の独自性と呼べる要素は、美術史研究の進展とともにどんどん縮小していっているのである。日本美術を正しくとらえようとすれば、その独自性や美質などにこだわらず、東アジア文化圏を中心とする世界の中で位置づけて眺める必要があろう。 宮下 規久朗 JBPRESS 7/8(月) https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=2 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=3 >「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──? 美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、 日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。 笑www この文章読んでいて、宮下 規久朗とかいう美術史の大センセーの、 自虐的なシナ事大主義的な独自性のないアホぶりがわかった。 この程度で大学教授なら、私にでもできそうな簡単なお仕事だなw この時代になっても相も変わらず、日本文化はシナ朝鮮より劣る的な、 或いは独創性はない的な、みたいなシナチョンスタンスの屁理屈を 大学のエラいセンセーがまことしやかに語っているのに笑った。 そもそも、世界のどの時代のどの文化においても、 完全無欠の民族の文化的オリジナルなどというものはない。 シナ文明も大陸の雑多な民族の文化的要素の��合体ではないか。 それを総称してシナ文明だの、エジプト文明だのと称しているだけである。 そしてその文化もまた他の様々な文化的要素と融合して発展し、 同時にまた、他の民族や地域の文化にも影響を与えるのである。 いわば文化文明は相互に影響しあって発展するものである。 それにこの宮下 規久朗とかいう神戸大学のセンセーって、 美術史が専門だそうだが、シナチョンに何か思い入れがあるのか? ちなみにこの宮下 規久朗センセーのツイッターはこんなの・・・ https://twitter.com/kikuroma 現在の大学にはこの手の人士が多いみたいですな・・・ この論評の■ 「日本美術の特質」への問いかけまでは、 いろいろな学者の日本美術の特質の紹介で、それぞれの説にも整合性があり、 またこれらの説のすべてがまた日本美術の特色ともいえるだろう。 問題はその次である・・・ ■ 縮小する「日本美術の独自性」って何なんだ? 宮下センセーの論文に通底しているのは・・・ 日本美術など所詮シナの物真似、 日本美術のオリジナリティなんて、 元々からないも同然なのだから、 特筆評価などする価値すらない、 ・・・ということらしい。
果たしてそうだろうか? >皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を 継承することはほとんどなかったのである。 そうだろうか? 私は浮世絵に代表される日本美術はその後の日本人も立派に受け継ぎ、 欧米の美術界に対しても少なからぬ重要な影響を与えつつ、 その後の日本美術にもまた、それを逆輸入してきた経緯があると思う。 「浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性」は現代日本画の世界においても、 日本のサブカルチュアを代表する漫画やアニメーションの表現においても、 グラフィックデザインの表現にも立派に受け継がれているではないか。 一応宮下センセーは明治以降の日本美術がジャポニズムと呼ばれ、 西欧の美術工芸界に大きな影響を与えた事は認めていらっしゃるが、 このことだけでも美術史における日本美術の価値は特筆に値する。 浮世絵に代表される日本美術がフランス・パリ万博からジャポニズムとして 全欧州に発信され、印象派(新印象派、後期印象派)やアールヌーヴォーが生まれ、 それがさらに発展してアメリカ現代美術に発展した経緯が美術史の流れである。 ジャポニズムがイズム=主義として表されている思想は無視できない。 それはシノワズリーという東洋趣味の流行とは大きく一線が引かれるべき、 いわば西欧美術思潮の一つのコンセプトでもあったからだ。

セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」 様々な角度から描いたヴィクトワール山の連作は、 北斎の富岳三十六景からインスパイアされたらしい。
ゴーギャン「マハナ・ノ・アトゥア」 この平面的な色面構成的な表現は浮世絵からの影響だ。

クリムト「接吻」
金箔を多用した大きな空間をとり単純化されたフォルム、 これも明らかに障壁画などの影響がうかがえる作品だ。
中でも西欧美術に影響を与えたのは江戸の町人文化だろう。 しかし宮下センセーはこれとてもシナ文化の影響にあるというが、 一部にそれらしきものがあっても、それがすべてではないと思う。 仮にシナの影響があったからといって、それが何だというのだ? シナの各王朝文化だって周辺の民族の様々な影響があったのだ。 先に述べたように、元来何の影響もなく発展した文化文明など皆無である。 北斎、広重、歌麿などの浮世絵師はもちろんのこと、尾形光琳の琳派系絵師、 伊藤若冲や丸山応挙などは現代美術を先取りしたコンセプトが確立していた。 立体造形でいえば安土桃山時代の織部好み陶器などはまさに現代美術だ。 以下に掲載した当時の巨匠たちの作品には、 現代美術の概念を先取りしたような先進性を感じるが、 宮下センセーのいうようなシナの影響下にあったがゆえに、 日本美術の独自性は縮小(ない)しているのだろうか?

尾形光琳「紅白梅図屏風」 川や梅の木を特徴を残して単純化させる意匠概念は、 のちに日本のデザインにも多大な影響を与えている。



伊藤若冲「鳥獣花木図屏風」 この絵は升目描きという、升目ごとに色をいれてモザイク画のように表現した。 現代風にいえばドット画像みたいなもので、このような手法は同時代にはない。 あえていえば新印象派のスーラの点描が近いが、概念が全く違う。

伊藤若冲「鶴図屏風」
墨をつかった白線描の作品。鶴の様々な姿態が単純化されたフォルムと
勢いある線の筆勢がいかされた、ある意味現代の漫画にも通じる作風だ。

丸山応挙「大瀑布図」 この絵は円満院というお寺の住職に贈られたものだが、この寺の庭に滝がなかったので、応挙はこの絵を庭木の枝に掛けて垂らし、下三分の一は地面に寝かせて滝つぼを表した。このような平面絵画を立体的に鑑賞するインスタレーション的手法はこの時代になかった。

丸山応挙「氷図」 湖面に張った氷のヒビを線一本のみで見事にあらわした傑作である。 無駄な要素を一切排除した究極の単純化で凍てつく寒さを表現している。


織部好み茶器 武将古田織部のプロデュースとでもいう「織部好み」の陶器は、「へうげもの」と称され、わざと歪めたフォルムや幾何学模様をあしらった伝統や形式にとらわれない実に現代的な表現だ。 ↑ これら一連の様式もすべて、 シナの模倣だというのか!? 以下はほとんど日本美術を腐すだけの屁理屈。 >これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら 影響を与えたことはまったくなかった。 当たり前じゃないか(笑) そもそも・・・ 日本は江戸時代に265年も鎖国をしていた国なのだから、 明治以前に日本の文物そのものが諸外国に輸出されることもないし、 あってもごくわずか、だから影響も与えるものではなかった。 こんな事日本の歴史をみれば高校生でもわかる話だ。 しかしだからそれ何だというのだ? いったい宮下センセーは何が言いたいのだ? この人は文化は影響を与えれば、 「エライ」と思っているようである。 だから明治以前の日本美術はシナ朝鮮に影響を与えていないから、 シナ美術の物真似レベルの評価に値しないものといいたいのだ。 宮下センセーの「影響を与える、与えない」にこだわる意図は何なんだ? じゃあ、明治以降の日本美術は先進国の西欧に大いに影響を与えたから、 すご~く特筆大書すべき価値があって、西欧より優れているということか? そうではあるまい。上述したように「文化は相互の影響で発展するものだ。 どちらの文化は優秀とか劣っているという問題ではないのだ。 宮下センセーの御説はまるで朝鮮人が 「これはウリジナルニダ~♪」というのを思い出す。 ルネサンス期の西洋美術も西域のイスラム教文化や遠くは、 インドやシナの様式にも影響を受けてきたことは近年の研究、 特に田中英道東北大学名誉教授の研究で明らかになっている。 しかしルネサンス絵画がその後のシナ絵画に影響を与えなかった事は、 西欧絵画が明朝や清朝の絵画より劣っているという事なのだろうか? 宮下流のコンセプトで見れば、こういう事ではないのか? さらに首をかしげたくなるのはシナと朝鮮を同列に置いて語っている事だ。 朝鮮など千年以上も歴代シナ帝国の属国属領に過ぎなかった植民地だ。 こんな国にオリジナルがあろうはずがなく、自ら小中華と誇った事大主義国だ。 なぜ宮下センセーはシナと朝鮮を同等に置きたがるのだろうか? 所詮は事大主義のシナの劣化コピー版が朝鮮に過ぎないのである。 まさか小中華思想が日本より優れている?というのではあるまいな?
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土呂久鉱害事件に関する覚書
(2002年1月22日成稿)
土呂久鉱害事件に関する覚書
宮崎���高千穂町の土呂久鉱山における亜砒酸製造に伴う慢性砒素中毒症は、大正期から戦後に至る長期にわたって継続した鉱害であったにもかかわらず、被害地域が僻遠の山村であったため長らくその存在が知られず、鉱山の閉山から10年近くたってから地元の教師の告発によって実態が初めて認知された特異な公害である。慢性砒素中毒症が4大公害病に続く指定公害病でありながら、現在あまり顧みられることが少ないことも考慮し、本稿では土呂久鉱害の経過を追うことで、近代日本社会の「闇」の一端に切り込みたい。
(1)土呂久鉱山の成立(1920-1933) 宮崎県岩戸村(現・高千穂町)の土呂久鉱山は、貞享年間(1684-1687)に銀山としてスタートしたものの、近代に入ってからは事実上休山状態であった。しかし、1920年、当時佐伯近郊の木浦鉱山で亜砒酸製造を行っていた鉱山師の宮城正一が土呂久鉱山から亜砒鉄鉱を採掘し、土呂久で亜砒酸の精錬を開始したことで一変した。日本の亜砒酸生産は第1次世界大戦期にドイツに代わる形で急成長し、主にアメリカに輸出されて綿花栽培の害虫駆除剤の原料などに使われていた。ところで、宮城が港町で交通の利便な佐伯から山間の土呂久へ移ったのには理由があった。地方紙『佐伯新聞』1917年4月29日付に次のような記事がある。
「懸案となり居りし当町字灘鳥越にある亜砒酸製造所の煙毒問題は今回所主宮城正一が農民に対して損害賠償をなし且つ製造所を移転する事となり、兎も角も一段落を告げるに至った」
宮城は煙害により地元住民から補償と立ち退きを要求されていたのである。つまり宮城は佐伯を追われ、亜砒酸製造が甚大な鉱害をもたらすことを知りながら土呂久へ移転したのであった。
亜砒酸は昇華点の193℃を境にして固体から気体へ、気体から固体へ変化する。この性質を利用し、亜砒鉄鋼を焙焼して砒素分を亜砒酸ガスとして流出させ、ガスを昇華点以下の空間に導き固体に戻して亜砒酸の結晶を採取する。当時、亜砒酸生産量全国一の足尾銅山では、銅の精錬の際に煙に含まれる亜砒酸をコットレル集塵器で回収する方法が採られていたが、土呂久にはそのような設備はなく、煙突に藁の覆いを被せるだけで、砒素を空気中に撒き散らし放題であった。そのため早くも1923年には亜砒酸による農業被害が地元で問題にあった。5月に行われた土呂久の部落自治組織「和合会」総会は鉱山側に「完全ナル設備ヲナシ事業ヲナサレン事」を要求することを決した。これに対し、宮城に代わって経営者となっていた川田平三郎は、1ヵ月50円の「交付金」を和合会に支払うことに応じたが、その見返りとして鉱山へ操業に必要な材料を提供することを求めた。鉱山側は要求を逆手にとったのである。
その後鉱害は甚だしくなり、特に牛馬の奇病が相次いだ。1925年、和合会は岩戸村長の甲斐徳次郎に対策を要求し、甲斐は西臼杵郡畜産組合の獣医である池田実と鈴木日恵に奇病で死んだ牛の解剖と鉱害の調査を依頼した。4月7日、鈴木は警察官立ち会いのもと解剖を行い、「連続セル有害物ノ中毒ニアラサルヤノ疑ヲ深カラシムルモノナリ」との所見を示した。甲斐はこの牛の内臓を宮崎県警察部衛生課に持参し、鑑定を依頼したが、県側は解剖後に内蔵へ亜砒酸が混入した可能性を理由に鉱害を否定し、現地調査を行ったものの調査結果を隠蔽した。一方、池田は「岩戸村土呂久放牧場及土呂久亜砒酸鉱山ヲ見テ」と題する報告をまとめた。池田報告は当時の土呂久の実状を生々しく伝えている。
「二、三十年モ経過シタ植林ノ杉ガ萎縮シテ成長ガ止リ、或ハ枯死シテ赤葉味又竹林ハ殆ンド枯死シ」 「妙齢ノ婦女ノ声ハ塩枯声デ顔色如何ニモ蒼白デアル、久敷出稼デ居ル人ノ顔面ハ恰モ天刑病患者ノ様ニ浮腫」 「山川ノ水ハ清ク澄ミ渡ッテ居ルガ、川中ノ石ハ赤色ニ汚レテ、三年前迄居タ魚類ハ今ハ一尾モ見ヘヌ」 「今ハ椎茸ノ発生デ忙シカラネバナラヌノニ、何ノ果報カ、此地ノ重要物産デアル椎茸ノ原木ヲミレバ、椎茸一ツ見ヘヌ。土呂久名物ノ蜂蜜モ、今ハ穴巣ヲ止ムルノミ」 「小鳥類ガ畑ノ中ニ死ンデ落チテ居ル事ハ年中ノ事で、何時デモ死ンダ小鳥ヲ畑ノ中ヨリ拾ッテ見セル事ガ出来ル」
この池田報告は1972年に高千穂町史編纂室で発見されるまで封殺された。
鉱害が拡大・悪化するに従い、農業では生計を立てられなくなった人々は鉱山で働くようになった。しかし、亜砒酸による健康被害は鉱山労働者に最も顕著であり、皮膚の亜砒負け、色素沈着、黒皮症、角膜炎、結膜炎、喘息、気管支炎、肝硬変などの症状に見舞われた。健康悪化に耐えられずに鉱山を辞め帰農する人も少なくなかったが、農業被害は増大するばかりで生活できず、結局収入を得るために再び鉱山に戻らざるをえなかった。あるいは椎茸の生えなくなった木を木材として鉱山に売却したり、完全に農業ができなくなった土地を鉱山に売却するという例もあった。鉱害はむしろ鉱山の事業を拡大する動因になったのである。
また被害と加害の重層性も深刻であった。鉱山の地主であった佐藤喜右衛門は鉱山から地代を得るのみならず、自ら採掘を請け負い、地元住民を労働者として勧誘し、鉱害に苦しむ農民からは加害者として忌避された。しかし、一方で彼は鉱山のすぐ近くに住んでいたために砒素中毒症に罹り、1930年から32年の2年間に彼の一家7人のうち自身を含む5人が病死した。部落で鉱山から収益を受ける者が増えるに従い、鉱害反対の足並みは崩れていった。
(2)土呂久鉱山の展開と終焉(1933-1962) 大戦景気によって始動した亜砒酸製造は、戦後不況によって急速に不振になった。1926年にはアメリカの綿花不況のあおりで生産量が激減し、土呂久鉱山も生産中止・事業縮小に追い込まれた。一方、1930年代になると、航空機の材料の国産化をねらう中島飛行機が錫を求めて土呂久に目をつけた。1931年、中島門吉(中島知久平の弟)が一部の鉱業権を獲得し、33年には中島商事鉱山部が土呂久鉱山のすべての経営権を取得した(後に岩戸鉱山株式会社設立)。
中島は当初亜砒酸よりも錫を重視し、1936年に錫精錬の反射炉を建設したが、この反射炉は錫から分離された砒素分が煙とともに空気中に飛散するという杜撰な代物であった。翌年、和合会は反射炉の煙害防止を鉱山側に要求し、その結果遊煙タンクが作られたが、煙害対策とは名ばかりで、実際はこれを利用して亜砒酸の採取が行われたため、鉱害はむしろ悪化した。また、経営者が変わったことにより1923年の交付金契約は無効となり、中島が和合会に亜砒酸1箱精製につき12銭の補償金を支払う新契約が結ばれたが、旧契約に比べて被害者が受け取る金額は事実上半減し、しかも補償金の分配を巡り和合会内部で対立が発生した。さらに1937年の岩戸村会議員選挙で、中島側は鉱山の会計係長を出馬させ、鉱山労働者を買収した結果、中島系候補が当選し、和合会系の現職は落選した。明治以来、土呂久出身者が議席を失ったのは初めてであった。鉱山は地方自治をも破壊したのである。
中島傘下となって土呂久鉱山は拡大し、最盛期には約400人の労働者が働いた。特に1930年代末頃から亜砒酸は毒ガスの原料として需要が急増した。「黄二号」ことルイサイト、「赤一号」ことジフェニール・シアン・アルシンが亜砒酸を元に作られ中国戦線に送られた。深まる亜砒酸鉱害に対し、ついに1941年和合会は鉱山との契約破棄を決定した。福岡鉱山監督局は和合会に説明を求め、代表6名が福岡へ行き亜砒酸製造の中止を��請したが、監督局の担当者は「非常時には、部落のひとつやふたつつぶれても鉱山が残ればよい」と言い放ったという。結局1941年11月選鉱場の火災により土呂久鉱山は休山し、所有権も中島から国策会社へ移行した。
土呂久鉱山は戦後1948年、銅や鉛などの採掘を再開した。再び鉱業権を獲得した中島鉱山(旧岩戸鉱山)は亜砒酸製造の再開を計画した。和合会は再開反対を決議したが、宮崎県と岩戸村の斡旋により、1954年、鉱山から和合会への協力金支払を条件に改良焙焼炉建設に同意した。土呂久婦人会は岩戸村に抗議したが、村長伊木竹喜は「鉱山のおかげで、岩戸村には鉱産税がはいりよる」と取り合わなかったという。
鉱山がその後、1958年7月の坑内出水事故により一時休山を余儀なくされ、翌年には住友金属鉱山が中島を事実上買収したが、往時の活性を取り戻すことができず、1962年経営不振により閉山した。その間も鉱害は続き、1959年には和合会が高千穂町(岩戸村吸収)に亜砒酸製造施設の廃止を陳情した。しかし、ついに閉山まで鉱害はやむことがなかった。
(3)土呂久鉱害の告発(1970- ) 1970年、宮崎県高城町の四家鉱山で集中豪雨により鉱滓堆積場のダムが決壊し、砒素を含む鉱毒が河川へ流出するという事故が起き、宮崎県は急遽県内の休廃止鉱山の調査を行った。調査の結果、土呂久川から飲料水基準の2倍の砒素が検出された。同年12月、土呂久在住の佐藤鶴江は、岐阜のカドミウム汚染の報道を聞いて不安を抱き、宮崎地方法務局高千穂支局の人権相談に鉱毒被害を訴えた。支局は土呂久鉱山跡を調査し、彼女に鉱毒被害の事実申立書を発行したが、法務局は専門医による因果関係の証明がないことを理由に申立書を留置した。またしても行政によって鉱害は隠蔽されたのである。
一方、高千穂町立岩戸小学校教諭の斎藤正健は、妻が土呂久出身であったことから鉱害の事実を知り、同僚とともに土呂久全世帯を対象に鉱害調査を行った。斎藤らの調査は1971年11月、宮崎県教職員組合の教研集会で報告され、新聞報道により全国的に注目された。斎藤報告は、①1913-1971年に死亡した92名の平均寿命は39歳である、②土呂久全住民の34%が呼吸器をはじめ疾患に罹っている、③土呂久の児童の体位は劣っている上に眼病が目立つ、④スギの年輪は鉱山創業期に生長が阻害されている、という驚くべき内容であった。大正期以来の鉱害がこの時はじめて公表されたのである。
土呂久住民に不安が高まる中、宮崎県は県医師会に委託して住民の一斉健康診断を実施したが、慢性砒素中毒症に認定されたのは7名だけで、県の土呂久地区社会医学的専門委員会も健康被害と亜砒酸製造との関係性を「現在の知見では十分に説明ができない」と肯定しなかった。宮崎県知事黒木博は住友金属鉱山と認定患者に補償斡旋を提案し、1972年12月、両者間に補償協定が結ばれたが、住友の法的責任には一切触れず、補償金額は平均240万円にとどまり、しかも将来の請求権放棄を定めていた。県側は患者との交渉を外部との接触を絶った密室で行い、十分な説明をしないまま患者に調印を強要した。その後、黒木は新たな認定患者に対しても同じ内容の補償斡旋を5次にわたって続けた。しかも県は斡旋受諾者に対して公害健康被害補償法による給付を含む公的給付を中止するという「いやがらせ」まで行った。知事斡旋は補償額を抑制し、被害者の口を封じることがねらいであった。
1973年、環境庁は慢性砒素中毒症を第4の公害病に指定したが、認定要件を皮膚障害に限定し、内臓疾患を認めなかったため、多くの被害者が認定されなかった。一方でこの頃から県外の医師による自主検診が相次いだ。同年2月には名古屋大学医学部講師大橋邦和が、74年には太田武夫ら岡山大学医学部衛生学教室が、75年5月には熊本大学体質医学研究所の堀田宣之が住民への自主検診を行った。堀田は10月にも同僚の原田正純らとともに1週間にわたる大規模な自主検診を行った。これらの検診結果は環境庁の認定要件とは裏腹に、砒素中毒による障害が皮膚に限らず、呼吸器や循環器などの内臓にまで広がっていることを示していた。
1975年12月、5人の患者と1遺族が住友金属に損害賠償を求め宮崎地裁延岡支部に提訴した(第1次訴訟)。続く76年11月には第2次、77年12月には第3次、78年3月には第4次の訴訟が起こった。土呂久訴訟最大の問題は、1次的に賠償責任を有する鉱山師も中島鉱山もすでに存在せず、被告の住友が正式に鉱業権を得たのが閉山後の1967年で、住友自体は亜砒酸製造を行っていないことにあった。住友側は全面的に争い、訴訟は長期化し、高齢の原告が相次いで死亡していった。1984年3月に下された第1次訴訟の1審判決は「土呂久地区という山間の狭隘な一地域社会が、そのただ中ともいえる場所での本件鉱山操業により、大気、水、土壌のすべてにわたって砒素汚染され、本件被害者らはその中で居住、生活することにより、長期間にわたって四六時中間断なく、且つ経気道、経口、経皮、複合的に砒素曝露を受けたもので」あると土呂久鉱害を正確に認め、鉱業不実施を以って鉱業権者の賠償責任は免責されず、鉱業法115条の時効規定も適用されないことを理由に住友へ損害賠償を命じる画期的な内容であった。
しかし、この1審判決をピークに土呂久鉱害は急速に風化していった。既に1980年頃には被害者の支援組織「土呂久・松尾等鉱害の被害者を守る会」が財政難による活動停滞に陥っていた。また、支援運動の中心であった総評系労組が「反公害」から「反原発」へシフトしつつあり土呂久鉱害への関心は相対的に低下した。1979年、補償斡旋を続けた黒木が受託収賄容疑で逮捕され知事を辞職し、翌年、後継知事松形祐尭は公害認定を巡る行政不服審査で県が敗訴したのを機に被害者へ公式に謝罪したが、依然として知事斡旋受諾者への公健法給付を認めなかった。一方、訴訟は住友の控訴により続き、1988年の控訴審判決は住友の賠償責任を認めたものの、補償額から公健法給付を差し引くよう命じる後退したものだった。住友はさらに上告したため、原告弁護団はついに水面下の和解交渉を行った。原告の高齢化と最高裁の状況を踏まえた苦渋の判断であった。1990年10月最高裁で原告と被告の一括和解が成立したが、住友の法的責任には触れず、賠償義務を否定し、公健法給付とは別に「見舞金」総額4億6475万円(1審判決の仮執行金と同額)を支払うという内容だった。1審判決も控訴審判決も被告の法的責任を認定したにもかかわらず、原告は訴訟の長期化に耐えることができずに訴訟自体には敗北したといえよう。
(4)総括 土呂久鉱山は、日本経済の工業化が急速に進展した第1次世界大戦期に始まり、戦間期の停滞を挟んで、15年戦争期には新興財閥の手で重化学工業の一端を担わされ、そして高度経済成長の開始により終焉した。その歴史は終始日本資本主義の発展過程に強く制約されたと言えよう。故に土呂久鉱害事件は局地的な鉱害ではあるものの、鉱山の杜撰な鉱害対策、鉱山への抵抗と依存の間で揺れる地域社会、一貫して公害の存在を隠蔽し民衆の声を潰した行政、公害反対運動の党派的分裂等々、近代日本の鉱害の一般的特筆を余すところなく有している。そしてついに根本的解決には至らず、現在も土呂久の自然が回復していないことは、鉱害が過去の問題ではなく、依然として現在的問題であることを示していよう。
《引用・参照文献》 斎藤正健「土呂久公害の告発とその後」Ⅰ-Ⅲ 『歴史地理教育』211、212、214号 1973年 川原一之『口伝 亜砒焼き谷』岩波書店 1980年 川原一之「土呂久鉱毒史」『田中正造と足尾鉱毒事件研究』5号 1982年 土呂久を記録する会編『記録・土呂久』本多企画 1993年
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