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休息はさぼりじゃないよ
名古屋市こころのケア 少しづつ、秋の気配を感じられる瞬間が増えてきましたね。 とはいえ、日中はまだ太陽が燦燦としている日もあります。 年々、気温の上昇がみられ秋になる事は、身体は夏を乗り越えた疲れが残っています。 休息について、頑張り屋さんの方は「さぼっている」と感じてしまう事があるようです。 何かに、頑張って取り組み、前向きな気持ちで生活をし、泣き言を話さないことが美しいと感じてしまう事もあります。 ですが、人は感情もあり、心も身体も日々変化が起きるものです。 いつもいつも、元気でいられるわけではありません。 心に溜めている言葉や思いを口にすることで、話したからこそ、翌日すっきりするものです。 自分の耳はしっかりと、自分の辛い気持ち、嬉しい気持ち、悲しい気持ち、不安な気持ちを表した言葉を聞いてくれます。 自分の言葉を聴いて、改めて「自分の気持ち」を認識したりするのですよ。 是非、休息…

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民主党政権のほうが明らかに酷いです。「民主党政権の何が悪夢だったのか、きちんとした説明を聞いたことがない!」といった主張は定期的に出現しますが、さすがに「聞いたことない」なんてはずはないので、おそらく「自分の気に入る説明ではない」という意味か、「バカに分かるように説明したところで、そもそもバカは聞いてない」パターンのいずれかとは思いますが。 前回の悪夢のような民主党政権時代を生き抜いてきた者として私が言えるのは、「とにかく、あのような惨劇は二度と繰り返してはならない」ということだけです。 歴史修正は容赦できません。あの時代がいかに酷いものであったか、ご存知ない方もぜひこの機会に知って頂きたいので、支持者から叩かれること覚悟で説明していきますね(過去同様の投稿を複数おこなっていますが、毎回更新改訂しています。今般のバージョンが最新版です)。 個人的に、「悪夢の民主党政権」における大きな問題点は次の3点と考えています。 (1)国家運営能力の欠如により、内政上の失敗を数多く引き起こし、国益を損ない続けた。 (2)拙劣な外交を繰り返し、日米関係をはじめ、周辺諸国からの信頼を大きく毀損した。 (3)総���・閣僚をはじめとする所属議員の度重なる不祥事や、自分たちに都合が悪い情報を隠蔽する体質によって、国民の政治に対する信頼を失い続けた。 では、それぞれどんなことがあったか振り返っていきましょう。これがわずか3年間で起きた出来事です。はらわたが煮えくり返る覚悟で読み進めてください。 (1)国家運営能力の欠如 ・財源の見込みが甘く、政権交代の際に掲げたマニフェストはほぼ未達成。 ・官僚を敵視して排除し、国家業務の停滞と質低下を招いた。 ・金融政策と財政政策が食い違い、タイミングの悪い増税も重なり、景気や株価は低迷を続けた。 ・歴史的水準まで進んだ円高を放置し、デフレを加速させた。 ・法的根拠がないばかりでなく、仕分人の選定や対象事業選定にも透明性を欠いた「事業仕分け」をデフレ時におこない、必要な公共投資を削減。経済を悪化させたにも関わらず、結果に責任を負わなかった。 ・「コンクリートから人へ」という誤った政策により、災害対策を疎かにしたうえ、地域社会を破壊した。 ・「朝鮮王室儀軌引渡」「尖閣事件の船長釈放」「運用3号通知」「国家公務員採用大幅減」など、閣僚たちが思い付きレベルの意思決定を独断でおこない、結果的に我が国の将来に禍根を残した。 ・難民申請から6カ月たった申請者に対し一律に就労できる運用を始めた。 ・法的根拠のない組織を乱立させ、意思決定過程が曖昧になり、指揮命令系統も混乱。 ・法的根拠のない大臣や副大臣を任命したり、個人的な友人を参与に、党職員を内閣官房職員に任命するなど、ルールを無視、公私の別がつかない人事を実施。 ・原発停止、ダム建設中止など、法令根拠や事前協議が必要な決定を手続無視で断行。 (2)外交能力の欠如 ・普天間基地問題が迷走し、沖縄とアメリカの信頼を大きく損なった。 ・来日したオバマ大統領を日本に残したまま、鳩山総理がAPEC首脳会議に出席するためにシンガポールに向かうという非礼行為。 ・尖閣沖漁船衝突事件では、中国側の脅迫や報復に屈して船長を早々に釈放、不起訴に。その後の尖閣諸��国有化でも迷走。 ・領空侵犯が頻発するも、実効的な対策をとらず。 ・防衛上特に秘匿することが必要な「防衛秘密」3万件を破棄。 ・韓国に対しては、通貨スワップ協定締結、朝鮮王室儀軌引渡し、慰安婦問題での「知恵を絞っていきたい」発言など、不用意な譲歩を重ねた。 ・韓国の歴代大統領として初めて、竹島へ李明博大統領が上陸。 ・旧ソ連時代を含めて初めて、北方領土へロシア国家元首が上陸。 ・実現に向けた方策が何ら決まっていない状態で、国連気候変動サミットにおいて「CO2の25%削減」を突如国際公約化。 ・実現の見込みも全くないまま、G8の場で、「太陽光パネルを1000万戸に設置する」と突如国際公約をおこなった。 (3)閣僚・所属議員の度重なる不祥事と情報隠蔽体質 ・鳩山総理⇒偽装献金問題、脱税問題、引退撤回、「最低でも県外」「Trust me」「国民の皆様が聞く耳を持たなくなった」 ・菅(直人)総理⇒外国人献金問題、北朝鮮関係団体献金問題、「顔が見たくなければ法案を通せ」 ・野田総理⇒在日韓国人献金問題、脱税企業献金問題、民団選挙協力お礼発言、「大きな音だね」 ・小沢元代表⇒政治資金規正法違反容疑で強制起訴(無罪判決)、献金虚偽記載で公設秘書が逮捕(有罪判決) ・仙谷官房長官⇒尖閣漁船衝突事件、「自衛隊は暴力装置」 ・赤松農水大臣⇒口蹄疫問題、「だから早く殺せって言ってるのに」 ・松本復興担当大臣⇒「知恵を出さないやつは助けない」「書いたらその社は終わりだ���ら」 ・長妻厚労大臣⇒運用3号独断決定、職務停滞 ・蓮舫行政刷新担当大臣⇒事務所費架空計上問題、国会内ファッション雑誌撮影、「2位じゃダメなんでしょうか?」 ・安住財務大臣⇒「1ドル75.63円の時点で介入を指示した」「学校のプールにガソリンを貯蔵できないか」 ・前原外務大臣⇒外国人から政治献金受領 ・岡田外務大臣⇒「核兵器めぐる日米密約は存在した」 ・川端文科大臣⇒事務所費架空計上問題、キャバクラ費用を政治資金で計上 ・鹿野農水大臣⇒対中不正輸出疑惑、機密漏洩疑惑 ・鉢呂経産大臣⇒(記者の一人に、着ていた防災服をなすりつけ)「放射能つけちゃうぞ」「市街地は人っ子一人いない、まさに『死のまち』」 ・一川防衛大臣⇒「安全保障に関しては素人」 ・柳田法務大臣⇒「答弁は二つだけ覚えておけばいい」 ・山岡消費者担当大臣⇒マルチ商法業者からの献金問題 ・岡崎国家公安委員長⇒議員時代、韓国で日本大使館に対する反日抗議デモに参加 ・中井国家公安委員長⇒議員宿舎にホステス連れ込み&カードキー貸与、式典で秋篠宮ご夫妻に「早く座れよ」とヤジ ・輿石幹事長⇒「間違った情報ばかり流すなら、電波を止めてしまうぞ」「電波が止まったら、お前らリストラどころか、給料をもらえず全員クビになるんだ」 ・小林議員⇒違法献金問題で選対委員長が逮捕、選対幹部が公職選挙法違反で有罪 ・土肥議員⇒竹島領有権放棄を日本側に求める「日韓共同宣言」に署名 ・横峯議員⇒賭けゴルフ、女性暴行、恐喝事件への関与 ・緒方議員⇒「スーパー堤防はスーパー無駄遣い」 ・太田議員⇒「そうでしたっけ? フフフ」 ・原発事故対応(SPEEDI、米実測値の非公表、議事録不作成など)、尖閣ビデオ、北朝鮮ミサイル発射への対応、温暖化対策の家計負担、年金改革の財政試算 など、自分たちに都合が悪い情報は隠蔽し、政府への深刻な不信感を招いた。 ・総理-閣僚間で見解の方向性や意見の不一致が常態化。それらも含め、自民党で同様の事態があれば野党のみならずマスコミも総出で吊し上げられる事態となるが、マスコミも概ね民主党に好意的な報道姿勢。 そんなに民主党時代が良かったなら、下野以降何度でも政権を取り戻すチャンスはあったはず。なのにただ一度もそうなっていないということは、それが民意ということです。私はあんな地獄のような時代は二度と御免です。
Xユーザーの新田 龍さん: 「民主党政権のほうが明らかに酷いです。「民主党政権の何が悪夢だったのか、きちんとした説明を聞いたことがない!」といった主張は定期的に出現しますが、さすがに「聞いたことない」なんてはずはないので、おそらく「自分の気に入る説明ではない」という意味か、「バカに分かるように説明したところで」 / X
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
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“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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四日目に予定していたツアーに行く。アフリカプレートとユーラシアプレートの出会うモロッコ、イタリアは地震が多い。そして、北アフリカのアトラス山脈は、プレート運動によるもの。非常に複雑なプレートなのだ。ちなみに4167mの北アフリカ最高峰のツブカル山近辺では、冬はスキーもできるざます。嫌、ワシはスキー好きだけど、ここにはスキーでは来ないけどね。
そこでワシが見たいのは、ズバリ、プレート運動である。我ながら、なんとマニアックなんだろう。流石、学生時代に地理学者の高木先生と251と言われた国土地理院の25000分の1縮尺地形図を持って藤沢近辺歩きまくったり、ネパールまで一緒に行っただけあるざます。まだ紙の地図の時代。等高線を赤鉛筆でなぞったりして、標高毎の土地利用を見たり、土地利用から地質を推測したりと楽しかった。高木先生は、慶應退官後どっかの大学の学長やってたけど、先生なら当然だろうと思う良い先生だった。そこで、渓谷巡りしながら、アイットベンハドゥというカスバを目指す。カスバとは、アラビア語で城塞、城砦を指す。
一緒に行くのは、ベルギーのリエージュから来た若い夫婦。こんなに乾燥しているのに、嫁は粘度の高そうな鼻水を何度もかんでいた。ワシなんか、乾燥しすぎて鼻粘膜から鼻血が出る上に、勝手に修復活動しているから、ともすると、鼻の奥の粘膜部分にできてしまう巨大鼻くそで窒息しそうになる。鼻かんでも出てこないざます。ので、ベルギー人が羨ましい。ベムでさえ棒よだれタレなさそうな勢いの乾燥度合いの中、さすがエウロッパ人の粘液体質である。感動。ツアーガイド兼運転手のお兄ちゃんには、早々とワシがフラ語をわかっている事がバレる。細かな、例えば地震とかいう単語は知らないけれど、文脈でおおよその予測はつく。だんだんと、フラ語でしか説明されなくなる。汗。


アイットベンハドゥを目指し、午前中は、ツブカル山側の渓谷。山並みが美しい。感動的に不毛な大地。人々は、オリーブやアルガンなどを育てて、羊飼いなどをしながら生計を立てているらしい。でも、段々と都会に楽な仕事と現金収入を求めて出稼ぎに行っているらしい。道路建設や、昨年9月もマラケシュで大規模地震があったが、復旧工事などが地元である間は、生活が潤うのだとか。現金収入を手にしてしまうと、元の生活に戻れなくなるのは世の常なんだなぁ。福島の祖母の家の周りの急速なにわか金持ち達の家々を思い出す。日本は、豊かである。こちらは、家は壊れたまま、未だにテント生活しながら、干し煉瓦と干し草と土で固めた家を、少しずつ、自分の手で再建している。神戸と東北震災の差異を感じたものだったが、ここまで来ると、政府なんてあって無きが如くである。などと思いつつ、絶景を堪能。
午前中にアイットベンハドゥに到着。世界遺産。そして、映画の撮影地でもある。アラビアのロレンスを撮影したのはここ。その後、ハリウッドはここからまだ南下するワルザザートに撮影所を作っている。多くの観光客は、そちらへ行くらしいが、ワシ一切興味無し。入場料払って撮影所に行くのは、太秦でさえ行かないんだから、モロッコで行くわけないでしょ。
太秦といえば、コロナ中に、母を連れて、憧れのトロッコに乗りに行ったっけ。ワシは、予約無しでトロッコに乗れた事に、感動。と同時に、子供の頃、信楽で買ってもらったタヌキを思い出さされるタヌキだらけの駅を通り、タヌキ熱にかかってしまった。今年、久しぶりに車で関西に帰る途中、憧れの信楽タヌキをまたゲット。前回の、つぶらなお目々に惚れて買った子は割れてしまったので、母が随分と前に捨てちゃったのよね。

アイットベンハドゥです。手前は、川。橋もあるのだが通行料を取るらしいので、鴨川のように飛び石になっている無料の渡し場を通って、暑い中、ワシ、頑張って、上のぴょこんとなっている丘の上まで、城塞都市を通り抜けながら、登山。あのぴょこんとなっている所には、攻められた時用の食料が置いてあります。今は半壊になっていました。このカスバには、まだまだ人が生活していて、世界遺産だから、土産物屋とカフェ、ホテルだらけ。ホコリっぽく暑い。けど、おまけに迷路です。
ワシ、道がホウキで封鎖されているので、戸惑っていると、中からこすっからい感じのババァが出てきて、その道通れない。我が家を抜けてこっち通れ。近道あるよ。1ユーロに当たる10ディルハム払え。という。マジかーと思ったが、もう今さら戻る気にすらならないよ。何段階段登ったんだよと愚痴り、お金を払う。もっと最悪な事に、近道という道は、確かに近道だが、上からペットボトルなどのゴミが流れる、いわゆる砂防のような砂利道斜面。膝悪いワシには最悪。ゴミを避けながら、滑り落ちないように、足場を確保しつつ、たまには手もついて、必死に登る。一歩滑ったら、そのまま崖である。冷や汗出まくりだけど、暑い。ワシ、山登りしてて良かった。普通の人なら、無理レベルだと思う位に、斜度がきついし滑る。
興味深くお宅拝見できたのは良かった。水が来ているのだ。どうやって水を上げているのか、不明。気になる。けど、カスバの頂上には何も水関係の施設がなかったので、多分、下から川の水をポンプで汲上げしているのだろう。面白い事に、郵便も届くらしく、玄関と思しきドアの横には、郵便ポストもある。中は、分厚い壁のために���嘘みたいにひんやりと涼しい。そして冬は暖かいのだという。やっぱ壁の分厚さによる断熱だよなーとワシは思う。ドイツとか北欧の家も、壁分厚いもん。日本の薄壁に断熱ウール入れて、断熱してまーすってやっぱ、どう考えてもなんちゃってだろう。ワシは��ワシの部屋のクーラーをママが買い替えてくれたので、国士舘柔道部出身のおッちゃんの工事の一部始終を詳らかに観察したが、これで断熱って、騙されてるーと思ったっけ。
パッシブソーラーハウスの典型として出てくるモロッコの住宅。壁分厚く、中にパティオを作って水を流すので、適度な湿度が保たれ、冬温かく夏涼しいと、建築学の本で読んだ通り。昔の人の方が賢い。風土に合った建築を作っている。え、まてよ。日本は、なぜあそこまで寒さに耐えなくちゃいけない家なんだ。。。東北の家の中にある蔵、内蔵は温かそうだけど、あれが持てるのは金持ちだけだしなぁ。。。オンドル無いし。辛すぎやろ。ワシ、暑いのも寒いのも苦手な段ボール箱の箱入り姫様ですねん。
昼食は道中の村でタジン鍋。ワシ、下痢中なので、控えめに食べる。帰路は、アトラス山脈側の渓谷。運転手が、急遽、古代からの塩田に連れて行ってくれた。白いのは塩。雨が降ると、地面から滲み出て、塩田になるらしい。舐めてみると、とても優しい塩だった。昔、この辺り一帯は海。それがユーラシア大陸とぶつかって隆起している。道端の土産物屋では、アンモナイトに三葉虫などの化石がたくさん売られている。感動しているのは、当然ワシだけ。ベルギー人夫妻の感動ポイントは、良く分からない。向こうも、ワシがなぜ、sel de fleurと大騒ぎしておるのか、さっぱり意味不明だっただろう。ここは、昔、海韃靼だよと言っても、アホにな何も通じない。アホってマジで救いようない。



この上の写真を観ているだけだと、完璧に、アルゼンチンのサルタ、フフイの感じ。ワシ、地球の活動に感動。地球は生きとる。そして、美しい。人間の無知なんて、ここでは、笑いものにすらならない。無知な奴は死ぬだけ。ラクダのキャラバンに必ず一頭はロバをつけるのは、ラクダは水分なら何でも飲んでしまうらしいが、ロバは危険な鉱物が入った水は飲まないらしい。なんなら緊急時、ラクダのオシッコでさえ貴重な水分源になるキャラバン隊にとって、ラクダが飲めるからと言って、オシッコ活用しなきゃいけない時にラクダちゃんの身体がろ過した危険鉱物をいただく訳には行かないのだ。だから、まずはロバに水を飲むか確かめさせてから、人間もラクダも水を飲むらしい。いやぁ、侮れないぞ。ロバ。
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くれたけ心理相談室(知多支部)の新舞子ルームを紹介いたします。このルームは知多市に位置し、海からわずか5分の距離にあります。以下が詳細な情報です: **名前**:新舞子ルーム **所在地**:〒478-0036 愛知県知多市新舞子(駐車場完備) **最寄り駅** 名鉄新舞子駅(徒歩15分、無料送迎あり) **対応エリア**:知多市、東海市、半田市、常滑市、その他のエリアの皆様にもご利用いただいております。 田中絵里カウンセラーは、人間関係のお悩み、恋愛相談、夫婦関係の修復、介護に関わる悩み、仕事の悩み、コミュニケーションのお悩みなど、様々なご相談に対応しています。彼女は「ご自身を大切にしてほしい」という願いを持ち、お悩みを解決へ繋げるサポートをさせていただいております³⁴⁵。 どうぞよろしくお願いいたします。#心理カウンセリング #新舞子ルーム #くれたけ心理相談室 ソース: Bing との会話 2024/3/15 (1) 知多市(新舞子ルーム)アクセス | 田中 絵里 公式サイト(くれ .... https://eri.counseling1.jp/chita/. (2) 知多市カウンセリング | 田中 絵里 公式サイト(くれたけ心理 .... https://eri.counseling1.jp/2024/01/08/chitashicounseling-tanakaeri/. (3) 知多の相談ルーム | 田中 絵里 公式サイト(くれたけ心理相談室 .... https://eri.counseling1.jp/2023/03/10/chita-room/. (4) . https://bing.com/search?q=%e3%81%8f%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%81%91%e5%bf%83%e7%90%86%e7%9b%b8%e8%ab%87%e5%ae%a4%e7%9f%a5%e5%a4%9a%e6%94%af%e9%83%a8%e3%81%ae%e6%96%b0%e8%88%9e%e5%ad%90%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%83%a0. (5) くれたけ心理相談室. https://counseling1.co.jp/.
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デジタルより逆に"新しい?" 「アナログ」人気が再燃
広がるアナログマーケティングとは?

身の回りがどんどんデジタル化し、便利になっていく現代。物心ついた頃からデジタル技術に囲まれた生活が当たり前な「デジタルネイティブ世代」の人々も増えつつある今、逆に「アナログ」ブームが訪れていることをご存知ですか?
形として手元に残ったり、ちょっとひと手間かかるというある意味の面倒さがむしろ新鮮だと、今再注目されています。今回は、意外なきっかけで価値を見直され、売上にも繋がった
「アナログ」再流行の事例を一部ご紹介します。

希少価値で生き残る レコード工場
レコードの売り上げがCDを上回る”逆転現象”

ニューヨーク・ブルックリンの西、サンセットパークで若い夫婦がレコード工場を始めた。音楽がCDに移行し、レコードは廃れ、そのCDさえもデジタル配信に取って代わられる現代。時代錯誤とも言えるレコードの製造を始めた。しかも、レコードのプレス機は1台だけ。この工場は経営を続けられるのか。 しかし、そんな心配は無用だった。
アメリカ国内にあるレコード工場の多くは大手のレコード会社からの注文を受けている。インディーバンドや小さなレコードレーベルはこの工場に発注するしかない。そのため創業当初からニーズは絶えずあった。ロックの大物女性アーティストが自分のレーベルを立ち上げて、発注することもあった。
おかげで、プレス機が間に合わないほど注文が舞い込み、もう1台導入してもすぐに注文でいっぱいになった。「もっと早くできないのか」と急かされて嬉しい悲鳴を上げている。 ブラジルのアーティストがレコードを作ったことがきっかけで、ブラジルからの仕事依頼も多く舞い込むようにもなった。休暇でニューヨークに来たついでにレコードを作る外国のアーティストもいて、彼らの滞在期間中にレコードを製造することも。小さな工場だから融通が効く。このように注文が集まり、
年間100万枚以上のレコードを製造している。
古いものの価値を再認識して事業に活用
■信頼できる小売店だけに卸す酒蔵

ネットの誰でも書ける、依頼できる”マーケティング口コミ”に頼らないことが信頼を生む
和歌山県の酒造会社は、杜氏に依��せず、社で製造するという新しい取組みを行っている。だが、販売方法は新しくない。酒問屋を通さず、ネット販売も行わない。酒屋の主人と話して酒の好みも考え方も知り、酒蔵に招いて酒造りを見てもらった店だけに卸すのである。 いい酒屋にはいい常連客がいる。その酒屋にいい酒を卸せば、話題は自ずと広まる。そのためには、まず酒蔵と酒屋との間に信頼関係を築く必要があるからだ。

古風なアナログでの口コミ戦略が功を奏し、売り上げは増えて、年間で20万本売れている。
■氷式木造冷蔵庫が復活

埼玉県川越市の木工所は昔、氷式木造冷蔵庫を製作していた。
高さ90センチほどの木の箱で、中は上下に分かれている。上の段に氷を入れて、その冷気で冷やすという仕組みだ。一般家庭で見ることはなく、製造もされなくなった。
数年前、同社が偶然見つけた氷式冷蔵庫を修理したのがメディアで取り上げられ、レストランから問い合わせが入るようになった。氷で冷やすから温度は10度前後、適度に湿気があり、魚や野菜の冷蔵に適するため、和食店や寿司屋からの注文が多い。電気式と違って振動がないから、貯蔵に気を使うワインセラーからもオーダーがある。すべて受注���産だが、月1台ほどのペースで注文が入っている。
インスタントカメラ、カセットテープ、デジタルの時代にアナログ商品が人気に
■インスタントカメラの売上が急増

カメラはフィルムからデジタルへと移行したが、
今アナログのインスタントフィルムカメラが売れている。
1990年代に発売されたこのカメラ、デジカメの普及によって売上が落ちた。しかし、韓流ドラマの小道具で使われたことや、中国の女性タレントがSNSで紹介したことから、アジア圏を中心に人気となった。今では、欧米にも市場が広がりつつある。
購入するのは10代から20代の女性が主で、フィルム独特の写真の色合いや、撮影してすぐプリントできることが彼女たちの目に新鮮に映るという。
■カセットテープに大きな復権の兆し
音楽ではCDの売上が減り、ダウンロードが増えているが、いまカセットテープが注目されている。
若いアーティストがサンプルとして、楽曲を録音したカセットテープをCDショップで無料配布したり、CDのおまけにつけた。カセットデッキはCDのように頭出しができない機種が多いため、最初から1曲ずつ聞くことになる。そこがアーティストには魅力的だ。 カセットは、若い世代にとってそれ自体が珍しく面白い存在。40代、50代にとっては懐かしいアイテム。60代、70代は今でも使っている人も多い。ビートルズ世代が年配になり、音楽は好きだがダウンロードは好きになれないという人にとって、カセットは欠かせない存在だ。今でも一定量の販売があり、メーカーも、種類は少ないが、製造を続けている。
再生するラジカセの方が不足気味だという。
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003年4月15日夜、福岡市中央区の日本語学校に魏と王、楊らが職員室に忍び込み、現金約五万円を盗んだ。そこは王が在籍していた学校だった。王、楊はその1月にも、同区のファストフード店に侵入し、現金230万円を盗んでいた。ここは楊のアルバイト先。4月9日には魏が別の中国人留学生2人と共謀し、中国人留学生から現金約26万円を奪うという事件も起こしている。 「3人で何かやろう」 5月上旬には、楊のアルバイト先だった同市博多区のラーメン店経営者襲撃を計画する。「面識があると発覚の危険性が高い」として断念したが、この時すでに「殺害して金を奪う」ことを念頭に置いていた。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
中国人留学生
王亮(ワンリャン 当時21歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は土木会社を経営し、裕���な家庭に育った。02年春、日本の大学進学を目指して福岡市内の日本語学校に入学し、同級生とともに寮で暮らし始めた。当初授業の出席率は96%と高かった。(出席率が95%以下になれば入国管理局に報告されるという。さらに低くなると強制送還される)だが王はこの年の9月、同級生とトラブルを起こし、その時の学校の対応に不信感を抱き、ほとんど学校に出てこなくなった。同級生によるとこの頃から王の様子が変わっていったという。03年4月の時点で、王はMさん宅から700mほどのところにある家賃2万円のアパートに楊とともに住んでいた。5月15日に日本語学校から、このままで除籍処分になると通告された。就学生が除籍処分されると、就学ビザを取り消され不法滞在になる。王は1度中国に帰り、両親に再編入のための授業料の工面を依頼していた。だが、両親が王持たせたはずの授業料は学校に納めておらず、除籍処分となっていた。
楊寧(ヤンニン 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は長春市の中日友好協会に勤め、母親は同市の製紙工場に勤務。王とは両親同市が古くからの知り合いだった。01年10月に就学ビザで来日し、日本語学校を卒業した後、私立大学国際商学部に入学し、アジアの貿易経済について学んだ。02年には1科目を履修しただけでさぼり、後期には病気と称して休学したが、実際は福岡市内のハンバーガーショップでアルバイトをしていた。03年4月に1度は復学したが、年間50万円余の学費が払えず、納入期限の6月末を前に「親から学費を受け取るために一旦帰国する」と大学側に説明して出国した。この時、実家には戻っていない。
魏巍(ウェイウェイ 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
河南省出身。父は工場を経営する資産家。魏自身も高校卒業後、3年間人民軍(※)で班長を務めた。その後大連の外国語学院で日本語を学び、日本留学後は先端技術を学ぶという希望を持ち、01年4月、福岡の日本語学校に入学している。02年4月には予定通り、コンピューターの専門学校に入学した。ここでは成績もよく、奨学生候補だった。故郷には恋人もいて、ごく普通の学生だったが03年になると一転して学校を欠席がちになった。魏のアパートには中国人の女性が何人も出入りするようになり、4月には留学生仲間と中国人宅に押し入り、26万円を強奪、6月には知人の女性に暴力をふるったとして傷害容疑で逮捕された。この頃、インターネットカフェにしばしば通うようになり、王や楊と知り合った。4月9日にはかつて住んでいたアパートへ強盗を押しこんだこともある。また、他人名義で携帯電��を契約する詐欺も働いている。金にも対して困っていない優秀な学生だった彼が、03年春を境に突如犯罪行為を繰り返すようになっていた。
出典blog-imgs-34.fc2.com
福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
Mさん一家
殺害されたMさん一家は、Mさん(41歳)、妻C子さん(40歳)、小学6年の長男K君(11歳)、小学3年生の長女H子ちゃん(8歳)の4人暮らし。 Mさんは1962年福岡市で生まれた。私立博多高校を中退し、中州のクラブ勤めを経て上京。東京・麻布十番の焼肉店などで修行した後、88年に福岡市中央区で韓国料理店をオープンさせた。この店は繁盛し、有名人なども多く来店、テレビでも紹介されるほど有名店になった。その後、東区にも別の焼肉店を開店し、売上も好調だった。 C子さんも福岡県出身。九州女子高校を卒業後、94年頃まで化粧品会社の美容部員として福岡空港の国際線ターミナル店で働いていた。MさんとC個さんは高校時代から交際しており、90年5月に結婚した。Kくん、H子ちゃんも生まれ、幸せ家庭を築いていた。 しかし、最初の悲劇が起こった。01年9月、BSE(牛海綿状脳症)騒動が起こり、その煽りを受けて経営していた両店は廃業に追い込まれたのである。 MさんはC子さんの親族と一緒に婦人服販売会社を始めるが、売上が低迷、さらに東区の焼肉店開店のために自宅を抵当に入れて借りた4000万円の返済も滞るようになった。 03年3月、夫婦は婦人服販売業の業績が上がらないことから、C子さんの親族から独立して、衣料品などをデパートに卸す仕事を始めた。その2ヶ月後、Mさんの知人から休眠中の会社「W」を継承して復活させた。C子さんを社長にして、衣料品販売業を本格的に乗り出した。 また失業し、金に困ったMさんは闇ビジネスと呼ばれる仕事にも手を広げていく。事件後、家宅捜索で福岡市中央区のマンションから大麻草が発見されている。Mさんは大麻草を栽培して、売りさばいていたとされている。 またMさん一家は94年から96年にかけて、外資系生保会社と、99年には国内の生保会社と、一家4人の生命保健契約を締結した。保健金額はMさんが1億2000万円、C子さんが2500万円、KくんとH子ちゃんが各2100万円の総額1億8700万円に上り、その月々の保険料は14万円近くになっていた。 ちなみにMさん一家は王、楊、魏の3人とは面識はなかった。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
強襲
凌遅刑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%81%85%E5%88%91
凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。また「水滸伝」にも凌遅刑の記述が記載されている。また、この刑に処された人間の人肉が漢方薬として売られることになっていたとされている。この刑罰は李氏朝鮮(朝鮮王朝)でも実施されていた。また、これに酷似したものとして隗肉刑がある。
Mさんの帰宅
日付が変わって翌午前1時40分頃、Mさんが帰宅してきた。愛車のベンツC200に乗って、自宅の車庫前まで帰ってきた時、携帯電話で友��と会話している。Mさんは「今、家についた。これから駐車場にいれるから、後でかけ直す」と電話を切ったが、その友人に再び電話がかかってくることはなかった。家に入ろうとしてきたMさんを犯人達は玄関で待ち伏せていた。工事現場から盗んできた鉄パイプを、いきなり後頭部を殴りつけた後、前に向かって横から額を殴り、さらに左目周辺や頬を殴ったり、全身を蹴ったりした。さらに犯人達は2階で失神していたH子ちゃんを担ぎ下ろし、父親の目の前でいたぶったり殴打しながら、Mさんに何かを聞き出そうとリンチを加え続けていた。だが、Mさんはなにも答えず、「用がなくなった」ということで、H子ちゃんの首を絞めて殺そうとした。Mさんは土下座して、「娘だけは助けてくれ」と言ったが、彼らはこれを嘲笑し、殺害した。さらにMさんの首を白いビニール紐で絞め、気を失った彼を浴槽に浸けて溺死させた。 3人は一家の遺体を運びやすくするため、まずMさんの両手に手錠をかけ、首から足にかけて工事現場で盗んできた太い電線で縛り、H子ちゃんを背負わせる格好で固定した。また、ちょうど血のついて放置しておけない玄関マットがあったので遺体を覆い隠すために持ち出し、車を乗り捨てる際に近くの草むらに捨てた。 3人は一家4人をベンツに乗せ、その車に一緒に乗りこんだ。 博多港箱崎埠頭の岸壁に到着した3人は遺体を海に沈めるために、前もって用意しておいた重りを1個ずつつけ始めた。Mさんの腕とH子ちゃんの足を手錠でつなぎ、その手錠のチェーンの部分に別の手錠をつないで、鉄アレイをつけるなど、万全を期した。C子さんとKくんはそれぞれ両手に手錠をかけ、鉄アレイをつけた。千加さんは服を着ていないので浮き上がりそうだったので、特別に鉄製の重りを針金で巻きつけていた。 遺体を捨てた後、Mさんのベンツを運転して���留米市に向かった。これはNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)でも確認された。ベンツは「ブリジストン久留米工場」クラブハウスの専用駐車場に乗り捨ててあるのが発見されてい。3人はベンツ放置後、JR久留米駅から福岡に戻った。 20日午後、博多港箱崎埠頭付近の海中から一家の遺体が次々と発見された。これほど早く遺体が発見されることは、3人にとって誤算以外の何物でもなかったはずだ。 なお事件当日の行動については3人の供述をもとに書いたが、3人が責任をなすりつけ合ったり、供述そのものを変えているので、不確かな点も多い。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
3人の浮上
事件に使われた手錠は台湾製でレバー操作をすれば簡単に取り外しができる金属製のおもちゃ、鉄アレイは重量20kgのもので、それぞれ福岡市内にある量販店で売られていた。この店の防犯カメラにそれらを買った人物が映し出されていた。その映像から似顔絵が公開されると、日本語学校の生徒が「同級生(王)に酷似している」と証言、ここで王とその交友関係が洗われるようになった。ここで楊の存在が浮上し、楊の携帯電話の通話記録から魏の存在も明らかになった。 また、遺体に付けられていた直方体の鉄製の重り(重量30kg)は魏が過去に頻繁に出入りしていた女性宅がある福岡市博多区の賃貸マンションの所有会社が非常階段への鉄製扉を開放させておくために特別注文したものだった。 事件後、魏は出国2時間前に空港へ向かう途中の路上で、別の暴行事件により身柄を拘束された。だが、この時すでに王は楊とともに福岡空港から上海に出国していた。この航空券は犯行の3日前に楊が用意していた。2人は中国の公安当局に身柄を拘束されることになった。 供述 「窃盗目的で侵入した。黒幕は存在しない」(王、楊) 「Mさんは高級車を持っていて金持ちそうだったから狙った」 「5月下旬に王から『おまえは格闘技ができるだろう。それなりに荒っぽいが、カネになる仕事がある』と誘われ、楊を入れて3人でMさん一家を襲った。家族4人の首を絞めて殺した後、遺体をMさんのベンツでう実まで運んで投げ捨て、その車も遠くまで捨てに行った。王は誰かに殺しを依頼されていたようで、私は成功報酬として約1万円を受け取っただけだ。残りの報酬はまだもらっていない」 (魏) http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
出典kyushu.yomiuri.co.jp
公判を終え福岡地裁を出る魏被告
福岡一家4人殺害事件
王被告土下座にも消えぬ怒り 遺族、厳罰求める
出典kyushu.yomiuri.co.jp
福岡一家4人殺害事件
中級人民法院裏門で、通行人を��ェックする職員
憤りは収まらなかった。昨年六月に起きた福岡市の松本真二郎さん一家四人殺害事件。遼寧省遼陽市の中級人民法院で十九日に開かれた初公判で、孫たちの命を奪った元留学生二人と初対面した遺族には、日本語での謝罪もむなしく響いた。「頭を下げれば済むと思っているのか」。一年四か月を経ても消えない激しい怒りが、異国の法廷に広がった。 王亮被告(22)は白いワイシャツ、白っぽい綿のズボン姿で法廷に姿を見せた。楊寧被告(24)は、黒いトレーナーに白っぽいズボンをはき、二人ともオレンジ色のベストを着ていた。両足には鎖、両手には手錠がかけられていた。 起訴状が読み上げられる間、楊被告は、検察側の質問に対し、はきはきと答えたが、何度もまばたきするなど緊張が見て取れた。王被告も時折、目元に手をやるなど、落ち着かない様子だった。 犯行現場となった松本さん宅の子供部屋や浴室、廊下に残された血痕などの写真がスクリーンに次々と映し出されると、王被告は終始目をそらし、楊被告も顔を上げようとしなかった。 静寂が破られたのは、王被告の意見陳述の途中だった。突然、後ろを振り返り、約三メートル離れた傍聴席の最前列に座っていた松本さんの妻千加さんの父親、梅津亮七さん(78)に向かって土下座し、約三十人いた傍聴席から驚きの声が上がった。さらに、裁判長に向き直った後、もう一度後ろを向き、日本語で三回、「すみません」と繰り返し頭を下げた。 数日前に遼陽市入りした梅津さんは、公安当局などを回り、両被告の逮捕に謝意を伝え、厳罰を要請したという。公判終了後、「頭を下げて済むものではない。それ以上にひどい目に遭わされた」と怒りが収まらない様子だった。 http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20090427-462876/news/20090427-OYS1T00564.htm
裁判経過
楊寧被告人は1審で死刑判決を受け、控訴棄却を経て2005年7月12日に死刑執行された。一方、王亮被告人は遼寧省遼陽市人民検察院により無期懲役が確定した。 日本で逮捕起訴された魏巍被告人は1審の福岡地裁で事実を認めた後、ほぼ黙秘を通し、死刑判決を受けた。2審では、一転して動機や犯行過程、3人の役割、遺族への謝罪などを詳細に証言したが、控訴は棄却された。上告したが2011年10月20日に最高裁第1小法廷(白木勇裁判長)は上告を棄却して死刑が確定した。 2014年現在、魏巍は福岡拘置所に収監されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
出典stat.ameba.jp
福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
日中の捜査共助と問題点
同事件は主犯格2人が中国に逃亡したため、中国との捜査共助が最大の焦点となった。結果的には日本国内の反響の大きさに配慮した中国当局が積極的に協力したため、早期逮捕が実現したが、一方で他の事件では日中間の捜査協力がほとんどなされていない実態や、アメリカ、韓国以外と犯罪人引渡し条約が結ばれていない現状も指摘され、国際化する犯罪に各国捜査当局の対応が遅れている点が浮き彫りとなった。 また、福岡地裁で行われた魏巍被告人の公判では、中国公安当局が作成した王亮、楊寧両被告人の供述調書が日本の裁判で初めて証拠採用された。これまで日本の刑事裁判では、海外の捜査当局が作成した調書は「証拠能力なし」とされることが多かったため、この判断は「国際犯罪の捜査に道を開く」と評価されたが、黙秘権が存在しない中国の調書を問題視する意見もあり、議論を呼んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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TYO第5期リモート卒団式
新型コロナウイルスの感染拡大防止のために、第5期の公演は中止となりました。 中止決定の連絡を受け、涙を流した団員もいたと聞いております。
そして公演だけではなく、毎年の演奏会終了後に行われる「卒団生セレモニー」もまた、団員達や事務局スタッフにとって大切な時間となっていました。
団員達が集まれない状況ではありますが、 今期を締め括り、卒団生を見送る機会を何とかをつくりたいと考え、 福島公演をやるはずだった3月29日に、ビデオ会議ツールを利用した「リモート卒団式」を行いました。
このレポートでは、式次第に沿って卒団式の様子をお伝えしたいと思います。
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東北ユースオーケストラ第5期卒団式 式次第
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1.開式の辞
TYO東京事務局の田中宏和事務局長が卒団式の司会を務めました。
2.第5期卒団員紹介
大学を卒業し、4月から社会人になる5名の卒団生の紹介がありました。
阿部秀捷(チェロ) 磯貝雛子(ホルン) 大波さくら(トロンボーン) 狩野諒也(ホルン) 筒井温之(トロンボーン)
の5名が卒団となります。
3.押木正人代表理事式辞
一般社団法人東北ユースオーケストラ 押木正人代表取締役社長に式辞を頂きました。
「東北ユースオーケストラ第5期107名の皆さん、1年間活動大変お疲れ様でした。 2011年の3月に発生した東日本大震災の復興のために立ち上がった東北ユースオーケストラの活動が 今回は、コロナウイルスという目に見えない脅威にさらされて、 ここまで練習をしてきた成果である3つのコンサートができなくなってしまったこと、本当に残念に思っています。
在団の皆さん、今日は本当に笑顔で出てきて頂いていますけれど、 どんな思いで今日を迎えていらっしゃるのかと思うと、堪えられない気持ちです。 これまで東日本大震災を乗り越えてきた皆さんですので、 この1年間努力したことがこんな形で終わる��しさを是非バネにして頂き、 明日に向かう力に変えていって頂きたいと思っています。
小学校4年生~大学生まで、12歳のひらきがあるメンバー、 小学生、中学生、高校生、大学生が一緒に活動する経験は、通常の学校生活では経験できないことだと思います。 ユースオケという集団活動で、小学生の人が20代の大学生が学ぶことはもちろんのこと、大学生も、小学生を生活や演奏面でサポートすることで、学ぶことも多くあったかと思います。 毎月の練習、また夏合宿を通じて、幅広い年齢層の皆さんが1つになれたことは各個人にとって、生涯忘れることのできない経験になると確信しています。
今年は皆さんの若々しい力の満ちた演奏を、東京・福島の大ホールで聴いてはもらえませんでしたが、
理事になって頂いております岩手日報社、河北新報社、福島民報社、各社の新聞に多数の記事を掲載頂き、 また熊本ユースシンフォニーオーケストラとの共演は、NHK BSでの特集で取り上げられ、 他、婦人画報等の雑誌など、マスコミにも多く取り上げられたことで、 皆さんが今年も元気に活動されていることは、被災地の皆様にも伝わったのではと思います。 日本や世界で、東日本大震災をいつまでも記憶に留め風化させない役割と 将来を担う若い世代が音楽を通じて創造性を発揮し世界に発信するという、 東北ユースオーケストラの目的は十分に果たせたのではないかと思います。
また今年は、日本青少年文化センター様から、青少年の文化の発展に貢献した人や団体を表彰する、 59年も続いている歴史ある「久留島武彦賞」を頂きました。 震災直後から立ち上げた「子どもの音楽再生基金」をスタートに、 今日まで長きにわたり復興支援に努めてきた坂本龍一さん、栁澤寿男さん、事務局・関係者の皆様、 活動を支えて頂いたスポンサーの皆様の貢献、団員を陰でサポート頂きました保護者の皆様、卒業した団員も含め、多くの方の活動が世間に認められたことと大変うれしく思っています。
今日で卒業される5人の皆さん、長い間お疲れ様でした。 これで東北ユースオーケストラの活動からは離れますが、私からのお願いは、 音楽を通じた人と結びつくことの意義、大切さを忘れず、 楽器演奏を今後も是非続けていって欲しいと思います。 また、6期も続ける皆さんは、今年度練習した曲にさらに磨きをかけて2021年に演奏できるように新年度も継続して練習していきましょう。
本日の卒団式で、皆さんで今回の活動を振り返って、親睦を深められたらと思っております。1年間の活動本当にお疲れ様でした。」
4.坂本龍一代表・監督祝辞
「今日のこの時間、福島公演をしているはずでしたよね。本当に残念です。 早くこの活動を再開できる日が来れば良いと思っています。」
「卒業する5名の皆さん、おめでとうございます。 これまで貴重な経験をしたと思うので、是非ここで得た経験をこれからの長い人生に生かしてほしい。そして、音楽をずっと忘れないで生きていって欲しいです。」
「第九はもちろん、5年かかってやっとできた僕の新曲を皆が演奏しているのを聴けなかったこともとても残念です。 来年は実現できるようにしたいと思っていますので、卒業する5人も聴きに来てほしい。時間が合えば是非一緒に参加してください。」
「将来世界史的な事件になるであろう、今のこの時間を 皆さんが生きていることは本当に特別なことだと思うので、無駄に過ごしてほしくない。どうやって生きるべきか考えて過ごして欲しいと思います。」
5.祝辞(指揮者:栁澤寿男)
「第5期東北ユースオーケストラ卒団生の皆さん、卒団おめでとうございます。 直接皆さんにお会いできないことを本当にさみしく思っています。 我々の原点である東日本大震災に続いて、 これもまた我々の世代が体験する人類上危機の最大級のものかと思っています。
東北ユースオーケストラで何度もお伝えしたように オーケストラは共同作業です。1人1人が責任を果たさないと成立しません。 世代を超えて培った東北ユースオーケストラの活動が、皆さんが社会に出たときに少しでも役に立つことを願っています。 会社や組織で見知らぬ人たちと、世代を超えて協調していくことはとても大変だと思います。 私自身も国内・海外で、その場に協調していくことに苦労し、悩みぬいた時期もありました。 そんな時は音楽を聴いてみてください。心穏やかに、冷静さを取り戻してみてください。 それから、東北ユースオーケストラのメンバーや、大人たちにも是非相談してみてください。 我々はいつでも東北ユースオーケストラにいます。 いつか皆さんと会える日を、そして一緒にハーモニーを奏でられる日があることを楽しみにしています。」
6.関係各社様からのメッセージ紹介
関係各社の皆様から頂いたメッセージを、田中宏和事務局長が代読しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ■デジタルガレージさま
凹んだボールは元に戻る。 怪我をした傷はいずれ癒える。 震災を乗り越え生まれた、東北ユースオーケストラは 若くしなやかな感性と、美しい音楽の力が、 心の復興に大きな力を与えてくれることを 私たちに教えてくれました。 これからもますます、東北を、日本を、世界を 元気にしていって欲しい。
デジタルガレージは、 東北ユールオーケストラを応援しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ■JA共済連全国本部さま
このたびは、ご卒団誠におめでとうございます。 東日本大震災から9年、復興はまだ道半ばではありますが、 これまで皆さんが東北ユースオーケストラの活動を通して見せてくれたひたむきな姿に、 心励まされた方がたくさんいると思います。 「助け合い」は、誰かの手が差し伸べられるのを待つだけでは実現されません。 皆さんが東北ユースオーケストラの活動を通して得たすべての経験が、 次なる世界でも大いに発揮されるとともに、「誰かを想う」気持ちの輪が広がっていくことを私たちJA共済も願っています。 そして何より、ご卒団される皆さんのこれからの人生が輝かしいものとなることを心よりお祈りしております。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■JA共済連福島さま
東北ユースオーケストラ団員の皆さま、ご卒団誠におめでとうございます。 今般、演奏会が中止となり、皆さま方は大変悔しい思いをしていることと存じますし、心中察するに余りあります。
しかしながら、この一年間、団員の皆さんは、この活動を通して多くのことを学び、そして成長したことと存じます。いつか、皆さんの音楽表現を通じて、東北の人々に思いを届ける機会があることを、関係者としましても望むところです。 どうか、気を落とすことなく、そして、負けることなく、それぞれの道をお進みいただくことを切に願っております。 今後の、皆さま方のご健勝を祈念いたしまして、お祝いの言葉とさせていただきます。
JA共済連福島 本部長 服部道夫
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■福島トヨペットさま
卒団される皆様の長年の音楽 活動に心から敬意を表します。 この貴重な体験を、今後の人生に おおいに役立ててくださいますよう、 心から祈念申し上げます。 団員の皆様、来春の福島公演を 心待ちにしております。 福島トヨペット株式会社 代表取締役社長 佐藤修朗
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■福島民報社さま
卒団される皆様のこれまでのご苦労に 心からの敬意を表します。お疲れさまでした。 今回の公演中止で、団員の皆様は誠につらい思いをされたことでしょう。 しかし、皆さんならこの試練を受け止め、 音楽活動への思いを新たにされたことと思います。 坂本監督、栁澤さんのアドバイスのもと、 いっそう飛躍されますよう祈念いたします。 来春の公演はぜひぜひ、成功させましょう。 福島民報社は全面的に応援させていただきます。
福島民報社代表取締役社長 高橋雅行 東北ユースオーケストラ理事兼福島民報社 取締役郡山本社代表 荒木英幸
7.送辞(第5期キャプテン)田嶋詩織
「卒団される皆様、卒団、そしてご卒業おめでとうございます。 今回卒団式がこのような形になり、直接お祝い出来悲しく思います。
皆さんと活動した時間はとても楽しく、また刺激的であり毎回の練習が待ち遠しく感じていました。 今回取り組んだ第九でも1年前から坂本監督が被災地を繋ぐ演奏会の開催を大きく掲げ、実現できるのかという不安を感じた事もありました。しかし5期の活動が始まりメキメキと成長し今までには無いくらいの速さで完成が見えました。 また東北ユースオーケストラの特色でもある世代の広さを越え、交流を深める姿を目の当たりにし東北ユースオーケストラのあるべき姿を強く実感しました。
このように東北ユースオーケストラが成長できたのも皆さんが今までの経験を生かし年長者として見守り、支えてくださったからこその成長です。 私たちも皆さんの姿を忘れず、今後の東北ユースオーケストラの活動が充実したものになるよう努力して参ります。
本番は中止になってしまいましたが、皆さんと一つの目標にむかって頑張った事や、全員で楽しく活動できたという事実は決して無くならないと思います。 また皆さんと共に、5期のメンバーでの演奏が実現できる事を心待ちにしております。 最後になりますが卒団される皆様のこれからのご活躍を団員一同お祈り申し上げます。
第5期キャプテン・田嶋詩織」
8.答辞(第3・4期キャプテン)磯貝雛子
「本日は事務局の皆様をはじめ、多くの団員の皆さん、OBOGの皆さん、押木代表理事、柳沢さん、そして、坂本龍一監督のご臨席の元、この様な卒団式を催して頂いたことに、卒団生一同、心より御礼申し上げます。また、キャプテンの田嶋詩織ちゃんの送辞のお言葉を賜りましたことに、重ねて御礼申し上げます。
この数年間、東北ユースオーケストラでの時間は瞬く間に過ぎて行きました。入団したばかりの頃はみんなに馴染んでいけるか不安で、練習に行く前日は不安になる時もありました。しかし、卒団されていった先輩方や団員の皆さんが暖かく接して下さったので、いつの間にか練習に行く事が楽しみになっていました。
東北ユースオーケストラの活動の中で特に印象に残っているのは、有志演奏会です。地元の会津若松市以外の、写真やテレビでしか見た事がなかった被災地の様子を見て、東北の今を知る事ができました。悲しい事があったにも関わらず前を見て進んでいく方々を見て、私も日常があるという事に感謝して日々を過ごしたいと強く思いました。
時には、音楽性のすれ違いで衝突し合う事もありましたね。でもそれは、今思えば音楽に対して全力でぶつかっていたからなのだと思います。皆さんの熱い思いと柳澤さんのご指導があったから今までの演奏会はエネルギーに溢れ人の心を動かしていたのだと感じます。
そして、私はこの東北ユースオーケストラで得た宝物があります。それは友達です。私達は東北ユースオーケストラがなければ恐らく出会う事はなかったでしょう。毎月の練習、温泉合宿や直前合宿、東京公演、地方公演は一生忘れられません。多くの方から差し入れを頂き、みんなでタピオカを飲みながらお菓子を食べましたね。坂本龍一監督を囲み、みんなでBBQをした事は本当に大切な思い出です。
今年はコロナウィルスによって残念ながら本番がなくなってしまい、悔しい涙を流しました。来年はこの事態が収まり、演奏会ができて欲しいと祈っております。その時はぜひお手伝いに行かせてくださいね。
在団する皆さん、今まで私たちを支えてくださり本当にありがとうございました。皆さんと過ごした日々はかけがえのない思い出となっています。いつまでもこのオーケストラで音楽が出来るような気がしてしまいますが、卒団はあっという間です。毎回の練習を大切に日々過ごして下さい。あと、音楽に没頭しすぎると、勉強が疎かになってしまう人もいるようです。単位と相談しながら音楽に励んで下さい。
最後になりましたが、私達をサポートしてくださった押木代表理事を始めとする関係者の皆様、OBOGの皆さん、指揮の柳澤寿男さん、事務局の皆様、坂本龍一監督に卒団生を代表しまして厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。 これから私達はそれぞれの進路に向かって一歩一歩自分の足で歩いていきます。もしこの先大きな壁にぶつかったとしてもこの東北ユースオーケストラで得た多くの思い出、学び、誇りを人生の糧とし力強くいきていきます。本当にありがとうございました。東北ユースオーケストラの益々の発展を心より祈念して答辞と致します。
令和2年 3月29日 磯貝 雛子」
9.閉会の辞
田中宏和事務局長から閉会の辞があり、卒団式が終了。
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そしてそのまま、リモート卒団式の後は、リモート懇親会を行いました。
ここからは卒団生以外の団員もビデオをONにして参加です。
懇親会の中では、坂本監督から団員達へ、今の時期にふれてほしい本や映画の推薦リストが共有されました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
坂本龍一代表・監督推薦。
今だから味わいたい、本と映画。
<本> 工藤進「日本語はどこから生まれたか」 福岡伸一「新版 動的平衡」 ロヴェッリ「時間は存在しない」 マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソン��斎藤幸平・編)「資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐」 斎藤成也「日本人の起源」 エンデ「モモ」 カーソン「沈黙の春」 手塚治虫「火の鳥」 リルケ「ドゥイノの悲歌」 島泰三「はだかの起源」 カミュ「異邦人」 カフカ「審判」 <映画> 小津安二郎「東京物語」 フェリーニ「道」 黒澤明「デルスウザーラ」 タルコフスキー「ストーカー」 https://www.youtube.com/watch?v=TGRDYpCmMcM 侯孝賢「非情城市」 宮崎駿「風の谷のナウシカ」
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家の中にいる今のうちにたくさんインプットをして音楽の肥やしにしてほしいと思います。
そして、画面越しの5本締めでリモート懇親会が終了しました。
この状況が落ち着き、また東北ユースオーケストラ皆で集える時を待ちたいと思います。
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くれたけ心理相談室名古屋 心のセラピー講座『④自分自身を癒す方法』ご報告(次回1月26日開催)
講座一部内容の雰囲気です。 名古屋市心のセラピー講座 昨日、くれたけ心理相談室 名古屋ルームで今年最後の開催『心のセラピー講座』のご報告でございます。テーマは、「自分自身を癒す方法」です。講座は、心理学に基づき、ご自身で心のセルフケアを取り入れることが可能となるようにと願い講座を開催しています。 自分を癒す方法は?と聞かれると、懸命に日々を送ることに精一杯で、、、と仰られる方がほとんどかもしれません。ご自身の『今』の心の状態、身体の状態を把握しケアしておくと、少しの衝撃にもゆとりや柔軟さがあれば、メンタルを崩すことが少なくなることに繋がります。ゆる~く、おしゃべりしながら、心理学って日常に溢れているということを知っていただき、ご自身のこと、人間関係の悩みの解消、パートナーとの関係修復にも役立ちますよ。 講座の中では、ワークを取り入れていますし、ご自身に焦点を当てやすいことも取り組み…
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世の女性たちが立腹しているのは、杏が第三子妊娠中にとった東出の言動である。
当時、杏は身重で必死に双子を育てて家事をこなしながら、唐田と親密な関係に。東出はイクメンとしてメディアでも取り上げられていたが、実情は違った。「帰宅すると同時に温かい料理が用意されていないと、ぷいと怒って外に飲みに出てしまう」という証言を紹介している。
「妊娠中の不倫に、双子と年子(1歳違いの子供)も抱えて、日ごろと同じ水準の家事を夫が要求している。この状況は非常に危険です」
こう説明するのは、産後うつに詳しい専門医で、青山すみれクリニックの院長を務める坂本里江子氏だ。産後うつに悩まされる女性は多い。2018年には国立成育医療研究センターが妊産婦死亡の原因の中で自殺が最も多いと発表。自殺者の多くは産後うつの状態だったと言われている。坂本氏は今回の件について、こう指摘した。
「出産する女性にとって妊娠から出産期は環境が大きく変化し、大きな不安を感じやすい時期です。身体もホルモンバランスも激変し、働いている人なら休職や復職などで生活環境も変わる。産後は体力も落ちる。さらに自分がいなければ死んでしまうかも知れない幼子を抱えるプレッシャーは相当のものです」
妻を産後うつに追い込む、夫の心ない言動
このような時期の夫の心ない言動は、母親をさらに追い詰める可能性があるという。
「育児に追われる母親に対し、『どうして子供がいないときと同じように家事ができないんだ』と怒る夫もいます。杏さんのように3人も子供を抱えていれば料理や家事は、以前のようにできなくても仕方ありませんが、怒られたことで『自分はあれもこれもできないんだ』と思い詰めてしまう母親も少なくありません。不倫云々以前の問題として、子供を抱える母親にとって、パートナーが自分でできる家事さえしなかったり、家のことを押しつけて飲み歩いたりする行動は、それだけで産後うつのリスクになるのです」(同前)
SNSなどでは「多胎育児」の苛酷さを顧みず、不倫に走った東出への批判も数多く見られた。多胎育児とは双子以上の育児を同時に行うことである。不妊治療が一般的になるにつれ、双子の出生が増えてきたことで、その大変さが社会問題となっている。
保育や教育をテーマにするジャーナリストで、名寄市立大学特命教授の猪熊弘子氏は、こう述べる。
「杏さんの場合、最初のお子さんが双子。これは想像を絶する大変さです。初めての育児でわからないことばかり。『ちゃんと息しているのかな』『これでいいのかな』と不安を抱えて気が休まらないし、交互に授乳やお世話をするので1日に30分も眠れない日が続きます。それ以前に妊娠中から母体にはかなりの負荷がかかります」
猪熊氏自身も4人の子供を育てた経験を持つ。そのうち第三子、第四子は双子だ。
「私自身も双子を出産した経験がありますが、体への負担が大きく、腎臓を悪くした時期もありました。杏さんの場合は双子のあとに、年子の長男も出産しています。年子の子育ても双子と同じ位か、それ以上に大変なのです。1歳になると動き回れるようになる分、子育てには肉体的にも精神的にも大変です。そこに生まれたばかりの赤ちゃんがいるとなると、授乳をしながら、上の2人のお世話もしなければならない。ほとんど三つ子を育てているのと同じで、眠れない毎日がさらに続いたはずです」(同前)
冷却期間? 子育て世代の“イクメンヅラ”する夫
猪熊氏は“イクメンヅラ”していた東出の裏切りについても、もの申したいという。
「杏さんたちの若い世代は男女とも家庭科の授業を受け、共働きを前提に協力して育児をすることを学校でも学んできた世代です。それでもまだまだ東出氏のように“イクメンヅラ”する男性も多いようです。現実には、どれだけ男性が育児に協力するといっても担える負担は育児全体のなかでも3割ほどだと思います。男性に必要なのは何より妻を精神的に支えること。それすらも放棄して、自分は外で若い女性と不倫していました、となれば、子供を育てた経験のある多くの人は許せないと思うでしょう。この怒りは根深いですよ。東出さんご本人は『冷却期間』と言っているようですが(※1月22日、東出の所属事務所は「今回の別居は離婚へ向かうものではなく、なんとか修復へのステップを踏むための冷却期間と聞いております」とコメントした)、常識的に考えてどこにやり直すきっかけがあると思っているのかと言わざるを得ません」(同前)
家族社会学が専門の兵庫教育大学大学院学校教育研究科の永田夏来氏は「今回は家族にとって、ダメなことが積み重なった『役満』状態です」と話す。
東出の行為は年下夫による典型的なモラハラ
「育児に奔走する妻への裏切り、役者として大きく成長させてくれた仕事の先輩への恩を仇で返したこと。そして、不倫相手が当時未成年であったことなど、いくつもダメな点が見える。ただ、それ以前に、『温かい料理が用意されていないと怒って外に飲みに行ってしまう』など、東出さんがモラハラ的言動をしていたことにショックを受けた人も多かったのではないでしょうか。年下夫に典型的な甘えのように感じた人もいたと思います」(同前)
女性の社会進出が進み、キャリア的にも年齢的にも女性の方が上というカップルも多くなっている。杏はそれを体現していた存在だ。一方で、その杏を支えるイクメン夫の東出も働く母親たちの希望だったという。
だが、東出は自分が”上に立てる”年下女性に走った。
「こうしたカップルの男性に対して、『そうは言っても、男が経済的な責任を持ち家族の中でリーダーシップを取るべきだ』という目が社会から向けられることが、今でも少なくない。まずいのは、こういった周囲の視線の中で、求められる強い男のイメージと、それとは異なる現実の狭間で男性が暴走し、自分が優位に立てる場所を探そうとするケースです。妻に対して暴力やハラスメントに及ぶことも、東出さんのように自分の言うことを聞いてくれそうな別の女性に手を出してしまうことも起こるかもしれない。
強い男性像にこだわらず、夫と対等な関係を作っていこうと考えた女性の中には、こうなったら嫌だなとのリアルな恐怖を感じる人もいたでしょう。今回の一件は、東出さんが性的な意味も含んで自分のプライドや支配欲を満たすような人間関係を家族の外に作ろうとしたように、女性の側からは見えたのだと思います」(同前)
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ゲーム雑記: デスストランディング これ、今さらだ��どすごく優しいゲームですね…荷物配達すると褒めてくれるし、他プレイヤーがフィールドに設置してくれた設備のおかげで助かることも多いし、自分が設置したものに「いいね」がつくとうれしいし、「繋がり」強調されて正直うっとうしいなと思ってたけどこれくらいのゆるい感じならいいかも…と思えてきたなあ。SNSの波に飲まれながら息苦しく生活している現代人にこそやってほしいゲームだけどやっぱり始めると気づかんうちに3,4時間経過してるからそこが怖いね! ゲームの中で休憩するときにリアルでも休憩~ってやってるとずっと続けられちゃうんだな…。 そんでプライベートルームの遊び心すごく素敵ですね。泥まみれで帰ってきたときに「俺を風呂に入れろ」ってジェスチャーされたときは笑ってしまった。 お話はママーに直接会うところまで進みました。 以下、ネタバレ注意です。
核爆弾渡されたときに「いや怪しすぎでしょ…というか声でわかるのでは…」と湖に投げ捨てたけど、もしそのまま届けてたらあの辺の都市吹っ飛んだままお話進める感じなのかな?(試す気はないけど監督ならやりかねんな…という心持ち) ヒッグスさん、やろうと思えば自分で爆弾しかけられそうなものだけどサムにやらせたかったんかな? 目的がよくわからん…黒服の人たちは「いいね」される機会に恵まれずに人付き合いが嫌になってしまった人の集団なのかなあと考えると現実のニュースだとかを思い出しちゃうなあ。 ほんで突然アサルトライフルとかハンドガンとか出てきて「結局銃撃戦やるんか…」という心持ちになってしまった。優しい世界だったのに(と言いつつ嬉々としてショットガン拾うやつ~) しかし貧弱なエイムぢからを存分に発揮させてしまったねえ! BBパパ(?)と戦ったアレは幻覚かなんかかと思ったけど端末に記録されてるってことは実際に起きたってことなのか…拾ったシャッガンももらえたしな…トロフィー取得率は40%超えたからまあまあ進んでるはずなんだけどこの世界の仕組みが全然わからん…。 しかし知らない場所を探索したり、散歩のついでにミュールのポストから資源略奪して国道復旧したり、お話と関係ない荷物や落とし物届けたり、話がなかなか進まないんですよねえ(通常運転) 届いたメールを読む限り、修理屋さん夫婦の結婚生活が大丈夫なのか不安になってくるなあ…もし離婚ってなったらまた人間を運ぶことになるのか…?
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「野党は批判ばかり」の非難に答えます 間違った政治にも「黙って従え」というのでしょうか 2021年12月12日【3面】
与党やその補完勢力、一部のメディアが行う「野党は批判ばかり」という非難は、事実と全く異なるものであり、自民党がどんなに間違った政治をやっても「黙って従え」といわんばかりの暴論です。いまこそ事実に基づく批判と一体に建設的な提案を示してきた野党の役割が発揮されるときです。
事実はまったく違う―さまざまな提案実現
国民の願いに立つコロナ対策推進 新型コロナウイルス対応を見れば、野党が国民の切実な願いに立って、さまざまな提案を行い、実現させてきたことは明らかです。
野党が先頭になって進めてきたのがPCR検査の拡充です。政府が「検査抑制」論を振りまくなか、無症状感染の存在という科学的知見に基づき、医療機関や高齢者施設などへの「社会的検査」、繁華街などの「大規模・地域集中的検査」など具体的な感染抑止のための検査戦略を提案し、検査拡充を実現してきました。
野党が“自粛と補償は一体に”を合言葉に、粘り強い論戦を続けてきたことも重要な成果を生んでいます。政府が2020年度補正予算案と緊急経済対策を閣議決定するなか、野党は補正予算案の抜本的見直しと「1人10万円の特別給付金」の実現を求めました。緊急事態宣言のさなかで、野党の提案に賛同が広がり、安倍晋三元首相は特別給付金の支給を表明。野党の提案で予算を組み替えさせました。
また、コロナ危機の中で業者への「減収補償はできない」との答弁を繰り返す政府・与党に対し、国民生活の危機を訴え、「持続化給付金」や「家賃支援給付金」などの直接支援制度を実現。失業の広がりを防ぐための「雇用調整助成金のコロナ特例措置」の実施なども野党の要求に基づくものです。今なお、こうした休業補償や支援を一度きりにせず、再支給をと繰り返し提案しています。国民の命と暮らしを何よりも大切にするあたたかい政治をつくるためには、コロナ対応における新自由主義への批判こそ必要不可欠です。
あらゆる分野での建設的な提案 日本共産党など野党は、自公政権への批判と一体に、経済、環境、ジェンダー、平和のあらゆる分野で建設的な提案をし、実現のためにたたかっています。先の通常国会では、40年ぶりに小学校全体で40人から35人へ学級規模引き下げが実現。長年にわたる国民の運動と共産党の先駆的論戦が勝ち取った大きな前進です。
自公政権を転換する共同提案も次々に提出しています。野党が共同提出した「原発ゼロ基本法案」は、原発問題で初めて野党が合意し提出した画期的な法案です。ジェンダー平等に関わっては、「選択的夫婦別姓法案」や同性婚を認める「婚姻平等法案」を共同提出。消費税率を5%に引き下げるなどの経済政策も野党各党が財源を明らかにした上で提案してきました。
古い政治への批判が新しい政治を生み出す 市民の声を受けた事実に基づく野党による批判は、実際に政治を動かしているし、新しい政治を生み出す力になります。
外国人の追い出しを強化する入管法改定案を事実上の廃案にしました(21年)。「桜を見る会」疑惑や森友学園問題をはじめ権力犯罪への追及の動きも出る中で、検察私物化を狙い、検察庁幹部の人事に内閣が介入できる検察庁法改定案の採決を阻止(20年)し、受験機会や費用負担で地域間格差が生じ、教育の機会均等の原則に反する「民間英語試験」導入を中止(19年)させ、いくら働いても一定時間しか働いたとみなさない裁量労働制の対象拡大を阻止(18年)するなど、自公政権の悪政をただしてきています。
野党は、森友学園問題や首相主催の「桜を見る会」疑惑など権力による国政私物化を批判してきました。いずれも、ウソや忖度(そんたく)のないまともな民主政治を取り戻すためです。
弱肉強食の新自由主義を厳しく批判しているのは、国民の命、暮らし優先の政治をつくるためであり、9条改憲や大軍拡を批判するのは、9条を生かした平和外交で世界平和に貢献する日本をつくるためです。どんな問題でも、古い政治を批判してこそ、新しい政治をつくることができるのです。
野党に課された「憲法上の責務」 植松健一立命館大学教授(憲法学)は「『野党の批判』は、野党に課されている憲法上の責任ないしは責務だと思います」と言います。
日本国憲法は国会と政府との関係について、憲法66条に「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う」と規定しています。政府は、国会に対し連帯して責任を果たすためには、国会への説明責任などを果たさないといけません。憲法では、62条で国会の国政調査権を定め、63条で、国務大臣を国会に出席させて答弁をさせることができるとしています。72条で内閣総理大臣は「一般国務及び外交関係について国会に報告」するとしています。
植松氏は、「議院内閣制のもとで、与党が内閣を支える構造になっています。国会内の多数派(与党)が内閣を批判することはほとんどありません。国会で政府や行政の活動を監視するという憲法上の役割を果たすのは野党になります」と指摘。「野党は憲法上の責任を果たすために、内閣や行政の活動を批判しているのです」と主張します。
民主主義の危機につながる恐れ 植松氏は、「野党の批判」への攻撃は、民主主義の危機につながると警告します。
「『批判』への攻撃によって、国会の本来の役割が見失われる危険性があります。野党の批判は、国民の批判でもあります。野党の追及は国民の追及です。野党の批判で政府が法案を修正したり、撤回したりすることが健全な議会制民主主義のあり方です」
「野党は批判ばかり」という非難は、野党に責任を放棄させ、自民党政治への屈服、追従を迫る暴論でしかありません。
野党が提案し実現させた新型コロナ対策 PCR検査拡充 1人10万円の特別給付金 持続化給付金 家賃支援給付金 雇用調整助成金のコロナ特例措置 休業支援の対象を大企業の非正規雇用労働者まで拡大
野党が提出したさまざまな分野の共同法案 原発ゼロ基本法案 選択的夫婦別姓法案 種子法復活法案 被災者生活支援法改正案などを含む「被災4法案」 消費者の権利実現法案
野党が食い止めた悪法など 働き方改革一括法案から裁量労働制を全面削除 「民間英語試験」導入を阻止 検察庁法改定案を廃案に 入管法改定案を廃案に
著名人も指摘 「野党は批判ばかり」との非難に対し、各界著名人から事実に反すると批判の声が上がっています。
作家の中村文則さんは、「毎日」電子版2日付の「中村文則の書斎のつぶやき」で、「日本の野党は大変だと思う」「いい対案も多く出しているが、マスコミはその事実を報じず『野党は批判ばかり』と言う。何だかもう、フェイクニュースである」と述べています。
ジャーナリストの青木理さんは、『サンデー毎日』(12月19日号)で、「行政権力や時の与党に対する批判、監視機能は野党勢力が担うべき最大の役割」と指摘。「野党が健全かつ肝腎(かんじん)な批判を盛んに加えてこそ、行政権力と与党の歪(ゆが)みや問題点が可視化され、それが多少なりとも正され、決して十分ではなくとも、行政権力と与党の横暴や独善に歯止めがかけられる」と強調しました。
作家の平野啓一郎さんは、ツイッターで「野党が批判するのは、次から次へと、とんでもないスキャンダルが噴出し続けたからで、それは誰が悪いのか? 与党だろう。それを追及しきれなかったメディアは、何故『野党は批判ばかり』という愚論に荷担するのか?」と投稿しました。
(しんぶん赤旗)
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關於手札 About the NOTES EXCHANGE
計劃名稱源自於俄國小說家杜斯妥也夫斯基於1864年發表的短篇小說《地下室手記》。思考讓兩位導演互相挑戰對於文本、空間、燈光、聲音與演員身體的可能,持續交換筆記與創作靈感,從第一年發展短篇作品、第二年共同主題各自發展到第三年共同製作,期望以中長期合作交流刺激彼此。「交換手札計畫」三年國際交流計畫是由台灣「莎士比亞的妹妹們的劇團」、日本「第七劇場」與「三重縣綜合文化中心」在2016年共同發起,是莎妹針對未來劇團發展,及台灣劇團進入日本的一次試金石。透過劇團製作人與場館藝術總監在歷經將近一年的討論後,逐步融合不同藝術家的想法,以日本三重縣文化會館為起點,共同找尋未來台日共製作品的可能性,並互相在對方的文化社會中,奠定彼此品牌的知名度,將台灣的演出帶給更多不同文化的觀眾,並在觀–演之間的回饋中,淬煉創作的能量。
プロジェクト名称は、ロシアの小説家ドストエフスキーが1864年に発表した短編小説『地下室の手記』に由来します。2人の演出家が互いにテクスト、空間、照明、音と役者の身体の可能性について考え、挑戦し、ノートと創作のインスピレーションを継続的に交換。1年目は短編作品を発展させ、2年目は共通のテーマをお互いに展開し、3年目で共同制作という、中長期的な交流で双方が刺激し合うことを目指しました。 「Notes Exchange」という3年間の国際交流計画は、台湾の「莎士比亞的妹妹們的劇團(Shakespeare’s Wild Sisters Group)」、日本の「第七劇場」と「三重県文化会館」が2016年に協働をスタートさせました。莎士比亞的妹妹們的劇團(Shakespeare’s Wild Sisters Group)は未来の劇団の発展、および台湾の劇団が日本へ進出するための試金石といえます。劇団のプロデューサーと劇場の芸術監督は約1年間議論を重ね、異なる考えを持つ芸術家たちが少しずつお互いを理解し合いました。三重県文化会館を起点とし、未来の台日共同制作の可能性をともに追求し、そしてお互いに相手の文化、社会の中で、双方の知名度を広め、台湾の作品をもっと多くの異なる文化圏の観客に届け、そして「観」–「演」間のフィードバックの中で、クリエイションの力を精練していきたいと考えました。
團隊/人物介紹 Introduction of Team
莎士比亞的妹妹們的劇團(台灣)Shakespeare’s Wild Sisters Group
成立於1995年夏天,團名源於英國女作家維吉尼亞‧吳爾芙(Virginia Woolf)在《自己的房間》(A Room of One’s Own)一書中所虛擬的角色,意在解除女性才華被男性體制壓抑的魔咒。劇團以原創劇本及前衛劇場美學為發展目標,創作題材、形式、議題不限。近年多次參加國際文化交流與國內藝術節相關活動,展演作品美學新穎,劇團經營穩定成長。劇團成立至今已發表將近五十部作品,其中由王嘉明編導的《Zodiac》獲選一屆台新藝術獎年度十大表演藝術,2007 年作品《殘,。》更獲第六屆台新藝術獎年度十大表演藝術及評審團特別獎,2008 年作品更以Baboo 導演《給普拉斯》及王嘉明導演《請聽我說─豪華加長版》雙雙入圍第七屆台新藝術獎年度十大表演藝術。2009 年,《給普拉斯》赴法國外亞維儂藝術節(Avignon Off Festival)演出,亞維儂藝術節前主席Bernard Faivre d'Arcier 高度肯定該作為「在今年亞維儂藝術節無可取代」。多年來成員(導演、演員和設計群)已有良好合作默契,許多合作過的成員也在劇場各自的領域發展與成長,劇團始終群策摸索獨創的劇場美學與風格,除了每年劇場探索和實驗的新作發表與國內外藝術文化的交流外,也將持續創作平台的經營、戲劇教育的推廣與文化政策的參與。
1995年夏に創設。劇団名はイギリスの女流作家ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)の『自分自身の部屋』(A Room of One’s Own)の中の登場人物に由来し、「男性体制の抑圧された魔の呪いから女性の才能を解放させる」の意。劇団はオリジナルの脚本と前衛的な演劇美学を発展の目標とし、創作題材、形式、議題は限定していない。近年何度も国際文化交流と国内の芸術祭や関連活動に参加し、公演作品の美学は独創的で、劇団の経営は安定して成長している。劇団は創設以降、現在すでに約50本近い作品を発表し、その中でも王嘉明作・演出の『Zodiac』が第一回台新芸術賞年度十大表演芸術に選ばれ、2007年の作品『残,。』は第六回台新芸術賞年度十大表演芸術及び審査団特別賞を受賞、さらに2008年の作品演出家Baboo『給普拉斯』と演出家王嘉明『請聽我說─豪華加長版』は共に第七回台新芸術賞年度十大表演芸術に入選。2009年、『給普拉斯』はフランスのアヴィニョンオフフェスティバル(Avignon Off Festival)に参加、アヴィニョ���演劇祭前主席Bernard Faivre d'Arcierは「今年のアヴィニョン演劇祭は取って代わるものがない」と高く評価した。数年来団員(演出家、役者と美術のグループ)との関係は良好で、今までにたくさんの協力をしてきた団員も劇場で各自の領域を発展させ成長し、劇団は常に、全員で知恵を出し独創的な演劇美学とスタイルを模索している。毎年の演劇探求や、実験的な新作発表、国内外の芸術文化交流の他に、創作プラットフォームの経営、演劇教育の普及と文化政策への参与も持続的に行なっている。
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第七劇場(日本)
第七劇場由導演鳴海康平成立於日本三重縣,藉由戲劇創作的過程呈現豐富的視野,並重建文本中世界的孤寂與人性的疲憊。作品不以語言作為單一主題,其強烈的文本切換及獨特觀點,在日本海內外皆獲得高度的評價。現任藝術總監鳴海康平曾榮獲日本 POLA 藝術基金會(POLA ART FOUNDATION)海外青年藝術家補助至法國,作品至今已於日法德韓台等數個國家、超過 20 個城市進行巡演。 並曾與法國演員麗麗.莎迪絲(Lyly Chartiez)等人跨國共同製作契可夫的三姊妹於日法兩地巡演。
演出家の鳴海康平によって創設され、三重県津市を拠点とする。言葉の物語のみに頼らず空間や身体とともに多層的に作用する表現が評価される。芸術監督を担当している鳴海康平はポーラ美術振興財団(POLA ART FOUNDATION)の在外研修員��してフランスで活動。作品は、これまで国内20都市、海外4ヶ国7都市(フランス・ドイツ・韓国・台湾)で上演。フランス人俳優Lyly Chartiezなどと国際共同制作したチェーホフの『三人姉妹』を上演。
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編導/王嘉明
現為「莎士比亞的妹妹們的劇團」團長,創作一向具有複雜曲式與兼具實驗性/大眾化的特點,他的美學體現於排練場的工作程序中,並藉由與設計的合作,嘗試實驗劇場空間和聲音的使用,並透過表演形式的特殊設計,與演員共同挖掘、面對和思考劇場表演的可能性。作品曾六度入圍台新藝術獎提名,並以《殘,。》與《膚色の時光》榮獲評審團特別獎與表演藝術類首獎。近年積極與不同領域藝術家合作,如舞蹈、影像、崑曲、歌劇、國樂團、弦樂團、視覺裝置藝術、復興劇校雜技團、DJ、VJ、地下樂團、布袋戲,甚至國小孩童等,嘗試打破藝術間的藩籬,藉此反思劇場中的侷限與盲點,希冀開闢更多劇場美學新面貌的可能性。
20年以上、先進的な演劇を製作し続け、常に伝統と革新、大衆性と前衛性を融合させた作品を発表。その作品は核心を失うことなく、広く市民に享受されており、大言壮語のない実験といえる。近年は賛否両論を起こす言語表現や演劇の音/音声のパフォーマンスの新しい可能性の探求に取り組む。限界を拡張するだけではなく、総合芸術としての演劇の定義を豊かにするために、ジャンルを越境してアーティストと協働。演劇に加えて、広告CMのアシスタントや、ミュージックビデオ、ファッションショーのディレクター、高雄ワールドゲーム2009のオープニングアクトのディレクターを務める。
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編導/鳴海康平
第七劇場團長與導演。同時擔任津市Théâtre de Belleville 劇場(テアトル・ドゥ・ベルヴィル)之藝術總監。1979 年出生於北海道紋別市,現居住日本三重縣津市。1999 年在早稻田大學就學期間成立劇團,探討演員的身體性與表現能力如何經由人為與現代舞台、文本及內在的戲劇性並存。以「與時間共存而積累的風景」為舞台的作品特色,不依賴故事或語言的劇場表現,在海外得到高度評價,跨越國境於韓國、德國、法國進行數次合作計畫,並在日本國內超過15 個城市演出。2013 年,在新國立劇場演出由日法演員共同參與的國際共製作品「三姐妹」。在導演之外,同時擔任藝術節策展與顧問,在日本各地以演員、市民、學生為對象進行工作坊、藝術行政讀書會等推廣活動。同時受邀為國民教育機構、早稻田大學等單位之特別講師,進行教育與育成活動。曾任財團法人舞台藝術財團演劇人會議會員、SENTIVAL!藝術節策展人(2008-2013)、日中韓共同戲劇節BeSeTo 實行委員(2004・2007・2010・2013)、學習院女子大學戲劇節顧問(2008-2011)、藝術文化活動支援成員(文化廳・2010年藝術文化活動支援派遣計畫)、近畿高等學校綜合文化祭戲劇類評審(2013年)、三重縣高中戲劇伊賀南勢地區大會評審(2012 年)、岡山縣天神山文化廣場土曜劇場400 回記念高校演劇發表會評審(2010 年)。曾獲得獎助出國進修計畫,如日本 POLA 藝術基金會(POLA ART FOUNDATION)海外青年藝術家(法國・2012 年)、青年導演育成計畫(俄羅斯・2004 年、香港・2008 年)。
第七劇場の代表、演出家。三重県津市にあるThéâtre de Belleville(テアトル・ドゥ・ベルヴィル)の芸術監督。1979年北海道紋別市生まれ。三重県津市在住。1999年、早稲田大学在学中に劇団を創設。俳優の持つ身体性/現前性、人工的で現代的な舞台美術、テキストに内在するドラマを並列的に共存させて、「時間をともなう蓄積された風景」によるドラマを舞台作品として構成。ストーリーや言語に頼らないドラマ性が、海外で高く評価される。国境を越え、韓国、ドイツ、フランスとコラボレーションし、日本国内では20を超える都市で上演している。2013年、新国立劇場で日仏俳優が共演した国際共同制作作品「三人姉妹」を上演。演出以外では、芸術祭の企画や実行委員を務め、日本各地で俳優、市民、学生を対象にワークショップや読書会などのプロモーション活動も行う。また教育機関、早稲田大学などの特別講師として招かれ、次世代の教育・育成を行っている。 財団法人舞台芸術財団演劇人会議会員、SENTIVAL! フェスティバルディレクター(2008-2013)、日中韓共同演劇祭BeSeTo実行委員(2004・2007・2010・2013)、学習院女子大学演劇祭アドバイザー(2008−2011)、芸術文化活動支援員(文化庁 芸術文化活動支援員派遣事業 2010)近畿高等学校総合文化祭演劇部門審査員(2013年)、三重県高等学校演劇伊賀南勢地区大会審査員(2012年)、岡山県天神山文化広場土曜劇場400回記念高校演劇発表会審査員(2010年)。海外研修プログラムでは、ポーラ美術振興財団在外研修員(フランス・2012年)、若手演出家育成プログラム(ロシア・2004年、香港・2008年)。
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製作人/ 陳汗青
出生於日本東京, 國立臺北藝術大學藝術行政管理研究所畢業。從事現代劇場、傳統戲曲、科技藝術、現代舞、街舞、流行音樂等表演藝術獨立製作人,也兼任藝術相關領域日文翻譯與街舞舞者。自2008 年起行腳法國、中國、香港、日本、巴西等地演出,參與關渡藝術節、台北藝穗節、台北藝術節等節目製作與行銷,合作團體包含天使蛋兒童劇團、牯嶺街小劇場、一當代舞團、莎士比亞的妹妹們的劇團、秀琴歌仔戲團、台北市國樂團、Meimage Dance、1911劇團、演摩莎劇團等。流行音樂跨界製作經歷有陳綺貞《Pussy Tour 不在他方》、《膚色的時光》,林宥嘉《口的形狀》,陳昇《純情天婦羅》,張懸《潮水箴言》演唱會等。 近年除長期擔任莎士比亞的妹妹們的劇團製作人外,自2014 年與華人地區知名音樂製作人陳鎮川合作,嘗試整合流行音樂與表演藝術資源,促進更多跨界作品。同時並為亞洲製作人平台Asia Producers’ Platform 台灣區代表,將持續致力於連結台灣、日本、韓國等亞洲地區的表演藝術網絡。
東京生まれ、国立台北芸術大学芸術行政管理研究所卒業。現代演劇、伝統演劇、科学技術芸術、モダンダンス、ストリートダンス、ポピュラー音楽など表現芸術のインディペンデントプロデューサー。また、芸術関連の翻訳やストリートダンスのダンサーでもある。2008年からフランス、中国、香港、日本、ブラジルなどで公演し、関渡芸術祭、台北芸穂祭、台北芸術祭などの製作に参加、今までにコラボレーションした団体は天使蛋兒童劇團、牯嶺街小劇場、一當代舞團、莎士比亞的妹妹們的劇團(Shakespeare’s Wild Sisters Group)、秀琴歌仔戲團、台北市國樂團、Meimage Dance、1911劇團、演摩莎劇團など。 演劇だけではなく、ポピュラー音楽のプロデュースも行う。陳綺貞《Pussy Tour 不在他方》、《膚色的時光》、林宥嘉《口的形狀》、陳昇《純情天婦羅》、張懸《潮水箴言》のコンサートなど。長期にわたり莎士比亞的妹妹們的劇團(Shakespeare’s Wild Sisters Group)のプロデューサーを担当する。他に近年では、2014年から華人地域で有名な音楽プロデューサー陳鎮川と協働、ポピュラー音楽と表現芸術の融合を試み、業界に縛られない作品作りに邁進している。同時にアジアのプロデューサープラットフォーム Asia Producers’ Platform台湾地区代表を務め、台湾、日本、韓国などのアジア地区の表現芸術ネットワークに尽力している。
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二度目の緊急事態宣言…生活に影響は?みんなの声を集めてみた。
集計期間:2021年1月7日~1月9日 回答数:17459
政府は2021年1月7日、2度目となる「緊急事態宣言」を東京・神奈川・埼玉・千葉に出しました。
そこで今回は「再びの緊急事態宣言、あなたの生活に影響はある?」というテーマでアンケートを実施しました。
回答者17459名のうち、再びの緊急事態宣言で生活に影響が
「とても影響がある」人が全体の約12.1% 「少し影響がある」人が全体の約34.3% 「影響はほとんどない」人が全体の約33.1% 「全く影響ない」人が全体の約20.5%という結果になりました。
では、まずは「全く影響ない」「影響はほとんどない」方々のエピソードを見てみましょう。
<全く影響無い>
・元々出歩かない
・気にしていないし、守る気も無いから
・地方だもの
・一都三県に住んでいないから影響は無い
・発令の地域にその期間行く予定が無いので全く影響はない
・小さい子供がいて専業主婦なので、もともと最低限の外出しかしていない。
・去年の1月からずっと感染しないように気を付けた生活をしているので、まだ続けるだけで変わらない。
・どうせ何も変わらない。飲食店だけ時間早めても効果は薄い
・感染が怖くて家族で仕事やめて自粛なので影響はない。収入がないのはかなりいたいけど
・高齢の為 外出自粛中 感染恐怖から引きこもり中 生きているのがつまらない人生になった。
・都会の緊急事態宣言なので、直に影響はありませんが、この田舎の地でも不要不急の外出を控えてくれるとありがたいと思います。
・前回の時もそうだが、職種的に全く影響がありません。
・旦那はずっとテレワークだし、学校は休校にならないみたいなので、息子の学校と、学校絡みの仕事をしている私には無関係。
・そもそも医療従事者なので、個人の行動や家族としても影響はない。客観的に言わせてもらうと、非常事態宣言はタイミングとしては明らかに遅いものの、出さないよりは出してくれてありがたい。
・地方なので何も変わらない。医療機関で働いているが、ドクター自身も何も危機感を感じてない。対岸の火事みたいに思っているらしい
・仕事は、介護施設なので、変わりなし。通勤電車が減って欲しい。子供の保育園も感染者が出ないか心配。エッセンシャルワーカー以外は、休業要請して欲しい。本気で危ない
・介護職なので、毎日が仕事!家族にとっては…申し訳ないと思う。毎日…不安しかない
・会社より営業は通常通りとのお達し。感染したら自己責任で。一部上場企業なのに。体裁保つ為に本社役員内勤者はテレワークだそう。
・元々テレワークなんて無理な職種だから何も変わらない。生活を支える側にも配慮を‥
<影響はほどんどない>
・去年の始めての感染拡大の際に、自粛などあってからは、外出も控えていたり、他にも出来る限りは守る事は守るとやっていたので、そのまま変わらず状態。
・もともと飲食店へたまにしかいかないから。学校も仕事もいつも通りある。
・むしろ電車が空いて通勤が楽になる。
・東京にいる娘が心配です。何か生活に必要な物を送ろうかと思います。そんな程度です。
・関東在住ではないので、現段階では影響はないが、大阪を中心に緊急事態宣言が再発令された場合は、大きな影響があると思う。
・愛知県民なので直接影響はないが、飲食関連以外の業種も大打撃を受け続けているため早く収束してほしい。愛知県にも発してほしいと切に思う。
・直接影響はないが栃木も感染拡大を感じるのでどうせやるなら一気に全国でやったらいいのに。強く短くの規制で早く収束して欲しい。
・旅行に行けないくらい。地元にも出たらボーナスが激減し給料が減るかもしれないので困る。
・妻を亡くしたばかりの独り暮らし、宣言の有無にかかわらず、何処へも出掛けない。
・今現在、無職で母親の介護中なのでそんなに影響はない。でも母が高齢者なので凄く心配で不安です。
・建築関係の仕事は特に止まることなく続けられる(..)週末や休みの日に誰にも会えなくなることくらい(>_<)
・交通誘導員は屋外の仕事なのでコロナ渦でも需要はあります。電車移動なのが唯一の気がかり。
・仕事が製造業でテレワークは出来ない。原料の入荷等の関係で仕事量は少し減るかもしれないけど、ほとんど生活には関係ない。
・物流会社なので、どうしても荷物の搬入が遅い便になると残業せざるを得ない。帰りが遅くなると、警察官の方にもう少し早くお帰りくださいと又言われるのが、少々申し訳ないと思うところです。
・家事代行&シッター業務は、需要増となる為、緊急事態制限になっても、何ら変わらず働くことになります。はっきり言って、ホコリがたまっても人は死なない。出来れば、通勤中電車や地下鉄移動での感染リスクが高くなります。休みたいです。コロナは怖い。
・子供の学校も行かせたくないけど休校にはならないし、パートも休みにはならないし、何にもかわらない。スーパーも週1か2に元々減らしてるし行く時間も平日の空いてる時間だし、なーんにもかわらない。��食する程裕福じゃない。学校休みじゃないから、子供も外に遊びに行ってしまうし(T_T)学校が休校の時は約束すら阻止出来たのに…休校にならない事に不満。
・専業主婦なので不要な外出はしていないので特に影響はないです。息子が出かける事が多く怒っても聞かないし、危機感のない友達はランチを誘って来るので緊急事態宣言を出して欲しいです。
・前回に比べたら緊急事態宣言なんて、形だけ。学校もあるし、映画館も行ける。何の影響もない。
・仕事は変わらず出勤が必要。今回の宣言の内容では、意味あるのか、食い止められるのかと、正直思う。
・今まで通り外出をできるだけ控えるだけです。ただ政府などの後手後手の対策には腹立たしい思いです。
・大人より小学生や中学生、子供達が影響ありすぎて本当に可哀想。修学旅行にも行けず、頑張っていたクラブの大会も無し。給食やお弁当は無言で食べる。真冬でマイナス気温なのに上着もダメで換気。ブラック校則何とかしてくれ。受験生の身にもなってみろ。それなのに大人はGo To Travel,Go To Eat!? 緊急事態宣言下でも20時までは会食飲みOK!?あきらかに遊んでいる奴ら本当にムカつく。我慢している子供達の意味がない。大人が我慢しろ!このままではオリンピックも間違いなく中止!若者も死亡率が上がる。
次は、「少し影響がある」「とても影響がある」と答えた方々のエピソードです。
<少し影響がある>
・外出を更に控えるかも。病院に行くのもちょっと怖いから控えるかも。
・飲食店が早く閉まってしまう。
・どこのカラオケ店も営業してなかった
・この季節、スキーに行けない美味しいモノを食べに出かけられない
・ジムがまた休業したら運動不足になる
・友人に会えない
・孫の顔が見れない。
・東京にいる息子の引っ越しの手伝いに行けなくなった。
・外出制限が結構精神的にくる
・こども達の様々な活動が中止になり残念。
・子どもがどこにも行けずストレスになる。
・私自体にはないが、子供の部活、スポーツの合宿などに影響。私は九州だが、子供は関東圏の高校に通学中。
・春の緊急事態宣言の時と同様に夫が毎日在宅ワークになるのか…と思うと…
・運送業で直接自分の便には関係ないが、社内の他の便が減便して会社の売上が下がり給料及びボーナスが減給した。
・会社の業績が更に落ち込むかもしれない、と不安です。今回の再発令で今年のボーナスは諦めました。
・またチラシとか無くなったら、安い物が買えない、生活保護なので、苦しい生活なので…コロナに感染だと重症化の可能性もあるし、病院通いも恐怖感がある
・3月から採用予定だった店舗の研修が2月に東京で行われる予定でしたが、緊急宣言が出た為中止に。それに伴い店舗のオープンも時期未定になってしまった為、生活の予定が立たず職を探し直すか悩んでいる所です。
・本社部門、都市部の拠点との出張が行いにくい。業務が法定点検を伴うメンテナンスのため、客先を訪問しない訳にはいかない。食品や日常品の流通に直接関係しているため、専門職の自分達は本当に頭が痛い。
・テーマパーク勤務。正直、閉めてもらいたい。マスクの着用や手指の消毒に対して入場者の協力が100%得られてない。テーマパーク内は無菌ではない!遊びに来るのなら協力してほしい。私たちは、手が触れる場所など消毒したりしてますが、命がけで働いてます。遊びに来て気持ちが大きくなる人が目立ちますが、自分たちの大好きな場所を守るためにもマスクの着用(鼻からアゴまで覆って!)と手指の消毒してください。注意換気してもイヤな顔しないでください。こちらだって好き好んで言ってない。最低限のマナーやルールを守って!
<とても影響がある>
・仕事がない。金がない。どうしていいかわからない。
・糖尿病と心疾患があるのでとても怖い
・病院に絶対に行がなければならない。病人を2人も抱えている。
・来月出産するので...
・立ち会い出産ができなくなった
・久々に息子に会いたかったのに、会えないかも、、
・子供や孫と会う機会が失われる。旅行に行くことができない。
・子供が東京に居るので帰省出来なかった。もう1年以上会えてない。
・東京で一人暮らしで、仕事している息子に会えない。何かあったら、連絡してと伝えているが?感染者が増えいる数を知るたび、不安が募る。とにかく、元気で過ごして欲しい!早く収まって、安心して会える日を願っている。
・友達と一年以上会ってない。
・恋人に会えない
・ウォーキングが出来ません。色んな所を歩いたりしたいんだけど怖くて歩けなくなりました。
・ディズニーに行く予定でチケットの購入、ホテルの予約をしていたのにキャンセルせざるを得ない。年末年始で増えるのは目に見えていた。その前に対策を実行してくれていれば1月からの国民のライフプランが崩れずに済んだと思う。
・家族が密になる。収入が減るのに、水道光熱費と食費が凄くかかる。
・接客業なので仕事はなくなるし、前の自粛で貯金もほぼないに等しいので生きていける気がしない。もうどうしていいかわからない。
・生きていけない。国民全員に一律20万を配って
・給料が減ってしまい、今でも大変な生活なのにこれから、どう生活すれば良いのかわからない状況です。早くコロナが収まります様に祈るしかないです。
・シングルマザーで鬱もあり仕事も出来なく毎日小さな子供に養っていく生活が不安定。会社からのストレスで戻れなく、すぐに就職出来ないのが現実。
・マジで、仕事無くなるかも。飲食業だし、シングルマザーなのに....前回の緊急事態宣言は耐えたけど、今回はもう余力が無いです
・テレワーク推奨から、原則テレワークで出社は申請&許可制に。出張も原則禁止。仕事にならない、とは言わないが、生産性は劇落ちだと思う。年度末なのに、、、。
・テレワークさせて貰えない可能性大。転職を考えているが、難しくなった
・就職活動に影響するから コロナ解雇され半年以上、次の仕事が決まらない。
・求職中で仕事が見つからない可能性が高いから。もう4ヵ月仕事をできてない。
・対面での就活が全てオンラインになった。実際の雰囲気などが掴みづらい
・医療従事者です。疲れきっています。
・飲食店経営しているので、心配。救いは、家族でやってるから人件費が要らない。テイクアウトで頑張るしか仕方ない。
・自営業なのですが お客様が来ず 生活苦が続き 先行き真っ暗です。
・旦那が飲食店。いよいよつぶれるんじゃ。。。
・食品関係の工場〜拠点間輸送の仕事なので、巣ごもり買い溜め需要に対応する為に大変に忙しくなる!
・観光バスを経営してますので、経営は困難になると思う。
・観光地のお土産販売なので。凄い影響を受けます。もう転職を考えなければ、、、。
・クリーニング店なのでワイシャツ、スーツがさらに出なくなる
・講師をしていますが、カルチャーなど休講になってしまうので、給料がなくなります。
・カルチャースクール、サロンを自宅で開催しているが、ワイン、料理関係なので開催できない
・ジュエリーアクセサリーを販売しているが昨年以上に売れないと今度こそ店が潰れてしまう。
・やっと少しずつスポーツイベントが復活してきて、仕事が出来るようになって来たのに、また大会中止で仕事が無くなってしまった。収入が減ったまま。
・音楽家です。またイベントが続々中止になるだろうと、早い段階でかなりの演奏会が中止、延期に。死ぬまじで
・精神的苦痛です、勤め先からは…従業員からコロナ感染者がでると店を数日閉めること消毒に3日はかかることその間売り上げがないこと再開しても客が戻ってこないので、当然売り上げが上がらない。勤め先としては当然の事を言っていても、家族は東京に勤務、電車移動ですむちゃくちゃ追い詰められる気持ちで一杯です
・札幌の観光客相手の飲食店です。GO TO中止で予約はキャンセル。12月はほぼお客さんがきませんでした。旅行会社だけでなく、その先の飲食店のキャンセルまで面倒みてほしいです。すすきのではないので、協力金などはなく、年末は売上なし。雪まつりも中止。観光客が来なければどうにもなりません。店も家も家賃が払えません。何ヶ月も待ってくれないです。生活費もないです。主人は持病があるのに病院代がないです。給付金など出してくれないと死人が出ると思います
・旦那が家にいる。
・夫がテレワークになると、いつ仕事しているのか分からなくなる。いつもテレビがついていて、ごろねして、おやつの用意も買い物にも同行するのだが、仕事は?と思う。私の仕事が増える
・栃木県に人がくる。もう栃木も東京に次いでやばい。ご都合主義なのはもう分かったが、数値を見てほしい。また人が隣接する栃木にくる。本当に無鉄砲。やめてほしい。
・結婚式に友達がこなくなった
・婚期が遅れる
アンケートにご協力いただきありがとうございました。
グノシーの「アンケート」タブにて、毎日新しいアンケートを更新しています。ポイントが手に入るものもあるので奮ってご参加ください。

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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め���しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力���が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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