#素晴らしいメッセージと証をぜひ聞いてください。
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2024.09.03 TLEA広島・呉神の教会 中国地区カリスマ聖会
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噂わさわさ
今日は一秒も勉強をしていない。10月朔日以降、誰とも会う約束がないのに勉強をしていない日というのは初めてだと思う。とにかく今日は休日にした。ぱっとしない休日だった、というか、どちらかというとパニックに襲われたような(そんな大袈裟なことはない)一日だった。もくりでも誰とも喋っていない。変な感じに静かで、しかし荒れていた日だった。
まず朝、生理痛で目が覚めるが、痛くて起きることができない。11時からせっかくのジムだったのに、とても行くことができず、欠席。もったいない。しかし体調のことは仕方ない。気を取り直して、夜に次の予約を2回分入れた。
生理痛がおさまってきて、友人から頼まれたGUの店舗受取の品をお迎えしに、何年ぶりかわからないけれど西武新宿のPePeに行った。来る度に、色々な人と来たなという思い出が蘇る。1人でエレベータで5階まで行き、粛々と品物を受け取って、スタバを覗いたが席がないのでそのまま出た。東口に向かう流れで、新宿のこちら側は相変わらずだ、と思った。歌舞伎町と縁があったのはもうかなり昔のこと(と言いながら3年〜4年前くらい)で、でももうできるだけ近寄りたくないなという感じがする。どちらにしろ私はもう若くなく、太っており、歌舞伎町の「風景」にしかなれない。前景になることはない。老けたし、「おばさん」だなと思った。今日はZOZO中古で買った黄色いワンピースを着ていたが、それが肉でぱんぱんで、顔も肉でぱんぱんで、たいそうみじめな思いがした。太っていることは悲しいことだ。私にとって。(他の人にとっては、他の人の事情なのでわからないし、何も思わない。)
その後三丁目で電車に乗るのだし、と思って、三丁目のスタバに行ったら席が空いていたので、友人がGUお使いのお礼にとくれたドリンクチケットでホワイトモカ・ホット・トール・ソイ変更を頼み、ニューヨークチーズケーキまで食べた。ここで摂取した脂質がものすごいことになっている。せめてニューヨークチーズケーキをやめろ、と思うのだが、とにかくお腹がすいてへろへろだった。夜になってさまざまに「痩せるための計画」を書き出したのだが、とにかくもうスタバに行くなとしか言えない。スタバにはアイスティーもないし、とにかく駄目だ。どんなに好きでも駄目だ。ホワイトモカをソイやアーモンドミルクに変更したくらいじゃ脂質は大幅にオーバーする。
スタバで燐一小説を書こうかと、『やがて秋茄子へと到る』をひらき、いくつかの歌を書き写す。音楽も今書いている話のためのプレイリストなので、かなり燐一の気持ちになった。小説は書けなかったが、短歌を三つ作ってTwitterに貼った。とくに誰からもなんの反応もないが、やはりこういうこと(自分の好きな情感を自分の好きな文字と情景にのせて整えること)は自分に必要だと思った。
スタバからの帰り際、事件が起きた。しかし、この事件は生涯おのれの胸に閉まっておくことにしようと思う。本当にやばかった。犯罪までいかないがあきらかに「罪なる行為」をしてしまった。動転してそのまま店を逃げ出した。とにかくおそろしかった。ただここには書かない。数年後に思い出したら書くかもしれないが、いつもの自分なら処理できたことも、今日の私にはなすすべもなかった。朝からずっと動揺していたのだと気づいた。
スタバでの動転を引きずったまま、最寄り駅で降り、スーパーで牛乳とバナナを買い、帰宅。朝からずっとマッチングアプリを(久々に)いじっていて、複数の女性とせっせとメッセージを交換しかなり気疲れした。相手が男だとこういうのは「営業」と思って割り切ってやれるが(慣れているというのもある)、相手が女だとかなり慎重になるし、アプリもレズビアン界隈のこともよくわかっていないので(それこそ多種多様な人がいるし)、手探りな面が多く、またこちらもそれなりに真剣なので疲れた。男性相手のマッチングアプリは今はやっていない。アイカツ!を通じて知り合ったお兄さんと月一で会っているが、今月は私の試験もあるしまだ次の予定は立っていない。私がマッチングアプリを使う時の癖として、同時に5〜6人とメッセージを交わし、その時間は集中してマッチングアプリに向き合い、やらない時は完全に放置する、というサイクルを繰り返すというのがある。今日も、1週間ぶりくらいに一気に返信して、それに返信してくださった方と、新たに知り合った方とで、やはり5〜6人とのやり取りになった。そういうことをしているから疲れるのかもしれないが、私にとってはこれがスタンダードである。基本的に人と常になんらかのやり取りをしていないと、私は狂ってしまうのだと思う。
帰宅してから燐一小説の続きの書写をやろうかと思ったが、なぜか爪を塗り始めてしまう。黄色のポリッ���ュを頂いたので、今回もそれを主役にして、下地にsopoのミカヅキイエローを塗り、rihkaのcelosiaを塗り、osajiの横顔と文通をそれぞれ根元と爪先に塗った。トップコートは二度塗った。
ノートにとにかく感情を書きつける。いつのまにか毎日の生活のタイムテーブルをどうするかという話になっていて、どうやら22時に寝て6時に起き、朝からウォーキング、筋トレ、そして朝ごはんとする、というサイクルにしたいようである。早速今は0:38なので22時に就寝できていないのだが、ともかく毎日の行事として設定した「湯船につかる」は達成できた。汗もかけた。朝より体重が0.5kg、体脂肪率が2%減っており、もしやスタバでの事件が関係しているのであろうか、と思った。(風呂の前にも測定しており、結果は同じだった。)早くジムのちゃんとした測定器で体脂肪率が実際どうなっているのか確かめたい。次の予約は4日土曜日だ。
10月中に願書を印刷すると言っていたが、ふつうに出来なかった。普通にできろよ、そこは。と思うが、まあ、生理痛が悪いよね。今日まではできなくて仕方ないと思う。明日に期待します。明日の体調がよいことに期待します。朝昼晩の寒暖差、これはみんなひとたまりもないと思うけれど、私はどこまで煽りを受けるのか、やや戦々恐々。11/8(水)必着なので、とにかく土日に速達で出せばなんとかなる。それまでに印刷して必要書類を集めることができるのか。そこが問題です。主に試験のための費用を払い込み、その証明を得ることなど。
風呂の後納豆を生卵に入れて食べ、ソイプロテインを飲んだので、胃がいきなりの高負荷な栄養価にひとたまりもなくやられている。横になったらましになったが、かなりの胃痛だった。冷たいものをいきなりたくさん食べるんじゃあない。
明日も朝から晴れるといい。ウォーキングの道すじは決まっていないが、とりあえず明日はルート決めになると思う。音楽を聴きながら歩くのは好きで、楽しみである。基本的にその時書いている話のプレイリストを聞いて歩くと、その話が頭の中で書かれてゆくので、昔は歩かないと書くことができなかった。最近は書写しているあいだに書けるようになった。でも基本的には体を動かしている時に考えたり頭の中で書いたほうがいい。そのほうが文に酸素が入る。
昨晩、9月と10月の支出についてのスペースを録音したのだが、恥ずかしすぎてリンク先の載ったツイートを消した。これはさすがに公開するものではないな、と、朝になって冷静になった。ただ、オタクの支出が気になると言っていた友人にはLINEでスペースのリンクを送った。かなり呆れら���るというか失望されること請け合いだ。送ってから取り消そうかと葛藤したが、まあ、いいか、となり、かき捨てられない恥を友人に押し付けてしまった。喋っている声もかなりいい加減な発声で、まじで人に聞かせるものじゃないなと思った。後悔先に立たず。覆水盆に返らず。もういい。忘れよう。私なんてどうせその辺のヘドロです。生活態度がね。頭の中身は頑張って作ってきたのでヘドロではないが、とにかく生活態度や人生に向き合う姿勢というものは自己評価でいくと地を這っている。

2023.11.1
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アニメ『モノノ怪』を深掘り!唯一無二の世界観と謎に迫る!
アニメって本当に面白い。今回紹介する作品は、観終わった後も心に残る名作なんだ。
最近、なんか心に残るアニメ観た?俺は、またとんでもない作品に出会っちゃったんだよ!今回は、もう観なきゃ損!って本気で思えるアニメ、「モノノ怪」について語らせてくれよ!
記事のポイント
独特の世界観と美しすぎる映像: 和紙のような絵のタッチで、まさに芸術作品!
謎が謎を呼ぶストーリー: 一度観ただけじゃ分からない奥深さに引き込まれるよ。
声優さんの演技がもう最高: 特に主人公の声がたまらなく魅力的!
繰り返し観るほど発見がある: 観るたびに新しいことに気づけて、何度も楽しめる!
大人にこそ観てほしい深いテーマ: 子供にはちょっと難しいかもしれないけど、大人は考えさせられるはず。
観るべし!唯一無二の世界観を誇るアニメ「モノノ怪」の魅力に迫る!
いやー、本当に「モノノ怪」ってすごいんだよ。この作品は、アニメの枠を超えて、まる���動く美術品を観ているような感覚になるんだ。俺も初めて観た時は、その独特な雰囲気に圧倒されちゃってさ。和紙みたいな質感の絵柄とか、鮮やかな色使いとか、もう全部が新鮮で、観ていて全然飽きないんだよね。
普通のアニメとは一線を画す、その芸術性の高さは、一度見たら忘れられないインパクトがあるよ。
アニメ「モノノ怪」ってどんな作品なの?
「モノノ怪」は、ホラー、ファンタジー、ミステリーの要素がぎゅっと詰まったアニメなんだ。ノイタミナっていう深夜アニメの枠で放送されてたんだけど、もう放送から15年も経ってるのに、いまだに多くのファンに愛され続けてるって、すごくない?
Twitterで新しい企画が発表された時も、めちゃくちゃ話題になってたし、歴代のノイタミナ作品の中でも、投票で1位になったって聞いたら、その人気ぶりがよく分かるでしょ?
物語の中心にいるのは、謎めいた「薬売り」の男。彼は、人間が持つ「モノノ怪」、つまり悪いあやかしを退治していくんだけど、ただ退治するだけじゃないんだ。モノノ怪を斬るためには、「形(かたち)」「真(まこと)」「理(ことわり)」という三つの条件が揃わないといけない。
これがね、ただの妖怪退治ものとは違う、この作品のすごく面白いところなんだよ。薬売りさんが、モノノ怪が生まれた原因や、それに絡む人々の心の闇を、一つ一つ解き明かしていく過程が、本当に見どころなんだ。
彼の出で立ちもまた独特で、妖しくも艶やかな姿に、周りの人が思わず見とれちゃうくらい。宿屋に現れて「宿を一晩、お借りしたい」なんて言うんだけど、その佇まいだけで、なんだか物語が始まりそうな予感がするんだよね。
そして、そこに身重の女性が訪れてきて、いわくつきの部屋に案内されるっていう展開も、もう最初から引き込まれちゃうんだ。
この作品のすごいところは、ただ怖いだけじゃないってこと。人間の深い部分に潜む感情とか、社会の暗い側面とか、そういうものと向き合わされるんだ。
だから、観終わった後も、ずーっと頭の中で考えてしまうような、そんな奥深さがあるんだよ。子供にはちょっと難しいかもしれないけど、大人には「なるほどな」って思わせるメッセージがたくさん詰まってるから、ぜひ観てほしいな。
観れば観るほど沼にハマる!「モノノ怪」の映像と音楽が織りなす世界観
「モノノ怪」の最大の魅力は、やっぱりその視覚的な表現にあると俺は思うね。和紙のテクスチャーを使った作画は、本当に独特で、他のアニメではまず見られないんだ。
絵のタッチが、まるで日本の古典絵巻が動き出したみたいで、一枚一枚が芸術作品だよ。色彩もすごく鮮やかで、でもただ派手なだけじゃなくて、不気味さとか、妖しさとか、そういう感情を表現するのにぴったりなんだ。毎話、まるで美術館にいるかのような気分で、その演出を楽しめるんだよ。
それから、この作品は音楽もまた素晴らしいんだ。高梨康治さんが手掛けてるんだけど、和風の旋律をベースに、ミステリアスな雰囲気を盛り上げる曲が多いんだ。モノノ怪が現れるシーンとか、薬売りさんが謎を解き明かしていく緊迫したシーンとか、音楽が感情を揺さぶるんだよね。
映像と音楽が完璧に合わさって、観ている俺たちを、もう「モノノ怪」の世界に完全に引きずり込んでくれるんだ。
そして、声優さんの演技も最高に素晴らしいんだ。特に、薬売りを演じる櫻井孝宏さんの声は、もうね、ずるいよ(笑)。あの艶やかで、少し謎めいた声が、薬売りさんのキャラクターにぴったりで、聞いているだけでゾクゾクしちゃうんだ。
独特なセリフ回しも相まって、彼の言葉一つ一つに重みがあって、思わず聞き入っちゃうんだよね。声優さんの演技って、キャラクターに命を吹き込むっていうけど、まさにその通りで、櫻井さんの声があるからこそ、薬売りというキャラクターが、あんなにも魅力的で存在感のあるものになってるんだと思う。
「モダン怪談」って感想を言ってる人もいたけど、まさにそんな感じなんだよね。ただのホラーじゃなくて、現代社会にも通じるような、人間の心の闇を深く掘り下げているから、観るたびに新しい発見があるんだ。
怖さの中にも、どこか美しさがあって、それがこの作品を唯一無二の存在にしているんだなあって感じるよ。
「モノノ怪」は繰り返し観るほど面白い!深淵なる物語の考察
「モノノ怪」は、一度観ただけじゃ全てを理解するのは難しいかもしれない。でも、それがこの作品の素晴らしいところなんだ。俺も最初に観た時は、「へぇ、面白いな」って思ったんだけど、二度、三度と観ていくうちに、どんどん新しい発見があって、どんどんこの作品の深みにハマっていったんだよね。
謎めいたストーリー構成と人間の心理描写
このアニメの物語は、毎回独立したエピソードで、それぞれ異なるモノノ怪が登場するんだけど、そのどれもが、人間の欲望や嫉妬、憎しみといった負の感情から生まれているんだ。
薬売りさんが、それぞれのモノノ怪の「形」「真」「理」を解き明かしていく過程が、まるで推理小説を読んでいるみたいで、すごく引き込まれるんだ。
例えば、あるエピソードでは、嫁入り前の娘が巻き込まれる怪談なんだけど、その裏には、その家の古いしきたりとか、女性たちの抑圧された感情が隠されていたりするんだ。
薬売りさんが、証言と証言の食い違いとか、登場人物たちの心の奥底にある本音とかを、一つ一つ暴いていくんだけど、観ている俺たちも「もしかして、あの人が犯人なんじゃ…?」なんて、一緒に考えちゃうんだよね。
ただのホラーじゃなくて、人間の心の奥底にあるドロドロした部分とか、社会のひずみとか、そういうのをリアルに描き出しているから、観終わった後に考えさせられることが多いんだ。
これは子供にはちょっと難しいかもしれないけど、大人だったら「ああ、こういうことってあるよな」って共感したり、ハッとさせられたりする場面がたくさんあると思う。
そして、この作品は、登場人物たちの心理描写が本当に丁寧なんだ。モノノ怪に憑かれる人たちも、みんなそれぞれに過去があって、心に傷を抱えているんだ。
薬売りさんが、彼らの心の奥底に触れていくことで、隠されていた真実が明らかになっていくんだけど、その過程がすごく人間味があって、感情移入しちゃうんだよね。
怖いだけじゃなくて、人間の弱さとか、悲しさとか、そういう部分も描かれているから、観る人それぞれの心に響くものがあると思う。
繰り返し観ることで見えてくる新たな発見
俺も「モノノ怪」は、これまでに何回も観直してるんだけど、観るたびに新しい発見があるんだ。初めて観た時は、映像の美しさとか、ストーリーの奇妙さに圧倒されてたんだけど、二回目、三回目と観ていくうちに、セリフの裏に隠された意味とか、映像の中に散りばめられた細かい演出とかに気づくようになってくるんだよね。
例えば、ある登場人物の表情の微妙な変化とか、背景に描かれている絵のモチーフとか、そういう細部にまで意味が込められていることが多いんだ。
製作者の意図を考えながら観ると、さらにこの作品の奥深さに気づけるんだ。まるで宝探しみたいで、それがまた面白いんだよ。
それから、この作品は、観る側の気分とか、年齢とかによって、感じ方が変わってくるのも面白いところだね。若い頃に観た時と、大人になってから観た時とでは、響いてくるメッセージが全然違うんだ。
人生経験を重ねると、登場人物たちの抱える問題や感情に、より深く共感できるようになるから、観るたびに新しい感動があるんだよね。
だから、もし一度観て「ちょっと難しかったな」って思ったとしても、時間を置いてもう一度観てみてほしい。きっと、以前とは違う視点から、この作品の魅力に気づけるはずだよ。
俺も、初めて観た時は正直「絵が独特で、ちょっと人を選ぶかな?」って思ったんだけど、内容の面白さや、話の奥深さに触れてからは、「これは観なきゃ損!」って確信したからさ。本当に、出会えてよかったな、って心から思えるアニメだよ。
モノノ怪の深いテーマ性
モノノ怪がただの怪談で終わらないのは、その裏に隠された深いテーマ性があるからなんだ。薬売りさんがモノノ怪を斬るために必要とする「形(かたち)」「真(まこと)」「理(ことわり)」は、それぞれモノノ怪の姿、真実、そして道理を意味しているんだけど、これらが単なる言葉じゃなくて、人間の本質を突きつけるものなんだ。
例えば、「形」は、モノノ怪がどのような姿をしているか、ということだけど、これは同時に、人間がモノノ怪をどのように認識しているか、という見方もできるんだ。
あるモノノ怪が、特定の人には見えるけど、他の人には見えない、というような描写があったりするんだけど、それは、その人の心の中に、モノノ怪を生み出す「形」が存在している、ということなのかもしれない。
そして「真」。これはモノノ怪が生まれた真実を指すんだけど、これがね、本当に人間のドロドロした部分をえぐってくるんだよ。嫉妬とか、恨みとか、執着とか、そういう負の感情が絡み合って、モノノ怪が生まれる。人間って、自分が正しいと思ってやったことでも、それが他の人にとっての悲劇になってし���うことがあるでしょ?そういう、人間関係の複雑さとか、心の闇を、この作品は丁寧に描いているんだ。
最後に「理」。これはモノノ怪が生まれた道理、つまり、その現象がなぜ起こったのか、という理由を意味しているんだけど、これが一番考えさせられる部分かもしれない。世の中には、理不尽なことってたくさんあるじゃない?
でも、この作品を観ていると、どんなに理不尽に見える出来事にも、必ず何かしらの「理」が存在しているんだな、って思えるんだ。それは、人間の心の歪みだったり、社会の仕組みだったりするんだけど、薬売りさんがそれを解き明かしていく過程は、まるで哲学書を読んでいるような気分になるんだよ。
だから、この作品は、ただのホラーアニメとして観るだけじゃなくて、人間の心とは何か、社会とは何か、といった深いテーマについて、観る人に問いかけてくるような、そんな作品なんだ。
繰り返し観ることで、毎回新しい発見があって、そのたびに自分の中で「モノノ怪」という作品の解釈が深まっていくんだよ。
モノノ怪を観て人生観が変わった話
俺もこれまでたくさんアニメを観てきたけど、「モノノ怪」は本当に特別な作品なんだ。観終わった後に、心にじんわりと染み渡るような、深い感動と衝撃があったんだよね。これだけ心に残る作品って、そうそうないよ。
心に響く「モノノ怪」のメッセージ
この作品を観て、俺は「人間の心って、本当に複雑で奥深いな」って改めて思ったんだ。良い人もいれば、悪い人もいる。でも、その境目って、実はすごく曖昧で、誰だって心の奥底に、ちょっとした闇を抱えているのかもしれない。そんなことを考えさせられたんだ。
薬売りさんが、モノノ怪と対峙する中で、人間の醜さとか、悲しさとか、そういうものを目の当たりにするんだけど、彼は決して人間を裁かないんだ。ただ、淡々とモノノ怪を斬っていく。その姿勢がね、すごく心に残るんだよ。人間って、完璧じゃないからこそ、悩み苦しむわけで、それでも前を向いて生きていかなきゃいけないんだな、って。
この作品は、直接的に「こう生きなさい」なんてメッセージを伝えてくるわけじゃないんだ。でも、観ている俺たちに、自分で考えて、自分で答えを見つけさせるような、そんな余白があるんだよね。それが、この作品の魅力の一つだと思う。だから、観終わった後も、ずーっと頭の中で物語が反芻されて、色々なことを考えさせられるんだ。
「人生って、本当に色々なことが起こるけど、どんな困難にぶつかっても、その根源にある『真』と『理』を見つめることができれば、きっと乗り越えられるはずだ」そんな風に、この作品から勇気をもらった気がするよ。
観ないと損する!「モノノ怪」は人生を変えるアニメ
俺は自信を持って言えるよ。「モノノ怪」は、観て損はしない。いや、むしろ観ないと損するってくらい、素晴らしい作品なんだ。独特な絵柄だから、もしかしたら最初の一歩を踏み出すのに勇気がいるかもしれないけど、一度観始め��ら、きっとその世界観に引き込まれるはずだよ。
普段アニメを観ない人にも、ぜひ観てほしいな。特に、普段からミステリー小説とか、心理描写が深い映画とかが好きって人には、たまらない作品だと思う。単なるホラーじゃなくて、人間の心の闇を深く掘り下げた、哲学的な作品だからね。
俺もこの作品に出会って、アニメに対する考え方が変わったんだ。アニメって、ただの娯楽だけじゃなくて、こんなにも深く、そして美しく、人間の本質を描き出すことができるんだって。
だから、もしあなたが、何か心に残る作品に出会いたい、人生観を変えるような体験がしたい、と思っているなら、「モノノ怪」を観てみることを強くおすすめするよ!絶対に後悔させないから、信じて観てみてほしい。
モノノ怪と向き合う旅に出よう
「モノノ怪」は、ただのホラーアニメじゃない。それは、人間の心と社会の仕組みについて深く考える、壮大な旅への招待状なんだ。薬売りさんと一緒に、それぞれのモノノ怪が生まれた背景にある「真」と「理」を探し、自分自身の心と向き合う時間を与えてくれる。この作品を観ることは、きっとあなたにとって、かけがえのない経験になるはずだよ。
観終わった後、きっとあなたも「モノノ怪」という作品に、何か特別な感情を抱くことになるはず。俺もそうだったから。
「モノノ怪」で広がるアニメの世界
「モノノ怪」は、アニメという表現の可能性を広げてくれる作品だと、俺は思うね。こんなにも独自の世界観と深いテーマを、アニメで表現できるんだって、本当に驚かされるんだ。だから、もし「モノノ怪」を観て、その魅力に触れたら、きっと他にも「こんなアニメがあるんだ!」って、色々な作品に興味を持つきっかけになるはずだよ。
俺も、これを機に、もっと色々なジャンルのアニメを観てみようって思ったし、実際に、これまで観てこなかったような作品にも挑戦するようになったんだ。
「モノノ怪」は、単なるアニメの枠を超えて、芸術作品として、そして人間の心を描く物語として、多くの人に観てほしい作品なんだ。
「モノノ怪」が教えてくれたこと
「モノノ怪」を観て、俺は、人間が持つ感情の複雑さとか、それが引き起こす出来事の深さとかを改めて考えさせられたよ。同時に、どんなに闇が深くても、それを乗り越えようとする人間の強さも感じることができたんだ。
この作品は、怖いだけじゃない。人間の心の美しさや、弱さ、そしてそこから生まれる強さを、鮮やかな色彩と独特な演出で描き出しているから、観ている俺たちの心に、深く深く響いてくるんだよね。
だから、もしあなたが、これまで経験したことのないような、深い感動を味わいたいなら、「モノノ怪」を観ることを強くおすすめするよ。
究極の和製ホラー「モノノ怪」の魅力に浸ろう
「モノノ怪」は、これまでのホラーアニメの常識を覆す、まさに究極の和製ホラーだと俺は思う。単に怖いだけじゃなくて、その奥に潜む人間ドラマや、社会に対するメッセージが、観る人の心を揺さぶるんだ。
和紙のテクスチャーを使った作画や、独特なセリフ回し、そして櫻井孝宏さんの艶やかな声。これら全てが融合して、他にはない、唯一無二の世界観を作り出しているんだ。
「こんなアニメ、他にない!」って、きっとあなたも観終わった後にそう思うはずだよ。
「モノノ怪」から学ぶこと
「モノノ怪」を観て、俺は、表面的な事象だけにとらわれずに、その奥にある真実を見極めることの大切さを学んだ気がするよ。そして、どんなに複雑な問題でも、その根源にある「真」と「理」を紐解いていくことで、解決の糸口が見つかるんだ、って。
これは、日常生活にも通じることだよね。人間関係の悩みとか、仕事でのトラブルとか、一見複雑に見えることでも、その本質を理解しようと努めることで、前に進めるようになるんだ。
「モノノ怪」は、俺たちに、そんな大切な視点を教えてくれる、深遠なアニメなんだ。
まとめ:モノノ怪の魅力、それは奥深き人間心理と唯一無二の世界観
「モノノ怪」は、絵柄が独特で、もしかしたら最初はちょっと人を選ぶかもしれない。でも、その内容はすごく面白くて、一度観たら忘れられない作品なんだ。難しく感じる部分もあるかもしれないけど、それがまた観るたびに新しい発見があるから、大人にはたまらないはずだよ。繰り返し観るほどに、その奥深さに気づかされて、どんどん好きになっていく作品なんだよね。
見ないと本当に損するよ!俺もこのアニメに出会えて、本当に良かったと思ってる。
独特な映像表現: 和紙のテクスチャーを使った作画と鮮やかな色彩が、まるで動く美術品のような美しさを生み出している。
謎が謎を呼ぶ物語: 薬売りがモノノ怪の「形」「真」「理」を解き明かす過程は、まるで推理小説のよう。
深淵なテーマ性: 人間の欲望、嫉妬、憎しみといった心の闇を深く掘り下げ、観る人に問いかける。
繰り返し観る楽しさ: 観るたびに新しい発見があり、そのたびに作品への理解が深まる。
唯一無二の世界観: 他の作品にはない、独自の雰囲気とメッセージが観る者を魅了する。
いやー、語り足りないけど、今日はこの辺にしとくかな!「モノノ怪」観て、感想聞かせてくれよな!👍
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TEDにて
アンドレアス・エクストローム:インターネット検索結果に隠れた道徳(習慣)的価値観
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
日本での、道徳は古代中国の「タオ(道)」と「テー(徳)」ですが、世界では「morality」で英語のmoralは、ラテン語のmoresから由来しており「習慣」という意味です。倫理とは、異なります。
ジョン・ロールズやピーター・シンガーもいろいろ提唱してます。
「公正」の定義は、「公平」の「判断や言動などがかたよっていないこと」に加えて、「正義」の方向に現在進行形で進んでいる事象のこと。
「正義」の定義は、この場合、マイケルサンデルによると、ジョンロールズの格差原理から最下層の便益に合わせて社会を動かすことが正義である!と言っています。
知ってるつもりで思い違いしてること!
公平概念は「ハンデをつけて上限を公平に!」
平等概念をわかりやすく言葉にすると「上限の公平ではなく底上げの平等!」みたいな感じで、これ以上でも以下でも概念が変わるから拡大解釈しないこと。
法人の平等な競争はあまり聞いたことない。公平な競争がしっくりくる
検索エンジンは、今や最も信頼できる情報源、そして真実の拠り所となりました。でも、公正な検索結果は存在しうるのでしょうか?
スウェーデンの文筆家でジャーナリストのアンドレアス・エクストロームは、そのようなものは哲学的にありえないと言います。
この示唆に富んだトークで、彼は、テクノロジーと人類との結びつきを強めるよう呼びかけます。
そして、アルゴリズムには人間の価値観が反映されており、どんなプログラムをもってしても、それを消し去ることはできないことを心に留めておくべきだと訴えます。
Googleも改善しているのですが、それでも難しいかもしれません。また、公正な検索結果が実現できればGoogleの検索エンジンに勝利できる可能性があります。
学校で生徒たちに話す機会があると必ず聞くことがあります。「なぜ、Google検索するの?なぜ、検索エンジンにGoogleしか選ばないの?」不思議と返ってくる答えは決まってこの3つです。
1つ目は「うまく検索できるから」ご名答です。
私も同じ理由でGoogleを使っています。
2つ目は「ほかの検索エンジンを知らないから」ちょっと惜しい。たいてい、私はこう返します
「Googleで検索エンジンを 検索してごらん。ほかにも面白いのがあるよ」
そして、3つ目です。必ず、手を挙げて満を持して言う子がいるんです。「Googleを使うと絶対に、常に最高で公正な検索結果が得られるから」
絶対に、常に最高で公正な検索結果が得られる?
これを耳にするたび、デジタル世代とはいえ、人類のひとりとして虫唾(むしず)が走ります(本質的にストーカーアルゴリズムが根本にあるためです)
みんなが、Googleを愛し、大事にしているからこそ「公正な検索結果」と信じ、考えるのだとわかっていてもです。
公正な結果など、哲学的にほぼありえません!!
なぜかご説明��ましょう。
でも、まず、検索の基本原理について少しだけお話しさせてください。
みんな忘れてしまいがちなことです。Googleで何かを検索するとき、まず、考えるべきは「個別の事実を知りたいのか?」フランスの首都はどこか?水分子の構成元素は何か?といったものです。
この場合は、ぜひGoogle検索しましょう。科学者といえども、答えは「ロンドン」と「H30」だなんて証明できやしませんから、ここに何の陰謀もありません。こうした個別の事実については、世界全体で答えが何か一致しているのです。
でも、質問をほんの少し複雑にしてこんな風にしたらどうでしょう?
「なぜ?パレスチナ問題が起こっているのか?」もはや、求めているのは、ただ一つの「事実」ではなく「知識」ということになります。
知識ははるかに複雑で繊細なものです。そうした知識を得るには、10 、20。または、100の事実を集め、自分のものにし「これらはすべて真実だ」と言えないといけません。
でも、ヒトは、年齢や人種、性的趣向に関わらず、違う価値観を持っています。ですから「確かにこれは真実だけど、こっちのほうが重要だ」となります。
ここからが面白いのです。私たちが人間らしさを発揮するからです。私たちは、互いに議論し、社会システムを形成し始めます。本当に答えを出すには、まず、事実をすべてふるいにかけます。
友だちやご近所さん。両親、子どもたち、同僚 そして、新聞や雑誌を通じてふるいにかけ、真の知識にたどりつくのです。ここで検索エンジンはあまり役に立ちません。
ですから覚えておいてください!!
どんなアルゴリズムでもその後ろには、必ず人間がいるんです!!(本質的にストーカーアルゴリズムが根本にあるためです)
人間は、それぞれ価値観を持っていてプログラムでその影響を完全に消し去ることはできません!!(本質的にストーカーアルゴリズムが根本にあるためです)
私はこのメッセージをGoogleだけではなく、プログラムに信頼を寄せる世界中のすべての人に伝えたい!!
自らの偏見をしっかり認識し、人間であることを自覚し責任を持たなければいけません!!
このことを伝えたいのは、結束を今一度、強くしなければいけない。そんなときが来ていると信じているからです。人類と技術のつながり、この結束を今以上に強くするのです。
少なくとも、心地よい魅惑的に聞こえる公正できれいな検索結果というものは、神話に過ぎず、これからもそうだと心に留めるべきです。
人間の先入観という意識を入り込ませないようにして、完全にプログラムだけで情報の関連性を自動処理させていく。
光速まで!!Googleの起業コンセプトです。
このようなシステムに、ルーティンワークのような機械学習を取り入れていくことで、オープンデータのメリットと
クラウドコンピューティングの大規模解析を融合していくことは、匿名性と高レベルのセキュリティーの前提ですが
革新的なイノベーションに可能性を観ること���出来ます。
そこには、ただ淡々と善も悪もなくて古来から有る日本の「魂」という概念みたいなことにも似ています。
世界レベルの巨大さ!ですが•••
人工的ですが、古代アトランティスのアカシック(アトラス?)レコード?にも似ています。必見です!
警告として、以下の言葉を掲載しておきます!
未熟な者が扱うと権力につながる危険がある - ルドルフ・シュタイナー
しかし、この場合は、プログラムで完全自動化して人間の先入観を完全排除してるので適用されないかもしれません。
ヨーロッパでの一般データ保護規則(GDPR)でも言うように・・・
年収の低い個人(中央値で600万円以下)から集めたデータほど金銭同様に経済的に高い価値を持ち、独占禁止法の適用対象にしていくことで、高価格にし抑止力を持たせるアイデア。
自分自身のデータを渡す個人も各社の取引先に当たりデータに関しては優越的地位の乱用を年収の低い個人(中央値で600万円以下)に行う場合は厳しく適用していく。
キャシーオニールによると・・・
思考実験をしてみましょう。私は、思考実験が好きなので、人種を完全に隔離した社会システムがあるとします。どの街でも、どの地域でも、人種は隔離され、犯罪を見つけるために警察を送り込むのは、マイノリティーが住む地域だけです。すると、逮捕者のデータは、かなり偏ったものになるでしょう。
さらに、データサイエンティストを探してきて、報酬を払い、次の犯罪が起こる場所を予測させたらどうなるでしょう?
あら不思議。マイノリティーの地域になります。あるいは、次に犯罪を犯し��うな人を予測させたら?あらら不思議ですね。マイノリティーでしょう。データサイエンティストは、モデルの素晴らしさと正確さを自慢するでしょうし、確かにその通りでしょう。
さて、現実は、そこまで極端ではありませんが、実際に、多くの市や町で深刻な人種差別があり、警察の活動や司法制度のデータが偏っているという証拠が揃っています。実際に、ホットスポットと呼ばれる犯罪多発地域を予測しています。さらには、個々、人の犯罪傾向を実際に予測しています。
ここでおかしな現象が生じています。どうなっているのでしょう?これは「データ・ロンダリング」です。このプロセスを通して、技術者がブラックボックスのようなアルゴリズムの内部に醜い現実を隠し「客観的」とか「能力主義」と称しているんです。秘密にされている重要で破壊的なアルゴリズムを私はこんな名前で呼んでいます「大量破壊数学」です。
民間企業が、私的なアルゴリズムを私的な目的で作っているんです。そのため、影響力を持つアルゴリズムは私的な権力です。
解決策は、データ完全性チェックです。データ完全性チェックとは、ファクト(事実)を直視すると���う意味になるでしょう。データのファクトチェックです!
これをアルゴリズム監査と呼んでいます。
こういう新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との
戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!
(合成の誤謬について)
合成の誤謬とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが、合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じること。物理学では、相転移みたいな現象です。性質が変わってしまうということ。
ミクロのメカニズムが個人同士の経済における仕組みであるのに対して、マクロのメカニズムは、国家間や経済全体の循環における仕組みだからである。
例えば、家計の貯蓄などがよく登場するが悪い例えです。前提条件が、所得が一定の場合!!所得が一定じゃない増加する場合は?これは、論じていませんので参考になりません!!(法人が提供する製品やサービスの価格も一定の場合も前提条件です)
1930年代のアメリカ経済が金融危機2008と似たような状態に陥った時、ケインズは、「倹約のパラドックス」というケインズ経済学の法則を発見しています。
それは、ポール・A・サミュエルソン(1915-2009)が、近代経済学の教科書「経済学」の冒頭で「個人を富裕にする貯金は、経済全体を貧困にする!(所得が一定の場合)」というわかりやすい言葉で表現しました。しかし、庶民の所得が増加し、貯蓄が投資、消費に回る場合には、「倹約のパラドックス」は生じません。
その後、この「倹約のパラドックス」は、アメリカの経済学者・ケネス・J・アロー(1921- )が「合成の誤謬」を数学的論理に基づいて「個人個人がそれぞれ合理的選択をしても、社会システム全体は合理的選択をするとは限らない」を検証してみせた。 要するに、部分最適ではなく、全体最適させていくということ。
つまり、新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との 戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!ということに集約していきます。
なお、金融危機2008では、マイケル・メトカルフェも言うように、「特別資金引出権(SDR)」は、2008年に行われた緊急対策で、一国だけで行われたのではなく、驚くほど足並みの揃った協調の下に国際通貨基金(IMF)を構成する188ヶ国が各国通貨で総額2500億ドル相当を「特別資金引出権(SDR)」を用いて世界中の準備通貨を潤沢にする目的で増刷してます。
このアイデアの根本は、元FRB議長であったベンバーナンキの書籍「大恐慌論」です。この研究がなければ、誰一人として、変動相場制での当時の状況を改善し解決できなかったと言われています。
それ以前では、固定相場制でのマーシャルプランが有名です。
続いて、トリクルダウンと新自由主義
インターネットの情報爆発により隠れていた価値観も言葉となり爆発していくことになった。
しかし、法定通貨の方が、その価値、概念に対する通貨量拡大として価格で応じることができず、圧倒的に通貨量が足りない状況が生まれていたのが、2010年代の問題点のひとつでした。
リーマンショックの後に、新自由主義が誤りであることが、ピケティやサンデルによって指摘され、当時のFRBバーナンキ議長が、通貨供給量を大幅に増やした対策により、ベースマネーの金融、銀行間の相互不信を解消して収束した。
それでも、まだ足りないが、適正水準に収まったことで、さらに価値も増幅され、マネーストックの財政政策から再分配、事前分配を大規模に行い、さらなる通貨供給量が重要となっている現在の日本国内。
例えば
Googleがしようとしてた事は、まだ新産業として、基礎研究から発展できない機械学習の先端の成果をすべて持ち込んだ社会実験に近いこと。
シュンペーターの創造的破壊は、一定数の創造の基礎を蓄積後に、未来を高密度なアイデアで練り上げてから破壊をするのが本質です。
こうして、憎しみの連鎖や混乱を最小限にする。
アルビン・トフラーの言うように、法人と行政府とのスピードの違いが縮まらないのは、構造上の違いであって、それを補うためにプラスサムな連携するということが、必要になってくることを説いています。
三権分立が、規制のないGAFAMを非政府部門としてMMT(現代貨幣理論)からプラスサムに連携したらどこで均衡するのか?という社会実験も兼ねています。
このような前提で、あらゆるインターネット企業が、創業時、貢献するためコンセプトの中心であったものが、今では、悪性に変質して違う目的に成り下がっています。
再分配、事前分配の強化がスッポリ抜けてる欠点があり、ここに明かしたくないイノベーションの余地があります!!
2021年には、新自由主義のような弱肉強食では自然とトリクルダウンは生じないことは明らかになる。
確かに、トリクルダウンは発生しないが、法律で人工的に同じ効果は、貨幣の再分配、事前分配という形にできる可能性は高い。
再分配や事前分配をケムにまく「金持ちを貧乏にしても、貧乏人は金持ちにならない」「価値を生み出している人を罰するつもりがないのであれば税に差をつけないほうがいい」(サッチャー)
とあるが、新自由主義は誤りで、ピケティやサンデルによると違うみたいだ。
(個人的なアイデア)
Appleはこれらの対策として提案した内容がこれ。
データミニマイゼーション!
取得する情報・できる情報を最小化する。データが取れなければ、守る必要も漏れる可能性もない!
オンデバイスでのインテリジェンス!
スマートフォンなど機器のなかで処理を完結させることでプライバシーにかかわる部分を端末内に留める。
クラウドにアップロードして、照会プロセスを最小化することで、漏洩や不適切な保存の可能性を排除する!
高い透明性とコントロール!
どんなデータを集め、送っているのか、どう使うのかを明示し、ユーザーが理解したうえで自身で選んだり変更できるようにする!
セキュリティプロテクション!
機器上などで、どうしても発生するデータに関しては指紋認証や顔認証などを使ったセキュリティ技術で、漏えいがないようにしっかりと守るセキュリティプロテクション!機器上などで、どうしても発生するデータに関しては指紋認証や顔認証などを使ったセキュリティ技術で、漏えいがないようにしっかりと守る
202012のApp Storeプライバシー情報セクションは、3つ目「透明性とコントロール」の取り組み。
位置情報などは自己申告だが、アップルとユーザーを欺いて不適切な利用をしていることが分かればガイドラインと契約違反になり、App Storeからの削除や開発者登録の抹消もありえます。
このプライバシー情報の開示は12月8日から、iOS、iPadOS、macOS、tvOSなどOSを問わず、新アプリの審査時または更新時に提出が求められるようになっています。
続いて
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態���に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に���対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
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ちえこママ~。集会で祝福されるの巻、行ってみよう!私も感動した😭!
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先日、ピーター・ヤシェック氏のメッセージを聞きに行きました。はなが通っている教会に来てくださったのです。
この人は、チェコ人の宣教師でもあり、迫害されているクリスチャンを助ける支援活動家でもあります。
2015年12月にアフリカのある国でいきなり拘束され、440日間投獄されるという経験を持った方です。ずっとチェコ語だったので、全部理解出来なかったけど、はなに聞いたりして、ちょっと長いですが、書きます。
発端��、イ〇ラム教徒のある家族の息子さんが、キリスト教に改宗しました。しかし教えの中に、子供が改宗した場合、両親はその子供を生かしておいてはいけない。とあり、でも、両親はそれが出来ず、秘密警察に連絡。その秘密警察が息子さんに爆弾を投げましたが、運よく命は助かりました。
しかし、その治療費が高額なために、その治療費を渡しにこのピーター氏はその国へ渡航したのです。
4日間の予定で入国し、無事にお金も渡し、あと10分でプラハ行きの飛行機に乗るって時に拘束されました。それから地獄の始まり。24時間の取調べが連日続き、改宗させるために寝る事も許されず、1日5回の礼拝を聞かされ、最初の数ヶ月で25キロ痩せたそうです。この期間、子供の頃から慣れ親み覚えていた聖書のみ言葉を何一つ思い出すことが出来ず、ただ無の日々だったと。また、ピーター氏の罪は、スパイ容疑等の4つの罪に問われ、その中の2つの罪は死刑にあたるものでした。
刑務所は雑居房。トイレは朝と晩の2回のみ、食事は2かけのパンとスープの1回のみ。ようやく4-5ヶ月後に聖書の差入れが許され、窓から降り注ぐわずかな光をたよりに、窓際に立ったまま、朝から夜までずっと聖書を読み続ける生活を3週間送りました。この時の聖書は彼の命のパンとなり、聖霊様がドンドン元気になっていきました。
440日間で4か所刑務所を変わりました。収容されているのはクリスチャンや、異教の人もいました。そんな中で神様はいつも「あの人に伝道しなさい」とピーター氏に語りかけ、それによって、たくさんの人がイエス様を受け入れました。 ある刑務所では、牧師さんもいたので、自分達で手作りのチャペルを作り、最初は週1の礼拝だったけど、2-3回となり、最後はほぼ毎日になったと言ってました。 また、独居房にいた時もあり、隣の囚人に薄い壁を叩いて伝道したそうです。会話は禁止だったので、スプーンで壁を1回たたくと「A」、2回たたくと「B」、3回叩くと「C」と言うように合図を決め、それで伝道し、その囚人はイエス様を受け入れたそうです。
その後、チェコやEUの政治家達が動いてくれて、2017年5月に釈放されてチェコに帰国。その当時の模様や、その国での出来事がドキュメント映像としてテレビで放送されました。
公演の最後に、ピーター氏はこう言ってました。この拘留期間中、一度たりとも信仰が揺らぐ事はなかった。「なぜ?」「あとどの位?」とか、一切神様に聞くことはなかった。と、、。刑務所の中で伝道し、たくさんの人を救うために、このような事が許されたんだと。
また、以前は聖書の中で理解出来ない箇所や、嫌いな箇所もあった。でも、聖書を3週間読みふせっていた時、特に、黙示録は嫌いで意味���わからなかったが、その時は今までに経験した事のない神様からの愛が注がれ、すべてを理解することが出来た。刑務所に入れたからこそ、聖書のみに費やす時間がたっぷり取れたと感謝してました。
さらに「とりなしの祈り」にはとてつもないパワーがあるとも。刑務所で寝る時、ベッドやマットレスもなく、地べたに直接横になっていた。日中は暑いけど、夜は寒い。Tシャツを布団にしていたが、不思議と21時から朝まで熟睡出来たそうです。夜中に誰かに蹴られたり、殴られたりする事は一切なく、コンコンと眠ったと。なので毎晩、神様に感謝をしていたそうです。なぜなのか?それは釈放後に分りました。チェコ国中の人達が、24時間祈りのチェーンで祈り続け、特に毎晩20-21時は、家族が祈っていました。チェコとは1時間の時差があるので、ちょうどその祈りの時間は、ピーター氏がいる国では21-22時となり、ちょうど眠りにつく時間と同じだったそうです。
あと、運よく命が助かったある女性の証もありました。この女性は、ピーター氏の活動を助けてくれている方です。秘密警察に、クリスチャンでい続けるのか?と聞かれ、「はい」と言った時、首をザックリ切られ下水溝に捨てられ、奇跡的に助かるまでの2時間半の間、うっすらと輝いてる真白の布で覆われた人々が手を繋いで彼女の周りを囲っていたと。あれは天使たちだったと。 もっともっとたくさん話されていました。全部理解できなかったのが残念だったけど、本当に素晴らしい時間でした。
改めて、自分が実際にこのような状況に遇ったら、どうなるんだろう?信仰を貫き通す事が出来るのか?など、深く深く考えさせられました。
神様、このような時を与えてくださった事を感謝します。もう一度、信仰とは何なのか?を考える事が出来た事に感謝します。

ピーター氏(向かって左のひげの男性)の投獄された日々を書いた本です。タイトルは直訳で、「人生のための結婚指輪」
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新型コロナウイルス関連の報道では、数多くの医師がメディアに登場して、自身の知見を述べている。しかし、最前線で感染者たちと接している医師の話をじっくりと聞く機会は意外と少ない。実際にはその患者を診たことがない「専門家」(中には医師ではない者もいる)のオピニオンのほうが多く流布されている。現場からの声として紹介される多くは、治療現場の苦境といったところに限定されているようにもある。
そこで今回、ある総合病院で新型コロナウイルスを実際に診察し、また現場の統括もしているベテラン医師に匿名を条件で本音を語ってもらった。匿名にした理由は「特におかしなことを言ったつもりはありません。同じように考えている医師も多いと思います。でも、ただでさえ忙しいのに、病院あてに抗議などが来るとたまらないから勘弁してください」というものである。
――お勤めの病院はどんな感じですか?
現状をお話しする前に、平時の病院、医療がどうだったかを少しご説明させてください。
もともと日本は国民皆保険ですし、東京は医療へのアクセスが極めてイージーになっていました。中学生までは医療費ゼロですし、救急車を呼んでもお金は請求されません。欧米なら数万円は確実に取られます。それゆえ、子供を昼間病院に連れて来られないというだけの理由で、救急外来を夜間に普段使いするような親までいたのです。
だからいつも病院が混雑していることが問題になっていました。一方で、開業医の先生を含めて医療機関側もそれで儲けていた、という面もあったことは否定できません。「どんどん来てください」とやって、医療費は国に負担してもらえばいいのですから。
ただ、新型コロナウイルスの影響で、普段は安易に病院に来ていた方が減ったので、全体としての患者数は減っています。
感染症や救急を担当していない病棟や医師はむしろ時間に余裕ができているようです。不要不急の手術も延期にしていますから。
1、2月に比べて3月の病院全体の収入は3割減というところでしょうか。病床の稼働率も10%ほど下がっています。
おそらくこれは開業医などでも同様でしょう。「売り上げ」が落ちて困っているところもあるだろうと思います。
一方で、私たち新型コロナの担当医たちだけは忙しくなっています。
うちの病院では新型コロナの診察を救急医が受け持つようにしています。その担当医らの仕事は、大雑把にいって1.5倍になっているという感じです。ただでさえ忙しかったところに、仕事が急増しました。
私が若い頃は救急を専門とする医師は月15日くらい当直というのが当たり前でしたが、さすがに今はそうはいかないので、当直は月6~8日くらい。週休2日は確保できるようにして、休日出勤の際には代休も取るように、という方針でした。
これがさっき言ったように仕事量が増えているため、「当��、代休は取れません」という感じになっていて、実感としてかなりキツい日々が続いているのは事実です。
私自身は現場の診療の他に、病院全体の感染症対策等々の仕事が増えました。省力化できたことといえば、テレビ会議が増えたので結果として会議の時短などが進んだことでしょうか。
――新型コロナに関しては、膨大な情報量が発信されています。この状況をどう見ますか?
SNSで誰もが発信できるようになったことで、不安をかきたてる情報が溢れすぎている、という印象はあります。
また地上波のテレビ、ワイドショーがセンセーショナルに伝える傾向があるのは良くないと思っています。たしかに政府の言う通りのことを流すのでは政府広報になってしまうので、良いことだとは言えません。
しかし、恐怖を煽って,今の対応が危険だと強調しすぎているように思います。
現政権が嫌いなのかもしれませんが、それと医学の問題は別です。
現在の政府方針、専門家委員会の方針は、専門的な知見のある人たちが議論して打ち出したものであり、相応の合理的な判断だと現場の医師から見ても思います。
ですから煽られておかしな行動をとるのではなく、とにかく今の対策を守ってもらわないと,収束できるものもできなくなると思います.
にわか専門家のコメントが全部間違っているとは言いませんが、大事なことをうまく伝えられていないと感じます。自称専門家はもちろん、芸能人の方などの不用意な発言でも、視聴者は扇動されます。
外国の例を簡単に紹介するのも問題です。「海外ではこうだ」というのですが、それぞれの国によって医療レベル、保険制度、国民性、文化など異なる背景があります。だから安易に「あそこがいい」「ここがいい」という話ではありません。
「アフリカの〇〇ではこうだ」と言われても、その国は常に様々な感染症の脅威が存在する国かもしれません。その国の政策を参考にする、といっても無理があるのではないでしょうか。
――「何もしないと42万人が死ぬ」というシミュレーションも恐怖を煽っていたのではないでしょうか?
あれはあくまでも「何も対策を講じなければ」という前提で、最悪の事態を示したのですから、「ステイホーム」を訴えるという点では良いのではないでしょうか。
「エアロゾル」感染といった言葉が独り歩きしたせいで、ちょっと勘違いがあるように思うのですが、基本的には空気感染ではなく接触・飛沫感染です。だからちょっと話をした程度であれば、問題はない。
空気感染だと思うと「じゃあ空気がいいところなら大丈夫」という勘違いが生まれます。ここが心配です。
たとえば「空気がいい」ゴルフ場に行く、公園でジョギングをする、というのは問題ないように思っている方もいるでしょう。
たしかにゴルフ場でプレーするだけなら感染はしないでしょう。しかし、その前後に外食をしないでしょうか。ジョギングの最中に無意識にガードレールを触って、その手で顔を触り……となってい���いでしょうか。
そういうリスクがあるからこそ、「ステイホーム」と呼び掛けているわけです。あくまでも個人的な、そしていささか楽観的な見方ですが、きちんと自粛をしていれば、あと1、2カ月のうちには良い状態が来るのではないか、と思っています。
――そうした報道に煽られて、検査や診察を求める患者さんが殺到していて、かえって病院が困っているとも聞きますが、どうなんでしょう?
確かに、必要とは思えない患者さんが検査を求めてくる事例はあります。直接こちらの病院には来なくても、かかりつけ医から紹介状をもらってきて、検査を求めるケースです。そういう人の中で検査を断られた人が、SNSやテレビで「検査も受けられない」と主張することもあるのでしょう。
ただ、この間、数多くの新型コロナウイルス感染者を診てきた者として言えるのは、「この人は陽性だな」と思う人は検査に回さなくても、ほぼわかる、ということです。あくまでもその診断を確定させるために回すのです。病歴を聞き、問診をして、CTを撮り……といった診察の過程でかなりの確率でわかります。
ところが、そうした経験のないお医者さんが、患者さんに強く言われたとか、あるいは患者さんサービスの一環で検査を求めるとどうなるか。結果として、本当に早く確定して欲しい人の検査スピードが遅くなります。
これが問題です。
――テレビに出ている「専門家」の強い主張の一つが、「とにかくPCR検査を増やすべき」というものでした。これはどうなのでしょう?
これは絶対に間違いです。少しでも専門知識がある人は、全くこれを望んでいません。
他国と日本が違うのはこの点で,本当に医師が疑った例にのみ検査をやっている点で感染の広がりをコントロールできていることは確実です。
とはいえ確かに検査のスピードは遅かったから、そこは今改善を進めています。
ただし、誰彼構わず検査をオーダーできるような状況を作らなかったことは100%正しかったと考えています。
日本のように国民皆保険の国で、なおかつ感染症に詳しくない町のクリニックのようなところまでもが、自由にPCR検査をできるような環境を作っていたら、間違いなく院内感染が多発していたでしょう。おそらくニューヨークやイタリアの比でない状況になったと思います。
「かかりつけ医」に相談することは否定しません。しかし、そこに多くの人が押し寄せたら結局クラスターを発生させかねません。そういう状況を作らなかった点では、当初、検査を絞ったことは決して批判されるようなことではないのです。
現在報告されている院内感染にしても、慣れてない人が普段使わないような感染防御具を適切でない使用をしたがために他の人や患者に感染させる例があとを絶ちません。
ドライブスルーでのPCR検査を増やせ、という意見についても、乱暴に思います。病院外での検査体制は進めたほうがいいでしょうが、やり方を間違えるとかえって感染者を増やすことにもなりかねません。
別の観点から補足���せてください。
毎年のインフルエンザの流行の仕組みをご存じでしょうか。
PCR検査が注目されることで「偽陽性」「偽陰性」といった言葉もよく目にされるようになったと思います。前者は「本当は陰性なのに陽性と出ること」で後者��「本当は陽性なのに陰性と出ること」ですね。
実はインフルエンザの検査でも「偽陽性」「偽陰性」は一定の確率で発生します。日本では「インフルエンザかな?」となったらまず病院に行って、検査をしてもらって、タミフルを飲んで、ということが当たり前に思われている方が多いかと思います。
でも実は、こんなことをしている国はそんなに多くありません。一つには先ほどから言っているように、医療費が高い国では、そのたびに大変な料金が発生するので、いちいち検査しない、という人が多いのです。また、タミフルは病気を治す薬というよりは、よくなるまでの期間を短くする(7日が5日半になる)という性質のものです。
アメリカならば、この検査とタミフルだけで下手をすると500ドルはかかるでしょう。だから多くの人は「家で寝て回復を待つ」のです。私もそうしています。
ところが日本は医療費が安いことに加えて、「休むなら証明書を出せ」という習わしが学校や企業にあるので、こぞって病院に来て検査を求めるわけです。
問題は、インフルエンザの簡易キットの感度は7割から8割なので、2~3割の人は本当は陽性なのに「陰性」という結果になります。
その人たちは、病院のお墨付きをもらったということで、自由に動き回りますから、コミュニティの中で感染を広げます。実は、これが毎年のインフルエンザの流行の大きな原因なのです。今回のことを教訓に、「インフルの証明書がないと休めない」といったおかしな慣習はなくしてほしいものです。何にせよ具合の悪い人は休むべきです。結果としてそのほうが学校や職場のためにもなります。
そして、今年、インフルエンザがあまり流行していないのは、多くの人が手洗い、うがいをして、なおかつちょっとでも具合が悪ければ、自ら行動を抑えるようにしたからです。その結果、「実はインフル」の人が感染を広めなかったわけです。
話をPCR検査に戻せば、検査の無闇な拡充に反対している人たちが怖れているのは、インフル同様に、「お墨付きを得た、でも本当は陽性です」という人が感染を広めることにつながりかねないからです。
よく韓国やイタリアのほうが日本よりも検査数が多い、といって日本を批判する人がいるのですが、これは話がまったく逆です。韓国やイタリアは最初に検査数を増やし過ぎたために、感染を広めてしまったのです。
「医療資源が無限にあり」「偽陽性の人でも全員どこかにちゃんと収容できて」「(偽)陰性の人が行動を慎んで他人にうつさないようにする」という前提がすべてそろっていれば、検査数をどんどん増やすのもいいでしょう。
しかし、そもそも検査はそんなに簡単なものではありません。検査というのは少なくとも検体を取る人と、検体を検査する人の両者がいてはじめて検査ができるのです。仮に医師会の先生たちが頑張って検体をたくさん出しても、検査する人が増えなければ結果が出るのがより遅くなってしまいます。本当に必要な検査が滞るのです。
もしも「やる気になればできる」と言い張る方がいるのなら、ぜひそういう人材がどこにまだ眠っているのかを教えていただきたいものです。
検査の技術の習得は一朝一夕にはできません。だから長期的な観点では、もっと日本はこういう検査���スピーディにできるようになればいい、と言われれば「その通りです」と答えます。
しかし、今まさに感染爆発を防ごうとしている時期に実現不可能なことを言っても仕方がありません。
テレビに出ている中でも、自称「専門家」ではなくて、本物の専門家の先生方もいらっしゃいます。そうした方に、「日本のPCR検査数は少ないのでは」とか「より検査体制を充実させられるといいのでは」と問えば、「そうですね」と答えるでしょう。それ以外の答えをしようがありません。
しかし、それで「それみろ、やっぱりPCR検査が足りないんだ」と言い張るのはやめてください。
繰り返しますが、現場で本当にこの病気を診ている医者で、もっと検査数を増やせ、などと言っている人はいないはずです。
――ではなぜお医者さんの中で「PCR検査を増やせ」という声が根強いのでしょうか?
例年、この時期はインフルエンザの患者さんで病院、特に開業医さんは混み合うのです。経営のことを考えると患者さんがたくさん来るのは悪いことではないと考える先生もいるでしょう。今年はインフルエンザ自体が流行していませんし、万が一新型コロナウィルスに感染している患者に検査をすれば、感染のリスクがあるためほとんど行われていません。現在、新型コロナの診察はあまりやっていないでしょうが、一部の人にとっては「検査は怖いから検査センターにお願いするとして、診察は引き受けたい」といったモチベーションがあるかもしれません。
そういう人にとっては、かりに「PCR検査センター」のようなものが出来れば、都合が良いかも……というのは穿った見方でしょうか。
――「WHO」の関係者と名乗る方、ノーベル賞受賞者の方もPCR検査を増やすように主張していますが。
海外にいて、どのくらい日本の事情をご存じなのかわかりません。また、たとえノーベル賞を受賞された素晴らしい先生方であっても、必ずしも感染症やこの病気の専門家ではないので、仰ることがすべて正しいとはいえないと思っています。
医学はそれぞれの科や専攻の専門性が高い分野なので、たとえノーベル賞受賞者であっても、専門外のことには確証を持って発言していないのではと感じることもあります。
なお、「検査、検査、検査」というWHOの事務局長の発言もいまだに曲解されている方がいます。あれはあくまでも発展途上国などで検査を軽視している国に対してのメッセージであって、日本などを念頭に置いているわけではありません。
――ただ、検査をまったくしないと不安だという気持ちもよくわかります。「37.5度が4日間続くまで様子を見る」と言われても、その間に急激に悪化したら……と不安になるのでは。
気持ちはよくわかるのですが、熱だけが兆候とは限りませんし、本当に具合が悪くなったら救急車を呼ぶほうがいいと思います。新型コロナ以外でも、いろいろな病気がありえるのですから、本当に具合が悪い時はそうするべきでしょう。
また、これからは「陽性だけれども症状がない」という方はホテルなどに入ることになりました。このメリットは単に隔離されるというだけではなくて、そこには医療スタッフが必ずいるということです。症状が悪化した場合には、そのスタッフが対応します。
このところ脚光を浴びているのが血中酸素濃度を測って患者さんの状態を観察するというやり方です。入院患者や経過観察の対象の方の濃度をチェックするのは意味があるでしょう。ちなみに、その際に用いるパルスオキシメーターを発明した青柳卓雄さんが、先月亡くなられました。コロナの報道に紛れてしまい、あまり大きくニュースでは扱われませんでしたが、世界に誇るべき日本発の医療技術であることは知っておいていただきたいと思います。
――死者数や感染者数を見るとインフルエンザと大差ない、いやインフルのほうが深刻だ、といった意見についてはどうお考えですか。
たしかにウイルス自体の病原性や感染力は同等だと思います。空気感染はしないので、結核と比べると感染力は弱いともいえます。
ただ、高齢者や合併症のある人への進行度合いは半端ではありません。日本は医療レベルが高いので、余り若年者は死んでいませんし、今後もそうでしょうが、感染した高齢者の一定数は救いようがないままに亡くなります。
実際に診察しての実感を一言でいえば、「この病気はヤバい」です。
多くのウイルス性肺炎は、自身の持つ免疫力で打ち克つことができます。
新型コロナウイルスは、若い人と比べて高齢者が重症化しやすいことはよく知られていますが、では両者の違いは何か、といえば免疫力になります。肺炎が重症化しても、踏ん張っているうちに回復に向かえる。だからICUやECMOで治療をして、「もうちょっと頑張れる」ようにするのです。しかし、その間にダメージを回復できなければ最悪の場合、亡くなることになります。
少なくとも私の病院では、例年、インフルで亡くなる人はまずいません。それまでにちゃんと治療をして、回復してもらっているからです。しかし今回は、すでに何人もの方が亡くなっています。だから「ヤバい」と感じるのです。
――世界的に見た場合、日本は死者数、重症者数が少ないのはなぜでしょうか。これを政府の陰謀のように言う方もいますが。
実際に少ないと思います。それはいろんな理由が考えられるでしょう。
まず衛生観念が高い、といったことがよく指摘されます。清潔な水が近くにある、靴を履いたまま家に上がらない、とか。そういうこともあるかもしれません。
また、繰り返しお話ししているように、医療レベルの高さ、アクセスのしやすさは大きいと思います。
多数の死者を出したアメリカでは、救急車を呼ぶのにも、病院にかかるのにもかなりのお金がかかります。そうすると、具合が悪くても病院に行かない、行けないといった人は一定数出てしまいます。今回亡くなった多くの人が貧困層だというのはそういうことでしょう。「日本でもタライ回しがあるじゃないか」と言われるかもしれません。確かにそういう問題は解消されていません。
しかし、たとえば東京都では救急医療について「東京ルール」というものを10年前に定めています。「5つの病院に断られた」「30分以上搬送先が見つからない」といった場合には、東京都が定めた地域救急センターに搬送する、というルールです。他の自治体でも様々な取り組みが進められていると聞きます。「日本はダメだ」と言うのは自由ですが、他の国と比べて決して引けを取るようなシステムにはなっていないと思っています。
「BCGが有効」という説も聞きますが、これはまだよくわかりません。そういうこともわかればいいとは思いますが、少なくともそれは現場の私たちが判断できることではないのです。
なお、「検査数が少ない��ら死亡者が目に見えていないだけ」といった主張は完全に陰謀論の類です。たとえば別の肺炎死だとか、謎の死者が急に激増しているというのであれば、そういう仮説も立てられるのでしょうが、そんなことはまったく起きていません。
――最前線にいる立場で、メディアや一般の人に言いたいことなどはなんですか。必要な支援はありますか?
私たち医療従事者はいま別にお金が欲しくて働いているわけではなく、使命感で働いています。
相当なストレスを抱えながら、普段以上に働いています。実際の担当ではない医師や看護師にも大きな影響を与えています。
たとえば、陽性だけれども症状がない、といった患者さんを専門外の個室に入れることがあります。するとそこの看護師さんは慣れないながらも感染者の面倒を見て、しかもそれが他の患者さんにうつらないようにしなければならない。普段とはまったく異なるプレッシャーがかかっていて、精神的に追い詰められている関係者は数多くいます。
私も今は家に帰れる日は限られていて、あとは病院が用意したホテルに宿泊するようにしています。
また、精神的に追い詰められた職員らのための対策も考えなくてはならない状況です。最初に病院全体の患者数は減ったとは言いましたが、対応をしている病院のスタッフは本当に大変なのです。
最近は家庭内感染が増えてきましたが、最初の頃は「夜のお店」近辺の感染者が非常に多くいました。
そんな状況下で、テレビのニュースを見ると「自粛で大変。補償してほしい」といった「夜のお店」の声を紹介しています。もちろん当事者の方々が大変なこと、そういう感情を持つことは理解できます。でも、毎日ギリギリのところでやっている身からすれば「いま補償の話なの?」という違和感を抱いてしまったのも正直なところです。「これから大変な戦いが予想されるのに、もうお金の話? それもごく一部の業界の? 議論の優先順位がおかしいのでは」と感じました。
どうか私たち現場の人間が日々、頑張っていることをご理解ください。そうしたお気持ちを持つ方が多いことは励みになります。医療従事者へのエールは素直にうれしく思います。
そして���早くこのような状況を終わらせるためにも、とにかく皆さんは感染しないように、感染を広げないようにふるまっていただきたい。これは強く訴えたいことです。
接触・飛沫感染に注意せよと言われても、具体的に何が大丈夫で何がダメか、わかりにくいことと思います。実際にその細かい線引きはできません。だからこそ「極力人との接触を避ける」「極力外出しない」という大きな方針を打ち出しているのです。それを守ったうえで、手洗いを丁寧にマメに行ってください。
また、特にメディアの方にお願いしたいのは、善意や問題意識からなのでしょうが、常に「国(厚労省)や都のやっていることは間違いだ」といった論調の報道は考えていただきたいところです。
先ほども申し上げたように、日本のこれまでの対応は決して間違っていません。死者数を見れば明らかです。「世界が疑問視している」といった報道ばかりが目立ちますが、海外では日本を評価する報道も出ています。単にそれがあまり紹介されていないだけです。
死者数が少ないことをもっとポジティヴに捉える論調が増えてもいいのではないでしょうか。
私たちは国や都の定めた方針の中で動いており、それに背くことはありません。しかし、国も都も、いろいろと考えたうえで方針を打ち出しています。その決定過程には私たちも関与しています。
明らかに間違った方針が出れば、私たちも声をあげます。そういう判断ができないほど現場の医師たちは馬鹿ではないのです。
デイリー新潮編集部
2020年5月2日 掲載
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孤独を手放してはいけないよ

長いこと懸案材料だった仕事をなんとか一つ終え、頰の凍りそうな夜に飯田橋駅を深く深く地下に潜った。
大江戸線へ至るソ連のSFのような回廊を歩いていると音楽を遮って通知音が鳴った。取り出して画面を見るとメッセージが届いている。 「なんか孤独で死にそう」とある。街子からだった。
街子はモード誌の編集部で働いている。 フランス語に堪能で、赤坂でフランス人の女の子と眼鏡屋の男の子と三人で暮らす街子。金色に染めたショートカット。その前は波打つゆたかな栗色をしていた。愛嬌たっぷりの幅広い二重でぎゅっと笑う。小柄。 彼女の休日のほとんどが大勢の人と楽しく過ごす予定で埋まっている。 彼女はあらゆるものを愛している。街子が何かを嫌いだと話すのを聞いたことがない。 お願い事が上手。彼女の引越しには友人たちが山ほど駆り出されていた。 街子は惜しみなく与える。奪わない。街子は奪わずにもらう。奪わずとももらえる。 彼女のいるところだけきらきらと眩しい。
けれどこんなふうに時々、ぽつりと弱音で私をノックすることがあった。 はあいと返事をしてドアを開くと、孤独でふくらんだ街子がわあっとなだれ込んでくる。 私は街子の話す孤独が何であるのか、なんとなくわかる気がしていた。街子も私がそれをわかるとわかっていてノックするのかもしれなかった。
「なんか孤独で死にそう」 「大丈夫?」 「ごめん、孤独だと泣きつく相手がいるくせに、甘えを言いました」 街子はすぐに己を恥じて蓋をするようなことを言う。その蓋は取り上げねばならない。 「街子がどんなに慰めても癒されない孤独を抱えているのはわかるよ」 「わーん、デスクで泣きそうだよお」
学生の頃は顔見知りの先輩で、大人になってから友達になった。 昔からずっと、私は彼女が人に囲まれていることを羨ましく思っていた。親しくなってからも、僻みは拭いきれず、街子を少し遠く見ていた。 私も彼女の魅力を愛し、彼女を囲む一人だった。 時折泣きつかれても、そんな態度は街子の傲慢だと呆れて妬んで、優しくするふりだけしてどこか突き放してきた。きっと言葉の端々に表れていただろう。 あなたはいくらでも頼る人がいて、そんなにたくさんの人に愛されているのに、どうしてそれに満足できず、あまつさえ孤独だなんて。 きっと私は彼女に冷ややかな目を向けていただろう。それでも、街子はなぜか私と親しくしてくれた。
「何かトラブルがあった時、私は悪くないんだって思おうとして、必死に自分について検証するの。そしたらかえって自分の至らなさばかり浮かび上がってくるの」 「それは、あなたの魅力を成している特性たちが、ふとした時に最悪の結合をすると落ち込んでしまうんだろうね」 「魅力なんかない、単なる至らなさと保身だよ」 「魅力だよ。すべての特性は良くも悪くもはたらく」 「……どんな特性?」
甘えが一瞬、喉に引っかかる。こうして街子が素直に褒められようとするところが、ずっと疎ましくて羨ましかった。てんで子どもだったのだ。 今になって、彼女はこういうとき、本当に溺れかけて何か摑むものをと喘いでいるのだとわかる。 わかるようになってよかった。大人になるってのは実にいいことだ。
「自己洞察が深いところ、言語化に秀でていること、観察力が優れているところ、すごく自然に他者を肯定できるところ……」 「そんなの、みんなできることじゃん」 「そうでもないでしょ」 本当にそうでもない。誰にでもできることではない。
街子はいつも、ひたすら自分の話をする。 私はこんな環境にあって、こんな思想をもっていて、その上でこんな出来事があって、自分のこういうバックグラウンドゆえに出来事についてこんなふうに考えて、こういう結論に至って、こういう行動をとったの。 その行動や選択には環境と思考と自身の性向がこのように影響していて、だから自分にとって誤りではないけど、正しいと確信しているのに満足はできなくて、もやもやしているの。どうしよう? うーん。 街子の選択は間違ってないと思うけど。 でもでもでもね、こうでこうでこんなふうにも感じて、それは私の生育環境がこうで社会がこうで結果こういう価値観にあるからだけど、それを理由にするのは嫌なの。 うーん。 どうしよう? 飲み込むしかないんじゃない? えー、でもでも。
明瞭な論理と適切な語彙を駆使しながら、延々、彼女自身について語る。 私は半分くらい理解する。そして適当にコメントする。 それでも納得のいかない様子で、街子はまたおびただしい言葉を重ねる。 街子の話に相槌をうっているうちに夜は更けて、解散の時間がくる。
えー。帰っちゃうの。泊まっていきなよお。 ごめんね、なんだか疲れちゃった。明日も早いし。 えー。やだやだ。帰らないで。 ごめんね。 うん、ううん、仕方ないね。ゆっくり休んで。ありがとね、愛してるよ。 こちらこそありがとうね。おやすみ。
今日も何も解決してあげられなかったなあと少し疲れて家路につく。
彼女はただ愚痴を言いたいわけではなく、状況の改善を求めて助言を乞う。 建設的だ。それでも私はいつもいささか疲れてしまう。 ずるい、と思っていた。 街子の精緻で詳細な自己分析に始終付き合い、彼女に私を投げかける時間が一切とれなかったことに、一方通行の虚しさを抱く。いやな表現をとれば、搾取されているように感じてもやもやする。そしてそういう自分のエゴの醜さを扱いあぐねて疲弊してしまうのだった。
彼女の一方的で洪水のような吐露は、永遠に終わらない演説は、あまりによく完成されていた。聞き手に私を必要としていないと思わせるほど完結していた。台本があるかのように流暢だった。 私は彼女にボールを跳ね返す壁くらいにしか思われていないのだろうな。 彼女は主役、私はせりふのないその他大勢。 そんなみっともない卑下に取り憑かれた。きっと寂しかったからだ。
「私と近しい人はみんな、今あげてくれたことはできてるもん」 「できる・できないで言えばそりゃあね。度合いの問題だよ。街子は人よりずっとそれができてしまう。特に思考において言語の支配が徹底してるでしょ。たぶん、私の5倍くらい」
相手を差し置いて延々語り続けられるほどに、街子の言語能力はずば抜けていた。
「褒められた、嬉しい」 「思考は言語によるものだけど、判断は言語を介さないから。みんな普通は判断だけで生きてるの。いささか暴論だけど」 「うーん、判断の鈍さに劣等感を感じているのかなあ」 「街子の周り、カメラマンとか、スタイリストとか、モデルとかって、判断が仕事だもんね」 「そうなのかなあ、うーん」
人にできることが自分にできなくて落ち込む気持ちはよくわかる。街子はちょっと落ち込みすぎだけれど。
「ね、ね、さっき言ってた“特性の最悪の結合”って、つまり?」 「つまり、自己洞察ができすぎて、他者のいいところがよく見えて、そこで自己評価が不当に低いとそりゃあ落ち込むよね」
どうしてこの人は、能力にも環境にもこんなにも恵まれているのに、不満を抱え続けているんだろう。なんで自信がないんだろう。 街子が私に彼女の問題をぶつけてくるたびに不思議に思っていた。嫉妬が私を支配しているときは、疎ましくすら思った。可愛くて賢くて朗らかで、誰にでも好かれる、街子のくせに。
「うーん。よく考えてみたんだけど、さっきの話」 「判断力への劣等感?」 「それもだし、自己評価のこと」 「うん」 「やっぱ、ちょっと違うかも。自己評価が低いというより、自分への期待値が高いんだと思うの。自分が好きで、自信はかなりあるもん」
思わずたじろいだ。いつも泣きついてくる友人に対して使っている慰めのテンプレートが無効化されてしまったせいだ。
「あなたはこんなにも素晴らしいのだから自信を持って」と人を諭すのは、簡単で、かつ効果的だ。 嘘じゃないからいくらでも強く言える。いくらでも褒めそやせる。人を褒めるのは気持ちいいし、褒められることで誰もが癒される。 自信がない人に自信の材料を与えるのは気分のいいことだった。お手軽だった。簡単で効果的だった。 当然、街子にも使える手法のつもり��った。
つもりだったが、使えなかった。びっくりした。すごくびっくりした。
でも、このテンプレートが無効化されたこの瞬間、私は本当の意味で彼女のいう孤独の意味がわかった気がした。
わかるよ、と思った。わかる。 「自分への期待値が高い」ことの厄介さが。 自分はもっとできると確信して、できないのは怠慢だと叱責する。叱責することで、伸びる余地がある状況に安堵するのだ。ストイシズムなんかではない。ただの悪趣味である。 その厄介さを、私もよーく知っている。身にしみてわかるよ。
街子は見抜いていたのだ。この自惚れを共有できるのは、私しかいないということを。私もまた彼女のように己を信じて思い上がっているのだと。
「ああ、それはもう、……孤独は避けられないね」
こういったうぬぼれこそが、孤独につながるのだ。 私はようやく彼女の孤独を理解した。自惚れた途端に、人は孤独になる。
寂しいだろうか。孤独であることが。 だけど、それはなんと高貴な孤独だろう。 自惚れて、どこまでも自分と付き合い続けることは、誰にも支えさせずにひたすらに進み続けることは、なんと気高い孤独だろう。 自惚れるだけのものを磨いてきた彼女は、どこまでも気高い。
「だから、自信はあるけど、落ち込むときにものすごく落ち込む」 「そして、誰もこんなふうには落ち込んでいないんだと思って、寂しくて、また落ち込むの」
それでいい、と思う。これを聞いてしまった以上、もう小手先で慰めようとも思わない。 うん、うん、と相槌を打ち続ける。 あなたはそれでこそ、ぴかぴかと光り輝いているのだ。
決して孤独を手放してはいけないよ。 その孤独があなたなのだから。その孤独を手放しては、あなたでなくなってしまうのだから。 人があなたを愛する理由の本質は、その孤独を感じるほどのあなた自身にあるのだから。
「そのわかられなさ故に、あなたはあなたなんでしょ」 「そうなのかなあ」 「そうだよ」 「許されたい気持ちは強いんだけどな」 「はは、許されたとして、どうせ許された自分を許せなくなるくせに」 「そうかもなあ」
そうだよ。笑って言う。 街子もきっと画面の向こうで笑っている。
決して孤独を手放してはいけないよ。
(2019/02/01 10:51)
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スパイク・リー監督・主演『ドゥ・ザ・ライト・シング』 (その2:事件の背景と本作に込めらたメッセージ) 原題:Do The Right Thing 制作:アメリカ, 1989年. ベッドスタイの夏の日の朝、ラヒームの死を思う者は誰もいなかった。しかし、ラヒームは誰かの手で計画的に殺されたわけではない。かといって、「太陽が眩しかった」から殺されたわけでもない。 ラヒームはなぜ警官の犠牲になり、スパイク・リー監督はこの映画に何を込めたのだろうか。本稿では、(その1)の現場風景を手がかりに、映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』の背景と本作に込められたメッセージを探ってみたい。 なお、以下の記述のうち現場に関連する多くは、(その1:物語の現場はどうなっていたか)に状況を記し、文中に登場する会話は太字で示した。
CONTENTS ・日常の均衡を象徴するラヒーム ・黒人と白人双方の憎しみが黒人の犠牲者を生む ・なぜ、ムーキーはゴミ缶を投げたのか? ・黒人殺害事件の背景:(1) 格差の実態 ・黒人殺害事件の背景:(2) 格差を生む教育システム ・黒人殺害事件の背景:(3) 恐るべき警察の収監システム
日常の均衡を象徴するラヒーム 本作はベッドスタイの街を、愛と憎しみが拮抗する日常風景から描きはじめている。全体として怒りと憎しみの描写が目立つが、愛と寛容も描かれている。 DJダディは愛と尊敬を込めて、60人もの黒人ミュージシャンの名前を読み上げる。酔っ払いの老人ダー・メイヤーは、諍いに出会うたびに仲裁し、18年ものあいだ愚痴を欠かさない未亡人に、なけなしの金をはたいてバラの花束を贈ったりもする。 ときには警官も寛容さを発揮する。街の若者が消火栓で水を撒き散らして遊ぶなか、通りかかった白人のクルマに水を浴びせる場面では、告訴すると怒る白人を警官がとりなし、黒人の若者を無罪放免にしたりする。 反対に、生活の苦しさや家族の軋轢を描いた場面は数多くある。ムーキーには恋人のティナとの間にできた男の子がいる。しかし、ティナと同居している母親との折り合いが悪く、寝泊りするのは妹のジェイドのアパートだ。ティナは子守をしてくれない母親と言い争い、面倒見の悪いムーキーに「くたばればいい」と罵声を浴びせる。だが、その母親が子守をするアパートの別室で、ティナはムーキーと愛し合ったりもする。 ラジオ・ラヒームはこの相反する感情のバランスを体現するかのようだ。彼はいつも手に下げたラジオで大音量の "Fight The Power" を鳴らしている。しかしラヒームは、そのことで「戦い」をしているわけではない。「愛が勝つんだ」と言い、子どもと手をつなぎ楽しげに街を歩く姿も見える。ラヒームにとって "Fight The Power" は、日常を彩るラップ曲に他ならない。だがラヒームは、憎しみを忘れたお調子者ではない。 両手にはめた "LOVE" と "HATE" の指輪は、そうした日常の象徴だ。ラヒームはムーキーに、「憎しみで人は殺しあう、愛が人の魂に触れる。最後は愛が勝つ」と話す。このときムーキーは「じゃ、後でな。平和を」といって別れている。ラヒームもムーキーも、憎しみを抱えながら愛の力で日常をやり過ごしている。 街のあちこちで、愛と憎しみのバランスを取りながら生きる人々の姿が伝わってくる。これが真夏のベッドスタイの日常風景なのだろう。スパイク・リー監督が本作の前半でこうした日常を描いて見せたのは、それがひとつの「正しいこと」だからだろう。だがその正しさは、穏健な牧師の説教のようなものではない。 黒人と白人双方の憎しみが黒人の犠牲者を生む 『ドゥ・ザ・ライト・シング』の前半で描かれる日常風景は、事件への伏線に他ならない。 サルのピザ屋にバギンがやってくる。ひと切れのピザに文句をいい、支払いを渋るバギン。それをサルが、「月賦で支払うか?」とからかったそのひと言で、保たれていたはずの均衡が崩れはじめる。このときバギンは壁の写真に黒人が一人もいないと文句を言い、これが高じて店のボイコットへと発展する。 そして、サルがラヒームのラジオをバットで叩き割ったことで、事件はさらに深刻になる。互いの暴力行為が警察の介入をもたらし、警官の過剰対応がラヒームを死に追いやる。過剰対応を招いた警官の心情はほとんど描かれていないが、街をパトロールする警官が黒人に目線を定め「クソったれ」と漏らす場面が描かれている。 このときパトカーにいた二人の警官が、ラヒームを警棒で締め上げ殺害した当事者だ。しかし、同時にこの警官はサルの店でピザを買い、黒人の水遊びに腹を立て告訴するという白人をなだめ、黒人少年を逃したりもしていた。白人警官の黒人に対する憎しみがわずかしか描かれていないのも本作の特徴だろう。 白人もまた黒人に憎しみの心情を抱きながら、なんとか愛と憎しみのバランスに折り合いをつけながらベッドスタイの日常を過ごしている。しかし、このバラ��スは黒人にとっても白人にとっても、少しの不注意や不寛容で崩れてしまう脆弱なものだ。その上でスパイク・リー監督はアメリカ系アメリカ人の登場と彼らへの悪口を控えているように見える。これは、白人が黒人を貶めるほどには白人を責めてこなかった、黒人の姿の反映かもしれない。 ラヒームが言うように、愛と憎しみのせめぎ合いのなかで人は殺し合う。だが、この日ベッドスタイでKO勝ちしたのは憎しみの方だった。店のボイコットを切っ掛けにラヒームは自らの憎しみをサルに向け、白人警官の憎しみは黒人のラヒームに向けられた。二重の憎悪が愛と憎しみのバランスを狂わせ、ラヒームがその犠牲になった。 黒人と白人の双方が憎みあい、黒人に多くの死をもたらす構造は、過去に起きた同種の事件に共通している。スパイク・リー監督は本作を「エレノア・バンパーズ銃撃事件」他5名の犠牲者に捧げているが、その6人はすべて黒人だ。直近では今年5月25日にミネアポリスで起きた「黒人男性拘束死事件」でも犠牲者は黒人だった。これだけを見ても、映画に描かれた状況は30年以上も変わっていないことがわかる。 なぜ、ムーキーはゴミ缶を投げたのか? 『ドゥ・ザ・ライト・シング』で最も興味深い場面は、ラヒームが死亡したあとの顛末である。パトカーが動かなくなったラヒームを運び去ったあと、ムーキーが思わぬ行動に出る。大型のゴミ缶をサルの店のウインドウに投げつける場面だ。これがきっかけで街の住人は暴徒化し、店の什器は破壊し尽くされ、現金が盗まれたあげく店に火が放たれる。 なぜ、ムーキーは店を破壊する行動に出たのか? それはムーキーが、サル一家を暴徒から助けようとしたから、というのがわたしの見方だ。本作が描く現場には、そう思わせるさまざまな状況証拠がある。 ムーキーがゴミ缶を投げる前、群衆の怒りがサル親子に向けられる場面がある。ムーキーもサルらの側に立ち、詰め寄る人々の怒りに囲まれる。このときのムーキーの表情が印象的だ。彼はサルの家族に視線を向け、祈るような仕草をする。ムーキーは「このままではマズイことになる」と思ったのだろう。 店で妹と食事を楽しみ、サルから給料をもらい、ピノと話が通じるムーキーの心情が、サルたちへの憎しみ一色だとは思えない。「家に帰れ」という警官にムーキーが「ここが家だ」叫んだように、彼らは日常をともに過ごす「家」の住人なのだ。彼はその生活の絆が徹底的に破壊されるのを避けたかった。だからこそムーキーは、群衆の気を引くように「憎しみだ!」と叫びながらゴミ缶をサルの店に投げてみせた。人々の怒りをサルたちにではなく、店に向けさせるために。 ムーキーの心情に憎しみのカケラもなかったかと言えば、そうでもないだろう。彼は何度も仕事ぶりをサルにけなされている。ピノとの折り合いも悪かった。その鬱憤を晴らす気持ちもあったかもしれない。それでもムーキーは、人々を暴動に誘おうとしてゴミ缶を投げたわけではない。彼の行動の本質は、サル一家に決定的な危害が及ぶのを阻止しようとことにある。別な見方はあるかも知れないが、わたしはムーキーの行動をそのように受け止めた。 このことは、群衆の怒りの矛先がコリアン雑貨店に向かう場面と辻褄が合う。サルたちはこのとき、雑貨店が餌食になる様子を息を飲むような表情で見つめていた。そこに、犠牲になりかねなかった自分たちの姿を重ねたからだろう。サルたちは、無関係の彼らが自分たちの身代わりになることを案じたのではなかっただろうか。 他にも証拠がある。翌朝、ムーキーは未払いだった250ドルの給料をもらいに焼け落ちたサルの店に行く。その際のやり取りで、激昂しながらもサルはムーキーがゴミ缶を投げたことを責めていない。普通に考えて、自分の店にゴミ缶を投げつけて壊し放火を招いた相手を目の前に、責めないことがあるだろうか。なぜ、サルはそのことを口にしなかったのだろうか? それはサルがゴミ缶を投げたムーキーの心情を知っていたからだ。また、ムーキーはサルが投げてよこした500ドルのうち、残りの250ドルもポケットに入れている。このやりとりでムーキーはサルに、「借りておく」と言っている。サルとの関係はこれからも続くということだろう。 店への破壊行為、友人の死、さらには店への放火といった暴力行為を描きながら、この作品を通じてスパイク・リーは、愛と憎しみの平衡を何とか取り戻そうとする主人公の姿を演じている。"Fight The Power" が "Black Lives Matter(黒人も大切にしてくれ)" の叫びに聞こえる。これは本作で彼が監督として示した一貫した姿勢だと思う。穏健な改革派のキング牧師と、暴力を否定しなかったマルコムXを同時に登場させたのもその現れだろう。 スパイク・リー監督が『ドゥ・ザ・ライト・シング』で行って見せたのは、時には暴力に訴えることもあるがやり過ぎてはいけない。ともかく黒人も大切にしてほしいという、ごく当たり前の訴えなのだと思う。 黒人殺害事件の背景:(1) 格差の実態 それにしても、本作に描かれた事件と同種の事件が後を絶たない。本作は制作年の1989年までに起きた同種の6つの事件に捧げられているが、本稿を書いている現在も先月5月25日にミネアポリスで起きた「黒人男性拘束死事件」の余波は世界的な広がりをみせている。 そして、またあらたな事件が起こった。数日前の6月12日、ドライブスルーで警官に撃たれた黒人男性が死亡した。こうした事件は、アメリカで1964年に公民権法が制定された後も絶えることがない。 ミネアポリスの「黒人男性拘束死事件」は、その後 "Black Lives Matter" として世界的な抗議活動に発展し、1) 現在も収まる気配がない。そうしたなか、この種の事件が起こる背景についてさまざまな報道が行われている。その多くは経済格差とその背後にある政治や司法の問題を指摘し、さらにトランプ大統領の政策が影響しているとする意見も多い。 例えば、6月11日付けの日本経済新聞は「黒人暴行死事件の背景を探る」として、黒人の置かれた状況をデータで示すとともに、人種差別の歴史を振り返る特集記事を掲載している。前者の要点は次のようなものだ。個々の詳細は、元記事2) を参照いただきたい。
白人の世帯年収平均金額の中央値は黒人の1.7倍 黒人の無保険者は白人の1.8倍 コロナによる黒人の死者数は白人の約2.5倍 各人口あたりの警官による殺害は黒人が白人の約2.8倍 マリファナ使用による逮捕者数は黒人が白人の約3.7倍 警察の呼び止めを正当と思う人は黒人より白人が多い 黒人有権者のトランプ氏支持率は9% 黒人はバイデン氏の支持率が圧倒的に高い
一見して白人と黒人の間の格差は大きく、記事がいう国家的な仕組みが関係しているとしか考えられないものだ。そうであれば、その制度を擁護し、声高に「アメリカ・ファースト」を主張し、「白人至上主義者にも良い人はいる」といった発言を繰り返すトランプ氏が黒人から嫌われるのは当然のことだろう。 トランプ氏のトレードマークにもなっている「アメリカ・ファースト」については、その差別的な背景について、2018年公開の『ブラック・クランズマン』のなかでスパイク・リー監督が鋭く切り込んでいる。同作品よれば「アメリカ・ファースト」には、明らかに白人の黒人に対する差別が込められている。 こうした差別や格差に関するデータについては、例えばソキウス101の「アメリカの貧困と格差の凄まじさがわかる30のデータ」などにより詳しく取り上げられている。3) 子どもの貧困、寿命格差、食糧支給、ホームレスなど、より広範な視点で世界中に広がる格差の状況を概観することができる。 黒人殺害事件の背景:(2) 格差を生む教育システム だが、こうした記事やデータを読むだけでは不公平な制度の中身はわからない。このため、日経記事が掲げるような問題、例えば黒人が白人よりも大幅に低所得なのは、彼らが働かないからだと思い勝ちだ。 本作でもムーキーがピザ屋に顔を出して最初の会話は、ピノからの「遅刻だ」の一言だ。通りを掃除しろと言われても、「オレの仕事はピザの出前だ」と聞こうとはしない。さらにムーキーは、配達中に道草をしてサルに叱られ「出前にはビトを(見張りに)付けよう」といわれたりする。そもそも、映画に登場するベッドスタイの住人のほとんどは働いていないように見える。 こうした描写を見ると、アメリカの保守派が口にする自己責任論がもっともらしく思えてくる。保守派にしてみれば保険も自己責任で費用を負担し加入しているのであって、働こうとしない人々に自分らが負担してまで保険制度を適用するのは反対だという考え方になる。これはオバマケアでさんざん議論されたことだ。 しかし、雇用、保険、教育など、人間が生きる上での基本的人権にかかわる制度自体に歪みがあり、黒人の雇用が狭められているとすれば、働かないのは働けない仕組みのせいになる。この点について、本田創造氏の『アメリカ黒人の歴史 新版』に次の記述がある。4)
「黒人問題」は、すでに詳しく述べた公民権運動の数々の輝かしい差別撤廃の成果にもかかわらず、依然として解決されていないということである。(…)しかし、黒人大衆の経済状態は、最近では、むしろ悪化さえしている。それは、かれらの存在そのものが、最高度に発達したアメリカ資本主義の重要な存立基盤のひとつとして、この国の社会経済機構の中に差別されたかたちで構造的に組み込まれているからである。 (Kindle の位置No.2903-2908).
同書は1964年に旧版が出たあと、公民権運動の中心となった黒人解放運動などを書き加え、1991年に新版として出版された。引用にある「最近」は、映画の舞台となったベッドスタイの時代と重なる。そしてその当時から現在まで、白人と黒人の経済格差はいっこうに縮まっていない。本田氏の言う「社会経済構造のなかの差別」は当時からおよそ30年を経過した現在も続いていることになる。 この制度問題に関する記事は必ずしも多くないようだが、ニューヨーク在住のライター堂本かおる氏が制度的人種差別について、「白人警官はなぜ黒人を殺害するのか 日本人が知らない差別の仕組み」のなかで次の指摘をしている。5)
米国の公立学校の財源はほとんどが固定資産税で賄われており、貧困地区と裕福な地区の極端な税収格差が、子供たちが受ける教育格差に直結している。こうした要素が重なり、貧しい黒人の子供たちが学力格差を克服するのはほぼ不可能に近いとさえ言われている。
また、同記事を補足する形で、ショーンKY氏が「アメリカの格差と分断の背景にある自治体内での福祉予算循環」と題する記事のなかで、アメリカに現存する制度的な差別の実態と構造を詳しく論じている。6) 格差社会アメリカの構造を知る上で有用な内容で、わたしは次の一節に至る理由を読んで、アメリカの格差問題は本当に根が深いと思った。
アメリカにおける自治体別の格差は、本質的には所得格差に由来するものである。これがなぜ人種格差と結びつくかと言えば、(…)それが学校・警察を経由した格差の相続装置であり、一度生じた格差を時間が経つごとに拡大させるエンジンになっているからである。
格差の発生源を「時間とともに格差を拡大させるエンジン」と形容したのは秀逸だと思う。この喩えを広げれば、税収は燃料、教育システムはエンジンと燃料で動く内燃機関になるだろう。 エンジンは富裕層が住むゲートの内側と外側にあり、それぞれの燃料(税収)の多寡に応じて働く。燃料が豊かなゲートの内側では教育設備や環境が整い効率的に富の生産が行われる。一方、燃料が乏しいゲートの外では設備の不足や老朽化が進み、教師も満足とは言えず価値の生産が滞りその質も低下する。 さらに言えば、ゲートの内側では学力の向上が高学歴を促し、生徒が社会に出て政治の世界に手が届くと、豊かな教育を受けた本人は自身の育ちを肯定的に捉え、内燃機関(教育システム)を信奉するようになる。反対にゲートの外側では劣悪な教育が犯罪の温床となり、そこでは機能しないエンジンを直そうとする者も育たない。エンジンの例えが秀逸だと思ったのは、ここで説明されている教育システムが、白人中心に営まれるアメリカ社会の原動力をうまく表現していると思ったからだ。 教育制度が抱えるこうした差別的な構造は、黒人��賃金を抑え白人社会に利益を移転する搾取の問題以上に、学習意欲や労働意欲を阻害する点で、人生により根本的で深刻な危害をもたらす。学校の設備は貧相で古いものばかり、そのうえ教師の能力も劣る。家に帰れば、貧しい家計が食事や医療を圧迫する。そうした環境で多くの黒人が育つとすれば、彼らが白人と同等の学ぶ意欲を持つのは容易ではないだろう。白人が同じ環境に置かれれば、同様に意欲を削がれはずだ。意欲なしには十分な知識や給与は得られない。生きる意欲なしに、一体どうすれば生活が良くなるのだろう。格差は拡大する一方だ。 ムーキーらが暮らす1989年のベッドスタイは、ゲートの外にある文字通り"DO-OR-DIE"の世界である。映画のなかで本の話題が二度出るが、どちらも「お前が本を読むか?」とからかうネタにされている。少なくてもムーキーとティナの子ヘクターがゲートの外にいる限り、彼を働き者に育てるのは容易ではないだろう。社会のシステムが、両親が得た以上の教育を受けることを困難にしているからだ。 映画のなかでムーキーは25歳だ。彼はちょうど公民権法が制定された年に生まれたことになる。本田氏の指摘によれば、その後「黒人大衆の経済状態はむしろ悪化」した。ムーキーの労働意欲の欠如と低い収入は、アメリカ社会の制度的な歪みが大きく関係していると思われる。ベッドスタイの人々の多くは、働かない生活を自己責任で選び取ったのではないだろう。黒人のすべてがそうだとは言えないが、その多くは働く意欲を削ぐ社会的な仕組みの犠牲者だというしかない。 黒人殺害事件の背景:(3) 恐るべき警察の収監システム 教育システムとともに、もうひとつ制度上の大きな問題がある。警察の収監システムである。『ドゥ・ザ・ライト・シング』のなかで収監そのものが描かれているわけではないが、これも当時の黒人の生活や、ラヒームが犠牲になった背景に関係している。 先日の「黒人男性拘束死事件」に端を発したデモの映像で、何度か警察予算の削減を訴えるプラカード "DEFUND THE POLICE" を目にした。7) この標語は "BLACK LIVES MATTER" とともに、この種の事件が発生するたびに何度も使われてきたスローガンである。 英語版のWikipediaによれば、"DEFUND THE POLICE" は警察からの資金を分離し、社会サービス、青少年サービス、住宅、教育、その他の地域社会の資源など、公共の安全と地域社会の支援といった非警察的な形態に向けて再配分しようと訴えるものだ。8) さらに解説を読み進むと、こうしたスローガンが生まれた背景に、凶悪犯罪を取り締まるはずの警察が軽犯罪ばかりを取り締まり、人種的偏見にもとづく、貧困層を狙い撃ちにした逮捕が横行する実態があることがわかる。 映画で描かれたラヒームとサルの喧嘩も、殴り合いだけなら軽犯罪で済んだことだろう。顔見知りで同じ街で生活を共にしてきた二人が、もつれあいのなか相手を殺害するとは考えにくい。もし、そうなりそうなら周りが止めただろう。サルはバットでラジオを壊しはしたが、バットでラヒームに殴りかかりはしなかった。また、ラヒームも凶器を持っていない。それが警察の介入で殺害へと変貌するのは、日常的に繰り返される逮捕の多さと、安易に過剰に走る取り締まりに問題の一端があると思わせる。 軽犯罪を理由に大量の人々を逮捕するには、警官の人件費や装備費に多額の予算が必要になる。こうした実状から、弱いものを狩る部隊と化した警察予算を分離し、弱いものを救うためのサービスに予算を振り替えようといのが "DEFUND THE POLICE" の主旨だが、そうなる理由を掘り下げて考えるには、Netflixが独自に制作した動画『13th -憲法修正第13条-』(以下、『13th』と略記)がひとつの手掛かりになる。9) 動画は奴隷解放がいかにして収監システムに姿を変えたかを、歴史を振り返りながら伝えている。奴隷解放宣言(1863年)のあと公民権法が制定(1964年)され黒人への人種差別はなくなったはずだが、奴隷だった黒人の多くは受刑者として、新たな制度に引き継がれたという。 動画の題名になっているアメリカ合衆国憲法修正第13条は、公式に奴隷制を廃止し、奴隷制の禁止を定めたものだが、「犯罪者を除外する」という主旨の例外規定がある。この例外規定が犯罪者を奴隷扱いすることを可能にしたというのが『13th』の本質を成す主張である。動画は概ね次のように述べている。
公民権法が制定されて、400万人の奴隷をどうするかが問題になった。彼らは南部の経済や生産に欠かせない存在だったからだ。では、奴隷だった者をどうするか? 奴隷の恩恵を得て伸びてきた経済をどうするか? この二つの問題解決に修正13条の抜け穴が利用された。
この抜け穴が大量の受刑者を生み出す原点となった。 いうまでもなく受刑者は刑務所に収監され、社会や家族��の接触を断たれる。動画によればその数は、2014年の時点で230万6,200人を数える。国別ではアメリカが世界最多、米国内の人種別では黒人が受刑者の40.2%を占めるという。しかも、1980年から2000年までの20年間で、受刑者の数はおよそ3.5倍という増加ぶりだ。下図にアメリカ国内の受刑者数の推移を示す。10)
なぜ、これほどの数の受刑者がいて、しかも急激に増えたのだろうか? 動画はこの背景に、刑事司法制度と産獄共同体が抱える問題があると指摘している。前者の司法制度については、そもそも「容疑者に対する裁判そのものが行われていない」として次のように述べている。
保釈金を払って保釈されようと思えば1万ドルが必要だが、貧しい家庭ではできない。そこで、検事から司法取引が持ちかけられる。「司法取り引きするなら3年、裁判をするなら30年の刑だ。それでも裁判をするか?」貧乏人は裁判をしない。拘留された人のうち97%は裁判を断念し、司法取引に応じている。これは考えうる限り、アメリカにおける最悪の人権問題のひとつだ。
有罪か無罪かの真実ではなく、富が結果を決める現実がある。しかも、司法取引に応じて身に覚えのない罪を認め有罪になれば、その後生涯にわたって社会的な制限を受けることになる。 『13th』によればそうした社会的な罰は、学生ローン、事業免許、食糧配給券、家の賃借、生命保険など全部で「4万にもおよび」、「アラバマ州の黒人男性の約30%が、前歴のせいで投票権を永久に失っていることを誰も知らない。」という。掛けられた嫌疑の真実がどうであろうと、いったん有罪の烙印が押されれば、その印は一生ついてまわる。お金の多寡で罪が決められ、社会の仕組みによって罰が与えられるとは、何という悲惨、何という不幸だろうか。 こうした現実が長きにわたって続いているのは、司法制度と産獄共同体(産獄複合体とも呼ばれる)が一体となり、収監システムとして機能しているからだという。上述のWikipediaによれば複合体は、企業、政治家、メディア、看守組合などの利権集団で構成される。このうち『13th』で具体的に言及されるのは、CCA(Corrections Corporation of America)と呼ばれる民間刑務所会社、ロビー団体の米国立法交流協議会ALEC(American Legislative Exchange Council)とその会員企業である。動画はかなりの時間を、産獄複合体の実態についての説明に充てている。 それによれば、CCAはアメリカ初の民間刑務所会社として1983年に発足した。発足当時は小さな会社だったが、現在では全米60ヵ所以上で施設を運営している。Wikipediaによれば、直近の売り上げは約20億ドル、純利益1.9億ドル、従業員14,075人とある。売上高純利益率からいえば、すばらしい成績の優良企業だ。11) CCAがこれだけの好成績を上げていられるのは、刑務所が常に満杯で、しかも年々収容者数を増やしてきたからだ。『13th』はそれがどのように成し遂げられたかを次のように描いている(主旨)。
CCAは州と契約して投資を行うため、州は刑務所を満杯にする必要があった。CCAの働きかけででALECは、受刑者数を増やすための法案を提出した。クリントン政権の時代、「スリーストライク法」「必要的最低量刑法」「刑期の85%を下限にする」といった法律が次々と制定された。全て彼らが作った自分都合の法律だ。受刑者の安定供給によって生み出された利益は株主の懐に入る。80年代後半から90年台前半にかけて、刑務所運営は成長産業になった。成功が確実に保証された事業モデルだった。こうしてCCAは民間刑務所のトップになり、人を罰することで巨万の富を得ている。
「スリーストライク法」は、重刑を三回犯した者を一生刑務所に閉じ込めることを可能にした。「必要的最低量刑法」は比較的軽微な薬物犯などであっても、強制的に一定期間の拘禁刑を科す法律である。「刑期の85%を下限に」も含め、すべてクリントン政権の時代(1993年1月〜2001年1月)に法制化されたようだ。 収容者を増やすための法律という批判に対し、メリーランド州の上院議員がインタビューに「質問の意味がわからない」と答え、クリントン氏が「受刑者の増加率は減った」と反論する場面もあるが、前掲の図のように1993年から2001年のクリントン政権の時代、収容者は大幅に増えている。一方で、凶悪犯の検挙率が極めて低いことを考えると、収容者を増やすための法律といわれても仕方がないだろう。このような背景のもとで、収監システムは民間の刑務所のビジネスを急拡大させ、社会的な存在感を増していった。 『ドゥ・ザ・ライト・シング』が作られた1989年は、こうした時代の真っ只中にあった。司法と刑務所が収監システムへと姿を変え、貧困層の黒人をまるで利益のための餌のように狩る時代の嵐のなかでこの映画は作られたことになる。『13th』は動画の終盤で次のように訴えている。
理解してほしい、黒人の命だけが大切なのではない、全ての人々の命が大切なのだ。例外は存在しない。刑事司法制度の関係者も、産獄共同体の関係者もそうだ。黒人だけの問題ではない。人間の尊厳について、この国の意識を変える必要がる。
これは、スパイク・リー監督にとっても同じ思いではないだろうか。ムーキーは働かないのではない、働くための途方もなく高い壁を乗り越えられないのだ。その一方で、警官はシステムのなかで働く白人の一人としてラヒームを殺害した。その現場でムーキーはひとりの人間として、イタリア系アメリカ人のサル一家を暴徒から守ろうとゴミ缶を投げたのである。 スパイク・リー監督は本作を制作した29年後の2018年に『ブラック・クランズマン』を作った。その映像に彼は、ラヒームと同様に犠牲になった白人女性ヘザー・ハイヤー氏の、「憎しみのうちには、何人の居場所もない」という言葉を添えている。繰り返すが、ハイヤー氏は黒人女性ではない。生前ラヒームが拳を掲げて言ったように「最後は愛が勝つ」。スパイク・リー氏とともに、わたしもその言葉を信じていたい。
(その1:物語の現場はどうなっていたか)
1)BLMの訴え自体は、2013年2月にフロリダ州で黒人少年のトレイボン・マーティンが白人警官のジョージ・ジマーマンに射殺された事件に端を発すると言われている。 Wikipedia「ブラック・ライブズ・マター」 https://bit.ly/2Y5oGfW 2)日本経済新聞「黒人暴行死事件の背景を探る(上)(下)」2020.06.11. https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60150710Z00C20A6I00000/ 3)ソキウス101「アメリカの貧困と格差の凄まじさがわかる30のデータ」2020.4.30. http://socius101.com/poverty-and-inequality-of-the-us/ 4)本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波書店, 1991. 5)堂本かおる「白人警官はなぜ黒人を殺害するのか 日本人が知らない差別の仕組み」文春オンライン, 2020.6.8. https://bunshun.jp/articles/-/38288?page=2 6)ショーンKY「アメリカの格差と分断の背景にある自治体内での福祉予算循環」note, 2020.6.9. https://note.com/kyslog/n/n5b8601ac8905 7)時事ドットコムニュース「「警察に予算回すな」 デモ継続、改革要求強まる―米」2020.6.8. https://www.jiji.com/jc/article?k=2020060800088&g=int 8)Wikipedia “DEFUND THE POLICE” https://en.wikipedia.org/wiki/Defund_the_police 9)Netflix『13th -憲法修正第13条-』2020.4.17. https://youtu.be/krfcq5pF8u8 10)Wikipedia “Incarceration in the United States” https://en.wikipedia.org/wiki/Incarceration_in_the_United_States 11)Wikipedia「コレクションズ・コーポレイション・オブ・アメリカ」 https://bit.ly/2CjUJA5
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かつてなく老いた涙目の短歌のために
「目は口ほどに物を言うからな」の一言で自分の言葉を信じてもらえなかったら憤慨するだろうけれど、同時に、「じゃあしかたない」とも思ってしまうかもしれない。ことわざを本気で使ってくる人を相手取るとき、そのことわざの力強さに対して自分の正直な心の力は、頑張っても引き分けか根比べ競争に持ち込めるかくらいのものかもしれない。そんなことでいいのか。「口」を信用することなく、「目」に権威を求めてしまうのはなぜだろうか。
わたしの視野になにかが欠けていると思いそれは眼球めだまと金魚を買った
/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
「わたし」=「それ」=「作中主体」が「視野になにかが欠けていると思い」、「眼球と金魚を買った」。眼球の有無は「わたしの視野」の信頼にかかわるだろうか。
「わたしの視野」の信用問題。それは「わたしの視覚」の問題には回収されないだろう。「わたしの視野」を再現すること、報告すること。それは、語りの問題でもある。「わたしの語り」あるいは「わたしについての語り」。
「わたしの視野になにかが欠けていると思い」 「それは眼球めだまと金魚を買った」
と語る者がいる。一人称の「わたし」と三人称の「それ」を使い分けながら〈わたし=それ〉について語る者。あたかも三人称の「それ」に言及するように一人称の「わたし」について語ることのできる、「わたし」でも「それ」でもない語り手。
その語り手は眼球を使って〈わたし=それ〉を見たのだろうか。うーん。語り手として、わたしたちは見たことも聞いたこともないことを語ることができるけど。
それはメタ視点の〈わたし〉だろうか。メタ視点の〈わたし〉と思いたがる態度は、なんとしてでも〈わたしの視点〉を死守しようとする心に由来しないだろうか。もしも、〈わたしの視点〉が〈わたし〉の意識の圏内になかったら、どうするのか。〈わたしの盲点〉が無意識の視点として〈わたしの視点〉になりかわるとき、目が口ほどに物を言い始めるチャンスだ。目だけではない。様々な物たちが物を言い始める。指、髪、鼻、表情、性器、身長、体重、性別、世代、口癖、言い間違い、ファッション、スマホの機種、アクセサリー、食生活、インテリア、嗜好品、社会階層、家庭環境、トラウマ。〈わたしの視点〉を死守する心が〈わたしの盲点〉を前にして挫折するどころか〈無意識のわたしの視点〉をそこに見出すとき、〈わたし〉は言っていないことを言っていて、思っていないことを思っている。ヤバすぎる。無意識の解釈は信頼できる人や権威ある人にやってもらいたい。と、わたしは思うだろう。「と、わたしは思うだろう」と回収する〈わたしたち〉の法。
こんなにインクを使ってわたしに空いている穴がわたしの代わりに泣くの
深ければ深いほどいい雀卓がひそかに掘りさげていく穴は
/平岡直子「鏡の国の梅子」(同人誌『外出』2号)
〈わたし〉の個別性は〈わたしたち〉の法に抵抗できるはずだ。という主張は、きっと何度も繰り返されてきた。〈私性〉はしょせん共同体の一員としての制限された〈わたし〉のことだ、と言ってみたところで、かつての「共同体の一員」たちのなかにも、そのような意味での〈私性〉に回収されない〈この・わたし〉たちが次々と発見されるはずだ。それが本来の意味での〈私性〉だ。話は決まっている。その都度、うまく解釈を施せば、法文を変える必要はない。解釈できないものについては、例外事項として扱えばいい。例外的な〈わたし〉たち。動物、魔法使い、「ミューズ」、など。「穴」はどうしようか。
さいころにおじさんが住み着いている 転がすたびに大声がする
はるまきがみんなほどけてゆく夜にわたしは法律を守ります
/笹井宏之『てんとろり』
あるいは、〈わたし〉など言葉の遊戯の一効果にすぎない、と言ってみたとして。それが〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉ではない、と言い切れるだろうか。ヴァーチャル歌人・星野しずるの作者・佐々木あららは次のように語る。
Q.これ、そもそもなんのためにつくったんですか?
僕はもともと、二物衝撃の技法に頼り、雰囲気や気分だけでつくられているかのような短歌に対して批判的です。そういう短歌を読むことは嫌いではないですが、詩的飛躍だけをいたずらに重視するのはおかしいと思っています。かつてなかった比喩が読みたければ、サイコロでも振って言葉を二つ決めてしまえばいい。意外性のある言葉の組み合わせが読みたければ、辞書をぱらぱらめくって、単語を適当に組み合わせてしまえばいい。読み手の解釈力が高ければ、わりとどんな詩的飛躍でも「あるかも」と受けとめられるはずだ……。そう考えていました。その考えが正しいのかどうか、検証したかったのが一番の動機です。
/佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」
読み手の解釈はそんなに万能ではないだろう。「わりとどんな詩的飛躍でも」、〈わたしたち〉に都合よく「あるかも」と解釈できるだろうか。現在、そのようなことは起きているだろうか。「わからない」「好みではない」「つまらない」「興味がない」「時間がない」といったことはないだろうか。それが駄目だという話ではない。〈理想の鑑賞者〉という仮想的な存在を想定した読者論はありうるが、短歌はそれを必要としているだろうか。AI純粋読者。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに泣くの」
「わたし」は泣いていないのだとして。「穴」があるかも。泣いているかも。
誰の声?
「なんでそんなことするんだよ」で笑いたいし、なんでそんなことするんだよ、を言いたい。〈なんでそんなことをするのかが分かる〉に安心するのは、それがもう「自分」だからだ。「自分」のように親しい安心感なんて、いくつあったっていい。 でも〈なんでそんなことをするのかが分かる〉でばかり生を満たしているとどうだろう、人はそのうち、AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか。
/伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』」
やさしくて、人を勇気づけてくれる言葉だ。そう思う。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに」「AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか」
「わたし」の代わりに泣いているのは何だろう。〈わたしたち〉の法はその涙を取り締まれるだろうか。「泣くことになるんじゃないか」は「泣くな」ではない。「じゃないか」の声の震えは何だろう。もしかして、泣いてるんじゃないのか?
ころんだという事実だけ広まって誰にも助けられないだるま
もう顔と名前が一致しないとかではなく僕が一致してない
あたらしいかおがほしいとト��マスが泣き叫びつつ通過しました
/木下龍也『つむじ風、ここにあります』
機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体
/東直子『青卵』
ナレーションのような声によって、かわいそうなものがユーモラスに立ち上がる。ナレーターの「僕」もなんだかかわいそう。「だるまさんが転んだ」という遊びはだるまを助ける遊びではない。そもそも、鬼に自分から近づいていくような酔狂な者たちは、自身がだるまである自覚があるのか。いや、このゲームにだるまは存在するのか? 助けるに値しないだろ。「顔と名前が一致しない」は、通常、自分以外の誰かに向けられる言葉だが、歌を読み進めていくとそれが「僕」に向けられた言葉���あることが判明する。読者はそれに驚くだけではない。「顔と名前が一致しない」という言葉に含まれる攻撃性が「僕」自身に向けられることで、途端に空気がやわらぐのを感じて、ホッとする。笑う。あ、よかった、大丈夫だった。「僕が一致していない」と言う「僕」のユーモラスなかわいそうさは、このような言葉のドラマによって作られている。お前、かわいそうだな、でも大丈夫そうだ。〈立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ/木下龍也〉。アンパンマンとトーマスのキメラが泣き叫んでいるらしい。「ためいき」の向こう側で。「ためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」。こちらだって、くるおしい。
「ためいき」の向こう側に、言葉が無数の涙を作れてしまうとして。〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉を超えたところに涙を作れてしまうとして。〈わたし〉の涙は計算不可能な可能性の中で生じた一効果なのだとして。涙に理由はないのだとして。やっぱり、本当に泣いている〈わたし〉もいるでしょう? 泣いている〈わたし〉を助けてあげたい? 「なんで泣いているんだよ」。
止まらない君の嗚咽を受けとめるため玄関に靴は溢れた
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
アガンベンの直感はこうである。すなわち、法にとって「思考不可能」なはずの生〔=既存の法では取り扱えない種類の「生」〕、この「生」は法にとって法の空白をなしてしまうものであるが、しかも仮にそこで留まれば、「生」は単なる法外・無法として放置されるはずであるが、しかしそういうことは決して起こることはなく、法は、「生」が顕現するその状態を例外状態や緊急事態として法的に処理しようとする。ここまでは、よい。その通りである。しかし、アガンベンは続けて、そのように「生」が法に結びつけられると「同時」に、「生」は法によって見捨てられることになると批判したがっている。今度は、「生」は、法的に法外へと見捨てられ、あまつさえ無法な処置を施されると言いたがっている。しかし、その見方は一面的なのだ。主権論的・法学的に過ぎると言ってもよい。というのも、「生」の側から言うなら、今度は、「生」が法外な暴力を発揮して、「生」を結びつけたり見捨てたりする法そのものを無きものとし、ひいては統治者も統治権力も無力化するかもしれないからである。そして、疫病の生とは、そのような自然状態の暴力にあたるのではないのか。
/小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、161-162頁、〔〕内注記は平
実状に合わせて、法文書の中に例外事項をひたすら増やし、複雑にすること。その複雑な法文書を読み解ける専門家機関を作ること。それを適切に運用すること。そういった法の運用では〈わたしたち〉の生を守ることができないような事態に直面したとき、法よりも共通善が優先され、法が一時的に停止される。「例外状態」。法の制約から解放された権力が動き出すだろう。法が停止した世界において、それでも法外の犯罪(という語義矛盾)を統制するため。法の制約から解放されたのは権力だけではない。〈わたし〉たちだって法外に放り出されたのだ。「ホモ・サケル」。そこには、〈わたし〉ならざる者たちが、〈わたしたち〉の法を無力化しながら、跋扈することのできる世界があるだろうか。(穂村弘が「女性」という形象の彼方に夢見た世界はそういうものだったかもしれない。*注1)
法外に流されている暴力的な涙はあるだろうか。理由のない涙の理由のなさをテクストの効果に還元して安心しようとするテクスト法学者を、その涙が無力化するだろうか。涙する眼は、見ることと知ることを放棄する。両眼視差と焦点を失いながら、けれどもたんに盲目なのではない涙目の視点。
それは哀願する。まず第一に、この涙はどこから降りてきたのか、誰から目へと到来したのかを知るために。〔…〕。ひとは片目でも見ることができる。目を一つ持っていようと二つ持っていようと、目の一撃によって、一瞥で見ることができる。目を一つ喪失したり刳り抜いたりしても、見ることを止めるわけではない。瞬きにしても片目でできる。〔…〕。だが、泣くときは、「目のすべて」が、目の全体が泣く。二つの目を持つ場合、片目だけで泣くことはできない。あるいは、想像するに、アルゴスのように千の目を持つ場合でも、事情は同じだろう。〔…〕。失明は涙を禁止しない。失明は涙を奪わない。
/ジャック・デリダ『盲者の記憶』、155-156頁
涙目の視点。
振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う
噴水は涸れているのに冬晴れのそこだけ濡れている小銭たち
色彩と涙の国で人は死ぬ 僕は震えるほどに間違う
価値観がひとつに固まりゆくときの揺らいだ猫を僕は見ている
ゆっくりと鳥籠に戻されていく鳥の魂ほどのためらい
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
「振り下ろすべき暴力」などないと話は決まっている。合法の力と非合法の暴力とグレーゾーンがあるだけだ。倫理的な響きをもつ「べき」をたずさえた「振り下ろすべき暴力」などない。語義矛盾、アポリア。けれども、「法外の犯罪」などという語義矛盾した罪の名を法的に与えられるその手前、あるいはその彼方での〈わたし〉たちの跋扈を、「振り下ろすべき暴力」という名の向こうに想像してみてもいい。
語義矛盾のような〈わたし〉は語義矛盾のような言葉を聞くことができる。「世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間」(塚本邦雄)。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。文語定型詩は、二十一世紀の現実に極微の効用すらもちあわせていない。一首の作品は今日の現実を変える力をもたぬのと同様に、明日の社会を革める力ももたない。 私は今、その無力さを、逆手にもった武器として立上がろうなどと、ドン・キホーテまがいの勇気を鼓舞しようとは思わない。社会と没交渉に、言葉のユートピアを設営する夢想に耽ろうとももとより考えていない。 短歌は、現実に有効である文明のすべてのメカニズムの、その有効性の終わるところから生れる。おそらくは声すらもたぬ歌であり、それゆえに消すことも、それからのがれることもできぬ、人間の煉獄の歌なのだ。世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間に、影も音もなく密着し、彼を慰謝するもの、それ以上の機能、それ以上の有効性を考え得られようか。 マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
/塚本邦雄「反・反歌」『塚本邦雄全集』第八巻、28頁
「現実を変える力」を持たぬ「世界の変革者」は、通常の意味では変革者ではない。有罪と裁かれる日も無罪放免となる日も迎えることはない。ということは、その「変革者」は囚獄の中にも現実の中にも生きる場所を持たない。そんな人間いるのか。もしも批評家がその変革の失敗を裁くことでその人間に生きる場所を与え、歴史に刻むならば、その失敗がそもそも不可能な失敗であったことを見落としてしまうだろう。なんて無意味なこと。けれども、目指されていた変革も失敗の裁きもなしに、まったく別の道が開かれることがある。そういう想像力は必要だ。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。
マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
これらのメッセージを、塚本邦雄がそう言っているのだから、と素朴に真に受けてはならないだろう。マス・メディアに随順するのか、塚本邦雄に随順するのか、そういった態度。
筋肉をつくるわたしが食べたもの わたしが受けなかった教育
/平岡直子「水に寝癖」
洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音
/平岡直子「紙吹雪」
「そうなのよ」「そうじゃないのよ」と口調を真似て遊んでいると「砂利を踏む音」にたどり着けない。どんな人にも「わたしが受けなかった教育」があるし、なにかしら「洗脳はされる」。だからなんだよ。今、口ほどに物を言っているのは何。「砂利を踏む音」。くやしい。
リリックと離陸の音で遊ぶとき着陸はない 着陸はない
/山中千瀬「蔦と蜂蜜」
気付きから断定、発見から事実確認、心内語的つぶやきから客観的判断へと、フレーズの相が転移するリフレイン。「リリックと離陸の音で遊ぶとき」、その「とき」に拘束されて、ある一人の人が「着陸はない」と気づいた。気づいてそう言った。けれども、二度目の「着陸はない」からは、「とき」や〈気付きの主体〉の制約を受けないような、世界全体を視野におさめているかのような主体による断定の声が聴こえてくる。聴こえてきた。
「着陸はない」世界に気づいた主体が、一瞬にしてその世界を生ききった上で、振り返り、それが真実であったと確かめてしまった。一瞬で老いて、遺言のような言葉を繰り出す。事実と命題の一致としての真理��、その事実を確認できる主体にだけ確かめることができるのだ。〈わたしたち〉にとって肯定も否定もできない遺言。「だってそうだったから」で提示される身も蓋もない真理は「なんで」を受け付けない。
世界の真理がリフレインの効果によって、身も蓋もない仕方で知らされること。説明抜きに、真理を一撃で提示するという暴力からの被害。それは、爆笑する身体をもたらすことがある。自身の爆笑する身体に「なんで爆笑してるんだよ」とツッコミをしようと喉に力を込めながら、その声を捻り出すことはできずに、ひたすら身体を震わせて笑う。「アッ」「ハッ」「ハッ」「ハッ」と声を出しながら息を吸う。呼吸だけは手放してならないのは、息絶えるから。「着陸はない」と二度繰り返して息絶えてしまうのは、歌の主体だけなのだ。
もちろん、「着陸はない⤵︎ 着陸はない⤵︎」のような沈鬱な声、「着陸はない⤴︎ 着陸はない⤴︎」のような無邪気な声を聞き取ってもいい。「着陸はないヨ」「着陸はないネ」「着陸はないサ」のように終助詞を補って聞くこと。リフレインの滞空時間が終わるやいなや一瞬にして息絶えてしまうような声が〈わたしたち〉に求められていないのだとしたら。
「終」助詞というのは、近代以後の命名だが、話し言葉の日本語の著しい特徴であって、話し相手に向かって呼びかけ、自分の文を投げかける働きの言葉である。だから見方によれば、文の終わりではないので、自分の発言に相手を引き込もうとしている。さらに省略形の切り方では、話し相手にその続きを求めている、と言えよう。このように受け答えされる文は、西洋語文が、主語で始まって、ピリオドで終わって文を完結し、一つ一つの文が独立した意味を担っているのとは大きな違いである。
/柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』、91頁
近代に、西洋の文章を模倣するように、「〜は」(主語)で始まって「た。」(文末)で終わる〈口語文〉が作られた。それ以前には、日本語文には西洋語文に対応するような明確な〈文〉の単位は存在しなかった。句読点にしても、活字の文章を読みやすくするための工夫(石川九楊、小松英雄の指摘を参照)と、ピリオド・カンマの模倣から、近代に作られた。
言文一致体=口語体が生み出されてから100年が経つ。けれども、句読点をそなえた〈口語文〉を離れるやいなや、「着陸はない」が「。」のつく文末なのか終助詞「ヨ・ネ・サ」を隠した言いさしの形なのか、いまだに判然としないのが日本語なのだ。
ところで、近代の句読点や〈文〉以前に、明確な切れ目を持つ日本語表現として定型詩があったと捉えられないだろうか。散文のなかに和歌が混じる効果。散文の切れ目としての歌、歌の切れ目としての散文。
句読点も主語述語も構文も口調や終助詞も関係なく、なんであれ31音で強制的に終わること。終助詞を伴いながらも、一首の終わりに隔てられて、返される言葉を待つことのない平岡直子の歌の声。「着陸はない 着陸はない」のリフレインの間に一気に生ききって、どこかに居なくなってしまう声。
老いについての第一の考え方は、世論においても科学者の世界においても広く共有されている目的論的な考え方で、それによれば、老いとは生命の自然な到達点で、成長のあとに必然的に訪れる衰えである。老いは「老いてゆく」という漸進的な動きから離れて考えることはできないように思える。〔…〕。飛行のメタファー〔上昇と下降〕はまさに、老いをゆっくりと少しずつ進んでゆく過程として性格づけることを可能にする。それは、人生の半ばに始まり、必ずや直線的に混乱なく進むとは限らないとしても、段階を順番に踏んでいくのである。〔…〕。第二の考え方は老いを、漸進的な過程としてだけでなく、同時に、また反対に、ひとつの出来事として定義する。突然の切断、こう言ってよければ、飛行中の事故アクシデント。どれほど穏やかなものであったとしても、すべての老化現象の内には常に、思いもよらなかった一面、破局的な次元が存在するだろう。この、思いもよらなかった出来事としての老化という考え方は、第一の図式を複雑なものにする。老化について、老いてゆくというだけではどこか不十分なのだと教えてくれる。それ以上の何か、老化という出来事が必要なのである。突然、予測のつかなかった出来事が、一挙にすべてを動揺させる。老いについてのこの考え方は、徐々に老いてゆくことではなく、物語のなかでしばしば出会う「一夜にして白髪となる」という表現のように、その言葉によって、思いがけぬ、突然の変貌を意味することができるとすれば、瞬時の老化と呼びうるだろう。〔…〕。かくして、その瞬時性において、自然なプロセスと思いもよらぬ出来事の境界が決定不能になるという点で、老いは死と同様の性格をもつだろう。人が老いて、死んでゆくのは、自然になのか、それとも暴力的になのか。死とは、そのどちらかにはっきりと振り分けることができるものだろうか。
/カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』、76-80頁、〔〕内注記は平
徐々に老いてゆくことと瞬時に老いること。それはたんに速度の問題なのではない。同一性を保ちながら徐々に老化することと、他なる者になるかのように突如として老化すること。衰えること、老成すること、年齢に見合うこと、若々しいこと、老けていること、大人びていること、子供っぽいこと。幼年期からの経験や思考の蓄積からスパッと切れて無関心になってしまうこと、来歴のわからない別の性格や習慣を持つこと。長期にわたって抑え込まれていたものの発現や変異、後から付け加えられたものの混入や乗っ取り。
自分の周りで生きている人々が老いてゆく過程に、私たちは本当に気づいているだろうか。私たちはたしかに、ちょっと皺が増えたなとか、少し弱ったなとか、体が不自由になったなと思う。しかし、そうだとしても、私たちは「あの人は今老いつつある」と言うのではなく、ある日、「あの人も老いたな」と気づくのである。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、80-81頁
内山昌太の連作「大観覧車」では、肺癌を診断された「父」の、余命一年未満の宣告をされてから死後までが描かれる。
父のからだのなかの上空あきらかに伸び縮みして余命がわたる
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
父も死に際は老いたる人となり寝室によき果物を置く
壊れたる喉をかろうじて流れゆくぶどうのひとつぶの水分が
/内山昌太「大観覧車」(同人誌『外出』三号)
「父も死に際は老いたる人となり」。あっという間の出来事だったのではないか。おそらく、「父」はもともと老人と言ってもいい年齢だった。けれど、「死に際」に「老いたる人」となったのだ。
定型と技巧を惜しみなく使って肉親の死を描くこと。「死」は定型と技巧かもしれない。「かもしれない」の軽薄さを許してほしい。定型の両義性。自然であり非−自然であるもの。なんであれ31音で強制的に終わることは人間が作り出した約束事に思われるかもしれないが、それは〈わたしたち〉が自由に交わせる約束よりは宿命に近いだろう。約束は破ることが可能でなければ約束ではない。あるいは、破られる可能性。偶然と出来事。宿命に対する技巧とは約束を作ることだろう。そこに他者がいる。あるいは〈わたし〉が他者になる。
〈作品化することは現実を歪めることである〉という考え方がある。事実と表象との対応に着目する立場。もしも〈父のふくらはぎが「一日花のごとくにしぼむ」かのように主体には見えた〉〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉とパラフレーズするならば、作品は現実を歪めていないと言える。「見えた」「書いた」のは本当だからだ。けれど、そんな説明でいいのだろうか。また口よりも目を信用している。「一日花のごとくにしぼむ」を現実として受け入れられないだろうか。作品をそれ自体一つの出来事として。
「しぼむ」という動詞の形。活用形としては終止形だが、テンス(時制)やアスペクト(相:継続、瞬時、反復、完了、未完了など)の観点から、「タ形」(過去・完了)や「テイル」(未完了進行状態・完了結果状態などさまざま)と区別して「ル形」と分類される形である。西洋文法に照らし合わせるなら、「不定形」あるいは「現在形」だ。(日本語では〈明日雨が降る〉のように「ル形」で未来を表現することもある)。
「しぼんだ」(過去・完了)や「しぼんでいる」(現在・進行)と書かれていれば、〈主体の知覚の報告〉として読めるかもしれない。時制についても、相についても、語り手の位置に定位した記述として読める。けれども「しぼむ」はどうだろう。西洋文法において「不定形」とは、時制・法(直接法、仮定法、条件法など)・主語の単複と人称といった条件によって決められた形(=定形)ではない、動詞の基本的な形のことである。
この不定形的な「ル形」を、助動詞や補助動詞を付けずに、剥き出しにして「文末」にすること。そのような「ル形」の文末は、語り手の位置に定位した時制や確認判断を抜きにした、一般的命題、あるいは出来事そのものの直接的なイメージを差し出すことがある。
柳父章によれば、近代以前にも「ル形」の使用はわりあい多いという。けれども、それは標準的な日本語の用法ではなかった。古くは和文脈の日記文でよく使われていた。漢文体や『平家物語』でも一部使われている。そして、「おそらく意識的な定型として使われたのは、戯曲におけるト書きの文体」(97頁)である(*注2)。日記文やト書きは、原則として読者への語りを想定しない書き物であるため、語法が標準的である必要がないのだ。
文末が「ル形」で終わる文体は、脚本とともに生まれたのだろうと思う。脚本では、会話の部分と、ト書きの部分とは、語りかけている相手が違う。会話の部分は、演技者の発言を通じて、結局一般観客に宛てられている。しかし、ト書きの部分は、一般観客は眼中にない。これは演技者だけに宛てられた文である。〔…〕。 文法的に見ると、ト書きの文には、文末に助動詞がついてない。〔…〕。 すなわち、ト書きの文末には、近代以前の当時の通常の日本文に当然ついていたはずの、助動詞や終助詞が欠けている。「ル形」で終わっているということは、こういう意味だった。 逆に考えると、まともな伝統的な日本文は、ただ言いたいことだけを言って終わるのではない。読者や聞き手を想定して、文の終わりには、話し手、書き手の主体的な表現を付け加える。国文法で言う「陳述」が加わるのである。「ル形」には、それが欠けているので、まともな日本文としては扱われていなかった、ということである。
/柳父章、前掲書、99−100頁
このような来歴の「ル形」は、その後、西洋語文の「現在形」や「不定形」の翻訳で使われるようになり、より一般化した。それをふまえた上で、読者を想定した日本文の中で「ル形」を積極的に使ったのは夏目漱石だった。歌に戻ろう。
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
「しぼむ」のタイムスパンをどう捉えるか。ある時、ある場所で、「一日」で「しぼむ」のを〈見た〉のだろうか。おそらくそう見えたのだろう。けれども、他方で、この歌は「その時、その場」の拘束から逃れてもいる。「しぼむ」には「文の終わり」の「話し手、書き手の主体的な表現」が欠けているのだ。ト書きを読めば、ある時ある場所に拘束されずに、何度でもそれを上演し体験できる。それに似て、この「しぼむ」は読者に読まれるたびにそこで出来事を起こすだろう。
「しぼむ」について、今度は「話し手、書き手」の位置ではなく、「言葉のドラマ」を参照しよう。
「巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくに」
「ふくらはぎ」と「花」は決して似ていない。「花」と言われると、人は通常〈咲いている花〉を思い浮かべるだろう。「一日花」は一日の間に咲いてしぼむ花のことだが、だからこそ、咲いているタイミングが貴重に切り取られるのではないか。「ふくらはぎ」と〈咲いている花〉は形状がまったくちがう。にもかかわらず、〈ふくらはぎ・一日・花の〉のように、「が」や「は」といった助詞を抜きに、似ていないイメージ・語彙が直接に連鎖させられている。意味的にもイメージ的にも、この段階では心許ない。結句にいたっても、「ごとくに」に四音が割かれており、一首全体が無事に着陸する望みは薄いだろう。〈ふくらはぎ・一日花の・ごとくに〉と言われても、「ふくらはぎ」はまったく「花のごとく」ではないのだから。
最後の最後で、「しぼむ」の突如の出現が一首に着陸をもたらす。「突如」として「着陸」が訪れる。「花のごとく」なのは「ふくらはぎ」ではなくて、それが「しぼむ」ありさまであったことが、最後に分かる。
うまく着陸したからといって、〈ふくらはぎ・一日花の〉における語と語の衝突の記憶がすぐに消えてなくなることはない。でなければ、「しぼむ」がこのように訪れてくれることはない。衝突事故をしても着陸すること。「ふくらはぎ」にまったく似たところのない、異質なものとしての「花」が、助詞抜きで直接的に連鎖させられることによって生じる読者の戸惑い。その戸惑いが、結句未満の最後の三音で解消されるという出来事。
「話し手、書き手」から遊離した「言葉のドラマ」の中の「しぼむ」は、もちろん書き手の感性の前に現れた「しぼむ」でもあっただろう。〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉は間違いではない。「父」と〈わたし〉のドラマを「言葉のドラマ」へと還元して、蒸発させてしまってはいけない。それは単純化だ。「社会と没交渉」になってたったの二歩で「言葉のユートピアを設営」してしまうような、一般論として振りかざされる「作者の死」は心が狭い。
靴を脱ぎたったの二歩で北限にいたる心の狭さときたら
/平岡直子「視聴率」(同人誌『率』9号)
内山の作品には、「老い」について「ル形」を使いながら〈語り手=書き手の声〉を聞かせる作品が他にもある。
読点の打ちかたがよくわからないまま四十代、中盤に入る
/内山晶太「蝿がつく」(同人誌『外出』二号)
「ル形」の効果だろうか。歌の語り手はあきらかに書き手だが、仮に書き手である内山昌太が嘘をついていたとしてもこの歌は成り立つだろう。歌のなかでの語り手=書き手=〈わたし〉は「内山昌太」から遊離している。だからといって架空のキャラクターを立てる必要もない。〈書き手の声〉が〈書くこと〉について語っているという出来事が確認されれば、ひとまずはいい。
結局のところ、「読点」は適切に打たれたのかわからない。「三十代」「四十代」という十年のサイクルは規則的に進むが、内山はそこに不規則性、あるいは規則の曖昧さを差し込もうとしている。不規則はどこから生まれるのか。規則が明文化されているかどうか、規則がカッチリしているかどうか、ではない。規則を使うとき、従うときに、不規則が生まれる。「使う」「従う」といった行為。そこには、うっかりミスや取り違え、愚かさや適当さがある。
内山自身による先行歌がある。
ペイズリー柄のネクタイひとつもなく三十代は中盤に入る
/内山晶太『窓、その他』
「四十代、中盤」や「三十代は中盤」というふうに、「◯十代」と「中盤」の間に何かを差し込もうとする手がある。
十年のサイクルについて、あらかじめ目標を立てるのであれ、後から反省するのであれ、「◯十代」という表記はその十年の全体を一挙に指示する。自動的で、明快で、有無を言わせない〈十年の���位〉に対して、「中盤」という曖昧な幅を当ててみること。
「三十代中盤」や「四十代中盤」という表記であったなら、「中盤」は〈十年〉の中の一部として回収されてしまうかもしれない。けれど、「三十代は中盤に入る」、「四十代、中盤に入る」という表記によって、徐々に進行しながら曖昧にその意味や価値を変質させていく、一様ならざる時間の幅へと〈十年〉が取り込まれていくかのようだ。「中盤」っていつからいつまでなんだ。きっと、サイクルごとに「中盤」の幅は伸び縮みするだろう。3年、5年? 8年くらい中盤で生きる人もいるのかな。
眠ること、忘れることを知らないで、昼的な覚醒を模範とする精神には、決して捕捉されることのない曖昧な時間。その時間のうちに〈十年の単位〉を巻き込んで、一身上の都合から伸び縮みするリズムの個人的な生を主張する視点。〈君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている/大森静佳〉と好対照だ。というのは、「リズムの個人的な生」の主張は、それを意識すればその都度タイムリミットのように減っている〈十年〉への不安とペアなのだから。
「中盤に入る」は淡々とした地の文の語りのようでもありながら、規則的に進行する〈十年〉のテンポに従うことのない「中盤」の速度を確保しようとする〈わたし〉の主体的な決意の言葉のようでもある。歌から聞こえてくる声が、三人称視点的な叙述なのか一人称的な心内語やセリフなのかの微妙な決定不可能性は、〈十年の単位〉について社会に語らされている主体と「中盤」を能動的に語っている主体のせめぎ合いに似る。
十年のサイクルは自然的な所与なのか、社会的な構築物なのか。絶対に無くなる時間の宿命を約束と取り違えること。それから、その約束を破ってしまうこと。二重のうっかりだ。だから、うっかりと変な歳のとり方をする。年齢相応じゃない。うっかりはポエジーだろう。
二つのタイプの老化、漸進的な老化と瞬時の老化は、常に強く絡み合っており、互いに錯綜し、巻き込み合っている。だから、常になにがしかの同一性が、毀損した形であっても存続し、人格構造の一部分が変化を超えて持続するのだと言う人もいるだろう。そうだとしても、どれだけ多くの人が、死んでいなくなってしまう以前に、私たちの前からいなくなり、自らを置き去りにしていくことだろう。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、93−94頁
〈わたし〉という語り手はうっかりと〈わたし〉から離脱してしまうことがある。深い意味もなく。身も蓋もないものの神秘を生み出しながら。その神秘を新たに〈わたし〉の神秘へと統合できるのか、そうではないのか。
君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている
/大森静佳『てのひらを燃やす』
「ねこじゃらし見ゆ」を受ける視点。それは「君」でも「われ」でもなく、「君の死後、われの死後」に、「まだ揺れている」と言うことのできる語り手の視点だ。語り手の案内を受けて導かれた読者の視点だ。読者の〈わたし〉はいったいどこに案内されたのだろうか。「まだ揺れている」と語る「われ」ならざる〈わたし〉はどの〈わたし〉で、「それ」はどこにいるのか。
この歌の視点について、ひとつ現実的に想像してみよう。
現実に、ある時ある場所で、「君」と「われ」が青々としたねこじゃらしを見ている。会話はなく、ねこじゃらしが揺れるのをぼうっと見ている。注意して観察しているのではなく、なんとなく、その青々とした緑色の揺れるのが目に入るがままだ。受動的で反復的な視覚体験によって、体験の主体は動くモノの側に移っていく。ねこじゃらしが揺れれば〈揺れ〉を感じ、こすれれば〈こすれ〉を感じるような体験のあり方。その時、ねこじゃらしの「青々」や「揺れ」は、「君」や「われ」が見ていようが見ていなかろうが、それとは独立に持続する運動のように現象するだろう。
持続するそれは「われ」の主観から独立してイデアルに永続するナニカというよりは、「われ」が〈意識的に見る主体=見ていることを意識する主体〉ではない限りにおいて成立するかりそめの現象だ。その現象に身を任せている間、「われ」は変性意識的な状態かもしれない。意識の持続は、見ていることの自覚ではなく、「ねこじゃらし」の「揺れ」の運動と一致する。「われ」の肉体も〈君とわれ〉の関係もそっちのけで、ねこじゃらしが揺れる。
魂がそのように「われ」から遊離していきながら、やっぱり振り返る。「われ」から遊離した、ほとんど死後的な魂の視点は振り返る。きっと、そうでなくちゃ困るのだ。振り返る視線によって、「君」と「われ」が「視野」に入る。「視野」に入れるという肯定の仕方だ。というのは、ねこじゃらしを見ている限り、「君」と「われ」は互いに「視野」に入らないはずなのだ。
〈君とわれ〉というペアの存在��、「君」も「われ」もいつか死ぬという身も蓋もない事実を絆帯として、常軌を逸した肯定をされてしまった。
「君とわれの死後にも」ではなく「君の死後、われの死後にも」と書き分けられている。「君」と「われ」のどちらが早く死ぬか、死ぬまでにどのような関係性の変化があるか、どのような経験の共有があるのか。そういったことに関心を持つ生者の視点はない。その視点があるならば、たとえば次の歌のように二者の断絶が描かれてもいい。
その海を死後見に行くと言いしひとわたしはずっとそこにいるのに
/大森静佳『カミーユ』
断絶の構図を作らずに、〈、〉で並列させられる形で肯定される関係は何だろう。生前から死後までを貫くような、〈君、われ〉の関係の直観。〈君とわれ〉の「君の死後、われの死後」への変形。その変形による肯定は、〈君とわれ〉の圏内においてはナンセンスだ。〈「君」が死んでも、「われ」が死んでも、ねこじゃらしは変わらず揺れているだろうね〉ならば、それは〈君とわれ〉の相対化だ。それで心身は軽くなるかもしれない。その軽さに促されるように〈生〉のドラマは展開するかもしれない。けれども、生前から死後までを貫く二者の並列関係の肯定にはなりえない。
〈生前から死後までを貫く二者の並列関係〉はナンセンスなフレーズだ。だからこそ、その肯定は常軌を逸している。ナンセンスな肯定が、常軌を逸した視点から、すなわち、「われ」の魂が遊離して別の生の形をとっている間にだけ持続するかりそめの語り手の視点からなされた。
語り手の視点を「死後の視点」と一息に言ってはならない。そう言ってしまうなら、語り手の位置の融通無碍な変化を見落とすことになる。「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」から「まだ揺れている」の間には、語り手の視点にジャンプがある。山中千瀬の「着陸はない 着陸はない」のリフレインと似た効果がこの歌の一字あけにおいても生じているのだ。
「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」という言い切りの裏には、〈見えるだろう〉という直観が働いている。〈直観の時〉があり、〈時〉に拘束された「言い切り」がある。
直観された真実がそのままで場を持つことは、しばしば難しい。けれどもこの歌において、その直観は、一字あけのジャンプを経て、「まだ揺れている」を言うことのできる死後的な主体によって確認されることで場を持つことになる。「まだ〜ている」においては、「ル形」とは異なり、明らかに主体による確認判断が働いているだろう。直観を事実として確かめることのできるような不可能な主体へのジャンプ。
歌が立ち上げる〈不可能な声〉がある。
直観した時点から、それを確認する時点へのジャンプ。そこには、他なる主体の声になるかのような突如の変化と、同じ一つの〈歌の声〉の持続の、二つの運動の絡み合いがあるだろう。一首は一つの声を聞かせる。言葉を強引に一つの声へと押し込めることによって、通常では不可能なことを言うことができる。通常では、ナンセンス、支離滅裂、分裂した声、破綻した言葉のように聞かれてしまうかもしれないものたちが、一つの歌となるときに、〈不可能な声〉を聞かせてくれる。どうして〈不可能な声〉を使ってまで〈君とわれ〉を視野に収めたのだろうか、という問いから先は読者に任せた。
わたしたちに不可能な声が聞こえてくるとき。
「それは眼球めだまと金魚を買った」 「穴がわたしの代わりに泣くの」 「はるまきがみんなほどけてゆく夜」 「僕が一致してない」 「機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」 「振り下ろすべき暴力」 「着陸はない 着陸はない」 「ふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ」 「まだ揺れている」
どんな声でも「あるかも」と思えるように解釈することができるのだとして、わたしたちはどんな声でも、なんであれ聞いてきたのではない。いくつかの不可能な声を聞いてきた。
「不可能な短歌の運命」を予告しつつ、あらかじめそれを過去のものにするために。不可能なものの失敗がそれを過去へと葬ったあとで、そのナンセンスな想起が不可能なものを橋やベランダとして利用できるようにするために。
/平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
2年前に僕はこんなことを書いていた。短歌を書くことも、文章を書くことも、僕にはほとんど不可能なことだった。なにが不可能だったのか。
分母にいれるわたしたちの発達、 くまがどれだけ昼寝しても許されるようなわたしたちの発達、 しかも寄道していてシャンデリア。 青空はわけあたえられたばかりの真新しくてあたたかな船。 卵にゆでたまご以外の運命が許されなくなって以来わたしたちは発達。 教科書ばかり読んでいたのでちっとも気のきいたことを言えなくてごめんなさい。 まったく世界中でわたしたちを愛してくれるのはあなただけね。 ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのにさ。 〔…〕
/瀬戸夏子「すべてが可能なわたしの家で」(連作5首目より、一部抜粋)
ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのに、ベランダから生きてもどろうとしていた。それが僕の抱えていた不可能なことだった。
*注1 穂村弘「〔…〕。それでたとえばフィギュアスケートだったら、スケート観よりも実際に五回転できるってことがすごいわけだけど、短歌においては東直子とかが五回転できて、斉藤斎藤が「いや、俺は跳びませんから」みたいな(笑)、「俺のスケートは跳ばないスケートですから」みたいなさ。僕は体質的には、本当は自分が八回転くらいできることを夢見る、跳べるってことに憧れが強いタイプでね、だから東直子を絶賛するし、大滝和子もそうだし、つばさを持った人たちへの憧れがとくに強い。だからある時期まで女性のその、現に跳べる、そしてなぜ跳べたのか本人はわからない、いまわたし何回跳びました? みたいな(笑)、「数えろよ、なんで僕が数えてそのすごさを説明しなきゃいけないんだよ」みたいな、そういうのがあった。」 座談会「境界線上の現代短歌──次世代からの反撃」(荻原裕幸、穂村弘、ひぐらしひなつ、佐藤りえ)、『短歌ヴァーサス』第11号、112頁
*注2 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』では、ト書きの比較的初期の用例として1753年に上演された並木正三『幼稚子敵討』の脚本から引用している。参考までに、以下に孫引きしておく。 大橋「そんなら皆様みなさん、行ゆくぞへ。」 伝兵「サア、おじゃいのふ。」 ト大橋、伝兵衛、廓の者皆々這入る。 …… …… 宮蔵「お身は傾城けいせいを、ヱヽ、詮議せんぎさっしゃれ。」 新左「ヱヽ、詮議せんぎ致して見せう。」 宮蔵「せいよ。」 新左「して見せう。」 ト詰合つめあふ。向ふ。ぱたぱた と太刀音たちおとして、お初抜刀ぬきがたなにて出る。 『日本古典文学体系53』岩波書店、1960年、112頁 本文で言及できなかったが、ト書き文体と口語短歌について考えるなら、吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座、2019年)を参照されたい。
【主要参考文献】 ・短歌 内山昌太『窓、その他』(六花書林、2012年) 大森静佳『てのひらを燃やす』(角川書店、2013年) 大森静佳『カミーユ』(書肆侃侃房、2018年) 木下龍也『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房、2013年) 木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房、2016年) 斉藤斎藤『渡辺のわたし 新装版』(港の人、2016年/booknets、2004年) 笹井宏之『てんとろり』(書肆侃侃房、2011年) 瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(私家版歌集、2012年) 塚本邦雄「反・反歌」(『塚本邦雄全集』第八巻、ゆまに書房、1999年)(初出は『短歌』昭和42年9月号、『定型幻視論』に所収) 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人、2013年) 東直子『青卵』(ちくま文庫、2019年/本阿弥書店、2001年) 平岡直子 連作「水に寝癖」(『歌壇』2018年11月号) 平岡直子 連作「紙吹雪」(『短歌研究』2020年1月号) 山中千瀬『蔦と蜂蜜』(2019年) 同人誌『率』9号(2015年11月23日) 同人誌『外出』二号(2019年11月23日) 同人誌『外出』三号(2020年5月5日) 『短歌ヴァーサス』第11号(風媒社、2007年)
・その他書籍 石川九楊『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫、2015年) 沖森卓也『日本語全史』(ちくま新書、2017年) カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2020年) 小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」(『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、河出書房新社、2020年) 小松英雄『古典再入門 『土佐日記』を入りぐちにして』(笠間書院、2006年) ジャック・デリダ『盲者の記憶 自画像およびその他の廃墟』(鵜飼哲訳、みすず書房、1998年) 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』(法政大学出版局、2004年)
・ネット記事 伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』 」 佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」 平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
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2019.12.12
リヴリーを博士にお返しする日が近づいてきてしまいました。いつか来ることは頭では理解していたのですが、そんな日は来ないかもしれないなとなんだかのんきな気持ちでいました。私が最初にそのお知らせを知ったのは家でカレーを作っていた時で、あまりにびっくりして涙が止まらなくなって泣きながらカレーを作りました。走馬灯のようにいろんな思い出が頭を巡って、泣きながら頭がボワボワしました。このまま頭がボワボワして行って忘れてしまったら勿体無いので、私の8年間と少しの間のリヴリーにまつわる思い出を自分の日記に記録しておこうと思います。
◆リヴリーを知ってから研究所に入るまで
最初にリヴリーを知ったのは大学の時で、友達がリヴリーをやっていたのがきっかけでした。あまりに可愛くて洗練されたデザインに一瞬で目を奪われて、すぐに大好きになりました。(余談ですがこれ以前にバルビレッジをやっていて、友達と電話しながら『今ここにヒヨコがいるから行ったほうがいいよ!!』とかリアルタイムで白熱したプレイを楽しんでいました。恥ずかしながらまだ同じ方々が作られたゲームだったとは当時は知りませんでした。)
リヴリーを知って以来、Illustratorというソフトで絵を描くことにはまってしまい、別にイラレで描かなくてもいいイラストも一生懸命ベジェで描いたりしていました。イラレは0からの出発だったので、たくさんレイヤーを作ってしまいデータが開かなくなったり、拡大してもしても美しいままのベジェにウットリしたり、はしゃぎつつもてんやわんやでした。就活の時にあんな絵が描けたらいいなと思いリヴリーのサイトを見たのですが募集は見当たらず残念に思った事を覚えています。
そのまま時は流れ、就職して転職して、またのんきに絵を描く仕事をしていたのですが、リヴリーやグリーのハコニワが私の中でとても熱を帯びていて、何かそういうお仕事をしたい気持ちの波が猛烈にやってきました。昔からフリーランスに憧れていたのでフリーになるためにもっと色んな絵のことを勉強したいという思いがあり、当時の職場で学べることは一通り自分の中で吸収できた気がしたので次へ行きたいという思いもありました。
そこで転職活動をしようと思った矢先に、お会いしたことがなく絵もお見せしたことのない方から『リヴリーアイランドのデザイナーに応募してみませんか』という旨のメッセージが届き、『なぜ??』と思いながらも渡りに船だったのでその方に会いに行きました。どういう事なのかざっくりNARUTOで説明すると、木の葉の里の忍が大変優秀な忍ばかりだったので木の葉からの抜け忍が出た際は必ずスカウトして別の里へ紹介しているとのことでした。(私は普通の忍でしたが、確かに先輩方は大変優秀な忍ばかりでした。里の誉れです。)
その後、その方と一緒に研究所へ面接に行きました。皆さんとても優しくてホワホワした気持ちでいたのですが、途中で私の笑いのツボに入る出来事があり面接中なのにひとりで笑いが止まらなくなってしまいそのまま面接が終わりました。こんなにめちゃくちゃ笑ってしまってこの面接は落ちたと思い、帰りの電車で『すみません』と謝ったらその方がニヤリと笑って『僕は受かったと思いますよ』と言われたのが印象に残っています。後日受かったと聞いてビックリしました。
◆リヴリーの研究所に入ってから
リヴリーの研究所に入ってからはもう必死でした。必死すぎて要所要所の記憶しかないのですが、とにかく必死でした。この頃には当然モンスタースープさんを存じており、生み出されたアイテムのデフォルメのセンス、線の美しさ、ユーモア、そしてちょっぴり怪しい様子、絶妙な色彩、全てに震えあがりました。リヴリーたちのために作られた素晴らしい品の数々。改めて見て、そして描こうとすると本当に難しく、除夜の鐘の棒みたいなもので頭をごわんごわん打たれたように衝撃でした。
自分に出来ることはもうとにかく一生懸命練習して勉強して描き続けることしかないと思いました。一に努力、二に努力、三四がなくて五に努力だと心の中の努力マンもロックリーも言いました。というかそれ以外に方法が思いつきませんでした。毎日通勤途中に見るものを一つ一つ、アイテムにするとしたらどこをどう省略してどういうラインのパスを引いてどう塗るか考えながら歩いて、スケッチブックにとにかく描いて、、を繰り返して目をギラギラさせながら歩いていたのを覚えています。うまく行かなくて悔しくて帰り道に駅で泣いた事もありました。(力が足りない自分が不甲斐なくて気がついたら泣いていました。)研究所のスタッフSさんには、優しく根気強くそして丁寧にリヴリーアイランドの世界についてたくさんたくさん大切な事を教えて頂いて、今でも教えて頂いたことの一つ一つを宝物のように思っています。
研究所の方々は本当にお一人お一人が優しくて気持ちをしっかりと持ってお仕事をされていて、色んな事を色んな方から教えていただきました。絵のことだけでなく、仕事を通して本質的に大切なことも勉強させていただく機会が多く、心より感謝しております。
◆リヴリーの研究について
リヴリーの研究にも携わらせて頂いた事は、こうして日記に書き残したり研究のメモを残したりとか、そういう公開の仕方はしないつもりだったのですが、ミュラー博士にとても嬉しい言葉をかけて頂き自分のなかで気持ちが変わりました。僅かばかりですが、ミュラー博士の研究に携わって感じた事を感謝を込めて書かせていただきます。
リヴリーは通心できる、飼い主さんと心をつなげて気持ちを運んで伝えてくれる。そんな優しくて愛おしい存在のリヴリーを研究できることは嬉しさと同時にすごく難しいことでもありました。その子はどんな姿形でどんな気質なのか、生き物としてどんな特徴を持っている子なのか、どんな風に飼い主さんの気持ちを運ぼうとしているのか。一つ一つを解きほぐして紐解いて復活させていくというのは私にとって本当に困難な事でした。研究所の皆さんやミュラー博士の研究に対する熱意とか辛抱強さとか、そういうものをひしひしと感じながら根気強く向き合っていく事をひたすら繰り返す日々でした。
そうやって研究して復���したリヴリーたちは飼い主の皆様のところへ配られてゆきます。普段は飼い主さんとお会いできる機会がなかなかないため、研究発表会はそういう意味でも本当に貴重で嬉しい場でした。飼い主の皆様が集まって嬉しそうだったり楽しそうな様子をそっと拝見できた事は一生の宝物です。私もリヴリーが大好きなんです、あのアイテムいいですよね、って心の中で思ったりたまに少しお話ししたりもしました。
ミュラー博士の研究でリヴリーが復活し、そのリヴリーは飼い主さんと心を繋げる事ができる。リヴリー同士が飼い主さんの言葉を運んで会話ができる。その���連の流れを通して、通心と言う。このコミュニケーションを通じて飼い主さん同士が仲良くなったり世界が広がったりしている。研究発表会でそれを目の当たりにした時に、研究してきた事が報われたような気がしました。あくまでいち研究員として感じただけなのですが、私は人がとても好きなので、その人と人とをとても優しく繋いでくれるリヴリーというちいさな存在の力を感じました。リヴリーは生き物としてあるがままでいるんだと思うのですが、本当に優しい、すごく優しい生き物だなって思います。
そしてリヴリーたちを大切に思っている飼い主の皆様は私にとってすごく大切で大好きな存在で、皆様がこぼしてくださった嬉しい言葉や逆にそうではないご意見、ツイッターでそっと拝見していたのですが、どれもリヴリーの事を思っての言葉でどんな内容も一つ一つが身に染みてとても有り難く、どこでもドアがあるなら一人一人にお礼を言いに行きたい気持ちでいます。もっとたくさんお話ししたりしたかったな。色んな事聞いてみたかったな。きっと他の研究員の方も同じ気持ちなのではないかな?とこっそり思っています。そして飼い主の皆様のリヴリーアイランドへの深い愛情を、今も昔も心より尊敬しております。
◆リヴリーよもやま話
印象深かったのは、ツイッターでリヴリーのぬいぐるみを落としてしまった方がそれを探しているという張り紙がRTで回ってきた時でした。私もピグミーを含めて大切にしているぬいぐるみがいくつかあるので、もしそれを落としてしまったらと思ったら背筋がひゅっと寒くなり、ちょうどその方の落とされたぬいぐるみを持っていたので、もしその子がまだ見つからないならもしよければうちにいる子をお譲りしましょうか?と連絡しました。(いなくなってしまった子の代わりにはならないけれど、放浪している子の帰りをひとりで待つよりは二人の方がいい気がしたからです。)自分がリヴリーに関わっている事は伏せて直接お会いしてお渡ししたのですが、その方の人生の中でリヴリーとの思い出がたくさんある事を聞かせていただけてすごく楽しい時間でした。
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私はエレキコミックというお笑いのコンビがとても好きなのですが、歌舞伎町のロフトでエレキのイベントがあり入場のために並んでいました。入場の際には身分証を見せないといけないのでカバンをごそごそしていたら、近くにいた女の子に『それリヴリーの缶バッジですよね!』と声を掛けられました。当時私は身分証にネオピグミークローンの缶バッジをつけていたのです。(大事なものにつけておいたら無くさないから)歌舞伎町に並ぶエレキコミックファンの中でリヴリーを飼っている人と出会うなんて!とものすごくビックリしました。余談ですがそのイベントで人生で初めてテルミンの演奏を聞きました、片桐仁さんの演奏で。贅沢です
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うちの母は私がリヴリーの研究所でお仕事をするようになってからリヴリーを飼い始めました。母は私の周りではある意味ピカイチ正しくリヴリーを使っており、研究(仕事)中にリヴリーにログインしているとジョワ〜ンと私の島に飛んできて『次、いつ実家帰ってくる?』とか『元気にしてる?』とよく聞いてきました。あと、私の仲良しの研究員の方へ『このイベントが楽しかったって伝えてね』とか、『体に気をつけて』とか、コメントを言付けてきていました。最近では『可愛いリウ‘達に出会えて楽しかったよ。ありがとう。^^』と掲示板に書き込んでくれており、泣けました。
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とある商談会に出展している時に、リヴリーをお好きな方が来て下さって、その方はとても丁寧に商談会のイベントだからとすごく気を遣いながら将来そういうお仕事をしたいとお話してくださいました。自分もそうですがリヴリーをきっかけにデザインやイラストのお仕事をしたいなって思った人ってやっぱりすごくすごく多いのではないかなと思いました。リヴリーに触れる事でいろんな人の人生に素敵な変化が起きているような気がしました。あの時の方も、何かの形であの時の想いがかなっていたらいいなって心の中で応援しています‥!私も同じ気持ちの仲間だよ!って思っています。
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私はコールドブレスさん、モンスタースープさんがリヴリーから離れてしまった後に研究所に入ったので、この人生で皆様にお会いできる機会はもうないものだと思っていました。でもまさかの、モンスターオクトパスさんが歩いていらっしゃるのをお見かけする機会があり、ビックリして追いかけて握手をしていただきました。人生であんなに心から握手で感極まった事はなかったです。コールドブレスさん、モンスタースープさんを本当に尊敬していて、感謝していて、リヴリーアイランドという素敵な世界のおかげで自分がどれだけいろんな喜びや嬉しさを頂いたことか、人生がどれだけ豊かになったことか、イラストレーターとして仕事をして行きたいと強く思っていた気持ちにどれだけ力を添えてくれたことか。挙げだしたらキリがないくらい、途方も無いくらいすごくすごくたくさんの出来事を経験と機会を頂いてきていて、もしもお会いできたら、いつかお会いする機会が万が一あれば、絶対にお礼を言いたいと思っていたので、あの時にお会いできて本当に感謝しています。その後機会があり、他の皆様にもお会いできて、本当に本当に嬉しかったです。感謝しています。
リヴリーたちがまたフラスコで眠りについてしまう事がとても寂しく、思い出す度に色んな気持ちや思い出が蘇ってきていつも涙がぽろぽろになってしまいます。人生の中でこんなに大きな存在になっていたなんて、改めてすごい事だなと感じています。
コールドブレスさん、モンスタースープさん、研究所の方々、飼い主の皆様、全ての方に心より感謝申し上げます。
あと、私の飼っているかわいい子たちにも大きな感謝を!
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あなたにだけは忘れてほしくなかった
アメリカ合衆国、ニューヨーク州、マンハッタン、ニューヨーク市警本部庁舎。 上級職員用のオフィスで資料を眺めていた安藤文彦警視正は顔をしかめた。彼は中年の日系アメリカ人である。頑なに日本名を固持しているのは血族主義の強かった祖父の影響だ。厳格な祖父は孫に米国風の名乗りを許さなかったためである。祖父の信念によって子供時代の文彦はいくばくかの苦労を強いられた。 通常、彼は『ジャック』と呼ばれているが、その由来を知る者は少ない。自らも話したがらなかった。 文彦は暴力を伴う場合の少ない知的犯罪、いわゆるホワイトカラー犯罪を除く、重大犯罪を扱う部署を横断的に統括している。最近、彼を悩ませているのは、ある種の雑音であった。 現在は文彦が犯罪現場へ出る機会はないに等しい。彼の主たる業務は外部機関を含む各部署の調整および、統計分析を基として行う未解決事件への再検証の試みであった。文彦の懸念は発見場所も年代も異なる数件の行方不明者の奇妙な類似である。類似といっても文彦の勘働きに過ぎず、共通項目を特定できているわけではなかった。ただ彼は何か得体の知れない事柄が進行している気配のようなものを感じ取っていたのである。 そして、彼にはもうひと���、プライベートな懸念事項があった。十六才になる姪の安藤ヒナタだ。
その日は朝から快晴、空気は乾いていた。夏も最中の日差しは肌を刺すようだが、日陰に入ると寒いほどである。自宅のダイニングルームでアイスティーを口にしながら安藤ヒナタは決心した。今日という日にすべてをやり遂げ、この世界から逃げ出す。素晴らしい考えだと思い、ヒナタは微笑んだ。 高校という場所は格差社会の縮図であり、マッチョイズムの巣窟でもある。ヒナタは入学早々、この猿山から滑り落ちた。見えない壁が張り巡らされる。彼女はクラスメイトの集う教室の中で完全に孤立した。 原因は何だっただろうか。ヒナタのスクールバッグやスニーカーは他の生徒よりも目立っていたかもしれない。アジア系の容姿は、彼らの目に異質と映ったのかも知れなかった。 夏休みの前日、ヒナタは階段の中途から突き飛ばされる。肩と背中を押され、気が付いた時には一階の踊り場に強か膝を打ちつけていた。 「大丈夫?」 声だけかけて去っていく背中を呆然と見送る。ヒナタは教室に戻り、そのまま帰宅した。 擦過傷と打撲の痕跡が残る膝と掌は、まだ痛む。だが、傷口は赤黒く乾燥して皮膚は修復を開始していた。もともと大した傷ではない。昨夜、伯父夫婦と夕食をともにした際もヒナタは伯母の得意料理であるポークチョップを食べ、三人で和やかに過ごした。 高校でのいざこざを話して何になるだろう。ヒナタは飲み終えたグラスを食洗器に放り込み、自室へ引っ込んだ。
ヒナタの母親はシングルマザーである。出産の苦難に耐え切れず、息を引き取った。子供に恵まれなかった伯父と伯母はヒナタを養子に迎え、経済的な負担をものともせず、彼女を大学に行かせるつもりでいる。それを思うと申し訳ない限りだが、これから続くであろう高校の三年間はヒナタにとって永遠に等しかった。 クローゼットから衣服を抜き出して並べる。死装束だ。慎重に選ぶ必要がある。等身大の鏡の前で次々と試着した。ワンピースの裾に払われ、細々としたものがサイドボードから床に散らばる。悪態を吐きながら拾い集めていたヒナタの手が止まった。横倒しになった木製の箱を掌で包む。母親の僅かな遺品の中からヒナタが選んだオルゴールだった。 最初から壊れていたから、金属の筒の突起が奏でていた曲は見当もつかない。ヒナタはオルゴールの底を外した。数枚の便箋と写真が納まっている。写真には白のワイシャツにスラックス姿の青年と紺色のワンピースを着た母親が映っていた。便箋の筆跡は美しい。『ブライアン・オブライエン』の署名と日付、母親の妊娠の原因が自分にあるのではないかという懸念と母親と子供に対する執着の意思が明確に示されていた。手紙にある日付と母���がヒナタを妊娠していた時期は一致している。 なぜ母は父を斥けたのだろうか。それとも、この男は父ではないのか。ヒナタは苛立ち、写真の青年を睨んだ。 中学へ進み、スマートフォンを与えられたヒナタは男の氏名を検索する。同姓同名の並ぶ中、フェイスブックに該当する人物を見つけた。彼は現在、大学の教職に就いており、専門分野は精神病理学とある。多数の論文、著作を世に送り出していた。 ヒナタは図書館の書棚から彼の書籍を片っ端から抜き出す。だが、学術書を読むには基礎教養が必要だ。思想、哲学、近代史、統計を理解するための数学を公共の知の宮殿が彼女に提供する。 ヒナタは支度を終え、バスルームの洗面台にある戸棚を開いた。医薬品のプラスチックケースが乱立している。その中から伯母の抗うつ剤の蓋を掴み、容器を傾けて錠剤を掌に滑り出させた。口へ放り込み、ペットボトルの水を飲み込む。栄養補助剤を抗うつ剤の容器に補充してから戸棚へ戻した。 今日一日、いや数時間でもいい。ヒナタは最高の自分でいたかった。
ロングアイランドの住宅地にブライアン・オブライエンの邸宅は存在していた。富裕層の住居が集中している地域の常であるが、ヒナタは脇を殊更ゆっくりと走行している警察車両をやり過ごす。監視カメラの装備された鉄柵の門の前に佇んだ。 呼び鈴を押そうかと迷っていたヒナタの耳に唸り声が響く。見れば、門を挟んで体長一メータ弱のドーベルマンと対峙していた。今にも飛び掛かってきそうな勢いである。ヒナタは思わず背後へ退いた。 「ケンダル!」 奥から出てきた男の声を聞いた途端、犬は唸るのを止める。スーツを着た男の顔はブライアン・オブライエン、その人だった。 「サインしてください!」 鞄から取り出した彼の著作を抱え、ヒナタは精一杯の声を張り上げる。 「いいけど。これ、父さんの本だよね?」 男は門を開錠し、ヒナタを邸内に招き入れた。
男はキーラン・オブライエン、ブライアンの息子だと名乗った。彼の容姿は写真の青年と似通っている。従って現在、五十がらみのブライアンであるはずがなかった。ヒナタは自らの不明を恥じる。 「すみません」 スペイン人の使用人が運んできた陶磁器のコーヒーカップを持ち上げながらヒナタはキーランに詫びた。 「これを飲んだら帰るから」 広大な居間に知らない男と二人きりで座している事実に気が滅入る。その上、父親のブライアンは留守だと言うのであるから、もうこの家に用はなかった。 「どうして?」 「だって、出かけるところだよね?」 ヒナタはキーランのスーツを訝し気に見やる。 「別にかまわない。どうせ時間通りに来たことなんかないんだ」 キーランは初対面のヒナタを無遠慮に眺めていた。苛立ち始めたヒナタもキーランを見据える。 ヒナタはおよそコンプレックスとは無縁のキーランの容姿と態度から彼のパーソナリティを分析した。まず、彼は他者に対してまったく物怖じしない。これほど自分に自信があれば、他者に無関心であるのが普通だ。にも拘らず、ヒナタに関心を寄せているのは、何故か。 ヒナタは醜い女ではないが、これと取り上げるような魅力を持っているわけでもなかった。では、彼は何を見ているのか。若くて容姿に恵まれた人間が夢中になるもの、それは自分自身だ。おそらくキーランは他者の称賛の念を反射として受け取り、自己を満足させているに違いない。 「私を見ても無駄。本質なんかないから」 瞬きしてキーランは首を傾げた。 「俺に実存主義の講義を?」 「思想はニーチェから入ってるけど、そうじゃなくて事実を言ってる。あなたみたいに自己愛の強いタイプにとって他者は鏡でしかない。覗き込んでも自分が見えるだけ。光の反射があるだけ」 キーランは吹き出す。 「自己愛? そうか。父さんのファンなのを忘れてたよ。俺を精神分析してるのか」 笑いの納まらないキーランの足元へドーベルマンが寄ってくる。 「ケンダル。彼女を覚えるんだ。もう吠えたり、唸ったりすることは許さない」 キーランの指示に従い、ケンダルはヒナタのほうへ近づいてきた。断耳されたドーベルマンの風貌は鋭い。ヒナタは大型犬を間近にして体が強張ってしまった。 「大丈夫。掌の匂いを嗅がせて。きみが苛立つとケンダルも緊張する」 深呼吸してヒナタはケンダルに手を差し出す。ケンダルは礼儀正しくヒナタの掌を嗅いでいた。落ち着いてみれば、大きいだけで犬は犬である。 ヒナタはケンダルの耳の後ろから背中をゆっくりと撫でた。やはりケンダルはおとなしくしている。門前で威嚇していた犬とは思えないほど従順だ。 「これは?」 いつの間にか傍に立っていたキーランがヒナタの手を取る。擦過傷と打撲で変色した掌を見ていた。 「別に」 「こっちは? 誰にやられた?」 キーランは、手を引っ込めたヒナタのワンピースの裾を摘まんで持ち上げる。まるでテーブルクロスでもめくる仕草だ。ヒナタの膝を彩っている緑色の痣と赤黒く凝固した血液の層が露わになる。ヒナタは青褪めた。他人の家の居間に男と二人きりでいるという恐怖に舌が凍りつく。 「もしきみが『仕返ししろ』と命じてくれたら俺は、どんな人間でも這いつくばらせる。生まれてきたことを後悔させる」 キーランの顔に浮かんでいたのは怒りだった。琥珀色の瞳の縁が金色に輝いている。落日の太陽のようだ。息を吸い込む余裕を得たヒナタは掠れた声で言葉を返す。 「『悪事を行われた者は悪事で復讐する』わけ?」 「オーデン? 詩を読むの?」 依然として表情は硬かったが、キーランの顔から怒りは消えていた。 「うん。伯父さんが誕生日にくれた」 キーランはヒナタのすぐ隣に腰を下ろす。しかし、ヒナタは咎めなかった。 「復讐っていけないことだよ。伯父さんは普通の人がそんなことをしなくてい��ように法律や警察があるんだって言ってた」 W・H・オーデンの『一九三九年九月一日』はナチスドイツによるポーランド侵攻を告発した詩である。他国の争乱と無関心を決め込む周囲の人々に対する憤りをうたったものであり、彼の詩は言葉によるゲルニカだ。 「だが、オーデンは、こうも言ってる。『我々は愛し合うか死ぬかだ』」 呼び出し音が響き、キーランは懐からスマートフォンを取り出す。 「違う。まだ家だけど」 電話の相手に生返事していた。 「それより、余分に席を取れない? 紹介したい人がいるから」 ヒナタはキーランを窺う。 「うん、お願い」 通話を切ったキーランはヒナタに笑いかけた。 「出よう。父さんが待ってる」 戸惑っているヒナタの肩を抱いて立たせる。振り払おうとした時には既にキーランの手は離れていた。
キーラン・オブライエンには様々な特質がある。体格に恵まれた容姿、優れた知性、外科医としての将来を嘱望されていること等々、枚挙に暇がなかった。だが、それらは些末に過ぎない。キーランを形作っている最も重要な性質は彼の殺人衝動だ。 この傾向は幼い頃からキーランの行動に顕著に表れている。小動物の殺害と解剖に始まり、次第に大型動物の狩猟に手を染めるが、それでは彼の欲求は収まらなかった。 対象が人間でなければならなかったからだ。 キーランの傾向にいち早く気付いていたブライアン・オブライエンは彼を教唆した。具体的には犯行対象を『悪』に限定したのである。ブライアンは『善を為せ』とキーランに囁いた。彼の衝動を沈め、社会から悪を排除する。福祉の一環であると説いたのだ。これに従い、彼は日々、使命を果たしてる。人体の生体解剖によって嗜好を満たし、善を為していた。 「どこに行くの?」 ヒナタの質問には答えず、キーランはタクシーの運転手にホテルの名前を告げる。 「行けないよ!」 「どうして?」 ヒナタはお気に入りではあるが、量販店のワンピースを指差した。 「よく似合ってる。綺麗だよ」 高価なスーツにネクタイ、カフスまでつけた優男に言われたくない。話しても無駄だと悟り、ヒナタはキーランを睨むに留めた。考えてみれば、ブライアン・オブライエンへの面会こそ重要課題である。一流ホテルの従業員の悪癖であるところの客を値踏みする流儀について今は不問に付そうと決めた。 「本当にお父さんに似てるよね?」 「俺? でも、血は繋がってない。養子だよ」 キーランの答えにヒナタは目を丸くする。 「嘘だ。そっくりじゃない」 「DNAは違う」 「そんなのネットになかったけど」 ヒナタはスマートフォンを鞄から取り出した。 「公表はしてない」 「じゃあ、なんで話したの?」 「きみと仲良くなりたいから」 開いた口が塞がらない。 「冗談?」 「信じないのか。参ったな。それなら、向こうで父さんに確かめればいい」 キーランはシートに背中を預け、目を閉じた。 「少し眠る。着いたら教えて」 本当に寝息を立てている。ヒナタはスマートフォンに目を落とした。
ヒナタは肩に触れられて目を覚ました。 「着いたよ」 ヒナタの背中に手を当てキーランは彼女を車から連れ出した。フロントを抜け、エレベーターへ乗り込む。レストランに入っても警備が追いかけてこないところを見ると売春婦だとは思われていないようだ。ヒナタは脳内のホテル番付に星をつける。 「女性とは思わなかった。これは、うれしい驚きだ」 テラスを占有していたブライアン・オブライエンは立ち上がってヒナタを迎えた。写真では茶色だった髪は退色し、白髪混じりである。オールバックに整えているだけで染色はしていなかった。三つ揃いのスーツにネクタイ、機械式の腕時計には一財産が注ぎ込まれているだろう。デスクワークが主体にしては硬そうな指に結婚指輪が光っていたが、彼の持ち物とは思えないほど粗雑な造りだ。アッパークラスの体現のような男が配偶者となる相手に贈る品として相応しくない。 「はじめまして」 自分の声に安堵しながらヒナタは席に着いた。 「彼女は父さんのファンなんだ」 ヒナタは慌てて鞄から本を取り出す。 「サインしてください」 本を受け取ったブライアンは微笑んだ。 「喜んで。では、お名前を伺えるかな?」 「安藤ヒナタです」 老眼鏡を懐から抜いたブライアンはヒナタに顔を向ける。 「スペルは?」 答える間もブライアンはヒナタに目を据えたままだ。灰青色の瞳は、それが当然だとでも言うように遠慮がない。血の繋がりがどうであれ、ブライアンとキーランはそっくりだとヒナタは思った。 ようやく本に目を落とし、ブライアンは結婚指輪の嵌った左手で万年筆を滑らせる。 「これでいいかな?」 続いてブライアンは『ヒナタ』と口にした。ヒナタは父親の声が自分の名前を呼んだのだと思う。その事実に打ちのめされた。涙があふれ出し、どうすることもできない。声を上げて泣き出した。だが、それだけではヒナタの気は済まない。二人の前に日頃の鬱憤を洗いざらい吐き出していた。 「かわいそうに。こんなに若い女性が涙を流すほど人生は過酷なのか」 ブライアンは嘆く。驚いたウェイターが近付いてくるのをキーランが手を振って追い払った。ブライアンは席を立ち、ヒナタの背中をさする。イニシャルの縫い取られたリネンのハンカチを差し出した。 「トイレ」 宣言してヒナタはテラスを出ていく。 「おそらくだが、向精神薬の副作用だな」 父親の言葉にキーランは頷いた。 「彼女。大丈夫?」 「服用量による。まあ、あれだけ泣いてトイレだ。ほとんどが体外に排出されているだろう」 「でも、攻撃的で独善的なのは薬のせいじゃない」 ブライアンはテーブルに落ちていたヒナタの髪を払い除ける。 「もちろんだ。彼女の気質だよ。しかし、同じ学校の生徒が気の毒になる。家畜の群れに肉食獣が紛れ込んでみろ。彼らが騒ぐのは当然だ」 呆れた仕草でブライアンは頭を振った。 「ルアンとファンバーを呼びなさい。牧羊犬が必要だ。家畜を黙らせる。だが、友情は必要ない。ヒナタの孤立は、このままでいい。彼女と親しくなりたい」 「わかった。俺は?」 「おまえの出番は、まだだ。キーラン」 キーランは暮れ始めている空に目をやる。 「ここ。誰の紹介?」 「アルバート・ソッチ。デザートが絶品だと言ってた。最近、パテシエが変わったらしい」 「警察委員の? 食事は?」 ブライアンも時計のクリスタルガラスを覗いた。 「何も言ってなかったな」 戻ってきたヒナタの姿を見つけたキーランはウェイターに向かい指示を出す。 「じゃあ、試す必要はないね。デザートだけでいい」 ブライアンは頷いた。
「ハンカチは洗って返すから」 ヒナタとキーランは庁舎の並ぶ官庁街を歩いていた。 「捨てれば? 父さんは気にしない」 面喰ったヒナタはキーランを窺う。ヒナタは自分の失態について思うところがないわけではなかった。ブライアンとキーランに愛想をつかされても文句は言えない。二人の前で吐瀉したも同じだからだ。言い訳はできない。だが、ヒナタは、まだ目的を果たしていないのだ。 ブライアン・オブライエンの実子だと確認できない状態では自死できない。 「それより、これ」 キーランはヒナタの手を取り、掌に鍵を載せた。 「何?」 「家の鍵。父さんも俺もきみのこ���を家族だと思ってる。いつでも遊びに来ていいよ」 瞬きしているヒナタにキーランは言葉を続ける。 「休暇の間は俺がいるから。もし俺も父さんもいなかったとしてもケンダルが 相手をしてくれる」 「本当? 散歩させてもいい? でも、ケンダルは素気なかったな。私のこと好きじゃないかも」 「俺がいたから遠慮してたんだ。二人きりの時は、もっと親密だ」 ヒナタは吹き出した。 「犬なのに二人?」 「ケンダルも家族だ。俺にとっては」 相変わらずキーランはヒナタを見ている。ヒナタは眉を吊り上げた。 「言ったよね? 何もないって」 「違う。俺はきみを見てる。ヒナタ」 街灯の光がキーランの瞳に映っている。 「だったら、私の味方をしてくれる? さっき家族って言ってたよね?」 「言った」 「でも、あなたはブライアンに逆らえるの? 兄さん」 キーランは驚いた顔になった。 「きみは、まるでガラガラヘビだ」 さきほどの鍵をヒナタはキーランの目の前で振る。 「私が持ってていいの? エデンの園に忍び込もうとしている蛇かもしれない�� 「かまわない。だけど、あそこに知恵の実があるかな? もしあるとしたら、きみと食べたい」 「蛇とイブ。一人二役だね」 ヒナタは入り口がゲートになったアパートを指差した。 「ここが私の家。さよならのキスをすべきかな?」 「ヒナタのしたいことを」 二人は互いの体に手を回す。キスを交わした。
官庁街の市警本部庁舎では安藤文彦が部下から報告を受けていた。 「ブライアン・オブライエン?」 クリスティナ・ヨンぺルト・黒田は文彦が警部補として現場指揮を行っていた時分からの部下である。移民だったスペイン人の父親と日系アメリカ人の母親という出自を持っていた。 「警察委員のアルバート・ソッチの推薦だから本部長も乗り気みたい」 文彦はクリスティナの持ってきた資料に目をやる。 「警察委員の肝入りなら従う他ないな」 ブライアン・オブライエン教授の専門は精神病理学であるが、応用心理学、主に犯罪心理学に造詣が深く、いくつかの論文は文彦も読んだ覚えがあった。 「どうせ書類にサインさせるだけだし誰でもかまわない?」 「そういう認識は表に出すな。象牙の塔の住人だ。無暗に彼のプライドを刺激しないでくれ」 クリスティナは肩をすくめる。 「新任されたばかりで本部長は大張り切り。大丈夫。失礼なのは私だけ。他の部下はアッパークラスのハウスワイフよりも上品だから。どんな男でも、その気にさせる」 「クリスティナ」 軽口を咎めた文彦にクリスティナは吹き出した。 「その筆頭があなた、警視正ですよ、ジャック。マナースクールを出たてのお嬢さんみたい。財政の健全化をアピールするために部署の切り捨てを行うのが普通なのに新しくチームを立ち上げさせた。本部長をどうやって口説き落としたの?」 「きみは信じないだろうが、向こうから話があった。私も驚いている。本部長は現場の改革に熱意を持って取り組んでいるんだろう」 「熱意のお陰で予算が下りた。有効活用しないと」 文彦は顔を引き締めた。 「浮かれている場合じゃないぞ。これから、きみには負担をかけることになる。私は現場では、ほとんど動けない。走れないし、射撃も覚束ない」 右足の膝を文彦が叩く。あれ以来、まともに動かない足だ。 「射撃のスコアは基準をクリアしていたようだけど?」 「訓練場と現場は違う。即応できない」 あの時、夜の森の闇の中、懐中電灯の光だけが行く手を照らしていた。何かにぶつかり、懐中電灯を落とした瞬間、右手の動脈を切り裂かれる。痛みに耐え切れず、銃が手から滑り落ちた。正確で緻密なナイフの軌跡、相手はおそらく暗視ゴーグルを使用していたのだろう。流れる血を止めようと文彦は左手で手首を圧迫した。馬乗りになってきた相手のナイフが腹に差し込まれる感触と、その後に襲ってきた苦痛を表す言葉を文彦は知らない。相手はナイフを刺したまま刃の方向を変え、文彦の腹を横に薙いだ。 当時、『切り裂き魔』と呼ばれていた殺人者は、わざわざ文彦を国道まで引きずる。彼の頬を叩いて正気づかせた後、スマートフォンを顔の脇に据えた。画面にメッセージがタイピングされている。 「きみは悪党ではない。間違えた」 俯せに倒れている文彦の頭を右手で押さえつけ、男はスマートフォンを懐に納める。その時、一瞬だけ男の指に光が見えたが、結婚指輪だとわかったのは、ずいぶん経ってからである。道路に文彦を放置して男は姿を消した。 どうして、あの場所は、あんなに暗かったのだろうか。 文彦は事ある毎に思い返した。彼の足に不具合が生じたのは、ひとえに己の過信の結果に他ならない。ジャックと文彦を最初に名付けた妻の気持ちを彼は無にした。世界で最も有名な殺人者の名で夫を呼ぶことで凶悪犯を追跡する文彦に自戒するよう警告したのである。 姪のヒナタに贈った詩集は自分自身への諌言でもあると文彦は思った。法の正義を掲げ、司法を体現してきた彼が復讐に手を染めることは許されない。犯罪者は正式な手続きを以って裁きの場に引きずり出されるべきだ。 「ジャック。あなたは事件を俯瞰して分析していればいい。身長六フィートの制服警官を顎で使う仕事は私がやる。ただひとつだけ言わせて。本部長にはフェンタニルの使用を黙っていたほうがいいと思う。たぶん良い顔はしない」 フェンタニルは、文彦が痛み止めに使用している薬用モルヒネである。 「お帰りなさい、ジャック」 クリスティナが背筋を正して敬礼する。文彦は答礼を返した。
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★5月30日(木)“君に ありがとう”御礼舞台挨拶レポート★
5月30日(木)【“君に ありがとう”御礼舞台挨拶】を実施しました。
「今日はお越しくださいましてありがとうございます。公開して2週間、すごくたくさん色々な感想をいただいています。予定ではこれが最後(の舞台挨拶)でさみしいですけど、最後の最後までしっかり(本作の)魅力を伝えていけたらなと思っています。」と、まずは、主演の永瀬さんからご挨拶。
清原さん、神宮寺さん、久万監督も多くの方々に観てもらえていることへの喜びの気持ちと、舞台挨拶が最後ということへの少しの寂しさを思い思いにご挨拶。
MCさんから映画公開後、どのような感想が届いているかと聞かれ、
「なにわ男子の大西や西畑とか高橋からまぁまぁ長文で感想が送られてきたんですけど、文面で伝えられるのって超恥ずかしいし、僕、会って聞きたい派なんで、全く読んでないです。今度会ったときにしっかり聞きたいと思います」(永瀬さん)
「さっきスタッフの方からもう1回見たくなる作品って言われてすごく嬉しかったです。」(清原さん)
「廉と食事をしているシーンがあるんですけど、ピザ食べているのに、まだ寿司も来るって言ってるけどヤバくない!?って言われて(笑)。」(神宮寺さん)
「友人が観てくれて、映画館で僕1人男でした。って決死の覚悟で行ってくれたれたみたいです。」(久万監督)
と、それぞれのところに届いている反響お聞かせいただきました。
続いて、映画公式twitterで募集させていただいた質問に答えるコーナーに。
時間のある限りご質問に答えていただいています。
(質問をツイートしてくださった皆様、ありがとうございました。)
Q、劇中で1番お気に入りのセリフを教えてください。
「何個か思い浮かんでるんやけど・・・芽雛川家の誕生日パーティの場面で色彩感知能力の説明するところ。原作のマンガでもあったのをマネさせてもらったシーンですかね」と永瀬さん。
清原さんは「クライマックスで・・・詳しくは覚えてないんですけど・・・花穎のセリフで、あらためて執事に任命される際に「これでいいか?」というセリフの前のセリフ!!」と、そのお気に入りのセリフは少し忘れてしまっているようで、「前のセリフって」と永瀬さんにツッコまれつつ、会場の笑いを誘っていました。
そこで永瀬さんから「もう1個あった!神(神宮寺)の最後の方のセリフなんですけど「烈火のごとく猛り」という言葉があって、それ好きなんですよ。」と告白。
「21年生きてきて初めて使った!」(神宮寺さん)、
「20年生きてて初めて聞いた!」(永瀬さん)と絶妙なコンビネーションの会話が。
「練習しました。使ったことない言葉だったし、自分のものにしなくちゃいけなかったので、(自分の中の)辞書に入りましたね~」とあらためて神宮寺さんからもコメント。
「烈火のごとくってどれ��らい?」という永瀬さんの質問に、「調べたんですよ!最初意味わからなくて。・・で忘れちゃったんだけど(笑)、もうね、すごかった!こんな感じ!」と神宮寺さんが手を広げて説明する場面も。
そして、神宮寺さんの好きなセリフは「赤目さんの『また遊ぼうね』シリーズ」。「あ~出た!」と永瀬さんも会場の皆さんも共感。神宮寺さんは「言葉でまた会う約束を取り付けるところがテクニシャンだなって!」と笑顔で語りました。
Q、花穎様がパンケーキを重ねて食べるように、皆さんも何か自己流で食べるものはありますか?
まずは永瀬さんから。 「あんまり言いたくないんですけど・・・カレーを食べるときにルーを先に全部食べます。白米が好きなんで、皿に残った少しのルーでご飯を食べるのが好きなんです。」「これほんとです!」という神宮寺さんの証言も飛び出しつつ、会場からはこの食べ方に「えー」というドン引きのどよめきが…。
次に清原さん。「ラーメンを食べるときは、のりとチャーシューは基本食べません!」こちらのなかなか変わったお答えには、会場のどよめきより先に永瀬さんが「なんで?」を連発。清原さんの理由としては「あまり好きじゃないから」。「なんで?めっちゃ気になるねんけど。俺、のりとチャーシューめっちゃ好き!」と永瀬さんが清原さんに食い下がると、「待って!俺のよりお前の(カレーの食べ方の)ほうが気になるから!」と返されていました。
次に神宮寺さん。「僕たいしたことないんですけど、最近気がついたらご飯食べるとき、僕右利きなんですけど、食べながらすごい力で左手握りしめてるんですよ。なんかわかんないんですけど、本気なんですよ、ご飯食べるとき。」というななめ上をいく発言に、永瀬さんからは「白ごはんと向き合ってるの?」とツッコミが入る一幕も。「ごはんだけ?」という永瀬さんの質問には「いや、全部。おひたしとかも。」と答え、「フォークとナイフを持つときは?」と聞かれると「フォークとナイフは大丈夫、リラックスしてるんだよね。」とのお答え。MCさんからの「上流階級ってことですかね?」と言われると「ですねー」とのっかる神宮寺さん。会場は笑いに包まれました。
Q、撮影中に大笑いしたことは?
「失笑はあったけどねー」という神宮寺さん。3人で考えていると久万監督から、「撮影現場では音も録ってるからなかなか大笑いはできないんだけど、エンディングでは、一番自信があるって言ってた花穎がすごいことになっちゃったよね。」とエンドロール映像撮影時のエピソードが飛び出しました。永瀬さん、清原さん、神宮寺さんが封蝋にチャレンジしているところで、永瀬さんの蝋が燃え上がってしまったのだそう。神宮寺さんがそのときの様子を「蝋をたらすところで、普通はそんなに燃えないんですけどたぎっちゃって、烈火のごとく!」と説明。すかさず清原さんから「さすが辞書に入ってるねー」とコメント。皆さん監督の意見に賛成、「烈火のごとく燃え盛った」のがおもしろかったとのことでした。
Q、この映画で1番思い出に残っていることはなんですか?
永瀬さんは「すべてが初めてで、すごく緊張していて、翔君は不愛想な雰囲気出してくるし(笑)、この人と1ヵ月やっていけんのかなと思ったりしたので、クランクインですね」と原点を振り返り、
清原さんは「撮影前の本読みで隣に奥田瑛二さんがいらっしゃって、緊張して脇が烈火のごとく燃え滾った。滝汗(笑)」
(烈火がなんどとなく飛び交い、この舞台挨拶での流行語になっていた様子)
神宮寺さんは「夏休みの終わりの切なさが好きで、クランクアップと夏休みの終わりが重なって思い出深いので、僕はクランクアップかな」と
3人それぞれの思い出が。
終始盛り上がりを見せる息ぴったりのトークに続き、撮影から公開まで1年、撮影はもちろんのこと、プロモーションなども通して一緒に過ごしてきたキャスト陣に、お互いに感謝の気持ちを伝えていただこうというコーナーを企画。
題して「“君にありがとう“を伝えようBOX」。ーーBOXに入っている札に書いてある方法で「君に ありがとう」を伝え合うというもの。
最初に札を引いたのは神宮寺さん。「ドドン!」ごご自身で効果音を言いながら引いたカードは「ありがとうのハグ」。「誰に?」と自問自答しながら、どちらにしようかな的な動きをして、「翔君で!」と清原さんを選びます。
「あらためると恥ずかしい気持ちもあるんですけど、翔君には色々、撮影中もサポートしていただいたりとか、裏でも僕らと楽しくしてくれて、本当にありがたい気持ちがいっぱいです!君にありがとう!」
感謝の言葉とともに劇中の赤目さんのようなビッグハグ!
と思いきやなんと、永瀬さんが横から入り、なぜか?永瀬さんと神宮寺さんが熱烈ハグ。清原さんや監督含め会場は悲鳴と大爆笑に。

この永瀬さんの「横取りハグ」に「いやいや。これだけ俺に対しての感謝の言葉の後に(苦笑)」と笑う清原さん。久万監督もこの3人の感じを楽しんでいらっしゃいます。
MCから「そんな練り込まれたようなコントをーー」と言われると神宮寺さんは「これ打合せしてなですからね!」と会場に息ぴったりの関係をアピール。
続いて清原さんが引いたのは“即興感謝の手紙”のカード。まるで手紙があるかのように、感謝の気持ちを即興伝えていただくことに。(エア手紙です。)
「拝啓、永瀬廉様。あなたと出会ったのはちょうど一年前ですね。僕はあの日からKing & Princeを見ると、応援の眼差しで見てしまいます。でも、僕がKing & Princeの中で一番好きなのは岸君です。これからもよろしくね。ありがとう!」
と茶目っ気たっぷりの内容を披露。こちらも会場からは悲鳴と大爆笑、そして拍手喝采!「いやいや、よろしくできるかいな!岸くんとは会ってないからね!!」と永瀬さんからは大ブーイング!
最後、“ありがとうのプレゼント”を引いた永瀬さんは、どちらかに「ハズレ」が入っているという2つのプレゼントを触りまくり悩んだ末に、大きいほうを清原さん、もうひとつの方を神宮寺さんへ。自信満々に先に開けた神宮寺さんが見事ハズレで皆大笑い。当たりの清原さんには、上流階級らしい?紅茶が。「これ、本当にもらえるんですか?」と嬉しそうでした。

そんな互いの「ありがとう」を伝え合った後、久万監督より3人に手紙が。
「映画『うちの執事が言うことには』をたくさんの方にご覧頂き、本当に嬉しく思っています。 ありがとうございます。撮影から1年、長くもありましたが、出演者のみんなの成長を鑑みると、本当にベストなタイミングでの公開で嬉しく思っています。
撮影時、神宮寺くんは、今日はすごくステキにはしゃいでおりますが、本当に黙々と、僕の要望に答えてくれました。僕が結構ムチャ振りをして最後の日にシーンを粘ったりしたんですけど、そういうときも文句ひとつ言わずに、僕の要求をただただこなすということをやってくれ、凄く感謝しております。この前そういう話をゆっくりできたことも、嬉しかったです。
清原くんは、「執事」になるということで、所作に苦労して凄く大変そうだったけど、この作品は執事がちゃんとしてないといけなかったので、厳しいことも色々といいましたが、それに答えて立派な執事になってくれたことを、感謝しています。
そして、永瀬くん。演技経験が少ない中、「どう演じたらいいんですか?」っていうのを、よく聞いてきていて、役者さんに「芝居、どうすればいいですか?」って監督が聞かれることはなかなかないので、最初はどうなるのかなと思ったんだけど、そういう技術的なことではなく本当に「花穎ならこうしたい」と花穎になりきっていってくれたことを感謝しています。あと「泣けない」っていうことをすごく言っていたんですが、ほんとの涙で撮影できたこと、そこまで永瀬くんが花穎になったということが嬉しかったです。
先々週から公開しましたけど、この作品のことを3人が大事に大切に思ってくれているなってことにも感謝したいと思います。最後に、私ほんとに緊張していて舞台挨拶だめなんですけども、サポートしてくれてありがとうございます。ありがとうございました。」
最初、「ガチで書いてくれてる!」とはしゃいでいた3人も、温かい久万監督の言葉に、撮影時を思い出されたのか、次第に真剣な表情に。
永瀬さんは「1人1人に濃く温かいメッセージをいただいて、この映画と同じように今めちゃめちゃあったまりました。」と感激した面持ち。
清原さんは「さっきまでふざけてたんでどんな顔して聞いていいかわからず、でもお褒めの言葉もあったりで嬉しかったです」と照れくさそうに答え、
神宮寺さんは「監督からの手紙って初めてだったんで・・・いろんなことを考えながら撮っていただいて、一番作品のことを考えている監督から、こんな風に言っていただけるなんて・・・ありがとうございました。」と感無量な様子で、それぞれの気持ちを伝えていました。
フォトセッションでは、烏丸家の豪華な建物をモチーフにした麗しき上流階級スペシャルケーキが���場。精巧に作られたケーキには、なんと花穎、衣更月、赤目、烏丸家の使用人たち(もちろんペロも)のキャラクターも勢ぞろい!
3人とも「すげー」「めっちゃリアル!!」「でっかい!」と感激したご様子。テンションが上がったキャスト陣と監督がケーキを囲んでの華やかなフォトセッションとなりました。

最後には、
「いろんな方に観ていただいて、温かい言葉をいただいております。上流階級ミステリーではありますが、このステキな3人の成長物語でもあると思います。もっともっと皆様に観て頂ける様、応援宜しくお願いします。」(久万監督)
「2週間経過して、僕たちとしてはやっと皆さんの手に取って観てもらえるという嬉しさがとても大きいです。こうして皆さんに応援をしてもらうことで、また素晴らしい作品になっていくのかなと思っております。今日は、ありがとうございました!」(神宮寺さん)
「たくさんの方に観て��ただいて、(ぴあ初日)満足度ランキングで1位を取ったということを聞いて、すごく嬉しかったです。これからもこの作品を愛し続けてくれたらすごく嬉しいです。」(清原さん)
がそれぞれご挨拶。
締めは、座長を務めた永瀬さん。
「この映画を経て僕は、僕の人生にとって、また俳優としての経験値を得ることができました。なおかつ、たくさんのメディアに取り上げていただいて、たくさんの番組にも出させていただいて、ほんとに演技だけじゃない部分もたくさん、この映画のおかげで経験できました。この経験をしっかり僕の活動に活かして、もっと皆様に、それこそこの映画の続編とかも皆さんに届けられるような男になってまた帰ってきたいと思っています。その為には皆さんの声の力が鍵になると思うので、これからも「うちの執事が言うことには」という映画を愛していただけたらなと思っています。」
と、力強く感謝の気持ちを込めた挨拶で舞台挨拶を締めくくってくださいました。
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TEDにて
アンドレアス・エクストローム:インターネット検索結果に隠れた道徳(習慣)的価値観
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
日本での、道徳は古代中国の「タオ(道)」と「テー(徳)」ですが、世界では「morality」で英語のmoralは、ラテン語のmoresから由来しており「習慣」という意味です。倫理とは、異なります。
ジョン・ロールズやピーター・シンガーもいろいろ提唱してます。
「公正」の定義は、「公平」の「判断や言動などがかたよっていないこと」に加えて、「正義」の方向に現在進行形で進んでいる事象のこと。
「正義」の定義は、この場合、マイケルサンデルによると、ジョンロールズの格差原理から最下層の便益に合わせて社会を動かすことが正義である!と言っています。
知ってるつもりで思い違いしてること!
公平概念は「ハンデをつけて上限を公平に!」
平等概念をわかりやすく言葉にすると「上限の公平ではなく底上げの平等!」みたいな感じで、これ以上でも以下でも概念が変わるから拡大解釈しないこと。
法人の平等な競争はあまり聞いたことない。公平な競争がしっくりくる
検索エンジンは、今や最も信頼できる情報源、そして真実の拠り所となりました。でも、公正な検索結果は存在しうるのでしょうか?
スウェーデンの文筆家でジャーナリストのアンドレアス・エクストロームは、そのようなものは哲学的にありえないと言います。
この示唆に富んだトークで、彼は、テクノロジーと人類との結びつきを強めるよう呼びかけます。
そして、アルゴリズムには人間の価値観が反映されており、どんなプログラムをもってしても、それを消し去ることはできないことを心に留めておくべきだと訴えます。
Googleも改善しているのですが、それでも難しいかもしれません。また、公正な検索結果が実現できればGoogleの検索エンジンに勝利できる可能性があります。
学校で生徒たちに話す機会があると必ず聞くことがあります。「なぜ、Google検索するの?なぜ、検索エンジンにGoogleしか選ばないの?」不思議と返ってくる答えは決まってこの3つです。
1つ目は「うまく検索できるから」ご名答です。
私も同じ理由でGoogleを使っています。
2つ目は「ほかの検索エンジンを知らないから」ちょっと惜しい。たいてい、私はこう返します
「Googleで検索エンジンを 検索してごらん。ほかにも面白いのがあるよ」
そして、3つ目です。必ず、手を挙げて満を持して言う子がいるんです。「Googleを使うと絶対に、常に最高で公正な検索結果が得られるから」
絶対に、常に最高で公正な検索結果が得られる?
これを耳にするたび、デジタル世代とはいえ、人類のひとりとして虫唾(むしず)が走ります(本質的にストーカーアルゴリズムが根本にあるためです)
みんなが、Googleを愛し、大事にしているからこそ「公正な検索結果」と信じ、考えるのだとわかっていてもです。
公正な結果など、哲学的にほぼありえません!!
なぜかご説明しましょう。
でも、まず、検索の基本原理について少しだけお話しさせてください。
みんな忘れてしまいがちなことです。Googleで何かを検索するとき、まず、考えるべきは「個別の事実を知りたいのか?」フランスの首都はどこか?水分子の構成元素は何か?といったものです。
この場合は、ぜひGoogle検索しましょう。科学者といえども、答えは「ロンドン」と「H30」だなんて証明できやしませんから、ここに何の陰謀もありません。こうした個別の事実については、世界全体で答えが何か一致しているのです。
でも、質問をほんの少し複雑にしてこんな風にしたらどうでしょう?
「なぜ?パレスチナ問題が起こっているのか?」もはや、求めているのは、ただ一つの「事実」ではなく「知識」ということになります。
知識ははるかに複雑で繊細なものです。そうした知識を得るには、10 、20。または、100の事実を集め、自分のものにし「これらはすべて真実だ」と言えないといけません。
でも、ヒトは、年齢や人種、性的趣向に関わらず、違う価値観を持っています。ですから「確かにこれは真実だけど、こっちのほうが重要だ」となります。
ここからが面白いのです。私たちが人間らしさを発揮するからです。私たちは、互いに議論し、社会システムを形成し始めます。本当に答えを出すには、まず、事実をすべてふるいにかけます。
友だちやご近所さん。両親、子どもたち、同僚 そして、新聞や雑誌を通じてふるいにかけ、真の知識にたどりつくのです。ここで検索エンジンはあまり役に立ちません。
ですから覚えておいてください!!
どんなアルゴリズムでもその後ろには、必ず人間がいるんです!!(本質的にストーカーアルゴリズムが根本にあるためです)
人間は、それぞれ価値観を持っていてプログラムでその影響を完全に消し去ることはできません!!(本質的にストーカーアルゴリズムが根本にあるためです)
私はこのメッセージをGoogleだけではなく、プログラムに信頼を寄せる世界中のすべての人に伝えたい!!
自らの偏見をしっかり認識し、人間であることを自覚し責任を持たなければいけません!!
このことを伝えたいのは、結束を今一度、強くしなければいけない。そんなときが来ていると信じているからです。人類と技術のつながり、この結束を今以上に強くするのです。
少なくとも、心地よい魅惑的に聞こえる公正できれいな検索結果というものは、神話に過ぎず、これからもそうだと心に留めるべきです。
人間の先入観という意識を入り込ませないようにして、完全にプログラムだけで情報の関連性を自動処理させていく。
光速まで!!Googleの起業コンセプトです。
このようなシステムに、ルーティンワークのような機械学習を取り入れていくことで、オープンデータのメリットと
クラウドコンピューティングの大規模解析を融合していくことは、匿名性と高レベルのセキュリティーの前提ですが
革新的なイノベーションに可能性を観ることが出来ます。
そこには、ただ淡々と善も悪もなくて古来から有る日本の「魂」という概念みたいなことにも似ています。
世界レベルの巨大さ!ですが•••
人工的ですが、古代アトランティスのアカシック(アトラス?)レコード?にも似ています。必見です!
警告として、以下の言葉を掲載しておきます!
未熟な者が扱うと権力につながる危険がある - ルドルフ・シュタイナー
しかし、この場合は、プログラムで完全自動化して人間の先入観を完全排除してるので適用されないかもしれません。
ヨーロッパでの一般データ保護規則(GDPR)でも言うように・・・
年収の低い個人(中央値で600万円以下)から集めたデータほど金銭同様に経済的に高い価値を持ち、独占禁止法の適用対象にしていくことで、高価格にし抑止力を持たせるアイデア。
自分自身のデータを渡す個人も各社の取引先に当たりデータに関しては優越的地位の乱用を年収の低い個人(中央値で600万円以下)に行う場合は厳しく適用していく。
キャシーオニールによると・・・
思考実験をしてみましょう。私は、思考実験が好きなので、人種を完全に隔離した社会システムがあるとします。どの街でも、どの地域でも、人種は隔離され、犯罪を見つけるために警察を送り込むのは、マイノリティーが住む地域だけです。すると、逮捕者のデータは、かなり偏ったものになるでしょう。
さらに、データサイエンティストを探してきて、報酬を払い、次の犯罪が起こる場所を予測させたらどうなるでしょう?
あら不思議。マイノリティーの地域になります。あるいは、次に犯罪を犯しそうな人を予測させたら?あらら不思議ですね。マイノリティーでしょう。データサイエンティストは、モデルの素晴らしさと正確さを自慢するでしょうし、確かにその通りでしょう。
さて、現実は、そこまで極端ではありませんが、実際に、多くの市や町で深刻な人種差別があり、警察の活動や司法制度のデータが偏っているという証拠が揃っています。実際に、ホットスポットと呼ばれる犯罪多発地域を予測しています。さらには、個々、人の犯罪傾向を実際に予測しています。
ここでおかしな現象が生じています。どうなっているのでしょう?これは「データ・ロンダリング」です。このプロセスを通して、技術者がブラックボックスのようなアルゴリズムの内部に醜い現実を隠し「客観的」とか「能力主義」と称しているんです。秘密にされている重要で破壊的なアルゴリズムを私はこんな名前で呼んでいます「大量破壊数学」です。
民間企業が、私的なアルゴリズムを私的な目的で作っているんです。そのため、影響力を持つアルゴリズムは私的な権力です。
解決策は、データ完全性チェックです。データ完全性チェックとは、ファクト(事実)を直視するという意味になるでしょう。データのファクトチェックです!
これをアルゴリズム監査と呼んでいます。
こういう新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との
戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!
(合成の誤謬について)
合成の誤謬とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが、合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じること。物理学では、相転移みたいな現象です。性質が変わってしまうということ。
ミクロのメカニズムが個人同士の経済における仕組みであるのに対して、マクロのメカニズムは、国家間や経済全体の循環における仕組みだからである。
例えば、家計の貯蓄などがよく登場するが悪い例えです。前提条件が、所得が一定の場合!!所得が一定じゃない増加する場合は?これは、論じていませんので参考になりません!!(法人が提供する製品やサービスの価格も一定の場合も前提条件です)
1930年代のアメリカ経済が金融危機2008と似たような状態に陥った時、ケインズは、「倹約のパラドックス」というケインズ経済学の法則を発見しています。
それは、ポール・A・サミュエルソン(1915-2009)が、近代経済学の教科書「経済学」の冒頭で「個人を富裕にする貯金は、経済全体を貧困にする!(所得が一定の場合)」というわかりやすい言葉で表現しました。しかし、庶民の所得が増加し、貯蓄が投資、消費に回る場合には、「倹約のパラドックス」は生じません。
その後、この「倹約のパラドックス」は、アメリカの経済学者・ケネス・J・アロー(1921- )が「合成の誤謬」を数学的論理に基づいて「個人個人がそれぞれ合理的選択をしても、社会システム全体は合理的選択をするとは限らない」を検証してみせた。 要するに、部分最適ではなく、全体最適させていくということ。
つまり、新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との 戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!ということに集約していきます。
なお、金融危機2008では、マイケル・メトカルフェも言うように、「特別資金引出権(SDR)」は、2008年に行われた緊急対策で、一国だけで行われたのではなく、驚くほど足並みの揃った協調の下に国際通貨基金(IMF)を構成する188ヶ国が各国通貨で総額2500億ドル相当を「特別資金引出権(SDR)」を用いて世界中の準備通貨を潤沢にする目的で増刷してます。
このアイデアの根本は、元FRB議長であったベンバーナンキの書籍「大恐慌論」です。この研究がなければ、誰一人として、変動相場制での当時の状況を改善し解決できなかったと言われています。
それ以前では、固定相場制でのマーシャルプランが有名です。
(個人的なアイデア)
Appleはこれらの対策として提案した内容がこれ。
データミニマイゼーション!
取得する情報・できる情報を最小化する。データが取れなければ、守る必要も漏れる可能性もない!
オンデバイスでのインテリジェンス!
スマートフォンなど機器のなかで処理を完結させることでプライバシーにかかわる部分を端末内に留める。
クラウドにアップロードして、照会プロセスを最小化することで、漏洩や不適切な保存の可能性を排除する!
高い透明性とコントロール!
どんなデータを集め、送っているのか、どう使うのかを明示し、ユーザーが理解したうえで自身で選んだり変更できるようにする!
セキュリティプロテクション!
機器上などで、どうしても発生するデータに関しては指紋認証や顔認証などを使ったセキュリティ技術で、漏えいがないようにしっかりと守るセキュリティプロテクション!機器上などで、どうしても発生するデータに関しては指紋認証や顔認証などを使ったセキュリティ技術で、漏えいがないようにしっかりと守る
202012のApp Storeプライバシー情報セクションは、3つ目「透明性とコントロール」の取り組み。
位置情報などは自己申告だが、アップルとユーザーを欺いて不適切な利用をしていることが分かればガイドラインと契約違反になり、App Storeからの削除や開発者登録の抹消もありえます。
このプライバシー情報の開示は12月8日から、iOS、iPadOS、macOS、tvOSなどOSを問わず、新アプリの審査時または更新時に提出が求められるようになっています。
続いて
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
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NFY
推しと担当をかけあわせたクロスオーバーみたいなP晴。自分の好みを詰め込んだだけなので人に見せるようなものじゃないけど、せっかく書いたし……的な。Pは男性だけど特にそういう描写があるわけじゃないです。
アイドルになったとはいえ、オレにとっては同年代の遊び相手が増えただけの話だった。最初にオーディションの面接でオレを合格にしたプロデューサーは有能だったらしく、別の有望なアイドル候補生数人をデビューまで引っ張っているそうで忙しいらしい。そんなオレの担当をわざわざやりたい相手がいるはずもなく、今日もまた他のアイドルと遊んでは一人でサッカーの練習をしている。しかし事務所に来ているとはいえ、レッスンなんてしててもサッカー選手としての能力がつくとは思えないし、アイドルの皆とサッカー練習するよりクラブの皆とやる方が練習にはなるし人数も集まる。オヤジはオレに女の子らしくなってほしいみたいだが、このままだと特に得るものもなく月謝だけ払うハメになる。 そろそろ辞め時なんじゃないだろうか。そんなオレの心理を読みすましたかのように、第三芸能課のドアが開かれる。 「すまない!結城晴くんはいるかね!?」 「オレですけど……どうかしたんですか?」 慌てて入ってきたのは事務所の社長だ。わざわざこんなところに来るのは珍しい。 「キミの担当が決定したんだよ!ささ、入って入って!」 社長がそう言って入ってきたのは大学生くらいの若い男だった。茶髪に灰色の大きな瞳。優しくて大人しそうな整った顔。薄灰色のニットベストに黒いカーディガン。銀色の弾丸のようなものが付いたネックレス。胸元に銀と赤のヘアピンがついている。髪が長いのか後ろでひとまとめにしてある。ひざ下までの黒いカーゴパンツに黒いスニーカー。スーツでもないし、この事務所の社員というより本当にその辺りにいた大学生を連れてきたって感じだ。 「よろしく、僕が君の担当になった…………ええと……」 「どうしたんだ?」 「あー実はね……彼は記憶喪失みたいなんだよ」 「はぁ!?」 驚きのあまりに声が出る。記憶喪失なやつをこんなところに連れてきていいのか? 「気がついたらブランコに乗ってたんですけどよく覚えてないんですよね……そんな時にいきなりこちらの社長から『君!?ぜひうちの事務所に来てくれないか!!』って。話を聞いたらアイドル事務所だって話だったんですけど、ここにはメンズアイドルの枠はないから、とりあえずプロデューサーとして働いてくれないかって」 「大丈夫!彼は優秀だから!私の目に狂いはない!」 一体どういう理屈なのだろうか。というか、連れられてきたコイツは一体どのあたりが優秀そうに見えるのだろうか。採用っていうのは、もっと面接とかやってから決まるもんじゃないのか?。 「なんでコイツがオレの担当になるんだ?」 納得がいく理由が欲しくて問いただしてみることにした。 「それはね……ええと……」 「結城さんは元々アイドルになる予定がなかったんでしょ?だったら、元々プロデューサーになることがなかった僕だったら、ある程度同じ気持ちでやれるんじゃないかなって思ってさ」 言ってることはなんとなくわからなくもないが、適当な人間をあてがわれたようにしか思えない。むしろアイドルをやめさせるためにわざとやってるんじゃないかと思うくらいだ。 「よろしくね、結城さん」 オレの前に手が差し出される。少しイラついて、とっさに手を払いのけてしまう。 「アイドルなんかやらねーからな!バーカ!」 オレのプロデューサーは困ったように笑った。これが最初の出会いだった。多分この事務所の中でも最悪なアイドルとプロデューサーの出会いだろう。
最初にオレ達がやったのはプロデューサーの名前を決めることだった。オレが仕事をするかどうかは置いておいて、さすがに名前がないままでは色々面倒だろう、とのことだった。 「なんか名前の手がかりとかねーのかよ?」 「うーん……なんとか『なえ』って名前を呼ばれていた気はするんだけど……」 なんとか『なえ』、で思いつく名前といったら…… 「早苗、とかか?」 「あ!そんな感じ!でも『さ』じゃなかったような……かな……香苗だ。うん、今度から香苗って呼んでいいよ♪」 「お、おう。じゃあ……香苗……」 「…………」 急に無言になった。というか無表情で俯いたまま何を考えてるかわからない。 「おい、どうしたんだよ」 「いや、ごめん。特別な誰かにそう呼ばれてた気がしてさ……でも結城さんもそうなるかもしれないから、香苗でいいよ」 「……そっか」 急に何を思い出したんだろうか。そもそもなんでこいつは記憶喪失になって、急にプロデューサーになるなんて話を断らなかったんだろうか。しかもわざわざ、事務所の中なら確実に問題児であろうオレなんかのだ。 「とりあえず、今仕事はないんだよね?」 「あるわけねーだろ、オレ一人でどうこうできるもんじゃねーし。フリフリの衣装着てライブなんてできねーって」 「それはよくないね。じゃあ僕は仕事探してくるから今日は終わりにしよっか。あとこれは僕の仕事用のアカウント。さっき作っておいたから、登録しといてねー♪」 「おう、じゃあな」 連絡用の社内ツールのアカウントを教えてもらって、香苗はとっとと出て行ってしまった。しかし、仕事なんてそう簡単に見つかるわけがない。自分にはアイドルとしての経験もなければ、他の会社とのコネもない。アイドルの激戦時代と言われる今、そんな簡単に仕事なんて見つかるものわけがない。どうせすぐに諦めるさ、そうしたらきっとこの場所ともオサラバだ。この時は確かにそう思っていたんだ。
『おはよう、結城さん。仕事の打ち合わせがしたいから学校が終わったら事務所に来てくれない?』 翌日にそのメッセージが飛んできたときには目を疑った。仕事?一日で?もしかしたらアイツ、とんでもないやつなのか?いやいや、まだどんな仕事かわかったもんじゃない。着ぐるみ着てプラカード持ったりとか、ライブ会場の入り口で衣装着て手伝いしたりとか、ジュニアアイドルにまわってくる仕事なんでそんなもんだ。……まぁ、そういう仕事が回ってくるだけでも充分マシな方らしいが。 気乗りはしないものの、事務所に所属している以上勝手にすっぽかすわけにはいかない。放課後に自宅の方向ではなく事務所の方向へと向かう。会社に入ると大人たちがまばらにいるが、第3芸能課の方向に近づくと人通りも少なくなっていく。待ち合わせていた会議室に直接行くと、広い部屋の角で一人机に向かってノートパソコンのキーボードを叩く香苗の姿があった。 「いらっしゃい、結城さん」 「仕事……本当に取ってきたのかよ?」 「もちろん♪しかもサッカーの仕事だよ?」 その言葉があまりにも唐突で、衝撃的で思わず聞き返してしまう。 「サッカーの仕事!?本当か!?」 「うん、でもサッカーの仕事というよりサッカーゲームの仕事だけど……いい?」 「いいに決まってんじゃん!オマエっていいやつだな!」 もちろんそんないい話があるわけがない。うまい話にはなにかしら不都合があるに決まってるということを、12歳のオレはまだわかってなかった。
「なぁ、これはなんなんだよ」 「なにって、サッカーのゲームでしょ?お互いにボールを取り合って、ゴールに入れるゲームだし」 「それだとバスケとかもサッカーになるんじゃねーのか?」 返事の代わりに沈黙が流れる。気まずい空気が立ち込めて、ゲーム音だけが部屋の中に流れる。 もってきたゲームの内容というのが、1~3人のチームでボールをお互いのゴールに入れるというシンプルなものだ。ただし、フィールドを走っているのは人じゃなくて車だし、相手の車とぶつかって破壊しようがおかまいなしのゲームだ。確かにサッカーと言えば近いかもしれないが、少なくとも自分が想像したようなものではなかった。仕事の前に少しでも慣れていた方がいいだろう、とプロデューサーがゲームを二人分買ってきてお互いに対戦して練習している。 「ごめんね、少しでも結城さんが楽しめるような仕事探したんだけど……」 申し訳なさそうな声で謝られる。サッカーのゲームと言ったことに悪気はなく、オレに仕事を合わせることでいっぱいいっぱいだったのかもしれない。 「いや、いいよ……仕事選べる立場じゃねーのに、頑張ってくれたんだからさ。……ありがとな、プロデューサー」 その言葉を聞いて香苗の顔がぱあっと明るくなる。最初の落ち着いた印象とは裏腹に感情が結構態度に乗るタイプなんだな。もちろんその方が楽でいいのだけれども。 「……油断してない?ブーーーン!」 気をとられた隙に加速したプロデューサーの車がオレの車を破壊して、選手不在のゴールにボールがねじ込まれる。 「きったねー!今のは反則だろ!」 「こういうのも大事だよ、アイドルやるなら覚えておいて損はないから」 大人っぽくこちらを気遣ったかと思うと、子供みたいにふざける。というかアイドルやるならって、どの立場から言ってるんだ。 掴みどころのない香苗とやるゲームは、多少の不満はありつつもそれ以上に自分に寄り添おうとしてくれてることが実感できて、初めてアイドルやってて面白いと感じられたことだった。
「お疲れ様、結城さん」 「ああ、お疲れ」 仕事であるゲーム紹介の日が来て、オレ達は練習の甲斐もあってかそつなくこなすことができた。とはいえ、何を喋ったかはあんまり覚えていない。というのも、当日になって実況の手配がつかなくなって番組がポシャりそうになったときに、なぜか香苗が急遽参加することになり、何を思ったか 「どうも、新人アイドルの香苗です」 なんて言ったのだ。明らかに雰囲気の違うオレ達でやったゲームの実況は、スタッフ間で概ね好評だったらしい。香苗は話題のフリや実況が素人とは思えないほど上手く、台本以上にオレがやりやすいように立ちまわってくれた。 「なあ、今日の番組っていつ流れるんだ?」 「うーん、いつかは忘れちゃったけど後日動画で投稿するみたい」 「そっか」 まぁ初めての仕事だし、そんなもんだろ。新人アイドルが初っ端から顔を出して仕事をするなんて時点で話ができすぎているのだから。 「じゃあ、僕は他の人たちに挨拶して回るから結城さんは先に帰ってていいよ」 「うーっす」 そういうのって本来アイドルがやるべき立ち回りじゃないのか?と疑問に思いつつも、門限が近くなりそうなのでそもそも帰らなければならない。次はどんな仕事をとってくるんだろうか、充足感と疲労感で満たされた体には確かな手ごたえを感じていた。
初仕事が終わってからというもの、仕事はちょくちょく回ってくるようになった。他のアイドルのライブの手伝いとか簡単な営業とか雑多なものから、簡単な企画のワンコーナーにも出させてもらったりした。なんだかんだ仕事がある日が多くなって、忙しくはあるもののなにもやることがない日々よりかは得られるものがあって不満ではない。それにしても、香苗はよくこんなに仕事を取ってこれるものだと感心する。なぜオレに仕事を取ってこれるのか聞いてみたところ、 「だって、結城さんは売り込むのにこっちが頑張らなくても大丈夫だから」 なんて恥ずかしい言葉を返されてしまった。なんとなく納得がいかなくて、他の人にも話を聞いたら香苗は仕事時間外にも界隈の人たちとの交流を欠かさないらしい。どんなスタッフやアイドルにも必ず一声かけるし、オレが事務所にやってきたら他のジュニアアイドルと一緒にだるまさんが転んだなんてやってるくらいだ。かと思えば、高校生くらいの女性アイドルと香水や服のブランドについて話していたりと、話題の幅が広すぎるのだ。広く浅くを信条に付き合っているせいか、名前がどんどん広まっていっていつの間にか仕事を依頼されて……という話だった。 自分のプロデューサーが人気を得ているのは喜ぶべきなのかもしれない。でも、オレはあまり嬉しくはなかった。アイドルとしての自分よりかプロデューサーが魅力的だからという理由で仕事を貰うのは、なんとなく自分が評価されてるわけじゃない、という気持ちにさせられる。一番最初の仕事があまりに自分にとって都合の良いものだったため、あとから聞いたところ元々香苗はあのゲームをやりこんでいて、案件としては香苗に対してきたものをオレに回したという形になっていた。文句の一つも言いたかったが、自分がそういう立場にないのもわかってる。でも、だからこそもどかしくて苦しくてどうしようもない気持ちが育っていった。
事務所でリフティングをしながらそんなことを考える。考え事をするのにも、気を逸らすにもボールに触れるのが一番効果的だと思っているからだ。そうやって時間を潰していると不意に第3芸能課の扉が開いた。 「おはよう、結城さん……ふわぁ」 香苗は眼をしばしばさせて欠伸をしながら入ってきた。相変わらず緊張感がないというか間の抜けた表情をしている。ただ、いつもと違うのは右腕に大きな……ネコ?のぬいぐるみを抱えている。ぴにゃこら太が胴長になって目を見開いて黒い毛並みになった、みたいなデザインだ。1m以上あるそれは、否応なしに目立つ。 「どうもっす、……そのでかいぬいぐるみはなんなんだよ」 「これ?ぬいぐるみじゃないよ、ロトって言うんだ。記憶喪失の時になぜか持ってて……これがないと落ち着かないんだよね」 「ふーん」 小さい子供が慣れ親しんだ毛布を手放したくなくなる、という話をなんかのテレビで見たことがある気がする。それに近いのだろうか。ぬいぐるみかクッションかわからないそれを、プロデューサーの専用の机の端に寝かせて、置いてあるパソコンの電源を入れてなにやら作業をし始めた。目を擦ったり欠伸をしたりして、どうにも眠そう……というか身に入ってなさそうだ。自分のポケットの中身を確かめて、香苗にそれを突き出す。 「んっ」 「……?」 「ほら、ガムやるよ。眠気覚ましにはちょうどいいだろ?」 「ありがと!結城さんから何か貰うのはこれが初めてだからびっくりしちゃった」 そういえば自分からプロデューサーに何かをする、というのはこれが初めてだった気がする。オレのために一生懸命にやってくれてるのに、余計なことを考えてしまってこういう感謝の気持ちを伝えることを忘れていたかもしれない。香苗はそんな様子のオレを気にしてないのか、静かに受け取ったガムを噛みながらメールを確認している。そして、ある一通のメールを見て目線と手が止まった。 「結城さん!とうとう来たよ!」 「何がだよ?」 「ライブの出演依頼!!そんなに大きなとこじゃないけど、出るアイドルは箔がつくって言われてるアイドルの登竜門みたいな場所だよ!やったね!」 「マジか……」 正直言って喜びよりも驚きの方が大きかった。プロデューサーが自分の事のように喜んでることもそうだが、いつの間に自分はこんな仕事が来るようになったんだ、という感覚の方が強かった。でも、逆に言えばこれは香苗に頼らず自分の力で自分を売り込む機会なのかもしれない。いくら香苗が優れたプロデューサーとはいえ、本番でオレのステージをどうにかできるのはオレしかいないのだから。フィールドの選手たちの争いに直接監督が混ざって競い合えないように。
それからはひたすらライブの為に調整をしながらレッスンをする日々だった。ダンスは元から体力があるおかげでなんとかなるのだが、歌いながらだと思っていた以上に気力の方が奪われる。気を抜いたら歌の方がおざなりになるし、音程を意識しすぎると体の伸びや溜めが遅れる。かと言って歌って踊ってができたらそれでいいか、といったらそうでもない。気合の入った表情ならまだしも、苦しそうな表情で歌われて気持ちのいいファンなんていないからだ。プロデューサーと一緒に色んなアイドルのライブを見て勉強してはいるが、まだとても追いつきそうにない。 「ここカメラで抜かれることを意識してワザと視線外してるね、腕を上げるタイミングが少し早めなのは上げた状態の自分が一番いいって思ってそう……ここステップわざわざ二回踏んでるのはなんでだろ、そっちの方がかっこいいからなのかな」 ビデオを見ながら香苗はぶつぶつと独り言を喋っている。その中から自分にも取り入れられそうな部分を頭において実践してみる、といったことを繰り返している。にしても、プロデューサーという立場でアイドルを観察しているとはいえ、香苗は細かいことにもよく気づく方だと思う。やれることが増える分だけありがたいのだが。 「もしかしたら、アイドルの方が向いてるんじゃねーか?」 「じゃあちょっと歌ってみようかな」 香苗がビデオで流れている曲をなぞるように歌い始めた。……音程がもうがっつり違う。曲がうろ覚えなせいもあるかもしれないが、へにゃへにゃした歌い方になってしまっている。 「わりぃ、前言撤回する」 「えー!?こうみえても前はボイトレとか通ってたんだよ」 「……オマエ、記憶喪失だったんじゃねーの?」 「んー、なんか思い出せたんだよね。結城さんとのアイドル活動の中で自分にもこういうことあったな、って。もしかしたら結城さんをトップアイドルにするために記憶喪失になったのかもね」 「……気がはええよ」 そう、トップアイドルなんてずっとずっと先のことだ。だからこそ、次のライブは成功させなくちゃいけない。いつの間にかやめたかったアイドルが自分の中で目標になってる。不思議なこともあるものだな、と充足感に包まれながらアイドルの動きを確認する。 「そういえば、衣装はどうなってるんだ?」 今は練習だからレッスン着で歌ったり踊ったりしているが、本番を想定するならステージと衣装を意識した上で練習したい。体操着よりもユニフォームの方が、サッカーやってるって実感が違うように。 「んっ」 香苗がテレビに映っているアイドルを指さす。短いスカートに袖の短い上着、臍が見えるようになってるインナー。露出が多くて可愛らしい、というように思う。 「まさか、これか?」 「うん、これ」 スカート……履くのか。新しい不安と困惑をよそに、香苗は満足そうに笑っていた。
衣装が届いたので、レッスン室でとりあえず着てみることにしたがやっぱり動きにくい。スカート特有のふとももに布が巻かれていない感触が、今までの感覚とは不慣れだし可愛い寄りの衣装というのがどうも自分には合わないような気がして気後れしてしまう。 「結城さんってスカートダメだったんだね」 「……滅多にはかねーからな、こんなの」 「うーん、下に短パンとか履くのはどうなのかな?ちょっと連絡してみるね」 香苗が一旦どこかに電話をかけて、肩を落とした様子で戻ってくる。 「ごめん、やっぱり衣装にアレンジを加えるのは評価に影響するからダメだって」 「そっか……」 香苗が少し考え込んで、なにかを思いついたように顔を上げた。 「結城さんがどうしてもって言うなら、僕がこの衣装着て出てもいいよ?」 「はぁっ!?」 あまりにも突拍子もない提案に、思わず変な声が出る。どうしてそんな発想になったのだろうか。 「結城さんは子供だし、気を遣わなくてもいいよ。僕は可愛いって言われるのもかっこいいって言われてるのも慣れてるし、せっかくもらった仕事だからね。誰が出てもいいってわけじゃないけど、なんとかなるでしょ」 「なんでそこまでするんだよ……可愛いとか言われても平気なんだよ……男なんだろ?」 女らしく、かわいくなるようにって言われてるオレにはなじみのない考え方だ。実際男とか女とかよくわかんねーけど、かわいいって男が言われても気にしないのは自分にはない感覚だ。 「だって、可愛いもかっこいいも僕の事好きだからこそ言えることじゃない?僕は僕の事を好きでいてくれる人のことが好きだから」 確かにそうかもしれない。オレのことをかわいい、って言ってくる人も悪気があるわけじゃないのもわかってる。それでもどこか恥ずかしいと思ってしまうのだ。 「でも、僕は可愛いって言われ始めてから可愛くなった気がする。結城さんは、まだかわいいって言われるのに慣れてないんだろうね」 「……香苗にも慣れてないときがあったのか?」 「うん、だから結城さんの気持ちはよくわかるんだよ」 「じゃあ、猶更これはオレが着なきゃいけないじゃねーか」 「?」 「プロデューサーがオレの気持ちも経験も知ってるのに、なんでオレはプロデューサーのことを知れないんだよ。やってやるよ!確かにこの衣装は恥ずかしいけど……アンタに甘えっぱなしの方がよっぽど恥ずかしいしな!」 決意の言葉を聞いて、香苗は嬉しそうに微笑んだ。自分の子供の成長を喜ぶ親みたいだ。 「ありがとう、結城さん。僕の気持ちを理解しようとしてくれて」 一瞬だけ、悲しいような物寂しいような、そんな表情になる。自分のことを忘れてしまった香苗は、誰かと理解しあえたような記憶も忘れてしまっているのだろうか。そしてそれを思い出せずに苦しんでいるような、そんな顔つきだった。 「でもこの衣装デザインいいよね、インナーとか着ていいなら僕も欲しいかも」 かと思ったら途端にふざけてるのか本気なのかわからないようなことを言う。振り回されているようで、世話になっているようなプロデューサーとの関係は今のオレにはなくてはならないものだと確かに感じている。 最悪な出会いは、最高の相棒として必要な過程なのかもしれない。
衣装を着てレッスンを重ねたおかげか、本番前の楽屋でも比較的落ち着けている。それでもやっぱり出番が近づくと不安が押し寄せてきて、すーはー、すーはー、と深呼吸をして高鳴る心臓を落ち着けようとする。香苗はこんな時でも他のアイドルやプロデューサー、スタッフと話をしながら念入りに最終調整をしている。 「結城さん、出番です」 スタッフに呼ばれて、ステージへと向かう。出番の終わったアイドルの反応は様々で、やり切ったと喜んでいる人もいれば、ふさぎ込んで泣いている人もいる。皆ここまで来るまでに色々な努力や経験をしてきて、必死の思いで来たんだろう。果たして自分は他のアイドルと同じように頑張ってきたんだろうか。結局プロデューサーの力で上手くいっただけじゃないのか。元々アイドルなんてなるつもりもなかった自分がこんなところに来ていいのだろうか。 やばい、場の雰囲気に当てられたのか不安と緊張がどんどん湧いてくる。今更考えても仕方ないのに、抑えきれない感情が確かに自分を縛ってきている。ふらついた足取りでステージ脇までやってくると、香苗が待っていてくれた。 「結城さん、調子はどう?」 「どうもなにも……不安でいっぱいだよ」 「そっか、あの廊下を通っちゃったんだね。アイドルの無念と後悔で作られた、別名『挫けの坂』を」 また適当なことを言い出した。廊下なんだから坂になるはずがないだろう。香苗がしゃがんで、オレの目線に合わせてくれる。今まであまり意識したことがなかったが、香苗の身長はアニキと同じくらいだ。 「でも大丈夫。不慣れなステージで不慣れな衣装、そんな中でも頑張る結城さんの姿はきっとかわいくて、かっこよくて、他のどんなアイドルにも負けないくらい輝けるから。僕が保証する」 オレの両手を取って、上から包むような姿勢で祈ってくれる。なんだかその姿があまりにも神秘的で美しくて、悩んでいたことが全部どうでも良くなった。 「しっかりね、結城さん」 「ああ!そっちこそオレのステージ、しっかり見届けろよ!」 前のアイドルの出番が終わり、スポットライトが一斉に当たる。観客のざわめきも、ヘッドセットのマイクも、少し広すぎるステージも、可愛すぎる衣装も、全部手に取るようにわかる。���あ、オレ今集中できてる。きっと、最高のステージになるって確信できる。 「初めましてー!!結城晴です!よろしくお願いします!!!」 右手を突き上げて、観客の歓声に身体が痺れる。これが本番ってやつで、アイドルってやつか!後は熱くたぎる思いをぶつけるだけだ!!そうだよな、プロデューサー!!声にしたい気持ちを押し殺して、流れてきた曲に身体と声が勝手に動く。まるで、どうしたいかをオレじゃなくて身体が勝手に決めてるみたいだ。でも、そういう時が一番いいプレイができるって信じてる。だからこそ、今を精いっぱい楽しむことにした。
「どうだ、プロデューサー!……って、なんだその恰好!」 出番を終えて戻ってくると、香苗はオレの来ていた衣装を着ていた。いや、正確には黒いインナーを着ているしスカートも長いし細かいところで露出が変わっていて男向けっぽくなっている。身長も全然違うため、サイズも調整されてはいるが、間違いなく自分が着ているものだ。 「実はアイドルの子が一人トラブっちゃって、このままだとトリのアイドルが来る前にステージが終わっちゃうんだよね。だから急遽僕が出ることにしたんだ」 「はぁ!?」 相変わらず突拍子もないことを平然とやるやつだ。 「さすがに無理だろ!?」 「それがねー、責任者の人にも聞いたんだけどいいよって。僕なら信用できるって言われちゃった」 どうなってるんだ。信用できるって、コイツの歌を聞いたことがあるのか?それなら猶更止めなきゃダメじゃないのか?いや、そもそもプロデューサーがアイドルのライブで出ていいのか?疑問と疑念が頭の中でぐるぐると回りだす。 「大丈夫、僕も経験ないわけじゃないから」 香苗はそう言って、ステージの方へと駆け出して行ってしまった。観客は明らかに動揺しているものの、一部からは悲鳴のような叫びのような黄色い声が上がる。こっからどうするつもりなんだ! 「メンズアイドル香苗です!今日は急遽ワガママを言って出させてもらいました!精いっぱい歌うので、楽しんでいってください!」 その言葉でバラバラな場所から歓声が上がる。困惑していた大部分の人たちも、その熱狂に押されて落ち着きを取り戻したようだ。 肝心のステージは、ダンスはオレより下手だし、歌も同じくらいのうまさだったと思う。でも、アイドルとしてはなぜかアイツの方が優れているような、そんな気にさえさせられるステージだった。音程が外れていても、ダンスをとちっても、それもライブ感があってむしろ味のあるものになっていた。完璧じゃなくてもいい、人間味を出して観客を沸かせることもアイドルらしさの一つだと教えられるようだった。
先に楽屋に戻っていると、着替えた香苗がロトを片手に抱えてやってきた。 「どうだった、僕のステージ?久しぶりだから緊張しちゃった」 「ああ、すごかったよ。それより、久しぶりってのは……」 「うん、僕はステージに立ってたんだ。結構色々思い出せたよ」 ステージをやって、記憶も思い出したというのに少し暗い様子だ。やりきって疲れているというより、後悔しているような懺悔しているような、そんな悲しみ方をしている。 「僕の名前は『香る苗』じゃなくて『叶わない』って書いて叶。ロトは多分そこから名前をとったんだと思う。記憶を失う前はメンズアイドルとして活動してた……んじゃないかな。他にも色々してたみたいだけど、そこまでは思い出せない。ただ、ユニットを組んでたんだ。相棒と一緒に。もしかしたら、こうやって活動してれば知り合えるかもしれない」 「なんか、話聞いてると良かったことのように感じるんだけど……」 声も調子もどんどん暗くなっていく。まるで記憶を取り戻したくないみたいだ。 「僕にとってはね。でも、さっき名前の由来を言ったでしょ?」 その言葉と同時にメールが来る。オヤジからだ。 『今日のライブをみたところ、良い感じになってたな!無理やりアイドルをさせてたけど、もういいだろ!事務所には契約しないように言っておくから安心しろ!』 「『夢が叶わない』から『叶』。こうやって人の夢が叶わなくなるから、僕は記憶を失ったんだ。夢を奪った人たちを思い出したくないから」
ライブが終わった後の家族会議は揉めに揉めた。オレはアイドル活動を続けたいと主張しても、オヤジはあまり乗り気ではないようだ。理由としてはこのままサッカー選手の夢もアイドルとしての夢も両方叶えるのは無理だし、それならどっちか諦めた方がいい、という主張だった。 「それでも、やってみなくちゃわかんねーじゃねーか!」 すると、オフクロもオヤジもバツの悪そうな顔をする。なんとなく、お前の言いたいこともわかるけど、と言いたそうな顔をしている。きっと、オレの夢を絞るべきって話は建前で、話したくない理由がなにかあるんだろう。子供のオレには察することはできないけど、それがある以上解決しないような気がした。 「もういいっ!」 家を飛び出して、向かいたい場所へと向かう。香苗……じゃなくて、叶のいる事務所に。仕事をいっつも夜遅くまでやっているから、まだ日が落ちで間もないこの時間ならいるはずだ。途中でタクシーを拾って、会社の前まで言ってみると大きな手提げカバンを叶が退社するところだった。 「……あれ、結城さん。帰ったんじゃなかったの」 「帰って色々相談したけど、ダメだった。オレ……アイドルまだやりたいよ、オマエと一緒に、夢……叶えたいよ……」 我慢していた感情が目から溢れてくる。掴みかけていた夢のかけらが頬を伝って流れ、冷たいアスファルトの上に落ちていく。 「どうして……夢がかなわないって決めつけるんだよ……あきらめるほうが、ずっとずっと……つらいじゃねえかよ……」 「結城さん」 静かで落ち着いたいつもの声だ。でも、自分のせぐりあげる声のせいで上手く聞こえない。 「一度だけ、叶えてあげる」 「へ……?」 思わず顔を上げる。きっと今のオレは酷い顔をしているだろう。何かを決心したかのように、叶はオレに近づいて優しく抱きしめてくれた。 「本当はメンズアイドルだからこういうのもスキャンダルになるんだけど……大丈夫かな」 「こんな時まで冗談言うなよ……」 「ごめんね、でもこれが最後だから」 「最後って……」 聞き返す前に、叶は何かを呟いた。その言葉を聞いた直後、一瞬だけ意識が飛んだかと思うと叶はいなくなっていた。辺りを見回してもどこにもいない。慌てているオレに、一通のメールが届いた。 『すまん、俺が悪かった。サッカー活動もアイドル活動も続けていいから帰って来てくれ』 問題は解決した。喜ぶべきなんだ。でも、一番一緒に喜んでほしい人が隣にいない。それだけで、胸に穴があいたように感情が流れて行ってしまって、困惑と恐怖と車が通りすぎる音がオレの周りを囲んでいた。
あのあと呆然としながらも、なんとか家に帰ってオヤジと話をした。どうやらアニキが私立に行くから金銭的に厳しくて悩んでいた、みたいな話をしていたが正直もう何を話されたか覚えていない。次の日に事務所に行ったら、机は綺麗に片づけられていて、プロデューサーは最初に面接でオレを採用してくれた人がなってくれた。前のプロデューサーである叶のことを問いただしても、誰も覚えていなかった。そんな人いたっけ?いたような気もするけど……、といった感じで曖昧に濁されてしまった。 とりあえず、オレはありとあらゆる場所を探して回った。一緒に行ったファミレスから、よく行くと話していた服屋、漫画喫茶、プリクラを取っていたから事務所の近くのゲーセン、アイドル事務所の資料もかたっぱしから読んだけど、叶の手掛かりは見つからなかった。さすがに所属してない、しかもメンズアイドルの情報は残っていなかった。 何の成果もなく帰ろうと駅前に向かうオレは、何の気なしにビルのディスプレイに目をやった。そこには『あの奇跡のアイドルユニットが復活!?』と書いてあった。ある種の核心に近いそれがあり、見つめていると叶と白髪赤目の二枚目が映った。 「今回はどうしてアイドルユニットを復活することにしたんですか?」 復活��共に、新しいCDを出した二人に対するインタビュー映像のようだ。 「あー、俺はどっちでもよかったんすけど、叶が復活させたいって言いだして」 「それはまたどうして?」 「僕の名前は『叶わない』ってことが由来だったんですけど、夢が叶う瞬間ってやっぱりいいものじゃないですか。だから、僕の夢は叶わなくても、誰かの夢に僕らがなれたらいいなって改めて思いました」 ああ、そうだ。アイドルは夢を与える仕事だって誰かが言ってたっけ。なら、今オレは確かにアンタから夢を貰ったことになる。宣言するように、強く握った右手をモニターに突き出す。 いつか同じステージに立って、こう言ってやるんだ。アンタの夢を叶えにきたって。夢を与えて与えられて、それこそがアイドルとプロデューサーだろって。
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【リンウッド弁護士】 2021/2/27 2:58 JST

私は以前から、法律の実務は超党派であることを主張してきました。法廷に政治の余地はありません。判事夫人は目隠しをしています すべての人は法の下では平等です
政治が司法の運営に影響を与えると、悪いことが起こります。最悪なのは、不正が当事者に加えられることです。法の支配に基づいたシステムでは、一人の不正は、すべての人への不正となります。
今週の初めと今年を振り返って、米国最高裁が2020年��選挙事件を審査と決定のために受け入れることができなかったことを思い出してください。
私の考えでは、裁判所には事件を受け入れ、競合する法的問題について判決を出す義務があった。最終的な判決は、どちらの側が勝ったかにかかわらず、法律に基づいた法的な裁定であるべきだった。法は法である。
私の考えでは、SCOTUSの行動(または不作為)の問題は、第一審で事件を審査しなかったことが政治的な決定であったということです。
最高裁判事の選出や確認に政治的な配慮があることは明らかですが、判事が憲法に基づいて法律を解釈し、適用することを宣誓したときには、政治的な配慮は終わりにしなければなりません。その宣誓に忠実であることは、私たちが法の下で平等な正義を持っていることを保証する唯一のセーフガードです。
さて、次は個人的なレベルで問題を検討してみましょう。
※以下、27日のメッセージ、続き。後半はプライベートウマトーク。
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個人的な問題は ジョージア州弁護士会が 私に対して取った行動です 私が精神衛生検査を受けることを要求する弁護士の不当な要求を見てください。正当なプロセスの完全な欠如について話してください!州弁護士はまた、私の弁護士会を脅しています。
州弁護士はまた、私の個人的な言論の自由の表現と2020年の選挙の有効性に挑戦する訴訟への私の関与に基づいて、私の弁護士資格を脅しています。法の執行を規制する義務の合法的な範囲を超えた努力について話してください!
なぜジョージア州弁護士会は43年の実績を持つ弁護士に対する不当で違法な魔女狩りに従事しているのか?
政治的な理由です。
現実には、過去何年にもわたってジョージア州弁護士会は、ジョージア州弁護士会を構成する私たち弁護士の利益を代表していません。ジョージア州弁護士会は、組織内で権力の鍵を握っている政治家の利益を代表し、擁護しているだけです。要するに、ジョージア州弁護士会は政治組織です。弁護士のメンバーとして自らを規制する力を持っているはずの実務家にとっては良くないことです。
私たちの国に起こったことのように聞こえませんか?政府の「役人」は、我々国民のことを忘れてしまった。
それは我々国民が政府をクリーンアップし、それが正当に最初のインスタンスに存在する人々に力を返すための時間です。
ジョージア州の弁護士たちがジョージア州弁護士会を一掃し、それが正当に存在するところに権力を戻す時が来たのです。
ジョージア州の弁護士は、私に対する明らかな虐待についてジョージア州弁護士会に対して発言することを恐れ、脅迫されています。これらの弁護士は、自分自身の心の奥底に手を伸ばし、私のために反撃する勇気を見つける必要があります。ジョージア州弁護士会は今、私を追いかけていますが、遅かれ早かれ、州弁護士会は政治に基づいて追いかけてくるでしょう。
全国の弁護士が目を覚まし、好みを脇に置き、原則に立ち向かう時が来たのです。すべての弁護士が法律の実践から政治を排除し、正しいことのために正直に戦う時が来たのです。
法律の実践は超党派です。 リン🙏❤️🇺🇸 www.FightBack.law

今日、新しい家に到着した人を見てください!名前はジョー 10歳です 名前を変えよう ジョーに乗れるのは 田舎の外に出てからだ このハンサムな子を私の土地で飼いたいです!
新しい名前の提案はありますか?****までメールください。 チャーリー・ブラウンという人から購入しました。なので候補として「ピーナッツ」とか、 他の名前は 「トランプカード」(略してトランプ)とか。 しかし、私は人々の声を聞きたいです。 ありがとう、そして神のご加護がありますように。
リン 🙏❤️🇺🇸 www.FightBack.law
※馬主かー。半リタイア生活のよう。


うわー!私の新しい親友の名前の可能性についての私のリクエストに、素晴らしい回答をいただきました!本当にありがとうございます!
名前は以下で発表します!

キング・デイビッド
略してキング。 私は詩篇23篇に信仰を見出しました。ダビデ王は巨大な殺人者でした。欠陥のある人間でありながら、神のための戦士。しかし、ダビデ王は神に従い、謙虚さを持っていました。彼は神に従う人でした。
ダビデ王は私の模範です。 馬の仲間の名前を 気に入ってくれるといいのですが。 一人ひとりに神の祝福がありますように。- リン 🙏❤️🇺🇸
※いいね!よかったね。



私はダビデ王が大好きです。彼は祈る方法を知っていました。そして、私たちが愛する神は祈りに答えてくださいます。
「主は生きておられ、私の岩は祝福され、私の救いの神は高く評価されます。主は私を討ち、私の下にいる民を従わせる神である。わたしの敵からわたしを救い出し、わたしに立ち向かう者の上にわたしを持ち上げ、荒ぶる者からわたしを救い出してくださいます」 - 詩篇18:46-48
よく休め。声を上げ続けて。神のご加護を - リン 🙏❤️🇺🇸
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