#第二五之町踏切
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服部吉次さん(俳優・音楽家/78歳) 今年3月に英公共放送BBCが報じたジャニーズ事務所の創業者・故ジャニー喜多川氏の性加害問題のドキュメンタリーを契機に、元ジャニーズJrでシンガー・ソングライターとして活動するカウアン・オカモト氏(27)が実名でジャニー氏を告発するなど、その衝撃は日本中に広がっている。今回、俳優で音楽家の服部吉次氏が小学生の時に受けたジャニー氏からの性被害を告白する。吉次氏は「別れのブルース」「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」などの和製ポップスで知られる国民栄誉賞受賞作曲家・服部良一の次男。長兄は作曲家の故・服部克久だ。(独占インタビュー前後編の前編です) ◇ ◇ ◇ ──なぜ、今過去の性被害を公表する気になったのでしょうか。 「ひとつは、カウアン・オカモト氏ら実名で告発した方たちに対する敬意です。ジャニーの悪行にはかつて(2000年代に)司法の明確な裁きが下ったんです。にもかかわらず、それから30年経った今に至るも、主要なメディアはジャニーズ事務所の数々の非道の兆候を明確に指摘することをためらい、忖度し、温存する側に回ってしまった。 なぜか。この国ではむきだしの怒りを相手にぶつけることを避けてしまう。人々はこの世の歪みに気づかないふりをする。でも、少しずつではあるけれども、勇気ある告発は増え続け、海外からの声も追い風になり『おかしい』という声は大きくなってきた。それだけに行動する人に対するバッシングも大きくなる。今回こそ、真正面からその圧力と向き合おう、この機会を失うと、もう二度と発言の機会は失われてしまうかもしれない。そんなやむにやまれない思いで、今回の告白に踏み切りました」 ■父の米国巡業の縁で姉弟が服部��に ──被害にあったのはいつ頃でしょうか。 「まず、ジャニーと私の父・良一の出会いから話します。1950年に、父が歌手の笠置シヅ子さんと『ブギ海を渡る』を持ってアメリカ巡業ツアーをしたのです。8月11日にハワイ公演、9月1日から3日間はロサンゼルス公演でした。会場は高野山ホールという高野山真言宗の直営ホールで、当時の高野山真言宗米国別院の第3代主監が喜多川諦道氏。ジャニー喜多川の父です。 諦道氏は『ボーイスカウト第379隊』の結成に尽力したり、プロ野球球団『ゴールドスター』のマネジャーも務めていたという多芸多才な方だと、今回ネットで知りました。ロスの日系社会で声望が高かったそうです。息子のジャニーは当時19歳。姉のメリーと共にコンサート会場を駆け回り、大人顔負けの接待役を発揮し、父や笠置さん、服部富子(叔母で『満州娘』の大ヒットで知られる歌手)、スタッフたちのマスコット的存在だったそうです」 ──服部家とはその縁で? 「同じ年の6月に勃発した朝鮮戦争で、ジャニーはアメリカ国民として徴兵され、従軍するのですが、ある日、突然、彼が新宿区若松町の家にカーキ色の軍服姿で現れました。パパ(良一)と叔母は、それを見るなり『ヒーボー(ジャニー氏の本名・擴からこう呼んでいた)! ウワー、大きくなって』と歓声をあげて出迎えました。 それから、何回か若松町に遊びに来ました。今でも忘れられない光景があります。玄関にうずくまり、軍靴をゆっくりと編み上げている彼の姿です。家族はそれを囲んで一言も言わずじっと見つめていました。それから彼は立ち上がり、私たちに別れの挨拶をするでなく、『あー、行きたくないなー』と一言。 今思うと、2世差別の残る戦場へ向かう彼の姿を中国戦線での慰問経験をもつパパと叔母は、どんな思いで見ていたのだろうと思います。ジャニーは朝鮮戦争から帰還し、その翌年日本に戻り、除隊後には米大使館軍事顧問団に勤務したといいます。それで再び、服部家に出入りするようになったのです」 ──どんな印象でしたか? 「ジャニーはワシントンハイツ(代々木にあった進駐軍宿舎)に住んでいて、時々、お土産をもって服部家を訪ねてくるんです。ハーシーのチョコレートやハンバーガー、フライドポテト、アイスクリームなど。PX(基��内の売店)で手に入れたものでしょう。当時の日本は皆貧しいですからね、ハーシーのチョコなんて高根の花でした。うちは比較的裕福とはいっても、進駐軍の物資の豊かさは別世界です。 ある時、冷蔵庫が運ばれてきたのでびっくりしました。父が彼に頼んで買ったものでしょうけど、当時は氷を置いて冷やす簡易冷蔵庫しかない時代です。冷蔵庫・洗濯機・テレビが三種の神器と呼ばれて主婦が憧れたのは1960年代の初めですからね」 ──ジャニー氏の性癖を知ったのはいつですか? 「私は当時8歳。小学2年生ですから、チョコレートやお菓子を山のように持ってきてくれて、一緒に遊んでくれるヒーボー(ジャニー氏)は優しいお兄さんですし、大好きでした。ある日、いつものようにふらりとやってきて、確か“キャナスター”というトランプゲームなどで遊んでくれたヒーボーが、『もう遅くなったから今日は泊まっていこうかな』と言うんです。母も、『そうね、どうぞ泊まっていって』と言う。 ヒーボーが『どこに寝ればいいかな?』と聞くと、『よっちゃんの部屋がいいんじゃない』と母。『よっちゃん』というのは私の愛称です。 それでヒーボーが私の部屋に泊まることになりました。2階が子供部屋で4部屋あるうちの2つは兄と私、1つは姉3人が寝るようになっていて、一つは布団部屋みたいになっていたと思います。 パジャマに着替えた私が布団に入ると、彼が『肩揉んであげる』と言うんです。私も子供のくせに肩こり性なので、言う通りうつぶせになると、ヒーボーの手が虫みたいに体中をはいまわるので『なんか変だな』と思ったけど、私にとっては優しいお兄さんですからね。 そのうち、下半身をまさぐってきて、パンツをめくって股間のあたりに手を入れてくるんです。指でさすられているうちに生温かいものに包まれたと思った瞬間、今まで知らない突き抜けるような快感があって。それが初めての射精でした。何がなんだかわからず、びっくりしていると、今度は肛門をいじり始め、舌がはい回ってくる。そのうち舌とは違う硬いものが入ってくる感触がするけど、さすがに痛いので身をひねったら、諦めたようで、指で自分を慰めている。それを見て怖いというよりも、8歳だから何がなんだかわからない状態です」 ■姉からは「汚らわしい」と言われ… ──母親には話さなかった? 「その翌朝、起きたらすでにヒーボーの姿はない。何も知らない姉が笑顔で『どうだった? 昨夜は大好きなお兄ちゃんと一緒に寝て楽しかった?』と聞くので、『うん、ヒーボーは僕の体を揉んでくれるんだけど、だんだん、手がパンツの中に入ってきて、おちんちん触るんだよ。おちんちんって汚いよね。ぼく、なんだか��持ち悪くて……』と言ったら、姉が、『やめなさいよ、そんな話。汚らわしい』とすごい剣幕で言う。 姉がそんなに怒るのは昨夜のことはやっぱりいけないことだったんだと思って……母親に話すことはできないし、まして普段からあまり会話が少ない父親に話すなんて無理。そこで思考停止しちゃったんです。 ジャニーがしたことがオーラルセックスだというのは大人になってわかるんですが、変なことをされたという気持ちとそれを自分が受け入れた後ろめたさが子ども心にも複雑な心理状態になるんですね。 アイスやチョコをくれて、性的な快感を味わわせるということで、こちらに後ろめたさを持たせ、その一方で加害者としてその快楽を使った口封じをしているわけです。性に関する問題は『支配と奉仕』の二重構造があるのだと思います。でも、それで終わったわけではなかったんです」(後編につづく) ▽服部吉次(はっとり・よしつぐ) 本名・服部良次。1944年生まれ。父は作曲家・服部良一。劇団黒テントの創立メンバー。「翼を燃やす天使たちの舞踏」「上海バンスキング」「阿部定の犬」ほか多数の舞台に出演。妻は女優の石井くに子。次男はハンブルク・バレエ団で東洋人初のソリストで、バンクーバー五輪の開会式に出演したバレエダンサー・服部有吉。兄は作曲家・服部克久。甥は作曲家・服部隆之。隆之の娘はバイオリニストの服部百音。 (取材・文=山田勝仁)
(2ページ目)国民栄誉賞作曲家の次男がジャニー喜多川氏からの性被害を告白 「8歳の時に自宅部屋で…」|日刊ゲンダイDIGITAL
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕���危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊���杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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天の川と踏切 千葉県 いすみ鉄道 第二五の街踏切(上総中川ー国吉) 冬にオリオン座撮った所と同じところです。 #東京カメラ部 #tokyocameraclub #鉄道写真 #instagood #trainphoto #train #trainstgram #trainspotting #写真好きな人と繋がりたい #ファインダー越しの私の世界 #鉄道写真 #鉄道風景写真 #canoneos6d #キヤノン #いすみ鉄道 #第二五之町踏切 #踏切 #第4種踏切 (いすみ鉄道 風そよぐ谷国吉駅) https://www.instagram.com/p/BzZZ3tvnTai/?igshid=3e9ehpkknd01
#東京カメラ部#tokyocameraclub#鉄道写真#instagood#trainphoto#train#trainstgram#trainspotting#写真好きな人と繋がりたい#ファインダー越しの私の世界#鉄道風景写真#canoneos6d#キヤノン#いすみ鉄道#第二五之町踏切#踏切#第4種踏切
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いすみ鉄道の旅②
ここから第二五之町踏切まで歩きます

しぶい喫茶店、準備中、、、くやしい

あるく

あるく

あるく
…!!!!!!!

そわそわ

ジェニジェニ
ジェニまると菜の花 今日もぷりてぃネ

ついた
なんて不思議な場所、、、
昼過ぎくらいについて、ひたすらいすみ鉄道が通るのを待ちます
iPhone様様
この町は



みんなすれ違うとこんにちはって声かけてくれます
おばあちゃんイイ写な雰囲気醸し出してる
下に続く
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第二次世界大戦で奇跡の生還を遂げ「戦艦大和の語り部」として講演活動などをしてきた八杉康夫氏が1月11日広島県福山市内で死去した。92歳。誤嚥性肺炎だった。
著書『戦艦大和最後の乗組員の遺言』(2005年 ワック)は筆者の手になる聞き書きである。その生涯と言葉を振り返りたい。
八杉氏は福山市の豆腐店に生まれた。1943年、「街を颯爽と歩く水兵さんにあこがれて」15歳で海軍に志願。秀才の集まる横須賀砲術学校を2番で卒業。17歳で憧れの大和乗務員に抜擢された。
担当は艦橋最上部での敵機の偵察。「司令官ら偉い人たちの居る場で狭い階段で最敬礼の連続でした」。
敗色濃厚となった1945年4月7日、「天一号作戦」と呼ばれる沖縄海上特攻に呉港から出撃する。「温存されていた大和を使わないまま敗戦になれば国民の批判を受けることを軍部は恐れたのです。燃料は片道分と言われましたがそれは嘘で、十分に積んでいたはずです」
乗り込む前夜、母まきゑさんと呉市の旅館で食事をし、当日は港近くまで送られた。「『長い間ありがとうございました』と敬礼し踵を返すと『あんた、元気でな』と言われましたが振り返りませんでした。これで会えないと覚悟していました」。
壮絶な少尉の割腹自殺と救助を拒否した高射長
隠密行動のはずだったが米偵察機マーチンがさっと上空をかすめた。「すぐに察知されていたんですね」。いよいよ、敵機は近い。
「艦橋最上部で5メートルもあるニコン自慢の測距儀のレンズを覗くと米機の編隊で真っ黒だった。自慢の45センチ(内径)の主砲を撃つタイミングを今か今かと測っていると編隊はさっと雲上に消えたのです。真上から攻撃された大和は高射砲で応じましたが300機以上の米機はまるで雲霞(ウンカ)の大群。魚雷、250キロ爆弾などが次々と命中し為すすべもありません。大和は結局、主砲は一発も撃てませんでした」。当時、日本のレーダーはお粗末で基本は目視だが、運悪くこの日は空一面に雲が広がっていた。
ちぎれた手足や首が転がり甲板は血の海。地獄絵図の中、八杉少年は衝撃的な光景を目の当たりにする。可愛がってくれた���本政一少尉が傾く甲板で軍服をはだけ、持っていた短刀で割腹自殺したのだ。「血がホースの水のように吹き出し、少尉は倒れました。私は震えて立ち尽くしました。前夜、褌をアイロンして届けると『ありがとう、明日は頑張れよ』と言われました。彼が秘密の上陸を母に密かに知らせてくれたから母に会えたのです」
八杉少年は横転した大和の艦橋が海面に接する直前に海に飛び込むが大和が沈没し大渦に巻き込まれる。「洗濯機に放り込まれたように水中をぐるぐる回り、人にバンバン当たりました。息ができず苦しくてもう駄目だと思った時、水中がバアーッと黄色く光ったのです」。弾薬庫に引火した大和が水中で大爆発した。その勢いで運よくぽっかりと水面に浮かんだ。
空を見上げるとアルミ箔のようにきらきらと光っていた。「きれいだなと思っていたらそれが落ちてきました。砕け散った大和の鉄片だったのです。近くで漂っていた人は頭を真っ二つに裂かれました」。重油の海で力尽きた仲間が次々と沈んでいった。
沈みかけて思わず「助けてー」と叫ぶと偶然近くを漂っていた川崎(勝己)高射長が「そうれ」と丸太を渡してくれた。「自慢の髭は油まみれでオットセイのようでした。『お前は若いのだから頑張って生きろ』と大和が沈んだ方向へ泳いで消えました。私は高射長、高射長と叫び続けました、川崎さんは救助を拒み、大和が沈められた責任をお取りになったのです」。
4時間の漂流の末、八杉少年は駆逐艦、「雪風」に救助された。「赤玉ポートワインを飲まされ重油をゲーゲーと吐きました。引き揚げてくれた若い男は『お前、よかったなあ』と泣きながら私の顔を叩いていました」
雪風が到着した佐世保は一面、桜満開の快晴だった。「『畜生、これが昨日だったら』と全員が男泣きしました」。40キロ以上飛翔する主砲弾が編隊の中で炸裂すれば米軍機10機くらいは一度に落とせたはずだった。
広島では自爆攻撃訓練
大和の沈没は国家機密。生還者は佐世保にしばらく幽閉された。そして広島へ戻り、母にも再会できたが山中で米軍撃退の「肉薄攻撃」と呼ばれる「自爆攻撃」の訓練に明け暮れた。「棒の先の爆弾を戦車に踏ませるんです。部下は銃の扱いも知らない頼りない兵隊ばかりでした」。
ある朝、空が光ったかと思うとものすごい風が吹いてきた。原爆だった。すぐに広島市内の現地調査を命じられた。水を求める少年に「後でやるか��な」と去った。「水を与えるな」が命令だった。「人生、あれだけは心残りです」。
音楽の才能の豊かだった八杉氏は戦後、NHKラジオの『のど自慢』のアコーディオン伴奏なども担当した。神戸で修業し、ピアノの調律師として生きたが、被ばくが原因で階段も上がれないような疲労に襲われることもあった。結婚もしたがすぐに離婚された。ヤマハの技師長にまで出世したが、退社後は楽器工房を営んだ。
みつかった戦艦大和
1980年代に「大和探し」が始まった。調査三回目の1982年5月、指南役になり鹿児島県坊ノ岬沖に沈む大和をNHKスタッフらと探し当てた。戦後長く沈没位置は徳之島沖とされていた。「大和はそこまで到達しないうちに沈んだ。おかしい、という説はありましたが、毎年、徳之島で慰霊祭をやってきた地元出身の有力代議士の力でそのままになっていたんです」。
「潜水カメラの影響でしゃれこうべ(頭蓋骨)が浮かび上がって一回転し、スーッと沈んでいった時は船上の全員が涙を流しました。実は自衛隊の対潜哨戒機が上空から場所を教えてくれたんです」。その後、日本船舶振興会の笹川良一氏などが大和を引き揚げようという計画を立ち上げたが八杉氏は「仲間はあそこで静かに眠らせたい」と反対した。
名作『戦艦大和ノ最期』の嘘を著者に認めさせる
朗らかな人柄だが事実には厳しかった。名著とされた吉田満の『戦艦大和ノ最期』には救助艇の「初霜」について海面から兵隊が這い上がると艇が沈むため、「ここに総指揮および乗り組み下士官、用意の日本刀の鞘を払い、犇(ひし)めく腕を手首よりバッサバッサと斬り捨て、または足蹴にかけて突き落す」とある。
だが八杉氏は「初霜は内火艇と言って羅針盤の磁気に影響するため乗る時は軍刀を持ち込めない。そもそもそんなことする必要もない。艇にはロープが多く積まれ、引き揚げなくてもロープにつかまらせて引っ張ればいい。それにそんな事実があれば幽閉されていた佐世保では『ひどい奴だ』とその話題で持ちきりになったはず。そんな話題は全くなかった」。
筆者は子供の頃、『戦艦大和ノ最期』を読み、這い上がる兵隊の手首を斬り落としたという場面は衝撃的で鮮明に覚えている。八杉氏に会ってそれが嘘と知り、少しほっとしたが迷惑千万だったのは書かれた当人だ。実名は出していないが旧海軍関係者にはすぐに誰かわかる。兵隊の腕を切り蹴り落としたとされた初霜の総指揮は松井一彦中尉。戦後、東京で弁護士をしている松井氏に筆者も会い取材したこともある。松井氏は訴訟も検討したそうだが吉田氏は五十代で早逝した。
作品では大和艦上で兵隊たちが議論していた時、臼淵磐大尉が「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。(中略)敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。(中略)俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」と演説している。この「名言」に八杉氏は鋭く疑問を呈した。「戦後民主主義教育を受けなくてはあり得ない。あの時は全員が『見ておれ、アメ公め』と燃えていたんです。敗れた自分たちが愚かだった、反省して国を再建しよう、なんて発想が出るはずもない」と。
吉田満氏は東京帝大出身。大和には電測士として乗り込み、九死に一生を得た。「頭のいい吉田さんは鬼畜米英から戦後民主主義にさっと切り替えて、あたかも大和の乗組員が話したかのようにしたのでしょう」。八杉氏が吉田氏に会って問い糺すと相手はフィクションと認めた。「フィクションならどうして実名で書くんですか」と畳み掛けると黙ってしまったという。『戦艦大和ノ最期』は三島由紀夫、河上徹太郎、小林秀雄ら当代一流の文壇人が「ノンフィクションの最高傑作」とこぞって絶賛した。若い吉田氏は「あれは作り事でした」とは言えなかったのだろう。だが名作の影響は大きい。「徳之島」も吉田氏の著作が根拠だった。
八杉氏は後年、『男たちの大和』の作家辺見じゅんにも「それは嘘です。そうお書きになるなら小説になさい」などと厳しく指摘した。
2005年に『男たちの大和』が角川映画になった際は、反町隆史ら出演俳優らに、高射砲の撃ち方などを実技指導した。その時は「娯楽映画だから主砲をぶっ放したのは仕方がないかな』と笑っていた。
感動的な講演を続け、川崎高射長の場面では必ずしゃくりあげた。一年半前、久しぶりに福山市内の施設で会った時は認知症も進み、いつも「粟野先生」と呼んでくれていたダンディな八杉氏が筆者が誰か判別も付かずショックを受けた。
「敗戦の象徴」の生き証人はいつもこう訴えた。「平和は向こうから歩いてはこない。自ら掴み取るのです」。
粟野仁雄(あわの・まさお) ジャーナ��スト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。
週刊新潮WEB取材班編集
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“看着我”
一个根据银之魂篇土方一句“杀了他”台词深夜和朋友一起脑洞出的延伸
刀子注意,有角色死亡,不喜勿进哦
一发完小短篇
正文:
“看着我。”
愛しい人よ
爱人啊
せめて私お殺る時は
至少在杀我的时候
瞳開けて 滅びゆく瞬間まで 看取って
睁开双眼看着我毁灭的瞬间
爱人啊。
*
从那之后过去了多久?好像也没有什么变化。还是一样无聊的江户,无聊的歌舞伎町,无聊的电视节目,无聊的工作。无聊的杀人,杀人,杀人。
杀人是我的工作,这把刀时至今日已经不知沾了多少人的血。当然还有我自己的血。工作是把双刃剑,总会在哪里给自己落下一道伤。我们这样的乡下武士都是一条贱命,是幕府的剑,指到哪处就抹杀哪处。剑坏了可以丢掉换掉,没有人回惋惜一把破剑。
我杀过很多人。
从乡下的天然理心流走出来,托了警察身份的福,在这个禁刀的年代把手中的木剑换了真刀。从那天起我的刀就没有停下来过,哪怕上司从幕府换成了天皇,大政奉还也没能剥夺我手中的剑。我仍然是那个斩杀人类的鬼。
是的,鬼。双手握柄,运气,横劈,鲜血迸出。一条人命,拜拜。
我不喜欢杀人,但我也不讨厌。和我工作的家伙都这么想。杀人是工作,天道说你该死,你就该死在我的剑下。只有一次例外,那次我们全员当了反贼,劫了狱离开了江户。
我记错了,是两次例外。
有时我会想,真的只有两次吗?对于那个人,有多少次是我本该杀他却没能下手的?我给自己找过那么多理由,一次一次的避免杀他,多到我���记不清了。如果天道要杀他,那我就杀了天道。我曾经是这么想的。
我也曾经很多次说,信不信我杀了你啊混蛋。这种话我说过太多次,几乎变成口头禅了。
早知道我说话这么准,当初就该天天预言蛋黄灵王国的降世,或者江户禁烟令取消这种东西。为什么,为什么我要说“总有一天我要杀了你”呢?
为什么呢,土方十四郎,你为什么要杀了他呢?
*
杀了他。
我说。
我被自己的话吓到,说出口后有片刻的沉默,一时甚至忘了是什么促使我说出这三个字的。
真的吗,杀了他?在克服了这么多阻碍,抹杀了不知多少的敌人之后,你要杀了他吗,土方十四郎?
他非死不可吗?我在脑内疯狂的盘算,坂田银时,即使已经到今天的地步,他仍然非死不可吗?
我在给他找一个不死的理由。
可我失败了,那一刻我清晰地意识到,眼下的这个坂田银时,我找不出任何理由给他开脱。
他非死不可。
“土方先生……”
对面的山崎怯怯地看着我,似乎是被我吓到了,他在等着我接下来的话。
我清了清嗓子,干涩的说了下去。
“这也是他拯救下来的真选组的使命。”
我还没有忘记我的使命。斩杀一切不和谐的、威胁到社会安全的不稳定因素。
为了这个我可以什么人都杀,不轨的臣子,居心叵测的君主,哪怕是天,我也会斩杀。
而现在,这个不稳定因素成了他。
我认识他多久了?其实我早知道他是个疯子,还是不要命的那种疯子。但我没想过会有这么一天。作为鬼的我,要去斩杀作为夜叉的他。我想酒吞童子看到此等魔界自相残杀的局面也会气得从棺材里跳出来把头安上大骂我们忘本儿。往近了说,就算是冲田那天天计划暗杀我的浑小子,听到我这话估计也会把眉毛挑到头发里。
我都能想象出来他的样子。睁着一双人畜无害的大眼睛,挑着眉毛看我:“土方先生……你要杀老板……?真的……吗?”
我真希望他现在就在这里,用这副欠打的表情和语气问我这话。这样至少我还能揪住他的领子,用我往常用惯了的遮掩情绪的方式吼他,说是啊!我就是要杀了他,怎么样?!你来拦我试试啊!
试试吧,说真的,谁来拦我一下也好啊。
但很���幸,冲田现在不在,我面前只有山崎一个人。他站在那里,整个身体都被机械改造过,只有脸还是以前的样子,他的怀中还揣着一本浸满血的警察证书。
你看,这就是我们从大战里幸存下来的模样,满身疮痍。
我也受了伤,说实话,自己都不知道还能再挥几年剑了。我快三十了,这些年打打杀杀下来,身上的大疤小疤数不清。也许过几年我就该上缴刀还个文职做了。未来的路怎么走,我还真的没有
想过。
我曾以为我会死在战争里,但我活下来了。我从未想过未来怎么办,也不曾想过我会说出刚刚那三个字。我突然理解了坂田银时这个男人,他曾经也一定像我一样,连自己都感到意外的从战争中活下来了。
我们就是这样恼火的相像,曾经是爱好,现在连经历也开始相像了。难道我也要走你走过的路吗?真的吗,那可不是什么好路。
我习惯性的探手入怀摸烟,摸出来一个空盒。刚刚才买的,这么一会就抽完了。同时我灾难性的发现:我在流汗。
冷汗从掌心浸到烟盒外的玻璃纸上,滑腻腻的。缺少尼古丁让我开始烦躁,我拨拉着打火机开关,让山崎去给我买包美乃路回来。
但山崎没有动,他站在原地,定定地看着我。“副长,您说要杀了老板,是真的吗?”
“让你去买烟哪那么多废话!”我吼他,“我说要杀就是要杀,有问题吗?要不要你先切个腹啊!买烟去!”
山崎擦擦汗,小步跑开了。
我靠在墙上,缓缓地将烟盒捏扁,揉成一团。坚硬的尖角硌着我的掌心,被冷汗浸透的衬衫是冰凉的,夹在墙面与我的脊背中间,湿湿的一片。
我开始在脑内细数不得不杀他的理由。
*
如果有人问我坂田银时在最后的时刻是怎样的,我可能无法回答。
从那以后,我曾无数次演练过如何应对这个问题,但最终还是没有一个满意的。没有答案能配得上他,他的死亡是幕府时代最后的落幕。对于这样的死亡,我匮乏的言语是无论如何也不能描述出来的。
好在没有人问过我这个问题。应该说,能问我这个问题的人已经不再有了。
如果一定要说的话,我现在大概有一个还不赖的答案。我不是很擅言语,这个答案,我想了很久很久。
那时我希望他能反抗,能挥动着那把剑挡下我的攻击,最好是杀了我。可他没有,他只是看着我。他就这样任凭事情发展下去了,直到最后,都一直看着我。
就这样看着。
坂田银时疯了。
在我与他相识的数年之前,他已经进化成了一个完美的疯子。杀夜王,挑衅春雨,与见回组对着干,大大小小炸了多少次江户,为了一个女人打到御所逼将军退位,又劫狱,劫持将军——他干的疯事数不胜数。
可这些事其实都算不上疯,和他现在所做的一切相比,之前的不过都是小打小闹。
他疯就疯在站在了我们昔日共同的敌人那一边。
他背离了我们——背离了我,向着一个最不可收拾的糟糕方向一去不回头的走远了。
要是说我早就知道他会这么干,未必有些马后炮嫌疑。但我确实曾经从他的眼睛中看出过端倪。就在他第二次手刃恩师后,寒光下坐在地上的他的眼睛,即便在黑夜里也要比暗沉的天色还要更阴郁的,某种东西。
我那时就已经隐约猜到他会疯。
这是他的逆鳞,他一生的梦魇。他的生和死都与吉田松阳这个人牵扯不清,他生,他便生。当吉田松阳死了,他也就死了。这当然不是俗套的羁绊啊情感啊的牵系,而是最质朴的生命之源。没有人能替代吉田松阳在他心中的位置,正如没有人能替代我的长兄。可他偏偏亲眼目睹了两次。第一次,他亲手斩下他的头颅。第二次,他看着他跌入龙脉,巨大的飞船埋葬了他。
我曾经预言过,总有一天坂田银时会成为一个比高杉晋助还要可怕的恐怖分子。现在这一天来了,连我自己都没想到它真的会来。
而我在得知这个消息后的第一反应,就是我要杀了他。
我与坂田银时之间有种不可言明的默契。我们关系算不上融洽,硬要说的话还是死对头。但我们都清楚一件事,并且会义无反顾的去完成它。那就是,如果有一天我们其中一人一意孤行,那么另一个人就要肩负起抹杀对方的责任。
我想他也一定是明白的,不然那时,他为什么躲也不躲,只是一直看着我将剑送进他的胸膛呢。
我蹲在地上,一根一根的抽烟,像个人型自走尼古丁烟囱。山崎买来的烟早就抽完了,我威逼他立刻再去买一包回来。烟蒂一个个摞成小山,我抽了太多烟,尼古丁让我喉咙发苦,我开始干呕,趴在地上吐出一堆可怜的秽物。
坂田银时,我要杀��你,你在哪?
*
杀他是必然的,可是怎么杀?我的剑��师父告诉我,要人剑合一。剑道的最高境界就是你手中的剑拥有生命,它长出血管和神经,与你握剑的手紧紧相连。剑随心动,每一次挥剑都出自你的真心。我一直奉行师父的真言,从始至终,我每一次挥剑斩杀歹人都只随心动。
可我不想杀坂田银时。第一次,我的剑失效了。
我拎着那块沉重的废铁,妖刀村麻纱的刀尖在坑坑洼洼的地面上拖行,发出金属的哀鸣。责任与大义在背后推着我前进,心却拉着我向回走。有生以来第一次,我踏上一条如此不情愿的杀人之路。
我必须杀了你,我默念着,我必须杀了你。
如果不这样一直催眠自己,好像就会随时拔脚跑回家里似的。我反复的念着这句话,一遍遍的重复着杀他的理由,像一个出门前反复检查煤气开关的强迫症患者。有好几次,我甚至差点成功说服了自己,真的放弃杀他的念头了。
可坂田银时并没有消停,他总是不停的给我找理由。杀他的理由。
急报一张张递到我的房间,白纸黑字上都有着相同的名字。坂田银时。在我于原地踯躅时,他离开了所有人,带着那个怪物游历四方,走到哪里,便杀到哪里。每一天他都罪加一等,逼迫我不得不亲手拿起脚边的刀割开他的咽喉,彻底扼止他疯狂的脚步。
杀他是必然的,可你的心呢?土方十四郎,为什么你的心仍然不肯杀他啊。你拎着那金属的废物,拖拖拉拉的走着,挥不动剑的两条没用的臂膀。你在拖延什么?杀了他啊!
杀掉同伴有这么难下手吗?你这把肮脏的妖刀,死在它刃下的同伴还少吗?更何况坂田银时算什么同伴,从始至终,他都只是一个该斩杀的对手罢了。这一事实早已在相遇之前注定,他是白夜叉,我是真选组的鬼之副长。我与他之间,本来就只能活一个。
那么,杀了他吧。
我盯着面前厚厚的报告,将烟蒂狠狠熄灭在正中央。纸张燃烧的气味缓缓散开,我掏出打火机,将报告彻底点燃。
我曾经对他说过,欠你的,等回来再还。
我当然亏欠他,其实他也一样。我们都欠了对方太多人情,这条两两相欠的路走了太久,早已算不清这笔账那笔账。我以为我们的帐会在一杯老酒里一笔勾销,没想到最后是在鲜血里销的帐。他这个欠房租专业户,我早就该知道,他这个人会赖账的。
我在定食屋存的那瓶酒,其实他也没能来得及喝几杯。那之后他离开江户,再也没能回来。直到今天我仍然存着它,尽管定食屋的老板已经从婆婆换成了她的儿子。那瓶酒我喝的很慢,倒一点点,只够装满瓶底的一层,咂一口,是苦的。老酒像人,年轻的时候发涩,到了中年是醇香,老了之后,总是越咂越苦。无论怎么品,都苦的让人舌根发麻。
你欠我的帐,恐怕是再也还不上了。坂田银时啊,你真是个混蛋。说好的喝完这瓶酒等我们回来,你凭什么半路落跑?你凭什么让我杀了你?
最后这一笔,你从来都没打算还吧。打从一开始,你就做好了死不还债的觉悟,打定主意要我背着这笔债走到地狱,到三途川旁追着你讨债。
真是混蛋,坂田银时,你真是个不折不扣的流氓。
我咂着老酒,碰到脚边的村麻纱。太久不出鞘,它已经积了太多灰,是真正的一把废剑了。
那之后我再也没有拿起过剑。
*
我独自踏上杀他的旅程,已经不知道找了多久。我总是能猜到他的足迹,总是在他后一步赶到。一直以来我们都该死的相似,就连休息日也总会令人恼火的频频偶遇。我知道他会去哪里,这种能力几乎刻进我的基因。可我总是拖延脚步,慢一点,再慢一点,我知道我会杀了他,可能不能再多一天?如果有一天我死在了杀他的路上,想必也会安心的闭上眼。杀人,被杀,以杀止杀,灭因断果。欠的人情要还,还不上就用命去补。杀人的人未必能活,被杀的人也未必真的死了。凡事牵扯到人情债总是复杂,我与坂田银时便是这样乱麻般的关系。理不清,甚至无法用言语表达。但我懂,他也懂,谁也不会怨谁。
我就是抱着这样的心情磨磨蹭蹭、拖拖拉拉的走到了他的面前,我预估了他的每一处足迹,也预估到了他离开的时间,总是赶在他后面追到。可这种预估的能力却渐渐失效了,到了后来,我赶到的时间点越来越早,有时我坐在街边他刚刚吃过丸子的座位上,都能感受到座椅上他的余温。最后一次,当我赶到他下榻的客栈时,他的背影就在我身前五步慢悠悠的走着,吊儿郎当的,一只袖子吊在身侧晃悠,拎着把木刀。我与这个背影阔别太久,但它仍在分别多年后惊雷一般引炸我的颅腔,叫我一眼便认出来。
那时我久久站在原地,双脚仿佛被钢钉嵌死,浑身酸麻无法动弹。我没有想过会在此地遇见他,更不曾意识到我的预估会出错到这种地步。该杀的人就在眼前,可我的剑却无法出鞘。我看着他一步步走远,动也��不得,心里劝自己那是错觉,我没看到,认错了,那不是他。我该还的债不在今天,在明天,每一个即将到来的明天。
我最终一步没动的看着他离开。
那时我便突然了悟,他是在等我找到他。
我一直都知道他向死而生,很早之前,他就已经一心求死。但我不知道的是,他从那时起就打算好要死在我手里。从恩师坠入龙脉那一刻起,他就已开始策划自己的死亡。之后的每一步,都是为我量身定做,逼的我不得不走上这样一条路。
我多希望有人能来问我一句,我恨不恨坂田银时,这样我就可以说出答案。我不恨他,这是我该还的人情。我只是无法释怀。从那以后我无数次于梦中惊醒,大汗淋漓浑身冰凉地一次一次的意识到,他是在逼我杀他,是他设计了被我杀死的这个结局。可是坂田银时,你为什么逼我杀你?为什么是我?为什么?
我很想冲到冥府,把这个混蛋揪出来痛打一顿,质问他凭什么逼我杀你?你凭什么要让我背着你的死亡活下去?你怕你死在别人手里我会复仇吗,不会啊,你这种恐怖分子死了我才舒心呢。坂田银时,你怎么这么自私?
但我总会原谅他——我知道他不容易,有难处,我也明白这是他最好的结局。用他的话说,他是死得其所。我明白这是最好的办法,只有我明白——也正因为如此,所以杀他的人只能是我。我忍了你这么久,肯定是会原谅你的。无论如何我都要妥协,谁让我杀了你啊,坂田银时,谁让我欠了你那么多人情,无论如何都要还上啊。
我太了解坂田银时了,了解到让我自己厌恶的地步。我常常会想,如果我不是如此了解他,也许就不会走上这条路。杀他的人不会是我,他也不会这样算计我。早从一开始我就该和他断绝一切牵扯,我还可以继续过我刀口舔血的生活,而他也会继续拖拖拉拉的活下去。闹到最后这步,我仍然不怨他,我只是隐秘的希望他能活着,哪怕从此以后他和我再无关系。
可世界上哪有如果。
我最终在那天找到了他,与我阔别多年的死对头面对面相遇。一路上他仿佛童话里掰面包的小女孩,走一路丢一路,引得我不得不找到他。那时夕阳西沉,他拎着木刀跨过肩头,冲我抬抬下巴,哟,税金小偷,慢死了,怎么,路上被蛋黄酱绊了一跤吗?
我握着剑的手在颤抖,我看着他,一句话也说不出口。在道场中养成的本能告诉我眼前的男人并没有杀气,可我的理智在催逼着我动手,松手!杀了他!把你的剑拿起来!土方十四郎,动手啊!
“真无聊,”坂田银时咂了咂嘴,“你搞快一点啊。”
他双手持木刀,向我冲来。
我拔剑抵挡,刃与刃相撞的瞬间手腕酸麻。掌控节奏的人���他,我知道他的剑术一直高于我。那时我甚至隐隐的期待,希望他能在战斗中杀了我。死亡是解脱,活下来的人注定要面对永恒的自我挣扎。剑锋每一次刺向我,又一次次的擦过我身侧刺进了空气。他的剑法处处是破绽,我却闭上眼不想去看。只要我看不到,就仍然存在输在他剑下的可能。杀了我吧,我想,坂田银时,我该死在你手中。
但他却适时轻笑一声,无比扎耳。
我睁开眼,看见他脸上挂着一如既往欠揍的贱笑。他举剑刺我胸前,我下意识抵挡,他将剑身一转,别着我的剑硬生生转向,义无反顾的刺向他胸膛。
村麻纱刺入血肉的瞬间,我再度闭上了眼。
这把剑对我来说实在太重,刀刃切开皮肉擦过肋骨时,我扭伤了手腕。热热的血喷在我脸上,我执拗的闭着眼。眼前人轰然倒下,连带着执剑的我也跪伏在地,剑未拔出,就这么刺进地面,将他也钉在了地上。
我跪在粗糙的泥地上,砂砾隔着制服硌在我的膝盖。我仍然闭着眼,听见面前的人在喘息,他的血淌过地面,温热的浸透了我的裤子,他在垂死,那一刀擦着他的心脏穿过去,他活不久了。
我终于杀死了坂田银时。
多年后我总是频频去回想这短短的几分钟,但总是记不清,想不起来。在那几分钟里世界发生了什么?太阳还挂在西方的地平线之上吗?人类仍然存在吗?我不知道,我只是久久闭着眼睛,在黑暗中缓慢的下坠,下坠。我闻不到他的血腥味,听不见他濒死的呼吸,碰不到他渐渐变凉的身体。我闭上了眼,所以眼前的一切都暂时不存在。世界是量子态的,只要我不去看,就不存在。
那时我听见他说,看着我。
“你睁开眼,”他说,看着我。”
我睁开了眼。
他在笑。
我没有看错——昏黄的夕阳下,倒地濒死的银发武士,被村麻纱钉在地上,口中仍然不断地涌出鲜血——可他仍然在笑着,仰面向上凝视着我,一直笑着。
在我闭上眼不去看的时候,他也仍然这样看着我,笑着。他说,喂,哭丧着脸干嘛?这样送一个人上路,对方可是不会成佛的啊。
我一句话也说不出,只能偏过头,避开他的目光。
直到那时我仍然没有松开握在村麻纱上的双手,仿佛被钉在地上的人是他而不是我。我跪在那里双手已经因用力而痛了起来。我像一尊雕像一样跪在他面前,没有表情也没有动作。我也不知道该说什么。难道要杀人的人说“请你活下去”吗?可我是真的希望你活着……银时……你相信吗?
坂田银时,这个男人,他真的要死了。
在我们还在战场上时,他曾半开玩笑地问过我,说如果他死了,我会不会为他流泪。那时我抽着烟,漫不经心地回答他也许吧,也许我能为你掉几滴微不足道的眼泪也说不定。
但是,对不起啊,银时,现在终于到了那一天,可我却眼眶干涩,流不出一滴眼泪来。你要死啦,我呢,却连一滴鳄鱼的眼泪也挤不出来。毕竟杀你的人是我啊,手上沾满鲜血的鬼,又怎么配去流人类的眼泪呢。
直到最后他还在絮絮叨叨的说着白烂话,每一句都伴随着涌出口的血沫。他笑着,说,喂,多串君,你倒是看我一眼啊。
看着我啊,看着我。
他说,没想到最后刻在我双眼睛里的,竟然是你这张脸。真是倒霉透了,喂,你能不能看我一眼,好歹让我记住你那双青光眼长啥样啊。
他笑着,流着血,说着话。直到他的声音渐渐低下去,断断续续再也听不到声音。我都始终执拗的偏过头,不去看他一眼。
直到他断气,那两道灼灼的目光都始终聚焦在我面颊上。他一直看着我。
他说,谢谢你。
ありがとう。
夕阳下,坂田银时已经变冷的身躯躺在那里,睁着眼,仍然挂着微笑。
他死了。
暮色四射,空气开始变冷,而我扭伤的手腕开始疼痛。它提醒我仍然身而为人。他终于死在了一个微不足道的傍晚,躺在没有人烟的地方。从哪里来,又回到哪里去。他死了,我似乎也已经死了。
我站起身,在他死后才终于与他双目相对,凝视许久。
对不起啊,只是,我这种人的脸,不配被你带到冥府里。
好好上路吧,坂田银时,在那个世界,也要备下老酒等我啊。等到我也下地狱的那天,再去找你把存下的酒喝光。嗯,说好了。
我转过身,很慢很慢的挪动脚步,烟盒在右胸凸出一块,我摸了一根烟出来,叼上。慢慢点燃,慢慢吸着。
他说,谢谢你。
我低头咂了许久,笑了笑,说,谢谢你。
回家了,银时。
太阳落山了。
End
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また、山口組と旧後藤組の関与か。
しかも、フリーメイソン森喜郎の少女買春
他に覚醒剤利用してませんかね?
MDMAとかね。
押尾学冤罪事件のアレなw
以下引用
プチエンジェル事件は、今から16年前に東京で起きた児童監禁売春強要事件だが、「自殺?」したとされる容疑者の単独犯行とされ、2000名もの政財界の大物が羅列された名簿を警察が押収したにもかかわらず、犯行経過と名簿の具体的内を示す、ほぼすべてが警察によって隠蔽され、マスコミもこれを報じずに、見事にうやむやにされた、戦後最悪の権力による極悪犯罪隠蔽事件である。
このとき、日本社会が腐敗した「法治国家」である現実が、世界に明らかになったといってよい。権力と金さえあれば、小学生少女を監禁、強姦しても、事件は隠蔽され、罪にも問われないと警視庁=警察権力が示したのである。
現在、安倍政権によって、法治主義を無視、破壊する権力濫用が続いているが、こうした自民党政権による国家ぐるみのマフィア的犯罪は、すでに、このとき完成していたと考えるべきである。
名簿を一部の記者が見ていて、そのなかに、自民党の現役政治家や元大臣、元警察官僚などが含まれていたと証言している。
中には、森喜朗元総理の息子が含まれていたとの週刊誌の報道もあった。
名簿の捜査は、警察上層部からの命令で停止させられ、その理由は「偽名が多い」というものだったが、捜査現場からのリーク情報では、携帯電話番号まで記載され、番号と公表された氏名が一致していることも多かったといわれる。
この事件には、関わった少女や、事件を調査していたフリーランス記者などに数名の不審死者が出ているが、これらも、すべてうやむやに処理され、徹底した隠蔽が行われた。
私は、この事件の真相について、いつか、まとめて報告したいと思っていたが、情報が少なすぎるため果たせず、今回、YouTubeに現場を取材した記者の証言がアップされて、はじめて詳細を知ることができた。
https://www.youtube.com/watch?v=z7NpsAmX48g
https://kirari-media.net/posts/454
事件の経過
① 2003年7月上旬、稲城市に住む小学生少女が、渋谷周辺で女子高生スカウトから「アルバイトしないか」と誘われ、主犯とされる無店舗型少女売春クラブ経営者の吉里弘太郎(29)と接触、マンションの部屋を1時間くらい掃除して1万円を渡され「友達も連れておいで」と誘った。
このとき、友達を連れてくれば、一人について3万円を渡すと約束していたようだ。
② 誘いに応じて、少女は友人3名を加えて、7月13日、再び吉里の元を訪れた。
彼女らには二台のタクシーが用意され、7月11日に吉里が契約したばかりの赤坂のウイークリーマンションに連れて行かれた。(インターナショナルプラザ赤坂No.1最上階の11階1101号室)
すると、吉里は態度を豹変させ、「ここに来たのは、どういう意味か分かってるな?」と、スタンガンを手に四人の少女を恫喝した。
怯える少女たちに、手錠と目隠しをして、重しのポリタンクにつないで監禁が始まった。少女たちのなかには、逃げだそうとしてスタンガンで負傷させられた者もいた。
吉里がマンションを短期契約した7月11日、彼は保有していた二代のフェラーリを売り払っていて、7月17日には、警察が以前の少女売春事件で、吉里に逮捕状を執行しようとしていた。つまり、死亡した7月17日以前に、吉里は自分が逮捕されることを知っていた。
③ 7月13日、夜になっても��宅しない少女たちの家族は、不安にかられて、警察に通報、通常、この種の事件では、少女たちの命が危険に晒されるため、ただちに公益報道されるはずなのだが、この事件では、警察は、なぜか7月16日まで、マスコミにも公表せず、秘密裏に、学校教師と家族だけによる捜索が行われた。
④
なぜ、警察が誘拐行方不明事件でありながら、公開捜査を拒否したのかは、まったく理由が分からない。
また、警察上層部から、「少女売春事件であり、本人のプライバシー保護のため、周辺での聞き込み捜査は行うなとの指令が出た」ことで、稲城警察による聞き込み捜査が中断された。
警察は、事件発覚前から、これが少女監禁売春強要事件であることを知っていたようだ。
しかし、事態が進展せず、警察は、これ以上の隠蔽は無理と判断して、16日未明にマスコミに情報公開、やっと報道が始まった。
④ 7月17日、監禁された少女たちは、室内の物音がしなくなったことから、自分で手錠を外して部屋を逃走、裸足で逃げて、インターナショナルプラザ赤坂No.1の隣にあった花屋に駆け込んだ。
通報を受けて1101号室に警察が立ち入ると、そこには、吉里が、椅子に座ってビニールを被って死んでいた。死後、十数時間を経過していたとされる。
⑤ 警察は、吉里の単独犯行で、発覚を恐れて自殺したと「断定」し、捜査を早期に打ち切った。
死因は、ビニールテント内に置かれた七輪の練炭による一酸化炭素中毒という説明だったが、いくつかのメディアが検証したところでは、七輪は高熱を発し、ビニールテントなど、たちまち溶けてしまい、外気が侵入して死には至らないこと。
また、吉里の死体には、ビニールが溶けたり、七輪の熱による火傷があるはずなのに、それらが一切なく、普通のきれいな死体であったこと。
ビニールテントは、外部からテープで目張りされていて、中に入った吉里が外から貼ることは不可能であること、したがって、警察による自殺という結論は、極めて不可解であること、を明らかにした。(『真相報道 バンキシャ!』)
つまり、吉里弘太郎は、事件を起こしてから、外部の人間によって、自殺を装って殺害された可能性が極めて大きい。吉里が逮捕されて、警察にペラペラと自白されては困る人物の指示によって殺害が行われたと考えられる。
つまり、17日に吉里が逮捕されることを知っていた、警察関係の情報を得られる立場の人間によってである。
不可解なことに、警察は、法医学解剖調査など遺体の詳細な調査を行わないまま、慌てて遺体を始末させた。
⑤ 吉里弘太郎は、無店舗型、非合法未成年者デートクラブ「プチエンジェル」を経営。女子高生数人をスカウトとして雇い、渋谷や新宿で「カラオケ5,000円、下着提供10,000円、裸体撮影10,000円」などと書かれたチラシを配ってロー��ィーンの少女を勧誘し、男性客に斡旋、その他わいせつビデオの販売も合わせて多額の利益を得ていた。また本人も過去に買春で逮捕歴があり執行猶予中だった。
吉里は、この種のデートクラブ経営者としては、破格の成功を収めていて、年収は、数億円以上に達していたとみられている。死後発覚した預金は35億円と報道されている。
この金額は、一介のデートクラブ経営で得られるような額ではなく、背後に想像を超える大規模な組織があったことを示すものである。
本人、自ら、小学生少女にしか興奮しないという児童性愛趣味者であり、小学生少女を多数、提供することで莫大な利益を得ていたが、おそらく組織的な活動だっただろう。
その相場は、小学生なら、一回の性行為で、10~20万円というものだったようだ。当時、流行していた「援助交際」で、女子中学高校生との性行為が、一回1万円程度とされていた相場に比べれば、小学生の相場が、どれほど高額なものか分かるが、これに対し、全国の政治家・財界人・医師など社会的地位の高い者たちが、このクラブに殺到していたことが明らかにされている。
この事件が、警察によって完全に隠蔽された理由は、顧客たちの社会的地位を守るためであることは明らかである。
⑥ 吉里弘太郎のプライバシーを調べると、とんでもない事実がたくさん出てきた。
吉里弘太郎容疑者の父親は元警視庁幹部であり、朝日新聞に転職して幹部社員から西部本社社会部長に転属した。
吉里は東京芸術大学出身でデザイナーをしていたが、大学時代から複数の女性と交際しヒモ生活を送っていた。住所は「横浜市港北区篠原東1-2」や「埼玉県久喜市」だと言われている。
吉里は、大学在学中の頃あたりから立て続けに肉親が自殺している。父親は1993年に難病指定されている頭頸部ジストニアを発症し、病苦によるものなのか、朝日新聞社西部本社に異動になったためか1996年に自殺している。
その後、兄が1999年に自殺。母親は悲観して2001年に自殺未遂を起こした。
吉里は、多摩地区を中心に主婦売春組織を運営していたことから警視庁にマークされていたという。
⑦「プチエンジェル事件」は、なぜか突然、メディアから消えて収束を迎えた。
吉里弘太郎の単独犯行とされ、捜査も終了させられた。
「プチエンジェル事件」の顧客リストに、日本を代表する、2000名もの政財界、医療界、司法界、政府官僚などの大物が掲載されていたことが暴露されたが、なぜか警察当局は「偽名が多いため、捜査不能」と警察が発表し、警察も報道陣も示し合わせたようにこの事件から手を引いた。
「プチエンジェル事件」の翌日には警察による一斉補導が渋谷で行われ、約1500人もの少年少女が補導された。
吉里が借りていた埼玉にあるアパートからは1,000本以上の小学生少女が主役となった猥褻ビデオテープと2000人以上が記された顧客リストが押収されたが、警察は、一切摘発に動こうとしなかった。
同時にマスコミも警察と示し合わせたように「プチエンジェル事件」について報道をしなくなり、突然のように事件は終幕を迎えた。
被害に遭った少女たちの証言から、客引きの女子高生やマンションへの誘導役の男、部屋を借りた名義人である”ヤマザキ”という男など、確実に3人以上は共犯、関係者がいることが明らかにされていたが、なぜか、すべて吉里の単独犯行とされて、それ以上の捜査は行われなかった。
1101号室に出入りしていたふたりの男女が目撃されており、ある捜査官は後に「男の方は警視庁幹部の息子だった」と暴露しており、「プチエンジェル事件」はその警視庁幹部の働きかけもあって捜査打ち切りになったとも言われている。
⑧ マンション「インターナショナルプラザ赤坂No.1」は小沢一郎の資金管理団体「陸山会」が所有する物件だと言われている。
この事件について小沢一郎は一切触れていない。
⑨ 顧客リストに糸山英太郎も。
「プチエンジェル事件」顧客リストの人物として名前が上がったのが、糸山英太郎だった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E5%B1%B1%E8%8B%B1%E5%A4%AA%E9%83%8E
糸山英太郎は実業家であり個人投資家で、テレビ東京の大株主である他、過去には日本航空の筆頭株主だったこともある日本屈指の富豪で、2007年のフォーブス発表の「日本の富豪ランキング」では7位にランクインし、総資産額は4500億円だった。
「プチエンジェル事件」の筆頭顧客とも言える糸山英太郎は、事件が発覚する4日前の2003年7月12日に所有する自社ビル「ザ・イトヤマタワー」の18階にある自宅で、16歳の少女に15万円を支払って買春をした。
この少女を斡旋したのは元暴力団組長で、警察の捜査にひっかかり組長ら3人が児童福祉法違反で逮捕されている。
しかし、買春をした本人である糸山英太郎は「相手が18歳未満だとは知らなかった」と容疑を否認し、罪には問われなかった。
当時、援助交際による女子中高生の性交渉の相場が一回1万円程度であることを考えれば、糸山が出した一回16万円が何を意味するか分からない者はいないはずだが、これも警察により無罪放免とされた。現在では、小学生相手の売春は重罪で強姦罪が適用され、最低でも5年程度の実刑判決となる。
この事件は当時の五代目山口組若頭補佐だった後藤組組長の後藤忠政により揉み消されており、糸山は後に慰労金を支払ったといわれる。
⑩ フリージャーナリスト・染谷悟が殺される
権力により封殺されてしまった「プチエンジェル事件」を暴こうとしたフリージャーナリストの染谷悟は、中国マフィアに殺された。
「プチエンジェル事件」から約2ヶ月後となる9月12日に、東京都江東区東雲2丁目の東京湾に男性の死体が浮いているのを通りがかりのトラック運転手が発見し通報した。
被害者は「柏原蔵書」の名前で活動していたアングラ情報専門のフリージャーナリスト染谷悟で、背中8箇所を刃物で刺された痕があった他、頭部に2箇所殴られた痕があった。
発見当時、染谷悟は岸壁から2メートルほどのところに浮いており、服の上から鎖で巻きつけられて縛られ、両手は紐で縛られている状態で、両足も紐の痕が残っていた他、腰には潜水用の重しの入ったベルトが巻かれていた。
「プチエンジェル事件」は中国人身売買に通じていた?
染谷悟は殺される直前に周囲に「中国人マフィアに命を狙われている。殺されるかもしれない」とこぼしていた。
警視庁東京水上署の捜査本部が染谷悟さんの刺殺体が発見された2日後の14日に発表した内容では、染谷悟さんは「プチエンジェル事件」が明るみになる前から身の回りに起こる不可解な出来事に悩まされており、2002年頃から自宅の窓を割られたり、空き巣に入られたりしていた。
染谷悟は組織的な児童買春の実態を暴くために動いていたが、2002年9月には当時住んでいた豊島区のアパートで空き巣被害に遭い、取材で使っていたカメラやパソコンなど計77点が盗まれていた。
染谷悟が殺害されてから2日後に、2ちゃんねるに大手出版社の編集員を名乗る人物が事件の詳細について語った。
染谷悟は「中国マフィアのしっぽを踏んでしまった」と語っていたという。
このことを編集員は「(「プチエンジェル事件」を追う内に)中国マフィアと日本やくざの児童売買ネタに当たってしまった」と解釈した。
「プチエンジェル事件」には中国マフィアと日本のやくざが密接に絡んでおり、児童人身売買も疑われた。
吉里が小学6年生の女児4人を拉致監禁した理由は中国マフィアに売り飛ばすつもりだったのかもしれない。
少女らを監禁した翌日にはすでに警察が吉里弘太郎容疑者が犯人だと目星をつけて捜査を開始したため進展が早く、このままだと捕まるのは時間の問題だと踏んだ中国マフィアが吉里弘太郎容疑者を葬った疑いもある。
⑪ 2ちゃん書き込みログ
赤坂署に配属になったから事件資料を調べようとしたら全て処分されていた」
染谷悟は、プチエンジェル事件発生の2003年7月に「歌舞伎町アンダーグラウンド」という著作を出版したばかりでした。次の題材として、プチエンジェル事件を独自に取材を進めていた。
プチエンジェル事件の取材をしていく中で、周囲に「中国人マフィアに命を狙われている」と漏らし始め、プチエンジェル事件から2ヶ月後の2003年9月、染谷は東京湾に浮かんだ。
プチエンジェル事件は赤坂で発生しているにも関わらず、当初「渋谷で発生した」と報じられた。これは永田町の近くでそういった醜聞が報道されるのをいやがった政治家からの圧力があったからだ、と言われている。
参議院議員であった鴻池祥肇(当時:防災担当大臣)は、2003年7月18日の衆議院予算委員会にて、「少女4人も、加害者か被害者��分からない」という答弁を行った。鴻池は藤井孝男委員長から発言の真意を問いただされ、発言を撤回した。
⑦ 冒頭に紹介したリンク動画では、記者が、数百名といわれるプチエンジェルクラブに関係した少女たちに不審な死者が出ていると述べている。
https://www.youtube.com/watch?v=z7NpsAmX48g
また、関係者の家族全員が、稲城市などから遠方に引っ越してしまったとも言われる。この事件の闇は、とてつもなく深い。
*****************************************************************************
以上が、16年前、2003年に起きた、大規模な児童売春事件の概要であるが、問題の核心は、犯人とされた吉里弘太郎が借りていたアパートから発見された、2000名もの顧客名簿に、日本の上流階級、権力者たちが、ずらりと顔を出していたことである。
警察は「偽名」として捜査を中断したが、これを見た、一部の記者や捜査員は、誰でも知っている日本の顔が、そこにあったと証言している。
つまり、大臣や行政官僚、医師、弁護士、警察関係者、著名人たちである。名簿は、ひどく早い捜査終了後、ただちに廃棄され、現在では行方不明になっている。おそらく証拠保全義務を無視して焼却処分されたのであろう。
「日本を代表する権力者・著名人」の性癖が、このように卑しいものであったことに驚愕させられただけでなく、安倍晋三のお友達、山口敬之による詩織さん強姦事件を権力で揉み潰した、安倍官邸の警察官僚、山口格の行為にも通じるものがある。
というより、戦後、日本の自民党権力は、長い間、自分たちに都合の悪い事実が発覚すると、権力を使って隠蔽し、潰してきたのである。
つまり、日本の戦後権力は、中国共産党の悪辣な司法への介入と、それほど変わらないことを行ってきた。
日本は、決して法治国家や民主主義国家とはいえない、深い闇に閉ざされた社会だったことを示している。
この事件は、たとえ長い年月を経ようと、絶対に闇に葬らせてはならない。
児童売春の顧客名簿に掲載された権力者たちは、たった今も、国家権力の第一線で政治経済に携わっていて、こんな犯罪者たちに日本を委ねることは許されない。
あるいは、安倍政権の人脈、安倍首相自身も、もしかしたら名簿に記載されているかもしれない。
もしも、この名簿が、どこかに保全されていて、それが明るみに出たならば、時効は経過しているが、懲役五年相当の犯罪に関与した者として、すべての信用を失う結果になるだろう。
今の、自民党や経団連の体制は根底から崩壊することが避けられないのである。
私は、それを強く期待したい。また名簿を覗き見た一部の捜査員や記者たちも、すでに引退した者なら、積極的に真実を公開してもらいたい。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-700.html
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蒋经国:一个亲手终结“蒋经国时代”的人 | 短史记
作者:谌旭彬 2018/01/13
1988年1月13日,也就是30年前的今天,蒋经国在台北去世。
再多的“客观规律”,再多的“大势所趋”,历史终究得由人来创造 —— 无论后人如何评价蒋经国在台湾转型中所扮演的角色,都无法否认一个事实:没有蒋经国,台湾的转型,会变得更加复杂、艰难和前途莫测。

(蒋介石夫妇对弈,蒋经国观战)
与时代潮流站在一起
有人讲,蒋经国是主动在顺应自由民主的时代大潮。也有人讲,这种顺势而为其实是被动性质。
纵观其主政台湾的20余年,“主动”与“被动”或许都是伪命题。因为,蒋经国本身,也是这时代潮流的一部分。
1、“民本政治”的信仰者
一个威权领袖的政治信仰如何,在某种程度上,��定着其威权统治的实质。
蒋经国也不例外。他早年所受家教,是父亲信奉的传统儒家经典;青年时代长期滞留苏联,深受影响;回国后又曾接受父亲为其量身定制的“思想改造”。
1956年,蒋经国在《我所受的庭训》中,如此回忆父亲对自己的家教:
“父亲指示我读书,最主要的是四书,尤其是孟子;对于曾文正公家书,也甚为重视。后来又叫我看王阳明全集等等。民国十一年,父亲要到福建去的前一天,还写信告诉我说:‘孟子须熟理重读,论语亦要请王先生讲解一遍,你再自学,总要以彻底明白书中的意义为止。你于中文如能懂一部四书的意义,又能熟读一册左孟庄骚菁华.则以后作文就能自在了。每篇总要读三百遍,那就不会忘记了。’”
“不久又来信叮咛地说:‘孟子文章之好,异乎他书,你如将来要做好文章,必须熟读孟子。’”
“父亲所以特别提示我要熟读孟子,不但要我学会他的笔调,能做好文章:同时更教我从思想上注重下列的几段文字:”
“(一)五亩之宅,树之以桑,五十者町以衣帛矣。鸡、豚、狗、彘之畜,无失其时,七十者可以食肉矣。百亩之田,勿夺其时,数口之家,可以无饥矣。谨庠序之教,申之以孝悌之义,斑白者不负载于道路矣。七十者衣帛食肉,黎民不饥不寒。然而不王者,未之有也。”
“(二)自暴者,不可与有言也,自弃者,不可与有为也。言非礼义,谓之自暴也。吾身不能居仁由义,谓之自弃也。仁,人之安宅也,义,人之正路也。旷安宅而弗居,舍正路而不由,哀哉!”
“(三)天之将降大任于是人也,必先苦其心志,劳其筋骨,饿其体肤,空乏其身,行拂乱其所为;所以动心忍性,增益其所不能。人恒过,然后能改;困于心,衡于虑,而后作;征于色,发于声,而后喻。入则无法家拂士,出则无敌国外患者,国恒亡。然后知生于忧患,而死于安乐也。”

(1935年,蒋经国与妻子蒋方良在苏联合影)
1956年的蒋经国,已能够充分理解父亲所交待的那些须特别重视的文字,所承载的思想内涵。他如此阐释:
“这里第一段的意思是指出:一个革命救国的远景和蓝图。也就是说,我们从事革命工作的目的,一切要为着人民安乐和国家富强,力求达到老者衣帛食肉,黎民不饥不寒的境地。第二段指出行己立身,不可自暴自弃,定要居仁由义。第三段指出革命事业及人格的完成,并非一蹴而就。必须经过许多艰难困苦的环境,和各种难堪和不可忍受的磨折;甚至遭人污辱毁谤,亦当逆来顺受,然后可以达到。……古人说:‘能受天磨方铁汉,不遭人忌是庸才。’确为经验有得之言。”
在同一篇文章里,他还回忆了自己从苏联回国后,父亲针对自己的“思想改造”:
“父亲因为我童年就已出国,而在外国时间又太久,怕我对于中国固有的道德哲学与建国精神,没有深切理解,所以又特别指示我研读国父遗教。民国二十六年五月十二日来信说: “你以后看书,应多注重中国固有道德,建国精神与其哲学。孙文学说一书,实为中国哲学之基础:而三民主义则为中国哲学之具体表现,译文决不能彻底阐明其精神。俄文译本更将其中之精华舍弃未译,故你应将孙文学说看完二遍之后,即看三民主义中民族、民生与民权各讲之原书全文:并应将其心得批评之点摘记另录,以备呈阅。民生主义中,批评马克思主义各节,尤为重要;应切实用客观态度,悉心研究看完。主义之后,再看军人精神教育一书,亦在中山全书之中;如能了解以上各书,则中国之政治、社会、经济与哲学,皆可得其基础矣。”
身为宋明儒学信徒的蒋介石,最终将自己的儿子也培养成了一个儒家“民本政治”的信仰者。
多年后,宋楚瑜仍记得蒋经国对自己说过的一句话:
“政府不要跟民众斤斤计较。”
这话背后不见得有“民主”,但显然有“民本”存焉。
1950年代,台湾修筑中部横贯公路,蒋经国深入一线,与筑路工人同吃同住,同在水龙头上喝生水,同在工棚里啃馒头。年近古稀时,仍下到台湾各处穷乡僻壤里去探求民隐,如寻常老农般脱鞋涉水,如寻常路人般在路边小饭馆买盒饭吃……
这背后也不见得有“民主”,但显然有“民本”存焉。
2、晚年认可了市场经济
蒋介石对蒋经国的“思想改造”是成功的,但再成功的“思想改造”,也无法消磨掉曾经有过的痕迹。
30年代,蒋经国在赣南的实验,仍带有明显的苏联色彩 —— 严格控制百姓,以运动式手段搞经济文化建设。1945年后,蒋经国也曾对赣南时代的同仁承认,“赣南新政”并无多少效果,只是徒然让百姓受苦:
“回忆赣南建设的过程中,人民出了不少的钱,做了不少的工程,但是并没有得到应得的效果。我们做事,初意虽在于为民众谋利,而有时结果反而使民众受苦。……今天并不否认,自己在赣南得到了许多做人做事的经验,但是有许多经验,就是一种人民受苦的代价。”
但这种反思,似未及深入到体制和学理层面。去台后,蒋经国启动“十大建设”,仍明显带有苏联“集中力量办大事”的计划经济色彩。

(赣南时期,蒋经国在控诉室接待告状者)
这种“计划经济”,也体现在蒋经国对台湾“均富”的追求之中。据宋楚瑜回忆:
“经国先生一直记得上海打老虎的经验,那是他一生难忘的痛苦教训。……所以他主政期间,对民生基本物价的稳定,特别是米价、油价,非常重视。……所以一方面开放市场经济与自由贸易,另一方面却不准民生必要的物资掌握在财团手中,水、电、油、交通、金融、烟酒等,均透过国营事业严格控制价格。……国际油价波动,台湾什么油都可以涨,渔业用油、农业用电不准随便涨。台湾什么烟酒都可以涨,基层在抽的‘新乐园’牌香烟不准涨;原住民深山取暖、家家煮菜要用的米酒不准涨,但高价位的烟酒可以多涨一些,用来贴补中低收入者,并维持稳定民生物价……”
“外界谈‘台湾经济奇迹’多半只讲经济成长这部分。但真正的 ‘奇迹’,是既能经济成长,同时又让人人赚到钱、注意到‘均富’。从1972年经国先生担任‘行政院长’,到1988年过世,台湾的人均所得从482美元成长到5829美元。但同时间,最高所得五分之一家庭与最低所得五分之一家庭的收入差距,仅从4.49倍微调到4.85倍。全世界没有一个国家或地区,能同时让人均所得成长12倍,但贫富差距却能限缩于8%。这代表着经济成长的果实是由全民共享的,财富不是集中于少数人手中的,这更是‘均富’理念的彻底实践。”
“均富”的初衷,无疑是很好的。
不过,实现“均富”的手段 —— 国营企业、计划经济、价格管控,伤害了台湾的市场经济的完整性。
早在1952~1954年间,台湾经济学界就曾批评过国民党对“国营经济”和“计划经济”的迷恋,史称台湾政学两界的“财经大辩论”。
受此次论战影响,胡适于1954年3月6日公开站出来演讲,自我忏悔曾信奉国营企业和计划经济,并敦促领袖和当局也出来忏悔对国营企业和计划经济的迷恋:
“在政府任职的许多官吏,他们认为中国经济的发展只有依赖政府,靠政府直接经营的工业、矿业以及其它的企业。从前持这种主张最力的,莫过于翁文灏和钱昌照;他们所办的资源委员会,在过去二十年之中,把持了中国的工业、矿业,对于私有企业(大都是民国初年所创办的私有企业)蚕食鲸吞,或则被其窒息而死。……在二十七年前,我所说的话也是这样的。……现在想起,应该有个公开忏悔。不过我今天对诸位忏悔的,是我在那时与许多知识分子所同犯的错误。……”
“我希望政府的领袖,甚至于主持我们国营事业、公营事业的领袖,听了这些话,翻一翻《自由中国》、《中国经济》、《中国文摘》等,也不要生气,应该自己反省反省,考虑考虑,是不是这些人的话,像我胡适之当众忏悔的话,值得大家仔细一想的?大家不妨再提倡公开讨论:我们走的还是到自由之路,还是到奴役之路?这是一个很重要的问题。……大家都应该忏悔。我们应该自己‘洗脑’;被别人‘洗脑’是不行的。我以为我们要自己‘洗脑’才有用,所以我今天当众‘洗脑’给大家看。”
这场论战,只是台湾“市场经济PK计划经济”的历史的一小部分。不过,自1960年代起,在尹仲容等人的努力下,台湾的经济体制改革终于定下了“自由市场”的方向;
蒋经国的经济理念,也渐渐有所改变 —— 1985年,他接受美国《时代》杂志香港分社采访时,曾明确声明:台湾采行的是市场经济,鼓励自由贸易。

(赣南时代,蒋经国作演讲训话)
3、他也是民主自由大潮的一部分
一个以“民本”为政治信仰、推崇“均富”的执政者,一个市场经济和自由贸易的认同者,是可以成为民主自由大潮的一部分的。
1950年代台湾的“基层自治”,党外力量参与选举时,常不免受到体制种种刁难。1954年,非国民党人士高玉树竞选台北市长,国民党轻敌,允许自由选举,诚实计票,结果大吃一惊:赢下多数选票的人是高玉树。当局本欲宣布选举无效,只是碍于美国“大使馆”已经报告高玉树获胜。
事情捅到蒋介石处,蒋经国建议蒋介石批准同意此次选举结果。
1969年,蒋经国批准同意在“基层自治”选举中实行演讲制度,候选人可以通过演讲来阐述解释自己的政策。台湾自此开启了一条独特的民主转型路径 ——“自由先行”。
所谓“自由先行”,具体到台湾,扼要说来主要包括两点:1、50年代的“基层自治”,给予了台湾民众有限度(维持国民党的“全国性”)的政治自由;2、同时期开启的对私营经济的扶植,则开启了经济自由的大门。
这两大自由先行,为1986年的转型打下了基础。
蒋经国在台湾转型过程中的种种举措,被宋楚瑜等人称作“不流血的宁静革命”。这或许有些言过其实。不过,蒋经国当年,确实与时代潮流站在一起,是时代潮流的一部分,而不是站在时代潮流的对立面。
与时代潮流站在一起,并不是一件容易的事情。
不该再有“蒋经国时代”
1978年5月20日,蒋经国出任第六届“总统”。
就职的当天下午,他对外发布了三点“指示”:
第一,今后不希望再有“蒋经国时代”这一类名词出现在报纸杂志上。“今天是一个民主的时代,不应再有个人英雄主义的色彩,如果真有时代的话,只有群众的时代,而没有个人的时代”。
第二,今后不希望称呼他为“领袖”。“个人只是一个普通的党员,一个普通的国民,只愿以党员与国民的身份,与全体同志及全国同胞一起共同奋斗”。
第三,今后不希望有“万岁”的口号出现。“只有国家民族的万岁,只有三民主义及国民党的万岁,没有个人的万岁”。
1985年,在“国民大会行宪纪念日”庆祝会上,蒋经国又有一个公开声明。其内容是:
1、蒋家人“不能也不会去竞选下一任总统”;2、国民党“不能也不会”以实施军政府的方式来统治国家。
次年,蒋孝武外放新加坡,以示不传子的决心;“军系中常委”缩减至四人,是蒋氏父子执政台湾以来名额最少的一次。四人当中,袁守谦与高魁元早已不再统兵;宋长志和郝柏村中的排名,从上一届的第十四、十五名,降至第十七、十八名。这是在用行动宣示未来的台湾不会出现军政府。

(1970年,蒋经国与学者潘文渊握手留影)
1986年4月,蒋经国指定严家淦、谢东闵、李登辉、谷正纲、黄少谷、俞国华、倪文亚、袁守谦、沈昌焕、李焕、邱创焕、吴伯雄十二人,组成专门研究和平转型的“革新小组”。蒋经国要求他们:
“先选择最重要的来做,而且要快做,不要拖。”
这年5月,蒋经国又发出指示,让体制内人士主动与“党外公共政策研究会”中的人士沟通。此后,国民党对“党外组织”的政策,明显转向以沟通为主,不再是竭力压制。
改革遭遇掣肘,蒋经国启用了李焕。在与李焕的长谈中,蒋经国交待了自己设想的三个改革目标:
第一,国民党需要彻底改造,才能在完全公开的政治制度里竞争。实际上,自六十年代开始,蒋经国已开始对国民党本身的年轻化、现代化改造;至80年代,大部分国民党代表,是通过竞争选举上来的,而非依赖威权体制的赐予。
第二,取消“戒严”,解除报党禁。这实际上就意味着政府需要回归到宪法层面去施政,意味着四六宪法重新启动生效。
第三,“两岸统一”。蒋经国说:“我们必须采取主动,踏上统一之路。台湾和大陆终究必须统一。两岸若不统一,台湾恐怕将越来越难独立存在。”(据陶涵《蒋经国传》)
对于第三点,蒋孝勇晚年颇为感慨:
“他(笔者注:指蒋孝勇)强调,父亲辞世之前,实际上已通盘检讨了大陆关系及整体施政,并且已有相当雏型,‘这包括两岸统一在内,父亲是绝对不会放弃这件事的。’至于这几年有人表示曾担任过密使,为两岸领导人传过话一事,蒋孝勇表示据他所知,曾经表态过,但没有正式接触。在台湾,两蒋主��近四十年。蒋经国于一九八七年,也就是他在世最后一年的七月间,邀约地方父老茶叙时感慨地说,他在台湾住了将近四十年,已经是台湾人了。蒋经国当时希望,大家‘超越一切地域、派系、小我利益之上,开阔心胸,把眼光放到大陆’。蒋孝勇说,他父亲讲‘我已经是台湾人’这句话的意思,其实是‘除了认同台湾之外,更希望在台湾的人民,了解自己也是中国人’,后来却被断章取义。宁静革命,在蒋孝勇的心目中,早在他父亲辞世之前就展开了。他强调,除了人事布局尚未完成之外,蒋经国的一连串民主改革措施,为台湾社会日后的安定祥和开创了先机。”(《蒋孝勇的最后告白》,蒋孝勇口述,王力行,汪士淳整理)

(蒋经国怀抱孙女蒋友梅)
1986年9月28日,135个反对派人物在台北市圆山大饭店集会,组建“民主进步党”。蒋经国没有采取激烈行动:
“副官闻讯,跑进蒋经国卧室向他报告,他点点头,没有回应,过了半小时才交代副官通知几位核心高级官员到官邸开会。党政军要员迅速赶到七海新村接待室。蒋经国坐在轮椅上出现,开口就说:‘时代在变,环境在变,潮流也在变。’接下来又讲了几分钟这类有哲学意味的话。他说,国民党过去‘太骄傲、太自负’,现在起,不能再跟从前一样。虽然警备总部已准备一份抓人名单,蒋经国却说:‘抓人解决不了问题……政府应该避免冲突,保持镇定。’他指示‘行政院新闻局’起草一份公开声明说,组织新政党的问题已在研究中,尚待做出决定,目前的政策不变:亦即没有所谓合法的反对党。因此‘政府’在此时并不承认民进党。他又说,国民党中常会应加快研究政治革新,公布一个时间表,让民众了解党的改革方向。”(陶涵《蒋经国传》)
不承认,不镇压,实际上等于默认禁令的解除。所差的只是一道正规手续。
“时代在变,环境在变,潮流也在变”,这类的讲话,1986年前后频繁出自蒋经国之口。这个以“民本”为基本政治信仰的执政者,已看清了时代的潮流,并选择成为潮流的一部分。他明白,仅从“民本”出发“爱民如子”,已不再适应时代的需要;民众已不再满足于做“被爱”的“子民”。他们希望自己爱自己,希望自己治理自己。这是“民本”与“民主”的大区别。
改革不会没有代价。沈昌焕曾警告蒋经国“这样可能会使我们的党将来失去政权”。他的回答是:
“世上没有永远的执政党”。国民党必须有新的观念,有新的做法,“唯有如此,才能与时代潮流相结合,才能与民众永远在一起”。
1988年1月5日下午,蒋经国向“总统府机要室主任”王家骅口述遗言:
“我现在身体不好,万一长眠不起,众人不要怀忧丧志,仍应继续努力,推行民主宪政建设以完成统一中国大业。”
1月10日,蒋经国在病床上回忆半个月前在“行宪纪念大会”所受的侮辱(有人对他高举“老贼下台”的横幅),“好长一阵子无语之后”,对陪侍的蒋孝勇叹道:
“我一辈子为他们如此付出,等到我油尽灯枯时,还要给我这种羞辱,真是于心何忍。”

(1973年,蒋经国下乡走访屏东渔民)
1月13日,蒋经国与世长辞。
他亲手终结了“蒋经国时代”以及下一个“蒋经国时代”出现的可能性。
(题图:1949年撤离大陆前夕,蒋氏父子登山远眺溪口故里景致)
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火之聲・其一
・6月1日
初入夏季,太陽已高掛在空中,日光照射不到之處卻還有些涼意。離開低矮町家建築構成的宿舍區,穿過又一重結界,風格截然不同的高聳建築物就佇立在眼前。按下門旁的對講機,沒過多久,聲音與畫面就從面前的小方框中跳出來。 「⋯⋯嗯?喔!伽羅坊,來得真準時啊!直接上十五樓來吧!」 還來不及回應,屏幕的亮光便迅速熄滅,暗銀色的門應聲滑開。大俱利伽羅只得輕輕嘆了口氣,安靜地走進建築物之中。
電梯準確地在顯示「15」的樓層停了下來。門緩緩滑開,在看不見盡頭的走廊之前,一個白色的纖瘦身影已在門前等候。看見自己的到來,鶴丸國永把手中顯示著資料的裝置收進白色長袍的口袋。 「喲!睡得好嗎?」 「就算沒睡好,該做的還是得做吧,閒聊就免了。」 「真冷淡啊!況且,這問題也不能說完全和正事無關⋯⋯」鶴丸打哈哈似地笑著,一雙淡金色的眼卻迅速掃過大俱利伽羅臉上的表情。 「⋯⋯⋯⋯」
兩人所在的建築是「塔」的中心區,平時的基礎課程、訓練、以及身體測量都在此處進行。經歷了將近一個月的訓練,大俱利伽羅對它已不陌生,但進入需要特殊許可的主棟高樓層區域,卻是第一次。
「又想要我做什麼⋯⋯」 「放輕鬆放輕鬆~不是那種困難的工作,只不過是有個人想讓你見一見罷了。」 「⋯⋯喂,怎麼又是這些有的沒的,我才不幹這種事!」 「嘛,詳細的事見了面再說吧,也許是好事也說不定啊!」 一面跟著鶴丸的腳步走向深處,大俱利伽羅一面表達著不滿。走廊兩側外觀千篇一律、用途不明的房間全都門窗緊閉,空蕩無人的走廊上只有兩人的聲音,在明亮而廣大的樓層範圍中,顯得有些詭異。 拐了幾個彎,鶴丸在一間房間前停下腳步,核對了一下門上的編號,轉過頭瞥向大俱利伽羅:「費了那麼多工夫從原本的本丸到這裏來,又花了那麼多時間訓練,難道不想知道自己有多少能耐嗎?」 「⋯⋯⋯⋯」 看著大俱利伽羅臉上些微的表情變化,鶴丸揚起了嘴角,從口袋掏出裝置,輸入了一串指令。
剎那間,房間的白色牆壁忽然像是融化一般,由中心向四角變得透明;原本冷硬厚重的牆與房門,現在竟看來像是個大型的玻璃水族箱。 而看似格局平凡的和式房間之中,一個身披白布的身影正坐在矮桌前。
「有什麼在意的地方就儘管看吧,從裡面是聽不到也看不到外面的。」 「⋯⋯你說的見面是這種見法啊,跟把人關在獸欄裡有什麼不同?」 「別這麼說啊,這可是為了保護貴重的『哨兵』啊!」 「我來的時候你也說是為了保護貴重的嚮導,但我可不是住在這種地方。」 「別急,你仔細聽。」 被鶴丸突如其來地搭了肩,大俱利伽羅不悅地「嘖」了一聲,但仍依照指示安靜下來。 在無聲的走廊上,一絲微小的奇妙雜音漸漸浮現。那是一種熟悉的聲音,卻又不是隨處可見,他知道自己一定在某處聽過,但又怎麼也想不起來。
「⋯⋯喂,這是什麼聲音?」 「聽見了嗎?這是這傢伙的『白噪音』啊,不可思議吧。」 『白噪音』,大俱利伽羅在課程中學過這個詞彙。那是��風扇或流水聲等穩定的雜音,能夠安定哨兵的心神。但耳邊傳來的聲音,並不是他所知的任何白噪音。 「這傢伙比較特別,只有火焰燃燒的聲音才能讓他精神安定。當然了,每間哨兵的房間也都有雙向的隔音設備,為了準備你說的『獸欄』,塔裡可沒少費心思啊。」 「⋯⋯⋯⋯」
火焰燃燒的聲音。眼前的這個存在,外表看似和自己一樣,只是一名一般的刀劍男士,卻非得要在火焰的聲音之中才能正常地活著嗎——大俱利伽羅看著近在咫尺、卻感受不到自己存在的身影,不禁開始思考起來。
「⋯⋯到底要在那裡嘀嘀咕咕到什麼時候?」 一個聲音突然響起,但那個聲音,絕不屬於身旁的鶴丸國永。 大俱利伽羅回過神來,發現理應感受不到自己的那個人影,正直直地面向著自己,彷彿面前的牆當真只是一片玻璃。他看不到對方布沿之下的雙眼,卻仍然本能地覺得那雙眼瞳直勾勾地注視著自己;那股警戒和敵意,令他不禁寒毛直豎。
「喂,你不是說從裡面聽不到嗎⋯⋯!」 「是啊,理論上是這樣沒錯啦!只是我剛才也說了,這傢伙比較『特別』一點⋯⋯」 在手中的裝置上按下一個虛擬按鍵,鶴丸國永清了清嗓子,把裝置上的收音器抬到嘴邊「早啊,今天狀況如何?我帶了新朋友來找你玩咧!」 房中的身影依然不為所動,只是沉默了一會,開口道:「又是搭檔的事?都失敗過幾次了,還不死心啊。不用自找麻煩了,反正所有任務我都能一個人搞定,以前是這樣,以後也是。」 「是~是~你說得都沒錯,所以也不差再多重複幾次吧?流程你都這麼熟了,這孩子就交給你啦!」 一邊說著,鶴丸又按下某個按鈕,開啟了房門。在兩聲幾乎同步的「喂!」之中,大俱利伽羅被猛然推進了房間,方才明明緩緩滑開的門居然迅雷不及掩耳地關了起來。 「行李等會就會託人送過來,好好相處別打起來囉!」鶴丸的聲音透��從房內的擴音器傳出來,一絲機械雜訊夾雜其中,聽起來竟有些陌生。
「⋯⋯⋯⋯」 「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」 坐在桌前的人影嘆了一口氣,站了起來;直到這時,大俱利伽羅才總算看到陰影之下的那雙眼瞳。那祖母綠般的眼猶如帶著虹彩,當它們注視著自己,他彷彿看見眼底有著火焰在隱隱地跳動。 「⋯⋯我想不用多說你也知道,我是山姥切國廣。」 「⋯⋯⋯大俱利伽羅,沒打算和你們玩夥伴遊戲,我會一個人戰鬥。」 聽見意料之外的回答,山姥切似乎愣了一下,隨後露出幾乎令人感受不到的淺笑。
「啊啊,那可不是正好嗎。」
***
・6月14日
下午兩點,午餐時間已接近結束,食堂裡只剩下寥寥數人。在最角落的桌邊,面對面坐著的,是一黑一白的兩個身影。
「連睡覺都穿著戰裝束,怎麼想都很奇怪吧!」 「至少護具有卸掉吧?那就沒問題啦沒問題~哨兵的觸覺也是很敏感的,再怎麼細緻的布料,都比不上從顯現瞬間開始就像自己第二層皮膚一樣的戰裝束令人安心吧!其他還有什麼發現呢?」 「⋯⋯沒有看過他吃飯和睡覺。」 「喔?說來聽聽!」鶴丸向櫃檯招了招手,服務員馬上端出一壺咖啡,注滿他的杯子。自從今天中午他在自己對面坐下,大俱利伽羅已經看了這動作至少三次。
「和你這種咖啡因中毒症狀不一樣。⋯⋯那傢伙就算比我先躺下,精神也不會進入睡眠狀態。」 「原來如此,那你睡著之後他的狀況呢?」 「我睡著之後的事,我自己怎麼可能知道⋯⋯」 「啊~抱歉抱歉,確實是這樣呢!雖然可以進入精神圖景觀察,但是對你們來說還太早啦。」 「⋯⋯」 「別太在意,同樣的事之前也發生過。『室友的骨骼摩擦聲太吵睡不著』——記得他是這麼說的。」 「⋯⋯⋯⋯」 「沒見過他吃飯也是同樣的事吧?他是不是跟你說:『抱歉了,食物的味道會干擾我吃飯,你可以去食堂吃嗎?』」 「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」 雖然驚訝於鶴丸唯妙唯肖的模仿功力,但現在不是把注意力放在那裡的時候。 「既然早就知道了,為什麼還要問我這些事?不是還能從外部監視嗎?」 「別說得那麼難聽嘛!」鶴丸輕鬆地笑著,「單面鏡功能是為了減低對哨兵的干擾,他們可不喜歡別人有事沒事就往他們房間跑啊!我們做的只是監控,可沒打算監視你們。打個比方來說——對了,伽羅坊之前的本丸也有山姥切國廣在吧,你覺得『他』感覺起來怎麼樣?」 「⋯⋯不怎麼樣,就是個說什麼話都會踩到他地雷的傢伙。」
在前一個本丸特化之後,大俱利伽羅的嚮導才能覺醒,經由狐之助通報,很快便進入了「塔」的管轄之下。實際上在先前的本丸待的時間並沒有多長,和這把素未謀面的刀也沒有多少交流。 「哈哈哈,那就姑且稱之為『有著纖細敏感的心靈』好了!那麼,這樣敏感的精神再加上敏銳的感官,你想想會有什麼結果?」 「⋯⋯⋯⋯」 「伽羅坊也知道吧,那個豌豆公主的故事。」鶴丸喝乾最後一口咖啡,正要再次招手,卻發現櫃檯已經掛起了「結束供應」的牌子。他小小地嘆了一口氣,一手無聊地轉著杯子。「所以啊,替他找搭檔可是困難重重啊。」 大俱利伽羅正想開口,食堂的服務員卻彷彿宣告營業時間結束一般,來到桌邊把餐具撤下。鶴丸把杯子放上餐盤,站起身,「好啦,我也該回去泡咖啡了,你也差不多能回去休息了吧。」
一前一後走出食堂,搭上電梯,鶴丸先按了「10」,再替大俱利伽羅按下「15」。一陣沉默之後,大俱利伽羅忍不住開口問道:「⋯⋯⋯⋯喂,如果這次也失敗了,會怎麼樣?」 「持續處於不穩定狀態、無法發揮出百分之百的能耐⋯⋯嘛,你現在看到的,就是失敗再失敗下的狀態囉。」
電梯「叮」一聲停下來,鶴丸走出門外,笑著揮揮手。「別有太大壓力,我知道伽羅坊會是個好嚮導的。」 「⋯⋯⋯⋯」 看著電梯門默默地關上,燈號上的數字逐漸增加,鶴丸收起笑容,把手插回白袍的口袋。
「⋯⋯失敗有失敗的苦處,但是成功,也不見得都是好事啊。」
***
・6月19日
「兩位辛苦了!早上的訓練到這裡結束,請好好休息以迎接下午的訓練!」負責野外訓練的物吉貞宗笑容滿面地行完禮,山姥切和大俱利伽羅才如釋重負般地鬆了口氣,揉揉有些痠痛的肩頸。 為了持續鍛鍊哨兵的五感,地雷撤除的模擬訓練是基本訓練的一環,為此,場地也從室內移到一望無際的草原上。對大俱利伽羅來說,這是第一次進行這樣與哨兵雙人一組的模擬訓練,然而對於山姥切國廣,這種差事顯然早已是家常便飯——早在大俱利伽羅還在小心自己腳步的時候,他早已把方圓一公里內的100顆地雷模型給全部標示出來了。
別在意,對付無機物不是嚮導該幹的差事——就算知道山姥切這句話說得沒錯,大俱利伽羅依然對自己的一籌莫展感到不甘與煩躁。明明是為了能夠在戰事中利用自己的能力而接受塔的指揮,如今卻像是在後方受人保護一般,實在不是滋味。 嚮導算什麼,能選的話當然是能肆意衝鋒陷陣的哨兵比較好。他皺著眉,一邊想得出神,一邊無意識地從物吉手上接過準備好的午餐,只不過一股視線卻盯得他不得不回神。
「⋯⋯?」 大俱利伽羅望向視線的來源——山姥切國廣,然而對方卻沒有回應那無言的疑問,只是看看自己打開了一半的餐盒,再看看自己的臉。 「⋯⋯⋯⋯抱歉。」像是突然搞懂了什麼一般,他站了起來,摸摸鼻子認命地換了個位置、坐到山姥切的下風處。於是,山姥切也捧起自己的午餐,默默地開動。 對於這個稀鬆平常的動作,大俱利伽羅起先並沒有任何反應,直到他猛然意識到這件事的不尋常之處——山姥切國廣居然在他的可見範圍內吃飯。 他微微轉過頭,試著以最不引人注目的動作,窺視山姥切手中的飯盒。
就在一瞬間,他還以為是自己看錯了,否則,誰能相信那樣令人想以「一片慘白」來形容的內容物會湊在一起,成為誰的一餐。白飯、豆腐、水煮蛋、去了頭尾的豆芽⋯⋯也許還看漏了什麼吧,但那不重要,反正無論如何都不是什麼能勾起食慾的東西。大俱利伽羅低下頭看向自己飯盒裡的菜色,忍不住一次夾了半條醃黃瓜來配飯。 一邊疑惑著山姥切究竟是怎麼把那些東西吞下去,大俱利伽羅忍不住又向鎖住自己的斜對面瞥去——只不過這次他所注意到的,是山姥切雙手紅腫的皮膚。 「喂!」 「⋯⋯」聽見大俱利伽羅叫自己的聲音,山姥切卻連頭也沒打算抬。「剛才已經吃了抗組織胺,很快就會消了,別在意。」 「為什麼會弄成這副德性?」 「⋯⋯草葉上的細毛或是汗水沾了塵土吧,誰知道呢。有點久沒做這訓練了,忘了該把袖子放下來,是我自己的疏忽。」 「⋯⋯⋯⋯」 想起剛才山姥切在訓練場上的動作,迅捷得就像在宣告自己沒有參與的餘地,現在看起來,只不過就是為了早一刻結束這場訓練而做的掙扎而已。
他的腦中忽然浮現前兩天在圖書室翻到的那本豌豆公主,那個在鋪了二十層床墊和二十層羽絨被的床上,依然因為床板上的一顆豌豆的凹凸而夜不成眠的公主、那個嚮往著這樣的「真正公主」的王子、那個彷彿無理取鬧般的故事。這到底是哪門子的快樂結局?他始終無法理解。 山姥切國廣,既然無可避免地擁有這樣的體質、既然塔也給予了完善庇護,那麼,當然是不去干擾,讓他一個人待著才是最佳解。 只是——正當大俱利伽羅沉浸在自己的思緒之中,一聲呼叫聲卻打斷了他的思考。
「山姥切先生!大俱利伽羅先生!對不起打擾兩位用餐,但是,突然有緊急任務的通報,鶴丸先生希望由兩位前往⋯⋯」 「時間���地點?緊急程度是?」山姥切迅速放下手中的飯盒,向傳達消息的物吉詢問。 「某本丸的隊伍在與時間遡行軍對峙時發現了不明的時空扭曲,雙方恐怕還在交戰,恐怕相當緊急。狀況一切不明,只能直接傳送到對方回報的現場了。」 「那就這麼做吧。」山姥切點頭回應,隨後轉向後方的大俱利伽羅,「⋯⋯你也要去的吧?」 「那當然。」大俱利伽羅調整著手套,語氣中沒有一絲遲疑。 「拜託兩位了,」物吉貞宗把通訊器交給山姥切,將手中的攜帶型啟動裝置拋向空中,一道光環便垂直地落在地上。目送著兩人一前一後地踏入金色光環之中,他深深鞠了個躬。「⋯⋯願幸運與你們同在。」
***
「⋯⋯!」 槍聲在不遠處響起,飛來的箭矢幾乎就要擦身而過,交戰位置之近顯而易見。 「喂!真的在這個方向?我們都已經快和他們撞上了!」 山姥切閃過由天而降的石塊,儘可能壓低身體,讓身體隱藏在灌木叢之中。「除此以外沒有別的可能性了,只有這個方向一直有瘴氣飄過來!」 「但是有殺氣傳來的只有十個人左右,恰好是雙方各一個部隊的人數,⋯⋯!」 就在不遠的前方,灌木叢的陰影之下,一個彷彿海市蜃樓般的影像忽然闖進了大俱利伽羅的視線中——那半人大的虛像宛如一隻不祥的眼,正從另一個世界像這裡窺視著。本能地感知到威脅,大俱利伽羅拔出刀,在空間的裂口擴大前一刀斬下。 「不只一個,別鬆懈了⋯⋯嗚!」 「喂!怎麼回事⋯⋯!」見山姥切突然腳步踉蹌,大俱利伽羅也隨之警戒起來。 「⋯⋯沒什麼,這裏的瘴氣太重了⋯⋯呼、得快點,解決掉⋯⋯」噁心感不斷襲來,山姥切不得不用左手抓起披布,掩住口鼻,冷汗卻不斷冒出來。他勉強斬除一個裂口,但皮膚上的紅腫脹熱和異樣的寒意交錯、持續侵襲著身體,讓他就要無法集中精神。 「振作一點!告訴我在哪些方向!!」 「⋯⋯呼、呼⋯⋯我自己可、」 「不要逼我干涉你的思考!」 「⋯⋯哈啊、呼⋯⋯」山姥切咬緊牙關,無比艱難地開了口,「⋯⋯酉方向兩體、辰、一體⋯卯方向,⋯⋯!」 山姥切突然拔刀挺起身,下一秒,只見橫飛而來的箭矢被從中斬成兩段,落在大俱利伽羅跟前,然而另外一箭,卻射中了山姥切的左肩。 「嗚⋯⋯啊、呼,啊啊⋯⋯」痛覺從另一個途徑佔據了山姥切的感官,痛苦和情緒波動像是火山爆發前夕的岩漿,一波一波向大俱利伽羅的精神侵襲。
「⋯唔⋯⋯可惡!!!!!」伴隨著怒吼聲,一道黑影倏然竄出——一條被赤黑火焰所纏繞的黑龍無聲地飛向山姥切,盤旋在他的身邊。大俱利伽羅扶起山姥切的肩膀、折斷沒入他肩上的箭身。「⋯⋯不需要再看了,不要聽、不要感覺、不要思考。我的精神嚮導就在你身邊,什麼都不需要擔心——我馬上就會把它們解決掉。」 大俱利伽羅沒有時間確認山姥切是否聽見了自己的話,在此地多待的任何一秒,都將把兩人更加推向絕境。他唯一能做的,就只是用最快的速度衝向裂口所在的方位,一個接一個、將逐漸重疊在一起的兩個時空一同斬碎。
*** 2018.08.25
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散策研究会 Cadavre K 「徘徊する観察者 Vacant Lot」
散策研究会 Cadavre Kによる展覧会
「徘徊する観察者 Vacant Lot」
をTABULAEで開催いたします。
※散策研究会 Cadavre Kとは、2011年から開始された、美術家北川裕二によるプロジェクトの名称です
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|会場|
TABULAE (墨田区向島 5-48-4)
|会期|
2018/11/24 (土) - 12/16 (日)の金土日
- 金 15:00 - 20:00
- 土、日 14:00 - 20:00
※曜日によって開場時間が異なりますのでご注意ください
オープニングレセプション
11/24(土)18:00 - 20:00
|イベント|
第5回 漂流教室 「まわり道してTABULAEに向かう」
12/8(土)14:00 - 17:00(終了時刻は前後する場合があります)
集合場所 東武スカイツリーライン/東武亀戸線 曳舟駅改札口付近
定員 5名
参加費 無料(要予約 参加申込み締切12月6日)
東武曳舟駅に集合し、3時間ほどかけて墨田区京島、向島エリアを散策しながらTABULAEに向かいます(台風・雷雨・地震・大雪など災害級の天候以外は、雨天でも決行します)。
>漂流教室について
※こちらのイベントは定員に達したためご予約の受付を終了いたしました
アーティストトーク
12/15(土)18:00 - 19:00
ゲスト 沢山遼(美術批評)
定員 15名
参加費 1000円(要予約 参加申込み締切12月14日)
美術批評家の沢山遼氏をゲストに迎え、アーティストトークを行います。ゴードン・マッタ=クラーク展図録に掲載された沢山氏の論考「都市の否定的なものたち ニューヨーク、東京、1972年」を参照しながら、都市、写真、散策と介入といったトピックについて議論します。
沢山遼 1982年生まれ。美術批評。武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程修了。2010年「レイバー・ワーク──カール・アンドレにおける制作の概念」で『美術手帖』第14回芸術評論募集、第一席。主な論文に���ニューマンのパラドクス」田中正之編『ニューヨーク 錯乱する都市の夢と現実(西洋近代の都市と芸術7)』竹林舎、2017年。「ウォーホルと時間」『NACT Review 国立新美術館研究紀要』第4号、2018年。「都市の否定的なものたち ニューヨーク、東京、1972年」『ゴードン・マッタ=クラーク展』(東京国立近代美術館、2018年)など。
※両イベントは予約制となっております。参加をご希望される方は、件名を「漂流教室予約」または「トーク予約」とし、①お名前②ご連絡先③希望日時④人数 をご記入の上、[email protected]までメールをお送りください。
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『徘徊する観察者 Vacant Lot』開催にあたって|散策研究会 Cadavre K
散策研究会 Cadavre Kとは、2011年3月11日の東日本大震災に強烈な衝撃を受けたアーティスト北川裕二によって、同じ2011年から開始されたプロジェクトの名称です。今回のTABULAEでの新作展が、散策研究会 Cadavre Kとしては初の個展になります。あれから8年が経ったとはいえ、むろん福島第一原子力発電所は「収束」などまったくしておらず、同じように大地も揺れ続けています。したがって今回展示される作品は、そのどれもが3.11以後に制作されたものであるとしても、 むしろ“3.11下”のそれであるといってよいでしょう。
散策研究会 Cadavre Kは、以来、痙攣するこの世界を継続的に観察・記録しつづけてきました。しかし、その観察対象は福島県や岩手・宮城県などではなく、意外にもいま私たちが立っているこの場所でありました。観察対象への姿勢は当初、何よりもまず、直立二足歩行する私たちの、この足元の地面への関心から始ったのです。そのうえに築かれたあらゆるものは幻想なのではないか。であるとするならば、幻想はいかにして自然との関係を取り結んでいるのか。対立関係にあるものどもの、相反する構造(システム)と構造(システム)が、否が応でも接せざるをえない境界線、エッジが、あるいは「構造(システム)」の回収し得ない外部的なものが、観察対象として注目されました。
ほとんどの散策は、日中のほぼ一日をかけて台地や低地をひたすら歩いて横断していくというものでした。“下町”と呼ばれる沖積低地、“山の手”と呼ばれる洪積台地、あるいは武蔵野平野、奥多摩山間地など。地形学の地形区分に従っていえば、 多摩面(T面)、下末吉面(S面)、武蔵野面(M面)、立川面(Tc面)の特徴と、それらが接する際に発生する崖線等の境界線や河川についての知識が事前に取り入れられもしました。定点観測ならぬ、歩行による動線観察が何度もくりかえされ、各地域・エリアにそれぞれ漂う特有のアトモスフィア、ムードは、散策者の心理状態の変化に影響を及ぼすことが確認されました。そうして、しだいに「東京の自然史」(貝塚爽平)が把握されていったのです。散策研究会としての散策は、これまでに123回を数えます。
また、同時に、踏み固められた地面の上に存在するあらゆるもの、すなわち植生・気象・家屋との関連全般が観察対象となり、写真に記録されていきました。散策またその写真記録は、当初、アートとしてはまったく考えられてはいなかった。むしろ、3.11の衝撃は、自然災害においてのみならず、政治的・文化的にもアートの「創造」的な「表現」による「生産」を不可能にしたように思えたからです。したがって、今回の展示においても、それへの疑いが根底にはあることを記しておきます。
地形・植生・気象・家屋の全般を観察対象にするということは、いかなる些細な事象も見落とすことなく全体を知覚・認識するということ。世界のすべてを対象にするということです。生態学的に言えば、個体のみならず、個体群、群集といった階層を異にするもの全般を、そしてまた、位階秩序の異なるそれらの影響関係をも観察・記録対象にするということでもあります。身の回りの環境や社会、つまりは生活を成り立たせているアレコレは、そのようにアレやコレやソレとして一括りにされて、記憶・記録から排除されてもきました。散策研究会が関心をもったのは、まさにそのような無数のアレやコレでありました。衝撃とは、近代化の名の下に隠蔽・排除されたものどもが、「原発震災」(石橋克彦)によって再び私たちの世界に回帰してきた、そのことにあったというわけです。
写真というメディアは、このような研究にはうってつけの道具でした。なぜなら、カメラの眼は原理的にいって、ヒトの眼と違い、“すべてのものを等価なもの”として扱うことができたからです。眼で見ていたときには見えなかったものが写真には写りこんでいたというのは、カメラのこの等価性、すなわちあらゆるものを平等なものとして、なんでも選ばず記録してしまう、このアナーキーな機能によるところのものではないでしょうか。
本展は、こうしたカメラ・写真の可能性を再び抽出しようとする試みでもあります。そこには、“すべてのものが等価なもの”として記録されている。しかし、そうであるがゆえに、その可能性は、他方で、ブレもピンボケもなく構図もしっかり撮れているにもかかわらず、“誰が、いかなる目的をもって、誰のために撮影したのか、皆目見当のつかない、まったく不明なる写真”という、実に奇妙に倒錯した(不)可能性の窓をも同時に開いてしまうのではないでしょうか。この点に、写真の機能が孕む矛盾が見てとれます。そこに提示されているのは、いわば世界の「無名性」のことにほかなりません。実現しているかどうかはさておき、このような写真の(不)可能性を本展では模索しています。
セレクトされた写真と映像は、昨年から今年にかけて撮影されたものに限られています。撮影箇所は主に武蔵野面(M面)の東端であり、区としては、中野区にあたります。中野区の同じエリア、環境をくりかえし何度も徘徊する。そのようなことはこれまでに一度も試みたことがありませんでした。
そしてこのことは、先程「武蔵野面(M面)の東端」と書きましたが、本展においては、地形的特徴への関心が次第に後方へと退き(薄らいだわけではありません)、かわって植生(主にヒト)と家屋、そして何よりも気象への関心が全体に配されてくるものへと推移してきたことと関連しています。くりかえし同じエリアをおとずれる散策スタイルは、写真の機能をより自覚的に操作しようということに、何らかの影響を与えていると感じています。
本展のコアとなる作品群は四部構成となる予定です。 ①独立した1点ものの「写真作品」 数点 ②数点の写真が組み合わされた「写真作品」 数点 ③液晶ディスプレイもしくはプロジェクターで鑑賞する「スライド作品」 ④液晶ディスプレイもしくはプロジェクターで鑑賞する「映像作品」 ①~④の作品にはシリーズとしてのメインタイトルと、各作品としてのサブタイトルが付されています。各メインタイトルは、①Survey Point (測量点) ②Photogrammetry(写真測量法) ③Voronoi Diagram(ボロノイ図) ④Skid Movie(横滑りの映画)となっています。また、参考資料として、本展の作品に関係する散策ルートを図解したパネルも展示する予定です。
また、本展覧会としてのメインタイトルとなった“Vacant Lot”ですが、これは日本語では空閑地のことです。一時的に未使用になった空き地。英語名にしたのは、“Vacant Lot”という言葉に興味をもったからです。この“Lot”には、くじ、運、運命という意味があるようで、それが一時的に空き地となった区画を指す言葉にも使用されているというのがおもしろかった。“偶々割り当てられたもの”としての空閑地。文字通りに訳せば、“空っぽの運命”です。
これは、今年国立近代美術館で回顧展が開かれたゴードン・マッタ=クラークの仕事を想起させます。カタログに掲載された美術批評家沢山遼氏の論文にマッタ=クラークの発言が引用されていて、瞠目しました。以下、孫引きですが引用させていただきます。
「グリーン通り112番地でやったアナーキテクチャーの展覧会は[…中略…]なんらかの強い形式性によって固定されることのない、固定化した建築的ヴォキャブラリーの外部にあるものについてのものだった。[…中略…]ぼくたちが考えていたのは、隠喩的なヴォイド、空隙、残余的空間、未発展的な場についてだった。[…中略…]たとえばそれは、立ち止まって靴紐を結び直すような、日常的な動作がふと遮られるような場だ。そのような場は、知覚的な重要性を帯びていると思う。なぜならそこで人は動的な空間に触れているんだ。」 (「ゴードン・マッタ=クラーク展」カタログ p.265)
つまり、“Vacant Lot”とは、この解けた靴紐のことなのかもしれません。紐が解けて固定された意味が一時的に宙吊りとなる時。場所。その瞬間はおそらく、九鬼周造のいう偶然性のごとく「現実性へスルリと滑ってくる推移のスピード」を持っているに違いない。“無”が偶然性によってもたらされるということ。環境、生活、世界への認識を深め、未来を洞察するにも、このような人と自然の接するエッジに現象するささやかな出来事に対する認識をさらに深めていく必要がありそうです。今回の展覧会がそのような世界への見方、感じ方、考え方に寄与できれば幸いです。
最後に、Cadavre KのCadavreはフランス語で、日本語では死骸のことです。したがって、Cadavre Kは、死骸キとなります。“キ”とはキタガワの“キ”のことです。3.11以後のプロジェクトにそう名付けたのは、このプロジェクトがそれまでの作品とはまったく異なることもありましたが、同時に、3.11以後、偶々生き残った=生き延びているという感覚を今も持ち続けているからにほかなりません。それは、どこか幽霊的に仮構された作者名といえるでしょう。
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散策研究会 Cadavre K
2011年から開始された、美術家北川裕二によるプロジェクト
漂流教室
第一回 霊岸島から埋立地へ (2015/milkyeast) http://ur2.link/N8ZH 第二回 河岸と下町低地(2015/milkyeast) http://urx.red/N901 第三回 山の手の<むらぎも>を巡る(2016/路地と人) https://rojitohito.exblog.jp/22767074/ 第四回 崖線上のカフカ──中野区を歩く(2017/路地と人) https://rojitohito.exblog.jp/23871177/
散策研究会 これまでの主な散策エリア
001 2011_06_11 新宿御苑 002 2011_06_18 等々力渓谷 003 2011_06_25 赤坂見附 004 2011_06_29 丸の内線・四ッ谷駅 005 2011_07_02 下末吉台 006 2011_07_06 迎賓館・明治公園 007 2011_07_09 市ヶ谷・飯田橋 008 2011_07_16 お茶の水・神田川・隅田川 009 2011_07_22 野川 010 2011_08_06 新木場 011 2011_08_11 高尾山 012 2011_08_20 隅田川・スカイツリー 013 2011_08_25 菊名・獅子ケ谷・下末吉台 014 2011_09_02 渋谷川 015 2011_09_08 皇居・日本青年館 016 2011_09_11 新宿・原発やめろデモ 017 2011_09_17 渋谷川・古川 018 2011_09_19 さようなら原発・渋谷川 019 2011_09_24 赤坂 020 2011_10_01 善福寺川 021 2011_10_07 港の見える丘公園 022 2011_10_13 山手 023 2011_10_22 宇田川跡 024 2011_11_03 御岳山・ロックガーデン 025 2011_11_09 巣鴨・田町・谷中 026 2011_11_12 神田川・小日向台 027 2011_11_17 都電荒川線・王子・荒川 028 2011_12_03 愛宕山 029 2011_12_14 上野・根津・谷中 030 2011_12_15 弘明寺 031 2011_12_21 荏原台 032 2011_12_30 立川段丘 033 2012_01_01 狭山丘陵 034 2012_01_05 三殿台遺跡 035 2012_01_12 目黒自然教育園 036 2012_01_19 明治神宮 037 2012_01_26 清瀬 038 2012_02_04 深大寺・府中 039 2012_02_08 江戸前島 040 2012_02_15 江戸前島 041 2012_02_24 浜離宮 042 2012_03_03 吉見百穴 043 2012_03_15 江東区・運河 044 2012_03_17 江東区・運河 045 2012_04_07 神楽坂 046 2012_04_14 渋谷川・明治神宮 047 2012_04_20 町田・自由民権資料館 048 2012_04_28 市ヶ谷・早稲田 049 2012_05_17 町田・自由民権資料館 050 2012_05_26 江東区・戦災センター 051 2012_06_07 全生園・滝山団地 052 2012_06_14 清瀬 053 2012_06_16 京島 054 2012_06_23 玉川上水・首相官邸前 055 2012_06_29 首相官邸前 056 2012_07_12 神田 057 2012_07_13 首相官邸前 058 2012_07_16 代々木・さよなら原発 059 2012_07_02 新富町 060 2012_08_08 六郷土手 061 2012_08_12 日野 062 2012_09_08 本郷台地 063 2012_09_15 東京湾・葛西臨海公園 064 2012_10_06 生田緑地 065 2012_11_10 青梅・横田基地 066 2012_12_01 大山 067 2013_01_12 渋谷・元麻布・六本木 068 2013_01_14 獅子ケ谷 069 2013_04_13 日本橋川 070 2013_04_27 小平・玉川上水 071 2013_05_25 赤坂・六本木 072 2013_06_06 代官山 073 2013_07_07 東京駅地下通路 074 2013_07_13 王子・吉原・スカイツリー 075 2013_07_27 多摩丘陵・百草団地他 076 2013_08_17 中央防波堤埋立地 077 2013_08_24 仙川 078 2013_08_26 谷中墓地 079 2013_10_26 渋谷・地下道 080 2013_11_09 京島 081 2013_12_28 山手 082 2014_04_24 池袋 083 2014_05_17 高田馬場・神田川・淀橋 084 2014_06_27 駒込・田端 085 2014_07_13 平林寺 086 2014_09_06 秩父 087 2015_05_16 湾岸埋立地 088 2015_07_20 白山 089 2015_11_22 深川 090 2015_12_11 武蔵五日市 091 2015_12_12 武蔵五日市・城山 092 2015_12_18 戸山公園 093 2015_12_26 板橋・赤塚 094 2016_01_06 深川・森下 095 2016_02_02 国分寺崖線 096 2016_02_26 立川段丘 097 2016_04_03 日立研究所 098 2016_05_31 水道橋・小石川・白山 099 2016_10_18 神楽坂・近美・湯島 100 2016_12_06 佐伯祐三・熊谷守一美術館 101 2016_12_13 南青山 102 2016_12_20 原宿・渋谷 103 2016_12_23 戸山公園 104 2017_04_04 野方 105 2017_04_07 江古田 106 2017_05_12 上高田 107 2017_06_09 上高田・野方 108 2017_08_15 池尻大橋 109 2017_08_17 池の上・高円寺 110 2017_08_29 桃園川 111 2017_09_15 中野区南台 112 2017_09_20 新宿住吉町 113 2017_09_22 所沢 114 2017_10_10 中野区中野台地 115 2017_10_20 野方 116 2017_10_27 新宿末吉町 117 2017_12_15 沼袋 118 2018_04_24 鷺宮 119 2018_05_29 中野区中心エリア 120 2018_06_12 野方・沼袋 121 2018_06_15 杉並・堀の内 122 2018_07_06 野方・中野区中心エリア 123 2018_09_11 野方
北川裕二
1963 東京に生まれる
主な個展
1990『形のローカリズム』 ギャラリー現(東京) 1991『A PALASITE/READY-MADE SUIT MIX』 ルナミ画廊(東京) 1992『短絡的接合体』 モリス・ギャラリー(東京) 1992『分裂機械としての身体』 ルナミ画廊(東京) 1992『暮らしの変換』 モリス・ギャラリー(東京) 1993『格子/闘争』 MARS GALLERY(東京) 1993『歴史改造パズル』 GALLERY・GEN(埼玉) 1996『What is a hole?/Make a revision of…』 SHIKI FUJIMORI GALLERY(東京) 2005『Random Open Textured』 MARU GALLERY(東京) 2006『Dust passes through the window』 GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE (東京)
主なグループ展
1990『Bゼミ展』 横浜市民ギャラリー(神奈川) 1992『Project for O.T』 ギャラリー・サージ(東京) 1993『In Between』 FLOATING GALLERY(東京) 1993『CONSTRUCTION IN PROCESS』 ARTIST'S MUSIUM(ウッジ、ポーランド) 1994『身体美術感』 ハラ・ミュージアム・アーク(群馬) 1995『The Age of Anxiety』 The Power Plant(トロント、カナダ) 1996『ATOPIC SITE(On Camp/Off Base)』 東京ビッグサイト(東京) 1996~98『Maniacs of Disappearance』 国立美術館(ブエノスアイレス、アルゼンチン)、Austrian Musium of Applied Arts (ウィーン、オーストリア)、その他オランダ、イタリアなど巡回 1999『第34回今日の作家展 APPROACHING REALITY』 横浜市民ギャラリー(神奈川) 2010『City Beats + Live explosions』 BankART1929(神奈川) 2015『無条件修復—UNCONDITIONAL RESTORATION』 milkyeast(東京)
散策研究会──地殻を近くで知覚する
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オリオン座と踏切 千葉県 いすみ鉄道 第二五の街踏切(上総中川ー国吉) #東京カメラ部 #tokyocameraclub #鉄道写真 #instagood #trainphoto #train #trainstgram #trainspotting #写真好きな人と繋がりたい #ファインダー越しの私の世界 #鉄道写真 #鉄道風景写真 #canoneos6d #キヤノン #いすみ鉄道 #第二五之町踏切 #踏切 #第4種踏切 https://www.instagram.com/p/BtSKuEEnJkY/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=labyosvyj0ed
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いすみ鉄道の旅③
わくわく


わくわく
……‼︎‼︎

うお

おお



うおおおおおお!!!!!!
うおおおおおおおおおお!!!!!!ちょまて!!うおおおお!!!!!!
思わずGIFにした
フィルムとiPhone二刀流で挑んだ賜物
しばらく放心状態になりながら次の電車(同方向は一時間後とか)をのんびり待ち撮影の繰り返し
ひとりたびのいいところ こういうルーズなとこ

せっかくだから夕日をたのしんでから帰る

たびの相棒
ジェニまるとじゃがりこ ははは
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【追求運動精神】日本奧林匹克博物館 透過互動裝置跟奧運代表比賽

「奧運」是人類文化寶藏。遠從古希臘的運動和宗教性的慶典,發展至近代牽涉建築、設計、時尚與旅遊等領域的國際活動,它不但歷史悠久,內涵與知識也極豐碩,若想深入了解其中演變,有時還真的不知從何入手。
為向公眾傳承奧運文化,國際奧委會一直於各大國家或城市,建設「奧林匹克博物館」作館藏及教育。等了又等,日本奧委會(JOC)亦於2019年9月14日迎來專屬的「奧林匹克博物館」,讓市民可搶先感受東奧氛圍,於觀賽之前查閱奧運故事。



「日本奧林匹克博物館」坐落於東奧主場館,亦即新國立競技場的正前方。追上科網及沉浸式展覽的新風潮,博物館從建築及館內設施均採用尖端的互動式設計,好讓訪客藉由第一身觀賞以至五感體驗,領略奧林匹克主義的概念、奧運選手的運動能力,還有奧運古往今來的發展史。

踏入一樓的空間,可欣賞到本屆東奧及帕運(殘奧)的火炬、獎牌及會徽資訊及不少珍品,例如1964年東奧,各國選手帶來自國的樹木種子,於北海道遠輕町栽種成林,如今館內就專程展示了這批「奧運傳承林」的樹木橫切斷面,以及由其製作而成、本屆東奧與帕運會的火炬展示櫃旁的木製長凳,就頗具人情味與質感;此外,訪客如想給選手們打氣,又可運用展場內的日本傳統的摺紙傳訊,折紙留言日後會陳列到奧運選手村之內。


至於二樓的展覽空間,則珍藏了各屆及各項奧運紀錄、收藏紀念品、資訊圖表及精彩回顧影片,訪客可運用影像裝置與觸控面板,選看圖文及影片,甚至在專區中透過互動式體驗裝置,感受跟奧運選手競賽的刺激。整幢「日本奧林匹克博物館」可說是寓教於樂的好去處。
地址:東京都新宿區霞丘町4-2 官網:https://japan-olympicmuseum.jp/en/
撰文:K.C. 圖片來源:「日本奧林匹克博物館」官網
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中世の文学と尺八📖 「閑吟集」
とある世捨て人によってまとめられた歌謡集⁉️
「ここにひとりの桑門(よすてびと)あり。」
と、なんともカッコいい文句で始まるこの歌謡集ですが、作者については不詳ということです。
前回のブログ、中世の文学と尺八「宗長手記」篇の作者、連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)をあてる説もあるそうです。
↓「宗長手記」についてはこちらをご参照下さい。
閑吟集の成立は、1518年秋8月に書かれたとされ、十有余年、富士山を遠くに望む草庵生活を送った僧形(そうぎょう)の一隠者が、風雅な宴席に交遊した往時を回顧しながら、老後懐旧の慰みのもと、青春時代からの諸歌謡を収録したもの。
尺八についての記載が序文や歌謡にあります。
漢文と仮名文字で書かれたものがあり、まずは漢文で書かれた「真名序」といわれるものから。漢文は、明治時代までは公文書で使われていたんですね。
真名序(和書の、漢文で書かれた序文)
竺支扶桑、翫音律吟調子、其揆一也。悉説。中殿嘉会、朗唫罷浅々斟、大樹遊宴、早歌了低々唱。弄小扇之朝々、共踏花飛雪、携尺八之暮々、独立萩吹風。爰有一狂客。編三百余首謳歌、名曰閑唫集。伸数奇好事、諭三綱五常。聖人賢士至徳要道也。豈小補哉。于時(日之)永正戊寅龝八月、青灯夜雨之窻、述而作、以貽同志云爾。
〈漢文訓読〉
竺支扶桑(じくしふそう)の、韻律を翫び調子を吟ずること、その揆(みち)は一つなり。悉く説(よろこ)ぶ。中殿の嘉会には、朗唫罷(ろうぎんや)みて浅々として斟(く)み、大樹の遊宴には、早歌了(おわ)りて低々として唱ふ。小扇を弄ぶ朝々(あさなあさな)は、共に花の飛雪(ひせつ)を踏み、尺八を携ふる(の)暮々(ゆうべゆうべ)は、独り荻(おぎ)吹く風に立つ。爰(ここ)に一狂客あり。三百余首の謳歌を編み、名づけて閑唫集と曰(い)ふ。数奇好事を伸べ、三綱五常を諭す。聖人賢士の至徳要道なり。豈小補(あにしょうほ)ならんや。時に永正戊寅龝(えいしょうぼいんあき)八月、青灯夜雨(せいとうやう)の窻に、述べて作り、以て同志に貽(のこ)すと云爾(しかいう)。
【竺支扶桑】天竺(インド)・扶桑(日本)。扶桑は東海の日が出るところにあるといわれた神木。転じて日本の別称
【韻律を】音楽の調子を楽しみ、声高らかに歌うこと
【揆】軌に同じく道の意。
【悉く】「ヨロコビヲツクス」「コトゴトク(ツマビラカニ)トケバ」とも訓める
【中殿】中殿御会とは、内裏の清涼殿で行なわれた管絃と和歌の会のこと。
【浅々】次の「低々唱」と対句
【大樹】「大樹将軍」の略『後漢書』の故事による。「中殿嘉会」に対して将軍家における宴遊をさす
【小扇】次の「携尺八之暮々」と対句をなす。扇を用いて拍子を取る。扇拍子の意。
【尺八】一尺一寸一分の一節切。隠者が愛用
【狂客】風狂の客。編者の謙辞。当時は遁世者と称し、狂に隠れて姓名を秘する者が多かった。
【数奇】数奇は好のあて字。趣味・芸道などの風流の道を好む物好き。
【三綱五常】三綱は君臣・父子・夫婦間の道。五常は儒教で説く仁・義・礼・智・信の五徳の道。
【豈小補】小補はほんのわずかな助けの意。編者自身の謙遜のことば。実は編者の抱負を示す。
【永正戊寅龝】1518年秋
【青灯夜雨】青い布や紙を張った読書用の燈火(とうか)
(番号をふると元の文がごちゃごちゃになってしまうので、言葉の意味のみを並べました)
〈訳〉
インド・日本の人々が(宴席などで)音楽の調子を賞翫し、時には声に出して歌うこと、その心は全く同一である。常にこれによって無常の歓を尽くすためである。清涼殿における和歌や管弦の御会(ぎょかい)などで、詩歌の吟詠が終わってから小酒宴をもよおし、将軍家の遊宴の折りには、早歌の披露がすんでから小歌を低く口ずさんだものである。
また扇拍子をとる朝(あした)には(小歌を口ずさみつつ)風に飛ぶ雪のような花びらを踏みしだきながら、共に春の桜花を愛で、尺八を携える夕暮れには、ひとり荻の上を吹きわたる風のもとにたたずんで(その旋律をたのしみつつ)秋の月を賞した。さて、ここに、一人の風狂者がいる、三百余首の歌謡を編纂して、これを名づけて「閑唫集��という。風雅な思いを述べながら、三綱五常を諭したものである、明らかに聖人や賢士の至徳要道にも適ったものである。どうして少しばかりの助けをいうべきであろうか。時に永正十五年の秋八月、青い燈火(ともしび)のもとで、古人のことを述べ伝え、己が新たにつくったものをも加えて、もって同好の士のためにのこしておくこと、上述のとおりである。
清涼殿で行なわれた管絃と和歌の会とはこんな感じ↓

建保中殿御会図 藤原信実 画(国立国会図書館蔵)
男性ばかりで堅苦しそうですが…😅
「中世の文学と尺八」シリーズでやった、紫式部の『源氏物語』にも、欄干で太鼓を叩いたり尺八を演奏した場面が描かれていましたが、この場所ですね。なんで広間とかじゃなくて、欄干なんでしょうね〜🤔酒宴は開放的な場所が良かったのかな。
著者か自分のことを「風狂者」というあたり、謙遜の意味もあるようですが、普化禅師の影響を受けているのでしょうか。今までの長い人生を思い浮かべながら三百余りの歌を編纂しましたよ。との前書きです。
次は仮名序で書かれた前書きです。
仮名序 (仮名文で書かれた序文)

閑吟集近世文芸叢書 第11(国立国会図書館より)
ここにひとりの桑門(よすてびと)あり。富士の遠望をたよりに庵を結びて、十余歳の雪(1)を窓に積む。松吹く風に軒端を並べて、「いづれの緒より」(2)と琴の調べを争ひ、尺八を友として秋の調子を試むる折々に、歌の一節を慰み草(ぐさ)にて、隙行く駒に(3)任する年月のさきざき、都鄙(4)遠境の花の下(もと)、月の前の宴席にたち交はり、声もろともにせし老若、半ば古人となりぬる懐旧の催しに、「柳の糸の乱れ心」(5)と打ち上ぐるより、或は早歌(6)、或は僧侶佳句(かく)を吟ずる(7)廊下の声、田楽、近江、大和節になり行く数々を、忘れがたみにもと思い出づるにしたがひて、閑居の座右に記しおく。これ吟じ移り行くうち、浮世のことわざ(8)に触るる心のよこしまなければ、毛詩(もうし)三百余篇になずらへ、数を同じくして閑吟集と銘す。この趣于をいささか双紙の端にといふ。命にまかせ、時しも秋の蛍に語らひて、月をしるべに記すことしかり。
【雪】中国の孫康(そんこう)・車胤(しゃいん)が雪の光によって読書したという故事に基づく。
【いづれの緒より】『拾遺集』(しゅういしゅう)雑上・斎宮女御(さいぐうにょうごの「琴の音に峰の松風通ふらしいづれの緒より調べそめけむ」による。《通釈》 琴の音に、峰の松風の音が通いあっているらしい。一体この妙なる音色はどの琴の緒から奏で出し、どこの山の尾から響き始めて、ここに相逢ったのだろう。」 この句から、「琴の音か、松風と混じり合う音が、いづれの音にしても、」という意味。
【隙行く駒に】年月の早く過ぎ去ることのたとえ《「荘子」知北遊から》白い馬が走り過ぎるのを壁のすきまからちらっと見るように、月日の経過するのはまことに早いことをいう。
【都鄙遠境���とひ)】都や田舎や遠国(おんごく)の春秋の風雅な宴遊の席につらなること。
【柳の糸の乱れ心】「花の錦(にしき)の下紐(したひも)は 解けてなかなかよしなや 柳の糸の乱れ心(ごころ) いつ忘れうぞ 寝乱れ髪の面影」巻頭の小歌。
【早歌 (そうか)】宴曲の一節を謡う短い歌謡。鎌倉中期から室町時代にかけて、貴族・武家・僧侶の間で流行した歌謡の一。院政時代の雑芸 (ぞうげい) ・今様 (いまよう) の系統を引き、これに天台声明 (しょうみょう) の節まわしを取り入れたもの。作者には天台宗の僧、明空・月江などがいる。内容は物尽くし、道行きの歌で、多くは七五調。初めは伴奏なしの扇拍子で、のちには尺八の伴奏で歌われた 。
【僧侶佳句を吟ずる】僧侶が寺院の長い廊下を歩みながら吟じた五山(ござん)禅林好みの漢詩句。
【ことわざ】事と業(わざ)の意。
訳
ここに一人の世捨人がいる。富士山を遠望できる地に草庵をつくり、すでに十余年の歳月を過ごしている。松風吹く風の中に軒端を構えて「いずれの緒より」という古歌同様、その風の音に和して琴をかきならしたり、また尺八を伴侶として春秋の季節にふさわしい調べを吹きすます折々に、小歌の一ふしを慰みの種として、早くも過ぎ去ったこの歳月を思いやるに、時として都や田舎の遠い国までも、春は花の下、秋は月の前と四季折々の風雅な宴席につらなり、共に歌った老いも若きも、今では半ば故人となってしまったその昔が恋しさに「柳の糸の乱れ心」と巻頭に謡い出したのをはじめとして、あるいは早歌、あるいは僧侶が和漢の名句を吟唱しつつ歩む廊下での歌、さらに田楽節、猿楽の近江節や大和節に至るまで、数々の歌を(自分の死後の)忘れがたい記念のもと、思い出すままにつれて、閑静なすまいの座席のそばに記しておく。これらを歌い暮すうちは、浮世の繁多なことがらにわずらわされる邪念も起こらないから、かの『詩経』三百十一篇に見立て、同数の歌を集めて『閑吟集』と命名する。この趣意を少しばかりこの草子のはしに書きつけておく。余命あるにまかせ、折りも折かすかな光をともする秋の蛍に語りかけつつ、月の光のもとでこのように記したものである。「いづれの緒より」と琴の調べを争ひ、尺八を友として秋の調子を試むる折々に、歌の一節を慰み草(ぐさ)にて、隙行く駒に任する年月のさきざき、都鄙遠境の花の下(もと)、月の前の宴席にたち交はり、声もろともにせし老若、半ば古人となりぬる懐旧の催しに、「柳の糸の乱れ心」と打ち上ぐるより、或は早歌(そうが)、或は僧侶佳句(かく)を吟ずる廊下の声、田楽、近江、大和節になり行く数々を、忘れがたみにもと思い出づるにしたがひて、閑居の座右に記しおく。これ吟じ移り行くうち、浮世のことわざに触るる心のよこしまなければ、毛詩(もうし)三百余篇になずらへ、数を同じくして閑吟集と銘す。この趣于をいささか双紙の端にといふ。命にまかせ、時しも秋の蛍に語らひて、月をしるべに記すことしかり。
こちらも先程の漢文の序文と同じような事がもう少し詳しく書かれていますね。今度は作者が狂客(風狂者)ではなく、桑門(世捨人)となっています。余生を富士山の見える小さな家に住み、昔を邂逅しながら歌謡集を作るなんて、なんて素敵な人生なんでしょう…。
次はそのたくさんある中の歌謡の中から、尺八を詠ったものを一つ。
我らも持ちたる尺八を 袖の下より取り出(���)だし 暫しは吹いて松の風 花をや夢と誘ふらん いつまでかこの尺八 吹いて心を慰めん
【我ら】自称の「われ」「われら」は、相手を尊敬するか、または謙遜の意を示す語。
【吹いて】吹くは風の縁語。松に待つわかけ、尺八を吹く意に松風の吹くことを利かせる。
【花】花を夢のようにはかなく吹き散らす意。暗に恋しい人に逢うことができない恨みを示す。
訳
「私も携えてきた尺八を袖の下から取り出して、しばし吹き鳴らして待つとしようか。待つといえば、折から松を吹く風も桜の花をはかなくも吹き散らしてしまうであろうが、人に逢うこともかなわぬまま、いつまで尺八を吹いてわが心を慰めたらよいものか。」
誰を待っているのでしょうか…。
自分自身を慰めることのできる人生の友、尺八と言えども、いつまで吹いたらいいのか?
これは死ぬまで吹きつづけなければいけないというオチですね…
参照・『閑吟集』浅野建二 校注
ひゃ〜💦たった3ヶ所の尺八の記述の説明が、長かったですね〜😅
日本人なのに、知らない日本語ばかり!実は私は国語が苦手でした…💦
今になって楽しくなってきました💚
日本語の悲しき事情をロバートキャンベルさんが分かりやすく話してくれています。なるほどです。
そして、この閑吟集を書いた一狂客のように、私も桑門になるゾ!という新たな希望がわいてきたのでした(笑)
目指せ!風狂者!💓
...
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