#神代類の誕生日
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kamishirowxs · 4 days ago
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moko1590m · 3 months ago
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人は自己家畜化で優しく従順に進化した 人工環境と社会に適応
テクノロジーと人類(48)長内洋介
2025/3/29 10:00
人類が今日の繁栄を築いた根本的な理由は何か。その謎を解く鍵として注目されているのが「自己家畜化」という概念だ。人は優しく進化して飛躍を遂げたのだという。
家畜と共通点
人類は約1万年前、ヤギやヒツジ、ウシなどの野生動物を飼育して家畜化した。奇妙なことに、人はこうした家畜とよく似た性質を持っている。この事実は古代ギリシャ時代から知られ、19世紀にダーウィンも注目して研究したが、理由は突き止められなかった。
家畜化された動物は、どの種でも共通の性質が表れる。人を攻撃せず従順で、ストレスに対して鈍感、頭や顎は小型化し、体は白くなり、顔は平面的で幼くなるといった変化だ。
これは「家畜化症候群」と呼ばれ、その多くは人でもみられる。人はチンパンジーと比べて温和で、反射的に攻撃することは少ない。数百万年に及ぶ進化の過程で顎や歯は小型化し、顔は平面的になった。
人はなぜ家畜と似ているのか。その理由を説明するのが自己家畜化だ。人は誰かに家畜化されたのではなく、自ら家畜のような性質に進化したというものだ。
動物を家畜化するときは人に従順な個体が選ばれる。人類も攻撃的な人は排除され、仲良く協力できる人が自然淘汰(とうた)で生き残ってきたと考えられる。自己家畜化が始まった時期は不明だが、われわれホモ・サピエンスが誕生した頃に大きく進展したらしい。
東京大の外谷(とや)弦太特任助教(複雑系科学)は「人類は道具を使い、協力して狩りをすることで多くの食料を得られるようになった。人口が増えて社会が複雑化すると役割分担が始まり、より仲良くすることが有利になって自己家畜化が加速した」と指摘する。
愛知県立大名誉教授で野外民族博物館リトルワールド館長の稲村哲也氏(文化人類学)は「他者と協力し、相手を思いやる人間の特性は自己家畜化の過程で残ってきたのだろう。人は自ら作った高ストレス社会に適応して、より優しくなった」と話す。
仲良くなると情報や物資の交換が活発になり、新たなアイデアが生まれイノベーション(技術革新)が起きる。自己家畜化が人類の繁栄と文明の進歩に重要な役割を果たしたことは間違いないだろう。
人は大人になってもよく遊ぶ。旺盛な好奇心の表れであり、遊びによる探索や試行錯誤が新たなひらめきの源泉になる。イヌは進化の過程で自ら人に近づいたともいわれ、人と同じようによく遊ぶ。
人類は道具や社会制度を作り、農耕や都市化によって人工的な環境を生み出してきた。人が作った環境の中で家畜が飼育されるように、人間も自ら作った社会や環境の中でしか生きられない存在だ。こうした視点からも人は自己家畜化したと指摘されている。
言語にも関係
自己家畜化は人間らしさの根源である言語の誕生にも関係しているという。小鳥のジュウシマツは野生種を品種改良した家畜で、野生種より複雑なさえずりができる。人も自己家畜化によって言語の進化が起きた可能性がある。
京都大の藤田耕司名誉教授(進化言語学)によると、野生動物は生きていくため常に天敵や餌の心配をしているが、家畜はその必要がないため余裕が生じ、多くのことに注意を払い考えられるようになる。
「これが複雑な構造を持つ人間の言語が生まれた一つの要因ではないか。言語による複雑な思考やコミュニケーションが可能になった背景には自己家畜化がある」と藤田氏は指摘する。
家畜化の研究は、ロシアで20世紀半ばに行われたキツネの家畜化実験で大きく前進した。人に従順な雄と雌を交配させ、生まれた子から従順な個体を選び交配させることを繰り返した結果、わずか数世代でイヌのように尾を振る人懐っこいキツネが生まれたのだ。
しかもこのキツネは耳が垂れ、色が白いなどの家畜化症候群も呈していた。数千年は要したであろうオオカミからイヌへの進化を人工的に再現したようなものだ。
この実験によって、従順さを求めると家畜化することが実証されたが、なぜ体の変化も同時に起きたのか。これを説明する画期的な仮説が約10年前に登場し、注目されている。
鍵となるのは神経堤細胞という特殊な細胞だ。胎児のときに脊髄付近から全身に散らばり、ホルモンを分泌する副腎や骨などさまざまな場所の形成を��す。
この働きが低下すると、攻撃性を高めるホルモンの分泌が減るなどして穏やかで従順になる。骨や軟骨の形成も阻害されるため、頭が小型化したり、耳が垂れたりする変化が同時に起きることも説明できるのだ。
この仮説が正しければ、動物の家畜化は神経堤細胞の働きが低い個体を選別する行為といえる。人の自己家畜化も、そういうタイプの人が仲間や結婚相手として多く選ばれ、進行した可能性がある。
京都大ヒト行動進化研究センターでは、チンパンジーと、近縁種で自己家畜化した性質を持つボノボの人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使って、それぞれの神経堤細胞を作り、その働きを比べることで自己家畜化の決め手となる遺伝子を探す研究が進んでいる。
権力への依存
現代人も自己家畜化が進んでいるという。山口大の高橋征仁教授(社会心理学)によると、日本での代表的な美男子コンテストの候補者は、時代を追うごとにひ弱で優しく幼い印象の顔になっている。家畜化で生じる特徴的な変化だ。
分析の結果、女性は男性の優しい顔に恋愛や結婚の相手としての魅力を感じることが分かった。女性が穏やかで従順な男性を選ぶことで人の自己家畜化が進んでいる可能性がある。
自己家畜化の進行は人類の将来に何をもたらすのか。高橋氏は「幼くなるのは若々しくなることで良い面だが、課題は巨大な権力への甘えと依存が強まることだ」と話す。
インターネットが普及した今日、現代人は巨大IT企業が支配する情報インフラを従順に受け入れ、すっかり依存している。人はネット空間という見えない柵の中で飼育され、情報という餌を与えられて生きる家畜への道を自ら選んだと言ってもいいだろう。
一方、外谷氏は「人が協力して行ってきたことの多くは生成AI(人工知能)に置き換わる。人は協力することに価値を見いださず、他者や社会に無関心になっていく」と予想する。
家畜は人間に興味を示す半面、自分と同じ種への関心は低い。人間同士が無関心になることは自己家畜化の帰結ともいえそうだ。
稲村氏は「人は自己家畜化によって社会性や共感を強めてきたが、集団を超えた協力はできていない。集団内の結び付きが強いほど、外部の集団と戦争を起こしてしまう。この矛盾をどう解決するか問われている」と警鐘を鳴らす。
自己家畜化論は人種差別や優生思想と結び付いて政治的に利用された過去があり、現在でも誤解されやすい。だが人間の本質を探る上で重要な論点であり、人類史を俯瞰(ふかん)して理解する新たな視座になるだろう。(科学報道室編集委員)
(人は自己家畜化で優しく従順に進化した 人工環境と社会に適応 テクノロジーと人類(48)長内洋介 - 産経ニュースから)
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koch-snowflake-blog · 7 months ago
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傳谷 英里香は、日本の女優。千葉県出身。KON-RUSH所属。女性アイドルグループ「ベイビーレイズJAPAN」のリーダーであった。 ウィキペディア
生まれ: 1995年11月2日 (年齢 29歳), 千葉県
映画: なれたら
身長: 158 cm
事務所: レプロエンタテインメント(-2022年7月); KON-RUSH(2022年11月-)
血液型: B
日本人の父とフィリピン人の母との間に生まれた。洗礼名はアンジェラ(Angela:イタリア語で天使の意味)。日本語の語順ではアンジェラ傳谷英里香となる。
スポーツ全般が得意。公式プロフィール記載の特技であるバスケットボールは小中の7年間部活に入部しており、中学生時代には副キャプテンを務めていた。同じ時期、水泳部、陸上部も掛け持ちしていた。スキューバダイビングは2017年夏に日帰りで資格を取得。
運動能力反射神経ともにメンバーの中ではずば抜けており、ベイビーレイズのメンバーと運動で争う企画では独壇場であった。
ピアノも幼少時より習っており、「第17回Japan Expo」のため渡仏した折には撮影で訪れたモンマルトルの丘にて両親の思い出の曲であるサザンオールスターズの「TSUNAMI」を演奏し、居合わせた現地の人や観光客の注目を集めた。
ベイビーレイズJAPAN結成以前はモデルまたはソロアーティスト志望であり、黒木メイサや安室奈美恵を目標としていた。このため結成当初はアイドル活動に全く乗り気では無く、自身のTwitterやブログなどで「元々アイドルというものが苦手でやりたくなかった。」とも語っていた。しかし、ベイビーレイズJAPANのメンバーとして活動していくにつれて「今は(アイドルが)好きです。ちゃんと言えます。」「前の自分に会ったら引っぱたきたいくらい全然違う世界だった。」と思うようになり、アイドルに対する考え方も変わっていったという。
ベイビーレイズ時代は「やるならとことん」を座右の銘としてことあるごとに明言しており、キャッチフレーズにもなり実際の行動規範ともしていた。
10代の間に体験しておきたいと、20歳の誕生日前に群馬県のみなかみバンジーでバンジージャンプを体験した。
ベイビーレイズ(JAPAN)時代はハーフと言うこともあり漢字が苦手キャラであったが、読書家であり実際はそれほど苦手ではない。自身の苗字の「傳」の字もバランスよく書きこなし、客観的には達筆の部類に入る。
『世界ふしぎ発見!』(TBS)の解答者として初めて出演した回を含め合計3度{2019年5月時点}もの全問正解のパーフェクト賞を獲得し、推理力・考察力に秀でた才女ぶりも披露している。
ロック音楽が好き。2017年1月に名古屋で共演してからSUPER BEAVERの大ファンとなり、1人でワンマンライブに参戦するほどである。女性シンガーでは阿部真央やあいみょんが好き で、ファンクラブイベントで彼女らの曲を歌唱披露したこともある。
読書好きであり、仕事の合間を縫って様々な本を読んでいる。哲学書や自己啓発本も好んで読む。小説も幅広く読むが、川村元気や住野よるの作品に造詣が深い。漫画はほとんど読まないが、ファッション関係の仕事に関心が強いこともあり、『ランウェイで笑って』は好きな作品であると表明している。
映画も非常に好きで、オフや仕事の空き時間を縫ってよく鑑賞する。幅広いジャンルを鑑賞するが、ドキュメンタリー物が好み。ファンイベントでは、おススメの映画として『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』、『湯を沸かすほどの熱い愛』、『ワンダー 君は太陽』、『ルーム』、『君が生きた証』を挙げ、作品に対する熱い想いを大いに語った。
  
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日本の考古学と科学思想の歴史。
第2章 :
日本の考古学者の皆さん、哲学的観点から見た新しい日本考古学へようこそ。 — 前の章で、特定のトピック、歴史、考古学、人類学について質問されるとき、たとえば「私たちの先祖は誰ですか?」とコメントしました。 そして彼らはどうやって X 場所にたどり着いたのでしょうか? 考古学自体が 19 世紀末の 1877 年に登場したとき、1884 年に人類学研究所が、1895 年に日本考古学協会が誕生したことについて触れます。 - 19 世紀の人なら、「私は誰ですか、どこから来たのですか?」と尋ねるでしょう。 ドイツ語、中国語、ノルウェー語、日本語などを尋ねることができます。 この種の質問は今日に至るまで答えられていません。 歴史学と考古学はそれらに答えを与えておらず、今日の他の分野でさえさらに多くのことを知っていますが、道のりはまだ長いです。 19世紀の日本、特にその終わり頃は、自分たちの起源を知りませんでした。 1980 年代の日本の科学者なら誰でも、最初の日本人入植者は誰だったのか疑問に思うでしょう。 ここに定住するきっかけは何ですか? 現在、最初の入植者は約 3 万年前に到着したことが知られていますが、彼らだけだったのでしょうか? この諸島には、海面が現在より 120 倍も低かったため、中国と朝鮮の半島を北と南から通ってやって来た最初の入植者がいたことが知られています。 日本人は非常に古い本を 2 冊持っていることが知られており、1 冊は西暦 711 年、もう 1 冊は西暦 722 年のものです。 最初の書紀は古事記と呼ばれ、二番目の日本書紀は、神 (カミスと呼ばれる) による西暦 660 年からの日本の建国について語っています。この日本の神聖な起源の概念は、第二次世界大戦 (第二次世界大戦) まで続きます。 これら 2 冊の本は、ヨーロッパではギリシャとローマに遡る最古の本に相当します。 - 気に入っていただければ幸いです。今��の投稿でお会いしましょう。良い一週間をお過ごしください。
HISTORY OF JAPANESE ARCHEOLOGY AND SCIENTIFIC THOUGHT.
Episode 2:
Welcome, Japanesearchaeologicalists, to a new installment of Japanese archaeology, seen from a philosophical point of view. Having said that, get comfortable and let's begin.
In the previous chapter, we commented that when we are asked questions about certain topics, history, archeology and anthropology, for example: Who were our ancestors? And how did they get to X place? We mention, when archeology itself emerged at the end of the 19th century, 1877, the origin of the anthropology laboratory in 1884 and in 1895 the Japanese archeology society.
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A person from the 19th century would ask: Who am I, where do I come from? We could ask a: German, Chinese, Norwegian, Japanese, etc. These types of questions remain unanswered to this day. History and archeology have not given them an answer, even other disciplines today know much more, but there is still a long way to go. Japan during the 19th century, especially the end of that period, did not know its own origin. Any Japanese scientist in the 1980s would wonder who were the first Japanese settlers? What led you to settle here? Currently, it is known that the first settlers arrived about 30,000 years ago. Were they the only ones? It is known that the archipelago was inhabited by other inhabitants who were the first settlers. They arrived through the peninsula of China and Korea, both from the north and the south, since the sea level was 120 times lower than today. It is known that the Japanese have two very old books, one dates from 711 and the other from 722 AD. The first is called Kojiki and the second Nihonshoki, the Kojiki tells of the founding of Japan from the year 660 AD by the gods (called kamis), this concept of the divine origin of Japan would last until World War II (2ww). These two books would be the equivalent in Europe of the oldest dating back to Greece and Rome.
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I hope you liked it and see you in future posts, have a good week.
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gekkan-tesusabi · 2 months ago
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つじしまみちこ 特別インタビュー
新譜「Goodbye to AI」について
日本を代表する音楽プロデューサーつじしまみちこが2025年4月29日、5年以上の沈黙を破り、新譜をBandcampにて発表した。つじしま女史曰く、この度の新譜は、令和に元号が変わってから初めてのものであり、発表と同時に、シリアや北朝鮮、東欧地域からの注文が相次いでいるという。本誌は、新譜の発表に際して制作者であるつじしまみちこ本人に独占インタビューを行った。
はじめまして、本日は貴重なお時間を頂きありがとうございます。全く存じ上げないのですが、つじしまみちこさんは何者なのでしょうか? 世界的な音楽家ですが、コロナ禍に体調不良(後述)に見舞われ、表舞台から一度降りたので、日本の皆さんがご存じないのは無理もございません。2010年代より「つじしまみちこ」名義で純音楽の作曲に勤しんでおりましたが、平成末期の頃、電子音楽に興味を持ち、ウェブ上でいくつかの作品を公開しておりました。
つじしまみちこさんの名前の由来を教えてください。 ネトウヨに刺される恐れがある為、その質問への回答は差し控えさせていただきます。
つじしまみちこさんは、太宰治の妻であった津島美知子さんと何か関係があるのでしょうか。 ない。
つじしまみちこさんは、こしじまとしこさんから影響を受けておりますか? とても良い着眼点です。ないです。
つじしまみちこさんが最も影響を受けたアーティストは誰ですか? 何人もおりますが、一番影響を受けた人物を挙げるとすれば、子供の頃に目撃した、河川敷で黙々とドラム缶を半裸で殴打する名も知らぬ老人です。ヴィジュアル、音響、発想、その全てが芸術的でした。
つかぬ事をお聞きしますが、本当につじしまみちこさんは、専業の音楽家でしょうか? 音楽だけでは一年当たりの手取りが2000万円ほどしかなく、これだけでは食べていけないので、普段は株式、債券、金やレアメタルへの投資で生活費の大半を稼いでいます。所謂「億り人」です。
つじしまみちこさんにとって音楽とは何ですか? 単なる聴覚異常の原因でしかありません。実はコロナ禍に、頭の中で中島みゆきの「糸」が止まらなくなる奇病を患った事があり、心療内科・脳神経外科・内科・循環器科・耳鼻咽喉科・性病科をハシゴしたのですが、何処の病院に掛かっても原因が不明故に一向に快方へ向かわなかった為、処方された薬をゴミ箱に捨て、代わりに朝昼晩の食前食後に日本酒を飲んで自己治療をしている内に、恐らく音楽が原因ではないかと思うようになりました。非常に辛い思いをしたので、もう音楽なんてやめたくて仕方がなかったのですが、覚醒剤と同じでやめたくてもやめられませんでした。
つじしまさんが音楽制作を始めた理由は何でしょうか? 2010年代の半ば、それまで勤めていたブラック企業を解雇された後、楽して稼げる方法はないかと模索を始め、やがて、音楽配信と広告収入で不労所得が得られる事を知り、菊池有恒の「楽典―音楽家を志す人のための」や放送大学のテクスト「音楽理論の基礎」を熟読して音楽理論を独学し、楽曲制作に明け暮れていた時期があるのですが、殆ど誰にも見向きもされず、どれ程営業努力をしても数千円の収入しか得られませんでしたので、空しくなって3ヶ月ほどでやめてしまいました。当時の音楽シーンを見渡すと、病気や精神障害を抱えた人しか活躍していない惨憺たる有様でしたので、心身共に健康でおまけに京大卒と言う絵に描いたようなエリートである私に居場所などある筈もありませんでした。その後は、マーケットに戻り、生き馬の目を抜くビジネスの世界で活躍していたのですが、人が一所懸命汗水流して世界経済を動かしている最中、いい年して子供の遊びに夢中になり、事あるごとに感情的な言葉を下水道から逆流した汚物の如くSNS上にぶちまける所謂クリエイターと呼ばれる輩が憎くて仕方がなくなった為、彼らへの嫌がらせの一環としてウェブ上で不快極まりないミュージックを次々と公開し、戦いを始めたのが「つじしまみちこ」誕生のきっかけです。
今回の作品ですが、発表しようと思ったきっかけは何でしょうか? Bandcampのページ内のライナーノーツに記載の通りです。
今回の作品ではAI技術を活用したNEUTRINOというボーカルシンセサイザーが大々的にフィーチャーされております。ボーカロイド等の音声合成技術はお好きでしょうか? 好きで使っているのではなく、予算と私の人徳の問題でボーカリストの協力が得られない為、仕方なしに利用しています。NEUTRINOにせよボーカロイドにせよ、未だプロのボーカリスト程の歌唱力や表現力を持っておらず、また活用できる楽曲のジャンルは基本的にエレクトロ色の強いポップミュージックに限られていると感じており、不満の方が大きいです。
ジャケットに描かれた化け物は何ですか? 生成AIに「みちこ」の画像を生成するよう命令した��、アジア系の少女の画像が出力されたので、それをポリゴン加工し、目と口をつけました。化け物ではなく、AIと私のコラボレー��ョンによって生まれたつじしまみちこの肖像です。
私は今回の作品でつじしまみちこさんの作る音楽を初めて聴いたのですが、いずれの楽曲も、オウム真理教が布教の為に作った音楽や旧ソ連の人々がジャーマンテクノなどに代表される西側のニューウェーブを模倣して作った電子音楽を彷彿とさせるものでした。実はインタビューの前に公安関係の方から、つじしまさんは以前よりオウム真理教や〇〇〇〇〇(自主規制)との関係が噂されていると聞いたのですが、これは本当でしょうか? (記者の問いかけに対し、額に手を当て沈黙するつじしま)
つじしまさん、もうオウムなんて辞めて創価学会に入りませんか。楽しいですよ。 断る。私は尊師を裏切る事は出来ない。
真面目な質問に軌道修正しますが、つじしまさんの新譜は、キング・クリムゾンやピンク・フロイド等の往年のプログレッシブ・ロックの影響が色濃いように感じるのですが、つじしまさんの年齢は、一体おいくつですか? つじしまみちこ自体は平成生まれの永遠の27歳であり、年を取らないのですが、中の人はGHQ統治時代に生まれた昭和世代の為、年齢が年齢だけに、新しい音楽を聴いても、作風にアップデートが掛かりません。近頃は耳そのものが聞こえなくなってきました。
コード進行、曲の展開が非常に独特ですが、何か曲作りの上での拘りはございますか? 私は楽典にもポピュラー音楽理論にも知悉しておりますので、音楽理論に基づいた作編曲が出来るのですが、ロック、古楽、雅楽、民族音楽、果てはノイズミュージックに至るまで、古今東西の様々な音楽を聴き続けた結果、不協和音さえもハーモニーと捉えられる程に感覚がおかしくなった為、最早、自分でも一体全体何をしているのか分からない状態で作品作りをしております。 かつて「躁鬱ポップ」を標榜し、Aメロはメジャーコードのクリシェで安定しつつも停滞した印象付けをし、その後のBメロはオーギュメントコード、ディミニッシュコード、クラスターコードの嵐という混沌状態、サビはメジャー���マイナーが混在する90年代的な懐かしい進行とし、リスナーが散々苦しんだ末に救済されるような構造の作品を濫造していましたが、今回はサイケデリック・ロックを彷彿とさせる不気味な進行の楽曲を、メロディーとアレンジを熱心に研究・工夫して、ポップミュージックに仕立て上げました。陽気ながら、どこか不気味で違和感溢れる仕上がりとなったと自負しています。 新譜の発表前、音楽業界の関係者に「マイク・オールドフィールド以来のプログレの名盤が出来たので聴いて欲しい。内田裕也の跡を継ぐロッカーとして、ネット出身の軟弱なアーティスト達を日本の音楽シーンから駆逐したい��考えている」と伝え、私の作品の試聴をお願いしたのですが、視聴直後より、誰もが次々と体調不良を訴えたり、家庭環境が崩壊したりと様々な災いに苛まれるようになったようです。唯一、異なる反応を見せたのは数年前から懇意にしているディスクユニオン新小岩店の店長で、曰く「このアルバムはプログレの棚には並べられない。そもそもロックミュージックのアルバムと言うより、歌謡曲のシングルと呼んだ方がしっくりくるので『つのだ☆ひろ』の中古8cmシングルと同じ棚に置く事になる」とのことでした。「せめて『人生(ZIN-SÄY!)』と同じ棚にして欲しい」と頼んだのですが「当店には既に『人生(ZIN-SÄY!)』は在庫がない」と言われました。ピエール瀧が逮捕された時期に一掃されたそうです。
新譜制作に当たって使用した機材を教えていただけますでしょうか? 20世紀末に購入した古いNECのPC-98マシンで制作をしました。PC-98と言っても今のZ世代は分からないと思いますが、かつてMicrosoftのWindowsやAppleのMacintosh、フリーOSのLinuxと拮抗していた日本産OSです。既にサポートどころか新製品の販売すらされなくなって久しく、ウィルス感染が怖いのでオフラインで利用しています。楽器についてですが、3トラックとも、電子音は、全て初代Moogを手弾きしたもので、ピアノは10年以上愛用しているSteinway、パーカッションはJazzの名盤から抽出した音源で、予定調和の展開を悉く破壊して心をざわつかせる民族楽器の類は現地の方に弾いてもらったものです。今回の作品の為にモニタースピーカーやオーディオインターフェースは一新しており、自宅も防音仕様に改築しました。
機材を一新したとの事ですが、これまでとの曲作りで大きく変わった点は何でしょうか? 曲を仕上げた後、火照った頭と体を鎮める為に夜の街へ飲みに出かけるようにしているのですが、以前は炭水化物抜きで日本酒とつまみだけで飲み続けていたのを、今回からは、シメにご飯物を頼むか、あるいは最初から丼物を頼んで酒を愉しむようにしました。一年ほど前から一升ほど酒を飲むと正体不明になって、自宅に帰る途中に車道で寝てしまったり、気が付くと明け方のゲイバーで店主と口論になっていたりと大変な事態に見舞われるようになっており、当初は年のせいかと思ったのですが、どうやら、医学的には酒を飲んだ時は炭水化物を摂った方が良いとの事でしたので、飲酒の仕方を大きく変えるようにました。太るかと思ったのですが、毎朝、酔っぱらった状態でジョギングをしたり、ジムでトレーニングをしている内、代謝が良くなり、沢山食べて���体形が変わらなくなりました。時折、血尿が出ますが元気で暮らしています。
アナログシンセの音作りが絶妙にレトロで、YMOを想起させますが、坂本龍一氏と同じクラシック畑出身のつじしまさんは、坂本氏にどのような印象を抱いておりますか? 彼の作品は「千のナイフ」と「音楽図鑑」しか聴いた事がないのですが、電子音楽という形態を取らず、ピアノや管弦楽器などの生楽器を主体とした編成の方が良いものになると思っておりました。彼にこの事を伝えようと、上野辺りに呑みに誘おうとしていたのですが、その前に癌で亡くなってしまいました。
つじしまさんがヨーロッパ出身というのは本当ですか? はい。フランスで生まれました。
虚実入り混じるお話を延々として頂いた所で恐縮ですが、最早、誰もが理解不能な内容になっている上、好い加減、私自身が耐えられなくなっておりますのでインタビューを仕切り直したく思います。ここから先は真剣に答えていただけますか? 構いません。
つじしまみちこ 特別インタビュー
新譜「Goodbye to AI」について
日本在住の音楽プロデューサーつじしまみちこが2025年4月29日、5年以上の沈黙を破り、Bandcampにて新譜を発表した。本誌は、新譜の発表に際して制作者であるつじしまみちこ本人に独占インタビューを行った。デビュー以来、初めて真実を語るつじしまに迫りたい。
2020年代に入って音楽活動を事実上停止していたつじしまみちこさんがこの度、新譜を公開した背景は何でしょうか。 事の発端は昨年2024年11月にアメリカの大統領選挙でドナルド・トランプが再び大統領に選出されるという歴史的場面を目にした事でした。開票結果の出た日、私は、アメリカの知識人たちが民衆に対して語る言葉や伝える力を失った結果、あのような事態を招来したと感じました。同時に、私自身も、これまでの音楽活動の中では、具体的な説明を放棄し、受け手である視聴者に冷淡な態度を貫き、事あるごとに辛辣な言葉を浴びせかけてきたものの、よくよく考えると、私のしていた事は、反知性主義者の前に脆くも破れ、時代の敗者となったアメリカのインテリゲンチャと変わらない事に気付き、これまでの態度を猛省し、次こそは、難解な事柄を理解出来る知性を持つ少数者が聴いても、そして、前提知識のない愚昧な一般大衆が万が一聴いてしまっても、両方の層が楽しめるような作品を作ろうと一念発起した事が新譜制作の動機です。
今回の作品では全ての曲で、NEUTRINO(AI技術を用いたボーカルシンセサイザー)が使われておりますが、理由は何でしょうか? 私はボーカロイドやUTAUなどの従来のボーカルシンセサイザーには、歌唱力や表現力の点で落胆させられてきました。発売当時から、キャラクター性やCVを担当した声優の人気に頼る以外、セールスポイントがない代物とさえ思っています。しかし、2020年に登場したNEUTRINOは別格でした。従来のボーカルシンセサイザーに特有の発声の不自然さはなく、人間の歌声と遜色がないものでしたので、是非自身の楽曲に使いたいと思いました。調声はAI任せなので殆ど弄れませんが、素晴らしい技術であるのは事実です。それにも関わらず、NEUTRINOが大きな話題にならないのは、非常に残念に思います。今回の作品では、何も知らずに聴いた場合、私がボーカリストに頼んで歌ってもらったと思われるような楽曲にしようと考え、飽くまで生成された歌声に合う音作りを心掛けました。NEUTRINOにもボーカロイドのようにいくつかのキャラクターがあるのですが、私はボーカルシンセサイザーにせよ人間の声にせよ単なる音、楽器の類と捉えておりますので、キャラクターの情報を出しておりませんし、楽曲のテーマは、あらかじめ設定されたキャラクターの性格とは関係がございません。
いずれの楽曲も3分未満のたいへん短いものですが、これは何故でしょうか? 飽くまで、NEUTRINOの実験の為の楽曲と自身の中で位置付けており、一般流通する音楽とは異質なものにしたかった為です。今の時代とは異なり、20年以上前のウェブ上には、一般市場に流通する音楽作品とは一線を画した、実験的な音楽作品が数多く存在していたと記憶しておりますが、かつての「作品未満の作品」が気軽に発表出来た時代の雰囲気を再現できればと思った事ももう一つの理由です。既に過ぎ去った過去であるのは間違いありませんが、リアルな世界では体験し得ないような出来事に遭遇する事がゼロ年代のインターネット上にはあり、当時の私はバブル崩壊以来の「失われたウン十年」を打ち破るポテンシャルをインターネットに感じ、明るい未来を期待をしていたのですが、その後、年を重ねた私の目の前に現れたサイバー空間は最早、フィルターバブルによって正気を失った輩が、自分とは何の関係もない事柄に首を突っ込んで気狂い沙汰を起こす、ただただ不愉快な世界となっており、現実世界と何の違いもなくなっておりました。しかし、私はシニシズムに陥る必要はないと考えています。今回の作品では、サイバー空間、そして、過去への郷愁にさえ別れを告げ、新たな世界へ出発する事を全楽曲を貫くテーマとしています。当初、新譜のタイトルは「Goodbye to Vaporwave」とするつもりでしたが、楽曲がVaporwaveと程遠い質感のものしか出来なかった上に、既にVaporwaveの時代でもないので「Goodbye to AI」に変更しました。
それぞれの楽曲のテーマは何でしょうか? ライナーノーツにも英語で記載しておりますが、1曲目は「SNSにおけるデジタル・ファシズム」、2曲目は「過去との決別」、3曲目は「青年期」です。
ご説明頂きありがとうございます。しかし、楽曲を聴いた際の印象との乖離が激しく、説明していただいたのにも関わらず理解が追い付きません。 以前から同様ですが、歌モノの楽曲を制作する際は、曲調とは対照的なテーマを設定し、それを元にして作詞をしております。今回は長調の曲しかないので、テーマはいずれも、暗く、重く、深刻なものです。 私は元々Aphex TwinやClarkのようなIDMに強い憧れを抱いて音楽制作を始めたのですが、その後、プログレッシブ・ロックや現代音楽等の方面へと音楽の関心が広がるにつれて、趣味も作風も著しい変化を遂げ、今ではOrchestral Manoeuvres in the Darkのようなスタイルに行きつきました。尤も、意図的に似せようとしている訳ではなく、また、歌詞が英語ではなく日本語の為、楽曲のメロディーやコードは全くの別物です。
制作に当たって苦労された点は何でしょうか? NEUTRINOは基本的にAI任せの為、生成される声には細かな調節がききません。望んだようなボーカルが生成されるまで、音声合成の為の処理を幾度も走らせる必要がありましたが、まるで、スタジオにおけるレコーディング作業において、延々ボーカリストにリテイクを求めるのと同じ思いがしました。人間に匹敵するAIを使いこなす為には、人間が行った場合と同じ労力が求められるのではないかとさえ思い奇妙な気分になりました。 アレンジについては、実験作品でもあるので、音数を出来るだけ少なくし、チープな質感を出そうとしていたのですが、NEUTRINOは、発声の再現度が高すぎてピッチが怪しいものや息切れしかかった歌声までもが生成される場合があり、ボーカルのサポートの為に楽器を足している内、結局、30トラック超のアレンジにならざるを得ず、いつもの事ながらミックスにたいへんな時間を取られる事になりました。また人間的で生々しいボーカルとの調和を図る為、オケは電子楽器であっても生演奏感が出るようにピッチやテンポ、ベロシティを細かく調整し、揺らぎが出るようにしています。 マスタリング工程では、AIに因んだ作品ですので、Bandlab MasteringというAI技術によるマスタリングサービスを利用したのですが、敢えて音にアナログテープの質感を持たせるような形でマスタリングしています。音割れする程に音圧を上げた作品が流通している時代ですが、私は元々高音圧のマスタリングが好きではないので控えめに仕上げています。飽くまで、視聴する側で音量を調整すれば良いと思っています。
その他、新譜制作の際のこぼれ話はありますか? 久々の音楽作品制作でしたので、MP3配信の他に有料のアナログレコードかソノシートを用意しようとしたのですが、思いの外、高額な見積もりとなり、予算の都合が付かず、実現できませんでした。尤も、売る売らない以前に、単純に、自分の楽曲がアナログ盤になった場合、どういうものが生まれるか関心がありますので、1枚だけでもよいので、いつの日か作ってみたいと思っています。
質問に対して真摯にご回答いただきありがとうございました。つじしまさんが案外、まともな方で安心しました。 はい、仰る通り、実際の私は至って常識人です。
個人的な相談なのですが、この間、実家の猫が認��症になり、自分の前世が尿結石だと語り始め、家の中で妹に四六時中DVを振るうようになりました。果ては、近隣住民や自治体とトラブルを起こすようになった為、私は家族と協力して、止むを得ず、市長を山に埋めたのですが、以来、私も家族も霊障に苦しめられています。夏休み子ども科学相談室にも相談しましたが納得のいく回答が得られず、一向に解決の兆しがありません。妹は私のDVに耐え兼ね、手首の傷を増やす日々を送っております。家業の競輪でも立て続けに負けており、不幸の連続で、このままでは一族郎党離散せざるを得ないのですが、どうすればよろしいでしょうか。 病院行ってください。
最後になりますが、リスナーの皆様へ何か一言お願いいたします。 特にございません。ありがとうございました。
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zo-sunz · 3 months ago
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「他者」の起源──ノーベル賞作家のハーバード連続講演録
著者 トニ・モリスン(Toni Morrison)
解説 森本あんり(Morimoto Anri)
訳者 荒このみ(Ara Konomi)
集英社新書2019年7月22日第一刷発行
原著 THE ORIGIN OF OTHERS by Toni Morrison. Harvard UP. 2017.
帯宣伝文 「人はなぜ 「差別」 をやめられないのか」
 日本語版読者に向けて   森本あんり(巻頭特別寄稿)
 人は、差別主義者に生まれるのではなく、差別主義者になるのである。──トニ・モリスンのこの言葉を読んで、ボーヴォワールの「第二の性」を思い起こす人は少なくないだろう。人は、女に生まれるのではなく、女になるのだ。これを、身体的・生物学的な性(セックス)から社会的・文化的な性(ジェンダー)への発展、と言い換えてもよいかもしれない。
 だが、この類比には並行的でないところもある。女に生まれることと女になることとの間にはかなり強い繋がりがあるが、生まれたばかりの子どもには、差別主義者になるような身体的・生物学的な根拠はどこにもない。白人や黒人に生まれることと、人種差別主義者になることとの間には、実は何の関連性もないのである。
 とすると、人はいったいどこでどうやって人種差別主義者になってゆくのだろうか。それを問うたのが本書である。モリスンは、その問いに「他者化」というプロセスを示して答える。人がもって生まれた「種」としての自然な共感は、成長の過程でどこかに線を引かれて分化を始める。その線の向こう側に集められたのが「他者」で、その他者を合わせ鏡にして見えてくるものが「自己」である。このプロセスは、本書で取り上げられた作品が物語るように、明白な教化的意図をもって進められることもあれば、誰の意図ともつかぬしかたで狡猾に社会の制度や文化の秩序に組み込まれて進むこともある。
 やっかいなことに、人がこのプロセスと無関係に社会生活を営むことは困難である。「他者化は怪しからぬことだからみんなでやめようではないか」と論じたところで、実際に何かが成し遂げられるわけではない。あ��時代のある文化に生まれ育つ者は、まずはその文化の規範をみずからのうちに取り込むことで成長する。つまり、われわれはみな、人としての自我をもつ存在となった時点で、すでにその文化がもつ特定の常識や価値観の産物となっている。だから人が他者化の問題を意識するときには、かならず自分の常識や価値観の問い返しとなり、それまで自分が学んできたことの「学び捨て」(unlearning)にならざるを得ないのである。モリスンの作品がしばしば読者の心に鋭い問いを突きつけるように感じられるのは、このためである。
 個人だけではない。他者化の力学は、国家や民族といった大きな集団にも同じように交錯して作用する。近現代の歴史はその典型例をいくつも示してきた。第二次世界大戦が終結すると、植民地であった地域から旧宗主国のプレゼンスが消え、次々に独立国家が誕生した。ところが、宗主国という共通の「他者」がいなくなると、今度は自分たちの内部に新たな「他者」が見えるようになる。インドでは、独立を求めて共に闘ってきたはずのヒンズー教徒とイスラム教徒がお互いを「他者」と認識するようになり、印パ戦争を経て1947年にはパキスタンが独立する。さらにパキスタン内部でも、言語や民族の違いから東西がお互いを「他者」と認識するようになり、1971年にはバングラデシュが独立する。
 1991年にソビエト連邦が崩壊したときにも、同じことが起こった。ソ連の崩壊は、連邦下に置かれていた各国の独立や、共産主義という理念全体の失墜をもたらしたばかりではない。東西冷戦というわかりやすい対立構造のなかで彼らを見ていた自由主義世界もまた、共通の「他者」を見失った結果、みずからの内部に新たな「他者」を見いだして立ち竦むようになる。西側諸国が誇ってきたリベラルな民主主義は、共産主義という外部の敵がいなくなった途端に暴走を始め、ポピュリズムや不寛容な民族主義という内部からの脅威に侵食されるようになった。今日われわれが世界の各地で目にしている民主主義の機能不全は、すでにこのときからゆっくりと進行してきた病態の表面化にすぎない。
 だが、ここでも問題は単純ではない。こうした分断や暴走による不安定化は、たしかに歓迎されざる結果であるかもしれないが、かといってそれ以前の植民地時代や冷戦時代がよかったかと言えば、そういうわけでもないだろう。「以前はみんな仲良く暮らしていたのに」という台詞は、しばしばその背後に抑圧され封殺された多くの声があったことを覆い隠して語られる。モリスンの語り口に同調させて言えば、それは南部の善良で心やさしい白人たちが公民権運動前の時代を想い出して懐かしげに語るときの台詞に近い。
 このように、本書が照らし出す「他者化」の概念は、通りいっぺんの批評を許さない多義性を帯びている。他者化とは、他者をその総体において、つまり自分の認識能力を凌駕する何らかの名付けがたい他者であるままにその存在を承認する、ということではない。われわれはしばしば、他者の一部を切り取って自分の理解に囲い込み、それに餌を与えて飼い続ける。やがてそのイメージは手に負えないほど肥大化し、われわれを圧倒して脅かすようになる。
 それでも、人は知ることを求める。知って相手を支配したいと願うからてある。それは、相手を処理されるべき受け身の対象物となし、かたや処理する側の自分を正統で普遍的な全能の動作主体として確立することである。この批判は、かつてエドワード・サイードが論じた「オリエンタリズム」批判にも重なってくる。西洋人が非西洋を解釈するときには、非西洋の本人も自覚していないらしいオリエント的な本質が特定され代弁される。まさにその表象行為によって、そういう認識をする西洋人こそが真の人間であり、対象である非西洋を管理し支配すべき正統性をもった存在であることが宣言され根拠づけられるのである。
 それゆえ本書の主題となっているのは、単にアメリカ国内に限定された人権や差別のことではない。それは、西洋と東洋、白人と有色人、キリスト教と他宗教、権力をもつ者ともたざる者といった多くのパターンに繰り返しあらわれる人間に共通の認識様式である。この認識様式は、合理的な思考や明晰な意識にのぼらない領野で神話的な構造へと転化し、他のすべての神話がそうであるように、われわれの見方や考え方を背後から支配する力をもつ。
 このような隠然たる神話的支配を意識の明るみへともたらしてくれるのが本書である。物語の名手モリスンは、この普遍的は認識様式のからくりをごく小さな個人的で特異な出発点から展開してゆく。彼女によると、「黒人」はアメリカだけに存在する。彼らは「アフリカ系アメリカ人」とも呼ばれるが、アフリカに住むアフリカ人は、それぞれガーナ人でありナイジェリア人でありケニア人である。唯一の例外は南アフリカ共和国に住む人だが、こうした事実からしても、「黒人」が科学的な概念ではなく文化的な概念であり、人種という価値軸の中で序列化された概念であることが理解できるだろう。アメリカにおける黒人と白人は、お互いが自己を定位するために相手を必要とするという意味で、ほとんど心理学的な「共依存」の関係にある。
 アメリカの奴隷制度にはキリスト教も少なからず加担しているが、これもアメリカ史に固有のことである。聖書には、古代世界の通念として、ある人びとは自由人で、ある人びとは奴隷である、という事実が前提されている。だが、それはもっぱら戦争捕虜か債務によるもので、肌の色とは無関係である。というより、キリスト教は肌の色に関して本来まったく無関心である。聖書には、エチオピア出身の人びとも登場するし、そのなかには伝説の美女や高位の官僚もいるが、彼らの肌がどのような色であったかについては、いっさい記��がない。中東人であったイエスや弟子たちの肌の色にも何ら言及がない。
 ところが、アメリカのキリスト教は肌の色と人間の価値の間に、きわめて特異な緊張関係を構築していった。18世紀以降の奴隷解放運動を担ったのは多くのキリスト教指導者たちであったが、彼らに反対する頑固な奴隷制擁護論者もまた教会の牧師たちであった。前者が頭を悩ませ、後者がしたり顔に論じたのは、聖書が「神の前での平等」を語るものの、社会的現実としての奴隷制そのものを断罪していない、という事実である。やがて19世紀のアメリカでは、長い巻き毛で白人のイエスを強調した聖画が複製頒布され、広く流通していった。20世紀後半に始まった「解放の神学」が黒人のイエス像を前面に押し出すようになったのも、こうしたカラーコードへの反動である。
 モリスンは、いくつかの特徴的な文学作品から、そしてさらに強烈な彼女自身の体験から、他者化の際に作用する「ロマンス化」の実例を描き出している。アメリカ史によく知られたハリエット・ビーチャー・ストウの小説『アンクル・トムの小屋』(1852)もその一つである。この小説が当時の白人想定読者層にどのようなメッセージとして受け取られたのか。そこに、奴隷制度の野蛮で残酷な現実を覆い隠し、あたかも非人間的なことは何も起こっていないかのような安心感を与えるロマンス化の作用がある。
 しかし同時に、読者はこの読み直しが他ならぬモリスンの語りによって薄暗がりの中から明るみへと引き出されてきた、ということに気づかされるであろう。他者の存在は、自分が「他者の他者」であるという立場の交換により、はじめて鮮明に意識される。われわれは、自分という存在の限定性から自由になることはできない。だが、文学の虚構を通して擬似的に他者の視線をもつことができ、その他者の視線を通して自分を見つめ直すことができる。本書は、アメリカの黒人という特異点を設定することにより、それぞれの読者に自分では開くことのできない窓を開けるはたらきをしてくれる。その窓を通して、読者は自分を取り巻く現実とは違う世界に目を向けることができるようになるのである。
 モリスンは本書末尾で、「自分たちの故郷にいながら故郷にいるとは言えない人びと」についても語っている。おそらくそれは、肌の色の如何にかかわらず、アメリカ国内の各地で人びとが感じ始めていることだろう。ここにも、われわれの想像力を呼び覚ます別の声が響いている。トランプ大統領の登場は、自分の国で自分の土地に暮らしていながら、いつの間にか「よそ者」のように扱われていると感じる人びとがいかに多いかを明らかにした。グローバル化の見えざる圧力は、大都市で世界を股にかけて活躍する国際派のエリートたちよりも、小さな田舎町で穀物の値段を気にかけつつ生きるほかない人びとに重くのしかかるだろう。そのひとりひとりに、自分が本来帰属すべき場所があり、心に感じながら生きるべきディープ・ストーリーがあったはずである。
 人は誰も、自分ひとりでは幸せになれない。どこかに属し、誰かと繋がっていなければ、自分の存在意義を確認することもできないのである。もしそういう居場所が現実世界で見つけられなければ、ネットという仮想空間にそれを求めることがあっても不思議ではない。他者化の力学は、そこにも作用することだろう。人はそこで、生暖かい温もりに包まれたり、凶暴な正義感に酔い痴れたりして、日常と祝祭の間を行き来する。
 他者の眼差しは、ときに人を不安にさせ、居心地を悪くする。日本人はこれまで、自分から海外へ出かけて行かない限り、こうした視線を向けることも向けられることも少なかった。しかし今や、日本を訪れる外国からの旅行者は爆発的に増え、外国人の労働力なしには日常生活すら回らないほどになっている。毎日の買い物で釣り銭を受け取るとき、あるいは地方の鄙びた温泉にゆっくりと浸かる安らぎを破られたとき、われわれの他者認識と自己認識には、どのような他者化の作用がはたらくことだろうか。
 ターネハシ・コーツによる序文
 2016年春、トニ・モリスンは、「帰属の文学」についてハーヴァード大学で連続講演を行った。これまでになされてきた数々の非凡な仕事を思い起こせば、モリスンが人種という課題に目を向けたのも驚くにあたらない。その講演はまさに時宣を得ていた。バラク・オバマ大統領は、二期目の最後の年を迎えていた。支持率は上向きだった。「ブラック・ライヴズ・マター(黒人の命も大事)」というスローガンを掲げた活動が盛んになり、黒人への「警察暴力」が全米的な話題として社会の前面に押し出されていた。これまでの「人種問題をちょっとかすめるだけの話題」とは違って、今回は結果を伴っており、効果も出ていた。オバマ政権時に、ふたりのアフリカン・アメリカン、司法長官エリック・ホルダー(在任2009〜15)とロレッタ・リンチ(在任2015〜17)は、全米の警察署の調査を開始させた。ファーガソン、シカゴ、ボルティモアでの騒乱が報告され、これまで長い間、瑣末な出来事として処理されていた、いわば組織的人種主義が現実のものであることを明らかにした。この積極的な問題解明の姿勢は、アメリカ合衆国の最初の女性大統領になるはずだった、ヒラリー・クリントンによって継続されていくものと期待されていた。じっさいトニ・モリスンが連続講演を始めたときには、政治家としてはライト級と見なされる、つまらぬ男に比べて、ヒラリーの好感度はきわめて高かった。これらのことはすべて、さまざまな歴史的規則に果敢に挑戦している国が、今、道徳の領域において長く伸びるアーチの、正義の先端へ���いに近づいているという動かしがたい証拠だった。
 ところが、アーチの先端はさらに先へと伸びて行き遠ざかってしまった。
 ドナルド・トランプが勝利すると、それに対する最初の反応は、アメリカの人種主義などたいしたことではないと矮小化することだった。零細企業の人びとが立ち上がり、2016年の大統領選挙は、ニューエコノミーに見捨てられた人びとが推進する、反ウォール・ストリートのポピュリスト的反乱であると決めつけられたのだった。クリントンは、「アイデンティティ政治」にこだわりすぎたために命運がつきてしまった、と批判された。
 こういった議論は、しばしばかれら自身の破滅の種を産むことになる。ニューエコノミーに見捨てられやすい人びと──黒人やヒスパニックの労働者──がなぜトランプ陣営に入らなかったのか、その理由はまだ説明されていない。そのうえ、クリントンの「アイデンティティ政治」を批判する、まさにその人びとのなかに、「アイデンティティ政治」を利用するのにやぶさかではない者がいた。バーニー・サンダーズ上院議員は、クリントンの対立候補の筆頭だったが、あるときは自分のルーツが白人労働者階級にあると誇らしげに語り、またすぐその翌週には「アイデンティティ政治」を「乗り越えよう」と、民主党員に発破を掛けた。「アイデンティティ政治」とは、どうも等しく同じことを意味しておらず、かならずしも「生まれながらにして平等」を意味するのではないようである。
『「他者」の起源』(2017。The Origin of Others)──モリスンの新しい本は、ハーヴァード大学で行われた連続講演から生まれたが──ドナルド・トランプの台頭の背景とじかに関連しているのではない。だがモリスンの「帰属」の思考や、社会の保護下にだれが置かれ、だれが外されているのか、などを読み解くために、わたしたちは今日の状況を考慮しなければならないだろう。『「他者」の起源』は、アメリカの歴史を精査し、アメリカ史上最古の、しかももっとも影響力のある「アイデンティティ政治」について語っている──すなわち人種主義という「アイデンティティ政治」である。本書は、「よそ者(外国人)」の創出、「壁」の建設、文学理論・歴史・回想録について書かれているのだが、すべてはいかにして、いかなる理由によって、わたしたちはこれらの種々の「壁」を肌の色と結びつけてしまったのか、それを理解するためである。
 本書は、20世紀の、消しがたい白人至上主義の本質に巧みに迫った一群の研究書と軌を一にしている。モリスンが同志と見なすのは、スヴェン・ベッカート(ハーヴァード大学教授。歴史学者。『コットン帝国──グローバル・ヒストリー』(2014)でバンクロフト賞を受賞)やエドワード・バプティスト(コーネル大学教授。歴史学者。『語られない半分──奴隷制度とアメリカ資本主義の生成』(2014))などで、かれらは白人至上主義の暴力的な性質や、そこから生み出される資本主義的利益の実態を暴露した。ジェイムズ・マクファーソン(プリンストン大学名誉教授。歴史学者。『自由への叫び──南北戦争の時代』(1988)でピューリッツア賞を受賞)やエリック・フォーナー(コロンビア大学名誉教授。歴史学者。『業火の試練──エイブラハム・リンカンとアメリカ奴隷制』(2010)でピュリッツア賞・バンクロフト賞などを受賞)は、人種主義が南北戦争勃発の契機を育み、その後、いかに再建の国家的努力をむしばんだかを明らかにした。ベリル・サッター(ラトガース大学教授。歴史学者。『家族の所有地──人種・不動産・都市の黒人搾取』(2009))やアイラ・カッツネルスン(コロンビア大学教授。政治学および歴史学者。『恐怖──ニューディールとわれわれの時代の源』(2013)でバンクロフト賞を受賞)は、人種主義がニューディール政策を腐敗させたことを解明する。カリル・ギブラン・ムハマド(ハーヴァード大学教授。歴史学者。『ブラックネスの糾弾──人種・犯罪・今日のアメリカの都会の創生』(2011))やブルース・ウエスターン(コロンビア大学教授。社会学者。『アメリカの刑罰と不平等』(2006))は、人種主義がわたしたちの時代において大量投獄への道を開いたことを明らかにした。
 その中でもモリスンの仕事にもっとも近いのは、『レイスクラフト(人種狩り)』(2012)だろう。この本はバーバラ・フィールズ(コロンビア大学教授。歴史学者。『レイスクラフト(人種狩り)』(2012)の共著者)とキャレン・フィールズ(歴史研究者。『レイスクラフト(人種狩り)』(2012)の共著者)の共著で、アメリカ人は、能動的に作用する「人種主義(レイシズム)」の罪を、本来そのような作用を起こさないはずの「人種(レイス)」という言葉にすり替え、消し去ろうとしてきたという。一般にわたしたちが「人種主義」に対して「人種」と言うとき、「人種」とは自然界の特質を指し、「人種主義」はその当然の結果であると認識している。だがそれはまったく逆である。すなわち「人種主義」が「人種」という概念より先にあり、「人種」を証明しようと研究を積み重ねているのである。それにもかかわらず、アメリカ人は、いまだに論点を正確に把握していない。そのためわたしたちは、「人種差別」「人種的溝」「人種の分離」「人種的プロファイリング」「人種的多様性」といった言葉を平気で口にする──あたかもこれらの考えが、わたしたちが作り出したものではなく、別のところに根拠があるかのように。このことが及ぼす影響は些細なものとはとても言えない。「人種」が遺伝子とか神々、あるいは両者による作用の結果というなら、この問題を根本から打ち壊してこなかったとしてもしかたがない。
 モリスンの問いは、「人種」と遺伝子の接点はわずかしかない、といういささか説得力に欠ける考えから始まっている。そこからモリスンは、何の根拠もないと思われる浅はかな考えが、なぜ何百万人もの心をつかんでしまったのか、わたしたちにヒントを与えてくれる。非人間的行為を通して、自分の人間性(ヒューマニティ)を確認したいという欲求が鍵だ、とモリスンは論じている。そこでジャマイカの大農園主トマス・シスルウッド(1721〜86)の記述を取り上げる。シスルウッドは、まるで羊毛刈りを記録する気やすさで、奴隷女たちを相手にした連続レイプの記録を日記に残している。性行動の合間に、農業・雑務・客の訪問・病気などについて記している、モリスンはぞっとしながら述べている。レイプに対してこんなにも���感覚になれるとは、シスルウッドの心の中でいったいどのような心理作用が起きていたのか。「他者化」の心理作用──奴隷王と奴隷との間には、自然で、ある種の神性を帯びた線引きが存在するのだと、自分自身を納得させること。さらにモリスンは奴隷のメアリ・プリンスが女主人からひどく叩かれたことを分析して、以下のように述べている。
 奴隷が「異なる種」であることは、奴隷所有者が自分は正常だと確認するためにどうしても必要だった。人間に属する者と絶対的に「非・人間」である者とを区別せねばならぬ、という緊急の要請があまりにも強く、そのため権利を剝奪された者にではなく、かれらを創り出した者へ注意は向けられ、そこに光が当てられる。たとえ奴隷たちが大げさに語っていると仮定しても、奴隷所有者の感覚は奇怪きわまりない。まるで、「俺はけだものじゃないぞ! 俺はけだものじゃないぞ! 無力なやつらをいじめるのは、俺さまが弱くないってことを証明するためさ」と吠えているようだ。
「よそ者」に共感するのが危険なのは、それによって自分自身が「よそ者」になりうるからである。自分の「人種化」した位置を失うことは、神聖で価値ある差異を失うことを意味する。
 モリスンは、奴隷を創り出す者と創り出された奴隷とについて語っているのだが、その社会的位置に関する指摘は今日でも正しいだろう。とくに過去数年間ずっと、アメリカの警官が黒人を比較的軽い条例違反で、あるいはまったく違反していないというのに、殴ったり、テーザー銃(スタンガン)を発射したり、首を絞めたり、銃殺している映像が次々と流されてきた。そのためアフリカン・アメリカンのみならず、多くのアメリカ人が恐怖に陥っている。にもかかわらず、このような行為を正当化する言説がはびこっている。警官のダーレン・ウィルソンがマイケル・ブラウン(1996〜2014)を射殺したとき(2014)、「銃弾の雨あられの中を大きな塊が走り抜けた」ようだったと報道記者に語っている。まるでブラウンが人間とはかけ離れた大きな生き物に見えたようだが、じっさい人間以下と見なしているのだ。遺体を真夏の焼けつくアスファルトの路上に放置したことがその証拠で、人間以下の扱いが強く印象づけられた。ブラウンを怪物のように描いて殺人を正当化したウィルソンは、──司法省の報告によれば──まさにギャングと大差ないような警察官たちの職権濫用もまた許し、自分たちは非の打ち所のない人間だと主張させているのである。
 人種差別主義者の対象を非人間化する行為は、象徴の領域の話ではない──現実上の権力の領域に及んでいる。歴史学者のネル・ペインター(プリンストン大学名誉教授。歴史学者。『白人の歴史』(2010))は、「人種とは考えかたであり事実ではない」と主張している。アメリカにおける人種に関する考えかたのもとでは、肌の色が白い場合は、マイケル・ブラウンやウォルター・スコット(1965〜2015)、エリック・ガーナー(1970〜2014)のように警察暴力による���を遂げる確率の低いことは明白である。しかもこのような死は、「他者」として生きるということの意味、偉大な「帰属」の枠外にいることの意味を示す最適の例である。いわゆる「経済不安」がドナルド・トランプ陣営へ投票社を引き寄せたと言われるが、かれらは大多数の黒人から見れば、明らかにより豊かな人々であった。共和党の予備選挙で、トランプに票を入れた者の世帯収入の平均値は、アメリカの平均的黒人世帯収入の約二倍だった。現在、多くは白人の(とはいえ全員ではない)間に見られる、合成麻薬の流行への危機感は、1980年代のコカイン危機に見られた非難の嵐とは違っている。特定の白人男性の死亡率には敏感に反応する今日の関心のありかたは、この国でこれまでずっと黒人の生命を脅かしてきた、黒人の高い死亡率の原因からは目を背ける、あの冷淡さと様相を異にしている。
 人種主義は問題である(レイシズム・マターズ)。この国で他者でいることには重大な結果が伴う。──悲しいことにこれからその先も解決策は見つからず、問題でありつづけるだろう。人間社会は、素朴な利他主義のために、これまで持っていた特権を簡単にあきらめたりはしない。かくして白さを信奉する者がその信仰を捨てる社会は、これまでの特権が入手困難なぜいたく品になった社会しかない。アメリカの歴史上、そのような瞬間を何度も見てきた。長引いた南北戦争の結果、黒人もそれなりの人生をまっとうするにふさわしいと、白人は結論づけるにいたった。ソ連との冷戦は、黒人差別法であるいわゆる「ジム・クロウ法」が支配する南部を世界中の物笑いの種にし、敵側諸国に格好の宣伝工作の材料を与えてしまった。ジョージ・W・ブッシュ政権では、二度にわたる泥沼戦争(2001年のアフガニスタンおよび2003年のイラク攻撃を指す)、経済の急降下、ハリケーン・カトリーナ(2005年にアメリカ南部を襲ったアメリカ観測史上最大級の超大型ハリケーン)における連邦政府の組織的初動ミスが、アメリカ初の黒人大統領誕生の道を拓いた。このような出来事が起きるたびに、アメリカは歴史上の慣例を打ち破ったぞ、というひとかけらの希望が湧いたものだ。ところがそのたびに、希望は最終的には泡となって消えてしまう。
 わたしたちが、なぜふたたびこのような状態にいるのかを理解するために、アメリカが生んだ最高の作家・思想家であるトニ・モリスンがいることは、なんと幸運であるか。モリスンの仕事は歴史にその根があり、ひどくグロテスクな歴史的事象からも美しさを引き出してくる。その美は幻想ではない。歴史がわたしたちを支配していると考える人びとのひとりに、モリスンが数えられているのも驚くにあたらない。『「他者」の起源』は、この理解を詳細に説いている。過去の呪縛からただちに解放される道が提示されなくとも、その呪縛がどうして起きたのかを把握するための、ありがたい手引きになっている。
✲ ターネハシ・コーツは1975年ボルティモア生まれ。作家・ジャーナリスト・漫画家。アトランティック、ヴィレッジ・ヴォイス、ニューヨーカーなどに寄稿。2015年、『世界と僕のあいだに(Between the World and Me)』で全米図書賞受賞。アフリカン・アメリカンについて、また白人優先主義に関する記事でよく知られる。2015年、「天才」に与えられるマッカーサー財団の助成金を授与される。父親は、ヴェトナム帰還兵で、小さな出版社を営む。
著者 トニ・モリスン(Toni Morrison)
1931年、米国オハイオ州生まれ。コーネル大学大学院で英文学修士号取得後、ランダムハウスで編集者として活躍しながら、70年に『青い眼がほしい』で作家デビュー。77年の『ソロモンの歌』で全米批評家協会賞、アメリカ芸術院賞、87年の『ビラヴド』でピューリッツァー賞受賞。89年から2006年までプリンストン大学の教授を務め、93年にはアフリカ系アフリカ人として初めてノーベル文学賞を授与される。他の代表作に『スーラ』『ジャズ』『パラダイス』『白さと想像力』など。
解説 森本あんり(Morimoto Anri)
1956年、神奈川県生まれ。国際基督教大学(ICU)教授・学務副学長。著書に『反知性主義』『異端の時代』など多数。
訳者 荒このみ(Ara Konomi)
1946年、埼玉県生まれ。米文学者。東京外国語大学名誉教授。
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kennak · 11 months ago
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周囲のアメリカ人から「あの本読んだ?」とよく尋ねられる本が毎年何冊かある。韓国系アメリカ人作家ミン・ジン・リーの長編小説『パチンコ(Pachinko )』もそのひとつだ。 韓国と日本を舞台にした、在日韓国・朝鮮人の4世代にわたる年代記なのだが、アメリカでベストセラーになり、2017年の全米図書賞の最終候補にもなった。私の周囲だけでも、義母、娘、娘の婚約者の母親が同時に読んでいて、まるで「読書クラブ」のようだった。それほど、多くの人に読まれている作品であり、読者の評価も高い。 小説は1910年の釜山からスタートする。大日本帝国が大韓帝国との間で日韓併合条約を締結して韓国を統治下に置いた年だ。釜山の漁村に住む漁夫の夫婦は、その運命を黙って受け入れた。「泥棒相手に国を失った無能な貴族と腐敗した母国の統治者」には、それ以前からすでに諦めの気持ちを抱いていたのだ。動揺するかわりに夫婦は身体に障害があるが利発なひとり息子フーニーの将来を考えた。夫婦は息子に学校で韓国語と日本語を学ばせ、仲人を使って見合い結婚をさせ、労働者用の宿屋を経営させた。 フーニーの若い妻ヤンジンは何度も流産を繰り返した末にようやく健康な娘スンジャを得た。そして、働き者のフーニーが亡くなった後も、未亡人は娘の助けを借りて評判の良い宿屋を営み続けた。 スンジャは働くことに生きがいを見出す生真面目な少女だったが、16歳のときに年上の裕福そうな男コー・ハンスーから誘惑されて妊娠してしまう。相手が既婚者だと初めて知ったスンジャは、自分の過ちを恥じ、「結婚はできないが面倒は見る」という申し出を拒否して別れる。 田舎の漁村で未婚の女が妊娠するのは醜聞だ。結核で倒れたときに母娘��看病してもらったことに恩義を感じる若い牧師イサックは、これを神が自分に与えた機会だと考えてスンジャに結婚を申し込む。若い2人は、イサックの兄ヨーセブの誘いで1933年に大阪に移住する。 イサックとヨーセブの両親は裕福な地主だったが、韓国社会の不安定化で経済的な余裕はなくなっていた。大阪では韓国人牧師のイサックが得られる収入はほとんどなく、2組の夫婦は会社に務めるヨーセブの収入に頼ることになった。そのヨーセブにしても、雇ってもらっているだけで感謝しなければならない状況で、そこに付け込まれて日本人より安い賃金で倍以上働かされていた。 さらに戦争前夜の日本の思想弾圧により、牧師のイサックが逮捕されてしまう。一家はますます窮地に陥る。男としての甲斐性にこだわるヨーセブは妻たちが外で働くことを固く禁じるが、スンジャはコー・ハンスーから受け取った唯一の贈り物である高級時計を売ってイサックの借金を返し、ヨーセブの妻が作ったキムチを路上で売って家計を支える。 イサックは、スンジャが産んだコー・ハンスーの息子のノアをわが子として愛して育てる。しかし何年も刑務所で拷問を受けた結果、結核が悪化して解放直後に死んでしまう。イサックの性格を受け継いだように生真面目なノアは、働きながらも早稲田大学で英文学を学ぶ夢を叶えるが、自分の誕生の秘密を知って絶望する。日本で受け入れられるために愚痴も恨みも言わずひたすら努力を積み重ねてきたノアは、母を罵り、家族を捨て、見知らぬ土地で日本人としての偽りのアイデンティティを使って新しい人生を生きようとする。 スンジャの次男モサズは、兄とは違って、学問にまったく興味がない。だが、商売の嗅覚があり、パチンコ店に勤務して頭角を現す。そして、自分でも店を持ち成功する。モサズは、ひとり息子ソロモンをアメリカのコロンビア大学に留学させる。それは、亡き妻が抱いていた夢の実現でもあった。しかし、日本に戻って外資系の投資銀行に勤務したソロモンは、その環境であっても自分が在日韓国人として扱われる現実を実感させられる――。 在日韓国人の4世代にわたる年代記が、アメリカでベストセラーになり、しかも全米図書賞の最終候補にまでなったのはなぜなのか? それは、場所や人種が異なっても、「移民の苦労ばなし」が普遍的なものだからだ。 読んでいるうちに思い出したのは、20世紀前半にアメリカに移住したアイルランド系やイタリア系移民が受けた差別や紀元前からあるユダヤ人の迫害だ。 ユダヤ系には金融���、医師、弁護士、科学者が多いが、それは古代のヨーロッパでユダヤ人の就業が禁じられていた職種が多かったからだと言われる。アメリカのニューヨークやボストンでは、アイルランド系移民の警察官が圧倒的に多い。これも、アイルランド系移民が初期に受けた職業差別が少なからず影響している。20世紀の日本での在日韓国・朝鮮人によるパチンコ経営は、これらに比類するものだ。 アメリカは、先住民以外はすべて「移民」とその子孫だ。何世代か遡れば、必ず移民としてのこうした苦労ばなしに行きあたるはずだ。こうしたアメリカ人のDNAに刻み込まれた記憶が、小説への共感を生むのだろう。 日本統治下の韓国での日本人による現地人への虐めや、日本人による在日韓国・朝鮮人への差別、そして単語こそ出てこないが「慰安婦」のリクルートなど、『パチンコ』は日本人にとっては居心地が悪い小説かもしれない。 しかし、これは日本人を糾弾する小説ではない。1人の人間として「読者」になれば、誰でも感情移入できるし、家族ドラマとして楽しめる本だ。私は、若い頃に観たNHK連続テレビ小説の「おしん」を思い出した。そういう雰囲気もある。 著者のミン・ジン・リーはそんな私の意見に対して、このように答えてくれた。 「日本人の読者は洗練されているし、微妙なニュアンスも理解できる。あなたのように先入観なく、公平な視点でこの本を読んでくれると強く信じている。(英語で読んだ)多くの日本人読者は、すでにこの本をとても支援してくれて、とても感謝している。私の夫は日本人とのハーフで、私の息子は民族的には4分の1が日本人だ。現代の日本人には、日本の過去についての責任はない。私たちにできるのは、過去を知り、現在を誠実に生きることだけだ」
『Pachinko』(Head of Zeus) - 著者:Min Jin Lee - 渡辺 由佳里による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
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picnicism · 9 months ago
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ネオジム磁石は例えば、みなさんが肌身離さず持っておられる携帯電話に使われています。中に入っている超小型振動モーターには、100%ネオジム磁石が使われております。ネオジム磁石は現在最強の磁石です。計算では1グラムのネオジム磁石で1キログラムほどの鉄を持ち上げることが出来ます。そのような磁石をどのようにして見つけたのか、これからお話しします。 1. 新しい磁石を見つけるには  まず原理的なことから。これは元素の周期表です。私たちの体を含めたあらゆる物は、この周期表に書かれている100余りの元素から出来ています。磁石の基になっているのは、元素番号26の鉄(Fe)、27番のコバルト(Co)、28番のニッケル(Ni)で、これらは「鉄属元素」(あるいは遷移元素:transitional metal)と呼ばれています。もう1つ、磁石の基になっているグループが「レア・アース」(Rare earth)と呼ばれる16種類の元素です。このうち磁石に関係の深い元素が60番目のネオジム(Nd)、62番目のサマリウム(Sm)、66番目のディスプロシウム(Dy)です。磁石を補佐する大事な役割をするのが5番目のボロン(B)。6番目のカーボン(C)も今日のお話ではよく出てきます。  では、磁石をミクロで見ると、どんな物質なのか。磁石の元はすべて電子です。例えば、鉄族元素の周囲にネオジム磁石などの永久磁石を近づけな��らグルリと回すと、いつでも鉄族元素の電子はすべて同じ磁界の方向に向いているという性質があります。強い磁石となるためには、すべての電子がつねに一定の向き(N極、S極)で、変化しないということ。つまり磁石には磁気方向の頑固さ(磁気異方性)が必要で、レアアースがその役割を果たすのです。  分かりやすく言えば、みんなが同じ方向を向く「仲良し電子ちゃん」の中で、一定の間隔で「頑固電子ちゃん」が配置されている構造となっていることが必要です。1970年代の最強の磁石は「サマリウム・コバルト(SmCo)磁石」でした。これは鉄属元素であるコバルトの元素の間に、サマリウムが規則的な間隔で並んでいるような化合物(Sm2Co17)です。「仲良し電子ちゃん」の集団の間に、サマリウムの「頑固電子ちゃん」が並んでいる構造ですね。これに磁界をかけると、一方にN極、もう片方がS極となって方向がつねに変わらない、永久磁石となったのです。  ところが人間の作るものには必ず欠陥があります。本来あるべき所の「頑固電子ちゃん」がなくて、空いてしまった部分が出来ます。こうした欠陥部分が出来ると、永久磁石はその部分から磁性の変化が起きて、周囲に段々と広がり、ついにはその磁石全体が磁性体ではなくなってしまいます。純粋、無垢(むく)な化合物というものはなかなか作れませんから、どうしてもこうしたことが起きてきます。この問題を解決したのが、磁石の中を「セル状構造」にすることでした。これは元の化合物に別の元素などを加えて「合金化」し、製法などの条件を工夫することでセル状構造を作ります。セル状構造というのは、小さなセル(細胞)に区分けしてやることです。セルとセルの間は別の層、非磁性体の元素による「磁気の壁」を作ってやるのです。そうすることで、例え1つのセルに欠陥があっても、隣のセルには影響しない。1個のセルはかなり小さいので、全体としては磁石の性質を維持したままとなります。こうした方法で人類は磁石を作ってきたのです。  そのため、新しい磁石を見るけるためには、まず磁石に適したR-T(レアアース・鉄属元素)の新化合物を見つけること。そしてそれを元に、セル状構造を作るための合金組成や製法を見つけることです。こうした流れに沿って、私が新磁石を見つけ、1982年に誕生させたのがネオジム磁石です。 2.どうやってネオジム磁石を見つけたか  私は神戸大学工学部の電気工学科を卒業後、大学院に進むときには材料科学者を志しました。今でも私は材料科学者だと思っているのですが、神戸大学大学院博士課程(1966-68年)と東北大学大学院博士課程(68-72年)では材料科学の研究室に所属し、勉強しました。研究テーマはどちらの大学院でも似たようなもので、「固体表面の性質、構造、結晶成長の電子顕微鏡による研究」でした。しかし、よい研究成果が出ず、よくできる研究者にはなれなかったのです。でも自分の所属する研究室以外の、特に基礎的な研究分野の研究室に積極的に出向いて、他の分野の勉強をして、材料科学者としての実力と感覚を身に付けたと思っています。  博士課程を終えた後は大学に残りたかったのですが、その願い��なわず、富士通研究所の材料研究部(72-82年)に入りました。そこで会社から与えられた研究テーマが「リレーやスイッチに使う磁性材料の開発」というものでした。大学院時代にいろいろな他の分野の研究室に出入りしたと言っても、基礎的な研究であって材料など具体的な開発の研究をしている所ではありませんし、私も磁性材料の勉強をしたことはなかったのです。  「自信がないなぁ、困ったなぁ」と思いつつも、会社から言われたのだから、やることにしました。そして入社して5年目に、私単独に与えられた研究テーマが「フライングスイッチ用サマリウム・コバルト(SmCo)磁石を開発せよ」というものでした。「フライングスイッチ」というのは、直径が1-1.5ミリメートルの極めて細いガラス管の中に小さな円柱形のSmCo磁石を入れ、外から中の鉄ニッケル合金の針金で作ったコイルに電流を流して、磁石が動くことによって電流を断続させる高性能のスイッチのことです。しかし使う回数が増えてくると磁石も壊れてくる。そこで私への研究テーマとなったのが、「何回使っても壊れないSmCo磁石を開発せよ」というものでした。  勉強したことがないし、私1人へのテーマなので、リーダーもいないし困ったなぁと思ったのですが、やり出したらこれが面白い。自分に合っていたのだと思うのですが、それからは磁石の勉強、さらに勉強・・・と、朝から晩まで、家に帰ってからも勉強しました。全部独学です。磁石の製造の装置も、会社の遊休設備を集めてきて自分で作りました。こうしたことに、大学院時代の実力養成が生きたのです。基礎的な勉強をしていた���、いろいろな実験装置を作ることもやっていたのです。とにかく楽しくて、どんどん研究にのめり込んで行きました。  当時の磁石研究の主流はSmCo磁石でしたし、さらに勉強し、機械的な強度を改善するためのアイディアもいくつか考えました。サンプルも作って強度や特性を測ったりしながら開発は順調に進んで行ったのです。そうした中で考えていたのは、「なぜR-Fe(レアメタル・鉄)磁石はできないのか?」ということでした。鉄の資源はコバルトよりも無尽蔵にあります。鉄はコバルトよりも電子の密度が濃く、「電子ちゃん」をたくさん持っている。いわゆる、大きな“磁石の素”を持っていたのです。ですから鉄で作ればより強力な磁石ができるはずですが、だれもやろうとしない。「コバルトでなければ磁石はできない」と、だれもが思い込んでいたのです。私は初心者ですから、いろいろなことには囚われていなかったのです。  さらに勉強する中でヒントになったのが、1978年1月に日本金属学会が主催して東京都内で開かれたシンポジウム「希土類磁石の基礎から応用まで」でした。その時に出席された浜野正昭先生の講演は、ほとんどがR-Co系化合物の性質や状態などの金属学的な基礎的な説明をされたのですが、ほんの数分だけ、R-Fe化合物が磁石にならない理由を説明されました。つまり、「鉄と鉄の原子間距離が近すぎるので、強磁性が不安定になる」ということでした。  それを聞いて私は、「それなら炭素(C)やボロン(B)を合金化すれば、原子間距離を広げてくれるのではないか」というアイディアを持ったのです。当時の私には、すぐに実験するという習性がありましたので、帰ってすぐにアーク溶解炉で合金を作り、磁力を計測したり、X線回析で結晶構造を解明したりしました。すると短期間で「これは何かあるぞ」と思いました。  新磁石を見つけるには、磁石に適したR-T新化合物を見つけること、それを基にセル状構造を作るということです。これについては早く発見していました。私がヒントを得た1978年には、ネオジム(Nd)-鉄(Fe)-ボロン(B)の組み合わせが磁石として有望であることを見つけていたのです。ところがそれを他の人に説明しても、合金の粒を見せても、だれも関心を持ってくれない。それは、磁石としての構造をもっていないため、つまり磁石になっていないからでした。  その一方で、壊れないSmCo磁石の研究についてはどんどん進み、1979年には開発目標を達成して、国際会議などで発表しました。ところが発表したら、「磁石の研究は終わりだ」と富士通研究所のトップから言われたのです。私は「新しい磁石(Nd-Fe-B磁石)の開発の糸口をつかんでいるので、何とか研究を続けたい」と言ったのですが、「ダメです。もっと富士通らしい研究をしなさい」と言われてしまいました。それは会社とすればもっともなことで、磁石ではなくてコンピューターを作る会社ですからね。結局、私も従わざるを得なかったわけです。  こうして私の、Nd-Fe-B化合物を基にセル状構造を作り、新しいNd-Fe-B磁石を作る研究は、公式テーマとして取り上げられることなく、1980年までに修了してしまいましたが、決してあきらめていた訳ではありません。頭の中で研究を進め、時には余ったサンプルで溶かしてみたりしていました。そうしているうちに、上司との決定的な事件が起きてしまいました。ふだんからよく怒る上司で、その人にものすごい大声で怒鳴られたことを契機に私は辞表を出して、富士通研究所を退職しました。そして住友特殊金属に入社し、それからすぐの1982年5月に、住友特殊金属の実験室で、世界最強の磁気特性をもつ「ネオジム磁石(Nd-Fe-B磁石)」ができたのです。  よく「発明は1人でできる。製品化には10人かかる。量産化には100人かかる」とも言われますが、実際に、私はネオジム磁石を1人で発明しました。製品化、量産化については住友特殊金属の仲間たちと一緒に、短期間のうちに成功させました。82年に発明し、83年から生産が始まったのですから、非常に早いです。そしてネオジム磁石は、ハードディスクのVCM(ボイスコイルモーター)の部品などの電子機器を主な用途として大歓迎を受け、生産量も年々倍増して、2000年には世界で1万トンを超えました。 3.さらなる発展を支える  ネオジム磁石の今の、あるいはこれからの重要な用途はハイブリッド自動車や電気自動車、エアコンなどの比較的大きな発電機やモーターなどです。ハイブリッド自動車1台には1キログラムのネオジム磁石が使われますので、さらにハイブリッド自動車が作られていけば、使われるネオジム磁石も増えていきます。エネルギー消費の大きいエアコンでも、ネオジム磁石を使えばコンプレッサー部分のエネルギー効率が上がって、消費をかなり抑える効果があります。風力発電では、ネオジム磁石を発電機に使うと高効率になり、音も静かになるなど高性能になります。特にこれからのエネルギー問題では、洋上風力発電が日本の主力電力源になると考え、運動していきたいと思っています。それとエレベーターでは、モーターにネオジム磁石を使うと、あるメーカーのものでは、かなりのスペースの節約になり、電力消費も半減する効果があります。  これらの用途が広がり、ネオジム磁石の需要が伸びていけば、生産量も2015年には1年間に10万トンに達すると予想されています。ところがこうした需要に応えるためには、レア・アースなどの資源問題を解決しておかないと実現できません。  ネオジム磁石の「磁気特性マップ」に対応する応用について、縦軸に磁気の強さを表す「最大磁気エネルギー積」、横軸に「保磁力」に対応する耐熱温度を取り、考えてみましょう。  MRI(磁気共鳴画像装置)やハードディスクではあまり耐熱性は必要ないので(100℃程度)、最大磁気エネルギー積が大きい、つまり磁気の強い磁石を使います。ところが、ハイブリッドカーのモーターでは、200℃に耐える磁石が必要となります。  これに対応するネオジム(Nd-Fe-B)磁石の合金組成をみると、100℃の耐熱温度を得るには「Nd-Fe-B」の各質量%が「31-68-1」の割合でよいのですが、より高い耐熱性を得るためにディスプロシウム(Dy)を加えることが必要となり、200℃の耐熱温度を得るための組成「Nd- Dy -Fe-B」は「21-10-68-1」となります。つまり必要となるディスプロシウムの量は全体の10%、ネオジム(Nd)の半分の量です。ところが自然界では、ディスプロシウムはネオジムの10の1の量しかありません。しかも中国南部の一地域にしかない。ですからこのディスプロシウムを使わないようにしないと、ハイブリッドカーを安定して生産することはできません。ディスプロシウムを使わずに耐熱性が得られる磁石を作ることが大事な課題であり、できたらネオジムだけでこれだけの耐熱性のある磁石を作りたい、というのが目標です。  この「低ディスプロシウム・高耐熱ネオジム磁石」の開発に、当社「インターメタリックス(株)」が2004年から取り組み、さらに京都大学の「桂ベンチャープラザ」というインキュベーション施設に入居して進めてまいりました。そこではベンチャー・キャピタルや銀行などの投資家による投資のほか、三菱商事や大同特殊鋼といった大企業からの投資もありました。それから経産省やNEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)の国家プロジェクト(2007-2012年)として大きな予算も頂き、この研究がある程度成功しました。つまりセル構造の微細化によって、低ディスプロシウムで高耐熱化する組成や、そうした新材料を作る方法を見つけたのです。この新材料は「Intermetallics Japan(IMJ)」という会社が2013年初からの量産開始の予定で現在工場を建設中です。 4.研究者になってよかった!  何が私を研究に駆り立てたか?——私は子どもの頃、湯川秀樹先生に憧れていました。その憧れの気持ちが、いつも私を前向きにしてくれました。研究者として駆け出しの頃、学会や研究会の会場などで私はいつも先��研究者から軽視され、挨拶も返してくれませんでした。「今に社会のためになる研究をして、人から認められるようになるぞ!」。この強い自己顕示欲、目立ちたいという気持ちが、私を研究に駆り立てたのです。  研究者の仕事は素晴らしい!——人の最大の喜びは社会のためになることです。研究者は頭脳活動によって研究し、研究が成功すれば社会に貢献できます。研究者は地球温暖化問題など、様々な社会的難問を研究によって解決していけます。研究者、あるいは科学者ほど素晴らしい職業はないと思っています。  最後になりますが、大学院時代には涙を流していた私が、日本国際賞という大きな賞を頂き、ここに立っているのは不思議なことです。何が違ったのでしょう。大学院時代は基礎研究をしていました。基礎研究というのは何を明らかにしたら、どんな成果につながるのか、分からない。ところが企業の研究では、「これこれを開発しなさい」というようにターゲットがはっきりしています。これが私には合っていたのです。ターゲットがはっきりすると、解決のためにいろいろなアイディアが出てくる。それが今ある理由だと思っています。
世界最強「ネオジム磁石はこうして見つけた」(佐川眞人 氏 / インターメタリックス株式会社 代表取締役社長) | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」
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catonoire · 5 months ago
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「宮脇綾子の芸術」展
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東京ステーションギャラリーで「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」展を見る。アプリケ作家としてその方面では著名な宮脇の作品を、アートの観点から読み解く展覧会である。手芸の世界と美術の世界は通常接続していないので、美術界では知られていない素晴らしい作家や作品が、手芸の世界またはそれ以外の創作活動の世界に少なからず存在する可能性は確かにある。この展覧会の企画も、ステーションギャラリーの館長氏が他の美術館を訪れたときに、それまでまったく知らなかった宮脇の作品をたまたま見て、衝撃を受けたことがきっかけだったとのこと。(自分も宮脇の名を知らなかったが、それは単に全方位的な無知である。)
文化的権威ということを考えるとアート界のほうが手芸界よりヒエラルキーが高いと思うので、より高い権威を持つ側がより権威の低いものを「発見」して称揚するという、あまり気持ちの良くない構図を見てとることもできなくもないが、このような展覧会をきっかけに、ふだん必ずしも尊敬されているとは言えない分野の創作活動が見直されリスペクトされるようになればいいなと思う。
さて、上に載せたチラシ画像のメインビジュアルは紫キャベツ。アプリケによる絵画的表現の自由度は、もちろん通常の絵画よりもはるかに低い。その不自由さの中で、あるいはそれを逆手に取って、クリエイティブなアプリケ技法で写実的な表現を試みた作品と言えそうである。
下のチラシ画像の作品はトマト。トマトの内側の水っぽいグチュッとした部分の表現など、秀逸としか言いようがない。作家の徹底した観察の賜物である。そして自分はトマトにしろ何にしろ対象をこんなに真剣に見たことなどないことに思い至る。
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アプリケ作品のモチーフとなる対象を、宮脇は「モデル」と呼んでいたという。対象を単なるモノ扱いせずリスペクトする態度が、「モデル」を徹底的に見ること、そして作品のクオリティにつながったのだろうと想像される。
この下のチラシのビジュアルは白菜の断面の作品。これは文字どおりの写実的表現からは離れた柄布遣いをしているが、デフォルメ感と写実感とが同時に成立していることに驚く。
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この展覧会の企画者の話によると、宮脇作品の解釈に適用できるアート界の用語や概念がさまざまあるという。たとえば、どんな端切れでも絶対に捨てずに取っておいて作品に使う態度は、日常的な日本語で言えばもったいない精神かもしれないが、アート的には文明批判的な運動や作品と通じうる。また、柄の布を非写実的に使う手法などは、日本の伝統で言えば「見立て」、現代アート界ではシュルレアリスム的手法とつながる。さらに、この下のチラシ画像のいちばん下に、櫛を並べた作品が載っている。櫛は実はすべて本物で、それを糸で布に縫い付けている。これは現代アートで既製品をポンと置くだけで作品にしてしまうようなレディメイドの手法を(少なくとも外形的には)想起させる。
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このように、アート的な解釈がおもしろい作品もあれば、アプリケの一般的イメージに近い作品もあり、見飽きることがなかった。会場内は撮影禁止だが、チラシが3種類あるので助かった。
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awaoiso · 5 months ago
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なーこさんが作ってくれた100の質問に答えます、なお、回答はたぶん2週間くらい前と今日の加筆で出来上がっております
(1)今日何食べた?
さっきs先生からチョコとオレンジのフィナンシェをいただいてその場で食べた、他にもいろいろ
(2)好きな本は?
麦の海に沈む果実
(3)遊びに行くならどこに行くの?
下北沢、高円寺、吉祥寺に行っとけば間違いない(良い映画館と良い劇場といい本屋とおいしいものがある)、でも基本的に知らない町に行ってみたいです!今気になるのは雑司ヶ谷
(4)好きな言葉は?
月並み
(5)面白いと思う言葉は?
この言葉って面白い!って絶対言ったとことあるのにパッと思い出せないな
追記:デブまっしぐらって面白い!とふと気づきました
(6)苦手な言葉は?
あんまり言葉に苦手って思ったことないな、組み合わせの問題な気がする
(7)一人称は?
(8)口癖は?
えーん嬉しい、むりなんだけどー、はよく言ってる気がする、逆に何だと思いますか、?
あと、「なつい」という言葉を短歌に使ってから「なつい」って使いがちになってる気がする、毎回あっ、ってなってる
(9)好きな数字は?
125(好きかはわからないがなぜかお風呂屋さんで下駄箱選ぶ時この番号を選んでしまう)
(10)好きな仮名文字は?
(11)好きな漢字は?
(12)好きな記号は?
(13)好きな言語は?
日本語、聴いてて好きなのはフランス語、あとファドが好きなのでポルトガル語!
(14)好きな歌詞は?
さようならは信じていることの証
(15)思い出に残ってる曲は?
七里浜 團伊玖磨作曲
追記:私、一つのものになかなかハマらない性格でして、合唱部で歌った曲ほど曲を聴き込めることがないんですよね...あ、でも、上原ひろみさんのHazeは思い出に残っているな、話すと、長くなる
(16)自分自身のイメソンは?
BATACO(タイトルだけじゃなく歌詞も私すぎるのでみんな聴いてみてほしい!)
(17)印象に残っている夢(レム睡眠の方)は?
私だけ全裸で暮らしていてそれが普通である世界を生きている夢
追記:これが初夢だった気がする、おもしろい!と思ってる夢は記録してあるので、たくさんあって選べないな...と思って直近でわ!と思った夢を書いたのでしょう
(18)自分に合う睡眠時間は?
7.5時間
(19)普段��寝床は?
ベッド
追記:小さい頃はダニがつくからだめ!と言われていたぬいぐるみですが、自分の部屋ができたこと(と母が咎めるのを諦めたこと)により沢山のぬいぐるみを並べることが解禁されました、ベッドの上がにぎやかです
(20)好きな食べ物は?
餃子、焼き小籠包、ケバブ、ハンバーガー(マックじゃない)、ドーナツ、カキフライ、チーズタッカルビ、レーズンバターサンド
(21)苦手な食べ物は?
パクチー、セロリ
(22)好きな駄菓子は?
麩菓子
追記:駄菓子ってどこまでが駄菓子ですか?スナック菓子入れていいなら、ポテチとかじゃがりこの変わった味が好きです
(23)好きな麺類は?
ラーメン、うどん、そば
(24)好きな野菜は?
ピーマン、ナス、カリフラワー、玉ねぎ、オクラ
(25)苦手な野菜は?
セロリ
(26)好きな果物は?
桃、いちご、シャインマスカット
(27)好きなアイスは?
ハーゲンダッツの期間限定(新しいもの好きなため)、クッキーで挟んである系
(28)好きなスイーツは?
でかくて色んな具がのってるパフェ、食感がある系のケーキ、プリンアラモード
(29)好きな飲み物は?
水、コーヒー、紅茶、ほうじ茶
(30)食事スタイル(量・好き嫌い等)は?
温かいものを冷める前に食べ切る、量は少なくても生きていけるが食べようと思えばそれなりに食べられる
(31)好きな場所は?
家、本屋、電車内
追記:坂道、路地
(32)苦手な場所は?
ゲームセンター、お祭り、花火会場
(33)好きな時間帯は?
19:00
追記:なんでこの時間選んでたんだろう、夕暮れの時間も好きですね、王道ですか、、、
(34)好きな季節は?
追記:5年も合唱部にいると、合唱部が時の流れを感じる軸になってくるんですよね、先輩が引退する季節、夏の時間がだんだん思い出に移り変わっていく季節、切ないけどきらきらしてる時間。単純に気温とかカラッとした感じとか空の感じとか食べ物とか、そういう意味でも秋が好きなんですけどね
(35)好きな絵本・童話は?
パンダ銭湯
(36)なりたいものは?
一生が2回あるならアイドル
(37)なりたくないものは?
人間以外にはなりたくないかもな
(38)幼い頃の将来の夢は?
アイドル、俳優
追記:そういえば憧れたきっかけってなんだろう!単純に映画とかドラマとかAKBとか大好きだったからか、ディズニーのダンサーさんとかにもなりたかったような
(39)現在の将来の夢は?
テレビ関係者
(40)今欲しいものは?
リュックにつけられるサイズのぬいぐるみ、スマホを首からかけられるようにするやつ
追記:後者は今日買いました
(41)お気に入りの持ち物は?
いるかのぬいぐるみ
(42)最近買ったものの中でお気に入りは?
ポケットに入るサイズのメモ
(43)好きな文房具は?
ニューデイズで買える安いシャーペン(なくしても大丈夫だし書き心地も良い)
(44)好きな動物は?
カピバラ、アリクイ
(45)苦手な動物(虫も可)は?
ハチ、ガ、ゴキさん
(46)自分を動物に例えるなら?
なんでしょう?逆に聞きたい
(47)誕生花は?
すずらん←好きなのでうれしい
(48)好きな花は?
大きすぎないバラ
(49)好きな色は?
物による気がする
(50)好きな天気は?
晴れてて風がある日
(51)自分の苗字に対してどう思う?
不満ではないが結婚するなら夫に合わせたい
(52)自分の名前に対してどう思う?
かっこいい!初対面の人とはちょっと話題にできるのも含めて大好き!
(53)好きなスポーツは?
ダンス(←スポーツに含めていいのか?)
(54)苦手なスポーツは?
球技全般
(55)好きな教科は?
国語、世界史
(56)嫌いな教科は?
数学
(57)得意な教科は?
国語、世界史
(58)苦手な教科は?
数学
(59)普段どんな服着てる?
塾ならワンピースにカーディガンがち
お出かけならいろいろ
追記:ファッションというか、かわいい服は好きなのですが、お気に入りの服を見つける手間と服を選ぶ手間に耐えられないので、制服が好きです
(60)自分の家族に対してどう思う?
大好き!友達みたい!ありがとう!
(61)自分の友人に対してどう思う?
大好き!優しくしてくれて人生を楽しくしてくれてありがとう!
(62)尊敬する人物は?
先輩、s先生
(63)自分の誕生日に対してどう思う?
小中と運動会の振替や定期テスト後の期間に被ってラッキーだった!これ以降の人生にとってもいい感じの日だと思う!
(64)自分の血液型に対してどう思う?
だろうなぁ、と←O型です
(65)自分のMBTIに対してどう思う?
だろうなぁ、と(ENTP)
(66)好きなコトは?
読書、短歌、合唱、映画、テレビ、演劇、現代アート鑑賞、お笑い、ラジオ、インターネットにいるかわいい女の人を鑑賞する、YouTube見る、デザイン、旅行
(67)嫌いなコトは?
あんまり思いつかない、なんでもやってると好きになっちゃうので
(68)得意なコトは?
新しいことをそこそこできるようになるまでが早い、人を好きになる、天才ぶること
(69)苦手なコトは?
物をなくさない、整理整頓
追記:話題のデッキがないから恋バナ苦手って、うわ!それだ!私!と思いました、ぴったりの表現...私が恋バナしようとすると、たぶん恋人ができない限りは、「これが恋かはわからないんだけどね...」から始まると思う(特大矛盾)
(70)好きなモノは?
モノってむずかしい、
追記:じっくり考えて思いつきました!ロルバーンのノートです、日記のノートとして、ロルバーン以外は考えられなくなってしまった、なんでロルバーンにそんなこだわってるのかはわからないが...
(71)嫌いなモノは?
睡眠負債(物体って思いつかなかった...)
(72)地元に対してどう思う?
たまに駅前から異臭がすることを除けば不満なし!好きです!
(73)自分の体(機能)の中で特に失いたくないものは?
視覚
(74)自身の健康に対してどう思う?
この体力はどこから来てるんだ?
(75)好きな映画は?
リップヴァンヴィンクルの花嫁
地獄のSE
TENET
インセプション
(76)好きな漫画は?
あまり読まないのですが短編が好きなのでいろいろ読んでみたいと思っている、受験を終えたら有名どころを読み尽くしたい
(77)好きなゲームは?
ポケモンスリープ❤️‍🔥
(78)好きなアニメは?
ひぐらしの泣く頃に
(79)好きな香りは?
自分が持ってる香水ヘアミスト等
(80)インドアorアウトドアなら?
インドア
(81)タイムマシンがあったらいつに行きたい?
高度経済成長期
(82)神様っていると思う?
いない
(83)今までで一番辛かった時期はいつ?
中学1年生の後半
追記:ありがたいことに友達はいるけどその友達みんなに心を許せず孤独感を感じたり、未来に対して希望が持てていなかった...
(84)ストレス・悩みの解消方法は?
日記を書く、食べる、寝る
(85)お酒に強い?または強そうと思う?酔ったらどうなる?
たぶん強い、酔ったら寝ちゃう気がする(母の遺伝子を受け継いでいれば)、かわいいですね
(86)寝起きはいい?悪い?
いい
(87)ひとりはすき?
すき、高級なマンション街とかでもスタスタ歩けます!1人フードコートとかもすきです
(88)自分は幸せだと思う?
超幸せ、幸せすぎて未来がこわい!
(89)ランプの魔人がいたら3つ、何を願う?
・寝なくても眠くないし風邪をひかない体
・10億円ください
・自分だけ1日を3時間伸ばす
(90)超能力をひとつ手に入れられるなら何が欲しい?
超能力一覧をググってみたが、どれも悲しくなってしまいそうだった...治癒させる系とか?大切な人が具合悪くなってたら秒で治せるし(かっこいい)自分が具合悪くなった時も一瞬で治せますみたいな
(91)死んだ人はどうなると思う?
何もない
(92)生きる意味ってなんだと思う?
人それぞれ決めていい
(93)どういう死に方がいい?
もうやり残すことはない、と思いつつ、じわじわじゃなくてすんって
(94)自分は幸せ?
何度も問いかけてくるスタイル笑、幸せです!!!
(95)自分の命より大切なものはある?
ない、自分が死んでしまったら大切なものの存在を確かめる術もなくなるし
(96)きのこの山orたけのこの里どっち?
たけのこの里
(97)目玉焼きには何をかける?
気分による、半熟の黄身に塩をかけて食パンでぐりぐりして食べるの好きです、塩胡椒とか醤油、マヨ醤油気分の日もある、ウィンナーの塩っけで食べることも
(98)好きなタイプは?
私の好きな感じの声の人
追記:これ答えた時そういう気分だったんか...タイプというか、私のこと好きそうな人を(思わせぶり含む)好きになってしまう
(99)ところで恋バナとかある?
恋人がほしい瞬間がある��きもありますよね、これは恋かどうかわからないんですけど...←デジャヴ
(100)これにて完走!浸って感傷!ラストどうぞ感想!( ´ ▽ ` )ノイェア
実は100の質問を出してくれてた日にほぼ答えてて、それが結構さくさく答えていたので、なーこさんの呼んで追記したくなり追記しました!短文解答多めなのでつっこんでくれたらペラペラ喋ります!自分を知れる感じがして楽しかったです、作ってくれてありがとう!
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アヘン「阿片」
アヘンに含まれる成分「テバイン」から合成する化合物『オキシコドン』をバーデュー・ファーマ社が発売。
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1950年代初頭にアメリカで風薬成分として混ぜて販売し、1996年に中毒性の高い『オキシコドン』を関節炎の第一選択薬として販売。
『オキシコドン』はバーデュー・ファーマ社の売上80%を占めた。
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薬の審査を行うU.S.A.食品医薬品局も錠剤の販売を認めた根拠になったのは1986年
テレビや新聞などメディアで頭脳明晰な専門家とされカリスマ評論家と称賛されていた「ラッセル・ポルトノイ」は「米国の医師はアヘン恐怖症に陥ってるが、克服する時が来た。慢性的に鎮痛剤として使用している患者の内、中毒になるのは1%未満だ」と連日メディアに出演し140以上の論文や専門誌に名を連ね「アヘンの成分は使用しても問題ない。今の時代に中毒や命の危険など無い」と断言。
医師の多くもポルトノイの主張にはエビデンスがあり正しいと同調するようになり『オキシコドン』をバーデュー・ファーマ社が販売し、2001年には15億ドルの莫大な売上を齎すことになる。
ブラックマーケットでは医療目的以外で販売されるようになり、その5%はインターネット販売。
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薬局の強盗では90%がオキシコンチンが狙われていた。
ケンタッキー州ハザード刑務所の受刑者半数がオキシコンチンがらみの犯罪者となっていた。
2007年、バーデュー・ファーマ社の重役3名が『オキシコドン』に関する不当表示などで逮捕起訴された。
メディアに表れる様な専門家が薦めているから、医師が許可しているから、製薬会社が安全だと証明した?
更に、国の審査機関が承認しているから大丈夫?
この様な主張が絶対的に正しいと確信が持てますか?
あなたの身体、あなたの子供や愛する人は誰が守ってくれますか?
誰かの意見では無く、自分自身の頭で捉え、判断できる知識と教養を身につけたいものです。
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アヘンケシ
古代シュメール語で「喜びの植物」を意味する〝フル・ギル〟
学名「パパベル・ソムニフェルム」
英語では「オピウムポピー」
中国では音訳されて「アーピエン」
当て字に「阿片」が使われ日本ではそのまま「アヘン」と呼んだ。
アヘンケシの具体的な加工方法が記述された6000年前の石板が発見されている。
ローマ帝国時代には広く流通し帝国崩壊後は危険性を熟知したアラブ人医師が様々な加工を行い金と同価値で輸出した。
十字軍が戦地から持ち帰ることでヨーロッパ中に広がっていく。
自称錬金術師パラケルススは詐欺師で、アラブ人のアヘン加工品をローダナムと名づけ「秘密の薬」として喧伝。
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1660年代にはイギリスのトーマス・シデナム医師が甘味を加えて飲みやすくしたローダナムを発売し大儲けする。
1700年代のヨーロッパは治療薬としての使用より娯楽用の嗜好品になっていた。
イギリスではタバコよりも多く消費され子供にも服用させていた。
当時のイギリスでは酒より安全と云われた。
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中国にはイギリスよりも遥かに早くアラブ人の貿易商と取引していたが、1600年代にイギリスの貿易船から中国〔清〕にタバコとパイプが伝わりパイプでタバコが大ブーム。
1777年に中国がアヘンの輸入を禁止したもののイギリスはインドからアヘンを買い密輸で中国にアヘンを売りお茶を買ってイギリスに戻るインド貿易が莫大な利益を得ていく。
ドイツでは、1803年に20才でドイツの見習い薬剤師フリード・ゼルチェルナーがアヘンの同じ重さで10倍の強い効力を発揮する物質の抽出に成功。
ギリシャ神話の〝眠の神〟モルフィウスから『モルフィウム』と名づけた。
1827年にドイツの製薬企業「メルク」が〝モルヒネ〟の名称で大量生産。
利益優先でアヘン中毒者に処方薬としてモルヒネを使う医師も多く現れた。
1830年代後半には中国〔清〕でのアヘン中毒者は爆増。
1839年、中国〔清〕はイギリス船から2万箱のアヘンを没収しその場で燃やした。
これがきっかけでイギリスと中国〔清〕は戦争になる。
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アヘン戦争は2度起こり中国〔清〕の兵士はアヘン中毒で使い物ならない状態で完敗。中国〔清〕はアヘンの輸入を許可し多くの港を失うことになる。
この時「香港」はイギリスの統治領となり、1888年には中国〔清〕の成人男性70%がアヘン依存に陥った。
この頃、第3代アメリカ大統領のトーマス・ジェファーソンがパリからアヘンを持ち帰りアメリカの薬剤企業が製造販売を開始。
更にゴールド・ラッシュで中国〔清〕からアヘン中毒者7万人がサンフランシスコの港から出稼ぎに入ってきた。
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中国〔清〕は、アヘンの売買と売春を兼ねたアヘン窟を形成しギャンブラーや著名人が集まり犯罪者がたむろするようになる。
アメリカ人のアヘン中毒者と死者が急増し1875年「サンフランシスコ条例」でアヘンを禁止。
1909年、連邦議会はアヘンの輸入を禁止。
中国〔清〕のアヘン窟も敵発され終息するかに見られた。
アヘンを胃に入れることで中毒になると考えたフランス人医師シャルル・ガブエル・プラヴァズは、体内に直接浸透させる道具を発明。
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人類初の〝注射器〟が誕生。
1853年、プラヴァズの作った注射器を片手で簡単に押し出すタイプで血管に直接注入できる注射器をスコットランドのアレクサンダー・ウッド医師が進化させ現在の注射器が完成する。
中毒性が無くなると考えられたが、直接血液に送られることで即効性が高まり中毒患者を増加させてしまう。
ドイツの製薬会社「バイエル」で働くハインリッヒは、モルヒネを酢酸との化学反応させたアセチル化すると、脳に素早く作用して極少量のアヘンで効果がでることを発見。バイエル社はアセチル化で「アスピリン」を造り出し成功していたので「ジアセチルモルヒネ」の名称で販売。
1898年には安全性が高く中毒にならない薬として「ヘロイン」という商品名で販売された。
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1900年、アメリカのイーライリリー社は風薬として誰でも簡単に買える安全安心薬として販売。
乳幼児や妊婦でも服用できると宣伝し、第一次大戦では兵士に注射。
咳止め喉飴にも配合し、慈善団体はモルヒネ中毒患者に無料で大量のヘロインを届ける活動が盛んに行われた。
1905年、子供の死亡やヘロイン中毒者が急増し問題視され、1906年の化学物質審議会がヘロインの危険性を指摘した。
しかし、米国医師会は「ヘロインは治療薬として推奨される」と発表。
バイエル社とイーライリリー社は安心安全の薬として宣伝し販売を続け莫大な利益を得ていた。
1924年、アメリカ連邦議会は「ヘロイン防止法」を可決。
製造も販売も禁止された。
1950年代にアメリカの製薬会社「パーデュー・ファーマ」が風邪薬に混ぜて発売したのが、アヘンから新しく抽出した別の成分「テバイン」から合成した〝オキシコドン〟
そして、純度の高い〝オキシコンチン〟を関節炎の第一選択薬として販売。
パーデュー・ファーマ社の売上80%になるヒット商品になった。
1996年には高用量の錠剤を販売。
当時テレビや雑誌にカリスマ評論家として連日出演していた「ラッセル・ポルトノイ」は、オキシコンチンを慢性的に使用している患者の1%しか中毒にならないと訴えた。
テレビ番組の連日出演の効果で専門家としてカリスマ性を得ていたラッセル・ポルトノイは、140以上の関連した論文に共著者として名前を連ね米国医師もエビデンスがある主張だとして支持する様になる。
ラッセル・ポルトノイは「アヘンの成分を使っても、今の時代に中毒になる事は絶対に無い」と断言していた。
2001年にはパーデュー・ファーマ社はオキシコンチンの売上だけで15億ドルもの利益を得ていた。
この頃には、医療目的以外でオキシコンチンを求めるブラックマーケットで大人気となりインターネットでの売買も急速に増加した。
オキシコンチンを狙った薬局の強盗事件も多発し、ケンタッキー州ハザード刑務所は受刑者の半数がオキシコンチンに関わる犯罪者になっていた。
麻薬組織と医師が州の公的低所得者医療扶助制度を悪用して処方箋を1日150枚以上書いたり、全米の医療機関数百カ所でオキシコンチンはばら撒かれていった。
2007年、アメリカ政府はパーデュー・ファーマ社の重役3名を逮捕起訴した。
オキシコンチン事件の元凶は「製薬会社が安心安全と断言している」「医師が承認している」「専門家がテレビで薦めている」「国の審査機関が承認している」だから大丈夫!
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SNSが情報源になっている現代に評論家や専門家と名乗る詐欺師先生の言葉を絶対的に正しいと信じる無知な人は実に多い。
そんな馬鹿な人々の子供や大切な愛する人はいったい誰が守ってくれるというのでしょう?
詐欺の被害者や投資で失敗した無能人の多くは常に他人の責任にしてSNSで被害者ぶり誹謗中傷を繰り返している。
他人の意見ではなく最低限自分自身を守ることのできる知識と教養を身につけたいものだ。
#オキシコンチン #アヘン #麻薬 #ケシ
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ari0921 · 1 year ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)4月8日(月曜日)
   通巻第8205号 
  AI(人工知能)と不可知の唯識「阿頼耶識」
   たといAC(人工意識)がうまれようとも。。。。。。。
*************************
 AI(人工知能)革命と言われるが、そのダークサイドが深刻な問題となった。
 AIの進化スピートがあまりにも迅速なため人類社会の構成要素である政治と経済のシステムが追いつけず、意識が置いてきぼりになっている。
 歴史を眺めると失業を代替する新産業が生まれることになっているが、すぐに適用できる人が少ない。
 中高年層は長く携わってきた職業を喪うと次の方向へ転換できる適応力不足のため困難に直面する。スマホで新幹線に乗る若者がいる一方で、銀行ATMを使いこなせない老人がいるように。
 AIは生産性を今後十年で30%ほど押し上げると予想され、90年代の「IT革命」より迅速になる。
 あまつさえ生成AI、チャットGPTが登場し、AI規制論が西側の合意となった。
 「AIが人間の智恵を凌ぐ転換点」がシンギュラリティだが、レイ・カーツワイル(米国の発明家)が言い出した。
 『AIのゴッドファーザー』ことジェフリー・ヒントン教授がこの学説を追認した。それが2045年と想定されてきたが、もっと早まる可能性がある。
 しかもAIがGDPの殆どを稼ぎ出すようになれば人間存在は小さくなる。AI搭載のロボットが人間を支配するという暗黒の未来図が描かれている。それはAIが意識をもつときであり、最近は「人工知能」ではなく「人工意識」が誕生するというのだ。
 グーグルの開発研究者だったブレイク・レモインは「生成AIはすでに意識を宿した」と唱えた。
 したがって兵器に転用されると「原爆を上まわる」と前掲ヒントンが懸念を率直に述べる。『人工意識』が善意の持ち主ならまだしも悪意を先に宿すとなると怖ろしいことになる。
 しかしロボット工学専門の石黒浩・大阪大学大学院教授は「人間は新しい技術が出てくると「仕事を奪われる」と心配しながらちゃんと受容し駆使してきた。より高度な技術を使うためには人類全体が賢くならなければならない。将来、社会で受け入れられ『人間』として認識されるロボットは社会��役立つ」と楽観的である。
 すでに人工意識に挑んでいる日本のベンチャー企業がある。「アラヤ」社は神経科学と情報理論の融合により、脳に意識が生まれる原理、AIに意識を実装する研究と産業界にAIと脳科学の実用化に取りくむ企業だ。
 その企業名のアラヤと聞いて筆者は咄嗟に「阿頼耶識」に由来するなと直観した。
 仏教がいう第六識は霊感、インスピレーション、第七識が未那識、そして不可知とされるのが阿頼耶識である。
 AIがやがて人間の頭脳を代替する時代にいかに備えておくべきか?
              (北國新聞コラム「北風抄」、4月4日付けから再録)
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moko1590m · 6 months ago
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職業としての売春は、古くから存在する。職業とは、ヒトのみが行う社会的かつ文化的営為であり、富・付加価値の交換により形作られる経済活動の手段としては、売春は人類最古の職業の一つでもある。 現代の売春とは取引契約に基づくものであり、売春の歴史とは売春仲介の歴史でもある[5]。また、売春という職業が成り立つ為には、貨幣経済の浸透と、家父長制や嫁取り婚が成立していないといけない[要出典]。ヨーロッパでは古代ギリシャ以降になる。 古代 →「公娼」を参照 史上初めて管理売春すなわち売春を国家の登録制度のもとに管理し、公認したのはギリシャのソロンといわれ、国家によって女性の奴隷を「購入」し、「ディクテリオン」という売春施設へといれた[6]。ローマ帝国でも売春仲介業者は法的な認可をうけ、届出をするだけでなることができたため、売春は広く行われていた。しかしローマがキリスト教徒の迫害をやめ、それを国教としたことをうけて、売春を禁ずる法が登場する。ユスティニアヌス法典は、売春仲介業者の責任を問い、売春婦たちを「不幸な運命から救いだす」ことをうたう画期的なものであった[7]。 キリスト教が普及するにつれて、売春を含めた性の問題はすべて宗教の領域で扱われるようになる。キリスト教は売春はおろか婚姻生活以外での性交渉を禁止した。一方で国家は売春の禁止と公認を繰り返してきた。公序良俗を保つためであり、税収を確保するためであった。中世に入ってキリスト教の影響はさらに強まり、例えば、シャルルマーニュの勅令は売春の完全な禁止を謳っている。こちらは業者へは少量の罰金刑を課し、売春婦を「みだらな女」として広場で鞭打ちに処すなど重い罰を規定している。 近代 このように近代まで、国家は売春を両義的なものとして扱っていた。登録制度という公認であっても女性を監視し縛り付けるものだとする「廃娼論」が出現するのは20世紀以降のことである[8]。そして「醜業ヲ行ハシムル爲ノ婦女賣買取締二關スル國際協定」が1904年に採択され、「醜業ヲ行ハシムル爲ノ婦女賣買禁止二關スル國際條約」が1910年に制���され、1921年に国際連盟によって「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」、1933年に「成年婦女子ノ売買ノ禁止ニ関スル国際条約」がそれぞれ採択された。さらにそれらの協定や条約を統合する形で「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」が1949年に国際連合によって採択���れ、1951年に発効した。 現在、フランスの社会史学派、アナール学派の研究によれば、売春は逆にキリスト教によって誕生したと論じている。本来、男女は対等であったが、キリスト教の「弱者である女性は、保護を行う男性の支配を受けなければならない」という教義から家父長制が強力になり、支配される性としての女性が誕生した、という考えである。[要出典] 日本 →詳細は「遊女」を参照 阿部定が最後に勤めた遊廓大正楼(兵庫県丹波篠山市) 万葉集に掲載されている歌の解釈から、この時代から日本でも売春は行われていたと考えられる。ただし、古代の記録に見られる売春は、都周辺に限られており、地方における実態は不明である。日本において職業としての売春が成立するのは、中世後期の室町期以降である。平安時代に至っても、さらには鎌倉期においても、妻問婚がメインであり、貨幣経済と男性優位の家父長制や嫁取婚はいまだ浸透していなかった。平安時代と同じく母方の父が優位という執権政治の形態が続いていたことからも明らかである。座や町衆などによる市の支配の確立と、惣領制や嫁取婚が成立するまでは、職業としての売春は広がりを見せなかった。 売春は神道において、巫女によって行われたこともあった[9]。鎌倉時代には巫女を養っていた多くの神社や寺院が破綻し、生活の糧を求めて旅に出る巫女が現れ「歩き巫女」と呼ばれるようになった。巫女は主に宗教的なサービスを提供していたが、売春とも広く関係していた[9]。 安土桃山時代に豊臣秀吉が大坂道頓堀において、遊女を一箇所に集めた遊廓を作って以後、江戸時代でもこうした遊廓を設置した。特に吉原遊廓、島原遊廓、新町遊廓は三大遊廓と呼ばれるほどの隆盛を誇った。ただし、遊廓などではいまだ女性の「神」性視が行われ[独自研究?]、遊廓は非日常の空間であり、世俗の法律が通用しなかった。吉原の監督官としての武士も、武家出身者ではなく忍者出身者が行い、公儀とは距離を置いた[要出典]。江戸幕府は、江戸および関東八州については、公的に売春を認めつつ[注釈 3]、散在する遊女屋を特定地域に集合させ、1617年(元和3年)、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、吉原遊廓とし、この他の地での売春を禁じた。この禁を破って売春がなされる場所を岡場所といい、その遊女らは、後任の吉原におけるものと異なり、私娼であって取り締まりの対象とされた。私娼は発覚・奉行所などに捕縛されると、新吉原で女郎として3ヵ年の年季奉公が科せられ(公事方御定書[11])、そのような女郎は「奴女郎」と呼ばれ最下級の扱いを受けた。このように、建前上は、吉原以外での売春は禁じられていたが、岡場所は江戸時代を通してところを変えながら存続し続けたし、特に、近郊の���川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿など、近郊の宿場町の宿屋では、泊り客に飯盛女と称した私娼の斡旋を行っていた。 1958年(昭和33年)4月1日に売春防止法が施行され、赤線も廃止されソープランドとして残る(神戸福原) 明治維新以後もこのような遊廓は存在していたが、転換点となったのは1872年(明治5年)である。この年、マリア・ルーズ号事件が発生し、大日本帝国政府はペルー船籍の汽船船内における中国人(清国人)苦力に対する扱いを「虐待私刑事件」として日本の外務省管下で裁判を行ったが、この裁判において被告側より「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」との主張が為された。 この主張に対して、特命裁判長を務めた神奈川県権令大江卓は「日本政府は近々公娼解放の準備中である」と公娼廃止の声明を発し、1872年10月2日、芸娼妓解放令が出された[12]。これにより、女衒による遊女の人身売買は規制されることになったが、娼婦が自由意思で営業しているという建前になっただけで、前借金に縛られた境遇という実態は変わらなかった。 また、この時期に数多くの女性が女衒の斡旋により、日本の農山漁村から東アジア・東南アジアに渡航し、遊廓で働いた。こうした海外渡航した女性たちは「からゆきさん」と呼ばれた。このように世界への渡航を手配した、女衒として有名な人物に村岡伊平治がいる。 第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、日本の統治を担当していたGHQは公娼廃止指令を出し、女給による売春を行う赤線を除いて遊廓は廃止されることになった[注釈 4]。 また、1955年(昭和32年)最高裁判所は、売春を前提とした前借金について『公序良俗に反するものであるとして無効』とする判例を確定させた[13]。さらに、上記「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」を批准するための国内法である売春防止法が1956年(昭和31年)5月に公布、1958年(昭和33年)4月1日に施行され、これによって赤線も廃止されることになった。 これら赤線地帯にあった店は、その後も小料理屋やトルコ風呂(現:ソープランド)などと名称を変え、管理売春や勧誘・斡旋などの売春助長行為ではなく、個人の自由意志での性行為の場所を提供する、という法令に抵触しない範囲で営業を行っている。なお、トルコ風呂の名称については、トルコ人留学生・ヌスレット・サンジャクリが厚生省(現:厚生労働省)に名称変更の訴えを起こし、名称がソープランドに変わった経緯がある[注釈 5]。 →詳細は「ソープランド § 改名問題」を参照 各国の概況
売春 - Wikipedia
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tokyomariegold · 1 year ago
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2024/1/28
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1月28日 今日も海には行けなかった。 目を覚ませても身体が持ち上げられず、今日もなるべく眠る日にしてしまおう、と、3・4度寝をした。 その間に大きめの地震があって、でもいつもみたいに飛び起きてパニックできる力がなく、ちょっともういいから…と寝てしまった。 あと6人時代(あのちゃんが在籍していた時)のゆるめるモ!が一夜限りの復活ライブをする夢を見た。絶対に実現しないだろうなと思った。
地元の友人の結婚祝いに、ソーシャルギフト?を使ってみた。もう彼女が好きなものがなになのかわからないので、でも最後に会った時にインスタントコーヒーをたくさん飲んでいた記憶があり、ブルーボトルコーヒーのギフトを贈った。 それでやっと、結婚おめでとう、を言えた。 “家族でファミレスに行ったことがない人としか結婚したくない”の写真には、自分と並行して彼女が被写体として存在している。この作品で少し鍵になる存在だと思っていたので、その彼女の結婚…と、面白がりつつもどうして良いかわからずにいた。
誕生日を祝ってくれたメッセージにお返事するかたちでギフトのURLを送った。 なるべくもうあまり会わずに、でも年1回誕生日を祝う間柄くらいでいたい。
昼過ぎに、本当にあてもなく出かけてしまった。 誰に会うわけでもなくちゃんとお化粧もして、空はずっと曇りの良い天気で(頭がとても痛い)、これくらい余裕のある日々を過ごした先に、やっと作品を作ったり展示のことを考えたいと思えるようになるのかな、と思った。もう明日はお仕事。
先週友人たちと会った蔵前から浅草、上野、そして蔵前に戻るルートで下町散歩をした。 ダンデライオンチョコレートもシノノメも半月もとっても混んでいたので、どのお店でも良い感じの商品の雰囲気とお菓子のいい匂いだけを味わった。
隅田川沿いを歩いて屋形船を眺め、浅草駅のところで、ここは大学院生の夏に灯籠流しを見に来たところだ!と気がつく。 あと京都の鴨川沿いを歩いた時のことも少し思い出したけれど、隅田川は、眺めていたい、そばに置きたい川ではないな、と思った。工業的な風景。 川にいた鳥が、昔九州一周旅行をした時にフェリーの上でかっぱえびせんをあげた鳥と同じ種類な気がして、その時一緒にかっぱえびせんをあげた友人に鳥の写真を送った。
浅草はとっても人が多かった。 昨年観た百貨店展で気になった松屋にも行ってみた。昔ながらの百貨店で天井も低くて、お菓子売り場はスタンダードなラインナップ。 イートインできるとらやがあり、お茶スポットの穴場な感じ。
雷門を眺めて合羽橋で大きいコックさんを見上げてナチュラルロー���ンに寄って帰ってきた。 1日かけて観光するようなスポットを、人がいるな〜と、歌いながら2時間くらいで巡り歩いてしまい、でも贅沢した気分。 掲示板に近くの神社で来週豆まきが開催されるお知らせがあり下町。豆まき少し行ってみたい。
帰りの道中で、やっと母からのおめでとうメッセージに返事をした。そしてやっぱり全人類からおめでとうって言われたいと思った。
一日寝るはずだったけれど、東京の街の楽しさを思い出せる日になって、自分を楽しませてあげられてよかった。
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harawata44 · 1 year ago
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販売元に理由を聞いた!「いつ終売したの?」もう食べられない、昭和~平成の名作お菓子たち - ライブドアニュース
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以下引用
「懐かしいな、食べたいな」と思ったお菓子が終売に。それはまるで“孝行したいときに親はなし”的な悲しみだ。気づけば消えていた昭和~平成生まれの名作を、まとめておさらい!
一時、フリマサイトで1箱1000円程度で出品
 さよなら、チェルシー。ついにお別れの日が来てしまった。 (中略)  1971年に誕生した 『チェルシー』。♪もひとつチェルシー♪のフレーズが有名なCMソングは小林亜星さんの作曲だ。初代のシモンズからサーカス、八神純子、あみん、PUFFY、CHEMISTRYなど、人気アーティストによって歌い継がれてきた。  生前、小林さんも《すごい年月の間このうたを使っていただいたということは、とっても光栄》と語っていた(明治HPより)。  このCMソングでおなじみとなった『チェルシー』という名前は、3000ものネーミング案の中から選ばれたという。最終候補に残ったもうひとつの名前は『キングスロード』。こちらになっていたら、もっと雄々しいCMソングになっていたかも!?  昭和から令和まで、世代を超えて愛されたチェルシーだが、売り上げの低迷により終売が決定。《こんなことになるなら、もっと買って貢献すればよかった》という後悔の言葉がSNSで飛び交ったが、後の祭りとなってしまった。
 気づけば消えていた思い出のお菓子は、ほかにもたくさん。'67年販売スタートの 『森永チョコフレーク』 は、子ども時代の定番おやつだった人も多く 《1箱全部食べて親に怒られたなあ》 《遠足で必ず買ってた》  など懐かしむ声が今も上がっている。販売終了は2019年。スマホ使用時にチョコで手が汚れていると支障が出ることが売り上げ減の一因とも指摘されたが、時代の流れの残酷さよ。
 ♪ポポロンロンロン ポポロンロン♪と歌いたくなる明治 『ポポロン』 は'76年から'15年に販売されていた。サクッとした一口サイズのシュー生地にチョコクリームが入ったお菓子だ。販売終了が報道されたのは'17年。知らない間に消えていたのだ。
ブルボン広報に『ルーベラ』終売の理由を尋ねると
 同時期、『カール』の全国販売終了がニュースになったが、 《カールがなくなるよりポポロンがすでになくなっていたという事実のほうが悲しい》  などの声がSNSを駆けめぐった。  中には《チェルシーは大丈夫か?》とつぶやいていた人も。7年後、まさか現実になってしまうとは!
 ロッテ 『霧の浮舟』 も恋しくなるお菓子だ。販売時期は'80年~'05年。その後'13年に完全復活するも'18年に終了となった。エアインチョコレートの草分けで、口の中でシュワッとなる感じが人気を集めた。 《独特の口溶けが忘れられない》 《名前やパッケージがおしゃれで大人な気分だった》 《一回復活したから、また復活してくれないかな~》  などの声が。前回は8年越しの復活だったから、次は'26年にもしかして……!?
 コアなファンが多かったのが、ブルボン 『ルーベラ』 。  '72年デビューのバター風味ラングドシャクッキーで、'21年には『ルマンド』『ホワイトロリータ』『バームロール』『チョコリエール』とともに擬人化された美少女キャラのイラストが発表され、“ブルボン5姉妹”と話題を呼んだ。だが'22年に終売。 《探してもないと思っていたら販売終了してた》 《いちばん好きなのに、もうないなんて悲しすぎる》 《知ってたら大人買いしてストックしておいたのに》  と別れを惜しむ声が多くあった。ブルボン広報に終売の理由を尋ねると、 「多くのお客様からご愛顧をたまわり、誠にありがとうございます。半世紀にわたりご好評をいただいてまいりましたが、近年の原材料価格上昇の影響を受け、やむを得ず(販売)休止に至りました」  休止ということは、もしや復活の可能性も!? 「現在は大きさやグレードを高め、さらに満足感のあるラングドシャロール商品として、『贅沢ラングロール』を販売しています」(同・前)  『ルーベラ』ロス勢は、この贅沢ラングロールで涙を乾かそう! また、ほかの4姉妹たちの行く末が心配だが。 「発売50周年を迎えるルマンドをはじめとした袋ビスケット商品群につきましては、これからもみなさまに愛し続けていただけるよう種々の活動に取り組んでまいります」  とのこと。お願いしますね、ブルボン様!!
 駄菓子では梅の花本舗 『元祖梅ジャム』 の終売も寂しかった。 《10円玉を握りしめて駄菓子屋に行ってよく買ってた》  と懐古する人も多い。'47年から'17年まで生産されたが、1人で製造していた梅の花本舗の社長が、加齢による体調不良、機械の老朽化、駄菓子屋の減少、売れ行き不振などの原因で廃業を決定。70年の歴史に幕を下ろした。報道時は 《またひとつ昭和が遠くなる》 《後世に引き継がれるべき昭和の遺産だった》  と惜しむ声がネット上にあふれた。
 廃業といえば、佐久間製菓の 『サクマ式ドロップス』 も残念。赤色の缶のドロップは1908年の発売開始から100年以上も愛され、スタジオジブリのアニメ映画『火垂るの墓』にも登場した。  だがコロナ禍で売り上げが減少、原材料の高騰などから'23年1月に廃業。このニュースが流れると、ジブリはツイッター(現X)にサクマ式ドロップスの画像を投稿。SNSでは 《中学のころ、ポケットに缶を入れて、タバコみたいな感じでなめてた。カラカラうるさかったけど、当時はそれが粋だと思ってた》  といった声のほか、 《実家でボロボロの缶を発見。貯金箱としてもう30年も使ってるって》  というエモいエピソードが続々。ちなみに、別会社であるサクマ製菓の『サクマドロップス』は、現在も販売中。こちらは緑の缶が目印だ。
原料・資材高騰で20円売価を維持することが困難に
 そして、'94年から販売された駄菓子の定番、よっちゃん食品工業の 『らあめんババア』 も'20年に終売。インパクト大のネーミング&パッケージイラストで、誰もが知るラーメンスナックだった。 《今でもときどき夜中に食べたくなる》 《お椀に入れてお湯をかけてラーメンにして食べるの好きだったなあ》  と、恋しがるネット民のため、よっちゃん食品工業に終売の理由を聞くと……。 「原料・資材高騰で20円売価を維持することが困難になったためです。みなさまから大変多くの声をいただき、また社内でも、長年製造していた製品につき惜しむ声も多くありました」(広報、以下同)  同社では、らあめんババアの代替品は検討していないそう。現在買える他社類似商品は『ベビースターラーメン』あたりになるの……? 「そのようになるかと」  ババアのロスはベビースターで埋めときますか!  生まれて消えて、また生まれて。諸行無常の響きありまくるお菓子戦線。今、口にしているお菓子も1年後にはなくなっているかも。そんな悲劇を回避したいなら、やはり買って応援、食べて応援!?
取材・文/今井ひとみ 
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himari-tsuki · 1 year ago
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「数年前備忘録」
実はこの間の舞台を初めて観てくれていて
少しづつ、今の私を知ってもらえて嬉しい
月城ひまりのことを話せたのも
今年だったもの
今日はおかあさんのお誕生日
マンゴープリンを送ったら喜んでくれたよ
蓋を開けた瞬間水分が出て
てんやわんやだったらしいけども
元気に過ごしてね
信じるものも信じたいものも
「自由」だけれど
それが人を傷付けていい理由には
絶対にならない
コープスペイント時
いつも一発勝負なので途中で失敗したかも
と思う時が多々あるのだけれど
そこから軌道修正できる時
嬉しくてすきな感覚
オフするのは大変だけども( ´ ▽ ` )ノ
徐倫の
「下らない消耗があってはならない
逆にもっと強くなってやる」の精神
格好良過ぎて第2クールから痺れる
それ、凄く大事だ。私も私を生きなければ
様々なジャンルの方と
お話をさせていただく度
素敵な雰囲気を纏う人に共通する
「対峙すべきは自分」という信念に
いつも奮起させられます
だって、頭では分かっていても
心がついていかない時ってあるもの
そんな素敵な方々に出逢えたことに感謝です
未来のことを希望を持って話す人
だいすきだ
過去に囚われず進むパイオニア
そんな人には自ずとそういう人が集まる
諺の如く正に類は友を呼ぶなんだ
唐突に小学校時代の
クラスメイトから連絡がきて
来年ぼく、
初めて結婚式に参加することになりそう
何も分からないから調べる… たじたじ…
母の日に
マンゴージュースを送ったのだけれど
マンゴープリンがよかったらしく。
一年に一回だけのお誕生日なので
マンゴープリンも送ったよ
言いにくいことを言わせてしまってひんひん
でも、おばあちゃんと食べるのを
楽しみにしてるみたいだから嬉しい✌︎ꪔ̤̮
千と千尋を観て
いつも泣きそうになるくらいの安心感を抱く
この映画がだいすきなのは勿論のこと
ピアノの発表会で弾いて
いちばん家族を身近に感じていた時期を
思い出すからなんだな〜って
「いつも何度でも」を聴きながら涙ぐんでた
タイでお世話になっているアイドルさんに
タイですきなたべもの屋さんを聞くと
「大戸屋おいしいっ!」と言っていて
「ひまもすきだよ〜!」と話したよ
ライブに来る事が出来なかった6年前から
ひまをすきでいてくれたらしく
伝えてくれたことも
ずっと待っていてくれたことも
本当に嬉しかった
実はガチの気絶を体験してしまい
めちゃくちゃ恐かった日があった
食事中始めは久し振りの
貧血だと思ったのですが
視界が白くなっていき
今迄にないくらい兎に角汗が流れ
一番恐かったのは
音がどんどん遠くなっていくこと
手が硬直し汗も拭けずだったけど
その後回復
アレルギーか何かだったのかな
ふとした優しさに遭遇すると
絶対忘れちゃダメだな
この人をしあわせにしたい(T . T)
みたいな思考になるし将又毎日精一杯で
ひまりちゃんは生きづらい
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